2022年5月20日 (金)

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

▢コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでない、と見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

▢まとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に、異議を唱えるものではない。また、担当部門から示された、「御国自慢価値観」について、批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           以上

2022年5月11日 (水)

新・私の本棚 毎日新聞「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 571 謝罪と訂正

 東高野街道/62 柏原市 竜田道は「国道1号」 2022/03/12 記 2022/03/27 再掲 2022/05/11

▢謝罪と訂正
 当記事は、毎日新聞の連載記事の批判であるが、後続の連載回を含めた一連の記事について、「柏原市歴史資料館安村俊史館長の説明が不出来であったために記者が誤解した」との印象になってしまって、関係者に、ご不快の念を与えたかと思うが、今般、柏原市立歴史資料館のサイトに、「館長の連載コラム」と題された一角があり、そこに2015年 「亀の瀬 こぼればなし」 (全10回・2~5月連載)として、詳しい解説が公開されていることに気づいたものである。
 同連載コラムは、読んで頂ければわかるように、専門家である「柏原市立歴史資料館の安村俊史館長」が、大変な時間をかけて、一般の読者に理解しやすく書きためたものであり、不勉強な記者は、取材を焦る余り、手ぶら、「予習復習」抜きで、勝手な記事を書いたようにみえる。報道のプロとして、もっての外の怠慢と思われる。
 いや、気づいてみれば、当然である。世間の研究者は、真面目に研究成果を還元しているのである。纏向関係者の粗雑なメディア対応は、あくまで、例外の極みなのである。
 と言うことで、以下、細かく訂正していない当記事に、安村館長に対する非難の響きが残っているとしたら、それは、見当違いであるので、深くお詫びする次第である。

 以下、当初記事に戻る。

〇始めに~記事批判の弁
 当連載は、毎日新聞大阪版の連載記事であり、概して当ブログの時代圏外を現地紀行を通じて紹介しているが、話題が古代に及んだのを機に口を挟んだ。当記事は、相談相手一辺倒でなく異論紹介が必須と見たのである。
 当記事には、担当記者 松井宏員氏の署名入りである。

◯記事引用批判
 柏原から大和川沿いに奈良県三郷町に抜け、斑鳩へと通じる竜田道が近年、見直されている。一昨年には日本遺産に認定された。なにせ、古代から奈良と大阪を結ぶルートだったのだから。そして、日本で最初の官道、今でいえば国道だったと考えられているのだ。

 コメント:
 七世紀、さらには、それ以前、「日本」「奈良」「大阪」は存在しなかったから、真面目な論議に合わない。こどもたちが、間違った言い回しを真似しないよう、正しい言葉遣いに改める必要がある。河内の古代史を語る上で、大事な「基礎」と思うものである。

 推古天皇の時代の613年、難波から京までの間に大道をもうけた、と日本書紀にある。この京は飛鳥のことだ。従来、この大道は松原、羽曳野、太子町から奈良県葛城市へ、二上山の南の竹内峠を越える竹内(たけのうち)街道だと考えられていた。

 コメント:
 交易荷物の既設経路を官道整備したと見える。「竹内街道」が「難波」から「松原、羽曳野」を通ったとは初耳で、正しくは、堺港から富田林、太子町を経て竹内峠越えの東西道と見える。
 全ての荷が、難波から飛鳥に向けて送りつけられたと決め込んでいるようだが、当時、そのような遠距離輸送が成立していた証拠はあるのだろうか。確かに、柏原に荷さばき場があって、河内湾からここまでに船で遡行した上で、一旦荷下ろししたと見えるが、それは、随分後世のことのように見えるのである。
 ここから、山向こうの飛鳥に行くのに、石川筋を遡って太子町から竹内街道を行くというのは、素人目に分の悪い経路であるが、それは、時代相応の堅実な見方ではないように見える。
 仮に藤井寺、富田林あたりに、大口の買い手、古代豪族がいれば、海港からそこまで荷が届くのであり、その買い手が、山向こうの飛鳥に荷を売りつければ、経路は竹内峠越えである。まさか、柏原まで下りて「竜田道」を行くはずはないのである。

 河内平野が、大和川と石川の合流した暴れ川の扇状地で、荷船の往来などできなかった時代が、先だって、随分長く続いたはずである。その時代は、堺に入港して、羽曳が丘の丘陵地帯に荷送りしていた時代があったのではないか。素人考えで申し訳ないが、地形図を眺めていると、東西に通じる、手短で、さほどの難路でない経路があったのではないかと見えるのである。
 事ほどさように、河路の比較対照は、時代背景を見極める必要があるのではないか。
 ついでに言うと、柏原市立歴史資料館の展示資料として、美麗な地図が引用されているが、だれが推古代の地形を正確に再現したのだろうか。素人目には、奈良盆地にも、河内平野にも、多数の「ため池」が存在しているように見えるが、それぞれの「ため池」の造営年代が、推古代以前とする証拠はあるのだろうか。

 安村さんは約10年前から「竜田道」説を唱えている。その最大の理由は高低差だ。「竜田道は高い所で標高78メートル。それに対して竹内峠は約290メートルもあります。」

 コメント:
 険しい上りの直登は、「禽鹿径」(けもの路)であり、荷道は、つづら折れが常識である。
 先読みした次回記事で道幅狭隘「隘路」とされた「竜田道」界隈は、世評によると、地盤不安定で崖崩れの不安があり、街道の通行安全が保証できないと見える。学問上の「説」をぶち上げるからには、そうした否定的な要素も考慮し、克服した上で持ち出すものではないのだろうか。
 千五百年前の交通事情考証だから、本来、先人達が諸論を出し尽くしているはずであり、古代史学界は、今さらの「新説」と独り合点してがむしゃらに言い立てて、反論無しに時間が経てば、立場が強くなる、「言ったもん勝ち」と言うことであれば、ここに示された安村氏見解の評価には、大いに疑問が投げかけられる。
 それにしても、次回記事の裴世清の使節一行百人(と推定される)は、未整備「竜田道」を、どのようにして越えたのだろうか。このあたりのダメ出しを経ていないというのは、心細いものがある。毎日新聞社は、提案者の言いなりに記事を書き出すしかしないのだろうか。
 もちろん、ここまで、どんな手段で移動したのかというのも、大変な課題である。何しろ、太古以来、九州北部から河内まで大変な難所続きで、とても、隋船は、通行できなかったと、確信されるのであるが、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

*竹内峠の評価
 竹内峠を越えたことがある。明治時代にだいぶ削って通りやすくしたが、それでもかなりの急坂だった。

 コメント:
 一方的な當麻側体験談だが、地域住民は誰でも知っていることで、近年まで、つづら折れの旧道が通じていたのを、伏せているのは、なぜだろうか。
 また、全国紙紙面で堂々と「越えた」と言うからには、当人は峠の西側まで進んで、以下、楽々下山したはずなのだが、その辺りについては、何のご意見も見せていない。太子町の側は、高低差が少ないだらだら坂で、論証の邪魔になるから、隠したのだろうか。
 この辺り、別に、荒海や瀬戸を漕ぎ渡る話ではないので、一度歩けば、誰にでもわかることであり、隠し立てしても仕方ないと思うのである。困ったものである。

 コメント:
 峠道の難関の評価指標は、登り口と頂上の「高低差」と経路の傾斜であり、氏が最初に述べたように、取り付きからの高低差が大事で、標高(海抜)差に、大した意味は無い。急坂であっても、つづら折れを繰りして、緩傾斜の長丁場にしてしまえば、「貴人が輿から転げ落ちる」など、全く問題外とわかるのである。
 このように、坂道の評価は、高低差すら大問題ではなく、つづら折りまで含めた経路傾斜が、ほぼ全てであり、「難しい」と人手と時間の泣き言は「貴人」厳命に背く理由にならない。要するに、「街道」なら、必要な通行の便が整っていたのである。

 現実の竹内街道も、河内の太子町側はダラ下がりで、上り下りに問題はないと見える。良くある「片峠」であるが、記者は河内側に足を踏み入れずに駄弁を弄したと見える。いや、この部分は、主として安村氏の発言の引用なので、記者の書き方を真に受けると、安村氏の不明によるものかとも思われるのである。
 
 コメント:
 ついでに言うと、太古以来、洋の東西を問わず、誰でも、荷を背負って峠に登り、そこで、山向こうの相手と背負い荷を交換して下山すれば「交易」できるのであり、半日ほどで往き来できれば、別に難所でもないのである。言うまでもないが、そのような往き来は、毎日のことでないので、近隣の健脚が交替で取り組んでも良いのである。

*何でも「太子」頼み
 さらに安村さんは「官道として整備したのは、聖徳太子で間違いないでしょう」と言い切る。「なぜなら、このころ太子は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)にいて、四天王寺などと行き来してます」。斑鳩宮は竜田道沿いにあり、竜田道から北西に延びる渋川道(渋河道)が造営中の四天王寺まで通じており、その途中には先に見た渋川廃寺や、船橋遺跡(柏原市~藤井寺市)から見付かった船橋廃寺など、いくつもの寺がある。仏教に深く帰依していた聖徳太子が関わったのでは、というのだ。

 コメント:
 取り敢えずは、別の目的で往き来する二つの経路があって時代が違ったのではないか。他に、北の方に「暗峠」の難関を越える経路が利用されていたと思うのである。さらに、北に行くと、なら山越えの「木津道」が常用されていたと見えるのである。それぞれ、太古に始まり、後世まで重用されていたはずである。
 いや、別に『「竜田道」がなかった』と言っているものではない。時代相応の世界観を大事にして欲しいと言うだけである。

 いや、さすがの聖徳太子も、「廃寺」を造営するはずは無いと思うのだが、引用外となっているので、記者の錯誤となるが、まことに、その辺り無頓着である。
 それにしても、「聖徳太子」は、これほど多数の仏寺造営を指示したことになっているのだが、どうやって、必要な知識を得たのだろうか。そして、どこから資金を得たのだろうか。当然、斑鳩を離れて、現場に住み込んで逐一指示しないと、仏寺造営の新技術、大事業などできないはずなのだが、どこでそのような知識を得たのだろうか。大変な才人と見える。と言うような問いかけは、素人には、当然の疑問ではないか。
 先立つ時代、物部氏は河内にあって、外来技術をものしていたようだが、史書によれば、排仏論者であったので、仏寺の造営などしなかったはずである。このあたりの事情には、通じていないので、憶測ばかりであるが、もう少し、初学者向けに説明して欲しいものである。
 それにしても、国家として、仏教の全国布教を通じて、隋唐に迫る法治国家を形成するという豊富だったはずなのだが、これらいくつもの「廃寺」が骸を曝したのはどうしてだろう。国家が、自領を与えなかったのだろうか。あるいは、豪族が帰依せず、経済封鎖したのだろうか。もっとも、これは、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

◯結論
 以上の問いかけなしの一方的、安直な割り切りは、いかにも勿体ないのではないか。

                                以上

2022年5月 8日 (日)

私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充

                           2022/01/25 補充 2022/05/08
〇はじめに
 別記事で、散佚した謝承「後漢書」を論じたとき、同書には「東夷伝」がないと断じたところ、根拠を持って断じたのにも拘わらず、「御覧」に謝承「後漢書」所引に続き「東夷列伝」所引があるのだから、謝承「後漢書」「東夷列伝」と見ることができるとの指摘があり、一旦、引例の史料批判が不適格で、端から棄却すべきと指摘したが、不適格とする参考例をここに追加する。
 いや、自明事項を念押しするのは自信が無いためと曲解され、言い逃れ、言いつくろいが見苦しいなどと、いわれのない非難を浴びた忌まわしい経験があるのだが、懲りずに、以下、念押ししたのである。

*探索の動機
 「太平御覧」で、引用元書名無しに、「東夷伝」/「東夷列伝」と書くのは、どういう事情か知りたかったのである。

《太平御覽》 [北宋] 977年-984年 全千巻 中國哲學書電子化計劃
【壱】《兵部八十六》《甲上》
 又《東夷傳》曰:漢時扶夫王葬用玉甲,常以付玄莬音免郡王死則迎取。公孫淵誅,得之玄莬庫。 [注:扶夫は、扶余の誤記か]

*コメント
 「甲上」では、「玄莬」の「莬」は珍しいので、「発音は「免」(べん)と付注」しているが、実は誤字である。もっとも、肉眼で区別がつくかどうか、視力検査である。往時は、異体字で「菟」「莬」を区別したはずである。
 いや、世の中には、「臺」と「壹」が紛らわしいと主張している方がいるのだが、素人が一見して区別できる、はっきり異なった字を区別できないとしたら、不勉強、不注意としかいいようがない。中国で、教養人、つまり、一人前の文化人と認められるには、数万ある「漢字」は、ほぼ全て、学習済みであり、易々と区別できるものである。
 いや、一部の論者が主張している草書類似の略字体は、判別不能な例も、多数あるようだが、ここで論じているのは、楷書系の正字である。一部、繁体字と称しているが、その本質は、中国文化の根底となっている「正字」であり、簡体字なる略字を論じているのでない。当今、安直な誤解の方が、俗耳に馴染んで、広く通用する傾向にあるので、敢えて、事を荒立てたのである。

 「玄莬」 ならぬ「玄菟」は、漢武帝が朝鮮旧地に設けた漢制「郡」である。日本では「ゲント」としている。混同している例は皆無では無いが、文字の誤解はしていないはずである。
 白川勝師の字典「字通」では、「菟」は、黒いつる草らしい。これまで、素人の軽率で、「黒兎」の意味と速断していたが、よく考えれば、草冠は植物である。加えて、黒ウサギは、大変、大変稀少である。いや、時に勘違いも面白いのである。

 「御覧」編者は、「玄菟郡」を関知せず「述べて作らず」として、所引(メモ書き)のまま書いたようである。もちろん、山成す原本を実際に、逐一確認していたら、こうした誤解は生じないのだが、いくら大広間で作業しても、手の届く範囲における原本は、ごく限られるのである。

 後漢書「東夷列伝」「扶余伝」によると「夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里,本濊地也。(中略)其王葬用玉匣,漢朝常豫以玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。(中略)永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。」とある。
 所引は、随分縮約しているものの、結局、范曄「後漢書」が出典と見える。ただし、「玄菟」を書き損なったのか、走り書きにして、区別が付かなくなったか、「玄莬」に変身しているのである。

 当所引は献帝時に及ぶが、遼東公孫氏が、東夷を遮断する前だろう。事務的、機能的な列伝調で、「倭伝」が范曄風随想記事なのと好対照である。後漢公文書に基づいているという事であろう。 つまり「倭伝」は史料の出典が異なるのである。

【貳】《四夷部十一·南蠻六》《黑齒國》
 《山海經》曰:黑齒國,為人黑齒。《東夷傳》曰:倭國東四千餘里有裸國,東南有黑齒國,船行一年始可至也。《異物志》云:西屠染齒,亦以放此也。

*コメント
 本例は、「東夷伝」だから、後漢書でなく魏志が出典だろうか。
 いずれにしろ、「御覧所引」は、しばしば不正確な縮約があり、検証しようにも、原文対応が不明確である。なにしろ、「御覧」は、一気に編纂された物でなく、北斉(六世紀)、唐(七世紀)の三大類書を基礎に、北宋(十世紀)で大成したから、個別の編集経過は不明である。「御覧」千巻の人海戦術による編集の際、所引簡(メモ書き)は大量に発生するので、不備、誤解、錯簡が、発生しても不思議でない。
 このような編纂経過の成果である類書の一条、断片に表れる記事を根拠に、厳密に検討された正史を校勘するのは、無理も良いところで、あくまで、参考の参考にとどめるべきである。

〇まとめ
 本件用例探索の成果は、漠然としているが、冒頭に「東夷列伝」とある用例条は、前条後継でなく別項と見てよいようである。本来、このように不確かな史料は、史料審査で「証拠不十分」として却下すべきものだろう。どうしても、主張したければ、佚文漁りをやめて、信頼できる裏付け史料を用意すべきである。

                               以上

追記:「立証義務」の不履行という怠慢
 本件に関しては、ついつい、謝承「後漢書」に関する大家の論議の「粗相」を「尻拭い」してしまって、手過ぎた失敗と感じている次第である。大体、史書として厳密に編纂されていない、つまり、校閲を重ねていない「太平御覧」であるから、別系列の独立した史料による裏付けなしに、所論の根拠にしてはならない、と言うのが、当然、自明だと信じているのだが、同感していない方もあるようで、謝承「後漢書」所引に続いて書かれている「東夷列伝」が、謝承後漢書の所引だという可能性は、完全に否定はできないのではないかというご意見のようである。
 論議の起点に変えると、そのような断片的で、当てにならない史料を、端から正確な引用と決め付けた大家が、論証義務を怠っていたのであり、その一点で却下すれば良かったのである。つまり、他ならぬ大家が、当該「東夷列伝」記事が、謝承「後漢書」の所引であると立証する重大な義務を怠っているのだから、一介の素人の異議が聞こえたら、それこそ、「太平御覧」を全文検索して、同様な事例全てで、氏の主張を裏付けていると立証する義務があるのである。立証義務は、勝手に放棄してはならないのである。

 以上、丁寧に説明すると、丁寧さがあだになって、揚げ足取りめいた無作法な放言を呼ぶという例であり、本件は、深入りしないで幕とする。
 従って、「コメント」対応は、黙殺とする。

以上

 

2022年4月25日 (月)

今日の躓き石 誤解・誤訳の始まり 否定表現の「和英」食い違い

                  放送 2022/04/20    2022/04/25

*否定的意見の「誤訳」
 NHKの番組の「クイーン」ブライアン・メイのインタビューで、インタービューアー(日本人と聞こえた)が、"I don't think you are powerless."と言うべき所を"I think you are not powerless."と言っていて、ちと引っかかった。
 要するに、「あなたは無力ではないと思う」が日本語語法であるが、これは、英語の語法と食い違うのである。powerlessなる単語自体の否定的な意味と文章の否定表現が、話者の脳内で入り交じって、「誤訳」したらしい。

 当文型は、日本人英語の典型であり、日本人の言葉遣いを(正確に)逐語訳したら、英語として間違いになる一例である。権威ある公共放送が、英語文を英語語法で語らないのは異様に聞こえたが、別に、個人攻撃ではない。随分上級者でも、このあたりは勘違いするようである。
 大人の日常会話では、相手は訂正してくれない。日本人と会話を重ねると、共通した「誤訳」と気づくからである。日本人全体に説教もできないから、失礼にならないように、顔色も変えず、調子を合わせるのである。

 当方は、晩学の英会話教室で、講師が、同級生に考え違いを指摘したのを聞いた覚えがある。要するに、英語は、否定形の文を伝えるのでなく、自身の意見として否定するのである。もちろん、普通、中高生事項ではないが、遥か昔の中学生時代にNHK第二放送のラジオ英会話で聞いた気がするから、一切説明(教育的指導)がないわけではないのだが、学校の英語の時間に、教わっていない人が大半と思う。

 英会話は、互いの意志が通じれば良い、堅苦しい文法談義はいらない、というのは、多分、自分自身理解できていない、不勉強な英語教師の逃げではないだろうか。生徒達には、日本語と英語の文法と背景文化の違いを知らせるべきである。そうで無くても、生徒達は、英語は実社会では「不要」だからテストに出ることだけ囓っているのだから、こうした通訳機にできない、本当に大事なことは、念入りに仕込んでおくべきである、と素人は思う。

*イエスかノウか 「誤訳」の始まり
 これと、多少関係があると思えるのが、Yes, Noの誤解である。疑問文に対する応答で、日本語と英語の、「はい」、「いいえ」と"Yes", "No"が逆転するのは、少し注意深い人なら、「躓き石」として自覚しているはずである。
 つまり、疑問文が、否定的な内容のときに"Yes"(肯定的)見解は、疑問の否定なので日本語では「いいえ」になる。吹き替えで字幕表示しているときは、食い違いが目に見えるが、大抵の方は聞き流しているだけだと思う。
 この齟齬は、アメリカの政治家にはいらだたしいもので、外交論議で「日本人がYesと言っても、実はNoだ」と「日本人英語の怪」なる「ジョーク」の定番になっている。プロの通訳は、当然、こうした齟齬に気づいているが、外交官は、誤解しているかも知れない。いや、日本語で「はい」と答えるべく時は、つい、頷いてしまうから、首を縦に振りつつ、Noと否定する器用な回答になってしまうのである。

 因みに、そのような齟齬を避けるために、まず、見解を平叙文で述べてから、「肯定的(positive)か否定的(negative)か」問い掛けて、誤解を避けることがある。但し、そのような背景を知らない素人は、状況にお構いなしに「ポジティブ」、「ネガティブ」を一人歩きさせて、混乱を招くのである。「壁」を越えた意思疎通は、難しいのである。

*古代史の躓き石~目に見える勘違い
 古代史論者古田武彦氏は、議論の盛り上がったところで、断定的否定を「否(ノウ)」のカタカナ書きで念押ししたが、議論に混乱を呼び込んで、否定のダメ押しになっていないのであった。

 当ブログの定番は、古代史論の主張の正確な理解には、対象時代、文明にない「ことば」、自明な代表例としてはカタカナ語、を一切使わないというせめてものお願いである。古田氏は、際だって著名な論客なので、あえて名指ししたが、単に一例に過ぎない。適確な文意理解には、文字、単語の解釈では不十分で、文脈、前後関係の理解が不可欠なのである。

 いや、ここは、個人批判の場ではない。要するに、古代史論議で、中国史書解釈が迷走するのは、文字、単語の解釈への時代錯誤の介入から始まって、用例解釈が的外れの場合が、多々あるという事である。勘違いの不朽の系譜である。

 いや、指摘されて気づくようなら、とうに、自覚しているだろうから、言うだけ徒労の感が強いのである。山火事に柄杓で水をかけるようなものなのだが、せめて、一人でも、誰かが気づいてくれれば、ささやかな改善になって欲しいと思い、コツコツ書き残しているのである。

                                以上

2022年4月24日 (日)

新・私の本棚 古田史学論集 25 正木裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 課題山積に蓋をした軽率 2022/04/24 

○はじめに
 谷本氏の記事は、まことに手短であるが、倭人伝道里行程記事解釈は、多岐に亘っていて手短に片付けられないはずである。氏は、世上の「総括病」に感染したか、百出議論が挙って「伊都国と奴国の比定」を誤って迷走していると「一刀両断」しているが、「諸説は全部間違い」との断言から始まる世上の勝手論者の手口と同様で、混同されて「損ですよ」と申し上げる。

 諸兄姉は定型文を複製してはいなかろうから、百花斉放の筈である。谷本氏が、全て読み尽くしたなら、後学のために指摘して欲しいが、氏は、ひと息に在庫一掃して「自説」を説く。賛同者は多くても、まとめて「自説」と見る。因みに、当ブログの議論は氏の決め付けと無縁と信じる。
 以下、倭人伝道里記事解釈に続くが、古田氏流「短里説」は控え目である。「短里」は自明であり、頑迷な「短里」否定論は、我田引水風の独善に過ぎず、殊更強調する必要はない。これで、纏向説は場外である。

*「方里」論の不首尾
 倭人伝の「方四百里」を、氏は古田氏追随で、一辺四百(道)里の方形と見なす。しかし、この書法は東夷伝独自であり、古来の「道里」と整合しない。史官は、典拠ある書式、語法を遵守するので、説明無しに「方里」を「道里」とするのは史官落第である。思うに、「方里」は「道里」と異次元である。
 方形一辺が十倍なら面積は百倍で、桁の違う韓国と對海国の面積比較が困難で当を得ないと見るのである。冷静に読みなおして欲しいものである。

*「島巡り」の不備
 氏は、狗邪韓国から倭に至る途上の渡海道里の對海国に、一辺四百里の二倍を足す「道里」表現とするが、魏志読者には思いもよらないことだろう。
 千里単位の概数で限定件数の「道里」は計算できるが、百里単位の端(はした)を埋め込まれては、解読に「労苦」を要する。陳寿ほどの史官が、魏志末尾の辺境蕃夷記事に、些事の「労苦」を持ち込むだろうか。
 渡海千里は、実「道里」でなく国間千里に全て込みが常識と思える。

*「戸」の話
 東夷伝で、国土を「方何千里」と書いた高句麗、韓の両大国は、地形、地勢の制約で、中原基準の耕作地整備が至難なため、土地台帳から畝単位の農地面積を集計し、「戸」で把握困難な国力を表現したと見える。

 古来、「戸」は農地割当単位で、戸内の男子が牛犂、牛鍬を用いて耕す前提で、農地面積に基づく収穫量計算の要件であるが、東夷は、中原社会と家族制度が異なる上に牛耕に適した平坦地か不明である。郡太守(公孫氏)は皇帝に戸数を報告しつつ「方里」を試行したと見える。倭人は牛耕なしの人力頼りで「戸」の意義が不確かであるが、魏志に地理志がないので不明である。

*まとめ~「方里」再確認
 拙論では、「方里」は一辺一里の方形面積であり、耕作地を集計したものと見る。これは「九章算経」読者の理解を得られるのである。

 いや、些末に巻き込まれたが、一番明解な論議は、『「方里」は、土地面積の単位で、「道里」とは「単位次元」が違うので混同してはならない』で決まりであり、以下蛇足である。論議は、明解第一と再確認した次第である。

 本論では、「南至邪馬壹国 都水行十日 陸行一月」の解釈が月並みで失望したが、ここでは論じない。

                                以上

2022年4月22日 (金)

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 1/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22

〇はじめに
 今ひとつの古代史KINDLE本ですが、出版社の編集を経ていないブログ記事集成とあって、散漫な構成が目立ちます。

*路線の謬り
 本書は、国内史書を正当化するために、倭人伝を自陣に引き寄せる展開で、こじつけが入り、歯切れが悪く、言い訳も出て来ます。素人目にも、長老層の好む時代錯誤表現が目に付くので、言わずもがなの警告を流したのです。
 本書のタイトルは、著者の固執を示しているので、そうした「偏見」を掻き立てられたのかも知れません。「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」(だけ)に登場する国名ですが、後漢書も、関係する三国志「魏志」も、同国にまつわる「神話」は、一切記録していません。つながりの無い概念を繋いでいるのは、氏の紡ぎ出すロマンであり、それは、史学と呼べるものとは、本来無縁の筈です。
 倭人伝物語は、真っ直ぐに語りたいものです。いや、願望なのですが。

*古田説追従の過誤
 氏も自認しているように、古田氏論説の追従が多いのですが、むしろ、古田氏の軽率さを安易に流用して痛々しいのです。
 その原因の一つは、氏の語彙の中途半端さです。たとえば、古田氏の著書から「奇想天外」の感をえたと言っても、そのような語感は歴史的に不確定で戸惑います。この際、肯定的に捉えるとして、地上のものとは思えない破天荒な新発想と見ても、揶揄に近い語感も考えられます。

 続いて、「理工系の感性」ではついていけないと評しているのは、「出任せで感情的」との酷評でもないでしょうが、熟した言葉で応用するのでなく、初心者の未熟な言葉のまま述べて、その解釈を読者に委ねるのはもったいない話です。ことによると「理工系」きっての英才と自任する著者の自嘲なのかも知れません。
 日本語の語義解釈が甘くては、中国語解釈どころではありません。
 と言う事で、氏の理解が不出来なのに、図示しても意味ないと思います。

〇道里記事の目的
 郡治からの道里と日程を、魏使派遣に先立って報告する理由ですが、要は、帝国統治の根幹である文書通信の所要日数および物資の送付日程を規定するためのものです。文書行政の国家構成では、定期報告の到着は日程厳守ですし、緊急交信は、最速かつ確実でなければなりません。

 帝国中核部の混乱に乗じて各地諸侯が自立して、二世紀を経た大帝国が一気に解体した後漢の国家崩壊を体験した「魏武」曹操は、傘下の諸将、諸侯に、通信日数の制度化と厳守を命じたのです。「厳守」は、厳罰、つまり、馘首に繋がるものです。「馘首」は、単なる、降格、更迭にとどまらず、時として、文字通り断首されるので、命がけなのです。
 従って、新規服属の東夷は、何よりも、最寄りの帝国拠点帯方郡からの連絡日数を申告しなければならないのです。帝国は、倭人領分のような、極めつきの辺境では、道里の測量が不確実な上に、騎馬文書使が、行程を確実に駆け抜けられるかどうかはっきりしないので、文書交信に要する日数を申告させたのです。この点、倭人伝は、倭人は、牛馬を採用していないと明記して、道里から所要日数を求めることができないのを明記しているのです。
 言うまでもないと思うのですが、そのような重大な所要日数を明記しない理由は、思い当たらないのです。総日数である「都水行十日、陸行一月」の区は、そのように受け取るべきです。

*帆船論~未熟な知識と論義
 氏は、帆船の可能性について述べていますが、太古以来、中国東部沿岸に帆船が普及していたのは間違いありません。漕ぎ船だけの交易では、移動できる質量の限界があり、宝貝、珊瑚、玉や貴石などの軽量の貴重品が大半となります。
 また、三国志に登場する千人規模の兵船は、帆船以外あり得ません。
 時代背景を丁寧に調べずに、風評や憶測で語るのは、史書筆者として半人前です。

 韓や倭で帆船を言わないのは、一つには、半島西岸から九州北岸に至る経路の急流や岩礁での操船が、帆船では行き届かず難船必至だからです。外洋帆船は、甲板、船室が伴い、大型化しますから、「鋼鉄製」造船器具が普及していなかったと思われる、当時の韓、倭で造船できなかったと思われます。
 また、丈夫な帆布、帆綱が無ければ、帆が張れません。更に言うなら、小型手漕ぎ船で往来できるような多島海も、数世紀後まで、操船の不自由な大型の帆船は、危険で立ち入れなかったと見えます。帆布、帆綱を含め、破損時の修復ができなければ、難船したその場で死を待つしかありませんから、航行は困難であったのです。(つまり、不可能という意味です。誤解しないように)

 その程度の学習は、先賢諸氏がよほど怠慢でない限り、この一世紀の間に検討済みではありませんか。

                                未完

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 2/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22

*渡海派兵の愚
 そういうことで、この時代の「インフラストラクチャー」(古代ローマ起源の概念であり、時代錯誤ではない)の不備、つまり、渡海輸送の隘路を知れば、古田氏紛いの「渡海派兵」発言はないのです。
 よって、帯方郡は、倭人救援は勿論、徴兵も考えてなかったし、大量の米の貢納も意図していなかったのです。

*古代算術の叡知
 最近話題になる古代の算術教科書「九章算術」では、管内に複数の供給拠点がある時は、輸送距離が短く、人馬を多く要しない拠点から多くを求め、遠隔で人馬を多く要する拠点からは、極力求めないようにする算法問題と解法が示されています。
 徴兵問題も同様です。援軍募兵は大量の軍糧が必要な上に、海峡越えの大軍移動は相当な期間を要する上に、移動中の食糧が往復二倍必要です。まして、倭人には、軍馬がないので、渡海徴兵は論外も良いところです。

 知らないことは手を尽くして調べるべきです。余談に近い感想に無批判に追従されると、古田氏も浅慮を拡大投影されて不本意でしょう。先賢の論法は無批判に踏襲せず、掘り下げるべきです。

 古田流半島内行程図は、子供の落書きのような階段状行程ですが、古田氏ほどの取材力があれば、関係史料と現地地形とに照らして、合理的に具体化できたはずです。

*登頂断念の弁
 当ブログ筆者の得意とする道里行程論で意欲を蕩尽しましたが、倭人伝」ほど誠実に調整された文書を、真っ直ぐに解釈できないようでは、混沌と言いたくなるような国内史料の解釈、考証など、満足に行くはずがないのです。相当の勉強不足と見えます。
 本書を埋めていると見える広範な議論も、希薄な受け売りで埋められて見えます。はったり半分でも良いから、自分自身で丁寧に検証した、きっぱりした主張が必要です。
 いや、本書のあるいは中核かも知れない国内史料、考古学所見、現地地理などは、当記事筆者の倭人伝専攻宣言の圏外と敬遠した次第です。

*業界の現状 余談
 本書著者にご迷惑でしょうが、本書の評価が順当にされないのには、理由があるのです。世の中は、国内史料解釈で「目が点」の諸氏が、「倭人伝」二千字の解釈に失敗して、史料が間違っている、「フェイク」だと声を上げているのです。
 また、読者自身の持つ所在地論に反するものは、はなから間違っているという横着な判断が横行して、そうした不動の信念に従わない倭人伝は、「フェイク」視されているのです。いや、釈迦に説法でしょうか。

 普遍/不変の法則として、どんな分野でも、新説、新作の九十九㌫は「ジャンク」ですが、全体として実直な著作が、目立ちたがりで、トンデモ主張展開の「ジャンク」記事、「ジャンク」本の紙屑の山に埋もれてしまうのは、もったいない話です。

*まとめ
 折角の新刊ですが、「基本資料である倭人伝と従来の解釈を把握し、課題となっている諸事項を取り出し、それぞれに解を与える」と言う大事で、不可欠な手順が見て取れないので、既存諸説の追従としか見えないように見えてしまいます。

 また、著者が整然と理解してなければ、図示に意味がないと理解いただきたいのです。もっとも、著者の構想を図示した図がほとんど見当たりません。

 (概念)図は、読者の知識、学識次第で解釈が大きく異なるので、学術的主張に於いて論拠とすべきではないのです。図やイメージは、あくまで文書化された論理の図示という補助手段に止めるべきです。古代史分野では、読者の誤解を誘う、いい加減な図(イリュージョン)が多いので、そのように釘を刺しておきます。

追記 基礎の基礎なので、本書が依拠した無法な巷説を明記します。
 三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だった。

 同「史料」は、そもそも、慣用句、風評であり、「三国志」本文でなければ、考証を経た史書記事でなく、まして、魏志でなく別系統の蜀志への付注に過ぎません。裴松之が補充したとされていますが、厳密に史料批判されたものではないので、もともと、陳寿が、一読の上、排除した史料かも知れないし、裴松之も、本件は、陳寿の不備を是正する意図で、補追したものではないと見えるのです。この点、世上、裴注の深意についてね不合理で勝手な憶測が出回っているので、苦言を呈しておきます。

 里制は、万人衆知の上で普遍的に施行されていた国の基幹制度であり、周代以来一貫して施行された確固たる制度なので、一片の噂話で証されるべきではありません。つまり、「三国志」の時代の国家「標準」を示すものではないのです。

 ついでに言うと、蜀は、公式に漢を名乗っていたように、劉備は、高祖劉邦以来続いていた漢の天子であり、当然、 後漢諸制度を忠実に受け継いだのであり、不法にも後漢を簒奪した逆賊「曹魏」の不法な制度に追従することなど、天にかけて、断じてあり得ないのです。

 この種の論考は、無意味であり、さっさと棄却すべきです。

                               以上

2022年4月20日 (水)

新・私の本棚 古田史学論集 25 谷本茂 「鴻廬寺掌客・裴世清=隋煬帝の遣使」説の妥当性について

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 無用の深入りの感         2022/04/18 

○はじめに~伸びた鎖の危殆
 当論は、丁寧であるが、核心を離れ不確かな末節に囚われた感が勿体ない。
 古田武彦氏は、好著「古代は輝いていた3」で、隋書「俀国伝」/書紀「推古紀」の不整合論について、隋書原点への回帰を宣言したが、それ以降、依然として、「推古紀」の「妥当性」検証に陥っていると見える。当方は、一介の素人であるが、古田氏の趣旨に沿って、明解な判断を示そうとした。
 以下は、当ブログ過去記事に、(当然)重複するが、「俀国伝」起点の書紀「推古紀」評価により、「推古紀」の不備を露呈して、端から門前払いしてみせようというのである。

*本体部分~「推古紀」の重大な誤記と捏造
 ⑴ 「推古紀」は、「隋」を「唐」と誤記している。
 ⑵ 「俀国伝」は、隋使「文林郎」と明記し、「推古紀」は誤記している。
 ⑶ 「俀国伝」は、隋使・遣隋使非同行とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑷ 「俀国伝」は、隋使は隋国書不持参とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑸ 「推古紀」は、遣隋使が訪百済時に隋国書を略取されたと捏造している。
 「推古紀」記事を不当とする理由を五点に絞ったのは、諸兄姉の諾否を容易にするためである。異論があれば、以上項目に反論していただきたい。

*補足説明~「推古紀」の捏造・改竄疑惑
 説明不足とのご意見が懸念され、補足した。論証厳密でないかも知れないが、根拠ではないので、末節の揚げ足取りはご容赦いただきたい。
 隋使来訪時の公文書記録は、存在しなかったと思われる。推古天皇の使節派遣時に、唐は存在せず「隋」と記録する。また、隋使裴世清は「文林郎」と偽りなく名乗るしかない。これらの事項に、誤記、誤解はあり得ない。
 先に述べたように、「日本書紀」編纂時、「推古紀」(編者)は、公文書捏造・改竄の重罪を犯しているが、勅命に従い、文書を「復原」したので、免罪となったと思われる。
 中国史官は、「述べて作らず」を遵守するから、この際には、「推古代公記録は存在せず」と明記した筈だが、書紀編者は中国史官でなく、創作の「不可能使命」に応じたと見える。ただし、手ぶらで創作できないから、典籍、例えば、四書五経、史記、漢書、春秋を引用したものの、肝心の隋書は入手できなかったと見える。先に挙げた事実関係の不具合が是正されていないという事は、「推古紀」は、「俀国伝」を参照せずに創作したと見る。
 以上は、強固な物証でないが、強固な「状況証拠」で克服困難と見たものである。「俀国伝」入手時、「書紀」公開後で訂正不可能だったと見られる。
 従って、隋使関連記事は、専ら「俀国伝」に依拠すべきである。

*古田氏の悔恨
 古田武彦氏は、自認したように、史書「書紀」の面目回復を図り、かえって揚げ足取りの餌食となって、本来明解な論議が混濁したのである。
 かたや、「推古紀」支持者は、『奈良盆地発の倭国東アジア「外交」』なる古代浪漫を高々と謳歌して「推古紀」を金科玉条としている。本来「古代に真実を求める」「俀国伝」考察は、これを後押ししているのである。
 隋書「俀国伝」優先の古田氏提言は、一見、原史料尊重の古田氏信条に反すると見えるが、実は、あらゆる古代史史料は、中国史書基準で史料批判した上で、採否を決するべきである、と言う史学大原則に沿うものと思われる。

 以上は、諸兄姉に「安易」な議論と見えても、本来、真理は、核心に於いて明解、安易である。

 史学素人の素人考えで、そう思うのである。
                               以上

2022年4月11日 (月)

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 1/2

 監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。  2022/04/09 追記 2022/04/11

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として、謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路記録はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

_n


*憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く。

 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。確実なのは、「北九州」発であり、古代の多方面に通じていた船路の要であった一大國、壱岐を通過しないのが、意味不明である。
 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、沖合を通り抜ける意図が不明である。「沿岸」は、百済の陸地であるから上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。
 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。また、新羅海港と登州海港を連絡する航路は、新羅の管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。
 そこから、わざわざ海船で河水河口に取り付いて、そこから河流に乗り入れ遡行する航路など、あるはずがない。素人目にも、つじつまの合わない絵解きである。

 そもそも、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことはあり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りて、きれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたようなつぎはぎの船旅は無茶である。百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。
 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 2/2

 監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。  2022/04/09 追記 2022/04/11

*「画餅」~根拠なき「夢想」疑惑
 河水河口部は毎年春先の氾濫で茫々たる泥濘で、海船乗り入れは無謀である。河口部を大きく避けて上陸したとしても、以後、現地川船で河水に乗り入れと見るにしても、なぜ、京師である長安/大興でなく、東都/洛陽に入ったのか。一部に新説が流布しているようだが、一般読者に対して説明不足である。


*合理的な推定~国使の行くべき「道」
 以上の難点を見た上で、九州北岸からを旅路を見なおすと、倭人伝以来周知の壱岐、対馬経由の半島への渡海/水行は、便船豊富で「銭」で雇えるし、上陸後は、古来内陸街道が常道、既知であったので、ここも何の迷いもない。方や、壱岐から転じて南岸西岸沖合航路は、以上説いたように、にわか作りに違いない倭船にとって、不案内で、とても行き着けるものではない。
 どちらを行くべきか、明白ではないだろうか。特に、出発点が、本当に内陸の飛鳥であれば、海の長旅には、恐怖しか感じなかったと思うのである。

*「新羅道」提言~安全、確実、迅速、低廉な経路
 復唱すると、新羅街道「新羅道」は、古来整備されていた官道であり、半島の嶺東を北上して竹嶺で小白山地を越え、下山して西に向かい、西岸海港に出て、以下、渡船で登州に至る長丁場だが、新羅にお任せである。登州上陸以降、内陸街道は、人馬を要する移動も宿泊も「銭」で賄える。但し、このような安全、確実、迅速、低廉な経路も、倭と新羅の関係が険悪になれば、倭遣隋使の新羅国内街道通行が許されなくなる。もちろん、後年の遣唐使の大使節団も、同様に通行できないと思われる。
 以上が、本図航路に対する異議であり、反論があればお受けする。

*隋書無視に疑問~台所事情の苦渋か
 氏の論議は、信頼すべき隋書を無視しているが、国書交換など、世上の遣隋使論に整合しない「隋書」俀国伝を無視したと思われる。「『日本書紀』の記事が事実とすれば」と書く氏の苦渋を察して、これ以上は深入りしない。
 舊唐書、新唐書どころか、古田武彦氏著作も参照していないが、以下同文。

                                以上

  追記:「隋王朝(7世紀)」の無残 (2022/04/11)
 ついつい、地図の疎漏の指摘で、精力と注意を削がれて、肝心なことを取りこぼし、書き漏らしたので、仕方なくここに追記するが、実は、一番無残なのは、この表現である。

_n_20220411203901 
 隋は、一般に581~618年の期間存続したとされていて、別に、七世紀べったりではない。むしろ、七世紀の主要部は、唐にとって代わられているのである。正直に書くなら、七世紀初頭と言うべきだろう。それにしても、隋代、グレゴリオ暦による世紀の数え方が、隋に届いていたと思えないので、「七世紀」の当否を煬帝の霊魂に問い質そうにも、飜訳/通訳の仕様がないのである。史学会には、当時の教養人に理解できない言葉や概念は避けよ、と言う箴言があると聞いている。それにしても、この失態は、一言で言えば、杜撰を越えて無残な誤記である。

 さらに言うなら、六百六十年代には、唐の征討軍により百済、高句麗が、相次いで撲滅され、この図は、全く無意味になっている。氏が、どういうつもりで掲載したのかというと、単に、裴世清来訪時の諸国形勢を書きたかっただけではないのだろうか。と言わないと、何も言い訳ができないことになる。不確かな推定を、立派な地図にしてしまったために、アラが目立つのである。

 と言うことで、折角、国内古代史について、造詣を深めているのに、同時代の中国、朝鮮方面については、全く素人だと露呈している。それにしても、氏の周囲に、誰も「助言と支持」を与える知恵袋はいなかったのだろうか。出版社の編集担当からの助言もなかったのだろうか。いかに「細瑾」とは言え、重大な「躓き石」があからさまで、勿体ないことである。

この項完

2022年4月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 ブラタモリ 「日本の構造線スペシャル 〜“構造線”が日本にもたらしたものとは?〜」

 2022/04/02初回放送            初稿 2022/04/06

◯はじめに
 今回の題材は、NHKGの名物番組「ブラタモリ」の後段で「中央構造線」について述べられた際に特に言及はなかったようだが、当ブログの倭人伝道里行程記事番外で、筑紫からの経路で、現代の日田、湯布院から大分を経て三崎半島に「渡海」、「水行」する、多分珍しい解釈と整合すると見えたので、本稿をまとめたのである。
 例によって、当記事に確たる証拠はなく格別の効用を期待されても困る。

*宇摩「邪馬台国」説~後漢書頼り
 古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 序章 1/5 追記

 ぱっと見、当ブログの倭人伝解釈に整合しないので、宇摩「投馬国」説と言うべきところを、俗受け狙いで粉飾して、五回連載となったものである。いきなり悪評を買って、「フィクション」に逼塞しているが、一応、それなりの根拠がある推定である。

 堅実な議論に戻ると、「投馬国」は「大海」燧灘に面し、西から来た「伊豫路」の終点で、東の峠越えで吉野川沿いに撫養に至る「阿波路」と東北に備讃瀬戸を吉備に渡る「讃岐路」と四国山地鞍部を南に越える「土佐路」の四路が「一に都(すべ)て会」した「一都會」(漢書地理志)と思える。

 もともと、古典中国語で言うと、「都」は、ものと人の往来が集まる要所(扇のかなめ)に王の住まう「王城」の地であるから、陳寿「魏志」倭人伝ならぬ范曄「後漢書」の大倭王居処「邪馬臺国」を比定できるはずである。後漢書に、投馬国などが出てこないのは、かなり苦しいが….。
 付随論で『伊都国から投馬国へ南水行二十日』は、倭人伝記事の読み方に慣れがいるので、現代人が普通に読むと迷走する。と言うことで、倭人伝談義に迷い込むので、無関心なら飛ばしていただいても結構である。

*「倭人伝」投馬国行程の話
 本行程の「従郡至倭」で郡倭途中の渡海を「水行」と呼ぶ新規用語「定義」に続いて行程記事である。范曄「後漢書」郡国志は、洛陽~遼東郡~楽浪郡が街道五千里であり、楽浪郡/帯方郡は端数で無視し、以降、狗邪韓国までは、無論街道行決まっていて「水行」は論外・無法である。
 大海中山島への行程であるから、渡海、「水行」を予告しているから、狗邪韓国で海岸に出て、計三度の「渡海」の後、末羅国で上陸し、「陸行」するのは、倭街道が本筋であり、後に、脇道の投馬国行程を加筆したので、誤解を避けるため、倭地の女王国に至る島伝いの区間道里を「周旋」五千里と回顧・総括している。皇帝閲読の際に、巻子は巻戻せないので、工夫しているのである。
 投馬国まで途中で渡海があるから、本来『「水行」を含む陸行』を所要日数二十日の「水行」としている。伊都国道標には「南投馬国」と明記されていて、倭街道は、伊都国から南に進み、日田で東に転じて大分の海岸に出たが、投馬国は、脇道であって「至倭」道里には関係無いので、日数表示を略載したのである。

 大分から目前の三崎半島は、お馴染みの千里渡海である。渡海に日数はかからないが、行程全体を、総じて「水行」(が特徴である行程)二十日としたのである。と言っても、郡から投馬国に文書で指示を出して、文書による復唱の期限を厳命することはありえないので、ゆるやかなのである。

 以下、三崎半島を東に向かい、ひたすら、ここで言う「山一道」を進むという説である。繰り返すが、この行程は脇道なので細かく示さないのである。
 何しろ、「水行」が定義外の船舶航行なら、食料、水を積み込んだ長旅で、渡船では耐えられないが、提案の渡海なら、手漕ぎで乗りきれるのである。
 と言うことで、言わば、状況証拠で固めたので、脇道論としたのである。

*「山一道」の話
 太古、瀬戸内海の海上連絡が通じてない頃、四国中部山中を中央構造線沿いに東西に通じた「山一道」が本稿主旨であり、他に東西交通経路が一切無かったという主張ではないので、一考していただければ幸いである。
 今回のブラタモリ「構造線」談義で失望したのは、「中央構造線」が、「フォッサマグナ」の付けたりで終わった点である。今後の「ブラタモリ」で、「このみち」が、「いつか来た道」として追求されるかどうか不明である。
                                          以上

2022年4月 5日 (火)

今日の躓き石 囲碁界の悪弊か、主催紙の混迷か、本因坊の「リベンジ」宣言か

                        2022/04/05
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版「総合・文化」面の本因坊戦挑戦者決定報知である。主催紙としては、挑戦手合いへの先触れであり、大変重要な位置付けと思うのだが、最終部分に書かれた暴言が全てをぶち壊している。

 多分、署名した記者の創作なのだろうが、自紙の金看板たる本因坊が、直前の他社主催棋戦でタイトルを失ったことに対して、重大な恨みを持って、今回は、血の報復を目論んでいると、わざわざ報道する意図が不明朗である。本因坊は、どす黒い復讐心をかき立てないと、手合いに臨めないような心構えとみているのだろうか。いや、そのように報道することが、自紙の品格に傷を付けるとは思わないのだろうか。二人がかりで、このようなお粗末な下馬評記事を書くとは、困ったものである。なぜ、「棋界最高タイトルに、さらに栄誉を重ねたい」などの格調高い言い方ができなかったのだろうか。言うまでもないと思うのだが、「リベンジ」は、知勇訳聖書で厳禁されているものだから、キリスト教徒以外にも、回教徒にとっても、罰当たりであり、それ故、天の裁きの代行として、報復テロを正当化しているものなのである。

 いや、当世は、若者にはやっている「ダイスケリベンジ」が大安売りで、むしろ、気軽に罰当たりなことばを口にする原因となっているのだが、当記事は、「罰当たりな」若者ことばを知ってか知らずか、テロリスト紛いの永久復讐戦思想が語られているのである。カタカナことばの不確かな理解を、勝手にこじつける言い方と理解して書いているのだろうか。

 毎日新聞は、天下随一の名声を持つ全国紙であり、当記事は、そのような権威にもたれかかると言うより、ぶち壊すものになっていると感じるのである。

以上

2022年4月 3日 (日)

今日の躓き石 NHKBS1 「トレールランニング」の「リベンジ」蔓延防止 まだ遅くないか、もう遅いか

                                                     2022/04/03

 本日の題材は、「トレールランニング」なるスポーツの参加者の発言であった。随分苛酷な耐久走だし、尊敬に値するフェアなスポーツだと思っていたのだが、「リベンジ」発言があって、幻滅した。どうも、山間疾走で、人目のないところがあるから、時には、身体攻撃があって、仕返しがある世界と聞こえた。それにしても、NHKが、そのような危険な発言を無修正で流すのには、恐れ入った。
 公共放送は、受信料の一部を投入して、身体を張ってでも、問題発言を阻止するものではないのだろうか。英語の国際放送で流れたら、盛大に顰蹙を買うこと必至である。

 選手が、「やった」、「やられた」、「やり返す」、「血祭りに上げてやる」などと公言する野蛮なスポーツは、こどもたちが真似しないように、放送から外すべきではないだろうか。

 報道するというのは、泥まみれ、血まみれの事実をむき出しに放送することでは無いと思うのである。少なくとも、今回の放送の分は、受信料を返して欲しいものである。

以上

2022年4月 1日 (金)

今日の躓き石 NHKBS 「ワースト」シーズンの始まりか、改善のシーズンか

                         2022/04/01

 いよいよ、MLBのシーズン開幕が近づいて、NHKBS1の看板番組の開幕が先行している。

 今年気づいたのは、「ファイブツール」の紹介により、「オールラウンダー」なる、罰当たりで「借り物」のデタラメカタカナ語を、MLB解説の世界から葬り去ったということである。いや、“Die hard”に、比較級、最上級があるという説に従うと、まだ、端緒についたに過ぎないのであるが。

 つづいて、「セットアッパー」追放の気概が明言されたのだが、これは、コメンテーターが、ずぶりと蒸し返して幻滅だが、多分、再発は防止されるものと期待している。少なくとも、NHKBSの本体では、罰当たりな失言は消滅するものだろう。

 因みに、当番組のタイトルの発声の批判は、別に「ナイトメア」、いや、”Night Mayor”、「闇市長」を気取っているわけでは無い。単に、発音が幼くて、スポーツの”P”音が、正確に破裂音に聞こえないだけである。「ワースポ」なんどという英語は無いから、よほど丁寧に発音しないと、善良な視聴者の耳に入らないのである。恐らく、キャスターは、正確に発音しなくても叱られないのだろう。何とか、自覚して欲しいものである。

 それはそれとして、選手発言やら、背景の語り手が、なぜ、無神経に「リベンジ」「同級生」と怒鳴り散らすのか、理解に苦しむ。それとも、関係者一同、言っても治らないと見放されているのだろうか。

 と言うことで、やかましく言っても、なかなか通じないので、しつこく言うのだが、公共放送の務めは、罰当たりなことばの蔓延を、少しでも減らすことにあるように思うのである。別に、大金を投じて「ことば狩り」しろというのでは無い。これ以上、罰当たりな「カタカナ」語の蔓延を防止するように、各人が各人の務めを果たして欲しいだけである。

 因みに、今回、週末回で起用された新人は、口調が平静で、キッチリ「子音」が発言できていて、安心して聞き流せるのである。年寄りは、とかく耳が遠いから、くっきり話して貰わないと、ことばが耳に入らないのである。と言って、大口を開けろというのではない。普通の口元の動きで、きちり発音できるのが、「弱者」に優しいプロと思うのである。

以上

2022年3月26日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 「圧巻」の剛腕エースの暴言「リベンジ」の蔓延 

                     2022/03/26
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版「スポーツ」面のプロ野球戦評である。昨シーズンの大活躍に続いて、「チームに12年ぶりの開幕戦勝ち星をもたらした」と絶賛なので「気合を入れ」たことについて、別に何も言う事はない。
 ところが、ひと息入れた後「リベンジの意味で強い気持ちを持って投げた」と、とんでもない暴言で全てぶち壊しである。自分で自分の顔に泥を塗っているのだが、こういう見苦しい談話は、オフレコに願いたいものである。誰もが、言葉遣いのお手本としている全国紙に、このような無様な発言が出ては、こどもたちが真似するので、大変困るのである。

 一流プレーヤーは。一流の談話を期待されているのだが、この「リベンジ」は、球界で広く蔓延している「ダイスケリベンジ」でなく、前時代の忌まわしい、血塗られた暴言である。とんでもない失言であるが、それを麗々しく取り上げた記者の書きぶりは、とんでもない失態である。全国紙の紙面にあってはならない、テロリスト紛いの発言は、報道すべきではなかった。

 それにしても、一流選手が、相手チームの投手に向けた個人的な恨みを動機に闘っていたとは、困ったものである。大事なのは、チームの勝利ではなかったのだろうか。何より、自分一人の勝手な感情で闘われては、大変な迷惑である。選手達は、そのような目先の復讐心を糧にしないとマウンドに立てないのだろうか。

以上

 

 

2022年3月24日 (木)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」

 編集部      梓書房 2022/1/4刊       初稿 2022/03/24 

〇はじめに~巻頭言の不勉強
 今回の題材は「巻頭言」であり、言わば、世間話で本号の「つかみ」としているのだろうが、見当違いの発言を正していこうというものである。

巻頭言部分引用
 現代の感覚では、海路は最も時間のかかるイメージであるが、古来においてはまさに「ハウェイ」(ママ)であった。車も電車も、ましてや新幹線もない陸路では、運べる荷物の量も限られ、移動スピードも海路には格段に劣っていた。それだけ「海でつながっている」ということは、地域にとっての強みであり、海路は交易の主役だったのだ。古代の人々にとっては、海とは「隔てる」ものではなく、「つなげる」ものだったのではないだろうか。

〇コメント~勘違い、それとも、不勉強
 用語混乱と認識不足が目立つ。大抵の論者は、こうしたものなので、敢えて、指摘訂正させていただく。別に個人攻撃しているのではない。

*感情論反対
 まず、現代の「海路」輸送について、「感覚」や「イメージ」と感情論で断じているが、ちゃんと筋を通して、「格段」などと逃げないで欲しい。

*用語の誤解
 原点に還ると、「ハイウェイ」語源の”High way”は、「公道」であり、「高速道路」のことではないと理解いただきたい。いや、このあたりは、ほぼ百㌫の日本人が誤解しているので、良い機会と思ったのである。同様に、”High Sea”は、「公海」であり、波が高いと言う意味ではない。

*比較対象の乱れ~時空錯綜
 「最も時間がかかる」との感覚評価だが、例として不適切な「新幹線」は、路線が大変限定されていて高額では、基本的に無料のHigh wayと比較するのは、的外れである。例として不揃いな「車」は、大八車のような荷車や荷馬車でなく、また、自転車や三輪車でもなく地道を走る自動車だろうが、走行距離、積載重量の限界は自明である。鉄道路線は、未電化では「汽車」や「気動車」が走るが、場違いな「電車」は走らない。冗談はさておき、鉄道車両は、整備された鉄路以外を、気ままに走れない。生かじりの速断を、読者に押しつけるのは、良くない。
 いずれにしろ、比較が、論理的でないうえに、時間的にも空間的にも錯綜していて、これでは、本論に説得力がなくなる。

*「荷物の量」、「移動スピード」
 「荷物の量」を、現代で言うなら、大型タンカーや大型貨物船の例までもなく、新幹線、電車、車のいずれの場合も、「海路」に遠く及ばない。
 貨物輸送用コンテナーは、25トンを超える重量物を収納できるが、そのような重量コンテナーは、道路走行できないので艀で運ぶが、「海路」しか、輸送手段がないから、早いも遅いもない。もっとも、艀輸送は、比較的短距離を夜間航行するから、所要時間は、大した問題ではない。

〇古代史学の世界観
 古代に無い概念の「海路」と言うと、航路管理があって港内や内海航路を自在には走れないが、「古来」と言うなら、さほど障害はないとも言える。
 むしろ、「海路」がない状態では、「つながっている」などと言えないのは、理解いただけるであろうか。古代の船舶輸送の難点は、お天気まかせ、風まかせで、よく難船沈没することである。沈没すれば、荷は全滅である。
 季刊「邪馬台国」誌は、古代史論の舞台であるので、現代寄りの概念には弱いのかも知れないが、ちゃんと勉強した上で、論じていただきたい。

                                以上

2022年3月23日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞 シドニー便り 見出しで選手に泥塗る「リベンジ期す」

                          2022/03/23

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面で、W杯豪州戦の前祝いの筈なのだが、一選手の個人的な感慨をでかでかと書き立てる記事であり、「リベンジ期す」と大見出しにしても、何も読者に通じない暴言を見出しにしているのは、何としても、不都合な暴走である。

 大体が、日本代表が勝ち進むことが、唯一最大の目的であるべきなのに、個人的な復讐心をでかでかと書き立てるのは、全国紙の報道姿勢として、大いに疑問である。しかも、記事を読んでも、選手が、誰を復讐の血祭りに上げようとしているのか不明では、「金返せ」である。
 少し読むと、どうも、2018年大会の予選のオーストラリア戦で、召集されなかったのを恨んでいるようだが、それなら、当時の指導者をぶちのめすべきである。いや、せいぜい、今になって見返してやると言う事でしかなく、復讐の血祭りに、オーストラリアチームや現在の指導者を的にするのは、見当違いである。その程度の区別がつかないとしても、選手として、場所柄に相応しくない言動は控えるべきである。こどもたちが、わけもわからずに真似するのである。

 それにしても、全国紙記者ともあろうものが、選手の不穏な言動をそのまま報道するのは、どういうつもりなのだろうか。それが、毎日新聞スポーツ報道の党則なのだろうか。

 真剣に言うと、選手の真意は、そのような暴言にはないはずである。適正な報道で、選手のスポーツマンシップ、不屈の努力を讃えるのが、報道の本道ではないだろうか。それとも、記者は、絶えず、誰かに恨みを抱いて生きているのだろうか。
 それとも、南半球で、季節と重力方向が逆転して、頭に血が上ったのだろうか。(苦笑)

以上


 

 

2022年3月22日 (火)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇魏志「倭人伝」道里記事考察
 当記事は、魏志「倭人伝」冒頭の郡を発して倭に至る「従郡至倭」の行程は海を行かないという話です。(三千里の渡海は除きます。魏使の行程と書いたのは、紛らわしいので、倭人伝の表現に戻しました 2022/03)
 当ブログは、倭人伝論議に珍しく、後代史料は、まず史料批判しています。 ただし、倭人伝解釈に後代資料を援用するのには慎重ですが、それは、頭から信用はしないと言うだけで、厳格な史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは避けていないのです。(2020/11/15)
            現代中国語で公里は㌖です。

〇間奏曲 隋書・唐書
 倭人伝の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 隋書は百済・新羅から水陸三千里とします。古田武彦氏は、三千里は新羅南端と倭北端の渡海とします。「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 舊唐書は隋書の三千里を書かず、倭は京師を去る一万四千里としています。
 倭人伝里程を維持したのか、倭人王城をどこに見たのか微妙なところです。
 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、隋書、舊唐書、新唐書は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 言い足すと、これらは、別に、三世記の魏使の移動経路を論じているのではなく、公式経路の公式里程を述べているものです。

〇新唐書地理志 入四夷之路
 新唐書地理志によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。
 日本国は絶海の地で交通がなく、東夷の最果てとして、新羅慶州(キョンジュ)が報告されています。平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。この時代、往年の高句麗(高麗)のあとに、「渤海」国が半島中南部の新羅と南北対峙し、東夷の北端渤海国王城も、登場しています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで、鴻廬の記録から消えたと言う事でしょうか。もちろん、正史の訂正、改竄は、あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。
                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 四夷に至る路は七路に大分され、東夷は、一「營州入安東道」により往年の遼東郡に近い渤海湾岸営州から安東府を経るか、二「登州海行入高麗渤海道」により山東半島登州から渡海し、渤海(新羅と半島を南北二分)などへの経路を経るかいずれかで、以下に引用しますが、具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城,城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。乃南傍海壖,過烏牧島、浿江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島。千里[去](至)鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城。
 自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城。

 鴨緑江河口部を去る一千里の唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城(慶州 キョンジュ)まで東南陸行七百里は、現代地図で一千公里程度と思われます。これは、唐代玄宗期に確定された官路里程です。
 発進地である登州府は、山東半島を管轄した登州の首都で、半島北端に位置しました。西は渤海湾沿岸、北は半島沿岸、東/南は、郎邪から南に江東を経て、広州から南海に至るようです。
 登州から遼東半島への経路は渤海列島に恵まれ、最初に確立されたと思われます。後年、南の平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)付近が良港と評価され、航行が活発になったようですが、半島西南部は見えません。
 山東半島の東の最果ての岬、成山角には、始皇帝や徐福が訪れたという記録が残っています。目前の半島を無視して、どこへ行ったのでしょうか。
 倭人伝と時代が違うので、海船による移動は、「海行」と明記し、以下、「過大謝島」などと通過地を列記した後「得..長口鎮」などと到着地と里程を記しています。中継地は公式経路の海港と言うことです。河川航行かを問われる「水行」はなく、河川航行は、溯流し至る。などとしています。
 つまり、仁川(インチョン)付近唐浦口から新羅王城まで東南陸行八百里とし「水行循海岸」する行程は、存在しなかったのです。

 唐恩浦口から新羅王城まで、帯方郡時代以来の公式街道であり、道里は「道のり」と見て現代地図で推定すると、小白山(ソベクサン)を竹嶺(チュンニョン)で越えても四百㌖(公里)程度と思われます。(訂正 2020/11/15)

 追記:「海行」は、山東半島から対岸への「渡船」です。(2020/11/15)

 追記:「千里至」鴨淥江は「千里去」の誤写です。登州から渤海王城に至る報告の付け足しで、鴨淥江口から千里の唐恩浦口から七百里と解します。

                                未完


倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 いずれにしろ、鴨緑江口からの海行千里は、報告者の実測でなく、現地人の報告に基づく大雑把な推定であっても、慶州への陸行七百里は、官道として長年の実績があり、実務に基づく正確なものと見るべきです。郡から狗邪韓国まで七千里とした倭人伝「道里」は、この陸行里数とは別次元の里数ですから、「混ぜてはならない」危険なものなのです。

 実際に登州から新羅王城に赴く際は、鴨緑江河口部経由の海行一千里の大回りでなく、唐恩浦口に直行したと見受けます。また、同経路は、新羅と青州の間の交易船の航路でもあります。
 慈覚大師円仁の残した「入唐巡礼行記」には、登州に「新羅館」なる新羅在外公館が設けられていたと記録されていますから、隋代から当時に至るまで、新羅の仕立てた便船が往復する主経路だったのです。日本の遣唐使も、新羅との友好関係が維持されていたら、半島内陸行、海峡渡船、大陸内陸行という、安全で迅速な経路が利用できたはずです。
 唐代玄宗期の官制経路と里程ですが、過去に遡って推定可能な堂々たる史実です。この行程が、新羅遣唐使経路になったのは、古来、街道として宿駅まで整備され常用されていたからと思われます。新羅遣唐使の永川から忠州を経てら海港への経路も、楽浪郡、帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は使節宿舎を含め、一級官道整備されていたと思われ、対岸の登州には新羅館もあったとのことです。

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの「新羅遣唐使研究」によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港へ陸行し登州に出港です。忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内七百里の陸行です。当ブログで常用の普通里概数である一里四百五十㍍で、300㌔㍍(公里)となります。

*倭人伝道里記事考証
⑴魏使来貢 行程考証
 魏使が、登州から渡海して牙山到来したとすると、上陸後は、東行して清州を経て、竹嶺(チュンニョン)鞍部で小白山(ソベクサン)分水嶺を越え、洛東江上流忠州から洛東江沿いの陸行が、狗邪までの常道と見えます
⑵帯方郡官道 行程考証
 「従郡至狗邪韓国」として、帯方郡を発する場合は、まずは陸行東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を陸行し、あるいは、陸行の一策として川船に揺られて南下して南漢江との合流部から南下遡行して、高度を稼ぎつつ南漢江中游(中流)の要地清州で合流したと見えます。
⑶清州狗邪韓国官道 行程考証
 清州から狗邪韓国に至る経路は、帯方郡の視点では、自明であったので、韓伝ならぬ倭人伝は「歴韓国」にとどめたものと見ます。
 このように、清州(チョンジュ)は、河川、街道交通の要所にあったことを反映したものと見えます。つまり、街道沿いに宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、新羅繁栄の根幹、基礎となったと見えます。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定(承前)
 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。
 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていたのです。一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、同列に見るべきではないのです。

〇遣唐使「新羅道」談義~余談
 初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているので、半島内は、新羅官道を通り新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。
 多分、その時期、両国は友好関係で、新羅遣唐使に随行して官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗できたはずです。新羅道は、内陸だけでなく、登州への渡海も含めて、新羅が管理していた経路という事です。
 官道宿舎の寝床は嵐で揺れず、新羅貴人のご相伴で、地域の新鮮な食事を愉しんだと思えますし、渡海は、そこそこ大型の帆船の手慣れた運用に身を委ね、手短で難破の危険もなく、ゆったりした船室であり、揺れで転げ回ることもなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。
 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で「大船」を造船して、東シナ海越えに挑み、半数が難船となる難関とせざるを得なくなったものと解されます。こうして回顧すると、当時、新羅との間に「外交」関係は維持されていなかったものと見られます。(2020/11/15)

 因みに、対馬、壱岐を歴る渡来は、魏代以来の手慣れた経路でした。

*「仮想」魏使航海記~余談
 因みに、倭人伝談義で起用される「仮説」で、三世紀に仮想されている魏使一行の手漕ぎ船は、漕ぎ手の負担を軽減するために、随分小型なものであって、旅人も荷物も、甲板や船室のない筏同然の渡し舟で吹きさらしであり、いくら、後日の海峡渡海に比べると波穏やかであっても、所詮、小船で動揺が激しく、おちおち座っていられない、すさまじいものだったはずです。
 当然、船上泊はできないので、日々下船して休養し、乗り継ぎ、漕ぎ継ぎで、長旅となったものと仮想されます。いや、乗り継ぎであれば、船員、漕ぎ手は交替するのですが、旅人、行人は、公務で船賃はいらないものの、延々と乗りっぱなしで、道中、生きた心地がしなかったはずです。

 もちろん、大抵の官人は船酔いで、果てしない苦行であり、生死の境を行くものだったかも知れません。後世の論者は、別に実体験を迫られたわけではないので、平然と「仮想」していますが、当時の使者の視点で事態を眺めると、このような「仮想」は、数日と続かないで破綻すると見えます。
 言い足すと、「仮想」の魏使は、貴重で厖大な宝物と同行であり、一体、何十艘仕立てで潮風吹きさらしの闇路を進んでいたのか、気の毒です。荷物は、一応覆ったとしても、防水完璧の筈はなく、大丈夫だったでしょうか。
 いや、本稿では、余談ですが、事のついでです。(2022/03/17)

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志再論
 新唐書地理志に見られる鴨緑江河口部を去ること一千里の仁川(インチョン)付近の海港唐恩浦口から新羅王都までの陸行七百里は、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たと見られます。各地は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。
 韓国国内地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難で推測に止めますが、あくまで半島内陸行で沿岸航行を含まないのは明瞭です。

 隋唐代の裴世清や高表仁の来訪は、山東半島の海港から大型の帆船であり、裴世清の泗沘訪問を除き、無寄港に近いと見えるので、先に挙げた官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)
 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 倭人の道は「水行」と定義した「渡海」以外は、海を行かなかったのです
 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(668年頃-900年頃)に遣唐使が陸行したからには、倭人伝の帯方郡時代(三世紀前半)も、当然、半島陸行が唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。
 魏の当時も、隋、初唐期も、公式経路は、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進み、沿岸航行など到底あり得なかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 倭人伝原資料を帯方語で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。
 目下の最終読者は現代日本人で更なる誤解は避けられず、さらには、古手の「日本人」が理解に苦しむ当世言葉の世界なので、何をか言わんやです。

追記:
〇事の発端 2022/01/16
 以上は、初出時の道里観でまとめたもので、今回編集したものの、目下の意見と異なる点があることをご理解ください。
 倭人伝冒頭部の道里行程記事の主要部は、魏使訪問以前に書かれたと見えます。つまり、倭人を鴻臚の四夷「台帳」に登録する際に、必要項目として、国名、王名、王城名、道里、戸数などが必須であったので、倭人の申告を参考に上申したと見えます。地域概念図(旧圖)まで出したかも知れません。
 魏使派遣の際、行程概要を上程する必要があり、全行程万二千里、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が計三千里までは承認済みで、街道完備のあかつきには四十日程度と伝えていたはずです。

 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると、「出張期間が不明では出張承認が下りない」ので、明帝没後とは言え「倭人王治まで万二千里は、『周制』に倣った形式的なものである」ことは、関係者に通じていたとみるのです。そうでなければ、魏志を上程しようにも、倭人道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、倭人伝は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*「所要日数」談義~半分余談 2022/03/17
 ここで念押しすると、魏使として東夷の王城に派遣されるからには、「倭人」に至る「全里数」と「所要日数」は、先だって皇帝の目に届いていたに違いないのです。帯方郡の趣旨としては、当初報告した「全里数」は、道中の行程里数ではなく、太古以来の伝統的書法に従い、天子の権威がかくも遠隔の地に届いているという表明だったのですが、結果として、里数が一人歩きして、途方もない遠隔地と理解されてしまったのです。慌てて、「所要日数」を示し、魏使が数ヵ月の日程で往還できる程度のものと訂正を図ったのですが、何しろ、「全里数」は、先帝明帝の御覧を経て、帝紀に記されてしまったので、書き換えすることができなかったという推定です。
 魏使出発の正始初頭、皇帝は新帝曹芳であり、先帝の詔は堅持するものの、所要期間八十日の派遣であり、万二千里の往還行程とは見ていなかったのです。街道、宿場の整備された魏の圏内でも、一日の行程は、五十里が標準/必達であり、万二千里は、片道二百四十日の遠路であり、往復するとほぼ五百日を要するので、とても、大量の下賜物を抱えてたどり着ける場所ではないのは、誰の目にも明らかだったのです。いや、「所要日数」は、身軽な「文書使」が余裕を持って達成できる「標準」日程だったのですが、重荷を負った使節団と雖も、倍の日数は要しない程度の分別はあったはずです。
 参考までに同時代の公式論議の事例を確認すると、景初の公孫氏討伐の軍議では、洛陽から遼東郡治まで道中四千里を百日行程と見た論議がされ、「往還に二百日、現地の戦闘に百日を要すると見て、計一年以内に片を付けます」との司馬懿の進言が採用され、必要な大量の糧秣が調達、輸送手配されていますから、肝心なのは、所要日数が第一とわかります。もちろん、これは、概数に基づく論議ですから、一里、一日単位の精密なものではないのですが、概数だけに、大きく逸脱しない確かさを持っているのです。
 念を押すと、本稿含め、当ブログの記事は、史上唯一中原全土で通用していた「普通里」(四百五十㍍程度)を堅持し、以上のように、筋の通った(reasonable)解釈が成立しているのです。読者諸兄姉の御不興を買ったとしても、筋が通ると自負しているので、感情的な発言はご容赦いただきたい。

▢参考資料 専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 「遣唐使の経路」 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の唐津(タンジン)から出航して楚州に上陸することになる。

▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代では、山東半島地域です。

▢東莱郡 (中国)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらいぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と並ぶ東帝を称した齊は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島との海洋交易によって栄えたのでしょう。齊がこの地に封建される以前から、東夷は、南蛮交易の海船を作り出していたのでしょう。
 但し、海図も羅針盤も無い時代、島影のない海原を、安全に往き来する航海術はなかったので、東夷の「海路」、「海道」は、存在しなかったのです。

 因みに、長江で荷物輸送に多用された川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。まして、沿岸を曳航してくることはなかったのです。そうでなくても、現地には、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の搭載量が限られて長行程に耐えなかった時代、莱州から半島先端の登州を経て渤海列島を経たようです。

 後に、海船が長行程に耐えると、登州を扇の要として、遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へとの派生行程が生じたようです。重ねて、古来の齊「臨菑」は、四方の交通に恵まれ、一大集散地となっています。

 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、新造船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送の軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、楽浪・帯方両郡を平定したとされ、その記録は、後の百済攻略に活用されたと思われます。

 いや、青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」の際の兵士輸送に起用されているので、それを機に、青州-遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪、帯方両郡への航路が確立されたと見えます。平定後の海船は、払い下げられたと見えますから船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域に進入できなかったのです。
 大型の帆船は、機敏な舵取りがきかず、舵取りに漕ぎ手を備えても手早く転進できず、水先案内が予告しない限り、安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の邊防一、倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」とあり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、「浮海」のあげく、風待ち、潮待ちがのせいか、数か月後に倭に達したと追加し、「唐会要」は魔物や奇巌と書いたので難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として「海路」と呼ばれたと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの内陸王城の海港に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討後、軍兵は帰還し、海峡を越えた大軍派兵と水戦は、再現不可能となったのでしょうか。新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸戦闘であり、莱州からの派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。
 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で、暦年重用された登州に渡海したのでしょう。

 いや、この海域に大型の帆船が、堂々と往来していたら、後の日本の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。
                              この項完

2022年3月14日 (月)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。

出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

▢はじめに
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人(風)で素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送で、広く取材した番組で司会者の含蓄のあるコメントに感心したものです。NHKは、前作の使い回しでげんなりしていましたが、ようやく新作にお目にかかりました。いや、一視聴者としては、大枚の制作費をかけて、ごみ情報番組を増やすくらいなら、何もしない方がましと思うのです。

 今回の番組も毎度ながら、背景に倭人伝刊本を大写しで見せながら、そこに書かれているはずの「邪馬壹国」、「壹与」を、現代創作の「邪馬台国」、「台与」と決め付ける定番手口に幻滅します。それほどではないものの、魏使来訪が海上大迂回になっていて、計算は大丈夫かな、ちゃんと史料を読めているのかなと心配しているのです。
 このように、まず最初に取り組むべき史料解釈の基礎固めが疎かなままなので、脚もと乱雑で、架空の論理を積み上げていくのは、「最新」の証拠や資料をもとに自説をこね上げる様子で前途多難です。二千年前の文書史料が、ろくに読めていないのに、何が飛び出すのか、剣呑な話です。

総論
 不吉な序奏から、意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向説陣営の広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 当番組は、討論でなく各論紹介と評価になっていて、改善が見られたものでした。

*碩学の晩節
 一番印象に残っているのは、最後に、纏向博士の石野御大(石野博信師)が「レジェンド」(博物館財貨)の立場から、静謐な託宣を垂れていたことです。当コメントは、氏の晩節を飾る明言と思うので、さらりと紹介すると、『「倭人伝」に書かれているという「邪馬台国」の所在について論議するのはこの辺にして、歴史を語ろうではないか』というものだと思うのです。

 纏向出土の土器も、全国各地から持参されたなどの年代物のこじつけ議論を去って、吉備から持参、あるいは、将来されたかと、穏当な推定はありがたいのです。
 それまで、「談合」とか「大乱」とか、それこそ、治にあって乱を求める議論が漂っていましたが、氏の齎した柄杓一杯の水で、全て鎮火した感じです。ただし、後進の方は、石野氏の木鐸を担うのは、自分たちだと自負して新たな火種を掻き立てていたようです。

 後継者諸兄も、三世紀における倭国広域連合「古代国家」の白日夢を、早々に卒業して時代相応の考察を進めるべきではないでしょうか。今からでも遅くないと思うのです。もっとも、ただの素人がここでいくら提唱しても、何の効果もないのでしょうが。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 2/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇激論なき「バトル」
 中でも、論者の発言に噛みついて、「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は既に確立されている」と強弁するのは、「サミット」に不似合いです。どこかの国の大統領の論争の際の振る舞いを真似たのでしょうか。困ったものです。

 考古学において、遺物、遺跡の交渉を堅実に積み上げて構築した世界観自体には、異議を差し挟むことは困難ですが、三世紀頃の文字記録は、遺跡から出土していないので、時代比定は不確かであるとの起点確認が必要でしょう。

 それを、自説絶対と突っ張るのでは、議論が成立しないのです。それとも、番組紹介で言う「自説をぶつけ合う」とは、同士討ちのことを言うのでしょうか。

〇高価な纏向巨大建物幻想
 今回は、纏向遺跡の再現動画を上演しましたが、素人目にも、論議の場で不確実とされて反論できていない思い付き「仮説」を強引に絵解きしたのは、映像芸術以前に、考証の調わない虚構と見えます。
 いくら映像化に手間とカネをかけようと、時に、あいまいに「イメージ」ととぼけて呼ばれる絵空事は、事の実態を一切示さない上に、視聴者の感性次第でいかようにも解釈でき、あくまで「イリュージョン」(まやかし)に過ぎないのです。「仮説」は、論証するものではないでしょうか。

〇 見かけ倒しの運河構想
 例えば、運河に曳き船して荷を運ぶ図は、場違いです。そもそも、出土した水路跡を、運河の跡とみた時点で、勘違いが始まっているのです。
 素人でも、色々見聞しているとわかってくるものです。
 運河水運は、高低差がなく流速の無い水路が必要であり、つまり、等高線上に造成されるものなのです。纏向説では、河内平野から大和川を遡上し、奈良盆地内を纏向まで遡上する構想のようですが、そのように傾斜した水路の運河は、まずは流出が激しくて、さっさと露底し、運河機能を維持できません。

〇鯉の滝登り
 また、どう考えても、傾斜水路を漕ぎ上ることはできないので、人海戦術で曳き船する絵は、ごもっともの工夫でしょうが、話はここだけでは済まないのです。
 つまり、吃水の深い海船は大和川を遡上できないので、ますは、河口で「大きめの川船」に載せ替える必要があり、大和川の上流に向かうとしても、下流の「大きめの川船」は、浅瀬の目立つ急流を奈良盆地まで遡上できないので、柏原辺りの船泊で一旦荷下ろしして、身軽な小船「軽舟」に載せ替えるか、いっそ、陸揚げして、小分けし、人海戦術で背負子運びとするかということになるはずです。
 何しろ、船体は、堅固な木製であり、結構な重量なので、急流を漕ぎ上るとか、曳き船するとかしても、「ほとんど船体を運んでいる」ことになるのです。普通に考えると、船の滝登りは、大変困難(不可能)なのです。と言うことで、先に提案したように、小分けして、背負子で送り継ぎするのが、最善策でしょう。
 何しろ、背負子は、誰でも担げるので、人海戦術が成立するのです。

 して見ると、奈良盆地に運河を掘削しても、乗り入れる船がないのです。運河、曳き船となると、厖大な「物流」を予定しているのでしょうが、そんなに大量に、何を買い、何を売っていたのでしょうか。知る限り、纏向には物資の出入りが少なかったとも仄聞しています。どうして、足元を固めてから、描かないのでしょうか。国費、公費の無駄遣いとしか思えません。

 絵に描いた大量の荷物の実態は、何なのでしょうか。食糧とするのは、誠に不合理で、これほどの食糧を搬入しないと維持できない集落は、何をもって対価を支払っていたのでしょうか。

 と言うことで、上手にきれいに絵を描いても、写生した上でなければ、きれいな絵にはならないのです。

〇環濠と水路~「倭人在」、「国邑」の意義
 因みに、普通に考えると、水路の主目的は耕地の灌漑でしょう。それには、適度な傾斜、流速が必要です。治水というと、豪雨の際、環濠を遊水池にして、下流の氾濫を軽減する工夫が必要です。ため池が無い時代ですから、農業用水を貯水したこともあったでしょう。

 環濠の効用は、このように、水防や野獣除けが考えられます。広い眼で見るべきです。環濠は、しょっちゅう浚えないと、水草が茂り泥やごみで詰まるのです。唐古・鍵遺跡で百年以上健在であったら、ちゃんと維持管理されていたということであり、それだけでも尊敬に値します。纏向はどうだったのでしょうか。

 因みに、殷周を発祥とする中国古代では、「国」と言っても、国境一杯に勢力を示した領域国家でなく、例外なく隔壁で集落の外を囲い、隔壁内には、首長の親族の住戸を囲う内部隔壁を有した「国邑」、つまり、二重隔壁集落が「国家」の基本要件だったのです。ところが、倭人伝冒頭にあるように、「倭人」は「山島」に在るため野獣は少なく、野盗の徘徊もなかったため、外の隔壁を省いて水壕や外海で囲われていたのです。
 僅かな字数で、「倭人」の王治所(王城)のあり方が紹介されていて、陳寿の筆の冴えを思わせます。(宮崎市定師の論考に触発された一説です)

 そのように解すると、「従郡至倭」の「倭」は、女王が住まう「国邑」であって、現代風に言うと五百㍍程度からせいぜい二㌔㍍程度四方の集落であり、それを、倭人伝は「邪馬壹国」、「女王之所」と言い、後の後漢書は「其(倭)大倭王居邪馬臺國」と書いていて、つまり、広域に及ぶ「倭」を統合する大倭王と言えども、居所は「邪馬臺國」なる、一「国邑」だったという事です。(あくまで、近来の一説です)

 陳寿の倭人伝を下敷きに、後世に新たな表現を試みた笵曄は、「其大倭王居邪馬臺國」と書いて、大倭の国々を束ねる「大倭王」の居処は「邪馬臺國」なる小集落だったとしています。後漢書の「邪馬臺國」は、その所在地を「樂浪郡徼,去其國萬二千里」と書かれていますから、倭人伝を無批判に引き写しているものの、国王居処の名称「邪馬壹国」は、敢えて踏襲しなかったもののように見えます。大倭王が、どの時代の何者なのか不明ですし、その居処と倭人伝の郡倭行程の終着地「邪馬壹国」との関係も不明です。
 いずれにしろ、後漢書を起用しても、所在地特定は、困難でしか無いのです。何しろ、笵曄の手元には、何も、後漢書東夷列伝特有の資料はなかったのです。と言うことで、ない知恵を絞るしかなかったのです。

 因みに、環濠集落の首長は、下流の集落への水分(みずわけ)を仕切っていた可能性があるので、太陽神ならぬ「水神」を氏神にしていた可能性があります。こちらは、命がけの争いになりかねず、首長の水捌きの不備を責められるのを避けるため、水神様を守り神に担いでいたと考えるのです。太陽の日射しは、割り振りのしようがないから、水分(みずわけ)の仲裁をすることが、重大な祀りごとだったのではないでしょうか。大した知恵のない素人は、安直な考えを捨てられないのです。

 辻褄の合わない纏向運河説は、そろりと撤回された方が良いようです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 3/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中 

*纏向巨大建物論
 纏向陣営も、ここしばらくの怒濤の展開ですが、ある時突然に纏向に大型建物が出現したとの想定は、無理が多く、後付けで「証拠」を付け足しているのは苦笑を禁じ得ません。

 建物は、土地を整地し、縄張りし、柱穴を掘り、柱を立て、梁を交いと言った風に大工仕事を重ねるから、何もない状態から創業して、建物になるのに五年や十年はかかるのです。整地した土地には専門の技術者が緻密に縄張りしたし、柱は、具体的な寸法と材質をもって、山々の木こりに指図していたはずです。いや、金属工具の無い時代、どれほどの手間がかかったか不思議です。それとも、工具持参、大工帯同で、いきなり、集団稼業が操業したのでしょうか。
 整地段取りも、材木、その他諸々の資材の手配も、先だって、どこかの工房で決定したものでしょう。建物工事の人員の手配、寝泊まりの手配、食事の手配、いずれも、先立って準備したに違いありません。時間としても空間としても、随分広がっていたはずです。

 そうした段取り全体を構想して仕分けするには、経験豊かな指導者が必要です。指導者には、補佐役が必要です。それぞれ十分な報酬が必要です。いや、指導者が献策したのか、誰かが募集したのか、どこから来たのか、いずれにしろ、大抵、大規模墳墓は年数をかけられる生前造成(寿陵)の筈です。
 唐古・鍵遺跡の考古学から見ると、地域としては、土木工事の技術に関して長年の蓄積(人材養成、機材、素材の備蓄)があったようですが、建物建築技術は、周囲に先例が見当たらなかったように見えるのです。前例があれば、どこが先駆者であって、時代と共に、どう伝播したか語られるはずなのですが、まだ、そのような創世談は目にしたことがありません。
 ともあれ、「纏向一推し」が頽勢に移ったのは、まことに めでたいことです。

*誤解された遣使談
 倭の三十国が魏と外交関係を持ったと見るのは、俗耳に訴えるものの、実は、単なる勘違いです。当時、蕃国は、魏に外臣、蕃王として臣従するのであり、「外交」など時代錯誤丸出しです。いや、それは、纏向説論者だけの症状ではないのですが、いくら、多数を占めていても、錯誤は錯誤です。
 また、魏としては、四囲の蕃夷にはるばる押しかけてこられると、しかるべく応対して、銅印やみやげものを渡さないといけないので、対応を厳選します。倭で言えば、帯方郡で選抜して代表国だけ申請せよと云うものです。いえ、このような格付けは、魏が発明したのではなくて、通常、周制で始まったとされていますが、歴代、そのようであったはずです。

 倭人の景初遣使は、質素な貢献物に対して大層な下賜物を受けていますが、それは、あくまで初回だけであり、それ以外は金印(青銅製)と手土産程度でしょう。
 それにしても、手土産目当てに毎年来られてはたまらないのです。何しろ、倭人の例で言えば、帯方郡参上から洛陽までの旅程は、全て、帯方郡官人のお供が接待するのであり、いくら、大帝国といえども、毎年来られてはたまらないのです。
 大抵の処遇は、十歳ないしは二十歳に一貢というものであり、要するに、遠方の蕃夷は、十年、ないしは二十年に一度で良い、それ以上来るなと云うものです。後年の遣唐使は、二十歳一貢でした。中間年に出かけて、追い返されかけたこともあったようです。

 中国側の制度にお構いなしの素人考えも、ほどほどにして欲しいものです。

*卑弥呼王族待遇の怪
 因みに、中国の考古学者が、卑弥呼は中国王族と同格と言ったのにはびっくりしました。ご存じないのでしょうが、蕃王は、太守配下なので、随分格下なのです。中国人の史学者と言っても、別に倭人伝専攻ではなく、ひょっとしたら、秦漢魏晋代の官制を熟知しているわけでもないので、大抵は慌てて関係ありそうな資料を読みあさるのであり、理解度はこの程度なのです。
 ちなみに、蕃夷を「賓客」と言い、鴻廬の専門部門が、丁寧な接待を行うのは、余り露骨に差別を示すと、反逆されかねないので、そうならないように、ご機嫌取りしているものです。

 漢代、蛮夷の使節は、正使から使い走りまで、漏れなく印綬を賜ったという記録が残っています。後漢書に由来を求めている「漢」の「倭」の「奴国王」印綬は、比定されている遺物の材質が「黄金」、金無垢という材質が、異例に近いものであるというだけです。

 つまり、「金印」は「金印」でも、当時「金」と呼ばれていた青銅印なら、一介の小国王に付与しても不思議はないものです。黄金印、つまり、金無垢の印は、三世紀当時、製造困難でした。黄金の素材が大変貴重であり、また、黄金は、青銅、鋳鉄などに比べて、高度な技術や設備と加熱燃料が必要です。そのような希少価値のある黄金印を、無冠無名に近い「倭奴国王」に下賜する事情が不明なのです。因みに、後漢書には、黄金印を下賜したという明確な記事はないようです。

*突然の出雲高揚
 いや、突然の紹介ですが、出雲が「大陸」と交易したとしていますが「半島」も、大陸なのでしょうか。帯方郡と接触すれば、郡の公文書に残るはずですから、後世に残っていないということは、馬韓、弁辰などの諸小国と交流があったのではないでしょうか。これらの諸国は、東夷の仲間で、言うならば同格ですから外交が成立するのです。

 そのような小国との交易が皆無でないとしても、小振りで漕ぎ手少人数の海峡渡海船の乗り継ぎでよい九州北部と違い、出雲からの往来は、さらに数日がかりの難業であり、とても、便数などの面で競争にならなかったと見えます。何しろ、海流に逆らう往路は、絶大な体力が必要なのです。そして、いかに強力な漕ぎ手でも連日の漕行はできないのです。休養を与えるなり、交替で漕ぎ継ぐなり、稼業とするには、それ相当の体制作りが必要です。そして、漕ぎ船では、漕ぎ手の体重分だけ積み荷が減るのです。して見ると、日数が伸びれば、荷主の取り分は大巾に減るのです。
 こうした考証は、思い付きに任せた口先考古学では済まないのです。

 当ブログの常套手段では、途中で漕ぎ手を代えて乗り継ぎして狗邪韓国あたりで上陸し、後は、手軽な陸上経路で繋いだとも考えるのです。商いの相手としての半島西南部は、三韓との連絡が少なかったとみられるので、穴場になったのかも知れません。何しろ、この地域のことは、韓伝にも倭人伝にも、はっきり書かれていないので、空白地域と推定するのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 4/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中

*不用意な失言集 順不同

  •  纏向関係者は、好んで「日本」と言いますが、三世紀当時、「日本」などありません。
  •  三世紀「日本列島」に現代風「都市」はないし、中国外に「王都」は存在しません。
  •  卑弥呼を「諸国で」共立したとは書いていません。
  •  どさくさ紛れに、卑弥呼遣使を二百三十九年と言うのも、考証不正で杜撰です。
  •  卑弥呼は「鬼道」に事えたと言いますが、呪術を行ったとは書いていません。
  •  邪馬台(たい)国でなく邪馬臺(だい)国です。ごまかしてはなりません。
  •  最初の大王が女性と言うものの、それまで「男王」が代々続いていた筈です。
  •  倭国「乱」は、諸国が近隣と諍いして、王が調停できかっただけであり、戦い合ったわけではないし、三世紀の交通、通信事情では、遠隔地と長期間の交戦は不可能です。
    范曄「後漢書」が持ち込んだ「大乱」は、国の覇権を目指して、竜虎角逐するものであり、総力戦と言わないまでも、相当の壮丁を死傷させるので、安直に行うものではありません。三世紀当時の「国」が、農耕を度外して総力戦に乗り出せば、亡国必至です。

 以上、勉強不足の勘違いが、雪崩れています。「倭人伝など、苦労して解釈する必要はなく、好きなように書き換えれば良い」のだという、安易な姿勢が感じ取れます。

*「ネットワーク」の怪
 文字のない、つまり、文書のない三世紀に「ネットワーク」とは時代錯誤であり、奇異です。広げた網の節々同士、相互の連絡をどうしていたのか。そもそも、カタカナ言葉の本来の意味がわからないままに、うろ覚えで当てはめられては、不可解です。また、連携を言うなら、平時の行政運営を重視すべきです。
 いずれにしろ、言っている当人すら、言葉の意味が理解できていない「生煮え」、「うろ覚え」の理屈を振り回されては、読者、視聴者はたまりません。ことは、簡単で、古代史論で、カタカナ語を原則排除すれば良いのです。

*雑言集
 「スケール小さすぎ」と褒めているのは、「邪馬臺国」七萬戸説に惑わされています。一度、倭人伝の戸数記事をよくよく見直して欲しいものです。いずれにしろ、このような「幼児語」では、論議できません。何しろ、時代錯誤の大国幻像を脳内に飼っているので、大小判断が錯綜しているのです。

 鉄鏃出土数の話は,九州説にとって効果的ですが、そのため、纏向説論者からは、黙殺されます。それでも考古学無視の勝手な論議と批判され、絶句するのです。

 銅鐸については、史書に、しかるべく書かれていないのが命取りです。全国の銅鐸は、無償配布の証拠と纏向説論者から聞きますが、無茶なこじつけです。「配布」とは、それぞれ自国官人が持参したということですが、どんな口上を持って参上し、何を持って帰ったのか。不思議です。

 今回は、唐古・鍵遺跡に言及していますが、なぜ、奈良盆地外の外界に近い唐古・鍵が凋落して、山沿いの纏向が頂点か、二百年環濠を維持した唐古・鍵は、纏向隆盛をどう見たのか。是非、欠席裁判は止めにして、当事者の意見を伺いたいものです。

*共立綺譚~古代国家幻想
 そこで、渡邉氏が、「共立」について得々と語りますが、「当人にその気がないのに、大勢で寄ってたかって無理矢理に」とは、落語の落とし話めいて、奇異です。氏は、范曄「後漢書」に加えて、三国志を 全巻通読しているはずですが、それにしては、「倭人伝」が、中国文化にどの程度影響されていたか、見識を持ち合わせていないのでしょうか。
 どさくさ紛れに、倭人伝に複数回登場する「壹與」が自動的に「トヨ」になるのも不思議です。ここでも、説明はありません。「邪馬臺国」は、范曄「後漢書」を手がかりに遮二無二こじつけていますが、倭人伝に、繰り返し書かれている卑弥呼宗女の名前が、繰り返し誤記されたと判断できる根拠は見当たりません。

 それにしても、各陣営とも、なぜ三世紀に強大な中央政権を見るのでしょうか。中国周代は封建制でしたが、諸公が周王を頭領に立てただけで、絶対服従では無かったはずです。加えて、中国には、文書で締盟し、命令を徹底する体制が整っていたから、「法と秩序」が蔓延っていましたが、文字の無い東夷では、相互に盟約もできず、また、何しろ、文書が通じていなかったので、纏向仕立ての法制に強制的に服従させられるわけでもなく、後は、各地に、説客を派遣して、舌先三寸で異国の支配者を丸め込んだことになるのです。
 それにしても、各地の諸公は、なぜ、大々的に反抗しなかったのでしょうか。

 それはさておき、文字の無い世界で、広域政権が成立したとしても、どんな手段で服属を長く維持できたでしょうか。どうして、自分たちの墳墓造成の労役を、広域に課することができたのでしょうか。さらには、各国に勝手な墓制を強制できたのでしょうか。これこそ、古代史最大の謎と言うべきです。

*雑感
 「細かい」批判はそこまでとして原典に戻ると、倭人伝に「邪馬台国」と書かれているという不可解な妄言帯方郡から海の「径」〔みち〕をたどるとする安易な決め込みが、一般人の理解の妨げ、躓き石となっています。初学者ならともかく、斯界の権威が、安直で子供じみた誤読や改竄を信奉しているのは残念です。

 また、陳寿が、実情不明と匙を投げた投馬国談義を始め、水行十日、陸行三十日の果てに邪馬台国があるという、保証付きの「誤読」(私見です)を言い立てているのは、困ったものです。既にドブに嵌まっているのに、気づかないのは、困ったものです。このあたりの頑冥さは、学問の道とは思えないのです。

 世上、俗耳に馴染みやすい「素直に読む」とか「簡単に読み下す」という助言が健在ですが、少し考えれば誰でもわかるように、代中国人が古代中国人のために書いた史書を、現代人が「素直に」、つまり、適切な教育、訓練無しに読んで、無教養な世界観で、正確に理解できるはずがないのです。
 まして、当時、「世界」最高の知性であった陳寿と弟子達が、長時間、精力を注いだ深意を、現代人が易々と探り出すのは無理そのものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 5/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中 

*倭人伝造作説の帰結
 渡邉師の提言は、年代物の誤読の成果です。師が現代日本人である以上、陳寿の方針/深意がわかるはずがありません。困ったものです。いや、なぜ、一介の素人が、氏の理解力を知っているのかというと、氏の著書、番組での発言からそう見ているのです。氏は、「三国志」の権威と自認しているようですが、ことごとく、虚言に陥っているのは、勿体ないのです。
 気軽に「情報操作」などとおっしゃいますが、「三国志」編纂は、三国統一後の西晋代であり、その際、東呉、孫氏政権関係者の編纂した「呉書」が魏の帝室書庫に所蔵されていて、「三国志」呉志に大半が採用されたのです。ほらを吹いても仕方ないのです。

 繰り返しになりますが、三国志」の想定読者は、西晋諸官であって、現代の日本人ではないのです。

 私見では、曲筆/誇張/偏見の動機があったのは、「魏略」編纂者、魏朝官人魚豢です。魚豢にとって、呉は反逆者、蜀は侵略者で、むしろ、筆誅を加えて当然です。但し、「魏略」佚文は、記事本文と対照的な引用が多いので、ことさら、魏帝に阿った曲筆に見えますが、全文が健在な「魏略」西戎伝を通読すると、特に、史実を魏朝中心に粉飾しているようには見えません。

 但し、陳寿は、史書編纂にあたって、特に東夷伝に関しては、他に信頼するにたる史料がなかったので、魚豢の視点に同意できなくても、魏略「東夷伝」の造作を引き継いだとしても仕方ないところです。いずれにしろ、無教養の後世人は、憶測しかできないのです。当方も、諸兄の憶測を是正する趣味はありません。

 そこで、特異な史料である「翰苑」の登場です。断簡とは言え、天にも地にも、これっきりしかない史料だから、異本、異稿によって裏付けが取れないという苦言は、なぜか余り聞かないのが奇特です。ここで、不意打ちとして持ち出されたので、会稽東冶の誤読が「翰苑」で否定されると見たのですが、渡邉氏は、一ひねりしています。
 但し、古典依拠の誇張があるというのは頷けます。
 いずれにしろ、俗耳に馴染みやすい「翰苑」倭国条が、『三世紀編纂の「魏志」倭人伝より先に書かれた』という子供じみた俗説は、無能な論者の最後の隠れ家に過ぎません。

*一説談義
 突然の「新説」ですが、卑弥呼が「邪馬臺国」女王でないとの発言は、史書表現を誤解しています。安直な思い付きで視聴者の俗耳に阿(おもねる)「芸風」は、受けても一度限りでしょう。

*纏向説への疑問 
 纏向遺跡の建物の規模や桃種の多数出土を「日本」に比類ないというのは、纏向関係者が好んで持ち出すものの、考古学的に見て、根拠不明の断言です。当時の「日本」は、奈良盆地だけなのでしょうか。いや、当時、「日本」は、奈良盆地にも、地球上のどこにもなかったのです。俗耳に阿るだけの冗談も、連発されると聞き苦しいものです。
 因みに、全国の同時代遺跡で桃種の数を競えば、纏向は下位に沈むはずですから、桃種の数で背比べするのは愚策です。
 そんなに桃種が大事なら、出土したときにごみ扱いして、散水ホースで貴重な泥を洗い流したりせずに、小数でも良いから、土器片などと同様に、年代比定するための資料として、大事に扱うべきだったのです。
いや、「ゴミ捨て場から出現したからごみと思った」という直感を大事にすべきだったのです。

 「古代国家」は、時代錯誤史眼であり、他地域説論者が中国文献や遺跡に忠実な解釈を展開するのを蔑視するのは、当番組の主旨を理解していないのです。動揺して恥をさらした感じですが、纏向説への「サプライズ」、嫌がらせの闇打ちでしょうか。NHK番組で、前例のあるあざとい手口でしょうか。

*王権論議
 ついでながら、「卑弥呼の権力が弱かった」とは、つまらない事実誤認です。女王即位によって諸国の連携が回復し、女王の死後、国が乱れたということから見て、女王の権力が「強かった」から諸国が文句なしに従ったと見るものでしょう。いや、そう思わないというのは、個人の勝手ですが、史書に示唆すらされていない事項を、何も知らない後世人が最もらしく憶測して、殊更、目覚ましい言葉で断定するのは、古代史界の悪習であり、まことに子供っぽいので、早く卒業してほしいものです。
 どさくさ紛れに、「男王では統御できない」と性差別発言ですが、公共放送で不都合です。それに、卑弥呼以前は、代々男王が系譜を伝統していたのです。因みに、最初の女王だったかどうかは、倭人伝に書かれていないので、不明としか言いようがありません。

 纏向説の根底にある、三世紀にがんじがらめの中央集権「古代国家」は、文献にも考古学にもない夢想の世界です。自身の脳内で虚構を繰り広げて論議しているので、万事自明と感じられて暴言乱発になるのです。論争とは、結局、論戦の相手を説得するのが、究極の目的であり、「いたずらに、敵を作り育てる暴言罵倒を避けるべき」ではないでしょうか。

 最後に、泥沼作戦なのか、「掠奪」論が提起されて幻滅ですが、今回は、全開番組のように、古代史学素人の司会者が、したり顔でしゃしゃり出て、論議を煽る愚行が再現されなかったのは、人選の妙でしょう。
 三世紀の関係諸国は、良い意味で、文字通りの親戚づきあい
であり、「弱肉強食」など世界に溢れている暴虐は、随分長い間縁遠かったのです。
 因みに、環濠で囲まれた聚落は、掠奪集団にしたら、大した障壁にならないのです。何しろ、丸太を担いできて、壕に渡せばどうと言うことはないのです。また、環濠の幅程度では、強弓の射程を超えていないので、別に、投石機はいらないのです。中国では、唐代の長安城と雖も、外壁に数カ所門があるだけであり、しかも、城内各区画は、それぞれ、隔壁に囲まれて、街路から入るには、これまた、数カ所の門しかなかったのです。治安に不安があれば、そのように何重にも隔壁化するのです。
 隔壁でなく環濠で済んでいたと言う事は、磯田氏好みの盗賊集団が存在しなかったという事の表れとみるべきです。いや、「倭人伝」には、殊更に、狗邪韓国から南下する途上の「諸国」は、海を隔壁代わりの「国邑」としていて、独特の体制になっていたと明記されているのです。

 以上、同意できない遺物的な主張群を批判しましたから、当番組に対して不満ばかりのように聞こえるかも知れませんが、このように、連発された纏向説論者の常用する各種主張の杜撰さが浮き彫りになる番組構成には、まことに感心するのです。

*司会者の叡知
 それにしても、素人司会者の「古い解釈を取り除いて、原本から出直す」との至言は見事です。
 きっと、来年は、原点に還った論議が聞けるものと期待しています。後世人には、歴史ロマンでなく、冷静な歴史考証を伝えたいものです。

 別稿も含めて、聞き咎めせざるを得なかった難点を取り上げて述べていますが、当記事読者にとってご不快であるなら、無視していただいて結構です。どの道、耳を貸す気がないということでしょう。もちろん、反論、異論には、耳を貸すことになるでしょう。

                              この項完

2022年3月13日 (日)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 1/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

⚪はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、古賀氏の堅持している古田武彦師氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログが素人論断なのは自明ですが、とかく、罵倒のネタになるので、特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。
 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。あるいは、古代史論で人口に膾炙した「120年ずらし」を逆用したとも見え、大変、不吉な響きを禁じ得ません。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、一方当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、田中氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない中国史書の文献批判について、根拠の無い、場違いな批判を強引に展開して、「橿考研」が基礎としている倭人伝の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、講演会の主催者である石野氏を、公開の場で罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 2/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が集積していますが、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。私見では、「纏向」が、削り込み技法を売り物に、各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。
 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられと見えるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が長い道中を持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。また、身軽であることを信条とする行商人が、土器を担いで、海山越えて旅する図は戯画にもなりませんが、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してのことです。
 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか、重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく(仮想)「古代国家」に、こじつけるからです。

 筋の通った「reasonable」な仮説として、各地特産物の上納の初期の例として、纏向制薄肉土器の交換として、各地土器に特産物を詰めて還送したと見えるのですが、どうでしょうか。いずれの「物々交換」でも、対面取引で互いに等価だと合意して、初めて、交換が行われたはずです。何もないのに、各地産物が一人歩きしてくるとみるより「reasonable」でしょう。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。
 その後、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。何しろ、クチコミしかないのですから、売り込みできる範囲は、大変限定されていたのです。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部から木津水系を経て淀川の河川運送に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの「田中」氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。
                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 3/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*試行錯誤の伝説
 一体に、「考古学」の諸兄は、どこかで技術革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいますが、時代錯誤と言うより、事実誤認です。
 土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程で、失敗から学んだ技術者が土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用とするから貴重なのです。
 そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分、年月を要するのです。
 と言うことで、革新的な新技術が広がるには、大変な時間がかかるのです。橿考研が、空論を広げているのは、実務寄りの考察を進める人材に欠けるためだと見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、風説引用に陥っているのは残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容をこれに当てて審議していくはずなのですが、そのような前提は一切確立されていないのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で、言ったもん勝ちの議論を推し進めているのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢諸兄姉は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、学問的な意義のない、単に、無節操な批判のための批判を浴びせます。大抵は、先人の「一刀両断」の蛮勇に、無批判で追従しているのですから、何も新たな知見が付け加えられているものでなく、素人目にも、当時唯一無二の史料として尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに否定論を述べ立てる発言者に対しては、信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる倭人伝に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず、根拠不十分な異論を言い立てて「邪馬臺国」と無法にも改竄しています。根拠なき改竄は、学会ぐるみの悪習であり、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。
 倭人伝不信論調に従い、原文改竄、後代創作している第Ⅷ章には、信を置けません。

 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は、厳しい反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょう。氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、心地良いほど纏向論に合っているとご自慢と見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される安直な造形物ではありません。
 氏が、田中琢氏の本末転倒倭人伝全否定論に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢諸兄姉に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 補 序論

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ   2021/10/08 補充 2022/03/13

〇緒言のお断り~限定的論義
 榊原氏の本書での論議で気になるのが、後世概念闖入による不首尾です。
 例えば、氏は、東夷の変遷を理解していますが、殷代に山東半島の東夷が討伐されて一掃されたと誤解していますが、東夷が漢語を読み書きし古典を解する「教養」人、文化人となって、「夷」でなくなったのであり、民族不問です。もっとも、各国で、古典書を諳んじているような文化人は、一割に遥かに及ばなかったはずです。
 古来、中国史書で、稀少な例外は除き、民族を想定させる風貌記載は無く、身体特徴は短躯とされた曹操、晏子などの偉人を除けば、特記されているのは、「丈夫」の巨漢です。「丈」は、別に十尺(三㍍)というわけでなく七尺(二㍍)なら「丈夫」、さらに強調して「大丈夫」と形容したと思われます。素朴な強調は、東夷によって誤解され続けているのです。(日本人の日常会話で「大丈夫」がどんな意味になっているか、確認いただければ幸いです。極端な場合、「ネギラーメン」を注文したのに、「ネギ、大丈夫ですか」と確認されようなものです)
 と言うことで、「文化人」となった者達は「夷」と呼べないので、東夷は「発展的に」解消し、中原人はさらなる僻遠の地に無教養な「東夷」を求めたと思われます。別に、中原人が、東夷を侵略しつくしたとは限らないのです。
 因みに、後の「齊」「臨菑」は、四方に交易の道を得て繁栄し、万物が一に都(すべて)會する「一都會」との賛辞を受けていたと班固「漢書」に讃えられていますが、それは、東夷と呼ばれた太古にも、同様だったとみるのです。案ずるに、商の執拗な東方征伐は、侵略者の撲滅などでなく、東夷が得ていた巨利を妬んでのものだったと見えます。

*孔子東夷談義~ずれた理解
 氏が引用する孔子の言で、海に筏を浮かべても、「日本列島」には、到底達し得ません。
 「筏」は、要するに、船室、船倉、甲板のない軽舟、小船であって、船体は備わっていないので、潮風、雨ざらし、海水浸入で、普通人は、数日しか耐えられません。気軽な「浮海」は、山東半島沖合の海中の山島、朝鮮半島行きですから、食糧ももつし、外しようがありません。
 要するに、北は齊に遮られていた「魯」の孔子が、東に「東夷」を求めようとしても、深遠な「海」に遮られたので、結局、「北に浮海して北海を越えて、海中山島に行くことになる」との世界観だったのですが、その先の道のりは、遂に知るところではなかったのです。

*「首都」談義~枯衰する「都」の概念
 氏が、持ち出した「首都」と言う後世語ですが、三世紀、「都」は、洛陽などの帝国皇帝居城専用です。蕃夷に「都」は、あり得ないのです。また、「首都」と言うのは、幾つかの「都」があって、「首」は、順列一位というに過ぎません。言わば、「都」が、唯一絶対でなく、大安売りされた時代の造語なのです。魏略佚文では、『魏文帝曹丕が、長安、洛陽、譙、鄴、許昌を「五都」とし、「洛陽」を首都とした』とあるようですから、三世紀当時に、そのような造語が出回ったのかも知れませんが、三国志本文には見当たりません。
 余談ながら、「都」が蔓延状態にある現代日本では、かつて、平安朝以来の「京都」に服する東京と称した「首都」の意義は揺らいでいるようで、むしろありふれたまち(都)で、でかく、賑やかなものと解されているようです。あるいは、都道府県と列記された最上位でしかなく、仮に、一時唱えられた「大阪都」が成立すれば、それこそ二都時代の「首都」に過ぎないことになるところだったのです。
 そのような長々しい時代考証はともかく、三世紀における「首都」を(仮想された)広域国家の国王居所と解して、古代の各国が、(仮想された)広域「国家」を形成していたとみるのは、倭人伝に明記も示唆もされていない。要するに(仮想された)「幻想」です。少なくとも、「文化」の唯一無二であった原点「中国」では、とうに滅却された概念のように思うものです。

*連邦国家談義~時代錯誤の一例
 氏が持ち出した「連邦国家」なる後世語ですが、国体が不明では「邦」と呼べるかどうか不明です。「邦」は戦国七雄の領域国家と地域聚落「国邑」を区別しましたが、漢高劉邦を僻諱して死語となったので、古代史では、意味が不確定です。いずれにしろ、「連邦」は場違い、時代錯誤です。近現代欧州史を語る際のことばであって、国内史学会の諸兄姉が、古代史論議に持ち込むのは、時代錯誤の愚を犯しています。
 また、倭人伝の諸「国」は、客観的に証されない限り「邦」との大国宣言はありません。「邦」がなければ、「連邦」はないのです。

 「連合」と緩めてみても、三世紀当時を時代考証する限り、隣近所の村々との連合ならともかく、遠隔地に散在する諸国が、どう連絡を取って、どう盟約を締結して、どう連合を形成し、維持していたのか不可解です。文字無しで文書は遅れず、馬無しで各国は、健脚の伝令を走らせていたのでしょうか。数世紀の時代錯誤があるようです。
 いや、隣近所であれば、月に何度か寄り合いして、その場で談合すれば、「朝廷」だの「連合」と称することができるのですが、そんなに物々しい「国家」像を描かないと、「イメージ」、「イリュージョン」が描けないのでしょうか。国内史学会の諸兄姉が、古代史論議て゜゛展開する論議は、時代錯誤の愚を犯していると感じます。

*意味のない戸数~方里の意義
 そもそも、中国式の「戸」は、各戸が、所定の耕作地を牛犂などによって耕作する前提で「国家」を評価しているのですが、倭人は「牛馬無し」、つまり、農民が自動的に(自分の手足でAutomaticに)耕作し荷運びする東夷では、戸数によって収穫量を算定することはできないのです。つまり、東夷伝各国の戸数は、各国の獲れ高指標にならず、私見ですが、そのために「方里」なる、独特の統計指標を採用したと見えます。陳寿は、読者に対して太古の中原世界を想起させるよう努力していますが、「自動的な耕作」は、先史時代の社会になるので、適当な史料がなく、道里も戸数も、曖昧にするしかなかったようです。
 まして、各国に正確な戸籍がなければ、「戸数」は憶測に過ぎず、家族構成が不明では、兵員徴兵の際の指針となる人口推定の役にも立たないのです。ついでに言うと、文字や計数の基礎教育が、全国に行き届いていなければ、戸数、工数の全国集計はできないので、ますます、意味のない統計数字となります。

*後世語、後世概念の排除
 要するに、中国史書解釈で、「後世語」、「後世概念」の無法な混入は、論者と読者の意思疎通を、大いに疎外するので厳重に避けるべきと思われます。

*周旋談義~大仰な解釈
 氏は、「周旋五千里」に通俗解釈を採用していますが、海上洲島、小島が散乱した国家形態で、領域周長などおよそ無意味です。文脈から、そのような俗説は不都合だと理解いただきたかったものです。ご自愛いただきたいものです。もちろん、当時、精密も何も、今日言う「地図」はなかったし、群島国家の領域など測量のしようがなかったのです。
 同時代の袁宏「後漢紀」で、「周旋」は、「二つの名家を往き来する」用例で、まことに、日常感覚の明解な地理観で、素人にも納得できます。つまり、倭人伝では「狗邪~倭間が五千里と明示されている」ものと思われます。郡~狗邪~倭の主行程記事に、奴国、不弥国、投馬国の傍路条が挟まったので、読者が誤解しないように念押ししたと見ます。
 倭人伝の冒頭、まず、「倭人は、帯方東南に在り」と大局的な地理を明示した後、倭人は、「大海中山島」に国邑を形成していたとの予告を受け、洲島を伝い倭に渡ると念押ししています。何しろ、島の上に聚落を形成していたので、勘合も城壁も必要なく、また、国境など不要だったと書かれているのです。
 そして、末羅で上陸して、以後、陸行に転じて、伊都~倭直行と明示しているのは、長期水行渡海を要して九州島内に収まらないのが自明の投馬国共々、奴国、不弥国は、主要国でありながら、風俗記事を書かず、余傍であることを明示しています。

*倭人伝解釈に王道無し~余談
 随分言い古された警句ですが、倭人伝は、後世東夷人に耳当たりの良い「紀行書」などでなく、三世紀当時の知識人が、同時代の知識人に提示した「問題集」なのです。同時代知識人が自慢の教養をもってしても、適度に苦労する「解釈」が必要で、皇帝初め教養人に頭を捻らせる難易度だったのです。
 もちろん、読者が投げ出すような高度な設問ではないので、手頃な小手調べであって、問題に対する解答は、当時、自明に近かったのですが、現代では、なめてかかった不勉強な落第者が、山を成しているのです。知識、見識が不足して「落第」するのは、自然の成り行きであって、別にに、恥じても何でもありません。「落第」を逆恨みして、出題者を誹謗するのが「末代の恥」なのです。
 なお、以上は氏に対する批判などではなく、世間に溢れる不埒な「落第」者に対する苦言であることは、ご理解いただきたいものです。氏は、惜しくも及第していませんが、最善を尽くした上での結論であり、提起された解釈は、陳寿に成り代わって、敬意をもって受け止めたいと思いますが、「問題集」を改訂する術はないので、その旨よろしくご了解いただきたいものです。

                         この項完 以下別途

2022年3月 5日 (土)

私の意見 歴博展示品「後漢書東夷伝復元複製」の怪

                                                 2022/03/05
〇はじめに
 最近、堂々と歴博(大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館)に展示されている「後漢書東夷伝復元複製」は由来不明です。なお、歴博所蔵の范曄「後漢書」南宋刊本は、木版印刷の紙冊子です。

 歴博展示物は、何を復元複製したのか、大変疑問です。複製、レプリカは、原本の制作過程、素材、加工手法を忠実に再現していなければ、学術史料の意義はないのですが、歴博は明細を公開していません。貴重な展示品の複製製作が根拠不明ではならないとみるのですが、どうでしょうか。

*范曄「後漢書」の由来
 笵曄は、劉宋皇帝に反逆を企て、嫡子と共に斬首された重罪人ですから、未公開の後漢書遺稿は行方不明となり、唐代に章懐太子の元に届いた范曄「後漢書」は、「続漢書」の「志」部を採り入れた正史体裁となっていて、原本はとうに消滅していたのです。(苦笑)
 何しろ、南北朝の分裂を、北朝側の隋が武力統一し、その隋が、煬帝の失政で戦乱の渦に沈んだあげくの唐による全国統一なので、経過不明なのです。

 章懐太子は、「増補版」范曄「後漢書」に付注し、「史記」、「漢書」に続く三史の締めとしたから、歴博「後漢書」は、そうした章懐太子原本の「正史」の復元複製と思えますが、その時点では、袋綴じ冊子形態の写本と見えます。但し、それまでも、それ以降も、刊本以前の「後漢書」写本を見た者は、誰一人現存していません。(苦笑)

*考証不備
 展示品は、范曄「後漢書」東夷列伝の復元複製と称していますが、正史小伝の分冊書が存在したと思えないので復元しようがないと見えます。(苦笑)歴博が、展示物を「後漢書東夷伝」復元複製と主張するには、歴史上、実物が存在した根拠となり得る証明が必要ですが、どこにも見られません。

 「日本の古代14 ことばと文字」(中公文庫)「9.木・紙・書風」によると、素人が、時として簡牘巻物と称していたのは、学問的には「冊書」であり、簡牘の中で最も早く晋代に滅びたようです。

 東晋では、帝室書庫蔵書は、紙に変わっていたはずであり、続く劉宋代、財産家で高級官僚の笵曄は、後漢書草稿段階から紙に専念したのではないでしょうか。編集部門内の覚え書きなど、紙に限ると言えます。

 一体、何を目的に、当初は、冊書だった可能性が無視できない陳寿「三国志」魏志東夷伝でなく、正当化が困難な范曄「後漢書」東夷伝を復元したのか意図不明です。

*歴博の独断
 歴博は、紙巻物とでも対比して「冊書」退潮を書けたはずです。范曄「後漢書」の原本を一巻復元すれば、対比が鮮明でしょう。なにしろ、本紀十巻、列伝八十巻の大著ですから、早々に木簡を廃したはずです。
 歴博サイトの紹介では、単に、紙になっていなかったとしているだけで、これでは、歴博関係者の独断を押しつけていることになります。

*謎めいた制作意図
 これまで、当事件については、不審なことが窓ガラスの向こう側の曇りに見えて、手がつかなかったのですが、今回、すっきりと拭えたのです。

〇まとめ
 と言うことで、歴博の「後漢書東夷伝復元複製」の背景説明をお伺いしたいのです。それとも、一国民は、監査請求しないといけないのでしょうか。

                               以上

2022年3月 4日 (金)

新・私の本棚 第395回 邪馬台国の会 講演 安本 美典 「謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと」

 謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと(みかん物語・田道間守の話)
私の見立て ★★★★☆ 潤沢 2022/03/04

〇始めに
 当記事は、情報豊富で大変参考になるが、細瑾が見えたので、以下、私見を提示する。

⑴古墳古尺談義
 (5)永寧二年(302)の骨尺にもとづけば、晋の一尺は、二十四センチである。このものさしではかれぱ、崇神天皇陵古墳の全長240メートルは、ちょうど1000尺である。垂仁天皇陵古墳の全長は、950尺、景行天皇陵古墳の全長は1300尺である。晋のものさしを用いて、古墳の設計が行なわれているようにみえる。

 安本氏にしては、突っ込みが浅いと書いてしまった。「尺」は度量衡で、土木工事には場違いである。古代に多桁数字はなくて間尺に合わず、誤解を誘う時代錯誤である。
 古墳全長は、測量単位の歩(ぶ)、一歩六尺、1.5㍍程度が必須である。概算で、崇神陵、垂仁陵は六百歩程度、景行陵は九百歩程度となる。机上計算は精密でも、実務「縄張り」は、必然的に大まかである。

 と言うものの、多少大まかでも、魏晋「尺」基準の設計、施工を否定するものではない。先行論文を参照された方が良いように思う。
 例『「古韓尺」で作られた纏向大型建物群』 新井 宏 計量史研究 32-1 2010
   国立国会図書館デジタルコレクション ART0009530400.pdf

 表2 後漢尺、魏尺および古韓尺の纏向遺跡への適合度
 見る限り、垂仁/景行陵は25㌢㍍の「尺」、1.5㍍の「歩」で採寸されたと見える。古墳全長は土木工事分野で、万事大まかと見える。私見では、精密さを問うには、精測可能な墓室内の尺度領域を言うべきだろう。

⑵柑橘類談義
 『中国での柑橘類の「大産地」は、おもに、かつての、呉の国と、蜀の国との領域内になることがわかる。』と至当である。柑橘類は、水分に満ち、降水量が多く、気温の高い土地でないと育たない。まして、現代日本では、長年の品質改良で、多果汁、甘く、種が少ないもので参考になりにくい。
 現代日本でも、ミカンは南、林檎は北で好まれ、果物に地域性がある。

⑶「弱水」談義
 私見では、国内古代史論者に共通の古典書教養不足のようである。厖大な史料に通じた巨峰白鳥庫吉師も軽視したから、仕方ないが、漢字学泰斗白川勝師によれば、「弱」は下部に飾りのある弓で、祭壇に献げたのである。私見では、武器に無意味な「弱い弓」は「飾り弓」だからである。そして、西王母の前に、河流「弱水」が控えると見るものである。あくまで、素人の推定だから、ご一考いただくだけで幸いである。

 楊子雲は、司馬遷「史記」大宛伝や班固「漢書」西域伝の元史料を見たのか、西の最果て「西王母の住まいの裾野に弱水が在る」と述べているが、西遊記の孫悟空が達した「五本の柱」のように最果ての奇観(賛辞)である。

 「西海」が、大海「裏海」かどうか不明である。武帝使節団は安息東境木鹿城Mervに長期滞在したが、私見では、応対の安息長老、実は、二万の兵を擁する司令官が、百人級の軍使団に、不用意に内情を漏らしたとは思えない。

⑷范曄大秦夢譚~余談
 私見では、范曄「後漢書」西域伝は、安息、條支の西に「西王母」と「弱水」を仮想している。「流沙」は、西境に揺蕩う「砂の海」と見え、笵曄は大秦を雒陽官僚の落書きと明言して、筆が踊っている。いや、大秦がローマとは、古来の大「誤謬」であるが、安本氏が唱えたものではない。為念。
 私見では、笵曄は、先例の乏しい蛮夷伝では、自由な語り部になるのである。

                               以上

2022年2月27日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の汚点 「五輪リベンジ」の不始末

                      2022/02/27
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版スポーツ面のど真ん中である。いや、「陸上クロカン」なる記事の中程で、勝者の談話を持ち上げている小見出しだが、素人目にも、三流以下の不出来な談話で、何とも情けない。これでは当人の評判が下がるしかない。
 要は、当人が、ちゃんとした言葉遣いで話せない半人前なのがあからさまなのだが、それは、これまでちゃんと指導者が、汚い言葉遣いを直さなかったのが原因だろうが、何しろ、責任者の氏名不詳だから追及しようがないのである。それにしても、そんな、一人前の大人がしゃべるのが恥ずかしいセリフを、殊更でかでかと取り上げる担当記者の気が知れないのである。
 ここは、スポーツ面かも知れないが、世界最高の日本語報道紙の紙面なのである。言いたい放題のSNSではないのである。

 まずは、レースでコース外れをしてのけて、うまくごまかせたことを「やべって思った」と口汚く言った後で、勝者インタビューで「今の自分はダサい。オリンピックの舞台でリベンジしたい」などと、さらに汚い言葉で喚いたのを、そのまま報道するだけでも問題なのに、小見出しを立てるのだから、この言葉遣いは、担当記者の好みなのだろうか。予選下位敗退者が、別に何を誰に誓おうと、元々何の関心もなかったのだから、読者の知ったことではない。
 オリンピック代表に選ばれながら、自分が不出来で惨敗したのに、「くやしい、仕返ししてやる」しか言わないのは、何とも奇天烈な談話で、人選の誤りだろう。陸連は、ちゃんとした言葉で談話を出せない選手は、人選から外すべきではないか。

 また、毎日新聞も、このような姑息な手段で当人の評判を落とさなくても良いのでは無いか。今回の記事は、署名記者をブラックリストに載せるもののように見える。

 今回の大失態の責任は、このような記事が紙面を汚すのを停められなかった編集/校閲部門にあるように思う。記者の失態は、内部で是正して、読者に不快な思いをさせないというのが、大新聞の務めではないだろうか。

以上

2022年2月23日 (水)

今日の躓き石 NHKBS「奇蹟のレッスン」に汚点のナレーション 「リベンジマッチ」

                       2022/02/23
 今回の題材は、NHKBSの 『奇跡のレッスン「野球編」』である。[BS1] 2022年02月23日 午後7:00 ~ 午後8:50 (110分)

 番組は、最強コーチが、「楽しくて考える野球の道を日本の子供に伝える」ものであり、全体としてたいへんよくできたものと思うのだが、前半の締めの部分のナレーションで「リベンジマッチ」が出てきて、折角の番組に泥を塗ったのは、残念であった。

 いくら悪意がなくても、テロリスト紛いの「リベンジ」汚泥を子供達に擦り付けては、道に外れていると言わなければならない。
 負けたら、相手を恨んで次は血祭りに上げるというのは、野球界に長年漂っている悪習である。次世代に伝えたくないものである。

 いや、これは、復讐戦でなくて、近年蔓延している「ダイスケリベンジ」かも知れないが、野球界にしか通じない汚れた言葉を、さらに次の世代に伝えるというのは、恥知らずな汚点継承である。
 いゃ、番組の最後、試合に勝ったところで、「リベンジ」を果たしたとナレーションが入ったから、当番組のライターは、血なまぐさい「リベンジ」 が好みらしい。悪しき伝統に忠実なのか、勘違いで言い損なったのか、困ったものである。

 ついでに言うと、「因縁」などとこれまた血なまぐさい、反社会勢力紛いの言葉が出てきたが、同地域の有力な競争相手とたびたび闘うのは、別に偶然でもなんでもないし、何度も同じ相手に負けるのは、要するに、相手に比べて工夫が足りない、努力が足りないという事ではないか。子供じみた逆恨みなど、早く卒業してもらいたいものである。いや、当番組は、そうした知恵を各選手自身に気づいてもらえるようにするのではなかったか。

 もちろん、最強コーチは「平成の怪物」などではないから、「リベンジ」などと言っていないはずである。NHKの番組制作班のお粗末なスポーツ観が、またもや出てきたのだろうが、視聴者は、番組では、最強コーチと生徒達しか見ていないので、そこから出てきた言葉と思うはずである。折角の志に泥を塗っては困るのである。

 NHKにお願いしたいのは、スポーツ担当記者などの意識改革である。「復讐心」や「親/監督の遺志を継ぐ」だのスポーツに本来無縁の感情を書き立てるのは、ぼちぼち卒業してもらいたいのである。NHKが、そんな反社会勢力やテロリストの好む言葉を言わなくても、世間には、そうしたヤジが多いのである。

 NHKには、表立って、こうした悪い言葉を葬る「言葉の護り人」の役目を望んでいるものである。せめて、ナレーターが読み上げるまでに、誰かが止めることはできないのだろうか。NHKの番組は、大勢が知恵を出して作り上げているはずなので、その中に、ちゃんと言葉の意味を考えられる人が、一人もいないのかと淋しいのである。
 ついでながら、世間一般で意味の通らないカタカナ、インチキ言葉の「メンタル」が出回っているのも、NHKにしては不用意である。これは、公共放送として、大変不出来である。普通の言葉に言い換えれば、誰でも正確に理解できるのである。
 一方で、日米で抜群の実績を残して引退し、遠慮無しに名誉ある「レジェンド」と呼べるのに、なぜ、普通にそう呼ばないのかも、不思議である。失礼ではないか。

以上

2022年2月19日 (土)

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 1/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

〇コメントに公開回答
 以下は、【私の本棚 34 中島信文 『露見せり「邪馬台国」』】なる書評めいた記事に対して尾関かおる氏から投稿頂いたコメントで、『「海行」が呉志に用例がある』との指摘に対する回答です。(2019/11/22現在公開保留中)

 「用例」は、原テキストの全文検索で容易に発見できますが、あくまで、そういう文字列が使われていたと言う事であり、意義のある「用例」かどうか、言うならば。史料批判した上で言及すべきであり、そのまま「用例」として受け止めると深刻な誤解に陥るのは、当方も、しばしば経験しているところなので、ご指摘に台啜る反論として、以下の通り「用例批判」いたします。
 なお、当「用例」については、当然、先賢諸兄姉が却下しているものと思われますが、却下の先例のご指摘がないので、二番煎じを承知で以下説明を加えます。また、当ブログに於いて、同趣旨の記事が既出の可能性もありますが、それを見ろというのは、読者に不便を掛けるので重複ご容赦とします。
                           –記–

 「海行」は、移動行程の常用用語とされていたのであれば、海上交易の盛んであった東呉孫権政権の史官が責任編纂した国史である「呉書」に基づく三国志「呉志」で多用されているはずですが、実際は極めて「希」で、ほぼ唯一の用例について以下確認します。

▢吳主傳:  中国哲学書電子化計劃
 二年春正月魏作合肥新城詔立都講祭酒以教學諸子
 遣將軍衞溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲
 亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神山及仙藥止此洲不還
 世相承有數萬家其上人民時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行亦有遭風流移至亶洲者
 所在絕遠卒不可得至但得夷洲數千人還

*私見宣言
 もちろん、以下は、論旨を明確にするため断定調であっても、所詮は私見であって排他的ではなく、深意は推定ですから、異論があれば頂きたい。

 呉主伝に書かれている内容は、曹魏が、江水北岸合肥に「新城」を建設して、江南の東呉に対して武威を誇ったのに対抗するため、東呉が、徴兵船を夷州、澶州へ「浮海」、つまり、漠然と目指したときに根拠とした「情報」(風評)たる徐福「入海」の史記記事(正史記事の引用であるから、「風評」とは言えないのですが)に続いて、会稽海岸附近住民の「噂話」(風聞)を伝えたものであり、「会稽の東縣(海岸部諸縣。のちの臨海郡)に、海を行って(海に出て)強風に流されて澶州に行き着いた者があったという」とのことです。つまり、既知の目的地「澶州に向かって、官道として確立された行程として海を行った」のではないと見ます。
 もちろん、「海中」は、海水に沈んでいるという意味でなく、現代的に言うと「海上」の意味でした。また、「入海」は、海に入ると言っても、「入水」、つまり、身投げのことではありません。海上を船で行くという事です。
 ちなみに、曹魏の前線基地である合肥は、長江下流域で曹魏と東呉の競り合った紛争地であり、比較的、長江北岸に近かったこともあって、東呉の攻勢の的となり、西方で、蜀漢の攻勢を受けていた曹魏として、防衛の負担を軽減するために、若干後退した地点に「新城」を構えたと言うことです。そのため、東呉軍に、渡河して陣形を整える余裕を与えますが、堅守して増援を待つ姿勢を示して、不退転の意志を広く示したものです。つまり、東呉に求められていたのは、新城を攻めるための多数の歩兵であり、数さえあれば良しという思想だったように見えます。

*浮海と海行
 つまり、東呉として澶州への往復航路を確立していれば、海上道里や所要日数が知られていて、衛温、諸葛直の両将は、「浮海」などでなく「海行」したはずですが、実際は、果てしない海をあてなく漂って、行けども行けども目的地に着かず苦闘したことが窺えます。
 当時、磁石による羅針盤があったとの記録はないので、日中航行しかできなかったと見えます。と言うことは、澶州は、せいぜい数日の行程だったと見えます。
 何しろ、数千の人員で遠征して数千人を連れ帰るには、それ相当の水や食料の搭載が必要だし、途上の補給地も書かれていないので、現地調達も期待していなかったという事です。何れかの異郷が間近だったという事かも知れません。何しろ、ちゃんとした記録が残っていないので、よくわからないのです。
 「呉書」呉主伝は、東呉の正史であり、東呉の史官が公文書をもとに書いたものであり、降伏の際に晋皇帝に献上されたと言いますが、関係文書は、その際に処分してしまったのかも知れません。

〇三国志の文献批判
 念押しすると、「呉書」の収納は、陳寿の魏志編纂に先立っていて、むしろ、三国志「呉志」に、ほぼ全面的に採用されているので、陳寿は、全文を読んでいたのですが、倭人伝に、「海行」なる「新語」を採り入れることはなかったのです。魏志は、あくまで、「史記」、「漢書」の用語を典拠に編纂したのであり、叛徒である東呉の野史、つまり、非公認史書の用語は、論外だったのです。
 三国志の文書史料解釈において、「呉志」、「蜀志」は、陳寿が責任編集した「魏志」本文ではないので、峻別して取り扱うべきだということになります。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 2/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*無謀な兵船浮海
 曹魏の支配領域の沿岸を越えて遼東に大軍の兵船を派遣した実績を持つ東呉が、精鋭満載の兵船を、海を越えて遙か彼方、「海中」の夷州、澶州に派遣し徴兵する能力があった事は、呉志記事で確認できますが、それすら「海行」と言わなかった事は、当時の「航海」の限界を示すものと思います。
 もちろん、「海路」などと言う後代概念は三世紀当時には一切登場しません。諸兄姉は、時代錯誤の誹りを浴びないように、慎重に口を慎むべきです。

*愚行の教訓
 余談ですが、東呉は、(長江では)水軍で、曹魏が、一時荊州を配下とした時点でも、これに優越していて、不足しているのは、中原の平原に展開して闘う陸軍(歩兵、騎兵)ですから、言葉の通じない海人を大量に徴兵しても歩兵戦の役に立たないのです。徴兵船構想は、重大な錯誤としか言いようがありません。よほど人手不足だったのでしょう。

 「呉国志」のもととなった「呉書」を編纂した東呉の史官は、このような愚行が再発しないように慎重に言葉を選んで執筆したと思います。

*用例総評
 従って、本「用例」は、「海行」なる言葉が、東呉に於いて、倭人伝の用語の背景となっているとされている「水行」、「陸行」の制度に対峙される制度として確立されていたと証する用例ではないと考えます。

 また、陳寿が、魏志「倭人伝」を編纂する際に、呉書の孤立した用例を、公式史書である魏志に断り無く導入して、晋朝官人に承認されると判断したとは思えないのです。あくまで、呉志が東呉の語彙で書かれていることが、黙認されていたに過ぎないのです。

 ついでながら、ここに書かれている「会稽東縣人」を、「会稽東冶縣人」の誤記と解する例も見られますが、上記したように、会稽東縣とは、会稽海岸部を占める東部諸縣の通称であり、のちに分郡して臨海郡とされる地域と読み取るのが、順当な解釈です。

 会稽郡南部の東冶県は、会稽郡治から険阻な山間路を一ヵ月どころでない長期を費やして移動する遠隔地であり、そのような遠隔地の不確かな風聞を、東呉の国威を示す目的で書かれ自国史として権威を持っていた「呉書」に書くことは、ありえないものと見られます。「三国志」と一括して読まれても、呉志は魏志と異なる大義名分で書かれていることを認識して理解すべきです。

 つまり、会稽郡のお膝元で、直に取材可能な東縣の「伝聞」なのです。

▢改訂した結論 2022/01/22
 以上、丁寧すぎたので、以下、改訂した一刀両断の回答を示します。

 要するに、目下の課題は、魏志倭人伝の道里行程記事に対する呉志呉主伝記事の「海行」の影響ですが、これは、端から論外です。門前払いでお帰り戴けば、色々調べる必要は無いのです。

 以下は、あくまで、当ブログ筆者の心覚えであって、公開すると、更なる揚げ足取りを呼ぶので、内部資料として留め置くのです。(そのつもりでした)

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 3/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*内輪の説明書 (部外秘)
 魏志は、陳寿が、史記、漢書に通じる語法で書いています。早い話が、倭人伝の道里行程は、本来、秦、漢、魏の官制に従い、陸上街道に限定されています。もっとも、倭人伝の道里行程は、独自の限定された書法、語法となっています。また、倭人伝が、独自の書法、語法を採用するという事は、道里行程記事の冒頭で明示されています。

*後漢公式行程
 後漢書「郡国志」(司馬彪編 范曄「後漢書」に併録)には、洛陽から遼東郡を歴て楽浪郡までの道里五千里が記録されていますが、当然、終始一貫街道を行くので、帯方郡から先も、当然、一路東南方向に街道を行くのです。

 言うまでもないが、洛陽は河水の南、支流洛水沿いですから、遼東までに、少なくとも一度は、街道の津(船着き場)での渡船がありますが、それは、当然街道の一部であり、部分的にも「水行」などとは言わないのです。

 よって、呉志の発明した「海行」どころか、倭人伝で初出の「水行」も、本来、対象外の「無法」(違法)な用語です。倭人伝が、無法な用語で書かれていては、軽くて、却下、悪くすると、罷免、免官、馘首です。

*水行、陸行
 但し、倭人伝では、「従郡至倭」の行程が、狗邪韓国で「大海の北岸」に達して、以下、渡し舟とは言え、渡海の行程は、大海海中を進み、一日がかりなので、所要日数が発生します。そのため、余儀なく、妥当な方策がないので、特に用語定義して対処したのです。

 ここで陳寿が書いた「従郡至倭」行程では、『狗邪韓国の海岸(大海の北岸)から循して沖に出て、三度の渡船で対岸の末羅国の海岸に渡るのを「水行」と言う』と、臨時に地域限定(local)で「循海岸水行」と宣言したものです。
 つまり、公式道里に「水行」はないというのが、当然、自明の前提なのです。いや、行程が地上街道に限定されていれば、本来「陸行」も存在しませんが、東夷、西域など、街道整備が整っていない未開の世界では、必ずしも、原則だけ通用するとは限らないのです。

 因みに、行程は、末羅国で上陸し、以下「陸行」と明記して「水行」は解除されています。
 当ブログは、「従郡至倭」行程は、伊都国で完結し、女王の治所、王城までは、行程と言うほどの移動のない至近の地だったと、簡潔に見ています。「従郡至倭」行程の道里は、 千里単位ですから、本来、百里単位の端(はした)は、書くに及ばないのです。
 現に、倭人伝道里は、末羅国、伊都国間で百里単位の端(はした)を残したため、計算が合わないと揚げ足を取られていますが、千里単位の概数計算では、一里単位まで「キッチリ」合うとは限らないのが常識です。

*大海、瀚海
 中原知識人の世界観では、「海」は、塩水の満ちた「うみ」(英語でsea,米語でocean)ではなく、中原世界の四囲にある異界であり、船で渡ることなどあり得ないのです。

 一方、魏志「倭人伝」に書かれているのは「大海」ないしは「瀚海」であり、それぞれ、漢書「西域伝」に描かれた広大な塩水湖「カスピ海」が「大海」の実例であり、や砂紋の描かれた流沙(砂漠)は、水ならぬ砂の海の「瀚海」の実例なのです。
 中原人にとって既知の世界観を利用していて、陳寿が書き出しているのは、現実に追従した具体的な地理概念なのです。

*「倭人伝」宣言
 「倭人伝」は、公式史書「魏志」の一部なので、それまで、中原知識人の確認した語彙、世界観以外は、無断では使えないのです。くれぐれも、中原人の限定された世界観を遵守することです。所詮、中原人も、また一種の井蛙なのです。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 4/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*「蜀志」の開闢~余談
 陳寿が、三国志編纂を志した時点では、「蜀国志」稿が用意されていなかったのです。恐らく、蜀漢は、国家として最低限の官僚しか備えていなかったので、皇帝付きの記録係、書記官、史官は、揃っていなくて、晋で言えば、起居注として日々書きためられている記録が整っていなくて、各方面の多大な協力が必要だったのですが、陳寿の志を知れば、協力は容易に得られたものと思われます。
 陳寿は、蜀漢に事えていたので、そのような不備を承知の上であり、広く蜀漢時代の公文書を収集して蜀国志稿を整えるという活動を指揮し、最終的には、陳寿が蜀書の体裁を整えたとするのが有力な見方です。(陳寿が、自身で細部まで編纂したという主旨ではありません)
 蜀漢創業者にして、先主と呼ばれている劉備は、後漢献帝のもとから荊州を歴て成都に亡命して以来、一貫して、漢の再興を志向していたので、「蜀国志」は、中原洛陽の「東京」語法で書かれたものと思われますが、不勉強で確認できていないので、ご容赦いただきたいのです。

〇范曄「後漢書」の世界観
 因みに、三国志と言いつつ、呉志は、東呉史官(周昭,韋曜、薛瑩、華覈)が、言わば、不遜にも呉帝の事績を編纂した史書「呉書」が、東呉の降伏の際に、降伏の証しに「国宝」として晋帝に献上されたのを、陳寿が最低限の調整で呉国志として取り上げたのです。その内容に、魏志としては不適切なものが多々あるのは、皇帝以下の諸賢に承知されていましたから、呉志に書かれているから、魏志に書かれているのと同然という事はできないのです。
 要するに、三国志は、一律の統一された方針で隅々まで編纂された史書ではなく、三「国志」(魏国志、呉国志、蜀国志)なのです。

 衆知の如く、東呉は、東シナ海沿岸を自在に南北に往来していましたが、そうした業績が、中国の天子に承認されたのは、西晋が崩壊して、東晋が、長江下流の建康、つまり、東呉の旧都に亡命、東遷してからです。つまり、陳寿が魏志編纂の際に、呉志の用語を所引することはできなかったのです。

*笵曄の「海」~余談
 劉宋時代に(最後の)「後漢書」を編纂した笵曄は、建康政権たる劉宋に奉職していたから、先に書いた、太古以来の伝統的世界観は、持っていなかったと見えます。

 つまり、范曄にとって、「海」は、目前の「うみ」だった可能性が高いのです。范曄が、伝統的な史官として訓練を受けていたら、「海」は、魏志同様に、古典書に言う「海」と認識できたでしょうが、史官でない「素人文筆家」が、古典と同時代で、それぞれの語彙、世界観を書き分けていたかどうか、遥か後世人としては不明と言わざるを得ません。

*笵曄の創作~余談
 ついでながら、范曄「後漢書」東夷列伝倭伝の情報源は、不可解です。
 先に述べたように、范曄「後漢書」といいながら、「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の賜物であり、同書は、西晋代にまだ健在だった洛陽文書館の「大鴻臚」公文書から大量の資料を所引したものであって、洛陽(雒陽)から遼東郡を歴て楽浪郡への道里が記録されています。しかし、帯方郡への道里は記録されていません。それどころか、帯方郡自体、郡として記録されていません。つまり、遼東公孫氏は、献帝が曹丕に禅譲するまでの期間に、帯方郡分郡を報告したとしても、戸数、口数、道里は報告していないことになります。
 魏の文帝、明帝期は、公孫氏の自立時代ですから、魏の大鴻臚にも、帯方郡関係の報告は一切なかったのです。魏志に郡国誌も地理志も無いので、物証はありませんが、強固で反論不可能な状況証拠として、雒陽に帯方郡関係の報告は一切届いていなかったのです。それが、魏志に書かれている、公孫氏が東夷を遮っていたという記事を裏付ける物です。

 魏略及び魏志の東夷伝は、景初初頭に、帯方郡が、楽浪郡と共に、魏明帝の傘下に回収された際に、帯方郡から得られた郡文書に基づくものであり、特に、魚豢「魏略」は、後漢から政権を正当に受け継いだという立場に立っていたので、魏略「東夷伝」は、当然のごとく後漢代から説き起こしていたと見えるのです。これは、裴注として補追された魏略「西戎伝」が、大量の後漢史料に僅かな論評を加えた体裁であることからも見て取れます。これも、否定困難な状況証拠による推定です。

 と言うことで、范曄が、後漢書「東夷列伝」を書く際に、献帝期以降の記事を書くのに利用できたのは、魏略「東夷伝」だけだったということになります。何しろ、先行諸家後漢書には、その期間の東夷記事が存在しないのです。
 但し、笵曄は、後漢書「東夷伝」を編纂する際に、魏代記事をあからさまに流用できなかったので、魏志「倭人伝」相当記事を、後漢代の記事となるように、時代をずらしたものと見えます。つまり、倭国大乱を大きくずり上げ、卑弥呼の共立/即位も、目立たないようにずり上げ、陳寿の倭人伝記事の改竄を図ったものと見えるのです。
 その苦しい手口が、その国が「帯方郡の檄を去る」との記法に表れています。何しろ、笵曄は、楽浪郡治から、帯方郡治までの道里を知らなかったので、帯方郡までの道里が書けなかったのです。別の言い方をすると、笵曄は、帯方郡が後漢公文書に存在しないことを知っていたので、ここに書けなかったのです。それなら、なぜ、後漢公文書にない倭国記事が書けたのかということになりますが、不可解というしかないのです。
 其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。

*笵曄の言い分~余談
 その当時、倭の主監は楽浪郡であり、「大倭王」の居処は、陳寿の云う「邪馬壹国」と似ているが、字の違う「邪馬臺国」であり、行程の中継点も、大倭国の西北界である「拘邪韓國」だった、陳寿の「狗邪韓国」と違うだろうと言っているように見えるのです。二千年を隔てた後世の東夷にしてみると、姑息な言い逃れにも見えるのです。
 もちろん、これは、范曄「後漢書」が、誤写や改竄無しに、奇跡的に、後世に継承されたと仮定しているに過ぎないとも言えますが、現存史料を起点に考察するという方針は、既に定めているので、それは言わないことにします。ひたすら、山成す史料の片隅のすき間に、手際よく倭国物語を填め込んだ笵曄の見事な創作を賞賛するしかないのです。

 何しろ、該当時代の史料は他に存在しないので、いくら孤証でも、誰も責めないのです。何しろ、西晋代における司馬彪「續漢書」 編纂の 後、後漢の京師雒陽は、匈奴を中心とする異民族軍の攻撃で落城し、皇帝は拉致され、洛陽城は大掠奪を受けたので、厖大な公文書を退避させるどころではなく、秦代以来西晋に至る歴代の公文書は、ほぼ全滅したものと見えます。
 各後漢書は、司馬彪「續漢書」と、各地に残された地方志や公文書の写本類を頼るものになったのです。特に言うと、各地方志の中で、東夷伝のより所となるべき遼東郡の公文書は、後年、司馬氏の征討を受けて全滅しているので、後漢代の文書資料として利用できなかったのです。
 と言うことで、范曄「後漢書」倭伝に対する異議は提示されず、陳寿の記事は、笵曄の記事の下手な焼き直しの後出しに見えてしまったのです。

 総括すると、范曄「後漢書」が、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、「三史」の掉尾を飾る栄光の地位を得てから、古代氏の議論は、史記に続く両漢書(漢書と後漢書を合体させた、巨大な正史)で幕となり、三国志と晋書は、雑史の扱いになってしまったように見えるのです。いや、もちろん、「三国志」は、正史として大いに尊重されたのですが、燦然たる「三史」に比べると、一段控え目にならざるを得なかったようです。

 未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 5/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19-20

*まとめに向かって
 当記事は、余談が転々として、脱線に近いものになってきましたが、ここらで本線に戻してみます。
 つまり、倭人伝道里行程記事は、どのような方針で書かれたかという、言わば、陳寿の真意の見極めとなります。 

倭人伝「道里記事」の見極め
 と言うことで、当記事では、「水行」の由来を見極めたことになります。由来を見極めた背景として、呉志の記事が、「道里記事」に無関係だと、言わば圏外宣言したことになります。
 その余波で、「道里記事」が、古典書、史書にない独特の地理条件を、手短に説明するために、地域限定の概念を宣言して、ここだけの用語と論理を提言しています。そのような前例は見当たりませんが、それだからこそ、殊更、限定的に定義しているものです。
 倭人伝読者は、本来、自身の持ち合わせた「教養」をもとに解釈するものですが、「教養」に新たな定義を付け加えて解釈することも、あわせて求められているものと考えます。そうでなければ、新たな文書を読んでも、新たな知識を受け入れることができないからです。
 世上、正史は、先例、つまり、古典典拠(のみ)をもとに書くものであるとの決めつけが見られますが、文書解釈の根本は、文書は、目前の文書そのもので解釈すべきだとの大前提があり、陳寿が、倭人伝道里記事という前例のない地理記事で採用した宣言文は、決して、不合理な物ではないのです。

*目前の記事の意義
 因みに、「目前の文書」に集中するのは、巻物形式の文書で特に重要で、例えば、魏書第三十巻の講読を進めて、韓伝を終えて倭人伝に至ったとき、先行する第三十巻の大半は、直前の韓伝を掉尾として、右手の巻物に巻き込まれていて、読者の視界から消えているし、そのように、倭人伝の冒頭を目前に参照しているとき、二千文字の倭人伝後半千文字は、まだ、左手の巻物に隠れていて見えないはずなのです。
 つまり、読者が現に目にしているのは、後世の冊子で言えば、見開きに相当する程度の範囲ですが、冊子のように、簡単に頁送りして確認することはできないのです。もちろん、高貴な読者は、自身の手で巻物を操作することはありませんが、それでも、所望の範囲を見るために巻物を操作するのは、それこそ、一人、二人ではできない大仕事であり、しかも、目下の参照部分は、巻物にしまい込まれているので、比較参照するのは、大変むつかしいのです。
 まして、史記、漢書などの先行史書の参照となると、五人、十人の部隊が必要なので、不用意に起用できないのです。

 と言うことで、倭人伝の書法が、目前の文書記事自体による解釈を重視するのも、蒸し返しに近い再確認があるのも、もっともな理由があってのことなのです。

 「倭人伝」にある「水行」は、本来、「倭人伝」限りの用語であって、「従郡至倭」行程の三度の渡海に限定して採用されたものであり、それ以後の公文書でどのような意味で使われたかは、陳寿には無関係です。いや、余傍の国である投馬国への水行が、いかなる行程なのか、陳寿の知ったことではなかったのです。

*根幹と余傍
 陳寿は、「従郡至倭」行程を倭人伝の根幹の一つとして随分念入りに説いていて、後段では、用語表現を変えて、「參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里」、つまり、郡から倭を訪問する行程途次を説いていて、「従郡至倭」行程の三度の渡海は、 大海を大河と見立てた中州の島、洲島を渡り継ぐのであって、通常「海中」と言うような韓半島のような半島ではなく、概して絶島として独立していて、時に連なっているというものであり、この場の結論として、狗邪韓国から末羅国までは、片道五千里の行路(周旋)と珍しく念押ししていますが、こと行程外諸国に関しては、「余傍」として冷淡です。

 これら「余傍」諸国に関する「水行」を交えた行程は、遠絕、不可得詳、つまり、女王の元に公式回答がないので、万事不確実と「明記」しています。国情紹介で、二萬、七萬という絶大な戸数を申告している巨大な国の身上調査を怠るなど、もっての外なのですが、陳寿は、道里行程が第一にしてほぼ唯一の主眼であったので、蕃夷の「国」の地政学的な内部事情要素は、意に介していなかったのです。

〇結語
 以上のように割り切れば、「倭人伝」道里行程記事の「水行」「陸行」考証に、魏志以外の史書用例を審議する必要は無くなるのです。

 最後に復習すると、魏志は、三世紀の晋帝などの中原読書人のために、三世紀の西晋史官陳寿が編纂したものであり、そのように理解しないと誤解を生じるのです。ここでは、現代人に、そのような「常識」が行き届いていないことを想定して、ことさら丁寧に説き聞かせています。全て承知の諸兄姉には、ご不快かも知れませんが、当方には、読者の知識を知るすべはないので、あれこれ饒舌に説いているのです。

 当ブログ読者には、「ミミタコ」の方もあって、さぞかしご不快でしょうが、よろしくご賢察の上、ご容赦ください。誰でも、いくら博識のかたでも、「知らないことは知らないところ」から、知ろうとして勉強し始めるのです。

死罪死罪。頓首頓首。
                  完

2022年2月18日 (金)

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 1/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*総論
 氏の論考は極めて篤実で、捨てがたい卓見ですが、採用史料の評価に同意できない点を含み、多大な論考の結論であっても、同意できないのです。今さら、ここに書評するのは、氏の古典的な論考ぶりが、今でも、同様の趣旨で継承されているからです。
 陽だまりの大樹にも実生の時代があったのであり、せめて、人の手の届く低木の時代に、このようなあからさまな傷を癒やしていれば、今日の巨木になって、大きな欠陥を人目にさらすことはなかったのにと、惜しまれるのです。まことにもったいない話です。

*不吉なタイトル
 その一端は、タイトルに表れていて「魏志倭国伝」は、氏の言う「通行本」(紹凞本)の小見出しに符合せず「倭人伝」書き出しにも整合しません。論文として、最低限の考査も加えられていない表れとみられてしまいます。

*魏略批判欠如
 通行本に並列の二史料の第一、「魏略」は現存せず、他史料に引用の佚文、つまり、ひ孫引き等された断片の集成に過ぎません。(衆知の如く、魏志第三十巻の巻末に裵松之によって補注された魚豢魏略「西戎伝」は、伝全体の良好な写本が挿入されていて、佚文などではなく、ここで言う「魏略」批判の対象外です。)
 つまり、無造作に「魏略」というものの、実態は、それぞれの断片の健康状態次第であり、いずれにしても、佚文である以上、「魏略」原本の忠実な再現かどうか、大いに疑問です。(再現の筈がないと断言しているのです)
 特に、ここで提起されている倭人伝部分の依拠する「翰苑」の所引記事は、そもそも、「翰苑」 自体が、適切に編纂された史書などではなく、「倭」関連部分に限って言えば、明白な誤解、誤記を、非常に多く含み、編纂者の資質が大いに疑われますが、本来、原本に囚われない自由な引用と見えるので、史学の視点で言うと、大変粗雑な引用と思われます。
早い話が、野次馬の聞き書き同然で、支離滅裂だという事です。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*御覧批判欠如
 その第二、所引本は太平御覧(御覽)に引用の「魏志」です。
 御覧は史書ではないため、編纂時の引用、記事承継が、全く信頼できないと言わざるをえません。榎一雄氏の考察によれば、太平御覧は、先行する類書に依存した編纂物であり、多くの所引担当者を動員した大事業と見えるので、信頼性の面では、陳寿が専念して編纂し、その没後の上程後は、歴代皇帝の蔵書として、適確に継承されていた三国志と比較するのは、蟻が富士山に背比べを挑むようなものであり、それだけで、史料批判の信頼性が大きく損なわれるものと見えます。

 御覧上程以後の継承に限定しても、御覧も、三国志同様に、北宋末、侵入金軍による全土での諸書(経書、史書、類書)及び版木の全面的破壊の被害を受けたので、史料としての信頼性としては、少なくとも、三国志に対する批判と同等の批判を克服する必要があると思えます。言うのも鬱陶しいのですが、「太平御覧」の原本は現存せず、原本を読み通したものも現存しないのです。そして、最良の刊本は、精々南宋期のものでしかないのです。

 見かけない議論ですが、所引に云う「耶馬臺國」は、所引者の見た魏志の正確な引用なのか、「邪馬壹国」(通行本由来)、「邪馬臺国」(後漢書由来)の何れなのか、三択状態にあり、結局、より信頼性に乏しい後代史料によって信頼性の卓越した通行本を批判するしかないのです。余りに史料の信頼性が低いのです。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*両史料の信頼性評価
 まとめると、魏略には、かなり厳しい批判、所引本にも、しかるべき史料批判が必要/不可欠であり、両史料が通行本に優越するとは(絶対に)言えません。

*先人評価~風に揺れる思い
 ちなみに、冒頭に二重引用された末松保和氏の評言は、
 所引本は、当時の三国志原本(意味不明)からの引用、要約と認めつつ、
 通行本では「侏儒国、躶国の記事を含む一節が不自然な位置と考えられ」るが、
 所引本では、「より自然と認められる位置にある」、及び
 主要国の路程などの順序が、所引本では「比較的整頓され」ているが、
 通行本は「実に支離滅裂」(意味不明)
 と見た上で、所引本は、(魏志の)「本来の形」であり、所引本魏志は、通行本魏志と「系統を異にする別本」、と推定口調とは言え実質的に断定しましたが、三木氏は、前段の路程などの記述順序評価は不当と認めつつ、後段は妥当と認めているようです。

 このあたり、論理が大きく動揺していて、とても、筋の通った推論とは見えないと申し上げざるを得ないのです。

                               未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 2/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*御覽編者の重い使命
 御覽の編者は、当時の教養人が一読して意味が通る滑らかな記事を書くよう指示され、その問題に時代一流の解を提示したのですが、その際、原文をいわば「誤解」して、それを、滑らかな漢文に書き上げた(書き換えた)と見るものです。

 従って、氏の史料評価は観点が交錯しています。言うならば、史料に現代人にとって読み取りやすい表面的な明快さを求めるのか、深く掘り下げて古代人の文意を発掘し明快な解釈を見出すのか、方針の違いです。

*堅実な論文構成
 本論の批判に戻ると、三木氏は、先行論考を検証する意図で、ここに、自身の論考を着実に展開していて、その点、堅実な学術論文であると感じます。

*写本継承系統複線化仮説

 氏は、国内史書の写本がいくつかの写本系統で継承される過程で少なからぬ改変が生じたことを意識してのことでしょうが、中国正史は、原本の正確な継承が最優先され、引用利用された下流、派生写本への改変が、原本に遡及しない仕組みを軽視しているように思われます。

 河水(黄河)下流、河口原での分流に見られるように、一度、扇状地に放たれた奔流は、果てしなく分岐派生し、南北に隔たった小河口でそれぞれ海に注ぐのですが、大河の上流は依然として揺るがないのです。
 下流の派生を見て、上流に揺らぎを見るのは、場違いな幻想です。

 引き合いに出された末松氏も、「別系統」で複数の正史原本が継承されていたと示唆していて、南北朝期などを想定したのでしょうが、中国の正統観から言って、各王朝が自己流の正史を蔵書していたとは思えないのです。特に、ここであげつらっているのは、三国志の中でも魏志末尾の細瑾に過ぎないので、その道里行程記事を解読した上で、自己流に手を入れるなど、あり得ないでしょう。
 素人目には、何か、壮大な神がかりを思わせるのです。

 と言うことで、当方の素人考えは、たまたま、古田武彦氏の正史観と一致しますが、前提として、通行本は正史の(同時代史料群を相対評価して)最も正確な継承と見るものです。揶揄されるように、神聖不可侵などと言うものではないのです。
 どんな人、著作にも、欠点はあります。
単に、信頼性随一の原点として共有し、その「岩盤」に基礎を敷いて、以下の議論を始めようというものです。

 仮に、聡明全知の後世人が、不出来、不首尾な記事と見ても、後代視点から、正史の記事を改訂、ないしは、読替えすべきではないのです。砂上楼閣はご免です。

*孤証の誹り
 氏は、本資料の中で通行本が孤立している、孤証であるとの主張を述べていますが、それは、先に述べたように、他の二史料に分に過ぎた信を置いているからであり、評価基準が適正でなければ、いくら適正な手順を採用しても、正確な結論、というか、信用できる判断はできないのです。

 言い方を変えれば、史料評価は、標本の数や字数の多少で左右すべきでない、と思うのです。それとも、収録史書の総重量、目方で行くのでしょうか。それなら、御覧の大勝でしょう。

                                未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 3/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*また一つの我田引水
 残念ながら、氏は、特定の史観の学派に党議拘束されているのか、多大の議論を、一定の目的意識に背を押されて進めていて、客観的な論証から逸脱した我田引水に労力を費やしていると見えて、大変痛々しいものの、少なくとも、その判断の根拠を明示しているので、学術的な錯誤とまでは言わないのです。

*傾いた道しるべ
 そういう視点で見れば、三木氏の本論への取り組みは、若干倒錯しています。
 明らかに、今回の論考は、到達点として、列記された課題を掲げて始まり、終始、そのような「青雲」を目指して道を選んでいるから、道が曲がっても躓き石があっても、ものともせずに断固直進したとみるのです。

 いや、それは、氏だけではないのです。少なくとも、古代史学界では、大抵の論者がいわば天命に即して苦闘していて、そのような取り組みが、往々にして、結論に合わせて経路を撓める経過を辿っているので、大命を背負っていない素人は誠意を持って指摘するのです。
 三木氏が、先に挙げた参照資料の難点を意識外として、字面に沿って考察したのは、そのような背景からでしょう。
 燦然と輝く道しるべは、既に傾いていたのです。

 客観的な考察は、それ自体が学術的な成果ですが、課題必達型の考察は、自ら、学術的な価値を正当化できず、却って貶めているようにも見えます。いや、真摯な論考をこうして批判するのは、大変後ろめたいのですが、「曲がった」論考がなぜ曲がったか、率直な意見を呈して、学会に関わりの無い、一介の私人たる素人が、古代史学に貢献できればよいと考えるのです。

*風化した雄図
 氏が提示した以下の結論は、そのような議論を支持する論者には大いに歓迎されたとしても、氏の雄図はむなしく、本論公開時点以来、四十年を経て、依然として、単なる作業仮説に留まっています。もったいないものです。

 論争を終熄させるべき時宜を失し、執拗な風雨に正論の松明が負けるように、風化してしまったのでしょうか。真摯な論争が途絶えたように見える現時点では、こうした三十ー四十年を遡る真摯な論文が必読資料と見て、辛抱強く発掘しては、紹介旁々、持論を宣伝しているのです。

*解けない問題を解くために
 以下、掲げられた成果から見て、三木氏が掲げた下記四項目の正否は素人目には明白ですが、どのような課題を自らに課すかは、各論者の専権事項であり、批判の対象外です。ここで批判しているのは、考察の客観性の蛇行なのです。

    1. 邪馬台、邪馬壱論争は邪馬台国の名称が正しいこと。
    2. 倭国乱の時期は霊帝光和中であること。
      中国使節は卑弥呼に拝仮したこと。
    3. 邪馬台国までの行程記事は直進的に読むこと。

 と言うものの、世上、邪馬台国論争は混迷を続けているとか、なかでも、所在地論は、千人千様で間違っているとか、野次馬の嘲笑罵声を浴びていますが、それは、議論の立脚点を固めないままに、ここに唱えられているような砂上の楼閣を築き上げたからだと感じる次第です。
 二十一世紀、令和の時代、半世紀どころではない太古の原点に戻って、問題の読み方から考え直すべき時代に来ているように思うのです。

                               完

2022年2月10日 (木)

今日の躓き石 オリンピックに「リベンジ」煽動の悪霊(レジェンド) 退散の祈願

                    2022/02/10

 今回の題材は、スポーツ新聞系記事なので、本来は見過ごすのだが、余りに問題が大きいので、ここに苦言を呈する。
 葛西紀明 怒り収まらず「どうしてあのような酷い涙を流させるのか!」 高梨には4年後リベンジ期待
[ 2022年2月8日 19:40 ]  

 掲載されたのは、「スボニチアネックス」のサイト記事であるが、いくら言いたい放題のスポーツ新聞メディアでも、本人に重大な危害が及ぶような報道は、厳に慎むべきである。

 それにしても、ご老体が、記事の末尾で、傷心のアスリートに邪悪極まりない呪いをかけているのは、痛々しい。
 「レジェンド」は、その栄誉に相応しく博物館に戻った方が良いのでは無いか。謹んで、送り火を焚きたいものである。それにしても、これほど、露骨に報復行為を宣言しては、指導者として大きな罪科を背負うのではないか。いやいや、次回オリンピックの審判団に、何をぶつけて報復しろとけしかけているのだろうか。これほど露骨に血を見る事態を指導しては、ただでは済むまい。

 それでも「高梨選手にはこんなことに負けないでまた四年後リベンジしてもらいたいです」とエールを送ったレジェンド。

 このような暴言が、横行しないように、当ブログは、しつこく「リベンジ」厳禁を訴えているのだが、しつこく燃え続ける山火事に、柄杓で水をかけるほどの結果も出せていないようである。とは言え、ただの一個人には、この程度しかできないのである。

 それにしても、「また」リベンジとは、どういう意味なのだろうか。スキージャンプ界には、報復行為の伝統でもあるのだろうか。

以上

2022年2月 5日 (土)

今日の躓き石 無くならない「リベンジ」蔓延の悪例 日本将棋連盟に到来

                    2022/02/05
 本日の題材は、日本将棋連盟サイトの下記署名記事である。内容は関係無い。タイトルで「ド滑り」しているのである。
 10連覇かリベンジか 第47期棋王戦五番勝負展望

 これは、佐藤康光連盟会長の真意でなく、記事筆者の「暴言」なのだろう。もちろん、タイトル戦当事者の言葉では無いはずである。当看板サイトに、ちゃんとした編集体勢があれば、編集長が発見して、叱責して改善したはずである。

 言葉自体が、自爆テロを思わせるものであるのに加えて、将棋のタイトル戦に復讐戦の意義しか無いと見るのが、記事筆者の品格の低劣さを物語っているのである。連盟として、当記事は「事故 」扱いして、当記事を取り下げることを謹んでお勧めするのである。
 せめて、このようなみっともないタイトルだけでも、なんとかして欲しいものである。

 因みに、当世若者言葉では、聖なる「リベンジ」を、「再チャレンジ」の茶化した意味で誤用する「ダイスケリベンジ」が大半であるのに対して、当記事の「リベンジ」は、昔ながらの血まみれの復讐戦を示していて、「旧式で的はずれ」の上に、大変たちが悪いのである。
 書いたものがそのまま公開される気楽な立場の人は、自分しか暴言に気づいて是正できる人がいないのだから、聞きかじりで書き飛ばすので無く、よくよく調べて、考えて欲しいものである。

以上

2022年1月27日 (木)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で滑るのは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは子供である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきであると言っているに過ぎない。「頭から、倭人伝が間違っていると思い込んでは、研究にならない」のである。むしろ、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の倭人伝史料を原点にするという学問的に当然の手順を確認しているのである。宝賀氏は、「原点」に対して、はるか後世のものが改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である新「倭人伝」を論じるのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」と呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、宝賀氏の不勉強を示しているに過ぎない。
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然とか、陳寿が全知で無いとは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うことであり、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「正史」でもなんでもないのである)

 「魏略」論が混入しているが、「手放しで」同時代史料とは意味不明である。「魏略」佚文に誤写が多いのは、低級な佚文書写故で、「倭人伝」基準で「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。史記基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、三国志の基準を適用するしかない。三国志は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿の複製が上申され、皇帝の嘉納を得て帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が健全に維持されたのである。改竄など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。
 後世、特に現代の文献学者に言わせると、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、飯のタネにならん、と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなものであり、見当違いなのである。河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしで氏の先入観と見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。
 「トータル」で整合性がないとの印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*魏略再考
 因みに、魏略の文献評価は、「倭人伝」後に補追の著名な魏略『西戎伝』に尽きるのでは無いか。倭人伝並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。魏略『西戎伝』 は、権威ある百衲本の一部である。 字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。
 結論を言うと、魚豢は、史書編纂の筆の強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。しかし、魚豢を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 1/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

 実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので勝手にしようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。

 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の論理に歯が立たないのは当然である。いや、趙氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は、古典的に正しいと見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、魏志編纂者が、倭人伝資料をご自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた」とする仮説には、同意できかねる。倭人伝は、記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は漢書地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、倭人伝行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。

 伊都国から発する全ての倭道は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、魏志編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、倭人伝道里行程記事を、直線的な行程を書いたものに違いないとする意見への所感を「アイデア
」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

 

2022年1月21日 (金)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎

                           2022/01/21
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の通説は、陳寿の真意ではないようである。「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史魏志の権威は絶大で、以後、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり魏志の「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、陳寿に、そのような意図はなかったのである。後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制などなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。
 ここでも、倭人伝の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都也
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり誤字も然り、と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設で、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」による徴収は、古来、国庫でなく帝室財政への収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の外征乱発や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので、国庫収入に付け替えたようである。
 何にしろ、当時の経済活動の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、倭人伝解釈に有益ではないかと思い、本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。

 先週の見出しは、「卑弥呼の都、纒向に突如出現」であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。
 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。
 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かないに重蔵が見えているように思うのである。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。
 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない。
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

2022年1月17日 (月)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  1/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。「無理なく」「自然に行きつく」とは、過去の失敗例里上塗りに過ぎないと受け止められてしまうので。勿体ないことです。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、要するに、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい「さる方」のご託宣の丸写しなのでしょうが、「さる方も」、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。一覧表を掲示していただいたら、随分勉強になるのですが、このままでは、単なるホラ話であり、単に、一覧表の末尾に連なるものにすぎません。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。自虐、自爆は、珍しくもないので、いい加減にしてもらいたいものです。 

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  2/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、根拠不明の「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではないのです。農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐために「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量衡に属さない「歩」は、単位として別世界に属するものであり、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世記当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  3/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの日のある時間帯は、季節次第で移動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。古代であれば、「町」は、隔壁などで囲まれていたので、日が暮れたら、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など、保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら、五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。
 規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代感覚で言うと、途方もない大河を、士人、つまり、お供をつれたご主人様が、「泳いで(?)」渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、士人は、荷物を担がず、また、裾の長い衣裳が正装だったので、脚もとを絡げて、脛を濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、一日の行程で、十分余裕が撮れる程度の間隔で、必ず宿舎はあったのです。朝は、早立ちでも、午後には、次の宿場に着く設定だったのです。何しろ、官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。
 そのような計画した旅で野宿とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに「国」、いや、その事態に応じた区画である「縣」や「郷」があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、倭人伝で「国」が、「国邑」として散在していて、「国」と「国」の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があったのであり、野宿自炊前提の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の公道は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手に対して、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。
 いや、当時の士人は、衣裳を纏っていて、言わば、袴を履いていることが必須だったので、衆目のあるところで、裾をからげるのすら、面目を失するのです。
 因みに、衣裳の下の「裳」を脱ぐのは、中原では「裸」とされていて、もっての外の重罪でした。つまり、倭人伝に言う「夏后少康の子が会稽に封じられた」という故事で、「水人」と称して水中に入るのは「裸」国に入るという事であり、被髪文身以前に、華夏文化から排斥される行動だったのです。
 陳寿が、倭人の風俗を紹介する前に、夏后の子の故事を詳解したのは、倭の水人の裸体は、野蛮として排斥できないというものです。

 因みに、当記事で、

 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河が、特に、河水は、両眼が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 倭人伝の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、倭人伝に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。
 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。物知らず、不勉強な見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  4/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、倭人伝には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路をしくことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに、百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、倭人伝は、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る船は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。いかのように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。
 何より、現在、当時の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わるので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*倭人伝観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、倭人伝の記事を解釈できないのは書き方が間違っているからと予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、倭人伝の言語や世界観を読解できてないようです。
 古代中国語の言葉と文法を解しないものは、倭人伝論議の場から去れ、とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  5/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*一律増倍論
 ここで、氏は、倭人伝の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、自分流に読替えれば自分に明快との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。

 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の世間話を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に、後漢の国政を支配したものの、終生後漢の宰相であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、劉備の宿敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  6/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*「明帝の景初三年」はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の五期に決まっていると、倭人伝誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、倭人伝に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、倭人伝には、誤記がざらにあるというホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、纏向説論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫権が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、東呉の方は、後継者に難があると見て孫権が去るのを期待していたようです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては「専売特許」になどならないのです。

                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  7/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた部分は、倭人伝、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  8/14 補追

  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン扱いのみ)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、蛮夷の来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤もいい加減にしてほしいものです。。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。
 特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。
 曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。
 どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記:2022/01/17

 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、倭人伝題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。
 これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  9/14 補追

  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン扱いのみ)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない、三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、倭人伝里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できてないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、四段を占めると、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鶏は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 10/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に、「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は、論外です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。通説と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記が?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、倭人伝里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 11/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*「大らか」(?)な日程主義
従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 まず大事なのは、倭人伝で言う「倭人」は、今日言う「日本人」と同様に当の国の民衆を言うのではなく、「倭」と称している集団の公式名だということです。この書き方では、そのような語彙なのかどうか不明確です。

 なお、納税や派兵のような期限付き命令の期限設定には、所要日数が明文で規定されていなければならないのです。日常の定期報告のような文書通信の期限設定も、所要日数の「客観的な規定」があればこそです。一尺25㌢㍍の「絶対的」尺度で、数千里にもなる道里を距離計測するというような、途方もない夢物語は、とても客観的、正確な測定はできないに等しいのです。

 たとえば、日数規定抵触は即「厳罰」であり、おおらかではないのです。(クビというのは、首を切り落とすことを言うのです)
 法と秩序の世界で、これほど、客観的な規定はないでしょう。よくよく、お考えいただきたいものです。

*歩測論再び
当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。

 当時、里数は歩測したが目的地への移動中は歩測しなかったとの個人的断定に、読者は納得しないでしょう。魏使には、副使と書記役がいて、初見の地で歩測は優先任務ですから、取りこぼし指摘は重大な非難です。大体、中国では、士と呼ばれる高官は手仕事を一切しないのですから、使節が補足することはぜったい無いのです。

 「変に里程に換算する」とか「誠実なやり方」というものの、何が「変」で、何が「誠実」かは個人差があり、無責任な放言です。誠実とは、方便として嘘を混じえてでも話を丸めるのか、馬鹿正直に筋を通すのか、ということです。

 要は、氏は、三世紀当時普遍的だった「普通」の観点を理解せず、ご自身の観点、世界観を、二千年前の著作「倭人伝」に押しつけて、意味が通じるようにしようと改竄しているものであり、それは、いくら声を大にして押しつけても、学問的に受け入れられないのです。

*重箱の果て
 氏の好著の重箱つつきは、以下に続きますが、一旦総括します。

 少し言い方を変えてみると、氏は、「後世知識」人の高邁な立場から、古代人の稚拙な行動や言動を指弾して論じても、実は、古代人の言葉、即ち文化を理解しないまま、自身の持ち合わせた言語で誤解したまま「無教養人 」として判断しているのであり、これは、現代の古代史論者の通り相場、普通、自然の世界観とは言え、本書の意欲的な論議のあり方として大変不出来です。ぜひ、この難詰を直視していただければ、幸いです。

 ついでながら、この場所が空いたので書き記すと、壹与の、弱冠の意図らしい「若干十三歳」の誤認は、誤変換・誤記だけでないのです。男子加冠儀礼は「年十三」ですが、幼女には、全く無縁です。また一つの不見識です。

*お説教
 長丁場の息継ぎで書くと、当ブログ筆者が、個人的な意見としているのは、一古代人が、別の、大切な古代人のために、最善の努力を注いで書き上げた畢生の著作は、当該古代人と同じ地平に立って、最善の努力で読解しようとすべきだという考えです。耳にたこと言われるので、用語を変えていますが、言っている主旨は、一貫しています。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 12/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*また一つの時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。

 古代に「直線距離」は時代錯誤です。倭人伝は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
 また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
 とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。

 そして、肝心なのは、晋書地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って、遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪。帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。

 こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。

*最初の一歩
 漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上の直線距離に意義はないのです。
 また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
 「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
 そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
 
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。

 本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で倭人伝記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
 当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。

*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です

 まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
 氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、鴻廬館などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、

 ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地が温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。
 ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
 このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、倭人伝解釈の特異な点です。

 現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。

 記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。

 但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、おおボケです。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。

 これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 13/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏使のおもてなし 承前
 続けて、離船上陸時に、「貴人」を歩かせたと決め込んでいますが、乗り物、車にも輿にも駕籠にも乗せず、膝栗毛させたと断定する根拠が不明です。中国で、貴人は自分の脚を地面に下ろさないのが当然としたら、倭地でも同様だったから何も書いていないと見るべきでしょう。

 中国には、太古殷代から戦車があり、周代には公道を走る四頭立て馬車があったのに、倭人に車がなかったと決めつけるのは理解できません。「牛馬なし」と言っても、一切飼育されていなかったと断言すべきものではなく、大人が馬車を活用しなかったとは早計のようです。
 例えば、魏使到着に合わせて、半島から馬車を送り込むことも可能だった筈です。超超重要人物なら、その程度の「最大限のおもてなし」もおかしくないはずです。いや、別に大受けして笑えと言っているのではないのですが。

これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。
 重大発言ですが、賓客を歩かせても屈辱などではなく、馬代わりに踏みつけられた時にでも屈辱を感じたら良いのです。
 古代士人にとって、恥辱は命を顧みずに晴らすべきものでしたから、その時は、殿中で勅使に切りつけるのか、接待指南役に切りつけるのか、いずれにしても、逆上して仕損じず、必殺してほしいものです。もっとも、魏の側では、現地で死ぬことまで想定して、帯方郡官人を魏使として送り込んでいるのです。漢代以来、西域に送り込まれた、各百人規模の使節団ですが、派遣先で、いきなり使節の首を斬った国もあるのです。それも、一度に限らずです。その地では、敵対の可能性のある使節は、まず、使節を斬首するものだったようです。そのような惨事を起こさないために、軍を通じて身元調査し、伊都国に精鋭の先遣隊を送って魏使の安全を確保したでしょうが、それにしても、数万戸の戸数がある、つまり、数万人の動員力の有る蕃夷ですから、百人を送り込んでも、安全の保証にならないのです。

対馬國や一大國でも同様なことは行われていました。(中略)そんないつ沈んでもおかしくないものに生活を依存するのは間違いなく危険でした。
 船がいつ沈んでもおかしくないと杞憂に耽ると、海峡渡海も南北市糴も成り立たず、半島沿岸長途航行は論の外の極みです。何かの「間違い」でしょう。因みに、運搬や移動に船を利用できないとしたら、島人は皆餓死してしまうのです。無責任な放言です。多少、分別を働かせていただきたいものです。例えば、年間、多数の死傷者が出ている「自動車」ですが、いつ死者が出るか知れないとしても、万人の生活はそのような移動手段に依存しているのです。ものごとは、白黒両断でなく、価値評価して採否を決めるべきです。

 それにしても、「半島沿岸長途航行」を絶対否定するのにも、ここまで待っていたとすると、氏は、中々食わせ物ということになります。

*独り合点の記
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
ところが実際には一〇倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。

 仮定は仮定、結果は結果、どこに論理がつながるのか示すべきです。
 「実際」「事実」は、氏の意見であり、史書に一切示されていない
ので、何が自然で何が「不自然」か、読者には理解できません。
 善良な読者には、矛も盾も見えていません。多分、氏の脳内世界の備品なのでしょう。
 
別に述べたように、当時の算数能力では、十倍以外のかけ算は大変むつかしく、十以外の割り算はとてつもなくむつかしいのです。十だけは、単位の付け替えだけで計算が要らないので「自然」なのです。

もし(中略)サイコロを振って(中略)たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が一〇倍に誇張されていたというのはほぼ一〇〇パーセント確実なのです。

 結果論に負けは無いとしても、「倭人伝の行程道里が間違っている」という論証はされず、また、史官が信条を放棄し、同僚も併せて家族共々刑死する危険を冒して万事を増倍し、史書稿を改竄した動機は、示されていないのです。まして、史官が史書をサイコロ博打で決めていたとも思えないのです。それを言うなら、筮竹、おみくじの「神頼み」とでも言うのでしょうか。

 原則として、事は、論理で決するべきでは無いでしょうか。

*縁起担ぎ
 松本清張氏を初め、倭人伝に登場する数字が、奇数の大変多い偏ったものになっていることを重大視して、縁起担ぎで、奇数が多い、作った数字に書いたと断じている例がありますが、それは考えが浅いというものです。

 蛮夷の地の道里や戸数のように、憶測でしかない概数を扱う時は、ずらりと敷き詰めた数字を使うのでなく、切り良くするために、一,三,五,七,十、十二と言った具合に、階段のように飛び飛びにして、概数の目を、事態相応に粗くするのも、史料に憶測の介入を防ぐ、大切な行き方なのです。
 史書の僅かな記事から、このような現象を見出す眼力は尊敬にあたいしますが、僅かな資料から、飛び飛びの数字の背景まで見通せなかったとしても、それは仕方ないことです。

*陳寿擁護
 陳寿は史官であり理知の人ですから、公式史書に、何の方針もなしに実態と関係ない「虚構」を書いたとは思えません。
 書いたとすれば、緻密な「増倍」戦略によって十倍としたはず
で、確率論は意味ないのです。どんな方針があっても、勅命があっても、虚構のための虚構は書かないと信じますが、それはそれとして、無意味な虚構を書くと思えないのです。
 史官の使命感は、後世人の遊び半分の数字遊びには関係ないのです。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」、重責にある者の倫理観を後世の安穏な者が安易に語るべきではないのです。

 しかして、論理にも何にもなっていない、空虚な行が続いています。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 14/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。

 古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
 
倭人伝道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。

 まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。

 最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、倭人伝は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。

 以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。

 万二千里というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。

 憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。

 余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、倭人伝の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。

*道里行程論の深意
 案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
 後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。

*縄張り説~「できる」古代測量
 耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。

*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
れを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。

 景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
 と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなどできなかったのです。

 「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、 中国が、定例使節に数百枚の銅鏡を下賜するのは、それ自体あり得ない「妄想」です。
 まして、
古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのです。当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
 渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも言えるのです。

 偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、誇張ではないようだとしているのですが、関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が多すぎるという難題に直面しているのです。

 一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。

第二節 倭國の実像
*虚像と実像
 節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
 光学実像は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
 心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。

*倭国大乱の幻影 道の果て
 「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如倭人伝にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
 農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。

 氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。

 以下、氏は、倭人伝を遠く離れて、過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。

*総評の念押し
 当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
 ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。
                                完

2022年1月15日 (土)

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

〇はじめに
 文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。
 深刻な問題は、登用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。
 特に、国内史料は、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として、文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内史料を見ていないので、統一がないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と書くが、原文が景初二年であるのは衆知であるから、これは、端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとするなら、官人なのは、揺るぎない原典の選定である。検証無しに、世上の文書を引用するべきではない。
 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、中国古代史史料以外に「三国史記」と共に、大量の国内史料が論じられ、つづいて、纏向史蹟出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。
 一般論であるが、用例確認は、小数の価値あるものを精査するべきである。用例が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ信頼性は低下するのである。つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で賢明に埋める努力が見えるが、倭人伝の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。

 倭人伝の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家にされている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘るとされている。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている。しかし、国名列記で、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が、『畿内に及ぶ各地に散在して東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 私見では、倭人伝行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。枯れ木も山の賑わいである。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して、比定するのは不要である。そう、当ブログ筆者は、直線最短行程説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪するが、倭人伝に書かれていない推測なので、意味不明である。氏の論議の大半は、倭人伝原文から遊離した憶測が多いので、ついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とみているのは、不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と、後漢状勢と半島情勢を関連させて、滔々と古代浪漫を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。いや、氏の憶測だから、氏なりに辻褄は合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと言うが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていない。本冊子で、遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に、手堅く立脚しているのと好対照の空論である。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点である、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した咎が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら全体像ができないが、倭人伝のせいでなく氏の構想限界である。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、諸国は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語などが共通であり、街道網が完備して、盟主が月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集すると見える。しかし、それは、倭人伝にない事項であり、言わば、氏の「特製倭人伝」であるが、どのように史料批判されて受け入れたのであろうか。氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは朝廷と見なされるのである。
 しかし、「纏向所見」は、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。

*承継される鍋釜持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら、「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は、数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているが、関係者の私見であろう。
 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、千、万でなければ、何年もかけて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者の功績になるとことから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、いわゆる法螺話の類いで、まじめな論者が言うことではないのだが、「三国志の権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文にヤジを飛ばすので、結構、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。良い子が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向に置いて「会盟」が挙行され、私案と称しながら、以下の盟約を想定している。

 本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約は、架空なので「復原」は独善か、勘違いであり、現代人による個人的な創作である。その証拠に、非学術的な、普段着の現代語で書き飛ばされている。勿体ないことである。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*時代錯誤の連鎖
 一.「命名」は、当人の実の親にしか許されない。第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
    卑弥呼が実名でないというのは、詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
 二.女王の婚姻禁忌は、無意味である。女王候補者は、端から生涯不婚の訓育を受けることになると思う。
    当時の上流家庭は、早婚が当然であるから、そうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
 三.『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇態である。
    となると、「邪馬台国」は、あったのか。持続しない王統では、魏に臣従が許されない。代替わりしたら、前王盟約は反古では、ダメということである。
    当然、各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、しかるべき出自の未成年に限られる。誰が、身元審査するのだろうか。
 四.「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。因みに、東夷に「王都」はない。
    氏は、倭人伝冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかっていないのではないか。
 五.毎年定時(?時計はあったのか)会盟は無意味である。参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年参上は、国力消耗の悪政である。
    女王の生死は予定できないので、交代時、各国は不意打ちで候補者共々参上しなければならない。通常、即日践祚、後日葬礼である。
    ということは、突然の交替を避けるためには、定年を設けるのであろうか。前女王は、どう処分するのだろうか。
    王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
    回り持ちの女王、回り持ちの女王国で、墓陵はどうするのだろうか。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、精々三頭鼎立で成立していたのである。総選挙など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、不熟者の勘違いである。先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。

 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。関東諸公を召集してなどいない。陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が前提であり、「盟約」は、締盟の証しとして、金文に刻されて配布され、原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年開催なら、会盟録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会盟なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、幕舎とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「纏向屋敷」に国人を常駐させ不時の参上に備えるのである。各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。お馴染みの「まだ全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえる。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、持続可能だったのだろうか。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*神功紀再考~場外余談による曲解例示
 俗に、書紀に、神功紀追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例があるように効くが、そのような言い訳は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、書紀本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」として遇されたから、後日、国内には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ、実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、神功紀の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の余談で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、書紀には、推古紀の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が異なる「創作」記事を填め込んだ前例(?)があるので、書かれているままに信じるわけにはいかないのである。いや、これは、余談の二段重ねで。前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)史書は、史書用語を弁えた「読者」を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた知識、教養で、史書を解してはならない。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は不確かである。後漢後期は「絶」、不通状態であり、景初遣使が言わば初見なので、まずは、以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、倭人伝は、倭に会盟の素地がなかったと明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の倭人伝膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は、見かけなかったが、このように餡のつまった画餅も、依然として、口に運ぶことはできないのである。
 諸兄の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 1/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇はじめに
 ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

〇『「邪馬台国」』はなかった』
 『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。

 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
 隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていた
のである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 2/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

付記
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので。相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。
 例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで「呉書」の記事である。 

 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している三国志テキストデータを全文検索させていただいたのだが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田氏の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に誹謗する向きがあって、呆れたりするのだが、ここでは、「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していないのである。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…..

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に、先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、左氏伝の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、左伝由来の卑称をこめたのかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

 因みに、「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
 百済は、馬韓時代から早々と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、無法な逸脱を色々発明したようである。それは、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、海峡を越えた世界に伝わったようである。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。いや、古田氏すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

 因みに、従来、三国志の中で、呉書、蜀書の用語を、魏書の用語と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、魏書以外の用語については、それぞれの「書」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることかあることを申し上げておくものである。

以上

2022年1月14日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ                          2022/01/13

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。
「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で隔離され、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サブライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力の研究機関の研究者の総意で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯を言っているのではない。単なる冗句である。「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

2022年1月13日 (木)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。
 著作権商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。

 かくして、本書の社会的生命は地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである

 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する。史学が「過去に起きた事実を後刻推定する科学」である以上、直接見聞する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかないことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは、意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。



*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、軽薄な現代人たる自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」  改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。晋朝が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。

 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、魏史として、昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官が、私的に、つまり、晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのか、このような支離滅裂な証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが、自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍扉が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる査読者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。

 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、以下の内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。

 本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2022年1月12日 (水)

今日の躓き石 誤解が渦巻く「アナウンサー」否定論 (毎日新聞夕刊コラム)

                       2022/01/12

 本日の題材は、毎日新聞大阪夕刊「放送」面の囲記事であるから、今回は、毎日新聞の姿勢を問うものではない。関係者は、安心して読み飛ばして欲しいものである。

 『「アナウンサー」もうやめない?』と題しているが、一読して感じるように「アナウンサー全体に対して引退を強要している」のではなく、「ナレーター近藤サトのテレビぎらい」とコラム自体に題しているから、筆者が個人的に敵意を感じている旧世界「テレビ」に対して、「言葉狩り」の手法を借りて悪態をついているのだが、それにしても、まことにできの悪い提案である。記事が書かれているのは、どう見ても「正しい」日本語を目指したものであり、真意が伝わらず誤解されるのは、単に、文体の区別が付かない、書き方が下手なというだけである。そうでなければ、筆者の真意が伝わらないから、「アナウンサー」に正しい日本語を確保して貰わなければ、今後とも自己主張ができないのに気づいていないようである。

 切り出しの「もともと正しい日本語はありません」は、筆者の無知を曝しているだけで、知識として、どんな日本語が話されたか知らないし、言葉は、時代、文化によって変わっていくという事を無視した独断なのである。すかさず、「卑弥呼の話した言葉」を持ち出しているが、卑弥呼の時代には、広く通じる「日本語」はなかった、いや、「日本」すらなかったから、読者に何ももたらさない虚辞である。
 少なくとも、「卑弥呼の話した言葉」が、一切記録されていない以上、簡単にも何も、現代人が、いかに現代技術を動員しても、理解もなにもできないのは間違いないのであるが、だからどうだというのだろうか。「切り出し」と書いたが、どうも「滑り出し」のようである。これが、筆者の意図を伝える最善の手口とは思えない。

 当然、当時として、正しい、誰でも誤解無く理解できる言葉を話そうとしたのは間違いないところであり、そのような良識なくして、何を読者に伝えたいのかわからない。乱れた日本語を、堂々と言うものだと呆れるだけである。

 と、大ぼけで滑り出したのに、「言葉は変遷するもの」と聞いた風なことをおっしゃって、読者がついてくると思ったのだろうか。「この人は、言葉が乱れているから、頭の中も乱れている」と思われるだけではないのだろうか。確かに、「美」は、言葉を感じ取った人の内部に発生する感情であるが、それは、言葉を発した人の内部にあった感情が、うまく伝わったものである。筆者の感じ方は、独善を推奨するだけであり、それこそ、長年アナウンサーが言葉の護り人として闘ってきたものである。
 筆者は、幾千万の先人が、長年に亘って形成、継承した資産を踏みにじって、何を、人の世にもたらそうというのだろうか。

 その後、筆者は、勝手な「アナウンサー」論、個人的な理想を振りかざすが、誤解乱発の書きぶりが祟って、またも、滑った感じである。

 筆者は、「アナウンサー」が、時代の変化に取り残された(亡ぼさるべき)化石と言いたいようだが、自身で、書き連ねているように、「アナウンサー」は 広大な分野を包含する言葉として、広い世間に理解されているのだから、ことさら、個人的な恨み辛み(があるとしかおもえない)で、勝手に制約を決め付けて全面的に否定することはないのではないだろうか。

 当ブログでは、しばしば、公共放送の報道アナウンサーが、適当な新語に飛びつくのに警鐘を鳴らしているが、それは、その役割、言葉の護り人としての至上の価値を再確認しているのであって、その他大勢の「アナウンサー」を叱責しようとしているのではない。自ら、「アナウンサー」でないと公言している筆者に対して、何も言いたいことはない。ただ、無知と認識不足を正しているだけである。ついでに、一般読者に、現状認識の謬りを指摘し、改悛を求めるにも、話を聞いて同意してもらえる語り口があるのではないか、「もっと勉強しなさい」と言いたいだけである。

 但し、いくら偉そうに言い立てても、別に何の権力も影響もないから、筆者が耳を貸さず、見識を改めなくても、何もない、ただの市井の人であり、筆者とは、一切無縁の衆生である。

 とどめのように、あいまいな言葉の呪縛と称しているが、あいまいな言葉には、呪文の効力などない。何か勘違いであろう。また、何か言葉狩りをして、「アナウンサー」を廃語にしても、背景となっている概念が生きている限り、根絶やしにはできないのである。自然界では、草を刈る人が亡んで土に帰っても、雑草は滅びないのである。

以上

 

2022年1月 7日 (金)

今日の躓き石 NHK 「時論公論」で唖然とする「リベンジ消費」蔓延活動

                           2022/01/07

 本日の題材は、NHKが、「時論公論」なる看板番組で堂々とぶち上げた「リベンジ消費」である。一日に二度お目にかかるとは、世も末である。しかも、今回は、口頭の言い飛ばしでなく、堂々と画面に書き出しているから、単なる舌が滑ったでは済まない。
 NHKには、番組の品位を審査する部門はないのだろうか。

 これは、NHKが堂々と「リベンジ消費」 の蔓延、普及に乗り出したと言う事であり、 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、NHKの手で広く普及されていくという事かと、歎くのである。

 このように、善良な消費者の意志を誹謗/愚弄/侮辱する暴言にNHKが、無批判に追従しただけでも、嘆かわしいと思ったのだが、こんな番組を目にするとは思わなかった。長生きはしたくないものである。

 一視聴者としては、どうか、NHKが、自身の使命に目覚めて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいと思うのである。よりによって、このような罰当たりな言葉を使わなくても、「時論公論」の報道番組としての使命は果たせると思うのである。どうか、どうか、目を覚まして欲しいものである。

以上

今日の躓き石 NHK ニュースほっと関西「リベンジ消費」の汚染拡散

                           2022/01/07

 本日の題材は、午後7時前のNHK ニュースほっと関西が、ぼろっと漏らした「リベンジ消費」である。

 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、生き残っているのは、NHKとは思えない「放送事故」である。

 もちろん、このような極めつきの悪性語を駆使してまで、消費者を誹謗/侮辱する暴言を堂々と打ち出した某大手銀行系シンクタンクの広報担当が悪いのだが、NHKが、無批判に追従したために、一時は、蔓延するのではないか危惧したものである。
 たちまち姿を消したのは、NHKの統制力と感心したものであるが、当ブログには、悪い言葉が聞けなかったことを顕彰する体制がないので、ご勘弁いただきたいものである。

 どうか、NHKの面目にかけて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいものである。

 忙しいので、くどい説明は省略である。

以上

 

 

2022年1月 6日 (木)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体に署名がないので、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、現代の西日本地図に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端のどん詰まりの纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、各勢力貢納物が纏向に集中したと言うようだが、九州からの貢納物は、吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見るものには、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる。但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら。どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて「2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。

 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を渡った東方については述べていない。(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。
 後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、漢書で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。

 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ難所を隘路にとどめて、海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。

 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、韓、倭の洛陽伺候を許さず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは勘違いである。つまり、冒頭の九州勢力退勢風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

2022年1月 4日 (火)

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 1/3 改2 国名論~倭人伝論

 卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
 私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇はじめに
 本書は、倭人伝語が七~八世紀の「万葉仮名」に反映されたとの作業仮説に関して、第二章、第三章の厖大な考察(専門的につき書評回避)を経て構築した「解読」の原則に従い、倭人伝解釈に挑んでいるものです。

 総じて、安本氏の諸著作で目障りだった好敵古田武彦氏に対する攻撃を抑制し、学術書の境地に到ったと見るのです。また、本書で追及している原則の性質上、多くの場合、断定表現を避けているのは賢明です。
 
〇第一章 邪馬壹国 幻の国名論
 探し求めたのは、『「邪馬壹国」なる国名に含まれる「ヤマイチ」或いは「ヤマイイ」の後半部の母音続きが、七~八世紀の古代日本語で厳重に避けられていて、自称国名たり得ないから、「邪馬壹国」はなかった』とする託宣ですが、遂に、本書の結論部には見つかりませんでした。

 最初に提示された大野晋氏見解は、「放言」と見える座談紹介の失言が誤解か、明らかな誤りを放置した粗相の事態ですから、安本氏が、自説の根拠にしたとは考えられません。真剣に取り組むなら、大野氏の論文等を発掘して、史料批判した上で利用したと見るからです。

 森博達氏見解は、一般紙記事断片で、佚文である御覧所引魏志引用と並べて「倭語の法則性に反する」と根拠不明の見解で断言していますから、森氏ほどの学究の徒の説としては、粗雑です。つまり、文献批判に耐えず、安本氏の論拠として、不適格なのです。
 ただし、それで終わると、事のついでに森氏の顔に泥を塗ったままになってしまうので、以下、論文に準ずる論考を引用します。

*森博達氏の考察
 森氏は、日本の古代 1「倭人の登場」 5「倭人伝」の地名と人名(中央公論社)において、本書の安本論考に先立つ着実な展開で、古代日本語と三世紀中古中国語の音韻関係を論じています。

 ただし、両語は、時代、地理が隔絶している上、事例は、多数の中の一例でなく、乏しい資料用例のほぼ全部であり、とにかく資料が乏しいことから、森氏は、断定的な見解を述べていません。当然のことと思います。

 また、制約として、「倭人伝語は中国中古語に忠実に基づいていない可能性があり、その場合は適用できない」と明記されていますが、安本氏の紹介にはありません。本書の参照引用は、かくのごとく不確かです。資料批判は、原典、特に出版された論考に対して行うべきものです。

*安本氏の見解
 安本氏は、森氏の論議を踏まえて、『「邪馬壹(壱)国と表記されていたとしても、必ずしも、母音が二つつながっている原音をうつしたことにはならない」と言う考え方もできそうである』と、言葉を選んだ上で限定付きで明言しています。森氏が、「自然」などと、根拠不明の非学術的情緒表現としているのと好対照です。

 ただし、同業者論文引用の際の儀礼ですから、森氏の論考の行き届かない点をあげつらうことはできないのです。この点、同業者ならぬ素人である当ブログ筆者が、時として、諸兄の書斎に土足で踏み込むような乱暴、無礼をしてのけるのとは、大違いです。

 なお、以下では、学術的な見識として、両氏の「厳重に避けられていた」なる断言が、絶対のものではないとする用例を述べています。

〇第四章 浮かびあがる「邪馬台国」
 章冒頭で『「大和」をなぜ「やまと」と読むか』の小見出しでそそくさと駆け抜けますが、素人目にも引っかかる所が多いのです。
 「やまと」が、はじめ「倭」だった根拠は示されないし、そもそも「はじめ」とは、いつのことなのか曖昧です。

*根拠なき誹謗
 また、「倭」が、「背が曲がった丈の低い小人」と解するのは、白川静氏に代表される漢字学上に根拠が見当たらず、また、安本氏による見解も示されず、根拠薄弱に見えます。 あるいは、藤堂明保史編の「漢字源」などの辞書によるものかとも思われますが、所詮、風評に近い不確かなものであり、国号を改変する動機にはならないと推察します。

 さらに、「倭」を「やまと」と読む伝統と共に「倭」は「邪馬台」との伝統もあったろうと付記しますが、そのような「伝統」が実在していたという根拠は示されていません。「伝統」とは、本来、血統が継続維持されるという意味であり、一国の国号は、正当に継承されずに時の風評で変遷するものではないのです。

 復習になりますが、三世紀にそのような発音があったとする文字資料は、一切ないのです。ない資料が、7~8世紀まで伝承されたとする資料も、また存在しないと見るしかないのです。

 安本氏は、そのような限界を承知しているので、ここでは、単に、一つの意見を述べているものと見られます。

*お門違いの枕詞
 また、「枕詞」説ですが、「倭」「やまと」では逆縁で語調も合いません。
安本氏にしては、論理の筋も口調も整わない不思議な乱調です。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 2/3 改2 倭人伝論

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇第五章 地名と人口から見た倭人の国々
 本章では、倭人語解読を踏まえて、倭人伝道里記事による戸数推定などが始まります。

 安本氏は、邪馬臺国は、小国連合の「大国」であって七万戸を有したと解釈していて、世に蔓延る百花斉放の新説提唱者と同様に、一説である先入観を、読者に押しつけていると見えます。
 また、行程道里も、背景不明の概数を、一律に多桁計算処理する時代錯誤をたどっていて痛々しいものがあります。

*原点からの再出発の提案
 倭人伝を、倭人語解読により正解するのなら、この際、倭人伝解釈の旧弊を深い穴に打ち棄てて、一から虚心に読みなおすべきではないでしょうか。
 纏向派などの俗説派の諸兄は、多年の学究で壮大な理論体系を構築し、起点部分から考え直すことはできないでしょうが、安本氏も、いたずらに旧説に固執するのでしょうか。
 いえ、無礼にも、素人考えで質問しているだけです。定めしご不快でしょうが、素人論者は、率直を旨としているので、そうなるのです。

〇第七章 新釈「倭人伝」
 本章の諸見解は、安本氏の絶大な知識、学識を背景とした倭人伝新釈であり、これを偉として、大いに傾聴すべきであると思います。

*長大論
 「長大」論では、奈良時代文書の用例を主たる根拠として、俗説となっている老齢説を一蹴しているのは、痛快であり、大いに賛成です。
 俗説遵守の諸兄は、卑弥呼が老婆に決まっているとの牢固たる先入観に支配されて、柔軟、適確な用例評価ができないのです。当方は、無用の先入観を有しない安本氏が、頑迷な俗説を打破したことに、この上なく感謝しているのです。

 僭越ながら、当ブログ筆者は、中国史書の用例を参照して、同様の結論が導き出せるものと信じて、かねて、成果を発表しているものです。ここで種明かしされている結論は、新入生の如く先入見のない眼で中国史料用例を斟酌すれば、むしろ難なく到達できる「正解」と思うのです。

 勝手ながら、私見では、氏は、別の山路を登坂して、同一のいただきに至ったのであり、いただきの正しさを二重に確証している、大変ありがたい論説なのです。逆に、世にはびこる感染症である長大老齢説は、一体、何を根拠としているのでしょうか。不思議です。

 因みに、「長大」呉書用例から三十代男性の形容との考察は古田武彦氏の提言です。
 私見では、古田氏に、安本氏の慎重さがあれば、「長大」論で、魏書ならぬ呉書に依拠する愚は避けられたはずです。

*都督論
 「都督」論で、安本氏は中国側用例を軽視して好ましくないと思うのです。「都督」は、歴代中国王朝で、古来しばしば起用された地方官名であり、倭人伝も、古典用例を踏まえているとみられるのであり、奈良時代国内文書も、本来、中国用例から発しているはずですから、前後関係を度外視した起用は好ましくないと思われます。
 ただし、「都」を、平城京などの「みやこ」の意味に固定したために、以後の「都」の解釈は、中国とずれて行くように思います。
 また、「都督」に表れている「すべて」の意味が、それによって、国内文書から姿を消したように見受けます。
 中国史料の読解に、大いに影響している国内「用語」の変遷です。

*大夫論
 中腰書を参照すると、「大夫」は、周制の最高官でしたが、秦で、爵位の最低位から数えた第五位の「低位」、塵芥のごとき一般人階層となり、錦衣が雑巾の感じです。秦が、周制高官を意識的に雑巾扱いしたように見えます。
 因みに、漢は秦の爵位を継承しましたが、新朝の皇帝として君臨した王莽は、周制を復活させ、「大夫」を周制同様の至高の官位としましたが、束の間の晋が滅び、漢を回復した光武帝劉秀は、漢の官制を復興したので、「大夫」の高揚は、束の間だったのです。

 案ずるに、諸兄は、中国では「大夫」は地に墜ちたが、倭人は、古(いにしえ)の周制を踏まえて、その高官としているように見えるという史官陳寿、魚豢の示した機微を見損ねています。

 安本氏の「大夫論」「は、奈良時代文書の同様の誤解の影響でしょう。してみると、安本氏は、ここでは安直な「俗説」に追従して、随分不用意です。

*劈頭句から始まる別の道
 「倭人在帯方東南大海中依山島依国邑」は、倭人伝劈頭句ですが、この句は、史官たる陳寿が、想定読者である皇帝等の教養人に対して提言するものであり、厳格に史書としての行文、用語に従ったと見るものです。

 安本氏は、七~八世紀の奈良時代文書から古代人の解釈を察することを、「勉強」と勧めますが、こと「倭人伝」解釈では、少なからぬ傍路、道草と思量します。いや、念のため付け足すと、勉強は、道草から思わぬ収穫を得るものです。時には、道草をついぱんで、ツメクサの滋味を知ることもあるのです。

 口幅ったいようですが、古代史書の解釈には、文書著作者の「辞書」を想到する努力を、もっと大事にしてほしいものです。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 3/3 改2 倭人伝論 世界観談義

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

*大海談義 隔世の世界観~余談
 以下、安本氏初め先学諸兄には、常識のことばかりでしょうが、当ブログの読者には未知の領域の方もあると思うので、ご容赦ください。

 隔世の世界観というのは、三世紀の中原人、倭人、後世奈良人は、それぞれの世界、天下を持ち、従って、それぞれの「世界」の認識は大きく異なるから、同じ文字、同じ言葉で書いた史料も、そこに表現された意義は、それぞれで随分異なるということなのです。

 それに気づかず、その記事の著者の深意を推定する当然の努力を怠り、現代日本人のそれも「無学な」素人の「常識」で字面だけを判読したのでは、「誤解」も避けられないでしょう。もっとも、「誤解」は、自分自身が気づかないと是正されないのですが。「付ける薬がない」のですが。

 例えば、同時代の夷蕃伝「魏略西戎伝」で、西域万里の「大海」はカスビ海であり、総じて,当時の中原人にとって、「大海」は、英語でPond, Lake、つまり「内陸水面」、但し、塩水湖とわかります。三世紀時点の中国の世界観は、そうなっていたのですが、この点の論議は、先人の説くところなので省略します。

 いや、現代の英米人は、両国間の大洋Atlantisを、しばしば、Pond、水たまりと呼ぶのです(もちろん冗談半分でしょうが)。「古池」をジェット機で飛び越す感覚なのでしょう。それ以前、英語では、伝統的にブリテン島の周囲の海をSeaと呼ぶものの、米語では、東部人は、目前の海を、まずはOceanと呼んだのです。後に、西海岸の向こうの大洋を知ってAtlantis, Pacificと呼び分けたのです。認識の水平線は、時代で変わっているのです。

 ざっと走り読みしただけでも、土地と時代で、世界観が大きく異なり、それに従って「海」の意義が大きく異なるのです。

*認識の限界 地平線/水平線効果~余談
 もちろん、倭人伝の「海」、「大海」の認識は不明ですが、例えば、帯方人や倭人が南方の太平洋、南シナ海を認識していた証拠はないと思われます。認識の「地平」が異なるのです。

 例えば、倭人伝の「大海」は、当時の中原人世界観に従うと、韓国の南を大河の如く滔々と流れているのであって、これまた大河のように中州(山島、洲島)があって、対海国、一大国、そして、末羅国が、それぞれの中州の上にある諸国を、渡し舟で伝っていくという感じなのです。

 従郡至倭、つまり、郡から「倭人」、つまり、倭人王の治所、居城まで、普通里で萬二千里であるとの解釈が出回っていますが、東夷が、それほど広大な世界観を持っていた証拠は、何所にも無いのです。後世人が色々推定して、勝手に言い立てるだけで、資料には、何も何も書いていないのです。繰り返しばかりですが、世界観、地理認識が異なれば、言葉の意味は異なるのです。

 七~八世紀以前の奈良人が、内海から隔絶した、地平線/水平線のない奈良盆地で、見たこととも聞いたこともない「大海」をどう認識していたか、知ることはできません。「まほろば」は、住民の先祖が流亡の果てに安着した桃源郷、陸封安住の境地と見えるからです。
 隋帝を海西の天子と呼んだ俀国天子は、半島経由で黄海を軽々と渉る行程を知らず、漠然と、両者を隔てる「海」を言い立てたのかも知れませんが、隋帝にとって、海西とは、西域の果ての大海「裏海」の西岸であり、つまり、途方もない辺境を指定されたと感じたのでしょう。

 いや、時代人の本心は、当人に訊かねば分かりません。「グローバル」な視野に囚われた後世人が、倭人の世界観に同化するには、精緻広範な地球儀(グローブ Globe)を棄て、同じ「井戸」に入ることです。まずは、「ローカル」が、万事の基礎です。

 古代奈良平野は、立派な湖水を有していたそうですから、『対岸は見通せても、そこは「海」』と見立てた海洋観が存在した「かも知れない」。そうした時代地理環境も影響するのです。

*魚豢の慨嘆~余談
 倭人伝最後に付注された魏略西戎伝には「議」が記され、魚豢は、自分を含め万人は自身の井戸の時空に囚われた「蛙」との趣旨で、洛陽世界に囚われている自身を慨嘆しています。西域万里を実見できず、前世の他人の見聞録に頼るもどかしさを感じたのでしょう。

〇総評

 誤解を避けるために付言しますが、安本氏は、古代史学界にまれな資料読解力と理数系合理的世界観の持ち主であり、本書は、氏の最善の論考と思います。その一端として、本書の随所で安本氏の優れた大局観が確認できます。

 なお、当ブログの手口として、しばしば安本氏の著書書評から脱線して、持論の手前味噌に迷走していますが、具体的に根拠を示して反論していない議論は、書評外です。諸兄の関心を引くための手口であり、ご容赦ください。

 当方は、安本氏の論に、時に軽率な決めつけが散見されると指摘しますが、それは難詰ではありません。
 広範な考察範囲を述べていけば、誰でも間違いはあるのです。大事なのは、基本的な論考姿勢です。

*参考文献の偏り
 安本氏の限界とも思いますが、当分野における古田氏の意見について、ほぼ印象批評、人格批判しか公開されていないのは、氏ほどの学究にしては、大変偏ったものと言わざるを得ません。

 また、白川静氏は、漢字学の碩学ですが、万葉集に深い見識を示されているので、是非、氏の遺した著書、辞書を、安本氏の参考文献に取り入れていただきたいものです。白川氏は、七十代半ばで教職を辞し、以後二十年掛けて、三大辞典と多数の漢字学書を公刊し、その中には、潤沢な教養を生かした、万葉論もあるのです。

                                完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読  補足編 改

 「卑弥呼が使った言葉を推理する」勉誠出版 2003年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的 2020/07/01 補足 2022/01/04

◯はじめに
 本書書評としては、既に三回連載形式の記事公開の上で、随時補充していますが、検証不十分と判断されたのか賛同が聞こえないので、少し丁寧に掘り下げて追い打ちするものです。自己記事を自由に引用できるのに、補充した際に文意から繋ぎ損ねていたら、ご愛敬としてください。

◯三世紀の日本語考
 安本氏は、単行本33ページの「三世紀の日本語の特徴」条に言語学論考を並べていますが、無解説に近いので、素人は、自力で踏み石を配置して理解の助けとするしかありません。

*森博達氏 上代八世紀日本語の音韻法則
 森氏は、引用出所の単行本30ページに及ぶ学術的論考の労作を見ても、八世紀奈良時代の豊富な日本語文書資料から得た知見を根拠に、「上代日本語」は、四世紀余前世の筑紫地域語らしい「倭人語」と共通の音韻法則を有すると主張するものの、有効な推定と断定しているものではないのです。

 また、語中の母音連続禁則も、「決して」と断定せず、「原則として」と限定しています。当禁則には、既知の例外があるのでしょう。

 素人考えでは、括弧内に例示されたように「青し」(awoshi)が禁則でないなら、「邪馬壹」も、yamawi(邪馬委)のように、w音が間に入れば、禁則除外となると見て良いかと愚考されます。ただし、手元の森氏単行本では、例示出典は不明です。文庫本で補充されたのでしょうか。

*長田博樹氏 倒錯した方言観
 長田氏は、「倭人語」音韻は、「上代日本語」のそれと明らかに異なるとしますが、「筑紫方言」は本末転倒でしょう。馬関係かが逆転していて、「上代日本語」は「倭人語」の、後世奈良方言かとも思われます。いかがでしょうか。

*大野晋氏 場違いな勘違い放言
 大野氏対談で、鈴木武樹氏が、丁寧に古田氏の馬委(yamawi)説を紹介したのに対して、粗忽に「上代日本語で成り立たない」と言うものの、何がどう成り立たないのか、全くもって根拠不明で引用が打ち切られていて、これでは、単なる「ジャンク」情報と見えます。
 このようなお粗末な発言が、なぜ延々と掲示されているのか、安本氏の意図が不明です。

*安本氏の訂正と総括
 追いかけて、安本氏から、「倭人語」は、奈良時代の「上代日本語」ではないとの訂正があり、大野氏のうろ覚えの断言を是正した後、「倭人語」にも、母音が重なるのを避ける傾向があると、森、長田両氏の論考を承継しています。大野氏の暴言は、どう補正しても、両氏の精緻な論考と席を連ねられるものではないと愚考します。

 安本氏は、慎重に言語学権威の発言を引用しつつ、賢明にも加減、毒消しして総括し、そのような傾向が認められるとしても断言できないとの口調です。誠に、妥当な対応です。

*「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か(単行本181ページ)~未解決の課題
 氏は、第4章で、以上の論議を回顧し、「馬壹がyamaiと発音されていたと限らない」可能性も考慮した上で、「言語学的に、邪馬壹国が、倭人語発音上で許容されたかどうかは、判じがたい」としています。

 続いて、地名論などの多角的視点から、両国名のいずれが妥当であるか論議を加え、当然「邪馬台国」有利の方向に重きを置いて論じても、両論には、「それぞれ異なった視点から根拠あり」としています。むしろ、一時の「邪馬壹国排斥論」でなくなっているように見えます。

 勿論、本書は、国名論の最終回答として物されたのではないので、この際、断定しなければならないということは無いのです。

 当ブログ筆者は、安本氏のかかる慎重な筆法は、学術的に極めて公正かつ妥当なものと見るのです。

 これ程周到に進めた議論の結論を、断定的結論を示したと解されると、安本氏も、大いに困惑するでしょう。

 本記事の愚見に関して、安本氏に問い質すつもりはありませんが、もし、とんでもない勘違いを書いているとしたら、しかるべき筋からご指摘があるでしょうから、お待ちしています。

◯まとめ
 本書は、全体として、誠に堅実な論考の宝庫であり、安本氏の明晰な論理の冴えを示すものです。

 ただし、本書が対象読者としていない古代語学初級者が早合点するのが完全に防止されていないのは、やや残念です。ただし、それは、本書の学術書としての意義をいささかも損なうものではないのです。

                                 完

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 「私の邪馬台国論」

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにできないのです。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱とは言え、北アイルランドの動向が不明とか、ウクライナの加入などが、重大懸案ですから、三世紀の古代事情の連漕先としては、まことに不似合いでしょう。もっと、レジェンド化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。
 史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~水行疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後に書かれている「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この間を全十日行程と見ているのは無残な勘違いです。当時の交通手段で、この区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、最低3日、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。(潮まかせ、風まかせで不安定な船便では、所要日数は、青天井ですが)
 この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説を、誤謬を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです、 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年12月28日 (火)

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』 1/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆乱調紹介文でぶち壊し   2021/12/28, 31

〇はじめに
 当書評は、課題の新潮選書の書評でなく、掲題サイトの紹介文に対するものです。(「デイリー新潮」編集部の署名記事。冒頭に、「新潮選書」編集部と署名)自社出版物の販促(販売促進 プロモーション)ですから、最善の努力で、本書の内容を紹介する記事を書いたものとして批判しています。
 著者は、『「古事記」研究の泰斗であり、また「出雲神話論」等の著書でも知られる』との紹介ですが、取り敢えず「日本書紀」不見識の自認でしょうか。目次の紹介を見ても、本書で中国史書の考証を試みた形跡はありません。爪を隠していたのでしょうか。

▢著作権問題
 案ずるに、当記事で紹介されている氏の所見は受け売りです。いや、何れか識者の意見に基づく提言であれば、出典が示されるはずですが、ここには注記がないので、記事全体が氏の新説となってしまいます。まことに大胆です。著作権「デイリー新潮編集部」とあるが真に受けて良いのでしょうか。
 もし、三浦氏が、他人の著作物を引用してその旨表記していないとしたら、「デイリー新潮」編集部は、第三者の著作物を、勝手に自身の著作物扱いしたことになります。是非、公式見解をお伺いしたいものです。

*「倭人伝」解釈について
 当記事は、主として、「倭人伝」道里行程記事に関して、一説を採用して、強引に拡張していますが、どんな資料をもとに議論しているのでしょうか。論ずる以上は、原文に触れるか、誰かの日本語訳の依存かとなります。
 どちらも書いていないという事は、「受け売り」となります。「倭人伝」原文に著作権は存在しませんが、近年の「日本語訳」なら、著作権が存在するはずです。まして、第三者の「倭人伝論」著作を丸写し、受け売りして、その出典に触れないというのは、もっての外です。

〇原典逸脱の罪~時代錯誤「新語」の罪
 ということで、ようやく本題に入ると、「倭人伝」に一切書かれていない「邪馬台国」を当然として進めている事に深刻な疑念がかけられます。確認すると、現存「倭人伝」では、全て一度限りの言及とは言え、「邪馬壹国」であり、「邪馬台国」は影も形もありません。そのような決め込みで本書を書くのは、まこと大胆な「創作」です。そのような「決め込み」を採用した際に依存著作があれば、その著者に責任を転嫁できるのですが、このままでは、氏が一身に原文詐称の罪を負うことになるのです。

 他にも、インチキ時代考証があって、「海の道」とか「海路」、果ては、「日本」、「ヤポネシア」など、三世紀当時に存在しない言葉が跋扈しています。というか、八世紀冒頭に成立した「日本」は別として、他の新語は、氏の造語なのか、誰かの遺言(いごん)なのか不明です。

*「助言」無批判追従の罪
 要は、氏は、「倭人伝」を正しく解釈するために不可欠な素養に根本的に欠けていて、誰か、「中国史に不自由な助言者」の不出来な提言を「受け売り」した為、このような悲惨な事態を招いたと見えます。勿体ないことです。

 氏ほど、権威を持っていると見える著者が、不確かな出典の「新説」を、無批判に担いで共倒れになっているのは、もったいない話ですが、そのような著作を買わされる一般読者には、大変迷惑な話です。いや、二千年近い古代史料に解釈について語っているから、百年前だろうが、二百年前だろうと「新説」なのです。

 選書の目次では「倭人伝」ネタは見えませんから、本書を購入して参考にするつもりはありませんが、堂々と掲示された当記事は、当ブログで解読を進めている信念と真っ向から衝突しますので、「倭人伝」解釈に於いて無謀な「新説」を唱えていると見て、全力批判するしかないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』  2/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆ 乱調紹介文でぶち壊し      2021/12/28, 31

*「倭人伝」道里記事
 ようやく本来の批判に入りますが、氏の読みは、過去百年余り、誤読者の山を築いてきた「魏使進路説」「直進解読説」を頑固に踏襲し、読み解き失敗が当然です。勝手読みのこじつけも、最初は「創意」の産物というにしても、前例通りの踏襲では、いつまで経っても「誤読」症状は治癒しないのです。

 氏は、前例、つまり、相談相手の意見を踏襲するしかできないようですが、それでも、巧妙に投馬国里程を切り離して、最終目的地を何がかんでも畿内に持っていこうとするのです。課題先送り手法は、今後、はやりそうです。

 氏は、独自の「解」を踏まえて「日本海」論を持ち出しますが、仮に、魏使来訪行程と見ても、狗邪韓国まで安全、安心な内陸行程で到着した上で、数百㌔㌘級の荷物と百人級の人員を抱えているのであり、後は、「日常の交易船として手慣れた「渡海」の繰り返しで、難なく既知の「大海」を越えて、揺るぎない大地を踏まえられる末羅国に着くとわかっている」のに、厖大な重荷を背負って、何の情報も無い前途を思い、頼りない小船で、いつ着くとも知れない試練を経て、魔物の住む(と見える)「海」を越えて、帯方郡の官人すら聞いたこともない山陰海岸に向かう気が知れないのです。因みに、山陰海岸に上陸しても、重荷を抱えて中国山地を越えるとびきりの難路が控えています。

 そのような事態は、倭人伝に一切書かれていないのです。いや、氏は、「倭人伝」が読めないのだから、言っても仕方ないのかも知れません。
 「倭人伝」の「魏使」往路としたいとの頑迷な固執さえ棄てれば、つまり、小舟で少量の荷を運ぶというのであれば、できない船旅ではないのです。

*「魏の使者は日本海側を通った?」
 これは、纏向説の悪足掻きを助ける意図でこじつけられたのでしょうが、無駄な努力と見えます。
 倭人伝道里行程記事の正確な解釈では、伊都国以降とみえる投馬国行程は、参考に過ぎず、実行程は、伊都国で終結しているから、大した勘違いです。
 まあ、聞く人を間違ったのですが、道里行程記事の決算「水行十日、陸行一月」の誤解も、一向に正されず深刻です。百年河清を待つのでしょうか。
 因みに、氏はしきりに「対馬海流」の後押しを言うのでが、巻向に行くのに好都合としても帰途は逆行であり海流の恩恵は重荷に変わります。その程度のことに気づかないとは、説得がむつかしいのです。

*論争の鏡像~情緒的自損発言
 氏は、賢そうに、『「邪馬台国」は、ヤマトに決まっているから九州説論者は、「邪馬台国」誘致など考えずに、古代史論に戻りなさい』と教授いただいていますが、当方の言い分と基本的に同趣旨で感謝します。
 つまり、『「倭人伝」の正確な解釈から出発すると、卑弥呼の居処は九州北部を出ないので、「纏向論」者は、早々に悪足掻きを止めた方がいいよ』と言うものです。
 要は、論理の裏付けのない情緒的発言を繰り返しても、鏡に映った自画像を泣き落としに掛けているようなもので、鏡に映った相手から反射的な反応があって尽きることがないので、論争解決手段として役に立たないのです。

 もちろん、氏が、「とどめの一撃」のつもりで追加されている「邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないか」という空想譚は、氏の脳内で滔々と響(どよ)めいているものですが、他人の知るところではないので、受け取るものもなく、闇の奥に消えていくだけであり、何の効力もありません。

 以上、ここまであからさまに無法でなければ、面倒な書評などしませんが、Googleニュースで紹介される著名記事は、釘を刺さざるを得ないのです。

 「新潮選書」は、無責任な与太話など刊行しないので、不審に思うものです。
                                以上

2021年12月27日 (月)

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 1/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、倭人伝に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

「唐六典」とは~Wikipediaによる (斜体は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、倭人伝時代(三世紀)から五世紀程後世であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。

*「普通里」ということ
 採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」(普[あまね]く通用する里)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺であり、当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、正確と言うものではありません。
 実務上、数百里に及ぶ測量は極めて困難(不可能)なので、今日の感覚では大雑把と思われます。また、基本の「尺」が変動しても里数は一定と見えます。土地台帳などに起用されていたので、更新しようがなかったからです。

*「水行」の意義
 ここで言う「水行」は、海岸を発する「渡海」を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り、「河川航行」であり翻訳に注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」によって、全国制度が改定されたものではないのです。
 ここで規定されているのは、整備の進んだ大河の上り下り(溯/沿流)であり、「河」は河水、つまり、黄河、「江」は江水、つまり、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、日本の大半の河川の渓流めいた流れと異なり、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い川舟も航行できるのです。

*「水行」の前提
 大河には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら、川を上下するのです。また、荒天時は、随時寄港して退避するのです。
 「水行」では、大手槽運業者の所有する大船が多数あり、地域ごとに水運業者の組合(幇 ぱん)が強力だったのです。かくして、日々の領域内の船舶の運行予定が十分徹底されていて、事故や紛争を防いでいたのです。
 そうして、川舟の一日の航行には、条件ごとに運送料が決まっていたのです。槽運業者は、船腹と船員を確保し、船荷の安全と日程を保証しましたが、船荷補償制度や遅延償金を請け負ったはずです。

*規定の起源
 「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。少なくとも、王朝の変転を越えて、少なくとも、数世紀にわたって運用されていたはずです。
 五世紀遡った未開の倭領域のように、諸制度が不備で、運行に責任を持つ水運業者も適用法もない背景で、しかも、早瀬が多く増渇水の激しい「小川」の河川水運には、適用できないものと見られます。そもそも、倭の河川に水運なるものが成立していたとは思えませんから、運賃、里数の規定はなかったのです。韓国については、帯方郡管内では、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、水運が利用されていたとしても、郡として統御していたという文献は、見当たらないのです。

*「水行」規定は、「海運」と無関係
 この唐六典規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です。数字には前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定だけですが、安定した運行が可能な河川水運と、干満などにより、寄港地ごとに中断が予想される沿岸航行は、全く異質であり、まして、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しがたかったと見えます。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、一千里と里数が明示されていて、三度の渡海は、乗り継ぎを含め予備日を設定して、十日と明記されているので、「水行」と書いても、唐六典に見られる河川水運の「水行」とは、別の独自の規定が通用していたことが明記されています。陳寿が、倭人伝道里行程記事策定にあたって、「唐六典」「水行」規定との関連を配慮していたことは確実であり、混同されないよう明記していたと思われます。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 2/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

*「唐六典」趣旨
 規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑えるため、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。
 ただし、このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、このような全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。

 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、意味の通らない「ジャンク」とされますが、実際は、随分古くから、沿岸や川筋を帆走したでしょうが、ここに規定されているような大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」<による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 なお、川船の海船転用は、安全面の要素も関係して、困難(不可能)ですが、ここでは論議しません。

 ちなみに、これら大河の中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世になっても、橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)で渡船に乗り渡河するのです。ただし、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼っていたというのは、現代になって自動車交通が普及しても、各地に残っていたのであり、例えば、オーストラリアのシドニーでは、長く渡船(フェリー)による連絡交通が残っていました。

*時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」の規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明の域外である「外国」、魏志倭人伝の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝関係者からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のものであり、参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情が違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。

 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外すのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。前期の遣唐使は、「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後は、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など、海上を行くのは極めて短期間で、したがって、荒天も避けられた行程だったので、随分、随分危険が少なかったのです。安全な「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、倭人伝専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
29(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢 」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは荷車が重いためでしょう。特に、登り坂になると、負荷が途端に大きくなるためでしょう。
 「」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、疾駆させる軍用に貴重なので、荷役用には、専ら「驢」を利用したのです。いや、荷役は、ほぼ、大人しい驢馬の担当に決まっていたのです。
 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)ないしは「驢」の荷は、二人で分けていたようです。
 最後に、例外規定として「小舡」が書かれています。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。
 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。何しろ、全国制度から見たら、はしたのはしたですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」には、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然必要不可欠だったのですが、はしたなので、里数には数えなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 3/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢倭人伝解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、倭人伝解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に、「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。同時代に存在しない概念に基づいて同時代を語るのは、個人的空想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。
 また、官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。

 沿岸航行が、安全、安心だと思う人は、一度、生まれなおしたつもりで考え直してほしいものです。

 当然の結論として、三世紀、官道に「海路」はあり得ないので、後世の「唐六典」に規定がないのです。(正史記事にも、そのような記事は無いのです)

*半島内陸行の話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」と書いたのは、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」しているのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。
 この間の空白を、現代日本人だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが、過去の里程論の大半です。
 素人考えでは、里制論の混迷の主因は、そこにあると見るのです。

*あり得ない沿岸の旅
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間の「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な規定となり、倭人伝道里記事の用をなさないのです。況んや、空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったのなら、陳寿が、異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地なので、陸行しかできないのです。実行不能です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、倭人伝記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。
 苦心が凝縮された定義の真意を見落として、「沿」海岸水行と読み替えているのが、通例の誤解です。

*「従郡至倭」の深意
 そういえば、素人目には、書き出しで「自郡至倭」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」との形容にあると見えるのですが、これも、しばしば見過ごされています。
 後段で「自郡至女王國」萬二千餘里と書いているので、違う形容を採用した、「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点を書いているだけではないと見るものです。
 史官の寸鉄表現を、はるか後世の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。
 素人考えの結論として、倭人伝は半島半周を謳ってないと見えるのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、倭人伝限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で、説明不要と言う趣旨です。

 後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。
 決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度陸地の形状を認識していたとしても、それは、中原知識人の認識の限界を超えているので、陳寿が書き上げた倭人地理観には入っていないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭」万二千里道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した実務本位の記事です。
 
しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。

 古代の史官は、古代史官にとっての常識に従っているのであり、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。

                               以上

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 1/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。
出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

「NHKオンデマンドで配信中」

*追記:
 当番組は、2021年12月27日に再放送されたので、再確認の上で、「異論」編を補充とし、「新総集」として公開しました。

*はじめに~重複御免
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人風で、加えて素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の番組が、広く取材し<司会者のコメントに含蓄し感心した出来映えに感心したものです。一方、同番組は、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、このたび、ようやく新作にお目にかかりました。

 今回の番組も、毎度ながら、背景に倭人伝刊本を見せつつ、「邪馬壹国」、「壹与」を「邪馬台国」、「台与」とほぼ無断で決め付ける手口に幻滅します。また、魏使来訪が海上大迂回で、時代考証は大丈夫かと思うのです。基礎固めが疎かで脚もと乱雑では多難です。

 番組は、こうした不吉な序奏から意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 と言いつつ、別稿の記事と、かなり重複してしまったのは、反省していますが、今となっては、改善しようがないので記事重複は、ご勘弁ください。

*総評
 纏向論への異論の大方は、誇大で独善的な纏向論がそう言わせるのです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、ゆったり無理なく紹介されていて、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。

 これに対して、纏向論者は、前作を越えた強引な論法で、そんなに無理するなよと言う感じでした。論者の提言に噛みついて、(私見に過ぎない)「卑弥呼」、「箸墓」、「台与」の年代比定は既に確立されているとの高言は、むしろ滑稽でした。そもそも、「卑弥呼」はともかくとして、「箸墓」は、「倭人伝」に於いて、何ら特定されていない「亡霊」であり、「台与」は、「邪馬臺国」にこじつけて、勝手に改竄した人名でしかありません。纏向説論者は、そのように、手前勝手に書き換えた「倭人伝」を奉じているから、そう言い切れるのでしょうが、それは、史学の道を外れています。それにしても、纏向論が学術的に確立されていたら、この場で今さら高言する必要はないのです。

 考古学で言うと、その財産は、遺物、遺跡の考証に基づく堅実な考察であり、対象時代は、遺跡、遺物に文字記録を伴わないから、時代比定は不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと学術考証に歪みが生じるというのが、先賢の戒めと思うのですが、ここは、「自説絶対で、外野の干渉は許さない」という体では、論争にならずバトルです。何しろ、同時代唯一の文書記録「倭人伝」を、纏向説に合うように、自在に書き換えているのですから、天下無敵の革新で強弁できるというものです。

 素人目には、「我田引水」の「倭人伝」解釈に引き摺られて、考古学の考察を撓めている感じが拭えません。「纏向風倭人伝」は、かつては、古代史学界の先哲の気づいた基礎に、選りすぐりの英傑が築き上げた楼閣だったのですが、今や、転進を許さない頑迷な道標と化しているようです。

*高価なイリュージョン展開
 今回、NHKご自慢の子供だましの「ビジュアル」は控え目で、填め込まれた纏向遺跡の「再現」動画を見ましたが、伝統的画餅、「イリュージョン」(詐話)と見えます。自説の図式を押し通すに急で、背景考証なしに眩術を駆使するのに、納税者としては賛成できないのです。そんな費用があったら、地道な時代考証に努めてほしいものです。

*運河曳き船の戯画
 例えば、堂々たる運河で両岸から荷船を曳く図は、実質のない画餅です。海岸からここまでの長い道中、船体もろとも、大量の船荷をどうやって運び上げたのか、どのように船荷を捌いたのか、帰り船には何を積んだのか、実質を語る丁寧な考察の裏付けが無ければ、結局、児戯、画餅です。多額の国費を費やして、虚構を捏造して、誰に何を訴えないのでしょうか。大して貢献できていない少額納税者ですが、この有り様を見ると、勿体ない出費と歎くのです。
 丁寧に言うと、河内湾岸から纏向まで、描かれたような荷船を乗り入れる術はなかったと思われます。特に、大和川の蛇行した急流を、どんな手立てで漕ぎ上がったのか、実質のある動画で拝見したいものです。あえていうと、河内湾岸に、どこから、どんな手段で、船荷が届いたのかも不審です。最後に、傾斜地に「運河」を引いて、水流を確保しつつ、川船が上下するのも、極めて高度な土木技術の産物と見えるのですが、これらの爪がされていないままに、「絵」を公開するのは、見当違いの技術投資でしょう。

*「都会」幻想
 言い方を少し変えると、ある程度、文書行政が確立され、徐々に構築された街道網が成立した七,八世紀の古代国家ならともかく、三世紀当時、市糴、交易で移動していたとすると、どんな仕掛けで海港から山中まで運ばせたのでしょうか。古代とは言え、「経済的」に、物流、交通の要(かなめ)で無ければ、国の市は繁栄しないのです。
 中国でも、繁栄した市(都会)は、河川、海岸沿いか、陸上交通の要路か、さらには、両者の得失を兼ね備えた土地です。

 漢書で言う「一都会」は、一つに「都」(すべて)「会」するとの趣旨ですが、山間の壺中天であった纏向は、交通の要路ではないので、「一都会 」として栄えたと聞いたことはありません。大量の物資が集散したのなら、大量の遺物が残っているはずであり、そもそも、そのような運河まで敷いた「一都會」を棄てて、船便の成立していない飛鳥や平城宮に、王の居所が移動するはずがないのです。
 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 2/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*「自虐論」始末記
 「自虐」論は、纏向論者が、纏向絶倫と認めない九州論者に浴びせた罵倒、自爆です。というものの、挑発し泥仕合の罵り合いに持ち込む子供の口喧嘩戦法に、大人は乗らないのです。「自爆」は、論議に窮した焦りを暴露するのです。箴言をもじると「暴言は無能な論者の最後の隠れ家」。自滅の手前と言えます。
 視聴者が、このような乱暴な決めつけに賛成すると見くびっているのでしょうか。

*文学表現の曲解
 続いて提出された、乱暴でくたびれた俗説「白髪三千里」は、無風流な浅知恵です。
 李白は、漢詩三千年の史上最高の詩人であり、気宇壮大な比喩は、現実を大きく離れ、感動を誘うのです。白髪三丈などと、陳腐な戯言と次元が違うのです。それとも、評者は李白の上を行く芸術家でしょうか。奇特です。
 普通、そのような芸術性を「誇張」と感じるのは、感性の貧困です。李白と現代の俗物の背比べなど、見たくもありません。

 いや、どんな俗物でも、この表現は明らかに詩的比喩であり史学的発言でない位は理解できるはずです。とことん場違いでしょう。古代史学の先賢が、中国文化蔑視のために言い出したことでも、無批判に追従しない方が良いでしょう。先賢の恥を蒸し返すのは、勿体ないと見えます。

*軍人功名談の愚例
 「戦果十倍誇張」は史書表現ですが、史書では、論外の愚行としてあげられていて、参考にも何にもなりません。これは、皇帝の警鐘であって、「軍人の手柄話では騙されないぞ」と釘を刺しているのです。

 軍功はクビの数ですから、十倍誇張で十倍の褒賞が帰ってきますが、新来蛮夷に関して、道里、戸数を誇張して、何の報いがあるのでしょうか。直にばれるウソなど、悪くすると、虚言の廉で(本当に)首が飛ぶのです。軍人は、多くの試練を経て将たる地位を得るから安直な誇張はしないのです。まして、魏使は戦果を求められていないから、この手の誇張はあり得ないのです。
 特に、曹丕、曹叡は、曹操の布いた厳格な軍規を継いでいて、なまくらな皇帝ではありませんから、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは通用しないのです。あるいは、論者は、遼東公孫氏を、郡高官もろとも殺戮した司馬懿に筆誅を加えているつもりかも知れませんが、司馬懿は、現地に、遼東郡の死者の「京観」を築いて軍功を公開したのですから、方向違いと言うべきでしょう。

*くたびれた「定番」の去るべき時
 この二件は、纏向説論者の好む、「定番」の古典的罵倒表現でしょうが、外界で通用するものではないので、何れかの世代で棄却すべき負の遺産でしょう。同学の先師の旧説の中で、安直な比喩(大抵は誤解)余談は、学問の世界では進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので更新されるべきです。
 当番組では、新証拠が展開されるはずでしたが、使い古した年代物の詭弁連発でした。今回の纏向論は、先進の気概の乏しい人材で随分損をした感じです。こうした前世紀定番の蒸し直ししか出せないのであれば、番組の時間の浪費でと思うのです。
 早急に「纏向邪馬台国」の存亡をかけて、世に問うべき「新説」を創出すべきではないでしょうか。それが、「纏向邪馬台国」の晩節を飾るものと思います。

 因みに、当ブログ筆者は、倭人伝が正確無比な記録文書だと言っているのではないのです。むしろ、入念極まる推敲を重ねた高度な「創作」文書であると信じています。
 この点は、登場した渡邉氏の表現が正鵠を得ています。陳寿は、読者たる西晋皇帝などの当代知識人に理解できる用語、表現を凝らして「倭人」伝を書き上げたのであり、そのために現代人には理解できない婉曲な表現になっても、それは「倭人伝」の本質なので、現代人が文句を言っても仕方ないのです。陳寿の綴った「設問」の真意を理解できない「落第者」が、門前山を成しているようですが、このように簡単に「降参」して、二千年を経た「問題集」を臥竜で書き換えるのでは、視聴者に醜態をさらしていることになるのです。何とか、「思い込み」を棄て虚心で「倭人伝」世界に入門してほしいものです。

*闇談合露呈
 まして、収録終了後「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、闇談合で抱き込もうとの、さもしい根性でもないのでしょうが、歴史を夜作るのは、良い加減にしてもらいたいものです。視聴者が見ているのです。

 それにしても、「爆問」が最後に小声で漏らした総括は「史料の原文に戻って、最初から丁寧に考えなおした方が良い」という趣旨のようで、冷静で控え目でした。それが、入門を目指す「倭人伝素人」の採るべき(唯一の)道なのです。

 纏向論者は豊富な学識を駆使して、陳寿が「倭人伝」で描いた「倭人」世界像の理解に勉めるのが本務であり、視聴者、納税者に対する義務のように思うのです。



                              未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 3/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*殿、ご乱心~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学首魁渡邊義浩氏の「暴挙とも見える」「ご教授」です。折角、新説の疎漏を指摘する至言があったのに、このたびは、愚劣な発言になっています。勿体ないことです。
 倭人伝考証で「翰苑」を持ち出すのは、場違いですが、対照された「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印が、出所不明で投げ出されたのです。
 紹興本、紹熙本、汲古閣本、武英殿本、さらには、書陵部所蔵本まで見て、各資料を確認しても、「会稽東冶」と書いた魏志刊本は存在しないのです。それぞれ、刊本、つまり、それぞれ木版印刷本(刊本)ですから、個体差はなく、全て「東治」です。氏の提示史料は、どこで見つけたのか、その場では不明です。(不意打ち、闇討ちという事です)
 もっとも、このような異論の持ち出しは、「爆笑問題」ならぬ、古田武彦氏ばりの渡邊義浩氏「爆弾発言」で、これはまことに勿体ないことです。

*「中華書局本」の闇討ち
 散々調べた後で、『諸刊本で「東治」と一致して明示されている「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」された』らしいとわかったのです。しかし、現代新作の異本ですから、それ以前は誰も知らないのです。
 また、部分拡大されると、何のことかわからないのです。たかが一史料にその通り書かれているというのは、このような低次元の提示を頂かなくても、氏がそのように主張すれば十分なのです。

 ともあれ、素人論者は、番組の流れで、不意打ちで表示されたら、史料出所には、気づかないのです。それにしても、史料の選択、表示に関する渡邉氏の判断は、どうなっているのでしょうか。そして、NHKの制作方針も、一段と不審です。出演者の発言は、「ファクトチェック」無しで、言いたい放題にさせるのでしょうか。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 私見では、当時存在の「魏志」写本に会稽「東治」と明記されたものを、「翰苑」編者が単に「会稽」としたのは、世上、「東冶」に誤解する読者があって、無用な誤解を排除するため「東治」を削除したとも見えます。いや、単に、「翰苑」編者の手元に、誤写された所引が届いた可能性が濃厚です。また、「翰苑」現存写本が、どの程度、「翰苑」原本を再現しているのかも、不明です。何しろ古代史学界で蔓延している「戯言」に追従すると、『「翰苑」原本は現存せず、「翰苑」原本を見た人間も、現存していない』のです。 

 「東治之山」の由来と見える「水経注」などの記事でも、禹后が会稽した山である会稽「東治之山」が、しばしば「東冶之山」と誤記されている史料があるから、古来、誤解の的です。

 ということで、「翰苑」は「東冶」「東治」のいずれを正当化する史料でもありません。氏は、現代史料である「中華書局本」を持ち出して南宋刊本に反する「東冶」を正当化するのです。本件は、史料に基づく倭人伝考証としては、とびきりの愚行と思われます。
 氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外の史書は、本気で読み込んでいないのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は、軽薄で的外れと見えます。「黥面」「文身」は、それぞれ、切り分けて慎重に考証する必要があります。図版の無い倭人伝の解釈に対して、出所不明の図版や年代、地域で繋がらない遺物を起用するのは不審です。
 当ブログ筆者は、一次資料に基づく仮説は、それなりに尊重しますが、出所、根拠不明の風説資料に基づく思い付きには、疑問を呈するものです。
 氏が堂々とぶち上げる論議が、不審を感じさせます。例えば、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことでしょうか。因みに、中国で、顔面に黥するのは、罪人の徴とされていたのです。

 何れかの時点で、制度が変わったのなら、旧制の貴人が罪人となるので、歴史的画期的大事件ですが、そのような記録は残っているのでしょうか。まことに、不審です。

 また、倭人伝記事にある黥面文身の「水人」は、纏向では存在し得ないと思います。内陸の奈良盆地で、大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか。いや、別に、氏が畿内説と決め付けてはありませんが、それほど力を入れるのであれば、説明が必要と思うのです。

 それとも、氏は、中国史書専任で、国内史書には一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

 と言うことで、氏の問題発言としては、「史官嫌い」の次は、「お手盛り史料」ですが、世人が、渡邉氏に求めているのは、「香具師」紛いのはったりではないのです。視聴者は、氏ほどの学識・知識は持っていませんが、素人を侮るのは感心しないのです。

〇お仕舞い
 今回の「バトル」に直接関係はしないのですが、論争に適確な審判役がいないのも、この分野に泥沼の「バトル」が持続する原因と思えるのです。

*悔いのない報道
 それにしても、NHKがなぜ当番組を「サミット」と呼んだのかも不審です。素人目には、「倭人伝」に関しては、「原典派」と「改竄派」の二派しかないように見えるのです。「改竄派」は、『「邪馬臺国」と書かれた「倭人伝」が絶無である』という負の物証が、鉄壁のように聳えているものを、変則的な文献史料考証という「超絶技巧」で迂回してみせる必要があるのですが、「原典派」は、確たる史料である「倭人伝」に立脚しているから、特に「超絶技巧」は必要ないのです。
 NHKは、長年、「変則的な」「超絶技巧」に荷担していますが、それで報道機関として、何の悔いもないのでしょうか。

                             この項完

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*序章 「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英治氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。

 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

«倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

カテゴリー

無料ブログはココログ