2023年9月20日 (水)

私の意見「陳壽の見た後漢書」サイト記事批判 謝承後漢書談義 補充

                     2020/03/31 追記 2020/07/27 2023/09/20 
 私の見立て ★★★☆☆ 誤解、誤読の反面教材

〇始めに
 前回記事は、通例の商用出版物の書評などではなく、「神功皇后紀を読む会」通信(主宰・福永晋三)サイトの(かなり古い)記事に対する批判であった。記事自体に署名は見て取れないが、福永晋三氏主宰サイトであるので、これらの記事は氏の書いたものであろうと言う程度のものなので、サイト記事批判とするのは避けている。単に、良くある軽率な判断の一例を点検したものである。

 但し、後日(2020/03/31)確認すると、福永氏は近来、著書を公刊して世に広く訴えるのではなく、支持者を集めて講演会を開き、その内容をYouTubeに公開して、閲覧回数を積み上げることにより、広く支持/講演聴衆を集めているようだが、そうした不正規の「辻説法」の活動は、氏の生計に不可欠であって、余人が容喙(業務妨害) すべきものではないとも見えるが、ちゃんとした評価を受けられないのではないかと思量する。
 とにかく、YouTube動画はダウンロード禁止なので、お言葉を書き留めるか、表示資料を読み取ることを強要される。と言うことで、氏の所説について史料批判しようにも、対象と根拠を示すのが困難である。YouTube動画のURLを表記するにしても、長大な講演のどのあたりと明記するのが、大変困難である。

 今回は、貴重なコメントをいただいた方の意見に従い、講演を拝聴した上で、目に付いた部分を取り出して、別記事仕立てで「率直に」批判を加えたものである。

*動画批判の理由
 福永晋三氏は、それほど確信を持った主張にも拘わらず、論文形式で公刊していないため、適確な史料批判の形式で批判することができない。YouTube動画はダウンロードできないのもあって、論議の対象とすることが困難である。

 福永氏の論調は、天衣無縫で、細かい確認を抜きにして、止めどなく、広範囲に暴走しているが、具体的な論点に絞って、手の届く範囲で反論すると下記のようになる。

  1. 陳寿が、魏志「倭人伝」編纂にあたって、「謝承後漢書」を参照したという証拠は「一切」ない。
    謝承「後漢書」が現れるのは、陳寿「三国志」本文ではなく、裴注であり、裴松之は、全て謝承「後漢書」と明記している。もちろん、裴注当時、范曄「後漢書」は、公的に認知されていなかったので、参照することはできなかった。
    言うまでもないと思うのだが、陳寿の厖大な蔵書の中に、謝承「後漢書」があったとか、陳寿が、何れかの時期に謝承「後漢書」を閲読したとか、臆測を巡らしても、具体的に「引用」を立証しないと不可能であるし、また、何の意義もない感想に過ぎない。

  2. 注は、倭人伝の付注に謝承「後漢書」を参照していないので、「謝承後漢書に東夷傳があって陳寿が参考にした」とする証拠はない。
    「倭人伝」記事は、あくまで、魏代事績であり、後漢代事績は、魚豢「魏略」に於いて回顧したものを引用するしかなかった。
    「桓霊の間、倭国大乱」と范曄「後漢書」が書いているが、続く献帝時代、遼東太守公孫氏によって、洛陽と倭との交信が断たれていて、後漢公式記録には、これ以降、魏への政権移行まで倭との交信記録がなく、つまり、倭に関する後漢記録/公文書がないのに、謝承が「後漢書」東夷伝、特に「倭人伝」を書くとは考えられない。史書として、依拠すべき公文書がないのに、臆測によって「東夷伝」を書くのは、欺瞞である。

    笵曄「後漢書」倭伝(倭条)は、唯一の東夷史料である魚豢「魏略」の東夷伝相当部分から、時代があいまいで転用/流用できそうな記事を「盗用」しただけであり、その際は、記事の年代を(魏代から)後漢代にずらして、交信断絶期間の『なかった「倭国大乱」記事』を造作したものとみられる。編者が有効と判断した史料を引用するのは、当然のことで、それ自体は、誠に正当であるが、原史料を改竄して造作するのは「盗用」と判断される。

    そのため、不合理にも、卑弥呼共立は後漢代となるように「魏志倭人伝」の解釈がなし崩しにずらされ、共立後長年を経た老境になって、魏明帝景初二年に大夫二人を使節に派遣したと(創作)されたと、悪質な「誤読」が、意図的に蔓延されたと見える。
    なぜか、このような後世創作の倭女王像が蔓延/林立して、陳寿「魏使」倭人伝を、「素直に」読むことができなくなっている。まことに罪深い改竄盗用である。

    一方で、陳寿に対して、史実を離れて記事を造作したとの人格攻撃が漂っていて、言いたい放題の趣が感じられる。何か、批判者の自画像が世上を漂っているとも見える。世も末である。
     
  3. 「翰苑」の注記は、「范曄後漢書」と「後漢書」の二種があるだけで「謝承後漢書」はない。
    「翰苑」断簡写本の原本が、同時代の最善原本に厳密に忠実であったと仮定すると、「翰苑」原本が「後漢書」と略記していたということであろうが、少なくとも、「後漢書」は複数存在するのが衆知であったので、「翰苑」編者が「不注意で」謝承「後漢書」を単に「後漢書」と略記したとは思えない。「翰苑」の初期の編纂者が、無教養で不注意であったとか、校正者がいなかったとか想定するのは、無茶というものである。
    「後漢書」は、遙か後世唐代に范曄「後漢書」に、李賢太子が付注し、司馬彪「続漢紀」から「志」を追加して、「正史」としたので、謝承の異本を引用するときは、「絶対に」「謝承後漢書」と明記しなければならないのが当然の作法(さくほう)である

  4. 「翰苑」記事は、「倭人伝」時代原本の正確な引用でないと思われるので信を置くことができない。
    「翰苑」編者は、史官ではないので史官の規律に縛られず、「卑弥妖惑」を「卑弥娥惑」として「妖」を「娥」(妖の異体字)に書き替えたように、原史料引用の際に改変を加えているものと見える。あるいは、所引/引用の際に、略字の走り書きを多用したために、略字から本字への復元に、当の担当者の教養が不足していたために、失敗して文字化けしたものとも見える。そして、誰も、文書較正していないため、誤記/誤写/乱丁が、そのまま残ってしまった。
    筆写の際の誤字は、原史料と丁寧に対象すれば、容易かつ確実に校正できる。翰苑写本は、そのような当然の編集過程を経ていない、粗雑な引用と判断される。
    何か、断簡写本作成の際に、原史料を確認できない事情でもあったのか。貴重で高価な書籍の筆写であり、写本は、途方もなく高価なもののはずなのに、そのように粗雑、拙速な対応をする事情は、後世の東夷には想像することすら困難である。文字校正すらできないものに、内容の校正などできるはずがない。

    【一例】翰苑「高麗」(高句麗)記事が、「魏収魏後漢書曰」と書き出されているが、これは、単なる誤字の類いを超えた深刻な問題をはらんでいる。ここで引用されているのは、「魏収」(人名)の編纂した「後魏書」(南北朝 北魏史書)であり、笵曄「後漢書」とは無関係であることは自明である。原本は、権威ある書籍であるから、「魏収後魏書曰」と書かれていた「はず」である。

    案ずるに、素人同然の写本工を呼集して取り組んだ、やっつけ仕事となったため、未熟で粗忽な写本工は、いったん「魏収」と書いたのに続いて、筆の勢いで「魏書」と書こうとして、「魏」と書いたものの、「後」を書き飛ばしたのに気づき、「後」と書き足したものの、書き癖で「後漢書」と書いてしまったとでも、推定すれば良いのか。
    誠に、素人臭い手際で、しかも、誰の目にも誤写とわかる形で放置されているのは、後日訂正しやすいようにあえて残したとも見え、つまり、これは、写本の途中段階の作業記録に過ぎないのであり、これが売り物になるとは見ていなかったと見える。

    無教養な写本工には、「魏収」が人名との認識はなく、続く「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったか。この写本工は、字の違いに気がついたとしても、修正を加えることも目印を付けることもなくそのまま書き進め、出来上がった写本に校正の手が一切加わっていない
    他の例で言えば、宋書の記事に対して、お手本と行格が異なるために、行末の処理を誤り、前後の文章がつながらない現象を呈している。そもそも、このように、割り注に近い原本を正確に写本するためには、厳格に行格を一致させなければ、どこかで破綻する危険性があるのは、常識/自明であるが、断簡写本は、強引に文字を書き写そうとするだけで、乱脈になっている。そして、大事なのは、そのような無法な写本行程を、規律を持って指導する人材が無かったということである。
    要するに、無法な写本行程から生じた写本の記事は、大きな誤謬そのものである。

 つまり、現存する断簡である翰苑は、史料として「一切」信頼できないものであり、現存刊本に書かれている「壹」の字を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たない
 このように、明らかに根拠のない史料考察を根拠に、正史写本/刻本行程の誤謬を主張するのは、端から虚妄の説と断じられても反論できないと思量する。

 【証明完了】

 再三の蒸し直しで恐縮であるが、中々周知されないので、またもや蒸し直しとなったことをお詫びする。誤解されないように、念入りに強調したので、お耳ざわりであれば、謝罪するが、それは、誤謬に対する怒りが書かせたものであるので、御寛恕頂きたい。

以上

 因みに、謝承は、後漢から東呉の時代の呉人であり、孫権正妃謝夫人の弟にあたる背景からも、謝承が「後漢書」編纂にあたり、東夷の風俗記事に、拘泥するとは見えない。
 
*追記 2022/12/12
 以上、大変苦労して、氏の提言に根拠が無いことを主張したが、これは、本来、収益を得る営業活動に従事している福永氏がご自身で成すべき史料批判であり、このような根拠の無い「思いつき」を無造作に提言されるのは、誠に、氏の名声を傷つけるものと思量する。

 氏の晩節をいたずらに穢さないように、自重されることを望むものである。

以上

*追記 2023/09/20

 後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。
 私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

以上

2023年9月19日 (火)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 番外 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2023/09/18

*番外編の弁 2023/09/19 直言批判の試み
 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 百六十八㌻
    参照元  私の意見 須玖岡本遺跡 春日熊野神社随想

*原典隠蔽
 高柴氏は、全般的に本書内容に出典を示していないため、氏が、古田師第一書『「邪馬台国」はなかった』に触れるだけで、古田師のそれ以降の著書をどの程度引用しているか、一般読者には不明であり、原典を隠蔽しているため、下記公知文献の盗用、剽窃と見られてしまうではないかと懸念するものです。

 「よみがえる卑弥呼」 (古田武彦 朝日文庫 1992年)の第6篇 「邪馬壹国の原点」-「よみがえる卑弥呼:日本国はいつ始まったか」 (古田武彦・古代史コレクション 7) 単行本 – 2011/9/30 ミネルヴァ書房

*無批判追従の弊
 因みに、高柴氏は、福永晋三氏の「調査」になぜか共鳴し、福永氏の講演の所感を述べた後で『「魏志倭人伝」には、もともと「邪馬臺国」と書かれていた』という「異説」に帰順したように見えますが、当方が福永氏のネット上公開記事を見た限り、福永氏の論考は、聞きかじりの継ぎ接ぎに氏の臆測を塗りつけたものであり、「倭人伝」の確たる記事に対する有効な「異議」となり得ないものと見えます。

 現に、高柴氏は、福永氏講演の自己流解釈に「独り合点」してべったりと紹介しているだけであり、首肯するだけで検証した形跡がなく、かつ、福永氏の文字資料を原典参照していないのですから、一般読者が本書本項に対して疑問を呈しても、結局、本書で確認できるのは、高柴氏が、あくまで個人的にそのように理解して心情に共鳴したと言うだけで、福永氏の意見自体を追検証できないので、甲斐のないことなのです。

 要するに、紹介されている限り、福永氏は『「倭人伝」の「邪馬壹国」が、陳寿原本で「邪馬臺国」であった』と論証していない/できていないと見えるので、高柴氏の回心は、非論理的・不合理で、不審そのものです。それが、高柴氏の紹介の不手際なのか、福永氏の所説開示が杜撰なのかの追求は、ますます圏外なので、ここでは述べません。高柴氏には、少なくとも、福永氏の所感の『史料批判』/「証人審査」として、最低限、的確な引用紹介をする義務があると感じるだけです。

 ちなみに、福永氏は、何らかの事情で古田師に怨恨の情を抱いたようで、古田師死去の報道に対して、死者を罵倒する言説をネット上で公開されましたが、福永氏に共鳴した高柴氏も、同様に怨恨の情がお有りだったのでしょうか。とにかく、最早反論できない論敵を攻撃するのは、感心しないこと甚だしいと感じたものです。まことに勿体ないことです。

*「盗まれた」王墓
 斯くして、高柴氏は、感情的に古田師の論考を敬遠し、本件に関しても、古田師の公刊された/つまり、衆知の論考に言及していない失態を示しているのですが、なぜか、本書では、堂々と「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」として、詳しく述べられています。確かに、氏の論説は、須玖岡本遺跡の発掘成果を、中山平次郎博士の「報告書」に続いて、梅原末治博士の「報告書」を紹介していますが、結局、梅原博士と原田大六氏の所見が相克して、両者他界されたという事態を述べるだけであり、氏ほどの見識の方の論考にしては、締まり/詰めがなく、大変疑問に感じる態度です。

 そのあと、氏の論義は、隣接している大南遺跡に、水壕めいた断簡があるのを、大規模な環濠の一部とこじつけ、同遺跡は、大規模な環濠集落と見立てていて、締まりの無い見解に終わっています。
 「倭人伝」は、冒頭で、倭人首長の居城「國邑」と形容することによって、太古以来の中原の伝統である「城壁」(石積みの隔壁、防壁)が必須であったことを想起させ、行程上の対海国、一支国は、大海州島なので、海水を城壁として略式として認められていると述べるだけであり、末羅国以南の陸地「國邑」が、城柵だけで城壁を有しない、守備の面で、大いに失格であると「明らかに」示唆していますが、その際ですら、環濠を言い訳として述べてないので、氏の引用は、「親魏倭王」居城として正当化できないのです。
 ついでながら、太古の國邑に擬えるしかない女王居処は、そもそも蛮夷の王に「都」があり得ないのと相俟って、大変不適切な解釈になっています。
 高柴氏の周囲には、そのような当然の指摘を苦言として提示するする方はいないのだなと思う次第です。大変もったいないことです。(異例の勉強家である古田師も、このような格式の次第を見落としているので、別に、高柴氏が、特段に不見識と言っているのではないのです)

 総体として、素人目には、先行する古田師の成果の上に、いたずらに虚構を打ち立てているように見えるのですが、氏が、先行文献を紹介し、克服する手順を踏んでいないので、意図してか、しなくてか、結果として「盗用」しているように見えるのです。

 高柴氏には、高柴氏の言い分があるのでしょうが、古田師の論考を無視して、自己の創唱の如く書きまとめるのは、大変感心しない所業と見ます。
 と言うことで、本項に限定で、高柴氏の論調に対して、率直な意見(「星無し」相当)を述べた次第です。

以上

私の意見 須玖岡本遺跡 春日熊野神社随想

               初掲 2013/12/31 再掲 2023/09/19
*再掲の弁
 今般、常々参考にさせていただいている
 「古賀達也の洛中洛外日記」 第3114話 2023/09/15 『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓
 に、掲題神社に関する新たな論考が示されたので、懐旧の念をこめて再掲いたします。
 また、別途書評している高柴 昭「邪馬臺国は福岡平野にあった」に於いて、須玖岡本遺跡と春日熊野神社 について、一項が割かれていて女王の墓所と示されていることは、取り扱いがむつかしいので、先送りしたのですが、別記事を参照することとしました。
 新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 番外 「春日市の王墓 -惑わされない鍵15」 

*初稿再掲
 初心者時代に、近場の古書店店頭で立ち読みして、早速購入したものであり、第一印象に近いものですが、春日熊野神社は、倭國王墓の守りではないかとの感慨があります。これは特に、根拠のない思いつきで、「倭人伝」記事に直接関係するものではありません。
 下記参考資料「筑前須玖史前遺跡の研究」 京都帝國大学文學部考古学研究報告
(原本 昭和五年発行)
は、福岡県春日市岡本町に現存する須玖・岡本遺跡(岡本遺跡)の発掘報告であり、当然、学術的な史料であって、簡単に論評できるものではないのですが、所収の発掘現場パノラマ写真(圖版第二 岡本遺跡地展望(西方より望む) )と周辺地図(圖版第三 岡本発掘地點及び附近地形圖)を見ると感慨が浮かんできます。
 なお、本史料は、古書店でよく見かけるとは言え、参照困難と思いますので、ここでは、つなぎ合わせた圖版第二を下掲します。

・発掘地点は、古代の墓地であったようで、甕棺と副葬物が発掘され、この報告書になっています。
・発掘地点の東南の方角にこんもりした岡があって、その頂上に熊野神社が安置されています。

 現地を実地確認したわけでもないのに、色々言うのは僭越そのものなのですが、このようなこんもりした岡は、高貴な人の墓所にふさわしく、墓址の真上に礼拝所を設けたのが、そのままの位置で熊野神社となったという気がしてきます。いや、当時、一の宮として尊崇されていた「神社」が、後世「熊野社」とされたのかも知れません。
 高貴な人が亡くなったときに、墳墓を造成して盛り上げるのは、古墳時代になってから発展したものであり、それ以前は、小高い岡の頂を掘り下げ、被葬者を副葬品と共に埋葬して軽く盛り土し、岡の周辺に供え物を並べて、墓所としたのではないかと思っています。
 特に、生前に墓作りをする風習がなければ、没後に新たに工事して間に合う程度の墓所作りになっていたかと思います。特に、被葬者が、若くして亡くなった場合は、備えができていないのではないでしょうか。

 当報告書を見ると、須玖遺跡は、低地に、それほど高貴ではない人たちの墓所を、岡の中腹には、そこそこ高貴な人たちの墓所を、それぞれ設ける階層式になっていたのではないかと想像します。
 当報告書に書かれた京都帝大文学部の発掘以後、豊かな副葬品を備えた「王墓」が発掘されているようですが、ここに葬られている「高貴な人」は、王以上の存在だろうと想像しています。何しろ、一番高いところに、厳重に護られて眠っているのですから。

 当報告書によれば、報告書の発掘の以前に、岡の中腹部の崖崩れで甕棺が露出したことがあったようですが、熊野神社と鎮守の森とはその真下に眠る人たちを丁寧に護っていて、今日まで、穏やかに過ごしているものと思います。
 して見ると、熊野神社は、特別な墓所を、後世の盗掘から防いでいたとも思います。

 なお、ここが、定説として奴国遺跡とされていることについては、諸論、異論があるようなので避けて通ります。

 因みに、同様に由緒を感じる場所として思い出すのは、倉敷市阿知の阿智神社です。往時は、海の近くにあって、海を望む小高い岡であったことが、そのように思わせるのです。同地は、小生の敬愛する将棋15世名人大山康晴氏の出身地であり、また、観光名所「倉敷市景観地区」の守り神でもあるようです。

 以上の憶測が、現地の方にご迷惑をかけたら、ごめんなさい。

*参照資料
 「筑前須玖史前遺跡の研究
  京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷 (昭和三年から昭和五年)
    株式会社 臨川書店刊 昭和五十一年九月復刊  (原本 昭和五年発行)
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*追記
 以上の私見をまとめ上げて、ほんの数日して、「よみがえる卑弥呼」 (古田武彦 朝日文庫 1992年)の第6篇 「邪馬壹国の原点」で同様な推定が公刊されていることを知りました。(よみがえる卑弥呼:日本国はいつ始まったか (古田武彦・古代史コレクション 7) 単行本 – 2011/9/30)
 多分、上記参考資料に触発された点で共通したものがあるのでしょうが、本論は(新発見の)主張では無く、あくまで、素人の感慨をしめすものなので、特に取るに足りないものと思い、予定通り発表します。
 何にしろ、二番煎じは、感心しないのですが、ほぼ独力で想定した内容なので、ここに残します。

以上

2023年9月18日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 4/12 里制論 再掲/補足

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28, 09/18

〇見過ごされた課題
 本項は、ちと問題が大きいので、改ページしました。以下、…記号は[中略]としました。
    (「てにをは」書き替えあり)文責当記事筆者

 ⑶三国志里制論 惑わされない鍵 4
*明解な結論 無用の短里論
 議論を絞ると、秦以降、秦が提示した450㍍*程度の「普通里」以外の「里」制度史料は存在しません。(*計算の便に50㍍単位で丸めたものであり、当時の実施と無関係です。一尺25㌢㍍、一歩6尺150㌢㍍一里三百歩の体系です)

 「里」は、国家制度の基幹である土地制度に直結しているので、「里」を数倍ないしは数分の一に改変すると国家体制崩壊に繋がります。従って、「普通里」は、遙か後世まで維持され、激甚事項は、もしあれば、正史に記録されます。(記録がないということは、壊滅的な制度変更は「無かった」という事です)

 「晋書地理志」では、周代以来晋代の「里」制は、一貫して「普通里」です。周「普通里」に従った秦は、自国の「普通里」を全国里制としたのです。戦国諸国里制は、順当には周「普通里」と見えますが、秦始皇帝が各国制度を破壊したので、絶対確実というわけではありません。
 つまり、秦始皇帝は、全国度量衡を統一するに際して、日常生活に密着した「度量衡」は、物差、升、錘の原器を配布しましたが、里は含まなかったと見えます。「普通里」は、「尺度」や度量衡には属さないものです。

 各国土地制度は、検地が根幹と思われ、「普通里」が各国「里」と異なれば、検地、土地台帳新製が必要ですが、物理的、心理的に大事業です。秦が、各国の制度の破壊をためらわなかったとすると、いずれ、農民反乱を招くものですが、秦始皇帝は、皇帝の強権を持ってすれば、平定可能とみて強行した可能性が濃厚です。
 と言うものの、天下に敷く里制が、自国里制と異なっていたはずはなく、要するに、実績のある「秦制」を天下に公布したものと見るべきです。始皇帝は、自国制度を、いわば諸国に押しつけるために、秦律、度量衡原器を抱えた官人を諸国に派遣したのですから、秦里制は、周代以来の伝統的な「普通里」だったのに間違いないのです。

*「魏晋朝短里制」はなかった
 史料を総合的に判断して、魏晋代「短里制」施行仮説は、明確な短里制布令の証拠を欠き、里制変更に伴う、全国的な社会混乱が記録されていないので、本件は、さっさと棄却されるべきです。著者は、古田史学の刷り込みを受けているため、議論の矛先が鈍っていますが、ことはむしろ単純明快なのです。

*個別記事検証は不要
 また、三国志に「普通里」と異なる里長記事を見る提議は、当該記事の検証にとどまり、国家制度を論証する効力は有しえないので、棄却すべきです。里制は国家制度であり、土地制度の根幹であるので、辺境といえども郡管内に徹底されたものと思われます。その証拠として、帯方郡の戸数、口数は、順当に集計されて、正史(晋書)に収録されています。

 また、各拠点間の行程道里は、精度を期しがたいので、公式記事の字面から制度を推定すべきではありません。つまり、いくら事例を数多く集めても、不確かな数字の収集に過ぎず「国家制度を証する効力は無い」のです。要するに、その時、その場所で、そのような里数が施行されていたように見えると言う「例」を示すだけであり、そもそも、国家制度が実施されていれば、あやふやな里数は通用しないのです。

*限定的に有効な「地区里」宣言 (private, local)
 倭人伝道里行程記事の冒頭で、「郡から狗邪韓国まで七千里」と宣言されているのが、この際の「里長原器」であり、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、倭人伝は別世界なのです。それが、この際の史実です。

*地区里宣言の認識

 と言うことで、同記事は、「普通里」と異なる「里」で書かれているという「地区里宣言」です。つまり、どんなに懸命に国家制度を検証しても、「倭人伝」は別世界なのです。それが、この際の史実です。
 言葉の綾ですが、「地区里」とは、全国制度や郡制度でなく、倭人伝が、紙上で採用している「里」という意味です。魏志三十巻の末尾で適用されていても、それ以降の適用はありません。前代に存在しなかったし、後代にも継承されていない、「孤例」なのです。

 「従郡至倭」全区間「万二千里」は、そのような「地区里」とみるべきです。肝心なのは、倭人伝」として首尾一貫していて、二千字資料だけで、読者が資料内の「道里」を検算できるということです。

 因みに「地区里」の論証ですが、簡明に述べると次の通りです。
 ⑴ この区間の「万二千里」が、一里四百五十㍍の普通里であったと仮定すると、「倭」は、郡から五千四百㌔㍍の彼方であり、日本列島に収まらないのは、自明です。従って、この仮定は棄却されます。
 ⑵ この区間の「万二千里」は、「郡から狗邪韓国まで七千里」と言う「原器」から推定すると、一里五十㍍から百二十㍍程度の範囲の独特の「里」で書かれているのは、幾何学的に妥当と思われます。

 従って、この仮定をさらに掘り下げます。

 ①この「里」が魏代に全国制度として適用されていて、それが、景初時点で帯方郡に適用されていたとする仮定は、そのような重大な全国制度の改訂は、一切、正史に記録されていないことから、直ちに棄却されます。
*補足説明 2023/09/18
  少々書き足すと、まず、各地の行程道里は、秦漢代以来、国家制度の一環として記録されていて、改訂することはできないので、「里制」の改訂は、不可能なのです。例えば、班固「漢書」地理志に「樂浪郡 武帝置 雒陽東北五千里」、「遼東郡 秦置 雒陽東北三千六百里」と書かれていますから、それぞれ、「短里」を適用して、三万里、二万一千六百里とすることは、正史の改竄にあたるので、実施することができないのです。
  細かく言うと、房玄齢「晋書」地理志に引用されている漢代街道制度は、「大率十里一亭 亭有長 十亭一鄕 鄕有三老」と「亭」設置を規定しているが、「短里」を適用すれば、「六十里一亭」としなければなりませんが、正史の改竄にあたるので、実施することができないのです。
  このように、いかに天子が、「短里」を強行しようとしても、国家制度に齟齬を来すので、実現できないのは明らかです。

 ②従って、魏帯方郡に、全国制度に反する郡独自の制度が施行されていたと仮定しても、帯方郡にそのような不法な制度が施行された記録は、一切残されていないので、直ちに棄却されます。
  帯方郡は、漢武帝設置楽浪郡の下部組織、帯方縣の後身であり、漢制、後漢制、魏制に反する制度を行うことは、端から不可能です。
  つまり、当時、帯方郡が、「倭人伝」に書かれている「里」を、郡独自の制度として実施していたとする仮定は、直ちに棄却されます。
  もし、魏明帝の景初年間、遼東郡傘下であった帯方郡を回収し新任太守を派遣して皇帝直轄にしたとき、帯方郡が、魏制と異なる里制を敷いていたとすると、新任太守は直ちに皇帝に報告するので、郡から倭に至る「万二千里」は、忽ち、校正されて、例えば、「二千里」に是正されていたはずです。
  そのような是正がされていないという事は、帯方郡の里制は、漢代以来の普通里であったと言う事です。そのため、格別の是正はされなかったのです。また、郡倭一万二千里は、地区に通用していた普通里によって較正されていない「公式道里」と見るべきなのです。

  つまり、残された可能性は、「倭人伝」の郡倭万二千里という道里は、帯方郡の里制と一致しない独自の「地方里」で書かれていて、それが皇帝の承認を得たため、以後是正不可能になったと言うことです。

 因みに、「従郡至倭」万二千里の記事が、後代、西晋史官陳寿の捏造によるものだという根拠の無い思い付きが、結構広く出回っていて、「陳寿曲筆」の根拠とされていますが、少し時代考証すれば、一種でたらめとわかり、精々、大いに勘違いした浅慮と見えます。
 魏帝が「倭人」を新参東夷と認知して、魏使の派遣を指示するためには、「倭人」の身上が、最寄りの郡から提出され、専門部局である鴻臚によって認証されていることが必要です。
 つまり、倭人は、どのような身元のものであって、君主の身上、国城の名称、最寄りの郡からの道里、戸数、城数、が明らかでなければならないのです。道里は、蕃夷の格付けのために不可欠であるので、
 但し、魏使派遣の段階では、帯方郡から万二千里の道里は廃却され、都合四十日の行程日数が考慮されたものと見えます。
 大量の下賜物を送り届けるのに、片道万二千里、つまり、一日五十里として、二百四十日の行程は想定しがたいものであり、帯方郡は、倭との文書交信実績を通じて、精々四十日程度との想定ができていたものと見えます。
 また、大層な下賜物は、「万二千里」遠隔の蕃夷の処遇であり、そんな最高の賓客にしょっちゅう来られてはたまらないので、二十年一貢などの制限を施したはずです。一方、倭人は頻繁に遣使して、追い返されていないところを見ると、鴻臚の決めた処遇は、実は近隣であるから、三年ないし五年に一貢程度と見ていたようです。但し、当初の道里「万二千里」は、明帝の承認した公文書なので、是正できなかったのです。

 以上の通り、不合理な選択肢を順次消去して、最後に残ったのは、当然、正しい選択肢であり、筋の通った説明が成り立つ以上、これを受け入れるべきだという判断に至るのです。

*「従郡至倭」の由来
 「倭人伝」の成立過程を推定すると、まず、本来、王畿から万二千里という周制に基づく「僻遠の蕃夷」里数が先にあって、道里ではない里数が書かれていたものを、新任郡太守が実道里と錯覚して魏朝皇帝に報告した失態が、晋代まで引き継がれて陳寿の元に届いたものと思われるのです。
 「倭人伝」記事は、そのような「神がかり」道里を神棚に祭り上げて、蕃夷管理の要件である文書到達日数に書き換えて見せた至芸の成果に見えます。要するに、陳寿は、魏明帝が、新参の東夷を高く評価して、魏使を大挙派遣したという想定で、「肯定的」に書きまとめたのです。
 「魏志」本紀は、当該皇帝を顕彰するのが、史伝の本旨ですから、その本紀に深く結びついて、明帝を顕彰している倭人伝は、当時、東夷との交流を強く求めた明帝の意図と意志を推進した明帝股肱の臣毋丘儉を顕彰するものであり、明帝が臨終の場で托した違命に背いて、少帝曹芳を排斥し、倭人との交流を埋没させた司馬懿の顕彰などではないのです。むしろ、史官の筆法で、司馬懿を冷笑しているのです。

*異次元排除
 因みに、「道里」は、文字通り「道のり」です。周代の「里」は、話題ごとに意味の変わる便利な文字でしたが、天下の政権が周から秦に移って、万事、成文法で統制するようにしたとき、同じ「里」に多様な意義があることは、誤解を招くとして、道の「里」は、「道里」と二字熟語としたものです。但し、世間では、素朴な「里」が残っていたので、後世人が誤解することになったのですから、二千年後の無教養の東夷が、直感で誤解するのは、むしろ当然でしょう。

 ここに登場する面積単位「方四千里」等の「方里」は、別次元単位なので流用は禁物です。「地区里宣言」以前の高句麗、韓記事で導入され、宣言後の對海国、一大国記事のみに表れる、さらに特異な「里」ですから、道里とは別義です。
 ちなみに『「道里」が、古典用語の流用として当時の流行概念として通用していて、それが、予告無しに倭人伝で採用された』というのは、意味不明の混乱に過ぎません。「倭人伝」は、史記、漢書を継ぐ「正史」「三国志」「魏志」の掉尾を占めるものとして書かれたものであり、最終的には、皇帝の御覧を得て採用されるものですから、春秋を含めた古典書に前例のない流用など、許されるものではありません。
 但し、同時代史書と言えども、このような用語定義の行き届いていない筆者もいて、「方里」 を、一辺を里とする方形としている例もあり、油断はできません。当時にも、優等生と劣等生がいて、誤解、誤用が生き残っていることはあり得るのです。

 そうそう、別次元というと、並行世界とか連想が湧きそうですが、「道里」は、丈、尺、寸と同様、一次元単位であり、「方里」は、土地制度に由来する二次元単位(面積)ですから、混ぜ合わせて足し算、引き算はできないという意味です。単に「里」と書かれているように見えても前後関係で判断する必要があります。元来、「方里」は、農耕地の土地測量で、広範囲の土地のための単位です。

*「歩」と言う面積単位
 古代史料の「歩」(ぶ)は、農地面積測量で多用される「方歩」であり、歩(ほ)幅と無縁ですが、「俗論」では、歩幅と誤解している方が通例です。一歩は、六尺となっていますから、一尺25㌢㍍と概算して、一歩は、150㌢㍍、1.5㍍程度ですから、到底歩幅ではあり得ないのですが、なぜか、誤解の方が絶対的に有力なのですが、事は、多数決や権威者ぶった断言で判断すべきではないという好例です。

 とは言え、「歩幅」説を持論の立脚点/枢軸としていて、ここで言う「誤解」こそ正解と強弁する向きもあるので、百年たっても誤解は是正されないのです。

                             この項完

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」1/2

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

〇はじめに
 古代中国の算数教科書を読み解いて、倭人伝「方里」の起源を探ります。
 農地測量の「方田里田」表現を確認し、「方里」は面積単位と明示します。

〇「九章算術」とは
 本書は、「東アジア」最古の数学書と紹介されますが、当時、中国周辺世界で文明があったのは「中国」だけで、西方エジプト、メソポタミア、ギリシャとは交信がなかったから「世界最古」でいいのです。当時、「アジア」はエーゲ海に面した地中海東岸の狭い世界であり、「東アジア」などなかったのです。

 古代史学者は、「東アジア」という用語を、大変注意深く使っていますが、悪乗りして混乱した世界観を持ちかけてくる論者がいるので注意が必要です。古代史に、生かじりの現代語を持ち込むのは、大抵、苦し紛れの逃げ口上です。

 それはさておき、本稿の対象は、冒頭部だけであり、かつ、「数学」論でないことをおことわりしておきます。また、目的は、古代史書、就中「魏志倭人伝」の用語、用字の解明であり、中国語独特の文法を理解しなくても読み解けるので現代語訳を付けていません。
 但し、中国の単位体系は、現代日本と異なるので、随時説明を加えます。

▢記事紹介
*「問題」山積による問答紹介、術紹介付き
㈠ 方田例題
今有田廣十五步,從十六步。問為田幾何?
 答曰:一畝。
又有田廣十二步,從十四步。問為田幾何?
 答曰:一百六十八步。
方田術曰:廣從步數相乘得積步。以畝法二百四十步除之即畝數。百畝為一頃。

 冒頭の「方田」例題です。いきなり「問」、「問題」を突きつけられて、総毛立つ「サプライズ」と勘違いしそうですが、パニックを起こさず読み進めると、すぐさま、「答」が示されるので、心の負担にはならないでしょう。大体、試験問題とは、予想外でなければ意味がないのです。
 本来、各例題は問答で完結だったのでしょうが、それでは勉強にならないので、解答に至る手順の「術」、解法が示されています。

*「歩」の起源考察
 「歩」は、農地面積単位であって、恐らく「ぶ」であり、歩幅定義でなく、耕作具の幅基準と思われます。なお、日常単位との関係は一歩六尺です。

 「廣」は農地の幅、「従」は縦、農地の奥行きです。農地を牛犂で耕すとき、歩は犂幅であり、奥で反転して引き返すので、農地は矩形で造成されます。つまり、農地の開墾・整理は、「歩」を単位に、各戸に当てて縄張り区画したと見えます。農地は、あぜ道と水路、そして、農道で区分されていたはずです。
 ここに提示された農地は一「畝」(むう)の定義で、幅十五歩、縦十六歩です。面積単位には百畝の「頃」があり、農地は「頃」-「畝」で表現されます。

*面積単位としての「歩」
 続く例では、「廣」・「従」が、「歩」、面積も「歩」で書かれています。答は、単に百六十八「歩」で、術では、周知の一畝 二百四十歩を明記します。

 方田術曰と書かれているのは、恐らく、後世の解説者の追記であり、原題には、「幅が歩、縦が歩なら、面積は積歩」とは書いていなかったはずです。

 「廣從步數相乘得積步」は、縦横の「歩」を掛けると面積の「歩」が出ると言うだけで、「九章算術」全体でも、単位「積歩」を示していないようです。

                                未完

新・私の本棚 「九章算術」新考 方田と里田~「方里の起源」2/2 増補

 古代の教科書を辿る試み~中國哲學書電子化計劃による 2021/01/24 2023/09/18

㈡「里田」例題
今有田廣一里,從一里。問為田幾何?
 答曰:三頃七十五畝。
又有田廣二里,從三里。問為田幾何?
 答曰:二十二頃五十畝。
里田術曰:廣從里數相乘得積里。以三百七十五乘之,即畝數。

 続いて、広い範囲の土地の縦横/廣従と面積の「里田」例題が提示されます。
 行政区画が県へと広がると、{頃-畝}で収まらないので里で表現します。
 一里三百歩なので、縦横一里の面積一「里」は九万「歩」、三頃七十五畝です。十進法でないのは、太古、元々別の単位系として成立したからです。

*広域集計という事
 「里田」は、頃-畝単位系から里単位系への面積換算を規定していて、これは、国家里制、度量衡により一意的なので、両制度に従います。
 以降で、一見不規則な形状の農地の「検地」が提起されますが、これは、地方吏人が測量実務で直面する可能性のある例外的な事例への対応に備えて、現代で言う「幾何学」な多様性に対応する算法を説いているものであって、国家事業として開梱された正規農地、つまり、定寸矩形の農地の面積計算には必要ないのです。
 諸賢は、「方田」関連の多様な形状の農地に関する「例題の数の多さ」に幻惑されるようですが、農地が台帳登録されると、後は数字計算です。九章算術の残る部分は、面積数字を計算するものです。重要性は、例題の数の多少で評価するものではないのです。

 冷静に見ていただければ、農地を造成するときは、矩形が常道であり、常道から多少形が崩れたとしても、農地の従横のそれぞれ平均値が把握できていれば、厳密に矩形でなく、台形でも、平行四辺形でも、歩(ぶ)単位であれば、精々、二桁の従横の掛け算で農地台帳の記載するに足る農地面積の概要は得られるという「鉄則」が書かれていると見るべきです。何しろ、厖大な件数の農地測量ですから、方法は簡便であり、計算は、並の(数字に弱い)官人でこなせる明快なものでなければならなかったのです。
 広域集計は、件数が少なく、高位の(数字に強い)計算官僚が時間をかけて実務担当するので、桁数が大きくても実行可能だったのです。

*道里の里、方里の里
 道のり、道里の単位「里」は、一里三百歩で、度量衡の「尺」と厳格に連携しますが、一方、一辺一里の方形の面積「方一里」は三百七十五「畝」であり、こちらはこちらで厳格に連携します。何しろ、長さと広さは、単位の次元が違うので、混同しないように弁別しなければならないのです。
 以上は、必ずしも史書想定読者全員に自明ではないので、陳寿は、「道里」は、百里と書くものの「面積の里」は、「方百里」と書いて混同を避けたようです。

*面積単位のあり方   (余談)
 近代メートル法国際単位が敷かれたとき、身近の面積は平方㍍、広域の面積は平方㌔㍍であっても、百万倍の違いはとてつもなく大きく、農地面積には、十㍍四方を単位とした㌃や百㍍四方を単位とした㌶が常用されています。
 面積は二次元単位なので、一次元単位を十倍にすると百倍になり、数字の桁外れが起きるので、SI単位系の例外として常用単位で埋めたのです。

*東夷伝「方里」の解釈
 東夷伝の事例で、例えば、韓国「方四千里」と一大国「方四百里」が登場しますが、一辺里数で領域面積を表現したとすると、十倍の大小関係と見えて、面積は自乗関係で百倍の大差では、読者たる高官の誤解を招くので不都合です。
 一辺里数でなく全周里数とみても、自乗関係に変化が無いので、韓国は一大国の百倍であり、実態を裏切る、無意味な比較になるのです。
 あるいは、遼東郡の北の大国高句麗が、南の小国韓国の四半分の国土と読めては、高官の判断を誤らせるので、不合理なのです。
 ということで、同時代でも通用する「合理的な解釈」が残ります。
 東夷伝で、遠隔、未開の国「方里」は、それぞれの農地測量・検地された台帳記事の集積で、収穫・徴税と直結し、国力指標として最も有効です。しかし、台帳で把握されている「耕作地」は、全土のごく一部に過ぎず、大半は、山野、渓谷、荒れ地、海浜など測量されない非耕作地です。
 過去、当記事の主張と同様な提言があったとしても、国土全域の表現と見ると、余りに狭小なので、間違いとされたことでしょう。それは、後世の世界観で、「国土の全面積が測量可能であるとか、その面積に意義があるとか、時代錯誤の先入観」を抱いていたためです。
 あるいは、「方里」と「道里」の安直な混同を招いたためです。三国志」は、現代日本人、つまり、陳寿にしてみたら未知の二千年後の無教養な東夷蕃人の先入観を満たすために書かれたものではないのです。

*まとめ 2023/09/18 補充
 ということで、陳寿が、東夷伝の道里記事に寄り添うように、「方里」記事を書き連ねた意義を理解すれば、「方里」の「里」は、「道里」の「里」と異なる次元のものであると明記した陳寿の真意を察することができるはずです。諸兄姉には、承知の事項のはずですが、所定の領域の農業生産力、即ち、「国力」を示す指標は「戸数」です。各「戸」は、所定の面積の農地の耕作を許可されていて、その代償として、所定の穀物を「納税」することで、帝国の根幹が成り立っているのです。
 但し、そのような関係が成り立つのは、各戸が、牛犂による農耕を維持していて、適正な農務を維持できるのが前提であり、所定の領域に、牛犂が存在しない場合、つまり、人力による農作業に頼っているとすれば、各「戸」が耕作可能な農地は、中原基準の面積でなく、その地域に通用する縮小された面積となり、従って、各「戸」の農業生産力は、応分に減少します。つまり、現地の「国力」は、戸数から想定されるものより縮小するのです。
 そのような事情の片鱗は、「倭人伝」の對海国記事に見えていて、同国は、良田が少ないと申告しています。つまり、中原基準で「良田」と格付けされる収穫量が得られる農地を割り当てられないという趣旨であり、つまり、戸数から計算される納税ができていないとの申告と見られるのです。
 陳寿は、東夷なる地方は、そもそも、農耕可能な土地が少なく、郡が各戸に割り当てられる土地も、各戸が労力不足で制約される、つまり、戸数から想定される国力は過大評価となることを東夷伝記事に埋め込んでいるのです。

 「倭人に牛馬がいない」というのは、現地は、夷蕃の統治する「荒地」であるから、国政の定める、農耕に必須の牛犂が整っていないという趣旨で書かれているので、誠に、万全の配慮と言えます。
 何しろ、史官は、国法を定める立法機関ではないし、そもそも、周制以来の祖法を改定することはできないので、かくのごとく「東夷伝」に要件を書き込んでいるのです。

 本稿は、論証と言うより、合理的な考証と思うものです。否定されるのなら、不確かな実証論でなく論証をいただきたいものです。

                               以上

2023年9月16日 (土)

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 3 宋書の「昔」について 再掲

                                 2015/11/5 2023/09/16
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

「古代は輝いていた Ⅱ 日本列島の大王たち」(古田武彦古代史コレクション20として ミネルヴァ書房復刊)「参照書」)の219ページからの『「昔」の論証』とした部分では、「宋書」に書かれている倭国王「武」の上表書に書かれている「昔」に対して、考察が加えられている。

 古田師は、持論に従い、こうした特定の言葉の意義は、同時代の文書、ここでは、宋書において「昔」の用例をことごとく取り出して点検するという手法を採っている。
 現時点のように、電子データ化されたテキストが、インターネットのサイトに公開されていて、誰でも、全文検索できる便利な時代でなく、宋書全ページを読み取って検索したものと思われ、その労苦に敬意を表する次第である。

 さて、ここは、論考の場ではなく、私人の感慨を記す場であるから、参照書の検索と考察の内容は後に送り、ここでは、まずは個人的な意見として、以下の推測を記すのである。

 日本語でも、「今昔の感」と言うように、「」と言うときは、「今」と対比して、万事が現在と大きく異なった時代を懐古、ないしは、回顧するものであり、往々にして、「古き良き時代」と呼ばれることが多い。
 では、南朝の宋(劉宋)にとって、古き良き時代とはいつを指すのか。それは、劉宋時代の中国の形勢を見れば、さほど察するのは困難ではないと思われる。劉宋は、亡命政権東晋を継いで、長江(揚子江)下流の建康(現在の南京)を首都とし、中国全土の南半分を領土としているが、中国の中核とされる中原の地は、北方から進入してきた異民族政権の領土であった。中国人にとってこの上もなく大切な、故郷の父祖の陵墓は、墓参を許されない嘆かわしい事態になっている。
 もと中原の住民は、大事な戸籍を故郷に残し、今の住まいを避難先の仮住まいと称していたのである。

 こうして考えると、宋書でいう「昔」とは、その時代で言う「中国」が、その時代の天子の治世下で太平に保たれていて、季節に応じて、故郷の風物を楽しみ、墓参に努めることのできた古き良き時代、言うならば中華の世紀である。

 なべて言うなら、古くは、史記に記録されていて、半ば伝説と化した夏殷周代であるが、その中核は、儒教の称える周公の時代を想定していたのかも知れない。
 周朝の制覇、王朝創業の間もなく、広大な天下が平らげられて戦乱がなくなったことを伝え聞いて、遙か遠隔の地から、越裳と倭人が捧げ物を届けたという、そういう周の遺風が「昔」と言わせるのであろう。

 そして、より生々しい秦・漢の時代は、これもまた天下を平らげたことから、古き良き時代として「昔」と懐かしんだものと思われる。

 更に時代を下った魏・西晋の時代は、天下太平と言うには、物足りないものがあるが、それにしても、中原領域を制定していたことから、今の状勢と比較して、「昔」と懐かしんだものと思われる。

 さて、肝心なのは、倭王武の上表文で、「昔」と言っているのは、どの時代を指しているのかと言うことである。古田師は、宋書に登場した「昔」の用例を総点検した結論は、宋書に於ける「昔」とは、古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含むこともある、と言うことであり、上に挙げた個人的な推察と同じ結論に至っている。

 つまり、上表文作者の想定したのは、劉宋時代の中国教養人と同様の意義であり、『古くは、「夏殷周」、近くは、「漢魏」、時代の下限として「西晋」を含む』時代を指しているようである。
 倭王武の上表文の主たる意味づけは、魏・西晋時代にあるようであるが、「昔」の一文字で、周・漢両朝での倭人貢献を想起させる修辞力は大したものである。

 一部先賢は、倭王武の上表文について、当時の倭国に、このように高度な漢文記事を書く教養があった証拠にはならない、どうせ、建康の代書屋に書かせたものだろうと、倭国作成説を切り捨てている。

 しかし、代書屋に倭国の故事来歴の情報はないはずであり、代書するにとしても、大体の材料を与えられ、色々と注文を付けられて書いたものであり、大筋は、倭国側の練り上げた文書であることは、間違いないと思われる。

 もっとも、別項で述べたように、国王名義の上書には、国王名の自署と国王印が不可欠であり、倭国使節が、建康まで署名捺印だけで内容白紙の上書原稿を持参して、代書屋に内容を書かせ、出来上がった国書を国王が確認すること無しに宋朝に提出したという想定は、あり得ない手順と思われるのであるが、大家の説く所見であるから、言下に否定するのはおこがましいのであろう。

 閑話休題
 古田師の遺風として、生じた疑問を解き明かすのに、推測ではなくデータをもとにした考察を怠らない点は、学問・学究に努めるものとして学ぶべきものと思うのである。いや、これは、当ブログ筆者たる小生の個人的な感想であるので、当然、各個人毎に感想は異なるのであるから、別に、貴兄、ないしは貴姉から、意見が合わないと怒鳴り込まれても、お相手しかねるのである。特に、ここで論じているのは、古田師の遺風に関する小生の感想であるから、凡そ議論は成り立たないのである。

以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 1/3

             2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16
〇はじめに
 ここでは、故古田武彦師の遺した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。
 因みに、本稿が当初「」なしの古田史学と書いたのに対して、早速、古田史学なるものは無法な評言であるから、撤回すべきとのコメントがあり、一応、固有名詞扱いで「」付きにしたが、コメント子からの応答はないので、趣旨に沿っているのかどうか不明である。
 因みに、コメント子は、明らかに古田武彦師の流儀を認識していて、それ故に敵意を抱いているということのようだが、文句があるなら、当人を論破して欲しかったものである。あるいは、古田氏の支持者、後継者を「打破」して欲しいものである。第三者に付け回しするのは、ご勘弁いただきたい。

〇『「邪馬台国」はなかった』
 『「邪馬台国」はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。
 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。

 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書「俀国伝」に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていたのである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、笵曄「後漢書」「東夷列伝」の「倭条」に、「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 2/3

             2015/11/01 再追加 2022/01/12 2023/09/16

付記 2015/11/01
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する稚拙な攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので、相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」(あざな)を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで、東呉史官韋昭が編纂し、東呉君主に奉献した呉書が、東呉滅亡の際に、西晋皇帝に献上し、嘉納された史書が、帝室書庫に所蔵されていたものを、陳寿が、皇帝承認の史料として、ほぼそのまま「呉国志」として、「三国志」の要諦として鼎立させたものである。 
 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。つまり、呉書だけでなく、蜀書も、曹魏書記官/史官の編纂した史書ではないので、用語基準が異なるのであり、陳寿は、両国志に編纂の手を加えていないので、魏書の用語の用例としては、不適当な場合が多いと懸念される。いや、魏書に限定しても、曹魏書記官/史官が精査した本紀部の用語/構文と異なり、夷蕃伝、特に、新参の「倭人」に関する「伝」は、一貫した編集/構成が存在しないと見え、陳寿も、魏志夷蕃伝の編纂にあたって、原史料の用語/後世に、改竄、と言うか、史官校閲の手を加えていないと見えるので、必ずしも、一貫した考証が容易とは見えないのである。
 この論義は、古田武彦師の学問の道と軌を一にしていないので、本稿タイトルと蹉跌をなしていると見えるかもしれないが、小論は、古田武彦師の史学の道は、首尾一貫していて、後生によって維持されていると評したものであり、小論は、古田師の論義に無批判に追従しているのではない。よく聞き分けていただきたいものである。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している国志テキストデータを全文検索させていただいたが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない。この事実認識を「倭人伝論」の出発点としていただきたいものである。

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 改訂・付記 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12 付記 2023/09/16

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田師の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄姉のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に公に誹謗する向きが(少なくとも一名)あって、度しがたい迷妄に呆れたりするのだが、ここは「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していない。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、「左伝」の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、「左伝」由来の卑称を潜めたかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

*朦朧たる笵曄後漢書「倭条」 余談
 因みに、笵曄「後漢書」が言及することを許されていたのは、後漢代と言っても霊帝までが下限であり、献帝治世、中でも、曹操の庇護のもとに帝制を維持していた建安年間は、魏志の領分であるので、遼東に公孫氏が君臨していた時代のことは、書けないのである。そこで、笵曄は、女王共立の事態を、桓帝霊帝の時代にずり上げて、東夷伝に「倭」に関する一条を設けたのである。そのように、意図的に時代考証を混濁しているので、「其大倭王居邪馬臺國」 の一事も、
女王共立以後の「女王国」を指すというわけではなく、それ以前の伊都国僭上時代とも取れるようにしていると見えるのである。笵曄は、本来、朦朧とした記事を心がけていたものではない「文筆家」と自負していたから、女王が邪馬臺国を居処としていたと確信していたら、そのように明記したはずであるから、このような朦朧記事を書いたのは、後漢書東夷列伝「倭条」の根拠が不足していたと見えるのである。世上、魏志「倭人伝」記事が明解に解釈されたら、自説に不利なので、とにかく、朦朧とさせる「異説」が幅をきかせているが、その明源は、笵曄の朦朧とした記事に起源があるように見えるのである。

閑話休題
 「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。

*百済漢字論考 余談
 百済は、馬韓時代から早々(はやばや)と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、「無法な逸脱」を色々発明したようである。その中には、漢字に無い「国字」の発明や発音記号の創出が行われていたと見えるが、早々に中国側に露見し、撤廃させられたようである。つまり、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、百済から、海峡を越えた「倭人」世界に伝わったようである。但し、このような伝達が起こりえたのは、遙か後世の唐代であり、当ブログの守備範囲外、「倭人伝」の圏外であるので、あくまで、臆測に過ぎない。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。以上は、古田師すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

*三国志統一編集の幻影 2023/09/16 余談
 因みに、従来、つまり、「倭人伝」素人研究の開始当初、当ブログ筆者は、陳寿「三国志」の中で、「呉志」、「蜀志」の「用語」用例を、「魏志」の「用語」用例と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、「魏志」以外の「用語」については、それぞれの「志」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることがあることを申し上げておくものである。

 因みに、陳寿は、「呉志」編纂において、東呉史官韋昭等が東呉公文書をもとに編纂した「呉国志」が、東呉降服の際に献呈された西晋皇帝によって嘉納されていたので、つまり、晋朝公認文書となったので、「呉志」において、孫堅、孫策、孫権を、東呉天子と見立てた不敬は是正したものの、それ以外は、原史料を温存しているのであり、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。また、「蜀志」については、三国志の体を整えるために、蜀漢遺稿を集成させたものであり、ここにも、曹魏君主を天子とした編集の筆を加えていないものと見えるのである。
 つまり、「三国志」というものの、それぞれの「国志」は、古来、「国志」として自立していたものと見るべきなのである。従って、三件の「国志」を統一した「通志」編纂は、行われていないと見るべきなのである。

 このあたりの論義は、「倭人伝」解釈の躓き石になっているようで、近来蔓延(はびこ)っている暴言/誣告は、『陳寿は、その時次第で、思いつきの「ウソ」を書き散らす問題人である」と言うものであり、誰かの受け売りで、そのような暴言を書き散らしている著者を見かけると、後世に不滅の悪名を遺しているのに大変気の毒に思うのである。何しろ、電子書籍の初学者向け資料でコミックタッチであるからわかりやすく俗耳に訴え、その結果、取り消しようのない汚名が残っているのである。

*史官「立ち往生」 2023/09/16 余談
 さらに敷衍すると、陳寿は、「魏国志」の編纂においても、原史料である後漢/曹魏公文書に編集の筆を加えず、原史料温存に努めたものと見るべきなのである。そのため、主として、遼東郡太守公孫氏の束の間の君臨と滅亡によって、一貫した史料集成が不可能であった「倭人伝」では、各時点の史料源の視点、価値観、世界観がまちまちであることが糊塗されていないので、とかく、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)との評言が齎されているのである。つまり、「倭人伝」の二千字程度の記述においても、それぞれの部分の由来、出所の丁寧・地道な評価が必要・不可欠である。
 ところが、従来は、具体的な論証無しに軽薄な臆測をもとに、陳寿に対して、「東夷伝」に曲筆を加えたとの極言/誣告が、事情に通じていない部外の「大家」から与えられていて、素人読者として困惑するのである。文献を全面的に精査せずに、「ぱっと見」で、あるいは、「食いかじり」で、印象評価するのは、困ったものであるが、俗耳には「大言壮語」が痛快に聞こえて、粗雑な悪評が世に蔓延る(はびこる)困った事態なのである。

 陳寿は、あくまで、天職である史官の職務に忠実であって、正史の編纂を通じて天下に教訓を垂れるという尊大な意識は無く、あくまで、謙虚な「史官」の職掌に殉じたのであるが、高名で尊大な後世人集団によって、寄って集(たか)って、虚像、つまり、芝居の背景のように華麗な絵姿を押しつけられて立ち往生しているように見えるが、どうであろうか。

*結語 2023/09/16
 と言うことで、ここでは、タイトルにも拘わらず、古田武彦師の「倭人伝」観に、いわば、一矢を報いているのであるが、あくまで、史観の一隅の瑕疵をつついているのであり、靴に砂粒が入った程度の不快感にもならないかもしれない。

以上

2023年9月 6日 (水)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見ることができたのは、貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。
 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。例えば、漢書は、番兜城(ばんとうじょう?)、後漢書は、和櫝城(わとくじょう?)と書かれています。
 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。この地は、延々と続いた砂漠地帯を出て、カスピ海沿岸の温和な地域と見ていましたが、実際は、砂漠の中のオアシスだったようです。少なくとも、漢使甘英は、酷暑の西域都督管内ではあまり見られない冷涼の地と感じたはずです。
 とは言うものの、いくら好意的な相手としても、西域に勇名を轟かせていた西域都督班超の副官が率いる、恐らく百人規模の使節団が、 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。
 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し、無事に使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。
 倭人伝」解釈に於いて、随分参考になる前例ですが、論争の際に紹介されていないのは、意外です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を東方の最重要拠点として、守備兵二万を常駐させていたのです。
 安息国には、 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、迎撃した国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した経験があり、以後、大兵力を固定して、東方蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、騎馬軍団の席巻で言えば、班固「漢書」「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。後年、欧州諸国を震撼させたフン王アッティラの由来は不明ですが、

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官クラッススを引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。クラッススは、パルティアの軍法に則して斬首されたとされています。

 欧州側では「東北国境」と云うことで寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、ローマ兵は、捕虜とは言え、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍として送り込んだガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスが率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、班固「漢書」西域伝に依れば、安息国人は、皮革に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

 後漢西域都督班超の副官甘英は、一大使節団を率いて安息国に至り、長老、つまり、安息東部都督に相当する高官と交渉したものの、具体的な盟約には到らなかったと思われます。甘英の使命は、最高機密事項でしたが、当時、安息国と締盟した上で、西域都督班超に執拗に反抗していた大月氏/貴霜を挟撃、西域都督の以降を高めたいとの願望を持っていたはずであり、「貴霜」(クシャン)を凶悪な侵略者と見る共通した視点をもっていたと思われますが、安息国は、本来商業立国であり、専守防衛を国是としていたので、貴霜国を攻撃して地域の平穏を破壊するなど論外であったと見えます。

 もちろん、外交/軍事は、西方王都の国王の指示を待つ必要があったのですが、国王にとって最大の懸念事項は、至近のシリアに大軍を待機させているローマであり、東方で軍事作戦を展開する気はなかったのです。また、はるか東方の大国中国は、貴霜国と戦端を開いても、大軍派兵は大変困難と理解していたので、共同軍事作戦は割に合わないと見たようです。
 最後に、安息国は、東西交易の要であり、近隣諸国と戦火を交えて、交易を阻害することを恐れたとも見えます。何しろ、東西交易は、大量の黄金の卵を齎す「にわとり」であり、これを傷つけることは、国益に反したのです。

 以上、安息国の視点から、誠に割に合わない提言であり、国王の指示に従い、友好関係を損なわない程度に謝絶したものと見えるのです。
 甘英は、帰任して、大事がならなかったと報告したのですが、これは、西域都督の独断だったので、一切公文書に残らず、また、貴霜国に機密が漏洩すると、不穏な事態になるので、固く隠蔽したものと思われます。

◯笵曄による甘英弾劾
 世上、甘英が、西方の大国「ローマ」に到達する使命を帯びていたとする俗説が執拗に唱えられていますが、何重もの誤解に基づいていて、誠に嘆かわしい事態です。
 まず第一に、後漢、魏・晋を通じ、中国の西方知識は、到達点としては安息国止まりであり、しかも、安息が、西方の敵国ローマについて、甘英に知らせることは考えられないので、精々、カスビ海の対岸であるアルメニア、條支止まりであったものと思われます。それどころか、「西方の王都クテシフォンにすら赴いていない」のとともに、王都付近メソポタミア、および、そこに到る整備された街道の有り様も、明確に伝えていない節があります。
 まして、ローマ帝国が、精兵四万を常備していたシリア準州についても、一切伝えていないものと思われます。
 要するに、「大秦」と書かれている正体不明の国家の風俗は、安息国の周辺諸侯、精々、カスピ海西岸「海西」の條支と隣国のものと見えるのです。

*西域都督の重大な使命
 後漢西域都督は、あくまで臨時の官であって、現地に「幕府」を開いて、地域の軍事、税務の権限を与えられていましたが、万事、皇帝の勅許を仰ぐ必要があり、独断専行は許されていないのです。西域都督に与えられている任務、権限は、あくまで、漢武帝代に確立した「友好国」である「安息国」までであり、安息以西の未知の領域に勝手に進出することは許されていないのです。つまり、もし、甘英が、安息を越えて西方に進出するためには、皇帝の勅許が必要なのです。
 後漢書には、そのような勅命が出されたという記録はありません。
 もし、甘英が勅命によって西方進出を使命としていたら、これを達成できないまま帰還するのは、重大な違命であり、誅殺に値します。当然、西域都督も、同罪です。もちろん、笵曄「後漢書」にも、袁宏「後漢紀」にも、魚豢「魏略」西戎伝にも、そのような誅殺の記録はありません。
 以上のように論理的に確認すると、甘英は、安息国まで使節/ 行人として派遣されただけであり、安息以西に進出する使命は帯びていなかったのです。

*不可能な使命
 当ブログ筆者は、甘英の使命に対して私案を持っていて、要するに、西域都督班超が、独断で大月氏討伐の締盟の構想を抱いていたものと見るのです。これは、かつて、漢武帝が企てた大月氏との締盟構想と同趣旨であり、掠奪国家であって後漢の西域支配に頑強に抵抗していた大月氏を、漢~安息の挟撃で撲滅しようというものであり、安息長老の了解が得られれば、皇帝に上申して、安息王~後漢皇帝の盟約とするというものであったように推定しています。そのような軍事活動は、西域都督の使命の範疇であり、上申して勅許を得ることは、十分可能と見ていたものとおもわれます。

 ただし、実際は、班固の大月氏挟撃構想は、安息国の同意を得ることができず、甘英は、安息国との友好関係を確認するにとどまったものと見えます。甘英の派遣について、特段の使命が記されていないことから、単に、友好関係の確認、強化にとどまったものであり、特に、違命がなかったため、班超も甘英も、叱責等を被っていないものと見えます。

*笵曄乱筆
 そのように、使命が秘匿されたため、笵曄の疑惑を掻き立て、甘英は、無謀な冒険を試みて不達成に終わったと粉飾されたものと見えます。
 笵曄は、後漢末、班超時代の後に西域都督が撤収した結果だけを見ていたため、後漢の威勢を維持できなかったというあらぬ譴責を加えたものと見えますが、それは、笵曄が、西域都督の武官としての沽券を見損ねていたものと見えます。
 あるいは、西域都督班超の実兄であり、漢書を編纂した史官班固に対する引け目を、班超/甘英に押しつけたものとも見えます。要するに、漢書「西域伝」は、遠隔地を実見しない捏造だと貶めたかったものかも知れません。
 ここでも、笵曄の勝手な創作が見られるのです。
 
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが、暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが、あっけなく敗退しています。
 初代皇帝として、ローマ帝国を創業したアウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、敗戦抑留以来30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略」西戎伝は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏「後漢紀」は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されていて、原文を含めて確認することができます。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 再掲 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23 2023/09/06

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。
 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、笵曄「後漢書」の范曄原本は、誰も知らないのです。また、現行刊本は、司馬彪「続漢書」の志部/資料編をとじ合わせているので、笵曄後漢書と形式が異なるものとなっています。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。
 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺した「おとぎ話」は見えません。范曄が、魚豢に続いて袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」


                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 1/3

       2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26 2023/09/06
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、『「交易ルート」がコーカサスの高嶺を越えた』と見ているのは、大胆な着眼としても、今回の番組で立証されたと見るのは、どうかと思います。また、南北に伸びたカスピ海の北岸は、冬季寒冷であり、通年して、交易路にならなかったのは明らかです。
 アルメニアの交易路は、カスピ海東岸中央部であり、カスピ海北岸など経由していなかったのです。
 因みに、ササン朝ペルシャはいざ知らず、古来、イラン高原の交易は、それぞれの地域勢力が仲介して多額の利益を上げる商業形態であり、通過する商人に課税したものではないのです。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代/後漢代-バルティア時代の視点にとらわれて誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマ帝国の属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。

 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、見当違いの批判を書いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、帆走数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、行程記事は、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して懇切丁寧に絵解きしたはずです。

◯西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、アルメニアは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、アケメネス朝ペルシャ時代、ないしは、それ以前と見える建国の当初、條支に師事していたとの風聞が残されています。つまり、條支としては、東方物産の仕入れ先として利用したと見えるのです。
 その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力と地中海東部の覇権を争い、再三、陸海の大軍をもってギリシャ侵攻したため、ギリシャを糾合したマケドニアのアレキサンドロス三世軍の報復を受け、決戦に大敗して一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。
                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 2023/09/06

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、條支が漏らしたと見える「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した後漢西域都督使節甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、当該ルートでは東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、極めて有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも残念です。

◯白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏晋南朝代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)師が、これら全ての西域伝を読み尽くして、一連の労作を構築されているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

◯魏略「西戎伝」の金字塔
 特に、魚豢「魏略」西戎伝は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 以上の事情は、遼東郡太守公孫氏の自立による東夷関係史料の欠落にも共通していて、笵曄は、後漢末献帝期の東夷史料欠落/空白を、氏一流の創作で満たしていて、特に、「倭」に関する小伝は、俄然創作に耽っていると見えます。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 再掲 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26 2023/09/06
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地中国に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠も、ものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。
 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力(ササン朝)に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、『古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」』は踏襲しなかったのです。結局、アレキサンドロス三世は、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

◯まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

 以上の批判が今後のNHKの番組制作に反映するかどうかは、当ブログ筆者、当方の知るところではないのですが、いわば「サカナ」にして当方の愚見を披瀝したものです。もちろん、読者諸兄姉の熟知していることでしたら、読み飛ばして頂ければ結構です。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ(Merv)要塞が、漢代、パルティア王国が、東の守りであり、二万の守備兵に、一時、一万のローマ兵捕虜が加わっていたという大変興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 何しろ、中国涼州付近の大勢力であった大月氏騎馬兵団が、新興の匈奴に駆逐されて西への逃亡の挙げ句、貴霜国を乗っ取り、さらに、西方の安息国に侵入して、国王親征軍を大破して莫大な財宝を奪った爪痕が広く遺されていて、安息国は、西方諸侯の後援を得て再興されたものの、以後、二万の大軍を常備して、東の盗賊国家貴霜国の奇襲に備えていたのです。

 ローマ兵捕虜の由来は、不敗を誇っていた共和制ローマ軍が、三頭政治の一角であったクラッススを総帥とし、もう一人の三頭であるカエサルが援助した総勢四万人の必勝態勢で臨みながら、敵地での会戦で大敗して総帥を喪い、大軍の半ばを捕虜とされ、講和したもののローマ兵一万を戦時捕虜として貢献せざるを得なかったことは、ローマ史における屈辱の大事件であり、欧州史書に明記されているのですが、それについて何も触れていないのは、何とも、もったいないことだと思うのです。

 何しろ、東方千数百㌔㍍の彼方に一万の捕虜を護送するのは、安息国が、交渉可能な文明大国であったことを物語っていて、ローマ兵も、いずれ、ローマ本国の雪辱戦によって送還されるものと信じて、服従したものとしたものと思われます。ところが、その後、共和制ローマは、三頭政治の崩壊で、ポンペイウスとカエサルの対決、内戦状態となり、勝者カエサルは、パルティア遠征軍を組織している段階で、暗殺の刃に倒れ、と言った具合で、ローマとパルティアの交渉/交戦が成立しなかったため、ローマ兵は、帰還できないまま、マーブの地で一生を終えたと言うことです。
 なお、パルティア侵攻に踏み切れなかったローマは、地中海岸のシリアを属州化し、シリア総督の下に四万の兵を常駐し、パルティアを仮想敵としていたとのことですから、パルティアにとって、帝制に移行したローマは、巨大な仮想敵という事だったのでしょう。

 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢武帝使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、大変不満が募るのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」(陳寿「三国志」魏志 裴松之補追)、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」

                                以上

2023年9月 2日 (土)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  1/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。「無理なく」「自然に行きつく」とは、過去の失敗例里上塗りに過ぎないと受け止められてしまうので。勿体ないことです。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、要するに、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい「さる方」のご託宣の丸写しなのでしょうが、「さる方も」、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。一覧表を掲示していただいたら、随分勉強になるのですが、このままでは、単なるホラ話であり、単に、一覧表の末尾に連なるものにすぎません。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。自虐、自爆は、珍しくもないので、いい加減にしてもらいたいものです。 

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  2/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、根拠不明の「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」(ぶ)を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではないのです。農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐためにも「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量衡に属さない「歩」は、単位として別世界に属するものであり、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世紀当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  3/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義(途轍もない時代錯誤です)につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、当時の「時」は、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの「日」(ひ)のある時間帯は、季節次第で変動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。
 古代中原であれば、「町」/「国」は、隔壁で囲まれていて、日暮れが近くなるまえに定刻で、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、古代中原では、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代日本人の感覚で言うと「途方もない大河」を、士人、つまり、お供をつれたご主人様が、「泳いで(?)」渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、橋の架かっていない街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、士人は荷物を担がず、また、裾の長い衣裳が正装だったので、脚もとを絡げて、脛を濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、一日の行程で、十分余裕が撮れる程度の間隔で、必ず宿舎はあったのです。朝は、早立ちでも、午後には、次の宿場に着く設定だったのです。何しろ、官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。
 そのような計画した旅で「野宿」とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに「国」、いや、その時代に応じた区画である「縣」や「郷」があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、「倭人伝」で「国」が、「国邑」として散在していて、「国」と「国」の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があったのであり、野宿自炊前提の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の倭人世界の「公道」は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手に対して、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。今でも、着衣水泳は、危険なのです。
 いや、当時の士人は、衣裳を纏っていて、言わば、袴を履いていることが必須だったので、衆目のあるところで、裾をからげるのすら、面目を失するのです。
 因みに、衣裳の下の「裳」を脱ぐのは、中原では「裸」とされていて、もっての外の重罪でした。つまり、倭人伝に言う「夏后少康の子が会稽に封じられた」という故事で、「水人」と称して水中に入るのは「裸」国に入るという事であり、被髪文身以前に、華夏文化から排斥される行動だったのです。
 陳寿が、倭人の風俗を紹介する前に、夏后の子の故事を詳解したのは、倭の水人の裸体は、野蛮として排斥できないというものです。

 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河、特に、河水は、両岸が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 「倭人伝」の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、「倭人伝」に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。誰かが、「けものみち」と訳語を付けていますが、正しい解釈ではないと見えます。

 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。
 二千年後世の東夷の蛮人ですから、簡単に理解できないのは当然であり、理解できないのを自慢するように、物知らず、不勉強な見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  4/14 再掲

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*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、「倭人伝」には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路を敷くことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、「倭人伝」には、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る「水行」は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。以下のように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。

 何より、現在、当時の玄界灘の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わる/ほぼ確実に死ぬので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して勘違いが多発しているにしても、一応丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*「倭人伝」観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、ご自身が「倭人伝」の記事を、適確に解釈できないのは書き方が間違っているからと高等な予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 二千年後世の東夷の物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝」は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、「倭人伝」の言語や世界観を読解できてないようです。
 『古代中国語の言葉と文法を解しないものは、「倭人伝」論議の場から去れ』とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  5/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*一律増倍論
 ここで、氏は、「倭人伝」の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、「自分流に読替えれば自分に明快」との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる短里説の六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。
 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。「正史」は、公文書の集成であり、典拠を求められれば、原資料を示さなければならないのです。二千年後世の東夷を騙すことはできても、同時代の読書人を騙すのは、ほとんど不可能なのです。

 それにしても、天下の史官陳寿が、「三国志」の中でも、魏志巻末の端っこにぶら下がっていて、大抵の読者は読み飛ばすに決まっている「倭人伝」を、手間暇かけて改竄し、命がけで本来の「倭人伝」と差し替えるなど、子供の夢物語にもない法螺話です。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の「世間話」を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に後漢国政を支配したものの、終生後漢の宰相、精々「魏公」、「魏王」であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、孫権こそが、劉備の仇敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王(ママ)は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島(ママ)での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*「明帝の景初三年」はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の誤記に決まっていると、「倭人伝」誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、「倭人伝」に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、『「倭人伝」には、誤記がざらにある』という年代物で、ヒビの入った骨董品、ホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、「纏向説」論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫権が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、東呉の方は、後継者に難があると見て孫権が去るのを期待していたようです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては「専売特許」になどならないのです。

                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  7/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた「江表伝」は、「倭人伝」、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  8/14 再掲

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*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、「破賊文書」なる武功誇張とは、なんの関連もない蛮夷来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤/状況錯誤もいい加減にしてほしいものです。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 できの悪い冗談/ギャグは、観客を白けさせるだけです。

 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記
:2022/01/17
 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、「倭人伝」題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの歴博教授の主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。
 それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」  9/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、「倭人伝」里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できていないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鳥は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 10/14 再掲

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私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。「『一支國』すなわち壱岐 」とは、何かの錯乱でしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は論外/むろん/もちろんの一択です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。「通説」と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記か?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩(ぶ)六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、二千年後世東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、「倭人伝」里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

                                未完

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*「大らか」(?)な日程主義
従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 まず大事なのは、「倭人」伝で言う「倭人」は、今日言う「日本人」と同様に当の国の民衆を言うのではなく、「倭」と称している集団の公式名だということです。この書き方では、そのような語彙なのかどうか不明確です。

 なお、納税や派兵のような期限付き命令の期限設定には、所要日数が明文で規定されていなければならないのです。日常の定期報告のような文書通信の期限設定も、所要日数の「客観的な規定」があればこそです。「一尺25㌢㍍の「絶対的」尺度で、数千里にもなる道里を距離計測する」というような、途方もない夢物語は、とても客観的、正確な測定はできないに等しいのです。

 たとえば、日数規定抵触は即「厳罰」であり、おおらかではないのです。(クビというのは、首を切り落とすことを言うのです)
 法と秩序の世界で、これほど、客観的な規定はないでしょう。よくよく、お考えいただきたいものです。

*歩測論再び
当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。

 当時、里数は歩測したが目的地への移動中は歩測しなかったとの個人的断定に、読者は納得しないでしょう。魏使には、副使と書記役がいて、初見の地で歩測は優先任務ですから、取りこぼし指摘は重大な非難です。大体、中国では、士と呼ばれる高官は手仕事を一切しないのですから、使節が補足することはぜったい無いのです。

 「変に里程に換算する」とか「誠実なやり方」というものの、何が「変」で、何が「誠実」かは個人差があり、無責任な放言です。「誠実」とは、方便として嘘を混じえてでも話を丸めるのか、馬鹿正直に筋を通すのか、ということです。

 要は、氏は、三世紀当時普遍的だった「普通」の観点を理解せず、ご自身の観点、世界観を、二千年前の著作「倭人伝」に押しつけて、意味が通じるようにしようと改竄しているものであり、それは、いくら声を大にして押しつけても、学問的に受け入れられないのです。

*重箱の果て
 氏の好著の重箱つつきは、以下に続きますが、一旦総括します。

 少し言い方を変えてみると、氏は、「後世知識」人の高邁な立場から、古代人の稚拙な行動や言動を指弾して論じても、実は、古代人の言葉、即ち文化を理解しないまま、自身の持ち合わせた言語で誤解したまま「無教養人」として判断しているのであり、これは、現代の古代史論者の通り相場、普通、自然の世界観とは言え、本書の意欲的な論議のあり方として大変不出来です。ぜひ、この難詰を直視していただければ、幸いです。

 ついでながら、この場所が空いたので書き記すと、壹与の、「弱冠」の意図らしい「若干十三歳」の誤認は、誤変換・誤記だけでないのです。男子加冠儀礼は「年十三」ですが、幼女には全く無縁です。また一つの不見識です。

*お説教
 長丁場の息継ぎで書くと、当ブログ筆者が、個人的な意見としているのは、一古代人が、別の、大切な古代人のために、最善の努力を注いで書き上げた畢生の著作は、当該古代人と同じ地平に立って、最善の努力で読解しようとすべきだという考えです。耳にたこと言われるので、用語を変えていますが、言っている主旨は、一貫しています。

                               未完

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*またまた時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。

 古代に「直線距離」は時代錯誤です。「倭人伝」は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
 また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
 とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。

 そして、肝心なのは、「晋書」地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。
 一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪、帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。

 こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。

*最初の一歩
 漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上/紙面上の直線距離に意義はないのです。
 また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
 「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
 そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
 
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。

 本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で「倭人伝」記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
 当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。

*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です

 まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
 氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、「鴻廬館」などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、

 ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。

 ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
 このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、「倭人伝」解釈の特異な点です。

 現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。

 記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。

 但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、「おおボケ」です。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。
 これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 13/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*魏使のおもてなし 承前
 続けて、離船上陸時に、「貴人」を歩かせたと決め込んでいますが、乗り物、車にも輿にも駕籠にも橇にも乗せず、膝栗毛させたと断定する根拠が不明です。中国で、貴人は自分の脚を地面に下ろさないのが当然としたら、倭地でも同様だったから何も書いていないと見るべきでしょう。

 中国には、太古殷代から戦車があり、周代には公道を走る四頭立て馬車があったのに、倭人に車がなかったと決めつけるのは理解できません。「牛馬なし」と言っても、一切飼育されていなかったと断言すべきものではなく、大人が馬車を活用しなかったとは早計のようです。
 例えば、魏使到着に合わせて、半島から馬車を送り込むことも可能だった筈です。超超重要人物なら、その程度の「最大限のおもてなし」も「おかしくない」はずです。いや、別に大受けして笑えと言っているのではないのですが。

これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。
 重大発言ですが、賓客を歩かせても「屈辱」などではなく、馬代わりに踏みつけられた時にでも「屈辱」を感じたら良いのです。
 古代士人にとって、恥辱は命を顧みずに晴らすべきものでしたから、その時は、殿中で勅使に切りつけるのか、接待指南役に切りつけるのか、いずれにしても、逆上して仕損じず「必殺」してほしいものです。
 もっとも、魏の側では、現地で死ぬことまで想定して、帯方郡官人を魏使として送り込んでいるのです。漢代以来、西域に送り込まれた、各百人規模の使節団ですが、派遣先で、いきなり使節の首を斬った国もあるのです。それも、一度に限らずです。その地では、敵対の可能性のある使節は、まず、使節を斬首するものだったようです。そのような惨事を起こさないために、軍を通じて身元調査し、伊都国に精鋭の先遣隊を送って魏使の安全を確保したでしょうが、それにしても、数万戸の戸数がある、つまり、数万人の動員力の有る蕃夷ですから、百人を送り込んでも、安全の保証にならないのです。

対馬國や一大國でも同様なことは行われていました。(中略)そんないつ沈んでもおかしくないものに生活を依存するのは間違いなく危険でした。
 船がいつ沈んでもおかしくないと杞憂に耽ると、海峡渡海も南北市糴も成り立たず、半島沿岸長途航行は論の外の極みです。何かの「間違い」でしょう。
 因みに、運搬や移動に船を利用できないとしたら、島人は皆餓死してしまうのです。無責任な放言です。多少、分別を働かせていただきたいものです。例えば、年間、多数の死傷者が出ている「自動車」ですが、「いつ死者が出るか知れない」としても、万人の生活はそのような移動手段に依存しているのです。ものごとは、白黒両断でなく、価値評価して採否を決めるべきです。


 それにしても、「半島沿岸長途航行」を絶対否定するのにここまで待っていたとすると、氏は、中々食わせ物ということになります。

*独り合点の記
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
ところが実際には一〇倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。

 仮定は仮定、結果は結果、どこに論理がつながるのか示すべきです。
 「実際」「事実」は、氏の意見であり、史書に一切示されていない
ので、何が自然で何が「不自然」か、読者には理解できません。
 善良な読者には、矛も盾も見えていません。多分、氏の脳内世界の備品なのでしょう。
 
別に述べたように、当時の算数能力では、十倍以外のかけ算は大変むつかしく、十以外の割り算はとてつもなくむつかしいのです。十だけは、単位の付け替えだけで計算が要らないので「自然」なのです。

もし(中略)サイコロを振って(中略)たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が一〇倍に誇張されていたというのはほぼ一〇〇パーセント確実なのです。

 結果論に負けは無いとしても、「倭人伝の行程道里が間違っている」という論証はされず、また、史官が信条を放棄し、同僚も併せて家族共々刑死する危険を冒して万事を増倍し、史書稿を改竄した動機は、示されていないのです。まして、史官が史書をサイコロ博打で決めていたとも思えないのです。それを言うなら、筮竹、おみくじの「神頼み」とでも言うのでしょうか。

 原則として、事は、論理で決するべきでは無いでしょうか。

*縁起担ぎ
 松本清張氏を初め、倭人伝に登場する数字が、奇数の大変多い偏ったものになっていることを重大視して、縁起担ぎで、奇数が多い、作った数字に書いたと断じている例がありますが、それは考えが浅いというものです。

 蛮夷の地の道里や戸数のように、憶測でしかない概数を扱う時は、ずらりと敷き詰めた数字を使うのでなく、切り良くするために、一,三,五,七,十、十二と言った具合に、階段のように飛び飛びにして、概数の目を、事態相応に粗くするのも、史料に憶測の介入を防ぐ、大切な行き方なのです。
 史書の僅かな記事から、このような現象を見出す眼力は尊敬にあたいしますが、僅かな資料から、飛び飛びの数字の背景まで見通せなかったとしても、それは仕方ないことです。

*陳寿擁護
 陳寿は史官であり理知の人ですから、公式史書に、何の方針もなしに実態と関係ない「虚構」を書いたとは思えません。
 書いたとすれば、緻密な「増倍」戦略によって十倍としたはず
で、確率論は意味ないのです。どんな方針があっても、勅命があっても、虚構のための虚構は書かないと信じますが、それはそれとして、無意味な虚構を書くと思えないのです。
 史官の使命感は、後世人の遊び半分の数字遊びには関係ないのです。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」、重責にある者の倫理観を後世の安穏な者が安易に語るべきではないのです。

 しかして、論理にも何にもなっていない、空虚な行が続いています。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…」 14/14 再掲

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然 2019/03/30 追記 2020/05/19,2021/03/27,2022/01/17,2023/09/02

*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。

 古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
 「
倭人伝」道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。

 まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。

 最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、「倭人伝」は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。

 以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。

 「万二千里」というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。

 憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。

 余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、「倭人伝」の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。

*道里行程論の深意
 案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
 後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。

*縄張り説~「できる」古代測量
 耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。

*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
れを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。

 景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
 と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなどできなかったのです。

 「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、 中国が、定例使節に数百枚の銅鏡を下賜するのは、それ自体あり得ない「妄想」です。
 まして、
古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのです。当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
 渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも、賢そうに言えるのです。

 偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、誇張ではないようだとしているのですが、関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が多すぎるという難題に直面しているのです。
 一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。

第二節 倭國の実像
*虚像と実像
 節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
 光学「実像」は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
 心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。

*倭国大乱の幻影 道の果て
 「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如「倭人伝」にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
 農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。
 氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。

 以下、氏は、「倭人伝」を遠く離れて、コミック界で一世風靡している過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。

*総評の念押し
 当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
 ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。

                                完

2023年8月30日 (水)

今日の躓き石  NHKの歴史的醜態 「歴史探偵」+「どうする」 リベンジ

                    2023/08/30
 今回の題材は、NHKGのバラエティー番組「歴史探偵」「家康VS.秀吉 どうする家康コラボスペシャル(後編)」である。

 タイトルで明らかなように、戦国時代末期の歴史ドラマの内幕を描くはずが、タイトルのいかがわしさは、とかく低視聴率でおちょくられている大河ドラマ」と「コラボ」する恐怖を乗り越えるための「受け狙い」で仕方ないとして、番組の始まりに、でかでかと「リベンジ」と書かれていて白けるのである。

 この時代で、「復讐」と言えば、暴君信長の指令で、妻子、それも、愛妻と嫡子を殺さざるを得なかった家康の「血の復讐」を思い出さざるを得ない。
 それが、今回は、前編で描かれた小牧-長久手の後の秀吉と家康の対抗で「リベンジ」とは、どっちが、どっちに復讐するのだろうか。そもそも、戦国時代の英雄が、カタカナ語の「リベンジ」を叫ぶとは、どういう法螺話なのだろうか。時代考証担当の権威者は、何も指導/ダメ出ししなかったのだろうか。
 色々不思議なのである。番組を見ていると、今回は秀吉の没後まで届いていて、「どうする」でなく「どうした」にしてしまっているのは、「ネタバレ」のようにも見える。主役が、素で登場しているのも、ぶち壊しのような気がするのである。

 随分知られている時代の随分知られている両雄の物語だから、どうしても、これまでにない斬新な「法螺話」としたいのだろうが、いきなり大すべりで「白ける」のである。誰も止めなかったのが、不審極まりない。

 NHKも、随分困って「どうする」と迷ったのだろうが、それにしても、極めつきの「罰当たり」で「どぎたない」言葉を叩きつけるとは、墜ちるところまで墜ちたものである。受信料を返せと言いたいところである。確かに、公衆の面前で嘔吐したら、途轍もなく人目を引くだろうが、二度と信用してもらえないのである。NHKには、「ことば」を守り抜くという、公共放送としての理念も信条もないのだろうか。

以上

 

 

2023年8月29日 (火)

新・私の本棚 生野 眞好 陳寿が記した邪馬台国 魏晋朝短里再論 1/2 再掲

 海鳥社 2001年 7月  2019/02/08, 03/21, 08/05 2020/05/06 2021/12/12 補追 2022/01/25 2023/08/29
 私の見立て ★★★☆☆ 有力 但し、「短里」説依存は不合理 

◯再掲の弁
 随分旧聞になりましたが、当ブログの守備範囲の名著なので、内容を更新しました。徐々に結論が動いていますが、当方(ブログ著者の一人称)の見識の進展を示す意味もあって、再掲としました。

*総評   論点を絞り、論拠を明確にしました。 2019/08/05
 当ブログで、批判記事が短いのは、概して同感できる部分が多いことの表れです。「倭人伝」里制考証に絞ると、生野氏は、古田武彦氏の第一書における提言「三国志短里説」に賛同して、「三国志」全体(蜀書を除く)が短里制と判断したものの、安本美典氏の指摘で、「三国志」文献精査により検証を図り、最終的に、古田氏が更新した「魏晋朝短里説」を支持しています。
 と言うものの、以下に批判するように、氏の検証結論は疑わしい(ほぼ否定的という意味です)のです。

*魏晋朝短里説への批判 (決定的否定論の趣旨です)
 「倭人伝」の道里行程記事の考証で、理性的な研究者が必ず直面する課題は、「従郡至倭」と明示された区間の道里が万二千里と明記されていますが、中国古代の里制で言う普通「里」は、切りの良い数字で450㍍として六倍程度と推定されることから、一見して不合理に見えるにもかかわらず、編纂内容に責任のある陳寿が、検証と推敲の上で、あえてそのように書いたことに対して、合理的な説明を求められることにあります。つまり、当時最高とされた専門家が、素人目にも非合理な数字を書いた以上、当時の知識人に不備が丸見えと思われるのに対して、特段説明がされずに放置されているのは、まことに不合理だという事です。と言うことで、世上の俗説の大半は、いきなり排除されるのです。

 これに対して、「倭人伝」の「短里説」は、一見、筋の通った解答のように見えますが、公的資料に、一切、里制の変更が明記されていないため、否定的な見解に直面しました。古田氏は、「魏晋朝短里説」により、一種、臨時の政策として短里制が施行されたとの解釈により、施行期間を限定し、根拠となる記事を、「三国志」全般に求めました。期間は、「魏文帝曹丕(後に明帝曹叡と修正)に導入し、東晋再興時に廃止された」と判断しました。(第一書『「邪馬台国」はなかった 』(1971)で「三国志」短里説を提唱、以後、「魏晋朝短里説」と修正 )
 しかし、魏志、晋書、両正史に里制改訂の記録は存在しないので、晋書「地理志」の記事と併せて、魏朝は短里制を採用しなかったと断定できます。

*短里談義 再確認
 氏は、六尺一歩(ぶ)を里の根拠とする秦制に対して、魏朝短里の根拠を一尺一歩とすることにより、里が秦制の六分の一長となるとの論法のようです。秦始皇帝が、周の「尺里制」を「歩里制」に「きっちり六倍」したとすれば、「尺度」が動揺せず筋が通るのですが、「歩」が六分の一となると、各地の農地管理への影響が大きく、国政の根幹を揺るがす「大事件」です。例えば、田地の広さ「畝」は、「歩」と連動して変わりますから。税制が崩壊します。
 つまり、農地の検地に新「畝」が強制されると、土地台帳訂正、更新、地券改訂で全土が混乱します。秦始皇帝すら天下に秦制土地制度を徹底しても、自国の土地制度を書き換えることは厳重に避けたように見えるのです。

 何しろ、百害あって一利なし、絶対悪ですから、考えもしなかったでしょう。

*秦里制創出の不合理
 そもそも、秦が中原文化圏に参加した東周春秋時代、里制を包含する膨大な度量衡大系を確立し諸国に徹底できたのは、全国を文化で統御していたとされている西周時代の周だけであり、新参で未開の秦が、周制を勝手に改変して、不法で征伐の対象となる独自の国内制度を制定したとは思えないのです。つまり、秦の国内制度は、まずは周制そのものを踏襲していたのです。(文字を知らず計数ができなかった秦が、文明的な国法を施行したのは、中原の先進国魏から渡来した商鞅の功績とされています)
 その周制が、いわゆる「短里」であったとする確たる「証拠」は、一切残されていません。むしろ、晋書「地理志」に引用された「司馬法」によれば、周制は秦制に継承されたのであり、そこには、いわゆる「短里」は見当たりません。

 後は、俗信に依れば、秦始皇帝が、全土統一の際に、周制を引き継いだ自国里制をそのまま敷衍せずに、膨大な努力と諸国の反発が必然である全国里制の体系を創設、強制したことになりますが、そうでなくても、全国各地に官吏を赴任させるために、確立していた秦律の確立に必要な膨大な分量の文書制定、公布に尽力していたのに、一言で言えば、国政に何の利益も生まず、皇帝威光の高揚にもならない些末事に、それほどの危険を冒して、壮大な精力を注いだだろうかと言うことです。少なくとも、そうであれば、秦皇帝の格別の業績として明記されたはずです。
 以上は、あくまで状況証拠ですが、安易に排除すべきではないと考えます。

 重ねて言うと、当時の算木算術では、既定里の六倍/六分の一換算は、ほぼ不可能でしたから、全国で里制切り替えの実務が達成できないのです。(計算不要の十倍/十分の一なら、話は別ですが)

 再確認すると、太古以来晋代に到る里制の原史料が集積された晋書「地理志」は、秦里制は周制の継承としているので、周制短里は、歴史を知らない後世東夷人の誤解と見るべきです。
*無駄な史料審議
 氏は、40ページ以上にわたり「三国志」里制関連記事を審議しますが、陳寿自身が編纂した「魏志」はともかく、広範に呉史官韋昭編纂の「呉書」を採用した「呉志」、さらには陳寿不関与の裴注所引「呉録」、「呉書」記事を議論しても無意味です。『魏制不追従の「蜀志」記事』と『「魏志」の後漢朝期記事』の議論も無意味です。後漢献帝「建安」年間は、宰相から魏王に上り詰めた「曹操」の政権といえど、当然後漢制です。
 このような、適切な論拠に欠ける作業仮説の検証が、証拠としての適格性が疑わしい記事文例の解釈論として蒸し返されては、永遠に論争は終結しません。論拠なき「魏晋朝短里」説の論拠確立は、このように不法と見える仮説の提唱者に、全面的に立証責任があります。
*地域短里説談義
 と言うことで、倭人伝道里は、魏晋朝の全国制度ではなく、せいぜい郡特有の地域短里と見えます。
 しかし、法治国家である魏朝が、郡において不法な里制が施行されているのを見過ごしたとは、どうしても説明が付かないのです。
 漢武帝の創設で「漢」の地方郡となって久しく、楽浪郡に中原の影響/後漢官制が届いていたと見える後漢末期、国政混乱に乗じて公孫氏が台頭、割拠したとはいえ、秦が統一した天下に普及させた「普通里」(450㍍程度)が、長年施行され、土地制度、税制の根幹となっていたと思われます。特に、土地制度/税制は、国政の根幹であり、変えようがないと言うべきです。

 陳寿が倭人伝の道里行程記事に筆を及ぼした時、公孫氏時代以来継承されているため、史官の本分に照らして、公文書記事は不可侵であるため、里数に手を加えないことにしたように思います。

 結局、秦代以来の「普通里」と整合しない道里が書かれた公文書を、合理的に説明するのに専心したのが、「倭人伝」道里行程記事となったと見えます。もっとも、周代以来、道里は、普通里(当ブログでは、概算に適した、450㍍を起用)が適用されていたので、自明の普通里が生きていたのです。書き出しで、公式道里が適用されていたはずの、郡狗邪韓国道里を七千里と明記した意義は、そこにあるように見えます。

*「里」の二面性説について
 当然、晋書「地理志」などを熟読しての事でしょうが、三世紀当時、距離計測単位の「里」、「道里」と土地区画の「里」、「方……里」は、単位系が異なっていたかと提起しますが、結論先行で書き募って、文献証拠は、いずれ整うというのでは、論議にならないので残念なのです。
 他の著者であれば、憶測が混じることはさほどの難点ではないのですが、生野氏の著作姿勢からすると不満なのです。

 と言うことで、長々と論じましたが、「短里」は、氏の創唱でなければ、氏の独創でもないので、以上は、氏の個人攻撃ではないのです。

                                未完

新・私の本棚 生野 眞好 陳寿が記した邪馬台国 魏晋朝短里再論 2/2 再掲

 海鳥社 2001年 7月  2019/02/08, 03/21, 08/05 2020/05/06 2021/12/12 補追 2022/01/25 2023/08/29
 私の見立て ★★★☆☆ 有力 但し、「短里」説依存は不合理

*「安本提言」について
 生野氏の論説は、短里説の事実上の創唱者で、魏晋朝短里説を早々に棄却した安本氏の慧眼に「憶測」と映ったのでしょう。もちろん、安本氏は全知全能でなく、時に早合点もありますが、今回は、「史学論文は史料に基づくべきだ」と言う蘊蓄に富んだ教えです。従うべきです。

*伊都国と王都談義
 生野氏の著作に示された意見で、傾聴すべき点は多々ありますが、肝心なのは、倭の「王都」が、伊都国の直ぐ南にあったという明快な意見です。女王国は、各国間係争をさばく権威を有したはずであり、近距離にある必要があるのです。

*京都(けいと)の名残り
 おそらく、伊都国は、依然として王国機構、つまり有司を抱えていて、共立した女王の「居処」は、倭の一宮(いちのみや)的存在で、氏子総代の伊都国、奴国の支持を受けていて、中でも後背地の伊都国から、食料搬送と伝令往来の容易な位置だったはずです。公的に文字がないため、盟約も、法律も、文書連絡も無い世界では、指令も報告も、伝令を送るしかなく、一ヵ月彼方の遠隔地は、到底支配できないのです。

 因みに、伊都国の戸数が存外に少ないのは、農村部が少なくて耕作地が少なく、一方、徴税、徴兵の対象外である官員が多く、 税収や兵員動員が実人口に比して少数だったのであり、京都としてはむしろ当然でしょう。これも当然ですが、伊都国は戸籍が整備され、戸数に漏れや読み違いはないのです。

*「女王之所都」 の幻影
~2021/12/12 追記 2023/08/29 補追
まことに差し出がましいのですが、「倭人伝」で、倭王「卑弥呼」が「王都」を設えていたというのは誤解です。魏志は、中国正史ですから、「史記」、「漢書」以来の正史の用語に従わねばなりません。漢書「西域伝」は、西域の蕃夷の国々の銘々伝を立てていますが、いずれの国も「王都」の称号を有していません。(西の果ての超大文明国安息国[パルティア] は、唯一の例外です)
つまり、「王都」は、高貴な身分である「王」の住まうところであり、蛮夷の王は、形式的に尊称を与えられていても、中国の「王」ではないので、「王都」と称することはないのです。従って、陳寿が「女王之所都」と書くことはあり得ないのです。(「女王の居処に至る。すべて水行十日、陸行一月」と句読点補を打つべきなのです)
 因みに、「伊都国」は、固有名詞として許してしまったものであり、以後、歴史の霧の彼方に消えてしまっています。
 とかく、国内史料、史書、諸賢、諸兄姉は、まことに無造作に、軒並み「都」を使用しますが、綿密な史料考証で用語を是正しなければならないものと思うのです。
 
*成文法談義
 「倭人伝」には法を示唆する記事があり、後世の唐律令のように膨大克明でなくても、識字層が成文法で律したはずです。つまり、各国の中核には識字官僚がいたか、指導者として刺史を配し諸国の文書行政を支えたのです。

*狗邪韓談義~「エレガントな解答例」
 氏は、狗邪韓国は、弁辰狗邪国ではなく「狗邪韓」国であり、「倭人伝」文脈で、「倭」の半島における北辺であり、それ故、「従郡至倭」として倭北辺に至る七千里を書いたと提言し、それはそれで、何より求められる単純明快さを備え、かつ、安直な現代人史観を廃した「エレガントな解答例」と見ます。快刀乱麻など前々世紀の遺物です。

 但し、私見では、「歴韓国」に続き「狗邪韓国」と書く以上、やはり韓の一員と見えます。倭の一国なら韓国と誤解されない書き方があったはずです。結局、この国は、韓の一員だから狗邪韓国と名乗ったように見えます。

 また、氏の半島行程の南岸周航は、ほぼ「歴倭」~「倭岸水行」となり、なんとも不審です。何か勘違いしたのか、それとも、渋々導師の教えに従ったのでしょうか。今日、真剣に南岸周航を固持している方はいないものと思うのですが、とうに「消え」たはずの「レジェンド」(ゾンビー)が、白昼のし歩いているのでしょうか。

 と言うことで、氏のこの提言に賛成できないのです。ただし、例の如く、賛成できないと云うだけで、否定しているわけではないのはご理解頂きたいのです。

*「地理志なき三国志」談義
 三国志に地理志がないのは無理からぬ事と思います。魏は全土支配してなかったので支配外の呉、蜀の地理志が書けないのです。正史を編纂して、帝国の形式を保とうとした東呉はともかく、蜀には史官が十分に整っていなかったので、地理志のもとになる公式記録が存在しないのです。陳寿が、蜀志の編纂に協力しても、「地理志」、「郡国志」の高官である公文書がなくては、三国志「地理志」、「郡国志」をまとめようがなかったのです。
 因みに、時代経過で言うと、南朝劉宋の正史「宋書」は、「州郡志」なる地方郡志を整えましたが、梁代の編纂時には、三国時代の史料が乏しい上に、晋書未編纂で、晋代、特に西晋代の史料が散逸していたため不完全と述懐しています。
 郡制を論じると、郡分割、新設記事は、本紀に書き込まれていても、廃止や併合は、記事に書かれていないことが多くて、難航したとされています。宋書自体も、南朝が陳を最後に撲滅されたため、散佚が甚だしく、正史といえども、欠損が多いようです。

*地域短里制宣言談義などなど
 当方は、倭人伝道里行程記事の冒頭で、帯方郡管内の狗邪韓国までの(陸上)行程を七千餘里と明記したのは、海南東夷の領域まで敷衍すべき限定的な里を明確に宣言し、史官としての叡知を刻み込んだと見ます。少なくとも、今日に至るまで「日本」の一部の頑迷な牢固たる捏造説固持者を論外として除けば、倭人伝の「鉄壁」を否定しようとしたものすらいないのです。
 何しろ、「日本」は、中国の土地制度を導入せず、そのため、国家の根底を不朽不滅の「里」におく土地管理が、遂に維持されなかったので、「里」は、時代地域によって異なるなどと、いい加減な常識を持って、雑駁に中国の制度を論じているので、「倭人伝」の道里行程記事を適確に解釈することなどできないのです。

 因みに、後世、帯方郡滅亡後の三国時代以降の現地里制は不明ですが、太古以来、里制は土地制度に釘付けされているので、時代を越えて維持されたはずです。統一新羅の遣唐使が、ほぼ同一行程(宿舎が整備された一級官道)を二百回余り行き来したはずですが、当然、普通里で測量していたはずであり、いずれかの時点で、百済と新羅が全土に普通里による里制を敷いたたのでしょう。

 もちろん、統一新羅の遣唐使街道の出発点である新羅王都慶州(キョンジユ)は、帯方郡官道の終着点であった狗邪韓国から、山地を挟んだ北東方にあり、この地域で官道が利用していたと思われる洛東江街道から外れているので、当初は、遣唐使街道は並走して北上したでしょうが、結局、洛東江が中上流で随分蛇行したうえで大きく東転と見える地域で合流します。

 その後、半島の嶺東側から黄海側に出る古街道筋と思われる栄州(ヨンジュ)~忠州(チュンジュ)間の峠越えは、鞍部とは言え、結構険阻な峠のようです。峠を越えて、南漢江中流に降りた後の黄海側官道も、いずれの海港を目指すかによって南北に分岐するものの、ほぼ共通の行程と思われます。因みに、「峠」は(中国)漢字にない、蕃夷が勝手に作った字ですから、うっかり公文書に使うと鞭打ち百回ものです。

 また、現地地名は、現代のものですから、必ずしも、古代地名がこれと同じとは限りませんし、読み仮名も同様です。
 山河は、現代の治水土木工事(ダム)で変貌しているでしょうが、そこは、ある程度推定できるのです。また、Google Mapsの3Dマップ表示も、大いに参考になります。

 古代史学界でも、科学的思考を重んじる進歩派が唱える半島内全面陸行説は、古田武彦氏が「「邪馬台国」はなかった」でほぼ創唱したものであるため、同書を毛嫌いする保守定説派によって頭から忌み嫌われていますが、古田氏に、時に早合点の暴走があるとしても、その提言の内容自体には、初心に返って素直に耳を傾けるのが、凡そ学問の徒の普通の務めでしょう。

*倭国総戸数七万戸
 今回気づきましたが、安本氏が、七万戸が倭の総戸数との読みを早期に提言されたのを、当方が見落としていたのは軽率でした。陳謝します。

 言うまでもないのですが、「倭人伝」に、倭人の総戸数が明記されていないはずがないのです。「倭人伝」に、郡から倭人までの所要日数が明記されていないはずがない、と言うのと同一論拠です。

                               完

2023年8月28日 (月)

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 1/12 序論1 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 結論別儀  2021/08/14 2023/08/28

〇はじめに~謝辞にかえて
 本書は、小生(当ブログ筆者の一人称)が、かねてから古代史論で兄事する刮目天一氏が、第三者ブログを舞台に、小生専攻範囲「倭人伝」道里について、高柴氏と問答しているのを拝読して、どう差し出口するか迷ったあげくの題材です。
 第三者ブログ投稿に第四者が口を挟むのは、無作法ですが、放っておくにしのびないので、本書書評の形を取って、高柴氏の見解に口を挟むことにしたものです。
 ご両人はもとより、対話の場を提供された氏の厚誼に感謝するものです。
 以下の書評は、お耳触りでも率直な意見と聞き置いていただければ幸いです。

〇古代史論争に涼風一陣
 まずは、長年混迷が続く倭人伝談義の経緯を精査し、漂う暗雲というか、泥沼に似た混迷を歎いて明解な筋を通す建言に、全面的に賛成します。
 つまり、『倭人伝論議は、信頼すべき文書史料「倭人伝」を全考察の出発点としなければ、混沌に目鼻がつかない』との提起と思います。

 既に世紀を越えた仁義なき議論は、浄き高嶺を目指して難所に登攀路を創出すべく先を競っていますが、私見は、それと別に、最寄りの高みへの「散歩道」を進むというものです。ご不快でしょうが、耳に留めていただければ幸いです。

 砕けて言うと、例えば、倭人伝」冒頭の「倭人」紹介や郡から倭に至る「道里行程」記事は、締めとする「読者」に倭人なる新参の東夷を紹介する「倭人伝」のつかみの部分であり、多少の謎で好奇心を喚起するのは序の口で、以下は、読者の教養をもって読み解ける程度の「問題」であったから、題意を解し、解答(正解)を出すのは、本来の回答者、つまり、三世紀洛陽の読書人には、造作ないとこだったはずです。

〇論争混迷の実相
 後世人には、「倭人伝」を読解する教養に欠けるのを自覚することなく、尊大な態度を取って、かほどに善良な読者が、いくら考えても読み解けないのは「倭人伝」に多発する誤記、あるいは、曲筆のせいだ、との「神がかり」説が出回っています。

 そんな風評のため、「倭人伝」の道は、大半の「読者」にとっては、踏み込みをためらう「荒れ地」であり、家庭ごみや業務廃材に類するごみを投棄されて「荒れ地」にすら見えなくなっていると見えます。

 倭人伝は、同時代に関する最も有効な史料であり、廃材をどけて、じかに噛みしめる時と思うのです。本来、明快に読み解けたものに違いないと察していただければ、つまらない「神がかり」は、影を潜めるものと感じています。

〇失敗の効用~惹き句の失敗
 「発明王」トーマスエジソンによれば、失敗例は、探索範囲を一段絞らせるので、幾千の失敗例は、そう見えずとも、針路を照覧していると見えます。
 ちなみに、「惑わされない」は「倭人伝」の用語と齟齬します。卑弥呼は「衆を惑わし」多くを感動させ共立されたのが筋であり、「迷わされない」と字を変えた方が良かったようです。
 「倭人伝にあいまいな記述無し」は不用意で、概数表現のように『過不足無く「あいまい」である』と考えます。
 帯惹句の「一切の固定観念」は勇み足で、「固定観念」の取捨選択なしの読解は不可能です。現に、本書は「固定観念」満載です。「合理的」も要らざる断言です。過去論者は、全て自分なりに「合理的」な判断と自負していたわけで、「自分なり」同士の衝突は解決不能です。

 まあ、これらは、恐らく出版社の営業方針によるもので、氏につけを回すのは筋違いなのでしょうが、「随分損してますよ」と言うところです。
 氏の指摘が大勢の混濁を晴らすだけに瑕瑾を指摘したくなったものです。

〇景初遣使論争の意義
 因みに、契機となった両氏論議は、魏志東夷伝/倭人伝の「景初遣使」の経緯の解釈で、史料に立脚した論議を進めようとしているのには、敬服しますが、史料から御両所の「合理的」見解に移ると「固定観念」に足をとられて迷走していると感じたものです。
 「ダイハード」の諺のように「悪い癖ほど止められない」のです。諺は「ダイハーダー」、「ダイハーデスト」と最上級に進んでも、そこで終わる保証はない、底なしの泥沼かもしれないのです。

 それにしても、以下味見しているように、本書は、ご大層な能書きはどこへやら、「通説」やら「俗説」やらを棄てきれずに引き摺っているのは、もったいない話で、これでは、「ゴミ屋敷」必然です。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 2/12 序論2 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義 結論別儀  2021/08/14 2023/08/28

〇裏切られた抱負
 氏は、『安易な「通説」追従や無効な「固定観念」を棄却して、論理の筋を明解にする』抱負ながら、当然必要となる「原文回帰」が果たせていません。実際には、東西両派を問わず、数多くの「固定観念」が混沌に手を貸しています。この点は、まことに残念であり、この急転はまことに残念です。

〇借り物の固定観念
1.短里説の不都合
 行程道里記事の解釈は、「倭人伝」解釈の基礎の基礎であり、冒頭で解明しなければ、以下の論議の混沌に繋がります。この際、一から洗い直すべきです。

2.史料批判の欠如
 「倭人伝」に対する批判の根拠とされる諸史料ですが、適確な史料批判のないままに、論義の確信に起用され、しばしば「倭人伝」誤記論の根拠とされているのが、不審そのものです。自明に近いものを列記しておきます。
⑴「三国史記」史料批判の欠如
 当史料が編纂されたのは、新羅の統一時代、高麗による再統一を経た、いわば、原資料散佚後の再構成で、特に、統一以前の新羅に関する記事は、「正史」と対峙する資格のない「ジャンク]であり棄却すべきです。要は、統一新羅を高揚し、敵対「倭人」、「倭奴」は、客観的に書かれていないのです。
 統一新羅といえども、「倭人伝」時代は、まともに国史記事を残せなかった辰韓の一員「辰韓斯羅」に過ぎず、倭国使を受ける立場にありません。
 同記事は、年代比定が不合理で、採用した断片史料が、不都合な断片かと思わせます。と言うことで、本記事は、後世編者が、後知恵で半ば捏造したものとして、棄却すべきです。
 氏は、「通説」論者が道ばたのごみを盛り付けた「ごちそう」にかぶりついているもので、「拾い食い」は止めた方が良いですよと進言するだけです。
 氏には、慎重な史料批判を求めます。

⑵「翰苑」史料批判の欠如
 本件は、小生にとっては、解決済みです。氏は、正確な史料批判のできない福永氏の提言に依拠し、これは「固定観念」の最たるものでしょう。

 引き合いに出された福永氏は、「翰苑」の現物(影印版)を精査することなく、不正確な文字起こしに推定を重ねて「謝承後漢書」なる散佚史書を勝手に再構築し、現存「倭人伝」対等史料としたもので、率直に言うと、福永氏ほどの学識の方に不似合いな粗忽と言うしかありません。誰も、氏に対して事実誤認を指摘しなかったのは、「学界」として機能不全と見えます。いや、学説として公開していないから、批判されなかったのかも知れません。小生は、後日、中国哲學書電子化計劃サイトで、《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》として、校訂済みの整然たる刊行物が収録されているのを見て、なぜ、心ある研究者が参照しないのか不思議に思っている次第です。

 言うまでもないことですが、原文資料から書写、引用を重ねると、原資料から遠ざかるにつれて急速に失調が募り、史料が損壊してしまうのは常識中の常識で、そのような行程で起きる破壊的な誤写雪崩は、一度起きれば、取り返しのつかない惨状に陥ります。そのような惨状を満載した非史書「翰苑」は、原本でなく、不確かな引用を重ねた誤写満載「資料」なので、文献論議には、無用の廃材です。

 このような不当な史料を根拠に論議するのは、冒頭の崇高な抱負に反するものであり残念です。氏には、慎重な史料批判と証人審査を求めます。

〇所感まとめ
 主要部だけで力尽きた感じですが、氏は、新しい革袋の雑味のない「新酒」を、と訴えています。古いワインには古いワインなりの滋味があるのですが、氏は、「先賢」の独断と偏見を検証不十分なままに温存した古いワインを「新酒」と触れ込んでいるのは、民心を「迷わせて」いるのです。

*今さらの「長大」論議
 例えば、「長大」なる普通の言葉の解釈を、用例を踏まえた古田氏の慎重な提言に背いて、俗説の「老齢」の決め込みで、『無謀で無法な卑弥呼老婆説捏造に加担する』愚行は、金輪際是正できないのでしょうか。

 倭人伝をそのまま読めば、魏使が書いたのは、「女王は小娘時代に女王に担がれたが、ついこのあいだ、成人になった」と言う、まことに簡明で合理的な報告と思うのです。
 因みに、ここで示された「長大」は、「成人」となったという意味であり、「いい年をしている」という意味ではないのですが、違いがわかるでしょうか。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 3/12 目次評 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

〇本書目次紹介
 21の鍵がどんな順序で開示されるか見ることができます。
第一章 倭人伝の前に
 邪馬台国はいわゆる大和朝廷の前身ではない     ー 惑わされない鍵  1
 倭人伝の間違いは多くない             ー 惑わされない鍵  2
 倭人伝は短里で書いてある             ー 惑わされない鍵  3
 三国志では長里と短里が混在            ー 惑わされない鍵  4
 朝鮮半島の南部には倭人がいた           ー 惑わされない鍵  5
 朝鮮半島は全水行ではなく大部分が陸行       ー 惑わされない鍵  6
 弥生時代の年代観                 ー 惑わされない鍵  7
 魏使は何故遠路を越えてやって来たのか       ー 惑わされない鍵  8
第二章 倭人伝に従って進む
第三章 伊都国から邪馬台国へ
 志賀島の金印をどう読むのか            ー 惑わされない鍵  9
 「奴」の古代音                  ー 惑わされない鍵10
 「奴園」はどこにあったのか            ー 惑わされない鍵11
 不弥国へ                     ー 惑わされない鍵12
 魏使は投馬国に行ったのか             ー 惑わされない鍵13
第四章 邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった ー 惑わされない鍵14
 春日市の王墓                   ー 惑わされない鍵15
 伝世鏡理論は成立しない              ー 惑わされない鍵16
 三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない         ー 惑わされない鍵17
 三角縁神獣鏡はどうして作られたか         ー 惑わされない鍵18
 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない           ー 惑わされない鍵19
 魏の薄葬と大形前方後円墳とは結びつかない     ー 惑わされない鍵20
 纏向古墳群は邪馬臺国ではない           ー 惑わされない鍵21

〇目次評
 21の鍵が、無造作に羅列されているのは「無策」に過ぎます。明らかに、脇道、道草と見える余傍の「鍵」が多く、氏が、全体像を心象として適確に描けていないと思いやられます。余傍の路で力尽きては、目的地に着けません。
 本筋を見出すには、安本美典氏著作に見かける「絵解き」(ビクチャー)が必要でしょう。
 明解な道程を発見するためには、「鍵」を差すべき扉に妥当な順序があるはずであり、大事な問題が後々で浮上するのは不出来に過ぎます。
 因みに、小生は、倭人伝二千字全体を噛み砕くのは終生無理として、冒頭の行程道里記事の追求に専心しているものです。

*余談「焦土作戦」
 懸案の景初遣使」が帯方郡に着いたのは、景初二年六月と魏志に明記されていますが、これでは、「物理的に」間に合うのは九州倭人だけで、遙か大和からでは、全く間に合わず、郡から狗邪韓国まで船旅では、ますます間に合わないので、まともに論義すると必敗とみた反対論者は、必死で「誤字」、「誤記」、「陳寿曲筆」、「史料改竄」と力説するのです。
 誠に、高度な戦略で、論議の場に煙幕を張るのに成功しているように見えますが、この際で言うと、「二」を「三」の誤記だと必死でこだわるのは、「纏向」説の生死に関わる一大事とみているからです。巻き込まれてはなりません。

 これは、古来、論争敗勢時の常套戦術の「焦土作戦」であり、とにかく、敗勢にあると自覚して、窮鼠の如く、あることないこと山ほど言い立てていますが、こんな「些細なこと」に大騒動を巻き起こす相手とは、かかずり合いたくないものです。

 諸兄は、いらぬ巻き添えを食わないよう、ご注意下さい。本件は、学問の核心ではないのです。

                              この項完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 5/12 臺論1 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

第四章邪馬台国が見えた
 原文の「邪馬壹国」はもともとは「邪馬臺国」だった 惑わされない鍵14
 陳寿も范曄も裴松之も李賢も「謝承後漢書」を見ていた
 さて「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあります。……邪馬台国……は「三国志」……全版本で「邪馬壹国」と記載されています。……しかしながら、「後漢書」では「邪馬臺国」……、隋書では都を「邪靡堆」と表記し……中国史書の中では三国志だけが「邪馬壹国」……でした。

 この鍵は、重大な位置を占めていますが、氏の提言は、根拠薄弱、論理混迷で、説得力がなく、うつろに言葉を飾り立てるに過ぎません。いくら飾り立てても、肝心の論証が不調では、虚飾の誹りを免れません。
 まず、史料批判ですが、史料は、一山いくらの目方評価でなく、巻数/頁数の評価でなく、まして、目方で量るものでは有りません。文献として、一件ごとに信頼性評価すべきです。「倭人伝」は、史料の重鎮であり、ごみの山にはごみの価値しかありません。

 丁寧に見ると、隋書は「俀国」で「倭」ではありません。国名を信用して良いのでしょうか。「靡」「堆」は、何と読むのでしょうか。

 ……福永晋三氏は……元々は「邪馬臺国」と書かれていたことを見いだされ、九州古代史の会において「邪馬壹国こそなかった」と題して講演されました。その論旨を要約してご紹介します。 (講演会発表依拠で、原資料の確認ができないいい加減な引用で矢面に立たせては、福永氏に失礼です)
 ……「後漢書」は范曄……ですが、……謝承……「後漢書」があり……「謝承後漢書」は……残っていませんが、……范曄も参照したと見られ……ます。

 口頭発言の書き下ろしで筆が曲がっていますが、范曄「後漢書」原本は現存しません。「現存後漢書」は、范曄編纂史書そのものでありません。正史に不可欠な地理志などの資料部分「志」が欠け、李賢太子が、先行司馬彪「続漢書」の「志」を足して正史の体裁を整えたものですが、李賢太子等の補注共々、笵曄の知らないことです。真っ直ぐに書いてほしいものです。
 それにしても、福永氏は、どこから「元々」を見出されたのでしょうか。神がかりでもしたのでしょうか。不適当な引用です。

 笵曄は、南朝宋、劉宋高官で、裴松之同時代人ですが、陰謀に連座して嫡子と共に斬首され、笵家は断絶しています。どんな経緯で大罪人の遺著が継承されたか不明です。劉宋が南齊に代わった時、名誉回復されたでしょうが、既に袁宏「後漢紀」等があり、直ちに正史扱いされず写本継承経緯は不詳です。
 因みに、高官笵曄は激務の中、後漢書編纂に着手した動機として、先行書の風聞、俗説を是正し、品格ある史書を残したようです。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや。

 また、謝承「後漢書」は、散佚して現存していません。佚文があっても、当然、原本にその通りの記事があったと信じることはできません。因みに、笵曄「後漢書」に次ぐ後漢史書として袁宏「後漢紀」が現存していて、結構良好な形で現存していますから信じることができます。ともあれ、二千年にわたる長年を経て検証された「正史」三国志に対抗するには、同等乃至はそれを越える検証を経た史料でなければなりません。

 因みに、掲題の諸先哲は、当然、「謝承後漢書」の良好な写本を所持していたのであり、採否はいずれかとして「見た」などと侮るべきではありません。唐李賢太子は、笵曄「後漢書」を当時残存していた後漢史書の中で最善と判断したのですが、当然、各史書を熟読した上の判断と見るべきです。近来疎かとは言え、「史料批判」は、太古以来行われていたのです。
 これに対して、近年は、ごみ同然の佚文を、長年検証された正史と同等に見て正史を改竄する「奇矯」軽薄、大胆な議論が正史考証の基本を外しています。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 6/12 臺論2 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

 ……陳寿も范曄も斐松之も李賢も……「謝承後漢書」を見たと思います。

 裴松之が付注に参照した史料は明記されています。裴松之補注は、陳寿が割愛した諸史料を蒸し返した例が多く、後世の東夷が安易に論じるべきではありません。また、裴松之は、眼来信を置いていなかったと見える謝承「後漢書」から好んで補追したとは見えません。
 また、「陳寿が不勉強で謝承後漢書を知らなかった」と速断しては、軽率と言われるでしょう。福永氏は、随分尊大不謹慎と見えますが、高柴氏の引用錯誤も想定されるので、原文要確認です。

 なお、四先哲は同時代人でなく、「陳寿」と「裴松之及び笵曄」は、百年以上離れていて、同時に読むはずはありません。まして、李賢太子は唐代で別時代です。それぞれ、「見たからどうだ」というのかと、反発必至です。

 福永氏は「翰苑」高麗条に引用された雍公叡註三種の後漢書の内、最初のものは……「魏牧魏後漢書」で、次が……「苑嘩後漢書」、三番目の無名の「後漢書」が「謝承後漢書」である可能性を……見出され、「翰苑」の史料としての価値……を指摘しておられます。

 翰苑「高麗」(高句麗)記事は、「魏牧魏後漢書曰」と書き出しますが、単なる誤字を超えた深刻な問題をはらんでいます。
 本来は、「魏収」(人名)編纂「後魏書」(南北朝 北魏史書)が書名であり、ここでも、「翰苑」断簡は、誤記連発混乱多発です。つまり、想定される「翰苑」原本の「魏収後魏書曰」を粗忽な(素人か)写本工は、「魏牧」と誤記したのに続いて「魏」と書いて「後」を飛ばしたのに気づき、付記の後、書き癖で「後漢書」と書いたのでしょうか。高貴な書物の筆写で弁明不可能な不手際の弁明できない連発です。

 気の毒な写本工には「魏収」が人名との認識はなく、「後漢書」も「後魏書」も同じようなものだったのでしょうか。この写本工は、誤記に気づいても修正も目印付けもせず、出来上がった写本には、大事な「校正」がされていないのです。校正の無い写本がどうなるのか、見事な標本となっています。一度、このような写本が発生すると、ここから起こす写本は、回復不能なゴミと化すのです。
 「翰苑」断簡は、文書の格式が乱れていて、一行当たりの文字数は成り行き任せであり、本来格式の定まった原本を参照して写本していないためでしょう、諸所に齟齬を生じています。粗忽な走り書きの連鎖とも見えます。
 つまり、「翰苑」断簡は、書家が珍重する「国宝」文化財であっても、文書史料として全く信頼できない文字資料で、魏志現存刊本倭人伝に明記されている「壹」を否定して「臺」と書き替える効力を一切持たないのです。

 それ以外で、単に「後漢書」とあるのが、謝承、笵曄いずれの欠落なのか不明ですが、常識的には高名な范曄「後漢書」と見るものでしょう。「翰苑」は、文筆家のための文例集であることから、編者は、文筆家として高く評価された范曄の美文を優先したと思われますが、確認してないのでしょうか。

 いずれにしろ、このように不注意な誤記が放置され信頼できない史料の無批判な考察を根拠に、信頼すべき史料の誤記を主張するのは虚妄の極みです。
 そのような史料錯誤に気づかないのは福永氏の粗忽に過ぎません。「翰苑」転けて「福永氏」転けて、そして、と言う誤解の連鎖は、いつ停まるのでしょうか。小生が、ことさら指摘する意味は、おわかりいただけるでしょう。

*校訂済み「翰苑」
 因みに、翰苑断簡が初めて公開されたとき、《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》として整然たる校訂済み叢書が刊行されているので、可能な限りの是正が施された最善史料が「中国哲學書電子化計劃」サイトに公開されているので、心ある研究者は、皇帝不十分な史料でなく、校訂済史料を参照して論ずるべきでしょう。

もとの三国志では「邪馬臺国」となっていた
 以上を踏まえて問題の「邪馬壹国」の部分を見ればどのようなことが判明するのでしょうか。

 以上のような「地雷」を踏んでも平気だというのでしょうか。勿体ないことです。何しろ、簡単な事柄に対して筆が泳ぐのは困ったものです。
 この鍵は、既に無効と判断されていますが、事のついでに追いかけます。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 7/12 臺論3 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14

 謝承後漢書」では「邪馬壹国」……范曄も「邪馬臺国」と記した可能性が……あります。……斐松之が、「邪馬壹国」の部分だけは見過ごしたとは考え難いと思います。と見れば斐松之が見た「三国志」では「邪馬臺国」となっていた可能性が……浮上します。

 謝承「後漢書」に東夷列伝・倭伝を「見る」のは、根拠の無い幻想です。正史「三国志」「魏志」で、東夷の一国名は些事です。裴松之が特段の関心を持ったとは思えません。論議に値しない「可能性」は、さっさと廃棄すべきです。

 ……「三国志」……原本は残っておらず、「三国志」が……刊行された……北宋……南宋となった以降にも……刊行されています。後の時代に……「邪馬壹国」と書き換えられた可能性があるのでしょうか。その場合、……意図があって書き換えられた……ように思われます。

 「何らかの意図」は、不思議です。「印刷工房」所蔵の版木を改竄しても流通刊本は手つかずで早晩露見します。正史改竄は、本当に命がけで、露見すれば(英語で言えば、仮定の問題である「IF」でなく、その時どうするという「WHEN」です)、共犯一同斬首で首が飛び、連座妻子は、首が繋がっても、奴隷、宮刑、果ては娼家に売られ「ただでは済まない」のです。誰がそんなことをするのでしょうか。
 もちろん、刊本は、印刷本なので、同時に多数あり、手書きで全数を書き換えるなど、無理も良いところです。そして、いくら刊本を書き換えても、版木が健在であれば、次回刊行すれば、原文が復活するのです。何とも、筋の通らない話です。

 近年、強引な説法として、「陳寿原本が、本来(筆者の)「自説」通りだったのが、後世、原本改竄されて今の刊本になった」とのホラ話がありますが、皇帝蔵書をどのようにして改竄するのかという疑問を置いたとしても、「どの史書のどの文字も、盆本に手を入れれば思いのままに改竄可能」とは、底なしの泥沼論です。氏が、無根拠、無法の「思い付き」株病原体に感染していなければ幸いです。
 史書の一部の文字を差し替えるとしたら、字数をあわせて跡を残さない高度な技巧が必要であり、それこそ、実行不可能となるのは、目に見えています。一字単位の置き換えなら、版木の該当部分を差し替えるのでしょうか。

 これからは推測になりますが、一つの可能性として考えられるのが中央公論社「歴史と人物」昭和五十年九月号に掲載された薮田嘉一郎氏の「『邪馬台国』と『邪馬壹国』」と題する一文です。……三国志の校定者が「邪馬臺」や「臺與」の「臺」という文字を似たような字画(字形)である「壹」と書き改めた可能性があると……述べておられます。

 首を傾げて、ここまでは、丸ごと推測では無かったのかと言いたくなりますが、それは置くとして、僻諱で、似た字形の代字を選んだとは、安直な素人考えの与太話です。因みに、正史筆頭三史「後漢書」の「臺」は、なぜ見過ごされたのでしょうか。まことに不思議極まりないホラ話を信じる方も信じる方です。後世正史の「臺」も、残らず生き延びています。
 因みに、「三国志の校定者」などと苦し紛れの思いつきを述べていますが、「三国志」は、国宝級の貴重書であり、もし、校訂するとしたら、当代最高の人材が合議して校勘するものであり、それこそ一字ごとに記録を残すのであり、好き勝手にできるものではないのです。
 とは言え、ことの責任を薮田氏に押しつけて済む問題ではないでしょう。誰でも、何か「妄想の虫」に取り付かれる事はあったとしても、客観的に評価されれば、「却下」です。存在しない「可能性」など、無意味です。
 このように著書に書き込むには、証人審査した上で取り上げるべきです。

 ……南宋の時代に……帝の居所を意味する……「臺」の字を東夷の国名に使うことは許されないとする考え方があったとする……、薮田氏の推測は正鵠を射ているように思われます。……はじめに倭人伝の間違いは多くないとしましたが、「臺」の字だけは「壹」と書改められたと見た方が良いようです。

 「三国志」改竄論は「世も末」です。「三国志」南宋刊本は、多数の学者が議論して校勘したのであり、個人的な思いつきで版木改竄の大罪を犯すことはあり得ないのです。
 無知な方は妄想を逞しくできてうらやましい限りですが、後世東夷蛮人の推測するように、魏志の「臺」の「筆禍」で宋代の誰かが処刑されることはないのです。「筆禍」は、あくまで当代王朝、今上帝に対する大逆罪です。
 無学、無知な現代人(東夷蛮人)の無責任な(妻子や両親の「首」のかかっていない)発言は、無視すべきです。「正鵠」は、物知らずの物言いです。
 倭人伝」に誤字は希としながら、ここで一字の誤記/改竄に執拗にこだわるのは、断然不合理です。一度、顔を洗って、ご自分の書いた文字を見なおしていただきたいものです。

*史家の気骨
 再確認ですが、笵曄は、友人から皇帝退位陰謀を聞かされて、不同意でも密告せず、陰謀加担と見なされ、連座した嫡子共々斬首されました。密告して免罪に与る保身策に訴えなかったのは、士人の志を堅持したのです。
 笵曄は、史記「司馬遷」はもとより、漢書「班固」、三国志「陳寿」も、厚遇どころか迫害/処刑された先例は承知していたのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 8/12 臺論4 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

 以上のことから、……、原文で「邪馬臺国」である[あった]ことは疑い難い……ので、本書では以後「邪馬台国」は原文を参照する場合は「邪馬壹国」とし、それ以外の場合は「邪馬臺国」と……します。

 粗雑な論拠に依拠して、原典改竄を確信するのは合理的ではありません。ぜひ、困難を乗り越えて、疑うべきものは疑っていただきたいものです。簡単に騙されると評判が世間に立つと、次々に騙り屋が押しかけてくるのが世のならいです。歴代皇帝の宝物として継承された正史を、命がけで書き換えるということ自体、到底あり得ないので、そのような暴挙の動機、理由を詮索するのは、時間のむだです。
 そもそも、正史(三国志)の一隅のその又一隅に過ぎない東夷の国名を、れっきとした中国官人が、命がけで書き換える意味が不明です。自国を過大視する自大錯視でしょうか。
 因みに「台」(たい)は、「臺」(だい)とは別の字であり、便宜的に代用されただけです。もともと、「やまだい」だったのでしようか。ご自分の想像力の欠如、勇気の阻喪を、「疑い難い」などと壮語するというのは、どうかと思います。

何故「南」は「東」の間違いなのか
 さて、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」の部分も読み方の論が分かれる所です。……陳寿は三国志で里程については途中の里程を示しながら最後に合計としての総里程を示し、併せて所要総日程を示……しているのです。……つまり、倭人伝の行程記事は前半は里程で書いてあり、後半は日程で書いてあるとして、最後の「水行十日・陸行一月」を読み解くことが鍵だとされます。……全体の行程を里程と日程の両方を書いて確認するのであれば理解できますが(三国志はその書き方です)、前半と後半を里程と日程に分けて書いて、里程と日程という全く別のものを合わせることで目的地を示す事ができるとするのが通説……と思います。

 比喩が的外れで、足を引っ張っています。真っ直ぐ書けない理由がわかりません。そもそも、道里行程記事の解釈は、「倭人伝」論冒頭に論じ尽くすべきであり、このような場であたふたと論ずべきことではありません。

 ……「郡より女王国に至る、萬二千余里」と書いてあるのですから、これが帯方郡から女王国までの総里程であることは疑問の余地はありません。不弥国までで、既に総里程一万二千余里の内一万七百余里が消化されています。残りは千三百余里しかありません。……残った里程に「水行十日・陸行一月」も掛かる理由が説明されることも無いようです。……倭人伝……[を素直/普通に]読んだのでは……[必達目標である]「邪馬臺國」にたどり着かないので、前半は里程で後半は日程として全体を引き延ばし、それだけでも納まらないので南は東の間違いと修正する、ということだと思われます。
 直感[思い付き]……は検証して立証することが求められます。……[直感]が結論に直結するのでは学問の看板が泣くのではないでしょうか。
 必要な見識のあるものの「直感」には、価値がある可能性がありますが、無知な素人の「直感」は、「蓋然性」どころか、考えるだけ時間の無駄です。
 但し、そのような評価は、凡人の埒外です。およそ、諸兄姉所説は、「直感」に始まっても、検証、考察の果てに世に問うものです。誰も見ていない地の果てで、史学の「看板」は、既に涙が涸れるほど泣いているはずです。

 因みに、氏は、他人の提言を「直感」と排斥しますが、発表に先立ち、どれだけ知恵を絞ったか、とか、「直感」を契機にどれだけ汗をかいて思案したか、とか、ご自分の行程を振り返って、何か感慨はないのでしょうか。相手は、背中を振り返って何の看板も背負っていないと歎くでしょう。

 肝心なのは、「敵を作って攻撃して納得させられる」かどうかでしょう。論争は、論敵を説得するものなのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」 9/12 臺論5 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

 前にも述べましたように魏使は魏帝の命令により女王に贈物を届けにやって来て、その役目を果たし、女王の礼状を預かって帰ったのです。……女王の礼状が都に届いたことは倭人伝に「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」とあることから明らかです。陳寿……は簡潔……、キッチリと行程を述べています。……途中に経過する主な地点を示し、……所要日数[里数か]を書き、最後に合計日数を示すのが今まで見て来た陳寿のやり方です。……つまり、「女王の都する所」で一旦文は終わり、続けて所要総日数が「水行十日・陸行一月」であると述べているのです。

 折角の卓見が、伊都国以降「奴国、不弥国、投馬国」は、通過国か脇道国かの岐路が未解決のため、各論輻輳、喧々囂々と見えます。
 陳寿は、泥沼史書を上申稿としたのでしょうか。ここでは、総日数を確定し、その裏付けとなる行程諸国を列記したのではないでしょうか。通過国以外(余傍)は略記、狗邪韓国-倭は(周旋=往来)五千里との注記は無視するのでしょうか。

 初めに述べましたように東夷伝の序文で陳寿は、今まで良く知られていなかったが、東夷の国々はきちんと先祖の祭りを行っている礼儀正しい国で、中国で礼儀が失われた時には見習う事がある……国々であり、今まで……知られていなかったそれらの(礼儀正しい)国々を(初めて)順次紹介する……東夷伝を書き、その締めくくりとして倭人伝を記述しているのです。

 原文の文意を誤解していますが、そもそも「国々」(複数?)と解するのは勘違いです。ここで礼賛されているのは、ただ一つの「倭人」です。高句麗、韓は、反乱を起こして討伐されていて賞賛されるはずがありません。ここぞとばかり「自大」論をぶつべきです。

「不弥国」の南にあった「邪馬壹国」
 さて、倭人伝では「不弥国」に続いて「投馬国」の方向を示した後、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」とあることで、「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」……と述べました。……「邪馬壹国」の所在地探求は……分かり易いものだと思っております。それを難しくしているのは予定(想定)した場所にたどり着かないと考える人達によって、ねじ曲げた解釈が繰り返されて複雑な様相を示し、それをそのまま受けて、岨噌せずに流すメディアによって拡散されたからだと言わざるを得ないのです。

 メディアは、「鵜」の親戚で早のみこみの拡散が商売で、歯が無いので咀嚼できないのです。それを咎めても、メディアの反感を買うだけで、事態は是正されないのです。
 批判すべきは、未検証の「新説」を、報道陣全社に公平にプレスレリース資料を配布せず、独占的にばらまいて餌付けして、提灯持ちさせている小数の研究機関です。見当違いなところにつけを回さない方が無難です。

 「不弥国」に続く「南、投馬国に至ること水行二十日」の一文の解釈に論の余地があることは述べました。しかしながら、今まで見て来た通り、「至」には方向だけを示す場合と実際にそちらに行く場合とがあることがあり、実際に行く場合は始めに進みだす方向を示し……たと思っております。

 素人目には、原文の文意を適確に理解したとの「思い込み」が、本来明解な文意を撓めていると見えます。文意は、まずは、文書自体に聞くべきです。

 奴国、不弥国、投馬国記事は、伊都国起点の道案内だけで、「倭人伝」行程に関係無いとする「明解な」見方が一顧だにされてないのは残念です。行程道里は、郡文書使の周旋行程の所要日数と初見以前に提出された概念的道里が要点とご留意いただきたい。
 魏使の行程、場違いな時代錯誤の観光案内は、書かれてないのです。真面目に取り合うのも、時間の無駄なのですが、俗耳に受け入れやすい俗論は、往々にして「定説」に祭り上げられ、「レジェンド」と化するのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」10/12 臺論6 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

 この書き方から見れば「南、投馬国に至る」……は行ったのではなく、……方向を示し……、「南、投馬国に至ること水行二十日」……は「邪馬壹国」への道筋……に必ずしも必要ない……のです。……この一文を除いても「邪馬壹国」への道筋に……影響が無いことになります。従って、この部分を除いて……みれば「東行不弥国に至ること百里。南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日・陸行一月」となります。……「不弥国」に続いてその南に「邪馬壹国」がある事が明確ではないでしょうか。……距離が書いてないのは……五百里、百里、百里と来て最後はゼロだ、と……なると思います。そうして女王国の所在を示した後に、所要総日程は水行十日・陸行一月であると述べて……います。そして……郡治からの総里程が万二千余里……です。……実に簡潔で分かり易いのです。

 ここまで、東夷蛮人の理解で文章を組み立て直し、解釈の視点をひねくり回しておいて、恐れ入谷ですが、氏の解釈のどこが「簡潔」なのか不明です。最後に、「ユーレカ」ばりに、天啓を得て、文章解釈が完成したと言いますが、素人には、何も見えてきません。
 このような隅っこで、事のついでに延々と論じる話題ではないのです。

不足の里程はどこにあるのか
 ……「不弥国」までで合計一万七百余里でした。……「郡より女王国に至る、萬二千余里」とは差があるではないか、とする疑間が生じます。この疑問は古田氏の解読で解決することになりました。氏は魏志の行路を丹念に読む中で、陳寿が行路の途中にある「對馬国」を「方可四百除里」、「一大国」を「方可三百里」と記述している所に着目されました。陳寿は島を点としては見ずに面積を持った広がりがある所という捉え方をしており、従って理屈の上では島に上陸して島を半周して反対側に抜けたと考えたのではないかと推測されたのです。

 この部分は、古田氏の解釈に、ほぼ無批判で追随して批判が困難ですが、率直に言うと、古田氏の里数計算は、概数の理屈を放念して失当であり、高柴氏が、それを根拠に端数里数をこじつけて、まことに勿体ないところです。別記事で丁寧に批判したので、ここでは結論だけですが、意見は明記しておきます。それにしても、陳寿が、島の「国邑に広がりがあると捉えた」とは、奇想天外です。

 そうすると、「對馬国」を半周して八百里、「一大国」を半周して六百里、合計千四百里になります。……海も島も見たことが無いと思われる陳寿のことですからやむを得ないのではないでしょうか。先の合計に千四百里を加えると一万二千百余里になります。元々余里という概数を含んだ計算ですから最後の百は省略、或は切り捨てて万二千余里としたのでしょう。……史書として……は正確な記述となっています。……陳寿は魏使の報告書等を……三国志に反映したことが伝わって来ます。惜しむらくは、陳寿が「邪馬壹国」がかなり南方にあると思い込んでいたと見られることです。

 史書の書法は理解したとの自負心で、陳寿の勘違いと付け回ししています。「万二千百余里」と書いて、「もともと余里という概数を含んだ」と正しく認識していながら、千里単位の概数計算に百里単位の端数を取り込んで辻褄合わせするという事に、不審を感じないのは、古田氏の誤解を継承しようと論を歪めているのです。
 「海も島も見たことがない陳寿」と愚弄していますが、見たことがない渡海記事も含めて、地理記事を解釈して、海も島も見たことがない皇帝に倭人伝を上申するのに身命を賭していたのですから、つまらない誤解はしていないとみるべきです。

*陳寿の技巧
 むしろ、正史の行程記事として前代未聞の「渡海」記事を勇気を持って書き込んでいて、要するに、河水(黄河)を渡る際に中之島を渡り継ぐのと似たようなものだと説明していて、恐らく「金槌」揃いの読者が納得しやすいようにしているのです。陳寿は、現代の都会人と違って、物知りであり、たっぷり時間をかけて、読者が理解できるように前例のない記事の書き方を工夫しているのですから、ご自分と同程度の知性の持ち主と侮らないことです。
 同時代随一の史官が、長年推敲した記事を、現代の素人夷人が、速断の高みから講評するのは、素人目にも僭越です。
 それにしても、「惜しむらく」は、どう評すればいいのでしょうか。単に、高柴氏が、陳寿の真意を読み取れていないと言うだけであり、べつに「惜しむらくは」などと、ご好評いただくものではないのです。
 さりげなく、蟻が富士山と相撲して、勝った勝ったと言っているとみるものでしょうか。何とも、勿体ない早計浅慮です。古人なら、とんだ「赤坂見付」としゃれのめすところです。

 初学者、夷人は、分を弁え、謙虚に語るべきです。幾千万の石つぶてが還って来そうですが、数や目方/質量が勝つものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」11/12 臺論7 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

〇陳寿誹謗の悪習
 陳寿に、海も島も知らない無知、無学と謂れのない非難を浴びせていますが、引き合いに出した海南島は、漢代以来知られていた「海島」ですから、この非難は、認識不足です。ろ覚えの聞きかじりで、陳寿の知識を限定するのは不合理です。なぜ、陳寿の無知を確信できるのか、不思議です。

 倭人伝で多用されている「概数」について賢察されていて、道里に関して検算するときに、百里程度は、無視してよいとするのは、「鄙には希な」見識ですが、実際は、千里単位でなく、千,三千,七千,一万二千ととんでいる、さらに目の粗い概数なので、「一千里に届かない程度は無視してよい」というものです。
 「理屈の上では正確」などと呪文に頼らず、同時代常識で丁寧に見極めて欲しいものです。そこまで踏み込めば島巡りの半周航行などと意味不明な思い込みは必要ないのです。

*道里の数え方
 丁寧に言うと、「国邑」から「国邑」までの道里は、それぞれの国主居所という「点」が起点/終点であり、半周航行は、渡海千里に織り込み済みです。それが合理的というものではありませんか。古田氏に何か遠慮しているのでしょうか。
 要するに、「倭人伝」各国道里は、郡を発した文書がそれぞれの道里をそれぞれの日数で進んで、各国国王、ないしは、国主に届くという日程保証のためのものなので、総じて、郡倭道里/日数が書かれていると見るべきなのです。この点は、常識も良いところで、全ての読者は、当然承知しているので、わざわざ書いていないのですが、それは、明々と書かれているのと同様なのです。それが、後世東夷の無教養な「読者」には見て取れないので、意味不明と騒動が起きているのです。
 いずれにしろ、史官は、その叡知で全行程四十日と明記しているので、氏の想定する「思い込み」は、専ら氏の「思い込み」に過ぎません。

 また、古田氏について惜しむらくは、「奴国」の場所を示されず、「奴国」は通過していないとされたことです。地形を踏まえた倭人伝の読み方において、今一歩の踏み込みがあればもう少し明確な論となっていたと思われます。

 以下の須玖・岡本論は、ほぼ、古田氏の第一書の提言であり、何も批判するものではありません。

*筑前須玖史前遺跡の研究
 京大文学部が昭和初頭に行った須玖・岡本遺跡発掘の報告書*は、小生の十年来の愛読書であり、遺跡後方高台の熊野神社こそ卑弥呼の墓所というのが、小生の初期提言です(2013年)。(*「筑前須玖史前遺跡の研究」京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷(昭和三年~昭和五年))
 因みに、発掘時の現地取材で、それまで、農地耕作の際に露呈した甕棺は、たたき割り、粉砕した人骨と共に人知れず処分したとなっていて、江戸時代以来の伝承でしょうが、隔世の感を禁じ得ないものです。
 要するに、小生の初期の愛読書が、京大文学部の須玖岡本遺跡報告書であり、そこに示された遺跡後方の丘の上の熊野神社が、往年の卑弥呼の居所であり、後の墓所となった(のではないか)というのが、2013年当ブログ発表記事です。

 「邪馬壹国」の中心地は現在の「奴国の丘歴史公園」
 「戸」と「家」
 倭人伝では「不弥国」は「千余家有り」……「邪馬壹国」は「七万余戸なる可し」……です。「家」と「戸」が区別して書かれている意味はよく解りません……対馬国(千余戸)、一大国(三千余家)、末慮国(四千余戸)、伊都国(千余戸)、奴国(二万余戸)、不弥国(千余家)、投馬国(五万余戸)、邪馬壹国(七万余戸)です。……「邪馬臺國」と投馬国が……大国……です。また、一大国と不弥国だけが「家」……で、ほかは「戸」……です。

 「戸」は、古代国家の根幹で、隅っこで論じる事項ではありません。基本の基本が頭にないのは、中国史に無知と公言しているのであり、不勉強です。

*中国古代史知識の泉
 情報源として、貝塚茂樹、宮崎市定両師の著書は必読です。漢字の意味は、白川静師の著書に頼るべきです。無知を誇ってはならないのです。
 いや、これは、高柴氏独創の誤謬でなく、おしなべて、俗説論客に「普通」の見当違いですが、中国史書を、現代東夷の常識で解釈して、見識を広げようとしないのは、勿体ないことです。

                                未完

新・私の本棚 高柴 昭「邪馬台国は福岡平野にあった」12/12 臺論8 再掲

 「通説に惑わされない21の鍵」(文藝春秋企画出版)2015年4月刊 
私の見立て ★★★★☆ 総論賛成、各論疑義  2021/08/14 2023/08/28

*長口説~承前
 現代夷人の人生観に根ざした、歴史的な根拠の無い先入観は、本来、論証には百害あって一利ない(別に、小生は、営利目的で論じていないので、「一利」は、お門違いなのですが、衛入りされている方は、商売の邪魔という趣旨で、そのように非難する)のですが、史書理解に基礎知識は不可欠です。「戸」は、中国戸籍制度に基づく数字で、当然、帯方郡が要求した物です。
 千戸の国と万戸の国は別物で、単純に戸数の多少ではないのです。
 千戸程度であれば、王の居所、氏神鳥居を取り巻いて、農家や市(いち)を囲む隔壁/環濠集落であり、中国古代以来の聚落国家とわかります。つまり、あれこれ説明がなくても、中原人に理解できる「国邑」なのです。

 つまり、倭人伝冒頭、郡から倭への行程諸国は、山島に「国邑」を成していると紹介したのは、それぞれ、千戸単位の集落国家ということです。行程上最有力な伊都国が(僅か)千戸なのは、むしろ当然です。この点を読み過ごすと文意が読めず失格です。
 万戸は、千戸単位の隔壁/環濠集落の集合体と解されますが、文字の無い時代、どのようにして統制、王統を採ったかわかりません。所詮、周旋五千里行程上の主要六国以外は「余傍」に過ぎないので、説明せずに放置したのです。

 ……徴税や労働力の徴発あるいは徴兵……を支える仕組みが「戸」または「家」であったと思われます。それが、異なる表記が使われていることは、女王国と言いながら制度的には必ずしも統一されたものではなく、従来からの経緯等で異なる単位(制度)が使われていたことの現れと見ることも出来るかもしれません。残念ながら、これ以上のことはわからないと言わざるを得ません。

 お説の通り、中原における歴代政権の維持した制度では、一戸に一定の農地(良田)が与えられて、一定の税務、軍務、労役が課せられたと見るべきです。但し、個別の農地は、人力で耕作するものでなく、牛が牛犂なる「犂」(すき)を引くのが前提であり、その前提で、一戸あたりの農地が決定されていて、そこから、一定量の収穫が想定されていたのです。つまり、戸数は、牛の力で耕作する前提で設定されていたのであり、倭人の地のように、牛が耕作しない、人が労する土地では、一戸あたりの農地面積を加減しなければなりません。
 それが、どのように運営されていたか、「倭人伝」には書かれていませんが、所詮、対海国を経た渡海船の搬送能力は、微々たるものだったので、帯方郡にとって、倭人は食糧供給源として計算できないものだったのです。つまり、「倭人伝」の戸数は、帯方郡、あるいは、遼東郡の視点では、単に見かけを綴ったものに過ぎなかったのです。
 帯方郡は、景初年間に遼東郡の支配から回収され、皇帝直轄となったので、大量の郡文書が新任太守の目に入ったものと見えますが、どうも、内容を咀嚼しないままに、雒陽の魏明帝に報告したと見え、皇帝の詔には軽率な誤解が目に付くのです。
 もともと、対海国から帯方郡まで、渡海千里と街道七千里の行程ですから、倭人の食糧供給能力は、計算に入っていなかったのです。

 もちろん、文字の無い倭では、戸籍管理は困難ですが、それでも、先進国で千戸程度の戸籍が導入され始めていたと見るべきです。何しろ、郡の要求は、戸数を明確にせよというものですから、早急に戸籍を整備しなければならないのです。
 もっとも、数万戸の国に戸籍があったはずはなく、正確な戸数は出せないが、「大国」(大きな国)として責めを負ったものと理解すべきです。そのような戸籍制度の早期導入を図るために、巡回指導者として刺史を置いたのでしょう。何しろ、文字の書ける、計算のできる小役人が大勢必要だし、木簡にしろ何にしろ、戸籍を書くための筆、硯は必要です。

 ただし、女王の「居所」は、倭人伝冒頭で明記されているように、山島の「国邑」、つまり、環濠、隔壁で囲まれた聚落であるから、精々、千戸止まりであり、女王に仕える「公務員」に課税したり、労役や兵役を課することはないので、戸数を書くことは無意味なのです。
 つまり、女王の直轄「国邑」が、七万戸の筈がないのです。

 と言うことで、倭人伝で喧伝される「可七万余戸」は、全「倭人」戸数、つまり、各国戸数の計算上の総計とみるべきです。楽浪郡/帯方郡記録にあるような一戸単位で戸数計上するには、国内全域に戸籍整備が必須ですが、当面は、投馬国というでかい国が、戸数不明で明記できないのです。

*三国志の「戸」~古田氏の考察と早計
 言い漏らしていましたが、戸籍制度に「家」はなく、つまり、ここで「家」と書いているのは、魏制の「戸」ではないということです。
 従って、三国時代「魏」に属していなかった「蜀漢」は、漢制戸籍を維持していましたが、「戸」とは書けないのです。蜀志の基本となった蜀の資料には「戸」と書いていた可能性が濃厚ですが、三国志に収容する以上「戸」と書けなかったのです。つまり、当時、魏は、蜀漢所領に魏の戸籍を適用していなかった/できていなかったことの確認でもあります。魏志は、魏の公文書に基づいているので、魏の管理下にない蜀漢の戸数は、書かれていないのです。

 孫氏の東呉は、少々微妙で、もともと後漢諸侯であり、呉帝を名乗ってからも、折に触れ魏に服従を申し入れていたので、東呉全土の戸籍資料を提出していた可能性があります。そうなれば、魏は東呉所領を支配していたことになるので、「魏志」に東呉支配地域の「戸」は記録されていなくても、「呉書」に「戸」を書くことができるのです。

 以上は、古田氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』で考察されていますが、氏の三国志観は、陳寿が、三篇の国志を全て魏の史官の世界観で統一したとの先入観が災いして、早計に陥り、直感的に大局を把握しながら、実戦の詰めを誤っ感があります。

*基本的な問題は、最初に解決
 それはさておき、ここまで書いてきて、高柴氏の論述が時に陥穽に落ちるのは、大事な事項を後回しにしたために、つけが利息付きで回ってきているように見えるのです。
 このあたり、冒頭で道里行程問題と共に戸数問題を解明しておかないために、遡って読みなおす必要が出るのです。「問題」の解は先送りしない方が良いのです。
 このあたり、氏の周辺には、適切な学識を有して、助言、指導する方がいなかったと見受けますが。本来、商用著書出版以前に解決すべきと思われます。

 とは言え、倭人伝の解説を、書かれているなりに順を追って書くというのは、読者が大勢の中の現在地を知ることができるので、道に迷わない配慮ですが、やはり、大事な課題は、前段で解き明かしておくのが好ましいのではないかと考える次第です。

 「不弥国」は「投馬国」との交通の基点であることから考えて、博多湾に面した玄関口的な国で、博多湾に面して東西方向に広がっていると考えました。それに続く遺跡群の多くは「邪馬臺國」の範囲になるのではないでしょうか。その中心部が須玖・岡本遺跡群で、ここが「女王の都」と考えてみました。「邪馬臺国」の中に女王が直轄する特別な地域があるという意味だと考えましたが、他の考え方もあると思われますので、ご意見等いただければ幸甚です。

 所詮、氏の行程解釈は、氏の独自のものであり、不弥国を歴て投馬国に至るという過程が同意されなければ、以下の論理に従うことは困難です。

「邪馬臺国」は先進技術の集積地

 当区分は、氏の意見の提示であり、批判対象でないので省略します。
 捨て台詞でも無いのですが、「先進技術の集積地」とは、誠にトンチンカンな言い草です。「技術」は、形と嵩のある「もの」ではないので、集積することなどできるはずがありません。もっと、一字一句を大事にしてほしいものです。

                                完

2023年8月24日 (木)

私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 1/2 補充

 倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
 私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23

〇再掲の弁 2022/09/26
 当論考の取り組みは依然として高く評価するが、小生、つまり、当ブログ記事筆者の現在の見解では、「周旋」は、同時代用例*からみて「狗邪韓」と「倭」の「二点間往来」と見るので、佐藤氏の見解には、同意できないと明言する。(*袁宏「後漢紀」などに散見される)

 倭人伝冒頭部分の「従郡至倭」と書き出された部分は、帯方郡から「倭」と書かれた「倭人」居所、ないしは、女王之所に至る主要道里、主要行程を示すものであり、倭人伝の要部である。そこでは、後に全体道里が万二千里と明示するのに先立って、郡から狗邪韓国を七千里と明示している。
 続いて、行程諸国の記事が続き、それぞれ道里ないしは行程が書かれているため、記事に書かれた諸国全てが主要道里、行程であると誤解される事を懸念して、狗邪韓国と倭人居所の間の主要行程を「周旋」と明示し、これを、五千里と明示したのである。

 同様に、主要行程上の要部、つまり、對海、一大、末羅、伊都が、一向に南下する行程上にあって、当然、倭人居所の北方に当たる事から、これら四ヵ国を「女王国以北」と形容したのである。世上、このような表現では、三十ヵ国に及ぶ国々を対照と誤解して、対象国が不明確だとする意見があるが、それは、倭人伝文意の取りこぼしである。ここまでに書かれているのは、主要四ヵ国に加えて、奴国、不弥国、投馬国の三国だけであり、残りの国々は、そこまでに登場していないから、明らかに対象外なのである。

 以上、話すと長いが、筋の通った見解なので、話せばわかるものと思い、ここに書き込んだものである。

 このように必要事項が明示された倭人伝記事であるが、氏は、「周旋」の語義を現代日本語風に断じているため、論考のすすめ方は妥当でも、一種こじつけにとどまっていると見える。

 また、他国の紹介で起用された「方二千里」記法が不採用となっていて、「周旋」が類例の見つかりにくい孤立用例なのも不審である。古典に典拠の無い用語を不意打ちに使うのは御法度であったから、「周旋」は、むしろ常用されていたありふれた用法と見るものである。

 という事で、以下の記事から転換した見解になるので、ご注意いただきたい。

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〇記事再掲 ~ 目下不支持の過去ログ
 本記事は、古田武彦氏が「「邪馬台国」はなかった」で行った重大な解明論考の瑕疵として「倭地の領域」が解明されていないことに不満を持ち、当論考で、是正を図ったようである。先賢の論考に弱点を見つけて、補填を図るという意味では、当記事も同趣向である。
 よって、それぞれ学恩に対する謝恩であることは認めていただきたい。

 氏が、古田氏の倭人伝論に於いて、倭地の地理的位置、すなわち、帯方郡からの方角、道里(道のり)及び戸数が記載がされていることを上げただけで、「倭地」の国のかたちと大きさが解明されていないのを「倭人伝」の不備と見たのであるが、そのように見た理由として、東夷伝は、全体として、諸民族の国のかたちが明記されているのに拘わらず、倭人記事では明記されていないように解釈されていることが、解釈の不備と見たものである。

 ここで、氏は、倭地の領域の形と広さの書かれている記事として、「周旋五千余里」は、次の下りを言うのであり、論考は、大変丁寧に、関連史料を渉猟して考察を加え、思考の経路を整えているが、ここではその部分は飛ばして結論部分を確認する。
 參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里

 氏の理屈では、『「周旋」は、不定形、つまり、形のよくわからない領域を言う』らしい。と言うと、不同意と見えるかも知れない。氏の説明について行きにくいが、結論に同感を表明したものである。
 当方の解釈では、倭地は、離島部分は別として、九州島上で言うと、一周五千余里相当の範囲内に収まると言うことだと思う。以下、当方の論考では、「倭国」と言うが、これは、倭人伝の対象となっている大国、つまり、三十国全体のことである。(注:当時の見解である)

*周旋の解釈~「領域」の見立て
 直線的に説明すると、韓国のように東西海で限られている領域なら、南北境界を割り切って、方形(四角形)と見なすこともできる。朝鮮半島の南部以外は、古くから楽浪/帯方郡に知られていたから、領域図めいたものが知られていたと思うのである。
 世上、「方」を現地地形の反映と見る向きがあるが、あくまで「見立て」であり、どの程度不確かであったかは、いくら調べてもわからないので、幾何学的に判断すべきではないのである。
 倭国のように小国山盛りで、どこまでが自国か地図を描いて示すことのできない諸国が大半では、倭国全体の領域は、はっきりわからないのである。

〇「領域」図の幻想
 余談であるが、太古以来、各王朝の領域が地図上に示されていることが多いが、きっちり国境線で示されるような領域が確認されていたわけではなく、特別な場合を除けば、図示された境界は虚構、つまり「ウソ」である。

 各国は、領内の農地を、悉く測量/検地し、各戸に割り当てていたから、領地内の農地については、くまなく承知していたが、耕作不能で、未開拓の山野がどの国に属するかは、わかりようがない。

                                未完

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▢方針転換のお断り 2022/09/26
 冒頭に書いたように、三世紀当時の知識人の持つ語彙では、「周旋」は、二点間往来の意義と見るのが妥当と考えるに至ったので、本論に展開された氏の論考には賛同できない、との結論に到ったが、それはそれとして、氏の学術的な論考の組み立ては偉とすべきであり、素人論者として、氏の論理の建て方に賛同するという考えには変わりが無い。

 なお、ここで開示した「概数論」は、倭人伝解釈の際に必須なので、あえて加筆していないものである。

以上

2023年8月23日 (水)

私の本棚 佐藤 広行 古田史学論集 第三集「周旋五千余里」論 再 2/2 補充

 倭地及び邪馬壹国の探求 「周旋五千余里」と倭地の領域の検討 (2000)
 私の見立て★★★★☆ 丁寧/着実な論考 2017/11/25 追記再掲:2021/03/27, 07/10 2022/09/26 2023/08/23

*局地解釈の勧め
 そのような状態だが、倭国が魏朝の家臣となった以上、倭人伝には何かの記事を書かざるを得ないので、まあ、あえて言うなら、氏の想定した字義に従うと、ぐるっと巡って全周五千里だと言ったと推定される、と言う提言である。
 文脈に従うとそう読める以上、特に不都合がない限り、三国志全巻を通読したり、史記、漢書を参照したりする必要は無いということである。
 大事なのは、魏朝の新参の外藩王の領地は、韓国、高句麗同様に表現する「方*千里」と同じ広さとは言い切れないが、広がりとして大差ないということのようである。(これは、当初の意見であり、現時点では、「方里」の解釈は異なるものとしているが、本項の限界を超えているので追記しない)

駆け足概数論
 但し、周長五千里という解釈であると、方形に近似すると、一辺千二百五十里という半端な数字になり、千里単位の概数で書かれている行程道里と食い違うのである。それなら、なぜ、周旋四千里と言わなかったと言うと、倭人伝の概数記法では、[千]の次は、[二、三千]、次は[五千]、[七、八千]と飛んで、[十万]でけた上がりするから、倭人伝概数で[四千]里は無いからである。
 「倭人伝」は、陳寿が率いた専門家集団が、多大な時間と労力をかけて推敲/編纂し、皇帝付近の公刊読書人の批判を仰いだものだから、一目で不具合の読み取れる記法はしなかったと考えられるのである。要するに、編者と読者の間には、周旋は、面積表現などではないと了解があったと見るべきである。

 因みに、[二,三」千は、[二」千あるいは[三」千の選択となるが、比較対象となるものがないときは、「五」千に届かない範囲の数として、単に[数」千と言う、という感じで、大抵の数字は、滑らかに解釈できるように思う。
 要は、その場その場の前後関係で、言い方を選ぶのである。

*「悉皆」主義の限界

 一応のまとめとして、広く用例を収集して意味を探るのは、必ずしも、最善・最良の策ではないということである。
 古代史文献の用例検索の手法として、古田武彦氏が提言し、厳守している「悉皆」主義、つまり、根こそぎ、悉く文献用例を調査する行き方は、厖大な時間、つまり、関係者の労力を壮大に消費することから、好ましくない場合があることを指摘したい。特に、調査結果の評価に、多大な先入観を与えるため、慎重に適用すべきものと考える。


*蛇足の戸数論
 氏ほどの慧眼が、倭国総戸数が書かれていないと速断したのは、もったいない。
 三国戸数は、後世人には、二万、五万、七万と列記されたとも見えるが、「単純に」足すと十四万であるが、陳寿が、現代人のような「単純」な思考に陥っていたとするのは、「単純」に過ぎるように感じる。。
 それにしても、「三国」以外は、「端数の千戸台だが、僅少と決まっている戸数で、どれだけになるかわからないが大したことない端数」を足しても、結局十四万とは、読者に計算を強いることになり、不首尾である。
 肝心の総戸数は、東夷列伝・倭人伝の「要件」、つまり、必要不可欠な数字であり、それほど重要な数でありながら、「倭人伝」に明記されていないと見るのは、何とも不合理である。そのような「倭人伝」は、上覧以前に不備との非難を浴びて却下されていたはずである。読者が計算して埋めろというのは、いかにも、傲岸不遜である。

 つまり、総戸数不明は、「倭人伝」として致命的な不備であるから、ここには、倭国総戸数七万戸と明記されていると、自然に解すべきであろう。

 大雑把な概数計算では、二万、五万という戸数に、三十国足らずの端数戸数を足しても、七万戸の次の概数である十万戸には遠く及ばないと判断して、七万戸、つまり、五万戸よりははっきり多いが、十万戸よりはっきり少ない数字としたのであろう。

*「倭人伝」概数論
 倭人伝に現れた一(千),二(二千),五(五千),七(七千),十(万),十二(万二千)という飛び飛びの概数に示された、とてもおおざっぱな概数に対する「深き理解」に敬服すべきだろう。

 念押しすると、倭人伝にありふれている『「定数」に「余」と書き足した表記』は、「定数」程度、あるいは、「定数」と見るべきであり、したがって、どんどん足して計算しても、端数が溜まっていかないので、合理的なのである。

 戸数で言えば、見かけ上「万戸」概数と見えても、実際は、二万余戸の次は、三,四がなくて五万余戸かも知れないのであり、もし、「余」が切り捨て表現とすると、どの程度の戸数が切り捨てされたか推定できないのである。つまり、四万近い戸数を二万余戸に丸めた可能性がある様な数字で加算を繰り返したら、どれほど見当違いになるかわからないのである。
 「余」を読み飛ばして、全体が概数表現とみる由縁である。

 いずれにしろ、万戸単位の大局的な集計に、数千戸の端数は勘定できないので、全国戸数の積算には、無縁なのである。

 算木計算の時代にどうしてと思うだろうが、数に関する感覚は、それまでの数千年の間に結構磨かれていたと思うのである。特に、正確な資料のない、おおざっぱな数字の扱いに、漢制、そして帯方郡の知恵が働いていたのではないかと思われる。

*倭人伝の特性
 原点に立ち戻って、中国史書の外夷伝である「倭人伝」の特性を認識しないと、正確な理解から遠ざかるのではないかと思う。中国史書、後に、正史と呼ばれる格式を備えた「三国志」は、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に合わせて編纂されていて、以後、再三にわたって、細部に到る校閲、検証を経ているので、三世紀当時の中国最高峰の知識人の学識に照らして解釈すべきであり、無教養な後世人の思い込みで、安直に解釈すべきではないのである。まして、後世人でも、一段読解力の劣る、異郷の異人の末裔の勝手な思い込みによる解釈は、厳に戒めるべきなのである。(よくよく、考察を重ねた上で、解釈を構築すべきだというものであり、後世人には、絶対正確な読解ができないというものではない)

 あくまで素人考えであるが、素人なりに謙虚に考えると、伝統的な「倭人伝」解釈は、「倭人伝」以外の未検証史料から侵入した「思い込み」に惑わされて、「倭人伝」解釈の基点、視点がずれていて、端(はな)から正確な解釈から遠ざかっているように思うものである。

 東夷伝全体で見ても、韓国までの領域は、長年の通交で国勢が知られていたから、いわば、各国の身上書の項目を書き写せば良いのだが、倭国は、何も書かれていない身上書に、不確かな情報を書き込んでいったので、不確かさが伝わるように、あえて、不確かな書き方をしたのかと思うのである。

〇「倭人伝」の意義
 そのように、「倭人伝」は、独自の視点と方針で書かれていて特別扱いが必要である。してみると、安直な後世視点にとらわれて「魏書東夷伝倭人条」と言う言い方は、同時代視点に欠ける、浅薄な理解から出たものではないかと思われる。このような廃語はレジェンド(骨董)表現とすべきだと思うのである。つまり、偏見に拘わらず、『「倭人伝」はあった』のである。

*後記
 私見の余談はさておき、2000年時点で明言されていた、これほど明解な論考が余り参照されていないのは、まことに残念である。

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                                以上

2023年8月20日 (日)

今日の躓き石 MLBの蕃習か NHKBSが報復を煽る「リベンジ」

                            2023/08/20 
 本日の題材は、NHKBSのスポーツ番組 「ワースポMLB」の暴言である。

 無名氏の語りによれば、千賀投手は、前回登板時の復讐に燃えて「リベンジ」したとされているが、そんなことを公共放送が報道して良いのだろうか。
 大リーグでは復讐として死球を浴びせるらしいのだが、前回乱打された相手全員にぶつけたのだろうか。困ったものである。

 いや、冗談はそこまでにすると、NHKともあろうものが、このような途方も無い、救いようのない暴言を野放しにしているのはどうしたことなのだろうか。放送前に、セリフ合わせはしないのだろうか。出演者は、何も自省しないのだろうか。そんないい加減な番組制作で、受信料を堂々と受け取れるのだろうか。何しろ、高品位が売り物のBS放送なのである。つまらない冗談は、楽屋止まりにして貰いたいものである。

以上

2023年8月14日 (月)

新・私の本棚 出野正 張莉「魏志倭人伝を漢文から読み解く」⑴ 1/2 改訂

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 2023/06/26 改訂 2023/08/14

◯始めに
 両著者共著の前著は、国内古代史学界で見られない、中国語を母国語とし国内史学者に対する忖度のない白川勝師漢字学の学徒である張莉氏の出色の著作であったので、さらに、漢文解釈で、一段と未踏の高みに前進した著作を期待したのである。

 本書で不満なのは、大半の章が出野正氏の力作となっていて、張莉氏の担当は、第三章「日本列島における倭人(国)の成立」、第四章『金印「漢委奴国王」』に限られ、特に、当方の主眼の「倭人伝道里行程記事」に関する第七章は、出野氏の難解なご高説を拝聴する仕掛けで、当て外れと言わざるを得ない。
 ともあれ、ここは、第七章でも局部的で、論点限定の批判である。

◯第七章「魏志」倭人伝の行程から歴史を解読する 出野正
 出野氏は、史料を引用する際に、出典を明らかにしないのが不満である。
*「翰苑」史料批判の不備
 出野氏は、「翰苑」においては、誤字、誤記の多い断簡である原史料を、校訂無し/史料批判なしに採用している。
 いや、「翰苑」の史料批判に於いて、諸兄姉同様に、見過ごしている先行論考を見落としているのである。
 学術的に論ずるなら、中国哲學書電子化計劃に収録されている《遼海叢書》本《翰苑 遼東行部志 鴨江行部志節本》で校訂済みの整然たる資料を参照すべきである。印影に見られる誤字乱調/乱丁の不備が校訂された整然たる活字本であって、例えば、誤解が広く出回っている「卑弥娥惑」は「卑弥妖惑」に、適確に校正されている。

 出野氏ほどの大家にしては不用意であるが、張莉氏は、何も指摘しなかったのだろうか。いや、公刊されている影印を見る限り、誤記、誤字満載で、誤字ですまない大事故も散見されるから、とても、「翰苑」に依存した提言などできないと思うのだが、なぜか、無校正で引用されているのである。
 出野氏は、太宰府所蔵本の影印を見て信頼しているのだろうか。それとも、いずれかの先人の解説書を丸呑みしたのだろうか。止まる枝は慎重に選ぶべきではないか。

*「水行」の「謎」

 中國古典で「水」は河川であり、『正史蛮夷伝行程道里定義に於いて、「水行」は海の移動に一切使わない/使えない』ことは自明である。張莉氏が異を唱えないのが不可解である。

*「循海岸」「問題」と「解答」を遮る迷い道
 古田武彦氏が「循海岸水行」を「海岸に沿って船で行く」と誤解した「愚行」に悪乗りしているが、「循」を「沿」と改竄した古田氏の誤謬は明白である。「循」の字義で、張莉氏の漢字学から誤解是正がないのは不可解である。
 私見では、「海岸」は海を臨む崖の陸地であり、「海岸」に沿うのは陸上街道しかない。陸上街道に沿って海を行く船は、岩礁、浅瀬、砂州で難破必至である。この点、郡官人に常識のはずである。

 むしろ、道里記事中の「渡海」で、対岸州島である 対海国に向かい「船で渡る」行程の解説と見るべきであろう。渡船は中原街道ではありふれているが、道里行程に含まれない些細なものとされていて、「倭人伝」では、それぞれ一日を要する渡海を「水行」行程と特筆して予告したものと見るものではないか。

 当時高官は、南部狗邪韓国へは既存官道の韓国中央縦断が確実/安全/安心であり、かつ、最短経路でもあるので「水行」は道を外れた危険行程の指示であり、官道たり得ないと絶対視していたはずである。従って、そのような「素直な」解釈であれば、「倭人伝」は、早々に棄却されたはずである。そこで、史官の真意を察することができなければ、合理的な解明は不可能である。

 出野氏は、山東半島からの魏船が、ここで荷下ろしして陸送に切り替える不合理を、堂々と示しているが、世上の諸兄姉と同様に、大きく勘違いしている。当記事は、郡と倭の文書通信の日常任務の規定であり、景初/正始の一度限りの荷運びの報告などと一言も書いていない。
 と言うか、公式道里は、皇帝に下賜物輸送の魏使を献策する前提に不可欠であり、儀式国語の制定となれば、大変な時間錯誤/倒錯になっている。
 少し常識を働かせれば、このあたりの錯誤は、いつでも、どこでも、誰にでも是正できると思うのだが、百何十年経っても、誰も気づいていないようである。いや、氏は、大勢に流されているだけかもしれないが、「文献解釈」を丁寧に進めれば、不合理が不合理として見えたはずである。
 して見ると、氏は、「文献解釈」に於いて、いきなり正史史料を、随分原文から乖離して、創作していると見える。

*中間報告
 ここまで、出野氏が、史料引用の際に出典を明らかにしない事が多いのが、大変不満である。氏は、自ら、在野の「研究者」であっても、既存の解説書に頼る安易な道を採らず、史料原文解釈に敢然と取り組んだと主張されているが、それなら、出典明記は必須事項ではないだろうか。あえて苦言する。

                                未完

新・私の本棚 出野正 張莉「魏志倭人伝を漢文から読み解く」⑴ 2/2 改訂

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 2023/06/26 改訂 2023/08/14

*題目と定義文
 漢文の定型をしばし忘れて、文意を理解しようと努力すれば、「従郡至倭」は、文章主語でなく、短文の掲題/タイトルとも見える。
 続いて、後続記事で特に採用した用語の独自の定義が二件見て取れる。
 ➀ 以下で、水行は、海岸を発って、沖合に出て、対岸に向かうことを言う。
   河川の渡船を海で行うから、渡海を「水行」と呼ぶのである。
 ② 以下で、道里は、郡から狗邪韓国までを七千里とするものである。
   皇帝が公認した郡から倭まで万二千里の道里を按分するので、狗邪韓国までが七千里となる。
   皇帝公認不可侵の「郡倭万二千里」を按分し狗邪韓国まで七千里とする。
   郡から狗邪韓国まで、弁辰産鉄輸送路が整備済みで、「普通里」数は
   既知であったが余儀なく「郡倭万二千里」の原器としたのである。
 いずれも、皇帝公認の郡倭行程の三度の「渡海千里」や都「万二千里」が、倭人伝道里記事を頑として規正していることを示していたのである。

 言うまでもないのだが、このような構文は、皇帝を含めた同時代「読者」に明快に理解されたものである。後世東夷の誤解は、陳寿の知ったことではないというか、まさか、無学の野次馬に寄って集って誹られるなど思いもしなかったのである。

*「倭人伝」は、時の試練を経た名著~「時の娘」
 「倭人伝」に関して、西晋宮廷の知識人からも後代の史官からも、「水行」と「道里」に非難がないのは、陳寿が慎重に、定義文を織り込んだからではないだろうか。文句を言うのは、大局を知らない二千年後の東夷ではないか、と思うものである。

 以上は、読んで頂いて分かるように、出野氏批判/個人攻撃などではない。「無教養な東夷」とは、世上山成す落第生を述べただけである。

 古人曰く、「真実は時の娘」である。

*古田氏道里説の不備
 古田氏の「魏晋朝短里説」は、理不尽である。また、「部分里数合算が全里数に等しい」との提言は、「千里単位/余里」概数を見過ごして罪深い。早計の誤謬は、最優先で正すべきであった。子孫に遺すべきではなかった。

*異例の筆法/明快な示唆
 異例の筆法は未曽有であり、未聞事態収拾に先例はない。文献は文献をして語らしめよ、である。東夷伝を探り、魏志を辿れば、題意は明らかと見える。
 何しろ、皇帝閲読の場で先例確認するには、皇帝書庫の簡牘巻物を取り出す「汗牛充棟」になり排斥されるだけである。その場の巻物を展開参照できる魏志第三十巻に依存できれば明快になる。
 「倭人伝」は、時に「条」と揶揄される端(はした)に過ぎない。

◯本項まとめ
 魏志第三十巻の掉尾を占める「倭人伝」を的確に理解するには、少なくとも編纂者である陳寿の真意/題意を想到するのが不可欠である。
 と言っても、大したことではない。「倭人伝」道里記事は、郡倭行程道里を端的に書くのが至上命令で、解読の手がかりは当時読書人の「容易想到事項」が前提である。少考で解読できなければ、魏志全体が却下されかねないから、明解に書かれているのである。現代東夷は、自身の無教養で落第している。

 要するに、二千年来提示、出題されている「倭人伝道里」「問題」(Question, Problem)が明解できないのは、解答者の知識不足「問題」である。

 このあたり、随分、厳しい言い方になったが、それだけ、氏と張莉氏の共著に求められるものは、高いのである。出野氏には、絶大な漢文教養を持つ張莉氏が付いているのだから、当記事への反論を検討頂けたら幸いである。

                              以上


新・私の本棚 出野正 張莉「魏志倭人伝を漢文から読み解く」⑵ 1/1

「倭人論・行程論の真実」 明石書店 2022年11月刊
 私の見立て ★★★★☆ 待望の新作 不用意な記述 2023/08/14

◯第二章『「魏志」「倭人伝」の「倭人」とはなにか』(出野)に異議がある
 氏の日本語語彙が古代史論の標準から離脱しているのは困ったものである。
1.カタカナ語偏愛「もとのルーツ」 27ページ
 氏のカタカナ語愛好癖が不適切である。「論衡」「漢書」「倭人」の「もとのルーツは同じ」に困惑する。何の因果で奴隷制度を誹った「ルーツ」の義憤を踏みにじるのか。平明に「起源は同じ」と言わない屈折用語に、編集担当から「朱」が入らなかったのが不可解である。

2.生煮えの現代語「差別化」 57ページなど
 現代造語は意味不明になる。「差別化」乱射があって、整備されたと期待された公道に「躓き石」の散乱に困惑する。人種差別と無関係な無邪気な造語と思うが、正統的な言葉に置き換えてほしいものである。

3.不明瞭な集団評価 57ページ
 「日本の歴史学者」なる集団を世論調査した上か、『魏志の「倭」と「倭人」を同一視する人が「多い」』とするが、「多い」とは多数派なのか、一人でも多いのか、意味が通らない。7行を費やしたあげく、『「多くの歴史学者」は論証なしに自明の理としている』と自説の塹壕に逃げ込んでいると見える。
 氏は、以下、面々と「倭」と「倭人」が、同一の概念では無いと主張しているが、皮切りに冗語を連ねているので主張に信を置けない。

4.資料乱獲~悉皆の悪弊
 氏は、古代史「国」の意義を、確固たる「倭人伝」で足りず、茫漠たる「三国史記」、「三国遺事」で総浚えする。先賢によれば「倭人伝」すら、用語、文法の異同で複数史料に依拠した史書と評され隔絶文書導入は無謀である。

5.浅薄な前例批判
 氏は、古田氏等の語義解釈を「国語」「和風」と揶揄するが、古田氏は、「倭人伝」以外の資料も史料批判しているので氏の批判は安直と見える。
 氏は、先賢諸説を雑駁に捉えて『差別化』と処断しているが、自分好みの新語で批判するのは不合理と見える。ご自愛いただきたい。

 浅学ながら『差別化』は、『敵の短所に対して自説を盛り上げ、「消費者」を「惑わす」舌先三寸の技芸』と見え、氏の使うべき言葉でないと愚考する。くれぐれも、ご自愛いただきたい。

*古代史用語談義
 言うまでもないが、「倭」と「倭人」は、異なった単語であり、恐らく、太古の「倭」が、時代の推移で二字語になったとも見えるが、不明瞭である。

 「國」は、太古、隔壁聚落を言い、次第に経済活動拡大と共に、「國」が融合して戦国時代、諸侯領域に「邦」となり、漢高祖実名「邦」を「國」とした際「國」を「國邑」としたと見える。時代によって文字/単語の意味は忽然と変化する。
 陳寿は、史官として太古先哲用語を学んだので「國」の氾濫は抑えたが、原史料の「國」を書き換えることは許されなかったと見える。

 案ずるに、漢代郡国制の「國」は、劉氏一族所領であり、高官郡太守は同格であるが、「倭人伝」に限らず蛮夷の「國」は蔓延し、史官は、漢魏本国の「國」と同格と取られないように文飾に努めたと見える。世間には、卑弥呼が「倭王」に任じられ、「倭」は帯方「郡」太守と同格と見る人までいるので釘を刺す。また、氏は、無頓着に「国名」と言うが、これも僭称である。

 倭使難升米は、「大夫」と自称したが、倭は魏に臣従したものでなく、また、蛮夷が臣従を認められても、魏官位「大夫」など、もっての外であるが、鴻臚の慣わしで蛮夷の自称がありのままに記述されたと見える。

 魏制に通じた後、官位詐称を已め「倭大夫率善中将」と蛮夷官位を名乗りつつ、通常は、縮して「倭大率」さらに「一大率」と称したと見える。(断然たる私見であるから、先例検索は無駄である)

 と言う事で、出野氏には中国史書の沼に浸かって脱「和臭」をお勧めする。

                               本項完

2023年8月13日 (日)

今日の躓き石 不屈の努力に泥を塗る 毎日新聞得意の「リベンジ」 反社会的な「REVENGE99」

                   2023/08/11,/13 

 本日の題材は、毎日新聞大阪14版「スポーツ」面のどえらい汚点である。何しろ栄光ある「もっと社会人野球」コラムに、でかでかと『最後の「リベンジ」』と書き立てられては、本人もたまるまいと思うのである。

 『三度目の「リベンジ」」を誹られた上に、これでは、30歳を目前にして、今度こそ人生の末期と罵られていると見える。これで、逆恨みの復讐心人生になすべき目標も、これを最後に種切れとは、何とも、心許ない「泣き言」と思うのだが、何も、それを全国紙で「でかでか」と書き立てることはないのではないか。毎日新聞の報道姿勢が問われるのではないか。

 これが、『今一度の「チャレンジ」』と言うなら、それなりに意味が通るし、これでダメでも、また出直す」という闘志が見えるのだが、よりによって、この上なく根性曲がりで、どぎたない「リベンジ」を口走るとは、どうにもこうにも救いがたいのである。
 すがりつかれた全知全能の神様も、正義の刃で「悪」を倒したくても、手を出しようがないのではないかと愚考する。神様は、願掛けされる度に走り回る「使い走り」ではないのである。

 それにしても、全国紙たる毎日新聞にこのような邪悪な言葉が出回るのはどうしたことだろうか。これでは、言いたい放題のネットメディアと変わらないではないか。このように良心のない報道が幅をきかすようでは、全国紙の存在価値は、霞んでいくのではないか。

*罰当たりなチーム名の横行
 もっとも、「REVENGE99」などと罰当たりの命名をした何者かが、途轍もなく悪いのだろう。このように反社会的で、流血テロを礼賛するようなチーム名が、堂々とまかり通っているのは、同チームの所属協会に「良心」も「倫理」も存在しないためなのだろうか。困ったものである。

 この「社会の敵」は、全国紙でもなければ、公共放送でもないので、たちの悪い、人前で口にできない、ハレンチな命名に対して、当閑散ブログで一言文句を言うにとどまる。当ブログ筆者は、聞く耳のない輩を、本気で相手にしないのである。
 それにしても、ご丁寧に英語で世界に恥をさらすとは、大した根性であるが、何事も下には下があるという事か。

以上

2023年8月12日 (土)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 1/9 三掲

會稽東治考 1 「東治之山」               2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07

□三掲の弁
 当ページ末尾付近で、「念押しの議論」と称して、念には念を入れているが、一向に反響がないので、最後のお願いに挑んでいるものである。

◯はじめに
 定説と呼ばれる「俗説」では、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の「會稽東治」には典拠がなく、「会稽東冶」の誤写とあるが、そう簡単な話では無いと思う。
 「會稽東治」とは、司馬遷「史記」夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽「東治之山」を指すものであり、「東治之山」とは、具体的には会稽山をさすものと考える。

*「会稽之山」
 「水経注」および「漢官儀」で、秦始皇帝が創設した「会稽郡」名の由来として書かれている記事があるが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られる。
 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
 或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
 或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。

 では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるが、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考える。

 また、中国の地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と読むのであり、会稽郡の東冶県をさす場合は、「会稽東冶県」と明記する。これらの書きわけは、笵曄「後漢書」倭条(傳)に揃って現れているが、笵曄は、魏志「倭人傳」の「会稽東治」の本来の意義を理解できずに「東治」は地名にないから、劉宋の領土内の地名である「東冶」の誤記と即断して校勘したものと思われる。

 更に念押しするなら、ここで書かれている各郡命名は、秦始皇帝の全国統一の際に、重臣である李斯が決定したものであり、その時点、漢(前漢)に命名された「東冶」なる地名は存在しないので、ここに「東冶」と書くのは、時代錯誤なのである。「水経注」と「漢官儀」は、「倭人伝」から見ると後世の編纂であるが、李斯の提言の記録なので、その由来は、遠く秦代に遡るのである。
 丁寧に時代考証すると、異議を挟む余地はないように思うがどうであろうか。

*念押しの議論~2023/05/24
 因みに、三国時代、「東冶」は、曹魏の領域外である東呉孫権の領域内であって、魏には、一切現地情報が届いていなかったのである。
 また、先立つ後漢代、会稽郡治から東冶に至る経路は、崖に階梯を木組みした桟道すら通じていなかったから、「街道」は途絶していて、その間の道里は未設定であり、東呉すら知ることができなかったと思われ、まして、敵国である魏の公文書に記載されることはなく、従って、「魏志」に東冶がどこに在るなどと書くことはできなかったのである。そもそも、「東冶」の属する東呉建安郡が、古来の会稽郡から分郡されて創立されたのすら、東呉が、壮語を継承した司馬晋に対して降服した際に上納された「呉書」(呉志)で知るだけであり、陳書の編纂した「魏志」は、最後まで敵国東呉を参照しなかった魏の公文書に全面的に依拠しているから、そのように判断されるのである。
 この際の結論として、「魏志」を編纂した陳寿の厳正な態度から見て、「倭人伝」において、倭に至る道里が雒陽から会稽東冶に至る道里と比較してどうであるというのは、一切あり得ないのである。

 因みに、「会稽東治」が書かれている部分は、気候風俗の記事内容から見て、かなり南方であって暑熱の狗奴国の視察報告、それも、後日の張政一行の早書きと思われるので、正体不明の会稽東冶と対比することに大した意義はなく、古来周知の「会稽東治之山は、その地の西方に当たるようだ」という風聞記事を付け足したと見た方が良いのではないか。これは、続いて「倭地温暖」と書き出された記事が、倭の盟主であって女王を擁立した伊都国の存在する北九州のものと思われるのと、一線を劃しているのである。(「評釈 魏志倭人伝」 {新装版}水野祐 ㈱雄山閣 平成16年11月新装刊)

 いや、陳寿がいかに知恵を絞っても、東夷の地理について、議論の視野を広げ、さらに遠隔の霞の彼方の地を論じると、議論がぼやけるのだが、その意味でも、いわば、正史夷蕃伝で、倭の最果ての地から会稽東冶なる具体的縣名を遠望したとは思えないのである。

*異議の史料批判~証人審査~2023/05/24
 いや、現に史料に明記されている字句が誤伝であると主張する「俗説」には、厳重に審査された資料の提示が必須であり、単なる臆測で言い立てるのは、素人の野次馬論に類するものであり、史学においては、本来論外なのである。
 一説では、近年公刊された公式資料に「東冶」と書かれているらしいが、根拠不明である上に「誤植」、「誤解」の可能性が否定できないので、耳を貸す必要はないと思量するのである。
 つまり、ここで展開している議論は、本来不要であるから、これに対して、異議を言い立てるのは、無法なのである。

*初学者への指導事項
 ちょっと厳しすぎる議論になりそうだが、正直言って、漢字の「さんずい」(水)を、ちょっと間違えて「にすい」(火)に書いてしまうのは、実際上、それほど、珍しいことではなく、時に、通字になって辞書に堂々と載っているくらいである。

 ただし、それは、「さんずい」の漢字を「にすい」にした「字」がなくて、誤字にならないと言うことが前提である。「東治」と「東冶」のように、「さんずい」と「にすい」で字義が異なる場合は、きっちり書き分け、読み分けしなければならない。

 漢字解釈の「イロハ」を知らずに高々と論じるのが、国内古代史学界の通例/悪弊であり、榎一雄師や張明澄師の夙に指摘しているところであるが、頑として是正されないようである。

 近来に至っても、在野の研究者から三国志の解釈に於いて、定説気取りの国内論者の通弊/誤解を是正すべく、中国史料としての善解を促す健全な提言があっても、権威者気取りの論者は、かかる提言に一顧だにせず、つまり、原史料に立ち戻って「再考」することなく、「大胆」の一言で片付けて、保身する安易な対応がはびこっていて、やんぬるかな、「百年河清を待つ」と言う感じであるのは、大変残念である。

 どうか、史学の原点に立ち返って、原史料と「和解」していただきたいものである。それが、晩節というものではないだろうか。 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 2/9 三掲

會稽東治 2 禹の東治                  2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*字義解釈の洗練

 現代東夷には一見意味不明な禹の「東治」であるが、漢字学の権威として、中国でも尊崇されている白川静氏の著書に啓発されて、以下のように解しているのである。

 「治」とは、殷周から秦漢にいたる中国古代にあっては、文字通り「治水」の意であり、後に、水を治める如く人を治めることを「治世」と表したのではないか。或いは、郡太守の治所を、「郡治」と呼んだように、東治の中心地を言うものかも知れない。いずれにしろ、高度な存在を語る言葉である。
 よって、河水(黄河)の治水にその治世の大半を過ごし、「水」を治めるものとして尊崇を集めた禹が、晩年に至って東行して江水(長江、揚子江)下流、会稽に至り、長江流域からも諸侯を集め、治水の功績を評価したのではないかと言う推定が有力となる。
 禹は、元来、江水流域に勢力を持っていたという伝承もあり、続いて、河水の「治水」をも極めたことから、中原、河水流域にとどまらず、九州(当時で言う、「中国」全土)が禹の威光の下に統一されたと評価されたのではないか。

 いや、この記事は、伝説の治水の君主としての禹を頌えるものであり、現実に「九州」全土をその権力の及ぶ範囲としたことを示したものではないことは言うまでもない。また、禹の時代、当然、「九州」の範囲は、かなり狭いものであり、河水流域の周辺に限定されていたと見るものである。
 例えば、禹の行脚を語るとされている「陸行水行」論でも、河岸の泥を進む橇行が語られているから、禹の天下は、河水河岸にほぼ限定されていたように見えるのである。

 ちなみに、白川氏は、禹には、治水を極めた夏王朝創業者としての顔と、それ以前の伝説で洪水神として畏れられる顔とがあると語るが、史書・経書は、もっぱら、夏王朝の始祖、河水の治水者禹を語っている。

 ここでは、東治と「東」の字が用いられて二字であるが、江水下流地域は江東と呼ばれていて、その意味の「東治」であろう。
 会稽郡を命名した李斯は、その教養として、禹伝承を把握していて、河水上流で西に偏した咸陽の秦の支配力を、遙か東方の会稽に及ばせ、東方治世の拠点としたのではないか。

 白川氏によれば、「治」の旁(つくり)である「台」は、耕作地に新たに農耕を開始する儀礼であり、古代音は「イ」であったとのことである。「さんずい」のついた「治」も、本来、水によって台を行う、つまり、水を統御して農耕を行う意味であり、やはり、古来「イ」と発音したように思うのである。
 太古の当時、「臺」とは、完全に別の字であったが、後に、台が臺(春秋左氏伝によれば、華夏文明の最下級)の「通字」となり、タイ、ダイと発音されるのが通例となったが、怡土郡(イド)の発音などに「イ」音の名残が感じられるかもしれない。
 世上、日本古代史視点の中国史料解釈では、このあたりの思惟の都合の良いところだけ掬い上げる強弁が横行しているが、一種の「雑技」(現代中国語)「曲芸」であり、正道ではないように見える。

  いや、何分、太古のことであり、後世の東夷が「当然」とした解釈が「当然」でないのである。

以上

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 3/9 三掲

会稽郡小史                       2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽郡小史
 会稽郡は、河川交通、即ち、江水(長江、揚子江)と南北の沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれ、後年に至るまで、この間の「官道」整備は進まず、交通困難であったと思われる。

*陸道無し
 笵曄、裴松之が生きていた南朝劉宋代の正史である沈約「宋書」「州郡志」は、会稽郡治相当の治所から、往時の東冶県、当時の建安県道里は、去京都水三千四十,並無陸。と明快である。「水」、つまり、河川行の道里のみ記述されていて、「陸」、つまり、陸上街道は存在しないとされている。
 恐らく、有名な蜀の桟道のように、崖面に足場を組んで、「径」(こみち)を設けて、人馬の往来はできても、街道の前提である車馬の往来は不可能で、また、騎馬の文書使の疾駆や兵馬の通行はできなかったため、街道不通となっていたと思われる。後年、延暦23年(804)の 遣唐使の第一船が福州に漂着し、長安を目指した旅途は、留学僧空海によって、「水」を経由した報告されているので、「倭人伝」の五世紀後に至っても、街道は整備されていなかったと見える。なお、沈約「宋書」「州郡志」に、建安郡の記載は無いが、晋書及び南齊書に記録があるので、宋書の写本継承の際に脱落したと見られている。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で最上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、郡太守として郡内全域統治する視点では、会稽郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。何しろ、馬車の往来や、騎馬文書使の疾駆が不可能では、平時の報告/指示が滞り、また、治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、自治に任せていたことと思う。

*建安分郡
 後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。後に自立した東呉孫氏政権が、江南各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。因みに、「建安」郡は、後漢献帝建安年間のことなので、時代は「後漢」末期で、魏武帝曹操が宰相として、実質的に君臨していたと思われるので、まだ、東呉は、後漢の一地方諸公だったとも思えるが、このあたりの力関係は、後々まで不安定である。
 新設建安郡は、後に東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織・体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったので、会稽郡の傘下にあったとも言える。

*東呉自立の時代
 念を押すと、そのような建安郡の隆盛は、あくまで、東呉国内のことであり、曹魏には、一切関知しないことだったので、「魏志」には、建安郡の事情は一切伝わらなかったのである。それは、雒陽から会稽を経て東冶に至る道里行程が不明だったことでもあり、また、東呉領内の戸数も口数も、一切伝わらなかったのである。

 何度目かの確認になるが、三国志「呉志」は、陳寿の編纂したものではなく、東呉史官であった韋昭が編纂したものであることが、「呉志」に書き留められている。陳寿は、「三国志」全体の責任編纂者であるが、「呉志」は、いわば、陳寿の同志である遺詔が心血を注いだ「正史」稿であることが顕彰されているのである。そして、韋昭をはじめとする東呉史官は、後漢末の動乱期に洛陽の統治体制が崩れ、皇帝が流亡する事態にも、漢の威光を江東の地に維持した孫権の功績を顕彰したものであり、陳寿は、その真意を重んじて、三国志に「呉志」(呉国志)の全容を確保したものである。
 言うまでもないが、「呉志」は、東呉亡国の皇帝を誹るものでもなく、東呉を下した司馬氏の威光を頌えるものでもないのである。史官の志(こころざし)は、後世東夷の量り得ないものなのである。

                  未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 4/9 三掲

会稽東縣談義 1                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東縣談義 1
 陳寿「三国志」呉書及び魏書に、「会稽東縣」に関する記事がある。

 依拠史料は一つであり、呉書と魏書にそれぞれ引用されたと思われる。同一の記事のはずが一致していないので、関連史料の批判として、どちらが正確な引用なのか考察を加える。

 会稽は、江水と沿岸の交易から大いに繁栄したと思われる。経済活動に即して、会稽東部諸縣を監督する部署を設け課税したと推測される。そこで登場したのが、会稽東縣都尉であり、また、東呉に会稽東縣なる地区区分があったはずである。

会稽東縣 呉書
三國志 吳書二 吳主傳
 (黄龍)二年春正月(中略)
 遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,
 但得夷洲數千人還。

 呉書「呉主傳」が伝えるのは、呉主、即ち(自称)皇帝孫権が、衞溫、諸葛直の両将に指示して、兵一万人と共に、夷洲及澶洲を求めて、東シナ海に出航させた事例である。背景として、秦始皇帝時代に、方士徐福が亶洲に向けて出航し帰還しなかったが、現地で数万戸の集落に発展して、ときに、会稽に商売に来る、と挿入句風に「史実」を引用している。

 「会稽」は、郡名、つまり、郡治でなく、地名の会稽を指しているとみられる。引き続いた「會稽東縣」は、明らかに、南方の「会稽郡東冶県」でなく、会稽の沿海部と見られる。但し、筑摩版正史「三国志」では、呉書呉主傳の「會稽東縣人」を「會稽郡東部の住民」と解釈しているが、以上の考察に照らすと、誤訳に近いものである。

 ここで言う会稽は、南方東冶を含めた会稽郡を言うのではなく、著名な地名としての会稽の周辺なのである。

 いずれにしろ、当記事は、「魏志」の依拠する魏朝公文書には存在しないので、「倭人伝」に引用されるものではないのである。
 念のため再確認すると、「呉書」は、東呉の「正史」稿であったが、亡国時に司馬晋皇帝に献上され皇帝蔵書となったものであるから、魏朝公文書には、収録されていないことから、陳寿は「魏志」編纂にあたって、当該記事に依拠しなかったことが明らかである。但し、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、史官ではないので、東夷列伝「倭条」の編纂に際して自由に諸資料を活用したものと見える。

                 未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 5/9 三掲

会稽東縣談義 2                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東縣談義 2
 陳壽は、曹魏資料に依拠して魏志東夷伝をまとめたが、その際に、呉書に存在した東鯷人と夷洲及澶洲の記事を呉主傳から引用したかとも思われるが、そうであれば、あくまで例外である。あるいは、後漢が健在な時代に雒陽に齎されていた蛮夷記事かもしれない。いずれにしろ、不分明である。

三國志 魏書三十 東夷傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 東鯷人に関する記事の考察は、別項に譲るが、それ以外、魏書記事の「會稽東冶縣」と呉書記事の「會稽東縣」は、同一資料の解釈が異なったものであろう。

 同一編者の史書内の二択であるが、呉書の呉主傳は君主の列伝記事であって、本来の呉由来の史料を直接引用していると思われる。これに対して、魏書「東夷伝」記事は、この呉書記事を転用したものとも見え、そうであれば、その際に省略と言い換えが発生したもののようである。
 この判断に従うと、もともと「會稽東冶縣」はなかったのである。
 まして、陳寿にとって、「魏書」編纂に際して、魏朝公文書でないと思われる「呉書」を利用するのは、本来、禁じ手に近いのだが、時に、そのような引用もあったのかも知れない。もちろん、そうした推定は、あくまで「推定」であり、正確な事情は不明である。

後漢書 東夷列傳:   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

*『笵曄「三国志」』の限界
 陳寿「三国志」記事を利用したと思われる笵曄「後漢書」を忖度する。笵曄「三国志」など無かったのは承知の挑発である。

 笵曄が後漢書を編纂したのは、劉宋首都でなく太守で赴任した宣城(現在の安徽省 合肥附近か?)である。流刑でないので蔵書を伴ったろうが、利用できた「三国志」写本は、門外不出の帝室原本から数代の写本を経た「私写本」と思われる。笵曄は、劉宋史官の職になかったから、あくまで、後漢書編纂は「私撰」であり、西晋末に亡失したと推定される雒陽帝室書庫の後漢代公文書を直接参照したものではなく、先行する諸家後漢書を総括したものであり、また「三国志」を参照したとしても、帝室原本などではなく「私写本」であったのは言うまでもない。従って、官制写本工房による公式写本と異なり、私的な写本工房に過ぎないから、前後の校閲は成り行きであり、また、正字を遵守した「写本」でなく、草書体に繋がる略字を起用した速写の可能性もある。何しろ、実際の速写工程を見聞きしたものはいないから、どこがどう誤写されたか、推定すら不可能である。
 と言うことで、陳寿「三国志」は、笵曄から見て一世紀半前の公認史書、つまり、正史であるが、百五十年後の劉宋代に笵曄が依拠した「三国志」写本は、帝室原本に比較的に近い善本に由来したとは言え、西晋崩壊時の戦乱の渦中を経た後であり、個人的写本の継承中に、「達筆」の草書写本が介在した可能性もあり、それ故に、諸処で誤写や通字代用があったと懸念される。国宝扱いの帝室原本の厳正さとほど遠かった可能性が高いのである。

*笵曄造作説
 笵曄が後漢書を編纂する際の手元に、相互参照して校勘できる別資料があれば、笵曄は、当然是正したであろうが、こと、後漢代末期桓帝、霊帝期の東夷記事には、ほぼ完全に継承されている袁宏「後漢紀」、以外の散佚史書は、名のみ高い謝承「後漢書」、諸家後漢書を含めても知りようが乏しく、特に、東夷伝については、手元の陳寿「三国志」写本の後漢代参照記事に依存したと思えるのである。

 何しろ、劉宋当時の規制で、後漢献帝建安年間の記事は、「魏志」に属すると区分が決定していたので、後漢書「東夷列伝」「倭条」(倭伝)に書くことはできなかったのであり、「倭国大乱」の時代を霊帝代にずらし、卑弥呼共立をそれに合わせ、せいぜい前倒しすることで、辛うじて、霊帝代として収容できたのである。

 そのために、魏志倭人伝の記事が曲解され、魏明帝景初年間に、卑弥呼は途方も無い高齢とされたのであり、要するに、笵曄「後漢書」倭条の変節のために、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の解釈が曲がったのであるから、笵曄の罪科は深いと言える。

 この点、ほぼ同時代に、劉宋皇帝の勅命で「三国志」原本に注釈を施した裴松之が、ほぼ厳密に写本校正され継承された帝室/官蔵写本を参照し、史官として最善の努力を奮って冷静な解釈に努めたと思われるのと大きく異なるものである。

*美文、転載、節略の渦
 因みに、笵曄「後漢書」の本文である本紀、列伝部分は、諸家後漢書が残存していたので、これを整備し、美文とすることができたから、笵曄の文名は高いのだが、後漢書「西域伝」は、後漢雒陽の記録文書に対して大幅な改編を被っていることが、「魏志」巻末に完本が収録されている魚豢「西戎伝」との対比から明らかである。
 また、東夷列伝、特に、「韓伝」(韓条)、「倭伝」(倭条)は、陳寿「三国志」東夷伝を原典としていると見抜かれないように、原形をとどめない所引文になっているのである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 6/9 三掲

会稽東縣談義 資料                   2016/11/09 2023/05/04

         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。

三國志 吳書八 張紘傳:
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。

三國志 吳書十二 虞翻傳:
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」

三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。

三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。

三國志 吳書三三 孫亮傳:
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽「東部都尉」の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。「都尉」は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽「東部都尉」の所管する「會稽東部」なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、「會稽東部」は昇格して「臨海郡」となったとのことである。
 言うまでもないが、「都尉」は、当時の京師や東都の「みやこ」(都)を管轄していたものではない。郡太守の補佐役で、諸事を総ていた「地区総督」に過ぎない。「都」の字義は、「すべて」と解するのが常道なのである。

後漢書 東夷列傳
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。

 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」が、郡から狗邪韓国を経て、大海中の洲島を順次渡り越えて、末羅国に上陸し、以下、一つの島を往くと、理路整然と「倭」にいたっる行程を示しているのに対して、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、要を得ない節略を被っている。大倭王の居処を「邪馬臺国」と言い切り、其の国を楽浪郡の檄(南界)を去ること万二千里と書きつつ、楽浪郡檄の西北界は、狗邪韓国を去ること七千里と、誤解を招く視点の動揺である。因みに、「大倭王」と言うからには、「大倭」なる蛮夷が紹介された上でなければならないのだが、何の予告もされていないのであるから、不審極まりない。
 武帝創設の楽浪郡は、数世紀を経た後漢朝後期に到るまで、ほぼ一貫して東夷主管拠点であったから、このように、だれの眼で見ても混乱したと見て取れる報告を提出したとは思えないので、笵曄は、魏志「倭人伝」の剽窃という非難を免れるために、意図して、混乱して理解困難な記事としたと見えるものである。

*蔑称としての「臺」
 「邪馬臺国」の「臺」は、史家の聖典である春秋左氏伝によれば、大変な蔑称であり、笵曄の東夷蔑視を示しているものとも思われる。世上、笵曄の真意がこめられた蔑称を読み取り損ねているのは、不吉である。

後漢書 東夷列傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 脈略なく書かれているのは、断片的な風聞/伝聞記事であり、信ずるに足りないホラ話と見える。
 冷静に地図を見れば分かるように、確かに、会稽の東方は広大な東シナ海であるが、南に下った「東冶」の東方至近には、巨大な台湾の島影があり、なぜ、このような身近な異郷を見捨てて、その向こうの蛮夷である、国名も王名も方位も所要日数も不明、つまり、音信のない「夷洲及澶洲」に行こうとするのか不審である。

*揺蕩う「東夷」の心象
 むしろ、秦代の東夷は、山東半島東莱から見て、眼前に横たわる「海中山島」である朝鮮半島を指しているとも見えるのである。孔子の発言として伝わる「筏で浮海して到る東夷」にふさわしいのは、海船を要しない近場と見えるものである。「東夷」なる地理概念は、時代に応じて移動しているので、慎重な解釋が必要である。
 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 7/9 三掲

会稽東冶談義 1                    2016/11/09 2023/05/04

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東冶談義 1
 「冶」と言う漢字は、比較的珍しいものであり、今日でも、「冶金」と言う熟語で使用されている程度である。鉱石を焼いて精錬して金属を得るとか、鉄材を火で焼いて鍛錬して鋼材にするとか、「冫」(ニスイ)の示す通り、火の試錬(「試練」ではない)を伴う。

 「通典」の説くところでは、「東冶」は、「閩越」と呼ばれる地域で、秦時代は閩中郡とされた。漢の高祖がここに閩越国を設けて無諸を(劉氏ではない異姓の)王としたが、後に(他の異姓と同様に)滅ぼされた。住民が逃亡して荒廃したので、会稽郡の管轄下で「冶県」として再建を図った。「冶」とは、春秋時代末期西南の覇者となった越王(勾践及びその後継者)が、この地で鉱山開発して金属精錬を行ったことによる。後に、県名を二字にして「東冶県」と改めた。後漢は、この地域を会稽郡「侯官都尉」(総じて管轄)とした。その際、合わせて、東冶県を廃して侯官県としたかも知れない。

*宋書「州郡志」確認
 班固「漢書」には「地理志」があり、司馬彪「続漢紀」には「郡国志」があって、それぞれ大部の資料に漢代、後漢代の全国諸郡・県の改廃、統合、分離の異同が詳しく記録されているが、後漢末期の献帝代以降を記録する陳寿「三国志」は、同様の「志」を欠くため、会稽郡の動向については、呉書本紀から異同を知るしかない。但し、本紀は、各皇帝の治世を書き残しているのであるから、「異同」と言っても、郡の新設が大半であり、それ以外は不確かである。
 劉宋代の正史である沈約「宋書」州郡志が補填している面もあるが、劉宋代は、西晋の滅亡時の壊滅的な混乱で、雒陽に集積されていた歴代王朝の公文書が散佚してしまったので、「宋書」州郡志と言えども欠落が多いのである。
 いずれにしろ、これら「志」が貴重な情報源となっている。

 後に、会稽郡の南部を会稽南部都尉(管轄)とした。一旦会稽東部都尉の管轄となった後、会稽南部都尉と改定したと書かれている例もあるが、会稽東部は、後に臨海郡となった会稽東部地域という可能性が強い。

 後漢末期の建安年間、会稽郡が新興の孫策配下に入ったような戦乱期であり、中央政府も董卓の暴政/遷都騒動で混乱して、記録に乱れがあったようであり、確かなことは不明である。

 更に、会稽郡は、建康を首都とする孫権東呉の支配下に入ったが、中国の政権交代時の例に従えば、郡治以下の地方組織は、公文書類もろともに継承されたはずである。特に、東呉の場合は、後漢地方拠点が、そっくり自立したので、書類継承は、万全だったはずである。
 会稽郡の管轄地域変遷の経緯が判然としないのは、当時の正史たる後漢書にこのあたりの記事がないためである。

 肝心の「東冶県」すら、笵曄「後漢書」東夷列伝以外は、列伝の一箇所に、「東冶」と書かれているだけで、「東冶県」は見当たらない。正史に書かれていないのでは事情不明となるが、「会稽郡東冶県」と後漢の公文書に明記されていないのは、不審である。
 笵曄「後漢書」東夷列伝の「倭」記事が、後漢代の原史料によるものでなく、陳寿「三国志」東夷伝原史料の引き写しとすると、「後漢書」独自記事に「東冶県」は無いのではないか。
 と言うことで、元来、東冶は、建安郡の一区画であったが、劉宋代に県名でなくなったもののようである。
 
追記:                       (2016/11/15)
 都尉は、秦朝各郡に郡太守に次いで設置された「郡尉」が、漢景帝時に名称変更になったものである。帝国中心部諸郡では、各郡に都尉一名だが、会稽郡のような辺境の諸郡では、郡の東西南北を担当する都尉四名、例えば東部尉などを置いたとのことである。

 都尉は、官制で種々設けられていて「雑号」の感があるが、郡都尉が本来の「都尉」である。
 従って、上記会稽「南部都尉」は、漢時代以来続いていた衆知の官位のようである。
 案ずるに、東冶県あたりは、会稽郡治から見ると、峨々たる福建山塊に隔てられて、陸道を敷くことのできない遠隔の山系僻地であったので、半ば独立していたようで、郡の配下の県と言うより、ほとんど郡に近い状態であったと思われる。
 因みに、後世、唐代に、福州付近に「漂着」した遣唐使船の一行は、遠く京師(長安)に至る前段の会稽行路として、河川行「街道」を許可されたので、これを採用せざるを得なかったようである。一行に加わっていた空海(弘法大師)の残した記録で、河川行の経過を詳しく知ることができるようである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 8/9 三掲

会稽東冶談義 2                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/07

▢三掲の弁
 以下維持している「初稿」とは、若干論旨が変化しているが、別に転進しているわけではないのは、理解いただけると思う。
 以下の話の運びは、三国志を編纂した陳寿が、「魏志」倭人伝の編纂にあたって、「呉志」の会稽郡/建安郡記事を参照したと見た古田氏の論調に沿っているが、現在の当ブログ筆者の見解は、これに沿わないものになった。
 陳寿は、「魏志」の編纂にあたって、後漢から政権を継承した曹魏の公文書に固執しているのであり、東呉孫権政権の公文書記事が、曹魏に報告されていない以上、「呉志」の記事を利用できない、と言うか、参照しないのである。一方、「呉志」は、ほぼ全てが、東呉の史官韋昭が編纂した「呉書」が、東呉が司馬晋に降伏した際に、全巻上納されたものであるから、曹魏は「呉書」の内容を知り得なかったという「史実」が、厳然としているのである。
 と言うことで、「魏志」「倭人伝」に呉書/呉志の記事は反映していないのである。つまり、俗説に言うように、会稽郡東冶県の地理情報は、「倭人伝」に無関係なのである。

 念押しすると、陳寿は、「魏志」編纂にあたって、後漢/曹魏の公文書に記録された「史実」の継承に身命を賭していたので、曹魏の知らなかった東冶県の地理情報を書くことはなかったのである。

*笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」の不合理
 なお、笵曄「後漢書」は、先行する諸家後漢書の集約であり、本来、曹魏代の会稽郡地理情報は、収録できなかったものである。また、地理情報の典拠とすべき後漢書「郡国誌」も、会稽郡治への公式道里を示すのみであり、南方に隔絶した東冶県については、何も語っていない。また、陳寿「三国志」は、志部をもたないので、東冶県に関する記事は、呉志の本紀相当部分に書かれている分郡等の情報を記すのみであるから、東冶県の地理情報は欠けている。

 そのような史料しかないのであるが、笵曄は、史官の職務倫理に縛られない文筆家であり、「後漢書」東夷列伝「倭条」の編纂にあたって、依拠できる史料がないのに拘泥せず、陳寿「魏志」「東夷伝」を流用したのであり、その際、不注意にも、劉宋の高官として知悉していた「東冶」を採り入れたものと見えるのである。恐らく、笵曄は、禹の東治に基づく李斯の会稽「東治之山」の故事に疎く、小賢しく、「東冶」に訂正したものと見える。
 いや、史書に記録されていない「憶測」であるが、厳密に書誌考証に徹すると、魏志「倭人伝」に明記されている「会稽東治」が、笵曄「後漢書」に「会稽東冶」と誤記された原因は、合理的に絞り込まれるのである。老大家の武断とは、出来が違うので、混同しないでいただきたいものである。
 特に、笵曄が、後漢献帝期の東夷史料が存在しないにも拘わらず、「東夷列伝」「倭条」を造作した手口は、明々と示されるのである。

 以下紹介した古田武彦師の論義であるが、氏は、総じて「正史厳正」の立場に立っているので、笵曄に対して難詰していないが、当ブログ筆者は、掲題の両正史は、それぞれ、編纂者の執筆姿勢が問われるのであり、「正史厳正」と証されていない笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」に対する難詰を躊躇わないのである。

*初稿 2016/11/09 2023/05/04
 古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』に「東冶県」論が書かれている。古田氏説は、稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降である陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。同書の後続ページで笵曄「後漢書」編纂時点では、東冶県が会稽郡に復帰していたと推定して図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されたのは、会稽郡の広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の「東冶」には監督が行き届かないので、一旦「南部都尉」を設けた後、永安分郡となった。
 こうした事情で分離した「南部諸縣」を会稽郡に復元するだろうか。率直なところ、これは、根拠の無い憶測である。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのであるからねそれ以前の時代、古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったとは限らない。分郡以前に会稽郡「南部都尉」を設け、「東冶県」自身、既に「候官県」と改名され「会稽郡東冶県」はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、「東冶県」でなく「東冶」地域の意味合いであり、五県は、建安、侯官、漢興、南平、建平である。
 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、陳寿「三国志」自体、ないしは、依拠資料の引用と見られる笵曄「後漢書」東夷伝記事以外では、東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、後漢~魏朝公文書以外に依拠できないから、仮に、呉書記事を参考にしても、県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 端的に言うと、陳寿「三国志」魏志/魏書で、東冶県の書かれている記事は無く、いわば、「圏外」である呉志/呉書に登場するだけなのである。要するに、魏志は、雒陽の曹魏政権が支配していて、現地から、戸籍が報告され、地方機関から報告が上申されていて、魏帝が承認し、公文書に記載された事項に限定されるのである。
 つまり、魏朝にとって、東冶は、存在しない地名であるので、魏朝正史を編纂した陳寿が、倭人伝において、「倭人」の領域を雒陽読書人に報告するのに、魏代に圏外であった「東冶」を起用するはずがないのである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、陳寿「魏志」倭人伝の記事は「会稽東治」であり、「東冶」でなかったという点は、かなり/断然分のある議論と思う。

*追記~2023/08/07
 以上の筋道は、その後、沈約「宋書」州郡志の会稽郡南方地域の地理/道里記事を確認した結果によって裏付けられたのである。
 笵曄は、劉宋の高官であったから、後漢末期以降、東晋代に到る当該地域の地理情報を十分把握していなかったにも拘わらず、暢気に会稽東冶と書いてしまったようである。笵曄にすれば、厖大な西域伝記事に比べて、内容に乏しい東夷列伝「倭条」に彩りを添えたつもりなのだろうが、それは、史官の本分に反しているのである。

             未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 9/9 三掲

会稽東冶談義 3                   2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東冶談義 3
 本筋に戻って、「会稽東冶」談義であるが、洛陽首都の魏朝及び西晋朝時代の史書としては、過誤と言うほどのものでなく、排除できないと思うのである。ただし、 「会稽東治の東」と書かれている史料を、「東治」の由来を知らないからと言って、そして土地勘があるからと言って、「会稽東冶」と書き換えた笵曄「後漢書」東夷列伝は、粗雑である。

*「首都」の起源
 因みに、「首都」は、魏文帝の詔書に基づく「造語」である。文帝曹丕は、後漢末の動乱期に、後漢皇帝が、雒陽、長安と移動し、以後、鄴、許都と曹操の庇護下に有ったこともあって、皇帝の詔勅が、これらの「帝都」に発していることから、魏帝国において、過去の「帝都」は依然として有効と認めるものの、あくまで『「首都」は雒陽である』と宣言したことに由来しているものである。
 つまり、「帝都」とは、皇帝の宣詔に書かれる発信地点であり、時に、雒陽は「東京」(とうけい)と呼ばれていることから、長安を「京師」、「京都」(けいと)と呼び続けたかどうかは別として、中国の底流に周制が生き続けていたとわかるのである。それが、「禅譲」の意味である。

*笵曄「後漢書」再考
 以下、史料批判として邪道であるが、「三国志」に投げかけられた疑惑との公平を期すために「後漢書」の危うさを指摘する。
 劉宋時代に編纂された笵曄「後漢書」は、「反逆の大罪」で実子共々死刑に処せられた大罪人の著作であり、唐代章懐太子の注と集大成を得て正史の一角に浮上するまで、南朝に限っても、劉宋、南斉、梁、陳と進み、続いて、統一王朝隋に取り込まれるまで、時の変遷に伴い、「私撰」史書が個人的に写本、継承されていく中で、絶対正確に書写されたかどうか不明である。

 特に、東晋に始まる六朝時代は、西晋期まで維持されていた「書写の伝統」が、南方への逃避の際に壊滅的に損傷した可能性があり、かたや、細部が省略された草書風の「略字体」が実務面で普及していたので、個人的な写本は、さほど厳格に行われなかったのではないかと、大いに懸念される。

 章懐太子の注釈時には、整然とした「正字体」写本が供されたであろうが、一度、「略字体」で写本されて、細部が変質したとすれば、正字体に戻したとしても、原文は復元できないのである。
 笵曄「後漢書」原文は、最終的に、唐章懐太子の注釈、集大成の際に廃棄され、笵曄原本どころか写本といえども残っていないので、実態はわからない。(結局、現存する誰も「笵曄原本」を目にしてはいないし、史上「笵曄原本」の登場する姿は、書き残されていない。これは、三国志の「陳寿原本」と根本的に異なる)

 またまた念押しだが、当ブログ筆者は、笵曄に深い敬意を表しているのだが、それ故に、笵曄「後漢書」の難点を率直に指摘し、火と水の「試錬」に供するのである。

この項終わり

2023年7月28日 (金)

今日の躓き石 岡上佑の古代史研究室 【ちょっと待てい!】支離滅裂?ここが変だよ!!魏志倭人伝その①【邪馬台国】

 【ちょっと待てい!】支離滅裂?ここが変だよ!!魏志倭人伝その①【邪馬台国】   Jul 28, 2023          2023/07/28

◯はじめに
 今回の題材は、YouTube動画の独演会であり、文字テキストがないので、引用・批評することができない。書評としないのは、そのためである。評点も付けられない。
 以下の当家所感が適切かどうかは、原本動画を視聴頂きたいのである。

*本論 
 いや、ここまで堂々と自嘲されると、大丈夫かなと心配になるが、一応、ご自分のことを「支離滅裂」というのは残念だと言っておく。
 要するに、古典史書を、ご自身の「視点」で読み解けないので、「反省会」気取りで、一々降参してみせているだろうが、それを、ご自身の「支離滅裂」さのせいだと「ぼけ」て見せて、古典的な一人「スラップスティック」のつもりなのだろうか。

 その端緒が、原文解釈に岩波文庫版の読解を使用しているのであり、これに、現代人の無教養な語彙、現代地図、などなど、倭人伝解釈に不都合な道具立てを多数起用しているが、氏の「失敗」の要因として、世上の俗説を参照して、具合の悪いものを使い立てているから、視聴者の耳には、わかりやすく、馴染みやすいかもしれないが、間違い必至の「必敗」法をまたもや確認いただいているように見て取れる。(地図に出典を書かないのも、自嘲しているのだろうか)

 いや、古典的なコメディ技法としても、ちょっと目先を変えているだけで創造性が見えないと思う。折角だが、お付き合いしかねる。

 また、氏の現代日本語の語り口は、古来の先賢諸兄姉には、重訳無しでは伝わらないものと見えるし、まして、原編纂者陳寿は、東夷蕃人に悪罵を浴びていても、理解しようがない。そもそも、「倭人伝」は、漫談でも「演義」でもなく、別に「ぼけ」ているわけではないから、氏が「ツッコン」でも、すべりまくりであろう。

 氏の動画の背景には、先賢諸兄姉の新書、文庫が見えるが、これら著作を「支離滅裂」のともがら/共犯者とされては、皆さん御不満と思うのである。

以上

2023年7月25日 (火)

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 1/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*三訂の弁
 当記事は、16ページの長尺に、書き足しがあって、結構字数が多いのですが、そこそこ閲覧頂いているようなので、少しばかり書き足して、三訂版としました。いくら書いても、いくら閲覧があっても、世間の「俗説」が減らなければ、とは思うのですが、手桶から柄杓一杯の水を打てば、打たないより世の中が潤うと思うので、微力を尽くすことにしました。

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。別の著者/著作の批判記事では、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を「でかでか」と公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのですが、本件は、敬意を抱きつつ、あえて批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、当記事での一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。とかく批評記事で饒舌になると、広げた風呂敷のほころびを言い立てられて「損」をすると思われるでしょうが、当方は、専門家でなく「素人」なので、「利」を求めているわけではないからして、特定の営利集団から、「百害あって一利なし」と指弾されても、むしろ本望なのです。

 塚田氏は、魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくのに際して、造詣の深い国内史料に基づく上古史論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点と、微妙に、あるいは、大きくずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりの「ずれ」が避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、「倭人伝」の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、くどいように見えても、背景説明に手間を惜しんでいません。
 どんな人でも、「知らないことは知らない」のであり、当ブログ筆者たる当方の自分自身で考えても、「倭人伝」の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を「倭人伝」に限り、考察の範囲を「道里」里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。
 長文の記事から批判をつまみ上げ/取り出して、「失礼、冒瀆」と悲憤慷慨、怒髪天を衝く向きには、いくら諄々と説いても、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は、少なくとも「三顧の礼」なのです。

 また、氏の「倭人伝」道里考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、倭人伝」の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。
 そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、『三世紀に「日本」は存在しない』との仕分けを図っています。丁寧に言うと、三世紀当時、交通、輸送、交信の維持できた範囲は、ほんの近場であり、海山を隔てた地域との「遠距離恋愛」ならぬ「遠距離締盟」、「遠距離征伐」は存在しなかった以上、「日本」なる概念は存在しなかったという見方です。もし、今述べたような批判が不成立だというご意見であれば、十分な論拠を持って批判頂きたいものです。

 このように、論義の有効範囲と前提条件を明確にしていますので、異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。

 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。

 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完           

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 2/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、『「倭人伝」など別に教えて貰わなくてもすらすら読める』という根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
 してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。
 氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、必然的に意味が異なる可能性があると見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、「文語」の背景となる厖大な素養のない(無教養な)現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。
(よくよく、人柄を審査し、意見の内容を確認しない限り、「全く」信用できないという事です)

 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「文意」を弁える「神経」がなければ、いくら苦言を呈しても耳に入らず、何も変わらないのです。大抵の論者は、ご自身の知性と教養に絶大な自信を持ってか、「鮎鮭」問題など意識せず、中国古代の史官の筆の運びを「自然に」「すらすら」と「普通に」解釈できると錯覚して堂々と論義しているのです。そういうご時世ですから、塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」ことになります。誠に、この上もなく勿体ないことです。

コメント:「倭人伝」に「日本」はなかった
 自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
 当然、「日本」は、洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝」は「日本」と全く無関係です。無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は、史学で言う「日本列島」、つまり、筑紫から纏向に至る帯状の地域を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、お耳ざわりでご不快でしょうが、よろしく趣旨ご了解の上、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように、既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、後漢中平六年(189)(霊帝没年)以来遼東の地に駐屯していた遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安九年(204)に、漢武帝が設置し、以来半島方面を管理していた楽浪郡の手の及んでいない「荒地」、郡に服属していなかった蕃夷領域を統治すべく、それまで同地域を管轄していたと見える「帯方」縣を、「郡」に格上げして、新たに「郡」としたのです。」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の「帯方縣」の中心と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。
 因みに、帯方郡が設立された動機は、半島南部の「韓」、「穢」のさらに南にあるとわかった「倭」の新境地を監督するためと見えます。丁寧に言うと、それまで、楽浪郡領域南端にあって東夷管理の実務に当たっていた「帯方縣」を格上げして、東夷と折衝する面目を与えたものであり、別に、遼東郡に並ぶ一級の郡としたものでは有りません。万事、遼東郡に報告し、指示を仰いでいたのですから、「倭人」のことは、後漢の中央政権の知るところではなかったと見えるのです。自然、帯方郡太守の俸給(粟)も、軍兵の食い扶持も、帯方郡内の賄いというものの、実際は、公孫氏の裁量範囲だったのです。

*「幻の帯方郡」論義
 言い過ぎがお気に障れば、お詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うのであれば、その出発点は、帯方郡の文書発信窓口ですから、ほぼ、郡治の中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
 ついでに言うと、正史の記録を確認すると、当時、遼東公孫氏が当地域を所領として自立同然であり、帯方郡を設立したとの通知は行われていなかったようです。つまり、郡治の位置は、公式に洛陽に届け出されていなくて、帯方郡が雒陽から何里とされていたかという「公式道里」は不明です。ですから、雒陽から「倭人」まで何里という公式道里は、当然、不明なのです。
 なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、楽浪郡の所在の移動には、全く関係なく保持されていたのです。つまり、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の(洛陽からの)「公式道里」は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」「郡国志」に記載されているものの、それは、漢代以来固定されていて、実際の「道里」、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。

*後漢書「倭条」の不条理
~2023/07/24
 加えて、楽浪郡から新設された帯方郡に至る「道のり」は、笵曄「後漢書」「郡国志」に記録が残っていないのです。それどころか、「郡国志」には「帯方縣」と書かれているだけで、帯方郡は載っていないのであり、後漢献帝の時代の公文書に「帯方郡」は存在しないので、笵曄の視点から言うと、帯方郡の所在は、本来幻なのです。言い換えると、笵曄が、「倭条」を書いた/創作した時、その手元には、確たる公文書史料がなかったと言う事を証しています。
 「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が、今日に至るも、不明/不確定なのは、そうした事情によるものなのです。

 念のため言うと、陳寿は、雒陽に所蔵されていた、後漢から引き継がれた魏代の「公文書」を「随時」閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡創設の際に所在地/(洛陽からの)「公式道里」を洛陽/献帝に報告していれば、皇帝の批准を得た「公文書」となっていて、三国志「魏志」の編纂の際に利用できた/利用するしかないのですが、「倭人伝」には、そのような「公文書」記載の帯方郡に至る「公式道里」は参照されていません。遼東公孫氏は、東夷に関して後漢献帝のもとに報告していなかったことは、陳寿「魏志」に明記されていますが、帯方に関しては、後漢代の事件でありながら、郡の設立すら洛陽に報告していなかったということです。

 恐らく、公孫氏時代の「倭人」文書は、景初二年八月とされる司馬懿の遼東討伐の際に全て破壊され、辛うじて、事前に魏明帝の指示によって楽浪/帯方郡から回収した地方郡文書が、魏の支配下の洛陽に届き、而して、皇帝の承認を得て、魏の公文書に記載されたものと見えます。

 つまり、笵曄「後漢書」東夷列傳の倭に関する断片記事「倭条」は、後漢公文書史料の裏付けのない憶測、ないしは、本来利用が許されない魏公文書の盗用ということになりますが、魏公文書の実物は、陳寿没後の西晋末、洛陽滅亡の際に喪われたと思われるので、百五十年程度後世である劉宋の文筆家笵曄は、一次史料である魏公文書そのものを見ることができなかったと見えます。
 と言うことで、笵曄「後漢書」東夷列伝の中で「倭条」は正当な史料根拠を持たないので、そこに書かれている記事は「信用できない」ということになります。正確な記事もあるかも知れないが、裏付けがないので、「倭人伝」記事を訂正する、ないしは、記事ないしは解釈を追加する論拠とできないということです。ご理解いただけたでしょうか。

*東方倭種談義
 「倭条」には、「倭人伝」で、女王居所の「南方」にあると明記され、熱暑とも見える風土、習慣などが詳述された「狗奴国」の印象を利用して、「倭」の東方にある「拘奴国」が創作されていますが、景初年間に帯方文書を回収し、倭使の参上を受入、正始年間(240-249)には「倭」に魏使を送った魏代においてすら詳細不明だった「倭」の東方の「倭種」が、後漢建安年間(196 - 220)、つまり、正始年間の五十年以前に、郡に国使を送って、国名を申告していたと言うのは、「倭人伝」に対して、何とも、壮大な異論となります。

 「倭条」全体が、根拠の無い創作幻像としたら、その一部である「拘奴国」が、「史実」、つまり、「後漢公文書記録」の反映ではないと見るものでしょう。あえて、同意いただけないとしたら、明確な根拠を持って否定していただくよう、お願いします。

 さらに言うと、笵曄と同時代の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡の道里に関する付注をしていないことから、後漢書編纂時点において、帯方郡の所在/公式道里は不明だったことになります。因みに、その時点では、山東半島から朝鮮半島への行程は、劉宋の勢力外であり、また、先だって辺境を管理していた帯方郡は、楽浪郡共々滅亡していたので、劉宋から現地情報を確認することは不可能だったのです。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、「倭人伝」の視点、感覚は、三世紀中原人のものであり、二十一世紀の東夷である「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。
 因みに、なぜか、ここで、「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。
 論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて言うなら、後世語で「華僑」と言うべきでしょう。

 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 3/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*「日本」錯誤ふたたび
 中原人の認識には、当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り、「女王之所」のある九州島すら、その全貌は知られていなくて、壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在するものと見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。
 まだ「倭人」世界がよく見えてなかった、公孫氏の時代の帯方縣/郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は関係が不確かであり、要は、集団としての「倭人」は帯方東南に在って、「大海」(広大な塩水湖)を「倭」と捉えていて、そのような「倭」に散在する小島に存在する「国邑」だろうと見ていたと思わせるのです。恐らく、伊都が主導していると見えたことから、郡、つまり、公孫氏遼東郡の務めは、郡から倭までの文書伝達の規定日程を確定することにあったと見えます。

 時代が進んで、帯方郡によって「倭人伝」の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、史官として筋を通したに過ぎないので、ここに精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。

 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の『混濁した「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に霧散するでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」、さらには、「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては、言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が、今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
 そして、帯方郡の官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。

コメント:国数談義
 漢書の天子の居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、手軽に行き着くものではないのです。後漢書の天子の住まう洛陽すら、樂浪/帯方両郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、漢武帝以来の楽浪郡か後漢建安年間に武威を振るった遼東郡(公孫氏)の元に行っただけでしょう。
 何しろ、帝国街道は、要所に宿駅や関所が設けられていて、「過所」(通行許可証)を持たない蛮夷は、通行できなかったのです。もちのろん、道中の宿駅は、ただで宿泊させてくれるわけはなく、もちのろん、食料や水も得られないのです。「郡」の役人が、「過所」を持って随行すればこそ、洛陽までたどり着けるのです。いや、蛮夷は、道中で、随員共々かなりの厚遇を受けたとされていますから、ますます、郡官人の同伴は、不可欠だったのです。
最後のとどめですが、もし、蛮夷が、「勝手に」洛陽の鴻臚寺にたどり着いたとしても、所定の郡役人に伴われずに、つまり、事前の申請/許可無しに「勝手に」参上した蛮夷は、追放/排斥されるだけです。

 因みに、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の法と秩序を侮ってはなりません。
 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里
コメント:従郡至倭~水行談義
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って倭人伝の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。
 「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解しても勝手にお手盛りで、自前の問題を書き立てて、自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この問題に関して、落第者ばかりなのは、問題が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は、「倭人伝」として存在しているのです。

 「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「沖合に出て、海岸に沿って行く」との解釈は陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。
 「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地で、「沿って」 との解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら、却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。
 「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、「水行」は、以下の道中記に登場する『並行陸路のない「渡海」』概念を、適確に「予告」しているものと見るものではないでしょうか。

*冒頭課題で、全員落第か
 世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を前提としている事を見過ごしている、いわば、初心者の度しがたい「思い込み」による誤解による「落第」であり、「落第」を免れているのは「循海岸水行」を、意味不明として回避している論者だけのように見えます。
 つまり、郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して、一万里と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
 誤解を正すと、中原教養人の用語で「水行」は、江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。
 と言うことで、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。
 念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するように、道しるべのあるものではないのです。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、「不法」な海上船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者の一部が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断』は、一切関係ないのです。
 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より、「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
 因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。

*後世水陸道里~圏外情報 
 後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、水(道 道里)一千三百五十五(里)、陸(道 道里)も同様との「規定」から、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」と並行する陸上移動の「道のり」とは、「規定」上、同一とされていたのがわかります。(ここで言う、「水道」は、陸上街道「陸道」と対比できる河川行程を言うのであり、後世、「日本」で海峡等を誤称した「水道」でなければ、もちろん、飲料水などを、掛樋や鉛管で供給する「水道」でもありません。諸兄姉の愛顧されている漢和字典に、この意味で載っていなくても、古代(中国)に於いて、そのように書かなかった証拠にはなりません。ご注意下さい)
 両経路/行程を、例えば、縄張りで測定して、五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上街道を一千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道(河川交通)に「規定」として適用されていたことがわかります。
 要するに、「倭人伝」道里は、当時意味のなかった測量値でなく、「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。

 補足すると、並行街道がない」というのは、『「騎馬の文書使が走行できる」とか、「武装した正規兵が隊伍を組んで行軍できる」とか、「四頭立ての馬車が走行できる」などの要件を「全長に亘って」満たす「街道」』が設置、維持できなかった/されていなかったと言うだけであって、崖面に桟道を設けるなどの苦肉の策で細々と荷役する「禽鹿径」が存在したという可能性は否定していないと言うか、否定しようなどないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 4/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*重大な使命~Mission of Gravity
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。
 「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。

 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を百千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事でも落命するのです。
 ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。

 これに対して、後ほど登場する海峡「渡海」は一目散に陸地を離れて、前方の向こう岸を目指するのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も把握していて、日々の潮の具合もわかっていて、しかも、しかも、日常、渡船が往来している便船の使い込んだ船腹を、とことん手慣れた漕ぎ手達が操るので危険は限られているのです。その上、大事なことは、他船であれば、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でもできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき並行陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。
 ついでに言うと、渡し舟は、朝早く出港して、その日の早いうちに目的地に着くので、船室も甲板もなく、水や食料の積み込みも、最低限で済むのです。身軽な小船なので、荷物を多く積めるのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には、橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。
 東夷で海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、『以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言』なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)
 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに「限り」使う「限り」は、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、倭人伝道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の劉宋史官裴松之も、「倭人伝」道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 ここで、正史たるべき、倭人伝」で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」、「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていない』のです。
 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、「歷韓國乍南乍東」は、「官道に沿った韓国を歴訪しつつ、時に進行方向が、道なりに、東寄りになったり、南寄りになったりしている」と言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ「俗説」を理性的に否定していて、大変好感が持てます。文献解釈は、かくの如く「合理的」でありたいものです。

 高名な先哲が、二千年後の無教養な東夷であることを自覚せずに、三国志に書かれていない「陰謀」を「創作」して、「西晋代の陳寿が、後漢代の記録にまで遡って、魏朝の記録に干渉/改竄/捏造し、あり得ない道里記事をでっち上げた」と弾劾しているのと大違いです。

 子供の口喧嘩でもあるまいに、「高名な先哲」は、弾劾には「証拠」提出の上に「弁護」役設定が不可欠であり、『根拠の実証されていない一方的な非難は「誣告」とよばれる重罪である』のを見落としているのですから、氏の厳正な姿勢には、深甚なる賛辞を呈します。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 5/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。
 おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳では、三世紀人に通じないのです。
 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道で「地を這ってでも測量できる」のです。とは言え、倭人伝など中国史料で道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、魏志で、六倍近い「間違い」が「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、心理的な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄されたという途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、馬晋と引き継がれた(東京=洛陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。

 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から洛陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継した魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。
 恐らく、遼東公孫氏が撲滅され、公文書類が破棄されたのと別に、明帝の指示で、楽浪/帯方両郡を、皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、洛陽にもたらされたものと見えます。
 魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、洛陽公文書に囚われずに洛陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略から、どの程度資料引用したか、不明と云わざる吠えません。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」、つまり、「さらに」、つまり、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅を持って、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から、皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に、新規参上東夷統轄の権限を与え、韓、倭、穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。

 つまり、「郡から倭人まで万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に報告した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に急使を派遣して即刻参上せよと文書を発しようとしたものの、記録から、郡から発した文書が倭人に至るのは、四十日相当であると知って、「郡から倭人まで万二千里」が、実際の行程に基づいた実道里でないと知って、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。
 つまり、「郡から倭人まで万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の端子の以降の再外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。万事、景初の帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志を編纂したのであり、創作したのでは「絶対に」ないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。

 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。(班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます)

 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

*舊唐書 萬四千里談義~余談
 因みに、後世の舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。
 もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後「目的地」が移動しても、公式道里は、不変なのです。
 客に言うと、当初、公孫氏が「従郡至倭」万二千里と設定した後、出発点が、遼東郡、または、楽浪郡から帯方郡に代わったとしても、到着先が、伊都国(倭国)から、女王国(倭国)に代わって、國王の治所が変動しても、それぞれ、公式道里には、一切反映しないのです。舊唐書編者は、倭王之所までの行程道里は、当時の首都洛陽であったに違いないとの高度な解釈をしたのかも分かりません。何しろ、倭人伝以来、東大までの間には、天下の西晋が、北方異民族によって滅亡して、洛陽が破壊蹂躙され、辛うじて南方に逃避した東晋の権威は、以下継続した南朝諸国に引き継がれたものの、北朝魏が南朝最後の陳を破壊蹂躙したので、唐代以降の「倭人伝」道里記事の解釈が、正当なものでなくなっていた可能性はあるのです。

*「歩」「里」 の鉄壁
*「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、日々の市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は、「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。
 世に言う「ハードル」は、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら、迂回して回避するなり、突き倒し、蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒すこともできず、乗り越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。
 因みに、ここで言う「歩」は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ、450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって固定だったのです。
 例えば、洛陽の基準点から遼東郡治に至る「洛陽遼東道里」は、一度、国史文書に書き込まれ、皇帝の批准を得たら、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の異なる意味を抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。
 三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は、「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。
 「倭人伝」は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて、解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたものの、現代人は、日本人も中国人も無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙」です。因みに、当時「紙屑」、つまり、裏紙再使用のできる公文書用紙は、大変高価に買い取り/流通されたので、今日思う「紙屑」とは、別種の、むしろ高貴な財貨だったのです
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、咀嚼もせずに、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 6/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里四百三十㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、五十㍍刻みの四百五十㍍程度とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩は百五十㌢㍍程度、一尺は二十五㌢㍍程度で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。
 魏志「倭人伝」の道里では、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、二十五㌢㍍の物差は、精密に制作できますが、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、四百五十㍍の物差は、制作不可能です。せいぜい、縄で作るくらいです。

 いずれにしろ、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て、海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。ここまで海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説の踏襲であり同意できません。「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。
 また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業~陳寿復権

 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。

 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を、実里数に基づいているとみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかないので、全く無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで、早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、無知/無能な史官の替わりはいくらでもいたのです。

コメント:對海国談義
 暢気に、「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないとおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」であり「見なれない」文字です。

 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。逆に言うと、単に、海中山島と言えば、半島の可能性が高いのです。山東半島から北を眺めたとき目に入るのは、山中海島、東夷の境地であり、朝鮮/韓を半島と思い込むのは、後世人の早合点であり、ある意味、誤解となりかねないのです。

 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。気軽に渡り継げるのは、流れに浮かぶ中之島、州島です。
 因みに、倭人伝道里記事の報告者は、対海国から一大国の渡船が、絹の綾織りのような水面「瀚海」を渡ったとしているので、波涛などでなく、穏やかな渡海であったと実体験を語っているものと思わせます。

*大海談義~余談 2023/07/25
 「大海」も、大抵誤解されています。倭人伝では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」(裏海)も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 くれぐれも、「大海」を「太平洋」(The Pacific Ocaen)と決め付けないことです。そもそも、対馬海峡も日本海も、太平洋ではありません。むしろ、現代地図で言うと、東西の瀬戸の隘路に挟まれた「燧灘」が、いちばん大海の姿に近いものです。何しろ、塩水湖なのです。ただし、燧灘は、九州北部にあるわけではなく、むつかしいところです。
 琵琶湖は、淡水湖なので、端から落第です。宍道湖は、塩水湖ですが、対岸が見えないほどに大きくないので、外れます。となると、後は、有明海ぐらいになりますが、有明海は、筑紫を呑み込むほどではないので、疑問です。

 結局の所、三世紀当時、景初二年時点で、帯方郡から見て、対馬海峡の海水面がどこまで広がっていたか、皆目分からなかったから、現代地図を見ても、その視界は窺えず、伊都国の向こうは、臆測しかできなかったと見るものでしょう。倭人伝の地理情報が理解しがたいのは、書いている方がよくわかっていなかったからなのです。そして、後世の東夷現地人が、自分の豊富な土地勘で補っても、見当違いになるのです。

 それにしても、「大海」が韓国の東西にある「海」と繋がっているとの記事もなく、どうやって、海から大海の北岸に至るのかも不明です。
 現地地図など見なければ、「倭人伝」の文字情報だけで陳寿の深意を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)
                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 7/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*「方里」「道里」の不整合
 詳細は略しますが、この表現は、その国/領域の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。
 要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように適切な解に落ち着くのです。この順当/適切な解釈に、心理的な抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。現代風に云うと「メンタル」不調です。
 塚田氏が想定されている「方里」理解だと、一里百㍍程度となり「短里説」論者に好都合なので、文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。情緒と情緒の戦いでは、合理的な解釋が生まれるはずがないのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*「倭人伝」再評価
 「倭人伝」は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身がその陥穽に落ちていると見えます。

 そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭

コメント:産鉄談義

 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された穴あき銅銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、韓、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ銭がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で農民達は税を銅銭で納め、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成して、使い切れずに眠っていたと書かれています。
 戦国時代の諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って、皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させたことを示しています。
 農作物の実物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は、米俵の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ、食糧輸送は、帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して、統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されていますが、秦代以来、何らかの全国通用の運賃基準が制定されていたはずです)

 それはさておき、共通通貨がなければ、市での取引は物々交換の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは、大変不便です。
 それでも、東夷で市が運用できたのは、東夷では商いの量が少なかったという趣旨です。商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないのです。いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量穴あき銭が必要であり、それが、大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家

コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、「倭人伝」原本には、南宋刊本以来「邪馬壹国」と書かれていて、どこにも「邪馬台国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想(イリュージョン)であり、無学な現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑
 当節、「架空地理論」というか、『衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している』向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。
 当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、現代の地図データ提供者の許諾する保証外のデータ利用であり、どう考えても、「地図データの利用許諾されている用法を逸脱している」と思われますから、権利侵害であるのは明らかです。
 塚田氏は、「架空地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、「壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように「原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。
 塚田氏の論理も、全体部分に誤解があれば、全体として誤解とみざるを得ないのです。氏自身、「方里」の記法が正確に理解できていないと自認されている以上、そこから先に論義を進めるのを保留されることをお勧めする次第です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 8/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*對海國談義
 ついでに言うと、對海國方里談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方里」表現するのは、「對海國」の国力を表現する手段として、「重ね重ね不合理」です。帯方郡が、皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が、「一切」見られないのです。
 そうでなくても、山林ばかりで農地として開発困難(不可能)な土地の広さを示して、何になるのでしょうか。「對海國」の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。
 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、なぜか、「山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている」高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。東夷傳に記載されているということは、「方里」に何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、東夷伝原資料に書き込まれていたものと見えます。
 といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。

 さらに言うと、郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、本来、無意味なのです。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 「誤解」は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。ほんのお隣まで出向いて、「市場」で゛食料などを仕入れて帰還したと見るものでしょう。
 そのように「誤解」すると、一部史学者が、現地まで出向いて、わざわざ因縁を付けたように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して、米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから、結構な収益があったはずです。
 当時、狗邪韓国が、海港として発展したとは書かれていないので、自然な成り行きとして、狗耶海港には、對海國の商館と倉庫があり、警備兵が常駐して、一種、治外法権を成していたと見えます。狗耶が、倭の北岸と呼ばれた由縁と見えます。

*免税志願
 ただし、標準的な税率を適用されると戸数に比して、良田とされる標準的農地の不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。また、漕ぎ船運行と見える海峡渡船で、大量の米俵を送るなど、もともとできない話なので、對海、一大両国が欠乏しているのに、さらに南の諸国から取り立てるのは、金輪際無理という事です。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのですと見事な洞察です。
 私見では、倭人伝道里記事は、「魏使の実地行程そのものでなく」、魏志の派遣に先立って、行程概略と全体所要日数を皇帝に届けた「街道明細の公式日程と道里」と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので、道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は、魏使が奈良盆地まで足を伸ばしたと、予め、特段の根拠無しに決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を通過経路外とできないので、割り切れていないようです。
 この「決め込み」は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。
 資料の外で形成した思い込みに合わせて、資料を読み替えるのは、曲解の始まりではないかと、危惧する次第です。
 このあたり、「倭人伝」の正確な解釈により、行程上の諸国と行程外の諸国を読み分ける着実な読解が先決問題と考えます。

 氏が、こじつけ、読替えなどを創出する無理な解決をしていない点は感服しますが、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国は、倭人伝に於いて、『「余傍の国」と「明記」されている』と理解するのが、順当としていただければ、随分、単純明快になるのです。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し、圏外として除外します。
 「倭人伝」道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 9/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、後世の魏使が通過した国々を紹介した記録が、当初提出された代表的な諸国行程を列記した記録に付け足されたと見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので「余傍」記録を棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めた」と明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。五万戸の大国「投馬国」に至る長期の行程の詳細に触れず、現地風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を一旦廃棄すべきです。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 魏志で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、倭人が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。

 本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、交通不便な遠隔余傍の国の戸数などは、責任持てないと明言しています。

 となると、「可七万余戸」が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では「国邑」、「王之治所」に七万戸はあり得ないのです。
 殷周代、国邑は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には広域単位として「邦」が使われたようですが、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。倭人は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、気を確かに持って、「国」の意味を個別に吟味する必要があります。

*「数千」の追求
 因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と零の間に位置する二千五百であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。とかく、大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、『史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしている』のです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
 そうなっていないということは、倭人伝に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で千戸単位の端数は、無意味なのです)

*「余戸」の追求~「俗説」への訣別/哀惜
 塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。先行論考は、「餘」の解釈で大局を見誤っている例が山積していて、歎いていたところです。

 つまり、(投馬)五万余と(奴)二万余を足せば、ピッタリ七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に対応/適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決めているのです。
 俗説」では、余戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、倭人伝内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るべきです。
 また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。
 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
 案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が、頑として、不合理な「俗説」にこだわるからで、これは学術論でなく、子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。信用を無くすので、さぞかし名残惜しいことでしょうが、早々に撤回した方が良いでしょう。
                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 10/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
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d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められました。当方の議論で、本筋に無関係として取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。

 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、邪馬壹国に至る最終行程を、端から「水行十日、陸行三十日」、「水陸四十日」行程と認めている点であり、ここまで、着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱状態で、強引に異論を裁いているので、傾いているのは異論の論点か、ご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字/文書がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。そのような「巨大な不合理」をよそごとにして、先賢諸兄姉が「倭人伝」解釈をねじ曲げるのは、痛々しいものがあります。
 要するに、「広域古代国家」は、三世紀の世界に存在できないのです。
 してみると、「広域国家」の権力闘争で、血塗られた戦いが「長年」続くの「大乱」も、全くあり得ないのです。

 それはそれとして、明解な解釈の第一段階として、水陸四十日」は、郡からの総日程と見るべきです。
 かくして、「女王之所」は、伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。それなら、騎馬の文書使が往来しなくても、「国」は、討議できるのです。「諸国」は、月に一度集まれば良く、その場で言いたいことを言い合って、裁きを仰げば良いのであり、戦って、言い分を通す必要はないのです。どうしても、妥協が成立しないときは、女王の裁断を仰げば、「時の氏神」が降臨するのです。

 中国太古では、各国邑は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷に、臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」が完結していたと見られるのです。

 要するに、「倭人伝」で、伊都国は、中国太古の「国邑」形態であり、千戸単位の戸数が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の「国邑」で、「大海」を外郭としていることが、山島に「国邑」を有していると形容されていたのですが、それは、伊都国にも女王国にも及んでいるのです。

 それに対して、余傍の国」は、国の形が不明で、「国邑」と呼ぶに及ばず、戸籍も土地台帳もなく、戸数が、度外れて大雑把になっていると見えるのです。丁寧に言うと、ここで論じているのは、陳寿の眞意であり、帯方郡の報告書原本を、中原人に理解しやすいように、内容を仕分けしていると見るものです。何しろ、全戸数「七万余戸」の前提と行程の主要国が一千戸単位の「國邑」とをすりあわせると、「余傍」で事情のわからない二国に、七万戸を押しつけるしかなかったと見えるのです。

 と言うように話の筋が通るので、遙か後世の倭人末裔が「中国史書の文法」がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。

 氏は、突如論鋒を転換して、「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。と述べられたのは、誠に意図不明です。

 作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは、取捨して編纂することにより「倭人伝」に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する「読者」、つまり、同時代知識人に深意を伝えたものなのです。この程度の謎かけは、皇帝を始めとする同時代知識人には「片手業」であり、「読者」に分かるか分からないか、後世の無教養な東夷が心配することでは無いと思うのです。

 因みに、私見ですが、道里記事の解釈で、一字の違いは、「読者」に重大な意義を伝えているのであり、「わずかな違い」と断罪するのは、二千年後の無教養な東夷の思い上がりというものです。

*先入観が災いした速断
 放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。

 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。遥か後世人が、そのような深謀遠慮を察することは「不可能」ではないでしょうか。
 多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから、素人考えの泥沼に陥って、混乱しているのではないでしょうか。
 そして、氏は、どのような具体的な根拠で、放射式記述説のどの部分を、どのように否定しているのでしょうか。誠に、不穏当で、氏ほどの潤沢な見識、識見にふさわしくない、悪罵のような断定です。

 当ブログでは、論者の断定口調が険しいのは、論者が、論理に窮して悲鳴を上げている現れだとしていますが、氏が、そのような「最後の隠れ家」に逃げ込んでいるのでなければ、幸いです。

 何度目かの言い直しですが、当時の「読者」は、文字のない、牛馬のない「未開」の国で、途方も無い遠隔地の「女王国」から「伊都国」を統制することなどできない」と明察するはずであり、「倭人伝」の主題は、「伊都国のすぐ南に女王国がある」という合理的な倭人の姿と納得したから、「倭人伝」はこの形で承認されたと解すべきなのです。

 「古代国家」(古代史論の場では、かなり不穏当な用語ですがご容赦ください)運営には、緊密な連携が存在すべきであり、存在しないと連携そのものが、そもそも成立しないし、維持できないので、「伊都国」と「女王国」の間に、「水行二十日」などと、倭人伝独特の「渡船、即ち水行」との表示すら踏み外していて、所要日数が不明瞭/長大で、行程明細の不明な道中が介在するなどは、端からあり得ないとみるべきなのです。
 「倭人伝」冒頭で語られているように、以下、行程記事に語られる主要国は、太古、中原諸国の萌芽状態であった「国邑」と同様の姿であり、精々、千戸台の「国」であって、但し、孤島の場合は、周囲に「都城」を設けていないとされています。あるいは、伊都国は、周囲に、都城ないしは隔壁を持っていて、「女王国」は、伊都国の保護下にあったとも見えます。
 因みに、伊都国以降に書かれている奴国、投馬国は、数万戸を擁する巨大な「国」であり、明らかに「国邑」定義を外れていると思われますが、倭人伝道里記事の要点ではないので、行程明細とともに、深入りしていないものと見えます。

 それは、反論しようのない強力無比な状況証拠であり、感情的な反証では確固たる「状況証拠」は、一切覆せないのです。

 一度、冷水を含んでから、ゆるりと飲み干し、脳内の温度を下げて、穏やかな気分で考え直していただきたいものです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 11/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*自縄自縛
 先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは、お言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、どんな権威者でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓めるものであり、それに気づくのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。
 「放射行程説の自己流解釈の破綻」について、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。論争では、接近戦で敵を攻撃しているつもりで、自身の鏡像を攻撃している例が、ままあるのです。所謂「おつり」が帰って来る状態なのです。

 素人目には、倭人伝記事は魏使の実行程と「早計で見立てた」上で、魏使は投馬国経由との根拠の無い「決め込み」が、明察の破綻の原因と見えます。大抵の誤謬は、ご当人の勝手な思い込みから生じるものなのです。
 いや、それ以前に、倭人伝道里記事は、下賜物を抱えた正史魏使の行程とみる先入観が災いしているのですが、多分お耳には入っていないでしょうから、ぼやいておくことにします。

 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、「洛陽人にとって明らかに到達不能に近い遠隔三地点であって、非常識で実現不能と見えるように書いている」わけはないのです。
 すべて、この良識に基づく『結論』を踏まえて、必要であれば、堂々と乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆す論者の重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしか、合理的な説明が思いつかないというのなら、結局、「思い込み」というものです。
 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、細かく書いていないという「倭人伝」道里記事の古来の解釈であり、直線的な解釈は、一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、魏使が女王国に至っていないとの軽薄な論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、奴国から投馬国までの国には行っていないように読めるというのに過ぎないのです。

 当ブログの見解では、倭人伝道里記事は、魏使派遣以前に皇帝に報告されたものであり、魏使が行ったとか行っていないとかは、記事に反映されていないと明快に仕分けしているので、残るのは、簡単な推定だけです。
 ちなみに、当ブログ記事筆者の意見では、倭人伝道里記事は、郡から倭に至る「公式道里」を書いたものであり、正史魏使発進の際の前提情報であって、魏使の報告は、行程記事に反映していないものと見ます。あえて言うなら、伊都国起点で書かれている、奴国、不彌國、投馬国の行程は、後日の「付け足し」とみても良いようと思われます。公式道里の明細で、諸国「条」は、要件を備えているのに、これら三国の「条」は、要件を欠いて、略載にとどまって許されているのは、要するに、行程道里外なので、重要視されていなかったためと思われます。
 と言うことで、本項の趣旨では、伊都国から先の記事は、後日追記された「余傍」なので、書法が異なっていると見るもので、あるいは、郡は、伊都国を代表として交信、往来していたと見えるのです。

 以上は、「倭人伝」から読み取れる真意の一案であり、氏に強要するものでは有りませんが、ご一考いただければ幸甚と感じるものです。

*道里行程の最終到着地
 「倭人伝」道里記事を精査すると、伊都国は「到る」と到達を明記されているのに対して、以下の諸国は「至る」として、到達明記を避けているので、伊都国が、道里行程記事の最終目的地という見解です。
 要するに、「倭人伝」記事には伊都国は、郡の送達文書の受領者であり、郡使が滞在する公館の所在地と明記されているので、郡太守の交信相手、つまり、現代風に言う「カウンターパート」は、伊都国王と言うことが、陳寿によって明記されていると見るものです。
 
 これを、氏がなぜか忌避する「放射行程説」なる論義と対比すると、実は、伊都国と女王居所の間は至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。一つの隔壁の中に、二つの「国邑」隔壁が同居していた可能性もあります。ただし、厳密に言うと、伊都国以降は「行程外」なので、「放射行程」説否定は意味を成さないのです。いや、榎一雄師の所説の根拠は、当時、伊都国が地域の政治中心であったというものであり、本説は、むしろ其の延長線上にあるものと考えます。
 この議論は、投馬国を必要としないので、恐らく、氏のお気に召さないとしても、ここで挙げた仮説は、基本的に氏のご意見に沿うものと考えます。

 なお、前記したように、「倭人伝」道里記事は、正始魏使に先だって書かれているので、魏使の実際の道中を語るものではないのですから、魏使が卑弥呼の居処に参上したかどうかは、この記事だけでは不明です。

*「時の氏神」
 私見では、倭人は、もともと、氏神、つまり、祖先神を共有する集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在し分社していったものと見ています。本来、各国間の諍いは、國王の意を承けた総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を持たない女王の裁きが起用されたものと見るのです。もちろん、女王の「出張」には限界があるので、女王の宿る「神輿」を送り出したり、所定の巡回地を「御旅所」として、地域の仲裁事を受けたのかも知れません。倭人伝の断片的な記事を想像力で膨らますとしても、この程度にしたいものです。
 一度、「思い込み」を脇にどけて、一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 国名列記の21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。(不可能という意味です)
 当時の漢字の発音は、ほぼ一字一音で体系化していて、「説文解字」なる発音字書に随えば、精密な推定が可能ですが、蛮夷の発音を、固定された発音の漢字で正確に書き取るのは、ほぼ不可能であり、あくまで、大雑把な聞き取りと意訳の併用がせいぜいと見えます。
 「九州北部説」によれば、後世国内史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。(割り引きすぎて、「タダ」になることもあり得ます)

 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と提唱内容の限界を明言されているにも拘わらず、「定則」の仮説を「定説」と速断して、自説の補強に導入した論者が多々みられるので、念には念を入れているものです。

 現代人同士で、文意誤解が出回っている』というのも、誠に困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、事実上不可能に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」チャレンジ対象と解される可能性があり、英日飜訳には、要注意です。

*カタカナ語~余談
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が、「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、「不快な驚き」とみられるのであり、現代日本語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。
 「うれしい」驚きは、誤解されないようにわざわざ言葉を足して「プレゼントサプライズ」(うれしいサプライズ)とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。
 少なくとも、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れ回る風潮は、情けないと感じている次第です。

 まあ、「Baby Sitter」を「ベビーシッター(Baby Shitterうんち屋?)」とするのも、かなり顰蹙ものなのに、そこから無理に約めて「シッター」(Shitter)うんち屋さん」と人前で口にできない尾籠な言葉に曲げてしまうのよりは、まだましかも知れませんが、今や、「シッター」が一人歩きして、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れまわっているのを目にすると、「現代語」に染まりたくないと切望する次第です。

 他にも、同様の誤用は、多々ありますが、以上に留めます。
                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」三訂 12/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*更なる余傍の国
 なお、里程記事で言う女王国以北というのは、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の諸国に限定されていることは自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。

 ということで、奴国、不弥国、投馬国に加えて、名前だけ出て来るその他の諸国は、倭人伝の体裁を整える添え物なのです。各国名は、帯方郡に参上したときの名乗りです。その証拠に、道里も戸数も国情も書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役、「国主」はいても、「国王」はいないのです。「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として固く約束しても、個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、帯方郡から見ると水面に浮かぶ泡沫(うたかた)ということになります。
 「倭人伝」では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。「倭人伝」では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希』では、大した権威は発揚できず、そのような「王位」が戦乱で争奪されるとは見えないのです。
 倭人は、恐らく、渡来定住以来、分家を重ねていたとは言え、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあいであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても、小さいなりに纏まっていたものと見えます。

 因みに、後ほど、女王は、狗奴国王と不和と書かれていますが、推測すると、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国に至る行程諸国であり、他は余傍でいいのです。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王
*狗奴条の起源
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

*衍文対応
《原文…自郡至女王国 萬二千余里
 この文は、狗奴条の趣旨に適合しないので、本来、前文に先だって、道里行程記事を総括していたものと見えます。按ずるに、小国列記の末尾に狗奴国を紹介したものと見たようですが、狗奴国は、女王国に「不属」なので、「狗奴条」を起こすものです。

*狗奴条の展開
 以上に述べた理由により、この部分の南方亜熱帯めいた記事は、九州中南部の狗奴国の描写と見直します。報告者は、後の張政一行と思われます。従来の解釈になれた方は、一度席を立って、顔を洗って、座り直して、ゆっくり読みなおすことをお勧めします。くれぐれも、画面に異物をぶつけないように、ご自制下さい。

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫
《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差

コメント:更なる小論
 甲骨文字は「発見」されたのではなく、商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の大量出現以前、「文字」が一切用いられていなかったとは、断定できません
 甲骨文字のような、厖大で複雑な形状の文字体系が採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、その間、公文書の一部に使用されていたと思われるのですが、後世に残された商代遺物は、ほぼ亀卜片のみであり、それ以外は、臆測にとどまるのです。
 因みに、初期の「漢字」は、商后が命じた亀卜によって得られた甲骨の亀裂から、得られた「神意」を読み解き、「字書」を蓄積したことから、長年を歴て形成されたものであり、人の保有する「文字」を神意に押しつけたものとは言えないのです。後代、「漢字」の形成に幾つかの法則が見出され、「説文解字」が集大成され、それが、今日常用される正字「書体」にまで反映しているとされていますが、「説文解字」編纂時に知られていなかった甲骨文字遺物の発見と解析により、「漢字」創生期の多大な労苦が、始めて解明されたと見えるのです。
 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。当時の教養人の常識であり常識に解説はないのです。
 ついでながら、「倭人伝」に示されているのは、倭人の境地は、禹が会稽した「会稽山」、つまり、「東治之山」の遥か東の方と言うだけであり、「越」云々というのは、見当違いです。

                                未完

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*沈没論義

 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」、「没」の恥辱は断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」、「沈」、「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。
 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里がであるなどとは、全く思ってもいないのです。まして、東冶県までの陸上道里は、全く知られていなかったので、だれが考えても、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。
 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された建安郡は、「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都、建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」はなく、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっていますから、もともと、会稽郡治から東冶県に至る陸上経路は存在しなかったとみるべきです。
 三国志「呉志」に「地理志」、ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」に書けなかったのです。晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代の編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論の万二千里は適用されず、「俗説」は、三国志全体を探っても書かれていない架空の道里に基づいていることになります。
 倭人傳に還ると、「来周知の会稽東治之山から見て、狗奴国は漠然と東の方向」になるらしいというに過ぎないことになります。道里を明記されている伊都国については、言及していないことになりますが、当然、漠然と東の方となるものと思われます。

*不可視宣言~存在しなかった呉書東夷伝~余談
 大体、魏の史官にしたら、東呉の領域内である会稽郡東冶県の具体的な所在は皆目不明であり、一方、位置不明の南方の史蹟「会稽東治之山」から見て、「倭人」なる僻遠の東夷の王之所在など、わかるはずもなく、知る必要もないと言われかねないのです。いや、だれが何をしても、到底東呉との関係は見えないのに、なぜ、臆測を言い立てるのか、と言う事でもあります。
 古来、そのような南方に土地が延びていれば、東呉領は、ほんの対岸だから、狗奴国ないしは書かれていない周辺の南方異国が連盟しようとした/実際に連盟したという「夢想譚」がもて囃されることがありますが、三国志は、東呉が降伏の際に献上した「呉書」が、ほぼそのまま「呉志」となっているように、東呉が狗奴国と連携していれば、「呉書」に書かれていて、臆測など必要がなかったのです。
 因みに、「呉書」に、南蛮伝、西域伝、東夷伝がなかったのは、ほぼ間違いなく、「俗説」は、臆測を担ぎすぎていると見えます。いや、そのようなことは、二千年前から、周知なのですが、倭人伝道里記事が、間違いだられけだと言うためだけに、担ぎ出されているようです。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の大半は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、洛陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、床下で薪を焚いて、家屋を温める暖房が必要な帯方郡管内、特に、小白山地付近の冬の寒さは格別でしょう。因みに、奈良県奈良盆地南部、吉野方面の寒さもかなり厳しいので、気軽に肌脱ぎなどできないのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の一千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、当該時代には、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行もできたでしょうが、太古の「日本人」は、命が惜しいので夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤もありません。また、三世記の半島以南に、まともな帆船もなかったのです。何しろ、当時の現地事情では、帆布、帆綱などに不可欠な強靱な麻が採れないのです。また、軽量強靱な木造船を造りたくても、鋭利な鋼(はがね)のノコギリもカンナもないのでは、軽量で強靱な船体は造れず、夢想されているような帆船の横行は、無理至極の画餅というものです。少なくとも、現地では、数世紀、時間を先走っているのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は高位の士人なので、軍兵と異なり、「野宿」とか軍人並の「キャンプ」「野営」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。まして、国家の郵亭制度が、無防備の「野宿」に依存するはずがないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので「外交官」は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と、果てしない野道を長駆移動することなど、あり得ないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、小数の魏使だけに絞れるはずがないのです。
 因みに、中国の史料で「実測万里」は登場しません。氏は、しばしば、中国文化を侮っていますが、魏使には書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は一日あればできるので間違うことはないのです。もちろん、帯方郡からの指示で、現地方位は、日々的確に知らされたものと思われます。大勢の論客諸兄姉が、中国文化を侮っていますが、遅くとも周代には、天文観測が定着していたので、東西南北を誤ることなどないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。
 そもそも、洛陽出発時には、主たる経由地の到着予定は知らされていたのであり、それだから、大量の下賜物を届けるという任務が成立したのです。行き当たりばったりでできる任務ではないのです。

 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。
 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。

 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見ている方がいて、後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。
 率直な所、いくら至尊の身とは言え、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行記事にダメ出ししなかったのが不思議です。
 いくら、毎日新聞の高名な編集委員が、不出来な思いつきで紙面を飾るというのは、大変なことですが、現にあったことなので、「前車の覆るは後車の戒め」として、何事も、思い込みにこだわらず、十分な「ダメ出し」をお勧めするのです。
 つまり、この下りは、纏向付近の記事として、誠に見当違いなのです。

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

コメント:無意味にごみ資料斟酌
 氏は、意味不明「固定観念」で想像を巡らしていますが同感できません。
 顕著な例として、原史料に明記されている「東治」を「東冶」に改竄するのは、文献考証として不用意で論外です。まして、原文記事を改竄して「思い込み」に沿えさすのは、百撓不折とは言え、重ねて論外です。
 この部分の地理考証は、素人目には、無意味な茶番です。

コメント:地理感覚迷走
 氏は、随分誤解していますが、当時の「中国」は現代のベトナムまで伸びていたので、「中国東南海岸部」は、会稽郡の南部を遙かに超えています。また、会稽郡の東冶県を含む南部は、早々に分郡して会稽郡から分離しましたから、当時の会稽は、古来の会稽そのものと見えます。
 いや、そんな細かいことに立ち入る必要は、まるでないのです。どのみち、魏志に魏の管轄外の東呉領域であった「会稽郡東冶県」がどうのこうのというのは、全くの的外れですから、陳寿が、魏志倭人伝に採用するはずがないのです。
 なお、「会稽」は、郡領域全体を指すものではなく、郡治を言うものです。古代中国の常識を無視してはなりません。

*使節団方向感喪失の怪
 また、当時の魏使が、揃って、容易に確認できる現地「方位」を誤解したとは、大した創作です。しかも、検証も何も無しに、今日まで絶滅を免れているのは、神がかりのようです。

 まず、魏使というものの、実態は、大半が帯方郡官人であり、中には、狗邪韓国あたりから参加した、通詞、案内人も含まれていたはずですから、四季を通じた太陽移動の変化など承知していて、子供みたいに誤解はしないのです。
 いや、現地の太陽の移動から、方位を知ることは、小学校理科程度の常識なので、「子供みたい」とは、子供を侮っていることになります。

 書かれているような誤解をするのは、小学校時代の知識を忘れ、野天で過ごしたことのない、現代文明人のいい年した大人でしょう。

 ついでながら、当記事では、伊都国以降の「余傍の国」は、除外していますので、議論する必要はないのです。

*「食卓」の振る舞い
 当時の中国では、食卓はあったものの、まだ、手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

コメント:邪馬壹国を九州に置く

 曲がりくねった言い回しで、氏は、何を言ったのでしょうか。
 参照している「混一彊理図」は文化財として美術的な意義はあっても、この場では「史料価値のないバチもの」であり、まして、遙か後世の産物なので、倭人伝考証に無用の「ごみ」(ジャンク)であり、さっさと却下すべきです。
 とうに博物館入りの「レジェンド」(骨董品)と思うのですが、なぜ、場違いの実戦に担ぎ出されるのか、気の毒に思います。

*風評混入
 ついでに評された流着異国人が、どのような地理認識をしていたか、地名認識の検証も何もされていないので、風評以下の確かさすら怪しいのです。また、南方と見える「出羽」が、実際はどこにあったのか、全く不明です
 氏は「史料批判」、「証人審査」を一切せず、持ち込まれた風評を、提供者の言いなりに、いいように受け取っているのでしょうか。食品見本の偽物食品にかぶりつくような蛮勇は、真似したくてもできません。まことに、まことに、不審です。

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 

*狗奴条の起源(再掲/重複)
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

b、倭人の南方的風俗とその文化~狗奴国査察記録
原文…其風俗不淫……貫頭衣之種禾稲紵麻……
 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾……
 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 再確認したように、この部分は、正始魏使の報告のさらに後年、恐らく、多数の軍兵を伴ったと見える張政の長期とも見える派遣、滞倭時の「狗奴国」査察記録/報告書の収録と見えます。
 その地を、「会稽東治」、つまり、高名な史蹟である会稽山に例えた後、亜熱帯とも見える南方的風俗を儋耳朱崖、つまり、遙か南方の海南島と狗奴国を比較したところで、狗奴条は完結したと見えます。
 もちろん、狗奴国に「文字」はないので、「文化」は、見当違い、失当です。ご注意下さい。

*郡による「和解」~当然至極な帰着
 言うまでもないでしょうが、狗奴国は、帯方郡の指導に反して、女王への反抗を続けたとは見えないので、両勢力は、「和解」したものと見えます。現地勢力の抗争が現地勢力によって和解できないときは、上位に当たる郡が、権力を振るって「和解」させるのであり、それが、郡の東夷管理の主務なのです。

*「倭地条」~「温暖」境地の紹介
《原文 倭地温暖……穿中央為貫頭 男子耕農……山多麖麈……食飲用籩豆 手食
本条は、世上言われているように、正始魏使の現地査察記録/報告と見えますが、注目すべきなのは、「倭地温暖」の形容です。つまり、厳冬と言える帯方郡の冬季風土と比べて温暖というのであって、ほんのり温かいというものであり、「狗奴国条」のように、亜熱帯というものではないのです。

コメント:幻の食卓
 氏は、隋書俀国伝の風俗記事を、あたかも、7世紀初めの飛鳥時代の飛鳥風俗と思い込んでいるようですが、圏外なので論評しません。

《原文…其死有棺無槨 封土作冢……挙家詣水中澡浴 以如練沐

コメント:封土作冢
 ここは、後出の卑弥呼葬送の段取りと重なるのですが、無造作に飛ばしています。「封土作冢」とは、棺を地中に収めた後、土で覆い、盛り土の「冢」とするとの意味であり、墓誌もなく石塚ともせず、簡素なものとわかります。また、周辺住民の労力で比較的短期間に完工する規模であり、故人没後に施行して、程なく埋葬できた程度と思量します。墓地は、代々の域内墓地であり、盗掘などの及ばないものであったと見受けます。つまり、過度な副葬品などないということです。

《原文…其行来渡海詣中国……謂其持衰不勤 出真珠青玉……有獼猴黒雉
《原文…其俗挙事行来…… 視火坼占兆 其会同 …… 人性嗜酒
 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
《原文…見大人所敬 …… 其人寿考或百年或八九十年

コメント:加齢談義
 「暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげた」とあるように、弁舌力が余ってか、古代人の心理を深読みする例がままありますが、素人としては、遺された史料から、よく、裴松之の意見がわかるものだ、神がかりだと感心しています。
 私見では、陳寿が史料とした採用しなかった魏略にこのような表現があるから、補追した方が良いのではないかとの提言のように見えます。
 古来、毎年元日に全員揃って加齢する習わしであるから、別に年齢を数えることに不思議はなく、文字がなく記録文書がなくても、何か目印でも遺していれば、自身や肉親の年齢はわかるのです。
 これは、春秋の農事祝祭に因んで、それぞれ加齢したとしても同様です。そのような習慣があれば、そのように記憶されるまでです。
 因みに、東夷が年月日を知らないでは、郡の諸制度に服属させることが困難なので、中国の暦制を指示していたと見るものではないでしょうか。

*識字力、計数力~地域住民管理
 但し、百に近い数字まで適確に認識するには、当時としては大変高度な教育訓練が必要です。一般住人が、幾つまで数えられたか不明ですが、三、五(片手)、十(両手)までが精々という者が大半の可能性があります。氏の示唆に拘わらず、各人が自身の年齢をちゃんと数えられたという保証はありません。現代でも、義務教育が十分行き届いていない国、地域では、十を超えると数えられない例が珍しくはないのです。
 恐らく、聚落の首長が、「住民台帳」めいた心覚えを所持していて、その内容を参照して、世間話として回答したのでしょう。戸籍調べは、徴兵、徴税の前提であり、容易に本音を漏らすものではないのです。
 何にしろ、計数管理は、郡として、早い段階で教育していたものと思われます。そうでないと、戸数を知ることは到底できないのです。

*戸籍を偽る
 例えば、戸籍上に老人が多く若者が少ないとすれば、戸数に比べて動員可能人員が随分少なく担税能力が低いことになり、徴兵、徴税が緩和されます。「未開、無文と言っても、無知ではない」ので、首長を侮ってはなりません。

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
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*誰の報告?
 言うまでもないですが、ここで色々言っているのは、現地で言葉が通じる者達であり、当時、ごく一部の上流家族を除けば、戸籍がない上に、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの本当の年齢は、当然わかるはずがありません。
 また、当時は、幼児や小児がなくなる例が多かったので、現代風の平均寿命(零歳新生児の平均余命)は、全く無効と思うのです。当然、「人口」も意味の無い概念であり、正しくは、「口数」ないしは「人頭」として勘定するものでしょう。要するに、地券を与えられて農地耕作を許可され/命じられ、収穫物の貢納を命じられている「成人男性」を数えるものなのです。

*場違いな引き合い
 倭人」の首長達は、ここで引き合いに出された「アンデス」や「コーカサス」を知らないので、文句を言われても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので、「倭人伝」の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に、最小限に留めるべきと信じているものです。
 そうでなくても、世上、俗耳に訴える「新書」類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで、善良な読者が躓いて転んでも、書いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、長く貴重な史書として珍重されたのですが、正史ではなかったので、千数百年の間に、写本継承の必須図書から外れ、散佚して完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用/佚文が残っています。佚文は、引用時点の所引過程で謬りや改編が発生しやすい上に、所引先の写本過程での誤写が、正史など完成写本と比べて格段に頻発しているので、魚豢「魏略」の本来の姿を留めているか、大いに疑わしいものです。顕著な例が、所謂「翰苑」現存断簡所引の「魏略」であり、ほとんど史料として信用できる部分が見られない始末です。
 ただし、「魏略」「西戎伝」は、全くの例外です。陳寿が、『意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」』の代用として、注釈無しに丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完璧な状態で、完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 魏略「西戎伝」は、実質的に後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に「幕府」を開いた後漢西域都護の活動を記録しています。後世の笵曄「後漢書」西域伝によると、西域都護は、後漢明帝、章帝、和帝期の西域都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の「安息」東部木鹿城(Merv)に、副官甘英を都督使節として百人規模の大使節団を派遣しています。安息の東部主幹「安息長老」は、漢との外交関係締結を委任されていて、遙か西方のメソポタミアの王都「クテシフォン」から漢使の到着地である木鹿城メルブ要塞は五千里の彼方でしたが、東西街道と騎馬文書使の往来で運用していたので、後漢洛陽から二万里の地点を「西域極限」と再確認できたのです。

 班固「漢書」「西域伝」は、諸蕃王の居処を、一切「都」と呼んでいませんが、中華文明に匹敵すると認めた文明大国「安息国」には、蕃王居城と隔絶した「王都」なる至高の尊称を与えているのです。
 と言っても、これは、漢代公文書を収録した後漢代史官班固の基準であり、後世、さらには、東夷の基準とは、必然的に異なるので、安直に参照するのは、誤解の元です。何にしろ、古典語法で書かれた班固「漢書」の用語は、唐代教養人に不可解であったため、隋~初唐の学者顔師古は、班固「漢書」地理志への付注で、ほとんど一文字ごとに「飜訳」記事を書き付けていて、如何に漢字の解釈が深遠であるか示しています。当然、古代史書は、一般的に現代中国人には読解不能なのです。ある意味、日本人と大差ないという事もできます。

閑話休題
 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞メルブに常設していましたから、西域都護は、後漢の西域支配に常習的に反抗する大月氏(貴霜国)を、両国の共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。(どこかで聞いた話しです)但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は、成立しなかったようです。
 安息国は、西方の「王都」「パルティア」がメソポタミアで繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、駐屯軍四万を置き侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方で、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国は、商業国であり、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、ギリシャに度々侵攻したのと、「国是」が異なっていたのです。

 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*笵曄不信任宣言~ふたたび、みたび
 笵曄は、後漢書「西域伝」で、両漢代西域史料には誇張があり、西方への進出を言い立てているが、実際には、安息までしか行っていない、条支には行き着いていないと達観していますが、一方、甘英が、遙か西方まで進出して、大秦に至る海港に望んだが、長旅を恐れて引き返したと創作しています。安息は、カスピ海の手前「海東」なので、確かに、甘英は、「大海」(カスビ海)対岸の「海西」条支(アルメニア)には行き着いてないのであり、大秦を目指したとされている地中海東部は数千里の難路の果てであり、カスピ海沿岸から遠くメソポタミアに至る領域を支配していた安息は、東方の異国である後漢の武官が、西方の王都を越えて、臨戦状態である敵国ローマの領分にまで進むことを許可することはあり得ないのです。当時、シリアは、ローマの準州となっていて、時のローマは、帝制に移行しても国是は変わらず、数万のローマ軍が常駐し、往年の大敗で、三頭の一角マルクス=リキニウス=クラッススを敗死させ、万余の兵士を戦時捕虜として東部国境メルブまで配流して終生東方の外敵に備えさせた「パルティア」への復仇と世界の財貨の半ばにも及ぶ「財宝」の奪取を期していたのですから、そのような敵との接触を許すはずがないのです。
 また、班超の副官が、そのような西方進出を「使命」としていたのなら、武人は、万難を排して「使命」を全うするのであり、正当な理由無しに「使命」を回避することは、死罪に値する非命なのですが、甘英が譴責を受けた記録はなく、もちろん、斬刑に処せられたことも記録されていないのですから、もともと、そのような進出の命令/使命は「なかった」のです。
 笵曄は、ここで、前項史書の縛りの少ない西域伝」に対して、明らかに史料(魚豢「西戎伝」)にない「創作」を施したのであり、これは、笵曄の遺した夷蕃伝は、史実を忠実に記録した史料として信ずることができない」ことを証しているものです。
 と言うことで、ここまで続いた余談は、実は、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」が、史実を忠実に記録した史料として信ずることができないと断罪する理由を示しているのです。当ブログ筆者は、著名な諸論客と違って、思いつきを、確証無しに大言壮語することはないのです。 

*魏志「西域伝」割愛の背景
 このように、遥かな「大海」カスピ海岸まで達した後、永列班超の引退に伴い、後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略な所引の目立つ范曄「後漢書」西域伝を越えて、同時代西域事情の最高資料と世界的に評価されています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、「大月氏」の遺産である騎馬兵団を駆使する「貴霜」掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は一切記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、「西域伝」は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。要するに、「西域伝」を書くと、曹魏の無策を曝け出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく、建設的な提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、倭人伝は中国正史の一部であり、中でも、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、国内古代史論の邪魔になるからと言って、根拠の無い誹謗を大量に浴びて、汚名を背負い込まされ、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論~「水」を分けるひと
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ「柄杓」を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。
 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。

 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。年寄りでも、命は惜しいのです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。
 倭人伝」には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを好き放題に仮託しているのです。もし、以上に述べたこの場の「卑弥呼」像が、読者のお気に入りの偶像に似つかわしくなくても、それはそれでほっておいて頂きたいものです。
 別に、言うことを聞けと躾けているのではないのです。「ほっちっち」です。本論著者は、何を言い立てられても、論者の「思い」には入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

2023年7月22日 (土)

新・私の本棚 番外 第410回 邪馬台国の会 安本美典「邪馬台国への里程論」

          2023/05/21講演    2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*明快な指針
 安本師は、本講義でも、劈頭に明快な「指針」を示して、混沌に目鼻を付ける偉業を示されているが、以下、諸家諸兄姉の諸説を羅列していて、折角の指針は、聴衆の念頭から去っていたのではないかと懸念するほどである。
 藤井氏の提言に啓示を受け、背後の地図は扨置き、郡から狗邪韓国まで一路七千里と明記し、俗に言う「沿岸水行」は、見事に排除されている。

*混迷の始まり
 倭人伝「現代語訳」で「循海岸水行」を「沿岸水行」と改訂し、後世に混乱を残したのは、何とも残念である。
 「倭人伝」解釈は、「倭人伝」自体に依拠すべきであり、確たる検証がない限り、遙か後世の東夷に従うべきではない』のではないかというのが、当ブログ筆者の意見であり、以下の諸兄姉の言説は、総じて最初の一歩を踏み間違えているので「論外」というのが率直な意見である。と言うことで、本項では、諸言説を否定も肯定もせずに進んでいる。

 安本師は、「倭人伝」道里が誇張であると称する弾劾に同意せず、地域固有の論理/法理に従って「首尾一貫している」と至当な見解であるが、続いて、後世日本での里制の乱れを紹介し、それ故に『中国に於いて「里」が動揺していた』との不合理な解に陥っている。
 これは、古代中国には無縁の曲解である。後世東夷の事情で起きた事象が、三世紀倭人伝の記述に影響を及ぼすはずがないのは、自明では無いかと思われる。
 中国は、少なくとも秦代以来、厳然たる「法と秩序」の文明国家であり、中国「里制」は、魏晋に至るまで鉄壁不変/普遍普通の鉄則と見るべきと思うのである。楽浪郡は、漢武帝創設の漢制「郡」であり、当然、郡統治は、秦漢通用の「普通里」が、厳然と適用され、帯方郡は、当然、これに従ったのである。不法な非「普通里」が横行していたというのは、とんでもない言いがかりでは無いかと思われる。

 このあたり、安本師の限界か、「倭人伝」解釈に齟齬を見てとって中国の「法と秩序」の不備に原因を求めているように見えるが、陳寿には、反論のすべがないので、素人が僭越にも代弁するものである。

 率直なところ、師の認めた「地域短里」は、秦漢魏晋の「漢制里制」、一里四百五十㍍程度の「普通里」が、『漢武帝が設立した漢制楽浪郡に於いて施行されて「なかった」』という不合理な解釈に依存しているので、残念ながら従えないのである。

*ローカルな話/明帝遺訓の万二千里
 ここで提言したいのは、師の「地域短里」は、地理的なLOCALであるが、ここは、文書内の局所定義という意味のLOCALと進路変更頂きたいというものである。
 別に述べたように、後漢末期の建安年間、遼東郡太守公孫氏は、新参の東夷である「倭人」の身上を後漢、曹魏に報告しなかったが、天子の威光の辺境外の荒地を示す「万二千里」の道里を想定したと見える。
 司馬懿の遼東征伐で公孫氏文書は破壊されたので、公孫氏の想定は明記されていないが、曹魏明帝が事前に帝詔をもって両郡を配下に移し郡文書が洛陽に回収されて、「天子から万二千里」の東夷が明帝の目にとまったと見える。斯くして曹魏皇帝が万二千里を公式に認定し、明帝遺訓となったので、史官である陳寿が金文の如く尊重し、斯くして、「倭人伝」に「ローカル」道里が記載されたと見える。
 そのように筋を通さなければ、公孫氏遼東郡時代の楽浪/帯方郡の東夷管理記録が、魏志に収容された事情がわからないのである。

*まとめ/一路邁進願望
 安本氏に期待するのは「邪馬臺国」がどうであれ、「倭人伝」道里は、最終的に九州北部(北九州)に達する、筋の通った、明快な書法であり、当時の読者が納得したものと理解して、史学論の泥沼を排水陸地化して頂きたい。

 禹后本紀は、堅固な陸地移動を「陸行」車の移動とし、河水の流れに沿う移動を「水行」船の移動としたが、介在する「泥沼」は橇で水陸間を連絡移動していると総括している。

 倭人伝の公式道里記事を、陸地なる「海岸に沿う」と称して、泥沼/海浜を「水行」させる議論は、早々に排除して頂きたいのである。もっとも、正史記事で「海岸沿い」は、陸地の街道と見るものではないかと素人なりに思量するものである。ご一考いただきたい。

                               以上

新・私の本棚 番外 第411回 邪馬台国の会 安本美典 「狗奴国の位置」

            2023/06/18講演           2023/07/22
*総評
 安本美典師の史論は知的創造物(「結構」)であるから、全般を容喙することはできないが、思い違いを指摘することは許されるものと感じる。

*後漢書「倭条」記事の由来推定
 笵曄「後漢書」は、後漢公文書が西晋の亡国で喪われたため、先行史家が編纂した諸家後漢書を集大成したが、そこには「倭条」部分は存在しなかったと見える。
 後漢末期霊帝没後、帝国の体制が混乱したのにつけいって、遼東では公孫氏が自立し、楽浪郡南部を分郡した「帯方郡」に、韓穢倭を管轄させた時期は、曹操が献帝を支援した「建安年間」であるが、結局、献帝の元には報告が届かなかったようである。
 「後漢書」「郡国志」は、司馬彪「續漢書」の移載だが、楽浪郡「帯方」縣があっても「帯方郡」はなく郡傘下「倭人」史料は欠落と思われる。

 笵曄は、「倭条」編纂に際して、止むなく)魚豢「魏略」の後漢代記事を所引したと見える。公孫氏が洛陽への報告を遮断した東夷史料自体は、司馬氏の遼東郡殲滅で関係者共々破壊されたが、景初年間、楽浪/帯方両郡が公孫氏から魏明帝の元に回収された際に、地方志として雒陽に齎されたと見える。

*魚豢「魏略」~笵曄後漢書「倭条」の出典
 と言っても、魚豢「魏略」の「倭条」相当部分は逸失しているが、劉宋裴松之が魏志第三十巻に付注した魏略「西戎伝」全文から構想を伺うことができる。
 魚豢は、魏朝に於いて公文書書庫に出入りしたと見えるが、公認編纂でなく、また、「西戎伝」は、正史夷蕃伝定型外であり、それまでの写本継承も完璧でなかったと見えるが、私人の想定を一解として提示するだけである。
 笵曄「後漢書」西域伝を「西戎伝」と対比すれば、笵曄の筆が後漢代公文書の記事を離れている事が認められるが、同様の文飾や錯誤が、「倭条」に埋め込まれていても、確信を持って摘発することは、大変困難なのである。

*狗奴国記事復原/推定
 念を入れると、陳寿「魏志」倭人伝は、晋朝公認正史編纂の一環であり、煩瑣を厭わずに郡史料を集成したと見える。史官の見識として、魚豢「魏略」は視野に無かったとも見える。魚豢は、魏朝官人であったので、その筆に、蜀漢、東呉に対する敵意は横溢していたと見えるから、史実として魏志に採用することは避けたと見えるのである。
 それはさておき、女王に不服従、つまり、女王に氏神祭祀の権威を認めなかった、氏神を異にする「異教徒」と見える狗奴国は、「絶」と思われ、女王国に通じていなかったと見えるので、正始魏使の後年、人材豊富な張政一行の取材結果と見える。

 安本師が講演中で触れている水野祐師の大著労作『評釈魏志倭人伝』(雄山閣、1987年刊)に於いては、「其南有狗奴國」に始まる記事は、亜熱帯・南方勢力狗奴国の紹介と明快である。

其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。[中略]男子無大小皆黥面文身。[中略]計其道里當在會稽東治之東。[中略]男子皆露紒以木綿招頭。[中略]種禾稻、紵麻、蠶桑[中略]所有無、與儋耳朱崖同。

 一考に値する慧眼・卓見と思われ、重複を恐れずに紹介する。

*本来の「倭記事」推定
 つづく[倭地溫暖]に始まる以下の記事は、冬季寒冷の韓地に比べて温暖であるが亜熱帯とまでは行かない「女王国」紹介記事と見える。

倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。[中略]其死、有棺無槨、封土作冢。[中略]已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。[中略]出真珠、青玉。[中略]有薑、橘、椒、蘘荷、不知以爲滋味。[中略]自女王國以北特置一大率[中略]皆臨津搜露傳送文書賜遺之物[中略]倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。年已長大。無夫婿。[中略]女王國東渡海千餘里復有國皆倭種。[中略]參問倭地絕在海中洲㠀之上或絕或連周旋可五千餘里。

*結論/一案
 要するに、「倭人伝」には、狗奴国は女王国の南方と「明記」されている。但し、時代を隔て、一次史料から隔絶していた笵曄が、解釈を誤ったとしても無理からぬとも言える。
 要するに、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は信頼性が証されず「推定忌避」するものではないかと愚考する。(明快な立証がない限り、取り合わない方が賢明であるという事である)

 安本師は、当講演では、断定的な論義を避けているようなので、愚説に耳を貸していただけないものかと思う次第である。

                                以上

2023年7月21日 (金)

私の感想 毎日新聞 囲碁 UP TO DATE 「AIとの付き合い、手探り」

AIとの付き合い、手探り 佐田七段「ワンパターンは危険」      2023/07/20 

*始めに
 本日朝刊の「囲碁AI」談義は、専門課が、担当記者の問いかけに適確に応じた興味深い掘り下げが聞けて、秀逸であった。引き合いに出すのも何だが、小生の同窓生である老論客(単なる「ド素人」)は、軽率にも、将棋が勝負の争いで明確なのに対して、囲碁は数の争いで、肝心の臨界値が時代に流された「コミ」で変動しているから、勝敗の敷居があやふやだと勝手に評していて、認識不足は正したものの、これが世間の見る眼かとあきらめたものである。
 素人目には、将棋では、「リスク意識の無いAI」にとって、勝敗は一手の差であるから、当然「先手有利」との「定理」しか無いが、最終盤に至る「読み」では、自分の迷いやすい手筋、相手の間違いやすい手筋が入り交じって、一手、一手の手の「色合い」、質が違うので、安直な数値化を超えていると思う。
 おかげで、名手・達人の争いは、最終盤に大差と評価されても逆転の道が至る所に潜んでいる。時には、まだ先が長いと見えても、回復の余地も可能性もないと見えて、淡白に幕を閉じているように見える。

 素人考えで恐縮だが、AIが、偽物でない本物の「知性」を言うのであれば、(人の)知性を真似るべきでは無いかと思われる。古人に従うなら、指してだけ見て、人の考えか、そうでないか「区別」が付かなくなって、始めて、「知性」と認知されるものである。

*「コスパ」で幻滅
 当記事は、専門記者が、専門家に念入りに相談して、丁寧に書き上げた力作であり、味わい深いものであったが、締めの部分で、当の専門家が、「コスパ」なるインチキカタカナ語を持ち込んで、結末が尻すぼみと見えた。

 その道の専門家が言うのだから、分母に来るべき「コスト」は、使用料などでは無く注ぎ込む思考努力だろうが、個人差が厖大なのにどうやって数値化するのだろうか。例えば、当方は、囲碁に関しては、ド素人である。

 また、分子に来るべき「パフォーマンス」は、何を数値化するのだろうか。獲得賞金額なのだろうか。いかにも、即物的で興ざめである。
 対局中に、囲碁AIを援用することはできないから、専門家の内部にある「棋力」に貢献する事だろうか。それをどのように数値化するのだろうか。あるいは、複数の囲碁AIを比較して品定めしたのだろうか、不思議である。

 分母も分子も不明では、囲碁AIの「コスパ」の科学的評価は不可能と見える。専門家の数値化明細を知りたいものである。

*「囲碁AI論」待望
 冒頭にあるように、世間には、囲碁の勝負は数値で示される成果が「コミ」で調整されるから、確固たる勝敗判断が存在しないと感じている素人野次馬を見受ける。将来、AIによって整理された挙げ句に、先手勝率が高いことになりコミを変えるとなると、議論の芯がずれてしまうように思う。
 将棋界では、羽生善治永世七冠が、かねてより、人工知能が将棋界に及ぼす影響に至言を示しているが、囲碁界は、まだ、人と人が対局する舞台が、AIによってどのように影響されるかについて、定見が出せていないように見える。もっとも、将棋観戦記では「ソフト」評価値など、前世紀の概念が目だつから、将棋界の技術評論の大勢は、まだ、AIに対応できていないとも見える。

*締めくくり
 いや、当記事は、全体として、囲碁界が、AI論に於いて着実に歩んでいるようにも見えるが、タイトルで自認されているように、結末がもう一つである。
 全国紙の専門記者には、今後とも、深く切り込んだ考察を求めたいものである。

                                以上

2023年7月 9日 (日)

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

                        2023/07/09

*翰苑史料評価更新のお勧め

 以下、「中国哲學書電子化計劃」所蔵資料を参照する。太宰府天満宮所蔵「翰苑」断簡の影印を、校訂/校勘しているので論考で参照すべきものと思われる。

卑彌妖惑翻葉群情臺與幼齒方諧眾望
後漢書曰 安帝永初元年有倭面上國王師升等獻生口百六十人願請見至 桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主 有一女子名曰卑彌呼 事鬼神道能以妖惑眾於是共立為王 宗女臺與年十三為王 國中遂定其國官首曰支馬次曰彌馬升次曰彌馬僕次曰奴佳鞮之也
按宗女以下漢書未載

 当ブログにて世上の「卑弥娥惑」との解釈が不適切であると述べているが、実は、百年近い昔に校訂済みであった。不明をお詫びする。

 記事部分は、「後漢書」と称しているが笵曄「後漢書」「東夷列伝」倭条所引である。世上、「倭伝」と称しているが、「伝」の体裁をなしていないので、単に「倭条」と呼ぶことにする。
 内容は、ほぼ「倭条」構文となっているが、末尾は味わい深い。

 編者は、配下書生に蔵書「後漢書」から卑彌呼に因む所引を命じて得た本文を書き出したものの、「漢書」笵曄後漢書に「宗女」以下の字句はないとしている。
 所引の元が、「漢書」所引に続いて、断りなく魏志を所引しているのであるが、編者は、倭人伝に変わっているのに気づかなかったようである。

憑山負海鎮馬臺以建都
後漢書曰 倭在韓東南大海中依山島為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使譯通於漢者三十許國國皆稱王 其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里 其地大較在會稽東冶之東與珠崖儋耳相近
魏志曰  倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑 炙問倭地絕在海中洲島之山 或絕或連周旋可五千餘里四面俱抵海 自營州東南經新羅至其國也
按炙問以下魏志未載
 「倭条」、「倭人伝」に続いて、不明の後代史料から「自營州東南經新羅至其國也」と所引した上で、「炙問」(参問)以下は「魏志」に無いと決め付けている。この部分は、現存刊本で確認できるものであり、何かの勘違いだろうか。それとも、この部分は、「後漢書」の記載漏れだというものだろうか。浅学には、判別できない。

 それにしても、後漢書「倭条」所引に依拠して「其大倭王」は「邪馬臺國」に居す、と決め付けていて、魏志「倭人伝」に明記されている「邪馬壹国」を無視している。

*まとめ
 現代研究者諸兄姉は、原典確認を怠らないが、「翰苑」所引編集担当者は、何ともぞんざいで、「三史」笵曄「後漢書」所引の不足を魏志「倭人伝」で補填する姿勢である。
 全体として、当時の諸事情も有ってのことであろうが、手軽な流通写本に依拠して、同時代に帝室等に継承されていた貴重書/最善本を原典確認しなかったため、資料錯誤に陥ったと見え、寓話「伝言ゲーム」の誤写累積を、図らずも露呈していると見える。

*史料再評価の提言
 諸兄姉は、後世正史や類書の「邪馬臺国」が、同時代の「魏志」から所引されたと断じているようだが、以上に露呈している後世正史や類書の編纂過程の雑然さにお気づきで無いようである。少なくとも杜撰史料は、それ相応な史料評価が先決と思う。

 当然極まりないと思うのだが、国宝級の貴重書として厳正に写本継承された現存刊本「魏志」粗雑な所引佚文を同等評価するのは、深刻な勘違いではないかと思量するものである。
 貴重書の末裔である現存刊本に誤伝があることは間違いないが、「厳正」や「厳密」とほど遠い、無造作、粗略な「野良写本」「走り書き所引」の成れの果ての粗雑史料と同列に扱うのは、科学的な態度ではないと思うものである。

 世上、侃々諤々の論義に勤しんでいる諸兄姉は、後世の非難を浴びないように、よくよく考え直して頂きたいものである。

*出典:遼海叢書 金毓黻遍 第八集 「翰苑一巻」 唐張楚金撰
 據日本京都帝大景印本覆校 
 自昭和九年八月至十一年三月 遼海書社編纂、大連右文閣發賣 十集 百冊

                               以上

2023年7月 8日 (土)

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08

〇はじめに
 文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。
 特に、国内史料は、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として、文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内史料を見ていないので、統一がないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられ、つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料はなく、墳墓に、葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、論拠としての信頼性は急速に低下するのである。数が増えるほどに評価が低下するのでは、「効率」は、負の極値に向かうのである。

 つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した論者の見識が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする。論考の信頼性は、引用史料の紙数や目方で数値化されるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証された倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。

 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘ると、拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明。音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が、『畿内に及ぶ各地に散在して東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で、「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、往来が徒歩に終始する交通事情で、文書通信が存在しない交信事情としたら、至近距離の少数の「列国」以外の諸国は、実質上音信不通であり、「政治経済」と物々しく称しても、およそ連携しようがないと見えるのだが、その点に言及されないようである。

 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に書かれていない推測なので、意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので、素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されるが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。
 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。
 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語などが共通であり、街道網が完備して、盟主が月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製「倭人伝」であるが、しは、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、結構を構築され受け入れたのであろうか。
 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても、抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。
 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万でも、何十年かけても届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥突きやウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。要するに、物知らずの現代東夷人による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言をいただいているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。
 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

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『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めたとおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。本旨は、「纏向学研究」と銘打たれているから、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「達人」として令名をはせるのは、本稿筆者のみである。
 だれも、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王候補者は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていることになると思う。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇想天外である。新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、いずれかの国王が統轄していた時代、
   ことさら、「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される笵曄「後漢書」倭条記事と整合
   しなくても、不思議はない。どのみち、笵曄は、確たる史料のない臆測を書き残したと見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」。
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」、「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、しかるべき
   出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はない。氏は、陳寿が、「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかっていない
   のではないか。史官は、蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさ型が、認めることもない。
   そもそも、「大市」なら造語が不意打ちで、不審である。

「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
 女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではないし、退位できるものでもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って遅参であろう。
   ということは、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう処分するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   随分ご大層な「結構」であるが、どのように法制化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり
   上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。手に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。

 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない。陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が、「絶対の前提」であり、「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲が健在な間は、「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、持続可能だったのだろうか。
 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。
 記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。
 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、「書紀」に、「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例があるように聞くが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」として遇されたから、後日、国内には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が、大いに異なる、しかも、用語の誤解を詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書記」に書かれているままに信じるわけにはいかないのである。いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離も含まれているから、東夷の用語だよりで「史書」を理解するのは、錯誤と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練、試錬に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、倭人伝は、「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

2023年7月 7日 (金)

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 1/3

                      2020/01/31 2021/10/24 2023/07/06

▢お断り 2021/10/24
 当記事は、魏使が、皇帝の下賜した宝物を、倭人のもとに運んだ行程を想定して、掲題の実証航海の意義を考証したものです。
 当ブログでは、倭人伝冒頭の道里行程記事は、中国王朝の公式記録に「公式」に記録されるのは、街道を使用した道里と所要日程であって、魏使の実際に通過した道程の記録ではないと見ているので、以下、論外と弾いてします。
 ここで、「野性号」を取り上げるのは、「野性号」が、「想定した沿岸航行」を「想定復元した漕ぎ船で実行可能であった」という「実証実験」なので、果たして、実現性は証されたのか、いや、そもそも、妥当な前提かという論点から批判したものです。

 おわかりのように、早々にはじいて議論から外さないで、道草を食っていると、これだけ頑張らないといけないのです。
 しかも、都合の悪いことに、このように戦線拡大して、字数を使って面倒見ると、その拡大した部分に対して批判が沸いて、また対応を迫られる悪循環が想定されるのです。正直言って、個人のできることには限界があるので、当ブログの記事は次第に道を絞らざるを得ないと感じる次第です。くれぐれも、このような余談にかかずり合わないでいいように願いたいものです。

 それにしても、当実験は、素人目には、随分飛躍した前提から取り組んでいるように見えるのです。厳しい指摘とも見えるかも知れませんが、当時、色々演出しなければ示現できなかったことは理解しているので、その点を非難しているのではないことをご理解いただきたいものです。もう、「実証航海」以来二十五年たっているので、率直な批判は許されると見たのです。

 以上、単独記事として閲覧いただく際には、多少の前置きが必要とみて追加したものです。

〇「従郡至倭」水行~神話の起源
 倭人伝冒頭の解釈で、郡からいきなり黄海に出て、以下、海岸沿いに南下、半島南端に達して東転する(とは、書いていないのだが)と決め込んだ勝手読みが天下独裁で、一切異説に耳を貸さないのが「定説」という名の嘆かわしい「神話」になっているようです。

*神話不可侵の軌跡
 この背景を調べていたのですが、やはり、一つの「神話」が根づいています。
 末尾の資料を拝読した感想ですが、要は、多くの人々の支援と資金援助で実現した実証計画が、率直なところ、仮想航路の実証が不首尾なのですが、色々背景があって、結果を糊塗しているようです。
 当方が、安楽椅子探偵ばりに、現地を見ない思考実験で、野性号の実験は「実証失敗」と見なす理由は次の通りです。

⑴ 同一漕ぎ船の一貫した航行、一貫漕行は、断然維持困難(不可能)です
 漕行は一定の難業でなく、壱岐-対馬-狗邪韓国間の急流が図抜けています。一貫漕行なら、この区間を越えられる船体、漕ぎ手の船となり、例えば三十人漕ぎの特製船体となります。(壱岐-対馬間が最難関とみたのは、総計であり、ここに撤回します)

 最難所にあわせた重装備の船は、他区間では大変な重荷です。船体は、漕ぎ手の体重を加えて大変な重荷ですが、運賃は払いません。沿岸航路の漕行には、一切代船はないので、何か支障が生じて頓挫したとき一切回復手段がないので、一巻の終わりです。 

⑵ 漕ぎ船の継続漕行は、相当維持維持困難(不可能) です
 前項の不合理を排除するには、まずは、狗邪~末羅間の海峡部、特に壱岐-対馬-狗邪韓国間の便船を「別誂え」にすることです。

 そうすれば、他区間は、軽量、軽装備の船体と少ない漕ぎ手で運行できます。どの区間も、複数船体運用であり、代船も常備の筈です。要は、半ば消耗品扱いで、航海から帰還したとき点検して、痛みがあれば、適宜、代船に差し替えて、修理にかけていたはずです。

 継続漕行を避け、毎回乗り換えとすれば、南北に長く海流が厳しい対馬の「半周島巡り」が避けられます。別便船仕立てなら、乗客と荷物の短距離陸送で良いのです。壱岐でも、操船も漕ぎも大変困難な沿岸漕行の「半周島巡り」が避けられて、大変有用です。
 対馬で話題になる船越は、船体を担いで陸を行くという暴挙を避ければ良いのです。要するに、船荷を担いで陸越えして、向こう側で、次の船体、漕ぎ手に代われば、何の無理もないのです。陸を荷担ぎするのは、だれでもできることなので、人海戦術でこなせて、難破などしないのです。

 三度の渡海は、それぞれの区間の海流の厳しさに応じた特製便船、漕ぎ手体制で、伝馬の如き乗り継ぎになります。それなら、一日毎の渡海運用もできたでしょう。また、海上運行に付きものの難航も、馴染んだ行程の往復なら安心です。そうした説明が、何やら疑わしいと感じるとしたら、それは、時代感覚がずれているのです。

*余談
 江戸時代の渡船は、東海道の長丁場を除けば、大抵、十人ほどの乗り合いで、漕ぎ手は、せいぜい二人、船賃は手頃で、しかも、武士は、常時公務という解釈で無料だったのです。いや、現代になっても、渡し舟は、手軽な乗り物で、手漕ぎではないものの、都市近郊にも大事な交通機関として生き残っています。
 つまり、船体は、船室も甲板もなく、厨房もお手洗いもなく、とにかく、乗客を向こう岸に運ぶ手軽な下駄代わりだったのです。

 ここで話題に上っている長距離航行の漕ぎ船は、外洋航行であって、風波が激しく、舷側を高めてもしぶきがかかります。と言うことで、荷物の傷むのを防ぐためには、甲板ないしは帆布などで覆った「船室」が必要です。そうでなくても、海水の侵入も避けられなかったでしょう。つまり、都市近郊の渡し舟に比べて、大きくて頑丈、当然、数人から十数人の漕ぎ手が必要です。

 そのような大型の船は、空船でも重量が大きく、単に漕ぎ進めるにしても、多大な労力が必要です。想定されているように、釜山(プーサン)から仁川(インチョン)あたりまで、漕ぎづめに進むというのは、漕ぎ手/水手(かこ)の酷使と言うより使い潰しに近いものであり、事業として継続できるものではありません。あり得る姿が、伝馬形式の繋ぎです。

 因みに、ここで言う「大型」というのは、一人や二人漕ぎの河船の渡し舟や沖合の漁を想定した漁師の舟と比較して「図体が大きい」という意味で、近来報道されているようなクルーズ船のような「大型客船」を言うものではありません。ここで例示されている「野性号」は、ここで言う「大型の船」ですが、当時実用とされていた船と似ているのか、似ていないのか実際の所は不明です。

*沿岸漕行の難儀
 と言うわけで、半島沿岸漕行の長丁場には格別の配慮が必要です。日々の槽運は、漕ぎ手に大変な負荷をかけるので、連日槽運(連漕)は実際上不可能です。事業を持続するには漕ぎ手の休養が必須で、更に言うと、随時漕ぎ手交替が必要です。一度限りの冒険航海なら、連漕後に漕ぎ手全員が疲弊困憊なら、長期休養できますが、継続運行には過度の負担は避けねばなりません。大体、地元を離れた連漕などの苛酷さでは、いかに厚く報いても、漕ぎ手のなり手がいなくなります。

 それにしても、以前から不思議に思っているのですが、想定されている魏使用船は、末羅国で一旦お役御免になった後、帰途に備えるとして、その場待機なのでしょうか。狗邪韓国まで、空船で帰って、待機するのでしょうか。大変不審です。
 行ったのはいいが、一体いつ帰るかわからないのでは、船員を待機させるとしても、処遇に困るしょう。また、順調に使命を果たせば、荷物はほとんどなくなるでしょうから、大半は、山東半島の母港に返すのでしょうか。余計なお世話と言われそうですが、用船を一貫航行させるのは、そのような成り行きを覚悟してのことになるのです。

 実際の行程を想定しても、漢蕃使節は、最低五十人、通常百人とまとまるのが定例で、大層な荷物を考慮しなくても、想定の漕ぎ船では、十便ないし二十便が必要です。今回限りの雇い切り、借り切りとしても大変なものです。東夷の辺境の往来ですから、いくら市糴が鄙にも希な盛況でも、それほど多数の船が、遊休状態にあるとは信じがたいのです。

 その際、先に説いた区間ごとの乗り継ぎであれば、近隣までの便船を借り切りにして往復航行するので、多数の船も、帰途待ちの待機策も要らないのです。

*魏使行程の「否」選択肢~「なかった」世界
 前項の片道数十日連続漕行の想定なら、最後尾が追いつくのに数ヵ月、ないし、一年以上かかりそうです。説明の段取りで遅ればせに成りましたが、一貫漕行が実現不可能と考える主要因でもあります。

 本項の短区間乗り継ぎなら、数船を並行運行して、一ヵ月程度で最後尾が追いつくかとも思われますが、それでも、前例のない、絶大な繁忙なので、文書通達する程度では不確かで、何ヵ月も前に各港に担当官が赴いて細かく指示しないと、手配漏れなど手抜かりが出そうです。また、多数の船腹、漕ぎ手を動員するということは、いずれ、何らかの不測の事態で、混乱しそうです。郡関係者も、よく、このような尋常ならざる事態に対応する運用を構想できたものです。
 いや、当方の深意は、そんなことは実際上できなかった、と言うか、帯方郡太守は、そんな無謀な策は一切やろうとしなかったという意見なのです。と言うか、太守の選択肢には、幻の沿岸航行などなく半島陸行しかなかったということでしょう。

*伝馬体制の必要性
 以上述べ立てた伝馬体制は、この際に思いついた異様な運用ではありません。陸上街道でも、輸送従事の人馬は一貫したものでなく、適宜、駅伝で交替するのです。つまり、沿岸航路の運用には、地元漁民の案内と漕ぎ手を備えた「海の駅伝」が必須なのです。

 余得として、漕ぎ手は、近隣一日行程程度の漕ぎ慣れた区間の往復になり、自港では自宅でくつろげるから、短期休養でも長続きするのです。

 とても、当時実用に供されていたとは思えませんが、どうしても実用に移すとしたら、ここに述べたような事項は、全て克服しなければならないということです。ことは、「むつかしい」が「やればできる」とかの空疎な思い入れでは、解決しない、厖大な難題を抱えているのです。

 諸兄姉に於いては、時代離れした先入観で、前車に無批判に追従して、ぞろぞろと陥穽なる「ブラックホール」にはまり込み、雑駁な沿岸航行の戯画を描き継ぐのでなく、原資料に基づき、ご自身の健全な思考に基づく、実現、維持可能な業態の生きた時代考証を試みることが必要ではないでしょうか。

                               以上

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 2/3

                     2020/01/31 2021/10/24

⑶ 漕行路は、重荷を運べないと運用不可能です
 「野性号」の積荷想定は不明ですが、二十人漕ぎで、荷物を百㌔㌘程度、乗客を五人から十人程度運ばないと分が悪いでしょう。
 して見ると、最低五百㌔㌘程度の有効荷重があって「業」として維持できるのでしょう。漕ぎ手二十人で、客五人は相当なものですが、どうも、商用の貨客船には見えないのです。といって、漕ぎ手二十人が、空荷の船を目的地に届けても、一切実入りはないのです。「実証」するには、船荷と乗客を乗せた航海が必要だったでしょう。

*漕行の非効率
 世の中には、古代の運送では「比重」が大きいものを水上便にするというご託宣を垂れるかたがあります。多分、「質量」(目方)のつもりでしょうが、大変な心得違いです。純金は、比重20に近い「重さ」ですが、極めて高価で、少量軽量で流通したのです。今日日(きょうび)の商用出版物には、編集チェックがないのでしょう。

 漕ぎ船は、荷が重いと推進力が負けてしまいます。水上なら荷が軽いと思いそうですが、船体と漕ぎ手はまことに重いのです。漕ぎ手の奮闘も、推進力となるのは一部だけで、大概はひたすら波を起こすのです。水上便は負荷が軽くて効率的だと思い込んでいる向きが多いようですが、それは、川下りの様子を見ているのであって、例えて言うなら、海はすべて追い風の航行であれば軽いものでしょうが、世の中には、追い風と同じだけの向かい風があるので、港で何日でも風待ちするのは、手漕ぎ時代でも同じだったのです。水流の助けは片道だけで、かならず逆行があるので、帳消しどころでなくなります。

 総じて、漕ぎ船の推進力は、人馬が地面を踏みしめて荷物の正味を進める力に、遠く及ばないのです。船が、人馬を労せずして荷を運ぶのは帆船が定着してからです。

*陸道~駄馬と痩せ馬が共有する重荷
 陸では、荷物を適宜小分けし、人馬の数をそれに合わせて無理なく担える程度にすればよく、後は、規定の日数でゆるゆる行くのです。
 税の一部である労役に動員可能な日数は限られていても、小遣い銭程度で追加労役に動員できるのです。いや、世に駄馬という荷役専門の馬は数が限られていて大変貴重ですから「痩せ馬」と称して人を増やすのです。倭人伝によれば荷役駄馬はいなかったので、万事、背負子だったかも知れません。広く人馬を募れば、重荷の峠越えも、難なくこなせるのです。いや、そのために、郡から鉄山まで、街道整備し、維持したのです。

*滔々たる七千里の官道
 ということで、弁辰産鉄の郡納入を目的に整備された筈の半島中央の官道七千里、随一の難所、小白山地竹嶺越えも、近郷農民に手当をばらまけば、痩せ馬背負子が、働き蟻の如く集い寄ってつづら折れを行く「数」の力で大役をこなせるのです。(冬季は、積雪、路面凍結の難がありますが)

 動員される農民達も、農作業は家族に任せて、出稼ぎ代わりに参集したでしょう。当時の世相はわかりませんが、経済活動が発展途上のため、そんなに苛酷な労役は無かったように感じます。

 交通量が増えたら、街道に茶店でも出たかも知れません。腰弁当にせずとも、茶店で食が補えるなら、安いものと思う程度の手当は出ていたはずです。

*渡海事情と実現性の考察
 と言うものの、三度の海峡渡海には、陸送の選択肢はなく独占です。

 倭人伝には、対馬と壱岐の食糧事情に続いて交易船運用が書かれていても、末羅と狗邪韓国には無いので、海峡便船は両島がほぼ独占し、頻繁に運送したように見えます。両島は往来する交易船から、入出港料、関税として、最低限、饑餓が発生しない程度の食糧を徴収できたと見えます。

 それにしても、文書便は文箱だけですが、米俵など重量物は、漕ぎ船には荷が重いので、極力、軽量高貴品に専念したでしょう。つまり、海峡渡船は、確実に稼げる事業形態になっていた筈です。その視点で、沿岸航行の実現性を時代考証していただきたいものです。

*人身売買の暴言
 先ほど食糧充足にこだわったのは、古代史学界には「人身売買」など、ご自身の無知に由来する冤罪を唱えて誣告し、現代両島住民に罵声を浴びせる妄言派がいるからです。講演に出かけて謝礼を受け取っておいて、自身の妄想を言い立てて、現地の先人を非人道的だと罵倒するとは、論外だと思うのです。と指弾されても、古代住民は、立ち上がって名誉毀損を唱えられないので、一介の素人がここに書き残すのです。

                                未完

倭人伝随想 さよなら「野性号」~一九七五年の実証航海 (補) 3/3

                     2020/01/31 2021/10/24 2023/07/06
⑷ 漕行は「海の駅」なしに運用不可能です
 衆知のように、現地水先案内なしに多島海航行は不可能です。進路案内とともに、岩礁や浅瀬の案内が航行に不可欠です。

 大型の帆船なら、備え付けの艀(はしけ)を下ろして、泳ぎの達者な海辺育ちの水夫(かこ)に偵察させる手もあったでしょうが、便船は、元々小舟だから瀬踏みのしようがありません。海を読み誤って、座礁、沈没すれば、乗員、乗客、積荷、全てが海のもずく、いや、もくずです。

 つまり、漕行運用には、要所で入港し、漕ぎ手を変え、土地勘のある案内人を載せるためにも街道宿「駅」並の宿泊施設と食糧供給体制が必須ですが、三世紀時点、半島西岸、南岸に、そのような連綿とした港運体制が存在したという証拠はあるでしょうか。

*無類空前の「海路」はあったか
 気軽に「海行」、「海道」、「海路」と無邪気に書き飛ばす人がいますが、官道なら、さらに港ごとに差配役を置き郡との文書交信が必須です。魏武曹操が、帝国に文書交信を再構築した魏制下の帯方郡を見くびってはなりません。

 そもそも、韓国領域に海の官道体制があれば、韓伝に記録される筈です。天下無類、空前の「海道」は、魏朝の画期的業績として残されるはずです。
 そのような「海道」が半島内の「陸道」より物資運送に優れていたなら、後世の新羅は、高句麗、百済の西岸角逐の漁夫の利とは言え、国富を傾け、多大な犠牲を要した軍事行動で漢城獲得の挙に出なかったはずです。

〇総括
 要するに、三世記、洛陽を発した魏使一行は、山東半島から、易々と渡海して、帯方郡に荷物陸揚げ、引き継ぎ方々、魏使の任務を郡官人に委嘱し、郡が、陸送手順を整えているのを確認した上で、帰途に就いたと見るものです。くれぐれも、以上の論義を聞き分けていただいて、後世の学習者に、とんでもない重荷を押しつけないことです。誤解の申し送りは、ご勘弁いただきたいのです。

 それにしても、冷静に考えれば海峡漕行は史実であり、実証は不要です。沿岸航行すら、数世紀後には実現していますから、喫緊の課題は、沿岸漕行の「同時代での実現性」なのです。くれぐれも、「問題」の「題意」を勘違いしてはなりません。
 そのためには、「海道」体制の考古学的実証、つまり、遺跡、遺物、文献による確認があって、初めてさらなる考察ができるのです。

*遠慮のかたまり
 ところが、当時の「実証」は、「やればできる」の信条表明(Credo)であり、運用の「実証」に欠けていて、むしろ失敗事例と見えます。
 いや、文章読解は人によって異なり、成功と解した方も多いでしょうが、理詰めで追いかけるとそう見えないのです。かなり苦しい実証試験故に、関係者の絶大な努力が結集され、それ故に、関係者が不愉快になりかねない、否定的意見を含む率直な総括ができなかったと思われます。
 今回、もはや遠慮は時効と批判稿を上げたのです。もっとも、関係者の方々は、現場も報告書も見てない素人のたわごととして一蹴できるでしょう。

〇参照資料
日本の古代 3 海を越えての交流 9 古代朝鮮との交易と文物交流~海峡を越える実験航海[東 潮]中央公論社 1986(昭和61)年4月刊
 1975年の仁川(インチョン)~博多港「野性号」実験航海概要です。仁川~釜山(プーサン)は漁師十人交替八丁櫓漕ぎとした一方で、核心の釜山~博多「海峡越え」は、大学カッター部員二十人交替の十四丁オール(Oar)漕ぎで、釜山までの航海術本位の構成と隔絶した「力業」本位が見て取れます。
 但し、乗船待機の屈強なアスリート6名が、仮想乗客/荷物500㌔㌘の想定かどうかは不明ですが、本記事の成り行きとは関係無いので、追求はしません。

*補足 2023/07/06
  読み返して、当記事では、倭人伝行程道里記事が、正始魏使の行程報告でない』ことを主張する余り、正始魏使の行程に関する考察が疎かになってしまいました。
  ここに補足すると、正始魏使は、大量の下賜物、主として、百枚の銅鏡を輸送するために、山東半島東莱の海港から、対岸、恐らく後世、統一新羅時代に海港として常用された唐津(タンジン)で荷を下ろし、以下、陸上街道の輸送に切り替え、小白山地を越えて、南下し、狗邪韓国の対馬間に至ったものと考えますが、記録が残っていないので、これに固執するものでは有りません。
 あえて、山東半島東莱の海人の献策を受けて大型の帆船便船を起用し未知の海上航行に挑んだとも考えられるのです。「海岸に沿って移動などの無謀で難船必至な行程」を避け、沖合の黄海を南下して、有望そうな海港では、艀を下ろして、現地の海人と相談の上、寄港しつつ、物資を搬入したことと思われるのです。いや、唐の帆船のような大型の船が、荒瀬に近づくことができたとは思えないのですが、何か策があった可能性は否定しないのです。

 後世、隋煬帝が下級官人の文林郎裴世清を俀国に派遣した際の往路記事同様に、魏使乗船が南下した帆船航行で耽羅を見つつ東進し、壱岐に寄港した上で、いずれかの海港に入った可能性も、十分残されていると申し添えておきます。何しろ、魏の国策としては、倭に至るには狗邪韓国まで官道を行き、狗邪韓国から渡海するという制度となっているので、臨時の海船航行は「倭人伝」に記録が残らなかったものと見えるのです。僅か二千字の小伝に、二種の行程を書くと読者が混乱する上に、万二千里の公式道里について、ことさら疑念を掻き立てるので割愛したものと見えるのです。隋唐代、ら正始や古来の公文書に遺された公式行程道里が、実務運用のものとしばしば乖離していることは、むしろ官人の常識であって、唐代に、全国制度の厳正さを求めていた玄宗皇帝が、公式行程道里の「全国調査」を命じた結果が残されていますが、それでも、公式道里の更新と言っても、正史書換えはできず、唐制確立にも及ばなかったので、そのような大事業の成果は、あくまで、玄宗皇帝の功績に止まっているのです。因みに、更新された行程記事を解釈すると、当時、統一新羅の慶州(キョンジュ)に至るには、山東半島から渡海した後、半島中央部の小白山地を越えて東南方向に進み八百里を要する陸上街道が確認されたように見えます。
 唐代に渡唐した仏僧円仁(慈覚大師)は、山東半島海港に新羅館が繁栄していたことを書き残していますが、黄海交易が発展していた時代にも、新羅国内の輸送交通は、陸上街道に依拠していたことが読み取れるのです。帆船交通/運輸が形成されていなかった三世紀も、山東半島との渡海がほぼ全てであったと、確実に推定されるのです。

 と言うことで、野性号の冒険航海の教訓は、全てが無駄にはなっていないのです。「教訓」が「教訓」として活用されていないことが「不覚」ですが、これは、当時の関係者の「不覚」などでは全く無いのです。
                                 以上

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
  私の見立て ★★★★★ 必読         2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09 2023/07/07

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で「九州説」に立っています。また、倭人伝に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ陳寿の提示した「問題」は、必ず「解明」できるいう冷静で知的な立場に同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論復唱
 続く、三度の「渡海」、私見では、「水行三千里」について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が、氏の論調に賛同した上で、あえて、異を唱えているのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です
 参照された海図は、現代のものであり、当時、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。現に、魏志倭人伝には、地図、海図の類いは添付されていません。つまり、当時、史官と読者は、文字だけで論義していたのです。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な「航程」で、総じて六百五十㌔㍍ なら、当時も大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話であり、氏の論法に同意しているのではないのです。

 繰り返し力説しますが、この間の行程長の評価で、現代海図を採用しているのは、どうしても同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、同意するにしろ、異を唱えるにしろ話が早いのです。

                                未完

新・私の本棚 1 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2/2

1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11 2023/07/07
〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。
 これまで同様、「倭人伝」における「水行」の取り違えには触れず、氏の用法に従って論じていることを確認しておきます。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

 あえて参照するなら、Time and tide wait for no manなる格言であり、これは、しばしば、「歳月人を待たず」とされていますが、ここで、「歳」は、太陽が示す日々の推移、「月」は、月が示す潮の干満であり、誠に、至言の至訳と見るものです。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。と言うことは、早晩難破してしまうのであり、論外です。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船ないしは往時の兵船を徴発して半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。

 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が、実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。(あけすけに言えば、あり得ないものです)
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。訓練不十分な一般人に、武装帯剣の上に数日分の食料を携帯したと見える唐代軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 倭人伝で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。いずれにしろ、官道は、市糴の荷の常用する経路であり、往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。いや、「街道」ならぬ「禽鹿径」と悪態をつかれるように、牛馬の車輌が通行できない、騎馬疾駆できない、人の担いの径(いなかみち)ですから、中原の街道とほど遠いとは思うのですが、地域基準の整備は当然と思う次第です。


*韓地官道論
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に、小白山地の難所を越える「竹嶺」越えが開通していました。つまり、魏の官制に基づき「道路」としての整備はもとより、所定の「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、大いに余裕を見るものです。官制の根底は、確実な厳守であり、一日、一刻を争う督励ではないのです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数であり、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、倭人伝原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 と言うと誤解されそうですが、論者茂在氏による本稿は、そのような凡愚の架空の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになっていると見えるからです。
 妄言多謝。

*行きすぎた分岐点 2023/06/11 2023/07/07
 初稿時点では、まだ、模索段階でしたが、遅ればせながら、大事な誤解を指摘しておきます。
「倭人伝」の道里行程記事は、正始魏使の現地報告をもとにしたものではなく、景初早々に、楽浪/帯方両郡が、魏明帝の指揮下に入った時点での魏帝の認識であり、それは、遼東郡太守公孫氏が遺した東夷身上書(仮称)に基づいていたのであり、それが、明帝の嘉納によって魏朝公文書に残されたので、それが、陳寿の依拠したところの「史実」だったのです。史官の責務は、史実、即ち、公文書の継承だったので、そこには、後世東夷が好んで称する「誇張」は、一切ないのです。
 「倭人伝」の解釈の最初に、この点を認識しないままに進んでいる論義は、一律「行きすぎ」とも見なければならないのです。

 言うまでもないと思いますが、この指摘は、茂在氏個人に責めを負わせているものではないのですが、いずれかの場所で、と言うか、至る所で、機会あるごとに主張しないといけないので、ここにも、書き残しているのです。

                             この項完

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 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09 2023/07/07

〇総評
 本著は、「邪馬台国論」の書として、大変貴重な名著であり、中原、半島との関連はもとより、国内後代史へのつながりを踏まえた資料談義であり、とかく、俗説書に目立つ空論、先入観が少なく、学ぶところ大です。当ブログ筆者は、倭人伝専攻なので、全体の書評は手に余り、 課題になっているものです。本書評は、倭人伝道里行程論と関係している一部にとどまります。

□コラム 「邪馬台国への航海」
 概評済「野性号」1975年記録ですが、指導的立場の平野氏の自戦記が当方「書庫」から浮上したので、反省してコラム書評を掲載したものです。
 当記事は、初出『古代船「野性号」』(「日本歴史」344号 1977.1)記事の再掲です。雑誌「野性時代」1975年10月臨時増刊号が関連記事を掲載していますが、現時点で、古書として入手困難なので、公立図書館のお世話になる以外、閲覧方法はなく、当コラムは大変貴重な情報源です。

*航海記の教え
 手漕ぎ船航海記は貴重ですが、半世紀近く経ても、深意が知られていないのは残念です。
 以下、大半は、在来史書の批判ですから、平野氏の本書の批判でないことは、ご理解頂くものとして、概説します。

 麗々しく公刊の古代史書籍で、『半島沖海域船行が「難しい」のは「不可能」の意でない、「史実で通っていた」から「通ったのだ。文句を言うな」』との強弁が展開されています。
 いや、大抵の論者は、無造作に、現代の地理情報で書かれた地図上に、時に、大雑把に、時に、芸細かく線を描く無責任な「画餅」主義です。ただし、どちらも、当時の船、操船技術で、そのような行程が辿れたかどうかの「考証」のない、思いつきに過ぎない点では。ご同様の無責任さです。
 こうした意見の持ち主が、伝統的な日本語の語彙を勘違いしていて、英語のdifficultを「難しい」に塗りつけて、「なせばなる」と読み替え、本来の「事実上不可能」impossibleの意と知らないのは、まあ、むしろ、子供っぽい誤解ですが、世上、そうした早計に無批判に追従する論者が溢れているのは、なんとも、情けないものです。
 それはさておき、当時の関係者は、実験航海支援の恩人を忖度して、否定的見解を隠したのでしょうが、以下は、勉強していれば高校生学識でわかるはずです。

*船の要目
 木造船長16.5㍍ 船幅2.2㍍ 定員30名 3.9トンは、排水量かなと言う感じです。
 魏使一行所要艘数を計算するには、想定積載量・乗客が必要です。

 様子を見る限り、甲板、船室など無く、吹きさらし、雨ざらしの苛酷な風情です。中国人は、食物を必ず煮炊きするのですが、食糧と薪水の貯蔵庫も、厨房も見て取れません。寒暑の時期は避けるとしても、中間期といえども、日数を重ねて乗り続けられるようには見えません。まして、夜通しの移動など、大変困難でしょう。
 総じて言うと、船舶と言うより筏の類いと見えます。古典書では、浮海と呼ぶものです。求められたのは、渡し舟の軽便さでしょうか。

*万全の漕ぎ手
 どうやら、想定乗員が三十人の、ほぼ半数が漕ぎ手とみたようです。
 片側七人計十四人~十六人の想定で、舵取り二名、交代二名で、二十人乗船でしょうか。詳細資料が欲しいところです。
 全員現役の若くて屈強の水産大学生が、臨んでいるのに感心します。

*所要日数
 仁川(インチョン)~釜山(プサン) 28日程度
 釜山(プサン)~  博多港     16日程度
 合計45日程度。休養を入れて60日程度と有意義な見積もりです。
 無寄港、無補給ではないでしょうが、煮炊き用の燃料まで考えると、相当な量の積み荷が不可欠と思われますが、明細は語られていません。

 支援船曳航の難局は、「当時常用の行路であれば」航路熟知で避けられても、概して漕力不十分です。
 また、全行程「ほぼ漕ぎ詰め」は、理不尽なほど苛酷です。適宜、寄港時に休養をとるとしても、この日数を見ると、漕ぎ手は、超人集団に見えます。帆走で、どの程度労力を低減できたか不明ですが、少なくとも、入出港時とその前後は、舵取りのために漕ぐのは不可避で、三世紀の魏使便船の場合は、使節団の数十人では済まない人員と食料、そして、大量の下賜物のために、異例に多数の船腹が必要なので、よくぞ、追加の漕ぎ手が揃い、長期間、病人もけが人も出ないで、完漕できたものと感心します。
 それにしても、使節一行に下賜物などを載せて何艘でしょうか。これは禁句でしょうか。

 槽運事業の視点で、航海基点(船主の待つ母港)にしてみると、多数の主力船が漕ぎ手と船体もろとも、半年近く不在で、音信不通で、帰還が不安では、大いに悩むはずです。何しろ、通常は、せいぜい往復数日で済む「渡海船」なのですが、官命とは言え、恐らく、新造船と新規の漕ぎ手の募集で「資金」を投じ、未知の行程、未知の遠国に向かわせるのは、下見の探索を取材に送り込んだにしても、不安に駆られたでしょう。
 いや、当ブログ筆者は、帯方郡太守にとって、「道中が安全に管理されていて、日々騎馬の文書使が急報してくる街道行程が、唯一無二の選択肢だった」と確信しているので、官道としてあり得ない余傍行程について、余り議論したくないのです。非常識な輸送手段が実在したと言うためには、当然、相当の論証が不可欠と思うのですが、それは、常識を支持するものの責任ではありません。

 さて、今回の実験航海は、現代文明の齎した羅針盤、海図や潮流、天候情報の支援を得て乗り切りましたが、当時、山東半島との間の渡船を運用していた面々が、半島西岸海域の知識無しに六十日間一貫航行など、大変困難、つまり、到底あり得ないと思います。関係者は、一度、顔を洗って、真剣に考えてみてほしいものです。

*現地海域事情の予習
 計画推進にあたり、当然ながら、航路について、慎重な予習が行われたと言う事です。ただし、有益な情報は後学の空論には反映されていないのです。
 疑問として、三世紀当時、海図も気象台もないのに、これだけの長途の行程に渡り、どのようして「予習」したのか、大変疑問です。現代、遭難を避け、人命を保全したのは当然ですが、三世紀当時も、乗員の人命尊重に加えて、船荷と船体の安全は、至上命令だったはずです。
 論者は、現地の陸上に並行した官道がなかった、つまり、郡の管理下にありながら、適切な交通、輸送、通信手段がなかったという前提ですから、そうした困難をいかにして克服したか、論証する義務があるのです。
 こうした義務を、平野氏個人に押しつけるのは、何とも、後ろめたいのですが、氏は、単なる現代冒険航海の報道を行っているのではないので、唯一、顔が見える平野氏に文句を付けたようになっていて、困っているのです。

                                未完

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*半島西岸事情
 韓国側の顧問と見られる方東仁氏は、以下の海況を述べています。
 ⒈ 西海域は、干満の差が激しく、時に十㍍に及ぶため、海港からの出港は引き潮に、入港は、上げ潮に合わせたと思われる。

 コメント そうしないと、接岸施設の利用が覚束ないのです。満潮時に海浜に乗り上げた場合、引き潮時は取り残され、出港しようがないのです。まことに理の当然です。
 当海域の干満が激しいのは、黄海/渤海湾が奥深いため、干満時の海水往来が著しいためと思われます。

 と言う事で、出入港には、潮待ちが必要であり、常時往来していた渡海船の場合はともかく、未知の海域に乗り込むには、潮時を知る手立てが必要です。確実なのは、現地の水先案内を雇うことであり、そうすれば、岩礁なとの位置を知ることができますが、水先案内が通用するのは、精々隣の港までであり、隣の港では、別の水先案内を雇うことになります、

 と言う事で、一日の航海が終わると、水先案内の交代ですが、まずは、漕ぎ手と舟の交代が考えられます。小船の替えに不自由はないのです、

 西沖合海域の航行が終わるまでに、何回寄港し、潮待ちし、舟を替えたかは不明ですし、この点は語られていません。頭から、一貫して漕ぎ続けたと決めつれけているようです。

 ⒉ 南海域は、多島海であるが、干満の差は激しくはなく、ほぼ通年南西季節風が絶えないので帆走に利用できたはずである。

 コメント 帆船航行の示唆ですが、西海域は、およそ帆走できない海況であり、その間、帆を下ろして走行との想定でしょうか。帆船航路運用に必須の帆布、帆桁の替えは用意できたでしょうか。そして、何より問題な潮流逆行はどうなのでしょうか。
 肝心な課題点が、等閑にされているのは不穏です。

*對海国渡海事情
 平野氏の述解によれば、船は、韓国の国境検問のため釜山(プサン)入港し、そこから対馬に向かったものの、逆流に難航して、巨済島(コジェド)沖の南兄弟島で気息を整えて、対馬に出港し、以下、旅程完了とのことです。

 つまり、当航海の目的は、郡倭行程での半島西南海域船行解釈の実証であり、一部に難行程があっても克服したという実績を指しているのです。

*浅薄な狗邪非寄港談義~余談
 このあたりの経験談を生かじりして、半島南海域船行から狗邪韓国寄港を廃し、さらには対馬寄港すら割愛しかねない「狗邪非寄港」説を見かけますが、当実験航海の趣旨を見くびる浅薄な意見です。

 更に言うなら、里程道里記事全体に加え対馬条の「南北市糴」記事まで無視しています。史料記事を自分好みに改竄するのは愚考の極みです。

 当ブログ筆者の意見は、郡から一路陸道を南下し、狗邪韓国の岸辺から、渡海水行の途に就く、「自然」な行程が、官制街道として倭人伝に書かれたという主張ですから、机上空論の経路迂回など論ずるに値しないのです。

*倭人伝に沖合航行はなかった
 結局、半島沖合船行仮説は、陸上輸送の二倍の日数の上に、船数不足、難船懸念に迫られて、魏使の便船とはできなかったものと見えます。

 一方、潮待ち、風待ちがなく、定時運行で、横揺れ、縦揺れが無くて船酔いせず、水漏れもなく、時化に遭っての難船、転覆の無い、不沈の半島内陸行は精々二十五日程度整備された街道を粛々と進むのであり、既に一世紀に亘る実績によって、運用は定型化されていて、街道筋の宿舎は完備し、一方、事前の通達で荷が多いと知らされていれば、その当日の要請に合わせて必要なだけ人馬を増やすだけです。

 なぜ、官制の定める一本道の陸行を避けて、遠回りで難儀で、しかも、官制に反する無法な沖合航行を選択するのか、魏使の分別を疑いたくなります。

〇野性号所感のまとめ
 丁寧に読み進めば、大勢の努力で実現した実験航海で、(現代の科学技術の支援があれば)「不可能でない」と証された航海は、三世紀の官制に規定べき倭人伝道里には、採用不可能とわかるはずです。
                                未完

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○従郡至倭行程海上不通の弁
 以下、私論を連ねますが、当時、帯方郡が、官制道里として、郡から狗邪韓国まで海上行程を設定していたとは考えられません。特に、後漢建安年間の帯方郡創設時は、漢代以来の伝統を持つ楽浪郡の指揮下にあったので、いくら「荒地」とは言え、古制の官道が敷設されていたものと思われます。いずれにしろ、諸事遼東郡に、月次、年次で文書報告/連絡し、文書指示に従う制度だったので、陸上街道を騎馬文書使が往来するための制度であったから、ここに、海上連絡が書かれたとは、到底考えられないのです。
 このように、倭人伝道里行程記事の考証から「海上行程」を排除すれば、議論の空転、時間の浪費を避けられるのです。

*帆走風待ち、潮待ちの難
 平野氏は、海上交通の実証航海という見地に止まっていて、操船技術の基本を提起しているように、当時の帆走技術では、定期航路の維持は不可能です。適度の追い風を受けたときだけ帆走できるものであり、向かい風や横風は、難船を招く物です。つまり、風待ちを重ねて、ようやく維持されるものですが、何日、いい風を待つのでしょうか。

*帆船操船の難
 氏は明言を避けていますが、帆走では適確な操舵ができないため、想定される多島海運航は難船必至です。帆船の重厚な船体は、操舵補助の漕ぎ手を乗せていても、手漕ぎ転進は困難です。入出港には、地元の手漕ぎ船が「タグボート」のように船腹に取り付いて転進させることになります。

 そのような人海作戦を要求される帆船航行が維持できたとは思えません。もちろん、山東半島と帯方郡を往来する渡船は、平穏な航海であり、また、船荷豊富と思われるので、入出港タグボートは動員できたでしょうが、客の滅多に来ない航路では維持できなかったでしょう。現地の岩礁、浅瀬を避けられるのは、小振りの漕ぎ船に乗った、老練(当時の用法では、年寄りという意味はない)/練達の漕ぎ手達です。

 と言う事で、半島沿岸を帆船で往来していたとは、とても、とても思えないのです。関係者は、確実な史料をお持ちなのでしょうか。

○駅伝制採用と島巡り廃止
 当時、海峡渡海は、市糴で常用されていたから実証不要ですが、難行苦行と報告されている「島巡り」不要の駅伝方式と見ます。

 渡船乗り継ぎの提案です。海上泊は不要で、甲板も船室も煮炊きもいらず、また、日々寄港して休養できます。
 漕ぎ手は、都度、地元の者と交代し、自身は、帰り船で母港に帰るので、負担の軽い、維持可能な勤務形態です。別に、連日運行ではないので、漕ぎ手に無理をさせないのです。

*駅伝制~交易の鎖
 その際、舟も交代させるから、船主は、短期間で舟と漕ぎ手を取り戻せるので、持ち合わせた船体と人材で、市糴を続けられるのです。
 閑散とした沿岸航行の近場専用の軽装であれは、船体は軽量で漕ぎ手の負担が軽減されます。区間限定で、船と漕ぎ手を入れ替えるのであれば、淡々と定期便を運行できるのです。繁忙期には、運行間隔を縮めるなり、予備の船幅を提供するなりして増便すれば良いのです。

 つまり、無理して一貫航行しなければ、適材適所の船体と人材で、楽々運用できるのです。(半島沖合船行すら、運用可能なのです)
 特に、行程の短い渡し舟は、中原でも渡河の際に常用されていて、多少、所要時間は長いものの、常識の範囲と見えたのです。
 また、山東半島と朝鮮半島の間は、古来、渡海便船が往復していて、こちらも、何の不安もなかったのです。つまり、魏使の携えた大量の荷物は、帯方郡治までは、難なく運ばれたのです。
 問題は、前代未聞の半島沖合船行だったのです。

*官制航路への起用
 倭人伝冒頭に展開される道里行程記事は、郡から倭の王城に到る行程を皇帝に上申する文書であり、そのように理解しなければ、文書の深意を見損ないます。

 俀国の根幹である公式文書便は、渋滞、遭難なしで、迅速かつ確実でなければならず、つまり、日数死守です。経路選択は、慎重な上にも慎重で無ければなりません。

*水行論
 後代の「唐六典」には「水行」の規定がありますが、これは、大量の穀物輸送、つまり、華南産の大量の米俵を華北に送る官用輸送便の一日の輸送距離と運賃について、統一規定したものであり、文書便の走行距離を示したものではありません。国制として文書便を送達した「飛脚」は、官営なので、運賃を規定する必要は無かったのです。
 もちろん、唐代は、長江(江水、揚子江)流域を支配下に収めていましたが、三世紀、江水流域は、蜀漢、東呉の勢力下にあり、華北に送達する官用輸送便など成立していなかったのです。つまり、唐六典の規定を、三世紀に適用するのは、重大な時代錯誤なのです。河水(黄河)の事情も、隔世の感があり、河水本流の下流部は、太古以来毎年の氾濫のくり返しで、両岸が荒れ地と化していて、荷船は、洛水などの支流を利用していたのですから、「唐六典」「の規定は、場違いなのです。

*辺境の営み
 まして、辺境であって、官制の「水行」、つまり、河川航行の規定が行き届いていない帯方郡管内に河川水行は論外であり、かといって、「水行」を、太古以来採用されていなかった沿岸航行の意に捉えるのは、二重三重の錯誤を冒しているのです。
 丁寧に言うと、実務として、川船による漢江中游(中流域)運行、特に輸送は行われていたでしょうが、官制公式道理は、陸道騎馬行が原則なので、並行する官道が、倭人伝道里記事に記録されたものと見えるのです。

 それとは事情が違うにしろ、皇帝下賜の宝物の重量、大量の貨物と使節団を、「板子一枚下は地獄」の船旅には託しません。遭難時、使節関係者は重罪に問われます。いや、そう見ると、はなから、魏使の地域船便利用は、あり得ない無法な策です。あり得るのは、大型の帆船による沖合航行です。

 私見ですが、古代中国が「国民皆泳」とは思えないので、金槌ぞろぞろの可能性があり、古代人だって、勅命とは言え、命は惜しいのです。ゴロゴロ船底を転げ回りつつ、睡眠を摂るなど到底できなかったでしょう。

*まとめ
 氏は、立場上、「野性号」による実証航海の否定的論議はしませんが、本書のコラムにまとめたのは、「倭人伝」道里行程記事の解釈に於いては、決定的な「成果」でないことを示しているようです。要するに、場違いのものということで、時に冷淡な批判になって、ご不快であったこととお詫びしますが、古代史の科学的研究では、時に、率直な批判を述べることが重大なものと思うので、このように書き出したものです。

 本書の本題では無い「コラム」の批判ですが、氏の書籍全体を貫く堅実な考察に不満があるわけではなく、偶々、手掛かりの着いた議論の瑕瑾、それも、氏自身の本位で無い記事なので、本書に対して、当ブログにしては高評価なのです。

                                以上

2023年7月 6日 (木)

今日の躓き石 滑りっぱなしのNHK「歴史探偵」のつくりもの「安土城」

                   2023/07/06
 本日の題材は、NHKが、「歴史探偵」で、受信料を大量に浪費したと見える「安土城」の幻覚投影である。「VR」と、自己陶酔的に言い換えているが、要するに本物めいた「幻覚」/まやかし画像なのである。出演者は、お遊びで臨場感を愉しんでいるかもしれないが、視聴者にしたら、他人事である。金返せである。

 まずいのは、自虐的に「タイムスリップ」と滑って見せたということである。言葉の意味が分かっていないのでは無いか。まずは、過去の何れかの時点で「実在」していた「安土城」に身を以て移動して、予想外で、行ったきりの移動なら「タイムスリップ」と呼べるが、時間的にも空間的にも、移動していなくて、装着者の視覚がそれらしい物を見ているだけでは、「タイムスリップ」などではないのは、明らかである。
 ようするに、建造物の視覚的な模擬だけで、そこには行っていないのだから、「時間旅行」の幻覚さえ無いのである。単なる、年寄りにとって懐かしい「のぞきからくり」である。また、テレビ番組として、何の驚きもないのは、このネタは、放送済みだからである。

 まさしく、大すべりである。NHK受信料が、このような軽薄なギャグに費やされているのであれば、部分不払いにしたいほどである。

 因みに、毎日新聞で、近来「タイムスリップ」と滑りそうな大見出しに「時間旅行」と書き出していたのには、本気で感心したのである。わかっている人がいるのに救われたが、NHKには救われないのである。

 近年、NHKには、「ロストワールド」と「パリは燃えているか」の二大パクり/盗作紛いがあるが、今回は、パクリ損ないの滑りであり、どっちがどうかと言うところである。

以上

 

 

 

2023年7月 4日 (火)

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 1/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10 2023/07/04

□終着 道の果て(Terminus 米国南部 ジョージア州都アトランタの旧名)
 良く言うように、鉄道の終着駅は始発駅です。すべての道はローマに通ずという諺の英文(All roads lead to Rome.)は、「すべての道はローマに至る」と言う意味ですが、丁寧に言うと、すべての道は、ローマから始まりローマに果てるという意味です。ここに、「短里説の終着」と示したのは、短里制に関する議論の始発、原点を確認するためです。
 言うまでもなく、「魏志倭人伝」史料解釈の原点に立ち返って、史料の真意、つまり、陳寿の提示した「問題」の題意を確認しようとしているので、そのあと、回答に取り組む道程をどのように選ぶかは、論者諸兄姉、その人の勝手です。
 何しろ、各論者の倭人所在地の比定は「百人百様」であり、不撓不屈の信念と見えるので、第三者がとやかく言い立てるべきではないのです。そのため、当ブログでは、滅多に「比定地論」を述べない「はず」です。

*追記
 全体道里「万二千里」の「由来」と「後日談」に関する考察は、とても、とても、本稿に収まらないので、別の機会に述べることにしました。

*里制論議 諸説の起源
 「倭人伝」解釈に於いて、所謂「短里説」が提起されたのは、倭人伝」の記事を、(「背景知識に欠けた門外漢」、要するに「無資格の野次馬」が、不勉強の無理解で、「天然」)「素直」に読むと、方位、道のりが、日本列島、特に「九州島」内に収まらないように見えて、重大な難関になると見えた点から始まっているとされます。⑴
 「天然」というと、時代用語では憤激を買いそうですが