2022年12月 4日 (日)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 1/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/01/23 2022/12/04
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘 真摯

〇はじめに
 さて、かねて一言を求められていた刮目天一氏のブログに、当方守備範囲記事が書かれたので、恐る恐る記事批判を試みます。例によって、商用出版物書評でないので、個人の意見に文句を言う目的ではありません。無批判で採用される俗説や勘違いと思われる点を指摘し、口調は固くなるものの、そう書かないと話が捗らない決めつけ調で、別に決め付けてはいません。

 また、ここに公開するのは、一回の苦言で広く影響を与えたいというサボり根性であり、別に、面白がってはいません。全てこれまで通りです。

〇総論
 今回の記事だけかも知れませんが、兄事する氏の掲題記事は、冒頭から沢山の要素が、出自は書かれているものの、趣旨が明解で無いまま積み上げられていて、何が、本旨なのか、その本旨をどのような論拠で積み上げているのか不明確で、読者は困るのです。食わず嫌いを強制されているようです。
 いや、氏の本来の意図は、じんわりとわかるし、言いたいことをしっかり主張しようと思ったら、引き合いに出すべき資料が殺到して、記事が膨れあがるのは、ごもっともですが、氏の意図が、読者を説得しようというものであればこの書き方は、仲間受けしたとしても、「善意の冷やかし客を追い払う厄除け」としか見えず、「随分損してますよ」と言うしかありません。

 と言うものの、氏の本領は、「日本」古代史であり、「倭人伝」論義は、あくまで「余傍」と見えるので、別に角逐することはないと見ているので、少々無遠慮と見えても、ずけずけと物言いしているものです。

 と言うことで、ありふれた言い方で恐縮ですが、ネット、紙上を問わず、提言して頂く際には、言いたいことを箇条書きに書き分けて、それぞれに一回の記事を小分けして宛てるようにした方が、個別の記事の論旨が絞られて、賛成も反対も批判も同調も、大変やりやすいのです。

▢当ブログの芸風~ご参考まで
*記事構成~B5判で計量

 ご参考になるかどうか、当方の記事書きの定則は、近年採用している一太郎に依存して、B5縦書き二段組みの一ページ単位を意識していて計量していますが、縦書きブログ記事は運用困難なので、ブログ自体は横書きとしています。後は、淡々と小見出し付きにしているくらいです。

*史料引用はテキスト主体~画像データは「控え目に」
 史料引用は、必要に応じて適法に、つまり、出所明記の部分引用としていますが、基本的に文字テキストにとどめています。画像データ、特に、図形資料のデータは、採用されている文字資料の文脈に従って読み取らないと、著者の意図に反した理解となる可能性があり、また、もし、二重引用になると、原著者の著作権を侵害するので、一段と差し控える必要があります。
 以上の定則は適法で、無作法を避けていると信じるものです。

 世の中には、公開記事を複製利用禁止とするものもいますが、アクセス制限なしに参照できる資料を引用禁止とするのは知的財産権に関して違法です。
 と言うことで、当記事は、当方の定則で言えば、各引用資料の批評記事を分離して、本体部分の読み取りを明確にすべきです。

〇本旨批判
 邪馬台国問題が収拾つかなくなった最大の理由の一つがこの短里説なのだ(;一_一)
 行末の落書きは、学術的な論議に於いて無法な落書きとして無視(*^ー゚)すると、この本旨は、次のように因数分解できます。

 「邪馬台国問題」が「収拾つかなくなった」「最大の理由」の「一つ」が「この短里説なのだ」

 氏が、真剣に自説を主張し、真剣に一般読者を説得したいのであれば、当記事の本旨は、順を追って説きほぐさなければなりません。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 2/5

                    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
〇分解写真的分析
 指導的助言は、本来嫌われるものであり、特に、細かく区切った分析的な批評は、「面子」を潰されるとして、大変嫌がられるのは承知しているのですが、印象批判や感情論でなく、構文の難点を明らかにしないと批判した意味が無いので、敢えて以下のように「丁寧に」述べているのです。当ブログの書評は、概してこうしたすすめ方であり、「建設的」な「苦言」と考えているものです。

「邪馬台国問題」
 氏の周辺では自明なのでしょうが、一般的な解釈として、「邪馬台国問題」には、二つ、ないしはそれ以上の「問題」、つまり、「検討課題」が含まれています。提起されているのは、「所在地問題」のようですが、何を課題としているか、読者との間に合意がなければ、以下の主張は空転するだけです。
 つまり、氏の周辺で、氏の世界観、歴史観を共有している面々以外には氏の主張は展開できないという「問題」、問題点にぶつかるのです。
 因みに、伝統的な論戦では、「問題」(problem,question)は、研究者に対して与えられた課題であり、正解を得ることにより、一段と進歩するものなのです。

「収拾つかなくなった」
 「収拾がつかない」とは、どのような現象か、一般読者に理解できません。氏の周辺だけで通じる言い回しは、まず、丁寧に説きほぐす必要があります。氏の困惑の内容が理解できないと、解決策も浮かびません。

「最大の理由の一つ」
 氏の理解では、収拾つかないという重大事態の発生した原因は、他にも幾つか上がっているようですが、それらはどんなものなのでしょうか。
 この言い方は、英語系の由来のようですが、大抵は、追求を避ける「逃げ口上」のようです。

「この短里説なのだ」
 氏の理解する短里説」が悪者になっていますが、自分で仮想敵を作り上げて攻撃しているのか、何なのか、この部分にも、背景説明が必要です。
 当ブログ筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、書かれている道里が、一里が周代以来不変の「普通里」(450㍍程度)の一/六程度の「短い里」(75㍍程度)と見た方が筋が通るという史料考証から来ているものです。
 1.よほど、個性的な解釈をしない限り、ここまでは、「倭人伝」道里記事の解釈としては、筋が通っていると見えるはずです。
   筋が通っているというのは、当時の口うるさい読者が、了解したと言うことです。
 2.「短里説」は、大抵の場合、当時現地で公的な制度として「短い里」が施行されていたという「作業仮説」です。
   「作業仮説」は、まずは、根拠の無い「思いつき」であり、提唱者は、裏付けを求めて奮闘しなければなりません。
 3.魏晋朝と時代を限った「短里説」も、根拠の無い「思いつき」ではないかと見る向きが多いのです。
   「里」を大きく変更するのは、経済活動が破壊され、帝国が崩壊するので、全く記録に残らないということは、あり得ないのです。

 氏が、「短里説」を撲滅しようというのであれば、「この短里説」などと、「一刀両断」の大なたを振るうのでなく、1.2.3.のどの段階を言うのか、それとも、1すら認めない0なのか、まずは、明確にする必要があると言うことです。このように、キッチリ区切って、区切りごとに是非を論じていけば、議論は、本来、次第に収束するはずです。

 以上、しつこいようですが、氏が、本旨に示した見解を世に問うのであれば、不愉快であろうが、面倒であろうが、辛抱して踏まねばならない手順なのです。氏が、敵とひたすら戦うのでなく、広く賛同者を募りたいのなら、と言うことです。

 因みに、当方が、各位の意見を参照するときは、記事本体に至る前に、本旨の展開の際に、論理的な資料考証がされているかどうかを見た上で、記事を眺めるものであり、氏のブログの場合は、以上の短評でおわかりのように、参考にならないとして、質問がなければ回避するものです。当ブログでしばしば顔を出す「門前払い」というものです。

 以上、何かの参考になれば幸いです。

〇記事短評 ジャンク資料の山
*巻頭動画紹介氏の批判対象であり、当方は、当動画の内容について氏を批判していません)
 まず、ずっしり重い動画ですが、検証、批判可能な文字資料として提示されたのではないので史料批判に値しないジャンクであり、読者迷惑です。
 当方も、影響力の大きいテレビ番組に批判を加えることがありますが、当史料は制作者自身論証努力を放棄しているから、論評すべきではありません。

 文字資料は、分析を加えることによって、正確に内容を把握できますが、画像資料は、制作者の主観で加工され、演出されているので、内容の理論的な把握が不可能です。まして、「イメージ」と称する「イリュージョン」は、もっての外です。各地で講演を重ねて収入を得るのが目的であれば、派手な演出で人気を得るのが良いでしょうが、氏は、学問の道を進んで、広く理解者を広めようととしているはずですから、「悪い子」の真似はしないのが良いのです。

*航路図の道草
 これは、「イリュージョン」の典型です。「倭人伝」は、「千里渡海」と見立てているので、現代地図上に根拠不明の古代航路を引いた、児戯とも見える絵かきは無意味です。論評すべきではありません。

*「海島算経」の道草
 「答と解法」の提示者が「峰丈度」を里で表示していますが、山の高さは、「丈」で表示するものであって、けっして、「道里」の単位である「里」で表示されることはなく、これは、全くの門外漢の素人解釈です。論評すべきではありません。

 いずれにしろ、取り扱いやすいように数値を揃えた「問題」に対する幾何学的な解法を示したものであり、国家制度を示したものではありませんから、氏の主張の裏付けとして役に立たず無意味なのです。「取り扱いやすいように数値を揃えた」とは、計算過程で分数や小数ができるだけ出てこないように「下駄」を履かせるものであり、現実の数値とは限らないのです。

 時に、本項資料は、引用図、文章が錯綜としていて、誰が何と言ったのか確認困難です。「三角関数表」など、半世紀以前の遺物表現で、計算尺、関数電卓から、PCと推移して、今や、特別な装備は何も要らないのです。いや、つまらない余談でした。

*道草の回顧
 氏は、このような愚論に対応したために肝心の本旨を見にくくしています。ゴミ資料は、ゴミ箱に放り込み、本体部では一切参照しないのが賢明です。読む方にとって新説であり、ずいぶん楽になります。

 と言うことで、続く項目は無視しています

 漢文古典である倭人伝」は、「倭人伝」自体の文脈、陳寿の見識/深意で理解するのが大原則であり外部文献を導入するなら、まずは、正史、ないしは、正史同等の権威ある史料に限定して史料批判し、ゴミは断固受付拒否すべきです。当ブログで大事なのは、「倭人伝」道里記事見極めなので、圏外ゴミで道草する必要はありません。

 くたびれたので、以下の論考は追跡していませんが、どう見ても、筋の通った「新説」を提示しているように見えませんし、そのような展開を予告するタイトルでもないのです。ただ単に、氏の思う妄説を否定する記事とわかれば、こんなに字数は要らないのです。
 ふと周囲を見ても、冷やかし客は姿を消して、閑古鳥が啼いています。いや、閑古鳥は当ブログにも住み着いていて、人ごとではないのですがね。(苦笑)

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 3/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
〇倭人伝道里解釈論の試み
 さて、以上のように、大前提を見定めた上で、目前の倭人伝道里を語らねばならないと思い、自説をぶっていくので、みなさん御覚悟ください。

*原則と例外
 端的に言うと、秦漢代以来の歴代官制で、行程道里の一里は今日の四百五十㍍程度の「普通里」で、尺からの換算、一歩六尺、一里三百歩は、一貫して不変という明解な大原則がありながら、倭人伝道里が「素人目に」不条理に書き残されたかのように見えるということです。しかし、史官が、公式史書に不条理や無法を書くはずがありません。また、同時代の読者が、許容するはずはありません。

 ここで、当方は、倭人伝は、正統派の史官である陳寿が、魏朝に残されていた倭人に関する基本資料を、どうして、現在ある形で収録したか、陳寿の視点に近づいて、理解しようとしなければならないと言う主張なのです。

*同時代史料確認
 とは言え、世に蔓延している頑固な俗説を洗い流すのは、容易ではありません。学界の権威者長老が、いわば、「無面目派」混沌愛好会に属しているから、心ある論者は、健全な世論を回復すべく、辛抱強く丁寧に努力しています。

 要は、「倭人伝」記事を、理詰めで解釈すると、「畿内説」は成立しないので、倭人伝の理詰めの解釈ができないように、「フェイク」情報をばらまいているのではないかと疑っているのです。議論して勝てないときは、泥沼に誘う込んで、ドロレスリングにしろ、と言うのが、混沌愛好会の得意技なのです。

 「倭人伝」道里における「こじつけ」は、前世紀に、錚錚たる大家によって創唱されているので、新参の「短里説」が紛れ込むことは、無理なのです。 

 当方の定則は、倭人伝は「単独の史料として合理的に解釈できる」というものですが、論中に現代産物の「短里説」は存在しないのです。

〇エレガントな解法 無理なく明解な読み解き
 当方の理解では、「倭人伝」は、当時の中原教養人、つまり、洛陽政権の中核である中国文化の知識、教養を修めた皇帝を初めとする高官人士が、それなりの努力を払えば、「問題」無しに読解できるものです。なぜかというと、陳寿が三国志を上申したとき、これら教養人が理解できない書法があれば、ほぼ確実に拒絶されるからです。

 「倭人伝」談義でよく言われるのは、倭人伝」は、古代中国人が、同時代の中国人のために書いた史書である」との断片的な引用ですが、後に続くと思われる「従って、現代日本人が(自然に)解釈すると、(ほぼ自動的に)誤った解釈になる」との重大な警句が欠落しているので、折角の警告が伝わっていないのです。
 但し、このような見方は、別に排他的なものでなく、一つの歴史観ですから、別に慌てて否定しなくても、命に別状はないのです。

 当時の知識、教養は、太古以来、秦漢に至って確立されていて、魏晋朝で俄(にわか)に一部人士が提起した新規な用語、知識は含まれないのです。「正史」の概念が未形成でも、三国志のような公式史書に求められる基準は明確と見るべきです。史書は、記録を集積、編纂する史官として養成され、その資質を確認された史官のみが、公式史書を編纂しうるものであり、「史官」は、単なる官職、官位ではないのです。
 もちろん、周代に始まったと見える史官の「記録」係としての使命は、陳寿の時代の直後、西晋が乱脈治世の結果深刻な内乱に陥り、各勢力が導入した北方異民族の傭兵の反乱によって、国家としての機構が瓦解したときに、大きく損壊されたので、江東に「東遷」した東晋代以降には、かなり形骸化したようですから、西晋までと東晋以降では、史官と史書の評価は異なります。

〇無謀な改竄論  よその人(複数あり)の話、つまり、氏に関わりの無い「余談」です
 ここまでに字数をかけて、史官と史書について説明したのは、世上の議論に、現代的な不規則文書管理をこじつける向きがあるからです。
 例えば、公式史書として帝室書庫所蔵の三国志に対して、外部から改竄の手が加えられたなどと言う暴論がありますが、それは、今日の公文書改竄風潮の悪しき反映であり、ジャンクとして排除されるべきものなのです。念のため言うと、改竄論者は、帝室書庫に侵入して改竄したと言っているのではなく、世上の高級写本を改竄したと行っているに過ぎないと弁明するかも知れませんが、正史は、時に、帝室原本から写本を起こして、世上の「野良」写本の是正を行うものであり、勝手な改竄は、遅かれ早かれ淘汰されるのです。

 そのような粗暴で低俗な論法で良いのなら、古代史資料は全て虚妄、史官は全て嘘つきという主張が成り立つのです。岡田英次氏や渡邉義浩氏のもっともらしい暴論に染まっていなければ良いのですが。

*道草~ジャンク否定の不毛
 三世紀当時の公式史書は、竹簡などの簡牘片を長々と革紐で繋ぎあげた巻物であり、少し下ると、次いで、同様の装幀で、台に巻紙を使用した紙巻物となり、いずれも、大変な労力と技術の産物ですから、偽造、改竄は全巻対象となり論外なのです。後世も後世、北宋期以後の木版巻本になると、一枚物の各ページを袋綴じに糸綴じする形態になるので、頁単位の差替で済むのですが、その際は、印刷の際の木版原版が残っているので、巻本を改竄しても、持続しないのです。どう転んでも、三国志魏志第三十巻巻末の倭人伝の差替による改竄は、実行する術がないのです。
 さらに言うなら、三国志帝室蔵書の入れ替えという大仕事に紛れての差替となりますが、大仕事は、国家事業として、一流の文書学者が多数参加し、一流の写本工が多数参加して全文字写本するのであり、前後数回に亘って文字校正を重ねるので、勝手な差替は、忽ち露見します。

 どんな暴論も、現代の場で言うだけなら「ただ」(フリー)ですが、暴論を言うには、重大な立証責任が伴うのです。既に、改竄論者には、悪徳研究者としての烙印が押されていると見ます。
 今日は、ジャンク情報が堂々と世の出る世相ですが、懸命な研究者は、そのようなジャンク情報に、目も耳も貸さないのが、正しい対応です。
 と言うものの、敵は、すべて承知で「邪道」(斜めに進む道)を振興しているので、説得不可能であり、ここは、一般読者に「正道」(真っ直ぐ進む道)を説いているのです。

〇「倭人伝」道里の解釈
 背景説明を重ねると話は長くなりますが、趣旨は明解です。
 「倭人伝」道里行程記事は、帯方郡から倭に至る道里を書き出しています。

□第一段階は、帯方郡が定めた官道道里であり、郡から狗邪韓国までの「郡狗区間」を七千里としています。
 自明なので、当然書いていませんが、当然、半島中央部を東南方に走る官道の道里であり、官制上「陸行」ないしは「陸道」しか、存在しないのです。官道には、宿場と馬小屋を備えた関所があり、駄馬や驢馬が荷を担って通れる、騎馬で疾駆もできる、荷車も通れる、整備された街道だったのです。官道は、帝国の骨格ですから、整備されているのが当然なのです。
 にもかかわらず、この区間の道里が、450㍍程度の「普通里」でなく、75㍍程度の「短い里」で書かれているのは不可解です。「倭人伝」読者は、この「問題」への解を求められるのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 4/5

                    2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「倭人伝」道里の提示
 ここには、「倭人伝」の道里基準が明記されているのです。この部分は、地方機関の上申した史料に基づく記事ですから、「現実」の道のりとの対比は、史官には不明でも根拠があるはずであり、史官の本分に従い、原史料をそのまま採用しのです。帯方郡で官道道里がそのように規定されていたというしかありません。(撤回)

 あるいは、官道の道里とは別に、倭人伝だけに通用する道里「倭人伝里」を記入したのかもわかりません。
 帯方郡が、「普通里」と異なる里制を敷いていたという記録はありませんから、「倭人伝里」を適用していた可能性もあります。倭人伝道里が、どのような里で書かれているかは、郡から狗邪韓国までの街道が七千里であるという定義の仕方から容易に計算できるので、この可能性の方がなり立ちやすいと見えます。
 但し、学説として主張するには、検証された公文書記事の裏付けが必要であり、いくら広範囲で多数の支持資料らしきものが見えても、客観的に検証された確固たる裏付けのない主張は、「思いつき」に過ぎません。
 このあたり、断固たる反対論が予想されますが、ここまででおわかりのように、絶対的な否定論ではないので、しばらくご辛抱頂きたい。

*倭人伝道里の由来 2022/01/23
 当ブログ筆者たる当方の最新の意見では、この区間の「里」は、官制に従った道里を元に換算などしたものではなく、恐らく遼東郡の太守公孫氏が、「倭人」との交信の開始の際に、「従郡至倭」、つまり、「郡から倭の王治までの総道里を万二千里」と「東夷台帳」に記載したものと見えます。
 この内容が、何れかの時点で、洛陽に報告され、これが、当時の皇帝の御覧を得て、管轄の鴻臚の公文書、例えば「賓客台帳」に登録されたために、以後、修正が効かなくなったものと見えます。但し、同時代の記録と見られる後漢書「郡国志」は、帯方郡でなく、楽浪郡帯方縣を記載しているので、以後、魏明帝の景初代まで、一切、東夷に関する報告を含め、帯方郡に関する報告は、洛陽に届いていなかったと見えます。
 なお、洛陽から楽浪郡に至る公式道里は、漢武帝時代に設定されて以来、郡治の移動に拘わらず一定であり、帯方郡治の位置を知るために利用できないのです。

 つまり、早ければ、明帝の特命による景初初頭の両郡回収、新任太守派遣の時点で、万二千里彼方の東夷「倭人」の存在が明帝の知るところとなり、遅くとも、正始魏使の帰国で「従郡至倭」のあらましが確定したのを反映して、各区間の里数を按分したという「推定」に至ったのです。

 その際、全行程万二千里というのは、言うまでもなく、大変大まかな、一千里単位の概数であることから、途中の三回の渡海は、それぞれ一律に一千里と見立てて、三千里を割り当て、残る九千里の内、七千里を半島内陸上行程に割り当てたと見えるのです。特に、万二千里という大変、大変大まかな里数を按分するについて、(二千)三千,五千,七千(八千),一万,万二千の刻みにしたため、韓国区間は七千里と決着したものと見えるのです。

 念のため言うと、そのような粗い刻みは、陳寿が勝手にでっち上げたものではなく、太古以来、大まかな数字を取り扱うときの基準として行われていたものと見えるのです。このあたりは、現代では、小学校で採り入れられている「概数」の考え方に沿った、大変合理的なものなので、安直な非難は、取り敢えず控えてほしいものです。古来、倭人伝の数字は、大まか「すぎる」、奇数が大半だと毀誉褒貶がありますが、それは、未開地で得られる大まかな数字を、大まかに採り入れるために採用された技法に基づいているのです。古代人は、数字に大変強かったのです。

 つまり、「倭人伝」道里の区間別里数の設定は、総里数「万二千里」が先に決まっていた上に、中間部に、一千里の渡海を、「渡海」、「又」、「又」と三回明記したので、計三千里、末羅国を経て伊都国に「到」との動かしがたい里数が先に決ったため、今「倭人伝」で確認できる形で決着したものと見えます。念押しすると、これらの里数は、公式道里と言うものの、実測に基づかない概念的な「設定」であり、「倭人伝」道里行程記事から、実測里数を推定するのは徒労に終わるしかないのです。

*古田史学への異論 2022/01/23
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』に於いて、この区間の道里は、「部分道里の合計が全体道里に等しい」との提言を打ち立てて、氏の所説の堅固な土台と見ていましたが、全体道里が先行して、それを各区間に割り当てたという異説を耳にされていたら、どう感じたろうかと思う次第です。
 氏は、記事に無い細部の道里を創出して、「部分道里の合計が全体道里に等しい」 とするように苦吟されましたが、 苦吟の果てに明察した」との感動がなければ、氏の推進力は生まれていなかったので、古田氏の論考の長い道のりの「通過点」として、つまり、一つの歴史的な事実として受け入れるしかないのでしょう。

 因みに、当ブログでしばしば指摘しているように、万二千里を、一千里ないしはそれより目の粗い刻みの里数の合計とした場合、百里代の里数は、「はした」として無視してよいのです。概数計算の等号は、=でなく≒なのです。概数計算では、計算が合わないのはざらにあることであり、「倭人伝」道里記事では、計算できないように、最終行程里数を割愛していると見えるのです。

 この意見も、古田氏の道里説に対して、重大な異論となるので、合わせて、古田史学の方々には、受け入れがたいのではないかと、苦慮していますが、別に、古田氏の史学の根源に関わるものではないので、何れかの時点で、加筆された方が良いように感じます。

 以上の二点は、全体の論議に調和しないことがあるかも知れませんが、敢えて、追加記入しています。

▢第二段階は、敢えて呼ぶなら「狗末」区間です
 まず、倭人伝冒頭のまだ読者の集中力が続いている段階で、「倭人在…海中山島」と、目的地に至るには、海を渡る行程を要する」と強く示唆しています。(中国)史書に異例の長距離「渡海」宣言です。
 中原の道里で、官道が渡河、渡し舟を含む事は当然でしたが、行程のごく一部で、宿場から宿場までの一日の行程の中で済むので、道里や所要日数などには計上せず、「はした」として無視するものです。倭人伝で、「渡海」と言って「渡水」と言わないのも、意味深長です。

 ところが、「倭人伝」行程では、一日がかりの渡海が三度必要であり、道里基準として「陸行」とできないから、例外用法として、『倭人伝では海を渡る行程を「水行」と呼ぶ』と予告した上で「水行」としたのです。歴史的に、「海」は、「うみ」とは別のものなので、「海行」とは呼べず、陳寿は、既存の「水行」を臨時に別の意味に転用したと見えるのです。

 史書の用語は、極めて保守的であり、まして、官制として考慮されていない長距離の渡海行程を創造することは、史官の任に外れるので、陳寿は、格別の苦心を注いだものと見えるのです。

*「従郡至倭」の意義
 そして、道里記事の書き出しは、「自郡」でなく「従郡」としたことに、特別の意義が窺えます。
 古代以来の必須教養科目である算数教科書「九章算術」では、農地測量の際、目前の土地の幅を「廣」といい、奥行きを「従」ということが書かれています。
 「従郡至倭」とは、帯方郡から見て、東南方の倭人の処に至るには、「縦」方向にまっしぐらに進む』と宣言されているのであり、西に逸れて海辺に出て、半島の西岸、東岸を延延と迂回することは、はなから方向違いであり、そのような迂遠な行程は、明記も示唆もされていないのです。

 続いて、「循海岸水行」と書いて、『以下の道里記事では、特に、海岸を盾にして、つまり、海岸線に直角に海を進むことを「水行」と呼ぶ』明記したのです。続けて読むと、海岸に沿う」のではなく、『海岸を盾(循)にして(東南方に)「水行」する』と予告しているのです。
 要は、「地域水行」宣言であり、内陸にある帯方郡から、いきなり海に出る』ようなことは書かれていないのです。

 世上、「循」は「従」と同義と速断している向きが大半ですが、用字が異なれば意味が異なると見るべきです。史官たる陳寿が、史書の道里記事に用いたのですから、いきなり一般的な辞書を参照していては解釈を誤るのです。厳しく言うと、現代日本人、つまり、三世紀中原人なる中国人から見て無教養、無知な夷人は、ほぼ自動的に誤解するのです。腹が立ったら、洗面所に立って、冷水で顔を洗い、清水を呑んで、座り直すことです。

 そもそも、「海岸」とは、陸上の足場に立っているものなので、海岸に沿って進むとは、陸上の移動なのです。海に出るには、「循」として、沖合に出る必要があるのです。なお、「海岸」で海に浮かんでも、そのまま陸地に沿って進むと、間違いなく、浅瀬や砂州に乗り上げて難破するので、どんな船でも「津」(船着き場)を出たら、まっしぐらに沖合に出るのです。

 陳寿は、内陸世界の住人で海辺の船での移動に詳しくなかったから、詳しいものの意見を聞いて、誤解のない言葉遣いを採用したと見るのです。現代日本人は、海に親しんで育っているので、以上に述べたような常識が身についているから、「海岸に沿って」と「普通に」読み替えてしまうもののようです。

 以上のような解読は、中国古典書、特に「史記」、「漢書」などの史書から自然に導かれるものですが、従来の「倭人伝」解釈は、ほぼ揃って国内史料、現代人解釈に偏っていたので、提起されることが(ほぼ)無かったものであり、その意味で言うと、全員(ほぼ)一律、誤解していたと言える根拠となるものです。
 因みに、これらは、本来中国の史学者から提言されるべき意義なのですが、中国では、日本古代史に関わることは好まれず、「倭人伝」について精査されていなかったと思われるのです。「倭人伝」は、中国史書の一部ですが、日本列島古代史の重要な史料として、中国側で真剣に取り組むのは、古来どころか近来も希の中の希なのです。

 以上、余り見かけない議論なので、長々と述べました。

*「渡海千里」の意義
 この区間の各渡海千里を、実道里の反映と見るのは空論で、無意味です。肝心なのは暗黙の一日渡海です。
 その「一日」が、三時間であろうと六時間であろうと、丸一日が費やされるので、道里行程記事の日数表示には関係無いのです。世上、渡海一千里とは、測量した道里の意味でなく、一日分の行程だと明記したものだと解する意見がありますが、同時代の理解としては、そちらの方が近いのかも知れません。
 後ほど出て来るように、この行程は、中原で、河水(黄河)をわたるとき、洲島、つまり、中州で船をとどめるようなものだと言っているようです。古代では、「海中の島」と言うとき、海中に突き出した半島を言うので、洲島というのは、誤解を避けているもののようです。

▢第三段階は、呼ぶなら「末倭」区間です。
 当然陸上経路ですが、念のため「陸行」と付記しています。読者は、末羅国が中州の島でないと知らないので、地域水行解除宣言が必要です。

 この区間は、総じて未開地で、道里も百里単位であり、千里単位の倭人伝道里の大勢に響かない端数なのです。史官としては無関心です。

 と言うものの、末羅から伊都までは、狗邪までの交流、交易に常用されているから、倭地なりに、荷物輸送に支障が無い程度に道路整備されていた筈です。(宿駅、替え馬などのことも含むのである)
 当然、荷道は、重荷を担って通行可能なつづら折れであり、あるいは、荷駄馬がすれ違う道でした。(諸処に、道を広げて、すれ違い場所が設けてあった可能性はあります)("two horses abreast"「馬が行き交うことのできる径」でも言うのでしょうか)ひょっとすると、駄馬が間に合わずに、痩せ馬(人夫の隠語)を動員したかもわかりませんが、農民の小遣い稼ぎになっていたでしょうから、決して、苦役ではなかったはずです。そもそも、税の一要素で、労役が課せられていたから、荷運びは、ただ働きというわけではなかったのです。

 一方、急ぎの者につづら折れは迂遠であり、敢えて、直登に近いけものみち風の近道「禽鹿径」を採ったようです。
 といっても、魏使の記録係が徒歩で近道したとしても、正使副使の高官が同じ道を通ったとも思えません。士人は、額に汗して徒歩行せず、まして、荷を負うはずがないのです。太古の禹后本紀で、「陸行は車に乗る」と明記されているように、身分のある中国人は、徒歩行しなかったのです。

 なお、「禽鹿径」の「径」は、人馬が公式に往来する整備された「道」、「路」でなく、「抜け道」という趣旨で選ばれているので意味深長です。郡から狗邪韓国までの整備された官道にはほど遠い整備状況だったとしても、日頃、市糴(交易)に常用している官道であるからには、諸所に宿場があり、関所があったはずですから「径」ではなかったのです。「禽鹿径」を「けものみち」と自然に翻訳して、何となく理解できたようで、大抵は誤解に終わっているのは、残念なことです。

 道里には、当然、つづら折れの荷道道里が書かれるべきですが、それでは、随分里長が伸びるので、短縮して報告したかも知れません。ここは急ぐ旅でもないので、後で再論します。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ」 改改 5/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/12/04
*「世界に普通」のつづら折れ~余談
 もちろん、刮目天氏の発言ではないのですが、後年の大和河内国境街道竹ノ内峠越えを直線距離と高低差で論じる愚かしい説がありました。
 ここでは、あくまで、余談ですが、近年まで奈良側旧道は、いたってありふれた幾重にも重なるつづら折れで運転手を悩ませ、時に転落車輌が出たのです。
 古代街道は、絶対、急坂を直登などしないのですが、そのような初歩的考慮のできない輩(やから)が、無造作に研究発表するのが目に付くのです。つまり、このような旧道区間を地図上で計測して、道里ならぬ直線距離を読み取っても無意味なのです。
 いや、現在は、一直線に竹ノ内峠を越えていく自動車道が整備されているので、これを道里と見る人が出そうですが、このような道路は、ごく最近まで存在しなかったのです。
 因みに、近来の新聞紙上で、河内側と奈良盆地側との交通、交流を論じる際に、大和川経路を強く支持する研究機関の代表者が、自部門の立場が不利と見て、竹ノ内経路を貴人が乗り物から転落しかねない急坂として弾劾している例が見られましたが、竹ノ内経路は、河内側の傾斜が緩やかな「片峠」であったため、急峻な奈良盆地側には、つづら折れの街道を設け、背負子を背負った人々がゆるゆると登坂して、二上山越えの経路が繁盛していたのであり、そのような史実を知らず、根拠無く弾劾したために信用をなくしている例となっています。ついでながら、担当記者は、実地踏査したものでないので、そのような史実を知らず、提灯担ぎして、恥をさらしています。実地踏査の労を怠けて、全国紙の紙面を汚しては、報道の者として、恥ずかしいのでは無いかと思います。
 いや、これは、氏に無関係な余談でした。

*倭人伝道里の考証~再開
 実道里の確定には、実見を要すると言うべきですが、「倭人伝」に戻ると、この間は、万二千里に及ぶ倭人伝道里では端数に過ぎず、倭人伝に特に必要の無い細目である事から、陳寿もさほど注意を払っていなかった筈です。
 基本的ですが、倭人伝」は倭地に「牛馬なし」と明記していて、「緊急連絡で街道を疾駆することはできない」と、強く示唆していることになります。従って、当区間道里は、郡管内と実質が異なる規格外の「不規則」里数である事が、事実上明記されているのです。
 どの道、倭地の内部の小国の配置や相互間の道里について、陳寿に責任を問うのは無理です。史官の務めとして、「述べて作らず」に、つまり、度を過ごして割愛、改竄せずに、原史料の記事を収録したことに感謝すべきでしょう。

 因みに、「世界に普通」の「世界」は、当時中原人の把握していた「天下」の意味であり、別に、地球儀上の全世界という意味ではないのです。また、「普通」は「世界」に普(あまね)く通じているとの意味であり、現代で言えば、「普遍」に近いのかも知れません、いずれにしろ、同時代用語の再現を試みたものです。

*道里勘定復習
 原点に戻ると、公式史料に必要なのは末羅国から倭への道里です。大局的には、郡倭」万二千里、そのうち「郡狗」七千里、「狗末」三千里であるから、末羅国から王の処まで二千里です。この議論に、短里説は全く必要ないし、先に挙げた理由で、「末倭」二千里は、どんな里であるか、保証できないのです。
 ここで言う末倭二千里の「里」は、表面的には、郡狗区間七千里という既知道里に基づいて、その概ね二/七と見えますが、郡倭万二千里は、出所、基準不明ですから、この二千里も、憶測を重ねた漠たる数字でしかないのです。

 何しろ、未開の地の未開の官道なので、魏朝の国内基準では判断できないのです。言い方を変えると、実際上、何もわからないと言うことです。「倭人伝」に、そのように地域の事情による道里が書かれていても、陳寿には確認のしようがないので、史官の務めとして、そのまま収録したとみるべきです。
 そして、東夷管理に最も必要とされる従郡至倭の所要日数の確約があれば、遠隔の蛮人の地の道里に、特に信は置かなくていいのです。

 そして、いくら後世人が、最先端の機器と最先端の手法を駆使して、最高の努力を重ねても、元史料がデータとして不確実不安定なものである以上、そこから確たる数字が読み取れることはあり得ないのです。つまり、倭人伝」道里をいかに解析しても、皆さんが望むように、女王の都の比定地が確定されることはあり得ないのです。

 この点は、遙か、遙か以前に安本美典氏が指摘している至言ですが、正しく理解されていないようで残念そのものです。

 後ほど、狗邪韓国以降の渡海と陸行の道里が、「周旋五千里」と念入りに示され、「倭人伝」道里は、当時の視点で見て、簡潔だが要を得ていると見るものです。

*道里記事の「淀み」の解決
 ここで、道里記事の淀みの解決について、触れておかねばなりません。
 投馬国へ「水行二十日」は、以上の行程道里の原則に反しているものです。末羅国以降の行程は、王の処まで「陸行」でありもはや「水行」がないとの規定であるように、投馬国は傍路、脇道であり、付け足しです。奴国、不弥国、投馬国の記事には、風俗、地理に関する付記がないのも、これらの国が、行程の通過する主要国でないことを、明確に物語っています。

 倭人伝の現存記事から見て、つまり、陳壽が必要と見た記事から見て、明らかに、伊都国は郡との交通、交信の終点かつ始発点であり、王の処は、其の至近でなければならず、そのような最重要道里が、水行二十日と官道なしの風任せ行程を挟んでいる筈がないのです。

 また、同様の筋道から、続く水行十日陸行三十日(一ヵ月)は、伊都~王の処までの道里行程の筈がないのです。

 なお、この部分を「都水行十日陸行一月」と読解し、従郡至倭の所要日数の総計との解釈が、古田史学の会古賀達也氏によって提起されていて、当ブログ筆者の持論と符合したので、ここで同志宣言しておきます。そのため、当ブログ諸記事から「南至邪馬壹國女王之所都。水行十日陸行一月」との解釈を退場させています。

〇「水行二十日」「水行十日、陸行三十日 」 の仕分け
 近来、「水行二十日」と「水行十日、陸行三十日 」の記事が、倭人伝道里行程記事の理解の「重大、絶大な妨げである」旨の指摘がありますが、以上のように、記事項目を仕分けすると、「従郡至倭」に始まる行程記事は、必要な道里記事だけが残されるので、円滑に理解できるはずです。(思わず、「自然に」と書きかけましたが、個人的な意見は千差万別なので、言葉を変えました。)

*伊都国起点の放射行程論議
~榎一雄師提言の評価
 以上の行程解釈は、榎一雄氏が実質的な創唱者ですが、もちろん、以上の論義のかなりの部分が氏の意見と異なっているのは承知です。

 例えば、榎氏の意見に従うと、伊都国から女王国の行程は「水行十日、陸行一月」であり、つまり、これを伊都国からの所要日数と見ていますが、まずは、国の根幹部の街道道里が不明で、所要日数しか書けなかったという解釈は、国体に似つかわしくないのです。
 また、文書通信も成文法もないので、女王が、伊都国から見て四十日行程の向こうに閑居していては、諸国どころか伊都国すら統御できないのです。とにかく、女王は、對海國、一大国、末羅国、伊都国と続く、頼もしい列強から遠く離れて、どこの誰を頼りにしていたのかと、疑問に駆られるのです。そのような蕃王の姿に、後世東夷のものが納得しても、三世紀読者は決して納得しないでしょう。
 榎氏は、道里記事をそのように解する前提として、「唐六典」の「陸行」一日五十里記事を援用していますが、それでは、郡から狗邪韓国の七千里は、百四十日を要することになります。それは、魏使が大量の下賜物を抱えて道行(みちゆき)できるものではないので「戯画」と見えます。要するに、倭人伝の「里」は、観念的なものに過ぎないので、場違いな情報で検算してはならないのです。

 陳寿は、そのような不適切な読みに陥らないように「倭人伝」独特の道里記事を工夫しているのです。そして、三世紀読者は、陳寿の書法に納得したのです。
 それにしても、氏の提言に関して、世上では、なぜか、理論的な評価がされていないようです。単に、氏の漢文解釈が不適切だという程度です。
 榎氏の発表時、先輩から「伊都国が、当時政治経済の中心だったと言いたいのか」と詰問されたように書いていますが、反論無しに、そのように書き残しているということは、文献に明記されていないので、史学論文に書けなかったものの、氏の論拠がそこにあると示していると見えます。

 このように明解で正当な仮説を否定するのに、未だに「子供じみた感情論や得体の知れない文法談義の屁理屈しかない」ようで、ここも、いたずらに混沌を書き立てている輩(やから)がいることになっています。

*行程道里記事の総決算
 つまり、「倭人伝」の眼目たる所要日数は、ここまで縷々述べてきた「従郡至倭」の総決算と見るものです。倭人は魏朝に服属したから、「従郡至倭」の総日数が不可欠であり、そのように読者に明示しなければならないと見るものです。つまり、洛陽の高貴な「読者」に、あれこれこむつかしい計算をさせるものであってはならないのです。と言うか、俗説にあるような行程解釈では、全所要日数が読み取れない不完全な史書となります。
 逆に、これが全所要日数という自然な結論を採用するなら、伊都国以降の進路がどちらを向いているとか、里数が実測かどうかなど、議論の必要は無いのです。「倭人伝」道里の公的史書における位置付けを思えば、「エレガントな」、つまり、複雑な謎解きと計算の要らない端的な解釈順当と判断できるはずです。

 以上が、当方の解法であり、自分なりに自信を持っていますが、そのように理解したくない、理解できない方が圧倒的に多いでしょうから、総選挙すれば、あくまでも、支持者のない孤説に終わるものでしょう。要は、山火事に柄杓一杯の水をかけているだけなのです。

*混沌の由来
 おそらく、刮目天一氏は、世上氾濫する安直な「短里説」それを取り巻く安直な議論を「混沌」と見たのでしょうが、「混沌」も目鼻をつければ「面目」を得て成仏するのです。一向にそうならないのは、おそらく、混沌泥沼を好む不逞の輩が、無面目の混沌に不法餌付けしているのでしょうが、そのような事態の付けを陳寿に持ち込むべきではないと思います。

*まとめ
 以上、保守守旧派の諸兄にとっては、嫌みたっぷりでしょうが、これが芸風なので、飾りの少ない平文を、冷静に読み通して頂ければ幸いです。
 当初、当地基準で五ページ(ややてんこもり気味)になって反省ですが、まあ、ほぼ全文が新規書き出しであり、勢いに任せた初稿の半分以下に縮めたのでご勘弁頂きたい。

*応答御免
 当記事は、随分コメントを戴いているので、応答をかねた訂正、改善を随時反映していることをご了解戴きたいものです。
 ここで書くのが至当かどうかわかりませんが、洛陽と倭人の交信では、景初遣使直前に、帯方郡から洛陽に、全体道里、全体戸数、などの要件が報告されたと見るべきです。
 つまり、景初年間の司馬氏の楽浪郡攻略の大部隊とは別の部隊が、楽浪、帯方両郡を、無血調略で皇帝直轄としたため、それまで長年阻止されていた倭、韓の報告が一気に開通し、皇帝の手元に、万二千里の遠隔の東夷が存在するという大発見が届いたと見るのです。

*不愉快な結論
 世上、「倭人伝」の道里は、後年、魏使の上申した「出張報告書」から読み取ったと見ている向きが多いようですが、数十人の人夫を要すると見える大量の下賜物と百人規模と見える多数の人員を使節団として派遣する際に、相手の正体や目的地までの所要日数などを一切下調べしないままに送り出すことはあり得ないのです。帯方郡の係員が現地調査して、当初の万二千里の報告と整合する報告を試みたはずです。

 但し、既に皇帝に承認された内容は、皇帝年代記に書き込まれているので、訂正が効かなかったというのに過ぎないと見えます。

 以上の経緯は、あくまで、最善の考察をこらした推定ですが、諸所に、先賢諸兄姉の反感を煽りかねない推定が試みられているので、こっそり書き始めているところなのです。

 頓首頓首。死罪死罪。(「読者」の逆鱗に触れても、いきなり死罪にならないように、平伏しているのです)
                                以上

2022年12月 1日 (木)

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 1/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 

◯始めに~珠玉の論義
 随分遅ればせの書評であるが、当分野では、かくも珠玉の論義が埋もれているので顕彰する。論義が、札付き記事に埋もれていては無理もないが。
 張明澄氏は、日本の漢字字典、辞典を読まないが、ここでは、漢字圏を通じ、漢字学の最高権威とされている白川勝師の辞書「字統」により謹んで補足させていただく。

「至」の原義は、弓で矢を射て届いたところを言う。つまり、「至」は矢が飛んで行った先であり、そこに行ったわけではない。
「到」の原義は、「至」「刂」であり、「至」で得られた行き先に実際に至ることを言う。

*混乱した解説
 張氏は、カタカナで「到」は、「リーチ」reach、あるいは「アライブ」arriveという。ただし、英単語は、この場で補足したのであり、原記事は、カタカナ語だけであるから、読者が理解できるとは思えない。
 前者は、「どこかに行き着ける」という意味だが、後者は、「アライブ」というだけでは、「到着」、つまり、「どこかからやってくる」という意味になり、「どこかに行く」と言うには、肝心の言葉が足りないので、前置詞を補って覚えるのが英語学習の常識である。
 つまり、「アライブ アット」arrive atで、「どこかに着く」という意味になる。それにしても、氏の思っているように、「リーチ」、「アライブ」は、全く同じ意味ではない。ここでは、「到」には、後者が適しているように見える。
 「至」は、「テイル」ないしは「アンテイル」というが、Tail、Untailと解しても、何を言おうとしているのか、理解できない。
 むしろ、「リーチ」reachに適しているように見える。

 このように、カタカナ語に無頓着な氏の理解は、当てにならない。これでは、読者の混乱を深めるだけで、言わずもがなである。古田武彦氏の(失敗例の)模倣であろうか。いや、うろ覚えのカタカナ語で、ご当人は明快にしたつもりで、一向に明快にならない点では、似たもの同士である。

*誤解の起源
 張氏は、戦前、戦中の日本時代の台北で、「皇民教育」を受けたはずであり、つまり、英語は敵性、使用禁止とした「日本語教育」で育ったのであるから、カタカナ語は倣ったものではなく、恐らく、成人となった後の付け焼き刃であろう。もちろん、伝統的な旧字、旧仮名遣いで育ったのであり、引き合いに出したカタカナ語を日本語として正確に理解し、表現できているとは思えない。

 と言うものの、現代日本人も、中高生時代に、英語を基礎から習ったものの、正確に履修した保証はなく、カタカナ語を見て、原点の英語を想定して理解できるとも思えない。書き手と読み手が、ともにいい加減な理解しかしていない言葉を論理の中核に据えたのでは、何がどう伝わるのか、到底確信できないと見るのである。
 張氏は、当記事を思いつきの随想として書いたわけではなく、編集部も、そのような冗句と解していないはずだから、この下りは、何とも理解に困るのである。

 本論の課題は、古代中国語文の解釈であり、そこに、うろ覚えのカタカナ語を持ち込むのは、根本的に筋が悪いのである。

◯倭人伝分析:各国「条」論義 基本的に「紹熙本」に準拠。句読随時。
 と言うことで、以下、原文に即した地道な解釈に努めるものである。
*緒条
 從郡至倭、…其北岸狗邪韓國、七千餘里。

*對海条

 度一海、 千餘里對海國。
  其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。
  所居絕㠀、方可四百餘里、…有千餘戶、…乖船南北巿糴。
*一大条
 南渡一海、 千餘里、名曰瀚海、一大國。
  官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
 多竹木叢林。 有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
*末羅条
 渡一海、 千餘里末盧國。
  有四千餘戶。濱山海居、…好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

*伊都条

 東南陸行五百里、伊都國。 官曰爾支、 副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。
  丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐。
*奴条
 東南奴國   百里。   官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。   有二萬餘戶。
*不彌条
 東行不彌國  百里。   官曰多模、 副曰卑奴母離。   有千餘家。
*投馬条
 南投馬國   水行二十日。官曰彌彌、 副曰彌彌那利。   可五萬餘戶。

*結条

 南至邪馬壹國女王之所
 都水行十日陸行一月
  官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 可七萬餘戶

*お断り
 以上の区分、条題、句読、小見出しなどは、本論限りの便宜的体裁である。
 版本の選択は、本件論義に影響しない。

                                未完

新・私の本棚 張 明澄 季刊「邪馬台国」第12号 道里行程論 2/2

「一中国人の見た邪馬台国論争」 好評連載第二回 梓書院 1982年5月刊
 私の見立て ★★★★☆ 汚泥中の真珠再発見  2022/12/01 

*「張明澄」提言~末羅分岐説
 各条の書き出しで、「始めて」、「又」、「又」と三度の「渡海」とわかる。
 このように、「順次行程」は、次を「又」で書き始めるのである。
 一方、末羅から先の行程は、「又」が欠け、末羅での分岐行程と見る
 卓見であるが、氏の「解法」は不徹底と見える。
 張氏は、「到」、「至」蘊蓄を傾けて個々の意義を説明したが、判じ物として不得要領であり、論ずべきは凡庸な学識の持ち主に通じる真意であり、「至」と「到」の使い分けは、想定読者にも通じる明快表現と見える。

*異論表明~伊都分岐説
 伊都以降で、伊都条は「到」であるが、以下は「至」である。
 「到」する伊都は、「丗有王、皆統、屬女王國、郡使往來常所駐」と「列国」として重んじられていて終着地と明記されたと見える。張氏も、「駐」は、偶々通りがかりに足を止めたとの意味ではないと明快である。

*「余傍」に「至る」
 それに対して、以下「至」は、伊都起点の「余傍」である。そして、掉尾の邪馬壹は、伊都からの行程・道里に欠ける。

*「至る」と「到る」
 白川師字書により、「至」は行程目的地、「到」は、行程到着地であって、爾後行程の出発点とされる。記事で、狗邪韓国と伊都国が「到」である。

*邪馬壹行程の意義 残された課題
 邪馬壹は「女王之所」であり、「結び目」を解きほぐすと、先行諸国と同列ではなく、道里行程記事結語と見えるが、最終到達地かどうかは不明である。
 正始魏使なる漢使は、「女王之所」にいたって、女王に拝謁した「蓋然性」が高いが、郡太守の文書が、すべて届けられたかどうかは不明である。
 古来、夷蕃の地で、漢使が、蕃王と接見することは必須ではない。
 諸兄姉の解釈は多様なので「一解」を強制するものではない。

◯「張明澄」提言の意義~泥の中の真珠
*里程記事新たな一解~エレガントな解釈
 以上、筋を通すと、道里行程記事は「南至邪馬壹國女王之所」で完結し、
 [道里] 都[都合]水行十日、陸行一月
 [官名] 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮
 [戸数] 可七萬餘戶
 と総括要件が示され、首尾一貫すると見える。
 要するに、郡から伊都まで、一路南下し到達する明快な行程である。
 回顧すると、張氏提言は、誠に明快、整然としていて、先行諸説の中で、榎氏の「放射行程」説と軌を一にしていて、私見ではあと一歩である。
 賛同するかどうかは読者諸兄姉次第で、本稿は論点提示に留める。

*隠れた本懐
 兎角、張氏提言をなべて非難したが、時に、氏の韜晦の陰に透徹した明解な解が披瀝される。支持者に忖度してか、当提言は、突如大きく撓むため、近来に至るも、遂に理解されていないと見えるので、謹んで素人が蒸し返す。

*余傍の深意
 本「張明澄」提言を意義あるものとみると、「畿内説」の成立の余地がなくなるので、当記事は、埋め戻し、黙殺の憂き目を見ていると懸念される。

                                以上

2022年11月24日 (木)

今日の躓き石 社会人野球復活「エース」の恥さらし~毎日新聞スポーツ面報道の病根か

                          2022/11/24

 今回の題材は、毎日新聞大阪14版スポーツ面の1/2に詰まった本日の「朝刊野球記事」の大半を占める、本来立派な記事である。だから、こんなコメントは付けたくないのだが、ほっておけば、お手本として永久保存されそうなので、釘を刺さざるを得ないのである。

 「骨が折れていても 雪辱か手術か」との見出しであるが、どうも、二年前に、社会人野球界で人も知る剛腕の右腕投手が、練習試合で左足に骨折を生じたということである。よく知らないが、ままあることと見るしかないが、以後の展開が信じがたい。
 素人考えで申し訳ないが、野球選手のこのような骨折は、治療だけで手術もせずに、言わば、ほっておいてくっつくのを待つようなものかと思う。その結果、このケガを抱えて「投手陣の柱」として戦い続けた挙げ句、骨折に靱帯損傷まで重なった患部に、一年たって、ようやく外科手術を行ったというのは驚きである。骨折自体は、カルシウム分が成長して繋がるかも知れないとしても、靱帯は、成り行き任せで、自然に損傷部が繋がるものだろうか。ちゃんとした医師の見解を聞きたいものである。
 それを「自己犠牲」と言いたいらしいが、どんな「神様」に生け贄を献げて何を誓ったのだろうか。
 それにしても、チームの責任者や医師が、なぜ止めなかったか不可解である。

 それはそれとして、辛うじて、見るに見かねたトレーナーが、出場継続は「ダメ」と断言したものの、監督は、本人の判断に任せるとし、結局、不承不承手術に踏み切ったという、素人目には非常識な推移だったと思うが、担当記者は、何も評していない。
 むしろ、当人の「問題発言」をそのまま流して、ことは、当人のわがままによるものとして、当人を世間の晒し者にしている。
 記者は、これを「美談」として報道し、全国の若者が、自分のケガや病気を二の次に、チームに尽くすべきだと教訓を垂れているのだろうか。

 この態度は、全国紙の署名記者として、大変疑問に思える。記者には、報道の者として大事な務めがあるような気がする。

 その勢いが、当人に、これが「リベンジ」だと言わせたことにしている。
 一体、誰を恨んでの復讐談なのか、記事からは一切読み取れない。
 記者は、何を納得したのだろうか。このような血なまぐさい言葉を世間に広める責任は感じていないのだろうか。記者には、報道の者として大事な務めがあるような気がする。
 記者は、どんな辞書を引いたのか、「リベンジ」を「雪辱」と解したようだが、スポーツ選手がケガをしたら、それは、「誰のせいで、誰を恨み、誰に仕返しを企てるのか」全国紙の読者が快く察してくれると思い込んでいるのだろうか。誠に奇特な話である。

 結局、ケガを抱えた自分自身の身体の悲鳴を騙し騙し一年間投げ続けた挙げ句、(恐らく、親身になって気遣ってくれた身辺の人々の説得を受け入れて)手術の恐怖をようやく乗り越えて、苛酷な外科手術を受け、苦しい長期のリハビリを経て、ようやく復活したから、要するに、弱気に負けてチームに迷惑をかけたのである。記者の書きぶりでは、選手は、周囲に見放されて、誰も、当人の心得違いを癒やすことができなかったような書きぶりであるが、毎日新聞報道を真に受けるとすると、世も末である。

 そして、選手は、公の場で罰当たりな「リベンジ」を口にしてまで、外科手術を先延ばしにし、遂に、大変な苦痛を受け入れた対価は得られたのだろうか。「リベンジ」は、血しぶきを上げて達成されたのだろうか。記者は、何も語っていないのである。

*別人糾弾
 概して言うと、野球界は、高校野球からNPBまで、テロリスト紛いの「リベンジ」の血なまぐさい魔力を借りないと、困難に立ち向かえない風潮があるようだ。
 毎日新聞でも、野球担当からフットボール担当に転入した記者が、早速口癖の「リベンジ」を吐き出して、世間に恥をさらしていたのは、ごく最近のことである。野球界は、野蛮な新大陸文化の世界であるから、不信心な暴言が出回っているとしても、イングランドには、高貴な倫理が生きているように思うのである。まして、大陸諸国は、英語圏ではないから「リベンジ」など、無意味である。いや、これは、別人に対する苦言であった。何かの折に、「忠告的指導」をしてあげて欲しいものである。

*まとめ
 国紙の署名記者は、平成の怪物がまき散らし、令和の野球界にはびこる罰当たりな「遺産」発言、「ダイスケリベンジ」が、これ以上広がらないように、未来を担う若者達に「負の遺産」を残さないように、真っ当な報道に挑むべきでは無いかと思われる。

 事実の報道は、ゴミためやドブに落ちている「事実」を、そのまま読者の食卓に投げ出すものではない
と思うのである。

 そう、当記事が不適切なのは、担当記者の怠慢から来ているのである。一読者として、大変不満なのである。

以上

2022年11月21日 (月)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 1/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*前置き/おことわり
 ここに紹介し、批判しているのは、掲題サイトの一般向け解説記事ですが、当ブログ筆者は、課題となっている疑問点に対して、一方的な解釈が、十分な説明無しに採用されているので、あえて僭越を顧みず、異論を唱え、広く、諸賢の批判を仰ぐものです。

□はじめに
 近来、当ブログ筆者は、諸方に展開される倭人伝解釈の初歩的な間違いに嘆きを深め、ために泥沼状態が解消の方向に向かわないのにたまりかね、せめて、柄杓一杯の清水で、其の一角の汚れを洗おうとしているものです。

 以下に述べる指摘は、その汚れと見たものであり、ご不快ではありましょうが、もう一度見直していただきたいものです。
 それにしても、こうした一流公式サイトの一級記事に、明らかな誤字があるのは感心しません。公開以前の校正は当然として、公開以後、誰も探検していないのは、組織全体の信用をなくす物で、ここに苦言を呈します。誤解されると困るのですが、ここに批判したのは、サイト運営の皆様が理性的な見方ができると考えたものであり、そのために労を厭わなかったのです。

 今回は、「倭人伝」解釈論議ですが、本体部分に平野邦雄氏の現代語訳を起用しているとは言え、当記事の最終責任は、氏の訳文を記事として掲載した当サイトにあると思うので、ここでは、サイト記事批判としています。

                              

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。(中略)
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。(中略)
 「魏と外交関係をもつ」とは、時代錯誤の用語です。東夷の「国」は、魏から対等の国家、「敵国」として認められたものではないので、単に通交と言うべきです。魏の本国と接触できたのは、ごく一部の文字交信のできる「国」が、諸小国の代表と認められ、洛陽まで移動することが許されたのです。あるいは、「外国」は、すべて「蛮夷」と解釈するのかも知れませんが、現代読者には、そうとは解釈できないので、時代錯誤というのです。

 それにしても、本文と表記が不統一で感心しません。百余国、三十国と正しい書式、時代相応に書くべきです。 三世紀当時どころか、遙か後世まで「ゼロ」は無かったのです。三世紀当時無かった概念は、丁寧に、つまり「徹底的に、全面的に」排除すべきではないでしょうか。
 因みに、景初献使の直前まで、帯方郡は、長年遼東公孫氏の管理下にあったので、その間倭人の洛陽行きはなかったのです。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。
(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。
 原文には、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは書かれていません。陳寿は、「海岸に循いて行くことを水行という」と水行の意味を定義した後、特に説明無く「韓国を歴る」と書いているので、これは、全体として東南の方向に内陸の官道を行くというのが、書かれている字をそのまま普通に解釈するものではないですか。
 地図を参照するまでもなく、半島の西海岸に沿って航行しても狗邪韓国には到達できません。つまり、後に登場する、渡海」と明記されている水行とは異なり、沿岸水行は書かれていないということではないですか。
 因みに、このような際、沿岸航行を形容するには、史官は、海岸を撓めると表記するものです。また、方向転換する際は、その地点を明記し、進路変換を「転」じてと書くものです。そうしないと、いつ方向転換するのかわからないのです。ご不審の方は、お好みの時代錯誤の精密な地図を見て、とても海岸線に沿って進むことなど、到底、金輪際できないとわかっていただけるでしょう。
 訳者は、そうした事情を、十分ご承知の上で著書に掲載したこととは思いますが、このように、抜粋して引用されると、氏の「誠意」は、伝わらないので、事情に通じていない読者のためにちゃんと説明すべきではないでしょうか。(「誠意」の中には、時代用語の解釈、注釈という重大な事項が含まれています)
                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 2/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
(中略)(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。
 「コース」とは程度の低い時代錯誤です。半島西海岸に沿って進めたとして、西海岸が終わったらどうするのか。東方への転換が書かれてない限り「コース」は南海に進むだけです。「まずは南に後に東に」と意訳するのですか。
 因みに、馬韓は、中心部が、漢江河口部のあたりであり、南部がどこまで届いていたのか不明です。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。(中略)千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」は「對海国」と書いていて、「対馬国」は誤訳となります。
 因みに、掲載写真には「宮内庁書陵部©」と著作権宣言されていますが、政府機関である宮内庁が所蔵、つまり、公有の古代資料の写真に著作権を主張するなど論外です。良く良く確認の上、©を外すべきです。

(中略)それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。(中略)三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。(中略)
 提示の紹凞本「倭人伝」 には 「一大国」と書いています。ここも、誤訳となります。
 また、「水田」とは書いていないので、またもや軽率な誤訳です。ともあれ、戸数相当の田地があったので、主食は得られていたと見るべきであり、おかずに海産物をタント採っていたのを見て、海の豊かさを知らない中原人が哀れんでいた可能性が濃厚です。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。(中略)人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。(中略)
 「山裾や海浜にそうて住んで」いるのでは、全世帯が浜住まいで、漁に専念していたことになり、四千余戸は、国から扶持された良田を耕作しなかったのでしょうか。扶持か私田かは別として耕作地は、収穫の貢納を厳命されていたはずです。一家揃って海辺に住んでは農耕できません。
 「業としている」とは、普通は、交易に供して対価を得て生業を立てているという意味ですが、どうなっているのでしょうか。国としてでしょうか。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。(中略)千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。(中略)
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。
 無造作に『魏略』と書くのではなく、「『翰苑』の断簡写本に見られる『魏略』断片(佚文)に従うとすれば」と丁寧に書くべきではないですか。いずれにしろ、字数の限られている記事に、ことさら書く価値は無いでしょう。
 郡使は、倭に到着したとき、伊都国に「常に駐した」、つまり、ここで、馬を下りて、足をとどめたように見えます。つまり、「倭」の王之治所は、伊都国の管内にあったとも見えます。

(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。
 これは、「倭人伝」の記事と異なるものである、とでも書き足すべきです。そうしなければ、圏外を語る笵曄「後漢書」を起用する意義がありません。また、なぜ、時期外れの後漢書を尊重するのか、意図不明です。
 ここでは、後漢代の大倭王なる君主が、当時「邪馬臺国」と称していた「国」を居所としていたと言うことでしかありません。范曄は、後漢代のことしか書いていないのですから、文帝曹丕、明帝曹叡の二代のことは、一切書いていないのです。
 これに対して、倭人伝」は、母体である「魏志」が三国鼎立期の魏朝の記事であり、遡って魏武曹操の時代のことも含めていますが、陳寿は、范曄が唱えた「大倭王」、「邪馬臺国」の記事を書いていないのです。つまり、これらは、陳寿の排除した伝聞に類するものと見るのが普通でしょう、と意見されたことはありませんか。
 また、魏志に丁寧に補注した裴松之も、この点に関して陳寿の割愛を回復してはいないのです。范曄が、「倭」記事の根拠とした後漢代の「倭」史料は、范曄と裴松之が活動した南朝劉宋期に存在しなかったのではないでしょうか。つまり、ことは、范曄の創作記事のように思えるのですが、反証はあるでしょうか。
 つまり、陳寿の残した記事を覆すに足るだけの、後漢書に対する史料批判は、十分にされたのでしょうか。

これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。(中略)、二万余戸がある。(中略)
 「これから先は」とあるが、なにが「これ」なのか、文としてどう続くのか趣旨不明です。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。(中略)
 「おなじく」と無造作に、原文にない書き足しですが、何がどう同じなのかわかりません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 3/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。(中略)。五万余戸ばかりがある。
また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところ(中略)七万余戸ばかりがある(*26)。
(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。(中略)邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。(中略)
 どちらに分があるかは、この部分の書きぶりで自明なので、別に「そうとは断定」しなくても良いのです。つまり、普通に考えれば、現存史料「倭人伝」の記事を排除して「台国」と断定する理由は全く見られないということが言いたいのでしょうが、明解に書けないのでしょうか。どうも、後の冗談も含めて、敗戦宣言しているように感じます。
 ついでながら、古代氏論考で、「アプローチ」は、何とも不適切です。ゴルフ用語なら「ショット」と明記しないと意味が通じません。それとも、異性を口説くのですか。大事な記事を書き飛ばしたわけではないはずですから、不用意ですね。と言うような、益体もない冗談を言わさないでほしいものです。カタカナ語撲滅です。

 ついでながら、「問題」が「決まらない」と言うのは、独特の言い回しで、勿体ない失態です。「問題」が、教科書の課題であれば、「解けない」のであり、「問題」が、難点、欠点であれば、「解消しない」とか「解決しない」とか言うもので、読者は、そうした文脈で、無造作に書かれた「問題」の意味を解釈しているのです。著者各位は、自分の語彙で滔々と書き立てるのではなくて、読者に誤解の無い言い回しを工夫すべきでしょう。特に「問題」は、数種取り混ぜて乱用されているように見受けるので、わざわざここに書くのです。

 もう一つついでながら、それぞれ「また」で開始していますが、原文に「又」はありません。少し遡ると、「又南渡一海」、「又渡一海」と書かれていて、陳寿が、「また」の書き方を知らなかったとは思えないのです。書いた方の脳内で、原文は、好ましい形に変容したのでしょうか。ともあれ、来館者に、「ことわりなし」に原文と異なるものを提供していて、信用を無くしています。

(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。
 「後者は」は、「魏使は原則として伊都国より先は行かなかった」までを言うつもりでしょうが、そこまで一つながりで断定する根拠は無いと見えます。
 また、「原則として」と言いっぱなしで原則と例外が示されていません。ここまでの議論で「投馬国より邪馬台国の方が北に位置する」ことは示されていません。榎氏の説を誤解しているのでは無いでしょうか。もっとも、どこからどこまでが榎氏の所説の引用なのか判読できないのでは、議論が成立しません。誠に、不始末、不都合な書き方です。

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。(中略)奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。
帯方国より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。
倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。(中略)今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。
 
 南方の景色と見える「文身」を顔と身体の入墨と決めつけますが、そうとは限らないでしょう。北九州が、韓国より温暖と言っても、温暖期以外に「海中に潜って」魚や蛤を捕えるのは、無理があるように見えます。又、肌寒い時期に風の通る衣類で、さらには肌脱ぎで、文身を披瀝していたとも見えないのです。かなり南方の温暖な地域の景色のように見えます。いずれにしろ、記事の筆者が、全土に足を伸ばしたとも見えないので、「倭の諸国」と書かれているのは、南方の訪問先に限られているはずです。
 文身は、遺物として残らないので、いずれの時代、地域で流行したか不明ですが、後世、影を潜めたところを見ると、南方の風習にとどまっていたとも見えます。

(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。(中略)
 これは、秦代以来の階級制度であり、下から唱えるから、第五級の「大夫」は庶民階級です。当然、魏でも同様です。貴人などではありません。漢代以降、魏晋あたりまでの公式史書で、「昔」とは、「周」のことではありませんか。守成の大夫を名乗り続けているのも、その主旨でしょう。つまり、普通に考えると、太古、周朝に貢献して、「大夫」の高官に叙されたとみるべきでしょう。

 少々繰り返しになりますが、卿・大夫・士」は、周制であり、大夫は王に連なる高官であったし、指南によって解体された身分制度が、王莽の「新」が、復活した時を除けば、同様でした。場当たりのつぎはぎ解釈は、感心しません。

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新・私の本棚 番外 サイト記事批判「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 4/6

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私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。
 南宋刊行の「倭人伝」には「会稽東治」と書かれていて、郡、県と書いていないので、この議論は確定しません。
 いずれにしろ、広大かつ高名な会稽郡と同郡の僻南であって、知る人も希な、到達困難地域である「県」を、陳寿ほどの史官が「や」で同列に置くはずは無いのです。こじつけではないでしょうか。
 因みに、「東冶」は、三国時代の一時期の県名であり、現存しているわけではありません。抜粋引用のもたらす錯誤です。「現在の」は、「福州」の形容に過ぎません。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)
 暴論としてやり玉に挙がったとは言え、三世紀の中国史書に、遙か後世の「大和朝廷」の前身を見るのは、白日夢にしても無残です。こじつけのためには、改竄、誤釈言いたい放題というのは、「倭人伝」解釈という学問的な分野に、家庭ゴミを投棄する類いであり、毎度目にするたびに気が重く、いっそ、国内史料立ち入り禁止としたくなるほどです。
 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して「倭人伝」を否定して良いものでしょうか。「倭人伝」には、何も書いていないということですか。
 ともあれ、裏方に回った平野氏共々、誠にご苦労なことと推察します。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)
 「...ので」と続けても、何も論理の繋がっていないのが難儀ですが、「諸国」が共立したという記事は、「倭人伝」になく、単なる臆測、希望的観測でしょう。
 それにしても、ただの人が「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。「霊力」は、誰も見たことがないので、不可解です。また、曹魏の創業者曹操は、迷信を忌み嫌っていたと知られています。もちろん、「倭人伝」は、魏晋代の史官である陳寿が、身命を賭して、つまり、心から納得して書いたものですから、「怪力乱神」を書くはずがないのです。
 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。
 常識」的に考えて、「一流の家に生まれ、生まれながら神に仕えて独身を守った」と見るべきではないでしょうか。そのような「聖人」だから、私心のない人として信頼されたのではないでしょうか。普通に考えると、そのように見えます。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あることないことというのはありまずが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。
 この部分は、既説の狗邪韓国以来の「倭地を巡訪する道里」を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭都まで通算五千里」と単純明解ですが、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、皇帝始め、読者として想定した読書人が、多少の勉強で読解できるように、明解に書いたはずでしょう。

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新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 5/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*承前
景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に遣わし、魏の天子(使)に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)劉夏は、役人を遣わし(中略)洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝(中略)今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。(中略)」と。
(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫渕をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)
(二三九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。

 現存史料の記事より、誤伝、誤写の可能性の圧倒的に高い国内史料の、形式を失した佚文を論拠に採用するのは一種の錯誤です。ちゃんとした古代史学者は、ちゃんと史料批判をしてから、ちゃんと史料の信頼性を論じてください。
 又、遙か後世で、誤伝、誤写の可能性の格段に高い「梁書」を、信頼性の高い魏志倭人伝に対する異論の論拠史料に採用するのも、同様の錯誤です。違いますか。

 三国志では、『楽浪・帯方の「接収」(太守更迭)が遼東攻略に先んじた』と解すべき記事があり、その記事を収録する三国志記事を、現代日本人の見識で否定することは、不合理と見るのが順当ではないですか。

 いずれにしろ、景初遣使当時、当時の帯方郡は山東半島経由で交信、交通したので、遼東戦乱は、倭使の帯方郡を経た洛陽往還に全く無関係です。
 要するに、不確かな憶測で、景初三年の誤りと強弁するのは、不合理の極みです。

 因みに、景初三年元旦に皇帝が逝去したので、「景初三年」は、明帝の年号ではなく皇帝のない年号です。つまり、論拠としている国内史料にある「明帝景初三年」は、「魏志」に存在しないので、引用記事ではなく利用した佚文の誤記に惑わされたか、そうでなければ、引用詐称、ないしは捏造です。

 ついでながら、単に景初三年なら、皇帝は新帝曹芳です。とは言え、在位中、少帝と呼ばれなかったのは明らかです。

(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。(中略)魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。(中略)
 先に述べたように、「大夫」は周制の高官を自称したものであり、決して秦漢制の庶民を名乗ったのではありません。庶民は国王代理となれず、魏朝に侮られ、あるいは、接見拒否されます。大夫も、見くびられたものですね。
 ここは、倭大夫は帯方太守と略同格という趣旨でしょうが、当然、魏の高官である郡太守と外臣に過ぎない蕃王の陪臣が同格の筈がないのです。中国文化に浴していない蛮王が、郡太守と同格、さらには、上位となることもあり得ません。考え違いしていないでしょうか。
 一般読者に予備知識が無いと想定される「比二千石(せき)」には、丁寧な解説が必要です。普通、江戸時代の禄高二千石(ごく)、つまり、一万石に及ばないので城主大名になれない小身の軽い存在と解するはずです。

(中略)
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、(中略)、大和説に属する。(中略)
 「セット」は時代錯誤で単数複数不明、意味不明です。こなれていないカタカナ語で、ため口を叩くのはやめましょう。
「魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡」は意味不明です。このような根拠の無い定説は、ぼちぼち「ゲームセット」にしたいものです。


 景初年間の魏は、遼東への大軍派兵とともに、東呉、蜀漢と対峙の戦時体制下であり、そのような非常時に、皇帝の勅命とは言え、非常識極まりない宮殿大規模造成中であり、宮殿装飾品で銅材が逼迫しているなか、それに加えて魏鏡百枚新作は途方もないのです。明帝は何を根拠にそのような無謀な製作を、人材、資材払底の尚方工房に課したのでしょうか。
 普通は、洛陽の帝室倉庫を総浚えしたと見るものではないでしょうか。「魏晋鏡といわれている」と新作説を言い立てているのは無謀です。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 再掲 6/6

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発     追記 2022/11/21

*台所事情談義
 「三角縁神獣鏡」は、在来品の1.5倍の外形であり、新作したとすると、まずは、三倍近い銅材料を必要とし、又、制作するに当たって、それまでに貯えた型や型紙が使用できないのです。
 先立つ、後漢末期の献帝即位の時、時の支配者であった董卓による長安遷都の暴挙とそれに続く長安での国政混乱から、後漢皇帝の指示で尚方が皇帝御用達の装飾品を謹製する事は絶えていて、お抱え職人は浮浪者と化していたものと推定されます。
 ともあれ、曹操が自陣営に皇帝を採り入れて、ついには、洛陽に魏朝を創設したのですが、その際、「禅譲」のならいとして、諸官、処理を悉く引き継いだものでしょうが、何しろ、一度、董卓の暴政で壊滅した洛陽の諸機関は、どこまで復元していたか不明というところです。
 いや、魏志は、後漢末期の無法な時代を回復した、曹魏を肯定するために編纂されたので、文帝曹丕、明帝曹叡時代の雒陽の惨状をありのままに書き残してはいないのですが、想定するのは、さほど至難ではないのです。

 かくして、未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に「量産」が順調でも、仮に一日一枚採れたとして百枚制作に百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。夢物語でしょう。又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国「東呉」から如何にして購入したのかも不審です。
 無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなして、一介の東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが最大の否定論です。
 いや、天子の恩恵ですから、自前でやってこいとか、自力で持って帰れなど言うことはないのですが。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。
 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝曹芳の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。
 明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。
 他ならぬ「倭人伝」によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土である。既定敷地、つまり、先祖以来の墓地での没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。
 後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、人員動員の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。
 因みに、当時の人々は、「古墳時代」など知らず、もちろん、「古墳」など知らなかったのですから、空論です。
 「径百余歩」が、どんな形容であったのか、時代考証が欠けていますが、遺跡考古学者は、中国古代文書の知識が無く、古代文書に精通した史学者は、遺跡、遺物の見識に欠けているので、「冢」に関して考察するには、相互研鑽が不可欠のように見えます。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。
 『現存史料』と『不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定と定評のある「北史」』などの後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「ジャンク」、「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が「学問」として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持する態度を守るべきではないでしょうか。

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明です。従って、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。資料写真は、誰の著作物、責任か不明ですから、宮内庁蔵書影印の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。

*品質保証のお勧め

 因みに、以上の解説文は、近来放棄されているはずの「仮説」を踏まえて書かれているように見えるので、内容を更新するか、あるいは、
「現代語訳」は、****年時点の平野邦雄氏の見解であり、現時点でその正確さを保証するものではありません。
 と解説すべきと思われます。

 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。第三者著作物や公的著作物に著作権を主張するのは、犯罪です。
                                以上

2022年11月20日 (日)

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号「私の邪馬台国論」再掲

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04 追記 2022/11/20
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには、思い込みでなく堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにはできないのです。そうで無ければ、世にはびこる「つけるクスリのない病(やまい)」と混同されて、気の毒です。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、氏の卓見に読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱(Brexit)実行済みとは言え、連合王国として北アイルランドの動向が不明とか、域外のウクライナの加入問題などが、重大懸案ですから、とても、一口で語れるものではなく、氏が、どのような情報をもとに、どのような思索を巡らしたか、読者が察することは、到底不可能です。三世紀の古代事情の連想先としては、まことに不似合いでしょう。「よくわからないもの」を、別の「よくわからないもの」に例えても、何も見えてきません。もっと、「レジェンド」化してとうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について推定し、議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~「水行」疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後で全区間を総括した「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この「水行」区間を十日行程と見るのは、「無残な勘違い」です。
 氏の想定する当時の交通手段で「水行」区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが、あったかどうかすら不明の「水行」を未曾有の帝国制度として規定するのは無謀です。
 何しろ、必達日程に延着すれば、関係者の首があぶないので、余裕を見なければならないのですから、各地に海の「駅」を設けて官人を常駐させるとともに、並行して陸上に交通路を確保しなければなりません。
 「水行」として運用するに、壮大な制度設計が必要ですが、氏は、文献証拠なり、遺跡考証なり、学問的な裏付けを得ているのでしょうか。
 裏付けのない「随想」は、単なる夢想に過ぎません。場違いでしょう。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、休養日無しで3日、連漕はしないとすれば、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる「水行」行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。潮待ち、風待ちで、不安定な船便で長途運ぶと、所要日数は、青天井ですが、向こう岸まで渡海に限れば、確実な日程が想定できるのです。この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説の誤謬を、丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。権威ある「邪馬台国」氏が、杜撰な論文審査だと歎くものです。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです。 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。聞きかじりの毒饅頭を頬張らず、ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2022年11月19日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 1/8

 「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 「邪馬台国と日本書紀の界隈」M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記 2021/12/25 2022/11/19
 
〇はじめに
 氏のブログ、著書について、既に当ブログで批判を公開していますが、単純な蒸し返しではありません。今回は、氏の最新記事への異論です。氏が論拠を明示しているので、本来、個人名義のブログ記事への批判は避けたいのですが、折角ですから以下の見解をまとめたのです。

1 道里論
 第一の「道里」の語義解釈には、大いに異議があります。と言うか、個人的な意見の相違などではなく、素人目にも、まるっきり間違えていると思います。
 まずは、「道里」は、二字単語として、道のり、道程の意味であることが「衆知」です。(氏がたまたま知らなくても「衆知」論に影響はありません) そして、敢えてその「普通」の解釈を覆す意義が理解できません。陳寿は、古典書に始まる「普通」の辞書を具備していて、それは、当時の知識人に共通ですから、陳寿の辞書にない「新語」を、ことわりなしに公式史書に書き込むことはないのです。

 「中国哲学書電子化計劃」により「先秦両漢」で「道里」を検索すると48用例、単語として49個の先例があり、大概は、「道里遠近」に類する文脈を形成しています。よって、「道里」は、現代語で距離、みちのりに相当する概念と見るのが、古典書籍、特に史書の文章解釈の「常道」でしょう。

 「道」と「里」は、太古以来独立した単語ですが、「道」と「里」を連ねた場合は二字単語となって、「里」の語義の中でも、「道」の「里」を表す言葉と考えるのが順当です。(本項の末尾で辞典を参照します)

 このように衆知極まる言葉に、後世人が別義を託した意図が理解できないのです。このような唐突な新定義は、普通の定義を打ち消すことはなく、無教養な誤用と棄却されるので、史官の職にあり古典的な用語に縛られている陳寿が、三国志に採用したと見えないのです。
 衆知の用語に新たな意義をあてる必要があったら、陳寿は、堂々と例外用法を明言したはずです。

 案ずるに、「道里」は、あくまで「里」ですが、「里」は、古来数十家規模の集落であり、土地制度では一里角の面積なので、誤解を避けるために、敢えて、「道の里」としての「里」を明記したかも知れません。

 因みに、「歩」(ぶ)も、道の単位と同時に面積単位でもあり、「九章算術」計算例題集では、面積の「歩」を「積歩」として混同を避けていますが、大抵の場合、文脈で区別できるから、単に「里」、「歩」と書いたようです。といっても、これは、そのような教養が引き継がれていた時代であり、戦乱などで、継承の鎖が壊れたときは、字面に囚われた「名解釈」がはびこるのです。

 本題に還ると、漢字辞典として有力な白川静氏「字通」、藤堂明保氏「漢字源」共に、「道里」は、道のり、距離との語義を掲載していて、氏の新説は、根拠の無い思いつきの類いとして、ほぼ棄却できます。

 それにしても、本項の強引とも見える書きぶりは、後出「周旋」の周到な論証に似合わない不首尾なものと見て取れるのです。何か、急かれいる思いがあったのでしょうか。気が急いて仕方ないときは、お手洗いに立って身軽になって、顔を洗うものです。

2 東治論
 本件、当ブログで、議論を重ねましたが、俗説の渦に埋もれているので、再説をかねて、氏の議論の紹介方々異論を述べます。と言っても、氏に、大略同感です。 
 氏は、「東治」が、禹后による「治」の場所と解されましたが、禹が会稽で「統治」した記録はありません。ここに王宮「治」を移したとの記録もありません。単に、諸侯を集めて功績評価、「会稽」したというだけです。

 水経注の郡名由来記事に、会稽郡の由来として、秦始皇帝の重臣李斯が「禹后が東治之山(会稽山)で会稽した」ので、当該地域を会稽郡と命名したとされています。他の郡名と異筋ですが、教養人に衆知だったようです。

 史実かどうかは別として、その由来が、後世まで継承され、陳寿の西晋代にも、東治由来談が伝わっていたのでしょう。

 西晋亡国の空前の混乱で、多くの伝承や記録が失われ、「後漢書」編者笵曄は、会稽付近に生まれたのですが、却って、古典教養を要する由来談を知らなかった可能性があります。陳寿と范曄の間には、一つには、西晋崩壊時の洛陽文化圏の崩壊があり、かつ、笵曄は、史官としての職業的訓練を受けていない文筆家、趣味の人なので、それぞれの世界観には、大きな相違点があるのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 2/8

「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記2020/04/19 追記 2021/12/25 2022/11/19

3 「周旋」論
 氏の解説は、常道に従った古典書用例参照が雑駁と見えても、全体として、まことに堅実です。国内史書が起点の先賢は、先入観で「周旋」を誤解しましたが、漢字辞典を参照すれば、「周旋」の「周」は、「ぐるっと周回」だけでなく、「周(あまね)く」の意味、「旋」も「ぐるっと回転」だけでなく、「経路の終端から戻る」との意味があると知ったはずです。(白川静/藤堂明保両氏の辞典による)
 余り参照されていないdd)ようですが、東晋代に編纂された袁宏「後漢紀」の献帝建安年間の記事(孔融小伝)でも、「周旋」は「二者の間を往来する」意味で使われています。
 文頭の「參問」倭地は、狗邪~倭「歴訪」、「周旋」は、終点終端まで進む「巡訪」と重複気味ながら、文脈により陳寿の真意に辿り着いたはずです。
 因みに、成語「周旋」は、対立当事者、大抵は二者の間を往来して斡旋するのであり、あたりをぐるぐる巡るのではないのです。

*測量不能な図形
 俗解した「領域周回」が、不正解と見えるのは、千里はあろうという領域外周の野山や河川、海浜を「測量して巡る」のは、途方もなく不可能であり、その経路長を測量無しに推定するのも、同様に不可能です。まして、狗邪~末羅の渡海/水行行程は、海峡越えであることから、測量は、重ね重ね不可能です。

 有力算書「九章算術」の「方田」例題には、円形の土地の外周計算方法が書かれていますが、当然、その土地がほぼ円形であり、その土地の径(直径)が知られている場合だけ実行可能です。つまり、外周を実測しなくても、直径の測量で、全周長を正確に推定できるわけです。要は、円形領域の外周周回長は直径の三倍強、という幾何学原理の利用に過ぎません。

 懸案に戻ると、異郷の異国の領域外形は知るすべがないし、海上洲島領域の南北は、道里行程記事から推定できても、東西はどうにも測りようがなく、結局、元に戻って国間道里しかわからないのです。
 この点は、列挙されている各国の東西南北の境界が書かれていないのでも明らかです。現代人は、手元の地図に、各国をばらまいて、広がりを夢想していますが、「倭人伝」の視点では、末羅国に始まる「洲島」の広がりは知るすべがなく、伊都国以南が、また一つの大海なのか陸続きなのかも、その時点では、不明だったのです。
 因みに、「九章算術」は、史官を含め、教養人の必須課題であり、陳寿も、当然、こうした原理は知悉していたのです。

*周旋の意義
 「周旋」は、狗邪~倭直行道里のみが妥当であり、氏が現代仕様で変態した地図上に図示した円弧は、時代錯誤の虚構です。
 郡~倭都全道里が東南方向に万二千里、郡~狗邪部分道里が同じく東南方向 に七千里は明解ですが、狗邪~倭都経路記事は、傍路と輻輳して見えるので、この間の倭地道里を、ことさら五千里と明記したのですが、進行方向は、概して同じく東南方向です。
 どうしても図示したいのなら、読者に誤解を与えないように配慮して、「円弧」範囲を絞るべきでしょう。
 思うに、単純に道里を書き足すと、わかりきったことを書くとは見くびられたものだとの「読者」のお怒りが怖いので、表現を捻ったのでしょう。

〇道里論の失着
 こうしてみると第一項「道里」の見当違いの解釈は、先入観に災いされたのか、説得力を自失していて、まことにもったいないのです。

用語の錯誤
 見当違いと言えば、見出しで、古代史論を期待している読者を惑わす、場違いなカタカナ語「ワード」です。
 高名なマイクロソフト「ワード」のことではないでしょうし、かといって、次に想起されるコンピューターデータの単位でもないでしょう。いずれにしろ、古代世界に「カタカナ語」はありません。
 唐突に異世界新語を持ち込まれても、善良な読者には不可解至極で、意味が定まらないのです。これでは、いきなり、無用の反発を買うだけです。曰わく、まともな日本語文が書けないのに、生かじりのカタカナ語を持ってくるな」というものです。

 このような飛び入り言葉を、用語考証という厳密な場に持ち出すのは、まことにもったいないのです。普通は、直後に定義を付して不可解の誹りを免れるのです。但し、当記事の中で意義のある場合だけの言い逃れです。
 因みに、CPU命令のWordはCPUビット数なので今日の64 Bit CPUで1ワードは64ビットです。いや、益体もない余談です。

*カタカナ語排斥論再燃
 古代史用語が不可解なのは読者、自分自身の不勉強故と我慢できても、現代人が現代人に対して不可解な用語を振り回すのは不可解そのものです。先賢がおっしゃるように、古代史に関する論議で、古代人が理解しようのない概念や言葉は避けるべきと信じる次第です。

【追記開始】(2020/04/19, 12/25)
 新書二冊の職業筆者に相応しい「キーワード」(カタカナ言葉の先住民で、一応気に留めてもらえるかも知れないもの)と見出しを付け直したら、「粗雑」と見くびられることはありません。「粗雑」は、決して、褒め言葉ではありません。要するに、「無教養」と侮られるだけです。念のため。
 「ワード」は、単なる「はやり」言葉で、「何年生き続けるか不明」なので、本題のような長期戦には全く不向きなのです。
【追記終了】
                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 3/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 2022/11/19

〇コメント~三部作の口切り
 タイトルで予定されるのは「放射説」考察ですが、実は、主として名を挙げられている榎氏提言に対する伊藤氏のグチです。「放射説」と無造作に括っていますが「伊都放射説」でしょう。因みに、「なかった」古田武彦氏は、第一書で「不弥放射説」でした。「考える」際に榎説の「引用」、ないしは文献参照はなく、個人的解釈を掲げる「独り相撲」が、氏のほぼ一貫した芸風なのです。

〇倭人伝基準論~私見の展開
 文献史料「倭人伝」は、三世紀、権威ある史官が公文書を基に編纂し、当時の権威の承認のもとに魏志に収録されたから、史書として何の問題もなかったと見ものではないでしょうか。以下、その視点で述べますが、私見は私見なりの根拠があると理解の上でご批判いただきたいものです。

〇放射説の由来
 「伊都放射説」の道里は、後に補充された榎氏の論述によれば、伊都国が、現代風に言うと、政治、経済(商業、貿易)交通の要であったことに由来していて、「倭人伝」にも、倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査されるとあり、妥当と思われます。つまり、国王居処と別に国の中心地があったとも解釈できます。ここで、口に出たがる「首都」は、魏文帝が、漢代以来、仮住まいを含めて、皇帝居処が数カ所に渡ったので、魏は、洛陽を「首都」とすると宣言したことに由来しているのであり、少々、時代錯誤なので自粛しました。特に、当時、蕃王の治所、王城を「都」と書くことは(絶対に)なかったのです。

 因みに、過去先賢が議論したように、例えば、班固「漢書」「西域伝」は、夷蛮の国への道里として、帝都(長安)、ないしは、最寄りの「幕府」(西域都護)から蛮王居処への官道道里を示します。
 これは、漢からの文書通達と回答が届く日数を知るものであり、次いで、兵の動員時の所要日数を知るものですが、後者は、道中の食料、水の補給も関係し、あくまで参考ですが、西域都護の幕府を道里の拠点とする意義は大きいのです。道里の出発点を「郡」とするのは、決して、不当では無いのです。
 古来、皇帝は、蕃夷の末梢まですべて外臣とするものではなく、各方面の対外拠点が適確と認めたものだけを相手にしていたのですから、すべての道里を、管理部門である「鴻廬」の台帳に登録するものではないのです。何しろ「外臣」と認めたら、その王治の遠さに応じて何年かに一度の来貢を予定して、応対の費用を予定し、土産物を用意し、来訪者には、上下の人員に数々の印綬を制作して与えなければならないので、「外臣」は、少ないに越したことはないのです。

 大きい「国」では、王の居処から、国内主要国への方位、道里を示して、王の権威の及ぶ範囲を示しています。国によって、領域概要が述べられますが、国力は戸数で明示されるので、「方里」はあくまで子供だましの「イメージ」(あやかし)に過ぎません。何しろ、収穫高や兵数把握は極めて重要ですが、夷蛮の国の荒れ地の広がりは、知ってもしょうがないので、測量も表示もしないのです。
 つまり、「方里」は、領域面積を示すものではないのです。

*「方里」幻想の正体
 別稿で考証しましたが、「方里」は、対象地域内の耕作地、農地の面積を、例えば、一里四方の方形単位で数えたものであり、現代風に言えば、平方里に相当します。但し、耕作地の面積は、個別の農地の登録面積、つまり、管理台帳に書き込まれた歩数を机上で合計したものです。それぞれ、耕作者の「戸」が固定しているので、「戸数」と相関関係があるのですが、一戸あたりの農地割り当ては、地域により、作付け穀物によって異なるので、あくまで地域の「国力」の目安なのです。
 現代風に言う地図上の領域面積は、何千年と思われる歴史を歴て農地開発が進んだ中原諸国ならともかく、未開の山野が続く東夷では、ごく一部が耕作されるに過ぎないので、「国力」の目安にはなりませんから、わざわざ測量することもなければ、表明することもないのです。

 もし、「方里」が、公式の面積単位として運用されていたのなら、史書に満載のはずですが、実際は、確実な記事としては、このように東夷伝に数例あるのに過ぎないのです。恐らく、遼東郡太守が、管内の各国の国力把握のために、特に施行し、皇帝にあてて報告していた「報告書」の名残と見えるのです。
 とは言え、陳寿が採用した以上は、手元に未開の荒れ地を含んだ高句麗、韓国などの国力表示に「方里」を記載した資料が齎されていたのであり、同じ「方里」が、対海国、一大国に限ってとはいえ、倭人に関する資料として記録されている以上、魏志「東夷伝」としては、忠実に掲載しなければならないと感じたはずです。

 思うに、陳寿が「倭人伝」編纂した際には、そのような背景を証する雑資料が少なからず手に入っていたでしょうが、正史は、そのような資料は割愛したものと見えるのです。東夷伝に散在する「方里」の意味は、そのような背景を推定すれば、筋が通るように見えるのです。

〇王の居処と伊都国~スープの冷めない近しさか
 当ブログ筆者は、伊都放射説に無批判に追従する者ではなく、伊都以降は、王の居処に直行したとの説です。つまり、奴、不弥、投馬の行程道里は、最終目的地である「倭」への行程の一部ではなく、事のついでに貼り付けられた参考行程、「余傍」と見ています。よく聞き分けていただければ幸いです。

 ここで大事なのは、要点である伊都国と「倭」、つまり王の居処の間が、里程を書くほどもない短距離と明記している点にあります。何しろ、倭人伝の主要行程道里は、千里単位で書かれていますから、百里単位の道里は、末羅~伊都間の繋ぎの部分を除けば脇道で全体道里に関係しないのです。下手に明記すると読者の勘違いを誘うので、避けるのです。

 もう一つの目安は、行程の様子や「至る/到る」国の様子が書かれているかどうかです。「投馬国」は、自称大体五万戸程度の「大国」ですが、行程の内容は書かれていないし、同国の様子は、何も書かれていません。
 また、伊都国に到る行程と伊都国の様子は書かれていても、そこから先の「至る」諸国は、ここには書かれていないのです。

〇概数道里の道理~夷蕃伝の要件
 古田武彦氏は、概数計算を失念していたためでしょうが、百里単位の整合にとらわれて、対海国、一大国行程に、島巡りの辻褄合わせを述べ、最終行程は「零里」としました。倭人伝は、あえて端(はした)の道里を省いたと思われます。

 「国邑」の本質から、各国の本拠は、領域の一部に過ぎず、伊都国の王処と女王国の王処が共通でない限り、行程道里はゼロではないので、それは、書かずに済ませる理由にはならないのです。古田氏が、結論を焦って、場当たりな論理に陥っている一例です。

 概数計算では、端(はした)を入れて計算すると、大抵の場合帳尻が合わないのです。それは、正確、不正確の問題ではなく、概数計算の持つ宿命なのです。また、末羅~伊都間も百里単位ですが、史官は、現地地理に関心はなく、所詮「余」付千里概数の大局道里と整合しないので、参考として書いてあるに過ぎないのです。

*「従郡至倭」の由来と結末
 倭人伝の「郡から到る」里数は、まだ、倭人の成り行きがわからないうちに、帝都から、最も遠い辺境の地という主旨で書かれたものであり、その時点で、実際の道里など知るはずもなく、まして、精緻に書こうとしたわけでないと思われます。その万二千里で、もっと大事、つまり肝心なのは、郡から到る所要日数と想定すると、伊都国からの道里も方角も、大局に関係しない現地事情に過ぎず「倭人伝」では、細瑾として省いたのでしょう。それぞれの行程は、街道として整備されていたので、「道なり」に進めば目的地に着くのです。また、普段街道を往来している者達は、別に、地図も、道案内も必要としないのです。

*「倭人伝」の必須要件
 つまり、「倭」の王治、王の居処は「帯方郡の東南方」にあり、行程道里は「万二千里」、所要日数は、「水行十日、陸行三十日の計四十日」で、戸数は「七万戸」、諸国は三十国あるので、城数は「三十城」が、必須要目であり、以上で、夷蕃伝の要件を満たしていたのです。
 ここにある「城数」は、倭の国内に、「国邑」と呼べる隔壁集落が、それだけあったと言う事であり、それぞれ、木なのか土なのか石なのかは別として、国主の住まいが千戸台の集落であって、周囲の住民の住まいや農地から隔離されていたという意味です。現地の実情はどうであれ、中原の「国」は、隔壁集落だったので、それに合わせて書かれたのです。

*所在地論の要点/終点
 後は、倭人」の国名が「邪馬壹国」でも「邪馬臺国」でも良く、所在が、筑紫でも纏向でも、帯方郡と四十日で連絡できれば良かったのですが、その要件を復習すると「邪馬壹国」 は、倭人の首長の住まう集落であり、九州北部から海峡を越えて半島に至る交易経路の南にあって、交易を統御していたから、丁寧に考えると、所在地は限られているのです。
 後は、時代時代の形勢で、あちこち移動したかも知れないと言うだけですが、「倭人伝」には、卑弥呼時代が語られているだけであり、記録年代としては先立つ、范曄「後漢書」倭伝の書く、後漢桓帝、霊帝、そして献帝時代のことは、後漢公文書記録が一切なく、魏代に帯方郡から、後漢末以来の東夷管理の記録文書が届いたにしても、魏の公文書として整理されないままであったため、魚豢「魏略」に収録されたというものの、范曄自身すら当否のわからないまま、後漢代にこじつけられる「風聞」を書き残したと見えるのです。
 と言う事で、倭人伝」は 「伝」の体裁を完備した、一級史料なのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 4/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25 2022/11/19

〇根拠不明の直線行程説~余談
 氏の俗耳を染めている根拠不明の直線行程説によれば、文書等は、一旦伊都国で止められた後、期間を置いて王の居処に送られたことになっています。ただし、郡と文書通信していても、国内に文書通信は存在しないのです。つまり、三世紀時点、公的文書がないから、広域国家は無意味な推定になっています。辛うじて、王の意志を伝えていたのは、各国に赴任していた「一大率」と思われます。
 以上の考証の否定には、当時の文書通信遺物が不可欠です。

〇「古代国家」と言う画餅~余談
 俗に伝えられる三世紀広域「古代国家」説は、文書通信、輸送、交通という基盤を欠き、「画餅」の誹りを免れません。
 つまり、直線行程説は、三世紀「古代国家」説の付属品、巨大な画餅で、世人の好む大変壮大な図式ですが、この「イメージ」(幻夢)は、誰にも食べられないのです。

 以上は、漢書以来の西域諸国列傳を参考にした意見であり、単なる個人的感想ではありません。また、氏のように三世紀史官の「作文」技法について講釈する趣味もありません。何しろ、氏の語彙は「違和感」、「イメージ」など、現代の流行語を無造作に採り入れているように、史学の常道を外れているの論じようがないのです。

〇「個人的感想」の怪
 氏は、ここまでは「個人的な感想」であったと仕切りますが、どこからここまで個人的感想なのか、始点が不明です。というものの、個人ブログの記事は、何も書かなければ、口調に関係無く私見、持論なのは、ほぼ自明です。
 と言っておいて、続く論議は同様に古代史学に通じていない現代人の「個人的感想」です。ついでながら、そちこちで、出所不明、検証不明の世評を無批判で受け入れる意義が不明です。まあ、当人が、路傍の落とし物を拾い食いして平気なら、それまでですが。

 因みに、氏の関知しない古田氏は、ここまでに書いたように、女王居処は伊都国から至近で道里略との見方で、ただし、古田氏は、魏使は女王と会見したとみています。伊藤氏の個人的意見「当然」は、同時代の当然かどうか疑問ですから、書くだけ字数の無駄です。主張には、論証を必要とします。

 氏は、冒頭に書いた「オーソドックス」に示される時代、環境錯誤に耽っていて、当記事を通じて、何も学んでないのです。

〇総論
 当ブログでは、書評の際に、著者の持論を批判することは、極力避けています。直線行程説を批判しても、氏がそれを持論としていること自体は、批判対象ではないのです。(時に筆が滑るのは、素人の限界としてご容赦いただきたい)

 大事なのは、著者が、持論の「根拠」として、個人的感想や根拠不明な風聞を翳していることです諸説に、適切な紹介と批判が加えられていないのも「問題」です。いや、別に受験者として「解答」を工夫せよと言っているのではありません。
 氏は、第三者の要約らしい風評を早のみこみで採用しますが、根拠を示していただけないので、確認しようがないのです。

〇「失われた放射行程説」
 当記事では、氏の持論に対抗する「放射行程」説について、提唱者榎一雄氏の説を提示し、否定しているのですが、榎氏の説がどう書かれていたか、その主張の根拠が何であったか、不得要領で論議になっていないのです。また、榎氏の主張に批判を加えた古田武彦氏の主張は、はなから失われているのです。いくら、個人的な趣味、嗜好であっても、何か根拠がほしいものです。
 榎、古田両氏に限らず、凡そ古代史論者たるものが何らかの「説」を主張するからには、先行所説を論理的に咀嚼、批判、克服しているのですが、どうも、氏は、そのような素養のない野次馬論者のようです。

 慌てて、普通の言い方で総括すると、氏の持論には適確な裏付けはなく、異論を適確に克服してないので、氏の持論は大いに疑わしい(普通に云うと、全く信じられない)ことになりますが、それは、当記事の圏外です。氏が、放射説だろうが、螺旋説だろうと、当人が納得している分には、傍からとやかく言えないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                               以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 5/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25 2022/11/19

〇はじめに~批判しようのない落輪調
 先だって、氏の最近のブログ記事二件について批判しましたが、合わせて、これら記事の先行記事の批判が必要と見て遡行し記事をまとめました。と言っても、当時批判記事を書いたものの、「記事」の批判としてまとまりの付けようがないので放置していたのですが、結局、月遅れ記事にしました。

 端的に言うと、氏の記事は、正体不明の「説」を、文字引用して批判するのでなく、いわば、氏の見立てた「説」の「ポンチ絵」を「斬られ役」にして斬りまくっているので、読者に見えるのは氏独自の「ポンチ絵」が、紙吹雪となって風に散る様であって、誰のどの論文に何を異議申し立てしているのか、わからないのです。いわば、路面を走らずに、いきなり落輪して、しきりにエンジンを吹かすものの、ごうごうたる空転で、批判論議になっていないのです。
 ただし、氏は短絡的でないので、謹んで理路の瑕瑾を批判しているのです。

〇斬られ役の弁
 「斬られ役」と称したのは、本来の論拠が戯画化されているからです。舞台劇の「斬られ役」は、振り付けに従い、易々と主役に切られます。
 氏が個人的な愛憎からか「好意」を再度表しているので躊躇しますが、仕方ないので余言を連ねます。「イメージ」なるポンチ絵の原文不明に加えて、伊都基点放射説を無視した不出来な展開に批判を加えます。

◆図表3「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図(別解釈案) 引用省略
 一見、これなら整合性がとれているのではと思ってしまいそうです。
 しかし、よく見ると齟齬が生じているのがわかります。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への距離が書かれていないのです。そうすると、肝心の位置関係がわからないということになります。100里なのか1000里なのかで邪馬台国の位置は大きく変わります。これでは邪馬台国までの行程を報告したことにはなりません。

〇不都合な表現 世にあふれる時代錯誤
 余談の前振りを入れると、読者に0の数で百里と千里を判別させるような不合理で時代錯誤の算用数字多桁表示は悪習と理解いただいて、文献解釈の大原則に従い、時代相応に「百」「千」と書く事をお勧めします。因みに、倭人伝道里は、せいぜい百里単位で、総計一万二千里ですから、百里ははした、一千里すら、細瑾に過ぎないのです。魏志の主題では、目的地に行き着けば良いのであり、精密な地図はいらないのです。

 また、「倭人伝」が記載不備で拙劣と罵倒されていますが、お説のように必須事項に欠けた報告書だったとしたら、それが正史に収録されたのはどういうことか不審です。氏が、ご自身の迷走に自暴自棄で、相手を間違えて自嘲したのが誤記されたのでしょうか。

〇「絵」のない絵解き 無理な読み解き
 倭人伝には、読者次第で解釈が分かれる「概念図」(ビクチャー)は無いので、氏のお手盛りの子供じみたポンチ絵(イメージ)を、正史はかくあるべしと見立てた論理的な文章に戻し明快にします。(当ブログは、この読みを支持していません)

 不彌国から南に行くと投馬国に着く。
 (郡から投馬国まで)水行二十日である。
 投馬国から南に行くと女王の居処に着く。
 (郡に従し倭に至るに)水行十日及び陸行三十日である。

 寡聞にして、「倭人伝」道里に、このような前例を見ないのです。日本語は明快でも意味は支離滅裂です。路上の「落とし物」を盛り付けて供するなど、関わり合いになるのは時間の無駄です。もっとも、「倭人伝」現代語訳は、みんな似たようなもので、各人の手前味噌ですから、口に合わないと文句を言ってもしょうがないのです。誰かに毒味させずに、いきなり「落とし物」を口に入れるのが間違いなのです。
 それにしても、陳寿が編纂した諸資料は「絵」の無い文字論理で書かれていて、陳寿も絵無しに倭人伝としたので、現代人が行程図なる「絵」を描いたら、それは、自動的に間違いなのです。
 古来、「方便」なる概念があって、「噓も方便」と言うときは、『御仏の教えを庶民に伝えるときは、庶民に理解できるように「ウソ」を交えても、仏はこれを許す』という意味ですが、この場合は、そのような正当化は許されない単なる「ごまかし」と言えます。まして、氏自身が「絵解き」を見て、「方便」になっていないという事ですが、「絵解き」が間違っていることを自認していることになります。何しろ、陳寿の「文字論理」は、同時代の読書人に理解され、支持されていたわけですから、氏の解釈が間違っているのは、氏の「絵解き」以降の事件です。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 6/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25 2022/11/19

〇引用再開
[中略]帯方郡から邪馬台国までの全行程に要した日数が、水行で合計10日、陸行で1か月だとします。すると、なぜその行程上にある投馬国に陸行の期間がないのでしょうか。明らかに末盧国から不彌国までは陸行しています。合計700里です。それが入っていないということは、やはり「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の読み方は成立しないということだと思います。帯方郡から邪馬台国までの全行程の水行「10日」より、帯方郡から投馬国への水行「20日」の方が長いというのも明らかに説の破綻を物語っています。

〇「も明らかに破綻を物語」るという怪
 以上は、一見して明らかなように、先人諸賢の論考を無視した独り相撲で児戯です。僅かな行数、字数なのに、文意が動揺していて、本来支離滅裂な「説」の論破は一言で足りるのに、無駄に深入りして、うろ覚えの論理に囚われるのは自業自得で勿体ないことです。

 同時代論者が、「倭人伝」をてんでに、つまり、百人百様に解釈した俗説が通用していて、百人全員が、正史として二千年近く読み解いている「倭人伝解釈」は、百人百様なのか、同様なのか、とにかく間違っているという事ですが、自分一人は凡百の一人ではない」という事なのでしょうか。
 古人曰く、倭人伝」読みの「倭人伝」知らず、ということで、学会一括の罵倒は、一般人の任に余ると思います。要するに、「みんな間違えている」と言うと、ご自分も入れていることになるのをお忘れです。
 意義の乏しい独り相撲(ワンマンショー)を仕舞い、具体的に証明願いたいものです。
 率直に言うと、普通の知性の持ち主なら、氏は「背理法」の例題を書いていると見るでしょう。何しろ、冒頭に「私の説に従うと」と補うと、末尾を「従って、私の説は謬っていると証されます」と締めれば、立派な論証になるのです。

〇まとまりの付かない総評
 異説を強引に自身の絵解き、基本的に「直線経路読み」にはめ込んで、その図式上で批判するのは「恣意」(「的」抜き)そのものです。
 ここでやり玉に挙げている批判対象文献が明示されていないのも、困ったものです。主張者が、氏の図式と同一の「イメージ」(偶像、ポンチ絵)で主張したのなら論理的思考のできない人との「欠席裁判」になっています。要は、斬り捨て御免と行っても、相手が案山子同然の紙人形では、腕自慢にならないのです。まして、最後の一人は自分自身ですから、壮烈な「腹切り」になります。

 そうでないなら、氏は、別の人が別の言葉で描いた主張を自己流に図示、つまり、書き崩した上で、それは間違っていると主張していることになります。ひょっとして、氏は、論敵の主張の原文が明解に解釈できないので逃げているのでしょうか。不可解、つまり、主旨が理解できない「説」の「批判」とは、どういうことなのでしょうか。
 と言う事で、氏は、論者の主張を明確に理解できず、意図的な曲解(撓め)に持ち込んでいる嫌疑が濃厚です。いくら個人的に好意を持っていても、それはそれ、これはこれでしょう。
 思うに、氏は、前方の不可解な「イメージ」を自分の認識で不合理だと称して攻撃しているので、いわば自業自得で見苦しいのです。
 それにしても、同時代の日本人が普通の言葉で書いた論考を読解できないのに、三世紀の中国人の漢文の解読などできるはずがないのです。

〇本論 単なる形式不備
 最後に、当記事タイトルに示された論説を批判することにします。
 「説」批判で示された氏の「持論」に同意できない点を上げるとすれば、最終道里を、伊都国から「投馬国を歴て」邪馬壹国に至ると決め付けた点です。この議論の到達点が、「荒れ地」であるのは、既に語られていることですから、失敗必至の旅立ちには、同意できないのですが、各人各様の持論は、極力論じない方針ので、ここでは深入りしません。

 結局、氏は、論文作法(作成手法)の基本にあたると思われる、自説提示の際の根拠提示方法も、論評時の論点提示方法も理解できないまま、字数を費やしていると思えます。それは、何も高級な論義ではなく、論文審査の初歩であり、ここで弾かれるようでは、修行が足りないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 7/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26    付記 2020/08/29 補追 2021/12/25 2022/11/19

〇前置き
 伊藤雅文氏の二回に亘る記事は、素人の「日誌」(ログ)でなく商用書著者の論考と思うので、誠意をもって辛口批判します。先行する「現代訳」なる連載記事で頻出する難点に消耗したので、一点に絞ります。氏の考察の基本的な欠点が見えると思うので、以下同様と理解いただきたいものです。

 批判の前提は、考察と見て取れるにもかかわらず、正史解釈が粗雑(杜撰)であり、また、三世紀に即した、あるいは、適した考証がされていなくて、現代に流布する風聞、俗説による思いつきの憶測で、考察と言えないのです。

 氏のいきかたは、ぱっと見、現代風の合理性を備えて俗耳に訴えることから、新書で刊行されていて、目下、大勢を占める俗説に随時追従しているようですが、それが的確かどうか疑問であり、以下、批判するのです。

〇踏み台とされた労作
 なお、氏が基調とした訳文は、原文に密着した最善の好訳であり、書き下し文に等しいものです。用字、用語の置き換えは最低限であるから、巻き込まれて脱線する危険は少ないのです。文献解釈は、かくあるべきです。「倭人伝」を論ずるなら、後は、自力で説きほぐすものであり、責任の分水嶺です。

〇一文解釈集中批判
[原文]從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
[訳]郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三冊』岩波文庫)

 ここで、氏は、突如、基調を踏み台に浮揚して架空の創作に耽ります。

 帯方郡から倭に至るには、海岸にそって水行し、南進・東行しながら韓国を経ていく(*)。すると、7000余里で倭の北岸にある狗邪韓国(くやかんこく)に到達する。
(*)帯方郡から狗邪韓国への行程については、朝鮮半島の西岸・南岸を海岸にそって航行したとする説と、半島内の水路・陸路を行ったとする説があります。私にはどちらが正しいか断言できませんが、この行程についてはあくまでも「倭人条」の中の韓国記事であり、副次的なものです。[以下略]

 『狗邪韓国までの韓地内行程は「観念的」』とする発想は、慧眼というか、妥当ですが、「従郡至倭」で書き出された道里が魏使の往還記に基づくとの誤謬が邪魔して後が続きません。「観念的」行程が魏使往還記に基づいているというのは、無理でしょう。

〇道里記事の始点
 この間の道里は、「倭人伝」の冒頭に必要な道里、所要日数の申告、開示であって、倭使参上以前に皇帝に上申され、公文書に書かれていたので、後日の改竄、改訂は不可能だったのです。そして、陳壽は、史官の責務として、既存の公式史料を正確に収録する責務を負っていたので、編纂時点の考証や新情報によって改訂することは許されなかったのです。陳壽にできたのは、記事の是正が読み取れる追加記事の書き込みだったのです。

 原文で、「到」は、明確に街道行程の一段落、つまり、到達地の表現であり、「其の北岸」は、当然、陸上の境地であって船着き場の桟橋などではなく、その場は、狗邪韓「国」とされています。つまり、少なくとも「歴韓国」の一国の国名は明記されているのですから、空文、冗語ではないのです。

 念押しすると、同区間は三世紀読者にとって既知、自明の「街道」道里です。それに反して、海岸に沿いに船で行く異説は、無視も何も古典に存在しない無法な用語概念ですから、よほど念入りに事前解説を加えない限り、編者(陳寿)は非常識な用語の咎で更迭され職を失いかねないのです。史官は、「読者」によって、随時試されていたのです。

 従って、古典書に典拠のない、読者の教養に輻輳する用語は、読者の誤解を誘い、恥をかかせるものとして厳重に忌避されるので、勝手な造語やにわか作りの新語の導入は、固く、固く戒められたのです。こうした当たり前の理屈が理解されてないのは、何ともお粗末です。

〇解釈でなく改竄
 「従郡」を「帯方郡から」と単純に読むとか、「七千」里を「7000」里に化けさせる「定番誤釈」,「曲解」は別に置くとして、海岸に「循(そ)って」の原文漢字を「そって」とかな表記に「改竄」したのは、なんとも杜撰で不穏です。これでは、石原氏の労作は「バイブル」どころか踏みつけです。
 石原氏は、訳者の誇りにかけても、「循(そ)って」を「沿(そ)って」と意訳しないのです。海岸基準の移動は、字面を無視して「沿(そ)って」なのか、字面に忠実に「循(そ)って」(盾して行き沖に出る)なのか、いずれかですが、「そって」のかな書きは意味不明で、二重に無責任です。さらに念押しすると、「沿岸航行」は、古典書読者に未知の用語であり当然不可解です。同時代人に不可解なことを、勝手に取り込んではなりません。

 一読してわかるように、「海岸」は、海を前にした崖に似た陸地ですから、これに沿う経路は海岸の陸地を言うのであり、海に入るものではありません。つまり、中原読書人の知る語彙では、「海岸に沿って」進むのは、陸行しか無いのです。従って、続けて「水行」と書いているのは、本来、不可解であり無意味です。そこは陸地なので河川行は不可能です。
 そもそも、郡の東南方にあると書いたばかりの「倭人」のお家に向かうのに、内陸の帯方郡郡治を出て、なぜ、予告のない西に進んで海岸に着くのか、不可解であり、そのようなことは、一切、明記も示唆もされていないのです。飛んだ冷水の不意打ち「サプライズ」です。

 そのように、「循海岸水行」は、三世紀の読者には、自然に解釈できないので、この「問題」の解を巡って、考察に苦労することになるのです。

 このような初歩的考証が理解できないなら「新説」など唱えないことです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改 8/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26   付記 2020/08/29 補追 2021/12/25 2022/11/19


〇格式に従う「定義」
 端的に原文を見れば、「循海岸水行」は、「歴韓國」から「七千余里」に至る道里でなく、「始度一海」などと書かれた「渡海」の意義を説いた前置きと思えます。街道道里に前例のない格式外れの「水行」概念を導入するにあたって、読者を不意打ちして混乱させるのを予防した定義文と見ます。

〇無知による誤解、誤記
 氏は、自認するように、沿岸航行」を考証する知識に欠け、資料調査もしてないので、はなから欠格ですが、なぜか沿岸航行を選択します。「陸路が危険で時間がかかる」とは、風評とも云えない稚拙な憶測で非科学的な見解です。

 氏は、先例引用で「半島内の水路・陸路を行った」などと、時代錯誤の乱れた用語を駆使しますが、これは、原意攪乱だけで紹介になっていません。「南進・東行」しながら「韓国を経ていく」などと、訳文が堅持した用語、記法を棄てて、あらぬ方に迷走しますが、そのような混乱した無理難題は、「倭人伝」には書かれていません。念のため言うと、「水路」「陸路」は、三世紀の時代には常用されていない上に、現代でも、不正確な解釈になるのです。
 一方、どこに寄港し、どこで転じるか、航行上の必須事項が、「倭人伝」に一切書かれていないのは、実際に航行してないと見えます。何を見て思いついたのでしょうか。(よく理解できない方は、隋書俀国伝を一読戴きたいものです)

〇癒やしがたい非常識
 案ずるに、氏は、帯方郡から狗邪韓国までの行程が、官道として整備され、常用されていたとの「基本常識」、教養を持たず、逆に、当時の船舶を知らないのに、記録にない海上行程を想像だけでイメージ(餅の画)し、考察でなく古代史譚を創造した上で、勝手な推測を積み重ねていますから、他愛のないホラ話に過ぎません。

〇先行諸説の理解欠如と現場逃避
 正史解釈と云っても、正史の文字を一切離れないでは理解できないのは明らかですが、正史が確たる文献史料である以上、これを離れるには、同様に確たる史料なり自然科学的考察が必要です。かえりみれば、先行諸説紹介が粗雑であり、基調訳文を離れて勝手に憶測、暴走していると見えます。郡を出て、いきなり「道」を外れているので、以下、行けば行くほど「道」を外れて荒れ地に入るのです。「道」を見失ったときは、出発点に戻るのが、常道であり、目下の最善策でしょう。

 新説提示には先行諸説克服が必須であり、「韓国内陸行説」、「内陸水行説」は、堂々と提唱された仮説なので、論評、棄却するには提唱者と引用元を明示すべきです。また、棄却の根拠となる「沿岸航行説」の検証を行うべきです。調べようとしないで、紛争の現場から逃げてはいけません。そのように努めれば、何が根拠とされているか、目にとまるはずです。

〇歴韓国考察
 長年、弁辰の鉄が楽浪帯方両郡に貢納された以上、帯方郡から狗邪韓国まで、各国関所を歴る官道が輸送路として諸駅が確立、運用されていたのです。漢、魏が、中原の国家制度を、世界の果てである半島南端までの東夷に徹底させたのが遼東郡による東夷支配です。

 古代韓国の諸国は、相互の間で大量貨物の海上輸送がほぼ不可能であったため、基本的に内陸国であり、漢城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)、慶州(キョンジュ)などのような王治は別として、概して山城を置いていたようです。後世、統一新羅時代、黄海沿岸の海港唐津(タンジン)に山城が設けられた記録があります。「津」であるので、山東半島、つまり、唐本土に渡海する船着き場が主目的であり、沿岸海港ではなかったのです。総じて、三世紀当時、韓地各国の山城は、沿岸移動では歴訪できないのです。

〇総評
 いや、古代史分野では、当ブログ筆者が勝手に言う浪漫派の牙城である史譚分野があり、論拠不十分にひたすら勇ましいお話を書き上げる例がありますが、業界相場として、いくら作業仮説であっても、単なる夢物語でないのなら、何らかの実証的考察をこめるものであり、今回はひどい」というのが、当記事執筆の動機です。非常識を「自曝」するつもりはないでしょうから、推敲した上で、カテゴリー/タイトルに「根拠のない空想」(ファンタジー)と明記すべきでしょう。

 いや、何度か、(古代史論では)当然、自明、初歩的と書きましたが、どうも、浪漫派諸兄には、三世紀に唯一存在した古代史史料の意義を軽視、ないしは、無視して、数世紀後の「日本」成立後の国内史書を至上とする向きが多いので、念入りに明示したものです。「古代史」上級者には、見くびられたような不快感があるでしょうが、よろしくご了解戴きたいものです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

サイト記事 「魏志改竄説」批判 1/3 再掲

                          2018/05/29 2018/11/25 2022/11/19補筆
邪馬台国と日本書紀の界隈
『三国志』「魏志倭人伝」後世改ざん説の可能性を考える〈1〉

*コメント
 通常、商用出版物でないサイト記事批判は、よほどでない限り公開しないのですが、今回も例外としました。

 サイト記事のトップで、「邪馬台国熊本説」の中核をなすのが、「魏志倭人伝」後世改ざん説と明言されていて商用出版物に次ぐ位置付けとします。
 「邪馬台国熊本説」自体は、史料である「倭人伝」の一解釈ですから、それ自体は、個人の思いつきであって、他人がとやかく言えるものではないのですが、その中核として採用している正史改竄、差し替え論については、途方もなく大きな誤解を持ち出しているので強く批判せざるを得ないのです。

*批判の主旨
 タイトルを「可能性を考える」としていますが、ここに主張されているのは、ご自身の主張を裏付ける「特定の記事改竄」が行われたが、原資料を含めてその証拠は消されているとの決めつけであり、その「特定の記事改竄」が、「邪馬台国熊本説」を成り立たせるのに欠けている「証拠」の重責を背負っているのだから、大変な暴論なのです。

 氏が高々と掲げている「邪馬台国熊本説」が、山成す所説の群れから抜きんでて、世上の考慮に値するとしたら、そのような強引なこじつけは要らないはずです。所在地のこじつけは、世上溢れている「誤記」「誤写」「曲筆」論を起用すれば、世間並に支持されて良いはずです。

 ということで、ここで取り上げる「魏志改竄説」(改竄は、後世でないとできないのです)とは、聞くからに暴論で、国志権威とされる古代史家の「古代史家全員嘘つき」説に匹敵する暴論と聞こえて辟易しそうです。

 どんな史料も、歴史上、絶対内容が変化していないという絶対的な保証はないから全体が信用できないと言われると、信用できる史料は一つもないとなります。
 本件における学問的態度は、確証がない限り正史史料は、適確に管理、継承されているとする前提で議論を進めるものです。「推定有効」、つまり、決定的に無効とされない限り有効と見るものです。無効を主張する者は、確固たる証拠を提示しなければなりません。立証義務というものです。
 どんな史料も、「改竄の可能性を絶対的に否定できない」という主義の確固たる証拠を提示するのは、不可能でしょう。まず、自身の手元証拠が、改竄されてないという証拠を確立しなければならないのですから、自己攻撃が不可欠の前提になっています。

 また、自己の主張を保って、既存の主張を理解していないままに全て排斥する「排他的」な論証は、全論客を敵に回す攻撃であり、余程の覚悟が必要であり、視点の定まらない安易な類推は控えたいものです。

*論考の確認
 同サイトの論法は、次のようなものと思われます。

    1. 敦煌残簡は、呉国志「特定部」の写本である。
    2. 残簡特定部は、特定部と行文が一部異なる。
    3. 残簡特定部は、写本時の国志写本を正確に写し取っている。
    4. 現存刊本は、敦煌残簡以降に改竄されたものである。

 しかし、この段階的論証は、以下順次述べるように確実なものとは言えません。むしろ、可能性薄弱、と言うか、「皆無」と思われますから、諸説を覆すことのできるものではないと思われます。

*個別確認1
 1.は、基本的な論証が欠けています。
 著者は、残簡特定部が、「呉国志」(韋昭「呉書」との混同を避ける)の特定部と同様記事であったことから、敦煌残簡は、呉国志の写本と速断していますが、これは有力な推定であっても断定できないのです。残簡には、「呉国志」の一部であることを示す編集事項が書かれていないと考えます。基本的な論証が欠けているというのは、論拠とならないという事です。論拠「不正」です。
 そのような「不正」論拠に基づいて提示される論義は、はなから無効であり、以下の論義は不要とも言えます。


                                      未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 2/3 再掲

                          2018/05/29 補充 2022/11/19
*個別確認1 まとめ
 残簡記事が、誰も知らない、誰も知り得ない「史実」を正確に記録しているかどうかは、本論に無関係であり、倭人伝が問い掛けている「問題」でもありません。論点がそっぽを向いています。

 また、敦煌残簡が、呉国志以外の史料、例えば、韋昭編纂の呉書稿、あるいは、私的史稿を写した可能性は、否定も肯定もできないものです。裴注が見当たらないのも、その傍証です。
 正体不明、由来不明の史稿残簡が、呉国志と異なる構文としても、何かを証明するものではないのです。

*個別確認2
 2.の論証は、物証の示すとおりです。だからといって、何かを証明するものではありません。

*個別確認3

 3.「残簡は、その時点の国志写本を正確に写し取っている」とは、時点の国志写本が確認できない以上、検証不能です。
 つまり3の論証は、論者の私的な推定に過ぎません。
 残簡作成者が、参照写本の正確な書写を指示されていたかどうかも不明です。孫氏政権の功臣事歴を、個人的な目的で綴り上げたかもわかりません要は何もわからないのです。

*巻紙談義~余談
 残簡は、明らかに巻紙に書き込まれたものであり、行当たりの字数が一定していません字数を揃えるのは、正確な写本の基礎であり、それが守られていないということは、厳格な写本がされていないことを物語っています。
 それにしても、国志写本が、当初、巻紙だったのか、冊子だったのかは断言できません。

 後漢朝末期の混乱期間に洛陽周辺の紙業も大いに混乱したと思われ、国志編纂時に定寸単葉紙が大量に調達できたかどうか不明です。慣用表現とは言え、国志が巻表示なのも、重視すべきでしょう。つまり、当時、帝室書庫に厳重保管されていた国志写本は門外不出とは言え、巻物形式であった可能性が高いと思われ、敦煌残簡が巻物形式であること自体は、不審の原因とはならないようです。
 国志各巻は、長巻物と予想され、残簡上に写本上必要と思われる目印が見られないのは、若干、否定的な要素です。
 なお、写本、刊本が、袋綴じの単葉紙になったのは、遅くみると、北宋咸平年間の木版刊本時と思われます。巻紙は印刷できないためです。

*改竄重罪
 当代最高写本工まで巻き込む「正史改竄」は、以後の写本に引き継がれても、世にある写本は書き替えられないので、いずれ露見します。「正史改竄」は皇帝に対する大逆罪であり、最高の重罪で、関係者一同とともにその一族の連座処刑もあり得るので、同志を得られず、実現不能と思量します。
 それにしても、それほど大がかりな改竄を、あえて、どこの誰が、企画し命がけで 実施したのでしょうか。露見すれば、共犯者も同罪であり、事情を知らない協力者も、又、同罪です。連座を免れるには、「密告」しかないので、到底秘密を守れないのです。

 くり返しになりますが、そのようにしてまで、「倭人伝」記事を改竄するのは、なぜなのでしょうか。

                       未完

サイト記事 「魏志改竄説」批判 3/3 再掲

                          2018/05/29 補充
*個別確認4
 4の主張は、3.までの推定が根拠を確立できていないため、根拠のない暴論となっています。
 丁寧に言うと、かりに、推定されている事態か起こって、敦煌残簡以後に(呉国志)特定部の改竄があったと証明する証拠が得られたしても、それは、国志の別の部分に改竄が行われたという確たる根拠にはならないのです。当然自明のことなので、大抵は書き立てませんが、読者が鈍感かも知れないので、念入りに書きます。
 この部分の結論として、国志に「改竄」が行われたという確実な証拠は、全く存在しないと断定されます。

*誤解列記
 写本、刊本時の皇帝僻諱を改竄の事例としていますが、改竄の定義をご存じないようです。僻諱は、特定文字の置き換えなどで皇帝実名などを避けるものであり、改竄して文意を変える意図でなく、刊本ならぬ私的写本で僻諱が適用されたかどうかも、全巻確認しない限り不明です。

 また、裴注を改竄の事例としていますが、これも、改竄の定義を外れた暴言です。紹興本、紹凞本などの刊本現存品を見ても、裴注は原文と区別され、原文を書き替えることはありません。
 世上、裴注が、正史「三国志」の一部であると誤解した不出来な論義があるので、無批判に追従したモカもませんが、追従するのは、先行者の審査を経た上で、「奈落落ち」の道連れを避けるものです。

*用語混乱
 「改竄」、「善意」、「悪意」などの法律用語を、日常感覚で書き連ねるのは、まことに不用意であると考えます。

*類推の主張
 視点を反転して、国志に一切改竄が無かったと断定する絶対的な証拠は無いから改竄の可能性を認めるべきだと力説されているようですが、それは、とてつもない考え違いです。
 漠然たる一般論であれば、根拠不確かな推定を押し出さなくても、単なる思いつきの主張として、存在を赦されるものです。

 ところが主張されているのは、特定の部分で特定の内容の改竄があるとの具体的主張であり、それは、確証を持って正しく主張しなければ、単なる暴言だということです。

 1-4のような不確かな/棄却されるべき推定の積み重ねを確証とみているということは、学術的な論証に対する判断能力が欠けているということであり、著者に対する評価が低下するものです。

*助言
 と言うことで、このように無法な論法は、大変損ですよ、と忠告するものです。

 所説を主張したいのであれば、正攻法で論証すべきです。世に、曲芸的と揶揄される主張はごまんとありますが、論理の曲芸は、褒め言葉ではなくて、欺瞞の類いとして、排斥されているのです。

 おそらく、著者は、嫌われても良いからと苦言を呈してくれる友人をもっていないと思うので、ここに、とびきりの苦言を書き記したのです。

                        完

                        

2022年11月14日 (月)

06. 濵山海居 - 読み過ごされた良港と豊穣の海 再掲載

                         2014/04/26  2022/11/14
*末羅国談義
 「末盧國,有四千餘戶,濵山海居,草木茂盛」
 末盧國は、山が海に迫っているため、田地、つまり、水田と限らないにしろ、農地が制約されたとしても、航海に通じた少数精鋭の国だったのでしょう。
 また、言うまでも無く、倭は、年間通じて降雨に恵まれていたので、水田米作が維持でき、もう一つの辺境である西域の流沙、つまり、砂漠とは大違いです。更に言うと、乾燥地帯の黄土平原である中原とも、大きく異なるので、街道を塞ぎそうな樹木の姿が特記されたようです。
 後ほど、気候の話題が出てきますが、北方の韓国のように寒冷でなく、南方の狗奴国で引き合いに出された海南島のように瘴癘ではないのです。
 要するに、玄界灘は漁獲に恵まれた豊穣の海であり、長く、沿岸諸国の国力を支えたでしょう。

 末羅国は、倭國覇者ではないにしても、国土は狭くとも、戸数は少なくとも、地域「大国」だったはずです。

 さて、以下の道里記録の評価で余り触れられていないように思うのですが、これら道里の出典は、魏使(帯方郡使)の測量した数値であるということです。 旧説を撤回 2022/11/14

*魏使の陣容
 魏使は、正使、副使程度しか知られていないものと思いますが、少なくとも、魏朝を代表して派遣され、外交以外に、軍事的な目的も担っていた以上、以下に述べる程度の構成は整っていたはずです。たとえば、副使は、正使に不測の事態が生じたときの代行者でもあり、時には分遣隊として滞在地を離れて、出動したことでしょう。

 人員は、大半が帯方郡からの派遣でしょうが、基本的に魏朝の配下とみるものです。
 正使 副使 通事 書記 記者 保安 財物 食料 救護 荷役
 ここで上げた書記は、公文書を取り扱う高官ですが、記者は、実務担当者であり、日々の任務の記録以外に、移動中の歩測測量を記録していたはずです。

 時に話題に上る「歩測」は、訓練を受けていれば、日々の移動方向と移動距離を結構高い精度で測量できたものと想像されます。全道里と所要日数の積算は、この記者の残した測量結果無くしては不可能だったはずです。 

 道里行程記事に書かれた狗邪韓国から倭王の王治に至る「主要行程」は、倭国国内であって、対海国~一大国~末羅国~伊都国~倭王王治の五カ所に過ぎないし、ほぼ、南下の一路ですから、略図に書くまでもなかったようで、道里として主要行程は「周旋五千里」と確認したものの、正史に残されていないのです。史官にとっては、文章だけが「業」であり、「絵」や「図」は職人層の手すさびですから、正史に居場所がなく、あったとしても捨て去られたのでしょう。

 歩測測量などの探偵技術は、外交軍事使節が未踏地に派遣される時の重要任務であり、それこそ、首をかけて達成したものと想像します。

*追記 2022/11/14
 よく考えてみると、海上行程は測量ができないし、末羅国から伊都国の行程は、市糴、つまり、交易の経路だったので、所要日数と里数は、早い段階で、帯方郡に報告されていたでしょうから、景初の遣使ー正始初頭の魏使来訪の時期、改めて魏使が歩測する必要はなかったようです。
 書き漏らしていましたが、末羅国の海港は、伊都国にしてみると、北の国境の貿易港であり、諸国の物資の集積港であり、一大国などに向かう海船の母港でもあったという事です。つまり、当時、絶妙な位置にあって、海港として反映していたことでしょう。つまり、世上異説となっている「魏使が偶々寄港したためにここに書かれた」というという「思い込み」、「思いつき」は、解釈として成り立たないようです。

以上

2022年11月13日 (日)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  1/4

221114romaparthia   
                             2019/10/27 2019/11/08画像更新 2022/11/14

■おことわり
 ここに掲示したのは、当記事全体の考察を、そこそこに反映した「概念図」です。
 ことさら言うまでないと思いますが、ここに掲げたのは、魏略西戎伝(以下、西戎伝)に書かれた道里をまとめた「構想概念図」(Picture)であり、方位も縮尺も大体で、あえて「地図」にしていないのです。
 それなりに論理的に書いた労作なので、どうか「イメージ」などと軽蔑しないでいただきたいものです。作図に制約のあるマイクロソフトエクセルで書いたものです。
 
*古代人の認識 Retrospective Microcosmos
 衛星写真もグーグルマップなどの情報サービスもなく、地図もコンパスもない時代、頼りは、人々の見識であり、それは、各人の行動範囲に限定された確かな土地勘と行動範囲外の伝聞なので、甘英が知恵を絞っても、せいぜいこの程度の認識しか得られなかったと思うのです。と言うことで、当時の現地での認識で書かれた西戎伝の元データは、どの程度現地事情を反映していたか、当て推量にせざるを得ないと考えた次第です。
 特に重要なのは、甘英が取材した「安息」は、ここに書いたように安息創業の地である当地域を所領としていて、東北部の交易と防衛を担っていた「小安息」の視点で描いた世界像であり、大帝国の「グローバルな」目で描いたものではないのです。

 この二重構造は、甘英以後、後漢史官にも、魚豢にも理解されず、後漢書を編纂した范曄に至っては、不確かな情報であり書くに堪えないと棄てられ、そのような不確かな情報をもたらした諸悪の根源として、甘英は臆病な卑怯者扱いされたのです。

 当記事は、そうした冤罪を、魏略西戎伝の適切な解釈で払拭するものです。

 と言うものの、要点では、前世、つまり、史記、漢書以来の先行資料も参考にして重要地点の比定に勉めたのが、計三篇に上る考察です。
 ここでは、端的に、当方、つまり、当ブログ記事筆者の当面の結論、と言うか到達点を書き残すものです。読者に読んでいただけるか、肯定していただけるか、各読者の考え次第です。

■概要
 本稿では、西戎伝の解釈に対して従来当然とされていた句点解釈に異を唱え、条支、大秦国の所在地の再確認を願うものです。定説で決まりなどと言わずに、一度見直していただければ幸いです。
 端的に言うと、史書の条支国は、当時地域大国であるアルメニア王国です。条支が接する大海はカスピ海であり、海西、海北、海東は、カスピ海周辺、しかも南部にとどまり、甘英の探査はせいぜい条支であり、地中海岸に一切近づいてないので、海を怖れたとは、後世課せられた濡れ衣、つまり冤罪です。甘英は、一世の英傑西域都護班超の副官であり、皇帝、都護から命を帯びていて、使命を放棄して帰任したとは、信じられないのです。

 「西戎伝」を読む限り、大秦は「安息に在り」とだけあって遂に位置不詳であり、諸記事の「莉軒」から、大安息内、それも、小安息付近と見られるのです。当方なりの憶測は、図の通りであり、説明は後のお楽しみです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  2/4

                             2019/10/27 2022/11/12
□魚豢編纂「魏略西戎伝」(西戎伝)とは
 魚豢「魏略」は、陳寿「三国志」とほぼ同時代に編纂された史書であり、三国をほぼ並記した「三国志」と異なり、魏朝一代史であり、四百年にわたる漢を継いだ正統政権であるとして、呉、蜀を、反逆者としています。
 「魏略」は、暫時帝室書庫の所蔵書籍として厳格な写本継承が行われましたが、魏朝の正統性への評価が低下するにつれ、書庫外に押しやられ次第に散逸したようです。
 因みに、「西戎伝」とあえて銘打ったのは、班固「漢書」西域伝で、漢との交流、西域都護への帰属が表明されている西域諸国の「伝」に対して、それより西、漢の威光の及んでいない「西戎」の国情を初めて奏上するとの意であり、新来諸国が、漢を継承した曹魏の威光に服すれば、西域は西方に延びるという主旨と思われます。

*西戎伝の信頼性
 一般論として、魏略は大半が佚文であるため、信を置けないとの定評ですが、こと、「西戎伝」の評価は大変高いのです。魏志に補追された「西戎伝」は、劉宋史官裵松之が、当時帝室蔵書として管理されていた「魏略」善本を底本とてし、裵松之が責任を持った引用であり、「三国志」本文に遜色のない高い信頼性の評価をあるのです。もちろん、数カ所の明白な誤記と後年加筆らしい数行の不審記事はあるものの、全体として、大変正確な史料と見られるのです。

 因みに、二十世紀初頭にかけて中央アジア広域を探検したスウェン・ヘディン(スウェーデン)は、西戎伝を信頼すべき座右の書としたそうです。

*後漢書の虚報

 范曄「後漢書」西域伝は、「西戎伝」、ないしは、その原史料に基づく紀伝ですが、原史料の正確な要約でなく笵曄の常識と論理に基づく再構成が行われていて、特に、「大秦」関係記事は、明らかに誤伝となっています。特に、西域都護班超の副官にして安息訪問大使の甘英の大秦渡航断念事情は、根本的に虚偽記事であり、まことに不出来です。范曄と比較できる同時代史書として、袁宏「後漢紀」と魚豢「魏略」西戎伝が、今日まで継承されていなければ、笵曄の曲筆の是正ができなかったと思えば、正史といえども厳重な史料批判が必要という基本的な訓戒がわかるのです。
 いや、笵曄「後漢書」の紀伝部分は、先行諸家後漢書を参照していて、信頼できるのですが、西域伝は、他史料に基づく校訂が見えず、心許ないのであり、東夷伝は、他家後漢書に欠けている独自記事なので、不安です。

*大局的使命
 西域都護の副官甘英が、都護班超から承けた大局的な使命は、司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝以来の西域探査であり、漢代は、安息、条支が西の極限ですから、それより西の世界は、未知の領域であり問題外だったのです。

 あくまで仮定の話ですが、甘英が、使命の安息、条支に至って、さらに西方の土地を耳にしたとしても、それは使命外ですから、仮に使命の延長線上の、いわば、拡張使命になり得ると考えても、その情報の信憑性を確認した上で、以後の対応については西域都護の指示を仰ぐ必要があったのです。

 班超が、仮にそのような上申を受けたとしても、甘英が更なる遠隔地に赴けば帰任が大幅に遅れ、使命報告が大幅に遅れることを大いに危惧したはずです。班超の使命は、西域の安寧確保ですから、成すべき事はその使命の成果を持ち帰り、本来の西域都護の任に就くことなのです。

*漢朝偉業の継承
 そもそも、班超が甘英に与えた使命は、西域にひろがる匈奴を駆逐する戦いを西方から支援する同盟者の発見と盟約の確立にあったのです。

 それは、かつて武帝が張騫に与えた使命でもあり、匈奴と角逐している当時と西域状勢は何ら変わっていないのです。当初、西域の覇権は、漢か匈奴かでしたが、後漢中期、かって張騫が交通を築いた大月氏後続である貴霜国が、西域都護に対し反抗を続けていて、洛陽の支援が乏しくなって西域都護が衰弱すれば、後漢の支配が崩壊する状態だったのです。班超は勇猛果敢で、諸国を睥睨していたが、引退の時が近づいていたので、低迷の相手を得て、後年の安定を期したかったのです。。

 従って、甘英は、中央アジア暑熱地帯を抜け、司馬遷「史記」大宛伝で初めて紹介された文明大国「安息」を訪ね、武帝時代以後途絶えていた交流を再構築し、低迷を提案したはずです。 それが、甘英の西域探査の端緒なのです。

                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  3/4

                             2019/10/27
*小安息国と安息帝国
 大宛伝に従い接触したのは、この地の守りを任されていた小安息国ですが、しばしば、イラン高原全体を支配する安息帝国と混同されたのです。
 混同と言っても、地方国と全帝国の勘違いは、それほど深刻なものではありません。小安息国は、帝国の東の守りを一任されていて、それは、東方との貿易の収益管理も含まれていたのです。商業立国の安息帝国では、国の大黒柱として強力な権限を委ねられていたのです。それは、小安息国が安息帝国創業の地として特権を有していたとも言えるのです。

*臣従あるいは同盟
 と言うことで、甘英は、小安息国の玄関に長期にわたって滞在し、締盟を図りましたが、当然、安息国は後漢への臣従は謝絶し、中央アジアの交易路に対する北方匈奴の侵略を後漢朝西域都護が阻止していることに対して感謝を示した程度に終わったようです。
 甘英が求めたのは、二萬人が常駐する安息国東方守護の軍事力の提供であり、それは謝絶されたのです。安息帝国は、小安息に東境防備のための大軍を常駐させていましたが、自ら中央アジアオアシス諸国を攻撃することはなかったのです。金の卵を生み続ける鶏は殺すなということです。


*安息査察
 次に、甘英は安息国内の査察を望んだはずですが、客人扱いとは言え、他国の軍人に国内通行を許すことはありません。従って、安息国内の取材はできなかったのです。勿論、高度に機密性のある内部情報である戸数、工数などは得られず、又、服属の際には提示される地図も得られなかったのです。服属国でない大国から取材できる情報は限られているのは常識ですから、この事態は不首尾などでは無かったのです。
 安息国は、貿易立国、商業立国ですから、使節厚遇の一環として一大見本市を催したのですが、甘英は軍人なので一覧表を取り次いだだけでした。
 その中では、安息国の近隣と思われる大秦国の物産が多彩ですが、既に、武帝時代に安息国の第一回遣使で特産物を紹介されていた莉軒の別名ということだけ意識に止めたのです。

*条支内偵
 さて、次に望んだと思われるのは、西の条支との接触ですが、安息国は、遠路であるから条支代表者を呼びつけることも、安全を保証できない条支国への行程を紹介することも控えたようです。
 とは言え、甘英の報告には、「海西」の国情が詳しく書かれていて不思議です。安息国が近隣国の国情を紹介するにしては詳しいし、安息国に不利なことも書かれていますから、これは、密かに条支に取材したと思われるのです。概念図には、甘英が、帰途、条支に向かったと見て、条支往還経路を推定してあります。憶測ですが、さほどの道草にはならないのです。
 但し、友好関係を築こうとしている相手に隠密の内偵を悟られてはならないので、婉曲な紹介記事になったと見るのです。


*大秦造影の怪
 その結果、後世史家は西戎伝各国記事の進行を見損なっているのです。
 そして、甘英が大して気にとめなかった大秦が、後世史家の創作により、まぼろしの西方大国として注目され、ついには、パルティアの大敵と見なす暴論まで台頭したのです。その端緒が、西戎伝に魚豢が注釈した数行ですが、「イリュージョン」に最も貢献したのは、范曄です。
 つまり、笵曄「後漢書」は、司馬遷「史記」、班固「漢書」と並ぶ、「三史」なる正史の最高峰となったので、影響力は絶大で、「三国志」は、言わば脇士となったので、その責任は重いのです。

                              未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」条支大秦の新解釈 壱 導入篇  4/4

                             2019/10/27 2022/11/13
□誤釈の起源 Origin of Speculation
 魚豢は、漢書「西域伝」安息伝の「二枚舌」を解釈できず、安息国が、数千里にわたる超大国と「誤解」したため、安息国西界、つまり、西の果ての向こうにある条支国は、メソポタミアに王都が存在する安息の西方と誤解したようです。「大秦は、既知の莉軒であって大安息内部、小安息近傍」との端的な行文を誤解釈し、余計な何ヵ月という海上所要日数を書き足したのです。
 そのため、条支、安息並記と読んで「大海」地中海の西の「海西」と見て文を閉じ、直後に開始の海西記事が大秦記事と誤解され、さらに沢山の誤解を誘発したのです。何のことはない、条支は、大海、実はカスピ海のすぐ向こう岸であり、条支の向こうは(直に見えない)黒海だったのです。

*本当の条支探査
 本来の条支行きは、当然、カスピ海の船での移動でしょう。いくら軍人でも、虎や獅子は避け、難なく便船で渡海したはずです。因みに、条支は海西にあって、大海カスピ越しに手に入れた小安息国物資を、大海「アゾフ海」、「黒海」経由で、船荷として地中海に流し、あるいは、陸路流通して、巨利を得ていたようです。黒海南岸には、かつて、ギリシャと競合したトロイアが栄えていたので、黒海経由の東西貿易は、シルクロードなどとしゃれた呼び方が生じる前から、大いに繁栄していたのです。

*使命の達成報告 Mission Complete
 それはさておき、条支国の国情を見定め、今後の交情を約したことにより、甘英は、所記の使命を達成し班超西域都護に向かって東に帰ったのです。
 当然、甘英は、堂々たる文書をもって班超に復命し、班超は、それを嘉納すると共に、洛陽の皇帝に報告文書を届けたので、文書は皇帝のもとに届いたのです。不首尾の報告まであれば、班超は譴責を承けたでしょうが、そのような記録は残っていないのです。いや、記録はなくても、班超は顕彰され西域都護の任にとどまったから、甘英の使命達成は確実なのです。

□総括
 甘英の帰任後、老いた班超は、多年の西域の激務から退任して後漢の西域経営は活力を失い、皇帝の代替わりもあって急速に退潮し、西域は匈奴の意のままになったのです。但し、匈奴は、長年の漢との衝突の多大な被害により単于独裁が崩れ、西域諸国への圧政は一時緩和されたようです。
 と言うことで、甘英は、断じて使命放棄などしていないのです。
 冤罪を報じた報いとして、范曄は史家としての不名誉を承けるべきです。
 ここは、導入篇、序論ですから、要点だけにとどまるのです。

□西戎伝道里記事の語法について
 随分手間取りましたが、魚豢が認めた用字は、概ね以下のようです。同時代の同趣旨記事ですから、特段の重みのある用例です。
 「従」は、書かれている地点から「直行」という意味です。
 「循」は、海岸線と直交する方向を言います。
 「去」は、続く地点から逆戻りすることを言います。(方角が逆転します)
 「復」は、道里の直前起点に戻ることを言います。
 「真」は、特に厳密な四分方位を言います。
 「転」は、概して直角に進路を変えることを言います。
 「歴」は、当該国の王治に公式に立ち寄ることを言います。
 「撓」は、地形に従い円弧状の経路を行くことを言います。
 「陸道」「陸行」は、人畜を労して、陸上を行くことを言います。「陸」は、平地を意味し、宿駅のある街道が整備され、騎馬移動や車輌搬送ができるのです。
 「水道」「水行」は、人畜を労せずして、河水面を行くことを言います。
 「浮」は、本来、小舟や筏で水面を移動することを言います。
 「乗船」は、便船に乗ることを言います。
 「大海」は、外洋でなく、塩水を湛えた閉水面を言います。                          
                             導入篇 完

2022年11月12日 (土)

私の本棚 20 季刊「邪馬台国」 第125号 井上悦文「草書体で解く邪馬台国の謎」補充再公開

 私の見立て ★☆☆☆☆ 根拠不明の断言集 拝読辞退     2015/06/10 補充 2022/11/12

◯はじめに
 本稿は、専門的な根拠を踏まえた論説のようであるが、余程論旨に自信があるか、それとも、論旨に不安があるのか、冒頭から、強い物言いが続くこうした断定的な書き出しは、却って不信感を招くと思うが、どうだろうか。
 例えば、書き出し部で「三国志の原本は草書であったことが判明した」と声高に唱えるが、言い切る根拠は何かとみると、楷書写本は大変時間がかかるので、作業性が悪く、写本は全て草書で行われていたに違いないという説である。
 時代を隔てて、遙か彼方の現場を推定する「臆測」であり、何ら物的な証拠が無いのに断言するのは大胆である。

*考察検証
 ここで言う物的な証拠は、例えば、西晋皇帝所蔵の三国志写本の実物であるが、断簡すら残っていないし、下って、北宋までのいずれの時代でも良いが、皇帝所蔵の三国志写本が発見されたとは聞かないから、やはり、物的証拠は存在しないのである。
 それとも、噂に聞く、敦煌文書の呉志写本断簡は草書で写本されているのだろうか。もっとも、そうであったとしても、皇帝蔵書ではないので、状況証拠にしかならないのだが。

*「書の専門家」の暴言
 ここで状況証拠としている写本に使用する書体と作業効率との関係は、自称「書の専門家」の意見であるし、また、多少なりとも、書き真似してみれば納得できるので、不審ながら、一応、ご意見として伺うしかないのだが、その点を根拠に、正史の写本が全て草書で継承されていたというのは、速断に過ぎ同意しがたいものがある。

 因みに、いくら「書の専門家」のご高説とは言え、三国志の解釈に「草書の学習」が必要というのは、不可解である。三国志草書写本は現存しないのである。氏が三国志全巻を古代草書で書き起こして、仮想教材として提供するというのだろうか。それは、簡牘の巻物なのだろうか、紙冊子なのだろうか。

 いや、今回の井上氏の論説でありがたかったのは、秦漢時代にも、日常の書き留めには、手早く書ける草書めいた略字体が採用されていたと言う指摘である。してみると、草書の特性は、文書行政の発達した古代国家である秦時代からの常識であったと思うのである。
 発掘されている木簡類は草書では書かれていないようだが、日常の覚え書き類は草書だった(のだろう)との説には説得力がある。

*真書と草書
 それで思い出したのが、宮城谷昌光氏の著作「三国志外伝」の蔡琰(蔡邕の娘 蔡文姫/昭姫)の章の結末である。時の権力者、つまり、武人であり、教養人、つまり文人でもあった曹操から、蔡文姫が記憶している亡父の蔵書四百余篇を書き出して上程するようにと下問されたのに対して、「真書」で書くか、「草書」で書くか、書体を問いかけているのである。

 手早く草書で書き上げれば随分早く提出できるが、書籍として品格が低くなり、曹操ほど詩作や孫子注釈で高名な大家に失礼と思えるし、といって、厳密に真書で書くと、時間が大層かかる、いわば、二者択一であったのである。

 ここで言う真書は、言うならば、字画を全て書き出す本字であり、草書は、省略の入った略字という位置付けであろう。どちらでも、ご指示のままに書き上げますという趣旨である。

*書体の併存
 さて、古来から真書、草書の両書体が併存していたのであるから、草書が略字体であるために異字混同が(必然的に)出ることは、当時の知識人や行政官吏に知れ渡っていたはずと思うのである。氏自身も述べているように、草書の位置付けは、あくまで草稿、つまり下書き止まりであって、本当に「文書」を書くときは真書で書いたと言うことである。これは、浄書であり、清書でもある。

 ちょっと意味合いは違うかも知れないが、唐時代、公文書では、簡明な漢数字の一,二,三,,,を壱,弐,参,,,と、「大字」で書く規則があったのも、改竄防止、誤読防止の意義があれば、時間を掛けても字画の多い文字を採用していたと言うことである。ということであれば、信書(手紙)の類いは草書としても、公文書を草書で書くことはなかったはずである。
 つまり、正確さ、厳密さが至上課題である公文書類や正史写本には、後世に至っても厳として真書が採用されていたと推定するのである。

正史写本
 特に、正史写本の中でも、皇帝蔵書に当たる最高写本、これを仮に「正本」というならば、「正本」を写本して新たな「正本」を作るとすれば、そのような高度に厳密さを要求される複製写本の際には、写本に於ける速度ではなく、複製の正確さが至上命令である。
 至上命令というのは、これに違反すると、給料を減らされたり、免職になったりする程度の「処罰」にとどまらず、馘首、つまり、打ち首で死刑もあり得ると言うことである。

 それに対して、その際に経済的な要素として懸念される時間や人手は、国庫から十分以上に与えられるわけだから、真書で、しかも、予習復習を含めて、とにかく、時間と人手を惜しまずに、念には念を入れて写本するのは当然の帰結と思われるが、どうだろうか。

抜き書き・走り書き
 ただし、以上は、何よりも厳密さが求められる公文書や正史写本の話であり、一度、そのような厳密さの桎梏から解き放たれたときは、段違いに書きやすく、速度の出る草書写本が採用される可能性が高いと思うのである。特に、正史をもとに編纂された類書の原典とする抜き書き資料は、手っ取り早い草書で書かれていたものと思われる。
 類書編纂は、正確な引用でなく、飲み込みやすく消化した要旨抜粋であるので、誤字もまた発生することが避けられないのである。また、そもそも抜き書きの元となった写本が、正本と同様に真書で書かれていたかどうかも、以下で思案するように、かなりあやしいのである。

 お説に従い、これら草書写本には、異字混同がある種の「必然」となることを考慮すると、ここで延々と主張されている誤字は、こうした草書写本段階で発生し、構成されないままに継承され、最終的に、後代史書や類書に清書された際に、継承(誤伝)されたと見て良いのではないか。この辺り、論理の分水嶺というか、絵に描いたような諸刃の剣である。

 その極端な例として、翰苑写本がある。当該写本は、影印版の収録された解説書が公刊されているから、どのような書体と配置で、どんな文字が書かれているか、誰でも確認可能である。特に同意意見も、反論も出てこないブログ記事で公開された私見ではあるが、見るところは見て書いたものである。
 つまり、翰苑写本は、原本が確認不可能なので、ちゃんとした原本があったと仮定すると、写本というものの原本に忠実、正確な複写ではなく、また、その際に正確さを求めたものでもなく、とにかく、欲しい部分を、追い立てられているように、手早く抜き書き書写されていると見るものである。一番の難点は、素人目にも、校正、校閲によるダメ出しがされていないので、素人目にも明らかな錯誤が露呈していて、文字記録資料として信頼できないのである。
 いわば、書の文化財として尊重すべき「国宝」だが、史料としては、ほとんど信じられない、相当信頼性の低い文献資料と、書道の素人は見ている。

二次写本、末裔写本
 また、皇帝の指示した正史写本は、次なる正本として「厳格」に写本されるにしても、当代の正本から写本された、言わば、子写本(一次写本)から芋づる式に連鎖して写本された孫写本(二次写本)以降の末裔写本は、「厳格」の適用外であり、作業効率が優先され、草書写本となる可能性がどんどん高まるのである。地方豪族の手元に渡る頃には、多くが草書写本になっていたとも推測される。
 以前から指摘しているように、真書写本といえども、誤写の発生を食い止めるには、大変な労力と優れた職人群が必要であり、王侯貴族といえども、そのような厳格、精密な写本は、経済的な事情だけ推定しても、そう簡単にはできなかったと思われるのである。

草稿と確定稿
 また、三国志編纂過程で、陳寿と無名の補佐役が上程草稿を作成したのは草書体と思われるが、皇帝に上申する想定の三国志「確定稿」は、真書で清書していたものと思うのである。
 案ずるに、草稿といえども、文脈から推察できない異民族の固有名詞などは、おそらく、草書のただ中に真書を交えるなど、誤写を防ぐ工夫などをしていたに違いないのである。それが、俗事に屈しない史官というものである。

 井上氏の記述では、陳寿は三国志を完成することができず、草稿を残して没したようにも見えるが、60歳を過ぎた老齢であるから、自身の著作を中途半端な形で後世に遺すことがないよう、真書で書き上げた清書稿を確定稿、完本としていたと考えるのである。
 これは、皇帝から命が下ったときは、速やかに上程できるようにしておくという意味もあるのである。陳寿は、罷免されても、処断されたわけではないので、著作を続けられたと見るものである。陳寿の人柄と職掌を考えると、そう考えるのである。

余談談義
 総じて、井上氏は、業界用語を交えた不思議な言い方を、大変好むようである。
 例えば、冒頭で、何の断りも引用符くくりもなしに、「魏志倭人伝」と書いておきながら、禁じ手の後出しで、だめを入れるのである。
 曰く、『「邪馬台国」の(と言う国)名は、中国(余計である)正史(である三国志の一部である)の「魏志倭人伝」に書かれていると大方が思っている。』 ()内は当方の補充。
 何とも、見苦しい乱文であり、理解に苦しむ点は、凡百の俗説の徒と同様であり、氏の、文筆家としての未熟さを思わせる。
 それにしても、大方」とは何の意味か、よくわからない。多数の他人の「思っている」ことをどうやって調査し、どのようにして計数化して、「声なき声」の世論とも見える「大方」を見出したのだろうか。所詮、氏の見聞というものの、実は、飲み仲間の罵り合いではないだろうか。

 てっきり、季刊「邪馬台国」誌では場違いな、古田武彦説復唱かと思ったが、そうではない。「魏志倭人伝という正史はない」に始まる趣旨不明の提言が続く。どろりと「魏書の東夷伝の倭人の条」と書き写しているが、「魏書」と書かれているのはここだけで、他の箇所では全て、「魏志」である。趣旨不明である。「倭人伝」はなかった論には大方は食傷している。
 最後に、倭人伝と三国志全体の文字数が上げられているが、本稿においてどんな意義があるか、不明である。まことに、不可解である。

*成立の不思議
 以下、三国志の「成立方法」(単語明瞭、意味不明)と言う下りがある。
 「成立」を確定稿のとりまとめ時点と言うのであれば、その時点では、確定稿は、いまだ陳寿の個人的な著作なのだから、いわゆる官製史書である「正史」でないことは自明である。まして、一部厳密な言い方を打ち出す識者によれば、西晋時代に「正史」はなかったから、その後も、正史という言葉が浮上するまで、三国志は「正史」でなかったことになる。

 とかく、そのような「重隅突き」的な散漫な言葉咎めは、「大方」の読者に論旨の迷走を感じさせ、折角の文章が寄せ木細工との感を与え、箸休めの「閑話休題」以外に何の意義があるのかよくわからない。

 おそらく、ご自身の学識の範疇外なので、いずれかの公開文献から無造作に取り込んだのだろうが、身に合わない借り着は、本人の品格を落とすだけである。門外事を、うろ覚えで挟み込んで論説全体の値打ちを下げるのは、井上氏の創始した失敗ではない

写経
 遣唐使や留学僧が持ち帰った仏教経典の写本が草書体とも思えないので、唐時代でも、真書による写本も残存していたように思われる。
 奈良時代に平城京で行われた国家規模の写経事業も、また、本稿で言われる草書写本の例外と思われる。
 因みに「藤三娘」と署名した聖武天皇皇后「光明子」の残した写経は、どう見ても、草書ではない。
 と言っても、草書写経が「絶対になかった」と断言できるほど、多数の原史料を確認していないので、推測である。

◯まとめ
 当記事は、井上氏の軽率な思いつきを、「大地から掘り出した芋」と見ると、それを「泥付きのままで食卓に提供する自然食」と見える。つまり、せめて、泥を落とし、皮を剥いた上で、煮炊きして、調理提供いただきたいと思う。例えば、ウロコを取らず、はらわたも出さないサカナは、そのままでは食べられたものではないのである。自然食材は貴重であるが、だからといって、それが和食の真髄ではない。
 氏が、このように不出来な著作を公開したのは、氏にとって名誉にならないと思う。勿体ないことである。

 これでは、以下、氏の力説する新説が、忽ち、悉く「虚妄」と判断され、「ジャンク」とされるのである。世上、邪馬台国論争は、厖大な「ジャンク」所説群を産んだと「大方」が断じる理由とされるのは、それぞれの冒頭で、説得力のない、疑わしい「新説」をがなり立てるためと思うのである。「ジャンク」を悉く味わった上の評価とは見えない。
 現に、氏の著作を買って読もうという気には、到底なれないので、そのように推定する。

 仮に、氏の新著を贈呈されても、時間の無駄なので「拝読辞退」である。

以上

2022年11月11日 (金)

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』改2 1/3

 1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

〇はじめに
 藤井氏の本論は、『東アジアの古代文化』各号影印版(テキストデータ無し)で有料公開の電子版を200円でダウンロード、閲覧できます。

*隠された珠玉の道里論

 倭人伝に書かれた「邪馬壹国」がどこにあったか探るとき、まずは道里論と思います。

 ただし、史料に忠実に議論すると、「畿内説が成立しないのが明解」なので、畿内派は道里論に正面から取り組まず、決定的議論の困難な誤記、誤解の水掛け論に逃げ込んで保身し、そのため、早々に切りを付けるべき論点が、持ち越しの繰り返しで押し入れの肥やしになり、数十年空転しています。
 当方は、別に生活がかかっていないので、正直な意見を以下に述べます。
 なお、自明ながら、里数などの各種数字は、概数です。

*支持者
 「邪馬台国の会」主催者である安本美典氏は、藤井氏の論考を折に触れ引用し、「邪馬台国」九州説のなかでも、末羅から二千里程度離れた朝倉にあったとする安本氏の「朝倉」説の裏付けとしています。藤井氏の主張が決定的なので、安本氏は賢明にも強弁の上塗りはしません。

*感慨
 当方は、ここまでほぼ独力で、倭人伝諸数字の意義を読解こうとしてきましたが、四十年前の先人を知って、自分の見識が裏付けられてうれしいと思うと共に、これほど明確に論証しても、古代史学界でほとんど顧みられていないことに、正直慄然たる思いになったのです。「ほとんど顧みられていない」と感じるのは、当論文を引用参照した論考がほとんど見られないからです。(安本氏は例外です)

 藤井氏が挑戦的に述べているように、本論は道里論解釈で群を抜いて決定的であり、それ故に、本論で否定されている畿内説支持者が賢明にも論議を避けて風化を図ったと思われます。三十六計逃げるにしかずです。学術的な議論は、論争を経て前進するのですから、議論回避は「保守」どころか、「退化」「退嬰」です。これでは、当方の議論も埋没の運命にあるようで、暗澹としてくるのです。

*議論の核心
 それはさておき、本論文の核心部分について、以下批判します。
 藤井氏は、倭人伝の数字から、次の見解を示していると見えます。

  1. これらの数字、道里や戸数の統計値は、概して、有効数字一桁であり、現代的な算用数字の多桁表記は避けねばならない。
  2. これらの数字は、したがって、厳密なものではなく「誤差」をたっぷり含んでいるから、そのように扱わなければならない。
  3. これらの数字に付されている「餘」は、端数切り捨てでなく、「約」に相当する中心値表現である。

*応用数学実践
 以上の見解は、いずれも、工学分野、「応用数学」の概数論に即したものと思われます。当方が学んだ電気工学は、厖大な厳密計算より、端的な実務計算を重んじていて、当方は、電気工学の徒として同感するものです。

                                未完

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』改2 2/3

 1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26 2022/11/11

*数学観の時代錯誤指摘
 さて、続いて展開される「倭人伝」解釈では、倭人伝編纂者が知るはずもない「余談にして蛇足」、つまり、「後世や他文明の数学観」が過剰に語られ読者の誤解を誘うと見えます。中国では、後々まで零や多桁計算の思想が備わらなかったため、「原始的」、「不正確」との誤解を与えます。むしろ、それより、中国古代の精緻な数学を語るべきでした。

*倭人伝の「余」復誦
 当方が悪戦苦闘した「余」は、藤井氏により難なく展開され、心強くもあり、落胆でもあり複雑です。一介の素人が思い至る概念が、長年の論争で先例が見つからず言及もなかったので、これは独創かと思いかけたのです。念のため復誦すると、倭人伝の数字の大半、ほぼ全部に付く「余」は「約」であり、「端数切り捨て」でない概数だから単純に加算できるとの意見です。

*全桁計算の偉業
 全桁の加算は多桁に加え、随時繰り上げが発生し「途方もなく大巾に」手間取ります。と言っても、後漢書などで郡の戸数、口数は一の桁まで集計されているので、厖大な統計計算と思わせます。当然、経理計算の銭勘定は一文まで計算しますが、それが、文明の根幹だったのです。
 因みに、中国語で「経理」は、「会計計算」でなく「経営管理」で高度な業務であり、現代企業の役職では部長格以上です。
 多桁計算は算木計算の広がりを思わせますが、桁ごとに算木一組が必要ですから、高度の訓練を受けた計算役を多数揃えて、しかも、長期間かかり付けにすることを要したと思われます。それが、文明の根幹だったのです。

*「はした」の省略
 氏は明言していませんが、「千里」単位の計算で、百里単位は桁違いと無視できるのです。つまり、里単位で、7000、500と計算したのではないのです。(算用数字はなかったし、小数もなかったのです)

*有効数字の起源
 氏が言う「有効数字一桁」は、当時中国文明が依存していた「算木計算」のためです。ただし、氏が、一万二千を有効数字二桁と見るのは現代人の勘違いで、当時は、あくまで、「一」「万」「二」「千」でなく「十二」「千」で桁上がりし千の桁にとどまっています。
 いや、普通は、算用数字で12,000,10,000で、有効数字の意識は無いから、ずいぶん丁寧な理解で感服するのですが、あと一息です。

*「奇数」愛好説の慧眼
 更に言うと、不確かな元資料による計算で、有効数字が一桁に近い1,3,5,7,10,12の「飛び飛びの丸め」が見て取れます。
 松本清張氏が、「倭人伝の数字に奇数が多い」と見てとったのは慧眼ですが、実は、有効数字0.5桁と言うべき大まかな概数処理のため偶数の出番が少なくなったためです。
 中国人が「奇」数を高貴な数と見たのは、おっしゃるとおりでしょうが、以上のように、概数が奇数に集まるのは、そのためだけではないのです。

*「奇」の変貌
 因みに、「奇」は、本来「奇蹟」に残っているように、「極めて尊い」形容だったのですが、今や、「奇妙」もろとも、誤用の泥沼に沈んでいるのです。戦国末期、尾張の英傑織田信長は、嫡子(後の)信忠に「奇妙丸」と命名しましたが、これは、恐らく禅僧を通じて古典に通じた父親が、我が子に至上の命名を行ったのです。但し、同時代人にすら、そのように深い真意は理解されず、まして、現代に至る後世人には、まるでその主旨が理解されていないのです。誠に、現代語間で「奇妙」で「残念」な現象です。

 半分余談ですが、三国志「蜀志」諸葛亮伝には、裴注も含めて、諸葛亮に対して(褒め言葉)「奇」が多用されていますが、中でも、諸葛亮が没し蜀軍が五丈原から撤兵した後、宣王司馬懿が蜀軍の陣跡を見て、「天下奇才也!」と驚嘆したのは、陳寿自身の用語ですから、当然、絶賛と見るべきなのです。
 と言うことで、陳寿は、中国世界の周辺に「四海」を置いたように、三国志編纂に於いて、純正古典用語を多用していたのです。いや、当然のことでした。

*「奇手妙手」今昔~余談
 余談ですが、当方のなじみ深い将棋の世界では、江戸時代以来、詰将棋集とともに序盤定跡を教える書籍が多数出版され、中には「奇手」を謳うものがありました。ところが、現代になって『「奇手」は、珍妙な「手」であるから、画期的「新手」は「鬼手」と言うべきだ』と言い出した人があって、今日、「奇手妙手」は廃れて「鬼手名手」が支配しています。いずれ、古典回帰して「奇手妙手」が、正しい意味で復活する日は来ないのでしょうか。因みに「妙」も、同様に大変な「褒め言葉」です。
                               未完

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』改2 3/3

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*倭人伝里数観の提示
 氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭王治までを、郡~末羅と末羅~倭都に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快で、倭王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上と図示しています。
 また、「従郡至倭」の目的地である倭王治は、帯方郡治から東南方向で、円弧上に具体的に限定できます。
 いずれにしろ、倭王治の所在を、九州島北部の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を黙殺したのです。

*精密地図の弊害~私見
 本記事に対して不満を言うと、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。苦言御免です。
 うるさく言うと、二千年前の地形を誰が保証しているのかという疑問もわきます。例えば、国内の地図データで、二千年前の正確さを保証している例は無いはずです。併せて、ご自愛頂きたいものです。

*概数計算の復習~私見
 以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。
 全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は大幅に絞られて、二千里に一千里を増減する程度と見えます。
 それにしても、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、現代人が慣れている概数に比べてかなり大きなばらつきが想定されます。
 また、この区間が二千里であれば、末羅~伊都間の里数五百里は、計算上無視できず、伊都~倭間を直行と見ると、五百里から二千五百里の間という見かけ上、大変大きな範囲内であり、世上言われるように倭人伝記事だけで精密に特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。
 このような現象は、最初に全区間里数を設定し、そこから、大きな区間里数を弾くという「概数計算」に避けられない、いわば当然の現象ですが、皇帝以下の同時代教養人に理解困難であるどころか、現代人でも小学校で習ったはずの「概数計算」の基本をしっかり身につけていない人には、理解困難と思量します。

 いうまでもなく、陳寿を含め、里数記事を書き上げる史官や書記官には、このような帳尻合わせを最初に済ませるのが当然の注意事項ですが、倭人伝の場合、先に全体里数を決め、次いで、大きな区間の里数を一千里単位の切りの良い数字にしたので、後に、現地の国内小国間の里数が提出されたとき、うまく整合できなかったようです。
 いや、そのような齟齬を露呈しないように、まずは、概数計算の対象である主行程の狗邪韓国~對海~一大~末羅~伊都~倭国王治と、脇道でよくわからないと明記した上で書き足した「余傍」の奴国、不弥、投馬の行程外国を見かけ上ずらずらと書き連ねたのです。
 最も重要な倭人伝読者、つまり、当時随一の知性の持ち主である皇帝と重臣有司が最終的に査読するのですから、かかる読者は、ゆるりと読み分けができたと見るのです。と言うことで、倭人伝道里記事の概算計算は、曲芸的な読みをしなくても、正しく理解されたものと見えます。何しろ、陳寿が、正解の読み取れない、間違った計算を書いたとなると、上程した原稿は却下されて、書き直しを命じられるわけですから、現行刊本は、そのような査読に合格した内容と見るべきなのです。

*道里、戸数の由来~私見
 いや、兎角議論の対象である全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。誰かが、勝手に根拠も無く創作したものではなく、また、別の誰かが正しい里数を「誇張」したものでもないのです。

 帯方郡は、一級郡たる遼東郡太守公孫氏の配下の二級郡から、皇帝傘下の一級郡に昇格したばかりでした。ということで、着任したばかりの新任郡太守が、公孫氏時代の資料を整理して、東夷管理体制を復活、構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、急遽召集した倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても、仕方ないところだったのでしょう。何しろ、本当に万二千里先と思って急使で督促したら、片道四十日程度で、さっさと参上したので、さすがに、万二千里は実道里でなく、形式的な形容とわかったでしょうが、既に、倭人の素性は皇帝に提出され、御覧を得たからには、最早訂正できなかったのです。また、陳寿の職業倫理から、公文書に書かれている倭人伝の公式道里や公式戸数を、勝手に改竄することはあり得なかったのです。

 このように最終行程の帳尻が合わないので、整合を断念して伊都~倭王治完の里数を明記せず、割愛したと個人的に思量します。何も証拠はありませんが、倭人傳の書き方から見て、そのような経緯があったと理解するのです。そう、陳寿ほどの史官がそのような省略記法を採用したからには、正当な理由があったのです。
 いや、藤井氏は、ここでそのような曲がりくねった推理を展開しているわけでは無いので、ここは、余談/私見と理解いただきたいものです。

*論争の深い闇
 我に返って余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。

 よく、邪馬台国「論争」は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、「論争」などは存在せず、単なる水掛け論に終始している感があるのです。そして、論争の正道が地に落ちて、却って邪道が白日の下まかり通っていては、何年たっても、正解は出てこないのです。

〇まとめ
 氏は、結語で当時季刊「邪馬台国」誌連載 張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝解釈は中国人まかせが一番と、ここでは軽率です。
 倭人伝漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の、つまり厖大な古典教養が求められます。引き合いに出されていますが、延々たる連載記事迷走を見ると張氏の欠格は自明ですが、藤井氏には見て取れなかったようです。あるいは、氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうか。

 もちろん、「語学」の視点で倭人伝が解釈できないのに、できているように錯覚して論じている見当違いの論者は、論外であることは言うまでもありません。藤井氏が、道連れになっていなければ幸いです。

*実論追求
 聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは迷惑です。
 本論のように論理的な解釈で、問題点を絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、倭人伝論の深い闇、泥沼を思わされるのです。

 安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は、世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。

                               以上

新・私の本棚 番外 邪馬台国の会 第404回講演 「3.邪馬台国の存在を大和地方に...」

 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない                      2022/11/11
私の見立て ★★★★☆ 最重要

◯はじめに
 「邪馬台国の会」創設の「安本美典賞」の第一回受賞者関川尚功氏(先生)の贈呈式記念特別講演の細瑾であるが、重大なので敢えて公開する。

*議事次第  2022/10/16 開催
 1.第一回受賞者の関川尚功氏によせて
 2.関川尚功氏の業績[関川氏の年代論が正しい]
 3.邪馬台国の存在を大和地方に認めることは出来ない(関川尚功先生)
 以下、敬称は「氏」に留めたが、中国語で「先生」は軽い男性敬称であり、「氏」によって応分の敬意を評していることを申し添える。
 関川氏の特別講演、つまり、受賞著書の部分紹介で、遺物/遺跡に関する考古学考証は、氏の長年に亘る着実な学問研究「学究」の成果であり、全体として、纏向を含む奈良盆地中部、「中和」本拠として広範に行われてきた先賢諸兄姉の諸論考に基づいた確実な論考であり、多数の学究の叡知を結集し検証された成果であり、大いに尊重されるべきものであることに異議は無いと思うが、以下の「倭人伝」考証は、いずれの論考に基づいているのか、根拠薄弱で不適格である。
 安本美典氏は、立場上、関川氏の卓見を無遠慮に批判する「鋭利な名剣」は振るうことができないと見えるので、一介の素人が、僭越にも私見を述べる次第である。
 率直/正直な批判は、最上の賛辞と信じ、短評を試みる。

・『魏志倭人伝』は邪馬台国について、「その道里を計るに、まさに会稽(かいけい)、東冶(とうや)の東に在る」と書いてある。また、卑弥呼がなぜ親魏倭王となったのかといえば、三国時代の呉の孫権が、魏と仲の悪い高句麗や公孫氏に手を出して、東シナ海を伝わって対抗しようした。そこで魏は邪馬台国と結んで、公孫氏と呉の間に楔を打とうとした。下の地図を見れば、会稽、東冶の東は九州がせいぜいであり、公孫氏とのつながりを押さえるには北九州となり、畿内までには至らない。


*コメント
 冒頭は、「倭人伝」の改竄で、誠に不適切である。続く時代考証は、出所、論拠不明で、安易な受け売りは、氏にしては軽率の極みである。
 考証は「倭人伝」に根拠が無いので、手前味噌の「陰謀」史観創作と見え、「東治」改竄を含めた後世東夷への追従は、氏にしては誠に不用意である。
 「魏と仲の悪い高句麗」は杜撰である。公孫氏の反逆に高句麗が追従と見るのは誤解である。高句麗は公孫氏に援軍を送らず、司馬氏と結託している。また、魏が「公孫氏包囲狙い」で「未開の蛮夷である倭」と「同盟」とは論外の極みである。中原天子が、新来で、無文、つまり、古典書の文字を一切解しない蛮夷の蕃王と「盟約」など、到底、到底あり得ない。
 魏使が倭王に「親魏倭王」印綬仮授の時、公孫氏は、とうに土に埋もれていた。氏の専門外とは言え、著書として公刊している以上、これは、重大な確認不足と思われる。

 「会稽東治の東」(原文)は大局的構想であり、当時、緻密な現代地図は存在しなかったから、陳寿は漠然と「東」としたに過ぎない。また「東」の有効射程は、時代錯誤を越え奇怪である。「倭人伝」は東方に漠たる認識しか示していないから、その意味でも、かかる地図を古代史論に起用するのは、まことに罪作り、言わば「架空地図」である。
 先例では、武帝以来の漢使が、万里の彼方の西域の果ての「安息国」を大海「カスピ海」の東岸に「極めて」取材して、大海海西、さらには、さらに西の風聞を書き留めたが、皇帝に風聞、臆測、捏造を報告した「西域伝」記事は、史官にあるまじき粗略な所業として、後漢書を編纂した笵曄に罵倒されている。但し、陳寿は、正統派の史官であるから、臆測としてすら認められない事象は報告していない。

 氏は、考古学で「文字資料」の紀年と遺物、遺跡の時代比定は(現代視点で)連結してはならない』とする鉄則に反していると見える。まして、正史列伝に書かれていない背景事情、さらには、明記されていない関係者の思惑まで勝手に掘り起こして、所説の根拠として言い立てるのは、当然、史学の考察として無法である。案ずるに、「三国志」考証と言いながら、実は、「三国志演義」の創作事項に悪乗りしているのでは無いかと、真摯に懸念される。

 これら、氏に似合わぬ「倭人伝」誤解は、時代錯誤の地理観と相俟って、臆測と改竄依存の重畳と見え、氏の論考への信頼が、これに連座して崩壊しないかと懸念され、誠に、勿体ない。

◯まとめ
 かくのごとく、率直に苦言し、氏の寛恕を望んでいる。頓首。

                                以上

2022年11月10日 (木)

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 1/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10

□「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

□「唐六典」とは~Wikipediaによる (正立体部は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、「倭人伝」時代(三世紀)から五世紀程後世の編纂であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。

恐らく初めての「普通里」談義
 採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」(普[あまね]く通用する里)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺、つまり、一里一千八百尺であり、当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、正確と言うものではありません。
 実務上、数百里に及ぶ測量は、極めて困難(実際上不可能)なので、今日の感覚では大雑把と思われます。また、基本の「尺」が変動しても里数は一定と見えます。著名な拠点間の道里は、先行史書、特に、正史の「郡国志」、「地理志」などの「志」が参照する「公文書」に、恒久的に銘記されていたので、天下が継承されている限り、主要「拠点」間の道里は、一度、皇帝の確認を得て公文書に記録された公式道里であれば、不朽、不変だったのです。王朝が禅譲されるということは、公文書記録が、不可侵記録として、代々継承されるという事です。
 もちろん、公文書記録は生命体ではないので、記録が継承されたと言うことは、関係部局の官人が、記録文書の書庫ごと引き継がれていたものなのです。
 但し、これは、本紀、列伝などの正史「記事」で書かれている「里」が、厳密に「公式道里」であったことを意味するものではありませんから、正史「記事」で、記事の時点の里制を検証することはできないのです。
 もともと、大抵の正史「記事」の「里」は、その際に厳密に測量したものでなく、差し支えない限り大まかなものなので、当てにしない方が良いのです。
 
*「公式道里」不変~「短里」制幻想の滅却
 古田武彦氏が、「度量衡」、「尺度」の体系と「里」(道里の「里」)は、連動していないと指摘されましたが、道里の「里」の「尺」に対する倍率が厳密に固定されてなかったという、言うならば「尺里非連動」提言は、一面の真実を言い当てたと見えます。
 「度量衡」、「尺度」に関しては、秦始皇帝以来、官制の原器が各地に配布されて、それぞれ市中の商いに常用されている物差(尺)や錘、升を規正/是正/較正しましたが、「里」は、一里一千八百尺の関係で定義されていても、「尺」が変動するのに連動して、道里の単位である「里」が、嚴熱に規正されることはなかった(できなかった)のです。

 事情の一面だけ取り上げると、「里」には、周制を引き継いだ秦代以来、「一歩六尺」、「一里三百歩」と、一見文章定義があるように見えますが、根幹である「尺」には、原器参照しか定義がないので、里」の厳格な定義はされていないのであり、従って、各地間の道里は、一度、郡国志原簿などの公文書に登記され、皇帝の上覧を得たら、「尺」の変動に関係されずに不変なのです。

 念のため言うと、史上言われている「尺」の変動は、たとえば、従前の九百九十尺を爾後の一千尺とするというような文章定義の「制度変更」ではないので、文書による通達はなく、新たに作成した原器の複製配布で、後は、現地実務で現物合わせするしかないのですから、これを「法改訂」とみるのは困難です。

*道里不変の原理
 以上の事情から、拠点間の公式道里は、太古以来、「公文書」に書き込まれていたので、「尺」の変動に連動して、換算・改定はされず、あるいは、「拠点」や蛮夷の王の居処が移動しても、「志」上の里数は維持され続けたのです。端的に言えば、「尺里非連動」 、「道里不変」と言えますが、その背景は簡単/単純ではないのです。

*舊唐書道里の謎
 一例が、「長安」~「洛陽」間の道里ですが、両地点は、太古の周代の「宗周」~「成周」以来の区間であり、宗周が、秦「咸陽」、漢「長安」と所在や名称が変わって、多少ならず位置が変わっても、後世、唐で「京師」と呼ばれても、あるいは、「成周」が、後漢「洛陽」、唐「東都」などと呼ばれて多少移動しても、道里原点としては不変であり、例えば舊唐書「地理志」でも、京師/西京~東都間は850里と古来のままに「決まっている」のです。
 重要な道里でありながら、五十里単位の概数という点で、「時代」を感じさせますが、それが「公式道里」というものです。いずれにしろ、既に登録されている「公式道里」は、不変だったので、舊唐書「地理志」に掲示されている「公式道里」で、設定された「時代」が、うっすらとわかるのです。

*「倭人伝」道里の残照
 舊唐書「地理志」記事で、「倭国」への道里「去京師一萬四千里」は「格別」です。
 つまり、魏志「倭人伝」の公式道里「従郡至倭万二千里」が、まずは、洛陽始点道里と「誤解」されたものと見受けます。蕃王の居処までの道里は、洛陽の天子の視点であるべき」との観念が働いたものと見えます

*公孫氏の無礼

 
公孫氏が、皇帝の代理として東夷を統轄する都督であれば、自身の居処、郡治を起点とする蕃夷道里を刻んでも、先例に従い許容されますが、公孫氏は、一級郡の太守として、都督気取りで、王に等しい権威を持っていたのです。
 配下に、漢武帝創設で「公式道里」を与えられていた楽浪郡を従えて「一級郡」太守気取りだったかも知れないのですが、少なくとも、帯方郡創設の画期的事跡は、洛陽に報告されていないので、洛陽から帯方郡への「公式」道里は、不明なのです。
 「遼東郡」始点でなく、「王畿」、つまり、「天子居処」始点で「万二千里」と書いていたのかと見えるのです。公孫氏は、自ら天子気取りだったので、最後には、そのような「高貴な」言葉遣いをしていたのかも知れません。

*公孫氏の残光
 
遼東郡の公式文書類は、司馬氏によって破壊されましたが、帯方郡に、遼東郡への報告に関して太守通達として、大量の文書が回付されていて、景初初頭の皇帝直轄への移管とともに洛陽に提出されたと見えます。

*曹魏明帝の昂揚
 公孫氏時代の帯方郡文書が、明帝の手元に届いて、「従郡至倭万二千里」の道里が、実道里として「刷り込まれてしまった」ようにも見えます。明帝は、未曾有の遠隔東夷の参上とみて、厖大な下賜物を用意して、倭人を歓待したように見えます。
 そのような明帝の意気高揚は、景初二年末の明帝病臥と景初三年元旦の明帝逝去で急速に風化しましたが、明帝遺命として魏使による下賜物送達は、実行されたものと見えます。もっとも、魏使発進時点までに「従郡至倭万二千里」が実道里でなく、所要期間が四十日程度と知れたので、魏使派遣の実務は、むしろ粛々と実行されたようです。

 以上の顛末は、景初初頭の帯方郡回収、これに応じた倭人の帯方郡参上から、正始初頭、新帝曹芳の命を承けた魏使の倭到着までの異例ずくめの経緯が、一応説明でき、また、明帝が書き立てた「熱烈対応」が、新帝に至って急速に平静化した推移が、理解しやすいとみるものです。

 特に、倭人伝道里行程記事に於いて、未曾有の「従郡至倭万二千里」を毒消しするように「都水行十日陸行一月」として、都合四十日の、実務対応可能と見える所要日数が、重ねて報告されている事情が理解できると思うのです。

*よみがえる「萬里の東夷」
 そのような前代未聞の背景事情を理解してかどうか、遙か後世の唐代史官は、「倭人伝」に示された「従郡至倭」を京師/王畿(長安)遼東郡から「倭国」までの公式道里とすらすらと解して、京師/王畿たる長安基点で「万二千里」の一つ格上の「万四千里」と表記したと見えます。古来、「万里」の上は「万二千里」が、辺境であり、「倭国」は、その一段外の「万四千里」の刻みとしたと見えるのです。

*記録なき道中記
 唐代に、東夷窓口の帯方郡は最早存在せず、初期の「倭国」使節が、どのような行程で、遙か西方の京師に参上したかは不明です。
 常識的には、景初遣使と同様、對海國から渡海して狗邪韓国に接した倭館に入り、洛東江沿いに新羅道を北上して小白山地を竹嶺で越え、唐代は、道なりに東の黄海岸海港に出て、新羅の提供した船便で山東半島に渡ったものと見えます。
 帯方郡が健在の時代は、小白山地越えの後、漢江沿いに北上したと見えますが、当時、郡の管理下の街道で宿場が完備していたので、郡の指示で移動する倭人使節は、安全で、道中費用負担も無い公用扱いと見えます。因みに、帝国辺境拠点からの行程の宿所は、拠点の役人が同伴していれば、すべて無料であり、むしろ、賓客扱いで厚遇されたとされています。

 唐代になると帯方郡はないので賓客扱いは無理としても、新羅道は安全であり、半島内宿所と渡船の経費は「倭国」ー「新羅」の取り決めで、無理のないものになっていたはずです。
 このような事情は、当然のものですが、あまり見かけないので、常識的な成り行きを書き残すことにしたものです。

 いずれにしろ、唐史官が、「倭」公式道里は、歴史の彼方の公孫氏が始めた、蕃夷としての格を示す「見立て」の公式道里の「伝統」を貫いたとみると、唐代に至る歴代史官の筆に一筋の光明が見えます。

 あくまで、以上の推定は、すべて「状況証拠」ですが、強固に構成された「状況証拠」は、余程堅固な「物証」で対抗しない限り、何者にも克服できないのです。一度、ゆるりと咀嚼頂いて、ご講評いただければ幸いです。

*「公式道里」と言うエレガントな解答
 今回の解答例で、公式道里が、実道里の反映とみると、魏晋朝の遼東郡起点の「万二千里」と唐代京師起点の「万四千里」の間で、数世紀の時を隔ていても、「道里」の勘定が合わないのです。一方、史官は、周制を暗黙の根幹としているので、持続されていた礼制に基づく「見立て」とする解釈であれば、公式「道里」は、二千里刻みの大まかなもので実測「道里」との連係を要しないので馴染みやすいのです。
 因みに、ここで正史に「京師ー倭国萬四千里」の公式道里が公刊されたので、以後の史書はこれに拘束されるのが原則ですが、唐代には、太古以来の史官の伝統は風化していたので、保証の限りではありません、何しろ、大唐は、魏(北魏)の流れを汲む蛮夷の後裔が、江南の漢人王朝を先行する大隋が打倒した後に成立したので、伝統的な「禅譲」が名実共に断絶していたのです。当ブログ筆者にとって、ほぼ追随の限界の「中世」世界です。
 そして、このあたり、意味不明で粗暴な「誇張」論からは、筋の通った回答は出てこないのです。

 と言うことで、今回は、「倭人伝」考証の圏外で、頬張っても消化しきれない「道草」を啄んでしまったのです。いくら、ツメクサを噛みしめるとほんのり甘くても、ものには限度があるのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 2/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10

*歩制談義
 同様に、全国各地の土地台帳に書き込まれていた「歩」(ぶ)は、個別の土地に基づく「徴税」の根拠であり、土地台帳は、まずは、戸主に対して付与される「地券」証書のもとであり、全国くまなく、厖大な戸数ごとに作成されていたから、大規模な再測量、再割り当てでもしない限り、既存土地台帳の変更のしようがなかったのです。もちろん、そんなことをすれば、折角長年維持していた徴税制度が崩壊して、徴税ができなくなる可能性があるのです。(つまり、国家として破産するのです)つまり、太古以来、帝国経済の根幹は、個別の土地から生じる「税」を、漏れなく収集することにあり、根幹たる土地台帳を改編するような制度変更は、不可能だったのです。
 税収を増やしたかったら、税率を変えるなり、各戸の戸籍を元に、成人男子、つまり、口数に課税する「人頭税」で補填すれば良いのです。果ては、塩鉄専売の強化など、種々増収の手口はあり、「歩」を改定して土地税制の根幹を破壊するような「無意味な」徒労に取り組み事はなかったのです。

 あくまでも仮定の論義ですが、実務としての「歩」の調整は、当時、官吏にも容易でなかった「乗除」計算を伴うため、全国各地で厖大な計算実務が発生するのですから、もし、そのような国家的大事業を実施したとすれば、皇帝命令が必須、不可欠であり、完了後は、各地から報告が上程されて、総括されて記録に留められたはずです。
 つまり、明確かつ厖大な公的記録が残るのですから、当代正史魏志、晋書に、何ら明確な記録がないということは、そのような国家事業は、一切行われなかったことを歴然と証しているのです。まして、周代以来の制度を連綿と述べたと読み取れる晋書「地理志」に制度変更の記事がないということは、あり得ないのです。

 「なかったことがなかった」というのを実証するのは、見かけ上至難と見えるでしょうが、当然存在すべき記録が存在しないというのは、極めて強靱な状況証拠であり、これを論破するには、「あった」ことを証する断然、確固たる証拠を提出する義務が伴うのです。なにしろ、「強靱な状況証拠」は、もっとも強固な証拠なのです。

 このあたり、「計測」に関する専門的な学問分野で、既に議論されているのでしょうが、古代史里制論義で参照されているのを見かけないので、素人がしゃしゃり出て、えらそうな口ぶりで講釈を垂れている次第です。
 つまり、魏晋朝の一時期に里制が変更となり、一「里」が、六倍程度拡張/縮小して変更されたという「仮説」は、根本的に否定されるべきものなのです。
 因みに、口ぶりがえらそうなのは、野次馬の冷やかしの混同されないために、殊更身繕いしているのであり、別に、学位も役職もないので、このような町外れで論じている次第です。当然、排他的な断言などではありません。

*「水行」の意義
 「唐六典」で言う「水行」は、『海岸を発する「渡海」』を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法の「水行」と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り「河川航行」であり、翻訳には厳密な注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」は、全国制度を示すものではないのです。ついでながら、太古の「禹本紀」に書かれている「水行」は、単に、「禹后」が、河川の移動手段として利用したというだけであり、後世の「水行」とは全く関係無いのです。素人受けするかも知れませんが、同じ言葉でも、時代と環境が違えば、意味も意義も、まるで違うので、引き合いに出すのはとんだ恥かきと考えるべきなのです。

 東夷伝末尾の「倭人伝」に於いて、帯方郡の管轄地域で、独特の「里」と解釈される記事があっても、当然、それは、魏の全国制度を書き換える効力を有しないのであり、むしろ、帯方郡独特の事情で、そのような「里」で道里記事が書かれた公文書が残されていたため、陳寿「魏志」倭人伝、ないしは、先行の魚豢「魏略」が「倭人伝」独特の「里」を宣言し、「倭人伝」独特の道里記事を書いたと見るのが順当でしょう。
 絶対とは言いませんが、落ち着いて、よくよく考えていただければ、これが、諸説の中で、もっとも筋の通った解釈ではないかと自負するものです。いや、わざわざこうして記事を書き上げた以上、当人としては、そうした自負を当然確立しているのですが、世の中には、反発心を論争の主食としている方も少なくないので、ちょっとだけ外しているのです。くわばら、くわばら。

 そして、陳寿が慎重に書き上げた「倭人伝」「道里記事」が、筋の通ったものであったことから、「読者」は非難を浴びせていないのです。それに対して、後世の東夷が異議を浴びせるのは、傲岸不遜、不勉強ものの愚行です。

 「唐六典」の規定は、基本的に大河の上下(溯/沿流)で、「河」は河水、黄河、「江」は江水、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、「水」と銘記された以上は、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い、積載量の厖大な川舟も航行できるのです。
 規定外河川は、当然、規定外なので、全て不明ですが、要するに、規定するに足る輸送量が存在しないはしたで、規定におよばなかったのです。唐代、朝鮮半島は唐の領域外なので、当然、「唐六典」の適用外ですから、漢江や洛東江の事情がどうであったか、知るすべはないのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 3/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10

*「水行」の前提
 水運が行われている河川には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら川を上下し、荒天時は、随時寄港・退避しまのす。
 「水行」では、大船を擁した地域ごとの業者組合(幇 ぱん)が強力です。日々の船舶運行予定が十分徹底されて、事故や紛争を防いでいたのです。条件ごとに運送料が規定されていて、槽運は船腹と船員を確保し、船荷安全と日程を保証し、船荷補償や遅延償金を請け負ったはずです。
 要するに、細目が規定された「公道」であり、「水道」を避けて「水行」と定義し、「おか」である「平地」つまり「陸」を行く「陸道」も「陸行」と定義したのです。もちろん、用語は、唐代になってにわかに制定したものでなく、古代、恐らく、秦漢代から維持されていたものと見えます。

*規定の起源

 そのように、「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。王朝の変転を越えて、数世紀にわたって運用されていたはずです。

*規定外の辺境

 五世紀遡った未開の倭は、中国の圏外であり規定はなかったのです。
 後に、統一新羅となった韓国は、帯方郡管内時代、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、郡が水運を統御したという文献は見当たりません。
 もちろん、南漢江から洛東江に通じたわけはなく、特に、南漢江上流は、渓谷に嵌入蛇行の急流で航行できないのです。南漢江船便は、早々に陸送に転じて、小白山地の鞍部「竹嶺」を人馬で越えたと見ます。因みに、この経路は、弁辰鉄山の産鉄輸送に実用されたと見えます。
 以上は、現地を実地確認した上での見解ではないのですが、着実に考察すれば、実見に等しいのです。

*「水行」規定は、「海運」と無関係
 この唐六典規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です
 数字には前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定するに、大型の帆船を多用して安定した運行が可能な江水水運と、干満などにより、寄港ごとに中断される沿岸航行は全く異質です。
 まして、三世紀では、高度な造船業と運用が必要な帆船が得られず、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しなかったと見えます。少なくとも、記録に残っていません。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、それぞれが一千里と里数が明示され、三度の渡海は、乗り継ぎなどの予備日を設定して都合水行十日と明記されています。いや、一字一句明記されていなくても、明快に示唆されていれば、明記に等しいのです。

 「倭人伝」の「水行」は海船による渡海で、「唐六典」に見られる河川水運の「水行」と別です。半島に河川交通の記録はないのですが、辺境なので丁寧に説いたようです。史官は、宮廷調理人「庖丁」のように読者にあわせて「味加減」したのです。

 陳寿は、「倭人伝」道里行程記事に「唐六典」相当の「水行」規定を配慮したからこそ、正史外「水行」が槽運と混同されないように明記したと見えます。

 但し、正史道里は、悉く、当然、自明で、「陸上街道」「陸道」であり、従って、郡から倭に至る行程は、書かずとも、論証不要、自明の「陸道」が、大前提ですから、道里記事の冒頭に「陸行」の断りはないのです。
 そして、道中三度の渡海は日数計上するので、他の区間と区別するために、便宜上「水行」と例外を明記し、末羅国で上陸した本来の「陸道」を、言わずもがなの「陸行」と明記しただけです。このあたり、史官「規律」に従ったものであり、史官「規律」の存在すら察することのできないものは、沈黙すべきです。

 このあたり、中国で太古以来成立していた諸制度の例外規定として、無理なく沿わせる工夫であり、史官の苦渋の選択を、ゆるりとご理解いただきたいものです。それにしても、「例外」と明記した「例外」に、先例を要求するのは道理を知らないものにしかできない、法外な無理難題であり、くれぐれもご容赦頂きたい。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 4/7

  初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/27 2022/11/10

*「唐六典」趣旨
 当規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑え、一定とするために、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、この全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。

 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、不審な「ジャンク」とされていて、随分古くから沿岸や川筋を帆走したとしても、ここに規定されているような、大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 川船の海船転用は、安全面も関係して、困難(不可能)です。

 ちなみに、これら大河中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世にも橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)から渡船渡河しました。もっとも、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼ってたのは、現代になっても、各地に残っていて、オーストラリアのシドニーは、深く入り江に分断されていて、架橋が困難であったため、渡船(フェリー)交通が残っていました。

時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明域外である「外国」、魏志「倭人伝」の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝」の視点からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のもので参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情が違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。

 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外すのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのですが、初期遣唐使は「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など、海上は極めて短期間で、したがって、荒天も避けられたので、随分、随分危険が少なかったのです。
 安全極まりない「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。この部分、一部、蒸し返しになりましたが、念のため書き留めます。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、「倭人伝」専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 5/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充2022/09/26 2022/11/10

◯資料編
▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは、荷車自体が、大変重いためでしょう。特に、登り坂になると、負荷が途端に大きくなるためでしょう。
 「驢」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、「獰猛」で騎馬疾駆の軍用に、大変貴重であり、荷役に、あまり向いていなかったので、専ら「驢」を利用したのです。このあたり、牛馬すら、満足にいなかった東夷では、思い至らなかったでしょうが。
 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)、「驢」の荷は、二人で分けたようです。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。

 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。何しろ、全国制度から見たら「はしたのはした」ですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」には、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然、必要不可欠だったのですが、はしたなので里数には数えなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 6/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10

▢「倭人伝」解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、「倭人伝」解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、ここには存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。
 同時代に存在しない概念に基づき時代を語るのは、個人的空想/妄想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。
 沿岸航行が安全、安心と思う人は、死んだつもりで考え直して欲しいのです。

 当然、三世紀官道に「海路」はあり得ず、「唐六典」にも規定がないのです。

*半島内陸行の話~当然、自明で、書かれない話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」は、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」したのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。

*「沿岸航行」の迷妄
 この間の空白を、現代日本人だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが過去の里程論の大半と思いますが、全部読んだのでないので断言などできず、数の多少も言いません。但し、素人考えでは、これが里制論混迷の主因の露呈と見えます。

 それにしても、現代人の普通の理解で「倭人伝」が「すらすら」読めるとは度しがたい「誤解」です。その果ては、読み解けなければ、読み解けるように書き換える理屈が堂々提示され、世も末です。要するに、「神がかり」で、古代の真実を、既に知っているので、わざわざ訂正してやるというものです。

*深意考察の背景
 当ブログ筆者が、それなりに努力して陳寿の「深意」を考察したのは、当ブログ諸記事を「悉皆」熟読いただければ納得頂けると思います。いや、1800ページを全部読めと本気で要求しているのではありません。妄言多謝。m(_ _)m 

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」「水行」批判と「倭人伝」解釈 再更新 7/7

 初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27 補充 2022/09/26 2022/11/10

*あり得ない沿岸の旅
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間の「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な記事であり「道里」記事の用をなさないのです。況んや、行程に空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったら、当時最高の史官たる陳寿が、画期的で異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理、棄却
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地であり「海岸沿い」は「陸行」しかできないので「実行不能」です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、倭人伝記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。それなのに、史官の苦心凝縮の定義の真意を無視して「沿」海岸水行と読み替えるのが通例です。要するに、問答無用の「改竄主義」であり、いくら無教養の素人談義でも、未来への展望の見えない困った事態です。
 「海岸沿い」を海岸付近から遠ざかった沖合の海中と捉えても、岩礁や遠浅の浅瀬を「難なく」突っ切って一路航行することなど到底できないのです。(危ないとか言うものでなく、遭難必至です)
 また、引き続き断固「狗邪韓国に到る」と読むと、そこから対海国に渡海するのが、とてつもない、無理な逆戻りであり、海流に反して至難/不可能な行程になります。「狗邪韓国」寄港など無視して、海流に乗って対海国西岸に直行するのが、海人として無理のない当然の行程と見えます。後世の隋書俀国伝で、隋の文林郎から起用された隋使裴世清は、半島南岸に立ち寄らず、対海国に直行しています。魏志を熟読して沿岸航路と理解していたら、断固、狗邪韓国に入港していたはずです。
 重ね重ね、「倭人伝」道里行程「問題」に対する不審な「落第解答」です。これでは、百回解答しても全滅しかないのです。
 つまり、「倭人伝」の行程では、狗邪韓国海岸は、郡を発して以来、一路街道を南下して到着すると理解するのが普通であり、そう考え直すだけで、大勢の中から救済される勇者が出るのです。

*持続可能な事業形態の模索
 因みに、当ブログ著者の意見は、狗邪韓国~対海国~一大国~末羅国の三度の渡船は、それぞれが、最高最強の漕ぎ手を備えた軽量高速の定期便であり、一航海を終えて寄港すると、漕ぎ手がそっくり入れ替わって、新たな漕ぎ手で帰り船に挑むという解釈です。そもそも、渡船は、専用の軽装備で、甲板も、船倉/船室も、厨房設備も、大きな水樽もいらず、とにかく、軽量の船体と屈強な漕ぎ手で便船を仕立てて、荷物を少しでも多く積み、そして、短時間で完漕するのが、海人ならぬ素人の見解です。

 対馬で言えば、西岸の浅茅湾に入った渡船はそこまでであり、船荷を担いで陸越えした後、渡船を代えて先に進むのですから、まことに、「地形の妙」と見えます。あるいは、海峡越え専門の屈強な「上漕ぎ手」は北の中継港で下船して休養に入り、「並漕ぎ手」に交代したとも見えます。要するに、適材適所という事です。

 以下、二度の渡海も、毎度乗り継ぎすれば無理のない運行ですが、一貫漕行など「マラソン」完槽と決め込むと、海峡越えを漕ぎきれる「上漕ぎ手」の疲労が回復されず、業として持続できないことになります。もちろん、「野性号」冒険などで掲げた一千㌔㍍(?)完全制覇などと言うと、できなくて当たり前の冒険になってしまいます。

 一大国から末羅国への渡船の行程は短いとは言え、「上漕ぎ手」は、早々に交代して休養に入るのが上策であり、そのまま長々と、難船しやすい沿岸を無駄に南下するはずはないのです。何しろ、帰り船では、難所にかかる前に延々と難船しやすい沿岸を漕ぐことになり、誠に不合理です。

 このあたり、沿岸水行と一貫漕行の度しがたい「不合理」を糾弾するための考察であり、愚行を救済するつもりで書いているのではないことは、くれぐれもご理解頂きたいのです。
 念年には念を入れると、素人考えとして「倭人伝」は、子供じみた「半島半周」も、島巡りも謳ってないのです。
 
*「従郡至倭」の深意
 素人目には、書き出しで「自郡」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」の形容と見えますが、見過ごされます。「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点だけではないと見るものです。陳寿の深意を案ずるに、後段の「自郡至女王國」「萬二千餘里」と違う形容を採用しただけではないと見るのです。史官の寸鉄表現を、はるか後世の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、倭人伝限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で説明不要と言う趣旨です。後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海(大きな塩水湖)の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。
 太古由来の古代世界観では、「倭人」の在る山島を包含した「大海」は、「倭」と呼ぶべき「海」であり、韓国南部が「倭」と接していると書いたときは、「大海と接している」と書いていると見るべきです。
 また、「狗邪韓国」は、「大海」つまり「倭」と接しているので、「その北岸」は、『「大海」、「倭」の北岸』と見ると筋が通るのです。それでは、半島南部が「倭」の領域であったとする世界観と衝突しますが、少なくとも、郡を発して一路南下している道里行程は、狗邪韓国の南部海岸の崖で大海を望む「大海」世界観で書かれていると理解すれば、筋が通ります。
 決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度、半島南部の陸地形状を認識していたとしても、中原人の認識を超える異例の地理観なので、内陸奥地の蜀漢で育った中原人陳寿が書き上げた「倭人」地理観には入っていないのです。

 陳寿の深意を、後世の東夷が察するのは、大変困難ですが、丁寧に説きほぐし噛みしめることで、一歩ずつ近づけると信じているのです。何しろ、「倭人伝」に書かれた深意は、まずは、「倭人伝」を精読することから察するべきであり、「どこの誰が、どんなつもりで、いつ書いたかも知れない、遠隔の用例」は、いくら数多く集めようとも、大半は、「ジャンク」同然であり、数を山積しても、深意の手がかりは、まずは得られないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭万二千里」道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した「実務本位」の記事です。(「万二千里」の由来は、別項で論じたので割愛します)

 倭人伝道里行程記事は、正史版夷伝の根幹ですから、しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。

 無責任なホラ話は、健全な常識を働かせれば、容易に排除できるはずです。そのような意見を臆面もなく公開する論者は、ブラックリストに載せて、以後、真面目に聞き入らないようにしましょう。
 ホラ話が、耳鳴りするほどうるさいときは、席を立って顔を洗って出直しましょう。それで、「論争」は、随分大人しい物になります。

*箴言確認
 『「倭人伝」は、古代中国人である史官が、古代中国人である読者のために、古代中国語で書き記した公式文書です』

 古代の史官は、古代史官にとっての常識に従い、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。この点、先賢諸兄姉に始まり、伝統的な勘違いが、難なく継承されていると見受けるので、しつこく喚起した次第です。

                               以上

新・私の本棚 長野 正孝 【古代史の謎は「海路」/「鉄」で解ける】総括

 二書通観~乱文乱論の饗宴         2022/06/25 2022/11/10

◯はじめに~最初の躓き石
 長野氏の労作には、俗説に右顧左眄しない卓見も散見されるが、尊大断言しても「数打ちゃ当たる」では、信用は戻らない。要は、氏の史料考察は、地べたで史料を嘗めているものには、遙か上空の「飛行機雲」である。
 私見では、二千年前の文書を読解できないのは、対象と言葉が通じず、そのため、世界像が霞んでいるからである。数百㍍先の現場の光景を知ろうとするのと同様、居ながらにして想像するのでなく、現物、現場に肉薄して、健全な理性で理解するしかない。それが、Historical Scienceの宿命であると信ずる。但し、身を以て、太古の現場に直行することはできないから、目撃者の記録を吟味して賞味するしかないのであるが、それでも、介在する報告者の視界を正す努力を重ねるのである。氏は、それが、文献考察の路を辿るしかないということを悟っていないようである。と言っても、本稿を読んでいただいて、回心されることはないだろうが、言うべきことを言うだけなのである。
 最近、氏の著作の信奉者の著作に出会って、言い足りないことがないように、あえて書き足したものである。

*幻の学芸員発言~氷山の一角、躓けない躓き石
 「鉄」132ページの五.六の論理は、氏自身の調査でなく、『別人が三丸「学芸員」から得た伝聞で証拠にも何にもならない』。「学芸員」ご当人には迷惑だろうが、氏が論拠としたのでやり玉に上げた。ご不満は長野氏にお願いしたい。
 長野氏の古代史知識で古代文書が理解できないのは、何とも致し方ないが、専門家たるべき「学芸員」の考え違いは、何とも「もったいない」と言わざるを得ない。
 一方、氏は「学芸員 」の発言を「誰か」(人名は書かれているが)人づてに聞いて、つまり、伝聞・風聞の二重錯誤で納得しているのだが、要するに、伝えた「誰か」の意見に安直に基づいて判断しているのであり、史学の原則に外れた邪道と言わざるを得ない。いわば、遙か上空から見おろして、低空の報告者の意見を、途中の中継者の意見として聞いているのだが、それぞれ空中を気ままに浮遊しているだけで、肝心の地上の実相は、まるで伝わっていないのである。
 これは、個別の意見がどうこう言う問題ではない。史実認識の問題でも無い。氏は「空論」を弄んでいるだけなのに、もっともらしく学問めかして売り出して、読者の資金を貪っているのである。

 話を元に戻すと、「学芸員」は、当該遺跡に関して、当然、世界最高の学識を有するが、古文書門外漢、素人である。当該遺跡に存在しない古文書に関して「わからない」と言わずに、錯誤を語るのは誤解拡大である。匿名だし、何しろ、あやふやな伝聞なので、ご当人に告発の手が及ぶことはないだろうが、何とか、再発防止して欲しいものである。

 正論に戻ると、古代中国で「生口」は「奴婢」と異なった環境・事物に使用され、どちらかというと、特殊な用語なので、一定の意味で使用されていない可能性が高い。一方、「奴隷」は、ありふれた、日常的な事柄であり、これらを同列に扱うのは、無学・無謀である。
 言葉が違うのは意味が違うからで、断じて同義語ではない。このあたり、人前で得々と喋る役所(やくどころ)の方にしては、随分不勉強そのものである。

*誤謬の発生~「奴隷」史観の病根
 長野氏の誤謬は、「生口」、「奴婢」なる古代語を、現代語めいた「奴隷」と同義と断言していることで、これまた、商用出版物を世人に売りつけている、言わば稼業としている方にしては、これまた、随分というか一段と不勉強というしかない。

 当方は素人で一般論しか申し上げられないが、ここで言う「奴隷」は、恐らく、文明開化以後に、本来、中東以西の世界の社会制度で馴染まれていた到来「外来語」が、古代中国の「奴隷」を上塗りしたと見え、これでは、到底、三世紀「倭人伝」の社会制度に適用できないと見る。良く言う、「時代錯誤」である。
 三世紀以前から中国に奴隷制度は普通であった事が、正史にも書かれているが、「倭人伝」では、「生口」と「奴婢」が書かれていて、「奴隷」と同義語扱いはされていない。長野氏は、忌避しているようだが、古代史解釈で不可欠な正史解釈には、精緻な論理が求められる。

 そもそも、「倭人伝」に書かれた「奴婢」は、比較的身分の低い雑用係であって「奴隷」ではないのが常識と思われる。何しろ、一千人の奴婢が「奴隷」では、国の成り行きが何一つ成り立たないのが「常識」である。「倭人伝」が説明しないのは、当時の通り相場だったからに違いない。
 氏が一顧だにしない、同時代、前代の史書によれば、「奴」「婢」は、それぞれ、男女使用人と見えるが、ここでは、それ以上追求しない。
 ここで是正しなければならないのは、氏の思考を曇らせている不適切な「奴隷」観であるが、その根底は、史実追求の際に、二千年以前の史実に直裁に迫るのでなく、遥か後世から「高みの見物」、「飛行機雲」の時代錯誤を決め込んだことにある。それは、ケガや病気などではないから、つけるクスリがないのである。
 要するに、ご当人が気づいて自分で自分を是正するとかないのである。

*最終判断~治癒されない誤謬
 長野氏の誤解の起源は、歴史科学の原則を無視し、滔々と我流を進むことにある。
 但し、「学芸員」事件でわかるように、その誤解は、多くの論者、諸兄姉に共有され、それぞれ確信して論じているから、素人の差し出口で動じまい。とは思うが、最善を尽くすものとして、素人の苦言を述べるのである。

*率直な結論
 長野氏が、かくのごとく不適正な世界観、歴史観を抱いていることは、当ブログで少なからぬ紙数を費やした著作批判で明らかと思うが、氏自身は、その史観を正当と見て、現代的な架空史観をゆるゆると貫くので、氏の著作は、それと知らずに、首尾一貫して誤謬の森を進み、所論は根拠を持てず、必然的に信用できないことになる。これが最終判断である。

 もちろん、各読者諸兄姉が、氏の著書を全て確認した上で、氏の所論を全面的に支持するとしても、それは本論と別の話である。

                                                      以上

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 1/2 再掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊      記2019/02/17   再掲2020/11/11
私の見立て ★★★★☆ 重要 

◯はじめに
 本論は、論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きましたが。粗略はないものと信じます。

8.「短里」の成立と漢字の起源
*礼記論
 小見出しで「礼記」「礼記正義」に見る「古尺」と「周尺」と謳いだしながら、「古尺」と「周尺」が要領を得ません。どうも、原史料の解釈がずれているようです。「礼記」を見る限り、周尺は、古来の尺のままと書かれていて、氏の読みとずれているように見えます。

 「古」は、周以前、殷代のことですが、それ自体、特に異論はありません。「古尺は一尺八寸、周は八尺一歩なので、一歩は、六十四寸です。礼記正義も、同様に書いています」と言い立てますが、要は、「周朝短里」が、国家制度として存在しなかったことになるのです。
 晋書地理志に引用された司馬法にも、そのように明記されています。

*反転
 ところが、氏は、「礼記」の疏に「十寸為尺」とあることを根拠に、以上の定義を無視して、この記述を優先するのです。何のために、礼記正義の本文を引用して解説していたのか、不可解です。明記されていないが、周代に変化があったとの見方のようです。しかし、肝心の「寸」の定義が欠けているから、尺が変わったのか変わらなかったのか、不明です。
 それとは別に、発掘遺物から、殷尺は、周尺より二十㌫程度短いとされているものの、「尺」の物差遺物はあったが、「里」の物差遺物は存在しないようです。

*単位系混乱論
 氏は、「古代中国では、丈、尺、寸の「手の系」と里、歩の「足の系」の二つの単位系が混在して、換算する必要が生じる」ことを理由に、両系の統一が行われたと見ていますが、何か勘違いしているようです。

 「丈」は、山の高さにまで用いられて、千㍍を越えることもあり、詩的表現では、「万丈の山」と謳われますが、それは、距離/道のりの単位の「里」とは別の単位系、云うならば「寸法」系です。例えば、山高を里ということはなかったのです。 

 両単位系のものを同じ用途に適用すれば当然混乱しますが、そのような用例は見かけません。つまり、それぞれの専門分野に籠もっていたので、混用/混同は発生せず、きれいに棲み分けていたのです。それが、古代文明に対する合理的な見方というものです。

*始皇帝度量衡統一の範囲
 氏が語られるように、秦始皇帝は、度量衡統一を公布しましたが、自国などの周制逸脱で、「中国」全体の単位系が混在した(かも知れない)ものを、周制に忠実であった秦制に統一したのではないと思われます。いや、そもそも、各国が、周囲セガから勝手に逸脱したとは言い切れないのです。もともと統一されていた制度を、始皇帝の命によって確立したのかも知れません。
 わからないことはわからないのです。

 始皇帝の意図を、後世の東夷のものが拝察すると、それまで棲み分けていた単位系の一方を、強引に他方に合わせれば日常単位が大変混乱しますから、広大な帝国を一律支配するのが至上目的であった始皇帝は、そんなつまらないことはしなかったのです。

                             未完

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 2/2 再掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊     記2019/02/17   再掲2020/11/11
私の見立て ★★★★☆ 重要 

*無意味な例証
 注釈(7)に「九章算術」(勾股)の問題と回答が例示され、これを解くには、丈里換算が必要と書かれていますが、これは氏の誤解です。
 実際は、求める山高(丈)が、近傍の木高(丈)の何倍かを求める計算であり、山・木・人の離度は、計算式で相殺され無次元になっているので、短里、長里、現代の公里のどの里制でも、丈尺で求める山高計算に一切関係しないのです。
 ここで、現代風に図解すると、直感的に単位混在と見えてしまうのですが、当時、図解の弊風はなく、「丈尺」と「里」は、別と知れているので明快なのです。
 本題で誤解が生じるとすれば、それは、図解された図上の測定単位は同一であるべきだという理念によるものであり、古代の当時、そのような図解の弊害は知れていたから、解答、解説は、文字のみです。

有山居木西、不知其高。山居木五十三里、木高九丈五尺。人立木東三里、望木末適與山峰斜平。人目高七尺。問山高幾何。
答曰 一百六十四丈九尺六寸、太半寸
術曰 置木高減人目高七尺、餘、以乗五十三里為實。以人居木三里為法。實如法而一、所得、加木高即山高。

 本題は尺里換算など不要な数学演習であり、それで誤解されなかったということは、尺寸と道里の単位系使い分けが厳然と行われていて、混乱がなかったという状況証拠であり、本題に依存する本論の里制変更仮説は根拠を失うのです

*文帝明帝相克~幻想の終焉
 氏は、曹魏第一代皇帝文帝曹丕に里制変更を求めて、その形跡を見いだせず、後継した明帝紀の改暦記事につけを回そうとしたようですが、記事を拡大解釈するなどの禁じ手を使わないと証拠を言い立てられなかったようです。

 確かに、明帝曹叡は、武帝曹操、文帝曹丕がなし得なかった「新たな創業」を歴史に刻もうと、三国鼎立の戦時に拘わらず、多大な国費を費消して新宮殿を造営していたようですが、そのような情勢で、国家の存立を危うくする里制改革など、一切目論んでいなかったと見えます。当時、皇帝は絶対的権威を持っていたものの、気骨のある重臣は、皇帝の暴政に対して、生命を危うくする諫言を上奏していますが、皇帝の里制改革に対して諌止奏上した例はないのです。また、国内各地で発生したであろう反抗も記録されていないのです。
 更に決定的なのは、正史である晋書に、そのような変革が魏朝から継承され、晋朝で廃止されたとの記録も、一切ないのです。
 特に、晋書「地理志」は、周代以来の諸制度変遷を通観、回顧していますが、魏朝に於いて、全国里制が改革されたとの記事はないのです。

 氏は、明帝時に里制変更があったという記事が無くても「なかった」と言い切れないと強弁しています。里制変更記事が、魏晋代正史になかったとしても、実際に「なかった」と「絶対に断定できない」となれば、もはや、それは史学ではないのです。

*最後の最後

 正木氏は、本論に不退転の意気で取り組んでいるらしく、記録のある「三百歩一里制」が、周朝以降長く実施されたと云いつつ、殷代記録がないのを良いことに、それ以前は、別の里制が敷かれていたと主張するのです。
 考えるに、周は、未開の種族が殷の臣下となり、ついに高官の地位に就いたから、国内制度は殷制に従っていたと考えるべきです。また、殷の文字を授かって、殷暦と法制を遵守するように強いられていたはずです。
 殷周革命、克殷というものの、すべて、殷制のお下がりであったはずです。

 氏には、殷代里制なる大胆な仮説は「可能性が高い」と見ているようですが、正史、ないしは、正史に準じる文献資料は、書かれているままに読解くと云う基本原理を失念したように見えます。もちろん、可能性は皆無ではないので、それが0.001であろうと、感性で「高い」と見るのは、その人次第であり、余人の口を挟むことではないのは承知していますが、何か考え違いをしているとしか見えないのです。

 氏は、最後の最後に捨て台詞を残し、未発見の周代物差しなどが発見されたら、確証の不足は解消するとか、果ては、遺物が出れば、いつ「短里」が廃止されたのかまで判明するから、それ以前には短里が敷かれていたと実証できるという、どこかで聞いたような「タラレバ」山師論に堕して痛々しいのです。
                                完

新・私の本棚 古田史学論集 24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 補充 1/3

 古代に真実を求めて 俾弥呼と邪馬壹国 明石書店                       2021/03/30 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実な論議が学界ぐるみの時代錯誤の側杖(そばづえ)を食っている。 2022/05/16 2022/11/10
 
◯はじめに~問題提起のきっかけ
 当記事は、古代史学界の時代錯誤の改善を提言しているのである。要するに、「シンポジウム」に集結されている学界諸兄姉の「用語」誤謬を指摘しているものである。これに対して、正木氏の記事は、言わば、引用による事実報告であるから、正木氏には、その用語に責任は無い。
 記事の主旨を読み分けて、以下の指摘の重さを感じ取って頂ければ、幸いである。

*引用と批判~「都市」の三世紀闖入と蔓延
 二〇一八年十二月に大阪歴史博物館で開催された「古墳時代における都市化の実証的比較研究」総括シンポジウムにおいて、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏らにより、弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて、全国でもっとも都市化が進んだ地域は、JR博多駅南の那珂川と御笠川に挟まれた台地上に広がる比恵・那珂遺跡地域であり、「最盛期には百ヘクタール前後以上(*比恵遺跡は六十五ヘクタール、那珂遺跡は八十三ヘクタールとされ、合計は吉野ケ里遺跡の四倍にあたる)の集落範囲があり、遺跡密度も高い、他の地域を圧倒する巨大集落」(久住)だったとされている。

*コメント
 以下は、当ブログ筆者たる素人の所感で行き届かない点もあるはずだが、それはさておき、まずは素人の見識に基づく疑念を表明する。

*用語の時代錯誤
 古代史論では、当時存在しなかった用語、概念を「安易に」導入すべきでない、と見ると現代的な「都市」は、古代史に於いて、まことに場違いである。つまり、ご主張の理解は、大変困難である。(不可能という趣旨である)
 現代「都市」は、高層ビル、道路、電車、水道、電信、電話を具備した大きな「まち」であり「弥生時代終末期から古墳時代初頭の三世紀にかけて」どころか江戸時代にも存在しなかった、時代錯誤の白日夢としか見えない。
 古代史で、「都市」は、「倭人伝」の都市大夫牛利に示される「市」(いち)を総(都)べる有司・高官と解される。あるいは、要地に常設された「市」(いち)の主催者かも知れない。現代語の「都市」とは、全く無関係と見える。
 「都市化」と言うと当世流行りの「すらすら」解釈に呑まれて時代錯誤となる。因みに、「倭人伝」を基盤とすると「都市化」は倭大夫に化することである。何やら、薄ら寒くなる混乱である。

*是正の勧め~未来への遺産
 この用語輻輳の解消策として、一捻りして「都會化」と古代に常用されなかった単語を、この場に転用すれば、忌まわしい錯誤感が緩和される。今からでも遅くない、学会ぐるみの「時代錯誤」を解消して、俗耳に訴える小気味よい「美辞麗句」を遠ざけることである。

*古代史に対する「都市」の侵入
 明治以降、地域を越えてギリシャ「都市国家」なる外来語が導入され、先哲は、強い抵抗を感じつつ後生の猛威に負けたようである。つまり、中国古代の聚落国家を理解するために対比する概念として、あくまで方便として認められたのである。ただし、認められたのは、ギリシャ風の「都市国家」であって「都市」を認めたものではない。そして、本題で取り上げている現代語「都市」が、どうして古代史用語となったのか、初学の素人は知らない。

*当ページのまとめ
 本項は、考察の手掛かりとした正木氏の論考に異を唱えるものではない。また、担当部門から示された「御国自慢価値観」について批判しているものではない。単に、「都市化」なる造語の不具合を批判するのにとどまっているので、よろしくご理解いただきたい。

                           続く

新・私の本棚 古田史学論集24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 2/3

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*関連資料評
Ⅰ.古代の宮都 (奈良県立橿原考古学研究所)
「飛鳥の宮」 宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。

*コメント
 「宮都」は橿考研造語ではないが、中国古典書に出典が見当たらず、「宮室」「都城」の解釈に「和臭」が漂って「定義」が不明瞭である。

 「宮室、都城」と言うが、それぞれの単語の意義が吟味されていない。「宮室」は「宮」の一室でしかない一方、「都城」は隔壁集落の一形態であり特段の機能を示していない。つまり、当該政権支配者の居処とは見て取れない。「都城」の「都」に、天子の権威を見たくても、中国古代史で普遍的に支配的な解釈とは見えない。

 要するに、折角の絵解きであるが、大小長短に差異のある二概念を一括りにして何かを示すのは、学術用語として大変不可解である。

 案ずるに、諸兄姉は、「京都」なる中国語成句が、国内史では平安京に固く連結しているので、同義と見た「宮都」に回避したのだろうが、検討不足と見える。

 要するに、素人目には、「宮都」は、(中国)古典書に確たる用例の無い、国内史学会自家製「新語」、手間味噌造語と感じたが、素人ならぬ中国史学界の権威から、別途異議が提示されているので、続いて紹介する。

 なお、この「新語」は、三世紀に対して不整合であるが、この点は別義とする。

*「物々しい造語」の空転
 それにしても、「支配力の絶対性を象徴する」とは、物々しく、意味不明な概念であり、なぜ普通の言葉で言えないのか不審である。何か、業界の申し合わせでもあるのだろうか。

 「宮都」を根拠として「政権」が確立して、「支配範囲」に対抗者がなければ、自然に「絶対性」が見えるが、所詮、「支配範囲」の外は保証の限りでない「井蛙」の世界観である。但し、善悪の評価は別義とする。

 端的に言うと、藤原京、平城京、長岡京時代に続いて千年を閲した平安京時代のどのような状態を指して、「宮都」というのか、少なくとも、素人には大変不明瞭である。まして、

 論じる時代の「世界観」の等身大、同時代の理解がないと、いかなる比喩も空を切る。それには、不当な造語を、何としても避けるべきである。

 当記事筆者の勝手な「意見」を、諸兄姉に返させていただく。

                                未完

新・私の本棚 古田史学論集24 正木裕 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」補充 3/3

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*関連資料評
Ⅱ 唐長安城および洛陽城と東アジアの都城 王仲殊 中国社会科学院考古研究所
 掲載誌 東アジアの都市形態と文明史 巻21 ページ411-420   2004-01-30
 中国古代の長安や洛陽などの都は「都城」と称されるが、1960-70年代に日本の研究者は改めて「宮都」という用語を作り出し、これを以て日本の藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ぶ。80年代以降、一部の研究者は、日本の都が一貫して羅城をめぐらせないので、「都城」という用語をそれらに使えないと主張し、専ら「宮都」の用語で藤原京・平城京・長岡京・平安京を呼ばなければならないと強調している。

 ところが、『日本書紀』の記載によれば、天武天皇十二年(683年)十一月に「凡そ都城・宮室は一処に非らず、必ず両参を造らむ」という詔がある。又『続日本紀』桓武天皇延暦三年(784年)六月の条に「都城を経始し、宮殿を営作せしむ」という記事もある。つまり当時の日本の朝廷の規定により、藤原京・平城京・長岡京・平安京などの都がすべて「都城」と呼ばれるのは疑いもない事実である。それゆえ、「宮都」という新しい用語に慣れない私はやはり、中国の長安・洛陽などの都城と同様に、日本の藤源京・平城京・長岡京・平安京をそのまま「都城」と呼ぶことにする。

*コメント
 時制が不確かであるが、要は、王仲珠氏見解は、国内史家の言う「宮都」は古代史用語として「不適切」ということである。言い回しは柔らかであるが、其の実は、決然たる否定と見える。

 因みに、「羅城」を巡らしていなければ「都城」と言えないというのは、恐らく、「国内」基準であり、素人目には、根拠不明の強弁と見える。中国基準では、「國邑」は、城壁で囲まれていなければならない、つまり、そうでなければ、侵入者を排除できないので、生存できないというのが当然であるが、「倭人伝」は、倭人の國邑は、必ずしも城壁で囲まれていないと認めているから、上記は必須ではないのは明らかである。

 その点を、王仲珠氏は、国内史料を参照しつつ指摘しているのだが、国内史学界は、頑冥で耳を貸さないようである。

◯本件総評
 正木氏が、本稿で提示された「卑弥呼の宮都」は、率直に言って、国内史学界に巻き込まれて迷走しているようである。

 まず、本件は三世紀記事で在るから、時代相応に、 つまり、中国史学用語で解釈すべきである。
 世上、「女王之所都」は「女王の都とする所」と解されているが、正史「倭人伝」で東夷蕃王「都」は場違いであり、「女王之所」が妥当である。「宮都」自体、二十世紀に発明された、六世紀対象の造語で在るから、当然、三世紀に波及できない。また、卑弥呼居処は、「都城」であったと証されていない。

 種々考察したが、卑弥呼「宮都」は、二重の錯誤である。と言うことで、正木氏が採用した「卑弥呼の宮都」と言う言葉は、不合理であり、総じて撤回された方が良いと思うものである。理由は、以上で説明を尽くしたものと思う。

*用例批判
 参考までに、「中国哲学書電子化計劃」検索で、「宮都」らしき用例は、二例である。
 用例が「あるではなないか」と声がありそうだが、古典書以来僅か二例で、しかも、正史でなく権威の乏しい文献であるから、三世紀次点には、典拠として起用されていなかった証左である。

 一例目は、とかく疎漏の目立つ「御覧」所引であり、出典正史には見当たらない。出典があれば用例となるから、出典不明なのは「御覧」でしばしば見られる空引用の証左である。
《太平御覽》 《咎徵部三》 《風》
《陳書》曰:陳文帝天嘉三年…[改行]又曰:天嘉六年…[改行]又曰:后主至德年…明年,陳亡[改行]又曰:隋文帝開皇中,宮都大風,發屋拔木
 御覧所収「陳書」に、後世の隋文帝記事があるのは、ここでは批判しない。隋文帝都城大興城(長安)全体で、建屋が飛んだとか、木が根こそぎとか、大災害で、「文帝獨孤皇后干預政事,后宮多有濫死,又楊素邪佞」と不穏な政情を招いただろう。いずれにしろ、これら記事が陳書のどこにあるのか、見つからなかった。
 いずれにしろ、御覧は、全体として分量、紙数を積み重ねることを至上命令としていたと見え、取材で得られた史料を嚴に批判して「ジャンク」や「フェイクニュース」を峻別するのを怠っているから、正史などの精選史料と同列に論ずるのは、大変な間違いなのである。

 二例目は、下記を「三十六宮都是春」と解すのは不適当で、「三十六宮、都(すべて)是春」が妥当である。
 《朱子語類》 [金] 1270年 《程子之書一》 『天根月窟閑來往,三十六宮都是春』
 先の「女王之所都水行...」を、「女王之所」、「都(すべて)水行...」と解すのと同様の文型と見える。
 当史料も、権威を備えているかどうか、慎重な検証が必要であるが、文意を解する限り、天の「三十六宮」』は、天が順次運行して健(すこ)やかに春を迎える(天行健なり)の趣旨と見える。つまり、ここに述べた解釈で意を尽くしていると見える。

 用語検索は、的が外れて転んでも、ただでは起きないのである。
                               以上

2022年11月 8日 (火)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 補追

  字書参照、用例検索  2021/08/19 補記 2022/11/08

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
 世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
 つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
 手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で隈なく耕作することは不可能であり、従って、円形の面積そのまま全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも、「円周率」は、三で十分だったのです。
 当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。

 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。
 個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政区画には、円形は一切ないのです。
 このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。
 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量計算の例題が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の冢の径を示したものと見て良いようです。

                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 2/2 補追

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19 補追 2022/11/08

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも曲筆もありません。
 幾何学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄一条と棒二本で、ほぼ完璧な「径百歩」円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形の盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」談義~余談
 俗説が引き出している「前方後円」は、倭人伝どころか、中国古典書にない近代造語のようなので、本件考察には、全く無用と感じられます。
 古典書用例から推定すると、「前方後円」は、かまぼこの底面を手前にして立てたような形状と見え、位牌などで、前方、つまり手前は、方形の碑面で、後円、つまり奧は、円柱形で位牌を安定させる構造とも見えます。この場合、前方部は、参拝者の目に触れるので、高貴、高価な材料として、銘文を刻むとしても、後円部は、人目に触れにくいので、それほど高貴でないものにすることができます。
 と言うことで、目下審議中の墳丘墓の形状とは無関係なので、場違いであり、用例とならないのです。

 復習すると、「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、恐らく、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、学術的に不適切なので、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。少なくとも、中国古代史書論義には、無用のものです。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。

 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、土木工事に通暁した実務担当者により、用地相応の作図がされ、古典的手法で、円部の盛り土形状と方部の形状が算定でき、これによって盛り土の所要量が算定でき、最終的に、全体の工事規模、所要労力・期間が算定できる、まことに有意義な形容です。
 「九章算術」は、矩形地の例題では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は「廣」掛ける「従」なる計算公式を残しています。
 「径百歩」では、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが、定例・定式であり、これに対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統
 「倭人伝」記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」、「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、「蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなる」という「寓話」です。
 史料記事に無い「実際」を読むのは、不法な史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきです。箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説には、早々の退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

2022年11月 3日 (木)

今日の躓き石 プロ野球日本一の「野牛 勇者」の「メジャー失格/人間失格」宣言

                     2022/11/03

 今回の題材は、プロ野球NPBの日本一チーム「野牛 勇者」の殊勲選手のつまらない失言不用意なNHK報道である。

 多分誰も教えてくれなかったのだろうが、「リベンジ」、「revenge」は、日本以外では、大変罰当たりな言葉で、米国メディアのインタビューで口走ると、大変な顰蹙を買うのである。何しろ、「血なまぐさい復讐」、「天誅」を言い立てる罰当たりな言葉であり、キリスト教をはじめ、中東起源の世界宗教では、私的な復讐は、絶対神によって、厳重に禁止されているから、自動的に罰当たりなのである。人前で自慢げに言い放って良い言葉ではない。
 何しろ、世界で横行している「テロリスト」は、罰当たりな不信心者などではなく、絶対神に代わって制裁している正当な「信者」である。

 このあたり、そのような教えを耳にしていない大半の日本人は、言わば無縁の衆生なのだが、この世界で生きていく以上は、知らないでは済まない、無視してはならない重大な「契約」事項である。

 まして、今回のシリーズ制覇は、別に「だまし討ちされた仕返し」でも、「当然勝つと思っていたのに脚をすくわれて恥をかかされた報復」でもなく、要は、力が及ばずに負けたが、今年は、幸運にも力を出し切って勝ったのであって、互いに正正堂々の勝負だから、負けた方も、一切、恨みなど残してはならないのである。せいぜい、「リターン(マッチ)」とでも、しゃれて見せるしかないのである。

 と言うことで、野牛軍団の優秀選手はMLB志望のようであるから、移籍先で、考え違いのつまらない暴言で顰蹙を買わないように厳重に注意することである。日本選手が不法に復讐を仕掛けたら、それこそ、「人間失格」宣言であるから、天に代わって仕置きしても許されるということになりかねない。

 このあたり、どうも、女子野球チームとの交流試合で猛打賞を得た「怪物」が言い出した(ダイスケ)「リベンジ」の変異体のようだが、学生野球の指導者が、悪乗りしてご丁寧に教え込んでいるようだから、NPBでは、人生経験豊富で知恵の深い監督、指導者が、最優先事項として、こんこんと教育指導すべきである。もちろん、球団の広報担当は、こうした「禁句」を知り尽くしているのだろうが、今回のように当人が無造作に放言しては、何とも止めようがないのである。もったいない話である。

 それにしても、いくら談話の引用とは言え、公共放送NHKが、このような問題発言を、堂々と定時ニュース枠で報道するとは、どういうことなのだろうか。一度電波に乗って広がった言葉は、はっきり否定しない限り、長く人の心に汚れたシミを残すのである。是非とも、このような罰当たりな言葉の普及に手を貸さないようにお願いしたいものである。

*余談 嘆かわしいNHKの汚染体質
 つまらない余談かも知れないが、NHKには「リベンジ」愛好家がいるようで、郷ひろみドラマの番組宣伝で、「リベンジマッチ」なるドギタナイ惹き句が、公共放送の画面に踊っているのは、何とも、残念である。これでは、まるで、名画に泥団子をぶつけているようで、みっともない。出演者当人に責任は無いので、大変気の毒だが、NHKのご乱行で、全国に汚名を被るのは当人である。

以上

2022年10月21日 (金)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯 補追

                       2014/05/06 追記 2020/05/17 2022/10/20
「年已長大。無夫婿」
 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)十五、六歳で即位し、魏使来訪の時は、最近十八歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。後の「壹与」は、十三歳の「宗女」と言うことは、巫女であっても、まだ、世人の尊敬を勝ちとるに到っていなかったかも知れませんが、間近に先例があったので、うまく行くに違いないと思わせたのでしょう。その先のことは、何も文書記録がないので、何もわからないのです。

*謎のご託宣
 下記論説によれば、中国史学界では、「倭人傳」から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は、ついに発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、「壮年で倭國王に即位し、国難の際には自ら戦陣に立つ、強いリーダーシップを持っていた」ものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲にもなりそうな「英雄譚」が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。世間受けすることから、若々しい「卑弥呼」が躍動する物語が少なくないようですが、「倭人伝」にも後漢書「東夷伝」にも、そのような講談ネタは、一切書かれていないのです。

*取り敢えずの解釈
 そうした「通説」を脇に置き、原文から解釈を進め、以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(「数え」で十八歳)となった(という)。配偶者はいない
 因みに、当時の支配者氏族は、婚姻関係による結びつきを重視したと思われるので、成人となるまで未婚であることは、ないように見えます。但し、当ブログ筆者は、「季女不婚」、つまり、姉妹の中の選ばれた一人は、家付き娘として、嫁入りも婿取りもせず、生涯、氏族の長たる「家」の祭祀を守る「巫女」(ふじょ)を務めたという見方をしているので、むしろ、配偶者がいないのは、当然とみていますが、史官は、中原では、そのような「文化」は、喪われていると見てとって念押ししたと見えます。

 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄「後漢書」が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は後漢代であった」と語っていて、後漢書「東夷列伝」で「倭」条を構成しているため、共立は、遙か以前の後漢霊帝代あたりになって、曹魏景初年代には、相当の年齢(老齢)となっていて、この「創作」が曹魏代に先立つため、本来先行して書かれていて、笵曄「後漢書」に優先すべき「倭人伝」の解釈が、大きく撓んで、ここに書いたような「若年即位」の解釈は、はなから棄てられています。因みに、後漢霊帝代から献帝に至る時代は、後漢自体が不安定な時代であり、また、韓国も、動乱の時代であった上に、「東域都督」と言うべき遼東公孫氏が自立して、洛陽に東夷、特に、韓、倭について、一切報告をしなくなっていたので、なぜ、笵曄がそのような時代の東夷事情を知ったのか不思議です。後漢献帝期に創設された帯方郡を知らないままに、「倭」の「大乱」や女王共立を知り得たのかという謎です。

 慎重に考えれば、笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に対して無批判に追従するのは、曹魏公式記録をもとに同時代史書として書かれた倭人伝」の確固たる記事の解釈を、百五十年後の後代資料「後漢書」のあやふやな記事によって、安易に改竄する「邪道」(時代表現では、「真っ直ぐ」を言う「従」でなく、斜めを向いているという事です)であり、再考の必要がある(棄てなさいと言うこと )ように感じます。

 また、卑弥呼の壮年即位、時代を越えた老境に到る君臨は、「倭人伝」に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に由来していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝」の解釈を、数世紀後の別系統の国内伝承史料の解釈の「思い込み」に沿って糊塗するものであり、根拠の無い風説の類いなので、とことん再考の必要があるように感じます。

 どちらの場合も、「倭人伝」の記事を離れた「空想」業であり、当然、深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、「長大論」を言い尽くせないので、一連の「関連記事」詳しく述べていますが、当ブログで、このように、わざわざ「定説」に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

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2022年10月17日 (月)

14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 増補 再掲

                       2015/05/16  2022/10/17
 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼」

 魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に「一女子」と紹介されているように見えます。
 卑彌呼は、普通に考えるように、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか

*「女子」の由来
 後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
 後漢代の蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。

 この謎は、お題の八文字「黄絹幼婦外孫虀臼」が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(むすめ)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。

 男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
 このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では「優れている」という意味です。決して、女が少ないという意味などではありません。念のため)です。
 従って、蔡邕を典拠とすると、「少女」という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。
 こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国、東夷のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。

*「卑弥呼」のこと (廃線)
 さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
 憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。
 おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。
 才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。

 以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。

 そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。

追記:取り下げのこと
 以上の筋書きは、現在の意見では、否定的な方向に大きく傾いています。
 つまり、「倭人伝」は、三世紀に中国人が書いた報告書を、程なく正史に収録したものであり、従って、「倭人伝」の考察に於いて、後世日本史料は、まずは、排除すべきだという意見に傾いているのです。ほぼ、撤回の弁ですが、あえて、削除していません。

*「卑字」の誹りの誤謬
 当時、倭人に漢字の知識が不足していたので、「卑弥呼」なる漢字(卑字)を押しつけられたと思い勝ちですが、支配層は、必要もあって、中国語を学んでいたものと思われるので、十分な教養のもとに、これらの文字を選んだ可能性も無視できないように思えます。どのみち、蛮夷の「王」は、本来の「王」では無く、蛮夷を懐柔するための「虚飾」ですから、何も、頭から、被害者意識に囚われる必要は無いのです。
 
 後年ですが、蕃夷を「蛮夷」などと呼ぶと、後日、漢語を解するようになった夷人から、差別表現だと責められることになったため、鴻臚寺は、接待部門鴻臚寺「掌客」のように、夷人を「客」と呼ぶようにしたのです。と言って、別に蛮夷を尊重したわけでは無く、単なる、外交儀礼だったのですが、それによって、無用の摩擦は避けたものなのでしょう。

*「臺」蔑称説の台頭
 因みに、著名な古典である「春秋左氏伝」によると、「臺」は、凡そ「人」として最下級の格付けだそうですが、「定説」では、この極めつけの悪字が、倭人の女王の居処名に使用されているとの説が根強いのです。陳寿は、当然、左氏伝を、史書編纂の典拠として熟知していて、少なくとも座右の書としていたはずですから、まさか、自身でそのような蔑称を採用するはずが無いと思われます。いや、陳寿当人に言いつけたら、「邪馬臺国」など書いていないと憤慨されるでしょうが。

 いや、「倭人伝」に同時代用語として「臺」は採用されているので、蕃夷の国名の命名は、また別儀としても、蔑称、尊称混在を否定するに足る論拠と思えないし、陳寿が命名した国名というわけでもないのですが、「邪馬臺国」説に対して、提示されたことの見えない、かなり否定的な余談でした。
 もっとも、この「臺」の由来は、「台」には全く関係無いのですが、「臺」と「壹」の混同は、字の「見かけ」に依存しているので、たまには、字の「意味」を論じたいと思っただけです。

*「卑」という「貴字」
 現に、漢字学の権威である白川勝師の字書によれば、「卑」の文字は、「天の恵み」、端的に言うと「雨水」を受けて人々に施す「柄杓」の「象形」から発した文字であり、「上方から降り注ぐ恵みを、身を低くして受ける」ことから、天の「卑」(しもべ)として仕える意味が生じたように見えます。
 そのように調べると、「弥」「呼」の二文字にも、少なくとも、特に貶(おとし) める意味は課せられていないように見えます。

*「誹(そし)り屋」稼業横行
 古代史分野では、「倭」のように光輝ある由来の文字でも、何とかケチを付けて貶(おとし)める習慣が流行っていて、初学者は、そのような「刈り込み」で、古代史に関する史眼を形成して、言うなら、目に「ウロコ」をはめられて、冷静な考証が困難となっているようですが、当ブログ筆者は、流行に動じないし、先師に阿(おもね)る必要も無いので、率直に、気づいたことを述べているのです。

*名乗りの話
 それにしても、自分で書いておきながら、無名のものが、共立の際に「卑弥呼」と名付けられたとの思いつきは、軽率な誤解であったと痛感しています。(言うまでもありませんが、「無名」とは、語るに足る「名」がないという事であり、漱石の吾輩のように「親から名が付けられていない」と言う意味ではありません)
 古代に於いても、実名は実父にしか命名できない、言うならば神聖極まりないものであり、その子は、その実名で祖先の霊と結ばれているので、改名などできないと言う、重大な取り決めを忘れていたもので、失言です。

*「実名」の話
 因みに、古代に於いて、実名を世間に曝すことを避けるために、字(あざな)などの「通称」を常用することは、むしろありふれていましたし、字すら避けて、官位、職務などで呼ぶことも、又ありふれていましたが、国書に記すのは、あくまで実名であり、天子だけは、臣下を実名で呼び捨てることができたのです。
 して見ると、親魏倭王たる卑弥呼は、国書の署名に於いて、魏皇帝に対して実名を名乗ったのであり、通称や職名などもっての外だったとみるべきです。

*当て外れの名付け
 それにしても、「卑弥呼」の名を、当時影も形もなかったと見える、恐らく没交渉の、あるいは、世紀の時を隔てた別の「国家」の言葉、習慣に沿って解釈し直すというのは、途方も無い見当違いとなる可能性を滔々と秘めていますが、世上、そうした見当違い、筋違いの当て込みが、圧倒的に数多く徘徊しているように見えるのです。当ブログの「倭人伝」論義で、後世国内史量を避けるのは、本来の論義の妨げになるからです。他意はありません。

以上

02a. 帶方東南大海 - 最初の読み過ごし ちょっと補筆改題 再補筆

                      初出:2014/11/03  補筆: 2021/11/07 2022/10/17

*02.  倭人在 -  最初の読み過ごし
 「倭人傳」の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明快です。

「倭人在帶方東南」
 帯方郡は、朝鮮半島西北部、後の漢城(ソウル)付近、ないしは、その北方に存在したとおもわれるので、その東南と言えば、現在の九州を指しているのは、明解そのものです。(三世紀に至っても、まだ、漢城付近の土地は乾いていなかったので、石造りの城郭に楼観を設け、郡兵を擁した「帯方郡治」はなかったと見受けます。結構、北にあったと見えます)

*「快刀乱麻」の提案
 古代史用語で定着している「日本列島」の中心部、現在本州と呼んでいる島は、帯方郡の東南方向から東北方向にかけて、長々と伸びているので「圏外」ですから、学説として「落第」です。三世紀にも、その程度の地理認識はあったでしょう。ここで、九州島以外の広大な地域を「圏外」/「落第」として却下すれば、以後、これらの地域は、倭人伝の道里記事と照合する必要はないので、女王国の比定に伴う諸考証が不要となり、労力の空費、多大な迷惑が避けられます。「快刀乱麻」、アレキサンドロスの「ゴルディアスの結び目」解決に迫る快挙ではないでしょうか。

 と言うことで、「魏志」「倭人傳」が、「倭人」の「國」を九州島のあたりと理解して書かれたことは、まことに明解です。(実際、知られていたのは、對海國「山島」、一大國「山島」とその向こうの「山島」までであり、その向こうの土地がどこまで続いているかなどの正確な知識は、伝わっていなかったのです)

*存在しなかった「倭人」地理記事
  韓傳: 韓在帶方之南
 倭人傳: 倭人在帶方東南

 「韓傳」を見ても、冒頭で、帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。「韓」は、帯方郡の近傍なので、行程道里は書くに及ばなかったのでしょうが、その南の「倭人」の行程道里は、なぜ明記されていなかったのか不可解と言えます。
 但し、行程道里の起点であるべき帯方郡郡治の位置は不明であり、曹魏雒陽からの「公式道里」は、正史に明記されていないから、色々議論が絶えないのです。(景初初頭に、帯方郡は、遼東郡の支配を離れ、曹魏皇帝の管轄下に入ったので、新参の東夷である「倭人」に到る行程道里は、その際に、皇帝に申告されていなければならないのです。)

 因みに、母体であった楽浪郡は、漢武帝代に創設され、その時点の東都洛陽からの「公式道里」が、笵曄「後漢書」の「郡国志」(司馬彪「続漢書」を後世に採り入れたもの)に記録されていますが、漢武帝が創始した楽浪郡が、創設以来、数世紀に亘って、一切、移動しなかったわけは無く、「公式道里」は、「実際の楽浪郡郡治の位置に関わりなくあくまで一定だった」のです。
 そのような公式道里を基準とした楽浪郡から帯方郡への道里は、表明しようがなかったものと見えます。少なくとも、西晋史官たる陳寿には、合理的な表記ができなかったと見えます。
 これに対して、後漢後期、三世紀初期に既存の楽浪郡帯方縣が昇格した帯方郡郡治の所在、雒陽からの道里が、「正史に明記されていない」のは、むしろ奇怪です。これには、後漢末期、遼東郡太守であった公孫氏が、洛陽の混乱、衰退につけ込んで、自立していた背景があり、新参の東夷、つまり、倭人の存在を隠したものと知られていましたが、後に、魏代に入って討伐されて、公式文書類が破壊されたので、曹魏洛陽の政府記録は、後漢代以来の混乱を訂正できなかったのです。何しろ、公孫氏の報告を、訂正/補充できるのは公孫氏のみであり、それができない以上、倭人伝の魏代記事は、帯方郡などの下部組織に残された地方記録に頼ったものなのです。
 と言うことで、倭人伝の道里行程記事は、普通の解釈が困難となっているのです。

 「三国志」の上申を受けた晋朝高官は、まず、新参東夷の所在を知りたがるものであり、更に関心があれば、以降を読み進めると言うことから、史官は編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。

以上

*補筆                  2014/11/2  追記 2022/10/17 2022/11/05
 4月2日時点では、以下の議論の歯切れが悪いので、書き落とましたが、半年たって読み返して、やはり書き留めておこうと決めたのです。
 倭人在帶方東南大海之中
 ここまで一息に読むとして、「帶方東南大海」をまとまったものと見て、これを「帯方東南の大海」と読んでしまうのは、不正確ではないかと思います。
 案ずるに、「帯方東南」とは、倭人の所在に対する形容であって、大海に関する形容ではないのです。いくら古代でも、帯方郡の政庁である帯方郡治の官吏も、西晋の史官たる陳壽も、韓半島の周囲が互いに繋がった大海であるという地理知識はあったと思います。

 この書き出し部分は、東洋文庫264「東アジア民族史 1 正史東夷伝」の三国志魏書倭人伝の項では、現代語訳として、次のように丁寧に解きほぐされています。
 「倭の人々は、帯方[郡]の東南にあたる大海の中の[島々]に住んでいて」
 「普通」に読むと、「東南にあたる大海」と「大海」が東南方向に限定されているように読めます。

 現代語訳とするときに付け足した部分が、原意から(大きく)脱線しているのではないかと感じるのです。此の際念押しすると、二千年前の中国人が皇帝を中心とした高位高官の教養人のために、誠意を尽くして書きまとめた文章が、易々と現代人、つまり、遙か後世の東夷によって、すらすら理解できるように書き換えられるはずはないのです。

 それ以外に、この現代語訳には、古文の正確な解釈を離れた現代風解釈が、多々織り込まれていて、原文の趣旨、編纂者の深意に添ったものかどうか、かなり疑問があります。(違っているよと言う意味です)
 現代人にありがちな誤解ですが、「倭人」を「倭の人々」と読み替えているため、「在」を「住んでいて」と読み替えていますが、これは、誤解を招くものと考えます。「倭の人々」 と言うためには、先だって「倭」がどこの何者か公知で無ければならないのですが、 先立つ資料はなく、だからこそ、ここで「倭人伝」を立てて、宣言する必要があったのです。「東夷伝」の諸伝記事は、各国家ないしは地域社会を語っているものであり、「倭人」伝は、「韓」伝と同列の地域概念の紹介と考えます。

 「韓伝」では、「韓」は、馬韓、辰韓などのやや下位の地域概念に分割可能なのに対して、倭人伝では、「倭人」と倭、倭種、倭国、女王国などとの上下関連が明確でないので、構成は若干異なると見られますが、少なくとも、「倭人」を「倭の人々」と書き換えることには、大いに疑問があると見るのです。(友人なら、ダメじゃないか、というところです)

 また、やや余計なお節介かも知れませんが、[島々]は中国語にも日本語にも縁の薄い複数形であり、これでは、倭人の住む国土が、まるで、フィリピンかインドネシアのような島嶼国家になってしまいます。言葉の時代観のずれでしょうか。 追記:ここだけ透徹した読みをしているのでしょうか。
 むしろ、実際は、
山島は一つだけで在り、對海国も一大国も、飛び石状に存在していた大海の中州に過ぎなかったという解釈もありうるのです。この「ずれ」は、深刻な誤解か見知れないのです。(友人なら、ぼけてんのか、というところです) 追記:ここは、当記事筆者の浅慮のようです。反省。

 いや、「大海」を現代日本語の感覚で、Ocean(太平洋)と解しているのも、「誤解」の可能性が高いのです。三世紀当時の言葉で、まずは『「大海」は、内陸の塩水湖であって、寛くて大きい「うみ」ではない』のです。
 当時、中国世界で一番有名な「大海」は、班固「漢書」「西域伝」、魚豢「魏略」西戎伝に収録された後漢西域史料(「東京西羌伝」)に書かれていた西域の果ての裏海(カスビ海)です。但し、固有名詞は付いていません。(陳寿の時代、笵曄「後漢書」は未刊のため、陳寿が述べている「東京西羌伝」の実態は不明ですが、魚豢「魏略」西戎伝に大要が収容されていると見られます)

 現代語訳は、確かに、現代人にとって読みやすく書かれていますが、それは、本来、長年の議論をもってしても、いろいろな意味に読み取れる原文を特定の解釈に固定している「勝手読み」の表れでもあります。むしろ、わかりやすい現代語訳ほど、現代語感/世界観に毒されていて、大脱線の危険が高いと見るべきです。

 倭人伝冒頭部分の解釈の課題は、世間で認知されていないらしく、専門誌である季刊「邪馬台国」103号に掲載された論考には、各筆者の筆に従い、以下の3種の解釈が収録されています。
 1. 「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り」
 2. 「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り」
 3. 「倭人は帯方の東南にあたる大海の中に在り」
 2、3は、明らかに「東南」が「大海」の形容となっていますが、1は、東南と大海を直接結びつけない読み方です。とは言え、文の解釈を曖昧にしているだけで、文の意味を解明していないので、その分、世間に、大きな迷惑をかけています。 追記:「現代語訳は、原文の過度な読み解きはすべきで無い」という原則に留めるべきでした。反省。
 なお、上に例示した現代語訳は、学界の定説を忠実に踏まえているものであり、本論の趣旨が、これらの文を含む論考について、その内容を論(あげつら)うものではないことは、ご了解頂けるものと思います。

 結局、「在」と言う動詞を、本来意味の届いていない後方まで引きずって解釈しているために文章の明解さが失われているのであり、「倭人在帶方東南」で区切り、明解にするべきであるというのが、本論筆者の主張です。

 それとも、明解に読み下してしまうと、「倭人」が九州島に限定されてしまうので、「畿内説」の絶滅を防ぐために、あえて、曖昧にしているのでしょうか。

 因みに、当記事の読みでは、「倭人」は、大海中の山島に「国邑」を成していることになりますが、これは、中原太古の世界像に従わず本来隔壁で保護されているべき集落が、山島では海を隔壁とし城壁を設けていない』という宣言です。但し、戸数数万戸の領域国家は、到底、山島に収まらないので、規定を外れるのですが、郡倭行程外の余傍の国と明記されているのに等しいのです。

以上

補注 2022/10/17
*「大海」の正体~一つの明快解釈案
 以上の考察は、その時点での最善の考察であり、特に訂正の要は認めませんが、残念ながら、現代東夷の限界で、現代普通の解釈に偏っているので、以下、別解を述べます。一部、他記事と多少重複しますが、話の勢いでそうなったと理解いただきたい。

*天下を巡る「海」
 つまり、「大海」は、現代人が当然と見ることのできる「塩水湖」と決め付ける前に、中國古典の「世界観」に思い至る必要があったのです。つまり、「海」は、塩水に満ちたものと限らず、「天下」の四囲にある異界と見えるのです。

 四方の「海」のうち、東海」は、たまたま、大変早い段階で広大な海水世界と知られているため、それが「うみ」であると「誤解」され自動的に 現代英語で言えば、Sea (英語)ないしは Ocean (米語)と見てしまいますが、本来の古典的「世界観」は、『天下」の到達可能な範囲には、南も北も、まずは、蕃夷の支配する異界があって、それを「海」の概念で括っていた』ものとも見えるので、直結、短絡的な決めつけは、控えた方が良いようです。

*新書の教え
 因みに、渡邉義浩氏は、「魏志倭人伝の謎を解く(中公新書2164)」で、陳寿が、「魏志」東夷伝序文で展開した世界観が、尚書「禹貢」篇に於いて、中国世界を、天子の支配下にある「九州」とその四周にある蛮夷の済む荒地「四海」と捉えた世界観と明記され、「九州」が「万里の世界」と絵解きされていて、先に述べた「海」の解釈は、当ブログ筆者として、これに従おうと努めたものです。
 なお、中島信文氏が、複数の近著で開示された「中国」世界観は、広大、精緻で、大いに学ぶべきですが、多岐に亘る論旨は、本稿の中で端的に要約参照することが困難なため、渡邉氏の手短な論義を利用したものです。ご了解頂きたいものです。

*現代「地図」、「世界観」の放棄
 この場の結論として、伝統的な中原文明の「世界観」、「地理観」に厳密に基づいて書かれた「魏志」では、「倭人在帶方東南大海之中」の解釈は、一歩下がって慎重に取り組んだ方が良いようです。つまり、魏志東夷伝の一部である「倭人伝」の示す世界像を「普通に」理解する手段として、現存の世界地図は、一旦、放棄すべきだという事です。

*「倭」の正体~一説提起
 取り敢えず、ここで言う「大海」は、東方の異界の一部を成すものであり、「倭人」が、帯方郡の東南、大海中に在るというのは、韓伝で予告されているように、韓の南は、「大海」に接していて、それが、即ち「倭」である』と解すれば、たちまち明快になるのです。
 そのように解すれば、ここでは、「倭人」なる「新参の東夷」は、「倭」即ち「大海」の中で、特に、大海中の山島に在ったものをいうのであり、そのように解すれば、幾つかのあいまいとされていた表現が明快になるのです。

 例えば、狗邪韓国に関して書かれている「其の北岸」は、「倭」と称されている「大海」の北岸』であり、まことに明快です。

*帯方郡官人の限界と特性
 そのように精妙な定義付けを報じた世界観は、実は、洛陽の読書人に(限り)通用するものであり、辺境にある帯方郡官人の世界観とは「ずれている」のです。陳寿は、「東夷伝」の核心部/要点では、渾身の努力で、洛陽の世界観と帯方の世界観を精妙に整合させていますが、末節部分では、原文である帯方郡公文書を温存し、素人目にも明らかな食い違いを残しているのです。

*早計の「挙げ句」
 いや、景初初頭の魏明帝特命による両郡回収以降、帯方郡が洛陽に直接提出した報告は、既に皇帝に上申され、裁可を得て、洛陽公文書になっていたので、これは、金石文に等しく至上のものであり、一介の史官、いや、後代皇帝、高官を含めて、誰であろうと是正する術はなかったのです。又、かくのごとく確固として継承された公文書を正確に後世に伝えるのが、史官が身命をかけた職業倫理でもあったので、筆を加えることは問題外だったのです。

*渡邉流「史官論」への疑問
 先に著書を引用させて頂いた渡邉氏は、テレビ番組上での談話とは言え、「史官は、史実を正確に継承する動機付けを有しなかった」という趣旨の断言/妄言を公開していて、さながら、タコ墨の如く、「ご自身の史学者としての厳正さを幻像と言う」ように目くらましして「粗忽な画像」とされたため大いに不信感を漂わせているのです。
 なにしろ、視聴者にとって、「画面に見えるのは、氏の姿」なので、素人は、ついつい、一流史学者の「自嘲的な自画像」と見てしまいがちなのです。

 とは言え、先に挙げた尚書「禹貢」篇解釈は、確たる史料の端的な解釈なので、氏の恣意はこめられていないものとして、ここに端的に依拠したものです。

以上

04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記版 補追

 倭人伝再訪-4  2014-04-24  追記:2020/03/25 2022/10/17

始度一海、千餘里至對海國

*始めての渡海
 「受け売り」となりますが、『中国古典書では、「水行」が河川航行に限定される』との説の続きとして、「始度一海」についても、中島氏の論に従い、ここは、始めて(始度)の渡(度)海であるとの意味と読めます。
 ここに来て、冒頭の「沿海岸水行」が、実行程の説明などで無く、『以下、倭人伝に限り、「水行」と言う新語を、海を渡る意味で使います』と言う宣言/定義付けだった事がわかるのです。

 目前に広げている「倭人伝」の少し前に書かれている字句は、まだ容易に確認できるので、同時代の「読者」は、倭人伝道里行程記事の冒頭部分を見返した上で、そういう意味だったのかと「合点」できたことでしょう。

*對海國「市糴」考
 これまで、對海國が「不足する食糧を交易(市糴)で補う」との記事に対して、交易で何が代償なのか、書かれていないと不満を呈していましたが、どうも、この下りは、魏使に見落としがあったようです。交易自体は、「南」の一大國と「北」の狗邪韓國との間で、つまり「南北」に常時「船舶」が往来していたので、地産を託して利益を得て、対価として穀物を得て、辛うじて生存していたように見られがちですが、それは、考えが、途方もなく浅いようです。

*自縛発言の怪~ それとも「自爆」
 なにしろ、世上、對海國は、不足する食糧を補うために人身売買に励んでいた」と、古代史学者の名の下に公開の場で途方も無い誣告に走る「暴漢」がいて、唖然とするのです。そりゃ、国民をどんどん人身売買で減らしていけば、急速に食糧必要量は減るでしょうが、いずれ、近い将来、国土は全て耕作者の居ない「無人の境地になれば食糧不足は解消する」ものの、それは、解決策では無いのです。まるで、子供の思いつきです。
 「古代史学会」が、学会として機能しているのであれば、そのような暴言を放置していることの是正が期待されるのですが、訂正、謝罪の記事は見かけませんから、自浄機能のない機能不全の存在になっているのです。何しろ、未検証の思いつきを、当の現地でぶち上げるのは、万死に値する暴挙とみるのです。

*對海国条の深意
 たしかに、「倭人伝」は、そのような印象/イメージを与えるように工夫されているので、普通に読んで、そのように納得してしまうのは、初学者には無理ないことですが、本来の「倭人伝」読者は、古典書に精通していて、言わば、読書の道で百戦錬磨の強者がいて、簡単に騙されないのです。単に、騙された振りをしていただけと思います。

*「南北市糴」の実相
 「南北」に往き来している「船舶」は、普通に考えれば、当然、地元である對海國が造船し、渡船として仕立てたものであり、併せて、造成した港に「市」を設けていて、南と北から来た船荷の取引で、相当の収益を上げていたはずです。そうで無ければ、往き来する他国の「船舶」から、結構な港の利用料を得ていたはずです。

*「大航海」大幻想
 そのような前提を抜きにして夢想してしまうと、對海國の商人が、南は、伊都国以遠まで南下するとか、北は、狗邪韓国を越えて北上するとか、途方もない遠出をしたと妄想が広がる方もいるし、ひょっとすると、果ては、半島沿岸を経めぐって、帯方郡の海港から山東半島東莱まで赴いたとか、ホラ話が止めどなく広がっている方を見かけますが、まずは、對海國の乏しい地産を、延々と運んでいくのに必要な食料は、どこから得られたかと心配しないのでしょうか。いや、途方もないホラ話として、未だ存在しない「天津」まで乗り入れる妄想まで登場しているから、まだ、ましというものなのでしょうか。ちなみに、「天津」は、遙か後代に天子の住まう大都へ繋がる海港として創設されたものであり、三世紀当時、天子は、洛陽に住まっていたので、「天津」は虚名の極みなのです。知らない人は何を言っても言い捨てなので、お気楽だと思うのです。

 話を戻すと、時代/地域のあり方を冷静に再現し、近隣交易、仲介交易の妙味を感じ取らないと、適確な解は得られないのです。そして、對海國が、飢餓で滅びるところか、南北の近隣と交易して、後世人の想像を絶した「潤沢な利益」を得ていたと見ないと、話の切りがつかないのです。

*「倭人伝」の要旨~再確認
 「倭人伝」の要旨は、韓国の領域を出た後、海上の州島を飛び石のように伝って、倭の本地に到るという未曾有の渡海行程の運びであり、現に存在するということを示している訳なのです。「倭人伝」は、中国人が、中国人のために書いた夷蕃伝なので、程良い難題になっている必要があるのであり、「對海伝」を目指しているのではないのです。

*「富国」の最善策
 さて、話を、對海國の考証に戻すと、港の利用料として誠に有意義なのは、穀物の持ち込みです。
 何しろ、対海国に立ち寄って、水分食糧の補給ができる前提で、通常の渡船は、身軽にしていたわけですから、對海國の海港に備蓄が無いと、折角の交易が頓挫してしまうのです。つまり、普段、空荷の渡船に「食糧」を積んで、対海国に納入していたとみるのが、賢明な「読み」でしょう。それが、筋の通った「大人」の読み方と思います。倭人伝の元史料は、その程度のことは、書こうとすれば書けば書けたでしょうが、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したと見るのです。

*時代相応の独占的特権
 当然の考証として、三世紀当時の漕ぎ船では、對海国での漕ぎ手の休養や食料、水の補充を飛ばして、直接往き来することは不可能であり、代替策が無い以上、寄港地としての価値は、大変、大変高かったとみられます。食糧不足は、帯方郡に対して、納税しないことの口実であったと見えます。
 何しろ、對海國と狗邪韓國の間の直線距離は短いので、戸数相当の「税」を納めよと言われないように、念入りに手を打っていたと言うことです。もちろん、そのような自明事項の説明は、「倭人伝」の分を過ぎているので、割愛したのです。

*對海國の恵み
 自明事項ついでに続けると、人は食べなければ生存できない」ので、穀類不足は、海や山の幸で補い、さらには、山や海の幸を送り出して、代わりに穀類を手に入れて飢餓を免れたのが、南北交易の実態であったと思われます。對海國が、長く健全に維持されたと言うことから、大半は、對海國の市で、あるいは、海港で、着々と行われたはずです。別に、船に乗って出かけなくても、客はやってくるのです。
 本当に、飢餓状態になれば、半島か一大國に逃げ出すはずですが、そのようなことが明記も示唆もされていない以上、対馬島内で、必要な食料は得られていたのでしょう。

 余談ですが、地産として有力な海産物の干物づくりには、一旦煮てから天日干しする必要がありますが、その程度の燃料は、最寄りの山林から得ていたのでしょうし、必要な食塩も、海水から採れたはずです。ただし、対馬で、貝塚が出土したかどうかは定かではないので、干物交易は、あくまで、仮説に過ぎないのですが。

*道里/方位談義
 ちなみに、さすがの魏使も、海上航路を精度高く測量することはできないし、また、航海の距離を報告しても、道里としての実際的な意味が乏しいので、方向と距離は、大雑把なものにとどまっているのです。目前の海島に到る渡船には、方位の精密さは不要なのです。

*時代相応の「国境」談義
 更に言うと、とかく誤解されている「国境」は、ちゃんと時代感覚を補正しないと、検討ちがいのものになります。倭人伝では、對海國は、「国」であり、「對海国の国境」は、北は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、南は、一大国の港の對海國「商館」となります。また、「倭人」の北の国境は、狗邪韓国の港の對海國「商館」、この場合は「倭館」となります。

 これは、経済的な視点、つまり、貿易の実務からくるものであり、そのようにしないと、倭の所有する貨物を、韓に引き渡すまでの所有権が保護できないことになるので、言わば、「治外法権」としていただけであり、仮に、その区域内になにがしかの武力を保持していたとしても、別に、倭が狗邪韓國全体を領有していたというものではありません。何しろ、交易相手は「お客様」であり、そのまた向こうの「お客様」とうまく商売しているから、多大な利益が得られるのであり、言わば、「金の卵を産むニワトリ」ですから、決して、「お客様」を侵略して、奪い取るものではないのです。あるいは、蜂蜜を求めて、ミツバチの巣を壊して根こそぎするのと同じで、そのあとは、枯渇なのです。

以上

追記:2020/03/25
 現時点で、訂正を要するというほどではないのですが、思いが至らなかった点を補充します。

 まず、「一海」を渡るとしていて、以下でも、「また」と言う言い方をしていますが、これは、山国蜀の出身である史官陳寿が、帯方郡から報告された行程を、海を知らない中原、洛陽の読者に理解しやすいように、半島南岸の狗邪韓国から対馬への移動を、中原にもある大河の渡河、渡し舟になぞらえたもののように見えます。いや、史官の基本として、原史料に手を加えることは厳に戒めていたものの、補足無しでは誤解されるに決まっている部分には、加筆したものと見えます。
 中原人にとって、辺境の「大海」は、西域の蒲昌海(ロプノール)や更に西の裏海(カスピ海)のような「塩水湖」なので、中原や江水沿岸にある「湖沼」混同されないように、言い方を選んでいるのです。
 また、今日の言い方で綴ると、対馬海峡」は、東シナ海と日本海の間の「海峡」、つまり、山中の峡谷のような急流となりますが、当時、東シナ海も日本海も認識されていなかったので、「海峡」との認識は通用していなくて、単に、一つの名も無い塩湖、「大海」があって、それを、土地の渡し舟で越えるとしているのです。

*「海」という名の「四囲辺境」の「壁」
 別の言い方をすると、古典書で、「海」は、中国世界の四方の辺境に存在する「壁」であり、本来、塩水の水たまりという意味では無かったのです。そのため、西域で「塩水湖」に遭遇したとき、それを「大海」と命名したものであり、四海の内、具体的に直面する東の「海」についても、漠然と、塩水のかたまりとしての意識しか無かったのです。
 その結果、帯方郡の東南方にある蛮夷の国は、「大海」として認識され、次に、「大海中山島」、つまり、「大海」中に「國邑」があるとみたようです。あくまで、「大海」が「倭」であるという「地理観」』が長くはびこっていたため、それで無くても、「倭人伝」の記事は、普通にすらすら読むことが困難なのです。
 何しろ、陳寿の手元には、さまざまな時代の「世界観」で書かれた公文書史料が参列していて、史官は、史料を是正すること無く編纂を進めるので、遙か後世の夷人は、謙虚、かつ丁寧に読み解く必要があるのです。

*「瀚海」談義
 予告すると、次の湖水は、特に「翰海」との名があるとされていて、別の渡し舟で越えるとしているのです。そして、次は、また無名の塩湖となっていて、別の渡し舟で越えるとしているのです。
 「瀚海」は、広々とした流路の中央部であり、むしろ「ゆったりと流れる大河」の風情であり、古田氏の戯れ言の如く「荒浪で壱岐島を削る」ものではなかったのです。むしろ、絹の敷物のように、細かいさざ波を湛えている比類の無い眺めだったために、「瀚海」と命名されたように見受けます。これは、滅多に無い孤説ですので、聞き流していただいて結構です。

*「一海」を渡る「渡し舟」
 「渡し舟」は、中原人の世界観では、基本的に、身軽な小舟であって、決まった「津」と「津」の間を往き来して、公道(highway)である街道を繋ぐ補助的な輸送手段です。中原の街道制度でも、渡船は、道里や日数の勘定に含まないものです。
 「倭人伝」の「渡し舟」は、流れの速い海を、一日がかりの長丁場で乗り切るので、「倭人伝」は「渡海」と呼びつつ、道里行程記事としては「水行」として、道里や日数の勘定に含んでいます。

*「倭人伝」用語の実相
 陳寿は、それまでの「慣用的な用語、概念を踏まえて、辺境の行程を説いている」のですから、後世の読者は、「現代人の持つ豊富な知識と普通の素直な理解」を脇に置いて、歴史的な、つまり、当時の慣用的な用語、概念によって理解することが求められているのです。

 「倭人伝」は、そのように三つのささやかな塩水湖の「湖水」を、それぞれの渡し舟で渡って乗り切るとしています。行程全体の中で、難所であることは違いないのですが、普段から渡し舟が往き来しているとして、物々しい印象を避けたとも言えます。

*島巡りの幻想払拭
 と言うことで、この間を、魏使の仕立てた御用船が、島廻遊までして次々に、島伝いに末羅国まで渡るという、古田武彦氏に代表される学会ぐるみの物々しい想定は、陳寿が丁寧に噛み砕いた原記事の、時代相応の順当な解釈を外れていると見るものです。
 凡そ、専用の頑強な船体で屈強の漕ぎ手が死力を尽くして難所を漕ぎ渡った後普通の「便船」として、延々と漕ぎ継ぐというのは、合理的ではありません。普通の「便船」、普通の漕ぎ手に交代し、専用の漕ぎ手は暫時休養し、船体は折り返しの渡船行程に備えたとみるべきでしょう。
 古代と言えども、合理的な操船手順は確立されていたはずです。でなければ、「渡船」事業は、業として成立せず速やかに破綻するのです。

*辻褄合わせのいらない概算道里
 そもそも、公式道里は、郡治から國邑までの「道のり」であり、對海国に至る道里には、途中の細かい出入りの端数は全て含まれているのです。そもそも、万二千里の総道里であり、全ては、せいぜい千里単位の概数計算ですから、「島廻遊」の端数里数は、はなから棄てられているのです。このあたり、古田氏の念頭から、概算計算の概念が失念されていて、一里単位とも見える「精密」な道里計算に務めたため、このように端数の積み上げで帳尻合わせする挙に陥ったと見えます。概数計算の古代概念では、千里単位の一桁漢数字(但し桁上がりあり)で計算して勘定が合うことが求められ、桁違いの端数は、勘定に関係ないのです。
 世上、倭人伝道里を、算用数字で書く悪習が出回っていますが、そのような時代錯誤の無意味な数字を目にしているために、千里代も百里代も同格であるような錯覚が蔓延しているとしたら、残念なことです「倭人伝」道里記事は、漢数字による概算計算の世界であり、倭地内道里二件以外は、千里単位です。
 散見される「方三百里」、「方四百里」なる「方里」表現は、行程「道里」でなく面積表示と見えるので、ここに展開した道里計算と、全く、無関係、別次元です。取り違えた議論は山積しているので、とかく、誤解に基づく議論が当然とされていますが、誤解に立脚した議論は、いかに支持者が熱烈に支持しても、誤解にほかならないのです。
 言い古された言葉ですが、学術的な論義は、声が大きいものが「正義」ではないし、まして、拍手の数が多ければ「正解」でもないのです。

*「倭人伝要件」の確認
 総括すると、正史蛮夷伝である「倭人伝」の主務要件は、蛮夷管理拠点である郡から新参蛮夷である倭王居処に至る主要行程の公式道里と所要日数を確定することです。
 遠隔の倭地内の地理情報や主要行程外の余傍の行程は、本来、不要なのです。当時の史官、さらに、政府要人は、悉く、基礎数学を修めていて「数字」に強く、概算計算の概念を適確に理解していたので、つまらない誤解はしなかったものと解されます。

 「倭人伝」が今日の姿で裁可されたのは、当時の読者にとって自明の概念を、適切に述べていたためと思われます。

 この点に関する早合点は、折角の合理的思考の足元を揺るがして、古田氏の提言全体を危うくしていて、誠に残念です。

以上

2022年10月15日 (土)

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 1/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 今回、BS-TBSの卑弥呼番組(6/10放送分)を再見して、話の筋が躓き続きで足腰がガタガタです。諸説とはトンデモ提言のことなのでしょうか。古代史分野では、定説すらしばしば脱輪して暴走しているのに、そこから、更に踏み外した異常な説を物々しく提案されても、ついていけないのです。
 批評だけ出回るのは感心しないので、意見発表を自粛していましたが、当番組は、17年末に再放送予定なので、確認いただけば良いと思います。

*放送予定 BS-TBS 2017年12月30日よる10:00~
 諸説あり!▽邪馬台国2時間スペシャル!後半「女王・卑弥呼の正体」

*怪説連発―立証説明無し
 以下の所説は、あやふやな根拠が示されるだけで、全て提唱者の言いっぱなしです。つまり、丁寧に論証・説明されていません。
 例えば、卑弥呼が魏志倭人伝にしか登場しないとは、完全に誤解であり、時代順で言うと、まず、後漢書に書かれて、一見初出と見られるのです。
 卑弥呼の字が、中国側の聞き取りというのも、浅慮の誤解、と言うか、決めつけすぎです。なぜ、自称したと解釈できないのか、理解に苦しみます。せめて、現地事情に詳しい帯方郡と相談したと見るのが、筋の通った見方と思います。

 無神経に「定説」と称していますが、卑弥呼が、呪術を駆使したとか、六十年在位したとか、老齢であったというのも一個の異説に過ぎず、浅慮の誤解かと思われます。文献にないことを現代の作り話で埋めたと思われます。

*導入部 束の間の快適さ
 当番組の堅実さは、冒頭の平原遺跡紹介に現れていますが、呪力云々と口にしたために、以下、番組の花道を、平原墳墓に関係のない三角縁神獣鏡魔鏡説に盗まれていて、まことに気の毒です。

⑴ 魔鏡の怪
 本番組の「愚説」の極めつきの一つが「魔鏡」です。(下には下があるか)
 愛知県犬山市の東之宮古墳の遺物である古鏡のレプリカを作って実演していますが、先ずは、同類の古鏡の数百枚あるとされるものの一枚に過ぎないのではないでしょうか。古代の鋳造技術で、意図通りのものが大量に作れたとは、到底思えないのです。
 たまたま、やり玉に挙がった一個が、仕上がりの加減で、そのように見えただけであり、そのような意図で製作されて、その通りにできあがったたかどうかは、不明としか言いようがないのです。

                              未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 2/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

*魔鏡大安売り
 同じ鋳型で、同じ作り方をすれば、魔鏡は、再現すると称していますが、それなら、当該古鏡が大量に配布されたらしい現在の「近畿地方」、ないしその東方では、大勢が持っていたことになり、大安売りとなって、値打ちが無かったかと愚考します。

*三角縁神獣鏡の怪
 番組では、手軽に華々しく実験して見せましたが、見当違いの遺物を実験材料としているのは、何とも恥曝しです。誰か教えてあげろよと思います。
 肝心なのは「三角縁神獣鏡」は、卑弥呼のものでないという論証堅固な「定説」です。もちろん導入部に利用された平原遺跡の出土物ではないのです。
 つまり、この「定説」は、世間に溢れている、良くある「学派伝承」で無く、誠実な考古学で確証された「学説」ですから、この異説は、時代錯誤の見当違いの主張なのです。
 実験を見、「三角縁神獣鏡」の時代比定を聞いた素人さんは、「九州で発掘されず、大陸でも半島でも発掘されていない」というある意味絶望的な報告を受けても、これは「ライセンス」生産だ、などと意味不明の時代錯誤極まりない意見を吐いて、ついには、「いずれ各地で発掘されるというような」つけるクスリの無い神がかった意見まで持ち出します。「フェイクニュース」を信じ込んでは、「フェイクニュース」を蔓延させるのに手を貸すだけです。お気の毒な恥さらしが、永久保存されたのです。
 どこかで何かが発掘されても、これまでに確認された考古学的判断である「時代違い」は動かないのです。無意味に実証するのは、学問の道ではありません。

⑵ 倭国飢饉説の怪
 続いて、三国史記新羅本紀(西暦193年?)を根拠にした「倭国飢饉」説ですが一応、「統一新羅すら滅び去って久しい一千年後に、新羅建国以前の断片史料をかき集めて、形式を整えた造作史料」の記事を、一応真に受けるとしても、読めば読むほど筋の通らない、信を置けない記事と見ますから、とてつもない愚説と見られます。しかも、過去雨ざらしになった廃版仮説ですから、よくも平然と持ち出せたものです。
 折角だから、一応考証しま。仮に、北部九州から倭国の難民が、大挙渡海して、当時一小国に過ぎなかった斯盧国まで食糧を求めたとすると、まずは、道中食糧はどうしたのかという事になります。飢餓の巷の筑紫の倭人は、食糧補給なし、つまり、メシ抜き、宿泊なしで、海峡越えに最低でも三日を要する長距離の激流を漕ぎ抜けたのでしょうか。
 
さらに、海峡を越えたらそこが斯盧国というわけでなく、狗邪韓国に始まり、諸国を越えて、斯盧国、後の新羅首都慶州(キョンジュ)まで、何を食べて<足を伸ばしたか不可解です。
 それ以前に、九州北部が飢餓地獄なら、食糧自給できない壱岐、対馬は全滅の筈です。どうにも、筋の通らない話です。
 それはそれとして、何を対価として持ち込んだかは言わないことにしても、慶州で望む食糧を得られたとして、帰りの道中は飢餓地獄です。また、数万の民に与える食料は、小ぶりの手漕ぎ船で、海峡を越えて運べるものではないのです。
 よくも、そんな無茶な話を言い立てるるものです。

                          未完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 3/4 再掲

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

*斯盧国(後の新羅国)
 無理な話をこね上げなくても、斯盧国に倭人難民が来たとしたら陸続きの半島西南部の倭人でしょう。それなら、随分筋の通る話です。
 先賢も、同様に「半島倭人であろう」と推定しています。学問の話で、下記四半世紀前の先行論を確認しないで、前人未到の新発見と手柄顔をするのは、恥さらしです。

史話 日本の古代 二 「謎に包まれた邪馬台国」 直木孝次郎編
『気候変動からみた「邪馬臺国」』 山本武夫 初出「史話 日本の歴史 第二巻 謎の女王卑弥呼」 作品社 1991.4
一九三年の条には、「倭人大飢来求食千余人」とある。この倭人は、おそらく朝鮮半島にコロニーをつくって在住していた倭種の人々を言うのであろう。倭国から飢餓の人々が千人程度も対馬海峡を渡って、確実な援助の当てもない隣国を訪ねるということは到底考えられないことだからである。
 ちなみに、氏の素人考えの発言とはいえ、古代史論に「コロニー」は時代錯誤、かつ、観点倒錯であり、当方の責任範囲なら、「コロニーをつくって 」の削除は必須です。専門分野外の発言は、よくよく確かめて公言すべきでしょう。千人が海を渡ったとは、誰も主張していないので、つつかないことにします。
 無理ついでですが、筑紫倭国全部が飢饉では、互いに争う「乱」などできないのです。妄想を逞しくして隣人同士を闘わせる悪趣味の根源がわからないのです。

⑶ 霊力説の怪
 最後に、素人さんは、卑弥呼が「霊力」を示したなどとおっしゃるが、んな「力」は、もともと実在しないから、示せるはずがないのです。
 これを受けてか、学会の権威者なるご老体から、もっともらしい、老女王は「呪力」を失ったなどと見てきたような「ほら話」が出てきますが、元々この世に無い幻想力ですから、力が弱ったり失われたりすることはないのです。
 ほら話の土台は「年長大」なる言葉が老齢の意と決めつけるものですが、これは、無教養な門外漢が、中国史書の解釈に無思慮に踏み込んだために浮上した根拠薄弱な一説であり、確たるものではない、どちらかと言えば、浅慮の誤解です。独善派が、見てきたようなほら話に都合が良いので、与太話の結構に取り入れているだけです
 不確かな土台の上に、高々と豪壮な楼閣を築くのは、学術上の論議はあり得ない「砂上の楼閣」です。

⑷ 日食騒動の怪
 日食説で奇怪なのは、当日、晴天でみな戸外で空を眺めていたと決め込んでいることです。
 曇天なら、日食でなくても日差しはないのです。
 晴天日食として、鳥が騒ごうが冷風が吹こうが、別に暗黒になるわけではないので、しばらくして明るくなるのです。素人さんの卓見の通りです。中国では、遙か以前から日食予知ができていて、支配者層は、程なく闇は消えると知っていたはずです。
 そのあと、司会者から、女性蔑視、老人蔑視の発言乱発ですが、大変な時代錯誤です。まあ、民放は、この程度が相場なのでしょうか。

*まとめ
 以上の通り、「諸説」というものの、あやふやな思いつきで連発される妄想に呆れるのです。
 念のためいうと、倭人伝に「倭国大乱」はないし、卑弥呼共立は時期不明。もちろん、飢饉との因果関係は一切不明です。(史料にない以上、関係ないと断定したいぐらいです)
 
なにしろ、諸国総会での女王総選挙などあるはずがないのです。(不可能である)
 資料不足をよいことに、各自が、証拠も何もなしに勝手に推測を巡らして吠えるのは、学問と思えないのです。いや、民放テレビ番組に、学問は関係ないのでしょうが、遂に、考慮に値する「諸説」は聞けなかったのです。

                          この項完

新・私の本棚 番外 諸説あり! 「女王・卑弥呼の正体」 4/4 余談

 BS-TBS ▽邪馬台国2時間スペシャル!  2017/06/10 2017/12/30
 私の見立て★☆☆☆☆☆ 参考のみ                  2017/12/25 2019/04/21 2022/10/15

 これは、番組批評で無く、あくまで余談です。
*三国史記の読み方
 十二世紀半ば、統一王朝高麗時代の三国史記編纂者は、二世紀後半の何らかの史料が、千年の波乱の歴史を経て伝えられたものを見て、そこに書かれた「倭人」なる言葉、漢字熟語を読み取ったのですが、その史料の記録者が言葉に託した意味を読み取ることはできなかったようです。
 いや、原史料が、難民の正体を正しく書いていたかどうかはわからず、また、原史料が千年の間正確に書写されたかどうかわからないのです。「魏志」ほど、厳格に写本継承されていても、誤字が目立つなどと言いがかりを付ける野次馬が絶えないのですから、是非、「史料批判」を重ねた上で、発言してほしいものです。

*新羅興亡
 最初に半島統一を成し遂げた新羅ですが、魏志韓伝に記載された三世紀、韓の一国、辰韓を構成する十二カ国の一国の時代は、未開で、当然、文書記録は、皆無というか不完全でした。辰韓を統一し、さらに、三国鼎立時代の相克を経て百済、高句麗の二国を滅ぼして半島統一した統一新羅時代、中国文明に深く接して史書整備を試みたはずですが、その成果は十世紀の三国分立戦乱を経て、北方の新興高麗に滅ぼされた時、亡国の史料は毀損され、残存した史料も、維持管理は疎かで、適確に継承されなかったようです。

*倭女王卑彌乎遣使
 新羅本紀には、「(173) 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)」なる記事が見られるとのことです。(訳文はWikipedia)

*史料批判
 これでは、「倭人伝」に基づいたつもりで、「卑弥呼が248年頃死亡した」とする解釈と結びつけたとき、女王は、少なくとも七十五年にわたる在位となり、仮に二十代で共立されたとしても、百才の老王となってしまいます。定説のように、いい年(三十代、あるいは四十代)で共立されたとすると、百二十歳にも成ろうということになります。因みに、この年齢計算は、中国の暦法に従う加齢なので、せいぜい、数えと満との違いしか勘定できないのです。
 要するに、古史料の孤立した記事を本紀編纂に参入する際、「三国志」記事と照合しなかったため、干支紀年解釈を誤って六十年遡らせてしまったようです。
 二世紀の文字なき未開時代に元号はなく、某王の何年という記録もなかったようで、干支が一巡する六十年分ずれたと見られます。斯羅国の小国時代は、要するに未開社会で、王制が続いていたかどうか不明であり、国家としての文字記録が残されていたとも思えないのです。
 六十年のずれを補正すると「233年、倭の女王卑弥呼が遣わした使者が訪れた」となり、この方が、ずいぶん筋が通っているのではないでしょうか。
 ただし、倭人伝には、その二十年後の倭国飢饉は記録されていないから、飢饉記事は六十年移動しないようです。
 倭人伝は、当時唯一文字記録を整備していた中国文明の歴史遺産であり、数世紀、いや、千年の後に、後世人がでっち上げた歴史文学とは、同列に論じられないのです。
                       完

2022年10月14日 (金)

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 1/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

第5章 考古学だけでは不十分  吉村武彦

 本項は、二〇一〇年七月三日に文化庁主催シンポジウム「いま、なぜ邪馬台国が?」における講演のなかで、吉村武彦氏(著者)の講演を収録したものと思われる。
 講演は、おそらく古代学において、考古学者の良心とも言うべき感慨から開始している。しかし、以下示すように、氏の本領でないと思われる中国正史の文献史学考証に第三者の見識を取り入れる際の不正確さが山積していて、著者の権威を損なうものになっているのは、いかにももったいない話である。

 特に、客観的に間違っていると判断できる誤解までが、訂正されることなく出版されているのは、著者の周辺に誠実な、つまり、お怒りを買っても瑕疵を指摘する真摯な支持者がいないことの表れであり、当ブログ筆者は、何の関係も無いのを顧みず、ここに慎んで、憎まれ役を買って出て誤解を糺そうとするものである。

 著者の誤解の多くが、百-百一ページに露呈しているので、失礼ながら、個別に批判を加えるものである。

◯引用とコメント
 こうした表記法からいえば、「邪馬台国」の表記も同じように仮借で書かれています。ふつう は「やまたいこく」とよびならわしていますが、「邪」は「や」、「馬」は「ま」の漢字音ですから、「台」は「と」ないし「ど」と読み、「やまと」ないし「やまど」と読むだろうと思います。 おそらく「やまと」と読むのが正しく、むしろ「やまたい」と読むのは間違いではないでしようか。

 「邪馬台」国を「やまと」のくにと呼ぶという議論は、古来、連綿と引き継がれてきた「俗信」であるが、同時代の文献資料、音声記録が絶無である以上、所詮、後世人の推測/臆測/願望の積み重ねであり、いくら推測調の文体であろうと、学術的な文で殊更書き立てるべきものではないと考える。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 2/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31
 
吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 ただし、現在では携帯電話の入力でも「やまたいこく」とうちますと「邪馬台国」と出ます。 

 「携帯電話の入力」とは、使用者のカナやローマ字の入力に対する変換候補漢字だろうが、これは、現代、そのように言い習わされていることが、変換辞書の第一番に表示されているのであって、大抵は、使用者の個人的な最終履歴の反映であって、講演されるべき古代史論議には無関係である。いわば、「ジャンク」情報であり、そのように説明すべきである。因みに、発言者は、少数派たるカナ入力派のようである。発言者の脳内の言語観が、混乱しているのが露呈している。
 
 今日は、わかりやすいように「やまたいこく」と発音します。

 勿体ぶっているが、前言と論理が繋がっていない「言いつくろい」である。要するに、カビの生えた自前の仮説の押しつけの粗雑な「枕」であって、客観的には論議の余地が多く残されている、結局の所、個人的な「思いつき」に属するものと考える。冒頭から大すべりとは、勿体ないことである。
 因みに、「倭人伝」には、「邪馬台国」はなく、「邪馬臺国」(「やまだいこく」か)すら書かれていない。不利な事項に触れられたくないから、はなから逃げているのは、勿体ないことである。

1『三国志魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条
「魏志倭人伝」のテキスト
 ところで、通称の「魏志倭人伝」は、正確にいうと『三国志魏書』巻三〇の烏丸鮮卑東夷伝 のなかの倭人条になります。

 倭人伝論の試金石とも言うべき発言である。「正確にいうと」と勿体ぶっているが、「正確」と断言するからには根拠を示すべきであろう。学術的には、単に、未検証の俗説に過ぎない点では、「やまたいこく」説と同様である。
 目下の論義では、「倭人伝」が特定できれば、それで十分だから、余計な文献史学者気取りは、引っ込めることである。現に、つい先ほど、手元の携帯の漢字辞書に通用していることからわかりやすいように「やまたいこく」と拙速にこじつけたばかりであり、論義が動揺しているのである。
 
 しかし、その原本が、現代まで残っているわけではありません。

 「しかし」も「案山子」もあったものではない。
 三世紀に書かれた書籍の原本そのものが、2000年近い後世まで残存していると考える方が異常感覚である。それは、一般人でもわかる当然、自明の事項であり、なぜ殊更「しかし」と言い立てるのかわからない。元々、この断言は「だから、原本がどのような現代まで伝えられたかを確認するのである」との学術的な見解の導入部であるはずだが、ここだけ一人歩きさせるとは、ずいぶん粗暴で稚拙な論法で、飛んだ、恥曝しである。

 当初は写本もあったでしょうが、後に版本として受けつがれていったかと思います。

 「当初」の事態を推定しているが、「写本もあった」というのも、無頓着な放言である。上申された「三国志」は、そもそも、陳寿の遺稿でもあった「決定稿」の一次「写本」であり、皇帝御覧の権威を有したから「原本」と称しているだけで、陳寿自身の筆になるものではない。もちろん、当時現場で確認した人物は現存していないが、自明、当然の事項を割愛した記事が残っているから、まず間違いのないところである。
 以後、皇帝書庫に厳重に秘蔵され、皇帝自身も座右に置くことができないから、まず、時代最高の写本工の手で一次官製写本を行って、参照可能な複製(レプリカ)とし、ここから「孫写本」以下をおこなったのである。言わば、代用品が整って初めて、「原本」を温存しつつ複数の人々に良質の写本を届けたのである。
 一部、複製(レプリカ)の趣旨を知らずに、「偽造」と弾劾する権威者がいるが、誰も、「原本」と言っているのではない。最善、最高の複製品/代用品であり、レプリカなら皇帝自身も手に取ることができ、さし当たって、高級写本工によって、「孫写本」を行って高官、有司に下賜して、順次世に出すが、誰も、レプリカを「偽造」だなどと言わないのである。

 そもそも、『陳寿が編纂を完了し、「決定版」「上申稿」として遺した「三国志」「原本」』を複製し、謹んで西晋皇帝に上申したのが、後に「三国志」が正史として認定された背景である。ということは、陳寿旧宅には、一冊(巻数は言わない)の「三国志」全巻が残っていたのである。

 このあたり、学問としての議論を進めるための見当識に欠ける暴言である。以下、同様の暴言を連ねるという予告とみられるから、一般講演であれば、ここまでで退席してもおかしくないのである。

 このような暴言が権威者の講演録として収録されているのでは、書籍編集の不備といわざるをえない。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」3/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 また、写本は一部作成するたびに新たに継承され、刊本の場合は、印刷に使用された「版木」原版は修復不可能となるまで、改版、修復されて出版に使用されるので、その内容は確定している。違いを認識すべきである。

 今日では、裴松之 (三七二-四五一)が注記をつけた『三国志』として伝世されました。

 裴松之の注釈は、高い意義を持つものであるが、決して「三国志」の本文ではない。あくまで、後世史家の付けた注釈である。

 ここに記述されている『魏書』を、史料として使います。

 現今正史史料として利用されているのは、「ここに記述されている『魏書』」などという曖昧なものでないと考える。善良な読者としては、「ここ」とは、どこのことかとお伺いしたいものである。

 現在その『三国志』の一番古い版本は、中国、北宋(九六〇-一一二七)時代、一二世紀のものとされています。

 これは、勘違いの誤解である。不正確、うろ覚えの聞きかじりを受け売りしていては、発言者の威信は、泥まみれである。
 衆知の如く、北宋版本は断片しか残っていない。それにしても、北宋の二百五十年の治世で、「一二世紀」は、最後の三十年足らずに過ぎない。勘定が合わないが、誰も指摘しなかったようである。これでは、誰も信用してくれないのでは無いかと危惧する。

 また、宮内庁書陵局管理の「紹凞本」など、数少ない現存版本/刊本史料として見ることができる「南宋刊本」は、「北宋版本」に直接基づく再版/復刻ではなく、南宋草創期に、北宋刊本の良好な写本を根拠として版木を起こした、いわば、「複製、復元本」である事は衆知と思う。世上、「紹興本」と「紹熙本」の異同について論義があるが、北宋刊本から起こしたのであれば、本来、異同は無いのである。
 と言うことで、またも、無思慮な妄言である。

 この『三国志』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれています。この事実から古田武彦さんから、邪馬台国はなかったという見解が出てきました。

 「事実」の指摘は重いものがあるが、古田氏の主張の根拠は、「この『三国志』」などという曖昧なものではなく、『三国志の現存諸版本全てで、「倭人伝に「邪馬台国」はなかった」』と明確なものであり、「確固たる事実」を踏まえた適確な発言である。

 ここに到る引用は、至る所で不正確であるが、ここだけ推定調でないことは論者の本意を露呈したものとして、重く受け止めるべきであろう。
 講演であれば、一瞬で通り過ぎるが、講演録は、くり返し確認できるので、石刻碑文と同等の不朽のものである。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 4/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
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吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 ただし、『魏書』が刊行されてから『後漢書』が出ます。王朝の順としては、後漢(二五-二二〇)、三国時代(ニニ〇-二八〇)になります。しかし、正史は、『三国志』陳寿(二三三-二九七)撰)の後に『後漢書』(范曄(三九八—四四五)撰)が編纂されます。この『後漢書』や『隋書』(六五六年完成)では、「壹」ではなくて「臺」(台の正字)が使われており、私は、この『後漢書』『隋書』の表記を尊重して、元は「邪馬臺国」という字があったと考えています。

 長々と説明しているが、隋書は、笵曄「後漢書」の国名表記に影響されたものであり、結局、魏志「倭人伝」に「邪馬台国」はなく、「邪馬台国」は後漢書(だけ)を根拠としている、と言う古田氏の主張は、依然として克服されていないのであるから、学問としては、そのように認識すべきである。
 まして、筋の通らない口ぶりでぼやかしているが、史料批判のされていない後世史書を根拠に、先行する「倭人伝」の確たる表記を否定する暴挙を犯しているのである。要は、何が何でも、つまり、妥当な論理が構築できないにもかかわらず、「邪馬台国」を仕立てるという牽強付会に過ぎないのである。

三つの部分からなる倭人伝
 「魏志倭人伝」は、三世紀代の日本列島の社会状況を伝える貴重な史料です。基本的には三つの部分からなり、記述の構成は、ほかの「烏丸鮮卑東夷伝」の条文とほぼ同じです。

 国別記事
 まず、第一段は帯方郡から邪馬台国に至る道のりを記しています。「倭人は、帯方の東南の大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす」で始まります。
 朝鮮半島(韓半島)では、前漢が前一〇八年に楽浪郡などの四郡を設置しました。そして帯方郡は、二〇四年ごろ、公孫氏政権によって、楽浪郡の南につくられた郡です。その帯方郡から、 途中の韓の国を経て日本列島に至る方位・距離・国名が書かれており、いわゆる「国別記事」がみえます。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 5/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 暢気に「日本列島」と言っているが、当時「日本」はなかった。また、今日言う「日本列島」の内、「倭人伝」に明確に書かれているのは、九州島の北部と海岸、海上の様相だけである。注記:学術的に「地理的な」「日本列島」 が、定着している事を知ったので、一部削除した。
 「倭人伝」には、隋書に書かれている阿蘇山が登場しないことから見て、「倭人伝」の実見に基づく記述は、今日の福岡県からほとんど出ていないものと推定される。

 このなかで注目すべき記述は、郡使が伊都国に駐在していること、邪馬台国が女王の(以下略)

  「郡使が伊都国に駐在している」とするのも、不可解な読み取りであり、少なくとも、景初遣使の折は、魏朝の公孫氏討伐によって、帯方郡支配層は更迭されたばかりであるから、帯方郡使/郡吏が倭に駐在したのは、あったとしても、もっと後世のことではないかと思われる。
 案ずるに、ここに書かれているのは、郡使が、「まずは伊都国に到着/滞在した」と言うだけであり、以後、どのような行程を辿ったかは書かれていないのである。普通、当然、自明の事項は書かれないから、以下、王之治所に招請されたと見るべきである。いかに、郡使でも、王のもとに、つかつかのりこめたわけではないのである。

  この二ページの書きぶりだけ見ても、中国文献を自身で読解できない著者は、自分自身の著述したものでない資料を、十分比較検証しないままに、ベタベタ引用しているものと思われる。我々知性を有する人間は、鳥類ではないので、「鵜呑み」の受け売りはせず、資料を噛み砕いて、存分に味わってから呑み下すものではないのかと思うのである。

*追従の弊害
 ここでは、たまたま、著者の文を取り上げて批判することになったが、このようないい加減な言い回しは、古代史関係の講演や著作でしばしば見かけるものである。これは、「所属組織の何らかの方針でそのように言うことになっている」のだろうし、「組織の方針でそうなっているものに逆らうことはできない」のだろうが、傍目にも所用の「学識の欠如」と見える。

 著者個人も所属組織も、現代のみならず後世においても、不見識に対する批判を浴びるもととなるので、「随分損してますよ」と申し上げるものである。

未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」6/7

 石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14 2022/10/31

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
 さて、以下で特に目立つのは、103ページの引用である。
 ここに引用されている記事の筆者、宮崎市定師は、博識かつ真摯な学者であるので、その見解は尊重しなければならないのであるが、ここに引き合いに出されている論議については、同意しかねるものがある。以下の不手際が、引用者の不手際かどうかは、よくわからない。

*経書写本誤謬論
 宮崎師は、古代中国における聖典と言うべき四書五経の経書写本に誤謬が多発していたことを例として、「正史写本といえども、同様に誤記が多いとみるべきだ」と推断したようであるが、素人目にも、この類推には、かなりの誤解があるようである。

*経書写本の濫造
 経書は、儒教が国家の指導原理として尊重され始めた漢武帝の時代から、帝国の官吏登用の際の必要教養とされたから、史官を志す若者達、多くは、洛陽の太学に学ぶ若者達は、争って経書写本を買い求め、安物写本が市場に氾濫するほどであったという。後世喧伝された科挙のはるか以前から試験地獄はあったのであり、「試験」に出るから、借金してでも写本を買い求めて暗記に努めたのである。めでたく官吏となって高位に登れば、絶大な収入が得られ、故郷の親族はじめ支援者すべてに篤く報いることができるのであり、役得の類いを合わせれば、富豪への道ともなるのであった。

 前漢は蔡侯紙以前であるし、後漢も、紙の大量普及は後半であったろうから、大抵の場合は、竹簡、木簡などの簡牘に筆写されたのだろうが、それでも、必要があれば大量の写本需要が発生し、大量の需要には大量の供給が伴ったのである。当然、写本に写本を重ねる低俗な写本では、学識不十分な、おそらく、少なからぬ素人写本者を起用するため、粗製濫造は避けられず、写本間の不一致はざらにあったようである。

 若者達は、各人の持つ写本の記事が互いに一致しないときは、政府の所管部署に、どちらが正しいか判断を求める権利を保障されていたため、時には、一切の路上集会が厳重に禁止されていても、政府方針に不満を持つ若者達が、合法的に徒党を組んで不平を唱えるとして数多くが集合し、道にあふれたと言うほどである。
 たまりかねた政府は、所蔵する良本、つまり、試験正答の根拠を石碑に刻し、自分の写本に疑問があれば碑文を見よと言い渡したという。経書の写本とは、そういうものである。因みに、碑文の拓本を取って商売の種にする輩が絶えず、折角の碑文がすり減って、随所で判読不能になったということである。
 いや、このあたりの世相は、該博な宮崎師の熟知するところであり、従って、経書写本の質についての発言が出たのであろう。

 追従するからには、宮崎氏の真意を確認した上で、自身の確信を形成した上で行うべきである。うろ覚え、生かじりと言われたら、立つ瀬はないと思うが、その辺りの不出来の責任を宮崎氏に押しつけるのは、何とも、困ったことである。

     未完

私の本棚 研究最前線 邪馬台国 吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」 7/7

   石野博信 高島忠平 西谷正 吉村武彦 編    朝日新聞出版 2011年6月 
 私の見立て 全体評価 ★★★☆☆ 凡庸なごった煮   部分評価 ★☆☆☆☆  度しがたい迷妄      2017/05/09 補正 2022/10/14

吉村 武彦 「考古学だけでは不十分」
◯引用とコメント
*正史写本評価
 これに対し、正史の写本は、実用のものではないために、よほど関心のある皇族や政府高官でないと所蔵せず、従って、世にあるのは、政府所蔵の良本に近い写本であり、よって、とことん入念な校正を経た良本の「良質な複製品」であって、低俗な写本が、世上に氾濫することもなかったと推定される。
 いや、そのように断言すると、敦煌出土残簡の誤字多発を指摘する方があるだろうが、それは、普通言う正史写本で無く、蔵書家が、遠隔地で参照しやすいように私製した抜き書きであり、正史の正誤を正す際の「校勘」史料として起用されることなど、あり得なかったのである。時に言うように、写本連鎖の中で、誤写、誤記は、一方的に、下流に流れるのであって、源流に遡ることはないのである。

 因みに、目下の課題は、魏晋代の古代世相であり、せいぜい中世の初期、唐宋代までの世相で、明清代に及ぶ論義ではない。明清代に、古代写本の時代考証をしているとしたら、はなから、勘違いの山とわかるのである。相手にしないことである。

 つまり、経書の写本に誤写が非常に多いことから、安易に類推して、正史写本にも同様に誤写が多いと速断するのは、誰が言い出したか知らないが、とことん軽率ではないかと思われる。「思いつき」は、多大な検証を重ねて、初めて、「作業仮説」と評価されるのである。

 もし、宮崎師が、確信を持って、「魏志倭人伝」史料考証に参入したのであれば、座り直して聞き入る必要があるが、中国学権威の見解は、尊重して聞くべきと雖も、推論の過程に疑問があれば、率直に指摘すべきと考える。それが、先賢諸氏に対する「敬意」の最上の表現と見るものである。

 因みに、宮崎師が自身の豊富な学識から『正史、特に、「三国志」写本、版本に誤写が多い』と責任を持って判断していたのであれば、当然、実例を挙げて明言されていたはずであるから、実例の指摘が無いと言うことは、宮崎師の博識を持ってしても、確実な事例は思い当たらなかったと見るのである。

 もちろん、「多い」とは、誠に非学術的、不明瞭な、俗語的表現であり、宮崎師が、どのような数値解釈で、どの程度の件数、比率を持って「多い」としたか、深意を探る必要があると思うのである。「倭人伝」は、せいぜい二千文字の限定された史料であり、何文字をもって「多い」というのか、議論の余地が多い/無視できない/甚だしいと思うのである。
 いや、宮崎師の書いた趣旨を、「他の部分の誤読、誤解事例から見て、史料考証に信用をおけないと見られる引用者」が要約した引用で判断してはならないのだが、ここは、証拠として取り上げるべきではないという判断の論証過程であるので、ご容赦いただきたい。

  いうまでもないが、以上で言及していない記事に異論がないというわけではない。推して知るべしと見ていただいて結構である。

◯まとめ~書評の意図と意義
 本記事は、同様の書評と同様、対象となる著作物の最終結論に異論を挟むものではない。最終結論は、著者が打ち立てた信条であるから、他人の容喙すべきものではない。
 ここでは、あくまで、論考の不手際、即ち、採用した「証拠」、「証言」の不具合と、それに基づく論考の乱れに異議を唱えるものである。以上述べた指摘は、当ブログ筆者の私見であるが、一考に値する「異議」と信じるので、殊更、多大な労力を費やして、ここに連載したものである。

 本記事で指摘した事項の大半の疑問点は、吉村氏自身の思惟を示すものではなく、採用した「証拠」、「証言」に起因する瑕瑾とみるので、冷静に考え直していただけるものと信じている。つまり、吉村氏に一辺の良心があるのであれば、ぜひ、諸処の再考をお願いしたいものである。

以上

2022年10月12日 (水)

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 1/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇始めに
 見事なのは、「はじめに」として、本著の基本理念が適確に表明されていることです。これは、「商品」として不可欠ですが、近年古代史で目立つジャンク本では、一流出版社の単行本でも欠落していることがあり、むしろ貴重な特質です。

 本書は、「景初二年の朝貢から見た邪馬台国の所在地論」です。 研究に関し重要なポイントを「発想」という視点で述べます。

 当ブログで機会ある毎に説いていた準備、そして実行という着実な考察が書かれていて、心強いものでした。また、極力、倭人伝記事の妥当な解釈による考察であり、それ自体大変説得力のあるものでした。

 それにしても、22世紀アート社は、編集部に優れた人材を擁しているようで、これなら、書店店頭で立ち読みできないご時世でも、安心して大枚を投じられるかと思うものです。掃き溜めに鶴と言いたいところです。

*丁寧な準備
 前例のない大事業に乗り出すには、内外情勢確認、実施手順策定、そして、実施に際して、綿密な工程管理、進度管理が必要です.参上する相手との綿密な交信も必須です。そういった段取り事情を丁寧に説き起こす「倭人伝」考は、ここ以外では見かけることがありません。世に、ジャンクフードの画餅が氾濫していて、このように、歯ごたえのある正餐に出会うと感嘆するのです。
 後ほど、無作法な批判をしますが、随分前から、言葉遣いの節度をなくしているので、お許しいただきたいのです。

*両論併記の取り組み
 本書で感心するのは、畿内説と筑紫説の両論を併記して、それぞれに於いて、適切な考察を試みていることです。
 「当分野」は、まずどちらの説で書かれているかで、書棚行きの積ん読かゴミ箱投棄かが決まり、所在地比定の論考でも、恣意だとか、偏向だとか、感情論で切り分けられ、投げ出されていしまうため、折角の著者の考察が、読者の眼に届かない様子を見ると、ここは大人の行き方と見ます。何しろ、諸説の上っ面をつまみ読みして、理解できないままに、「全部間違いに決まっている」と絶叫する論者が目立つのです。
 ここでは、畿内王都と仮定して、半島事態を知るのに要する時間、畿内での準備期間、半島までの行程日数を合わせ考えると、景初二年六月には帯方郡に着かないと見え、三年誤記説に逃げず、どう解決するのか興味のあるところです。
 当方の考えでは、王の意志決定に従い、派遣使節人員の大半と荷物、そして、乗船は、筑紫拠点に手配を指示し、畿内からは、大夫一人、ほとんど手ぶらで出たと見ます。大夫が乗馬できれば移動時間は大幅に短縮できます。
 私見では、急遽派遣という状勢であるから、人員も荷物も、随分小振りで書面指示したはずですが、氏の意見は別で、王都に集中しているようです。
 郡に申告しておけば、御用達で、街道関所は、過所(通行証)いらず、関税免除、宿は官費です。数十人の大使節団はそう行かないでしょうが、「倭人伝」の貧相な使節なら、むしろ、同情されてもてなしを受けられたでしょう。

*若干の異議
 そのように思うのは、以下書くように、氏が想定した使節団が場違いにでかいからです。氏がそのように感じたのは、野性号案件が、漕ぎ手固定の手漕ぎ船で、積み荷の多寡、漕ぎ手の消耗はともかく、遮二無二、一貫航行できる、為せば成ると証明されたように報告を言い繕ったからでしょう。スポンサー、支援者の手前、「失敗した」とは、絶対に言えなかったためでしょう。
 当ブログでは、長距離の漕ぎ船移動は、維持不能な公用交通手段とみていて、意見が分かれます。
 御手並拝見という所です。

                                未完

新・私の本棚 平本 嚴 「邪馬台国はどこにあったのか」再掲 2/2

~倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊
私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12 補充 2022/10/12

〇既成概念の残光
 書評の務めですから、瑕瑾をつまみ上げて指摘することになります。
 案ずるに、意識してか無意識にか、さまざまな既成概念に影響されて「倭人伝」考察に取り組んでいて、着実な考察が妨げられているのが惜しまれます。
 その一つは、「邪馬台国」が、豊かな国力を持っていた古代国家であるという前提であり、そこから、六艘に及ぶ朝貢船団を連ねた延々たる行程となり、それ故、何としても、船団で乗り続けたとの視点に囚われているのが、もったいないところです。
 この前提を取り下げると、本書のかなりの部分が空転するのですが、この前提を書き替えてしまうと、本書は別のものになってしまうのです。つまり、後段の批判は、無理な注文と承知の上です。よろしくお含み置きください。
 但し、氏は、海路遣使の幻想に耽るのではなく、地に足の付いた考察を進めていますから、世にはびこるジャンク本/書籍/新書と一線を画している点が、ここで賞賛されているのです。

*帯方郡の不思議
 折角、景初元年八月に、帯方郡が魏の支配下に復帰したとしながら、使節は、その事態急転に気づかず自律的に遣使を決意し、二年の早い時期に郡に到着したのに戦雲巻き起こる遼東に赴いたのは、ちょっと/全く、説明のつかない事態です。
 ついでながら、「倭人」が遼東郡に隷属したと想定していますが、それなら、魏の攻撃に備えて韓濊倭に動員がかかったはずです。思うに、遠隔蛮夷の隷属は面倒なだけで、単なる服属と貢納でよしとされ、戦力視はされてなかったでしょう。
 勿論、氏の既成観念を指摘しただけで、当否を言うものではありません。

*後漢書崇拝の咎
 無造作に范曄「後漢書」倭伝を利用していることも不都合です。
 「倭奴国」貢献は後漢書本紀であり、光武帝は印綬を下賜しただけで、金印下賜とは書いていないのです。また、考安帝本紀は、貢献を示すだけで、生口は倭伝独特記事、つまり、范曄得意の根拠のない文飾と見えます。
 「倭人伝」には、情報源の詮索や、誤記、曲筆の疑惑が、山ほど浴びせられていますが、笵曄「後漢書」倭伝は、一転して無批判な引用が目に付きます。これは、正当ではありません。いや、これは、俗説の安易さを歎いたものであり、氏への批判ではありません。

*洛陽への遠い道
 氏の考察のかなりの部分が、狗邪韓国経由帯方郡の海上経路に費やされ、さらに郡から遼東にいたり、そこから、洛陽に転ずる街道の想定で、相当の労力を費やしたと思いますが、労苦に賛辞を呈するものの、疑問があります。
 黄河河口付近は、巨大な暗黒地帯であったとの指摘は、軽率な論者に対し貴重な問題提起ですが、使節は、遼東に寄らなければ、この迂回は不要だったと歎かなかったのでしょうか。

*嫌われた順路
 そのような経路を敢えて進んだ前提として、郡から山東半島への経路が難所とされていますが、どう見ても、ほんの一またぎの水たまり越えの散歩道で、激流の荒海でないと思うのですが、難所の根拠はあるのでしょうか。
 漢書には、武帝の朝鮮派兵で利用した経路とされています。
 帯方郡から見ると、山東半島から洛陽に至る青州路は、つい先年まで、公孫氏の支配下にあり、土地勘のある郡官吏もいたでしょう。帯方郡収監の際に渡来した兵士も少なくなかったものと見ます。随分近道ですからね。
 狗邪~郡街道史料が見当たらないとありますが、弁辰産鉄の運搬は、郡命により、日程厳守できる官道経由のはずで、それに備えて宿駅整備がされていたはずです。街道が当然だから、特に書かなかったと見ます。何しろ、韓地行程は、韓伝の領分なので、倭人伝には書かなかったと見るものでしょう。

 氏は、半島南部沿岸に、寄港地が整備されていたと見ますが、帯方郡としては、陸上街道整備だけで目的を達成できるのであり、特に必要のない遠隔僻地にそのような整備を行う動機が見えません。郡は、専政領主ではなかったのです。もちろん、自然発生で、漁港なり、隣接港への航行の船着き場があったことでしょうし、港伝いで、遠方からの売り物が届いたでしょうが、それは、ここで言う「寄港地」には当たらないのです。
 いや、小船であれば、砂浜に引き揚げるだけで、船着き場の用を足せるのです。

〇最後に
 いや、氏の辿った地道な論考は、業界では異端の道であって、先賢の助言は得られなかったのでしょうが、氏ほどの慎重さで考察を固めながら、これほど見過ごしが残っているのは不思議です。月並みで恐縮ですが、弘法も筆の誤り、という事でしょうか。

                                以上

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再論2019 1/7 改

私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*NHK番組案内を引用
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,
辰巳和弘,石野博信,倉本一宏【語り】松重豊
  ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ?司会の磯田道史が大興奮の古墳とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか

*総評~新旧併存のお断り
 当方の知る限り、当番組は、昨2017年1月3日に放送され、2018, 2019年は、再放送です。
 初見の際は、一般向け番組で示された個人的意見を批判する気になれず、表面的な批評となりましたが、良く見ると、お出ましになっているのは、それなりの権威者揃いでもあり、「まんま」再放送という事は、ちゃんと批判されていないようなので、一視聴者として苦情を申し立てることにします。
 なお、当記事は、先行する17回連載の批判を煮詰めたものですが、割愛した部分にも、色々意見がこめられているので、両案併存としました。何しろ、ブログ記事は、別に読者の財布を傷めるものではないので、当面、その万万としています。

※番組方針逸脱
 当番組は、本来、歴史上の分岐点で、「英雄たち」が直面した選択を明らかにして、視聴者にそれぞれの選択肢を吟味させるものであったはずです。ところが、当特番は、「謎」の特異な解明(異説)を羅列するだけで、事態の原型は示されず、権威を求められている番組として、無責任であると見えます。

※日本なき「ニッポン」文明
 この番組は、カタカナの「ニッポン」を連呼しますが、それは、八世紀初頭に始めて採用された「日本」の国号を、数世紀遡る古代史に使用する「時代錯誤」の押しつけを避けたつもりかも知れません。しかし、所詮、一般人は、文字より音声で識別するので、カタカナも漢字も同じ実態と受け止め、「ニッポン」と言っても、時代錯誤から逃げられないと愚考します。

 古代史分野では、「日本」国号にまつわる紛糾を避けるために「日本列島」と言い慣わしているので、NHKも、番組冒頭で趣旨を説明した上で、これに従う方が良いのでは無いのでしょうか。当時なかった概念を断り無く濫用するのは、視聴者に謝った理解を押しつけるので、断じて使用すべきではないと愚考します。

*はじめに
 当番組全体は、二時間にわたって「最前線」を紹介し、古代から飛鳥時代まで数回に分けて、時代相を論じていますが、総じて、誰かが「史学」とは無縁の先入観を持ち込んで「台本」をでっち上げ、さらに演出過剰で意図不明、散漫な造作に終始した番組になっています。

 古代史を、「中央」(意味不明)の支配者がひねり出した「シンボル」(意味不明)が、亡霊の如く全国に拡散する図式(ポンチ絵)の茶番劇にしてしまったのです。ポンチ絵も、茶番劇も、それぞれの役所(やくどころ)では、りっぱな芸術表現なのですが、当番組に持ち込まれては、勿体ない才能と資金/資材の浪費に過ぎません。一視聴者としては、このような馬鹿騒ぎに、自分の払った受信料が吸い込まれているのかと思うと、索漠たる思いになるのです。
 歴史の流れを、額に汗して「駆け抜け」るのには足場、足回りが気になりますが、今回は、図式化された歴史の上空を涼やかに「飛び抜け」ていて、躓き石どころか、落とし穴も断層も関係なしです。つまり、一部学派の「提灯持ち」に堕しているように見えます。
 公共放送で、これほど、論証に欠ける、無責任な番組制作は困るのです。いや、知らないうちに、世の中はそんな風潮になっているのかも知れないのです。後生畏るべし。

 こうした泣き言を後半に回すと、とても読んでもらえないかもわからないので、まずは、大きな苦言をここに呈します。

 未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再論2019 2/7 改

私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*「磯田史観」概観
 近年NHK歴史番組に登場する「歴史学者」磯田道史氏の古代史に関するコメントは、当番組に限っても、時代錯誤で軽薄です。
 思うに、氏が本当に通じている時代は、近代、それも、江戸時代中期以降の豊富な古文書史料に基づく、大変限られた範囲であり、古代史に関しては素人、つまり、自任しているように子供時代以来の古墳ファン、マニアでしかないように思えます。

 氏は、古代史番組を仕切るだけの学識も器量を持ち合わせていないらしく、無理な時代錯誤の歴史観を、それも、現代でも、一部の閉鎖的なコミュニティでしか通用しない概念を、前触れなし、出席者の意見と合わないのをぶちまけて、何が伝わると期待しているのでしょうか。
 同情するならば、氏は、そのような乱暴な、現代人の(一部、古代史愛好家の)俗耳に訴えるらしい言い回しを売り物にしているのでしょうが、NHKの特番は、低コストでそれなりの部数売り上げが見込める安物新書ではないので、つまらない猿芝居は、もったいない話です。

*場違いの記

 再放送の間に、磯田氏の著作二作が、映画化されたのを楽しく見せて頂くました。江戸時代で古文書資料が豊富に残っているのでしょうが、大がかりで、しかも、現実味、説得力のあるドラマが構成されているのは素晴らしいのですが、それは、あくまで、時代背景や人情が現代に通じるものであり、観客も読者も、登場人物の情感を察することができたからです。
 三世紀や四世紀の古代は、そうした「察する」ことのできない世界なのに、しきりに、現代語やカタカナ語で古代を塗りつぶす司会者の「芸風」は、場違いです。当番組の「イリュージョン」志向は、場違い概念の塗り込めになっています。

 それとも、氏の古代世界観は、映画化された仙台藩の一宿場や加賀藩勘定方の縮小版で満ち満ちているのでしょうか。

          未完                           

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*非現実的な妄想
 なお、耕作努力を放棄して、他地域を襲撃し収穫を持ち帰る任務を帯びた掠奪部隊は、いわば常備軍であり、盗賊集団にとって、平時は無駄飯ぐらいの重荷であり、また、集団権力者にとって、武器であると同時に自身の地位を脅かすのです。とても、長期に亘って維持できるとは思えません。

 磯田氏ほどの見識の持ち主なら、とうにご存じでしょうが、日本列島の古代に於いて、そのような盗賊集団は、一時的に、どこかに存在したとしても、存在を維持できなかったし、全国制覇できなかったのです。

 それとも、磯田氏は、纏向に興隆した集団は盗賊集団の末裔と主張しているのでしょうか。あるいは、今日の日本人の心の底流には、そのような集団の泥棒意識が流れていると主張するのでしょうか。不審です。

*番組テーマとの関連
 「古代人のこころ」を探るという番組テーマを考えると、番組全体の流れの中でのこの発言は、そのような断罪を示唆しているようにも見えます。

 当方は、そのような「幻想の古代」は、例え磯田氏の内面に猛然と繁殖していても、実際の古代世界には痕跡も残っていないと思うのです。

*物盗りでなく国盗り
 もっと効率の高い盗り方は、被害集団を服従させ、収穫の一部を毎年献上させることです。服従を維持するためには、武力の優位が必要でしょうが、平時は、言うならば鴨がネギを背負ってやってくるので、受け取る方は鍋を煮立てて待てば良いのです。しかも、金の卵ではないが歳々年々届くのです。このような「盗賊」は、涸れない泉のようなものです。
 
 別策は、被害集団を追い出して、自集団の耕作地にするもので、耕作地が拡大して収穫増で繁栄間違いなし、かつ、持続可能な盗り方です。これは、国内例は少ないものの、「グローバル」では良く見られるところです。
 
 当方は、経済学にも社会学にも通じてないので、きれいに形容することはできませんが、普遍的な物の道理として以上のように見るのです。つまり、誰かの理論を受け売りするのでなく、歴史を通読してそう見るのです。

*画餅の愚
 番組冒頭に還って、当番組の概念図塗りたくり手法は、愚劣です。
 中でも、稲作の普及の見せ方が、理屈に背いていて愚劣です。
 
列島概念図の上に、一気に、一面に、稲作の絵柄を塗りたくっていますが、北進速度はおおぼらとしても、後世に至るも、山岳地帯や東北部の寒冷地帯の稲作は、随分進まなかったので、これは大嘘です。
 
 せいぜい、子供だましのものです。子供だましには子供だましの効用がありますが、これでは、チャンネルを間違えているように見えます。
                               未完

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私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*児戯、画餅
 同様に、列島各地に、同形状、同系列の墳丘墓がずらりと揃っていくわけがないのです。考古学者は、個別の墳丘墓の時代比定については、個性的な見解を述べていますが、このような児戯は支持していないはずです。

 現代は、絵解きの時代ですが、天下の公共放送が、ここまで安直な絵解きに溺れるとは、受信料の無駄使いです。演出と言うよりウソの練り重ねです。

 それは、例えば、桜前線の伝搬のようです。その場合、全国にソメイヨシノの植樹と養生が連なっているから、まるで、誰かが開化せよとの指令を発したのが、南から北へ伝わっているように見えるのですが、番組の茶番は、安直な幻像に過ぎません。子供に塗り絵をさせているようなものです。

*番組の蛮行
 そのような演出の背景は、放送局も新聞社も通信社もない時代に、列島全部に隈無く、すらすらと文化が拡散するという幻想ですが、「文化」が、文字を前提としている以上、文字のない時代にそのような文化拡散はありえないのです。そして、何より、三世紀、四世紀に、広域政権はないので、拡散の発信源も伝達手段もないのです。出かけて布教するしかないのです。

*地方国家幻想
 九州北部の政権は早期に実在したとして、「吉備」「大和」に同様の政権が存在したという同時代記録はないのです。
 仮に記録されたとしても、地方間の連絡は、使者が伝言するしかないのに、片道一ヵ月はかかろうかという遠隔地同士で対話は成立せず意思伝達は無理である。そもそも、そのような遠隔地から、収穫を取り立てるのは無理だし、相手の挙動に文句があるからと言って遠征軍を送って征伐するのも無理です。

 国家の構築に不可欠な要素がないから、広域国家はなかったのです。
 
*倭人伝の諸国像
 倭人伝談義では、多数の小国が共存し、「女王を総会で擁立した」共立図が描かれているようですが、交通不便で、文字通信も無いとなると、ほんの山向こう、川向こうでも、別所帯であり、喧嘩も食べ物の融通も、ろくにできないのです。話し言葉が異なるとなると、時候の挨拶も、男女交際も不可能となります。諸国統一どころか、隣村さえ支配できないのです。

 唯一進展があるとしたら、川に橋が架かり、山越えの道が通じるときで、せめて日帰りで往来できたら、朝、荷を背負って隣村に出かけて産物を仕入れ、夕方に帰還することができるのです。日帰り交流が広がれば、両集団の交流が深まり、合流しようかという事になるのです。

 いや、大抵、隣村は分家であり、言葉も風俗も通じ、往来便利なら親戚づきあいできるので、分家や親戚を、掠奪や武力征服などしないでしょう。磯田氏は、よそ者は「人」でない(から殺してもいい)と強弁しますが根拠不明です。
                               未完

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*無視横行
 それにしても、番組の流れで、時に、ガイド役の説明者に、当然とも思える素朴な疑問が呈されますが、屡々無視されるのはどうでしょうか。
 回答に窮して、次に進めているのでしょうか。別にガイド役を困らせようというつっこみでもないのですが、想定外、台本外の質問は無視する習性の人なのでしょうか。芸人として、度外れに抜けているように見えます。

 例えば、纏向の大型建物柱穴が先立つ丸穴が角穴になったと説明していますが、何があってそう変わった(と決め込んだ)のかとの質問に返事がないのです。
 また、建物の時代比定が、大幅に旧くなった件も、返答がないのです。トップ指示でそう言わされていて、箝口令でも敷かれているのでしょうか。
 それより、磯田氏が、どさくさ紛れに纏向遺跡を二世紀としているのも、司会者に禁物の素人判断であり、視聴者は、マニアが浅知恵を競うのを見たくて、NHKの特番を見ているのではないと思うのです。

*東西基線の意義
 いや、素人考えという点では、纏向論などに見られる古代史論も、ある意味、素人考えを脱していないのは困ったものです。
 例えば、纏向建物は東西基線の配置ですが、太陽の運行に世界観を託したものです。「会稽東治の東」などという表現は、天下を二分したものであり、南北は度外視されているものです。単に、何らかの直線上に縄張りされたというものではないのです。
 これに対して、「君子南面」などの中国思想は、南北基線であり、歴代王都で、東西基線を敷いた例は、まず見られないはずです。
 つまり、基本思想が、根本的に違う
のです。

 また、所詮当時の人が引いた縄張りは、結構うねっていて「完璧な東西直線」の筈はないのです。基線は、理念なのです。

□暴走と混乱
 いずれにしろ、全国視聴者に代わって質問しているのに無視/黙殺とは、無礼にもほどがあるのではないでしょうか。芸能バラエティーばりに、アドリブは禁止なのでしょうか。それなら、NGで撮り直すべきです。
 司会者ご両人が、先に書いたような私見を言いっぱなしで、相手に無視されても何も言わないのも、おかしな話です。視聴者に伝えるというプロの根性はないのでしょうか。
 それ以外でも、古代史マニアや新説愛好者の言いっぱなしの私見が飛び散らかされていて、「史学」の裏付けのないままです。
 それをもてはやすように、だれかが操作すれば、でかい表示がバチバチ切り替わって、全土一律に追従するという幻想を与えているのが、今回の番組のだまし絵です。
                          未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再論2019 6/7 改

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*金属音妄想
 銅鐸に関して、「それまで、誰も聞いたたことのない金属音」と放言していますが、銅鐸のような独特の形状の金属物の打音の音色はともかく、金属音というなら、鉦や銅鼓のような打楽器は、殷周代の太古来、むしろありふれていて「金属音」は、全く斬新でなかったと思います、いや、元々、「誰も耳にしたことがない」などと、古代の出来事を断言できるはずはないのです。

 当時を生きていたような、見てきたような話し方ですが、もっともらしいどころか、筋の通らない放言で、素人に頷かせるものではないのです。単に発言者が物知らずという事に過ぎないのです。「初耳に驚く」のは素朴で結構ですが、実物は二千年前から存在しているのです。顔を洗って、出直してほしいものです。そして、儀式の度に奏されるから、耳に馴染むというか、「耳にタコ」になるような気がします。
 それにしても、「金属音を聞くと思考が停止」するというのも、無謀な発言です。思考の動きは誰にも見えないので、停止しようがしまいが、それは、別に見届けようのない、どちらかと言えば、好き勝手に言い立てているだけの勝手な妄想譚です。
 いずれも、文献もない太古の話ですから、言いたい放題なのでしょうが、んな勝手な個人的な感想は、公共放送で喋りたくるのでなく、個人的な世界に止めてほしいものです。このような発言は、今回限りにしてほしいものです。そうでなくても、毎年、このような迷言の再放送を見なければならないというのは、困ったものです。

*強奪無謀
 ここで、磯田氏が突然乱入して、古代に収穫物を掠奪する山賊集団が横行したというのは、暴言の極みです。
 この時代、奪うに値する財物は、ほぼ「米俵」であり、他国を侵略して死傷者を出した上で、帰り道、米俵を担いで、道なき道を野越え山越えするのでは、余りに労多くして報われぬ悪行/愚行です。
 まして、初回の不意打ちの侵略はともかく、それ以降は、待ち受けされて、撃退される可能性が高いのです。農耕を放棄して、侵略に血道を上げていては、掠奪成果なくして生計が立たず10年を経ずして国が滅びるでしょう。現に、史上、そのような山賊集団が持続した記録はないのは、磯田氏がよくご存じの筈です。このような煽動発言は、磯田師の「学者」としての見識を大いに疑わせるものです。
 そんな血なまぐさいことをしなくても、諸国盟主となって他国を服従させれば、毎年、野越え山越え米俵を担いで貢納してくるのであり、多数の掠奪用兵士を養う必要もありません。
 素人に言われるまでもなく、それが、「倭」から「日本」に継承された、それが全てではないとしても、太古以来の政治風土と思うのです。

 誰がこうした不規則発言を書き立てる台本を書いたのでしょうか。NHKの関係者の精神構造を疑わせます。これでは、健全な論争が成り立ちません。NHKは、司会者の入れ替えを進めた方が良いでしょう。

*卑弥呼無残
 諸説ある中で、当番組の卑弥呼観は呪い師であり、「呪術」の力で政権を把握し、年老いて「呪術」が衰えて、退位、死亡した』という大仰な「創作史観」が横溢していて、世上流布されている、卑弥呼を「神功皇后」や「天照大神」に見立てた諸説は、一顧だにされないのです。
 いや、いずれにしろ、「呪い師」説も、「神功皇后」、「天照大神」への見立ても、「魏志倭人伝」には、明記も示唆もされていない、論者の創作なのです。
 つまり、論者の創作世界の論理であり、古代史の見立てとして、一考に値するという程度にとどまっているはずです。そのようなご都合主義の解釈が古代史分野に横行しているのは、倭人伝の文献解釈が学問でなく、論者の想像/創造した「神がかり」としか思えません。
 何とも、不毛な論争に疲れ果てた諸兄の精神の荒廃を感じさせられる今日この頃です。

 近年の番組で見ると、一個人の提唱がNHKの思考を停止させているように見えます。

未完

新・私の本棚 番外 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再論2019 7/7 改

私の見立て ★☆☆☆☆ 壮大な空転 2017~2019/01/03  記 2019/01/13 追記 2021/01/03 2022/10/12

*NHKの低俗化を憂う 
 今回、NHKの近年の古代史番組制作姿勢について手厳しく批判しているのは、以上のような愚行が、近年NHKの方針として進められている(と思える)からです。また、愚行の背景に窺えるNHKの古代史解釈に大変不満だからです。

*NHKの偉業紹介
 現時点で、NHKの公開アーカイブで、次の番組を見ることができます。制作時点の最新成果と考古学者の知見が提示され、無理な理屈づけとは無縁なので、安心して見ることができます。
 NHKオンデマンドサービス(有料)で随時視聴可能です。
Ⅰ NHKスペシャル よみがえる邪馬台国 全三回 1989年
 *吉野ヶ里遺跡が中心
Ⅱ NHKスペシャル “邪馬台国”を掘る     2011年
 *纏向大型建物が中心

 それぞれ、当時のNHKの総力を上げた、最善の労作と見え、取材動画に、それぞれ斯界の権威の見解を求めて、公共放送の面目躍如の手堅い番組で、これからも、かくあっていただきたいものです。

 いや、古代史学者の森浩一氏は、Ⅱの番組すら、拙劣と酷評しています。恐らく、纏向関係の報道が、特定の学派の提灯持ちに堕しているのを歎いていたものでしょう。いや、森氏は、貴重な国費が、根拠の不確かな考古学活動に、堂々と費やされていることを歎いていたと見えます。

 それはそれとして、素人目にも、NHKは、相談する相手を間違えているのではないかと懸念されます。国民の支払う受信料は、特定の学派の保身に費やすのでなく、意義ある番組制作に投入する方が良いのでは無いでしょうか。それとも、多額の国費が費やされている事業を提灯持ちするのが、公共放送の任務とみているのでしょうか。

*NHK古代史番組低俗化の由来か
 今回の番組は、散発的な発掘成果から生じた「一説」を、論証も何もないままに、そして、てんでバラバラに、機械的、かつ強引に全国に塗りつけて、確たる定説と見せかける暴挙であり、各地で真摯な発掘活動を続けている関係者まで巻き込み、大変迷惑なものです。日本列島の考古学分野では、長年、着実に、古代史像を築き上げたものであり、そのような伝統的な考古学を「なし崩し」にしている動向は納得できないのです。

 NHKは、当番組制作に大変な経費を投入した手前でしょうが、臆面も無く、つまり、無反省で、連年年始に再放送されていますが、NHKの変節が古代史界に悪影響を振りまいているのでなければ幸いです。それとも、ここで素人が批判しているような意見は、どこからも寄せられなかったのでしょうか。

 このような粉飾で、各省庁から毎年確実に関係予算を得ているとしたら、所管官庁も予算査定部門も、悉く子供扱いされているのであり、一納税者としては嘆かわしいものと考えます。

                                以上

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 1/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

*NHK番組案内:チャンネル [BSプレミアム]
2018年1月3日(水) 午後1:00~午後3:00 (120分)
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,辰巳和弘,石野博信,倉本一宏
【語り】松重豊

ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?弥生人が銅鐸に求めた神秘のパワーとは?邪馬台国の女王・卑弥呼の出身地はどこ?司会の磯田道史が大興奮の古墳とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか

*再掲の弁 2022/10/11
 過去ログ点検の一環として、補充再掲したものであるが、本旨は維持されている。

*総評

 当方の知る限り、当番組は、昨年2017年にも放送されていて再放送である。昨年初見の際は、一般向け番組であり、個人的意見を批判する気になれなかったが、出演者は、権威者揃いでもっともらしい設(しつら)えであり、いっぽう、あり、「まんま再放送」という事は、ちゃんと諸兄姉から批判されていないようなので、一視聴者として苦情を申し立てることにする。

※番組方針逸脱
 当番組は、本来、歴史上の分岐点で、「英雄たち」が直面した選択を明らかにして、視聴者にそれぞれの選択肢を吟味させるものであったはずである。ところが、当特番は、「謎」の特異な解明を、てんでに言い立てて、言わば、羅列するだけで、そのような分岐点/選択肢は示されず、まことに無責任である。

※日本なき「にっぼん」文明
 この番組は、カタカナの「ニッポン」を連発するが、それは、八世紀初頭に始めて採用された「日本」の国号を古代史に使用する時代錯誤を避けたつもりかも知れない。しかし、所詮、一般人は、音声で識別するので、カタカナも漢字も同じ実態と受け止め、「ニッポン」と言っても、時代錯誤から逃げられないのである。「頭隠して」である。

 古代史の議論に、広域政権が広範囲を支配していたと錯覚させる「日本」、「ニッポン」は、「絶対禁句」である。り、まして、「日本列島」は大禁句である。当時、北海道どころか、津軽海峡も知られていなかったはずである。当時なかった概念は、視聴者に謝った理解を押しつけるので、断じて使用すべきではない。(古代史分野で、漠然とした地理概念として「日本列島」を使用し、「日本」、「ニッポン」 の乱用を避ける提言があったことを発見したので、意見の一部を撤回する

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 2/17

ザ・プレミアム 英雄たちの選択新春SP▽ニッポン 古代人のこころと文明に迫る [BSプレミアム]
私の見立て★★☆☆☆  2018/1/3   2018/02/03記 復元再掲 2021/07/19 補充 2022/10/11

※嘘の皮
 当然、画面に日本地図を表示した上に何かの記号を無造作にずらずら表示して、視聴者に制作者の独善を押しつけ、誤解を期待するのも禁じ手であろう。安直であり「ウソ」(Fake)である。
 その意味では、本特番は、ほぼ一貫して時代錯誤の大安売りで公共放送の成すべきことではないと思う。
 「日本国号」を宣言した広域政権が成立した701年を画期的な「日本元年」として、それ以前は、一切「ニッポン」、「日本」を禁句とするのが、時代錯誤の戒めになるのではないか。

*記録なき偉業の謎

 さて、今回の特番では、倭人伝を除けば同時代記録がなく、遺跡や遺物などの考古学成果にのみ基づく思索を巡らしているが、公式記録が、官製史書日本書紀(書紀)に記述されてないことをどう考えるのだろうか。つまり、歴史の流れが記録伝承されていないという事は、これらの偉業は、現代に継承されていないと言うことになるのではないか。

※記録なき偉業 銅鐸文明

 「書紀」に銅鐸に関する「記事」がないのは周知である。
 「銅鐸文明」論は、一応、首尾が整っているように見えたが、結果だけ見ると、後世の記録に触れられることもなく、当然、倭人伝にも登場しないのである。もし、「書紀」が過去の世代の歴史を書いているのであれば、銅鐸の由来、効用、発展を記した後、何かの転機で廃棄されたと書くはずである。そして、銅鐸に代わって採用された「何か」について語るはずである。滅ぼされた先行文明は、紛々たる悪名を遺すが。銅鐸文明は悪名すら遺さなかった。「文明」などと栄冠を得たものが、かくも簡単に消え去るべきだろうか。
 つまり、銅鐸祭祀は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと思われる。

※記録なき偉業 大規模墳丘墓
 「前方後円墳」と呼んでいる墳丘墓についても同様である。
 「書紀」に、このような墳丘墓は、いつから葬礼に採用されたか記録されていないし、この型式を何と呼ぶか書かれていないようである。また、誰がどの墳丘墓に埋葬されたか適確に書いていないし、墓碑も残されていないと思う。
 当時、各墳丘墓には、所定の墓守を置き、四季礼拝や遺族の参拝を規定したはずである。盗掘、破壊の防止にも墓守は必要である。しかし、そのような記事は残っていない。墓制の大幅な変更は、天下の一大事であるから、布令があったはずだが、公式記録は残っていないようである。
 つまり、大規模墳丘墓は、「書紀」を編纂した政権のものではなかったのではないかと憶測するのである。あくまで、私見である。

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※記録なき偉業 女子王卑弥呼
 よく知られているように、中国の魏王朝に使節を送り、倭王として認定された女王卑弥呼も、君主としての公式記録は「書紀」に書き残されていないと見る。
 「書紀」には、別の人物、即ち天皇の未亡人であり、かつ、後継天皇の母であった神功皇后の伝に、不正確な示唆が書き加えられているようにも見えるが、これは公式記録と言えるものではない。

※記録なき偉業 蘇我氏の新政

 蘇我氏は、財務経理の能力を有し、文書記録の能力があったから、広域国家の基礎となる文書行政の仕組みを持っていたと思われるが、伏兵に打倒され、その偉業は失われた。当然、君主として公式記録にとどめられていないが、仏教布教によって文明開化の礎を築いたことも記録されていない。

※司会者に「神がかり」逃避癖
 番組の進行で不可解なのは、司会者が、突然、神がかりして、個人的な感想を吐露することである。番組の定例で言うと、「選択」すべき課題解決策の考察材料を全部提示した上で、選択肢を明示し、参加者の意見を求めるはずなのだが、そうした手順もなく、神がかりで幕を引いて、次に進めるのである。
 番組に期待されるのは、遙か古代について思索を巡らすのに邪魔な現代人の先入観を捨てて、謙虚に古代人の視点に近づく理路を示して欲しいのだが、司会者は、古文書の残されていない古代を見通す目を持たず、行き詰まると、早口で呪文を唱えて片付け、誰も異を唱えないのである。
 現代人の勝手な呪文が通じるのは、現代から遡って、せいぜい江戸時代中期ぐらいまでであろう。それ以前の人々の思いは、根源から異なるから、現代人の呪文は全く通じないのである。
 いや、当番組は、本来、古人の感興を、個人の言葉で理解しも現代人に伝えるものではなかったかと思う。
 咥えて、司会が投げ出す神がかりの呪文の中には、番組の本旨に反する粗暴で不適切極まりないものもある。こうした暴言をたしなめる人も無く、暴言は暴言のままで終わっている。NHKも堕落したものである。

闇鍋事例
 当番組で、視聴者は、各部の当事者の断片的な主張の羅列を聞くだけで番組の最後に辿り着き、困惑の中に放りだされるのである。
 以下、当ブログは、当人もいやになるほど、懇切丁寧に問題点を指摘していくことにする。
 各研究者は、個人的な感想を述べる自由はあるが、必要な反証、反論から逃げて、不確かな私見を断定的に視聴者に押しつけるのはご勘弁頂きたい。
                     未完

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*「新たな弥生人像」
 先ずは、鳥取県青(あお)谷(や)上(かみ)寺(じ)地(ち)遺跡の紹介である。日本海沿岸に形成された沿海交易の多年に亘る繁栄の形跡が発掘されていることが示されている。丸木舟や釣り針などの漁具から、海産物を産出したと窺える。さらには、高度な技術を駆使した木製品のように、今日にも引き継がれている民芸品が認められている。
 当遺跡は、粘土中に気密状態で残されていた遺物が豊富であり、有力産地であったことを窺わせる。さらに、工芸品の工作に不可欠な鉄器が多用されていたと見えるのは、後代において順当なところである。
 古代にあっても、ものは、豊富に産するところから、豊富に要するところに自ずから流れていくものであり、年月を経て、流通したものだろう。

※専門家の錯誤

 専門家は、「輸出」とか「海外交易」とか「付加価値」とか、現代用語を無造作に当てはめるが時代錯誤であろう。当時なかった言葉や概念は控えるべきである。ものごとには、全て萌芽の時代があり、成長期がある。いきなり、成人に達するのではない。
 しっかり、おつむのねじを締め直して欲しいのである。

※ついでに神がかり

 そこで神がかりを呼び出した司会者は、小声の早口で「意味が集団で共有されているのは哲学・宗教に近づいた段階」と言うのだが、現代語としても意味不明で、二重の意味で場違いな時代錯誤で番組を混乱させた。追い打ちで、「シンボル社会」などと意味不明な言葉を言うが重ねて場違いである。古代を全く理解してないのであろう。
 それにしても、文書無き世界で、どんな言葉で抽象的な教義を異郷に伝道したか。まことに不思議である。

※広域政権の幻
 古代史学「定説」派は、さしたる根拠のない信念に基づく確信を形成していて、それは、奈良盆地中部、中和の政権が、周辺限定の地域政権でなく、西は九州北部から東は関東まで、東西を支配した広域政権との「定説」である。この番組で説かれているのは、政権中心を遠く離れた一隅で、それこそ、東西はるかな範囲に鉄器を供給していたとの作業仮説であり、両者は整合しない。
 それほど大規模な工房が鉄器の対価として入手した財貨は、どこに埋蔵されているのかということもある。

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※鍛冶工房幻想
 唐突に滋賀県稲部遺跡の鍛冶工房の話になる。断りなしに二ヵ月前と言うが、同遺跡の発掘報道は、2016年10月であるから、今回放送から一年二ヵ月前である。NHK番組の再放送時の態度として、大変不用意である。
 新聞発表時に丁寧に批判したので、ここでは極力手短に止めるが、要は、自身の所説に合うように、遺跡、遺物の考古学的考察を創作するのは、「発掘に投じられた公費を私物化する」不穏な態度と思うのである。

 他の遺跡と同様、稲部遺跡は、現にそこにあるのであり、発掘された遺物も、間違いなくそこにあるのだが、年代比定や他遺跡との関連は、現代人の思惑が強く作用するので、不確かと見ざるを得ない。

 建物の規模から見て、当時近畿地区屈指の大勢力と言うが、「当時」がいつかという大きな課題を抱えた発言である。もちろん、当時「近畿」などと言う概念は無いから、無意味な発言とも言える。
 これに対して、当番組で、現地責任者が、大風呂敷を広げず、広域供給の可能性に止めたのは賢明である。自己中心の大風呂敷で転けている学識者は、枚挙のいとまがない。怒鳴りまくらなくても、「可能性」は、否定しがたいのであるが、確実と断定するに近い排他的な物言いは、当然、多くの非難を浴びる。

※死の商人
 出土した鉄鏃を武器に限っているが、当然、狩猟の具でもある。当時の住民は、年中戦争していたと見ているのだろうか。因みに、鉄鏃ならぬ石鏃は、今でも、生駒山系の田地から出土するらしい。山上と麓で、やり合っていたらしい。
 「大乱」説を絵解きすると、数十人同士で一時間も矢戦すれば、何百本と矢が飛び交う。当然、双方とも矢避けするだろうから、当たるのは一部で、大半は外れである。もっとも、威力の無い矢であれば、当たっても、大抵は、浅手の傷である。
 と言うことで、軽い手合わせ、弓矢合わせでも、何十年と続ければ、そこら中鏃だらけではないか。乱世万歳。古代の死の商人は、繁盛したことであろう。
 鉄鏃は、工房の限定生産であるから、数に限りがあるが、石鏃や骨鏃なら、各家庭の内職で、山ほど造ることができる。どちらが、小競り合いに有効かは、言うまでもないだろう。

※鍛冶工房願望
 丁寧に言うと、関係者の強い願望にも拘わらず、この番組に示された鍛冶工房観は、不確かである。工房の存在は明らかだが、この規模の工房を運用した経済活動は、いつのものか、どの程度の期間続いたのか、誠に不確かということである。
 それにしても、当鍛冶工房は考古学体系にはめ込まれていないので、勝手に時代設定や社会背景をあてるのは禁じ手である。
 因みに、「鍛冶」と言う言葉がこちらで生み出されたように、鍛冶技術は、中国由来と言い切れないのである。

 ともあれ、再現された規模の「工業団地」に必要な鉱物と燃料の供給は広範囲であったろうし、多くの専門技術者が従事し、技術者食料など生活維持は、大規模であったろうし、大量の産物の供給先も広範囲と思われる。その程度の画餅であれば、文句も付けにくいのである。

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※更なる「神がかり」
 そこから司会は、時折示す神がかりを、またもや駆使して、ブツブツ呪文の後、「シンボル社会」など意味不明の発言であるが、このたびも意味不明の塊である。古代にそんな概念はなかったから、無意味な自己満足ではないか。
 続いて喚いているが、甲骨の亀裂から啓示を読み取る儀礼は、簡単に体系化できるものではない。殷墟の甲骨遺物は、無数の文字を読み取ったと示していて、決して、安直な「神がかり」ではない。一種理詰めなのである。実見したらいかがかと思う。
 鉄素材を輸入したと言うが、どうやって、輸入代金を支払ったかの示唆も無い。奪い取ったというのだろうか。

※戦争の創造
 続いて、鳥取で出土した殺傷人骨が語られているが、同時代遺物との確認はされていないのではないか。いずれにしろ、当時、百人や一千人ではなかったはずの地域人口の、ごく数例に過ぎない。特に意義を見る必要はないのではないか。また、武器は鉄に限らない。銅鏃も出土していたという、程度の認識である。
 水利争いなど周辺集落と起こしがちな諍いを仲裁するために、各地に氏神があった。地区ごとの力関係を確かめるために、祭りで力比べしたはずである。
 古代における「戦争」が語られるが、「戦争」は国家間の紛糾を解決する正当な手段であり、国家がなければ、それは私闘、あるいは、野盗の不法な襲撃であって、「戦争」と正当化することは許されない。「連合」が成立していれば、「連合構成員」間の紛争は、「戦争」でなく、私闘に過ぎない。せいぜい、内戦(Civil War)である。呆けたことを言わず、おつむのねじを締め直して欲しいものである。

※幻の略奪者
 ということで、大量殺傷は、遠距離から侵入した外来者の仕業と見るとして、稲作振興で富・財産がたっぷり貯蔵されると言っても、互いに犠牲の出る「掠奪」で勝ったとして、一年分の米俵を地の果てまで担いで帰るのは戯画ではないか。掠奪行の間、兵士達は精一杯食べるのである。戦果で報いる必要もある。丸儲けとは、ほど遠いのである。むしろ、歩留まりは悪いのである。

 そんな掠奪行は、毎回成功するわけはないし、それでなくても、必ず、互いに死傷する。奪われた側は長年にわたって、収穫不足に苦しみ再掠奪できない。総じて言うと、東夷における掠奪行は持続できない愚行である。そうそう、掠奪行は、牛馬の無い徒歩行であることも、忘れてはならない。さきほど、「担いで帰る」と言ったのは、その意味である。
 服属させて、徴税することにすれば、米俵は、向こうから勝手にやって来て、誰も死傷しないのである。これは、歴史の示すとおり、末永く持続するのである。まことに、賢明である。

※困ったときの「神がかり」
 またもや、司会者は、環濠集落が、「内外隔絶」をもたらし、外のものが内のものを情け容赦なく殺戮したと「神がかり」する。
 どんな根拠で、そのような無頼の論理を練り上げたのか、むしろ、個人的な妄想ではないのかと言いたくなる。環濠集落と言っても、敵襲は、ちょっとした工夫で乗り越えてくるので、「内外隔絶」などできたものではないし、仮に、石や土の壁、城郭を巡らしても、厳重に隔離すれば万事自給自足となり、封鎖されれば早晩自滅と見える。
 何しろ、耕地は、環濠外に求めないと、聚落は自壊するのである。まして、「都市化」などと「神がかり」すれば、集落内の耕地は住居化せざるを得ないのである。
 総じて、司会者は、何かの妄想に駆られて、思考が混乱しているようである。一般向けの古代史番組には、健全な思考力が望まれるのである。人選を考え直した方が良いのではないか。

 また、そうした異様な「文化」、殺戮掠奪思考の「ココロ」が、どこからやって来て、どのように引き継がれたか語っていない。少なくとも、江戸時代以降、そのような掠奪専業者は出ていない。番組の本旨にどう関係するのか。それとも、司会者は、盗みや殺戮が、古代以来受け継いできた、われわれ固有の「文化」というのだろうか。

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※環濠内外
 言うまでもないが、環濠集落でも、耕作地の大半は環濠外である。隔壁ならぬ環濠は、本来、内外の隔離手段でなく、生活用水路や運搬手段ではないかと思える。また、熊やイノシシなどの野獣の侵入を防ぐ目的も含めて、平時の役目があったはずである。

※時代錯誤、用語錯乱

 それにしても、歴博の方の口ぶりは、時代錯誤連発で、一般人には、理解困難である。一般人に理解困難な言葉を粗製濫造して何が伝わるのだろうか。
 サービス業的な経済観念が芽生えていたとおっしゃるが、当時カタカナ語は一切なかったし、現代語としても「サービス業的な」「経済観念」なる現代風の専門語、一般人が判じかねる呪文めいた用語は、世間に通用していない。当時の社会が見えたとしても、そのような時代錯誤の呪文で何を言いたいのかわからない。そして、そのような呪文は、言いっぱなしで何も補足がない。視聴者がわかろうがわかるまいが関心ない感じである。
 それにしても、当時占い暦があったとはユニークな発想である。だれが暦を伝えどのように広報したのだろうか。時は、鉦や太鼓で伝えられるが月日はどうしたのか。

※付加価値の時代錯誤
 歴博の方は、ここで「付加価値」なる迷言を吐くが、「付加価値」とは、例えば、剣に、束や鞘を付加するように、剣は剣のままで、つまり、産品自体はそのままで、装飾や付属物を付け加えることで、産品全体の市場価値を高めるものである。だから、価値の増えた部分のことを「付加価値」として訴えるのである。金属素材を鋳造なり鍛冶加工して、産品を作るのは、素材から産物に、ものの性質が全く変化するので、価値も一変するのであり、「付加価値」などとは無縁である。これは、現代でも同じである。

※価値の基準なき世界
 また、当時は、広い世界で普遍的な通貨がないから、市場価値なる、価値判断は、当事者によって異なる。
 さらにいうと、素材を買ったときに売り手が評価した価値と産品を売るときに買い手が評価する価値は、比較対照しようがないから、価値の増減は評価しようがない。その意味でも、「付加価値」なる現代用語は、適用しようがない。時代錯誤、用語錯乱の悪例である。

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*謎の青銅器銅鐸
 淡路島の銅鐸発掘の成果を見て、新たな角度から銅鐸に考察が加えられている。
 因みに、今回の発掘で出色なのは、舌の実物が出土したということである。鐸が、内部に吊した舌によって発音するのは古くから定説となっていて、中でも、内部に木製の舌を吊す鐸は、木鐸として知られていた。
 「銅鐸文明」は、銅鐸を核心とした一つの風俗、宗教体系であるから、核心が滅んで文明全体が滅んだのであり、つまり、文明の担い手が滅んだということである。

※「文明」の大安売り

 特番では、東夷の古代史に「文明」を、捨て値で大安売りしているが、少なくとも、本来の中国語の「文明」は、文字使用と文字記録が必須ではなかったか。いくら芸術的な完成度が高くても、文字なき「文明」は不合理である。以下、仕方なく「文明」と言うが、同意していないことは明記しておく。
 言ってもしょうがないのだが、安直な受け狙いの言葉の安売りは、直ぐ「大安売りの捨て値」が普通の値頃感になって、無感動になってしまう。最悪の販促策である。
 別の場所、別の論者によると、いまや、甕棺埋葬のような、葬礼形態まで、文化、文明視されるご時世である。

 さて、それはさておき、ここで提唱されているのは、銅鐸時代は、日本海から畿内に齎された技術と鉱物で、独自の高みに達したというものである。根本的な不審は、かくのごとく銅鐸を最高の崇拝対象としていたものが、ある日、その崇拝物を残らず埋めてしまう精神構造は想像できないということである。
 一時、鐸を至高と称揚していた支配層が全滅して、銅鐸文化・文明は、断絶したのではないか。その証拠に、今日、木鐸を粛々と鳴らしても、一般人は特段感動しない。

※銅鐸音の衝撃
~また一つの妄想
 民博の方は、『銅鐸音は、初耳に衝撃を与える』と言うが、しょっちゅう鳴らしたら初耳もないものだと思う。そこに、別の専門家による「神がかり」で、「音は思考を停止させる」と言うが、意味不明、理解困難な呪文である。人の思考が停止するのは、死ぬときである。
 それまでも、銅鼓などの金属音は、折に触れ聞けたはずである。いや、思考が停止するような相手がだれか知らないから、断言はできない。

※「神がかり」、また一つ~終わりなき妄想
 司会は、またもやの「神がかり」で、「銅鐸の音が稲の成長を促す」と言う。音の肥料とは物騒である。古代人は、稲の生長に日照と灌漑水が必須であることは知っていたし、収穫期に襲来する雀が、稲穂を食い散らすのは知っていたろうが、金属音を鳴らし続けないと、穫り入れが伸びないとは思っていなかったと推定している。と愚考する。誰も、司会者の「神がかり」を止めないのが不可解である。

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*驚きの大型建物群
 纏向建物群の時代比定は、時代に似合わぬ工法を想定していて、玄人筋の疑惑を招いているようである。 
 素人なりに考えると、後世、仏寺建築に半島から技術者を招請したときには、すでに鋼の大工道具が到来していて、製材工や大工を養成できていただろうから、大規模建築に必要な長寸の角柱が製材できたように思う。
 この点の見極めは、纏向建物群の時代考証に不可欠だが、説明者は、この点を言いたくないようである。

※柱穴と柱
 素人考えで恐縮だが、纏向建物群が三世紀前半のものだというのなら、当時建造可能な丸柱で、屋根の低いものであったろうと感じる。
 纏向建物群で、角柱穴が出現したことから、たちまち画期的な角柱が採用されたと提唱されているが、丸柱に角柱穴を掘ったのではないかとの批判に応えていないようである。
 つまり、敷地縄張り時に、各柱穴の位置を決定するが、その際、想定位置に角穴を掘ったのではないか。それだけである。
 建築の際の各部の組合で、位置調整が予想されるから、大きめに掘った可能性がある。それまでは、個別の建物の縄張りの際に、柱穴位置に柱材を据えて、現物合わせで丸柱穴を掘ったのではないかと思うのである。
 建物の高さは、柱穴から推定した柱寸法による柱強度に従い計算するのだろうが、柱が柱穴より細ければ、推定高さは低くなるものと思う。雨の多い日本では、中国式の構造に比べて、屋根の傾斜を大きくして、雨水の排出を促進するのだが、これは、屋根が高くなることになり、瓦葺きにしろ、萱葺きにしろ、屋根屋泣かせと思うのである。
 是非、当時の工事手順を考慮の上、妥当な配慮をいただきたいものである。

※画餅技術の発展
 表示されたような概念図を描き上げるのは、CG技術者には児戯の類いであろうが、少なくとも要所に角柱が揃わなければ、このような大規模建物は、実現困難な「画餅」と思われる。何より肝心な、材料力学的な構造計算はどうなっているのだろうか。
 当時の遺物に描き残された建物外観も、現実の記録なのか、関係者の願望なのか不確かではないか。

※屋根屋の嘆き
 さっさと描き進んだ萱葺きらしき屋根は、どんな足場と道具でこの高さと傾斜としたのか。すでに、練達のとび職や屋根屋がいたのだろうか。また、高温多湿の夏、急速に進展する雑草繁茂や鳥や虫の害をどんな手段で防いだのか、興味津々である。
 あるいは、隣接する建物からの飛び火は、どう考えていたのだろうか。

 後年、葺替に要する人員の動員と萱材調達が困難で、20年程度で廃棄したのではないか。材木を、わら縄で結わえたとすると、その辺りが限界とも思えるのである。ある意味、建て替えで、工事関係者を維持していれば、民家の大型建物がない時代、技術を維持できたのではないか。

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※直列配置という「選択」

 因みに、建物群を一直線上に揃えるのは、総設計者が、方針を立てて指示するだけで、何ら超絶技術を要しない。建物群を乱雑にせず整然とする選択肢は、当然と思われる。
 さらにいうならば、洛陽城等の大規模都城は、直線配置にしなければ構成できず、権威などと言ってられないのである。
 これほどの建築物を構想、作図、施工監督できるほどの人材であれば、手元にいろいろ前例を書き留めていたろうから、別に驚くことはなかったと思うのである。
 いずれにしろ、一旦建物の建築が始まれば、縄張りできないので、整然と配置できないことは、自然の理である。全て、段取りの問題であり、経験豊かな総監督と手際のよい大工頭が揃って始めてできることである。

※突然の角材建築

 要は、鋸(のこぎり)も鉋(かんな)もない時代、柱材にする木材を山から切り出して角材に製材するとき、定寸に仕上げるのが大変困難(実際上不可能)であったと愚考する。伐採地近くでの製材段階から入念に指導しなければ、必要な木材の必要な寸法の角柱は手に入らない。
 鋼製大工道具が大量にあれば、時間をかけて仕上げることはできるが、三世紀前半、そうした大工道具を駆使する大工を揃えられなかったはずである。手近な盆地周辺で柱材を伐採したとしても、所要の角柱を揃える困難さは絶大ではないか。

 ついでながら、後世の寺社建築のように、角柱をほぞ組みして組み上げるには、当時の在来技術から見ると、超絶的とも言える設計技術と加工技術が必要であり、しかも、設計図面のような実制作の裏付けのない、単なる構想(コンセプト)では、俗に言う画餅であり、とても実現できなかったと思われる。

 繰り返すが、ここで想定している纏向建物群は、とても、三世紀の技術ではできなかったものであろう。できていれば、当然、直ちに君主の居所など実用に供されていたはずである。

※応用展開
 それにしても、木造建築の技術と経験は、墳丘墓の採石、土木工事は、専門外であり、ほとんど生きなかったと思う。おそらく、現場監督は、総入れ替えになったと思われる。用材の伐採、製材に始まる建物群の大規模技術は、建物にしか活かされないのである。
 地の墳丘墓造成には、新たに訓練した職人が多数派遣されたはずであり、それぞれ、文書化した指南書を持参したはずである。かなりの人数が、読み書き算術に習熟していたはずである。各地で、次々に新規増成ができたのは、組織的な運用が成されたからだと思われる。

 巨大な墳丘墓の造成は、大仕掛けであり、文書連絡と記録無くして達成できないからである。と愚考する。

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※纏向遺跡の出現 未踏の大事業
 続いて、纏向の権威者は、「箸墓古墳」が最初の巨大古墳と言い放つが、異論は多数あるであろう。なぜか、百メートル台は「巨大古墳」でなく、二百メートル台になったのが、画期的という意味が不明である。と愚考する。

 民博の方は、纏向が巨大墳墓の最初と決めつけていて、その勢いで、ここから巨大墳墓造成の指示を出したために、結果として絶大な権力が形成されたように言う。
 しかし、これほどの巨大な造成が破綻せずに実行できたのは、読み書き算術に熟達したものが、文書で計画管理し、古代国家の要件を備えていたからだと思う。権力という力尽くでなく、「知」の集結であろう。
 どの墳丘墓が最初であれ、地域初の前例なき巨大墳墓は、前例なき広範囲から、前例なき大量、長期動員することが必要であり、そのような前例なき指示を出し、どれだけ年月を要して、どれだけ苛烈に強制したかは別として、最終的に完工できるまで、地域全体を管理、服従させたということは、それ自体、文書行政に基づく、前例なき強固な機構が確立していた証拠ではないか。
 「読み書き算術」を供えた、有能な官員が多数教育、育成されていなければ成り立たない話しである。
 そのような偉大な「国家」機構が、順当に後継されず消えたのは不思議であるが、それは、当方の知ったことではない。

※中和への物流の担い手
 「もの」は、自分で移動する足はないが、近隣交易の連鎖によって、バケツリレーのように集落間を移動して、終着地に到着するのである。と愚考する。
 行商人が担いで回ることもできる。鉄斧、石材や米俵は無理だが、釣針、縫針の小物を背負子一杯担いで行けば、どこに行っても、寝泊まりできるし、食うに困らない。

※隘路談義

 当シリーズの別の回で、平城京の物資隘路に業を煮やした聖武天皇が、なら山越の恭仁京や竹ノ内越えの難波京への遷都を行ったとしている。
 平城京南方の纏向は、三―四世紀は、人口集中が進んでいないから、物資輸送の隘路はまだ深刻でないにしても、河川交通に恵まれていないという本質は同じである。
 さしあたっては、背負子担ぎとすると、峨々たる竹ノ内峠も、東側の急斜面「片峠」といえども、つづら折れの道をゆるゆる上れば、大抵の人の力で越せるのである。現に、近年まで、旧道は「つづら折れ 」の好例だったのである。なお、この経路を「片峠」というのは、河内側が、随分緩やかな下りで、難所でも何でもなかった/ないからである。

 一方、淀川水系の終着地木津から緩やかな「ならやま」越えなら、竹ノ内越えよりずいぶん楽なのである。
 当時の社会は、地域政権の所帯が、大量の食糧搬入なしに生存できる程度で、人口安定していたはずである。

 まほろばは、稔り豊かな桃源郷ではないと思う。

                     未完

私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 再掲 12/17

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※纏向のまほろば
 隘路談義のついでに、纏向運河について雑感を述べると、運河遺跡の語るものは、常時そのような水運があったという事ではないであろう。纏向付近は、東方の山地から流れ下る河川の渇水と氾濫に苦しんでいたはずであり、運河は用水路、排水路となっていたと推定する。
 そのような、言うならば複合扇状地状態であったため、南北交通は、ながく、山腹を蛇行する「山辺の道」に頼ったのである。ために、狭隘で駄馬の陸運は運用できず、人力の背負子運びと思われる。

※幻の大和川水運

 同様に、盆地西方から河内平野の経路は、主に、竹ノ内峠越えのつづら折れの山道であったと思われる。
 大和川は、そもそも急流であり、時として暴れる川であるから、遡行の水運は成立しがたい(実際上、運用不能)と思われる。遡行を維持するには、人力または馬力曳き船が必須であるが、大和川の川岸にそれらしき曳き路が通じていた形跡は見つかっていないと思う。
 考古学者によると、海船が大和川を南下遡上して、柏原辺りの船だまりで荷下ろししていた形跡があると言う。ここまでは、正確な推定だろうと思う。そこから、一回り小振りの川船で大和川を遡行して山越えしたと推定しているが、先に述べたように、それはできない相談であり、実際は、陸送に切り替えたのではないかと思われる。

※喪われた大和川水運
 「元々遡上できなかった大和川が、纏向造成時代に開鑿されて、建築資材などの重荷を搭載した川船を曳いて遡上した」としても、平城京時代は、劃然と途絶したかと思う。
 遡上運行が続いていれば、語り継がれているだろうから、そう思うのである。後年設営された平城京は、盆地北部の「なら山」のすぐ南であり、大和川水運から、大変大きく遠ざかっている。纏向ですら、大和川水運の対極なのだから、その北方となると、何かの理由で忌避したのかということである。

 因みに、当番組では、古墳造営故事のどさくさ紛れに、大和川を遡行して石材を大量運搬したとか、九州方面から瀬戸内海を歴て貢ぎ物を献じたとか法外な空想まで持ち込んでいる。河川を遡行する水運の難点は、河勢に逆らって船体全体を引き揚げる大変な労力にある。まして、大和川の急流を奈良盆地にまで引き揚げるなど、とんでもないことである。そう思わないのなら、冒険航海を試みて頂きたいものである。

 纏向領域で、九州を含む各地産物が発掘されたのは事実だろうが、三世紀当時は、それほどの広域を実際に支配した政権が存在しないから、政権が指示して、はるばるここまで貢納させたわけではないのである。
 大層なことを言わなくても、地域間交易の鎖が繋がっていれば、誰かがわざわざ持参しなくても、月日は要するが、大抵のものは自力で到来するのである。「纏向」説は、当時限りの「共同幻想」と思えるのである。

 ついでながら、当特番では、大規模墳丘墓を、ほぼ纏向地域に限っているが、吉備や河内、さらには、南山城の墳丘墓については、ほとんど語らないのである。これも、不思議である。

                     未完

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*「邪馬台国」論
 ここまでの議論は、遺跡・遺物に基づく文献のない考古学的な議論なのだが、ここだけは、同時代文献が残っていて、その解釈に議論が集中するはずなのである。つまり、遺物考古学は、確たる文献の前では、一歩下がるものなのだが、当番組は、考古学的憶測のべた塗りである。
 ここに「邪馬台国」が来るのは、纏向墳丘墓が、卑弥呼遣使を時代的に遡るという一説に基づいているようである。しかし、「魏志倭人伝」では、中国側の窓口として倭を含む東夷との交流を管理した帯方郡は、纏向政権との交流を記録していないと見る。この難点は、重大である。
 帯方郡が消滅した後は、中国側に詳しい記録がないから、好きなように言えるのである。

※迷走・誤読の海
 「邪馬台国」論は、いきなり、「倭人伝」の誤読に始まる。と言うか、勝手に「後漢書」など後世編纂史書を取り込んだ、と言って失礼なら、自己流の創作を持ち込んでいる。過去一世紀に余る集団創作活動の成果であるから、多種多様な手口で、高く、低く、深く、浅く、掘り下げている。其の壮大な偉業には、理屈抜きで感銘を受けるとともに、それ故、絶対不屈、断じて不退転の意気を見てしまうのである。しかし、学術的な論義は、行きがかりや力業で決まるものではない。
 「倭人伝」に基づく議論というならば、三十国乱立も、七、八十年の「倭国大乱」も、各国総意の女王擁立も、全てが文献に根拠を持たない創作である。そうした大げさな表現の出所は、笵曄「後漢書」倭伝であるが、表向き、陳寿「魏志」「倭人伝」だけが史料と言うことで、その点に触れていない。言い古された事項だが、「邪馬臺国」も「後漢書」にあって、「倭人伝」にはない。つまり、これも「創作」である。もちろん、「創作」は「ウソ」などではない。
 このように、出発点で大量の「創作」を持ち込むのは、「倭人伝」にない広域政権を土台にして、各説を展開したいという下心の表れなのだろうが、ちょっと行き過ぎている。と愚考する。

※卑弥呼の出自
 不毛な所在論を飛ばして、「卑弥呼の出自」を論じようというのだが、問題点がなおざりにされて各論言いっぱなしである。と愚考する。当番組は、ここまで、しきりに纏向政権を拡大投影しているが、当該政権の実力として、瀬戸内、中国路を通じた九州支配も当然としているようである。ことは、信念の問題で無く、学術的な論証を要するのであるが、裏付けが無くて、提示できないという事なのだろうか。
 司会は、三世紀冒頭の世相のように言い立てるが、その時点で、北九州の伊都国と中和の纏向政権が一体化して、連合国家を形成していたというのは、更に一段と裏付けの無い話であり、到底、立証が無理な話と思う。
 そもそも、「倭人伝」を読む限り、この時代、倭の諸国は、主要国を除けば、王統の確立していない、不確かな寄り合いであり、とても「国家」などと呼べるものではなかったはずである。大半が国家になっていない集落が、多年に亘って互いに争い覇権を求めるというのは、単なる幻想である。と愚考する。
 そもそも、倭の国々が、全て王制を確立、継承していたというのは「後漢書」の「創作」である。司会は、無造作に諸国王と言うが、勉強不足の誤解発言である。と愚考する。

 「倭人伝」を虚心に読めば、「男王」に諸国不満となったとき、「男王」の親族で終生独身の巫女として勉めていた「一女子」を、主力数国が、挙って支持したと見て取れる。いや、「男王」すら、自身の孫の世代に譲ることで、得心したと見える。
 冷静に見ればわかると思うのだが、鬼神、つまり、諸氏族共通の祖霊に仕えることは、王族子女でなければ許されないのである。つまり、「一女子」の身元は、この上もなく確かだったのである。
 このあたりは、到って視線な推定と思うのだが、当番組を含めて、ほとんど聞くことがない。 

                     未完

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※広域連合の虚妄

 「交通手段が未開通で、しかも、文書通信の存在しない、できない時代、九州北部の筑紫と中和(中部大和)の纏向を結びつけた広域連合が成立していた」というほら話に従うと、事ごとに不審感がやってくる。
 例えば、伊都での一人の人物、一女子(卑弥呼)の擁立について、中和(大和中部)の地方政権であり、倭人伝に名の出ていない纏向政権がどうやって知り得たのだろうか。
 一ヵ月どころではない行程を駆けつけた伝令による召集を受けて、一か月どころではない行程を歴て、遠隔地の連合総会に出席するのだろうか。とても、国の体制を維持できないと思う。

※音信不通
 広域連合だと、立候補者に賛成するには、その場で投票するしか手段がないし、連合総会の決議に不満を抱いて脱退しても武力制裁のしようがない。諸国一体化どころか、けんかもできない遠隔交際である、と愚考する。世上の各兄姉は、当時、中和纏向から九州北部に届く広域政権が成立していて、一貫交通ができていたと、はなから決めてかかっていて、論点は、広域政権所在地だけのようになっている。しかし、三世紀前半、東西の果ての相互間の連係に関して、何らかの物資の流通があったということを示すとされる貴重な出土遺物以外に、何を巨大政権説の根拠にしているのだろうか。

*近隣交易の連なり
 それにしても、多少の産品であれば、交易の鎖を辿って、数百㌖を、数か月、数年を経て移動できるが、一気に持参などできないのである。嵩張って、重みのある壊れ物の土鍋については、ますます、鍋釜担いで参上とは行かなかったと思うのである。まして、遠隔地にも、鍋釜はあるから、担いで行く理由がないのである。

 近隣取引であれば、買い手の求めに応じて提供するだろうし、都度、取引の一環として交換を重ねていけば、誰も急かさないので、始発点から終点まで、数年かかっても問題なく届こうというものである。太古以来、ものが「豊かなところ」とものが「乏しいところ」を仲立ちするのが、近隣交易の走りだったのである。近隣交易であれば、掠奪も詐取も、ほとんど心配なかったのであるし、途上で、遭難、徒死することも、ほとんどなかったので、大した利益がなくても、言うならば、近現代に到るまで、細く長く続いたのである。

※狹域連合の勧め
 結局、三世紀の社会に見合うものは、広域ならぬ狹域連合でしかない。と愚考する。新王擁立の諸国総会は、諸国が出席に数日を要する範囲に限れば、なんとか想定できるのである。もちろん、それはそれとしても、通常の手順としては、月に一度、国王臨席の朝会に参集できるかどうかである。
 文書通信のない時代、報告、連絡、指示、通達は、面談するか、伝令の伝言しかないのである。相互に、報告、連絡、指示、通達がなければ、統治-被統治の関係が維持できないのである。つまり、「列島制覇」などと言わずに、ほぼ筑紫内の狹域連合であれば、各国から盟主に税務、労役、軍務の義務が果たせるのである。

*名のみの連盟
 連合の中核を成す、言わば正会員の列国、例えば、対海、一大、末羅、伊都の「倭人伝」道里記事上の四大国は、密接に連携していたとしても、残る名のみの諸国は、別に、連合の運営に参画しなくても良いから、正会員でなくて良いのである。北九州一円、と言っても、実は、「筑紫」界隈であれば、遠隔地と言っても知れているのである。(目立つ例外の「奴」、「不彌」、「投馬」の除外は、話せば長くなるので、ここでは脇に置く)
 まして、一部の論者がこだわるように三世紀に中和政権による広域支配を想定したとき、筑紫から中和まで大量の食糧貢納は不可能であるし、人員の労役、軍務派遣も同様に不可能である。何をもって支配というのか疑問が絶えない。あり得ないという方が、随分簡単で、明快である。

*なかった諸国盟約
 諸国盟約の証しとして、人質でも取ったのだろうか。中国古代の周王は、封建の際に、盟約の証しとして金石文を刻んで渡したとされているが、三世紀当時の東夷では、文字を読めない国主が大半であったろうし、どのみち、王位とともに盟約が継承される国王ではないので、代替わりすれば作り直しであり、とても、やっていられなかったはずである。近所づきあいの取り決めであれば、別に、金石文で誓約する必要はないのである。
 色々、時代、地域相応に世界像を考え直していただいた方が良いようである。
 そうそう、これは、遠隔諸国まで総出で総選挙して、女王を共立したという年代物の戯画は、ヒビの入った骨董品の博物館遺物(レジェンド)にして、退席いただいた方が良いとする俗説批判でもある。

                     未完

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*新たな時代の改革者 蘇我氏遺訓
※見当違いの比喩
 当特番は、蘇我氏については、大分適確と思われる評価を伝えていた。感動的とさえ言える。
 それにしても、権威者が、文書行政という古代国家の骨格を、「インターネット」に例えたのは、大すべり、大外れである。「インターネット」は、情報収集の場であって、無理して例えるなら、道路網のようなものである。「インターネット」自体は、何もしてくれないし、有用な作業ツールでもない。次に出て来る「グーグル」は、NHKの番組であるから、おそらく、特定企業や商品を宣伝するものではなく、検索中心の「機能」を目指すのだろうが、大事なのは「フェイク」と真実を見分けて、有効な新知識を自分の思考の糧とすることであって、検索手段などではない事は言うまでもない。
 凡そ、専門家に求められるのは、専門分野における深い学識であり、自分で良く理解できていない生かじりの比喩を持ち出すのは、専門外分野について混乱した脳内を露呈している。
 自分の持ち分の中で語るべきである。と言うものの、勘違いの比喩が堂々と主張されるのは、古代史分野で日常的な現象であるから、氏が、特に失態を示したというわけでは無い。

※先駆者の偉業 「普通」の意義
 思うに、蘇我氏が導入した文書行政は、文字コードのUniCodeになぞらえるべきものだろう。土地ごとの言葉の違い、あるいは、身分や職能ごとの言葉の違いを融合できる共通基盤を提示したものと思う。話し言葉は分かれていても、書き言葉、そして、計数管理を、普通(広く通ずる)、つまり、普遍的にしたと思うのである。
 素人考えだが、文書記録に残っていなくても、そのような堅固な基礎が普通のものになってあって、始めて、八世紀型の統一政権が成立したと思うのである。
 集団内に読み書き算術者が多数いて、経理部門や戸籍簿作成、管理の書類作成部門があり、各工作部門の資材管理、納期管理部門があり、と、後世の産業的な組織が成立していたものであろう。事態を越えているといわれそうだが、古代メソポタミアの古代国家バビロニアなどでは、粘土板上に楔形文字を書き込む記録方式とは言え、既に、経理技術者の養成学校が成立していたのである。これこそ、「文明」と呼ぶに値する偉業である。

 蘇我氏が駆使していたのは、「スキル」、つまり、個人の技能の結集であり、それこそ、五年、十年の周到な訓練を経て始めて継承できるのである。読み書き算術の教育訓練のために、私学、私塾を運用していたのであろう。もちろん、全て、勝手な推測である。

※文書国家の創世
 文書行政は紙行政であるから、組織内には、自製化した事務用紙が大量に出回っていて、遠隔地の出先が一片の紙で指示されて動作する先進性を有していたと思う。そのため、遠隔地と私的な(つまり、当時の中和政権の物ではない)文書便を運用していたと思う。そのような運用に必要な通貨も、何らかの方針で運用していたものと勝手に思うのである。

 組織の中核には、日々の活動を記録し、定期的に業務報告を奏上していた史官がいたと勝手に思う。「書紀」に上げられている史書の主要部は、蘇我氏の史官記録であったと勝手に思う。

 終始、勝手な言い方で言うと、蘇我氏は、れっきとした「古代国家」であり、実質的に八世紀型の広域政権だったのである。中和勢力は、蘇我氏と並び立っていたにしろ、国家の要件を他者に委ねている未熟な政権であり、時に提起されるような成熟した中央政権ではなかったようである。いや、素人の私見である。

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※古代文明の興亡
 確認すると、蘇我氏は、河内平野中南部に本拠を持つ氏族集団、言うならば、南河内勢力であり、誰かの臣下ではなかったようである。
 有力豪族の中で新来であったために、広く張り巡らされていた同族連携の「氏神」の網が持てなかったということであろう。その不足を乗り越えるために、先ずは、各地に広く親族を配置している物部氏を排除し、次に、仏教信仰を利用して、氏神を覆い隠す「氏寺」の網を張ろうとしていたものと思う。
 蘇我氏は、すでに、確固たる政権として、創世神話を編纂する機会まで得ていたから、あえて、既存政権を打倒する必要はなかったはずである。と言うか、自身が「政権」であったように窺えるのである。

 蘇我氏政権は、そのように、効率の優れた専制「国家」であったため、却って、英邁な元首の死によって、あっけなく瓦解したのであろう。各地に親族を住まわせていた物部氏が、宗家が討伐されたために、一気に瓦解したのに通じる「もろさ」である。

※大和国台頭
 言うまでもないが、後年の仏教国家は、諸国に国分寺を設けて、その土地のものを氏寺に帰属させ、国分寺を媒体として、戸籍などの文書管理を普及させ、中央の指示文書で地方が服従する首尾一貫した体制であり、蘇我氏の敷いた手本の上に、平城京を中心とした「日本」が形成されたものと思われる。多分、この辺りの推測は、定説に近くなっていると思うが、差し障りがあって明言できないと愚考する。
 ということで、普段は、国内史料批判は控えているが、今回は、話の運びの加減で、避けられなかった。

※喪われた蘇我文明
 司会の見識として賛嘆に値するのは、蘇我氏が文書管理したことを「蘇我文明」と呼んでいることである。ただし、この「文明」の文書記録が残されていないので、後世の「文明」は、「蘇我文明」の後継とは言えないのである。
 そして、蘇我氏の風雅や情感は、書き残されていないから、現代人は、「蘇我文明」のこころに学べないのである。

 残された記録は暗殺者のものでしかない。暗殺者は、権力の中枢に座ったが、それ以後、従来希であった親族内の争いを巻き起こし、途上では、古代史最大の内戦を招き、それにより、多くの犠牲者を出してまで、権勢の保持を図ったと見える。と愚考する。
 現代人はそのような文明を受け継いだのだろうか。

                     未完

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*締めくくり
※「モニュメントチェンジ」の錯乱怪

 司会は、またもや「神がかり」して「モニュメントチェンジ」などと言うが、なぜ普通の人にわかる言い方で言わないのか。なぜ、普通の古代史用語で喋れないのか。なぜ、このような不届きな発言が見過ごされて、NHK番組が放送されたのか。素人には、想像もつかない。

※おとぼけ結語
 別の司会が、「本特番の内容が、一貫して今日の文化の前提」と締めたが、大いに疑問である。これでは、二人して司会した意味がない。各項は、史書に記録されてない
から、遺跡・遺物から勝手に推定したものであり、あくまで、番組制作者の勝手な意見である。
 例えば、司会の度々の神がかり、暴言も、当然として取り込んでいるが、殺戮正当化の部分にも同感しているのだろうか。疑問山積である。

※賢明な締めくくり
 最後に、主賓の役どころで、『支配者が作り出した「権威の見せ方」、つまり「演出力」が示されていた』と、一般人にわかる言葉で番組を締めたのは、大変有り難かった。

※蛇足の神がかり
 司会の蛇足で、「日本文明」と時代錯誤の言葉を蒸し返し、えんえんと、「時代の共同の幻想のシンボルやモニュメントが生まれる」とか『 中央で作られたものが「ぶわっと」周辺に伝わる』とか、仲間受けしているのかも知れないが、一般視聴者には、意味の通らない、つまり、意味不明な言葉を連ねていて、後味が悪かった。
 思うに、このシリーズは、司会の「歴史学者」が、はしゃいだり、ドスを利かしたり、俗な手口で番組を仕切るのだが、その際に、当人の脳内奥のプライベート世界の「ことば」で呪文を唱えるから、普通の人間には何のことか理解できない。あるいは、当人もまるで理解できていないのか。報道機関としての、あるいは、公共放送としてのNHKの乱脈ぶりが露呈しているように見える。

※心を開いて
 司会が本特番で乱発した「神がかり」は、ご当人のインビジブルなる世界の風景なのだろうが、人の脳内概念は、どう転んでもインビジブルであるから、せめて、「私的な閉塞したプライベート界の手前味噌発酵言葉」でなく、「外界と交流するパブリック界の平明言葉で語って欲しい」のである。脳内と外界の言葉が結びつけば、下手な呪文でごまかす必要はないのである。
 いや、ローマ人の住居風のプライベート界/パブリック界の概念は視聴者になじんでいないから、古めかしい言葉で言うと、閉じたまぶたと心を開いて、「主観」世界で構築した理論を「客観」世界にもたらして欲しいのである。

※聞き役愚問の勧め
 こうした際は、聞き役が、初歩的な質問を挟んで、専門家がそれに応えることで視聴者のわかる日常に近い言葉に立ち戻るが、当特番では、そうした配慮がなく、二時間にわたり、二人組の司会の独断言葉とその場の面々のグズグズの業界言葉が中空を飛び交うのである。おかげで、当記事は、まるでアラ探しになるが、別に探してはいないのである。「身に振る火の粉」は、キッチリ払いのけるしかないのであった。

 歴史と伝統のあるNHKともあろうものが、教養番組作り初心者レベルの手口もこなせず、出演者と視聴者のつながりが断たれたままの下手な番組作りを続けたのが嘆かわしいと愚考する。

                       完

2022年10月11日 (火)

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 1/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11

〇総評
 公共放送であるNHKの古代史番組が泥沼に這っているとの噂があるが、同番組は、古墳ブームを仕掛けたと目される功労者「歴博」の独演会に堕していて情けないのである。古墳時代は専攻外であるが、もののついでのように倭人伝を毀損しているので、論じないわけには行かないのである。

*番組紹介 公平のためにNHKサイトから引用 句読点編集あり
 今、古墳が熱い!世界遺産に登録された大阪の巨大古墳のほかにも、全国には魅力的な姿かたち、ミステリアスな古代のロマンに満ちた古墳がいっぱい。そのえりすぐりを紹介!
 沸騰する「お城」人気に続いて、今、熱いまなざしが向けられているのが「古墳」。ステキなのは世界遺産に登録された巨大古墳だけじゃない。全国にはユニークな姿かたちをしていたり、古代のロマンに満ちた古墳がたくさん。純粋にその「カワイサ」に夢中になる古墳女子も続々出現しています。今回は全国に無数にある古墳の中から、えりすぐりを6つ紹介。その中から「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳」を選び出します。
【司会】恵俊彰、赤木野々花 【出演】苅谷俊介、笑い飯、哲夫、堀口茉純、
  国立歴史民俗博物館教授…松木武彦、京都美術工芸大学教授…村上隆

*歴博独演会
 国立歴史民俗博物館(以下「歴博」)が教育機関でもあるという事か、松木教授登場の趣旨は不明である。国立博物館機関を代表する権威と解すべきか。

*異議連発
 当番組は、単なる古墳紹介と見て録画設定せず、あまり注目してなかったがトンデモ発言で注視した。別番組の古代史素人の磯田道史氏の失言はともかく、古代史権威たるべき歴博教授の口から堂々と放たれた虚言である。
 三世紀に、全国に古墳が開始し、一斉に同形態の古墳が広がったなど、大量生産風説が蔓延している。当時の「全国」は、奈良盆地一帯も怪しいが、列島各地を「全国」とは、言うならば、子供だましの口車なのだろうか。

*古墳数え遊び
 早々に見せたように、堺空撮で古墳と見えるのは、精々5,6件で、残りは、眼に止まらない砂粒である。それを逐一数えるのはどういう趣旨なのか、コンビニの全国店舗数を引き合いに出すのは、どういう意味か。うさん臭い。

*一斉造成妄想
 中央権力による造成は子供だましだろう。それぞれの古墳の造墓は、その都度、その土地で、誰かが提唱し、図面を引き、人と物を集め、一から十まで指導したのである。並行して集団派遣できるように、多くの造墓者集団を養成した上で、各地にそれぞれ派遣し、各地で同時に造成したと見るものと思う。ことは、政治権力の問題ではない。古墳は、帝王が片手で作るのでなく、造墓技術者集団と現地募集の労務者が作るのである。
 全国で一千を超える数であるから、十集団が取り組んで、それぞれ十年以上かけるとしたら、遙か後年まで、いや、ひょっとしたら今でも造成が続いている計算である。そういえば、堺地域のとある古墳には、鉄筋橋梁が世界遺産の一部として遺跡保存されていると言うから、冗談ですまないのかも知れない。
 してみると、強力な中央権力も、崇高な宗教性も、堅実な考古学に無縁の無根拠、未検証の仮説、風説と懸念される。

 と勝手に言うものの、解説の歴博教授松木武彦氏は、学術だけでなく、広報教宣担当、歴博聖戦の首席参謀も兼務なのか、軽々と話しを転がしていて、なじめないのである。

*視聴者誤認も時事報道の成果か
 思うに、このような特定宗派荷担は、報道機関体質なのか。新説、新発見のNHK報道は、大抵提唱者に載せられたフェイクとの噂がある。
 近年、NHK古代史番組で機械仕掛フェイクを俗耳に押しつける番組作りが蔓延しているが、風説報道を戒める経営委員会の指導はないのか。因みに、過去、フェイク報道批判には、その時点での時事報道と弁明している。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 2/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11

*無意味な若者迎合 
 番組は、にぎやかに囃し立てて、うまく人選された、悪乗り得意な、定見のない若者を乗せているが、それは、医薬品などの通販広告に時にある「教授」の囃し立て、個人的感想による印象操作手口ではないのだろうか。それは、公共放送の番組に相応しくない。NHK内部に番組審査機能はないのだろうか。

*頑固な背教者
 三世紀早々に古墳造成開始、全国一律形態と言いながら、東北独自に「前方後方墳」はどういう趣旨か。中央に宗教的権威があるなら、なぜ、背教者は討伐されなかったか。素人目には、中央より先に造墓技術が存在した「先進性」を見るのである。

*唐突な倭人伝援用
 その後に、「古墳」は、三世紀早々に確立していて、倭の女王卑弥呼はその様式で埋葬された』と、しれっとして言い放って唐突である。ここで、なぜ、ここに来て、「信用のおけない」(そこまで、そう見て無視していたらしい)外国文献史料を持ち出すのか、うさん臭い話しである。しかも、倭人伝の記事全体を丁寧に読んだら、そのような埋葬は書かれていないのではないか。

*廃品再生した銅鏡論
 銅鏡談義で、太古、倭人伝誤解釈を支えた輸入品説が、学問的棄却を克服(無視)して新装されているのは困ったものである。スズメ百までということか。
 広く配布したはずの銅鏡が、特定の古墳に多数埋設されているのはどういうことなのか。その何倍もの数を、各地に配布して地上に残したというのか。簡単な問いだが、想定外なのか、そうした当然の質問もなければ、回答もない。
 教師は教鞭を振るい、生徒は無批判のスズメの学校の趣向である。いや、これは、Eテレの教育番組ではないから、思いつきで何を言ってもいいということなのか。

*魔鏡乱入
 本筋と無関係の魔鏡が、古墳考察の本筋と脈略なしに、突然舞い込んでくるのは、歴博の広報戦略か。この議論は、安本美典氏が手厳しく批判しているのだが、何の反応も反省も無く、的外れな実験模様を再生しているのである。
 魔鏡の研ぎ出しと言うが、新鋳銅鏡は所望の輝きがあるから、強力研磨しないのではないか。なぜ、裏面の影響が出るほど研ぎまくるのか。
 魏晋朝にすれば、蛮人にくれてやる旧鏡を、百枚にわたって精巧仕上する謂れはない。関係者はみんな、宮殿装飾品の新作などで忙しいのである。銅素材も、どこでも掘れば沸いてくると言うものではない。
 一部説のように、新作でなく、宮廷倉庫に眠る後漢代の小振りな鏡を動員したのであれば、ここに上げられたような盛大な演出は無関係、無縁である。
 いや、この形式の鏡は、国産の新作と理解しているから、魏朝下賜物銅鏡百枚と魔鏡は全く関係無いとの前提なのかも知れないが、そうは聞こえない紛らわしい言い方であった。但し、出演者からの追求/突っ込みはなかったから、話は通じていたのかとも思えるのである。(展開は、台本次第と言うことか)

 いや、理科実験は理科実験として、その発想と努力をねぎらうとしても、考古学の上で、ここに取り出された魔鏡が、古墳の全国展開に対してどんな意義を持っているのか、よくわからないのである。もちろん、一流の人材が見たところ、絶大な意義があるから、このように唐突に発表したのだろうが、見ていてその趣向が理解できなかった。番組構成上、何か失敗しているのではないか。

*幻の銅鏡国産工房
 以前から思っているのだが、国内の何れかの交通至便な、つまり、物資輸送に適した工房で、これほど大型の銅鏡が、大量に営々と作られたと思えるのだが、そうした銅鏡工房の遺跡は、畿内のどこかにに見つかったのだろうか。
 素人考えでは、奈良盆地の北、淀川水系に即した木津や後の恭仁京あたりに遺跡が眠っているように思うのである。

 当然のことなのだが、念のため補足すると、銅鏡製作には、大量の銅素材以外に燃料とか鋳型の素材とかも、大量に必要であり、また、銅鋳物の型を構想し、試作を繰り返して改善するなど、芸術的に彫り上げる工人以外に、型を実作する職人、坩堝に火を焚いて銅を溶かす職人、さらには。銅鏡を鋳造する工程の汗かき、力技職人、上がった鏡の仕上げ職人、輸送用の木箱や柳籠を編み上げて作る職人、詰めものする職人、そして、川船までの運びやなどなどの多数の汗っかき役以外に、全体の資材管理、日程管理、職人の出欠管理などに加えて、どんな通貨があったにしても、銭勘定は必要だし、結局、近現代の町工場なみの経理、営業、購買などの管理が必要であり、魔鏡ごっこなど物の数ではないのである。こう考えると、何も遺物が残らない謂れはないと思う。

*新陳代謝幻想
 新説をでっちあげ、永年墨守してきた旧説を淘汰、棄却するのは、「進化」の常道だが、古代史の世界で、本当にそれでいいのだろうか。新構造、新材料登場で旧式、旧材料が、敝衣の如く遺棄される業界ではないのである。

*戦線放棄、敵前逃亡
 古墳に多額の国費を注ぐ以上、世に訴え支持を得る使命感には深く同情するが、外連(けれん)と虚構(うそ)で、長年、全国各地で考古学の活動に勤しんできた先人が確立した貴重な定見を排除するのは、罪深いフェイクである。目的は手段を正当化しない。恥を知るべきである。
 倭人伝解釈で、「邪馬台国」誤記説に、命がけで固執した「畿内説」の面々が、鬱屈した敗勢に耐えきれずなのか、使命観に目覚めたのか、新時代になって、倭人伝を単なるできの悪い外国史料として棄却する戦略に転進したのは、何とも、いたましいものがある。

*取り残された誤記論
 そのような参謀本部の転進では、論争最前線で倭人伝誤記説にこだわって畿内説を死守する良識派は、今回の番組で見捨てられたと感じるのではないか。倭人伝は、古墳新説の聖戦の前には、埋もれた古戦場に過ぎないのか。

〇まとめ
 聖戦キャンペーンに血道を上げる歴博はどこに向かうのだろうか。
 いずれは、三世紀に中央政権が古墳を全国展開したのなら、遡って、後漢光武帝遣使の倭奴国も管理下にあったと称するのだろうか。わらべ唄のようにずり下がった「しましまパンツ」をずり上げるプロレスラーは、これからは頭が隠れるまでずり上げるのか。
 古墳時代観の低落は、どこで止まるのだろうか。

 それより、地に足のついた、泥臭い考古学考証が必要と思うのである。

                                以上

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 1/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11

◯ 番外書評の弁
 本記事は、古代史関係書籍の批評を多数公開されている棟上寅七氏の最新書評について所感を述べたものです。題材は、倭人伝の行路に関して木佐敬久氏の『かくも明快な魏志倭人伝』の「古代史本批評」です。
 但し、文中で、生野真好氏の著書に言及しているので込み入っています。

 当記事は、棟上寅七氏の威を借りて、倭人伝冒頭の道里行程記事に関する施策を試みていますが、古来、「騎虎(寅)の勢い」では、寅の背から落ちると、たちまち、虎の餌食になってしまうので、身震いしながら書いたものです。
 と言いつつ、氏の書評をサカナに、私見を述べ立てていますが、氏の名声に便乗して、多少は私見を広めようという趣旨なので、ご容赦頂きたいものです。

*ご託宣
 『私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。』とあります。
 主として、倭人伝冒頭の「従郡至倭」行程の道里、特に、半島行程について、木佐氏の船舶移動説を(完全)否定したものです。
 便乗、騎虎発言ですが、ブログ筆者たる小生も同意見です。

 小生であれば「従郡至倭」に続く「循海岸水行」なる語法の「海岸に沿って水行する」への読替えが、正史語法として不法として「一発退場」とするのですが、氏は丁寧に面倒をみています。
 つまり、原文解釈を曲げて「沿岸でなくかなり沖を航海した」ことはやり過ごして、狗邪韓国に寄ってから対海国へ行くのに、長い船旅の後、「はじめて海を渡る」という表現はありえないと痛打しています。

 それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明(沖合通過では不歴の非礼となる)を無視している点にも切り込んでいます。

 棟上氏は、近代の大型客船でもこの半島西岸の多島海で沈没事故を起こすので、当時の海域を夜間停泊せずに無装備で航海する危険性を舶の専門家に聞くべきだとしています。
 かたや、木佐氏は、当時の帆船を復元して実験航海したいなどと戯言をものしていますが、氏の痛烈な批判として、単に、無謀な冒険航海の意義を否定するのではなく、信頼できる専門家の意見を聞くべきだとの教育的指導は、さすがの卓見です。

 本記事は、以下、別の話題に逸れますが、単なる余談などではなく、重大な話題なので、お付き合いすることにします。

◯論争の経歴 生野真好氏との論争回顧
 棟上氏は、半島西海岸南下説を唱えた生野真好氏と論争した経験を述べています。二重引用になりますが、行数が十分あるので、曲解はないものと思い、ここに再録します。御両所に無断で恐縮ですが、建設的な批判を心がけているので、ご容赦いただきたいものです。

*生野氏著書引用
 『生野真好氏は次のように書きます。
【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
 また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。

                                未完

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 2/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11

*生野氏著書引用 続き
 それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。
 その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。
 以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】』

*生野氏著書引用終わり

*コメント~「江表伝」資料審査
 棟上氏の見解を差し置いて、史料考証からみたコメントは以下の通りです。
 以下、生野氏著書引用が正確と仮定し、引用文における読み取れる限りの不備を指摘します。

 まず、陳寿「三国志」「呉志」に「江表伝」なる列傳はなく、「呉志」に裴松之が付注した「江表伝」を誤解したものと思われます。
 Wikipedia記事を参考にすると、【『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋虞溥編纂の呉史書である。晋室南渡の後、虞溥の子の虞勃が東晋元帝に『江表伝』を献上し、詔して秘書に蔵したという。孫呉事績を、編年体「伝」形式を念頭にしつつ、記述したものと思われる。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とあり、五代の乱世を経た北宋期には散佚して、書物の全容は全く不明である。】(要約、補追は筆者の責に帰すものである)

 当記事は、用語から「江表伝」 は、 魏晋視点で書かれたと速断していますが、用語は、晋代、ひょっとすると、東晋代に是正された可能性が高いとみえます。後出のように「江表伝」は魏武曹操敗北を、後年、東呉視点で「粉飾」した東呉寄り史書とみるのが順当と思われます。
 「江表伝」の散佚ですが、「三国志」、特に「呉志」の裴注に「江表伝」の独自記事が引用され、当該部分は現在も健在です。「書物の全容は全く不明」とは、凝りに凝った表現ですが、無用の誤解を招くものであり、同記事の信頼性を大いに下げています。全容はともかく、裴注に採用された部分は、ちゃんと「正史」の一部として継承されています。

 但し、陳寿が検証して採用したものではないので裴注による追加記事は、「三国志」本文と同様に扱うことはできません。

*裴注「江表伝」補追の意義~余談
 「江表伝」上梓は陳寿没後なので、陳寿は、其の内容を知らなかったのは明白であり、東呉史官は、「呉書」編纂時に、史官の見識でこれに相当する史料を採用しなかったから、東呉史官が編纂し東呉滅亡時に晋に提出された「呉書」が、「三国志」「呉志」に充当されても、「三国志 」に「江表伝」相当記事は不在だったようです。もちろん、陳寿は、「三国志」編纂に際し、後漢魏代に洛陽に置いて公文書として所蔵された公文書資料を援用することに努めているので、「呉志」に収録されていない野史、風評に類する史料は参照しないのですから、「江表伝」同様の野氏が存在していたとしても、仮に、そのような内容を目にしたとしても、「三国志」に採り入れることはなかったのです。
 そのようなに編纂方針は、裴松之の理解するところであり、そのため、裴松之は、皇帝の諮問に応じた「三国志」補完の勉めの一環として、「江表伝」から、他の史書にない東呉寄りの視点の「偏向・曲筆」記事を補追したようです。念のため言い重ねると、決して、「三国志」が不備だという趣旨/視点からではなく、ご指示に従い「彩り」を加えたもののように見えます。
 このあたりは、あまり見かけない意見でしょうが、ご一考頂きたいものです。
 と言うことで、世に言う裴注の評価は、かなり割り引く必要があります。厳しく言うと、裴注は、大半が蛇足で、三国志本文の充実には寄与していないと思われます。

 もちろん、裴松之は、陳寿「三国志」が、「正史」として遇するに値する著作と認めた上で、あえて、明らかに蛇足と見て取れる低俗な史料まで、補追したものと見えます。何しろ、ご指示に背く補追として、皇帝の激怒を買うと、文字通り馘首されるので、少なくとも、皇帝の体面を保って見せたと見るものです。
 世上、陳寿「三国志」が簡潔に過ぎ、不備であるとして、裴注をもって「三国志」が完成したとまで主張する方が珍しくないようですが、素人目には、「三国志」は、陳寿原本が、史書として完成形と見るのであり、先行する万巻の大著である司馬遷「史記」、班固「漢書」を尊重しつつ、それぞれの得失を見た上で、後漢献帝が、座右の名著として備える適した簡要な史書として勅撰した筍悦「漢紀」(前漢紀)を参考に、三国鼎立という時代状勢の制約を踏みしめて、鋭意編纂したものです。遺稿は、未完稿で無く、時節を得れば、皇帝の上覧を仰ぐべく決定稿、上申稿を遺して没したのですから、同時代最高の史官が完成形と自負した「三国志」に、適確な評価を与えるべきでしょう。少なくとも、後世東夷の無教養人が、したり顔でとやかく言うべき事項ではないのです。
 そして、裴松之は、皇帝を代表とする同時代「建康」読書人の偏見によって、「三国志」が、陳寿の意に反する形態に改竄される危機を、見事乗り越えたものとみるのです。

                                未完

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 3/3

木佐敬久 著 冨山房 2016年刊 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」
「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11

*コメント 続き
 このように、史料評価は、用語を浚えるだけでなく、内容を熟読、吟味した後に提示すべきです。これは、Wikipediaの情報源としての限界です。
 これは、後漢末期の献帝建安年間、宰相曹操が、荊州討伐後に巡行し東呉に服属を促したときの「赤壁」での対決で、東呉の偽降による火攻めで大敗したという「江表伝」独自記事が裴注で補追されたために、「呉志」が「江表伝」依存の東呉自慢話に堕したと見えて、史書としては、はなから信用できない状態になっているのと同様です。魏志が、曹操撤退と粉飾/糊塗しているのと同様の意味で、呉志は、曹操大敗と言いたいところだったのでしょうが、本文には大した戦果は書いていないのです。「三国志演義」は、話を盛り上げるために、随分「粉飾」を加えているのですが、元ネタは、裴注が拾い上げた「江表伝」なる、敗軍の負け惜しみに過ぎないのです。
 ついでながら、船体の大小は、時代と報告者の世界観で大きく変動し、現代読者の世界観も不確かなので、史学論では厳として避けるべき冗句です。いや、事は、船体の大小に始まり、人数の多寡などにも及ぶのであり、論考の展開に於いて、不明瞭な発言は厳に慎みたいものです。

コメント終わり

*時代錯誤の帆船起用への批判
 棟上氏は、生野氏の数字頼みの論証が、科学的・論理的な風体を示しながら、現代の帆船の航行速度を3世紀の船にあてはめる不都合を指摘していますが、これは、生野氏が、適切な専門家に適切な相談をしていないことを指摘しているものと見えます。

 続いて、棟上氏は、「野性号」実験航海情報を点検していますが、残念ながら、同航海が学術的なものでなく、客観的な最終評価がされていないことを見過ごされたように見えます。要は本筋の議論ではない、道草なのです。

 続いて、氏は本記事の核心と言える至言を提示されています。
 「海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。」

コメント
 生野氏記事の引用は、棟上氏の文責ですが、造船は地場の船大工が行うものだから、造船業のない土地では、いくら号令をかけても造船は不可能です。勿論、船材大量調達も大問題です。魏の造船、呉の造船など、殊更言うのも無駄です。長江河口部には、海水淡水両者の造船業があっても、それ以外は、魏志に登場する長江支流漢水の川船造船、山東半島など渤海岸の海船造船でしょうか。
 いずれにしろ、造船業は、それぞれの土地の地場のものであり、特定の帝国に属するものではありません。

 ちなみに、棟上氏の裁断は明解で、皇帝の命令で貴重な贈り物を大量に抱えた魏使が、剣呑な海船で行くわけはない、堅固な陸路に決まっている」との趣旨は、まさしく、一刀両断の「名刀」です。問題は、斬られた方がそれと気づかないことです。
 おっしゃるように、野獣の危険などは、兵士が護衛すれば良い」のであり、仮に野獣の被害を受けても、人馬補充すればいいから、陸路が当然です。何しろ、野獣は、下賜物を持ち去ったりすることはないのです。海船は、難破が付きものであり、嵐の沖合で難波したら、たれも助けにいけないのです。そして、帰らぬ人々は別としても、海の藻屑となった財宝は、誰にも取り戻せないのです。

コメント追記 2022/10/11
 生野氏の「帆船論」へのコメントを書き足します。
 生野氏は、無頓着に、三世紀の帆船も現代の帆船も大差ないと武断していますが、とんでもない話です。まずは、三世紀当時は、海図も羅針盤も無く、レーダーも、深度計もなかったので、一度沖に出れば、現在地を知るすべがなく、安全な進路を見定めることもできなかったのです。もちろん、周辺海域の天候を知るすべもないから、それこそ、台風と言えども、出くわすまで知るすべがなかったのです。
 また、入出港時のような舵取りには、多数の漕ぎ手を乗せるしかなかったのです。また、現代の帆船は、向かい風でも帆の操作で推進力を得る技術を備えていて、極端な無風条件以外は前進することができるのですが、三世紀の帆船は、そのような高度な技術を有していなかったから、風向きが悪いと身動きできなかったのです。
 つまり、航行速度以前に解決すべき難題が山積しているのです。

 付け加えるなら、現地海域が、大型の船舶の航行可能な状態であったかどうかも、調査が必要です。操船の不自由さを置くとしても、船底が閊えず、両舷も楽に通過できる「航行路」は、小型の船が往き来するだけの辺地では、全く知られていなかったはずです。棟上氏の指摘通り沿岸を遠く、遠く離れて、岩礁や浅瀬を十分に避けてこわごわ帆走するにしても、数日のうちに、接岸上陸しなくては、食料と水が切れるので、どこかで岸に近づく必要があるのですが、どうやって、海図の無い海で、安全な進行を見いだせるのか不可解です。
 こうした事情は、素人でも、耳学問、ネット学問で学習する事ができるのですから、著書で、このような暴論を吹き撒ける前に、専門家の意見を聞くべきなのです。

 因みに、冒険航海の諸氏は、そのような帆船の不合理を承知していて、手漕ぎ船として、大きめ、重めとは言え、操船不可能ではない「小船」に、地域海況に詳しい「水先案内人」(パイロット)を乗せ、案内された既知の安全な進路で進んで、天気予報も受信し、ほぼ毎日入港して食糧と水の補給とともに、可能な限り陸上で休養し、現地の水先案内人と交代する実用的な安全航海に挑んだと見えます。全員帰還できたのには、立派な理由があったのです。そして、帆船で同航路を突破しようとした例は、見受けません。恐らく、遭難必至とみているのでしょう。

 何しろ、想定されている数百㌔㍍に及ぶ危険連続の航海途上で、一度でも難船難破すれば、それで全てお仕舞い、人も、宝物も、海の「モズク」、ならぬ「もくず」ですから、冗談抜きで「必死」、棟上氏の言う「剣呑」、つまり、鋭利な剣を喉に呑み下すのに匹敵する確実な「危険」です。皇帝の下賜物を届ける重大な使命であれば、もし、万が一にも失敗すれば、大使以下の「責任者」は、「責任」を取らされて、自分だけでなく、妻子、家族まで連座して、公開の場で刑死して、晒し者になるので、惜しいのは、自分の命だけではないのです。

 ここで、もし、「極めて困難」と書かれていたら、それは、「絶対不可能」と解すべきであり、信念を持って、決然と断行すれば、きっとできるという意味ではないのです。地点別の危険度を㌫で評価して加算しても、所詮百㌫が天井なのですが、一度遭難すればお仕舞いなので、そのような稚拙な数値化には、まるで意味はないし、これは、「リスク」などと、戯けて誤魔化せるものではないのです。

コメント終わり

 以下、木佐氏の諸国比定論批判になりますが、当ブログの専攻範囲の「圏外」なので割愛します。

*棟上氏の総括~引用
 根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
 折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。  以上

*棟上氏の総括~引用終わり
 「書き止め」の上、謹んで公開します。(陳寿結語の引用です)

 誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言

                                完

2022年10月10日 (月)

私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 1/5

 2018/09/19 2019/11/22 補充 改訂・改頁 2022/01/22 再訂・補充 2022/02/19、2022/10/10

〇コメントに公開回答
 以下は、【私の本棚 34 中島信文 『露見せり「邪馬台国」』】なる書評めいた記事に対して尾関かおる氏から投稿頂いたコメントで、『「海行」が呉志に用例がある』との指摘に対する回答です。(2019/11/22現在公開保留中)

*用例の意義と限界
 「用例」は、原テキストの全文検索で容易に発見できますが、あくまで、そういう「文字列」が使われていたように見えると言う事であり、意義のある「用例」かどうか、言うならば、自前で史料批判した上で言及すべきであり、そのまま「用例」として受け止めると深刻な誤解に陥るのは、当方も、しばしば経験しているところなので、ご指摘に対する反論として、以下の通り、氏に代わって「用例批判」いたします。

 なお、当「用例」については、当然、先賢諸兄姉が、承知の上で却下しているものと思われますが、却下の先例のご指摘がないので、二番煎じを承知で以下説明を加えます。また、当ブログに於いて、同趣旨の記事が既出の可能性もありますが、それを見ろというのは、読者に不便を掛けるので重複ご容赦とします。
                           –記–

 「海行」は、東呉孫権政権に置いて、官道行程の常用用語とされていたのであれば、海上交易の盛んであった東呉孫権政権の史官が責任編纂した国史である「呉書」に、ほぼ忠実に依拠した陳寿「三国志」「呉志」で多用されているはずですが、実際は極めて「希」で、ほぼ唯一の用例について以下確認します。

▢吳主傳:  中国哲学書電子化計劃
 二年春正月魏作合肥新城詔立都講祭酒以教學諸子
 遣將軍衞溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲
 亶洲在海中長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海求蓬萊神山及仙藥止此洲不還
 世相承有數萬家其上人民時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行亦有遭風流移至亶洲者
 所在絕遠卒不可得至但得夷洲數千人還

*私見宣言
 以下、論旨を明確にするため断定調であっても、所詮は私見であって排他的ではなく、深意は推定ですから、異論があれば頂きたい。

 呉主伝上記記事に書かれている内容は、曹魏が、江水北岸合肥に「新城」を建設して、江南の東呉に対して武威を誇ったのに対抗するため、東呉が、徴兵船を夷州、澶州へ「浮海」、つまり、漠然と目指したときに根拠とした「情報」(風評)たる徐福「入海」の史記記事(正史記事の引用であるから、「風評」とは言えないのですが)に続いて、会稽海岸附近住民の「噂話」(風聞)を伝えたものであり、「会稽の東縣(海岸部諸縣。のちの臨海郡)に、海を行って(海に出て)強風に流されて澶州に行き着いた者があったという」とのことです。つまり、既知の目的地「澶州に向かって、官道として確立された行程として海を行った」のではないと見ます。
 もちろん、「海中」は、海水に沈んでいるという意味でなく、現代的に言うと「海上」の意味でした。また、「入海」は、海に入ると言っても、「入水」、つまり、身投げのことではありません。海上を船で行くという事です。

 ちなみに、曹魏の前線基地である合肥は、長江下流域で曹魏と東呉の競り合った紛争地であり、比較的、長江北岸に近かったこともあって、東呉の攻勢の的となり、西方で、蜀漢の攻勢を受けていた曹魏として、防衛の負担を軽減するために、若干後退した地点に「新城」を構えたと言うことです。そのため、東呉軍に、渡河して陣形を整える余裕を与えますが、堅守して増援を待つ姿勢を示して、不退転の意志を広く示したものです。つまり、東呉に求められていたのは、新城を攻めるための多数の歩兵であり、数さえあれば良しという思想だったように見えます。

*浮海と海行
 東呉として澶州への往復航路を確立していれば、海上道里や所要日数が知られていて、衛温、諸葛直の両将は、「浮海」などでなく「海行」したはずですが、実際は、果てしない海をあてなく漂って、行けども行けども目的地に着かず苦闘したことが窺えます。
 当時、磁石による羅針盤があったとの記録はないので、日中航行しかできなかったと見えます。と言うことは、澶州は、せいぜい数日の行程だったと見えます。
 何しろ、数千の人員で遠征して数千人を連れ帰るには、それ相当の水や食料の搭載が必要だし、途上の補給地も書かれていないので、現地調達も期待していなかったという事です。何れかの異郷が間近だったという事かも知れません。何しろ、ちゃんとした記録が残っていないので、よくわからないのです。

 「呉書」呉主伝は、言うならば東呉の正史であり、東呉の史官が、東呉の公文書をもとに書いたものであり、降伏の際に晋皇帝に献上されたと言いますが、関係公文書は、その際に処分してしまったのかも知れませんが、本紀、列伝部分に改変の手は及んでいないと見えます。

*「親呉倭王」はなかった
 顕著な点として、目的地との交信が無かった点が挙げられます。「交信」とは、天子に服従を誓った蕃夷が、天子に対して身上を申告し、その内容が、鴻臚の公文書として収蔵された上で、相互に、指示、報告の公式文書が往来することを言います。当然、そうした公文書は、天子のもとに収蔵され、史官が、国志を編纂する際に引用されるのです。
 当たり前のことを書き足したのは、一部、俗説にあるように、「東呉」と「倭地で女王に服さないもの」が、君臣の関係にあったという「親呉倭王」臆測が、陳寿「三国志」呉志呉主伝に於いて、明確に否定されているという論証です。

〇「三国志」の文献批判
 念押しすると、「呉書」の収納は、陳寿の「魏志」編纂に先立っていて、むしろ、「三国志」「呉志」に、ほぼ全面的に採用されているので、当然、陳寿は、全文を読んでいたのですが、「魏志」「倭人伝」に、「海行」なる「新語」を採り入れることはなかったのです。魏志」は、あくまで、「史記」、「漢書」の用語を典拠に、曹魏公文書を元に編纂したのであり、叛徒である東呉の野史、つまり、非公認史書の用語は論外だったのです。
 三国志の文書史料解釈において、「呉志」、「蜀志」は、独立した「国志」と見るべきであり、陳寿が責任編集した「魏志」本文ではないので、峻別して取り扱うべきだということになります。

                                未完

«私の意見 呉志呉主伝「海行」用例考 再訂 2/5

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