2024年7月17日 (水)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 1/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

◯始めに 資料引用のお断り
 以下に掲示する2表は、批評の目的で資料の一部を引用する著作権法に適法な引用であることを念のため申し添えておきます。
 近来、下記表Ⅳ―2の韓伝項を削除した改変引用/盗用の例があり、著作権侵害に当たるので、殊更掲示したものです。
 私見では、これら2表は、榊原氏により、著作権の存在しない公知資料である正史陳寿「三国志」「魏志」東夷伝を精査した仮説を集約したのは、氏独特の用語も含め氏の著作物であり、公開の時点で著作権が成立しています。
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 したがって、これを単なる公知の数値(複数)を羅列した作表として一部を切り取って自論の根拠に利用するのは、「盗用」以外の何物でも無いと思うのですが、世上、一定の技術思想で構成された作表を「データベース」として斟酌せずに利用している例を、あえて事を荒立てて指摘しているものです。

◯総論
 ここに掲げる小論は、榊原氏が進めた論考に対して、素人が異論をはさむ形式をとっていますが、あくまで、榊原氏が構築された論考に絶大な敬意を表したものであり、端的に言うと、榊原氏が、「在来の「通説」が陥った陥穽の克服のために、資料原典に遡って考察する視点から、本書で冷静に展開されている」貴重な論考が、『実際は在来「通説」が陥った誤謬を踏襲している』点を具体的に指摘し、異論を提示していることを予告しているものです。

*理念の動揺
 手短に言うと、本書の「帯」に書かれている『「魏志倭人伝」偏重の視点を戒め、「魏志倭人伝」が編纂者である陳寿の意向で教戒の書とされているため、意図的に組み込まれた「暗号」で造作されている』という「倭人伝陰謀説」と言われかねない主張が、榊原氏の『「予断」と「偏見」を排する』という理念にそぐわないと思われるので、考えなおしていただこうとする次第です。

 私見では、世上の「通説」(の陥っている陥穽)は、陳寿が想定した「読者」の備えるべき教養を備えていない後生読者が、自家製の「予断」と「偏見」を抱えて読解しようとした齟齬の発現であり、遡行して是正しないと、所詮同じ道を辿るものと感じる次第です。
 後段で、具体的な「予断」の是正を図っているので、ご理解頂きたいものです。決して、高度な理念をどうこう言っているのではないものです。

 と言うことで、苦言を書き始めましたが、以下、一般「読者」に論じる姿勢としたため、視点、口調が一転し、時として「読者」の不勉強を誹るのは、容易に想定される反論を予め克服しているものであり、決して、榊原氏の無教養を誹っているのではない点を御理解頂いた上で、読み進んでいただくことを御願いします。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 2/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*異論の展開
 以下、氏の論考に異論を述べますが、批判的な意見に、氏が同意されるか反対されるかは、氏の意向次第です。氏は、私の息子でも孫でもなく、私の言うことを聞く義務はありません。わらべ唄で言う「ほっちっち」です。
 ともあれ、異論の背景として、以下の論点で、氏と意見を異にすることを明言しておきます。文体が、断定的なのは時の勢いで、他意はありません。

1.「倭人伝」道里記事の由来について
 榊原氏は、倭人伝に展開されている道里行程記事が、正始年間に倭に派遣された使節(正史遣倭使)の紀行文に基づくと見ているようですが、大筋として誤解であると考えます。遣倭使は、帯方郡太守の責務として、大量の下賜物/宝物を携えて皇帝の見解を辺境蕃王に伝える使節として派遣されるから、出発に先立ち、派遣先の素性と道里行程、つまり、所要日数(所要費用)の裁可を得ているはずです。道里行程は、既に確定していたと見ます。

 公孫氏遺物の「万二千里」を真に承ければ、一日四十里として三百日、十ヵ月かかりますが、宝物を、そのような途方もない遠隔地に、安直に送り出せません。して見ると、その段階で、道中四十日程度と知れていて、四十泊の宿泊/通過地と目的地から了解書信が届いていたと見ます。帰り道は空荷でも所要日数は大きく変わらないから、全日程概要は知れていたのです。

 「倭人」厚遇を厳命した先帝は逝去し、「明帝」諡号で、「倭人」は後ろ盾を喪いました。先帝違命の厚遇は並の厚遇に鎮静化したと見えます。

 本筋に戻ると、正始遣倭使は、派遣に先立ち計画を上申し、帰国報告もしましたが、報告済事項は先帝の印璽で公文書であり、書き足せても、訂正、改竄は出来ず、「従郡至倭」「万二千里」公式道里は「不可侵」でした。
 ということで、遣倭使の記録は、現地風俗(「法制度」と「習俗」を言う)記録や遠隔地に関する風聞の類いは収録されても、基本的な道里は維持されたのです。

2.陳寿の「編纂」について 余談
 氏が、『陳寿が「倭人伝」記事を一から創作した』と見ていると読み取れるのを契機とさせていただきますと、『史官の務めは、後漢、曹魏以来雒陽に継承されている公文書、即ち、「史実」を忠実に集成するのが本分である』から、当時の読書人は、その基準で「倭人伝」を査読し「倭人伝」「陳寿原本」[裴注以前の「本」(Edition)]は、正史に値すると認定したのです。

 ここで確認しておくと、陳寿の編纂に於いて、創作・風評の類いは、最低限と見るべきです。それは、周代以来厳然と継承された史官の責務ですから、全ての『倭人伝論』は、ここから始まるべきです。いや、これは、氏の意見を憶測しているので無く、当分野論客は、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」が、持論による利益を妨げるものとして、支持論は、『聖典化』陰謀と曲解して、はなから喧嘩腰で論義する向きがあります。
 陳寿の立場は、二千年後生の無教養な東夷の知りうるところではないので、政治的と見える勝手な決めつけは、恥ずべき蛮習と思うべきです。ということで、あとがきで榊原氏が斥けた議論に、ついつい過剰に反応しましたが、今少し辛抱いただきたいのです。

 言い方を少し変えてみると、世の中には、「魏志倭人伝」が所属陣営の経営に対して「邪魔でしょうがない」から、寄って集って策戦会議し、不注意な改変から意図的な改竄に至るまで、高度な創意工夫をこめて陳寿「いじめ」に励む玄素名士が多く、榊原氏ほどの学識も、世間の義理に。多少は、影響されたかもしれないと思います。いや、軽率な決め付けは失礼します。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 3/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*陳寿擁護の序奏
 古代史官「史記」司馬遷、「漢書」班固、「漢紀」荀悅、後漢紀「袁宏」の生き様を見れば、辛うじて天命を全うした陳寿の厳正さが見えるはずです。
 現代「玄素名士」は、なべて言うと、二千年後生、無教養の東夷のものであって、三世紀の事象に御自分の(現代風の)自然な/普通の倫理観/処世術を投影していて、殆どの場合、陳寿の死生観/使命感/史官像が見通せていなと思えます。
 (当方は、世間の義理に迫られていないので、ついつい、何事も、不躾になってしまうことをお詫びします)(初稿時、あとがき未読)

 冷静に見れば、陳寿は、「権力者」(誰?)に、無節操に阿(おもね)る(どうやって?)のでなく、史官の『憲法』である「述べて作らず」に殉じていた(とことん拘っていた)とわかるはずです。勿論、冷静に見ることが出来なければ、耳に蓋をしていただければ結構です。

 いや、あわてて言い添えると、これは、榊原氏著作の批判でないのは御理解いただけると思います。どこかの「野次馬」(結構数が多い)のことです。榊原氏だけでなく、とばっちりがかかった人には、申し訳ないと謝るしかありませんが、何しろ、無力な孤軍であるので、御容赦いただきたいです。

3.韓伝「方四千里」について
 榊原氏は、「方四千里」が韓国領域の形状/寸法を示すと判断し、(三世紀にない)現代地図から判断して、その「里」は、ほぼ80㍍程度と裁断しています。しかし、「方四千里」が、幾何学的判断を示したとするのは早計と思われます。
 当時、地形図はなかったから、半島南半、韓半島の地形は知られていなかったと思われます。「東夷伝」では「海中山島」であり、それが離島、州島でなく地続きとわかるのです。その認識に対して、現代人から見て正確、しかし、当時の地理観にない地図を示すのは、錯覚を誘うものであり感心しません。
 当記事は、少なくとも氏の言う「距離感/観」の埒外であり、道里計算表からの撤回をお勧めします。ともあれ表Ⅳ―1から、韓伝を除外できます。

 私見を蒸し返すと、「倭人伝」の「郡から倭まで」の行程は、読者が望まない、益体もない「なぞなぞ」でなく、その場で読み解ける明快なものと見るべきものではないでしょうか。であれば、道里記事に「方四千里」などと異次元の数字を見出し、幾何学的な解釈でこれを「道里」の足し算計算に混ぜ込むのは、高貴な読者に喧嘩を売っていると取られかねないのです。
 普通に考えると、「道里」計算に紛れ込まないように、異次元とわかる「方里」の数字を混ぜていると見るものでしょうか。
 道里計算は、郡から狗邪韓国に到る街道七[千里]に、以下、三度に渡る渡海水行の三[千里]の一桁数値の足し算で、その場で暗算できる程度ですから、当時の読者は表形式になっていなくても、アッサリ諒解し通過したはずです。

 蒸しかえしですが、陳寿は、本筋行程に、込み入ったわき道が入り込まない書法を工夫しているのです。なにしろ、史官は、実務本位の下級官であり、「聖職者」でもなければ「預言者」(神の代弁者)でもないのです。いかに、明快に文字表記するかに注力していたのです。

*苦言の予告
 以下、本著に示された榊原氏の労作の相当な部分の空転を指摘するのは、たいへん心苦しいのですが、あえて苦言を呈すると予告しておきます。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 4/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*「方里」排除の序奏~詳細後出
 「方里」の意義/意味については、末尾で論じてますが、本質を云えば、「道里」は一次元数値であるのに対して、「方里」は異次元の二次元数字と明記されたとみるものでしょう。異次元数値は、加算できないのです。
 氏は、マトリックス作表されていますが、「東夷伝の2点間距離」と銘打ちながら、「道里」と異次元の「方里」が混在して、縦方向の加算計算ができず、計算表の意味を成さないことに気付かれていないのでしょうか。

4.「循海岸」水行~東夷に普通の躓き石
 大前提ですが、正史記事鉄則として、当記事は郡治を出発して陸上街道を「南下」と決まっています。(大半の)読者がこの大前提に気づかないのは、(大半の)読者が必要な教養を持たない無資格者ということです。いくら(大半の)読者が研究者の大半であろうと権威者であろうと、人数が多かろうと構成比が高かろうと、当記事の指摘を目にして回心しないなら無資格者です。
 それはさておき、榊原氏は、陳寿が『帯方郡官道を行く行人/文書使が、行程基点の郡治から西に海岸に出る「陸行」を記事から割愛して、いきなり「沿岸」航行する破天荒な記事を書いた』と誤解しています。陳寿も、二千年後生の無教養な東夷が、誤解と強行するとは思わなかったはずです。
 あえて言うなら「倭人伝」は、郡から狗邪韓国にいたる行程が、時に東に、時に南に向かうと明記しているのに、無断西行は不法です。

 中国で、本来「水行」は河川流に沿った航行に決まっている一方、史官が遵守する書法では、行程道里は並行している「陸行」道里を登録するので、史書に「水行」道里記事は存在しないのです。
 渡邊義浩氏が、この点を間接的に断言しています。(「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132) 司馬遷「史記」夏本紀にある禹后の「寓話」しか先例らしきものが見当たらず、この記事は、「寓話」なので、先例とならないということが示されています)
 なにしろ、先例が存在しないことを立証するのは、大変困難(事実上不可能)なので、笵曄「後漢書」、及び、陳寿「三国志」を読破し、通暁した先賢の断言は、代えがたいものがあります。

 これに反して、『先例の無い 「水行」、それも無法な「海上航行」を、無警告で起用するのは、読者を欺瞞することになり、論外である』ことを見過ごしておられ方が大半と見えます。もちろん、海上に「道」は無く船上に道里はないのです。陸上に漢制街道が存在するにも拘わらず、「水行」「七千里」と書くことはできないのです。

 郡治を出て陸上街道行程は、一路、従(縦)、南下ですが、それでは、狗邪韓国の海岸に達したときに、「大海」、つまり、しょっぱい「塩水の流れる大河」を渡る行程が不意打ちになるので、事前に中原街道で大河を渡船で渡るように「海岸を循(たて)にして大海を渡ることを水行という」と予告定義したのです。
 そして、狗邪韓国の海岸、海津で「始めて」渡船に乗り(大海を)渡海する(ことになる)と書いています。併せて言うと、ここで「其の北岸」は、直前の「倭」、山島の在る「大海」の北岸ということです。まことに、明解です。

 郡から狗邪韓国海岸まで断じて「水行」しないことは自明ですが、ここは陸上行程と決まっているので「水行しない」とは書かないのです。

 陳寿は、正史の行程道里記事として、前代未聞、未曽有として、短い区間で前例のない「洲島」、つまり、大河の中州の「中の島」を飛び石伝いする三度の渡海水行を含む道里行程記事を、誤解のないように明解に書いたと読み取っていただければ幸甚です。もちろん、異例の「渡海水行」は、一回千里と決めた/規定したから測量してないのは自明です。
 ついでに念押しすると、船に乗って大河を流れに沿って行くことを「渡る」と言う事はありません。正史解釈以前の常識です。
 念のため書き重ねると、これは、景初初頭に明帝に報告された行程です。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 5/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

5.対海国、一大国の「方里」談議~詳細後出
 氏は、両国に附された「方◯◯里」を魏使/郡使の踏査測量由来と見ていますが両島道里は渡海水行千里と早々に確定していて、後日踏査測量したとは見えません。「方里」が幾何学的判断とするのは早計と思われます。
 未知の東夷に到る行程がどのようであっても、高貴な読者が容易に理解できるように明解に分別するのが、史官の務めと見えるのですが、とかく、「乱」を求める方が多いようです。
 なお、三度の渡海それぞれ千里と切りの良い千里単位の道里に百里桁の端数を付け足すのは無効です。
 両島「方里」は、「道里」では誤算/邪魔物です。
 両島「方里」は、現代地図から見てとれて、俗耳に好まれますが、韓伝「方七千里」と同様一次元「道里」と別次元で、合算するのは不合理の極みです。

 表Ⅴ―2は、狗邪韓国から末羅国までの「水行」三千里のはずが、郡から狗邪韓国の迂回水行七千里を含め計万里と不都合です。一方、㋐㋑㋒の陸行、ありえない隠れ「水行」を、無法に勘定したとしても、陸行が不足して、到底一月とみえず不穏です。

 本項で言うと、㋐㋑㋒の陸行は、無意味と断定されます。

 この程度の齟齬は、一瞥で見て取れると思いますが、氏は、古田武彦氏の論議の手触りの良いところだけ取り上げているようにも見えます。

6.「水行」「陸行」仕分け/分別について
 氏は、几帳面に行程を切り分け、「水行十日陸行一月(三十日)」の明細を論じていますが、「倭人伝」は、郡治から王治の所要日数初出であり、読者の教養/見識を考慮として煩瑣を避け、明快に分別されていたものと思われます。

 氏は、表中に当時存在しなかった算用多桁数字、小数、SI単位を避け最低限の有効数字としましたが「千里」単位概数との明示が賢明と思われます。
 小論では、「陸行」第一段階が、郡から狗邪韓国まで七[千]里「水行」第二段階が、狗邪韓国から末羅国まで三[千]里「陸行」第三段階が、末羅国から「陸行」と書いた後、伊都国まで(地理、道路状況、牛馬の有無が不明)の倭地 二[千]里の三段階、計[万]二[千]里としています。
 水行三千里、陸行九千里と明快です。

*郡倭「万二千里」の起源
 これは、行程の実際の道里と関係無く、後漢献帝建安年間に公孫氏が最初に「倭人」を東夷として受け入れた際に、遠隔地として郡治から王治まで万二千里としたものであり、景初二年に曹魏明帝が楽浪/帯方郡を「密かに」接収し、道里を(誤解)承認したおかげで、明帝遺詔とされたものです。

 辻褄合わせで、「郡から狗邪韓国は七千里、狗邪韓国から末羅国は三千里」と按分されましたが、郡倭万二千里の残渣である末羅国から陸行の倭地二千里の「距離観」は不明瞭です。所詮、千里、二千里刻みで計数教育された官人は、概数帳尻は問えないと了解していたと見えます。

 結局確認できたのは、一度明帝が公布した「万二千里」の綸言は、遺詔とあって、遂に是正できなかったという台所事情です。

 「倭人伝」に、実務に即した「都(都合)水行十日陸行一月(三十日)」が追記されました。日数明細はないが、それぞれ一日三百里と見て陸行九千里は三十日、水行三千里は十日と読者に検算できる大雑把な辻褄合わせでした。

 ちなみに、郡から狗邪韓国までは、騎馬移動/馬車移動の宿場完備の官道ですが、末盧国上陸以降は、牛馬のない未整備「禽鹿径」で「詳細不明」であり、倭地の二千里は、道里から所要日数を見当がつけられません。

 おそらく、公孫氏に身上を示した時点では、末盧以降は不明であったと思われます。見当がつけられない行程は、本来、「倭人伝」に書く必要もなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 6/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*不朽の「公式道里」
 後世、大唐玄宗皇帝は、郡国志や地理志の「蛮夷に至る行程道里」が、実態と異なると「激怒」して実態調査を命じましたが、膨大な人員期間を費やした調査で公式道里が「訂正」されなかったのは言うまでもありません。
 復習すると、「倭人伝」道里行程記事は、陳寿の責任編集で明快に成形されたと見るべきでありパッと検算できるのが、編纂の妙技と言うべきでしょう。

番外 「戸数」について 余談
 かねて力説の通り、倭地には、労役を助ける牛馬がないので、各戸は、人力で耕作し納税は少ないので「良田」でないのです。近場の対海国と一大国は「良田」が少ないと苦境を述べますが以南諸国も大差ないと知れています。

*「倭人」の評価
 次の二項目は、「倭人」の納税力/派兵力評価が困難と示しています。
 其人壽考、或百年、或八九十年。各戸は労働力にならない年寄りが多い。
 其俗、國大人皆四五婦、下戶或二三婦。各戸は、労働力に乏しい女が多い。
 「倭人伝」行程諸国はなべて千戸代が、各国の実力です。

*「倭人」は、お構いなし
 ちなみに、中国では、秦漢代以来銭納で、全国から京師/東都/首都に銅銭が届いたのです。韓濊倭は銅銭がなくて物納であり、「倭人」は、渡船海峡越えで不可能とみられます。「倭人」は郡に服属せず、郡制非適用と見えます。

*先進の韓国、未開の「倭人」
 韓国の郡支配地は、戸籍/土地制度で戸数確定のはずですが、地力は「方里」表記です。先進の馬韓を含め農地が散在、空洞化した荒地と見えます。
 国内諸兄姉の議論は、現地事情を度外視した時代錯誤「人口論」で激昂の例がありますが、史官は、実務に即した記事としていたのです。

*正史の嘘の皮
 「史実」は、泥まみれで混沌でも、真っ黒い「史実」を真っ白な「嘘の皮」でくるむのが史官の至誠でしょう。「倭人伝」に陰謀論のぺてん仕掛けは論外でも、読者に苦痛を与えないためには、程々の技巧が必要でしょう。

*盗用の顰(ひそ)み
 当記事は、氏の好著の核心部に異論を挟むので、言及を避けていた点が多いのですが、氏の労作である表Ⅳ―2を部分引用/改造盗用して論拠とした論考が見られたので、あえて、火中の栗を拾ったものです。氏の比定地論の邪魔にはならないと思いますが、ご不快の念を与えたとすれば、陳謝します。
*急遽追記  第Ⅺ章 女王卑弥呼の生涯
 榊原氏が、掉尾を飾る卑弥呼小伝表Ⅺ―四において、「倭人伝」以外の不確かな資料に依拠して生年を六十年前進させたのは武断に過ぎます。景初二年遣使の際「年長大」つまり、「成人となった」とする普通の解釈を放棄して七十九歳と断じるのは同時代最有力用例に背いています。文脈から見て、女子王となって以来、数年程度とみるのが妥当です。是非ご再考いただきたい。

◯まとめ 陳謝と深謝
 そして、当方は、氏が、「魏志東夷伝」里数記事について、世上の予断偏見を排して考証されたおかげで、道を迷わずに済んだことに深謝します。
 願わくば、榊原氏ご自身から、本稿に提示した異議に対するご高評により御鞭撻いただければ、幸いです。

                                以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 7/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

□当ページは、余談です。
*魚豢「魏略」西戎伝 安息記事紹介
國出細絺。作金銀錢金錢一當銀錢十。
有織成細布,言用水羊毳,名曰海西布。此國六畜皆出。水[羊毳]或云非獨用羊毛也,亦用木皮或野繭絲作,織成氍毹、毾㲪、罽帳之屬皆好,其色又鮮于海東諸國所作也。又常利得中國絲,解以爲胡綾,
山出九色次玉石,一曰青,二曰赤,三曰黃,四曰白,五曰黑,六曰綠,七曰紫,八曰紅,九曰紺。今伊吾山中有九色石,即其類。

[羊毳]補填は、当ブログの独自提案。

*安息国の冨

 魚豢「魏略」西戎伝は、劉宋史官裴松之によって、「魏志東夷伝」の付録として、当時、健在であった「西戎伝」善本をそっくり収録したものであり、俗に言うような「佚文」や「短縮所引」などではありません。但し、正史西域伝の形式にはなっていないので、参考とするべきものです。
 内容は、後漢代、西域都督が健在な時期の記録てあり、魏代記録は、殆ど含まれていません。後漢代後期、西域都督を維持できず撤退したためであり、西域は、粗暴で略奪志向の大月氏/貴霜国に支配され、その西方の友好国「安息国」とは、ほぼ「絶」状態だったのです。
 ここに示したのは、安息国らしい大国の風俗記事の一部です。銀貨、金貨が通用し、多彩な「宝石」(貴石、準宝石)、「準宝石」を中心とする貴重な鉱物資源、畜産、羊毛絨毯・壁掛けなど豊富であり、中国産の絹織物の仲介に加えて、中国産絹布を解(ほぐ)した絹糸に、野繭から採れた絹糸や彩り豊かな羊毛を交えて織り上げた水羊毳が「海西布」として好評(高く売れた)のようです。国土は、砂漠、塩水湖、荒地と過酷な風土であり、それだけに、太古のアケメネス朝時代以来整備されていた街道を活用した通商で稼ぐ商人気質は、今日まで継承されているようです。
 安息国は、東西貿易に加えて、アラビア半島、ペルシャ湾、天竺(インダス川流域)との交易が盛んで、ローマ帝国を凌ぐ富裕さと見えますが、仇敵大月氏に阻まれて、その時期、西域都督経由の交遊が途絶えたのです。
 安息国は、後に、莫大な財宝をローマ帝国に奪われ、ついで波斯(ササン朝)にイラン高原覇権を奪われて、衰亡したのですが、魏晋政権は何も知らなかったでしょう。
 超大国波斯(ペルシャ)にササン朝が興隆しましたが、先立つ商業大国安息と違い、武力で領土拡大を進め、巻き起こった波斯の大挙東進で、大月氏/貴霜勢力は、消し飛んでしまったのです。但し、中国は、依然として南北分裂し、北朝も、後期は東西に分裂して、西域に於いて主導権を獲れなかったのです。

*「西域伝」割愛の背景 一説
 あるいは、このような記事を魏志に掲載すると、そのような無尽蔵とも思える富裕な「西域」と比較して、誠に細やかで貧しい「倭人」が誹りを受けるので、魏代に格別の成果のなかった「西域」蛮夷伝を割愛したと見えます。
 曹魏明帝は、後漢以来の西域都督の頽勢を見ていて、東夷振興で新たな栄光を築こうとしていたのかも知れません。誠に余談です。

*笵曄「後漢書」「西域伝」
 西晋崩壊、東晋南方逃避を承けた南朝劉宋の高官であった笵曄は、政変によって閑職に追われた後、それまで諸家「後漢書」が乱立、不備に終わっているのに着目し、諸家「後漢書」の統一集成に挑みました。本紀、諸臣列伝までは、先行諸書から精選して一流史書にしたのですが、「西域伝」と「東夷伝」に関しては、後漢霊帝没後以降の原史料(公文書)散逸による苦戦が見て取れます。魚豢「魏略」を頼りにしながら、文章家として盗用と言われないよう「しっぽ」を隠していますが、それは、史官ならぬ小人の勘違いです。

 特に、原史料皆無に近い「東夷列伝」倭条は、知る人ぞ知る改竄記事連発で、一段と嘆かわしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 8/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

追記 本書のあとがきの陳寿「魏志」評を、ご参考まで部分引用します。

あとがき[中略]
 さて、私は本書を書き進める中で『三国志』の撰者・陳寿の執筆態度について、幾度となく感心させられ、かつ驚かされもしました。
 その一つは、語彙の使い方が極めて厳密であること、最も重要な帯方郡から倭国の首都・邪馬台国までの路程に関して三重に説明を施すなど、読者(晋朝皇帝及び司馬氏を始めとする晋朝の貴顕諸士)に事実(東北アジア及び倭国の実態)が正確に伝わるようにとの細心の配慮がなされていることです。[中略]
 六朝宋の文帝の命を受けて元嘉六(四二九)年に『三国志注』を完成させた斐松之は、陳寿が撰した『三国志』について、「叙述は観るべきものがあり、記事はおおむね明瞭正確である」と評しています。裴松之が評したとおり、陳寿の『三国志』とりわけ『魏志倭人伝』を含む『魏志東夷伝』の記述は「明瞭正確」を旨としていると思います。
 その二つは、『魏志東夷伝』の『韓伝』『倭人伝』における距離観を通常の五倍程度にまで拡大することによって、かつては孔子が憧れ、現状(『三国志』撰述当時)にあっては晋朝(司馬氏)の正当性を担保すべき倭地域について、はるか遠方の理想郷として描くという前代未聞の驚くべき手法を採用していることです。
 この対応は陳寿の独断であろうと思われますが、[中略]それは若い時から傾倒してきた儒教に精神的な源泉を求めることができるのではないかと思います。[中略]

コメント御免
 余談ですが、「前代未聞」、「陳寿の独断」は、早計と思われます。
 陳寿が「若いときから傾倒してきた儒教」とありますが、儒教は士人の必須素養としても、傾倒したかどうかは不明です。時代英傑曹操、劉備、諸葛亮は、儒教の徒とは見えません。海鳥社編集子のような練達の編集者であれば、修飾句減縮を助言されるものと思いますが、上手の手から水が漏れたのでしょうか。

 とはいえ、保守派論客の影響で陳寿に不適切な先入観を抱いているのではないかと懸念したことをお詫びしますが、当「あとがき」に気づいた時点で、先行する記事の調整に手が回っていない点、ここで不明をお詫びします。

*補追 方里談議 など (一里四百五十㍍の普通里前提)  (2024/07/17)
 「倭人伝」道里記事の対海国「方四百里」一大国「方三百里」は、共に、一里四方「方里」を単位とする農地面積であり、対海国で見ると、二十里(九㌔㍍)四方と「現代人が現代地図から見て取れそうな嶼面積」に比して、随分些細ですが、時代相応の根拠である土地台帳「方歩」を集計した「実力」なのです。

 加えて、「良田」は戸の成人男女が牛犂で耕すものなので、牛耕不能などの理由があれば規定収穫が得られず「良田」失格です。これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」も同様です。どちらの国も山谷が多く農地僅少なのです。

 史官の深意/真意は、東夷諸国は、平地が乏しく中原と比べ税収が格段に少ない」という提示なのです。帝国の辺境で領土を拡大するのは、計算上は国力が拡大するので、その時は好ましいように評価され、軍人にとって恰好の「お手柄」ですが、実際に「郡」を構えて「独立採算」評価すると、領地が、閑散、貧困、零細の「荒地」であって、郡太守の高給(粟 ぞく)すらまかなえず、現代風に言うと「赤字経営」となるので、早急な撤収を迫られるのです。漢武帝時代の半島四郡体制は、武帝の失政事例であり、国家財政の破綻に拍車をかけたことが、魏晋代文官の熟知するところだったのです。

 史官は、曹魏草創の「名君」と自負していた明帝は、いわば「中国」の失地回復、新境地獲得となる東夷諸国の招請に大いに期待しましたが、早世によって雄図は空しく頓挫したと傷ましく書き止めるかたわら、司馬晋に権力が移行した直後に「魏志」を編纂した陳寿は、東夷諸国の実体を冷静に眺め、武帝の失政の再現となりかねなかったと示唆しているのです。いわば、史官の本領である「二枚舌」ですが、本紀での顕彰と東夷伝での批判は、手の内にあったのです。

閑話休題
 「四百里四方」(十六万平方里)と「三百里四方」(九万平方里)を「両国外寸」と見た場合、加算して二十五万平方里、「五百里四方」であり、「方里」加算が成立しないのです。つまり、両国外寸と見た のが、誤謬なのです。土地台帳で「方歩」が集計できないのは不合理です。商売にならないのです。

 東夷伝独得の「方里」は、同時代に図りようのない、図る意義も認められない島嶼面積を、神のごとき架空鳥瞰で地図上で目測し、ざっくり「方形」近似したとき、「見て取れた気がする」ようであり、「一里七十五㍍短里」の有力な根拠とする例が散見されますが、合理的な根拠無き援用は、ひたすら不合理です。 (2024/07/17)

                                以上

2024年7月16日 (火)

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)1/3

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16

〇外野見解の弁
 国内古代史分野で麗名の刮目天氏にはさぞかしご不快と存じますが、中国史料解釈のドロ沼での苦闘を見ていられなくて、口を挟んで支援しようとしているものです。

*部分引用御免
卑弥呼の墓の場合、何故「塚をたくさん作った」が間違いなのかをもう少し捕捉します。この場合、奴婢の墓まで言及する理由がないからです。倭女王卑弥呼の墓の説明なのです。もしも墓域に奴婢が葬られていても、墓域の大きさまで説明する必要はないので、「径百余歩」は女王卑弥呼の塚の大きさだと分かるのです。つまり直径約150mの円墳が卑弥呼の墓ということになります。その中に奴婢が入っていようがいまいがです。径には「さしわたし」という意味があっても、冢(ちょう)は土で覆った塚のことで、径百余歩とあれば円形の塚のサイズですから直径のことですね。もしも長方形の墓ならば、縦・横のサイズを書くか、正方形ならば方百歩と書くはずでしょう(^_-)-☆

*外野コメント
 横からくちばしを挟(さしはさ)む無作法をお許しください。
 論敵氏は、決め付け話法で「用例を無視して勝手な解釈をする」とご高説を賜っていますが、提示用例は「多数の、つまり、複数の造船所に指図して盛大に造船する事例」であるから、ことさらに「数多く」と解釈できても、現下の事例は「女王」の掛け替えのない「冢」を造墓する話ですから、粗製乱造でき無いのです。要するに、提案いただいたのは、話が揃っていない「無効な用例」です。造成対象は一個の「冢」ですから、「数多く」との解釈は、自動的/決定的に排除されます。
 文意読み不足の「用例」談議は空転です。

 また、「女王」葬で「徇葬」者は参加者でしょう。俗に「殉葬」と「百人埋殺」と読むのを好む「改竄派」が結構いらっしゃいますが、同時代史書から「殉死」は礼制に反すると排斥されていますから、浅慮早計でしょう。
 勝手に「用例」を創造する文章芸術は場違いです。退席をお勧めします。

 外野席からの応援になったでしょうか。

*「太平御覧」所引「倭人伝」談議~余談
 些か余談ですが、失敗例であげやすいのは「太平御覧」所引「倭人伝」(所引魏志)です。
1.女王死大作冢殉葬者百餘人
 所引担当「所引者」の文書考察が未熟で「殉葬者百餘人」はお粗末です。豊富な史料を参照する現代研究者は、「徇葬」が原文と確認できますが、大唐滅亡、長安混乱後の五代時代初期「所引者」は、時代相応の劣悪な級外写本に頼ったと見えます。

2.又南水行十日陸行一月至耶馬臺國
 それ以前、道里行程記事で、「所引者」は、「魏志倭人伝」記事での「到伊都国」と行程括りに気づかず、「又」の連打で、子供じみたべたべた解釈に陥っています。
 果ては、「又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰…其屬小國有二十一皆統之女王」と書いて、投馬国からさらに南に「耶馬臺国」があると「明解」です。「所引者」は、先行史書の西域、東夷などの夷蕃伝の道里行程記事の知識に欠けていたので、後で「周旋五千里」と参照される主行程五国わき道として書かれていて、戸数のはけ口になっていた余傍「三国」の峻別/見わけができていなかったと見えます。
 一級資料である「魏志倭人伝」の編纂者は、減縮して「邪馬壹国」行程を維持したのに対して、「所引者」は、「耶馬臺國」と劣化した「級外写本」に頼ったと見えます。
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有…可七萬餘戶
 「所引者」は、まことに無教養で、漢書の読解を怠っていて、三世紀当時、蛮王に「所都」はない』のに気づかないで、水行十日陸行一月が(投馬国から)女王居処までの所要日数と勘違いしたのです。誤謬積層です。「倭人伝」道里行程記事の真意は、「到伊都国」との括りに着目して、郡から倭まで「水行十日陸行一月」と見るのが明快であり、見なければ、陥穽に落ちるのです。この分岐点は、ことさら丁寧に評価すべきでしょう。「所引者」は、一つの重大な失敗事例であり、この際の失敗事例を克服することが、正解への「明るい」道なのです。
 さらに、「可七萬餘戶」の主体が理解できず、「戶七萬」が「耶馬臺國」の戸数と誤解して、ここでも誤謬積層です。要するに、「所引者」は、奴国二萬、投馬五萬で総戸数七萬との陳寿の概数計算の明解な論理、「明るい」道しるべをを見過ごしています。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)2/3

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16

*外野コメント 承前
 一級史料は、読者に計算させない配慮なのですが、級外史料が読めなかった「所引者」は、千戸単位の諸国と二萬、五萬 、七萬を足して十四萬戸とも十五萬戸とも不明の巨大な蜃気楼を映し出しています。

 陳寿が、そんな記事を提出したら高貴な読者に叱責されたところです。既定総戸数七萬戸を温存しつつ『牛馬がいないから各戸農地は狭小で、また末羅から狗邪韓国の「水行」軽舟は米穀輸送できない』と明示して、倭人諸国に対して、郡からの食料供出が及ばないようにしましたが、千年後生「所引者」は、そんな台所事情を知るはずもなく、幸い、「所引者」誤解の副産物で、投馬、耶馬臺二国が遠方に比定されたことから、食料徴発の懸念は薄らいでいます。

 このように、二件の誤解釈は世上溢れる名解釈の由来ですが、陳寿の「魏志倭人伝」上申以来千年近い乱世が介在し、「所引者」は史書解釈できないようです。

 一体に、原本確定後に、史官の教養が維持・継承できなかった乱世が数世紀に亘ったため、原本テキストの解釈は経年変化で失われ、読みかじりが蔓延ったようです。時代を隔てると加速度的に誤解が増えると認識する必要があります。

 「魏志倭人伝」の場合、直後の劉宋史官裴松之すら、ほぼ同一行文と思われる魚豢「魏略」以外に有効な別資料を持たず、さらに数世紀を経た無教養な「御覽」の「所引者」は暗闇を進む風情であったと見えます。史料批判に精通した方に言うまでもないでしょうが、裵松之と同時代の笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、根拠となる資料が不確かで空白となっていて、笵曄は、陳寿「三国志」魏志東夷伝から、趣向を凝らして転記しているほどです。基本の基本ですが、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、よほど精査した上でなければ、「魏志倭人伝」と対比することはできないのです。

◯「径百歩」の一説 (百歩[ぶ]は面積単位)
 刮目天氏は、怜悧なかたですから、「径百歩」について、現代幾何学風の解釈を提示していますが、九章算術から見て、「方百歩」は、一辺一歩の方形面積「方歩」、九章算術では、単に「歩」であり、現代風にいうと「百平方歩」と、文脈から判断するのですが御理解いただけますでしょうか。
 「径百歩」は、「方百歩」用地内の円形「冢」、中国流に言うと天をまつる円丘であり、三文字で現地の用地、冢墓計測に適確と見えます。陳寿は「物書き屋」で、現地報告書に「書き記されていたであろう」情景を、三文字に凝縮し見事な文飾と見えます。その場にいなくても理性的に考察すれば、精確に理解できるのです。

 但し、以上の解釈に従うと、女王の冢は、せいぜい直径15㍍(径十歩)となりますから、お気に召さないかたが大変多いでしょう。
 「倭人伝」先行段落で、「冢」は「封土」、小振りの土饅頭と明記されているので、高貴な読者には、女王の「冢」は手ごろな大きさと予告された記憶が真新しいので、物々しい用例検索は要らず、史官によって端的に「薄葬」が賞賛されていることになります。「物々しい用例検索」となると、荷車で書庫から先例資料の山を引き出すのですが、肉体労働は官奴がこなすにしても、大部の史書「巻物」を繰(く)って、用例を検索するのは、高貴な読者に対して過酷と云われかねないので、妥当な策としては、読者の知恵袋が即答できるものに留めるか、直前に、ほどのよい伏線を敷くものなのです。

 因みに、「方百歩」を一辺百歩の方形と見る単位系は、「辺」の数値の二乗に比例するので、土地台帳の実務に「まったく」適さないのです。算木による一桁数値の計算が大半であった時代、用地/農地台帳の面積積算ができないのでは、ものの役に立たないのです。

*方里伝説確認
 ついでにいうと、「倭人伝」道里記事に見られる対海国「方四百里」、一大国「方三百里」は、どちらも、一里四方の「方里」を単位とする面積表現であり、両国が、土地台帳の「方歩」を集計したものと見えます。当然、どちらも、一里四百五十㍍の普通里ですが、現代地図上で見ると、些細なものに過ぎません。要するに、農地として耕作できる土地が希少であり、かつ、公称している戸数に比べて、収穫が少ないことを示しているのです。「良田」とは、割り当てられた農地を、戸の構成員、主として成人男女が、牛犂で耕す前提ですから、牛耕できないなどの理由があれば、「良田」に規定された収穫ができないということになります。

 これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」に付いても同様であり、普通里で集計すると、農耕地は、全領域のごく一部にしかならないと主張しているのです。どちらの国も、高山、渓谷が多いので、農地、即ち、収穫が獲れないのです。要するに、樂浪、帯方両郡は、中原諸郡と比べると、面積あたりの収穫、つまり、税収が格段に少ないと示しているのです。

 いや、刮目天氏は、ほぼ国内専科なので余り関心はないでしょうが、「方歩」「方里」の定義を精確に確認すると、地域「短里説」すら生存できなくなるので、中々受け入れられないのです。

*「卑弥呼墓所」の一説
 当方の密かな意見は、偶々、古田武彦氏と遭遇していて、須玖岡本遺跡の「熊野神社」説です。墳丘墓でなく「封土」であったものの、ひっそりと残され、手厚く思慕されたので、末永く後世に残ったものと見えます。おそらく「卑弥呼」が、子供時代から巫女を務めた氏神の境内に安らかに眠っていると見えます。
 ということで、刮目天氏の持論に大きく逆らうのですが、女王の「冢」は、150㍍級の円丘でなく直径15㍍程度の少し大きな土饅頭と思うものです。この程度であれば、近隣の手伝い、徇葬百人程度で十分と見えます。石積み無しでも風雨は凌げそうです。
  当ブログは、「魏志倭人伝」の正確な評価に努めているものであり、「卑弥呼墓所」の比定には、特に深くこだわっているものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)3/3

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16

◯曹魏の薄葬改革
 曹魏創業者曹操は「宰相」だったので、没後造墓ですが、生前の指示に従い墓所を秘したのです。文帝は、天子即位したので、生前造墓の「寿陵」を薄葬とし、大規模な動員は控えよとしています。明帝曹叡に遣使した女王の墓は、魏制に従い慎ましいものであったとみるべきです。
 先に挙げた曹操、曹丕の薄葬指示は、霊帝没後に破綻した後漢の礼制に対する重大な非難なのです。霊帝没後、西方涼州から蹶起した董卓は、雒陽周辺の後漢諸帝と王族の墳墓を暴(あば)いて、遺骸を放りだし副葬されていた宝物を奪い、後漢帝都雒陽を棄て長年廃墟となっていた長安に遷都したのです。
 曹操は、その時期、墓泥棒に手を染めたこともあるようですが、壮大な墳墓、豪華な副葬品など無意味と知っていたので、自身の墓址については、薄葬とし、かつ、墓所を秘すように指示したのです。曹操墓所は<現代に「発見」されましたが、さすがに進入者があって、若干の副葬品は奪われても、大規模な盗掘を免れたようです 。方や、西晋司馬一族の墓所は北方異民族によって破壊され、南朝諸王朝の王墓も、隋の南朝討伐の際に破壊されて、結局、曹魏草創期の墓所しか残っていないのです。

*大規模墳丘墓の非礼~ゴミ箱予備軍
 以上の見方でわかるように、三世紀の「中国」、つまり、「中原」に「天子」であった曹魏の礼制では、墳丘墓の造成は、礼に反するものだったのです。
 ということで、壮大な墳丘墓は、曹魏の墓制改革を知らない後漢時代の遺風であり、所詮、「中国」を知らない蛮夷の慣わしだったのです。
 墳丘墓の時代、中原は、数世紀に及ぶ戦乱の時代であり、いわば、国が破れて散乱していたので、東夷の蛮行は、特にとがめ立てされなかったということです。
 長年、東夷として独自の世界を構築していた百濟と高句麗は、始祖が天下りした創世神話を持っていて、自尊心を高揚していたのですが、大唐が天下を平定したときは、分裂時代に横行した履歴もあって、天子を踏み付けにしかねない「敵国」とみなされ、撲滅されたのです。
 世間には、大規模墳丘墓は、威勢の誇示であったと早合点しているかたが結構多いのですが、魏晋代の「中国」文化/世界観から見て、始皇帝、漢武帝に連なる「非礼」なのです。大唐に討伐されなかったのは、高句麗、新羅、百済の壁が守ったのであり、また、墳丘墓を撤回したからでもあります。
 いや、ちょっと余談が過ぎたようですが、この項目は、目障りとしたら読み流していただきたいものです。

*引用ふたたび
そして、重要なのは、何度も言いますが、魏志倭人伝の卑弥呼の墓にピッタリの三柱山古墳があり、その周囲に様々な卑弥呼の関連物や伝承があるからなのですよ。(^_-)-☆
だから、他に卑弥呼の墓の有望な候補はあるのですかと最初にお聞きしたのですよ。あれば、比較検討すれば、どちらが有望か分かりますから(;^ω^)
それから、書かれたものと事実(考古学や民俗学などの成果)に違いが存在する場合は事実に従うべきです。文書は政治的な目的で真実が書かれていない場合もありますから。

追加コメント
 ”事実(考古学や民俗学などの成果)”を、ことさらに規定した論義は、刮目天語に従えという御指示でしょうが、同意できません。

 歴史学(historical sciences)が扱うのは、時の彼方に消え失せた太古の「事実」に関する太古の報告や推測であり、失われた「事実」を知ることは「絶対に」できないのです。特に、二千年前には民俗学も考古学もなかったので、古代史料を、そのような現代概念で調べても、刮目天氏のおっしゃる「事実」は、知るすべがないのです。そして、遺物/遺跡考古学は、文字史料もなく、墓誌も、墓碑もない墳丘墓では無力なのです。
 この辺りの誤認を考察の基点と置かれていては、いくら明晰な頭脳をもってしても、史学「問題」(question)に、題意を見通す解答を出すことはできないのです。いや、当方は、刮目天氏の信条に異を唱えているのではなく、率直な疑問を呈しているだけです。

 ちなみに、古代史官にして見たら、「政治的な目的」など、二千年後生の無教養な東夷の造語など知ったことではないので「馬の耳に念仏」でしょう。同時代に通じる言葉で挑んでほしいものです。

◯まとめ
 以上、あまり援護にならないコメントでしょうが、「倭人伝」は、三世紀当時、唯一無二の文書史料であり、原文改竄の前に、科学的、合理的な解釈のもとに、史料批判を尽くしていただければ幸いです。
 
                                以上

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 1/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、タイトルから明らかなように季刊「邪馬台国」誌の標榜する「邪馬台国」に背くが、安本美典師の当初抱負を体現した寛恕と見る。
 私見では、本稿は、世上通説とされつつある非科学的な「陳寿」風評の払拭を図っていて、偉とするべきであり、大いに、賛辞を述べたい。
 但し、学術的な論考としては、肝心の基礎部分、脚もと、および、その場での視点が崩れていて、まことに勿体ない。ここでは、細瑾をつつくが、論考の核心は、細部に宿るとも言えるので、ご一考戴きたいものである。

◯批判列挙
*風聞蔓延の嘆き~「通説」への異議
 氏も歎かれているように、国内古代史論者は、「通説」と擬態して 不法/不合理な陳寿誹謗を延々と繰り返し、後生を染め付けているが、氏の「通説」に対する異議は、合理的な視点が、事の原点を取り違えている。

*正史本位説の提唱~私見提示
 三世紀史書である「魏志」「倭人伝」は、それ自体が、同時代史書の原点であり、二千年後生の無教養な東夷の論者が、「日本」に「正史」を創造して、小賢しく「史料批判」するのは、本末転倒、錯誤である。古代に於いて、天子は一人、天下は一つであり、蛮夷には、天子も正史もないのが、ことの原点である。

*散佚史料の根拠なき昂揚
 氏は、いずれかの論客の根拠なき提言に加担して、王沈「魏書」なる散佚史料を「復元」して、陳寿「魏書」に対して異議を立てるが、徹頭徹尾、無謀である。

*臨時定義の勧め
 因みに、本記事の如く原点史料と散佚史料の対比であれば、それぞれを特定するために、繁雑のようでも編者を冠するのが定則である。
 字数を厭うなら、「陳志」、「韋書」、「王書」と臨時定義すれば良い。記事をかじり取っては意味が通じないので、悪用が回避できる恩典もある。

*無用の先例検索
 臨時定義の先例検索は無意味である。先例を排するための定義であり、自明の最たるものである。その宿命で、当記事が終われば、臨時定義は、雨散霧消して影響を及ぼさない。但し、後生の模倣は避けられない。
 このように提言するのは、「翰苑」残簡佚文で、笵曄「後漢書」以外に無冠「後漢書」を見て、散佚謝承「後漢書」とする詭弁がしつこく出回っていて、善良な研究者を迷わせているからである。
 「翰苑」は、史書でなく「名言」宝鑑であるので、原史料所引聞きかじりのぶつ切りで、屡々原史料の書法が、誤引用交じりで持ち込まれている。古典教養同時代読者に自明の省略が、二千年後生の無教養な東夷に誤解を呼んでいる。まして、写本が粗雑で、誤引用に輪をかけている。

*「王書」評価
 「王書」、即ち王沈「魏書」の佚文を麗々しく文献系統図としたのは夢想である。厳正に継承された「正史」と対等の史料批判はあり得ない。

*韋昭「呉書」(韋呉)評価
 韋呉と「呉志」対比で、韋呉は、東呉史官韋昭が、東呉公文書から編纂、東呉皇帝に上申、亡国の際西晋皇帝に奉納され蔵書とされたから、陳寿は、「呉国志」「呉志」として東呉文書を渉猟・編纂しても、韋昭の偉業をどうにも克服できない。
 内容を逐一点検しても、東呉内部文書の意趣が濃いのは、自明である。

 案ずるに、それぞれの史書は、由来を吟味して、質を評価するものであり、単に、二千年後生の無教養な東夷が、稚拙に絵解き、数合わせすべきものではない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 2/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「王書」、「魏略」の由来
 ついでに言うと、王沈「魏書」(王書)は、あくまで、後漢を承継した曹魏の史書であり、魚豢「魏略」は、あくまで、曹魏の史書稿(「略」)である。これに対して、陳寿は、蜀漢、東呉が降服して天下統一が成った晋から振り返った上での、「三国鼎立」史観であり、しかも、蜀漢、東呉に関する「国志」を統合せず、史書として誠に別格である。東呉、蜀漢の「公文書」は、ほぼ一切曹魏に届いてないので、史官として、統合しようが無かったとも言える。

*未熟な「正史」観~非科学的な論義
 氏の偉業の細瑾を咎めるのは、心苦しいが、率直な所、氏の「正史」観は「未熟」である。とは言え、世上溢れる陳寿誹謗論者は、歴年学究を経ているので、最早、晩節における回心の可能性は見出せず、終生「不熟」と見られるものである。「未熟」とは、「不熟」の群を抜いていると言いたいところである。
 それはそれとして、氏は、陳寿が推敲した「魏志」を『佚文や所引で推測する「王書」架空文で批判している』から、誠に、非合理的、非論理的、非科学的と断ずるしか無いのである。後生の「熟成」が、切々と待たれるところである。

*図示の愚行
 氏は、終段図示の言い訳として「史学論考の文章は堅苦しい」と罵倒/酷評/自嘲されているが、論理は本来堅苦しい。「幾何学に王道無し」は、欧州圏の至言であるが、中国でも、街道に皇帝の道はあっても、論理学に王道は無い。
 史学者には常識以前の自明事項(のはず)だが、古人は文字で論じ図示は一切存在しなかった。そもそも、図は読者の知性・教養によって、解釈が大いに、大いに異なり、安易な掲示は、断固/頑固/頑健に避けるべきである。

 例えば、図の要素の上下、左右は、何を示唆するのだろうか。今日常用されている矢印は、古代に何の意味があったのだろうか。論理の足場を突き崩す、グズグズの泥沼では無いか。
 あるいは、漢文は断然縦書きであり、掲額などでは右から左に横書きするのである。後漢代の西域史料では、安息国では文書を横書きすると明記されていて、あるいは、右から左の横書きは当然なので、特筆していないかもしれない。
 要するに、氏は、一段と二千年後生の無教養の東夷の中でも、古典教養に疎い、一段と「無教養」な読者の、いわば勝手な読み取りに頼っているのであり、それは、氏の獲得した論理の継承で無く、氏の好む「情熱」の伝播に甘えているのである。
 以上は、氏に対して、苛酷な批判であるかも知れないが、ことを論理的に主張する際に自戒して、より高度な論考を求めたいのである。

*カタカナ語の迷妄~無自覚の「躓き石」
 氏は「ヒューマンエラーは、普遍的に存在する」と言い捨てる。インチキカタカナ語で逃げなくとも「誤謬は不滅」であるが、事は、発生頻度と質の問題であり、さらには、何重にも校訂/校閲によって、誤謬を検出し、是正しているかどうかである。
 氏の玉稿は、着想から推敲を経て、当誌に投稿されるまでに、多大な自己批判を帯びているものと信じているが、それでも、無用な、つまり有害無益な「カタカナ」語を排除せず、二千年後生の無教養な現代東夷の「生煮え、泥付き」の不出来な語彙の混入にも無頓着と見受ける。もったいないことである。

◯「後生の無教養な現代東夷 」の意義~「初心」の戒め 2024/01/13
 ちなみに、倭人伝論でも高名な岡田英弘氏は、当方に遥かに先んじて国内史家の倭人伝談義の喋喋を「東海の野蛮人の後裔」の抗争と評した警句を発しているが、惜しいかな、「東海」、「野蛮」が、漢文素養に外れている。
 「東海」は、太古以来の抽象的な世界観で、中華/中原を囲む異界/四夷が、たまたま、東夷では塩水だまりになっているだけである。
 「北海」、「南海」は、まず実見できず、「西海」は、概して「流沙」、つまり、「砂の海/大河」と見立てた砂漠か、現実に見ることのできる西域塩水湖、さらには、遙か彼方、漢武帝の使節が達した「大海」、「裏海/カスピ海」であるが、いずれも、塩っぱい塩水湖である。そうした実景は、太古の殷周代から見て遥か後世の知見であり、古典書筆者の知るところではないのである。
 まあ、現代人にしても、海水から遠く離れ「陸封」された「みずうみ」が、なぜ塩っぱいのか、わかっていないと思うのである。
 「野蛮」は、古代概念では、無教養で無作法な「客」を言うのであり、教養を備え礼節を知れば「客」は中華士人となるから、「野蛮人」の「後裔」は、程なく「野蛮人」ではなくなるのである。
 むしろ、「国内史家の倭人伝談義」を、学術的な論義と遠い、商売人の店員/小僧が、店先で、商売敵と目先の利害を争う「賈豎の争言」と直截に評した方が、至言に近いのではないか。
 そうした見落としがあるので、現代東夷の無自覚な「教養」の不足を指摘する当方の素朴な提言が、むしろ的を射ていると自負しているものである。いや、当方の不明で、岡田氏の警句に近来始めて気づいたから、本来は、自主的な発言なのであるが、それにしても、岡田氏の熱心な追従者が、この金言/警句/箴言を無視しているので、自己流警句を発しなければならないのである。
 それにしても、自分を数え漏らす子供の点呼ではないが、岡田氏がご自身の金言/警句が、眼前の群衆とともに、ご自身の「影」をも叩いていることに気づかれなかったのは、もったいないことである。
 言うまでもないと思うが、本条は、岡上氏に対する個人攻撃などではない。自戒を含めた「初心」の戒めである。

*陳寿「エリート」観の愚行
 陳寿は、生煮えのカタカナ語で推定される「エリート」などでは(絶対に)ない。
 陳寿その人は、敗亡の蜀漢から魏晋朝に獲得されたから、「幼くして古典講読を重ね、若くして曹魏に「選挙」(推挙)され、洛陽の太学で学び、下位官位で任官されて、早々の昇格を目指していた「茂才」(古典用語の「秀才」が、後漢光武帝劉秀の僻諱により、後漢代初期に更新)」ではない。

 いや、陳寿は、いかに古典素養が十分でも、雒陽から背いた叛徒の輩であり、張華のような高官の引き立て無しには背筋を伸ばすことができなかった「日陰者」である。いわば、二重、三重の誤解である。
 ここで、またもやの蒸し返しになるが、軽薄な「カタカナ」語の無節操な援用は、読者の安直な理解、誤解を煽っていて、氏を含め、古代史論における重大な「躓き石」であるが、これは、氏だけの悪徳では無く、普通に見ても、躓いていると自覚していない方が多いので、ここでも警鐘を鳴らすのである。
 因みに、当方が愛用するATOKは、「カタカナ語」の害毒から使用者を保護する機能があり、必ず、「適切な表現に言い換えたらどうですか」との趣旨で助言/指導/警告してくれるのだが、氏の「作文システム」は、使用者の言いなりなのだろうか、それとも、氏が助言を無視して強行突破しているのだろうか。いや、当方の知ったことではないと叱責されそうだが、余計なお節介をするのも、当方の務めと思っているので御寛恕頂きたい。

                               未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 3/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*魚豢誤認
 ついでに言うと、魚豢は歴とした官人であり、氏の言う「ほぼ」付きでは、編纂の際に極秘扱いである帝国公文書「とか」を参照できない。機密の公文書を利用して史書を私撰するのは大罪であり、厳格に処断されると親族も連座、刑死である。漢書班固も後漢書笵曄も呉書韋昭も、最後は、刑場の露となった。暗合であろうか。
 何れにしろ、史官は専門家であり、卑位の官であって、高官有司でない。
 魚豢は、曹魏史官であったため。後漢・曹魏公文書の渉猟を許されたのであり、その鋭い筆法は、陳寿「三国志」魏志第三十巻末の魚豢「魏略」「西戎伝」全文で窺うことができる。

*魚豢「魏略」「西戎伝」の演出と魏志の写実
 「魏略」「西戎伝」は、明らかに、雒陽公文書であった後漢「西域伝」草稿によるものであり、原文書の乱調を模倣している貴重な資料である。「魏略」「西戎伝」の大半は、後漢西域都護を承継していて、後漢末の西域撤退以後は記録がない。「魏志」「西域伝」は、魏朝の無策を露呈することになるから、成立しなかったのである。

*史論「情熱派」
 氏ご自身がどんな「情熱」にお持ちかは不詳だが、陳寿は、「倭人」を天下の東方を極める偉業とみた明帝の「情熱」が早計で、夭逝後、霧散したと明示している。倭人」後日談を割愛するのは、むしろ、明帝偉業の顕彰である。それとも、司馬懿の無策が、両郡撤退につながったと明示すべきだったのか。因みに、陳寿「三国志」「魏志」に「司馬宣公伝」は、書かれていない。

*「鴻臚」の錯誤
 ついでながら、韋誕「大鴻臚」の職務を「外務大臣」とは時代錯誤である。
 かつて、漢高祖劉邦親征軍を殲滅の危機に追い込み匈奴単于の昆弟として屈服させ中国に匹敵した匈奴が衰退した後、対等の国交を結ぶ可能性があったのは、西方安息国だけで他はすべて蛮夷だった。但し、「蛮夷」呼称は相手が漢字を読解したときに激怒を買うので「客」と美称したのである。
 要するに、「鴻臚」の役目は、「蛮夷」使節に、中国礼節を教えて拝謁させた後、印綬と手土産を重ねて、定期的な来貢を代償に外臣として認めるものであり、今日言う「外交」とは全く異なる撫夷策である。この点、世上、中国式美辞麗句/誇張に惑わされている例が多いから、釘を刺すのである。

*栄えある「匈奴」
 因みに、「匈奴」は教養のある漢人官人を抱え「匈奴」が蔑称なら紛争必至である。「匈奴」が、武勇を尊ぶ草原の風雲児に相応しい麗名/敬称とわかる。漢高祖劉邦は、親征軍が匈奴の大軍に包囲されて降服同然に和平していたから、長年、匈奴を兄として平伏したのである。蔑称など、できるわけがない。

*「焦土」作戦の犠牲者
 氏は、『陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の信頼性を毀損し、日本「古代史」と切り離そうとする、小論で言う「焦土作戦」』に巻き込まれるのを避けたと認められるが、諸処に「焦土作戦」の影響を受け、もったいない。

*史料評価の錯綜/是正
 氏は、厖大な「類書」「太平御覧」に収録された「所引魏志」と「現存刊本」である紹熙本などとを対比し、「所引魏志」は北宋期、「現存刊本」は南宋期成立と言い放っているが、年代ものの「浅慮」である。
 「所引魏志」は、参照した「魏志」写本の精度が不明であり、誤写が必然のものである。さらに、大著の一部である所引の編集精度には、更なる疑問がある。
 孤証の極致「翰苑」を論じるときは、断じて、国宝断簡の不慣れな解説で無く、誤字、乱丁、行格が整備された「遼海叢書」版が必須と思われる。一流正史ですら、時代原本を発して写本を重ねたときには、必ずしも万全と言えないのに、正史の通用写本から、適当な写本を繰り返して、精度が保証できるはずがない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 4/4 補追

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 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
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*魏志「南宋」刊本の由来
 「魏志」は、西晋時、陳寿原本収納以来、国宝として多大な労力と最高級の学識者を動員して写本継承され、劉宋裴松之を始め、厳重な校訂を経ている。
 北宋期に各地愛蔵の写本を結集/校訂した決定稿により刊本が起こされ、主要な宛先に配布されたが、精々、百部程度と見えるのである。あるいは、二、三十部かも知れない。
 北宋刊本の主題は、生成された「正確な」刊本を種とした高品質の正史写本の拡散であるが、北宋の盛期は永続せず軍制弱体と、それ故の北方異民族間の抗争を利用した陰謀攪乱の邪計が、新興北方民族「金」に激怒を巻き起こし、大挙南下した「金」の侵攻/亡国で、帝都開封をはじめとする主要拠点ら所蔵されていた正史、書経の刊本は、版木共々、撲滅されて根こそぎ喪失した。北宋刊本を根拠とする良質写本が、江南に再興された南宋に結集し、今日残っている南宋刊本が刊行されたのである。

*高度な校訂の産物~最高品質
 衆知の如く、写本、所引は、粗雑に行われれば、早速に精度が失われるが、帝国の国家事業として写本された場合は、所謂粗忽な「ヒューマンエラー」は、数度に上る徹底照合/校正によって、極小となるのである。

*粗忽な例
 粗忽な「ヒューマンエラー」が、誤記、乱丁のまま野放しの例として「翰苑」残簡が挙げられる。一度、二度の粗雑な写本で文献テキストは壊滅しているが、美麗な書体によって美術品として認められ国宝となっている。

*袁宏「後漢紀」~良質写本継承の例
 比較的「良質」な写本としては、袁宏「後漢紀」が、正史に準ずる地位にとどまったため、誤写という意味では「傷だらけ」であるが、正史ほどの厳密な写本で無くとも、最善の努力が積み重ねられた成果である。
 笵曄「後漢書」が、西晋壊滅後、東晋最高によって建康に再結集した残骸資料を何とか統合したのに対して、袁宏「後漢紀」は、笵曄「後漢書」に、五十年先行して、東晋継承資料を活用して編纂されたが、後漢霊帝、献帝紀の記事が充実していて、また、後漢から曹魏への禅譲が、必ずしも、正統な継承でなかったと示しているということである。

*「焦土」作戦~道の果てるとき
 事態混沌化「焦土作戦」によって糊塗されているが、史料の質的評価に天地の差異がある。また、当然、自明のことであるが、現存刊本に見えない誤謬は、本来存在しなかったとみるべきである。
 それにしても、現存刊本の「邪馬壹国」が、本来『「邪馬壹国」であった可能性が極めて高い』とする「邪馬台国」風評臆測説は、同誌の逆鱗として高言しないのだろう。

*陳寿の魏志編纂の姿勢
 氏の誤解を払拭すると、陳寿が「魏志」編纂にあたって、原史料を忠実に承継するのでなく、悉く推敲、加筆、割愛したとの意見は、誠に素朴な誤解であり、聞きかじりの速断は、まことに勿体ない。
 「重複」の例では、「倭人伝」に「壹與壹與」の連打がある。また、紹興本では「諸國諸國」の連打がある。どんな原則にも、例外はある。
 氏は、「京師」と「京都」の僻諱の例を挙げるが、陳寿編集との証拠はない。陳寿最終稿から献呈本を起こして西晋恵帝に上程した際に写本を指揮したものが、皇帝の直近の父祖に憚って保身した可能性までもある。世上、風聞、憶測が絶えないから新説で貢献したが、「マジ」ではない。
 因みに、信頼されている「紹凞本」「紹興本」でも、宋代皇帝の実名を憚る「僻諱」は、散在する。是は、西欧には存在しない禁忌であるから、「ヒューマンエラー」は、お門違いである。
 それにしても、氏の考察は、全篇を通じ、無節操にうねっている。陳寿が、「倭人伝」編纂に「ほぼ情熱を...淡々と...過ぎない」とは見上げたものである。「ほぼ情熱」と「淡々」は「小人」感慨であり、陳寿は、士人であって、職務は、史実継承が根幹であって、私利、私情では、一切動いていなかった。
 古人曰く、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知るや」、「士は誠に小人である」。

◯最後~陳寿の真意
 陳寿の「三国志」編纂の真意は、宰相諸葛亮の「臣鞠躬尽力、死而後已」の献身を頌えるもので、蜀漢国志が存在しなかったため、陳寿は、絶大な尽力で「蜀志」を創造し、三国志を不滅の正史としたから、「大行は細瑾を顧みず」。自身の身命を惜しんだのは、大行の前では面目は細事であったからである。
 因みに、古来宰相は、天子に「骸骨」を献じていて、高齢などで退官するには、天子から「骸骨」を返して貰わなければならなかった。

 妄言多謝。死罪死罪

                               以上
 追記:書き漏らしを補追する。2024/02/13
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の根拠となっている原「倭人伝」は、景初に、明帝指示のもとに楽浪、帯方両郡に赴任した新太守が、それまで、公孫氏が文書で報告せず、司馬懿の暴挙で塵滅した公孫版「倭人伝」を温存していた両郡公文書を、鴻臚を介さずに明帝に短絡したものと見える。佚文から、魚豢「魏略」が「倭人伝」相当の記事を備えていたと見られるが、公孫氏から公文書上程されたものではないので、明帝没後に、深い闇に埋もれていたと見える。
 魚豢「魏略」佚文から見て、魚豢「魏略」は、「倭人伝」相当の記事を備えていたと憶測されるが、氏が想定している先行史料である「大魏書」及び王沈「魏書」が取り入れていたかどうか、大変不確かである。わからないものは断言しない勇気が必要と思うのである。
 陳寿は、東京、即ち、雒陽の官人が「西羌伝」を挙げたと書くが、東夷、中でも、倭人に関する「伝」の由来は、以上読み解きを試みたように、示唆にとどめているのである。按ずるに、司馬氏に対して謀反をなした大罪人である毋丘儉の功績と攻撃されるのを警戒して、記事を分散秘匿したと見える。そのような(司馬氏に対する痛烈な)筆誅は、陳寿以外なし得なかったと思量する。
 念のため時代背景を考察すると、後漢は、光武帝劉秀以後、洛陽に公文書庫をおいて、専門家が厳重に管理していたが、霊帝没後の混乱の際、董卓が長安遷都を強行したため、文書管理体制が損傷を受け、文書管理者も、多く離散したと見るのである。何しろ、帝国公文書は、依然として木簡などの太古以来の簡牘巻物で厖大であるから、長安遷都の際には、多くが洛陽に半ば放置されたと見える。

 何しろ、現代史学の叡知を集めたとされている「歴博」の考証に依れば、劉宋笵曄の編纂した「後漢書」東夷列伝倭条は、蔡侯紙でなく簡牘に書かれていて、何れかの時点で、刑死した謀反人の書庫から浮上して、国庫に納まったと断定しているのである。いずれにしろ、劉宋高官であり、有数の財産家であった笵曄が、わざわざ簡牘巻物に著述したのは、信じられないのである。
 後漢末期の建安年間、長安帝都を脱出して、流亡していた献帝が、許都の曹操の元に迎え入れられても、公文書庫は、洛陽にとどまったと見えるのである。曹魏文帝は、各地各都に分散していた諸官庁を、雒陽「首都」に再集結したが、後漢盛時の堅固な文書行政国家は、遅々として再建されなかったのである。
 ということで、後継明帝に到っても、依然として、国家創業の時代であり、三国鼎立、抗争の事態であったから、正史となるべき「国志」を編纂することはできなかったのである。
 氏は、「大魏書」、王沈「魏書」なる二大史書を夢想しているが、画餅に近いものではないかと愚考するのである。
 かくして、氏は、大量の夢想を、あたかも、白日夢の如く図示しているが、夢想は夢想として、氏の脳内に留めておくべきだと思うのである。この場は、お返しとして、当方の夢想を提示しただけである。

以上

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 1/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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*史料渉猟の弁
 当ブログ筆者の守備範囲は、素人の手すさびということで、「魏志倭人伝」及び周辺の文献解釈に限られている。
 ただし、「今日言うところの西日本」の「当時の」状勢について鋭意勉強しているため、当書籍「年表」も史料批判に必要と感じて購入した参考書の一冊である。参考書は、ほぼ古書店で購入しているので、割安で購入費を節約できているが、内容は正味そのまま読む必要があって節約できないので、ここまで大変勉強になっているのである。

 そのような参考書籍の中で、本書は、原始から古代を対象とした年表であり、内容豊富、かつ、味わい深いものであった。

 古代に関しては、中国側資料は、充実した記述に満たされた文献であり、抜粋要約によって年次の入った年表が書けるのと異なり、国内側史料は、確定した文献が存在しないため、考古学の視点で遺跡や遺物の年代比定と考証を体系化しているものの、絶対年代の不確かさを抱えていて、年次の確定した年表が書けない問題があると見た。

 そのような限界はあるものの、時代が特定できない日本側の表と年次の書かれている中国側の「年表」を並行して収録して、互いの年次を連携させないながら、時代感を揃えるという手法により、古代史学の最先端の努力として時代表をまとめ上げた労苦には、大いに感嘆するものであり、書籍全体の書評としては、大変肯定的なものである。

*不遜の弁
 さて、当著作は、上に名をあげた諸賢の労作なので、本来、遙か後生の無学な門外漢(素人)がとやかく言い立てることは、蟻が富士山と背比べするように不遜の極みなのだが、自身である程度史料批判に努めてきた「倭人伝」に関係する記事で、どうにも納得できないものがあったので、これを無視することは大変失礼なものと考え、ここに謹んで率直に指摘するものである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 2/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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[承前]
*問題点
 中国魏朝景初年間の倭国使節派遣記事が、「倭人伝」記事の誤解/改竄に基づく誤記となっている。
 以下、解きほぐして私見を述べる。

*景初三年の怪
 「年表」の景初三年の部分は無残である。
 依拠している「倭人伝」は景初二年六月の記事としているが、「年表」は、何の根拠があってのことか一年後の景初三年と安易に読み替えているために無理が生じているのである。しかも、ここでは、読み替えたことも示されていない。「年表」は、景初三年六月に倭国使節が帯方郡に着いて「魏の明帝に朝献したいと求めた」と書いているが、何とも軽率である。
 実際の歴史では、先帝の逝去の後、新帝曹芳が即位早々に暦制を改訂したために、暦制が不連続になり、後世の読者は混乱してしまうのだが、明帝逝去の時点では、景初三年一月一日逝去とされている。

 いくら中国の状勢に疎い東夷でも、公孫氏統治下以来、帯方郡と文書交信している以上、景初三年六月時点では、魏朝皇帝が半年前に亡くなって代替わりし、先帝は明帝と諡されたことは知っているのである。
 「明帝」というからには、逝去したのを知っているのであるが、それなら、亡き人に会いたいというはずがないのである。軽率な表現といわざるを得ない所以である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 3/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
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[承前]
*余談1 景初の暦制混乱
 中国の歴代王朝で受け継がれた伝統として、先帝逝去時、新帝は即刻即位するが、新元号は、先帝の没年の明ける新年から適用される。
 従って、景初三年は、本来、元号の主である皇帝のいない一年のはずだったが、新帝は、年の半ばで暦制を変え、変則的な運用としたのである。
 合わせて、先帝のなくなった命日を景初二年十二月一日(正規の十二月に続く本来の新年正月を同年の「後十二月」とした)とし、すでに、景初三年二月とされていた月が、遡って景初三年一月とされた。
 既に六月になっての遡及であり、各種記録の修正など、政府機関の業務に大変な影響があったろうし、民間にも、迷惑が及んだものと思われる。
 また南方の東呉、つまり、孫権政権は、独立を謳い独自元号を定めても、魏朝の暦を流用していたから、年の途中での改暦にうまく追随できなかったのではないかと思われる。呉書は、呉暦に基づいて書かれているのだが、魏の元号と一年ずれている記事がある。

 それはさておき、先帝が景初二年十二月に亡くなったとした以上、景初三年の新年で改元すべき所だが、既に六月(いや、実際は五月か)であったから、年初に遡って改元もできず、翌年改元としたようである。
 このように、景初三年は、年半ばでの改暦により一カ月ずれて、何とも、誤解を多発する事態になったのである。こうした魏朝改暦の顛末は、当ブログ筆者の誤解の可能性があるので、ご注意いただきたい。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

*東夷諸国通信事情
 さて、魏首都雒陽から帯方郡、そして東夷諸国への通信状態を確認しておく。魏朝は、創業者曹操の指示で、伝令が早馬で通常の通信の何倍かの速度で報告、通達を伝達する急報制度が全国に設けられていたので、「国内」である帯方郡との通信は、迅速、かつ、確実であったと思われる。
 「倭人伝」によれば、倭人は、帯方郡と文書通信を維持していたようであり、景初遣使に際しても、帯方郡からの督促、倭国からの遣使予告などが伝わっていたはずである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 4/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

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*余談2 山河疾走
 末羅国に上陸すると、急報制度どころか、文書通信が確立されていたかどうかわからない倭国中枢への伝達である。
 九州北部(つくし)なら、道路が整備未完了としても、距離が短いので、一か月はかからないと思われる。
 奈良中和(やまと)となると、つくしに比べて五百㌔㍍(現代単位で、五百公里)余りの遠隔地であり、徒歩、ないしは、手こぎ船移動となるが、三世紀時点で、これだけの距離の旅程の整備ができていたとは思えないから、半年かかっても不思議はないが、仮に四か月程度と見ることにする。
 倭国中枢で、対応方針の決定、派遣使節の人選、持参貢物の決定と調達、使節派遣まで、二か月程度かかると見るのである。今日聞いて明日渡航とは行くまい。

 荷の重い使節団は、身軽な急報文書使よりは、随分遅いはずであるが、つくしから帯方郡まで二か月程度、やまとから帯方郡まで四か月程度と見ておく。

 よって、帯方郡が急報してから、倭国使節帯方郡到着までの所要期間は、次のような感じと見られる。これはあくまで、「程度」にとどまる概算比較である。
 つくし 五-六ヵ月程度、やまと 九-十ヵ月程度。
 四ヵ月程度の差は、往復一千㌔㍍(千公里)程度の旅程差からくるものである。  

 ここで、帯方郡の急報発信は、魏による帯方郡平定が基点となるが、その時期については、「A 遼東平定に先立つ景初二年初頭」と「B 遼東平定後の景初二年秋」の両論があり、それぞれ慎重に評価する必要がある。

 Aの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するには、つくしなら何とか間に合うが、やまとは到底無理(景初二年十月頃の到着)となる。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、いずれも可能である。
 Bの見方で、倭国使節が景初二年六月帯方郡到着するのは、いずれも不可能であるのは、いうまでもない。
 景初三年六月帯方郡到着であれば、つくしは、問題なく可能であるし、やまとは、確実ではないが、到着できる可能性はある。

 やまとは、つくしと比較して、往復で往復一千㌔㍍(千公里)の距離が追加されるため、ここを「倭人伝」に書かれた倭国の中枢と見るには、倭国使節の帯方郡到着は景初三年六月でなければならないのである。
 そして、景初二年遣使の議論を封じるには、景初二年秋の帯方郡平定にこだわらざるを得ないのである。
 このように、ここでは、やまと説論者が、自説に合うように「倭人伝」を読み替えて、定説を形成する至芸が見られる。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 5/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

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[承前]
*余談3 遅れて至るものは斬る
 いうまでもないが、帯方郡が魏朝直轄になったことや遼東が魏朝の遠征軍によって滅ぼされるということは、それ以前に、都度、各東夷に急報されている。合わせて、中国に対する忠誠の証しとして、速やかに遣使せよ、ついでに遅れて至るものは斬る、とまでは言わないとしても、厳命したはずである。
 率直なところ、厳命を受けて、倭国は震え上がって、取るものも取りあえず使節を急行させたはずである。渡海して攻めて来ないとしても、朝鮮半島と交易禁止となると、対海国と一支国が飢餓に陥るなど、被害甚大なので、遅参は考えにくい。いや、その話は、今回の書評の本旨ではない。
 と言うことで、未開僻遠の東夷倭国は、皇帝逝去を早々に知ると共に、新帝の帝位継承、服喪に伴い、翌年一月一日をもって、新たな元号が開始することも予定されていたのである。

*場違い、それとも遅参
 一説のように、明帝逝去の六ヵ月後に倭国使節が朝献を求めたとしたら、遅参のわびと共に新帝への祝賀の使節と思われるが、記事には書かれていない。
 史書の外伝記事はそんなものなのだが、そのおかげで、絶海の東夷が噂を聞きつけてやってきたとか、東夷の首長が場違いな国際感覚で風評(風の便り)を手がかりに、「奇貨おくべし」(奇貨可居)とばかり、使節派遣を決断したとか、脚色、潤色されているのである。そこで、ここに一解釈を連ねているのである。
 さて、帯方郡にすれば、遠来遣使は郡太守の絶大な功績であり、太守の栄達に繋がるので結構なのだが、だからと言って、新来の東夷を国賓待遇として良いものかどうか。いや、後年、蛮夷の使節を賓客と呼ぶ例もあるのだが、本気でないのは明らかである。

 一説に従うと、この年、新帝祝賀に先立ち新帝の服喪と先帝大葬があるので、時期を外すと礼を失する危険があるのだが、郡太守は、むしろ無造作に倭国使節を帝都に送り込んでいるように見える。
 まあ、関係者の思惑は憶測するしかない。
 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 6/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

[承前]
*余談4 洛陽への長い道
 ちなみに、帯方郡使が倭国使節に付き添うのは、経路の各地の関所での通行許可証提示の役目もあり、また、それら関所での課税を防ぐためでもある。また、遼東征戦で治安が乱れている中、遼東の落ち武者などの盗賊からの保護も必要であったろうと思われる。細かいことだが、経路の宿舎に先触れして、国賓である倭国使節への饗応を含めたもてなし確保の役目もあったと思われる。単なる道案内ではないのである。
 また、先触れとして、帯方郡管轄機関に倭国使節の受け入れを求める急報も発せられていたはずである。従って、その年の八月には、使節の処遇、帰国時の礼物の構成決定、実物の手配などが、定型業務とは言え、帝国の組織的な動きで着々と進んでいたはずである。

*従郡至倭
 補充するなら、景初年間の時点で、郡から倭に至る行程と所要日数は、確認されていたはずである。でないと、明帝はともかく、実務担当者は、礼物輸送の所要人数、所要日数、経費を確認し通過する宿舎への先触れを行わないと、皇帝に対して見通しを知らせられないのである。
 つまり、郡から倭まで一万二千里というのは、遼東郡太守公孫氏が、勝手に決め込んでいた形式的なものであり、実際は、狗邪韓国まで街道を進んだ後、渡船で倭まで渡る便船があると知れていて、倭に着いた後の概略日数も知れていて、要するに、郡から倭まで何日の行程になるのか知れていたことがわかる。これは、後年、「魏志倭人伝」に書かれたが、実は、景初二年六月時点で、判明していたことなのである。
 当然、後年の陳寿は、明帝の実務日誌(実録)等の公文書から知ったのであり、どんな経緯で決まったにしろ、司馬懿の思惑など知ったことではなかったのである。
 後は、雒陽から帯方郡に至る行程であるが、これは、山東半島東莱から渡船で渡る便船があり、何日の行程になるのか知れていたことがわかる。公式には、雒陽から楽浪郡までの公式道里が知られていたから、帯方郡までの公式道里は、これと同一としてもよいのだが、実務としては、雒陽からは、東莱渡海が定着していたのである。

 以上、今回の書評の本旨を少し外れた余談である。あまり、先賢諸兄姉の議論で見かけないので、書き残しておく。2024/07/16

*明帝起死回生
 これに続いて、「年表」は、景初三年十二月の記事として、「明帝大いに歓迎し」と書いている。これには、困惑する。死後一年、なんたる回生ぶりかと言いたくなる「倭人伝」が特記していないのは、景初二年の明帝の公務として書いているからだと思えるのである。
 一方、これを景初三年の新帝詔書とみると、先帝の遺徳を語るわけでもなく、新来の東夷を顕彰しているだけである。文意は歓迎であるが、亡き明帝が、大いに歓迎したかどうかは書かれていない。帝詔とは、こうしたものであり、皇帝自らが心情を書き綴るものでないのは言うまでもない。世間には、新帝である少帝曹芳が、こんなむつかしい帝詔を書けるはずがないと論じている方がいるが、何とももの知らずである。

*帝国の栄光
 魏書明帝紀は、景初二年十二月初旬に明帝が発病病臥したと言うが、「上不予」(上様ご不快)程度では、倭国使節受け入れを含め、膨大な官僚機構の動きはお構いなしであり、帝国の実務は止まらないのである。
 皇帝決裁文書は、極力代理決裁するものの、皇帝決裁が必要なものは、病室に持ち込んで重病の皇帝の手を支えてでも署名を取る。それが皇帝の重責である。
 従って、明帝発病の景初二年十二月初旬以前にこだわらず、十二月の月内に詔書と好物の目録が下付された可能性は高いと考える。
 いや、物証は皆無だが、状況は、そのように決まって見えるのである。

未完

私の本棚 年表日本歴史 1 筑摩書房 7/7

1 原始▶飛鳥・奈良 ( ー783)1980年5月刊 編集 井上光貞 児玉幸多 林屋辰三郎 編集執筆 黛弘道
私の見立て 全体★★★☆☆ 本冊 ★☆☆☆☆ 「歴史的」誤記事   2017/01/16 補追 2024/07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」読み替え解釈の不都合
 元々、「倭人伝」が、原資料を精査して編者陳寿の責任で景初二年と書いているものを、「年表」の編者は、勝手に景初三年と読み替える以上、陳寿同様に精査して、皇帝は新帝曹芳と正解すべきだが、自身の(不)見識に基づいているから、端的に言うと、誤解に基づく誤記事になってしまっている。

*誤伝の継承
 「年表」のこのような創作は、具体的な指摘は避けるが、後世の書籍に問題を及ぼしている。
 一般読者だけでなく、古代史学者でも、国内考古学寄りの専門家で、中国文献に自信の無い向きは、この記事を受け売りして、解説記事を執筆することがあるようある。もちろん、上に名をあげた執筆陣は、当然のごとく、この内容に基づいて執筆するものである。
 今日に影響を及ぼした「歴史的」誤記事と言える。

*編集出版の不手際
 当記事を年表に書くときに「倭人伝」に「欠けている」細部を埋めるのは、それ自体悪くはないが、その際に、原資料を確認せず、自身の憶測に基づいて書き込むのは、どんなものだろうか。

 「倭人伝」は、魏朝公式記録を二千字程度で書き記しているから、当時周知、自明であった事項は書いていないから、「欠けている」と見ることもある。しかし、二千年後生の無教養な東夷である現代の日本人が、知識不足で憶測すると、見当違いな誤解になるのは、避けられないものである。
 余程自信があったのだろうが、中国文献の解釈は、専門家の確認を仰ぐべきではなかったかと愚考する。
 古代史学界では、先賢の玉稿を校閲することを忌避するのだろうか。先賢とて、時には、勘違いするのは避けられないと思うのだが、その勘違いがそのまま世に出るようでは、学界全体が、世間の信用をなくすのではないかと憂慮される。
 そして、「年表」の編者も含めて、錚錚たる顔ぶれの古代史学界のお歴々が、誰もこの点を指摘しなかったと見えるのは、どういうことなのだろうか。誤字の類いでないだけに、深刻なのである。

以上

2024年7月14日 (日)

私の本棚 田口 裕之 『金印は「ヤマト」と読む』 季刊「邪馬台国」 131号 総括

 私の見立て ☆☆☆☆☆ 瓦礫   2017/02/28  2020/01/15 2024/07/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□結語

 これに先立つ16回の連載で、とことんダメ出ししたはずであったが、誰でも気づくような子供じみた欠点を列記しただけで、一番大事なダメが出せていなかった。反省と自戒を込めて、総括記事として追加する。
 (なお、16回分の記事は、公開する意義は無くなったものと思うので、非公開とした。何の反応も無かったので、徒労であったということである)

 それは、当論文のタイトルに書かれている新説が、既に、言い古されたものであったにも拘わらず、先行する文献が適切に参照されていなかったということである。

 既に、100年を大きく超える古代史論議の中で、本当に多くの新説が提言されているから、現代人が思いついた新説の先行論文を全て検出するのは無理かも知れないが、もっと謙虚になって、徹底的に調査すべきではないかと思うのである。
 また、投稿された論文が新説であるか、旧説の踏襲であるかは、論文審査の不可欠な手順と思うので、編集部の手落ちは罪深いと思うのである。論文筆者は、このような不名誉な形で名をとどめたくない筈である。

◯資料紹介
 参照資料は、次の一点であるが、そこで引用されている明治時代、ないしは、それ以前の資料は、必読書とも思われるので、知らなかったでは済まないと思うのである。
史話 日本の古代 二 謎に包まれた邪馬台国 倭人の戦い
             直木孝次郎 編   作品社 2003年刊
 「邪馬台国の政治構造」 平野邦雄
    初出 平野邦雄編 「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館 1998年刊

 さて、妥当な推論かどうかは別として、書き留められている先行論文と論旨を書き出すとする。
 後漢書に見られる「倭国王帥升」記事が通典に引用された際の「倭面土」国が「ヤマト」国と読まれるべきだという説は、明治四十四年(1911年)に内藤湖南氏によって提唱されたものである。(明治四十四年六月「藝文」第二年第六號〕

 文語体、旧漢字で読み取りにくいだろうが、倭面土とは果して何國を指せる。余は之を邪馬臺の舊稱として、ヤマトと讀まんとするなり。と明言されていて、その後に、詩経などの用例から、太古、「倭」を「や」に近い発音で読んでいたと推定している。
 ついでだから、原点である内藤湖南「倭面土国」をPDF化した個人資料を添付する。
 
原資料に関する著作権は消滅しているが、PDF化資料に関しては、プロテクトしていないとはいえ、無断利用はご遠慮いただきたい。(まえもって連絡して欲しいとの意図である)「k_naito_yamato1911.pdf」をダウンロード

 「倭面土」国と併せて、「倭奴」国も「委奴」国も、「ヤマト」国と読むべきとする説も、明治四十四年(1911年)に稲葉岩吉(君山)氏によって提唱されたものである。(明治四十四八月考古學雜誌第一卷第十二號)

 湖南氏は、後続として同様論旨の論文を準備していたが、稻葉氏の論文を見て発表を断念し、原論文を「讀史叢録」に「倭面土国」として収録する際に、付記として、「稲葉君山君」が翌々月号に「「漢委奴國王印考」といへる 一篇を發表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、單に聲の緩急の差あるのみと斷ぜられたり」』と要旨を紹介しているものである。
 いや、そもそも、そのような概念は、「釈日本紀」にすでに示されているという。影印を見る限り、そのような趣旨で書かれているように見える。
 つまり、「古代史書で多数見られる倭国名の漢字表記と思われるものが、全て、ヤマトと呼ばれるべきだ」とする論旨は、数多くの先例があると言える。
 してみると、本論文の大要は、所詮、先人の説くところを踏襲/盗用していて、特に格別の考察を加えているとは見えないので、新説として独創性を頌えることはできないと思う。
 むしろ、先例を伏せて独創性を訴えたと見られる論調は、先人の功績を踏みにじるとのそしりを招きかねない。

 以上、今後の活動の際の戒めとしていただければ幸いである。

□季刊「邪馬台国」誌の不手際
 それにしても、懸賞論文としての審査に於いて、選外佳作、公開不適、と判断したのに、欠点を是正せずに、多数のページをいたずらに浪費して掲載した編集部の不手際は、かなり深刻だと思うのである。

 「浪費」の一端は、行間ツメなどの当然の編集努力を怠って、それでなくても希薄な論文をさらに希薄に引き延ばして、雑誌刊行のコストを引き上げ「邪馬台国」誌の財政を悪化させた点にも表れている。雑誌編集部は、文字内容だけ吟味していればいいのではない。雑誌の紙数を勘案し、投稿者に制限を与え、必要であれば、部分を割愛して雑誌の体を保つのも、編集実務である。筆者が、指定に従わない、締め切りを守れないときは、断固落とすべきである。今回は、何ともお粗末であった。

以上

2024年7月12日 (金)

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 1/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿執筆の契機は、「中華帝国志」  中 権謀術数篇 安能努(講談社文庫)冒頭の述解である。

 「正史「三国志」自体の記述に前後の乱れや左右の齟齬が甚だしい、ということである。例えば、あの名高い「赤壁の戦い」がそうであった。」と提起して、具体的に正史本文を引用して読み解いた上で、「以上四つの記述が明らかにした「確かな史実」は 二つだけである。
 一つは、赤壁で戦いがあった。もう一つは、曹操の魏軍が敗北したということである。曹軍が戦った相手は、劉備の蜀軍だったのか、孫権の呉軍だったのか、はたまた呉蜀の連合軍だったのかすら明らかではない。いや戦場は陸上だったか、水上だったかさえ定かではないのだ。(中略)これは正史を読む者にとっては、まことに困ったことだ。三国時代の歴史ドラマでは最大の見せ場である「赤壁の戦い」の真相が、実はよく分らないでは、まったくの興醒めである」

 「四つの記述」とは、魏書武帝(曹操)紀、呉書呉主(孫権)伝、蜀書先主(劉備)伝の三者三様の記事と、呉書周瑜伝記事である。大事なことであるが、安能氏が、「三国志」参照の際、裴注部分を除き陳寿編纂部のみ論議したのは、至当である。

 安能氏の指摘は、「三国志」なる史書は、「陳寿編纂にも拘わらず、各書の記事間に食い違いがあり、史書として不正確であるというものであり、その好例として、赤壁の戦いに関する記事間の食い違いを指摘しているものである。

 ただし、安能氏は史家でないので無理もないが、「赤壁」の戦いは、三国志記事であるが、三国時代でなく、後漢(以下漢)朝事件である。赤壁時点、漢は化石(レジェンド)でなく全国政権として厳然と権勢を振るっていた。「赤壁の戦い」自体、あったのかなかったのかすら不明であるから、安能氏は不満なのである。

 後日談であるが、赤壁の十二年後、建安二十五年に漢は魏に天下を譲り、曹操の後継者曹丕が皇帝となった。これに応じて、劉備は漢を再興し、孫権は呉を興して、三国鼎立した。ここから、三国時代が始まるのである。そして、曹操は、すでに没していた。

 以下手短に述べるように、
 「三国志」を構成する「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」は、それぞれの「国志」として独立して編纂されたものであり、最終的に「三国志」とされたものの、各国志の不整合は、史書として最低限の整合しかされていないのである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 2/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
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*建安十三年の世界
 曹操は漢丞相であり臣下であった。
 孫権は、中央政権の混乱時期に、江南に勢力を確立したが、形式的には漢朝臣下であった。
 劉備は、一時、漢高官となり、皇帝親族、皇叔と厚遇されたが、反曹陰謀に巻き込まれて亡命したので、重罪人であった。

 建安十三年、丞相曹操は、荊州劉表の平定行に出た。劉表は漢の牧であったが、中央の混乱に乗じて自立し、曹操への服従を拒否したので、征討が命じられたが、同年八月に卒した。

 曹操率いる官軍、曹軍は、劉表の死に動揺した荊州を難なく支配下に収め民政を安定させ、引き続き劉備の追跡・討伐に移った。
 劉備軍は、荊州が曹操の麾下に入ったために、配下将兵とともに逃亡したが、根拠地の無い流軍だったのである。この(仮称)劉軍は、兵力をとっても、孫権麾下の有力武将周瑜、魯粛、黄蓋らの部隊と比べて、弱体であった。とても、荊州軍を加えた曹軍に対向できるものでは無かった。

 と言うことで、劉軍が曹軍に抵抗したという魏書記事を信じるのは難しいかもしれない。

 孫権は、呉の支配者であり、軍は孫軍とでも言うのだろうか。
 赤壁の戦いは、一般には曹軍と孫軍の戦闘と解され、劉軍は孫軍に与力したと思われているように思う。
 現に、蜀書は劉軍の軍功を、呉書は孫軍の軍功を誇る記録をそれぞれ残し、それ自体は寛大にも温存されている

*曹軍「不利」
 魏書を見る限り、曹軍は、劉備をつかまえ損ねた上に自軍に疫病が蔓延したので追悼を断念し、荊州制覇を嘉としてて、軍を帰したとしている。

 筑摩書房「正史三国志」の「敗れた」は軽率な誤訳である。原文は「不利」と書いていて、これは「刀剣が切れない」という意味であり、せいぜい、孫権征伐の不首尾を言うだけで、負けたとは書いていない。

 つまり、魏書では、赤壁の敗戦など無かったのである。甚だしい敗戦の時に避けられない有力武将の多数の戦死者は出ていないのを見ても、大敗はしていないらしい。

 未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 3/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12

*加筆再掲の弁
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*勅命と違勅
 曹操は、皇帝でなく丞相であるから、軍事行動に勅命が必要だった。つまり、荊州遠征と大罪人劉備の征討までは勅命であるが、孫権征討は勅命を受けてないから、戦えば違勅であるというものの、曹軍から孫権攻撃の勅命を仰いだ記録はないようである。

 比較すると、司馬懿が太和二年、有力武将である孟達を、蜀への内通により討伐したときは、駐屯地から急行討伐し、その後弾劾奏上する非常手段を執っているが、この独断専行は、軍令違反であり、よほどの確信がなければできない。
 と言うことで、曹操は司馬懿と異なり謹直である。

*大敗の罪
 ついでながら、官軍が大敗を喫すると、指揮官の罪は、最悪、大逆罪に等しい大罪となり、本人の死罪だけでなく、妻子、両親、兄弟姉妹に始まる三親等以内の親族全員が連座して死罪となるから、重大な戦闘には、先立って、皇帝の勅令を仰ぎ、敗戦の責任が自分だけに降りかからないように、慎重に保身するのである。

 諸般の事情から、魏書に孫権との戦闘記録は残せなかったのであろう。

*呉書記事
 呉書には、孫権の談話とは言え、「老賊」の表現があり、これは曹操の蔑称である。
 孫権は、曹丞相を「老賊」と呼んでいたのである。呉書では「曹公」とされているが、ここには孫権の肉声が収録され、温存されている。

*国志鼎立
 三国志の各国志は、それぞれの方針で編纂されていて、三国志全巻を一貫した方針で編纂したとは限らない。しかし、それは、編纂方針の不用意な乱れでなく、確たる編纂方針である。

 参考までに手早く確認すると、三国志全体を一史書と判断した例が大半だが、舊唐書経籍志と新唐書芸文志では、「魏国志」三十巻は「正史」であるが、「蜀国志」と「呉国志」は、その他史書(偽史類)とされていたと言うことであるから、少なくとも、唐時代には、三国志全体が正史として取り扱われていたとは限らないようである。

未完

倭人伝の散歩道2017 序章・三国志の由来 4/4 再掲

                             2017/06/24  補追 2024/07/12
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯まとめ
 以上の考察は、素人考えそのものであり、文献史学や書誌学の権威からすると、素人の勝手な憶測に過ぎないと言われそうだが、素人も素人なりに調べて、懸命に考えているのである。(別に命がけではないが)
 陳寿が、三国志全体の序文などを残していないから、そのような仮説も成立すると思うのである。
 以上は、安能氏の指摘に触発されたものであるが、原史料に戻って調査確認した上の意見であるので、当方の独自の意見とみているである。
 もちろん、全論者の全論説を全て確認したわけではないので、「知る限り」の新説と言うことにしておいていただきたい。

□余談少々
*誰が負けたのか

 愚見を付け足すと、曹軍は江水(長江、揚子江)で戦える水軍を持たないので、孫水軍と対峙したのは、荊水軍の艦と兵である
 ハリウッド映画などでは、浮かぶ要塞のような巨艦が登場するが、劉表時代には、荊水軍に下流を侵略する意図はなかったようだから、そのような巨艦を造船はしていなかったと思われる。華麗なイリュージョンである。

 それにしても、もし、赤壁で水戦があったとしたら、それは、孫水軍と荊水軍の衝突である。その水戦で、荊水軍は大敗して、艦と兵の多くを失ったかも知れないが、曹軍自体は、大した損害を受けなかったのだろう。

 もし、赤壁で曹軍本体が大被害を受けたとしたら、下流の必争地である合肥の戦いで、孫軍は、大勝を博したはずであるが、実際は、あっさり押し戻されたのである。
 周知の通り、江水下流域での魏と呉の対陣で、呉の度重なる北進攻勢が阻止され続けたのは、合肥が、頑として魏の最前線を護り続けたからである。この時、合肥が陥落していれば、魏の国勢は、大きくそがれていたはずである。

 
いや、これは、かなりマニアックな上に、「倭人伝」論に関係のない、余談であった。

*鼎立を超えて
 当方としては、そこにくわえて、旧遼東郡管轄地域の記事も、あえて、「魏書視点」で書き直されていないことに気づいて欲しいのである。
 何しろ、「東夷伝」は、各国志に欠けている序文を持ち、一書としての構えを備えているのである。

                                      以上

2024年7月 8日 (月)

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  1/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

私見御免
 今回の題材は、古代史分野で古典的となっていた議論を取り上げているのであるが、当ブログ筆者が、こうした記事の論旨展開に異論を感じる由縁をきっちり述べるのに適例と思うので、先賢に対する不遜は承知の上で、率直に書き記すのである。

 当ブログ筆者は、今日ほど、諸情報に容易に接することが出来る時代ではなく、また、学界の主流に堂々と異論を唱える論者が、世に出ることなく陋巷に潜んでいた時代に、学界の大勢を支配していた(いる)論法を一つの事例として提起したいと思ったのである。

 というものの、当記事に提示されている「定説」と言う名の作業「仮説」そのものは過去のものとなったとしても、こうした未熟な論法は、後進の諸兄姉に承継されて健在ではないかと懸念しているものであり、半世紀前の論説といえども、真摯に批判する価値はあると思うのである。

*お断り
 言うまでもないが、当ブログ筆者は、一介の私人、素人であって、古代史学界でこのような尊大な議論を申し立てられる立場にはないのは承知しているのであるが、一読に値すると思う方は、軽く目を通して戴ければ幸いである。

*非礼と不遜
 正直、このような論説を、このようにひなびた場所とは言え、公開するのには、随分抵抗があったが、古代史分野の定説が、なぜ、非合理的、非科学的な俗説と批判されるのか、具体的に示すことが、何かの社会貢献にならないかと、書き綴ったのである。
 もっとも、このような論説を公開することで、当ブログ筆者の考古学分野での世評が悪化したとしても、当方は、一介の私人であり、失う名声も、地位もないので、意を奮って書き始めるのである。
 いや、此までのブログ記事は、全て、そうした「匹夫の勇」で支えられているのである。

 以上、もったいぶった前提を理解した上で、ご不快やお怒りは取り敢えず抑えて、自称「労作」を一通り読んでみて頂きたいのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  2/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*冤罪払拭

 以下引用した冒頭囲み記事「『魏志』倭人伝の信頼度」を「魏志倭人伝」と言う史料の紹介でなく、タイトルに対する口吻で始めている。

 世間に通じている「魏志倭人伝」なるタイトルは、遙か後世の、多分日本人が、便宜上付けた通称であって、いくら刊本に記載されていても、陳壽が編纂した本文ではない。よって、この通称は、倭人伝の史料としての信頼性には関係ない。

 因みに、遙か後世の南宋時代の版本である所謂「紹凞本」では、「倭人」記事の直前に、一行を費やして、「倭人伝」と書かれていて、世に「倭人伝」と通称される一因と見られる。二千年間のかなりの部分、当部分に対する「栞(しおり)」として、当用写本の上部に朱書されていたのではないかと見るものであり、大変役に立っていたものと思うのである。そのような「栞」付けは、「論語」で常用されていて、段落冒頭二字によって「通称」としていたことが知れているのである。
 なぜ、執筆者が、「通称」に対して反発を示されているのか、一介の素人が否定するものではないから、「理解しがたい」と書き留めておく。
 執筆者は、「魏志倭人伝」が陳寿自身の書き残した原本で無いことを力説されたが、「魏志倭人伝」なる「タイトル」は、あくまで「タイトル」に過ぎない、史料テキストの一部でない。一読者としては、力説の意義を読み取りがたいと書きつけておく。

 ちなみに、「紹凞本」は、北宋時代咸平年間に校正、確定され、初めて木版本として刊本された「咸平本」なる貴重書が、北方民族の江水(長江)岸に至る武力侵攻/文化破壊によって、北宋ほぼ全域で、刊本にとどまらず、印刷機や版木に至るまで撲滅された事態が起きたのである。いや、北方民族は、中原に君臨していた「宋」を打倒する際に、その精神的な支柱である四書五経の「哲學」の撲滅を必須としたため、中国全域の哲學書を木版印刷の版木まで、破壊し尽くしたのである。
 但し、破壊し尽くしたのは、「中国」全土であったので、外界であり、交通疎遠な「四川」、「益州」、ほかならぬ、蜀漢の故地に温存されていた善本写本から、紹凞刊本の木版を起こしたものである。おそらく、益州には咸平刊本が齎されていなかったため一次/二次の高品質の通用写本であったから、行格、字体が、咸平刊本と全く同一でないのに加えて、若干の加筆、誤写が有ったものと見えるのである。
 南宋初期に、北宋刊本の復原を図った際に、格段に進歩した版刻技術を採用したため、行格が精細化したとともに、それまで本文と同一行格であった裴注を、一行を二分する割り注としたことにより、格段に少ない紙数で刊刻できたのである。つまり、陳寿原本と「蛇足」である裴注を視覚的に区分できたのである。
 つまり、南宋紹凞刊本は、木版刊本として北宋咸平刊本に大幅な改善を施した時代頂点の境地(State of the Art)に至ったものであり、その一環として、それまで欄外注記されていた伝名で一行を消費することができたから、「倭人伝」と書くことができたのである。つまり、「倭人伝」は、南宋以降の新世代刊本の隔世の信頼性を物語っているのである。ちなみに、南宋第一世代の「紹興本」は、伝名行を持たない旧世代である。
 執筆者は、そのような細部をご存じないままに、世間に通じている「魏志倭人伝」』なる伝名について講評されているが、少なからず、要点を外れたものと見るものである。おそらく、国内諸史料、所謂「正史」の混沌たる継承状態を見て、「魏志倭人伝」に混沌を見ているのだろうが、それは、実証されていない「思い込み」なのである。

 また、各種資料に引用される際、「魏書」、「魏志」の両様であり、別に「魏志」と呼ぶのが間違っているわけではない。時に、「魏国志」と呼ばれるものでもある。むしろ、どの刊本を、史料文献テキストの原典とするかの選択が肝心であり、「紹凞本」を基礎とする現代刊本が意義を持つのである。
 念のために言うと、史官である陳寿は、三国志を「編纂」したのであり、紀行文学を「創作」したのではないから、オリジナリティー(創作性)を狙ったものではない。
 このような余談めいた書き出しは、以下の展開と相俟って、執筆者の先入観というか、素人考えによる偏見を押しつけるものである。

 ついでにダメ出しすると、当時の言葉で、「中国」とは、魏の統治していた中原のことであり、呉、蜀は、中国を割拠していたのではなく、四夷とも呼ばれた「辺境」を支配していたと見られているのである。これは、かなり深い内容であり、あるいは、執筆者は承知の上で、現代語として使用したかも知れないが、ここは、遠慮せずに書きつけておく。

 また、魏と呉が影響を与えようとしていたのは、北鮮ではなく、中国の北辺、戦国時代の燕の故地への入り口である遼東である。ご専門ではないので、地理認識がずれていたようである。

 いや、議論の本質ではない揚げ足取りに迷い込んだようで、反省する。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  3/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*本論 承前
 本論に入ると、何にしろ、三国志魏書東夷伝倭人条(とは、史料には書かれていないように思うが)は、紀行文学ではなく、現場調査の報告文書や王朝官吏の業務記録を活用した知的、民族的記録なのである。史官たる編纂者は、原データの忠実な編纂に努め、自身の感性に従うオリジナリティは、追究してはならないのである。

 必然的に、他の史書や資料からの引用記事が大半になるのは、全知全能ならぬ史官として当然だろう。ただし、編纂する以上、史実たる公文書に基づくのが当然であり、不正確な風評や偏った筆致、果ては、実証されない創作などは、極力排除したのである。こうした編纂が、適確、確実であったことは、後年「三国志」全巻に潤沢な注釈を追加した南朝劉宋の裴松之が書き残しているところでもある。何しろ、追加された注釈は、「他の史書や資料からの引用記事」であって、陳寿が正史として不適切とみたものが大半(事実上全て)であるから、言うならば「蛇足」なのである。

 何しろ、裴松之の注(裴注)が施されたことにより、陳寿の編纂した三国志、陳寿原本は継承されなくなったのである。

*ありふれた低迷
 失礼ながら、このような無造作の断言を好む小林氏の提言は、文献考察の専門家が「三国志」を通読しての考察とは見えないのであるが、それにしても、この評価は、大きく空振っていると見える。そもそも、裴注は、「陳寿原本」のテキストに手を加えていないのであり、当初は、改行した上で追記し、のちには、行を二分割して細字で書き足す「割注」を付け足しているから、「陳寿原本」のテキストは健在であり、言わば不滅不朽と言える。裵松之の真意を察すると、先輩史官の偉業を「当然」賛嘆している後生史官であったから、皇帝の指示はあるものの、「三国志」の真価を認めた上で、裴注があくまで「蛇足」であることが明記された「三国志」を編纂したのである。

 そのような課題が控えているにもかかわらず、この囲み記事では、実際には、倭人伝の史料としての「信頼度」は語られていない。
 以下の議論で、執筆者は、倭人伝記事を細かく取捨選択して、気に入ったところだけ、採り入れているようである。

*引用開始―――
『魏志』倭人伝の信頼度
 日本の古代史に言及するものが、すぐに『魏志』倭人伝というので、そういう表題の書物か文章があると考える人があるかもしれない。しかし、これは『魏書』巻三十の「東夷伝」の一部分をさすもので、しいていえば「倭人の条」である。『魏書』もまた、晋の陳寿が選述した『三国志』の一部分である。陳寿にかぎらず、古代の中国で史書を執筆するばあいには、既存の文章をできるだけ転載するのが常道であった。したがって、『魏志』倭人伝にも、魚豢の『魏略』などから採った章が多い。特に、魏の宮廷に伝わっていた詔書や外交関係の記録なども収録しているので、その部分は信頼度が大きい。また、帯方郡から朝鮮半島南岸の狗邪韓国に行き、対馬・一支(壹岐)・末盧(松浦=唐津市)・伊都(怡土=前原町)・奴(那=福岡市)の順に進むという経路などは疑問がない。ただ邪馬台国に行くには、南へ向かって水行十日、陸行一月かかるという点になると、起点・方向・距離などの解釈によって、大和説と九州説とが対立してしまう。

 女王卑弥呼の時代の東アジア
卑弥呼が倭国の女王であった3世紀前半には,中国では北の魏、南の呉、西の蜀の国がたがいに争っていた。魏が北鮮を陸上から押さえようとすれば,呉は海上.から勧誘の手をさしのべるという状態であった。卑弥呼が魏に朝貢して破格の待遇をうけたのも,中国にそのような内部事情があったことを、一つの理由として考えることができる。

*引用終了―――

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  4/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ムラからクニへ=場違いな議論
 本書は「日本文学の歴史」であり、当巻は、日本文学の揺籃時代、まだ、文字記録のなかった時代の人の想いを語ろうとしているのである。
 当記事の章題を信じるならば、ここには、それまで、今日の日本という国家の形成過程で、後世国土となる領域に、ばらばらに、つまり、時には離散していたムラが、三世紀前半の中国との文化交流を契機に、次第に発展的に結集して、クニとなる姿が描かれているものと期待するのだが、実際は、そうした筋書きは書かれていない。

 ここで、執筆者は、「邪馬台国」の「中国」(魏朝)との交信を取り上げざるを得なかったようで、けっこうページ数の大半を費やしていると見えるが、本書の語りの中では、違和感を感じさせる。また、いわば、剪定によって枝を刈り摘める手業が見えるのである。

 つまり、この時代の「日本文化」を探る上で、同時代の文章資料として、ほぼ唯一の魏志倭人伝が厳然と聳(そび)えているので、できることならこれを何とか手元に取りこんで、出来ないときは難癖を付けて排除して、以下、本ブログ筆者がしきりにぼやいているように、あたかも盆栽を丹精するが如く、執筆者の意のままの形に仕上げて、持論の一部としようとしているように見えるのである。

*史観の押しつけへの反発
 「そのころ日本において最高の地位をしめていた邪馬台国」と書かれている「日本」という「時代錯誤」の言葉を、読者が現代風に解釈すると、本州島、四国島、九州島を支配する邪馬台国を想定してしまうのである。
 つまり、あからさまにではないが、三世紀当時、既に広大な国土に、統一された古代国家が成立していたと理解しないといけないと思わされてしまう。
 しかし、執筆者が想定しているのは、現在の奈良県の南部と北部をのぞいた中部、「中部大和」を短縮した「中和」に存在したと仮定される「中和」政権と、九州北部の「筑紫」に存在したと仮定される「筑紫」政権とを想定し、二択問題としつつ、おとなの姿勢で断言を避けながら、いずれかの国が、当時の中国の中核部を支配していた魏朝と交信したと想定されることを述べている。

 ただし、当ブログ記事では、邪馬台国名称の議論を避けると共に、筑紫の倭国と中和の倭国が、同等の選択肢であるとの先入観を避けたいので、取り敢えずは、邪馬台国とか、「邪馬台国**説」とか言わないことにする。
 馴染みにくい呼称で、面倒と思うが、「地域ブランド」に影響されるのを避けたいのである。

*重大な分岐点
 筑紫倭国が魏に遣使したと想定すると、その勢力が現在の福岡県内にとどまっていても十分であり、それは、あくまで小ぶりでムラに近いクニである。
 一方、中和倭国が魏に遣使したと想定することは、中和倭国は、現在の奈良県から大阪府を皮切りに、後世で言う中国路を全面的に支配して、ついには、筑紫まで支配している必要があり、つまり、中和倭国は、ムラに近いクニなどではなく、これらの遠大な経路を含む広大な領域を強力に支配する強大な「古代国家」を想定していることになる。
 ことは、所在地に迷うだけの二者択一ではなく、国家像の大きな違いを含んでいる重大な選択の分岐点なのである。

 そうした重大な選択の分岐点を選択しないままに、「魏志倭人伝」記事の信頼性をあげつらっているのは、考古学が科学の一分野として存在するのであれば、感心したものではないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  5/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
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*主観的な史料評価と採否
 「倭人伝」記事に対する評価は、執筆者の心の揺れに応じて、うねっているようである。

 官吏の名称を卑狗とか卑奴母離とかの文字で表記しているのが、ヒコやヒナモリという昔を伝えたものとすれば、当時の言語がのちの彦・夷守という日本語と同一であったことを証明する重要な材料になる。
コメント ここでは、壮大な仮説の証拠として援用されているのである。

 このほか、「魏志」倭人伝は、倭国の風俗習慣や産物などについても、詳しく言及しているが、かなり想像をまじえたものとみられるから、いまは引用を避けておきたい。
 ただし、かりにその報告がかなり正確なものであったとしても、『魏志』倭人伝の記事は、撰者である陳寿や、彼が参考にした『魏略』を編纂した魚篆が、想像をまじえて作文した部分を含んでいるので、そのまま全面的に信頼することはできない。
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。
コメント と言う具合に、執筆者の気に入らない部分には、主観的な理由を付けて、容赦なく排除する方針なのである。
 こうした判断は、全面的な断言となっていないので、当方は、批判しても否定は出来ないのだが、こうした当てこすりは、学術論考では、感心しないのではないかと思うのである。

 また、素人目には、「そのまま全面的に信頼することはできない。」というのは、史料に対する態度として、極めて健全であり、むしろ。肯定的な意見と見る。よって、一見否定形の構文は、かなり信頼性の高い史料への評価と見られ、そのような史料の一部を信頼できないとして除外する際には、的確な根拠の元にそのような判断が示されるべきものと思う。

*推定無罪原則
 話の筋がこんがらかったようなので、真っ直ぐに言い直すと、当ブログ筆者の愚考するに、倭人伝」は、同時代史料としてほぼ唯一のものである以上、部分的であろうと、故なくして排除すべきではないと考えるものである。
 また、執筆者が、史書の編纂にあたって「編者が個人的な想像を交えて創作した」などと譏っているのは、根拠のない憶測であり、執筆者ほどの学識、識見の持ち主がとるべき態度とは思えない。三世紀、西晋の史官は公人であり、当時最高の専門的な教養を有する職務に付いていたのであるから、「個人的な想像」などと、二千年後生の無教養な島夷と同列に貶める発言は、控えていただきたいものである。

 率直なところ、素人論者の身の程を弁えず、執筆者の姿勢を批判するのは誠に僭越の極みなのだが、上のような史料評価というか「断罪」は、相当明確な根拠が無い限り、考古学者として避けるべきと考える。
 現世の浮き世の法の裁きがそうであるように、例えどのような嫌疑を受けても、法の裁きが下るまでは、無罪と推定されるのである。

*弁護でなく、摘発でなく、適切な批判
 ここまで、手厳しい意見になってしまったが、それは、「倭人伝」に対して、合理的でない理不尽な非難を示されていることから来るもので有り、執筆者の高名にふさわしい適切な史料批判が行われていたら、ここまで反発しないのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  6/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
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驚きの銅鏡配布中心
 魏志倭人伝非難が溢れる記事中で、大きな意義を感じることなく、大変興味を惹かれたのは、「魏志倭人伝」と実は関係の薄い「三角縁神獣鏡」の同笵鏡配布に関する議論である。

 但し、「三角縁神獣鏡」が、倭国の貢献に対する女王への進物として、魏からもたらされたものかどうかは別義である。
 ここで展開されているのは、遺物の発掘状態から、「三角縁神獣鏡」の配布の中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳山城国附近にあったことを示唆する図が示されていて、興味を惹かれるのである。

*古代街道の萌芽
 図示された銅鏡の配布中心は、今日で言う新幹線や高速道路の経路に近く、古代に於いても何らかの街道の通過点、交通の要衝であったとの、可能性を示しているもののように思う。

 ここで、「街道」と言うのは、単に道路が続いているだけでなく、要所要所に『宿場』の役を果たす集落があって、物資を運ぶものが、大量食料を持参せず、やすやすと物資の運送や人員の移動が出来たというものである。

 そのように物流や交通の要衝にあって、「三角縁神獣鏡」のような貴重な、後年の言い方で云えば、高価な財貨物の配布の中心を支配していたものは、独立した権力を持つ地方勢力だったはずで有り、当時としては、かなり遠隔の中和倭国の支配下にあって、単に、その指示に従って「三角縁神獣鏡」の配布を担当しただけだという議論は、物の道理に反していて信じがたいのである。

追記 2024/07/08
 しかも、三世紀後半の時点で、街道整備が無く、まして、文書行政国家を維持できる文字教育、計数教育などの素養を備えた官僚が各地に配置されていたことが実証されていないのであれば、銅鏡を配付して地方勢力を臣従させるなど、ありえない夢想と思われるのである。どうも、数世紀、時代錯誤しているのではないかと苦言を呈したいのである。
 言うまでもないが、近隣勢力との間で、人の交流による相互交流はあったはずであり、また、近隣に始まる地域間交易は、当然存在していたであろうから、山河を越えて銅鏡は「伝えられていた」であろうが、それは、遠隔支配等と言うものではなかったはずである。
 いわゆる「三角縁神獣鏡」の配布中心が、木津川にのぞむ椿井の大塚山古墳(山城国)附近にあったと見えるのは、単に、同地の地方勢力が、淀川/木津川水系を支配していて、自然、銅鏡交易の頂点に位置していたと見えるからではないか。「金持ち」ならぬ「鏡持ち」だから、「金蔵」ならぬ「鏡蔵」を立てたものではないかと見える。
 いや、素人考えばかりで失礼する。

決まらない決めぜりふ
 論考の常として、次第に根拠を積み上げて、最後に決定的な判断を提示するものであるが、ここでは、最後の決めぜりふで、「『魏志』倭人伝の虚言」と囲み記事を提示している。
 氏は、中国史書の専門家でないために、語彙がずれているが、「虚」とは「外見」であり、最も尊重されるものである。「中身」がどうこう言うのは、読みの浅い無教養な読者の泣き言に過ぎないのである。
 要は、史官であった陳寿を「嘘つき」と罵っているのである。そのように手厳しく指弾するのであれば、少なくとも、読者が戸惑わない程度に明解に、余程念入りに根拠を明示する必要がある。

 史官の務めは、史実を伝えることであるとともに、本紀や列伝の主題を整えるものであり、ある意味、二千年後生の無教養な東夷から「二枚舌」、「嘘つき」と誹られかねないのだが、それは、無教養の咎であって、史官の罪では無い。

 以下に引用する囲み記事は、見出しの激烈さの割に、内容は説得力が乏しい。本文で、既に闊達に取捨選択している事への言い訳なのだろうが、適例を示しているとは思えない。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  7/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
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 私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08, 07/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

『魏志』倭人伝の虚言
 『魏書』東夷伝の執筆にあたって、陳寿は『魏略』の文章をしばしば借用した。しかも、原文に多少の変更を加えたので、真実から遠ざかる結果になった部分ができた。特に『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していたので、中国の長江以南の地方や、海南島の風俗をもって、日本人のばあいも同様であろうと推断してしまった。つぎにあげるのは、そういう疑問の多い部分を抜きだしたものである。

 男子はおとなも小供もみな文身をしている。文身をするのは、海中にもぐって魚や貝を採る時に、大魚や水鳥におそわれるのを防ぐためである。文身をするところは国によって違いがある。

 着ている衣服は、布の中央に穴をあけて頭をつっこむだけである。稲や麻を作り、桑を植え蚕を育てて絹織物も織る。その地には牛・馬・虎・豹・鵲が生息していない。武器としては矛・盾・木弓を使用し、矢尻には鉄鏃か骨鏃をつけている。

*頷けない、躓く例証
 この囲み記事でまず躓くのは、「『魏略』も『魏書』も、日本列島が朝鮮から南方へ長くのびていると想像していた」との断定であるが、そのような証拠となる同時代史料はないと思われるし、補足説明もない。

コメント 2024/07/11
 「魏略」は、曹魏史官の有力者であった魚豢が、官人として編纂したものであるから、当然、曹魏天子を讃え、叛徒である、蜀漢、東呉を貶めたものである。つまり、当時、関中に侵攻して暴威を振るっていた諸葛亮は、官軍に大いなる被害を与えた、許しがたい賊徒として記録されていたのである。陳寿が、そのような曹魏正統の世界観で書かれた「魏略」から「魏志」記事を盗用したというのは、とんでもない誣告/言いがかりと言える。その際、「原文に多少の変更を加えた」と罵倒されては、たまるまいと思うのである。小林氏は、どんな根拠でそのような暴言を言い散らしたのだろうか。もっとも、小林氏は、論理的に不明瞭な「多少」なる逃げ口上を弄しているが、非科学的で氏の名声を穢しているのである。
 陳寿にしたら、魚豢「魏略」に記録されているのは、風聞、虚偽であり、「多少の変更」など、笑止である。陳寿は、史官であるから、曹魏公文書から引用するのが本分であり、風聞資料を取り込むなど、論外である。

 加えて、「魏略」は、公撰史書となることが無かったので、厳格な写本が行われることは維持できず、急速に劣化、散逸したと見えるのであるから、裵松之が、魚豢「魏略」西戎伝の全文を魏志第三十巻末尾に補追したことにより、部分的に善本が継承されたのを唯一の例外として、不正確、疎略な所引断片が残存しているのを「魏略」と称して論ずるのは、まことに不適当である。
 ちなみに、小林氏は、業界悪習で、「魏略」、「魏書」を擬人化して弄んでいるが、問うべきは、資料テキストであって、編者の粗忽をあげつらうべきでは無い。特に、陳寿は、原史料を尊重しているから、「魏志倭人伝」に示されているのは、原史料の世界観である。

 また、「『倭人伝』なる素性のよくない盆栽」の剪定屑を二例並べているが、どこがどう気に入らなくて、なぜ、どんな風に剪定・排除したのか示されていない。

*黥面・文身
 一例目の黥面・文身に関する下りについて 執筆者は、「大人も子供も、身体に文字を入れている」と理解しているが「男子無大小皆黥面文身」という原文の誤解ではないかと思われる。もちろん、そのような日本語訳を提供したものの責任であるが、最終責任は、執筆者にあると思うのである。

 「男子」は、当時の規準とは言え、「成人男性」のことであるし、「大小」と言うのは、身体の大小ではないし、もちろん、大人と子供を言うのではない。おそらく、身分の高い者と低い者を総称しているのである。「倭人伝」で「大人」と云うとき、それは、「おとな」の意味でも無ければ、「大男」(大丈夫)の意味でも無いはずである。


*南下の効果

 二例目の「着ている衣服は」の下りは、ますます剪定・排除した意図がわからない。古代の風俗は、各地でまちまちであったはずだから、一律に、この描写の適否を言い立てることは出来ないのではないかと愚考する。
 案ずるに、比較的温かい、と言うか、夏蒸し暑い中和であれば、両脇が空いている貫頭衣は、涼しくて良いのではないか。
 この辺り、氏の本意が不明なので、批判が及び腰になるが、不適切な翻訳文といえども、氏の玉稿とした以上、氏に最終責任があると見えるのである。

 ちなみに、古代以来衆知の筈なのだが、中和地域から南下すると、次第に高度が上がることもあって、冬季は寒冷が募り、降雪もあって、とても、貫頭衣では過ごせないと思われる。「南寒北温」と粗忽な造語で言いたてたくなるほどである。もちろん、今日、河内地域と比較して、奈良盆地内は、歴然と冬季の気温が低いのも、ご記憶いただきたい。
 おそらく、南下すれば、一律に気温が上がるという素朴な世界観が、無造作に流用されているのかもしれないが、当ブログは、そのような憶測の面倒まではみないのである。

*原文参照
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。

 小林氏は、「魏志倭人伝」の原文を掲示すること無く、意図不明の「飜訳」を持って論じているが、翻訳者の誤解が連鎖していて、惨憺たるものである。「海中にもぐって」と書いているが、原文は、「倭の水人(川漁師)は、しばしば河川に踏み込んで、水中に(半身を浸けて)屈み込む」と書いている。あくまで、浅瀬で、安全に魚蛤を捕っているのである。つづいて、文身の由来が述べられているが、川漁師が大魚を恐れたかどうかは、かなり疑わしい。言うまでもないが、ここに書かれている「大魚水禽」は、河川のものであり、海とは無縁である。この辺り、中国語の理解に難のある翻訳者が、執拗に誤訳しているのをまともに受け止めているのは、まことに残念である。
 誤訳以前に、「今」で始まるこの下りは、「現地」報告であるから、陳寿は、身をもって体験し証言しているのでは無い。報告者は、自分が、海辺にいるのか、川辺にいるのか、自覚していないはずはないのである。自信がなければ、「水」(水を味わえばわかることである)
 被服は「貫頭衣」として中原の文明に即していない「胡服」と言う積もりなのだろうが、史官は、蛮夷庶民の服装についてとやかく言うものではない。大事なのは、絹織物の産地で有ったということである。蚕を育て、絹糸を得て綾織りとするのは、極めて高度な技術の産物であり、中国に於いては、門外不出、禁輸とされていたのに、なぜ、倭人が、高度な絹織物産業を持っていたのか、不思議では無いのだろうか。考古学者としては、出土遺物を根拠に論じて欲しいものである。

 と言うことで、小林氏は、ここに書かれたこと全てを、陳寿の創作と非難しているようであるが、そのような不合理な弾劾は、確たる証拠無しには、審議できないと見るものである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  8/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*国内伝承との食い違い
 ちなみに、書紀などの国内史書で、黥面文身や貫頭衣の記事が見当たらないとしたら、書かれている風俗は、国内史書が取材した中和の風俗ではないと言うことではないだろうか。 「倭人伝」の記事は、史書固有の字数制約で極度に切り詰められているが、それ故に、衆知自明の字句は削除され、重要な事項が残されたはずである。

 従って、字句が一見断片的であっても、この時代、既に、養蚕や絹織物があったというのは、技術の前提として、織機も渡来していたのではないかと思量する。絹織物が業として成り立つということは、最終製品の機織りの機材と技術まで、伝来していたと見るものと思うのである。また、山野に自生する楮などを利用する製紙技術の萌芽もあったのではないか。
 中和に、このような遺物の出土がないとしたら、それは、記録したものが、中和に来ていなかったという傍証になるのではないかと愚考する次第である。

 いずれも、記録者がウソ(虚言)を書いたとか、編纂者が想像で書き募ったとかの論拠で、確証なしに早計に否定すべきものではないと愚考するものである。染色、柄織などの技術を感じさせる、高度な絹織物である錦織が倭国から魏朝に献上されたと記録されているのであるから、遺物が出土していなくても、当時現地に「あった」のであろう。

*「盆栽」が形づくる「盆栽」 Silent sculpture
 こうしてみると、この記事の全体のかなりの部分が、倭人伝批判と倭人伝依拠のまだらな塗り分けで彩れていて、肝心の、『ムラからクニへ』の絵解きは見られないのである。
 しかも、ここで試みられているように、議論の根拠とすべき史料の本質を霞ませるように色々言葉を費やしているが、所詮、そのような議論は、史料を自分流に整形したもので論じているのだから、それは、史料の適切な利用と遠い、勝手な「剪定」になるのである。

 つまり、倭人伝」の内容の、持論に全く合わない部分を剪定し、多少合わない部分は、時間をかけて望む方向にたわませるのであるから、出来上がったものは、執筆者の望む形になっているだろうが、丹精込めた盆栽、いわば、時間をたっぷりかけた丹念な彫塑芸術であっても、科学として求められている自然界の植生の忠実な複写とは異なっているのである。

 言うならば、古代史学界の大家の持論というのは、歴史の実相を追究するものではなく、好ましい形で持論が形成されるまで時間を惜しまず丹精して、最終的に自身の望みの姿を作り出すものだから、遠くから眺めると、執筆者ご自身が一つの盆栽となっているのである。

 このように、「盆栽が盆栽を形づくっている図」は、歴史科学の科学としての本筋からは遠いように思うのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ  9/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 以下、少し余談めいた感慨を述べたい。

概数論~大家の勘違い
 執筆者の経歴を拝見すると、若くして工学部系の学問を修められているので、その頃に、理工系の思考を身につけておられたものと思うのだが、考古学の分野に志されて文学部(考古学は、文学部に属する)に転じられたので、理工系の感覚が鈍ったのではないかと、憶測している次第である。
 と言うのは、と言うのは、記事中で、中国の史家が、百、千単位の概数で語ることに対して、大雑把であるとの非難を示されていることである。
 具体的に言えば、戸数、そして、道里の表記を指しているものと思うのだが、これらの数字は、概数で論ずるしか無いもので有り、言うならば、有効数字二桁程度のデータであれば、概数で語るのが正しいのである。

*概数の正当さ
 今日の科学的社会でも、建築業者が住宅設計するときは㍉単位であっても、近所を案内するときは、㍍単位で距離を語るであろうし、例えば、大阪から博多に新幹線で移動するときは、百㌔㍍、十㌔㍍の概数で語るはずである。

 元に戻ると、郡から狗耶韓国までの七千里は、「倭人伝」に於いて、適正な概数単位は、千里単位であるし、各国の戸数は、見る限り、千戸単位という適正な概数単位となっていると思うのである。いや、韓伝を見ると、百戸単位かも知れないが、それは、元々のデータの精度も関係していのである。因みに、帯方郡管内の戸数は、一戸単位で集計できたことが知られている。
 それこそ、今日でも、経理関係の計算、銭勘定は、一円単位の正確さを要求される。例え、一兆円規模(十二桁以上)であってもである。世界が違うのである。

 調べれば、新大阪博多間の鉄道路線長は、㌢㍍、さらには、㍉㍍単位で示せるだろうが、そんな高精度の数字は、今日に至っても、普段の生活には意味が無いのである。意義があるのは、運賃の設定であろうが、乗客にとって、べつに関心の無い正確さである。
 また、目的地までの直線距離は、地図上で㍍単位で出せるとしても、歩いて行く道のりを実測して、そんな高精度では示せないのである。それこそ、道のどちら側を歩くかで㍍単位の差が出る。

 つまり、書かれている数字が細かいほど、桁数が多いほど、データの精度が高いというのは、素人考えの誤解であって、工学・実用の徒は学業の一環として適切な判断を習っているはずなのだが、若き日に工学を学んだ執筆者の健全な感性は、学界の世俗の垢に染まって撓んだのだろうか。
 いや、現実世界では、実務に長けた技術者ほど、合理的思考をどこかに忘れて、神がかりの思考に陥りやすいのであるが、それは別義である。

 僭越ながら、当記事で、概数概念の無理解に関して批判を繰り返しているのは、執筆者の工学の徒としての初心を、執筆者に成り代わって適用したつもりなのである。

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 10/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*大家の危機
 本書執筆時、まだ、執筆者は数えで六十歳前と思うのだが、既に、学界で最高峰の名声と権威を有した大家であり、深い尊敬を集めていて、玉稿のアラ探し、ダメ出しなど、畏れ多くて誰も引き受けなかったのだろう。
 しかし、上であげた指摘は、つまらない雑感の表明であり、執筆者の定見の不可欠な基礎をなすものでもなんでもないので、その旨、誰かがさりげなく指摘して、記事から削除すれば良かったのである。もったいない話である。
 そのせいで、遙か後世になって、素人にアラ探しされるのは、ご本人には不本意と思うが、世の習いというものだろう。

 こうしてみると、どんな学問分野でも、大家とは安泰な境地ではなく、陥穽の淵に臨んでいるように思うのであるが、当ブログ筆者のように、一介の私人、まるでやせていない「やせ蛙」には、無縁の危機でもある。せいぜい、ほっといてくれと叱られるのであろう。

*総括
 この章記事を全部読み通しても、なぜ、角川書店が、出版社として全力を挙げて編纂した「日本文学の歴史」と銘打った大著の「ムラからクニへ」の章で、このように、趣旨を外れた「魏志倭人伝」批判が展開されたのか、よくわからない。

以上

 

未完

新・私の本棚 小林 行雄 神と神を祀る者 ムラからクニへ 11/11 再掲

 日本文学の歴史 第一巻 神と神を祀る者  昭和42年5月10日刊
 ムラからクニへ  執筆者 小林行雄 (1911年8月18日 - 1989年2月2日 文学博士)
私の見立て 全体 ★★★★☆ 学識芳醇 当コラム ★☆☆☆☆ 多々認識不足 2016/08/12 補充 2024/07/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*更なる余談
 以下、更なる余談である。あちこち探し回っていると、ぞろぞろと余談が流れよってくるのである。言うまでもなく、随想であって、何かを主張する意図で書き留めたものではない。

*倭国温暖 常春の楽園
 「倭人伝」で、亜熱帯かと思わせる温暖さが強調されている点については、「東夷伝」の史料としての構成を見るべきである。遙か、扶余、高句麗、韓と続いているが、概して寒冷地である。三韓南部は別として、「東夷伝」の読者になじみ深いのは、西域、匈奴、烏丸の居住地の乾燥、そして、高句麗、楽浪、帯方の冬の厳しさと思われる。

 半島から南へ三度の渡海で到着した倭国は、それまでの韓諸国と異なり、一年を通じて温暖であり、夏の暑さは、むしろ、華南の湿潤な亜熱帯風土を思わせると言いたかったのであろう。

*追記 2024/07/08
 このような温暖で湿潤な風土であれば、日射に恵まれていることと併せて、水田耕作でそこまでの諸東夷に比べて格段に豊富な収穫を得られる風土を示唆しているのである。「理科」の授業で教わったはずであるが、植物は、降り注ぐ陽光から得られる熱エネルギーによって、大気中の二酸化炭素と灌漑水を結合させて炭水化物として固定していて、その成果が稔りとして収穫されるのであり、陽光と水は、稔りの源と認識されていたのである。

 そのような豊穣さは、倭国の戸数に示されている。戸数の多さから知れる人口の多さは、農業収穫の多さの反映で有り、倭国は豊穣の地と頌えているのである。東夷伝に「方里」として示されている各国農地面積を見ていくと、「高句麗」や「韓国」の農地の希薄さが示されていて、大海の中之島、「洲島」である「対海国」、「一大国」すら、それぞれ、これら大国の十分の一程度の「方里」を示していて、それでもなお、農地に乏しいと歎いているのだから、「伊都国」以降の本土諸国の豊穣さが甚大と見えるのである。

 こうした水田稲作の効用は、それまでの中原人の常識では不毛の辺境とされた「蜀漢」や「東呉」の豊穣さに通ずるものがあったのではないか。「三国志」で描かれる中原諸勢力の抗争では、元々さほど豊穣ではなかった土地柄に対して、農民の徴兵による耕作放棄が進んでいて、備蓄まで費消するような食糧不足が講じて、戦闘継続を不可能にするほど、飢餓が蔓延していたのを思い起こす。

水野 祐 評釈 魏志倭人伝 (雄山閣 新装版 平成十六年)
 水野氏の考証によれば、倭人伝風俗記事の区分は、定説では難があって、誤解を招いていると提唱している。
 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏後少康之子封於會稽、斷發文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被發屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無、與儋耳硃崖同。
 要するに、この部分は、後年、帯方郡使が、南方の狗奴国の踏査を行った際の報告書を、従前の倭国記事に挿入したものであり、その際の手違いにより、自郡至女王國萬二千餘里の直後に挿入したため、二千年後生の東夷に理解しがたい事態になっているが、文脈の流れは、明確だというのが、水野氏の意見である。つまり、この部分は、南下して温暖の地に至ったものと見える。

計其道里、當在會稽東治之東とあるように、
「女王国からさらに南下した道里を加算すると」と言う判断が示されているのは見逃せないところです。また、風土、風物が、儋耳硃崖同、と評されるように、瘴癘の風土を示しているのも見逃せないと言える。

 続いて、「倭地温暖」で始まる本来の風俗記事が続くが、火を通していない食采、生菜が書かれている。中原では、西方から流下している川水の生活排水による食材汚染は、非加熱調理は、論外だったのであり、日常、火気のない生菜は、とても、瘴癘のものではない。また、香辛料を用いないのでは、生菜の劣化は、足速であったと見えるのである。それでも、要するに、手早く食べてしまえば問題ないという風土であったことが示されている。つまり、瘴癘に至らない「温暖さ」であったと見えるのである。

 総じて言うと、女王国から南下すると暑熱の土地柄であるとか、西方に会稽東治の故事の史誌を感じるとかも、奈良盆地では、とても感じ取れないものと思量される。

 按ずるに、小林氏が依拠した「倭人伝」解釈は、単に字面を追うだけの皮相的な解釈であり、僅かな掘り下げで、不都合さを露呈するものと思われるが、一切掘り下げないで、難局を駆け抜けているものと見える。

以上

*献上品と下賜品
 これも珍しいことではないのだが、執筆者は、景初の初回遣使の成り行きについて解説する際に、「献上品と下賜品とは、右のように量・質ともに、はなはだしくふつりあいである。それは魏が大国の威勢を誇示しようとしたものか、あるいは、呉に対抗するために東辺の無事を願って、日本の懐柔をねらったものか、その真意は『魏志』の撰者も明らかにしていない。」と慨嘆して、量・質ともに、はなはだしくふつりあいとご高評を戴いているが、古代に於いて、弱小な蛮易と中華大国との価値観は、まったく隔絶したものであり、はるか後世の第三者、つまり、二千年後生の無教養な東夷がとやかく言うべきものではない。「夜郎自大」の故事を別にすれば、大国の威勢は、誇示しなくても、来訪者が目を開いていれば、いやでも見て取れるのである。
 大体が、当時の朝貢に対する下賜物としては、「卑弥呼個人への贈物」なる、初回貢献限定の大量の下賜物を除けば、異例な厚遇ではないと考えるものである。もちろん、当時の貨幣価値でどうかなど、二千年後生の東夷には、わかるはずもないのだが、中国人の感じる価値の数倍、数十倍、...に感じられたのではないか。

 それこそ、中国側にすれば、「奇貨居くべし」。大当たりすれば、何百倍の見返りもある、大変な効果となったのではないか。いや、それにしても、天下最大の富裕極まりない超大国が、遠東萬里の貧乏蛮夷に賄(まいない)して懐柔しようとしたとか、零細な蛮夷に、天子すら一撃を憚る南方の大国東呉に一撃を期待するとか、滅相も無い話ではないか。皇帝には、秀才揃いの有司が控えていたのであり、二千年後生の無教養な東夷に揶揄われるような愚行はありえないはずである。
 先賢の名家が、そんな下らないことを書き立てるのは、小林氏の晩節を貶めるものではなかったかと、危惧するのである。

 宝物ともいえる財貨物が列記されているものの、ことさらに新規制作したものではなく、宮廷の宝物庫の在庫処分であったはずである。別記事に書いたように、当時の魏朝財政は、稀代の浪費癖を発揮した第三代曹叡の暴政で、破綻寸前の火の車だったという。何しろ、新宮殿の造成に、首都の官人を動員するなど、掟破りの暴挙に勤しんだことが書かれているのである。戦時下に於いて、新宮殿の飾り物に使わなければ、武器制作に欠かせないはずの青銅(金)であるから、大量の新作銅鏡に浪費することなどありえなかったはずである。天子が蛮夷に饗応して百枚の銅鏡を新作するなど、到底ありえないのである。
 とにかく、このあたりの機微は、これぐらい言い尽くさないと、二千年後生東夷の現代人にわかるはずはないのである。

 言うまでもないが、皇帝の詔書は複写できても、天子の「真意」は、表明も記録もされないから、いくら史官が望んでも、いや、偉大な後世人が望んでも、わからないものは書き残しようがないのである。率直なところ、余計なお世話である。

 先賢に対して、大した言い様と憤慨される方もあるだろうが、変に遠慮して、当たり前のことを言わなかったために、このような不適切な放言として後世に伝わってしまったのであり、身辺のどなたかが、是正されていたらと思うだけである。

2024年7月 7日 (日)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追 完成版 1/1

        初稿 2021/04/05 新稿 2024/07/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢完結の弁
*古田武彦
:解釈の払拭 
 本考は、古田武彦氏の審議に異議を唱えて「循海岸水行」の更なる追求を試みたものですが、左氏伝 昭 23に用例を求め、「山に循て南す」の注を「山に依りて南行す」と解する点から出発しています。
 しかし、今般、そのような開始点が誤っていると考え、出なおしを図ったものです。要するに、これは、魏志第三十巻巻末の蛮夷伝「倭人伝」の冒頭部分の行文が不明瞭であるとして、古典書籍に典拠を求めているのですが、課題の行文が官制街道の行程を書いているのに対して、漠たる紀行文を引用文例として呼び出しているものであり、まことに、場違いで不適切な選択とみられます。
 古田氏が、そのような不適切な「用例」を摘出しているのは、要するに、多大な努力にも拘わらず、適切な引例が見いだせていなかったことを物語っているのです。

*渡邊義浩:盤石の「確信」
 ここで、盤石の用例探索を行った渡邊義浩氏の確信が続くのです。但し、()は、当ブログ筆者の補充したもの。
 氏の名著「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132に於いて氏は、(大意)(古代史に通暁した)中国史家(渡邊氏がその好例)が「水行」「陸行」と言う表現で想起するのは、特定の記事であり、念のため確認したところ、(晋書)陳寿伝に掲げられた陳寿の読書範囲では、史記夏本紀だけであったと述べています。 
 つまり、陳寿が「魏志倭人伝」の道里記事を書きだしたとき、街道道里として参照できた「水行」用例は皆無であったと証言されているのです。史官たる陳寿が、魏志蛮夷伝の倭条で道里記事を書くとき、参照できる「水行」記事がなかったと言う事は、「水行」記事を創唱するには、何らかの定義を示して「水行」を予告することを求められるのです。特に、「水行」の名目で海上を行くことは、夏本紀の用例と齟齬しているので、ますます、そのような記事は、いきなり書くことができなかったということです。と言うことで、これまで、当ブログで述べてきた水行定義説は、渡邊氏の権威によって、確信を強めたということです。「徳不孤必有隣」(論語‐里仁)とあるように、支持者は、いつか見いだせるのです。

 ちなみに、街道道里は、当然、自明として馬車で移動するから「陸行」と明記しないのであり、後に、狗邪韓国の海岸で海船に乗り、「水行」である三度の渡海を終えて末羅国で上陸したときに「陸行」と書いたものの到着地である伊都国で、いったん決着するのであり、後に追加された三国の「わき道」の掉尾の投馬国記事で「水行」と挿入しているものの、これは投馬国記事限りです。かくして、本来の行程記事に戻った「南至邪馬壹國女王之所」は、当然、千里どころか、百里にも及ばない端(はした)と見える短距離の「陸行」であり、最終的に行程記事の結尾なのです。「邪馬壹國」は、曹魏成立後の女王共立の結果書き足されたと見えます。郡の文書使は、伊都国で待機し「邪馬壹國」には赴いていないように書かれていますが、郡と伊都国の間の書信のやりとりで、日数が起算/記録されるのは、伊都国の文書担当が刻字した時点であり、伊都国君主の署名はともかく、女王の御璽の必要でない交信では、この間の行程も所要日数も、実務に関係しないのです。

 渋い言い分ですが、末羅国で上陸した後の「陸行」は中国制度の「街道」でなく、そこまでの記事で明記された「禽鹿径」であって、本来の「道」ではないのです。
 そこまで精巧に組み立てられた行文を厳密に読み取れないとしても、それは、史学者として訓練されていない後生読者を咎められるものでも無いのです。

*異議提起
 ここで氏が提起された下記用例について、素人考えを述べます。
 《史記》《夏本紀》 陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋
 ここに書かれた四件の「行」の解釈ですが、「陸行」、「水行」、「泥行」、「山行」の四種の街道を公的な交通手段として定義したものではなく、禹后が移動手段として、四種の労役を得たという意味ではないかと愚考します。何にしろ、「陸行」は、後年、街道として整備されたとしても、橇で泥を行く交通手段は、絶えて制度化されなかったと見えます。現に、「倭人伝」の道里記事に、「泥行」も「山行」も登場しません。

--旧稿再掲---
〇はじめに
 「倭人伝」道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、「倭人伝」道里行程記事の「循海岸水行」の「循」の字義解釈の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を「三国志」に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。
 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していない点で同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 「魏志」用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。
 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく屹立峰(孤峰)ですから、「山」に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。
 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。端的に言うと、眼前に対岸があって、軽快な渡船で航行することを言うものです。
 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義 definition)しています。「倭人伝」「指定」であり、巻末までの限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里です。「水行」一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、「倭人伝」を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、「倭人伝」記事で本来必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」(definition)だったのです。これは、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている実務に即した文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

*投馬国水行の検討
 余談
 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、後日の追い書きであり、全行程万二千里、倭地周旋、つまり、伊都国から狗邪韓国にいたる五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。
 丁寧に言うと、全国七万戸の大半を占める五万戸の大国への道程が、あやふやなのは信じがたいのです。また、それほどの大国の戸籍が不備で、全戸数が、五万戸らしいと言うのでは、郡に対して申し開きのできない失態と思われるのですが、「倭人伝」では、その点を、一大率による指導監督を怠っていて、一切追求していないのです。二万国らしい奴国と併せて、まるで、水平線に漂う蜃気楼のようです。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

維持された収束
▢「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却すべき理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

追加見解 2024/07/07
 先賢の言として、「海岸」とは、海の見える崖上の陸地であり、「海岸に沿って進む」街道とは、あくまで、陸上街道に決まっているとのご託宣です。河水について考えればわかるように、河岸とは、陸上の土地であり、川船に乗るには、泥をかき分けて降りていく必要があります。
 その先は、渡船に乗るのか、便船で流れにしたがうのか逆らうのかということになります。この辺り、中原の交通では常識ですが、「倭人伝」道里記事では、全く前例のない「水行」によって海船に乗るというのであれば、大量の事前説明が無いと、読者には、何のことかわからないのです。
 当ブログでは、これは、そのような途方もない記事ではなく、後段で、大河ならぬ、流沙ならぬ、大海の流れを、見なれた渡船で渡るのを予告しているという見解であり、無用の紛糾無しに「倭人伝」の行程を末羅国での上陸に繋ぐ、整然とした、滑らかな手段と見ているのです。

*結語ふたたび
 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

2024年7月 5日 (金)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 1/2 再掲

 アイ&カルチャ天神 講座 【西日本古代通史】資料平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評    2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴いたので、学恩に報いるために、以下、冒頭部分の批判を試みたものです。
 案ずるに、氏の本領は国内古代史分野にあり、以下引用する中国史料文献考証は、第三者著作から採り入れたものと思われますが、素人目にも、検証不十分な原資料を、十分批判せずに採り入れていると見えるので、氏の令名を穢すことがないよう、敢えて、苦言を呈するものです。
 なお、当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎない瑕瑾なので、軽く見ていただいて結構です。
 また、「邪馬臺国」が、実は、「邪馬壹国」を後漢書が誤解したものが引き継がれたものであったとしても、氏の講演、著作の全貌を些かも毀傷するものではないことは、ご理解いただけるものと考えます。あくまで、学術的な論証手法の瑕瑾を指摘しているだけです。

〇「邪馬台国か邪馬壱国か」
引用 第9回『魏志倭人伝』を読む
①倭の国々 1、『魏志倭人伝』

⑴邪馬台国か邪馬壱国か
①「邪馬台国」ではなく「邪馬壱国」が正しいとする説がある(古田武彦氏)

コメント これは古田氏の説でなく、「三国志」現存史料は、全て「邪馬壹国」(壱)との客観的事実を述べている。この「客観的事実」を否定して「邪馬台国」とする強固な論証は皆無である。原点の取り違えと見える。
 ちなみに、字形の混同を言うのに、略字を使うのは、もったいないものである。
 もちろん、一般向けの講演演題の用字は、制限があるのは理解しているが、ことは、歴史的文書の取り違いに関する学術的な論義であり、いずれか、初期の段階で、正字を提起して、以後正字で論議するのが、講演者の務めと見える。

引用 ・現存する最古の南宋(一一二七~一二七九)時代の『三国志』のテキストには「邪馬壱国」と記されている。
※陳寿が3世紀末頃に著した『魏志倭人伝』の原本そのものは失われている。

コメント 古代史書の残存原本は、例外無しに皆無である。取り立てて言う事ではない。
 ちなみに、「魏志倭人伝」は、陳寿「三国志」魏志第三十巻なる史書の巻末に近い一部分に過ぎないので、「原本」などと言い募るのは、失当である。

引用 ②その他の文献
『魏略』の逸文、『梁書』『北史』『翰苑』『太平御覧』などには、「邪馬台国」と記されている。

コメント 「魏略の佚文」は、氏の指摘の通り、原本でも正統な写本でもない。実見できる「翰苑」は、史書でなく、明らかな誤写/誤記山積の「断簡」、破損した資料断片であり、参照できる善本が存在しないから、正確なテキストであるかどうか検証できず、したがって信じることができない。
 これまで、「偽書」論は提起されていないが、いずれかの「書家」が、美術資料として想定復原した可能性も考えられるほどである。中国では、古典書を偽って覆刊することが絶えないが、「翰苑」断簡に対する史料批判は、どこまで行われているのだろうか。素人は、ものを知らないので、素朴な疑問を禁じ得ないのである。
 少なくとも、史料として評価するためには、文書校正によってあり得るテキストを復原した上で、「所引」史料として論ずるべきである。そこに書かれていると見える「魏略」佚文は、別系統史料と較正して、正確な原文を確認することができない。
 どちらの見地から判断しても、「翰苑」断簡であって、史料としては、考慮に値しないごみ(ジャンク)である。ジャンク史料に書かれていると見えるテキストは、棄却されるものである。

 「太平御覧」は、類書と呼ばれる「百科全書」であり、史書としての厳密な編纂がされていない。従って、低質の「史料」と言わざるを得ない。時代考証によれば、南北朝の分裂時代を統一した世界帝国「大唐」が滅亡したあとの「五代十国」の分裂期に、中国の後継を自負した王朝が、大唐分裂後に散乱した重要資料の集成を図ったものであり、数度の集成の果てに、全国統一を再現した宋(北宋)が、「太平御覧」として完成形としたものであるから、いずれの時代にどのような編集が成されたか不明の場合は、確たる信頼を置くことはできない。端的に言うと、「太平御覧」が所引した「資料断片」は、当時のどのような継承されていたか不明の「正史」の断片でなく、いずれかの時代に所引された「資料断片」の所引であると思われるから、所引の正確さは、問うべきものであって、問うすべがないと思える。
 結論として、「御覽所引魏志」は、「魏志」の正確な引用とみるのが困難と見える。

 「梁書」、「北史」は、公式史書と見なされているが、不確かな後世多重孫引きによる編纂と思われ、信ずるに足りない。少なくとも、厳密な史料批判によって、史料としての信頼性を検証した上で、俎上に列するべきである。

 考慮に足る後世史書は、先行する諸家後漢書に依拠した笵曄「後漢書」本紀、列伝部、「本体部」である。但し、「東夷列伝」倭条は、依拠した原史料が不明であり、「本体部」と同列に見ることはできない。
 笵曄「後漢書」「西域伝」は、確たる史料が想定できる安息国、及びそれより以西の辺境に関して、造作を行っていることが明瞭であり、それ以外の「本体部」と同等の信頼を置くことができないものと思われる。

引用 ※これらはいずれも現存する南宋時代の『三国志』よりも成立が古い。

コメント 「三国志」は、「南宋時代」の新規著作ではなく三世紀に編纂された史書であり、どの参考資料よりも「成立が古い」。

 各資料/史料の現存刊本は、いずれも、南宋以降のものである。概して、南宋紹興年間に開始された古典書復刻大事業で、順次全面的な校訂、版刻を行ったのであり、言わば「同期生」である。
 その時点で絶滅していた「翰苑」は、例外で、由来不明の原本は疾うに消失していて、唯一、ただ一個だけの「断簡」が混乱した状態で生存しただけである。
 このあたり、苦し紛れの理屈づけが混乱して、誰かが、何か、素人臭い勘違いをしたようである。そして、言いだした以上、頑強に固執しているように見受けられる。
 そのような他愛ない勘違いを、無批判に継承していては、見識を疑われるだけである。

引用 ③したがって南宋時代の『三国志』が、台を壱と誤植してしまった可能性が高い

コメント 南宋時代の『三国志』 、つまり、「三国志」の南宋刊本は、ページごとに木版を彫っていて、活字植字ではないので、「誤植」つまり、近現代の出版産業における活版職人の活字拾い間違いは、原理的/物理的にあり得ない。もちろん、「三国志」に人格はなく、自分で自分を植字することもない。「頭上注意」である。
 二種刊本のうち、「紹興本」は、南宋草創期の紹興年間に、天下最高の衆知を集めて、北宋末の大動乱で全滅した北宋刊本を『刊本から起こされた数種の」良質の写本』をもとに復元して、言わば、決定版と言える「本」を確定し、南宋の官営印刷工房を駆使して刊行したものである。
 南宋刊本の木版を彫った刻工は、少なからぬ数の実名が残されていることでわかるように、南宋代の天下最高の専門職人であり、誤刻が露見すれば厳罰に処されるから、万全を期して厳重に校正したのである。

 以上に示した南宋刊本の際は、大勢の専門家が作成した決定稿をもとに、刻工が正確無比に木版を彫ったのであり、無謀な誤写は、もし、発生したとすれば、北宋刊本以前と見るしかない。ただし、それ以前の写本は、陳寿遺稿/決定稿を写本して西晋皇帝程に上程して嘉納され帝室書庫に収蔵されて以来、時代時代最高の人材を結集して写本を継承したものであり、それら写本は、繰り返し照合して、誤写の発生を極限まで減らしていたものであるから、凡そ、史書の写本継承に於いて、最善のものであったと見られる。

 巷説は、【三世紀に「三国志」の上程後、誤写が発生した、つまり、百五十年後の范曄「後漢書」で見る「邪馬臺国」が、後に改竄された】というようである。
 笵曄と同時代の裴松之は、皇帝の命で、当時帝室で所蔵していた「三国志」の校訂と付注に取り組んだのである。
 東晋南遷時の混乱で三国志原本に不安があったのかも知れないが、まずは、帝室所蔵以外の上質写本をも呼集して、原本を基準として、校正したと見える。「上質」写本に、無残な改竄があれば、摘発され、是正されたはずであるが、裴松之は、そのような異常事態を一切述べてない。つまり、南朝劉宋代、「三国志」原本は、ほぼ、完全無欠であったと見るべきである。

引用 ※そもそも「臺」と「壹」は字形が似ている。『魯魚の誤り』という言葉があるが、両者は誤植の起きやすい字といえる。

コメント あくまで、時代最高の写本が、素人臭い手口で行われ、校正されていなかったという仮定を持ち込んだ「タラレバ」の憶測でしかない。因みに、誤写の可能性が二千分の一であって、「倭人伝」を通じて一字程度であっても、氏が、官制写本工程の綿密さを想定することなく、漠然と「起きやすい」と憶測すれば、それは、神がかりで「起きやすい」のであろうか。意見は人によって異なるものであるが、氏は、誰に学んで、この意見を「伝言」板に書き残しているのだろうか。繰り返すが、事は、近代の印刷工房の植字工の手違いという「誤植」問題ではない。「現実」に即して判断すべき事項と思われる。

 因みに、正史の写本、刻本は、厳格に実施される国家事業であるから、「誤認されやすい」字は、関係者が、一段と厳重に確認するので、むしろ、誤認は発生しがたい。当然、自明であるが、無視されている事が多い/大半/事実上全て、であるので、念押しするものである。

 但し、「正史」官制写本工程以外の緩やかな写本は、氏が指摘するように誤写は「稀少であっても絶無ではない」から、むしろ、列挙された史料の所引、つまり、抜き書きによる編纂に使用されたものが、「魏志」の正確な写本であったという証拠はない」、つまり、国宝であった「原本」から直接写本/所引する以外、信頼性の低下した通行写本に依存するから、所引された簡牘が編集者の手許に届いた時点で、誤写が発生している可能性は、極めて高いと見るものではないか。

 そのように拙(つたな)い憶測を根拠とした「証拠」に基づいて、現に存在する南宋刊本に現に書かれている文字を否定するのは、相当な検証を経た「証拠」に指示されない限り、非科学的な恣意に過ぎない。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅰ 壹臺 2/2 再掲

 アイ&カルチャ天神 講座【西日本古代通史】資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な論評    2020/09/22 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑴邪馬台国か邪馬壱国か  承前
引用 ④「邪馬壱国」と記しているのは、いずれも十二世紀以降の文献ばかり

コメント 「刊本、つまり、木版出版は宋代でありそれ以前は写本継承である」から、「十二世紀以降の文献」と決め付けるのは、理窟が外れていて、見当違いの誤解である。このような子供じみた主張に追従していると、氏の見識が疑われるのである。

引用 ⑤「臺(台)」は神聖至高の文字ではない
陳寿の『三国志』にも、牢獄とか、死体置き場といった意味で「臺」の字が使われている。魏から見て敵国に当たる呉の国の君主孫権の父親である孫堅のあざなは「文臺」である。神聖な文字を、死体置き場や敵国の人間の表記に使ってもよいが、未開の友好国に使ってはいけないというルールは見当たらない。

コメント 当時の「ルール」(用語の時代錯誤)は、史書などに一切書き残されていないから、氏の見聞範囲に見当たらなくても不思議はない。
 「三国志」と大雑把に指摘しているが、東呉創業者孫堅を記録しているのは、東呉の史官が書き、陳寿が用語に干渉しなかった「呉書」による「呉志」であり「魏志」ではない。「三国志」では、孫権は、呉主、つまり、地方首長であり、また、地方首長が字を名乗るとき、古典書典籍も含めて、その時点での自身の見識で選んだのであり、「孫堅」存命時には未だ存在しない魏朝が後世定めたと思われる「貴字」を回避する理由はない。何かの勘違いであろう。論拠にならない。
 それ以外の指摘は、文献考証の鉄則に従い、個々の当該文字用例の出現場所と文脈(前後関係)で判断すべきである。(時間と労力を要する作業である)そもそも、二千年後生の無教養の東夷(筆頭は古田武彦氏である)が、西晋史官の教養を、ぞろぞろとあげつらうのは、はなから無謀である。

*「臺」の意義
 「春秋左傳」なる(陳寿を含めた)史官必読の権威典拠によれば、「臺」は、天子の下にぶら下がる十階級の身分の最低格である。「倭人」を未開であるが周礼を知っている格別の蕃夷と密かに敬した陳寿が、その女王の居処に、「邪馬臺」と蔑称の中でも最低の蔑称を呈するはずが無い。少なくとも、周代以来の史官伝統を継承していた魏晋代教養を有する陳寿は、そのような愚を犯さなかったとほぼ断言できるのである。もっとも、「未開の友好国」は、二千年後生の無教養な東夷の時代錯誤の錯覚に過ぎず、当時そのような蕃夷はあり得ない。

 魏は天下唯一の正統政権であって、呉は後漢の臣下でありながら後継政権に背いた「叛賊」に過ぎず、もちろん「国」などではなく、魏と対等の「敵」ではない。
 そのような不法な存在を敵国」と称するのは、古代史学に相応しくないし、「友好国」共々、氏の時代錯誤の世界観の弊害と見える。と言っても、中国古代史史料は、氏の本領ではないので、素人めいた言葉遣いに陥っていると見える。(講演を行うなら、聴衆への責任があるので、誰かにダメ出しして貰うべきではないだろうかと愚考する)

 本項で言うと、確かに、「神聖至高」は、誰が言い出した知らないが、素人目にも、不適当な用語で、しかも、言いすぎであり、また、「三国志」全体で通用するとは言えないし、古田氏も、そのような主張はしていないはずである。

 お互いに、枝葉末節を力んで論議するのは、学問の本筋を外れているように見える。

引用 ⑤結論:以上より「邪馬臺国」が正しい。

コメント 各種の主張を列記したが、それぞれ、未検証にとどまり、確たる論証になっていない。飛躍して「以上より」で結論に結びつけるのは、余りに性急で、氏の見識に疑いを投げかけるものであり、勿体ない。

引用 それを現在は簡略文字で「邪馬台国」と表記している。

コメント 「現在」とは、「古代史界」(実態不明)の大勢(実態不明)を言うのだろうが、論証なしで表記していること自体は「自明」である。氏は、それが、妥当かどうか検証したかったと思われるが、以下述べるようにそれは不要と思う。ちなみに「簡略文字」は、意味不明の造語とみられる。簡体字、略字などに属するというのは、考え違いである。
 いうまでもないが、「台」は、本来「臺」と別の由来の文字(正体字)であり、安直に代用してはならないが、太古以来、しばしば代用されているだけである。「邪馬台国」なる表記は「ヤマト」と発音することを否定しきれないために一部論客に偏愛されているが、国号として名乗ったのであれば「邪馬臺國」であり、古来「ヤマト」と発音したという論証は見かけない。論理の綱渡りだが、渡り切った論者はいるのだろうかと、素朴な意見を提示する。

〇まとめ
 と言う事で、当ブログ筆者は、素人なりの見識と知識を駆使して、河村氏の「邪馬臺國」説を追尾し、反論して時間と労力を費やしたのである。

〇論争停戦の勧め
 古代史分野は、「倭人伝」二千文字の中の壱文字の話題で随分盛り上がるが、ここにあげられているような無意味な根拠で力説するのは、氏の古代史に関する見識に疑念を投げかけるものであり、随分勿体ないと思われる。(俗な言い方をすると、「余計なことを言うと信用をなくす」と言う事であり、下手すると、論争相手の失笑を買うことになりかねない)
 氏ほどの学識であれば、この話題は飛ばして【本講演は「邪馬台国」(略字)で進める】と「宣言」するのが好ましいように思う。「ここだけ宣言」すれば、混沌、無面目の国名論議がなくなるので、聴衆も随分気が楽になる。
 ちなみに、ChatGPTに代表される「聞きかじり」引用手法で摘まみ食いされると、「ここだけ宣言」は、取りこぼされるので、誤解の可能性が高くなる。 

                                以上

2024年7月 4日 (木)

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 1/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇はじめに
 今般、若干の事情があって、河村氏の講演資料を(有償にて)提供戴きましたので、学恩に報いるために、以下、部分批判を試みたものです。

 要するに、最近、倭人伝道里議論で、帯方郡から投馬国への道里が水行二十日と書かれているという迷解釈が浮上して、提唱者不明、提唱媒体不明の、いわば典型的な「フェイクニュース」が、某古代史ブログで論評され、趣旨理解に苦しんで、事の発端を確かめようとしたもので、未解明です。

 因みに、講演資料は、河村氏が、道里行程論諸説にメスを入れ、短評を賦したもので、全て論議に価する一説と評価してはいないと見られます。
 氏の論評は概して妥当であり、世に知られることなく埋もれている論考を当ブログで紹介する目的で(適法な)抜粋引用にコメントを付したものです。

 当部分は、氏の講演全二十四回のごく一部に過ぎず、倭人伝に基づく行程道里談義に限定です。引用の抜粋、要約文責は、当ブログ筆者に帰します。

〇第9回『魏志倭人伝』を読む 倭の国々
2、倭人
⑴倭人がはじめて登場する中国の正史『漢書』地理志、⑵この文章が書かれた文脈、⑶『漢書』の注目すべき個所、⑷『山海経』海内北経、⑸その他
3.狗邪韓国と倭との関係
4.狗邪韓国から倭国へ
⑴対馬 ⑵壱岐 ⑶末慮国 ⑷伊都国 ⑸奴国
結論:以上の国々については、ほとんどの学者、研究者が一致している。

コメント  「風評」記事の誹りを避けるためには、「ほとんどの学者、研究者が一致している」と主観的な発言を避け、検証可能な項目を明記すべきです。素人の限られた見聞でも、百花斉放となっているように見受けます。それとも、氏の書卓には、氏自身の論考が積み上げられているだけなのでしょうか。

⑹不弥国
⑺投馬国
①(続いて)南、水行二十日で投馬国に至る。
・水行起点に不弥国と伊都国の両論がある。帯方郡起点説もあるようである。
結論:『魏志倭人伝』だけではその位置を特定することはできない。

コメント この点で、本来、最優先であげられるべき「韓地陸上移動」説に言及していないのは、まことに不用意であり、残念です。
 出所不明で追試できない帯方郡起点説に、この点で言及したのは、余りに不用意に思います。感心しません。
 後記するように、論外の思い付きは、氏の見識で決然と棄却すべきです。

⑻邪馬台国

①(続いて)南、邪馬台国に至る。女王の都するところである。水行十日、陸行一月。

コメント 別の記事で論じているので、重複になりますが、道里記事の根底を定めるものなので、手短に述べます。
 倭人伝は、公式史書「魏志」の一章である「東夷伝」の小伝であり、三世紀に編纂された「魏志」に於いて魏朝皇帝の「首都」は「雒陽」と定義されていて、東夷の蕃王である女王の居処に「都」を冠することはあり得ないのです。つまり、「所都」と句読点付けして、「都する所」と解するのは、間違いという事です。
 従って、「都」は、順当に、「都(都合)水行十日、陸行一月」と、総所要日数を記し、道里記事の結末としたと解するべきです。
 この意見は、ごく一部の論者に知られているだけであり、「総選挙」すると大敗するでしょうが、学術論で言うと、「エレガント」な解の端緒としています。

②不弥国までは何里、何里と距離できたものが、投馬国と邪馬台国では突然日数表示になる。これが一つの謎である。

㈠〈伝聞説〉 諸説㈠~㈩は当ブログの追加。「問題点」は、河村氏の表現、短評。
問題点・・『魏志倭人伝』によれば、魏使は長期滞在し邪馬台国の政変に関与した形跡もあり、邪馬台国に行ってないとするのは否定的に解する。

コメント 「否定的」との意見が、出所不明の誤解に巻き込まれていて、感心しません。そもそも、「否定的」とは、このような文脈で使用すべき現代語ではないのです。

㈡〈千三百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉
・のちに帯方郡から邪馬台国まで一万二千(里)との記述がある。郡から不弥国まで七千、千、千、千、五百、百、百と里数を足すと一万七百(里)であり、残りは千三百(里)となる。これが、投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日、陸行一月を足した日数に相当する距離になる。
問題点・・日数がかかりすぎる。

コメント 本説は、単なる思い付きに過ぎず、そのような提言は、「提案者」に立証義務が課せられているのであって、氏が、代弁すべきではないと考えます。
 こじつけを正当化する論義は、時間の無駄です
 「倭人伝」は、三世紀の史官陳寿が、皇帝初め洛陽の読書人に上程し高評を仰ぐべく心血を注いだものなので、解くに解けない判じ物でなく、少考して解に至る手頃な「問題」であり、明快な解の得られない「難問」ではないはずです。

                                未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 2/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

⑻邪馬台国  承前
㈢〈六百里=水行二十日+水行十日+陸行一月とする説〉

・不弥国までの七百里に対馬と壱岐の一辺四百里と三百里の七百里を加え、残る不弥、投馬、邪馬台の六百里を、水行と陸行2ヵ月かけることになる。
問題点・・さらに日数がかかりすぎる。

コメント 趣旨不明、意味不明です。門前払いすべきです。

㈣〈投馬国水行二十日と邪馬台国水行十日陸行一月は別々とする説〉

問題点・・苦肉の策問

コメント また一つの「趣旨不明、意味不明。門前払い 」です。

㈤〈放射状説〉
・伊都国から先は伊都国を起点にして、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へ別々の道をたどる「放射式読み方」説。
問題点・・恣意的解釈

コメント 当説は、ほぼ榎一雄氏創唱のようです。なお、蛮夷伝の道里行程記事で、蕃王王治などの地域中心を終着点/始発点とみて、地域内の行路の扇の要とする「放射状」記述とするのは、班固「漢書」西域伝で前例のある「正史」書法であり、氏は、そのような定則を見過ごしているようです。そのために、榎一雄師という知識、見識に富む識者の意義深い提言を、十分考証することなく等閑に付しているのは、河村氏ほどの学識の持ち主にしては、不審です。
 ついでながら、およそ、あらゆる論考は、すべて、ご自身の論説を補強する論拠を収集、構築するものであり、いわば、「恣意」の固まりなのです。氏は、「恣意に過ぎる」とおっしゃりたいのでしょうが、「恣意的」となると、肯定的な評価なのか、否定的な評価なのか、意味不明で、読者は困惑するのでは無いでしょうか。もっとも、「恣意過ぎ」というと、現代若者ことばでは絶賛なので、一段と混乱しますが、どうでしょうか。

㈥〈選択的道程説〉
・水行なら二十日で、陸行なら一月、所要日数は二十日あるいは一月との説。
問題点・・文法的に問題あり。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。根拠の不確かな文法論議でなく、厳密な時代考証で評価されるべきです。
 ついでながら、伝統的な史学用語では、「問題」は、出題者が提出して、解答を求めているものであり、読者は、困惑します。

〈一日誤記説〉
・九州説では、陸行一月はかかりすぎだから、一日の間違いだとする。

コメント また一つの趣旨不明、意味不明。門前払いです。とても、学術的な論義とは思えません。「永久追放」ものの失格発言です。

〈方角修正説〉
・畿内説では、日数はあっているが、方角の南は東の間違いだとする。
㈦、㈧ 問題点・・恣意的読み替え

コメント ㈦、㈧ 共に、「単なる勝手な言い逃れであり、棄却すべきである」という点は、同感です。

㈨〈公休説〉
問題点・・公務員的発想

コメント 論外の児戯。「公休日」、「お役所仕事」、「接待漬け」など、論者の妄想、願望、公務員への私怨、偏見が拡大投影されています。公的研究機関の研究者は、基本的に公務員待遇であり、つまり、研究者の大半を蔑視する見解は、意味もなく敵を作っているものと見えます。
 当然ながら、論議は論理的に行うべきであり、現代人の見当違いの感情論を持ち出すべきではありません。いうまでもなく、魏使は、監査役付きです。曹操規準を見くびってはなりません。できの悪い、すべり放しの漫談ネタでしょうか。

㈩〈虚数説〉
・一万二千里というのは、まったくでたらめな虚数である。
・松本清張は『古代史疑』において、一万二千里は、漠然と遠い地域を指す場合にしばしば用いられた数字で実測ではないとする。その例として、『漢書西域伝』の大宛、烏弋、安息、月氏、康居道里が、「揃って長安から万二千里前後とは、明らかにいいかげんである」と断じている。
問題点・・陳寿は歴史を書こうとしている。

コメント 「まったくでたらめな」「虚数」は、数学の重大な原義を見損なった、まことに粗忽な罵倒です。
 この点が河村氏のご意見なのか、いずれかの風聞であるかは不明ですが、取り敢えず、「でたらめ」が神託であるとの論義は、後述します。
 また、松本清張氏の見解は、多忙を極めた文筆家が、寸暇を惜しんで書きためたものであり、歳月を味方にした古代史学者ではないので、兎角、性急な武断に走ることがあり、ここでも、論議の段取りが無理になっているようです。単に、帳尻合わせの「虚構」と云えば良かったのです。

 西域諸国道里は「万二千里」の「規準」に纏わり、例示されている諸国は、現地では、千里と離れてない塩梅の隣国であり、書かれている道里は、西域都護が得た百里単位の里数に即しているのであり、決してデタラメではありません。(筍悦「前漢紀」安息道里は、万二千六百里)
 清張氏の正鵠を得た着眼/発想には、ここでも脱帽しますが、以下の詰めが甘いのは、人気作家として多忙を極めたからでしょうか。補佐役に恵まれず独走したと見られます。陳寿は、計算の合わない「しくじり」は、何としても避けたはずです。

 「問題点」として、物々しくあげられている「陳寿は歴史を書こうとしている」と言うのは、現代用語を真に受けるとすると、誠に至言ですが。何が「問題」なのか、理解に苦しみます。ひょっとして、陳寿に対して、自己流の同時代歴史の著作を創作しようとしたと断罪しているのでしょうか。随分言葉足らずで、特に、「歴史」の意味付けが、軽薄な現代言葉に染まっているのかと疑われます。

 河村氏の意見を推定し、反論すると、陳寿は「規準」を熟知の上で、筋の通る数字を書いたのです。現代人の(欲ボケ)感性で批判してはなりません。魏志編纂を委嘱されていたとは言え、編纂した史書に皇帝以下の読者が納得しないと、解任/解雇で済めばまだしも、果ては、家族ともども「馘首」、刑死なので、全ての記事が真剣勝負です。

*「魏志」西域伝談議 余談
 因みに、「魏志」「西域伝」に関する当ブログ筆者の意見は、陳寿は、班固「漢書」西域伝に心服していて、これに付け加えるべき業績がなかったという理由から、「魏志」西域伝を割愛したと見るのです。何しろ、魏代、蜀漢の北伐で、関中平原以西は、魏の支配下になかったので、魏代「西域」は、はなから虚構だったのです。そして、三世紀当時、その点に関して、特段の非難がなかったところから見て、そのような西域観は、時代の読者の支持、ないしは、黙認を得ていたと見るものです。
 この意見は、陳寿が、後世の笵曄「後漢書」の底本となった、同時代の各家「後漢書」を参照していたとの見解/思い込みを、完全に否定するものではありません。むしろ、後漢代後半の桓帝、霊帝以降の東夷事績が、後漢公文書にほとんど記録されていなかったことを前提に、「魏志」東夷伝を集成したと見るものです。

                               未完

新・私の本棚 河村 哲夫 講座【西日本古代通史】「邪馬台国論争のいま」Ⅱ 道里 3/3 三改

 アイ&カルチャ天神   資料 平成26年8月5日
私の見立て ★★★★☆ 沈着な道里論評  2020/09/24 補記 2022/08/29 2024/04/04, 07/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

「魏志倭人伝」における一里
・漢代の一里はだいたい400㍍。これを帯方郡から邪馬台国までの一万二千里にあてはめると4800㌔㍍。これでは日本列島をはるかに飛び越してしまう。
・「誇張説」・・旅費の過大請求のため。
・「短里説」・・・・中国本土確認できない。
・「地域的短里説」・・『魏志倭人伝』における一里は、おおむね90㍍であり、理由は分からないが、それなりの一貫性を保っている。
結論::『魏志倭人伝』には、正確な部分もそうでない箇所もある。従って、、是々非々で検討するしか道はない。逆に言えば『魏倭人伝』のみで結論は出せない。日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要。

コメント ぞろりと陳列された所説は、それぞれ、確証の無い一説であり、いわば、「思いつき」に属するものですから、提案者に、重大な立証責任が課せられているのですが、未だ、評価するにたる「立証」は、提示されていないものとみられます。
 先ずは、秦漢魏制の「普通里」は、450㍍程度であり、これは、議論の余地のない史実です。道里記事の後に付された国名列記と狗奴国言及の後の「自郡至女王國萬二千餘里」なる行文を「普通里」と仮定すると、伊都国の至近と解釈される「女王国」が論外の遠隔になるということから、この仮定が「不成立」で有ることは、誰の目にも明らかです。いわゆる「帰謬法」で、即決否定されるべきものですが、にも拘わらず、陳寿が「倭人伝」に書き留めたのは、そのように書かれた「史実」、つまり「公文書」が魏から晋に承継されていて、史官として、改訂も排除もできなかったことを示しています。そのような背景を確認した上で、以下、提示頂いた論義を、順次検証/評価すべきであると思量します。
 「誇張説」は(正確な)実測値が存在したとの妄想(推定、憶測、願望)に基づいています。
 正確な行程も道里も確認されていない時点ですから、「誇張」などできるはずがないのです。つまり、当提言は過去の遺物と言うべきです。
 「短里」は、魏晋朝で国家制度として実施された証拠が全く存在しないので、無法な強弁です。(里制は、国政の根幹に関わるので、改訂があれば、全国に告知する必要があり、記録に残らないことはあり得ないのです)
 「地域的短里説」は、さらに、魏晋朝国家制度に関する無謀な思いつきであり、文献証拠は存在しません。単なる逃げ口上に過ぎないのです。(当ブログ筆者も、批判をやり過ごす隠れ家にしていましたから、その点に関しては、逃げられないのです)

 後漢献帝建安年間から、曹魏明帝景初年間に到る期間、東夷に対して権限を有していた遼東郡は、秦始皇帝が、全国制度の一環として創設したものであり、始皇帝が、周制や戦国各国の地方制度を全廃して統一施行した秦律に基づく「法と秩序」の敷かれた堂々たる「郡」であり、原器配布により徹底した「度量衡」制度に始まり、農政の根拠である「歩」(ぶ)を歴て、街道測量の原寸である里制に至るまで換算係数が明示されていて、厳密/厳格に「普通里」制度が施行され維持されていたとみるべきです。(晋書「地理志」などで容易に確認できるように、秦代以来、一歩(ぶ)は、六尺であり、一里は、三百歩であるから、概算値で確認すると、一尺が25㌢㍍であれば、一歩は150㌢㍍、1.5㍍であり、一里は450㍍となります)
 その後、朝鮮国が一時横行しましたが、同国は漢帝国の臣下であり、従って、漢制に基づく「普通里」を敷いていたと見るべきです。ということで、後漢末期に、公孫氏が、勝手に遼東郡太守に就職したとき、楽浪郡が依託された半島南部と海南の東夷は、秦漢制「普通里」を敷いていたと見るべきです。楽浪郡が依託されていた所領の南部の荒地を分郡された帯方郡は、当然、秦漢魏の三代を貫いて各帝国の全土に施行されていた「普通里」を敷いていたと見るのであり、にも拘わらず、帯方郡管内に限り、いわゆる「短里」が通用していたと主張するには、確固たる公的文書が必要/不可欠です。
 一歩は、農地測量の面積単位であり、全国各地で運用されていた土地台帳の記事を変更することは不可能なので、事実上、固定されていたのです。「いわゆる短里」を施行するには、一里を、切りの良い五十歩とする必要があり、これは、計算上、75㍍程度となります。しかし、そのように短縮した里を施行すると、全国各地で、槽運(船舶運賃)、陸運(陸送運賃)の区間規定と運賃規定を、里数を六倍にしながら運賃を維持するよう、多大な計算を伴う変換の必要があり、全国各地で厖大な計算業務が発生します。当然、天子の元に報告が届き、公文書記録が発生しますから、当然、史官たる陳寿は「魏志」に収録すべきです。時に論じられるように、司馬氏の名誉/不名誉を計らって、衆知の記事を割愛するとは思えないのですが、どうでしょうか。
 また、後世、「普通里」回帰の際に晋書に明記されるだけでなく、通典などの記録文書にも、そのような大事件は明記されます。為政者が行った国事は、何らかの形跡を残すのです。
 
 議論を本筋に戻すと、倭人伝」道里行程記事の解釈で確実なのは、『「倭人伝」道里行程記事が、首尾一貫して短里らしき里長で書かれている事を否定できない』だけであり、文献としては「倭人伝」が孤証です。

 なお、「倭人伝」が、同時代の同地域の道里の「唯一の文献記録」ですから、他に信頼できる史料が提示できるはずがありません。現実逃避、先送りは、徒労の繰り返しであり、後世に申し送りするのは「非科学的」で賛同できません。

 既に述べた気がするのですが、過去の「倭人伝」に対する誹謗中傷は、とにかく、「倭人伝」の道里行程記事が、自説、つまり、「奈良方面説」の所在地比定に「大変邪魔」、「百害あって一利なし」の「天敵的存在」なので、陣営として、寄って集(たか)って、根拠薄弱な「異論ごっこ」を繰り広げていて、言うならば、「焦土作戦」、「泥沼作戦」を繰り広げていたものと見えます。
 その「作戦」(campaign)副産物であり、どんな途方も無い比定地であっても、原文を拡大解釈するとか、原文改竄説を言い立てるとかで、混乱を掻き立てていれば、疑わしくとも否定はできないとの風評を形成しているのです。

 現に、河村氏の論考も、各説を陳列し論評するだけで多大な労力を費やされていて、依然として議論の混乱を維持しているような印象に巻き込まれているのは、勿体ないところです。さらには、多数の暴論を棄却するために、売り言葉に買い言葉とばかり、乱暴な言質を取られています。
 以上の難儀を、解消するには、「倭人伝」を時代考証の原典とし、異議を唱えるためには、提言者が重大な立証責任を課せられているという認識が必要見るものです。但し、それは、学界の大勢を占めている「泥沼作戦」に真っ向から対峙するので、余程の覚悟が必要なのです。
 当ブログは、微力ながら事態の整頓に挑んでいるのですが、なかなか、耳を貸してもらえないのです。

 ここで一言提言すると、倭人伝」のことは「倭人伝」に聞くしかないのです。つまり、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」とする「道里」で書くと明確に宣言されている以上、それ以降は、そのように解すべきなのです。また、文章解釈は、中国古代の史官の意図を理解して進めるものであり、河村氏が後記しているような現代人の思い付きを押しつけるのは、後回しにすべきであると思うのです。

 ちなみに、河村氏の提言されている「日本文献や考古学成果など、総合的・多角的なアプローチが必要 」との指摘は、まことに含蓄の有るものですが、「日本文献」は、三世紀に編纂された「倭人伝」から、遙かに後世に創出された文献であり、また、「考古学成果」は、絶対年代を確定するデータを持たないので文献とは言えず、あくまで、漠たる参考に留めるべきと思量します。くれぐれも、本末転倒の陥穽に陥らないことを祈ります。

5、邪馬台国は何カ国の連合か

コメント 当ブログの圏外。別に30国でも31国でも、道里行程論議には、何の問題もありません。
     議論を攪乱させるので、当分保留にして、後回しにしたいものです。

6、邪馬台国の周辺諸国について
⑴『魏志倭人伝』には、「女王国より以北はその戸数と道里を略載できるが、その余の傍国は遠絶していて詳らかにはできない」として、二十一か国の国名だけを挙げている。

コメント この解釈は、原文の文意を離れて事態を混乱させているので、考えなおしていただきたいものです。
 先ずは、原文を掲示しますが、行文論義は少し後になります。
 自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳

・再考懇望 
 氏は、有識者であるので、余計な付け足しは不要ですが、一般読者のために念押ししますが、「考えなおしていただきたい」とは、熟考の上、「意見を変えていただきたい」と懇願しているものです。別に、「もう一度同じ事を考えても、意見は変わらない」という回答を求めているのではなのです。
 それはさておき、具体的に言うと、「倭人伝」原文は、当時最高峰の記録者、史官の労作であるので、短文であっても、大変端的な意味がこめられているのであり、当ブログは、世上読み違いが横行しているのを歎いているものです。以下、私見を連ねますが、別に同意いただけなくても、当方に何の「損」もないのです。

 ちなみに、氏の用語は、「周辺」を当該領域の一部とする正統な語義に従っているものですが、世上、「周辺」は領域の外部とする語義を採用している向きも少なからずあるので、ここは、無用の誤解を避ける意味で、用語を変えるのが賢明と感じます。

*「以北」と「余傍」
 「以北」が、女王国を含むか含まないかとする論義は、取り敢えず外しておきます。
 行文解釈の基本が疎かになっている方が多いので、当然自明のことを物々しく述べますが、「女王国より以北」と「その余の傍国」は、ここまでに登場した諸国を取り上げているのであり、読者が眼にしていない後出する「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。
 これで、大部議論が明確になるのです。「泥沼作戦」推進派の方には、さぞかしご不快と思いますが、暫く、お静かに願います。
 「女王国より以北」とは、直前までの行文で、郡を出て以来ほぼ一路南下してきた経路上の諸国について述べているのです。といっても、ここは、「倭人伝」ですから、狗邪韓国以北は、当然除外されます。して見ると、それらの国名は、まだ机上に開いている倭人伝文書を見ればわかるので、重複列記を避けて簡潔に留めているのですが、逆順に北上して、伊都国、末羅国、一大国、対海国の全て/都合四ヵ国であることは、想定されている読者には「自明」です。
 ちなみに、「列国」と称すれば明確なのですが、「列国」は、皇帝/天子に列(つら)なるという意味であり、蛮夷の国に許されないので、「倭人伝」に於いては避けざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、史官の修行をしていない二千年後生の東夷の無教養なものなので、時に筆が滑ることがあるのは、ご容赦頂きたいものです。

 「その余の傍国」とは、其処までの道里行程記事に名を挙げられているが、行程外、つまり、四ヵ国以外の国(四ヵ国は含まれない)のことです。この一句でも、奴国、不弥国、投馬国が、行程外であることが、念押しされているのです。これほど丁寧に念押しされているのに、解釈が、あらぬ方、「余傍」に迷い込むのは、まことに残念です。くり返しますが、この時点で読者が眼にしていない。行程道里不明、国状不明の後出「二十一ヵ国」に触れているものではないのです。

 「余の傍国」の代表は、投馬国です。「倭人」随一の五万戸の大国としながら、正確な道里行程も戸数も報告していません。それでは、女王、つまり、女王に任じた魏朝に対して「無礼」、「死罪」ですから、「遠絶」「不詳」「余傍」と「逃げ口上」を貼り付けて、譴責を避けたのです。
 思うに、前世、倭人に東夷としての登録時に、調べの付かないままに「全国七万戸」と、早々に登録してしまったため、後年、現地事情が分かってきて、「倭人伝」をまとめる際に、「余の傍国」として、奴国二万戸、投馬国五万戸を辻褄合わせにつけ回しただけであり、両国に関する実質は不詳というか、不明なのです。

*「倭人伝」の冷静な筆致 書き足し2024/07/04
 「倭人伝」冒頭で、「倭人」の「国」は、漢代以来の王族が統治する「小帝国」とも言うべき巨大な領域国家でなく、「國邑」、つまり、殷周代の黄土高原に散在していた「邑」と同様の存在であり、ただし、中原太古「國邑」は、城壁に囲まれた自立/戦闘聚落なのに対して、「倭人」現代「國邑」は、海上の離ればなれの島(複数)に、それぞれ孤立していたので、防衛のための城壁が無いという説明が付いているのです。「中国」即ち中原を制している曹魏-司馬晋の常識では、「國邑」に城郭が無いのは、被服、食餌など共に野蛮そのものですが、「東夷」である「倭人」は、周代の古風を備えていると、庇い立てているものです。
 「國邑」は、別の言い方では「里」(さと)であり、数百戸に始まって、せいぜい、数千戸に過ぎないのです。「倭人伝」の主要国は、そのように「國邑」の一言で見事に定義されているので、当時の読者に、それ以上の説明は不要だったのです。
 「倭人」の諸国は、せいぜい千戸代止まりの「國邑」であり、それなりの農地を伴っているものの、互いに争うことは、実際上不可能だったのは、読者が招致していた殷周代、太古の様相に列なるものであり、陳寿は、史官の博識を生かして、手短に、読者の博識に訴えたものですが、二千年後生の無教養な東夷は、博識ではないので、誤解に誤解を重ねて、夢想に耽っていると見えるのです。
 端的に言うと、牛馬を農耕に動員できない「倭人」の世界では、各戸の耕作する農地は、中原の数分の一であり、従って、戸籍/地券制度を敷いているわけでもないので、戸数をもとに収穫量を計算しては、途方も無い過大評価になるのですが、それが、苛税につながらないように、冷徹な陳寿は、諸処に「二枚舌」を駆使して、明帝の熱狂と読者の誤解を、冷水を浴びせることなく、静かに冷ましているのです。

 この点、全道里万二千里の辻褄合わせと同様、「前世」、つまり、後漢献帝期から曹魏明帝期までの「倭人事情混乱時代」に「誤って登録されてしまった」報告内容が、時の王朝の「公式記録」になって、「禅譲」の際に、前世の記録は、全て受け継ぐという大原則があるので、西晋史官たる陳寿には、承継された「公式記録」は、削除も改竄もできないのです。
 そのため、「倭人伝」の記事において、別の観点からの記事を書くことによって、誤解の拡散を鎮めようとしたものと見えます。当時の読者は、陳寿の苦肉の策を見過ごすことにしたようですが、後世読者は、そうした「大人の事情」に気づかず「誤解」を募らせたようです。

 因みに、「遠絶」とは、もちろん、ここまでに「連」「絶」の形容に登場したような地理的な距離の問題、地続きか離島かの形容だけでなく、女王に対する臣下としての報告がなく、そのため、指示も届いていないという意味であり、服属していても臣下でなく、もちろん、同盟なども存在しないという趣旨と見た方が無難です。離島であるということは、「倭人伝」で定義したての「水行」、つまり、渡し舟で大海の流れを渡るという行程が的確です。
 「水行二十日」とは、途中に渡船があり、行程全体として二十日であると見れば、恐らく、暫時南下して、日田から中央構造線沿いに東に向かう道程が示唆されていて、佐多岬半島に渡る、手軽な渡船が示唆されていると推定できるように思いますが、なにしろ、よくわからないとされているので、確信は出来ません。
 「倭人伝」全体の帳尻として、「邪」、つまり、「東北方向」に駆ける馬体を想定できる「投馬国」に、過剰な戸数を押し付けたとみるのが、余傍の国に相応しい冷静な判断と思われます。

*閑話休題 
 何れにしろ、帯方郡を歴て、中原天子に提出され、後世に残る文書ですから、まるっきりの思い付きではないのです。ちなみに、「でたらめ」とは、サイコロを転がしたり、筮竹で占ったりすることを言うのでしょうか。何れにしろ、神託を仰ぐのであり、現代の不信心ものの意見とは、自ずと異なるのです。

 念のため言うと、ここまでの行文は、景初初頭に帯方郡が、魏明帝の派遣した新太守の元に、つまり、魏帝直轄に回収された時点に書かれたものと見え、「倭人伝」の最終稿時点では、「余傍の国」の実相は知れていたでしょうが、遡って訂正、加筆することはなく、いわば、時系列に従って公文書に綴じ込まれたままになっているのです。

 ということですが、御理解いただけるでしょうか。要するに、陳寿が想定していたのは、中国の教養を踏まえた気ままな読者であり、そのような、いわば短気な読者に理解できるような単純、明快な「出題」だったと見るべきではないでしょうか。

 総合すると、女王の臣下は、対海国から伊都国までの「女王国以北の」少数精鋭であり、これら「列国」については、戸数の明細を得ていて、 女王国での朝議に参列しているかどうかは別として、それぞれ官を配置し「刺史」の巡回監察/行政指導/係争審判の巡回判事や日常の「文書」交信によって密接な連絡を取っていて、組織的、かつ、綿密な経営が存在したという意味でもあります。そうです。女王国以北の「列国」は、当時最先端の文書行政が始動していたのであり、計算能力も育ち始めていたのであり、そうでなければ、市糴を管理するとか、便船の運用日程を周知するなど、実務が回らなかったと見えるのです。(言うまでもなく、単なる私見です)

⑵これらの国々については、名前以外の情報が一切ないので、この記事だけで最終の結論を得ることは不可能に近いが、筑後川右岸の佐賀県地方にかなり近い郡名が見受けられる。

コメント 東夷の「名前だけの国々」は、形式として国名列記しているだけで、それぞれの実態が不明なのは、韓伝で例示されているように、むしろ当然であり、改めて言うまでもないのです。なにしろ、伊都国には郡使が到来しているので、地理、風俗は知られていたのですが、見ていない地域のことは、当然、風聞以外は、分かっていなかったのです。それを殊更「言い訳」したのは、奴国、不弥国、投馬国について、一見重要視しているように見せつつ、詳しく書かないからです。「言い訳」には、存在意義があるのです。

 「不可能に近い」と言い切りつつ、現代に伝承されている現地地名を重用する余人の憶測を認めるのは、あるいは、氏の保身なのでしょうか、感心しませんが、この当たりは当ブログの圏外ですので、深入りしません。

7、狗奴国はどこにあったか

コメント 当ブログの圏外です。
 ついでなので、余計な「思いつき」を述べると、列国行程が、ほぼ一路南下しているので、「狗奴国」は、伊都国の南方、さほど遠からぬ方向/所在に有るものと思量します。当時の交通事情を拝察すると、精々、数日の徒歩旅程と見えます。そうでなければ、不和になりようがないのです。

 以下の講演内容は、氏の見識を物語る豊穣なものであり、総じて秀逸ですが、「倭人伝」道里記事解釈の足元を、地べたを舐めるように精査して、泥沼の侵入を排除するという当ブログの不可能使命/守備範囲を外れるので論評しません。また、慎重に管理されている当文書の著作権に関わるので、引用もいたしません。あしからず。

〇まとめ
 世上言われているように、「倭人伝」の道里解釈は百人百様の誤解、迷走であって、コメントに値しない「ジャンク」、「フェイク」の山です。言いたい放題の風潮が行き渡っているので、更なる「ジャンク」、「フェイク」 が募るものなので、いい加減に入山制限しないと、真面目な論客は、毎日山成す「ジャンク」、「フェイク」 に忙殺されるのです。

 河村氏に求められるのは、こうした無面目の混乱の中から、屑情報/偽情報を早々に論破して棄却し、検討に値する「説」だけを称揚することだと思うのです。

 それにしても、氏の「放射状行程仮説」嫌いは、どういう由来なのでしょうか。まことに残念です。

                                以上

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 1/1

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16  2022/06/20 補充 2024/07/04

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに

 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。
 氏が応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは、第三者の発言内容の批判であり、「倭人伝」解釈で俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況/ごみの山に繋がっているから、ごみを、せめて一つでも減らしたいだけであって、他意はない。

◯発言引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事にコメントし、刮目天氏は寛恕で黙過している。
*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。改竄記事を論じるは、無意味であり、古代史分野に蔓延る「悪習」である。
 「徇葬」は、「魏志」東夷傳「扶余伝」が初出のようである。正史は、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、「倭人伝」は、「扶余伝」で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。

 「殉葬」は、先例が非礼・無法である。とてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が大事な「倭人伝」で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 対して「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。「行人偏」の持つ意味は、そのような活動的なものである。いずれにしろ「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。意見は人さまざまで、百人の奴婢が、生きながら埋葬されたと言う見方も悲惨であるが、所定の儀式を歴てとは言え、いずれかの場所で、百人が命を奪われ、遺骸が、土坑まで運ばれたという暗黙の了解強制も悲惨である。当時から現代に至る読者が、そのように解釈したら、「倭人伝」は、ゴミ箱入りである。

 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、目が点で節穴である。但し、この改竄は発言者独創とは思わない。倭人伝名物の改竄解読手法受け売りで、褒められないが非難はできない。誤解が蔓延しているのである。

 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の記事と軌を一にしつつ、「徇葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、後漢書「東夷列伝」は、後漢代公文書を着実に参照しているので無く、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのである。いや、他にもあるが、圏外なのでここでは論じない)

*「冢」の正解模索
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を探索すべきと愚考する。
 読者は、自身の語彙で解明できなければ、「魏志」第三十巻の巻子/冊子の最前を遡り、わからないときは座右の「魏志」の山を手繰る。四書五経は元より、「漢書」、「史記」など山々の大著を倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで、伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏名著「漢字源」はまだ存在しないと戯言する。

 倭人伝の「冢」は、大家の葬礼紹介で、「遺骸を地中に収めた後、冢として封土する」との趣旨で書いてあり、いかにも、身内による埋葬と思われて、近隣を動員した土木工事とは書いていない。発言者は、根拠不明の「漢文用例」を参照して、徑百歩の範囲に、「お一人様」用の「冢」を百基造成したようにも読める、あいまいな言い方で笑い飛ばしているが、土饅頭といえども百基は、途方も無い工事であるが、そのような遺跡は先例があったのだろうか。無責任な放言は、それ以上取り合わずに、ゴミ箱に棄てることにする。

 本論の女王封土の場合は大がかりであるが、奴婢百人では、到底直径百五十㍍の「円墳」は造成できない。円墳は盛り土で済まず、石積みが不可欠で「冢」にならない。もちろん、倭人伝は「墳」と云っていない。径百歩は、「普通の解釈」と合わないが、ここでは論じない。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例最尊重」の黄金律を提起したい。別に、陳寿を崇拝しているのでも無ければ、趣旨不明のおまじないを唱えているのでも無い。文書起草の不変の原則を述べているだけである。部外者で、専門家の手順を理解できない野次馬は、早々に退場する方がいいのである。
 謙虚に原点に戻ると、粗忽/粗相を避け文章の深意に至るには、文脈の斟酌も、とてつもなく重要である。「倭人伝」論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2024年7月 3日 (水)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」再掲

 邪馬台国探訪 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」2023-02-05
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨混沌、意図不明             2023/02/11 補充 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 勝手な言いがかりと言われないように、(ほぼ)全面引用です。教育的指導のための資料利用は、著作権の対象外です。
 しつこく言いたてるのは、氏の論説が、論拠不明の勝手な弾劾/言いがかりになっていると思われるからです。
 自説を高言するとき、言葉遣いに慎重であるべきなのは、当然ですが、特に、第三者を糾弾するなら、不明瞭な言葉遣いは、とことん避けるべきです。お釣りがタント返ってくるからです。

*引用とコメント
引用 
Makotokodama

コメント 滅多に見られない「非凡」でしょうか。出典不明の県境入り白地図なども、三世紀に存在しないので、とことん無意味です。
 末羅国~投馬国が万余里、図で帯方郡~末羅国と同様に意味不明の表示ですが、由来は不明です。主張した人間を批判すべきです。
 末羅国~邪馬台国 陸行一月、二千里は、根拠の無い思いつきであり、論外です。

 薩摩国、都万国は、当記事の議論には無意味です。未知の南西諸島に投馬国を置く思いつきは「非凡」な神がかり/言いがかりで、問題外です。

引用 古田案(邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く)の場合、
古田氏の言う魏使団に韓国内や対馬と壱岐内を陸行させる説は前回指摘した如く、一切成り立ちませんが、この発想を使った説には他に魏使団に韓国内を陸行させず、上の図のように、水行主体に邪馬台国への道程を辿る説もあります。

コメント 「案」か「説」かは別儀として、ここで読み取れていたのに、後ほど失念するのは、奇怪です。
 第一書『「邪馬台国」はなかった』で「邪馬台国」を否定した古田氏に「邪馬台国」と言わせるのは、前回同様、随分難儀です。
 古田氏は、魏の官吏でないし、二千年過去の「魏使団」に「陸行させる」ことはできず、他の論者も同様です。いや、論者の中には、地図上の行程は、実際の行程を示したものでなく、概念に過ぎないと称している例もあります。氏は、誰のどの図示を理解の上で引き写しているのでしょうか。
 ちなみに、古代史史書で「魏使団」の使用例は見つからなかったので、意味不明の現代東夷の「造語」として扱うことになるのですが、氏の独創であれば、無断使用をお詫びします。なお、方位、縮尺の不明もあって、何の役にも立たないものと思量します。
 「道程を辿る」とは、重ねて意味不明です。氏の独創であれば、無断使用をお詫びします。「上の図」は、単なる概念図であり、現代地図の連携は存在しないので、「辿る」などと言うのは、なにかの誤解でしょう。
 又、倭人伝道里記事を「魏使団」の実道程と見る「仮説」は、古田氏ならずとも、大半の論者に共通して同意していて、ほぼ定説と化しているようですが、倭人伝を丁寧に考証すれば分かるように、単なる早計の勘違いで無効な臆測です。「倭人伝」の記事は、それこそ、郡から伊都国までの「道程」を「文字」だけで示したものであり、概念図どころか「イメージ」も関係ないのです。
 と言うものの、古田氏が主張していない「発想」を、お手盛りで古田氏に塗りつけるのは無茶ですよ。 

引用 しかし、この説の場合には、投馬国へ至る南水行二十日の起点を何処に置くかが問題となります。

コメント 誰がどこで唱えたか分からない、勝手な思い込みと見える「説」の論義は無駄です。投馬国に至る行程の始点は、榎一雄説は伊都国、古田説は不弥国と立説しています。この場の思いつきとは、格が違うのです。
 又、以下で自認しているように、 古田氏の言う「水行十日、陸行一月」は、投馬国に関係ないので何の「問題」も成立しないので、「解答」は存在しないのです。つまり、貴論は、勿体振っていても、実質の無い空文であり、全体として空振りです。大丈夫ですか。

引用 
仮にその起点を邪馬台国と同じ帯方郡に置いたなら、帯方郡―末魯国が水行十日だから、末魯国―投馬国は残り水行十日となるが、帯方郡―末魯国と末魯国―投馬国は同じ萬余里だから、投馬国は沖縄辺りに置かざるを得なくなり、薩摩国(鹿児島)や都万国(西都)のような、九州本土内に置くことはまず不可能です。

コメント 何か、しきりに呪文を唱えていますが、それにしても、「邪馬台国と同じ帯方郡」とは、これまた「非凡」です。「起点」は、南北どちらに置く想定なのでしょうか。「末魯国―投馬国は同じ萬余里」ですが、 「同じ」筈はないので、自説として主張するには論拠が必要です。

 倭人伝全道里 都合「水行十日、陸行一月」の「水行十日」は、狗邪韓国~末羅国三度渡海で満腹で、これ以上消化できません。少し説明すれば小学生でも分かると推定される理屈です。(実際に「ピカピカの」小学一年生に問い掛けたら「わからん」と返事があるでしょうが、ここは、そういう言い方ではないのです)全道里の勘定に入っていない投馬国を、ここに投げ出しても解決しません。

引用 いずれにしても、邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説は、古田氏が単に自説に都合良く距離を合わせる為に思いついただけと思われ、何の根拠もない説なのだから、どう頑張っても成り立ちようがありません。


コメント 根拠が読み取れないのは、視力の問題なので不問とします。理解することができないのなら、自白して受刑すべきです。
 「古田案」と矮小化しながら「説」とは「猛省」したのでしょうか。
 古田氏の動機はご推察通り(と思われ)でも、動機の否定は論争上無意味です。
 「何の根拠もない説」に荷担して、「頑張って」いるのは、偉業というか功徳というか。

引用 
つまり、深く考えもせず、単に自説に都合が良いからとして、安易にこの考えを自説に取り入れている論者の方々は、猛省する必要があると思うのであります。

コメント 自分の論説に都合の良い知恵を採り入れるのは、誰でもすることです。考えが深いか浅いかは、他人の知ったことではないのです。ご自分の頭のハエを追うべきでしょう。
 とはいえ、無数とも見える各説の論者の「自説」を一括で断罪できるとは、神のごとき明察です。いつ、万巻の書を読破したのでしょうか。
 全体に情感豊かな書き飛ばしで文章が泳いでいますが、論義は論理的に進めたいものです。「猛省」は、当人の勝手ですが、仮に「する」と感じたら、し過ぎることはないのです。
 当稿が、手厳しく皮肉になっているのは、凝り固まった思考をほぐせるように熱いお灸を据えているのです。不謝(鍼灸治療に謝礼は不要)。

                              以上

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 1/3 三掲

『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*コメント
 通常、商用出版物でないサイト記事批判は、よほどでない限り公開しないのですが、今回も例外としました。

 サイト記事のトップで、「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
 「邪馬台国熊本説」自体は、史料である「倭人伝」の一解釈ですから、それ自体は、個人の思いつきであって、他人がとやかく言えるものではないのですが、その中核として採用している正史改竄、差し替え論については、途方もなく大きな誤解を持ち出しているので強く批判せざるを得ないのです。

*批判の主旨
 タイトルを「可能性を考える」としていますが、ここに主張されているのは、ご自身の主張を裏付ける「特定の記事改竄」が行われたが、原資料を含めてその証拠は消されているとの決めつけであり、その「特定の記事改竄」が、「邪馬台国熊本説」を成り立たせるのに欠けている「証拠」の重責を背負っているのだから、大変な暴論なのです。

 氏が高々と掲げている「邪馬台国熊本説」が、山成す所説の群れから抜きんでて、世上の考慮に値するとしたら、そのような強引なこじつけは要らないはずです。所在地のこじつけは、世上溢れている「誤記」「誤写」「曲筆」論を起用すれば、世間並に支持されて良いはずです。

 ということで、ここで取り上げる「魏志改竄説」(改竄は、後世でないとできないのです)とは、聞くからに暴論で、国志権威とされる古代史家の「古代史家全員嘘つき」説に匹敵する暴論と聞こえて辟易しそうです。

*権威者の神事(かみわざ)考 
 ちなみに、「暴論」と断言してしまうのは、水掛け論になるので、穏当な言い方を取ると、「古代史家全員二枚舌」説であり、要するに、史官を天職としている者達は、史実を忠実に書き取る「舌」と与えられた「使命」(mission)に従って「てごころ」を加える「舌」とを使いこなしているという趣旨なのでしょうが、真意を潜ませているので、これもまた、「二枚舌」の神事(かみわざ)ということでしょうか。

 それはそれとして、どんな史料も、歴史上、絶対内容が変化していないという絶対的な保証はないから全体が信用できないと言われると、信用できる史料は一つもないとなります。要するに、二千年後生の無教養な東夷としては、「史官」と「史官」の筆の至芸を知悉している権威者の「二枚舌」を承知して読まねばならないということのように見えます。

 権威者ならぬ素人の立場としては、「本件における学問的態度は、(「前提」を覆すに足る)確証がない限り正史史料は、適確に管理、継承されているとする前提を堅持して議論を進める」というものです。「推定有効」、つまり、決定的に無効とされない限り有効と見るものです。無効を主張する者は、確固たる証拠を提示しなければなりません。立証義務というものです。
 どんな史料も、「改竄の可能性を絶対的に否定できない」という主義の確固たる証拠を提示するのは、不可能でしょう。まず、自身の手元証拠が、改竄されてないという証拠を確立しなければならないのですから、自己攻撃が不可欠の前提になっています。

 また、自己の主張を保って、既存の主張を理解していないままに全て排斥する「排他的」な論証は、全論客を敵に回す攻撃であり、余程の覚悟が必要であり、視点の定まらない安易な類推は控えたいものです。

*論考の確認
 同サイトの論法は、次のようなものと思われます。

    1. 敦煌残簡は、呉国志「特定部」の写本である。
    2. 残簡の特定部相当部は、特定部と行文が一部異なる。
    3. 残簡特定部は、写本時の国志写本を正確に写し取っている。
    4. 現存刊本は、敦煌残簡以降に改竄されたものである。

 しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱、と言うか、「皆無」と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。

*個別確認1
 1.は、基本的な論証が欠けています。
 著者は、残簡特定部が、「呉国志」(韋昭「呉書」との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、「呉国志」の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。基本的な論証が欠けているというのは、論拠とならないという事です。論拠「不正」です。
 そのような「不正」論拠に基づいて提示される論義は、はなから無効であり、以下の論義は不要とも言えます。


                                      未完

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 2/3 三掲




『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*個別確認1 まとめ
 残簡記事が、誰も知らない、誰も知り得ない「史実」を正確に記録しているかどうかは、本論に無関係であり、倭人伝が問い掛けている「問題」でもありません。論点がそっぽを向いています。

 また、敦煌残簡が、「呉国志」以外の史料、例えば、韋昭編纂の「呉書」稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が見当たらないのも、その傍証です。

 正体不明、由来不明の史稿残簡が、「呉国志」と異なる構文としても、何かを証明するものではないのです。

*個別確認2
 2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。

*個別確認3

 3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の「呉国志」時代原本が確認できない以上、検証不能です。
 つまり3の論証は、論者の私的な推定に過ぎません。
 残簡作成者が参照した写本の正確な書写を指示されていたかどうかも不明です。孫氏政権の功臣事歴を、個人的な目的で綴り上げたかもわかりません要は何もわからないのです。

*巻紙談義~余談
 残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していません字数(行格)を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
 それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。

 後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
 国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
 なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。

*改竄重罪
 当代最高写本工まで巻き込む「正史改竄」は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。「正史改竄」は皇帝に対する大逆罪であり、最高の重罪で、関係者一同とともにその一族の連座処刑もあり得るので、同志を得られず、実現不能と思量します。
 それにしても、それほど大がかりな改竄を、あえて、どこの誰が 企画し、命がけで 実施したのでしょうか。露見すれば、共犯者も同罪であり、事情を知らない協力者も、又、同罪です。家族まで巻きこんで、一族絶滅となりかねないのです。共犯として連座するのを免れるには「密告」するしかないので、到底秘密を守れないのです。

 くり返しになりますが、そのようにしてまで「倭人伝」記事を改竄するのは、なぜなのでしょうか。

                       未完

新・私の本棚 番外 サイト記事 M・ITO 邪馬台国と日本書紀の界隈 3/3 三掲

『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉 2018-02-27
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆 2024/07/03

*加筆再掲の弁
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*個別確認4
 4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
 丁寧に言うと、かりに、推定されている事態が起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。当然自明のことなので、大抵は書き立てませんが、読者が鈍感かも知れないので、念入りに書きます。
 この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は「全く存在しない」と断定されます。

*誤解列記
 写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるだけであり、氏の好む「改竄」によって文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。

 また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品は、本文の半分の文字を使用して、一行二分割する割注であり、素人目にも、本文との区分が可能ですが、元来、裴注は、改行して新たに書き出されていて、見わけが付いていたものです。
 丁寧に説明すると、陳寿原本が継承された劉宋代を越えて、長く続いた簡牘巻物時代は、各行各条に正確に書写するのがせいぜいであったのです。一本の簡牘に二行書き込むのは、メダカを三枚おろしするような曲芸に近いものであり、裴注にしばしば見られるような長文の注記を誤写無しに書き上げるような神業は存在しなかったのです。これは、北宋咸平本にも見られていて、現存の南宋刊本に於いて、初めて一行を二分する割注が導入されたのです。何しろ、刻本では、時代最高の職人が版木に刻みこめば、以後、正確に印刷されていくので、大幅に紙数を減らせる割注が当然になっていますが、別に当然ではないのです。

 何れにしろ、裴注追記は、陳寿が決定稿とした原文/本文と区別されていて、原文を書き替えることはありません。
 世上、『裴注が正史「三国志」の一部であると誤解した途轍もなく不出来な論義』が底辺にあるので、氏も、ついついつられて追従したかも知れませんが、追従するのは先行者の審査を経た上で、「奈落落ち」の道連れを避けるものです。善良な読者を、自身の誤謬の道連れにするのは、何としても、回避してほしいものです。

*用語混乱
 「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。

*類推の主張
 視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは、とてつもない考え違いです。
 漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。
 ところが主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。

 1-4のような不確かな/棄却されるべき推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者に対する評価が、大きく低下するものです。

*助言
 と言うことで、このように無法な論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。

 所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。

 おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。

                        完

                        

2024年7月 1日 (月)

新・私の本棚 番外「魏志倭人伝」への旅 ブログ版 1

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する Author:hyenanopapa 2024-06-28
私の見立て 当記事限定 ★★☆☆☆ 即断の書き捨て         2024/07/01

◯はじめに 古田史学論集批判のしっぽ
 当記事は、長年健筆を振るうブログ主(hyenanopapa 以下、筆者)の健在を示すが、筆勢まかせの即断に苦言を呈する。読み囓り論難批判の姿勢を示すため引用を掲載することを、くれぐれもご了解いただきたい。

 『古代に真実を求めて26集』を読む 谷本茂(前半部は、圏外として割愛)
7世紀、九州王朝説の立場から裴世清が訪れた先を九州王朝とする人々は、どういうわけか〝裴清の道行き文〟に触れようとしない。その最後に【既至彼都】と書いてある以上、この文の解釈は避けて通れないはずなのに、である。
 [中略]【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】この文をどう読めば竹斯国が俀国の都と解釈できるのか?「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収p162)で、『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている」と。[中略]
 【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】は「何の見まちがうこともな」く順次式に読むのだ!と古田氏は仰ってます。竹斯国は単なる通過国―
 よって、九州王朝の都は竹斯国にはありません!

◯コメント 乱文御免
 筆者は、古田氏の失言に執着していて「九州王朝」偏愛とも見える。ちなみに、古田氏が氏の著作外の呉越同舟松本清張編『邪馬臺国の常識』 で主張したのは史料解釈の基本原則である。『「倭人伝」道里記事解釈で文法論が言われるが、肝心なのは記事文意であり、(例えば)大部の類書「太平御覧」の編者は、自身の見識で文章を整理している』との指摘(大意)であり、これを正史蛮夷伝として編纂された「俀国伝」に押し付けるのは、古代史官ならぬ古田氏の文意を理解できていないと見える。(『邪馬臺国の常識』は、古田氏の到底賛同できないタイトルであるが、 松本清張氏の知遇により、あえて、火中の栗を拾ったものと見える)
 筆者は、古田氏の「主張」を、都合のいいところだけ読みかじりして、手頃な「読み」を造作し、自作自演で俎上両断していると見られかねない。別に古田氏に限ったことでは無いが、古代史書の解釈は、「読み」「書き」の個人の脳内への情報の入出力段階で、手違いが出るものであり、まして、脳内での理屈づけにも、勘違いはつきものであり、あまり、「思い込み」振り回されないようにしたいものである。
 何れにしろ、「俀国伝」に関する古田氏の論考批判は、古田氏が自説著作を重ねたものを批判するものであり、筆者の愛読書に偏ることなく、要するに、適切な出典・文脈を、自身の責任で選ぶべきものと思う。ここは、筆者にして、ずいぶん粗雑である。

*「竹斯国比定」の否定
 筆者は、竹斯国は単なる通過国筆者の価値判断を強引に押し付けるが、「魏志倭人伝」での伊都国「到」着との明記を通過国と読み替えるのと同様であり、とは言うものの、はなから否定はしないで、根拠不明としておく。
 筆者は、『その都が「竹斯国」にない』と断定したが、暗に初出の「秦王国」に比定したかとも見える。ともあれ、筆者は根拠を示さず結論を投げ出していて粗雑にみえるが、言わぬが花であろうか。確か、著者は「九州王朝」を否定しているはずなのだが、ここで、どんでん返ししているとも見える。

*地図の思想 Google Map利用規程遵守
 当地図の追記が不明瞭である。利用規約を遵守し、ご自愛いただきたい。

*不適切な引用作法
 地図掲示に関わらず、本論論義は断片佚文で句読点は無い。古田氏の発言ともども文脈を読みちぎって食い散らかしているので、筆者ほどの見識の方にして、誤解を避けられず、何とも不用意と見える。
 「俀国伝」で、「魏志倭人伝」公式行程の未詳部分、(山東半島東莱以降。狗邪韓国、対海国不通過)一支国以西と竹斯国以降が補充されたのであり、既出部分は「倭人伝」依拠で、重複を避けていると見える。文林郎裴世清は、職掌柄、史書書法に厳密であるが、後生読者は隋書「俀国伝」だけ読んで迷走しているように見える。いや、遡って「倭人伝」道里記事の読解にも、かなり難があると見えるが、当書評の圏外である。

◯私見披瀝
 言葉を足すと、竹斯国が「倭人伝」到達地伊都国であるのは、裴世清とその読者に自明であることから、「倭人伝」で不詳の秦王国などが、「余傍」のついでで書かれたと見える。筆者は、特段の根拠が無いままに、竹斯国を通過して東進と即断したと見える。筆者は、さらに(又)「道行き文」不記載の長途海行を図示された。要するに、いずれも「俀国伝」には書かれていないと見て取れるはずである。
 結論を急かずに、ユルユルと文意を追えば一刀両断できないのに気づいて頂けるはずである。筆者ほど博識の方が、事ごとに断定を急ぐのは、不用意と見える。
                               以上

2024年6月28日 (金)

今日の躓き石 NHKに出回る「リベンジ」病 懲りない粗相

                   2024/06/28

 今回の滞在は、「ほっと関西」(18時-19時)のちょっとした粗相なのだが、ここ数日、天下の公共放送のスポーツネタ/サッカーネタリベンジ」が出回っているので、ちゃんと見ている視聴者もいることを示したものである。それにしても、世間知らずの野球界で(公共放送と全国紙で)ようやく「リベンジ」禁句が定着しつつあるのに、時代遅れのおじさん制作とも見えないサッカー/フットボール界番組で、年代もののつまらない失言が無くならないのには、恐れ入っているのである。コンナ伝統は、滅びるべきである。

 一度、関係者でよく話し合ってほしいのだが、「リベンジ」は、中東のテロリストでもあまり言わない、罰当たりで「ど」汚いことばであり、公共放送は、次世代を担う子供達が真似しないように、せめて社内ルールとして、使用禁止を徹底して欲しいものである。この世界で子供達がどうでもいいと言われると、老い先短い老人は、二の句が継げないのであるが、言い置くことにしたので在る。

 むつかしいことを言うと、リベンジは「旧約聖書」で強く戒められている禁句であり、つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で、共通して戒められているのである。『日本人は、無信心だから平気で「リベンジ」というのだ、その証拠に「仇討ち」として、血なまぐさい復讐譚が出回っているのだ』と、世界的に蔑視されているのである。これら大宗教に見放されると、仏教徒、ヒンズー教徒は、ひ弱いのである。
 だから、子供達が海外メディアにつまらない失言をしないように、せめて、公共放送は「リベンジ」撲滅に努力して欲しいものである。「受信料を返せ」などと言わないが、ほとんど喉元まで出ているのである。

 社会人野球で「Revenge」何ちゃらというチームがあるとか、コミック、アニメ界に「Revenger」があるとか(たぶん)解消しようのない、どうしようもない不詳事が、出回っているのであるが、せめて、これ以上蔓延しないように、密かに望んでいるのである。いや、ブログで高言していて、「密かに」もないもんだが、それはあくまで、年寄りの「しゃれ」である。

以上

 

2024年6月13日 (木)

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 1/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13,06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うのです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

▢緒論として
2024/06/15
 いや、当方は、ただの素人に過ぎないので、別に大した意見はないのだが、それにしても、当方が提起した争点は、まことに、揚げ足取りに近い些細な点であるが、又又それにしても、鳥越氏の本論の「枕」に過ぎない部分で、鳥越氏が、不出来な総括をしている/誰かに総括させられていると見えると、かなり遠回しに示唆しているのに、通り掛かりの野次馬から憤然たる抗議を頂いたのは、予想外であった。以下の本体部分では、真面目に応対しているが、当事者でない第三者が、当方の些末な批判に対して激高しているのは、奇観と言うべきである。鳥越氏は、明らかに文献史学に於いては、専門外で、素人に近い状態であったから、いずれかの「事情通」に寄りかかったのであろうが、そのために、不出来な解説を受け売りしたと見え、当ブログとしては、「黒子」が舞台に出て来るように水を向けたのである。ということは、以下しゃしゃり出てくる論者は、鳥越氏の陰の声、ゴーストライターなのであろうか。そうでないにしても、鳥越氏には、このような雑ぱくな支持者しかいないのであろうか。氏のために、まことに勿体ないと思うのである。

◯始めに

 本件は、ブログ記事でもなく、衆知を集めるWikiの体裁であるが、実際は、一律seit2023署名であり、古代史ブログとして、論者公開したものとして批判させていただくことにした。
 因みに、本件は、誠に人を食った(パクリ)ブログタイトルであり、古手のブログ主は不満であるが、それはこの際は言わないことにする。また、ブログランキングに、ルールに明記されていて不適当である、なんちゃって「ウィキ」を登録する厚顔無恥も、ここでは言わない。事態が是正された「新古」ブログのタイトルは、誠に人を食ったものであり、まして、Wikiを居食いして、ブログにする手口も、随分すっとぼけたものであるが、ここでは論じない。

*批判と反論
 以下は、掲載記事の引用に当方の批判コメント追加であり、古典的喧嘩論法は極力受け流したが、反発は理解いただけるものと思う。
 因みに、氏は、細かく引用先を明示して公開されているが、特に意義がないと思われるので、批評の目的で引用した。

「鳥越 憲三郎」批判について
『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている

 論者は、鳥越氏当人でなく、「闇代理人」であるので、趣旨理解の前提となる教養の有無が不明なので以下、順に説明する。
 「題して」と言われるが、小見出しか。タイトルではない。「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」との引用で、本書に「前提」論拠が読み取れなければ意味不明は明らかである。無理難題は、ご勘弁いただきたい。例えば、「用語不明瞭」というのは、学術論文である以上、「多い」「少ない」などと主観的・感覚的なことを言いたてずに、せめて、「パーセント値」などで数値化すべきだというのである。至って当然の意見と思うのだが、論者にとって「当然でない」というのであれば、典型的な無教養発言であるので、ここでご退席頂きたいものである。

 鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。

 との発言は、場の流れを見損ねているのであり、これは、反論を引き出すための「揶揄」であるから原文にないのは、当然である。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したと明確に示唆しているように、鳥越氏は、史書の価値は「分量」と相関関係があると明確に示唆しているから、映画のトラさんにしゃれめかして「つらい」と揶揄したのである。当然、「学術的」批判ではない。
 裴注の「貢献」は、見当違いの感想と思うので、同調する鳥越氏に揶揄したのである。なにしろ、裴注は、裵松之が苦吟して一字一字書いたものでなく、文献から貼り込んだのであるから、裵松之は、ほんの一汗の手間もかけていないのである。たとえば、魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏略同時代善本から、「西戎伝」を、云うならば一冊丸ごと貼り込んだから、陳寿「魏志」に西域伝がないのに不満の読者は、じっくり読んでいただきたいとしたものである。大事なのは、字数でなく、文書の真意ではないだろうか。
 何しろ、「西戎伝」数千字というものの、大半、と言うか、全体は、当時未刊の後漢書「西域伝」と言うべきものであり、魏志「西域伝」として利用できたと思われるのは、精々数行程度に過ぎないのであるから、これでは、陳寿にして見れば、「魏志」に収録できないという感想に至るはずである。いや、「本気で読めばわかる」という事であり、曹魏の官人であった魚豢をもってしても、この程度の「西戎伝」しか書けなかったのであるから、陳寿が、薄っぺらな魏志「西域伝」を収録するに忍びなかったのは、自然に理解できるはずである。
 とはいえ、論者のように、二千年後生の東夷であって関連資料を読んでいない野次馬には、自然な理解は無理なのだろうか。いや、魚豢は、曹魏が、後漢から天下を継承したから、後漢の功績は曹魏の功績であるという趣旨で、魏略「西戎伝」を編纂したはずだが、已に、陳寿は、その意見に与していなかったのは明確であるから、深追い無用である。
 と言うことで、論者は、当方の書いた記事の真意を察する読解力がないのに、ここまで、感情的に反発していては、無根拠の誹謗、中傷と解されるから、ご注意いただくよう申し上げているだけである。

「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。

 当方は、「裴松之補注が本文に数倍」の量的な(フィジカル)言い分が間違いと言うのでなく、質的な(メンタル)言い分の指摘だけである。字数を数えず、内容で勝負しろといっているのである。論者は、鳥越氏の目方論が正しいというのだから、それは、それで聞き置くしかないのである。

『三国志』は名著になったとする評価もある

 とは、何とも困った「風評」頼りである。世間は広いから、どんな極端な意見にも、当人は数えないとしても、かならず、少なくとも一名、同調者がいるというのが、古来の名言である。と言うことで、いくら声を荒げても、拙論批判の根拠とならない。主観的な批評の一例では困る。言外におっしゃっているように、「陳寿『三国志』は、裴注以前にすでに名著だったとの同時代評価が歴然としている」のである。論者は、この下りで、当方に何を伝えようとしているのだろうか。

学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、

 文の趣旨/真意の斟酌は、文脈の理解が前提であるから、部分引用は誤解の元である。特に、文意の読みがもつれるときは、本項の工夫が必要である。論者が、そうした配慮を理解できないと主張するのなら、当方としては、そうですかというしかない。説論であるが、原文の読みかじりで、原文の真意を提示したとするのは、往々にして「最低」の論拠提示と見える。お互い、子供(賈孺)ではないのだから、ちゃんと合理的な発言に努めるべきではないか。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 2/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思う。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*批判と反論
承前
(引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。

「世の中を惑わす」とは、「倭人伝」では、一女子卑弥呼が人心掌握したと賛辞と見え、盛大にお褒めにあずかったと感謝する。「批判」は、誹謗、弾劾で無い「批判」との指摘に異議は無い。「有害無益」は、論者の趣味嗜好であるから一身にとどめずお返しする。論者が、「倭人伝」論義を家業としていて、つまり、一家の生計を立てていて、当方のブログが、家業に不利益を齎しているとしたら、まことに申し訳ない。なにしろ、事の事実が分からないなかで、「全く事実に反する」のは不可能である。
 ちなみに、鳥越氏の論説の大部分は、いずれかの知恵袋からの差し入れに依存していて、文献史学者ならぬ氏自身の語彙と整合していないと見えるので、丸写しして批判するばかりでは、氏の真意を外れるかと思い、わざと「誤引用」したものでもある。
 要するに、以下に説き起こしているように、鳥越氏の内部では、冒頭で宣言した『「三国志」は、西晋史官陳寿の編纂した史書であるという認識』『正史「三国志」は、劉宋裵松之が付注した後世版であるとする認識』が混在していて、論者すら、しどろもどろなのを感じて、「鳥越氏は後者を正史として論じている」と(誤)認識したものである。
 因みに、論者から絶大な賛辞を頂くのは光栄である。以下同文である。

「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。

 まず、「同時代に「魏志」を読んだ人間がいる」のは自明なので確認を要しない。「誰も確認できない」も、非学術的で同意しがたい。現代人が、二千年近い過去を見聞できないのも自明で、当世風自虐趣味かと危ぶむものである。
 裴松之は、当時最善とされた三国志原本に「大量の」注記を行ったのであり、当然、補注前の状態は承知していた。それが、科学的な議論と思う。別に同意されなくても結構で、せめて同時代人の意図を読み取って頂きたい。
 因みに、先だって、「『三国志』は名著になったとする評価もある」とあるのは、明らかに、「裴注版」に関する風評であるが、趣旨不明である。

万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 3/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

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承前
 当方が「南宋刊本」としか書かなかったのは論点に関係無いからである。「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であると、論者が意味不明に指摘しているが、要らぬ紛争は、避けたかったのである。
 論者が、南宋刊本すら的確に識別できていないのは、痛々しいのである。まして「原本」の意味もあやふやなのであり、かつ、鳥越氏の認識も理解できていないので、ここで鳥越氏の代弁にしゃしゃり出るのは、僭越なのである。

 子供(賈孺)に言い聞かせるようでつらいのだが、まず、中国では、政権交代どころではない内乱がしばしば起こっていて、国宝と言うべき正史原本すら、種々の損害を被ったのは衆知である(論者が知っているかどうかは「衆知」の適否に関係しない)。但し、三国志は、正史の中でも格段に損害を受けることが少なく、少なくとも、劉宋裵松之による校訂、唐初の国家事業としての校訂、北宋期の刊刻時の大規模校訂、南宋初期の二度に亘る刊刻時の校訂と、原本継承の損害からの復元が行われていて、最も原本に近いテキストが維持されていると見るべきである。

 ところが、論者は、何も知らないままに、裵松之補追の際にそれ以前の原本が喪われたと戯言を述べていて、信用を無くしているのである。裵松之は、その時点の三国志原本に手を加えることなく、注を追記、つまり、原文はそのままで書き加えているのであり、その時点の補注前の原本テキストは確実に保存されているのである。この点は、現行刊本で「容易に」確認できるのであるから、他人に声高に主張する前に、調べ尽くすものであり、「知らない」、「記憶にない」では済まないのである。
 要するに、論者の属する学閥は、「魏志倭人伝」原本に、「邪馬臺国」と書かれていた4文字が、継承中の手違いで「邪馬壹国」と変容したとの一点に、組織の生存をかけているので、陳寿原本を読んだものは誰もいない等と、子供(賈孺)じみた発言に始まり、論者のように、宮内庁書陵局が影印本を公開している南宋「紹熙本」を、同時期に南宋で刊行された「紹興本」と全文字同一ではないと称して事態を混濁させている(のだろうか)のに巻き込まれているのである。この辺り、論者は、専門家でない素人判断で強弁するために、しどろもどろで痛々しい。

 本論では、宮内庁書陵部が継承管理しているのは、普通「紹熙本」と呼ばれているが、「南宋刊本」で十分であり、また、これは「百衲本」そのものでないとの定評がある。「紹興年間(1131年-1162年)」は、何の意味か不明で、論者の意識混乱と見える。紹興本は、紹凞本より刊行時期が早いが、テキストの信頼性に疑義があるという事で、さほど年月を経ないうちに、刊刻事業を再度行って、よりよい紹凞本を成し遂げたというものであり、要するに、論者は聞く相手を間違えたようである。
 因みに、ここは、紹凞本が現在最有力な刊本と確認するだけでなく、二千字ほどの「倭人伝」原本テキストを確定しないと議論が始められない(はず)なので、宮内庁書陵局の公開史料を提示したのである。紹興本については、印影が伝わるだけで原本が確認されていない(と思われる)ので、避けられていると言うべきである。
 つまらぬ言いがかりには、関わり合わないのが最善であるが、つい長々と「教育的指導」を施してしまった。慚愧である。

原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。

 論者は、独特の「字書」をお持ちのようで、「散佚」と称して、「三国志」全体が「散った」「失われた」と言いふらすのは、大いに「差し支え」がある。論者の家庭の事情は察するが、つまらない点で誤謬にこだわるのは、後世に誤った意見を伝えるので、程々にされた方がいいようである。大丈夫であろうか。何にしろ、正確に知らないことを間違ったままで高言するのは、罪作りである。
 わざわざ、このようにブログネタにして指摘するのは、論者の仲間から意図不明の誤伝/妄言が出回っているからである。中国史書の資料評価であるから、個人創作の字書は控えて、漢字字書を参照して「散佚」を解するものと思われる。何しろ、「三国志散佚」論は、途轍もない言いがかりと見える。

 史書「散佚」の好例として、関連資料で言うと、魚豢「魏略」は、善本が全く残存していないもので、史書や類書への断片的引用「佚文」が残存しているだけである。これに対比して、健全に継承されている正史が「散佚」したとは、読者に混乱を呼ぶのでは無いか。とくに、魏略佚文の「倭人伝」相当部分は、所引の際の不正確な引用に「定評」のある「翰苑」所収であって、誠に断片的である。「倭人伝」も、ゴミの山なのだろうか。

 鳥越氏は、「翰苑」所引の「魏略」佚文の史料批判無しに、陳寿「魏志」倭人伝は、魚豢「魏略」を写したものと称しているが、受け売りとしても鳥越氏ほどの高名な論者にしては、不用意/不都合である。そのような不合理まで指摘すると厖大になるので、武士の情けで、初稿では割愛したのである。所詮、本項は、ブログなる身辺雑記の書評稿公開であり、これを「学術的」論考並に審査されても、恐縮/困惑するだけである。まして、論考審査するのが不出来な者ではどうしようもない。
根拠をもって、そう言っていただければ良いのである。べつに「完璧」(玉の至宝に瑕疵一つない)というものではない。
 世上噂されている諸兄姉の判断の根拠は風の如く不明であるから、当方の意見を述べただけだけである。別に排他的に論じているわけでは無い。論者の生業を妨げる意図はない。

万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。

 「単なる」「言いがかり」とおっしゃる意味が分からないが、拙論は「孤」つまり「隣」の無い一論であるから、「単なる」かも知れないし、事の取っつきを求めた「口切り」であるから「言いがかり」かも知れないが、それでどうしたというのか、一向に通じない。
 大事なのは、鳥越氏の唱えたと見える史料観が一方的であり、売り言葉にこたえると、高名な論者にしては、ずいぶんいい加減な言いがかりなので、反論による是正が必要だという意見であるから、内容についてご意見を頂きたいのである。

「鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。」

 僅かな間に、鳥越氏の筆が踊り『三国志』の定義が転々としていて、前後で意味が変わっているのである。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 4/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*解釈変調
 ここで、論者は、鳥越氏の解説を不規則に修飾しているが、原文を普通に、そのまま解釈すると、『裴松之が補注して成った「三国志」』と断定しているのであり、鳥越氏が『三国志』と論じているのは、裴注の付されたもので有ることは明解ではないか。このあたり、鳥越氏の文意が読み取れないのであれば、もう少し謙虚に論じるものと思う。
 論者が『』で規定したという事は、学術的に『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』が区別されるとの主張のようであるが、ここは、鳥越氏の著書の考察であるから、本書から用例を提示頂きたいものである。文脈中で語義が動揺しているのを無視して、特定の部分だけ囓り取るのは、形式的には『ルール』にそっているのだろうが、じつは、『曲解』につながるものであり、フェアではないと思う。

「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。

 当方は、鳥越氏が主張される『「新しい」、陳寿が知らなかった史料が発見された』なる(根拠の無い)断定に義を投げかけただけであり、根拠の無い断定に根拠をあげて反論することなど、誰にも出来ないのである。分量として原典に数倍する」と明言していることから、文字数による評価は不合理と、重ねて指摘しているだけである。
 ちなみに、陳寿が、史官として尊重した史料は、後漢/曹魏の政府機関が残した「公文書」であり、巷説、風評の類いは、仮に一瞥したとしても、採用せず、割愛したと見るべきであるから、そのように「断定」したと見るものである。何事にも例外はあるだろうが、だからと言って、陳寿が無原則の編纂を多年行ったというのは、無茶というものである。
 以上の見解は、鳥越氏が、氏の著作に示された民俗学見識に基づく考古学の視点見識を傾けて反論されたのであれば、再考するものであるが、通り掛かりの野次馬の生齧りの意見には、耳を貸す義務は無いとも言える。本稿は、それでも、あえて耳を貸しているものである。そのために、論者と同一の地平に引きずり下ろされて、不満であると言い置くことにする。

 ちなみに、裴注の中でも、魏志第三十巻の末尾に追加されている魚豢「魏略」魏略「西戎伝」は、相当する「魏志」「西域伝」が存在しないから、0字に対して4000字余りが付注されていて、分量比は計算不能である。

 陳寿の一世紀半後生である劉宋史官裴松之が参照した史料は、ほぼ全件批判されているから、陳寿が知らなかった「新しい」史料は、皆無ではなく当然あり得るとしても、全体として、陳寿が、熟読吟味の上不要と考えて「没」にした史料が少なからずある大半であるという主張自体は、十分に合理的であると考える。それら史料は、陳寿が棄却したと見ても独断ではないだろう。陳寿が棄却した史料をゴミ箱から拾い出して付け足したと見える裴注は、ゴミがゴミであると明示した上での補注であり、別に、「三国志」に対して何かを付け加えたものとは言えないのではないか。いや、論者自身が熟読してそのように理解したというなら、一件一件明示して批判頂きたいものである。

 それにしても、論者は、どのような資格で当方が意見を書く行為を「根拠が無い断定」と断定するのであろうか。意見を書く行為自体は、憲法で保障された言論の自由と思うものである。大丈夫でしょうか。

笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の創成~余談
 たぶん、論者は、意識的に包み隠しているのだろうが、西晋は、陳寿の没後ほどなく、内乱で荒廃し、北方民族に首都雒陽を攻略されて、滅亡したのである。西晋皇帝は、捕虜となって流刑地で客死、王族も討伐されて、辛うじて、一名の王族が、江南の建康に逃れたのである。これが、「禅譲」であれば、皇帝は退位しても首都は維持され、政府機関も維持されるから、膨大な政府文書も継承されるから、そこから、新たな史書が登場する可能性があるかもしれないが、異民族に略奪された亡国から、公文書全体が移動されるはずはなく、最低限の公文書が非常持ち出しで南遷したにとどまったのである。
 つまり、建康で成立した東晋には、三国志「魏志」に新たな史料を齎される可能性はなかったのである。いや、それは、魏志として確立された正史に付いて言うのであって、蜀漢、東呉の地は、西晋崩壊の被害を免れたから、地方史料が齎された可能性はあるが、もともと、陳寿の編纂時に、充分史料渉猟を行い、選別していたから、特に事態に変わりはなかったと見えるのである。
 余談であるが、雒陽公文書庫の崩壊は、後漢書編纂に大きな打撃であったが、既に、有力な後漢書が編纂されていたので、これら先行後漢書の記事を斟酌すれば、笵曄も、雒陽公文書無しに一流の後漢書を編纂できたのである。但し、後漢の末期、遼東公孫氏が東夷を管理していた時代は、公孫氏から、雒陽に報告が届いていなかったので、当時、後漢献帝の建安年間、新たに設置された帯方郡の報告は、一切雒陽に届いていなかったのである。このため、笵曄「後漢書」東夷列伝の倭条は、本来欠落していたのである。笵曄は、史官としての訓練を経ていない文筆家であったので、平然と創作記事で埋めたのである。以下に述べる陳寿の「史官魂」と対比頂きたいものである。

*中国史官たる陳寿の使命感~余談
 そもそも、基本に立ち返ると、陳寿は、帝国内の文書担当の手で書き上げられ、承認を得て奏上され、然る可く皇帝の承認を得た「公文書」こそが「史実」で、これを正確に後世に残すのが使命と考えていた「史官」である。「述べて作らず」である。
 「魏志」東夷伝、特に「倭人伝」に関して、「史実」に不備がない限り、当時、雒陽に継承されていた「公文書」を(忠実に)引用したと見るべきである。これは、基本の基本であるので、異論があれば、根拠を提示頂きたいものである。世上、勝手な決めつけがまかり通っているが、史官は、風評の類いを拾い食いすることは(絶対に)ないのである。これは、高名な渡邉義浩氏が明言されているのであり、確固たる反証がなければ、そのまま拝聴すべきである。

*陳寿「偏向」観のもたらす天下大乱~余談
 また、渡邉氏が、下記麗書の第五章「邪馬台国の真実」の劈頭でぞろりと漏らしている「偏向」であるが、氏の真意を離れて、一部で大受けして、一人歩きしているように見える。
 西晋代の「正義」は司馬晋にあるから、魏志「倭人伝」のどこがどう「正義」を踏み外し「偏向」しているのか、悉にご教授いただかないと、が「偏向」のない史実なのか、素人にはわからないのである。
 渡邉氏は、「倭人伝」が「三国志」がもつ「偏向」を「共有」していると意味不明なご託宣であるが、普通に解すると、「倭人伝」が「三国志」全体と対等の権限を有しているのであり、とんだ「倭人伝」独立宣言であり、たかが、司馬懿の簒奪を正当化するために、『「三国志」が、そして、「倭人伝」が書かれた』という御意見には従いかねるのである。
 なにしろ、「三国志」中の「呉志」は、曹魏の統治を受け入れずに自立していた東呉の史官が編纂した「正史」であり、同様に自立していた蜀漢の「正史」である「三国志」中の「蜀志」は、三国鼎立の史実を後世に伝えるために、陳寿が、死力を尽くして工作し、蜀漢遺民に編纂させた史書であるから、「三国志」全体に通じる「正義」は、ありえないのである。して見ると、「倭人伝」は、そのような「大乱」に巻き込まれず、干渉を受けず、孤高の存在「小正史」であるとも見える。字数は、まことに少ないが、それ故に意義は深いというのが、渡邉氏の示唆と思える。
 渡邉氏は、下記新書に於いて、政策的に言い回しを整えて、「三国志」の「虚構」(外見:そとみ)を整えているように見えるのである。これは、「偏向」とは言えないが「お化粧」に見えるのである。言うまでもないが、公の場に登場するのに、「お化粧」するのが当然であり、素顔をさらすのは、不名誉であり、失礼なのである。
 渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書2164)は、新書版として最高峰の史学解説書であるが、堅実な史学書としての高貴さと、世上の「倭人伝」論の混沌に棹さす強引さが混在している。
 ここに挙げたような高度の名言がウロコのままで供されるので、世上、いいとこ取りの読みかじりがWikipediaなどに紹介されて「邪馬台国論」の泥沼を沸かせているのである。素人としては、ちゃんと捌いて盛り付けてほしいと思うものである。

*「翰苑」審査~最善史料紹介
 「翰苑」残簡倭伝部の魚豢「魏略」所引は、偶々(正確と検証されていない)引用文が編者の手元にあったと考えられる。「翰苑」編纂者は「史実」の正確な継承を任務としなかったので、正確性の程は疑問である。その証拠に、「翰苑」は粗雑、つまり、行格が乱れ、乱丁がのさばり、加えて、度外れて低級な誤記、誤写の校正漏れが、ぞろぞろと濃厚に散乱し、何よりもそれが「校正/訂正されていない」事が「翰苑」残簡史料批判のほぼ全てである。そのように破綻した写本である「翰苑」所収「魏略」佚文は、一切「信じてはいけない」と言うべきである。「翰苑」残簡は、校訂された最善史料で史料批判すべきである。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本 *出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊 (中國哲學書電子化計劃

 これも、余談であるが、一部にある「魏略」私撰論は、とんだ言いがかりである。当時、部外者が公文書庫に立ち入って渉猟するのは死罪であったから、魏略」編纂は、曹魏史官たる魚豢に許容されていたと見るべきである。

 ここで、自明事項を端的に言うと、何事も例外はあり、「例外があることが強固な論証であるという意見もある」ことを指摘しておく。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 5/6 補追

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*「延喜式」談義
「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。

 論者は、声高々と指導されるが、当方は素人の「一少年」なので「許す」とか言えるわけがない。「合理的でない」、「論拠にならない」(のではないか)と言うだけである。論者は、鳥越氏共々、軽々に「当時」を論じ「歩くか、海路を取るしか手段」と、時代錯誤の「移動手段」を説くが、三世紀になかった「交通手段」と「延喜式」の依拠するできたての「交通手段」には、相当な違いがあると見るのが「当然」ではないか。「交通手段を定めれば」と言いのがれしているが、ないものをどう定めるのか。「そこから始めるべきだ」というのは、論者を、子供扱いしていることになるのだろうか。当方は、「少年」並の物知らずと自称しているのに、なぜ、どんな自信があって、居丈高にもたれかかるのだろうか。

 論者は「大きな違いはないと考えることは可能」と巣穴に逃げるが、三世紀に筑紫と纏向を繋ぐ公的「交通手段」は存在しなかったと「考える」のが合理的と思われるから、まずは、「存在した」ことを証するのに続いて、日数道里を、具体的に証した上で、そのような仮定を適用するべきかと思われる。早い話が、歩いて長距離を移動して目的地に生きてたどり着けるのは、途中に食料と水を提供し、寝床を提供する「宿駅」が、設置されているからである。つまり、食料と水が用意されている必要がある。七百年を経た十世紀には、街道があって旅人が往来していたろうが、七百年前の三世紀に、そのような制度があったかどうか、途轍もなく不確かなのである。
 恐らく、「倭人伝」で行程が書かれている伊都国から狗邪韓国に以北一路逆行する「周旋(往途)五千里」の四ヵ国は、道里が短く、所要日数も、せいぜい数日程度であったろうから、宿舎は置けたろうが、「倭人伝」に明記されていると称されていない(言わば)「仮想」纏向までの「仮想」行程を、実体のある宿舎で埋め尽くすことは「想定」できなかったと見える。そうで無いなら、何年頃に、宿舎が整ったと書かれているべきである。論者は、高度な「曲解」をお家芸としているようだが、素人には無縁である。

 繰り返して明言するが、当方は、一介の素人論者であるから、「許す」だのどうの処断する立場にない。ただ、「そのような大雑把な論義は、不適当/不合理でないか」と素人考えを述べているだけである。また、素人であるから、「学術的」に適法か不法かと詰問しているのではない。素人が、どうすればうまくできるか、「ずぶの素人にもわかるように教えていただきたい」と言うことだけである。これで、お耳に入っただろうか。

 いや、当方は、「倭人伝」道里行程主幹部は九州島内北部という前提であり、徒歩でも往来できたろうというのである。渡し舟も在ったのである。だから、「倭人伝」に道里行程の記事が続いているのである。難儀な強弁は必要ないので、無理なことは無理なこと。例えば、筑紫から纏向らしい地区までの東西交通は、六世紀あたりまで、明らかに街道未開通だったから、別にどうでも良いが、誠意を持って批判したのである。
 誤解があるといけないので補足すると、「倭人伝」には、『狗邪韓国から南下した渡船行程が末盧国で上陸し、当然の陸路で伊都国、そして近場の「邪馬壹国」に着く』と書いているだけで、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国を経由するとは書いていない』のである。
 むしろ、陳寿は、誤解を避けるために、連絡の取れていない、脇道の余計な国と明記しているのである。いや、明記されていると認めると、九州で話が付いてしまうので、わやわやと誤解を書き立てているが、普通に考えれば「七百年後にならないと交通手段が整わない纏向に、三世紀に何の説明も無しに行く」というのが、途方も無い無理なのである。
 それはそれとして、今挙げたような「普通」の解釈を排除するために、とにかく、論者は、三世紀の東西交通手段を、まずは立証する義務があると自覚頂きたいのである。ホラ話を大声で怒鳴られても、同意はしないのである。因みに、隣近所の村と往き来して、物の売り買いをしていたのまで「なかった」というのではない。日帰り程度であれば、大層な宿場は要らないのである。そのような小規模な商いでも、順次くり返せば、いい「もの」は地の果てまでとどくのである。
 そう、わざわざ云うのも鬱陶しいのだが、「延喜式」に当然のこととしてご提案の規定が載せられたのは、各地に街道と宿場ができて、規定するだけで用が足りたからである。それ以前に、くわしい手引きが出回っていたと思うのだが、それは、三世紀、ないしは直後のことではなく、要するに、数百年をかけて徐々に整備されたのであろう。異国の諺であるが、「ローマは一日にして成らず」。

*「延喜式」の超時代効力談義
 論者の論法は、諸処に疑問が生じる。
 本件で、鳥越氏は97ページで、「三国志」に見る水行・陸行の記事は、役所の公的な旅費規程に基づくものであったとわかる。と、途方も無い断言を行っている。「三國志」で、並行陸行街道が存在しない水行旅程が登場するのは「倭人伝」の渡海船だけである。それとも、鳥越氏は、何か別の「三国志」を見たのであろうか。
 丁寧に言うと、上記引用を文字通り普通に解すると、鳥越氏は、三世紀の編纂者陳寿が、遙か後世の日本の「延喜式」の「役所」旅費規程に依拠して、折しも編纂していた「三国志」原本を較正したと主張していることになる。誤解/曲解の余地は、全くない。
 因みに、「延喜式」は、(恐らく唐代に、遣唐使、留学生によって)中国から盗用した古代国家制度「律令」の細則として、十世紀に策定、公布されたのであり、Wikipediaによれば、「『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。」とあり、国家要件時代は兎も角、武家政権時代に正しく書写継承されたと見えず、遡って、三世紀に伝来した証拠も全く無い。論者は、原本が存在しない史料は、一切信用しない方針かと愚考するが、賢人は豹変、つまり、その場その場で意見が変わるのだろうか。

*不明瞭表現の指摘
 当方は、鳥越氏にそのような手ひどい非難を浴びせる趣旨ではなく、全体的な読書感想として、鳥越氏が「倭人伝」の道里行程記事は、「延喜式」の旅費規程に依拠解釈すべきだと主張されたのに対した批判である。引用が不正確としても、鳥越氏の唱えている「倭人伝」考察の要点に疑問があると言っている。なにしろ、「多い」「大きい」「重い」の表現を極力避けたのである。当方の趣旨を理解頂ければ良いので、別にご意見を変えて欲しいというものでも無い。
 当方の内心を「曲解」と断定されている点だが、どうして、論者は、当方の内心を読み取れるのだろうか」古典的な反論を想定すると、「どうして、当ブログ筆者は、論者が当ブログ筆者の内心を読み取れないとわかるのだろうか」となる。これは、いくらでも反論を応酬し続けられるのだが、ここでは割愛する。因みに、「曲解」は、本来「知的な曲芸解釈」の妙技である。「カーテンコール」にこたえて再言した。拍手。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 6/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*内乱考 (**改行追加)
 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。
 (1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。
 (2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。したがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。
 『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

*とんだ内輪もめの火の粉
 ここで、論者は突如、当方の鳥越氏論調批判を離れて、二件に渡って不思議な「私見」を掲げ、鳥越氏を批判する。当方は、高名な鳥越氏の著書批判が目的で、無名論者の私見批判の動機はないが、身に振る火の粉と理解いただきたい。
 ちなみに、「推定」つまり、個人的見解を重ねて置いて、「事実誤認」と断定するのは、意味不明と云っておく。以下、「断定はできない」(有力な推定であるという意味か)とか、「正確ではない」とか、言い散らしていて、論理を辿ろうとすると眩暈がしてくる。
 後者について云うと、当方が「勝手に決めつける一部の意見」と論者に逃げ道を残していると意見を表明しているのに対して、その「意見」が「正確」かどうか、誰に判定できるのか、不可思議である。どうも、論者は、明確な根拠をもたずに、私見を振り回して場当たりに非難しているようである。いや、別に非難しているのではない。誰でも、視点の動揺はあるが、それがバレないように努力しているはずなのである。

*国内考古学談義の乱入
 当方は、「倭人伝」論義専攻で、「倭人伝」の卑弥呼「冢」(ちょう:封土、土饅頭)論は、「倭人伝」自体の用例にしたがっている。これに対して、論者は、『世上出回っている「前方後円墳」比定は、「倭人伝」の文献解釈上不可能である』との主張である。つまり、論者は、遺跡考古学の視点から、つまり、門外漢の文献解釈で、卑弥呼「冢」を箸墓に誘導しようと参考文献連発である。
 一方、当プログの見解は「倭人伝」列国は九州島内としているので、卑彌呼冢が纏向付近と言う議論は、「端から無関係」であり、何を言われても圏外である。無縁の衆生である。(中国製銅鏡論は、見当違いで論外だが、武士の情けで不問)
 よそごとながら、論者は、頑強な卑弥呼冢「前方後円墳」論者のようであるが、我田引水で論証/論拠が絶無である点を、自覚/理解いただきたいものである。何しろ、論者は、史書としての「倭人伝」を理解できていないのである。

 ちなみに、論者は、文脈から囓り取った『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』なる一般論を「正確でない」と断じているが、一般論が正確か不正確か、誰に言えるのだろうか。当ブログの真意は、通説に紛れ込もうとしている「誤謬」への非難であり,当人は謹んで自認するが、ここには、そのような意見は、文字として書かれていないのである。これに対して「正確でない」と断定するのは、根拠の無い偏見を吐露しているに過ぎない、のではないか。

*余談~神頼み
 素人目には、連年の強弁の積み重ねで公費による発掘/科学鑑定が進んだが、「倭人伝」の解明が未達成で、積年の泥沼は、地に足のついていない架空論義である。
 それとも、纏向の全域発掘を辞さない」卑弥呼金印探しで、全て京大文学部以来連論と続く「纏向遺跡考古学」の力で、文献解釈の泥沼を突き抜けて一発で解決すると神頼みしているのだろうか。
 所属する陣営がそれぞれあれば、それぞれ意見が食い違うのは仕方ないが、万事の基礎部分で無理をしているのは、素人目には、痛々しいのである。ほっとけば良いのに、余計なことを言うのは、当事者の転帰に期待している。

*私見の奔流
 端的に言うと、「西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。」とは、一部論者の極めつきの「私見」であって、「証明」にほど遠い状態と見受ける。そのような「私見」によって、合理的な意義を否定するのは、独りよがりと言わざるを得ない。私見者が何人いても私見に過ぎない。いくら「大勢」でも、である。
 以下略する。

 引用出典 seit2023 古代史の散歩道

                               以上

2024年6月11日 (火)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」三掲補追

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11, 06/30 2024/04/16, 05/08, 06/11-12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、「倭人伝」考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた「倭人伝」改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
 当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、陳寿「三国志」紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。

 いずれの刊本に依拠するにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
 このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、前書などで、独創の新説として、「道里」を「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に採用しては史官として不用意であり、処断されるものと見える。重大な認識不足である。氏は、本書によって、「道里」は魏晋代新語』との手前味噌を排して原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているしかし、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは魏使派遣は不可能だったと見るものである。
 何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察すると、正始魏使からすると後年の「倭人伝」編纂の際には、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能であり、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には馬車も騎馬連絡もないから、文書使は徒歩連絡のみであり、道里だけでは実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が既に記録されていたのが、後年になって、西晋史官である陳寿の編纂によって「倭人伝」記事となったと見ることができる。案ずるに、さらに後年劉宋の裴松之が「魏志倭人伝」の道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、道里行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」(到達する)のが「要件」であったと思われる。

 意見は人によって異なると思い込んでいる人が結構多いから、「絶対必須要件」と言い募る人がいそうであるが、「要件」だけで重い断定表現であるからこれに四文字を付け足して強調するのは、一種自罰行為なのである。つまり、のような時代錯誤の多重強調表現を好む人は、丁寧な文章解釈が弱いということを自認/高言していることになるのである。いや、これは「余談」であるから無視していただいて結構である。

 而して、陳寿は、「要件」の後年補足の体で、「最終目的地を発して四囲に至る記事」を貼り込んだと見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後生の無教養な東夷の好む紆余曲折に富む記事を書く動機は、全く無かったのである。

 その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている『「正始魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」行程を順次踏破して、その記録が「倭人伝」に道里行程記事として記録されている』という「もっともらしい」というか「胡散臭い」というか、どうにも据わりの悪い解釈であるが「道里行程記事は、魏使行程記録でない」と善解すれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里行程記事談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国(女王の居処)であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を順次通過した」との頑固な「思い込みが、順当/妥当な大局解釈を牢固として阻止している」と見える。いや、「業界の大勢がそのように決め込んでいる」から、論者が「大勢」に染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。いや、所属組織の君命で「通説」を断固死守しているとしたら、もはや、治癒の目処は無いとも言える。
 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。
 ちなみに、当ブログは、「多い」「少ない」の不明瞭/あいまい/感覚的な評言は、避けているのであり、ここで言う「大勢」は、俗耳に好まれているという趣旨でしかない。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝」道里行程記事を適確に解釈できない混乱状態にあるという自嘲状態を自己流に解消するために、混乱の責任を原典改竄に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身で、共犯関係を清算するように「猛省」頂きたいものである。

◯道里行程記事の新解紹介
~私見 2023/06/30,2024/06/12
 一連の書評で、批判だけで当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。
 「倭人伝」道里行程記事は、末羅国での上陸以降の倭地の陸行行程の様子がはっきり分かっていない時点で書かれた」と見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る「周旋五千里」について、洲島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いているが、末羅国以降は、公式道里として異例の「陸行」と明記している以上、陸続きと見るのが至当であるが、不確かにとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、大変不確かなのである。
 郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、郡から末羅国までは、行程を加算して一万里としか書かれていないから、だれが暗算しても「二千里」が残るのである。
 千里単位で云うと、十二[千里]から十[千里]を減じると、二[千里]が残るが、千里単位の概数計算であるから、100里に始まり5,000里に至りそうな許容範囲のどこに落ち着くかは、皆目わからないのである。何しろ、三度の渡海は、全て、一[千里]で仕切っているが、街道道里は示されていないから、道里は一切不明であり、したがって、概数計算すら成立しないのである。
 その点を回避したものとして、安本美典氏は、現在の地図上に、明記されていいる道里を加算して十[千里]である末羅国の図上推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七[千里]」から推定した半径二[千里]の円を、ある程度の不確かさの幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。要するに、氏の図上推計は、確たる根拠があると見える「郡狗七[千里]」を道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。
 但し、私見では、氏の提言は現代的な推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、一抹の蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものとして、公孫氏が記録に留めたものであり、そのような概念的な万二[千里]を按分した帳尻の二[千里]が、記事に「明記」された桁外れの五[百里]とどう関係するのか、正直のところ、わからないのである。道里行程記事の[千里]単位の記事は、なべて「余里」と、あえて付記していることで念押しされているように、端数である[百里]のけたの数字は、桁外れて意味がないのである。 
 してみると、道里行程記事の末羅国以降は、魏の道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く最大五千里程度まで届きそうな可能性が否定できないと見るものである。何れにしろ、概数計算の端たであるから、この五百里には、道里としての意味がないのである。

 要するに、按分の基点が「従郡至倭」「万二千里」であるが、これは、明らかに、街道道里ではなく、天子の威光の届く果ての「荒地」という「趣旨」で公孫氏が書き留めていたものが、公孫氏が司馬懿に討伐されて記録類が一切破壊される以前に、明帝が勅命で樂浪/帯方両郡を無血回収して両郡文書を入手した際、公孫氏の「趣旨」を知らない新任郡太守が明帝にそのまま上申したものであり、言わば、意図せざる「誤報」が、明帝に,倭人が万二千里の彼方に実在しているとする「世紀の誤解」を齎したと見えるのである。
 当ブログ著者が、最近到達した明快な見解であるが、要するに、陳寿はそのような「誤報」の背景を承知していたが、景初三年元日に急逝した明帝が残した文書は神聖不可侵であり、これを温存しつつ実務に不可欠な到達日数を書き込んだと見るものである。
 不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、ゆるゆるの箍をはめていたという推定である。

 念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地「倭」は、後漢末期献帝建安年間の初見段階では伊都国だったのであり、後に「女王」共立という画期的な事件の後に創設されたと見え、末尾に追記された「邪馬壹国」/「女王国」は、行程の圏外なので、伊都国からの道里は書かれていないと見えるのである。
 一説では、「女王国」は、伊都国の国王居処の間近で、数里程度であったので、割愛したという。別の一説では、「邪馬壹国」は自立できないので、伊都国の隔壁集落の内部に存在していたとみている。
 別の一説では、魏の官制では、郡から送達された文書は、伊都国の受信箱に届いた時点で、女王が査収したと解釈されていたので、伊都国が文書便/行人の行程終着点という。この場合、「女王国」への道里が「多少」遠くても、官制上関係無いから、すこし離れていても問題ないと言える。人によっては、それなら道里を勘定しないで纏向遺跡まで文書が届くというかも知れないが、言下に否定できないとしても、さすがに、一か月以上かかりそうな遠距離交信は、論外と見るものではないか。とはいえ、そのような極論を紹介したあとで、さらりと熊本説を提示すれば、抵抗が少ないかと見える。いや、さすがに半ば冗談である。
 以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の概して南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、先ほどの論理に近い理由付けすれば、無残な原文改竄説に固執しなくても、「邪馬台国熊本」説は堂堂と維持できるのである。未だ未だ間に合うから、次書で堂堂と撤回されたらいかがであろうか。
 その際、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国の「余傍三カ国」への行程は、わき道であるから、勘定しないと迷妄の根源を絶ちきる必要があるのは、言うまでもない。道里行程記事が錯綜するのは、「余傍三カ国」がぶら下がっているからである。錯綜の根源を絶てば、明快になるが、それが、魏志倭人伝道里行程記事の本旨/真意なのである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 折角の畢生の好著の最後に、年代物の「倭人伝」改竄説を呼び込み、因縁の「躓き石」でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物の誤謬とは言え、難なく是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」「最上級のダイハード」である。

 氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 1/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

個人ブログ批判の弁
 個人ブログの批判は、事実誤認の指摘と建設的な意見を除き、遠慮するようにしていますが、氏の場合は、単なる素人論客ではなく、既に、商用出版物*を刊行していて、いわば、業として収益を得ているので、著作に対して責任があり、読者側からの率直な批判を拒否できないと思量します。
 ちなみに、当ブログの方針は、論者の所在地比定に、一切干渉しないものなので、無理に保身しなくても問題ないのです。

 *「邪馬台国は熊本にあった!」!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社BOOKS新書) 当ブログにて批判済み

◯ 過去多難、前途多難
 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 何を言っているのか、一向に意味が通じないのですが、同時代に「正史」の記事を改竄、別に変造~改作、すり替え、偽作と、どう言っても同じですが、要は皇帝蔵書を破壊するのは、極刑ものの大罪(一族皆殺しもの)であったから「犯意」は否定できない、と言うか、しても仕方ない、誰も弁護しないので、それで断罪のすべてです。「悪意」は、人によって解釈が、大きく分かれるので、避けた方が無難です。

 氏ほど堂々の確信者が、自説の「根幹」をはぐらかすのは、それ自体不誠実です。また、史学論争の基本ルールとして、「イメージ」と称して、個人的な「印象」を読者に押しつけるのはご勘弁いただきたい。氏が、陳寿の深意を解した上で築いた世界観なら、一見、一読の価値がありますが、自家製の妄想の「自分褒め」は、無意味です。論考は、認知された語彙で、論理的組み立てて、要するに「言葉」で展開いただきたい。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。
 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。
 不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。
 しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。
 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。
 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 氏自身の「根幹」表明なので、真剣な批判に値するものとして、以下、できるだけ丁寧に論じます。因みに、ご自身の主張の「根幹」を「ようなものと」は、何とも、けったいな物言いで、氏の本質的な弱点を「自画自賛」(現代用語として使いました)しているもののように見えます。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ
1.「不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程」が書かれていたと断定するのは、あくまで、氏の創作であり、論拠が不明なので論議の対象外です。
  また、「倭人伝」記事の「本来の内容」は、誰も知らない氏の空想の産物であり、論議の第一段階として不適切極まりないのです。

2.「観念的な位置」の意味が意味不明です。笵曄「後漢書」は、史書であるから人格を持たず、従って、「誤認」、すなわち、ものごとを理解も誤解もする能力はないのです。論考を書くときには、場違いな比喩や擬人化は控えるものです。
 また、厳密に言うと、「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」に登場するだけで、笵曄「後漢書(編者?)の創作」であるから、どこに位置させようと編者笵曄の勝手です。
 史料の時系列から言うと、笵曄「後漢書」が、先行史料を踏まえて、「其大倭王居邪馬臺國」「樂浪郡徼,去其國萬二千里」、即ち「楽浪郡の檄は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里」と特定したのが最初であり、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」で「自郡至女王國萬二千餘里」と書いたのですから、「後漢書」から「魏志」まで、観念的には何も変わっていないのです。このあたり、もう少し、丁寧に説明する必要があるでしょう。

                                未完

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「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
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*取り敢えずの疑問点~つっこみ 承前
3.『三国志』後代写本の際に、氏の解釈する『後漢書の「創作」に合わせて三国志が「改竄」された』というのは、動機の存在しない「大罪」です。この「改竄」によって、利益を得るものがいないから、犯罪は発生しようがないのです。
 「三国志」写本の際と言っても、いつ、どこで、誰が、誰のために写本するのか、不明です。
 「両者」、「抽象的な」日程と意味不明な文字を費やす意味がわかりません。

*流通写本の対処不明
 明らかに、「改竄」計画は劉宋以降ですが、劉宋代の改竄計画を、誰が、後世王朝で実行したのでしょうか。その間、裴松之によって念入りに校正、補注された「三国志」裴注本は、着々と写本複製され世に広がっていたのです。

*実行不能な改竄使命
 時の皇帝の蔵書である「三国志」同時代原本は、天下に一冊しかない貴重書であるから、厳重保管されていて通りがかりに改竄することなどできません。
 氏は、そこから写本を起こす際に、改竄、つまり、すり替えを行ったと言うつもりらしいのですが、同時代の「学者」から慎重に人選された関係者が分担して行う大事業に介入して史料をすり替えることなど不可能です。

*露見必至/斬首必至
 よしんば、何かの曲芸で改竄写本を作成しても、官制写本の全文校閲で露見するのです。よしんば、権威者の校閲の目を逃れ、つまり、校閲に手落ちがあって、原本と明らかに異なる改竄写本が世に出ても、原本は健在であり、次回写本時には、本来の記事が世に出ます。
 また、改竄写本が世に出れば、当然、当時、南北両朝各地で、「改竄」前写本と照合されるので、悪は露見するのです。

*族滅不可避の大罪
 とことん遅くとも、この時点で前回写本時のすり替えが露呈し記録されている関係者一同が尋問に曝され、程なく「犯人」が特定、処刑され、親族は連坐して族滅され、家系は断絶し、改竄写本に由来する三国志は、残らず廃棄されます。

*意味不明の大罪
 総じて言うと、そのような改竄は、不可避的に是正され無意味です。中国古代国家の「法と秩序」を侮ってはならないのです。

*証拠提示の義務
 視点を変えて、学問上の論証の常識として、原本改竄というとびきりの異常事態が行われたと主張するなら、いつ、どのようにして発生したか論証する必要があります。それがなければ、ただの「ごみ」新説でゴミ箱直行です。せめて、当時こうすれば実現可能だったとの「おとぎ話」が必要です。

*史官の使命~史書の継承
 この件で、実際に肝心なのは、史官の立場を取る関係者は、資料を漏らさず追求して、史書記事を書き上げるのが命がけの責務であり、噂話や勝手な造作で、本来の記事を書き換えることは、一切ないのです。
 いずれの時代も、真摯な史官は、最善を尽くして、時に身命を賭して執務したのであり、二千年後生の東夷が、現代人の死生観や倫理観を押しつけてはならないのです。

                                未完

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*迷走ふたたび~泥沼の称揚
中略 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 考察の前段となる「仮定」は、どのようにも勝手に設定でき、他人からの批判を排除できると思っている論者もいますが、肝心なのは、合理的な仮定であることを確認、検証したことが必要です。なぜなら、後方で考察の根幹を覆され、議論の全体が、一切灰燼に帰するのでは批判が徒労に陥るのです。
 ここで言うと、倭人伝の「行程道里記事」が、魏使の報告書の内容を元にしているという仮説は、誰にも全否定できない仮説ですが、どの部分がどうかという史料批判無しに採用できない、思い付きに過ぎません古代史分野に漂う、掟のない泥沼に染まらないことを祈ります。

*不可解な「前提」
 前提条件は2つです。
〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない
 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。[中略]

 この「前提条件」と勿体ぶって言う第一の「思い付き」が主旨不明です。「古代中国の天文学の知識」などと、気休めのおぞましい「おまじない」を唱えなくても、小中学生程度の簡単な理科知識があれば、南北、東西の方位は、容易にわかるのです。

*子供の世界
 要は、広場に棒を一本立てて、棒の影の推移を見ていれば、影の一番短くなったときの太陽の方位が、真南であり、その時の影の方位が真北です。見つかった南北線に、コンパス代わりの縄と棒で垂線を立てれば東西です。「天文学」や「幾何学」は、不要です。東西南北が明確なら精度などいらないのです。
 単純明快ですから、夷蕃も東西南北は、遥か昔から知っていてあちこちに表示されたのです。帯方郡も洛陽も関係無いのです。漢字も数字も要りません。確か、縄文遺跡にも、日時計はあったはずです。

 いや、これほど単純明快な事項が語られないのは、「日本自大主義」古代史分野の独自事情を思わせるのです。この成り行きは、氏の責任ではないのですが、くれぐれも、とまる木、依拠「説」を間違えないでほしいものです。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあり[中略]畿内説の根拠ともされます。

 氏の読解力限界で誤解されていますが、倭人伝のキモは、「倭人は帯方東南に在り」と明記された世界観です。現代人の勝手な思い付き、実質的な史料改竄は相手にしないことです。まして、酔余でもないでしょうか、子供じみた思い付きを「根拠」とする学説は、いくら、権威めいた魔法の外套をかむっても、内実は児戯に等しいのです。
 どれほど「遠い」か、「長い」かの混乱は、畿内「説」が創作したのですが、このような不合理な改竄を唱える動機は、常人の理解を超えているのです。何しろ、九州島自体、東西より南北が「長い」のですから、このような畿内「説」説話は、世人を愚弄していることになります。

*畿内説の推す使命感
 「畿内説」なる俗説派が、遮二無二推し進めている道里行程事解釈は、
1  「倭人伝」には、「邪馬台国」とその所在が書かれている。
2  「邪馬台国」は、「ヤマト」、つまり、後のヤマトに違いない。
と言う二段階の子供じみた、つまり、論拠の無い「思い込み」(の蔓延、拡散)です。

                                未完


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*加筆再掲の弁
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*「畿内説」と言う名の巨大な俗説の泥沼戦術
 つまり、氏は、『「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」』と、崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒で、他にも、誤記、誤解の類いが山積し、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく、「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、史料解釈を離れた思い込みと決め込みの連鎖で、なにも論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在、いや山積しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、不弥国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要ですから、必要/必須な記事が脱落しているのは、主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。
 普通に読むと、そのように明解なのですが、なぜ。無理矢理、投馬国経由と言い立てるのでしょうか。俗説「畿内説」は、投馬国経由としないと、議論から排除されるので、石に齧り付いてでも、そのように強弁するのですが、そのような「余傍」無視の投馬国経由論は、「熊本」説には、邪魔でしかないように見えるのです。よくよく考え直した方が良いように見えます。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、倭人伝に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書いていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。書いていないことを論義するのは、空論の端緒としても、お粗末です。
 そもそも、倭人伝冒頭で、「倭人」は、太古の「國邑」であり、せいぜい数千戸台の隔壁集落であると、総括して見通しを付けているのに、女王の居処が、伊都国を遙かに超えた巨大な集落国家としているとしたら、それは、冒頭の総括を裏切るものであり、読者を騙したことになるのです。魏志を投げ返されずに、皇帝が嘉納したからには、そのような「だまし討ち」はなかったと言う事です。
 もちろん、ここで決定づけているのは、道里行程記事の結句までのことであり、倭国の風土、民俗、王の居処概説などの部分まで、ひっくるめて言うものではありません。
 いずれにしろ、氏の論義は、「北九州に、十五万戸の国家は存在し得ない」との「畿内説」論者の強引な提言に無批判に追従しているように見えます。普通の解釈は、そのような読替えを否定するもののように思うのです。
 そこまで言わなくても、全戸数の過半数を占める巨大な投馬国の所在が不明、戸数も、あやふやというのは、筋が通らないのですが、余傍遠隔の蕃夷で調べが行き届いていないとひっそりと説明されていて、いわば、風評が報告されてしまって、訂正の効かない「屑情報」と示唆しているわけですから、全行程一万二千里の「屑情報」とともに、正史の陰に静かに成仏させるべきなのです。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が、戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 鬼頭宏氏がどのような研究の果てに、引用されているような「数字」を案出されたか不明ですから、氏に対する批判は不可能です。引用者に批判をぶつけるしかないのです。

 丁寧に説明すると、まずは、三世紀当時の「日本」は、どこがどうなっていたのか、全く不明ですから、誰も考察しようがないのです。又、「人口」というのが、どんな対象を言うのか不明ですから、論じようがないのです。現代で云う「人口」は、戸籍に投棄されている国民の数ですから、根拠は明らかですが、三世紀当時、戸籍が無かったのは明らかですから、数えようがないのです。現代であれば、出世届で新生児の戸籍が「必ず」作成されるので、緻密に数えようがあるのですが、くり返して云うと、当時にそのような戸籍制度はないので、数えようがありません。
 子供時代に死んでしまうことが多いので、新生児の平均余命として平均寿命を推定するのも、不可能であり、無意味です。意味があるとしたら、耕作に動員できる成人男子の人数であり、それは、軍務に動員可能な人数として計算できるので、「口数」として意義が認められるのですが、三世紀当時、各戸の所帯構成は不明ですから、戸数がわかっても、口数は推定しようがないのです。確かに、帯方郡、楽浪郡については、「戸数」「口数」の記録が残っているので、一戸あたりの「口数」を計算することが出来ますが、「倭人」の所帯は、大家に於いては、複数の妻を擁していた、下戸でも、中には、複数の妻を擁しているものがいると書かれているだけであり、明らかに、帯方郡管内とも、核家族が前提である中国本土とも、家族構成が異なるので、何の参考にもならないとみるべきです。
 各戸は、耕作地の割り当てを受けて、農事に勤しみ、収穫物を貢納する前提ですが、牛馬を使役しないので、全て、人力となるから、素各戸の耕作可能な土地面積がどのように設定されているか不明です。何しろ、大家族なので、夫婦二人と子供数人分の土地では、収穫不足で、飢え死にしかねないのです。ところが、投馬国では、どのように戸籍が設定されているか、まったく不明なのです。それで、五万戸とは、どうやって記帳して集計しているのでしょうか。
 一方、対海国から伊都国にいたる行程諸国「四ヵ国」は、明らかに、戸籍が記帳されていて、帯方郡に報告されているので、家族制度も、同等かとも思えます。とは言え、全国七万戸の一部に過ぎないので、中々参考にならないのです。
 鬼頭宏氏は、恐らく、後生の律令制度時代の「戸籍」資料から推計しているのでしょうが、確か、成人男子、女子に対して、既定の農地を口分田として支給していたはずであり、当然、夫婦としての口分田面積が算定されているのでしょうが、それは、「四ヵ国」の各戸の農地面積と比較して多いのでしょうか、少ないのでしょうか。三世紀に、帯方郡から通達され、一大率が徹底していた土地制度が、なぜ、「日本」に継承されていないのかも不審です。要するに、土地制度も家族制度も異なるのに、「人口」を類推する目のは、非科学的なのですが、鬼頭宏氏は、どのように交渉されているのでしょうか。

 いずれにしろ、ここで論義しているのは、捉えようのない現代風の「人口」でなく、古代の統治に不可欠な「戸数」なので、議論の風向きを変える必要があります。

 「倭人伝」か依拠していると見える中国制度では、「戸」は、地域支配者が、各戸に耕作地を割り当て、耕作と収穫物納税の義務を与える制度に組み込んだというものであり、具体的には、「戸籍」と土地台帳によって、精度の高い管理を行ったものです。つまり、戸籍台帳、土地台帳は、帳簿であって、当時/当地域としては、高度な制度なので、蛮夷の世界では、整っていない方が普通だったのです。韓国諸国は、古来、中国式の管理制度が整備されていた先進地域なので、戸籍台帳が完備していて、戸数集計だけでなく、口数、つまり、成人男性の人数を、一の位まで計算することが可能であったので、提出される概数は、実数を丸めたものと理解できるのです。
 これに対して、戸籍の整備されていない蛮夷では、大抵、実数が不明なので、首長が自主的に申告したものです。つまり、「戸数」は、主要国を除き、実数をもとにしていないので、誠にいい加減なのです。まして、加算計算すらまともにできなかった世界ですから、万戸の数字は、全く、当てにならないのです。冷静に見ればわかるように、ある程度根拠があると見られる主要国の千戸単位の戸数と、根拠不明の万戸単位の大きな国の戸数を、同列に扱うのは、無謀と言うべきであって、「流動的」などと自嘲して済むものではないのです。要するに、わからないことはわからないと言うべきです。
 鬼頭宏氏の推定は、後世、恐らく律令時代に、管内全国で、戸籍を作成し維持していた時代の情報をもとにしているのであり、三世紀の戸数の推定に参照するのは、無謀の極みというものです。
 因みに、「考えられない」のは、伊藤氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。現代的な概念を無造作に二千年の過去に投影するのは、無謀です。
 なぜ、このように書いたか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。
 全面的に伊藤氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく氏の非論理性を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

 因みに、正しい「戸数」は、民家の数を数えて済むものではなく、地域首長が作成した戸籍/土地台帳の集計で得るしかないのですが、それにしても、それは、首長が、服従の証しとして申告/誓約するものであり、それが「公式戸数」であって、虚偽も何もなく、逆に「正しい数字」は、存在しないです。氏は、何か、途方も無い幻想にひたっているようですが、所詮、時代錯誤の妄想に類するものです。
 真面目な話、三世紀の東夷の世界で、地域を見渡す「山上の見晴らし台」など、あるはずがないのです。目視で戸数を調べる技法は、どこにも書かれていません。まさしく、見てきたような、なんとやらです。生玉子は、飛んでこないのでしょうか。

 ついでながら、「倭人伝」記事が、帯方郡使梯儁一行の訪日の際の現地取材の結果とするのは、何かの勘違いでしょう。
 「郡から倭までの行程道里」、つまり「郡倭道里」は、後漢献帝の建安年間に、公孫氏が遼東郡を占拠した際に、楽浪郡から上申されたものであり、総戸数も、同時に申告されたのに間違いはないところです。但し、時は、後漢末期の乱世なので、倭人の実体の速報は公孫氏止まりだったのです。
 曹魏景初年間早々に明帝が勅命を発して、樂浪、帯方両郡を、公孫氏の配下から切り離して直命とし、帯方郡からの報告により「倭人」を知ったことから、明帝が、「倭人」の疾駆、参上を厳命したものですから、帯方郡は、倭人が「郡倭道里」万二千里の彼方でなく、韓国の南に渡海した近場であり、精々四十日程度で連絡できると報告したものですから、明帝の予めの指示の通り、上洛に対して、所定の大量の下賜物を仮受するという判断が下されたのです。
 つまり、帯方郡使梯儁一行は、時が熟して、山島半島東莱から渡船でとどいた下賜物を携えて、四十日程度の想定で街道を南下する旅に出る事ができたのです。当然、道中の諸国からは、ご一行の受入体制ができていると確認連絡が届いていたのです。現地に着いてから、便船を手配したり、一行の食い扶持とねぐらを手配したり、うろうろと市場調査したりしたら、日が暮れるというか年が暮れてしまい、一行は、異境の土に帰っていたでしょう。
 よく考えて見れば、誰でも、実務の手際は納得できるものと思います。但し、それでは、一行は、九州島を出ることが出来ないので、懸命に、原文を改竄して、行程の実体不明とする戦術が横行しているのです。少し考えればわかるように、大量で高貴な下賜物を送り届ける旅程は、雒陽出発以前に、一点の疑問もなく解明されていたと見るべきです。
 ちなみに、曹魏明帝は、景初三年元旦に急逝したので、上洛した倭使と会見できたかどうか不明であり、まして、「郡倭道里」が、公孫氏が記帳した万二千里ではないことを知ったかどうかは不明です。いずれにしろ、天子として「郡倭道里」万二千里との報告を確認したと公文書に記録されたので、以後、綸言訂正はできなかったのです。
 魏志を編纂した陳寿は、史実、つまり、公文書記録を記録する使命に殉じていたので、「郡倭道里」万二千里を確認しつつ、実祭に所要日数「水行十日陸行一月」を明記するという難業に挑んだのです。
 
*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦風」ですが、帯方郡が、服属した倭に対して郡に出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で問題外です。
 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、郡の出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に回答が着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、渡船の容量を超えた大軍の「水行」は、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数を要するのに加えて、そもそも、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、倭人に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。
 まして、郡が韓国の叛乱平定に、倭人の援兵を求めるとしても、途上が反乱諸国では、援兵の出しようがありません。古田氏が時に陥る的外れな提言ですが、別に、氏の提言の根幹を成しているものではないので、笑って見過ごすべきものです。「よい子は、真似しないように」ご注意頂きたいものです。
 自由な発想はそれ自体結構ですが、裏付けの取れない発想/思いつきの「新説」は、タダの夢物語に過ぎないのです。
 要するに、倭人各国の戸数申告は、郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。

                                未完

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私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*倭人伝記事要件と由来
 いろいろ長談義になったので、ここに手短に復習すると、魏志で、倭人伝にまず要求されるのは、蕃国の徴税や徴兵の根拠となる「全戸数」明記であり、新参蕃夷の服属を申告の際に、「全戸数」を皇帝に報告したと見るものです。行程道里である「従郡至倭」万二千里がこれに継ぐものであり、国別戸数は雑記事に過ぎないので、後日でも良いのです。また、全行程日数(都水行十日陸行一月、都合四十日) は、実務の視点から追記されたものですが、既に皇帝が承認した全行程万二千里は、改竄、是正ができなかったものと見えます。意味が、わからなければ、沈黙して頂きたいものです。
 最初に全戸数と所要全日数を申告したうえで、使節が派遣がされたとみるべきです。因みに、未開で文字を知らず、大多数が十を越える数、ひょっとしたら、四を超える数を数えられない、百千を超える桁の加算計算もまともにできない非文明国の戸数の実数集計など、その場ではできないのです。
 因みに、これは、概算推計であって虚偽ではありません。実数不明では、改竄しようはないのです。投馬国戸数は、「可」ですから、五万戸と称しても、万戸単位すら不確かです。

*戸数論の不明
 以下、三世紀倭に存在しないデータの解釈で、夢物語を展開しますが、「根幹」に大きな誤りがあっては、結論が合理的かどうか評価できないのです。いや、以上は、世上の俗説であり、氏の創案ではないのですが、麗々しく思い付きを上梓するなら俗説の無批判な追随はご勘弁いただきたいものです。

*こじつけの結論に到着
[中略]このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、
奴国=福岡平野 投馬国=筑紫平野 邪馬台国=熊本平野
 つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 氏も自覚されているように、最終的に位置比定してみると、方角も、里数も、日数も、戸数も、まことに大雑把な推定なので改竄など一切不要です。「倭人伝」解釈に、二千年後生の東夷の半人前の思い付きを持ち込む「不退転の覚悟」で取り組んでいるのなら、実行不可能な史書改竄など唱えなくても、「熊本」説は、難なく提唱できるでしょう。

 伊藤氏は、唯一資料たる「倭人伝」の記事改竄により論争上の「禁句」、「禁じ手」を解放したので、毒をくらわばなんとやら、原文を好きなように想定すれば良く、なぜ、ちまちました改竄を言い立てるのか不思議です。
 「しか考えられない」と言うのは個人信条なので、なんなとご自由にと言うところですが、知識不足で信条堅固を言うのに、どんな意義があるのか不明です。ざっくり」が、史料解釈無視、言いたい放題、書きたい放題という意味としたら、ここでは批判できないのですが。

◯地図の「だまし絵」
 因みに、当時の地形である海岸線、川筋などがここに表示した「改竄地形」通りとの保証は一切ないのです。「原図」をどの条件で使用許諾されたか不明ですが、あくまで許諾されたのは、現代地形データとしての利用であり、三世紀の地形論に利用することは、保証どころか許諾もされていないはずです。まして、勝手な改竄は論外、違法利用の筈です。つまり、資料偽造になります。
 また、単に、細かい字で、『地図は、地図でなく、漠然たる「イメージ」であって、「実際の地形と関係ありません」』と断りするとしても、読者が古代実図と錯覚するのは間違いありません。食品表示にならうなら「イメージ」には、「あくまで参考であり、実際とは違います」の明確な但し書きが必須と思います。あわせてご自愛頂きたい。

 氏のお絵かき図形も、当時存在しなかったから、全体として、これは、氏の書いた戯画に過ぎず、倭人伝記事の解釈論議、つまり、誰もが同一の史実と解釈して論議する場に通用しないのは明らかです。古来、個人によって解釈が大きく異なる図形情報は、論理に採用されず、全て、言葉によって定義され、論じられていたのですから、戯画の安直な利用は、いい加減に脱却すべきです。つまり、現代に公知の解釈によって現代知識人を説得するのに限定されるべきです。
 世上には、古代史論に場違いな精密地図を掲載している事例は少なからずあるのを見聞きしているので、氏も、そうした悪習に無批判に追従したかも知れませんが、ペテンをそれと知らずに真似しても同罪と言われるだけです。特に、商用出版物に利用するには、勝手な解釈は許されないと感じます。

 以上、率直に難点を指摘したので、再考いただければ幸いです。

                                以上

2024年6月 8日 (土)

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 1/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
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番組概要

主な出演者 森本哲郎、山田亜樹、高島忠平
番組詳細 吉野ヶ里遺跡の墳丘墓から権力者を埋葬したカメ棺が見つかり、その中から王権の象徴ともいえる銅剣や管玉などが出土した。美しい装飾が施された銅剣や当時の東アジアでは最高級のガラス製の管玉である。これらの出土品の持ち主は誰だったのか。はたして、どこからもたらされたものなのか。専門家たちが銅剣や管玉の成分を分析したり、当時と同じ製法で復元を試みたり、科学的に検証しながら出土品のルーツを探る。
語り:葛西聖司    この動画・静止画の番組放送年 1989年


よみがえる邪馬台国
第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
第二回 追跡・倭国の大乱
第三回 検証・女王卑弥呼の都


□総評~殿堂入りの傑作

 取り敢えず、全体を流し見した感じですが、古代史専門家が、物だけでなく、遺跡の全貌をもとに豊富な知識と見識を語っていて、大変貴重です。
 以下、当世番組を批判していますが、要するに、今回紹介する35年前の古典・名番組と比較して、ずいぶん劣化していることを批判しているのであって、当番組を批判しているのではないのです。

*失われた高い品格~私見
 別項で、近年の番組を批判しましたが、部外者が聞きかじりで、先人の考察を無視して、好き勝手に論じるのが大変不愉快で、当方には当番組の誠実さがありがたいのです。
 最近のNHK番組は俗受け狙いで、古代史屋さんや古代史ファンの素人をかり集め、現代言葉でコメントするバラエティー番組化し、誤解を拡大再生産していると見えます。
 ここで見識を披瀝した諸兄の業績は残っていると思われますが、古代史分野では先人の成果を継承しないのでしょうか。

 番組紹介もすでに現代化していて、「当時の東アジアでは最高級」と吹いています。当時「東アジア」などないし、ない世界のすべての品物を比較してこれが最高級と知りうるはずがないのです。この言葉は、当時の人の想いを知ろうとしない現代人の自己満足です。

*大衆迎合の是非~私見
 大衆迎合は、それ自体悪くないのですが、勿体ぶった言葉へのすり替えで古代を見る目をゆがめさせてはならない」と思うのです。
 古代史番組は、現代人が古代人に学ぶものであり、勝手に現代人の浅知恵をぶちまけるべきではないでしょう。何しろ、相手には一切聞こえないのですから。いや、これは、三十年後の番組制作姿勢への批判です。

総評
 肝心の番組内容ですが、昭和末期、平成初頭の番組であり、今日のように、低コストで手軽なドローン空撮でなく、ヘリ、ないしは、軽量飛行機でしょうが、発掘間もない吉野ヶ里遺跡の全景をたっぷり拝見できるのは貴重です。

 また、各種遺物は、堅実な考古学知見で考察されています。

                               総評完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 2/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
*「吉野ヶ里」遺跡概観

 遺跡整備される前の現地の様子が空から確認でき、発掘現場の生の声が聞けるのはありがたいのです。

*偶然の賜物
 安本美典氏によれば、佐賀県が当地域に工業団地を造成する際に、山麓は遺跡を包含している可能性が高いので、遺跡のないと思われる地帯を発掘調査したら、予想に反して二十五㌶に及ぶ大遺跡が出現して、関係者は大パニックに陥った。とのことです。して見ると、今後とも、遺跡有望地帯に発掘の手が伸びることは、一切ないのでしょうか。

*虚心の徳
 全体に、当遺跡関係者は、先入観なしに虚心に発掘した様子が窺えて好感が持てるのです。
 遺物の究明に際して、謙虚に諸機関、企業の協力を仰いでいるのも、当然とは言え、見事に思えます。案ずるに、高島忠平氏を初めとする発掘関係者諸兄が、「何かを掘り出して見せないとダメだ」というような余計な切迫感をもっていなかったためと思われます。
 奇跡は、不意に訪れるものです。

*物資渡海
 ちなみに、出土した貴重な三物資のうち、銅剣が、半島西部の後の百濟相当地域の南部、今日の忠清南道(略称 忠南)から到来したとは自然な見解ですが、それと別に長江(揚子江)河口近くから到来した鉄や長沙から到来したガラスの到来ルートが、北に渤海を大きく迂回した陸上ルートで図示されているのは残念です。当然、山東半島(莱州)から、身軽な渡船で目前の忠南に着いたと見るべきでしょう。このあたりの誤解は、後世まで頑固に引き継がれていて、諸考察を謬らせているのが、残念です。

 九州と忠南は、多少日数はかかっても、直接、つまり、楽浪/帯方郡を介することなく交信・往来ができたでしょうから、銅剣産地から南方の鉄やガラスも共に手に入れたと見れば、三者三様の交易ルートを探す必要がなくなります。
 吉野ヶ里住民が、万里の異郷と交流、交易する必要はないので、巨大商社の幻像を見る必要がなくなります。

 ちなみに、三物資の到来は、おそらく、忠南から東に竹嶺で山地越えしてから洛東江沿いに南下して半島南岸に達し、半島南岸、対馬、壱岐、九州の三区間をそれぞれ渡海する便船で南下したのでしょう。
 それなら、『極めつきの難所であって一貫航行など「はなから不可能」である半島西岸、南岸の多島海』を通らなくてよいので大変安全・確実なのです

 そのような交易路が想定できるので大変ありがたい絵解きでした。後に、弁辰産鉄の楽浪郡納入や弁辰からの文書通信のために、駅逓を備えた帯方郡官道が成立したと見ることができるのです。

*現地現場は宝の山
 と言うことで、この回の教訓は、現場に近いところには、宝物が転がっているという事です。本物の現場には、もっと沢山あったかも知れませんが、大抵、細かい、ささやかなものは押し入れの奥に引っ込んでいるのです。

 言うまでもないですが、この当時、大陸産物は道の果ての吉野ヶ里に集まり、東方には時間をかけて交易の鎖を順次渡って、年月をかけて滲出するので、この時代、各地に同等の豊かさはなかったでしょう。

*山一の道~私見
 当ブログでは、北九州から東方には、南下した日田から東に大分の海岸に出て、そこから、軽快な渡船で渡れる三崎半島を経由する経路を提唱していて、以下、伊豫の山を一路走っている中央構造線に導かれて、大鳴門の海岸に出る完全陸上経路を想定しているのです。
 よくいわれる、瀬戸内海東西航行の難所克服は関係無いのです。特に、関門海峡を通らないのは、当時、堅固な木造船が存在しなかったから、通行できなかったというものであり、大鳴門まで出ると、喧伝される明石海峡、鳴門海峡の難所を回避しているので、三世紀、ないしは、それ以前の交通路として、特に論証の必要のない、安全・確実な経路と見ているのです。

                            この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 3/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第二回 追跡・倭国の大乱
*冗談半分
 この回は、仰々しく二千年の眠りから覚めた吉野ヶ里王国、などと、前振りをして開始します。NHKらしからぬ空騒ぎです。
 「倭」「國」「大」「亂」の屏風を背景に議論されますが、当時は慎重で、「倭人伝」に「倭國大亂」と書いてあったなどとは言いません。典拠は「中国史料」と言いよどんでいますが、「倭人伝」は、ほぼ唯一の資料としたから、よくよく聞けば、正確な発言になっています。但し、典拠が笵曄「後漢書」東夷列伝倭条と言わないのは、天下の公共放送の教養番組としては、不出来です。
 当時との見解として、鉄鏃の戦闘時の優位点は、限定的であり、とても決定的でなかったという所に落ち着いて冷静です。

◯不毛な人口論/建設的な異論~私見
 番組中で、興味深いのは、こうした「天下大乱」を左右したのは、それぞれの勢力の人口だったとする判断です。ちと、安直ではないでしょうか。
 似た発言として、最近の新聞報道で蔓延る(はびこる)、スポーツの勝負は体格、体力(フィジカル要因)で決まるとする不気味な風潮があります。体格、体力の数値は、計量可能というものの、短期間の努力で強化できるのは、筋力、そして、それを支える呼吸器、循環器なので、下馬評で叩かれてもどうしようもないのです。スポーツには、体格、筋力で勝負がつくものもあるでしょうが、それなら、身体検査でメダルを決めれば良いのです。大抵のスポーツは、技術、戦略、そして、気力まで含めて競われているのです。いや、単なる例え話ですが。

 余談はさておき、当番組は、推定した勢力範囲内の推定した「人口」を、あたかも確定したもののように図示して勝敗を決めつけていますが、余りに軽薄です。往々にして、歴史上の敗者は、自滅した例が多いのです。
 憶測でしかない、浅薄な数値データを安直に採り入れるのは、子供じみていて、感心しないのです。

*倭人伝の精確さ-精確な検証

 ちなみに、三世紀当時、「倭人」世界で、当てになりそうなのは、對海國、一大国、末盧国、伊都国の行程上の四ヵ国の「戸数」であり、他に書かれている奴国、投馬国の「戸数」は、数万戸という途方もない数字である上に、この二国は、行程外の遠隔地で事情が不明なので、当てにならないと明記されているので、全国七万「戸」は、何とも、参考にならないのです。
 その上、四ヵ国の戸数は、あくまで、各戸に所定の耕作地を割り当てるという中國土地制度のものであり、後世日本国内で施行されていた「成人男子、女子、それぞれに口分田を与える」と言う制度ではないので、これまた、参考にならないのです。

 ちなみに、帯方郡に対して「戸数」を申告するという事は、各戸から徴税して帯方郡に上納することを想定しているものであり、倭人には通貨制度がないので、それは、言わば七万戸相当の「米俵」の山を納入することを示しています。そのような大量の積み荷を、海峡を越えて、狗邪韓国の海岸に届けることなど不可能ですが、先ずは、輸送可能と言われかねない行程四ヵ国の戸数を、各国戸籍に基づいて申告し、さらに、對海國、一大国は、痩せた田地しかなく、他国の支援で餓死を免れているという泣き言で、免税を勝ちとっていたものと見えます。
 何しろ、狗邪韓国から末羅国の間は、「水行」と言っても、並行する陸路がないので、街道として無効と明記されている上に、倭地の「禽鹿径」は、荷車の通れない論外の道と明記されているので、物納不可能とだめ押ししているのです。
 ちなみに、倭人伝に虚構を求める論者は、「倭人」の総戸数を十四万戸とこじつけている論義がありますが、以上の「真意」を取りこぼしている拙攻であり、ここでは、論義しないことにしています。
 さらに重大なのは、「倭人」は、牛馬の労役がないので各戸の耕作能力が貧しいのも明記されているので、結果として、四ヵ国の「戸数」は、国力、つまり、担税力の指標として役に立たないとわかるのです。
 後の議論にも出て来るでしょうが、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、陳寿は、「倭人」の地は、郡を去ること万二千里とか戸数七万戸とか、公孫氏が報告していても、半島南方の州島、小島であって、各国数千戸程度の國邑でしかない上に、産物に乏しい「痩せ地」であることを明示しているのであり、二千年後生の無教養な東夷は、史官の真意を汲み取った上で、字句の解釈にあたるべきなのです。

*西域大国の肖像 2024/06/16
 裴注で補追された魚豢「魏略」西戎伝に登場する万二千里の果ての大国は、六畜(牛、馬、羊、鶏、狗(食用犬)、猪(豚))全てを豊かに算出し、法田(ホータン)と違って「玉」こそ産しないものの貴石、準宝石に富み、色彩豊かな羊毛糸を多用した絨毯織が盛んで、さらには、中国産の絹織物を解(ほぐ)して、特産で在る野生繭の糸や色鮮やかな羊毛糸と織り交ぜた多彩な「水羊毳」なる特産物を「海西布」と称して商うなど、まことに、全土悉く宝の山と言うべき大国であり、国内には、金貨、銀貨が流通していて、南方海産の珊瑚、玳瑁を始め、ここには書ききれない多彩な品目を商い、しかも、広大な国土に街道を張り巡らして、文書行政が完備している法治国家であり、当然、皮革紙に横書きする文字大国であるなど、東夷と対比すれば、燦然たる記録が用意されていたのですが、陳寿は、恐らく、そのような漢代西夷事績を明示すると、曹魏明帝が誇らしく遺詔を書き残した「倭人」が色褪せるので、西域での新規蛮夷の招請という事績に厳選すると、西域における曹魏の実績は皆無に近いことを露呈しないために、空疎な「西域伝」を割愛したものと見えます。他の場所でも触れていますが、魏略「西戎伝」の佚文ならぬ善本を熟読すれば、陳寿の割愛に同意できるものと見ています。

 それにしても、奈良盆地に「倭人」政権を主張される方は、纏向遺跡に中国制の土地制度の遺跡を発掘されているのでしょうか。あるいは、中国式の戸籍簡牘を発掘しているのでしょうか。来訪、検察したはずの帯方郡士人は、七万戸、あるいは、十四万戸の大国を実見したとして、寛容極まる免税を許可しないでしょう。

*北枕の台頭

 興味深い発言は、墓制の地域ごとの違い、俗に言う地域性であり、それぞれの地域政権に地域葬制が整っていた裏付けとなります。俗に、これを地域「文化」圏と言いますが、「文化」とは文書によって継承、展開されるものであり、文字のない時代は「風俗」圏とでも呼ぶしかないところです。
 それはさておき、葬制の「枕」が、今日の近畿圏と中国地方では、北枕であり、北部九州と四国では、東西枕になっていたというのは、意義深い指摘です。結局、北枕が全国制覇したという趣旨なのでしょうか。

*纏向の飛び地
 後に発掘される纏向の大型建物は、その敷地が、東西基線で縄張りされたとされていますから、これは、東西枕風俗に属するものであり、後の飛鳥時代以降の大型建物が、南北基線で縄張りされていて北枕風俗と見えるのと、別の風俗圏に属していたことになります。

 先に挙げた遺跡地図に現れてないということは、纏向遺跡を構成した勢力は、一時的な東西風俗であり、飛び地のようなものであったかと思われます。

                              この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 4/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都
*躓く「枕」~補充
 この回は、九州説を支持していた門脇禎二氏と畿内説を支持していた坪井清足氏の談話を枕に開始します。
 本篇の冒頭、いきなり誤解が露呈していて「楽浪郡」が語られています。当番組では伏せられていた後漢書を見てしまったのでしょう。
 「行程記事をそのまま読むと」と言う語りは、説明不足で軽率です。読解できずにベタに書き出すと、と言うべきです。当時の公文書ですから、倭人伝の語法を理解すれば、明快に読み解けるはずです。過去、諸先賢が理解できないから、自分自分の語法で勝手に書き替えて来たものです。

 以下、過去の誤読例が面々と繰り返されますが、とにかく「論義を混沌とさせて持続したい、子々孫々に至るまでメシの種にしたい」という願望が醸しだしている「泥沼」なのですが、ここでも、明解な解明を遠ざける高度な創作が続いています。

 何しろ、冒頭の解説で、帯方郡を出た行程が、いきなり西に向かって黄海岸に出るという誤解が台頭していますが、「倭人伝」には、そのような行程は書かれていないのです。続いて、何の気なしに、海岸沿いに南下することが描かれていますが、地図を見る限り、そのような航行では、忽ち難船してしまい、まるで、「倭人伝」が自滅行程を書いているように見ていますが、それは、解釈を誤っているとみるべきです。このような難局に陥った場合、「帰謬法」と言う考え方では、それは、そこまでの見方が進路を誤っていることを示ししているのだから、始発点に戻って考えなおすべきだということになっているのです。
 ところが、番組の解説では、南岸沿いの「架空の行程」にこだわって、わざわざ狗邪韓国まで乗りつけて、改めて、對海国に向かって南下する絵としていますが、そこまでの悠然たる船旅が、突如、必死の海峡越えとなり、辻褄が合わず、何とも、無理難題になっています。

 世間では、ここまで大勢として一致して妥当な推定とされているとしていますが、完全な読み違いが、正論を押しつぶして大勢に支持されているのは、寄って集(たか)って誤解して「倭人伝」が、いい加減だと責任を押しつけているのであり、何とも困ったものです。これでは、何百年経っても、正解に到らないわけです。

*両説並走
 坪井氏は、畿内説は「考古学の所見」に依存すると正直に解説しています。要するに、「倭人伝」を「畿内説」に合わせて削り直していることが露呈していますが、それを云うと身も蓋もないので、ここでは、声を潜めておきます。

 門脇氏は、九州説に転じて「変節漢」と顰蹙を買ったと述解しますが、畿内説では、三世紀当時、近畿から北九州を支配していたとされるのに、六、七世紀の統一国家形成まで、途方もない歳月を要したことを説明できないと感じたようです。我が意を得たのですが、畿内説陣営から、適格な回答がないようです。古代史学界には、建設的な仮説/異論/異議に対する反応は顰蹙だけあって学術的な論争は成立しないのでしょうか。
 坪井氏は、「考古学の所見」では、三世紀遺物出土が乏しい九州説に不利としますが、衆知の如く、遺物年代はあくまで熟慮の上の「推定」であり、いかに大勢に支持されても、決定打でないと想われます。
 また、坪井氏は、行程記事末尾の「水行十日、陸行一月」は投馬国から南に王都行きと解釈すると南方に突き抜けるから、これは、東方畿内だと押していますが、そのような道里行程記事解釈は、伝統的な我流解釈に依存していて異論必至で、決定打ではないのです。先ほど述べたように、「思い込み」に従うと不合理な結論に至るというのは、「思い込み」を考え直す契機であり、視野を広げこだわりを棄てて、謙虚にら考え直すべきなのです。
 当たり前のことですが、三世紀に陳寿が書いた記事は、当時の読者が納得する、筋の通った「真意」がこめられていると見るべきであり、頭から、「現代日本人」の「常識」で読解くのは「誤解」の可能性を含んでいるのです。

 要するに、坪井氏の言う「考古学の所見」は、専門外とは言え、自説に心地良い、軽率な文献解釈を丸呑みして根拠としているのであれば、是非再考いただきたいものです。

*鬼(神)道とシャーマン
 ハン氏(韓国国立中央博物館館長)は、鬼道(「鬼神道」は後漢書)を論じて、今日で言う「シャーマン」とも思われるが、「シャーマン」は地域ごとに異なるので一概に論じるべきでない、と卓見を述べて、「シャーマン」が古代に生きていたような時代倒錯の戯れ言をきつくたしなめています。

*即刻参詣の檄
 終盤になって、坪井氏は、「倭人」が大陸の情報を承知していて、使節を適確に派遣したと驚いています。伝統的に、女王を「神がかった諜報通」と見ているようですが、ことはそんなに超絶的な成り行きでなかったでしょう。公孫氏傘下から魏帝直轄に代わった帯方郡の新任太守から、専用文書便が街道を駈け、即刻出頭の厳命が届いたと見るのが順当ではないでしょうか。

 即刻と言っても、万二千里などと見当違いの道里を言いたてたりせず、測定済みの往復所要期間、つまり、片道「水行十日、陸行一月」を四十日と見て、往復八十日を前提として出頭期限を切ってあり、「遅参すれば討伐する」と断言したでしょうから、大陸(遼東)事情を知らなくても、降って湧いた指示でも、国王以下打ち揃って恐懼して、取るものも取りあえず身軽な使節を送り出したのでしょう。それなら、普通の君主に出来る普通の、つまり、最善対応なのです。

*遠すぎる畿内
 余談ですが、この日数では到底畿内に辿り着かないので、日数稼ぎに苦労しているようですが、それでは、郡は、所要期間を知らなかったことになります。水行二十日の投馬国の向こうに四十日行程を置く年代ものの読み解きで、ボロ隠しをしているようですが、細かく詮索すると、逃げ道がなくなるので、武士の情けで、追及を控えます。いや、当ブログ筆者は、古風な者なので「遠すぎる」は、誉め言葉ではないのです。

 「倭人伝」の景初二年の「二」の字に横線を足して景初「三」年に日延べしても、使節は郡に辿り着けないでしょう。まして、韓国海岸を「水行」したら景初年間には着かないでしょう。蒸し返しですが、坪井氏の主張による「遠隔の畿内で半島情勢を察知した」というのはね心地よい響きであっても、あくまで、根拠の無い神がかりです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 5/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
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よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都 承前
*戦時参詣
 郡指令は峻烈でも、文書便で、召集状とともに送達された帯方郡太守の過所(通行証)を携えて官道を進めば、途中の諸韓国の関所で止められたり、関税をむしられたりすることもなく、官道宿舎の寝床と食事は保証され、当然、官道通行の安全も保証され、官道の道祖神、道しるべや里程標もあって、道に迷うこともなく、とにかく、安心して旅することができたはずです。

*召集呼応
 これが、呼ばれてもいないのに、紛争地帯に勝手に参上したのであれば、宿舎の手配はされないどころか、それこそ、戦場に飛び込む可能性もあれば、不時の、つまり無許可の郡詣でとして公孫氏に捕まる懸念もあったでしょうし、国書や貴重な土産物の心配どころか、使節の身の安全が覚束ないのです。それは、余りに無謀でしょう。
 魏朝官制は、宿駅が、代え馬、宿舎、食糧の供給とともに、関所の役も担っているので、暢気な方が言うように、土地勘があれば、道道をどんどん進んでいける生やさしいものではなかったのです。まして、路銀、つまり、銭の持ち合わせがないと、何も購えないのです。また、言葉が通じない、異様な風体の面々では、最寄りの県治、つまり、県の役所に突き出されていたでしょう。
 当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*雒陽参上
 雒陽でも、事前に帯方郡の文書が届いていて、鴻廬卿は万事調整済みだったでしょう。帯方郡からの行程は、山東半島莱州に渡海するのは、郡の便船で難なくこなしても、西に向かう官道は、当然厳戒下にあり、青州刺史などの認可のもと、郡役人が同伴しなければ無事に着かなかったでしょう。道中の宿舎手配なども、文書使(メッセンジャー)が各関所に伝えた刺史の指示あればこそです。
 繰り返しますが、当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*曹操遺訓
 このような高速大量の文書通信を常識とした体制は、魏武曹操が、後漢建安年間に、宰相、魏公、魏王などの至高の地位にあって、特に厳命して確立した、全国支配のための行政機構だったのです。当然、魏帝国は、この制を継承しています。
 因みに、これは、別に曹操の独創ではなく、殷周代の太古以来、歴代帝国の根幹だったのですが、後漢献帝期の最初の十年の小戦国状態で、箍が外れて無法状態になっていたので、これを復旧したものです。この期間、少帝劉協は、荒廃した帝都長安から脱出し、支援者なしに飢餓状態で漂泊していたので、後漢帝国は皇帝を欠いて、事実上瓦解していたのです。
 とかく悪評の目立つ曹操ですが、さすらいの後漢皇帝劉協を、収容、保護して、雒陽圏を中心に後漢を秩序のある国家として復旧しようと苦闘したのです。結局、皇帝の地位に就くことはなかったのですが、武力統一だけでなく、古来の文化を復元し、また、国家統治の大系を弁えて、中原に帝国の形を確立したので、跡を継いだ文帝曹丕による魏朝設立後、遡って武帝と諡されたのですが、本来、「文」の人だったのです。
 そのような官道文書通信の制度により、それまで、地の果ての茫洋たるものとされていた辺境蛮夷の姿(イメージ)が、いわば、文字で書かれた絵姿(ピクチャー)になって、雒陽まで届いたのです。

*洛陽到着
 それはさておき、使節一行は、洛陽に着いたとは言え、先だって、定められた手順、役割に従い実務が進んで帝詔梗概と下賜物概要が決まっていて、皇帝に奏上し、帝詔に御璽を得次第、使節に引き渡すはずだったでしょう。
 時に、詔を皇帝自筆と誤解して、その堂々たる筆致からこれは明帝曹叡の筆と決め付ける人がありますが、当然代筆です。皇帝の詔ともなれば、古典を適確に引用して、風格と教養を示す必要があるので、これは、古参の専門家の役どころです。因みに、詔の玉璽も、皇帝当人が押すものではなく、専門家の役どころです。皇帝の手になるのは署名のみです。
 当時、「倭人」の招請を格別の熱意で進めていたのは、明帝曹叡ですが、事の半ば、景初三年元旦に逝去したので、事態は、尻すぼみになっていきますが、取りあえず、帝国宝物の蔵ざらえという事もあって、下賜物送達は、粛々と進められたのです。

*明帝曹叡と忠臣毋丘儉~私見
 稀代の名君曹叡は、初代文帝曹丕が後漢献帝の禅譲を受け、言わば、後漢の風化した天下を引き継いだことに批判的であり、自身で「烈祖」の廟号を唱え、王宮の新規建設に並んで、未踏の東夷の参上を漏って、新規の天下を築くものと自負していたようです。
 それが、景初三年元日の皇帝急逝により、新宮殿建設は頓挫し、「倭人」の処遇は、雒陽に参上している使節の顕彰とすでに用意されていた下賜物の送付までは帝国の体面を保つために維持されたものの、それ以後は、次第に冷淡な扱いとなって行ったものと見えます。
 ひとつには、先帝の東夷顕彰の意向を支持していた毋丘儉が、司馬懿の台頭で勢力を喪い、ついには、少帝曹芳が廃位されるに及んで、反乱を起こして討伐されたため、帯方郡を足場にした「倭人」高揚は、霧散したのです。
 陳寿は、明帝曹叡の壮図を支えた毋丘儉の忠誠を「魏志」に潜ませたと言えます。なにしろ、「魏志」に「司馬懿」伝はなく、ただ、ひっそりと「毋丘儉伝」が刻み込まれているのです。

 以上、当然の事項が余り知られていないので、番組批判の枠を大きく踏み越えて、殊更力説したものです。

*掉尾言
 以上、それぞれの回での難点と思える点を延々と批判したのは、俗論的な決めつけに対するものであり、番組全体は、後年のIT紙芝居や勝手な素人談義などではなく、ちゃんと出席の専門家によって議論されていて、まことに妥当な構成です。

                               完

2024年6月 5日 (水)

資料紹介「唐會要」 其の1 概論 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯旧ログ再掲のお断り
 当記事は、なにしろ十年前の拙作ですので、再掲する気はなかった、と言うか、完全に忘れていたのですが、旧ログを総浚えしている動きがあるので、念のため、点検して、再掲しているのです。

*はじめに
 まずなにより、唐會要は、史書として書かれたものではないので、史実に関する厳密さに欠けることは心得ておくべきでしょう。
 中国の分類によれば、「政書」と呼ばれる資料群に属するものであり、「政書」は、その編纂形態により、各王朝ごとに分割記述された「斷代會要體」と通史として記述する「通代會要體」とに大別されます。
 言うまでもなく、「唐會要」は、唐王朝について記述された「斷代會要體」です。一方、「通典」、「通志」は、政書の中で、「通代會要體」に分類されます。
 つまり、唐會要」は、「通典」、「通志」と同様の性質を持った資料です。

 「唐會要」は、今日伝えられている形としては、清朝時に編纂された「四庫全書」収録のものが規範となると思われます。
 続いて、其の「倭国」、「日本國」記事ですが、「旧唐書」と比較して、人名の書き誤りを含めて、誤伝の多いものになっています。
 元々の資料に誤りが多かったのか、継承転記の際の誤りかはわかりませんが、記事の信頼性は大きく損なわれていると考えます。
 従って、全書百巻に及ぶ其の全貌が、宋時代の編纂時から、四庫全書収録まで、遺漏無く伝えられたものではないと思われます。

*編者紹介
 ここで、維基百科に基づき編者王溥の履歴を確認します。
 王溥(922-982年)、字齊物、諡文獻は、五代後漢乾祐元年(948)科挙状元(進士第一位)となり秘書郎に任官し、五代後周太祖、世宗、恭帝の三代の宰相を勤め、北宋太祖が幼帝恭帝から禅譲を受けて宋朝を創立するのを支持したため、太祖の下で宰相を勤めた。
 ただし、北宋太祖趙匡胤は、皇帝として親政し、宰相の実権を奪ったので、王溥は、自宅に所蔵した万巻の蔵書を元に、専ら史書の編纂に当たったと云うことである。
 乾德二年(964年)宰相を辞し、太平興国七年(982年)死亡。

 以上の経歴から見て、秘書郎として任官した上に、長く宰相の職責にあったので、唐代以来の実録、起居注などの公式資料の写本を入手して、自宅に所蔵することも可能であり、著作に大いに活用したものと思われます。
 又、それら資料は、王溥の死後は、王溥の著作と共に継承され、それら資料が旧唐書などの史書編纂に利用されたものと思われます。

 以上、「唐會要」の記述が、「旧唐書」に幅広く利用されていると共に、王溥が典拠として参照した資料を「旧唐書」編者が参照利用したと思われます。このため、類似した記述が散見されるのでしょう。

 なお、「唐會要」は、テキスト全文が維基文庫に収録されていますが、清朝四庫全書収録の「唐會要」の影印版と比較すると、文字の異同だけでなく、「倭國」記事の建中元年、貞元十五年、永貞元年の三項が脱落しているのは、テキストとして利用する際には注意が必要です。
 維基文庫は、ボランティアの絶大な努力によって、膨大な原典がテキスト入力されているものです。なにぶん、活字印刷物の読み取りと異なって、OCRの助けの殆ど得られない手仕事であるので、万全でないことは仕方ないことですが、一方、そのような限界を承知の上で維基文庫のテキストに依存して論考することも、また、ある程度仕方ないことなのでしょう。

以下、短評に続く

一部修正 (2014/1/29、6/30)

資料紹介「唐會要」其の2 短評と記事紹介 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
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*史料短評
 「唐會要」記事については、以下の短評を記すのににとどめます。
 「倭國」は、冒頭に、「在新羅東南」と書かれているので、九州に存在していたことが明記されているものと考えます。笵曄「後漢書」同様の筆致であり、同書の地理志記事から判断して九州北部が有力となります。
 「日本國」は、冒頭に「倭國」の別種と書かれているので、少なくとも、二つの政権が区別されて書かれていることは明らかです。
 いずれの記事も、飛ばし読みの時に、最低限目にとまって欲しいことが頭書されているので、「と書いたが、実は..」というどんでん返しはないものです。
 「日本國」記事では、引き続いて国名由来と移行経緯について、解釈が併記されています。つまり、遅くとも両国記事編纂時点では、「倭國」が消滅して「日本國」が存在していることが示されています。

 さて、第一の解釈では、先記されている倭國に対して、東の方角、日の出る方向にあるので「日本」と名乗ったと書かれています。この解釈で云えば、九州北部地域の東方に当たる中国から近畿の地域が最有力となります。
 付け足しの解釈では、「倭國」が、『自國名の字面が悪いので「日本」と改名したと表明した』と書かれています。あるいは、『「日本」は小国であったものが、倭國を併呑したと表明した』と書かれています。
 このように色々書かれているのは、編纂者は、「倭國」がどうして「日本國」になったか、筋の通った説明を聞けなかった/見いだせなかったので、元々あった記録をそのまま採用するようにしたものと思われます。蕃夷と対応した鴻臚のものは、蛮夷の言い分をそのまま紹介するよう命じられているので取り次いだのであり、「唐会要」の編者も、何も見解を示していないものです。
 とはいうものの、結論無しの紹介記事なので、最初に紹介された解釈が有力であり、また、後に紹介された解釈と共存できるので、そのまま書かれているものと考えます。
 推測ですが、中国側が「自然」な解釈を示したのに対して、日本使節が頑として同意しなかったので併記されたものと見たいところです。
 一部論者は、「唐會要」の両国記事は、「倭國」と「日本國」が、同一政権ないしは政権系列の時系列上の改名したとの記事であるとの見解を公開していますが、どうも、早計であり、実際は、錯綜の観を避けることなく併記されたままであり、当記事の論旨をそのように明解に解釈するのは無理なように思います。
 また、政書の性格上、正史の記事を校勘する際に厳密な史料として利用できないのと相まって、早合点することなく慎重に取り扱うことが必要です。

*和紙の起源
 因みに、「倭國」記事の建中元年項の蠒(メイ)は、銘仙のようなきめ細かい絹布のようです。倭国使節は、中国人が見たこともないような滑らかな紙に書翰/覚書を記していたと云うことです。
 おそらく、これは、「倭国」が、山野の植物を利用して、純白で滑らかな「和紙」を実用化していたものであり、中国で古来王侯の使用していた帛書と呼ばれる書記用絹布を再現していたのでしょう。紙の実用化以来一千年近くたって、高貴な帛書は、使用する習慣もなく、帛書の実物も地上から消滅して久しいので、王溥のような教養豊かな、宰相職の高官にも、見当が付かなくなっていたのでしょう。
 なにしろ、中国の製紙法は、蔡侯紙というものであり、衣類のぼろなどから採取した繊維を漉き上げていたので、「純白で滑らかな」「和紙」とは、別物だったのでしょう。

*資料編
 以下は、添付した影印本の記事を文字起こししたものです。
 その際、最善の注意と努力をはらいましたが、脱落、誤字等が存在しないことを保証するものではないので、添付した影印版を確認の上、ご利用いただきたいのです。
 倭國 (第九十九巻)
 古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。
 世與中國通。其王姓阿每氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。
 椎髻無冠帶。隋煬帝賜衣冠。令以錦綵為冠飾。衣服之制頗類新羅。腰佩金花長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。
 貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。
 表仁浮海。數月方至。(注 自雲路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也)
 表仁無綏遠之才。與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絕。
 永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。
 高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅數為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
 倭國東海嶼中野人有。耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
 亦頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者云海中湧出。
 咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。
 則天時、自言其國近日所出。故號日本國。
 蓋惡其名不雅而改之。
 大歷十二年。遣大使朝楫寧、副使總達來朝貢。
 建中元年。又遣大使真人興能判官調楫志自明州路。奉表獻方物。真人興能盡其官名也。風調甚高善。書翰其本國紙似蠒緊滑、人莫能名。
 貞元十五年。其国有二百人浮海至揚州市易還。
 永貞元年十二月。遣使真人遠誠等來朝貢。
 開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
Toukaiyou_wakoku_1
Toukaiyou_wakoku_2
 日本國 (第百巻)
 倭國之別種。
 以其國在日邊、故以日本國為名。
 或以倭國自惡其名不雅、改為日本。
 或云日本舊小國、吞併倭國之地。
 其人入朝者、多自矜大、不以實對。故中國疑焉。
 長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝、貢方物。
 朝臣真人者、猶中國戶部尚書。冠進德冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍。以帛為腰帶。
 好讀經史、解屬文。容止温雅。則天宴之、授司善卿而還。
 開元初。又遣使來朝。因請士授經。
 詔四門助教趙元默、就鴻臚教之。乃遺元默濶幅布。以為束脩之禮。題云白龜元年調布。
 人亦疑其偽為題。所得賜賚。盡市史籍。泛海而還。
 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去。改姓名為朝衡。歷仕左補闕、終右常侍安南都護。
Toukaiyou_nihonkoku
この項 終り

2024年6月 4日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の「リベンジ」再来 順当な番狂わせか

                       2024/06/04

  今日の題材は、毎日新聞 大阪・河内面だから、地方ネタとして読み流そうかと思ったが、全国紙の(地域面)一面だから、ちゃんと敬意を表すことにした。もちのろん、「大ガス リベンジ勝利」と敵性/毒性語を紙面に書き出して、多くの読者に、毎日新聞が「リベンジ振興会」に属していると誤解され、日常会話で乱用が進むという、徹底的な害毒があるから、一言申し上げたのである。当ブログでお馴染みの指摘であるので、背景説明は省略する。

 合わせて、同記事が報道の基本に反している点も、指摘して良いのではないかと感じて、批判する次第である。
 「大阪ガス株式会社」は、創業以来120年近い歴史を有し、「主に京阪神をエリアとする一般ガス事業者」であるから全国営業していないが、「大阪ガス硬式野球部」は、都市対抗野球大会 出場28回、優勝1回(2018年)社会人野球日本選手権大会 出場26回、優勝3回(2019年、2021年、2023年)の赫赫たる実績を挙げている名門チームである。近年で云えば、地元の阪神タイガースに、能見篤史(投手)、近本光司(外野手)等の名手を送り込んでいる。(Wikipediaによる)
 「大ガス」(ダイガス)は、「日本一のガス会社を想定した社名通称」ではなく、「大阪ガス硬式野球部」の通称と思うが、ここだけ切り取れば、「毎日新聞」が、「大阪ガス」に泥を塗っているという印象を受けかねないのである。

 それはさておき、「大ガス」の野球部が、前回の近畿地区予選で特定チームに負けたことに遺恨をもって、血祭りに上げることを標榜/公言していたとは思わない。一種「フェイクニュース」ではないか。
 当記事で、地域面記者は、(地域面)一面のトップ見出しで、この勝利を謳い上げている。本大会優勝どころか、まだ、代表に決定したわけでもない。「大ガス」が、ほんの通過点である近畿地区予選で一勝したことを、これだけでかでかと取り上げているのを目にすると、「ニュースバリュー」を勘違いしているのではないかと思うのである。いや、誤報とは言いきれないから、クビを傾げただけである。
 古来、「人が犬を噛めばニュース」というように、野球の報道でも、新聞は予想外の番狂わせ(upset)を報道するものであり、強豪チームが順当に勝ち進んだ、それも「第4代表決定トーナメント4回戦」に一段勝ち上がったというのでは、ニュースになるものではないと思うのだが、いかがだろうか。
 担当記者が、たまたまものを知らないで書いたとしても、3人連名であるから、揃って、不出来と言うことになったしまうし、その不出来が、そのまま紙面を飾るようでは、全国紙の沽券に関わるのではないか、と思う次第である。

以上

2024年6月 2日 (日)

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」1/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 はじめに~NHK番組批判の弁
 今回は、NHK番組の批判ですが、下一の報道機関である公共放送NHKが、古代史分野一機関の粗雑な仮説を、十分検証せずに番組制作した点に批判の重点があります。以下、番組進行順に、即席の批判を積み重ねたので確認いただければ幸いです。(素人著作の批判とは別世界です)

〇NHK番組紹介~NHKサイトより引用
 私たちが暮らす日本という国はどのように誕生したのか。神話の世界と歴史的事実をつなぐのが全国に4700基ある前方後円墳だ。今、最新の科学技術を使った研究から、新発見が続いている。番組では最初に築造されたと考えられている巨大前方後円墳の「箸墓古墳」の謎の解明を出発点に、それを築いたヤマト王権が一体どのように誕生し、日本列島の姿を変えていったのかに迫ってゆく。出演:松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか

〇粗雑極まる「タイトル」設定
 この番組紹介を見ると、まず「前方後円墳が語り出す」と言う怪奇現象に驚き、チャンネルを間違えたかと思うのです。二千年前に造成され、半ば放置されていた遺跡が今、声を上げて語り出すなら、現代人が陰に隠れた子供だましのお化け屋敷です。河内の古墳群の近傍は、うるさくてしょうがないでしょう。いずれにしろ、公共放送が、教養文化番組として製作すべきタイトルではありません。
 どうも、当番組は、国立歴史民俗博物館(歴博)宣伝番組のようで、タイトルも持ち込みかも知れませんが、NHKは視聴者からの受信料で運営される公共放送ではないのでしょうか。妖怪が、しゃしゃり出てきたら、先ず、「名を名乗れ」というものではないでしょうか。
 以上のように不吉な番組紹介を越えて番組を視聴しましたが、特定の団体に奉仕する内容は目を覆わせるもので受信料返せと言いたいものでした。

 因みに、雑踏となっている先入観を離れてタイトルを見ると、「ヤマト王権」は、「前方後円墳」の萌芽と成長に伴って台頭したという主張だけであり、これは、遺跡、遺物に基づく多数の研究者の合議体による「実直な考古学考察」に連携しているので、特に異論を述べる筋合いはないのです。いわば、鉄壁のご高説なのです。
 ところが、『そのような「実直な考古学考察」定説を奔放に変形して、その萌芽を、倭人伝の描く三世紀にずり上げ、「ヤマト王権」の成長発端を、大幅にずり上げた無理がたたっている』のです。
 学界全体で築きあげた考察は、同様の過程を経て、つまり、同様の時間をかけて、同様の合議体で審議して、初めて改訂できるものではないでしょうか。 

〇 無批判、無検証の危うさ
 一番問題なのは、この番組には、従順な聞き役しか出てこないで、長々と「歴博」の勝手な(検証されていない)主張を無批判に踏襲することです。特に論敵「九州説」の主張を、勝手に代弁して揶揄していることは、公共放送による論争報道のありかたとして、論外です。よく言う(勝って当然の)独り相撲です。
 「歴博」と言うと公平な視点で運営されていると解されがちですが、多額の運営費用と有能な人材を投入して「纏向説」を高揚している「畿内派本山」と見えるのです。

 さらに言うと、番組が、世上論議が渦巻いているC14年代判定の「歴博お手盛り」の無謀な見解を無批判で採用するのは不穏です。本来、自然科学技術による客観的な判定であるべきものが、歪んでいると否定的に評されるのは、つまり「歴博」が存在意義をかけた独自判定で、念入りに判定者に圧力をかけたものと思われます。判定に要する最先端機器の、高額の運転費用を、意に染まない判定結果であれば、費用支払いに疑義を呈する、と言うか、次回以降の判定依頼を「考慮」するという言外の圧力は、むしろよく見かけるものであり、別に驚くものではないのですが、この事例では、ちょっとあからさまな形で露呈したようです。(安本美典氏の考察を参考にしていますが、自分なりに分析した物です)

〇 粗雑な科学見識、大時代の内部闘争
 ニューオンが「見えない素粒子」とは珍妙な意見で、「見える」素粒子などありません。子供だましでなく、「科学的」に述べて欲しいものです。
 「殴り込み」など、反社会的団体風言動がそのまま出回っているのは、「畿内説」陣営内の不穏な動きを暴露しています。そして、それを、視聴者にぶつけるのは、NHKの品性を疑わせます。チェックなしなのでしょうか。

〇 甘い判断
 因みに、松木教授は、軽く、箸墓が卑弥呼の墓なら、女王国は纏向しかあり得ない」と断じます。それ自体、軽率で非論理的な、無用の断言です。畿内説論者でも、箸墓は「倭人伝」に書かれている卑弥呼の墓ではないことが明確だから、むしろ、宗女「壹與」の墓であろう」とする論者が見えます。浅慮早計で、立脚点を間違えているようです。
 続いて、三世紀文献、中国史書「魏志倭人伝」に従えば「九州説」も成立する」とは、けったいな独善です。
 先の「女王国」誘致発言とともに、伝統の「倭人伝」改竄戦略から撤退、転進したのでしょうか。このあたり、自陣営の過去の発表との整合が審査されていないようで、さらに、番組司会者から過去番組との関連に対して何の質問もないのが、奇っ怪です。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」2/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

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〇 「ヤマト」王権~「文化」の詐称
 ヤマト王権が、七世紀あたりに、律令制度を敷いたのは、遣隋使、遣唐使の持ち帰った知識によるものであり、従ってそれ以前には何も法制がなかったと見ているはずです。
 各地にほかの「文化」があったと誤解を述べますが、文字の無い世界に文書はないから「文化」はなく、単なる、風俗習慣です。その証拠に、文書記録が皆無で、何も伝わっていません。

〇 粗雑な列島展望
 さらりとごまかしていますが、筑紫、北九州に太陽の女神の信仰はなかったと言う主旨が述べられています。これほど重大な仮説をどさくさ紛れに開陳するのは、胡散臭い物がありますが、倭人伝に、「太陽の女神」は、一切登場しないのです。何を主張しているのでしょうか。

 そして、「列島最大」と言いますが、関東、東北はどうなっていたのか。いずれも重大な提言に説明がありません。仰々しい四千を越える墳丘墓の検証はなく、大半は「箸墓」論議です。奈良盆地内の他遺跡の考察も、ほとんどありません。まことに、胡散臭い自家製新説です。

〇 不穏当な「ルーツ」論援用
 箸墓の「ルーツ」が各地に窺えるとは、「職人を大挙拉致し、奴隷として駆使した」との主旨でしょうか。
 造墓は大規模な技術集団を必要とし、技術を結集しようにも、言葉の問題以外にも設計図が読めなければどうにもなりません。職人拉致談義は、「ルーツ」と言う(語源に戻ると、大変)不穏当な用語のせいばかりでもありませんが、「神がかり」よりは、まだまともな考察です。

〇 箸墓造営論
 箸墓は、石積みで覆われたとして、倭人伝で、卑弥呼の墓は、「冢」、つまり土饅頭であり、巨大なものは作れません。考証の齟齬でしょうか。
 王墓造成には、まず、候補地を決めて縄張りし、一大土木工事、それも、未曾有のものを施行しなければなりません。
 当然、多数の労力を長期間動員するので宿舎と食料が必須です。それは、国家として保有している官人、食料庫の他に設けなければなりません。期間中に必要な石材や材木を倉庫に貯めねばなりません。などなど、厖大、広大な建設現場が必要で、国家の中枢を離れたところに設けるものです。
 つまり、墳丘墓は、国の王宮などから、相当離れた場所に設けざるを得ないのです。王宮は、南の飛鳥や北の平城京あたりとも思えます。
 一部に、卑弥呼は、筑紫で君臨していましたが、晩年に畿内方面に移住し、そこで没して、墳丘墓に埋葬されたという「奇説」を聞いたことがあります。(「奇説」は、伝統的用法であり、褒め言葉です。念のため

 素人考えですが、こうした異論をすっ飛ばすとは、松木教授は余りに太平楽ではないかと思われます。それとも、良い度胸をしているのでしょうか。

〇急遽否定された武力統一
 ここで、松木教授は、従来の「定説」を覆して、ヤマト王権は、武力統一なしの合意国家と言います。学界を揺るがしかねない大転換ですが、纏向派は、いつ、どのような論議を経て、転進したのでしょうか。

 文書のない時代、列国が対話、談合するとしたら、話す言葉は不統一の筈であり、どうやって意思疎通し、合意ができたのか、合意の文書記録をどのように残したのか、まことに不思議です。近隣同士なら、日頃の近所づきあい、口頭対話で折衝が進められますが、離隔していて季節の挨拶しかできなければ、当然疎遠であり、まして、往来しようにも片道数ヵ月かかっては、新年の挨拶も粗略になりがちで、いつまで経っても、ほぐれる一方で固まるはずのない天下です。
 いや、そもそも、当時の交通事情を想定すると、遠隔地の国と喧嘩することも、同様に困難なので、中国戦国時代の秦国の取った「遠交近攻」の政策が賢明なのです。文書通信があり、街道での往来が容易であった先進国でも、隣り合っていればこそ喧嘩して争うことができたのです。
 「合意」と称して諸公は騙せても、配下は国益を損なう合意に納得しないはずです。武力で威圧しなくては、手前勝手な契約を押しつけることはできないのです。
 古代、漢武帝が、西域諸国の服属を求めて、百人規模の使節団を各地に送り込みましたが、服属どころか、使節団を一度ならず皆殺しにして、高価な手土産を奪い取った例が珍しくないのです。武力無くしては「説得」できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」3/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 空疎な「広域」観 
 つまり、互いに十分知り合えない「疏」状態では、広域国家も広域連携も幻想であり、飾り立てても空疎です。最近まで、畿内は「野蛮な」周辺地域と交流がなくて平和だったとの説が聞こえましたが、空耳だったのでしょうか。

〇「倭国乱」の真意~後漢書「大乱」の放棄
 むしろ、健全なのは、倭人伝に「倭国乱」とあっても、実際に戦ったのではないとする見解です。これに対して、当ブログの守備範囲外ですが、記紀に多数見られる戦闘や殺戮の記事は、全て虚構というのでしょうか。

〇 「文化」「伝統」の蹉跌
 「文化」と「伝統」と言いますが、「伝統」は、先祖以来の氏族構成に従う「王位」継承を言うのであり、また、文字のない「文化」の融合などあり得ないのです。

〇 気象学「新説」の暴走
 続いて、突如、気象学ご託宣ですが、標本採取場所の気象災害は、妥当な見解でしょうが、広域災害を断じるのはどうでしょうか。
 ヤマト盆地が災害を受けにくかったとは不思議です。盆地は、降水量が少ないものの、東の山並みからの急峻な渓流で、多雨期には、出水、氾濫があったと推定されます。その意味では、大型建物を高床にしたのはもっともですが、一般人の住家は、どう水害対策したのでしょうか。
 いや、唐古・鍵遺跡のように、二世紀にわたって環濠が維持されていたとする見方は理解できるのですが、纏向に広域の環濠は見当たらず、用水路が目立つだけです。
 して見ると、近隣の唐古・鍵遺跡などの伝統考古学に基づく時代考証も必要ではないでしょうか。ヤマト盆地に、纏向しか無かったわけではないはずです。
 古道「山辺の道」は山腹を等高線で結び纏向扇状地に降りてないのです。巨大な湖沼の存在した低湿地が、次第に乾燥したのは、雨量が少なかったからではないのでしょうか。要するに、ヤマト盆地の時代推移すら、手軽に説明できるものではないと思うのです。

 因みに、余り語られないのですが、奈良盆地を南下して、吉野方面に進むと、冬季の寒冷は厳しく、纏向から赴いて越冬するのは、無理なのです。中には、吉野の高台に「吉野宮」を見る幻視客がいますが、高台で一段と厳しい寒冷地であり、纏向人は、冬季、屋内でも水がめが凍り付く気候に耐えられないと考えます。
 南に向かうと気候が温暖になると決め込んでいては、万事地図次第で、地に足の着いた時代考証が、根っからできていないのです。「歴博」は、土地勘一切無しで、地図上の線引きで迷走する事例が多発しているのですが、関係者は、誰も現地確認していないのでしょうか。

〇 天下中心幻想
 ヤマト盆地は、「交通の要」であったと言いますが、四囲を山並みで守られた「壺中天」(まほろば)という古来の見方は、どうなったのでしょうか。纏向付近の世界観であって、飛鳥や平城京付近は、山並みに近いので、隔離された感じはさほどではないかも知れませんが、いずれにしろ、全体として、固く閉ざされた環境と見た方が、当時の「まほろば」秘境的世界観として適確なような気がします。

 いずれにしろ、河川交通が無いに等しく、陸上交通も、街道網が発達していたとは見えないし、あったとの立証が試みられていない以上、壺中天が「交通の要」とは、 言いたい放題のホラ話のように聞こえます。言うだけなら、「自由」で「ただ」ですから、言いっぱなしにしたのでしょうが、公共放送の教養番組の場なのをお忘れなのでしょうか。NHKは、一切、番組内容を審査しないのでしょうか。

 大規模な研究組織に研究員が多数いれば、中には、自説で全組織を支配するような極端な思い付きを述べ立てる方もあるでしょうが、織全体で構築、維持してきた考古学理論全体の整合性は、吟味しないのでしょうか。
 古来、新説の99㌫は、思い付きだけで根拠を持たない「ごみ」説に過ぎないのです。長年の定説を転覆させるような「新説」は、千年に一度でしょう。

 「日本」の前史時代を終えた時代、河内側からの峠越えの物流が至難で、大和川遡行も不可能事であったので、淀川・木津川水運に至便の平城京を設営したのを見落としています。さらには、平城京建都の最中に、北の木津付近に水運に適した恭仁京を設営しようとしています。奈良盆地が、交通至便というのは、空文だったとわかります。

 どさくさ紛れにも程があって、纏向から大阪湾に通じる大運河などという極大幻想が出回っていて、その一点だけで空論とわかります。傾斜地に運河を設ける絵空事は、不可能事と明らかです。実験不要の自明事項です。また、当時の河内平野は、奈良盆地から流入する大和川と南河内から流下する石川が合流後直ちに分岐展開して北に流れ、安定した「水運」など不可能だったとみられます。

〇 東京一極集中の弊~時代錯誤依存症
 ここで、松木教授は、纏向は現代の東京のような「首都」と言い張ります。またも神がかったようですが、時代錯誤の塊です。
 現代の東京は、法治国家であって、統治機構が集中していて、企業本社が集中し、離島も含め遠隔地に及ぶ全国から、人材に加えてカネや資源が流入してくるのであり、別に自然現象ではありません。
 そのような現代社会機構と歴史の霞の彼方の古代纏向の仮想政権は、どこが共通でしょうか。不思議です。聞き役から、当然質問がありそうですが、台本にないのでしょうか。

 纏向には、当然、文書記録も法秩序もなかったのです。「国家」を運用するために財務機能はあったとして、通貨制度がないのに、どう計算して帳尻を合わせたのでしょうか。どこに、警視庁や高裁に相当する司法機関があったのでしょうか。法はなくても罪と罰はあったのでしょうか。とても、類推できるものではありません。

*首都の由来 2024/06/02
 「首都」の語義解釈もいい加減で、当時にあっては、と言うか、言葉として通じたとしても、精々大きい「街」に過ぎないのです。
 あるいは、各地に存在する「都」(まち)の、頂点に立っているに過ぎないのです。陳寿「三国志」魏志によれば、後漢末の混乱を経て、転々と天子の居処が移動したために「国都」が乱立したのを整理するために、雒陽が「首都」であると宣言した故事があるのですが、松木教授は、中国史に対して無教養なのでしょうか。
 素知らぬ顔で、現代語を持ち込んで、時代錯誤を引き起こしているのは、中国古代文書の教養に乏しい纏向説の論議に良く見ますが、それにしてもまずい手口です。

〇 「一都会」再現
 いや、現代語と言っても、若者言葉では、「都」は、大きな街(まち)の語感になっていると聞いています。俗に言う、「人、物、金」を、磁石が「鉄くず」を吸い付けるように集めているとも見えます。実は、太古、「都」とは、「人、物、金」が一ヵ所に都(すべて)会する集散地、「一都会」という意味だったようですが、いわば、言葉が先祖返りしているようにも見えます。

〇 王者葬列幻想
王の死にあたって、各地から多数が参集したといいますが、それほど多数の人間が、どのようにして、一斉に旅することができたのか説明がありません。どんな方法で告知して、期限厳守で出席を命じたのでしょうか。このような場合、遅参は死罪と決まっていましたから、何をおいても参集したことになるのですが、そのような「葬制」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、街道未整備で、従って、満足な宿舎はなく、宿舎がなければ食料や水はありません。現地調達としても、何を対価として賄い、物乞いせずに辿り着けると想定していたのでしょうか。焼き物のような器物は、町々の市での順送りで「一人歩き」して長距離移動しても、人は、日々何かを食べて、日々歩かなければなりません。そのような「犠牲」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、遠国からの参集者に過大な負担を押しつけないとしたら、各地の沿道では、公務の旅人には、無償で食事を与え、宿所を供じるとしなければなりません。どうやって、それを補償したのでしょうか。そもそも、太古、道の宿などあったのでしょうか。何しろ、遠隔地もあるので、沿道を通じて、そのような制度を維持するのは、当時としては、厖大な負担になるのですが、なぜ、負担を強いられて、反抗しなかったのでしょうか。

 三世紀に、国家制度の裏付けがある、宿駅の完備した古代街道が各地に通じていて、公務の旅人は、身一つで移動できた」と主張されるなら、是非とも証拠を示していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」4/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
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〇 虚構の葬列~絵空事で済まない考証
 いや、(予定していない)逝去で、急遽工事に着手しても、墳丘墓の造成には五年、十年かかるから、参列者の準備期間はあったでしょうが、遠隔地から、手弁当、つまり、道中の食料を背負ってやって来て、帰国の途は、どうしたのでしょうか。
 三世紀に、参集する人々一人一人を、そのような命がけの旅に駆り立てたのは何なのでしょうか。それぞれ、故郷では、そこそこの地位にあったもののはずです。何のために、何を求めて、半年、一年、家族を放棄して、異国に出向くものでしょうか。それでも、万難を排して生きて帰国しなければならないのです。

 これほど壮大な儀式を、手順書なしにしてのけるのは人間技と思えません。いや、番組ではCGによって軽々と壮大な儀式を描き出していますが、ご自分で手書きで、全人物を描き込んでみれば、絵空事を見せるのも、結構労力を要することがわかるはずです。各人が肉体を備え、故郷に家族のいる生きた人間であれば、絵空事どころではないのです。
 文献がなくても、各人の労苦は、容易に想到できるのではないでしょうか。

〇 「お墨付き」漫談
 ここで、纏向論者から「お墨付き」の比喩が出ましたが、文字も紙もないので、書き付けの「お墨付き」はあり得ないし、江戸時代ではないので武家諸法度などは無く、「お墨付き」には、何の裏付けもありません。「お墨付き」の類いの漫談は、そろそろ卒業して欲しいものです。いつまでも、留年を重ねて、すねかじりをされては、天下に迷惑を流すのです。

〇 「ネットワーク」漫談
 ここで「ネットワーク」なる時代錯誤が持ち出されます。聞き手の質問がありませんが、古代史論で何を言いたいのか理解に苦しみます。なぜ、問い返さないのでしょうか。聞き手は、たっぷり説明されて、丸ごと理解したのかも知れませんが、古代史に興味を集中している視聴者には、何もわからないのです。

 簡単に考証すると、「ネットワーク」のそれぞれの「節」は、送られてきた情報とエネルギーがあって生存できるのです。道路がなく文書がないと、全て、有能な使者の「野駆け」頼りであり、物品の輸送も、人手頼りです。と言うことで、「網細工」は実現できません。漁網であれば抜け放題です。
 要は、各地勢力は、まばらに点在していただけで、密接な連携などできたはずは無いという、冷静な理解が必要です。
 むしろ、「点と線」と、松本清張氏の名作のタイトル(著作権?)に抵触する、古典的な比喩が出てくるのです。古代史分野では、時代を問わず、「ネットワーク」は禁句にしたいものです。

 何がどうだったのか、皆目わからない古代の様相を描くのに、自分でも理解できていないカタカナ言葉を使うのは、二重の時代錯誤です。
 そんなたわごとは、少なくとも、古代史論議では、ご勘弁頂きたいのです。借り物の言葉は、早く貸し元に返して、自分の理解した言葉で語るべきです。自分のネタで漫談してほしいものです。

〇 華麗な画餅
 松木教授は、締めくくるように、見てきたような借り物の纏向絵図を持ち出しますが、ここまで丁寧に説いてきた考古学の道筋を無視して、怒濤の虚像を描くのです。ご自分で考証したのでもないのに、無検証、無批判なので借り物なのです。
 因みに、古来、「画に描いた餅」、「画餅」の比喩があります。空腹を抱えた身に、食べられない画餅は、ご勘弁いただきたいのです。いくら、きれいに描いても食えないものは食えません。まずは、ご自分で味見してから、視聴者に勧めたらどうでしょうか。

〇 冷静な時代考証
 最後に、横合いから良心的な意見が提示されて、巨大墳丘墓は、設計図が必須であり、設計図を駆使できる共通基盤が不可欠であるとしています。墳丘墓に実寸図面は使用できませんし、実現には、当時としては厖大な縮寸計算か、現場での作図が必要です。当然、幾つかの技術者集団が巡訪して、できる限り口頭で技術移管したと思うのです。もっとも、文字も紙文書も無い時代、「設計図」は、どこに書かれたのでしょうか。
 考古学分野で、実際のあり方を踏みしめていた森浩一師の実直な論議はどこに消えたのでしょうか。長年の纏向派の論議の基盤を覆す、掌を返すような転進は無残に見えます。

〇 古典派考古学希求
 ここまで控えていましたが、「纏向博士」と時に揶揄された石野博信師は、多年に亘る考古学学究から得た広範、多岐の遺跡、遺物に根ざした考察が根底にあり、確たる考察に裏付けられた信念を感じさせましたが、今回聞いた松木教授の歴史浪漫に漬け込んだ「浪漫派」論議は、浪漫溢れる巨大な「ヤマト王権」誕生の三世紀幻図に引き摺られて、理念無くして意見が動揺し、素人には信じがたいのです。

〇 無目的なブレゼンテーション
 それにしても、この番組を、一人舞台、独り相撲としたのは、誰に向けた提案(プレゼン)なのでしょうか。少なくとも、当方は、こんなメシは食いたくないと思うのです。
 ひょっとすると、過日の「邪馬台国サミット2021」で、不振であったことに対する「意趣返し」でしょうか。それなら、物量主義でしてのけた華麗な「プレゼン」でなく、検証と試錬を重ねた丁寧な論議が必要ではないでしょうか。それは、NHKが論じるべきではないでしょうか。

 善良な視聴者、納税者としては、「金返せ」と言いたいところです。
                                以上

2024年5月31日 (金)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 1/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
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□総評
 今回の題材は、国立歴史民俗博物館松木武彦教授(日本考古学)(以下、歴博、論者との略称ご免)のご高説の紹介らしいのですが、記者の史観が混じり込んでいるか不明なので、見当違いな批判があればお詫びする次第です。

*全知全能幻想か
 論者の専門は国内考古学で、普通、(日本)列島内遺跡、遺物に関するご高説と思いましたが、堂々と「世界史的激動」であり、圏外かと危惧します。

 記者の言葉ですが、「当時、寒冷化で地球環境が悪化し、世界的にも大転換期だった」と時代錯誤の神がかりが述べられ、失礼ながら、「当時」の列島内遺跡、遺物にどう露呈しているか不思議です。論者の提言かどうかは別としても、とんでもない空想がかたられているという印象を禁じ得ません。
 素人目には、法螺はほどほどにしないと信用をなくすと言いたいのです。

□誤解招く「世界」通観の書き出し
 そのあと、豪快に世界史通観ですが、首を傾げっぱなしです。論者が博識を披瀝しても、説明は概してずさんで、日本考古学には的外れでしょう。世界」的と大風呂敷を広げたものの、南北アメリカ、アフリカ、そして、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸、等々には何も触れていません。言わずもがなで不可解です。

 そのあと、「東夷が漢墓制を真似た」と急に重箱隅になり不首尾です。「漢」でも大規模墳墓に豪華副葬品を収めた皇帝もあれば、文帝のように薄葬を命じた皇帝もいます。漢を中原政権と捉えるなら、魏創業者曹操が後漢皇帝墓の盗掘を目撃(実施)したことから、薄葬を遺命による国是とし、墓所は秘匿されたので、東夷が真似ようにも真似られなかったのです。

 いやはや、杜撰のてんこ盛りです。言わない方が良い余談です。

*世界崩壊の津波の余波
 「秩序が崩れて集団間の競争が激化しました」と無責任に言い放つのですが、どの世界、いつの話で、それは、どのような遺跡、遺物で立証されるのでしょうか。それとも、ただのほら話、「冗談」なのでしょうか。

 論者は、神がかりの筆致で、当時、つまり、紀元四世紀あたりの「世界」を描写し、それが、列島に影響を及ぼしたと言いますが、列島の地域支配者が、ヨーロッパ等の状勢は論外として、中原墓制の変化を知り得たか不思議です。
 まして、列島に及んだ余波の結果、銅鐸が廃棄されたというのも、意味不明です。何か、廃棄儀式の能書きでも発掘されたのでしょうか。

*破格の論議
 『「劇的」な変化が連続しておこった』とは、世にも不思議な言い回しで、「大状況」も、「状況」の意義を錯誤の上に、何を「大」と言うのか不可解です。

*ご冗談でしょう
 全体として、「ご冗談でしょう」です。脈絡のないほら話は、逆効果です。記者は納得したのでしょうが、歴博の日本考古学とは、根拠も何もないまま、素手でこのような夢想を紡ぎ上げるのが専門なのかと言いたいところです。

■解答なき問題
 ここで、読者に問題が投げつけられ、意味不明で解答がないのです。
 「世界」が、現代語の全地球、全宇宙なのか、戦国時代の「天下」なのか、盆地世界に閉じ込められた井蛙の井戸なのか、意味が不明では、凡人には応答できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 2/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
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*墳丘墓巨大化術の楽観と達観
 論者は、大規模な墳丘墓は在来の封土、土饅頭を大きくしただけだから、在来技術の延長線で施工できたとあっけらかんとおっしゃいますが暢気すぎます。
 二㍍の墓は近所の寄り合いでできても、二十㍍の墓を地区全体で、大勢でよってたかって作るには、縄張りやら線引きやら、工学的な指図が必要です。親方一人で仕切れず専門集団が必要です。二百㍍の墓は、それこそ、近郷近在以遠を駆り立てて数年にわたる大事業で、高度な政治的指導力が必須です。高度な理数概念を駆使した本格的技術集団が必要です。とても、とても、素人の成り上がりではこなせません。長年にわたって集団を維持するためには、世襲工人集団となります。
 「土は盛りやすい」と楽天的ですが、盛りやすいと崩れやすいのです。墳丘墓が巨大化すれば災害も巨大化し、とても、素人にはできないのです。

*拡大の算術解
 規模が拡大すれば、どこかで、単純な拡大主義は、大きく破綻します。
 二十㍍墳丘墓は二㍍の十倍でなく、資材所要量は、数百倍に上ります。
 二百㍍墳丘墓の資材所要量は、二㍍の数十万倍から百万倍に上ります。資材所要量と所要労働力は、ほぼ比例関係であり、資材と労働力が大幅に増大すると、工事現場への輸送距離、人員の移動距離が、それにつれて急激に増大します。

 厖大な人員の宿舎が必要になり、食糧供給も厖大です。いくら生前着工の寿陵で、自身の采配で、計画的に十年は越える長期の巨大工事ができても、その間の国政は、維持しなければならないのです。
 かくして、為政者には超人的な行政手腕が求められたはずですが、各地で、代々受け継がれたという事は、それを支える職能集団が列島に采配を振るったという事のように思うのです。
おそらく、文字教養どころか、理数教養まで備えた外来の集団が、当時の各地に「文化」を齎したものと思うのですが、歴博の日本考古学は、そのような考えをしないことにしているのでしょうか。文化は、人が言葉と行いで伝えるものであり、風に乗って漂い来るものではないのです。
 論者は、まさか古代史を坦々たる上り道のように見てはいないでしょうが、こう簡単に見ただけでも、凄まじい、険阻な先上がりが見えてきます。俗に右肩上がりと言いますが、自然界には、これほど上がる肩はないのです。

*不可解な階級指標
 次いで、当時、列島に「中国風」の絶対的な階層社会がなかったと認識しながら、広くゆるやかな階層構造があったとしていて、意図不明です。自認しているように、層は不連続で層間に仕切りが入ります。
 文書のない世界で、そのようなきめ細かい階層をどう規定し、運用していたのでしょうか。階層が一段上がれば墳丘墓の各部はどう変わり、どのように施行され、どのように測量したのでしょうか。
 歴博の日本考古学は、衛星軌道から地上を観察しているようですが、伝統的な考古学のように、地を這い、なめるようにして大地と対話して地道な考察をしないのでしょうか。

*見えない規模格差
 階層の具体像が不明なまま、そのような階層構造であったため、階層の規模を明確に視覚化するために、頂点たる「王墓」が巨大化したとしています。
 どうにもよくわからないのですが、冒頭に記者が指摘しているように、現代のビルから見下ろしても、王墓の形態や規模は正しく認識しがたいのです。当時、ある土地と別の土地の墳丘墓のどちらが、どれほど大きいのか、構造が どう違うのか、誰が認識したのでしょうか。墳丘墓施工で、どうやって、各部「設計寸法」をきめ、実際に確保したか、不明です。

*時代錯誤
 当時の「国防」を推定していますが、論者専門外の朝鮮半島で不思議な言動があります。「山域のネットワーク」とは、時代を超えてローカルエリアネットワークでも形成していたというのでしょうか。

*巨大化の動機付け
 「大きいことはいいことだ」的感情が巨大化を促しても、厖大な労力と資材で、身の程を知っていたと思わなければ、当時の人々の無分別を根拠なしに蔑視することになるのではないでしょうか。
 家畜の首の鈴が巨大銅鐸に、小振りな銅鏡が直径四十㌢の巨大鏡に化したと言いますが、銅鐸はとうに廃棄したはずで、時代錯誤のご都合主義と見えます。このような安直極まる、子供じみた類推をおもてに立てるのでは、折角の学術的展開を一気にぶち壊す蛇足です。
 続く「中国にはない」とは、文化を知らないものの「蕃習」という自嘲表現でしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
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■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。
 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。
 一瞬、めまいに襲われて、戸惑います。「本格的」が律令時代とすると、古墳時代は、何だったのでしょうか。
 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、論者も自認するように、文字がなかったので、中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは、不勉強丸出しで、不出来ですが、兎に角、『墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」である』というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。
 続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。
 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない「残る全世界」の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、日本考古学」の圏外から論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法であるとともに、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。歴博は、メディア対応を論者一辺倒にしているのを排して、愚直に学術的な見解を提示できる方を人選して、人を変えた方が良いのではないかと愚考します。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。
 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。
 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、説得力に欠けているように思われます。
 私見では、当時の税制として、収穫物の貢納、産物の貢納以外に、労力の提供が唱えられていて、権力者は、公共の土木工事に民衆を動員する権限を有していたのですが、もちろん、農作業に支障を来さない合理的な動員期間はあったでしょうし、メシと寝床は支給したでしょうから、それは、「奴隷同然の強制労働」 などではないのは明らかです。 農民を酷使する権力者は、いずれ、打倒されるものです。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

2024年5月28日 (火)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号 1/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆者から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように思える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは、著者の意図に反すると思うのだが、季刊「邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。
 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。

 同組織は、国民全体に研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、組織としての著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。

 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、また、各大学は、全て研究成果を国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。

 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が、現代の著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号  2/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

⚪私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。
 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。
 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である三国志は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。
 三国志を写本するという行為は、既存の著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。
写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。

 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。
 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。
 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば、「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。
 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。
 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。
 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 1/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢はじめに
 本書は、新人物往来社が、斯界先賢の寄稿、ないしは、刊行物引用によって、特集テーマに関する総合的な定説構築を図ったものと見えます。「臨時増刊」特集各号は、古代史関係で多数の好著を輩出し貴重な情報源となっています。この点、星五つ、本特集も同様、賛嘆置く能わざる、と言う感じです。

◯石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」
 当稿は、目下審議中の「倭人伝」行程道里論、特に、『半島陸行に対する「和船史研究家」石井謙治氏の否定見解』に対して、石井氏が、ご自身の豊富な学識に背くように専攻分野中心の偏見で史料解釈しているのを捉えて異論を呈するものです。
 「魏志倭人伝」記事考証で「日本列島と大陸間」と述べていて、素人目には、地理概念の調整が必要と見えます。九州北部から半島内陸の帯方郡への経路が問われる/問われているのであり、殊更、雑然と視野を広げて、説きようのない難題を拵(こしら)えて、手近な解決を水平線に押しやって、解決を困難にするべきではないと思われるのです。

*技術考証
 当時の船体の技術解明において、六世紀前後と見られる大型「複材剥舟」遺物は、所詮、倭人伝の三世紀後であり時代考証不適当と見えます。
 同誌には、三世紀から五、六世紀にかけて造船技術の進歩がなく、むしろ後退したとの憶測が説かれていますが、その間「大陸」交流が断絶したわけではないので、長期の技術停滞/後退は信じがたいのです。造船技術は、大規模な事業からの注文を必要とするので、理由もなく衰退することは考えられないのです。定期的な造船が行われていれば、技術は世代を越えて継承されるのであり、その間、近場の小振りの船の造船も続くはずであり、衰亡と減退とは相容れないでしょう。
 素人が納得できるように、根拠を示していただけると幸いです。

 その後、準構造船考察と国内史料依拠の七、八世紀軍事作戦の裏付けを進め、筆に勢いがありますが、三世紀の渡海船構造談義と大きく隔絶しているのです。

*大軍派遣の「考証」
 例えば、斉明四~五年(658~9)の軍船180隻(艘)蝦夷出兵、天智元年(662)の軍船170艘百済派遣、天平宝字五年(761)の新羅侵攻作戦用394艘造船」と巨大な数字が連発されますが、架空のホラ話の感が否めないのです。どのように派兵計画を構想し、関連工事を推進し、兵員を呼集し、派兵を実現したとして、以後船体はどう活用されたのか、「画餅」でなければ、首尾一貫して記録するものではないでしょうか。
 誰かが基本構想を立て、誰が、全体図から明細図を書いて各担当部隊に配布し、そのような広大で込み入った造船計画を統御したのか、人材育成、技術移管の面だけ見ても、大変疑問が残ります。
 ということで、以上は、書紀編者が筆を嘗めた虚構と見えます。これだけの字数を書き立てるのに、別に、汗一つ書かなかったでしょう。
 八世紀末の平安京遷都後には、要地の造船所に所定の技術者が配置されたでしょうが、「ローマは一日にして成らず」の成語通り、所望の予算を継続して費消しても、体制作りには、五十、百年を要すると見えます。

*時代背景考証の試み~素人の素人考え
 そもそも、7世紀中葉とされている、北関東から発して直近とみえる「蝦夷」征夷に多数の軍船を催すのは、小振りの沿海船行なら、「画餅」と言っても「一口小餅の盛り合わせ」の類いとみえ、見かけ倒しとみえます。相手とみえる「蝦夷」は、当然、多数の軍船をもっているわけではないと見えるので、船戰(ふないくさ)はないから、兵員の陸上移動が困難な事情があったのでしょうか。何とも、趣旨不明、不可解です。どの道、現地で軍務を行うには、大量の食糧補給が必要であり、やたらに/やみくもに兵員を送り込んでも、何の戦にならないと思われます。

 これに並行したとみえる7世紀中葉の百濟への軍船派遣は、元来、筑紫の専任とみえますから、北関東方面と別ですから、好きなだけ盛ることが出来たとしても、せいぜい、一船辺り乗員、兵員合わせて数十人止まりとみえ、麻布、麻縄を大量に造作したとして、何をしに/何を得ようとして百濟に出向いたのか、誠に奇異です。
 百濟は、黄海を隔てて先進の中國造船業を利用可能であり、大型の帆船を調達することが出来たので、なぜ、交通不自由な南「馬韓」を越え、さらに、未通の海峡越えで、わざわざ小振りの倭船を求めたか不思議です。加えて、高句麗、新羅が敵であれば、陸戦勝負が大勢とみえるので、ひ弱な倭船は、ますます出番がありません。
 新羅とは、三世紀辰韓斯羅国時代以来交流があったため弱小な蕃国と見下していたとしても、侵攻談議の出ている時代は、嶺東統一後の新羅であり地域最強とも言える軍事大国であり、黄海岸では南北大国を押しのけて楔を打ち込むように海港を確保していたのであり、もはや、気軽に征伐できる相手ではなくなっていたのです。
 して見ると、百濟派遣から百年を経た今更、わざわざひ弱な軍船を造成して侵攻するなど、無謀とみえるのです。計画倒れで、造船、徴兵を中止したのは、天の恵みとみえます。
 以上は、当ブログ筆者にとって、圏外の時代なので、素人くさい思いつきを連ねているのではないかと恐縮ですが、氏は、和船専門史家の務めとして、同時代の時代考証を行い、大計画群が砂上の楼閣か、実質の裏付けがあるか、論考の必要があると見受けます。

◯倭人伝行程道里考察~誤解釈の確認
 氏は、中国史書である「倭人伝」の読解に於いて、ご自身の専門分野の領域拡大のために勝手読み(誤解釈)していると見えます。

 後世の遣唐使船が、ある時期から東シナ海越えの冒険航海になったのを見て、『それだけの造船技術があったのなら、「北路」は半島西岸沖合航路であった』と決めつけて、ついには、『堅実確実な半島内陸行程と目前の山東半島への軽微な渡船とみえる「新羅道」』まで遡って、同様の冒険航海と決め付けるのは、時代錯誤の牽強付会(誤解釈)です。

                                未完

新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 2/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*遣唐使新羅道談義
 新羅道は、半島東南部の王治慶州(キョンジユ)から北上し、小白山地を竹嶺で越えて、西に黄海岸に降り、漢江河口部南方の通称唐津(タンジン)海港を経た山東半島渡航の途次であり、慶州~唐津間を要所の驛亭を経る安全/確実な陸道としたのに拘わらず、氏は、頭から西岸沖合航行と決めてかかっています。
 半島史素人にも、第三次遣唐使時点、西海岸南方は概して百濟支配下でしたが、肝心の漢江河口部南方には、新羅が戦い取っていて海港を設けていたと窺えます。つまり、西海岸沖合航行で百濟海港に寄港する行程なら「新羅道」と呼ばれることはないのです。

 因みに、半島西海岸中部から「大陸」に渡るには、海上行程の短い漢江河口部南方が唯一の適地であり、それ以外の土地からの渡海は、行程が長期化するため、不可能だったのです。あるいは、山東半島側には、新羅公館が設けられ、百濟船の入港を武力排除していた可能性もあるのです。いずれにしろ、当時、同航路は、新羅の独占、排他状態であり、新羅は頑強だったのです。尤も、遼東半島との往来は、依然として、高句麗が頑健に死守していたので、港湾は、新羅、高句麗の「呉越同舟」だったともみえます。

*新羅の国威の根源
 新羅は、古来、南下する高句麗とこれを排除する百済との武力の狭間を、多大な犠牲を払ってこじ開けて自国領を確保し、中国に認知されるに至ったので、独占した海港の権益を損なう試みには断固実力行使したはずです。

 と言う事で、丁寧に時代考証すると、氏の唱える北路観は、憶測に過ぎず、はなから間違っています。氏は、慶州唐津間行程が陸上街道で、唐津から山東半島渡海船は新羅船では、和船の出る幕が無いので、意識外にしたようですが、先入観に囚われた論考は勿体ないものです。南方からの和船参入はあり得ないのです。

*沖合航行談義
 因みに、氏の「北路」は、特に難路ではないので、航路に熟知した現地「パイロット」(操縦士でなく水先案内)を想定していますが、当然、航路全般に通暁した案内人はいないので、寄港地毎に案内人が交代したはずです。これは、港港と「条件交渉」すればいいので、地元は、入港料や水、食糧の補給代に多額の関税もあり、商売として成立すれば維持できたはずです。
 結局、出発地政権と新羅、百濟両国の関係を、「日鮮関係」と時代錯誤の概念で括るのは随分粗雑です。百済と新羅の怨恨を無視されているのは、感心しません。

◯百済新羅抗争
 古来、漢江河口部に在ったとされる百濟の王治漢城ですが、史上知られる高句麗長寿王時代の南下攻勢で漢城は陥落し、王族は全滅して、百濟は亡国で要地を奪われ、南遷して、旧都回復目指し反撃角逐していたところ、東方嶺東の僻地から興った新羅が、小白山地越えで貿易最適地を奪ったので、百濟は再度の失地回復を国是としていて、南部でも小白山地を挟んだ新羅との東西紛争であり、両国の和解はあり得なかったのです。

*「北路」航海記欠落
 氏は、遣唐使記録に「北路」航海記がないと歎きますが、新羅道陸行は、新羅使随行の臣従の体で、とても、実態を書き残せなかったのです。
 氏は、天平八年(736)の遣新羅使の半島東海岸への航海記を提示していますが、近隣外洋航海と見受けます。恐らく、筆者、読者ともども、内陸住民で海を知らなかったため、ことさら感動、特記したのでしょう。

◯まとめ~半島内陸行の裏付け
 と言う事で、新羅慶州から漢江沿岸部の海港唐津への陸道は、倭人伝時代以来、確立された公道で迂遠で危険な沖合航行はなかったのです。
 これは、帯方郡から狗邪韓国まで「陸行」』の当然とは言え、強力な支援です。
 氏にしたら、新羅道陸行説は、不倶戴天の敵、すなわち「天敵」なのでしょうのが、結果として、倭人伝」行程道里解釈の順当な解釈を妨げ、国内古代史解釈に長く暗雲を投げたので、まことに罪深いのです。
                                以上

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 補充 1/3

古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店        2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16, 11/10 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

*コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでないと見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

*当ページのまとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に異を唱えるものではない。また、担当部門から示された「御国自慢価値観」について批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           続く

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 2/3

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16 2022/11/10

*関連資料評
Ⅰ.古代の宮都 (奈良県立橿原考古学研究所)
「飛鳥の宮」 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。

*コメント
 「宮都」は橿考研造語ではないが、中国古典書に出典が見当たらず、「宮室」「都城」の解釈に「和臭」が漂って「定義」が不明瞭である。

 「宮室、都城」と言うが、それぞれの単語の意義が吟味されていない。「宮室」は「宮」の一室でしかない一方、「都城」は隔壁集落の一形態であり特段の機能を示していない。つまり、当該政権支配者の居処とは見て取れない。「都城」の「都」に、天子の権威を見たくても、中国古代史で普遍的に支配的な解釈とは見えない。
 要するに、折角の絵解きであるが、大小長短に差異のある二概念を一括りにして何かを示すのは、学術用語として大変不可解である。

 案ずるに、諸兄姉は、「京都」なる中国語成句が、国内史では平安京に固く連結しているので、同義と見た「宮都」に回避したのだろうが、検討不足と見える。

 要するに、素人目には、「宮都」は、(中国)古典書に確たる用例の無い、国内史学会自家製「新語」、手間味噌造語と感じたが、素人ならぬ中国史学界の権威から、別途異議が提示されているので、続いて紹介する。

 なお、この「新語」は、三世紀に対して不整合であるが、この点は別義とする。

*「物々しい造語」の空転
 それにしても、「支配力の絶対性を象徴する」とは、物々しく、意味不明な概念であり、なぜ普通の言葉で言えないのか不審である。何か、業界の申し合わせでもあるのだろうか。
 「宮都」を根拠として「政権」が確立して、「支配範囲」に対抗者がなければ、自然に「絶対性」が見えるが、所詮、「支配範囲」の外は保証の限りでない「井蛙」の世界観である。但し、善悪の評価は別義とする。

 端的に言うと、藤原京、平城京、長岡京時代に続いて千年を閲した平安京時代のどのような状態を指して「宮都」というのか、少なくとも、素人には大変不明瞭である。まして、
 論じる時代の「世界観」の等身大、同時代の理解がないと、いかなる比喩も空を切る。それには、不当な造語を、何としても避けるべきである。
 当記事筆者の勝手な「意見」を、諸兄姉に返させていただく。

                                未完

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 3/3

古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店        2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16, 11/10 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*関連資料評
Ⅱ 唐長安城および洛陽城と東アジアの都城 王仲殊 中国社会科学院考古研究所
 掲載誌 東アジアの都市形態と文明史 巻21 ページ411-420   2004-01-30
 中国古代の長安や洛陽などの都は「都城」と称されるが、1960-70年代に日本の研究者は改めて「宮都」という用語を作り出し、これを以て日本の藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ぶ。80年代以降、一部の研究者は、日本の都が一貫して羅城をめぐらせないので、「都城」という用語をそれらに使えないと主張し、専ら「宮都」の用語で藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ばなければならないと強調している。
 ところが、『日本書紀』の記載によれば、天武天皇十二年(683年)十一月に「凡そ都城・宮室は一処に非らず、必ず両参を造らむ」という詔がある。又『続日本紀』桓武天皇延暦三年(784年)六月の条に「都城を経始し、宮殿を営作せしむ」という記事もある。つまり当時の日本の朝廷の規定により、藤原京・平城京・長岡京・平安京などの都がすべて「都城」と呼ばれるのは疑いもない事実である。それゆえ、「宮都」という新しい用語に慣れない私はやはり、中国の長安・洛陽などの都城と同様に、日本の藤源京・平城京・長岡京・平安京をそのまま「都城」と呼ぶことにする。

*コメント
 時制が不確かであるが、要は、王仲珠氏見解は、国内史家の言う「宮都」は古代史用語として「不適切」ということである。言い回しは柔らかであるが、其の実は、決然たる否定と見える。

 因みに、「羅城」を巡らしていなければ「都城」と言えないというのは、恐らく、「国内」基準であり、素人目には、根拠不明の強弁と見える。中国基準では、「國邑」は、城壁で囲まれていなければならない、つまり、そうでなければ、侵入者を排除できないので、生存できないというのが当然であるが、「倭人伝」は、倭人の國邑は、必ずしも城壁で囲まれていないと認めているから、上記は必須ではないのは明らかである。

 その点を、王仲珠氏は(日本)国内史料を参照しつつ指摘しているのだが、国内史学界は、頑冥で耳を貸さないようである。

◯本件総評
 正木氏が、本稿で提示された「卑弥呼の宮都」は、率直に言って、国内史学界に巻き込まれて迷走しているようである。
 まず、本件は三世紀記事で在るから、時代相応に、つまり、中国史学用語で解釈すべきである。
 世上、「倭人伝」で、「女王之所都」は「女王の都とする所」と解されているが、正史「倭人伝」で東夷蕃王「都」は場違いであり、「女王之所」が妥当である。「宮都」自体、二十世紀に発明された六世紀対象の造語で在るから、当然、三世紀に波及できない。また、卑弥呼居処は「都城」であったと証されていない。

 種々考察したが、卑弥呼「宮都」は、二重の錯誤である。と言うことで、正木氏が採用した「卑弥呼の宮都」と言う言葉は、重ね重ね不合理であり、総じて撤回された方が良いと思うものである。理由は、以上で説明を尽くしたものと思う。

*用例批判
 参考までに、「中国哲学書電子化計劃」検索で、「宮都」らしき用例は、二例である。
 用例があるではなないか」と声がありそうだが、古典書以来僅か二例で、しかも、正史でなく権威の乏しい文献であるから、三世紀時点には、典拠として起用されていなかった証左である。

 一例目は、とかく疎漏の目立つ「御覧」所引であり出典正史に見当たらない。出典があれば用例となるから、出典不明なのは「御覧」でしばしば見られる空引用の証左である。
《太平御覽》 《咎徵部三》 《風》
《陳書》曰:陳文帝天嘉三年…[改行]又曰:天嘉六年…[改行]又曰:后主至德年…明年,陳亡[改行]又曰:隋文帝開皇中,宮都大風,發屋拔木
 「御覧」所収「陳書」に、後世の隋文帝記事があるのは、ここでは批判しない。隋文帝都城大興城(長安)全体で、建屋が飛んだとか、木が根こそぎとか、大災害で、「文帝獨孤皇后干預政事,后宮多有濫死,又楊素邪佞」と不穏な政情を招いただろう。いずれにしろ、これら記事が陳書のどこにあるのか、見つからなかった。
 いずれにしろ、「御覧」は、全体として分量、紙数を積み重ねることを至上命令としていたと見え、取材で得られた史料を嚴に批判して「ジャンク」や「フェイクニュース」を峻別するのを怠っているから、正史などの精選史料と同列に論ずるのは、大変な間違いなのである。

 二例目は、下記を「三十六宮都是春」と解すのは不適当で、「三十六宮、都(すべて)是春」が妥当である。
 《朱子語類》 [金] 1270年 《程子之書一》 『天根月窟閑來往,三十六宮都是春』
 先の「女王之所都水行...」を、「女王之所」、「都(すべて)水行...」と解すのと同様の文型と見える。
 「宮都」なる成語が当たらない以上、それが順当な解釈であろう。

 当史料も、権威を備えているかどうか、慎重な検証が必要であるが、文意を解する限り、天の「三十六宮」』は、天が順次運行して健(すこ)やかに春を迎える(天行健なり)の趣旨と見える。つまり、ここに述べた解釈で意を尽くしていると見える。

 して見ると、「宮都」なる漢語は存在しないから、第一例も、「宮すべて」の意味で書かれているのかも知れない。
 要するに、「宮都」は幻影である。

 用語検索は、的が外れて転んでも、ただでは起きないのである。
                               以上

2024年5月26日 (日)

新・私の本棚 石井 幸隆 季刊「邪馬台国」143号「古代の海路を行く」 再掲

「離島の考古学-日本の古層を探る旅」季刊「邪馬台国」143号 令和五(2023)年六月一日
私の見立て★★★★☆ 好記事 瑕瑾多々  2023/06/12-16 2024/05/26
 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 本号は、待望久しい新刊であるが、昨年の142号発刊より2カ月程度先行していることもあって、また、「邪馬台国の会」サイトに、本日(2023/06/16)現在、なにも告知がないのもあって、一週間以上刊行を見逃してしまった。と言う事もあって、ここでは、新刊告知をかねている。

*瑕瑾
 大小取り混ぜて、氏の玉稿に散在する瑕瑾を取り上げさせていただく。

*無法な「海路」
 いきなりタイトルで躓いているが、氏は、国内古代史の研究者であって、中国資料には疎(うと)いと見えるので用語が的外れでも仕方ないのだろうか。少なくとも、中国古代史書に「海路」はあり得ず、氏の圏外での無学を吐露していると言われそうである。

*史料談義

 本文冒頭の『「古事記」の原本は存在(現存の意味か)しない』とは、古代史分野に蔓延(はびこ)る一部野次馬論者の無責任な放言に似ている。但し、定番では、この後に「原本を読んだものも現存しない」と続くが、幸い、氏は、そのような放埒の泥沼を辛うじて避けているつもりのようであろう。
 通常は、史料批判の劈頭では、現存最古の写本論義や数種の写本間の比較を語るはず(語らなければならない)であるが、氏は、いきなり正体不明の「写本」とだれが物したか分からない現代語訳を持ち出して、これに基づいて、氏の持論を開示していくのである。これでは、読者には、資料の確認ができない。
 氏は、「写本」の現物を確認してなのか、いずれの解説書に依存しているのかも語っていない。何とも困ったものである。
 これらは、史学論文の基本の基本であるので、編集部が何の校閲もしていないのが心配である。
 以上は、恐らく、氏の追随した「お手本」がお粗末なのだろうが、お手本を真似をするかしないかは、氏の見識の問題と思うので、ここに指摘する。
 ちなみに、中国史書の分野で、「原本」とは「原典」と解すべき文字テキストであり、太古の史書の現物が存在していることを言うのではない。この辺り、氏の見識が、どんな背景にあるのかわからないので、是正のしようがないのである。

 なお、氏は「古事記」に拘泥しているが、倭女王が魏に遣使したのは、日本書紀「神功紀」補注に記載されているので一言触れるべきと思われる。

*「九州」談義

 「九州」は、中国古典書で言う天下全体に由来しているとの説が有力であるから、これも、一言触れるべきと思われる。

*船越幻想~いやしがたい迷妄
 本稿で重大なのは、「船越幻想」の蔓延である。氏は、何気なく、船を担(にな)って、つまり、人力で担(かつ)いで陸越えしたと言うが、そんなことができるものでないのは明らかである。反論があるなら、現地で実験/実証して頂きたいものである。但し、寄って集(たか)って一回実行できたから、当時実施されていたと実証できた」などと、こじつけずに、そのような難業・苦行が、長年に亘り地域の稼業として持続できるかどうかということである。せめて、丸太を転がした上を、大勢で曳いて滑らせたというものではないか。それにしても、船体、船底部の損傷は重大であり、とても、長期に亘って運用できるものでないのは、理解いただけるものと思う。
 ついでに言うと、海船船体は、船虫が食いかじるものであり、川船と異なって、寿命の短いものなのである。

 そもそも、手漕ぎで渡海すると言っても、対馬界隈は、強靱な、つまり、骨太でずっしり重い船体でないと運行できないのである。そして、「船」と言っても、総重量の大半は、船体の自重(じじゅう)なのである。水分をたっぷり吸った船を、寄って集(たか)って担(かつ)いで陸(おか)越えしたとは、三世紀の古代社会に対して何か幻想を抱いているものと見えるが、だれも、覚ましてくれないようなので、ここに謹んで、幻想と申し上げる。ちなみに、時に言われる「船荷ごと担ぐ」というのは、無謀である。船荷は、小分けすれば、誰でも担げるから、当然、手分けして運んだと思うのだが、世の中には、そう思わない人がぞろぞろいるようなので、書き足したのである。先に書いたのは、「空(から)船」の「陸(おか)越え」である。
 この地以外でも、荷船を担いで陸(おか)越えしたという幻想は、揃って早く「殿堂」入り、退場頂きたいものである。

*持続可能な事業形態
 要するに、陸の向こうにも荷船と漕ぎ手は十分にあったから、陸を越えて運ぶのは、荷下ろしして小分けした積み荷だけで良いのである。
 小分けした積み荷なら、最寄りの人々が、とにかく寄って集って運べば良いのであり、担おうが背負おうが、勝手にすれば良いのである。
 もともと、手漕ぎ船の積み荷は限られるので人海戦術と言っても知れているのである。向こう側で、船を仕立て出港すれば、船体が痛むこともなく、また、住民を酷使することもなく、持続可能である。いや、漕ぎ手すら、ここから、知り尽くした経路の気軽な帰り船を運航するのが常道であり、あえて陸を越えるのは、大変、大変非効率的である。
 世なれていれば、道半ばに溜まり場を作って、担ぎ手が荷を取り換えるものとしておけば、荷運びと言っても、来た道を担い下って地元に帰るので、負担が軽い上に、その夜は、慣れた寝床で休めるのである。どの道、毎日のことではないので、農家の副業として永続きしそうである。

 このあたり、氏は、具体的な、しかし、当時の実態に即していると証しようのない、つまり、でまかせの時代錯誤の現地地形図まで付けて、対馬浅茅湾界隈の「船越」を語っているが、行程の「高低」は語っていないので、当世流行りの架空視点になっているのではないかと危惧される。この際に要求される労力は、どの程度の高みを越えるかで決定するのである。
 また、ここは、倭人伝で、『街道でなく、まるで「禽鹿径」(みち)である』と言われるように、手狭で、上り下りのきつい連絡径(みち)、つまり、ぬけみち同然の未整備状態なので、荷馬も台車も使えず、大勢で担ぎ渡りしたと見えるのである。
 色々考え合わせても、氏が、この区間を大勢で船体ごと担いで渡ったと固執する理由が、一段と不明である。何か確たる物証が有るのであろうか。

*「ロマンティック」、「ロマンス」の(良くある)誤解~余談
 氏は、欧州系の話題に疎(うと)いらしく、ローマ談義の余談に「ロマンティック」、「ロマンス」の誤解が飛び出して、困惑する。どちらも、欧州の中世騎士道談義について回るのであり、男女の恋愛には全く関係無いのである。よく調べて頂きたいものである。
 因みに、19世紀オーストリアのクラシック音楽の大家であるアントン・ブルックナーには、”Romantishe”(ドイツ語)の「愛称」が付いた大作交響曲があるが、日本で、なぜか英訳を介して「ロマンティック」と通称されたため、随分誤解されているようである。あるいは、ドイツには、「ロマンティック」街道(Romantische Straßeと親しまれている観光名所があるが、これも、「中世騎士道を思わせる街道」という趣旨であり、通称のために随分誤解されているようである。氏も、こうした誤解に染まっているようであるが、ここに言及するには、ちゃんと語源を検証して欲しかったものである。誤解の蔓延に手を貸しては、氏の名声が廃(すた)るというものである。

 因みに、氏ほど。世上の信頼を集めている論者であれば、責任上、「Romantic」は、ローマ帝国と無関係とする有力な意見があることも、考慮すべきである。

 「専門分野」を離れるとその「離れた距離の自乗に比例して、見過ごしと誤解の可能性が高まる」ものである。ご自愛いただきたい。

*AIIDA談義~余談
 後出の「アイーダ」談義も的外れである。
 提起されたAiidaは、イタリア19世紀の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが古代エジプトを舞台に描いたオペラのタイトルロール(題名役)であり、実は、敵国エチオピアの王女が、正体を隠して虜になっていたのだが、最後は自害する薄幸の人なのである。
 悲劇の主人公にあやかったのでは、あまり元気が出ないと思うのだが、Aiidaをアルファベットで書くと、船名列記のトップに来るので命名されたようである。現に、大抵の百科事典で、Aiida/アイーダは、冒頭付近に出て来るので、氏も、ちょっと目をやれば、オペラ歌手/プリマドンナのことでないことはわかったはずである。
 それにしても、ここは、氏の博識をひけらかす場所ではないのである。

*離島談義~「要路」の島嶼国家と離島
 さらに言うなら、厳しく言うと、壱岐、対馬は「離島」などではなく、「倭人伝」によれば、両島は、大海に連なる州島、流れに浮かぶ「中の島」であり、朝鮮半島に当然のごとく繋がっていた交通の「要路」だったと思われる。
 見方によっては、一時期、「一大国」は、「天国」(あまくに)として地域の中心であり、それこそ「従横」に巡らされた影響力を持っていたとも見えるのである。但し、「倭人伝」は「郡から倭への行程」に専念していたので、「従横」と言っても、「横」は一切描かれていないのである。
 ついでに言うと、「倭人伝」の視点で言うと、末盧国、伊都国の属する山島以外は、行程を外れた「辺境」「離島」とされているので、「本州」も「四国」も、離島ということになる。万事、どの時代のどの地域の視点を採用するかで、位置付けが異なってくるのではないかと思われる。掲載誌から注文を付けられたにしろ、そのように明言された方が良かったと思うのである。

 因みに、明治の文明開化の折、壱岐、対馬が、最終的に福岡県を離れたのは、両島は、他に「離島」のない福岡県に重荷になるので、五島などの島嶼が多い長崎県に任せたと見えるのであるが、どうだろうか。氏ほどの見識であれば、そのような見解を耳にしたことは有るはずであるから、そうした視点から見た両島の行政区分について、一言あってしかるべきだろう。

*稼ぎ頭の保身策
 因みに、交易路での収益は、「国境」、つまり、倭韓境界での取り引きから生じるのであり、言うならば、対馬は、三世紀において、稼ぎ頭(がしら)だったはずである。また、倭の諸公は、対馬に心付けをはずんでも、競い合って売り込んだはずであり、そのためには、米俵を送り届けることも、それこそ、日常茶飯事であったはずである。もちろん、そんなことを、帯方郡に知られると、何が起きるか分からないので、「倭人伝」にあるような「食うに困ってます」との「泣き」を入れていると見えるのである。そうでなくても、豊富な海産物の乾物類を売りさばくことも多かったはずである。 

*まとめ
 というように、つまらない瑕瑾がゴロゴロ転がっていて、しかも、肝心の「船越」談義が、一種法螺話になっているのは、まことに勿体ないことである。
 氏は、既に、社会的な地位を極めて久しいので、ここに書いたような不快な直言を耳にしていなかったのだろうが、それは、氏に対して失礼と思うので、率直な苦言を呈するものである。

以上

2024年5月25日 (土)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。
 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。
 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず、何より重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。自書が、先行諸書籍と取り違えられるのを期待しているのでなければ、何とかして、一見して差のあるタイトルにしようと苦闘するはずである。
 著作権、商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。
 かくして、本書の社会的生命は、たちまち地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、まずは、天下に曝した上で、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである。
 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。著者には、当然、学者としての自負心があるだろうから、自罰/自傷行為としかみえない暴言が、どこから出てきたのか、どうして、出版者が制止しなかったのか、不思議である。

 個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する史学が「過去に起きた事実を、後刻推定する科学」である以上、「直接見聞/検証する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかない」ことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。
 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、聖器である柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、史学では、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。脂汗が出ても、「売り」を立ててはならない。 

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。

*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。喉元まで、「幼稚」の言葉が出そうになるが、呑み込む。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、無教養で軽薄な現代人たるご自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。司馬晋が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。
 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、「魏史」として昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官韋昭が、私的に、つまり、魏晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している、と言いたくなるほどであるが、言わないことにする。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのだろうが、このような支離滅裂と言われかねない証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍「扉」が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる「査読」者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。
 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、ご自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、同書の以下に続く内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。
 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2024年5月24日 (金)

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 1/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

◯始めに
 当記事は『纒向学研究』「センター設立10周年記念論集」掲載論文です。

*予備知識 水林 彪氏の箴言再掲
水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話   2016/09/21 
 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ:古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
 抄録冒頭抜粋:8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
 しかし、氏は、同記事で、同時代には存在しなかったことが明らかな「架空地図」談議をもちだして「から騒ぎ」して躓いていました。

*本論
 今回は、物々しい論考が晴れの場に提示されています。とはいえ、タイトル/サブタイトルの設定が、随分、こなれが悪いのです。
 普通、タイトルは、上位概念で注意を引きつけておいて、サブタイトルで、具体性を持つ下位概念に落とし読者を本文に引き込むのですが、本稿では、手順前後になっています。
 改善案 中国古代帝国主義の「東夷」開闢 ~ 漢武帝・宣帝の半島・列島支配の夢

 前漢代、武帝の半島四郡設置は、ホラ話に終わって早々に空洞化したので、「始まり」などと呼べる者ではないのです。なにしろ、漢武帝代の「東夷」は、ほとんど、遼東郡管轄下の高句麗、扶余だったのです。曹魏代に至っても、半島南部は、未通、未開の「荒れ地」だったのです。

 武帝の放漫な拡大志向は衆知として、皇太子反乱の結果、王宮外の孤児育ちだった公孫宣帝は、武帝逝去後の混乱時代を経て民間から呼び戻され、「帝国」主義の悪弊、放漫財政、その結果巻き起こった苛税/過酷な塩鉄専売を除くという堅実な思考であり、帝国拡大活動の収束、長久化を図ったものと見えます。一度、班固「漢書」をじっくり読まれることをお勧めします。

*異次元基準の乱入
 水林氏は、先に挙げた箴言を引きつづき放念されたか、欧州式の世界観を、無雑作に中国太古から国内古代に到る宏大な史論に塗りつけていると見えます。言うまでもありませんが、後世、欧州で常用された史学論議は、古代中国史に適用できないのは自明なのでもったいないことです。

*太古「帝国」主義の怪
 ともあれ、中国古代の漢代に、近代欧州の産物である「帝国主義」は存在しなかったから、論じようがないと見えるのです。まして、漢帝の威光が朝鮮半島南部に手が届いていない状態で「列島支配」は端から不可解で、途方もなく場違いと見えます。この辺り、纏向学派に共通の「迷い」と「見栄張り」だけに誹りを向けられません。
 いや、実際は、岡田英弘氏の「欧風」に染まっているのかも知れませんが、何分圏外なので、良く見通せないのです。

                                未完

 

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 2/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*虚空の銅鐸「文化」
 続いて、氏は、考古学の成果である「銅鐸文化」の年代、地域比定を取り入れ、列島内の地域性を述べていますが、銅鐸によって確認できるのは、「特定の技術を有した集団が一貫した作風で銅鐸を制作していた」と言う工芸技術論であり、当時文字史料が存在していない以上、それが「文化」と呼ぶに値するかどうか不確かであることを示しています。時代錯誤と見えます。(「銅鐸に金文はない」ものとみています)

*未開の「ゲノム」解析
 続いて、現代科学の先端である「ゲノム」解析による人種比定を取り込み、漢、韓の人種特性が捉えられて/創造されていますが、学術的な支えが稀少で未検証遺物に依存との難点を押し流して「新説」崇拝の弊に陥っています。
 何しろ、氏は、長江下流域に存在していたと推定する集団に前五十(七十?)世紀の年代を比定し、その後、山東半島付近に前二十四(四十四?)世紀の集団を比定し、更に、半島西南部に前十一世紀を比定する大技連発のあと、当該地区で形成された「弥生人」の水田稲作集団が、大挙北九州に渡来したとしています。今一つの「時代錯誤」です。
 「新説」の(カラ)さわぎと云えば、水林氏は、毎日新聞専門編集委員までのめりこんでいた「架空地図」のホラ話の悪疫から醒めていないのでしょうか。

*壮大な構想
 氏は、長江下流から山東半島までの区間を水田稲作の到来始点としていますが、山東半島が稲作技術の伝道基地となった理由はよくわかりません。水利不便とみえるのですが、水田遺構が大規模に出土しているのでしょうか。

*緩やかな移住経路~私見 
 当ブログ記事筆者の私見として、水田稲作が、 東夷の発祥地たる戦国齊領域に展開した後、半島東南部経由で北九州に伝播したという構想に同意します。
 ただし、以後の伝播経路には、異論があります。韓半島への集団移住には、渡海の「容易さ」が必要/必須であることから、先ずは、もっとも早期に定着していたとみえる遼東半島への渡海の可能性が高く、後に開拓された(唐代命名とみえる)唐津(タンジン)辺りへの渡海が落とし所と見るものです。
 ともあれ、半島に渡海/定住すれば、後は、陸上の話ですから、歳月を味方に東南方に展開し、後世の狗邪韓国から筑紫に渡ることも、むしろ確実な渡海「解」と見える、というのは、「倭人伝」依存症の偏見の技でしょうか。いや、この辺りは、水林氏の触れていない当ブログ筆者の固執ですから、読み飛ばしていただいて結構です。

*「東夷」幻想~私見 
 前十世紀辺りでは、当時、半島基部の戦国「齊」が形成されていた時代であり、臨菑は、漢書で言う「一都會」、すなわち、人、物、金の交流の要として繁栄していたとされるから、孔子の云う「東夷」である目前の韓半島に新天地を求めたかもしれません。渡海行程は、軽微な筏で移動できたから、水田稲作に必要な農具、技術、そして、肝心な種籾を携えた集団が移動できたと思われますが、半島南部から北九州への移動は、大変至難と見えます。

 さらりと、餅の画を描いて、それで一丁上がりではないのです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 3/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*場違いの引用
 ここで、以下の断言が登場して、読者は、突然、水林氏の中国正史一括断罪に加担するかどうか、身を引き締めざるを得ないのです。なにしろ、このような「神がかり」を、検証無しに受け入れると申告した覚えはないのです。「纒向学研究」の忠実な読者は、ここまでに、水林氏に対して終生不変の忠誠を誓っているのでしょうが、当論考は、資格限定のない一般研究者に定して開放されているので、異論を唱えることは、許されるとみているものです。
 中国正史夷狄伝は儒教的中華思想を展開する場であるから、権力を背景とする朝貢命令のことは意図的に隠蔽し、朝貢が自発的なものであったかのように書くことを常とする。中国正史の記述を真に受けてはならない (渡邊義浩 46頁以下・167頁以下参照)2012『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書

*原文確認
 ことは、渡邊義浩氏が、当該著書で開示したと見える「託宣」ですから、一般人読者としては、折角の原資料、渡邊義浩 2012『魏志倭人伝の謎を解く』の引用位置を参考に、当該部の史料批判を試みます。
1.「46頁以下」
 同書では、「唯一の夷狄伝」と題されていますが、これは、先行して明記されている三国志唯一の夷狄伝「烏丸・鮮卑・東夷伝」と順当に解されます。当方は、無学無教養で、正史列伝の件数の数え方に通じていないので、お説に従います。
 渡邊氏は、「史学と儒教」として論議を進めていますが、実際は、「三国志」に先立つ、司馬遷「史記」、班固「漢書」の史書としての精確さを論じていて、不思議なことに「史記」の記事で、殷(商)の王位継承や殷墟の位置がほぼ正確に記録されていることを論拠として「史記」が正確であると証し「三国志」が、曹操の墓の位置が正確に記録されているという未検証の推定を述べた後、『「三国志」も正確な部分は正確である』と述懐されていて、筋の通らない意見になっています。
 「史記」は、多くの部分で伝承/風聞/果ては、巷間で演じられていたと見える在来戯作に依存した「物語」であることは衆知であり、一方、殷(商)の王位継承や殷墟の位置は、そうした「物語」でなく、「史実」の記録、つまり、殷代文書の承継であるから、正確なのは、原史料が正確だったと云うだけです。後段で、「史記」の大部分を占める「物語」に対しては、民間で流布していた「史劇」、「講談」の類いを収録していたと述べていて、前に述べた「史記」評価は、例外部分に過ぎないとみえます。
 渡邊氏は、「三国志」の記事も、陳寿が「史料」承継に務めた部分は正確であると誠に当然の総括です。陳寿編纂「魏志」の「本紀」、「列伝」部分は、西晋首都雒陽の公文書庫由来の「史実」の忠実な収録でしょう。これは、三国志注解を公刊されている渡邉氏には「釈迦に説法」でしょうが、氏は、何等かの意図で、その当然な見解を糊塗していると見えるのです。

 さて、ここで、渡邉氏が「魏志」夷狄伝全般に糊塗している「儒教的論理」は、まことに迂遠であって、「魏志」「本紀」、「列伝」は、史実、つまり、公文書記録の正確な承継であって正確であり、「夷狄伝」は、例外的に陳寿の恣意の割愛や改変によって正確さを喪っているとしているのです。水林氏は、渡邊氏の論考のこの部分を先行する文脈から隔離して「読み囓って」、前に引用した意見をとりだしたようですが、それが、渡邊氏の本意かどうか不確かと言わざるを得ません。

 渡邉氏は、ことのついでに、典型的な史官とされている班固「漢書」すら「列伝の一例で儒教擁護の圧力に屈して史実を改竄している」と非難した筆の勢いで、陳寿「魏志」も夷狄伝に於いて「当然」筆を曲げていると弾劾しているのですが、素人としては、「それは渡邊氏の意見でしょう」と呟くしかないのです。何しろ、後漢朝史官たる班固にとって、何が真っ直ぐであったかわからないでは、漢書が曲がったか曲がってないか、どうすれば、真っ直ぐになるのか理解できないのです。

 渡邉氏は、そこまで物々しく、司馬遷「史記」、班固「漢書」なる、それこそ巨峰の如く聳え立つ大部の二大正史について、高々とした視点から言い募った挙げ句、突然、至近の「魏志」論の局地的な論議に舞い下り、『陳寿「魏志」夷狄伝が「西域伝」を欠いているのは、「蜀漢が西域との交通を支配していて、曹魏の西域支配を妨げていた」と示すことを憚った』ためだと断じているのですが、素人目には、それが儒教原理に屈した」とは、とても見えません。

 以下、渡邊氏は、裴松之が「魏志」に補注した魚豢「魏略」「西戎伝」を評して、『充分「魏志」西域伝とするに足る内容があるのに採用しなかったのは、曲筆である』と断じていますが、これは、氏にしては軽率な評価とみえます。
 何しろ、氏は、三世紀の史官ではないので、魚豢「魏略」「西戎伝」のテキストを魏志「西域伝」として収録すべきかどうか、職掌として判断する見識も権限もない二千年後生の無教養な東夷の一員なのですから、論拠を求めるのであれば、素人にもわかるように、魏志「西域伝」の復原を試みて、東夷と対比できるる傑物であると証していただきたいものです。論より証拠です。
 氏ほどの高潔な歴史学者が、史料に根拠を確保できない独断を公表するのは、もったいないことです。

                                未完

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中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
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私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

1.「46頁以下」(承前)
 素人目には、『魚豢「西戎伝」は、魏朝西域事績をほとんど含まず、後漢事績を曹魏が禅譲により全て承継したとした』が、陳寿は「後漢西域都督の撤退を継承した曹魏の西域支配の形骸化を明示するのを避ける」ために「西域伝」を割愛し裵松之は陳寿の判断の裏付けとして魚豢「西戎伝」全文収録したと見えます。疑問の方は、魚豢「西戎伝」から後漢事績を取り除いて再読頂きたいものです。

 渡邉氏は、魚豢「西戎伝」の字数を重視し、「西戎伝」眼目の大国「安息」記事を近傍の弱小な浮草「大秦」記事と取り違えた前世誤解に流されて「列伝に相応しい」としますが、遺憾ながら、渡邊氏は晋朝史官でないので、あくまで局外者の私見です。

 渡邊氏は、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」と当然格別ですが、本新書は、何しろ「邪馬台国」論の新書/文庫版分野でのベストセラーを目指しているので、学術書の厳密さを離れ、数多い凡百論客に阿(おもね)り、時に筆が鈍(なま)り、時に筆が撓(たわ)んでいるのではないかと危惧する事態です。
 それかあらぬか、渡邊氏は、一旦下した「推測」の裏付けにもう一つ「推測」を括り付けたために、二人三脚で共倒れする一種自損行為かと危惧します。
 論拠の数を増やすと、それぞれに内在する瑕疵が堆積し斜陽の途をたどるものです。史学分野は、論考裏付けは数量/質量頼り「多多益益弁ず」(項羽)が最後の隠れ家のようですが、鉄壁ならぬ紙と藁の小屋では、いくら壁を増やしても、「隠れ家」になっていないとみえるのです。
 渡邊氏は、当然、かかる悪習に無縁であり、魚豢「西戎伝」論を、言わば急場の援軍、奥の手として起用したようですが、敗勢反転の援軍なら、先鋒に立てて快刀乱麻とすれば良いのにと思うものです。
 渡邊氏は、疑問の多い「西域伝」事例で、「陳寿が曹魏夷狄伝に懐疑的」と敷延した後、にも拘わらず「東夷伝」を集録したのは、明帝景初年間の司馬懿遼東制覇で「それまで遼東公孫氏が長年阻止していた東夷制御が開通した功績」を顕彰するためとしていますが、些か浮評とみえます。司馬懿の遼東制覇は、明帝の遼東/東夷観に命じられた軍事的なものであり、明帝自身は、勅命による遼東/帯方両郡回収で、両郡の東夷教化を皇帝自身の功績としたものであり、以後、用済みの司馬懿を任地に戻す意図であったと事実上明記されています。勅命に即応しなければ誅伐であり司馬懿は即座に関中に帰任していたはずです。
 ところが、明帝病臥により、皇帝千秋の際、有力者による幼帝傀儡化を抑止するために対抗する司馬懿が招致されたとされます。ここには、さすがに司馬氏正当化の造作が見て取れますが、明帝臨終の床で継嗣曹芳を遺託された感動的な「物語」であり、遠隔の「倭人」は意義のないものと見るものではありませんか。

 ちなみに、「三国志」「蜀志」では、蜀漢創業者劉備先主が、白帝城における臨終の場で宰相諸葛亮に遺孤劉禅への忠誠を取り付けた「物語」が遺されていますが、諸葛亮が、終生、後主「劉禅」に奉仕したのに対して、司馬懿は、少帝曹芳を廃位に追い込み曹魏終焉の道を開いたと「忠実」に描かれていますから、陳寿の筆は、司馬氏に媚びない史官の筆であることが明らかです。

 当分野の論客として声望の高い岡田英弘氏は、「現代日本人論客」の軽薄な陳寿批判について、『陳寿は、当時最高の人材であり、その希有の人材が身命をかけ半生を費やして編纂した「魏志倭人伝」を(陳寿から見て)二千年後生であって、(晋朝史官として要求される必須の)教養を有しない東夷が「安易に」批判するのは僭越の極みである』と云う趣旨で、小声で毒消ししています。
 要するに、「半人前の野次馬が、寝間着で表に出て、当時最高の専門家に喧嘩を吹っかけるのは、了見違いも甚だしい」とも受け取れる、誠に順当な指摘と思われます。「死人に口なし」。野次馬が売った喧嘩に、陳寿から一切反撃はないから安心でしょうが。

 先賢の警句に拘わらず、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」は、水たまりのボウフラの如く、後から後からざわめいていますが、当節、新参者の意欲を削がないようにと言うことか、無粋な警句は流行らないようです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 5/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

2.「167頁以下」(承前)
 4「鋭敏な国際感覚」は、景初倭使参上の考察ですが、世上、帯方郡から遠隔の「倭人」女王が、公孫氏滅亡に即応して帯方郡に倭使を派遣したことを、女王の「鋭敏な国際感覚」の功名と見るのに対して、これは「帯方郡太守の迅速な招請、督励の功績」であるとの裁定は、渡邉氏の慧眼/比類なき卓見と思われます。
 但し、引き続いて、招請に即応したのは、女王の治世が、中国の国家制度を学んで「当時の辺境東夷が先進の国家体制を有していた」と読み解いていらっしゃるのですが、これは、「魏志倭人伝」の真意を見逃したものと見えます。当時、半島東南部、後世新羅が出た「嶺東」地域以南は「荒れ地」の境地でした。漢武帝が、朝鮮討伐後に朝鮮の支配地域を管轄するものとして四郡を置いたとしているのですが、この地域は、際付きの「荒れ地」であり、三世紀に至っても「荒れ地」であったと明記されているのですから、漢制の最高峰に位置する郡太守を任じて、高額の俸給(粟)を給付しようにも、地域に水田稲作を展開する素地はなく、つまり、朝鮮時代以来、耕地を割り当てられる「戸」はなく、朝鮮王の居処であった王険城にいたる官道は存在せず、要するに「郡」の構築が不可能であったことは明確であり、
 さらに従って、郡/県が設けられることはなく、従って、数世紀を経た後漢献帝建安年間にも、無法の「荒れ地」であったから、ことさら、地域振興のために、公孫氏が帯方郡を設けたと見えるのです。その結果、景初年間には、韓国南境である狗邪韓国から帯方郡治に至る官道が整備されていて、ともあれ郡の体を成したようですが、そこは、あくまで「韓国」であり帯方郡管轄下の地方組織である縣や郷は設けられていないように見受けます。つまり、漢武帝時代以来、当該地域には、漢の制度は及んでいなかったと判断されるのです。
 遼東郡太守であった公孫氏の「治世」は、当然、「法と秩序」に基づく文書行政であったことから、管理に伴う公文書が蓄積されていたものであり、公孫氏自体は、司馬懿の撲滅によって、配下の官吏と公文書もろとも、灰塵に帰したと見られますが、実務を行っていた樂浪、帯方両郡は、景初年間早々に、曹魏明帝の特命によって、密かに、つまり、平和裏に官吏と公文書を温存したままで皇帝直轄郡への変換が行われたため、郡公文書は健在であり、公孫氏統轄時代の帯方郡の東夷管理の実務は確認されたと見えます。
 「倭人」の境地には「牛馬がいない」ことから、『「街道」制度が未整備である』、『「戸籍」「地籍」が文書未整備』、さらには、『銅銭流通無し』であって『遠隔「徴税」できない』、『国邑が隔壁防御無し』、風俗は『衣服が非礼』『食事は非加熱生食で非礼』等、中原文化不適合の蛮夷であって、とどめとして「中國文字を知らないので先哲の書を読めない」との欠格要件も事実上明記されています。陳寿には、「倭人」に阿(おもね)り筆を踊らせる動機は、全く無かったのです。
 以上、素人の無軽薄な考察を提供したのは、渡邊氏があえて表明していない時代認識を呈示して、ご高評を仰いだものであり、「釈迦に説法」の愚考であることは、了解しているものです。

 渡邊氏は、軽薄な陳寿批判の「現代日本人論客」とは当然格別の論者ですが、新書版解説書に於いては、そのような「現代日本人論客」に席を並べて、調子を合わせていると懸念されます。御不快でしょうが、無用の誤解を防ぐために、敬意の最大の表現として率直な苦言を述べているのです。

*「不可解」の弁
 水林氏程の大家が、なぜ、世上麗名の高い渡邉氏の山成す著書から一般向け新書本を選び、そこに展開されている陳寿「三国志」魏志論の渦巻く中から、どんな読み方で、由来不明の「中国正史の記述を真に受けてはならない」なる「神託」「神がかり」を取り出されたのか不可解です。所詮、新書版の好む軽快で非学術的な発言内容ですから、もともと、有り難がるのは不適切なのです。

 水林氏の本論考は、掲題のごとく「漢武帝・宣帝の半島・列島支配」の論証ですが、同新書は「魏志倭人伝」論考であり、二十四史なる全「正史」の一史、陳寿「三国志」魏志第三十巻の末尾一条に専念しているのは自明です。なぜ、端から明らかに見当違いの本新書に、「纏向学研究」誌の精華たる玉稿の論拠を求めたのか不可解です。また、以上のように、出典新書の特定された箇所を精読しましたが、素人読者には、そのような文脈は読み取れず、水林氏の聞きかじり、食いかじりで、原文の文脈から切り離されて生成された文言が「ご神託」と珍重されているのではないかと危惧されます。水林氏は、群鳩の中の俊鷹(A Hawk among the Pigeons)に気づいていないのでないか、と言うと、失礼に当たるのでしょうか。
 按ずるに、渡邉氏は「倭人伝」編纂の内実を熟知していながら、正史全体の編纂において広く述べて「明言」しているものでしょうから、せいぜい、不適切な解読に過ぎず、本稿は考古学論考ですから、水林氏は、暴風雨に借り物の日傘を差しているようなものです。水林氏のためにも、渡邉氏のためにも、このような「誤解」引用を惜しむものです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 6/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
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◯重大な不手際への苦言
 本稿は、論文として見て、些末とは言いがたい、重大な不手際が残されています。

*データ混乱
 図4 稲作の伝播・人の移住・弥生人の形成
 本図の出典は、「藤尾慎一郎 2015『弥生時代の歴史』講談社」のようですが、誤引用の訂正なのか資料改竄なのか、合成図の出典と制作責任者が不明で責任の所在は不明ですが、原図改竄の重大な不手際が露呈しています。

*症状:
 山東半島部の「前24世紀」は、「前4世紀」と書いた上の桁の「」の上に「2」を重ね書きしています。
 もうひとつの「前50世紀」は、「前0世紀」と書いた上の桁の」の上に「5」を重ね書きしています。
 貼り付けデータの「2」と「5」は一応「グループ」化されていますが、原図と一体化されていないので、容易に化けの皮が剥がされてしまうのです。誠に、不可解ですが、要するに、原資料を「改竄」しているのです。これによって、年代比定が二千年後世となるように改竄されています。
 動機も意図も不明ですが、改竄は改竄です。
 当ブログで、当コメントを作成する際に、図版が合成画像とわかったので、責任者不明で引用できなくなってしまったものです。

 本来、原データ引用部は、水林氏の著作部分と明確に区分して、水林氏が著作権を主張し得ない『第三者著作物の「引用」』と明記する義務があるのですが、現状は、区分を明記せずに一体化していて図全体が氏の著作物と見なされているようにみえます。
 それとも、貼り付けている「2」と「5」は、下敷きで一部隠れている藤尾氏の著作物でない、水林氏の創作という事でしょうか。

 くれぐれも、著作権のある資料の引用は、慎重であってほしいものです。いや、著作権の存在しない著作物には、その旨の明記が必要です。桜井市纒向学研究センターは、奈良県桜井市教育委員会の研究機関、つまり、地方公共団体の一部局であることから、桜井市の業務基準に従って運用されて知るものと思われますから、 その刊行物である「纒向学研究」誌は、繁雑などと言っていられないものです。誌の「コンプライアンス」遵守体制が問われると言うことは、桜井市の「コンプライアンス」 が問われているものと思います。

◯まとめ
 水林彪氏は、(遺跡/遺物)考古学の分野で深奥を極めた学究の士とおもわれますが、柵(しがらみ)のためにか、本稿では、足どりが揺らいで見えます。つまり、水林氏は、文献史学論考著述の定則に通じていないために、諸処に専門外の素人考えが露呈していて、強引なこじつけと受け取られ、不出来なものと思われます。特に、中国正史の信頼性を、対象となる膨大な資料を精読するという論証を経ずして、全面的に否定するかのような主張は、氏の見識/権限を越えた不法なものと見られるので、然るべき論文審査を経て公開されるべきものと思われます。

 巻末に[参考文献]に於いて、水林氏の専門である[考古学]分野はさておき、「文献史学など」とした括りで、氏の自著以外では、学術誌以外、一般向け解説書が記載されていますが、渡邊氏の新書以外についても、引用、依拠の際の氏の読解が適切なものであるかどうか、疑われてしまいます。更に言うならば、本稿の渡邊氏新書参照が、渡邉氏の斯界泰斗としての見識に疑義を投げ掛けると共に、水林氏の本領分野の名声を傷付けなければ幸いです。
 ちなみに、当方は、素人であり、生活がかかっていないし、史学分野での人間関係にも無頓着なので、率直な批判ができるのです。

                                以上

2024年5月22日 (水)

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」1/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16


◯始めに
 「新古代史の散歩道」は、当ブログと紛らわしい名称を名乗っている後発ブログであるので、ここでは、混乱を避けるために、中国古典書の筆法に倣って、冒頭二文字「新古」と略称することがあるのをお断りしておく。
 又、同サイト全体は、本来、地道な(遺跡/遺物考察専門の)考古学専門記事であり、又又本来、素人の批判など許されないものである。本記事は、同サイトの余傍分野である「倭人伝」解釈であるので、当方専門範囲の基準に照らして客観的な批判を試みたものである。

*記事批判
乍南乍東(さなんさとう)は韓半島の西岸を航行するときの船の進み方である。

コメント:

現地は、歴史的に朝鮮半島である。いや、「新古」子は、半島南半を「韓半島」と呼ぶとに決めているのだろうか。説明不足で不明瞭である。
いずれにしろ、懸案は、本来、西岸及び南岸を合わせた議論である。何故、西岸だけに限定するのか、不審である。それとも、「新古」子は、韓は南で「倭」に接する、つまり、「海(うみ)」とは接していないと決め込んでいるのかもしれない。となると、「南岸を航行するとき」はどう解釈するのであろうか。いや、いずれにしろ、誠に面妖な解釈である。
原典から読みなおすと、「航行」は粗雑な作業仮説であり、確定したものではないから、本来論議などできないのである。いや、道里行程記事では、些末事項であり、時間・労力の無駄は避けたいものである。

概要
『魏志倭人伝』原文は「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」である。乍南乍東の解釈は各書で微妙に異なる。
 歴韓国乍南乍東到其北岸

コメント:
諸説解釈が「微妙」に異なるとは、何とも鷹揚である。

 以下、項目列挙。
岩波文庫の解釈、倭国伝の解釈、漢辞海、邪馬台国研究総覧、字統、古田説

考察
「L字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路」という時間的順序(連続説)を表すとする解釈がある。しかし、これは地図で見たときのマクロの進み方であって、実際に船に乗船すれば、ミクロな進み方しか体感できないので、この解釈は取れない。

コメント:
 ここまでの迷走に続いて、出所不明の「解釈」が引き合いに出されるが、ドサクサ紛れに自説開陳するものではないと意見したいところである。
 「マクロの」「ミクロな」の混沌も解釈を妨げる。「マクロの」は、大局として前半南行、後半東行だろう。海勢など関係無い。正史記事に「ミクロな」は、「有害無益」である。それにしても、「体感」は見事なホラ話である。「新古」南畝子はGPS装備のサイボーグなのか。絶対音感ならぬ絶対方位/距離感をお持ちなのか。実際は、帯方郡の官人が、軽快な小舟に乗れば、たちどころに船の揺れを「体感」して、船酔いになるはずである。なぜ、西岸を南下し、南岸を東行するという素直な解釈を拒否するのか、まことに、「海(うみ)」を知らない中原人読者に対する、説得には字数がかかるのである。この辺りで、何か大きな間違いに陥っていると悟るべきではないだろうか。

 石原道博(1951)、藤堂明保(2010)、古田武彦(2010)による「乍南乍東」の解釈は表現は異なるが、実質的には同一であるといえる。

コメント:
 「概要」部「岩波文庫」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝 1 (岩波文庫)」である。

 「概要」部「倭国伝」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)」である。

 「概要」部「古田説」は、書名『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社(1971)である。

 うろ覚えは誤記/誤断のもとであるが、「新古」サイトは、公開以前に校正しないのだろうか。誰も、誤記/誤解についてコメントしないのだろうか。もったいないことである。

 「概要」部『全訳「漢辞海」第三版記事』考察(割愛)に後続考察がない。「概要」に書き立てて、それっきりとは、もったいないのではないか。

                                未完

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」2/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16

考察 承継
 古田(2010)説は原文に「海岸水行」と書かれる個所をことさらに無視しており、原文を尊重しない都合の良い解釈といえる。

コメント:
 「古田(2010)説」は、「循海岸水行」を、漢江扇状地陸行を避ける部分行程とする点で誠に論点が明快であり、これを原文「無視」と見るのは、浅薄である古田説は、第一書『「邪馬台国」はなかった』(1971) が初出、ほぼ創唱であり、以後、維持されているので、 そのように明記すべきであろう。他説は、概して氏の提言を克服できていないものであり、「新古」子は、ここに示されたように、古田説を理解していないので、罪が深いのである。
 以下、「古田(1971)説」では、行程は、半島西岸に上陸して、以下、一路陸上街道で韓国歴訪するので、上陸地点以降の海況は無関係である。陸上街道は、難波沈没が存在為ず、好天による航行途絶も発生しないから、誠に確実安全な行程であり、帯方郡の公用往来、主として官用郵便に適しているとみるべきである。この場で、もの知らずに自論を振り回す前に、原史料を精読した上で、「古田(1971)説」を克服するのが、学問の徒の責務であると感じる次第である。特定の所説に対して「原文を尊重しない」と勝手に決めつけた上で、これに対して自説にとって「都合の良い」解釈などと主観的な「賛辞」を呈して、議論をはぐらかすのは、まことに、身勝手で不適切である。
 ちなみに、当ブログサイトでは、「古田(1971)説」の不合理を指摘して克服しているので、「新古」子とは、席を同じくするものではないし対決するものでもない。

 『邪馬台国研究総覧』の解釈は連続説か断続説かは明らかで無い。つまり、南に向かうことと東に向かうことが繰り返されるのか、1回限りなのかは明らかで無く、どちらともとれる。

コメント:

 「邪馬台国研究総覧」は、先行論考総覧であるから「解釈」は存在しない。勝手に、「連続説」「断続説」と誤解を振り回して、どちらともとれるとは、独り善がりというものである。

 韓半島の西海岸は溺れ谷を含むリアス式の複雑な海岸線であるため、海岸線に沿って航行すれば、南行・東行、さらには書かれていない西行も繰り返される。船の進む方角が次々と変わることは自然である。それを表現する意訳としては「しばらく南に進むと、しばらく東に進み、これが繰り返される」であろう。

コメント:
 地理解釈で眩惑を図っているが、そもそも、原文は「海岸線に沿って航行」などと書いてはいない。「倭人伝」の真意を解し得ない無教養な東夷の誤解である。「海岸」は海辺の崖、つまり、堅固な陸地であり、したがって、「海岸に沿って」は当然陸上行である。また、当時「航行」などという言葉は存在しない。要するに、史官が推敲の果てに編み出した「循海岸水行」を勝手に改竄して論議するのは愚行である。
 このような記事が平気で書けるのは、原文の意味が理解できていない「強み」だろう。うらやましいと言いたくなるところである。
 「書かれていない」西行は不適切である。文献解釈になっていない。ついでに言うと、今日、「リアス式」は廃語であり「リアス海岸」とでも言うべきであり、加えて、勝手な解釈で「溺れ谷」まででっちあげておいて、そのような難所を手漕ぎの小舟で行けというのは、無法である。
 総じて、あたかも、ものを知らない中高生ばりの論者が、限られた知識で、膨大な先行諸説を「読みかじって」評価しているみたいで、残念である。
 これでは。文献史学に無教養な門外漢が、先人が論議し続けてきた文献解釈に、読みかじりのご高説を垂れているように見えかねないので、稚拙と言われそうであるが、ここでは、遠慮してそうは言わない。

参考文献
 石原道博(1951)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
 藤堂明保(2010)『倭国伝』講談社
 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』創元社
 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房
 白川静(1994)『字統 普及版』平凡社

コメント:
 白川氏漢字字書は熟語記載の豊富な「字通」を参照すべきである。
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』は、具体的な記事、論者名、出典を明記すべきである。
 参考文献に付番がないので、被参照が不明瞭である。
 文献の原文史料、字書、総覧、個別論の混在、順序錯綜は混乱を招くので、もったいない。

◯まとめ
 当記事は、学術論文としての編集・校正がされていないのは、まことに、疎略で、不名誉な読み物になっている。ブログランキングに列席して天下に公開する以上、真面目に最善を尽くしてほしいものである。この繚乱ぶりでは、「新古」サイトの本領、専門の遺跡/遺物考古学分野の諸兄姉の考察/考証の紹介も、同程度の杜撰なものと疑われるのではもったいない。しょけいしの労作が、杜撰なでっち上げと速断されたら、どう弁解するのであろうか。「新古」子は、「たられば」論法を愛好されているようだが、他人に迷惑をかけない範囲に留めて欲しいものである。

                      以上

2024年5月18日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 名人戦観戦記の「屈辱」

                2024/05/18

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版掲載の「第82期名人戦七番勝負 豊島将之九段-藤井聡太名人 第2局の1」である。

 呆れたのは、同記事は、別主催者のタイトル戦「叡王戦」5番勝負第二局で、藤井叡王が屈辱的な敗戦を喫したと、ちと古い報道で開始している。最後は、同タイトル戦主催者の担当者の談話が盗用されているのである。「盗用」というのは、どう考えても、毎日新聞社ともあろうものが、「藤井名人がタイトル戦敗者として晒し者になった」などと云う屈辱的な報道を、名人戦観戦記の冒頭に24行に亘って掲載するはずがないからである。叡王戦中継番組関係者は、低額予算で番組維持のための連日の苦闘と引き比べて、大資本の全国紙の観戦記運営の暢気さを揶揄しているのではないかと見えるのである。
 これでは、名人共々、挑戦者の顔も丸つぶれである。合わせて、長年の伝統を継承している毎日新聞の品格が疑われているのである。
 なにしろ、今回の掲載は第四局の初日であり、挑戦者はカド番に喘いでいるし、叡王戦は、逆に叡王二敗のカド番であり「屈辱」どころか逼迫しているのだが、朝刊掲載の観戦記は、別次元の懐旧談であり、これでは、新聞棋戦の読者が減るのではないかと思われる。
 別に速報せよと言っているのではないが、第三者の棋譜報道を制限している以上、速報性を持たせるべきではないのだろうか。

 当該観戦記者は、A級順位戦観戦記で一方対局者のぼやきを延々と盗用して一回分原稿料をもぎ取っている実績があるから、初回ではないので、ここで悪質だと言われたとき、毎日新聞社はどう反論するのだろうか。名人戦共催なので多少の手抜きは、被害が薄められると思っているのだろうか。無駄な、というか、逆宣伝効果のある観戦記を割愛したらどうかと言うつもりはないが。

 今回は、字数が少ないが、不快感は、いや増しである。宅配講読者としては、この部分の紙面、全記事39行中の24行相当を返金してもらいたいほどである。それとも、毎日新聞の観戦記運用が気に入らなかったら、朝日新聞に切り替えろというのだろうか。なんら改善がないから、口調がきつくなるのは、当然であろう。

以上 

2024年5月 9日 (木)

新・私の本棚 出野 正 張 莉 「魏志倭人伝を漢文から読み解く」 ⑵ 1/1

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 不用意な記述 2023/08/14 2024/05/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯第二章『「魏志」「倭人伝」の「倭人」とはなにか』(出野)
 異議あり:氏の日本語語彙が古代史論の標準から離脱しているのは困ったものである。
1.カタカナ語偏愛「もとのルーツ」 27ページ
   氏のカタカナ語愛好癖が不適切である。「論衡」「漢書」「倭人」の「もとのルーツは同じ」に困惑する。何の因果で奴隷制度を誹った「ルーツ」の義憤を踏みにじるのか。平明に「起源は同じ」と言わない屈折用語に、編集担当から「朱」が入らなかったのが不可解である。

2.生煮えの現代語「差別化」 57ページなど
   現代造語は意味不明になる。「差別化」乱射があって、整備されたと期待された公道に「躓き石」の散乱に困惑する。人種差別と無関係な無邪気な造語と思うが、正統的な言葉に置き換えてほしいものである。

3.不明瞭な集団評価 57ページ
   「日本の歴史学者」なる集団を、実際に世論調査した上か、『魏志の「倭」と「倭人」を同一視する人が「多い」』とするが、「多い」とは多数派なのか、一人でも多いのか、意味が通らない。7行を費やしたあげく、『「多くの歴史学者」は論証なしに自明の理としている』と自説の塹壕に逃げ込んでいると見える。
 氏は、以下、面々と「倭」と「倭人」が、同一の概念では無いと主張しているが、皮切りに冗語を連ねているので、 冷徹な指摘と見えても、信を置きがたい。

4.資料乱獲~悉皆の悪弊
   氏は、古代史「国」の意義を、確固たる「倭人伝」で足りず、茫漠たる「三国史記」、「三国遺事」で総浚えする。先賢によれば「倭人伝」すら、用語、文法の異同で複数史料に依拠した史書と評されるのであるから、隔絶文書導入は無謀である。

5.浅薄な前例批判
   氏は、古田氏等の語義解釈を「国語」「和風」と揶揄するが、古田氏は、「倭人伝」以外の資料も幅広く渉猟し、確実に史料批判しているので、氏の批判は、むしろ安直と見える。
   氏は、既に先賢諸説を雑駁に捉えて『差別化』と処断しているが、自分好みの新語で批判するのは不合理と見える。ご自愛いただきたい。
   重複するが、浅学ながら『差別化』は、『敵の短所に対して自説を盛り上げ「消費者」を「惑わす」舌先三寸の技芸』と見え、氏の使うべき言葉でないと愚考する。くれぐれも、ご自愛いただきたい。

*古代史用語談義
 言うまでもないが、「倭」と「倭人」は、異なった単語であり、恐らく、太古の「倭」が、時代の推移で二字語になったとも見えるが、不明瞭である。つまり、太古の中原諸国名は、春秋/戦国時代の「中山国」を例外として、全て一字のように見える。(「中山国」が、蛮夷の者という風評が立つくらいである)
 それが、秦始皇帝の天下統一の後世、二字の国名が増えるのは、要するに、座りのよい文字が払底したとも見えるが、東夷で云えば、韓、濊、倭が、不遜な一字である。但し、公式文書に名を連ねる際、二字の方が望ましいという事で「倭」を「倭人」と書いた可能性もある。
 但し、隣り合う「韓」は、戦国「韓」に由来しているという事で、「韓国」、「韓人」の二字国名を免れたとも見える。
 太古から秦漢、魏晋まで、歳月の経過とともに、世界観が変わっているので、二千年後生の無教養な東夷の理解を越えているようである。

 「國」は、太古、隔壁聚落を言い、次第に経済活動拡大と共に、「國」が融合して戦国時代、諸侯領域は「邦」となったが、漢高祖実名「邦」を僻諱して「國」とした際、太古の「國」を「國邑」としたと見える。時代によって文字/単語の意味は忽然と変化する。
 陳寿は、史官として太古先哲用語を学んだので、時代錯誤となりかねない「國」の氾濫は抑えたが、原史料の「國」を書き換えることは許されなかったと見える。
 案ずるに、漢代郡国制の「國」は、劉氏一族所領であり、高官郡太守は「王」と同格であるが、「倭人伝」に限らず蛮夷の「國」が蔓延したことから、史官は、漢魏本国の「國」と同格と取られないように文飾に努めたと見える。世間には、卑弥呼が「倭王」に任じられ、「倭」は帯方「郡」太守と同格と見る人までいるので釘を刺す。時の遼東郡太守公孫淵は「燕王」と自称したが、それは、曹魏の創業者魏武と尊称された曹操が最後に到達した「魏王」と同格の至高の地位を自認していたのであるから、郡太守は「王」と同格などではないのである。
 また、氏は、無頓着に「国名」と言うが、これも、自称であれば不穏な「僭称」である。

 倭使難升米は、「大夫」と自称したが、倭は、景初以前は魏に臣従したものでなく、また、蛮夷が臣従を認められても、魏官位「大夫」など、もっての外であるが、鴻臚の慣わしで蛮夷の自称がありのままに記述されたと見える。
 魏制に通じた後、官位詐称を已め「倭大夫率善中将」と、魏朝官位に存在しないことが明らかである「蛮夷官位」を名乗りつつ、通常は、縮して「倭大率」さらに「一大率」と称したと見える。(断然たる私見であるから、先例検索は無駄である)

*「大率」私考 2024/05/09
 ちなみに、班固「漢書」「百官公卿表」に「県大率方百里」とあるが、何しろ、「漢書」は、代々史官を務めていた専門家である班固が太古以来の史書書法を駆使しているので、史官の訓練を受けた陳寿は理解していたかもしれないが、二千年後生の無教養な東夷には、何とも、真意が判断できない。
 気軽に言うと、「郡」の下位である「県」は、「方百里」を「大率」、つまり「広く支配する」と読めそうなのだが、支配する「方百里」が管轄地域の広さなのか、「県」の下部組織「郷」(複数)を束ねるという概念なのか、判然としないようである。
 素人考えでは、「一大率」は、矢張り「倭大率」、つまり、「倭に属する複数の(小)国を広く支配する」の意味と解したいところである。

◯まとめ
 と言う事で、出野氏には中国史書の「沼」に浸かって脱「和臭」をお勧めする。氏は、最高の漢字学者の助言を随時得られるのであるから、国内通説/俗説に惑わされないことを期待するのである。

                               本項完

«毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 補足 三掲

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