2021年10月14日 (木)

今日の躓き石 「Go To」トラベルの愚劣さ~「ネーミング」が露呈した勘違いの再現か

                              2021/10/14

 今回の題材は、政府関係者諸兄の「言葉」の貧困を歎くのであり、政策としての手違いは「命名」の勘違いに、誰も気づかないことから来ているのではないかと思うのである。ご自愛いただきたいものである。諸兄が躓けば、何千、何万が、ずっこけるのである。

 今回は、再開に先立って、観光地の皆さんが呼びかけている報道を見て、これは、黙っていられないと感じたのである。
 皆さんの気持ちは、「いらっしゃい」と言う趣旨である。言うまでもないが、観光旅行に出かけるには、何ヵ月も前から用意して、予約するものだから、今日発表して明日から観光客がやってくるものではないしそれでは、食材の手配も、何も間に合わないので、政府の公式発表を待たずに、先駆けて呼びかけるしかないのである。

 これに対して、「Go To」は、政府関係者が市民に向かって、どこか「よそ」に行ってしまえと英語の命令文を号令しているのであり、決して「行きましょう」、「行ってください」と言うものではない。ちゃんとPleaseを付けなさいと習わなかったのだろうか。
 因みに、「いらっしゃい」と呼びかけられて応えるのは、「Go」でなく「Come」である。合わせて、英語不勉強の上塗りである。

 昨年7月の個人的経験から行くと、大阪からは、何とか会津に行けたのだが、多数派の東京人は、折角早めに予約を入れて、家族共々楽しみにしていたのに、都知事の突然の「自粛」命令で足止めされ、大量のキャンセルが出て、各地の人々は、とんでもない被害に遭ったようである。誰かが「行け」と命令しておいて、別の誰かが「行くな」とは、困ったものだと感じたものである。

 繰り返して言うと、観光地にとって手痛いのは、時間と手間をかけて、予約を受け、食材や働き手を用意したところへの、どたキャン「土壇場キャンセル」である。これは、一種の社会悪である。個人として、こんな悪事に手を貸すことはできないのである。おかげで、昨年10月以来、ほぼ、キッチリ足止めである。

 以上、政府の施策は、最高学府を最高の成績で修了した秀才軍団の輝く叡知と勤勉な労苦の賜物と思うのだが、今回の「Go To」ドタバタに関しては、落第生の答案を見ているようで痛々しいのである。人は、失敗から学んで「ノウハウ」を画策するのだが、素人の苦言も参考にして欲しいものである。

以上

2021年10月12日 (火)

今日の躓き石 都市対抗二次予選 二枚看板のダブル「リベンジ」の悪習

                           2021/10/12

 本日の題材は、毎日新聞朝刊12版スポーツ面、「10日のスポーツ」ページである。昨日は朝刊のない月曜日で一日遅れの報道である。それはそれとして、紙面ど真ん中に汚い言葉が二度登場して呆れているのである。これなら、この面をちぎり取ってお返ししようかと言うほどである。

 1発目は、選手談話めいた引用符入りで「ちょっとしたリベンジ」と自慢たらたらに言い崩しているが、言葉としては最悪の汚い言葉である。選手の失言を晒し者にして、全読者にぶちまける記者根性は、さもしいと言いたい。記者のいたずら心が紙面に並べた暴言は、決して取り消せないのである。

 2発目は、地の文で、宮城石巻の球場に登場した角高出身投手は、依然として災害復旧途上にある石巻に何の恨みがあってか「リベンジ」宣言したことになり、記者の出身県は知らないが、災害を免れた秋田角館に汚い言葉を塗りつけて、これもさもしい言い方である。
 記者自身に地域偏見がないとしたら、宮城と秋田の間に県対抗の対抗心、差別意識でもあるのだろうか。随分深刻である。選手にカウンセリングは、必要ないのだろうか。いや、記者も抜かさず。

 およそ、国際的な報道などあり得ないと偏見を抱いて、地方予選の記事のチェックに手抜きがあったとしたら、殊更都市対抗野球を侮辱したことになるので、敢然と告発した。どんな面でも、毎日新聞の基準は変わらないと思うからである。

 こうした汚い言葉は、断固撲滅すべきである。野球関係者には、染みついた悪習かも知れないし、地方によっては、口癖になっているのかも知れないが、それなら一段と撲滅しなければならない。次世代に、悪い言葉を押しつけないよう、指導者の皆さんにも、暴言廃止を問いたいところである。

 全国紙には、悪しき言葉を完全に撲滅する使命があると思うのである。

以上

2021年10月 8日 (金)

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 序論のみ

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ   2021/10/08

〇緒言のお断り~限定的論義
 榊原氏の本書での論議で気になるのが、後世概念闖入による不首尾です。
 例えば、氏は、東夷の変遷を理解していますが、殷代に東夷とされていた山東半島について、漢民族が、東夷を掃蕩し、東夷がなくなったと誤解していますが、漢語を読み書きし古典を解する「教養」人が文化人であり、民族不問です。もっとも、各国で文化人は一割に満たないはずです。
 古来、中国史書で、稀少な例外は除き、民族を想定させる風貌記載は無く、身体特徴では、曹操、晏子などの偉人を除けば「丈夫」の巨漢です。「丈」は、別に、一丈十尺でなく七尺を超えたら「丈夫」、さらに強調して「大丈夫」と思われます。素朴な強調は、誤解され続けているのです。
 と言うことで、「文化人」は夷と呼べないのです。何しろ、相手が無教養な野蛮人扱いを知ったら、当然激怒するので、氾濫蹶起をけしかけているようなものです。いずれにしても、もはや東夷は「発展的に」解消し、中原人は、さらなる僻遠の地に無教養な「東夷」を求めたと思われます。別に、中原人が侵略したとは限らないのです。

*孔子東夷談義~ずれた理解
 氏が引用する孔子の言で、海に筏を浮かべても、「日本列島」には、到底達し得ません。
 筏は、要するに、船室、甲板のない小船であって、船体は備わっていないはずです。潮風、雨ざらし、海水浸入では、普通人は、数日しか耐えられません。気軽な浮海は、山東半島沖合の海中の山島、朝鮮半島行きで、食糧ももつし、外しようがありません。

*首都談義~栄枯盛衰する「都」の概念
 「首都」と言う後世語ですが、三世紀、「都」は、洛陽などの帝国皇帝居城専用です。「首都」を広域国家の国王居所と解して、各国が広域「国家」を形成していたとみるのは幻想です。また、現代語で「首都」は、むしろありふれたまち「都」で、でかく、賑やかなものと解されているようです。

*連邦国家談義~時代錯誤の一例
 「連邦国家」なる後世語ですが、国体が不明では「邦」と呼べるかどうか不明です。「邦」は戦国七雄の領域国家と地域聚落「国邑」を区別しましたが、漢高劉邦を避け死語となったので、「連邦」は場違いで時代錯誤です。
 また、諸国は客観的に証されない限り「邦」と大国宣言はありません。

*連合談義~鎖の無い連鎖
 「連合」と緩めても、各地散在の小国が、どう連絡を取って、連合していたのか不可解です。馬無しで各国は伝令を走らせていたのでしょうか。

*後世語、後世概念の排除
 要するに、中国史書解釈で、「後世語」、「後世概念」の無法な混入は、論者と読者の意思疎通を大いに疎外するので厳重に避けるべきと思われます。

*周旋談義~大仰な解釈
 「周旋五千里」に通俗解釈を採用していますが、海上洲島、小島が散乱した国家形態で、領域周長など、およそ無意味です。ご自愛いただきたい。
 同時代の袁宏「後漢紀」で、「周旋」は、「二つの名家を往き来する」用例で、倭人伝では狗邪~倭間が五千里と明示と思われます。郡~狗邪~倭の主行程記事に傍路条が挟まったので念押ししたと見ます。冒頭、倭人は「大海中山島に在り」の予告を受け、洲島を伝い倭に渡ると念押ししています。
 そして、末羅で陸行に転じて、伊都~倭直行で、長期水行渡海を要する投馬は九州島内に収まらず、余傍を念押しする共に、奴国、不弥は風俗記事を書かず、余傍明示です。

*倭人伝解釈に王道無し
 と言うことで、倭人伝は、後世人に耳当たりの良いのでなく同時代教養人が苦労する「解釈」が必要で、皇帝初め教養人に頭を捻らせる「問題集」だったのです。
                         この項完 以下別途

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 1/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇始めに~謝辞に代えて
 本書は、しばらく前に購入して、まことに名著であると感心して、どう紹介するか迷っていたものですが、今般、高柴昭氏の好著を批評した勢いで細瑾を率直に指摘し、改善に貢献できそうだと意を決して高嶺に挑んでいます。

〇本著の美点
 本著は、史学を修めた著者が、長年の学究生活で、伊都国歴史博物館館長を務められた期間に「館長講話」として行った講演稿の集成と見受けます。豊かな学識と所蔵品含め多数の遺物の考察を踏まえた確実な内容であり、筆者ご自身の推敲と海鳥社の編集努力が見事に結実していると考えます。
 過去の書評で非難した落第例を引き合いに出しては恐縮ですが、本書は、学術書としての体裁を完備していて、編集担当者の高度な技が偲ばれます。

*構成の芳醇
 本著の趣旨は、副題に書かれているように、「魏志東夷伝」を総覧した上で、その一部である「倭人伝」を合理的に解釈するものであり、「倭人伝」集中を唱える小生には耳が痛いのですが、小生は、国内史料で形成された先入観で「倭人伝」を改竄する風潮が「倭人伝」論混迷の原因とみて、範囲を限定しているだけであり、大局的には、軌を一にしていると見ています。

*一級史料に立脚した堅実な議論
 それはさておき、氏の方針で、本書は、三国志東夷伝の書き下し文を基礎資料として収録し、同資料の考証を起点として議論を進めています。
 とかく、自説提示を急いで、論理的な筋道が交錯した、まことに多くの失敗例と大きく異なる展開です。氏の職掌柄、多くの論説を見聞きされているものと推察しますが、本著全体を貫くのは、整然とした論旨展開であり、一介の素人が云々できるものではありません。
 さて、そこまで言った後で、氏の好著に対して率直な批判を寄せるのは、小生の「門外漢」としての細やかな貢献と信じて苦言交じりで以下述べます。
 あるいは、小生の指摘は氏も承知の細瑾で、すかさず却下かも知れませんが、小生は、せめて、「見解の相違」として許容いただきたいものです。

〇緒論のお断り
 本稿に先立つ単独記事で、「後世概念闖入」を指摘する緒論をあげています。
 話の成り行きで部分的に重複する点は、ご容赦ください。

〇各論巡訪
 早速、表紙に邪馬台国への径」とされているのが、勿体ないところです。
 「邪馬台国」に関する古典的な議論は別儀として、「径」は、古代中国語では、間道、抜け道、裏街道の意で用いられことが多く、氏の真意が、真摯な小道であれば、せめて「路」と言って頂きたかったところです。(「径」の別義は、後に登場します)

 倭人伝でも現地の「道路」を評して、これでは、公道と言いつつ、まるで裏道、抜け道(禽鹿径)ではないかとする苦言があります。
 この点は、些細ですが、「倭人伝」の用語理解には、古代中国書籍の用語の理解が不可欠で、「東夷伝」まで広げても、足りないと見受けます。
 緒論の如く、国内史料世界観を三世紀に持ち込むのも禁物と感じます。
 以下、難癖と嫌われるのを覚悟で、述べていきます。

                               未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 2/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇私撰の誣告
 世上、陳寿を貶めるつもりか魏志私撰説がありますが、公文書を渉猟して史書を私撰するのは「死罪」ですから、無事公認編纂されたものなのです。
 後漢代の漢書編者班固は、洛陽書庫所蔵の前漢公文書を渉猟したと下獄し、西域の英傑班超など親族の懇望で死罪を解かれ漢書編纂を許可されました。
 南朝劉宋の笵曄は、散佚した後漢公文書でなく、公開の先行後漢書所引公文書を採用したので、時代の変遷もあって、私撰の誹りを免れたと見えます。

〇行程道里記事の取り違え
 これは、広く倭人伝論者に共通の「思い込み」ですが、冒頭の道里行程記事は、「景初遣使の答礼である正始の魏使訪倭行程記録ではない」のです。
 「倭人伝」は、新参の東夷「伝」で魏の公式道里/行程が書かれています。但し、倭人伝には郡から倭まで万二千里の全体道里が、早々に皇帝裁可された厳重極まりない縛りがあり、陳寿は辻褄合わせに苦慮したと思われます。

*倭人伝道里の成り行き
 公式史書(公史)道里で肝要なのは、太古以来、帝国辺境の地への道里は、官制の街道で「陸行」自明なので書いてないのです。街道未整備の辺境「里」は、当然大雑把ですが、万里道里は精測不要なのです。

*行程明細
 陳寿が、取り組んだのは、狗邪から末羅に至る「狗末」行程です。本来、中原の官道も大河は、渡船なので説明不要ですが、この際の渡海は、順次乗り継げるものでなく行程日数が必要で、それに見合う道里が必要でした。
 郡から狗邪まで「郡狗」は、「郡倭」万二千里を按分して七千里とし、それぞれの渡海は、一千里と「想定」したのです。陸行なら里数概算に批判がありそうですが、難路の渡海行程「三千里」は「水行」十日で収めたのです。

 陳寿は、まさか、海を歩いて行くと言えなかったので、「水行」と異例の用語としましたが、記事の冒頭で明記したので読者を騙してはいないのです。

 「郡狗」七千里は、郡に既知の「郡狗」を倭人伝で七千里とし、全体の万二千里は推して知るべしとなったのです。千里計算で末羅まで一万里、残る「末倭区間」は大雑把な概数で二千里ですが、「常識的」には、「郡狗」の2/7でも、大雑把な概数の積み重ねで不確定です。

〇韓「方四千里可」
 氏は、「方四千里」が一辺四千里の方形と、ほぼ決め込んでいますが、根拠の無い憶測に過ぎません。当時、統一政権の無い韓地の包括地形を、どのようにして知ったのでしょうか。帯方郡が、耕地検地はともかく、厖大な労力と未踏技術を投入して、意味なく全領域面積を測量するはずがありません。

 耕作地は領分の一部に過ぎません。韓地には千㍍を超え冬季冠雪凍結する小白山地が連なり、山川渓谷の荒れ地が多く、領域面積に何の意義もありません。高句麗は、地形がさらに険しく、灌漑に適しない牧畜地が多いのです。

 九章算術等の算術書で個別農地の面積測量法は知られていて、余さず課税台帳に記載していたので、全国集計は十分可能だったはずです。

 韓地の農業は、中原ほど組織的でなく、高度な検地、土地管理はできなかったとしても、後漢書地理志には、各郡の戸口が、一戸、一口単位で集計されています。耕地面積は、国勢指標として、最重要視されていたのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 3/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*方里と道里
 東夷伝の「方里」は農地面積であり、それを、幾何学図形として現代地図に当てはめて推定した一里八十㍍は確たる根拠が無いのです。「方里」は、面積系単位であり、「道里」とは異次元ですから、流用できないのです。
 因みに、「方千里」などの表記は、扶余、高句麗、韓、對海、一大のように魏志東夷伝固有であり、地形、地理が知られている各郡、各国には適用されていないので、背景を知らない現代人に、すんなり理解は困難なのです。

*對海国方四百里
 對海記事で、「方四百里」を国の広さとするのは、同様の思い過ごしです。「對海国」は、国邑、つまり、国王居城を囲む聚落「国家」であり、領域の広さは無意味です。他ならぬ陳寿が、郡から倭に至る諸国は全て「山島国邑」と明記しているので、そう解すべきです。「一大国」も同様です。言い換えると、「方里」は「道里」方形と証されない限り、道里検証に起用できません。

*投馬国に至る道~倭人伝限定の「水行」
 三国志以前の中国史書道里行程に「水行」は無く、倭人伝にいたって、初めて、必要不可欠な渡海行程を、海岸を背にした「水行」と臨時に定義したというのが、小生の「孤説」です。つまり、末羅以南「水行」も渡海です。
 「実際」は、大分から豊予海峡を越えで三崎半島があり、おいおい漕ぎ継げば、長期渡海も可能でしょう。ただし、玄界灘から関門海峡、芸予諸島、備讃瀬戸は、当時の船体、漕ぎ手で一貫運行できなかったはずです。
 再確認すると「水行」は「渡海」であり沿岸、河川移動ではないのです。
 して見ると、長期「水行」を要する投馬国が九州島にないのは自明です。

*周旋五千里ということ~念押しの工夫
 陳寿は、道里を辻褄合わせし読者への手がかりとして、狗邪韓国と倭の完の「狗倭」道里を明記しています。道里最終区間は明記せず「狗倭」往来を「周旋五千里」と書いたので、読者は、自身の解釈を検算できるのです。
 倭人伝に肝心なのは、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都~倭が要件で、以外は余傍で道里計算外です。陳寿は、主行程国を「(行程上の)女王国以北」、それ以外は行程外「余傍」としたので余計な思案が省けるのです。

*余傍の国~見過ごされた「明記」
 陳寿は、倭人伝道里行程記事で、奴国/不弥/投馬に言及しますが、奴国、不弥道里は、百里単位の「はした」で、投馬に至っては道里不明です。道里記事に載せた三国を「余傍」として道里計算に入れないのは、史書書法に従い、整然と明記したものと理解すれば、「題意」を見失わないのです。

*半島内行程~果てしない迷走の果て
 郡から倭に文書使を送るときに、漕ぎ船乗り継ぎを標準行程とすることは「明らかに」不合理なので説明がないのです。結論を言うと「循海岸水行」「従郡至倭」の「循」「従」の二字に官道施行が「明記」されているのです。

*「短里制」はなかった~明解な中締め
 倭人伝は、万二千里を実行程に当てはめ一里七十五㍍としたものの、国家制度とする重大な主張に証拠はないので「短里制はなかった」と結論します。
 当説では、水行十日三千里、陸行三十日九千里、どちらも、一日三百里と明解です。シンプル、エレガントというカタカナ語で締めて閉店御免です。
 場内非難囂々でしょうが、まずは、話の成り行きを確認してほしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 4/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

*交通路の整備~銕(てつ)の路
 関係史料で衆知の如く、半島東南部弁辰に鉄山があり、採掘鉄は、楽浪、帯方両郡に納入されたと明記されています。半島東南部から、重量物資が半島中部に納入されたことから、大量輸送に耐える官道整備が見てとれます。

 言うまでもなく、両郡指示で、弁辰から郡への銕街道が整備されていて、對海、一大の市糴は、狗邪で陸揚げ後、銕街道で届けたと想定されます。官道には所定間隔で宿駅があり、寝床と共に、食糧水分補給、代え馬と共に、時に険路もこなす荷運び人夫が(有料で)用意されていたのです。

 あるいは、流れの緩やかな南漢江中流(中游)は、川船移動でしょうか。文書使以外は、日程の範囲内で行程選択の自由があるのです。

 街道宿所、関所は、市糴課税と運賃で運用したとみられます。後世日本であったように宿所が繁栄したかも知れませんが、自然な成り行きは特記していないのです。

*難路でなく、無理の路
 陸路が整備されているのに、遠回りで運航が不安定で力不足の漕運に固執するのは、まことに不合理で不幸な誤解ですが根強く続いています。

 海に路はありませんが、郡東南方の倭に赴くのに、何を思って西の海船に命を預けるのでしょうか。船が沈めば積荷は喪われ船客は溺死します。誰が、乾いて安定した陸路を棄てて、荒海に転げ回るのでしょうか。

*南北市糴の要地
 半島内官道は、對海、一支の南北市糴の延長である民間輸送にも供用されていたので、信頼できる輸送経路が、早々に確立されていたのです。
 因みに、漢江河口付近の扇状地が泥濘軟弱の不可侵状態で、半島中部中国側の海港は、その南、後に唐津(タンジン)と呼ばれたあたりと見えます。

 對海、一大両国は、南北市糴が盛んで、市糴船の寄港から潤沢な収入があり、結構繁栄したのです。半島上陸後は洛東江沿いに北上して小白山地を越え、唐津に出る行程が、もっとも繁盛したものと思われます。一方、両郡に向かう便は、南漢江を北上し、合流する北漢江遡上を利用したと見えます。

 認識不足の例として、倭人領域に「禽鹿径」と評された官道(?)を見つけ、半島内通行不能と言い訳した例に困惑したものです。官道整備は当然で書かないのが常識で、特記の「禽鹿径」は異常事態です。なお、「けものみち」は、狭隘で路面が荒れた「間道」の意が伝わりにくい「誤訳」です。

〇景初遣使の件~「誣告」疑惑
 本件に関して、随分熱弁を振るっていますが、倭人伝現行刊本に、景初三年たるべきが、景初二年に誤記と立証された論拠は、一切ないと見受けます。

 本件は、刑事裁判ではありませんが、それでも、赫々たる文献に現に書かれていることを否定する「異議」は、俎上に載せるまでに相当の物証が必要ではないでしょうか。有効な証拠がなければ門前払いです。

 「推定無罪」ならぬ「推定有効」です。要するに「異議」を提議する前に、「物証」や「証人」を厳格に審査する必要があるのですが、これまで見かける限りでは、有効な根拠無しの言いがかり「誣告」が横行しているのです。

 そもそも、本項目以外でも、悪意による曲解が頻出しています。氏が、そのような風潮に荷担しているのでなければ幸いです。

                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 5/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「卑弥呼伝」(仮称)の面影~女王共立
 倭人伝内に、当時の君主「卑弥呼」の小伝らしい様子が見えます。いや、「条」でも良いのですが。

 女王共立では、記事所引が並んでいますが、なぜか二番目に並んでいる倭人伝記事だけが信ずるに足るものであり、後は、ご多分に漏れず范曄「後漢書」の脚色追従で不都合です。氏は文書考証が不得手なのでしょうか。氏の権威では、受け売りでは済まないと思うのですが。

 後世史家と違い、陳寿は、ほぼ同時代ですから、根も葉もない天下大乱と書かなかったのです。後漢の桓霊献帝期の混乱、楽浪/帯方郡、韓の混乱で、洛陽に定期報告が来なかったと思われます。
 そもそも、遼東太守公孫氏は、小天子気取りで、粉飾報告を洛陽に届けたのでしょう。

 因みに、女王共立に、全国集会総選挙めいた「戯画」が提示されるのは、学問と言えない無責任な思い付き発散に見えます。常識から見て、共立は、恐らく姻戚関係にあった三頭政治の産物でしょう。縁続きだったから、合意が成立したのでしょう。

*長大論
 卑弥呼「已年長大」解釈に後世史書の「後漢書」まで動員し、「整合的に勘案」とおっしゃいますが、「後漢書」追従が災いして時代考証が撓んでいます。私見では、卑弥呼共立年代が無理矢理引きあげられていて、納得できません。

 「後漢書」に義理立てしてか、景初で八十才と比定していますが、ありふれた言葉である「長大」の解釈が非常識なのは本末転倒でしょう。ガラスの靴に合わせて、足を切り刻むような無残さです。「長大」は、中国語の日常表現で、今日も「成人する」、「大人になる」と同義の動詞表現とされています。「大人である」、「いい年」、「年かさ」、「年寄り」とは、誤解、曲解です。

 普通に見ると、当時、巫女は、王族の子女であって、生涯不婚、つまり、生涯独身で、身元は確かであり、したがって、未成年でも女王に推戴されたのです。古来の用語で、「女子」は、男王の親族、爵位身分とも見えます。

 女王共立は、つい先年、数年前ではないでしょうか。「已年長大」は、女王在位で「今や成人した」と読めるのです。

〇径百余歩
 氏自身もタイトルに使っているように、「径」は、こみちです。先賢は、卑弥呼の墓は、壮大であるに違いないとか、いや、それは誇張だとか述べていますが、直径百歩と決めてかかる前に色々調べる必要があるでしょう。

 直径百五十㍍としても、「冢」は東夷伝では「封土」、土饅頭であり、女王埋葬後、前例になく盛大に盛り土したことになります。寿陵、生前造成でない、突発的、未曾有の大工事では、設計施工の全段階で混乱したはずです。

 盛り土だけで石積み無し、そんな百五十㍍墳丘墓は、風雨厳しい風土でね地震に耐えて二千年残るでしょうか。俗説の箸墓は形状が「冢」でなく複雑至極で、土木技術が進歩し石積みが可能で規模拡大できた後世墳墓でしょう。

 魏武曹操以下の歴代皇帝は薄葬で地上に目印を残さなかったとされます。

*「卑弥呼伝」の終わり~私見御免
 陳寿が、あえて史官の信条を越えて「倭人伝卑弥呼条」を「書き上げた」背景を推定すると、年若くして女王になった「卑弥呼」の生涯の主要部を飛ばして老齢に話が及ぶはずはないのです。陳寿は、「伝」を立てるにあたって、入念に取材し、女王を顕彰すべく記述したはずで、不似合いです。むしろ、思いかけない夭折で、諸人に悼まれ、速やかな葬礼が行われたと見えます。

*思い込まれた女王像
 榊原氏は、伊都国博物館館長の立場上、「卑弥呼が、長く権力の座にあって、広く列島の諸国を、神がかりで支配した」と俗耳に馴染んだ「説話」を支持せざるを得ないのでしょうが、それは倭人伝文献解釈を超えた「憶測」、「創作」と見えます。倭人伝には、共立後の威勢は、何も書かれていないのです。
                                未完

新・私の本棚 榊原英夫「邪馬台国への径」 6/6 本文

 「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2021/10/08

〇「長大」「周旋」用例検証
 適切な用例は、時代の近い史書である袁宏「後漢紀」献帝紀であり、後漢末建安年間に曹操に誅殺された孔融の早熟逸話が引用され、普通の会話として「この少年(孔融十歳)が、長大の際は(大人になったら)、さぞかし秀才となるだろう」とあります。(明徳出版社刊 訳 中林史朗 渡邉義浩

 ちなみに、当該逸話には「周旋」が両家を往き来する意味で使われています。従来の倭人伝解釈では、「周」「旋」の字義に囚われて、国家領域の周辺を巡る意味と解されているようですが、時代相応の用例では、「往来」に近い意味で「自然に」使用されています。
 目下懸案になっているのは、魏志編纂者の深意ですから、少なくとも、相応(相当)の重みを置いて解すべきではないでしょうか。

 いずれにしろ、本件は、倭人伝解釈に参考になるものです。素人考えに疑問があれば、三国志学で著名な渡邉義浩氏にお問い合わせ下さい。

 基本に還ると、用例は、文の深意を求めて、まずは、編纂者の手近から参照するものではないでしょうか。

〇時代錯誤の誘い
 それにしても、氏ほどの見識の方が、国際情勢とか国内政治情勢とか、時代錯誤の思い込みを、当時の倭人に押しつけるのは、まことに牽強付会です。
 後世概念は、鮮明な理論に裏付けられ、倭人伝問題を一刀両断できそうですが、陳寿は、同時代で、生に近い「問題」を提示し、その「問題」を解いて構成している概念を摂取して欲しいと希望しているので、それを丸ごと解体する「一刀両断」されたら出題意図が台無しなのです。出題者の意識に無い概念では、どんな名答と自認しても正解になるはずがないのです。

*曲解風潮にご注意
 どうしても倭人の社会に広域紛争を起こしたいとの執念が、一部論者に漂っていますが、氏が、その蔓延に巻き込まれていなければ幸いです。

〇「三国史記」~後世史書過大評価
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅記事は、、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク」であり棄却すべきです。要は、統一新羅と敵対した「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。

 倭人伝時代、新羅は、「辰韓斯羅」に過ぎず、倭「国使」を受ける立場になく紀年記録する史官もいません。そのため、同記事の年代比定は不合理で、後世編者が後知恵で半ば捏造したものとして棄却すべきです。

 同時代史でも厳重な資料批判が必要なのに、七世紀を経て、散逸原資料を貼り合わせた史書記事は、でっち上げとみるべきです。それにしても、「正史」は中国史であり、東夷史書を「正史」と呼ぶのは不覚です。

 と言うあたりで、気力が尽きてきたので、添削指導めいた批判は置きます。

〇まとめ
 榊原氏の権威に素人が挑みかかっているとみられたら、それは本意ではありません。堅固な構成と見える本書に、世上の「俗説」が、不用意に採用されているので、あえて苦言したものです。
 特に、中国古代史書解釈に、場違いな後代東夷概念を持ち込む弊風は、御再考いただきたいと望むものです。

                                 完

2021年10月 6日 (水)

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 1/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

⚪はじめに
 本書は、長年、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)で、纏向遺跡などの古代史蹟の古学研究に尽力された著者が退職後上梓されたものです。
 本書は、従来、古代史学界において、世上権威を有していた「邪馬台国」「纏向説」の背景を詳細に述べています。当説は、しばしば「畿内説」、「大和説」と称されますが、要は、「邪馬台国」が奈良盆地中部、中和纏向地区に存在したとの主張であり本稿では「纏向説」と言う事にします。

*素人書評の弁
 本書に関しては、古田史学の会の古賀達也氏が、主催ブログに短評を付していますが、氏の堅持している古田武彦氏提唱の「九州説」視点から書かれているので、ここでは、なるべく「素人」の視点から論じてみます。
 なお、以下、特に付記しない限り、諸論見解は、本書に触発された素人意見で、当然、独善覚悟であり、諸兄に押しつける意図はないので、予めご承知頂きたい。当ブログの素人論断なのは自明だが特に念押しするものです。
 なお、余談が長いのは、当ブログの基本方針(ポリシー)によります。ポリシー批判は、もしあっても「ご意見無用」とするので、了解頂きたい。

*橿考研理論背景の推定
 本書の核心となっている「橿考研」ですが、歴年の堅実、整然たる考察が、近年、一部の暴論の攪乱を受けて、いびつになった経緯が読み取れます。
 端的に言えば奈良盆地諸遺跡の発掘成果をもとに築き上げられた、精妙なペルシャ絨毯の如き壮麗な「世界像」を構築した比類なき考古学の業績は、賛嘆すべきですが、それを述べると本書書評に入れないので割愛しました。

 考古学的議論において、庄内式土器の年代比定に伴う纏向遺跡の年代比定の動揺が、箸墓の年代比定に関する論議を巻き起こしたのは、「世界像」の一部、箸墓年代比定という特異点を、三世紀にずり上げたため、壮大な「世界像」全体に破綻を招いたと見え、それが一種の動乱と活写されています。

 もちろん、著者は、そうした動乱を通じて、「橿考研」所員、つまり、当事者でしたから、在職当時は、いわゆる「党議拘束」に縛られて、機関決定以外は外部に発言できなかったろうし、退職後の機関決定批判にも限界があるのでしょうが、関わり合いのない素人からすると不可解な点が多いのです。

*破綻の元凶
 ここで、問題にしたいのは、かかる議論が、田中琢氏なる個人の提議によるものであり、橿考研が個人の強弁で変節したと思われる点です。
 別稿でも述べたように、田中氏は、石野博信氏の主催する講演会において、自身の専攻分野ではない、中国史書の文献批判について、根拠の無い批判を展開して、「橿考研」が基礎としている倭人伝の信頼性を損壊する議論を進め、遺物考古学が、文献考古学を破壊する「新説」を推進しています。
 さらには、主催者である石野氏を罵倒したことが明記されています。

 当ブログ記事筆者の意見では、そのような錯綜した思考の持ち主の提言による箸墓年代比定説は、取り上げるべきではなかったと思われます。案ずるに、田中氏は、氏に求められている専攻分野の学説の確立に失敗していながら、「ブレない」強弁によって議論の結尾を撓めたようです。
 仄聞するところでは、陰の声として「橿考研」が「伏魔殿」などと後ろ指される原因であり、公的研究機関として、審問に曝されるべきです。

                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 2/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

*鍋釜論の低迷
 関連して、「鍋釜論」が解明されていません。纏向に全国各地の土器が集積していますが、各地からの移住者が持参したに違いないという決め込みです。
 私見では、「纏向」が、削り込み技法を売り物に、各方面に交易品として送り出したのに対して、現地土器が環流したと見ます。

 個人的に好む表現として、好まれる「物」は足が生えていて、一人歩きすると見ています。つまり、各地の市で物々交換をくり返しながら、順送りで遠距離まで届けられるのです。月日がかかるにしても、別に納期が限られているわけではないし、賞味期限があるわけでもありません。それこそ、何年かけても「ダンナイ」、全く問題ないのです。

*無理な持参仮説
 いや、橿考研定説では、纏向出土の各地土器は、纏向に参上した各地行人が、持参したと見ていて、主従交流の証拠とみているようですが、これほど大柄で重く、また、纏向特産の薄肉土器と比べて、格別の特色もない各地土器が、いわば、海山越えて将来されたとは、信じがたいのです。
 行商人が、土器を担いで旅する図は、戯画にもなりません。いや、遠国からの旅人が、鍋釜を担いでやってくる戯画とどっこいどっこいです。

*時代錯誤の風潮
 後年、遠隔地から白布や干しアワビが税納されたようですが、それは、古代街道整備で道中安寧が保証されてのことで、各地に大和への供物が徹底して地方官人が務めとして送り出す制度が完備してのことです。
 律令国家が成立した時代は、一片の木簡を荷札として隠岐のアワビが税衲されたと知られていますが、四百年の過去、文書も、律令法制もなく、古代街道もない時代、有力者が出向かないと献納を指示できなかった時代に、どのようなカラクリで土器収集ができたか重大な謎ではないでしょうか。
 これもまた、遺物自体については異論はありません。考察があれこれ曲がるのは、一も二もなく「古代国家」に、こじつけるからです。

*庄内式土器私論
 以下、本書で提言されている庄内式土器の年代記を見ると、同形式の特徴である内面研ぎ上げによる薄壁、丸底の薄肉土器は、奈良盆地内で創出されたものではないようです。西方、恐らく吉備圏から到来した土器技術者が、まず、河内湾岸から南河内丘陵部で窯元となって、薄肉土器を周辺に送り出して、その特性によって、天下[当時で言うと、精々、吉備、河内、中和(大和中部)程度]銘品との定評を勝ちえたようです。

 その際、有力な技術者が分家して奈良盆地内に移住し、そこで、盆地内の諸集落に薄肉土器を送り出したが、初期は、周辺地域に限られ、長年を経て、何かの契機で、奈良盆地を要とした東の伊勢方面、西の河内平野、そして北の淀川水系への送り出しが増加したと見えます。

 特に、当初、纏向を発した「もの」は、盆地北部から木津水系を経て淀川の河川運送に届かなかったため、盆地壺中天に囚われたと見えます。

*年代鑑定「お手盛り」疑惑
 因みに、庄内式土器の年代比定は、かの「田中」氏の本業であるから、本来は、正当な学問の成果と思いますが、以後の「橿考研」年代解釈が大分撓んでいるので、起点部分にまで疑いの目を向けたくなるのです。
                                未完

新・私の本棚 関川 尚功「考古学から見た邪馬台国大和説」 3/3

 「畿内ではありえぬ邪馬台国」 梓書房 2020年9月刊
私の見立て ★★★★☆ 自明事項の再確認 2021/10/06

*試行錯誤の伝説
 一体に、考古学の諸兄は、どこかで革新が発生したら、たちまち「全国」に模倣追随が広がると決め込んでいます。土器内面を削る庄内土器の斬新な技法と雖も、完成までに失敗例が山積した過程で、失敗から学んだ技術者が、土器技法を完成したはずです。後世、失敗を乗り越えた成功技法を「ノウハウ」と珍重しましたが、要は、試行錯誤を無用とするから、貴重なのです。
 そのような「ノウハウ」は五年や十年では習得できず、徒弟修行を経て習得するから、分家して別天地で開業するには、随分、年月を要するのです。
 橿考研が実務寄りの考察を進める人材に欠けると見て苦言するのです。

*文書考証の欠落
 続いて、国内古代史「考古学」の分野で軽んじられている中国史料の考証です。氏の専門分野外なのか、風説引用に陥っているのは残念です。
 いわゆる「史料批判」なる手順は、中国史料自体の信頼性や具体的な記事の信頼性を問う手法ですが、関川氏もとらわれている「誤解」「思い込み」が出回っていて、本書でも、肝心の考察をはなから取り崩しているのです。

 「史料批判」の前提としては、検証済みの基本資料、いわば、測定原器があって、当該史料の内容を、これに当てて審議していくはずなのですが、そのような前提は、一切確立されていないのです。つまり、その場その場の場当たりの「感想」で議論を推し進めているのです。

*文献否定の不調~晩節の課題
 本題に入ると、氏を含む先賢は、「魏志倭人伝」(倭人伝)なる中国史料に、批判を浴びせます。素人目にも、当時唯一無二の史料として、尊重すべきであるにも拘わらず、素人考え並みに、明確な根拠無しに信頼を置かないのです。

 端から行くと、一級史料たる倭人伝に「邪馬壹国」と明記されているにも拘わらず「邪馬臺国」と改竄しています。根拠なき批判、改竄は、史料偽造に等しい暴挙であり、氏は、かかる非学問的な学会風俗に同調しています。

 倭人伝不信論調に従い改竄している第Ⅷ章には、信を置けません。
 氏は、文献史料に基づく「考古」をどう捉えているのか、大変歯切れが悪いのですが、「邪馬壹国」否定論は反論を避けて通れないと思います。見てみないふりの「逃げるが勝ち」は、論争敗者の最後の隠れ家であって、現場から逃れてもしっぽが見えています。いや、以上は、関川氏の職歴上、不可侵なのでしょう。氏の考古学「晩節」は、浄められていないのです。

*史学における本末転倒
 纏向論者は、纏向論者向け特製「倭人伝」を用い、心地良いほど纏向論に合っていると見えます。所詮、「倭人伝」は、纏向論にしては、枝葉末節史料であり、その程度の自己完結で結構として、本当にそれでいいのでしょうか。
 古来、名刀は、鎚に打たれ、火と水の試錬を経て、名刀になるのであり、小手先でこね上げて温存される美術造形物ではありません。

 氏が、田中琢氏の本末転倒倭人伝全否定論に毒されてなければ幸いです。

*まとめ
 以上、氏の著書の書評はことの切り口であって、氏が、専門外の文書考証で、杜撰な先賢に無批判に追随したことは、ここでは、主たる批判対象ではありません。ご自身が気づいて、ご自身が姿勢を正すべきなのです。

以上

2021年10月 2日 (土)

新・私の本棚 松尾 光 「治部省の役割と遣外使節の派遣を巡って」~古代日本外交の謎

別冊「歴史読本」 日本古代史[謎]の最前線 1995年1月刊 新人物往来社
私の見立て ★★★★☆ 堅実。賢明な史料考察 「日本」視点の限界

*お断り
 本記事は、下記書評と重複していますが、現時点で、一から書き出したものなので、もし、ブレがあったら、ご容赦ください。
 新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

〇はじめに~中国史料解釈の原点確認
 当記事は当ブログ範囲を外れるが、漢日語彙の齟齬という観点から、日本史料の視点で中国史料を考察して生じた誤解を指摘する。刊行以来25年を経て、同様の誤解が世上に散見されているので、僭越ながら苦言する。

*国内史料視点の解釈~中国史料を不備との速断
 氏は、七世紀後半から整備された国内律令は、漢(中国)律令を模倣、翻案したため、漢制を誤伝したと解している。つまり、「外交」部署が、鴻臚寺と別部署に分かれて書かれた律令を唐代官制老朽化兆候と速断しているようである。

*用語解釈の誤解~文化解釈のずれ
 本記事副題は、当時、日本に(外国との)外交が存在したと決め込んでいるが、漢律令に「外交」は存在せず、模倣ではなく一種の誤解、曲解とわかる。
 秦漢代以来、漢蕃関係であり蕃夷は対等ではない。「外国」は蕃「国」である。「国」は、本来、漢代の「国」は、劉氏一族を頂いた分国であった。対して、蕃夷の「国」は服属するが「交」は無い。群小蕃夷は、美称で「蕃客」とされたが、「客」は、よそ者を応対する渉外活動の対象と言うだけである。

*鴻臚寺の役所(やくどころ)
 要するに、鴻臚寺は、無礼な蕃夷をあしらって服属させ、手土産を与えて、次は何年後、それまで来るなと厳命して送り返したのが、主務であった。
 端的には、氏が末尾に感慨を述べるように、漢に対等の外国は存在しない。(例外は、漢高祖劉邦親征軍を包囲して屈従の盟約を結ばせた匈奴である)漢蕃関係は「外交」を想定してないので対応する官制は存在しない。
 要するに、中国律令の備えた理念と法制、官制が整合した制度を、「外交」が必要である日本に、無批判で写し込むことが「無理」だったのである。

*律令模倣禁止
 本来、中国律令は、国外持ち出し禁止であるが、一つには、律令にいう「天子」を蛮夷の王に書き換えられると中国が蕃夷になってしまうからである。

*日本の対外関係
 日本は、対等とみられる高句麗、百済、新羅とは「外交」が可能であったが、お手本とした中国律令に、そのような蛮夷間交際に関するお手本がなかったので、日本は、これら諸國を「蕃客」扱いし、隋唐使節をも「掌客」の手に委ねた。隋唐使が、「客」扱いに激怒しなかったら不思議である。

*使人の使命
 裴世清は、文林郎(文官)の登竜門から俀国に赴いたのであり、日本書紀が造作したようにお門違いの蕃客接待の「掌客」に任じられてはいない。(隋書俀国伝)
 要は、正体不明の蛮王への使人は生還を期せないから、低位官人から選任したのである。但し、派遣に際しては、臨時に高位に任じて皇帝名代とした。高位の使節団員は、下級官人には本末転倒で服従できないからである。

 また、皇帝の名代が、派遣先で、原職は下級官人であることを名乗ることは、あり得ない。余り顧みられることがない事情を蒸し返すのである。

〇誤解の起源と継承
 中国人が中国人統御するための律令を、土壌の異なる日本に無理矢理移植したために不合理が生じているが、それを、現代日本人の言葉と世界観で、正確に理解はできないことに、早く気づいて欲しいものである。

                               以上

2021年9月26日 (日)

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                              補充 2021/09/26      

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭の王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無い、不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」
 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」かと思えるのです。つまり、茫々たる砂の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると、「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況を、じっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたいと思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。
 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

以上

今日の躓き石 「引きこもり」を内輪から責める「社会的距離症候群」の迷妄

                              2021/09/26

 今回の題材は、NHK定時ニュースなどで報道されている、その道の「権威」のトンデモ発言である。以下、この記事は、「権威」と「世間の人」の隔絶を歎くのである。

 まずは、素人目にも、権威が、世間の人が心の中でその言葉に対して抱いている「イメージ」なるもの(やや言葉の意味が不確かだが、漠然たる「印象」のことか)を、なぜ正確に把握できたのか不思議である。権威の使命は、「引きこもり」と捉えられている人たちの心を確かめるのが、本来の道ではないのだろうか。ここでは、世間の人の誤解を調査し、病根を摘出したことになる。的外れではないだろうか。
 あえていうなら、権威は、そのような堅固な見解を固めるまでに、全国調査でもしたのだろうか。何人に聞いて何人がそう答えたのだろうか。今回の発言には、そのような見解に至った根拠(データ)が示されていない。

 次は、「引きこもり」と言う平易な日本語すら(権威によると)「誤解」してしまう世間の人に、長々と漢字が続く新語を提案して、正確に、つまり、権威の思っている意味と同じ意味で覚えてもらえると思っているのかという疑問である。
 世間の人は、権威を基準にすると、当然、教養のほどが違うので、同じ理解ができないのではないかと懸念するのである。言葉が通じなければ、何を語っても伝わらないのではないか。誤解以前の問題である。

 そう思う背景は、権威が回天の妙策と言うつもりで持ち出したのか、「ソーシャルディスタンス」なる、世に蔓延るにわか作りのカタカナ語の剽窃である。

 また、「社会的距離症候群」なる解決策は、劣悪この上ないのである。以下説くように、「社会的距離」なるにわか作りの造語は、劣悪な産物であり、そうした言葉と「症候群」を繋いで、何を言いたいのか不明である。

 正直言って、COVIT-19(「コロナ」は、トヨタ自動車の主力車の商標であり、病原体の愛称として口に出すのは恥ずかしい)蔓延防止ということで、一部の高名な提唱者が間違って唱えたカタカナ語「ソーシャルディスタンス」が、定説となって出回っているが、これは、ある種の「距離」を言っているだけで、そうした距離を「置きなさい」と言うメッセージは、一切こめられていないので、明らかな誤用なのだが、引っ込みがつかなくなったせいか、強引に意味をこじつけて出回っているのである。いや、これは、一部政治家や都道府県知事の浅薄なぶち上げのせいであって、権威に責めはない。

 と言うことで、権威は、にわかに、「社会的距離症候群」なる熟語を持ち出して、先に挙げたはやり言葉と大変紛らわしい「ソーシャルディスタンシング」なる、正しいが、まず世間の人に理解されない言葉を持ち出している。
 また、ここまで紛らわしいと、商品名だったら、商標権侵害、文学作品であれば、剽窃、パクリである。世間の人の信用を無くすことは、間違いない。用語の権利関係の確認はともかくとして、だれも、この言葉の「パブリシティ」効果について、まじめに考えなかったのだろうか。一度世間に出てしまうと、取り消せないし、訂正も効かないのである。仲間内でダメ出ししないのは、良くない習慣である。誰かが、率直に意見すべきではなかったかと思えて、まことに、勿体ないのである。

 それはともかくとして、ここまでの流れでは、世間の人が、ご高説の漢字熟語を見ても、カタカナ発音を聞いても、英語を見ても、権威の思いは、何も伝わらないのである。覚えてもらえなくては、泡沫(うたかた)となるだけである。

 正直なところ、「引きこもり」現象を誤解しているのは、NHKの諸番組を含めたメディア側の諸兄の短絡的理解である。家庭内にありながら、ドアに鍵をかけて、家族にすら替えを見せない、いわば、極端な事例を番組で取り上げるから、世間の人に定説となっているように、権威に誤解されるのである。いや、今回のNHKの報道は淡々としていて、当事者意識は見られないが、普通に読めば、誰が責められているのか、うっすらわかるのではないか。

 それはそれとして、話題の原点に戻ると、「引きこもり」は「閉じこもり」でないことは、世間の方はご存じの筈である。
 だって、昔から、「没交渉」と言うように、そうした生き方はあったのである。

 例えば「引きこもりがち」とでも言えば、世間の方に、たやすく理解されると思うのである。そうした核心に向かって、若者言葉で言えば、「ガチ」勝負すべきなのである。物事の核心から目を背けて、自分独特の言語宇宙に逃げてはいけない。自己陶酔してはいけない。
 どうか、権威には、自分で作った金剛石の「から」を出て、世間に出て世間の人の言葉を聞いて、その思いを察して欲しいものである。
 そうしなれけば、権威の高邁な思いは俗耳に伝わらないのである。

以上

 

 

2021年9月23日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)-(3)

「古賀達也の洛中洛外日記」第2427-2429話 2021/04/09-04/10       2021/04/12 

〇はじめに~謝辞
 古賀達也氏のブログには、ほぼ日参しているが、ここで耳慣れた話題にお目にかかった。三回連載の展開はさておき、当ブログの旧記事を適確に引用いただいたので、ここに感謝の意を表したい。

残念な新説
 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲題の論考が二件紹介され、その内、石田泉城氏の論考に、通説の「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)でなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と解する説が提言されていて、どこかで見たと感じた次第である。(苦笑) いや、折角、先行諸論文を紹介した上で、深く掘り下げる追加記事まで書いたのに、お目にとまらなかったとすれば残念ということである。

被引用の光栄
 当ブログは、古賀氏の目には届いていたようで(3)で注意喚起いただいて光栄であった。初出記事を温存した甲斐があったのである。

追加考察
 石田氏の論考で不満なのは、本と夲が、本来別字と断じられていて、だから、「日本」は、国号ではないという趣旨だが、「夲」は、現代中国語でもむしろ常用されていて、実際上別字と見るべきではないという意見である。

 墓誌の刻字の際、「本」は、中心の字画交差部が彫りにくいので「夲」が当然であったように思う。簡牘書記でも、「本」を細かい文字で早書きすると失敗しやすいと見えるので、「夲」が主流でも不思議は無いと思う。

 この点は、見解の相違であるから、別に、そう考えろと言っているわけではない。どうして代え字したのかと詮索しただけである。

 書道の先生が言うように、大きな堂々たる文字を書くときは、時間をかけてでも「本」の字を正確に書き出して、腕の確かさと芸術性を誇るのだろうが、実務は別だと思うものである。

 なお、当ブログ記事の字句解釈は、「本余譙」は「本国」の余譙、つまり、「百済」の余譙と読めるとの意見であり、石田氏に比べて、随分丁寧に論じていると自負している。新説というなら、こうした主張点を克服して欲しいものである。

〇先行論者への謝辞
 さらに、墓誌は、古典教養を問われるのであるから、誰も知らない、できたてほやほやの蕃夷国号など書かれるはずはない、という解釈も克服されていない。この点は、東野氏の論考に啓発された気もするが、知られていないのかと思いここに蒸し返す。

〇最後に
 と言うことで、記事引用も頂いているので、被引用者として、大きな不満はない、どころか、大いに満足していると申し添えておくものである。またもや学恩を受けた以上、恩返しが必要と思う次第である。

 思うに、論文にとっての勲章は、先行論考として引用されることと思うのであり、今回は、大いに意を安んじたのである。
 いや、特許の分野では、小生の米国特許に対して、少なからぬ被引用が記録されているのは、内心大いに誇っているのである。
                 以上

2021年9月22日 (水)

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 1/6  序論 

                   2018/05/12 追記 2021/09/22
〇序論
 中国の古都・長安で見つかった、唐時代の高官祢軍(禰軍)の墓誌(故人の事跡を刻んで墓に叹めた石板)の拓本が1911年に公開されたが、「唐時代678年10月制作と思われる墓誌に「日本」と読める文字がある」と見て、従来、701年大宝律令公布に際して制定・公布されたとされていた「日本」国号が、先だって中国で知られていた証拠ではないかと、議論を呼んでいるものである。

 本件は、当ブログの専攻範囲(倭人伝)外だが、本件報道に疑問があり、素人考えで口を挟むものである。

*日本列島回帰
 今回記事では、「倭」「日本」が混在する微妙な記事で、思うところがあって、中国、三国(朝鮮)と対比される地域を「日本列島」と呼ぶことにした。実際は、列島西部だけが対比されるのだが、適当な表現がないので困っていた。

 今回、上田正昭氏の提言に従い、とりあえず、当記事では「日本列島」と呼ぶことにしたのである。「地域限定」とご理解いただきたい。

 従来、古代史論で「日本列島」を見たときは反発したが、そういう趣旨であれば同感である。不本意な反応が返ってくるのは、説明不足なのである。大事なのは、趣旨を正しく伝えることである。

*禰軍墓誌の「日本」
 当プログでの検討の皮切りは、NHK BSの特別番組の付けたりで、唐代墓跡の大規模盗掘事件に絡む取材として、現地西安博物館秘蔵の禰軍墓誌の撮影が許可され、手早くまとめたと思われる15分ほどの挿話が、番組告知の紹介も無く、まことの不意打ちで番組の中程に追加されていたのに触発されたのである。いや、これほど貴重な資料に通りががりにぶつかって、躓かせるというのは、どういう神経なのか、理解に苦しむのである。

 これまで、当史料に関する論考を見かけてはいたが、史料の出所、由緒が不確かで、興が乗らなかったので、真剣に見たのは初めてのことある。不勉強の言い訳はさておき、慌てて確認すると、例えば「古田史学」誌第16集で三氏が論考を重ねている。

 但し、当初の朝日新聞記事で、多少謙虚な言い方、つまり、「拓本が本物であれば」と前提付きであるものの「定説が書き替えられる」との報道以来、墓誌に「日本」と書かれているとの認識のようであった。今回、実物がNHK番組で紹介され、始めて「墓誌偽造」説は棄却されたようである。

*結論予告
 と言うことで、誌文について、すでに定説めいたものが形成されているようであるが、当方は、史料解釈の見過ごされた第一歩が見て取れるので、ここに考察を加えたものである。

 タイトルに示したように、当記事の結論は、墓誌誌文を読み取ると、そこに「日本国号」は書かれていない、と考えるものである。定説は、まず、「日本」を見て取って、それに合わせて、誌文を読み替えるものであり、本末転倒と思うものである。まあ、当世、定説は書き換えられるためにあるようで、何が「定」なのかと、苦笑するものである。

 なお、碑文読み取りについては、基本的に、テレビ画面で確認した該当部分の映像のテキストを利用しているが、当方の読解力を越えた、難解、と言うか、理解不能な美文なので、諸兄の論説を参考にしたことは言うまでもない。

 適切な扱いをしたものと思うが、失礼があれば、ご容赦頂きたい。

                           未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 2/6 日本國王并妻

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22

*日本國王并妻還蕃(舊唐書綺譚)
 当該部分の解釈で、参考となるのが、古田武彦氏が、中華書局本舊唐書(旧唐書)の表点本の句点違い事例として紹介している旧唐書順宗紀の「日本記事」である。太字は、当ブログ筆者のもの。

 新・古代学 第三集 歴史ビッグバン 古田武彦 1998
 昨秋、ある方(古賀達也氏)からの質疑が発端となった。旧唐書に「日本国王(桓武天皇)夫妻が唐に来た」旨の記事がある。どう思うか」との問いだった。かつて聞いたことのある話だったけれど、聞きすごしていた。今回は、取り組んでみた。

「(貞元二十一年、八〇五)甲寅、釋仗内厳懐志、呂温等一十六人。(中略)至是方釋之。日本國王并妻還蕃、賜物遣之。」《旧唐書、順宗紀。(中華書局、表点本)》

 確かに「日本国王并(なら)びに妻、蕃に還る。」というのは、「八〇五」とあれば、桓武天皇の延暦二十四年だ。だが、桓武天皇夫妻の渡唐など、聞いたこともない。そこで旧唐書内の用語追跡に没頭した。判明した。何のことはない、表点本の「誤読」だった。「方(まさ)に釋(ゆる)す日、本国王(吐蕃国王)并(なら)びに妻(めと)り蕃(吐蕃)に還る。」が「正解」だった。吐蕃伝に頻出する「本国」の用例、「妻」は動詞、「妃」は名詞、の用法、吐蕃王の唐朝への女性要求(親戚関係の構築)等の史実を追う中で疑いようもなく明白となった。第一、実録性の高い続日本紀にその気配すらないのである。

 つまり、権威ある中華書局、表点本も、「日本」なる二文字にとらわれて史料読解を誤ることがあるという事例である。」

*引用終わり

 古田氏は、本件解釈に際して、舊唐書を広く検索し、吐蕃伝に頻出する「本国」の用例では「本国」が吐蕃をさしていると指摘されている。

 データを根拠にした提言であるので尊重するものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 3/6 本藩の由来

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*本藩の由来
 当方も、中国哲学書電子化計劃データベースのテキスト検索を利用しようとしたが、残念ながら、舊唐書のデータベース収録は完了していなくて、維基文庫の全文テキスト検索を利用せざるを得なかった。(注 どうも、勘違いしたようである)

 と言うものの、舊唐書で「日本」を検索した際にヒットする「日本?」(?は、任意の一文字)の、「本?」の各種用例を確かめたところ、以下のように感じた。

  1. 「本国」とは、中国王朝に臣従する諸国王が、自領を語るときに用いられる用語である。
  2. 「本州」とは、中国王朝内、諸国王の所領、ないしは、刺史などの統轄する州を言うとき用いられる用語である。
  3. 「本藩」とは、これらの用例に類する用語である。
  4. 「藩」は、元来植え込みの垣根であり、「藩屏」とは、小国が、塀となって帝都を囲んで外敵から守る姿を現している。「藩」は公式用語でなく、それ故、正史には僅かな使用例しか出現しない。
     但し、実務上、極めてありふれた用語であり、これにならって、江戸時代、家康による幕府開闢以来、各国の大名所領は、しばしば「藩」と呼ばれていたのである。

*日本余譙は、場違い
 もし、ここに「日本余譙」と書かれていたとすると、ここまで碑文に「日本」とは何者か前触れがないから、唐突であり、読者は、一読して理解できないと予想されるのである。よく言う、「不意打ち」である。

 つまり、当該詩文の読者は、「日本」を全く知らないから、碑文に示されたような書法は、不適切極まりないなのである。詩文作者が祭祀者に提示したら。一発却下であることは間違いない。

 もし、ここに書かれているのが、「日本列島からの援軍」残党とすると、当然の疑問は、肝心の「百済」残党はどうした、というところである。

 「本藩」と書かれているのは、墓誌の主人公が仕えたが、亡国の憂き目に遭った旧「百済」であり、従って、後出の「本余譙」は、本藩「百済」の余譙と解釈するのが順当と思う。

 ここまでに「本藩」が二度書かれていて、読者は、短縮表現を理解する準備ができているのである。

*本余譙とは?
 ようやく、核心に辿り着いた。

 結局、「(于時)日夲餘噍」の六文字句は場違いで、「(于時日)夲餘噍」と解すべきなのである。

 ここでは、「本藩余譙」が、「本余譙」と省略されたと想定しているが、誌文では、しばしば字数を揃えることが要求されるので、時に短縮、時に延伸されるのである。

 こうして、「于時、夲藩餘噍」と二+四文字では、対句となっている「據扶桑以逋誅」と合わないので「于時日、夲餘噍」と三+三文字としたと見るのである。
                          未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 4/6 先行論考

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*先賢の論考
 この点、墓誌に関する考察として、すでに、次の論考に於いて深い考察が行われていたので、勉強させていただいた。

 『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇 2012年3月
 専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報6号掲載 

 本論文の史学論文として適切な構成にも敬服する。長い実証的論考の果てに、堅実な結論が明記されている。データを根拠にした考察と提言は、尊重すべきである。

「おわりに
 以上のように、『祢軍墓誌』について、⑴祢軍墓誌の形態、⑵中国で出土した唐代百済人墓誌、⑶祢軍の出身と官品・勲位、⑷『祢軍墓誌』に見える地名と歴史典拠、という四節に分けて考察してみた。
 ⑴では、『祢軍墓誌』の史料性について、(中略)ほかの唐人墓誌や在唐百済人の墓誌との比較を行って、(中略)検討したうえで、祢軍墓誌の信憑性が高いと指摘した。 ⑵ 、⑶ 略
 ⑷ では、(中略)また、祢軍の才能を褒める語句として使われるもので、かなり文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の功績を顕せる銘文を作ったと述べてみた。」

 結論として適確に総括され、まことに論文としての形式が整っていて、浅学のものとしてお手本としたいものである。

*中間報告
 遡ると、次のような貴重な見解が述べられている。太字、当ブログ筆者。

 「そして、「於(于)時、日夲餘噍、據(拠)扶桑以逋誅。風谷遺甿、負盤桃而阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日夲」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011年)。けれども「日夲」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日夲」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。」

 「無理があろう」は、端的に言うと「不可能」、「あり得ない」との断言だろう。

 つまり、墓誌作家として当代随一と思われる文筆家が、故人を顕彰する墓誌に於いて、古典書籍に範を得て、典雅な文言で、歴史典故をモチーフとした極上の言葉を選びに選んだのに、百済亡国の際に介入した東夷の国名を上げたとしたら、それは、不躾でぶち壊しであるから、その意味でも、「日本」国号が書かれるのは、あり得ないのである。

 これは、まことに論理的な意見であり、当方は、誰にも異論を挟むことはできないと考える。いや、謙虚な言い方に変えると、一考に値すると考えるのである。
                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 5/6  祢軍小史

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
◯祢軍小史 参考まで
*祢氏東遷
 祢氏は、西晋の高官であったが、永嘉(CE 307-312)の乱に始まり、建興四年(CE 316)にいたる激しい内乱と外敵侵入による帝国瓦解時に、晋朝南遷に追従せず、帯方郡故地に本拠を置く百済に移住して高級官僚として遇されたのである。

 つまり、祢氏一門は、おそらく交流のあった百済に渡海亡命したものと思う。いや、身一つで逃れるならともかく、家人と貨財を抱えて東方に逃れることになったと思うのである。

 官僚としての教養や知識を尊重され、高い地位を得ることのできる百済入りは、おそらく最善の選択であったろう。

*流亡の終わり
 その後、数世代を経たが、CE589に、南北朝の分裂を統一した隋、そして後継した唐と高句麗の数次に亘る抗争があり、遂に、唐は、高句麗征討を万全のものとするため、祢軍を初めとする漢人百済官僚に対して、高句麗を支持して唐の討伐対象となった「百済」を離れるよう勧請した。これにより、称軍(CE 613〜678)は、祢寔進(CE 615〜672)らと共に、三世紀にわたる流亡を終え中国王朝に仕官したのである。

*降伏の功
 かくして、唐顕慶五年(CE 660)、唐が新羅を従えて百済を征討し、大軍が首都泗比城に到った際、旧漢人官僚が百済王に降伏勧告したことにより、無益な攻城戦なくして、百済は降伏し滅んだ。
 
降伏により百済人は赦され、新羅は、百済遺臣、佐平の忠常、常永、達率の自簡などを高官として受け入れた。

 墓誌は、「顕慶五年官軍平夲藩日」として泗比開城時点で語っている。続いて、「于時日」とあるように、百済平定時に逃れた残党のことを言っているのである。

 なお、日本書紀には、顕慶の百済亡国の際に援軍を送ったという記事は無いようだが、唐書には、倭が高句麗と共に百済に助力したと記録している。
 その時点で、日本列島に百済王族が滞在していて、百済復興の気運が巻き起こったが、唐龍朔三年(CE 663)の白村江の戦い時点では、既に百済は滅亡して実態がない
のである。

 ともあれ、百済平定の功により、祢軍は唐の高官に任じられたが、後に、唐の半島統治に対する、新羅の激しい抵抗のため、唐は半島統治を取り下げ、旧三国が新羅に統一されることになった。

 このような三国動乱期を通じ、祢軍は、唐高官として国威発揚、事態収束に貢献したことが示されている誌文である。

 そのような不朽の勲功を顕彰するために、大唐随一の文筆家を起用して、「典雅な文言を駆使するだけでなく、歴史典故をモチーフとして、彼の(波乱に富んだ)功績(の光輝ある部分を)を顕せる銘文を作った」ものである。

                       未完

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 追記 6/6 結論

                   2018/05/12 改訂 2021/09/22
*結論
 以上のブログ記事をまとめると、以下のようになる。

  1. 「日本」は、墓誌作文時点では、最新情報の東夷国号であり、故人を顕彰する墓誌の文として不適切である。従って、国号と見るべきではない。
  2. 「日本」は、国号でなく詩的字句として考えても、「扶桑」、「風谷」、「盤桃」と比肩できる典故を持たないので、墓誌の文として不適切である。従って、詩的字句と見るべきではない。
  3. 「本余譙」は、本藩たる百済の余譙(残党)と解されるべきである。
    扶桑を「日本列島」と解すると、百済亡国の際に、多数が亡命渡来した史実にも符合する。

 従って、ここに提唱する、この部分を「于時日、夲餘噍」と解する仮説は、一考に値すると思われる。
                       以上

» 続きを読む

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 1 再掲 墓誌の姿形

                         2018/05/08 再掲 2020/06/20 2021/09/22
〇はじめに
 本資料は、NHK BSプレミアム番組「盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリス」の部分紹介です。

 番組は、中国の古都で、漢以降だけを見ても、前漢、隋、唐の帝都であった長安、現在の西安の郊外で、唐代墓跡の盗掘が発見され、追究された経過のドキュメンタリーです。

 付け足しのようになっているのが、百済「祢軍墓誌」の話題なのです。2011年頃に、七世紀後半制作の墓碑銘の拓本が公開され、誌文に「日本」の国号が発見されたとして、考古学界に話題を投げかけたのですが、これまで拓本だけで議論していたのです。

 今回の番組で、所在不明だった墓誌の実物が西安博物院に所蔵されていることが明らかになったものです。

◯画面コピー紹介 墓誌全体→該当部分を指摘 (NHK番組の部分引用です)

  • Neguntomb_20210922220201
 碑文で、「日」の右下で耳の字のように伸びていますが、これは、「曰」(いわく)と区別するものです。また、「本」が、「夲」(大の下に十)となっていますが、これは、中国では普通の書き方で、別に間違って書いたわけではありません。と言うことで、優れた職人の技が見てとれます。

*補追

 と一旦褒めたのですが、拓本で確認すると、は、「曰」(いわく)と似た「日」があったり、手偏と木偏が見分けにくいのがあったりして、仕事ぶりにムラがあるのが見て取れるのが、ご愛敬です。

以上

 

私の意見 禰軍墓誌に「日本国号」はなかった 付録 2  再掲 誌文私見

                        2018/05/10 再掲 2021/09/22

〇お断り
 以下は、『祢軍墓誌』についての覚書 : 附録 ; 唐代百済人関連石刻の釈文 葛 継勇
に印刷された誌文を参考にテキスト入力したものであり、誤解、誤字などは、当ブログ筆者が責めを負うものである。
 参照した拓本は、資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序掲示のもの。

 但し、翻案文は不使用。(全文入力後に見つけたため)

    1. 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘
    2. 公諱軍字温熊津嶠夷人也其先与華同祖永嘉末避乱適東因遂家焉若夫
    3. 巍巍鯨山跨青丘以東峙淼淼熊水臨丹渚以南流浸煙雲以擒英降之
    4. 沃照日月而榳惁秀之蔽虧霊文逸文高前芳七子汗馬雄武擅後異于
    5. 三韓華構增輝英材継響綿図不絶帟代有声曾祖福祖譽父善皆是夲藩
    6. 品官号佐平並緝地義以光身佩天爵而勤国忠侔鉄石操持松筠範物者道
    7. 徳有成則士者文武不墜公狼輝襲祉藤頷生姿涯濬澄陂裕光愛日干牛斗
    8. 之逸気芒照星中搏羊角之英風影征雲外去顕慶五年官軍平夲藩日見機
    9. 識変杖剣知帰似由余之出戎如金碟之入漢__聖上嘉歎擢以栄班授右
    10. 武衛漉川府折衝都尉于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻
    11. 固万騎亘野与盖馬以驚塵千艘橫波援原蛇而縱祢以公格謨海左亀鏡瀛
    12. 東特在簡帝往尸招慰公佝臣節而投命歌__皇華以載馳飛汎海之蒼鷹
    13. 翥凌山之赤雀決河訾而天具靜鑑風隧而雲路通驚鳧失侶済不終夕遂能
    14. 説暢__天威喩以驅福千秋僭帝一旦称臣仍領大首望数十人将入朝謁
    15. 特蒙__恩詔授左戎衛郎将少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府
    16. 司馬材光千里之足仁副百城之心挙燭霊台器標於芄械懸月神府芳掩於
    17. 桂苻衣錦昼行富貴無革翟蒲夜寢字育有方去咸亨三年十一月廿一日
    18. 詔授右威衛将軍局影__彤闕飾躬紫陛亟蒙栄晋驟歴便繁方謂克壮清
    19. 猷永綏多祐豈置曦馳易往霜凋馬陵之樹川閲難留風驚龍骧之水以儀鳳
    20. 三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾薨於雍州長安県之延寿里第
    21. 春秋六十有六__皇情念功惟舊傷悼者久之贈絹布三百段粟三百研葬
    22. 事所須並令官給仍使弘文館学士兼検校夲衛長史王行夲監護惟公雅識
    23. 淹通温儀韶峻明珠不顏白珪無玷十歩之芳蘭室欽其臭味四鄰之彩桂嶺
    24. 尚其英華奄墜扶搖之翼遽輟連舂之景粵以其年十月甲申朔二日乙酉葬
    25. 於雍州乾封県之高陽里礼也駟馬悲鳴九原長往月輪夕駕星精夜上日落
    26. 山兮草色寒風度原兮松声響陟文榭兮可通随武山兮安仰愴清風之歇滅
    27. 樹芳名於寿像其詞曰
    28. 胄胤青丘芳基華麗脈遠遐邈会逄時済茂族淳秀帟葉相継献款夙彰隆恩
    29. 無替一其惟公苗裔桂馥蘭芬緒栄七貴乃子伝孫流芳後代播美来昆英声雖
    30. 歇令範猶存二其牖箭驚秋隙駒遄暮名将日遠徳随年故慘松吟於夜風悲薤
    31. 哥於朝露霊轜兮遽転嘶驂兮跼顧嗟陵谷之貿遷覬音徽之靡三其

校注:(原注)
   3行の「青」は、王連龍氏が「清」。「擒」は、王連竜氏が「樆」。
 4行の「扌庭 悊」は、王連龍氏が「榳惁」。
 21行の「研」は、王連龍氏が「升」。

追記:本記事の追記、校正項目
 _は、僻諱による空格
 4行の「榳惁」は、葛継勇氏が「扌庭 悊」としたものを復原。
 3,4,10行の「于」(全五箇所)は、葛継勇氏及び王連龍氏が「於」としているもの。
 但し、拓本に「於」とあるものは、そのまま。
 竜、龍の混在はそのまま。
以上

 

2021年9月21日 (火)

日本文化の誤解を歎く 将棋の「クイーン」談義に苦言 再掲

                       2019/05/21 補充 2021/09/21

 本稿は、毎日新聞デジタルサイトの連載コラムに関する意見です。時折参照されることがあるので、少し書き足してみました。

 日本文化をハザマで考える  第4回 変わりゆくチェスと将棋の「クイーン」
          2019年5月21日 11時52分 Texts by ダミアン・フラナガン

 当該コラムの位置付けについて考えましたが、いろいろ誤解されている点について、率直に異議を呈するのが誠意の表れとみて、以下のように、苦言を申し上げるのです。

□「日本」に国王なし
 まず、「日本」には、古来、国王はないので、「国王」の配偶者としての「女王」はなかったのです。ないものが、広く通じることはないのです。

 「日本」は、国名が成立した八世紀以降であり、それ以前、「日本」の無い時代、文書記録の整っていない三世紀の中国の歴史書によると、男性の国王を女性が継いだ時、「女王」と呼ばれたようですが、それにしても男性の国王の配偶者を「女王」と呼んだ形跡はありません。

 因みに、「日本」が文字「文化」を学んだ中国では、女性が君主となることはなく、また、君主は、歴代「皇帝」だったので、国王の配偶者を「女王」ということもなく、「女王」と言う漢字言葉の理解には、難点がつきまといます。(唯一の例外は、唐代の「武則天」ですが、例外があるということは、通則の邪魔にはならないのです)

 ご承知のように、古代、「日本」の君主は、「天皇」であり、配偶者は「皇后」であって「女王」ではなく、皇太子以外の男性王族を「王」と呼んだ際、女性王族を「女王」(じょうおう)と呼んだようです。これは、本来、「娘王」(じょうおう)だったのかも知れません。現代語でも、「女王」の発音は、「じょうおう」であって、「じょおう」ではありません。よく聞いてほしいものです。

 して見ると、「日本」には、「クイーン」に相当する呼称は、一切なかったようです。たまたま、漢字で、「女王」と書かれても、その時、女性君主を想定した可能性は、まずないということです。

□将棋の素性
 以上、筋の通った説明を試みましたが、世間に通用している理解とは異なるとしても、世間の大勢の誤解、勘違いを放置していると、このようになるという見本にもなっているように思います。その点で、この記事が何かの警鐘になれば幸いです。

 将棋は、遅くとも、12世紀の鎌倉時代には到来していたようですから、その時点で、今回のコラムにあるように、元になる「チェス」類似の競技に、クイーンは成立していなかったということで、クイーンは来日していなかったのです。

*中将棋にクイーンなし
 今回念を入れて調べたところでは、中将棋には、「クイーン」の、日本語で、国王の配偶者なる意味を書いたコマはないのです。確かに、チェスのクイーンの動きに相当する「奔王」という駒はありますが、とても女王とは見えません。

*将棋に王将なし
 そもそも、先ほど上げたように、日本には、王を君主とする制度がなかったので、「キング」を「王将」とすることはないのです。

 大事なことは、王は君主であって将ではないので、王将は、君主の部下になります。女王なる駒を王将と共に並べたら、王将は女王の臣下、女王が盤上の君主となり、理屈に合わないこととなります。

 少し丁寧に説明すると、俗に「王将」と言いならわしているものの、これは誤解の産物であり、本来、中国で「金」(将)「銀」(将)と並べた財宝の中央に鎮座する至上の財宝を「玉」(将)と考える方が、筋が通るのです。
 かくして、将棋の配置を見ると、香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香と高貴な財宝を並べているのです。

 つまり、将棋は、チェスと異なり、財宝を取り合う知恵比べであって、戦争ゲームではなかったと見えます。戦後、皇室で将棋が愛好されていたことからも、そのように思うのです。

 と言うことで、将棋には、本来、男王も女王もないので、ないものが浮上することはないのです。

□生き続ける中将棋
 それにしても、1930年代、京都で中将棋の伝統が絶えたというのも、関係者には気の毒な誤解で、実際は、大阪中心に連綿として継承されているのです。Wikipediaによれば、将棋界のレジェンド 故大山康晴氏(15世永世名人)が、数少ない継承者だったとされています。

 いや、英文には、単にwasと書いているので、その時点で中将棋があったと言うだけで、伝統の終焉を意識させる「までは」は、軽率な誤訳かも知れないのです。「伝統が絶えた」のなら、had beenと書くものであり、多分、余り英語に通じていない人の仕業でしょうか。

□無形文化遺産の維持
 最後に、伝統的なゲームの勝手なルール変更について異議を申し述べます。

 将棋は、少なくとも、十七世紀初頭以来伝統を受け継いでいるものであり、今日も、多数の人々によって愛好されています。将棋とは、ゲームであり、それを愛好する人々の共通の財産なのです。

 それは、ゲームのルール、駒の名称にも及んでいて、
個人が勝手に変えることは許されないのです。それは、チェスでも同様と思います。

□「不法」の意義
 書かれているように、チェスと違うルールのゲームを作ってチェスだと言ったら、それは、チェスではイリーガル(Illegal)、つまり、「違法」なのです。現代に到っても、チェスのインターナショナルマッチは、国と国の威信をかけた争いであり、それこそ、細かい振る舞いまで厳重に規制されるものなのです。気ままなルール変更など、もってのほかです。

 当コラムの著者は、タイトル付けの無神経さに加えて、こうした大事な点が理解できていないようなので、きつく釘を打たせていただきます。
 それにしても、「変わりゆく」と決め付けられている「チェス」と「将棋」からは、当記事以外、反論はないのでしょうか。

 この世界には、個人の我が儘で壊してはならないものが、沢山あるのです。

 因みに、将棋が「本将棋」と呼ばれるのでわかるように、将棋の駒を使った挟み将棋や山崩しに始まり、衝立将棋などの変則ルールの将棋が多く知られていて、また、興味深い新種が生み出されていますが、「本将棋」は不変なのです。

 よろしくご理解の上、賛同いただけたら継承いただきたいのです。


 以上、特に参考文献は挙げませんが、それは、このような断定的な意見を公開する際に、ご当人がなすべき義務と思うからです。いい加減な思い付きを叱責するのに、労力を費やすだけでも十分なので、後は、ご当人が調べるべきものです。もっとも、特にコメントも質問もないので、全国紙に載った記事は、そのまま定着するということなのでしょうか。

以上

2021年9月18日 (土)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記
私の見立て ★★★★★ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むが、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。ようは、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込みが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が隋国「大使」に抜擢されたと明確である。
 書紀所引隋帝国書には、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。また、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、氏はその点に、無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を採用しようとするするのは、中国史料の解釈として不合理である。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、蕃客接待専門職で傍路である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点では、大いに異なる。つまり、文林郎として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

                               以上

2021年9月15日 (水)

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 1/3 総論 改訂版

                             2021/03/08 補充2021/09/15
〇はじめに
 当記事で論じているのは、范曄「後漢書」の史料批判にあたって、編者范曄が、原典史料にどのような編集を加えたか、推定するということである。そのために、後漢献帝期の著名人であった孔融の「伝」をどのようにまとめたか、同時代を記録した他の史書と比較したものである。
 孔融は、聖人孔子の子孫の中でも、同時代では、随一の位置付けであった。名門、名家の中でも、格別の偉材であった。

 范曄「後漢書」は、列伝において「孔融」伝を立てている。袁宏「後漢紀」は、列伝を持たないが、献帝紀に孔融が処刑されたとの記事を書くに際して、孔融の小伝を書き起こしている。それぞれ、孔融なる偉才に、伝記を書き残す価値があるとみたことがわかる。因みに、袁宏「後漢紀」は、東晋期に編纂されたものであり、范曄「後漢書」に先行している。つまり、笵曄の執筆時に参照されたことは確実である。

 一方、陳寿「三国志」「魏志」は、「孔融」伝を持たない。つまり、陳寿は、孔融が著名人であったが、伝を立てるに及ばないと見たものと思われる。これに対して、裴松之は、崔琰伝に司馬彪「續漢書」から引用、付注 している。つまり、南朝劉宋の時代、魏志に孔融伝が欠落していると見なされていたので、衆望に応えて補完したとみられるが、魏志に孔融伝を追加すると原著を改竄したことになるので、崔琰伝に補注する形式を採用したとみられる。つまり、魏志は改変されていないのである。
 言うまでもないが、裴松之の補注、裴注は、陳寿の編纂したものではないので、陳寿「三国志」の史料批判に起用することはできない。参考になるとすれば、司馬彪「續漢書」の孔融記事は、陳寿が否決したものなのである。
 因みに、范曄「後漢書」編纂時に司馬彪「續漢書」が参照されたことは確実である。

 素人読者が范曄「後漢書」孔融伝を通読して感じるのだが、笵曄は、先行する諸家「後漢書」を熟読した上で、自身の文筆家としての沽券にかけて、熱意を持って執筆したことは確実である。その際、江南圏教養人が、周秦漢の古代語、古典用語が、十分理解できないと見て、手心を加えたと思われる。范曄「後漢書」が、唐代に流麗な文章と賞賛された由縁と思われる。

 以下、范曄「後漢書」の特徴を示すと思われる用例を見出して、用語、構文を対照する。因みに、袁宏「後漢紀」の該当部は、日本語訳が刊行されているので参考にした。陳寿「三国志」魏志の該当部分は、筑摩書房刊の『正史「三国志」』所収の日本語訳を参考にした。
 また、当記事は、笵曄の筆の冴えを賞味することにあるので、續漢書、後漢紀が、原資料に忠実な、保守的なものとして、それを基準に、范曄『後漢書』の用語を批判している。

〇用語、文例比較
*十余歳~十歳
 范曄「後漢書」は、まずは、「十余歳」を「十歳」としている。

 つまり、笵曄は、年齢表記で「余」概数を避けたのである。今日でも、中国古代史書の語法を解しない人は、「十余」歳を、本来の七,八歳から十二,三歳程度の範囲と見ないで、十歳から十五歳までの範囲と解釈(誤解)する人が大変多いから、誤解を避けて賢明である。 
 十歳は、キッチリ十歳という断言でなく、八歳から十二歳程度としても、孔融は後に十三歳で父を亡くしたとあるので、成数ないしは所数で、十歳とした方が字面が滑らかである。
 太古以来、戸籍は整備されていたから、およそ、子供に正式に「命名」する程の名家では、それぞれの子供の名前と年齢は、確実に知られていたのである。

 言うまでもないが、当時は、日本で言う「数え」年齢であるから、現代風に「満」年齢で言うと、一,二歳若くなるのである。
 当時、現代の日本のように小学校はなかったし、どの道、四月から学年開始するのではないが、まあ、今日で言う、小学生という程度である。

*周旋~「恩舊」(古い付き合い)
 当記事の筋書きでは、孔融少年が、しかるべき紹介者を通じてではなく、一介の無名人として面会を申し込んだのに対して、当然、門前払いになるところを、気の効いた口上でしゃしゃり出たのである。(偉人伝の冒頭を飾る挿話である)

 李姓の李膺は、少年の口上で、老子「李耳」の末裔と扱われて気を良くしたので、孔子「孔丘」の子孫孔融との両家交流を、あっさり認めている。つまり、紹介者の要らない旧知の間柄と強弁したのである。

 ここで、「周旋」は、古典用語であるため、当時の教養人に理解されない可能性があるので、笵曄は、「恩舊」(古い付き合い)と言い換えた。普通、周旋とは、二地点、あるいは、両家の間の交遊、往来という意味なのである。
 正体不明の領域をぐるぐる巡るという意味でないことは確かである。

*長大~(言い換え放棄)
 「高明長大、必為偉器」で、同時代人に「長大」は理解されない可能性があると見たようだが、適当な言い換えが見つからないで省略したようである。大差ないとも言えるが、「この小僧、成人すれば、大物になるぞ」の意味が消されている。
 因みに、魏志倭人伝にも見られる表現であるが、現代中国語にも伝えられていて、さらには、現代の有力辞書である「辞海」(三省堂)にも収録されているから、日本でも、教養人の語彙として継承されているようである。
 当時成人が十八歳とすると、十余歳は「数年中」となるので、ぼかしたのだろうか。「末恐ろしい」というには、微妙である。

 また、今日に至るまで、「長大」に老齢の意味は見られないように思う。

*早熟談義~笵曄の本領
 笵曄の真骨頂は、『陳煒後至,曰「夫人小而聰了,大未必奇。」』、つまり、「小才の利いた子供は、大抵、大した大人にならないものだ」と評されて、すかさずこたえた名セリフを「書き換えている」所にある。

 先行史料は、「さぞかし早熟だったのでしょうね」と激しく切り返しているが、笵曄は「お話を聞くと、高明なる貴兄は、神童ではなかったのですね」(觀君所言,將不早惠乎) とやんわりこなしている。「早恵」は、同音の「早慧」と同義で、早熟の意味であるが、ここでは、「不早惠」と否定されているので、後漢紀、續漢書と逆の意味であると思う。つまり、神童などではなく長じて智者になったという尊敬の趣旨である。

 本来は、孔融が生意気な皮肉で高名な官人に反駁したことになっていたが、笵曄は、衆人の前で高官の面子を潰したら「ただで済まない」から、如才のない受け答えをしたはずだと解したのである。

 孔融は、晩年、権力者曹操に楯突いてきつい諫言を度々奏したため、遂に刑死しているから、巷では、少年時代の毒舌伝説と語られても、当時河南尹の李膺が、生意気な子供の肩を持って賓客の顔を潰すはずはないと言う、賢明な解釈を採用しているのである。

 笵曄は、「不」の一字で毒消しし、李膺は、孔融少年の爪を隠すことを知っている才覚に感嘆したとしている。話の筋は滑らかであるが、史料に忠実でなく創作である。笵曄の「本領」とは、そういう意味もこめたのである。

*陳寿の孔融観
 因みに、三国志の孔融関連記事は、むしろ乏しい。
 「太祖本紀」では、時に、高官としての行状が語られるが、最後は、先に書いたように、時の権力者曹操に、しばしば反抗したとして、誅殺の憂き目に遭っている。孔子の子孫という事もあって、随分高名でありながら、魏志に列伝はない。
 魏志の孔融記事は、大半が裴注によるものであり、子供まで連座して孔融の家系は絶えていたから、裴松之が、孔子子孫の孔融を殺したのは曹操の大失態との「世評」にこたえて、十分に補追したようである。と言って、このように補注されるように敢えて孔融伝を採用しなかったのは、陳寿の見識を示すものであり、また、裴松之は、決して陳寿を誹っているのでは無いのである。

 孔融十歳時の逸話は、魏志崔琰伝に司馬彪「續漢書」が付注されていたので、後漢紀、後漢書と比較したが、陳寿が認めた記事ではない。
 むしろ、陳寿が、魏志に無用として排除した一連の孔融記事の中でも、最悪と見なしていた記事と思えるのである。

 このような扱いに、陳寿の史官としての判断が厳然と示されているのである。孔融伝を収録するとしたら、裴注で補充されているような、不本意な記事も、加筆、訂正できないまま収録することになるから、陳寿の史官としての志(こころざし)が曲がるのである。もちろん、陳寿は、儒教を信奉していたわけではないし、曹操も、同様である。
 と言うことで、陳寿は、孔融の記事を「割愛」したのである。

*不本意な引用
 結局、三国志に孔融伝は無いにもかかわらず、世上の孔融神童(異童子)挿話に、三国志本文ならともかく、裴注記事が引用されているのは、割愛した陳壽の身になっても、労作を物した笵曄の身になっても、大変不本意であり勿体ないことだと思うのである。

*范曄の「脱史官」宣言
 総じて、續漢書と後漢紀の書きぶりには大差がない。古来の史官は、忠実な引用を旨としていたためと思われる。

 そして、范曄「後漢書」は、三国志が提起した確実に歴史を語るという提言を離れて、また別の一つの正史像を示したものである。

                                未完

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 2/3 対照篇 再掲

                              2021/03/08 確認 2021/09/15

〇史料対照篇 後漢書に「孔融列伝」あり。續漢書は、魏志崔琰伝裴注
【後漢書】孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
【後漢紀】融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
【續漢書】融,孔子二十世孫也。

【後漢書】融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。
【後漢紀】幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。
【續漢書】融幼有異才。融年十餘歲,

【後漢書】時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。
【後漢紀】時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。
【續漢書】時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。

【後漢書】融欲觀其人,故造膺門。語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
【後漢紀】融欲觀其為人,遂造膺門,曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
【續漢書】欲觀其為人,遂造膺門,語門者曰:「我,李君通家子孫也。」

【後漢書】問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
【後漢紀】曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
【續漢書】膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」

【後漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
【後漢紀】融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆[僕]累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
【續漢書】融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義、而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」

【後漢書】太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
【後漢紀】太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。[煒]曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
【續漢書】太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」

【後漢書】融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
【後漢紀】融曰:「如足下幼時豈嘗〔常〕惠乎?」
【續漢書】融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」

【後漢書】膺大笑曰:「高明必為偉器。」
【後漢紀】膺大笑,謂融曰:「高明長大、必為偉器。」
【續漢書】膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」

【後漢書】年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
【後漢紀】年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。
【續漢書】該当記事なし
                    未完          

私の意見 范曄「後漢書」筆法考 孔融伝を巡って 3/3 原典篇 再掲

                             2021/03/08 確認2021/09/15

〇原典史料 出典 中国哲學書電子化計劃 維基文庫

范曄「後漢書」鄭孔荀列伝

孔融字文舉,魯國人,孔子二十世孫也。
七世祖霸,為元帝師,位至侍中。父宙,太山都尉。
融幼有異才。年十歲,隨父詣京師。時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自非當世名人及與通家,皆不得白。融欲觀其人,故造膺門。
語門者曰:「我是李君通家子弟。」門者言之。膺請融,
問曰:「高明祖父嘗與僕有恩舊乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君同德比義,而相師友,則融與君累世通家。」眾坐莫不歎息。
太中大夫陳煒後至,坐中以告煒。煒曰:「夫人小而聰了,大未必奇。」
融應聲曰:「觀君所言,將不早惠乎?」
膺大笑曰:「高明必為偉器。」
年十三,喪父,哀悴過毀,扶而後起,州里歸其孝。
性好學,博涉多該覽。

袁宏「後漢紀」卷三十 孝獻皇帝紀 建安十三年

融字文舉,魯國人,孔子二十世孫。
幼有異才,年十餘歲,隨父詣京都。時河南尹李膺有重名,敕門通簡,賓客非當世英賢及通家子孫,不見也。融欲觀其為人,遂造膺門,
曰:「我是李君通家子孫。」門者白膺,請見,
曰:「高明父祖嘗與仆[僕]周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君李老君同德比義、而相師友,則仆累世通家也。」眾坐莫不歎息,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳禕後至,同坐以告禕。曰:「小時了了者,至大亦未能奇也。」
融曰:「如足下幼時豈嘗惠乎?」
膺大笑,謂融曰:「高明長大必為偉器。」
年十三,喪父,哀慕毀瘠,杖而後起,州裏稱其至孝。

魏志崔琰傳 裴松之付注
司馬彪「續漢書」:

融,孔子二十世孫也。高祖父尚,鉅鹿太守。父宙,太山都尉。
融幼有異才。
時河南尹李膺有重名,勑門下簡通賔客,非當世英賢及通家子孫弗見也。
融年十餘歲,欲觀其為人,遂造膺門,
語門者曰:「我,李君通家子孫也。」
膺見融,問曰:「高明父祖,甞與僕周旋乎?」
融曰:「然。先君孔子與君先人李老君,同德比義而相師友,則融與君累世通家也。」衆坐奇之,僉曰:「異童子也。」
太中大夫陳煒後至,同坐以告煒,煒曰:「人小時了了者,大亦未必奇也。」
融荅曰:「即如所言,君之幼時,豈實慧乎!」
膺大笑,顧謂曰:「高明長大,必為偉器。」 

                                以上

2021年9月14日 (火)

新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 1/9

 ~七世紀の倭都は筑紫ではなかった サイト記事批判

2016/03/20 2018/05/05 2019/03/01 04/20 2020/06/24 2021/09/12改稿
私の見立て ★★★☆☆ 賢察に潜む見過ごしの伝統

▢「九州王朝説批判」抜き書きの弁
 当記事は、書籍の批評ではなく、川村明氏の個人サイト記事の批判ですが、個人攻撃でないと了解いただきたい。
 最近閲覧件数が伸びているので、全体の言い回しを調整の上、追記し、再読して、部分的に取りだして、9ページに分割の上、再掲示しました。

*「古田武彦 九州王朝説」批判の由来
 因みに、川村氏の記事は、古田武彦氏の主張の各条批判なので両大家の角逐に口は挟めないのですが、論議起点たる史料確認が不十分なまま書紀記事の吟味に没入、注力して、私見では、些末、細瑾に囚われているので、論争の原点を見直して頂きたく、ご再考を促す趣旨で筆を執っています。(古田武彦氏は、既に故人になられましたが、氏の後継者は健在なので、聞く耳があれば、ご一考頂きたいのです)

 ここに書きまとめた当記事は、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点とした考察であり、日本書紀は検証を要する外部文献です。史学の基本である史料批判抜きの「書紀」視点で進めた解釈と異なる起点から解釈を試みます。

追記:まず、ここまで言いそびれていた批判を一つ述べます。
 第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった(Historical)

〇「倭都」は無かった。 追記 2021/09/12
 「中國哲學書電子化計劃」の収蔵史料の全文検索で「倭都」なる漢語は見つかりません。つまり、古代史において「倭都」は無法であり、ここに掲示していると著者の見識を疑われるのです。

*「都」の字義
 端的に言うと、「都」の示す意味は、殷周代以来変遷を重ねています。
 「都」は、本来、「すべて」、「つどう」の意味です。転じて、地域の交通、市糴の要(かなめ)を「都」と形容し、それが王城、王居の意味となったようで、時に、古代王朝の王の居所を示す意味で使われることはあったのです。

 但し、天下形勢変動に応じ、時代、状況に即して意味が異なるので、書き手と読み手の理解のずれ、つまり、誤解を招きます。例えば、唐代編纂の俀国伝で「都於邪靡堆」と書いた趣旨は、時代、状況不明の最たるものです。

*日本語に残る古代語
 日本語には、隋唐代の中国語が生き残っているという説が在りますが、日本語の「都」は、時代を経て風化し、今日、単に大きな「街」(まち)と解され、「商都」「工都」など、各地に、色とりどりの「みやこ」ならぬ「まち」が言い慣わされるため、国家元首居所は、特に「首都」と言わざるを得ないのです。この場合、「都」は最上位の「まち」、《東京》と解されても、「東京都」は、最大の地方公共団体に過ぎないのです。

*無理な造語
 氏の見解は、(中国)史料に根拠の無い造語を起用しているので、はなから無効であり、疑問点を克服し、考え直して頂く方が良いでしょう。

 隋書「俀国伝」収録の裴清記には、当然「倭都」はありません。また、魏志倭人伝の従郡至倭行程に「倭都」はなく、東夷蕃国の倭に至高の「都」があったとする確たる記事があるわけでもないのです。

 以上、広く諸史料を読みふけって総括した論議で、明解な論拠が示せないので温めていたものですが、この際、言うことに決めたのです。

 氏の潤沢な考察の瑕瑾をつくようで恐縮ですが、遅まきながら、史眼のブレの可能性を指摘しておきます。

                               未完

«新・私の本棚 川村 明「九州王朝説批判」抜き書き/ページ付け 2/9

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリー

無料ブログはココログ