2016/03/22 2020/02/15 追記 2020/06/24
再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22 追記 2024/04/05, 09/24
*加筆再掲の弁
最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
◯はじめに
本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。
今回の追記は、時として当記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであればお詫びする。
また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。
□前置き
ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。
謝承後漢書の行方 注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が高々と掲げられている。
(「翰苑」編者の)「雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で区別して引用していることが明らかになってきた」
これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げされているが、氏ほど声望の高い論者は、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上でその旨明記された方が望ましいのではないかと思量する。
*検証の海
当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当だと考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。
竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈している。当世流行りの罵倒用語では、「致命的」というのだろうが、関係者一同とうの昔に世を去っているし、また、人の生き死にを冗談の種にすべきではないと思うので、オリオン座「馬頭星雲」さながらの「罵倒の海」から身を遠ざけることにする。
それはさておき、竹内氏の労作は、「翰苑」残巻なる古書の文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。
謹んで、「中國哲學書電子化計劃」サイト関係者の多大な貢献に感謝する。
*「笵曄後漢書」と「後漢書」
たしかに、「翰苑」残巻の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。
班固「漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。
因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は、「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。
*魚豢「魏略」と「魏略」
例えば、「魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。
*「後漢書」検証
してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立した笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。
唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。
福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物されたと強く推定される。
なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。
当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の工程そのものの気ままさとその後に付いてくる校正の堕落であって、「翰苑」原本の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)であろうと推定している。(賞賛しているのである)
ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。
いや、福永氏が、至高の読解力の持ち主でないと主張するほど無謀ではないが、諸般の事情から見ると、事実上、単なる千数百年「後生の無教養な東夷に過ぎない」と見えるのある。氏ほどの見識の持ち主が、旧説を一切検証せずに、放置されているところを見ると、当論議は、放擲されているのではないかと推定されるのだが、いたずらに、一時の恥を、御高説の中核部に通じるものとして後世に残していらっしゃるのは、どんなものであろうか。世の中には、検証なしに氏の見解を子引き、孫引きして、泥沼に陥っている方もいらっしゃるので、過ちを正すのに遅すぎることはないと思うものである。
*翰苑の正当評価
それにしても、史書でなく、「通典」などの上級類書でもない「翰苑」の編纂の意図が、はなから史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」であるが、当世若者言葉には通じていないので、どう解釈されるか不安なのである。
念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)
正史は、歴代帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく、北宋刊本校正時に至るまで、確実に写本継承されている。ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、陳寿を基点として二千年後生の無教養な東夷の憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)
更に言うなら、「翰苑」は、あきらかに商用のものであり、手早く世上流通していた「劣化」の進んだ二級以下の品格であった市販諸史書からの所引(早書きの抜き書き)を収集し、もっともらしい「評」を加えたものであり、「翰苑」編者の手元に届いた時点で、史料として、市販諸史書の被引用部分から遠ざかった「劣化」の進んだものだったのではないかと推定される。
そこから、「翰苑」編者の資質にも拘わってくるのだが、同書の主要部であったと思われる薬草名鑑と比して、通常、「翰苑」残巻として露呈している名文句集、名筆集に付注する際の史料「テキスト」の所引断片に対する集中力は、当然二の次と思われ、「翰苑」は、その出発点に於いて、多大な劣化をかかえていたと推定されるのである。
「翰苑」は、文字テキストとして、その編纂時点に於いて、その時点の原史料と同一視される程の信頼性を付与されているが、以上のように、そのような高度な信頼性は、無い物ねだりであり、現存「翰苑」残巻が示す文書行格の錯乱、散在の域を超える多発誤字の萌芽は、「翰苑」原史料所収時に、既に存在していたと推定されるのである。
そして、現代読者が目にするのは、そのような「出発点」以降に積載された行格錯乱、誤字多発であり、もはや、「翰苑」残巻の文字テキストに対する信頼性は皆無と見えるのである。
福永氏は、そのような「史料批判」を怠っているのではないかと危惧され、素人目にもあきらかに劣化した史料を根拠に御高説を構築されるのは、氏の見識をいたずらに疑わせるものであると云いたくなるのであるが、それでは「罵倒の海」なる泥沼にはまるので、きわどく自粛するものである。
以上
▢追記 2023/09/20
後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されれば、より正確に史料評価できるというものである。検証できるように、遼海叢書 金毓黻遍 第八集の所在も示している。
いやはや、「翰苑」断簡の史料批判に不可欠とおもわれる史料が、正邪当否はともかくとして、先賢諸兄姉に一顧だにされていないのは。もったいないことである。
私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義
以上