2022年7月 4日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞が蔓延被害拡大「リベンジ」~「球磨川」復興悲願に泥水

                             2022/07/04
 毎度のガセネタ批判であるが、今回は、当ブログに良くあるスポーツ面ネタではなく、「リベンジ」慣れしていない担当記者にとって、大変不愉快な記事になりそうである。題材は、毎日新聞大阪夕刊4版一面のど真ん中だから、夕刊読者には、すぐ目に付く。影響力が、スポーツ面の細切れ記事の比ではないので、それだけ、厳しく言わざるを得ないのである。別に、個人攻撃ではない。その証拠に、署名されてい名前には触れていない。

 いや、ここで批判している問題発言は、現地の関係者の談話であるから、いくら言葉遣いが汚いと言っても、それ自体は、その個人の自由だから、新聞社としてどうしようもない。知らずにご自分の顔に泥を塗っていると言うだけで、別に、地の果てのよそ者が聞きつけて、とやかく言うものではない。と言う言い訳が成り立ちそうだが、それは、随分情けないことになる。

 要するに、発言を聞いた記者が、それは、不適切な発言なので言い換えるべきだと丁寧に説明すれば、ご当人も、失言に気づいて、言葉を選べるからなんでもなかったのである。そうすることで、世間から、忌まわしい言葉の誤解・中毒の犠牲者を、確実に、少なくとも一人減らせていたのである。それが是正というものなのだが、それに記者が気づかず、間違った物言いを紙面に載せたから、事態は深刻なのである。
 これでは、日本中に「リベンジ」中毒患者が一段と蔓延するのである。
 現に、冒頭には、「川を恨むことなく自然と共存して」と切々たる言葉が語られている。全国紙夕刊記事としては、何も付け加えなくて良かったのである。まことに、つまらない失言のためにぶち壊すには惜しい記事ではないだろうか。

 このでかい記事で、水害をもたらした球磨川に血なまぐさく仕返しする「リベンジ」を目的と言われると、「球磨川」商標の譲渡という無上の好意に甘えながら、折角いただいた「球磨川」の名に、べっとりと泥を塗る発言をしたように全国報道されているクラウドファンディングに応じた諸兄姉も、球磨川を恨んで血なまぐさく復讐することに賛同して、大事な寸志を届けたのではないと思う

 そのような発言は、本位ではないと思うのだが、紙面には、そう書かれている。それは、「リベンジ」が、毒々しい、忌まわしい呪いの言葉だと知らない担当新聞記者が、何も考えずに誌面を汚したものであり、最終的には、そのような不都合な記事を配布した全国紙たる毎日新聞社の責任と言える。担当記者が、正しい言葉遣いを厳命されていて、それに背いたための失態としても、最終責任は、毎日新聞社にある

 それにしても、毎日新聞社には、紙面審査も、紙面校閲も無いのだろうか。

 毎日新聞社は、当記事に関し訂正記事を掲載し、合わせて、発言を「誤報」された方に謝罪すべきであろう。
 折角、気持ちをこめて発言したのに、深意に反する報道をしたのだから、それは、「真実の報道」という使命に背く重大な誤報である。

以上

2022年6月26日 (日)

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 1/4

 「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス

◯はじめに 
 本稿は、ネット記事の紹介であり、このように、堂々と販売促進されている以上、記事自体の批判も許されると考えて率直に批判しました。抜粋の文責はサイト編集部でしょうが、著者了解済みと見て書いています。
 因みに、「なぜ卑弥呼の船は戻れたのか?」は、意味不明の大滑りです。

*不吉な展開~トンデモ本の系譜継承か
 なぜ卑弥呼の船は戻れたのか? 船舶設計のプロフェッショナルであり、このほど『日本史サイエンス〈弐〉』を上梓した播田安弘氏の仮説から、邪馬台国への意外なルートが見えてきました。

 ここで、著者紹介は「船舶設計のプロフェッショナル」と認定していますが、本書で問われる古代木造船設計建造に、どんな知識、経験を保有していることか。
 要するに、現代の大型鉄鋼船舶は強力な推進機関と航海情報を有していて、造船所は、巨大な鉄鋼構造物の力業で蠢いています。そのような「現代人」の古代船「初心者」の「素人考え」が無造作に開陳されていると見えます。

*不吉な課題呈示
「卑弥呼の船」を考える
 弥生時代の日本で邪馬台国が最大の国として発展したのは、女王・卑弥呼が中国大陸と活発に交流し、先進的な文化や技術を導入した……

 氏は、古代史に関して素人と見え、無造作に始めますが、三世紀、「日本」は存在せず、筑紫に限定しても「最大の国」など時代錯誤です。「女王が「中国大陸」と交流」とは、大変お粗末で、人が「大陸」とは交流できません。魏が中原を確保しても、南に漢帝国の継承者と自認の漢(蜀漢)が健在で子供だましです。

 倭から「大陸」に至るには、半島上陸後、街道で帯方郡に至り、郡官吏の同伴で山東半島から洛陽に赴きます。当時、遼東は関係ありません。
 洛陽に到着すると、まず、鴻臚の典客担当は、蕃人を「客」と煽(おだて)てつつ、人前に出られるよう行儀を躾けます。最後、手土産、印綬を与えて、送り返すのですが、辺境で厄介事を起こされて始末するよりは、随分安上がりなのです。
 こうして見ると、「大陸と交流」は安易な思い過ごしと見え、まことに不勉強です。

 「先進」文化を採り入れようにも、まずは、漢字習得と言っても、万に及ぶ文字の発音と字義の記憶で、。文字文書がうっすら理解できるというだけでなく、中国文明の根幹である、四書五経の暗唱、解釈を身につけることが、「文化」の大前提であり、また、幾何(算術計算)習熟も必須です。「技術」は、言葉が通じるのが、実務/徒弟修行を通じて、伝授/習得/技術移管できるものであり、手軽に「導入」などできません。
 また、女王が如何に意欲を持っていても、当時の情勢を眺めると、文化/技術指導者が、先進国での栄達を捨てて、生存も覚束ない倭に移住し、途方も無い労苦を厭わずに指導にあたったとは思えません。
 古代に何か想定しても、時代考証を重ねないと、単なる夢想に終わります。

*関係不明な遺跡紹介
 以下の遺跡に、参考になる出土品が4例あります。(略)
 卑弥呼の時代の船は、基本的には木をくり抜いた丸木舟の両側や前後を覆っただけの構造で、帆はなく、櫂やオールを漕いで進んでいました。海に出るにはかなりの危険をともないましたが、それでも船首と船尾を高くするなどの工夫をして、大陸へと漕ぎ出していったのです。

 「卑弥呼の時代」と出土物の時代比定は、大変不確実と見えます。全て、後世産物でしょう。
 埴輪の土器造形と線刻画は、制作者の主観、再現精度が不明で、担当研究者の推定の確かさも不明です。無根拠に等しい憶測です。
 現代の工業化社会で確定している「機械製図」の規則に従っている「図面」以外の図形情報「イメージ」は、芸術的表現であって、一切、工学的な史料と解釈してはならないというのが、「サイエンス」の大原則と思いますが、考古學のHistorical Scienceは、図形の見かけの印象を絶対視するらしく、困ったものです。まして、孤証を孤証として限定的に評価することもないのです。まことに、非科学的です。

                               未完

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 2/4

 「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス

*承前
 「海に出るにはかなりの危険」と乱調で、一見して不出来な船が濫造される筈はありません。近畿地方遺物の船が玄界灘に居たとは思えません。瀬戸内の船は海峡を越えないのが氏の所見のようですが、乱文です。

現代人による実験航海
(1)野性号プロジェクト
 実験航海と方向が逆です。筑紫を発して対馬海峡を乗り越えた後、半島南岸を西に行き、西岸を北に上って、実験航海としたのです。
 冒険としての評価が、的外れではないでしょうか。先駆者の偉業に対しては、部分的な失敗は失敗として、全体的な「総括」を贈るべきでしょう。
(2)なみはやプロジェクト
 大阪から韓国の釜山まで約700kmの航海実験を計画。
 単なる「計画」倒れだったのでしょうか。意味不明の参照です。
(3)山陰の丸木舟プロジェクト
 釜山から対馬海峡横断に挑戦。
 対馬海峡北岸の韓国に、丸木刳舟しかなかったとは、独善です。
(4)「海王」実験航海
 しかし技術面から評価すると、船の知識があまりない人がほとんどで、埴輪や線刻画を見たままで……建造した例も多いようです。
 「冒険」の目的は経常的経路の検証であり、無理矢理押し通す冒険ではありません。先人が、熱意だけで、無謀無知と決め付けるのは、失礼です。
 本件は、明らかに瀬戸内海の各地寄港であり、対馬海峡越えでなく日本海漂流でもありません。見当違いです。

 四例を「多い」とは不審です。これは「サイエンス」ではありません。

 綿密な検証……を行わなかったために、……問題が山積してしまいました。現代人がつくった船でさえ、そうだったのです。

 無知な現代人は失敗できても、当時、失敗即難破沈没です。不勉強な後世人に古代人を貶める権利はありません。現代に木造船船大工は存在しません。それにしても、先人の偉業を貶めて、何がうれしいのでしょうか。

航海には「生贄」を乗せていた
 卑弥呼の時代にも、成功と失敗が……積み重ねられていき、ついには大陸への航海が可能になったのでしょう……「持衰(じさい)」とする習慣があったことが『魏志倭人伝』に記されています。

 意味不明です。「持衰」は、航海に先立って血祭りで献げられる「生贄」ではありません。

 持衰は航海のあいだ……謹慎させられ……航海が無事に終われば、褒美を与えられます。……失敗すれば、……生贄として殺されるのです。

 どうも、深刻な誤解があるようですが、持衰は、強制的に謹慎させられているのではなく、聖職者として、身を慎んでいるのです。
 それにしても、話題は、卑近な半島渡海でなく、正体不明の中国直行の話です。要は、風聞ですらなく、信ずるに足りないホラ話の可能性が濃厚です。対馬から半島は、ほんの半日の渡し舟であり大層な神頼みはいりません。渡し舟に持衰の小屋を乗せたら、客の乗る場所がありません。つじつまが合わないことばかりですが、この記事は、そういう位置付けで書かれているのです。

 毎度の訂正ですが、当時「航海」という言葉はありません。ちゃんと、史料原文に密着した解釈から出発すべきです。もっとも、難破すれば命を落とすのは、別に、古代だけではありません。

 それでも卑弥呼は大陸に船を出しつづけました。リスクを冒してもやらなければならないという強い意志を感じざるをえません。

 新造船して養成した乗員を乗せ、それが、次々海のモズク、ならぬ藻屑になっても、平然とチャレンジを続けるとは、あり得ないことです。神がかりの君主が失態を重ねれば、更迭、馘首が鉄則です。もっとも、卑弥呼は、そうした独裁君主などではなかったのですから。話全体が見当違いです。そんな途方もないホラ話は、倭人伝のどこにも書かれていません。史料無視も、ほどほどにしてほしいものです。

 現代人が、神がかりも無しに、二千年前のレジェンドの「意志」を感じ取るとは不可解です。もちろん、当時「リスク」などという言葉はありませんでした。全体として、まことに時代錯誤です。
 但し、いくらとんでもないことを書いても、馘首、生贄にはならないので、卑弥呼ボラ話著者稼業は、気楽なものでしょう。
                                未完

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 新刊書紹介「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス

*承前
 半島の鉄は、制約無しに入手できたと、魏志東夷伝に書かれています。

 当時、糸魚川(現在の新潟県)では宝石の翡翠(ひすい)が豊富に産出し、これを加工した「勾玉」(まがたま)は、装飾品として権力者に珍重されていました。……卑弥呼は日本の特産品である翡翠を朝鮮半島に輸出し、かわりに鉄を輸入して国づくりを進めたのです。

 翡翠は、普通言う「宝石」ではありません。「豊富」に産出した証拠もありません。翡翠加工は技術の問題でなく、工具と労力の問題です。翡翠加工の文化と言いますが、文字のないところに文化はありません。単に、工人集団の確立した加工技術です。

 「日本人」と、時代錯誤の失言です。当時、「日本」は無いから「日本人」もありません。半島南半の三韓諸国には、統一国家がありませんから、「輸出」は不可能で、当然、鉄の「輸入」も不可能です。カネで買えないのだから、そういうしかないのです。ホラは出放題でしょうか。

 中国では、秦始皇帝の制定した統一通貨、銅銭が豊富に流通していたから、銭を運べば距離を隔てた代金決済は可能でした。耕作を許可された農地から得られた収穫の「納税」は、穀物を納めるのではなく、銭で収めていたので、広大な全土から厖大な銭が集まっていたのです。
 銭がない倭では、穀物現物の納入ですから、牛馬の荷役ができないのと相俟って、広域の収税は絶対に不可能だったのです。
 そうした状勢は、倭人伝に適確に記録されていて、魏帝どころか、帯方郡太守も、倭から大量の収税はできないと教育されていたのです。
 ところが、後世人は、それらの情報を全て無視して巨大な国家を想定し、まことに病膏肓の感じです。

対馬海峡の横断は至難の業
 対馬海流の速さです。筆者は、前著『日本史サイエンス』において、……、対馬海峡の横断をシミュレートしています。図略
 対馬海流は1.5~2ノットの速さで北上しています。……対馬海峡を横断するには、海流の約2倍の船速が必要……です。……実験航海が失敗したのは、こうしたことが計画に十分には組み込まれていなかったからです。
 古代の船で……、対馬海峡を横断……至難の業で……す。

 先人の海流無知は氏の思い込みで、要するに、根拠の無い言いがかりです。
 野性号の「敗因」は、船体過重と見えます。船体の大事を取って船板を厚くしたのでしょう。古代、難所は難所向け構造とし、それ以外は身軽のはずですが、現代人は無思慮です。「半島半周航」という見当違いの行路設定も、敗因に寄与しています。
 三世紀当時、帯方郡から狗邪までは街道/官道が整っていて、道中、道の「駅」が完備し、公的な用途では街道/官道を、騎馬や車輌で往き来する「規則」だったのです。
 遠回りで延着必至、まして、確実な危険が待ち構えているとわかっている違法な経路を、なぜ通ると信じ込んでいるのか、まことに不可解です。公的な往来は、冒険などしないのに決まっているのです。

出雲大社が絶好の目印に
 卑弥呼の船が……釜山を出航して、……対馬海峡を横断し、……対馬海流の流れにまかせる……と船は、山陰に着きます。……天気がよければ……三瓶山が見え、浜田沖では……大山が見えます。

 天気が良くても、雲がなくても水平線付近が霞めば、悪い天気です。
 さらに、そのまま陸伝いに海路を行けば、出雲の方向に高い塔が見えてきます。……海からは絶好の目印となり、出雲まで容易にたどりつく……でしょう。……海からの目印として建てられた可能性もあります。

 「陸伝い」とは陸上を行くことであるから、「海路」は、そういう陸上の「路」なのでしょう。色々。誤解が蔓延っていて、一々訂正もできないのです。
 賑々しく書かれている「塔」は、氏の白日夢にすぎず、何の根拠にもなりません。「確実」「絶好」「容易」と子供じみた言葉と相俟って、「サイエンス」とは言えない夢物語です。一度、顔を洗って出直すべきでしょう。

カルマン渦が導いてくれる
 流れの中に円筒形の障害物を置くと、下流に「カルマン渦」ができ……ます。……対馬からブイを流して、その軌跡を見ると、朝鮮半島東側から下っているリマン海流が、朝鮮半島突端の半円形に影響されて、大きな渦が生じ……この渦に巻き込まれ……れば、約50日でブイは山陰沖に漂着します。
 対馬から流したブイの軌跡(『日本史サイエンス〈弍〉』より)  図略

                                未完

新・私の本棚 ネット記事「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 4/4

 新刊書紹介「逆転の発想」から見えてくる邪馬台国  播田 安弘
日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 講談社 ブルーバックス

*承前
 海流が激しいのに、霞の果てに向けて漕ぐなど無謀の極みです。図示海流が三世紀に存在した保証はないというのが、「サイエンス」です。
 それにしても、五十日経て漂着すらなら、餓死者の山です。

*不思議な「視点」幻想
邪馬台国の場所を考えるためにも欠かせない視点
 すなわち朝鮮半島から日本に帰るには、……山陰をめざすほうがはるかに楽で、自然に到着することができるのです。……実際に、古代にはこうした山陰沖から日本海を通る「翡翠の道」「鉄の道」というべき交易路があったと考えられています(図「交易路[翡翠の道][鉄の道]」)。図略

 「邪馬台国の場所を考えるためにも欠かせない」の断言ですが、他にどう活用するのか、不思議です。どこが楽で自然か、意味不明です。
 当時、誰も地域全貌を知らず、遠めがねも羅針盤もなく、水や食料もなく、風雨を読めず、どこから、このような仕掛けを見出したか不明です。試行錯誤の果てと言うが、「錯誤」で関係者が死に絶えれば航法確立はありません。
 丹後半島への旅も絶対否定はしませんが、早晩、徒死でしょう。家長が旅で死ねば家族は餓死し船主は破産します。古代人も命は惜しかったのです。
 氏が一顧だにしない九州狗邪往復は、目視可能な対岸との渡海往来で手軽で確実であり、滅多に難破しません。快適で楽な経路が、健全で自然です。
 中国地方北岸の沖合を、寄港しながら、北九州、そして、壱岐、対馬、狗邪に至る交易は「あり得た」ろうが、交易の要諦は、仕入れした物を手早く、仕入れより高く売ることであり、産地は、買い叩かれる定めなのです。
 壱岐は、一大國として、海上交易の中心でしたが、半島交易成長で対馬に権益を奪われたと見えます。対馬は、狗邪に倭館倉庫と船溜まりを有し、飛び地の周辺農地で食料と水を得た倭地としたのは、自然の成り行きです。

*迷走の果て、続く瞑想
交易路[翡翠の道][鉄の道](『日本史サイエンス〈弐〉』より
 つまり、対馬海流は古代の航海にとって、……利用価値の高い海流だったと思われ……邪馬台国……を考えるうえでも、……重要……と思うのです。

 「非常に利用価値の高い海流」とは、意味不明です。「この海流が果たしていた役割はかなり大きかった」と言っても、何が「かなり」なのか。毎度、非科学的で不明史料な言い回しでのらくらしていて、回答のしようがありません。凡人に理解できる平易・明解な言葉で書いて欲しいものです。
 海流は、両方向の下り坂ではありませんから、順行時に尻押しされても、遡行時に莫大な労力を伴うのが自然の理、ただ乗りはできないのです。皇帝は、往還して、ようやく総評できるのです。

◯まとめ~率直な苦言
 粗製される今どきの「新書」ならともかく、伝統と権威のある老舗、講談社ブルーブックスに求められる基準は、相応に高いのです。
 折角のご紹介ですが、本稿で呈示されたホラ話は、仮説論証を必須とする「サイエンス」原則に背いていて、氏の新奇な「視点」による夢想談に過ぎず、編集段階で是正されて然るべきです。

 因みに、純粋史学の「視点」からすると、所詮、「邪馬臺国」は、范曄「後漢書」東夷列伝倭条独自の名付けであり、その原史料で、正体が不明なのに、肝心の史料を放念して、トンデモ本ばりに憶測を重ねて、大倭王居処の所在地を推定するのは、率直なところ時間の無駄です。
 この難詰は、つけるクスリがない類いのものなので、言いっぱなしの捨て台詞にしておきます。
 
                                以上

2022年6月25日 (土)

新・私の本棚 長野 正孝 【古代史の謎は「海路」/「鉄」で解ける】総括

 二書通観~乱文乱論の饗宴               2022/06/25

◯はじめに~最初の躓き石
 長野氏には俗説に右顧左眄しない卓見も散見されるが、尊大断言しても「数打ちゃ当たる」では、信用は戻らない。要は、氏の史料考察は、地べたで史料を嘗めているものには、「飛行機雲」である。
 私見では、二千年前の文書を読解できないのは、言葉が通じず世界像が霞んでいるからで、数百㍍先の光景と同様、想像するのでなく、現物、現場に肉薄して、健全な理性で理解するしかない。それが、Historical Scienceの宿命であると信ずる。

*幻の学芸員発言
 「鉄」132ページの五.六の論理は氏自身の調査でなく、『別人が三丸「学芸員」から得た伝聞で、本来証拠にならない』。「学芸員」ご当人には迷惑だろうが、氏が論拠としたのでやり玉に上げた。ご不満は長野氏にお願いしたい。
 長野氏の古代史知識で古代文書が理解できないのはしかたないが、まずは、専門家たるべき「学芸員」の考え違いは、もったいないと言わざるを得ない。
 一方、氏は「学芸員 」の発言を「誰か」(人名は書かれているが)人づてに聞いて、つまり、伝聞の風聞で納得しているのだが、それでは、伝えた「誰か」の意見に基づいて判断しているのであり、史学の原則に外れた邪道と言わざるを得ない。いわば、上空から見おろして、低空の報告者の意見を、途中の中継者の意見として聞いているのだが、それぞれ、空中を気ままに浮遊しているだけで、肝心の地上の実相は、まるで伝わっていないのである。
 これは、個別の意見がどうこう言う問題ではない。史実認識の問題でも無い。氏は、「空論」を弄んでいるだけなのに、もっともらしく学問めかして売り出して、読者の資金を貪っているのである。

 話を元に戻すと、「学芸員」は、当該遺跡に関して、当然、世界最高の学識を有するが、古文書門外漢、素人である。当該遺跡に存在しない古文書に関して、「わからない」と言わずに、錯誤を語るのは誤解拡大である。匿名だし、何しろ、あやふやな伝聞なので、ご当人に告発の手が及ぶことはないだろうが、何とか、再発防止して欲しいものである。

 正論に戻ると、古代中国で「生口」は「奴婢」と異なった環境・事物に使用され、どちらかというと、特殊な用語なので、一定の意味で使用されていない可能性が高い。一方、「奴隷」は、ありふれた、日常的な事柄であり、これらを同列に扱うのは、無学・無謀である。
 言葉が違うのは意味が違うからで、断じて同義語ではない。不勉強そのものである。

*誤謬の発生~「奴隷」史観の病根
 長野氏の誤謬は、「生口」、「奴婢」なる古代語を、現代語めいた「奴隷」と同義と断言していることである。不勉強というしかない。
 当方は素人で一般論しか申し上げられないが、ここで言う「奴隷」は、恐らく、文明開化以後に、本来、中東以西の世界の社会制度で馴染まれていた到来「外来語」が、古代中国の「奴隷」を上塗りしたと見え、これでは、到底、三世紀倭人伝の社会制度に適用できないと見る。良く言う、時代錯誤である。
 三世紀依然から中国に奴隷制度は普通であったが、倭人伝では、「生口」と「奴婢」は、「奴隷」と同義語扱いはされていない。長野氏は、忌避しているようだが、古代史解釈で不可欠な正史解釈には、精緻な論理が求められる。

 そもそも、「奴婢」は、身分の低い雑用係であって、「奴隷」ではないのが常識と思われる。倭人伝が説明しないのは、当時通り相場だったからに違いない。
 氏が一顧だにしない、同時代、ないしは、前代の史書によれば、「奴」「婢」は、それぞれ、男女使用人と見えるが、ここでは、それ以上追求しない。

 是正しなければならないのは、氏の思考を曇らせる「奴隷」史観であるが、その根底は、史実追求の際に、二千年以前の史実に直裁に迫るのでなく、遥か後世から「高みの見物」、「飛行機雲」の時代錯誤を決め込んだことにある。

*最終判断~治癒されない誤謬
 長野氏の誤解の起源は、歴史科学の原則を無視し我流を進むことにある。
 但し、「学芸員」事件でわかるように、そのような誤解は、多くの論者、諸兄姉に共有され、それぞれ確信して論じているから、素人の差し出口で動じまい。

*率直な結論
 長野氏が、かくのごとく不適正な世界観、歴史観を抱いていることは、氏の著作の批判で明らかと思うが、氏自身は、その史観を正当と見て、現代所感を貫くので、氏の著作は、首尾一貫して誤謬の森を進み、所論は根拠を持てず、必然的に信用できないことになる。
 これが最終判断である。

 もちろん、各読者諸兄姉が、氏の著書を全て確認した上で、氏の所論を全面的に支持するとしても、それは、本論と別の話である。

                                                      以上

2022年6月23日 (木)

今日の躓き石 MLBのなれ合い体質反映か NHKBS1の「友好的」発言

                     2022/06/23

 本日の題材は、NHK BS1のメジャーリーグ中継である。現地からの勝利投手インタビューで、「友好的」という発言が、NHK側からあって、ぎょっとした。

 周知のように、先日、本日の勝利投手が、9回に、相手チーム投手のノーヒットノーランを、偉業達成目前にぶち壊した打撃に対して、ネット上で、「思いやりに欠けた、非友好的な行為」と非難が出ていたのと関連しているように聞こえたのである。

 言うまでもなく、私情で手心を加えて、プレーに最善を尽くさないのは、「八百長」につながる敗退行為として厳重に禁止されているし、そのようななれ合いを、スポーツマンとして、プロフェッショナルとして、最も恥ずべき行為として排斥することは、メジャーリーグを含めたプロ競技の接待的、いや絶対的な規範である。(カナ入力誤変換ごめん)
 それが、現地メディアの一部では無視されているのかと、古手のファンは、しろうと、野次馬の無責任な無神経さを歎いているのである。

 まさか、正しかるべき公共放送が、忌まわしい「敗退主義」風潮に汚染されているとは思わなかった。

 今回のような失言は、希に、MLBだけでなく、NPB中継放送の一部解説者の口から漏れることはあるが、NHKの専門職(現地プロデューサーか)から、そのような途方も無い失言が出るとは、まことに情けないと思う。当人は、気軽に言い飛ばしているつもりでも、みんな、ちゃんと聞き取っているのである。

以上

追記:同日夜の「ワース?XMLB」で、キャスターが「友好的」と怒鳴るのを聞いて、げっそりしたのである。
 キャスターは、NHKの言葉を守る「規律」はないのか、NHK自体に「規律」がないのか、いずれにしても、「受信料返せ」である。

 大体、番組タイトルにけったいな名付けをしているのに、視聴者が聞き取れないように末尾を端折る/呑み込む「芸風」にも疑問がある。普通の視聴者にとっては、「ワース?」の有力候補は、「ワースト」である。そうでなく、不出来で耳慣れない「ワースポ」を押しつけたいなら、ちゃんと「ポ」が聞き取れるように発音すべきである。発音の明瞭さは、しゃべくり一本で喰っていくこの稼業の基礎の基礎ではないのだろうか。
 いや、キャスターは、アナウンサーでないので、発音不明瞭でもやっていけるのだろうか。「友好的」事件も、このあたりの子供じみた態度の一環かと思うのである。

 NHKは、正しい言葉の護り人であって欲しいと願って、受信料を払っているのである。

以上

2022年6月21日 (火)

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  1/11 改訂版

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作   2017/12/15 追記公開 2020/07/09 2022/06/21

*はじめに
 前書で、先頭からのダメ出しで力尽きたので、今回は冒頭と末尾で、集中的にダメ出しすることにしました。先ずは、冒頭部分で、著者の書きぶりと言葉遣いになじもうとしましたが、期待を裏切られて困りました。

*飛躍した進行
 通常、まずは、不吉にもタイトルで提示された『前方後円墳や「倭国大乱」』の解釈に触れて、読者自身の言葉遣いや歴史観になじませるものですが、それは端折られ、もやの中を引き回されている感じです。

 ついでながら、「実像」は誰かが見た外面であり、特に珍重すべきものでないと思います。「実像」を検証しようにも、墳墓の外観は見ることができても抽象概念である「倭国大乱」の外観は、「実像」も「虚像」も、どのようにしたら見ることができるのか不明です。空疎な大言壮語は控えたいものです。

*考古学の悪用
 また、これも珍しくありませんが、考古学上の編年を、自己流で西暦年代に結びつけ、以後、暦年で書くということのようです。それは、著者の都合であって学界の本意ではないのですが、考古学成果は、一部を援用するだけで、背景の考察不足にお構いなしです。かくして、不確定な根拠を読者に知らせずして、延々と独演会が展開されます。
 全書の方針を明示しているという点ではいさぎよいかも知れありませんが、自分の所見を押しつけると宣言されては、読者も困惑するのです。

*行方不明
 漢武帝の朝鮮侵攻談義で、自身の言葉で事態を語りつつ、司馬遷「史記」を援用しますが、語られている根拠が不明です。前提として、「西方の匈奴」と言いきっていますが、普通は北方です。九十度方位感覚がずれている乱文です。

*帆船綺譚
 西域から匈奴排除の結果、西方交易が通じ、帆船技術が入ったと言うために方位を曲げたようです。実際は、どこからの新技術なのか。通常、帆船は南海起源と見えますが、なぜ、頭から否定するのか不明です。また、中原には、海がなく、河水の水運は頻発する氾濫の影響で限られていた時代に、なぜ、帆船技術が珍重されたか、意図不明です。「南船北馬」と言い慣わされているように、帆船が必要なのは、長江、漢水の話です。

  また、中国文明が、西域からの文物の恩恵を受けていたのは、商(殷)代の戦車車輪車幅の技術導入の例もあって、別に目新しいものではありません。ついでに言うと、漢代の匈奴の猛威は、結構新しい現象で、秦代以前、北方は、後に月氏と呼ばれた部族が栄えていて、匈奴は、下っ端にすぎなかったのです。

 これほど異質な技術が、帆船を必要としない漢都長安に届いて、それが、瞬く間に伝達し、山東に帆船造船が起こったと言うようですが、せいぜい数名と思われる異国の技術者が多少の資料を持参したとは言え、言葉も働きぶりも異なる異境の地に、斬新な造船業を確立するのに、どれほどの期間がかかるのか、考慮していないようです。漢都長安は、海を遠く離れた陸封の池で、海船など想像もしたことのない人々の世界なのです。
 そして、山東半島は、春秋戦国の大国齊の故地であり、経済力から見て、齊の勢力が、自力で西域技術を導入したと見る方が、随分合理的です。

 正直、帆船の造船技術が導入され、最初の一隻が進水するのに十五年、船台を並べて複数の帆船を並行して造船できるようになるのに、更に十五年と見て、最初の一隻で操船を修行したとしても、大挙水軍を進められるのには、大概三十年はかかると見られるのです。途中で、技術者も、治世者も代替わりしていることでしょう。そして、戦国時代、南海で帆船は、既に繁栄していたと見えるのです。そんな悠長なことではなく、とうに、定着していた技術と見えるのです。

 大規模な技術の移管/習得には、大変な時間/年数がかかるので、ずいぶん太古から、帆船は到来していたはずです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける  2/11 改訂版

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作   2017/12/15 追記公開 2020/07/09 2022/06/21

*時間要素
 時間要素は、当方の推定ですが複雑高度な新技術の定着には、人の育成が必須なので大変な人数、年数がかかると見ます。造船業確立は、多様な材料をどこに求めるかに始まり安全航行までの技術を全て確立し、初めて、帆船艦隊で兵士、馬匹、物資を運搬できるのです。
 端的に言って、氏の提言は、不出来な画餅と思います。そのような画期的事項が、何の記録も遺さずに消え失せるものではないのです。

*武帝の心奥
 この部分で驚くのは、『「武帝は鉄を得るため侵攻した」と司馬遷は書いていない』なる発言です。司馬遷は知っていたが書かなかったとは、とんでもない言いがかりです。書いたことを論評されるのならともかく、武帝の実力行使で、意に反して削除された「武帝紀」を、サカナにこき下ろされては、たまったものではないのです。

*異例の人物描写
 事のついでに、著者の渾身の武帝像が描かれます。武帝は、前に机を置いて、はかりごとを巡らしたと言いますが、戦略参謀はいなかったのでしょうか。架空人格「武帝」の意見や欲望が描かれますが、根拠史料はあるのでしょうか。
 武帝が、「勝っても領土も資源も得られない」匈奴との対決で、北方から西北方に広がる長大な戦線に大兵力と巨額の財を投じたことや匈奴に勝つために西方に駿馬を求めたことは、正史で確認できますが、ここで著者の説くような趣旨で朝鮮侵攻を画策・実行したことは、示唆すらないように思います。まことに乱文の極みです。
 ちなみに、武帝以前、国家は、全国からの税収が巨額で、税として納入された大量の銅銭の保管に苦労していたほどですが、武帝知性の途中でも税収が枯渇し、本来、皇帝の私財であった塩鉄専売の国庫移管などの財政改革を余儀なくされたのです。つまり、匈奴討伐のかなりの部分は、武帝の私財で賄われたと見えます。

*鉄資源の幻想
 著者は、半島鉄資源を絶大と武帝が判断したと見ているようですが、朝鮮産鉄は、小規模にすぎず、武帝の関心外だったのです。実際、朝鮮各地に郡を置いたとの記事を真に受けるとして、各郡は、所領から必要な税収を得ることができず、太守の高額の粟(給与)を賄うのに苦しみ、まして、軍兵を維持することもできず、早々に撤収したのです。
 はるか後世の魏志韓伝は、当時、弁辰で「鉄が取れたので、周辺の民族集団がやって来て、鉄を持ち帰っていた。楽浪、帯方郡にも、鉄は届けられていた」と簡単に書くだけで、そのような物々しい状態は一切窺うことができないのです。つまり、帯方郡の財政を支えるのに、遥かに及ばないものだったの、郡は手を出さなかったのです。
 帯方郡は、当然の貢納として産鉄を受け取っていただけであり、郡の鉱山として管理はしていても、所詮は小事として、各集団の取り分は、放置していたのです。早い話が、所定の産鉄を送り届けていれば、お下がりで、鉄を持ち帰るのは、黙認していたのです。規制しようと思えば、軍兵と官吏を常駐させる必要があり、それは、とても賄いきれなかったのです。言うまでもないのですが、郡は、魏制で銅銭を流通していたので、鉄材を通貨扱いする必要はなかったのです。

*脳内世界の成り行き
 以上、著者の脳内には、物々しい歴史ドラマが創作され、独自の世界が、堅固に構築され、脳内では脳内なりに、主観的に辻褄が合っているのでしょうが、史料にその根拠を求めても無駄でしょう。
 かくて、読者は、著者の口説に翻弄されて、話の筋道を捉えられないまま、物語終章に倒れ込むのです。

                               未完

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*夢幻の余言
 事のついでに、「この戦争以降、中国は周辺諸国にとって常に侵略を行う恐ろしい国となり、それは現在のウイグルや南沙諸島でも続いています。」と書き飛ばしていますが、本書の論考と関係ないゴミで乱文です。中国にしたら、「日本」から言われたくないことでしょう。少なくとも、中国の大局観からすると、それぞれ、実績のある所領の確保/回復であり、他国を侵略攻撃しているものではいと言うはずです。それが正しいかどうかと、押し問答するのは、圏外としたいものです。

 以来二千年間の「中国」は、時に統一王朝に支配され、時に、諸国分立し、時には、異民族が異なった世界観を持ち込み、一息に語れるものでなく、その時々の支配者がどう考えたか、著者の知ったことではないと思うのです。
 おそらく、巨大な超時代知性体と化した著者の脳内には、「中国」という一つの人格を持った「鬼」が棲息し、「恐ろしい」怪物と見えているのでしょうが、それは、読者の知ったことではないのです。

 この手のゴミ見解は、著者だけでなく、多くの「古代史」論者に共通の宿痾ですが、くれぐれも、世間に蔓延させないで欲しいものです。

*無法な紹介
 最後に、とどめを刺すように、「東アジアの古代鉄研究の第一人者である愛媛大学」の研究者が、肩書きも、学位も、参照先も示さないまま引き合いに出されていますが、これは、愛媛大学に対して非礼、非常識で、この部分の論考の締めとして無効です。とにかく、お粗末な乱文です。(注記はないし、巻末参照文献にも見当たらないように見えます)
 国立大学である愛媛大学に対して、「東アジアの古代鉄研究の第一人者」などと勝手に権威付けして、勝手に同意を求めていますが、そのような第一人者は、著者の幻想の産物です。

*陥穽連鎖
 以上のように、冒頭に近いこの部分に、著者の論考の問題点が軒並み露呈しています。これらは、躓き石などとしゃれのめせる程度ではなく、底なしの陥穽となっているようです。人によっては、取り返しの付かない、地雷並みの破壊力となるかも知れないのです。怖れるべきは、乱文です。

*一旦の結論
 本書は、新書であるからには、読者に罠を仕掛けるのではなく、地ならしした王道を用意して欲しいものです。
 特に、出版社で内容を吟味されて、信用のおけるはずの商用出版物に、史料に根拠のない憶測・所見が横行しているのは、独学の参考資料として、まことに剣呑です。

 このような多数の問題点を持つ書籍であることを知った上で、以下読み進むかどうかは、読者の自由です。ここに書いているから、正統な論考とは言い切れない、との理解と言うか覚悟が必要です。

                               未完

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*読み飛ばしの弁
 途中の膨大な論述は、ここまでの「味見」からして、大勢として信頼できないものと見られるし、一々批判しては、諸兄姉の読書の楽しみを盗むので、路なき地帯は端折って末尾に飛びます。

◯掉尾の観察
 ここからは、原文と当方の意見を並記するので、どこがどうだめと見られたか見て取って頂ければ幸いです。

 言うまでもないでしょうが、以下のダメ出しの視点に権威がある訳でないし、商用出版物を排斥する論議でもないので、軽いものと考えていただければ幸いです。要は、当方のひけらかしのダシにしているのです。

八•九「邪馬臺国論争」――もう神学論争はやめよう
 小見出しが、意味不明です。「神学論争」の比喩の典拠が何であって、どうして、真剣な史学「論争」が、そこまで揶揄されるのか解き明かされないのです。これは、文章作法のイロハを知らない、ド素人の書き方です。乱文は、文章を書いて金を獲るものの業ではないのです。

「邪馬臺国はどこか?」。『日本書紀』には、卑弥呼を神功皇后に比定する記述が存在します。『日本書紀』の神功皇后摂政三九年の条に「是年、魏志にいわく、明帝の景初二年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむ……」とあります。

 衆知の書紀記事を「誤引用」するのはどういう意味か、理解困難です。信じられないという言葉通りです。書紀の記事は、明帝景初三年と書いていて、それは、中国史書の原則を外れているので、原史料「倭人伝」の正確な引用ではない。と言うのが、学術的な判定なのです。著者は、それを知らないとしても、書紀を確認すれば、容易にわかることです。

 私見ですが、倭国遣使の帯方郡参上が、景初二年六月では、畿内説の根底が崩れるので、この不確かな後世資料を根拠に、倭人伝原記事は景初三年であった証拠と言い立てているのです。
 いわば命がけの必争論点で誤引用とは、著者の権威も何もかも喪失です。

*盗まれた批判
 引き続く書紀記事の背景として、景初三年元旦に、皇帝曹叡が夭逝して明帝と諡され、少帝曹芳(斉王)が当日直ちに即位し、但し、改元はその翌年年頭であり、景初四年となるはずだった年が、新帝の正始元年となったのです。そのため、景初三年は、皇帝の冠の付けられないただの「景初三年」と表記されるのです。

 よって、「明帝景初三年」は、先帝に対しても新帝に対しても、不敬極まりないので、史官は、絶対書かないし、従って、陳寿も、三国志魏書に、絶対に書かないのです。従って、魏志引用で「明帝景初三年」とは、空耳ならぬ錯視です。
 つまり、書紀が「魏志云」と書いても、「明帝景初三年」記事は、疑問の余地なく魏志の正当な引用でなくて今日風フェイク記事であり、史料としての書紀不信の否定しがたい根拠です。
 それが、氏によって、「明帝景初二年」と改訂/改竄されていては、ダメ出しができず、不満たらたらなのです。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
 この文章は明らかにトリックです。ここでわざわざ卑弥呼と書かないで「倭の女王」とし、「卑弥呼は神功皇后である」と宣言しています。
 いや、ここで壹與遣使も「倭の女王」なので、単純に女王「宣言」できず、仕方なく改竄演出したのでしょう。書紀編纂者の苦肉策を察すべきです。
 「この文章」=「トリック」とは、時代・概念錯誤のダブルトリックです。カタカナ言葉では「フェイク」ですが、時代錯誤で意味の定着していないカタカナ語は、真剣な議論には避けたいものです。総じて乱文です。

 舎人親王の邪馬臺国をヤマトにしたいという意図が見え透いています。
 書いたご当人には、目前に赤々と輝くイメージが見え透いているとしても、読者には何のことか理解できないのです。この語順では、舎人親王が邪馬臺国の男王と取れます。明解に書く努力は怠るべきではないのです。また、一個人が、実在しなかった「邪馬臺国」を湯的に変身させるなど、とても、できないでしょう。かくなくとも、後世人が見透かせる「意図」とは、不可解です。

 卑弥呼は日本海ならば航海安全のシャーマン、ヤマトならば鏡の祈禱師でしょう。ですが、ヤマトの鏡の時代は一〇〇年ほどでブームは終わっています。
 古代に「ブーム」とは、時代錯誤で場違いで滑稽です。ヤマト(ここまでは、維持されている)の鏡の時代が、いつまでなのか、なぜ年代固定できるのか不明です。それにしても、卑弥呼=日本海とは、とんでもない乱文です。卑弥呼が化体すべき聖職も、根拠不明の妄想図と見えます。

 そうしたことから見ても卑弥呼は、西日本の海洋都市国家の共通の利益である「鉄の安全輸送」に貢献した巫女(シャーマン)であると考えています。
 「そうしたこと」とは、対象不明であり、安易な括りです。「西日本の海洋都市国家の共通の利益である「鉄の安全輸送」に貢献」とは、ひと息で言えない巨大概念ですが、どうしてそう言わないと気が済まないのでしょうか。

 巫女(シャーマン)と、ここで言い換えたのは文意錯乱のもとで、不適切でしょう。卑弥呼は、「シャーマン」など知らなかったから、勝手な枠はめで迷惑だし、輸送安全に「貢献」とは、供物を差し出した意味か、とにかく用語が混乱しています。先ほど、シャーマン=祈禱師と明記しているのを、コトンと失念されたようです。

 天気と航海安全の祈禱、働いている場所は渡海すべき対馬海峡付近の日本海だったでしょう。その時代、航海安全の祈禱は国家事業です。
 卑弥呼は、現在形で、日本海の海の中で働く巫女なのでしょうか。(玄界灘や対馬海峡は、日本海と言い切れないのですが、付近はどのあたりまでか)それにしても、「祈禱、働いている」場所とは、意味の錯乱です。

 毎度のダメ出しですが、当時、「国家」はなかったのです。「渡海すべき」と言い切っていますが、なぜ、卑弥呼が渡海しなければならないのか不審です。総じて、結論部にしては、大いに乱文です。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
卑弥呼の時代の倭国の祈禱の広がりは、卜骨遺構、港湾遺跡を繫げることで説明できます。
 一人芝居の自己陶酔でなく、素人にも明快な説明をいただきたいのです。このあたりの主張を裏付け、時代を特定でき、明確な文字資料は皆無です。

朝鮮半島の伽耶、釜山から壱岐の原の辻遺跡、妻木晩田あたりまで卜骨があります。
 文型から、壱岐の原の妻木晩田と読めますが、意味不明、初耳です。妻木晩田「遺跡」でないのはなぜか。妻木晩田遺跡は米子であり壱岐でないのです。「卜骨がある」とは、出土の意味か。意図不明です。そりゃの遺物として出土したのは事実でしょうが。

丹後あたりまでの日本海沿岸の小さな都市国家の船が集まり、彼女の采配で対馬海峡を団体で安全航海をおこない、鉄を得たと考えます。
 なぜ、団体航海したのか不思議です。卑弥呼が、どうやって広範囲に采配を揮えたのか、物理的にも精神的にも不審です。結局、安全保証などないのです。
 そして、衆知の如く、對海~狗邪の渡海は、当時の船と漕ぎ手では、生やさしいものではないです。
 せめて、各国が集まりやすい壱岐の島で集合したとは言えないのでしょうか。

まず、卑弥呼の倭国は九州から日本海です。決して大和ではないのです。
 九州全島と日本海全体とは、法外な大国です。そして、なぜか大和にこだわるのが、不審です。

私がそう考える理由をさらに三つ述べます。第一に当時のアジアの世界情勢や『倭人伝』の内容を考えても、いわゆる「国家」はありませんでした。
 「アジア」と言って「東アジア」と言わない趣旨が不明ですですが、「東アジア」すら時代錯誤です。単に、
 ここに来て、「いわゆる「国家」」も意味不明で誤読と思うだけです。集落の集合は「国家」といえないのです。ムラと国家の違いは何か、都市国家、集落は国家か。「大きな国」の要件は何か。趣旨不明です。

点である弥生集落が全国に拡がっていますが、朝貢している卑弥呼の国は一握りに過ぎないのです。
国家を代表しているともいえないのです。
 「卑弥呼の国」は、卑弥呼の私物として、倭人伝の三十国でしょうか。「一握り」は五国程度でしょうか、国は国連のように数で数えて、大小は考慮しないのでしょうか。「点である」集落とは、何戸までを指して言うのでしょうか。「全国」は、どんな範囲なのでしょうか。
 自説の論拠展開で、否定表現連発は、焦点が定まらず、論考として大変、大変、大変拙劣です

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
陳寿が間違えて卑弥呼を女王と呼称したのです。松本清張もそう語っています。
 陳寿が何をどう間違えたのか不明です。性別の誤認なのでしょうか。
 陳寿は、三国志全体の編者であり、倭人伝だけを著述したわけではないのです。清張氏はどう語ったのか趣旨不明ですが、ここでの引き合いは、当人に不本意でしょう。気の毒なことです。

前作で「陳寿が、宗教家か対馬海峡横断の航海安全を祈禱する巫女を、倭国の『女王』と書いてしまった」と書いたところ、「卑弥呼を冒瀆している」という厳しい非難を受けた。
 氏の『前著』で、陳寿の誤解を受け売りした氏の形容が非難されたとしたら、非難者は単に考えが足りないのです。厳しい非難は、貧しい品性を露呈しています。これは、匿名とは言え、いきなり呼び捨てで公開処刑です。

この人は卑弥呼が祭祀を今も守っているというのでしょうか。天照大神などと同一視しているのでしょうか?歴史と神話は分けて考える必要があります。
 反論は的外れです。卑弥呼は故人であり、現に「祭祀を今も守」る訳はないのです。
 古代人卑弥呼は、鬼道に事えた実在の普通人で、神などではないから、「冒瀆」は的外れと言うべきでしょう。非難者が、史書の意味もわからず、自己の信奉する神に対する冒瀆と判断したら、当人の勝手でありとがめ立てはできないのですが、それがもとに、同時多発テロなど起こされたら、善良な研究者はたまらないと思うのです。と言うことで、ほぼ否定表現づくしです。

第二の理由も、陳寿の間違いに関連します。前作でも触れたことで、『魏志』「倭人伝」に「陸行一月、水行十日」とあるが、九州から近畿まで、当時は歩いては行ける状態ではないのです。
 ここは、「第二に」ではないのでしょうか。(児戯です)
 陳寿の間違いと言いますが、しは、倭人伝道里/行程記事を、大きく誤解しています。同じ穴の狢と兄弟げんかと見えます。
⑴陳寿は、倭人伝を著述したのではなく、現地検証したのでもないのです。
⑵倭人伝の誤記か、著者の誤解か、趣旨不明です。
⑶倭人伝を正確に引用すると、「都(すべて)水行一日陸行一月」であり、所要期間の対象は、帯方郡以来の全日数と自然に読むべきです。
 「九州から近畿まで」歩いては行けないと断言でも、空は飛べないので、寝泊まりして移動したでしょう。と言っても、当行程に賛同してはいないのですが。

山陽道は山ばかりの道なき森林地帯。
 三世紀に「山陽道」は時代錯誤です。一般論として、官道成立のはるか以前とは言え、尾根道か沢道は常にできます。「街道」は未確立としてもです。もちろん、三世紀とは言え、海岸沿いに平地は多々あるはずです。ついでに言うと、山陰道はどうだったか、中央構造線沿いの四国中央道は、どうだったか。要するに、氏は、何も知らないのです。
 それにしても、ここで体言止めとは、乱文です。短気は損気です。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
宿や馬を準備した駅制がないとそれだけの距離の旅はできないのです。
 全くお説の通り。滅多に聞けない賢察であり、絶賛です。と褒めましたが、それだけがどれだけなのか。宿舎なしに数日以上移動できないのは自明です。
 馬は、三世紀に輸送手段として普及していなかったようだし、どのみち蹄鉄(Horse shoe)なしの裸足では、駄馬は荷駄を背負って移動できないし、乗り馬も長旅できないから、馬がいてもいなくても大勢に影響ないのです。それとも、江戸時代のように、駅ごとに、馬に草鞋を履かせていたというのでしょうか。

しかし、山陰道は、沿岸を船で移動するので「水行一月、陸行十日」です。
 根拠不明の妄想と見えます。なぜ、山陰側は沿岸(すなわち陸上部)の道を行けるのに「山陽道」が山中なのは、なぜか。後世、街道ができたのではないのか。何が楽しくて、わざわざ道なき道を行くのか。不可解です。もちろん、山陰道と言っておいて、船に頼るのは、とんでもない勘違いでしょう。
 と言うものの、山陰沿岸の山陰道が、滑らかで通行容易だったはずはないのです。

間違いにすれば、すべて、条件が違ってくる。
 そりゃそうです。これまでの「神学論争」の大半は、これです。誰が何を根拠に間違いというのかです。 自分の意見に合わせて、史料を撓めて、望みの形にするのは、神学論争でもままあるようです。

なお、本書で縷々説明したような理由で卑弥呼の特使難升米は当時の瀬戸内海は通れないし、通っていません。
 論拠の部分を飛ばして読んでいるのは申し訳けありませんが、お言葉通り説明されているとしても、「通れなければ通りようがないから通らない」のは自明です。行数稼ぎの冗語は、ご勘弁いただきたいのです。一貫航行できなかったとしてもそれが全てではないはずです。

つまり、邪馬臺国が近畿に存在すること自体が物理的に無理(不可能)なのです。

 「自体」とは、言っている意味がわからないのです。冗語ですか。
 「物理的に無理」と言いますが、物理法則に違反していない限り、無理に見えても、成せば為るのではないでしょうか。しばしば、「無理」を通して「道理」を克服するのが歴史ではないでしょうか。と言うようなつまらない反論が出ないように、普通の日本語で、「女王国は、近畿/畿内に存在した可能性はない。」とでも言ったら良いのでは無いでしょうか。要するに、北九州の伊都国から、畿内まで、二十日どころか、一ヵ月かけても、到達する手段がないのです。

 ある集団の存在というか生存は、自然の摂理に逆らっても、相当の期間、持続できるのです。つまり、この部分は「負け犬の遠吠え」と見られるだけです。

 と言うことで、この部分も、根拠不明の否定表現づくしです。

                               未完

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◯掉尾の観察 承前
三つ目は、邪馬臺国近畿説の有力な証拠とされる箸墓古墳がある大和古墳群の公設市場に、当時鉄は届いていません。
 この構文では、第三にでしょう。(児戯です)「邪馬臺国近畿説の有力な証拠」とは誰の視点か不明です。近畿説論者には迷惑かも知れませんが、肝心の古墳の学術調査が不備で憶測なので、有力な証拠は、皮肉でしょうか。

 因みに、大和(本書は、ヤマトのはず)古墳群の「公設市場」とは、用語の意味不明、かつ重層した時代錯誤で、困ったものです。古墳のてっぺんに、近畿圏住民には懐かしい、生鮮食品の鮮魚や野菜を近隣住民に売りさばく、賑やかな焼け跡商店街、きれいに言うと、「ストリートショッピングモール」があったのでしょうか。

 考古学の正統的な定見では、三世紀前半当時、先駆とされた箸墓は別儀として、後世のヤマト古墳群は、影も形も無かったはずです。
 「当時届いていない」と断言しても、論証は不可能でしょう。届いたら記録が残るとしても、絶対ではないのです。地上で供用されていたら、すぐさま埋蔵されないのは常識です。

そして、ここ纏向の人々はこの時代、海洋民族の倭人ではなく渡来系の人々で、三世紀の大和と吉備を結ぶ航路も渡来系の人々が運営する航路でした。
 「この時代」の「纏向の人々」の由来を言いますが、根拠不明。いつ、視点がヤマト東端の纏向に移ったのか、急変に眩暈がします。とは言え、山中の『「大和」と「吉備」を結ぶ航路』など、実現不可能な航路は運営しようがないのは、明らかです。

『前方後円墳の世界』で広瀬和雄氏も、「卑弥呼の墓に比定できる条件は考古学的には整っていない」という。
 広瀬氏の発言は、「何を」を欠いていて失礼な引用です。同様に「考古学的に整っていない」は乱文ですが、明らかに不正確な引用なので、文責不明です。「広瀬和雄氏」には失礼でしょうが、著書が適切に参照されていないと見え、学問的には、呼び捨て同然の扱いと見えます。

 いずれにしろ、古代史学の常識、鉄則として、年代明確な文献資料と年代明記のない考古学資料の時代合わせは土台無理と思います。「無理」で「道理」を曲げてはならないという事ではないでしょうか。
 きれいに言えば、それは、永遠の課題(不可能な使命)と思います。

 そして、著者はどちらの視点なのか不明です。

                                未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける 10/11 改訂版

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作   2017/12/15 追記公開 2020/07/09 2022/06/21

◯掉尾の観察 承前
そして、海上輸送を考えても、前作で述べたが大和川を下って亀の瀬で船を乗り換え、古市あたりで外洋船に乗り換えるというのは難があり、とても洛陽に船団を送れるレベルではなかったと考えます。
 これは、広瀬氏の意見の引用の続きなのでしょうか。

 「古市あたり」は古墳群界隈の「古市」として、外洋船が浅いはずの大和川を遡上できたとは思えないのです。定説では、柏原辺りに船着き場があり、船荷の積み替えをしていたと確認されていますが、ここで外洋船に乗り換えるのが、洛陽まで一貫航行の必須条件とは、無理な思い込みです。玄界灘や狗邪で乗り換えれば良いのです。大抵は、あり合わせの航路を乗り繋いでいたはずです。

*もったいない蛇足
日本の古代史研究は科学的でないのです。中国や韓国の歴史認識が正しいものとは到底言えありませんが、日本もおかしいのです。国際的にも歴史の客観性がより求められよう。
 貴重な託宣ですがわかっている人は、とうの昔からわかっているし、わかっていない人は聞き流すだけです。わかっていても採用できない人は、無視するので、ここで言ってもしょうがないので、字数、行数の無駄です。
 ちなみに、国内では、史学は、文学部の管轄であり、安直に、自然科学の手法は適用できないことが認識されています。中国や韓国の歴史認識を一刀両断した後、「日本もおかしい」とは、ずっこけます。卑俗な突っ込みで言えば、「おかしけりゃ笑え」です。大事なところですから、「日本の歴史認識も正しいものと言えない。」と字数を費やすべきです。それにしても、「歴史認識」と言い捨てにせず、具体的に述べなければ、誰一人貴見に同意も反対もできないのです。
 いやはや、短気は損気、もったいない話です。そして、そのような壮大な断言が、本書が志した学問的な論証とどう関わるのか、不思議です。

五•五で前述した三島規裕氏は「今、全国の神社の大部分は過疎化の中で浮沈の瀬戸際にあります。今、何とかしないと神々の世界は大変になる。それには古き日本の神社に存在するコミュニティを救うことが活性化につながる」と語った。
私は、そのためには、文化庁や県がしっかりとした歴史観を持ち、中央史観の「ヤマトの古代史の収奪」という偏った現状を見直すとともに、国指定、県指定の文化財をあり方を再検討し、地方の歴史に光を当て予算を配分することが焦眉の急と考えます。古代の遺産が残る地方の神社、寺社仏閣で光るモノが見つかれば、地域のコミュニティの崩壊を食い止めるだけでなく、良い環境ができ、やがては観光振興にも役立つし、地元の日本型の伝統産業を支えることにもなろう。
 ご立派な大演説ですが、意気込みはともかく、言葉がよくわからないし、だからどうした、というのが典型的な受け止めではないでしょうか。
 国の統一性を重視すれば、「中央史観」の維持が至当であり、もちろん、信奉者は、自身の諸説を偏った史観、邪道とは、全然思っていないはずです。国を担う重責を負う官僚に対して、ここで著者の述べ立てる意見に説得力はないのです。相手を見て議論を組み立てるべきです。

 「焦眉の急」は、伝統的に切迫した危機を言うのですが、実際、焚火に近づいて、目に見えない高温の外炎で眉毛を焦がすのは珍しくないのですが、別にやけどするわけでなく、もちろん、命に別状はないのです。古めかしい例え話は、当世人に理解されない上に、的外れになっていては、徒労です。

                                未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「鉄」で解ける 11/11 改訂版

 『前方後円墳や「倭国大乱」の実像』 PHP新書 2015/10/30
私の見立て ★★☆☆☆ 傷だらけの野心作   2017/12/15 追記公開 2020/07/09 2022/06/21

◯もったいない蛇足 承前
 私見では、著者の言葉に倣うと、あちこちで「光るモノ」造作に励んでいると見えるのです。関係者全てが、「予算を配分」し続けて貰うために、つまり、生きるために、無理を承知で、自然に筆を「曲げて」いるのですから、口先できれい事を言っても、そのような事態は何一つ変わらないのです。

 つまり、これは、「歴史観」の問題ではないのです。関係官庁の官僚をはじめとして、関係者の家族や出入り業者も含めて、多くの人々の生活がかかっているのです。生存権は、奪ってはならないと思うのです。

 趣旨に共鳴して、手弁当のボランティアも多数いるはずであり、その志は、安易に誹れないのです。 

*説得の心構え
 当方の意見の蒸し返しになりますが、著者の新説に対して、意見の近い同志は好意的であっても、論敵は、はなから耳を貸さないので、支持者を増やしたかったら、まだ意見を固めていない人(無党派層)に理解、同意される言い方を工夫しなければならないのではないでしょうか。今のように、呪文を連ねたような乱文では、よほど寛容な人以外は、そもそも受け入れてくれないでしょう。

 理解、同意は、その場のウケでなく、心底考え方を併せてくれることを言うものです。

 手短に言うと、商業出版する著書は、観客と想定した読者に訴える場であって、仮想敵をなじったり揶揄したりしては、観客が興ざめしてぞろぞろと引いてしまいます。もったいない話です。
 一部にウケたとしても、本書のような粗雑な論拠提示と意見表明は、適正な批判を受ければ吹き飛んでしまい、後に残るのは著者に対する不信です。

◯最後に
 読み飛ばした中間部は、著者の渾身の労作と思いますが、冒頭と末尾を抜き読みして、著者の筆力が拙いもので不正確な点が多く、虚勢に終始していると見抜かれては、結局、敬遠されて、核心を読んでもらえないのです。
 著者の今後のために、是非とも、未熟な論議をむき出しにばらまくのを避けるように、自戒いただきたいものです。

*「鉄」の正体
 蛇足ですが、「鉄」と簡単に言っても、鋳鉄と鋼の「鉄」は別物であり、掲題は、やや無造作なので、早々に解題すべきでしょう。

*素人書評の弁
 蒸し返しになりますが、以上の批判記事は、論拠を明らかにするために、あえて自明の事情まで言い募ったものですが、何の権威にも基づかない私見であり、この私見は、著者を含めた論者の意見を排斥しようとしている排他的なものではないことを、ご了解頂きたいのです。

                                以上

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

◯はじめに
 以前、本書不買(買わず)判断の背景を三回にわけて書いたのです。
 要は、惹句の部分に、商品紹介として不出来な文句が並んでいたから、「これでは、とても売り物になりませんよ」と書いただけであり、新書編集部のずさんな仕事ぶりへの批判が、半ば以上と思います。

 以後二年半に、結構参照されたので、「買わず飛び込む」と言ってられず身銭を切って購入しました。旧記事抜きで書いて、時に重複、時に途切れますが、ご了解いただきたいのです。
 そして、まだ、諸兄姉に主旨が届いていないようなので、警鐘を鳴らす意味で三掲しました。(2022現在)

*言葉の時代錯誤
 まず、本項の批判の基準として明確にしたいのは、用字、用語のけじめの緩さ(あるように見えないが)です。

 用字、用語は、同時代を原則とし、同時代と現代で変化があったために誤解しやすい言葉は、初出時に注釈して、時代錯誤を避けるものです。
 近年、魏志倭人伝は、三世紀中国人が、同時代中国人のために書いたから、時代と目的を認識して解すべきとの趣旨の意見があり、当然至極とは言え、実に味わい深い至言です。正確に言うと、三世紀当時に「中国人」と言っても、何のことかわからないので、せめて「中国教養人」、つまり、豪族や政府高官、さらには、皇帝その人のように、深い知識と高い倫理観を、少なくとも、十分知っていた人のことなのです。
 一方、倭人伝論考で、カタカナ語や当代風の言葉の無造作な乱用は、読者の世界観を混乱させるので、「断固」避けるべきです。

 当時、適当な言葉がなかったのは、当時の人々の念頭にない、全く知られていない概念だったからであり、知られていない概念は、当時の人々の動機にも目標にもならないのです。
 時代錯誤の用語を使うのが、どうしても避けられない場合は、丁寧に説き起こして、言い換えを示すべきと考えます。とにかく、読者に冷水を浴びせるような不意打ち(サプライズ)は感心しません、

*「海路」はなかった
 いや、こんな話が出るのは、本書の表題で「海路」と打ち出しているからです。引用符入りですから現代語と見て取れというのは、読者に気の毒です。

 古代中国語に「海路」という言葉が無かったので、「中國哲學書電子化計劃」の全文検索で、魏晋朝まで「海路」は出て来ません。三国志の魏志「倭人伝」にも出て来ません。念押ししますが、当時「海路」地言う言葉が無かったのは、「海路」で示す事柄がなかったからです。

 「海路」があったとすると、それは、「路」と呼ぶ以上、官制の街道であり、あたかも、海中に道路を設えたように、経路、里数、所要日数が規定されます。所要日数は、国家規定文書通信の所要期間として規定されるので、保証するために、整備、補修の維持義務が課せられるのです。

 所定の宿泊地、宿場の整備も必須です。宿場は文書通信の要諦であり、維持義務が課せられます。道路維持は理解できても、海路維持の説明がないのが不思議ですが、ないものに説明はないのが当然です。

 と言うことで、本書筆者は、本書の商品価値の要であるタイトルの用語選定を誤っているのです。それは、単に字を間違えたのでなく、「海路」と言う概念の時代考証を間違えているので、まことに重大です。

 これに対して、古代に存在したと思われる「渡海」は、川を渡るように、海の向こう岸まで移動するということです。もっとも、中原世界は内陸なので「海」(塩水湖)はなく、まして、海中の山島もないということで、「渡海」自体は、出番がないのです。

 古来、中原の大河には橋が架かっていないので、街道に渡し舟は付きものですが、特に渡河何里、所要何日とは書かないものです。渡海も、普通は、道里、日数を書かないものです。
 また、日程を定めない海上移動は「浮海」と呼ばれます。

 いずれも「海路」の概念とは無縁です。
 賑々しく著書を公開するには、十分な下調べが不可欠です。そのような必須事項を、出版社が確認していないのも不審です。出版社編集部は、世間の信用とか、恥さらしとかを怖れていないのでしょうか。勿体ない話です。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

第一章 卑弥呼と海人の海は 九州それとも大和?
 この章題は不吉です。馴れ馴れしく問い掛けられても、当時、中国語に、「海路」もなければ「海人」も無いのです。当然、当時の東夷には、言葉がないので、何も無いのです。こうした言葉がない以上、当時、「海人」論は無かったのです。無神経な時代錯誤は、「断固」戒めるべきです。

 そして、これは、畿内説にとっては、重ねて不吉です。奈良盆地の大和に、海はないのです。ここで、畿内説論者は、本書をゴミ箱に放り込んでもおかしくないのです。

 ついでに言うと、九州は海中の島であり、大和は、巨大戦艦でなければ、内陸の世界です。どちらも、「海」などではありません。ご冗談でしょう。

一.一 私たちの先祖が暮らした古代の海
 冒頭の抱負として、魏志倭人伝解読を課題とし『三世紀の「魏志倭人伝」の倭国や魏の海に漕ぎ出し』と大言を吐きますが、三世紀に倭国の海や魏の海などなかったのは自明ですから比喩が不出来です。
 特に、曹氏の魏は、内陸国家なので、「海」は圏外だったのです。

 もっとも、そこに他意はないようで、「卑弥呼の国」について考察すると建言しています。

 因みに、著者のご先祖の由来は、読者にはわかりません。当ブログ記事筆者の先祖は無名の存在なので、記録はありませんが、少なくとも、ここ数世紀間は、乾いた大地に暮らしていたはずです。得体の知れない筆者に馴れ馴れしく抱き込まれては、大迷惑です。

*定番の水海混同
 第一章冒頭で、既に著者の誤解、誤読が露呈しています。要は、知らないことを知らないままで論じたら、間違うのが、自然と言うだけです。
 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、 なる倭人伝記事を引用しますが、著者は、「水」と「海」の違いが理解できないまま、以下、暴走しています。

 中国古典で「水」は淡水河川です。狭義では、河水(黄河)のような大河であり、広い意味では、つまり、「普通」は河川です。「水」で海を指すことは、まずないのです。
 つまり、ここで、水人、水禽と言っているのは、まずは、「自然に」淡水漁人、淡水水鳥と見るべきです。海のものであれば、海人、海禽と言ったかも知れませんが、余り、前例はありません。倭人伝の文脈を斟酌しても、「自然な」読みに、大いに分があると思います。

 また、古代中国語で、「沈没」は、大抵、人が水(河川)で身を半ば沈めて、「泳いで」いるのかどうか、姿がよく見えない状態を言うのであり、潜水とは限らないのです。

 この記事を皮切りに、「水」を、勝手気ままに「海」に読み替えての論考が進んでいますが、第一歩で大きく踏み違えていては、以下のご高説も、話が耳に入らないのです。本書で、度々躓く石ころです。

*余談無用
 ここで、著者は、脇道に逸れて、長々とご託宣を述べますが、これは、新書の体(てい)、字数を成すためにか、あるいは、著者の知識を誇示するためにか、用も無いのに詰め込んだと見え、この手の余談は時間の無駄です。
 丁寧に言い直すと、時も場所も大いに異なる状況での見聞を、三世紀限定の議論に持ち込まれても、何の参考にもならないのです。

 また、著者がしばしば見せる「受け売り」の迷走を見ると、余談の報告者たる著者に信頼はおけないから、検証無しで信用できないのです。要は、ほら吹き常習と見なされるだけです。
 言うまでも無いのですが、書かれている情報源の信頼性検証が、必要です。

 とにかく、場違いで参考にもならない余談は無用に願いたいのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 3/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*廊下トンビの批評
 と言うことで、末尾に飛んで批判を再開します。
*白日夢の展開
一.四 近畿纏向国から難波の海に下る
 言うまでも無いのですが、三世紀時点で「近畿」は無く、時代を問わず、「纏向国」は無いのです。無いものの議論は妄言で無意味です。
 時に纏向幕府」と揶揄される畿内説推進陣営の要人は、このような追従に悦に入っていることはないとは思うのですが、どうでしょうか。

 以下、動機不明の引用紹介が受け売りで続いています。「なぜ古都・平城京が舟運の便が悪い内陸にあったのか?」と物ものしく切り出しています。
 これが無法な問いかけなのは、氏の冒頭抱負から明らかです。ここまで、専ら、三世紀辺りの考察に耽ったのに、急遽、数百年跳んでCE701に開闢した平城京談義ですが、時代が四世紀以上ずれては、有効な推定ができないのです。
 まして、ここで問われているのは、「古都」などと「レジェンド」、博物館遺物の扱いをされている現在ではなく、当時、現役バリバリの「平城京」に船便はなかったのはなぜか、との設問なので、無神経な問いかけが空をきっています。著者は、日本語の読解力が足りないのでしょうか。

*纏向幻想に加担
 纏向遺跡を「大規模集落」(どの程度を大規模というか、何を集落というか不明)としても、三世紀中頃の仮定では、せいぜい千人規模で、自給自足を旨とすれば、細々とした供給手段でも、生存に要する食料補給はできるでしょう。要するに、当時として、ありきたりの「国」だったのです。
 いや、誰だって飢え死にしたくはないから、何とかして自分の食い扶持は稼ぎ出すでしょう。身の回りの土地で食っていけなければ、さっさと逃げ出すだけです。

*時代錯誤
 ところが、平城京は、万を遙かに超えるであろう非生産人員が寄り集う「都市」(現代語は無視して、「大きなまち」の意味)であり、周囲からの持ち寄りでは物資の供給が不足するのです。戸籍があるから逃亡すると重罪となり、餓死しかねないことになります。時代の相違です。

 もっとも、遠国から物資貢納の仕組み、律令制度があったから、餓死はしなかったようですが、持って来いと命令される遠国はたまった物ではなかったろうと推察します。何しろ、帰途の食料など配慮していないのです。

 ここでは、平城京を考察するはずなのですが、提示されるのは三世紀辺りの状勢です。言葉を連ね、河内平野開発も水運も、妄想に近い推定であり、著者が「イメージ」とする絵は、何の根拠も無い単なる画餅ですから、平城京について何も論じていないのです。古代史談義手ね中身のないポンチ絵を振り回される読者は、たまったものではないと思うのです。

 冒頭で課題を提示して、一切、その解明に当たらないというのは詐欺です。

*イメージ談義
 因みに、現代において「イメージ」とは、食品の、調理仕上がり、盛り付け図であって、そのように出来上がる保証はなく、時に、購入者自身で調達する食材まで含まれています。ある意味、無責任な「絵」ですから、本書のような論考書めいた物には、まことに不似合い、それとも、お似合いです。
 因みに、このカタカナ語の由来とも見える「image」も漠然たる「姿形」を指すことが多く、概念図、模式図は、「ピクチャー」と呼び分けています。安直なカタカナ語乱用は、固く戒めたいものです。

 そうでなくても、「イメージ」は、見る人次第で印象も解釈が大きく異なるので、論考は、極力、文字で綴る言葉で進めるべきです。

 「これは、古代の現実の姿を推定したものでなく、著者の考える夢を描いたものである」と責任を持つべきです。無責任を明言するのも、責任の取り方の一つです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 4/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*白日夢の展開 承前
一.五 纏向国から魚買い出し舟が行く
 ここで、遂に著者の白日夢です。
 「三輪山麓の纏向から盆地を横断し、大和川下りで魚買い出し舟が数十隻連なって、およそ二十㌔㍍を行った」」と言い切りますが、舌の根の乾かぬうちに、下りは五,六時間、上りは、二日かかると、何とも不細工です。
 そのような川下りは、能書き通りに日帰りなら、頻繁に往来できるでしょうが、一泊二日以上の長丁場では、下った日は魚を積んだ川港で寝泊まりし、翌朝こぎ出して途次で一眠りし、翌日、昼過ぎにでも、奈良の市に魚を出す「絵」です。二泊三日の食事はどうするのか、鮮魚は二、三日持つか疑問です。

 さらに、大和川筋から奈良盆地東部纏向までは、当然、きつい登り坂であり、手漕ぎ船で登るのは大変難航です。と言って、川沿いに大勢動員して、日々の食糧を対等な曳き船で登らせるのも、馬鹿馬鹿しい限りです。
 盆地内の細粒に乗り入れられる小船は、軽量とは言え、積み荷は微々たるもので船体の重みが大半です。

 いや、そもそも、荷を小分けして、大勢で背負い込んで登れば、どうということは無いのです。そのあと、空船をどうするのでしょうか。漕ぎ登るのでしょうか。水量が乏しく、渇水期が多く、増水期には広範囲に水没する奈良盆地で、運河水運など、あり得ない愚行です。
 いや、そもそも、奈良盆地のような傾斜地に運河開鑿とは画餅も良いところです。運河は、等高線状に開鑿するから、安定して運用できるのです。

 寝ぼけた話は、ご勘弁頂きたい。

 とかく、関係者というか当事者は、遺跡発掘公費確保のために、きれいに手軽に想定図(イメージ)を描きますが、自然法則無視の画餅が多いのです。一種の捏造です。

*無理な鮮魚商売
 買付談義に戻ると、地域の市から、半日程度かけて各家庭に届き、やっと調理できます。こうした迂遠な買付は、日常生活の中で長期に維持できるとは、到底思えないのです。天候、渇水、氾濫問題などが一切無いとしてもです。そして、肝心なことですが、これは、鮮魚類流通の絵とはなっていません。浜でゆで干しする「干し魚」でしょうか。河内に大々的な干し魚「コンビナート」を作り上げたのでしょうか。

 著者が絵解きしなければ、この画餅は、罪作りな夢想です。

*うつろな夢想
 このように、著者の推論は、大きくうねって、まずは、奈良盆地に古代国家があって、大和川船便で食糧輸送したとの夢幻世界に誘い込んでいます。
 先人考察で、奈良盆地(都市国家)への大和川経路が提案されますが、現実的な実施形態を検証し、安直な受け売りや時代錯誤は避けるべきです。

*大和川幻想あるいは願望
 江戸時代の付け替え以前の大和川は、奈良盆地からの落差を一気に流れ下る早瀬であり、人間業では遡上できません。付け替え後、下流の平野部は一路、天井川になって、等傾斜で西行していますが、往時は、河内平野に突入して扇状地を形成した後、北へ分流していて、とても、漕ぎ船の主力経路とならのなかったと思います。
 後年、山間からの水流が安定したので多少は水運に供したようですが、それでも、物流の大勢は、早々に陸揚げして陸上輸送したとみられます。
 大和川の、山間を抜ける渓流部の流れ沿いに人夫が曳き回る道はないように見受けます。と言って、曳き船で補助するのも、無理と見えます。そこまでして、船体を担ぎ上げる意義は、どこを探しても無いのです。

*曳き船の不合理
 現実に戻ると、河内平野の荷は、二上山竹ノ内峠越えのつづら折れの道などを、重荷を背負った多数の者達が往き来したと思われます。大和川沿いの経路は、険阻で不安定で、常用されたかどうか不明なのです。
 一方、奈良盆地北部は、淀川・木津川経由で木津の川港に荷下ろしてから、背の低い奈良山越えで到達できます。こちらが、平城京の表玄関であったと見るべきでしょう。何しろ、古来、淀川は、今で言う「水運」の幹線であり、大動脈だったのです。

 纏向は、創業できても守成できなかったので、最終的に、平安京遷都に抗し得なかったのであり、大和川川船横行は、願望の幻像です。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 5/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*淀川実相~余談
 古来、河内湾からの物流の主流は、水甕琵琶湖を上流に持ち、調整池もあって、水量が安定して豊富で、概して緩やかな淀川水系経由と思われます。
 ただし、琵琶湖に向かう瀬田川は、水量は安定していても、渓谷の急流であり、また、当時、現在の京都市市域には河川交通に適した水流が無かったため、物資の主流は南に折れて、今日の木津付近まで運ばれ、そこから奈良山越えで、比較的大きな消費地、奈良盆地に運び込まれたものと思います。

 総じて見るに、素人考えでは、淀川水系は流域の農地開発も早くから進んでいたようなので、曳き船に動員できる農民に不足はなかったろうし、農民にしてみれば、本業以外の格好の副収入ですから、いそいそと参じたものと思います。いわば、持続可能な体制だったのです。

 著者の性癖に倣い、現代用語を持ち込むと、淀川が「ブロードバンド」、大和川は「ナローバンド」と思います。同時代に並行して運用されていても、交通量に大差があったのです。古代史には定量的な評価がないので、一石を投じたつもりです。倭人伝に倣うと、大和川は大道ではなかったのです。

*木津談義~余談
 当時の淀川水系物流終着点だった木津には、往時の繁栄を示すように丘上に銅鏡王墳墓が築かれ、川畔に、地域最古と思われる恵比寿神社があります。河流には、ご神体の漂着を機に起こされたえびす神社が幾つか見られますが、淀川上流で、ご神体流出の候補地は、ここしかないのです。

 平城京では、物流の乏しさに呆れた聖武天皇が、河内平野の難波と木津付近の恭仁に遷都を企てられたという挿話からも、平城京の貧しさが偲ばれ、百年を経ずして故郷を捨てた「旧都」の貧しさも知れるのです。いや、以上は、素人の勝手な意見てあります。 

*ロマンの氾濫
 本書の批判に戻ると、この辺り、著者は、止めどないロマンの世界に溺れているようですが、それらの世界は、著者だけしかうかがい知ることのできない、著者の脳内に存在している幻宇宙であって、現実世界とのつながりが示されていないから、学術的な論考と主張するのは、断じて無理なのです。

 特に、史料引用などで、粗忽と言いたいぼろを頻発するのは、自身のロマンに溺れて現実世界が見えないためでしょう。もったいない話です。

*第一章総括 どんでん返しのカラクリ
 第一章の問題点を総括すると、一見、奈良盆地の壺中天に古代国家があって半島、大陸と交流があったと論じている論考と見えますが、著者の暴走に付いてきた読者を、最後に否定的判断に放りだして、どんでん返しです。

 いわゆる「近畿説」の読者は、ここまで自説の裏付けと思っていたとしたら、読者をだましていて、最後にペロリと舌を出した体です。財布から金を出した読者に非礼です。

 以下の論議も、所詮うわべのもので、著者の真意は逆なのではないかと思わせる、不吉な出だしです。文章作法のイロハに反しているように思います。雑誌募集の懸賞論文でも、ここまで論文として杜撰であると、普通は許されないのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 6/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*無かった海の道
 飛ばした部分から見ると、著者は、日本海沿岸の「海の道」という概念に惚れこんでいるようです。ここで示された現地確認の努力が、大和川水運説に対して堅実に費やされていたら、ここまで素人に突っ込まれることはなかったはずです。

 つまり、途方もないホラ話に続く展開なので、随分損しているのです。

 著者は、「大船団長距離航海」というロマンに浸っていますが、まさか、山中から切り出した丸太舟ではないでしょうから、どんな材木をどんな大工道具で製材加工して、航海に耐える船体に仕上げたか、帆船にするとして、帆布はどうやって調達したのか、船員をどうやって集めたのか。白日夢はいい加減にして欲しいものです。「イメージ」の壮麗さに、自分だけ酔っていては、書き割り以外のものにはできないのです。
 実務としては、道中の食料と水の補給をどうしたのでしょうか。各寄港地に、所定の人員を配置していたのでしょうか。ここまでに説明はないのです。
 「海路」と言えるためには、確実に到着できる保証が必要なのです。倭国使節が魏都洛陽まで航行と陶酔していますが、確たる根拠があるのでしょうか。

 朝鮮半島の産鉄に誤解があるようです。鉄鋌が「銭」として使われたというのは、機能をいい、大小などを言うのではないのです。忽ち錆びて朽ちる鉄銭は、古来希です。

*無かった「コンビナート」
 第四章も、冒頭に時代錯誤のロマンが提示されておおぼらです。英語やロシア語由来カタカナ語を連発しないと著者ロマンは書けないとしたら、古代に、そうした概念はないので、ほら話としか言いようがないのです。
 例えば、「コンビナート」(ロシア語:комбинат,ラテン文字転写:kombinat)を「工場群」と言い放っていますが、古代に「工場」などなかったのです。
 コンビナートは、本来、ソ連のシベリア開発で、離れた鉄鉱山と石炭鉱山を鉄道で連結し、行きは、石炭を乗せ、帰りは、鉄鉱石を乗せて貨車往復輸送によって、資源産地双方に工業化の道を開いたことを言います。つまり、単に複数分野の工場が連携したものを言うのでは無いのです。

 無人の荒野に産業拠点を新設するソ連シベリア開発に独特な課題に併せた革新的な解決策を造語したのであり、同様の課題が存在しないところに同様の解決策は無いから、他国に本来の「コンビナート」は、ほとんど存在しないと思います。心ある著者なら、誤用されたカタカナ語は避けるべきです。

 この「コンビ」は、その名の通り、遠隔地の二業種限定の「コンビ」を言うのですが、氏は、例によって、現実離れした幻想を書き殴ります。いや、この機微を承知で、だらだらと言い崩しているのでしょうか。
 現実の丹後半島地域も、町おこしどころか、著者のおおぼらの「サカナ」にされて、世間の嘲笑を浴びては不本意でしょう。
 立て続けに、とんでもない前置きでは、以下を読み通すのは、途方もない苦痛です。当方の忍耐の限界が来てしまいました。

*荷物の山越え~できる方法
 氏の歩家込んでいる白日夢、荷物山越えを考察します。まず、海船の河川遡上は無謀なので、海港で、小振りで底が浅い河川航行用の船に積み替えます。
 遡行につれ、川幅が狭まって通行不能になれば、さらに小振りの船に積み替えます。それでも通行不能になれば、船荷を降ろして、背負子に載せ替えたのです。それぞれの船腹は、次便に備えて温存待機です。
 峠を越えたら小舟の船着き場まで下り、以下、順次積み替えていくのです。局面、局面に適した手段で荷送りすれば、無理なく山越えできるのです。

 「荷船」の山越えは、船体が途方もない重荷の上に、引きずり移動で船体の痛みが激しく、長続きしないのです。そもそも、山向こうには山向こうの手立てがあるので、無理して船体を運ぶ必要など、全くないのです。
 この理屈は、大和川の山越えでも同様です。

 奈良盆地に、小船の荷船が運用されていたら、下流から川船を持ち越す必要は、全く無いのです。そして、奈良盆地に、荷船が、一切運用できていなかったら、川船を持ち越しても、何の意味も無いのです。
 古代人が、無駄な労苦に取り組んでいたと考えるのは、余りにも、古代人を見損なっていることになります。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 7/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*終幕
 おわかりのように、当書評は、著者がロマンを抱いていることやそのロマンの内容についてとやかく言っているのではないのです。
 堂々と自著を市場に展開するからには、ご自身の夢想を現実と付き合わせて、筋の通った説明を付けるべきではないかと言っているのです。倫理的な問題なので、同意していたけないならそれきりの話です。

 他方、ファンタジーなら、ファンタジー、フィクションならフィクションと明記すべきです。
 もっとも、ファンタジーも、フィクションも、現実世界との接点の考証が必要です。空想世界でも自然法則は、通用するので、重量物が重力や水流に逆らって、勝手に急流を遡上するとこはありません。

*誤解、誤記の塊
 80ページ末尾から、「魏の曹操は船を使って戦う常勝将軍であったが二〇八年、長江中流域の蜀の諸葛孔明と呉の孫権の連合軍にその船団を焼き討ちされ敗れるという不覚をとった」と誤解、誤記の塊です。
 「魏の曹操」と言いますが、二〇八年(CE208)時点は無論、曹操は、終生後漢の臣下で、在世中は、魏なる国は存在しないのです。

 「常勝将軍」と言いますが、曹操ほど度々大敗を喫した将軍は少ないはずです。負けの数で劉備に勝てないとしても、当時有数の負け馬と言えます。

 「」は渡河に必須ですから一切不使用と言えませんが、正史三国志で、曹操はほぼ陸戦であり、船戦は皆無に近いのです。(まぼろしの赤壁は別として
 もちろん、時に応じて、兵糧の輸送に船を使ったことはむしろ当然と言えます。兵員、馬匹の移動にも、水運を使ったとも思われますが、特筆されていない以上、些細な事項と見られているものと思います。それが史書です。

 「長江中流域の蜀の諸葛孔明」というのは、論考の一部としてグズグズに型崩れしています。
 「諸葛亮」は、一時、長江中流の荊州辺りにいましたが、そこは、蜀などではないのです。
 国としての「蜀」(蜀漢)は、その後に長江上流に劉備が建国したのですが、正確には、漢と号したのです。蜀は、長江上流の成都付近の地域名です。
 言うまでもありませんが、蜀の君主は、劉備とその嫡子であって、諸葛亮は、蜀の宰相、臣下です。孔明は、本名でない「あざな」で、実名呼び捨ての曹操、孫権と並べるのは、一段と無様です

 孫権の当時の支配領域は、古来、呉と言われていましたが、別に、当時呉国皇帝だったわけではないのです。寄留していた荊州を逃れて根拠地を持たない流亡の劉備軍団の無名の軍師と同盟する小身ではなかったから、ここで並記するのは見当違いです。そうではないでしょうか。それが史書です。

 「その船団」と言いますが、曹操が率いたという船団は、曹操の私兵でも後漢朝の官兵でもなく、大半が降伏した荊州船団に過ぎないから、戦いが不首尾でも、曹操船団が「敗れた」わけではないのです。それが史書です。(漢水上流で、新造船を命じたと言いますが、急拵えの船腹に訓練されていない兵を乗せても、戦力にはならないのです)

 後漢の最高権力者である曹操ですから、戦ったとしたら、当然勅命のある敵に勝つべくして戦ったのでしょうが、帰還後、皇帝から違勅、敗戦の責任をとらされたわけではないから、曹操は、この時は、不覚はとっていないのでしょう。

 三国志魏志で、曹操は、地域を歴訪する傍ら孫権に示威行為を示しただけで、疫病多発の瘴癘の地を忌避して帰還し、別に戦ってないのです。

 以上、随分、うろ覚えでいい加減なことを言い散らしていて、僅かに残っていた信用を損ねています。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 8/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*終幕の続き
 次に、何の繋がりもなく、とんでもないことが書かれています。まさしく、白日夢で、氏は何か薬物に耽っていたのでしょうか。

 倭国使節団は、長江で大敗した荊州水軍の船を渤海湾などで見たという趣旨を述べています。

 河川船団を、三十年かけて回航したといいたいのでしょうか。何の幻を見たのでしょうか。
 荊州船団の生き残りを転進させたとしても、孫権麾下の水軍支配下の長江中下流域をどうやって擦り抜けたのか不審です。

 そんな無茶をしなくても、皇帝が指示しただけで、帯方郡最寄りの青州で、易々と保証付き海洋船を多数造船できるのに、海船としての運航に耐えるかどうか不明の三十年前の川船を、延々と回航する意味がわからないのです。
 ホラ話として、誰も感心しないのです。ずるりと滑っていますが、氏は、寄席芸人ではないので、何も感じないのでしょう。

*倭人伝談義
 92ページで、魏志倭人伝に「倭国大乱」が書かれているかのような妄言が書かれていますが、倭人伝には、「乱」れたと書いているだけであり、「大乱」と書いたのは後漢書です。とんだ、いや、とんでもない、途方もない勘違いです。

 「邪馬台国が書かれたのは倭人伝だけ」というのは、また一つの妄言です。
 「邪馬台国」は、後漢書初出が起源で、後世史書、類書に引用されています。衆知の如く、現存三国志に「邪馬台国」はなく、書かれているのは「邪馬壹国」であるというのが客観的事実であり、これを、学術的な批判に耐える論拠を示して否定する論議は見られないのです。

 史書記事を誤記と主張するなら、主張者に重大な立証責任があるというのが、学問上の常識ですが、著者は、ここでも無頓着で、出所不明の誤断を受け売りしていて、この不注意も、商業出版物の著者として、見過ごせない過誤です。

 以上のように、著者の文献依拠のあり方は、誤断と受け売りの混在です。
 不正確な史料引用は、不正確な情報源のせいですが、容易に原典を確認できることが多いから、著作の際に、厳重に検証するのが当然と考えます。

 一方、書紀の史書としての信頼性は低いと賢明な判断を示していながら、ここで例示していないものの、随所で、書記記事の史料批判を怠って、安易に受け売りしているのには同意できないのです。

*軽率な余言
 注意をそらす余言癖も健在であり、斉明天皇は、高齢の女帝でありながら、二百隻の船を率いて奈良を出たことになっていますが、時代違いとは言え、「奈良に海はない」ことは衆知で、とんでもないホラです。
 言い繕うとしたら、別に高度な思索を要しない言い間違いです。まして、二百隻の新造船が可能だった、実際に造船したという証拠は示されていません。「画餅」と言うものの、二百隻の海船の絵を描くことすら容易ではありません。まして、二百隻に乗船して波濤を越えるに耐える船員は、画に描くことはできません。
 それ以上は、当否の範囲外なので、追究しないのです。

*信頼性の欠如
 本書は、近来見受けるように、出版社として出版物を無条件に近い篤さで信頼されるべきものが、出荷検査無しに、瑕疵満載、傷だらけで上梓したものです。

 権威のない一私人には、買ってはいけないなどと言う資格はありませんが、商用出版物に必須の校正の労が執られていない無責任な書籍であり、真剣に読むべきものでないと言わざるを得ないのです。ここまで、我慢して丁寧に批判しましたが、余の部分は推して知るべしです。
 つまり、日本海沿岸に海港の鎖があり、丹後から筑紫に至る水運が形成されていたという、折角の提言は、見向きもされないのです。

 折角の労作ですから、後世に恥を遺さないように、明白な欠点は是正し、全面改訂すべきであると思います。それでこそ、氏の主題が正当な評価を受けられるのです。

                               未完

新・私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 9/9 新改訂

 「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき推定の山          2017/12/12 補充再掲 2020/07/08 2021/07/20 2022/06/21

*蛇足 半島迂回の夢
 それにしても、著者の乱調ぶりは、禍福ない交ぜているようです。つまり、図4-2(77ページ)ですが、これは、ご自身で懸命に描かれたものですから、細部に至るまで責任を持たれるべきであり、「イメージ」と逃げられないのです。要するに、この地図に、著者の主張の矛盾が顕在化しているのです。

*不可能な無寄港航海
 自身で、当時の船舶航行では、二十から三十㌔㍍が一日の限界とされています。
 私見では、甲板、船室無しの吹きさらしでは、好天でも夜間航行できず、夜明けに出港、午後早々に入港、食料と水を補給し、乗員を休養させるものでしょう。
 漕ぎ船で、多数の漕ぎ手を常人とすると、相当丁寧な休養が必要でしょう。当ブログの別記事で、寄港地毎に漕ぎ手と船を替える乗り継ぎが、健全な常識と書いていますが、筆者は、鉄人揃いの連漕を想定されているようです。

 それにしても、ここには、朝鮮半島西南部の多島海を大きく迂回して無寄港で進む「画」を描いているのです。この間、一五〇㌔㍍程度を無寄港とした理由は見て取れないのです。極限の画餅症候群とでも言うのでしょうか。

 おそらく、氏の良心から、このような多島海を、連漕しつつ、時に応じて、寄港する画が描けなかったのなら、そのように明言すべきかと思うのです。
 いや、それでは、氏の力説する洛陽への長途航行の夢、渾身の一大ロマンが壊れるからなのでしょうが、それはそれで明言が必要では無いでしょうか。

 何とも、著者への信頼性を損なう愚策と思うのです。

*半島内陸行の示唆か
 と言うことで、氏の見識を信じると、半島西南部の航行は、頑張ってやり遂げるべき困難などでは無く、全く「不可能」であり、従って、倭国使節は半島内陸行したとの表現かとみられるのです。「春秋の筆法」でしょうか。凡人の知るところではないようです。
 その際、洛東江を上下したか陸行したかは、この場での論議の対象外です。
 いかに優れたと感じた着想でも、論証できない場合は、証拠不十分として断言を保留しなければならないのです。それが、商業出版物における筆者の品質「保証」と言うものです。

*書き残した提言
 幸い、著者は、不都合な証拠を覆い隠すような姑息な感性の持ち主では無いのですが、これほど自明な事実に目を向けないのは、もったいないと思うのです。因みに、史書で当然とされている山東半島と遼東、ないしは、帯方郡との渡海往来は、何故か、慎重にも明言していません。

 それでは、氏の力説する洛陽への長途航行説が壊れるからなのでしょうか。

◯まとめに代えて
 是非、改訂版では、自身の所説の限界に直面し、可能であれば、堂々と、本稿を論破して欲しいものです。

                              以上

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-1/3

「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山                    2017/12/25 補追 2022/06/21

*(多分)最後の海路談義
 著者が本書で大々的に打ち出した新語「海路」に関わる談義は、とことん尽きないようである。
 ここで話題にあげたいのは、中国太古の言葉遣い、漢字遣いで「海」という時に託された思いであるが、これは、後世の倭国人の「海」に託した思いと大いに異なっていたということである。
 その思いを「海観」と称すると、聞き分けにくいし、字面の据わりも悪いので、「海洋観」の三字で進めるが、当時になかったろう言葉なので注意が必要である。
 こうして言っているものの、ありようは、当方の知識外であり、白川静氏の著作に啓示を受けたものである。

*冥界としての「海洋」観
 太古の中国人、特に、中原を支配し文字記録を残した中国人にとって、海は冥界のような異郷であったということである。中国には、四方、「四海」の概念があったが、この「海」は、現実の海ではなく、試作場の概念であったのである。

 でないと、地理上、東方以外に海のない中国世界で、「四海」と言う筈がない。

*河水 海に至る

 さて、現実に還ると、河水(黄河)は、上流では、筏や川船で渡ることのできる程度の流れであるが、東海に向かい滔々と流れるとともに、大小支流が合流して泥水の大河になるのである。

 河口近くは、太古以来今に至るまで、ドロドロの岸辺を分けてドロドロの水が流れ、どこが岸でどこが流れかわからぬ、人を寄せ付けない扇状地となり、それは黄海の沖合に連なるのである。当然、扇状地を横切る陸上交通も不可能であった。巨大な人外魔境である。

 本書の筆者は、この辺りの地理的事情を、良くわきまえていて、帯方郡から回航した倭国船は、河水河口部の泥の海を避けて、遡行可能な支流を通ると書いている。過酷な環境とする見解自体に異論はないのだが、そうした過酷な環境を、一貫して、水域に不案内な自船で乗り切るとは、到底思えないのである。

 まして、非常時である。なぜ、倭国使節の上洛に責任のある帯方郡が、船を仕立てないのだろうか。いや、なぜ、郡の上洛便に便乗させなかったのだろうか。地位方郡の官人、つまり、高官が同行していて、事実上、地理不案内で、旅費など持ち合わせがない倭の使節を、「連行」しているのだから、帯方郡の公式経路で移動したに違いないと思うのである。
 いくら質問を投げかけても、合理的な回答は、不勉強で無知な素人には、思い及ばない。

未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-2/3

「卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す」 PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山                    2017/12/25 補追 2022/06/21

*河水河口迷路
 遡行可能な支流と言っても、単なる支流に違いないから、よそものには判別しがたいものに違いない。まして、氾濫の度に水路が変わり、地元のものでなければ、遡行可能な支流の選択は困難を極めたはずである。
 と書いたが、これは、端からあり得ないものだから、余計なお節介であった。
 かくして、中原人の「海」は、何より河水河口部の泥水であり、還らずの魔界であったようなのである。

*「海路」考古学事始め
 復習すると、古代中国語で「海路」なる熟語があり得ないのは、「路」の由来に基づく。
 「路」は、元々、人里を離れた魑魅魍魎の住み処を通り抜けねばならないので、様々の手法で「除霊」した特別なものであり、海は、陸上の「路」と異なり、「除霊」などできないので「路」とできないのである。

 言うまでもないが、以上は、中原の内陸部に閉じ込められていた古代中国人の世界観の中の「海洋観」であり、海をわが家の外庭程度に考えていた東夷の海洋種族の「海洋観」とは異なる。

*福州「海洋観」考
 例えば、今日の広州、福州辺り、南シナ海岸地域に住んでいた人々の「海洋観」は、全然違っていたものと思う。

 福州附近は、峨々たる山地が背後に迫っていて、農地に乏しい上に、交易の道も無く、その分、目前の海に親しんでいたはずである。

 古代、こうした人々は、中原の人から、南蛮と思われていたから、意見を聞いてもらえなかったのである。偶然だが、福州は、当時「東冶」県と言われていたようである。

*東莱海洋観
 また、もっと身近な山東東莱は、目前の海中に朝鮮半島があるので、住民の「海洋観」は倭国人と近いものと思う。
 ここは、戦国七雄の中でも大勢力であった斉の領域なのだが、結局、西方内陸地の奥深くにいた秦が天下を取って、斉は滅ぼされてしまった。
 一時、遼東の公孫氏が渡海侵攻したようである。

*中原井蛙の海洋観
 秦の後、漢に政権が移っても、依然、中原、それも、長安付近の世界観が支配していた。そして、漢都が落陽に移っても、依然、中原と言う名の巨大な井戸の底、大海を知らない井蛙の世界であった。

                                                               未完

私の本棚 長野 正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 2-3/3

卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
 私の見立て★☆☆☆☆ 根拠なき憶測の山                    2017/12/25 補追 2022/06/21

*洛陽井蛙の海洋観
 因みに、前漢を嗣いだ王莽を打倒した反乱の嚆矢となった赤眉の首謀者は、山東琅邪の海の者であったようだが、後漢創業者の光武帝劉秀は内陸人で、特に海好きではなかったようである。
 蛙の子は蛙である。

*語義変遷
 たかが、「海」と「路」と二文字の話であるが、古代と現在の世界観の違いを露呈するものである。世界観が違えば、同じ文字を使っても意味が違うのである。
 古代史論では、丁寧な用語校正が望まれるのである。

*「海洋観」概観
 さて、世上で信奉されている中国史書の用語観であるが、上に示唆しているように、中原の用語観は、各地方にそのまま適用されるものではないはずである。
 一方、三国志に先行する史書は、中原用語で書かれていたのであるから、海に関する語彙が貧弱で偏っていることは自然な成り行きである。

*帯方郡海洋観

 気になるのは倭人伝に示されている帯方郡書記の海洋観である。帯方郡の統治領域、今日で言う朝鮮半島中南部は、東、西、南の三方を海に囲まれていた。その現実的な海洋観は東夷伝の韓伝記事からもうかがえる。
 但し、倭人の在る山島は「大海」の海中、つまり、巨大な塩水湖のポツポツ浮かぶ島々とされていて、半島東西の「海」とは、縁が切れているように書かれている。

 狗邪韓国からの行程で、三度「海」を渡るが、これは、「大海」の一部であり、倭人伝では、一海、翰海、一海と言い換えている。つまり、大河の中州のように見ていたのである。海嫌いの中原人の意見ではない。

 海峡中央部の對海~一大区間は、前後の区間と様相が異なっていたようである。初稿では、特に激流だったかと憶測したが、勘違いであった。後日調べた限りでは、狗邪~對海、一大~末羅の間は、それぞれ結構荒波のようであるが、對海~一大区間は、却って平静のように思われる。
 「瀚海」は、そうしてみると、綾織りのような細かい波に埋めつくされた様子を形容したと思える。そのような意外な美景が、特別扱いに現れているようである。

 そのように、倭人伝の「海洋観」は、実際に往来していた帯方郡と倭国のものである。かくのごとく、環境が違うから言葉も違うのである。

 再度言うが、古代史について論じる時は、丁寧な用語校正が望まれるのである。氏の姿勢は、全て、無造作に現代語も地名に置き換える行き方であり、見栄えはいいかもしれないが、読者を欺いているのである。

              多分今度こそ  完

2022年6月20日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事検討 刮目天一 【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 1/1

【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@) 2022-06-16     2022/06/20

◯はじめに
 本件は、兄事する刮目天氏のブログを題材にしているが、氏のご高説に異を唱えているわけではないのは見て頂いての通りである。
 氏が応接の際に見過ごした躓き石を掘り返しただけである。ここは発言内容の批判であり、倭人伝解釈で、俗説がのさばっている一例を摘発するだけである。こうした勘違いの積み重ねが、混沌たる状況に繋がっている。

◯発言引用御免
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。

◯部外者の番外コメント
 発言者は、「改竄」記事にコメントし、刮目天氏は寛恕で黙過している。

*「徇葬」正解 
 原文は、「徇葬者」であり「殉葬者」と書いていない。「徇葬」は、東夷傳扶余伝が初出のようである。正史は、先例の無い言葉の無断使用は許されないが、倭人伝は、扶余伝で認知された用語の承継と見える。いや、実は、ほぼこれっきりの二例しか見当たらない。
 「殉葬」は、先例が非礼・無法である。そういう、とてつもなく「悪い」言葉を、陳寿が大事な倭人伝で、深意に反し、採用することはあり得ない。
 対して「徇葬」は、葬礼に伴い進むか、夜を徹して殯するか、あるいは、守墓人に任じられたか。いずれにしろね「徇葬者」は生き続ける。女王は讃えられる。
 「殉」一字に、「命がけで信条を奉じる」=「殉じる」との意義もあるが、「殉葬」者は、恐らく意に沿わずとも、間違いなく命を落とす。女王は、正史に恥を曝す。大違いである。
 これほど意味・意義の違う文字と取り違えるのは、目が点で節穴である。

 但し、この改竄は発言者独創とは思わない。倭人伝名物の改竄解読手法受け売りで、褒められないが非難はできない。誤解が蔓延しているのである。

 因みに、笵曄は、後漢書「東夷列伝」扶余伝で、陳寿の記事と軌を一にしつつ、「徇葬」と宿痾の誤字/誤解症例を残している。もって瞑すべし。(要するに、東夷列伝は、范曄創作/誤解を、多々含んでいるのである。いや、他にもあるが、圏外なので、ここでは論じない)

*「冢」の正解模索
 刮目天氏は、丁寧に辞書に頼るが、まずは、原史料で最前用例を探索すべきと愚考する。読者は、自身の語彙で解明できなければ、魏志第三十巻の巻子/冊子の最前を遡り、わからないときは座右の魏志を手繰る。漢書、史記などを倉庫から荷車で引き出させるのは、陳寿の手落ちとなり不合理である。そうならないように、陳寿は、その場で確認できる用例を書き込んで、伏線を敷いている。ここで、藤堂明保氏名著「漢字源」はまだ存在しないと戯言する。

 倭人伝の「冢」は、大家の葬礼紹介で、遺骸を地中に収めた後、冢として封土すると書いてあり、身内による埋葬と思われて、土木工事は書いていない。
 女王の場合は大がかりであるが、奴婢百人で直径百五十㍍の円墳は造成できない。円墳は盛り土で済まず、石積みが不可欠で「冢」にならない。もちろん、倭人伝は「墳」と云っていない。径百歩は、「普通の解釈」と合わないが、ここでは論じない。

*まとめ~用語審議の原則提言
 末筆ながら、用語解釈の基本として、原文起点とし、「最前用例 最尊重」の黄金律を提起したい。文脈の斟酌も、粗忽を避けるのに、とてつもなく重要である。倭人伝論では、失敗例が山積しているので、そう思うのである。

                  余言無礼御免 頓首頓首  以上

2022年6月19日 (日)

新・私の本棚 松井 宏員「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 577

 東高野街道 68 柏原~羽曳野市 飛鳥、渡来人の安住地か 2022/06/18

◯はじめに 
 今回の題材は、毎日新聞の連載コラムであるが、古代史に入り込んでから、トンデモ記事連発なので、世間に誤解を広げるのを放置もできず、口を挟んでいるのである。と言っても、何しろ、当ブログは、有料購読者ゼロであるから、影響力は極めて限定されている(皆目無い)。

*指摘
 今回の記事は、以下引用する書き出しで大きく躓くが、ご当人は意に介していないようである。
 1973年発行の「柏原市史」を見ていたら、平城京と中国・唐の長安とを比べて、長安への関門・函谷関を竜田道の難所・亀の瀬に、黄河を大和川の瀑布(ばくふ)と激流になぞらえていた。ちょっと言い過ぎじゃないかと思うが、都へ入るには険阻な場所を越えねばならないという点では、共通するかもしれない。
 さて、羽曳野市の地図を眺めていて、おやっと思った。「飛鳥」という地名があるのだ。市の南端、太子町との境に。飛鳥は奈良の専売特許だと思っていたが……

 いきなり、とんだ偽(にせ)情報(fake news)であるが、「柏原市史」の誤報と言いきれずこのまま指摘する。それにしても、普通のなぞらえ談義と並べ唱える順序が前後逆で、まことに珍妙である。ここは、冗談めかして「言い過ぎ」と褒めている場合ではない。

 唐の長安は、黄河流域と言っても支流の渭水沿いで、有名な壺口瀑布は、本流のかなり上流である。とんだ見当違いである。それにしても、大和川に瀑布も激流も無いと思うのだが、勘違いだろうか。
 こうした混乱した偽情報・風評を、堂々と紙上で公言するのは、全国紙記者の筆と思えない。(編集部は校閲しないのだろうか)

 ちなみに、「専売特許」は、死語の上に当て外れである。「登録商標」と言うべきであるが、それにしても、著名な地名は、商標にできない。記者は、まるで昭和時代の記者言葉の博物館である。
 こうして見ると、随分、全国紙も墜ちたものである。記者は、羽曳野市を特許侵害と誹謗する前に、なぜ安村俊史館長に相談しなかったのだろうか。とんだ茶番で、大滑りである。

 以下の記事は、偽情報の一環と見ざるを得ない。困ったものである。

                                以上

2022年6月18日 (土)

新・私の本棚 サイト記事批判 播田 安弘 「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 1/1

                                2022/06/18
 「日本史サイエンス〈弐〉邪馬台国 ・中略・ の謎を解く」紹介記事
  「現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか」 2022/06/17

◯はじめに
 当記事は、サイト記事タイトル批判である。余りにできが悪いので門前払いである。トンデモ本風のしつらえで読者を遠ざけているが、この一章だけで排斥されるわけでもない。

*概評
 タイトルとして、意味不明の言葉が並んでいる。まるで、異星のメッセージである。一応疑問文だが、なぜ、何を問い掛けているのかわからない。ものの役に立っていない。

 「現代人でも至難の業!」と言うが、何しろ、現代人に利用できる移動手段は豊富で、地球上のどこからだって、大抵は生きて還れる。
 そんなとんでもないホラ話でなくて、手漕ぎ船の体力勝負の話しとして、「現代人」を四十五歳程度の成人男性とすると、運動不足、肥満気味で力仕事に不向きであるうえに、夜更かし朝寝坊のアルコール依存症ときたら、この際のものの役に立たない。「現代人でも」と言う意味がわからない。古代の専門的/職業的な漕ぎ手集団と柔弱な「ド素人」がまともに体力勝負できるはずがない。

 「卑弥呼の船」と言うが、女王の船会社経営記録はなく意味不明である。後世、山東半島海港に高句麗館、新羅館の倉庫や船溜まりがあったと思われるが、遥か以前「倭館」があったと思えない。飛んだ夢物語である。いや、対海/対馬から渡海した半島の狗邪には、堂々たる「倭館」があったろうし、そこが、倭の北の国境とされていたと思うが、それは別の話である。

 「大陸」からと物々しいが、帯方郡以遠だけに限っても、遣魏使の便船山東半島往来は楽勝である。
 渡船は、基本的に身軽な渡し舟であり、甲板も船倉もない吹きさらしである。大抵は、朝立ちでひたすら漕ぎ急いで、午後、できるだけ早くに入港して、それで一丁上がりである。漕ぎ手は、船を下りて非番になり、追って母港に折り返す手慣れた往還でうまい飯が食えるから良い稼ぎ場である。かたや、旅人は次に進む。
 北九州から半島南岸の狗邪までは、水平線に見える山影が確かな目標で、また、日常、小船で難なく往来しているから、「きょうも無事」に何の不思議もない。海を渡る以上、何も危険が無いとは言えないが、日常的な渡海を怖れるわけもなく、大抵何の事件もないから、往き来が続いたのである。飛び石状の寄港地を、適宜、その場に応じた便船と漕ぎ手で乗り継いでいくから、当然の日常事であり、曲芸でも冒険でもなかったのである。
 何しろ、漕ぎ手不足で乗り切れないような体制では商売にならないから、ちゃんと確かな人数、技量、体力を確保していたのである。「現代人」には、とても「できない」だろうが、当時は、「できる」人材を募って運行したのである。ダメモトの冒険航海などとは、出来が違うのである。
 東京で言えば、葛飾柴又から出ている「矢切の渡し」は、絶対危険がないとは言い切れないが、大昔から往き来している。言うまでもないと思うが、文明開化以前は、貧乏人が小銭で乗れる格安の船賃であり、まして、手漕ぎだったのである。(因みに、さむらい(士)は、公務扱いで、船賃無料だった)
 言う迄も無いが、難なく生きて還れると信じていたから、大夫なる高官二名が、貴重な手土産を携えて出かけたのである。
 世間には、帯方郡まで延々と漕ぎ船で赴いたと信じ込んでいる(いや、遥か河水(黄河)河口部の泥の海に乗りつけると称する) トンデモ本があって、それに追従しているのかも知れないが、古代人には、深い知恵があって、安全、確実(迅速)な陸路が確立されているのに、それこそ、海難必至(そして、必死)の長期の船旅などしないのである。

 と言うことで、なぜ、この場で絶叫するのかわからない。店頭の立ち読みだったら、書棚に戻して、ハイさようならである。同書の他の議題も推して知るべしとなる。随分、自罰的な売り込みである。

 いや、このタイトルを見る限り、氏は、古代史の知識が皆無で、世間にあるトンデモ卑弥呼本を読み囓って、売り物をでっち上げたように見える。でなければ、「邪馬台国の謎」が何であるか、悟っていたはずである。出かけていった船が帰ってきたのが不思議で、世間が騒いでいるのではないのである。
 誰か、古代史に詳しくて、苦言を呈してくれる先輩か友達かがいたら、これほど、無残なタイトル付けはしなかったと思うのである。もったいない話である。

 当記事は、数回連載で、書籍の内容を掻い摘まんでいるように見えるが、タイトルが不出来では、サイト記事すら読んでもらえない。

*まとめ

 新機軸でない陳腐な言い立てを捨て、先行トンデモ本の失敗を踏まえ改善すべきである。思い付きをがなり立てて売れてもゴミ箱を賑わすだけである。

                               以上

2022年6月16日 (木)

新・私の本棚 古賀達也の洛中洛外日記 第2762話 『古田史学会報』170号の紹介

『古田史学会報』170号の紹介 百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―
                            2022/06/16
◯はじめに
 本項は、私淑する古賀氏のブログ記事の批判でなく、随想であることは、ご理解いただきたいものです。
*引用
 … もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。 …

*コメント

 勉強不足の初心者が見当違いの新発見を提言するのは手ぶらで書いてすむのですが、氏が、丁寧に調べて実証的に反論するのは不公平と見えます。バリバリの私見で恐縮ですが、率直に発言させていただくと、本件は、同時代の中国史料について論考を展開する程度の教養を有した人物にとっても当然、自明の事項であり、当然「不成立」なのですが、そのような当然、自明の事項を個人的に知らないからと言って、未審査の思い付きを公然と提言すべきではないと思われるのです。いや、このような思い付き発言は、古代史学分野では、ありふれているので、「言ったもん勝ち」だと思っている方も多いでしょうが、まずは、とこことん自己検証すべきなのです。

 素人なりに調べても、「本」の字は、十の縦横書画の交点から、左下、右下への書画が始まるので、紙面で言うと、墨がうまく流れないと、四本の書画の交わるところに墨が溜まって、にじみやすいのです。あるいは、交点の一点から、二本の書画が始まるので、書き出し位置の狂いが目立ちやすいのです。
 公文書の清書などの改まった場は、名人が時間をかけて書き進めるので、そのような不始末は出ませんが、公文書の下書きや日常の信書では、余計な心配がいらない「夲」が通用/常用されていたのです。(実証は、端から不可能ですが)
 ご参考までに言うと、知る限り、現代でも、日常文書では「日夲」が、むしろ普通と見えるのです。字体は「変遷」していないのです。

 本題に還ると、墓誌は石刻であり、刻工は、墓誌全体を「ボツ」にするような手違いの出にくい「夲」と刻んだのです。
 因みに、「百済祢軍墓誌」に「日夲」をみるのは、明らかに、早とちりの勘違いですが、既報なのでここでは論じません。

 思うに、氏ほどの論客が、「七~八世紀当時の日中両国」とは、氏の見識を疑わせかねないので、ご自愛いただきたいものです。
 衆知の如く、「日本」が国号として認知されたのは、八世紀以降であり、また、当時、「中国」が国号であったかどうか、不確かと思うのです。

 いやはや、言い立てる方は無造作でも、回答は、大変な苦労が伴うのです。

                               以上

2022年6月 6日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞が賛美する「屈辱の歴史」 サッカーの対ブラジル対戦 「国辱」ものの見出し

                        2022/06/06
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面、「サッカー日本代表 きょうブラジル戦」と銘打った下馬評であるが、「屈辱の歴史に終止符を」と檄を飛ばしているが、当の代表にとって、何が「屈辱の歴史」か、選手達は、過去12戦全部に出場したわけでもないので、感じ取れないのではないか。「終止符を」撃てと言われても、誰がそんなに偉そうなことを言うのか、不思議に思っているはずである。
 要は、見当違いの「ボケ見出し」である。天下の毎日新聞にしては、随分不出来な見出しである。

 と言うと、記事本体も、時代物の屈辱、雪辱ものかと思うのだが、実際は、対戦経験者の談話も含めて、勝って当然のつまらない相手に負け続けている、とでも云うような時代錯誤の発言はないのである。もちろん、強い相手と闘って負けるのは、恥でもなんでもない。まして、「国辱」ではない。いわば、「カナリア軍団」にとって、日本チームは周回遅れであり、別に、立つはだかっていたわけでもないのである。
 自尊心は、場違いなところで示すべきではない。

 読み進めていくと、担当記者は、適確に記事をまとめていると見える。これまで強化してきた、「攻守の切り替えの速さ」とこれまで以上の頑強な守りを組み合わせて闘えば、十分勝機はあるという主旨であり、大人の姿勢であり安心できると一旦納得させる。

 いや、記事末に、署名記者が、どんでん返しで、突如、つまらない総括を付け足していて、そこで、気分が地に墜ち、泥にまみれるのだが、読者が感じる感慨と無関係な「ごみコメント」を感じるのが、記者の感性だとしたら、つけるクスリは無いのかも知れない。躓き石ならぬ、落とし穴である。金返せである。まして、見出しに取り出すのは、自爆である。このように、自国代表チームを侮辱して、勝つためには手段を選ばない状態に追い込むのは、全国紙のスポーツ面担当記者の「報道」の姿勢として、大変な愚策ではないだろうか。

 見出しは、本文の要約を示して、読者に「食欲」をわかせる「料理見本」の筈なのだが、今回は、記者のお粗末な感性が丸出しのとんだごみ見出しで、心ある読者が引いてしまうのである。天下の毎日新聞にしては、大変な失敗作である。それにしても、編集部門で、誰も、ダメ出ししなかったのが不思議である。担当記者を配置換えした方が良いのでは無いか。

以上 

2022年6月 1日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
◯始めに
 本項の目的は、引き続き、倭人伝里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階では、倭人伝里数は短里のものであり、これは、現地で実施されていた里制の忠実な反映と見ました。主たる論拠は、倭人伝冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千餘里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、倭人伝の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書地理志の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。もっとも、晋書地理志に倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、倭人伝の編纂された時代の中国王朝です。時に、「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、南方で再建され「東晋」と呼ばれる後世の王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の春秋時代に、中原北方に封建された春秋時代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰えて自由心に権力を奪われて飾り物になった後、重臣間の抗争を歴て生き残った三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。

 晋王が、臣下に放逐されたのは、画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の手口そのままに、皇帝から権威を奪うについては、先ずはとなり、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により魏朝を廃し皇帝としてり晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 
*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 実は、最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。

 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。束の間の天下太平であり、晋朝は自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家は瓦解し、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 天下統一で兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から、長城や寿陵建設に大量動員して失業軍人の反乱を避けたのです。税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を永続できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。

 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に気づかず、崩れた過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 晋書の素性を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を継いだ唐朝で、太宗麾下の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。

 但し、当方が取り組んでいる地理志は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、後漢書は、自身の「志」を備えず、唐代に、別史書の「志」と併合したものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったので、晋書は、漢書以来久々の体裁の完成した正史となります。また、後漢書が、ほぼ笵曄単独の労作であり、三国志も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も、強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
○短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、倭人伝の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数である)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し倭人伝に反映している
 ⑸ 短里は晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰した』との趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

○魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、三国志は陳寿が統轄編纂した史書で、里制は統一されているべきである、との理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

○魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ~補充2022/06/01
 里制は、地理志という公式記録の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 短里に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、納税は同等なのですが、そのような閑散は、一版人の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。
 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道理」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「方千里」が、三十六倍の「方三万六千」里になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 短里制は、一辺の帝詔では済まず、厖大な公文書を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。 

▢結論
 そのような重大な制度変更は、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、地理志の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。
 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかったというのは、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01

◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が短里を長里に変更したということも、議論が必要ですが、周の短里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を、議論しようがないので、後回しとします。

*晋書地理志に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷の覇権を奪って、王朝交代を実現したのですが、元々、西方の地方勢力だったので、統一国家を運営する組織も、制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)

 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一片10㍍の方形の面積(百平方㍍)。

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、めざましいのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することはあり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、普通の里であり、長里と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周朝の短里制度は見えてこないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、別途説明します。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 5/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*地域短里制再考
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は、「倭人伝」を有しているので、魏晋代、「地域短里」が制度化され。帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準としてこう尽くされていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法ヤSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、一辺一里の方形の面積は一辺一歩方形の面積のの九万倍であり、逆に、面積の一里が面積一歩の三百倍であれば、長さの一里は長さの一歩の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」、いわゆる標準里として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 農地面積基準の「歩」、長距離の「里」表示は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩。里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって、精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の良田を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは一割以下の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

*軍制、地方官規定の拡張

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で、半ば以上が耕地となるというもので、これは、中原領域で当然でも、荒れ地の多い領域では、通用しないものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9

                    2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01
*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度ですから、これを全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」、「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので、改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅~旧説の終末

 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島にも実施されていたかも知れませんが、晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳が散佚し、新興の新羅、百済が東西が勃興し、国家制度を整備する際に、隋唐の指示に従い、中国里が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。
 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」里制のように特殊な地域里制が、公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説「地域里制」はなかったと訂正することになったのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 8/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*周里の意義
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の提言は見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠けるものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、倭人伝里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書地理志から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないのです。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですが、ものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 9/9

                    2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01
*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。

釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義を求めて75㍍程度の概数を得ていますが、当ブログは、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、倭人伝道里は、公的制度が一切関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、倭人を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で魏皇帝に文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。
 当ブログでは、倭人伝道里に関する設問に対して、史料を読み替える必要のない、無理の無い解が整ったものと考えています。
                             以上

2022年5月24日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞がこだわる過去の遺物用語「ナイター」の怪

                                 2022/05/24
 今回の題材は、お馴染みの毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面記事である。今日から開始する「日本生命セ・パ交流戦」の下馬評で、まことに結構な景気づけのはずである。そこで、開幕カードの紹介であるが、最後を「すべてナイターで行われる」と、粗相して、過去の遺物としたい「廃語」を述べているのは、何とも感心しない。この記事を概観すると、冠スポンサーも巻き込まれている感じがして、大変失礼である。

 それにしても、プロ野球界は、インチキカタカナ語「ナイター」によって、日本文化に大きな負の遺産を負わせたのだが、商標めいた使用で箔を付け「普及」させたことを大いに恥として、自らは厳格に排除し、他分野の「パクリ」利用については、新聞社などメディアの協力で使用を減退させ、風化を誘っているように見える。いや、一読者の勘違いかも知れないが、日々の報道から消えていった言葉を感じ取っている。
 ところが、毎日新聞は、そのような動きに反発しているのか、ここに、堂々と紙面に出ているのは、何とも、情けない話である。

 毎日新聞朝刊スポーツ面に掲載されれば、当然、多くの読者が目にし、口にし、廃語の風化は大きく後戻りするのである。担当記者は、自分の記事が、大勢の関係者の努力を無にしていると気づいていないのだろうか。

 それにしても、毎日新聞社は、署名記事の校閲をしないで、事足れりとしているのだろうか。定期購読者としては、ここで、ささやかな文句を言うしかないのである。

以上

2022年5月21日 (土)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第141号 巻頭言「隔てる海、つなげる海」 改訂

 編集部      梓書房 2022/1/4刊       初稿 2022/03/24 二稿  2022/05/21
私の見立て ★☆☆☆☆ 認識不足、早合点
 
〇はじめに~巻頭言の不勉強
 今回の題材は「巻頭言」であり、言わば、世間話で本号の「つかみ」としているのだろうが、見当違いの発言を正していこうというものである。

◯引用紹介と提言
 冒頭に、「富山県が平成6年に発表して以来、話題を集めた、南北を逆さまにして大陸から日本を見た地図である。この地図は、『(1)中国、ロシア等の対岸諸国に対し、日本の重心が富山県沖の日本海にあることを強調する、(2)本県(注・富山県)が本州の日本海側の中央に位置し、環日本海交流の拠点づくりを進めていることを国内にPRする』という目的で作成された」と「逆さ地図」が紹介されている。二重引用部の出典不明。
 参考 環日本海・東アジア諸国図(通称:逆さ地図)の掲載許可、販売について 
 現代の感覚では、海路は最も時間のかかるイメージであるが、古来においてはまさに「ハウェイ」(ママ)であった。車も電車も、ましてや新幹線もない陸路では、運べる荷物の量も限られ、移動スピードも海路には格段に劣っていた。それだけ「海でつながっている」ということは、地域にとっての強みであり、海路は交易の主役だったのだ。古代の人々にとっては、海とは「隔てる」ものではなく、「つなげる」ものだったのではないだろうか。

◯コメント~引用資料の時制混乱/錯誤
 氏は、富山県の著作物を口頭で紹介した上で、第三者著作物を踏み台として、自己主張しているのは、感心しない。編集子は、「最も時間のかかるイメージ」などの混乱した感覚をまき散らして、理解困難で勝手に論調を仮想してみた。

 冒頭紹介の富山県提案が、古来、日本海中部に対岸と連携する輸送交通路「航路」が形成されていたとの主旨と仮定すると、本誌守備範囲の紀元二~四世紀の時代背景で、そのような「航路」は、不可能そのものである。また、それを証する出土遺跡、遺物もないはずである。
 ただし、よくよく見ると、富山県は、明らかに「古代幻想」不関与で、引き合いに出されて大迷惑と見た。大破綻である。

*救済不可能な破綻/「海路」の時代錯誤
 編集子提示の「海路」は、出典不明の後世語で、当時、「海路」概念は一切存在せず、実体がないので評価不可能。時に見かける時代錯誤である。従って、倭人伝に「海路」なる用語はなく、当時存在したのは、対馬海峡渡海船だけである。従って、比較検討は無意味である。繰り返すと、当時、「海路」は全く存在しない上に、陸上「公道」(正解は「ハイウェイ」)は未整備で比較不成立である。

 なにしろ、編集子提言は、時代像非開示で、誠に不用意である。スピード比較を言うが、根拠不明では、検証不可能である。

 日本海中央部に輸送に値する荷物は存在しなかったと思われ、提言いただいた輸送手段は成立しないから、比較は、一段と無意味である。

*空転、空疎な提言
 してみると、両者が「海水でつながっている」と逃げずに、いつ交通可能になったか提示すべきであり、同時代外ならここに展開すべきものではない。

◯結論 苦言進上
 本誌巻頭言は、実際上編集長の執筆だろうが、編集長無謬ではないから、玉稿といえども校閲の上で掲載すべきではないだろうか。
 編集諸兄姉の顧客は、読者の筈である。雑誌の令名に恥じない巻頭言を掲載していただきたいものである。

                                以上

2022年5月20日 (金)

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

▢コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでない、と見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

▢まとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に、異議を唱えるものではない。また、担当部門から示された、「御国自慢価値観」について、批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           以上

2022年5月11日 (水)

新・私の本棚 毎日新聞「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」 571 謝罪と訂正

 東高野街道/62 柏原市 竜田道は「国道1号」 2022/03/12 記 2022/03/27 再掲 2022/05/11

▢謝罪と訂正
 当記事は、毎日新聞の連載記事の批判であるが、後続の連載回を含めた一連の記事について、「柏原市歴史資料館安村俊史館長の説明が不出来であったために記者が誤解した」との印象になってしまって、関係者に、ご不快の念を与えたかと思うが、今般、柏原市立歴史資料館のサイトに、「館長の連載コラム」と題された一角があり、そこに2015年 「亀の瀬 こぼればなし」 (全10回・2~5月連載)として、詳しい解説が公開されていることに気づいたものである。
 同連載コラムは、読んで頂ければわかるように、専門家である「柏原市立歴史資料館の安村俊史館長」が、大変な時間をかけて、一般の読者に理解しやすく書きためたものであり、不勉強な記者は、取材を焦る余り、手ぶら、「予習復習」抜きで、勝手な記事を書いたようにみえる。報道のプロとして、もっての外の怠慢と思われる。
 いや、気づいてみれば、当然である。世間の研究者は、真面目に研究成果を還元しているのである。纏向関係者の粗雑なメディア対応は、あくまで、例外の極みなのである。
 と言うことで、以下、細かく訂正していない当記事に、安村館長に対する非難の響きが残っているとしたら、それは、見当違いであるので、深くお詫びする次第である。

 以下、当初記事に戻る。

〇始めに~記事批判の弁
 当連載は、毎日新聞大阪版の連載記事であり、概して当ブログの時代圏外を現地紀行を通じて紹介しているが、話題が古代に及んだのを機に口を挟んだ。当記事は、相談相手一辺倒でなく異論紹介が必須と見たのである。
 当記事には、担当記者 松井宏員氏の署名入りである。

◯記事引用批判
 柏原から大和川沿いに奈良県三郷町に抜け、斑鳩へと通じる竜田道が近年、見直されている。一昨年には日本遺産に認定された。なにせ、古代から奈良と大阪を結ぶルートだったのだから。そして、日本で最初の官道、今でいえば国道だったと考えられているのだ。

 コメント:
 七世紀、さらには、それ以前、「日本」「奈良」「大阪」は存在しなかったから、真面目な論議に合わない。こどもたちが、間違った言い回しを真似しないよう、正しい言葉遣いに改める必要がある。河内の古代史を語る上で、大事な「基礎」と思うものである。

 推古天皇の時代の613年、難波から京までの間に大道をもうけた、と日本書紀にある。この京は飛鳥のことだ。従来、この大道は松原、羽曳野、太子町から奈良県葛城市へ、二上山の南の竹内峠を越える竹内(たけのうち)街道だと考えられていた。

 コメント:
 交易荷物の既設経路を官道整備したと見える。「竹内街道」が「難波」から「松原、羽曳野」を通ったとは初耳で、正しくは、堺港から富田林、太子町を経て竹内峠越えの東西道と見える。
 全ての荷が、難波から飛鳥に向けて送りつけられたと決め込んでいるようだが、当時、そのような遠距離輸送が成立していた証拠はあるのだろうか。確かに、柏原に荷さばき場があって、河内湾からここまでに船で遡行した上で、一旦荷下ろししたと見えるが、それは、随分後世のことのように見えるのである。
 ここから、山向こうの飛鳥に行くのに、石川筋を遡って太子町から竹内街道を行くというのは、素人目に分の悪い経路であるが、それは、時代相応の堅実な見方ではないように見える。
 仮に藤井寺、富田林あたりに、大口の買い手、古代豪族がいれば、海港からそこまで荷が届くのであり、その買い手が、山向こうの飛鳥に荷を売りつければ、経路は竹内峠越えである。まさか、柏原まで下りて「竜田道」を行くはずはないのである。

 河内平野が、大和川と石川の合流した暴れ川の扇状地で、荷船の往来などできなかった時代が、先だって、随分長く続いたはずである。その時代は、堺に入港して、羽曳が丘の丘陵地帯に荷送りしていた時代があったのではないか。素人考えで申し訳ないが、地形図を眺めていると、東西に通じる、手短で、さほどの難路でない経路があったのではないかと見えるのである。
 事ほどさように、河路の比較対照は、時代背景を見極める必要があるのではないか。
 ついでに言うと、柏原市立歴史資料館の展示資料として、美麗な地図が引用されているが、だれが推古代の地形を正確に再現したのだろうか。素人目には、奈良盆地にも、河内平野にも、多数の「ため池」が存在しているように見えるが、それぞれの「ため池」の造営年代が、推古代以前とする証拠はあるのだろうか。

 安村さんは約10年前から「竜田道」説を唱えている。その最大の理由は高低差だ。「竜田道は高い所で標高78メートル。それに対して竹内峠は約290メートルもあります。」

 コメント:
 険しい上りの直登は、「禽鹿径」(けもの路)であり、荷道は、つづら折れが常識である。
 先読みした次回記事で道幅狭隘「隘路」とされた「竜田道」界隈は、世評によると、地盤不安定で崖崩れの不安があり、街道の通行安全が保証できないと見える。学問上の「説」をぶち上げるからには、そうした否定的な要素も考慮し、克服した上で持ち出すものではないのだろうか。
 千五百年前の交通事情考証だから、本来、先人達が諸論を出し尽くしているはずであり、古代史学界は、今さらの「新説」と独り合点してがむしゃらに言い立てて、反論無しに時間が経てば、立場が強くなる、「言ったもん勝ち」と言うことであれば、ここに示された安村氏見解の評価には、大いに疑問が投げかけられる。
 それにしても、次回記事の裴世清の使節一行百人(と推定される)は、未整備「竜田道」を、どのようにして越えたのだろうか。このあたりのダメ出しを経ていないというのは、心細いものがある。毎日新聞社は、提案者の言いなりに記事を書き出すしかしないのだろうか。
 もちろん、ここまで、どんな手段で移動したのかというのも、大変な課題である。何しろ、太古以来、九州北部から河内まで大変な難所続きで、とても、隋船は、通行できなかったと、確信されるのであるが、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

*竹内峠の評価
 竹内峠を越えたことがある。明治時代にだいぶ削って通りやすくしたが、それでもかなりの急坂だった。

 コメント:
 一方的な當麻側体験談だが、地域住民は誰でも知っていることで、近年まで、つづら折れの旧道が通じていたのを、伏せているのは、なぜだろうか。
 また、全国紙紙面で堂々と「越えた」と言うからには、当人は峠の西側まで進んで、以下、楽々下山したはずなのだが、その辺りについては、何のご意見も見せていない。太子町の側は、高低差が少ないだらだら坂で、論証の邪魔になるから、隠したのだろうか。
 この辺り、別に、荒海や瀬戸を漕ぎ渡る話ではないので、一度歩けば、誰にでもわかることであり、隠し立てしても仕方ないと思うのである。困ったものである。

 コメント:
 峠道の難関の評価指標は、登り口と頂上の「高低差」と経路の傾斜であり、氏が最初に述べたように、取り付きからの高低差が大事で、標高(海抜)差に、大した意味は無い。急坂であっても、つづら折れを繰りして、緩傾斜の長丁場にしてしまえば、「貴人が輿から転げ落ちる」など、全く問題外とわかるのである。
 このように、坂道の評価は、高低差すら大問題ではなく、つづら折りまで含めた経路傾斜が、ほぼ全てであり、「難しい」と人手と時間の泣き言は「貴人」厳命に背く理由にならない。要するに、「街道」なら、必要な通行の便が整っていたのである。

 現実の竹内街道も、河内の太子町側はダラ下がりで、上り下りに問題はないと見える。良くある「片峠」であるが、記者は河内側に足を踏み入れずに駄弁を弄したと見える。いや、この部分は、主として安村氏の発言の引用なので、記者の書き方を真に受けると、安村氏の不明によるものかとも思われるのである。
 
 コメント:
 ついでに言うと、太古以来、洋の東西を問わず、誰でも、荷を背負って峠に登り、そこで、山向こうの相手と背負い荷を交換して下山すれば「交易」できるのであり、半日ほどで往き来できれば、別に難所でもないのである。言うまでもないが、そのような往き来は、毎日のことでないので、近隣の健脚が交替で取り組んでも良いのである。

*何でも「太子」頼み
 さらに安村さんは「官道として整備したのは、聖徳太子で間違いないでしょう」と言い切る。「なぜなら、このころ太子は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)にいて、四天王寺などと行き来してます」。斑鳩宮は竜田道沿いにあり、竜田道から北西に延びる渋川道(渋河道)が造営中の四天王寺まで通じており、その途中には先に見た渋川廃寺や、船橋遺跡(柏原市~藤井寺市)から見付かった船橋廃寺など、いくつもの寺がある。仏教に深く帰依していた聖徳太子が関わったのでは、というのだ。

 コメント:
 取り敢えずは、別の目的で往き来する二つの経路があって時代が違ったのではないか。他に、北の方に「暗峠」の難関を越える経路が利用されていたと思うのである。さらに、北に行くと、なら山越えの「木津道」が常用されていたと見えるのである。それぞれ、太古に始まり、後世まで重用されていたはずである。
 いや、別に『「竜田道」がなかった』と言っているものではない。時代相応の世界観を大事にして欲しいと言うだけである。

 いや、さすがの聖徳太子も、「廃寺」を造営するはずは無いと思うのだが、引用外となっているので、記者の錯誤となるが、まことに、その辺り無頓着である。
 それにしても、「聖徳太子」は、これほど多数の仏寺造営を指示したことになっているのだが、どうやって、必要な知識を得たのだろうか。そして、どこから資金を得たのだろうか。当然、斑鳩を離れて、現場に住み込んで逐一指示しないと、仏寺造営の新技術、大事業などできないはずなのだが、どこでそのような知識を得たのだろうか。大変な才人と見える。と言うような問いかけは、素人には、当然の疑問ではないか。
 先立つ時代、物部氏は河内にあって、外来技術をものしていたようだが、史書によれば、排仏論者であったので、仏寺の造営などしなかったはずである。このあたりの事情には、通じていないので、憶測ばかりであるが、もう少し、初学者向けに説明して欲しいものである。
 それにしても、国家として、仏教の全国布教を通じて、隋唐に迫る法治国家を形成するという豊富だったはずなのだが、これらいくつもの「廃寺」が骸を曝したのはどうしてだろう。国家が、自領を与えなかったのだろうか。あるいは、豪族が帰依せず、経済封鎖したのだろうか。もっとも、これは、当記事の枠外なので、記者の回答は期待しない。

◯結論
 以上の問いかけなしの一方的、安直な割り切りは、いかにも勿体ないのではないか。

                                以上

2022年5月 8日 (日)

私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充

                           2022/01/25 補充 2022/05/08
〇はじめに
 別記事で、散佚した謝承「後漢書」を論じたとき、同書には「東夷伝」がないと断じたところ、根拠を持って断じたのにも拘わらず、「御覧」に謝承「後漢書」所引に続き「東夷列伝」所引があるのだから、謝承「後漢書」「東夷列伝」と見ることができるとの指摘があり、一旦、引例の史料批判が不適格で、端から棄却すべきと指摘したが、不適格とする参考例をここに追加する。
 いや、自明事項を念押しするのは自信が無いためと曲解され、言い逃れ、言いつくろいが見苦しいなどと、いわれのない非難を浴びた忌まわしい経験があるのだが、懲りずに、以下、念押ししたのである。

*探索の動機
 「太平御覧」で、引用元書名無しに、「東夷伝」/「東夷列伝」と書くのは、どういう事情か知りたかったのである。

《太平御覽》 [北宋] 977年-984年 全千巻 中國哲學書電子化計劃
【壱】《兵部八十六》《甲上》
 又《東夷傳》曰:漢時扶夫王葬用玉甲,常以付玄莬音免郡王死則迎取。公孫淵誅,得之玄莬庫。 [注:扶夫は、扶余の誤記か]

*コメント
 「甲上」では、「玄莬」の「莬」は珍しいので、「発音は「免」(べん)と付注」しているが、実は誤字である。もっとも、肉眼で区別がつくかどうか、視力検査である。往時は、異体字で「菟」「莬」を区別したはずである。
 いや、世の中には、「臺」と「壹」が紛らわしいと主張している方がいるのだが、素人が一見して区別できる、はっきり異なった字を区別できないとしたら、不勉強、不注意としかいいようがない。中国で、教養人、つまり、一人前の文化人と認められるには、数万ある「漢字」は、ほぼ全て、学習済みであり、易々と区別できるものである。
 いや、一部の論者が主張している草書類似の略字体は、判別不能な例も、多数あるようだが、ここで論じているのは、楷書系の正字である。一部、繁体字と称しているが、その本質は、中国文化の根底となっている「正字」であり、簡体字なる略字を論じているのでない。当今、安直な誤解の方が、俗耳に馴染んで、広く通用する傾向にあるので、敢えて、事を荒立てたのである。

 「玄莬」 ならぬ「玄菟」は、漢武帝が朝鮮旧地に設けた漢制「郡」である。日本では「ゲント」としている。混同している例は皆無では無いが、文字の誤解はしていないはずである。
 白川勝師の字典「字通」では、「菟」は、黒いつる草らしい。これまで、素人の軽率で、「黒兎」の意味と速断していたが、よく考えれば、草冠は植物である。加えて、黒ウサギは、大変、大変稀少である。いや、時に勘違いも面白いのである。

 「御覧」編者は、「玄菟郡」を関知せず「述べて作らず」として、所引(メモ書き)のまま書いたようである。もちろん、山成す原本を実際に、逐一確認していたら、こうした誤解は生じないのだが、いくら大広間で作業しても、手の届く範囲における原本は、ごく限られるのである。

 後漢書「東夷列伝」「扶余伝」によると「夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里,本濊地也。(中略)其王葬用玉匣,漢朝常豫以玉匣付玄菟郡,王死則迎取以葬焉。(中略)永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。」とある。
 所引は、随分縮約しているものの、結局、范曄「後漢書」が出典と見える。ただし、「玄菟」を書き損なったのか、走り書きにして、区別が付かなくなったか、「玄莬」に変身しているのである。

 当所引は献帝時に及ぶが、遼東公孫氏が、東夷を遮断する前だろう。事務的、機能的な列伝調で、「倭伝」が范曄風随想記事なのと好対照である。後漢公文書に基づいているという事であろう。 つまり「倭伝」は史料の出典が異なるのである。

【貳】《四夷部十一·南蠻六》《黑齒國》
 《山海經》曰:黑齒國,為人黑齒。《東夷傳》曰:倭國東四千餘里有裸國,東南有黑齒國,船行一年始可至也。《異物志》云:西屠染齒,亦以放此也。

*コメント
 本例は、「東夷伝」だから、後漢書でなく魏志が出典だろうか。
 いずれにしろ、「御覧所引」は、しばしば不正確な縮約があり、検証しようにも、原文対応が不明確である。なにしろ、「御覧」は、一気に編纂された物でなく、北斉(六世紀)、唐(七世紀)の三大類書を基礎に、北宋(十世紀)で大成したから、個別の編集経過は不明である。「御覧」千巻の人海戦術による編集の際、所引簡(メモ書き)は大量に発生するので、不備、誤解、錯簡が、発生しても不思議でない。
 このような編纂経過の成果である類書の一条、断片に表れる記事を根拠に、厳密に検討された正史を校勘するのは、無理も良いところで、あくまで、参考の参考にとどめるべきである。

〇まとめ
 本件用例探索の成果は、漠然としているが、冒頭に「東夷列伝」とある用例条は、前条後継でなく別項と見てよいようである。本来、このように不確かな史料は、史料審査で「証拠不十分」として却下すべきものだろう。どうしても、主張したければ、佚文漁りをやめて、信頼できる裏付け史料を用意すべきである。

                               以上

追記:「立証義務」の不履行という怠慢
 本件に関しては、ついつい、謝承「後漢書」に関する大家の論議の「粗相」を「尻拭い」してしまって、手過ぎた失敗と感じている次第である。大体、史書として厳密に編纂されていない、つまり、校閲を重ねていない「太平御覧」であるから、別系列の独立した史料による裏付けなしに、所論の根拠にしてはならない、と言うのが、当然、自明だと信じているのだが、同感していない方もあるようで、謝承「後漢書」所引に続いて書かれている「東夷列伝」が、謝承後漢書の所引だという可能性は、完全に否定はできないのではないかというご意見のようである。
 論議の起点に変えると、そのような断片的で、当てにならない史料を、端から正確な引用と決め付けた大家が、論証義務を怠っていたのであり、その一点で却下すれば良かったのである。つまり、他ならぬ大家が、当該「東夷列伝」記事が、謝承「後漢書」の所引であると立証する重大な義務を怠っているのだから、一介の素人の異議が聞こえたら、それこそ、「太平御覧」を全文検索して、同様な事例全てで、氏の主張を裏付けていると立証する義務があるのである。立証義務は、勝手に放棄してはならないのである。

 以上、丁寧に説明すると、丁寧さがあだになって、揚げ足取りめいた無作法な放言を呼ぶという例であり、本件は、深入りしないで幕とする。
 従って、「コメント」対応は、黙殺とする。

以上

 

2022年4月25日 (月)

今日の躓き石 誤解・誤訳の始まり 否定表現の「和英」食い違い

                  放送 2022/04/20    2022/04/25

*否定的意見の「誤訳」
 NHKの番組の「クイーン」ブライアン・メイのインタビューで、インタービューアー(日本人と聞こえた)が、"I don't think you are powerless."と言うべき所を"I think you are not powerless."と言っていて、ちと引っかかった。
 要するに、「あなたは無力ではないと思う」が日本語語法であるが、これは、英語の語法と食い違うのである。powerlessなる単語自体の否定的な意味と文章の否定表現が、話者の脳内で入り交じって、「誤訳」したらしい。

 当文型は、日本人英語の典型であり、日本人の言葉遣いを(正確に)逐語訳したら、英語として間違いになる一例である。権威ある公共放送が、英語文を英語語法で語らないのは異様に聞こえたが、別に、個人攻撃ではない。随分上級者でも、このあたりは勘違いするようである。
 大人の日常会話では、相手は訂正してくれない。日本人と会話を重ねると、共通した「誤訳」と気づくからである。日本人全体に説教もできないから、失礼にならないように、顔色も変えず、調子を合わせるのである。

 当方は、晩学の英会話教室で、講師が、同級生に考え違いを指摘したのを聞いた覚えがある。要するに、英語は、否定形の文を伝えるのでなく、自身の意見として否定するのである。もちろん、普通、中高生事項ではないが、遥か昔の中学生時代にNHK第二放送のラジオ英会話で聞いた気がするから、一切説明(教育的指導)がないわけではないのだが、学校の英語の時間に、教わっていない人が大半と思う。

 英会話は、互いの意志が通じれば良い、堅苦しい文法談義はいらない、というのは、多分、自分自身理解できていない、不勉強な英語教師の逃げではないだろうか。生徒達には、日本語と英語の文法と背景文化の違いを知らせるべきである。そうで無くても、生徒達は、英語は実社会では「不要」だからテストに出ることだけ囓っているのだから、こうした通訳機にできない、本当に大事なことは、念入りに仕込んでおくべきである、と素人は思う。

*イエスかノウか 「誤訳」の始まり
 これと、多少関係があると思えるのが、Yes, Noの誤解である。疑問文に対する応答で、日本語と英語の、「はい」、「いいえ」と"Yes", "No"が逆転するのは、少し注意深い人なら、「躓き石」として自覚しているはずである。
 つまり、疑問文が、否定的な内容のときに"Yes"(肯定的)見解は、疑問の否定なので日本語では「いいえ」になる。吹き替えで字幕表示しているときは、食い違いが目に見えるが、大抵の方は聞き流しているだけだと思う。
 この齟齬は、アメリカの政治家にはいらだたしいもので、外交論議で「日本人がYesと言っても、実はNoだ」と「日本人英語の怪」なる「ジョーク」の定番になっている。プロの通訳は、当然、こうした齟齬に気づいているが、外交官は、誤解しているかも知れない。いや、日本語で「はい」と答えるべく時は、つい、頷いてしまうから、首を縦に振りつつ、Noと否定する器用な回答になってしまうのである。

 因みに、そのような齟齬を避けるために、まず、見解を平叙文で述べてから、「肯定的(positive)か否定的(negative)か」問い掛けて、誤解を避けることがある。但し、そのような背景を知らない素人は、状況にお構いなしに「ポジティブ」、「ネガティブ」を一人歩きさせて、混乱を招くのである。「壁」を越えた意思疎通は、難しいのである。

*古代史の躓き石~目に見える勘違い
 古代史論者古田武彦氏は、議論の盛り上がったところで、断定的否定を「否(ノウ)」のカタカナ書きで念押ししたが、議論に混乱を呼び込んで、否定のダメ押しになっていないのであった。

 当ブログの定番は、古代史論の主張の正確な理解には、対象時代、文明にない「ことば」、自明な代表例としてはカタカナ語、を一切使わないというせめてものお願いである。古田氏は、際だって著名な論客なので、あえて名指ししたが、単に一例に過ぎない。適確な文意理解には、文字、単語の解釈では不十分で、文脈、前後関係の理解が不可欠なのである。

 いや、ここは、個人批判の場ではない。要するに、古代史論議で、中国史書解釈が迷走するのは、文字、単語の解釈への時代錯誤の介入から始まって、用例解釈が的外れの場合が、多々あるという事である。勘違いの不朽の系譜である。

 いや、指摘されて気づくようなら、とうに、自覚しているだろうから、言うだけ徒労の感が強いのである。山火事に柄杓で水をかけるようなものなのだが、せめて、一人でも、誰かが気づいてくれれば、ささやかな改善になって欲しいと思い、コツコツ書き残しているのである。

                                以上

2022年4月24日 (日)

新・私の本棚 古田史学論集 25 正木裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 課題山積に蓋をした軽率 2022/04/24 

○はじめに
 谷本氏の記事は、まことに手短であるが、倭人伝道里行程記事解釈は、多岐に亘っていて手短に片付けられないはずである。氏は、世上の「総括病」に感染したか、百出議論が挙って「伊都国と奴国の比定」を誤って迷走していると「一刀両断」しているが、「諸説は全部間違い」との断言から始まる世上の勝手論者の手口と同様で、混同されて「損ですよ」と申し上げる。

 諸兄姉は定型文を複製してはいなかろうから、百花斉放の筈である。谷本氏が、全て読み尽くしたなら、後学のために指摘して欲しいが、氏は、ひと息に在庫一掃して「自説」を説く。賛同者は多くても、まとめて「自説」と見る。因みに、当ブログの議論は氏の決め付けと無縁と信じる。
 以下、倭人伝道里記事解釈に続くが、古田氏流「短里説」は控え目である。「短里」は自明であり、頑迷な「短里」否定論は、我田引水風の独善に過ぎず、殊更強調する必要はない。これで、纏向説は場外である。

*「方里」論の不首尾
 倭人伝の「方四百里」を、氏は古田氏追随で、一辺四百(道)里の方形と見なす。しかし、この書法は東夷伝独自であり、古来の「道里」と整合しない。史官は、典拠ある書式、語法を遵守するので、説明無しに「方里」を「道里」とするのは史官落第である。思うに、「方里」は「道里」と異次元である。
 方形一辺が十倍なら面積は百倍で、桁の違う韓国と對海国の面積比較が困難で当を得ないと見るのである。冷静に読みなおして欲しいものである。

*「島巡り」の不備
 氏は、狗邪韓国から倭に至る途上の渡海道里の對海国に、一辺四百里の二倍を足す「道里」表現とするが、魏志読者には思いもよらないことだろう。
 千里単位の概数で限定件数の「道里」は計算できるが、百里単位の端(はした)を埋め込まれては、解読に「労苦」を要する。陳寿ほどの史官が、魏志末尾の辺境蕃夷記事に、些事の「労苦」を持ち込むだろうか。
 渡海千里は、実「道里」でなく国間千里に全て込みが常識と思える。

*「戸」の話
 東夷伝で、国土を「方何千里」と書いた高句麗、韓の両大国は、地形、地勢の制約で、中原基準の耕作地整備が至難なため、土地台帳から畝単位の農地面積を集計し、「戸」で把握困難な国力を表現したと見える。

 古来、「戸」は農地割当単位で、戸内の男子が牛犂、牛鍬を用いて耕す前提で、農地面積に基づく収穫量計算の要件であるが、東夷は、中原社会と家族制度が異なる上に牛耕に適した平坦地か不明である。郡太守(公孫氏)は皇帝に戸数を報告しつつ「方里」を試行したと見える。倭人は牛耕なしの人力頼りで「戸」の意義が不確かであるが、魏志に地理志がないので不明である。

*まとめ~「方里」再確認
 拙論では、「方里」は一辺一里の方形面積であり、耕作地を集計したものと見る。これは「九章算経」読者の理解を得られるのである。

 いや、些末に巻き込まれたが、一番明解な論議は、『「方里」は、土地面積の単位で、「道里」とは「単位次元」が違うので混同してはならない』で決まりであり、以下蛇足である。論議は、明解第一と再確認した次第である。

 本論では、「南至邪馬壹国 都水行十日 陸行一月」の解釈が月並みで失望したが、ここでは論じない。

                                以上

2022年4月22日 (金)

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 1/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22

〇はじめに
 今ひとつの古代史KINDLE本ですが、出版社の編集を経ていないブログ記事集成とあって、散漫な構成が目立ちます。

*路線の謬り
 本書は、国内史書を正当化するために、倭人伝を自陣に引き寄せる展開で、こじつけが入り、歯切れが悪く、言い訳も出て来ます。素人目にも、長老層の好む時代錯誤表現が目に付くので、言わずもがなの警告を流したのです。
 本書のタイトルは、著者の固執を示しているので、そうした「偏見」を掻き立てられたのかも知れません。「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」(だけ)に登場する国名ですが、後漢書も、関係する三国志「魏志」も、同国にまつわる「神話」は、一切記録していません。つながりの無い概念を繋いでいるのは、氏の紡ぎ出すロマンであり、それは、史学と呼べるものとは、本来無縁の筈です。
 倭人伝物語は、真っ直ぐに語りたいものです。いや、願望なのですが。

*古田説追従の過誤
 氏も自認しているように、古田氏論説の追従が多いのですが、むしろ、古田氏の軽率さを安易に流用して痛々しいのです。
 その原因の一つは、氏の語彙の中途半端さです。たとえば、古田氏の著書から「奇想天外」の感をえたと言っても、そのような語感は歴史的に不確定で戸惑います。この際、肯定的に捉えるとして、地上のものとは思えない破天荒な新発想と見ても、揶揄に近い語感も考えられます。

 続いて、「理工系の感性」ではついていけないと評しているのは、「出任せで感情的」との酷評でもないでしょうが、熟した言葉で応用するのでなく、初心者の未熟な言葉のまま述べて、その解釈を読者に委ねるのはもったいない話です。ことによると「理工系」きっての英才と自任する著者の自嘲なのかも知れません。
 日本語の語義解釈が甘くては、中国語解釈どころではありません。
 と言う事で、氏の理解が不出来なのに、図示しても意味ないと思います。

〇道里記事の目的
 郡治からの道里と日程を、魏使派遣に先立って報告する理由ですが、要は、帝国統治の根幹である文書通信の所要日数および物資の送付日程を規定するためのものです。文書行政の国家構成では、定期報告の到着は日程厳守ですし、緊急交信は、最速かつ確実でなければなりません。

 帝国中核部の混乱に乗じて各地諸侯が自立して、二世紀を経た大帝国が一気に解体した後漢の国家崩壊を体験した「魏武」曹操は、傘下の諸将、諸侯に、通信日数の制度化と厳守を命じたのです。「厳守」は、厳罰、つまり、馘首に繋がるものです。「馘首」は、単なる、降格、更迭にとどまらず、時として、文字通り断首されるので、命がけなのです。
 従って、新規服属の東夷は、何よりも、最寄りの帝国拠点帯方郡からの連絡日数を申告しなければならないのです。帝国は、倭人領分のような、極めつきの辺境では、道里の測量が不確実な上に、騎馬文書使が、行程を確実に駆け抜けられるかどうかはっきりしないので、文書交信に要する日数を申告させたのです。この点、倭人伝は、倭人は、牛馬を採用していないと明記して、道里から所要日数を求めることができないのを明記しているのです。
 言うまでもないと思うのですが、そのような重大な所要日数を明記しない理由は、思い当たらないのです。総日数である「都水行十日、陸行一月」の区は、そのように受け取るべきです。

*帆船論~未熟な知識と論義
 氏は、帆船の可能性について述べていますが、太古以来、中国東部沿岸に帆船が普及していたのは間違いありません。漕ぎ船だけの交易では、移動できる質量の限界があり、宝貝、珊瑚、玉や貴石などの軽量の貴重品が大半となります。
 また、三国志に登場する千人規模の兵船は、帆船以外あり得ません。
 時代背景を丁寧に調べずに、風評や憶測で語るのは、史書筆者として半人前です。

 韓や倭で帆船を言わないのは、一つには、半島西岸から九州北岸に至る経路の急流や岩礁での操船が、帆船では行き届かず難船必至だからです。外洋帆船は、甲板、船室が伴い、大型化しますから、「鋼鉄製」造船器具が普及していなかったと思われる、当時の韓、倭で造船できなかったと思われます。
 また、丈夫な帆布、帆綱が無ければ、帆が張れません。更に言うなら、小型手漕ぎ船で往来できるような多島海も、数世紀後まで、操船の不自由な大型の帆船は、危険で立ち入れなかったと見えます。帆布、帆綱を含め、破損時の修復ができなければ、難船したその場で死を待つしかありませんから、航行は困難であったのです。(つまり、不可能という意味です。誤解しないように)

 その程度の学習は、先賢諸氏がよほど怠慢でない限り、この一世紀の間に検討済みではありませんか。

                                未完

新・私の本棚 青松 光晴 「日本古代史の謎~神話の世界から邪馬台国へ」補 2/2

 図でわかりやすく解き明かす 日本古代史の謎. Kindle 版
私の見立て ★★★☆☆ 凡庸 アマゾンKINDLE電子ブック   2020/05/17  補足 2022/04/22

*渡海派兵の愚
 そういうことで、この時代の「インフラストラクチャー」(古代ローマ起源の概念であり、時代錯誤ではない)の不備、つまり、渡海輸送の隘路を知れば、古田氏紛いの「渡海派兵」発言はないのです。
 よって、帯方郡は、倭人救援は勿論、徴兵も考えてなかったし、大量の米の貢納も意図していなかったのです。

*古代算術の叡知
 最近話題になる古代の算術教科書「九章算術」では、管内に複数の供給拠点がある時は、輸送距離が短く、人馬を多く要しない拠点から多くを求め、遠隔で人馬を多く要する拠点からは、極力求めないようにする算法問題と解法が示されています。
 徴兵問題も同様です。援軍募兵は大量の軍糧が必要な上に、海峡越えの大軍移動は相当な期間を要する上に、移動中の食糧が往復二倍必要です。まして、倭人には、軍馬がないので、渡海徴兵は論外も良いところです。

 知らないことは手を尽くして調べるべきです。余談に近い感想に無批判に追従されると、古田氏も浅慮を拡大投影されて不本意でしょう。先賢の論法は無批判に踏襲せず、掘り下げるべきです。

 古田流半島内行程図は、子供の落書きのような階段状行程ですが、古田氏ほどの取材力があれば、関係史料と現地地形とに照らして、合理的に具体化できたはずです。

*登頂断念の弁
 当ブログ筆者の得意とする道里行程論で意欲を蕩尽しましたが、倭人伝」ほど誠実に調整された文書を、真っ直ぐに解釈できないようでは、混沌と言いたくなるような国内史料の解釈、考証など、満足に行くはずがないのです。相当の勉強不足と見えます。
 本書を埋めていると見える広範な議論も、希薄な受け売りで埋められて見えます。はったり半分でも良いから、自分自身で丁寧に検証した、きっぱりした主張が必要です。
 いや、本書のあるいは中核かも知れない国内史料、考古学所見、現地地理などは、当記事筆者の倭人伝専攻宣言の圏外と敬遠した次第です。

*業界の現状 余談
 本書著者にご迷惑でしょうが、本書の評価が順当にされないのには、理由があるのです。世の中は、国内史料解釈で「目が点」の諸氏が、「倭人伝」二千字の解釈に失敗して、史料が間違っている、「フェイク」だと声を上げているのです。
 また、読者自身の持つ所在地論に反するものは、はなから間違っているという横着な判断が横行して、そうした不動の信念に従わない倭人伝は、「フェイク」視されているのです。いや、釈迦に説法でしょうか。

 普遍/不変の法則として、どんな分野でも、新説、新作の九十九㌫は「ジャンク」ですが、全体として実直な著作が、目立ちたがりで、トンデモ主張展開の「ジャンク」記事、「ジャンク」本の紙屑の山に埋もれてしまうのは、もったいない話です。

*まとめ
 折角の新刊ですが、「基本資料である倭人伝と従来の解釈を把握し、課題となっている諸事項を取り出し、それぞれに解を与える」と言う大事で、不可欠な手順が見て取れないので、既存諸説の追従としか見えないように見えてしまいます。

 また、著者が整然と理解してなければ、図示に意味がないと理解いただきたいのです。もっとも、著者の構想を図示した図がほとんど見当たりません。

 (概念)図は、読者の知識、学識次第で解釈が大きく異なるので、学術的主張に於いて論拠とすべきではないのです。図やイメージは、あくまで文書化された論理の図示という補助手段に止めるべきです。古代史分野では、読者の誤解を誘う、いい加減な図(イリュージョン)が多いので、そのように釘を刺しておきます。

追記 基礎の基礎なので、本書が依拠した無法な巷説を明記します。
 三国志の「蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」」に、「鴑牛(どぎゅう、*人のあだな)一日三百里を行く」とあり、三国志の時代の標準的な陸行速度は、「1日あたり三百里」だった。

 同「史料」は、そもそも、慣用句、風評であり、「三国志」本文でなければ、考証を経た史書記事でなく、まして、魏志でなく別系統の蜀志への付注に過ぎません。裴松之が補充したとされていますが、厳密に史料批判されたものではないので、もともと、陳寿が、一読の上、排除した史料かも知れないし、裴松之も、本件は、陳寿の不備を是正する意図で、補追したものではないと見えるのです。この点、世上、裴注の深意についてね不合理で勝手な憶測が出回っているので、苦言を呈しておきます。

 里制は、万人衆知の上で普遍的に施行されていた国の基幹制度であり、周代以来一貫して施行された確固たる制度なので、一片の噂話で証されるべきではありません。つまり、「三国志」の時代の国家「標準」を示すものではないのです。

 ついでに言うと、蜀は、公式に漢を名乗っていたように、劉備は、高祖劉邦以来続いていた漢の天子であり、当然、 後漢諸制度を忠実に受け継いだのであり、不法にも後漢を簒奪した逆賊「曹魏」の不法な制度に追従することなど、天にかけて、断じてあり得ないのです。

 この種の論考は、無意味であり、さっさと棄却すべきです。

                               以上

2022年4月20日 (水)

新・私の本棚 古田史学論集 25 谷本茂 「鴻廬寺掌客・裴世清=隋煬帝の遣使」説の妥当性について

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て ★★★☆☆ 無用の深入りの感         2022/04/18 

○はじめに~伸びた鎖の危殆
 当論は、丁寧であるが、核心を離れ不確かな末節に囚われた感が勿体ない。
 古田武彦氏は、好著「古代は輝いていた3」で、隋書「俀国伝」/書紀「推古紀」の不整合論について、隋書原点への回帰を宣言したが、それ以降、依然として、「推古紀」の「妥当性」検証に陥っていると見える。当方は、一介の素人であるが、古田氏の趣旨に沿って、明解な判断を示そうとした。
 以下は、当ブログ過去記事に、(当然)重複するが、「俀国伝」起点の書紀「推古紀」評価により、「推古紀」の不備を露呈して、端から門前払いしてみせようというのである。

*本体部分~「推古紀」の重大な誤記と捏造
 ⑴ 「推古紀」は、「隋」を「唐」と誤記している。
 ⑵ 「俀国伝」は、隋使「文林郎」と明記し、「推古紀」は誤記している。
 ⑶ 「俀国伝」は、隋使・遣隋使非同行とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑷ 「俀国伝」は、隋使は隋国書不持参とし、「推古紀」は誤記している。
 ⑸ 「推古紀」は、遣隋使が訪百済時に隋国書を略取されたと捏造している。
 「推古紀」記事を不当とする理由を五点に絞ったのは、諸兄姉の諾否を容易にするためである。異論があれば、以上項目に反論していただきたい。

*補足説明~「推古紀」の捏造・改竄疑惑
 説明不足とのご意見が懸念され、補足した。論証厳密でないかも知れないが、根拠ではないので、末節の揚げ足取りはご容赦いただきたい。

 隋使来訪時の公文書記録は、存在しなかったと思われる。推古天皇の使節派遣時に、唐は存在せず「隋」と記録する。また、隋使裴世清は「文林郎」と偽りなく名乗るしかない。これらの事項に、誤記、誤解はあり得ない。

 先に述べたように、「日本書紀」編纂時、「推古紀」(編者)は、公文書捏造・改竄の重罪を犯しているが、勅命に従い、文書を「復原」したので、免罪となったと思われる。

 中国史官は、「述べて作らず」を遵守するから、このような際には、「推古代公記録は存在せず」と明記した筈だが、書紀編者は中国史官でなく、創作の「不可能使命」に応じたと見える。ただし、手ぶらで創作できないから、典籍、例えば、四書五経、史記、漢書、春秋を引用したものの、肝心の隋書は入手できなかったと見える。
 先に挙げた事実関係の不具合が是正されていないという事は、「推古紀」は、「俀国伝」を参照せずに創作したと見る。

 以上は、強固な物証でないが、強固な「状況証拠」で克服困難と見たものである。「俀国伝」入手時、「書紀」公開後で訂正不可能だったと見られる。

 従って、隋使関連記事は、専ら「俀国伝」に依拠すべきである。

*古田氏の悔恨
 古田武彦氏は、自認したように、「俀国伝」と「推古紀」の融合によって、史書「書紀」の面目回復を図り、かえって揚げ足取りの餌食となって、本来明解な論議が混濁したのである。

 かたや、「推古紀」支持者は、『奈良盆地発の倭国東アジア「外交」』なる古代浪漫を高々と謳歌して「推古紀」を金科玉条としている。本来「古代に真実を求める」「俀国伝」考察は、これを後押ししているのである。

 隋書「俀国伝」優先の古田氏提言は、一見、原史料尊重の古田氏信条に反すると見えるが、実は、あらゆる古代史史料は、中国史書基準で史料批判した上で、採否を決するべきである、と言う史学大原則に沿うものと思われる。

 以上は、諸兄姉に「安易」な議論と見えても、本来、真理は、核心に於いて明解、安易である。

 史学素人の素人考えで、そう思うのである。
                               以上

2022年4月11日 (月)

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 1/2

 監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。  2022/04/09 追記 2022/04/11

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として、謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路記録はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

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*憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く。

 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。確実なのは、「北九州」発であり、古代の多方面に通じていた船路の要であった一大國、壱岐を通過しないのが、意味不明である。
 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、沖合を通り抜ける意図が不明である。「沿岸」は、百済の陸地であるから上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。
 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。また、新羅海港と登州海港を連絡する航路は、新羅の管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。
 そこから、わざわざ海船で河水河口に取り付いて、そこから河流に乗り入れ遡行する航路など、あるはずがない。素人目にも、つじつまの合わない絵解きである。

 そもそも、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことはあり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りて、きれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたようなつぎはぎの船旅は無茶である。百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。
 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 2/2

 監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。  2022/04/09 追記 2022/04/11

*「画餅」~根拠なき「夢想」疑惑
 河水河口部は毎年春先の氾濫で茫々たる泥濘で、海船乗り入れは無謀である。河口部を大きく避けて上陸したとしても、以後、現地川船で河水に乗り入れと見るにしても、なぜ、京師である長安/大興でなく、東都/洛陽に入ったのか。一部に新説が流布しているようだが、一般読者に対して説明不足である。


*合理的な推定~国使の行くべき「道」
 以上の難点を見た上で、九州北岸からを旅路を見なおすと、倭人伝以来周知の壱岐、対馬経由の半島への渡海/水行は、便船豊富で「銭」で雇えるし、上陸後は、古来内陸街道が常道、既知であったので、ここも何の迷いもない。方や、壱岐から転じて南岸西岸沖合航路は、以上説いたように、にわか作りに違いない倭船にとって、不案内で、とても行き着けるものではない。
 どちらを行くべきか、明白ではないだろうか。特に、出発点が、本当に内陸の飛鳥であれば、海の長旅には、恐怖しか感じなかったと思うのである。

*「新羅道」提言~安全、確実、迅速、低廉な経路
 復唱すると、新羅街道「新羅道」は、古来整備されていた官道であり、半島の嶺東を北上して竹嶺で小白山地を越え、下山して西に向かい、西岸海港に出て、以下、渡船で登州に至る長丁場だが、新羅にお任せである。登州上陸以降、内陸街道は、人馬を要する移動も宿泊も「銭」で賄える。但し、このような安全、確実、迅速、低廉な経路も、倭と新羅の関係が険悪になれば、倭遣隋使の新羅国内街道通行が許されなくなる。もちろん、後年の遣唐使の大使節団も、同様に通行できないと思われる。
 以上が、本図航路に対する異議であり、反論があればお受けする。

*隋書無視に疑問~台所事情の苦渋か
 氏の論議は、信頼すべき隋書を無視しているが、国書交換など、世上の遣隋使論に整合しない「隋書」俀国伝を無視したと思われる。「『日本書紀』の記事が事実とすれば」と書く氏の苦渋を察して、これ以上は深入りしない。
 舊唐書、新唐書どころか、古田武彦氏著作も参照していないが、以下同文。

                                以上

  追記:「隋王朝(7世紀)」の無残 (2022/04/11)
 ついつい、地図の疎漏の指摘で、精力と注意を削がれて、肝心なことを取りこぼし、書き漏らしたので、仕方なくここに追記するが、実は、一番無残なのは、この表現である。

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 隋は、一般に581~618年の期間存続したとされていて、別に、七世紀べったりではない。むしろ、七世紀の主要部は、唐にとって代わられているのである。正直に書くなら、七世紀初頭と言うべきだろう。それにしても、隋代、グレゴリオ暦による世紀の数え方が、隋に届いていたと思えないので、「七世紀」の当否を煬帝の霊魂に問い質そうにも、飜訳/通訳の仕様がないのである。史学会には、当時の教養人に理解できない言葉や概念は避けよ、と言う箴言があると聞いている。それにしても、この失態は、一言で言えば、杜撰を越えて無残な誤記である。

 さらに言うなら、六百六十年代には、唐の征討軍により百済、高句麗が、相次いで撲滅され、この図は、全く無意味になっている。氏が、どういうつもりで掲載したのかというと、単に、裴世清来訪時の諸国形勢を書きたかっただけではないのだろうか。と言わないと、何も言い訳ができないことになる。不確かな推定を、立派な地図にしてしまったために、アラが目立つのである。

 と言うことで、折角、国内古代史について、造詣を深めているのに、同時代の中国、朝鮮方面については、全く素人だと露呈している。それにしても、氏の周囲に、誰も「助言と支持」を与える知恵袋はいなかったのだろうか。出版社の編集担当からの助言もなかったのだろうか。いかに「細瑾」とは言え、重大な「躓き石」があからさまで、勿体ないことである。

この項完

2022年4月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 ブラタモリ 「日本の構造線スペシャル 〜“構造線”が日本にもたらしたものとは?〜」

 2022/04/02初回放送            初稿 2022/04/06

◯はじめに
 今回の題材は、NHKGの名物番組「ブラタモリ」の後段で「中央構造線」について述べられた際に特に言及はなかったようだが、当ブログの倭人伝道里行程記事番外で、筑紫からの経路で、現代の日田、湯布院から大分を経て三崎半島に「渡海」、「水行」する、多分珍しい解釈と整合すると見えたので、本稿をまとめたのである。
 例によって、当記事に確たる証拠はなく格別の効用を期待されても困る。

*宇摩「邪馬台国」説~後漢書頼り
 古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 序章 1/5 追記

 ぱっと見、当ブログの倭人伝解釈に整合しないので、宇摩「投馬国」説と言うべきところを、俗受け狙いで粉飾して、五回連載となったものである。いきなり悪評を買って、「フィクション」に逼塞しているが、一応、それなりの根拠がある推定である。

 堅実な議論に戻ると、「投馬国」は「大海」燧灘に面し、西から来た「伊豫路」の終点で、東の峠越えで吉野川沿いに撫養に至る「阿波路」と東北に備讃瀬戸を吉備に渡る「讃岐路」と四国山地鞍部を南に越える「土佐路」の四路が「一に都(すべ)て会」した「一都會」(漢書地理志)と思える。

 もともと、古典中国語で言うと、「都」は、ものと人の往来が集まる要所(扇のかなめ)に王の住まう「王城」の地であるから、陳寿「魏志」倭人伝ならぬ范曄「後漢書」の大倭王居処「邪馬臺国」を比定できるはずである。後漢書に、投馬国などが出てこないのは、かなり苦しいが….。
 付随論で『伊都国から投馬国へ南水行二十日』は、倭人伝記事の読み方に慣れがいるので、現代人が普通に読むと迷走する。と言うことで、倭人伝談義に迷い込むので、無関心なら飛ばしていただいても結構である。

*「倭人伝」投馬国行程の話
 本行程の「従郡至倭」で郡倭途中の渡海を「水行」と呼ぶ新規用語「定義」に続いて行程記事である。范曄「後漢書」郡国志は、洛陽~遼東郡~楽浪郡が街道五千里であり、楽浪郡/帯方郡は端数で無視し、以降、狗邪韓国までは、無論街道行決まっていて「水行」は論外・無法である。
 大海中山島への行程であるから、渡海、「水行」を予告しているから、狗邪韓国で海岸に出て、計三度の「渡海」の後、末羅国で上陸し、「陸行」するのは、倭街道が本筋であり、後に、脇道の投馬国行程を加筆したので、誤解を避けるため、倭地の女王国に至る島伝いの区間道里を「周旋」五千里と回顧・総括している。皇帝閲読の際に、巻子は巻戻せないので、工夫しているのである。
 投馬国まで途中で渡海があるから、本来『「水行」を含む陸行』を所要日数二十日の「水行」としている。伊都国道標には「南投馬国」と明記されていて、倭街道は、伊都国から南に進み、日田で東に転じて大分の海岸に出たが、投馬国は、脇道であって「至倭」道里には関係無いので、日数表示を略載したのである。

 大分から目前の三崎半島は、お馴染みの千里渡海である。渡海に日数はかからないが、行程全体を、総じて「水行」(が特徴である行程)二十日としたのである。と言っても、郡から投馬国に文書で指示を出して、文書による復唱の期限を厳命することはありえないので、ゆるやかなのである。

 以下、三崎半島を東に向かい、ひたすら、ここで言う「山一道」を進むという説である。繰り返すが、この行程は脇道なので細かく示さないのである。
 何しろ、「水行」が定義外の船舶航行なら、食料、水を積み込んだ長旅で、渡船では耐えられないが、提案の渡海なら、手漕ぎで乗りきれるのである。
 と言うことで、言わば、状況証拠で固めたので、脇道論としたのである。

*「山一道」の話
 太古、瀬戸内海の海上連絡が通じてない頃、四国中部山中を中央構造線沿いに東西に通じた「山一道」が本稿主旨であり、他に東西交通経路が一切無かったという主張ではないので、一考していただければ幸いである。
 今回のブラタモリ「構造線」談義で失望したのは、「中央構造線」が、「フォッサマグナ」の付けたりで終わった点である。今後の「ブラタモリ」で、「このみち」が、「いつか来た道」として追求されるかどうか不明である。
                                          以上

2022年4月 5日 (火)

今日の躓き石 囲碁界の悪弊か、主催紙の混迷か、本因坊の「リベンジ」宣言か

                        2022/04/05
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版「総合・文化」面の本因坊戦挑戦者決定報知である。主催紙としては、挑戦手合いへの先触れであり、大変重要な位置付けと思うのだが、最終部分に書かれた暴言が全てをぶち壊している。

 多分、署名した記者の創作なのだろうが、自紙の金看板たる本因坊が、直前の他社主催棋戦でタイトルを失ったことに対して、重大な恨みを持って、今回は、血の報復を目論んでいると、わざわざ報道する意図が不明朗である。本因坊は、どす黒い復讐心をかき立てないと、手合いに臨めないような心構えとみているのだろうか。いや、そのように報道することが、自紙の品格に傷を付けるとは思わないのだろうか。二人がかりで、このようなお粗末な下馬評記事を書くとは、困ったものである。なぜ、「棋界最高タイトルに、さらに栄誉を重ねたい」などの格調高い言い方ができなかったのだろうか。言うまでもないと思うのだが、「リベンジ」は、知勇訳聖書で厳禁されているものだから、キリスト教徒以外にも、回教徒にとっても、罰当たりであり、それ故、天の裁きの代行として、報復テロを正当化しているものなのである。

 いや、当世は、若者にはやっている「ダイスケリベンジ」が大安売りで、むしろ、気軽に罰当たりなことばを口にする原因となっているのだが、当記事は、「罰当たりな」若者ことばを知ってか知らずか、テロリスト紛いの永久復讐戦思想が語られているのである。カタカナことばの不確かな理解を、勝手にこじつける言い方と理解して書いているのだろうか。

 毎日新聞は、天下随一の名声を持つ全国紙であり、当記事は、そのような権威にもたれかかると言うより、ぶち壊すものになっていると感じるのである。

以上

2022年4月 3日 (日)

今日の躓き石 NHKBS1 「トレールランニング」の「リベンジ」蔓延防止 まだ遅くないか、もう遅いか

                                                     2022/04/03

 本日の題材は、「トレールランニング」なるスポーツの参加者の発言であった。随分苛酷な耐久走だし、尊敬に値するフェアなスポーツだと思っていたのだが、「リベンジ」発言があって、幻滅した。どうも、山間疾走で、人目のないところがあるから、時には、身体攻撃があって、仕返しがある世界と聞こえた。それにしても、NHKが、そのような危険な発言を無修正で流すのには、恐れ入った。
 公共放送は、受信料の一部を投入して、身体を張ってでも、問題発言を阻止するものではないのだろうか。英語の国際放送で流れたら、盛大に顰蹙を買うこと必至である。

 選手が、「やった」、「やられた」、「やり返す」、「血祭りに上げてやる」などと公言する野蛮なスポーツは、こどもたちが真似しないように、放送から外すべきではないだろうか。

 報道するというのは、泥まみれ、血まみれの事実をむき出しに放送することでは無いと思うのである。少なくとも、今回の放送の分は、受信料を返して欲しいものである。

以上

2022年4月 1日 (金)

今日の躓き石 NHKBS 「ワースト」シーズンの始まりか、改善のシーズンか

                         2022/04/01

 いよいよ、MLBのシーズン開幕が近づいて、NHKBS1の看板番組の開幕が先行している。

 今年気づいたのは、「ファイブツール」の紹介により、「オールラウンダー」なる、罰当たりで「借り物」のデタラメカタカナ語を、MLB解説の世界から葬り去ったということである。いや、“Die hard”に、比較級、最上級があるという説に従うと、まだ、端緒についたに過ぎないのであるが。

 つづいて、「セットアッパー」追放の気概が明言されたのだが、これは、コメンテーターが、ずぶりと蒸し返して幻滅だが、多分、再発は防止されるものと期待している。少なくとも、NHKBSの本体では、罰当たりな失言は消滅するものだろう。

 因みに、当番組のタイトルの発声の批判は、別に「ナイトメア」、いや、”Night Mayor”、「闇市長」を気取っているわけでは無い。単に、発音が幼くて、スポーツの”P”音が、正確に破裂音に聞こえないだけである。「ワースポ」なんどという英語は無いから、よほど丁寧に発音しないと、善良な視聴者の耳に入らないのである。恐らく、キャスターは、正確に発音しなくても叱られないのだろう。何とか、自覚して欲しいものである。

 それはそれとして、選手発言やら、背景の語り手が、なぜ、無神経に「リベンジ」「同級生」と怒鳴り散らすのか、理解に苦しむ。それとも、関係者一同、言っても治らないと見放されているのだろうか。

 と言うことで、やかましく言っても、なかなか通じないので、しつこく言うのだが、公共放送の務めは、罰当たりなことばの蔓延を、少しでも減らすことにあるように思うのである。別に、大金を投じて「ことば狩り」しろというのでは無い。これ以上、罰当たりな「カタカナ」語の蔓延を防止するように、各人が各人の務めを果たして欲しいだけである。

 因みに、今回、週末回で起用された新人は、口調が平静で、キッチリ「子音」が発言できていて、安心して聞き流せるのである。年寄りは、とかく耳が遠いから、くっきり話して貰わないと、ことばが耳に入らないのである。と言って、大口を開けろというのではない。普通の口元の動きで、きちり発音できるのが、「弱者」に優しいプロと思うのである。

以上

2022年3月26日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 「圧巻」の剛腕エースの暴言「リベンジ」の蔓延 

                     2022/03/26
 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版「スポーツ」面のプロ野球戦評である。昨シーズンの大活躍に続いて、「チームに12年ぶりの開幕戦勝ち星をもたらした」と絶賛なので「気合を入れ」たことについて、別に何も言う事はない。
 ところが、ひと息入れた後「リベンジの意味で強い気持ちを持って投げた」と、とんでもない暴言で全てぶち壊しである。自分で自分の顔に泥を塗っているのだが、こういう見苦しい談話は、オフレコに願いたいものである。誰もが、言葉遣いのお手本としている全国紙に、このような無様な発言が出ては、こどもたちが真似するので、大変困るのである。

 一流プレーヤーは。一流の談話を期待されているのだが、この「リベンジ」は、球界で広く蔓延している「ダイスケリベンジ」でなく、前時代の忌まわしい、血塗られた暴言である。とんでもない失言であるが、それを麗々しく取り上げた記者の書きぶりは、とんでもない失態である。全国紙の紙面にあってはならない、テロリスト紛いの発言は、報道すべきではなかった。

 それにしても、一流選手が、相手チームの投手に向けた個人的な恨みを動機に闘っていたとは、困ったものである。大事なのは、チームの勝利ではなかったのだろうか。何より、自分一人の勝手な感情で闘われては、大変な迷惑である。選手達は、そのような目先の復讐心を糧にしないとマウンドに立てないのだろうか。

以上

 

 

2022年3月23日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞 シドニー便り 見出しで選手に泥塗る「リベンジ期す」

                          2022/03/23

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面で、W杯豪州戦の前祝いの筈なのだが、一選手の個人的な感慨をでかでかと書き立てる記事であり、「リベンジ期す」と大見出しにしても、何も読者に通じない暴言を見出しにしているのは、何としても、不都合な暴走である。

 大体が、日本代表が勝ち進むことが、唯一最大の目的であるべきなのに、個人的な復讐心をでかでかと書き立てるのは、全国紙の報道姿勢として、大いに疑問である。しかも、記事を読んでも、選手が、誰を復讐の血祭りに上げようとしているのか不明では、「金返せ」である。
 少し読むと、どうも、2018年大会の予選のオーストラリア戦で、召集されなかったのを恨んでいるようだが、それなら、当時の指導者をぶちのめすべきである。いや、せいぜい、今になって見返してやると言う事でしかなく、復讐の血祭りに、オーストラリアチームや現在の指導者を的にするのは、見当違いである。その程度の区別がつかないとしても、選手として、場所柄に相応しくない言動は控えるべきである。こどもたちが、わけもわからずに真似するのである。

 それにしても、全国紙記者ともあろうものが、選手の不穏な言動をそのまま報道するのは、どういうつもりなのだろうか。それが、毎日新聞スポーツ報道の党則なのだろうか。

 真剣に言うと、選手の真意は、そのような暴言にはないはずである。適正な報道で、選手のスポーツマンシップ、不屈の努力を讃えるのが、報道の本道ではないだろうか。それとも、記者は、絶えず、誰かに恨みを抱いて生きているのだろうか。
 それとも、南半球で、季節と重力方向が逆転して、頭に血が上ったのだろうか。(苦笑)

以上


 

 

2022年3月22日 (火)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇魏志「倭人伝」道里記事考察
 当記事は、魏志「倭人伝」冒頭の郡を発して倭に至る「従郡至倭」の行程は海を行かないという話です。(三千里の渡海は除きます。魏使の行程と書いたのは、紛らわしいので、倭人伝の表現に戻しました 2022/03)
 当ブログは、倭人伝論議に珍しく、後代史料は、まず史料批判しています。 ただし、倭人伝解釈に後代資料を援用するのには慎重ですが、それは、頭から信用はしないと言うだけで、厳格な史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは避けていないのです。(2020/11/15)
            現代中国語で公里は㌖です。

〇間奏曲 隋書・唐書
 倭人伝の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 隋書は百済・新羅から水陸三千里とします。古田武彦氏は、三千里は新羅南端と倭北端の渡海とします。「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 舊唐書は隋書の三千里を書かず、倭は京師を去る一万四千里としています。
 倭人伝里程を維持したのか、倭人王城をどこに見たのか微妙なところです。
 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、隋書、舊唐書、新唐書は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 言い足すと、これらは、別に、三世記の魏使の移動経路を論じているのではなく、公式経路の公式里程を述べているものです。

〇新唐書地理志 入四夷之路
 新唐書地理志によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。
 日本国は絶海の地で交通がなく、東夷の最果てとして、新羅慶州(キョンジュ)が報告されています。平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。この時代、往年の高句麗(高麗)のあとに、「渤海」国が半島中南部の新羅と南北対峙し、東夷の北端渤海国王城も、登場しています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで、鴻廬の記録から消えたと言う事でしょうか。もちろん、正史の訂正、改竄は、あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。
                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 四夷に至る路は七路に大分され、東夷は、一「營州入安東道」により往年の遼東郡に近い渤海湾岸営州から安東府を経るか、二「登州海行入高麗渤海道」により山東半島登州から渡海し、渤海(新羅と半島を南北二分)などへの経路を経るかいずれかで、以下に引用しますが、具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城,城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。乃南傍海壖,過烏牧島、浿江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島。千里[去](至)鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城。
 自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城。

 鴨緑江河口部を去る一千里の唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城(慶州 キョンジュ)まで東南陸行七百里は、現代地図で一千公里程度と思われます。これは、唐代玄宗期に確定された官路里程です。
 発進地である登州府は、山東半島を管轄した登州の首都で、半島北端に位置しました。西は渤海湾沿岸、北は半島沿岸、東/南は、郎邪から南に江東を経て、広州から南海に至るようです。
 登州から遼東半島への経路は渤海列島に恵まれ、最初に確立されたと思われます。後年、南の平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)付近が良港と評価され、航行が活発になったようですが、半島西南部は見えません。
 山東半島の東の最果ての岬、成山角には、始皇帝や徐福が訪れたという記録が残っています。目前の半島を無視して、どこへ行ったのでしょうか。
 倭人伝と時代が違うので、海船による移動は、「海行」と明記し、以下、「過大謝島」などと通過地を列記した後「得..長口鎮」などと到着地と里程を記しています。中継地は公式経路の海港と言うことです。河川航行かを問われる「水行」はなく、河川航行は、溯流し至る。などとしています。
 つまり、仁川(インチョン)付近唐浦口から新羅王城まで東南陸行八百里とし「水行循海岸」する行程は、存在しなかったのです。

 唐恩浦口から新羅王城まで、帯方郡時代以来の公式街道であり、道里は「道のり」と見て現代地図で推定すると、小白山(ソベクサン)を竹嶺(チュンニョン)で越えても四百㌖(公里)程度と思われます。(訂正 2020/11/15)

 追記:「海行」は、山東半島から対岸への「渡船」です。(2020/11/15)

 追記:「千里至」鴨淥江は「千里去」の誤写です。登州から渤海王城に至る報告の付け足しで、鴨淥江口から千里の唐恩浦口から七百里と解します。

                                未完


倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新唐書地理志 入四夷之路(承前)
 いずれにしろ、鴨緑江口からの海行千里は、報告者の実測でなく、現地人の報告に基づく大雑把な推定であっても、慶州への陸行七百里は、官道として長年の実績があり、実務に基づく正確なものと見るべきです。郡から狗邪韓国まで七千里とした倭人伝「道里」は、この陸行里数とは別次元の里数ですから、「混ぜてはならない」危険なものなのです。

 実際に登州から新羅王城に赴く際は、鴨緑江河口部経由の海行一千里の大回りでなく、唐恩浦口に直行したと見受けます。また、同経路は、新羅と青州の間の交易船の航路でもあります。
 慈覚大師円仁の残した「入唐巡礼行記」には、登州に「新羅館」なる新羅在外公館が設けられていたと記録されていますから、隋代から当時に至るまで、新羅の仕立てた便船が往復する主経路だったのです。日本の遣唐使も、新羅との友好関係が維持されていたら、半島内陸行、海峡渡船、大陸内陸行という、安全で迅速な経路が利用できたはずです。
 唐代玄宗期の官制経路と里程ですが、過去に遡って推定可能な堂々たる史実です。この行程が、新羅遣唐使経路になったのは、古来、街道として宿駅まで整備され常用されていたからと思われます。新羅遣唐使の永川から忠州を経てら海港への経路も、楽浪郡、帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は使節宿舎を含め、一級官道整備されていたと思われ、対岸の登州には新羅館もあったとのことです。

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの「新羅遣唐使研究」によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港へ陸行し登州に出港です。忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内七百里の陸行です。当ブログで常用の普通里概数である一里四百五十㍍で、300㌔㍍(公里)となります。

*倭人伝道里記事考証
⑴魏使来貢 行程考証
 魏使が、登州から渡海して牙山到来したとすると、上陸後は、東行して清州を経て、竹嶺(チュンニョン)鞍部で小白山(ソベクサン)分水嶺を越え、洛東江上流忠州から洛東江沿いの陸行が、狗邪までの常道と見えます
⑵帯方郡官道 行程考証
 「従郡至狗邪韓国」として、帯方郡を発する場合は、まずは陸行東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を陸行し、あるいは、陸行の一策として川船に揺られて南下して南漢江との合流部から南下遡行して、高度を稼ぎつつ南漢江中游(中流)の要地清州で合流したと見えます。
⑶清州狗邪韓国官道 行程考証
 清州から狗邪韓国に至る経路は、帯方郡の視点では、自明であったので、韓伝ならぬ倭人伝は「歴韓国」にとどめたものと見ます。
 このように、清州(チョンジュ)は、河川、街道交通の要所にあったことを反映したものと見えます。つまり、街道沿いに宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、新羅繁栄の根幹、基礎となったと見えます。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

〇新羅遣唐使研究~従郡至狗邪韓国の推定(承前)
 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。
 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていたのです。一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、同列に見るべきではないのです。

〇遣唐使「新羅道」談義~余談
 初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているので、半島内は、新羅官道を通り新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。
 多分、その時期、両国は友好関係で、新羅遣唐使に随行して官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗できたはずです。新羅道は、内陸だけでなく、登州への渡海も含めて、新羅が管理していた経路という事です。
 官道宿舎の寝床は嵐で揺れず、新羅貴人のご相伴で、地域の新鮮な食事を愉しんだと思えますし、渡海は、そこそこ大型の帆船の手慣れた運用に身を委ね、手短で難破の危険もなく、ゆったりした船室であり、揺れで転げ回ることもなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。
 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で「大船」を造船して、東シナ海越えに挑み、半数が難船となる難関とせざるを得なくなったものと解されます。こうして回顧すると、当時、新羅との間に「外交」関係は維持されていなかったものと見られます。(2020/11/15)

 因みに、対馬、壱岐を歴る渡来は、魏代以来の手慣れた経路でした。

*「仮想」魏使航海記~余談
 因みに、倭人伝談義で起用される「仮説」で、三世紀に仮想されている魏使一行の手漕ぎ船は、漕ぎ手の負担を軽減するために、随分小型なものであって、旅人も荷物も、甲板や船室のない筏同然の渡し舟で吹きさらしであり、いくら、後日の海峡渡海に比べると波穏やかであっても、所詮、小船で動揺が激しく、おちおち座っていられない、すさまじいものだったはずです。
 当然、船上泊はできないので、日々下船して休養し、乗り継ぎ、漕ぎ継ぎで、長旅となったものと仮想されます。いや、乗り継ぎであれば、船員、漕ぎ手は交替するのですが、旅人、行人は、公務で船賃はいらないものの、延々と乗りっぱなしで、道中、生きた心地がしなかったはずです。

 もちろん、大抵の官人は船酔いで、果てしない苦行であり、生死の境を行くものだったかも知れません。後世の論者は、別に実体験を迫られたわけではないので、平然と「仮想」していますが、当時の使者の視点で事態を眺めると、このような「仮想」は、数日と続かないで破綻すると見えます。
 言い足すと、「仮想」の魏使は、貴重で厖大な宝物と同行であり、一体、何十艘仕立てで潮風吹きさらしの闇路を進んでいたのか、気の毒です。荷物は、一応覆ったとしても、防水完璧の筈はなく、大丈夫だったでしょうか。
 いや、本稿では、余談ですが、事のついでです。(2022/03/17)

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 5/7 改頁 唐書地理志談義

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〇新唐書地理志再論
 新唐書地理志に見られる鴨緑江河口部を去ること一千里の仁川(インチョン)付近の海港唐恩浦口から新羅王都までの陸行七百里は、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たと見られます。各地は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。
 韓国国内地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難で推測に止めますが、あくまで半島内陸行で沿岸航行を含まないのは明瞭です。

 隋唐代の裴世清や高表仁の来訪は、山東半島の海港から大型の帆船であり、裴世清の泗沘訪問を除き、無寄港に近いと見えるので、先に挙げた官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)
 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 倭人の道は「水行」と定義した「渡海」以外は、海を行かなかったのです
 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(668年頃-900年頃)に遣唐使が陸行したからには、倭人伝の帯方郡時代(三世紀前半)も、当然、半島陸行が唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。
 魏の当時も、隋、初唐期も、公式経路は、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進み、沿岸航行など到底あり得なかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 倭人伝原資料を帯方語で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。
 目下の最終読者は現代日本人で更なる誤解は避けられず、さらには、古手の「日本人」が理解に苦しむ当世言葉の世界なので、何をか言わんやです。

追記:
〇事の発端 2022/01/16
 以上は、初出時の道里観でまとめたもので、今回編集したものの、目下の意見と異なる点があることをご理解ください。
 倭人伝冒頭部の道里行程記事の主要部は、魏使訪問以前に書かれたと見えます。つまり、倭人を鴻臚の四夷「台帳」に登録する際に、必要項目として、国名、王名、王城名、道里、戸数などが必須であったので、倭人の申告を参考に上申したと見えます。地域概念図(旧圖)まで出したかも知れません。
 魏使派遣の際、行程概要を上程する必要があり、全行程万二千里、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が計三千里までは承認済みで、街道完備のあかつきには四十日程度と伝えていたはずです。

 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると、「出張期間が不明では出張承認が下りない」ので、明帝没後とは言え「倭人王治まで万二千里は、『周制』に倣った形式的なものである」ことは、関係者に通じていたとみるのです。そうでなければ、魏志を上程しようにも、倭人道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、倭人伝は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 6/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*「所要日数」談義~半分余談 2022/03/17
 ここで念押しすると、魏使として東夷の王城に派遣されるからには、「倭人」に至る「全里数」と「所要日数」は、派遣に先立って皇帝の目に届いていたに違いないのです。
 帯方郡の趣旨としては、当初報告した「全里数」は、道中の行程里数ではなく、太古以来の伝統的書法に従い、天子の権威がかくも遠隔の地に届いているという表明だったのですが、結果として、里数が一人歩きして、途方もない遠隔地と理解されてしまったのです。慌てて、「所要日数」を示し、魏使が数ヵ月の日程で往還できる程度のものと訂正を図ったのですが、何しろ、「全里数」は、先帝明帝の御覧を経て、帝紀に記されてしまったので、書き換えすることができなかったという推定です。

 魏使出発の正始初頭、皇帝は新帝曹芳であり、先帝の詔は堅持するものの、本質的に所要期間八十日の派遣であって、片道万二千里の往還行程とは見ていなかったのです。
 街道、宿場の整備された魏の圏内でも、一日の行程は、五十里が標準/必達であり、片道万二千里は、片道二百四十日の遠路であり、往復するとほぼ五百日、一年半を要するので、とても、大量の下賜物を抱えてたどり着ける場所ではないのは、誰の目にも明らかだったのです。いや、「所要日数」は、身軽な「文書使」が余裕を持って達成できる「標準」日程だったのですが、重荷を負った使節団と雖も、倍の日数は要しない程度の分別はあったはずです。

 参考までに同時代の公式論議の事例を確認すると、景初の公孫氏討伐の軍議では、洛陽から遼東郡治まで道中四千里を百日行程の行軍と見た論議がされ、「往還に二百日、現地の戦闘に百日を要すると見て、計一年以内に片を付けます」との司馬懿の進言が採用され、必要な大量の糧秣が調達、輸送手配されています。肝心なのは、所要日数が第一とわかります。もちろん、これは、概数に基づく論議ですから、一里、一日単位の精密なものではないのですが、概数だけに、大きく逸脱しない確かさを持っているのです。何しろ、洛陽から遼東は、秦代以来の官道であり、要所に関所や城塞が置かれて、食糧補充にも間違いはなかったのです。

 念を押すと、本稿含め、当ブログの記事は、史上唯一中原全土で通用していた「普通里」(四百五十㍍程度)を堅持し、以上のように、筋の通った(reasonable)解釈が成立しているのです。読者諸兄姉の御不興を買ったとしても、しっかり筋が通ると自負しているので、感情的な発言はご容赦いただきたい。

▢参考資料 専修大学東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 「遣唐使の経路」
 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の唐津(タンジン)から出航して楚州に上陸することになる。

▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代では、山東半島地域です。

▢東莱郡 (中国)  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらいぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 7/7 改頁 唐書地理志談義

2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16 2022/03/14~17

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と並ぶ東帝を称した齊は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島との海洋交易によって栄えたのでしょう。齊がこの地に封建される以前から、東夷は、南蛮交易の海船を作り出していたのでしょう。
 但し、海図も羅針盤も無い時代、島影のない海原を、安全に往き来する航海術はなかったので、東夷の「海路」、「海道」は、存在しなかったのです。

 因みに、長江で荷物輸送に多用された川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。まして、沿岸を曳航してくることはなかったのです。そうでなくても、渤海に論した各地には、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の搭載量が限られて長行程に耐えなかった時代、莱州から半島先端の登州を経て渤海列島を経て、遼東半島に到ったようです。どうも、漢城(ソウル)付近は、後背地に恵まれず、後年になって、市糴の便が生じたようです。
 と言うことで、後に、海船が長行程に耐えると、登州を扇の要として、遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へとの派生行程が生じたようです。重ねて、古来の齊「臨菑」は、四方の交通に恵まれ、一大集散地となっています。

 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、新造船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送の軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、楽浪・帯方両郡平定したとされ、その記録は、後の百済攻略に活用されたと思われます。

*景初の「ヒットエンドラン」
 いや、野球の作戦である「ヒットエンドラン」は、結構古い言葉ですが、元々、andで連ねられたHit「打つ」とRun「走る」は、一つのプレーとして行われると言うだけで前後関係を考えていないように、「叉」の文字は、二つの軍事行動が、洛陽の作戦指令で、ほぼ同じ時期に少し離れた地域で行われたと言うことをしめすだけで、細かく前後関係を問わないということのように思います。
 因みに、野球の世界では、「ヒットエンドラン」は打ってから走ると決め付けていて不正確だという意見が多いようですが、それは、言葉の意味を勘違いしているようです。いや、単なる素人の余談ですが。

閑話休題
 青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」の際の兵士輸送に起用されているので、それを機に、青州~遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪、帯方両郡への航路が確立されたと見えます。遼東半島平定後の新造海船は、諸方に払い下げられたと見えますから、以後しばらくは、船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域は危険この上もないので、進入できなかったのです。
 大型の帆船は、機敏な舵取りがきかず、舵取りに漕ぎ手を備えても手早く転進できず、水先案内が予告しない限り、安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の「邊防一」倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」とあり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、航路の無い海域を模索して「浮海」のあげく、風待ち、潮待ちのせいか、数か月後に倭に達したと追加し、「唐会要」は魔物や奇巌と書いたので、話半分としても、難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として「海路」と呼ばれたと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの内陸王城の海港に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討後、軍兵は帰還し、海峡を越えた大軍派兵と水戦は、再現不可能となったのでしょうか。新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸戦闘であり、莱州からの派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。
 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で、暦年重用された登州に渡海したのでしょう。

 いや、この海域に大型の帆船が、堂々と往来していて、金で雇えたら、日本の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。
                              この項完

2022年3月14日 (月)

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 1/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。

出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

▢はじめに
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人(風)であって、素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送で、広く取材した番組で司会者の含蓄のあるコメントに感心したものです。
 NHKは、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、ようやく新作にお目にかかりました。いや、一視聴者としては、大枚の制作費をかけて、ごみ情報番組を増やすくらいなら、何もしない方がましと思うのです。

 今回の番組も毎度ながら、背景に倭人伝刊本を大写しで見せながら、そこに書かれているはずの「邪馬壹国」、「壹与」を、現代創作の「邪馬台国」、「台与」と決め付ける定番手口に幻滅します。それほどではないものの、魏使来訪が海上大迂回になっていて、計算は大丈夫かな、ちゃんと史料を読めているのかなと心配しているのです。

 このように、まず最初に取り組むべき史料解釈の基礎固めが疎かなままなので、脚もと乱雑で、架空の論理を積み上げていくのは、「最新」の証拠や資料をもとに自説をこね上げる様子で前途多難です。二千年前の文書史料が、ろくに読めていないのに、何が飛び出すのか、剣呑な話です。

総論
 不吉な序奏から、意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向説陣営の広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 当番組は、討論でなく各論紹介と評価になっていて、改善が見られたものでした。

*碩学の晩節
 一番印象に残っているのは、最後に、纏向博士の石野御大(石野博信師)が「レジェンド」(博物館財貨)の立場から、静謐な託宣を垂れていたことです。当コメントは、氏の晩節を飾る明言と思うので、さらりと紹介すると、『「倭人伝」に書かれているという「邪馬台国」の所在について論議するのはこの辺にして、歴史を語ろうではないか』というものだと思うのです。

 纏向出土の土器も、全国各地から持参されたなどの年代物のこじつけ議論を去って、吉備から持参、あるいは、将来されたかと、穏当な推定はありがたいのです。
 それまで、「談合」とか「大乱」とか、それこそ、治にあって乱を求める議論が漂っていましたが、氏の齎した柄杓一杯の水で、全て鎮火した感じです。ただし、後進の方は、石野氏の木鐸を担うのは、自分たちだと自負して新たな火種を掻き立てていたようです。

 後継者諸兄も、三世紀における倭国広域連合「古代国家」の白日夢を、早々に卒業して時代相応の考察を進めるべきではないでしょうか。今からでも遅くないと思うのです。もっとも、ただの素人がここでいくら提唱しても、何の効果もないのでしょうが。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 2/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
 NHKオンデマンドで公開中  

〇激論なき「バトル」
 中でも、論者の発言に噛みついて、「卑弥呼、箸墓、台与の年代比定は既に確立されている」と強弁するのは、「サミット」に不似合いです。どこかの国の大統領の論争の際の振る舞いを真似たのでしょうか。困ったものです。

 考古学において、遺物、遺跡の交渉を堅実に積み上げて構築した世界観自体には、異議を差し挟むことは困難ですが、三世紀頃の文字記録は、遺跡から出土していないので、時代比定は不確かであるとの起点確認が必要でしょう。「医師よ自分を癒やせ」という感じです。

 それを、自説絶対と突っ張るのでは、議論が成立しないのです。それとも、番組紹介で言う「自説をぶつけ合う」とは、同士討ちのことを言うのでしょうか。

〇高価な纏向巨大建物幻想
 今回は、纏向遺跡の再現動画を上演しましたが、素人目にも、論議の場で不確実とされて反論できていない思い付き「仮説」を強引に絵解きしたのは、映像芸術以前に、考証の調わない虚構と見えます。
 いくら映像化に手間とカネをかけようと、時に、あいまいに「イメージ」ととぼけて呼ばれる絵空事は、事の実態を一切示さない上に、視聴者の感性次第でいかようにも解釈でき、あくまで「イリュージョン」(まやかし)に過ぎないのです。「仮説」は、論証するものではないでしょうか。

〇 見かけ倒しの運河構想
 例えば、運河に曳き船して荷を運ぶ図は、場違いです。そもそも、出土した水路跡を、運河の跡とみた時点で、勘違いが始まっているのです。
 素人でも、色々見聞しているとわかってくるものです。
 運河水運は、高低差がなく流速の無い水路が必要であり、つまり、等高線上に造成されるものなのです。纏向説では、河内平野から大和川を遡上し、奈良盆地内を纏向まで遡上する構想のようですが、そのように傾斜した水路の運河は、まずは流出が激しくて、さっさと露底し、運河機能を維持できません。

〇鯉の滝登り
 また、どう考えても、傾斜水路を漕ぎ上ることはできないので、人海戦術で曳き船する絵は、ごもっともの工夫でしょうが、話はここだけでは済まないのです。
 つまり、吃水の深い海船は大和川を遡上できないので、ますは、河口で「大きめの川船」に載せ替える必要があり、大和川の上流に向かうとしても、下流の「大きめの川船」は、浅瀬の目立つ急流を奈良盆地まで遡上できないので、柏原辺りの船泊で一旦荷下ろしして、身軽な小船「軽舟」に載せ替えるか、いっそ、陸揚げして、小分けし、人海戦術で背負子運びとするかということになるはずです。

 何しろ、船体は、堅固な木製であり、それ自体が結構な重量なので、急流を漕ぎ上るとか曳き船するとかしても、「ほとんど木造りの船体を運んでいる」ことになるのです。普通に考えると、船の滝登りは、大変困難(不可能)なのです。
 と言うことで、先に提案したように、小分けして、背負子で送り継ぎするのが、最善策でしょう。
 何しろ、背負子は誰でも担げるので、大勢を呼び集めて、時には、区間を区切って送り継ぐような人海戦術が成立するのです。

 して見ると、奈良盆地に運河を掘削しても、乗り入れる船がないのです。運河、曳き船となると、厖大な「物流」を予定しているのでしょうが、そんなに大量に、何を買い、何を売っていたのでしょうか。知る限り、纏向には物資の出入りが少なかったとも仄聞しています。どうして、足元を固めてから、描かないのでしょうか。国費、公費の無駄遣いとしか思えません。

 絵に描いた大量の荷物の実態は、何なのでしょうか。食糧とするのは、誠に不合理で、これほどの食糧を搬入しないと維持できない集落は、何をもって対価を支払っていたのでしょうか。

 と言うことで、上手にきれいに絵を描いても、現地、現物を写生した上でなければ、きれいな絵にはならないのです。

〇環濠と水路~「倭人在」、「国邑」の意義
 因みに、普通に考えると、水路の主目的は耕地の灌漑でしょう。それには、適度な傾斜、流速が必要です。治水というと、豪雨の際、環濠を遊水池にして、下流の氾濫を軽減する工夫が必要です。ため池が無い時代ですから、農業用水を貯水したこともあったでしょう。

 環濠の効用は、このように、水防や野獣除けが考えられます。広い眼で見るべきです。環濠は、しょっちゅう浚えないと、水草が茂り泥やごみで詰まるのです。唐古・鍵遺跡で百年以上健在であったら、ちゃんと維持管理されていたということであり、それだけでも尊敬に値します。纏向はどうだったのでしょうか。

 因みに、殷周を発祥とする中国古代では、「国」と言っても、国境一杯に勢力を示した領域国家でなく、例外なく隔壁で集落の外を囲い、隔壁内には、首長の親族の住戸を囲う内部隔壁を有した「国邑」、つまり、二重隔壁集落が「国家」の基本要件だったのです。ところが、倭人伝冒頭にあるように、「倭人」は「山島」に在るため、野獣は少なく、野盗の徘徊もなかったため、外の隔壁を省いて水壕や外海で囲われていたのです。
 僅かな字数で、「倭人」の王治所(王城)のあり方が紹介されていて、陳寿の筆の冴えを思わせます。(宮崎市定師の論考に触発された一説です)

 そのように解すると、「従郡至倭」の「倭」は、女王が住まう「国邑」であって、現代風に言うと五百㍍程度からせいぜい二㌔㍍程度四方の集落であり、それを、倭人伝は「邪馬壹国」、「女王之所」と言い、後の范曄「後漢書」は「其(倭)大倭王居邪馬臺國」、つまり、広域に及ぶ「倭」を統合する大倭王と言えども、居所は「邪馬臺國」なる、一「国邑」だったという事です。(あくまで、近来の一説です)

 陳寿の倭人伝を下敷きに、後世に新たな表現を試みた笵曄は、「其大倭王居邪馬臺國」と書いて、大倭の国々を束ねる「大倭王」の居処は「邪馬臺國」なる小集落だったとしています。後漢書の「邪馬臺國」は、その所在地を「樂浪郡徼,去其國萬二千里」と書かれていますから、倭人伝を無批判に引き写しているものの、国王居処の名称「邪馬壹国」は、敢えて踏襲しなかったもののように見えます。
 大倭王が、どの時代の何者なのか不明ですし、その居処と倭人伝の郡倭行程の終着地「邪馬壹国」との関係も不明です。
 いずれにしろ、後漢書を起用しても、所在地特定は、困難でしか無いのです。何しろ、笵曄の手元には、何も、後漢桓帝/霊帝の時代が下限で、続く、献帝建安年間、洛陽の公文書には、遼東郡公孫氏からの報告がなかったので、帯方郡創設すら記載されていないのです。つまり、東夷列傳を書いても、帯方郡関係記事の根拠とすべき資料はなかったので、捏造と言われない範囲で創作するしかなかったのです。
 端的に言うと、桓帝霊帝代、倭国大乱というのは、献帝時代について書くことができなかったための曲芸だったのです。また、「樂浪郡徼去其國萬二千里」と書いているのは、帯方郡の所在地を書けなかったので、楽浪郡の南端付近の帯方縣を想定しているのです。
 范曄「後漢書」東夷列伝の記事は、技巧を凝らしているので、信用ならないということです。

*卑彌呼「水神」巫女説の試み
 因みに、環濠集落の首長は、下流の集落への水分(みずわけ)を仕切っていた可能性があるので、太陽神ならぬ「水神」を氏神にしていた可能性があります。こちらは、命がけの争いになりかねず、首長の水捌きの不備を責められるのを避けるため、水神様を守り神に担いでいたと考えるのです。太陽の日射しは、割り振りのしようがないから、水分(みずわけ)の仲裁をすることが、重大な祀りごとだったのではないでしょうか。大した知恵のない素人は、安直な考えを捨てられないのです。

 辻褄の合わない纏向運河説は、そろりと撤回された方が良いようです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 3/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
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*纏向巨大建物論
 纏向陣営も、ここしばらくの怒濤の展開ですが、ある時突然に纏向に大型建物が出現したとの想定は、無理が多く、後付けで「証拠」を付け足しているのは苦笑を禁じ得ません。

 建物は、土地を整地し、縄張りし、柱穴を掘り、柱を立て、梁を交いと言った風に大工仕事を重ねるから、何もない状態から創業して、建物になるのに五年や十年はかかるのです。整地した土地には専門の技術者が緻密に縄張りしたし、柱は、具体的な寸法と材質をもって、山々の木こりに指図していたはずです。いや、金属工具の無い時代、どれほどの手間がかかったか不思議です。それとも、工具持参、大工帯同で、いきなり、集団稼業が操業したのでしょうか。
 整地段取りも、材木、その他諸々の資材の手配も、先だって、どこかの工房で決定したものでしょう。建物工事の人員の手配、寝泊まりの手配、食事の手配、いずれも、先立って準備したに違いありません。時間としても空間としても、随分広がっていたはずです。

 そうした段取り全体を構想して仕分けするには、経験豊かな指導者が必要です。指導者には、補佐役が必要です。それぞれ十分な報酬が必要です。いや、指導者が献策したのか、誰かが募集したのか、どこから来たのか、いずれにしろ、大抵、大規模墳墓は年数をかけられる生前造成(寿陵)の筈です。
 唐古・鍵遺跡の考古学から見ると、地域としては、土木工事の技術に関して長年の蓄積(人材養成、機材、素材の備蓄)があったようですが、建物建築技術は、周囲に先例が見当たらなかったように見えるのです。前例があれば、どこが先駆者であって、時代と共に、どう伝播したか語られるはずなのですが、まだ、そのような創世談は目にしたことがありません。
 ともあれ、「纏向一推し」が頽勢に移ったのは、まことに めでたいことです。

*誤解された遣使談
 倭の三十国が魏と外交関係を持ったと見るのは、俗耳に訴えるものの、実は、単なる勘違いです。当時、蕃国は、魏に外臣、蕃王として臣従するのであり、「外交」など時代錯誤丸出しです。いや、それは、纏向説論者だけの症状ではないのですが、いくら、多数を占めていても、錯誤は錯誤です。
 また、魏としては、四囲の蕃夷にはるばる押しかけてこられると、しかるべく応対して、銅印やみやげものを渡さないといけないので、対応を厳選します。倭で言えば、帯方郡で選抜して代表国だけ申請せよと云うものです。いえ、このような格付けは、魏が発明したのではなくて、通常、周制で始まったとされていますが、歴代、そのようであったはずです。

 倭人の景初遣使は、質素な貢献物に対して大層な下賜物を受けていますが、それは、あくまで初回だけであり、それ以外は金印(青銅製)と手土産程度でしょう。
 それにしても、手土産目当てに毎年来られてはたまらないのです。何しろ、倭人の例で言えば、帯方郡参上から洛陽までの旅程は、全て、帯方郡官人のお供が接待するのであり、いくら、大帝国といえども、毎年来られてはたまらないのです。
 大抵の処遇は、十歳ないしは二十歳に一貢というものであり、要するに、遠方の蕃夷は、十年、ないしは二十年に一度で良い、それ以上来るなと云うものです。後年の遣唐使は、二十歳一貢でした。中間年に出かけて、追い返されかけたこともあったようです。

 中国側の制度にお構いなしの素人考えも、ほどほどにして欲しいものです。

*卑弥呼王族待遇の怪
 因みに、中国の考古学者が、卑弥呼は中国王族と同格と言ったのにはびっくりしました。ご存じないのでしょうが、蕃王は、太守配下なので、随分格下なのです。中国人の史学者と言っても、別に倭人伝専攻ではなく、ひょっとしたら、秦漢魏晋代の官制を熟知しているわけでもないので、大抵は慌てて関係ありそうな資料を読みあさるのであり、理解度はこの程度なのです。
 ちなみに、蕃夷を「賓客」と言い、鴻廬の専門部門が、丁寧な接待を行うのは、余り露骨に差別を示すと、反逆されかねないので、そうならないように、ご機嫌取りしているものです。

 漢代、蛮夷の使節は、正使から使い走りまで、漏れなく印綬を賜ったという記録が残っています。後漢書に由来を求めている「漢」の「倭」の「奴国王」印綬は、比定されている遺物の材質が「黄金」、金無垢という材質が、異例に近いものであるというだけです。

 つまり、「金印」は「金印」でも、当時「金」と呼ばれていた青銅印なら、一介の小国王に付与しても不思議はないものです。黄金印、つまり、金無垢の印は、三世紀当時、製造困難でした。黄金の素材が大変貴重であり、また、黄金は、青銅、鋳鉄などに比べて、高度な技術や設備と加熱燃料が必要です。そのような希少価値のある黄金印を、無冠無名に近い「倭奴国王」に下賜する事情が不明なのです。因みに、後漢書には、黄金印を下賜したという明確な記事はないようです。

*突然の出雲高揚
 いや、突然の紹介ですが、出雲が「大陸」と交易したとしていますが「半島」も、大陸なのでしょうか。帯方郡と接触すれば、郡の公文書に残るはずですから、後世に残っていないということは、馬韓、弁辰などの諸小国と交流があったのではないでしょうか。これらの諸国は、東夷の仲間で、言うならば同格ですから外交が成立するのです。

 そのような小国との交易が皆無でないとしても、小振りで漕ぎ手少人数の海峡渡海船の乗り継ぎでよい九州北部と違い、出雲からの往来は、さらに数日がかりの難業であり、とても、便数などの面で競争にならなかったと見えます。何しろ、海流に逆らう往路は、絶大な体力が必要なのです。そして、いかに強力な漕ぎ手でも連日の漕行はできないのです。休養を与えるなり、交替で漕ぎ継ぐなり、稼業とするには、それ相当の体制作りが必要です。そして、漕ぎ船では、漕ぎ手の体重分だけ積み荷が減るのです。して見ると、日数が伸びれば、荷主の取り分は大巾に減るのです。
 こうした考証は、思い付きに任せた口先考古学では済まないのです。

 当ブログの常套手段では、途中で漕ぎ手を代えて乗り継ぎして狗邪韓国あたりで上陸し、後は、手軽な陸上経路で繋いだとも考えるのです。商いの相手としての半島西南部は、三韓との連絡が少なかったとみられるので、穴場になったのかも知れません。何しろ、この地域のことは、韓伝にも倭人伝にも、はっきり書かれていないので、空白地域と推定するのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 「邪馬台国サミット2021」補 ⑵ 概論 4/5

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ              2021/05/24 補充 2022/03/14
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*不用意な失言集 順不同

  •  纏向関係者は、好んで「日本」と言いますが、三世紀当時、「日本」などありません。
  •  三世紀「日本列島」に現代風「都市」はないし、中国外に「王都」は存在しません。
  •  卑弥呼を「諸国で」共立したとは書いていません。
  •  どさくさ紛れに、卑弥呼遣使を二百三十九年と言うのも、考証不正で杜撰です。
  •  卑弥呼は「鬼道」に事えたと言いますが、呪術を行ったとは書いていません。
  •  邪馬台(たい)国でなく邪馬臺(だい)国です。ごまかしてはなりません。
  •  最初の大王が女性と言うものの、それまで「男王」が代々続いていた筈です。
  •  倭国「乱」は、諸国が近隣と諍いして、王が調停できかっただけであり、戦い合ったわけではないし、三世紀の交通、通信事情では、遠隔地と長期間の交戦は不可能です。
    范曄「後漢書」が持ち込んだ「大乱」は、国の覇権を目指して、竜虎角逐するものであり、総力戦と言わないまでも、相当の壮丁を死傷させるので、安直に行うものではありません。三世紀当時の「国」が、農耕を度外して総力戦に乗り出せば、亡国必至です。

 以上、勉強不足の勘違いが、雪崩れています。「倭人伝など、苦労して解釈する必要はなく、好きなように書き換えれば良い」のだという、安易な姿勢が感じ取れます。

*「ネットワーク」の怪
 文字のない、つまり、文書のない三世紀に「ネットワーク」とは時代錯誤であり、奇異です。広げた網の節々同士、相互の連絡をどうしていたのか。そもそも、カタカナ言葉の本来の意味がわからないままに、うろ覚えで当てはめられては、不可解です。また、連携を言うなら、平時の行政運営を重視すべきです。
 いずれにしろ、言っている当人すら、言葉の意味が理解できていない「生煮え」、「うろ覚え」の理屈を振り回されては、読者、視聴者はたまりません。ことは、簡単で、古代史論で、カタカナ語を原則排除すれば良いのです。

*雑言集
 「スケール小さすぎ」と褒めているのは、「邪馬臺国」七萬戸説に惑わされています。一度、倭人伝の戸数記事をよくよく見直して欲しいものです。いずれにしろ、このような「幼児語」では、論議できません。何しろ、時代錯誤の大国幻像を脳内に飼っているので、大小判断が錯綜しているのです。

 鉄鏃出土数の話は,九州説にとって効果的ですが、そのため、纏向説論者からは、黙殺されます。それでも考古学無視の勝手な論議と批判され、絶句するのです。

 銅鐸については、史書に、しかるべく書かれていないのが命取りです。全国の銅鐸は、無償配布の証拠と纏向説論者から聞きますが、無茶なこじつけです。「配布」とは、それぞれ自国官人が持参したということですが、どんな口上を持って参上し、何を持って帰ったのか。不思議です。

 今回は、唐古・鍵遺跡に言及していますが、なぜ、奈良盆地外の外界に近い唐古・鍵が凋落して、山沿いの纏向が頂点か、二百年環濠を維持した唐古・鍵は、纏向隆盛をどう見たのか。是非、欠席裁判は止めにして、当事者の意見を伺いたいものです。

*共立綺譚~古代国家幻想
 そこで、渡邉氏が、「共立」について得々と語りますが、「当人にその気がないのに、大勢で寄ってたかって無理矢理に」とは、落語の落とし話めいて、奇異です。氏は、范曄「後漢書」に加えて、三国志を 全巻通読しているはずですが、それにしては、「倭人伝」が、中国文化にどの程度影響されていたか、見識を持ち合わせていないのでしょうか。
 どさくさ紛れに、倭人伝に複数回登場する「壹與」が自動的に「トヨ」になるのも不思議です。ここでも、説明はありません。「邪馬臺国」は、范曄「後漢書」を手がかりに遮二無二こじつけていますが、倭人伝に、繰り返し書かれている卑弥呼宗女の名前が、繰り返し誤記されたと判断できる根拠は見当たりません。

 それにしても、各陣営とも、なぜ三世紀に強大な中央政権を見るのでしょうか。中国周代は封建制でしたが、諸公が周王を頭領に立てただけで、絶対服従では無かったはずです。加えて、中国には、文書で締盟し、命令を徹底する体制が整っていたから、「法と秩序」が蔓延っていましたが、文字の無い東夷では、相互に盟約もできず、また、何しろ、文書が通じていなかったので、纏向仕立ての法制に強制的に服従させられるわけでもなく、後は、各地に、説客を派遣して、舌先三寸で異国の支配者を丸め込んだことになるのです。
 それにしても、各地の諸公は、なぜ、大々的に反抗しなかったのでしょうか。

 それはさておき、文字の無い世界で、広域政権が成立したとしても、どんな手段で服属を長く維持できたでしょうか。どうして、自分たちの墳墓造成の労役を、広域に課することができたのでしょうか。さらには、各国に勝手な墓制を強制できたのでしょうか。これこそ、古代史最大の謎と言うべきです。

*雑感
 「細かい」批判はそこまでとして原典に戻ると、倭人伝に「邪馬台国」と書かれているという不可解な妄言帯方郡から海の「径」〔みち〕をたどるとする安易な決め込みが、一般人の理解の妨げ、躓き石となっています。初学者ならともかく、斯界の権威が、安直で子供じみた誤読や改竄を信奉しているのは残念です。

 また、陳寿が、実情不明と匙を投げた投馬国談義を始め、水行十日、陸行三十日の果てに邪馬台国があるという、保証付きの「誤読」(私見です)を言い立てているのは、困ったものです。既にドブに嵌まっているのに、気づかないのは、困ったものです。このあたりの頑冥さは、学問の道とは思えないのです。

 世上、俗耳に馴染みやすい「素直に読む」とか「簡単に読み下す」という助言が健在ですが、少し考えれば誰でもわかるように、代中国人が古代中国人のために書いた史書を、現代人が「素直に」、つまり、適切な教育、訓練無しに読んで、無教養な世界観で、正確に理解できるはずがないのです。
 まして、当時、「世界」最高の知性であった陳寿と弟子達が、長時間、精力を注いだ深意を、現代人が易々と探り出すのは無理そのものです。

                                未完

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*倭人伝造作説の帰結
 渡邉師の提言は、年代物の誤読の成果です。師が現代日本人である以上、陳寿の方針/深意がわかるはずがありません。困ったものです。いや、なぜ、一介の素人が、氏の理解力を知っているのかというと、氏の著書、番組での発言からそう見ているのです。氏は、「三国志」の権威と自認しているようですが、ことごとく、虚言に陥っているのは、勿体ないのです。
 気軽に「情報操作」などとおっしゃいますが、「三国志」編纂は、三国統一後の西晋代であり、その際、東呉、孫氏政権関係者の編纂した「呉書」が魏の帝室書庫に所蔵されていて、「三国志」呉志に大半が採用されたのです。ほらを吹いても仕方ないのです。

 繰り返しになりますが、三国志」の想定読者は、西晋諸官であって、現代の日本人ではないのです。

 私見では、曲筆/誇張/偏見の動機があったのは、「魏略」編纂者、魏朝官人魚豢です。魚豢にとって、呉は反逆者、蜀は侵略者で、むしろ、筆誅を加えて当然です。但し、「魏略」佚文は、記事本文と対照的な引用が多いので、ことさら、魏帝に阿った曲筆に見えますが、全文が健在な「魏略」西戎伝を通読すると、特に、史実を魏朝中心に粉飾しているようには見えません。

 但し、陳寿は、史書編纂にあたって、特に東夷伝に関しては、他に信頼するにたる史料がなかったので、魚豢の視点に同意できなくても、魏略「東夷伝」の造作を引き継いだとしても仕方ないところです。いずれにしろ、無教養の後世人は、憶測しかできないのです。当方も、諸兄の憶測を是正する趣味はありません。

 そこで、特異な史料である「翰苑」の登場です。断簡とは言え、天にも地にも、これっきりしかない史料だから、異本、異稿によって裏付けが取れないという苦言は、なぜか余り聞かないのが奇特です。ここで、不意打ちとして持ち出されたので、会稽東冶の誤読が「翰苑」で否定されると見たのですが、渡邉氏は、一ひねりしています。
 但し、古典依拠の誇張があるというのは頷けます。
 いずれにしろ、俗耳に馴染みやすい「翰苑」倭国条が、『三世紀編纂の「魏志」倭人伝より先に書かれた』という子供じみた俗説は、無能な論者の最後の隠れ家に過ぎません。

*一説談義
 突然の「新説」ですが、卑弥呼が「邪馬臺国」女王でないとの発言は、史書表現を誤解しています。安直な思い付きで視聴者の俗耳に阿(おもねる)「芸風」は、受けても一度限りでしょう。

*纏向説への疑問 
 纏向遺跡の建物の規模や桃種の多数出土を「日本」に比類ないというのは、纏向関係者が好んで持ち出すものの、考古学的に見て、根拠不明の断言です。当時の「日本」は、奈良盆地だけなのでしょうか。いや、当時、「日本」は、奈良盆地にも、地球上のどこにもなかったのです。俗耳に阿るだけの冗談も、連発されると聞き苦しいものです。
 因みに、全国の同時代遺跡で桃種の数を競えば、纏向は下位に沈むはずですから、桃種の数で背比べするのは愚策です。
 そんなに桃種が大事なら、出土したときにごみ扱いして、散水ホースで貴重な泥を洗い流したりせずに、小数でも良いから、土器片などと同様に、年代比定するための資料として、大事に扱うべきだったのです。
いや、「ゴミ捨て場から出現したからごみと思った」という直感を大事にすべきだったのです。

 「古代国家」は、時代錯誤史眼であり、他地域説論者が中国文献や遺跡に忠実な解釈を展開するのを蔑視するのは、当番組の主旨を理解していないのです。動揺して恥をさらした感じですが、纏向説への「サプライズ」、嫌がらせの闇打ちでしょうか。NHK番組で、前例のあるあざとい手口でしょうか。

*王権論議
 ついでながら、「卑弥呼の権力が弱かった」とは、つまらない事実誤認です。女王即位によって諸国の連携が回復し、女王の死後、国が乱れたということから見て、女王の権力が「強かった」から諸国が文句なしに従ったと見るものでしょう。いや、そう思わないというのは、個人の勝手ですが、史書に示唆すらされていない事項を、何も知らない後世人が最もらしく憶測して、殊更、目覚ましい言葉で断定するのは、古代史界の悪習であり、まことに子供っぽいので、早く卒業してほしいものです。
 どさくさ紛れに、「男王では統御できない」と性差別発言ですが、公共放送で不都合です。それに、卑弥呼以前は、代々男王が系譜を伝統していたのです。因みに、最初の女王だったかどうかは、倭人伝に書かれていないので、不明としか言いようがありません。

 纏向説の根底にある、三世紀にがんじがらめの中央集権「古代国家」は、文献にも考古学にもない夢想の世界です。自身の脳内で虚構を繰り広げて論議しているので、万事自明と感じられて暴言乱発になるのです。論争とは、結局、論戦の相手を説得するのが、究極の目的であり、「いたずらに、敵を作り育てる暴言罵倒を避けるべき」ではないでしょうか。

 最後に、泥沼作戦なのか、「掠奪」論が提起されて幻滅ですが、今回は、全開番組のように、古代史学素人の司会者が、したり顔でしゃしゃり出て、論議を煽る愚行が再現されなかったのは、人選の妙でしょう。
 三世紀の関係諸国は、良い意味で、文字通りの親戚づきあい
であり、「弱肉強食」など世界に溢れている暴虐は、随分長い間縁遠かったのです。
 因みに、環濠で囲まれた聚落は、掠奪集団にしたら、大した障壁にならないのです。何しろ、丸太を担いできて、壕に渡せばどうと言うことはないのです。また、環濠の幅程度では、強弓の射程を超えていないので、別に、投石機はいらないのです。中国では、唐代の長安城と雖も、外壁に数カ所門があるだけであり、しかも、城内各区画は、それぞれ、隔壁に囲まれて、街路から入るには、これまた、数カ所の門しかなかったのです。治安に不安があれば、そのように何重にも隔壁化するのです。
 隔壁でなく環濠で済んでいたと言う事は、磯田氏好みの盗賊集団が存在しなかったという事の表れとみるべきです。いや、「倭人伝」には、殊更に、狗邪韓国から南下する途上の「諸国」は、海を隔壁代わりの「国邑」としていて、独特の体制になっていたと明記されているのです。

 以上、同意できない遺物的な主張群を批判しましたから、当番組に対して不満ばかりのように聞こえるかも知れませんが、このように、連発された纏向説論者の常用する各種主張の杜撰さが浮き彫りになる番組構成には、まことに感心するのです。

*司会者の叡知
 それにしても、素人司会者の「古い解釈を取り除いて、原本から出直す」との至言は見事です。
 きっと、来年は、原点に還った論議が聞けるものと期待しています。後世人には、歴史ロマンでなく、冷静な歴史考証を伝えたいものです。

 別稿も含めて、聞き咎めせざるを得なかった難点を取り上げて述べていますが、当記事読者にとってご不快であるなら、無視していただいて結構です。どの道、耳を貸す気がないということでしょう。もちろん、反論、異論には、耳を貸すことになるでしょう。

                              この項完

2022年3月13日 (日)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 1/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

⚪はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、古賀氏の堅持している古田武彦師氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログが素人論断なのは自明ですが、とかく、罵倒のネタになるので、特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。
 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。あるいは、古代史論で人口に膾炙した「120年ずらし」を逆用したとも見え、大変、不吉な響きを禁じ得ません。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、一方当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、田中氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない中国史書の文献批判について、根拠の無い、場違いな批判を強引に展開して、「橿考研」が基礎としている倭人伝の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、講演会の主催者である石野氏を、公開の場で罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 2/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が集積していますが、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。私見では、「纏向」が、削り込み技法を売り物に、各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。
 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられと見えるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が長い道中を持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。また、身軽であることを信条とする行商人が、土器を担いで、海山越えて旅する図は戯画にもなりませんが、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してのことです。
 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか、重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく(仮想)「古代国家」に、こじつけるからです。

 筋の通った「reasonable」な仮説として、各地特産物の上納の初期の例として、纏向制薄肉土器の交換として、各地土器に特産物を詰めて還送したと見えるのですが、どうでしょうか。いずれの「物々交換」でも、対面取引で互いに等価だと合意して、初めて、交換が行われたはずです。何もないのに、各地産物が一人歩きしてくるとみるより「reasonable」でしょう。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。
 その後、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。何しろ、クチコミしかないのですから、売り込みできる範囲は、大変限定されていたのです。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部から木津水系を経て淀川の河川運送に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの「田中」氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。
                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 補 3/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06 補充 2022/03/13

*試行錯誤の伝説
 一体に、「考古学」の諸兄は、どこかで技術革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいますが、時代錯誤と言うより、事実誤認です。
 土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程で、失敗から学んだ技術者が土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用とするから貴重なのです。
 そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分、年月を要するのです。
 と言うことで、革新的な新技術が広がるには、大変な時間がかかるのです。橿考研が、空論を広げているのは、実務寄りの考察を進める人材に欠けるためだと見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、風説引用に陥っているのは残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容をこれに当てて審議していくはずなのですが、そのような前提は一切確立されていないのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で、言ったもん勝ちの議論を推し進めているのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢諸兄姉は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、学問的な意義のない、単に、無節操な批判のための批判を浴びせます。大抵は、先人の「一刀両断」の蛮勇に、無批判で追従しているのですから、何も新たな知見が付け加えられているものでなく、素人目にも、当時唯一無二の史料として尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに否定論を述べ立てる発言者に対しては、信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる倭人伝に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず、根拠不十分な異論を言い立てて「邪馬臺国」と無法にも改竄しています。根拠なき改竄は、学会ぐるみの悪習であり、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。
 倭人伝不信論調に従い、原文改竄、後代創作している第Ⅷ章には、信を置けません。

 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は、厳しい反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょう。氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、心地良いほど纏向論に合っているとご自慢と見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される安直な造形物ではありません。
 氏が、田中琢氏の本末転倒倭人伝全否定論に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢諸兄姉に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 補 序論

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ   2021/10/08 補充 2022/03/13

〇緒言のお断り~限定的論義
 榊原氏の本書での論議で気になるのが、後世概念闖入による不首尾です。
 例えば、氏は、東夷の変遷を理解していますが、殷代に山東半島の東夷が討伐されて一掃されたと誤解していますが、東夷が漢語を読み書きし古典を解する「教養」人、文化人となって、「夷」でなくなったのであり、民族不問です。もっとも、各国で、古典書を諳んじているような文化人は、一割に遥かに及ばなかったはずです。
 古来、中国史書で、稀少な例外は除き、民族を想定させる風貌記載は無く、身体特徴は短躯とされた曹操、晏子などの偉人を除けば、特記されているのは、「丈夫」の巨漢です。「丈」は、別に十尺(三㍍)というわけでなく七尺(二㍍)なら「丈夫」、さらに強調して「大丈夫」と形容したと思われます。素朴な強調は、東夷によって誤解され続けているのです。(日本人の日常会話で「大丈夫」がどんな意味になっているか、確認いただければ幸いです。極端な場合、「ネギラーメン」を注文したのに、「ネギ、大丈夫ですか」と確認されようなものです)
 と言うことで、「文化人」となった者達は「夷」と呼べないので、東夷は「発展的に」解消し、中原人はさらなる僻遠の地に無教養な「東夷」を求めたと思われます。別に、中原人が、東夷を侵略しつくしたとは限らないのです。
 因みに、後の「齊」「臨菑」は、四方に交易の道を得て繁栄し、万物が一に都(すべて)會する「一都會」との賛辞を受けていたと班固「漢書」に讃えられていますが、それは、東夷と呼ばれた太古にも、同様だったとみるのです。案ずるに、商の執拗な東方征伐は、侵略者の撲滅などでなく、東夷が得ていた巨利を妬んでのものだったと見えます。

*孔子東夷談義~ずれた理解
 氏が引用する孔子の言で、海に筏を浮かべても、「日本列島」には、到底達し得ません。
 「筏」は、要するに、船室、船倉、甲板のない軽舟、小船であって、船体は備わっていないので、潮風、雨ざらし、海水浸入で、普通人は、数日しか耐えられません。気軽な「浮海」は、山東半島沖合の海中の山島、朝鮮半島行きですから、食糧ももつし、外しようがありません。
 要するに、北は齊に遮られていた「魯」の孔子が、東に「東夷」を求めようとしても、深遠な「海」に遮られたので、結局、「北に浮海して北海を越えて、海中山島に行くことになる」との世界観だったのですが、その先の道のりは、遂に知るところではなかったのです。

*「首都」談義~枯衰する「都」の概念
 氏が、持ち出した「首都」と言う後世語ですが、三世紀、「都」は、洛陽などの帝国皇帝居城専用です。蕃夷に「都」は、あり得ないのです。また、「首都」と言うのは、幾つかの「都」があって、「首」は、順列一位というに過ぎません。言わば、「都」が、唯一絶対でなく、大安売りされた時代の造語なのです。魏略佚文では、『魏文帝曹丕が、長安、洛陽、譙、鄴、許昌を「五都」とし、「洛陽」を首都とした』とあるようですから、三世紀当時に、そのような造語が出回ったのかも知れませんが、三国志本文には見当たりません。
 余談ながら、「都」が蔓延状態にある現代日本では、かつて、平安朝以来の「京都」に服する東京と称した「首都」の意義は揺らいでいるようで、むしろありふれたまち(都)で、でかく、賑やかなものと解されているようです。あるいは、都道府県と列記された最上位でしかなく、仮に、一時唱えられた「大阪都」が成立すれば、それこそ二都時代の「首都」に過ぎないことになるところだったのです。
 そのような長々しい時代考証はともかく、三世紀における「首都」を(仮想された)広域国家の国王居所と解して、古代の各国が、(仮想された)広域「国家」を形成していたとみるのは、倭人伝に明記も示唆もされていない。要するに(仮想された)「幻想」です。少なくとも、「文化」の唯一無二であった原点「中国」では、とうに滅却された概念のように思うものです。

*連邦国家談義~時代錯誤の一例
 氏が持ち出した「連邦国家」なる後世語ですが、国体が不明では「邦」と呼べるかどうか不明です。「邦」は戦国七雄の領域国家と地域聚落「国邑」を区別しましたが、漢高劉邦を僻諱して死語となったので、古代史では、意味が不確定です。いずれにしろ、「連邦」は場違い、時代錯誤です。近現代欧州史を語る際のことばであって、国内史学会の諸兄姉が、古代史論議に持ち込むのは、時代錯誤の愚を犯しています。
 また、倭人伝の諸「国」は、客観的に証されない限り「邦」との大国宣言はありません。「邦」がなければ、「連邦」はないのです。

 「連合」と緩めてみても、三世紀当時を時代考証する限り、隣近所の村々との連合ならともかく、遠隔地に散在する諸国が、どう連絡を取って、どう盟約を締結して、どう連合を形成し、維持していたのか不可解です。文字無しで文書は遅れず、馬無しで各国は、健脚の伝令を走らせていたのでしょうか。数世紀の時代錯誤があるようです。
 いや、隣近所であれば、月に何度か寄り合いして、その場で談合すれば、「朝廷」だの「連合」と称することができるのですが、そんなに物々しい「国家」像を描かないと、「イメージ」、「イリュージョン」が描けないのでしょうか。国内史学会の諸兄姉が、古代史論議て゜゛展開する論議は、時代錯誤の愚を犯していると感じます。

*意味のない戸数~方里の意義
 そもそも、中国式の「戸」は、各戸が、所定の耕作地を牛犂などによって耕作する前提で「国家」を評価しているのですが、倭人は「牛馬無し」、つまり、農民が自動的に(自分の手足でAutomaticに)耕作し荷運びする東夷では、戸数によって収穫量を算定することはできないのです。つまり、東夷伝各国の戸数は、各国の獲れ高指標にならず、私見ですが、そのために「方里」なる、独特の統計指標を採用したと見えます。陳寿は、読者に対して太古の中原世界を想起させるよう努力していますが、「自動的な耕作」は、先史時代の社会になるので、適当な史料がなく、道里も戸数も、曖昧にするしかなかったようです。
 まして、各国に正確な戸籍がなければ、「戸数」は憶測に過ぎず、家族構成が不明では、兵員徴兵の際の指針となる人口推定の役にも立たないのです。ついでに言うと、文字や計数の基礎教育が、全国に行き届いていなければ、戸数、工数の全国集計はできないので、ますます、意味のない統計数字となります。

*後世語、後世概念の排除
 要するに、中国史書解釈で、「後世語」、「後世概念」の無法な混入は、論者と読者の意思疎通を、大いに疎外するので厳重に避けるべきと思われます。

*周旋談義~大仰な解釈
 氏は、「周旋五千里」に通俗解釈を採用していますが、海上洲島、小島が散乱した国家形態で、領域周長などおよそ無意味です。文脈から、そのような俗説は不都合だと理解いただきたかったものです。ご自愛いただきたいものです。もちろん、当時、精密も何も、今日言う「地図」はなかったし、群島国家の領域など測量のしようがなかったのです。
 同時代の袁宏「後漢紀」で、「周旋」は、「二つの名家を往き来する」用例で、まことに、日常感覚の明解な地理観で、素人にも納得できます。つまり、倭人伝では「狗邪~倭間が五千里と明示されている」ものと思われます。郡~狗邪~倭の主行程記事に、奴国、不弥国、投馬国の傍路条が挟まったので、読者が誤解しないように念押ししたと見ます。
 倭人伝の冒頭、まず、「倭人は、帯方東南に在り」と大局的な地理を明示した後、倭人は、「大海中山島」に国邑を形成していたとの予告を受け、洲島を伝い倭に渡ると念押ししています。何しろ、島の上に聚落を形成していたので、勘合も城壁も必要なく、また、国境など不要だったと書かれているのです。
 そして、末羅で上陸して、以後、陸行に転じて、伊都~倭直行と明示しているのは、長期水行渡海を要して九州島内に収まらないのが自明の投馬国共々、奴国、不弥国は、主要国でありながら、風俗記事を書かず、余傍であることを明示しています。

*倭人伝解釈に王道無し~余談
 随分言い古された警句ですが、倭人伝は、後世東夷人に耳当たりの良い「紀行書」などでなく、三世紀当時の知識人が、同時代の知識人に提示した「問題集」なのです。同時代知識人が自慢の教養をもってしても、適度に苦労する「解釈」が必要で、皇帝初め教養人に頭を捻らせる難易度だったのです。
 もちろん、読者が投げ出すような高度な設問ではないので、手頃な小手調べであって、問題に対する解答は、当時、自明に近かったのですが、現代では、なめてかかった不勉強な落第者が、山を成しているのです。知識、見識が不足して「落第」するのは、自然の成り行きであって、別にに、恥じても何でもありません。「落第」を逆恨みして、出題者を誹謗するのが「末代の恥」なのです。
 なお、以上は氏に対する批判などではなく、世間に溢れる不埒な「落第」者に対する苦言であることは、ご理解いただきたいものです。氏は、惜しくも及第していませんが、最善を尽くした上での結論であり、提起された解釈は、陳寿に成り代わって、敬意をもって受け止めたいと思いますが、「問題集」を改訂する術はないので、その旨よろしくご了解いただきたいものです。

                         この項完 以下別途

2022年3月 5日 (土)

私の意見 歴博展示品「後漢書東夷伝復元複製」の怪

                                                 2022/03/05
〇はじめに
 最近、堂々と歴博(大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館)に展示されている「後漢書東夷伝復元複製」は由来不明です。なお、歴博所蔵の范曄「後漢書」南宋刊本は、木版印刷の紙冊子です。

 歴博展示物は、何を復元複製したのか、大変疑問です。複製、レプリカは、原本の制作過程、素材、加工手法を忠実に再現していなければ、学術史料の意義はないのですが、歴博は明細を公開していません。貴重な展示品の複製製作が根拠不明ではならないとみるのですが、どうでしょうか。

*范曄「後漢書」の由来
 笵曄は、劉宋皇帝に反逆を企て、嫡子と共に斬首された重罪人ですから、未公開の後漢書遺稿は行方不明となり、唐代に章懐太子の元に届いた范曄「後漢書」は、「続漢書」の「志」部を採り入れた正史体裁となっていて、原本はとうに消滅していたのです。(苦笑)
 何しろ、南北朝の分裂を、北朝側の隋が武力統一し、その隋が、煬帝の失政で戦乱の渦に沈んだあげくの唐による全国統一なので、経過不明なのです。

 章懐太子は、「増補版」范曄「後漢書」に付注し、「史記」、「漢書」に続く三史の締めとしたから、歴博「後漢書」は、そうした章懐太子原本の「正史」の復元複製と思えますが、その時点では、袋綴じ冊子形態の写本と見えます。但し、それまでも、それ以降も、刊本以前の「後漢書」写本を見た者は、誰一人現存していません。(苦笑)

*考証不備
 展示品は、范曄「後漢書」東夷列伝の復元複製と称していますが、正史小伝の分冊書が存在したと思えないので復元しようがないと見えます。(苦笑)歴博が、展示物を「後漢書東夷伝」復元複製と主張するには、歴史上、実物が存在した根拠となり得る証明が必要ですが、どこにも見られません。

 「日本の古代14 ことばと文字」(中公文庫)「9.木・紙・書風」によると、素人が、時として簡牘巻物と称していたのは、学問的には「冊書」であり、簡牘の中で最も早く晋代に滅びたようです。

 東晋では、帝室書庫蔵書は、紙に変わっていたはずであり、続く劉宋代、財産家で高級官僚の笵曄は、後漢書草稿段階から紙に専念したのではないでしょうか。編集部門内の覚え書きなど、紙に限ると言えます。

 一体、何を目的に、当初は、冊書だった可能性が無視できない陳寿「三国志」魏志東夷伝でなく、正当化が困難な范曄「後漢書」東夷伝を復元したのか意図不明です。

*歴博の独断
 歴博は、紙巻物とでも対比して「冊書」退潮を書けたはずです。范曄「後漢書」の原本を一巻復元すれば、対比が鮮明でしょう。なにしろ、本紀十巻、列伝八十巻の大著ですから、早々に木簡を廃したはずです。
 歴博サイトの紹介では、単に、紙になっていなかったとしているだけで、これでは、歴博関係者の独断を押しつけていることになります。

*謎めいた制作意図
 これまで、当事件については、不審なことが窓ガラスの向こう側の曇りに見えて、手がつかなかったのですが、今回、すっきりと拭えたのです。

〇まとめ
 と言うことで、歴博の「後漢書東夷伝復元複製」の背景説明をお伺いしたいのです。それとも、一国民は、監査請求しないといけないのでしょうか。

                               以上

2022年3月 4日 (金)

新・私の本棚 第395回 邪馬台国の会 講演 安本 美典 「謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと」

 謎の4世紀第11代垂仁天皇時代のできごと(みかん物語・田道間守の話)
私の見立て ★★★★☆ 潤沢 2022/03/04

〇始めに
 当記事は、情報豊富で大変参考になるが、細瑾が見えたので、以下、私見を提示する。

⑴古墳古尺談義
 (5)永寧二年(302)の骨尺にもとづけば、晋の一尺は、二十四センチである。このものさしではかれぱ、崇神天皇陵古墳の全長240メートルは、ちょうど1000尺である。垂仁天皇陵古墳の全長は、950尺、景行天皇陵古墳の全長は1300尺である。晋のものさしを用いて、古墳の設計が行なわれているようにみえる。

 安本氏にしては、突っ込みが浅いと書いてしまった。「尺」は度量衡で、土木工事には場違いである。古代に多桁数字はなくて間尺に合わず、誤解を誘う時代錯誤である。
 古墳全長は、測量単位の歩(ぶ)、一歩六尺、1.5㍍程度が必須である。概算で、崇神陵、垂仁陵は六百歩程度、景行陵は九百歩程度となる。机上計算は精密でも、実務「縄張り」は、必然的に大まかである。

 と言うものの、多少大まかでも、魏晋「尺」基準の設計、施工を否定するものではない。先行論文を参照された方が良いように思う。
 例『「古韓尺」で作られた纏向大型建物群』 新井 宏 計量史研究 32-1 2010
   国立国会図書館デジタルコレクション ART0009530400.pdf

 表2 後漢尺、魏尺および古韓尺の纏向遺跡への適合度
 見る限り、垂仁/景行陵は25㌢㍍の「尺」、1.5㍍の「歩」で採寸されたと見える。古墳全長は土木工事分野で、万事大まかと見える。私見では、精密さを問うには、精測可能な墓室内の尺度領域を言うべきだろう。

⑵柑橘類談義
 『中国での柑橘類の「大産地」は、おもに、かつての、呉の国と、蜀の国との領域内になることがわかる。』と至当である。柑橘類は、水分に満ち、降水量が多く、気温の高い土地でないと育たない。まして、現代日本では、長年の品質改良で、多果汁、甘く、種が少ないもので参考になりにくい。
 現代日本でも、ミカンは南、林檎は北で好まれ、果物に地域性がある。

⑶「弱水」談義
 私見では、国内古代史論者に共通の古典書教養不足のようである。厖大な史料に通じた巨峰白鳥庫吉師も軽視したから、仕方ないが、漢字学泰斗白川勝師によれば、「弱」は下部に飾りのある弓で、祭壇に献げたのである。私見では、武器に無意味な「弱い弓」は「飾り弓」だからである。そして、西王母の前に、河流「弱水」が控えると見るものである。あくまで、素人の推定だから、ご一考いただくだけで幸いである。

 楊子雲は、司馬遷「史記」大宛伝や班固「漢書」西域伝の元史料を見たのか、西の最果て「西王母の住まいの裾野に弱水が在る」と述べているが、西遊記の孫悟空が達した「五本の柱」のように最果ての奇観(賛辞)である。

 「西海」が、大海「裏海」かどうか不明である。武帝使節団は安息東境木鹿城Mervに長期滞在したが、私見では、応対の安息長老、実は、二万の兵を擁する司令官が、百人級の軍使団に、不用意に内情を漏らしたとは思えない。

⑷范曄大秦夢譚~余談
 私見では、范曄「後漢書」西域伝は、安息、條支の西に「西王母」と「弱水」を仮想している。「流沙」は、西境に揺蕩う「砂の海」と見え、笵曄は大秦を雒陽官僚の落書きと明言して、筆が踊っている。いや、大秦がローマとは、古来の大「誤謬」であるが、安本氏が唱えたものではない。為念。
 私見では、笵曄は、先例の乏しい蛮夷伝では、自由な語り部になるのである。

                               以上

2022年2月27日 (日)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の汚点 「五輪リベンジ」の不始末

                      2022/02/27
 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊12版スポーツ面のど真ん中である。いや、「陸上クロカン」なる記事の中程で、勝者の談話を持ち上げている小見出しだが、素人目にも、三流以下の不出来な談話で、何とも情けない。これでは当人の評判が下がるしかない。
 要は、当人が、ちゃんとした言葉遣いで話せない半人前なのがあからさまなのだが、それは、これまでちゃんと指導者が、汚い言葉遣いを直さなかったのが原因だろうが、何しろ、責任者の氏名不詳だから追及しようがないのである。それにしても、そんな、一人前の大人がしゃべるのが恥ずかしいセリフを、殊更でかでかと取り上げる担当記者の気が知れないのである。
 ここは、スポーツ面かも知れないが、世界最高の日本語報道紙の紙面なのである。言いたい放題のSNSではないのである。

 まずは、レースでコース外れをしてのけて、うまくごまかせたことを「やべって思った」と口汚く言った後で、勝者インタビューで「今の自分はダサい。オリンピックの舞台でリベンジしたい」などと、さらに汚い言葉で喚いたのを、そのまま報道するだけでも問題なのに、小見出しを立てるのだから、この言葉遣いは、担当記者の好みなのだろうか。予選下位敗退者が、別に何を誰に誓おうと、元々何の関心もなかったのだから、読者の知ったことではない。
 オリンピック代表に選ばれながら、自分が不出来で惨敗したのに、「くやしい、仕返ししてやる」しか言わないのは、何とも奇天烈な談話で、人選の誤りだろう。陸連は、ちゃんとした言葉で談話を出せない選手は、人選から外すべきではないか。

 また、毎日新聞も、このような姑息な手段で当人の評判を落とさなくても良いのでは無いか。今回の記事は、署名記者をブラックリストに載せるもののように見える。

 今回の大失態の責任は、このような記事が紙面を汚すのを停められなかった編集/校閲部門にあるように思う。記者の失態は、内部で是正して、読者に不快な思いをさせないというのが、大新聞の務めではないだろうか。

以上

2022年2月23日 (水)

今日の躓き石 NHKBS「奇蹟のレッスン」に汚点のナレーション 「リベンジマッチ」

                       2022/02/23
 今回の題材は、NHKBSの 『奇跡のレッスン「野球編」』である。[BS1] 2022年02月23日 午後7:00 ~ 午後8:50 (110分)

 番組は、最強コーチが、「楽しくて考える野球の道を日本の子供に伝える」ものであり、全体としてたいへんよくできたものと思うのだが、前半の締めの部分のナレーションで「リベンジマッチ」が出てきて、折角の番組に泥を塗ったのは、残念であった。

 いくら悪意がなくても、テロリスト紛いの「リベンジ」汚泥を子供達に擦り付けては、道に外れていると言わなければならない。
 負けたら、相手を恨んで次は血祭りに上げるというのは、野球界に長年漂っている悪習である。次世代に伝えたくないものである。

 いや、これは、復讐戦でなくて、近年蔓延している「ダイスケリベンジ」かも知れないが、野球界にしか通じない汚れた言葉を、さらに次の世代に伝えるというのは、恥知らずな汚点継承である。
 いゃ、番組の最後、試合に勝ったところで、「リベンジ」を果たしたとナレーションが入ったから、当番組のライターは、血なまぐさい「リベンジ」 が好みらしい。悪しき伝統に忠実なのか、勘違いで言い損なったのか、困ったものである。

 ついでに言うと、「因縁」などとこれまた血なまぐさい、反社会勢力紛いの言葉が出てきたが、同地域の有力な競争相手とたびたび闘うのは、別に偶然でもなんでもないし、何度も同じ相手に負けるのは、要するに、相手に比べて工夫が足りない、努力が足りないという事ではないか。子供じみた逆恨みなど、早く卒業してもらいたいものである。いや、当番組は、そうした知恵を各選手自身に気づいてもらえるようにするのではなかったか。

 もちろん、最強コーチは「平成の怪物」などではないから、「リベンジ」などと言っていないはずである。NHKの番組制作班のお粗末なスポーツ観が、またもや出てきたのだろうが、視聴者は、番組では、最強コーチと生徒達しか見ていないので、そこから出てきた言葉と思うはずである。折角の志に泥を塗っては困るのである。

 NHKにお願いしたいのは、スポーツ担当記者などの意識改革である。「復讐心」や「親/監督の遺志を継ぐ」だのスポーツに本来無縁の感情を書き立てるのは、ぼちぼち卒業してもらいたいのである。NHKが、そんな反社会勢力やテロリストの好む言葉を言わなくても、世間には、そうしたヤジが多いのである。

 NHKには、表立って、こうした悪い言葉を葬る「言葉の護り人」の役目を望んでいるものである。せめて、ナレーターが読み上げるまでに、誰かが止めることはできないのだろうか。NHKの番組は、大勢が知恵を出して作り上げているはずなので、その中に、ちゃんと言葉の意味を考えられる人が、一人もいないのかと淋しいのである。
 ついでながら、世間一般で意味の通らないカタカナ、インチキ言葉の「メンタル」が出回っているのも、NHKにしては不用意である。これは、公共放送として、大変不出来である。普通の言葉に言い換えれば、誰でも正確に理解できるのである。
 一方で、日米で抜群の実績を残して引退し、遠慮無しに名誉ある「レジェンド」と呼べるのに、なぜ、普通にそう呼ばないのかも、不思議である。失礼ではないか。

以上

2022年2月19日 (土)

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 1/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

〇コメントに公開回答
 以下は、【私の本棚 34 中島信文 『露見せり「邪馬台国」』】なる書評めいた記事に対して尾関かおる氏から投稿頂いたコメントで、『「海行」が呉志に用例がある』との指摘に対する回答です。(2019/11/22現在公開保留中)

 「用例」は、原テキストの全文検索で容易に発見できますが、あくまで、そういう文字列が使われていたと言う事であり、意義のある「用例」かどうか、言うならば。史料批判した上で言及すべきであり、そのまま「用例」として受け止めると深刻な誤解に陥るのは、当方も、しばしば経験しているところなので、ご指摘に台啜る反論として、以下の通り「用例批判」いたします。
 なお、当「用例」については、当然、先賢諸兄姉が却下しているものと思われますが、却下の先例のご指摘がないので、二番煎じを承知で以下説明を加えます。また、当ブログに於いて、同趣旨の記事が既出の可能性もありますが、それを見ろというのは、読者に不便を掛けるので重複ご容赦とします。
                           –記–

 「海行」は、移動行程の常用用語とされていたのであれば、海上交易の盛んであった東呉孫権政権の史官が責任編纂した国史である「呉書」に基づく三国志「呉志」で多用されているはずですが、実際は極めて「希」で、ほぼ唯一の用例について以下確認します。

▢吳主傳:  中国哲学書電子化計劃
 二年春正月魏作合肥新城詔立都講祭酒以教學諸子
 遣將軍衞溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲
 亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神山及仙藥止此洲不還
 世相承有數萬家其上人民時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行亦有遭風流移至亶洲者
 所在絕遠卒不可得至但得夷洲數千人還

*私見宣言
 もちろん、以下は、論旨を明確にするため断定調であっても、所詮は私見であって排他的ではなく、深意は推定ですから、異論があれば頂きたい。

 呉主伝に書かれている内容は、曹魏が、江水北岸合肥に「新城」を建設して、江南の東呉に対して武威を誇ったのに対抗するため、東呉が、徴兵船を夷州、澶州へ「浮海」、つまり、漠然と目指したときに根拠とした「情報」(風評)たる徐福「入海」の史記記事(正史記事の引用であるから、「風評」とは言えないのですが)に続いて、会稽海岸附近住民の「噂話」(風聞)を伝えたものであり、「会稽の東縣(海岸部諸縣。のちの臨海郡)に、海を行って(海に出て)強風に流されて澶州に行き着いた者があったという」とのことです。つまり、既知の目的地「澶州に向かって、官道として確立された行程として海を行った」のではないと見ます。
 もちろん、「海中」は、海水に沈んでいるという意味でなく、現代的に言うと「海上」の意味でした。また、「入海」は、海に入ると言っても、「入水」、つまり、身投げのことではありません。海上を船で行くという事です。
 ちなみに、曹魏の前線基地である合肥は、長江下流域で曹魏と東呉の競り合った紛争地であり、比較的、長江北岸に近かったこともあって、東呉の攻勢の的となり、西方で、蜀漢の攻勢を受けていた曹魏として、防衛の負担を軽減するために、若干後退した地点に「新城」を構えたと言うことです。そのため、東呉軍に、渡河して陣形を整える余裕を与えますが、堅守して増援を待つ姿勢を示して、不退転の意志を広く示したものです。つまり、東呉に求められていたのは、新城を攻めるための多数の歩兵であり、数さえあれば良しという思想だったように見えます。

*浮海と海行
 つまり、東呉として澶州への往復航路を確立していれば、海上道里や所要日数が知られていて、衛温、諸葛直の両将は、「浮海」などでなく「海行」したはずですが、実際は、果てしない海をあてなく漂って、行けども行けども目的地に着かず苦闘したことが窺えます。
 当時、磁石による羅針盤があったとの記録はないので、日中航行しかできなかったと見えます。と言うことは、澶州は、せいぜい数日の行程だったと見えます。
 何しろ、数千の人員で遠征して数千人を連れ帰るには、それ相当の水や食料の搭載が必要だし、途上の補給地も書かれていないので、現地調達も期待していなかったという事です。何れかの異郷が間近だったという事かも知れません。何しろ、ちゃんとした記録が残っていないので、よくわからないのです。
 「呉書」呉主伝は、東呉の正史であり、東呉の史官が公文書をもとに書いたものであり、降伏の際に晋皇帝に献上されたと言いますが、関係文書は、その際に処分してしまったのかも知れません。

〇三国志の文献批判
 念押しすると、「呉書」の収納は、陳寿の魏志編纂に先立っていて、むしろ、三国志「呉志」に、ほぼ全面的に採用されているので、陳寿は、全文を読んでいたのですが、倭人伝に、「海行」なる「新語」を採り入れることはなかったのです。魏志は、あくまで、「史記」、「漢書」の用語を典拠に編纂したのであり、叛徒である東呉の野史、つまり、非公認史書の用語は、論外だったのです。
 三国志の文書史料解釈において、「呉志」、「蜀志」は、陳寿が責任編集した「魏志」本文ではないので、峻別して取り扱うべきだということになります。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 2/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*無謀な兵船浮海
 曹魏の支配領域の沿岸を越えて遼東に大軍の兵船を派遣した実績を持つ東呉が、精鋭満載の兵船を、海を越えて遙か彼方、「海中」の夷州、澶州に派遣し徴兵する能力があった事は、呉志記事で確認できますが、それすら「海行」と言わなかった事は、当時の「航海」の限界を示すものと思います。
 もちろん、「海路」などと言う後代概念は三世紀当時には一切登場しません。諸兄姉は、時代錯誤の誹りを浴びないように、慎重に口を慎むべきです。

*愚行の教訓
 余談ですが、東呉は、(長江では)水軍で、曹魏が、一時荊州を配下とした時点でも、これに優越していて、不足しているのは、中原の平原に展開して闘う陸軍(歩兵、騎兵)ですから、言葉の通じない海人を大量に徴兵しても歩兵戦の役に立たないのです。徴兵船構想は、重大な錯誤としか言いようがありません。よほど人手不足だったのでしょう。

 「呉国志」のもととなった「呉書」を編纂した東呉の史官は、このような愚行が再発しないように慎重に言葉を選んで執筆したと思います。

*用例総評
 従って、本「用例」は、「海行」なる言葉が、東呉に於いて、倭人伝の用語の背景となっているとされている「水行」、「陸行」の制度に対峙される制度として確立されていたと証する用例ではないと考えます。

 また、陳寿が、魏志「倭人伝」を編纂する際に、呉書の孤立した用例を、公式史書である魏志に断り無く導入して、晋朝官人に承認されると判断したとは思えないのです。あくまで、呉志が東呉の語彙で書かれていることが、黙認されていたに過ぎないのです。

 ついでながら、ここに書かれている「会稽東縣人」を、「会稽東冶縣人」の誤記と解する例も見られますが、上記したように、会稽東縣とは、会稽海岸部を占める東部諸縣の通称であり、のちに分郡して臨海郡とされる地域と読み取るのが、順当な解釈です。

 会稽郡南部の東冶県は、会稽郡治から険阻な山間路を一ヵ月どころでない長期を費やして移動する遠隔地であり、そのような遠隔地の不確かな風聞を、東呉の国威を示す目的で書かれ自国史として権威を持っていた「呉書」に書くことは、ありえないものと見られます。「三国志」と一括して読まれても、呉志は魏志と異なる大義名分で書かれていることを認識して理解すべきです。

 つまり、会稽郡のお膝元で、直に取材可能な東縣の「伝聞」なのです。

▢改訂した結論 2022/01/22
 以上、丁寧すぎたので、以下、改訂した一刀両断の回答を示します。

 要するに、目下の課題は、魏志倭人伝の道里行程記事に対する呉志呉主伝記事の「海行」の影響ですが、これは、端から論外です。門前払いでお帰り戴けば、色々調べる必要は無いのです。

 以下は、あくまで、当ブログ筆者の心覚えであって、公開すると、更なる揚げ足取りを呼ぶので、内部資料として留め置くのです。(そのつもりでした)

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 3/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*内輪の説明書 (部外秘)
 魏志は、陳寿が、史記、漢書に通じる語法で書いています。早い話が、倭人伝の道里行程は、本来、秦、漢、魏の官制に従い、陸上街道に限定されています。もっとも、倭人伝の道里行程は、独自の限定された書法、語法となっています。また、倭人伝が、独自の書法、語法を採用するという事は、道里行程記事の冒頭で明示されています。

*後漢公式行程
 後漢書「郡国志」(司馬彪編 范曄「後漢書」に併録)には、洛陽から遼東郡を歴て楽浪郡までの道里五千里が記録されていますが、当然、終始一貫街道を行くので、帯方郡から先も、当然、一路東南方向に街道を行くのです。

 言うまでもないが、洛陽は河水の南、支流洛水沿いですから、遼東までに、少なくとも一度は、街道の津(船着き場)での渡船がありますが、それは、当然街道の一部であり、部分的にも「水行」などとは言わないのです。

 よって、呉志の発明した「海行」どころか、倭人伝で初出の「水行」も、本来、対象外の「無法」(違法)な用語です。倭人伝が、無法な用語で書かれていては、軽くて、却下、悪くすると、罷免、免官、馘首です。

*水行、陸行
 但し、倭人伝では、「従郡至倭」の行程が、狗邪韓国で「大海の北岸」に達して、以下、渡し舟とは言え、渡海の行程は、大海海中を進み、一日がかりなので、所要日数が発生します。そのため、余儀なく、妥当な方策がないので、特に用語定義して対処したのです。

 ここで陳寿が書いた「従郡至倭」行程では、『狗邪韓国の海岸(大海の北岸)から循して沖に出て、三度の渡船で対岸の末羅国の海岸に渡るのを「水行」と言う』と、臨時に地域限定(local)で「循海岸水行」と宣言したものです。
 つまり、公式道里に「水行」はないというのが、当然、自明の前提なのです。いや、行程が地上街道に限定されていれば、本来「陸行」も存在しませんが、東夷、西域など、街道整備が整っていない未開の世界では、必ずしも、原則だけ通用するとは限らないのです。

 因みに、行程は、末羅国で上陸し、以下「陸行」と明記して「水行」は解除されています。
 当ブログは、「従郡至倭」行程は、伊都国で完結し、女王の治所、王城までは、行程と言うほどの移動のない至近の地だったと、簡潔に見ています。「従郡至倭」行程の道里は、 千里単位ですから、本来、百里単位の端(はした)は、書くに及ばないのです。
 現に、倭人伝道里は、末羅国、伊都国間で百里単位の端(はした)を残したため、計算が合わないと揚げ足を取られていますが、千里単位の概数計算では、一里単位まで「キッチリ」合うとは限らないのが常識です。

*大海、瀚海
 中原知識人の世界観では、「海」は、塩水の満ちた「うみ」(英語でsea,米語でocean)ではなく、中原世界の四囲にある異界であり、船で渡ることなどあり得ないのです。

 一方、魏志「倭人伝」に書かれているのは「大海」ないしは「瀚海」であり、それぞれ、漢書「西域伝」に描かれた広大な塩水湖「カスピ海」が「大海」の実例であり、や砂紋の描かれた流沙(砂漠)は、水ならぬ砂の海の「瀚海」の実例なのです。
 中原人にとって既知の世界観を利用していて、陳寿が書き出しているのは、現実に追従した具体的な地理概念なのです。

*「倭人伝」宣言
 「倭人伝」は、公式史書「魏志」の一部なので、それまで、中原知識人の確認した語彙、世界観以外は、無断では使えないのです。くれぐれも、中原人の限定された世界観を遵守することです。所詮、中原人も、また一種の井蛙なのです。

                                未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 4/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19

*「蜀志」の開闢~余談
 陳寿が、三国志編纂を志した時点では、「蜀国志」稿が用意されていなかったのです。恐らく、蜀漢は、国家として最低限の官僚しか備えていなかったので、皇帝付きの記録係、書記官、史官は、揃っていなくて、晋で言えば、起居注として日々書きためられている記録が整っていなくて、各方面の多大な協力が必要だったのですが、陳寿の志を知れば、協力は容易に得られたものと思われます。
 陳寿は、蜀漢に事えていたので、そのような不備を承知の上であり、広く蜀漢時代の公文書を収集して蜀国志稿を整えるという活動を指揮し、最終的には、陳寿が蜀書の体裁を整えたとするのが有力な見方です。(陳寿が、自身で細部まで編纂したという主旨ではありません)
 蜀漢創業者にして、先主と呼ばれている劉備は、後漢献帝のもとから荊州を歴て成都に亡命して以来、一貫して、漢の再興を志向していたので、「蜀国志」は、中原洛陽の「東京」語法で書かれたものと思われますが、不勉強で確認できていないので、ご容赦いただきたいのです。

〇范曄「後漢書」の世界観
 因みに、三国志と言いつつ、呉志は、東呉史官(周昭,韋曜、薛瑩、華覈)が、言わば、不遜にも呉帝の事績を編纂した史書「呉書」が、東呉の降伏の際に、降伏の証しに「国宝」として晋帝に献上されたのを、陳寿が最低限の調整で呉国志として取り上げたのです。その内容に、魏志としては不適切なものが多々あるのは、皇帝以下の諸賢に承知されていましたから、呉志に書かれているから、魏志に書かれているのと同然という事はできないのです。
 要するに、三国志は、一律の統一された方針で隅々まで編纂された史書ではなく、三「国志」(魏国志、呉国志、蜀国志)なのです。

 衆知の如く、東呉は、東シナ海沿岸を自在に南北に往来していましたが、そうした業績が、中国の天子に承認されたのは、西晋が崩壊して、東晋が、長江下流の建康、つまり、東呉の旧都に亡命、東遷してからです。つまり、陳寿が魏志編纂の際に、呉志の用語を所引することはできなかったのです。

*笵曄の「海」~余談
 劉宋時代に(最後の)「後漢書」を編纂した笵曄は、建康政権たる劉宋に奉職していたから、先に書いた、太古以来の伝統的世界観は、持っていなかったと見えます。

 つまり、范曄にとって、「海」は、目前の「うみ」だった可能性が高いのです。范曄が、伝統的な史官として訓練を受けていたら、「海」は、魏志同様に、古典書に言う「海」と認識できたでしょうが、史官でない「素人文筆家」が、古典と同時代で、それぞれの語彙、世界観を書き分けていたかどうか、遥か後世人としては不明と言わざるを得ません。

*笵曄の創作~余談
 ついでながら、范曄「後漢書」東夷列伝倭伝の情報源は、不可解です。
 先に述べたように、范曄「後漢書」といいながら、「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の賜物であり、同書は、西晋代にまだ健在だった洛陽文書館の「大鴻臚」公文書から大量の資料を所引したものであって、洛陽(雒陽)から遼東郡を歴て楽浪郡への道里が記録されています。しかし、帯方郡への道里は記録されていません。それどころか、帯方郡自体、郡として記録されていません。つまり、遼東公孫氏は、献帝が曹丕に禅譲するまでの期間に、帯方郡分郡を報告したとしても、戸数、口数、道里は報告していないことになります。
 魏の文帝、明帝期は、公孫氏の自立時代ですから、魏の大鴻臚にも、帯方郡関係の報告は一切なかったのです。魏志に郡国誌も地理志も無いので、物証はありませんが、強固で反論不可能な状況証拠として、雒陽に帯方郡関係の報告は一切届いていなかったのです。それが、魏志に書かれている、公孫氏が東夷を遮っていたという記事を裏付ける物です。

 魏略及び魏志の東夷伝は、景初初頭に、帯方郡が、楽浪郡と共に、魏明帝の傘下に回収された際に、帯方郡から得られた郡文書に基づくものであり、特に、魚豢「魏略」は、後漢から政権を正当に受け継いだという立場に立っていたので、魏略「東夷伝」は、当然のごとく後漢代から説き起こしていたと見えるのです。これは、裴注として補追された魏略「西戎伝」が、大量の後漢史料に僅かな論評を加えた体裁であることからも見て取れます。これも、否定困難な状況証拠による推定です。

 と言うことで、范曄が、後漢書「東夷列伝」を書く際に、献帝期以降の記事を書くのに利用できたのは、魏略「東夷伝」だけだったということになります。何しろ、先行諸家後漢書には、その期間の東夷記事が存在しないのです。
 但し、笵曄は、後漢書「東夷伝」を編纂する際に、魏代記事をあからさまに流用できなかったので、魏志「倭人伝」相当記事を、後漢代の記事となるように、時代をずらしたものと見えます。つまり、倭国大乱を大きくずり上げ、卑弥呼の共立/即位も、目立たないようにずり上げ、陳寿の倭人伝記事の改竄を図ったものと見えるのです。
 その苦しい手口が、その国が「帯方郡の檄を去る」との記法に表れています。何しろ、笵曄は、楽浪郡治から、帯方郡治までの道里を知らなかったので、帯方郡までの道里が書けなかったのです。別の言い方をすると、笵曄は、帯方郡が後漢公文書に存在しないことを知っていたので、ここに書けなかったのです。それなら、なぜ、後漢公文書にない倭国記事が書けたのかということになりますが、不可解というしかないのです。
 其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。

*笵曄の言い分~余談
 その当時、倭の主監は楽浪郡であり、「大倭王」の居処は、陳寿の云う「邪馬壹国」と似ているが、字の違う「邪馬臺国」であり、行程の中継点も、大倭国の西北界である「拘邪韓國」だった、陳寿の「狗邪韓国」と違うだろうと言っているように見えるのです。二千年を隔てた後世の東夷にしてみると、姑息な言い逃れにも見えるのです。
 もちろん、これは、范曄「後漢書」が、誤写や改竄無しに、奇跡的に、後世に継承されたと仮定しているに過ぎないとも言えますが、現存史料を起点に考察するという方針は、既に定めているので、それは言わないことにします。ひたすら、山成す史料の片隅のすき間に、手際よく倭国物語を填め込んだ笵曄の見事な創作を賞賛するしかないのです。

 何しろ、該当時代の史料は他に存在しないので、いくら孤証でも、誰も責めないのです。何しろ、西晋代における司馬彪「續漢書」 編纂の 後、後漢の京師雒陽は、匈奴を中心とする異民族軍の攻撃で落城し、皇帝は拉致され、洛陽城は大掠奪を受けたので、厖大な公文書を退避させるどころではなく、秦代以来西晋に至る歴代の公文書は、ほぼ全滅したものと見えます。
 各後漢書は、司馬彪「續漢書」と、各地に残された地方志や公文書の写本類を頼るものになったのです。特に言うと、各地方志の中で、東夷伝のより所となるべき遼東郡の公文書は、後年、司馬氏の征討を受けて全滅しているので、後漢代の文書資料として利用できなかったのです。
 と言うことで、范曄「後漢書」倭伝に対する異議は提示されず、陳寿の記事は、笵曄の記事の下手な焼き直しの後出しに見えてしまったのです。

 総括すると、范曄「後漢書」が、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、「三史」の掉尾を飾る栄光の地位を得てから、古代氏の議論は、史記に続く両漢書(漢書と後漢書を合体させた、巨大な正史)で幕となり、三国志と晋書は、雑史の扱いになってしまったように見えるのです。いや、もちろん、「三国志」は、正史として大いに尊重されたのですが、燦然たる「三史」に比べると、一段控え目にならざるを得なかったようです。

 未完

私の意見 呉志呉主伝の「海行」用例について 用例批判の試み 再訂 5/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19-20

*まとめに向かって
 当記事は、余談が転々として、脱線に近いものになってきましたが、ここらで本線に戻してみます。
 つまり、倭人伝道里行程記事は、どのような方針で書かれたかという、言わば、陳寿の真意の見極めとなります。 

倭人伝「道里記事」の見極め
 と言うことで、当記事では、「水行」の由来を見極めたことになります。由来を見極めた背景として、呉志の記事が、「道里記事」に無関係だと、言わば圏外宣言したことになります。
 その余波で、「道里記事」が、古典書、史書にない独特の地理条件を、手短に説明するために、地域限定の概念を宣言して、ここだけの用語と論理を提言しています。そのような前例は見当たりませんが、それだからこそ、殊更、限定的に定義しているものです。
 倭人伝読者は、本来、自身の持ち合わせた「教養」をもとに解釈するものですが、「教養」に新たな定義を付け加えて解釈することも、あわせて求められているものと考えます。そうでなければ、新たな文書を読んでも、新たな知識を受け入れることができないからです。
 世上、正史は、先例、つまり、古典典拠(のみ)をもとに書くものであるとの決めつけが見られますが、文書解釈の根本は、文書は、目前の文書そのもので解釈すべきだとの大前提があり、陳寿が、倭人伝道里記事という前例のない地理記事で採用した宣言文は、決して、不合理な物ではないのです。

*目前の記事の意義
 因みに、「目前の文書」に集中するのは、巻物形式の文書で特に重要で、例えば、魏書第三十巻の講読を進めて、韓伝を終えて倭人伝に至ったとき、先行する第三十巻の大半は、直前の韓伝を掉尾として、右手の巻物に巻き込まれていて、読者の視界から消えているし、そのように、倭人伝の冒頭を目前に参照しているとき、二千文字の倭人伝後半千文字は、まだ、左手の巻物に隠れていて見えないはずなのです。
 つまり、読者が現に目にしているのは、後世の冊子で言えば、見開きに相当する程度の範囲ですが、冊子のように、簡単に頁送りして確認することはできないのです。もちろん、高貴な読者は、自身の手で巻物を操作することはありませんが、それでも、所望の範囲を見るために巻物を操作するのは、それこそ、一人、二人ではできない大仕事であり、しかも、目下の参照部分は、巻物にしまい込まれているので、比較参照するのは、大変むつかしいのです。
 まして、史記、漢書などの先行史書の参照となると、五人、十人の部隊が必要なので、不用意に起用できないのです。

 と言うことで、倭人伝の書法が、目前の文書記事自体による解釈を重視するのも、蒸し返しに近い再確認があるのも、もっともな理由があってのことなのです。

 「倭人伝」にある「水行」は、本来、「倭人伝」限りの用語であって、「従郡至倭」行程の三度の渡海に限定して採用されたものであり、それ以後の公文書でどのような意味で使われたかは、陳寿には無関係です。いや、余傍の国である投馬国への水行が、いかなる行程なのか、陳寿の知ったことではなかったのです。

*根幹と余傍
 陳寿は、「従郡至倭」行程を倭人伝の根幹の一つとして随分念入りに説いていて、後段では、用語表現を変えて、「參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里」、つまり、郡から倭を訪問する行程途次を説いていて、「従郡至倭」行程の三度の渡海は、 大海を大河と見立てた中州の島、洲島を渡り継ぐのであって、通常「海中」と言うような韓半島のような半島ではなく、概して絶島として独立していて、時に連なっているというものであり、この場の結論として、狗邪韓国から末羅国までは、片道五千里の行路(周旋)と珍しく念押ししていますが、こと行程外諸国に関しては、「余傍」として冷淡です。

 これら「余傍」諸国に関する「水行」を交えた行程は、遠絕、不可得詳、つまり、女王の元に公式回答がないので、万事不確実と「明記」しています。国情紹介で、二萬、七萬という絶大な戸数を申告している巨大な国の身上調査を怠るなど、もっての外なのですが、陳寿は、道里行程が第一にしてほぼ唯一の主眼であったので、蕃夷の「国」の地政学的な内部事情要素は、意に介していなかったのです。

〇結語
 以上のように割り切れば、「倭人伝」道里行程記事の「水行」「陸行」考証に、魏志以外の史書用例を審議する必要は無くなるのです。

 最後に復習すると、魏志は、三世紀の晋帝などの中原読書人のために、三世紀の西晋史官陳寿が編纂したものであり、そのように理解しないと誤解を生じるのです。ここでは、現代人に、そのような「常識」が行き届いていないことを想定して、ことさら丁寧に説き聞かせています。全て承知の諸兄姉には、ご不快かも知れませんが、当方には、読者の知識を知るすべはないので、あれこれ饒舌に説いているのです。

 当ブログ読者には、「ミミタコ」の方もあって、さぞかしご不快でしょうが、よろしくご賢察の上、ご容赦ください。誰でも、いくら博識のかたでも、「知らないことは知らないところ」から、知ろうとして勉強し始めるのです。

死罪死罪。頓首頓首。
                  完

2022年2月18日 (金)

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 1/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30
私の見立て ★★★★☆ 必見         「日本歴史」349号 (1977年6月)

*総論
 氏の論考は極めて篤実で、捨てがたい卓見ですが、採用史料の評価に同意できない点を含み、多大な論考の結論であっても、同意できないのです。今さら、ここに書評するのは、氏の古典的な論考ぶりが、今でも、同様の趣旨で継承されているからです。
 陽だまりの大樹にも実生の時代があったのであり、せめて、人の手の届く低木の時代に、このようなあからさまな傷を癒やしていれば、今日の巨木になって、大きな欠陥を人目にさらすことはなかったのにと、惜しまれるのです。まことにもったいない話です。

*不吉なタイトル
 その一端は、タイトルに表れていて「魏志倭国伝」は、氏の言う「通行本」(紹凞本)の小見出しに符合せず「倭人伝」書き出しにも整合しません。論文として、最低限の考査も加えられていない表れとみられてしまいます。

*「魏略」批判欠如~「翰苑」は論外
 通行本に並列の二史料の第一、「魏略」は現存せず、他史料に引用の佚文、つまり、ひ孫引き等された断片の集成に過ぎません。(衆知の如く、魏志第三十巻の巻末に裵松之によって補注された魚豢魏略「西戎伝」は、伝全体の良好な写本が挿入されていて、佚文などではなく、ここで言う「魏略」批判の対象外です。)
 つまり、無造作に「魏略」というものの、実態は、それぞれの断片の健康状態次第であり、いずれにしても、佚文である以上、「魏略」原本の忠実な再現かどうか、大いに疑問です。(再現の筈がないと断言しているのです)

 特に、ここで提起されている倭人伝部分の依拠する「翰苑」の所引記事は、そもそも、「翰苑」 自体が、適切に編纂された史書などではなく、「倭」関連部分に限って言えば、明白な誤解、誤記を、非常に多く含み、編纂者の資料の取扱が、不正なものではないかと大いに疑われますが、本来、原本に囚われない自由な引用と見えるので、史学の視点で言うと、大変粗雑な引用と思われます。
 早い話が、野次馬の聞き書き同然で、支離滅裂だという事です。
 三木氏が、素人目にも明らかな難点を審議しないままに、氏の論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*御覧批判欠如
 その第二、所引本は太平御覧(御覽)に引用の「魏志」です。
 世上、誤解が出回っていますが、「御覧」は史書ではないため、編纂時の引用、記事承継が、全く信頼できないと言わざるをえません。
 榎一雄氏の考察によれば、「太平御覧」は、先行する複数の類書に依存した編纂物であり、多くの所引担当者を動員した大事業と見えるので、信頼性の面では、大いに疑問があります。
 これに対して、「三國志」は、史官としての訓練を受け、史官の使命で動機づけられていた陳寿が、専念して史書として編纂して完成稿を遺し、没後の上程後は、歴代皇帝の蔵書として、適確に継承されていた、検証済みの史書です。
 氏の議しているのは、蟻が富士山に背比べを挑むようなものであり、それだけで、氏の奉じる史料批判の信頼性が大きく損なわれるものと見えます。

 「御覧」上程以後の継承に限定しても、「御覧」も絶対不朽の継承が検証されているわけではなく、「三国志」同様に、北宋末、侵入金軍による中原全土から、長江流域に至る全土での「諸書(経書、史書、類書)及び版木の全面的破壊」の被害を受け、南宋が、国の権威をもって、各地に遺存していた写本から、原本回復を行ったものであり、史料としての信頼性としては、少なくとも、同様の依存史料から復原されたと思われる「三国志」に対する批判と同等の批判を克服する必要があると思えます。

 国内史学界で出回って、陳腐化している、つまらない言い草の繰り返しは、鬱陶しいのですが、「太平御覧」の原本は現存せず、原本を読み通した者も現存しないのです。そして、最良の刊本は、精々南宋期のものでしかないのです。肝心なのは、南宋による復原努力の成果であり、原本がないこと自体は、何の根拠にもならないのです。

 見かけない議論ですが、所引に云う「耶馬臺國」は、⑴所引者の見た魏志の正確な引用なのか、⑵「邪馬壹国」(通行本由来)、⑶「邪馬臺国」(後漢書由来)の何れなのか、三択状態にあり、結局、より信頼性に乏しい後代史料によって、信頼性の卓越した通行本を批判しているのです。余りに、後代史料の信頼性が低いのです。

 素人目にも明らかな難点を審議しないままに、論拠とするのは、むしろ失態に近いものと見えます。

*両史料の信頼性評価
 まとめると、「魏略」には、かなり厳しい批判が必要であり、所引本(御覧所引魏志)にも、しかるべき史料批判が必要/不可欠であり、両史料が通行本に優越するとは(絶対に)言えません。

*先人評価~風に揺れる思い
 ちなみに、冒頭に二重引用された末松保和氏の評言は、
 所引本は、当時の三国志原本(意味不明)からの引用、要約と認めつつ、
 通行本では「侏儒国、躶国の記事を含む一節が不自然な位置と考えられ」るが、
 所引本では、「より自然と認められる位置にある」、及び
 主要国の路程などの順序が、所引本では「比較的整頓され」ているが、
 通行本は「実に支離滅裂(意味不明)
 と見た上で、所引本は、(魏志の)「本来の形」であり、所引本魏志は、通行本魏志と「系統を異にする別本」、と推定口調とは言え実質的に断定しましたが、三木氏は、前段の路程などの記述順序評価は不当と認めつつ、後段は妥当と認めているようです。(「意味不明」は、当記事での追記です)

 このあたり、論理が大きく動揺していて、とても、筋の通った推論とは見えないと申し上げざるを得ないのです。

 「所引本」に対して、史料批判、検定を受ける前から、つまり、著者の深意が知られないうちから、その記述内容について評価するのは、本末転倒の錯誤です。

                               未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 2/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30 
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*「御覽」編者の重い使命
 「御覽」編者は、当時の教養人が一読して意味が通る滑らかな記事を書くよう指示され、その問題に時代一流の解を提示したのですが、その際、原文をいわば「誤解」して、それを、滑らかな漢文に書き上げた(書き換えた)と見るものです。

 従って、氏の史料評価は観点が交錯しています。言うならば、史料に現代人にとって読み取りやすい表面的な明快さを求めるのか、深く掘り下げて古代人の文意を発掘し明快な解釈を見出すのか、方針の違いです。

*堅実な論文構成
 提示資料の史料批判をここまでにして、本論の批判に戻ると、三木氏は、先行論考を検証する意図で、ここに、自身の論考を着実に展開していて、その点、堅実な学術論文であると感じます。

*写本継承系統複線化仮説

 氏は、国内史書の写本がいくつかの写本系統で継承される過程で少なからぬ改変が生じたことを意識してのことでしょうが、中国正史は、原本の正確な継承が最優先され、引用利用された下流、派生写本への改変が原本に一切遡及しない仕組みを軽視しているように思われます。

 河水(黄河)下流、河口原での分流に見られるように、一度、扇状地に放たれた奔流は、果てしなく分岐派生し、南北に隔たった小河口でそれぞれ海に注ぐのですが、大河の上流は依然として揺るがないのです。
 下流の派生を見て、上流に揺らぎを見るのは、場違いな幻想です。

 引き合いに出された末松氏も、「別系統」で複数の正史原本が継承されていたと示唆し、南北朝期などを想定したのでしょうが、中国の正統観から言って、各王朝が自己流の正史を蔵書していたとは思えないのです。特に、ここであげつらっているのは、「三国志」の中でも「魏志」末尾の細瑾に過ぎないので、その道里行程記事を解読した上で、自己流に手を入れるなど、あり得ないでしょう。
 素人目には、何か、壮大な神がかりを思わせるのです。

 と言うことで、当方の素人考えは、たまたま、古田武彦氏の正史観と一致しますが、前提として、通行本は正史の(同時代史料群を相対評価して)最も正確な継承と見るものです。ただし、しばしば揶揄されるように神聖不可侵などと言うものではないのです。
 どんな人、著作にも、欠点はあります。
単に、信頼性随一の原点として共有し、その「岩盤」に基礎を敷いて、以下の議論を始めようというものです。

 仮に、聡明全知の後世人が、不出来、不首尾な記事と見ても、後代視点から、正史の記事を改訂、ないしは、読替えすべきではないのです。砂上楼閣はご免です。

*孤証の誹り
 氏は、本資料の中で通行本が孤立している、孤証であるとの主張を述べていますが、それは、先に述べたように、他の二史料に分に過ぎた信を置いているからであり、評価基準が適正でなければ、いくら適正な手順を採用しても、正確な結論、というか、信用できる判断はできないのです。

 言い方を変えれば、史料評価は、標本の数や字数の多少で左右すべきでない、と思うのです。それとも、収録史書の総重量、目方で行くのでしょうか。それなら、御覧の大勝でしょう。

                                未完

新・私の本棚 三木 太郎 『「太平御覧」所引「魏志倭国伝」について』 改 3/3

 邪馬台国問題の論争点について           2019/02/17 補充 2022/02/18 05/30
私の見立て ★★★★☆ 必見 「日本歴史」349号 (1977年6月)

*また一つの我田引水
 残念ながら、氏は、特定の史観の学派に党議拘束されているのか、多大の議論を、一定の目的意識に背を押されて進めていて、客観的な論証から逸脱した我田引水に労力を費やしていると見えて、大変痛々しいものの、少なくとも、その判断の根拠を明示しているので、学術的な錯誤とまでは言わないのです。

*傾いた道しるべ
 そういう視点で見れば、三木氏の本論への取り組みは、若干倒錯しています。
 明らかに、今回の論考は、到達点として、列記された課題を掲げて始まり、終始、そのような「青雲」を目指して道を選んでいるから、道が曲がっても躓き石があっても、ものともせずに、正義の旗を高々と掲げて、断固直進したとみるのです。

 いや、それは、氏だけではないのです。少なくとも、古代史学界では、大抵の論者がいわば天命に即して苦闘していて、そのような取り組みが、往々にして、結論に合わせて経路を撓める経過を辿っているので、大命を背負っていない素人は誠意を持って指摘するのです。
 三木氏が、先に挙げた参照資料の難点を意識外として、字面に沿って考察したのは、そのような背景からでしょう。
 燦然と輝く道しるべは、既に傾いていたのです。

 客観的な考察は、それ自体が学術的な成果ですが、課題必達型の考察は、自ら、学術的な価値を正当化できず、却って貶めているようにも見えます。いや、真摯な論考をこうして批判するのは、大変後ろめたいのですが、「曲がった」論考がなぜ曲がったか、率直な意見を呈して、学会に関わりの無い、一介の私人たる素人が、古代史学に貢献できればよいと考えるのです。

*風化した雄図
 氏が提示した以下の結論は、そのような議論を支持する論者には大いに歓迎されたとしても、氏の雄図はむなしく、本論公開時点以来、四十年を経て、依然として、単なる作業仮説に留まっています。もったいないものです。

 論争を終熄させるべき時宜を失し、執拗な風雨に正論の松明が負けるように、風化してしまったのでしょうか。真摯な論争が途絶えたように見える現時点では、こうした三十ー四十年を遡る真摯な論文が必読資料と見て、辛抱強く発掘しては、紹介旁々、持論を宣伝しているのです。

*解けない問題を解くために
 以下、掲げられた成果から見て、三木氏が掲げた下記の正否は素人目には明白ですが、どのような課題を自らに課すかは、各論者の専権事項であり、批判の対象外です。ですから、いちいち批判は加えません。ここで批判しているのは、考察の客観性の蛇行なのです。

    1. 邪馬台、邪馬壱論争は邪馬台国の名称が正しいこと。
    2. 倭国乱の時期は霊帝光和中であること。
      中国使節は卑弥呼に拝仮したこと。
    3. 邪馬台国までの行程記事は直進的に読むこと。

 と言うものの、世上、邪馬台国論争は混迷を続けているとか、なかでも、所在地論は、千人千様で間違っているとか、野次馬の嘲笑罵声を浴びていますが、それは、議論の立脚点を固めないままに当て推量を積み重ねて、ここに唱えられているような砂上の楼閣を築き上げたからだと感じる次第です。
 二十一世紀、令和の時代、半世紀どころではない太古の原点に戻って、問題の読み方から考え直すべき時代に来ているように思うのです。

                               完

2022年2月10日 (木)

今日の躓き石 オリンピックに「リベンジ」煽動の悪霊(レジェンド) 退散の祈願

                    2022/02/10

 今回の題材は、スポーツ新聞系記事なので、本来は見過ごすのだが、余りに問題が大きいので、ここに苦言を呈する。
 葛西紀明 怒り収まらず「どうしてあのような酷い涙を流させるのか!」 高梨には4年後リベンジ期待
[ 2022年2月8日 19:40 ]  

 掲載されたのは、「スボニチアネックス」のサイト記事であるが、いくら言いたい放題のスポーツ新聞メディアでも、本人に重大な危害が及ぶような報道は、厳に慎むべきである。

 それにしても、ご老体が、記事の末尾で、傷心のアスリートに邪悪極まりない呪いをかけているのは、痛々しい。
 「レジェンド」は、その栄誉に相応しく博物館に戻った方が良いのでは無いか。謹んで、送り火を焚きたいものである。それにしても、これほど、露骨に報復行為を宣言しては、指導者として大きな罪科を背負うのではないか。いやいや、次回オリンピックの審判団に、何をぶつけて報復しろとけしかけているのだろうか。これほど露骨に血を見る事態を指導しては、ただでは済むまい。

 それでも「高梨選手にはこんなことに負けないでまた四年後リベンジしてもらいたいです」とエールを送ったレジェンド。

 このような暴言が、横行しないように、当ブログは、しつこく「リベンジ」厳禁を訴えているのだが、しつこく燃え続ける山火事に、柄杓で水をかけるほどの結果も出せていないようである。とは言え、ただの一個人には、この程度しかできないのである。

 それにしても、「また」リベンジとは、どういう意味なのだろうか。スキージャンプ界には、報復行為の伝統でもあるのだろうか。

以上

2022年2月 5日 (土)

今日の躓き石 無くならない「リベンジ」蔓延の悪例 日本将棋連盟に到来

                    2022/02/05
 本日の題材は、日本将棋連盟サイトの下記署名記事である。内容は関係無い。タイトルで「ド滑り」しているのである。
 10連覇かリベンジか 第47期棋王戦五番勝負展望

 これは、佐藤康光連盟会長の真意でなく、記事筆者の「暴言」なのだろう。もちろん、タイトル戦当事者の言葉では無いはずである。当看板サイトに、ちゃんとした編集体勢があれば、編集長が発見して、叱責して改善したはずである。

 言葉自体が、自爆テロを思わせるものであるのに加えて、将棋のタイトル戦に復讐戦の意義しか無いと見るのが、記事筆者の品格の低劣さを物語っているのである。連盟として、当記事は「事故 」扱いして、当記事を取り下げることを謹んでお勧めするのである。
 せめて、このようなみっともないタイトルだけでも、なんとかして欲しいものである。

 因みに、当世若者言葉では、聖なる「リベンジ」を、「再チャレンジ」の茶化した意味で誤用する「ダイスケリベンジ」が大半であるのに対して、当記事の「リベンジ」は、昔ながらの血まみれの復讐戦を示していて、「旧式で的はずれ」の上に、大変たちが悪いのである。
 書いたものがそのまま公開される気楽な立場の人は、自分しか暴言に気づいて是正できる人がいないのだから、聞きかじりで書き飛ばすので無く、よくよく調べて、考えて欲しいものである。

以上

2022年1月27日 (木)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で滑るのは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは子供である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきであると言っているに過ぎない。「頭から、倭人伝が間違っていると思い込んでは、研究にならない」のである。むしろ、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の倭人伝史料を原点にするという学問的に当然の手順を確認しているのである。宝賀氏は、「原点」に対して、はるか後世のものが改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である新「倭人伝」を論じるのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」と呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、宝賀氏の不勉強を示しているに過ぎない。
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然とか、陳寿が全知で無いとは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うことであり、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「正史」でもなんでもないのである)

 「魏略」論が混入しているが、「手放しで」同時代史料とは意味不明である。「魏略」佚文に誤写が多いのは、低級な佚文書写故で、「倭人伝」基準で「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。史記基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、三国志の基準を適用するしかない。三国志は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿の複製が上申され、皇帝の嘉納を得て帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が健全に維持されたのである。改竄など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。
 後世、特に現代の文献学者に言わせると、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、飯のタネにならん、と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなものであり、見当違いなのである。河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしで氏の先入観と見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。
 「トータル」で整合性がないとの印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*魏略再考
 因みに、魏略の文献評価は、「倭人伝」後に補追の著名な魏略『西戎伝』に尽きるのでは無いか。倭人伝並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。魏略『西戎伝』 は、権威ある百衲本の一部である。 字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。
 結論を言うと、魚豢は、史書編纂の筆の強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。しかし、魚豢を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 1/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

 実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので勝手にしようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。

 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の論理に歯が立たないのは当然である。いや、趙氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は、古典的に正しいと見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、魏志編纂者が、倭人伝資料をご自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた」とする仮説には、同意できかねる。倭人伝は、記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 再掲 2/2

                         2018/09/21 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は漢書地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、倭人伝行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

 単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。

 伊都国から発する全ての倭道は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、魏志編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、倭人伝道里行程記事を、直線的な行程を書いたものに違いないとする意見への所感を「アイデア」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

 

2022年1月21日 (金)

私の意見 倭人伝「之所都」の謎

                           2022/01/21
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の通説は、陳寿の真意ではないようである。「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史魏志の権威は絶大で、以後、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり魏志の「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、陳寿に、そのような意図はなかったのである。後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制などなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。
 ここでも、倭人伝の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都也
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり誤字も然り、と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設で、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」による徴収は、古来、国庫でなく帝室財政への収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の外征乱発や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので、国庫収入に付け替えたようである。
 何にしろ、当時の経済活動の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、倭人伝解釈に有益ではないかと思い、本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。

 先週の見出しは、「卑弥呼の都、纒向に突如出現」であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。
 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。
 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かないに重蔵が見えているように思うのである。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。
 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない。
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

2022年1月17日 (月)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  1/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。「無理なく」「自然に行きつく」とは、過去の失敗例里上塗りに過ぎないと受け止められてしまうので。勿体ないことです。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、要するに、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい「さる方」のご託宣の丸写しなのでしょうが、「さる方も」、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。一覧表を掲示していただいたら、随分勉強になるのですが、このままでは、単なるホラ話であり、単に、一覧表の末尾に連なるものにすぎません。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。自虐、自爆は、珍しくもないので、いい加減にしてもらいたいものです。 

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  2/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、根拠不明の「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではないのです。農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐために「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量衡に属さない「歩」は、単位として別世界に属するものであり、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世記当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

«新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  3/14 補追

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