2023年3月26日 (日)

今日の躓き石 NHKBS「球辞苑」の廃語趣味 「ナイター」乱発

                             2023/03/26

 本日の題材は、ヒット番組「球辞苑」のテーマ「デーゲーム」であるが、なぜか、みんなで無くそうとしている「ナイター」を無造作に乱発しているのが、大変耳障りであった。NHKには、よくない言葉を子供達に伝えないように、身体を張る「良心」がないのだろうか。公共放送が先頭になって、悪い言葉を蔓延させているとしたら、そんな媒体に受信料を払いたくないのである。

 確かに、「ナイター」は、世間に広く出回っている、典型的なでたらめカタカナ語であり、野球界は、先輩達が無造作に持ち込んだ悪習を、大変な努力で消滅を図っていると思うのだが、NHKは、そっぽを向いているようで、困ったものである。いや、頑張っているのは、メディアだけであり、選手は何も気づかないままであり、各球団が、ちゃんと研修していないと見えるのである。
 これでは、「名誉の殿堂」(Hall of Fame)の対極の「不名誉の殿堂」(Hall of Shame)に収まりそうである。

 ついでながら、実戦で勝ち試合の最後から二番目に出て来るピッチャーである「セットアップ」(setup)を、「セットアッパー」と噴飯ものの「でたらめカタカナ語」にしたのは、確か、いずれかのスポーツ紙だったと思うのだが、野球界の悪習は、中々断ちきれない(Die hard)、「死ななきゃ治らない」と見るのである。

 どうか、せめて、公共放送は、悪しき「伝統」、負の遺産を、忘却の彼方に押しやって欲しいものである。

 既に、「球辞苑」は、額にでかでかとに烙印を押されているのである。

以上

2023年3月17日 (金)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 更新 1/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11,17

◯始めに~個人サイト批判の弁
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」の(血なまぐさい)様相に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 同サイト管理者の攻撃手法には、拙い誤解と非難すべき反則技が多く、却って、論考の信頼性を大きく損なっているので、ほっておけないと感じたのである。また、この場で、学界のお歴々と並んで批判されるだけの価値ありとの位置付けをしているのでもある。

 さて、同サイト管理者は「古田武彦氏の説のウソ」と誹謗、中傷口調で書き出しているが、語調の「きつさ」、「えげつなさ」の割には、根拠が不明であり、また、内容が的外れである。

 周知のごとく、古田武彦氏の提唱した説は、こと古代史に限定しても、広汎、多岐であり、全体をウソと断じたものか、特定の説にウソがあるのか、論旨が不明である。物事を明解に表現しない/できないのは、論者が未熟なせいと苦笑するしかないのだろうか。今日のように、裸の王様を大勢見かけると、声をかけるのが難しいのである。
 また、書き出しに2-1と銘打って、後続続々と布石しているが、どうなったのだろうか。まさか、ネタ切れではないだろうに。

 さて、記事書き出しを見た限りでは、古田氏の一書「古代は輝いていたⅢ」で堪忍袋の緒が切れたようであるが、ここまで当方には、一切お怒りの事情が伝わらないので、お説を伺うとする。
 ということで、冒頭の切り出しであるが、どうも、不用意な取り上げ方と言わざるを得ない。

*因みに、同サイトは、2016年時点で、誤謬が露呈しているサイトと判断したので、以後、参照していない。現時点で、ここで指摘した誤謬が是正されているとしても、当方の知るところではない。

 2.古田武彦氏の説のウソ
 2-1 景初3年が正しい理由
 当記事の書き出しは、陳寿「魏志」という有名史料を根拠にしているが、資料原文が誤っているとの「思い込み」を前提としているので、文献批判の一種としても、端から、信じがたいものになっている、と申し上げておく。

*根拠とならない風評資料~「理由」にならないこじつけ (補充 2023/03/17)
 要するに、良好な資料が確実に継承されている「魏志」の「倭人伝」には、はっきりと、間違いようのない「景初二年六月」の文字が維持されているのであるから、これを「景初三年六月」の誤記と断じるのには、魏志「倭人伝」と同等以上に良好な資料を提示する必要がある、と言うか、そうでなければ、無効な異議である。
 氏は、そのような「真っ当な」手順を無視して、景初三年と書かれているわけでもない「魏志」東夷伝内の別資料を提示しているが、同記事は、「倭人伝」記事本文解釈の視点から見ると「圏外」であり、しかも、年月の明示されていない雑情報であり、端から、門前払いとなりそうなものである。とは言え、一応評価に値するとして検討するが、基本的な資格不足は、念頭に置くべきである。

 氏は、論証にあたって、原文を当たることなく筑摩書房版の翻訳文を採用しているのが、無節操で困ったものである。
 せめて、読み下し文を見ていれば、原文の趣旨が察しられるのだが、翻訳の場合は、翻訳者が理解した文意に沿って粉飾加工されるので、翻訳者の理解に誤解があれば、ほぼ必然的に誤訳になってしまう「危険」を(取れたてのふぐのように、ほぼ確実に)含んでいる、というのが、定説中の不動の定説である。
 本例で言えば、翻訳者が、高度な教養を要する読者を想定して高度な構文を呈しているのに、無教養な現代読者が、安直な誤解に陥っているのは、翻訳者の責任ではないのである。丁寧に言い直すと、漢文の「又」を日本文の「さらに」と滑らかに飜訳しているのに、「時間的に遅れた」と書いているように速断しているのは、無教養な現代読者の不勉強な浅読みであり、翻訳者には、何の責任も無いのである。

1.両郡攻略/回収
 この場合、翻訳者は、魏の遠征軍は、まず、遼東の公孫氏を滅ぼし、次いで、南下して、公孫氏の支配下にあった楽浪、帯方の両郡を攻略したとの根拠不明の先入観(思い込み)を持っていて、その先入観を書き込んでいるが、原文には、そのような粉飾表現は書かれていないと考えたように見えるが、これは、後世読者の勘違いであったことがわかった。
 原文は、「又」としているが、これは、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、単に、「それとは別に」というに過ぎない。何しろ、洛陽の史官に、遼東の大規模軍事行動と両郡の密かな活動のどっちが先でどっちが後か、厳格に確認できるわけも無いから、「ついで書き」したと見るべきではないだろうか。

 さほど入手困難と思えない原文に当たると、「誅淵」(公孫淵を誅殺した)と書いた後に「直ちに続けて」、「又潜軍浮海」(また、潜(ひそかに)に軍を海路送って)楽浪、帯方の両郡を収めたと書かれている。これを、初稿では、『「さらに」と、時間の流れを込めて書き足したのは、翻訳者のやり過ぎと見た。単なる「又」には、時間的な前後は込められていないと見るものではないかと思った。』そう感じたので、初稿は、率直に論じたことに間違いはない。以下、反省しているのは、追い追い読み取れるはずである。

*浅慮の誤釈~自己批判の弁
 因みに、つい、当方の素人考えで、浅慮を示してしまったが、自身の乏しい学識に頼らず虚心に国語辞書を熟読すれば、翻訳文の「さらに」も、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、絶妙な飜訳と理解できるのである。つまり、読者が、無教養で、自身の限られた語彙にしがみついては、翻訳者の配慮も、水泡に帰すという一例である。
 当方は、遅ればせながら、自身の浅慮に気づいたので、ここに訂正している。

 要するに、「又」の字義には、両様があって確定できないので、文献の前後関係、「文脈」から読解くのである。

*高度な読解
 もし、ことが、遼東攻略の後であれば、何も、「ひそかに」、渡海上陸し進軍する必要はないから、両郡攻略は遼東攻撃の前に行われたとみるべきではないだろうか。現に、そう判断する論者も多いのである。

 この辺り、長駆進軍している遠征軍主力による西方、と言うか、西南方からの一方的な攻撃は、大軍であっても、遼東に広く勢力を張った公孫氏の待ち受けているものであり、迅速な攻略は困難と予想できる。東方、と言うか、東南方からの分遣隊による挟撃が必須と見た司馬懿の周到な軍略が見て取れると思うのである。(付注 わかりやすいように、司馬懿に花を持たせたが、原文では、明帝が指示したとあり、正確ではない。当方の「粉飾」であった。反省するが、当記事では修正は加えないことにした)

 三国志に書かれているように、この当時、曹魏は、長江(揚子江)上流域域から関中、長安付近への蜀漢軍からの執拗な「北伐」の攻撃に耐えていたと共に、長江下流域では孫権率いる東呉孫権指揮下の大軍と対峙していて、孫権は、戦況が確実に有利とみたら、じんわりと、分厚い攻勢を取るから、遼東遠征軍は、速攻、かつ、確実に遼東を確保する必要があった。つまり短期決着の確実な挟撃作戦を採ったと見るものである。つまり、この時期、蜀漢は、宰相諸葛亮の没後で逼塞していたが、体勢を整えて再度北伐するかも知れなかったのである。
 法外と見えるほどの大軍を派遣したのも、その一環である。現地滞在が長期化すれば、食料の消耗が激しくなる上に、中国では、大規模な戦闘での敗戦責任は、将軍の一家族滅である。理由は何にしろ「絶対負けられない」のである。

 なら、ここに作戦内容を明確に書くべきではないかという抗議が聞こえそうだが、東夷伝の役目は、遠征軍が「誅淵」した一方で、両郡を皇帝直属とすることにより、東夷を直属させたと明記するのが主眼なのであり、それ以外の軍事行動は、付録に過ぎないから、この程度で良いのである。本当に、司馬懿の軍功を高々と顕彰するのであれば、明帝本紀に書くものであり、こんな閑静な場所にひっそり書くものではない。

 ちなみに、翻訳者は、両郡攻略について、原文の「収」(収めた)という平穏な表現を粉飾して「攻め取った」と強い言葉で書いている。その意識としては、健在であった遼東政権から「攻め取った」と見ているのである。これが、遼東政権が崩壊した後であれば、攻め取るのではなく、魏朝傘下に収めたとでも言いそうなものである。漢文翻訳の怖さである。

 丁寧に読み解くと、実際に起こったのは、魏朝皇帝の勅命で、公孫氏が勝手に任命していた現地の郡太守が更迭され、新任郡太守が取って代わって着任したものであり、単なる人事異動と組織変更、つまり、両郡を遼東郡から切り離して、皇帝直轄とするものであって、その際、戦闘があったとは書いていない。皇帝の命令が実施されたに過ぎない。まさしく、「密かに」である。

 翻訳者は、厖大な三国志全体の正確な飜訳に多大な労を費やし、不滅の功績を成し遂げている。「細瑾」、細かい行き違いがあったとしても、とがめ立てするべきではなく、単に訂正すれば良いだけである。特に、当事例では、読者が気づかないだけで、万全の配慮がされているのだから、謹んで、この点に関しては、拙論を取り下げたのである。

 それにしても、これほど重大な誹謗記事を公開するに先立って、氏は、原文、つまり、「魏志」の関連記事全体の趣旨を確認することなく、結果として翻訳者を責めているのは、誠に氏の不明を公然としろしめすものであり、素人目にも感心しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 更新 2/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11, 17
 2.古田武彦氏の説のウソ
     2-1 景初3年が正しい理由

2.京都(けいと)往還
 さて、魏志の飜訳を読んでも、「景初二年六月に倭国大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いてはいるが、それを受けて、即日送り出したわけでないのは自明である。
 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。
 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々にひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
(付注 「実際」は、前ページに書いたように明帝曹叡の戦略である。又、景初二年事態と決め付けたのも、当方の浅慮であった)

 新たな郡太守は、魏朝の一機関を統轄して、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要である。

 郡太守は、「王」と同格であり、絶大な権限を委ねられていて、 多額の俸給(粟)を得るとともに、郡治として城郭を構え、管内を取り仕切る郡兵を擁し、管内で徴税、徴兵などの大権を持ち、事実上、辺境に於いて、「幕府」ないしは「都督府」を開いていたのである。ただし、公孫氏が後漢の郡太守であった時代、遼東郡は、いわば、一級郡であったが、楽浪郡、帯方郡は、その配下の二級郡であり、俸給も権限も制約された「格下」であったのである。それが、明帝の指示で、一級郡に格上げされ、韓倭都督」と言うべき大きな権限を与えられたと見るのである。

 合わせて、過去、公孫氏が山東半島の「齊」を占拠した際に活躍した楽浪郡も、皇帝直轄の一級郡となり、公孫氏は、山東半島への輸送経路を喪ったのである。
 楽浪/帯方郡は、一級郡となったものの、あくまで、郡太守は皇帝の配下であり、少なくと、月次の活動報告を欠かすことはできず、業績評価自体で、一片の帝詔で更迭、馘首することができたものである。何しろ、山東半島経由とは言え、以下、洛陽との間は、騎馬の文書使が速報するから、国内の諸郡と等しい管理体制に合ったのである。

 以下、私見を述べると、遼東への速攻体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。
 それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけである。
 もちろん、司馬懿は、敗戦の責任が一身に降りかからないように、しばしば、洛陽に急使を送って、作戦行動の許可を求めていたが、皇帝に責任を転嫁するということは、敗戦の際、皇帝が非難されるのであり、公孫氏討伐の失敗が繰り返された果ての大軍派遣であるから、明帝自身、多大な責任を負っていたことになる。と言うことで、司馬懿軍の進軍と並行して、両郡回収を図ったのは、天子たる明帝曹叡の当然の大局的戦略と推定できる。

 ともあれ、皇帝の秘策であった楽浪/帯方両郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。
 そのような新体制「帯方郡」の初夏に、海・山、つまり、海峡渡海と竹嶺の難所を含む内陸街道を越えて、倭国使節が到着したわけである。

 定説では、倭国の使節派遣は、公孫氏滅亡の知らせを受けた自発的なものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めたものと見る方が、随分、随分自然である

 当然、知らせには「遅れたものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容が、うまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と言うのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、「洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる」と呼びつけたとみる方が、随分自然である。いや、事の流れを見ると、単に、郡治まで出頭せよと指示しただけで、洛陽で天子に拝賀できるなどと言っていなかったとも見える。正史の記事として書いていることが、そのまま、事実の報告とは限らないのである。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。
 恐らく、「倭人」召喚は、皇帝の意図であり、従って、迅速な通知となったはずである。

 最速で折り返したとしても、郡の通知から使節の郡治到着までには数ヵ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。倭人伝には、郡と倭の間の行程は、片道四十日程度と書かれているが、これは、文書の送達日数であるので、倭使の参上には、これより日数がかかったかもしれない。倭が筑紫との前提であれば、さほど無理のない行程と見える。

 もともと、倭使の行程は、遼東を一切経由せず、黄海を渡船で渡って、山東半島東莱に上陸し、以下、官道を急行したはずであり、一部軽薄な論者が言うように、遼東の混戦に巻き込まれることなどなかったのである。帯方郡太守が、戦地に向かって北上させ、大きく行程を迂回させるような無謀な指示を出すことはあり得ないと、一人前の研究者であれば、言われなくてもわかりそうなものである。

 受け入れ側にしても、皇帝の厳命があったとは言え、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずである。
 巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する質量、斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し「輸出梱包」したことになっているが、そんなことは、少し考えれば論外とわかるはずである。いくら、先帝の遺命と言えども、度外れた厚遇にも限度がある。

*大「銅鏡」制作の想定~余談
 なお、俗説には、途方も無いホラ話があって、倭使の洛陽来訪の度に、百枚の銅鏡が下賜されたと決め込んでいる向きがあるが、厚遇は、初回のみであり、まして、特段の厚意を示した明帝の没後、初回同等の下賜物などあり得ないのである。又、遠隔の東夷は、二十年に一度の
来貢が定則であり、倭人伝に書かれているような頻繁な往来は、正式のものではないのである。
 このあたり、「倭に数百枚の魏鏡が齎されたに違いない」という「願望」ばかり語られている例があって、困惑するのであるが、誰も、是正しないところを見ると、本件に対する「自浄機能」は存在しないようである。いや、つまらないことに字数を費やしたが、関係ない論者は、さっさと読み飛ばして頂きたいものである。

 銅鏡を新作するのであれば、魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作にかかるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずであるが、それには、数年を要するものである。何しろ、後漢末に、一度、洛陽の諸機関は、長安に移動していて、曹操が、建安年間に復興させたにしろ、まだまだ弱体であったはずである。まして、景初年間、明帝が、新宮殿造営を命じていたから、装飾の銅器を多数制作するのに、全力を費やしていたと見るべきである。
 当時の記録を確認すれば、未曽有の大銅鏡の多数(未曽有の大判鏡の百枚は、途方も無い数と見える)新作などあり得ないとすぐわかるのである。いや、これは、一部、不勉強な論者に対する非難であって、本件に関しては、余談である。

 因みに、新宮殿造営は、景初三年初頭の明帝急逝によって、撤回されていて、魏朝は新帝曹芳の下、服喪に入ったのである。
 そうした情勢下、景初倭使が、景初三年六月に帯方郡に参上したとすると、それは、先帝が熱意をこめた東夷招請の余韻に過ぎず、新来の東夷として厚遇された見込みは乏しいと思うのだが、倭人伝記事は、大量の下賜物、好意的な帝詔を含め、熱烈歓迎の姿勢なのである。また、明帝没後の招請とみても、六月到来とは、随分ゆるゆる参上したはずなのに、薄謝と見える細(ささ)やかな手土産の意義が不明なのである。

*「定説」の分別-不合理
 按ずるに、「定説」は、『魏志は、「景初二年六月」に始まる文字列に続いて「郡太守が、倭国大夫を京都(魏都洛陽)に送り届けた」と書いている』が、『それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したと書かれているから、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じる』と根拠無しに思い込んでいるが、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、「定説」のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 魏志の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である「倭大夫」の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文の解釈に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

*「又」、「さらに」の考察~翻訳者顕彰
 またまた私見を補足すると、「翻訳文」の解釈が、翻訳者の深意を外している可能性も無視できない。論者の日本語文読解力に疑念を呈する次第である。
 按ずるに、翻訳者が「又」を「高度な日本語」に「飜訳」したのに気づかず、素人考えで、つまり、現代語感覚で安易に読解した可能性を感じる。此の際の経緯を見ると、原文から翻訳文に齎された深意が理解されず、論者の思い込みが(化粧品の「コンシーラー」のように装わせ)「糊塗」されたために斯くの如き誤解が生じたと見えるのである。
 多くの支持者に識見を求められている論者は、より高い品格を求められていると思うのである。

 権威のある国語辞典「辞海」の「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、甲乙並記と解釈することができると示されていて、漢文の「又」の語義を丁寧に引き継いでいるとわかる。本件に関して、翻訳者に、非は一切なく、論者の錯誤と見える次第である。いや、「引き続き」の意を強くもっているのを否定しているのではない。だからといって、「端(はな)から決め込んではならない」という戒めである。

*忍び寄る原文改訂
 この件に限らず、後世資料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含む資料を、更に不確かさの深まった資料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。
 いや、魏志の文意を追求すると、原史料の原文が中間段階で善解されて「美しく」整形されて正史編者に伝わった様子が見える例が珍しくないのである。

*「ウソ」と非難する責任
 論者が非難する『古田氏の「ウソ」』も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを上塗りする「ウソ」になってしまうのである。
 ただし、そのような悪弊は、論者の独占事項ではなく、古代史世界に限っても、他ならぬ古田氏を始め、類例が山成すほどの普遍的なものである。論者は、暗がりの人影を大敵と断じて、激烈に攻撃しているが、人影は、ご自身の鏡像であり、攻撃は、鏡面に反射して自滅になっているのである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないというとこである。論者が、閻魔の代わりに「ウソ」と決めつけて、致命的な大罪と一方的に断罪・裁定しているから、そのような告発は冤罪ではないかと正義の裁きを訴えているのである。

 当サイトの論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。因みに、その主人公は、「公方」様であるから、斬るのでなく峰打ちなのであるが、護衛のお庭番は、ざくざく斬っていたのであるから、正義もいい加減である。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判にとどめて、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、「古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではない」と思うのである。反対者も、同断である。
 一度、早計な感情論を鎮めて、原資料の読み返しをされたらよいと思う。

 氏の令名故か、氏の論義を引用している近例があるから、後世に悪名を残さないように、是非、御再考いただきたいと思うのである。
 随分ご無沙汰の本稿に手を入れたのは、近来、参照されている通行人がいらっしゃるからである。

以上

2023年3月11日 (土)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 3/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 また、この議論は、すでに公開した古田武彦氏に関する議論より先にまとめたのだが、ここで打ち出されているのは、安本氏の論説に対して誤りと言い立てるものであるのに対して、古田武彦氏に対しては、「嘘つき」との糾弾であり、そちらの公開を先行したものである。  

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

 前回記事も含めて、この場で述べたいのは、学術的な「論争」のあり方というものである。
 世の中には、様々な個人的世界観、ものの見方の基準があって、その基準が一致していないと、正誤、適否の議論は成り立たないと言うことである。まして、対手を、罵倒、つまり、誹謗中傷するのは、到底許容されないのであるが、古代史学では、さながら冬空のオリオン星座のように「馬頭星雲」ならぬ「罵倒星雲」が邪悪な光芒を示しているので、大変、勿体ないと思うのである。

 いや、そうした議論が、論争相手(論敵)を論破して意見を改めさせることであれば、意味がある。しかし、その際に、自身の論理の当否に目を配ることなく、勢いよく主張するのが最善策ではない。大半の場合、論争とは、検証可能な主張を積み重ねて、小さな勝利を積み重ねるのが正道と思う。
 陳腐な一般論であるが、論争で、相手の立脚している論理を頑強に否定するだけであれば、それは、単なる言い争いであって、大局的に不毛であると考えている。当人にも不毛と思うのだが、それは、当人の問題なので当方は干渉しない。

*批判の対象
 ここでは、論者たるサイト管理者(論者)が、安本美典氏を論破しようとしている、その足取りと口ぶりに対して批判を加えたい
 毎度のお断りであるが、当ブログ筆者は、批判対象となる記事の内容に対して、素人の知識をもとに反論しているので、その範囲は、ここにあげた記事の範囲にとどまっている。

 さて、切り出しでは、文芸春秋氏の座談会記事に於ける安本氏の発言を引用して批判のにしたいようである。しかし、これは「原文引用」なのか、論者の要約なのか不明であり、当記事に反論するのに不便である。
 また、当の雑誌記事は、もともと、座談会録音のテープ起こしであろうが、ここから感じ取れる口調や論理性は、安本氏の論そのものとは言いがたいものがあり、 テープ起しの際の編集と感じるのであるが、確証はない。

 引用の直後に示されている数理統計学的年代論」のエッセンス」というのは、論者の意見であり、安本氏ほどの権威の言葉遣いが揺らいでいるのではない、つまり、当人の発言ではないように見えるのが気がかりである。

 安本氏も、いくら持論の発露とは言え、座談会記録を、自身の信念というか持論のエッセンス、決定版とみなして、反論できない弾劾、斬られ役に持ち出すのは、勘弁してくれよと言いたいところであろう。

*弾劾の迷走
 その直後に、サイト管理者たる論者は、「安本氏の四つの過誤」(と、便宜上呼ぶことにする)を書き立てて、従って、安本氏の主張は、「数理統計学」とは無縁であると断言している。仰々しく掲題しておきながら、安本氏の主張の誤りを論証するのではないと言う。随分、杜撰である。

 ここまでの一瞥で、古代史学で、健全な議論のお手本を探し求めている当ブログ筆者は、論者は無縁の衆生として、きびすを返しても良いところである。以下は、当人の言いたいままにほっといたらいいようなものであるから、色々意見するのは、単なる余計なお節介である。

 さて、この4項目に書かれている主張を論破するのが、論者の目的と宣言しているものなのだろうか。「被告」と「罪状」が明らかにならなければ、「陪審員」も意見を出しようがないのである。

 さらに戸惑うのだが、本論は、「安本氏の「数理歴史学」の誤り」を論証するようにと題付け(仰々しく掲題)されている のではないか。論者は、どのような視点から安本氏の「数理歴史学」と数理統計学」との有縁、無縁(非科学的な論争用語ではないか)を言い立てているのだろうか

*とんだとばっちり
 続いて、今度は、安本氏が旧著で、自身の提唱した論考のあらましが、先人である栗山周一氏の著書にすでに同趣旨の年代論が発表されていたことを知って嘆息したという記事を参照して、嘲笑に似た批判を行っている。
 しかし、安本氏の論理の誤りを追究するはずの論説で、安本氏の感慨吐露をを、他人の視点から勝手に推察して批判するというのは、論争の余談として、まことに不適切である。
 個人的な意見や感慨は、その個人の世界観を示すものであり、個人個人の世界観はその個人の自由なものであるが、広く共感を求めるために書き記すのであれば、広く通じる論理に限定すべきではないだろうか。

 ちなみに、安本氏の記事の引用の後に、「栗山氏の時代には、コンピューターはおろか、電卓もありません」と先人の知識、技能の欠落を嘲笑する文字が綴られているが、昭和初期にも、算盤はあったし、数値の四則計算に始まって、対数、三角関数表など、科学技術計算の手段は整っていたのである。
 江戸時代の算額の例を見ても、当世の素人の知り得ない高度な数学理論が生きていたのである。
 古代史分野では、直感的断定法(安楽椅子探偵)が優越し往々にして無視されるが、不確かさ含む断片的データに立脚する論理的思考法も、整っていたのである。

 「栗山氏が洞察、大局的な着眼によって見出し、着々と辿った論旨を、後生の安本氏が、コンピューターと統計学を駆使して、そうとは知らずに辿っていた」との感慨は、先人の叡知を称えると共に、そのようにして論理的に辿られた主張が、学界の大勢に正しく評価されることなく、地に埋もれていたことに対する嘆きであるように思うのである。

 未踏の秘境と思っていたら、先人の足跡が知られないままに残されていた事例は、皆無ではない。概して、謙虚な後人の姿を描くものである。
 本論部分ほど精査されていない余談部分に論者の理性の限界が現れるというのは、一種の真理のようである。

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 4/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

「(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り」
 と、なぜかひねくった言い方である。これでは、安本氏がえらそうに吹聴するのが悪い、という不作法の指摘となってしまう。この項のどこが、批判対象である安本氏の持論であるか、不明確なのである。なぜ、真っ直ぐに論理の不備を指摘しないのか、不可解である。当ブログ筆者は、安本氏と面談した経験はないが、氏は、それほど不作法なのだろうか。
 ちなみに、論者は、項目で「誤り」と糾弾していながら、本文では、「よくない」といやに軟弱になっている。怒鳴った後、猫なで声というのは、うさんくさいものがある。

 また、論者が、重大な論拠として参照するのは、誰が見ても場違いな中国諸王朝の歴代皇帝の在位年数であり、これは、いったい何だと言いたいところである。

 更に続けて、4王朝通じて、38代395年が平均10年になっているとした後、個々の王朝を見ると、平均10年になっていないと指摘をしている。それがどうしたと言いたいところである。

 更に更に続けて、従って、奈良7代70年というのは、たまたまであって、その点を「吹聴」するのは、一種「ペテン」であると非難している。
 「たまたま」であろうとなかろうと、歴史的時事であり考察の材料となるデータである。
 こうした一連の駆け足の論理が、「安本氏の提唱が誤っている」ことの論証になっていないのは明白である。

 まして、「吹聴」という、いわば当然の行為を誤りと主張したり、果ては、一種の「ペテン」である、つまり、安本氏はペテン師(嘘つき)である、と非難しても、何ら、科学的な議論に寄与しないことは明白である。

「(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り」
 今度は、比較的真っ直ぐに、安本氏の論理の誤りを問うものになっている。
 と言うものの、安本氏が「必然性」を主張したと糺しているのは、見当違いというものである。「と仮定すると」と明言されていても、引き続いて、一々の断り無しに書き連ねていると、結論が「一致している」と断定しているようにみえるものの、仮定を承けているので、実際は、「ように見えます」と付け足して読むのが、解読の常道のように思う。

 ということで、安本氏の主張は、全て、統計学的なものであり、ぼんやり読むと断定しているように見えても、すべて「確かさ」(不確かさ、すなわち誤差)の込められたものであって、「必然」を主張しているものでないのは明らかである。
 特に、統計学は、知的な裏付けのある「臆測」の学問であり、「断定」「独善」でないのは、常識ではないかと思われる。

 同時代の日本人の著述を、適格に読解できないとしたら、古代史史料の読解など覚束ないと見るのである。つまり、論者は、自分で自分の品格を落としているのである。くれぐれも、ご自愛頂きたいものである。

 論者は、ここで、知る人ぞ知る半島古代史史料「三国史記」を援用して、三国の王の平均在位年数が、「奈良時代の平均10年」を大きく超えているから、「安本氏の推計」(断定と言っていない以上、安本氏の言い分は読めているように思うのだが)が無意味であることは、議論の余地がない、と言い切っている
 しかし、大事な論証で、そんなに性急に断定して、糾弾に走るべきすべきではなく、何事も、まずは、当人と議論すべきだと考える。

 この項目について言えば、双方が依拠している史料は、それぞれ「ある程度」の信頼に耐える程度のものであり、それぞれの推論の立て方に客観的に異論がある以上、議論は必須と考える。
 「三国史記」が信頼に耐えるかどうかは、史料批判への疑問であり、それは、「日本書紀」等への史料批判を問うから、実に多大な論義が派生して収拾が付かないので、ここでは言及しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 更新 5/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 こうして四大項目の最初の二項目で論者の荒っぽい、と言うか、論者の荒れ狂った言い分の是正にくたびれてきたので、以下の項目については批判しないが、素人目にも、それぞれ「誤り」を指摘されている項目は、安本氏が、自身の採用した仮定とその展開の帰結を表明しただけではないかと思われる。
 推論の展開に使用した仮定に同意できない(気にくわない)と言って、採用手法を否定するのは、お門違いである。まして、ペテン呼ばわりは、いただけない。ご自身に、たっぷりとおつりの返ってくるものである。

 『「安本氏の議論は独善、従って、一顧だにすべきではない」と言いたい』のであれば、自身は、それに、自家製の手前味噌の独善で対抗するのでなく、筋の通った、客観的な論理を貫くべきだと考える。
 特に、「独善」、つまり「孤説」であることをもって、その節の当否を判断するのであれば、世の論客は、論者自身はもちろん、当ブログ筆者を含めて、全員ゴミ箱直行である。「一顧だにすべきではない」と断定しているが、論者のご提案の趣旨は、貴重な意見であるが、その正鵠については、深く読解した上で広く確認する自由を持ちたいものである。また一つの独善とまでは言わないとしても、

 例えば、締めの部分で、『たとえ古代天皇の平均在位年数が10年であったとしても、特定の天皇から35代前の年代を推定することは意味をなさないのです。   この事実を無視した安本氏の年代論は、邪馬台国ファンを惑わす、「似非数理統計学的年代論」と弾ぜざるをえません。』と痛打を加えようとしているように見える。
 しかし、素人目にも、統計学的手法によって、既知の年代のデータをその範囲外に適用する「外挿法」による推定は、元々、法外に不確かなものである。公の場で提唱されるのは、有効であると自信のある場合だけであろうから、大抵の場合は、推定不発、それも、極めつけの大外れになるものである事は、自明であろう。

 しかし、元々、古代史にまつわる諸説は、おおむね不確かであるとしても、一部に何らかの確かさを含んでいるから、はなから否定することはできないものである。そういうものである。

 それでなくても不確かさを含む推定を、遠く時代を遡って、推定の対象となる天皇に至るまでの遡及代数が増えれば、推定に含まれる不確かさが急速に増大するのは、一般論という名の常識的な推定である。ただし、一般論は、それ自体、ある程度の不確かさを含むものであり、絶対普遍の必然ではない。
 都合の良いときだけ、当てにならない一般論を振りかざして、「安本氏の年代論」の全体を否定するのは、無理(物事の道理に反する)というものである。

 結論として、当論考は、安本氏の主張、ないしは採用手法を誤りとする命題を掲げながら、それを論証するものでなく、単なる持論の披瀝にとどまっていると考える。それなら、自滅に近い誹謗は、止めて行いた方が賢明というものである。

 論者には、性急な断定を誇るのではなく、自制を促したいと思う。
 安本氏の年代論を専門的に精査した上で、「似非数理統計学的年代論」と異端視するのであれば、論者の言う正統派の「数理統計学的年代論」を披瀝いただきたい
ものである。

 一介の素人である読者としては、学術的な議論、討論を、言葉や論理を駆使する公開格闘技試合になぞらえるなら、反則技の多発する格闘は、趣味ではないので、ご勘弁いただきたいのである格闘技ファンなら、場外乱闘や反則技も楽しめるかも知れないが、観客は、そうした感性の持ち主ばかりではないのである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、安本氏の言い立てる年代論に全面的に賛成しているものではない。
 いや、安本氏が編集した雑誌「邪馬台国」の掲載記事や安本氏が主催するサイト記事に対して、不満、不安を感じることが、しばしばあるが、あくまで、個別の記事の誤りや論理の部分的なほころびを指摘するだけである。
 一方、不確かさを含む資料を利用して極力不確かさの露呈しない推定を組み立てる論説の進め方には、基本的に賛成している。

 世の中には、自身の気に入らない主張を打ち出している論考は、論考の結論に反対するだけでなく、論証仮定に採用された技法まで、丸ごと否定する向きもあるようだが、それは、「ファン」としての感情論であって、科学的な思考ではない

 ちなみに、論者のサイトには、色々、古代史分野に於ける糾弾記事が多数掲示されている。費やされた労力と時間、そして、それを支える使命感に対しては、賛嘆を惜しまないが、掲示されている記事が、悉く、数回の記事を費やして批判したような、思い込みで書かれた、論拠の不確かな、無用に攻撃、断罪する記事でないかと推定される。折角の労作が、ただの「猫またぎ」になりかねないのである。

 となると、そうした記事を解読しようとするのは、時間と労力の無駄なので、以下、科学的議論とは「無縁の衆生」として「一顧だにしない」事になる。いや、ネットの世界には、サイトの記事の「味見」をしただけで、余りの独善さと棘の多さに辟易したサイトも多々あるので、別に、ここにあげたサイトだけ別待遇というわけではない。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』小松左京批判 更新 6/6

                          2016/08/18 補充 2022/12/14 2023/03/11
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

***引用開始****
第一部 邪馬台国ファンを惑わす誤り
 2.古田武彦氏の説の誤り
  2-2 古田氏によるミスリード 

角川文庫に収められた、古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』のカバーには、「古代史論争の盲点をつく快著」と題する、作家小松左京氏の推薦文が載っています。

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初に強くすすめてくれたのは、
文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。
―― 一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、
推理の手つづきの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説を
はばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。
何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。
初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、
今も鮮やかにおぼえている。

こういうのを、絶賛というのでしょうが、小松氏は、まんまとごまかされたのです。
***引用終わり***

 いや、説得しても聞き入れてもらえない状態で、言い足すのも何なのだが、やはり、人の道として見過ごしに出来ないので、付け足すものである。所詮、個人の意見は多種多様、言論の自由、表現の自由もあるので、当方の意見を聞き入れよと言うつもりはないが、率直な批判をさせて頂くのである。
 言うまでもないが、当方にこの件に対する反論をコメントで寄せられても、対応、公開は、保証しないことを申し上げておく。

 当ブログ筆者が、何か言わずに言われなかったのは、古田氏著書に小松左京氏の推薦文が入っていたことについて、小松左京氏の見識を誹謗するサイト記事になっていたからである。誹謗中傷は、学術的議論に於いて、排除されるべきであると考えるのである。

 それでなくても、一般論として、自分の理解を超えた意見について、十分理解することなしに、嘘つきとか詐欺師とか、度を超えて誹謗・罵倒するのは、好ましくないのは自明と思うが、「小松氏」が「古田氏」の著書に大して個人的な感想を述べているのに、第三者が「小松氏は、まんまとごまかされた」などというのは、誰が考えても行きすぎと思う。

 小松氏は、サイト管理人と古田氏の「私闘」に直接関係のない局外者である。推薦したとは言え、「腰巻き」をネタに個人攻撃されてはたまるまい。また、故人となって久しいので、当人には反論も出来ないのである。

 当方の知る限り、小松左京氏は、博識で万事に豊かな見識を持っていて、他人の所説に対して上っ面の感触だけでのめり込む人ではなかった。知人であっても、社交辞令に美辞麗句を連ねる人ではなく、著書に不満の点があれば、相手の逆鱗に触れるのを怖れず率直に批判する人であったと思う。不審であれば、小松左京氏の著作を熟読してほしいものである。

 古田武彦氏の「邪馬一国の道標 」(ミネルヴァ書房 2016年1月復刊版)の巻末に両氏の対談が収録されているので、それぞれの見識を確認されたらどうだろう。小松左京氏と古田武彦氏は、それこそ長年の同志であり、互いに相手の内面を知り抜いている間柄だったのである。聞きかじりでどうこう言っていたのではないのである。

 当ブログ筆者は、知識、見識、向上心の全ての面で、二人の域には大分というか到底というか及ばない。二人とも故人となっても、後進のものに到底追いつけない先駆者と思うのだが、もちろん、その意見を押しつける意図で言っているのではない。一度、自分の意見が妥当なものかどうか、よく考えて欲しいと言うだけである。

 ついでのついでだが、小松氏共々、だまされたことになっている「文化人類学者の梅棹忠夫先生」は、未知、ないしはそれに近い、往々にして未開の人間社会に入り込んで、大量の現場情報を採取し、それに基づいて、当該社会の「文化」を読取り、絵解きする学問分野の大家であり、生のデータから「事実」を読み取るかたであった。古代史学の先入観を押しつける姿勢と対極の人であった。

 我々一般人はともかく、梅棹、小松の両氏ほどの知的な巨人達ををだますのは、とてもとてもできないことだと思うが、そう思わないと言われたら何も言い足すことはない。付ける薬がないのである。

 思うに、この部分を削除してもサイト記事の威容を損なうものではないので、削除した方が良いのではないか。
 いや、当方如き素人が、あれこれ指図することはできないのだが、

以上

*誤字訂正など     2018/01/09

2023年2月26日 (日)

新・私の本棚 番外 makoto kodama 『「ToYourDay?」さんへの反論終了』

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「ToYourDay?」さんへの反論終了 2023-02-25 17:32:23      初回 2023/02/25 23:57

◯引用とコメントのみ
どうやら、「ToYourDay」さんはもう歴史の話はしないようですね。
まあ、私的に考えた結果、「ToYourDay」さんは古代史論に関しては、邪馬台国論も『記・紀』に関する日本の古代史論も、私にまったく太刀打ちできないと判断したらしく、以降私に対する誹謗中傷のみに方針を変更したと思われます。

*当方の記事が読解できないと泣き言を言っていたのに、今度は、当方に関係ない発言で恐れ入ります。とは言え、ご壮健と拝察して何よりです。
『私的』、つまり、個人的、ときにはプライベートな日常雑感を、公(パブリック)の場に投稿するのが、ウェブログ、「ブログ」ですから、わかりきったことを説明戴かなくても結構です。

*「記紀」史料は原本が存在せず、原本を読んだものは生存していないので、貴兄も論義しようが無いだろうと配慮したのですが、当方は、いずれにしろ、無学、不勉強の素人であり、この場で論義できないと思う次第です。「倭人伝」は、紹熙本、紹興本などで、ほぼ確定しているのですが、「記紀」の「原本」は、どんな形で確定しているのでしょうか。「記紀」は、どんな日本語で書かれていて、読みやすいのですか、議論が分かれているのですか。そんなことを、詮索したくないから、論議の対象を仕切っているのです。分かりませんか。

*「邪馬臺国」については、貴兄に何の知識も無く、また、新たなに知識を身につけようと質問することもないのでは、本質的に、学問を学ぼうとする向上心も無いようなので、何を言っても受け付けないという態度ですから、一切論じるつもりはありません。

*当方のブログのポリシーは、中國史料である「倭人伝」論に、ほぼ専念です。知らなかったのですか?やっと悟って降参したのですか?「無条件降伏か」などとは言いません。質問ではないので、回答も要りません。


私には「ToYourDay?」さんの誹謗中傷に反応する義理もなく、歴史の話もしないようだから、馬鹿馬鹿しくなりましたので、勝手に討論を終了させていただきます。

*また、勝手に当方のブログ署名を改竄していますが、礼儀を守るのが、義理では無いでしょうか。相手を名指しすらできないようでは、誰のことを言ってるのか、分からないのですよ。もっとも、当方は「義理と人情を秤に掛けりゃ」、人情が重いと信じるものです。

つきましては、私のブログもかなり汚れてしまったので、今迄貴殿と討論した部分のブログは全て削除させていただきました。

*貴兄のブログは貴兄が誰にも命令されず、自分の意志で書いたのでしょうから、自分で書いて汚したと思おうが、ばらまいた火の粉のおつりと気づこうが、部外者である当方の知ったことではありません。鯱張ったご報告の必要などありません。わざわざ、謝罪していただく必要はありませんので、この手のご通告は、全て謝絶します。


但し、私は古田武彦説が間違っていることを確信しておりますので、古田説批判は引き続き続けていきたいと思います。

*当方は、貴方の確信について論義していませんのです。今回もそうですが、一切批判対象をハッキリさせないで、やみくもに攻撃しているのが、「うさん臭い」と指摘しているだけですが、このたびは、貴兄から説明の無いままで、「もうお別れですか」? いや回答して欲しいのではありませんよ。


勿論、貴殿による古田説批判ブログの削除命令に従うつもりは一切ありません。


*当方は、貴兄のブログに対して何の権限(Power)もないので、何の「命令」もしていないことは明らかです。一度厳しいことを言ったのは、不注意から第三者のブログを誹謗していて、ご注意申し上げても、一向に是正して頂けないので「是非に及ばず」強く指摘したのです。経過は、貴方が廃棄しても、残さず当方側に記録されています。ご心配なく。
*その件は、「第三者を巻き込むと、貴兄に予想外の影響が出ると懸念される」ので、きつく聞こえるようにメリハリを付けて言っただけで、いたわられていることが理解いただけないのは、想定内ですが、逆恨みに恐れ入りました。
*念には念を入れると、貴兄に対して、今後とも、命令することはありません。「命令には権限と責任が伴います」が、当方には無縁です。ご勘弁ください。その程度の分別も付かないで、良くおもてを歩けるものかと、感心したとしておきます。

*古田氏ネタのいちびりについては、当方には、古田武彦氏には、何の義理もないのですが、貴兄が、執拗に、見当違いに、やみくもに、当て外れで、勝手に、当てつけているので、誰にでも「冗談」と分かる形で、手厳しく揶揄させて頂いただけです。まさか、当てこすりが的を射ていたのではないでしょうね。いたわられても理解いただけないのは、予想通りですが、逆恨みに恐れ入りました。今回は、非難の矛先が来ていないのですが、言い忘れていて大丈夫ですか? いや回答して欲しいのではありませんよ。
 

*貴兄の発言が「言いがかり」であったことを証するために、当方のブログは、逃げ隠れせずに維持管理しますので、証拠隠滅しても無駄です。
*無教養な当方は、夏目居士の故事にならい、耳を「石で漱ぐ」だけです。

                                                  頓首

◯当ブログ読者の方に

 以上の通り、予告されていた『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』は継続されず、過去ログも、廃棄されたので、残念ながら、本件の応酬はここまでです。何やら、以上のように一方的な非難を頂いていますが、論争のならいで、最後の捨て台詞を相手に言わしておく訳にはいかないので、このように当方の総括を述べました。
 それ以上は、何もお知らせすることはありません。
                                以上

2023年2月25日 (土)

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 1/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

◯今回は挨拶抜きです。 無礼を陳謝
 私のブログに対する長々とした批評、誠にありがとうございました。
 しかし、貴殿のブログを読ませて頂いた私が、何も心に残るものが無かった理由は、貴殿の話には何も新鮮な驚きが無かったことの証拠でしょう。

*どの記事に対する批評か、やじうまの方のために、ご面倒でも明記して頂けると幸いです。因みに、貴兄の「不感症」、「無感動症」、「朴念仁」を癒やす力は、持ち合わせていません。陳謝。

*もう一回だけ言いますが、当方は、貴兄の理解力がどの程度か知らないので、講評はしません。また、どのようにして、そのような放言を言いまくるのかも、知ったことではありません。
*いずれにしても、どんな顔で、他人に訓示を垂れているのか、いや、サイトでお顔を曝せと言っているのではないのです。

 とりあえず、貴殿の『魏志倭人伝』読解は間違いだらけと思われ、私の説に反しているばかりか、過去の多くの研究者の意見とも異なっており、貴殿にしか通用しない奇妙奇天烈な読解ばかりなのですが、御自覚為されておられるでしょうか?
*何を求めてそのようにおっしゃっているのか、知りたくもないので、千八百件あるブログ記事のどこまで読んでいただいたのか不明ですが、無意味な放言は大抵にした方がいいと言うだけです。色々おっしゃっても、根拠のない夢想の相手をしている時間は無いのです。

 多分、それらは全て、貴殿が古田説を無理に成り立たせる為に、偏向した読解をしているからであり、真実とはかけ離れた話なのですよ。

*未だに、貴兄が吊るし上げる「古田説」がどんなものか示されていないのでは、いくら頑張っても、貴兄の指摘の相手ができません。未だに、目に見える根拠を提示していないと気づいてないのでしょうか。


例えば、
> 漢文は、古典的な中国語であるから、字が違えば意味が違うのが鉄則です。
⇒ 私はこんな鉄則は聞いたことがありませんね。勝手に鉄則を決めないでください。

*聞いたことが無いのは、「無知」の自白です。これは、常識、自明です。常識を持ち合わせていないことを、堂々と高言するのは、理解できません。相手が理解できないことをあえて言い張るには、それなりの覚悟必要ですが、持ち合わせが少ないので、おわけすることは、とてもできかねませんので、ご容赦ください。

 多くの論者にとって、對海国が対馬国であるのは当たり前です。
 又、一大国は一支国の筆写間違いとされています。
 このように細かな文字の違いは漢文でもよくあることです。

*貴兄の名誉のために、不明瞭な発言では、いくら計算/計測/思量しても、何のことか理解できないと申し上げておきます。
*部分訂正のついでに言うと、「多くの論者にとって 」は、普通「。」までの局地的(local)な形容と読み取るものなののですが、貴兄の書き癖では、次の「又」によって受け継がれているとも見えます。但し、文末が、「とされています」ので、箍が外れています。それでは、高度な議論の役に立ちません。

 貴殿は對海と対馬、一大と一支も違う意味だと言い張るのですね。

*そうですよ。やっと理解できましたか。倭人伝解釈の初歩の初歩ですよ。次はようやく「初歩」に格上げです。
*ついでに言い足すと、「對海と対馬」、「一大と一支」の訛伝の理由が、同一のものか、別々のものか、当方には、よくわからないので、当方の主張として批判しないでください。

 また、私が「くだらん」と切り捨てたのは、「邪馬壹国」説のことですから、誤解無きようお願いします。私は邪馬壹国は耶馬臺国の筆写間違いだと以前から言っているのですよ。

*貴兄の誤解癖/気質/泥沼はよくわかっていますから、恥をさらさないように話題を外しているのです。目下の議論は行程道里記事の解釈ですから、半島陸行という「正論」と海上街道という「邪論」の論義と思ったのです。
*個人の情緒、情愛、気分に任せて乱暴に切り捨てるのは、ひたすら無法です。

*ご存知ないかも知れませんが、中國古典の「地理」論で、「邪」とは、東方方向に進むことを言うのです。別にも後世人の正しい、間違っているとは、直結していないのです。ここも、丁寧に、丁寧に、丁寧に話しています。

                                未完

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 2/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

 つまり、この件を殊更に問題化したのは、古田氏とその信奉者だけなのです。

*へえ~、そうでしたか知らなかったとでも返すのでしょうか。何が殊更か分かりませんが、稚拙な「論拠」で反論し論義を泥沼にしたのは、反対派ですが、ことは、解釈できるかできないかという「問題」(question)なのです。

> 「『記・紀』は大部分が正しいことが記されている」とは当世には随分希で、多分新説なのでしょうが、これほど雑駁な提言を支持する方は、「ほとんど」いないのではないですか。
⇒ このような決めつけた話を言い張る貴殿は、津田左右吉史学にどっぷりと浸っているようですね。

*言い出しっぺがごまかしていては見苦しいところです。失言は失言です。当家の風呂場を盗撮しているとは知りませんでしたが、今回は、告発はしません。
*ちなみに、「津田左右吉説」はあっても、「津田左右吉史学」などないというのが、世評では無いのでしょうか。貴兄が、格別のご執着を示されている古田氏は、貴兄の愛好されている津田説に、随分批判的でした。どちらに組みするか、それが「問題」です。

 つまり、貴殿は自分の考えが多数派だから正しいと言っているのでしょうが、多数派が必ずしも正しいわけではありません。

*多数派に格別の意味は無いというのは、当方が言い続けている意見です。この堂々たる「パクリ」、無断盗用は、恥で無いのですかと言っておきます。要するに、貴兄の一本調子の論義に皮肉を投げかけたのです。


 例えば、津田史学では第10代崇神天皇以降が実在人物であり、それ以前の天皇は架空だと見做していますが、この件に関してはどうお考えですか?
 私は神武天皇以降の天皇が、全て実在したと考えていますから、上記のような話を持ち出すわけですよ。
 実際、邪馬台国畿内説派は倭迹迹日百襲姫命を実在人物としており、しかも卑弥呼だと言うのですが、その父親である孝霊天皇は架空の天皇としているのです。つまり、父親のいない人物が実在する。このことについてはどうお考えですか?

*本件の対象外、論外ですから、お付き合いしかねます。因みに、「上記」とは何のことですか。「処女受胎」説、いや、どうでもいいのですが。

> それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。
⇒ また、御自分の空想(妄想)を正しいと決めつけていますね。
*正しいと思わなければ高言しません。貴兄は自身の虚言癖から他人も同様と決め込んでいるようですが、虚言癖で生き続けるのは困難なのですよ。

 まあ、そう考えるのが論者の常ですが、それでは具体的に測量は何時の時代に行われたのでしょうか?
*既に説明済みですから蒸し直しはしません。各千里の海上行程については、測量してないと明言しています。お得意の「スルー」ですか。いや、今回は、誤変換しなかったのでお許し頂きたい。「空砲」の意味はご承知ですか。

 もし、答えられないなら、里程はこの時の帯方郡使の報告でいいですね?

*相手の全否定を読み取れないで、仮定質問では、「ご勝手に」です。貴兄の手口を真似ると、無料だから、ブログ記事を全部読め、と言うところです。


> 折角、丁寧に、丁寧に説いたのですが、「分からない」と「ズル」されたようです。

                                未完

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』 3/3

邪馬台国探訪 『「ToYourDay」氏の批評に反論(其の一)』2023-02-24 07:00:39 2023/02/25 1:21

⇒ 「分からない」ことを「ズル」と決めつけるのもかなり失礼ですね。

*よく振り返って頂いたら、多分おわかりになるでしょうが、「ズル」と書いたのは、貴兄が「スルー」と書いたのを、また誤入力かと思って試してみただけです。ほかでは、「切り捨てる」などと「自褒め」されていますが、ここでは触れません。

*正直言って、都合の悪いことを見事に読み飛ばしているのは、当然とは言え、絶妙芸です。「普通の言葉なら曲解されない」と言いたかったとも言えます。それを猿まねされたら、お怒りなのでしょうか。
*誤解の訂正は、貴方に見習って割愛するので、適宜読み替えてください。「スルー」は、貴兄の発案ですから自業自得でしょう。それにしても、「丁寧に」を二回は、「スルー」「スルー」でしょうか。「サラサラ」「サラサラ」でしょうか。

 貴殿の文は、例え丁寧に書いても、他人には殆ど理解できない下手くそな文です。

*貴兄は「他人」が、「客観的な第三者」という「芋」、いや「意味」と理解してないようです。また、貴兄に「下手くそ」と褒められても、気味悪いだけで、特に意味は無いのです。
*「丁寧に書いても」と書換挑発されたら、もっと「丁寧」に書くとお考えでしょうか。読解力がないと高言しておいて、こっそり媚びを売るとは、不思議な感性の持ち主です。それにつけても、「著書を買って読め」と強圧的な「営業」は自省されたようです。

 これでも私はかなり(勘)も交えて、読解困難な貴殿の作文を頑張って読んだのだから、その辺りも考慮に入れ、「ズル」と、一瞬で切り捨てるのはお止め願います。

*「これでも」かと目を剥いて、割り「勘」を提案されても、当方にはお手元が見えないので、「どれ」のことか「理解」はできません。伝わったのは、貴兄が、史学論者として、一人前の読解力に欠け、向上心も瓦解していることの辞任、いや自認、自白して、悲しくて、悲しくて、やるせなくなって、泣きを入れたというだけです。
*因みに、史学分野の学術論義に存在しない「スルー」の意味を理解しようと苦労したのですが、当方所持の辞典のどこにも明解はありませんでした。それで、「ズル」の誤変換という仮説を提示したものです。分かるかな。
*史論で、圏外の言葉を、語彙が異なって意志が通じないと分かっている相手に、無造作に投げつけるのは、みっともない手口です。体面でないので、問い返せないのですよ。せめて、自問自答されたらどうですか。誰も聞いていないところでですが。
*要するに、今回も本音が真っ直ぐに聞けなかったのです。まあ、古代史学会は、学会の態が無くて、ライ麦畑で投げっぱなし、言いっぱなしで聞くこと無し、「耳日曜」が大勢ですから、当方が、頑固でも、大勢順応の表れということなのでしょう。

◯まとめ~余談だまり
 相変わらず、根拠の無い臆測「反論」でやんぬるかな。
 多数派論義で分かるように、氏は、自分が、多数派こそ正義とつい今し方まで力説していたのを忘れて放言していて、誠に困ったものです。これでは、論義が進みません。誰と何の話をしているのか、認知が飛んだのでしょうか。大丈夫ですか。航海、後悔、いや公開する前に、「ちゃんと」黙読して読み返していますか。

 それにしても、持病の「古田説」礼賛は、今回も根性が入っていて、何か年代物の感情の縺れを思わせます。大丈夫ですか。

 以下、しょうもない鬱憤晴らしの冗談なので、聞き流し、「ズル」していただければ、むしろ幸いです。
 ひょっとして、当方が慌てて古田氏の全著作を買い付けると期待したのでしょうか。回りくどい「サクラ」、「ステルスマーケティング」で、ブログ主がどれほどの「利」をえるのか分かりませんが、自分の書庫に無い「古田説」の新説発掘を、赤の他人に押しつけるのは、動機不純と見えます。
 何しろ、某wikiサイトの家主に、当方は「百害あって一利なし」、つまり、「営業妨害は大迷惑で、おまえがいると大損する」と泣き出されたので、ついついその方向に目が行くのです。
 よそごとで、傍迷惑でしょうが、論争に私利私欲を交えていると「邪推」されると随分損をするのですよ。

 慌てて補足すると、自著の営業は当然中の当然ですから次元が違うのです。
 他人を動かすには、誠意あるのみです。
                               以上

2023年2月23日 (木)

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「ToYourDay」さんへの返信(その三)

 邪馬台国探訪 「ToYourDay」さんへの返信(その三)  2023-02-21 05:25:38  初稿 2023/02/23

◯突然のご意見で戸惑いますが、今回の出典は、魏志東夷伝韓伝です。
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,
「以下略」
あれれ~!
原文深意を無視し、自説に都合よく解釈してるのは貴殿の方ではないですか?

*本件は、貴兄の先だっての「韓国乱」論義で引用時に、解釈を怠って「無視」したのを、当方が原文復元して、合理的と信じる「解釈」を提示したものであり、従って、この場では、この部分に関する貴兄の解釈は、一切示されていないのです。つまり、当方が提示した「解釈」には、貴兄の「お手本」がないのであり、ご指摘は場違い/唐突です。と「回答」しました。という是正は置くとして、ご不審は解消したのでしょうか?(質問には、回答ください)当方の回答が出し遅れていて、2023/02/24に部分的に追記したので、後日の回答で「大丈夫」です。

> 景初中、恐らく初頭に魏明帝は、公孫氏遼東郡配下となっていた両郡に新任太守を送り込んで、直轄郡とする「人事」を行ったのであり奪取などではないのです。
⇒ 何で公孫氏支配の両郡に魏が勝手に太守を送り込むのが、奪取でないのですか?しかも、この文は、二郡を定むと書いてあります。定むとは楽浪・帯方二郡を支配下に置く=公孫淵から奪取することですよ。
 明帝は公孫氏支配の楽浪・帯方の二郡を司馬懿の公孫淵総攻撃に先立って奪取し、太守だけではなく、兵も駐屯させたのです。更には荊州刺史毌丘倹に命じ、高句麗や烏桓を味方につけています。これを以て、明帝の魏は公孫淵包囲網を完成させたのです。公孫淵はこの時点で既に、滅亡は避けられない運命に陥っていたのです。

*ここまでは、当方の論旨を取り入れたカンペを読み上げていて、大筋に文句はありません。なぜ、些細な勘違いにこだわるのか、誠に困ったものです。

 勿論この策は、司馬懿仲達が考えたものであり、明帝は司馬懿の懸案に従って、命令を発していたのでしょう。

*説明不足と言われると随分情けないのですが、もともと、帯方郡は、明帝の臣下であり、単に遼東郡太守の配下から外して、皇帝直轄に格上げとしただけです。単なる人事異動を、「勝手」、「奪取」は、的外れで滑稽です。秦漢以来の郡制を知らずに、何が、「もち」の「ろん」なのか、不思議です。なぜ無理するのか、不可解です。
*これを、司馬懿の懸案(献策?)と解するのは、貴兄の酔余の思いつきに過ぎず、よく言って勘違いでしょう。
*「本当に」司馬懿の功績なら、韓伝に「明帝の指示により」と書くのでなく、明帝紀に「司馬宣王」の功を滔々と書くでしょう。世間では、陳寿は、司馬懿以下の司馬氏に媚びていたと、勝手に思い込んでいる人がいますが、この記事の扱いに、そのような深意は、一切見て取れないのです。貴兄の読解力の限界を示唆するのは、不届きでしょうか。そうは思わないので、子供に言うように念押しする義務を感じたのです。
 それは、もちろん、高度な史料解釈であり、「訳」(わけか?)などではないのです。いわば、大人の解釈です。小人に分かるかな。
*当方は、相手の知識、経験の不足を攻撃するのは、不本意なので、本件の追求はここまでです。

 以上、貴殿の場合は何か書き込む毎に、貴殿が敬愛する古田説を無理に成り立たせる為に、間違った訳をしていることを露呈し、ぼろを出してるだけのようですね。
 もうこれ以上、噓をつくのは、そろそろお止めになられたら如何ですか?
 なにしろ、古田説自体が間違っており、成り立ちようのない駄目説なので、いくら庇っても、庇いきれるものではありません。

*相変わらず、自信がなくなると「古田大明神」の裾にすがって泣き出すのは、大人の態度では無いでしょう。ここに来て、言葉がだぶついて、目が泳いでいます。ネタ切れですか。
*今回、貴兄に求められたのは、『両郡回収が司馬懿の献策という「思いつき」の論証』であり、説明に窮して逃げ出して悪態を吐くのは誠に困ったものです。せいぜい、見解の相違で済むのに、場に粗相するのは困ったものです。
*せめて「古田説」なる「妖怪」の内容を明示すべきではありませんか。それとも、古田師の著書全部を買い付け、自力で、捜索せよというのでしょうか。困ったものです。
*当方は、間違いがあってもウソはつかないので、貴兄の言は、見事な罵倒、誣告です。(褒めているのではないことを念押しします)何でもないことに動揺し、取り乱して、天下、そして後世に恥をさらさないように、ご自愛ください。当ブログの方針に縛られているので、醜態とは言いませんが。
                                以上

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」 1/5

  帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

◯始めに 2023/02/23
 氏は、なぜか、ブログ名を誤記し続けているので、これでは、「第三者に迷惑がかかる」とだけして再確認しておきます。
 と言うものの、忽然と訂正されて、後追いで訂正していますが、見落としがあったら、ごめんなさい。

*本文
 今後は、論義の場なので、二人称を「貴兄」としています。
 折角、コメントを頂いた「ToYourDay」さんには、出来るだけ返信しようと思うのですが、
「ToYourDay」さんの書き込みの大部分は私への誹謗中傷であり、そんなものに私が答える必要はサラサラないので、罵倒は流石にスルーさせていただきました。
 そして、一応学術的要素が少しは見られる部分だけお答え致しましょう。

*どこが「誹謗中傷」なのか「ズル」引用発言で分かるのでしょうか。
*一般読者の理解のために、「誹謗中傷」発言(告発か?)を字数分析いただけると、「大部分」と激昂される意味が明確になるので幸いです。
*それにしても、(血液?)「サラサラ」とは、老骨にはうらやましい限りです。いや、(血液?) ネバネバとしたら、大事件です。

> 「隋書」と言うからには「俀国伝」のことでしょうが、同伝に「倭人」は登場しません。
*隋書全体を読めというご指示には従えないので「伝名」確認しただけです。

⇒ 「俀国伝」に「倭人」が登場しないとはどういう意味でしょうか?
*論旨明瞭として提示した拙文を読み返していただければ幸いです。

 もしかして倭人と俀國、或いは俀人とは別物だと仰られるのですか?
*仮定の質問にはお答えできません、と言いたいところです。この発言を、形式的な質問と誤解したら、また叱られそうなので、首をすくめておきます。
 俀国も倭国も同じものです。「ToYourDay」さんは細かなところばかり拘るので、大局を見失い、何の発見もないのです。
*わかりきっていますが、大局は細部に立脚するので、まずは細部から議論を始めるのです。「大局」は、貴兄の信奉教義で不可侵なのも関係しています。
*「着眼大局着手小局」は、味わうべき先賢の至言です。当方は、新発見を目指しているのではなく、原文原解釈の復元を進めているのです。ご指摘は、誤解とは言え「名誉」です。と言うものの細かなことに「ばかり」固着できていたとしたら、さらなる「名誉」です。
*因みに「倭人伝」に「俀国」と同水準で「倭国」と書かれていないのです。そして、隋書に「俀人」はないのです。ちょっとむつかしいのですが、意味が分かりますか。漢文は、古典的な中国語であるから、字が違えば意味が違うのが鉄則です。一方、緩やか、ゆるゆるな日本語の漢字は、融通が効いて大違いなのです。違いが分かりますか。
*いや、以上の書き分けは、大抵の日本の論者は、大して気にせずに読み過ごしているので、気づかなくても、別に恥ではないのです。
*史官である陳寿は、三世紀当時と古来との用語輻輳を避ける工夫を凝らしているので、当時の「読者」のつもりで明解して頂きたいものです。

 例えば、邪馬台国が邪馬壹国だとしてもたいした問題ではありません。
 こんなくだらんことに必死で拘る処も教祖様の古田氏ゆずりですね。
*これは、既に先賢諸兄姉の一部で説かれている革命的な卓見ですが、ぜひ、貴兄も、このような閑散地での発言とせず、堂々と発言頂きたいものです。多分、「くだらん」と切り捨てられた「邪馬台国」派の皆さんから、非難が殺到するでしょうが、当方の知ったことではありません。

*因みに、言うことがなくなったあせりからではないでしょうが、名物の「教祖様」とは、貴兄の個人崇拝趣味丸出しで応答に困ります。

*よく読み返して頂ければ分かるように、当方は、特定の説(?)にこだわらず、初心の目で原文改竄の風潮に異議を唱える「イロハのイ」です。分かりますか。本当に、分かりますか。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」 2/5

  帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

> 古田武彦氏は、俗に「九州王朝説」とされる一説を提示していて、
 要するに、隋書の「俀国」は、「倭人」の後裔だとしました。
つまり、卑弥呼~壹与の系統が、「倭の五王」を越えて続いていたと見たものです。

⇒ 卑弥呼~壹与(天照大神)の系統が「倭の五王」を越えて続いていたと見るのは、『記・紀』も同様です。

*折角、貴兄の斬新な解釈ですが、卑弥呼も壹与も「倭の五王」も、古事記、書紀に不在なのは周知です。

 逆にそうではないとする説を立てると、『記・紀』に逆らうことになります。
 私は、天照大神の系譜が現在迄続いてはおらず、天皇家には何度も断絶があると考えているので、『記・紀』に逆らっています。
 断絶の一つが、仲哀天皇と神功皇后及び応神天皇の間です。
 なにしろ、神功皇后と応神天皇は武内宿禰の力を借り、仲哀天皇の血族を全て滅ぼしているので、この系譜は元々連続性がまったくなかった処を、『記・紀』が神功を仲哀天皇の皇后とすることで、無理に天皇の系譜を保たさせたと考えられます。
 私は応神天皇を実際は新羅からの渡来人、即ち融通王=弓月君であり、元々が秦氏の王だったものと考えています。つまり、日本は本来秦氏政権です。
https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12453726689.html タイトル不明
*何やら、当面の論義外の字数を費やしていますが、無関係の冗語は「ズル」します。くわばらくわばら。

 ところで古田氏の「九州王朝説」は大和王朝とは別に、九州には倭の五王の王朝があったとする説ではなかったですかね?

*やっと、現世に回帰されたようで、同慶の至りです。
 当方は、議論の手がかりに、周知と思われる「一説」に言及しているだけで、貴兄の所信を踏みつけないように、遠回りしているのです。

 つまり、応神や仁徳及び履中、反正天皇などは倭の五王ではないのです。しかし私は応神は最初九州に王朝を作りましたが、途中から河内に東遷したと考えています。
 つまり、『記・紀』は大部分が正しいことが記されているのであり、古田氏の如く、「倭の五王」は応神や仁徳及び履中、反正ではないとする飛躍しまくった説を騙るのは、あまりにも想像力が豊か過ぎると云うものです。

*「『記・紀』は大部分が正しいことが記されている」とは、当世には随分希で、多分新説なのでしょうが、これほど雑駁な提言を支持する方は、「ほとんど」いないのではないですか。まず、「古事記、日本書紀一体」論は、世人から見捨てられているのではないですか。
*「まくった」「想像力が豊か過ぎる」とは、誰の「尻」に追従するのでしょうか。大丈夫ですか。
*いずれにしろ、貴兄の自己宣伝は、貴兄サイトでは仕方ないとします。
*ともあれ、無関係な雑談で貴重な行数を空費しましたねと指摘します。手元の貴著を開く気が無くなっています。

> それに比べれば、正始魏使が延々と、道里を測量したとの空想譚は罪がない方です。
誰が考えても、狗邪韓国から末羅国までは、測量のしようがないし、
奴国、不弥国、投馬國は、魏使が立ち寄っていないので、
結局、道里が分かるのは、帯方郡から狗邪韓国までの街道であり、
それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。

*折角、丁寧に、丁寧に説いたのですが、「分からない」と「ズル」されたようです。
*因みに、空砲は大変高度な国際儀礼です。念のため。

                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」 3/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*批判を続ける
⇒ どうやら貴殿は古代人の能力を過小評価するのは、かなり妄想力が豊かな方のようですね。

*追従頂いても、文法が乱れている上に、用語が、少なからず意味不明なので喜べません。「能力」、「妄想力」って何ですか。普通の日本語で無いと、お相手に、と言うか、世間に、伝わらない可能性が高いのですよ。
*当方の提言の大局を理解できないのに、いきなり些細な点を「過小評価」と断定されていますが、根拠無しの主張はするなと天の声に叱られそうです。

 でも古田説信者には、そのような論者が多いのですよ。何故なら、そう考えないと古田説が成り立たなくなるからです。
*「古田説」なる「妖怪」を偏愛されて、潜入捜査でもしているのか。確固たる統計数値管理を確保されているようですが、「妖怪」/「亡霊」の実体は何ですか。貴兄は、格別の熱意で、古田氏の、確か30冊近い著書を読破されてのご意見でしょうが、一般読者にそれを見習えとは、あんまりです。

 狗邪韓国から末魯国迄の測量ができないとは、海の上の測量は出来ないと言っているのでしょうが、当時の海人族は、測量の為の様々な技術を持っていたはずです。
*「当時の海人族」は、引用符無しの不意打ちで、貴兄の独創の独自用語のようですが、当方は、にわかに、具体的に認識できないので「様々な技術」とどんぶり勘定されても、何のことやら分かりません。「根拠無しの主張はするな」と、叱られそうです。
*大相撲の技ならともかく、「はず」の決め技は感心しません。要するに、そのような技術は、実在しなかったと半ば自認して、損しています。

 なにしろ、実際に『魏志倭人伝』には里程が記されていますからね。
*何が「実際」なのか。先に挙げた趣旨説明が「無理解」でしょうか。自分好みの情報だけ取り出すのは、貴兄が、「密かに」私淑されている古田氏の手口と、丸見えですよ。

https://www.yachting.com/ja-jp/news/how-to-judge-distance-at-sea タイトル不明

*突然、水平線の向こうから担ぎ出されているのは、yachting°comマガジンに掲載された「海上での距離の測り方」なる記事のURLだけの引用のようです(然るべく特定されていないので、確認困難)が、このような形で貴兄の「実際に…里程が記されています…」発言の責任を押しつけられて、記事筆者はご迷惑と思います。いや、多分ご存知ないのでしょう。何の相談も無し(注記無しなので、そのように思われる)に、引き合いに出されて、責任を問われるのは、だれが考えても、不本意でしょう。

 同サイトには、特に権利関係の掲示はありませんが、と言うことは、同サイトの記事は著作権が有効な「著作物」であり貴兄が引用を「ズル」(「スルー?」)したのは無理からぬところですが、このように、第三者の曲解を誘う示唆は、同記事の利用として、「かなり好ましくない」ものと思います。因みに、当方は適法に引用しています。

当記事は、あくまで、海図、羅針盤をはじめとする現代科学機器を備えた練達の船乗りのご意見であり、同一状況での「天の声」として、なぜそれが三世紀の状況に適用できると考えられたか、素人は、理解に苦しみます。三世紀に、海図、羅針盤,六分儀などは一切無かったし、 メートル法/SI単位は無かったし、海里も無かったし、そもそも、当時の里の長さが問われているのに、この「立証」記事は、誠に不可解です。
因みに、三世紀当時、高精度の羅針盤どころか、磁石も無かったのです。
因みに、貴兄が頑として根拠とされるなら、ご自身で記事筆者に、趣旨確認頂きたいものです。本件の論義は、それまで脇に置きます。

[引用開始]
 私たちの目は、対象物との距離によって、次のように見分けることができます。
400mまで:衣服の細部、見慣れた人など  [中略]
2,000mまで:中型の孤立した樹木
4,000〜5,000mまで:道路や家屋など
ただし、これは船から陸地が見えている場合、たとえば島と島の間を航行する場合などに限られる。しかし、外洋では距離の測定はより複雑で、常に誤差が生じる。その精度は、航海士の経験に比例する。例えば、経験上、ボートから1海里離れた物体は、視界の良いところでは手の届く範囲に見えるが、視界の悪いところではもっと遠くに見える。
[引用終わり]

 記事を熟読しても、とても、とても、貴兄が当然とされている「測量」にほど遠い、あやふやな目測でしかないのです。いや、「倭人伝」は、陳寿の適切な配慮により、無用な端た里数を記載せず、千里単位のどんぶり勘定なので、このような命がけの精緻な目測は、「はなからいらない」のです。
 ついでに言うと、当時は、遠方から視認できる「道路」、「橋梁」はなく、遠目で見て取れる背の高い建築物も無かったのです。どんな手段で、千里の果ての地形を精測できたのか、ご教授頂きたいものです。(誰か、言葉の通じる人が、回答してください。「スルー」は、ご勘弁ください)
 こうした理不尽な主張は、「倭人伝」原文に、「縁」がない風聞として、早々に引き取って頂きたいものです。


                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」 4/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

*海上での対象物との「距離」の、大変大雑把な、但し、実務に差し支えない程度の認識方法として示唆頂いていますが、あくまで、ヨット航海の話であり、これは「測量」とは、全く別のものです。三世紀時点の公式道里測量方法として時代考証技法として有効かどうか、再確認いただくことをお勧めします。
*例えば、対馬から韓国釜山付近までの「距離」は、5,000㍍を随分超えているように見え、水平線効果や霞による認識の困難性が、随分あるかとも思われますが、三世紀に於いて、そのような状況での「測量」を証するのは貴兄の義務なので、当方は手を出しません。お大事に。

これを出来ないと決めつけるのは、単に貴殿が思考停止に陥っているだけでしょう。
*ご心配頂いていますが、取り敢えずまだ脳死には陥っていないので、救急車に無駄な出動を促すような発言は、控えて欲しいものです。因みに、貴兄から「貴殿」と呼ばれるのは、独自用語の罵倒なのかと、不安になります。
*因みに、当方の言っているのは、合理的な判断として、魏志が、重要任務の途上で、高度に困難な海上道里(?)測量したとは、とてもとても思えないと言っているのです。
 これは、当時の諸資料に総合的に基づく判断なので、異議があれば、第三者に迷惑をかけないように、具体的に有効な証拠を提示して欲しいものです。
倭人伝の三度の渡海行程は、一律千里であり、これが、「測量」されたものでないことは、むしろ「通念」と思うのですが、なぜ、そうでは無いと思うのでしょうか。「測量」したと決め付けておいて、中国古代の「普通里」(四五〇㍍程度と想定)と測量値が整合しないとしているのか、誠に不可解です。

但し、海上の距離計測は歩数を数える陸上に比べどうしても、誤差が多くなります。
*六倍近い齟齬は、「誤差」などと呼べないのは、学術的に明らかです。

だから、『魏志倭人伝』は陸上の里程の方が、海上の里程よりも長くなっているのです。
*とれとれの新説のようですから、早速論証してください。

> ついでながら、魏晋と交渉のあった「倭人」は、国名、王名、王城の位置、戸数、道里を公孫氏を介して魏朝に報告することによって、中国王朝の臣下と認められ、魏明帝から「親魏倭王」印綬を受け取っていたので、最早、所在不明の夷人ではなかったのです。
⇒ 倭人は夷人です。

*文意を取りこぼして当方が「アホで間抜けと言いたい」ように読めますが、まずは、当方の意見は「最早、所在不明の夷人ではなかった」と、丸ごと理解いただきたいものです。それが、初歩の初歩です。古代史学の幼稚園です。

 貴殿は古田説が成り立つように最早、所在不明の夷人ではなかった偏向した考えばかりされるので、そのような珍説に陥るのでしょうが、「倭人伝」が「東夷伝」の中に記されていることからも、倭人が夷人であることなどは当たり前の話です。

*「当たり前の話」で理解度を確認したので、早速報復されていますが、ここだけは、読めているようです。
                                未完

新・私の本棚 番外 makoto kodama 「帯方郡から邪馬台国への道程」 5/5

 帯方郡から邪馬台国への道程 当初『古代史の散歩道』について NEW!2023-02-22 16:38:47

独自で新奇の説と評価頂いて光栄です。理解できない主張を批判する心境は、気の毒としか言いようがありません。それにしても、困ったときの定番「古田説」頼みは、忠誠宣言としても、珍妙なものです。貴兄の住まうこの古井戸の中での意見では、何の役にも立たない「お追従」と見えますから、失礼させて頂きます。

 ところで、「倭人が公孫氏を介して、魏朝に報告した」とは何事ですか?
 そんな大間違いの読み方をしているのは貴殿だけですよ。
*「貴殿だけ」とは、二人きりの場でと言う事でしょうか。随分屈折した言い方ですが、大丈夫ですか。
*当方の「仮説」の当否は、貴兄一人に決めて頂く者ではないのです。
*公孫氏は、後漢建安年間から魏景初年間あたりの漢魏制郡太守であり、所管地域の夷人を仕切る義務があったので、取り次ぐも取り次がないも、公孫氏の権限内だったのです。貴兄が、何を元に判断されているのか不明、不可解です。貴兄の知己が、何を知っていて何を知らないか不明なので、論義できません。

 貴殿の解釈は古田説を成り立たせようとするバイアスが掛かっているから、そんな妙な訳を思いつくわけですよ。

*当方は技術者上がりなので、「バイアス」は大変な褒め言葉です。
貴兄が広く信者を募っているのであれば、何が言いたいのか意味が通じない可能性が高い、生煮えの独自カタカナ語で無く、「普通の日本語」で語ることをお勧めします。と言いつつ、絶「妙」との賛辞は感謝します。

 倭国は長い間公孫氏に邪魔されて、後漢や魏との交易が出来なかったのです。
「長い間」とは、いつからいつまで、何年間を称しているのでしょうか。数値化していただかないと理解も同意もできないお願いするのは、別に「罵倒」にはあたらないと思いますが、貴兄の辞書は不可解なので断定はしません。

*当たり前のことを言うのも辛いのですが、中原王朝が、仲介抜きで蛮夷と「交易」とは、何とも名状しがたいものです。大丈夫ですか。
倭人伝を含む東夷伝は、遼東公孫氏が討伐に値したとの趣旨で書かれているので、正確な理解には、十分注意する必要があるように思量します。
*当方の提案では、「公孫氏は、倭人の存在と素性は報告済み」と見たものです。でないと、明帝指揮下の新太守の進言で倭使を招聘しても、洛陽から上洛許可が出るのが早過ぎないでしょうか。もしもし、分かりますか。

 ところが景初二年(AD238)魏が楽浪・帯方二郡を奪取して倭国との道を開くと、この時を待ち構えていた卑弥呼は、大急ぎで魏に貢献使を送りました。だから貢献物が生口十人と僅かな布だけと云うしょぼいものになってしまったのです。
貴兄は、倭使の貢献ならぬ手土産を「しょぼい」と速断しますが、その場にいなかったのに、後世東夷の私見の押し付けは如何なものかと思量します。倭人は、ぶっ殺された公孫氏への献上並に豪勢なものを意図したはずです。

 「奪取して」「待ち構え」とか、話を盛り上げるのは感心しないものです。

◯総評
 同氏が、当方が念入りに書き込んだ論説の文字を読み解けないのは、大分分かってきたので、最後のお願いとして、以上の反論を上程するものです。
 当方の掲載した記事は、かくのごとく全文記録され、長期保存するので、読者各位におかれては、氏の発言が当方の助言への応答として妥当かどうか、個別に検討いただければ、幸いです。匙投げカウントダウン状態です。
                                以上

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 1/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

◯始めに
 本書の書評は、既に掲示していますが、不徹底と文句が付いたので、再度取り組みました。先行書評は見ずに、一から書き起こしているので、重複はご容赦ください。
 因みに、本稿は書評を手がかりとした随想録であるので、自ずと新規性については、限界があるとご了解いただきたい。もちろん、高い基準で批評されるのは、評者の勝手ですが、一度、洗面台で、鏡に見入ってから、大声を出して欲しいものです。

 と言うことで、当然のことを明言しますが、ここでは鳥越氏の中文史料解釈、主として/専ら/ほとんど、魏志「倭人伝評」を述べます。当方は、鳥越氏の「三国志」評について云々する知識はないので、言及範囲が限定されていることをお詫びします。但し、限定された範囲、掘り下げを承知の上で、ここに公開した素人書評をご批判頂ければ幸いです。

*総評
 氏は、従前に無い史料解釈を述べているとしていますが、氏が、魏晋代「学者」で無い以上、何らかの資料文献に従って解釈し、日本語に書き改めたものと見ますが、氏は、根拠資料を明らかにせず、よって頭から減点です。
 因みに、当方の知る限り、国書刊行会の労作を含め、先人の数編の労作があるから、獨断と見られる書き方は避けた方がいいようです。氏は、未踏の地に足を踏み入れたわけでは無いから謙虚であって欲しいものです。

*序奏~余談 「卑称」について
 卑弥呼は、東夷にあっては至高の存在でしたが、海北蛮夷に対して、あえて「卑称」したと見え、後世人は見習いたいものです。

*水行談義
 「水行」は、三世紀当時に先だって、中国圏に展開されていた水陸交通網、つまり、諸処に規定の間隔で宿駅、関所が設営され、行程道里と所要日数が規定されていた結構/体制であり、「倭人伝」は、そのような体制が、少なくとも、半島内に施行されていたと述べています。半島は、とうの昔から、「法と秩序」に守られた文明世界だったのです。

 本来の意義に従うと、「水行」は、「水」の「道」、「河川に従って形成された道」を言います。この点、当時の常識は「自明」故に述べず、東夷に於いて「常識」に従わない事例を述べたと見るのが史書筆法として最も普通です。

 この点、世上、中国古典書の筆法を知らないために、はなから誤解しているのは困ったものですが、みんな知らないから誰も指摘しないようです。それにしても、「聞いたことが無い」、「分からない」と高言するのは、自虐的な発言と見えるのですが、自覚されていないようです。

*「植民地」の虚妄~借り物の世界観
 いや、そもそもそれ以前の氏の解釈は「異様」です。楽浪郡を「植民地」と解しますが、当時「植民地」など別世界の時代錯誤で実在しないのは自明ですが、意味不明のカタカナ語同様、サクラ咲いて蔓延っています。

*帯方「郡」創設~双葉の時代
 また、伝統ある楽浪郡の南部帯方縣を郡に格上げして、半島中部以南の「荒れ地」、つまり、天地の果て、万里の彼方を管轄させたのです。それまでは、郡で無く、単なる「縣」で、城壁石垣も脆弱で兵も乏しく、薄給だったはずです。そして、昇格し郡治となっても所在地は移動していないと見えます。

 と言うことで、魏晋制の本格的な郡で無く、いわば、遼東郡傘下の二級郡だったようです。特に帯方郡は、極めつきの貧乏郡で、城壁も郡兵も舞台の書き割りの可能性があります。要は、万事遼東郡に報告しご機嫌取りしていたのです。いや、それにしても、景初の回復までのことですが、それまで「郡」と言えば、「遼東郡」しか無かったのであり、まがい物の両郡は、まがい物であって、郡の手先、走狗しか無かったのです。
 遼東郡公孫氏は、最盛期には、遼東半島から山東半島に渡海、進出し、戦国齊の北部に相当する「大国」になっていたのです。但し、過大評価は、禁物です。曹操の台頭で後漢中央が復興して、公孫氏の遼東郡太守の分を越えた黄海海南占拠を叱り飛ばすと、公孫氏は、曹操の軍事力、特に、騎馬軍団を多用した速攻の鋭さは、よく知っていたので、さっさと遼東本領に回復したのです。曹操は、法と秩序を重んじるので、遼東の地で郡太守の領分を守っている限り、取り敢えずは安泰とみたのでしょうか。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 2/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

*帯方郡比定談義
 氏は、帯方郡を「漢城」(ソウル)と解していますが、当時、漢江河口部は、広大な流域から流下した厖大な川水のために、氾濫の絶えない扇状地であり、郡治を新設して石垣城郭造成などはしなかったと見えます。いや、現代では、南漢江上游は、大容量貯水池によって治水されていますが、地域の峡谷は、蛇行する漢江が穿入蛇行の絶景を呈していますから、往時の暴れ川の様相が偲ばれます。
 半島中部西岸と山東半島東莱との往来は、漢城付近から、漢江河口部を越えて、さらに南下した、後世の唐津(タンジン)海港あたりの入り江と見受けられます。帯方郡は、この要所に高位の管理者を常駐したと見えます。また、恐らく、防衛のため、韓国に散在していたような山城を設けていたはずです。
 諸般資料から、ゆるりと推定されますが、「そうではない」と排他的に主張するなら、臆測や感情論で無く、確証を示して頂ければ幸いです。

 常識的には、帯方郡治は、黄海岸を結構離れた高台の陸地で、楽浪郡とは、街道で緊密に連携したのではないでしょうか。要するに、地理的には、北漢江上游(上流域)に近かったと推定しているものです。一路南下するには、北漢江利用が簡便ですから、東に移動して、河流に委ねるものと思われ、逆方向も、さほどの苛酷な遡行では無いので、北漢江行程は、閉口脛陸道とともに、安定していたものと見えます。
 これは、あくまで、個人的な意見であり、くれぐれも、読者の意見を排除する意図はありません。以下同文。

*曇った「事実」
 因みに、先だって、氏は、前漢代朝貢の「事実」は無かった根拠無しにおっしゃいますが、氏の語彙で、「事実」は「史実」、史書など公文書に記述された記録のようです。一般的な「事実」と主張されるなら、「無かった」とする史料を提示頂きたいものです。「倭人伝」は、「漢時」と「今」だけで具体的年代は不明です。いや、念のために言うと、中国史で「漢」は、大抵の場合、高祖劉邦から、最後の献帝まで、一続きの帝国なのです。正史で言うと、班固「漢書」と笵曄「後漢書」を一続きとみて、「司漢」、つまり、司馬遷「史記」と「両漢史」の二大史書と捉えることもあるくらいです。覿面に、「三国志」の存在価値は僅少化し、かくして、魏志「倭人伝」は、「海中一墨滴」と言われるのです。くれぐれも、「一墨滴」と「海水」が、対等などと言わないことです。

 と言うことで、氏は、中国古代史料に通じていないために、多年に亘りアジア各国の文化人類学的調査を重ねた鳥越氏にとって、「中國」は、眠れる獅子というものの、歯の抜けた老妄の獅子と速断したようですが、不明瞭な記事を元に、そのように断罪、断定するのは、いかにも軽率ではないでしょうか。率爾ながら、ご意見します。

*深追いの弁
 いや、この件に限らず、氏が、不慣れな分野について、不見識のままに、誤解交じりの記事を書いたことは、特に立証を要しません(諸賢にしたら、承知の筈です)が、世間には、当方が、いわば、武士の情けでお茶を濁した点まで論証せよという輩がいて、氏の名誉にならない点まで、書かざるを得なくなりました。

*批判の対象
 当たり前のことを繰り返すと、当方は、一回の初学の素人としてかねてから敬服している氏の広遠な学識と該博な著作全体を云々しているのではなく、ひたすら、氏の本分と思えない「倭人伝」解釈に限って見ると、氏の慧眼が曇ってみえると指摘しただけで、氏に対する尊崇は変わっていません。一墨滴で、氏の全学識を否定するなど、無謀の極みで、当方の最も嫌う独善です。その程度は、取り立てて言わなくても、理解できる読者を相手にしているつもりだったのですが、案外でした。

 また、本稿は、鳥越氏ご自身に問い掛けた態であり、横合いから、無教養な野次馬に介入を求めたものではありません。後世人が無批判に本書を承継しているので問題提起し、単に、少々是正頂きたいと表明しただけです。
 因みに、当方自称は「卑称」で、頭を下げたのを踏みつけるのは無礼です。

*率直な意見
 氏の見過ごしは、根本的には、「倭人伝」、ひいては道里記事解釈の出発点の誤解にあるものと見えます。当記事は、あくまで、漢魏代に遼東郡を介して洛陽に知られた「倭人」の身上の一部であり、俗に「帯方郡を魏の出先」と言い切ると、当記事は、郡から倭への行程を予告/報告したのであり、正始とそれ以降の魏使の道中記ではありません。あまりたびたびは言いませんから、読み飛ばさずに、注目ください。

 誤解を前提に間違った理路から発したら、先に進むほど正解と乖離して、引っ込みが付かなくなるものであり、本来、出発地点で。熟慮を重ねて前途を見定めるべきです。ご自愛頂きたい。

笵曄「後漢書」倭伝~司馬彪「続漢紀」郡国志
 率直なところ、先行した陳寿「三国志」東夷伝を先取りしたいという、笵曄の思惑につられて、逆順紹介の不具合を呈しているのは、一読して不都合です。後世読者も、魏志東夷伝倭条(と呼ぶ人も多い)は、後漢書東夷列伝倭伝の冗長な二番煎じとみて、ろくろく顧みなかったと見えるのです。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 3/10

中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

*楽浪郡幻想~笵曄の華麗な創作
2.氏は、楽浪郡の「檄」に無頓着ですが、漢武帝時に楽浪郡を創設した時点の長安から洛陽を経た公式道里、「樂浪郡、雒陽東北三千二百六十里」が記録され、郡治移動に関係なく維持されたから、楽浪郡治は、倭道里基準とはなれません。そのため、樂浪郡南方の帯方縣治を「檄」としたと見えます。よって倭の万二千里、狗邪韓国の七千里は、魏志を引き写したのです。

*喪われた帯方郡創設記事
 後漢末各郡地理を記録した司馬彪「続漢書」郡国志に、帯方郡は書かれていません。帯方郡創設は、後漢献帝建安年間で、本来、所管官庁に報告され、同郡国志に記載されるはずが欠落していますから、唐代に、同郡国志を収容した笵曄「後漢書」倭道里記事の出典は不明です。もともと、笵曄の東夷列伝「倭伝」情報源は不明ですから、笵曄の創作かと懸念されます。
 要するに、南朝劉宋代に、後漢書東夷列伝/倭伝に利用できる公文書は、魏志倭人伝以外に無かったと見えます。鳥越氏の本意は不明です。
8.「倭奴国奉貢朝賀」記事は、光武帝本紀引き写しですが、当然、「倭奴国」なる蕃王が洛陽に参上したと見るべきで、「倭」の一構成国である「奴国」が朝賀することはあり得ないと見えますが、氏は、漢制の厳格さを知らないと見えます。東夷列伝「倭国」は、「倭奴国」の略称とみるのが合理的です。

 同時代史書 袁宏「後漢紀」によれば、同様に「(中元)二年春正月…丁丑,倭奴國王遣使奉獻」ですが、笵曄「後漢書」東夷伝独自部は、欠けています。
 なお、氏は、「倭の奴国」が、倭国の極南界と解していますが、よりによって、最南端の国が代表し遣使したとは不可解です。まして、其の国が、半島南端五千里の彼方の狗邪韓国を併合とは、氏の勘違いでしょう。
 それほど抜群の強国なら、周辺諸国をも統一支配したと見えますが、それなら、「大倭王」「邪馬臺国」とは、何なのでしょうか。
 世上周知のはずの「春秋左氏伝」によれば、「臺」は、最下級の身分であって、手ひどい蔑称ですから、陳寿のような正式の史官は避けるでしょう。
 総じて、辻褄の合わない急普請と見え、氏のために惜しむものです。

陳寿「三国志」 魏志倭人伝 アットランダム
1.國邑は、国郡のことと暢気ですが、中国古代では、「国」も「郡」も、九州島を楽楽収容できる巨大領域です。
 氏の認識では、到底、戸数千戸台の倭人の「国邑」、つまり太古周代の様相を適確に理解できるはずはありません。

 陳寿は、同時代読者が誤解しないように、現地の様相を周代初期に例えているのですが、笵曄等、後代論者に理解されなかったと見えます。

2.虚妄の始まり~無かった砂浜
 鳥越氏が想定する長途の海上航行船舶は、甲板に保護された船倉/船室が不可欠であり、浜に引き摺り上げる小型の船ではありません。
 当地リアス海岸の砂浜は、韓国大河河口に限定と推測します。
 海上航行は、当方の知ったことでないので深入りはご遠慮申し上げます。この無理の是正に厖大な努力が費消されるのは、見たくありません。
 この際、正解に至るのに是正策は不要です。漢代以来、楽浪郡、帯方郡に至る公式街道は、遼東郡から一路南下で、「倭人伝」行程は、当然、自明、説明するまでも無く、「陸上街道」です。

                               未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 4/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

*現代人の常識、晋代史官の非常識
 陳寿始め、洛陽史官は、公式街道が海に出るなど、一切念頭にありませんから、後に、狗邪韓国の海港から南に渡海する事態の予告として、ここで、「渡海」即ち「水行」なる新規概念を、史書書法に従って導入したのです。
 当たり前のことを言うのも億劫ですが、当伝に至るまで、公式街道の「水行」はなかったので、予告なしでは不当書法として排斥される危険がありました。だから、そのように未曽有の特別事態に適合する特別な書法としたのであり、前例のない事態に、先例などあり得ないのです。
 これも、言って聞かせるしかないのですが、異例の「水行」は、後に全行程総括で全工程を「水行」「陸行」と分類・明示するものであり、街道のある「陸行」区間と街道のない「水行」区間を峻別した周到なものなのです。
 素人には分かりますまいが、当時の官制は万事命がけだったのです。

*街道維持の責務~帝国の動脈/骨格
 「陸行」区間の保全管理による期間厳守は、郡太守の責務であり、失態は更迭の危険をはらんでいますから、厳格な「陸行」区間と天候等不可抗力の遅延が許容される「水行」区間を区分したと見るのが「自然」です。
 以上は、後漢瓦解の根源が「規律」、「法と秩序」の崩壊にあったと確信していた魏武曹操の遺令であり、孫の明帝曹叡も厳格に守ったと見るべきです。
 以上の大人の理屈が理解できないなら、勉学に励んで貰うしか無いのです。

*止まり木を選ぶ
 と言うことで、鳥越氏は、ご自身の教養の不足部分を、時代考証で補う労苦を厭われて、いずれか、諸兄姉の教示を仰いだようですが、批判精神が行き届かなかったものと見え、誠に、残念です。以下同文は、略します。
 因みに、「諸兄姉」と匿名ですが、(順不同で恐縮ですが)『中国太古/古代史分野に於いて学識豊かな白鳥庫吉、貝塚茂樹、宮崎市定諸師、また、漢字学の権威である白川静師を代表として、中国史料に関して教示を仰ぐべき諸師』は除外されます。もし、鳥越氏が、ご自身の見識の由来を述べることを忌避されたのなら、その理由を明記する義務が有るものと推察します。

*余談~南岸航路の疑問
 鳥越氏は、暢気に、韓国東海岸を経て南端の狗邪韓国に至ると明快ですが、東海岸の南方が乗り切れても、南海岸は別の難儀であり理解に苦しみます。
 率直なところ、仮想船団が、なぜ、当時、往来が活発と推定される對海國を目前に、大きく北方に迂回して、狗邪韓国に入港したのか不可解です。
 当経路は、当方の想定外で深入りしませんが、途轍もなく不思議です。

*隋書「俀国伝」参照
 当方の好まない後世文献参照ですが、周知の隋書「俀国伝」によれば、隋使裴世清は大型の帆船で航行し、狗邪韓国故地に立ち寄らず、對海國後裔と知れていた對馬を経て、一大国後裔の壱岐に乗り入れていますから、無理に寄り道する必要は無いのです。手漕ぎ船では、帰途が一段と困難です。
 数世紀先行する、つまり、航行能力で未発達な魏使「用船」が、難所に乗り入れて窮する可能性の高い航路を、貴重でしかも重大な、つまり、目方と嵩の大きい荷物を積んで難航に挑んだかと、人ごとながら大変不可解です。
 余所様の提案のボロ隠しは、ご辞退申し上げます。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 5/10

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*「乍南乍東」の一解
 氏は、南下する際、上陸の際に東に進むことと解していますが、誠に策士策に溺れるです。出港の際に、西に向かうのをお忘れですし、先に述べたように、南海岸で、それは、全く通用しません。敵は、方位に疎い漢民族です。
 決まり悪いのか、氏は、この下りを駆け抜けます。因みに、都合悪いところを端折るのは、誰でもすることで、氏を非難しているのではありません。

*魚豢「魏略」談義
 因みに、氏は、しきりに、陳寿が魚豢「魏略」を参照したとしていますが、史官は、漢魏公文書を編纂して正史としたのであって、魚豢「魏略」のような非公式文書、野史稗史の類いは、公式文書欠落時の緊急避難です。裴注で追加された、陳寿が没にしたと推定される諸資料を見れば、全て明解です。
 氏は、中国正史の編纂がいかなるものか、ご存知ないようですが、それは、氏が教示を仰いだ先賢諸兄姉の落ち度であるから如何ともし難いのです。

*「首都」の怪~国産熟語の不合理
 ついでに言うと、氏は、古代壱岐國に「首都」があったと時代錯誤に耽っていますが、「首都」とは、魏文帝が、「漢代以来皇帝の滞在した諸都の発令文書が交錯して各地の機関が困惑したのを是正した」際、長安、許昌、?など旧「都」を有効と認めた上に、洛陽を首たる都、「首都」と称したのであり、氏が誤解されているように蕃王居処の所在地とするのは、不敬/死罪です。
 因みに、もし、一大国に王城が認められていたら、城名が記録されそうなものですが、そのような記事はないのは、氏も承知のことと思われます。
 時代錯誤というのは、そうした複数の要因を指しています。
 中国語にない蛮夷文字を「国字」と言い、例えば、辻、峠などが相当します。恐らく、中国語が不自由な百済で「ふりがな」めいた補助文字と並んで、発明・常用された国字が、中国から厳禁され、海を隔てた当地で生き残ったとみられます。差し詰め「首都」は禁句、日本式律令も厳禁です。

*混迷の所在比定
 氏は、根拠無しに、つまり、ここに至る文献解釈にないのに「邪馬台国」を伊都国から往復一ヵ月の遠隔地に追い、郡使などが一旦伊都国に待機したと見ていますが、それは、倭人伝読者に理解不能です。

*渾身の大河ドラマ~鳥越流「邪馬台国」比定
 氏は、独創の大河ドラマを創出して、末羅国から伊都国、奴国、不弥国と海岸沿いに海船を発たせますが、「倭人伝」に書かれていません。
 氏は、ドラマを正当化するために、記事中の方角を無根拠で改竄していますが、それは無理というものです。自分の気の済むように史料を改竄するのは、当業界の通俗であっても、史学者として最後の隠れ家でしかありません。

7 投馬国行程は、ハッキリと「南」ですが、氏は当然「東」とにべもありません。一度だけ言うと、魏使一行の大半は、帯方郡住民で多分漢族では無く、倭と往来しているので、そのような錯覚は持ち合わせないはずです。

*止めどない「延喜式」依存症
 続いて、氏は、定番となった「延喜式」を持ち出しますが、数世紀後の街道整備された時代の法的規定を三世紀の蛮夷に持ち出すのは乱暴です。まして、同規定は帆船航路が整備された時代であり隔世と言うべきです。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 6/10

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私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

 氏は、先だって、投馬国を吉備に比定し退路を断っているので、続く「南邪馬壹国」に窮しているはずですが、何とか、言いくるめにかかっています。

8 「南邪馬壹国女王之所都」と決め打ちして、次なる「水行十日陸行一月」を「吉備なる投馬国」から「その南方の邪馬壹国」の所要日数としています。

*「女王之所都」の無法
 「女王之所都」と解するのは「通俗」で、氏の独創ではありませんが、「陳寿が、東夷蕃王に「都」の栄誉を与えて、魏文帝の洛陽首都と同等に遇した」と非難するのは、途轍もありません。あまりひどいので、繰り返しました。
*明解な解法~西晋史官には自然な読み
 そのような見当違いは、「南邪馬壹国女王之所」、「都水行十日陸行一月」と普通に/素直に/時代相応に解すれば、誤解は発生しないのです。
 それにしても、本来、ここで、「邪馬壹国」が比定され、以下の議論で利用できますが、氏は、別の思い込みに合わせて諸処の解釈を曲げています。

*野獣の径
 文書解釈の本道を外れ困ったものです。古代史で、「道」を外れると泥沼や草ぼうぼうで野獣の「径」に入り、天下無道と納まり返っていられません。
 続いて、氏は「三国志」道里書法について訓戒を垂れています。厖大な「」三国志」全体で検証された偉業に感謝しますが、根拠は開示されていません。まして、「三国志」全体の水行・陸行の記事が、全て延喜式の後世東夷の旅費規程に従っているというのは、幾ら何でも無謀です。

*「自女王国以北」の捻転
 「自女王国以北」も、行きがかり上「曲芸」解釈し「以西」としますが、氏の解釈に従うと、既出の国が全て「以西」で、奇観を呈しています。

11 なぜか、念押しされていませんが、氏の説にしたがうと、狗奴国は、女王国の南方なのか東方なのか、ともかく、はるか彼方に狗奴国が在ると主張されていると見えますが、氏は、方位確認を放りだして次に進みます。

12 「男子無」以降は、邪馬壹国風俗とされますが、結構南方らしい温暖な海岸の佇まいと見え、まして、氏の主張される邪馬壹国から、方向感覚がずれている漢族が、なぜ、会稽東冶の方角が正確に分かるのか不思議です。

15 なら盆地南部は、夏、暑く、冬、寒いので、なぜ「温暖」か不可解です。

24 唐突に「東洋」ですが、三世紀当時にあり得ない、時代によっては大変不穏当な表現なので、史学談義では、せいぜい時代錯誤と言うべきです。

28 景初二年/三年談義ですが、氏が、限られた知識を絞って、景初三年とするのは悲痛です。、文献誤解が祟っていて、とても採用できません。史料は、原文によって解すべきと言う、基本則をど忘れされているようです。

 「魏志」明帝紀引用は、司馬懿が遼東太守公孫氏の討滅を言いますが、帯方郡は南方で戦局と直接連動しません。別記事で、明帝は司馬懿の遠征軍と別に渤海湾で兵船建造し、郡兵食糧を送り、別途、いち早く樂浪、帯方郡に帝詔を発し、公孫氏郡太守を更迭、新任太守を着任させたと明解です。

*魏帝の自然/東夷の不自然~急使日程算段
 目的は、遼東半島以南の公孫氏勢力(両郡郡兵主体)による妨害の予防であり、従って、景初初年に、両郡は魏明帝指揮下だったでしょう。倭人は、帯方郡新太守が、急使で急遽参上を命じたので即応したのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 7/10

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私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

*さらば骨董所説(レジェンド)
 氏の倭人伝道里に解するご意見は、実は、諸郡地理交通不明時代の遺物であり、早々に廃却した方が氏の名誉に相応しいのです。急使で、通常四十日行程の九州の倭と交信して、始めて半年程度で対応できるのです。検算をお勧めします。
 なぜ、「万二千里」以上に「水行十日陸行一月」が要件かは、鳥越氏ほどの知性があれば、若干の思考で理解できる筈ですが、もし、理解できないようなら、地理情報の読解力不足であり、以後の議論が成り立ちません。

30 氏は、大夫難升米が、倭の高官/有司と認めていますが、国使として、女王が大権を委ねるには、最高重臣と見るのが普通です。むしろ、宰相/大宰であり、一度に大夫二人が抜けて女王も心許なかったものと思われます。
 因みに、「大夫」は魏制官名と重なって不都合なので、「倭人」は、官名詐称の誹りを丁寧に避けて、「倭大夫」と称したはずです。
 但し、中国側は対等でなく、新参蛮夷への漢使は、現地で殺されるのも覚悟の下位官人が多いのです。行人は皇帝名代ですが、それは、一時的な威厳に過ぎません。別に、皇帝に列する高官になったわけではありません。

31 天子の買い叩き
 氏は、ここで突然たたき売りに出て、詔書に明記されている銅鏡百枚が、その三分の一程度と断じます。困ったものです。詔書は、最高文書であって、千載まで伝えられるから、皇帝が嘘つきとの証拠を残すなど論外です。
 また、いかに蛮人でも、銅鏡の枚数を数えること位はできるから、女王が銅鏡を配布する際に、魏帝が嘘つきだと吹聴されることになるのです。皇帝の面子は、そんなにつまらないものではないのです。
 そもそも、百枚は、倭人の要求ではないし、三十枚としたかったら、詔書をその通りにしたらいいから、氏の筋書きは無用の恥さらしに見えます。
 銅鏡の枚数にこだわるのは、実質、効果ともに、不確実です。

*無理な括り付け~新鏡説の不備
 ついでながら、一部俗説のように、この時渡来したのが、所謂「三角縁神獣鏡」としたら、新規意匠、新規大型化、新規製造方法では、戦時体制の魏朝の手に負えないのです。それこそ、十枚に値切り倒すのではありませんか。
 要するに、漢代の在庫一掃とみたら良いのではありませんか。
*ありふれた蛮夷厚遇
 漢代以来、無名の群小蛮夷の来貢の際にも、正使、副使、随員にまで、印綬を渡すのが定例であったようです。果ては、蕃王臣下の下級「王」に、印綬を渡したとされています。金印というものの黄金製でなく、せいぜい「金銅印」ですから、一山いくらで、「倭某国王印」も授与できたと見えます。そうした事例にくらべれば、正始下賜物は、普通の厚遇と見えます。

36 「大作冢」の正解候補
 ここで、「大作冢考証」で、大規模墳墓は存在しなかったと断じて痛快です。

*殉葬反省会
 また、『当時の葬礼に「徇葬」は無い』とは、氏の見識に裏付けられた小気味よい正解であり、「勝手に」「殉葬」など、世上溢れる改竄の愚は犯していないのに、「徇葬」解釈を誤ったのは、氏の不慣れな、漢文解釈での細やかな勘違いであり、仕方ないとは言え、困ったものです。
 「径百余歩」は、氏の値切り癖で仕切られていって、何はともあれ、大幅縮小のようですが、五分の一なのかどうか、値引率が不明では何とも申し上げられません。中国計量史は、かなり込み入っているので、氏が持て余しても仕方ないのでしょう。然るべき専門家の意見で解決するかも知れませんが、まだ、定見は出ていないので、やっぱり持て余すかも知れません。
 大分お疲れのようです。当方も、限界に来たので、ほぼ閉店です。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 8/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

「晋書」倭人伝
 当史書は、唐代に編纂され、中国の天下を崩壊させた晋朝の荒政を非難する政治的な趣旨で集団編纂されているので、史書としての正確さの点で不満があります。
 本編では、目に付く勘違いの訂正だけです。
12 ここで、「文帝」は魏代の曹丕でなく、晋高祖宣帝(司馬懿)の次男であった晋太祖文帝(司馬昭)と見るのが、晋書倭人伝記事としては、誠に自然ではありませんか。これは、あからさまに勘違いですから、中央公論新社は、校正部門に人がいなかったのでしょうか。AI校正したわけではないでしょう。

沈約「宋書」
 南朝宋、「劉宋」は発展途上の北朝を北伐すると共に、秦漢代以来の正史編纂を試み、最終的に、後継南齊代に刊行されています。つまり、南朝公文書、史書稿が健在であったので、三国志の後継に相応しい体裁を保っていたと見えます。同時代の沈約の単独編纂と相まって、信頼できると見えます。
 因みに、宋代に後漢書を編纂した笵曄は、同時代に三国志を補注した裴松之共々、宋書編纂に参画してないと見えます。笵曄は、政権から遠ざけられ、地方に赴任していたので、公文書庫に立ち入れず、参加できなかったとも見えます。

 鳥越氏は、ここでは触れていませんが、司馬彪「続漢紀」郡国志以来の地理志「州国志」が編纂され、「志」部を欠く三国志を補っています。但し、晋代に、樂浪/帯方両郡を撤収して半島から撤退した上に、対岸の山東半島からも撤退し、「倭」の行程道里は更新されていません。

*会稽東冶談義
 「倭人伝」道里行程記事の解釈で参考になるのは、会稽郡南部、往年の東冶県です。
 會稽太守,秦立,治吳。…去京都水一千三百五十五,陸同。
 建安太守,冶縣,屬會稽。司馬彪云,章安是故冶,後分冶地為會稽東、南二部都尉。;南部,建安是也。吳孫休永安三年,分南部立為建安郡。
 去州水二千三百八十。去京都水三千四十,並無陸。

 宋書編纂者の沈約は、「班固馬彪」、つまり、固「漢書」地理志、司馬彪「続漢紀」郡国志に続く「志」を企図しましたが、途中の陳寿「三国志」が志部を欠くため、各国志の本紀部から州郡志の記事を補充しましたが、概して、郡設立記事だけで廃止記事が無いので、厳密でないと歎いています。つまり、西晋崩壊時に、建康に退避し損ねた公文書は、回復できていなかったのです。

*魏志「倭人伝」に於ける会稽東冶の幻影払拭
 因みに、東冶は三国時代に消滅し、その健在な間も、当然、呉から魏に公式道里が報告されていなかったので、その地理情報は、陳寿の手元に届いていなかったと見えます。また、地理志、郡国志などで言う「公式道里」は、郡治に至るものであり、会稽郡治から遠隔の東冶県への道里など、知る由もないと思われるのです。何しろ、その間に陸路が存在しないので、陸道交通は無く、道里も不要というわけです。

 また、陳寿が、魏志史料として、東呉領域の会稽郡東冶県の洛陽からの道里を、公式に知り得ていたという根拠は、ないものと見えます。加えて、東呉の治世間に、会稽付近の郡県の移動があっても、魏に知らされていないので、ますます、陳寿は、会稽郡東冶県の洛陽からの道里など、知らなかったのです。知らない道里と、虚実不明の郡から倭までの道里を、比較して案ずることなどできないのです。
 結局、宋書「州郡志」を読む限り、呉書に、会稽郡東冶県の洛陽からの道里は、書かれていなかったと分かります。
 つまり、陳寿が、魏志の編纂時に呉志を参照するという禁じ手を動員したとしても、魏志「倭人伝」に「会稽東冶」が登場することはあり得ないのです。
 以上で、本件は終わりです。

*水(行)、陸(行)、「陸同」、「並無陸」
 それはそれとして、いつ消滅したか分からない「冶県」の後継と見られる「建安太守」は、「去京都水三千四十,並無陸。」と「里」抜きで記録され「京都」建業~建安間は「水」のみで「並無陸」、つまり、並行街道が無いと明記されています。この区間には宏大な福建山地が聳え、断崖に桟道しか街道を刻むことができないので、公式連絡は、水行、河川行に絞ったと見えます。
 会稽太守から、「京都」建康までは、江水(長江)経由であって、近傍に並行陸道が存在し、「去京都水一千三百五十五,陸同」と同一道里が書かれていますが、もちろん、「水」と言うものの川船の航路を律儀に測量したりしていないし、「陸」の会稽~建業公式道里も、秦漢代以来更新されていないと見えます。
 文句を言われる前に言うと、「無陸」とは、狭く険しい桟道が無かったというものでは有りません。騎馬疾駆できないので、公式街道では無いという意味です。

                                未完

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新 9/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

「梁書」概観のみ
 南朝の梁は、半世紀に及ぶ武帝時代の繁栄が、その治世末期に大暗転し、大規模な反乱軍に帝都を長期に包囲された挙げ句、屈服したため、政府の統治機構が破壊され荒廃しています。後継「陳」は、南朝の残骸に過ぎず、北朝を統一した隋に打倒され、天下国家としての形跡を残していません。
 梁書は、唐代に散佚梁文書類を集成したものであり、諸処に難点があると見えます。但し、要注意と言うだけです。

「隋書」「俀国伝」
 氏は、ここで、中国史書解釈に未確認国内史書を導入して不法と見えます。
*隋書の意義
 隋は、江南で叛旗を掲げていた不当な「南朝」を打倒し、中国正統の天子となったので、「東晋」及びそれ以降の「宋」、「齊」(南斉)、「梁」、「陳」の公文書を正当に継承せず、隋書を編纂した唐代史官は、三国志以降の「正史」を継承するのでなく、単に、野史、稗史扱いとしています。以下略
 国内史料は、隋使対応記録に関しては、随分不正確で、典拠としたと見える公文書記録が、杜撰だったものと見えます。

*隋書を基点とした解釈
⑴隋書は、隋使派遣記録ですが、国内史料は「大唐」と誤記しています。
 隋使が未来王朝を語ることは無いので、国内史料の誤りとなります。

⑵隋書は、隋使を「文林郎」とし、国内史料は「鴻臚寺掌客」とします。

*裴世清談義~「二字名の禁」解除
 「裴清」と「裴世清」の違いは、一つには、隋代まで「二字名の禁」があって、本名が裴世清でも、公には「裴清」と名乗らなければならなかったのかとも思われます。隋代に太原留守の高官であった「李淵」(一字名)のこどもたちは、李建成、李世民、李元吉と二字名になっています。
 要するに、過渡期の画期だったのです。

*裴世清談義~僻諱
 あるいは、二郎、つまり、次男であった李世民は、天子になる想定をしていなかったので、父が、ありふれた「世」、「民」で命名していたため、第二代皇帝に就職するに際して、「天子の実名は一切使用禁止」という「僻諱」に従うと、日常生活に重大な支障を生じるのを危惧して、僻諱を強制しないと布告していますが、臣下は、自身の実名から「世」を取り除いたようです。
 太宗李世民の就職(CE626)後、裴清と改名したとも見えます。

*文書上の裴「世」清
 もちろん、先立つ、隋代、唐高祖代、李世民は、高官李淵の次男坊であり、僻諱など無いので、隋煬帝の文書では「裴世清」と書かれていたものの、隋書編纂時は唐代なので僻諱したと見えます。
 正史は、史実無修正が大原則ですが、僻諱は例外なのです。
 と言うことで、隋使として、皇帝の名代である使者について、俀国伝で、「文林郎裴世清」は問題ないのですが、任務に就いている間、最下位に近い原職を表明することはないので、まして、官名詐称はあり得ませんから、「鴻臚寺掌客裴世清」は、国内史料の誤りとなります。

                                未完

                                以上

新・私の本棚 鳥越 憲三郎 「中国正史 倭人・倭国伝全釈」新10/10

 中央公論新社  2004年6月
私の見立て ★★★★☆ 労作 必読 批判部分 ★☆☆☆☆ 2023/02/21

*「客」に関する重大な勘違い
 ことのついでに言うと、鴻臚寺掌客は、「客」つまり言葉ができず礼儀知らずの野蛮人を遇う小役人で、蛮人慣れしていても外交官」ではありません
 これに対して、「文林郎」は、将来文書管理に従事する若者の初任職であり、未知の蛮夷への使い、行人の職に相応しいものです。
 以上、色々調べましたが、国内史料は何かまがい物の情報で書かれたようです。あるいは、中国視点の制度を、自大趣味で取り込んだのかも知れません。(中国王朝が、律令文書の持ち出しを厳禁としたのも無理ないことです)

*国内史料の迷走
 そのせいか、国内史料には、隋使の応対のために、急遽、鴻臚の掌客を、高位、中位、下位と三人揃って新設していますが、まずは、掌客の意味を、蛮人の接待係、つまり、隋使を蛮人扱いしていると知らず、また、掌客は最下位職に過ぎないと知らなかったことを隋使に伝えたとは思えないのです。
 因みに、鴻臚寺自体も、半ば野蛮人対応専門部門なので、鴻臚客館は、迎賓館ではないのです。この誤解は、随分後まで持ち越されたようです。
 もっとも、隋唐使以外は、新羅、高句麗、百済といった「客」を相手にする「掌客」なので、問題は表沙汰にならなかったのでしょう。

⑶隋書は、倭使同行も百済王都立寄も書いていないのに、国内史料は、隋使同行で百済王都に立ち寄ったとあり、これも、国内史料の誤りとなります。

⑷隋書は、皇帝名国書の持参など述べていませんが、国内史料は倭使が持参し、百済国都で強奪されたとしています。持参していない国書を立ち寄らない場所で奪われることはないので、国内史料の誤りとなります。
 当時の状況から見て、中華の天子が、足下にも及ばない蕃王に、玉璽を印した挨拶状を出して、対話を求めるなど、絶対にあり得ないのです。前世で、魏明帝が倭王に帝詔を提示したのは、一方的な宣告であり、対話などではないのです。

 以上、それにしても、単なる誤記などではないので、国内史料は「史実」公文書記録で無く、隋書を参照せずに浅知恵で創作したと見えます。以下略

 同様の齟齬は、国内史料の諸処に見られますが、ここまでで当否を判断できるので、以下相手しません。このように、信頼できない史料に基づく議論は、徒労と思われます。

 鳥越氏は、いずれかの諸兄姉から教授を受けたと見えますが、教授内容の史料批判が不十分であったと見えます。

舊唐書 倭国 (日本国)
 氏は、『「倭国」は、京師(長安)を去ること一万四千里とあり、倭人伝道里郡から倭まで万二千里との差分計算ができない』のに窮してか、原点が違うとはぐらかしていますが、終点は同一かと問い返したいところです。以下略

◯まとめ
 以上、別に、鳥越氏の本来の名声を毀損するものではなく、氏が、適切な助言を受けられずに、詰めの甘い本書を世に出したことを悼みました。
 鳥越氏の支持者らしい匿名人物からの非難に対しては、以上のダメ出しは、鳥越氏を支持する「そちら」の役所と思うものです。無分別に攻撃するのは、品が無いのです。鳥越氏の著作の是正、集約は、成されていないのでしょうか。

 と言うことで、重複を顧みず、二、三度目のお務めですが、当方の玉稿ダメ出しは、本来お門違いであり、ダメ出し不足は、ご容赦頂きたいものです。

                                以上

2023年2月20日 (月)

新・私の本棚 号外 ブログ記事 makoto kodama『「ToYourDay」さんへの返信(その二)』

邪馬台国探訪「「ToYourDay」さんへの返信(その二)」2023-02-18 19:08:37 初稿 2023/02/20

◯不思議な記事削除
 どうも、当方の意図は曲解されているようである。前回記事で、当方は、氏の改竄/削除引用を警戒して、全文引用という非常識な手法をとったが、そのため、氏の記事削除差替に気づいたのである。おかげで、また、苦言を呈させられたのである。手のかかることである。

*無法な改変
 氏は、原記事を削除差替しているが、『「ToYourDay」さんへの返信(その二)』に(その一)は存在しない。記事削除で「重大な警告」に対応したのか、していないのか、何も触れていない。「不可解」である。
 因みに、「重大な警告」とは、『これは、単なる言い争いで無く、「第三者に迷惑をかけて、最悪、法的な問題になる可能性が高い」と指摘した』ものであり、氏の好む日常用語の「警告」とは、全然別の話である。氏の理解力に限界があるから、公の場で恥を欠かせないようにとどめる。どう説明したら氏が理解できるか、素人には見当がつかないので、有り体に『(聞き手に理解できるように)「説明できない」』と言うしかない。それにしても、せいぜい、曲解されるものである。

 因みに、一般読者は、タイトルで記事を特定するから、原記事が削除され、そのあとに、別記事が公開されたと見るものである。
 今回の記事には、「公開ブログに誤りがあると納得したときには、記事を削除する」との趣旨の明言があるから、氏は、誤記と納得した旧記事を削除したと見えるが、削除の理由を示していない。当方は、根拠無しに「警告」など発しない。(別に、愚考を述べて氏のご高説を否定、削除などしようとしていないから、氏の誇張癖を察して「普通に」解するしかない

*警告文の実体
 多分、氏は、またまた「訳が分からない」と逃げるだろうが、当方の今回の「警告」を全て表示すると以下の通りである。当方としては、別ブログ主から抗議がくるような厄介事を避けるべく「免責」しただけである。これで、当方に被害は及ばない。

 *重大な警告
 当方は、「古代氏の散歩道 など」のプログで私見を公開しているのであり、「古代史の散歩道」なる別ブログとは一切関係ありません。

 氏が、またまた見過ごして、気まずいことにならないように大書、色づけしたが、当プログの芸風でなく、つまり、表現は本意では無い。

*不吉な追記
 今回、原記事削除差替のどさくさ紛れに追記されたのは、以下青字部分と見える。

 たぶん、この二つの文を古田氏が同列に考えたのは、そう考えることで、自説が上手くまとまるからでしょう。
 そして貴殿の如く、この古田氏の考えをあたかも金科玉条の如く、妄信する論者が多数出てきているのもまた事実と云うものです。
 私はこの風潮に危機を感じ、二つのブログを書き込んだのであり、もし私が自説が間違っていると納得したら、自説を削除もしますが、貴殿の警告文からは少しもそのようなことは思わないので、二つのブログは残存させていただく次第であります。

 当方が、氏のブログ記事に、論理崩壊の「危機」を感じて「忠告」を投書したのは、当然、件(くだん)の二件の記事の公開後であり、氏が、いかなる手段で当方の考えを事前に察知したのか、誠に不可解である。当方が、貴兄の「たぶん、……でしょう 」とする解釈を知るすべはなかった。

 加えて、当方が氏に対して、何やら「警告文」を発したことにされているが、そのような事実はない。冤罪/誣告である。氏の格調、品位に似合わない、不出来なブログ記事は、取り下げたらどうですかと言う程度である。氏のブログは氏のブログであり、咲こうが枯れようが、本来、当方の知ったことではない。京のわらべ唄で有名な「ほっちっち」である。
 先に見本を示したように、「警告」の開始/宣告があって「警告の本文」があって、締めくくりがあって、必要であれば、警告に従わないときの措置を明示して、初めて「警告」文なのである。以上、誤解が無いように、明確に宣言した。2023/02/22 3:09
 当然、警告した側には、警告したことに対して、責任が発生する。よい子は、真似しないように。

 因みに、当方も、本質的でない記事補充は、特に追記と断らないことが多いが、以上の内容は、あたかも、当方が、従来から氏のブログに干渉していたとの印象を「新たに」導入している重大な追記であるので、誠に迷惑と考える、だけである。別に警告はしていない。
 氏の期待に反して、今回も、「警告」などしない。

                                以上

2023年2月19日 (日)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」1/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

◯回答の弁~長文六ページ御免
 拙記事に関して折角回答頂いたので、ブログ記事の形で回答します。
 但し、拙稿のかなりの部分を削除して、言いやすいところを取り上げるのは、貴ブログ読者に失礼ではないでしょうか。少し難易度を落としました。

*引用とコメント全文
再び、「古代史の散歩道」さんから返信がありました。

*重大な警告
 当方は、「古代氏の散歩道 など」のプログで私見を公開しているのであり、「古代史の散歩道」なる別ブログとは一切関係ありません。
 第三者の誤記について、本来、当方には一切責任はありませんが、知っていて放置すると、同罪になりかねないので、危惧しています。
 少なくとも、これで二回目の警告を発しているので、当方に波及しないものと信じています。
 近来好まれる「誤爆」なので再発防止策としてしつこく指摘しますが、他人からとやかく言われるのがお気に召さないで、今回も無視でしょうか。そうした部分を隠しておいては、貴兄に対する信用が毀損されないでしょうか。

うもありがとうございます。
そこで、礼儀として今回も更に返信したいと思います。
ところで、今回は余計な非難や罵倒に過ぎない部分は無駄と思われるので排除して、純粋に学術的論争のみに書き込みを絞りたいと思います。

*うまく逃げていますが、率直に言って、「今回も」回答できない部分を避ける常套手段と言われかねません。当方は、今回も、自衛策として全文引用します。
 「余計な非難や罵倒に過ぎない部分」に大事な情報が含まれているという「論拠」は、先に述べたとおりです。貴兄が、何を「非難や罵倒」として排除し、何を残したか。貴ブログ読者に示す義務はないのでしょうか。

> 「倭人伝」が、郡から倭までの道里行程を、「万二千余里」と「水行十日、陸行一月」と両様に書いているというのは、「倭人伝」の文書主題に関わるものであり、大変高度な文書解釈ですから、貴兄の読解力が及ばないのであれば、それもまた一説と受け止めて頂きたいと考えるものです。
⇒ 貴殿が「大変高度な文書解釈」と称する部分は、貴殿が「根拠を説明できない」ことを、上手く誤魔化しているだけの言葉です。

 お褒めに預かって恐縮ですが、所詮、貴兄が、倭人伝解釈に不可欠な知識教養に欠けていることを自覚せずに応答に窮して、有る事無い事ぶちまけているのを、言い逃れしているようにも見えます。「根拠が説明できない」と言ったのは、「つけるクスリが無い」とまでは言えなかったと言うだけです。当方は、正直本舗なので、「上手に」ごまかすのは下手くそで、大体は、頭も尻も隠せないのです。

 しかし、私なら、「万二千余里」と「水行十日陸行一月」は全く関係ないことの「根拠」を明確に説明できますよ。
 七世紀に記された『隋書』には「夷人は里數を知らず、但日を以て計る」と記されており、倭人を含む夷人たちは卑弥呼時代から四百年も経過した隋時代になっても、相変わらず日数で距離を数えていたらしいから、卑弥呼時代の倭人は当然日数で距離を伝えていたはずです。つまり、帯方郡使は、不彌国迄、里数を計測しながら辿ったのに対し、日数で記される「南投馬国へ至る水行二十日」と「南邪馬台国へ至る水行十日陸行一月」は帯方郡使が伊都国において、倭人から伝聞した話に他なりません。

追記 書き漏らしたので、慌てて書き足します。
 「隋書」と言うからには、「俀国伝」のことでしょうが、同伝には、「倭人」は登場しません。古田武彦氏は、俗に「九州王朝説」とされる一説を提示していて、要するに、隋書の「俀国」は、「倭人」の後裔だとしました。つまり、卑弥呼~壹与の系統が、「倭の五王」を越えて続いていたと見たものです。貴兄は、一見、「九州王朝説」を支持しているように見えますが、そんなことを言って「大丈夫」ですか。いや古代中国語で「八尺の巨漢ですか」と言っているのではなくて、現代日本語の「それで良いですか」という意味ですが、こっそりとは言え、古田説を支持しても大丈夫ですか。
 それに比べれば、正始魏使が、延々と、道里を測量したとの空想譚は罪がない方です。誰が考えても、狗邪韓国から末羅国までは、測量のしようがないし、奴国、不弥国、投馬國は、魏使が立ち寄っていないので、結局、道里が分かるのは、帯方郡から狗邪韓国までの街道であり、それは、とうの昔に測量されていたから、正始魏使現地測量説は、有名無実の空砲です。
 ついでながら、魏晋と交渉のあった「倭人」は、国名、王名、王城の位置、戸数、道里を公孫氏を介して魏朝に報告することによって、中国王朝の臣下と認められ、魏明帝から「親魏倭王」印綬を受け取っていたので、最早、所在不明の夷人ではなかったのです。
 それにしても、貴兄は、九州王朝説を支持しているのでしょうか。「相変わらず」の一言で、お里が知れるのです。

追記終わり

 

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」2/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*「イロハのイ」
 「倭人伝」解釈の根底、「イロハのイ」として、七世紀の後世文書である隋書の記事は「根拠」たり得ないのです。まして、誤解、誤訳に満ちた『貴兄の「当然」は信用できない』と見る「根拠」です。「つまり」以降も、貴兄の個人的な随想に過ぎません。失望するだけです。不勉強過ぎと言わないといけないのでしょうか。

 その根拠として、伊都国は「郡使の常に駐する所」と記されており、倭国を訪れた(仮の)帯方郡使は必ず伊都国に駐在していたはずなのです。

 ここでも、とくに意味があると見えないのに用語、構文を操作して「うさん臭い」のです。例えば、郡使は、「行人」つまり、往き来する官人であって「駐在さん」ではないでしょう。郡太守の代理人が常駐していたら、倭王が皇帝に直訴するはずはないのです。古代史の常識として。

 それに対し、「郡より女王国に至ること萬二千余里」の文は、実際に倭国の王都・邪馬台国を訪問した魏の正使梯儁らが、自らが辿った帯方郡から邪馬台国迄の距離を計測し、帯方郡に報告した話を陳寿が採用したものと思われます。
 因みに私は、「南水行十日陸行一月」と書いたのは、景初三年に倭使を倭国に送還した(仮の)帯方郡使であり、「郡より女王国に至ること萬二千余里」と書いた魏の正使梯儁らとは異なる別の帯方郡使だと考えています。

 貴兄の私見が述べられているだけで、合理的な根拠が示されていないのには失望しました。
 既に述べたように正始「魏使」が洛陽を発つ前に全所要日数が皇帝の元に報告されていたものと見るのが合理的な常道です。「万二千里」は、倭使の上洛を認める前提として、「遅くとも景初年間に皇帝に報告されていた」と見るのが、合理的な常道です。
 魏は、秦漢以来の国家制度を継承、維持していたので、正体不明、所在不明の蛮人を洛陽に呼びつけるはずはなく、まして、帝詔を下して、大量の下賜物を宛先不明の受け手に送りつける謂れはないのです。途上の宿駅・海港に到着予定を知らせて、準備させる必要もあるのです。魏の国内であれば、途上の関所に、通過予定を知らせる必要もあるのです。こんな風に、子供に言うような言い方は好まないのですが、知らないくせにぐずぐず他人を批判して言い訳するのは、素人目にも誠に見苦しいのです。
 このあたりの大事な理屈が理解できなければ、倭人伝を正確に理解する要件に欠けていると見ざるを得ませんが、どうせ、解釈不能な事項は、「根拠」理解不能として無視されるのでしょう。そのような姑息な論争回避は、ありふれているので、特にどうということはないと思っていらっしゃのでしょうが、ここでは、かけがえのない貴兄の信用がかかっているのです。
 そうそう、貴兄は、万事露骨に言わないと回答がないようなので、改めて明言しますが、「景初三年に倭使を倭国に送還した」などと断言するのは、山成す異説を踏みつけにした臆測であり、ちと不用意な失言です。多分、『「学術的」な一語一語が大事な論義と無縁な気楽な日常生活を送られている』せいでしょうか。よくよく、自力で過去の諸兄姉の所説を確認して残らず「克服」して欲しいものです。いや、角が立つ言い方をしたので、貴兄の感情線を刺激して回答文から削除されて、何も伝わらないのかも知れません。まあ、当方は、何も失うものは無いで、「ほっちっち」でしょうか。泣く子と地頭には勝てないのです。

詳しくは拙書
【「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着】
をどうぞお読み下さい。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」3/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*答のない質問
 折角のご教示ですが、ここに示されているのは、貴兄の根拠の無い臆測であり、それが正しいとする「根拠」が検証可能な形で示されていないので、意味のないものです。世人は、同様に根拠不明な提言を聞かされてどう思うものか、当方には分かりません。

 つまり、「南水行十日陸行一月」と「郡より女王国に至ること萬二千余里」は全く関係のない文であり、それが私が古田説を「根拠がない」と云う理由です。

 たぶん、この二つの文を古田氏が同列に考えたのは、そう考えることで、自説が上手くまとまるからでしょう。

 度々、当ブログで繰り返すように、自身の諸説に沿うように史料解釈するのは、当然のことであり、非難するのは見当違いです。むしろ、なぜ、「全く関係のない」文と断定して、根拠ならぬ理由としているのが、不可解です。引用文は、貴兄の解釈であり、原文引用でないのも、困ったものです。

> 韓国内陸行否定の根拠に上げられている一文は、明らかに、その時点限りの特異な事情だと言うことは明らかです。帯方郡は、漢魏晋代の「郡」であり、治安の維持、街道の保全は、郡太守の責務であるから、異常時にそれが達成できなかったから、殊更、皇帝に報告したものです。どんな事情で、異常事態報告の一文に執着するのか不審です。因みに、郡太守が責務が果たせないと判断されたら、小帝王とも言われる郡太守も、一片の帝詔で更迭されるのですから、手段を尽くして街道を維持したのです。

⇒ なにか、訳の分からないことばかり、語っておられるようですが、基本的に帯方太守弓遵が韓兵に殺された話は、『魏志韓伝』に記されています。
『部従事呉林以楽浪本統韓國 分割辰韓八國以與楽浪 吏譯轉有異同 臣幘沾韓忿攻帯方郡崎離營 時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓』
 この文を、かいつまんで説明すると、
 景初中、魏が楽浪帯方二郡を公孫氏から奪取すると韓の有力者に対し、臣智と云う官職を与えて懐柔していたが、正始六~七年頃、呉林と云う役人が魏本国からやってきて、「元々、楽浪郡に従属していた辰韓はその八国を分割して、元の如く楽浪郡に従属すべきだ」と云ったことを、通訳が上手く臣智たちに伝えることが出来なかった為に、混乱した臣智は怒って兵を集め、崎離營と云う帯方郡の官庁を攻めた。この戦いで弓遵は戦死したが、楽浪帯方二郡は遂に韓を滅ぼしたとされているのです。
 このような当時の韓の実情を熟知していたらどう考えても、
「魏の権威を韓国民に知らしめる為に、倭国への下賜品を見せびらかしながら堂々と行進した」
なんて、現実を無視した能天気な考えが出てくるはずはないのです。

 またもや、お得意のはぐらかしに閉口します。高度な、つまり、古代史論議で当然の「史料批判」を怠っている上に、当方の質問にまともに答えずに、「訳の分からない」、つまり、貴兄の限定された知識、語彙で「理解できない」としていながら、遮二無二質問をすり替えて、しかも、例の通り「かいつまんだ」説明が、要点を取りこぼしていて、杜撰のてんこ盛りです。
 当解釈を誰に教わったのか不明ですから、是正策を提言したくても仕方ないので、貴兄の勝手な理解としますが、もし、誤解の出典があるなら、そちらに文句を言って頂きたいものです。
 それにしても、普通に読めば理解できるはずの同時代人の説明を、「理解しない」、「理解しようとしない」というのは、困ったものですが、別に、貴兄が自認されている読解力不足を、殊更批判非難しているのではないのは客観的に明白と思うので、被害者意識に逃げ込まずに、ここんとこは、削除しないでください。
 貴兄は、当方が前便で、当史料が当てにならない、別資料での裏付けが不可欠であると示唆したのに無頓着で、それに加えて困ったことに、史料自体の正確な解釈を知らないで、根拠無しに威張っているようなので、仕方なく次回分で噛み砕いて説明しますが、後は自力で咀嚼してください。

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」4/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*勝手に添削
 貴兄の講釈は、「実情」と称して、無理な部分引用で、根拠の無い推測を言い立てているので、先行部分から引用し直します。
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。
 ゆっくり考えれば、貴兄の解釈は、原文深意からずれています。景初中、恐らく初頭に魏明帝は、公孫氏遼東郡配下となっていた両郡に新任太守を送り込んで、直轄郡とする「人事」を行ったのであり奪取などではないのです。
 新任太守は、大家から下戸に至るまで手土産などで懐柔し、当座は、司馬懿軍の後方支援として、山東から遼東への物資送付、増援のために、郡兵を強化していたので、景初年間に挙兵反抗は「無かった」のです。
 続く正始中期、五年あたりと示唆されていますが、早々に反抗は平定されたと思えます。もちろん、正始早々の魏使は、未来を予見せず、淡々、粛々と「難船・水死」の恐怖と一切無縁で、毎夜、揺れ動かない寝床で、船酔いも知らず、塩っぱい潮風も知らず、そして、肝心なことですが、所要日数の読める「街道」を進んだと見えます。
 因みに、街道は、帯方郡設立以前から狗邪韓国まで通じていたものと見え、公孫氏時代も、諸韓国と「倭人」とは、決して放置されていたのではないのです。
 いずれにしろ、聞きかじりの安直な判断は性急であり、大局を見るべきです。ここも、淡々と批判しているだけで、誹謗中傷はしていないでしょう。
 普通に考えても、他人の意見に適当に反論しておいて、相手に、意見のダメ出しをさせるというのは、いいご身分だと思う次第です。これは、個人の率直な感想であって、別に非難しているのではないのです。
 ついでながら、「倭人」は「韓国」に相当するものであり、『「倭」の人間』などと素人臭い、見当違いの解釈をしないことです。

「魏の権威を韓国民に知らしめる為に、倭国への下賜品を見せびらかしながら堂々と行進した」
なんて、現実を無視した能天気な考えが出てくるはずはないのです。

 どのような手段で、貴兄がどのような超能力で三世紀の「現実」を確認できたか、論拠が示されていません。所詮、古田氏の勇み足に染まった、同次元の脳天気に過ぎません。これが貴兄の言う論拠なのでしょうか。それとも、応答に行き詰まって、暴言に逃げたのでしょうか。
 因みに、古田氏は常人なので、改めて言うまでもなく三世紀の「現実」を見たわけはなく、魏明帝が、その際、倭に至る梯である韓を懐柔したであろうという大人の判断を示したものです。子供じみた反感で安直に論じるのは、貴兄の感性の限界を露呈していて、心ある読者の信用を無くすだけです。他人の同意できなければ、別に、同意しなければいいのです。これも、批判ではありません。

> それにしても、一片の記事で、正始初頭に街道往来ができなかったと断じて、何の根拠もない、実行不可能と決まっている沿岸航行に、世上の論者がどうして執拗に執着するのか不可解/残念ということです。

 既に述べた反論の趣旨を理解してから、応答頂きたいものです。当方は、「東夷伝が、両郡太守の誇張のかたまりで、全く信用できない」という趣味はないので、合理的な解釈に努めたのです。正直なところ、折角の解説を読もうとしない貴兄に、本来要らない解説を長々と書かされて不満ということです。賛成、反対は、読者の自由ですから、一切気にしないのです。
 ご返事がありませんが、全て根拠が必要という貴兄の持論に反しています。

                               未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」5/6

邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*また一つの愚答(My humble opinion)
⇒ 何で、『魏志倭人伝』には「海岸に沿って水行し、」と、ハッキリと書いてあるのに、わざわざ陸行にしてしまう必要があるのですか?

 なぜ、倭人伝の深意が理解できないのに、「ハッキリ」と断言するのが不可解です。原文は、「循海岸水行」であるから「沿って」と不合理な誤訳文を根拠にするのではなく、原文に随った解釈に従うべきではありませんか。
 史官は、「先行する諸書と公文書記録(史実)にしたがって史書を書くしかない」のであり、それを知らないで勝手に現代人解釈で「ハッキリ」などというのは、不遜と言わざるを得ません。なぜ、当時としても難解な文書を、現代人がすらすら読めるのか、毎度不思議に思うのです。
 それにしても、ここで「わざわざ」とは、倭人伝が解読できないことを示していて、自爆もいいところです。これは、批判ではありません。

 この説などは明らかに古田氏の誤訳であり、この誤訳を正当化する為に、あーだのこーだのと韓国内陸行を当然の話の如く言い張る古田信者の思考方式は、完全に古田真理教に染まっていると言えますね。

 「この説」が何のことかよくわからないので、反論がむつかしいのです。また、貴兄は「古田信者」として、名簿に名を連ねているのかも知れませんが、当方は、部外者なので、根拠不明な発言に対応できないのです。ご勘弁ください。
 既に説明したように、当方は、古田氏の誤解を指摘する立場であり、貴兄のように古田氏所説に染まっている方にとやかく言われたいものではありません。どうか、古田氏頼りを脱却して、乳離れして欲しいものです。
 それは偏見であり、独り合点で「明らかに」などと恥ずかしい言い草をとるのでは、全てに根拠が必要という貴兄の持論に反しています。

> 郡街道が沿岸と並行して海上に設けられていたというなら、然るべき先例が必要です。
⇒ そんなものは必要ありません。

 それは、性急な偏見であり、全てに根拠が必要という貴兄の持論に反しています。まさか、認知症でもないでしょうから、単なる勘違いでしょうか。

 「古代史の散歩道」さんも、一度古田説をすべて忘れて、『魏志倭人伝』だけから、純粋に考えられては如何ですか?『魏志倭人伝』の本質が見えてきて、古田説が如何に欺瞞に満ちた説かが理解できると思いますよ。
 当時、移動様式として、水行は第一選択で、当たり前の行程でした。現在でも漁師は日韓共に嵐の日以外は、普通に伝馬船で海岸沿いを水行しています。

 「当時、移動様式として、水行は第一選択」と同時代人でもないのに、軽々と断言している割には、現在の漁師は、余程でなければ手漕ぎの伝馬船を離れて、エンジン付きの漁船で移動しているのを無視しているのは、むしろ滑稽に見えます。また、論じている三世紀に、そのような便利な漁船は存在しないのです。いや、存在しても、燃料がないので、実用にならないのです。現代事情なら、第一の移動手段は自動車に決まっています。いや、現代情勢は、一切参考にならないと言うべきです。
 子供に言うようで恐縮ですが、中国古代史で、「水行」は、大河を堂々と行くことを言うのであり、「水」は「海」でないことは、三世紀ならぬ現代に至る中国人には、常識中の常識です。また、高度な概念で恐縮ですが、倭人伝で「海」は、現代人と異なる概念を示しています。何しろ、読者は、現代語で言う「海」を知らなかった中原官人ですから、初心者は、慎重に言葉を選ぶ必要があるのです。
 要するに、貴兄は、当記事に書かれていることが「よく分からない」と自認しているのに、「古代史を語るのに要する言葉を知らない」ことを「自覚」していないのです。これは、正当な批判であって、非難などではないので、逃げないでほしいものです。

                                未完

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邪馬台国探訪「古代史の散歩道さんへの返信(その二)」 2023-02-18 19:08:37   初稿 2023/02/19

*圏外用例お断りの弁
 ついでに言うと、三国志に収録されている「呉書」(呉志)は、東呉の史官が、海にも川にも通じた東呉皇帝のために書いたものなので、同時代用例として持ち出さないようにご注意頂きたいものです。これまで、無効なコメントが付いたことがあるので、貴兄が恥をかかないように露払いしました。

 だから沿岸航行を実行不可能と決まっていると言い張るのは、現実の世界ではない、古田教祖様の脳内における単なる妄想に過ぎません。
 しかも、古田説は「海上郡街道」なんて奇異な話を捏造しないことには説が成り立たなくなるようですね。

 これは、貴兄の鯱張った応答を「揶揄」した「疑似餌」であり、この字句は読み取っていることを確認したものです。うまく釣れてホッとしています。
 丁寧に言うと、「水行」の根拠として求められるのは、現代の東夷の漁師が「伝馬船」で往き来するというような風評ものでなく、古代帝国の根幹としていた「街道」として維持されていたことを堂々と示すことを求めているのです。貴兄を見込んで高い基準を擬したものですが、回答として三世紀ならぬ現代の風評を論拠として提示されるのは、貴兄の方針に反しています。
 それにしても、「奇異」は、歴史的な語法で絶賛口調であり、一瞬安心させておいて、どっと冷水を浴びせる「サプライズ」戦法と思わなかったのです。見事な詐話作法です。

 因みに私は、「南水行十日陸行一月」と書いたのは、景初三年に倭使を倭国に送還した(仮の)帯方郡使であり、「郡より女王国に至ること萬二千余里」と書いた魏の正使梯儁らとは異なる別の帯方郡使だと考えています。

 貴兄の臆測は、資料原文の順当な解釈に反したものであり、見当違いであることは、既に述べましたが、貴兄のほろ酔いの理解を越えていたためか、眼鏡の度が合っていなかったのか、とにかく、読み飛ばされたようで残念です。貴兄の汚い言葉遣いで言うと、誠に懲りない「誤解派教祖殿」となりそうですが、当方は、そんなことは、思っていても言いません。

詳しくは拙書
【「魏志倭人伝」の正しい解釈で邪馬台国論争遂に決着】
をどうぞお読み下さい。

 当方は、「営業」しているのではないので、「広告謝絶」としておきます。

◯終わりに
 またも無視されて、無駄を承知でご注意します。
 史料は、史料批判した上で提示するべきものです。念のため言うと、史料批判とは、勝手放題に難癖を付けることを言うのではありません。文献全体を解釈して、深意を知るものです。今回の「韓国反抗史料」は、それ以前のもので、明らかに時代錯誤で無効なものですから、そんなものを表通りに持ち出すのは、史学者にとって「逃げ恥」ではないかと、素人ながら懸念するものです。
 安易に、断定口調を起用しないことです。断定口調は。論者が自信のないときに多発されるものです。
 「古田氏」非難は、多分、一回ごとに懸賞金が出るのでしょうか。何にしろ、後世に残るのは貴兄の発言ですので、せいぜいご自愛いただくことをお勧めします。これも、非難しているものではありません。
 方や、古田氏の提言の積み上げは、真摯なお弟子さんたちによって、丁寧着実に進められているので、その動向を見めた上で、学問的論争を挑まれたらいかがでしょうか。

                                以上

2023年2月18日 (土)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古代史の散歩道さんへの返信」

                                                2023/02/18
◯回答の弁
 拙記事に関して折角回答頂いたので、ブログ記事の形で回答しますが、随分冷静にみせて、丁寧な、そして、よく読み返した回答に驚きました。貴兄は、古田武彦氏に、随分、格別な情感を抱いているようで、そのような私情に溺れて、書き飛ばし同然の二件を公開されたことを忘れたようですね。これだけ丁寧に書けるのに、何で、粗雑に書き殴ったのか不明です。古田氏の月命日に一献傾けたのでしょうか。瞑目。

 また、冷静を装いつつ、くり返し、当方が怒って書いていると、眼前に目撃しているかのように書いていますが、それこそ、事実無根の与太話です。それとも、当家の書斎を盗撮しているのでしょうか。大抵、このような見解は、ご当人の内面の反映に過ぎないのです、それなら、別に盗撮しなくても、お見通しでしょう。
 貴兄の周囲では、論争の喧嘩手順で先例があるのでしょうが、喧嘩腰に逃げるのでなく、先例より前に目の前の記事を読んで、やんわりと揶揄されていることが理解できないようです。教育的指導が読み取れないのでしょうか。これでは、折り返し感情論を咎めるしかありません。売り言葉に買い言葉。罵倒と見えるのは、当方の批判を非難ととり、非難を罵倒ととる、貴兄の内面の反映に過ぎないのです。

*道里行程論談義~所詮一解
 本題の道里行程論ですが、「倭人伝」が、新来の「倭人」に関する初出の記事である以上、帯方郡から倭に至る行程が本題であり、途中で枝分かれしている行程は、本題ではない、傍線であることは、「倭人伝」の記事から見て当然の理屈であり、それを現代の論者が便宜上どう呼ぼうと、何も非難には当たらないと感じたものです。僅か、十ヵ国に満たない行程諸国ですから、当時の皇帝、高官になったつもりで、冷静に考えれば、順調に読み解けるはずです。何を怒り狂っているのかと口まねしたいところです。
 また、「倭人伝」が、郡から倭までの道里行程を、「万二千余里」と「水行十日、陸行一月」と両様に書いているというのは、「倭人伝」の文書主題に関わるものであり、大変高度な文書解釈ですから、貴兄の読解力が及ばないのであれば、それもまた一説と受け止めて頂きたいと考えるものです。誤読したければ、好きなように誤読すればいいのであり、相手の深意を解することなく、名指しで非難するのは感心しないと言うだけです。

 また、「倭人伝」の書法は、先行する正史にはない独自のものなので、他に前例を求めるのは賢明ではありません。古田武彦氏が広く用例を捜索することを第一義に立てたので、それに囚われて無批判に追従されている方がいるようで、このように特異な事例にまで、前例を求めるのには難儀します。無批判の古田武彦氏追従は、いい加減にして欲しいものです。

 韓国内陸行否定の根拠に上げられている一文は、明らかに、その時点限りの特異な事情だと言うことは明らかです。帯方郡は、漢魏晋代の「郡」であり、治安の維持、街道の保全は、郡太守の責務であるから、異常時にそれが達成できなかったから、殊更、皇帝に報告したものです。どんな事情で、異常事態報告の一文に執着するのか不審です。因みに、郡太守が責務が果たせないと判断されたら、小帝王とも言われる郡太守も、一片の帝詔で更迭されるのですから、手段を尽くして街道を維持したのです。

 当方は、「倭人伝」行程道里記事は、景初中に原文が書かれていて、後代の正始魏使の道行記事ではないという「普通の理解」であり、また、平易明解に書かれていて、特に前例を要しないという意見です。それとも、古田武彦氏の教えに倣って、三國志全文を読めとおっしゃるのでしょうか。
 それにしても、一片の記事で、正始初頭に街道往来ができなかったと断じて、何の根拠もない、実行不可能と決まっている沿岸航行に、世上の論者がどうして執拗に執着するのか不可解/残念ということです。郡街道が沿岸と並行して海上に設けられていたというなら、然るべき先例が必要です。

*最後のお願い
 と言うことで、当方としては、これが最後ですよと、時間をかけて具体的に批判する記事を書いたのに、読んだら意見があるはずの誤字指摘にも、無法な地図でっち上げの非難にも無反応で、感情的な暴言連発だけでは、つけるクスリが無いのかと思われます。ひょっとして、他人の書いた記事は、一切、読み解けないのではないかと心配します。
 また、当方は、古田武彦氏が「邪馬台国」と言わないという当たり前のことを指摘しただけです。何も、場違いなことは言っていません。このあたりも、他人の書いたことを読み損なうくせが出ているようです。

 定番ですが、同時代の日本人が丁寧に書いた文章が理解できないのに、三世紀中国人が同時代中国教養人のために書いた「倭人伝」が理解できるはずがないのではないかというのが、年寄りの苦言です。

*古田武彦氏所説談義
 念のため言うと、当方は、古田武彦氏の山成す所説に対しては、他の論者の諸説に対する意見と同様に、是是非非であり、その一角である「倭人伝」解釈のそのまた一角であって氏の所説の出発点でもある「道里行程記事解釈」は、穴だらけであると具体的に論じています。

*届かない趣旨
 貴兄の今回の二文を改めて批判したのは、素人目にも、感情的に書き飛ばしているだけで非論理的であり、実は、タイトルで名指しした批判対象の「古田武彦」説が、まるで理解できていないと見てとったからです。ただし、稚拙な議論と言うのは差し障りがあるので、丁寧に論じたのですが、どうも、少々きつく言わないと届かないのかと釘を刺し、論点が見やすいように、千八百ページを超える手前味噌記事で、始めて文字背景色づけまでしたのですが、趣旨が届いていないようです。

◯まとめ
 「暴言は、無能な論者の最後の隠れ家」という諺が思い浮かびましたが、そろそろ、穴蔵から出てきたらどうでしょうか。
 ロナルド・レーガン元合衆国大統領の名言に随い、ここでは、論者の知識・経験不足を批判するのは控えることにします。
 そうそう、当ブログの筆者は、「プロフィール」に書かれているように、「ToYourDay」であり、ブログ名は「古代氏の散歩道 など」です。「古代氏の散歩道」は、別人の別プログであり、誤爆注意と申し上げます。因みに、なぜ、このように紛らわしいブログタイトルが存在するのか、不可解ですが、取り敢えず、事実は事実として報告します。

以上

*追記 コメント遮断のお詫び
 失念していましたが、以前、やりとりしたときに、貴兄が、感情的に滾ってきて、つまらない、喧嘩腰のコメントを連発したので、これでは、引っ込みがつくまいということで、謹んで遮断したものです。今回の記事を見ると、相変わらずのようなので、今後とも、コメントは遮断し続けるものとしましたが、要するに、コメントだと暴言連発になるよう気質のようなので、此の方が、読み返しが入って、まだしも良いと見たものです。
 因みに、今回の回答は置くとして、先行する二本の書き飛ばし記事は、貴サイトを汚しているので削除をお勧めするものです。そもそも、今回の発端は、その点にあるのです。

以上

 

 

2023年2月15日 (水)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田武彦氏の道程論は本当に成立するのか?」 !追記

                        2023/02/05
「古田武彦氏の道程論は本当に成立するのか?」 makoto kodama  2023/01/27 !追記 2023/02/15 !追記 2023/02/19

◯はじめに

 当方のブログへの批判/誹謗では無いが、古田武彦氏の「道程論」に対する批判と見せかけて世間の関心を呼ぶものの、実は、いい加減な括りで、広く罵声を浴びせているので、当方の提言にまで「とばっちり」が及んで巻き添えを食っては溜まらない。「身に振る火の粉」ではないにしても、無法な意見を放置して、同意、結託しているとの感じを与えることはできないとみて、否定的にコメントした。アメバブログは、ログインしないとコメントできないので自記事とした。別に、一人前の記事と見ているわけではない。

 !追記 当記事に回答/コメントがないので、内容がまるで理解できていないのではないかと心配して、もう少し丁寧に書いています。当記事を、もし「非難」と決め込んで、傷ついて泣き寝入りしているとしたら、それは、それは、気の毒なことですが、言ってもわからないと思ったら、手間暇をかけて批判しないのです。「負けないで」

*本文
 タイトル直下で提示された地図「古田説による帯方郡から邪馬台国へ至る道程」が、止めどない饒舌汚濁の端緒です。
 !追記 「端緒」とは、ほんの始まりで、後に続くという意味です。念のため。ここで逃げ出されたら、何も言うことはありません。
 !追記 「三世紀には、現代風の地図はなかった」ので、「倭人伝」記事が、現代地図に普通に、すらすらと「載る」というのは、とてつもなく悪い冗談です。読者を「愚弄」しているように思います。個人の感想ですが。
 !追記 まして、「古田説による帯方郡から邪馬台国へ至る道程」 とは、途方も無い勘違いです。古田武彦氏が著書で明確に提示した「説」を、全く理解できないままに、ご自分の脳内に「古田説」なる「亡霊」を作っておいて、好きなように切り刻んでいるのは、「一人遊び」に過ぎません。どうかも人前で恥をさらさないで欲しいものです。

1.提示地図は、制作者不明のカラー地図に、「主線行路」、「傍線行路」と創作が書き込まれていますが、扱いに困惑します。(爆笑)
  盗用とは不穏なので、論者が創作し公開したものと解します。
  古田氏は、人も知る紹熙本墨守ですから、地図上の「邪馬台国」「対馬国」は論外です。(大爆笑)
  要するに、論理的に締結されていない浮遊ゴミであり、でっかい邪魔物なのですが、同氏のブログには、毎度のように「本論と関係しない」雑画像が掲示されているのです。(印象操作の常習犯と言いたくなるところです)
 !追記 「制作者不明」というのは、盗作/盗用ではないかという趣旨です。あからさまに言うと、無断利用は、犯罪の始まりです、という意見です。地図出典を明示し、出典の規約に従っていることを示してください。
 !追記 古田氏の第一書は、『「邪馬台国」はなかった』なので、ご当人が無節操に迎合して「邪馬台国」と書いたというのは、古田氏の人格を全面否定する、とんでもない「非難」です。そして、紹熙本にない「対馬国」は、それに次ぐ「非難」です。紹熙本を否定するなら、「倭人伝」なる紹熙本独特の伝名を使用すべきではないのです。(個人の意見です)

 !追記 「古田武彦氏の道里説」と言うのは、以上のようなあからさまの「非難」の対象にはなりませんが、どこで知ったのかという疑問が湧いてきます。

2.古田氏の言として、いろいろホラ話を書いていますが、出典不明では、根拠の無い誹謗です。(爆笑)よい子は他人を誹謗するときは、出典を書きましょう。因果応報です。
 !追記 古田氏が第一書で展開したのは、「帯方郡から狗邪韓国までは、陸上行程であって、船旅などではない」という明確な「提言」です。古田氏の意見は、(当ブログの別記事で、具体的に指摘しているように)幾つか、些細な勘違いを含んでいて、そのまま、「絶対正しいというわけではありません」が、貴兄が「提言」の意味を全く(?)理解していないのは、残念な見過ごしです。これは、良くある「見過ごし」なので、特に、「非難」するのではありませんが、当然、批判の対象です。
 !追記 続いて重大なのは、「狗邪韓国から末羅国(誤字注意)」まで、又々付きの三度、渡し舟で渡海水行して移動し、末羅国(誤字注意)で上陸し、「最終的に本来の陸行に切り替え」、以下、「倭に至るまで水行はない」というキッチリした解釈です。
 !追記 以下の行程で大事なのは、古田氏の提言では、「末羅国(誤字注意)~伊都国~不彌国と移動した後、不彌国から南に移動して、邪馬壹国(誤字注意)に至る」という「順当」な読み方です。(当ブログの別記事で、具体的に指摘しているように)古田氏のこの解釈の細かい点に異論はあるのですが、大事なのは、古田武彦氏は、「狗邪韓国~對海国(誤字注意)~一大国~末羅国~伊都国~不彌国~邪馬壹国(誤字注意)」と進む一途な行程が、倭人伝の道里行程記事の主眼であって、「投馬國は通過しない」という見切りです。この点が読み取れないまま、勝手な解釈で「古田武彦氏の道里説」と称するのは、「最低限の読解もできていない」ことの自白であり、とても、論争喚起の火元にならないのです。
 !追記 ここまで手厳しいのは、タイトル及び本文で、見当違いの非難を猛爆していながら、ご自身の手落ちに気づいていないからです。

3.「下賜品を山賊の襲撃から守る為にも当時魏使団に水行は必然だったのです」とは、根拠薄弱であり、見てきたような「だぼら」ですが、単発風評は「必然」と放埒に断定する根拠には、到底なりません。よくいい加減なネタでブログを書けるものです。(爆笑)
 !追記 「」内の発言は、根拠不明の上に、とんでもない勘違いです。それで十分です。と言うのも、同様の暴論を飛ばしている論者を散見しているので、ご自身の責任として非難できず、批判にとどめるのです。といって、ドブにボウフラが湧くようなもので、一々見ていられないのです。所詮、当人の恥さらしだから、見なかったことにしているのです。とにかく、色々忙しいので、全部指摘している時間がないのです。

4.「近頃では邪馬台国九州説派でも…古田武彦案を引用した説が大人気であり、自説に都合が良いからとして、安易に飛び付く論者が多いようです。」と、またまた風評を飛ばしていますが、「特に根拠はない」ものと見えます。
  一部では、「古田説」は、絶滅危惧種との風評が聞こえますが空耳でしょうか。あるいは、「邪馬台国」説は「死に体」との風評も、どこかの空の下で聞いた気がします。よい子は、野次馬の囀りには、耳を貸さない方が良いのです。
 !追記 「」内の発言は、根拠不明の風評依拠で、単なる寝言としか言えません。「古田武彦案」は、初出で、何のことか意味不明な上に、「大人気」とくだを巻くのは、見当違いです。多いという以上、一人や二人ではないでしょうが、三人以上は「たくさん」なのでしょうか。とにかく、何人が、「安易に飛び付く」軽業に勤しんでいるのか、聞いてみたいものです。

5.古田氏が、倭人伝の「行路里程記事」の諸国を、「主線行路」、「傍線行路」としているのは、氏が解した倭人伝記事を述べただけであり、それを「勝手に分類し、自説の都合に合わせて好きに使い分ける説はあまりにも恣意的であり、到底納得できる説ではない」と自身の貧弱な主観を押しつけるのは、まさしく「勝手な恣意」と自爆しているものです。
 各研究者とも、百出している諸論から「自説に都合の良い提言を採用する」のは、恣意という名の「自由」であり、誰でもやることです。その際にどれだけ苦闘したか知りませんが、代案が、実現不能の夢物語と悟ったらもう戻れないのでしょう。
 まして、それを「借り物」とは、困ったものです。「借り物」は返すものですが、どうやって古田氏に返せば良いのでしょうか。(爆笑)

 論者が、ご自分に都合の悪い諸説をご高説にどんどん採り入れたら、それは、自爆趣味であり、到底世間の同意は得られないでしょう。

6.「根拠が不明なこの説は、果たして本当に成立するのでしょうか?」とは、無礼な押しつけ質問ですが、古田氏ほどの論客が、根拠無しに妄想を公開して、弱みを作ったと思うのが、なんとも不思議です。「本当に成立するか?」と問い掛けたら「そう信じたから提言した」と真っ当な回答が帰ったはずですが、氏の存命中に問い掛けたのでしょうか。「死人に口無し」では、研究者として稚拙です。それとも、古田氏に、ご自身の安易好き?の人格・自画像を投影しているのでしょうか。(爆笑)
 「この古田説」(実は、倭人伝行路里程記事の解釈例に過ぎない)を否定するなら、一刀両断、堂々と論破すれば良いのです。反論されることは無いので好きなだけ論破してください。

 なお、『この古田説では「邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に、終点を萬二千余里先の邪馬台国に置いています」』とは、素人の誤解丸出しで失笑です。古田氏提言の『郡倭全行程が「水行十日陸行一月」』は、所詮一解とは言え順当であり、世界に支持者があるのは当然です。勿論、不支持者もあり、どちらの頭数が多いか問われたら、総選挙でもしないと無理ですが、どの道、学説正否は多数決でないから頭数数えは、言うだけ無駄でしょう。

 !追記 念には念を入れるとして、古田武彦氏が第一書で提言した「提言」は、古代史に関して、知識、見識に富む古田氏が、大変な労力と思考を費やした「論考」を、内容を理解しないまま、思いつきで、無知なやじうまのように非難しているものであり、とても、容認できるものではありません。(個人の意見です)
 !追記 とは言え、あからさまに非難しないように言葉を選んだのですが、何を批判されているか分からないということなので、ガチガチ書いたものです。反論はお受けしますが、ちゃんと理解したと分かる、まともな文章にして欲しいものです。
 !追記 念を入れると、古田氏が提言しているのは、道里記事が、郡から倭までの一万二千里を、別の言い方で、都合水行十日、陸行一月と総括しているのであり、どこぞの誰かが誤解しているように、「ここで急に起点を帯方郡としたものではない」のです。
 !追記 又、投馬國行程は、不彌国から分岐した余傍と見ているので、日数にも里数にも関係しないのです。この基本的な解法に気づかないでいるようでは、議論になりません。
 !追記 さらに念を入れると、当記事は、貴兄が、タイトルに勘違いの「古田武彦氏の道程論」を血祭りに上げているので、それは、「虚偽申告」ですよと「告発」しているのです。「非難」のようなきれい事ではありません。

◯まとめ
 ゴミネタは、尽きないものです。素直に「是非に及ばず」でいいのです。
 ついでにもう一太刀浴びせると、「九州説派」なる「妖怪」を「保護」しているようですが、そのような妖怪など実在しないのです。実在しているというなら、具体的に論者と所説を列記してください。真っ当な論者は、手の届く限り、具体的に示しているのです。具体性、根拠の無い漠然とした表現で印象操作するのは、当節、特定派閥の得意としている言い逃れですが、よい子は、真似しないでほしいものです。(個人の意見です)
 多分、「九州説派」 は、論者の被造物/創作でしょうから、今後、「九州説派」は、無断引用にならないかと心配です。

                               以上

2023年2月11日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文「検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く」

- 卑弥呼は熊本にいた! - (ワニプラス) (ワニブックスPLUS新書) – 2023/2/8
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な論考を丁寧に総括した労作  2023/02/11

◯始めに~新解釈・新説に異論あり
 本書は、倭人伝考察に関して、麗筆で知られる筆者の最新作であり、これまで、氏の論説で、唯一致命的とされていた倭人伝改竄説が、控え目になっているが撤回されてないのは、依然として「重大な難点」と見える。
 「重大な難点」を癒やせない筆者の論説は、折角の労作が全体として疑念を抱かれるので、大変損をしていると見える。ご自愛頂きたいものである。

*難点列挙
1.原文改竄~始まりも終わりも無い混沌
 氏は、原文の由来を明らかにしていないが、「対馬国」と書いているので、紹興本によるものと見える。いずれにしても、原文は「邪馬壹国」であるので、これを「邪馬台国」と改竄するのは、信用を無くす。不用意である。本書は、冒頭から「邪馬台国」と書き進んでいて、現代語訳で書き換えているとも見える。このあたり、「邪馬台国」派の改竄説に対する税金のようなものであり、逃げられないものと覚悟すべきなのである。

2.「道里」の曲解/正解~余計な廻り道
 氏は、「道里」を「新語」と紹介するが、古来「道里」は、常用されていたのである。「新語」を正式史書に採用しては、史官として不用意であり、処断されるものと見える。重大な認識不足である。氏は、遂に、魏晋代新語との手前味噌を排して、原本に回帰したのであり、当然とは言え、「道里」は「道」の「里」との当然の理解/結論に至ったのを祝し、ご同慶の至りである。

3.道里/行程について~下読みしないことの不毛
 氏は、『「倭人伝」の道里行程を、魏使(郡使)の報告によるもの』と根拠なく予断されているが、普通に解釈すると、正始魏使が下賜物を帯行して訪倭の使命に発するには、「行程全所要日数を予定する」必要があり、「都水行十日、陸行一月」は、「魏使派遣以前に皇帝に報告されていた」と見るものではないだろうか。所要日数不明、あるいは、全道里万二千里だけでは、魏使派遣は不可能だったと見るものである。何しろ、行程上の諸国に、到達予定とその際に所要労力、食料などの準備が必要であることを予告し、了解の確約を得る必要があるから、全工程一万二千里との情報、狗邪韓国まで七千里などの大雑把な道里次第では、難題は解決しないのである。いや、当然極まることだから、記録されていないだけで、ちょっと考えれば、他に選択肢はないのである。
 当時の事情を推察すると、「全道里」万二千里が、何らかの事情で、実際の道里に関係なく、公認されていたために是正不能で 、部分道里を按分して、設定せざるを得なくなり、制度上の欠落を補足するために、実態に合わせて、全所要日数、都合「水行十日、陸行一月」 を書き込んだと見えるのである。帯方郡の言い訳としては、倭地には、馬車も騎馬連絡もないから、徒歩連絡のみであり、道里だけでは、実際の所要日数が分からないので、別途精査したということになる。
 下読みすれば、景初年間に、そのような訂正された道里行程記事が、既に記録されていたのが、陳寿によって倭人伝記事となったと見ることができる。案ずるに、後年の裴松之が、道里行程記事に異を唱えていないのは、そのように史書として筋が通っていたからであり、結局、陳寿が認めた内容で良しとしたのである。以上が、当ブログ筆者の考える筋書きである。

 長大な一連の記事が「従郡至倭」と書き出されているように、本来、行程記事は、通過諸国を列挙した後、最終目的地「伊都国」に「到る」のが、要件であったと思われ、付加して最終目的地を発して四囲に至る記事と見ると、もっとも筋が通るのである。筋が通らない解釈を好まれる方には、「倭人伝」の有力な同時代読者である皇帝や有司/高官は、面倒くさい理屈は不要であり、さっさと結論を示せと言うだけだったはずである。

 その解釈を妨げるのは、魏使が伊都国を経て邪馬壹国に至る解釈であるが、「魏使行程記録でない」とすれば、論者の面子は保たれ、恥の上塗りになるような異議は回避される。
 
 「倭人伝」道里記事解釈談義は別記事に譲るが、諸処の記事で明らかである。むしろ、「行程最終地が邪馬壹国であり、そこに到るまでに、(傍線行程と明記している)奴国、不弥国、投馬国を通過した」との頑固な思い込みが、大局解釈を阻止していると見える。いや、業界の大勢が、そのように勘違いしているから、論者が、それに染まっていたとしても、別に恥ではない。勘違いに気がつくかどうかである。

 事程左様に、解釈以前の下読みが、曲解/正解の岐路である。

4.論争の原点(第6章)~無残な改竄説提起
 ここまで、高い評価を続けていたのだが、最後に、氏の愛蔵する「改竄説」の「魔剣再現」である。結局、氏が、倭人伝道里行程記事を適確に解釈できないために、責任を原典に押しつける「付け回し」である。まことに勿体ないので、氏自身でツケを精算するように「猛省」頂きたいものである。

◯まとめ~ダイ・ハーデストか
 氏は、好著の最後に改竄説を呼び込み、因縁の躓き石でどうと倒れている。
 1~3の見過ごし、勘違いは、年代物とは言え是正ができるが、4は、容易に是正できない重大なものである。理屈を捏ねても望む結論に繋がらないために、無法な後づけに逃げているので、「病膏肓」、「最上級のダイハード」である。
 氏の不評は、「熊本」にも、「くまモン」にも、大いに不幸である。

                                以上

新・私の本棚 番外 ブログ記事 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」

 邪馬台国探訪 makoto kodama「古田案は水行主体の行路でも成り立つのか?」2023-02-05
                             2023/02/11
◯始めに
 勝手な言いがかりと言われないように、(ほぼ)全面引用です。教育指導のための資料利用は、著作権の対象外です。

*引用とコメント
Makotokodama
*滅多に見られない「非凡」でしょうか。県境入り白地図など三世紀に存在しないので無意味です。
 末羅国~投馬国が万余里、図で帯方郡~末羅国と同様に意味不明の表示ですが、由来は不明です。主張した人間を批判すべきです。
 薩摩国、都万国は、当記事の議論には無意味です。未知の南西諸島に投馬国を置く思いつきは「非凡」な神がかりですが、問題外です。

古田案(邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く)の場合、
古田氏の言う魏使団に韓国内や対馬と壱岐内を陸行させる説は前回指摘した如く、一切成り立ちませんが、この発想を使った説には他に魏使団に韓国内を陸行させず、上の図のように、水行主体に邪馬台国への道程を辿る説もあります。

*「案」か「説」かは別儀として、第一書『「邪馬台国」はなかった』で「邪馬台国」を否定した古田氏に「邪馬台国」と言わせるのは、前回同様、随分難儀です。
 古田氏は、魏の官吏でないので、魏使に「陸行させる」ことはできず、他の論者も同様です。道程を「辿る」とは、重ねて意味不明です。
 又、倭人伝道里記事を、魏使の実際の道程と見る「仮説」は、古田氏ならずとも、大半の論者に共通して同意していて、ほぼ定説と化しているようですが、倭人伝を丁寧に考証すれば分かるように、単なる早計の勘違いで無効な臆測です。

 と言うものの、古田氏が主張していない「発想」を、お手盛りで古田氏に塗りつけるのは無茶ですよ。 

しかし、この説の場合には、投馬国へ至る南水行二十日の起点を何処に置くかが問題となります。

誰がどこで唱えたか分からない、勝手な思い込みと見える「説」の論義は、無駄です。
 投馬国に至る行程の始点は、榎一雄説は伊都国、古田説は不弥国と立説しています。この場の思いつきとは、格が違うのです。
 又、古田氏の言う「水行十日、陸行一月」は投馬国に関係ないので、 何の問題も無いのです。つまり、貴論は、空振りです。

仮にその起点を邪馬台国と同じ帯方郡に置いたなら、帯方郡―末魯国が水行十日だから、末魯国―投馬国は残り水行十日となるが、帯方郡―末魯国と末魯国―投馬国は同じ萬余里だから、投馬国は沖縄辺りに置かざるを得なくなり、薩摩国(鹿児島)や都万国(西都)のような、九州本土内に置くことはまず不可能です。

*何か、しきりに呪文を唱えていますが、それにしても、「邪馬台国と同じ帯方郡」とは、これまた「非凡」です。
 倭人伝全道里 都合「水行十日、陸行一月」の「水行十日」は、狗邪韓国~末羅国三度渡海で満腹で、これ以上消化できません。少し説明すれば小学生でも分かる理屈です。全道里の勘定に入っていない投馬国を投げ出しても解決しません。

いずれにしても、邪馬台国へ至る南水行十日陸行一月の起点を帯方郡に置く説は、古田氏が単に自説に都合良く距離を合わせる為に思いついただけと思われ、何の根拠もない説なのだから、どう頑張っても成り立ちようがありません。


*根拠が読み取れないのは、視力の問題なので、不問とします。
 「古田案」と矮小化しながら「説」とは「猛省」したのでしょうか。
 古田氏の動機はご推察通りでも、動機の否定は論争上無意味です。

つまり、深く考えもせず、単に自説に都合が良いからとして、安易にこの考えを自説に取り入れている論者の方々は、猛省する必要があると思うのであります。

自分の論説に都合の良い知恵を採り入れるのは、誰でもすることです。考えが深いか浅いか、他人の知ったことではないのです。
 全体に情感豊かな書き飛ばしで文章が泳いでいますが、論義は論理的に進めたいものです。「猛省」は、し過ぎることはないのです。
 当稿が、手厳しく皮肉になっているのは、凝り固まった思考をほぐせるように熱いお灸を据えているのです。不謝(謝礼不要)。

                              以上

2023年2月 7日 (火)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「卑弥呼はすでにお婆ちゃん?」

卑弥呼はすでにお婆ちゃん? 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」 2022-08-28
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/07

◯はじめに
 別記事の総まとめの補習授業です。改行削減御免。
*補足(2023/02/09)言い忘れの追記です。
 「お婆ちゃん」は、大変な、重大な勘違いです。生涯不婚の巫女(みこ)には、「お婆ちゃん」と親しんでくれる孫は、「一人もいない」のです。もっと、丁寧に書くことをお勧めします。

*引用とコメント
(卑弥呼)年已長大
広く一般に解釈されている説は もうすでに年老いてる、すでに年寄りだ、すでに年取ってる、のように解釈されていて 私も、 テレビ·雑誌·書籍等で多くはそのように説明されていたので いままで卑弥呼の年齢はすでに高齢だと思っていました。

*「広く一般に」と国民大勢めかしていますが、卑弥呼論義は、「極めて限定」されているでしょう。それとも、数で数えるのでなく、目方で量るのでしょうか。大勢の人の「解釈」が、なぜわかるのでしょうか。いい加減なことを行って風評を掻き立てている人の口まねは、感心しないのです。

しかし 中国人にこの箇所を確認したら すでに年老いてる、すでに年寄りだ、すでに年取ってる、すでに高齢 の意味にはならないという

*どんな中国人に聞いたか不明です。意味を知りたかったら、辞典で「長大」を引くものでしょう。

素直に解釈すれば すでに大きくなっている、すでに成人してるのイメージだという

「イメージ」は、インチキカタカナ語ですが何の意味でしょうか。中国人も同病なのか。「大丈夫」ですか?「もう子供じゃない」が普通の表現です。中国人が『素直』とは、初耳です。

すでに年取ってるなら(卑弥呼)年已長老と 老の単語を使うとどの中国人も教えてくれます

*どんな「中国人」ですか。十億(十万万)人の意見は、聞けるはずがないでしょう。日本語側で言うと、『すでに年取っている』との日本語表現はありません。

年已長大は、その人がイメージしているより大人になってる場合、たとえば幼い時を知ってるがその後久しぶりに会って、成長して大きくなった姿を見れば長大を使うし、ただ単に長大をつかえば成人しているイメージの様です

一つ目の「イメージしている」は、「想像している」なのでしょうが、二つ目は「絵姿」のようです。英語で、「image」は、主の御子の姿のことです。それにしても、『その人』とは、どの人でしょうか。

この箇所、年已長大のこの後に,無夫婿、夫(婿)は、いないという言葉があり、
子供じゃなく卑弥呼はもうすでに成人した女性だが結婚はまだしてない(旦那はまだいない)ということを伝えたかったのだと思います

古代上流社会で、女性は早婚であり、成人となっていても、配偶者がいなくて実家の親元にいるというのは、未婚(まだ)ではなく、(当然)不婚の意味と解されます。勿論、嫁ぎ先で、旦那をなくした後家さん、つまり、婚家を継いで、残された子供を後見しているという意味は、全くありません。

確かに『卑弥呼は歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』とは一般的には言わないし、書かない。その様な訳では文章的に意味がおかしいので、やはり 『卑弥呼はすでに適齢期を迎えていたが夫はまだいない』という風に解釈したほうがいいかもしれません。

すでに適齢期」と「文章的に意味がどうこう」は、日本語として理解困難です。それ以前に、『國』を代表する女王に対して『歳をとってお婆ちゃんだが、夫はいない』の侮辱発言は、親魏倭王に列されている高貴な女性に対して、『根本的にあり得ない」のです。タレントのゴシップをSNSに曝しているのではないので、失礼にならないようにご注意下さい。

私が不思議に思うのはなぜ「卑弥呼はすでに成長(成人)している」と解釈した人が居たと思いますが、その人達の説はキャンセルされて、「卑弥呼はすでに高齢である」と解釈をした人達の説が何故まかり通ったかということです。

東夷の一部で文章理解に関係ない「卑弥呼」像が「相伝」されています。「長大」は、「成人する」(最近成人した)「動詞」で、已に/早々に誤解です。それにしても、勝手な「キャンセル」で、損料は発生しなかったのでしょうか。意図/意味不明です。
 まかり通ったと見えるのは、「人達」が、公道(Highway)の真ん中でのさばっているからであり、別に「まかり通って」いるのではありません。まかり通っているのなら、とうにどこかに着いているはずですが、どんより居座っているだけなので、何も変わらないのです。

今ネット上でもこの件とは関係なく、いろいろ情報が有りすぎてどれが本当で、どれがフェイクなのか 問題になっていますが

*「ネット」は「全く」無関係です。すべて真偽の判断が必要です。それにしても「有りすぎ」は賞賛か。困った風潮です。

ネットのない時代に (卑弥呼)年已長大→(卑弥呼)すでに年老いてる。のような間違った情報(解釈)がどうして拡散してしまったのか(まかり通ってしまったのか)? 私にはとても気になる疑問の一つです。

*疑問を持っていただけのはずが、いつの間にか、「間違っている」と一刀両断していて、奇怪です
 推定できるように、信念の人は「間違っている」と自省しないので、延々と俗耳、つまり、批判力のない一般の方に刷り込んで相伝しているからです。貴兄は、そのような祖師体制と縁が薄いと見えるので、ここでえらそうに「指導」しています。

 卑弥呼若年説は、とりあえずは、古田武彦氏の提言で有名であり、無断引用は失礼です。勿論、賛同している方は、一人や二人ではありませんが、何人いるか知らないし、身体検査もしていないので、数的にも量的にも、そして、一番肝心な質的にも、評価しようがありませんので、同説の評価に繋がる表現は控えます。

 以上の「先生」は、現代の日本語でも中国語でもなく、本来の意味である「先に生まれた年上の人」、「年長者」というだけです。古代中国語で、「老」は、豊かな知識をもち尊敬を集めている年長者という意味で大変な尊称です。

                                以上

2023年2月 5日 (日)

新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 新考

 岡田英弘 著作集3 藤原書店 2014/01 
私の見立て ★★★★☆ 峨々たる労作 ただし毀誉褒貶交錯 2023/02/05

◯はじめに
 本書では、氏の三世紀観が、煮崩れしていて誤謬が露呈している。是正提案は考えつかない。『「倭人伝」は魏朝記録者の歪曲』と断じられたのに従うなら、「三世紀の事実」は求めようがない。いや別に深遠ではない。
 本書は、岡田氏の業績の集大成である「岡田 英弘 著作集」の一巻であるが、岡田氏ご自身は、論説集大成の労を執ることができず、諸著作を綴じ込んだ形式となっている。従って、氏の見解が、氏自身によって克服されている場合も、旧著は、上書きされることのない金石文の如く温存されているので、読者は、本書を通読して氏の深意を読み取る必要がある。
 そのような変遷の一例として、氏の名言とされている「倭人伝」道里記事評価、つまり、『郡から倭まで万二千里という里数は、陳寿が魏志編纂にあたり、西方の大月氏国と対照し、鏡像として対称の物理的、かつ、象徴的位置に「倭人」を想定したために、一種「虚構」として設けられたものである』という深長な断言が、後年になって「ひっそりと取り下げられている」のだが、かくのごとく燦然とした氏の偉業の最終表現」が、理解されることなく読み過ごされているのは、大変勿体ないことである。二千年後世から知りうるはずのない、陳寿の内心の動機を、氏が勝手に代弁したという「非礼」は、ここでは言わないこととしても、ということである。
 氏の後継者は、氏の前言撤回を押し隠すことなく、厳正に表明すべきと思うのである。
 即ち、史学者としての氏の業績を正当に顕彰するには、氏の最終見解に適正に言及すべきものと思うものである。

壱 資料の輻輳疑惑 (166ページ付近)
 第一例として、氏は、『倭人伝に明記の二回の訪倭紀の報告書が統一されず、陳寿によって、無批判に綴じ込まれたのが、現在の倭人伝の混乱の素因』という。当初表明された「倭人伝」は歪曲された』との視点が、大きく変わっているが、翻意の根拠は示されていない。
 多年に亘る「倭人伝」検証にあたり、先賢諸兄姉が、倭人伝考察の当然の過程として、『行単位で行文を精査し、想定される「出典」を仕分けして、解釈の筋を通している』のに対して、氏は、二件報告書が、「指揮系統の異なりで隔絶して相互検証不能であったため、不統一で交錯した」と納得/総括されていて、さっさと店仕舞いである。

 確認するまでも無く、両次派遣の報告書は皇帝に提出され、公文書庫に収容されたものである。『原文は「門外不出」、「不可侵」、「不可触」』でも、「史官」は、要所に保管された副本を閲覧できるので、随時突き合わせることは容易であり、氏の空想は的外れで、その指摘は空転している。
 凡そ、官僚組織において、報告、審査、指示、記録の流れは、いわば、生命体の血管、神経、血流に相当する生命活動と同様の必須のものであり、絶えることなく維持されているが、それに気づかない後世人は、異常時の変事が史書に記録されているのに着目して、そのような変則事態を常態と見てしまうようである。帝国の活動は、常に健全であり、健全であるから、大国が長期に運営できるのである。そして、変事が募って、変事が当然になれば、国家は崩壊するのである。民間企業も、概して同様の規律で動いているのであるが、ここでは、圏外なので、深入りしない。
 岡田氏が、事態の底流を見過ごしているのは、三世紀当時の官人でないので無理のないものと思うが、史書に記録されているのは、国家歯科医の上層部の視点で概括されたものであり、その概括の際に、当然国家視点にとらわれることはあるだろうが、丁寧な考察によって底流を見通せば、帝国の基礎は不偏不党であることが見えるはずである。私見御免。

*史官の本分
 そのような、往々にして語られることのない自明事項を抜きにしても、「正史編纂に際して、史官は、原史料を編集操作する」との「予断」は、深刻な誤解である。一歩踏み込めば、「徹底的に謹厳な史官は、徹底的に編集操作する」と示唆しているものである。
 誠に惜しいかな、岡田氏は、「史官」の職務、天命に疎いのであろう。ことは、(中国)史学の視点からは、「自明」であるが、ここで再確認すると、「史官」の「史実」は、第一に、帝室書庫に厳正保管されている「皇帝の承認を得た公文書」であり、「史実」を順当に承継するのが天命であって、小賢しい編集是正は「論外」である。原史料たる公文書資料は、いわば「史実」の根幹であるから、批判も是正もせずに、あくまで史料に忠実に史書を編纂して「後世」に伝えるのが『鉄則』である。
 このあたり、時代錯誤の後世東夷は、総じて、史官の責務の本質と重みに 気づいていないようで、困ったものである。正史編纂者の「深意」を知らずに、的確な史料解釈ができるはずがない。

 当時、「世界一」の文筆家である編纂史官が、後世東夷に容易に見て取れるような「不備」に気づかないはずがないのは明らかである。気づいていて、記事のほころびを繕わなかったのは、それが、史官の使命に反するからでは無かったかと思われる。つまり、史官は、公文書史料に改訂を加えず、要点を割愛せず、その上で、最低限の補筆を行うことにより、「史実」の承継に全力を費やしたと見るべきではないだろうか。
 当然、皇帝以下の有司高官も、史官の志が、帝国の権威の証しであると承知していたから、史官の筆に手を出さなかったのである。漢武帝は、司馬遷の執筆に干渉して、自身と実父の帝位一代記を持ち去り、以後執筆を禁じたため、千載どころか、二千年先に至っても不朽の悪名を醸したのである。従って、これほど表立った干渉は、空前絶後となったのである。

*不可侵資料
 公文書史料の基本として、当代、前代に拘わらず天子が認証した公文書は「不可侵」が、当然の大原則である。史官がこれを改竄したとする岡田氏の暴論は、「史論」上論外とせざるを得ないのである。ここで「史論」とは、当然「中国」で蛮夷は含まない。当代天子は、前代天子から、禅譲を受けたものであるから、公文書の「不可侵」原則も、維持しなければならないのである。断り書きしていないが、議論しているのは、三世紀、後漢魏晋代の話である。晋代でも、西晋崩壊後の以降は、論義の外であり、当然、以後の劉宋以下も、同様に維持されたものかどうかは、わからない。又、魚豢「魏略」は、正史たらんとして編纂したものではないから、その思うところは不確かである。
 岡田氏の論考に戻ると、氏は、事ごとに明言されているように「中国」視点を志すものではなく、時に「天子と蕃王の交渉」なる時代錯誤で的外れな創作夢想を採用されているが、倭人伝論においては、論外とさせていただくのである。また、氏は、屡々、豊富な異世界/時代見識を掲げられて、よくわかっていない三世紀中国史料の厳正さに、バラバラと疑念を振りかけられているが、表層的な意見であるから、時代の根幹に妥当な根拠を持たず、風が吹けば消し飛ぶものにとどまっている。勿体ないことである。
 以上、あくまで一例であるが、氏の墜ちられた陥穽は、ご当人に認識が無くても、それ以外の箇所でも、気づかないままにくり返し墜ちていると見て取れる。例えて言うなら、体中、痛々しい打ち身とあざだらけであるが、誰も看護しなかったようである。誠に、誠に勿体ないことである。

弐 大月氏/貴霜国の真相  126ページ
 二例目では、通常、後世東夷の知りうるはずもない、三世紀首都洛陽の政治的な事情を、見てきたように、付加、粉飾されたので、折角の論義を形無しにする蛇足となっている。威勢が良い一刀両断をフル分けているので、少なからぬ読者の強い支持があって、屡々引き合いに出されるが、素人目には、一つの虚構と見える。
 合わせて、陳寿が、史実を改竄したと重大な非難が浴びせられているのである。

*見過ごされた見解撤回
 本書の谷間で、氏は、「魏志に西域伝がないのは、倭人は新規、大月氏は旧聞で陳腐のため」と慧眼わ呈されている。冷静であり、一刀両断などではない。ここで、世上に溢れている陳寿の冤罪を、一凪の如く雪がれたのである。
 本書に、前言撤回発言はないが、岡田氏の業績を総括する本書であるから、これは、決定的翻意、玲瓏晩節と見る。自然、「倭人伝里程は月氏問題に無関係」の判断が示されているのであるが、旧著御免で、該当部分を遡行改訂はされていないから、見かけ上は、一世風靡した武断は健在である。
 と言うことで、当発言は、本来画期的な一大提言であるが、それ以降も、岡田氏の壮語が、赫々たる偉業として語られているのは、岡田氏の本望なのかどうか、素人目には、不審である。

 素人目には、大月氏は、元来匈奴と共に北辺侵略の盗賊で、西域亡命後も後漢西域都督に執拗に反抗し、ついには、西域から全面撤退させた主犯/元凶である。亡命寄宿先の貴霜国を併呑したか、されたか、盗賊国家か否か、大月氏の印綬を引き継いだか、盗んだか、まことにうさん臭いが、魏朝は、とがめ立てせず、奉っている。まさしく、「盗っ人猛々しい」というところである。
 長年、西域から退いていた後漢/魏は、暴れられるとうるさいので、手っ取り早く懐柔したに過ぎない。
 破綻した後漢の西域都督を継承した魏は、西域の入口である河西回廊に至る涼州の反乱、自立を平定できず、後には、涼州と蜀漢の連携で、さらに後退を余儀なくされていたので、西域政策どころではなかったのであるから、「涼州勢力を挟撃する大包囲作戦」として、西方に友好大国ありとの虚構を構えたと見えるが、むしろ滑稽極まる「誇張」の一幕と見える。
 いや、岡田氏は、当然そんなことはとうの昔にご承知のはずである。

 陳寿は、この悪漢に、大層な金印を授けた魏朝の愚行/不名誉の極みを隠したとも見え、岡田氏は、西域事情に疎いため、そのような背景を「軽視」したと見える。

*対等の西域大国「安息」、「パルティア」

 因みに、西方で、漢が唯一敬意をもって接していたのは、その西の安息である。
 何しろ、班固「漢書」西域伝によれば、「パルティア」は、今日で言うイラン高原からメソポタミアにかけての広大な国土に、騎馬文書使が疾駆する街道と宿場を置き、皮革紙に横書きする文字、文書の「法と秩序」の世界であって、その東界に当たる安息メルブ要塞に二万の大軍を常駐していたから、西域に溢れる小蛮夷などではなく、漢は、西域「諸国」で「唯一」敬意をもって「王都」と尊称していたのである。
 ちっぽけな東夷の新参者は、別の意味で対等の筈がない。いや、釈迦に説法であったか。

◯まとめ
 かくのごとく、氏の史眼の理知的で広範な見識を活かす提言を模索したが、氏が知悉した異世界/時代の多大な見識は、氏を、却って三世紀中国の理解から遠ざけたようであり、誠に勿体ない。いや、「史書」を熟読されてはいるのだが、氏の世界観が、当時の中国の現実に適合整合していないので、見当違いの解釈になっていると見て取れるのであるが、それ以上深追いしないのは、武士の情けである。

 それにしても、思いがけない回天の兆し/好機であった第二例は、氏の深意に従い「大月氏」を倭人伝の道里「誇張」、陳寿改竄説の根拠とするのをひっそりと撤回するのが、後継者が氏の晩節/名誉のための務めと考える。
 念のため追記すると、本稿は、氏の偉業を賞賛するものである。
                                以上

2023年2月 4日 (土)

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 1/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

◯総評
 世上の諸論で、本論は、珍しく「定説」の悪影響が少ないのに大変感心した。ただし、未熟な点が多くこれほどの明確な提言が、五年にわたって放置されているようなので、ほっておけないので、勝手に「指導」することにした。せめて、論議の対象になる「大人」(おとな)の論義の形にしてほしいからである。

 「指導」の内容は、善意の研究者に参考になると思うので、全文引用に近いこととした。教育用途では、著作者の許諾無しで引用利用できるという規定に則している。因みに、当方は、当記事によって何の利益も得ていない。なお、原文尊重のため、改行が過多であるとの見解はそれとして、手を入れていないのは、当然のことと思う。

 言うまでもなく、「指導」は、当人が読解しなければ何も意味は無い。所詮、当方に何の「害」も「益」もない。通りすがりの野次馬のことは知らない。

*引用と添削      長文御免
倭人在帶方東南大海之中
 ( 倭人は帯方の東南方面の大海の中に在ります。)
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
・意味が不明瞭な「又」を足すのは、余計です.一方、『「到」其北岸狗邪韓國』の「到」の解釈がすっ飛んでいます。記事一本でも、辻褄を合わすのに大変な労力が必要なのです。

(從郡至倭)
 群[郡]から倭に至るには・・・と書いてあり
(從郡至邪馬台国)
 群[郡]から邪馬台国に至るには・・・とは表記してません、なので魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではないことがわかります。
・趣旨は、ご指摘の通りです。それなら、なぜ、わざわざ念押しするのでしょうか。なら、何を書いたのでしょうか。いたって、「自然」な質問でしょう。

 倭国とは倭国という実在する1つの国家があるのではなく、倭人が住んでる所の地域(場所)と解釈したほうが良い。
・古代史文献を論じて、「実在する」とは不穏当です。
 「倭人」は、人を言うものではありません。「倭国」とは書かれていません。三世紀当時、東夷に「国家」などと言うものはありません。要注意。

 以前ソ連国がありましたがソ連国という国家がどこかの場所にあったのではなく、連合国の総称として使われてました。
「ソ連国」などと言う国は、一切存在したことがありません。要注意。
「連合国」(United Nations)は、合衆国、英国などの戦時軍事同盟を言うのであり、不適当な言い方です。また、それ自体「総称」であり、さらに「総称」とは、間違いです。要注意。

 倭国も倭人が住んでる場所の総称として使用していたと思います。
・「倭人」は、人を言うものではありません。「場所の総称」とは、なにかの勘違いでしょうか。この説明は、聞かない方が良かったのでしょうか。

                               未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 到其北岸狗邪韓國の其はその前の從郡至倭の倭を指します。
・「其」は、北「岸」という以上、「大海」の岸、海岸ではないでしょうか。もっとも、「大海」を「倭」と解するには、念入りな説明が必要でしょう。

 また狗邪韓国まで群[郡]から7000里[七千餘里]とだけあり、狗邪韓国の説明は有りません。
 ゆえに、狗邪韓国はまだ倭人が住んでる所ではないとわかります。
・「狗邪韓国は韓国である」と言うだけです。韓伝には、「弁辰狗邪」とあるだけで詳しい説明はありません。ますます、「倭人伝」で説明する理由が無いのです。とは言え、同国内に「倭」人が住んでいなかったと断言できるものではありません。因みに「まだ」が、不可解です。

 始度一海 千餘里 至對海國 
 (狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
「一海を渡る」を改竄するのは好ましくありません。以下同様。

 魏志倭人伝はこの対馬国から戸数とか環境等を説明を始めてます。
原文が「対海国」と書いているのを、原文にない「対馬国」と改竄するのは、好ましくありません。「環境等」は、意味不明です。以下同様。

 魏志倭人伝は倭人(倭国)の紹介してる条ですので、この対馬国から倭国ですよと説明が始まってます。
・「倭人」は「倭国」ではありません。「倭人伝」は単なる条ではありません。
 因みに、狗邪韓国条は、海岸を離れた時に、つまり、海に出たときに「倭人」に入国する趣旨と見えます。
 對海國は、そこから始まっていますが、何もそのような文字はありません。對海國に「至る」の意味ではないので、勘違いしないように注意が必要です。

 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
 (対馬国から又、南へ名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
・「一海を渡る」の理解が混乱しています。「瀚海」を渡るとは書いていません。もっと、丁寧に、緻密に読み解く必要があります。
 
 又渡一海 千餘里 至末盧國 
 「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
 又渡一海と書いてあり、この箇所には方向の表示がありません。
 そして中国船は九州本土の末盧国に着きました。
「一海を渡る」の理解が、引き続き混乱しています
・「方向が無い」のは、普通のことであり、重複の削減でしょう。一字一字が切実です。二回「又」と書いたので、埋め合わせに一字減らしたのでしょう。
・『「中国船」が末羅国に着いた』とは、唐突で不可解です。なぜ、原文を、そう書き換えて読むのでしょうか。
・以下も、そのようなことは書かれていません。付け加えると、当時は、「九州」「島」と知れていなかったのです。因みに、「本土」は、「九州」が「国」に等しいものと示唆しています。口は慎んだ方が良いのです。

 この後の説明は今、中国船がある末盧國が基準点で説明してます。
・改めて見なおしても、末盧國が基準点とは、同意できません。「至る」である以上、通過点と見るものでしょう。
・『今ある「中国船」』は、三世紀のことか、21世紀のことか、何のことなのか、いずれにしろ、不可解です。原文に書いていないことを書き立てるのは、不適切です。

                               未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 自動車を運転する方は、大きな交差点で、右に行くと何処何処、左に行くと何処何処、まっすぐ行くと何処何処、斜めに行くと何処何処と書いてある表示板を思い浮かべていただければご理解しやすいと思います。
 また、観光地、ハイキングコースなどで岐路がある場合矢印表示で右矢印は至何処何処、左矢印は至何処何処、まっすぐは至何処何処と書いてある道案内の板を思い浮かべると理解しやすいと思います。
・折角字数を費やしていても、何の説明なのか読者に伝わらず、全く不可解です。ご提案のような「全部文章で書いた案内板」が、この世のどこかにあるとも思えません。「大きな」交差点も、的外れで無駄口です。
 「自転車を運転しない方」でも、ナビゲーターとして同乗することはあるので、その意味でも意味不明です。折角理解しかけていたのをかき混ぜられて、説明を聞かなければよかったと思わされるのです。

 東南陸行 五百里 到伊都國
 「(末盧國から)東南方向に五百里行くと伊都国に到る。」
・「到る」とある以上、伊都国が当面の終着点と見るべきと思われます。
 東南至奴国 百里
 「(末盧國から)東南方面は奴国に至る。百里です。」
・以下、末羅国起点の道案内とするのには、同意できません。
 東行至不彌國 百里
 「(末盧國から)東に行くと不弥国に至る。百里です。
 南至投馬國 水行二十日
 「(末盧國から)南は、投馬国に至ります。船で20日です。」
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
 「(末盧國の)南は女王の都の所、邪馬壱国に至ります。船で10日、陸路で一月です。
「女王の都の所」とする「俗解」は、蛮夷の「王」、しかも蛮習である「女王」の王治に、太古の周王の「所都」に並ぶ至上の尊称を付していることになり、公文書である「倭人伝」の用語として、大変、大変不都合です。これでは、東都洛陽に住まう「天子」に匹敵する扱いであり、そのように不敬を語る史官は、失格してしまいます。(本当に、首を切り落とされるかも知れません。頓首。)
 「俗解」は、いくら大勢を占めていても、安易な誤解であり、正解としては、句読を改め、「都」を次の文頭に送り、単に「女王の所」と解すべきと思われます。いや、世界中の大半の読者が誤解を読まされているので、ここで正解を説いても、伝わらないとは思うのですが。

 すべて末盧國からの道案内的な説明箇所になってます。
・全体として、不可解であり同意できません。普通に読めば、「至る」末羅国は通過点、「到る」伊都国が到着点で、そこからの道案内と見えます。別記事で、現代中国人の講釈を引いていますが、古文解釈として、適切とは見えません。
 それぞれに、(末盧國から) と素っ頓狂な追記を付けて、ますます意味が分からなくなっています。解釈に際して、陳寿の書いていないことを書き足すのは、止めた方が良いでしょう。 「道案内的な説明箇所」の意味が不明瞭です。

 この箇所の説明をわかり易くする為にさらに不必要な個所をカットすると下記になります。
 東南到伊都國
 東南至奴国
 東至不彌國
 南至投馬國
 南至邪馬壹國

 東南は伊都國
 東南は奴国
 東は不彌國
 南は投馬國
 南は邪馬壹國
 こうすると、わかり易いと思いますが、ただ方向のあとに国名が書かれてるだけです。(並列に書かれてる)
・原文を無残に改竄していて、明解になった/したとご満悦のようですが、これでは、先ほどまでうっすら分かりかけた気がしかけていたのが、全く意味不明になっています。「カット」(削除改竄)したために、原文の要点がなくなっているからです。古典的な警句として、「赤ん坊を湯浴みさせた後、湯と一緒に赤ん坊まで流すなよ」と言うのがありますが、大丈夫でしょうか。あるいは、カツブシを煮立てたとき、湯の方を棄ててしまう「長屋の花見」の落語ネタの方が身に沁みるかも知れません。くわばら、くわばら。と言うことで、示された文例には、全く同意できません。
 世上、大抵の研究者は、自説の裏付けとするときは、引用文を部分削除して、勝手に改竄するので無く、()に入れるとかして、『「不必要な個所」を隠さない』ようにしています。それとも、それでは、こじつけがバレると心配しているのでしょうか。いずれにしろ、ここで無駄に十行が費やされているのです。

                                未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・「カット」、つまり削除(改竄しても)されているのは、道里などの要件であり、不必要ではありません。要件を削除して理解せよとは、改竄同然の理不尽です削除改竄しても、行数には差がないので、再掲載は、単なる行数、紙数稼ぎとも見えます。
・本論に還ると、「到」と「至」が、使い分けられていますから、違う意味と解すものと思われます。

 たとえば、其南、又南、次南とかの様に次に繋がる文字が有れば、移動してると理解できますが、上記の並列の書き方で伊都國の次は 奴国に行って、次は 不彌國に行って、次は 投馬國に行って、そして邪馬壹國に行くと解釈するのは不自然です.
・総じて、「何が自然か」の説明が必要です。ここは、原文解釈を試みているのであって、貴兄の理解を云々しているのではないです。

 どこにも連続(連動)して移動するとわかる言葉が使われていません。
《また、そこから東南に行って、又、そこから今度は東に行って、またそこから南と解釈するには無理があります。》
・ごっそり削除して全体の意味がわからないようにしておいて、ことさら用語を言うのは不可解です。「そこ」の乱用も、筋の通らない話です。古代史論考では、普通に言うと「無理」なことを押し通す、難易度極上の「曲芸」が「至芸」として、絶賛されるようになっているように見受けます。なぜ、「又」「また」と書き換えるのかも、不可解です。

 魏志倭人伝の始めの所で狗邪韓國から対馬国に至る箇所には始度一海と有り、次に対馬国から一大國に至る時は 又南渡一海 と又の表示があり、一大國から末盧國至る時は 又渡一海と又の表示があり、何々して何々とわかりますが、
当記事に於ける「又」の意義を適切に理解されている点には同意します。
 ちなみに、「又」は、「さらに」の意味ですが、「さらに」の語意として「次に」なのか「それとは別に」なのかは、不確定です。
 読者は、文脈を理解した上で、目的地への行程を一路描いた記事であると見ると、初めて「次に」と理解できるのです。
 とは言え、尻切れ蜻蛉では困ります。

 東南 到伊都國 (東南に行くと伊都國)
 東南至奴国 (東南は奴国) 
 東行至不彌國  (東に行けば不彌國)
 南至投馬國(南は投馬國)
 南至邪馬壹國(南は邪馬壹國)
 この箇所は、ただ単に東南はどこどこ、南はどこどこ、とただ文を並列に書いてあるだけで、
 どこどこに行って、そこから何処何処を示すことばがない。
蒸し返しの行数稼ぎはいい加減にして頂きたい。「行くと」「行けば」の気まぐれな使用/使い分けも不可解です。
 ここでは、「到った」伊都国以降は、「至」として、道案内しただけとの解釈が有力です。
 古来、倭人伝に示された帯方郡からの行程は伊都国で終わり、邪馬壹国は行程外」という見解が示されていますが、論理的な反論は見られません。

 そうしたいなら、たとえば、
 東南 到伊都國 (東南に行くと 伊都國に到り)
 又東南至奴国  (又、東南に行くと奴国)
 其東行至不彌國 (其の東に行くと不彌國) 
 其南至投馬國(其の南に行くと投馬國)
 又南至邪馬壹國(又さらに南に行くと邪馬壹國)
 という風に書かれていれば移動していることはわかりますが、この箇所にはその様には書かれていないのですべて末盧國からの場所説明になっています。
蒸し返しばかりで、さらに行数が進み、ページが変わり、原文改竄の過程が見えなくなっています。早く結論を言うべきです。
 聞いている方は、半分居眠りしているはずです。
・ふと見ると、背理法的に、不適当なお手盛り改竄例を提示した上で、「この箇所」とするお手盛り改竄例と比較して論じていますが、お手盛りとお手盛りの紙相撲で勝負されても、何とも言いがたいのです。
・以下、強引に「末羅国起点」の放射行程説を唱えて、榎一雄師の所説を踏み台にしていますが、榎師は、漢書などの典籍を踏まえて多大な考察を経た上で、伊都国が、当時、地域の政治経済の中心であったとの判断から、行程の要であると学会に対して提言したものであり、後世のものは、榎説を精査した上で、「不都合を指摘して、新説を有意義な改善説として提言するのが義務」と思うのです。榎説の原文は、読んだのでしょうか。
 先賢諸兄姉の所説を理解すること無く、お手盛り新説は、ちょっと、安直ではないでしょうか。

                                          未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・書かれていない字を補って改竄しているのは、理解の努力があと一息との現れです。いずれにしろ、日本語の「行けば」と同様「行くと」は仮定法であり移動しているとは解せないのです。「場所説明」とは何の意味でしょうか。

 東南陸行 五百里 到伊都國 
 「末盧國から東南方向に五百里行くと伊都国に到る。」
 東南至奴国 百里 
 「末盧國から東南方面は奴国に至る。百里です。」
 東行至不彌國 百里 
 「末盧國から東に行くと不弥国に至る。百里です。
 南至投馬國 水行二十日
 「末盧國から南方面に船で20日で投馬国に到ります。
「到ります」とは書いていません。

 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 
 「末盧國の南方面は邪馬壱国に至ります。女王の都とする所。
 船で十日、陸路で一月です。」
・最後に、重大な改竄を施して、それを前提にしているので、丁寧に指摘します。
 まずは、と句読を改めて、正確に、
 南至邪馬壹國女王之所。<改行> 都水行十日陸行一月。 
 と句読すべきと思われます。三世紀正式史書は、蕃王治所を「都」と称しなかったのです。
・「都」は、次行に送って、「都合」と解するのが、自然なものと思われます。

 この箇所の「水行十日陸行一月」を説明します。
 この「水行十日陸行一月」を水行十日して、
 その次に陸行一月費やして女王国に至ると解釈してる説が多数ありますが、
よく考えて頂ければ、どうしてそのように解釈されるのか判りません。
多数」、つまり、二、三なのか、十なのか、百なのか、千なのか、数すら掴めていない、山成す先行諸説を理解できていないことを吐露していて、理解する努力の不足は感心しません。

 水行十日陸行一月」をたとえば、
 「水行十日後陸行一月」、とか
 「水行十日又陸行一月」、
 「水行十日再陸行一月」とかの連動してますよと判る語句が有れば理解できますが、
 並列に「水行十日、陸行一月」とだけ書いてあれば、普通は水行なら十日、陸行なら一月かかる、と解釈できます。
 中国語学習的に例文を挙げれば、たとえば
 坐飞机要一个小时,坐新干线要三个小时。
 飛行機なら1時間、新幹線なら3時間
 开车去要一个小时,走着去要半天。
 車で行けば1時間、歩いて行けば半日(長い時間)かかるとなり、連続して動作してない(連動してない)表現になってます。
 なので、この箇所「水行十日陸行一月」は、水行十日更に陸行一月ではなく、水行なら十日、陸行なら一月。と解釈致します。
・聞くまではうっすら理解できていた気がしますが、どうにも、錯綜した例ばかりで、もう無理です。

                               未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

いくら、個人的に理解しやすいとしても、三世紀に存在しなかった「簡体略字と現代中国語日常文」で説明するのは、不合理です。当方の属する戦後一桁世代は、正字の「漢文」しか習っていないので、簡体字は、嘘字、宇宙人の文字なのです。新中国は、文化大革命と簡体字で、伝統の華夏文化を破壊したので、日本人に古典を教える資格はないと見えるのです。
・又、先に述べた「業界標準」ものの大きな見落としのせいで、本来、「都水行十日、陸行一月」であることを見過ごしているので、以上の議論は、全て空転していて、いわば、無効です。この部分は、「都合」、つまり、総日数を書いていると解するのが、伝統に忠実で、自然なのです。
 ていねいにいうと、「都」には、多様な意味があって、天子の住まうところと言う意味は、例外であり、前後関係から明らかで無ければならないのです。むしろ、「総て」の意味で使われる例が、圧倒的に多数なのです。
全行程四十日の長旅を仕分けすると、「水行」と解されるのが十日、残り三十日は「陸行」、都合、計四十日というのが、普通の解釈でしょう。読者、つまり、皇帝と周辺の有司、高官は、要するに、まずは、と言うか、それが総てというか、「行程の全体で何日かかるのか知りたがっている」のであり、提案の読みは、先賢諸兄姉の熟慮の成果でしょうが、読者にしたら悉く悪い冗談としか見えません。

 自女王國以北
 女王国より以北は
正確に読むと、伊都国、末羅国、一大国、對海國の周旋五百里の四ヵ国と理解できるのですが、おわかりでしょうか。因みに、「以北」には、女王国は入りません。女王国は別格ということも、理解の助けになるでしょう。

 其戸數道里可得略載
 その戸数、道程,距離は簡略には記載できるが
 其餘旁國遠絶
 その他の隣国は交流が遠ざかっているので
・丁寧に飜訳すると、四ヵ国に限り、『戸数と道里は要件の一部であり、口数、つまり、成人男子の人数に欠けているが、あえて「略載」した。』と言う意味と思われる。
 ご理解のとおり、「遠絶」は、道のりや交流を言うのでなく、交流が疎遠であると言っているのです。別に、近しかったのが疎遠になったと言う事ではないのです。何しろ、余傍の国は、大半、道里紹介も無いので、遠い、近いは分からないのです。勿論、古代史料で、隣国は無意味です。ご注意下さい。

 不可得詳
 詳細を得ることはできない(詳しくはわからない)。
と言うことにしているのです。「略載」すらできていないので、忙しかったら読み飛ばしてくれの趣旨です。
 全国七万戸の大勢を占める二万戸と五万戸の有力国の戸数、口数、道里が完備していないのは、不可解ですが、報告しない理由があったのであり、追求されないために、言い訳していると見えます。要するに、四ヵ国以外は統轄できていないとの表明なのです。

 次有斯馬國 
 次有巳百支國 
 次有伊邪國 
 次有都支國 
 次有彌奴國 
 次有好古都國
 次有不呼國 
 次有姐奴國
 次有對蘇國 
 次有蘇奴國 
 次有呼邑國 
 次有華奴蘇奴國 
 次有鬼國 
 次有為吾國 
 次有鬼奴國 
 次有邪馬國
 次有躬臣國
 次有巴利國 
 次有支惟國 
 次有烏奴國
 次有奴國 此女王境界所盡

                                未完

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私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

  (そして女王国より北にある国を次有り・・次有り・・と続けて紹介してます)
 次に斯馬国有り。
 次に巳百支国有り。
 次に伊邪国有り。
 次都支国有り。
 次に弥奴国有り。
 次に好古都国有り。
 次に不呼国有り。
 次に姐奴国有り。
 次に対蘇国有り。
 次に蘇奴国有り。
 次に呼邑国有り。
 次に華奴蘇奴国有り。
 次に鬼国有り。
 次に為吾国有り。
 次に鬼奴国有り。
 次に邪馬国有り。
 次に躬臣国有り。
 次に巴利国有り。
 次に支惟国有り。
 次に烏奴国有り。
 次に奴國有り。ここは女王の境界の尽きる所。
 この奴國は 前出に「東南至奴国百里」とあり、末盧國から東南100里のところにあるともあり、ここは女王国に属す一番端であるとも書いてあります。
・随分の行数稼ぎで、呆れます。楽譜めくりならぬ、巻物転がしの手がくたびれるし、大体、巻物がふくれて嵩張るし、ろくなことは無いのです。
・誤解しているようですが、「倭人伝」は、倭に至る行程と行程上の列国四ヵ国を報告しているのであり、それ以外の余傍の国は問題外です。
末羅国が地理的な女王国南端から百里とは、随分強引な解釈です。

 この奴國は2万余戸と記載があるのでかなり大きな国であると思います。
初出の「奴国」は、既に、行程外の余傍の国として、除外されているので、この論義は無意味です。「倭人伝」記事の女王国余傍記事に、細かいことをいうはずはないのです。「かなり大きな国」とことさら言う意味が分かりません。全国七万のうち、二万戸は、大変大きいかと思われますが、意味不明です。

 其南有狗奴國 (不屬女王)
 その南、狗奴国有り。(女王に属さず)
 其南の、其を女王国(邪馬台国)と解釈してあるものが多くまかり通ってますが、其南の其は文脈から素直に読みとれば奴國としか解釈できません。
・この「其」を前出の「自女王國以北」の「女王國」と解するのは無理で、列記した女王国に属する「諸国総体」の「南」というものでしょう。

                                未完

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光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 もし、女王國の南と示したいなら其南有狗奴國ではなく其を書かず、南有狗奴國とすればそういう意味にはなります。
 すなわち、
 自女王國以北次有~、次有~、次有~。
 南有狗奴國
 (女王國より北には~有り、次に~有り、次に~有り。
  南には狗奴國有り。)
 とすれば女王國の南には狗奴國があると読めます。
 しかし、この文章は、其南有狗奴國と其南と書いてあるので
 其南有狗奴國の前に書いてある次有奴國 此女王境界所盡
 の奴國の南としか解釈できません。
 日本語(和訳した文章)で確認した方がわかりやすいかも知れません。
 女王国より以北は その戸数、道程,距離は簡略には記載できるが
 その他の傍にある国は交流が遠ざかっているので 詳細を得ることはできない(詳しくはわからない)。
 (そして女王国より北にある国を次有り…次有り…と続けて紹介してます、)
 次に斯馬国有り。
 次に巳百支国有り。
 次に伊邪国有り。
 次都支国有り。
 次に弥奴国有り。
 次に好古都国有り。
 次に不呼国有り。
 次に姐奴国有り。
 次に対蘇国有り。
 次に蘇奴国有り。
 次に呼邑国有り。
 次に華奴蘇奴国有り。
 次に鬼国有り。
 次に為吾国有り。
 次に鬼奴国有り。
 次に邪馬国有り。
 次に躬臣国有り。
 次に巴利国有り。
 次に支惟国有り。
 次に烏奴国有り。
 次に奴國有り。ここは女王の境界の尽きる所。
 「その南」には狗奴國があります。
とすれば、「奴國の南に狗奴國有り」と読みとれます。
 「その南」とせず単に 「南」には狗奴國があります。
 だと女王國の北には**国有り、南に狗奴國有り
で、「女王國の南には狗奴國有り」と読みとれます。
 其(奴國)の南には狗奴國 がある。
と解釈したほうが、自然な解釈です。

・先賢諸兄姉に、正史記事の書き方を指導されているのですか?
・またまた行数稼ぎしていますが、むつかしい理屈は抜きで、これらの諸国があって、「それが女王国の全体であり、その向こうに狗奴国がある」というに過ぎないのです。原文を自己流に書き換えて論じる「改竄」手法は感心しません。
・「倭人伝」が、そのように読めと強制しているなら、当時、ここで、「倭人伝」はゴミ箱入りでしょう。つまり、国名羅列は、読み飛ばしてくれと書いているのです。按ずるに、全体で二千字の中に列記しているのは帯方郡文書に書かれていて、魏志編纂方針で割愛できなかったに違いありません。

 

 

                                未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」 9/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

・またまた行数稼ぎしていますが、むつかしい理屈は抜きで、これらの諸国があって、「それが女王国の全体であり、その向こうに狗奴国がある」というに過ぎないのです。原文を自己流に書き換えて論じる「改竄」手法は感心しません。
・「倭人伝」が、そのように読めと強制しているなら、当時、ここで、「倭人伝」はゴミ箱入りでしょう。つまり、国名羅列は、読み飛ばしてくれと書いているのです。按ずるに、全体で二千字の中に列記しているのは帯方郡文書に書かれていて、魏志編纂方針で割愛できなかったに違いありません。

 そして、次は
 (自郡至女王國 萬二千餘里 )
 郡より女王国に至る。万二千余里。
 自郡至女王國 萬二千餘里
 (郡より女王国に至る。万二千余里)
 この箇所を説明します。
 この箇所には、郡から女王国(邪馬台国)まで
 万2000里余りであると書かれてます。
 万2000里余りと万の前に数字がありませんが、
 1万2000里余りと解釈した方が自然でしょうか。
 この1万2000里を文中から推計しますと、
・初心者の素朴な意見として受け止めると、このような場合、一字節約するのが、「自然」でなく、知的な常識なのです。

横着して、原文にない三桁区切りの「算用数字」まじりで書いているための混乱なのでしょうか。漢数字では一万二千も、万二千も同一です。
・以下、またもや字数稼ぎには閉口します。巻物時代の再現でしょうか。

 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
 (郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
 郡から狗邪韓國まで7000里余り。
 始度一海 千餘里 至對海國
 (狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
 狗邪韓國から對海國は1000里余り。
 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
 (対馬国から又、南へ 名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
 對海國から一大國は1000里余り。
 又渡一海 千餘里 至末盧國 
 「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
 一大國から末盧國まで1000里余り。
 ゆえに、郡から末盧國までは
 7,000余里+1,000余里+1,000余里+1,000余里=10,000余里となります。
 郡から女王国(邪馬台国)は1万2000里余りと記載されているので
 末盧國から女王国(邪馬台国)は12,000余里-10,000余里=2,000余里
 という、数式が成り立ちます。

 ・数式に算用数字と等号の乱用は、「倭人伝」書法の重大な誤解であり、以下の推定が大きく曲がっています。
原文が餘里付きの千里単位概数と書いているのですから、せめて、誤解を防ぐために≒とし、漢数字の千里・万里単位とすべきです。
「魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではない」と書いたのを、お忘れでしょうか。行数稼ぎで、ページが飛んで失念したのでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 番外 ブログ記事 sinfu「光正解釈説 総纏集」10/10

光正解釈説 総纏集 「中国語学習と邪馬台国研究と家電修理等」2018-04-16 13:20:00
私の見立て ★★★☆☆ 丁寧な労作 ただし前途遼遠      2023/02/03

 ゆえに、末盧國から女王国(邪馬台国)は 2,000里余りになります。
概数計算しているのに「ゆえに」は、どえらい勘違いです。万二千余里は、千里、二千里を呑み込んでびくともしない大まか里数と思われるし、七千余里、千余里も同様に大変、と言うか、時代相応、環境相応に大まかと思われます。書いた人に合わせていくべきではないでしょうか。
三度の渡海各千余里は、海上であり、絶対測定不可能です。
・結論として、万二千余里から七千余里と千余里を三度引いた後に何が残るか、絶対に予想不可能です。

 光正解釈説で解釈した内容をまとめると
① 末盧國から東南へ五百里歩いて行くと 伊都國に到る。
② 末盧國から東南へ百里で奴國 
③ 末盧國から東へ百里で不彌國 
④ 末盧國から南へ水行二十日で投馬國
⑤ 末盧國から南へ水行で行けば十日、陸行すれば一月で
  女王が都する邪馬壹國
⑥ 女王國より北には 順に、
  斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 
  彌奴國 好古都國 不呼國 
  姐奴國 對蘇國 蘇奴國 
  呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 
  為吾國 鬼奴國 邪馬國 
  躬臣國 巴利國 支惟國 
  烏奴國 奴國が有る
⑦ 奴國は女王国の端である
⑧ 奴國の南には狗奴國が有る
  (女王国には属していない)
⑨ 末盧國から女王國は2,000里

・原文は無改行です。それにしても、「⑥ 女王國より北」は、不可解です。その他は、何の「順」なのでしょうか。
 原文の誤解は、できるだけ減らして欲しいものです。
・突如、餘里抜きの算用数字2,000里になるのは、数字自体の由来が不明なのに合わせて、異様な表現で不可解です。
・そして、不可解な尻切れ蜻蛉です。「総纏集」の態を成していないのでは、それこそ、締りがないのです、
・以上で、誤解の罪の軽いところで、「歩く」とは誤解です。中原では、馬車、時に騎馬です。数千里の徒歩行で、帯方郡を出た指令文書が倭に着くのに、何ヵ月かかかるやら。予測不可能です。
 ついでながら、現代中国語で現在地からどこかへ「行く」に相当するのは、「去」ですが、大変、大変、大変古くから常用されている漢字なので、古典漢文では、色々な意味があり、現代用法に囚われると文意を見失います。

・出過ぎた物言いとなりますが、「倭人伝」構成を推定すると、この女王国記事で正始の魏使派遣の事前説明記事は締めくくられ、以下、狗奴国風俗と見え、後日の訪問取材と見えます。
末羅国起点放射行程新説の不合理と「水行陸行」迷走、「女王が都する」錯誤は兎も角、水行・陸行の川船十日と街道歩行三十日並列は、理不尽の極みです。相談相手を間違えたように見えます。出発点で追分を誤ると、荒れ地に迷い込んでいくだけで結論に近づけないものです。

◯まとめ
 以上、「総纏」とあるのを真に受けた全力指導です。総じて、以上に書いたような初心者向けの査読(作文指導)がされていないのは、困ったものです。延々とダメ出しを続けさせられては、大抵の方は、口を挟まないでしょう。それでも、生徒が理解して取り組んでくれたら良いのですがね。
 独学で形式の整った文章を書くには、先賢諸兄姉の著作に学ぶ必要があります。勿論、過ちを踏襲する必要はありませんが、学ぶことは多いはずです。

                                以上

2023年2月 1日 (水)

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」続考 seit2023 1/4

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

◯始めに
 無名の論者のWiki記事を批判しても時間の無駄だが、一介の閑散ブログ主である当方記事に時間と労力を費やして批判記事を書いていただいたようなので返礼した。因みに、当ブログの署名はToYourDayなので、タイトルのパクリと合わせて二重の無礼であるが、無頓着に、引用符無しに万年好奇心少年の7文字を連呼した暴挙は、武士の情けでここでは問わない。

大作冢
万年好奇心少年は「念のため、子供に言うような念押しをすると、「大作冢」とは、大勢が寄っての意であり、「大冢」と言う意味では「全く」ない」と書く(参考文献14)。この部分の解釈は「大勢が寄って」と人数と解釈するものではない。石原道博は「大いに冢を作る」と大規模を示唆する(参考文献11)。小南一郎は「大規模に冢が築かれた」として、サイズが大きいと示す(参考文献12)。藤堂明保は「大規模に直径百余歩の塚を作っていた」とする(参考文献13)。つまり工事に従事した人数と解釈するのは誤りで、結果として作られた冢のサイズをいうのである。万年好奇心少年のいう「盛り土は、高くもなければ、石積みしていないので堅固でもない」(参考文献14)は解釈として誤りである。

 論者は、安直に「誤り」と裁定しているが、まず何より、当方が「鳥越氏ほどの先賢に、初歩的な事項を指摘することの非礼を詫びている」のを見落としているようである。当分野では、露骨に言わないと通じないようで、近来、角が立つ表現としているが、ここでは「魏晋代の史官に対して、後世の東夷の無教養な初学者が、安易に批判するのは不敵」とまでは表現しなかった。
 つまり、鳥越氏を尊敬して、同書で既に述べている同一文献、つまり、倭人伝内の「冢」を指摘していないが、論者は、知ってか知らずか、同一文献内用例を見逃しているか逃げているのか、素人目には不審である。
 何にしろ、批判対象の最大の論拠を(理解した上で)克服しないのは、論議の場で不都合である。
 例えば、当方は、「大勢」と言っているのは、倭人伝で紹介されている、いわば「家族葬」の姿と比較すると、「大勢」と言っているだけで、実際の人数は知る由もないから、数値化された「人数」を論じているのではない。不注意な読解である。「大勢」は、具体的な人数として勢力が特定できないときに、
不明瞭に論じる言葉である。例示された諸兄姉は、文書の流れとして、「径百余歩」に持ち込むために、話を「冢」の物理的な形状、つまりフィジカルを言おうとしているが、ことは、葬礼の記事であり、メンタルとして捉えるのが妥当ではないと思われる。論者の言うように、当時、目前に見えた「冢」のフィジカル、結果だけに囚われて、史官がこめた「礼」、つまり、メンタルを無視するのは、余りに、現代東夷の理解力不足を露呈しているのでは無いかと懸念する。
 先賢の箴言の如く、「倭人伝」は、三世紀の中原文化人が、同時代の中原文化人のために著述したのであるから、そのような観点で、著述者の深意を考察すべきでは無いかと思うのである。

 それにしても、批判の相手が長期間を費やした考察を、一向に理解しないで、つまり、無根拠で「解釈として誤り 」は、あまりにも「稚拙」である。子供であれば、「少年」を尊敬せずに罵倒しても許されると思っているのだろうか。世も末であり、この先いくら老妄しても、そこまでは墜ちたくないと思う。

 裁定前段で提示の先賢諸兄姉、各氏の諸論は、「倭人伝」文献解釈で、当方提示の論拠を認識していないので、正しく引用、評価されていないと思われる。その程度が分からないでは、子供以下である。

 以下、具体的に論じていくが、以上に述べた背景を理解できないのであれば、読むだけ無駄である。当方は、第三者読者の賢察を期待して、ここに公開しているのである。
 石原氏は、「冢」工事の規模の提起の点では、当方と基本的に軌を一にしている。「倭人伝」でそれ以前の「家族葬」に対し大規模なのであるが、比較対象を指摘していないので、単なる不明瞭な表現に過ぎない。
 小南氏は、断片引用を見る限り、『論者が「墓のサイズが大きい」と解したのは「サイズ」が三世紀にない言葉で不用意極まる』が、低次元の不明瞭発言となっているのを置くとして、本気で、つまり、マジで、「外形の大きさ」を論じたと言うなら、石原氏同様、何とどう比較した見解か明示する必要があると自覚していないのだろうか。自覚がなければ、言うだけ無駄である。
 藤堂氏は、「直径百余歩」と原文の「径百余歩」の数値を示しているが、いかんせん、三世紀倭人地域に於いて「径百余歩」が、いかなる数値か解明していないから、所詮意味不明と見られる。いくら熱心に意図しても、「倭人伝」の「冢」解釈を改竄できない
 藤堂氏は、「大きい」と不明瞭で無く、具体的であるが、「径」、「歩」が 解明されていない状態では、具体的な規模(形状の変形、誇張を含め)を全く数値化できないから、何を言っても、漠たる感想で、やはり不明瞭であり、学術的には、意味を成さない冗談/冗語でしかない。

 斯界の泰斗というべく諸兄姉に対して素人から言い立てるのはなんなのだが、中国正史のように、確固たる編集方針で編纂された文献については、当該文献の用例、特に、先立つ部分を最も優先して評価すべきではないかと思われるのである。(揚げ足取りされると困るのだが、諸兄姉の業績が、無策であったと総合評価しているのではない。たまたまの事例を言っているのである)
 つまり、この個所で「冢」なる用語の意味を斟酌する際には、倭人伝の直前の「冢」の用例を最も重要視すべきだとみるのである。特に、至近用例は、埋葬形式に関する記事であるから、そのものズバリとみるべきと思われる。当時の新規読者は、そうした手順で解釈を始めるものではないか。なら、現代、「日本」の諸兄姉も、文献解釈に当たって、素人に習うのを恥とせず、同様の手順を採用すべきものと思われる。少なくとも、文献解釈を公表されている諸賢は、「冢」をそのように堅実に解釈しているのであり、当方は、それにならうべくしてならっているのである。無学な素人の独学を侮られては困る。

 そのような状況を理解した上で、論者は「径百余歩」の正解を見通したと自負しているのだろうか。自覚していないのなら、それはそれでお幸せと言うしかない。
 学問的には、この記事の解釈で、「径」は、「冢」の外径とする説と、「冢」の占拠面積とする説と、どちらでもないとする説がある。俗に言う前方後円墳形状は、至近に書かれていないと言うか、三世紀当時、文明圏に存在しないので、外野で場違いであり、「倭人伝」解釈の論義に持ち出すのは、本来、学術的に非常識である。藤堂氏は、専門外については、当然、然るべき権威者と相談されたのであろうが、相談相手の意見を検証しなかったのか、できなかったのか、恐らく、俗説に染まったものと見えるのである。どんな専門家にも、限界は避けられないのは常識であるから、別に非難すべき事ではない。

 「歩」については、大別すると、素人考えの人の歩幅を基準とすると「歩」(ほ)する俗説系統と、中国古典資料を基に土地台帳の面積単位「歩」(ぶ)であるという正統派との「異次元」(一次元単位と二次元単位の混同)の二説がある。当方は、中國古典資料では、正答は解釈に挑んでいるので、「ぶ」に組みしていることは、機会ある毎に表明しているが、ここでは、議論の場に登場していないので、特に触れていない。
 中国古代史文献に疎い方は、知らないことの奔流で朦朧となることだろうが、そういう事情であり、くれぐれも、ことは、先に上がった諸兄姉の責任ではないので、そちらに始末を持ち込むものではない。

 結局、当方が書いたように「倭人伝」に照らすと、「冢」は、遺骸を地中に埋納した上に形成する「封土」、「盛り土」であり、地べたに盛大に盛り土した隆起に遺骸を収納するのではない。また、3世紀当時、曹操の影響下にあった中原官人の感覚としては、「無駄に大きい」のか、蛮人ならそんなものか、という程度なのか、どのように評価したのかよくわからないが、「倭人伝」は、倭人を侮蔑する目的で書かれたのではないから、さほどの不都合は書かれていないと見るものではないかと思われる。
 ちなみに、3世紀、ないしは、それ以降の現地人は、「冢」といわず、「大塚」とか「丸山」と「尊称」したようであるから、当時の「冢」の認識はどんなものか推定できるのではないか。いや、できないと言われても、どうしようもないのだが、それ以上は、任に余るので、ご勘弁いただきたい。 
 中国、朝鮮、東南アジアの現地調査をされた鳥越氏が、当記事をどう考えたか、目下未確認なので、意見は差し控える。

 ということで、倭人伝の「冢」は、「墳墓」では無く、「大塚」でも無く、「丸山」でもなく、又、まともな中国語では「絶対に」ない「前方後円墳」でも無いのは、明瞭である。文献解釈の一例として、よくよく噛みしめて欲しいものである。

 それにしても、よく知らないということは、この上なく幸せである。

*文献解釈の常道
「倭人伝」の文章解釈は、まずは、「倭人伝」自体によって解釈すべきだというのが、「基本の基本」(Elementary)と思うのだが、いかがだろうか。いや、思う、思わないはご本人の自由であるから、別に非難することは無い。ただ、その程度のことを知らないで、ボオッと生きている人は、その発言を信用できないと言うだけである。
 陳寿の語彙は、中国古典書を収容していたが、それでも、まず想起するのは、洛陽地域の教養人話法と思うのである。それが、知性というものである。いずれにしろ、まずは、「倭人伝」用例を尊重すべきである。

                              未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」続考 seit2023 2/4

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

徇葬
万年好奇心少年は「狥葬者奴碑百餘人」(三国志原文)について、『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と、「徇」とは葬儀に「従う」、つまり、葬礼に参列した者の意と解すべきと思われる』と書く(参考文献14)。この解釈は誤りであるからその理由を書く。第一に、三国志夫餘伝に「其死、夏月皆用冰。殺人徇葬、多者百數」と書かれる。はっきり「殺」と書かれている。第二に小南一郎は「奴婢百人以上が殉葬された」と解釈している(参考文献12)。石原道博は「殉死する者は奴婢百余人」と明快である(参考文献11)。藤堂明保は「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」と少し踏み込んでいる(参考文献13)。つまり、原文は殉葬があったとしか解釈できないのである。万年好奇心少年の解釈は誤りといえる。

 論者は、「誤り」と裁定しているが、まず何より、当方が、「徇」の字義に依拠していることから逃げているのが不審である。批判対象文献の最大の論拠を克服しないのは、まことに不都合である。
 論者は、陳寿「三国志」東夷伝扶余伝の「殺人殉葬」用例を唯一の根拠としていて、つまり、該用例が、孤立した異様な用例である可能性を無視して、「はっきり」書かれていると称しているが、「はっきり」の意味は、不明である。陳寿は、崩し字で編集指示したとは思えない。

*文献解釈の基本
 精緻な、つまり、高度な文献解釈の基本の基本として、「字が違えば意味が違う」のであり、特に、偏が異なる字は、相互に明確に異なった意味を持つというのが、絶対原則であり、ここでは、根拠無しにその絶対原則を乱したと史官を非難している。従って、学術的に見て、論者の意見は「誤り」である。要するに、文献解釈の基本を外した素人考えである。

 論者が回避している文献解釈であるが、野蛮極まる風俗記事の一環として書かれている扶余伝の「殉葬」用例は、閑静である「倭人伝」には、不都合であり、編者の各戸樽石、真意を見過ごして、誤字、誤写とする蛮習に賛同できない。

 要するに、小南、石原、藤堂の三氏は、それぞれ、原文を「殉葬」と改竄した時点で翻訳者としての分を越えて不適切である。ちなみに、「殉葬」なる用語は、中国古典書で希と見える。論者はご存じだろうか。
 『小南氏は、「奴婢百人以上が殉葬された」と書いている』と言うが、勝手に字を書き換える「改竄」に陥り、文法文意を誤解している。以下同文は略す。
 「徇」は付き添い進むことをいい、「殺された」という意味にはなり得ないから、小南氏は、翻訳者の良心に従い字を変えたかとも懸念される。
 『石原氏は、「殉死する者は奴婢百余人」としている』が、論者から明快と評されている。ただし、論者が素人考えで「明快」と感じたのは、論者ないしは同好の氏の「思い込み」に随うかのように、改竄解釈されているからである。よくよく、一字一字を吟味すべきである。
 『藤堂氏は、「殉葬した男女の奴隷は、百余人であった」とし、論者から「少し踏み込んでいる」と酷評されている』が、「ちゃんと踏み込まなかった」ことが「誤り」なのか、藤堂氏ほどの先賢にしては、不可解である。因みに、奴婢が「現代用語の奴隷」とは、到底思えない。もし寝る藤堂氏が冷静であれば、言い回しを変えたはずである。

 と言うことで、論者は、今回、四例を提示したが、いずれも、当方の基本的な論拠を克服してないので、論拠として不備であり、いかにも無意味である。『字義に忠実に、「素直に」、「普通に」、「するりと」解釈する』と揶揄されて、論者が平気なのも「鉄面皮」である。次第に刺激的な発言が増えるのは、不可避である。

 どうか、異論を提示する際には、丁寧に論拠を自己監査して頂きたいものである。論者は、勘違いされているようだが、当方は、思いつきを書き連ねている論者Wikiブログの教育的指導役を請け負っているのではない。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」続考 seit2023 3/4

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

万年好奇心少年は、白石太一郎氏の講演「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」を一部引用して、批判を行っている(参考文献15)。当該講演を筆者は聞いていないので、ブログに提示された引用が正確かどうかは定かではない。また講演自体は刊行や公表もされていないので、内容を確認できない。そこで引用が正確なものと仮定して、内容に問題がないか以下に検討する。

邪馬台国の所在地論争について
まず「(白石氏の)専門外の文献史学に対するご指摘」(参考文献15)についてであるが、「基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていない」と白石氏が語ったとされる。この発言は白石氏としては不思議なものではない。その証拠に白石氏は著書で「(魏志倭人伝)史料だけでは邪馬台国の九州説と近畿説の決着がつかない」(参考文献16,p.70)と書いている。
万年好奇心少年は「文献史学による合理的で単純明快な『問題』解明が妨げられ、世人の疑惑を招いている」と書いているが、文献史学だけで言われるような合理的な解明は誰にもなされていない。故に白石氏が「問題」解明を妨げていると書くのは不当である。白石氏はむしろ考古学の助けにより、文献史学の限界を突破しようとしているのである。

大型前方後円墳の出現年代
大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。万年好奇心少年は「力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではない」と書くが、この大型前方後円墳とは箸墓古墳以後の古墳をいうので、批判する場合はまずそれらが3世紀中葉ではないことを証明しなければならない。それなくして「無根拠の幻想」と書くべきではない。批判するなら、まず自分の主張が正当であることを証明しなければならない。
考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考える
万年好奇心少年は「手前勝手などんぶり勘定」と評するが、その主張の根拠は示されていない。万年好奇心少年は考古学的研究の内容を知らずして、不合理な批判だけを声高に言っているだけである。なお白石氏の講演の論拠は白石太一郎(2013)に詳しく語られているから、そこに記載されている根拠自体に正当に反論しなければ、正当に批判したことにはならない。(参照 2023年2月1日))

 当方記事に明記したように、白石氏講演は、『吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日』として、吉野ヶ里歴史公園のサイトで2019年時点で公開記事であったが、氏の著作物を全文引用するのは違法なので、「公開の会場講演を適法に部分引用した」ものである。公開中止の趣旨は知らない。

 当方ブログ記事URL記載割愛の趣旨は不明である。いずれにしろ論者は、当方の記事を批判しているので、以下、応答する。
 論者は、末尾で「白石氏の講演の論拠」と言及しているので、論者は当方の記事公開時点に実見したかと懸念される。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」続考 seit2023 4/4

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*批判の根幹
 白石氏講演に対する批判の根幹は、当該記事の冒頭で明言しているように、氏の権威を援用した考古学成果の操作による文献解釈の圧迫であり、白石氏が、考古学分野の頭領であるとしても、その権威でもって文献解釈を「指導」するのが合理的かどうかは、所詮、見解の相違と言わざるを得ない。
 勿論、白石氏ご自身に代表される、に師事する実務研究者ご一統の発掘研究成果を難詰しているのではない。

 「大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡るというのは、現代の考古学研究者の過半に及ぶ共通認識となっている。したがって、白石氏の説明は誤りとは言えない。」と、論者が、気色ばんで弁護せざるを得ないように、この意見は、素人目にも首尾転倒して、お手盛りである。
 近年、白石氏が強引に主張し「現代の考古学研究者の過半」が、相対的弱者として追従したかと懐疑するのであり、挙手で過半数としても、「主張」が学術的に正当と言えない。学問は、多数決ではない。鉄則は自明である。

 考古学の定則で遺物(遺跡)に紀年がない限り、考古学は絶対年代を確定できない」のも鉄則であり、「三世紀中葉」に「遡らせた」という発言は、自慢話の「軍功」自慢であって、学問的な主張とは思えないのではないか。
 要するに、本稿は、白石氏の頭領、研究組織の指導者としての器量と采配を批判しているのであり、そのような権威主義的な学問研究のあり方は、公共研究機関として、納税者の負託を裏切っているというものである。

 顕著なのは、白石氏が、我流の「倭人伝」の文献解釈を造作するとともに、造作された文献解釈を、さらに我流に引き寄せていることであり、それは、考古学界の泰斗として、遺物考古学の本分を逸脱しているという、大変高度な批判である。

 これは、批判の対象と何の所縁もないと見える無名の「歴史マニア」、現代風に尊称すると「マキムクオタク」略して「マキオタ」のやじうまが、横合いから小賢しく口を挟むことではない。素人の出過ぎた発言は、当方のブログだけで十分ではないか。

*批判の由来
 因みに、白石氏の旧著に対する批判を先だって公開していて、当方は、白石氏の業績や権威は承知の上で、偶々、当時は無償で参照できた講義公開を批判したのは、片言を捉えた、うろ覚えの聞きかじりによるものではない。
 白石氏に向かって、いまさら当たり前のことを言うのも何だが、本講演は、主催者の請託に全力で答えたものであり、氏が、見識を傾けた最善の内容と感じたのである。九州説牙城で九州説賛同者が大勢を占めると予想される講演で、一段と、説得力をこめたと見るから、真剣な批判に値するのである。いわば、NPB日本シリーズでの監督采配批判である。然るべき尊敬は、言わずとも当然である。

 とは言え、素人目にも、言外紙背も含め、一部行きすぎが見えたので、書き上げたのである。

                               以上

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 1/2

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 2/2

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 1/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*はじめに
 本書を購読したのは、近年顕著な「古墳時代の開始吊り上げの主たる提唱者が、本書著者白石太一郎氏である」という風説を確認しようとしたものです。結論を言うとまさしくその通りで、著者は肯定的な確信犯だと言うことです。

 言うまでもありませんが、当ブログ筆者の意見は、本書で公開されている論理の進め方に一般人として異論を唱えるもので、学術的な当否は対象外であり、まして、本書著者の権威を傷つけようとしているものではないのです。

*「考古学」と「古代史」の狭間
 本書冒頭の述懐で、古代史分野と一般人が捉える学術分野は、「考古学」と「古代史」の、ずいぶん土台も筋道も異なった二分野に分かれていることが、素人にもよくわかるように、説かれているのです。

*議論の分かれ道
 そうした前提が説明された後で、本書著者は、文献資料である魏志倭人伝の解釈と考古学の知見をすりあわせ、古墳時代の開幕を3世紀前半であると判断し、この判断に従うと、倭人伝の邪馬台国は、奈良盆地の一角ヤマトを本拠としたとの論理を述べています。この論争に良くある「決まり」主張です。

 もちろん、その際に、先に述べた、考古学の見る遺物、遺跡は、他の遺物、遺跡との相互年代、つまり、どちらが古いか新しいかという判断はできるものの、「絶対」年代、つまり、西暦何年であるとか、中国のどの王朝の何年という断定はできない、という考古学への定評を克服したと主張するのです。明確な結論が端的に導き出されると言うことは、その形成過程が「結論」に向かう強い指向性を持って進められていたのではないかと思われるのです。

*自然科学的手法の限界

 しかし、援用されている自然科学的時代判定は、どんなデータをどのような方法で検定したか明記されてないので一般論で批判するしかないのです。
 言うならば、考古学の持ち分である遺物、遺跡鑑定でなく、第三者である自然科学の観点からの判定ですから、その判定は、自然科学視点で支配され、考古学の立場から責任をもって検証できないと思われるのです。つまり、本書著者が慎重に遠ざた文献史学の年代検定同様、「部外者」見解なのです。

                             未完

新・私の本棚 白石太一郎 「考古学と古代史の間」再掲 2/2

            筑摩プリマーブックス154 筑摩書房 2004年
      私の見立て★★☆☆☆ 参考のみ          2017/02/10 2018/12/10

*「考古学」における科学的測定法
 データねつ造に至らないまでも、依頼者所望の結果を出すのが受託した科学者の仕事なのです。測定方法選択段階で測定結果が予想されることは珍しくないので、希望するデータが出るよう測定方法が塩梅されることは珍しくないのです。
 
 また、判定の条件設定は主観に左右されるのです。専門機関といえども、依頼元の意図が肯定される判定を出さねば依頼元を裏切ると考えて、測定方法を調整しデータ解釈を演出することはざらにあることです。依頼の際に強調することもあるだろうし、あうんの呼吸で忖度させることもあるのです。
 
 考古学者は、自身の学識知見には責任を持てても、自然科学的測定は、畑違いで責任外ですから、くれぐれもお手盛りにならないように、依頼からデータ受け入れまで慎重に扱うべきなのです。

*早計な判断
 そこまで言うのは、本書は、自然科学的判定によって古墳年代を比定していると見えるからです。更に、その判断を元に、文献資料解釈を決めているのです。そのような成り行きは、古典的な言い方では曲筆です。

 本書著者は、考古学者としてかくかくたる名声を得ている方と思いますが、一読者には、他分野の見解が耳に心地良ければ丸ごと受け入れるのは、考古学者の使命をおろそかにしているように見えるのです。

 しかも、ご自身で、最初に述べたように、考古学者の見識が揺らぐ原因として、外部分野見解の安易な取り合わせがあることを見抜かれているのですから、なおさらに、本書の主題となる「曲筆」は痛々しいのです。

*素人の意見
 当ブログ筆者は、遺物、遺跡を実見していないので、諸文献を精読して自分なりの意見を形成します。つまり、先賢の高説を元に文献を読み解くのですが、その限り、倭人伝に九州北部の局地的政権である倭が描かれているとする意見に大きく傾いています。
 本書著者は、深い学識で、ヤマトにあった地方政権が全国政権として広く統括するに至った「歴史の必然」を示されて、当ブログ筆者は深い敬意を持ってその展開を眺めるものです。
 ただ、そのような議論を文献資料とつなぎ合わせるために、たとえば、箸墓の造成に、卑弥呼の没後十年かけたとされるのはもったいない話です。
 堂々たる議論でも、文献資料を無理な解釈で歪めさせるとすれば、その発端となる、自然科学的判定を造作する進め方に賛同できかねるのです。
 まして、考古学を基本とした見解で、乱世の続く文献解釈を快刀乱麻のごとく武力平定するというのは、何か初心を忘れているように思うのです。

*最後の聖戦か
 思うに、本書著者は、ヤマトに対する絶大な愛着で冷徹な判断が妨げられていると見るものです。そのような先入観から遠い当方には、愛着に起因する先入観に立つ議論は学術上の論議として採用しがたいのです。

*主観的科学観
 当ブログ筆者の科学観は、そのような外部見解は、考古学者自身の見解形成に丸呑みして採用すべきでない、と言うものです。自然科学の判定が信用できないという話でなく、自身の学識および知見の範囲外のものは、(素人なりの)検証無しに受け容れるべきでない、というものです。
 当ブログ筆者は、工学系訓練を受け、企業内で技術的実務に携わり、場数はある程度踏んでいると考えてください。その背景から、科学技術的な測定と見解は、測定機器の高精度化とデジタル化によって客観的なものと思われがちですが、実は主観の影響を大きく受けると考えるのです。

 特に、先に述べた第三者機関は、業績を向上させるためには、いわば顧客である考古学者の意を迎えざるを得ないのであり、時には、「考古学者の意に沿わない判定結果であれば却下される」危険を示唆/明言されるものであり、それこそ、「高位の第三者機関」による厳正な研究成果監査が必要と思うのですが、考古学者からは客観性を危ぶまれる成果発表しか無いようです。

                           以上

2023年1月31日 (火)

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 1/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

◯始めに
 本件は、ブログ記事でもなく、衆知Wiki体裁であるが、一律seit2023署名であり論者として公開したものとして批判させていただくことにした。
 因みに、本件は、誠に人を食ったブログタイトルであり、古手のブログ主は不満であるが、それはこの際言わないことにする。

*批判と反論
 以下は、掲載記事の引用に当方の批判コメント追加であり、古典的喧嘩論法は極力受け流したが、反発は理解いただけるものと思う。
 因みに、氏は、細かく引用先を明示して公開されているが、特に意義がないと思われるので、批評の目的で引用した。

「鳥越 憲三郎」批判について
『「三国志」観~いびつな裁断』(参考文献2)と題して、「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」(参考文献2)と書いているが、前提不明の断定とする根拠は示されていない。「(裴松之は)目方や山勘で補注行数を決めたのでは」ないというが、鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。書いてもいないことによって批判することは当を得ておらず、批判の根拠にはならない。「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。裴松之の注によって、『三国志』は名著になったとする評価もあるくらいである。学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、それも欠けている

 論者は代理人として趣旨理解の教養有無が不明なので以下、順に説明する。
 「題して」と言われるが、小見出しか。タイトルではない。「前提不明の断定で、用語不明瞭で学術書として大変不適当」との引用で、本書に「前提」論拠が読み取れなければ意味不明は明らかである。無理難題は、ご勘弁いただきたい。
鳥越氏は「目方や山勘で補注行数を決めた」とはどこにも書いていない。は「揶揄」であるから原文にないが、「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したと明確に示唆しているように、鳥越氏は、史書の価値は「分量」と相関関係があると示唆しているから、映画のトラさんにしゃれめかして「つらい」と揶揄したのである。当然、「学術的」批判ではない。
 これでは、無根拠の誹謗、中傷と解されるからご注意いただくよう批判しているだけである。

「裴松之が数倍の分量にして補注」(鳥越(2020)、p.74)したというのは、間違っているわけではない。
 当方は、「裴松之補注が本文に数倍」の言い分が間違いと言うのでなく質的な点の指摘だけである。字数を数えず内容で勝負しろといっているのである。

『三国志』は名著になったとする評価もある
とは、何とも困った風評頼りで、拙論批判の根拠とならない。主観的な批評の一例では困る。百人に聞けば、何人か同意してくれる人がいるだろう。

学術的批判であるなら、どの書の何ページに書かれているなど、最低限の書き方が必要であるが、
 文の趣旨の斟酌は、文脈の理解が前提であるから、部分引用は、誤解の元である。特に、文意の読みがもつれるときは、本項の工夫が必要である。そうした配慮が理解できないなら、そうですかというしかない。

                               未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 2/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

承前
(引用)『南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立した」との不可解な論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨が、余りに唐突で、混乱しています。写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書「三国志」は、「散佚」せず健全に継承されたとするのが妥当な見方』(引用ここまで)(参考文献3)と万年好奇心少年は批判する。ところが原文は「宋の429年に成った『三国志』であるが、今はそれも散逸した」(鳥越(2020),p.74)である。原文通りの引用をせずに書き換えて批判するのはルールに反する。裴松之が429年(元嘉6年)に執筆し、皇帝に提出した『裴松之補注版三国志』は残されていないので、散逸したと言って間違いではない。現存する最古の『三国志』(裴松之補注版)底本は 紹興年間(1131年-1162年)の刻本であって、429年の手書き原本ではない。万年好奇心少年のいう「余りに唐突で、混乱」はまったく事実に反する。万年好奇心少年の書きぶりは、世の中を惑わす批判であり、有害無益なブログといえる。
「世の中を惑わす」とは倭人伝では、一女子卑弥呼が人心掌握したと賛辞と見え、お褒めにあずかったと感謝する。「批判」は、誹謗、弾劾で無い「批判」との指摘に異議は無い。「有害無益」は、論者の趣味嗜好であるから一身にとどめずお返しする。事実が分からず、全く事実に反するのは不可能である。
 因みに、論者から絶大な賛辞を頂くのは光栄である。以下同文である。

「史官裴松之の注釈が「大量」追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈は、大変な見当違いです。」(参考文献3)と万年好奇心少年は書くが、鳥越氏はそのようなことは書いていないので、捏造した引用である。鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。つまり補注により『三国志』が初めて作られたわけではない。さらに『原本三国志』はそもそも残されていないので、裴松之が補注を入れる前の状態は誰も確認できないのである。

 まず、「同時代に「魏志」を読んだ人間がいる」のは自明で確認を要しない。「誰も確認できない」も非学術的で同意しがたい。現代人が、二千年近い過去を見聞できないのも自明で、当世風自虐趣味かと危ぶむものである。
 裴松之は、当時最善とされた三国志原本に「大量の」注記を行ったのであり、当然、補注前の状態は承知していた。それが、科学的な議論と思う。別に同意されなくても結構で、せめて同時代人の意図を読み取って頂きたい。

 因みに、先だって、「『三国志』は名著になったとする評価もある」とあるのは、明らかに、「裴注版」に関する風評であるが、趣旨不明である。
万年好奇心少年は「現存最古の「三国志」の最有力な巻本は、宮内庁書陵部が管理している南宋刊本ですが、第一巻から第三巻が逸失しているものの、それ以外の全巻は、健全に継承されているので、とても、散佚とは言えない」(参考文献3)と書くが、宮内庁書陵部にあるのは、「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))であるから、陳寿の原本は失われている。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 3/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

 当方が「南宋刊本」としか書かなかったのは論点に関係無いからである。「晋 陳寿、宋 裴松之註」の百衲本(紹興年間(1131年-1162年))と論者が持ち出しているが、要らぬ紛争は、避けたかったのである。

 本論では、宮内庁書陵部が継承管理しているのは、普通「紹熙本」と呼ばれているが、「南宋刊本」で十分であり、また、これは「百衲本」でないとの定評がある。「紹興年間(1131年-1162年)」は、何の意味が不明で、論者の意識混乱と見える。要するに、聞く相手を間違えたようである。因みに、ここは、現在最有力な刊本と確認するだけでなく、二千字ほどの「倭人伝」原本を確定しないと議論が進まないので、公開史料を提示したのである。つまらぬ言いがかりには、関わり合わないのが最善であるが、つい一言してしまった。慚愧である。

原本にどのように書かれているかを知る方法はないという意味で、「散佚」と言って差し支えない。
 論者は、独特の「字書」をお持ちのようで、「散佚」と称して、三国志全体が「散った」「失われた」と言いふらすのは、大いに「差し支え」がある。何にしろ、正確に知らないことを間違ったままで高言するのは、罪作りである。

 わざわざ指摘したのは、論者の仲間から、意図不明の誤伝が出回るからである。中国史書の資料評価であるから、個人創作の字書は控えて、漢字字書を参照して「散佚」を解するものと思われる。何しろ、「三国志散佚」論は、途轍もない言いがかりと見える。

 史書「散佚」の好例として、関連資料で言うと、魚豢「魏略」は、善本が全く残存していないもので、史書や類書への断片的引用「佚文」が残存しているだけである。これに対比して、健全に継承されている正史が「散佚」したとは、読者に混乱を呼ぶのでは無いか。とくに、魏略佚文の倭人伝相当部分は、不正確な引用に「定評」のある「翰苑」所収であって、誠に断片的である。倭人伝も、ゴミの山なのだろうか。
 鳥越氏は、魏略佚文の史料批判無しに、陳寿「魏志」倭人伝は、魚豢「魏略」を写したものと称しているが、そのような不合理まで指摘すると厖大になるので、武士の情けで、割愛したのである。所詮、本項は、ブログなる身辺雑記の書評稿公開であり、これを「学術的」論考並に審査されても、困惑するだけである。まして、審査するのが、不出来な者ではどうしようもない。
 因みに、ここでは、「倭人伝」原本に書かれていた大半は健全に継承されていると見るのが、科学的な態度ではないかと言いたかったのである。魏志の冒頭3巻欠落もあが、ことは、魏志第30巻のことであり、論者が同意されないなら、そう言っていただければ良いのである。べつにか完璧というものではない。
 世上噂されている諸兄姉の判断の根拠は風の如く不明であるから、当方の意見を述べただけだけである。別に排他的に論じているわけでは無い。

万年好奇心少年の主張は単なる言いがかりである。
 「単なる」「言いがかり」とおっしゃる意味が分からないが、拙論は、「孤」つまり「隣」の無い一論であるから、「単なる」かも知れないし、事の取っつきを求めた「口切り」であるから「言いがかり」かも知れないが、それでどうしたというのか、一向に通じない。

 大事なのは、鳥越氏の唱えたと見える史料観が一方的であり、反論が必要だという意見であるから、内容についてご意見を頂きたいのである。

「鳥越氏は解説の冒頭で「『三国志』は陳寿が・・・合計65巻として完成させたものである」(参考文献7,p.76)と書いているので、裴松之の注釈が書かれる前に『三国志』が成立していることは、説明している。その後半に「裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った『三国志』である」と、『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』とは区別して書いているのである。」
 僅かな間に、『三国志』の定義が転々としていて、前後で意味が変わっているのである。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 4/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*解釈変調
 ここで、鳥越氏の解説を修飾しているが、原文を普通に、そのまま解釈すると、最終的に、裴松之が補注して成った「三国志」と断定しているのであり、氏が「三国志」と解しているのは、裴注の付されたもので有ることは明解ではないか。このあたり、鳥越氏の文意が読み取れないのであれば、もう少し謙虚に論じるものと思う。

 論者が『』で規定したという事は、学術的に『原本三国志』と『裴松之補注版三国志』が区別されるとの主張のようであるが、ここは、鳥越氏の著書の考察であるから、本書から用例を提示頂きたいものである。

「どのような「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見されたのか根拠不明です。むしろ、陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにしたと見えます。実地に判断すべきなのです。」(参考文献4)と万年好奇心少年は書く。その陳寿の知らない史料とは、たとえば王粲他編『漢末英雄記』、習鑿歯著『漢晋春秋』」、『魏武故事』、虞溥著『江表伝』などが挙げられよう。「陳寿がそれらの史料を審議した上で、採用せず割愛、ゴミ箱入りにした」(参考文献4)と万年好奇心少年が書くのは根拠がない断定である。

 当方は、鳥越氏が主張される「「新しい」陳寿が知らなかった史料が発見された」成る断定に疑義を投げかけただけであり、分量として原典に数倍すると明言していることから、文字数評価は不合理と指摘しているだけである。

 ちなみに、裴注の中でも、魏志第30巻の末尾に追加されている魏略「西戎伝」は、相当する魏志「西域伝」が存在しないから、0字に対して4000字余りが付注されていて、分量比は計算不能である。

 陳寿の一世紀半後進である裴松之が参照した資料の中に、陳寿が知らなかった「新しい」史料は当然あるだろうが、全体として、陳寿が、熟読吟味の上、不要と考えて「没」にした史料が少なからずあるという主張自体は、十分に合理的と考える。陳寿が棄却したと見ても独断ではないだろう。

*中国史官たる陳寿の使命感
 そもそも、基本に立ち返ると、陳寿は、帝国内の文書担当の手で、書き上げられ、承認を得て奏上され、然る可く皇帝の承認を得た「公文書」こそが「史実」で、これを正確に後世に残すのが使命と考えていた「史官」である。
 魏志で、東夷伝、特に「倭人伝」に関して、「史実」に不備がない限り、当時、洛陽に継承されていた「公文書」を引用したと見るべきである。これは、基本の基本であるので、異論があれば、根拠を提示頂きたいものである。

 「翰苑」残簡の倭伝部の魚豢「魏略」所引は、それは、偶々、(正確と検証されていない)引用文が編者の手元にあったと考えられる。「翰苑」編纂者は、「史実」の正確な継承を任務としなかったので、正確性の程は疑問である。その証拠に、「翰苑」は粗雑、つまり、低級な誤記、誤写が濃厚に散乱し、「それが較正/訂正されていない」事が、「翰苑」残簡史料批判のほぼ全てである。「翰苑」所収「魏略」佚文は、一切「信じてはいけない」と言うべきである。

 因みに、一部にある「魏略」私撰論は、とんだ言いがかりである。当時、部外者が公文書庫に立ち入って史料を渉猟するのは死罪であったから、魏略編纂は、史官たる魚豢に許容されていたと見るべきである。
 ここで、自明事項を端的に言うと、何事も例外はあり、例外があることが強固な論証であるという意見もあることを指摘しておく。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 5/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*延喜式談義
「道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、「延喜式」の旅費規定に示された旅程日数から考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。論証不備は、素人目にも明らかで、子供じみた書き飛ばしです。」(参考文献6)と万年好奇心少年は書く。鳥越氏は説明に「延喜式」を使っているが、古代の移動のための日数の推定に「延喜式」を使うことは許されると考える(参考文献7,p.93,105)。当時は歩くか、海路を取るしか手段のない時代であるから、交通手段を定めれば、要する移動日数に大きな違いはないと考えることは可能であろう。鳥越氏は「延喜式」は論証のために出したのではなく、疑問点を解釈するために、提示しているのである。万年好奇心少年はそれを曲解して批判している。

 論者は、声高々と指導されるが、当方は素人の「一少年」なので、許すとか言えるわけがない。合理的でない、根拠にならないと言うだけである。論者は、鳥越氏共々、軽々に「当時」を論じ「歩くか、海路を取るしか手段」と、移動手段を説くが、三世紀交通手段と延喜式の依拠する「交通手段」には相当な違いがある。
 論者は「大きな違いはない」と「考えることは可能」と逃げるが、公的「交通手段」は存在しなかったと「考えるのが可能」より合理的と思われるから、まずは、「存在した」ことを証するのに続いて、日数道里を、具体的に証した上で、そのような仮定を適用するべきかと思われる。早い話が、歩いて長距離を移動して目的地に生きてたどり着けるのは、途中に食料と水を提供し、寝床を提供する「宿駅」が、設置されているからである。つまり、食料と水が用意されている必要がある。十世紀には、街道があって旅人が往来していたろうが、七百年前の三世紀に、そのような制度があったかどうかである。恐らく、倭人伝で行程が書かれている諸国は、道里が短く数日程度であったろうから、宿舎は置けたろうが、纏向まで、宿舎で埋め尽くすことはできなかったと見える。そうで無いなら、何年頃に、宿舎が整ったと書かれているべきである。

 別に、当方は、許すだのどうの処断する立場にない。ただ、そのような大雑把な論義は、不適当/不合理でないかと述べているだけである。「学術的」に適法か不法かと詰問しているのではない。うまくできるかどうかと言うことだけである。

 いや、当方は、「倭人伝」道里行程主幹部は九州島内の前提であり、徒歩でも往来できたろうというのである。渡し舟も在ったのである。だから、倭人伝に道里行程の記事が続いているのである。難儀な強弁は必要ないので、無理なことは無理なこと。例えば、六世紀あたりまで、不通だったということから、別にどうでも良いが誠意を持って批判したのである。
 とにかく、論者は、三世紀交通手段を、まずは立証する義務があると自覚頂きたいのである。ホラ話を大声で怒鳴られても、同意はしないのである。因みに、隣近所の村と往き来して、物の売り買いをしていたのまでなかったというのではない。日帰り程度であれば、大層な宿場は要らないのである。
 そう、延喜式に、当然のこととして規定が載せられたのは、各地に街道と宿場ができたからである。数百年をかけてのことである。

*延喜式の超時代効力談義
 論者の論法は、諸処に疑問が生じる、本件で、鳥越氏は97ページで、
「三国志」に見る水行・陸行の記事は、役所の公的な旅費規程に基づくものであったとわかる。と、途方も無い断言を行っている。当方は、学術的な部分引用は、鳥越氏の本意に反すると思い、武士の情けで明言しなかった。

 丁寧に言うと、上記引用を文字通り普通に解すると、鳥越氏は、三世紀の編纂者が、遙か後世の日本の「延喜式」の「役所」旅費規程に依拠して「三国志」原本を較正したと主張していることになる。誤解の余地はない。
 因みに、「延喜式」は、古代国家制度「律令」の細則として、十世紀に策定、公布され、Wikipediaによれば、「『延喜式』原本は現存せず、室町・戦国期の古写本もほとんど散逸した。」とあり、国家要件時代は兎も角、武家政権時代に正しく書写継承されたと見えず、三世紀に伝来した証拠も無い。

*不明瞭表現の指摘
 当方は、そのような手ひどい非難を浴びせる趣旨ではなく、全体的な読書感想として、氏が「倭人伝」の道里行程記事は、旅費規程に依拠解釈すべきだと主張されたのに対した批判である。引用が不正確としても、鳥越氏の唱えている「倭人伝」考察の要点に疑問があると言っている。なにしろ、「多い」「大きい」「重い」の表現を極力避けたのである。当方の趣旨を理解頂ければ良いので、別にご意見を変えて欲しいというものでも無い。
 当方の内心を「曲解」と断定されている点だが、どうして、論者は、当方の内心を読み取れるのだろうか。因みに、「曲解」は、本来「知的な曲芸解釈」の妙技である。拍手。

                                未完

新・私の本棚 外野 ウィキ 「古代史の散歩道」 seit2023 6/6

ウィキ 「古代史の散歩道」2023/01/28 当記事 2023/01/31

*内乱考 (**改行追加)
 鳥越氏の記述にもいくつか問題点がある。
 (1)鳥越氏は三角縁神獣鏡が出土するのは、4世紀以降と書くが(参考文献7,p.133)、実際は愛知県犬山市東之宮古墳出土の三角縁三神二獣鏡(京都国立博物館蔵)は3世紀である(参考文献8)。また造営時期は3世紀後半頃と推定されている前期前方後円墳の黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土し(参考文献9)、これらは成分分析により中国鏡と推定されている(参考文献10)。したがって三角縁神獣鏡を否定するのは事実誤認である。
 (2)卑弥呼の時点では「当時はまだ古墳時代に入ってないから(墓は)方形周溝墓であったとみてよい」(参考文献3,p.138)と鳥越氏は書くが、西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。したがって、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないという断定はできない。
 『卑弥呼の墓を「前方後円墳」と勝手に決めつける一部の意見』と万年好奇心少年は書く(参考文献7)が、これも正確ではない。

*とんだ内輪もめ
 ここで、論者は突如、当方の鳥越氏論調批判を離れて、二件に渡って不思議な「私見」を掲げ氏を批判する。当方は、高名な鳥越氏の著書批判が目的で、無名論者の私見批判の動機はないが身に振る火の粉と理解いただきたい。

*国内考古学談義の乱入
 当方は、「倭人伝」論義専攻で、「倭人伝」の卑弥呼冢論は、『世上出回っている「前方後円墳」比定は、「倭人伝」の文献解釈上不可能である』との主張であるが、論者は、箸墓に誘導しようと参考文献連発である。要するに、当プログの見解は「倭人伝」列国は九州島内としているので、卑彌呼冢が、纏向付近と言う議論は、端から無関係であり、何を言われても圏外である。無縁の衆生である。(中国製銅鏡論は見当違いで論外だが、武士の情けで不問)
 よそごとながら、論者は、頑強な卑弥呼冢前方後円墳論者のようであるが、我田引水の論証が絶無である点を、自覚/理解いただきたいものである。何しろ、論者は、史書としての「倭人伝」を理解できていないのである。

*余談~神頼み
 素人目には、連年の強弁の積み重ねで公費による発掘/科学鑑定が進んだが、「倭人伝」の解明が未達成で、積年の泥沼は、地に足のついていない架空論義である。
 それとも、全域発掘を辞さない、卑弥呼金印探しで、全て京大文学部以来連論と続く遺跡考古学の力で、文献解釈の泥沼を突き抜けて、一発で解決すると神頼みしているのだろうか。

 所属する陣営がそれぞれあれば、それぞれ意見が食い違うのは、仕方ないが、万事の基礎部分で無理をしているのは、素人には、痛々しいのである。ほっとけば良いのに、余計なことを言うのは、当事者の転帰に期待している。

*私見の奔流
 端的に言うと、「西暦250年前後に箸墓古墳は築造されている。これはほぼ証明されている。」とは、一部論者の極めつきの「私見」であって、「証明」にほど遠い状態と見受ける。そのような「私見」によって、当方の合理的な意見を否定するのは、独りよがりと言わざるを得ない。私見者が、何人いても私見に過ぎない。いくら頑固でも、である。
 以下略する。

 引用出典 seit2023 古代史の散歩道

                               以上

2023年1月29日 (日)

今日の躓き石 NHK E 低次元の「リベンジ」感染公開

                      2023/01/29

 本日の題材は、NHK Eの将棋番組であるが、事件が起きたのは、メインの第72回NHK杯将棋トーナメントでなく、前座の「将棋フォーカス」であった。個人攻撃では無いので、各人の名を伏せるが、おじさん棋士が目下棋界の頂点にある竜王に挑むのを前にした「登山行」の追っかけ取材で、何も知らない主人公が「リベンジ」と叫んだのを、担当記者が「ダブルテイク」のぼけを披露して、言い直させて、キャプションを大写しにしていたのには、呆れたのである。
 別に、ご当人は、それが放送事故に近い暴言だと知らないのだが、それを、公共放送の担当者が、でかでかと言い立てたのは、なんとも情けないし、MC気取りの二人が、それを何も窘めずに通し、結局、受信料のかかっている公共放送に、人前で言ってはならない暴言を垂れ流したのは、何とも、情けないものだった。これで視聴者が真似すれば、折角、大勢の良識ある報道人が葬ろうとしている「リベンジ」が、堂々と世間に出回るのである。百回抑止しても、一回のさばらせれば、帳消し以上なのである。

 当たり前のことだが、主人公は、別に、竜王に対して、全国視聴者に曝したい恨みが有るわけで無く、まして、前回恥をかかされたという記憶も無いのである。血なまぐさい天誅もないし、ぶちのめして憂さ晴らしする気も無い、はずである。主人公が、鬱屈した意気地無い気概を間違った形で吐き出したかも知れないが、その無様と言われかねない放言を、全国視聴者に知らせるべきだと「恥さらし」に報道したのだとしたら、制作意図が陰険である。

 主人公は、難関に挑む「チャレンジャー」のつもりなのか、それとも「ゴレンジャー」のつもりなのか、どうせいい加減なカタカナ言葉だからとばかり、「リベンジ」を叫んだのだろうが、公共放送の取材陣は、ちゃんと、罰当たりな言葉遣いをたしなめて、問題発言を闇に葬るべきだったのである。そうしていたら、世の闇に蔓延る暴言屋が、一人更生してテロリスト支援から離脱し、世の中が、其の分明るくなるのである。NHKは、暴言の宣伝、伝道屋でなく、言葉の護り人であって欲しいものである。

 と言うことで、今回の事件は、NHKの番組(の一部)が、無審査に近い野放し状態であることを暴露したのである。困ったものである。再発防止として、当番組関係者の指導を願いたい。受信料を値下げして、番組内容をそれに見合った低次元の物にするのは、最善の策とは思えないのである。

以上

2023年1月28日 (土)

06. 濵山海居 - 読み過ごされた良港と豊穣の海 再掲載

                         2014/04/26  2022/11/14 2023/01/28
 「末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛」

*末羅国談義

 末盧國は、山が海に迫っているため、田地、つまり、水田と限らないにしろ、農地が制約されたとしても、航海に通じた少数精鋭の国だったのでしょう。
 戸数四千戸は、國邑、つまり、隔壁集落で、千戸台となっている前後の諸国に数倍するのですが、それが、単一國邑なのか、千戸台の國邑が数カ所存在したのか、不明です。四千戸の大国の住民が、海岸近くに住んでいたのか、内陸に住居を構えた住民の大半が浜小屋住まいだったりすると、適切な課税が困難と見えますが、詳しいことは分かりません。

 また、言うまでも無く、倭は、年間通じて降雨に恵まれていたので、水田米作が維持でき、もう一つの辺境である西域の流沙、つまり、砂漠とは大違いです。更に言うと、乾燥地帯の黄土平原である中原とも寒冷の韓国とも、大きく異なるので、街道を塞ぎそうな樹木の姿が、感銘を持って特記されたようです。
 後ほど、気候の話題が出てきますが、北方の韓国のように寒冷でなく、温暖であるものの、南方の狗奴国で引き合いに出された海南島のように瘴癘ではないのです。
 要するに、玄界灘は漁獲に恵まれた豊穣の海であり、長く、沿岸諸国の国力を支えたでしょう。
 末羅国は、倭國覇者ではないにしても、国土は狭くとも、戸数は少なくとも、地域「大国」だったはずです。

 さて、以下の道里記録の評価で余り触れられていないように思うのですが、これら道里の出典は、魏使(帯方郡使)の測量した数値であるということです。 旧説を撤回 2022/11/14

*魏使の陣容
 魏使は、正使、副使程度しか知られていないものと思いますが、少なくとも、魏朝を代表して派遣され、外交以外に、軍事的な目的も担っていた以上、以下に述べる程度の構成は整っていたはずです。たとえば、副使は、正使に不測の事態が生じたときの代行者でもあり、時には分遣隊として滞在地を離れて、出動したことでしょう。

 人員は、大半が帯方郡からの派遣でしょうが、基本的に魏朝の配下とみるものです。
 正使 副使 通事 書記 記者 保安 財物 食料 救護 荷役
 ここで上げた書記は、公文書を取り扱う高官ですが、記者は、実務担当者であり、日々の任務の記録以外に、移動中の歩測測量を記録していたはずです。

 時に話題に上る「歩測」は、訓練を受けていれば、日々の移動方向と移動距離を結構高い精度で測量できたものと想像されます。全道里と所要日数の積算は、この記者の残した測量結果無くしては不可能だったはずです。 

*主要四行程~周旋五千里
 道里行程記事に書かれた狗邪韓国から倭王の王治に至る「主要行程」は、倭国内で、主要行程の道里が残されているのは、対海国~一大国~末羅国~伊都国の四行程に過ぎないし、ほぼ、南下の一路ですから、略図に書くまでもなかったようで、道里として主要四行程は「周旋五千里」、つまり直線行程を確認したものの、あくまで、全行程万二千里を按分したに過ぎず、実際の道里は正史に残されていないのです。
 史官にとっては、文章だけが「業」であり、「絵」や「図」は職人の手すさびですから、正史に居場所がなく、あったとしても捨て去られたのでしょう。どうしても、絵を残したかったら、「自画自賛」として「賛」なる詞文を付さなければならなかったのです。どの道、「東夷圖」を書いたとしても、各国間の道里が書き残せるだけであり、正史に綴じ込まれるわけでは無いので、立ち所に散佚したでしょう。

 歩測測量などの探偵技術は、外交軍事使節が未踏地に派遣される時の重要任務であり、それこそ、首をかけて達成したものと想像しますが、あくまで、後日、魏使の帰任後のことであり、以後の往来でどの程度活かされたかは不明です。とにかく、郡から倭まで万二千里の道里は、とうに、帝国公文書に刻み込まれていて、皇帝自身にも訂正のすべがなく、つまり、直接反映されていないのは明白です。もちろん、臣下が改竄するなど、実行不可能です。

*追記 2022/11/14
 よく考えてみると、誰が考えても、海上行程は測量できないし、末羅国から伊都国の行程は、市糴、つまり、交易の経路だったので、所要日数と里数は、早い段階で、帯方郡に報告されていたでしょうから、景初の遣使ー正始初頭の魏使来訪の時期、改めて魏使が歩測する必要はなかったようです。
 書き漏らしていましたが、末羅国の海港は、伊都国にしてみると、北の貿易港であり諸国物資の集積港であり、一大国などに向かう海船の母港でもあったという事です。つまり、当時、絶妙な位置にあって、海港として繁栄していたことでしょう。つまり、世上異説となっている「魏使が偶々寄港したためにここに書かれた」というという「思い込み」、「思いつき」は、論外の落第点で、真っ当な解釈として成り立たないようです。

 当然のことですが、世上、大抵無視されているので、当たり前のことを確認しておきますが、「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の出発時点には、確定していて、皇帝の承認を得ていたのです。途轍もなく高価で貴重な大量の荷物を送り出すのに、道中が、どんな道筋でどれだけ日数がかかるか分から無くては、出るに出られないし、道中の宿泊地も含め、現地側から引き受けの保証が無ければ、魏使は、出発できなかったのです。

以上

05. 名曰瀚海 - 読み過ごされた絶景 補充

                        2021/09/26 補充 2023/01/28     

 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國

 倭人傳の主眼の一つである「従郡至倭」行程、つまり、帯方郡治を出て倭王城に到る主行程には、その中心を占める三回の海越え、渡海が書かれています。陳寿が範を得た漢書西域伝では、陸上行程の連鎖で萬二千里の安息国に至っているのですが、ここに新たに書き上げようとしている「倭人伝」では、前例の無い、渡海の連鎖で、日数、里数を大量に費やしていて、これまた前例の無い「水行」と新たに定義した上で、記事をまとめています。このあたりの事情は、この場所には収まらないので、別記事を延々と書き募っていますから、ご縁があれば、お目にとまることもあるでしょう。

 そして、三度の渡海の中央部の記事に、あえて、「瀚海」と書いています。まことに、珍しいのですが、何度も書いているように、この行程は、前例の無いと思われる不思議な書き方になっているので、同時代の教養人といえども、何気なく読み飛ばすことはできなかったのです。つまり、飛ばし読みさせない工夫をしているのですから、現代の「東夷」の知識、教養では、読み解くのがむつかしい(不可能)のも当然です。

 慎重な読者は、ここで足を止めて、じっくり調べるものです。と言っても、この仕掛けは、ここが最初でもないし、最後でもないのです。子供が坂道を駆け下りるように、向こう見ずな暴走をしないようにご注意下さい。まして、転んで痛い目に遭ったのを、陳寿の書法のせいにしないでほしいものです。これまで、ほとんど二千年と言っていい、長い、長い期間に、多数の教養人が「従郡至倭」記事を読んで、「陳寿の筆法を誹っている」例は、見かけないのです。

 閑話休題
 以前から、特別な難所ではないのかと考えていたのですが、今回参照した中島氏の著作では、霍去病の匈奴討伐時の事績を参照して、この海峡を、越すに越されぬ難所として名付けられているとみています。海図や羅針盤の無い(要らない)有視界航行で、一日一渡りするだけと言えども、楽勝ではなかったと言うことです。
 まことに妥当な意見と考えます。

 こうしてみると、単に、三度海越えを繰り返したのではないのです。

 ちなみに、「倭人傳」解釈諸作が、原史料を尊重しているかどうかの試験の一つが、「一大國」がそのまま取り上げられているかどうかです。
 いきなり、「壱岐國」と書かれていたら、それだけで落第ものと思うのですがね。まあ、親亀、子亀の俗謡にあるように、子亀は上に載るだけという見方もありますが、堂々と解説書を出版する人が、「子亀」のはずがないでしょう。

以上

*随想 「翰海」と「瀚海」 2021/09/26
「票騎封於狼居胥山,禪姑衍,臨翰海而還」

 実は、史記/漢書に共通な用例「翰海」は、さんずいが無いものであり、中々意味深長なものがあります。

 漢字用例の集大成とも見える、「康熙字典」編者の見解では、もともと「瀚海」なる成語が知られていたのを、漢書「匈奴伝」などでは、あえて「翰海」と字を変えたと解しているようです。つまり、匈奴伝などでは、匈奴相手に大戦果を上げ、敵地の「漢軍未踏」領域に進軍した霍去病驃騎将軍が、山上から瀚海/翰海を見渡した後、軍を返したことになっています。因みに、ほとんど同記事が、漢書に加えても史記にも引かれていて、この一文が、当時の著述家の鑑になっていたと偲ばれます。

 そこで思うのですが、それほど珍重された「翰海」は、通俗字義である「広大」(浩翰/浩瀚)で越せない難所という意味なのか、何か「瀚」海でなく「翰」海で示すべき感慨があったのかということです。一種の「聖地」「絶景」でしょうか。

 そして、陳寿が、後に倭人伝をまとめる際に先例を踏まえて「瀚海」としたのは、どのような意味をこめたかということです。思いを巡らすのは、当人の好き好きですが、陳寿の深意を探る試みに終わりはないのです。 

 そこで、また一つ憶測ですが、「瀚」は、水面にさざ波が広がっている、羽根で掃いて模様を描いたような眺めを形容したもの(ではないか)と見たのです。

 このあたり、用字の違いが微妙ですが、霍去病の見た「翰海」が、氵(さんずい)無しと言うことは、これは「砂の海」(流沙)と思えるのです。つまり、茫々たる砂の大河の上に、羽根で掃いたような模様が広々と見えたので、大将軍も戦意をそがれて、引き返したとも見えるのです。
 もちろん、これは、よく言われるように、どこかの湖水の水面を見たのかも知れませんが、文字解釈にこだわると「砂の海」に見えるのです。

 このあたりの解釈は、洛陽で史官を務めた陳寿の教養になっていて、帯方郡から對海国に着いた使人の感慨で、目前の海面が、羽根で掃いたような模様に満たされていたとの報告を、一言で「瀚海」と氵付きで書き記したようにも思えます。

 以上、もちろん「状況証拠」なので、断定的に受け取る必要はありませんが、逆に、状況をじっくり考察に取りいれた盤石の「状況証拠」は、否定しがたい(頑として否定できない)と思うのです。何事も、はなから決め付けずに、よくよく確かめて評価するもの(ではないか)と思うのです。

 いや、「状況証拠」は、本来「法学部」の専門用語なので、当記事筆者のような素人が、偉ぶって説くべきものではないでしょうが、世間には、素人考えの勘違いの方が、もっともらしく「はびこっている」可能性があるので、一言警鐘を鳴らしただけです。言いたいのは、一刀両断の結論に飛びつくと、足元が地に着いていなくて、ケガをするかも知れないと言うだけです。

 世上、対馬-壱岐間の海峡を、波濤急流と決め込んでいる方があるようですが、対馬海峡は、全体として決して狭隘で無く、むしろ駘蕩と見える上に、中央部には、特に障害はないので、たおやかな流れが想定されるのです。特に、その日の移動を追えて海港に入ったときは、入り江と思われるので、眺めは穏やかであったろうと推定するのです。入港以前の長い漕ぎ継ぎも、さほどの難関ではなかったと見ているのです。

以上

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 1/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28
*お断り 追記の詰め込みで大変長くなったので、ページ分けしました。

「始度一海、千餘里至對海國」

*始めての渡海
 「受け売り」となりますが、『中国古典書では、「水行」が河川航行に限定される』との説の続きとして、「始度一海」についても、中島氏の論に従い、ここは、始めて(始度)の渡(度)海であるとの意味と読めます。
 ここに来て、倭人伝冒頭の「沿海岸水行」が、実行程で無く、『以下、倭人伝に限り、「水行」と言う新語を、海を渡る意味で使います』と言う宣言/定義付けだった事がわかるのです。
 ただし、三世紀当時、目前の「倭人伝」巻本の少し前の字句は、巻物を転がし戻して確認できるので、「読者」は、「倭人伝」道里行程記事の冒頭部分を見返した上で、そういう意味だったのかと「合点」できたことでしょう。

*對海國「市糴」考
 これまで、對海國が「不足する食糧を交易(市糴)で補う」との記事に対して、交易で何が代償なのか、書かれていないと不満を呈していましたが、どうも、この下りは、魏使に見落としがあったようです。交易自体は、「南」の一大國と「北」の狗邪韓國との間で、つまり「南北」に常時「船舶」が往来していたので、地産を託して利益を得て、対価として穀物を得て、辛うじて生存していたように見られがちですが、それは、途方もなく浅い考えです。

*自縛発言の怪~それとも「自爆」
 なにしろ、世上、「對海國は、不足する食糧を補うために人身売買に励んでいた」と、古代史学者の名の下に公開の場で途方も無い誣告に走る「暴漢」がいて、唖然とするのです。そりゃ、国民をどんどん人身売買で減らしていけば、急速に食糧必要量は減るでしょうが、いずれ、近い将来、国土は全て耕作者の居ない「無人の境地になれば食糧不足は解消する」ものの、それは、解決策では無いのです。まるで、子供の思いつきです。
 「古代史学会」が、学会として機能しているのであれば、そのような暴言を放置していることの是正が期待されるのですが、訂正、謝罪の記事は見かけませんから、自浄機能のない機能不全の存在になっているのです。何しろ、未検証の思いつきを、当の現地でぶち上げるのは、万死に値する暴挙です。

*對海国条の深意
 たしかに、「倭人伝」は、そのような印象/イメージを与えるように工夫されているので、普通に読んで、そのように納得してしまうのは、初学者には無理ないことですが、本来の「倭人伝」読者は、古典書に精通していて、言わば、読書の道で百戦錬磨の強者がいて、簡単に騙されないのです。単に、騙された振りをしていただけと思います。

*「南北市糴」の実相
 「南北」に往き来している「船舶」は、普通に考えれば、当然、山林に富む土地柄で地元である對海國が造船し、渡船として仕立てたものであり、併せて、造成した港に「市」を設けていて、南と北から来た船荷の取引で、相当の収益を上げていたはずです。そうで無ければ、往き来する他国の「船舶」から結構な港の利用料を得ていたはずです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 2/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*「大航海」大幻想
 そのような前提抜きで、「後世の無教養な東夷」が、「素人考えで夢想」してしまうと、對海國人が、伊都国以遠まで南下するとか、狗邪韓国を越えて北上するとか、途方もない遠出の妄想が広がる方もいるし、果ては、半島沿岸を経めぐって山東半島まで赴いたとか、黄海を北上して渤海湾海岸に乗りつけたとか、ホラ話が止めどない方もいます。誰も三世紀当時の現場にいなかったので反論しないとは言え、言いたい放題は見苦しいのです。
 まずは、對海國の乏しい地産を運ぶとして必要な食料は、どこから得られたかと心配しないのでしょうか。

 いや、途方もないホラ話として、未だ存在しない「天津」まで乗り入れる妄想まで登場しているから、まだ、ましというものなのでしょうか。ちなみに、「天津」は、遙か後代元朝天子の住まう大都へ繋がる海港として創設されたものであり、三世紀当時、天子は洛陽に住まっていたので、「天津」は虚名の極みなのです。ものを知らない人は、何を言っても言い捨て/言い放題で、お気楽でいいなと思うのです。
 話を戻すと、時代/地域のあり方を冷静に再現し、近隣仲介交易の妙味を感じ取らないと、適確な解は得られないのです。そして、對海國が、飢餓で滅びるところか、南北の近隣と交易して、後世人の想像を絶した「潤沢な利益」を得ていたと見ないと、話の切りがつかないのです。對海國の北の取引先は、韓国の世界であり、異国との国境取引は、利幅が格段に大きいのです。何しろ、唯一の交易経路なので、値付けが通りやすいのです。

*「倭人伝」の要旨~再確認
 「倭人伝」の要旨は、韓国の領域を出た後、海上の州島を飛び石のように伝って、倭の本地に到るという未曾有の渡海行程の運びであり、現に存在するということを示している訳なのです。「倭人伝」は、中国人が、中国人のために書いた夷蕃伝なので、程良い難題になっている必要があるのであり、「對海伝」を目指しているのではないのです。

*「富国」の最善策
 さて、話を、對海國の考証に戻すと、港の利用料として誠に有意義なのは、穀物の持ち込みです。
 何しろ、対海国に立ち寄って水分食糧の補給ができる前提で、通常の渡船は、身軽にしていたわけですから、對海國の海港に備蓄が無いと、折角の交易が頓挫してしまうのです。つまり、普段、空荷の渡船に「食糧」を積んで対海国に納入していたとみるのが、賢明な「読み」でしょう。それが、筋の通った「大人」の読み方と思います。「倭人伝」の元史料は、書こうとすれば書けたでしょうが、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したと見るのです。

*時代相応の独占的特権
 当然の考証として、三世紀当時の漕ぎ船では、對海国での漕ぎ手の休養や食料、水の補充を飛ばして、直接往き来することは不可能であり、代替策が無い以上、寄港地としての価値は、大変、大変高かったとみられます。食糧不足は、帯方郡に対して、納税しないことの口実であったと見えます。
 何しろ、對海國と狗邪韓國の間の直線距離は短いので、戸数相当の「税」を納めよと言われないようにに手を打っていたのです。もちろん、そのような自明事項の説明は、「倭人伝」の分を過ぎているので割愛したのです。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 3/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*對海國の恵み
 自明事項ついでに続けると、「人は食べなければ生存できない」ので、穀類不足は、海や山の幸で補い、さらには、特産物で補い、代わりに穀類を手に入れて飢餓を免れたのが、南北交易の実態であったと思われます。
 對海國が、長く健全に維持されたと言うことから、大半は、對海國の市で、あるいは、海港で、着々と行われたはずです。別に、船に乗って出かけなくても客はやってくるのです。
 本当に、飢餓状態なら、島民は、半島か一大國に逃げ出すはずですが、そのようなことの明記も示唆もない以上、島内で必要な食料は得られていたのでしょう。
 余談ですが、地産特産として有力な海産物の干物づくりには、一旦茹でてから天日干しする必要がありますが、その燃料は、最寄りの山林から得ていたのでしょうし、必要な食塩も、海水から採れたはずです。ただし、対馬で貝塚が出土したかどうか定かではないので干物交易は、仮説に過ぎないのですが。

*道里/方位談義
 ちなみに、さすがの魏使も、海上航路を精度高く測量することはできないし、また、航海の距離を報告しても、道里としての実際的な意味が乏しいので、方向と距離は、大雑把なものにとどまっているのです。目前の海島に到る渡船には、方位の精密さは不要なのです。

*時代相応の「国境」談義
 更に言うと、とかく誤

解されている「国境」は、ちゃんと時代感覚を補正しないと、検討ちがいのものになります。倭人伝では、對海國は「国」であり、「對海国の国境」は、北は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、南は、一大国の港の對海國「商館」となります。また、「倭人」の北の国境は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、この場合は「倭館」となります。
 これは、経済的な視点、つまり、貿易の実務からくるものであり、そのようにしないと、倭の所有する貨物を、韓に引き渡すまでの所有権が保護できないので、言わば、「治外法権」としただけであり、仮に、区域内に武力を保持したとしても、別に、倭が狗邪韓國全体を領有していたというものではありません。
 何しろ、交易相手は「お客様」であり、そのまた向こうの「お客様」とうまく商売しているから、多大な利益が得られるのであり、言わば、「金の卵を産むニワトリ」ですから、決して、「お客様」を侵略して、奪い取るものではないのです。あるいは、蜂蜜を求めて、ミツバチの巣を壊して根こそぎするのと同じで、そのあとは、枯渇なのです。

追記:2020/03/25
 現時点で、訂正を要するというほどではないのですが、思いが至らなかった点を補充します。
 まず、「一海」を渡るとしていて、以下でも、「また」と言う言い方をしていますが、これは、山国蜀の出身である史官陳寿が、帯方郡から報告された行程を、海を知らない中原、洛陽の読者に理解しやすいように、半島南岸の狗邪韓国から対馬への移動を、中原にもある大河の渡河、渡し舟になぞらえたもののように見えます。いや、史官として、原史料に手を加えることは厳に戒めていたものの、補足無しで誤解される部分に、加筆したと見えます。

                                未

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 4/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*大海談義ふたたび
 中原人にとって、辺境の「大海」は、西域の蒲昌海(ロプノール)や更に西の裏海(カスピ海)のような「塩水湖」なので、中原や江水沿岸にある「湖沼」混同されないように、言い方を選んでいるのです。
 また、今日の言い方で綴ると、「対馬海峡」は、東シナ海と日本海の間の「海峡」、つまり、山中の峡谷のような急流となりますが、当時、東シナ海も日本海も認識されていなかったので、「海峡」との認識は通用していなくて、単に、一つの「大海」を、土地の渡し舟で越えるとしているのです。

*「海」という名の「四囲辺境」の「壁」
 別の言い方をすると、古典書で、「海」は、中国世界の四方の辺境に存在する「壁」であり、本来、塩水の水たまりという意味では無かったのです。そのため、西域で「塩水湖」に遭遇したとき、それを「大海」と命名したものであり、四海の内、具体的に直面する東の「海」についても、漠然と、塩水のかたまりとしての意識しか無かったのです。
 その結果、帯方郡の東南方にある蛮夷の国は、東夷を具現化した「大海」と認識され、次に、「大海中山島」、つまり、「大海」中に「國邑」があるとみたようです。あくまで、『「大海」が「倭」との「地理観」』が長く蔓延って、「倭人伝」は、普通にすらすら読むことが困難なのです。
 何しろ、陳寿の手元には、さまざまな時代の「世界観」で書かれた公文書史料が参列していて、史官は、史料を是正すること無く編纂を進めるので、遙か後世の夷人は、謙虚、かつ丁寧に読み解く必要があるのです。

*「瀚海」談義
 予告すると、次の湖水は、特に「翰海」との名があるとされていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。そして、次は、無名の「一海」なる塩湖となっていて、「又」別の渡し舟で越えるとしているのです。
 「瀚海」は、広々とした流路の中央部であり、むしろ「ゆったりと流れる大河」の風情であり、古田氏の戯れ言の如く「荒浪で壱岐島を削る」ものではなかったのです。むしろ、絹の敷物のように、細かいさざ波を湛えている比類の無い眺めだったために、「瀚海」と命名されたように見受けます。これは、滅多に無い孤説ですので、聞き流していただいて結構です。

*「一海」を渡る「渡し舟」
 「渡し舟」は、中原人世界観では、身軽な小舟であって、決まった「津」と「津」を往き来して、公道(highway)である街道を繋ぐ、補助的な輸送手段です。中原の街道制度で、渡船は道里や日数に含まないのです。
 「倭人伝」の「渡し舟」は、流れの速い海を一日がかりの長丁場で乗り切るので、「倭人伝」は「渡海」とし「水行」として道里や日数に含んでいます。

*「倭人伝」用語の実相
 陳寿は、それまでの「慣用的な用語、概念を踏まえて、辺境の行程を説いている」のですから、後世の読者は、「現代人の持つ豊富な知識と普通の素直な理解」を脇に置いて、歴史的な、つまり、当時の中国、中原に於ける歴史的/慣用的な用語、概念によって理解することが求められているのです。
 「倭人伝」は、三つの塩水湖「一海」を、それぞれの渡し舟で渡るのです。行程全体の中で、難所に違いないのですが、普段から渡し舟が往き来しているとして、史記始皇帝説話などで見られる物々しい印象を避けたと見えます。

                                未完

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 5/5

倭人伝再訪 4 2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17 2023/01/28

*島巡りの幻想払拭
 と言うことで、この間を、魏使の仕立てた御用船が、島巡りして継漕して末羅国まで渡るという、古田武彦氏を継承する物々しい想定は、陳寿が丁寧に噛み砕いた原記事の、時代相応の順当な解釈を外れていると見るものです。

 凡そ、専用の頑強船体で屈強漕ぎ手が難所を漕ぎ渡った後、専用船を「便船」として連漕するのは、不合理です。「便船」なら普通の漕ぎ手に交代すべきで、屈強漕ぎ手は休養し、頑強船体は折り返し行程に備えたでしょう。

 古代と言えども、合理的な操船手順のはずです。でなければ「渡船」事業は、業として成立せず速やかに破綻するのです。

*辻褄合わせのいらない概算道里
 そもそも、公式道里は、郡治から國邑までの「道のり」であり、對海国に至る道里には、途中の細かい出入りの端数は全て含まれています。そもそも、都合万二千里の総道里であり、全てせいぜい千里単位の概数計算ですから、「島廻遊」の端数里数は、はなから読み込み済みなのです。

 古田氏は、概算の概念を失念され、一里単位と見える「精密」な道里の数合わせに囚われ、端数積み上げで帳尻合わせする挙に陥ったと見えます。
 概数計算の概念では、千里単位の一桁漢数字(但し桁上がりあり)で勘定が合うことが求められ、桁違いの端数は勘定に関係ないのです。
 世上、倭人伝道里を算用数字で書く悪習が出回っていますが、そのような時代錯誤の無意味な数字を目にしたために、千里代も百里代も同格との錯覚が蔓延していたら残念です。「倭人伝」道里記事は、漢数字による概算計算の世界で、倭地内の道里以外は千里単位です。

*異次元の「方里」
 散見される「方三百里」、「方四百里」なる「方里」表現は、行程「道里」でなく面積表示と見え、ここに展開した道里と、全く、無関係、異次元です。(「異次元」は、当世、馬鹿馬鹿しい意味で転用/誤用されていますが、本項は、数学的なものであり、道里は一次元、方里は二次元で、大小比較も加減算もできないと示しているだけです。)

*脱「短里論」の契機
 当ブログでは、三世紀当時、時代独特の「里制」は、一切存在しなかったと断定しています。「倭人伝」に限定して「狗邪韓国まで七千里」と定義した「里」は、遡った高句麗伝や韓伝には適用されず、「方里」記事の「里」は、普遍の普通里、ほぼ四百五十㍍となります。ご確認頂きたいものです。
 この点は、世上「定説」めいて、誤解に基づく議論が当然のようですが、誤解に立脚した議論は、いかに支持されても誤解にほかならないのです。言い古された言葉ですが、学術的な論義は、声が大きいのが「正義」ではないし、まして、拍手の数が多ければ「正解」でもないのです。

*「倭人伝要件」の確認
 総括すると、正史蛮夷伝「倭人伝」の要件は、蛮夷管理拠点である郡から新参蛮夷倭王居処に至る主要行程の公式道里と所要日数を確定することです。
 遠隔の倭地内の地理情報や主要行程外の余傍の行程は、本来、不要なのです。当時の史官、さらに、政府要人は、悉く、基礎数学を修めていて「数字」に強く、概算計算の概念を適確に理解し誤解はしなかったものと解されます。
 「倭人伝」が裁可されたのは、自明概念を適切に述べたためと思われます。

*「早合点」の一つ
 「島巡り」なる早合点は、氏の提言の契機として著名ですが、氏の合理的論考を揺るがして提言全体を危うくし、誠に残念です。

                               以上

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 1/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13、11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた水行行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

 従郡至倭行程一万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間がほぼ全て陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、水の上を行ったかも知れませんが、国の制度としてはと言う事です。

 九州島上陸後も、末羅国で「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で王治に至ると判断されます。一説に言うように、伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、脇道として除き、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る日数では無く、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 このような推定は、「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。

 このように整理して解釈すると、全体の筋が通り、陸行は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として定義された「倭人伝」道里によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。

 一方、「従郡至倭」行程の「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程と見るべきです。そう読めば明解になるという事です。
 渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば踏破できるので、「水行十日」に相応しいのです
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここで初めて倭人の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して、渡海するのです。
 狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
 各渡海を一律千里と書いたのは、所要一律三日に相応したもので、全体に予備日を入れて、切りの良い数字にしています。誠に整然としています。なべて水行は三千里、所要日数十日で、一日三百里と、明解になります。
 
 そのように明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏志の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。

 また、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。
 ただし、この地域に日本海各地の産物が出土していたからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、遠方から多数の船が乗り付けていたと言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。

 海峡を越えた交易と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を、小刻みに、日数をかけて繋ぐ「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。

 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈と一致しませんが、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。
 この点、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、倭人伝の記事は、まずは、倭人伝の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、倭人伝外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 2/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。 いきなり、街道が屈曲して、西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、海岸を基線として縦方向、つまり、大海を渡って南方に進むことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」と見ることができます。
 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを実際に進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を、予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法に反していて、いかにも、読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になり、道里行程記事の考察から外せるのです。

*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、帯方郡から狗邪韓国の行程は、中国史書として自明なので書いていませんが、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。ここまで、正史に、公式の街道の水行の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。

 以下、「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅に上陸すると、「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
 「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。
 ついでながら、陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、桁違いのはしたなど書くものではないのです。
 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て、利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始水行と読むことになります。

 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。
 別見解として、水行は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。

 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。

 特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)によれば、次の読み方により、解決するとのことです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えで洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」です。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 従って、手短に言うと、「水行は河川航行」との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、東呉の史官が、孫権大帝の称揚の為に書き上げた「呉志」であり、言うならば「魏志」には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。

 また、同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

未完

 

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版 追記再掲 3/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02 2023/01/28

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、自然なところです。
 と言う事で、倭人伝の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、いずれかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。
 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、このような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。
 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、船足が遅いとほとんど舵が効かないので、乳香、主津港の差異には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。
 つまり、連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。と言うことで、半島航路は、大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。

 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量のある公用の荷物の輸送経路としては、採用されないものと見えます。

*郡から漢江(ハンガン)
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは、驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは、「荷駄馬」が必要だったのです。

 漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行していて、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録があったというわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流部入口の川港で陸に上り、山越えの難路に臨んだはずです。

 別の発想として、漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難なのです。と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、急流部の難関のために、難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。
 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に、人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのです。時代錯誤です。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。遼東半島と山東半島を結ぶ、最古の経路ほどの輸送量は無かったものの韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

 と言うことで、漢江遡行に戻ると、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州市 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、渓谷の下部は、貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。

 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫の街道として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が、責任を持って、街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。後世と違い、まだまだ零細の時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は、漢制の郡であったので、法と秩序は、巌として守られていたとみるべきです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。

 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に竹嶺越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、竹嶺の南山麓(栄州 ヨンジュ)から竹嶺ハイキングコースが設定されているくらいで、難路とは言え、難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

以上

2023年1月27日 (金)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 1/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
 私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⑴「魏志倭人伝」の記述
 当記事に対する批判は、大小取り混ぜ、多数の指摘が絞り込めなかった。
 再挑戦である。何より、これまで、誰も、笛木氏にダメ出ししていないと見えるので、此の際、嫌われ役を買って出たのである。氏には、当然諸兄姉に義理もあってこう書いたと見え、半ば諦めつつ「教育的指導」に時間と労力を費やした。

*⑶ 景初三年説の「定説」化
 率直なところ、この項は、既に俗耳を染めているものであり、氏が、ただただ再録するのは、字数の無駄である。「定説」の公示場所の参照で十分である。小林秀雄氏著作の引用も、むしろ、先哲の限界/誤謬を公示していて、早い話が、本筋の議論に関係なくて無意味である。

*⑷「定説」への異議
 要は、「定説」は史実誤認の産物である。
 国内史学では、半島の北の遼東郡と半島中部の帯方郡の地理が理解できていない上に、帯方郡から洛陽に至る経路が渡船で山東半島に渡って、以下、街道を行く点が全く念頭に無い。景初中に、魏皇帝特命部隊が、帯方郡を洛陽直轄にしてからは、遼東郡は移動経路に関係無くなっていたのである。戦闘は地平の彼方である。
 と言うことで、「定説」の根拠は、とうに消滅していたのである。

 この点は、随分以前から、例えば、岡田英弘氏の指摘にあるが、「定説」信奉者の耳には、何か詰まっているようである。
 正史史料は景初二年であるから、これを誤謬と否定するには、正史に匹敵する確たる資料が必要である。遙か後世の無教養の東夷が、遼東形勢を何一つ知らないままにくだくだ評して、誤謬と言うのは、無謀、無法である。

*⑸ 二年説への反論
 大庭、白崎両氏の異論を引用するが、素人目には、筋の通らない/論理の見えない難癖と見える。

*⑹ 先行史書について
 氏は、「先行史書」と誤解必至の呼び方であるが、要は「後代史書」であり、正史と同等の信を置くことができない。つまり無効な意見なのである。ここで難があるのは、氏の素人臭い写本観である。何しろ、天下の「正史」陳寿「三国志」を、「原本は、存在しない」とか「誰も原本を見たことがない」とか、粗暴で稚拙な断定で誹謗する人たちの口ぶりと似ているように見えるのである。暴言は、世間の信用を無くすだけである。
 氏は、国内史書の写本を、専ら、寺社の関係者の孤高の努力による継承と見て、現存写本間の異同が目に付いているのだが、先進地である中国では、そのような不定形の写本継承はあり得ない。勝手な改訂、改変も無いし、小賢しい改善も、粗忽の取りこぼしも(滅多に)ない。
 正史写本は、各時代の国宝継承の「時代原本」から一流学者が文書校訂を行った写本原本から一流写本工が、新たな「善本」(レプリカ)を起こし、前後、一流編集者が責任校正を行うから、誤写の可能性は、絶無に近い。こと、魏志について限定すれば、明快であり、北宋代、木版印刷の際には、高度なテキストが維持されていたと見える。後世東夷の蛮夷には、想像も付かないらしく、とんでもない風評が飛び交うのである。よい子は、与太話を、やみくもに信じてはいけない。

*辺境「野良」写本考
 辺境写本の誤字指摘だが、洛陽原本からどんな写本を経たか不明である。書庫を出た瞬間から写本は低俗化し持参版の正確さは期されていない、無校正写本なので誤字が雪だるまになる。その写本の最下流で、誤字の多い「野良」写本が出回っても、遡って「帝室善本に影響を及ぼすことはない」。

 また、宋代木版印刷といっても、南宋刊本でも百部程度で僅少であり、各地有力者は手の届く刊本から高精度の写本を誇示したのであり、刊本が蔵書家に流通するのは、後年、例えば、明代以降である。

 氏が以上の説明を理解できないようなら、尾崎康氏に確認したら良いだろう。聞く相手を間違えると、誤読のDNAを注入されてしまう。「三国志」は、歴代正史の中で、格段に、異様なほどに史料の異同が少ないのである。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 2/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⑺ 二郡平定について
 ここで、氏は、各論者の情勢批評を長長と連ねた後、突如として、筑摩本の東夷伝翻訳文に帰り、『公孫氏を誅殺すると「さらに」ひそかに兵を船で運んで』の「さらに」を「そのあとに」と決め込むが、翻訳文「曲解」である
 権威のある日本語辞書を参照して頂ければ、「さらに」には、「そのあとに」の意味と「それと別に」の二つの意味があると書かれているはずである。原文の「又」が、両様の意味を持っているから、翻訳文は、両様に解することができるように、大いに努力したと見えるが、いかんせん、無学、無教養の読者が、辞書を引かずに、先入観の思い込みで、小賢しく解釈を限定するとは見なかったようで、勿体ないことである。

*⑻ 景初中は何年
 率直なところ、氏は、本筋に関係ないところで時間を費やしているが、それを善良な読者に押しつけないで欲しいのである。魏明帝景初は二年年末で終わり、景初三年は皇帝の冠のない一年であるから、深入りしてもしょうがないのである。陳寿が景初中で済ましているのは、それで十分だからである。
 魏志は、本職の史官である、陳寿が責任を持って、全力を投じて編纂したから、つまらないヤジを入れないことである。

*⑼ 遼東征伐(年表)
 正直言って、このように空白の多い年表は、読む気になれない。

*⑽ 遼東征伐の陽動作戦と隠密作戦
 随分長々しいが、意義がよくわからない。言うべきことは、既に述べた。

*⑾ 公孫氏の死は何月か
 正直、これだけ分量を費やす意義が理解できないから、口を挟まない。

*⑿ 景初三年?の呉による遼東進出
 本項では、無理な議論が続いている。呉は、魏の暦を参考にしたのだが、明帝没後の変則運用をどこまで、理解して追従したか不明である。そもそも、東呉が、どこまで、魏明帝の景初暦の追従についても、疑問を禁じ得ない。氏は、若干混乱しているようだが、無理のないところである。他の論者も、解釈が泳いでいて、泳いだ解釋を振り回すから、困ったものなのである。
 私見では、景初三年、公孫氏の滅亡後、呉船が到来して、漁村の男女を拐帯したと見える。それとも、魏は、女性を兵としていたのだろうか。
 
*⒀ 帯方太守の更迭
 本項も、本稿における意義がよくわからないから、口を挟まない。
 末尾で、「過分な待遇」と勝手に評しているが、未曽有の大帝たらんとした明帝が、蛮族の跳梁で逼塞した西域でなく、新境地、遠隔萬里の東夷「倭人」の到来を破格に盛大に祝ったとしても何も不思議はない。

*「過分」の迷妄
 「過分」と書くのは、評者の品性が皇帝に比べて卑しいからである。(天子に比べて、品性がどうこう言うのは、絶賛なのである)
 氏は、三世紀当時の魏朝皇帝の価値観を、軽蔑しているようだが、それは、公孫氏の遼東郡に於ける東夷管理体制をぶっ潰した「司馬懿の感性」に通じる/同様に「粗野な」ものであり、明帝没後、少帝曹芳が、同様な野心を持っていたとは、到底思えないのである。(司馬懿に比べて、粗野というのも、絶賛である)
 氏の論理は、筋が通っても、明帝没後参上では平仄が合わないのである

                                未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」新版 3/3

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従の失策 2023/01/26

*⒁ 遼東征伐(年表)
 ご苦労さまですが、年表記事羅列に格別の新事実は見えないようである。

*⒂ 景初二年か、三年か 結論
 氏は、盛大に「迷い箸」して、読者を引きずり回した挙げ句、後世史書を採り入れる問題事項にのめり込んでいる。
 所詮、魏志が言う「又」、日本語で言う「さらに」の解釈が、後世になって、一方に偏ったものであり、当世の軽薄な論者が悪乗りしていても、やはり、本件は、正史「魏志」に戻って、丁寧に解釈すべきと提言するものである。
 何しろ、氏が頼りにした論者は、漢文が読めず、漢字辞書を引けず、だけでなく、日本語辞典も引けない、日本語が理解できないのだから、頼りにするのが間違いなのである。
 「倭人伝」解釈で、後世史料は、評価するだけ時間の無駄だから、すかさず却下すべきである。

*送達日程の確認
 正始魏使のお土産発送が遅くなったことを手がかりにしているようだが、これほど、異例に盛大な品物が、女王の手元まで問題なく届くということは、なぜ確認できたと思うのだろうか、不思議である。送付行程に沿って、大勢の人員と大量の荷物の送達を予告して、それぞれの現地から、対応可能との保証を得てから発送したはずであり、そのような確認を得るまでに一年かかっても不思議はないのである。

 いや、いくら品物が倉庫に揃っていても、持ち運びできるように、全数の荷造りが必要である。荷造りして初めて、どれだけの荷物かわかり、何人で運ぶかわかるのである。お茶のペットボトルでも、段ボール箱に整然と入っているから、トラックの荷台に積み上げて運べるのである。今回は、途中潮風の吹く渡し舟に乗るから、貴重な宝物に飛沫もかかるだろうし、急な坂道でも、手分けして運べる工夫をしたはずである。陸上輸送なら、人海戦術が有効であるから、心配は少ないはずである。

 渡船は、便数/艘数が多いし、短い区間を担当する漕ぎ手は、日々交代すれば、大して無理にならないから、添え、心配は要らなかったのかも知れないが、そんなことは、洛陽のお役人には、分かるはずが無いのである。

*⒃ 参考文献一覧
 率直な意見は、既に述べた。本件に関して決定的な議論に絞るべきであり、これら文献を全部読まないと意見が出せないというのは、困ったものである。古来、参考文献一覧は、論者の責任逃れになっているのである。

*史官の使命
 言い漏らしたかも知れないが、念押しすると、本職の史官が正史を編纂するということは、公文書に書かれた「史実」を正確に、つまり、忠実に語り継ぐのであり、それは、後世の正史編纂、類書編纂とは、本質的に異なるのである。氏は、史料を丸写しすることを卑しんでいるようであるが、とんだ、東夷の勘違いである。

                                以上

2023年1月25日 (水)

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 1/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25

〇はじめに
 当記事は、途方もない誤読/誤解/妄想の集積ですが、その原因は、「古代中国の女性観」と言いつつ、国内史料熱愛から生じた怨念めいたものを語っていて、単に、国名や所在地比定の論議では片付かない大問題を示しています。

 以下、失礼を承知の上で、氏の誤読の解剖を図っています。率直に、子供に言い聞かせるように指摘しないと何も伝わらないだろうという事で、誠意をこめて説き聞かせているので、野次馬の介入は御免被るのです。

〇逐行批判
 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。[中略]追認することが許されない[中略]

コメント:
 正史笵曄「後漢書」を知らないで、堂々と論じるのは、鉄面皮です。誰も止める人がいないのは、つけるクスリがないからなのでしょう
か。ついでながら、『魏志』倭人伝などという史料は、存在しません。史学者の常識です。
 正史を「外国(野蛮人)史料」とは、信じがたい視点錯誤です。正史は、中国視点の中国史家が、中国語で書いたから、文明圏外の無教養の蛮人「外国人」が批判できるものではありません。
 ご存じない「後漢書」談義は、言っても無駄なので扨置き、同時代唯一の史料を何を根拠にして、「史料批判」するのか、鉄面皮、不可解です。「実像」論だが視力検査はしたのでしょうか。それとも、肉眼で見えないから、何か秘薬でも使って幻像を見るのでしょうか。カウンセリングを受けた方が、良いのでは無いでしょうか。せめて、誰かに論文審査して貰った方が良いのでは無いでしょうか。
 「倭人伝」は二千字で、すぐに徹底するでしょう。それにしても、中原史官は無学な夷蛮の「追認」は要しませんから、これは、身の程知らずの無謀な傲慢です。
 と言う事で、読解力のない半人前以下の野蛮人が何を言うかという誹りを免れません。氏は、経書を中国語で朗唱できるのでしょうか。

 [中略]卑弥呼が倭国の女王であったという[中略]事柄に関しても、[中略]徹底した検討の俎上にのせないわけにはいかないのです。

コメント:氏の倭人伝解釈は傲慢で早合点の誤釈に満ち、とても俎上に載りません。必要な基礎知識、学識がない、落第生が、何をしようというのでしょうか。とんだ恥さらしです。

卑弥呼は個人名ではない
 [中略]つぎの有名な一節がある。「其の国、本亦男子を以て王と為す。[中略]倭国乱れて、[中略]。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。[中略]男弟有りて国を佐け治む。」

コメント:「いわゆる卑弥呼」と称する「いわゆる遠山美都男」なるド素人が何を言うかです。「有名」な一節も、「魏志倭人伝」でなく、東夷が説いている現地語訳に過ぎません。正史原点が理解できないものが、何を言うかという事です。せいぜい、手前味噌の勝手解釈に過ぎません。「有名」の意味がわかっていないという事でしょうか。「悪名」より「無名」が勝るのではないでしょうか。

 [中略]倭国大乱とよばれる内乱を鎮めるために、[中略]擁立された[中略]しかし、文脈に即して解するならば、[中略]即位にともなって新たに卑弥呼という名が[中略]あたえられた役割に関わる呼称であった[中略]
コメント:倭人伝に無い「倭国大乱」風聞が意図不明です。思い付きは勝手ですが、原文読解できない限り「文脈」は、意義のない手前味噌でしょう。
 「俎上」、「徹底的な史料批判」ともっともらしいのですが、巷の素人論者、野次馬同様、自己流解釈で史料を読み替えます。世には倭人伝改竄差替説もあります。氏の見識が非科学的な思い付きなら表明すべきです。因みに、当記事筆者は、「薄氷」を踏み渡る度胸はありません。
 「卑弥呼」と天子に名乗った以上、それは、実名なのです。「新たに」名付けるというのは、途方も無い妄想です。人は、その親によって命名された実名で生き続けるのです。それとも、氏の名前は、自己命名なのでしょうか。
 素人が何を言うかという事です。

 このように卑弥呼が彼女のみに占有されるという意味でのたんなる個人名ではなかったことは、卑弥呼の語義からも推定されるところである。

コメント:「卑弥呼」は商標ではないから、占有/専有とは面妖です。君主の実名が、「たんなる個人名」とは、ものを知らないのにも程があります。「卑弥呼の語義」論は別として、氏に、古代中国語を説く学識/資格があるのでしょうか。信じがたいのです。素人が何を言うかという事です。
                                未完

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 2/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25

卑弥呼は個人名ではない 承前
 卑弥呼は「ひみこ」、あるいは「ひめこ」「ひめみこ」の音を写した[中略]

コメント:出所不明、根拠不明の「ひみこ」談義の言葉遊びは、一種感染症のようで要治療です。ひょっとして、これが「卑弥呼」の語義論と言うつもりなのでしょうか。『三世紀倭人伝の「倭の」ことばと後世八世紀の「大和」言葉の関連を示す資料はない』と古代言語の権威が、揃って明言しています。素人が何を言うかという事です。

 卑弥呼は「鬼道」[中略]に長じていた[中略]倭国大乱を鎮めるために「鬼道」に長じた女子[中略]に卑弥呼という名があたえられた[中略]

コメント:中略部分の「霊能力」は意味不明で、倭人伝に無い「妄想」と思われます。何か、漫画か古代史ファンタジーでも読んでしまったのでしょうか。
 倭人伝に一切書かれていない「倭国大乱」を卑弥呼が鎮めるとは、これも、出典不明で癒やしがたい妄想です。
 このように、卑弥呼命名談は妄想羅列で、史料批判のけじめは見えません。自身を史料批判すべきでしょう。素人が何を言うかという事です。

卑弥呼になった二人の女性
 [中略]卑弥呼とは[中略]地位・身分の呼称と考えるべきである。

コメント:思い付きは思い付きとして聞き置きます。「卑弥呼の実名が知らされていない」とは、氏の妄想に過ぎません。中華天子に実名を名乗らないことはあり得ません。素人が何を言うかという事です。

 [中略]結局、卑弥呼に就任した[中略]彼女らはいわゆる倭国王の地位にあったといえるのであろうか。[中略]中国史料による限り、この前後、二世紀から三世紀前半にかけては一貫して男王が擁立されたと伝えられており、なぜここで二代だけ女王があらわれるのかは不審[中略]

コメント:氏は、突然正気に返ったのか、中国史料と言うが、史料名を明らかにしません。男王の国も、正体不明です。不審と言わざるを得ません。根拠不明の妄想連発で逐行批判に疲れたので、以下、概略にとどめます。
 中国史料は、西暦年代を知らないので、「二世紀から三世紀前半」の150年間のことと言われても、何のことかわからないのです。せいぜい、男王の一代前も男王であったのだろうなと言う程度です。また、晋と音信不通になってからのことは、倭人伝に書かれてはいないので、何を言っても、勝手な思い込みに過ぎないのです。どうも、氏は、「卑弥呼」は、倭女王が襲名する職名と見たようですが、そのような異様なことは示唆すらされていません。勝手な素人の思いつきに過ぎないのです。

 卑弥呼とはこのように男王による権力の継承を祭儀によってサポートした女性の地位を示す[中略]

コメント:時代錯誤で意味不明の「サポート」で読者は混乱します。「倭人伝」は男弟が女王を佐したと書いていますが、氏が説いている倒立実像なみの「女王が男王を佐す」とは理解困難です。

 以上、『魏志』倭人伝に対する史料批判をより徹底化するならば、[中略]卑弥呼機関説も十分成り立つものと確信している。

コメント:「より徹底化する」とは何語でしょうか。善良な読者が、ちゃんと理解できる、ちゃんとした「日本語」で、ちゃんとした文章で述べて欲しいものです。氏が何を言っても、一切反問できない、氏のお弟子さんに話しているのではないのです。
 「説」と言うには、論理的な根拠を、先行論文や原史料の忠実な、正しい意味での史料批判を経て、展開しなければならないのは学問の常識と思います。思い付きに合うように史料解釈を撓めるのは、史料批判ではないと信じるのでここに明記します。

〇まとめ
 以上、氏は、長年醸しだした世界観をもとに滔々と談じていますが、原史料を遠く離れた「他愛もない幻想」(氏の用語)を露呈していると見えます。藪医者は、まず、自分を見立てて、癒やすべきであり、これでは、誰も、氏に相談を持ちかけないと思いたいところです。
 言いたい放題で過ごしてきた「レジェンド」は、晩節を汚さないように、早々に後進に道を譲るべきでしょう。

 当記事掲載誌は、学術論文誌ではなく、古代史初心者も包含した古代史ファン向けムックと思われますが、古代史ファンは子供だましのホラ話で十分、と見くびられたことになります。けしからん話だと思うのです。とは言え、執筆をオファーしたからには、訂正指示の朱筆を入れたり、没にしたりはできないので、寄稿依頼した時点で勝負がついているようです。

                                以上

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 塚田 敬章「古代史レポート」~史料としての「日本書紀」

 古代史レポート 翰苑の解読と分析     塚田敬章
私の見立て ★★★★☆ 必読  2016/04/01 調整/補充 2019/01/09 04/28 06/25 2023/01/25

*追記補充の弁 2019/06/25
 最近、当記事の閲覧件数が増えているので、丁寧に読んでもらえることを期待して、末尾に本音を追加した。面倒を厭わずに最後まで見る人なら、簡単に誤解しないと思うからである。

*失礼のお断り
 当ブログは、基本的に商業出版物ないしはそれに相当するサイト記事が対象
であり、個人の運営するサイトの記事は、収入源とされていない以上、書評に属するサイト記事批判は控えたいところであるが、今回も、ちょっと勇み足をさせていただきたい。

 また、記事タイトルは以上のものであるが、以下の論議は「翰苑」とは無関係である。当ブログ筆者の「翰苑」論考は、他の記事を見ていただきたい。

*合理的な論考
 さて、当該サイトの運営者である 塚田敬章氏は、具体的な物証に基づく、合理的な、つまり、過去の行きがかりや尊大な感情論でなく、物の道理に基づく思考を信条としている論客と感じ入った。おそらく、理工系の学問を修め、理工系の職務で実務経験を積まれた方と思う。誤解であれば、早合点をご容赦いただきたい。

 塚田氏の展開する魏志「倭人伝」に関する(難癖とも思える世上の批判に関する)議論の大筋は、当ブログ筆者と相通じる論理によって、相通じる意見を示されているものと思う。拍手喝采である。

 当ブログ読者諸賢は、未読であれば、是非とも、ご一読いただいて、当方の意見が妥当なものかどうか確認いただきたい。何しろ、当ブログのひっそりした風情に比べて、名声を馳せている先輩サイトなのである。

 ただし、当然ながら、塚田氏の意見全部に賛成しているわけではない。以下のご意見に関しては、率直な批判をご容赦いただきたい。
 魏志「倭人伝」に絞り込んでいる当方の守備範囲外とも思われる点で、いくつか、全く筋の通らない「定説」を採用・信奉しているのは、まことに勿体ないことであり、ここでは、賛否を保留したい。

*異議提示
 まずは、中国南朝に遣使した「讃」などの諸王を「書紀」に記載されている天皇に比定している点である。中国の南北朝時代の敗亡した南朝とは言え、秦漢代以来連綿とした「史官」の伝統に基づく「正史」の明確な記事は、歴史考証の基準であり、多分に後世の創造物である「書紀」を正すために利用するものである。
 神功皇后の事跡について、「書紀」の「神功紀」を史料として採用している点は、史料考証して、どうなのか、当ブログの圏外なので、定かではない。

*史料尊重
 氏の立場が、日本「書紀」を信頼すべきと言うものであれば、「書紀」の記事そのものを文字通りに解釈する立場から出発し、その立場にとことん「固執」するべきと思うのである。

*無関係宣言
 ご存じの通り、推古天皇は、「大唐」に使節を派遣し、その結果、「唐の客」裴世清が来訪したという記事が残されている。そこには、「今回が初遣使であり、これまで、辺境に蟄居していて、中国に天子がいることを知らなかった」ことが、堂々と述べられている。
 つまり、国家元首として、「(後)漢、魏、晋との交流も、南朝(偽)諸国との交流も、全て、自分たちのやったことではない、無関係だ」と明言しているのである。 
 つまり、最近の事歴である「倭の五王」の南朝への遣使は、自分たちの大和政権には関係無いと明言しているのである。 
 これが「書紀」の編纂方針である以上、そのように受け止めるべきではないだろうか。

 それを無視して、
歴史解釈に「唯一頼るべき史料」を、「断片的な中国側史料記事」に合うように切り刻んでは、ずらしたり傾けたりして貼り合わせるような謎解きごっこは、「書紀」を尊重する立場には合わないと思うのである。

 いや、あくまで、個人的な意見でしかないのは、ご了解いただきたい。

*武勲の伝承
 また、神功皇后の朝鮮半島での事歴については、真に受ければめざましい事跡であるが、半島側史書には、そのような制覇をされたとは書かれていないのではないだろうか。(国内史料に不案内なための勘違いであれば、申し訳ないのですが)
 「その点だけ日本書紀を史料として信ずる」というのであれば、当方としては、賛成できないとだけ申し上げるものである。

 もちろん、当方が「賛成できない」とか「感心しない」とここで言うのは、関連国内史料がほとんど読めていない個人の勝手な意見であるから、お耳触りであったら、聞き流していただきたいものである。

再追記:先入観・予断の戒め
 塚田氏は、故古田武彦氏の名高い著書を、うろ覚えで「邪馬台国はなかった」と誤解、誤引用して、「魏志に邪馬台国はなくても後漢書にある」のだがら、題名から既に間違っていると速断しているが、古田氏の著書は、正確には『「邪馬台国」はなかった』である。

 聞くところでは、出版社は、いつの時代もセンセーショナルなタイトルを好むものであり、「邪馬台国はなかった」なる明解なタイトルを押し立ててきたが、古田氏は、それでは「後漢書」を無視し不正確なタイトルとなることから、引用符を急遽追加した経緯があったようである。

 とかく、「独善」とか、「自己陶酔的」とか、「杜撰」とか、至高の形容詞を言い立てられている古田氏であるが、ここでは、言っていいことといけないことは弁えていて、何とも地味で堅実な、魏志に邪馬台国はなかった、と限定したタイトル付けである。
 もっとも、口頭では同じ発音なので、伝聞情報は同じになるとも言える。

 ぜひ「食わず嫌い」を抑えて、虚心に同書を読んでいただきたいものである。科学的な批判は、そこから始まるものだと思うのである。

以上

再追記:もったいない話 2019/06/25 2023/01/25
 以下は、大変面倒な話なので、読んで理解いただければ、まことに幸いと思うだけです。
文献解釈の第一歩ということ
 塚田氏の書かれた記事は、広く諸文献の引用を利用して、まことに、信頼できるように思えますが、実際は、諸所で、以下のような誤解丸出しの文が飛び出すのは、もったいないと思うものです。

 神功皇后は魏志倭人伝中の卑弥呼を思わせる女傑でした。にわかに夫を失い、子を孕むという大変な状況の中で、神託を受け、国の舵をとり、そして、成功したのです。

 しかし、すぐわかるように、これは「倭人伝」を離れた、誤解そのものです。
 卑弥呼は、生涯独身で、夫につかえたことなどないのです。だから、夫の遺子もいません。
 卑弥呼は、鬼神に事えたものの、政治にほとんど口を出さず、まして、他国を侵略するいくさを率いたことなどなかったのです。
 神功皇后は、後世まで、亡夫の以外を乗り越え、遺児の出産を、神がかりで数ヵ月に亘って差し止めて、「雄々しい姿」で国軍を率いて、半島東南部を掃討した「女傑」と尊崇された、顕著な存在なのです。
 大事なのは、そのあと、外征部隊を率いて本国に帰還し、留主部隊が奉じた偽りの天皇を討伐して、遺児に至高の皇位を与えたのです。
 これほど、決定的に、つまり、議論の余地なく明確に異なっている両人物のどこが似ているのか、なぜ神功皇后が、卑弥呼を「思わせる」のか、理解に苦しみます。
 まして、「書紀」の強引なこじつけにも拘わらず、実時代には、相当の隔たりがありそうです。「倭人伝」で描かれているのは、三世紀前半、と言うより、三世紀紀央ですが、「書紀」の年代は、大変不確かですが、それでも、「倭人伝」の時代から、随分後世なのは、察することができます。

*「神功紀」時代考証の試み
 さらに言うなら、それぞれの史料の背景と思われる時代相は、大きく異なります
 「倭人伝」に書かれているのは、北九州に存在する小振りの小国家群で、他地域のことは、ほとんど/実質的に書かれていないのですが、「書紀」は東方に存在する強力な国家の西方遠征軍の指揮官と配偶者を集中的に描いていて、東方には国家経営を托された留守部隊が示唆/想定されています。そのような時代の間には、数世紀に上る発展の歴史が想定されます。

 それぞれの半島形勢を想定すると、三世紀当時、「強力な軍兵を持ち諸国に指示を下していた」帯方郡に服属していた嶺東地域で、「書紀」に書かれたように、広範な軍事活動を展開するのは、帯方郡に対する重大な反逆であり、「親魏倭王」として魏に続き晋に服属した女王には、とてもあり得ない反逆です。時代としてあり得るのは、後世、馬韓を統一した百済の攻撃を受けて、晋代に入って急速に洛陽の支援を喪って退潮した帯方郡が、遂に消滅した後の時代の様相ですが、もちろん、随分後世のことです。
 そのような時代であれば、嶺東の辰韓が、興隆した新羅によって統一されていたので、ことは、「倭」と「新羅」の角逐となりますが、それに先立つ三世紀時点、新羅は辰韓斯羅国であって「倭」と対等ではなかったのです。当初、『新羅は随分弱小だったので海南の大国「倭」に追従した』と見ても、別に失礼には当たらないでしょう。
 と言うことで、神功紀記事を額面通りに受け取って、魏志と連動させるのは、深刻な時代錯誤と言うべきですが、このような錯乱の事態は、「書紀」編者が想定していたわけではなく、完稿後の「神功紀」に「倭人伝」記事をねじ込んだために生じた齟齬であり、現在「書紀」に見える混乱は、「書紀」編者の知るところでは無かったものと見えます。
 世上、魏志引用と見える追記記事は、「書紀」本来の記事と見られているようですが、それは、「書紀」編者が、一旦完成した神功紀に場当たりの軽率な改訂を加えたと弾劾していることになります。
 「書紀」は、完成披露の記事以降、日本の国史の表面からから姿を隠しているようであり、随分後世、今日まで伝承されている写本が世に知られるまで、密かに、私的に写本継承されていたと見えるので、何れかの時点で追記が施され、別の何れかの時点で本文に取り込まれたとも見えますが、何しろ、私的な写本継承の実態は、一切表明されて居ない、つまり、世人に知られていないので、全て臆測なのですが、当初から本文に収容されていて、忠実に継承されたというのも、別の臆測に過ぎないので、何方もどっちで、随分、議論の余地があります。
 いや、以上は、当ブログの圏外への口出しですが、ご容赦頂きたいものです。
 ただし、そのような考証は、「通説」めいたものですから、多少の誤解が含まれていても、氏の責任ではなく、当記事は、氏への批判ではないのです。

 それはさておき、一般論として、対象文章の文字を一つ一つ追いかけて、それだけで、文意を理解することが、文献史学の基本中の基本であり、この件のように、特に暗号化されているわけでもないのに、「書紀」及び「倭人伝」の文意を読み損なっているのは、何とも、もったいないことです。

*雑音情報による汚染
 このように、不確実な文献史料を、考証不十分なまま議論に取り込もうとすると、その文献史料のおかしたと見える「誤解」に取り込む時の「誤解」が重なり、引用する都度、本来の史料解釈に誤った要素を取り込むことになります。
 つまり、文献解釈は、外部の要素を取り込むことを最小限にとどめるのが最善なのです。

 そのような堅実な解釈を終えたところで、一度、文献解釈が定まったら、そこで「倭人伝」を確定し、他の資料の文献解釈に映るものでしょう。この行き方は、世間の誤解を誘うものですが、一度に複雑なことを「まぜこぜ」にして進めるのが間違いのもとなのです。
 いや、正しく言うと、どこで何が起こって、誤解が発生したのか、その原因を突き止め、排除するのは「困難」、つまり「大変難しい」のです。(わかりやすく言い直すと、人間業では「不可能」(virtually impossible)なのです)

 古来、古代文献に限らず、文書に含まれている情報は、大量の「雑音」に埋もれているのであり、慎重な上にも慎重な文献検討が必要なのです。そのためには、どこの誰が、いつ、どこで、何を見て、どこまで検討したのかわからない、どこまでが情報で、どこが雑音かわからない不確かな外部文書を持ち込むのは、少なくとも、時期尚早なのです。古代史分野、特に、倭人伝の文献検討では、この第一歩がなおざりになっているので、あえて、子供に言うような当たり前の理屈を言い立てているのです。

*「水行」談義~慧眼と惑動
 塚田氏は、道里行程記事の郡を出たところの僅かな冒頭「水行」(と見える)記事で、『魏志全体はどうであれ、「倭人伝」では「水行」は海の移動』と読み取る慧眼を示していて、続いて、狗邪韓国からの移動を「始めて海を渡る」と、これも、希な慧眼を示しているのです。

 一方、何に惑わされてか、たちまち視点を一転して原文を離れて、冒頭「水行」が、「引き続いて半島西岸の沖合遥かを南下する」現実離れした「歴韓国」と決め付けていて、ご明察とかけた声を取り消すような勿体ない「思い込み」です。これは、言わば、自傷行為であり、まことに、誠に勿体ない齟齬です。

*玉石混淆
 と言うことで、塚田氏の書かれた文章は、玉石混淆、但し、素人目には、石粒だらけなのが、もったいないのです。
 素人目で、「石粒」にダイヤモンド原石が混じっているのを見落としているかもわかりませんが、先にも書いたように、一度に多くのことに取り組まないのが、誤解を避ける最善の政策なのです。
 (「玉石混淆」は、もともとは、宝石、貴石に「玉」なる至宝が混じっている豪勢な事態の表現かも知れませんが、定説では、「玉」が、大量の石ころに混じっているという解釈なので、それに従います。)

*再総評
 当方としては、全体評価を落とすわけに行かないので、表現を和らげたから、読んでも、意図がわからないと不評なのでしょうが、安直に白黒付けられないのが「実戦」なのです。

この項完

2023年1月23日 (月)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号「私の邪馬台国論」再掲2

 梓書院 2021年12月刊       2022/01/04 追記 2022/11/20 2023/01/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責/重責と思います。安本美典氏は、季刊「邪馬台国」誌の編集長に就任された際は、論文査読するとの趣旨を述べられていて、時に「コメント」として、講評されていたのですが、何せ四十年以上の大昔ですから、目下は、無審査なのでしょうか。

▢「邪馬壹国」のこと
 季刊「邪馬台国」誌では、当然「邪馬壹国」は誤字であることに触れるべきでしょう。無視するのは無礼です。 
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音するという合理的な根拠の無い「思い込み」であり、この場では、思い込み」でなく「堅固な証拠」が必要です。半世紀に亘る論争に、今さら一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。パクリと言わないにしても、安易な便乗は、つつしけものではないでしょうか。
 そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、氏は、説明の言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に、読者の大勢はついていけないものと愚考します。(別に、読者総選挙して確認頂かなくても結構です)
 素人目にも、2023年2月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)は実行済みとは言え、実務対応は懸案山積であり、連合王国(United Kingdom)としては、北アイルランドの取り扱いが不明とか、EU諸国としても、移民受入の各国負担など、重大懸案山積ですから、とても、「今日のEU」などと平然と一口で語れるものではなく、氏が、どのような情報をもとにどのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能ですから、三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。
 「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の「国の形」について臆測、推定し、議論していますが、倭人伝」に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは「倭人伝」(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、泥沼のごった煮全てが氏の意見と見なされます。「盗作疑惑」です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。

*前提確認の追記 2023/01/23
 ここで、追記するのですが、そもそも、氏の提言の前提には、当ブログが力説している『「倭人伝」の道里行程記事は、帯方郡から倭への文書通信の行程道里/日数を規定するもの』という丁寧な視点の評価がないように見えるのです。つまり、「必達日程」と言われても、何のことやらという心境と思います。説明不足をお詫びします。
 手短に言うと、正史読解の初級/初心事項として、『蛮夷伝の初回記事では、冒頭で、当該蛮夷への公式行程/道里を規定するのが、必須、「イロハのイ」』という鉄則です。

*前稿再録
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国まで、一貫して「水行」ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。
 何しろ、必達日程に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。いや、海岸沿い陸路があれば、まず間違いなく、帯方郡の文書使は、騎馬で、安全、安心で、迅速、確実な「官道」を走るでしょう。
 先賢諸兄姉の論義で、海岸沿い陸路を想定した例は見かけませんが、好んで、選択肢を刈り込んだ強引な立論を慣わしとしているのです。

 前例のない「水行」を制定/運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで三日、連日連漕しないとすれば、多分六日、ないしは、十日を想定するはずです。
 これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる『氏が想定している遠大極まる「水行」』行程は、七日どころか、二十日かかっても不思議はない超絶難業です。潮待ち、風待ち、漕ぎ手交代待ちで、乗り心地どころか、船酔いで死にそう、いや、難破すれば確実にお陀仏、不安/不安定な船便で長途運ぶと、所要日数も危険も青天井です。諸兄姉は、そう思わないのでしょうか。

 隣近所まで、ほんの小船で往来することは、大抵の場合、無事で生還できたとしても、一貫して官道として運用するのはあり得ないのです。
 一方、「幻の海岸沿い陸路」ならぬ半島中央の縦貫官道を採用して、ほぼ確実な日程に沿って移動し、最後に、ほんの向こう岸まで三度渡海するのであれば、全体としてほぼ確実な日程が想定できるのです。えらい大違いです。
 この程度の理屈は、小学生でも納得して、暗算で確認できるので、なぜ、ここに、無謀な臆測が載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、『三世紀当時存在しなかった多桁算用数字」で12,000里と五桁里数に勝手に読み替えて、全桁「数合わせ」しますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説(の誤謬)を、丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。
 安本美典氏の牙城として、絶大な権威ある「邪馬台国」誌が、このような論文偽装を支持するのは、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 後出しの「必達日程』論は言わなくても、凡そ、『帯方郡が、貴重な荷物と人員の長行程移送に、不確実で危険な移動方法を採用することは、あり得ない』という議論は、通用するものと思います。
 まして、正始の魏使下向の場合、結構大量の荷物と大勢の人員を運ぶので、辺境で出来合の小船の船旅とは行かないのです。とにかく、いかに鄙にしては繁盛していても、隣村へ野菜や魚貝類を売りに行くのと、同じには行かないのです。人手も船も、全く、全く足りないので、現代世界観の塗りつけは、論外です。
 狗邪韓国近辺の鉄山で産出した「鉄」は、陸上街道で帯方郡まで直送されていたのですから、そのように、郡の基幹事業として常用している運送手段を利用しないのは、考えられないのです。と言うことで、本稿の結論は、維持されます。
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。 「訊くは一時の恥……」です。
 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

私の意見 毎日新聞 「今どきの歴史」 最後の脱輪~叶わない神頼みか

                                                   2018/06/18 2023/01/23

 毎日新聞夕刊月一連載記事の2018年6月分は「纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?」と題して、時代鑑定を論じた後、次の結末でこの問いに答えられず脱輪して溝に落ちた感じである。

 「IntCalも数年に一度変わり、実年代も変わる」と坂本さんが言うように、C14年代測定はさらなる精度向上の余地がある点で「発展途上の技術」(箱崎さん)という認識が測定する自然科学側にはある。使う考古学の側もその視点が必要だろう。その上で、進化版JCalにより今回の実年代が検証される日を待ちたい。

 ブログ注:坂本さんと箱崎さんは、坂本稔・歴博教授と箱崎真隆・歴博特任助教(共に文化財科学)である。「歴博」は、国立歴史民俗博物館の略称として、当記事で説明済みである。

 心配なのは、IntCalも数年に一度「変わり」、(それに応じて?)「実年代」も「変わる」なる途方も無い放言/暴言である。素人は、科学的知見は不変であって欲しいと願うのだが、この業界、言うならば、『纏向遺跡の年代比定を、倭人伝記事に見合うようにずり上げるという崇高な使命を持った「纏向考古学」』では、頻繁、かつ、気まぐれに「変わる」らしい。なら、先ずは2018年版と時点を明記すべきだろう。

 ここで、「実年代」が変わるという途轍もない理不尽な言い方だが、素人は、「実年代」を実際の年代と解するから、変わるのは不穏とみる。このあたり、言葉が通じない。それは、「精度」と無関係な酔人の戯言と聞き間違えられそうである

 先般記事で、名古屋大中村俊夫名誉教授も「実年代」と称していて、纏向考古学」では「実年代」は推定年代らしい。まあ、不朽・不変の歴史に「今どきの歴史」があるというのであれば、「今どきの実年代」は「刻々」変わるのかも知れない。
 何の事はない。学問の世界にあって、昔ながらの手前味噌である。言うなら、「望むご託宣が得られるまで、おみくじを引き続ける」という不屈の意思の表明なのだろうか。

  更に不穏なのは、目下信奉されているJcalが、「進化版」に置き換えられ打ち棄てられるとの「勝手な」推定である。科学用語で、進化とは旧世代が淘汰され、新世代が生き残る不連続な過程であるから、そのように受け取るしかない。現在の技術の進歩・発展は、早晩遺棄されるものであり、期待できないのだろうか。諸行無常という事なのだろうか。

 と言うことは、箱崎さんは、現在の技術は、多額の費用と多大な労力を費やしていながら、未完成で幼稚であり、早晩駆逐されると予言されているのだろうか。「発展途上」とは、そういう意味である。一個人の意見としても、そこに毎日新聞の権威が託されているのか。

 と言うことで、今後、「纏向考古学」は、「使う」立場で、望む実年代が得られる新技術を開発するのに専心されるようである。それにしても、多額の公費を費消しているのに、失敗は想定内であり、解釈論で曖昧化することで凌いで、「もともと信頼できない在来技術だ」とうそぶくのは、職業倫理の持ち合わせはないのだろうか。

 更に言うなら、何年か先に新基準が公開され、新「実年代」が公開されても、数年すれば、またぞろ「今どき」の「実年代」が登場するのであれば、「最新技術による科学的な測定」を駆使した「実年代」論議は徒労ではないか。

 私見であるが、いかなる現代技術を駆使しても、考古学の考察する遺物の年代判定は、常に、ある程度の不確かさを含む推定であり、不確かさは、時代を遡るにつれ、急速に拡大すると見なければない。

 記者は、今回発表の西暦135~230年あるいは同100~250年ごろという、不確かさを包含した「実年代」に、どのような意義を見ているのだろうか、今回の「実年代」は、『「纏向考古学会」の望む成果ではない、間違った推定だ』と断罪されているのではないか。

 当該事業には、会計監査はないのだろうか。ほかに、もっと有意義な使途はないのだろうか。一介の少額納税者としては、分相応の不満を鳴らしたいのである。

◯一応の結論
 「今どきの考古学」は、時の彼方の史実を語るHistorical scienceの避けえない不確かさに慣れるべきであって、無理矢理、自分の望む歴史ロマンに沿った「実年代」を押しつけるべきではない。それは、おお法螺である。
 それとも、「纏向考古学」は、考古学ではない、科学ではないというのだろうか。

 関係諸兄姉は、ご自分達の俸給が、上司や役員のポケットから出ているのでなく、一般国民の納めた貴重な税金から出ていることに、年に一度は思いをいたすべきだろう。
                                        以上

18. 倭地周旋 読み過ごされた小振りな倭國 改訂 2014-2023

     2014/05/04 改訂 2020/08/23 2021/09/16 2022/09/26 2023/01/23

**大幅改訂の弁**
 当記事は、大幅に改訂されて、結論が大きく転進しているので、できれば、末尾に飛んでいただきたいもので。(恥を忍んで、当初記事を残しているものです)

●原記事遺構
 參問倭地、絕在海中洲㠀之上、或絕或連、周旋可五千餘里。
 以下は、長く温めていた議論ですが、最近、『古田史学論集』 第三集 『倭地及び邪馬壹国の探求-「周旋五千余里」と倭地の領域の検討』で考察されていることを知りました。
 もちろん、以下の考察の運びと大筋は同じなのですが、模倣したものではありません。
 倭國が、ほぼ九州内に絞られることは、倭人伝冒頭で予定されているのですが、ここで、その外形が明らかになります。
 一周五千余里ということは、正方形に当てはめれば一辺千二百五十里となります。倭人傳で一里75㍍と見て取ると90㌔㍍四方程度の範囲となります。形状を明記していないので、矩形や方形ではないようですが、不規則な凹凸のある図形となると、一段と、その内部領域が狭くなるのが、幾何学の教えるところです。(この誤解は、三世紀当時の幾何学概念に関する理解不足によるものでした)
 これは、九州全島を示すものですらなく、九州北部にこの大きさの倭國を構成する諸国があったと言うことを示しています。
 王国の広がりは、三世紀中盤の交通の便に制約され、とても、遠隔の地に及ぶものではないものと考えます。
 このように、誠に狭い範囲に多くの国々がひしめき合っていたからこそ、数年に亘って争い合うことができたのであり、また、戦時以外は、密接な交流があり、風俗や伝承を共有していたであろうことから、市井の一個人(倭人伝には王族の一員と書かれているのです。これは誤読でした)を国王に共立することができたものと思われます。
 魏志倭人傳を漢里制で読むと、周旋五千里は、一辺五百キロのもう一つの中原であり、そこに三十諸国の逐鹿の戦いが展開されているという戦国ロマンが、笵曄を魅了したので、後漢書で「大乱」と粉飾してしまったのでしょう。
以上

追記 拙速の議論 撤回の弁 再訂正 2020/12/18 補充 2021/09/16 2023/01/23
 以上は、浅学非才の憶測てあり、以下の趣旨で改訂した見解を残します。

○「周旋」の面目回復
 「周旋」は、中国古典史書では、閉曲線で領域を括る意味でなく二地点間の直線経路(道のり)を言うものです。
 ただし、「周旋」なる用語の典拠は、中国古典史書といっても、司馬遷「史記」、班固「漢書」でなく、ほぼ同時代の袁宏「後漢紀」で示されているように、後漢末期、魏、西晋の期間に洛陽付近で通用していたと思われる常用表現が出典と見ます。

 狗邪韓国から倭王城までの直線的な行程(狗倭行程)道里が必要であったのに、末羅国以降の道里に、余傍、つまり、行程外の脇道である奴国、不彌国、投馬国が書き足され、行程の本筋が読み取りにくい記事になってしまったため、狗倭行程を周旋五千里と明示したものです。

 また、周旋」は、それぞれの王の居所を順次通過しているため、一部で力説されているような島巡りのようなつじつま合わせは、一切存在しないのです。(陳寿が、国家の歴史を記録する「正史」の一章にそのような姑息な辻褄合わせを書いたとは、到底信じられないのです)

 ここで書かれているのは、魏晋朝が、帯方郡から東夷王城に至る公式行程を正史上に「始めて」定義したものであり、実地の移動距離(道のり)を集計したものではないのです。丁寧に言うと、実地の移動距離は、島嶼間の渡船移動のように、測量しようもないものもあり、また、未開の倭地のように、陸上街道であっても、適格に測量できないものもあったのです。ここで定義するから細かいゴタゴタは出てこないのです。

 かくして、「周旋」に貼り付けられた道化面を剥がして、正しい「面目」が回復できるのです。

*笵曄「後漢書」東夷列伝の怪~余談
 ついでながら、笵曄「後漢書」東夷列伝は、後漢最後の皇帝献帝代に帯方郡が創設/公認されて洛陽からの公式道里が設定されたという記事を持たないので、倭の位置を説明するために、苦肉の策として、既説、既知の楽浪郡の南境から倭までの道里を書いていますが、唐代に笵曄「後漢書」に追加された司馬彪「続漢書」「郡国志」にすら、そのような史実の根拠が無く、「風評」「臆測」とみられても否定しがたいのがわかります。つまり、魏志「倭人伝」が、「倭人」の所在を初めて記録したことが、改めて確証できるのです。

 歴史上、西晋後期の陳寿に対して、笵曄は、西晋/東晋に続く劉宋の士人で、百五十年後の後追いですから、その時点で「後漢書」東夷列伝に、新たに発見された根拠があれば、堂々と明記できたはずですが、西晋代、つまり、陳寿と同世代の司馬彪「続漢書」「郡国志」にない記事は、さすがに参照できなかったので、後漢書「東夷列伝」の面目を保つために、倭人伝を上塗りする、いわば、「方便」とすべき「おとぎ話」を、いわば筆を舐めて貼り付けることしかできなかったのです。
 何しろ、衆知の如く、介在する百五十年の間に、北方異民族の侵攻で、西晋亡国、洛陽壊滅の大変動があったため、笵曄の手元には、それこそ、後漢魏晋代の公文書記録の残骸しか伝わっていなかったので、最早、後漢代原資料に基づく正史編纂は不可能だったので、先行する諸書を拾い集めたのが笵曄「後漢書」ですが、東夷の後漢代「史実」、即ち「公文書記録」は、喪われて伝わっていなかったのです。

*行程諸国歴訪の趣旨
 ここに想定されているのは、狗倭行程は、大河の流れに例えられた「大海」(塩水湖)に浮かぶ「海中山島」(中州/中の島)に存在する各国「国邑」、つまり、隔壁集落を「又」「又」、順訪するのであり、後世諸国のように、広がりを持った領域になっていないものです。

 ちなみに、太古以来、「國」「邑」とは、王と近親が特に隔壁にこもった形態、ないしは、所蔵する耕作地と耕作者まで収容した隔壁、城壁に守られた集落国家が定法ですが、「倭人」は大海海中の山島に住んでいるので、定法に従わず、城壁を構築していないとしているのです。外敵や野獣の侵入を防ぎ、また、河川氾濫時などの浸水を防ぐために必要な防御は、聚落遺跡として出土している「環濠」に限られていたと言うことです。倭地の実情は、ある程度、中原知識人に知られていたのでしょう。

 そのような太古殷代の古典的な「國」と別に、周代の春秋時代以降、かなり広がりを持った邦」(くに)が、時代相応の広域を示すようになったのですが、漢代、創業者高祖劉邦の「邦」の字を憚って「國」と呼ぶことにしたので、魏晋代に到ると「國邑」は、言わば、言葉の「化石」として、史官の語彙にだけ生き残っていたのです。
 つまり、ここでいう「國」は、三世紀に常用された「国」と異なり、字の形が示すように、方形の隔壁に囲まれた集落であり、倭人伝では、それを明示するために「國邑」と二字語にしているのです。

 従って、「倭人」の王城は、広々とした「國」でなく、伊都国の南にある小規模な隔壁国家であり、あるいは、伊都国の隔壁の中に、すっぽり収まった二重国家かもしれないのです。「倭人伝」は、壮麗な「國」を描いていますが、正史に書かれた以上「史実」と見なすべきですが、どうも、「写生」ではないようです。

 このあたりは、「倭人伝」冒頭で断っているように、倭人は、大海に浮かんだ山島に在るという語法を、内陸世界に生まれ育った三世紀中原人の教養で理解できるように、「河水の流れの中州の飛び石のように小島がある」と表現したものと見えます。

 ちなみに、末羅国で三度の渡海は終わり、その先は「陸行」、地続きとされていますが、だからといって、九州島のように広々とした山島を想定していたとは限らないのです。その点は、伊都国の戸数が、道中の諸国同様に千戸台であることでも示されています。(奴国、不弥国、投馬国は、道中ではない余傍の国なので、以上の議論の埒外であり、言うならば、別儀、論外です)

 折角、陳寿が、同時代の教養人の誤解、混同を避ける慎重な書き方、書法を示しているのに、言うならば、無学無教養の蛮夷である現代人の思い込みにとらわれて、いわば、諸人(もろびと)が挙(こぞ)って誤解し、陳寿の本旨を適確に理解している論客が、めったに見当たらないのは、まことに残念です。(「無学無教養の蛮夷」とは、随分「ご挨拶」と思われるかも知れませんが、三世紀当時、「文明人」とは、四書五経を諳んじて、周礼に随い、典拠に基づいて滔々と弁じる「教養」を備え、衣服、面貌、頭髪、いずれも、典式に従うものであり、現代にその要件を完備している方がいらっしゃるとは思えないので、別に「差別表現」ではないのです)

*方里の幻惑~余談
 ちなみに、行程道里の「里」と紛らわしいのが、東夷伝特有の「方里」、例えば、韓地の「方四千里」とする表現ですが、一辺四千里の方形でなく、一里四方の正方形「方里」四千個を縦横に敷き詰めた「面積」表現である可能性が高いのです。(的確な換算かどうか、不確かです)

 ここでいう「面積」は、当てにならない領域面積などではなく、「耕地面積」であり、領地内各地の戸籍、土地台帳に書かれている個別の農地の面積「畝」(ムー)を集計して、一里四方の正方形の個数に換算したものてだ、いわば適格な集計だったのです。
 現代人が、当時存在しなかった現代地図で見る領域面積に対して、せいぜい十㌫程度であって、非常識なほど狭いものですが、三世紀当時の東夷領域で必要なのは、其の国の穀物生産能力であり、従って、戸籍に登録された耕地面積に、限りなく重大な意味があったのです。

 現代人がついつい見てしまう「地図」は、当時全く存在しないので、各国領域の形状は幻覚に過ぎず、大変不確かで測量不能であり、又、実用上、厳密である必要は全く、全くなかったのです。いや、領域面積が何かの間違いで測量できたとしても、高句麗、韓国のように、指定された領域の大半が、山嶺、渓谷、河川などで耕作不能なのは明らかですから、そのような虚構の面積で当該領域の国勢を示すのは無意味なのです。
 この点、中原の黄土平原では、領域の相当部分が農地として開発されているので参考にならず、東夷諸国の国勢を示すには、正味の農地面積を駆使したものと見えます。

 因みに、陳寿「三国志」の魏志東夷伝で、そのようにして「方里」を表記しているのは、往年の公孫氏遼東郡の管轄範囲であり、公孫氏自体は、司馬懿の徹底的な殺戮により公文書を喪っていましたが、いち早く、魏帝の命により、両郡が無血回収され、皇帝直属となったため、公孫氏時代の「方里」の書かれた文書が証明されたものと見えます。
 倭人伝に、「方里」の書かれている対海国、一大国は、海中山島にあって、耕作可能な農地が稀少なのが明らかなので、特に「方里」として耕地面積を明記したのであり、あわせて、公孫氏遼東郡は、「女王以北」と書いた、対海国、一大国、末羅国、伊都国は、「倭人」の要点として、国情を適確に把握していたものと見えます。

 ということで、「方里」は面積系の数値であって、ここで言う「周旋五千里」という道里系の数値とは、別次元の単位なので、「方里」に見て取れる里数は、周旋里とは無関係なのです。
 「周旋五千里」が、何㌔㍍に相当するかという「設問」は、別に論義すべきなので、ここでは触れません。

以上

2023年1月22日 (日)

倭人伝随想 倭人伝道里課題へのエレガントな解答の試み 再訂 1/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

◯今回の結論
 「倭人伝」里数問題(道里課題、設問)は、ほんの少し知恵を絞って、ほんの少し工夫して、丁寧に考察すれば、ほとんど「倭人伝」の記事だけで、「無理少なく、より簡単明快に」、つまり、力業や曲芸でなく、エレガントに解けるのです。何しろ、出題者たる陳寿が、全ての手がかりを提供しているからです。後は、読者の常識次第で、解ける「問題」です。

 いや、これが誤解/誤答とは、誰にも断定できないはずです。

◯倭人伝道里論の再点検 概念図 2020/10/12 復元 2023/01/22
  2  
     
 世に「倭人伝」の議論、特に、「倭人伝」の主題である「倭人」の所在が読み取れないから、史伝として不備とする議論が多いのです。時には、「倭人伝」を、教科書の「問題」なみに、必要以上に苛酷な、賢い読みを要求する「課題」と捉えて、頑として正解の出せない不備な「問題」としている例もあります。

*落第生の咆吼とのろまな彷徨
 世の中には、「倭人伝」道里に関して「これまで発表の千件の解答を確認したが、全部間違っていた」などと、並の人間が何十年かけてもできないことを「やった」と、高々と咆吼している人を、何人か見かけます。
 
◯井の中の蛙志向の言い訳
 当方は物知らずの凡老人で、膨大な諸説を残さず吟味できないと自覚しているので、倭人伝自体を読み解くのに、自分にもできて、素人目にはわかりやすい手順を求めて彷徨しつつ、何とか倭人伝道里記事を読み解こうとしただけです。

 二千字の倭人伝の、そのまた一部という、随分限定された「問題」ですが、ここまでの乏しい経験でも、倭人伝だけでも検討範囲を広げると、さらに大量の資料、意見を読んで、あれこれ考え合わせる必要があるので、とても、検討範囲を広げられないのです。
 更に、これまで敬遠していた後世の国内史料に手を付けると、史料批判だけで厖大な時間がかかるとわかっているので、頑として遠慮しているのです。

*解けない問題への解答
 普通、生徒が試験問題を解けないのは学力不足が原因ですが、「倭人伝」(魏志紹凞本などで「倭人伝」と小見出しの部分)課題は、いきなり問題「不備」とされています。倭人伝の「不備」を是正する義侠心の方までいます。

*史料尊重の視点
 冷静に考えれば、「倭人伝」は、三国志主部、魏志の一部であり、編纂者たる史官陳寿の著作物であり、後世の素人が気軽に書き替えられないのです。まして、知識、見識で大いに劣るとみられる「現代人」、つまり、三世紀視点で言うと、「無教養な東夷の蛮人」が、「現代語」に書き替えたと称する「戯作」を原史料と取り違えて論ずるのは「論外」です。

 「倭人伝」は、晋代の陳寿が、晋朝高官に向けて、東夷新来の「倭人」の素性、所在、道里を初回報告として漢文で書いたものです。「倭人伝」に関し、陳寿の漢魏晋に至る歴史見識と文才、中でも参照資料の広範さ、豊富さは、古今通じ「世界一」です。超人でも神がかりでもない、偉才を見くびってはなりません。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 2/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

◯序章  「倭人伝」里程記事の前触れ
 結構根強く出回っている誤解ですが、なぜか、倭人伝の道里行程記事の「從郡至倭循海岸水行」と書かれた「前触れ」で、まだ、帯方郡を出ていないのに、いきなり西に曲がって海岸に出て、何の予告もないのに、南に「水行」すると解した諸兄姉が多いのです。この八文字は、以下の行程の中に、前代未聞の「水行」行程があって、その際は、海岸の岸部から渡し舟で向こう岸に渡ると予告しているのであって、まだ、出発していないのです。その証拠に、所要期間も、並行する街道の道里も、立ち寄る宿場も書いていないのです。
 念押ししますが、行程は、帯方郡から街道を南下するのに決まっていて、だから、わざわざ「陸」、平地を行くと説明しないのです。

第一歩 「倭人伝」里程記事の取っつきと結尾
 いよいよ、行程は、郡を出て、整備された官道を進め、韓伝に書かれた諸国を歴訪しつつ、時に東を、時に南を向いて、全体として、東南方向に予告した「海岸」に到着するのです。郡から半島南端の狗邪韓国海岸までの略称「郡狗」区間です。区間は、七千里と明記されています。
 この海岸は、「倭人」に属する大海の海岸ですから、既に韓国を離れているのです。言うならば、「大海」の北岸で、狗邪韓国は、「倭」と接しているのです。
 因みに、行程道里記事は、まず、狗邪韓国に「到る」と通常の陸上行程の終わりを明記していて、そこから、予告の「水行」ですが、さりげなく「始度一海」、「又南渡一海」、「又渡一海」と書いて、「水行」と物々しくても、「死にそうな」長旅でなく、渡船の三度のくり返しで「怖くない」となだめているのです。
 かくして、三度の渡海で末羅の岸に着いた時、郡から都合「万里」になることまでは、ほぼ異論が無いようです。そうでしょう?

 もう、行程は「水行」しないのですが、念押しで「陸行」と書いています。以上の行程の仕分けが誤解無く読み取れるようにしているのです。
 末羅国から伊都国に「到る」としているので、伊都国が格別の地位を得ていたことは明確です。この点、後ほど解明します。

 郡から倭の「郡倭」全体は万二千里ですから、末羅国から倭は、計算上二千里と見えます。また、「郡狗」七千里ですから、計算上「倭」は末羅国から「郡狗」三分の一のあたりと見えます。

 後ほど再確認するとして、ここでの議論は、万事概数でかなり幅があるものの「倭人」はそれを外れた「圏外」にはいないと明快です。以上、藤井滋氏が「『魏志』倭人伝の科学」(『東アジアの古代文化』1983年春号)で、四十年近い、とうの昔に提示しています。
 安本美典氏が、藤井氏の意見を氏の主張の論拠としていますが、世間一般は、一向に耳を貸さないのです。
 因みに、安本氏は、藤井氏の「倭人伝里」観に同意していますが、古田師が終生こだわった「魏晋朝短里説」の理性的な否定者です。

*明快な結論と混ぜっ返し~倭在帯方東南の否定
 このように、倭人伝を適切に解すると、倭に至る行程が九州北部を出ないことは、遙か以前から知られていたのです。
 この明快な読みは、例えば、明治期の白鳥庫吉師も認めていたようですが、そう認めて、倭人が、帯方東南の九州北部に決まって倭人がヤマトに行けない「倭人伝」里程説は、「纏向」説から見て、無礼で不愉快であり、金輪際、正確と認められないわけです。
 以下、壮烈な混ぜっ返しが続いて、灰神楽になり、視界混沌と見えるのですが、沈着に心の目で眺めると、状況は何も変わっていないのです。

*名刀が鞘に収まらない話
 と言う事で、冷静に、最後の「末倭」間を精査するのですが、世上好まれる直線的な解釈では、末羅―伊都―不彌―投馬―倭の間で、滑り出し三区間は予想通り、五百里、百里、百里の計七百里であり、残るは千三百里と予測されます。
 残りは、不彌から投馬まで水行二十日に次に見える「水行十日陸行一月」の四十日を投馬から倭までの行程とみて、足して六十日と見る解釈が好まれていて、結尾の帳尻のはずがどえらい遠隔区間となります。
 この解釈は、「放射説」に対する最強混ぜっ返しとされますが、一見して度外れです。全体の「郡倭」万二千里から「郡狗」七千里と「狗末」の渡海三千里を抜いた「末倭」二千里に六十日行程を含めるのは、度外れた不正解です。
 このあたりで、善良な読者は、直線的な解釈のはずが、乱脈に巻き込まれているのに気づくのですが、そこから脱出しようと素人考えで、悪足掻きしているのが、世上の混乱した邪馬台国比定論「沼」なのです。

 按ずるに、良く言われる「自然で単純な」読み方は、読者に混乱を与えて、行程を纏向まで引き延ばす方策ですが、どう「倭人伝」を読み替えた処で、丁寧にもつれを解けば、倭人を「纏向」に求める説は根拠を失っています。いい加減に降参すべきです。

 と言って、問題の書き方がどうこう言うのはまだ早いのです。

◯概数基本のおさらい~誤解解消
 この機会に概数記法を復習すると、倭人伝に頻出の「余」は、端数切り捨てでなく端数を丸めたのです。軒並み「余」が付くのはそういう意味です。五百里に「余」がないのは、きっちりという意味ではなく、ほぼ軒並み千里単位の里程なので、五「百里」の桁は端数で、大勢に全く関係無いと見たのです。本稿では、繁雑を避けて、「餘」を省略していますが、諸兄姉が端数切り捨てと誤解しないための方策でもあります。

 仮に、陳寿が概数に強くなかったとしても、関係者は中国文明の威力で数字関係を知悉しているから、数字を誤記連発する愚は犯さないはずです。

◯第二歩 水行陸行のおさらい~誤解解消
 なお、最終記事の都合水行十日、陸行三十日(都水行十日、陸行一月)を、水行なら十日、陸行なら一月と解釈するのは、「倭人伝」の里程記事として意味が無いので却下です。これもまた、善良な諸兄姉に混乱を催す攪乱工作でしょう。
 正史「倭人伝」に求められているのは、公文書が洛陽から倭に至る所要日数です。騎馬の文書使が官道を疾駆する前提なので、官道の整備されていない行程の里数を知っても、意味はないのです。
 倭人伝」は、世上蔓延っているような魏使旅行見聞記ではないのです。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 3/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

*高度な解釈を求めて
 読者は、現代日本人の勉強不足の単純素朴な読みが却下された時、これら記事は、どのように読み解くべきか、一段と高度な判断を求められるのです。そう思いませんか?

*投馬国談義~ほんの餘傍、余談
 手始めに、水行二十日の投馬国は行程外の余傍と見ます。投馬国は戸数五万戸の有力国で、王制伝統でなくても、官を受け入れた国書筆頭付近の列国のため、里数不詳、戸数未確認の不備無体のまま国名を書いたのでしょう。「倭人伝」で、奴国、不弥国共々、余傍とされている三国の一つです。
 と言うことで、法外の水行二十日などの混乱は言い立てません。「倭人伝」が創唱した公式行程道里の「水行」は、半日仕事の渡船稼業であり、二十日に及ぶ渡船は法外です。また、一度「水行」というと、どこかで「陸行」に戻す必要があるのですが、投馬国以降は「水行」のままという不合理になっています。とは言え、行かない行程がどうなっていても、陳寿の知ったことではないので、放置されたものと見えます。

*扇の要
 かくして、俗に「放射説」と呼ばれている高度な解釈が登場します。当方は、伊都を「扇の要(かなめ)」と呼ぶのが相応しいと思うのです。

*伊都国の重み
 つまり、「倭人伝」を読む限り、伊都は、郡倭の交通、交信の「要」であり、全ての旅客、文書は、一旦ここで受理され審査されると明記されているので、郡、つまりは、魏朝は、この「要」までの道里を知った上で文書送信すれば、倭人に知らせたと同然との見方が示されているのです。つまり、行程道里は、伊都で終着なのです。
 倭人伝を復習すると、郡からの公文書は、伊都国で受領されていて、郡の文書使は、伊都国から発信される倭の公文書を受け取って、帰還するものと見えます。また、郡からの使者は、伊都国で、公館に宿泊すると明確に示唆されていて、要するに、郡の行人は、公用を伊都国で済ませるのです
 道里行程記事で、伊都国から女王居処までの行程は、南と書かれているだけで、道里も所要日数も書かれていない最大の理由は、行程が伊都国で完結していて、女王居処は行程道里に入っていないからです。

 伊都国が重要なので、伊都国の「追分」、「町辻」(辻は漢字にない国字)に、各国公道の分岐点「要」があって、そこには、道標が置かれていたはずです。

*地域拠点の意義
 「放射説」は学術的表現ですが、この事情は別に異常でなく、西域でも、中原~西域都督からの旅客文書は、地域拠点に集じて各目的地に散じたはずです。伊都を、少なくとも地域拠点、集散地と見れば、物の道理は自明です。
 榎一雄氏は、文法解析から伊都国放射説を創唱し、火あぶりとアラ探しの雨を浴びる試錬でしたが、当方は、非学術的な社会科解釈から、異例でも合理的と思います。

*倭人伝自体による読解の勧め
 倭人の国情は、「倭人伝」記事から読み取れるので、徒に、歴史、風俗、用語の異なる中国本土史書三国志に、あまり頼らない方が良いのです。
 過去の諸兄姉(中国人も含む)が時に率直に認めるように、「倭人伝」は、用語/語彙、語法が独特であり、解釈に注意を要するのです。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 再訂 4/4

     2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12 2023/01/22

*陳寿の史書編纂思想
 陳寿ほどの史官が、時に不備と見える「異常」な書法の「倭人伝」を、整理せずに後世に残したのは、公文書に残された「史実」を継承すると意「史官」の務めに忠実であったのは当然して、「倭人伝
に」帝国編纂史書として意義を認めたからだと思います。

 三国志呉(国)志(呉書)は、東呉史官が、国史を書き残す気概で呉の語法で書き残した史書であり、東呉の滅亡時、晋皇帝に、国宝として献上されたものです。三国志呉志には、時にと言うか、しばしば、曹魏に対して不敬に亘る東呉独自記録が、ほぼ温存されています。

 一方、二千字と言えども、「倭人伝」は、帯方郡の書記官が、中華文明の一端に触れたばかりの東夷「倭人」の記録を書き残した文書原文が生きています。「倭人伝」に見えるそのような編纂姿勢から、陳寿の志を味わいたいものです。

◯倭にいたる道~万二千里の由来
 煎じ詰めると、郡から伊都国の「郡倭」道里は、万里と五百里で、万二千里と計算が合わないように見えます。
 ここで、各里数の由来を推察すると、総里数万二千里は、倭人が公孫氏時代の遼東郡に参上した時点、つまり、実際の道里がまるでわかっていなかった時点で、中国文明の果てを越えた辺境として、公孫氏が万二千里の「栄冠」を与えたものであり、そのため、公孫氏が滅亡した後、残された倭人記録に残された万二千里の「倭人伝」道里と言う、公孫氏遺産は、宙に浮いていたのです。

*道里計算の真理
 陳寿は、倭人を迎え入れた曹魏明帝の名誉を守るために、辻褄合わせしたものと見えます。
 随って、「倭人伝」に書かれた郡から倭への郡倭道里は、「実測」に基づく概数でなく、それぞれ、切りの良い演出概数です。
 何しろ、全体道里は、先賢指摘の「最果ての万二千里」(本来帝都起点)と決まっていて、決まり事への辻褄合わせから倭地里程を演出したので、実際の道里と関連付けるのは、無理というものです。

 特に、「倭人伝」道里は、七千里,千里,千里,千里ときめの粗い概数であり、むしろ、大まかさを自認していたのです。
 と言うことで、末羅国で倭地に入った後の道里は、伊都国まで五百里と言うだけで、数字合わせはできないのです。現代数学でも、概数の等号は、ちゃんと用意されていて、郡倭道里≅万二千餘里も正しければ、
 七千(餘里)+千(餘里)+千(餘里)+千(餘里)(+五百(里))≅ 万二千(餘里
も正しいのです。なにしろ、千、三千、五千、七千と言う、目の粗い概数なので、帳尻は合わないのです。

 陳寿にわからないことは、現代凡人にはますますわからないのです。

水行陸行の道理
 行程中の「水行」渡海里数は、誰が考えても、適確に実測しようがないので、所要日数基準であり、「水行」三千里を十日とし、一日三百里の概算で、必要な所要日数が、「水行十日」と明確になるので、それで良しとしています。
 因みに、「陸行」も九千里三十日なので、「陸行一月」とこちらも一日三百里に揃うのです。その意味では、帳尻は合っているのです。
 もっとも、「倭人伝」里が、現代単位で何㍍との議論は、以上の展開でおわかりのように、証拠不十分で当記事の論述に不要なので、言及を避けました。
 当世風だと、PC画面上で、対象の道のりを取り出して、㌢㍍。㍉㍍単位で書き出して、精密さを競うのでしょうが、不確かなデータに精密な計算を適用して桁数を増やして、議論に試用するのは、とてつもなく、大きな間違いです。困ったことです。

*概数の厄介さ
 以上で示したように、一部論者、先賢の決め込みに拘わらず、概数計算は「帳尻」が合わないのが通例で、大抵は、実務担当者がギリギリの辻褄合わせに苦労するのです。ご不審であれば、小学算数の「概数」など勉強し直して、AIならぬ「天然インテリジェンス」(NI)を、歴史対応に再調整いただきたいものです。

*奇数の奇跡
 「倭人伝」の数字は、考古学の泰斗も認めるように、随分大まかで、頭の一桁だけで、その一桁も、松本清張氏は、一、三、五、七の奇数が多いと歎いています。ただし、このような先見の卓見に、後続が見当たらないのです。

過去記事改訂のお知らせ~「都」に(総じて)と(みやこ)の別義あり
 「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の「都」を「総じて」と読む「古賀達也の洛中洛外日記」(第2150話 2020/05/11~)提言を支持した改訂です。近来、当ブログでは、「都水行十日陸行一月」を「都合、水行十日陸行一月」と読み下しています。

 漢書以来の夷蕃記事は、一切、蛮夷「王之所」を「都」(みやこ)と書かないものの国名「伊都」は、高句麗「丸都」同様の許容でしょうか。いや、「丸都」城は、魏の遠征軍に破壊されているので、城名が不敬で攻撃されれたのかも知れません。

 因みに、古賀氏は、学術的な見地から、長年、当作業仮説を慎重かつ丁寧に検証している途上のようですが、当部分は、文章家陳寿の緻密、寸鉄を示すものと見て、勝手に端的に検証を図ったものです。「都」の両義、別義は衆知で有力な仮説であり、端的な否定は困難でしょう。

 唯一例外は西域西界の安息国(パルティア)です。漢書では、武帝使節初回訪問時、同国の当方国境の防備を一任されていた「小」安息の「長老」、恐らく、現地国王は、兵二万を常駐した東端防塞で、百人の精鋭を従えたと思われる気鋭の漢使と会見し、対匈奴戦派兵を求められても、東方の騎馬勢力に対して専守防衛の国是を説き、漢使は、東西数千里の「大」安息を、皮革に横書する「文化」を有し、金銀硬貨制度と宿駅完備の全土官道網を具備する中国対等の品格を有する国家と認識したので、名は体をあらわか「安息」と命名し、また、遥か西方、未見の帝都を「王都」と書いています。漢使は、全国王都から急使の大安息国王の国書を見て、当の「安息国大王」と会見しないまま、友好国としての国交を結んでいます。

 魏使が、女王に会見しなかったとすると、この漢書記事に前例を見ていたのかも知れません。いや、当方は、女王は、伊都国のご近所との説なので、女王が会見を回避したとすると、物理的な(フィジカル)問題ではなく心理的な(メンタル)問題のようですが、魏使は、寧遠のために事を荒立てず、会見に関する記事は何も書かれていないので、全ては不明です。

 陳寿は、倭人を大海沿い小安息/條支の東夷版鏡像と見立てたのでしょうか。

 それはさておき、「倭人伝」に於いて、「女王之所」は、あくまで居処に過ぎず、洛陽城に匹敵する王城を見るのは、倭人伝の修飾に迷わされた幻想に過ぎません。
                                完

おまけ
*宴の終わり

 本来単純明快な議論が、曲折を繰り返して,堂々巡りになっているのは、実は、論争が論争でなく、持論の押しつけ合戦,力比べ、肺活量比べに終始しているからです。全国各地に「邪馬台国」候補地が散在しているのは、畿内派が、勝てないとわかっている史料論の明快で不可避な結論を拒否して、カタツムリの殻にこもり、結果として月日、経費、労力を消費してきたからです。

*ブラック新説の時代
 最近の新手は、倭人伝は、元々、某地点を明示していたが、帝室書庫内に厳重保管されていた同時代随一の時代原本に、記事改竄と原本差し替えが行われて、今日の解読不可能な記事となったという提言です。

 史料としての「倭人伝」の尊重か蔑視か理解困難ですが、目新しくて、明快な新説として俗耳に訴えるのかも知れません。
 当方は、密かに「ブラック新説」と区分して、できるだけ、深く関わり合いにならないようにしているのです。あいにく、俗耳は持ち合わせていないので、デタラメな新説に耳を貸さないのです。要は、俗説としてはびこっている誤字、誤写論と同じで、手前味噌の「誤解」を押しつけているだけなのです。

*概念図の確認
 と言うことで、冒頭の概念図を描いたのです。随分大まかで、言葉足らずですが、古代人は、こうした手短な範囲の素描で筋の通った絵解きができる「問題」を書いたのです。もちろん、墨黒一色の線画で、もっと大まか、単純だったでしょうが、見方は同じです。

 実際に、戦塵の舞い踊る遼東巡り経路や黄土の泥流が溢れる河水(黄河)河口に近い渤海湾の奥まで漕ぎ寄せる経路で洛陽に行くとすれば、実感として、遠近法を効かした図で見える数十倍の難路の遠路だったでしょう。もちろん、難波して海のモズク、ならぬもくずになったとしても、悲報が故郷に伝わることもないのです。
 しかし、帯方郡高官に伴われた倭の大夫たちは、遼東の激しい戦から遠くはなれ、渡船のように揺れたり響(どよ)めいたりしない平和で確固とした大地の街道を進み、毎晩、無料で、整った寝床と整った食事の宿を泊まり継ぐ公用旅であり、多数ある関所も公用であるから、治安に関わる尋問も、おびただしい徴税もなく通過し、無事洛陽往還を達成できたのでしょう。それが、官道の旅というものです。

 並行して文書使が往復しているので、行程で何かあれば、宿駅から伝書便を出して、洛陽の鴻廬と帯方郡治に報告するのです。あるいは、周辺の宿駅から、救援の手が届くとも言えます。官制で維持されている陸道官道の強みです。

                                 おまけ完

2023年1月21日 (土)

新・私の本棚 番外 白石 太一郎 「考古学からみた邪馬台国と狗奴国」 再掲 1/1

  吉野ヶ里歴史公園 特別企画展記念フォーラム「よみがえる邪馬台国『狗奴国の謎』」講演記録 2012年10月13日
*私の見立て ★★★★☆ 重大な資料                   2019/11/01 補充 2023/01/21

□総評
 ここに批判するのは、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館館長[2004~2018]2019年当時名誉館長)の席上講演の冒頭ですが、現代「考古学者」が、文献史学に対して抱いている先入観と、考古学「研究成果」がどのような背景から生み出されているかを物語るとして、引用しています。

 素人目には、単なる我田引水です。『氏が古墳研究成果を粉飾/化粧して、三世紀に「近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合」を創造した』ことは、古代史学に対して絶大な脅威です。
 その結果、「邪馬台国」「畿内説」は「研究成果」に迎合し、これを妨げないように、文献史学の(様々の)問題が巻き起こされ、今も、妖怪の如く古代史界を徘徊しているのは、なんとも痛々しいのです。

 是非、偉大な業績に相応しく、考古学の本分に目覚めて、晩節を正していただきたいものです。

*講演引用と批判
 『魏志』倭人伝にみられる邪馬台国や狗奴国をめぐるさまざまな問題は、基本的には文献史学上の問題である。ただ『魏志』倭人伝の記載には大きな限界があり、邪馬台国の所在地問題一つを取り上げても、長年の多くの研究者の努力にもかかわらず解決に至っていないことはよく知られる通りである。

 専門外の文献史学に対するご指摘は、氏の内面の暗黒を物語っています。
 「邪馬台国の所在地問題」は、素人目にも、史学上、唯一最大の「課題」ですが、素人目にも、考古学の暴威によって、倭人伝の文献解釈が大きく撓められて、文献史学による合理的で単純明快な「問題」解明が妨げられ、世人の疑惑を招いているかと見えます。ひょっとして、氏に煽動/鼓舞された戦闘的/政治的「考古学」が、抗するすべを持たない「文献史学」を、どうにも克服できない窮地に追い込んだことに、お気づきではないのでしょうか。

 一方最近では考古学、特に古墳の研究が著しく進み、定型化した大型前方後円墳の出現年代が3世紀中葉に遡ると考えられるようになった。その結果、3世紀中葉頃には近畿の大和を中心に西は北部九州に及ぶ広域の政治連合が形成されていることは疑い難くなってきた。

 実に壮大で、湯気を上げているように見える「画餅」ですが、按ずるに、専門外の文献史学に対するご指摘の様相は、現代の文献史学界が、各人の言いたい放題になっているように見えているだけであり、二千年近い過去の書「倭人伝」に現代人を惑わす「限界」などないのです。このように泥沼化したのは、氏の指揮棒に踊らされている「研究者」の責任です。後世、何と評され、どんな「悪名」を供されるのか、怖くないのでしょうか。

 困難は努力によって乗り越えるもので、力まかせに無根拠の幻想を捏ね上げ、思い込みを正当化するべきではないのです。時節柄、節にご自愛下さい。

 したがって今日では、こうした考古学的な状況証拠の積み重ねから、邪馬台国の所在地は近畿の大和にほかならないと考える研究者が多くなってきている。

 学術的な議論の動向は信奉者頭数で決めるのではなく、物証なき憶測に重みはないのです。お手盛り発言に疑いを抱かない「研究者」は死んだも同然です。「研究者」は、白石御大の声の届く、見通し範囲、ご自身の弟子でしょうか。「犬が西向きゃ」で、まことに素人くさい我田引水です。

 御大がご自身の存在価値/経済効果を実証したいのなら、お手盛りや挙手でなく、「解散総選挙」の無記名投票の実数を報告すべきです。
 投票に訴えても、パワーハラスメント、党議拘束懸念が濃厚で重みに欠け、匿名回答が必要です。でなければ、学問上の意見と思えません。

 ここではそうした最近の考古学的な研究の成果にもとづき、邪馬台国と狗奴国の問題を考えてみることにしよう。

 そのような手前勝手などんぶり勘定を、「研究の成果」と呼ぶようでは、白石氏の唱える「考古学」は、まことにうさん臭いのです。
 自信の無い見解を、殊更強弁するのは、内面の混乱を露呈して、自滅行為です。

                                以上

2023年1月19日 (木)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 1/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。別の著者著作の批判記事では、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのですが、本件は、敬意を抱きつつ、批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。

 塚田氏は、魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していく」のに際して、造詣の深い国内史料に基づく上古史論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点と、微妙に、あるいは、大きくずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりのずれが避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、「倭人伝」の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、背景説明に手間を惜しんでいません。
 どんな人でも、「知らないことは知らない」のであり、当ブログ筆者たる当方の自分自身で考えても、「倭人伝」の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を「倭人伝」に限り、考察の範囲を「道里」里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。
 批判するだけで、失礼、冒瀆と憤慨する向きには、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は「三顧の礼」なのです。

 また、氏の「倭人伝」道里考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、倭人伝」の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、三世紀に「日本」は存在しないとの仕分けを図っています。

 そのように、論義の有効範囲を明確にしていますので、異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。
 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい。)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。

 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完           

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 2/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、すらすら読めるという根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
 してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。
 氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、必然的に意味が異なる可能性があると見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。

 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「神経」がなければ何も変わらないのです。大抵の論者は「鮎鮭」問題など意識せず、「自然に」、「すらすら」と解釈できると錯覚して論義しているのです。

 塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」ことになります。勿体ないことです。

コメント:倭人伝に「日本」はなかった
 自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
 当然、洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝」は「日本」と全く無関係です。無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は日本列島を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように、既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、楽浪郡の手の及んでいない「荒地」、郡に服属していなかった蕃夷領域を統治すべく新たな「郡」を設けたのです。」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の帯方縣の中心と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。

*「幻の帯方郡」論義
 言い過ぎがお気に障れば、お詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うとき、出発点は、帯方郡の文書発信窓口を言うのですから、ほぼ、郡治の中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
 ついでに言うと、正史の記録を確認すると、当時、郡治の位置は、公式に洛陽に届け出されていなくて、帯方郡が洛陽から何里とされていたかという「公式道里」は、不明です。ですから、洛陽から「倭人」まで何里という公式道里は、不明なのです。
 なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、郡の移動に関係なく保持されていたのです。
 と言うことで、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の公式道里は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」郡国志に記載されているものの、それは、漢代以来固定されていて、実際の道里、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。
 加えて、楽浪郡から帯方郡に至る「道のり」は、同郡国志に記録が残っていないのです。それどころか、帯方郡すら載っていないので、郡の所在は、幻なのです。
 「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が不明なのは、そうした事情によるものなのです。
 念のため言うと、陳寿は、後漢代の公文書を閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡の所在について洛陽に報告していれば、三国志「魏志」の編纂の際に利用できたのですが、倭人伝には、そのような「道里」は、参照されていません。さらに言うと、後世の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡の道里に関する付注をしていないことから、後世になっても、帯方郡の所在は不明だったことになります。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、倭人伝の視点、感覚は、中原人のもので、「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。
 因みに、なぜか、ここで、「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて言うなら、後世語で「華僑」と言うべきでしょう。

 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 3/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

*「日本」錯誤ふたたび
 中原人の認識には、当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り、「女王之所」のある九州島すら、その全貌は知られていなくて、壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在するものと見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。
 まだ「倭人」世界が見えてなかった、帯方郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は関係が不確かであり、要は、全体として海中に散在する小島だろうと見ていたのです。
 「倭人伝」の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、史官として筋を通したに過ぎないので、ここに精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。

 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の『混濁した「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に霧散するでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」、さらには、「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては、言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が、今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
 そして、帯方郡の官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。

コメント:国数談義
 漢書の天子の居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、手軽に行き着くものではないのです。後漢書の天子の住まう洛陽すら、樂浪/帯方両郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、遼東公孫氏の元に行っただけでしょう。
 因みに、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の法と秩序を侮ってはなりません。
 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里
コメント:従郡至倭~水行談義
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って倭人伝の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。
 「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解しても勝手にお手盛りで、自前の問題を書き立てて、自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この問題に関して、落第者ばかりなのは、問題が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は、「倭人伝」として存在しているのです。

 「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「沖合に出て、海岸に沿って行く」との解釈は陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。
 「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地で、「沿って」 との解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら、却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。
 「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、以下の道中記に登場する概念を「予告」しているものと見るものではないでしょうか。

*冒頭課題で、全員落第か
 世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を前提としている事を見過ごしている、いわば、初心者の度しがたい「思い込み」によるものであり、「落第」を免れているのは、「循海岸水行」を、意味不明として回避している論者だけのように見えます。
 つまり、郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して、一万里と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
 誤解を正すと、中原教養人の用語で「水行」は、江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。
 と言うことで、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。
 念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するように、道しるべのあるものではないのです。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、「不法」な船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断は一切関係ないのです。
 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。
 そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より、「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
 因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。

*後世水陸道里~圏外情報 
 後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、水(道道里)一千三百五十五(里)、陸(道道里)も同様、との「規定」から、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」と、並行する陸上移動の「道のり」とは、「規定」上、同一とされていたのがわかります。
 両経路を、例えば、縄張りで測定して、五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上経路を一千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道に「規定」として適用されていたことがわかります。要するに、倭人伝の道里が、当時意味のなかった測量値でなく、「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 4/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

*重大な使命
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。
 「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。

 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を百千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事でも落命するのです。
 ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。

 これに対して、後ほど登場する海峡「渡海」は一目散に陸地を離れて、前方の向こう岸を目指するのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も把握していて、日々の潮の具合もわかっていて、しかも、しかも、日常、渡船が往来している便船の使い込んだ船腹を、とことん手慣れた漕ぎ手達が操るので、危険は限られているのです。その上、大事なことは、他船であれば、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でもできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。
 ついでに言うと、渡し舟は、朝早く出港して、その日の早いうちに目的地に着くので、船室も甲板もなく、水や食料の積み込みも、最低限で済むのです。身軽な小船なので、荷物を多く積めるのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には、橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。
 東夷で海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、『以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言』なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)
 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに「限り」使う「限り」は、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、倭人伝道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の劉宋史官裴松之も、「倭人伝」道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 ここで、正史たるべき、倭人伝」で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」、「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていない』のです。
 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、「歷韓國乍南乍東」は、「官道に沿った韓国を歴訪しつつ、時に進行方向が、道なりに、東寄りになったり、南寄りになったりしている」と言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ俗説を、理性的に否定していて、大変好感が持てます。文献解釈は、かくの如く合理的でありたいものです。
 高名な先哲が、三国志に書かれていない「陰謀」を捜索して、「陳寿が、道里をでっち上げた」と弾劾しているのと、大違いです。子供の口喧嘩でもあるまいに、弾劾には「証拠」提出の上に「弁護」役設定が不可欠であり、『根拠の実証されていない一方的な非難は「誣告」とよばれる重罪である』のを見落としているのですから、氏の厳正な姿勢には、賛辞を呈します。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 5/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。
 おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳では、三世紀人に通じないのです。
 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道で、地を這ってでも測量できるのです。とは言え、倭人伝など中国史料で道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、魏志で、六倍近い「間違い」が「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、心理的な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄されたという途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、津と引き継がれた(東京=洛陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。

 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から洛陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継した魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。
 恐らく、遼東公孫氏が撲滅され、公文書類が破棄されたのと別に、明帝の指示で、楽浪/帯方両郡を、皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、洛陽にもたらされたものと見えます。魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、洛陽公文書に囚われずに洛陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略から、どの程度資料引用したか、不明と云わざる吠えません。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」、つまり、「さらに」、つまり、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅を持って、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から、皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に、新規参上東夷統轄の権限を与え、韓、倭、穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。

 つまり、「郡から倭人まで万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に報告した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に急使を派遣して即刻参上せよと文書を発しようとしたものの、記録から、郡から発した文書が倭人に至るのは、四十日相当であると知って、「郡から倭人まで万二千里」が、実際の行程に基づいた実道里でないと知って、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。
 つまり、「郡から倭人まで万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の端子の以降の再外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。万事、景初の帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志を編纂したので、創作したのではないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。

 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。(班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます)

 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

 因みに、舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後、目的地が移動しても、公式道里は、不変なのです。、

*「歩」「里」 の鉄壁
*「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、日々の市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は、「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。
 世に言う「ハードル」は、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら、迂回して回避するなり、突き倒し、蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒すこともできず、乗り越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。
 因みに、ここで言う「歩」は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ、450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって固定だったのです。
 例えば、洛陽の基準点から遼東郡治に至る「洛陽遼東道里」は、一度、国史文書に書き込まれ、皇帝の批准を得たら、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の異なる意味を抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は、「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。
 倭人伝は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて、解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたなので、現代人は、日本人も、中国人も、無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙』だったのです。
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏が、いくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 6/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10 2023/01/19

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里四百三十㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、五十㍍刻みの四百五十㍍程度とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩は百五十㌢㍍程度、一尺は二十五㌢㍍程度で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。
 魏志「倭人伝」の道里では、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、二十五㌢㍍の物差は、精密に制作できますが、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、四百五十㍍の物差は、制作不可能です。せいぜい、縄で作るくらいです。

 いずれにしろ、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

《原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て、海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。ここまで、海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説の踏襲であり同意できません。「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。
 また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業~陳寿復権

 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。
 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を、実里数に基づいているとみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかないので、全く無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで、早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、史官の替わりはいくらでもいたのです。

コメント:對海国談義
 暢気に、『「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がない』とおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」であり「見なれない」文字です。
 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。
 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。

 「大海」も、大抵誤解されています。倭人伝では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」裏海も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 「大海」が韓国の東西にある「海」と繋がっているとの記事もなく、どうやって、海から大海の北岸に至るのかも不明です。
 現地地図など見なくても、「倭人伝」の文字情報だけで、陳寿の深意を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)

*「方里」談義
 なお、氏は、ご多分に漏れず、「方四百里」を一辺四百里の方形と見た上で、それでは現地地形とそぐわないと不信を感じていますが、まことに至当です。要は、魏志東夷伝に登場する当表現の解釈は、大抵誤解されていることを直感されているのです。(ここでも、地図など見るから誤解すると言えます)

                                未完

新・私の本棚 新々 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 サイト記事 7/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/19

*「方里」「道里」の不整合
 詳細は略しますが、この表現は、その国の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。
 要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように適切な解に落ち着くのです。この順当/適切な解釈に、心理的な抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。現代風に云うと、「メンタル」の不調です。
 塚田氏が想定されている「方里」理解だと、一里百㍍程度となり「短里説」論者に好都合なので、文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。情緒と情緒の戦いでは、合理的な解釋が生まれるはずがないのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*「倭人伝」再評価
 「倭人伝」は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身がその陥穽に落ちていると見えます。

 そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭

コメント:産鉄談義

 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された穴あき銅銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、韓、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ銭がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で農民達は税を銅銭で納め、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成して、使い切れずに眠っていたと書かれています。
 戦国時代の諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って、皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させたことを示しています。
 農作物の実物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は、米俵の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ、食糧輸送は、帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して、統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されけています)

 それはさておき、共通通貨がなければ、市での取引は物々交換の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは、大変不便です。
 それでも、東夷で市が運用できたのは、東夷では商いの量が少なかったという趣旨です。商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないのです。いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量穴あき銭が必要であり、それが、大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家

コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、「倭人伝」原本には、南宋刊本以来「邪馬壹国」と書かれていて、どこにも「邪馬台国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想(イリュージョン)であり、無学な現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑
 当節、「架空地理論」というか、『衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している』向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。
 当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、現代の地図データ提供者の許諾する保証外のデータ利用であり、どう考えても、「地図データの利用許諾されている用法を逸脱している」と思われますから、権利侵害であるのは明らかです。
 塚田氏は、「架空地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、「壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように「原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。
 塚田氏の論理も、全体部分に誤解があれば、全体として誤解とみざるを得ないのです。氏自身、「方里」の記法が正確に理解できていないと自認されている以上、そこから先に論義を進めるのを保留されることをお勧めする次第です。

                                未完

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10

*對海國談義
 ついでに言うと、對海國方里談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方里」表現するのは、對海國の国力を表現する手段として、重ね重ね不合理です。帯方郡が、皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が見られないのです。
 そうでなくても、山林ばかりで農地として開発困難(不可能)な土地の広さを示して、何になるのでしょうか。對海國の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。
 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、なぜ、「山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている」高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。東夷傳に記載されているということは、「方里」に何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、東夷伝原資料に書き込まれていたものと見えます。
 といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。

 さらに言うと、郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、無意味なのです。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 誤解は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。
 そのように誤解すると、一部史学者が因縁を付けたように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して、米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから、結構な収益があったはずです。
 当時、狗邪韓国が、海港として発展したとは書かれていないので、自然な成り行きとして、狗耶海港には、對海國の商館と倉庫があり、警備兵が常駐して、一種、治外法権を成していたと見えます。狗耶が、倭の北岸と呼ばれた由縁と見えます。

*免税志願
 ただし、標準的な税率を適用されると戸数に比して、良田とされる標準的農地の不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。また、漕ぎ船運行と見える海峡渡船で、大量の米俵を送るなど、もともとできない話なので、對海、一大両国が欠乏しているのに、さらに南の諸国から取り立てるのは、金輪際無理という事です。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのです」と見事な洞察です。
 私見では、倭人伝道里記事は、魏使の実地行程そのものでなく、帯方郡志に記載し、皇帝にも届けた「街道明細の公式日程と道里」と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので、道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は、魏使が奈良盆地まで足を伸ばしたと、ほぼ決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を、通過経路外とできないので、割り切れていないようです。
 この点は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。
 資料の外で形成した思い込みに合わせて、資料を読み替えるのは、曲解の始まりではないかと、危惧する次第です。
 このあたり、「倭人伝」の正確な解釈により、行程上の諸国と行程外の諸国を読み分ける着実な読解が先決問題と考えます。

 氏が、こじつけ、読替えなどを創出する無理な解決をしていない点は感服しますが、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国は、「余傍の国」と明記されていると理解するのが、順当としていただければ、随分明快になるのです。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し、圏外として除外します。
 「倭人伝」道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

                                未完

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 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10 2022/12/18 2023/01/19

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、通過した国々を紹介した記録と代表的な諸国を列記した記録が融合したと見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので、余傍として棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めたと明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。五万戸の大国に至る長期の行程の詳細に触れず、現地の風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を、一旦廃棄すべきです。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 魏志で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が、現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、倭人が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。

 本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、郡は、交通不便な遠隔余傍の国は、責任持てないと明言しています。

 となると、「可七万余戸」が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では、「国邑」に七万戸はあり得ないのです。
 殷周代、国邑は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には広域単位として「邦」が使われたようですが、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。倭人は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、気を確かに持って、「国」の意味を個別に吟味する必要があります。

*「数千」の追求
 因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と零の間に位置する二千五百であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。とかく、大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしているのです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
 そうなっていないということは、倭人伝に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で、千戸単位の端数は、無意味なのです)

*「余戸」の追求
 塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。
 つまり、五万余と二万余を足せば七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決まっているのです。
 俗説では、余戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るべきです。
 また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。

 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
 案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が「定説」にこだわるからで、これは学術論でなく、子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。信用を無くすので、早々に撤回した方が良いでしょう。
 いや、投馬国を、域外に置く論法として工夫されたのかとも思えます。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 10/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記 2021/10/28  補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められました。当方の議論で、本筋に無関係として取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。

 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、最終行程が「水行十日、陸行三十日」、「水陸四十日」行程と認めている点であり、ここまで、着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱状態で、強引に異論を裁いているので、傾いているのは異論の論点か、ご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて、伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく、高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。そのような「巨大な不合理」をよそごとにして、先賢諸兄姉が「倭人伝」解釈をねじ曲げるのは、痛々しいものがあります。
 要するに、「広域古代国家」は、三世紀の世界に存在できないのです。してみると、「広域国家」の権力闘争で、血塗られた戦いが「長年」続くの「大乱」も、あり得ないのです。

 それはそれとして、明解な解釈の第一段階として、水陸四十日」は、郡からの総日程と見るべきです。そして、「女王之所」は、伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。それなら、騎馬の文書使が往来しなくても、「国」は、討議できるのです。「諸国」は、月に一度集まれば良く、その場で言いたいことを言い合って、裁きを仰げば良いのであり、戦って、言い分を通す必要はないのです。どうしても、妥協が成立しないときは、女王の裁断を仰げば、「時の氏神」が降臨するのです。

 中国太古では、各国邑は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷に、臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」が完結していたと見られるのです。

 要するに、「倭人伝」で、伊都国は、中国太古の「国邑」形態であり、千戸単位の戸数が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の「国邑」で、大海を外郭としていることが、山島に「国邑」を有していると形容されていたのですが、それは、伊都国にも女王国にも及んでいるのです。

 それに対して、余傍の国」は、国の形が不明で、「国邑」と呼ぶに及ばず、戸籍も土地台帳もなく、戸数が、度外れて大雑把になっていると見えるのです。丁寧に言うと、ここで論じているのは、陳寿の眞意であり、帯方郡の報告書原本を、中原人に理解しやすいように、内容を仕分けしていると見るものです。何しろ、全戸数「七万余戸」の前提と行程の主要国が一千戸単位の「國邑」とをすりあわせると、「余傍」で事情のわからない二国に、七万戸を押しつけるしかなかったと見えるのです。

 と言うように話の筋が通るので、遙か後世の倭人末裔が「中国史書の文法」がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。

 氏は、突如論鋒を転換して、「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。と述べられたのは、誠に意図不明です。

 作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは、取捨して編纂することにより「倭人伝」に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する読者に深意を伝えたものなのです。この程度の謎かけは、皇帝を始めとする同時代知識人には、片手業であり、後世の無教養な東夷が心配することでは無いと思うのです。
 因みに、私見ですが、道里記事の解釈で、一字の違いは、重大な意義を伝えているのであり、「わずかな違い」と断罪するのは、二千年後の無教養な東夷の思い上がりというものです。

*先入観が災いした速断
 放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。

 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。遥か後世人が、そのような深謀遠慮を察することは「不可能」ではないでしょうか。
 多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから、素人考えの泥沼に陥って、混乱しているのではないでしょうか。
 そして、氏は、どのような具体的な根拠で、放射式記述説のどの部分を、どのように否定しているのでしょうか。誠に、不穏当で、氏ほどの潤沢な見識、識見にふさわしくない、悪罵のような断定です。

 当ブログでは、断定口調が険しいのは、論者が、論理に窮して、悲鳴を上げている現れだとしていますが、氏が、そのような隠れ家に逃げ込んでいるのでなければ、幸いです。

 何度目かの言い直しですが、当時の読者は、文字のない、牛馬のない「未開」の国で、途方も無い遠隔地の女王国から伊都国を統制することなどできない」と明察するはずであり、つまり、「倭人伝」の主題は、伊都国のすぐ南に女王国があるという合理的な倭人の姿と納得したから、「倭人伝」はこの形で承認されたと解すべきなのです。

 古代国家運営には、緊密な連携が存在すべきであり、存在しないと連携そのものが、そもそも成立しないし、維持できないので、伊都国と女王国の間に、所要日数が不明瞭/長大で、行程明細の不明な道中が介在するなどは、端からあり得ないとみるべきなのです。

 それは、反論しようのない強力無比な状況証拠であり、感情的な反証では、確固たる「状況証拠」は、一切覆せないのです。

 一度、冷水を含んでから、ゆるりと飲み干し、脳内の温度を下げて、穏やかな気分で考え直していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 11/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

*自縄自縛
 先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは、お言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、どんな権威者でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓めるものであり、それに気づくのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。
 「放射行程説の自己流解釈の破綻」について、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。論争では、接近戦で敵を攻撃しているつもりで、自身の鏡像を攻撃している例が、ままあるのです。

 素人目には、倭人伝記事は魏使の実行程と「早計で見立てた」上で、魏使は、投馬国経由との根拠の無い「決め込み」が、明察の破綻の原因と見えます。大抵の誤謬は、ご当人の勝手な思い込みから生じるものなのです。

 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、「洛陽人にとって明らかに到達不能に近い遠隔三地点であって、非常識で実現不能と見えるように書いている」わけはないのです。
 すべて、この良識に基づく『結論』を、踏まえて、必要であれば、堂々と乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆す論者の重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしか、合理的な説明が思いつかないというのなら、結局、「思い込み」というものです。
 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、細かく書いていないという「倭人伝」道里記事の古来の解釈であり、この直線的な解釈は、一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、魏使が女王国に至っていないとの軽薄な論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、奴国から投馬国までの国には行っていないように読めるというのに過ぎないのです。
 当ブログの見解では、倭人伝道里記事は、魏使派遣以前に皇帝に報告されたものであり、魏使が行ったとか行っていないとかは、記事に反映されていないと明快に仕分けしているので、残るのは、簡単な推定だけです。

*道里行程の最終到着地
 「倭人伝」道里記事を精査すると、伊都国は「到る」と到達を明記されているのに対して、以下の諸国は「至る」として、到達明記を避けているので、伊都国が、道里行程記事の最終目的地という見解です。
 要するに、「倭人伝」記事には伊都国は、郡の送達文書の受領者であり、郡使が滞在する公館の所在地と明記されているので、郡太守の交信相手、つまり、現代風に言う「カウンターパート」は、伊都国王と言うことが、陳寿によって明記されていると見るものです。
 
 これを、氏がなぜか忌避する「放射行程説」なる論義と対比すると、実は、伊都国と女王居所の間は至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。一つの隔壁の中に、二つの「国邑」隔壁が同居していた可能性もあります。ただし、厳密に言うと、伊都国以降は、「行程外」なので、「放射行程」説は、意味を成さないのです。いや、榎一雄師の所説の根拠は、当時、伊都国が地域の政治中心であったというものであり、本説は、其の延長線上にあるものと考えます。
 この議論は、投馬国を必要としないので氏のお気に召さないとしても、ここで挙げた仮説は、基本的に氏のご意見に沿うものと考えます。

 なお、前記したように、「倭人伝」道里記事は、正始魏使に先だって書かれているので、魏使の実際の道中を語るものではないのですから、魏使が卑弥呼の居処に参上したかどうかは、この記事だけでは不明です。

*「時の氏神」
 私見では、倭人は、もともと、氏神、つまり、祖先神を共有する集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在し分社していったものと見ています。本来、各国間の諍いは、総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を持たない女王の裁きが起用されたものと見るのです。もちろん、女王の「出張」には限界があるので、女王の宿る「神輿」を送り出したり、所定の巡回地を「御旅所」として、地域の仲裁事を受けたのかも知れません。倭人伝の断片的な記事を想像力で膨らますとしても、この程度にしたいものです。
 一度、「思い込み」を脇にどけて、一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
《原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 国名列記の21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。(不可能という意味です)
 当時の漢字の発音は、ほぼ一字一音で体系化していて、「説文解字」なる発音字書に随えば、精密な推定が可能ですが、蛮夷の発音を、固定された発音の漢字で正確に書き取るのは、ほぼ不可能であり、あくまで、大雑把な聞き取りと意訳の併用がせいぜいと見えます。
 「九州北部説」によれば、後世国内史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。(割り引きすぎて、「タダ」になることもあり得ます)

 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と提唱内容の限界を明言されているにも拘わらず、「定則」の仮説を「定説」と速断して、自説の補強に導入した論者が多々みられるので、念には念を入れているものです。

 現代人同士で、文意誤解が出回っているというのも、困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、事実上不可能に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」チャレンジ対象と解される可能性があり、英日飜訳には、要注意です。

*カタカナ語~余談
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が、「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、「不快な驚き」とみられるのであり、現代日本語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。
 「うれしい」驚きは、誤解されないようにわざわざ言葉を足して「プレゼントサプライズ」(うれしいサプライズ)とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。
 少なくとも、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れ回る風潮は、情けないと感じている次第です。
 まあ、「Baby Sitter」を「ベビーシッター(Baby Shitterうんち屋?)」とするのも、かなり顰蹙ものなのに、そこから無理に約めて「シッター」(Shitter)うんち屋さん」と人前で口にできない尾籠な言葉に曲げてしまうのよりは、まだましかも知れませんが、今や、「シッター」が一人歩きして、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れまわっているのを目にすると、「現代語」に染まりたくないと切望する次第です。

 他にも、同様の誤用は、多々ありますが、以上に留めます。
                                未完

2023年1月18日 (水)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」2 改訂 13/16

 塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充 2022/08/10 2022/12/18 2023/01/18

*沈没論義

 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」、「没」の恥辱は断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」、「沈」、「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。
 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里がであるなどとは、全く思ってもいないのです。まして、東冶県までの陸上道里は、知られていなかったので、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。
 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された建安郡は、「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都、建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」はなく、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっていますから、もともと、会稽郡治から東冶県に至る陸上経路は存在しなかったとみるべきです。
 三国志「呉志」に「地理志」、ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」に書けなかったのです。晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代の編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論は適用されず、書かれていない推定道里に基づいていることになりますが、要するに、古来周知の会稽東治之山から見て、狗奴国は、漠然と東の方向というに過ぎないことになります。つまり、道里を明記されている伊都国について、触れていないことになりますが、当然、東の方となるものと思われます。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の大半は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、洛陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、帯方の冬の寒さは格別でしょうが、奈良県吉野の寒さはかなり厳しいのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の一千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行もできますが、日本人は、命が惜しいので夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤もありません。また、三世記の半島以南に、まともな帆船もなかったのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は、高位の士人なので、「野宿」とか軍人並の「キャンプ」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので外交官は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と東に移動することなど、あり得ないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、小数の魏使だけに絞れるはずがないのです。
 因みに、中国の史料で、実測万里というのは登場しません。中国文化を侮っていますが、魏使には、書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は、一日あればできるので、間違うことはないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。
 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。

 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見ている方がいて、後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。率直な所、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。
 つまり、この下りは、纏向付近の記事として、誠に見当違いなのです。
 それにしても、纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行にダメ出ししないのが不思議です。

                                未完

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