2024年6月13日 (木)

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 1/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13,06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うのです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

▢緒論として
2024/06/15
 いや、当方は、ただの素人に過ぎないので、別に大した意見はないのだが、それにしても、当方が提起した争点は、まことに、揚げ足取りに近い些細な点であるが、又又それにしても、鳥越氏の本論の「枕」に過ぎない部分で、鳥越氏が、不出来な総括をしている/誰かに総括させられていると見えると、かなり遠回しに示唆しているのに、通り掛かりの野次馬から憤然たる抗議を頂いたのは、予想外であった。以下の本体部分では、真面目に応対しているが、当事者でない第三者が、当方の些末な批判に対して激高しているのは、奇観と言うべきである。鳥越氏は、明らかに文献史学に於いては、専門外で、素人に近い状態であったから、いずれかの「事情通」に寄りかかったのであろうが、そのために、不出来な解説を受け売りしたと見え、当ブログとしては、「黒子」が舞台に出て来るように水を向けたのである。ということは、以下しゃしゃり出てくる論者は、鳥越氏の陰の声、ゴーストライターなのであろうか。そうでないにしても、鳥越氏には、このような雑ぱくな支持者しかいないのであろうか。氏のために、まことに勿体ないと思うのである。

◯始めに

 本件は、ブログ記事でもなく、衆知を集めるWikiの体裁であるが、実際は、一律seit2023署名であり、古代史ブログとして、論者公開したものとして批判させていただくことにした。
 因みに、本件は、誠に人を食った(パクリ)ブログタイトルであり、古手のブログ主は不満であるが、それはこの際は言わないことにする。また、ブログランキングに、ルールに明記されていて不適当である、なんちゃって「ウィキ」を登録する厚顔無恥も、ここでは言わない。事態が是正された「新古」ブログのタイトルは、誠に人を食ったものであり、まして、Wikiを居食いして、ブログにする手口も、随分すっとぼけたものであるが、ここでは論じない。

*批判と反論
 以下は、掲載記事の引用に当方の批判コメント追加であり、古典的喧嘩論法は極力受け流したが、反発は理解いただけるものと思う。
 因みに、氏は、細かく引用先を明示して公開されているが、特に意義がないと思われるので、批評の目的で引用した。

「鳥越 憲三郎」批判について
『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている

 論者は、鳥越氏当人でなく、「闇代理人」であるので、趣旨理解の前提となる教養の有無が不明なので以下、順に説明する。
 「題して」と言われるが、小見出しか。タイトルではない。「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」との引用で、本書に「前提」論拠が読み取れなければ意味不明は明らかである。無理難題は、ご勘弁いただきたい。例えば、「用語不明瞭」というのは、学術論文である以上、「多い」「少ない」などと主観的・感覚的なことを言いたてずに、せめて、「パーセント値」などで数値化すべきだというのである。至って当然の意見と思うのだが、論者にとって「当然でない」というのであれば、典型的な無教養発言であるので、ここでご退席頂きたいものである。

 鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。

 との発言は、場の流れを見損ねているのであり、これは、反論を引き出すための「揶揄」であるから原文にないのは、当然である。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したと明確に示唆しているように、鳥越氏は、史書の価値は「分量」と相関関係があると明確に示唆しているから、映画のトラさんにしゃれめかして「つらい」と揶揄したのである。当然、「学術的」批判ではない。
 裴注の「貢献」は、見当違いの感想と思うので、同調する鳥越氏に揶揄したのである。なにしろ、裴注は、裵松之が苦吟して一字一字書いたものでなく、文献から貼り込んだのであるから、裵松之は、ほんの一汗の手間もかけていないのである。たとえば、魚豢「魏略」「西戎伝」は、魏略同時代善本から、「西戎伝」を、云うならば一冊丸ごと貼り込んだから、陳寿「魏志」に西域伝がないのに不満の読者は、じっくり読んでいただきたいとしたものである。大事なのは、字数でなく、文書の真意ではないだろうか。
 何しろ、「西戎伝」数千字というものの、大半、と言うか、全体は、当時未刊の後漢書「西域伝」と言うべきものであり、魏志「西域伝」として利用できたと思われるのは、精々数行程度に過ぎないのであるから、これでは、陳寿にして見れば、「魏志」に収録できないという感想に至るはずである。いや、「本気で読めばわかる」という事であり、曹魏の官人であった魚豢をもってしても、この程度の「西戎伝」しか書けなかったのであるから、陳寿が、薄っぺらな魏志「西域伝」を収録するに忍びなかったのは、自然に理解できるはずである。
 とはいえ、論者のように、二千年後生の東夷であって関連資料を読んでいない野次馬には、自然な理解は無理なのだろうか。いや、魚豢は、曹魏が、後漢から天下を継承したから、後漢の功績は曹魏の功績であるという趣旨で、魏略「西戎伝」を編纂したはずだが、已に、陳寿は、その意見に与していなかったのは明確であるから、深追い無用である。
 と言うことで、論者は、当方の書いた記事の真意を察する読解力がないのに、ここまで、感情的に反発していては、無根拠の誹謗、中傷と解されるから、ご注意いただくよう申し上げているだけである。

「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。

 当方は、「裴松之補注が本文に数倍」の量的な(フィジカル)言い分が間違いと言うのでなく、質的な(メンタル)言い分の指摘だけである。字数を数えず、内容で勝負しろといっているのである。論者は、鳥越氏の目方論が正しいというのだから、それは、それで聞き置くしかないのである。

『三国志』は名著になったとする評価もある

 とは、何とも困った「風評」頼りである。世間は広いから、どんな極端な意見にも、当人は数えないとしても、かならず、少なくとも一名、同調者がいるというのが、古来の名言である。と言うことで、いくら声を荒げても、拙論批判の根拠とならない。主観的な批評の一例では困る。言外におっしゃっているように、「陳寿『三国志』は、裴注以前にすでに名著だったとの同時代評価が歴然としている」のである。論者は、この下りで、当方に何を伝えようとしているのだろうか。

学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、

 文の趣旨/真意の斟酌は、文脈の理解が前提であるから、部分引用は誤解の元である。特に、文意の読みがもつれるときは、本項の工夫が必要である。論者が、そうした配慮を理解できないと主張するのなら、当方としては、そうですかというしかない。説論であるが、原文の読みかじりで、原文の真意を提示したとするのは、往々にして「最低」の論拠提示と見える。お互い、子供(賈孺)ではないのだから、ちゃんと合理的な発言に努めるべきではないか。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 2/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思う。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*批判と反論
承前
(引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。

「世の中を惑わす」とは、「倭人伝」では、一女子卑弥呼が人心掌握したと賛辞と見え、盛大にお褒めにあずかったと感謝する。「批判」は、誹謗、弾劾で無い「批判」との指摘に異議は無い。「有害無益」は、論者の趣味嗜好であるから一身にとどめずお返しする。論者が、「倭人伝」論義を家業としていて、つまり、一家の生計を立てていて、当方のブログが、家業に不利益を齎しているとしたら、まことに申し訳ない。なにしろ、事の事実が分からないなかで、「全く事実に反する」のは不可能である。
 ちなみに、鳥越氏の論説の大部分は、いずれかの知恵袋からの差し入れに依存していて、文献史学者ならぬ氏自身の語彙と整合していないと見えるので、丸写しして批判するばかりでは、氏の真意を外れるかと思い、わざと「誤引用」したものでもある。
 要するに、以下に説き起こしているように、鳥越氏の内部では、冒頭で宣言した『「三国志」は、西晋史官陳寿の編纂した史書であるという認識』『正史「三国志」は、劉宋裵松之が付注した後世版であるとする認識』が混在していて、論者すら、しどろもどろなのを感じて、「鳥越氏は後者を正史として論じている」と(誤)認識したものである。
 因みに、論者から絶大な賛辞を頂くのは光栄である。以下同文である。

「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。

 まず、「同時代に「魏志」を読んだ人間がいる」のは自明なので確認を要しない。「誰も確認できない」も、非学術的で同意しがたい。現代人が、二千年近い過去を見聞できないのも自明で、当世風自虐趣味かと危ぶむものである。
 裴松之は、当時最善とされた三国志原本に「大量の」注記を行ったのであり、当然、補注前の状態は承知していた。それが、科学的な議論と思う。別に同意されなくても結構で、せめて同時代人の意図を読み取って頂きたい。
 因みに、先だって、「『三国志』は名著になったとする評価もある」とあるのは、明らかに、「裴注版」に関する風評であるが、趣旨不明である。

万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 3/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

承前
 当方が「南宋刊本」としか書かなかったのは論点に関係無いからである。「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であると、論者が意味不明に指摘しているが、要らぬ紛争は、避けたかったのである。
 論者が、南宋刊本すら的確に識別できていないのは、痛々しいのである。まして「原本」の意味もあやふやなのであり、かつ、鳥越氏の認識も理解できていないので、ここで鳥越氏の代弁にしゃしゃり出るのは、僭越なのである。

 子供(賈孺)に言い聞かせるようでつらいのだが、まず、中国では、政権交代どころではない内乱がしばしば起こっていて、国宝と言うべき正史原本すら、種々の損害を被ったのは衆知である(論者が知っているかどうかは「衆知」の適否に関係しない)。但し、三国志は、正史の中でも格段に損害を受けることが少なく、少なくとも、劉宋裵松之による校訂、唐初の国家事業としての校訂、北宋期の刊刻時の大規模校訂、南宋初期の二度に亘る刊刻時の校訂と、原本継承の損害からの復元が行われていて、最も原本に近いテキストが維持されていると見るべきである。

 ところが、論者は、何も知らないままに、裵松之補追の際にそれ以前の原本が喪われたと戯言を述べていて、信用を無くしているのである。裵松之は、その時点の三国志原本に手を加えることなく、注を追記、つまり、原文はそのままで書き加えているのであり、その時点の補注前の原本テキストは確実に保存されているのである。この点は、現行刊本で「容易に」確認できるのであるから、他人に声高に主張する前に、調べ尽くすものであり、「知らない」、「記憶にない」では済まないのである。
 要するに、論者の属する学閥は、「魏志倭人伝」原本に、「邪馬臺国」と書かれていた4文字が、継承中の手違いで「邪馬壹国」と変容したとの一点に、組織の生存をかけているので、陳寿原本を読んだものは誰もいない等と、子供(賈孺)じみた発言に始まり、論者のように、宮内庁書陵局が影印本を公開している南宋「紹熙本」を、同時期に南宋で刊行された「紹興本」と全文字同一ではないと称して事態を混濁させている(のだろうか)のに巻き込まれているのである。この辺り、論者は、専門家でない素人判断で強弁するために、しどろもどろで痛々しい。

 本論では、宮内庁書陵部が継承管理しているのは、普通「紹熙本」と呼ばれているが、「南宋刊本」で十分であり、また、これは「百衲本」そのものでないとの定評がある。「紹興年間(1131年-1162年)」は、何の意味か不明で、論者の意識混乱と見える。紹興本は、紹凞本より刊行時期が早いが、テキストの信頼性に疑義があるという事で、さほど年月を経ないうちに、刊刻事業を再度行って、よりよい紹凞本を成し遂げたというものであり、要するに、論者は聞く相手を間違えたようである。
 因みに、ここは、紹凞本が現在最有力な刊本と確認するだけでなく、二千字ほどの「倭人伝」原本テキストを確定しないと議論が始められない(はず)なので、宮内庁書陵局の公開史料を提示したのである。紹興本については、印影が伝わるだけで原本が確認されていない(と思われる)ので、避けられていると言うべきである。
 つまらぬ言いがかりには、関わり合わないのが最善であるが、つい長々と「教育的指導」を施してしまった。慚愧である。

原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。

 論者は、独特の「字書」をお持ちのようで、「散佚」と称して、「三国志」全体が「散った」「失われた」と言いふらすのは、大いに「差し支え」がある。論者の家庭の事情は察するが、つまらない点で誤謬にこだわるのは、後世に誤った意見を伝えるので、程々にされた方がいいようである。大丈夫であろうか。何にしろ、正確に知らないことを間違ったままで高言するのは、罪作りである。
 わざわざ、このようにブログネタにして指摘するのは、論者の仲間から意図不明の誤伝/妄言が出回っているからである。中国史書の資料評価であるから、個人創作の字書は控えて、漢字字書を参照して「散佚」を解するものと思われる。何しろ、「三国志散佚」論は、途轍もない言いがかりと見える。

 史書「散佚」の好例として、関連資料で言うと、魚豢「魏略」は、善本が全く残存していないもので、史書や類書への断片的引用「佚文」が残存しているだけである。これに対比して、健全に継承されている正史が「散佚」したとは、読者に混乱を呼ぶのでは無いか。とくに、魏略佚文の「倭人伝」相当部分は、所引の際の不正確な引用に「定評」のある「翰苑」所収であって、誠に断片的である。「倭人伝」も、ゴミの山なのだろうか。

 鳥越氏は、「翰苑」所引の「魏略」佚文の史料批判無しに、陳寿「魏志」倭人伝は、魚豢「魏略」を写したものと称しているが、受け売りとしても鳥越氏ほどの高名な論者にしては、不用意/不都合である。そのような不合理まで指摘すると厖大になるので、武士の情けで、初稿では割愛したのである。所詮、本項は、ブログなる身辺雑記の書評稿公開であり、これを「学術的」論考並に審査されても、恐縮/困惑するだけである。まして、論考審査するのが不出来な者ではどうしようもない。
根拠をもって、そう言っていただければ良いのである。べつに「完璧」(玉の至宝に瑕疵一つない)というものではない。
 世上噂されている諸兄姉の判断の根拠は風の如く不明であるから、当方の意見を述べただけだけである。別に排他的に論じているわけでは無い。論者の生業を妨げる意図はない。

万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。

 「単なる」「言いがかり」とおっしゃる意味が分からないが、拙論は「孤」つまり「隣」の無い一論であるから、「単なる」かも知れないし、事の取っつきを求めた「口切り」であるから「言いがかり」かも知れないが、それでどうしたというのか、一向に通じない。
 大事なのは、鳥越氏の唱えたと見える史料観が一方的であり、売り言葉にこたえると、高名な論者にしては、ずいぶんいい加減な言いがかりなので、反論による是正が必要だという意見であるから、内容についてご意見を頂きたいのである。

「鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。」

 僅かな間に、鳥越氏の筆が踊り『三国志』の定義が転々としていて、前後で意味が変わっているのである。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 4/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13, 06/15

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*解釈変調
 ここで、論者は、鳥越氏の解説を不規則に修飾しているが、原文を普通に、そのまま解釈すると、『裴松之が補注して成った「三国志」』と断定しているのであり、鳥越氏が『三国志』と論じているのは、裴注の付されたもので有ることは明解ではないか。このあたり、鳥越氏の文意が読み取れないのであれば、もう少し謙虚に論じるものと思う。
 論者が『』で規定したという事は、学術的に『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』が区別されるとの主張のようであるが、ここは、鳥越氏の著書の考察であるから、本書から用例を提示頂きたいものである。文脈中で語義が動揺しているのを無視して、特定の部分だけ囓り取るのは、形式的には『ルール』にそっているのだろうが、じつは、『曲解』につながるものであり、フェアではないと思う。

「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。

 当方は、鳥越氏が主張される『「新しい」、陳寿が知らなかった史料が発見された』なる(根拠の無い)断定に義を投げかけただけであり、根拠の無い断定に根拠をあげて反論することなど、誰にも出来ないのである。分量として原典に数倍する」と明言していることから、文字数による評価は不合理と、重ねて指摘しているだけである。
 ちなみに、陳寿が、史官として尊重した史料は、後漢/曹魏の政府機関が残した「公文書」であり、巷説、風評の類いは、仮に一瞥したとしても、採用せず、割愛したと見るべきであるから、そのように「断定」したと見るものである。何事にも例外はあるだろうが、だからと言って、陳寿が無原則の編纂を多年行ったというのは、無茶というものである。
 以上の見解は、鳥越氏が、氏の著作に示された民俗学見識に基づく考古学の視点見識を傾けて反論されたのであれば、再考するものであるが、通り掛かりの野次馬の生齧りの意見には、耳を貸す義務は無いとも言える。本稿は、それでも、あえて耳を貸しているものである。そのために、論者と同一の地平に引きずり下ろされて、不満であると言い置くことにする。

 ちなみに、裴注の中でも、魏志第三十巻の末尾に追加されている魚豢「魏略」魏略「西戎伝」は、相当する「魏志」「西域伝」が存在しないから、0字に対して4000字余りが付注されていて、分量比は計算不能である。

 陳寿の一世紀半後生である劉宋史官裴松之が参照した史料は、ほぼ全件批判されているから、陳寿が知らなかった「新しい」史料は、皆無ではなく当然あり得るとしても、全体として、陳寿が、熟読吟味の上不要と考えて「没」にした史料が少なからずある大半であるという主張自体は、十分に合理的であると考える。それら史料は、陳寿が棄却したと見ても独断ではないだろう。陳寿が棄却した史料をゴミ箱から拾い出して付け足したと見える裴注は、ゴミがゴミであると明示した上での補注であり、別に、「三国志」に対して何かを付け加えたものとは言えないのではないか。いや、論者自身が熟読してそのように理解したというなら、一件一件明示して批判頂きたいものである。

 それにしても、論者は、どのような資格で当方が意見を書く行為を「根拠が無い断定」と断定するのであろうか。意見を書く行為自体は、憲法で保障された言論の自由と思うものである。大丈夫でしょうか。

笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の創成~余談
 たぶん、論者は、意識的に包み隠しているのだろうが、西晋は、陳寿の没後ほどなく、内乱で荒廃し、北方民族に首都雒陽を攻略されて、滅亡したのである。西晋皇帝は、捕虜となって流刑地で客死、王族も討伐されて、辛うじて、一名の王族が、江南の建康に逃れたのである。これが、「禅譲」であれば、皇帝は退位しても首都は維持され、政府機関も維持されるから、膨大な政府文書も継承されるから、そこから、新たな史書が登場する可能性があるかもしれないが、異民族に略奪された亡国から、公文書全体が移動されるはずはなく、最低限の公文書が非常持ち出しで南遷したにとどまったのである。
 つまり、建康で成立した東晋には、三国志「魏志」に新たな史料を齎される可能性はなかったのである。いや、それは、魏志として確立された正史に付いて言うのであって、蜀漢、東呉の地は、西晋崩壊の被害を免れたから、地方史料が齎された可能性はあるが、もともと、陳寿の編纂時に、充分史料渉猟を行い、選別していたから、特に事態に変わりはなかったと見えるのである。
 余談であるが、雒陽公文書庫の崩壊は、後漢書編纂に大きな打撃であったが、既に、有力な後漢書が編纂されていたので、これら先行後漢書の記事を斟酌すれば、笵曄も、雒陽公文書無しに一流の後漢書を編纂できたのである。但し、後漢の末期、遼東公孫氏が東夷を管理していた時代は、公孫氏から、雒陽に報告が届いていなかったので、当時、後漢献帝の建安年間、新たに設置された帯方郡の報告は、一切雒陽に届いていなかったのである。このため、笵曄「後漢書」東夷列伝の倭条は、本来欠落していたのである。笵曄は、史官としての訓練を経ていない文筆家であったので、平然と創作記事で埋めたのである。以下に述べる陳寿の「史官魂」と対比頂きたいものである。

*中国史官たる陳寿の使命感~余談
 そもそも、基本に立ち返ると、陳寿は、帝国内の文書担当の手で書き上げられ、承認を得て奏上され、然る可く皇帝の承認を得た「公文書」こそが「史実」で、これを正確に後世に残すのが使命と考えていた「史官」である。「述べて作らず」である。
 「魏志」東夷伝、特に「倭人伝」に関して、「史実」に不備がない限り、当時、雒陽に継承されていた「公文書」を(忠実に)引用したと見るべきである。これは、基本の基本であるので、異論があれば、根拠を提示頂きたいものである。世上、勝手な決めつけがまかり通っているが、史官は、風評の類いを拾い食いすることは(絶対に)ないのである。これは、高名な渡邉義浩氏が明言されているのであり、確固たる反証がなければ、そのまま拝聴すべきである。

*陳寿「偏向」観のもたらす天下大乱~余談
 また、渡邉氏が、下記麗書の第五章「邪馬台国の真実」の劈頭でぞろりと漏らしている「偏向」であるが、氏の真意を離れて、一部で大受けして、一人歩きしているように見える。
 西晋代の「正義」は司馬晋にあるから、魏志「倭人伝」のどこがどう「正義」を踏み外し「偏向」しているのか、悉にご教授いただかないと、が「偏向」のない史実なのか、素人にはわからないのである。
 渡邉氏は、「倭人伝」が「三国志」がもつ「偏向」を「共有」していると意味不明なご託宣であるが、普通に解すると、「倭人伝」が「三国志」全体と対等の権限を有しているのであり、とんだ「倭人伝」独立宣言であり、たかが、司馬懿の簒奪を正当化するために、『「三国志」が、そして、「倭人伝」が書かれた』という御意見には従いかねるのである。
 なにしろ、「三国志」中の「呉志」は、曹魏の統治を受け入れずに自立していた東呉の史官が編纂した「正史」であり、同様に自立していた蜀漢の「正史」である「三国志」中の「蜀志」は、三国鼎立の史実を後世に伝えるために、陳寿が、死力を尽くして工作し、蜀漢遺民に編纂させた史書であるから、「三国志」全体に通じる「正義」は、ありえないのである。して見ると、「倭人伝」は、そのような「大乱」に巻き込まれず、干渉を受けず、孤高の存在「小正史」であるとも見える。字数は、まことに少ないが、それ故に意義は深いというのが、渡邉氏の示唆と思える。
 渡邉氏は、下記新書に於いて、政策的に言い回しを整えて、「三国志」の「虚構」(外見:そとみ)を整えているように見えるのである。これは、「偏向」とは言えないが「お化粧」に見えるのである。言うまでもないが、公の場に登場するのに、「お化粧」するのが当然であり、素顔をさらすのは、不名誉であり、失礼なのである。
 渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書2164)は、新書版として最高峰の史学解説書であるが、堅実な史学書としての高貴さと、世上の「倭人伝」論の混沌に棹さす強引さが混在している。
 ここに挙げたような高度の名言がウロコのままで供されるので、世上、いいとこ取りの読みかじりがWikipediaなどに紹介されて「邪馬台国論」の泥沼を沸かせているのである。素人としては、ちゃんと捌いて盛り付けてほしいと思うものである。

*「翰苑」審査~最善史料紹介
 「翰苑」残簡倭伝部の魚豢「魏略」所引は、偶々(正確と検証されていない)引用文が編者の手元にあったと考えられる。「翰苑」編纂者は「史実」の正確な継承を任務としなかったので、正確性の程は疑問である。その証拠に、「翰苑」は粗雑、つまり、行格が乱れ、乱丁がのさばり、加えて、度外れて低級な誤記、誤写の校正漏れが、ぞろぞろと濃厚に散乱し、何よりもそれが「校正/訂正されていない」事が「翰苑」残簡史料批判のほぼ全てである。そのように破綻した写本である「翰苑」所収「魏略」佚文は、一切「信じてはいけない」と言うべきである。「翰苑」残簡は、校訂された最善史料で史料批判すべきである。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本 *出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊 (中國哲學書電子化計劃

 これも、余談であるが、一部にある「魏略」私撰論は、とんだ言いがかりである。当時、部外者が公文書庫に立ち入って渉猟するのは死罪であったから、魏略」編纂は、曹魏史官たる魚豢に許容されていたと見るべきである。

 ここで、自明事項を端的に言うと、何事も例外はあり、「例外があることが強固な論証であるという意見もある」ことを指摘しておく。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 5/6 補追

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*「延喜式」談義
「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。

 論者は、声高々と指導されるが、当方は素人の「一少年」なので「許す」とか言えるわけがない。「合理的でない」、「論拠にならない」(のではないか)と言うだけである。論者は、鳥越氏共々、軽々に「当時」を論じ「歩くか、海路を取るしか手段」と、時代錯誤の「移動手段」を説くが、三世紀になかった「交通手段」と「延喜式」の依拠するできたての「交通手段」には、相当な違いがあると見るのが「当然」ではないか。「交通手段を定めれば」と言いのがれしているが、ないものをどう定めるのか。「そこから始めるべきだ」というのは、論者を、子供扱いしていることになるのだろうか。当方は、「少年」並の物知らずと自称しているのに、なぜ、どんな自信があって、居丈高にもたれかかるのだろうか。

 論者は「大きな違いはないと考えることは可能」と巣穴に逃げるが、三世紀に筑紫と纏向を繋ぐ公的「交通手段」は存在しなかったと「考える」のが合理的と思われるから、まずは、「存在した」ことを証するのに続いて、日数道里を、具体的に証した上で、そのような仮定を適用するべきかと思われる。早い話が、歩いて長距離を移動して目的地に生きてたどり着けるのは、途中に食料と水を提供し、寝床を提供する「宿駅」が、設置されているからである。つまり、食料と水が用意されている必要がある。七百年を経た十世紀には、街道があって旅人が往来していたろうが、七百年前の三世紀に、そのような制度があったかどうか、途轍もなく不確かなのである。
 恐らく、「倭人伝」で行程が書かれている伊都国から狗邪韓国に以北一路逆行する「周旋(往途)五千里」の四ヵ国は、道里が短く、所要日数も、せいぜい数日程度であったろうから、宿舎は置けたろうが、「倭人伝」に明記されていると称されていない(言わば)「仮想」纏向までの「仮想」行程を、実体のある宿舎で埋め尽くすことは「想定」できなかったと見える。そうで無いなら、何年頃に、宿舎が整ったと書かれているべきである。論者は、高度な「曲解」をお家芸としているようだが、素人には無縁である。

 繰り返して明言するが、当方は、一介の素人論者であるから、「許す」だのどうの処断する立場にない。ただ、「そのような大雑把な論義は、不適当/不合理でないか」と素人考えを述べているだけである。また、素人であるから、「学術的」に適法か不法かと詰問しているのではない。素人が、どうすればうまくできるか、「ずぶの素人にもわかるように教えていただきたい」と言うことだけである。これで、お耳に入っただろうか。

 いや、当方は、「倭人伝」道里行程主幹部は九州島内北部という前提であり、徒歩でも往来できたろうというのである。渡し舟も在ったのである。だから、「倭人伝」に道里行程の記事が続いているのである。難儀な強弁は必要ないので、無理なことは無理なこと。例えば、筑紫から纏向らしい地区までの東西交通は、六世紀あたりまで、明らかに街道未開通だったから、別にどうでも良いが、誠意を持って批判したのである。
 誤解があるといけないので補足すると、「倭人伝」には、『狗邪韓国から南下した渡船行程が末盧国で上陸し、当然の陸路で伊都国、そして近場の「邪馬壹国」に着く』と書いているだけで、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国を経由するとは書いていない』のである。
 むしろ、陳寿は、誤解を避けるために、連絡の取れていない、脇道の余計な国と明記しているのである。いや、明記されていると認めると、九州で話が付いてしまうので、わやわやと誤解を書き立てているが、普通に考えれば「七百年後にならないと交通手段が整わない纏向に、三世紀に何の説明も無しに行く」というのが、途方も無い無理なのである。
 それはそれとして、今挙げたような「普通」の解釈を排除するために、とにかく、論者は、三世紀の東西交通手段を、まずは立証する義務があると自覚頂きたいのである。ホラ話を大声で怒鳴られても、同意はしないのである。因みに、隣近所の村と往き来して、物の売り買いをしていたのまで「なかった」というのではない。日帰り程度であれば、大層な宿場は要らないのである。そのような小規模な商いでも、順次くり返せば、いい「もの」は地の果てまでとどくのである。
 そう、わざわざ云うのも鬱陶しいのだが、「延喜式」に当然のこととしてご提案の規定が載せられたのは、各地に街道と宿場ができて、規定するだけで用が足りたからである。それ以前に、くわしい手引きが出回っていたと思うのだが、それは、三世紀、ないしは直後のことではなく、要するに、数百年をかけて徐々に整備されたのであろう。異国の諺であるが、「ローマは一日にして成らず」。

*「延喜式」の超時代効力談義
 論者の論法は、諸処に疑問が生じる。
 本件で、鳥越氏は97ページで、「三国志」に見る水行・陸行の記事は、役所の公的な旅費規程に基づくものであったとわかる。と、途方も無い断言を行っている。「三國志」で、並行陸行街道が存在しない水行旅程が登場するのは「倭人伝」の渡海船だけである。それとも、鳥越氏は、何か別の「三国志」を見たのであろうか。
 丁寧に言うと、上記引用を文字通り普通に解すると、鳥越氏は、三世紀の編纂者陳寿が、遙か後世の日本の「延喜式」の「役所」旅費規程に依拠して、折しも編纂していた「三国志」原本を較正したと主張していることになる。誤解/曲解の余地は、全くない。
 因みに、「延喜式」は、(恐らく唐代に、遣唐使、留学生によって)中国から盗用した古代国家制度「律令」の細則として、十世紀に策定、公布されたのであり、Wikipediaによれば、「『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。」とあり、国家要件時代は兎も角、武家政権時代に正しく書写継承されたと見えず、遡って、三世紀に伝来した証拠も全く無い。論者は、原本が存在しない史料は、一切信用しない方針かと愚考するが、賢人は豹変、つまり、その場その場で意見が変わるのだろうか。

*不明瞭表現の指摘
 当方は、鳥越氏にそのような手ひどい非難を浴びせる趣旨ではなく、全体的な読書感想として、鳥越氏が「倭人伝」の道里行程記事は、「延喜式」の旅費規程に依拠解釈すべきだと主張されたのに対した批判である。引用が不正確としても、鳥越氏の唱えている「倭人伝」考察の要点に疑問があると言っている。なにしろ、「多い」「大きい」「重い」の表現を極力避けたのである。当方の趣旨を理解頂ければ良いので、別にご意見を変えて欲しいというものでも無い。
 当方の内心を「曲解」と断定されている点だが、どうして、論者は、当方の内心を読み取れるのだろうか」古典的な反論を想定すると、「どうして、当ブログ筆者は、論者が当ブログ筆者の内心を読み取れないとわかるのだろうか」となる。これは、いくらでも反論を応酬し続けられるのだが、ここでは割愛する。因みに、「曲解」は、本来「知的な曲芸解釈」の妙技である。「カーテンコール」にこたえて再言した。拍手。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ「古代史の散歩道」seit2023 6/6 補追

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31 2024/06/13

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ご注意
 ここで批判したウィキは、以下の不法な事態を是正して、ブログ形式に転換し、パクリタイトルを「新古代史の散歩道」に塗り替えているので、参照先は、宙に浮いていると思うものです。(確認する気には、ならない)
 この点、あらかじめ、ご理解頂きたいものです。

*内乱考 (**改行追加)
 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。
 (1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。
 (2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。したがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。
 『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

*とんだ内輪もめの火の粉
 ここで、論者は突如、当方の鳥越氏論調批判を離れて、二件に渡って不思議な「私見」を掲げ、鳥越氏を批判する。当方は、高名な鳥越氏の著書批判が目的で、無名論者の私見批判の動機はないが、身に振る火の粉と理解いただきたい。
 ちなみに、「推定」つまり、個人的見解を重ねて置いて、「事実誤認」と断定するのは、意味不明と云っておく。以下、「断定はできない」(有力な推定であるという意味か)とか、「正確ではない」とか、言い散らしていて、論理を辿ろうとすると眩暈がしてくる。
 後者について云うと、当方が「勝手に決めつける一部の意見」と論者に逃げ道を残していると意見を表明しているのに対して、その「意見」が「正確」かどうか、誰に判定できるのか、不可思議である。どうも、論者は、明確な根拠をもたずに、私見を振り回して場当たりに非難しているようである。いや、別に非難しているのではない。誰でも、視点の動揺はあるが、それがバレないように努力しているはずなのである。

*国内考古学談義の乱入
 当方は、「倭人伝」論義専攻で、「倭人伝」の卑弥呼「冢」(ちょう:封土、土饅頭)論は、「倭人伝」自体の用例にしたがっている。これに対して、論者は、『世上出回っている「前方後円墳」比定は、「倭人伝」の文献解釈上不可能である』との主張である。つまり、論者は、遺跡考古学の視点から、つまり、門外漢の文献解釈で、卑弥呼「冢」を箸墓に誘導しようと参考文献連発である。
 一方、当プログの見解は「倭人伝」列国は九州島内としているので、卑彌呼冢が纏向付近と言う議論は、「端から無関係」であり、何を言われても圏外である。無縁の衆生である。(中国製銅鏡論は、見当違いで論外だが、武士の情けで不問)
 よそごとながら、論者は、頑強な卑弥呼冢「前方後円墳」論者のようであるが、我田引水で論証/論拠が絶無である点を、自覚/理解いただきたいものである。何しろ、論者は、史書としての「倭人伝」を理解できていないのである。

 ちなみに、論者は、文脈から囓り取った『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』なる一般論を「正確でない」と断じているが、一般論が正確か不正確か、誰に言えるのだろうか。当ブログの真意は、通説に紛れ込もうとしている「誤謬」への非難であり,当人は謹んで自認するが、ここには、そのような意見は、文字として書かれていないのである。これに対して「正確でない」と断定するのは、根拠の無い偏見を吐露しているに過ぎない、のではないか。

*余談~神頼み
 素人目には、連年の強弁の積み重ねで公費による発掘/科学鑑定が進んだが、「倭人伝」の解明が未達成で、積年の泥沼は、地に足のついていない架空論義である。
 それとも、纏向の全域発掘を辞さない」卑弥呼金印探しで、全て京大文学部以来連論と続く「纏向遺跡考古学」の力で、文献解釈の泥沼を突き抜けて一発で解決すると神頼みしているのだろうか。
 所属する陣営がそれぞれあれば、それぞれ意見が食い違うのは仕方ないが、万事の基礎部分で無理をしているのは、素人目には、痛々しいのである。ほっとけば良いのに、余計なことを言うのは、当事者の転帰に期待している。

*私見の奔流
 端的に言うと、「西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。」とは、一部論者の極めつきの「私見」であって、「証明」にほど遠い状態と見受ける。そのような「私見」によって、合理的な意義を否定するのは、独りよがりと言わざるを得ない。私見者が何人いても私見に過ぎない。いくら「大勢」でも、である。
 以下略する。

 引用出典 seit2023 古代史の散歩道

                               以上

2024年6月11日 (火)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」三掲補追

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作 但し、難点持続 2023/02/11, 06/30 2024/04/16, 05/08, 06/11-12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、「倭人伝」考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた「倭人伝」改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。
 当然の事項であるが、本稿は、氏の売り物である「卑弥呼は熊本にいた!」提言を非難しているものではない。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、陳寿「三国志」紹興本によるものと見える。いくら新書でも、史料を明記するのは、常識と見えるが、いかがなものか。

 いずれの刊本に依拠するにしても、陳寿「三国志」の原文は「邪馬壹国」であるので、これを(異説・私見が支配的とは言え)「私見」により「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くすのであり不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、原本依存でなく、正体不明の現代語訳で書き換えているとも見える。
 このあたりの批判は、「邪馬台国」派の史料改竄に対する「税金」のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、前書などで、独創の新説として、「道里」を「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に採用しては史官として不用意であり、処断されるものと見える。重大な認識不足である。氏は、本書によって、「道里」は魏晋代新語』との手前味噌を排して原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、「倭人伝」の道里行程を、『魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているしかし、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは魏使派遣は不可能だったと見るものである。
 何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、「全行程万二千里」との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察すると、正始魏使からすると後年の「倭人伝」編纂の際には、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく公認されていたために是正不能であり、部分道里を按分して設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には馬車も騎馬連絡もないから、文書使は徒歩連絡のみであり、道里だけでは実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間には、そのような訂正された道里行程記事が既に記録されていたのが、後年になって、西晋史官である陳寿の編纂によって「倭人伝」記事となったと見ることができる。案ずるに、さらに後年劉宋の裴松之が「魏志倭人伝」の道里行程記事に異を唱えていないのは、そのような記事が史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、道里行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」(到達する)のが「要件」であったと思われる。

 意見は人によって異なると思い込んでいる人が結構多いから、「絶対必須要件」と言い募る人がいそうであるが、「要件」だけで重い断定表現であるからこれに四文字を付け足して強調するのは、一種自罰行為なのである。つまり、のような時代錯誤の多重強調表現を好む人は、丁寧な文章解釈が弱いということを自認/高言していることになるのである。いや、これは「余談」であるから無視していただいて結構である。

 而して、陳寿は、「要件」の後年補足の体で、「最終目的地を発して四囲に至る記事」を貼り込んだと見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずであると申し上げるまでである。陳寿には、二千年後生の無教養な東夷の好む紆余曲折に富む記事を書く動機は、全く無かったのである。

 その解釈を妨げるのは、俗耳に好まれている『「正始魏使が伊都国、奴国、不弥国、投馬国を経て邪馬壹国に至る」行程を順次踏破して、その記録が「倭人伝」に道里行程記事として記録されている』という「もっともらしい」というか「胡散臭い」というか、どうにも据わりの悪い解釈であるが「道里行程記事は、魏使行程記録でない」と善解すれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里行程記事談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国(女王の居処)であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を順次通過した」との頑固な「思い込みが、順当/妥当な大局解釈を牢固として阻止している」と見える。いや、「業界の大勢がそのように決め込んでいる」から、論者が「大勢」に染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。いや、所属組織の君命で「通説」を断固死守しているとしたら、もはや、治癒の目処は無いとも言える。
 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。
 ちなみに、当ブログは、「多い」「少ない」の不明瞭/あいまい/感覚的な評言は、避けているのであり、ここで言う「大勢」は、俗耳に好まれているという趣旨でしかない。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝」道里行程記事を適確に解釈できない混乱状態にあるという自嘲状態を自己流に解消するために、混乱の責任を原典改竄に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身で、共犯関係を清算するように「猛省」頂きたいものである。

◯道里行程記事の新解紹介
~私見 2023/06/30,2024/06/12
 一連の書評で、批判だけで当方の見解を述べるのを避けているのは、聞く気が無いと思われる相手に「本気で」論じるのは、キリスト教の聖人が飛ぶ鳥に説法する姿を思い出させて、面倒くさかったもので有るが、本件では、氏の読者も含めて、幾許かの「説法」を試みようかと感じたものである。ほんの気まぐれである。
 「倭人伝」道里行程記事は、末羅国での上陸以降の倭地の陸行行程の様子がはっきり分かっていない時点で書かれた」と見るのが、妥当と思われる。記事は、狗邪韓国から倭地に至る「周旋五千里」について、洲島、つまり、大海の流れに浮かぶ中之島を飛び飛びに渡ると書いているが、末羅国以降は、公式道里として異例の「陸行」と明記している以上、陸続きと見るのが至当であるが、不確かにとどめているのだから、末羅国から伊都国への「末伊五百里」は、大変、大変不確かなのである。
 郡から倭までは、「郡倭万二千里」の行程であり、郡から末羅国までは、行程を加算して一万里としか書かれていないから、だれが暗算しても「二千里」が残るのである。
 千里単位で云うと、十二[千里]から十[千里]を減じると、二[千里]が残るが、千里単位の概数計算であるから、100里に始まり5,000里に至りそうな許容範囲のどこに落ち着くかは、皆目わからないのである。何しろ、三度の渡海は、全て、一[千里]で仕切っているが、街道道里は示されていないから、道里は一切不明であり、したがって、概数計算すら成立しないのである。
 その点を回避したものとして、安本美典氏は、現在の地図上に、明記されていいる道里を加算して十[千里]である末羅国の図上推定位置を中心に、郡から狗邪韓国までの「郡狗七[千里]」から推定した半径二[千里]の円を、ある程度の不確かさの幅を持って描く手法で「邪馬台国」の存在確率の高い同心円範囲を描いている。要するに、氏の図上推計は、確たる根拠があると見える「郡狗七[千里]」を道里行程記事の「原器」、「物差」と見るものであり、誠に、理性的な判断であると賛辞を呈するものである。
 但し、私見では、氏の提言は現代的な推計手法を採用しているので、古代史史料に対して適用すると、一抹の蹉跌が避けられないと見るのである。特に、「郡倭万二千里」は、実測里数に基づくものでなく、周制以来、辺境に天子の威光が及んでいる様を述べるものとして、公孫氏が記録に留めたものであり、そのような概念的な万二[千里]を按分した帳尻の二[千里]が、記事に「明記」された桁外れの五[百里]とどう関係するのか、正直のところ、わからないのである。道里行程記事の[千里]単位の記事は、なべて「余里」と、あえて付記していることで念押しされているように、端数である[百里]のけたの数字は、桁外れて意味がないのである。 
 してみると、道里行程記事の末羅国以降は、魏の道里制度の全く届いていない地域なので、折角の「原器」も利用できないと見るものである。して見ると、「末伊五百里」は、百里程度より遠く最大五千里程度まで届きそうな可能性が否定できないと見るものである。何れにしろ、概数計算の端たであるから、この五百里には、道里としての意味がないのである。

 要するに、按分の基点が「従郡至倭」「万二千里」であるが、これは、明らかに、街道道里ではなく、天子の威光の届く果ての「荒地」という「趣旨」で公孫氏が書き留めていたものが、公孫氏が司馬懿に討伐されて記録類が一切破壊される以前に、明帝が勅命で樂浪/帯方両郡を無血回収して両郡文書を入手した際、公孫氏の「趣旨」を知らない新任郡太守が明帝にそのまま上申したものであり、言わば、意図せざる「誤報」が、明帝に,倭人が万二千里の彼方に実在しているとする「世紀の誤解」を齎したと見えるのである。
 当ブログ著者が、最近到達した明快な見解であるが、要するに、陳寿はそのような「誤報」の背景を承知していたが、景初三年元日に急逝した明帝が残した文書は神聖不可侵であり、これを温存しつつ実務に不可欠な到達日数を書き込んだと見るものである。
 不確かな推定の積み重ねであるが、概算計算の妙で、いわば、ゆるゆるの箍をはめていたという推定である。

 念押しすると、道里行程記事を滑らかに読み解くと、「従郡至倭万二千里」の最終目的地「倭」は、後漢末期献帝建安年間の初見段階では伊都国だったのであり、後に「女王」共立という画期的な事件の後に創設されたと見え、末尾に追記された「邪馬壹国」/「女王国」は、行程の圏外なので、伊都国からの道里は書かれていないと見えるのである。
 一説では、「女王国」は、伊都国の国王居処の間近で、数里程度であったので、割愛したという。別の一説では、「邪馬壹国」は自立できないので、伊都国の隔壁集落の内部に存在していたとみている。
 別の一説では、魏の官制では、郡から送達された文書は、伊都国の受信箱に届いた時点で、女王が査収したと解釈されていたので、伊都国が文書便/行人の行程終着点という。この場合、「女王国」への道里が「多少」遠くても、官制上関係無いから、すこし離れていても問題ないと言える。人によっては、それなら道里を勘定しないで纏向遺跡まで文書が届くというかも知れないが、言下に否定できないとしても、さすがに、一か月以上かかりそうな遠距離交信は、論外と見るものではないか。とはいえ、そのような極論を紹介したあとで、さらりと熊本説を提示すれば、抵抗が少ないかと見える。いや、さすがに半ば冗談である。
 以上の筋道をたどれば、伊都国の位置は、末羅国の概して南方であるというものの、遠くは、日田、久留米のあたりまで包含できるという解釈が可能であり、「邪馬壹国」は、そこから先なので、先ほどの論理に近い理由付けすれば、無残な原文改竄説に固執しなくても、「邪馬台国熊本」説は堂堂と維持できるのである。未だ未だ間に合うから、次書で堂堂と撤回されたらいかがであろうか。
 その際、伊都国から、奴国、不弥国、投馬国の「余傍三カ国」への行程は、わき道であるから、勘定しないと迷妄の根源を絶ちきる必要があるのは、言うまでもない。道里行程記事が錯綜するのは、「余傍三カ国」がぶら下がっているからである。錯綜の根源を絶てば、明快になるが、それが、魏志倭人伝道里行程記事の本旨/真意なのである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 折角の畢生の好著の最後に、年代物の「倭人伝」改竄説を呼び込み、因縁の「躓き石」でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物の誤謬とは言え、難なく是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」「最上級のダイハード」である。

 氏の不評は、道連れにされている「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 1/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

個人ブログ批判の弁
 個人ブログの批判は、事実誤認の指摘と建設的な意見を除き、遠慮するようにしていますが、氏の場合は、単なる素人論客ではなく、既に、商用出版物*を刊行していて、いわば、業として収益を得ているので、著作に対して責任があり、読者側からの率直な批判を拒否できないと思量します。
 ちなみに、当ブログの方針は、論者の所在地比定に、一切干渉しないものなので、無理に保身しなくても問題ないのです。

 *「邪馬台国は熊本にあった!」!~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~ (扶桑社BOOKS新書) 当ブログにて批判済み

◯ 過去多難、前途多難
 私の邪馬台国熊本説の根幹をなすのは「魏志倭人伝後世書き換え説」です。
 『邪馬台国は熊本にあった!』を書いた時には「魏志倭人伝後世改ざん説」という名称にしていましたが、どうも「改ざん」という言葉が悪意のあるものというイメージが強く、説の内容にそぐわないものに思えてきました。

 何を言っているのか、一向に意味が通じないのですが、同時代に「正史」の記事を改竄、別に変造~改作、すり替え、偽作と、どう言っても同じですが、要は皇帝蔵書を破壊するのは、極刑ものの大罪(一族皆殺しもの)であったから「犯意」は否定できない、と言うか、しても仕方ない、誰も弁護しないので、それで断罪のすべてです。「悪意」は、人によって解釈が、大きく分かれるので、避けた方が無難です。

 氏ほど堂々の確信者が、自説の「根幹」をはぐらかすのは、それ自体不誠実です。また、史学論争の基本ルールとして、「イメージ」と称して、個人的な「印象」を読者に押しつけるのはご勘弁いただきたい。氏が、陳寿の深意を解した上で築いた世界観なら、一見、一読の価値がありますが、自家製の妄想の「自分褒め」は、無意味です。論考は、認知された語彙で、論理的組み立てて、要するに「言葉」で展開いただきたい。

 そこで、YouTube動画を作成したのを機に、「書き換え説」に改めました。
 「魏志倭人伝後世書き換え説」はこのようなものです。
 不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程が、陳寿が280年代に撰述した『三国志』魏志倭人伝では具体的な里数で書かれていた。
 しかし、宋の時代、430年代に『後漢書』が登場すると、後漢書の誤認によって邪馬台国の観念的な位置が大きく南へ移動してしまった。
 そこで、その後の『三国志』写本の際に、両者の整合性をとるために、具体的な里数が抽象的な日数に書き換えられてしまった。
 その詳細な経緯は、以前に本ブログでも説明しました。

 氏自身の「根幹」表明なので、真剣な批判に値するものとして、以下、できるだけ丁寧に論じます。因みに、ご自身の主張の「根幹」を「ようなものと」は、何とも、けったいな物言いで、氏の本質的な弱点を「自画自賛」(現代用語として使いました)しているもののように見えます。

*取り敢えずの疑問点~つっこみ
1.「不彌国から投馬国経由で邪馬台国に至る行程」が書かれていたと断定するのは、あくまで、氏の創作であり、論拠が不明なので論議の対象外です。
  また、「倭人伝」記事の「本来の内容」は、誰も知らない氏の空想の産物であり、論議の第一段階として不適切極まりないのです。

2.「観念的な位置」の意味が意味不明です。笵曄「後漢書」は、史書であるから人格を持たず、従って、「誤認」、すなわち、ものごとを理解も誤解もする能力はないのです。論考を書くときには、場違いな比喩や擬人化は控えるものです。
 また、厳密に言うと、「邪馬台国」は、笵曄「後漢書」に登場するだけで、笵曄「後漢書(編者?)の創作」であるから、どこに位置させようと編者笵曄の勝手です。
 史料の時系列から言うと、笵曄「後漢書」が、先行史料を踏まえて、「其大倭王居邪馬臺國」「樂浪郡徼,去其國萬二千里」、即ち「楽浪郡の檄は、其の国、つまり、大倭王の居処である邪馬臺国を去ること万二千里」と特定したのが最初であり、陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」で「自郡至女王國萬二千餘里」と書いたのですから、「後漢書」から「魏志」まで、観念的には何も変わっていないのです。このあたり、もう少し、丁寧に説明する必要があるでしょう。

                                未完

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*取り敢えずの疑問点~つっこみ 承前
3.『三国志』後代写本の際に、氏の解釈する『後漢書の「創作」に合わせて三国志が「改竄」された』というのは、動機の存在しない「大罪」です。この「改竄」によって、利益を得るものがいないから、犯罪は発生しようがないのです。
 「三国志」写本の際と言っても、いつ、どこで、誰が、誰のために写本するのか、不明です。
 「両者」、「抽象的な」日程と意味不明な文字を費やす意味がわかりません。

*流通写本の対処不明
 明らかに、「改竄」計画は劉宋以降ですが、劉宋代の改竄計画を、誰が、後世王朝で実行したのでしょうか。その間、裴松之によって念入りに校正、補注された「三国志」裴注本は、着々と写本複製され世に広がっていたのです。

*実行不能な改竄使命
 時の皇帝の蔵書である「三国志」同時代原本は、天下に一冊しかない貴重書であるから、厳重保管されていて通りがかりに改竄することなどできません。
 氏は、そこから写本を起こす際に、改竄、つまり、すり替えを行ったと言うつもりらしいのですが、同時代の「学者」から慎重に人選された関係者が分担して行う大事業に介入して史料をすり替えることなど不可能です。

*露見必至/斬首必至
 よしんば、何かの曲芸で改竄写本を作成しても、官制写本の全文校閲で露見するのです。よしんば、権威者の校閲の目を逃れ、つまり、校閲に手落ちがあって、原本と明らかに異なる改竄写本が世に出ても、原本は健在であり、次回写本時には、本来の記事が世に出ます。
 また、改竄写本が世に出れば、当然、当時、南北両朝各地で、「改竄」前写本と照合されるので、悪は露見するのです。

*族滅不可避の大罪
 とことん遅くとも、この時点で前回写本時のすり替えが露呈し記録されている関係者一同が尋問に曝され、程なく「犯人」が特定、処刑され、親族は連坐して族滅され、家系は断絶し、改竄写本に由来する三国志は、残らず廃棄されます。

*意味不明の大罪
 総じて言うと、そのような改竄は、不可避的に是正され無意味です。中国古代国家の「法と秩序」を侮ってはならないのです。

*証拠提示の義務
 視点を変えて、学問上の論証の常識として、原本改竄というとびきりの異常事態が行われたと主張するなら、いつ、どのようにして発生したか論証する必要があります。それがなければ、ただの「ごみ」新説でゴミ箱直行です。せめて、当時こうすれば実現可能だったとの「おとぎ話」が必要です。

*史官の使命~史書の継承
 この件で、実際に肝心なのは、史官の立場を取る関係者は、資料を漏らさず追求して、史書記事を書き上げるのが命がけの責務であり、噂話や勝手な造作で、本来の記事を書き換えることは、一切ないのです。
 いずれの時代も、真摯な史官は、最善を尽くして、時に身命を賭して執務したのであり、二千年後生の東夷が、現代人の死生観や倫理観を押しつけてはならないのです。

                                未完

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*迷走ふたたび~泥沼の称揚
中略 倭人伝の原史料は、魏の使い、帯方郡使の報告書だという説が有力です。具体的には240年に来倭した梯儁の一行が想定できますが、その報告書に倭人伝が引用した行程記事などが書かれていたと考えて考察をスタートします。

 考察の前段となる「仮定」は、どのようにも勝手に設定でき、他人からの批判を排除できると思っている論者もいますが、肝心なのは、合理的な仮定であることを確認、検証したことが必要です。なぜなら、後方で考察の根幹を覆され、議論の全体が、一切灰燼に帰するのでは批判が徒労に陥るのです。
 ここで言うと、倭人伝の「行程道里記事」が、魏使の報告書の内容を元にしているという仮説は、誰にも全否定できない仮説ですが、どの部分がどうかという史料批判無しに採用できない、思い付きに過ぎません古代史分野に漂う、掟のない泥沼に染まらないことを祈ります。

*不可解な「前提」
 前提条件は2つです。
〈前提1〉帯方郡使は方角を間違えない
 これは古代中国の天文学の知識があれば、まず間違えることはなかったと思います。[中略]

 この「前提条件」と勿体ぶって言う第一の「思い付き」が主旨不明です。「古代中国の天文学の知識」などと、気休めのおぞましい「おまじない」を唱えなくても、小中学生程度の簡単な理科知識があれば、南北、東西の方位は、容易にわかるのです。

*子供の世界
 要は、広場に棒を一本立てて、棒の影の推移を見ていれば、影の一番短くなったときの太陽の方位が、真南であり、その時の影の方位が真北です。見つかった南北線に、コンパス代わりの縄と棒で垂線を立てれば東西です。「天文学」や「幾何学」は、不要です。東西南北が明確なら精度などいらないのです。
 単純明快ですから、夷蕃も東西南北は、遥か昔から知っていてあちこちに表示されたのです。帯方郡も洛陽も関係無いのです。漢字も数字も要りません。確か、縄文遺跡にも、日時計はあったはずです。

 いや、これほど単純明快な事項が語られないのは、「日本自大主義」古代史分野の独自事情を思わせるのです。この成り行きは、氏の責任ではないのですが、くれぐれも、とまる木、依拠「説」を間違えないでほしいものです。

 これと関連して、当時の帯方郡使や魏の人は、そもそも倭地を南に長く延びた土地だと認識していたという説もあり[中略]畿内説の根拠ともされます。

 氏の読解力限界で誤解されていますが、倭人伝のキモは、「倭人は帯方東南に在り」と明記された世界観です。現代人の勝手な思い付き、実質的な史料改竄は相手にしないことです。まして、酔余でもないでしょうか、子供じみた思い付きを「根拠」とする学説は、いくら、権威めいた魔法の外套をかむっても、内実は児戯に等しいのです。
 どれほど「遠い」か、「長い」かの混乱は、畿内「説」が創作したのですが、このような不合理な改竄を唱える動機は、常人の理解を超えているのです。何しろ、九州島自体、東西より南北が「長い」のですから、このような畿内「説」説話は、世人を愚弄していることになります。

*畿内説の推す使命感
 「畿内説」なる俗説派が、遮二無二推し進めている道里行程事解釈は、
1  「倭人伝」には、「邪馬台国」とその所在が書かれている。
2  「邪馬台国」は、「ヤマト」、つまり、後のヤマトに違いない。
と言う二段階の子供じみた、つまり、論拠の無い「思い込み」(の蔓延、拡散)です。

                                未完


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*加筆再掲の弁
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*「畿内説」と言う名の巨大な俗説の泥沼戦術
 つまり、氏は、『「倭人伝」方位が間違いと主張「しなければならない」』と、崇高な使命感の命じるままに論議しているのであり、氏の理解は本末転倒で、他にも、誤記、誤解の類いが山積し、順当な史料解釈が成立しない泥沼の惨状です。
 太古以来、中国文明が至上の課題として守ってきた、歴史記録の厳正さを、真っ向から踏みにじりますが、倭人伝と「俗説」の比較なのでしょうか。
 古来、「自大」観と言われる「思い込み」が、徘徊しているのです。亡霊でなく、「生き霊」なる「妖怪」に、氏も取り憑かれているのでしょうか。

*俗説支援の徒労
 しかし、これもありえない話だと思います。
 梯儁たちは[中略]、邪馬台国まで足を運んだのは明らかです。[中略]梯儁たちが本当に東へ向かって水行陸行したのであれば、報告書に「東」と書くはずです。[中略]九州北岸から南へ水行陸行したのだと思います。

 この思い付きは、史料解釈を離れた思い込みと決め込みの連鎖で、なにも論証できていないのです。

*戸数の幻影
〈前提2〉虚偽の戸数は記さない
 魏志倭人伝は、行程記事とともに経由国の戸数を記しています。対馬国から邪馬台国まで、合計で15万余戸となっています。

1.氏の道里行程記事の解釈には、思い込みから来る誤解が散在、いや山積しています。
 對海~倭の諸国で、奴国、不弥国、投馬国を経由国と決め込み、それ故それら戸数が記録されているとするのは、改竄前「記事」が迷走しているのでしょうか。それなら、奴国、不弥国、投馬国の国情が書かれているはずだし、里数も必要ですから、必要/必須な記事が脱落しているのは、主行路の経由国でなく、ついでに書いた傍路ということです。
 普通に読むと、そのように明解なのですが、なぜ。無理矢理、投馬国経由と言い立てるのでしょうか。俗説「畿内説」は、投馬国経由としないと、議論から排除されるので、石に齧り付いてでも、そのように強弁するのですが、そのような「余傍」無視の投馬国経由論は、「熊本」説には、邪魔でしかないように見えるのです。よくよく考え直した方が良いように見えます。

2.最終目的地である女王居所、居城の戸数が八万戸と書かれているというのは、「倭人伝」の本旨に沿わない思い付きに過ぎないのです。
 要するに、倭人伝に必須である倭の全戸数は「十五万戸とは書いていない」のです。それとも、皇帝は、足し算計算を迫られたのでしょうか。書いていないことを論義するのは、空論の端緒としても、お粗末です。
 そもそも、倭人伝冒頭で、「倭人」は、太古の「國邑」であり、せいぜい数千戸台の隔壁集落であると、総括して見通しを付けているのに、女王の居処が、伊都国を遙かに超えた巨大な集落国家としているとしたら、それは、冒頭の総括を裏切るものであり、読者を騙したことになるのです。魏志を投げ返されずに、皇帝が嘉納したからには、そのような「だまし討ち」はなかったと言う事です。
 もちろん、ここで決定づけているのは、道里行程記事の結句までのことであり、倭国の風土、民俗、王の居処概説などの部分まで、ひっくるめて言うものではありません。
 いずれにしろ、氏の論義は、「北九州に、十五万戸の国家は存在し得ない」との「畿内説」論者の強引な提言に無批判に追従しているように見えます。普通の解釈は、そのような読替えを否定するもののように思うのです。
 そこまで言わなくても、全戸数の過半数を占める巨大な投馬国の所在が不明、戸数も、あやふやというのは、筋が通らないのですが、余傍遠隔の蕃夷で調べが行き届いていないとひっそりと説明されていて、いわば、風評が報告されてしまって、訂正の効かない「屑情報」と示唆しているわけですから、全行程一万二千里の「屑情報」とともに、正史の陰に静かに成仏させるべきなのです。

*無意味な外部資料導入~俗説派の悪足掻きに追随
[中略]弥生時代の日本[ママ]の人口[ママ]についてはまだ流動的[ママ]なようですが、歴史人口学[ママ]の鬼頭宏氏の研究では59万人という数字[ママ]が示されています。その半数が30国の連合体である女王国[ママ]にいて、さらにその半数が対馬国から邪馬台国までの9か国にいた[ママ]としても、約15万人[ママ]にしかなりません。しかし、一方で倭人伝の原史料が梯儁らの報告書だとすると、彼らが虚偽の報告をしたとは考えられないのです。

 勝手に、氏の内面世界の表明ですが、時代、地域の隔たった別世界の言葉と概念が、三世紀史料の解析にドンと投入されて、眩暈しそうです。その果てに、「流動的」「人口」なる異世界の概念を読者押しつけて、さらに、誰も見たことのない魏使の「報告」を想定し、その果てに、魏使が、戸数を捏造したとか云々するのは、「捏造」を越えて「冤罪」としか言いようがありません。
 鬼頭宏氏がどのような研究の果てに、引用されているような「数字」を案出されたか不明ですから、氏に対する批判は不可能です。引用者に批判をぶつけるしかないのです。

 丁寧に説明すると、まずは、三世紀当時の「日本」は、どこがどうなっていたのか、全く不明ですから、誰も考察しようがないのです。又、「人口」というのが、どんな対象を言うのか不明ですから、論じようがないのです。現代で云う「人口」は、戸籍に投棄されている国民の数ですから、根拠は明らかですが、三世紀当時、戸籍が無かったのは明らかですから、数えようがないのです。現代であれば、出世届で新生児の戸籍が「必ず」作成されるので、緻密に数えようがあるのですが、くり返して云うと、当時にそのような戸籍制度はないので、数えようがありません。
 子供時代に死んでしまうことが多いので、新生児の平均余命として平均寿命を推定するのも、不可能であり、無意味です。意味があるとしたら、耕作に動員できる成人男子の人数であり、それは、軍務に動員可能な人数として計算できるので、「口数」として意義が認められるのですが、三世紀当時、各戸の所帯構成は不明ですから、戸数がわかっても、口数は推定しようがないのです。確かに、帯方郡、楽浪郡については、「戸数」「口数」の記録が残っているので、一戸あたりの「口数」を計算することが出来ますが、「倭人」の所帯は、大家に於いては、複数の妻を擁していた、下戸でも、中には、複数の妻を擁しているものがいると書かれているだけであり、明らかに、帯方郡管内とも、核家族が前提である中国本土とも、家族構成が異なるので、何の参考にもならないとみるべきです。
 各戸は、耕作地の割り当てを受けて、農事に勤しみ、収穫物を貢納する前提ですが、牛馬を使役しないので、全て、人力となるから、素各戸の耕作可能な土地面積がどのように設定されているか不明です。何しろ、大家族なので、夫婦二人と子供数人分の土地では、収穫不足で、飢え死にしかねないのです。ところが、投馬国では、どのように戸籍が設定されているか、まったく不明なのです。それで、五万戸とは、どうやって記帳して集計しているのでしょうか。
 一方、対海国から伊都国にいたる行程諸国「四ヵ国」は、明らかに、戸籍が記帳されていて、帯方郡に報告されているので、家族制度も、同等かとも思えます。とは言え、全国七万戸の一部に過ぎないので、中々参考にならないのです。
 鬼頭宏氏は、恐らく、後生の律令制度時代の「戸籍」資料から推計しているのでしょうが、確か、成人男子、女子に対して、既定の農地を口分田として支給していたはずであり、当然、夫婦としての口分田面積が算定されているのでしょうが、それは、「四ヵ国」の各戸の農地面積と比較して多いのでしょうか、少ないのでしょうか。三世紀に、帯方郡から通達され、一大率が徹底していた土地制度が、なぜ、「日本」に継承されていないのかも不審です。要するに、土地制度も家族制度も異なるのに、「人口」を類推する目のは、非科学的なのですが、鬼頭宏氏は、どのように交渉されているのでしょうか。

 いずれにしろ、ここで論義しているのは、捉えようのない現代風の「人口」でなく、古代の統治に不可欠な「戸数」なので、議論の風向きを変える必要があります。

 「倭人伝」か依拠していると見える中国制度では、「戸」は、地域支配者が、各戸に耕作地を割り当て、耕作と収穫物納税の義務を与える制度に組み込んだというものであり、具体的には、「戸籍」と土地台帳によって、精度の高い管理を行ったものです。つまり、戸籍台帳、土地台帳は、帳簿であって、当時/当地域としては、高度な制度なので、蛮夷の世界では、整っていない方が普通だったのです。韓国諸国は、古来、中国式の管理制度が整備されていた先進地域なので、戸籍台帳が完備していて、戸数集計だけでなく、口数、つまり、成人男性の人数を、一の位まで計算することが可能であったので、提出される概数は、実数を丸めたものと理解できるのです。
 これに対して、戸籍の整備されていない蛮夷では、大抵、実数が不明なので、首長が自主的に申告したものです。つまり、「戸数」は、主要国を除き、実数をもとにしていないので、誠にいい加減なのです。まして、加算計算すらまともにできなかった世界ですから、万戸の数字は、全く、当てにならないのです。冷静に見ればわかるように、ある程度根拠があると見られる主要国の千戸単位の戸数と、根拠不明の万戸単位の大きな国の戸数を、同列に扱うのは、無謀と言うべきであって、「流動的」などと自嘲して済むものではないのです。要するに、わからないことはわからないと言うべきです。
 鬼頭宏氏の推定は、後世、恐らく律令時代に、管内全国で、戸籍を作成し維持していた時代の情報をもとにしているのであり、三世紀の戸数の推定に参照するのは、無謀の極みというものです。
 因みに、「考えられない」のは、伊藤氏が、三世紀人でなく魏使でもないことを考えれば、理屈になりません。また、報告を「虚偽」と言うのは、正確な戸数統計が存在したとの仮定に基づいているので、これも思い付きに過ぎません。現代的な概念を無造作に二千年の過去に投影するのは、無謀です。
 なぜ、このように書いたか、もう少し、三世紀人の視点に歩み寄って、倭人伝の真意を詮索すべきでしょう。いや、「日本」古代国家観に芯まで染まった俗説派の方は、聞く耳を持たないでしょうが。
 全面的に伊藤氏の責任では無いとは言え、何も論証できない、思い付きの羅列は、無批判に追随していく氏の非論理性を示すに過ぎません。

 と言って、次のような独創的な「国見」談義は、根拠の無い、場違いな時代錯誤の空想に過ぎません。「戸数」論議の出だしを誤ったツケが、とんでもない辻褄合わせに繋がっているのは、残念です

[中略]おそらく調査隊は山上の見晴らし台のようなところから目視で戸数を調べたと思います。そして、彼らが虚偽の報告をするとは考えられません。正しい数字を報告するのが彼らの使命だからです。[中略]

 因みに、正しい「戸数」は、民家の数を数えて済むものではなく、地域首長が作成した戸籍/土地台帳の集計で得るしかないのですが、それにしても、それは、首長が、服従の証しとして申告/誓約するものであり、それが「公式戸数」であって、虚偽も何もなく、逆に「正しい数字」は、存在しないです。氏は、何か、途方も無い幻想にひたっているようですが、所詮、時代錯誤の妄想に類するものです。
 真面目な話、三世紀の東夷の世界で、地域を見渡す「山上の見晴らし台」など、あるはずがないのです。目視で戸数を調べる技法は、どこにも書かれていません。まさしく、見てきたような、なんとやらです。生玉子は、飛んでこないのでしょうか。

 ついでながら、「倭人伝」記事が、帯方郡使梯儁一行の訪日の際の現地取材の結果とするのは、何かの勘違いでしょう。
 「郡から倭までの行程道里」、つまり「郡倭道里」は、後漢献帝の建安年間に、公孫氏が遼東郡を占拠した際に、楽浪郡から上申されたものであり、総戸数も、同時に申告されたのに間違いはないところです。但し、時は、後漢末期の乱世なので、倭人の実体の速報は公孫氏止まりだったのです。
 曹魏景初年間早々に明帝が勅命を発して、樂浪、帯方両郡を、公孫氏の配下から切り離して直命とし、帯方郡からの報告により「倭人」を知ったことから、明帝が、「倭人」の疾駆、参上を厳命したものですから、帯方郡は、倭人が「郡倭道里」万二千里の彼方でなく、韓国の南に渡海した近場であり、精々四十日程度で連絡できると報告したものですから、明帝の予めの指示の通り、上洛に対して、所定の大量の下賜物を仮受するという判断が下されたのです。
 つまり、帯方郡使梯儁一行は、時が熟して、山島半島東莱から渡船でとどいた下賜物を携えて、四十日程度の想定で街道を南下する旅に出る事ができたのです。当然、道中の諸国からは、ご一行の受入体制ができていると確認連絡が届いていたのです。現地に着いてから、便船を手配したり、一行の食い扶持とねぐらを手配したり、うろうろと市場調査したりしたら、日が暮れるというか年が暮れてしまい、一行は、異境の土に帰っていたでしょう。
 よく考えて見れば、誰でも、実務の手際は納得できるものと思います。但し、それでは、一行は、九州島を出ることが出来ないので、懸命に、原文を改竄して、行程の実体不明とする戦術が横行しているのです。少し考えればわかるように、大量で高貴な下賜物を送り届ける旅程は、雒陽出発以前に、一点の疑問もなく解明されていたと見るべきです。
 ちなみに、曹魏明帝は、景初三年元旦に急逝したので、上洛した倭使と会見できたかどうか不明であり、まして、「郡倭道里」が、公孫氏が記帳した万二千里ではないことを知ったかどうかは不明です。いずれにしろ、天子として「郡倭道里」万二千里との報告を確認したと公文書に記録されたので、以後、綸言訂正はできなかったのです。
 魏志を編纂した陳寿は、史実、つまり、公文書記録を記録する使命に殉じていたので、「郡倭道里」万二千里を確認しつつ、実祭に所要日数「水行十日陸行一月」を明記するという難業に挑んだのです。
 
*講釈師ばりの名調子
 引用漏れになった「攻撃」云々は「古田武彦風」ですが、帯方郡が、服属した倭に対して郡に出兵を命じても、まずは、狗邪韓国までが十日かかりそうな三度の乗り換え渡海であり、十六人程度の手漕ぎ船で載せることができるのは、精々一船数名程度(荷物持参)であり、大軍派兵は、無理で問題外です。
 なにしろ、当ブログの解釈に従っても、郡の出兵命令が倭に着くのに水陸行で四十日、郡に回答が着くのは折り返し四十日ですから、それだけで八十日かかり、渡船の容量を超えた大軍の「水行」は、海峡渡海の順番待ちの厖大な日数を要するのに加えて、そもそも、倭が派兵に要する軍兵呼集、全軍整列、装備糧食支給を考えると、全軍が、帯方郡太守に伺候するのに半年かかっても無理はありません。何しろ、倭人に、即応可能な常備軍があったとの記事はないのです。
 まして、郡が韓国の叛乱平定に、倭人の援兵を求めるとしても、途上が反乱諸国では、援兵の出しようがありません。古田氏が時に陥る的外れな提言ですが、別に、氏の提言の根幹を成しているものではないので、笑って見過ごすべきものです。「よい子は、真似しないように」ご注意頂きたいものです。
 自由な発想はそれ自体結構ですが、裏付けの取れない発想/思いつきの「新説」は、タダの夢物語に過ぎないのです。
 要するに、倭人各国の戸数申告は、郡の威光を示す名目に過ぎないと思われます。

                                未完

新・私の本棚 番外 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」補追 5/5

「倭人伝をざっくり読んでもやっぱり邪馬台国は熊本!?」 2021/06/25
私の見立て ★☆☆☆☆ 論旨瞑々、覚醒期待  初回2021/07/15 再掲 2024/06/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*倭人伝記事要件と由来
 いろいろ長談義になったので、ここに手短に復習すると、魏志で、倭人伝にまず要求されるのは、蕃国の徴税や徴兵の根拠となる「全戸数」明記であり、新参蕃夷の服属を申告の際に、「全戸数」を皇帝に報告したと見るものです。行程道里である「従郡至倭」万二千里がこれに継ぐものであり、国別戸数は雑記事に過ぎないので、後日でも良いのです。また、全行程日数(都水行十日陸行一月、都合四十日) は、実務の視点から追記されたものですが、既に皇帝が承認した全行程万二千里は、改竄、是正ができなかったものと見えます。意味が、わからなければ、沈黙して頂きたいものです。
 最初に全戸数と所要全日数を申告したうえで、使節が派遣がされたとみるべきです。因みに、未開で文字を知らず、大多数が十を越える数、ひょっとしたら、四を超える数を数えられない、百千を超える桁の加算計算もまともにできない非文明国の戸数の実数集計など、その場ではできないのです。
 因みに、これは、概算推計であって虚偽ではありません。実数不明では、改竄しようはないのです。投馬国戸数は、「可」ですから、五万戸と称しても、万戸単位すら不確かです。

*戸数論の不明
 以下、三世紀倭に存在しないデータの解釈で、夢物語を展開しますが、「根幹」に大きな誤りがあっては、結論が合理的かどうか評価できないのです。いや、以上は、世上の俗説であり、氏の創案ではないのですが、麗々しく思い付きを上梓するなら俗説の無批判な追随はご勘弁いただきたいものです。

*こじつけの結論に到着
[中略]このように、ざっくりと倭人伝の方角と国の規模を考えたとしても、
奴国=福岡平野 投馬国=筑紫平野 邪馬台国=熊本平野
 つまり、邪馬台国は熊本にあったとしか考えられないと思っています。

 氏も自覚されているように、最終的に位置比定してみると、方角も、里数も、日数も、戸数も、まことに大雑把な推定なので改竄など一切不要です。「倭人伝」解釈に、二千年後生の東夷の半人前の思い付きを持ち込む「不退転の覚悟」で取り組んでいるのなら、実行不可能な史書改竄など唱えなくても、「熊本」説は、難なく提唱できるでしょう。

 伊藤氏は、唯一資料たる「倭人伝」の記事改竄により論争上の「禁句」、「禁じ手」を解放したので、毒をくらわばなんとやら、原文を好きなように想定すれば良く、なぜ、ちまちました改竄を言い立てるのか不思議です。
 「しか考えられない」と言うのは個人信条なので、なんなとご自由にと言うところですが、知識不足で信条堅固を言うのに、どんな意義があるのか不明です。ざっくり」が、史料解釈無視、言いたい放題、書きたい放題という意味としたら、ここでは批判できないのですが。

◯地図の「だまし絵」
 因みに、当時の地形である海岸線、川筋などがここに表示した「改竄地形」通りとの保証は一切ないのです。「原図」をどの条件で使用許諾されたか不明ですが、あくまで許諾されたのは、現代地形データとしての利用であり、三世紀の地形論に利用することは、保証どころか許諾もされていないはずです。まして、勝手な改竄は論外、違法利用の筈です。つまり、資料偽造になります。
 また、単に、細かい字で、『地図は、地図でなく、漠然たる「イメージ」であって、「実際の地形と関係ありません」』と断りするとしても、読者が古代実図と錯覚するのは間違いありません。食品表示にならうなら「イメージ」には、「あくまで参考であり、実際とは違います」の明確な但し書きが必須と思います。あわせてご自愛頂きたい。

 氏のお絵かき図形も、当時存在しなかったから、全体として、これは、氏の書いた戯画に過ぎず、倭人伝記事の解釈論議、つまり、誰もが同一の史実と解釈して論議する場に通用しないのは明らかです。古来、個人によって解釈が大きく異なる図形情報は、論理に採用されず、全て、言葉によって定義され、論じられていたのですから、戯画の安直な利用は、いい加減に脱却すべきです。つまり、現代に公知の解釈によって現代知識人を説得するのに限定されるべきです。
 世上には、古代史論に場違いな精密地図を掲載している事例は少なからずあるのを見聞きしているので、氏も、そうした悪習に無批判に追従したかも知れませんが、ペテンをそれと知らずに真似しても同罪と言われるだけです。特に、商用出版物に利用するには、勝手な解釈は許されないと感じます。

 以上、率直に難点を指摘したので、再考いただければ幸いです。

                                以上

2024年6月 8日 (土)

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 1/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

番組概要

主な出演者 森本哲郎、山田亜樹、高島忠平
番組詳細 吉野ヶ里遺跡の墳丘墓から権力者を埋葬したカメ棺が見つかり、その中から王権の象徴ともいえる銅剣や管玉などが出土した。美しい装飾が施された銅剣や当時の東アジアでは最高級のガラス製の管玉である。これらの出土品の持ち主は誰だったのか。はたして、どこからもたらされたものなのか。専門家たちが銅剣や管玉の成分を分析したり、当時と同じ製法で復元を試みたり、科学的に検証しながら出土品のルーツを探る。
語り:葛西聖司    この動画・静止画の番組放送年 1989年


よみがえる邪馬台国
第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
第二回 追跡・倭国の大乱
第三回 検証・女王卑弥呼の都


□総評~殿堂入りの傑作

 取り敢えず、全体を流し見した感じですが、古代史専門家が、物だけでなく、遺跡の全貌をもとに豊富な知識と見識を語っていて、大変貴重です。
 以下、当世番組を批判していますが、要するに、今回紹介する35年前の古典・名番組と比較して、ずいぶん劣化していることを批判しているのであって、当番組を批判しているのではないのです。

*失われた高い品格~私見
 別項で、近年の番組を批判しましたが、部外者が聞きかじりで、先人の考察を無視して、好き勝手に論じるのが大変不愉快で、当方には当番組の誠実さがありがたいのです。
 最近のNHK番組は俗受け狙いで、古代史屋さんや古代史ファンの素人をかり集め、現代言葉でコメントするバラエティー番組化し、誤解を拡大再生産していると見えます。
 ここで見識を披瀝した諸兄の業績は残っていると思われますが、古代史分野では先人の成果を継承しないのでしょうか。

 番組紹介もすでに現代化していて、「当時の東アジアでは最高級」と吹いています。当時「東アジア」などないし、ない世界のすべての品物を比較してこれが最高級と知りうるはずがないのです。この言葉は、当時の人の想いを知ろうとしない現代人の自己満足です。

*大衆迎合の是非~私見
 大衆迎合は、それ自体悪くないのですが、勿体ぶった言葉へのすり替えで古代を見る目をゆがめさせてはならない」と思うのです。
 古代史番組は、現代人が古代人に学ぶものであり、勝手に現代人の浅知恵をぶちまけるべきではないでしょう。何しろ、相手には一切聞こえないのですから。いや、これは、三十年後の番組制作姿勢への批判です。

総評
 肝心の番組内容ですが、昭和末期、平成初頭の番組であり、今日のように、低コストで手軽なドローン空撮でなく、ヘリ、ないしは、軽量飛行機でしょうが、発掘間もない吉野ヶ里遺跡の全景をたっぷり拝見できるのは貴重です。

 また、各種遺物は、堅実な考古学知見で考察されています。

                               総評完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 2/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第一回 発掘・吉野ヶ里遺跡
*「吉野ヶ里」遺跡概観

 遺跡整備される前の現地の様子が空から確認でき、発掘現場の生の声が聞けるのはありがたいのです。

*偶然の賜物
 安本美典氏によれば、佐賀県が当地域に工業団地を造成する際に、山麓は遺跡を包含している可能性が高いので、遺跡のないと思われる地帯を発掘調査したら、予想に反して二十五㌶に及ぶ大遺跡が出現して、関係者は大パニックに陥った。とのことです。して見ると、今後とも、遺跡有望地帯に発掘の手が伸びることは、一切ないのでしょうか。

*虚心の徳
 全体に、当遺跡関係者は、先入観なしに虚心に発掘した様子が窺えて好感が持てるのです。
 遺物の究明に際して、謙虚に諸機関、企業の協力を仰いでいるのも、当然とは言え、見事に思えます。案ずるに、高島忠平氏を初めとする発掘関係者諸兄が、「何かを掘り出して見せないとダメだ」というような余計な切迫感をもっていなかったためと思われます。
 奇跡は、不意に訪れるものです。

*物資渡海
 ちなみに、出土した貴重な三物資のうち、銅剣が、半島西部の後の百濟相当地域の南部、今日の忠清南道(略称 忠南)から到来したとは自然な見解ですが、それと別に長江(揚子江)河口近くから到来した鉄や長沙から到来したガラスの到来ルートが、北に渤海を大きく迂回した陸上ルートで図示されているのは残念です。当然、山東半島(莱州)から、身軽な渡船で目前の忠南に着いたと見るべきでしょう。このあたりの誤解は、後世まで頑固に引き継がれていて、諸考察を謬らせているのが、残念です。

 九州と忠南は、多少日数はかかっても、直接、つまり、楽浪/帯方郡を介することなく交信・往来ができたでしょうから、銅剣産地から南方の鉄やガラスも共に手に入れたと見れば、三者三様の交易ルートを探す必要がなくなります。
 吉野ヶ里住民が、万里の異郷と交流、交易する必要はないので、巨大商社の幻像を見る必要がなくなります。

 ちなみに、三物資の到来は、おそらく、忠南から東に竹嶺で山地越えしてから洛東江沿いに南下して半島南岸に達し、半島南岸、対馬、壱岐、九州の三区間をそれぞれ渡海する便船で南下したのでしょう。
 それなら、『極めつきの難所であって一貫航行など「はなから不可能」である半島西岸、南岸の多島海』を通らなくてよいので大変安全・確実なのです

 そのような交易路が想定できるので大変ありがたい絵解きでした。後に、弁辰産鉄の楽浪郡納入や弁辰からの文書通信のために、駅逓を備えた帯方郡官道が成立したと見ることができるのです。

*現地現場は宝の山
 と言うことで、この回の教訓は、現場に近いところには、宝物が転がっているという事です。本物の現場には、もっと沢山あったかも知れませんが、大抵、細かい、ささやかなものは押し入れの奥に引っ込んでいるのです。

 言うまでもないですが、この当時、大陸産物は道の果ての吉野ヶ里に集まり、東方には時間をかけて交易の鎖を順次渡って、年月をかけて滲出するので、この時代、各地に同等の豊かさはなかったでしょう。

*山一の道~私見
 当ブログでは、北九州から東方には、南下した日田から東に大分の海岸に出て、そこから、軽快な渡船で渡れる三崎半島を経由する経路を提唱していて、以下、伊豫の山を一路走っている中央構造線に導かれて、大鳴門の海岸に出る完全陸上経路を想定しているのです。
 よくいわれる、瀬戸内海東西航行の難所克服は関係無いのです。特に、関門海峡を通らないのは、当時、堅固な木造船が存在しなかったから、通行できなかったというものであり、大鳴門まで出ると、喧伝される明石海峡、鳴門海峡の難所を回避しているので、三世紀、ないしは、それ以前の交通路として、特に論証の必要のない、安全・確実な経路と見ているのです。

                            この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 3/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第二回 追跡・倭国の大乱
*冗談半分
 この回は、仰々しく二千年の眠りから覚めた吉野ヶ里王国、などと、前振りをして開始します。NHKらしからぬ空騒ぎです。
 「倭」「國」「大」「亂」の屏風を背景に議論されますが、当時は慎重で、「倭人伝」に「倭國大亂」と書いてあったなどとは言いません。典拠は「中国史料」と言いよどんでいますが、「倭人伝」は、ほぼ唯一の資料としたから、よくよく聞けば、正確な発言になっています。但し、典拠が笵曄「後漢書」東夷列伝倭条と言わないのは、天下の公共放送の教養番組としては、不出来です。
 当時との見解として、鉄鏃の戦闘時の優位点は、限定的であり、とても決定的でなかったという所に落ち着いて冷静です。

◯不毛な人口論/建設的な異論~私見
 番組中で、興味深いのは、こうした「天下大乱」を左右したのは、それぞれの勢力の人口だったとする判断です。ちと、安直ではないでしょうか。
 似た発言として、最近の新聞報道で蔓延る(はびこる)、スポーツの勝負は体格、体力(フィジカル要因)で決まるとする不気味な風潮があります。体格、体力の数値は、計量可能というものの、短期間の努力で強化できるのは、筋力、そして、それを支える呼吸器、循環器なので、下馬評で叩かれてもどうしようもないのです。スポーツには、体格、筋力で勝負がつくものもあるでしょうが、それなら、身体検査でメダルを決めれば良いのです。大抵のスポーツは、技術、戦略、そして、気力まで含めて競われているのです。いや、単なる例え話ですが。

 余談はさておき、当番組は、推定した勢力範囲内の推定した「人口」を、あたかも確定したもののように図示して勝敗を決めつけていますが、余りに軽薄です。往々にして、歴史上の敗者は、自滅した例が多いのです。
 憶測でしかない、浅薄な数値データを安直に採り入れるのは、子供じみていて、感心しないのです。

*倭人伝の精確さ-精確な検証

 ちなみに、三世紀当時、「倭人」世界で、当てになりそうなのは、對海國、一大国、末盧国、伊都国の行程上の四ヵ国の「戸数」であり、他に書かれている奴国、投馬国の「戸数」は、数万戸という途方もない数字である上に、この二国は、行程外の遠隔地で事情が不明なので、当てにならないと明記されているので、全国七万「戸」は、何とも、参考にならないのです。
 その上、四ヵ国の戸数は、あくまで、各戸に所定の耕作地を割り当てるという中國土地制度のものであり、後世日本国内で施行されていた「成人男子、女子、それぞれに口分田を与える」と言う制度ではないので、これまた、参考にならないのです。

 ちなみに、帯方郡に対して「戸数」を申告するという事は、各戸から徴税して帯方郡に上納することを想定しているものであり、倭人には通貨制度がないので、それは、言わば七万戸相当の「米俵」の山を納入することを示しています。そのような大量の積み荷を、海峡を越えて、狗邪韓国の海岸に届けることなど不可能ですが、先ずは、輸送可能と言われかねない行程四ヵ国の戸数を、各国戸籍に基づいて申告し、さらに、對海國、一大国は、痩せた田地しかなく、他国の支援で餓死を免れているという泣き言で、免税を勝ちとっていたものと見えます。
 何しろ、狗邪韓国から末羅国の間は、「水行」と言っても、並行する陸路がないので、街道として無効と明記されている上に、倭地の「禽鹿径」は、荷車の通れない論外の道と明記されているので、物納不可能とだめ押ししているのです。
 ちなみに、倭人伝に虚構を求める論者は、「倭人」の総戸数を十四万戸とこじつけている論義がありますが、以上の「真意」を取りこぼしている拙攻であり、ここでは、論義しないことにしています。
 さらに重大なのは、「倭人」は、牛馬の労役がないので各戸の耕作能力が貧しいのも明記されているので、結果として、四ヵ国の「戸数」は、国力、つまり、担税力の指標として役に立たないとわかるのです。
 後の議論にも出て来るでしょうが、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、陳寿は、「倭人」の地は、郡を去ること万二千里とか戸数七万戸とか、公孫氏が報告していても、半島南方の州島、小島であって、各国数千戸程度の國邑でしかない上に、産物に乏しい「痩せ地」であることを明示しているのであり、二千年後生の無教養な東夷は、史官の真意を汲み取った上で、字句の解釈にあたるべきなのです。

*西域大国の肖像 2024/06/16
 裴注で補追された魚豢「魏略」西戎伝に登場する万二千里の果ての大国は、六畜(牛、馬、羊、鶏、狗(食用犬)、猪(豚))全てを豊かに算出し、法田(ホータン)と違って「玉」こそ産しないものの貴石、準宝石に富み、色彩豊かな羊毛糸を多用した絨毯織が盛んで、さらには、中国産の絹織物を解(ほぐ)して、特産で在る野生繭の糸や色鮮やかな羊毛糸と織り交ぜた多彩な「水羊毳」なる特産物を「海西布」と称して商うなど、まことに、全土悉く宝の山と言うべき大国であり、国内には、金貨、銀貨が流通していて、南方海産の珊瑚、玳瑁を始め、ここには書ききれない多彩な品目を商い、しかも、広大な国土に街道を張り巡らして、文書行政が完備している法治国家であり、当然、皮革紙に横書きする文字大国であるなど、東夷と対比すれば、燦然たる記録が用意されていたのですが、陳寿は、恐らく、そのような漢代西夷事績を明示すると、曹魏明帝が誇らしく遺詔を書き残した「倭人」が色褪せるので、西域での新規蛮夷の招請という事績に厳選すると、西域における曹魏の実績は皆無に近いことを露呈しないために、空疎な「西域伝」を割愛したものと見えます。他の場所でも触れていますが、魏略「西戎伝」の佚文ならぬ善本を熟読すれば、陳寿の割愛に同意できるものと見ています。

 それにしても、奈良盆地に「倭人」政権を主張される方は、纏向遺跡に中国制の土地制度の遺跡を発掘されているのでしょうか。あるいは、中国式の戸籍簡牘を発掘しているのでしょうか。来訪、検察したはずの帯方郡士人は、七万戸、あるいは、十四万戸の大国を実見したとして、寛容極まる免税を許可しないでしょう。

*北枕の台頭

 興味深い発言は、墓制の地域ごとの違い、俗に言う地域性であり、それぞれの地域政権に地域葬制が整っていた裏付けとなります。俗に、これを地域「文化」圏と言いますが、「文化」とは文書によって継承、展開されるものであり、文字のない時代は「風俗」圏とでも呼ぶしかないところです。
 それはさておき、葬制の「枕」が、今日の近畿圏と中国地方では、北枕であり、北部九州と四国では、東西枕になっていたというのは、意義深い指摘です。結局、北枕が全国制覇したという趣旨なのでしょうか。

*纏向の飛び地
 後に発掘される纏向の大型建物は、その敷地が、東西基線で縄張りされたとされていますから、これは、東西枕風俗に属するものであり、後の飛鳥時代以降の大型建物が、南北基線で縄張りされていて北枕風俗と見えるのと、別の風俗圏に属していたことになります。

 先に挙げた遺跡地図に現れてないということは、纏向遺跡を構成した勢力は、一時的な東西風俗であり、飛び地のようなものであったかと思われます。

                              この回完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 4/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都
*躓く「枕」~補充
 この回は、九州説を支持していた門脇禎二氏と畿内説を支持していた坪井清足氏の談話を枕に開始します。
 本篇の冒頭、いきなり誤解が露呈していて「楽浪郡」が語られています。当番組では伏せられていた後漢書を見てしまったのでしょう。
 「行程記事をそのまま読むと」と言う語りは、説明不足で軽率です。読解できずにベタに書き出すと、と言うべきです。当時の公文書ですから、倭人伝の語法を理解すれば、明快に読み解けるはずです。過去、諸先賢が理解できないから、自分自分の語法で勝手に書き替えて来たものです。

 以下、過去の誤読例が面々と繰り返されますが、とにかく「論義を混沌とさせて持続したい、子々孫々に至るまでメシの種にしたい」という願望が醸しだしている「泥沼」なのですが、ここでも、明解な解明を遠ざける高度な創作が続いています。

 何しろ、冒頭の解説で、帯方郡を出た行程が、いきなり西に向かって黄海岸に出るという誤解が台頭していますが、「倭人伝」には、そのような行程は書かれていないのです。続いて、何の気なしに、海岸沿いに南下することが描かれていますが、地図を見る限り、そのような航行では、忽ち難船してしまい、まるで、「倭人伝」が自滅行程を書いているように見ていますが、それは、解釈を誤っているとみるべきです。このような難局に陥った場合、「帰謬法」と言う考え方では、それは、そこまでの見方が進路を誤っていることを示ししているのだから、始発点に戻って考えなおすべきだということになっているのです。
 ところが、番組の解説では、南岸沿いの「架空の行程」にこだわって、わざわざ狗邪韓国まで乗りつけて、改めて、對海国に向かって南下する絵としていますが、そこまでの悠然たる船旅が、突如、必死の海峡越えとなり、辻褄が合わず、何とも、無理難題になっています。

 世間では、ここまで大勢として一致して妥当な推定とされているとしていますが、完全な読み違いが、正論を押しつぶして大勢に支持されているのは、寄って集(たか)って誤解して「倭人伝」が、いい加減だと責任を押しつけているのであり、何とも困ったものです。これでは、何百年経っても、正解に到らないわけです。

*両説並走
 坪井氏は、畿内説は「考古学の所見」に依存すると正直に解説しています。要するに、「倭人伝」を「畿内説」に合わせて削り直していることが露呈していますが、それを云うと身も蓋もないので、ここでは、声を潜めておきます。

 門脇氏は、九州説に転じて「変節漢」と顰蹙を買ったと述解しますが、畿内説では、三世紀当時、近畿から北九州を支配していたとされるのに、六、七世紀の統一国家形成まで、途方もない歳月を要したことを説明できないと感じたようです。我が意を得たのですが、畿内説陣営から、適格な回答がないようです。古代史学界には、建設的な仮説/異論/異議に対する反応は顰蹙だけあって学術的な論争は成立しないのでしょうか。
 坪井氏は、「考古学の所見」では、三世紀遺物出土が乏しい九州説に不利としますが、衆知の如く、遺物年代はあくまで熟慮の上の「推定」であり、いかに大勢に支持されても、決定打でないと想われます。
 また、坪井氏は、行程記事末尾の「水行十日、陸行一月」は投馬国から南に王都行きと解釈すると南方に突き抜けるから、これは、東方畿内だと押していますが、そのような道里行程記事解釈は、伝統的な我流解釈に依存していて異論必至で、決定打ではないのです。先ほど述べたように、「思い込み」に従うと不合理な結論に至るというのは、「思い込み」を考え直す契機であり、視野を広げこだわりを棄てて、謙虚にら考え直すべきなのです。
 当たり前のことですが、三世紀に陳寿が書いた記事は、当時の読者が納得する、筋の通った「真意」がこめられていると見るべきであり、頭から、「現代日本人」の「常識」で読解くのは「誤解」の可能性を含んでいるのです。

 要するに、坪井氏の言う「考古学の所見」は、専門外とは言え、自説に心地良い、軽率な文献解釈を丸呑みして根拠としているのであれば、是非再考いただきたいものです。

*鬼(神)道とシャーマン
 ハン氏(韓国国立中央博物館館長)は、鬼道(「鬼神道」は後漢書)を論じて、今日で言う「シャーマン」とも思われるが、「シャーマン」は地域ごとに異なるので一概に論じるべきでない、と卓見を述べて、「シャーマン」が古代に生きていたような時代倒錯の戯れ言をきつくたしなめています。

*即刻参詣の檄
 終盤になって、坪井氏は、「倭人」が大陸の情報を承知していて、使節を適確に派遣したと驚いています。伝統的に、女王を「神がかった諜報通」と見ているようですが、ことはそんなに超絶的な成り行きでなかったでしょう。公孫氏傘下から魏帝直轄に代わった帯方郡の新任太守から、専用文書便が街道を駈け、即刻出頭の厳命が届いたと見るのが順当ではないでしょうか。

 即刻と言っても、万二千里などと見当違いの道里を言いたてたりせず、測定済みの往復所要期間、つまり、片道「水行十日、陸行一月」を四十日と見て、往復八十日を前提として出頭期限を切ってあり、「遅参すれば討伐する」と断言したでしょうから、大陸(遼東)事情を知らなくても、降って湧いた指示でも、国王以下打ち揃って恐懼して、取るものも取りあえず身軽な使節を送り出したのでしょう。それなら、普通の君主に出来る普通の、つまり、最善対応なのです。

*遠すぎる畿内
 余談ですが、この日数では到底畿内に辿り着かないので、日数稼ぎに苦労しているようですが、それでは、郡は、所要期間を知らなかったことになります。水行二十日の投馬国の向こうに四十日行程を置く年代ものの読み解きで、ボロ隠しをしているようですが、細かく詮索すると、逃げ道がなくなるので、武士の情けで、追及を控えます。いや、当ブログ筆者は、古風な者なので「遠すぎる」は、誉め言葉ではないのです。

 「倭人伝」の景初二年の「二」の字に横線を足して景初「三」年に日延べしても、使節は郡に辿り着けないでしょう。まして、韓国海岸を「水行」したら景初年間には着かないでしょう。蒸し返しですが、坪井氏の主張による「遠隔の畿内で半島情勢を察知した」というのはね心地よい響きであっても、あくまで、根拠の無い神がかりです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 5/5 再掲

 番組放送年 1989年 NHKオンデマンドサービス(有料)で視聴可能
 私の見立て★★★★☆ 必見    2019/01/13   補充 2020/03/11 2024/06/07

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

よみがえる邪馬台国 第三回 検証・女王卑弥呼の都 承前
*戦時参詣
 郡指令は峻烈でも、文書便で、召集状とともに送達された帯方郡太守の過所(通行証)を携えて官道を進めば、途中の諸韓国の関所で止められたり、関税をむしられたりすることもなく、官道宿舎の寝床と食事は保証され、当然、官道通行の安全も保証され、官道の道祖神、道しるべや里程標もあって、道に迷うこともなく、とにかく、安心して旅することができたはずです。

*召集呼応
 これが、呼ばれてもいないのに、紛争地帯に勝手に参上したのであれば、宿舎の手配はされないどころか、それこそ、戦場に飛び込む可能性もあれば、不時の、つまり無許可の郡詣でとして公孫氏に捕まる懸念もあったでしょうし、国書や貴重な土産物の心配どころか、使節の身の安全が覚束ないのです。それは、余りに無謀でしょう。
 魏朝官制は、宿駅が、代え馬、宿舎、食糧の供給とともに、関所の役も担っているので、暢気な方が言うように、土地勘があれば、道道をどんどん進んでいける生やさしいものではなかったのです。まして、路銀、つまり、銭の持ち合わせがないと、何も購えないのです。また、言葉が通じない、異様な風体の面々では、最寄りの県治、つまり、県の役所に突き出されていたでしょう。
 当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*雒陽参上
 雒陽でも、事前に帯方郡の文書が届いていて、鴻廬卿は万事調整済みだったでしょう。帯方郡からの行程は、山東半島莱州に渡海するのは、郡の便船で難なくこなしても、西に向かう官道は、当然厳戒下にあり、青州刺史などの認可のもと、郡役人が同伴しなければ無事に着かなかったでしょう。道中の宿舎手配なども、文書使(メッセンジャー)が各関所に伝えた刺史の指示あればこそです。
 繰り返しますが、当時、既に千年に亘って、文明国家が運営されていたということを忘れてはなりません。

*曹操遺訓
 このような高速大量の文書通信を常識とした体制は、魏武曹操が、後漢建安年間に、宰相、魏公、魏王などの至高の地位にあって、特に厳命して確立した、全国支配のための行政機構だったのです。当然、魏帝国は、この制を継承しています。
 因みに、これは、別に曹操の独創ではなく、殷周代の太古以来、歴代帝国の根幹だったのですが、後漢献帝期の最初の十年の小戦国状態で、箍が外れて無法状態になっていたので、これを復旧したものです。この期間、少帝劉協は、荒廃した帝都長安から脱出し、支援者なしに飢餓状態で漂泊していたので、後漢帝国は皇帝を欠いて、事実上瓦解していたのです。
 とかく悪評の目立つ曹操ですが、さすらいの後漢皇帝劉協を、収容、保護して、雒陽圏を中心に後漢を秩序のある国家として復旧しようと苦闘したのです。結局、皇帝の地位に就くことはなかったのですが、武力統一だけでなく、古来の文化を復元し、また、国家統治の大系を弁えて、中原に帝国の形を確立したので、跡を継いだ文帝曹丕による魏朝設立後、遡って武帝と諡されたのですが、本来、「文」の人だったのです。
 そのような官道文書通信の制度により、それまで、地の果ての茫洋たるものとされていた辺境蛮夷の姿(イメージ)が、いわば、文字で書かれた絵姿(ピクチャー)になって、雒陽まで届いたのです。

*洛陽到着
 それはさておき、使節一行は、洛陽に着いたとは言え、先だって、定められた手順、役割に従い実務が進んで帝詔梗概と下賜物概要が決まっていて、皇帝に奏上し、帝詔に御璽を得次第、使節に引き渡すはずだったでしょう。
 時に、詔を皇帝自筆と誤解して、その堂々たる筆致からこれは明帝曹叡の筆と決め付ける人がありますが、当然代筆です。皇帝の詔ともなれば、古典を適確に引用して、風格と教養を示す必要があるので、これは、古参の専門家の役どころです。因みに、詔の玉璽も、皇帝当人が押すものではなく、専門家の役どころです。皇帝の手になるのは署名のみです。
 当時、「倭人」の招請を格別の熱意で進めていたのは、明帝曹叡ですが、事の半ば、景初三年元旦に逝去したので、事態は、尻すぼみになっていきますが、取りあえず、帝国宝物の蔵ざらえという事もあって、下賜物送達は、粛々と進められたのです。

*明帝曹叡と忠臣毋丘儉~私見
 稀代の名君曹叡は、初代文帝曹丕が後漢献帝の禅譲を受け、言わば、後漢の風化した天下を引き継いだことに批判的であり、自身で「烈祖」の廟号を唱え、王宮の新規建設に並んで、未踏の東夷の参上を漏って、新規の天下を築くものと自負していたようです。
 それが、景初三年元日の皇帝急逝により、新宮殿建設は頓挫し、「倭人」の処遇は、雒陽に参上している使節の顕彰とすでに用意されていた下賜物の送付までは帝国の体面を保つために維持されたものの、それ以後は、次第に冷淡な扱いとなって行ったものと見えます。
 ひとつには、先帝の東夷顕彰の意向を支持していた毋丘儉が、司馬懿の台頭で勢力を喪い、ついには、少帝曹芳が廃位されるに及んで、反乱を起こして討伐されたため、帯方郡を足場にした「倭人」高揚は、霧散したのです。
 陳寿は、明帝曹叡の壮図を支えた毋丘儉の忠誠を「魏志」に潜ませたと言えます。なにしろ、「魏志」に「司馬懿」伝はなく、ただ、ひっそりと「毋丘儉伝」が刻み込まれているのです。

 以上、当然の事項が余り知られていないので、番組批判の枠を大きく踏み越えて、殊更力説したものです。

*掉尾言
 以上、それぞれの回での難点と思える点を延々と批判したのは、俗論的な決めつけに対するものであり、番組全体は、後年のIT紙芝居や勝手な素人談義などではなく、ちゃんと出席の専門家によって議論されていて、まことに妥当な構成です。

                               完

2024年6月 5日 (水)

資料紹介「唐會要」 其の1 概論 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯旧ログ再掲のお断り
 当記事は、なにしろ十年前の拙作ですので、再掲する気はなかった、と言うか、完全に忘れていたのですが、旧ログを総浚えしている動きがあるので、念のため、点検して、再掲しているのです。

*はじめに
 まずなにより、唐會要は、史書として書かれたものではないので、史実に関する厳密さに欠けることは心得ておくべきでしょう。
 中国の分類によれば、「政書」と呼ばれる資料群に属するものであり、「政書」は、その編纂形態により、各王朝ごとに分割記述された「斷代會要體」と通史として記述する「通代會要體」とに大別されます。
 言うまでもなく、「唐會要」は、唐王朝について記述された「斷代會要體」です。一方、「通典」、「通志」は、政書の中で、「通代會要體」に分類されます。
 つまり、唐會要」は、「通典」、「通志」と同様の性質を持った資料です。

 「唐會要」は、今日伝えられている形としては、清朝時に編纂された「四庫全書」収録のものが規範となると思われます。
 続いて、其の「倭国」、「日本國」記事ですが、「旧唐書」と比較して、人名の書き誤りを含めて、誤伝の多いものになっています。
 元々の資料に誤りが多かったのか、継承転記の際の誤りかはわかりませんが、記事の信頼性は大きく損なわれていると考えます。
 従って、全書百巻に及ぶ其の全貌が、宋時代の編纂時から、四庫全書収録まで、遺漏無く伝えられたものではないと思われます。

*編者紹介
 ここで、維基百科に基づき編者王溥の履歴を確認します。
 王溥(922-982年)、字齊物、諡文獻は、五代後漢乾祐元年(948)科挙状元(進士第一位)となり秘書郎に任官し、五代後周太祖、世宗、恭帝の三代の宰相を勤め、北宋太祖が幼帝恭帝から禅譲を受けて宋朝を創立するのを支持したため、太祖の下で宰相を勤めた。
 ただし、北宋太祖趙匡胤は、皇帝として親政し、宰相の実権を奪ったので、王溥は、自宅に所蔵した万巻の蔵書を元に、専ら史書の編纂に当たったと云うことである。
 乾德二年(964年)宰相を辞し、太平興国七年(982年)死亡。

 以上の経歴から見て、秘書郎として任官した上に、長く宰相の職責にあったので、唐代以来の実録、起居注などの公式資料の写本を入手して、自宅に所蔵することも可能であり、著作に大いに活用したものと思われます。
 又、それら資料は、王溥の死後は、王溥の著作と共に継承され、それら資料が旧唐書などの史書編纂に利用されたものと思われます。

 以上、「唐會要」の記述が、「旧唐書」に幅広く利用されていると共に、王溥が典拠として参照した資料を「旧唐書」編者が参照利用したと思われます。このため、類似した記述が散見されるのでしょう。

 なお、「唐會要」は、テキスト全文が維基文庫に収録されていますが、清朝四庫全書収録の「唐會要」の影印版と比較すると、文字の異同だけでなく、「倭國」記事の建中元年、貞元十五年、永貞元年の三項が脱落しているのは、テキストとして利用する際には注意が必要です。
 維基文庫は、ボランティアの絶大な努力によって、膨大な原典がテキスト入力されているものです。なにぶん、活字印刷物の読み取りと異なって、OCRの助けの殆ど得られない手仕事であるので、万全でないことは仕方ないことですが、一方、そのような限界を承知の上で維基文庫のテキストに依存して論考することも、また、ある程度仕方ないことなのでしょう。

以下、短評に続く

一部修正 (2014/1/29、6/30)

資料紹介「唐會要」其の2 短評と記事紹介 再掲

 2014/01/29  再掲 2024/06/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*史料短評
 「唐會要」記事については、以下の短評を記すのににとどめます。
 「倭國」は、冒頭に、「在新羅東南」と書かれているので、九州に存在していたことが明記されているものと考えます。笵曄「後漢書」同様の筆致であり、同書の地理志記事から判断して九州北部が有力となります。
 「日本國」は、冒頭に「倭國」の別種と書かれているので、少なくとも、二つの政権が区別されて書かれていることは明らかです。
 いずれの記事も、飛ばし読みの時に、最低限目にとまって欲しいことが頭書されているので、「と書いたが、実は..」というどんでん返しはないものです。
 「日本國」記事では、引き続いて国名由来と移行経緯について、解釈が併記されています。つまり、遅くとも両国記事編纂時点では、「倭國」が消滅して「日本國」が存在していることが示されています。

 さて、第一の解釈では、先記されている倭國に対して、東の方角、日の出る方向にあるので「日本」と名乗ったと書かれています。この解釈で云えば、九州北部地域の東方に当たる中国から近畿の地域が最有力となります。
 付け足しの解釈では、「倭國」が、『自國名の字面が悪いので「日本」と改名したと表明した』と書かれています。あるいは、『「日本」は小国であったものが、倭國を併呑したと表明した』と書かれています。
 このように色々書かれているのは、編纂者は、「倭國」がどうして「日本國」になったか、筋の通った説明を聞けなかった/見いだせなかったので、元々あった記録をそのまま採用するようにしたものと思われます。蕃夷と対応した鴻臚のものは、蛮夷の言い分をそのまま紹介するよう命じられているので取り次いだのであり、「唐会要」の編者も、何も見解を示していないものです。
 とはいうものの、結論無しの紹介記事なので、最初に紹介された解釈が有力であり、また、後に紹介された解釈と共存できるので、そのまま書かれているものと考えます。
 推測ですが、中国側が「自然」な解釈を示したのに対して、日本使節が頑として同意しなかったので併記されたものと見たいところです。
 一部論者は、「唐會要」の両国記事は、「倭國」と「日本國」が、同一政権ないしは政権系列の時系列上の改名したとの記事であるとの見解を公開していますが、どうも、早計であり、実際は、錯綜の観を避けることなく併記されたままであり、当記事の論旨をそのように明解に解釈するのは無理なように思います。
 また、政書の性格上、正史の記事を校勘する際に厳密な史料として利用できないのと相まって、早合点することなく慎重に取り扱うことが必要です。

*和紙の起源
 因みに、「倭國」記事の建中元年項の蠒(メイ)は、銘仙のようなきめ細かい絹布のようです。倭国使節は、中国人が見たこともないような滑らかな紙に書翰/覚書を記していたと云うことです。
 おそらく、これは、「倭国」が、山野の植物を利用して、純白で滑らかな「和紙」を実用化していたものであり、中国で古来王侯の使用していた帛書と呼ばれる書記用絹布を再現していたのでしょう。紙の実用化以来一千年近くたって、高貴な帛書は、使用する習慣もなく、帛書の実物も地上から消滅して久しいので、王溥のような教養豊かな、宰相職の高官にも、見当が付かなくなっていたのでしょう。
 なにしろ、中国の製紙法は、蔡侯紙というものであり、衣類のぼろなどから採取した繊維を漉き上げていたので、「純白で滑らかな」「和紙」とは、別物だったのでしょう。

*資料編
 以下は、添付した影印本の記事を文字起こししたものです。
 その際、最善の注意と努力をはらいましたが、脱落、誤字等が存在しないことを保証するものではないので、添付した影印版を確認の上、ご利用いただきたいのです。
 倭國 (第九十九巻)
 古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。
 世與中國通。其王姓阿每氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。
 椎髻無冠帶。隋煬帝賜衣冠。令以錦綵為冠飾。衣服之制頗類新羅。腰佩金花長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。
 貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。
 表仁浮海。數月方至。(注 自雲路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也)
 表仁無綏遠之才。與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絕。
 永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。
 高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅數為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
 倭國東海嶼中野人有。耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
 亦頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者云海中湧出。
 咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。
 則天時、自言其國近日所出。故號日本國。
 蓋惡其名不雅而改之。
 大歷十二年。遣大使朝楫寧、副使總達來朝貢。
 建中元年。又遣大使真人興能判官調楫志自明州路。奉表獻方物。真人興能盡其官名也。風調甚高善。書翰其本國紙似蠒緊滑、人莫能名。
 貞元十五年。其国有二百人浮海至揚州市易還。
 永貞元年十二月。遣使真人遠誠等來朝貢。
 開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
Toukaiyou_wakoku_1
Toukaiyou_wakoku_2
 日本國 (第百巻)
 倭國之別種。
 以其國在日邊、故以日本國為名。
 或以倭國自惡其名不雅、改為日本。
 或云日本舊小國、吞併倭國之地。
 其人入朝者、多自矜大、不以實對。故中國疑焉。
 長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝、貢方物。
 朝臣真人者、猶中國戶部尚書。冠進德冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍。以帛為腰帶。
 好讀經史、解屬文。容止温雅。則天宴之、授司善卿而還。
 開元初。又遣使來朝。因請士授經。
 詔四門助教趙元默、就鴻臚教之。乃遺元默濶幅布。以為束脩之禮。題云白龜元年調布。
 人亦疑其偽為題。所得賜賚。盡市史籍。泛海而還。
 其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去。改姓名為朝衡。歷仕左補闕、終右常侍安南都護。
Toukaiyou_nihonkoku
この項 終り

2024年6月 4日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面の「リベンジ」再来 順当な番狂わせか

                       2024/06/04

  今日の題材は、毎日新聞 大阪・河内面だから、地方ネタとして読み流そうかと思ったが、全国紙の(地域面)一面だから、ちゃんと敬意を表すことにした。もちのろん、「大ガス リベンジ勝利」と敵性/毒性語を紙面に書き出して、多くの読者に、毎日新聞が「リベンジ振興会」に属していると誤解され、日常会話で乱用が進むという、徹底的な害毒があるから、一言申し上げたのである。当ブログでお馴染みの指摘であるので、背景説明は省略する。

 合わせて、同記事が報道の基本に反している点も、指摘して良いのではないかと感じて、批判する次第である。
 「大阪ガス株式会社」は、創業以来120年近い歴史を有し、「主に京阪神をエリアとする一般ガス事業者」であるから全国営業していないが、「大阪ガス硬式野球部」は、都市対抗野球大会 出場28回、優勝1回(2018年)社会人野球日本選手権大会 出場26回、優勝3回(2019年、2021年、2023年)の赫赫たる実績を挙げている名門チームである。近年で云えば、地元の阪神タイガースに、能見篤史(投手)、近本光司(外野手)等の名手を送り込んでいる。(Wikipediaによる)
 「大ガス」(ダイガス)は、「日本一のガス会社を想定した社名通称」ではなく、「大阪ガス硬式野球部」の通称と思うが、ここだけ切り取れば、「毎日新聞」が、「大阪ガス」に泥を塗っているという印象を受けかねないのである。

 それはさておき、「大ガス」の野球部が、前回の近畿地区予選で特定チームに負けたことに遺恨をもって、血祭りに上げることを標榜/公言していたとは思わない。一種「フェイクニュース」ではないか。
 当記事で、地域面記者は、(地域面)一面のトップ見出しで、この勝利を謳い上げている。本大会優勝どころか、まだ、代表に決定したわけでもない。「大ガス」が、ほんの通過点である近畿地区予選で一勝したことを、これだけでかでかと取り上げているのを目にすると、「ニュースバリュー」を勘違いしているのではないかと思うのである。いや、誤報とは言いきれないから、クビを傾げただけである。
 古来、「人が犬を噛めばニュース」というように、野球の報道でも、新聞は予想外の番狂わせ(upset)を報道するものであり、強豪チームが順当に勝ち進んだ、それも「第4代表決定トーナメント4回戦」に一段勝ち上がったというのでは、ニュースになるものではないと思うのだが、いかがだろうか。
 担当記者が、たまたまものを知らないで書いたとしても、3人連名であるから、揃って、不出来と言うことになったしまうし、その不出来が、そのまま紙面を飾るようでは、全国紙の沽券に関わるのではないか、と思う次第である。

以上

2024年6月 2日 (日)

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」1/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 はじめに~NHK番組批判の弁
 今回は、NHK番組の批判ですが、下一の報道機関である公共放送NHKが、古代史分野一機関の粗雑な仮説を、十分検証せずに番組制作した点に批判の重点があります。以下、番組進行順に、即席の批判を積み重ねたので確認いただければ幸いです。(素人著作の批判とは別世界です)

〇NHK番組紹介~NHKサイトより引用
 私たちが暮らす日本という国はどのように誕生したのか。神話の世界と歴史的事実をつなぐのが全国に4700基ある前方後円墳だ。今、最新の科学技術を使った研究から、新発見が続いている。番組では最初に築造されたと考えられている巨大前方後円墳の「箸墓古墳」の謎の解明を出発点に、それを築いたヤマト王権が一体どのように誕生し、日本列島の姿を変えていったのかに迫ってゆく。出演:松木武彦(国立歴史民俗博物館教授)ほか

〇粗雑極まる「タイトル」設定
 この番組紹介を見ると、まず「前方後円墳が語り出す」と言う怪奇現象に驚き、チャンネルを間違えたかと思うのです。二千年前に造成され、半ば放置されていた遺跡が今、声を上げて語り出すなら、現代人が陰に隠れた子供だましのお化け屋敷です。河内の古墳群の近傍は、うるさくてしょうがないでしょう。いずれにしろ、公共放送が、教養文化番組として製作すべきタイトルではありません。
 どうも、当番組は、国立歴史民俗博物館(歴博)宣伝番組のようで、タイトルも持ち込みかも知れませんが、NHKは視聴者からの受信料で運営される公共放送ではないのでしょうか。妖怪が、しゃしゃり出てきたら、先ず、「名を名乗れ」というものではないでしょうか。
 以上のように不吉な番組紹介を越えて番組を視聴しましたが、特定の団体に奉仕する内容は目を覆わせるもので受信料返せと言いたいものでした。

 因みに、雑踏となっている先入観を離れてタイトルを見ると、「ヤマト王権」は、「前方後円墳」の萌芽と成長に伴って台頭したという主張だけであり、これは、遺跡、遺物に基づく多数の研究者の合議体による「実直な考古学考察」に連携しているので、特に異論を述べる筋合いはないのです。いわば、鉄壁のご高説なのです。
 ところが、『そのような「実直な考古学考察」定説を奔放に変形して、その萌芽を、倭人伝の描く三世紀にずり上げ、「ヤマト王権」の成長発端を、大幅にずり上げた無理がたたっている』のです。
 学界全体で築きあげた考察は、同様の過程を経て、つまり、同様の時間をかけて、同様の合議体で審議して、初めて改訂できるものではないでしょうか。 

〇 無批判、無検証の危うさ
 一番問題なのは、この番組には、従順な聞き役しか出てこないで、長々と「歴博」の勝手な(検証されていない)主張を無批判に踏襲することです。特に論敵「九州説」の主張を、勝手に代弁して揶揄していることは、公共放送による論争報道のありかたとして、論外です。よく言う(勝って当然の)独り相撲です。
 「歴博」と言うと公平な視点で運営されていると解されがちですが、多額の運営費用と有能な人材を投入して「纏向説」を高揚している「畿内派本山」と見えるのです。

 さらに言うと、番組が、世上論議が渦巻いているC14年代判定の「歴博お手盛り」の無謀な見解を無批判で採用するのは不穏です。本来、自然科学技術による客観的な判定であるべきものが、歪んでいると否定的に評されるのは、つまり「歴博」が存在意義をかけた独自判定で、念入りに判定者に圧力をかけたものと思われます。判定に要する最先端機器の、高額の運転費用を、意に染まない判定結果であれば、費用支払いに疑義を呈する、と言うか、次回以降の判定依頼を「考慮」するという言外の圧力は、むしろよく見かけるものであり、別に驚くものではないのですが、この事例では、ちょっとあからさまな形で露呈したようです。(安本美典氏の考察を参考にしていますが、自分なりに分析した物です)

〇 粗雑な科学見識、大時代の内部闘争
 ニューオンが「見えない素粒子」とは珍妙な意見で、「見える」素粒子などありません。子供だましでなく、「科学的」に述べて欲しいものです。
 「殴り込み」など、反社会的団体風言動がそのまま出回っているのは、「畿内説」陣営内の不穏な動きを暴露しています。そして、それを、視聴者にぶつけるのは、NHKの品性を疑わせます。チェックなしなのでしょうか。

〇 甘い判断
 因みに、松木教授は、軽く、箸墓が卑弥呼の墓なら、女王国は纏向しかあり得ない」と断じます。それ自体、軽率で非論理的な、無用の断言です。畿内説論者でも、箸墓は「倭人伝」に書かれている卑弥呼の墓ではないことが明確だから、むしろ、宗女「壹與」の墓であろう」とする論者が見えます。浅慮早計で、立脚点を間違えているようです。
 続いて、三世紀文献、中国史書「魏志倭人伝」に従えば「九州説」も成立する」とは、けったいな独善です。
 先の「女王国」誘致発言とともに、伝統の「倭人伝」改竄戦略から撤退、転進したのでしょうか。このあたり、自陣営の過去の発表との整合が審査されていないようで、さらに、番組司会者から過去番組との関連に対して何の質問もないのが、奇っ怪です。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」2/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 「ヤマト」王権~「文化」の詐称
 ヤマト王権が、七世紀あたりに、律令制度を敷いたのは、遣隋使、遣唐使の持ち帰った知識によるものであり、従ってそれ以前には何も法制がなかったと見ているはずです。
 各地にほかの「文化」があったと誤解を述べますが、文字の無い世界に文書はないから「文化」はなく、単なる、風俗習慣です。その証拠に、文書記録が皆無で、何も伝わっていません。

〇 粗雑な列島展望
 さらりとごまかしていますが、筑紫、北九州に太陽の女神の信仰はなかったと言う主旨が述べられています。これほど重大な仮説をどさくさ紛れに開陳するのは、胡散臭い物がありますが、倭人伝に、「太陽の女神」は、一切登場しないのです。何を主張しているのでしょうか。

 そして、「列島最大」と言いますが、関東、東北はどうなっていたのか。いずれも重大な提言に説明がありません。仰々しい四千を越える墳丘墓の検証はなく、大半は「箸墓」論議です。奈良盆地内の他遺跡の考察も、ほとんどありません。まことに、胡散臭い自家製新説です。

〇 不穏当な「ルーツ」論援用
 箸墓の「ルーツ」が各地に窺えるとは、「職人を大挙拉致し、奴隷として駆使した」との主旨でしょうか。
 造墓は大規模な技術集団を必要とし、技術を結集しようにも、言葉の問題以外にも設計図が読めなければどうにもなりません。職人拉致談義は、「ルーツ」と言う(語源に戻ると、大変)不穏当な用語のせいばかりでもありませんが、「神がかり」よりは、まだまともな考察です。

〇 箸墓造営論
 箸墓は、石積みで覆われたとして、倭人伝で、卑弥呼の墓は、「冢」、つまり土饅頭であり、巨大なものは作れません。考証の齟齬でしょうか。
 王墓造成には、まず、候補地を決めて縄張りし、一大土木工事、それも、未曾有のものを施行しなければなりません。
 当然、多数の労力を長期間動員するので宿舎と食料が必須です。それは、国家として保有している官人、食料庫の他に設けなければなりません。期間中に必要な石材や材木を倉庫に貯めねばなりません。などなど、厖大、広大な建設現場が必要で、国家の中枢を離れたところに設けるものです。
 つまり、墳丘墓は、国の王宮などから、相当離れた場所に設けざるを得ないのです。王宮は、南の飛鳥や北の平城京あたりとも思えます。
 一部に、卑弥呼は、筑紫で君臨していましたが、晩年に畿内方面に移住し、そこで没して、墳丘墓に埋葬されたという「奇説」を聞いたことがあります。(「奇説」は、伝統的用法であり、褒め言葉です。念のため

 素人考えですが、こうした異論をすっ飛ばすとは、松木教授は余りに太平楽ではないかと思われます。それとも、良い度胸をしているのでしょうか。

〇急遽否定された武力統一
 ここで、松木教授は、従来の「定説」を覆して、ヤマト王権は、武力統一なしの合意国家と言います。学界を揺るがしかねない大転換ですが、纏向派は、いつ、どのような論議を経て、転進したのでしょうか。

 文書のない時代、列国が対話、談合するとしたら、話す言葉は不統一の筈であり、どうやって意思疎通し、合意ができたのか、合意の文書記録をどのように残したのか、まことに不思議です。近隣同士なら、日頃の近所づきあい、口頭対話で折衝が進められますが、離隔していて季節の挨拶しかできなければ、当然疎遠であり、まして、往来しようにも片道数ヵ月かかっては、新年の挨拶も粗略になりがちで、いつまで経っても、ほぐれる一方で固まるはずのない天下です。
 いや、そもそも、当時の交通事情を想定すると、遠隔地の国と喧嘩することも、同様に困難なので、中国戦国時代の秦国の取った「遠交近攻」の政策が賢明なのです。文書通信があり、街道での往来が容易であった先進国でも、隣り合っていればこそ喧嘩して争うことができたのです。
 「合意」と称して諸公は騙せても、配下は国益を損なう合意に納得しないはずです。武力で威圧しなくては、手前勝手な契約を押しつけることはできないのです。
 古代、漢武帝が、西域諸国の服属を求めて、百人規模の使節団を各地に送り込みましたが、服属どころか、使節団を一度ならず皆殺しにして、高価な手土産を奪い取った例が珍しくないのです。武力無くしては「説得」できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」3/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 空疎な「広域」観 
 つまり、互いに十分知り合えない「疏」状態では、広域国家も広域連携も幻想であり、飾り立てても空疎です。最近まで、畿内は「野蛮な」周辺地域と交流がなくて平和だったとの説が聞こえましたが、空耳だったのでしょうか。

〇「倭国乱」の真意~後漢書「大乱」の放棄
 むしろ、健全なのは、倭人伝に「倭国乱」とあっても、実際に戦ったのではないとする見解です。これに対して、当ブログの守備範囲外ですが、記紀に多数見られる戦闘や殺戮の記事は、全て虚構というのでしょうか。

〇 「文化」「伝統」の蹉跌
 「文化」と「伝統」と言いますが、「伝統」は、先祖以来の氏族構成に従う「王位」継承を言うのであり、また、文字のない「文化」の融合などあり得ないのです。

〇 気象学「新説」の暴走
 続いて、突如、気象学ご託宣ですが、標本採取場所の気象災害は、妥当な見解でしょうが、広域災害を断じるのはどうでしょうか。
 ヤマト盆地が災害を受けにくかったとは不思議です。盆地は、降水量が少ないものの、東の山並みからの急峻な渓流で、多雨期には、出水、氾濫があったと推定されます。その意味では、大型建物を高床にしたのはもっともですが、一般人の住家は、どう水害対策したのでしょうか。
 いや、唐古・鍵遺跡のように、二世紀にわたって環濠が維持されていたとする見方は理解できるのですが、纏向に広域の環濠は見当たらず、用水路が目立つだけです。
 して見ると、近隣の唐古・鍵遺跡などの伝統考古学に基づく時代考証も必要ではないでしょうか。ヤマト盆地に、纏向しか無かったわけではないはずです。
 古道「山辺の道」は山腹を等高線で結び纏向扇状地に降りてないのです。巨大な湖沼の存在した低湿地が、次第に乾燥したのは、雨量が少なかったからではないのでしょうか。要するに、ヤマト盆地の時代推移すら、手軽に説明できるものではないと思うのです。

 因みに、余り語られないのですが、奈良盆地を南下して、吉野方面に進むと、冬季の寒冷は厳しく、纏向から赴いて越冬するのは、無理なのです。中には、吉野の高台に「吉野宮」を見る幻視客がいますが、高台で一段と厳しい寒冷地であり、纏向人は、冬季、屋内でも水がめが凍り付く気候に耐えられないと考えます。
 南に向かうと気候が温暖になると決め込んでいては、万事地図次第で、地に足の着いた時代考証が、根っからできていないのです。「歴博」は、土地勘一切無しで、地図上の線引きで迷走する事例が多発しているのですが、関係者は、誰も現地確認していないのでしょうか。

〇 天下中心幻想
 ヤマト盆地は、「交通の要」であったと言いますが、四囲を山並みで守られた「壺中天」(まほろば)という古来の見方は、どうなったのでしょうか。纏向付近の世界観であって、飛鳥や平城京付近は、山並みに近いので、隔離された感じはさほどではないかも知れませんが、いずれにしろ、全体として、固く閉ざされた環境と見た方が、当時の「まほろば」秘境的世界観として適確なような気がします。

 いずれにしろ、河川交通が無いに等しく、陸上交通も、街道網が発達していたとは見えないし、あったとの立証が試みられていない以上、壺中天が「交通の要」とは、 言いたい放題のホラ話のように聞こえます。言うだけなら、「自由」で「ただ」ですから、言いっぱなしにしたのでしょうが、公共放送の教養番組の場なのをお忘れなのでしょうか。NHKは、一切、番組内容を審査しないのでしょうか。

 大規模な研究組織に研究員が多数いれば、中には、自説で全組織を支配するような極端な思い付きを述べ立てる方もあるでしょうが、織全体で構築、維持してきた考古学理論全体の整合性は、吟味しないのでしょうか。
 古来、新説の99㌫は、思い付きだけで根拠を持たない「ごみ」説に過ぎないのです。長年の定説を転覆させるような「新説」は、千年に一度でしょう。

 「日本」の前史時代を終えた時代、河内側からの峠越えの物流が至難で、大和川遡行も不可能事であったので、淀川・木津川水運に至便の平城京を設営したのを見落としています。さらには、平城京建都の最中に、北の木津付近に水運に適した恭仁京を設営しようとしています。奈良盆地が、交通至便というのは、空文だったとわかります。

 どさくさ紛れにも程があって、纏向から大阪湾に通じる大運河などという極大幻想が出回っていて、その一点だけで空論とわかります。傾斜地に運河を設ける絵空事は、不可能事と明らかです。実験不要の自明事項です。また、当時の河内平野は、奈良盆地から流入する大和川と南河内から流下する石川が合流後直ちに分岐展開して北に流れ、安定した「水運」など不可能だったとみられます。

〇 東京一極集中の弊~時代錯誤依存症
 ここで、松木教授は、纏向は現代の東京のような「首都」と言い張ります。またも神がかったようですが、時代錯誤の塊です。
 現代の東京は、法治国家であって、統治機構が集中していて、企業本社が集中し、離島も含め遠隔地に及ぶ全国から、人材に加えてカネや資源が流入してくるのであり、別に自然現象ではありません。
 そのような現代社会機構と歴史の霞の彼方の古代纏向の仮想政権は、どこが共通でしょうか。不思議です。聞き役から、当然質問がありそうですが、台本にないのでしょうか。

 纏向には、当然、文書記録も法秩序もなかったのです。「国家」を運用するために財務機能はあったとして、通貨制度がないのに、どう計算して帳尻を合わせたのでしょうか。どこに、警視庁や高裁に相当する司法機関があったのでしょうか。法はなくても罪と罰はあったのでしょうか。とても、類推できるものではありません。

*首都の由来 2024/06/02
 「首都」の語義解釈もいい加減で、当時にあっては、と言うか、言葉として通じたとしても、精々大きい「街」に過ぎないのです。
 あるいは、各地に存在する「都」(まち)の、頂点に立っているに過ぎないのです。陳寿「三国志」魏志によれば、後漢末の混乱を経て、転々と天子の居処が移動したために「国都」が乱立したのを整理するために、雒陽が「首都」であると宣言した故事があるのですが、松木教授は、中国史に対して無教養なのでしょうか。
 素知らぬ顔で、現代語を持ち込んで、時代錯誤を引き起こしているのは、中国古代文書の教養に乏しい纏向説の論議に良く見ますが、それにしてもまずい手口です。

〇 「一都会」再現
 いや、現代語と言っても、若者言葉では、「都」は、大きな街(まち)の語感になっていると聞いています。俗に言う、「人、物、金」を、磁石が「鉄くず」を吸い付けるように集めているとも見えます。実は、太古、「都」とは、「人、物、金」が一ヵ所に都(すべて)会する集散地、「一都会」という意味だったようですが、いわば、言葉が先祖返りしているようにも見えます。

〇 王者葬列幻想
王の死にあたって、各地から多数が参集したといいますが、それほど多数の人間が、どのようにして、一斉に旅することができたのか説明がありません。どんな方法で告知して、期限厳守で出席を命じたのでしょうか。このような場合、遅参は死罪と決まっていましたから、何をおいても参集したことになるのですが、そのような「葬制」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、街道未整備で、従って、満足な宿舎はなく、宿舎がなければ食料や水はありません。現地調達としても、何を対価として賄い、物乞いせずに辿り着けると想定していたのでしょうか。焼き物のような器物は、町々の市での順送りで「一人歩き」して長距離移動しても、人は、日々何かを食べて、日々歩かなければなりません。そのような「犠牲」を、どんな仕掛けで押しつけたのでしょうか。

 三世紀当時、遠国からの参集者に過大な負担を押しつけないとしたら、各地の沿道では、公務の旅人には、無償で食事を与え、宿所を供じるとしなければなりません。どうやって、それを補償したのでしょうか。そもそも、太古、道の宿などあったのでしょうか。何しろ、遠隔地もあるので、沿道を通じて、そのような制度を維持するのは、当時としては、厖大な負担になるのですが、なぜ、負担を強いられて、反抗しなかったのでしょうか。

 三世紀に、国家制度の裏付けがある、宿駅の完備した古代街道が各地に通じていて、公務の旅人は、身一つで移動できた」と主張されるなら、是非とも証拠を示していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK「誕生 ヤマト王権~いま前方後円墳が語り出す」4/4 三訂

私の見立て ★☆☆☆☆ 粗雑な仮説の粗雑な紹介 誤報 2021/03/28  改訂 2021/07/23 2024/06/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇 虚構の葬列~絵空事で済まない考証
 いや、(予定していない)逝去で、急遽工事に着手しても、墳丘墓の造成には五年、十年かかるから、参列者の準備期間はあったでしょうが、遠隔地から、手弁当、つまり、道中の食料を背負ってやって来て、帰国の途は、どうしたのでしょうか。
 三世紀に、参集する人々一人一人を、そのような命がけの旅に駆り立てたのは何なのでしょうか。それぞれ、故郷では、そこそこの地位にあったもののはずです。何のために、何を求めて、半年、一年、家族を放棄して、異国に出向くものでしょうか。それでも、万難を排して生きて帰国しなければならないのです。

 これほど壮大な儀式を、手順書なしにしてのけるのは人間技と思えません。いや、番組ではCGによって軽々と壮大な儀式を描き出していますが、ご自分で手書きで、全人物を描き込んでみれば、絵空事を見せるのも、結構労力を要することがわかるはずです。各人が肉体を備え、故郷に家族のいる生きた人間であれば、絵空事どころではないのです。
 文献がなくても、各人の労苦は、容易に想到できるのではないでしょうか。

〇 「お墨付き」漫談
 ここで、纏向論者から「お墨付き」の比喩が出ましたが、文字も紙もないので、書き付けの「お墨付き」はあり得ないし、江戸時代ではないので武家諸法度などは無く、「お墨付き」には、何の裏付けもありません。「お墨付き」の類いの漫談は、そろそろ卒業して欲しいものです。いつまでも、留年を重ねて、すねかじりをされては、天下に迷惑を流すのです。

〇 「ネットワーク」漫談
 ここで「ネットワーク」なる時代錯誤が持ち出されます。聞き手の質問がありませんが、古代史論で何を言いたいのか理解に苦しみます。なぜ、問い返さないのでしょうか。聞き手は、たっぷり説明されて、丸ごと理解したのかも知れませんが、古代史に興味を集中している視聴者には、何もわからないのです。

 簡単に考証すると、「ネットワーク」のそれぞれの「節」は、送られてきた情報とエネルギーがあって生存できるのです。道路がなく文書がないと、全て、有能な使者の「野駆け」頼りであり、物品の輸送も、人手頼りです。と言うことで、「網細工」は実現できません。漁網であれば抜け放題です。
 要は、各地勢力は、まばらに点在していただけで、密接な連携などできたはずは無いという、冷静な理解が必要です。
 むしろ、「点と線」と、松本清張氏の名作のタイトル(著作権?)に抵触する、古典的な比喩が出てくるのです。古代史分野では、時代を問わず、「ネットワーク」は禁句にしたいものです。

 何がどうだったのか、皆目わからない古代の様相を描くのに、自分でも理解できていないカタカナ言葉を使うのは、二重の時代錯誤です。
 そんなたわごとは、少なくとも、古代史論議では、ご勘弁頂きたいのです。借り物の言葉は、早く貸し元に返して、自分の理解した言葉で語るべきです。自分のネタで漫談してほしいものです。

〇 華麗な画餅
 松木教授は、締めくくるように、見てきたような借り物の纏向絵図を持ち出しますが、ここまで丁寧に説いてきた考古学の道筋を無視して、怒濤の虚像を描くのです。ご自分で考証したのでもないのに、無検証、無批判なので借り物なのです。
 因みに、古来、「画に描いた餅」、「画餅」の比喩があります。空腹を抱えた身に、食べられない画餅は、ご勘弁いただきたいのです。いくら、きれいに描いても食えないものは食えません。まずは、ご自分で味見してから、視聴者に勧めたらどうでしょうか。

〇 冷静な時代考証
 最後に、横合いから良心的な意見が提示されて、巨大墳丘墓は、設計図が必須であり、設計図を駆使できる共通基盤が不可欠であるとしています。墳丘墓に実寸図面は使用できませんし、実現には、当時としては厖大な縮寸計算か、現場での作図が必要です。当然、幾つかの技術者集団が巡訪して、できる限り口頭で技術移管したと思うのです。もっとも、文字も紙文書も無い時代、「設計図」は、どこに書かれたのでしょうか。
 考古学分野で、実際のあり方を踏みしめていた森浩一師の実直な論議はどこに消えたのでしょうか。長年の纏向派の論議の基盤を覆す、掌を返すような転進は無残に見えます。

〇 古典派考古学希求
 ここまで控えていましたが、「纏向博士」と時に揶揄された石野博信師は、多年に亘る考古学学究から得た広範、多岐の遺跡、遺物に根ざした考察が根底にあり、確たる考察に裏付けられた信念を感じさせましたが、今回聞いた松木教授の歴史浪漫に漬け込んだ「浪漫派」論議は、浪漫溢れる巨大な「ヤマト王権」誕生の三世紀幻図に引き摺られて、理念無くして意見が動揺し、素人には信じがたいのです。

〇 無目的なブレゼンテーション
 それにしても、この番組を、一人舞台、独り相撲としたのは、誰に向けた提案(プレゼン)なのでしょうか。少なくとも、当方は、こんなメシは食いたくないと思うのです。
 ひょっとすると、過日の「邪馬台国サミット2021」で、不振であったことに対する「意趣返し」でしょうか。それなら、物量主義でしてのけた華麗な「プレゼン」でなく、検証と試錬を重ねた丁寧な論議が必要ではないでしょうか。それは、NHKが論じるべきではないでしょうか。

 善良な視聴者、納税者としては、「金返せ」と言いたいところです。
                                以上

2024年5月31日 (金)

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 1/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□総評
 今回の題材は、国立歴史民俗博物館松木武彦教授(日本考古学)(以下、歴博、論者との略称ご免)のご高説の紹介らしいのですが、記者の史観が混じり込んでいるか不明なので、見当違いな批判があればお詫びする次第です。

*全知全能幻想か
 論者の専門は国内考古学で、普通、(日本)列島内遺跡、遺物に関するご高説と思いましたが、堂々と「世界史的激動」であり、圏外かと危惧します。

 記者の言葉ですが、「当時、寒冷化で地球環境が悪化し、世界的にも大転換期だった」と時代錯誤の神がかりが述べられ、失礼ながら、「当時」の列島内遺跡、遺物にどう露呈しているか不思議です。論者の提言かどうかは別としても、とんでもない空想がかたられているという印象を禁じ得ません。
 素人目には、法螺はほどほどにしないと信用をなくすと言いたいのです。

□誤解招く「世界」通観の書き出し
 そのあと、豪快に世界史通観ですが、首を傾げっぱなしです。論者が博識を披瀝しても、説明は概してずさんで、日本考古学には的外れでしょう。世界」的と大風呂敷を広げたものの、南北アメリカ、アフリカ、そして、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸、等々には何も触れていません。言わずもがなで不可解です。

 そのあと、「東夷が漢墓制を真似た」と急に重箱隅になり不首尾です。「漢」でも大規模墳墓に豪華副葬品を収めた皇帝もあれば、文帝のように薄葬を命じた皇帝もいます。漢を中原政権と捉えるなら、魏創業者曹操が後漢皇帝墓の盗掘を目撃(実施)したことから、薄葬を遺命による国是とし、墓所は秘匿されたので、東夷が真似ようにも真似られなかったのです。

 いやはや、杜撰のてんこ盛りです。言わない方が良い余談です。

*世界崩壊の津波の余波
 「秩序が崩れて集団間の競争が激化しました」と無責任に言い放つのですが、どの世界、いつの話で、それは、どのような遺跡、遺物で立証されるのでしょうか。それとも、ただのほら話、「冗談」なのでしょうか。

 論者は、神がかりの筆致で、当時、つまり、紀元四世紀あたりの「世界」を描写し、それが、列島に影響を及ぼしたと言いますが、列島の地域支配者が、ヨーロッパ等の状勢は論外として、中原墓制の変化を知り得たか不思議です。
 まして、列島に及んだ余波の結果、銅鐸が廃棄されたというのも、意味不明です。何か、廃棄儀式の能書きでも発掘されたのでしょうか。

*破格の論議
 『「劇的」な変化が連続しておこった』とは、世にも不思議な言い回しで、「大状況」も、「状況」の意義を錯誤の上に、何を「大」と言うのか不可解です。

*ご冗談でしょう
 全体として、「ご冗談でしょう」です。脈絡のないほら話は、逆効果です。記者は納得したのでしょうが、歴博の日本考古学とは、根拠も何もないまま、素手でこのような夢想を紡ぎ上げるのが専門なのかと言いたいところです。

■解答なき問題
 ここで、読者に問題が投げつけられ、意味不明で解答がないのです。
 「世界」が、現代語の全地球、全宇宙なのか、戦国時代の「天下」なのか、盆地世界に閉じ込められた井蛙の井戸なのか、意味が不明では、凡人には応答できません。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 2/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*墳丘墓巨大化術の楽観と達観
 論者は、大規模な墳丘墓は在来の封土、土饅頭を大きくしただけだから、在来技術の延長線で施工できたとあっけらかんとおっしゃいますが暢気すぎます。
 二㍍の墓は近所の寄り合いでできても、二十㍍の墓を地区全体で、大勢でよってたかって作るには、縄張りやら線引きやら、工学的な指図が必要です。親方一人で仕切れず専門集団が必要です。二百㍍の墓は、それこそ、近郷近在以遠を駆り立てて数年にわたる大事業で、高度な政治的指導力が必須です。高度な理数概念を駆使した本格的技術集団が必要です。とても、とても、素人の成り上がりではこなせません。長年にわたって集団を維持するためには、世襲工人集団となります。
 「土は盛りやすい」と楽天的ですが、盛りやすいと崩れやすいのです。墳丘墓が巨大化すれば災害も巨大化し、とても、素人にはできないのです。

*拡大の算術解
 規模が拡大すれば、どこかで、単純な拡大主義は、大きく破綻します。
 二十㍍墳丘墓は二㍍の十倍でなく、資材所要量は、数百倍に上ります。
 二百㍍墳丘墓の資材所要量は、二㍍の数十万倍から百万倍に上ります。資材所要量と所要労働力は、ほぼ比例関係であり、資材と労働力が大幅に増大すると、工事現場への輸送距離、人員の移動距離が、それにつれて急激に増大します。

 厖大な人員の宿舎が必要になり、食糧供給も厖大です。いくら生前着工の寿陵で、自身の采配で、計画的に十年は越える長期の巨大工事ができても、その間の国政は、維持しなければならないのです。
 かくして、為政者には超人的な行政手腕が求められたはずですが、各地で、代々受け継がれたという事は、それを支える職能集団が列島に采配を振るったという事のように思うのです。
おそらく、文字教養どころか、理数教養まで備えた外来の集団が、当時の各地に「文化」を齎したものと思うのですが、歴博の日本考古学は、そのような考えをしないことにしているのでしょうか。文化は、人が言葉と行いで伝えるものであり、風に乗って漂い来るものではないのです。
 論者は、まさか古代史を坦々たる上り道のように見てはいないでしょうが、こう簡単に見ただけでも、凄まじい、険阻な先上がりが見えてきます。俗に右肩上がりと言いますが、自然界には、これほど上がる肩はないのです。

*不可解な階級指標
 次いで、当時、列島に「中国風」の絶対的な階層社会がなかったと認識しながら、広くゆるやかな階層構造があったとしていて、意図不明です。自認しているように、層は不連続で層間に仕切りが入ります。
 文書のない世界で、そのようなきめ細かい階層をどう規定し、運用していたのでしょうか。階層が一段上がれば墳丘墓の各部はどう変わり、どのように施行され、どのように測量したのでしょうか。
 歴博の日本考古学は、衛星軌道から地上を観察しているようですが、伝統的な考古学のように、地を這い、なめるようにして大地と対話して地道な考察をしないのでしょうか。

*見えない規模格差
 階層の具体像が不明なまま、そのような階層構造であったため、階層の規模を明確に視覚化するために、頂点たる「王墓」が巨大化したとしています。
 どうにもよくわからないのですが、冒頭に記者が指摘しているように、現代のビルから見下ろしても、王墓の形態や規模は正しく認識しがたいのです。当時、ある土地と別の土地の墳丘墓のどちらが、どれほど大きいのか、構造が どう違うのか、誰が認識したのでしょうか。墳丘墓施工で、どうやって、各部「設計寸法」をきめ、実際に確保したか、不明です。

*時代錯誤
 当時の「国防」を推定していますが、論者専門外の朝鮮半島で不思議な言動があります。「山域のネットワーク」とは、時代を超えてローカルエリアネットワークでも形成していたというのでしょうか。

*巨大化の動機付け
 「大きいことはいいことだ」的感情が巨大化を促しても、厖大な労力と資材で、身の程を知っていたと思わなければ、当時の人々の無分別を根拠なしに蔑視することになるのではないでしょうか。
 家畜の首の鈴が巨大銅鐸に、小振りな銅鏡が直径四十㌢の巨大鏡に化したと言いますが、銅鐸はとうに廃棄したはずで、時代錯誤のご都合主義と見えます。このような安直極まる、子供じみた類推をおもてに立てるのでは、折角の学術的展開を一気にぶち壊す蛇足です。
 続く「中国にはない」とは、文化を知らないものの「蕃習」という自嘲表現でしょうか。

                                未完

新・私の本棚 番外 「今どきの歴史」 2019/07 不思議な視点と視覚 3/3

私の見立て★★★★☆ 但し、ホラ話は除く          2019/07/24 補追 2024/05/31
百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 「最辺境」社会の合理性

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

■「東アジア最辺境」の悲劇
 ここで、東アジア最辺境と、時代錯誤の錯辞が出て来ます。
 当時、「アジア」を認識していたものはいないから「東アジア」は錯辞であり、最辺境と言うには、中心、周辺、辺境、最辺境の階層が前提と思われますが、何も説明もないので不可解なだけです。論者の「生徒」は知っていても、一般読者には耳慣れない呪文で、記者が絵解きしなければ、論者の意図が伝わらないのです。報道の者の責務ではないかと考えるものです。

*結語の美
 論者は、記者の前振りに続いて、結語に入ります。
 「文字が本格的に使われておらず」とは、墳丘墓被葬者の視点でしょうか。
 一瞬、めまいに襲われて、戸惑います。「本格的」が律令時代とすると、古墳時代は、何だったのでしょうか。
 論者の言い分で大変もっともなのは、後世人の浅知恵で「合理性」を難詰するのは時代錯誤の錯辞であり、当時の関係者は、時代なり、統治者なりの合理性の最大限の発露として墳丘墓を築いたとの卓見です。

 当時、論者も自認するように、文字がなかったので、中国文化圏の事象として「文化」と呼ぶのは、不勉強丸出しで、不出来ですが、兎に角、『墳丘墓に表現された当時の為政者の理念は、現代語で言う「世界」に誇りうる「文化」である』というのが論者の結論であり、圏外情報の素人くさい前振りで、論者の知性を疑われるような愚は避け、ご自身の錚錚たる学識の核心を披露いただければ、これ以上の知の饗宴は無いと思うのです。

*急転の没落
 いや、折角の結語で、東アジア全体の墳丘墓制が、世界に類のない遺産であると言いながら、全世界を足蹴にするように「人類が二度と持つことのない文化」などと、今後の人類文化の展開に呪いをかける言葉を吐き捨てていて、椅子からずり落ちるのです。ご両人とも、気は確かですか。
 続く記者コメントは、論者の負の遺産を背負って、反知性的な夜郎自大放言で、論者の論考の足を引っ張るのです。
 古代人は、古代人の知りうる世界情報をもとに、最善、最高の合理的事業を行ったのであり、現代人にも知り得ない「残る全世界」の賞賛を押しのけないものであって欲しいのです。

*まとめ
 論者の展開した論考は、日本考古学」の圏外から論拠不明の憶測を述べて、学術的に無法であるとともに、一般読者に対し、誤解を与えるものになっています。歴博は、メディア対応を論者一辺倒にしているのを排して、愚直に学術的な見解を提示できる方を人選して、人を変えた方が良いのではないかと愚考します。
 記者は、論者の展開した論考を、十分咀嚼できないままに、自身の未熟な知性、語彙をなすりつけて、贔屓の引き倒しになっています。
 折角、適確な結語に到着していながら、論者が、夜郎自大な感慨を吐露したのは大変勿体ないところで、記者が大人の分別で適確に舵取りしなかったのが惜しまれます。
 港に入って船を割るのは、水先案内人の不手際です。

*蛇足
 風評の類いですが、巨大墳丘墓は、権力者が圧政を敷き、「奴隷同然の強制労働」を課して次々に完工したとの見方が囁かれています。論者は、当時の権力者に妥当な合理性があってこれだけの大工事を成し遂げたと弁護していますが、説得力に欠けているように思われます。
 私見では、当時の税制として、収穫物の貢納、産物の貢納以外に、労力の提供が唱えられていて、権力者は、公共の土木工事に民衆を動員する権限を有していたのですが、もちろん、農作業に支障を来さない合理的な動員期間はあったでしょうし、メシと寝床は支給したでしょうから、それは、「奴隷同然の強制労働」 などではないのは明らかです。 農民を酷使する権力者は、いずれ、打倒されるものです。
 考古学者は、必ずしも当時の権力者の合理性を弁護する必要は無いでしょうが、世界遺産に登録する上では、黒い疑惑は糺す必要があるように思えるのです。「いたすけ」古墳が、公然と、益体もない現代遺物であるコンクリ橋を、世界遺産の保存対象にしているのと並ぶ「汚点」でしょう。

                                 完

2024年5月28日 (火)

私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号 1/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 今晩、当記事筆者から、丁寧な補足説明があって、当記事を読み返したのだが、ブログ記事の通例で説明が急ぎ足になって、ご迷惑をかけたように思える。読者諸氏は、何度でも、読み返すことができるので、落ち着いて再読いただきたいものである。
 また、提供頂いた資料の所在情報等は、編集部が検証していると信じるので、不鮮明であれば、それは編集部の責任なのである。いや、同誌の編集部は、安本美典氏の薫陶を得て、論文誌の任にあたっていると信じるので、特に明記しない限り、批判されているのは、編集部である。

 つまり、当分野の最高峰の専門誌で論文審査されたうえで掲載されているから、編集部、就中(なかんづく)、安本美典氏の指導があったと思って、少しきつい言い方をするが、筆者たる笛木氏を責める気は、さらにないのである。笛木氏に、ご不快の念を与えたとしたら、お詫びする。

⚪お断り
 当記事は、論文と言うより、史料探索の体験談であり、批判するのは、著者の意図に反すると思うのだが、季刊「邪馬台国」と言う、一流媒体に掲載されているので、色々批判を加えても、了解いただけると思うのである。

 著者は、本記事において、あたふたと諸般の説明を書き連ねているだけで、読者には、混乱した印象しか残らないのである。各資料に関する情報が再三書かれているが、出所によってばらついているようで、決定的な説明が読み取れないのである。いや、同誌編集部がこれで良しと判断したのだから、筆者に文句を言う筋合いはないのである。この点、著者にご不快の念を与えたとしたら、深くお詫びする。

本記事が、不完全なものに終わっていると感じる理由の一つが、本記事著者の抱負に反して、資料写真の転載が2点にとどまっていると言うことである。しかも、掲載されている写真が、紙面から文字を読み取ることすらできないと言うことである。
 率直に言って、当記事を掲載するのは、かなり時期尚早だったと感じるのである。
 堅苦しい法的な議論は、次回記事に譲るものとする。その部分に意見のある方は、そちらに反論して欲しい。

 法的な議論が必要と思う背景として、行政府の一機関である宮内庁書陵部提供の三国志紹凞本写真画像に対して、(C) 宮内庁書陵部と著作権表示しているサイトがあって誤解がまき散らされている事例がある。同サイトだけ見ていると、宮内庁書陵部が(不法に)権利主張していると見えるのである。

 同組織は、国民全体に研究成果や所蔵文化資産を提供する任務を課せられているのであり、同資料については、盗用、悪用を防止するのが肝要、本務であって、組織としての著作権を主張して国民の利用に制約を加えることは、本来許されないのである。

 これは、地方公共団体が運営している組織についても同様であるし、また、各大学は、全て研究成果を国民に還元することを主務としているから、こちらも、不必要に所蔵文化資産を秘匿してはならないのである。

 現に、地方公共団体の外郭団体である台東区立書道博物館は、当然のこととして、所蔵資料の写真転載に同意しているのである。公共機関が、所蔵品の写真について非公開を主張するのは不法であるから、妥当な判断なのである。当該機関は、公的資金で運用され、成果を公共に供するのを最大の使命としている。ただし、区立「博物館」として、運営に要する資金に対して、利用者の応分の「寄附」を求めるのは当然であり、それは、営利事業として収益を求めているのではないのでご理解頂きたいものである。

 以上、ことさら固い口調で述べたが、時に、そのような理念を無視する例があるので、再確認しただけである。もとより、同誌編集部は、そのような事項は知悉しているはずなので、笛木氏が孤立しないように支援していただきたかったものである。

 それにしても、中世や古代の史料写真が、現代の著作物であるなどと言うのは、確認不足による誤解である。

以上

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私の本棚 41 笛木 亮三 「三国志の写本検索」 季刊「邪馬台国」 128号  2/2

 季刊 「邪馬台国」 128号  2016年2月  2016/03/08  補足 2021/07/14 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⚪補足の弁
 当記事は、笛木氏の記事で、各管理者が示した否定的な見解の法的根拠を模索したものであり、笛木氏の見解を批判することを目的としたものではない。いわば、当誌編集部への公開質問状であるので、もし、笛木氏初め、関係者にご不快の念を与えたとしたら、お詫びする次第である。

⚪私見のお断り
 著作権などの権利関係についての私見を以下に示すので、よろしく、ご検討いただきたい。
 なお、当ブログ筆者は、別に弁護士でもなんでもないので、ここに展開した議論の当否は、最寄りの知財権専門の司法関係者の確認を取っていただきたいものである。
 当記事を根拠に行動されても、当ブログ筆者の関知するところではない。

 当ブログ筆者の知る限り、「三国志」写本に関する著作権は存在しない。
 「三国志」写本の写真に関する著作権も存在しない。

*三国志の著作権
 史料の原典である三国志は、三世紀後半の著作物であり、著作権を主張できるのは、編纂者である陳壽と思われるが、没後千年年以上経っているので著作権は消滅している。
 三国志を写本するという行為は、既存の著作物の複製行為であるので、新たに著作権が発生することはない。いや、発生したとしても、とうに著作権は消滅している。
写本の断片は、せいぜいが既存の著作物の一部分であるので、それ自体が新たに著作物となって著作権を発生することはない。いや、発生したとしても、写本時代は、とうに一千年は過ぎているので、著作権は消滅している。

 つまり、三国志写本は、すべて人類共通の公共的知的財産になっている。

 既存の著作物の写真複製はたんなる複製行為であるので、撮影された写真に新たな著作権が発生することはない。
 ということで、三国志の写本の写真の著作権、つまり、知的財産としての権利は、消滅している。
 著作権が存在しない資料に関して、著作権を主張して資料利用に制限を加えるのは、違法であることは言うまでもない。

*その他の権利
 写本の断片は、現在の管理者が、何らかの対価を払って購入したものであるか、寄贈を受けたものなので、管理者の個人的財産であれば、これを公開するか、秘匿するか、あるいは、有償または無償の契約を結んで、限定された対象者に開示することは、管理者の権利の範囲である。要は、世間に見せるかどうかは、管理者の勝手である。
 「限定された対象者」が、管理者と二次的な公開をしないとの契約を結んでいるのであれば、「限定された対象者」は、二次的な公開を禁止されているものである。
 と言うことであるが、展覧会図録などに資料写真が掲載されていて、そのような図録が書籍として流通していた場合、書籍の購入者は、別に管理者と契約しているわけではないので、図録制作者が管理者者と結んだ「二次公開しない」との取り決めに拘束を受けることはないと思われる。
 また、管理者は、一旦、資料の写真図版が図録に掲載されるのを許可した以上、図録を正当に入手したものが、掲載されている写真図版を自身の論考に転載したとしても、これを法的に規制することはできないものと考える。

 そもそも、史料写真を掲載した図録を販売するのを許可した時点で、購入したものが掲載写真を資料として引用して、独自の論考を執筆することを許可したものと見なすべきではないか。資料出所を明記することは必須である。
 まして、図録の写真図版を、何らかの手段で複製した場合、写真図版そのものの転用ではないので、厳格に規制する権利はないものと考える。
 まして、写真図版から、文字情報を取得した場合、そのような文字情報の利用を制限することは不可能と考える。

 それにしても、資料そのものや精密なレプリカなら、何か権利を主張しても、ごもっともという人が出るだろうが、単なる外観写真について、しつこく権利を主張するのは、どういうことだろうか。「肖像権」と言うつもりなのだろうか。
 いや何、出し惜しみするような秘宝は持っていないので、肩肘張って言えるのである。

以上

追記:当誌上で、中国に於いて、正史の写本は、草書体で運用されていたに違いない、何の物証も無しに主張する論客が登場して、編集部のダメ出しがないまま、堂々と掲載されていたから、そのような勝手な思い付きを公開する不都合を、機会ある毎に言い立てているのだが、笛木氏の検討によれば、草書系資料は、ここには含まれていないということである。
 当ブログ筆者が、誌上写真や図録掲載の高精細度写真を見た限り、「草書」は見当たらないのである。

 当該「フェイクニュース」は、早々に排除されるべきだと考える事態である。

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新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 1/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢はじめに
 本書は、新人物往来社が、斯界先賢の寄稿、ないしは、刊行物引用によって、特集テーマに関する総合的な定説構築を図ったものと見えます。「臨時増刊」特集各号は、古代史関係で多数の好著を輩出し貴重な情報源となっています。この点、星五つ、本特集も同様、賛嘆置く能わざる、と言う感じです。

◯石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」
 当稿は、目下審議中の「倭人伝」行程道里論、特に、『半島陸行に対する「和船史研究家」石井謙治氏の否定見解』に対して、石井氏が、ご自身の豊富な学識に背くように専攻分野中心の偏見で史料解釈しているのを捉えて異論を呈するものです。
 「魏志倭人伝」記事考証で「日本列島と大陸間」と述べていて、素人目には、地理概念の調整が必要と見えます。九州北部から半島内陸の帯方郡への経路が問われるのであり、殊更難題を拵(こしら)えて解決を困難にするべきではないのです。

*技術考証
 当時の船体の技術解明において、六世紀前後と見られる大型「複材剥舟」遺物は、所詮、倭人伝の三世紀後であり時代考証不適当と見えます。
 同誌には、三世紀から五、六世紀にかけて造船技術の進歩がなく、むしろ後退したとの憶測が説かれていますが、その間「大陸」交流が断絶したわけではないので、長期の技術停滞は信じがたいのです。
 その後、準構造船考察と国内史料依拠の七、八世紀軍事作戦の裏付けを進め、勢いがありますが、三世紀の渡海船構造談義と大きく隔絶しているのです。

*大軍派遣の「考証」
 例えば、斉明四~五年(658~9)の軍船180隻(艘)蝦夷出兵、天智元年(662)の軍船170艘百済派遣、天平宝字五年(761)の新羅侵攻作戦用394艘造船」と巨大な数字が連発されますが、架空のホラ話の感が否めないのです。どのように派兵計画を構想し、関連工事を推進し、兵員を呼集し、派兵を実現したとして、以後船体はどう活用されたのか、「画餅」でなければ、首尾一貫して記録するものではないでしょうか。
 誰かが基本構想を立て、誰が、全体図から明細図を書いて各担当部隊に配布し、そのような広大で込み入った造船計画を統御したのか、人材育成、技術移管の面だけ見ても、大変疑問が残ります。
 ということで、以上は、書紀編者が筆を嘗めた虚構と見えます。これだけの字数を書き立てるのに、別に、汗一つ書かなかったでしょう。
 八世紀末の平安京遷都後には、要地の造船所に所定の技術者が配置されたでしょうが、「ローマは一日にして成らず」の成語通り、所望の予算を継続して費消しても、体制作りには、五十、百年を要すると見えます。

*時代背景考証の試み~素人の素人考え
 そもそも、7世紀中葉とされている、北関東から発して直近とみえる「蝦夷」征夷に多数の軍船を催すのは、小振りの沿海船行なら、「画餅」と言っても「一口小餅の盛り合わせ」の類いとみえ、見かけ倒しとみえます。相手とみえる「蝦夷」は、当然、多数の軍船をもっているわけではないと見えるので、船戰(ふないくさ)はないから、兵員の陸上移動が困難な事情があったのでしょうか。何とも、趣旨不明、不可解です。どの道、現地で軍務を行うには、大量の食糧補給が必要であり、兵員を送り込んでも、戦にならないと思われます。

 これに並行したとみえる7世紀中葉の百済への軍船派遣は、元来、筑紫の専任とみえますから、別に、北関東方面と別ですから、好きなだけ盛ることが出来たとしても、せいぜい、乗員、兵員合わせて数十人止まりとみえ、麻布、麻縄を大量に造作したとして、何をしに百濟に出向いたのか奇異です。百濟は、黄海を隔てて先進の中國造船業を利用可能であり、大型の帆船を調達することが出来たので、なぜ、交通不自由な南「馬韓」を越え、さらに、未通の海峡越えで、わざわざ小振りの倭船を求めたか不思議です。加えて、高句麗、新羅が敵であれば、陸戦勝負が大勢とみえるので、ひ弱な倭船は、ますます出番がありません。
 新羅とは、三世紀辰韓斯羅国時代以来交流があったとみえますが、弱小な蕃国と見下していたとしても、侵攻談議の出ている時代は、嶺東統一後の新羅であり地域最強とも言える軍事大国であり、黄海岸では南北大国を押しのけて、楔を打ち込むように海港を確保していたのであり、もはや、気軽に征伐できる相手ではなくなっていたのです。
 して見ると、百済派遣から百年を経た今更、わざわざひ弱な軍船を造成して侵攻するなど、無謀とみえるのです。計画倒れで、造船、徴兵を中止したのは、天の恵みとみえます。
 以上は、当ブログ筆者にとって、圏外の時代なので、素人くさい思いつきを連ねているのではないかと恐縮ですが、氏は、和船専門史家の務めとして、同時代の時代考証を行い、大計画群が砂上の楼閣か、実質の裏付けがあるか、論考の必要があると見受けます。

◯倭人伝行程道里考察~誤解釈の確認
 氏は、中国史書である「倭人伝」の読解に於いて、ご自身の専門分野の領域拡大のために勝手読み(誤解釈)していると見えます。

 後世の遣唐使船が、ある時期から冒険航海になったのを見て、『それだけの造船技術があったのなら、「北路」は半島西岸沖合航路であった』と決めつけて、ついには、『堅実確実な半島内陸行程と目前の山東半島への軽微な渡船とみえる「新羅道」』まで遡って、同様の冒険航海と決め付けるのは、時代錯誤の牽強付会(誤解釈)です。

                                未完

新・私の本棚 石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 再掲 2/2

石井 謙治 「古代の船と航海の歴史」 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」新人物往来社 1994年9月刊
私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*遣唐使新羅道談義
 新羅道は、半島東南部の王治慶州(キョンジユ)から北上し、小白山地を竹嶺で越えて、西に黄海岸に降り、漢江河口部南方の通称唐津(タンジン)海港を経た山東半島渡航の途次であり、慶州~唐津間を要所の驛亭を経る陸道としたのに拘わらず、氏は、西岸沖合航行と決めてかかっています。
 半島史素人にも、第三次遣唐使時点、西海岸は概して百済支配下でしたが、肝心の漢江河口部付近は、新羅が戦い取っていて、海港を設けていたと窺えます。つまり、西海岸沖合航行で百済領に寄港する行程なら「新羅道」と呼ばれることはないのです。

 因みに、半島西海岸中部から「大陸」に渡るには、海上行程の短い漢江河口部南方が唯一の適地であり、それ以外の土地からの渡海は、行程が長期化するため、不可能だったのです。あるいは、山東半島側には、新羅公館が設けられていて、百済船の入港を武力排除していた可能性もあるのです。いずれにしろ、当時、同航路は、新羅の独占、排他状態であって、新羅は、頑強だったのです。尤も、遼東半島との往来は、依然として、高句麗が頑健に死守していたので、港湾は、新羅、高句麗の「呉越同舟」だったともみえます。

*新羅の国威の根源
 新羅は、古来、南下する高句麗とこれを排除する百済との武力の狭間を、多大な犠牲を払ってこじ開けて自国領を確保し、中国に認知されるに至ったので、独占した海港の権益を損なう試みには断固実力行使したはずです。

 と言う事で、丁寧に時代考証すると、氏の唱える北路観は間違っています。氏は、慶州唐津間行程が陸上街道では、唐津から山東半島渡海船は、新羅船であり、和船の出る幕が無いので、意識外にしたようですが、先入観に囚われた論考は勿体ないものです。南方からの和船参入はあり得ないのです。

*沖合航行談義
 因みに、氏の「北路」は、特に難路ではないので、航路に熟知した現地「パイロット」(操縦士でなく水先案内)を想定していますが、当然、航路全般に通暁した案内人はいないので、寄港地毎に案内人が交代したはずです。これは、港港と「条件交渉」すればいいので、地元は、入港料や水、食糧の補給代に多額の関税もあり、商売として成立すれば維持できたはずです。
 結局、出発地政権と新羅、百済両国の関係を、「日鮮関係」と時代錯誤の概念で括るのは随分粗雑です。主として、百済と新羅の怨恨でしょう。

◯百済新羅抗争
 古来、漢江河口部に在ったとされる百済の王治漢城ですが、高句麗の南下攻勢で漢城は陥落し、王族は全滅して、百済は亡国で要地を奪われたため、百済は南遷して、旧都回復目指し反撃角逐していたところ、東方嶺東の僻地から興った新羅が、小白山地越えで貿易最適地を奪ったので、百済は再度の失地回復を国是とし、南部でも小白山地を挟んだ新羅との東西紛争であり、和解はあり得なかったのです。

*「北路」航海記欠落
 氏は、遣唐使記録に「北路」航海記がないと歎きますが、新羅道陸行は、新羅使随行の臣従の体で、とても、実態を書き残せなかったのです。
 氏は、天平八年(736)の遣新羅使の半島東海岸への航海記を提示していますが、近隣外洋航海と見受けます。恐らく、筆者、読者ともども、内陸住民で海を知らなかったため、ことさら感動、特記したのでしょう。

◯まとめ~半島内陸行の裏付け
 と言う事で、新羅慶州から漢江沿岸部の海港唐津への陸道は、倭人伝時代以来、確立された公道で迂遠で危険な沖合航行はなかったのです。
 これは、帯方郡から狗邪韓国まで「陸行」』の当然とは言え、強力な支援です。
 氏にしたら、新羅道陸行説は、不倶戴天の敵、すなわち「天敵」なのでしょうのが、結果として、倭人伝」行程道里解釈の順当な解釈を妨げ、国内古代史解釈に長く暗雲を投げたので、まことに罪深いのです。
                                以上

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 補充 1/3

古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店        2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16, 11/10 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

*コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでない、と見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

*当ページのまとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に異を唱えるものではない。また、担当部門から示された「御国自慢価値観」について批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           続く

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 2/3

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16 2022/11/10

*関連資料評
Ⅰ.古代の宮都 (奈良県立橿原考古学研究所)
「飛鳥の宮」 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。

*コメント
 「宮都」は橿考研造語ではないが、中国古典書に出典が見当たらず、「宮室」「都城」の解釈に「和臭」が漂って「定義」が不明瞭である。

 「宮室、都城」と言うが、それぞれの単語の意義が吟味されていない。「宮室」は「宮」の一室でしかない一方、「都城」は隔壁集落の一形態であり特段の機能を示していない。つまり、当該政権支配者の居処とは見て取れない。「都城」の「都」に、天子の権威を見たくても、中国古代史で普遍的に支配的な解釈とは見えない。

 要するに、折角の絵解きであるが、大小長短に差異のある二概念を一括りにして何かを示すのは、学術用語として大変不可解である。

 案ずるに、諸兄姉は、「京都」なる中国語成句が、国内史では平安京に固く連結しているので、同義と見た「宮都」に回避したのだろうが、検討不足と見える。

 要するに、素人目には、「宮都」は、(中国)古典書に確たる用例の無い、国内史学会自家製「新語」、手間味噌造語と感じたが、素人ならぬ中国史学界の権威から、別途異議が提示されているので、続いて紹介する。

 なお、この「新語」は、三世紀に対して不整合であるが、この点は別義とする。

*「物々しい造語」の空転
 それにしても、「支配力の絶対性を象徴する」とは、物々しく、意味不明な概念であり、なぜ普通の言葉で言えないのか不審である。何か、業界の申し合わせでもあるのだろうか。
 「宮都」を根拠として「政権」が確立して、「支配範囲」に対抗者がなければ、自然に「絶対性」が見えるが、所詮、「支配範囲」の外は保証の限りでない「井蛙」の世界観である。但し、善悪の評価は別義とする。

 端的に言うと、藤原京、平城京、長岡京時代に続いて千年を閲した平安京時代のどのような状態を指して、「宮都」というのか、少なくとも、素人には大変不明瞭である。まして、
 論じる時代の「世界観」の等身大、同時代の理解がないと、いかなる比喩も空を切る。それには、不当な造語を、何としても避けるべきである。
 当記事筆者の勝手な「意見」を、諸兄姉に返させていただく。

                                未完

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 3/3

古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店        2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16, 11/10 2024/05/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*関連資料評
Ⅱ 唐長安城および洛陽城と東アジアの都城 王仲殊 中国社会科学院考古研究所
 掲載誌 東アジアの都市形態と文明史 巻21 ページ411-420   2004-01-30
 中国古代の長安や洛陽などの都は「都城」と称されるが、1960-70年代に日本の研究者は改めて「宮都」という用語を作り出し、これを以て日本の藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ぶ。80年代以降、一部の研究者は、日本の都が一貫して羅城をめぐらせないので、「都城」という用語をそれらに使えないと主張し、専ら「宮都」の用語で藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ばなければならないと強調している。
 ところが、『日本書紀』の記載によれば、天武天皇十二年(683年)十一月に「凡そ都城・宮室は一処に非らず、必ず両参を造らむ」という詔がある。又『続日本紀』桓武天皇延暦三年(784年)六月の条に「都城を経始し、宮殿を営作せしむ」という記事もある。つまり当時の日本の朝廷の規定により、藤原京・平城京・長岡京・平安京などの都がすべて「都城」と呼ばれるのは疑いもない事実である。それゆえ、「宮都」という新しい用語に慣れない私はやはり、中国の長安・洛陽などの都城と同様に、日本の藤源京・平城京・長岡京・平安京をそのまま「都城」と呼ぶことにする。

*コメント
 時制が不確かであるが、要は、王仲珠氏見解は、国内史家の言う「宮都」は古代史用語として「不適切」ということである。言い回しは柔らかであるが、其の実は、決然たる否定と見える。

 因みに、「羅城」を巡らしていなければ「都城」と言えないというのは、恐らく、「国内」基準であり、素人目には、根拠不明の強弁と見える。中国基準では、「國邑」は、城壁で囲まれていなければならない、つまり、そうでなければ、侵入者を排除できないので、生存できないというのが当然であるが、「倭人伝」は、倭人の國邑は、必ずしも城壁で囲まれていないと認めているから、上記は必須ではないのは明らかである。

 その点を、王仲珠氏は、国内史料を参照しつつ指摘しているのだが、国内史学界は、頑冥で耳を貸さないようである。

◯本件総評
 正木氏が、本稿で提示された「卑弥呼の宮都」は、率直に言って、国内史学界に巻き込まれて迷走しているようである。
 まず、本件は三世紀記事で在るから、時代相応に、つまり、中国史学用語で解釈すべきである。
 世上、「倭人伝」で、「女王之所都」は「女王の都とする所」と解されているが、正史「倭人伝」で東夷蕃王「都」は場違いであり、「女王之所」が妥当である。「宮都」自体、二十世紀に発明された六世紀対象の造語で在るから、当然、三世紀に波及できない。また、卑弥呼居処は、「都城」であったと証されていない。

 種々考察したが、卑弥呼「宮都」は、二重の錯誤である。と言うことで、正木氏が採用した「卑弥呼の宮都」と言う言葉は、重ね重ね不合理であり、総じて撤回された方が良いと思うものである。理由は、以上で説明を尽くしたものと思う。

*用例批判
 参考までに、「中国哲学書電子化計劃」検索で、「宮都」らしき用例は、二例である。
 用例が「あるではなないか」と声がありそうだが、古典書以来僅か二例で、しかも、正史でなく権威の乏しい文献であるから、三世紀時点には、典拠として起用されていなかった証左である。

 一例目は、とかく疎漏の目立つ「御覧」所引であり出典正史に見当たらない。出典があれば用例となるから、出典不明なのは「御覧」でしばしば見られる空引用の証左である。
《太平御覽》 《咎徵部三》 《風》
《陳書》曰:陳文帝天嘉三年…[改行]又曰:天嘉六年…[改行]又曰:后主至德年…明年,陳亡[改行]又曰:隋文帝開皇中,宮都大風,發屋拔木
 「御覧」所収「陳書」に、後世の隋文帝記事があるのは、ここでは批判しない。隋文帝都城大興城(長安)全体で、建屋が飛んだとか、木が根こそぎとか、大災害で、「文帝獨孤皇后干預政事,后宮多有濫死,又楊素邪佞」と不穏な政情を招いただろう。いずれにしろ、これら記事が陳書のどこにあるのか、見つからなかった。
 いずれにしろ、「御覧」は、全体として分量、紙数を積み重ねることを至上命令としていたと見え、取材で得られた史料を嚴に批判して「ジャンク」や「フェイクニュース」を峻別するのを怠っているから、正史などの精選史料と同列に論ずるのは、大変な間違いなのである。

 二例目は、下記を「三十六宮都是春」と解すのは不適当で、「三十六宮、都(すべて)是春」が妥当である。
 《朱子語類》 [金] 1270年 《程子之書一》 『天根月窟閑來往,三十六宮都是春』
 先の「女王之所都水行...」を、「女王之所」、「都(すべて)水行...」と解すのと同様の文型と見える。
 「宮都」なる成語が当たらない以上、それが順当な解釈であろう。

 当史料も、権威を備えているかどうか、慎重な検証が必要であるが、文意を解する限り、天の「三十六宮」』は、天が順次運行して健(すこ)やかに春を迎える(天行健なり)の趣旨と見える。つまり、ここに述べた解釈で意を尽くしていると見える。

 して見ると、「宮都」なる漢語は存在しないから、第一例も、「宮すべて」の意味で書かれているのかも知れない。
 要するに、「宮都」は幻影である。

 用語検索は、的が外れて転んでも、ただでは起きないのである。
                               以上

2024年5月26日 (日)

新・私の本棚 石井 幸隆 季刊「邪馬台国」143号「古代の海路を行く」 再掲

「離島の考古学-日本の古層を探る旅」季刊「邪馬台国」143号 令和五(2023)年六月一日
私の見立て★★★★☆ 好記事 瑕瑾多々  2023/06/12-16 2024/05/26
 
*加筆再掲の弁
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◯始めに
 本号は、待望久しい新刊であるが、昨年の142号発刊より2カ月程度先行していることもあって、また、「邪馬台国の会」サイトに、本日(2023/06/16)現在、なにも告知がないのもあって、一週間以上刊行を見逃してしまった。と言う事もあって、ここでは、新刊告知をかねている。

*瑕瑾
 大小取り混ぜて、氏の玉稿に散在する瑕瑾を取り上げさせていただく。

*無法な「海路」
 いきなりタイトルで躓いているが、氏は、国内古代史の研究者であって、中国資料には疎(うと)いと見えるので用語が的外れでも仕方ないのだろうか。少なくとも、中国古代史書に「海路」はあり得ず、氏の圏外での無学を吐露していると言われそうである。

*史料談義

 本文冒頭の『「古事記」の原本は存在(現存の意味か)しない』とは、古代史分野に蔓延(はびこ)る一部野次馬論者の無責任な放言に似ている。但し、定番では、この後に「原本を読んだものも現存しない」と続くが、幸い、氏は、そのような放埒の泥沼を辛うじて避けているつもりのようであろう。
 通常は、史料批判の劈頭では、現存最古の写本論義や数種の写本間の比較を語るはず(語らなければならない)であるが、氏は、いきなり正体不明の「写本」とだれが物したか分からない現代語訳を持ち出して、これに基づいて、氏の持論を開示していくのである。これでは、読者には、資料の確認ができない。
 氏は、「写本」の現物を確認してなのか、いずれの解説書に依存しているのかも語っていない。何とも困ったものである。
 これらは、史学論文の基本の基本であるので、編集部が何の校閲もしていないのが心配である。
 以上は、恐らく、氏の追随した「お手本」がお粗末なのだろうが、お手本を真似をするかしないかは、氏の見識の問題と思うので、ここに指摘する。
 なお、氏は「古事記」に拘泥しているが、倭女王が魏に遣使したのは、日本書紀「神功紀」補注に記載されているので、一言触れるべきと思われる。

*「九州」談義

 「九州」は、中国古典書で言う天下全体に由来しているとの説が有力であるから、これも、一言触れるべきと思われる。

*船越幻想~いやしがたい迷妄
 本稿で重大なのは、「船越幻想」の蔓延である。氏は、何気なく、船を担(にな)って、つまり、人力で担(かつ)いで陸越えしたと言うが、そんなことができるものでないのは明らかである。反論があるなら、現地で実験/実証して頂きたいものである。但し、寄って集(たか)って一回実行できたから当時実施されていたと実証できた」などと、こじつけずに、そのような難業・苦行が、長年に亘り地域の稼業として持続できるかどうかということである。
 せめて、丸太を転がした上を、大勢で曳いて滑らせたというものではないか。

 そもそも、手漕ぎで渡海すると言っても、対馬界隈は、強靱な、つまり、骨太でずっしり重い船体でないと運行できないのである。そして、「船」と言っても、総重量の大半は、船体の自重(じじゅう)なのである。水分をたっぷり吸った船を、寄って集(たか)って担(かつ)いで陸(おか)越えしたとは、三世紀の古代社会に対して何か幻想を抱いているものと見えるが、だれも、覚ましてくれないようなので、ここに謹んで、幻想と申し上げる。ちなみに、時に言われる「船荷ごと担ぐ」というのは、無謀である。船荷は、小分けすれば、誰でも担げるから、当然、手分けして運んだと思うのだが、世の中には、そう思わない人がぞろぞろいるようなので、書き足したのである。先に書いたのは、「空(から)船」の「陸(おか)越え」である。
 この地以外でも、荷船を担いで陸(おか)越えしたという幻想は、揃って早く「殿堂」入り、退場頂きたいものである。

*持続可能な事業形態
 要するに、陸の向こうにも荷船と漕ぎ手は十分にあったから、陸を越えて運ぶのは、荷下ろしして小分けした積み荷だけで良いのである。
 小分けした積み荷なら、最寄りの人々が、とにかく寄って集って運べば良いのであり、担おうが背負おうが、勝手にすれば良いのである。もともと、手漕ぎ船の積み荷は限られるので人海戦術と言っても知れているのである。向こう側で、船を仕立て出港すれば、船体が痛むこともなく、また、住民を酷使することもなく、持続可能である。いや、漕ぎ手すら、ここから、知り尽くした経路の気軽な帰り船を運航するのが常道であり、あえて陸を越えるのは、大変、大変非効率的である。
 世なれていれば、道半ばに溜まり場を作って、担ぎ手が荷を取り換えるものとしておけば、荷運びと言っても、来た道を担い下って地元に帰るので、負担が軽い上に、その夜は、慣れた寝床で休めるのである。どの道、毎日のことではないので、農家の副業として永続きしそうである。

 このあたり、氏は、具体的な、しかし、当時の実態に即していると証しようのない、つまり、でまかせの時代錯誤の現地地形図まで付けて、対馬浅茅湾界隈の「船越」を語っているが、行程の「高低」は語っていないので、当世流行りの架空視点になっているのではないかと危惧される。この際に要求される労力は、どの程度の高みを越えるかで決定するのである。
 また、ここは、倭人伝で、『街道でなく、まるで「禽鹿径」(みち)である』と言われるように、手狭で、上り下りのきつい連絡径(みち)、つまり、ぬけみち同然の未整備状態なので、荷馬も台車も使えず、大勢で担ぎ渡りしたと見えるのである。
 色々考え合わせても、氏が、この区間を大勢で船体ごと担いで渡ったと固執する理由が、一段と不明である。何か確たる物証が有るのであろうか。

*「ロマンティック」、「ロマンス」の(良くある)誤解~余談
 氏は、欧州系の話題に疎(うと)いらしく、ローマ談義の余談に「ロマンティック」、「ロマンス」の誤解が飛び出して、困惑する。どちらも、欧州の中世騎士道談義について回るのであり、男女の恋愛には全く関係無いのである。よく調べて頂きたいものである。
 因みに、19世紀オーストリアのクラシック音楽の大家であるアントン・ブルックナーには、”Romantishe”(ドイツ語)の「愛称」が付いた大作交響曲があるが、日本で、なぜか英訳を介して「ロマンティック」と通称されたため、随分誤解されているようである。あるいは、ドイツには、「ロマンティック」街道(Romantische Straßeと親しまれている観光名所があるが、これも、「中世騎士道を思わせる街道」という趣旨であり、通称のために随分誤解されているようである。氏も、こうした誤解に染まっているようであるが、ここに言及するには、ちゃんと語源を検証して欲しかったものである。誤解の蔓延に手を貸しては、氏の名声が廃(すた)るというものである。

 因みに、氏ほど。世上の信頼を集めている論者であれば、責任上、「Romantic」は、ローマ帝国と無関係とする有力な意見があることも、考慮すべきである。

 「専門分野」を離れるとその「離れた距離の自乗に比例して、見過ごしと誤解の可能性が高まる」ものである。ご自愛いただきたい。

*AIIDA談義~余談
 後出の「アイーダ」談義も的外れである。
 提起されたAiidaは、イタリア19世紀の大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディが古代エジプトを舞台に描いたオペラのタイトルロール(題名役)であり、実は、敵国エチオピアの王女が、正体を隠して虜になっていたのだが、最後は自害する薄幸の人なのである。
 悲劇の主人公にあやかったのでは、あまり元気が出ないと思うのだが、Aiidaをアルファベットで書くと、船名列記のトップに来るので命名されたようである。現に、大抵の百科事典で、Aiida/アイーダは、冒頭付近に出て来るので、氏も、ちょっと目をやれば、オペラ歌手/プリマドンナのことでないことはわかったはずである。
 それにしても、ここは、氏の博識をひけらかす場所ではないのである。

*離島談義~「要路」の島嶼国家と離島
 さらに言うなら、厳しく言うと、壱岐、対馬は「離島」などではなく、「倭人伝」によれば、両島は、大海に連なる州島、流れに浮かぶ「中の島」であり、朝鮮半島に当然のごとく繋がっていた交通の「要路」だったと思われる。
 見方によっては、一時期、「一大国」は、「天国」(あまくに)として地域の中心であり、それこそ「従横」に巡らされた影響力を持っていたとも見えるのである。但し、「倭人伝」は、「郡から倭への行程」に専念していたので、「従横」と言っても、「横」は一切描かれていないのである。
 ついでに言うと、「倭人伝」の視点で言うと、末盧国、伊都国の属する山島以外は、行程を外れた「辺境」、「離島」とされているので、「本州」も「四国」も、離島ということになるのである。万事、どの時代のどの地域の視点を採用するかで、位置付けが異なってくるのではないかと思われる。掲載誌から注文を付けられたにしろ、そのように明言された方が良かったと思うのである。

 因みに、明治の文明開化の折、壱岐、対馬が、最終的に福岡県を離れたのは、両島は、他に「離島」のない福岡県に重荷になるので、五島などの島嶼が多い長崎県に任せたと見えるのであるが、どうだろうか。氏ほどの見識であれば、そのような見解を耳にしたことは有るはずであるから、そうした視点から見た両島の行政区分について、一言あってしかるべきだろう。

*稼ぎ頭の保身策
 因みに、交易路での収益は、「国境」、つまり、倭韓境界での取り引きから生じるのであり、言うならば、対馬は、三世紀において、稼ぎ頭(がしら)だったはずである。また、倭の諸公は、対馬に心付けをはずんでも、競い合って売り込んだはずであり、そのためには、米俵を送り届けることも、それこそ、日常茶飯事であったはずである。もちろん、そんなことを、帯方郡に知られると、何が起きるか分からないので、「倭人伝」にあるような「食うに困ってます」との「泣き」を入れていると見えるのである。そうでなくても、豊富な海産物の乾物類を売りさばくことも多かったはずである。 

*まとめ
 というように、つまらない瑕瑾がゴロゴロ転がっていて、しかも、肝心の「船越」談義が、一種法螺話になっているのは、まことに勿体ないことである。

 氏は、既に、社会的な地位を極めて久しいので、ここに書いたような不快な直言を耳にしていなかったのだろうが、それは、氏に対して失礼と思うので、率直な苦言を呈するものである。

以上

2024年5月25日 (土)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず、何より重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。自書が、先行諸書籍と取り違えられるのを期待しているのでなければ、何とかして、一見して差のあるタイトルにしようと苦闘するはずである。
 著作権、商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。
 かくして、本書の社会的生命は、たちまち地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、まずは、天下に曝した上で、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである。
 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。著者には、当然、学者としての自負心があるだろうから、自罰/自傷行為としかみえない暴言が、どこから出てきたのか、どうして、出版者が制止しなかったのか、不思議である。

 個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する史学が「過去に起きた事実を、後刻推定する科学」である以上、「直接見聞/検証する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかない」ことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。
 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、聖器である柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、史学では、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。脂汗が出ても、「売り」を立ててはならない。 

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。

*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。喉元まで、「幼稚」の言葉が出そうになるが、呑み込む。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、無教養で軽薄な現代人たるご自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。司馬晋が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。
 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、「魏史」として昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官韋昭が、私的に、つまり、魏晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している、と言いたくなるほどであるが、言わないことにする。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのだろうが、このような支離滅裂と言われかねない証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍「扉」が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる「査読」者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。

 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、ご自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、同書の以下に続く内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2024年5月24日 (金)

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 1/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

◯始めに
 当記事は『纒向学研究』「センター設立10周年記念論集」掲載論文です。

*予備知識 水林 彪氏の箴言再掲
水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話   2016/09/21 
 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ:古代天皇制における : 出雲関連諸儀式と出雲神話(第1部 古代の権威と権力の研究)
 抄録冒頭抜粋:8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。
 しかし、氏は、同記事で、同時代には存在しなかったことが明らかな「架空地図」談議をもちだして「から騒ぎ」して躓いていました。

*本論
 今回は、物々しい論考が晴れの場に提示されています。とはいえ、タイトル/サブタイトルの設定が、随分、こなれが悪いのです。
 普通、タイトルは、上位概念で注意を引きつけておいて、サブタイトルで、具体性を持つ下位概念に落とし読者を本文に引き込むのですが、本稿では、手順前後になっています。
 改善案 中国古代帝国主義の「東夷」開闢 ~ 漢武帝・宣帝の半島・列島支配の夢

 前漢代、武帝の半島四郡設置は、ホラ話に終わって早々に空洞化したので、「始まり」などと呼べる者ではないのです。なにしろ、漢武帝代の「東夷」は、ほとんど、遼東郡管轄下の高句麗、扶余だったのです。曹魏代に至っても、半島南部は、未通、未開の「荒れ地」だったのです。

 武帝の放漫な拡大志向は衆知として、皇太子反乱の結果、王宮外の孤児育ちだった公孫宣帝は、武帝逝去後の混乱時代を経て民間から呼び戻され、「帝国」主義の悪弊、放漫財政、その結果巻き起こった苛税/過酷な塩鉄専売を除くという堅実な思考であり、帝国拡大活動の収束、長久化を図ったものと見えます。一度、班固「漢書」をじっくり読まれることをお勧めします。

*異次元基準の乱入
 水林氏は、先に挙げた箴言を引きつづき放念されたか、欧州式の世界観を、無雑作に中国太古から国内古代に到る宏大な史論に塗りつけていると見えます。言うまでもありませんが、後世、欧州で常用された史学論議は、古代中国史に適用できないのは自明なのでもったいないことです。

*太古「帝国」主義の怪
 ともあれ、中国古代の漢代に、近代欧州の産物である「帝国主義」は存在しなかったから、論じようがないと見えるのです。まして、漢帝の威光が朝鮮半島南部に手が届いていない状態で「列島支配」は端から不可解で、途方もなく場違いと見えます。この辺り、纏向学派に共通の「迷い」と「見栄張り」だけに誹りを向けられません。
 いや、実際は、岡田英弘氏の「欧風」に染まっているのかも知れませんが、何分圏外なので、良く見通せないのです。

                                未完

 

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 2/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*虚空の銅鐸「文化」
 続いて、氏は、考古学の成果である「銅鐸文化」の年代、地域比定を取り入れ、列島内の地域性を述べていますが、銅鐸によって確認できるのは、「特定の技術を有した集団が一貫した作風で銅鐸を制作していた」と言う工芸技術論であり、当時文字史料が存在していない以上、それが「文化」と呼ぶに値するかどうか不確かであることを示しています。時代錯誤と見えます。(「銅鐸に金文はない」ものとみています)

*未開の「ゲノム」解析
 続いて、現代科学の先端である「ゲノム」解析による人種比定を取り込み、漢、韓の人種特性が捉えられて/創造されていますが、学術的な支えが稀少で未検証遺物に依存との難点を押し流して「新説」崇拝の弊に陥っています。
 何しろ、氏は、長江下流域に存在していたと推定する集団に前五十(七十?)世紀の年代を比定し、その後、山東半島付近に前二十四(四十四?)世紀の集団を比定し、更に、半島西南部に前十一世紀を比定する大技連発のあと、当該地区で形成された「弥生人」の水田稲作集団が、大挙北九州に渡来したとしています。今一つの「時代錯誤」です。
 「新説」の(カラ)さわぎと云えば、水林氏は、毎日新聞専門編集委員までのめりこんでいた「架空地図」のホラ話の悪疫から醒めていないのでしょうか。

*壮大な構想
 氏は、長江下流から山東半島までの区間を水田稲作の到来始点としていますが、山東半島が稲作技術の伝道基地となった理由はよくわかりません。水利不便とみえるのですが、水田遺構が大規模に出土しているのでしょうか。

*緩やかな移住経路~私見 
 当ブログ記事筆者の私見として、水田稲作が、 東夷の発祥地たる戦国齊領域に展開した後、半島東南部経由で北九州に伝播したという構想に同意します。
 ただし、以後の伝播経路には、異論があります。韓半島への集団移住には、渡海の「容易さ」が必要/必須であることから、先ずは、もっとも早期に定着していたとみえる遼東半島への渡海の可能性が高く、後に開拓された(唐代命名とみえる)唐津(タンジン)辺りへの渡海が落とし所と見るものです。
 ともあれ、半島に渡海/定住すれば、後は、陸上の話ですから、歳月を味方に東南方に展開し、後世の狗邪韓国から筑紫に渡ることも、むしろ確実な渡海「解」と見える、というのは、「倭人伝」依存症の偏見の技でしょうか。いや、この辺りは、水林氏の触れていない当ブログ筆者の固執ですから、読み飛ばしていただいて結構です。

*「東夷」幻想~私見 
 前十世紀辺りでは、当時、半島基部の戦国「齊」が形成されていた時代であり、臨菑は、漢書で言う「一都會」、すなわち、人、物、金の交流の要として繁栄していたとされるから、孔子の云う「東夷」である目前の韓半島に新天地を求めたかもしれません。渡海行程は、軽微な筏で移動できたから、水田稲作に必要な農具、技術、そして、肝心な種籾を携えた集団が移動できたと思われますが、半島南部から北九州への移動は、大変至難と見えます。

 さらりと、餅の画を描いて、それで一丁上がりではないのです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 3/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

*場違いの引用
 ここで、以下の断言が登場して、読者は、突然、水林氏の中国正史一括断罪に加担するかどうか、身を引き締めざるを得ないのです。なにしろ、このような「神がかり」を、検証無しに受け入れると申告した覚えはないのです。「纒向学研究」の忠実な読者は、ここまでに、水林氏に対して終生不変の忠誠を誓っているのでしょうが、当論考は、資格限定のない一般研究者に定して開放されているので、異論を唱えることは、許されるとみているものです。
 中国正史夷狄伝は儒教的中華思想を展開する場であるから、権力を背景とする朝貢命令のことは意図的に隠蔽し、朝貢が自発的なものであったかのように書くことを常とする。中国正史の記述を真に受けてはならない (渡邊義浩 46頁以下・167頁以下参照)2012『魏志倭人伝の謎を解く』 中公新書

*原文確認
 ことは、渡邊義浩氏が、当該著書で開示したと見える「託宣」ですから、一般人読者としては、折角の原資料、渡邊義浩 2012『魏志倭人伝の謎を解く』の引用位置を参考に、当該部の史料批判を試みます。
1.「46頁以下」
 同書では、「唯一の夷狄伝」と題されていますが、これは、先行して明記されている三国志唯一の夷狄伝「烏丸・鮮卑・東夷伝」と順当に解されます。当方は、無学無教養で、正史列伝の件数の数え方に通じていないので、お説に従います。
 渡邊氏は、「史学と儒教」として論議を進めていますが、実際は、「三国志」に先立つ、司馬遷「史記」、班固「漢書」の史書としての精確さを論じていて、不思議なことに「史記」の記事で、殷(商)の王位継承や殷墟の位置がほぼ正確に記録されていることを論拠として「史記」が正確であると証し「三国志」が、曹操の墓の位置が正確に記録されているという未検証の推定を述べた後、『「三国志」も正確な部分は正確である』と述懐されていて、筋の通らない意見になっています。
 「史記」は、多くの部分で伝承/風聞/果ては、巷間で演じられていたと見える在来戯作に依存した「物語」であることは衆知であり、一方、殷(商)の王位継承や殷墟の位置は、そうした「物語」でなく、「史実」の記録、つまり、殷代文書の承継であるから、正確なのは、原史料が正確だったと云うだけです。後段で、「史記」の大部分を占める「物語」に対しては、民間で流布していた「史劇」、「講談」の類いを収録していたと述べていて、前に述べた「史記」評価は、例外部分に過ぎないとみえます。
 渡邊氏は、「三国志」の記事も、陳寿が「史料」承継に務めた部分は正確であると誠に当然の総括です。陳寿編纂「魏志」の「本紀」、「列伝」部分は、西晋首都雒陽の公文書庫由来の「史実」の忠実な収録でしょう。これは、三国志注解を公刊されている渡邉氏には「釈迦に説法」でしょうが、氏は、何等かの意図で、その当然な見解を糊塗していると見えるのです。

 さて、ここで、渡邉氏が「魏志」夷狄伝全般に糊塗している「儒教的論理」は、まことに迂遠であって、「魏志」「本紀」、「列伝」は、史実、つまり、公文書記録の正確な承継であって正確であり、「夷狄伝」は、例外的に陳寿の恣意の割愛や改変によって正確さを喪っているとしているのです。水林氏は、渡邊氏の論考のこの部分を先行する文脈から隔離して「読み囓って」、前に引用した意見をとりだしたようですが、それが、渡邊氏の本意かどうか不確かと言わざるを得ません。

 渡邉氏は、ことのついでに、典型的な史官とされている班固「漢書」すら「列伝の一例で儒教擁護の圧力に屈して史実を改竄している」と非難した筆の勢いで、陳寿「魏志」も夷狄伝に於いて「当然」筆を曲げていると弾劾しているのですが、素人としては、「それは渡邊氏の意見でしょう」と呟くしかないのです。何しろ、後漢朝史官たる班固にとって、何が真っ直ぐであったかわからないでは、漢書が曲がったか曲がってないか、どうすれば、真っ直ぐになるのか理解できないのです。

 渡邉氏は、そこまで物々しく、司馬遷「史記」、班固「漢書」なる、それこそ巨峰の如く聳え立つ大部の二大正史について、高々とした視点から言い募った挙げ句、突然、至近の「魏志」論の局地的な論議に舞い下り、『陳寿「魏志」夷狄伝が「西域伝」を欠いているのは、「蜀漢が西域との交通を支配していて、曹魏の西域支配を妨げていた」と示すことを憚った』ためだと断じているのですが、素人目には、それが儒教原理に屈した」とは、とても見えません。

 以下、渡邊氏は、裴松之が「魏志」に補注した魚豢「魏略」「西戎伝」を評して、『充分「魏志」西域伝とするに足る内容があるのに採用しなかったのは、曲筆である』と断じていますが、これは、氏にしては軽率な評価とみえます。
 何しろ、氏は、三世紀の史官ではないので、魚豢「魏略」「西戎伝」のテキストを魏志「西域伝」として収録すべきかどうか、職掌として判断する見識も権限もない二千年後生の無教養な東夷の一員なのですから、論拠を求めるのであれば、素人にもわかるように、魏志「西域伝」の復原を試みて、東夷と対比できるる傑物であると証していただきたいものです。論より証拠です。
 氏ほどの高潔な歴史学者が、史料に根拠を確保できない独断を公表するのは、もったいないことです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 4/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

1.「46頁以下」(承前)
 素人目には、『魚豢「西戎伝」は、魏朝西域事績をほとんど含まず、後漢事績を曹魏が禅譲により全て承継したとした』が、陳寿は「後漢西域都督の撤退を継承した曹魏の西域支配の形骸化を明示するのを避ける」ために「西域伝」を割愛し裵松之は陳寿の判断の裏付けとして魚豢「西戎伝」全文収録したと見えます。疑問の方は、魚豢「西戎伝」から後漢事績を取り除いて再読頂きたいものです。

 渡邉氏は、魚豢「西戎伝」の字数を重視し、「西戎伝」眼目の大国「安息」記事を近傍の弱小な浮草「大秦」記事と取り違えた前世誤解に流されて「列伝に相応しい」としますが、遺憾ながら、渡邊氏は晋朝史官でないので、あくまで局外者の私見です。

 渡邊氏は、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」と当然格別ですが、本新書は、何しろ「邪馬台国」論の新書/文庫版分野でのベストセラーを目指しているので、学術書の厳密さを離れ、数多い凡百論客に阿(おもね)り、時に筆が鈍(なま)り、時に筆が撓(たわ)んでいるのではないかと危惧する事態です。
 それかあらぬか、渡邊氏は、一旦下した「推測」の裏付けにもう一つ「推測」を括り付けたために、二人三脚で共倒れする一種自損行為かと危惧します。
 論拠の数を増やすと、それぞれに内在する瑕疵が堆積し斜陽の途をたどるものです。史学分野は、論考裏付けは数量/質量頼り「多多益益弁ず」(項羽)が最後の隠れ家のようですが、鉄壁ならぬ紙と藁の小屋では、いくら壁を増やしても、「隠れ家」になっていないとみえるのです。
 渡邊氏は、当然、かかる悪習に無縁であり、魚豢「西戎伝」論を、言わば急場の援軍、奥の手として起用したようですが、敗勢反転の援軍なら、先鋒に立てて快刀乱麻とすれば良いのにと思うものです。
 渡邊氏は、疑問の多い「西域伝」事例で、「陳寿が曹魏夷狄伝に懐疑的」と敷延した後、にも拘わらず「東夷伝」を集録したのは、明帝景初年間の司馬懿遼東制覇で「それまで遼東公孫氏が長年阻止していた東夷制御が開通した功績」を顕彰するためとしていますが、些か浮評とみえます。司馬懿の遼東制覇は、明帝の遼東/東夷観に命じられた軍事的なものであり、明帝自身は、勅命による遼東/帯方両郡回収で、両郡の東夷教化を皇帝自身の功績としたものであり、以後、用済みの司馬懿を任地に戻す意図であったと事実上明記されています。勅命に即応しなければ誅伐であり司馬懿は即座に関中に帰任していたはずです。
 ところが、明帝病臥により、皇帝千秋の際、有力者による幼帝傀儡化を抑止するために対抗する司馬懿が招致されたとされます。ここには、さすがに司馬氏正当化の造作が見て取れますが、明帝臨終の床で継嗣曹芳を遺託された感動的な「物語」であり、遠隔の「倭人」は意義のないものと見るものではありませんか。

 ちなみに、「三国志」「蜀志」では、蜀漢創業者劉備先主が、白帝城における臨終の場で宰相諸葛亮に遺孤劉禅への忠誠を取り付けた「物語」が遺されていますが、諸葛亮が、終生、後主「劉禅」に奉仕したのに対して、司馬懿は、少帝曹芳を廃位に追い込み曹魏終焉の道を開いたと「忠実」に描かれていますから、陳寿の筆は、司馬氏に媚びない史官の筆であることが明らかです。

 当分野の論客として声望の高い岡田英弘氏は、「現代日本人論客」の軽薄な陳寿批判について、『陳寿は、当時最高の人材であり、その希有の人材が身命をかけ半生を費やして編纂した「魏志倭人伝」を(陳寿から見て)二千年後生であって、(晋朝史官として要求される必須の)教養を有しない東夷が「安易に」批判するのは僭越の極みである』と云う趣旨で、小声で毒消ししています。
 要するに、「半人前の野次馬が、寝間着で表に出て、当時最高の専門家に喧嘩を吹っかけるのは、了見違いも甚だしい」とも受け取れる、誠に順当な指摘と思われます。「死人に口なし」。野次馬が売った喧嘩に、陳寿から一切反撃はないから安心でしょうが。

 先賢の警句に拘わらず、凡百論客の「軽薄な陳寿批判」は、水たまりのボウフラの如く、後から後からざわめいていますが、当節、新参者の意欲を削がないようにと言うことか、無粋な警句は流行らないようです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 5/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
私の見立て ★★★☆☆ 未完の大器 瑕疵幾度  2024/05/13, 05/17, 06/17

2.「167頁以下」(承前)
 4「鋭敏な国際感覚」は、景初倭使参上の考察ですが、世上、帯方郡から遠隔の「倭人」女王が、公孫氏滅亡に即応して帯方郡に倭使を派遣したことを、女王の「鋭敏な国際感覚」の功名と見るのに対して、これは「帯方郡太守の迅速な招請、督励の功績」であるとの裁定は、渡邉氏の慧眼/比類なき卓見と思われます。
 但し、引き続いて、招請に即応したのは、女王の治世が、中国の国家制度を学んで「当時の辺境東夷が先進の国家体制を有していた」と読み解いていらっしゃるのですが、これは、「魏志倭人伝」の真意を見逃したものと見えます。当時、半島東南部、後世新羅が出た「嶺東」地域以南は「荒れ地」の境地でした。漢武帝が、朝鮮討伐後に朝鮮の支配地域を管轄するものとして四郡を置いたとしているのですが、この地域は、際付きの「荒れ地」であり、三世紀に至っても「荒れ地」であったと明記されているのですから、漢制の最高峰に位置する郡太守を任じて、高額の俸給(粟)を給付しようにも、地域に水田稲作を展開する素地はなく、つまり、朝鮮時代以来、耕地を割り当てられる「戸」はなく、朝鮮王の居処であった王険城にいたる官道は存在せず、要するに「郡」の構築が不可能であったことは明確であり、
 さらに従って、郡/県が設けられることはなく、従って、数世紀を経た後漢献帝建安年間にも、無法の「荒れ地」であったから、ことさら、地域振興のために、公孫氏が帯方郡を設けたと見えるのです。その結果、景初年間には、韓国南境である狗邪韓国から帯方郡治に至る官道が整備されていて、ともあれ郡の体を成したようですが、そこは、あくまで「韓国」であり帯方郡管轄下の地方組織である縣や郷は設けられていないように見受けます。つまり、漢武帝時代以来、当該地域には、漢の制度は及んでいなかったと判断されるのです。
 遼東郡太守であった公孫氏の「治世」は、当然、「法と秩序」に基づく文書行政であったことから、管理に伴う公文書が蓄積されていたものであり、公孫氏自体は、司馬懿の撲滅によって、配下の官吏と公文書もろとも、灰塵に帰したと見られますが、実務を行っていた樂浪、帯方両郡は、景初年間早々に、曹魏明帝の特命によって、密かに、つまり、平和裏に官吏と公文書を温存したままで皇帝直轄郡への変換が行われたため、郡公文書は健在であり、公孫氏統轄時代の帯方郡の東夷管理の実務は確認されたと見えます。
 「倭人」の境地には「牛馬がいない」ことから、『「街道」制度が未整備である』、『「戸籍」「地籍」が文書未整備』、さらには、『銅銭流通無し』であって『遠隔「徴税」できない』、『国邑が隔壁防御無し』、風俗は『衣服が非礼』『食事は非加熱生食で非礼』等、中原文化不適合の蛮夷であって、とどめとして「中國文字を知らないので先哲の書を読めない」との欠格要件も事実上明記されています。陳寿には、「倭人」に阿(おもね)り筆を踊らせる動機は、全く無かったのです。
 以上、素人の無軽薄な考察を提供したのは、渡邊氏があえて表明していない時代認識を呈示して、ご高評を仰いだものであり、「釈迦に説法」の愚考であることは、了解しているものです。

 渡邊氏は、軽薄な陳寿批判の「現代日本人論客」とは当然格別の論者ですが、新書版解説書に於いては、そのような「現代日本人論客」に席を並べて、調子を合わせていると懸念されます。御不快でしょうが、無用の誤解を防ぐために、敬意の最大の表現として率直な苦言を述べているのです。

*「不可解」の弁
 水林氏程の大家が、なぜ、世上麗名の高い渡邉氏の山成す著書から一般向け新書本を選び、そこに展開されている陳寿「三国志」魏志論の渦巻く中から、どんな読み方で、由来不明の「中国正史の記述を真に受けてはならない」なる「神託」「神がかり」を取り出されたのか不可解です。所詮、新書版の好む軽快で非学術的な発言内容ですから、もともと、有り難がるのは不適切なのです。

 水林氏の本論考は、掲題のごとく「漢武帝・宣帝の半島・列島支配」の論証ですが、同新書は「魏志倭人伝」論考であり、二十四史なる全「正史」の一史、陳寿「三国志」魏志第三十巻の末尾一条に専念しているのは自明です。なぜ、端から明らかに見当違いの本新書に、「纏向学研究」誌の精華たる玉稿の論拠を求めたのか不可解です。また、以上のように、出典新書の特定された箇所を精読しましたが、素人読者には、そのような文脈は読み取れず、水林氏の聞きかじり、食いかじりで、原文の文脈から切り離されて生成された文言が「ご神託」と珍重されているのではないかと危惧されます。水林氏は、群鳩の中の俊鷹(A Hawk among the Pigeons)に気づいていないのでないか、と言うと、失礼に当たるのでしょうか。
 按ずるに、渡邉氏は「倭人伝」編纂の内実を熟知していながら、正史全体の編纂において広く述べて「明言」しているものでしょうから、せいぜい、不適切な解読に過ぎず、本稿は考古学論考ですから、水林氏は、暴風雨に借り物の日傘を差しているようなものです。水林氏のためにも、渡邉氏のためにも、このような「誤解」引用を惜しむものです。

                                未完

新・私の本棚 水林 彪 「漢武帝・宣帝の半島・列島支配 6/6 再構成

中国古代帝国主義の東夷支配:その始まり」 『纒向学の最前線』 「纒向学研究」 第10号
桜井市纒向学研究センター「センター設立10周年記念論集」 2022/7 
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◯重大な不手際への苦言
 本稿は、論文として見て、些末とは言いがたい、重大な不手際が残されています。

*データ混乱
 図4 稲作の伝播・人の移住・弥生人の形成
 本図の出典は、「藤尾慎一郎 2015『弥生時代の歴史』講談社」のようですが、誤引用の訂正なのか資料改竄なのか、合成図の出典と制作責任者が不明で責任の所在は不明ですが、原図改竄の重大な不手際が露呈しています。

*症状:
 山東半島部の「前24世紀」は、「前4世紀」と書いた上の桁の「」の上に「2」を重ね書きしています。
 もうひとつの「前50世紀」は、「前0世紀」と書いた上の桁の」の上に「5」を重ね書きしています。
 貼り付けデータの「2」と「5」は一応「グループ」化されていますが、原図と一体化されていないので、容易に化けの皮が剥がされてしまうのです。誠に、不可解ですが、要するに、原資料を「改竄」しているのです。これによって、年代比定が二千年後世となるように改竄されています。
 動機も意図も不明ですが、改竄は改竄です。
 当ブログで、当コメントを作成する際に、図版が合成画像とわかったので、責任者不明で引用できなくなってしまったものです。

 本来、原データ引用部は、水林氏の著作部分と明確に区分して、水林氏が著作権を主張し得ない『第三者著作物の「引用」』と明記する義務があるのですが、現状は、区分を明記せずに一体化していて図全体が氏の著作物と見なされているようにみえます。
 それとも、貼り付けている「2」と「5」は、下敷きで一部隠れている藤尾氏の著作物でない、水林氏の創作という事でしょうか。

 くれぐれも、著作権のある資料の引用は、慎重であってほしいものです。いや、著作権の存在しない著作物には、その旨の明記が必要です。桜井市纒向学研究センターは、奈良県桜井市教育委員会の研究機関、つまり、地方公共団体の一部局であることから、桜井市の業務基準に従って運用されて知るものと思われますから、 その刊行物である「纒向学研究」誌は、繁雑などと言っていられないものです。誌の「コンプライアンス」遵守体制が問われると言うことは、桜井市の「コンプライアンス」 が問われているものと思います。

◯まとめ
 水林彪氏は、(遺跡/遺物)考古学の分野で深奥を極めた学究の士とおもわれますが、柵(しがらみ)のためにか、本稿では、足どりが揺らいで見えます。つまり、水林氏は、文献史学論考著述の定則に通じていないために、諸処に専門外の素人考えが露呈していて、強引なこじつけと受け取られ、不出来なものと思われます。特に、中国正史の信頼性を、対象となる膨大な資料を精読するという論証を経ずして、全面的に否定するかのような主張は、氏の見識/権限を越えた不法なものと見られるので、然るべき論文審査を経て公開されるべきものと思われます。

 巻末に[参考文献]に於いて、水林氏の専門である[考古学]分野はさておき、「文献史学など」とした括りで、氏の自著以外では、学術誌以外、一般向け解説書が記載されていますが、渡邊氏の新書以外についても、引用、依拠の際の氏の読解が適切なものであるかどうか、疑われてしまいます。更に言うならば、本稿の渡邊氏新書参照が、渡邉氏の斯界泰斗としての見識に疑義を投げ掛けると共に、水林氏の本領分野の名声を傷付けなければ幸いです。
 ちなみに、当方は、素人であり、生活がかかっていないし、史学分野での人間関係にも無頓着なので、率直な批判ができるのです。

                                以上

2024年5月22日 (水)

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」1/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16


◯始めに
 「新古代史の散歩道」は、当ブログと紛らわしい名称を名乗っている後発ブログであるので、ここでは、混乱を避けるために、中国古典書の筆法に倣って、冒頭二文字「新古」と略称することがあるのをお断りしておく。
 又、同サイト全体は、本来、地道な(遺跡/遺物考察専門の)考古学専門記事であり、又又本来、素人の批判など許されないものである。本記事は、同サイトの余傍分野である「倭人伝」解釈であるので、当方専門範囲の基準に照らして客観的な批判を試みたものである。

*記事批判
乍南乍東(さなんさとう)は韓半島の西岸を航行するときの船の進み方である。

コメント:

現地は、歴史的に朝鮮半島である。いや、「新古」子は、半島南半を「韓半島」と呼ぶとに決めているのだろうか。説明不足で不明瞭である。
いずれにしろ、懸案は、本来、西岸及び南岸を合わせた議論である。何故、西岸だけに限定するのか、不審である。それとも、「新古」子は、韓は南で「倭」に接する、つまり、「海(うみ)」とは接していないと決め込んでいるのかもしれない。となると、「南岸を航行するとき」はどう解釈するのであろうか。いや、いずれにしろ、誠に面妖な解釈である。
原典から読みなおすと、「航行」は粗雑な作業仮説であり、確定したものではないから、本来論議などできないのである。いや、道里行程記事では、些末事項であり、時間・労力の無駄は避けたいものである。

概要
『魏志倭人伝』原文は「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」である。乍南乍東の解釈は各書で微妙に異なる。
 歴韓国乍南乍東到其北岸

コメント:
諸説解釈が「微妙」に異なるとは、何とも鷹揚である。

 以下、項目列挙。
岩波文庫の解釈、倭国伝の解釈、漢辞海、邪馬台国研究総覧、字統、古田説

考察
「L字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路」という時間的順序(連続説)を表すとする解釈がある。しかし、これは地図で見たときのマクロの進み方であって、実際に船に乗船すれば、ミクロな進み方しか体感できないので、この解釈は取れない。

コメント:
 ここまでの迷走に続いて、出所不明の「解釈」が引き合いに出されるが、ドサクサ紛れに自説開陳するものではないと意見したいところである。
 「マクロの」「ミクロな」の混沌も解釈を妨げる。「マクロの」は、大局として前半南行、後半東行だろう。海勢など関係無い。正史記事に「ミクロな」は、「有害無益」である。それにしても、「体感」は見事なホラ話である。「新古」南畝子はGPS装備のサイボーグなのか。絶対音感ならぬ絶対方位/距離感をお持ちなのか。実際は、帯方郡の官人が、軽快な小舟に乗れば、たちどころに船の揺れを「体感」して、船酔いになるはずである。なぜ、西岸を南下し、南岸を東行するという素直な解釈を拒否するのか、まことに、「海(うみ)」を知らない中原人読者に対する、説得には字数がかかるのである。この辺りで、何か大きな間違いに陥っていると悟るべきではないだろうか。

 石原道博(1951)、藤堂明保(2010)、古田武彦(2010)による「乍南乍東」の解釈は表現は異なるが、実質的には同一であるといえる。

コメント:
 「概要」部「岩波文庫」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝 1 (岩波文庫)」である。

 「概要」部「倭国伝」主語は人格が存在せず、冤罪である。
 書名は、「倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)」である。

 「概要」部「古田説」は、書名『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社(1971)である。

 うろ覚えは誤記/誤断のもとであるが、「新古」サイトは、公開以前に校正しないのだろうか。誰も、誤記/誤解についてコメントしないのだろうか。もったいないことである。

 「概要」部『全訳「漢辞海」第三版記事』考察(割愛)に後続考察がない。「概要」に書き立てて、それっきりとは、もったいないのではないか。

                                未完

新・私の本棚 「新古代史の散歩道」ブログ批判 南畝 「乍南乍東」2/2 補充

「乍南乍東」 2024/05/19
私の見立て 考古学記事全般 ★★★★☆ 当記事 ★☆☆☆☆ 大変不出来/不勉強 2024/05/22 補充2024/06/16

考察 承継
 古田(2010)説は原文に「海岸水行」と書かれる個所をことさらに無視しており、原文を尊重しない都合の良い解釈といえる。

コメント:
 「古田(2010)説」は、「循海岸水行」を、漢江扇状地陸行を避ける部分行程とする点で誠に論点が明快であり、これを原文「無視」と見るのは、浅薄である古田説は、第一書『「邪馬台国」はなかった』(1971) が初出、ほぼ創唱であり、以後、維持されているので、 そのように明記すべきであろう。他説は、概して氏の提言を克服できていないものであり、「新古」子は、ここに示されたように、古田説を理解していないので、罪が深いのである。
 以下、「古田(1971)説」では、行程は、半島西岸に上陸して、以下、一路陸上街道で韓国歴訪するので、上陸地点以降の海況は無関係である。陸上街道は、難波沈没が存在為ず、好天による航行途絶も発生しないから、誠に確実安全な行程であり、帯方郡の公用往来、主として官用郵便に適しているとみるべきである。この場で、もの知らずに自論を振り回す前に、原史料を精読した上で、「古田(1971)説」を克服するのが、学問の徒の責務であると感じる次第である。特定の所説に対して「原文を尊重しない」と勝手に決めつけた上で、これに対して自説にとって「都合の良い」解釈などと主観的な「賛辞」を呈して、議論をはぐらかすのは、まことに、身勝手で不適切である。
 ちなみに、当ブログサイトでは、「古田(1971)説」の不合理を指摘して克服しているので、「新古」子とは、席を同じくするものではないし対決するものでもない。

 『邪馬台国研究総覧』の解釈は連続説か断続説かは明らかで無い。つまり、南に向かうことと東に向かうことが繰り返されるのか、1回限りなのかは明らかで無く、どちらともとれる。

コメント:

 「邪馬台国研究総覧」は、先行論考総覧であるから「解釈」は存在しない。勝手に、「連続説」「断続説」と誤解を振り回して、どちらともとれるとは、独り善がりというものである。

 韓半島の西海岸は溺れ谷を含むリアス式の複雑な海岸線であるため、海岸線に沿って航行すれば、南行・東行、さらには書かれていない西行も繰り返される。船の進む方角が次々と変わることは自然である。それを表現する意訳としては「しばらく南に進むと、しばらく東に進み、これが繰り返される」であろう。

コメント:
 地理解釈で眩惑を図っているが、そもそも、原文は「海岸線に沿って航行」などと書いてはいない。「倭人伝」の真意を解し得ない無教養な東夷の誤解である。「海岸」は海辺の崖、つまり、堅固な陸地であり、したがって、「海岸に沿って」は当然陸上行である。また、当時「航行」などという言葉は存在しない。要するに、史官が推敲の果てに編み出した「循海岸水行」を勝手に改竄して論議するのは愚行である。
 このような記事が平気で書けるのは、原文の意味が理解できていない「強み」だろう。うらやましいと言いたくなるところである。
 「書かれていない」西行は不適切である。文献解釈になっていない。ついでに言うと、今日、「リアス式」は廃語であり「リアス海岸」とでも言うべきであり、加えて、勝手な解釈で「溺れ谷」まででっちあげておいて、そのような難所を手漕ぎの小舟で行けというのは、無法である。
 総じて、あたかも、ものを知らない中高生ばりの論者が、限られた知識で、膨大な先行諸説を「読みかじって」評価しているみたいで、残念である。
 これでは。文献史学に無教養な門外漢が、先人が論議し続けてきた文献解釈に、読みかじりのご高説を垂れているように見えかねないので、稚拙と言われそうであるが、ここでは、遠慮してそうは言わない。

参考文献
 石原道博(1951)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
 藤堂明保(2010)『倭国伝』講談社
 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』創元社
 古田武彦(2010)『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房
 白川静(1994)『字統 普及版』平凡社

コメント:
 白川氏漢字字書は熟語記載の豊富な「字通」を参照すべきである。
 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』は、具体的な記事、論者名、出典を明記すべきである。
 参考文献に付番がないので、被参照が不明瞭である。
 文献の原文史料、字書、総覧、個別論の混在、順序錯綜は混乱を招くので、もったいない。

◯まとめ
 当記事は、学術論文としての編集・校正がされていないのは、まことに、疎略で、不名誉な読み物になっている。ブログランキングに列席して天下に公開する以上、真面目に最善を尽くしてほしいものである。この繚乱ぶりでは、「新古」サイトの本領、専門の遺跡/遺物考古学分野の諸兄姉の考察/考証の紹介も、同程度の杜撰なものと疑われるのではもったいない。しょけいしの労作が、杜撰なでっち上げと速断されたら、どう弁解するのであろうか。「新古」子は、「たられば」論法を愛好されているようだが、他人に迷惑をかけない範囲に留めて欲しいものである。

                      以上

2024年5月18日 (土)

今日の躓き石 毎日新聞 名人戦観戦記の「屈辱」

                2024/05/18

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版掲載の「第82期名人戦七番勝負 豊島将之九段-藤井聡太名人 第2局の1」である。

 呆れたのは、同記事は、別主催者のタイトル戦「叡王戦」5番勝負第二局で、藤井叡王が屈辱的な敗戦を喫したと、ちと古い報道で開始している。最後は、同タイトル戦主催者の担当者の談話が盗用されているのである。「盗用」というのは、どう考えても、毎日新聞社ともあろうものが、「藤井名人がタイトル戦敗者として晒し者になった」などと云う屈辱的な報道を、名人戦観戦記の冒頭に24行に亘って掲載するはずがないからである。叡王戦中継番組関係者は、低額予算で番組維持のための連日の苦闘と引き比べて、大資本の全国紙の観戦記運営の暢気さを揶揄しているのではないかと見えるのである。
 これでは、名人共々、挑戦者の顔も丸つぶれである。合わせて、長年の伝統を継承している毎日新聞の品格が疑われているのである。
 なにしろ、今回の掲載は第四局の初日であり、挑戦者はカド番に喘いでいるし、叡王戦は、逆に叡王二敗のカド番であり「屈辱」どころか逼迫しているのだが、朝刊掲載の観戦記は、別次元の懐旧談であり、これでは、新聞棋戦の読者が減るのではないかと思われる。
 別に速報せよと言っているのではないが、第三者の棋譜報道を制限している以上、速報性を持たせるべきではないのだろうか。

 当該観戦記者は、A級順位戦観戦記で一方対局者のぼやきを延々と盗用して一回分原稿料をもぎ取っている実績があるから、初回ではないので、ここで悪質だと言われたとき、毎日新聞社はどう反論するのだろうか。名人戦共催なので多少の手抜きは、被害が薄められると思っているのだろうか。無駄な、というか、逆宣伝効果のある観戦記を割愛したらどうかと言うつもりはないが。

 今回は、字数が少ないが、不快感は、いや増しである。宅配講読者としては、この部分の紙面、全記事39行中の24行相当を返金してもらいたいほどである。それとも、毎日新聞の観戦記運用が気に入らなかったら、朝日新聞に切り替えろというのだろうか。なんら改善がないから、口調がきつくなるのは、当然であろう。

以上 

2024年5月 9日 (木)

新・私の本棚 出野 正 張 莉 「魏志倭人伝を漢文から読み解く」 ⑵ 1/1

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 不用意な記述 2023/08/14 2024/05/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯第二章『「魏志」「倭人伝」の「倭人」とはなにか』(出野)
 異議あり:氏の日本語語彙が古代史論の標準から離脱しているのは困ったものである。
1.カタカナ語偏愛「もとのルーツ」 27ページ
   氏のカタカナ語愛好癖が不適切である。「論衡」「漢書」「倭人」の「もとのルーツは同じ」に困惑する。何の因果で奴隷制度を誹った「ルーツ」の義憤を踏みにじるのか。平明に「起源は同じ」と言わない屈折用語に、編集担当から「朱」が入らなかったのが不可解である。

2.生煮えの現代語「差別化」 57ページなど
   現代造語は意味不明になる。「差別化」乱射があって、整備されたと期待された公道に「躓き石」の散乱に困惑する。人種差別と無関係な無邪気な造語と思うが、正統的な言葉に置き換えてほしいものである。

3.不明瞭な集団評価 57ページ
   「日本の歴史学者」なる集団を、実際に世論調査した上か、『魏志の「倭」と「倭人」を同一視する人が「多い」』とするが、「多い」とは多数派なのか、一人でも多いのか、意味が通らない。7行を費やしたあげく、『「多くの歴史学者」は論証なしに自明の理としている』と自説の塹壕に逃げ込んでいると見える。
 氏は、以下、面々と「倭」と「倭人」が、同一の概念では無いと主張しているが、皮切りに冗語を連ねているので、 冷徹な指摘と見えても、信を置きがたい。

4.資料乱獲~悉皆の悪弊
   氏は、古代史「国」の意義を、確固たる「倭人伝」で足りず、茫漠たる「三国史記」、「三国遺事」で総浚えする。先賢によれば「倭人伝」すら、用語、文法の異同で複数史料に依拠した史書と評されるのであるから、隔絶文書導入は無謀である。

5.浅薄な前例批判
   氏は、古田氏等の語義解釈を「国語」「和風」と揶揄するが、古田氏は、「倭人伝」以外の資料も幅広く渉猟し、確実に史料批判しているので、氏の批判は、むしろ安直と見える。
   氏は、既に先賢諸説を雑駁に捉えて『差別化』と処断しているが、自分好みの新語で批判するのは不合理と見える。ご自愛いただきたい。
   重複するが、浅学ながら『差別化』は、『敵の短所に対して自説を盛り上げ「消費者」を「惑わす」舌先三寸の技芸』と見え、氏の使うべき言葉でないと愚考する。くれぐれも、ご自愛いただきたい。

*古代史用語談義
 言うまでもないが、「倭」と「倭人」は、異なった単語であり、恐らく、太古の「倭」が、時代の推移で二字語になったとも見えるが、不明瞭である。つまり、太古の中原諸国名は、春秋/戦国時代の「中山国」を例外として、全て一字のように見える。(「中山国」が、蛮夷の者という風評が立つくらいである)
 それが、秦始皇帝の天下統一の後世、二字の国名が増えるのは、要するに、座りのよい文字が払底したとも見えるが、東夷で云えば、韓、濊、倭が、不遜な一字である。但し、公式文書に名を連ねる際、二字の方が望ましいという事で「倭」を「倭人」と書いた可能性もある。
 但し、隣り合う「韓」は、戦国「韓」に由来しているという事で、「韓国」、「韓人」の二字国名を免れたとも見える。
 太古から秦漢、魏晋まで、歳月の経過とともに、世界観が変わっているので、二千年後生の無教養な東夷の理解を越えているようである。

 「國」は、太古、隔壁聚落を言い、次第に経済活動拡大と共に、「國」が融合して戦国時代、諸侯領域は「邦」となったが、漢高祖実名「邦」を僻諱して「國」とした際、太古の「國」を「國邑」としたと見える。時代によって文字/単語の意味は忽然と変化する。
 陳寿は、史官として太古先哲用語を学んだので、時代錯誤となりかねない「國」の氾濫は抑えたが、原史料の「國」を書き換えることは許されなかったと見える。
 案ずるに、漢代郡国制の「國」は、劉氏一族所領であり、高官郡太守は「王」と同格であるが、「倭人伝」に限らず蛮夷の「國」が蔓延したことから、史官は、漢魏本国の「國」と同格と取られないように文飾に努めたと見える。世間には、卑弥呼が「倭王」に任じられ、「倭」は帯方「郡」太守と同格と見る人までいるので釘を刺す。時の遼東郡太守公孫淵は「燕王」と自称したが、それは、曹魏の創業者魏武と尊称された曹操が最後に到達した「魏王」と同格の至高の地位を自認していたのであるから、郡太守は「王」と同格などではないのである。
 また、氏は、無頓着に「国名」と言うが、これも、自称であれば不穏な「僭称」である。

 倭使難升米は、「大夫」と自称したが、倭は、景初以前は魏に臣従したものでなく、また、蛮夷が臣従を認められても、魏官位「大夫」など、もっての外であるが、鴻臚の慣わしで蛮夷の自称がありのままに記述されたと見える。
 魏制に通じた後、官位詐称を已め「倭大夫率善中将」と、魏朝官位に存在しないことが明らかである「蛮夷官位」を名乗りつつ、通常は、縮して「倭大率」さらに「一大率」と称したと見える。(断然たる私見であるから、先例検索は無駄である)

*「大率」私考 2024/05/09
 ちなみに、班固「漢書」「百官公卿表」に「県大率方百里」とあるが、何しろ、「漢書」は、代々史官を務めていた専門家である班固が太古以来の史書書法を駆使しているので、史官の訓練を受けた陳寿は理解していたかもしれないが、二千年後生の無教養な東夷には、何とも、真意が判断できない。
 気軽に言うと、「郡」の下位である「県」は、「方百里」を「大率」、つまり「広く支配する」と読めそうなのだが、支配する「方百里」が管轄地域の広さなのか、「県」の下部組織「郷」(複数)を束ねるという概念なのか、判然としないようである。
 素人考えでは、「一大率」は、矢張り「倭大率」、つまり、「倭に属する複数の(小)国を広く支配する」の意味と解したいところである。

◯まとめ
 と言う事で、出野氏には中国史書の「沼」に浸かって脱「和臭」をお勧めする。氏は、最高の漢字学者の助言を随時得られるのであるから、国内通説/俗説に惑わされないことを期待するのである。

                               本項完

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 補足 三掲

 私の見立て☆☆☆☆☆               2016/06/17 2024/04/30, 05/09
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事に対する批判記事の補足である。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 前回記事は、いきなり、切り口上で、麗々しく題した「風神雷神屏風」の意味として、「日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。」と書きだして、自分なりに「専門編集委員」の作品として出来がまずいと思われる点を率直に指摘したものであり、ここまでのところ、撤回すべき内容は見つかっていない。

*補足の弁
 ここで、補足したいのは、「林進氏の新説が明確に提示されていない」と批判した点であるが、読み直してみると、冒頭部分に、一応書かれていることに気付いたので、明確でないと感じた背景を以下に述べるものである。
 そのためには、当該部分を忠実に引用する必要があるので、出典を明示したうえで引用させていただく。この点、著作権者の了解をいただけるものと確信している。

 「江戸初期の絵師、(生没年未詳)の傑作「風神雷神図屏風(びょうぶ)」(京都・建仁寺蔵)は、学者で書家、貿易商だった角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)の供養のために描かれた追善画だった。大手前大学非常勤講師の日本美術史研究家、林進さんが史料に基づいて通説を見直し、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)でこんな新説を打ち出した。」

 これでは、字数が多く、紙面では8行+1字の長文の上、必要な説明とはいえ、大量の説明やかっこ書きが割り込んでいて、文の主題が目に入りにくいのである。と早合点の咎の言い訳をさせていただく。
 とはいえ、批判するだけでは、改善の手掛かりにならないので、素人なりの再構成を試みた。
 引用ならぬ粉飾
 俵屋宗達の代表作とされる「風神雷神図」は、京都・建仁寺所蔵の国宝として有名である。その制作動機として、通説では、京都の豪商が、臨済宗妙光寺に対して、その再興の際に寄贈するため製作を依頼したとされている。また、現在所蔵している建仁寺は、妙光寺の上位寺院であり、いずれかの時点で上納されたものと推定されている。
 日本美術史研究家 林進氏(大手前大学非常勤講師)は、近著『宗達絵画の解釈学』(敬文舎)で、近年公開された資料を基に「風神雷神図」の独特の構成、彩色を新たな視点から分析し、宗達は、芸術上の盟友であった角倉素庵の追善画として制作したとの仮説を提示している。
 *角倉素庵(すみのくらそあん)(1571〜1632)は、江戸時代初期の貿易商であり、のちに隠居して、学者となった。書道では、本阿弥光悦に師事したが、自身で角倉流を創始するほどの高名な能書家であった。

 こう切り出して、興味を書き立てられた読者に、以下の記事を書き続けるのだが、基本的に、通説と新説を対比し、新説の根拠を明快に提示するものではないかと思う。いくら優れた学説であっても、紹介者として、疑問に思う点があるはずであり、それは、率直に書くべきである。

 例えば、上にあげた改善例では通説とされている制作動機に触れているが、この説に従うと、少なくとも、当初、妙興寺方面からの製作依頼、つまり、多額の資金提供/手付金が契機になって屏風として制作されたという経緯、および、現在の建仁寺に所蔵されに至った経緯が、滑らかに説明されている。記事に紹介されていないが、林氏も、この点は否定していないことと思う。
 つまり、新説の趣旨は、通説の否定/克服ではなく、宗達が、制作依頼に応じて屏風を制作する際に、追善の思いを込めたというべきではないだろうか。

 ついでながら、角倉素庵の極度の窮乏は納得しがたいので、以下に書き留めると、五十歳を目前にして家業を長男に譲り、ついで、資産すべてを次男をはじめとした親族に譲り渡して、完全に隠棲に入ったとはいえ、「嗣いだ家業が繁栄している実子二人が、重病に苦しんでいる実父を見捨てて、無一文の困窮状態に放置した」とするのは、どんなものか。親が放蕩息子を勘当して縁を切ることはあっても、子が親と縁を切る法はないはずである。

 まして、長男は玄紀(京角倉家)、次男は厳昭(嵯峨角倉家)と、それぞれ、立派に家業を継いで、社会的にその地位を認められているから、最低限の親孝行として最低限の支援はしたはずである。直接の支援を拒絶されたとしても、宗達を介した出版支援など、陰ながらの支援をしなかったとは信じられない。

 今回の新説の補強を要するポイントは、宗達が、素庵にそれほどの哀悼の念を抱いた背景の推察であろう。
 素人考えでは、素庵は、自身とほぼ同年、つまり初老の宗達が、ともすれば、扇子製作の分業の中の一介の「絵師」職人として埋もれていたところを、自身の書家としての高名を生かした共作により、世評に上るように引き立てたものと思う。
 素庵との共作により、芸術家「絵師」として世に広く知られることになり、ついには、朝廷から「法橋」の称号を得て、多くの大作を製作する機会を得たことについて、とても返礼できない恩義を感じていたのではないか。

 念のためいうと、当ブログ筆者は、世間並みの好奇心と知識を持っているだけであり、以上の議論は、当記事を書き綴る傍ら、Wikipediaを購読してた得たにわか作りの知識を基に、つらつらと推察したものに過ぎない。
 せめて、こうした考察が付け加えられていなければ、学説紹介にならないのではないか。毎日新聞の専門編集委員に求められるのは、その令名に相応しい充実した記事ではないかと思うのである。

 毎度のことであるが、当ブログ筆者は、毎日新聞の編集長でも何でもない。素人の放言だから、別に気にすべきものでもない。ただし、毎日新聞の紙面にこうした記事を公開し続けることは、毎日新聞に対しても、記事筆者に対しても、「品格」の低下を感じさせてしまうのではないかと危惧しているのである。

 因みに、素庵の遁世の原因は「ハンセン病」罹患のせいと語られているが、当時「業病」として忌み嫌われていたというものの、記事の主題との関係の深いものではないから、中途半端に病名を出すより「難病」程度にとどめたほうがいいのではないか。読者が詳しく調べたければ、自力で調べればいいのである。

以上

2024年5月 8日 (水)

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠

 「社日」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)
 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08

*加筆再掲の弁
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*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂

 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したようです。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

*裴松之付注

 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 再掲

                    2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08
*加筆再掲の弁
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*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の斉の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 当ブログ筆者は、のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。
 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*「二倍年暦」談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)
 先賢諸兄姉の足跡、特に、寄せられた毀誉褒貶を察すると、一つには、「二倍年暦」を字面だけ見て「誕生日に一気に二歳加齢する」と即断した野次馬が多いように見られるので、安直な誤解を正したいとして書いたものです。

*伝来の背景想到
 一方、齊から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗、つまり「法と秩序を示す[風]及び世俗の有り様を示す[俗]の複合」の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要としないので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたと思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、ことは、「風俗」と言う必要はなく、端的に、文書記録を携えて「文化」移住したのではないかと思われます。となれば、後の戦国齊での稲作「文化」のかなりの部分が忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。
 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

私の所感 古賀達也の洛中洛外日記 3059話 『隋書』俀国伝に記された~都の位置情報 (1)  

古賀達也の洛中洛外日記 第3059話 ブログ記事 2023/07/02                     当ブログの初稿  2023/07/04

*加筆再掲の弁
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◯コメント
 本稿は、「多元的古代研究会」の会誌『多元』176号掲載の八木橋誠氏論稿に対する古田史学の会事務局長古賀達也氏の「賛成意見」と見える掲題ブログ記事に対する「賛成意見」である。あくまで、一介の素人の「所感」であるが、早いうちに表明しないと契機を逸するのではないかと懸念して、あえて、早合点覚悟で先走ったものである。
 八木橋誠氏論稿の引用は、二重引用になり、第三者著作物の取り扱いに疑義が生じることもあり、本稿からは割愛したが、あくまで、古賀達也氏の部分引用コメントに限定したものである。

*本題
 知る限り、古田武彦師の本件に関する最終的な見解は、『「隋書俀国伝」は、中国人によって、中国人のための史書として書かれているのであるから、中国史書として解釈すべきである』と解される「原則再認識」と見える。要するに、隋書編者が知るはずもない「現代日本人の地図情報や歴史認識、及び/又は『日本書紀』の記述」を参照した論義は、論外/圏外のものとして、まずは排除すべきであるとの真意と思うものである。
 つまり、当史料は、それ自体の明記事項と先行する史書、主として、「魏志倭人伝」の明記事項に基づいて、丁寧に解釈することを推奨しているものである。

*隋書「俀国伝」再確認
 「隋書」「俀国伝」は、冒頭部分で「三史」の重鎮である笵曄「後漢書」を根本として、格下の「魏志」は、一応書名に言及するだけで、内容はほぼ無視していて、「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。」と、まだ、正史として認知されていない/認知されたばかりとはいえ、「古」として尊重すべき笵曄「後漢書」を、無造作に、改竄しつつ節略して述べているので、当該記事に限っての断定であるが、隋書編者の「存檔史料」が時代混濁している感じである。
 さすがに「魏志倭人伝」の「存在」は承知しているはずであるが、厳密な史料批判無しに、新作記事を捏ね上げているので、千年あまり後生の無教養な東夷読者にしてみると、編者の視線/視点が、有らぬ方にさまよっていて、いわば、宙に浮いていると見えて心許ないのだが、諸兄姉は、どう感じておられるのだろうか。

*追記(2024/05/09)
 初稿で読み過ごしていて面目ないのだが、笵曄「後漢書」が時代錯誤で書けなかった『「樂浪郡境」と「帶方郡」郡治が、行程道里上、同一の位置である』という更新定義が成されているのは軽視してはならない。恐らく、当時行われた笵曄「後漢書」補注の成果であろう。
 ただし、このような場合、楽浪郡境が昇格した帯方郡が、道里の起点として相応しいかどうかという考察がされていないのは、何とも、暢気である。


 そのような史料認識に搭載された裴世清「訪俀所感」と見えるが、それにしても、本来原史料として最も尊重すべきである「魏志倭人伝」は、九州島外の地理を一切詳記していないこと、及び「隋書俀国伝」自体が、「竹斯国から東に行けば、最終的に海の見える崖(海岸)に達する」と書くだけで、以後、「浮海」するとも「渡海」するとも書いていない以上、『「書かれていない」海津/海港で船に乗って長距離を移動する』ことは、一切予定されていないと見るべきではないかと思われる。
 当代天子である隋帝楊廣(煬帝)は、この時期は、依然意気軒昂で在ったはずであるから、魏代以来疎遠であった俀国への文林郎裴世清の「往還記」が、探索行の要点を漏らした粗雑なものと見たら、突っ返して、きつく叱責したはずである。鴻臚が上程する蛮夷「国書」は、原文無修正であるのだが、当「往還記」も、勅命の成果であるので、公文書扱いせずに原文が天子のもとに上程されたと推察される。

 それにしても、陳寿が、「魏志倭人伝」に於いて、ことさら「水行」なる行程用語を渡海行程に充てる書法を創始したことに気づけば、幸甚な先例として、「循海岸水行」と書くのは適法であるが、それも書かれていない。「魏志倭人伝」に一顧だにしていないことを重大に受け止めたい。

 もちのろん論者が「魏志倭人伝」の道里行程記事に、「島外に出て、東方に遠出する」と書いていると、根拠無しに「決め込んで」いると、さすがに「つけるクスリが無い」のだが、論義は、「決め込み」を主張することで解決することは無いのである。

*頓首/死罪の弁
 当ブログ読者諸兄姉は、古田武彦師が書かれたように、順当な文書解釈にたいして、あえて重大な異議を唱えるのであれば、正統な論拠に準拠した堅固な論証を提示する重大な義務がある」ことにご留意いただきたい。それでようやく異議が一人前と認められて審査に付されるのである。世に蔓延る「異議」僭越に対して、当然の指導とみる。

 以上の「難詰」は、「異議」を奉戴している史学界諸兄姉には、無礼極まりないと聞こえるかも知れないが、ことは、「論義」/「論証」の正道の確認であるので、ご容赦いただきたい。また、古賀達也氏に対して、頭越し/僭越の失礼であることも、よろしく御寛恕頂きたい。

以上

新・私の本棚 番外 古賀達也の洛中洛外日記 3217話

 「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3) 2024/02/05
                                                                                        2024/02/08 公開

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに~おことわり
 当「日記」には、古代史を巡る話題に対して、従横を極める精力的な執筆に、愛読者として毎回感服しているのですが、今回は、お話の滑り出しで「すべって」いて、首を傾げました。

 記事引用:東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 コメント:
 同様な「誤解」が、結構蔓延しているので、題材にさせていただきました。

 ある地点で、簡単に東西南北を求める手順は、以下の通りです。
 まず、広場に1㍍程度の棒を立てます。言うならば、日時計です。
 晴天日に、棒の影の頂点を描いていくと、影が一番短くなる点が、南中点です。棒の根元と結べば、南北線、子午線が求められます。
 南北線決定は、晴天日で良く、春秋分を待つ必要はなく、北極星確認も必要ないのです。ちなみに、春秋分を知るのは、高級課題でしょう。
 棒の根元で南北線に直交する垂線を立てれば、東西線です。縄の両端に棒をくくってコンパス代わりにする東西線作図は初級課題です。
 地形の事情で日の出入方向が不明でも、東西南北が決定できます。

 例えば、著名な纏向では、水平線/地平線は全く見えず、日の入りの方向は、生駒の山嶺ではっきりせず、そもそも、東には三輪山が聳えていて、日の出の方向は、一段とはっきりしません。勿論、季節毎に、どの嶺に日が沈むというのは、精密に観測できるのですが、それは、日の入りではないのです。
 ちなみに、本当の「日の出」、「日の入り」が、両方とも精確に観測できる地点は、ごくごく限られています。また、日の入りの時刻に水平線付近は、霞がかかっていることが結構多いので、精確な日の入りの観測は、大変困難です。

 よろしくご一考いただければ幸いです。

                                以上

2024年5月 6日 (月)

新・私の本棚 番外・破格 西村 秀己 古田史学会報 127号「短里と景初」誰がいつ短里制度を布いたのか? 追記三掲

 古田史学会報 127号 (ネット公開)  2015/04/15
 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って言葉足らず  2020/12/13  追記 2021/04/02, 04/12 2024/05/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 当記事は、古賀達也氏ブログの最新記事で踏襲されているので、最新論考とみて、あえて、非礼を省みず率直な(部分)批判を試みたものである。

○論考のほころび~景初初頭短里施行の検証
 案ずるに、「景初短里」圏外の長「里」が、三国志編纂時に換算され、処理に窮した端(はした)を「数*里」表記したとの部分的仮説の検証であり、以下の引用で主旨は尽くされていると思う。

 そこで三国志の陳寿の本文から、[中略](検証に関係しない用例を除くすべての)「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三%
 蜀=三三・三%
 呉=四〇・〇%
 魏の黄初?青龍=三七・五%
 ところが
 魏の景初以降=五・三%
 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。

*過度の精密表記~速断の弊
 当記事は、「数*里」限定だから、中略部は空振りとしても、断片的データ計算結果に過度に精密な数字を提示し、「ピタリ」一致とは不合理である。穏当な漢数字表記でも、元々不確か、うろ覚えの原データの信頼性であるから、二、三、四割が妥当と思われる。有効数字として一桁も覚束ない数字に0.1㌫表現は、児戯で非科学的である。

 漢数字でも、三世紀当時は、小数のない時代なので、氏の表示は時代錯誤である。あるいは、五分の一、三分の一、五分の二とでも表現するのであろうか。
 数字表記の意義は後回しとしても、景初以降五㌫と言っても、サンプル個数と個別評価が不明なので、統計数値として意味があるだけの数なのかどうか、判定しようがない。つまり、「ピタリと一致」と言うのは、根拠の無い速断なのである。
 いずれにしろ、胡散臭い精密な数字の陳列は、古代史論には無用である。
 さらに言えば、各数字は、各サンプルの意義次第であり、数字の字面論議で済む議論ではない。言い募るほどに論者の見識を疑わせるだけである。

 以上は、偶々、当史論の批判の機会に書き立てただけで、言うまでもないことながら、西村氏個人に独特のものではなく、まして、古田史学会にだけ存在している風潮でもなく、むしろ、広く古代史論全般を見る限り大半の論者と同列の書法なので、「史学論に科学はない」と言いたくなるほどである。心ある方は、是非、古代史論は、原資料と同等の漢数字書法にしていただきたいものである。

◯場違いな用例の山積
 正史の道里表記の検証には、記録の正当性の検証が必要であり、それには、相当の立証努力、試錬を要する。(鍛冶が刀剣を鍛えるように、叩いて焼き入れして、真っ直ぐで強靱なものにするという意味である)
 つまり、偶々、何れかの記事に書かれている「道里」が、「短里」で書かれているように見えたとしても、それは、国家の制度として実施されていたことを証する効力はないので、史学論議として、無意味な徒労なのである。それは、記録の数をいたずらに増やしても、意味がないのである。これは、夙に古田武彦氏が高らかに指摘しているものであることを、書き付けるものである。

*「三国志」の個性再確認
 通常、「三国志」の構成史書は、「魏志」、「蜀志」、「呉志」と言い慣わされているが、三国志の諸志というと、紛らわしいことがあるので、本編に限っては、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」と呼ぶことにしている。
 これら三篇の「国志」は、それぞれの別の書き手によって整えられた史書であるから、当然、別の方針で編纂されているので、必ずしも、三国志としての統一語法、思想で編纂されているわけではないことは、公に意見を述べる程の品格の諸兄には、周知と思う。(『「周知」と勝手に言うが、俺は知らん』などと反論しないでほしいものである)

 各国志は、それぞれの「天子」の諸制度をもとに書かれているが、仮に、魏朝が、漢朝以来の確固たる里制を変更する蛮行があっても、何よりも、曹魏を後漢帝制の不法な簒奪者「偽/賊」と見ている蜀漢では、そのような不法な変更は、絶対に施行されない。

 つまり、「蜀国志」は、漢史稿であり、当然、採用されるのは、当然漢制であり、陳寿は、「蜀国志」を「魏国志」と峻別している以上、里制をいわゆる「魏短里」制(仮に、そのような制度が施行されたとしても、ということであって、「魏短里」制が実在したと言ってるわけではない)に書き替えたりしない。いや、蜀漢皇帝を先主、後主とし、両主に本紀を立てないが、蜀国志の細目に(無法な変改の)手を入れていない。

 東呉は、本来、後漢に服属していたが、曹魏による簒奪は、正統な継承とは見ていない。従って、「呉国志」も、東呉韋昭編纂の「呉書」が土台であり、その主旨は同様である。東呉は、時に魏に臣従表明したが、だからと言って、魏短里制を踏襲していないと思うのである。つまり、仮に「魏短里」制が、強行されたとしても、「呉国志」には、そのような不法な制度は書かれていない。
 よって、「蜀国志」、「呉国志」の三国志統一史観のもとでの史料分析は、ほぼ無意味である。

○まとめ
 当論考は、元々不確実な魏晋朝短里説の論証として、全く不十分と見える。残念ながら、魏明帝「景初初頭短里施行」仮説は、却下判定である。もちろん、ここで指摘しているのは、仮説論証過程の不備であって、仮説自体を論じたのではない。

 ただし、視点を変えて、論証批判という見地から云うと、「景初初頭短里施行」仮説は、論証以前に随分無理がある。
 国家制度としての里制変革は、具体的な実施条件まで含めた、大部の要項が必要であり、また、各地で実施したときの多大な紛糾の記録が残る。仮に実施されたと言うのであれば、それが、曹魏創業時であろうが、明帝景初時点であろうが、明確な記録が残されているはずなのである。正史に、明確な記録がないというのは、そのような制度変革は「なかった」という、堅固な証左である。
 古田武彦氏は、仮想した「短里制」の終焉として、建康で再興した東晋の復古政策によると固執しているが、長安、雒陽の公文書のほとんどを喪った後、一端、国家大業として施行していた「短里制」を、選りに選って、反逆の徒の治世下であった蜀漢、東呉の旧地で廃棄したとみるのは、どうであろうか。ちなみに、東晋創業後の国策は中原回復であり、全国は中原を含むものであるから、制度変革などとても手につかなかったと見るものである。
 また、後続の「晋書」地理志において、秦漢代以来の制度変遷を回顧している中に、そのような制度変更の形跡を一切とどめていないのも、実施されていない架空の変革と思わされるのである。

 正史「晋書」は、唐代に完稿と言っても、西晋代から続く各家晋書稿を集積しているので、晋代の「重大な史実」を書き漏らしてはいない
のである。また、「晋書」 は、「魏志」が備えていない「志」(范曄「後漢書」も、補追された「志」しかない)を完備しているので、魏晋代の記録を補完しているものと見える。

 そのように、安定した資料に基づいて確実な史観を確定すれば、「陳寿の里制換算想定」の妄想は「なかった」の一言で蛇足となり、明解である。

 古代史論で、「何かの制度変革がなかったと言うには、そのような史料がないと言うだけでは不十分だ」とする(どこか別の論議で聞いたような)抗弁が聞こえてくるが、国家制度を揺るがす制度変革が「一級史料に全く記録されていない」(明記されていない)というのは、史料批判どころか、史料の本質に反するとんでもない言いがかりであり、そのような提案には「重大な立証義務が伴う」と思うのである。

                               以上

2024年5月 5日 (日)

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  1/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な「当記事」に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

1.汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の「弧説」であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が全中国人研究者の研究の集成である」と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

2.謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

3.張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載したため、編集長安本美典氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、「今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっている」と推定されるので、「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の「革命」、つまり、古典書の廃棄に邁進したと思われるので、伝統的な歴史教育は、随分疎かになり、むしろ、滅亡が危惧されたものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、天下で唯一の中国文化の拠点が持続されていたものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」誌で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も、論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時(氏名の文字使いが似通っているということか )若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

 追記:張明澄氏は、「季刊邪馬台国」連載記事の放埒な筆致を悔悟してか、後年「誤読だらけの邪馬台国」(久保書店 ジアス・ブックス 1992)なる新書版冊子に、連載記事の学術的な部分を抜粋刊行していて、まことに、市場に蔓延している軽薄な俗論を脱した好著ですが、当講演で共々言及されていないのは残念です。(2024/05/11)

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〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している「倭人伝」誤記論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっている』という主張らしいのですが、まことに「うさん臭い」論法で、せっかく御提言いただいても、とてもとても同感できないのです。
 そこに、下記二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。
①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)
②森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

1.藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、「太平御覧」に所引された魏志である「御覧魏志」 を劈頭に「後漢書」、「梁書」、「北史」、「隋書」の「倭伝」記事を参照して、これらがなべて「臺」を採用している以上、原典である「倭人伝」は、現在原本とされている「壹」でなく、「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。
 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書を羅列したため、個々の史料批判や「御覧魏志」の史料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

2.森浩一氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、従って、文献解釈は専門外と見られます。そのため、史料解釈は、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、「景初二年遣使」論で見られるように、杉本、森両氏の資料誤読と思われる難点を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。
 何しろ、本書の挿絵は、魏皇帝の玉座の前に平伏する倭使の姿が描かれていて、世上、囂々たる非難を浴びているのです。何しろ、景初二年説、景初三年説のいずれを採用するにしろ、倭使が、魏皇帝(景初三年元日逝去の明帝曹叡、或いは、景初三年元日即位の少帝曹芳)に拝謁したとの記事は存在せず、むしろ、拝謁しなかったと見える上に、明帝の勇姿を描くのか、少帝曹芳の頼りない姿を描くのか、どちらの見解を支持するのか、重大な懸案に対して、議論を尽くすことなく醸し出した、いわば未熟な早計を読者に押しつけているのであり、後生に大きな悔いを残したと見えます。

**森博達氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。
 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と「決めつける」と、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、同時代に存在していた魏志(依拠写本)記事の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。
 また、冷静に見て、現存書紀写本の「三」が、武家政権下で、天皇制の正当化を図る「禁書」扱いで逼塞していたため、長年の「不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承」が闇とされていた間に、必然的に伝世劣化し、誤写、改竄された可能性は、何としても否定できないと思われます。いや、当ブログ筆者は、国内史書の伝世については、門外漢ですが、誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。
 また、後世正史の中で、よりによって、編纂過程に疑問が残る「梁書」記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
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*公孫氏「遼東記事」事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が後漢朝/魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしていたわけではないのです。

*鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので、辺境太守が選別すべきです。

*「従郡至倭」論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は景初二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が非常に有力です。倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、曹魏明帝の督促に応じて、引き続き洛陽に赴いた可能性が非常に高いと思われます。

*帯方郡道里考証~参考情報
 念のため、帯方郡道里の考証を進めるには、まず、楽浪郡道里の考証が必要です。
 楽浪郡は、漢武帝が、朝鮮を廃したあとに設けた四郡の一つであり、関中の京師長安が道里の起点であったものの、実務として関東の洛陽を起点とした道里が記帳され、以後不変のものとなっていたようです。そして、一度、洛陽から楽浪郡までの公式道里が記帳されたら、以後、楽浪郡治が移動しても、道里は変えないのです。笵曄「後漢書」郡国志(司馬彪)では、「樂浪郡武帝置雒陽東北五千里」と明記されています。
 「郡国志」では、帯方郡は「帯方縣」であり、後漢献帝建安年間に分郡された帯方郡の公式道里は、未定とみえます。ただし、後漢建安年間は、已に国政は宰相曹操のものだったので、遼東郡太守公孫氏は、あえて帯方郡道里を報告しなかった可能性があります。従って、単に、楽浪郡道里と同一としたものと見えます。
 雒陽を発した文書使は、帯方郡太守あての文書を楽浪郡に送達した時点で、帯方郡太守に送達したと見なしたものと思われます。して見ると、「魏志」に郡国志があれば、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」と書かれていたものと見えます。因みに、後世の「晋書」地理志には、各郡の戸数などが書かれているだけで、郡治の公式道里は書かれていません。
 因みに、劉宋代の正史である沈約(南齊-梁)「宋書」州郡志は、「陳寿」三国志に地理志がなく、劉宋代、笵曄の刑死で継承されていたかどうか不明の「後漢書」は、仮に、公式史書として認知されたとしても、本来「郡国志」を欠いていたので、結局、既に滅亡していた楽浪/帯方両郡相当地域の道里は確定できず、逆に、建康を京師と見立てた会稽郡、建安郡の公式道里は、確実に把握していたので、これを記帳しているのです。
 このあたりの変転は、話せば長いので、ここでは割愛します。
 本項の結論としては、「帯方郡考献帝置雒陽東北五千里」 が、もっとも妥当な推定と見えます。

*公式経路と実務経路
 古来見過ごされていますが、両郡が、魏明帝の指揮下に回収された以上、、帯方郡から中原洛陽に至る公式経路は、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので、遼東戦乱は、全く無関係と思われます。
 このあたり、まことに合理的な理解が可能であり、倭使が景初三年六月明帝没後の帯方郡に参上した」と見るのは、論外の愚行だと思うのですが、中々、不当な異議に対する正当な応答が支持されないのは、どうしても、景初三年でないと具合が悪い事情があってのことと見えます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き、しかして洛陽に向けて西南転する、大変遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。正史に、そのような行程を示唆する「公式道里」が記載されているのは事実ですが、帝国の実務は、最短経路、最速の到達が最優先であり、古式蒼然たる誤解は、早々に廃棄すべきです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、現に史料に書かれている「景初二年」を否定する異議を正当化するに足る合理的/圧倒的な論拠は、全く無いと思われます。不適切な異議は、自動的に却下されます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説群は、不適切/不合理として雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の「自明」論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。
 「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、「決めゼリフの安売りは自身の大安売り」です。不用意な断言で、恥を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると景初三年が正しいと仮定しても、本題論議に直接/重大な関係はないのですが、一部の頑迷な景初三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。いや、ほかにも、景初三年を死守する動機はほかにもあるらしいのですが、ここでは深入りしません。

 当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試/審査されていないのでしょうか。

 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:
 安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
 両氏は、「倭人伝」解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、「邪馬臺国」、「一支国」は後世史書依拠の見地を採用していて、客観的な物証にかけるものの、一応、議論としての筋を通しています。
 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道はそれぞれ不安定であり、「景初二年」校異は、合理性に欠け、一段と不確かです。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
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〇書誌学談義 追加2020/10/06
 そのあと、忽然と「慶応大学の尾崎康教授」なる方が紹介されますが、素人の調べでは、氏は随分以前に同大学教授職を離れたと思われますから、そのような自己紹介はしていないと思われます。
 というような、つまらないアラ探しはさておき、ここで書誌学の権威たる氏が述べたのは、「古田氏が、紹凞本は三国志現存刊本中最上であると決め込んでいる」との世評を受けたご託宣であり、書誌学上、南宋刊本「紹凞本」は、先行した「紹興本」への後追いの民間刊刻であり、由緒正しい官刻である先行紹興本が、紹凞本に優ると書誌学の見地から、予断を持った上で、以下論じています。

 書誌学では、そのように解されるのが順当でしょうが、個人的には、南宋が多額国費を投じた、赫々たる官刻正史(紹興本)に重複する短期後追いの刊刻大事業(紹凞本)を、特段の意義無しに成したと思えないのです。

 氏は、当然書誌学の見地から、史記に始まる正史宋元代刊本について、刊本の質を論じていて、当然、その一環として陳寿「三国志」に精緻な考察を加えているものであり、本来、魏志第三十巻の巻末に収録された「小伝」である「倭人伝」の当否は、些末事、研究対象外でしたが、何らかの事情で、その点を特に精査することを求められ、ことさらに、このような書誌学的「紹凞本」評価をものしたようです。

〇評価の実態~隔絶した善本継承の確認
 言うまでもないのですが、尾崎氏は、書かれている内容を評価したのであり、書誌学的見地から「紹凞本」を毀損して「紹興本」を絶賛しているわけではないのです。所詮、両刊本共に、南宋代の刊刻時以来数世紀に亘る版木に対する経年変化のために、部分補修あるいは一部更新などを歴て、現代に継承されていて、大局的には、「三国志」は、正史の中に在って、異例と言うべき高度な継承を維持しているのであり、むしろ、「個別の資料に於いて、微視的に解析すると、書物に個体差がある」事が述べられているように見えます。
 そして、肝心なことですが、氏の暗黙の知識としては、『陳寿「三国志」は、南朝劉宋期の裵松之による付注の際の原本校勘、北宋による初回刊刻、つまり、版木作りの際の校勘、さらには、南宋による復元刊刻の際の校勘というように、その時点の帝室原本と高官や地方愛書家などの所蔵する良質写本を照合して校勘する大事業が展開されていて、二千年近い期間を通じて、異本の発生が、他の正史諸史と比較して、隔絶して抑制されていた』というものと思われます。
 さのため、陳寿「三国志」には、世の正史に付きものの「異本」、「異稿」が、事実上存在しないので諸本を照合して原文を考察する「愉しみ」が得られないという嘆きが書かれますが、そのような初歩的校勘は、とうの昔に終わっているという事です。大魚を求めるべき漁場は、別の海に求めるべきです。

〇誤記、誤写の事実無根確認
 ということで、極めて誤写されやすいと「憶測」されている『「壹」が「臺」と文字化けしている』資料は、一切露呈していないのです。

〇動機不順の懸念
 世の中には、自説の裏付けにならない「結果」しか出せない研究は、無意味な研究と断じる方がいますが、要は、『所望の「結果」が出せない研究に金は出さん』という迫力が感じられて、薄ら寒いものがあります。
 あるいは、「結果」が得られなければ、全国各地の発掘活動が衰弱し、開発による遺跡破壊が進むと警鐘を鳴らす向きもありますが、筋違いと見るものです。安本美典氏が、宗教論争と危惧する形勢がほの見えています。

 因みに、以上の尾崎氏の意見は、季刊「邪馬台国」誌連載記事の総括ですが、尾崎氏は、張明澄氏と異なり、学究の士ですので、支援者に忖度することなく、その金言は、信ずるに足るとみるものです。

***追加終了
                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
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 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇井上光貞事例
 続いて、井上光貞氏の席上談話が延々と引用されています。
**引用開始**
 東京大学の日本史家、井上光貞氏は、『論争邪馬台国』(1980年、平凡社刊)の中で、松本清張氏の問いに答え、次のように述べておられる。
「(邪馬壱国が本当であるというのは)、ぼくは結論的には、古田さんの思い過しであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りに読めというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ原物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。

これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」

「たとえば『三国志』は三世紀の末頃に出来て……これ、末のいつであるかということは問題だけども、まあ三世紀の末だろうと思われる。一方、いちばん古い版本は、……南宋の本で十二世紀なんですね。その間、本としては九世紀の隔(へだ)たりを持ってる。本としてはその間に今日のところ何もないわけです。写本はもとよりのこと、版本もそれだけの距離を持ってるわけです。ところがその間にいくつも逸文というものがある。それを途中で読んだ人の記録というのがあるわけです。

そういう意味からいって、途中で読んだ人の記録を見ると、やはり大きいのは『後漢書』だと思います。『後漢書』も、もちろん原文が残っているわけではないのですけれども、……『後漢書』のあの記事は明らかに『三国志』を見ているわけですけれども、そこにはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が出来たのは五世紀でありますが、それが『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者のみた『三国志』の『魏志』の『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」
*引用終わり*

〇古田氏史料観の当否
 冒頭で、井上氏は、古田氏の「邪馬壹国」論に秘められた根底は、要するに単純素朴な「原文」主義に過ぎない』とした上で、『陳寿「三国志」の三世紀原文は存在しないから、遡って原文を確立した上で議論すべき』と高度な一般論を持ち出します。

 大局的にはおっしゃる通りですが、素人の率直な意見としては、大変疎漏な見解と見えます。ご意見は理性的ですが、『佚文や類書、そして、不遇時代の続いた笵曄「後漢書」は、当然、原本そのままではない』という公平な考察が疎かになっていると思います。
 更に言うなら、正史たる陳寿「三国志」(裴注本)は、歴代皇帝の至宝として、写本継承されるときも、多数の高位の人材が投入され、高度で組織的な管理が行われて史料テキストの劣化が抑制されているのに対して、提示されている諸史料は、所詮、人材、資材、所要期間に制約のある「業務」で処理されているので、格段に、誤記、誤写の危険性が高まっているものです。くり返して念押しすると、笵曄「後漢書」は、反逆者として斬首された笵曄の遺品から、どのように名誉回復され、有力「後漢書」として、南朝遺物から北朝に回収され、遂に、章懐太子によって、正史として称揚されたか、其の経過の大半は、不明瞭なのですから、陳寿「三国志」鉄壁の信頼性と比すべきもないのです。

 井上氏といえども「全知全能」でない以上、専門外の分野の論議には介入を控え、専門家に委ねるべきと思います。案ずるに、国内史学界では、文献史学と遺跡/遺物考古学の二大分野の間には、分厚いあぜ道があって、互いに相手の領域に踏み込まないという「仁義」が定着していると見られるので、井上氏が、御自ら、中国史書の解釈について、蘊蓄を傾けたのには、正直驚愕したものです。いや、著書執筆の際には、中国史書解釈について「専門家」にしかるべく諮問し、然してその答申に随うものでしょうが、講演会に続く座談会では、ご自身の見識に頼らざるを得ないので、若干覚束ない発言になっても、しかたないと見えるのですが、このように、第三者に引用されてみると、氏の権威に陰が差してしまうのではないかと危惧するのです。
 要するに、この部分は、筆者の念入りの推敲と専門家による編集を経た出版物である著書の引用でなく、散漫な席上談話の書き起こしなので、このような重大な論考に引き合いに出すのは、大変不都合なものと考えます。

 そこ(笵曄「後漢書」)にはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が(…)『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者(笵曄)のみた(…)『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」 と井上光貞氏が、素朴な、むしろ、子供じみた/素朴な、非学術的な「感想」を述べたところを、安本氏は、手っ取り早い論拠として持ちだしていて、「まことに失礼」と思うのですが、どんなものでしょうか。

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇日本史権威の「素人考え」
 案ずるに、日本史の権威である井上光貞氏は国内史書に対する態度として、「史書には必ず複数の有力な異本があるから、特定の現存版本に決め込まず、諸本を照合して本来の形態を見出すべきである」と教え諭されているように見えます。
 しかし、国内史書ならぬ、中国正史である「三国志」は、陳寿の没後、西晋朝の命で、遺された確定稿を書き写して官撰史書として上申し、西晋帝室書庫に収納して以来、各王朝が代々国宝に準ずる扱いで厳格管理されたこともあり、二千年近い期間を歴た今日、残存する諸刊本に異本が極めて少ないと思うのです。

 恐らく、どこかの「三国志」異本に「邪馬臺国」とあるだろうから、はなから「邪馬壹国」に決め込まず、どちらが正しいか決めなさい』と言う大人の教えでしょうが、氏の予断に反して「邪馬臺国」と書く「三国志」異本は、一切存在しないので、諸々の異本を糾合して照合校勘しても、結論は変わらないと思います。この程度の素人考えはとうにお見通しで、言い間違えたのでしょうか。

〇佚文(逸文)考
 ここで、俗耳に浸透している「佚文」が導入されますが、ここに示された井上光貞氏の慧眼は深遠なものがあります。
 後世編纂された「類書」である太平御覧、翰苑などの「所引」魏志は、当時、今日言う厳密な引用を意図したものでなく、不確かな佚文に依拠する不確かなものとの明解な意見と思われます。氏として、格別の意義を表明したものであり、卒読せず、深甚な教訓をかみしめるべきでしょう。

 結局、三国志現行刊本に揃って書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤写とする論拠は提示できなかったと見えます。
 井上光貞氏は、そのような瑣末の論証を史学の本分と見ていなかったと思えるので、引用の談話を不首尾と解するのは、随分失礼かと思います。

〇范曄考批判
 井上光貞氏の笵曄「後漢書」論に考察を加えてみると、氏は、南朝劉宋の范曄が、高官在任中に「三国志」善本を実見して忠実に書き取ったとは想定してないようです。高官特権で帝室書庫に入り浸りになっても、書庫に山積の史書経書の中で、ことさら、皇帝蔵書の「三国志」の書写に没頭したと思えないということのようです。
 所詮、代理人に史書佚文を求めさせたと思われます。あるいは、後年、配所の閑職にあって、任地に持ち込んだ山なす蔵書から「佚文」を作成させたかと見ます。なお、范曄は「佚文」の不確かさは承知していたはずです。
 当時、笵曄が、身命を賭して編纂に没頭した「後漢書」編纂の資料と言えば、地理的に後漢全土、時間的に二世紀にのぼる厖大なもので在野資料も多く、魏朝事象「邪馬臺国」に関し、格別の綿密な原文考証を行ったという証拠は無いと思います。
 井上光貞氏の高度な識見は、「大局に酔って具体を忘れるな」との戒めと信じるものです。

〇古田氏の信条の確認
 因みに、素人考えでは、古田氏の主張は、「現に目前にある史料、便宜上原文というものを、まずは基本として読むべきだ」という、まことに至当な主張であり、はなから立証されていない誤記、誤写を書き足した、でっち上げ史料をもとに議論すべきではない」という当然、至極な意見のように思えます。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  8/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇「原文」考 歴史観の清掃
 案ずるに、そのようにして新作されたでっち上げ史料は、現代人の著作物であり、陳寿の編纂した著作物ではありませんから、かくなるでっち上げ史料を陳寿の著作物として、その良否、正邪を議論するのは、当の陳寿に対して、大変無礼かと思われます。

 例えば、方は、一介の素人ですが、自身の著作物を、別人が盗用改竄して、当方の名で論じられるとしたら、とんでもない不法行為です。(現代風に言うと、著作権および著作人格権の侵害ですが、年月を経て著作権が消滅しても、剽窃、盗用は、許されません)

 ということで、ここまで読んだ限りでは、安本美典氏が堂々と論陣を展開した論拠は、ことごとく不適格ないしは不適当と思われます。つまり、論証の要諦を失していると思うものであるがどうでしょうか。

〇安本氏見解の総括
 本稿では、論議の総括として、以下のように表明されています。本題に関する主旨に変化はないものと思うので、当記事を論評します。
 個別項目に追記としてコメントを入れたことに対して、ご不快の方がいれば、申し訳なく思いますが、これが当ブログの芸風です。

**引用と追記**
 私の考えをまとめると、次のようになる。
(1)三世紀『三国志』原本をみた人はだれもいない。三世紀の原本は、存在していないのである。

コメント:失礼ながら、素人目にも、隙だらけの主張と見えます。
 氏が論拠とされている諸史料もまた、原本は存在せず、現存の「人」は誰も見ていません。(「みた人はだれもいない」とは、軽率な言いそこないと思われます。少なくとも、陳寿自身は見ているはずです)
 あら探しは置くとして、本項は、氏ほどの論客が、重大な議論の冒頭に掲げる論拠として有効とは思えません。本来、冒頭には、本項だけで論議を終結できるような決定的事項が掲げられるべきではないでしょうか。年月で熟成したはずの議論なので、万人がそのように期待して聞き入ったはずです。

(2)現存『三国志』の版本は、十二世紀以後のものである。『三国志』の成立から、十二世紀まで、およそ、九百年の歳月が流れている。

コメント:衆知、自明の客観的事実の表明であり、特に意見はありません。一項を建てる意義は無いと見えます。全ての史料は、世に出た時点から、経時変化(加齢)を避けられないのですが、史学の場では、加齢劣化の「質と量」が大事なのです。

(3)十一世紀よりまえの史料で、女王国の名を、「邪馬壹(壱)国」と記すものは、一切ない。

コメント:「十一世紀よりまえの史料」とは、原文がその時代に書かれたというだけであり、その原文が確実に伝わってないので無意味です。それとも、当時の正本が、たまたま、まだ見つかってないと言うことでしょうか。神がかりになりますね。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三  9/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

*加筆再掲の弁
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〇安本氏見解の総括~承前
(4)福岡県太宰府市、太宰府天満宮に伝来する『翰苑』の九世紀写本は、卑弥呼の宗女の名を「壹與(壱与)」ではなく、「臺與(台与)」と記し、その都を記すのに、「馬臺(台)」と、「臺(台)」の字を用いている。これは、十二世紀以後の版本と異なっている。

コメント:「翰苑」は、前項の例外と見えますが、衆知の如く、「善本」、つまり、良質の写本ではないので、精査すれば論拠に不適格であることは明確です。
 ちょっと困るのは、この「翰苑」現存断簡に見える用字/用語が誰のものか、不明確だと言うことです。雍公叡の付注、張楚金の正文、いずれかの史書の引用、どれであるかで、判断は変わります。どうも、史書ならぬ「翰苑」は、史書原文の用字を必ずしも維持していないようですから、論拠として不適格ではないでしょうか。
 それに先立ち、「翰苑」写本断簡の史料批判がされていませんが、同断簡は、明らかに、九世紀写本時点の「翰苑」原文に忠実とは思えません。「誰も原本を見たひとがない」ので、厳密な議論はできませんが、断簡に多数見られる明らかな誤写、誤記は、当史料が、原本と厳密に照合・校正された正確なものでなく、粗忽に所引された佚文であることを示していると見えます。
 原本ないしは忠実な複製品(レプリカ)であれば、論証資料に採用できますが、低劣な写本や佚文は、単なる参考資料に留めた方が良いのではないでしょうか。
 但し、このような論法は、当方が、かねて「倭人伝」現存刊本に対する批判手法として不適格と批判しているものですから、いわば、諸刃の剣であるかも知れませんが、それは、お互い様ではないでしょうか。
 また、「翰苑」の仮想原本は、写本の際の修飾が避けられず、引用資料の忠実な引用でないと思われます。何しろ、同断簡は、「翰苑」全巻でなく、断簡に過ぎず、また、現存唯一の史料ですから比較検証できず、以上の判断は検証困難であることは否定できないと思われます。佚文扱いが妥当でしょう。
 因みに、「翰苑」を史書史料として評価するためには、早い段階で校訂を加えて、誤字、乱丁を解消し史書形式で復刻した良質史料の評価が不可欠であると見ますが、これまで、見過ごされているのは大変残念です。
 翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本 *出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰 (loginが必要)
 據日本京都帝大景印本覆校 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

(5)いま、三世紀の女王国名は「邪馬臺(台)国」宗女の名は、「臺与(台与)」であったと仮定してみる。そして、九世紀~十一世紀の間に、誤写、または、誤刻がおきたのだと、考えてみる。現行『三国志』版本に、「邪馬壹(壱)国」「壹與(壱与)」とあるのは、誤写、または、誤刻によって生じたと考えてみる。

コメント:仮定の設問は「お好きになさい」と言うところです。

(6)このように考えると、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』『通典』『翰苑』などに「臺(台)」の字が用いられている事実を、古田説よりも、はるかに、簡明に説明できる。(古田氏は、『後漢書』などに、「臺」の字があらわれる理由を、つぎのように説明する。すなわち、五世紀になり、南北朝の対立、五胡十六国の出現という時代になって、「臺(台)」の字は、各国の都の名に用いられるようになり、「臺」の字の性質は、変わってきた。したがって、五世紀になって成立した『後漢書』に、「邪馬臺国」が出現してもふしぎはない------。しかし、この古田説では、三世紀に「邪馬壹国」であった女王国の名を、『後漢書』が、とくに、「邪馬臺国」に改変しなければならなかった理由が、十分に説明されていない。三世紀の女王国の名が「邪馬壹国」であるならば、『後漢書』も、それを記すのに、「邪馬壹国」と記すのが、自然ではないか。)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会 第381回講演「邪馬台国」論争 三 10/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 2024/05/05
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

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〇安本氏見解の総括~承前
(6)承前

コメント:この項は、独立項でなく前項の続きとみても、趣旨不明です。
 「自然ではないか」と()内で論じて主語不明ですが、本項で何を主張しているのか不明です。()内は飛ばしてよい「はした」とみるものと思うのです。それにしても、前々項までの論理性が消失して不可解です。古田氏の「後漢書」読みを見損ねたのでしょうか。後漢書」は、「後漢代の大倭王の居処」を「邪馬臺国」と称しています。
 ついでながら、「南北朝の対立」、「五胡十六国」は、時間的に前後していますが古田氏記述の引用とも見え、だれに誤記の責任があるのか不明です。

(7)(a)さまざまな現象・事実がある。(b)いま、ある仮説を真とすれば、そのさまざまな現象・事実がうまく説明される。(c)それゆえ、その仮説を真とみる理由がある。以上は、ドイツのヒルベルトの説いた公理論(「公理論」については、拙著『「邪馬壹国」はなかった』参照)以後、アメリカの C・S・パース、ノーウッド・R・ハンスンなどによって発展させられ、現代の科学方法論の主流となりつつある見解である。

コメント:この項は、一段と趣旨不明です。ことは、史料解釈における歴史観・考察技法の議論ではないと思うのです。
 安本氏が、同時代史学論者の啓発を図る趣旨であれば良いのですが、ごくごく一般論として、三世紀「東アジア」の世界観を論ずるのに、ここに描かれた論は、時代、文化が大きく異なる、無効な議論ではないでしょうか。
 
〇総評として
 以上のように、当記事は、期待に反して安本氏旧論の蒸し直しで、不変の信念は健在なものの、当方の私見を変えるものではありませんでした。
 当方の理解は、たかが「邪馬壹国」論、「壹」の一文字に関してすら、古田氏の至極当然の主張、つまり、「倭人伝に関する史学論議は、まずは、現存史料を基礎/基点として議論すべきである」という提言を遂に否定できなかったとみます。
 安本氏ほどの論客が、決定的な論証が行き届かず、古田氏自身の個人資質に関する根拠不明の風評を大量に起用して誤記論を展開したのは、控え目に言っても、安本氏の器量不足を思わせ、失礼ながら勿体ないのです。

 手厳しい論難と取られるかも知れませんが、斯界の最高峰たる安本氏に要求される基準はとてつもなく高いのです。つまり、当稿は、氏に対する当方の絶大なる敬意の表れです。記事字数を見て察していただきたいものです。
 以上が、当講義録に対する誠実、かつ、率直な批評です。

*終結宣言の提案
 かねてより安本氏が表明されているように、論争は、当事者全てが終結に納得しない限り終結しないのです。まずは、安本氏から、不毛の事態の終結を提案いただければ、時を経ずして、天下を揺るがし続けている「邪馬台国」論は、平和裏に終熄するものと感じています。

 書き漏らしましたが、「翰苑」は、翰林院、すなわち、皇帝の関係する文書を司る役所であり、用語、表現を典拠のある、そして、美麗な表現とできるよう、選りすぐりの文例を集める、と言う趣旨のように思います。「翰苑」そのものは、帝室の物ですが、教養人がお手本とする愛読書であったようです。
                              以上

2024年5月 1日 (水)

倭人伝の散歩道 2017 東夷伝 評の読み方 三掲

               2017/09/20 補正2020/12/20 2023/01/15 2024/05/01,05/03
*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 「評」は、東夷伝「倭人伝」末尾に書かれていて、本来、東夷伝の一部と解すべきなのですが、大抵の「倭人伝」論では、忘却されています。

*評釈
 当方は、四十一字の字数に惑わされず、「評」として書かれた(重たい)意義を伝えたいのです。
 まことに、つたない解釈ですが、以下に私訳/試訳と所感を述べます。

*原文 (句読点等は、中国哲学書電子化計劃による)
 評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!

私訳:
 評して言う。司馬遷「史記」と班固「漢書」は、朝鮮と両越を著し、東京(東漢/魏の洛陽)は西羌を撰錄した。魏の世に匈奴は遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑があり、加えて東夷が使訳し時に通じたので事に随い変化を記述した。

*所感
 ここに書かれているのは、魏による司馬懿の公孫氏討伐、遼東平定によって拓かれた東夷新知識を記録した「倭人伝」が、中華文明史上に燦然と輝く史書であるとの自信/自負です。「魏志」掉尾の東夷伝は、画期的に意義深いので、冒頭に序文が書かれ、末尾に東夷伝に付された「評」が書かれたと見るべきです。

 念のため言うと、陳寿の時代、范曄「後漢書」は百五十年先ですから、影も形もないので、評価しようがないのですが、「東京撰録西羌」と言及しているということは、公式史書に近い存在として、史記「大宛伝」、漢書「西域伝」、そして、荀悦「漢紀」の西域記事に続く、後漢「西羌伝」が、鴻臚の文書記録から、「撰録」が編纂され、非公式に関係者に回付されていたということです。想うに、限られた分量とは言え、「蔡侯紙」(記録用紙)に恐らく、早書きの略字体で墨書した(簡牘巻物に比べて、圧倒的に細身で軽量の)読み物が存在したと思われます。
 魏の世に匈奴が衰え、代わって烏丸、鮮卑が書かれ、東夷から使者が来ましたが、四夷は早足で推移するから、都度書き留めねばならない、との慨嘆と思えます。

 陳寿の理解では、後漢代、特に、末期には、「東夷交流にさしたる事績の記録はなかった」ということです。(後漢献帝建安年間は、曹操の治世下にあったので、「魏志」の範囲と見なされているのです)また、暗黙の意見として、後漢末期から魏代にかけて、「西域交流にさしたる事績の記録はなかった」と言う事でもあります。

 後漢・魏・西晋の三世紀近い期間の洛陽三代(CE 25-316)を通じて、四夷来貢の度に鴻廬が歓待し礼物を渡し印綬を施した事例は、容易に書き尽くせないほど多かったはずですが、蛮夷応対の実務を担当した鴻臚の文書に、全て記録されていたのですが、史官が「本紀」に加えて、「夷蕃列伝」を著するのは、帝詔公布、使節往来など大事件があったときなのです。このように、陳寿は、慎重に言葉を選んで、寸鉄言としています。

*「三国志」の行程~考察追記 2024/05/04
 荀悦「漢紀」30巻は、後漢献帝(在位 CE 189-220)の諮問による正史に準じる官撰史書であるから、禅譲によって皇帝書庫を継承した魏朝に継承されていたはずであり、これに続く史書として、袁宏「後漢紀」30巻が編纂されたものと見えます。つまり、漢代四百年の「両漢紀」(全60巻)を残したものであり、言わば、漢朝最後の皇帝が、漢朝自叙伝として企劃し後に完成されたものとすれば、同代史の様式が示されているものと見えます。

 班固「漢書」は、高祖劉邦が天子となって以降二百年に及ぶ「歴史」の記録であり、歴代皇帝の伝記である「本紀」12巻に、高官有司の「列伝」70巻を加え、更に、資料集である「表」8巻・「志」10巻を追加して、「歴史記録」100巻の偉業を整えましたが、後漢献帝にして見ると、漢書を意のままに閲覧できるというものの、全巻(大量100巻の巻物)を身辺に置いて随時紐解くことなどできなかったので、座右の書を求めたものと見えるのです。

 陳寿が「三国志」の全容を構想した際に、言わば、漢朝創業者である高祖劉邦が最初に全天下を制覇し、代々伝統した、つまり、子々孫々に継承させた偉業を、最後の献帝劉協が、前後各30巻として構想したのを一つの規範としたと見えるのです。
 して見ると、陳寿は、漢書に続く史書としては、「魏書」30巻(最終的に、「本紀」4巻、「列伝」26巻)が構想の原点であったと見えるのです。以後、「列伝」に蛮夷伝をどれ程書き加えるかと模索した結果、「魏書」「西夷伝」は割愛し、「東夷伝」は、魏書の担当すべき、後漢献帝期以降、曹魏終焉に至る期間に、「評」が示唆しているように、画期的な事象が、雒陽に収蔵された公文書に記録されているので、これを、魏書巻末に「烏丸東夷伝」を設け、就中、魏朝が、東夷の極限の「倭人」を「親魏倭王」として中国の周縁に属させたという功績を明記したと見えるのです。
 ただし、魏朝「曹魏」は、遂に、天下を全て服させることができなかったことから、晋朝(西晋)に降服した東呉が公式史書として献上した韋昭「呉書」を、天子の承認を得た公文書として扱うことにより、蜀漢公式史書「蜀書」を受忍する先例を設け、最終的に、「魏志(魏書)」30巻、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る「三国志」の体裁を整えたものと見えます。

 以上、あくまで、一介の素人の個人的な意見にすぎませんが、当人としては、陳寿の推敲の曲折を辿ったものと感じています。

*追記
 因みに、世の中には、この「評」が、「倭人伝」の不出来さを自認している』と解し、是を根拠として、『「魏志倭人伝」が、史書として拙劣である』と論じ立てている人がいるようですが、それは物知らずの勝手読みです。早々に、退場頂きたいものです。
 陳寿は、太古以来の史官の系譜を嗣いで「魏志」を書いた「自負心」/「使命感」を持ち、つまらない「評」を載せるはずがないのです。当世良く見られる個人的「レポート」の締めではないのです。

 史料は、先ずは、史料自身の文脈で読むべきです。二千年後生の無教養な東夷が、溢れるばかりの「無知、無教養」から廉恥心に欠ける視点で解釈するのは、論外です。

 因みに、当記事は、神の目で見て「評」が適切な評価であると言うのではありません。陳寿が、どういう趣旨で、何を書いたかと言っているのです。
 もちろん、個人の意見は、当人に固有なので、以上の趣旨に同意できないとして、それは当人の勝手です。

 時には、自明のことを明言したいのです。

                               以上

*再追記 2024/05/02
 恐らく、読者諸兄姉は了解されていると思うのですが、上記「追記」の動機は、『この「評」が、倭人伝の不出来さを自認していると解する人』と限定しているように、「何が何でも陳寿が大変不出来な文筆家だったと言い立てる」「野次馬」の「売り言葉」に対する「買い言葉」であり、当ブログ筆者が、ついつい、尊大な「陳寿像」を立ててしまったことは、コメント子の苦言を待つまでもなく、言いすぎであることは承知しています。ただし、陳寿は、当然、三国志の編纂という大事業について、「自信」というか「自負心」を抱いていたのであり、この点は、私見とは言え、別に誇張では無いと思います。
 また、コメント子が「自画自賛」の本来の意義を介しておられるかどうか不明なので、くどくど弁明すると、当ブログは「古代史」語法に還っているので、念のため説明する異にします。
 つまり、古来、「画工」は一種の職人であり、「文化」の下位に属するものなので、「画工」が、現代の観点で絶世の芸術家であっても、「画」は、経書でも、漢詩でもなければ、詩経でもなく、「文」として認められるためには、「讃」が伴わなければ、と言うか、「讃」を主役として、一歩引かなければ、世評を得られなかったという事態を、「自画自賛」に擬(なぞらえ)たものなのです。
 つまり、史書は、あくまで、記録文書の集約であり、史官は、文筆家としてでなく、文書職人としてしか評価されないので、「評」の形式で、感慨を述べたと見るのです。
 コメント子が、小文の文脈展開を軽視して、文章断片をかじりとって批評する「読みかじり」の風潮に染まっていなければ、さいわいです。

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 批判 2014/10 再掲

                      2014/10/15 2024/05/01

*加筆再掲の弁
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◯始めに
 歴史学者諸賢の学説は、拝聴することにしているのだが、毎日新聞(大阪)夕刊文化面の連載記事『「歴史の鍵穴」 難波津と安積山 紫香楽宮を挟んで両極端』は、ちょっと/猛然と暴走したように見えるので、指摘させていただきたい。
 いや、これまでも、「歴史の鍵穴」氏が展開する牽強付会の意味付けには、ちらちら/毎度毎度首をかしげていたのだが、世間に良くあることなので、見過ごしていたものであるが、今回は、あんまりにも、あんまりなのである。

*首尾不明の迷走
 本日の記事の導入は、宮町遺跡で発掘された木簡の両面に書かれている難波津の歌と安積山の歌の読まれた舞台の位置が、地理的に対極の関係にあるという説である。
 また、記事の最後の部分の導入は、8世紀中期当時の都である紫香楽の宮から見て、難波津は南西の地の果て(断定)であり、安積山は北東の地の果てに近いと書き、記事を締めにかかっている。

 しかし、掲載されている地図を見るまでもなく、大阪湾岸の難波津が「地の果て」とは、何とも、不思議な見方で、とても同意できないのである。
 確かに目前に海はあるが、つい、その向こうには、別の陸地があるのは、漁民には衆知であり、また、一寸、北に寄って、今日言う山陽道を西へひたすら辿れば、下関あたりまで延々と陸地であり、そこで海にぶつかるとは言え、すぐ向こうに九州の大地がある。

 いくら、遙か1200年以上昔の事とは言え、大抵の漁民は、その程度の知識を持っていたはずであり、況んや、漁民達より深い見識を有する都人(みやこびと)は、難波津が地の果てなどとは思っていなかったはずである。

 「専門編集委員」ともなれば、無検閲で自筆記事を掲載できるのだろうが、この程度の中学生でもわかる不審な言い分を載せるのは、どうしたことだろう。

 ここで提示されている地図を見ると、確かに安積山は、遙か北東遠隔の地であり、到達に数ヵ月かかるから、現地確認など思うもよらず、ここが地の果てと言われても、同時代人は反論できなかったろうが、難波津は、せいぜい数日の行程であり、ほん近間である。
 これらの二地点を、対極というのは、字義に反するものである。

 また、大局的に見ると言うことは、さらに縮小した地図を見ることが想定されるが、そうしてみれば、難波津は紫香楽宮のすぐ隣である。ますます、字義から外れてくる。

 斯界の権威が自信のある自説をはるばると敷衍しようとするのは当然としても、なぜ、ここまで、遠慮のない言い方をすると、こじつけの域を遙かに超えた無理な見方をするのか、理解に苦しむのである。 

 今回の記事の説が成立しなくても、前回までの議論に影響はないように思うのである。 

 都の東西に対極があるとする見方に固執するのであれば、安積山が大体このあたりとして、難波津は、地図の左にはみ出して、下関や博多あたりが、距離として適地である。実は、九州に難波津を想定しての発言なのであろうか。
 また、南西という方角にこだわるなら、宇和島あたりであろうか。それとも、いっそ都城か。
 対極をともに想定地に固定維持すると、都は、近畿にとどまることはできず、飛騨高山か飛騨古川あたりに、紫香楽宮の位置をずらさねばなるまい

 そうした、無理に無理で重ねる作業仮説が否定されて退場すると、木簡の裏に二つの歌が並べて書かれていたからと言って、同時代人が、両者の舞台を、地理的な対極に想定していたとは言えない、と言う至極当たり前の意見に至るのである。
 「回答の選択肢から、可能性の無いものを取り除くと、残されたものが、正解である」と古人は述べている。宜なるかな。

 これほど、素人目にも明らかな齟齬であるから、「専門編集委員」と言えども、PCソフトに相談するだけでなく、発表以前に、生きた人間、それも、経済的に利害関係のない人間の率直な意見を仰ぐべきではなかったかと思うのである。

以上

2024年4月30日 (火)

毎日新聞 歴史の鍵穴 謎の五世紀河内王宮 再掲

大阪城跡の下層
 古代王宮が埋もれた可能性      =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 根拠なき迷走-全国紙の座興か   2016/08/25 2023/01/23 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、毎日新聞2016/8/24日夕刊の文化面記事、月一連載の「歴史の鍵穴」に対する批判である。

 今回は、穏当な書き方で有るが、良く見ると大変大胆な主張が発表されているので、ぜひ検証したいが、なんとも検証できない。あえていうなら、出所不明への不満である。雑ぱくで恐縮だが、市井の諸賢の叡知を広く顕彰する記事として、どこがまずかったか気づいて頂ければ、幸いである。

*五世紀河内宮仮説
 今回の記事は、大阪市教委の学芸員の意見を伝えて頂いているようだが、学芸員の地方公務員公務の成果を、毎日新聞社独占としてこの紙面で成果を提供頂いているのだろうか
 ご当人の詳しい論旨が不明なのだが、燦然としているのは、五世紀、前期難波宮に二世紀先行して、この附近に王宮(と政府組織)があったとする主張であり、まことに大胆である。いつここに都を来させて、いつ、ここから都を移し出したのか、資料を拝見したいものである。

 80年度の調査で検出された柱穴の上の地層から、古代土器片が検出されたという微妙な意見であり、五世紀後半とおもわれる須恵器の破片が出土しているとしているが、どの程度の数量出土したのか不明だから論評できない。

 「柱穴」がいつ掘られたか確証があるのだろうか。また、「柱穴」が示す通り何らかの建物があったと仮定して、それが「王宮」の一部であったと断定的に主張するのは、あまりに大胆ではないか。以下の記事でも、五世紀にこの附近に王宮があったという記録については触れられていない。
 できれば、そのような画期的発表の基資料(プレスレリース)を見たいものだが、出所不明では、如何ともし難い。

*七世紀のお話
 七世紀のお話として、図解されている難波宮遺蹟の中枢部の一部が、北北東という半端な方向に500㍍程度離れてあったというのも、不思議な話である。
 記事の末尾を見ると、学芸員は、ここに王宮と言うより内裏があったのではないかと想定しているようだが、復元模型で示されているような難波宮が堂々とあるのに、天皇の寝泊まり/居処は別の場所というのは、なんとも信じがたい。

*公開データ利用のモラル
 今回の説明図は、「写真は国土地理院のウェブサイトより」とされているが、URLもなければ整理番号もない。白黒でサイズが小さい上に、撮影時期不明、縮尺不明、方角不明。(国土地理院が不親切なのではない) 説明がないので、どこが本丸やらどこが二の丸やらわからないし、追加記入した、白線や破線枠も、よく見えない。
 記事筆者は、現地事情を承知しているし、見ているのはカラーで大画面だから良い説明図と思われたのだろうが、夕刊紙面を見ている読者にはちんぷんかんぷんである。
 「近辺」の「法円坂遺跡」が描かれていないのも不満である。

 ということで、今回の記事も、一般人たる読者に画期的な新説を発表する方法として、ほめられたものではないと感じるのである。
 この地区の発掘ができないのは、特別史跡の保護のためと言うより、予算不足が最大の原因だろうから、世論の支持を願って、このようにリークして、予算獲得を狙っているのだろうが、ちょっと、このプレゼンテーションでは無理であろう。

 ちなみに、記事前半で、「織田信長と対立して1580年に焼失した(中略)本願寺」と無造作に書き飛ばしていて、これでは、比叡山を焼き討ちした信長が、同様に石山本願寺を焼き払ったと取られそうだが、そのような因果関係はないと思う。
 中立な書き方として、以下のようにした方が良いと思う。
 「一六世紀後半、織田信長と対立した(中略)本願寺(1580年和議開城後焼失)」

 全体に、学術的な発表の記事としては、大変不出来であるが、記者氏は、大先輩の足跡を見て書いているのだろうか。学ぶ相手を間違えているようにも見えるのである。 

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 意図不明な「宗達」新説紹介記事 再掲

                   2016/06/15 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 今回は、当ブログ筆者が毎月躓いている毎日新聞夕刊文化面の月一記事である「歴史の鍵穴」の6月分記事である。

*見えない「新説」/「通説」の対比
 麗々しく題して「風神雷神屏風」の意味として、日本美術史研究家の近刊書籍の打ち出した新説を紹介している記事のようである。しかし、不勉強な当ブログ記事筆者には、この記事を見ただけで、見て取れるものは、モノクロの縮小図版、しかも、左半分だけでは、どんな絵画+揮毫なのか、皆目わからない。
 記事は、紹介の念押しもなしに、いきなり、林氏の新説の引用というか紹介で始まり、肝心な、打倒/克服されるべき従来「通説」と対比されていないので、どこがどう異なるのか、読み取れない。何のことやらわからないのである。

 どうも、建仁寺所蔵の貴重な屏風絵である「風神雷神図」と呼ばれる国宝屏風絵らしい図の部分紹介、解説と見えるが、記事から見る限り、とても、この図はキャプションに書かれているような「高精細デジタル複製」には見えない。いずれにしろ、当図版から、「鉢巻き」、雷神が乗る「黒雲」、雷神の赤い肌でない「白い肌」の特徴は、とても見て取れないから、無意味な図示である。

 いや、今回の記事全体に、どこが、林氏の所説なのか、どこが、紹介者の解釈なのかわからない。これでは、一般人読者は、「五里霧」の深い霞の中を引き回されているようで、困惑するのである。これが書評であれば、通説と対比する形で新説を逐次紹介し、新説の主張の論拠を示す形になると思うのだが、これは、なんなんだろう。

 例えば、当記事筆者は、相当の達人で高名だったはずの「宗達」の同名異人が存在したという憶測を書き立てるだけで、それ以上、何の掘り下げもせず、二人「俵屋宗達」だったものと納得しているようである。大事なポイントのように思うのだが、記事は、何もつかえずに通り過ぎるだけである。ご不審の方は、記事の実物を読んでいただきたい。

 そういうわけで、林氏が、新発見の角倉素庵書状の解釈によって、そこに絵屋『俵屋』の宗達が示唆されているというのだが、「織り元『俵屋』の宗達」と「絵屋『俵屋』の宗達」が同時代に生きていたという説を打ち出したようなのだが、この紹介記事のゆるゆるの書き方では、何とも掴みがたいから、林氏の論証そのものを確認しない限り、にわかに信じがたいものがあるとしか言いようがない。紹介になっていないのである。

*丸投げの顛末
 当連載記事の定番で確認不足の紹介を投げつけられては、筆者が、被紹介者の説に賛同していると言うことくらいはわかるが、その賛同を生み出した意義・意味が読み取れないのが、ほぼ毎回である。しみじみ思うのだが、他の読者諸兄姉は、記事の意図をすんなり受け止めていて、わからん、おかしいと言い続けているのは、当ブログ筆者だけなのだろうか。今回も、書いていて、途中で途方もない徒労のような気がしたが、これまでの記事の扱いと調子を大きく変えることはできないので、意気を奮って書いたものである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 不思議な世代交代 (最終回)再掲

 私の見立て☆☆☆☆        2017/03/22 2024/04/30

◯始めに
 今回、毎日新聞大阪2017年3月22日付夕刊掲載の月一連載については、従来、素人考えで批判させていただいていたが、今回が最終回とのことである。

小山田古墳の被葬者 候補は舒明と蝦夷だけか=専門編集委員・佐々木泰造

*私見吐露の弁
 せっかくなので、今回は、少し念入りの批判を述べさせていただく。
 因みに、当ブログ筆者は、国内史料に関して無学/無教養なので、毎日新聞の一般読者の視点に立って、素人考えを述べさせて頂くのである。

*不釣り合いな間柄
 記事を一見して、ぱっと目に付くのは、図示された系図の不釣り合いなことである。
 当然、書紀などの文献を参照して書かれたのだろうが図の左に書かれた蘇我氏の系列と右に書かれた天皇家の系列が、(本当に)一見して、不釣り合いなのである。
 よく中身を見て、具体的に言うと、図全体の最上部に蘇我稲目が置かれているが、蘇我氏が、蝦夷、入鹿と直系相続されている間に、天皇家は、兄弟相続もあって、しきりに代替わりしている。
 ここで書かれている図式に従うと、当記事で被葬者に擬されている二人のうち、蘇我蝦夷は蘇我稲目の孫、つまり二世の子孫であるのに対して、舒明天皇は、曾孫を過ぎて五世(あるいは四世か)の子孫なのである。

 つまり、蘇我家が二代進むのにそれぞれ三十年で計六十年かかったして、その間に天皇家が、四,五代進んだとなると、一代あたりせいぜい十五年になる。同時代の同程度の地位の家系で、そんなに世代交代の期間が食い違うものだろうか。

 図では、最下段の建王と言う一人の人物で、両系列がつながっているだけに、蘇我氏二世代の間に天皇家は五世代という格差が的確に「可視化」されていて、どうにも目立ってしまう。舒明天皇の書かれている位置は、蘇我蝦夷どころか蘇我入鹿よりもはっきり下方になっていて、しかも、埋葬はほぼ同時期になっている。

 ところが、当記事筆者は、その点について何も触れないで、六百四十年代の遺物と六百五十年代の遺物が明確に区別できるなどと、根拠不明の健筆を振るっている。何か、素人にはわからない定説があるのだろうか。

 素人考えでは記事の限られた場所にこれだけの大きさで書いた以上は、今回の記事の主張の根拠を示す重大な論拠としての意図があったと思うのだが、読む限り、何も伝わってこない。
 いろいろ丁寧に繰り出される説明は、関連資料を読み込んでいる感じがうかがえるのだが、当の記事にこのような不思議な図が説明なしに使われていると、不思議な感慨を持って、最終回記事を批判せざるを得ないのである。

以上

毎日新聞 歴史の鍵穴 壬申の乱と地図幻想 不確かな謎の不確かな解決 再掲

 私の見立て☆☆☆☆☆          2017/02/19 補充 2024/04/30
 壬申の乱の大海人皇子 夏至の方位に素早く移動=専門編集委員・佐々木泰造 

*加筆再掲の弁 
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遅筆の弁
 今回、毎日新聞大阪2017年2月15日付夕刊掲載の月一記事に対して当方のブログ記事が遅れたのは、諸事多忙のせいもあるが、一つにはあきれたからである。とは言え、当ブログは、「歴史の鍵穴」記事の論理のほころびに批判を加える立場を取っているので、今回も、ブログのポリシーに従い、手抜きせずに一介の素人読者としての批判を加えることにした。
 また、当ブログ筆者は、「日本書紀」の史料批判に通じていないので、「圏外敬遠」としたかったのであるが、当記事自体が多大な自己撞着を起こしているので、その範囲で批判することを決意したものである。

*無批判の史料依存
 念のため言うと、今回記事は、出典を隠していても、「日本書紀」記事のいずれかの解説書によるものと思われるが、ここに引用され図示されている「大海人の皇人(ママ)の進路」は原史料の忠実な解釈としても、示されている行程は、とうてい「常人」の踏破できるものではなく、「フィクション」の可能性が高いように思う。(吉野宮が、現在金峯山寺のある山岳地であったという2016年10月記事の主張は採り入れないとしても)

 この記事だけを手がかりとするにしても、訓練を経た武人だけならともかく、妻や子、そして、女官多数の足の弱い面々を引き連れて、朔日に近い24日の無いに等しい月明かりをたよりに、見たこともない険阻な山道を「夜を徹して」突き進むことなどできなかったはずである。もちろん、これらの弱者を背負ったり、輿で運ぶなどは論外であろう。

 いや、いくら武人でも、背負っている装備や食料の重荷を考えれば、全体として到底踏破できない距離と行程と素人は思うのである。戦地に到着したとき、兵士が疲労困憊して半死半生で戦闘不能であったら、それは「強行軍」ではないのである。

 以上は、自分で現地を踏破したわけではないから、地形図やネットで見る紀行文を参考にするのだが、この行程は、結構起伏曲折の激しい山道であり、平坦地の古代道路を淡々と移動したのではないと推定しているのである。難路とみるのが間違いであれば、ご指摘いただきたい。

 そうした「フィクション」が両陣営の戦績について正確という保証は何もない。勝った方が、全部勝ったと言っているだけではないのかと、疑ってかかるべきであろう。かろうじて、最終的な勝敗はその通りだったろうというしかない。

 そのように不確かな戦いで、近江側が、不思議にもことごとく負けたというのが推測なら、それは、近江側が戦意を喪失したためだろうというのは推測の上に推測を重ねていると見える。そうした記事筆者の個人的な思い込みを「謎」と見るのは、誠に勝手だが、困ったものだと読者は嘆くのである。

 普通に考えれば、反乱を予想していなかった近江側は、広範な軍の動員が立ち後れ、反乱軍の勢いに抗しきれなかったと見るものだろう。そのような立ち後れは、古代の軍備、輸送、交通の整備状態を想像すれば、急遽援軍を得て劣勢回復することが不可能であったとしても、何の不思議もない。むしろ、全面的な劣勢を自覚していれば、早々に西国に亡命すべき所である。

*謎の深層
 美濃方面に集結した反乱軍が、どうして、多数の兵を所定の日に集結するよう動員できたかが、本件最大の謎である、とここまで読み進んだ素人の考えで思う。これは、個人の意見であるから、個人の勝手である。

 当時は常備軍制でなかったはずだから、同盟する領主は、領内各地の農民を、自前で武装して、腰弁当で来いと招集するのであり、数か月の事前通達が必要ではないか。もちろん、召集された多数の兵士の戦闘時の食料や武装は、同盟領主が、食料庫や武器庫を開いて供出しなければならないが、これは、参集した兵士の手になれば、数日でできるとしてもである。
 つまり、反乱に数か月先立って、現地に通じた重臣ないしは皇子などを派遣して旗揚げの確約を取り付けていた、その旗揚げの日付が記録されていたために、間に合うように空を飛ぶように急行したと書かざるを得なかったのではないか。

 普通考えれば、遠隔の勢力を反乱に荷担させるには、いわば、人質の意味もかねて、皇子の息子が派遣されていたと見たい。反乱に失敗すれば、一族皆殺しになるような大罪であるから、文書や口先の指示では荷担できないはずである。ということで、大事な人質を確保していれば、大海人の一行が旗揚げに数日遅れても、大きな問題にならなかったはずである。というものの、それでは、討伐されたので、逃亡して挙兵したという「フィクション」の体裁が悪くなるので、そのような事実は記録を避けたはずである。

 色々素人考えを重ねたが、颯爽と疾駆して、と言いつくろっているものの、実際は疲労困憊して遠路はるばる美濃に辿り着いたら、先触れもしていないのに同盟軍が勢揃いして待ち構えていたというのは、「フィクション」に過ぎるのではないだろうか。
 こうして考えても、いろいろ不思議な所伝なのだが、記事筆者は、書かれているとおり丸呑みするだけで、咀嚼も吟味もしないで善良な読者に向かって投げ出すのである。こうした点から見て、当記事は健全な批判精神を失い、依拠史料に無批判に依存するという泥沼に落ちたと見るのである。

*無効な論理
 以下、当記事の論理の展開について、これまでにも書いた問題点を再確認する。次に挙げたのは、2016年9月の記事で引用されていた論文の冒頭記事であり。当然、当記事筆者は承知のはずである。

 水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話 第1部 古代の権威と権力の研究
 「8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。」

 言うまでもないが、水林氏が論断しているのは、10世紀史料を根拠に8世紀を論ずることが無効であるという一つの例だが、要は、論じられている時代の事を、別の時代の史料を根拠として断定してはならないと言うことである。

 まして今回論じているのは、人々の所感、人の心であるので、同時代人にも知り得ないものであろう。それを、ここで断定的に論じているのだから、これは科学的な議論ではない。
 ここに書かれたような地理認識は、現代人が常識としているものだが、生まれてこの方近郊にしか出向いていない軍兵は、夏至や冬至の日の出の方角に何があるのか知らないので、地理認識によって心理的な「ハンディ」(何とも不穏当な比喩である)を背負っていたと見るのは、無理というものである。

 まして、当時、ここに書かれている神武天皇説話が周知であったかどうかわからないから、論じても無意味なのである。また、大津宮とされている場所から見て、美濃野上が夏至の方角というのも、地図を一見して信じがたいものがある。いや、古代人は、この地図を見ていないから、こうした言い方は無効なのであるが。

 それぞれ、心理的な背景として日本書紀が「フィクション」と書き立てそうなものなのに、どうやら書かれていないようだから、そんな背景はなかったと見るのが適切ではないか。

 結局、今回は、無謀な衛星地図観は目立たないものの、個人的な謎に個人的に体裁をつけた資料解釈で個人的な解決を与えて自己満足しているものであり、全国紙の権威ある記事として一般読者に貢献するものではないと見る。

以上

新・私の本棚 番外 刮目天 一 「卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )」 再掲

                        2022/12/30 再掲 2024/04/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 当記事は、かねがね瞠目している刮目天氏のブログ記事の批判でなく、引用記事に対する氏の批判が「ツボ」を外しているので、身のほど知らずに援軍を送ったものです。氏は、専門外の中国史料の解釈に手が回っていないことがあるので、ここでは、僭越ながら愚見を述べるものです。

*本文
「卑弥呼は○○族だった!?古書から日本の歴史を学ぶ?」

 論者にして講師である「古本屋えりえな」氏は、勉強不足の新参者のようです。

晋書四夷伝倭人伝 「晋書倭人伝」の解釋です。スクリプト提供あり。
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方

「[略]漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣し[以下略]」


 出所不明で、翻訳文責不明ですが、ここに書き出されているのは、飜訳などではなく、原文から遊離した乱調解釈で、素人目にも不出来な「誤解」です。「其女王 」を、挿入された「公孫氏」の女王と言うのは、子供の粘土細工のようで、話にも何にもなっていないのです。 公孫氏は、遼東郡太守であって、「女王」に属していたのではないのですから、「公孫氏女王」は、話の筋が壊れています。とんだ落第生です。

 何しろ、原文は、宣帝司馬懿が、魏明帝景初年間、遼東遠征平定の折、倭女王が帯方に遣使したというだけで、ここで女王出自を述べてはいないのです。

 要するに、そのように「誤解」するのは、「晋書倭人伝」を読む前に、重要な基本資料である「魏志倭人伝」を読んで十分理解した上で、次いで、補足資料として、これを読むという手順を外れているのが原因です。「晋書倭人伝」は、晋が滅び、後続の南朝諸国が滅び、北朝の隋が天下を取った、そのあとの唐の時代に、すでに公式史料として定着している「魏志倭人伝」を不朽の原典として編纂されたものですから、その内容を要約しつつ多少補足するのであって、脱線して余談に嵌まることは「絶対に」ないのです。小賢しい創意を加えることは「絶対に」 ないのです。つまり、そのような解釈は、「絶対に」 物知らずの後世東夷の「誤解」なのです。

 その見方を守っていると、論者の解釈は、正史の「伝」として、とんでもなく場違いで不細工なものであり、簡単に、それは「考え違い」とわかるはずです。
 晋書編纂は、唐皇帝の勅命に基づく大規模の国家事業であり、同時代最高の人材が編纂に取り組んでいる以上、少なくとも、二千年後生の無教養な東夷に後ろ指をさされるような、お粗末な体裁にはなっていないとみるべきです。周囲の編纂者に、お粗末で史官の資質に欠けると断定されれば、更迭、降格され、史家としての威信を無くすのです。ほとんど命がけですから、最善を尽くすしかないのです。

 そもそも、後世の「晋書倭人伝」が、公式史書として信用している「魏志倭人伝」にない風評記事を、場違いなところに書き足すはずはないのです。誰でも、史料の食い違いを発見することができるので、冷静な研究者なら「晋書倭人伝」をそのように解釈することは大間違いとわかる筈です。あるいは、周囲の良識ある研究者が「誤解」の公開を制止するはずです。

 「場違い」と言うのは、「魏志倭人伝」では、「名は卑弥呼という」までに、女王が「一女子」であったと明記しているのに続いて、男弟や城柵の話まで書いているのに、「晋書倭人伝」は、その部分を既知として省略して、景初二年六月に相当する部分に飛んでいるから、これは、女王となった後の話であり、そこに女王が実は公孫氏の親族であったと書くのは、読者を騙したことになって失礼であり、晋書の編者が、そのような手違いを見過ごすはずがないのです。つまり、「公孫氏の親族である女性を王に擁立した」ともともと書いていないのを、飜訳したかたが、自己流で作り出されているのであるから、まことに失礼ながら、それは お客様の「誤解」ですよと言わざるをえないのです。

 時代背景を確認すると、景初年間、大軍を率いて遼東に派遣された司馬懿は、魏皇帝に反逆した大罪人一族を族滅(一族皆殺し)し、洛陽の人質まで殺しています。司馬懿の遼東平定時に公孫親族がやって来れば、連座して首を飛ばしているところです。いきなり首を切られなくても一味として投獄されます。もちろん、そんな目に遭うのがわかっていて、(公孫氏の縁者を堂々と女王として担いでいる)倭人の使節が、魏明帝の直轄となっている帯方郡にのこのこやってくるはずがないのです。だから、気軽に書き流すことはできないのです。
 ここでも、論者の解釈が「誤解」だとわかるのです。

 もちろん、そうしたことは、すべてが常識なのでわざわざ書いていませんが、中国の古代史料を十分勉強したものは、そんな間違いはしないものです。ぜひ、出直してほしいものです。

 以下、変則的文献解釈が続きますが、勉強不足の勘違いの上に立てた「思い込み」の不出来な連鎖を読むことは、時間の無駄なので、一発「退場」です。ここでは、落第生の弁護はしないのです。

 結構な時代で、時代錯誤の解釈も堂々と公開でき、うらやましい限りです。読者も手早く採決しないと、時間がいくらあっても足りません。

*脇道コメントの弁
 本件、刮目天氏のブログにコメントを投書しようとすると、Gooブログの開設を要求されるので今回も直接のコメントは遠慮しました。
 当ブログは身元確認などしないが、不当なものは然る可く遮断します。

*余談の弁
 以下、余談ですが、背景を知らずに炎上すると不本意なので、釘を刺すものです。以下が理解できないなら、当ブログの落第生なのでお帰り頂くものです。お気に召さないとしても、それは、当方の責任ではありません。

*初めての「卑弥呼」伝
 魏志倭人伝」を普通に読む限り、卑弥呼は、男王の「女」ここでは「娘」が嫁ぎ先で産んだ「女子」(娘の子)、つまり「外孫」(そとまご)であり、娘」が嫁ぎ先に持ち込んだ男王の「家」と嫁ぎ先の「家」の両家の「共立」で「女王」に立てられたものです。卑弥呼は、いわば、両家を強力に締結する「かすがい」だったのです。
 本来男子継承ですから、卑弥呼は継嗣でなく、季女(末娘)の伝統的な役目として、生まれながらにして家の祖霊に傅く「巫女」であり、生涯不婚の身であったことを、誰もが承知していたので、氏神の第一の巫女として広く信用されていたのです。年齢としても、数えで二十歳に満たない「妙」、「少女」、「未成年」であり、近年正月に「成年通過儀礼」(Rite of Passage)を受け「已に長大」と書かれています。

*笵曄「後漢書」批判
 笵曄「後漢書」が、女王関連記事で、「漢末」と数十年遡らせたのは、後漢献帝期の建安年間すら、「後漢書」でなく「三国志」の領分なので、三国志にない「倭国大乱」を、献帝に先立つ桓帝・霊帝の時代のことにして創作していますが、根拠史料は「一切」存在せず、つまり、「魏志」に反する虚構の創作と見えるのです。
 笵曄「後漢書」は、陳寿「三国志」完成稿が、『陳寿の没後、さほど年月を経ず上程され、直ちに「三国志」と公認された』のと異なり、笵曄が劉宋皇帝に対する謀反に加担した大罪で嫡子もろとも斬罪に処され命を落とした後、誰が、いつ、どのようにして、笵曄「後漢書」を南朝高官の手元に届け、後に、正史として認定されたのか不明です。現に蔓延している意地の悪い言い方をすると、誰も笵曄「後漢書」の上程稿を見ていないのです。

 そのほか、講師は、色々史料を読んでいますが、歴史背景理解力に乏しく大きく躓いて泥沼に墜ちていますが、個人の信念なので助けの手は出せません。まずは、古人を根拠の無い妄想で貶めるのは、感心しないものです。そして、自分で自分を窮地に追いやるのは、傍目にも感心しないのです。世間には、同様の論法を好む論者が氾濫していますが、「良い子」は「悪い子」の真似をしないで欲しいものです。

*まとめ
 刮目天氏は、基本的に当方と同意見なので、これは、講師批判のみです。

                                以上

2024年4月28日 (日)

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 三掲 1/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔  文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 
 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03, 2024/04/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに~圏外介入の弁
 本書は、全五巻の名著、日本古代史通史(出版社がそう呼んでいるわけではない)の二巻目で、時代的にも当ブログの範囲を外れるが、「遣隋使推定航路」図に重大な異議があり、「細瑾」批判記事を立てた。と言うものの、随分深刻な「細瑾」なので、手痛い批判になってしまったことをお詫びする。

*遣隋使行程図批判~名著の細瑾
 下図は、本書掲載の「概念図」であるが、批判するのに不可欠なので、千田稔氏著作物として謹んで複製引用した。「日本書紀」に推古朝遣隋使の航路圖はないので、氏の著作物として作図、公表したと見て批判したのである。

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*無知の憶測の堆積~現代地図の弊害
 本図は、一見、正確な図示であるが、実は、実現性/正確性に欠けたものであり、大いに誤解を招く
 まず、遣隋使船が、海船で飛鳥を発し、瀬戸内海航行するのは、「画に描いた餅」もいいところで、実行不可能である。
 飛鳥は、奈良盆地、つまり、内陸であり、海船が出発する「母港」は無いし、仮に、飛鳥を海船で出発しても、大振りな海船が、当時の大和川を下って、河内平野に出て、河内湾に出るのは、全体に水量の乏しい浅瀬続きであるから、どう考えても、不可能である。
 何しろ、遠路渤海湾までほとんど無寄港で進むのであるから、甲板と船室、船倉を備えた大型の帆船に違いないのだが、まずは、大和川を下って河内湾に出ることは到底できない。次に、瀬戸内海の移動であるが、衆知の如く、東の備讃瀬戸、西の芸予諸島の難所は、水先案内が乗り組み、小船の助けで舵取りしたとしても、外洋航行に適した帆船には到底通過不可能である。
 最後に、関門海峡通過が至難の業であるが、ここは、詳しく言わないで前に進む。
 七世紀に、大型の帆船が、こうした難所を「易々と通過することが可能であった」という根拠は無いはずである。ことは、「冒険航海」などではないから、絶対安全でなければ、飛鳥で海船を造船、進水させることなどできないのである。

 確実な出港地「海港」は、「北九州」玄海灘沿いである。帆船自体、ここで造船し、ここを母港にするのが自然であり、当然、船員も、目前の半島航路に習熟した船員とすべきと思われる。瀬戸内海航路に習熟した船員は、一切不要なのである。

 その際、目前にあり、古代の多方面に通じていた船路の要であったはずの一大國、壱岐を通過しないように見えるのが、意味不明である。
 以上の重大な難点は、総て、九州北部「北九州」から、半島を経て、黄海を進み、山東半島に上陸して、以下、官道を西に進むという、誠に自然な経路を経由していた史実を無理矢理揉み消しているからであり、三世紀、魏使の来訪航路を知らなかったのか、強引に無視した白日夢であり、政権記録の継承/断絶という視点から、大変不審であると言い置く。

 百済沿岸と称する南岸西岸航路も、無寄港で、沖合を通り抜ける意図が不明である。食糧、燃料、飲料水という重大な補給もあるが、そもそも、「沿岸」は、百済の陸地であるから、必ず上陸しなければならない。とても、百済沿岸を経ている図とは見えない。三世紀に各地に海港があって、航路が稼働していたのなら、後世になって寄港しない理由が、途轍もなく不審である。

 図によれば、七世紀当時、抗争中の百済「領海」、次いで新羅「領海」を通り、さらには、高句麗「領海」へ通過し、転進して渤海の河水河口に直行したと見える。このような経路が、理不尽で、不合理と見る理由を、以下述べる。

 朝鮮半島の新羅海港(後の唐津 タンジン)と山東半島の登州海港(東莱 トウライ)を連絡する航路は、新羅の厳重管制下であり、横切るにしろ、新羅の通行許可を必要としたはずである。
 また、遼東半島先端の高句麗海港は、専ら登州と往来するものであり、当時、隋と紛争を繰り返していた高句麗が、遣隋使の通過を認めるはずがない。いずれにしろ、著名な海港は、常用されているものであり、それ以外の場所に、異国の海船を受け入れる能力/設備があったとも思えない。所定の海港以外で、蛮夷のものが、中国領に上陸することが許されたとも思えない。奇っ怪千万である。

 ついでながら、河水(黄河)航行について考えても、先ずは、通行許可の無い異国の船舶は、通行できなかったはずである。
 そのように、常用される海港を避けて、人跡未踏の河水河口から、大河河水(黄河)に乗り入れて、遡行する航路など、金輪際あるはずがない。河水河口部は、泥沼であり、天井川となっていたから、海船が乗り入れ、上下航行できるようなものではない。

 図示された洛陽は、「東都」と称され、たまたま、隋煬帝時代には、東夷との折衝に用いられていたが、あくまで、副都であり、帝都は京師(長安)であったから、倭國使は、本来、京師に向かったはずであるが、なぜ、隋帝の所在を察知して東都に向かったのか、不審である。洛陽は、洛水と呼ばれる手狭な支流沿いであったから、大型の帆船の進入は許されなかったはずである。いや、河水への進入をどうやって成し遂げたかという、さらなる難問が克服されていないのを忘れないで欲しいものである。

 素人目にも、どうにもこうにもつじつまの合わない無残な絵解きである。

 ついでながら、地図上の半島の「平城」であるが、Wikipediaによると、「平城市(ピョンソンし)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平安南道の道都。1965年に平壌市の一部を分割し、平壌市から道都を移して成立した都市である。」古代に存在しなかった地名と思われる。不審である。

 事の振出しに戻ると、遣隋使船を発するとき、見通しの立たない海を、不案内なまま、できたての船、新米の船員で行くことは「絶対に」あり得ないと見えるのである。

 本図は、現代科学の手を借りてきれいな絵解きに見えるが、当時にそのような結構な技術はなく、それこそ、一寸先は闇の手探りの旅であり、以上のように、どうにも解けない「疑問」、ここでは「重大な難点」がある。図示されたような「つぎはぎ」の船旅は無茶である。
 百済と提携して、一貫して案内して貰うのか、どこかで、百済船に乗り込むのか、いずれにしても、手慣れた百済に任せるのであれば、旅路が不案内でも、国使を送り出せるのである。

 確かに、後年、この航路が通行不能になった後は、自力で、東シナ海を突っ切るしか無かったのであるが、それ以前は、小型の海船で、百済海港にいたり、以後、経験豊富で不安のない百済海船を利用したはずである。

 なお、どう経由するかは別として、中国上陸は、半島交易船が往来していて、高麗館、新羅館と言った専用設備のある山東半島登州であろう。高麗館、新羅館は、それぞれの商館であり、隔壁で守られ、駐在武官を擁していた、言わば、治外法権なのである。何しろ、高句麗、百済、新羅は、山東半島登州への海岸往来、つまり、交易/市糴によって、莫大な収益を得ていたのであり、百済と高句麗の抗争は、互いの国王が戦死する凄惨な戦いであったが、新興の新羅が、死力を尽くして、両国間に介入して、百済を南に追ったから、三国必争地域に、強力な楔を打ち込んだのであるから、はるか圏外で海船を持たないの「倭」が介入することなど、許さなかったのである。さよう、隋代から唐代初期に「日本」は未形成であったから、三国戦局に介入しようがないのである。度しがたい、時代錯誤である。地図は、七世紀と銘打っているが、隋は、六百十八年に亡んでいるから、七世紀の残る八十年に、隋は存在しないのである。
 隋の後継と言うものの、唐代初期は全土大乱で混乱していて、とても、明快に図示できないのである。つまり、この図は虚構である。

 この海域の海上往来に、裏道、抜け道はあり得ない。

                   未完

新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 三掲 2/2

監修 上田正昭 著者 千田 稔 文英堂 2011/4 第一刷
私の見立て ★★★★☆ 考察が潤沢な好著。ただし、図解は「無残な」でたらめ。 
 2022/04/09,04/11,2023/01/01,05/03, 2024/04/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「画餅」~根拠なき「夢想」疑惑
 重複気味に念押しすると、河水河口部は、毎年春先の凍結解消による氾濫で、茫々たる泥濘で、東夷海船の河水乗り入れは無謀である。河口部を大きく避けて上陸したとしても、以後、現地川船で河水に乗り入れと見るにしても、なぜ、京師である長安/大興でなく、東都/洛陽に入ったのか。一部に新説が流布しているようだが、一般読者に対して説明不足である。

 因みに、洛陽は、河水の支流である洛水の上流であるが、海船で乗り入れることが許されたかどうか不明である。長安に入るには、河水をはるばる撞関まで遡った後、支流である渭水に乗り入れる必要があり、海船で乗り入れることが許されたかどうか、さらに不明である。いずれにしろ、密入国に近い状態でどこまで辿り着いたのか、不審である。

 蛮夷は、少なくとも、いずれかの海津(しん)で、隋官人に来訪を申告し、入国許可と国内通行許可を得るのであり、河水河口部の無人の境地から不法侵入するものではない。蛮夷のものは、鴻臚寺と交信の上、事前に入国強化を得ているものであり、いきなり飛び込んでいくものではない。中国は、法と秩序の国家であるから、このような不法侵入が承認されることはない。

*合理的な推定~国使の行くべき「道」
 以上の難点を見た上で、九州北岸からを旅路を見なおすと、倭人伝以来周知の壱岐、対馬経由の半島への渡海/水行は、便船豊富で「銭」で雇えるし、上陸後は、古来内陸街道が常道、既知であったので、ここも何の迷いもない。
 方や、壱岐から転じて南岸西岸沖合航路は、以上説いたように、にわか作りに違いない倭船にとって、不案内で、とても行き着けるものではない。
 どちらを行くべきか、明白ではないだろうか。特に、出発点が、本当に内陸の飛鳥であれば、海の長旅には、恐怖しか感じなかったと思うのである。

*「新羅道」提言~安全、確実、迅速、低廉な経路
 復唱すると、新羅街道「新羅道」は、古来整備されていた官道であり、半島の嶺東を北上して竹嶺で小白山地を越え、下山して西に向かい、西岸海港に出て、以下、渡船で登州に至る長丁場だが、新羅にお任せである。
 山島半島の海津、登州上陸以降、内陸街道は、人馬を要する移動も宿泊も「銭」で賄える。安全、確実、迅速、低廉な経路であるから、挙って、蹈襲したと見るものではないか。
 倭と統一新羅の関係が険悪になれば、倭遣隋使の新羅国内街道通行が許されなくなる。もちろん、後年の遣唐使の大使節団も、同様に通行できないと思われる。それにしても、なぜ、後世の遣唐使が、寧波あたりを目指して東シナ海を遮那に無二横断したのか、誠に不合理で、不可解であるが、不可解な事項を論議するのは時間の無駄なので、ここで筆を置く。

 以上が、本図航路に対する異議であり、反論があればお受けする。

*隋書無視に疑問~台所事情の苦渋か
 氏の論議は、信頼すべき隋書を無視しているが、国書交換など、世上の遣隋使論に整合しない「隋書」俀国伝を無視したと思われる。「『日本書紀』の記事が事実とすれば」と書く氏の苦渋を察して、これ以上は深入りしない。
 舊唐書、新唐書どころか、古田武彦氏著作も参照していないが、以下同文。

                                以上

  追記:「隋王朝(7世紀)」の無残 (2022/04/11)
 ついつい、地図の疎漏の指摘で、精力と注意を削がれて、肝心なことを取りこぼし、書き漏らしたので、仕方なくここに追記するが、実は、一番無残なのは、この表現である。

_n_20220411203901 

 重要なので復習すると、隋は、一般に581~618年の期間存続したとされていて、別に、七世紀べったりではない。むしろ、七世紀の主要部は、唐にとって代わられているので、正直に書くなら、七世紀初頭と言うべきだろう。
 それにしても、隋代、グレゴリオ暦による世紀の数え方が、隋に届いていたと思えないので、「七世紀」の当否を煬帝の霊魂に問い質そうにも、飜訳/通訳の仕様がないのである。
 史学会には、当時の教養人に理解できない言葉や概念は避けよ、と言う箴言があると聞いている。それにしても、この失態は、一言で言えば、杜撰を越えて無残な誤記である。

 さらに言うなら、世紀の半ば過ぎの六百六十年代には、唐の征討軍により百済、高句麗が、相次いで撲滅され、この図は、全く無意味になっている。氏が、どういうつもりで本図を掲載したのかというと、単に、裴世清来訪時の諸国形勢を書きたかっただけではないのだろうか。と言わないと、何も言い訳ができないことになる。不確かな推定を、立派な地図にしてしまったために、アラが目立つのである。

 ついでに付記すると、「日本」国号が創唱されたのは、8世紀冒頭であり、7世紀を想定した地図に「日本」を表記するのは、非科学的な時代錯誤である。この点で更に減点したいが、最早本図に対する評価点は底をついているので、減点しようが無いのは残念である。

 と言うことで、氏は、同時代の国内古代史について、満腔の造詣を有していると想われるが、同時代の中国、朝鮮方面については、全く素人だと露呈しているそれにしても、氏の周囲に、誰も「助言と支持」を与える知恵袋はいなかったのだろうか。出版社の編集担当からの助言もなかったのだろうか。いかに「細瑾」とは言え、重大な「躓き石」があからさまで、勿体ないことである。

この項完

追記 2024/04/28
 近来、岡田英弘氏の至言に追従すると、中国正史は、中国の最高の教養人が、その時点の最高の読書人を読者として、厖大な知識、語彙を背景に、精魂こめて編纂したものであり、同時代の記事を適確に解釈するためには、同時代の読書人に近い知性と教養を要求されるのである。にも拘わらず、現代人、つまり、千年、千五百年、二千年後生の無教養な東夷が、限られた教養で解釈するのは、無法なのである。

以上

2024年4月23日 (火)

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 序論

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く                        2023/10/24
1.魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論

 邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる。

私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品      2023/10/24 補追2023/11/01, 02 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*はじめに
 本講演は、安本美典師が主催する月例講演会の「レジュメ」前半部に対する批判であるが、主催者の見識を前提にしていると見えるので、ここに率直に批評する。
 なお、ここに言及できなかった付表の詳細な批判を、下記別稿で公開しているので、ぜひご高覧いただきたい。(補追2023/11/01)
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4  
 新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

 大抵の場合、このようなお話は、他愛のない「夢語り」/法螺話である。「日本」が、八世紀以降しか存在しないのは衆知である。言うまでもないが、「邪馬台国」は(遺跡遺物を論じる)考古学にも記紀神話にも一切登場しないから、話にならない。「邪馬台国時代100年」も、意味/根拠不明である。
 現代は、通りすがりの無学な野次馬でも、もっともらしい格好の「新説」をぶち上げられるご時世である。会長の任にある内野氏の個人的な権威がどのように評価されているのか、素人の門外漢/部外者である当方には分からないが、かつて、『安本美典師が、季刊「邪馬台国」編集長就任の際に抱負として宣言した、然るべき「論文審査」』を経ていない「無審査」私見であれば、一介の読者/聴衆として「話が違う」と思うものである。(補追2023/11/01)

内野9つの仮説
①倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる

*コメント
 (補追2023/11/02)
 衆知であるが「倭人伝」に「倭国大乱」はない。「倭人伝」は、何かの事情で、雒陽への報告/情報が途絶えたと言うだけである。それでなくても、後漢霊帝没後の混乱のため、雒陽は大乱の渦中であった。長安遷都が強行されたりしているから、蛮夷のことなど構っていられなかった。
 「黄巾の乱」自然災害起因説は「倭人伝」に無関係で、杜撰な「蛇足」である。「倭国の乱」は、新規の概念であるから、紹介/高言するのは、不適切である。
 いきなり、大すべりしていては、後段を読んでもらえないものである。聴衆が、一斉退席しなかったのは不思議である。

②卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「卑弥呼の年齢 」論は、二千年後生の無教養な東夷の浅慮から「日本」古代史学分野で氾濫している『「通説」無根拠』の好例である。史料を「大胆に」改竄しているいわゆる「通説」は論外だが、突発した新たな推測/憶説も、「魏志倭人伝」の正確な解釈から隔絶していて、何ら根拠のない「思いつき」である。史料改竄趣味が、「蔵付き酵母」の如く「伝家のお家芸」になっているのは、世も末である。
 いくら新規/新奇でも、卑弥呼が44歳にして「魏への使節」となったというのは、根拠の無い大胆/無謀な意見である。結末に「頃」(土地面積単位)がぶら下がるのも奇異である。
 「魏志倭人伝」に根拠の無い夢物語/いわゆる「通説」は、大概にしてもらいたいものである。

③長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「忖度」は、主語がない暴言、粗雑な暴論である。「倭人伝」時代に存在せず、『二千年後生の無教養な東夷「後世人」が創造した「長里・短里説」が、三世紀の司馬懿に対する「後世人」 の「忖度」によって生じた』などと言う摩訶不思議な「思いつき」は、早急に撤回した方が良いと思われる。
 それはさておき、『根拠なし、意図不明の思いつきである「5倍引き延ばし説」』は、「倭人伝」道里を、現存地名間の行程に投影した、簡潔、明快、反論不可能な金石文と言える安本美典師の不朽の提言に堂々と背いている。世も末である。ついでながら、「洛陽から邪馬台国まで17000里 」なる思いつきは、根拠の無いこじつけの一例である。

④ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説

*コメント

 「倭人伝」に無縁な場違い圏外の法螺話である。手前味噌も、大概にして欲しいものである。

⑤狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。もし、位置付けが正しかったとして、何が「異種」なのか、何が「同種」なのか、意味不明である。

 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期

*コメント

 「倭人伝」に無根拠の法螺話である。 アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約」とは、何の夢想であろうか。独り合点の思いつきは、早々に引き下がるべきである。

⑥高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと

*コメント
 (補追2023/11/02)
 「倭人伝」に無根拠である。 中国史書「倭人伝」に「臺與」も「台与」もない。場違い、圏外、無縁の法螺話である。

⑦記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)

*コメント

 「記紀」は、「倭人伝」にとって異次元/無縁である。場違い、圏外である。

⑧3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大

*コメント

 「倭人伝」に、場違い、圏外、無縁の法螺話である。「後進国」を先導した「先進国」とは、何なのか。

まとめ
 「仮説」は、論証された根拠に立脚しなければ、「仮説」となり得ない単なる「個人的な思いつき」である。即刻、「ゴミ箱」直行である。
 以下、氏の「夢語り」が展開するが、論証がないから根拠が見られず、単なる思いつきの積層に過ぎない。

 誤解されると困るのだが、当方は、安本美典師の偉功に心服しているのだが、かくも奔浪のように論考の態を成していない「思いつき」が、安本美典師の峨々たる業績である月例講演会の前座に供されたのは、誠に傷ましいと思うのである。(補追2023/11/02)

                                以上

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 1/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 以下、本稿で批判する付表は、前稿に続く一部に過ぎないが、内野氏が、会長の立場で「倭人伝」道里の諸説を集約したと見えるので、まとめて批判を加えた。多様な誤謬は俗耳に膾炙していると見え、本稿は、卑(柄杓)の一振りで、些細な撒水を試みているのだが、広く燎火を鎮めることができれば幸せである。
 ともあれ、掲載された表は、疑問点満載で、批判内容を表内に書き込めないので、誰でも読解可能な平文に展開して逐条審議している。要するに、氏の提示した表は、混乱を掻き立てるだけで、何の役も果たしていないのである。

 と言うことで、以下、紙数を費やして、まるで初心者の論稿を添削指導しているようで、大変心苦しいのだが、氏が長年に亘って、このような論稿を公開し続けていると思われるのに、誰も、率直に指摘しなかったことを見ると、この際、赤の他人が、無礼を覚悟の上で、無遠慮に/率直に/誠実に指摘するしか無いように思うのである。遠慮して指摘を甘くすることは、氏にとって、百害あって一利がないものと思われるので、あえて、斟酌していないことをご理解頂きたいものである。

*本論
大月氏国と倭国・女王国から見る魏の国内・国際情勢
◯大月氏国
記録
 「後漢書」西域伝・大月氏国の条「229年12月 明帝は大月氏波調王(ヴフースデーヴァ王)」に「親魏大月氏王」の金印

 范曄「後漢書」西域伝には、以下の記事があるのみである。後漢は、220年に魏に天下を譲ったから229年は、場違いである。

笵曄「後漢書」西域伝 中国哲學書電子化計劃
 大月氏國居藍氏城,西接安息,四十九日行,東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里。戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人。
 初,月氏為匈奴所滅,遂遷於大夏,分其國為休密、雙靡、貴霜、驸頓、都密,凡五部臓侯。後百餘歲,貴霜臓侯丘就卻攻滅四臓侯,自立為王,國號貴霜王。侵安息,取高附地。又滅濮達、罽賓,悉有其國。丘就卻年八十餘死,子閻膏珍代為王。復滅天竺,置將一人監領之。月氏自此之後,最為富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

 して見ると、内野氏は、引用の根拠を大きく取り違えていて、正しい出典は、陳寿「三国志」魏志明帝紀と見える。もったいないことである。

陳寿「三国志」魏志 明帝紀 (太和三年十二月)
 癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

 陳寿「三国志」魏志に「大月氏王」に「親魏王」印授が下賜された記録は見当たらない。
 まして、氏が謳い上げている「金印」が、古来言う「青銅印」であるか、異例の「黄金印」であるかは、正史からは、読み取れないと見える。古典的な「金印」(青銅鋳物)は、原材料が潤沢で、製造設備/技術も帝室付の製造工房である尚方に完備していたから、製造が「容易」であったため、漢代を通じ、蕃夷使節の来訪に際し、正使、副使に始まり、侯国の使人、果ては、随員に至るまで、印綬が大盤振る舞いされたとされているから、別に希少価値は無く、単に、再訪の際に、街道関所の過所(通行許可証/手形)、身分証明となったに過ぎないと見える。

 一部で、印綬は、国王代替わりの際に一旦返納するという説を唱えている諸兄姉があるようだが、万里の彼方から、あるいは、波濤を越えて、代替わりの報告に来いというのも、無理難題に属すると思うのである。近郊であれば、年々歳々時候の挨拶に来いということもあるだろうし、近郊であれば、大した下賜物もいらないだろうから、「歳貢」もあったろうが、それは、鴻臚が漢制に従って命じたものだろう。

 「貴霜」国なる国名について言うと、蕃夷来駕を受け付ける「鴻臚」の蕃夷/掌客台帳には、「貴霜」の文字は無く、その実態に拘わらず、大月氏国が王権伝統されているとして受け入れたのである。もちろん、本紀は、皇帝が受け付けた国書に従って、「貴霜」国としたであろうが、鴻臚の台帳は、漢武帝以来維持されていたので、更新も改竄もできず、「大月氏」として受け入れたことになっているようである。
 因みに、南北朝の分裂期を統一した隋唐は、北朝を展開した蕃夷の流れに属するので、その治世下、伝統的な鴻臚掌客の格付けがどのようになったか、調べる必要がある。
 どちらが正確な解釈であるかは、当方の素人判断の域を外れているので、断定は避けたい。
 
国内・国際状況 
 魏は西方の蜀と戦争状況の中、西方彼方の大国・大月氏国(クシャーナ朝)からの交易、同盟を目的にした遣使を歓迎した。
 司馬懿のライバルで西方経営を進めた曹氏の功績になった

 陳寿「三国志」魏志明帝紀記事は、儀礼記事であり「歓迎した」など冗句である。このあたり、思いつきの私見を付け足す悪習は、中々なくならないようであるが、論者の無教養と浅慮をむき出しにしていて、もったいないことである。

 魏は、関中を辛うじて勢力範囲内に保っていたものの、その西方、西域の入り口にあたる河西回廊は、涼州勢力が蜀漢と連携していたため、服従させられなかったと見える。つまり、事実上、西域への扉を閉ざされていたと見える。一方、東呉は、敦煌方面に商人を送り込んでいたことは、西域から「三国志」呉書に類する紙文書の断簡が出土していたことから、明らかである。というものの、涼州は、蜀漢に臣従していたわけではないので、涼州の帰属は不明である。
 ということで、「大月氏」が涼州勢力の目を潜って洛陽に参上したのは、あるいは、金銀玉石などの秘宝を通行料/謝礼として積んでのことかもしれない。世上、同時代の西域勢力分布が、麗々しく地図化されているのにお目にかかることがあるが、大抵は、良くある法螺話に過ぎない。

 班固「漢書」、笵曄「後漢書」に代表される正史「西域伝」記録から見ると、かつて、漢武帝使節に応対した大月氏は、匈奴同様の騎馬掠奪国家であった。涼州辺りに根拠を持って、北方に一大勢力を形成していたらしいが、匈奴の勃興で覇権を奪われ、遙か西方に夜逃げしたのである。
 但し、概して城壁国家ではなく、天幕に居住して、財貨は金銀玉石としていたから、「全財産」を携えても身軽であり、騎馬部隊として逃亡することが可能だったのである。全財産と軍馬をもとに、強力な騎馬軍団によって、亡命先のオアシス国家「大夏」を乗っ取り、周辺諸国を侵略、掠奪し猛威を振るったのである。移住当初、西の大国安息国の東方拠点を攻撃し、「国王」親征軍を大破して、「国王」を戦死させ、大量の財宝を奪ったと、欧州史書に記録されている。
 安息国は、西方メソポタミアにあった王都から号令して、ペルシャなどの近隣諸侯を動員して復仇したが、以後、両国境界付近のオアシス都市マーブ要塞に二万の大軍を常駐させて、大月氏/「貴霜」国の再来に備えたのである。
 貴霜国は、後漢代においても、生来の掠奪/侵略志向は健在であり、東方勢力である西域都護班超に執拗に反逆し、都度鎮圧された札付きの盗賊国家である。
 後漢後期は、西域都護の撤退に乗じて、大月氏が西域西半を支配した時代であるから、魏代に移って「交易、同盟」とは白々しいが、西域無縁の魏朝は、「金印」下賜で体面保持でき、西域都督を常設するより随分安上がりで、善哉であったろう。
 但し、三世紀当時、西域有力勢力であった貴霜国も衰退期にあり、追って、西方のペルシャ領から興隆してパルティア(安息)をイラン高原の支配から追い落としたササン朝「波斯」に服従したと見える。陳寿が言い残したように、蛮夷の諸族王の消長は、誠に儚いものである。

 以上、ちょっとした背景説明のはずが、字数が募ったのは、国内視点で西域を眺めている諸兄姉に、現地視点の史談を試みたものである。世の中、「一刀両断」は、歴史のほんの表層を撫でるに過ぎないのであって、何も斬れていないのである。

功労者
 魏の鎮西将軍 曹真の功績。子の曹爽と司馬懿はライバル

 蜀漢勢力に西方を阻まれた窮状からすると、まさに「棚からぼた餅」の蕃王来訪では、軍功/功績になどならない。後漢西域都護に対する反抗の数々は、明帝紀上では、云わないことにしたとしても、後漢代以来引き継いでいる鴻臚の記録には、堂々と記録されているので、この記事を持って、魏志「西域伝」を設けるなど論外に違いない。魏志第三十巻巻末に、劉宋裴松之が補追した魚豢「西戎伝」は、大部の蛮夷伝であるが、内容のほとんどすべては、西域都護が健在であった後漢代の記事を承継したものであり、後漢末期に西域都護を撤退して、「貴霜」国に西域の西半を支配された事態が魏朝に引き継がれたという魏朝の失態が明らかになるから、魏志「西域伝」は魏志から割愛されたのである。

 このあたり、劉宋当時、西域伝の欠落を難詰する批判が無視できなかったため、裴松之が、論より証拠とばかり、魚豢「西戎伝」の善本を貼り込んだのだが、二千年後生の無教養な東夷は、史料を読めないために、裴松之の注釈が陳寿の「西域伝」割愛を断固支持した意義を理解できず、無意味な批判を繰り返しているのである。いや、大抵の論客諸兄姉は、陳寿の残した三国志原本に不備があったため、裴松之が補追した裴注本が三国志完成版と見ているようだが、それは、事情ののみ込めていない二千年後生の無教養な東夷の浅慮なのである。
 裴松之は、当時の劉宋皇帝を始めとする時代読者の圧力に従いつつ屈せず、大量の「蛇足」を不備を承知で付け足したものであり、それら「蛇足」の補追されていない陳寿原本が「三国志」として完成されていると「密かに」述べているのである。いや、「密かに」と云うものの、文意を読解できる有為(うい)の読者には「自明」なので、明言したに等しいのである。
 裴注による補追の中でも、魚豢「魏略」「西戎伝」は、ほぼ原文収録されているので、一度、筑摩書房「三国志」に収録されている日本語訳を読み取っていただきたいものである。
 因みに、魚豢「魏略」「西戎伝」は「魏志」「西域伝」ではないので、当時、洛陽の書庫に収容されていた後漢/魏公文書を収録していても、正史としての厳正さに疑義が無いわけではない。魚豢の私見が無造作に書き足されている部分や錯簡、落簡らしいものはあっても、無造作な校訂、改竄の筆が加わっていないのは明らかである。
 因みに、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、裴松之がほとんど「魏略」を起用していないところから明らかなように、陳寿の編纂は、粗略と見える魚豢の編纂の上位互換であったため裴松之が黙殺したと見えるのである。

 もちろん、魚豢は、烈々たる魏の忠臣であり、蜀漢、特に、逆賊の首魁と目される(「敵」などと敬称を付することは無い)諸葛亮に対して、猛然たる反感を表明していても、「老獪な陰謀で魏の実権を握り、ついには、天下を簒奪した司馬一族に阿(おもね)ることはあり得ない」ので、魚豢「魏略」に世上言われるような「曲筆」はあり得ないのである。
 して見ると、こと「倭人伝」道里記事に関しても、魚豢「魏略」は、「郡から倭まで」「万二千里」と普通に書いていたはずである。もし、それを曲筆で普通里換算して「二千里」と書いていたら、裴松之が、すかさず付注したはずである。

 それにしても、司馬懿は、曹操、曹丕、曹叡、曹芳四代の「幹部」であり、曹爽と同列/「ライバル」視は侮辱であろう。同年代の曹真はともかく、曹爽の如き青二才は、問題外と見ていたはずである。もちろん、当時の洛陽の高官・有司は、両者の格の違いを見ていたはずである。「ライバル」が示している「川釣りの漁場争い」などとは、別次元なのである。

 因みに、史官は、周代以来、国家官制の中で、むしろ取るに足りない卑位の官人である。また、後世の形容で「正史」と言っても、「三国志」に関して言うと、三世紀当時、写本の流通は無いに等しく、まして、全巻を所蔵する愛書家は存在したとしても、全巻熟読する読書人は、取るに足りなかったから、「正史」の影響力は希少であり、現代風に言う「政治的文書」などではなかったのであり、その意味でも、「正史」編纂に「権力者」が干渉することは皆無に等しかったのである。

 それにしても、ここでも、三世紀に存在しなかった生かじりのカタカナ語は、文意を掻き乱し品格を下げるので、ご使用を控えていただいた方が良いように思える。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 2/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

方角
 西方シルクロードの彼方の国

 貴霜国は、後世、遙か西方「ローマ」に延びていたとされる「シルクロード」の傍路であり、西インドガンダーラ方面に勢威を振るっていた。方角違いである。因みに、古代中国に「シルクロード」の概念は無い。

人口
 都10万戸 カニシカ王時代(在位(144~171)
 倭とは比較にならないほどの大国。

 班固「漢書」西域伝、笵曄「後漢書」西域伝、共に、大月氏に「都」は無いとしているから、これは、深刻な事実誤認である。
 「王都」が認められたのは、西方の「超大国」安息国が唯一の例外である。同国は、宿郵を備えた街道網を完備し、金貨、銀貨の貨幣を有し、皮革紙に横書きする「文化」を有したのであり、漢使が訪問した東方国境部から西方メソポタミアの国都クテシフォンまで、騎馬の文書使が往来することによって、今日で言う「軍事」「外交」の全権を与えていたのであるから、漢に勝るとも劣らない「法と秩序」の実質を認められていたのである。

 氏の云う「人口」は、西域伝「口数」のことか。「倭人伝」に「口数」は無いから、比較しようがない。また、遠隔の地の「人口」など、「国力」として評価できないのは明らかである。実体の不明な「戸数」、「口数」の数字を論じても、無意味である。

 中国古代史では、「大国」は不属の「主権国家」であるが、「大月氏」は、少なくとも一度は、戸数、口数、道里を西域都督に申告して服属したから、「大国」定義を外れ「倭人」と同格である。それにしても、倭とは比較にならないほど」は、弱小対象物としての大月氏を予告するものである。

距離
 魏の都、洛陽より大月氏国まで1万6千370里
 記録16000里X434m=6944㌔ 実測4000㌔(長里の実数に近い)

 笵曄「後漢書」西域伝では、「大月氏國,居藍氏城,... 東去長史所居六千五百三十七里,去洛陽萬六千三百七十里」である。要するに、一万六千里は「実測」などされていない。勘違いであろう。又、当然ながら当時の概念で「距離」は、無意味である。「長里」「実数」は、意味不明である。
 明らかに、当時の「貴霜国」王の居処は、大月氏の藍氏城とはかけ離れていて、当然、道里は異なるが、「公式道里」は、当初のままだったのである。これは、漢魏代に限らず、当然であった。

 勘違いと意味不明では、論拠にならない。いや、この「駒」の話に限ったことではない。

国力
 中央アジアの大国、クシャーナ朝・カニシカ王時代最盛期、後漢と接す。東西貿易で栄える。軍騎10万

 内野氏の云う「国力」の尺度が不明では、読者として、評価検証も、大小比較もしようがない。「倭人伝」に「軍騎」はない。
 笵曄「後漢書」西域伝は、「戶十萬,口四十萬,勝兵十餘萬人」と登録していて、耕作地を付与された「戸」が十万、つまり、収穫が十万戸相当に対して十万の兵としているが、これでは、常備軍とは見えない。それとも、各戸は、四人と見られる戸内から、一名の成人兵士を出しても、平然と農耕に勤しんでいたのだろうか。何れにしろ、この数字は、西域都護に対する申告/登録数であり、百年を経て、貴霜国に大成した時点では、これらの数字は現実離れしていたのであるが、更新はされていないのである。
 「後漢と接」したと云うが、「後漢」は、武帝以来の「漢」と称していたはずである。なお、後漢は、皇帝直々でなく、西域都督に折衝させていたのであり、格落ちの相手と見なしていたのである。「接して」とは、なにを言っているのか、意味不明である。
 前記の如く、大月氏は、後漢西域都護と角逐して屈服していたのである。又、西方は、一度侵略/掠奪に成功したパルティア侵略が、以後撃退され、大きく反撃/侵入を許している。
 どの時点の国力を評価するかと言えば、貴霜国の盛時であろうが、それは、後漢書に記録されていないし、いずれにしても、儚いものである。
 「貴霜」国繁栄の起源は、インダス川流域文明を活用した南方の商材を多としていたはずであり、「東西貿易」で栄えたとは、浅慮と見える。
 本当に貿易立国であれば、大量の軍騎は不要である。西方の安息国は、自衛のために二万人を境界部に貼り付けていたが、貿易相手を侵略して、掠奪する意志/意義は皆無であったから、常備軍は、僅少であった。国内各国も、常備軍を持たなかったから、内乱が生じにくかったのである。

 三世紀当時、どこにも「中央アジア」の概念は無い。また一つの時代錯誤である。ギリシャ流に云えば、「アジア」は、地中海東岸地域である。勘違いしてはいけない。

距離・説
 ほぼ実数に近い

 この「駒」も、何の話やら、皆目分からない。各駒が意味不明では、表にして対照する意味が無いように思われる。古来、史学論で、作表して、読者を煙に巻く手法は、学問的に無法と見える。なにしろ、もともと、短冊状の「簡牘」に縦書きしていた文書であるから、作表など存在しなかったのである。読者が、一定の理解をしない提言は、眩惑志向であり、学術的に無意味である。

 以上、大変な不勉強で、ここに「仮説」を提示できるものではないと見える。

◯倭国・女王国

記録
 [魏志倭人伝]倭人の条「239年倭の女王卑弥呼に「親魏倭王」金印を仮綬する」(過分なる恩賞、好意的)

 「魏志倭人伝」と書いて「倭人の条」は、無意味である。「」内に引用されている記事の根拠は、見当たらない。正史に西暦年数が算用数字で書かれているはずはない。二千年後生の無教養な東夷が、正史の記録文に、「過分」とか「好意的」とか、私見を書き足すのは、稚拙と言われかねない。

 遼東の大国・公孫淵には「楽浪王」のみ。

 「遼東の大国」と虚名を課されている公孫淵(国名でなく、人名である)は、後漢/魏の遼東郡太守である。「大国」など、見当違いである。また、自称したのは「燕王」である。
 漢制の郡太守は、帝国の根幹をなす大身で、国王に等しい高官である。国王は、漢・魏代、皇族にしか許されない臣下として至上の格別の称号である。因みに、「親魏倭王」は、漢制の王などではない「蕃王」であり、単なる髪飾りである。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 3/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23,05/12

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国内・国際状況
 司馬懿は朝貢した倭を呉の背後と位置し、皇帝に呉の海上支配に対抗する大国と報告し司馬懿自らの功績を高めるために金印を仮綬させた。  

 司馬懿は、遼東郡を撲滅した際に、郡太守の誅滅は当然として、官吏、公文書もろとも、破壊し尽くしていて、とても、「東夷管理」の継続、拡大を志していたとは見えない。また、その時点で、司馬懿は、魏の最高権力者ではなかった。誤解・誤認連発である。
 帯方郡平定は、司馬懿遼東征伐とは別に実行されていて、明帝の勅命で、公孫氏の任じた郡太守は更迭され、新任太守のもと、帯方郡は、平和裏に皇帝指揮下に回収され、倭人に対して「すぐさま」参上を指示したと考えるのが、自然な成り行きではないか。

 郡の太守弓遵と使者梯儁は大月氏國に匹敵する同等な国とすべく距離、人口を報告した。

 帯方郡太守にとって、関心の的は、雒陽の意向であり、西方の大月氏などは無縁で、何も知らない/分からないから、「匹敵」など考えようもない。とんだ白日夢である。
 「倭人伝」に、距離・人口は書かれていない。史料にない事項を言い立てるのは、内野氏の白日夢であろうか。誰か、覚醒してあげないのか。
 郡太守と官人使者(行人)は、身分違いで対等ではないから、結託して策動することは不可能である。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。新参の蛮夷への使者は、時として、いきなり斬首されるから、大身の官人は任用されないものである。

 そもそも、新任の郡太守には、使節団の現地報告を「捏造」する動機は、全く無い。「こと」が露見すれば、一族皆殺しである。また、雒陽での評価を上げようにも、当然、このようなつまらない事項に、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。
 官人使者にしても、行人の大命を受けて、艱難辛苦の果てに大過なく往還したのに加えて、意味不明な指示を受けて報告を捏造して、それが功名になるのかどうか、皆目不明だから、命をかけるはずがない。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 何しろ、いくら粉飾しても、何れは、郡倭の間で使者が往来するから、「道里」「戸数」は、知れるのであり、この時点で、ことさら必死で粉飾しても、早晩露見するのは明らかである。郡太守は、子供ではないから、その程度の分別は有していたはずである。つまらない法螺話は、止しにした方が良い。

 それにしても、明帝の手元には、生前に帯方郡の「倭人公文書」が、大挙将来されていたのであるから、「倭人」の身上は、とうに知れていたのである。公孫氏のもとで、長年東夷管理に従事していた郡太守が更迭され、新米に入れ替わっていたから、史料継承に難があったにしても無理のないところだが、最終的に、使節団派遣までには、倭までの行程は四十日程度と知れたのである。
 経過を振り返ってみると、「道里」「戸数」は、公孫氏の公文書遺物が、明帝に無批判で採り入れられた結果と見るのが、もっとも自然であろう。そうではないと主張するのであれば、半仮睡の臆測で無く、具体的な根拠を示すべきである。 

 どう考えても、内野氏の提案は、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。それとも、現代の古代史研究機関は、そのような捏造が日常茶飯事なのだろうか。とんだ、時代錯誤の幻想である。

功労者
 魏の大将軍 司馬懿の東方経営を進めた功績とすべく皇帝に強く上奏した。

 創作された司馬懿の「東方経営」は、時代錯誤の無意味な概念である。従来、司馬懿は、西方の蜀漢侵攻に対する「抑え」であったから、遼東方面に関する知識は白紙に近かったと見える。もちろん、何の功績も立ててはいない。
 仮に、司馬懿が「東夷」情勢を評価したとしても、地域の「交易」は、遼東半島から山東半島を往き来する渡海船が主力であり、また、遼東郡太守公孫氏は、勢力拡大に際しては、南方/西方との交易が盛んであった山東半島青州地域の支配に尽力したのであり、帯方郡の管轄する「荒地」は、意識の片隅にしかなかったのである。
 司馬懿の意識した「東方」は、高句麗の支配地域であったと見えるのである。氏の意見は、随分方向感覚が、ずれているように見える。

 帯方郡の管理した韓、穢、倭は、札付きの貧乏諸国/荒地であり、経営しようがない。漢武帝が朝鮮国撲滅後に、強引に四郡を創設したが、半島東南部諸郡「嶺東」は、一段と貧乏な荒地であり、漢制の郡が設立されたとしても、郡太守の粟(俸給)の出所がなく、忽ち「経営破綻」して引き払っているのである。残ったのは、半島中部以北の楽浪郡、そして、玄菟郡である。

 それにしても、誰がどのように「強く上奏」した証拠があれば提示いただきたい。内野氏の私見では、当時、司馬懿が最高権力者だったのだから、別に誇張の必要は無く単に上奏すれば良いのである。

 因みに、半島の三韓諸国は、晋代以降、高句麗が公孫氏の軛を免れて大挙南下したこともあって、百済と新羅の自立に進んで、高句麗共々帯方郡の支配を跳ね返し、帯方郡は、楽浪郡共々撤退したのである。ことは、司馬懿が、遼東郡の東夷管理体制を丸ごと破壊して「東方経営」など放念したことから来ているのである。

方角
 東南の大海の中、会稽東冶の東、呉の背後の国。南方的記述。

 どこの「東南」か、意味不明である。「大海」の方角ではないはずである。恐らく、氏の語彙にある「大海」は、倭人伝の説く「大海」と大きくずれていると思われるが、氏は明言しないので、何も伝わらないままである。
 当時の中原人の世界観で、魏から見た「呉の背後」 は、交址(ベトナム)、緬甸(ミャンマー)と思われる。
 「南方」も、どこから見て南方なのか不明である。「帯方郡から見て南方」と言うなら、狗邪韓国も、壱岐、対馬も「南方」である。とんだ呪文である。
 時の皇帝は、恐らく少帝曹芳であろう。さらに疑問を掻き立てる「呉の背後」については、後述する。

人口
 女王国の都7万戸(35万人)倭国15万戸(75万人)日本人口(鬼頭宏)59~75万人。あまりに少ない数字。
 推測200~300万人と多めに見て九州30~45万人、倭国15万人)

 三世紀当時「人口」は無意味である。とんだ時代錯誤である。戸数」から、現代流の「人口」を換算するのは、各戸の内情が不明である以上、無謀である。戸数が想定しているのは、夫婦と子供のようだが、人口に子供をどう数えるのか、不明であれば、不明と唱えるべきである。
 当時、倭人に戸籍簿はなく、従って、「人口」を数える制度はなく、精々、推測/臆測した「戸数」集計である。ただし、戸籍が記帳されていた証拠はない。存在したのは、各戸に対する耕作地割り当ての記録程度であり、これは、国制の根幹であるから、厳重に維持されたが、各戸構成は、維持されていたと見えない。当時、早世、夭逝はざらであり、各戸の内実を調べ立てる口数、「人口」に大した意味は無いから、これを言い立てるのは、二千年後生の無教養な東夷が、自身の先祖である三世紀「倭人」世界の情勢を知らないことを露呈している。
 蕃王に「都」はないから、「女王国の都」は錯誤/空文である。女王居処「國邑」は、精々数千戸規模と見えるが、当然、「直轄地は無税が常識」であり、「官人、奴婢が多数を占めていれば、農民は希少であった」ろうから、ことさら「戸数」を言うのは不遜である。
 倭国15万戸は、倭人伝に根拠の無い憶測である。二千年後生の無教養な東夷の「世界観」の呪縛を振り払って、三世紀人の「世界観」まで降りていかないと、「倭人伝」の描いている「世界」は、わからないのである。「人口」論は、氏の白日夢であろう。
 三世紀時点未生の「日本」の「人口」は、重ね重ね、時代不明、根拠/対象領域不明の「ごみ情報」である。後世、恐らく、八世紀あたりで戸籍制度が確立されて、以後、少なからぬ紙情報が残存しているのだろうが、「鬼頭宏」なる「専門家」の立論手法は不明である。提言、仮説、断言の何れにしろ、前提や条件付けが欠落して、数字だけが、ポツンと一人歩きしていては、単なる法螺話とされかねない、個人攻撃になっているのである。
 恐らく、八世紀近辺の時点の豊富な史料を根拠とした折角の推計情報を、根拠とできる情報が一切存在しない三世紀に転用されて「あまりに少ない」などと手厳しく批判/非難されるのは、ご当人にして見ると妄想と云われかねない「濡れ衣」ものであり、そのような悪名は圏外に排除いただきたいと願っているはずである。

距離
 都洛陽から帯方郡まで5000里 帯方郡より女王国1万2千余里 計1万7千里。
 記録12000里×434m=5200㌔ インドネシア方面まで行ってしまう。短里80m 960㌔実数相当 九州圏内

 帯方郡は、後漢末建安年間の設立であり、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「郡国志」には、洛陽からの公式道里は記録されていない。「魏志」に公式道里記事は無く、後年の宋書にも無く、晋書にもない。内野氏は、何を根拠に存在しない公式道里を標榜しているのか、不審で、不合理である。

 「基本的」確認であるが、「倭人伝」が明記しているのは「郡から倭まで」「万二千里」であり、「帯方郡より女王国」とは書いていない。「魏志」に書かれていない数字を、臆測で足し合わせても、臆測の段積みでは、「虚妄に過ぎない」と言われそうである。誠に不合理である。

 ついでながら、「倭人伝」に「郡から狗邪韓国まで七千里」と起用されている里数の根拠が、誤解の余地無く明示されているのを無視して、単純に、二千年後生の無教養な東夷の臆測で、全行程普通里で目的地を想定するのは、非科学的で、不合理である。非科学的な思考は、早く一掃していただきたいものである。傍証であるが、「倭人伝」道里に対して、魏、晋、南北朝、隋、唐、宋に到る期間、伝統的に何ら公式の異議は立てられていないのである。
 現代で云えば、安本美典師も、伝統的な解釈に従っているのである。一度、教えを請うべきでは無いか、と愚考する。

 さらについでながら、当時どころか、秦漢魏晋の歴代王国で、「公的制度としての短里」など、「どこにも存在しなかった」とみるべきである。内野氏程の方が「短里説」を支持するのは、如何なものか。当然、意義の成り立たない「長里」も、存在しないのである。単に、普通「里」と云えば済むのである。現に、正史には、そのような「里」が書かれているのであり、ほぼ唯一の例外は、「倭人」に関する万二千里由来の記事である。

追記: 2024/05/12
 正史たる隋書の「俀国伝」は「古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」と称しているが、肝心の笵曄「後漢書」東夷列伝に、そのような記事は、一切存在しないのは先に書いた通りである。
 雒陽から帯方郡の道里が不明なのは、依然として解明されていない。誠に、趣旨不明で、不可解である。

                                未完

新・私の本棚 番外 内野 勝弘 第413回 邪馬台国の会 補追 4/4

魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く 邪馬台国時代の年代論
私の見立て☆☆☆☆☆ ひび割れた骨董品 2023/10/24 2023/10/26 2024/04/23

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国力
 東の果ての小国、海外(呉)への武力攻撃などの能力はない。小国30か国の連合体

 「国力」が正体不明、その評価は不可能である以上、資料に忠実に解釈を進めるべきである。
 当時、現代紛いの「連合体」など存在し得ない。「国」の態を成していたのは、対海、一大、末羅、伊都の4国であり、それ以外の名のみの「国」の事情を論じるのは「白日夢」であろう。

 因みに、「倭人伝」は、「更に東」の諸国を描いているので、倭人は、「東の果て」などではない。何かの錯覚であろうか。
 因みに、「倭人」が「小国」三十ヵ国の「連合」であるとすれば、それは「小国」などではない。氏の用語は、混乱していると見える。
 何しろ、「倭人」の領域は、把握されていないのだから、領域の広さは不明であり、殊更、領域の広さで国の大小は論じられないのである。
 海外(呉)とくると、東呉孫権も、蛮族の王となってしまう。まことに尊大である。
 因みに、当時の中国に「海外」の概念は無い。またもう一つの時代錯誤であろうか。それとも、氏の視点が錯乱していて、ここは、二千年後生の無教養な東夷の眼で見ているのであろうか。読者に超人的な理解力を要求するような「無理/難題」を言ってはならないと思うのである。

距離・説
 ①古い時代の短里説 ②誇張説 ③政治的忖度説

 無意味な列記である。「古い時代」とは、殷周代のことだろうか。太古の制度など幻影である。「誇張」は、計算の根拠が必要である。まして、当時「政治的忖度」などあり得ない。全て、虚偽/虚妄である。

◯内野説(5倍説)
 魏から外国に贈られた金印は大月氏国と倭国の二国のみであるが、大月氏国と倭国との国力は大きく違うのに金印付与されたのが謎とされる。

 当時「国力」は無意味で、ここで問われるのは、新参蛮夷の格付けである。当時の天子の評価は、当時の天子にしかわからないのであり、二千年後生の無教養な東夷に分かるはずが無い。最善の努力を払っても、誰にも解答が出せないのは、「問題」でも「謎」でも無い。
 天子が蕃王に「金印」を贈るなど論外である。そもそも、なぜ、それぞれの国に「金印」を贈ったのか。貴霜国に対しては、武力を抑えるための懐柔であろうが、「倭人」は暴虐でないので、全く異なった意義を持っていたと思われるが、いくら二千年後生の無教養な東夷が考えても、わかるはずはないから、「回答」を要求した「謎」ではないと見るものではないか。
 
 卑弥呼は司馬懿が公孫氏を滅亡させた翌年の239年にすぐさま使者を魏に送った。倭からの朝貢は司馬懿の功績を宣伝するためには格好であった。

 「格好」「すぐさま」と云いつつ、景初二年を踏み潰したまま「翌年」と正史を改竄し、一年をおいておもむろに遣使したとは不審である。そのような解釈は、たいへんな勘違いと自覚するべきである。陳寿「三国志」魏志によれば、「倭人」は、景初二年六月に帯方郡に到着したのであり洛陽に参上したのではない。と言うか、内野氏は、大胆にも、洛陽到着は景初三年という主張であろうか。
 景初二年中は、魏明帝が生存していたが、景初三年元旦に逝去しているから、景初二年中に上洛したかどうかは、大問題である。記録されている皇帝詔書は、明帝のものか、少帝曹芳のものか、本来、文献考証上の大問題を孕んでいるのである。陳寿「三国志」魏志倭人伝には、倭人使節の洛陽到着の年次は書かれていないが、魏明帝の逝去の際の、それこそ「画期的な事情」を無視していては、臆測/創作/改竄の類いとされて、反論できないのではないか。

 翌240年官吏梯儁は倭国に派遣され倭国に至るまでの行程、国情、政治など詳細に調査し報告した。

 無造作に「官吏」だが、下級吏人の筈はなく、帯方郡官人建中校尉梯儁である。
 魏帝が、国情/行程不明のまま下賜のお荷物を担いだ遣使を送り出すとは不審である。子供の近所へのお使いにしても不都合である。当然、使節団の発進以前に「郡から倭まで万二千里」と知れていたし、さらには、実務的に必須の所要日数四十日程度というのも知れていたはずである。

*反射的なダメ出し
 因みに、翌240年」とは、不可思議である。正史に西暦紀年など存在しない。「倭人伝」に書かれているのは、明帝景初二年の帯方郡訪問、同年十二月の皇帝詔書であり、翌景初三年の記事はなく、一年余を経た少帝曹芳の「正始元年」である。
 内野氏の「臆測」では、景初三年六月の帯方郡訪問、追って上洛、同年十二月の皇帝曹芳詔書であり、翌正始元年に下賜物を担いだ遣使が発進したという強行日程であり、明帝没後の喪中の景初三年の六ヵ月諸事自粛を思うと、信じがたい「特急処理」である。
 下賜物を発送するためには、道中諸国からの受入確認連絡が必須であり、未曽有の大事に関して、現地から即答が来るはずはないので、一年かかっても不思議ではない、「相当の期間」を要したと見るものではないか。そして、全地点からの確認が必要であるから、蕃王の配下から来る応答は、随分遅々としたもので在ったはずである。いや、遣使した難大夫、都市大夫が帰国して指示したとしても、ということである。
 「特急処理」など、有りえないのではないか。素人の反射的なダメ出しであるから、読者諸兄姉には、かえってわかりやすいと見て、一通り書いたのである。

*論評総括
 内野氏が、どのような検証で、ここに提議されたような短縮/強行/特急日程を支持したのか不明であるから、とても、信用できないのである。
 要するに、当然の事項なので、「倭人伝」から割愛されていても、当然の手順は、当然執り行われているはずである。またもや当然であるが、要するに、発進以前に、行程各地に使節団の到着予定を通達し、各地責任者から、確認を得ていたはずである。当然、そのような交信の所要日数は、使節団の所要日数設定の参考となったはずである。
 以上は、魏帝国という「法治国家」では、当然の手順であるから、「倭人伝」から割愛されているとしても「行われなかった」と主張するには、相当確固たる反証が必要である。

 帰国後、太守弓遵等は司馬懿の功績を高めるため距離、人口、位置は呉の背後の会稽東冶の東で1万7千里(5000里+12000里)大月氏国に匹敵する遠方の国で数十万の大国として報告を作成した。ゆえに朝鮮半島と倭国は人口と距離が5倍ほど水増しされた。陳寿や魚豢(魏略)はその記録を踏襲した。

 その時期、不遇であった「司馬懿の功績」なぞ、どうでも良かったはずである。
 繰り返しになるが、「倭人伝」に、「距離」「人口」は、一切書かれていない。「位置」は、初耳であるから返事に窮する。それにしても「数十万の大国」は、冗談がきつい。戸数のことなのか、何のことなのか。
 因みに、洛陽/帯方両郡の戸数、口数は、一戸、一人まで正確に集計されていて、五倍誇張など無意味である。そう言えば、郡管内の「朝鮮半島」道里の水増しも、本来無意味である。
 ついでながら、魚豢は曹魏の忠臣であり、逆臣司馬懿の功績を高める粉飾など死んでも行わないのである。
 
 「呉の背後」と言い切っているが、「会稽」は呉の中心部であり、その南部の東冶は、ほんの裏庭に過ぎない。氏は、漢数字が読めないのだろうか。二千年後生の無教養な東夷の地理感覚を、根こそぎ洗い直して、せめて、洛陽人の世界観で史料解釈に臨んで欲しいものである。別に「中国語が自力で発音できなくても」、つまり「読めなくても」関係ない。当時の実務を想定すれば、史官の深意は、行間や紙背から読み取れるはずである。
  
 因みに、公孫淵と孫権は、数次の書簡往復があり、実務として、遼東公孫氏の臣下「倭人」の素性は、東呉に既知であったと見える。

 それにしても、帰還して万里捏造」は、時代錯誤である。皇帝報告後に報告「作成」は不可能であろう。「万里」往復に要する日数は、氏の臆測の五分の一程度であろうから整合しない。古代史の泰斗である岡田英弘氏は、既に、「万二千里」を後世西晋代の「陳寿の創作」と断じていて、それはそれで、無根拠、臆測の随分軽率な断言であるが、内野氏は、高名な岡田氏の提言を、無断で改竄しているのだろうか。それとも、盗用、パクリの際の手違いなのだろうか。

 端的に言うと、陳寿は、「魏志倭人伝」の編纂にあたって、史官の「職務に殉じる」覚悟で、洛陽の各部門に所蔵されていた公文書の記載内容を遵守したが、無謬の天子である明帝が犯したと見える「道里」に関する「錯誤」を、文書交信の所要日数によって「事実上」是正し、当時の高官諸賢の同意/正解を得たのだが、二千年後生の無教養な東夷は、偏見に満ちているため、「魏志」に書かれていない風評/裏話を、寄って集(たか)ってでっち上げて、挙(こぞ)って誤読/誤解していると見えるのである。反論があるなら、文書史料を提示して、反駁していただきたいものである。

 因みに、少帝曹芳の最初の十年間、司馬懿はむしろ逼塞し、老妄を擬態して最高権力から遠ざかっていたから、もし、曹爽が司馬懿の野心を察知して、大権を駆使して司馬懿一族を誅殺するとなると、司馬懿に阿諛追従した報告者一族も、自動的に連座して皆殺しだから、ヘタな策謀はしなかったと見える。何しろ、漢書を編纂した班固は、史官として中立的な立場にありながら、絶対的な最高権力者であった大将軍竇憲が、時の皇帝によって誅伐された際に連座/刑死していて、有力者に追従するのは、ときに、死に至る近道だったのである。
 因みに、陳寿の司馬懿評価は冷徹で、司馬懿は、多年の功労で列侯とされながら、「魏志」に「伝」を立てられていない「不名誉」に浴している。

 一方、明帝没後、司馬一族の専横に抵抗した毋丘儉は、司馬懿が尊重することを誓約した曹芳を廃位するに及んで、反乱蹶起/敗死し、一族は全滅したが、「魏志」に伝を設けられている。制約のある伝の真意を読み取れば、明帝曹叡の信任が格別に厚かった毋丘儉が、当時、遼東を管轄する幽州刺史として公孫淵の上位者であり、「西方戦線から臨時に起用されて与力した、現地事情に通じていない司馬懿」と並ぶ副将として遼東平定に大きな功績を果たしたと理解できる。特に、公孫氏滅亡後の遼東の空白を突いて南下しようとした高句麗を、玄菟郡太守王頎に命じて長駆大破した功績は明らかである。当然、西晋政権下で編纂された「魏志」には、明記できなかったのである。

 ついでに言うと、帯方郡太守弓遵は、いわば「国王」に等しい高貴な身分であり、「等」で括り付けられるような同格の人物は、登場していない。軽率である。それとも、内野氏は、玄菟郡太守王頎が「黒子」として参画したというのだろうか。

◯まとめ
 総括すると、内野氏は、世上流布しているらしい、不出来な/理解できない元史料を、不出来に切り刻み、逐一味見しないままに盛り付けた俗説を、席上に提示しているが、実際は、一場の「ごみ史料」と化しているから、とても、食するわけには行かないのである。当方は、そのような率直な指摘を言いがかりと言われないように、大量の根拠を示して批判している。文句があれば、キッチリ反論して欲しいものである。
 総括すると、氏は、中国史料を、適確に読解する能力が不足しているのに、それを周囲に対して認められないままでいるようである。周囲は、氏を適切に支援する努力をしていないようである。困ったものである。

 内野氏の発表が素人ブログの片隅であれば、野次馬の雑情報として見過ごせるが、安本美典師主宰講演会の資料は、「邪馬台国の会」会長の絶大な権威もあって、世間の注目と信頼を集めるので、年代物の誤解の伝播を防ぐために公開書評せざるを得ないのである。
 ここに示されたような「誤解放置」は、氏の玉稿をだれも真剣に批評していないのが原因と危惧される。おかげで、部外者の素人が、憎まれ役を引き受けざるを得ない。

 ぜひ一度、ご自身の思考過程を、一歩一歩確認/ご自愛いただきたいものである。一度、公開してしまえば、それは、不滅の業績なのである。是非とも、自重いただきたいものである。

 冒頭に「ひび割れた骨董品」と悪態をついているが、ひび割れた焼き物は、「金継ぎ」すれば、ひび割れる前より遥かに高い価値を得ることができるのである。ぜひ、ご自愛頂きたいものである。

                                以上

2024年4月22日 (月)

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 1/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、以前から大型書店の書架で見かけていたが、何しろ、本文653ページの大部であり、また、本体価格で12,000円の高価な物だったので、内容に価格ほどの価値があるかどうかの懸念もあって、なかなか手が出なかったが、最近、古書の掘り出し物が見つかったので慌てて購入したものである。
 一度、大型書店の立ち読みで流し読みして、手堅い論考に一目置いていたが、今回、自分の蔵書として、じっくり読んでみると、大変な労作であり、また、当ブログ筆者が最近「俗論」と勝手に呼んでいる、「通説」固執の議論がほとんど見られないので、一段と敬意を深めたものである。

*概要
 まずは、宮内庁書陵部蔵書である三国志宋版刊本(「紹煕本」)影印が綴じ込まれていて、これに続いて、凡例と目次を挟んで、句読点を補充し全29段の区分入り「漢字原文」が続いている。
 なお、「紹煕本」は「倭人伝」と小見出しして開始しているので、正式名称云々の雑音の毒消しになっているように思う。

*充実不偏の引用文献
 巻末の主要引用参考文献目録には、およそ、膨大な「魏志倭人伝」関係書籍群に加えて、魏晋朝時代の当時の社会動向、政治思潮を書き綴った岡崎文夫氏の「魏晋南北朝通史」 や邪馬台国に関する論考を集成した橋本増吉氏の「邪馬臺国論考」、さらには、松本清張氏の「清張通史-1 邪馬台国」等々、与党的と見える論考があげられているのは当然だが、野党的と見られる安本美典氏の「新考 邪馬台国への道」、そして、古田武彦氏の「『邪馬台国』はなかった」もあげられている。ただし、最終例は、「邪馬台国」のカギ括弧が抜けた誤記になっているのは、ご愛敬である。
 以上のように、書名を書き連ねたのは、本書が、安易な通説固執の弊を免れていると感じさせてくれると言うことである。

*原史料密着の姿勢堅持
 著者水野氏は、自身明言のように、いわゆる「九州派」であり、不偏不党とは言えないが、根拠のない度を過ごした偏見は見られず、また、野党的な論考であっても、採り入れるべき主張は採り入れるという姿勢が貴重である。
 ということで、さりげなく、「漢字原文」と書いたが、ごく一部の例外を除けば、影印本の記載に従った読み取りであり、従って、世に溢れている原文書き換えは、避けられている。
 著名な例で言うと、「邪馬壹國」、「一大國」、「会稽東治」、「景初二年」、「壹與」の表記が採用されている。中国史書である「倭人伝」を、中国史書として考察するという、当然の前提に従うものであり、当然の処置である。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 2/10 補充 改頁

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*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

・視点明示~史料批判
 冒頭に宣言されているように、氏の「倭人伝」観は「古代日本に関する(唯一無二の)中国史料」と言うものである。
 つまり、氏は「日本史」の文献史学による考察にあたり、「国内史料は辛うじて第五世紀に始まるに過ぎないから、それ以前の世紀に関しては、国内史料が存在しない、従って、中国史料に依存せざるを得ない」との確認を経ている。これは、誠に確実な考察であり、貴重なものである。
 続いて、史料の乏しい(つまり、事実上、存在しないに等しい)(日本列島の)古代史の研究にあたっては、外国起源の史料であっても、本質を追究して史料価値を見極め、「倭人伝」の史料としての確認を進めていくのである。
 俗な言い方で気が進まないが、「有言実行」であり、ずっしり重みがある。
 追記すると、以上のような冷静な視点は、大抵の「倭人伝」論に欠けているものであり、是非とも、天下に「蔓延」してもらいたいものである。

◯概観
 著者の考える指針として、「倭人伝」の解釈に際しては、「虚心坦懐に」記されたままを素直に本文に即して読むことから出発」し、「その検討に際しては」、まずは、「倭人伝」の文章とそれ以外の「三國志」、特に「東夷伝」の文章と対比して検討することが示されている。さらに、『「先入観」に禍いされて、自説に都合のよいように「倭人伝」の字句を改訂したり、勝手に解釈したりしても、それは、価値のない研究に過ぎない』と主張している。
 そして、「考古学によって帰納的に解明される倭国像と中国史料によって解明される倭国像は、究極的には一致するべきものであるが、それぞれ、異なった分野の研究であるから、の過程において安易に両者を合致させようとすると、研究の進路を誤ることになりかねない」と危惧し、「互いの研究が自力で確実な結論に至ったときに、整合を図るべきだ」と述べている。
 こうした提言は、まことに合理的なものであり、本来、広く遵守されるはずなのだが、衆知のように、このような先人の提言は見事に裏切られ、考古学成果は、データに基づく帰納的検討ではなく、データが先入観に合うように解釈・整備されて、当方に「俗論」などと悪態をつかれている昨今である。
 本書刊行当時、すでに、「三国志」などの中国史料に対する(国内)考古学研究者の「反感」、「敵視」が顕著だったようで、世上、「もし本書(三國志)がなかったならば、女王國も、邪馬壹國も、またその他の国も、卑弥呼の存在も、何もわからず、従って、邪馬壹國論争などは全く起こらなかった」と述懐している例まである。
 これは、あくまで寓意としているだけで、本気で「百害あって一利無し」などと思ってはいないことは言うまでもないはずであるが、文字通りに解釈する向きにして見ると、至言と解しているのかも知れないのであるが、それはそれとして、当分野の議論が、「学術論義」でなく、個人的な「信念」なり「感情」で大きく左右されていることは、見逃せない。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 3/10 補充 改頁

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*「三国時代史概観」
 本書は、倭人傳本文の評釈に先立ち、第二章 魏を中心とする三国時代史概観、と題して、後漢朝衰亡期に始まる、一世紀あまりの乱世に堕ちていく政治、社会動向が描かれている。この期間に含まれる、倭人傳に所縁のある後漢桓帝、霊帝治世時の深刻な内紛も描かれている。

*「桓帝霊帝時」談義~余談
 以下、余談に近い、私見であり、氏の見解を云々するものではない。
 「倭人伝」に見られる後漢桓帝霊帝時の時代は、後漢の内征崩壊が露呈した時期であり、東夷管理が、漢武帝創設の楽浪郡による秩序が、同地域の支配体系として新興の遼東郡の管理に堕したことも容易に想到できる。それまで定期報告で現地事情を悉に把握し、頻りに訓令した雒陽の主管部局の東夷管理が遼東郡の管理に委ねられ、放任時代になっていたのである。

*参考書紹介
 因みに、当ブログ筆者の同時代参考書は、主として、陳舜臣「中国の歴史」、宮城谷昌光「三國志」、それに、岡崎文夫「魏晋南北朝通史」(国会図書館の近代デジタルライブラリー所蔵は、内外両編揃い)であるが、あくまで時代背景を知る読書であり、厳密に参照しているわけではない。
 世上、「史料批判」の何たるかを知らず、また、先人によって、適確な「史料批判」が、既に徹底的に為されていることも知らず、ひたすら、「倭人伝」の史料価値の欺騙を叫ぶ無知、無教養な素人論者が見られるが、陳寿が編纂にあたって確保していた教養から見ると、「二千年後生の無教養な東夷」の独善と見るものであり、まずは、ご自身の無知/無教養を癒やすべきと思う。
 無知は、致命的であるが、「やまい」ではないから治療のしようがないが、ご当人が気づいて、自覚是正すれば救われるのである。さしあたっては、本書が、妙薬となる可能性があるが、まさか、味見も咀嚼もせずに「鵜呑み」はしないだろうと思うのである。

*「概説」の偉業
 と言う事で、本書の冒頭では、「概説」篇として、陳寿「三国志」とそれに先行する史料である「三史」(司馬遷「史記」、班固「漢書」、笵曄「後漢書」)、さらには、隣接する魚豢「魏略」について、適切な概評が加えられている。
 時代、地理背景として、(後漢末期)遼東郡が半島中部に設けた帯方郡から海峡向こうの東夷に管轄を及ぼすに至った経緯とその滅亡が説かれている。
 薄手の新書版は本書の真似はできないが、その際は、本書の該当部分を参照する「注記」として一々再現する必要はない。適確な参照は短縮紹介に遙かに勝る。言うまでもないが、当節の軽薄新書「倭人伝」談義は、思いつき、思い込みを怒鳴り立てず、本書などの先賢諸兄姉の著作を踏まえて、それを克服した上で、ご自身の意見を述べるべきである。いや、言うまでもなく、これは、氏の教戒を承けた自戒でもある。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 4/10 補充 改頁

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〇「鵜呑み」論 まくらに代えて
 本書は、何しろ大部の書籍であるから、手の届くところから、何とか咀嚼して、味わって飲み込み、消化するものである。
 鵜は、鳥類であって歯も舌もなく、川魚を囓りも味わいもせず丸呑みできるが、人は、歯で噛みしめ、噛み砕き、舌で味わい、匂いまで照顧して食するのである。その前に、ウロコや骨も内臓を取り除き、大抵の場合は、生食せずに、煮たり焼いたり調理、調味するのである。人間相手に、「鵜呑み」を言うのは、自身が「鵜呑み」の常習者だと物語っているのである。
 人は、決して、鵜の真似はしない。低級な比喩は早く撲滅したい。

-第二部 評釈篇 第一段 総序
*「倭人伝」事始め 「倭人在帶方東南」
 前置きに小見出し「倭人伝」の話をしたが、この小見出しが、陳寿の原本に、すでに書き込まれていたかどうかは、わからない。
 知る限り、「紹興本」に先行する旧版「紹興本」に小見出しは存在しない。
 念のため確認すると、「紹熙本」は、「紹興本」と共通した北宋刊本「咸平本」の良質写本に依拠している。「倭人伝」なる小見出しが、北宋刊本に存在していて、「紹興本」が取りこぼしたのを「紹凞本」が是正したのか、「紹興本」が正確に継承したのに対して、「紹凞本」が付け足したのかは、にわかに決めかねるところである。
*「紹凞本」所見 「坊刻の創成」~余談
 本「所見」は、「紹凞本」の由来を推測/確認するものであり、一部説かれている「坊刻」、つまり、官業でなく、民間事業に托したことを殊更批判していることに対する反論である。書誌学的事項に興味なければ、「紹熙本」の史料価値に影響を与えないとの趣旨を理解いただければ、深入りは不要である。
 南宋創業時に、北宋亡国時の「国難」を逃れて河南に逃亡し、再集結した天下一の英才が結集し、国富を傾けた経書、史書の「国家刊刻事業」の一環で、国史「三国志」として「紹興本」が刊行された。その際、南宋は、領内を広く捜索し、北宋「咸平本」の写本を呼集して、諸写本の異同を校勘し、最善の「咸平本」復元史料として「紹興本」を確立し、刊刻したのである。
*北宋咸平本の意義
 丁寧に言うと、北宋「咸平本」は、木版印刷により所定の部数が刊行されたが、皇帝以下、皇族、及び高官有司の蔵書として配布したのであるが、配付された刊刻本は、夫々の場で写本原本として起用され、言わば、それまでに発生していた異同を駆逐して、定本として統一を図ったものである。
 ただし、写本工程の宿命で、刊刻本から起こされた写本は、字数を重ねる毎に、次第に誤写が発生した。また、帝国中心部を離れた地域では、写本工の技術、教養が調わないために、高度な写本行程が確立できず、誤写が発生しやすかったとも思われる。刊刻本配付により、北宋が統一した天下に、それまでにない高精度の写本が普及したことは、北宋の重大な功績である。

                                未完

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*加筆再掲の弁
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*未曽有の「国難」
 さて、その際の「国難」は、西晋亡国事例の再現でもあったが、この際は、北方異民族による亡国、南方への避難と言うだけでなく、北方異民族が、「蛮夷を毀傷する中国文明」の撲滅を図った徹底的なものであった。
 「文書破壊」は、四書五経そのものの棄却、焚書に始まり、史記以来の正史に到る書籍類が根こそぎ駆逐され、更に、復刻をも許さないとして、木版印刷の版木に到るまで破壊したのである。地域としても、江水、つまり長江流域までに侵略が及んだので、宋代刊本事業は壊滅したが、侵略者は後退し江水流域で南宋が回復したが、甚大な破壊は、大打撃を与えたのである。
 先例である西晋滅亡時には、異民族軍に洛陽/長安が蹂躙されて、皇帝、皇族が連行されたが、退避できた皇族が江南で東晋を再興し、その際は、比較的良質な古典書籍類が生存したようであるが、北宋亡国時の国難は、そのような先例すら越えて、未曾有の甚大な被害と言って良いようである。

*再度の復刻
 さて、一旦、復刻を完成した「三国志」であるが、なぜか、再度、復刻が行われ、新たに刊行された「紹熙本」は、既刊の「紹興本」より優れていると判断されたということである。南宋創業に伴う「国家刊刻事業」計画としては、「三国志」刊刻は、いわゆる「紹興本」刊刻により終了していて、他の経書、史書の刊刻にかかっていたため、計画外として民間事業に附託したものである。そのため、時に「坊刻」と称されるが、それは「国家刊刻事業」の枠外で、民間の起用により刊刻したと言う事であり、別に、質を貶める根拠にはならない。いわゆる「坊刻」が刊刻の質が低いとは言い切れない。
 因みに、国難以前の北宋時代、刊刻は国家が独占していたが、亡国、南遷によって、中原の官営事業は壊滅し、辛うじて、江水、つまり、長江沿岸に展開されていた刊本事業を、侵略者の破壊から復元したものである。

*「青磁」の起源~余談
 そうでなくても、南宋創業の際には、太古以来、国家事業として運営していたものの多くが、宋代に興隆した民間事業に移管されたのである。
 参考であるが、北宋に至るまで、秘儀として天子の執り行う礼式に使用されていたのは、殷周代以来、精巧な青銅器が伝世されていたのである。北宋壊滅時、神聖な青銅器の避難が叶わず、南宋朝は、秘儀祭器に事欠いたが、殷周代の青銅器鋳造技術は、とうに喪われていて、祭器復元は敵わず、「青磁」と呼ばれる精巧な磁器が、青銅器に代わる祭器となったのである。
 歴代の天子は、太古祭器の継承が権威の根拠とされたので、青銅器に代わる「青磁」は、本来、尚方という名の帝室工房に独占される門外不出の技術であるべきであったが、南遷に伴って異動した尚方には、必要な祭器を制作するのに必要な技術、技術者、製造設備が完備せず、民間に委託せざるを得ず、結果として、青磁の技術は、南宋代に民間に流出したと見える。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 6/10 補充 改頁

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*加筆再掲の弁
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*印刷刻本技術の進化
 刊刻事業は、木版版刻技術とその版木で多数の均質な「単葉紙」に印刷し装幀製本する技術であるが、南宋再興期は、国家事業が整わず民間に依託したと見える。それは、印刷用紙製造技術も、同様と見える。北宋初期に完成した印刷製本技術は、帝室尚方が成し遂げた美術工芸であったが、北宋期に経済活動の盛んな長江流域に興隆した地域産業が、南宋創業時の国家事業を受託したことから技術的に進化して、民間事業として開花したと見える。
 「咸平本」断簡と「紹凞本」を比較すると、「紹凞本」で本文一行に対し細字で注釈二行を収める「割注」は、「咸平本」に見られず、注釈は、改行して同行格で書き継いでいるのが異なる。つまり、木版印刷技術の進歩で、細字で版を刻み、それを忠実、かつ迅速に印刷する技術が完成した。
 古来、発展的改善が「進化」であったが、遥か後世、欧州起源ダーウィン「進化論」により「生存競争による旧種駆逐、新種繁栄」が「進化」との新解釈が登場したが、本来、「進化」は「目覚ましい進歩」である。いや、当ブログでは異界の「躓き石」に属する余談であった。

*「紹熙本」談義
 三国志で言うと、「紹凞本」とは、南宋紹凞年間に審査、校正が完了し、テキストが確定したことから命名されたのであり、公開年間は、関係無い。
 ついでながら、当時最高の人材を投入して編集し、多大な費用を投入して、重複と見られかねない改訂版を起こしたと言うことは、当時の権威者が、「紹凞本」に「紹興本」に勝る(とも劣らない)価値を認めたと言う事であり、現代出版物の絶版、改版とは、重みが違うのである。推測するに、侵攻を免れた「蜀漢」旧地成都付近の蔵書家から良質写本の提供があったと見える。

*「紹凞本」所見の由来
 以上の議論は、尾崎康氏の名著「正史宋元版の研究」(汲古書院 1989年)の潤沢・深遠な書誌学的著述を大いに参考としたが、ここで附した「紹凞本」擁護の所見は、「紹凞本」起用の背景推察共々、当ブログ筆者の私見であり、異論は、当方に帰すべきである。「尾崎康氏」は、紹凞本について、否定的とは言わないまでも、消極的な意見に留めるべく「使命」を帯びていたようであるから、歯切れが悪いのは仕方ないと見て、勝手に代弁したものである。

*「倭人」論再開
 さて、本文論義に入ると、記事の冒頭に「倭人」の二字が置かれている。
 著者である水野氏は、これは、唐代以前の「日本人」呼称であるが、自称ではなく中国人が与えたと解している。因みに、三世紀論で、「日本」は、時代錯誤と批判されるが、ここは、少し緩い見方で見過ごすことにする。
 氏の見解に対し、当方も、ほぼ同感である。古代に於いて、「日本人」の側には、漢字について十分な知識はないから、いずれの時代の、どんな由来か、知る由もないが、中国からの頂き物の可能性が高い。但し、それなりに由緒のある命名であり、性急な思い込みは後回しとしたいものである。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 7/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯傍道の「倭人」論など~私見
 別の段で、この呼称の由来について評釈されているが、当ブログ筆者は、異論と言うほどではないが、当評釈にない、別の意見である。
 「倭」は、倭女王の姿を描いたものと思う。人偏は、「人」の意味であるから、残りは、「女」、つまり、女性の頭上に、「禾」、つまり、稲穂の髪飾りが翳されている姿である。「倭人」は、そのように稲穂を髪飾りにした女王が束ねる人々であり、当然、稔りを言祝ぐ姿は、誠に尊いものと見るべきである。
 私見によれば、「倭奴」は、あるいは、諸蕃夷を改名した王莽によるものかも知れない。北方の猛々しい異民族、「匈奴」と対比して名付けたものであろう。という事で、書評に便乗して、勝手な意見を付け足している。
 後年、東夷が「倭」を嫌って「日本」と改称したというが、「女王国」を表す文字を嫌ったかと思われる。「倭」は、周代史書に残される貴称で、無理して返上したが、唐は蕃人上がりで古典にこだわらず自称を許したようである。

◯「在帯方東南」・最初の躓き石
 さて、「倭人」に続いて、後続の「在帯方東南」と五字付随句で、一応文の体を成している。つまり、私見によれば、東夷傳の走り読みで、ここまで来て「倭人伝」にぶつかった読者は、この七字で倭人の居住地を知るのである。
 もちろん、この後には、「大海之中依山島」等々が続いていて、詳しい知識を得られるが、「倭人」の概容を知れば良い読者(例えば、皇帝陛下)は、最低限の七文字だけで、取り敢えず十分と満足する可能性がある。
 つまり、この七文字は、独立して必要な情報を過不足なく伝えているが、それは偶然ではなく、史官の外夷傳編纂時の推敲のたまものである。
 朝鮮半島と西日本を包含した現代地図でわかるように、帯方郡治の想定される半島中部から見て東南は九州島であり、本州島は、九州島のすぐ東から、東北方向に延びて帯方郡東南方で収まっていない。このあたり、「倭人伝」の世界観、地理観が、端的に表現され劈頭を飾る名文と感じる。これは、あくまで個人的感想であり、いかなる効果効用をも保証するものではない。

 世にはびこる「邪馬台国」論議をまとめる書籍は、なぜか優勢とされている近畿説に「遠慮」してか、この点に触れないのである。

 いや、多数の論者の中には、この点に触れても、『大意として、そのように読めても、「現代人は、邪馬台国が近畿中部から九州北部まで支配していたことを知っている」から「倭人伝」の誤記と理解できる』と割り切っている。
 わずか七文字の解釈で、原文無視・改訂派が鎌首をもたげてくる。この手で行けば、「倭人伝」に何と書いてあっても、自説に沿って読み替えればいいから、「倭人伝」など、あってなきがごとしということである。「畿内説」、「纏向説」論者の暴論嗜好は、かくのごとく、無根拠の思い込みに支配され、史料論議の場から「外野」の荒地に踏み出しているのである。
 水野氏は、当ブログ筆者のまことに拙い指摘に遙かに先駆けて、そのような原文無視・改訂の勝手読みを否定している。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 8/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*俗論の堰き止め
 かたや、世上、いの一番に論議すべき事項をすっ飛ばして、外部資料の勝手な持ち込みで、頑迷極まる俗論が形成されたのは、かねて不満であったが、そのような俗論を堰き止めようとする水野氏の賢明な配慮が表れている。

*倭人伝事始め 「倭人在帶方東南」
・最初の躓き石(追記)
 本書の最初のそして多分最大の躓き石は、「従郡至倭」に始まる行程記事の冒頭の「郡から狗邪韓国まで」(郡狗)行路の解釈の難点にある、と言うか、見落としにあるように思う。
 氏の堅実な解釈手順にも拘わらず、「循海岸水行」が「従海岸水行」と字義の異なる別字と読み替えられ、そのために、郡狗行程は、半島「海岸」に沿った「沿海航行」とみなされ、氏は、史官がこれを「水行」と称したと早計にも断じているのは、まことに残念である。
 氏は、在野の伝記類が同一文字の反復を避けて、同義の文字の言い換えを多用する点を想起して「循」に格別の意義を見ていないが、それ以外にも、史書行程記事における「従」は、必ずしも、何かに「沿って」の意味でないことが多いのを見過ごしているのは、やはり、氏の限界かと思う。
 大原則として、正史記事では、まずは、一字一義と見るべきなのである。要するに、文字が違えば託された意味が違うのである。

 古くは周に発し、承継した秦漢代以来の官道制度に、「海岸」沿いの「沿海航行」は存在しない。敢えて、正史の一条として構想された魏志「倭人伝」が、法外の行路を官道と制定したすれば、先だって諄諄と明記して裁可を仰ぐべきであるが、そのような手順が示されていない以上、法外の行程は書かれていないと見るのが、順当な解釈である。
 氏の解釈は、日本古代史視点では順当に見えたのだろうが、中国史料解釈としては古典用例を取り違えた曲解の誹りを免れない。
 当記事は、正史「三国志」魏志に書かれている以上、帯方郡に至る官道は、雒陽から漢武帝創設の楽浪郡に至る陸上官道の展延された官道を定義するものであり、「海岸」は陸上の土地であるから、もし、帯方郡から海上に出て船で南下するのであれば「乗船」の二字を要する。

*良港幻想
 氏は、何らかの史料を根拠とされたのか、「半島西岸は、多くの大河が流入して良港が多く、沿岸航行が容易であったと見ている」が、同時代、現地の地理、交通事情を考察すると憶測と言わざるを得ない。
 そもそも、半島西岸は、大河漢江が注ぐ漢城付近を最後として、南方の馬韓地域は、小白山地が後背に聳える狭隘な地域であり、多くの大河が存在するはずはない。大河と呼べそうなのは、小白山地の東、嶺東と呼ばれる広大な地域を南下する洛東江しかない。そして、洛東江は、対馬に向かうように、半島南岸の東端に河口を開いている。
                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」 9/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2016/06/18 追記 2020/06/07 2021/07/17 2024/04/21

*加筆再掲の弁
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*大河幻想
 あるいは、先ほど示唆したように、帯方郡から山間南下した北漢江が、漢城(ソウル)東方で南漢江と合流している合流点から、南漢江を遡行する「水行」の道を採れば、これも一つの大河とみることができるかも知れない。
 一方、漢江河口部は、沖積平野、河口デルタであり、良港どころか海港は一切設けられない。海港は海岸の崖が迫り出した入江で、船舶接岸には水深が必要で、風波を避けられる海湾が必要なのである。
 また、南漢江上流は嵌入蛇行しているため遡行は不可能であり、洛東江上流との間が小白山地で遮られているため、早々に陸道に移行するのである。
 戦前、現地を精査した岡田英弘氏は、韓国鉄道中央線を参照した上で、竹嶺越えの官道に想到していたが、何故か、郡から狗邪韓国の行程として注意喚起せず、虚構の「海行」にひたったのは、残念である。

*西岸領域確認
 嶺東事情は置くとして、半島西岸の事情を言うとすれば、漢江河口部を過ぎた南部は、山地が海に張り出して、島嶼、浅瀬が多く、港湾があっても、後背地が狭隘で耕作地が乏しいので、当時、沿岸交易、市糴は希と見える。

*百濟南遷
 後世、南下した高句麗の大軍が百済王城漢城を包囲壊滅し、南方に退避した百濟王族が、南方の熊津、泗沘で再興したが、漢江付近から山東半島に至る海上経路は高句麗の手に落ち、百済は、南部諸港に逼塞し、漢江海港の奪還に挑んで、高句麗と激しく抗争したから、南部海港繁栄は、幻想と見える。熊津も泗沘も内陸であり、海港とはほど遠い。

*隋唐使来航
 後年、隋唐倭使は、青州から黄海に乗り出し半島西南岸沖を通過して九州北部に乗り入れる帆船航行路を新規開拓して竹斯到来したのを見ると、沿岸交通路は未設営であったと見える。
 以上の議論は、「正道」議論であり、「邪道」、つまり、斜めで遠回りの曲がった径(みち)の存在は否定できない。径があれば人物往来はできるが、それは官道でなく馬の通れないぬけみち「禽鹿径」である。

*「循海岸水行」確認
 氏が、以上の難点に気づいていれば、「循海岸水行」が、郡狗区間「水行」規定か、官道の注記に過ぎないか、考察したはずであるが、残念ながら、氏もまた、倭人伝の解釈でありがちな無意識の改竄を施したと見られる。

*大作の瑕瑾
 いや、いかなる史学者も、思い過ごしや勘違いは避けられない。大部の労作が、この一点で全面否定されるべきではない。全長万二千里、四十日行程の、ほんの一点に、瑕瑾があるという指摘だけである。

                                未完

私の本棚 51 水野 祐「評釈 魏志倭人伝」10/10 補充 改頁

 雄山閣 新装版 2004年11月 (初版 1987年3月)
私の見立て★★★★☆ 『「倭人伝」は「唯一無二の史料』 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯見過ごされた提言
 本稿は、後日、氏の慧眼を賞する意味で追記したものである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 女王と不和でその氏神祭祀権威を認めなかった、つまり、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見るのが、水野氏の慧眼であり、納得できる卓見である。
 水野氏は、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。一考に値する慧眼・卓見と思われる。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。
 「其南有狗奴國」から「儋耳朱崖」は、南方狗奴国の詳解と解する方が自然である。
 ただし、「自郡至女王國萬二千餘里」は、場違いで衍入である。
 「会稽東治」も「儋耳朱崖」も、狗奴国記事であるから、陳寿の女王国道里地理観と、別儀である。
 して見ると、この部分は、報告者が異なると見える。正始魏使以後、張政が、女王国と狗奴国を調停した際の取材と見える。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

 「邪馬壹国」が、伊都国の直下に隣接していると見れば、「女王国」紹介記事の気候風俗は、伊都國、邪馬壹国に共通すると見える。
 俗説のように、「邪馬壹国」が「伊都国」の遠隔地とすると、「女王国」紹介記事は、まことに不可解となる。纏向は、とても「温暖」とは言えないし、飛鳥地区は、更に、冬季寒冷である。とても「伊都国」と同一視できないのは、素人目にも、明らかなのである。

 ついでに言うと、山中にある寒冷な纏向が、会稽の東方に位置しているとか、南海の儋耳朱崖に産物が似ているとか、思いつくはずがないのである。

*本項結論
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方の温暖の地と「明記」されている。「北暖南冷」の奈良盆地とは、えらい違いである。

*未完成の弁
 以上のように、「倭人伝」道里行程記事批判の範囲止まりで頓挫している。どうも、本書に個人的書評は成立しがたいようである。前途遼遠。

 正直なところ、本書で滔々と展開された「史料批判」が、世上顧みられることなく、野に埋もれたままになっているのに呆れたこともある。
 凡そ、学術上の論議は、先行所説の批判と克服を踏まえて自説を提言することでのみ前進するものと思うのだが、古代史分野では、「黙殺」
路線が大勢を占めていて、当分野の新参、素人は、困惑しているのである。

                                以上

2024年4月21日 (日)

新・私の本棚 安本 美典「狗奴国の位置」邪馬台国の会 第411回 講演 再掲

 2023/06/18講演 付 水野祐「評釈 魏志倭人伝」狗奴国記事復原 2023/07/22 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、雒陽に所蔵されていた後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、致し方なく先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには東夷伝「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の後漢書「東夷伝」「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が、随所で後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*「魏志倭人伝」狗奴国記事復原
 念を入れると、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに、両郡の郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、「倭人伝」の狗奴国風俗記事は、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、ここに重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。主要国行程は、對海國、一大国、末羅国、伊都国、そして、「邪馬壹国」と一貫して南下しているから、ここも、「邪馬壹国」の南方であることに疑いは無いと言うべきである。
 但し、西晋亡国、東晋南遷の動乱の時代を隔てて、雒陽公文書という一級一次史料から隔絶していた笵曄が、風聞に惑わされて、その点の解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「倭人伝」と対比しうるだけの信頼性が証されないので、「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

新・私の本棚 石野 博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 1/2 三掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定  2021/04/14 2024/01/27, 04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯はじめに
 本書は、掲題の通り考古学界の泰斗である石野博信氏が主催した当分野に関する討論会の集大成であり、本稿は、就中、「1992 邪馬台国ヤマト説 考古学から見た三世紀の倭国」と題された討論会記録の批判です。好著への批判は不本意ですが、総監督石野氏への責めと理解いただきたい。

◯「銅鏡百枚から見えてくる邪馬台国」
 本記事の題材は、水野正好、石野博信、田中琢(みがく)三氏の講演と続く討論ですが、やり玉に挙げているのは、最後の田中氏の「発言」です。上げたのは、氏の設定した小見出しですが、看板にもならない、ボロボロのものです。

*「無知と不勉強」前提の提議
 不審なのは、高度な学術的な討論の場と期待されている席に、なぜ、このような無知、不勉強な輩(やから)の登壇と無法な決め付け発言が許容されたということです。石野氏に人選責任があるのでしょうか。
 発言内容をなぞると、以下の感じです。

*根拠なき史料不信説諭
 何を考えてか、いきなり、低俗な史料不信を開陳します。
 具体的な記事をサカナに論(あげつらう)のでなく、自身の狭く浅い見識に基づく所感を強弁し、果ては、「お見合いに提出される釣書が、ウソばかり」との「風聞」を取り上げて、それが、史料不信の根拠とされています。胡散臭い古代史講演で定番の、自身の実体験らしい「卑近」ネタですが、退席せずに我慢するしかありません。

 この下りは、誰に向かって講釈しているのか不審です。ある程度、古代史の史料考証に慣れていれば、氏が、専門外では一介の門外漢で、無資格と自白していると見て取れます。無様な自己紹介です。「金返せ」です。

 いい年をして、自身の狭くて浅い了見で世界を推し量るのは大した度胸ですが、実史料に言及せずに、はなから、ご自身の「無知と不勉強」を高言していると思う次第です。いわば、「史料読まず・知らず」と言う自罰発言です。

 ご自身の保身は別として、どうか、他人を巻き込まないでいただきたいものです。
 「無知と不勉強」は、自習し適切な指導を仰いで是正するものです。「病的」と言われかねない性癖ですが、「病気」ではないから「つけるクスリ」はありません。

*不似合いな前置き~動機不純な文献排除
 なぜ、そのような途方もない思い込みを言い立てるかと推察すると、要は、本題の銅鏡談義で、二千文字程度の「倭人伝」すら持論を妨げる「鉄の壁」なので、捨て身で排除しているようです。「目的のために手段を選ばない」とは「カラスの勝手」ですが、見え見えの暴言は逆効果と悟るべきです。対象非限定の史料全面否定では、「良識ある人」は、共感、支持を憚(はばか)るはずです。

 と言っても、田中氏の持論は、古代史学界で、大変分の悪いと見える「三角縁神獣鏡舶来」説ですから、苦し紛れに「倭人伝」を排除しても仕方ないのですが、本稿の発言の冒頭で度を過ごして力説しているのは、それだけ持論が崩壊していると露呈しているのです。

*「無知と不勉強」の好例~景初・正始論議の不覚
 「無知と不勉強」の好例として、ようやく「倭人伝」に言及して、景初三年に関する発言が提示されます。
 氏は、勝手に、魏帝逝去時、直ちに改元したと思い込んでいますが、景初~正始改元の経緯は、衆知自明で、景初三年元日皇帝逝去、即日新帝即位で、その年は皇帝なしの景初三年が続き、翌年元日に正始改元です。
 即日改元なら景初三年は存在しません氏は無知の強みで無頓着です。

 大抵の「倭人伝」読者には常識でも、田中琢氏の周囲では「無知」が「常識」なのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 石野 博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 2/2 三掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定  2021/04/14 2024/01/27, 04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯書紀の変格不法記事考察
 因みに、国内史料「日本書紀」神功紀補注は、景初三年記事を「明帝景初」と改竄しています。
 書紀編者は皇帝元日逝去の史実か、翌年改元の制度のいずれかを知らず、好意的に見ると、景初三年中、何ヵ月かは皇帝が存命だったから、そう呼んだとの先入観でしょうが、田中氏は、冒頭の「史料読まず・知らず」という自罰高言を裏付けるように、いずれの史料も「読めていない」不勉強を露呈しているのです。いや、はなからデタラメ満載と勝手に判定して、読もうとしないのでしょうか。
 では、記紀も読まない、以下の史書も読まないのでしょうか。一体、何を根拠に、こうした暴論を言い続けるのでしょうか。

◯石野氏弾劾発言の考察~敬意無き乱闘発言
 個人発言の後の、討論という名の意見交換で発生した大事件は、石野博信氏罵倒暴言です。
 銅鏡舶来・非舶来論議で、石野氏は、「不勉強」(勉強不足)と自認し、つまり、大人の態度で謙遜し、持論を公言するのを避けましたが、暴言氏はまるで理解していないようで、「だったら勉強しろ」と言い放ちます。子供の口喧嘩みたいです。
 まさに、この暴言は、自罰発言です。素人目にも、石野氏は、古代史の考古学分野の最高峰であり、広範、深遠な見識を備え、当然、銅鏡の由来にも定見を持っているはずですが、専門外への介入を避けたと見えるのです。(当方の銅鏡論は、定見に至っていないので、ここでは批判も何もいたしませんが、暴言は、敗勢を自覚した側から、自暴自棄隠しとして出るものです

 さらに深意を察すると、石野氏は、立場に相応しくないので、見解の明言を避けたと憶測されます。詮索を避け、「不勉強」発言をしたのは、まことに賢明です。

◯見当識喪失の発言
 単純思考の持ち主である暴言氏は、これが、「討論でなく衆知の結集を聴衆に伝える公開の場」との意義を失念し、討論論客が誰かも忘れ、大先輩に論敵面罵発言を呈したのです。正直の所、これ程の暴言が公開されたのは驚きです。
 田中氏は、「失見当識」に加え、書面発言を問わず、文章深意の理解力に欠けているようです。暴言蔓延防止のため、治癒まで蟄居謹慎をお勧めします。

*最後の暴言
 田中氏は、最後に、またもや、根拠の無い暴言を発して何とも無残です。

 曰わく、『昔はみな邪馬台国を「やまと」と読んでいた』。その証拠はどこにあるのでしょうか。氏は、史料を信じませんが、「倭人伝』にない「邪馬台国」を論じるのに、氏は何を信じているのでしょうか。奇っ怪です。まして、唯一信ずるに足る史料にない、手前味噌の国名の発音など、何の根拠もないのです。

*暴言救済
 水野正好氏が、取り繕うように蘊蓄を傾けますが、要は、『「倭人伝」に現実に書かれている「邪馬壹国」は「邪馬臺国」である』との改竄に始まって『「邪馬臺国」は「邪馬台国」と同発音』『「やまたい」でなく、「やまと」と発音した』と大変迂遠で、大飛躍連発であり、論理の鎖が繋がっているかどうかの不信は別として、これは、田中氏の持論に真っ向から挑戦するものと見えます。一向に、取り繕えていないのです。

*暴言フォローへの愚行
 水野氏の発言を理解できないのか、田中氏は、またもや『「やまと」と読んでいた』と暴言します。「つけるクスリがない」のでしょうか。
 「戦後変わったがそれ以前の昔は」と言う意図であるとしたら、「倭人伝」の時代である西暦250年頃から終戦1945年までの期間の発音の「信頼できる」記録史料はあるのでしょうか。と言うより、この暴論者は、信用できるのでしょうか。
 これでは、田中氏の銅鏡観の同調者は、氏の「無知と不勉強」に同調・加担していると見なされ、暴言者に連座して、不見識だと自罰することになるのです。

○小結尾
 田中氏の発言は、「邪馬台国」纏向派の足もとを根こそぎ掬います。主張のためには、唯一の同時代史料の「倭人伝」を「落書き」扱いするしかない、追い詰められた姿を露呈して、逆効果の自罰行為なのです。
 石野博信氏ほどの泰斗が、暴論の徒を招請したのは勿体ないと思います。そして、席上受けた罵倒を、愚直に収録したことに複雑な所感を覚えます。

                              この項 完

2024年4月20日 (土)

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 1/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光   2024/01/11, 04/20,05/24, 05/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

□はじめに
 大庭脩氏の論考は、的確な教養を有し、中国史書視点によっているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな麗筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され残念である。

□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の飯の種である「誤記説」絶滅が危惧されるので救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。

 陳寿遺稿の「三国志」原本が、西晋皇帝に上申され、皇帝蔵書として嘉納されて以来、言わば、「国宝」として最善/至高の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」な再現ではないのは当然であるが、氏は、写本継承の厳正さに触れることを避け、北宋時の刊本工程に飛び、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。

 以下2項は、大庭氏の論考に対する異議ではなく、氏の見解に触発された所見であるので、「余談」として、意識の片隅に留めて頂ければ、望外の幸甚である。

*乱世の眩惑 ~私見 余談 2024/05/30
 二千年にわたる「三国志」原本継承の怪しいのは、先ずは、南朝側から北朝側への流入であり、特に顕著なのは、南朝滅亡時の北朝への写本献上である。南朝最後の「陳」は、先行する「梁」の威勢の順当な継承でなく、まずは、半世紀に及んだ梁武帝の雄大な治世下、北朝側から侵入した侯景の建康長期包囲により、帝国の統治が瓦解した時代があり、「梁」の滅亡後、北朝の干渉により、「梁」の中核部を維持した「陳」と周辺地域を支配した「後梁」に分裂した乱世が、北朝を統一した「隋」の征服で決着したものである。陳後主が降伏時に「三国志」原本を隋皇帝に献上したかどうか不明である。何しろ北朝天子である「隋」は、建康に屯(たむろ)していた賊子を撲滅したのだから、「陳」の蔵書をいかに収納したかは、不明なのである。
 「隋」の北朝統一に前だって、北朝東方で古来の雒陽を占拠していた「北齊」は、中原天子を自負して、正史を含む古典書を集成し、後の「太平御覧」の先駆になる巨大類書を編纂したとされているから、史書集成は着々と進んだとも見える。但し、北朝の西方の「北周」は、古来の「長安」を根拠に、太古の周制の復古を目論むとともに、前世蜀漢の旧地を南朝から奪って、三国鼎立の形勢を得ていたが、西域を確保した上に「中國」の大半を支配していたので、鼎立の覇者を自負していて司馬遷「史記」、班固「漢書」、陳寿「三国志」の「三史」の確保を進めたかもしれない。
 要するに、挙国一致体制で組織的に行われた北宋刊本、南宋復刊の大事業のアラ探しをするより、暗黒時代とは言わないが、数世紀に及ぶ乱世を考慮するのが賢明である。

*笵曄「後漢書」雑考 ~私見 余談 2024/05/30
 なお、この乱世に於いて、笵曄「後漢書」が、いかにして継承されたか、滅多に論じられないので、不審である。
 笵曄は、「西晋が北方異民族の侵攻破壊で滅亡し、辛うじて、南方の建康で再興した東晋」の後継、劉宋の重臣であり、皇帝蔵書として継承した「三史」に対して、後漢代史書が不完全であるのに着目し、「三史」と並ぶ史書とすべく「後漢書」編纂に従事したものである。但し、すでに、班固「漢書」に続く「後漢書」の根拠となる雒陽公文書は散逸していたので、先行諸家後漢書を換骨奪胎して本紀、列伝部分を集成したものの、西域伝、東夷伝の集成には不備が多く、魏代に後漢代以来の記事を整えた魚豢「魏略」を起用したものとみえる。なかでも、後漢末期の桓霊帝及び三国鼎立期に入る献帝期の東夷記録、なかんずく新参の「倭条」の欠落は補填しがたかったので、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」を加工して、後漢書の担当である後漢霊帝期にずらし込んだと見える。そのように造作された笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、世上、「偽書」とされかねないと見えるが、世上「偽書」論義は見られない。
 何しろ、偽書を根拠とする後世史書、類書の「倭」記事は、自動的に虚構となり、余りに多大な、破壊的な結果をもたらすので、明言できないものと見える。
 そうした不吉な由来はともかく、史官ならぬ文筆家であり、劉宋高官であった笵曄は、劉宋内部の紛争に連坐して斬首の刑に処せられ、嫡子も連坐したので、笵曄の家は断絶したのである。つまり、笵曄「後漢書」の完成稿は遺せず、まして、重罪人の著作は、劉宋皇帝に上程されることはなかったのである。
 南北朝の南朝側で、非公式な後漢書として継承されていた状況は不明であるが、南朝皇帝蔵書として堅持された陳寿「三国志」すら、写本継承の瑕瑾を論じられるのであるから、『笵曄「後漢書」原本を確定し、なかでも、素性・由来の疑わしい東夷列伝「倭条」の画定を図るのは、多大な論考が必要』と思われるが、寡聞にして、例を見ない。

*閑話休題
 北宋代の刊本は、東晋以降の南朝が保持していた原本と各地の蔵書家の所持していた善本の集成により、北宋が唐代文物を結集した 組織的に行われた刻本であるから、「刻工無謬」であろうとなかろうと校勘稿と試し刷りを照合する「最終校正」により逐一是正されるから、刻本行程で発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。
 まして、意味不明の「ヒューマンエラー」で、善良な読者を「眩惑」して、私見を押しつけるのは「迷惑」以外の何物でもない。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態を考証する必要がある。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」全面破壊で、国書刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、最善を尽くしたとは言え、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、陳寿「三国志」南宋刊本が、第一次として「紹興本」として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度「紹熙本」を刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での再刻本と見え、尾崎氏は「紹熙本」の称揚を避けざるを得ないので、明言はしていないが、氏の筆の運びからそのように見える。示唆の深意が容易に想到できるのは、明言に等しいのである。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、在来写本は、順次在来継代写本になり、子が孫を生んで下方/市井に継承され、謬りは、順当に継承/蓄積され、しばしば増殖していく行くことは、世上常識であるから、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、「公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている」国内独自事情の秘伝「写本」継承を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾水上交通」なる現代概念を投影しているが、氏ほどの顕学にして、「水」が河川との古典用語常識から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが、せめて「海上交通」として、とにかく、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。「水」は、あくまで真水(clear water)である。塩水(salt water)かどうかは、口に含めば子供でもわかる。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要(かなめ)として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との三角形の交通』を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船であり、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、「長山串」交通は、言うに足る商材が無く、「海市」は閑散が想定される。いや、近隣のものが野菜や魚(ひもの)を売り買いするのは、自然のことであるが、隣村まで野菜、魚を売りに行くのは、商売にならないことが、太古以来知られている。

*瀬戸内海海上交通論

 例示されている瀬戸内海であるが、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通が、渡し舟同様の小船で往来可能と見えても、東西の多島海海上交通は実行困難(持続不可能)な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」(塩水湖)「瀚海」(塩水の大河)で南北に懸隔されていて軽快な渡船では渡りきれないとみえ、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

新・私の本棚 新版[古代の日本]➀古代史総論 大庭 脩 2/2 再掲

7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11, 04/20,05/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*海上の行程
 して見ると、氏が「渤海湾」行路と見ているのは、実は、「黄海二行路」であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が独占していたと見えるのである。
 後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、円仁「入唐求法巡礼行記」によれば、青州に「高句麗館」と「新羅館」が繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
 つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
 と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったである。精々、事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
 魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には、必ず並行陸路が存在するから、あてにならない、ひねもす模様見では、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。

□「倭人伝」水行の起源~余談
 かくして、陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
 つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく「海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と言う」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
 深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
 言うまでもないが、当方が二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を創案した/見通した』と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。

□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』 (1971)に於いて、当該記事を漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下、再上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、さほどの旅程がないとしても、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。おそらく、古田氏が、海辺に親しんだ「うみの子」であったために、抵抗なく取り組んだものと思われるが、「倭人伝」の読者は、大半が、海を知らない、金槌の中原人であり、帯方郡から狗邪韓国までは、整備された街道を馬上で、あるいは、馬車で日々宿場で休みながら、一路移動すれば良いのであり、安全、安心な陸路があるのに、命がけ/必死の「水行」など、ありえないのである。

 冷徹な眼で見れば、古田氏ほどの怜悧な/論理的な論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは感心しないが、在野の研究者として孤高の境地にあったことを考慮すれば、論理を先鋭化するためには無理からぬ事と思われ、また、一度、確固として論証を構築したら、後続論考で姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ、首尾一貫/頑固一徹と思われる。

*「景初遣使」談義
 続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。

 氏は、司馬懿による遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、さしたる根拠もないのに、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、原文を尊重すべき二年説を「可能性」と評価を一段押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に趣旨が不明である。つまり、史料を否定するに足るべき論証が不調であり、いわば、学術論者として醜態をさらしている。
 氏の筆致は、言葉を選んで暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
 氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より信頼性が高い」可能性を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。

◯「親魏倭王」などのもつ意味
 正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。
 同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、一行全てに余さず印綬を与えた記録がある。ただし、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
 氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。

◯中郎将、校尉
 難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。
 また、新参の際に「自称」したと明記されている「大夫」は、官制のものであり、当然、蛮夷のものには許されないのだが、蛮夷の無知を示すものとして、自称したのを鴻臚が記録しているのである。正史四年の遣使では、依然「大夫掖邪狗」とあったものが、壹與の遣使に於いて、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」と改善されているが、むしろ至当である。
 余談であるが、このように厳重な訓戒・指導を受けていながら、後年、書紀推古紀の大唐(実際は、隋)使裴世清来訪記事に於いて、「鴻臚寺掌客裴世淸等」の応対役として「掌客」を新設したと正式に記録されているのは、何とも、つまらない/重大な失態である。

*「一大率」異聞~私見
 氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が、官制に無い蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、後の事例では、「倭」を前置する是正を行ったものと見える。
 私見では、倭の蛮夷官位である「倭大夫率善中郎將」が転じて縮約され、「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。

□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
 大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は、通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。「糠に釘である」。半世紀以上経っても、一向に是正が見られないのであるから、これは、最早癒やしうる病ではないようである。
 「病でない」となると、つけるクスリが無いのである。

                                以上

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 1/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

◯始めに
 従来の記事では、初版年を見落とし/書き落としていたので補充する。
 氏は、「倭人伝」に関する論争が、さほど盛り上がっていなかった1971年に刊行し、そのために、以降の議論の紹介に欠けるのが、不満であったが、今回、執筆時点の最善の理解と見て容認していくことにした。但し、氏が、2001年の増訂時、更新していない点が多々あるのは、感心しないが、ある意味仕方ないかとも思うのである。

◯序章~暗夜の灯火
 本書の視点は、中国史料に基づく/中国史料としての公正な「倭人伝」考察であり、今日に至るも、いわゆる「倭人伝」論争は、公正な展開に欠けていると思われるのでここに顕彰するものである。

*「暗愚な考古学者」の文献曲読
 著者が本書を書くに到った動機は、ある古代史シンポジウムで、考古学関係者が「魏帝の詔に書かれている鏡百枚は多すぎる」と軽薄に論じたのに対して、『「史書」に厳格に引用されている/書かれている倭人伝の皇帝の詔すら、自説の邪魔になるなら書き替えて読むという安直な暴論に対して、異を唱えねばならない』というもの(義憤というべきか)であったそうである。

*法制史の物差し
 著者は、中国法制史、つまり、各王朝の法律とそれに従って運用された政府機構のあり方を研究するのであり、本書は、そうした専門家の目で、「魏志倭人伝」を読み解き、我々素人にも理解しやすい書物としたものである。

*不揃いな錯覚
 冒頭、「卑弥呼と諸葛孔明」と題して、卑弥呼の時代が、蜀漢宰相諸葛孔明の時代に重なると説いている。国内古代史と中国史の関係が容易に浮かんでこないことを歎いている。おっしゃるとおりと思う。ただし、特に直接、間接の関係がないのだから、一般人の意識に上らないのは、むしろ当然である。
 ところが、直ちに『同じような錯覚が「魏志倭人伝」にもある』と書き出されたのは感心しない。今書いた認識に照らして乱暴な飛躍としかとれない。

*「魏志倭人伝」はなかったか
 続いて、中国には「魏志倭人伝」という書物はない、と書かれているが、これが「錯覚」だと解すると、著者が自己否定していることになるので、おそらく、おっしゃりたいのは『「魏志倭人伝」は国内の感覚であって、中国古代史と関係が成り立っていないから、それは錯覚であると言うことだと思うが、「錯覚」を断じる論理が、混線/錯綜している上に不正確である。
 著者ほどの識見の持ち主にして、不用意な行文であり、また、不用意な断言である。どんな読者を想定しているのか、一瞬、見て取れなくなる。

*「倭人伝」知らずの「倭人伝」批判か
 大庭氏は、陳寿「三国志」現存史料のうちで、南宋時代の「紹興本」と呼ばれる版を利用しているが、もう一つの有力な「紹凞本」は、「倭人伝」と小見出しを置いて区分を示し、続いて、新たな部分として「倭人伝」記事を書いているので、魏書第三十巻の巻末にあって、事実上、「倭人伝」なる「書物」として取り扱われていると見えるのである。因みに、ここでもう一つというのは、多数あるうちの一つという意味ではない。天下に、これら二本しかないのである。一読者として大いに不満である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 2/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*なじまない「東アジア」
~私見
 続いて、著者の用語に不満なのは、多分、学会用語として通用しているものと思うのだが「東アジア」なる現代語が使用されていることである。他の古代史書でも見かけるから学会基準かも知れないが、素人目には異議が感じられる。
 「東アジア」というからには、三世紀古代の中国に「アジア」全域の地理の知識があって、そのうち、一部分を「東アジア」と呼ぶという前提だと思うのだが、何も定義されずに登場するので、大変居心地が悪い。やはり、古代史論で、意味の明確でないカタカナ語は避けたいものである。

*「アジア」と「ヨーロッパ」の原義確認
 実際、三世紀当時の東地中海、つまり、ギリシャの視点では、お膝元の地元がヨーロッパであり、エーゲ海を隔てた対岸、今日言う小アジアの地域が「アジア」だったから、中国東部と朝鮮半島を中心とした地域とは、何の関連もないのである。要は、良くある「時代錯誤」であり、丁寧に説明して使わなければ、一般人に「ウソ」を押しつけていることになると思うのである。
 ちなみに、「ユーラシア」と陸続きを強調するのは、カスピ海の北方を通過すれば、遮るもののない草原の道という意見であるが、冬季、氷原/雪原と化する地域(シベリア)があるので、魔法の絨毯とは行かないのである。

*地域包含視点
 と言うものの、氏が、当時の倭だけをとらえるのでなく、倭を中心した地域を包含した視点は、貴重である。特に、倭から西北に遼東に到る直線的な経路だけでなく、帯方/遼東郡と青州山東半島との連携を見出して、渤海を囲む環渤海圏の「地中海」的交流を描くのは、大変ありがたい。
 氏は、広大な「東アジア」と言うが、実際意義があるのは、環渤海圏+朝鮮半島、倭という、限定された世界であり、当時の人々にとっては、それが、辛うじて認識/到達可能と思う。当時の倭、韓、帯方世界が認識していない「東アジア」呼称は、現代人に幻想を及ぼすので、無用有害に思う。

 帝都史官は、東西全ての地域を西域伝、東夷伝、地理志などによって把握したかも知れないが、ここでは、東夷諸國とそれを束ねた楽浪/帯方両郡など、倭人伝編纂に関わった人々の意識を言うのである。「倭人伝」は、もともと「倭人伝」の原史料を書き留めた人々の世界観で書かれているはずである。

*「邪馬台国」の国際関係
 現代感覚で「国際」と言うが、国としての構造・権威を保っていたのは、せいぜい、後の魏・呉・蜀三国であり、遼東の公孫氏政権は、後に王と自称したものの、それはあくまで曹魏の一地方であるから、国家としての体裁を成していなかったと思われる。
  但し、曹魏の大義名分は、魏の領分は、後漢から禅譲を受けた領域全土であり、東呉、蜀漢をも包含したから、三鼎形勢など存在しなかったのである。
 一方、蜀漢は、「漢」であり、後漢の継承者であり、曹魏は謀反人勢力だった。
 東呉の正義はどこかわからないが、自立した天下と自認していて、それ故、史官を任じて、自国の正史を編纂していたのである。

*蛮夷と外国
 それ以外の蛮夷の世界で、東夷伝諸國、特に、細分化された「小国」は、大小にかかわらず、中国基準の「国」ではなく、「蛮夷」の集落であり、何より根幹的なこととして、言葉/文字に基づく「文化」を「中国」と現代語で言うと「共有」(シェア)していないから、「国際関係」はなかったと見る。
 当時、「外国」は「不属の蛮夷」という意味であるから、「外交」は、言葉の意味を外していないかも知れないが、現代語の縁で誤解を誘うので、厳に避けるべきだろう。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 3/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*「倭人伝」「國邑」の時代考証
 中国太古(殷代から周代の初期)の意識では、「国」は、原初「國」、つまり、聚落「或」を隔壁、城壁で囲った単位聚落であり、後世、広大な領域を統合した単位は、「邦」と称したが、漢高祖の本名が「劉邦」であったため、これを避けて、「國」が復活したとのことである。つまり、漢代以降の「國」は、太古の「國」、或いは「國邑」とは異なるのである。
 「倭人伝」は、冒頭で、倭人の「國」は太古の「國邑」であったと明記/宣言/定義しているので、当時の読者は、平常の「國」と読み分ける必要がある。但し、大庭氏が、こうした中国太古の言い習わしの変遷を、厳格に認識していたかどうかは、ここでは不明である。何しろ、持ち出すほどに、現代の東夷読者を困惑させる恐れがあるので、慎重に、消極的にならざるをえないのかも知れない。素人は、口出ししない方が良いのかも知れないが、ここでは、お叱りを覚悟で口に出すのである。

*漢蕃関係
 時代錯誤の「国際関係」、「外交」の妥当な置換として、「時代相応」の言葉を選ぶと「漢蕃」関係である。現代東夷読者には、「違和感」ものだろうが、ここは現代語で言う「違和」でない、本来の不調和感を醸し出して、安直な読み飛ばしを避けるのが狙いだから、ある意味、賢明なのである。自然にわかりやすく書いていてしまうと、咀嚼せずに丸呑みされてしまうので、深意がいきなり排出される可能性がある。
 「自然」に学ぶとすると、植物が、種子の媒体役として期待するのは、鳥の如き丸呑みであるが、われわれ動物は、噛み砕いて咀嚼してしまうので、折角の種子が亡んでしまう。せめて、かまずに吐き出してもらえるように、固い殻を纏わせるが、かといって、最善の策として、味覚のある動物よけに、檄辛みを付けてしまうと、播種による種族繁栄は、鳥頼りになるのである。

 閑話休題
 御不満はさておき、当家の「芸風」を我慢頂くことになるのである。
 さて、「蕃」にしても、「漢」なる中国の大帝国を、自分たちの同類と見たのは「夜郎」のようなお山の大将である。一方、いわゆる「邪馬台国」は、仲間内では、大将扱いされていたかも知れないが、「漢」を相手に背比べを挑むような意識はなかったと見るべきではないか。
 当時の世界を取材したわけではないから、臆測しかないが、二千年後世の無教養な東夷である現代人の世界観で押し通すのは無理と理解頂きたい。あちこちで見る、「屈辱」とか「対等主張」とかを見ると、どうも、誤解の方が蔓延しているように見えるのである。
 いや、大庭氏は、そのような低俗な世界観を持ち込んでいないのであるが、読者の受容力を懸念しているのである。

 「倭人伝」を後世用語で論じると、一般読者に誤解を押しつけると思う。

*「諸国」状勢
 以下、著者は、後漢末期から、三国時代の中国及び東夷の状勢を描いていて貴重である。とかく、国内古代史論者は、後漢桓帝、霊帝の治世と無造作に言うが、両帝期は、いわば、後漢朝衰亡(衰退・滅亡)期であることを理解しているかどうか不明である。霊帝没後の帝位継承時の混乱で、後漢は事実上滅亡して大乱状態になるから、時代認識の錯誤は、深刻である。

                               未完

私の本棚 大庭 脩 「親魏倭王」 三掲 4/12

 学生社 2001年9月 増訂初版 (初版 1971年)
 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著 2018/05/26 補充 2020/06/24 2022/12/13 2024/04/20
 最初に見立てを入れるのは、以下を非難と取られたら困るからである。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*遼東天子~便乗
 大帝国が衰亡、崩壊したから、当然、蛮夷管理も崩壊するのである。ただし、東夷の目から見ると、大帝国も遼東郡太守公孫氏の影法師であり実質はないに等しかったのである。むしろ、洛陽の天子でなく、遼東に天子が居たことになるのである。天子には、書記官がいて天子の制詔を発し、史官がいて、天子の行状を記録していたと見えるのである。

*失われた公孫氏史料
 公孫氏は、最後、後漢を継いだ曹魏によって、天子に対する大逆の徒として討滅され、天子紛いの治世の記録は、全て破壊されてしまったから、以上は、二千年後生の無教養な東夷の臆測に過ぎないのだが、公孫氏滅亡後に残った楽浪/帯方両郡の行動を見ると、公孫氏の東夷管理の形が偲ばれるのである。と言うことで、一読者の感慨を締めくくることにする。

*後漢「最後の皇帝」~未曾有の「禅譲」
 霊帝没後、姦雄董卓の威勢も過ぎて、十年近い混乱を経て、後漢最後の復興期となる。
 少帝であった献帝劉協が、僅かな側近と共に、「悪党どもが徘徊し荒廃した長安」から脱出し、東都洛陽方面に逃げ延びたものの、周辺に支持者はなく、孤立、逼塞していた窮状であったものを、好機と捉えた英傑曹操が自陣営に迎え、帝威で乱世統一を図ったのである。

 後漢の最後の光芒、建安年間であったが、中原世界天下統一の完成と共に、後漢皇帝(献帝)は、その役を終え魏に政権を譲ったのである。古典的な形容としては、天命が劉氏を去り曹氏に移ったのであり、献帝劉協は、曹氏の恩人にして「賓客」(この場合は、本当の意味)として生き延びたのである。

 魏に政権を譲った際、光武帝が継承、再興した漢の政権機構はそっくり移管され、漢高祖以来の厖大な公文書も引き継がれたのである。
 ここに「未曽有」と書いたのは、「殷周革命」に見られるように、それぞれの新興帝国は、先行政権を武力で打倒して取って代わったのであり、「禅譲」に近いのは、王莽の簒奪があっただけである。王莽は、いわば三日天下で継承されなかったから、なかったことにしているのである。

*長広舌
 この部分で語られる議題はそれだけではないが、根拠史料満載だし、素人に見解を押しつけるものではないので、大変参考になる。