2024年10月 3日 (木)

新・私の本棚 圏外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/3

(奈良県桜井市)箸墓見守るホケノ山 毎日新聞大阪夕刊 2024/10/02
私の見立て ★☆☆☆☆  暴論、暴走  2024/10/03 10/05補筆

◯はじめに
 今回の記事は、引きつづき梅林先生が蘊蓄を垂れるお散歩話である。ただし、担当記者が御高説を曲解して、自説を述べ立てるのは大変迷惑である。

*古墳の後先(あとさき)
 聞き流せないのは、タイトルの「ホケノ山古墳」(以下、ホケノ山)と「箸墓古墳」(以下、箸墓)の後先であり、ことのついでに、この「前方後円墳」の「前方部は、後年の付け足し」という梅林氏の感想がある。
 梅林氏は、元々円墳として構築され周濠があったが、後年の追葬の際にこれを跨ぐ形で前方部が建て増しされたとの御意見のようである。ホケノ山は宮内庁治定陵墓ではないので、発掘調査を根拠とした御意見なのだろう。

 それにしても、考古学会の意見はどうなのだろうか。一夜漬けであるが、最新考証では、ホケノ山は在来工法の終幕(先)で、箸墓が、外来工法時代の端緒(後)と見える。混乱させられる。

 記者は、梅林氏の解説を無視して、『ホケノ山が、「ヒミコの墓と仮定された箸墓」の山手に、これを見おろして造成された』と見ているようだが、それでは、箸墓と三輪山の間を遮るから、ホケノ山を倭大夫難升米の墓陵と断定している梅林氏の説諭が無視されていると見える。当記事は、記者が支配しているのだろうか。

 さらに言うならば、現地取材で明らかなように、ホケノ山視点では、箸墓の背部「後円」が、西の霊山二上山を遮って興ざめである。高見したければ、檜原神社あたりまで登る必要がある。話しのスジが通っていないと見える。

*史料解釈の混迷
 地の部分、記者の見識で、難升米を女王「副官」と言うのは信を置けない。女王に副官などつかない。
 更に言うと、使節が洛陽に参上した記録はあるが、皇帝謁見とか金印と銅鏡百枚の受領は、中文の読めない誰かの勘違いだろう。誰かの勘違いが、延々と語り継がれているのは、どの世界の悪習だろうか。

 以後「外交」の場に登場と言うが、中国正史で年少天子の「外交」の場に東夷の陪臣が登場することは有り得ない。たちの悪い非科学的な「邪馬臺国」ものテレビ番組でも見たのだろうか。

*懲りない銅鏡舶載説 "Die Harder"
 梅林氏は、「ホケノ山」から特定形式の銅鏡が一枚出たのに触発されて夢物語を新作している。「卑弥呼の鏡でない」と確定した「三角縁神獣鏡」が、後代中国で「東夷の指示で特注制作した舶載鏡」とは病膏肓である。
 卑弥呼の初回遣使で、曹魏名君烈祖明帝が「倭人」に銅鏡百枚を与えると言明したのは、万二千里の遠隔地から到着した初見の褒賞であったものの、明帝没後に実際は四十日行程の地(陸路換算で二千里程度)の近場と知れ、格別の熱意を持った明帝の急逝後、「倭人」調略に手足となって奔走した腹心の毋丘儉も抹殺されたため、もはや、絶海の東夷として閑却され、先帝の遺詔は実施されたものの、以後、大量の銅鏡を贈呈するなどの厚遇は「絶対に」ありえなかった。

 さらに、正史に基づき時代考証すると、衆知の「後漢大乱」で壊滅した官制工房尚方は、暴漢董卓によって首都雒陽が廃都された際に四散、逃亡した工人の恢復を図ったものの、万全に遠いにも拘わらず、破壊された廃墟の復興に加えて、明帝が在世中に指令した新宮殿の装飾制作に忙殺されたので、もともと未曽有の異形・大径/重量の銅鏡の新作」技術は無い上に、東夷に呉れてやるような余分な銅材など無かった。
 素人の生齧りでも、陳寿「三国志」魏志翻訳文からその程度の背景は読みとれるのだから、つまらない夢から早く覚めて欲しいものである。

*最後の聖戦 2024/10/05 補筆
 そのような門外漢の作業仮説を、専門外の記者が、全国紙の紙面を壮大に費やして書き立てる意義は疑わしい。箸墓「卑弥呼」墓陵仮説を奉じている「纏向史蹟」事業の「最後の聖戦」になりかねない。
 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」に、卑弥呼が葬られたのは、民間人と同様の「冢」、つまり、先祖以来の墓地に、古式の土饅頭を設けたとしているのを、無視しているのであるから罪深い。女王の冢は、父祖の墓址より一回り大きいので、親族や近隣の者だけでは足りず「徇葬者として百人ほどの力を借りた」と明記されているのを読み損ねているようである。

 「箸墓」は、冢などではなく壮大な墳墓であり、その規模は十倍どころでは無いと見てとれる。原文が理解できないままに、勝手に華麗なお話を書き上げているのを、ここでは、伝統的な「画餅」(画に描いた餅)と呼ばずに「聖戦」と呼んでいるのである。

 担当記者は、私人の私見が全国紙紙面を飾ることの責任を感じるべきではないか。「歴史の鍵穴」レジェンドの轍(わだち)を踏んでは、天下の恥では無いか。いや、この場は、何の権威もない一読者の意見である。別に「神様」だと言っているのではない。

 少なくとも、これほど賑々しく自説を謳い上げるのであれば、社内で学識のある編集者の「校閲」を受けるのが、全国紙読者に対する責任ではないか。記者の俸給の水源は、善良な市井の読者の財布である。

                               以上

2024年9月27日 (金)

新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ )  1/2

邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2024/09/26         2024/09/27 

◯お断り
 引用されている河村哲夫氏の論考は、既に講演録の形で批判させていただいていて、ここで論議しているのは、兄事している刮目天一氏の「倭人伝」論議、特に、「倭人伝」道里行程記事論にほぼ限定した「批判」であることは、従来記事同様です。

魏志倭人伝は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれたものだと推理できますから、距離や戸数もかなり過大に書かれていると思います。不弥国から理数(ママ)ではなく日数表記したのは特異(ママ) の十倍水増しだと推理しています。ですから行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けないです。
ですから、邪馬台国の場所は考古学や民俗学成果から推理する以外にないのですが、決め手は径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)と東側が海に面しているなどの条件ですね(^_-)-☆

*揺れる依拠史料
 「西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれた」とは、当時の出来事を知らないでのことと思います。既に叮嚀に「教育的指導」を出しているので、ここでは「ズル」させていただきます。倭人伝の「行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けない」と勿体ない早とちりの結果、べたべたの「倭人伝」不信論、改竄主義では、史学の正道を外れるので、そっぽを向かれ痛々しいのです。
 当ブログの論法では『ちゃんと論理的に書いてある「倭人伝」を、ちゃんと論理的に理解できない半人前の落第生が、揃って「正解」に納得することなどない』のは、当然なのです。
 お怒り覚悟で角を立てて言うと、モチのロン、「倭人伝」解釈に限ってのことですが、刮目天一氏は、『ものを知らない上に合理的な思考のできない、と言うか、混乱した思考に囚われている普通の「落第生」』の味方ばかりしているので、丁寧にお話の躓き石をとりあげているのです。言い古された「ほっちっち」[京童(わらべ)の戯(ざ)れ歌]で返されそうですが、王様の靴下の穴はほっとけないので、しつこく、回心を求めているのです。

 そこまで言いきった後で瞬(まばたき)すると、突然「倭人伝」記事に回帰するのは、気ままです。

*二つの異議「径百余歩」との確認
 折角なので、足を止めて、叮嚀に説き起こすことにします。「径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)」「東側が海に面している」などの条件との提言ですが、氏の「大日本邪馬臺国」観で、解釈がズレているので、異議を唱えなければならないのです。

*「径百余歩」の確認 「平方里」、「平方歩」の正解
 「径百余歩の冢」自体は「倭人伝」記事のとおりですが、直径150メートルとする「思い込み」は、残念ながら誠実な研究者が陥りがちな陥穽です。
 原因は、中国史書を、歴史的な「常識」に立って科学的に解釈するのを怠り、現代東夷の「常識」で解釈する誤謬です。いえいえ、それは、世上に溢れる「邪馬臺国」論者が、ほぼ例外なしに墜ちる/既に墜ちて井蛙になっている「泥沼」であり、氏を個人攻撃しているのではないのです。

*中国の常識「九章算術」 古代の「必読書」
 「九章算術」なる幾何「教科書」に従うと、これは、円形用地の表現であり、数に強い陳寿の「方百歩内接円」書法と見れば、「方百歩」面積は百「平方歩」十歩(15㍍程度)角であり、内接円は直径十歩です。

 専門書「九章算術」は、「歩」、「里」を土地寸法や道里の単位と土地の「面積」単位とに共用しても読者は判別しますが、史書では「方百歩」、「方四千里」等と表記を変え、合計計算に巻きこまれるのを避けています。

 ちなみに、農地制度で「歩」は、人の歩み/歩幅/足の長さなどと関係なく、「歩」(ぶ)という測量単位であって、度量衡とは、原器のある「尺」を根拠として、一歩六尺として永久固定されています。測量単位としては、上位に、「里」があって、一里三百歩に、これまた永久固定されています。

*ありふれた誤解
 「倭人伝」解釈で、韓伝「方四千里」を縦横四千里架空図形とした「四方説」が「短里説」に重宝されますが、対海「三百里」四方と一大「四百里」四方を足すと、「七百里」四方ならぬ「五百里」四方であり、足し算が成立しないのでは理屈に合いません。べつに複雑な計算式は要しないので、軽くお試しいただきたいものです。二次元単位である面積を、一次元単位である尺度で規定するというのが、はなから不合理なのです。

 正解では、「一歩六尺」、「一里三百歩」が普通で、一尺25㌢㍍、一歩1.5㍍、一里450㍍と明解です。(いずれも、切りの良い概数値)

*大いに冢を作る
 女王埋葬で採用されている「冢」は、「倭人伝」既出の在来工法で、近隣の通い程度の軽微さです。ただし、「大いに」としたのは、「大人」葬礼と格違いと示したのであり、参列者(徇葬者)百人です。

 準備のない急拵えなのは当然ですが、「盛大に封土した上で葺き石を延々と野越え山越え手渡しで大動員搬送する大墳丘墓」と無縁です。一辺15㍍の敷地内なのに、巾10㍍の周濠で土饅頭を囲うなど論外です。

                                未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 邪馬台国への道?( ^)o(^ )  2/2

邪馬台国への道?( ^)o(^ ) 2024/09/26         2024/09/27 

*良い歴史家
 てみじかに最近の報道を紹介すると、時代を問わない「無辺」の「歴史家」としてあまたのNHK歴史番組に連投する磯田道史氏(国際日本文化研究センター教授)は、物の寸法が10倍なら面積は100倍、体積は1000倍との不朽の真理を、今更、殊更語りますが、公共放送は、規模を追い続ける箸墓論議の提灯持ちに飽きたのでしょうか。氏は、既に晩節を意識しているのでしょうか。

 手許事例では、直径15㍍を基準とすると、150㍍では、敷地が100倍、土木工事規模は1000倍近い超大規模です。お「得意」様も超の付く粉飾は想定外でしょうから、ここは、誇張無しの現地報告と理解いただきたいのです。

 それにしても、動揺する刮目天一氏の論考で、笵曄「後漢書」「倭条」(以下「倭条」)尊重で忘れた頃の「倭人伝」回帰は、読者の視点が激しく動揺するので、不満です。

 刮目天一氏は、径150㍍の古墓(直径約150mの日本最大の円墳)が卑弥呼の冢と最終結論されているようですが、今更ながら、御再考いただけないものでしょうか。ちなみに、「日本一の大墳墓」は、三世紀時点では、大変不穏当です。

*東方の海 地理解釈の不思議
 卑弥呼の墓の東方の「海」として、「倭地」は「倭人」なる「大海」中の洲島で、末羅と伊都は同じ島でも、伊都の東西南方は、不明です。

 「倭人伝」の道里行程は、郡を発し対海から伊都に「到」り、終点というのが「到」です。まことに簡潔適確であり、伊都以降と見える、奴、不弥、投馬は、満足な報告・連絡・相談がない余計者と明記されているのです。

 奴と不弥は、伊都と地続きでも、南の投馬は、陸地が途切れたと見え、倭人伝語「水行」で軽舟で対岸に渡るとしても、渡し船に二十日乗り続けるのは有り得ないので何もわからないのです。中国史料「倭人伝」のこの部分は無根拠と見える戸数を含め史料欠落で別扱いとされているので、後生東夷の勝手な書き込みは論外です。

 以下、伊都城内部ないしは至近に「邪馬壹国」城があると明解です。

 このあたりが、司馬懿の指示とすると何とつまらない「おっさん」(士誠小人 「孟子」)かと呆れます。帝詔で言う「中国」なる天下世界の中心から見ると、「倭人」は、天地果つるところ、萬里の彼方の蜃気楼であり、現地がどうなっていようと、正史夷蕃伝の隅っこであって、正史として何の意味もないのです。

*「倭条」の凱歌 万二千里創唱の勲功
 「倭条」は、「大倭」王は「邪馬臺国」なる「城壁に囲まれた聚落」に居ると明記しますが、城の東方近傍に渡れる「海」があるとは言えません。前世の「倭条」に郡使到来はなく、郡使が到着する以前「倭地」の地理は不明です。

 「倭条」で、樂浪郡端は、大倭を去る万二千里です。当時は、宣王司馬懿の前世であり、劉宋での編纂時点では「悪辣な手口で天下を奪った果ての西晋が王族総出の内乱で滅んで中原を失い、逃亡先で再興の東晋も失地回復できずに滅んだ後に劉宋が興隆」していたのに、霞の彼方の罰当たりな司馬懿の面目を保とうとして「倭条」で過大な道里を創造したとは、怪談と思いませんか。

*余傍の国のこだわり 史料を踏み付けた二次創作
 ここで、無意味な現代地図を持ちだして「倭人伝」地理記事を二次創作していますが、折角の論証から脱線する運びの「すじ」は悪いと申し上げます。
 目下の様子では、刮目天一氏は、司馬懿の威光を忖度して、現代版の「倭人伝」を創作しているように見えますが、氏の偉才の無駄遣いのように見えます。

*丁寧な史料評価の勧め
 「倭人伝」の記事を厳選された取り組みのために、「みずてん」ならずとも大事な記事まで否定されたのは勿体ないところです。折角の満漢全席ですから、卓袱台(ちゃぶだい)返しせず一皿一皿、叮嚀に評価してほしいものです。


*基本の基本 受け入れがたい真理
 諸兄姉は、「倭人伝」道里行程記事を、正始郡使の調査報告と決め込んでいるようですが、曹魏帝国が大量、高貴な下賜物を送り出すためには、行程概要と所要日数の事前申請と承認/皇帝裁可が、当然、必須の大前提なのです。

 正史は、勝手に書き上げられるものではなく、天子が嘉納した文書の積み重ねの収録なので、先ずは、正始帯方郡使の派遣上奏の際の現地地理報告が先行して、後代の正始帯方郡使の調査報告などは、先行資料の抜け落ちを補完できても、既に公文書となった記事は一切上書きできないのです。よろしく、ご確認ください。

                  臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                                以上

2024年9月24日 (火)

私の意見「謝承後漢書の行方」サイト記事批判 再三掲

       2016/03/22  2020/02/15 追記 2020/06/24
   再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22 追記 2024/04/05, 09/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。

 今回の追記は、時として当記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであればお詫びする。

 また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。

□前置き
 ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。
 謝承後漢書の行方  注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
 当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が高々と掲げられている。
 (「翰苑」編者の)雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で区別して引用していることが明らかになってきた

 これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げされているが、氏ほど声望の高い論者は、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上でその旨明記された方が望ましいのではないかと思量する。

*検証の海
 当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当と考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。

 竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈している。当世流行りの罵倒用語では、「致命的」というのだろうが、関係者一同とうの昔に世を去っているし、また、人の生き死にを冗談の種にすべきではないと思うので、オリオン座「馬頭星雲」さながらの「罵倒の海」から身を遠ざけることにする。
 それはさておき、竹内氏の労作は、「翰苑」残巻なる古書の文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。

 謹んで、「中國哲學書電子化計劃」サイト関係者の多大な貢献に感謝する。

*「笵曄後漢書」と「後漢書」
 たしかに、翰苑」残巻の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。

 班固「漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。

 因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は、「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。

*魚豢「魏略」と「魏略」
 例えば、「魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。

*「後漢書」検証
 してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立した笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。

唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。

 福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物されたと強く推定される。

 なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。

 当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の工程そのものの気ままさとその後に付いてくる校正の堕落であって、「翰苑」原本の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)であろうと推定している。(賞賛しているのである)

 ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。

 いや、福永氏が、至高の読解力の持ち主でないと主張するほど無謀ではないが、諸般の事情から見ると、事実上、単なる千数百年「後生の無教養な東夷に過ぎない」と見えるのある。氏ほどの見識の持ち主が、旧説を一切検証せずに、放置されているところを見ると、当論議は、放擲されているのではないかと推定されるのだが、いたずらに、一時の恥を、御高説の中核部に通じるものとして後世に残していらっしゃるのは、どんなものであろうか。世の中には、検証なしに氏の見解を子引き、孫引きして、泥沼に陥っている方もいらっしゃるので、過ちを正すのに遅すぎることはないと思うものである。

*翰苑の正当評価
 それにしても、史書でなく、「通典」などの上級類書でもない「翰苑」の編纂の意図が、はなから史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」であるが、当世若者言葉には通じていないので、どう解釈されるか不安なのである。
 念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)

 正史は、歴代帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく、北宋刊本校正時に至るまで、確実に写本継承されている。ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、陳寿を基点として二千年後生の無教養な東夷の憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)
 更に言うなら、「翰苑」は、あきらかに商用のものであり、手早く世上流通していた「劣化」の進んだ二級以下の品格であった市販諸史書からの所引(早書きの抜き書き)を収集し、もっともらしい「評」を加えたものであり、「翰苑」編者の手元に届いた時点で、史料として、市販諸史書の被引用部分から遠ざかった「劣化」の進んだものだったのではないかと推定される。
 そこから、「翰苑」編者の資質にも拘わってくるのだが、同書の主要部であったと思われる薬草名鑑と比して、通常、「翰苑」残巻として露呈している名文句集、名筆集に付注する際の史料「テキスト」の所引断片に対する集中力は、当然二の次と思われ、「翰苑」は、その出発点に於いて、多大な劣化をかかえていたと推定されるのである。
 「翰苑」は、文字テキストとして、その編纂時点に於いて、その時点の原史料と同一視される程の信頼性を付与されているが、以上のように、そのような高度な信頼性は、無い物ねだりであり、現存「翰苑」残巻が示す文書行格の錯乱、散在の域を超える多発誤字の萌芽は、「翰苑」原史料所収時に、既に存在していたと推定されるのである。
 そして、現代読者が目にするのは、そのような「出発点」以降に積載された行格錯乱、誤字多発であり、もはや、「翰苑」残巻の文字テキストに対する信頼性は皆無と見えるのである。
 福永氏は、そのような「史料批判」を怠っているのではないかと危惧され、素人目にもあきらかに劣化した史料を根拠に御高説を構築されるのは、氏の見識をいたずらに疑わせるものであると云いたくなるのであるが、それでは「罵倒の海」なる泥沼にはまるので、きわどく自粛するものである。

以上

▢追記 2023/09/20
 後出であるが、「翰苑」現存断簡に関する史料批判(2023/07/09)を参照いただきたい。「翰苑」が格式正しく復元されれば、より正確に史料評価できるというものである。検証できるように、遼海叢書 金毓黻遍 第八集の所在も示している。
 いやはや、「翰苑」断簡の史料批判に不可欠とおもわれる史料が、正邪当否はともかくとして、先賢諸兄姉に一顧だにされていないのは。もったいないことである。

私の所感 遼海叢書 金毓黻遍 第八集 翰苑所収「卑彌妖惑」談義

以上

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2024年9月22日 (日)

新・私の本棚 刮目天ブログ「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 1/2

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)  2019/12/12 2024/09/22
     2024/09/22, 24

◯公開コメントの弁
 当方が兄事する刮目天一氏のブログは、国内古代史に関する高度な思索に満ちていて、門外漢が口を挟むことのできるのは希なのですが、今回は、当方の孤塁を攻撃している内容なので精一杯応答することにしました。以下、とても、コメントに書ききれないし、趣旨として当ブログの防衛戦なので、ここに掲示します。よろしく、御寛恕いただけますように。

*謎の「倭人伝」
『倭人在り、帯方郡の東南の大海の中、山島に依りて国邑をなす。
・・・・・・・
郡より女王国に至るに万二千余里。』

 この飜訳創作の由来は不明なので、刮目天氏にケツを回すことにします。

*誤解の起源 The Original Mistakes as Granted
 一番大きな問題は、「倭人伝」の用語解釈の欠落です。現代人の安易な解釈では誤解保証付きです。岡田英弘氏の提言の使い回しですが、『陳寿「三国志」「魏志」は、三世紀西晋の役人の教養に合わせた言い回しで、当時、出世に不可欠な四書五経と史記漢書二史を理解している前提で書かれているので、二千年後生の無教養な東夷に正確な理解は不可能』なのです。

*試訳・短評 Islands in the Stream
 原文は「倭人在帯方東南」、「大海之中山島依山島為国邑」であり、『「倭人」は郡の東南』「韓伝」などと共通の書き出しです。正史は、当方の本記事のように、その時の思いつきで書き飛ばしているのでなく、年月を費やして形式を整え、一字一句を吟味して推敲しているので、少なくとも、形式の一貫性を壊さない「飜訳」が望まれるのです。

 手短にまとめると、「倭人」は、流れに浮かぶ島々であって『渡し舟を乗りついでたどり着ける「近場」(ちかば)の小島に屯(たむろ)している/在る』と解されます。途次の「国邑」は、「国」と言っても中原太古の集落と同様の千戸代の聚落で「小ぶりの貧乏国揃い」と、明確に示唆されています。
 要するに、後ほど逐条形式で書かれている「万」戸の大振りな国は、狗邪以降、行程上諸国の記事(各国条)の核心をなしている「千」戸の桁を踏み外しているので、「倭人」の国勢評価で考慮すべきでないと明確に示唆されているのです。明記した行程上の国邑は確実に知られているが、行程外の「余傍の国は、国状が分からないから信用できないものの、風聞の類いでなく公文書に書かれている数字であるから、参考までに書き留めた」という趣旨が明確に示唆されています。
 つまり、「万」戸単位の戸数は、現地が戸籍台帳を元に、計算官僚総動員で合計して算出したものでないから信じてはならないのです。後に述べるように、全戸数七万戸が公孫氏の演出(Presentation)のままに明帝遺言に書かれてしまっているので、行程諸国の戸籍台帳に基づく推計との食い違いは、行程外の余傍の国々、特に、遠隔の投馬に押し付けるしかなかったと関係者の「苦心の程」を察するべきです。

*公孫氏の二千年遺産 天子の誤解
 初見では、公孫氏は、小天子として世界の中心にいる心地であり、「倭人」の所在は、遥か彼方の世界の涯ての異境と見立てて、「総勢七万戸、郡から一万二千里の彼方」と見せましたが、実は、盛大な戸数七万戸は、実務戸籍に基づかない実態不明の華燭であり、華麗な一万二千里は周制の「荒地」表現の名残であって道中の道里(道の里)を前提にしたものではなく、どちらも、公孫氏の大芝居の舞台装置だったのです。
 それが、曹魏二代皇帝曹叡が、両郡に遺存していた公孫氏の未提出報告(郡志)を、司馬懿の鈍重な軍事行動に先立ち、明帝創案の機敏な二郡恢復行動で急遽接収した帯方郡から略取して一読して気持ちよく「誤解」したから正史に載ってしまったものです。結果として、直後に、明帝が夭逝したため、「誤解」が、天子の遺言/遺命になってしまったということです。
 後年、西晋に移行してから、江東の孫氏政権東呉が降服したときは、東呉の(西晋の世界観で言う)地方史である呉書が献上され、後漢末期以来途絶えていた魏晋天子に対する報告がなされたとして雒陽公文書庫に収蔵されたのと大局的には共通であり、陳寿が、全国を把握していなかった曹魏の正史ではなく、「三国志」として編纂した背景となっているのと異なった処遇となっている背景と思われます。このあたり、公孫氏の政権は、鼎立していたと解釈されている魏呉蜀の三極に次ぐ「第四極」として認知されない一因をなしていると考えます。念のため言うと、「三國志」の解釈は同時代の世界観を踏まえるべきであって、後生東夷が、賢しらに論ずるべきではないのです。

 ちなみに、司馬懿は、遼東での軍功を糧(かて)に雒陽政局の中心に会座しようとしていたのであり、公孫氏の東夷政策の継承などまるで関心がなかったので、公孫氏の公文書記録を全て廃棄し郡高官を根こそぎにしたのです。

 「魏志倭人伝」の深意解明に勉める後生としては、「実録」の皇帝遺言は訂正が許されないので、陳寿は「倭人伝」体裁を保ちつつ、誤解が定着しないように実質的に訂正しているものと考えるのです。

*史官の本分 Mission of Gravity
 史官は、あくまで、低位の公式記録者ですが、使命に殉じて「二枚舌」で毒消ししたのです。この点は、同時代正史に造詣の深い渡邊義浩氏が説くところでもあります。要するに、史官は「史実」の記録者であるが、それは、単なる公式記録の承継ではない「編纂」の至芸を齎しているとの至言と理解します。いうまでもないですが、それは、その時/その地域の権力者などという寸毫/束の間の光芒におもねるものではないのです。

*送付案内 Shipping Advice
 景初二年六月に郡に参上した倭人大夫を、皇帝は首都雒陽に呼びつけ、帝詔、皇帝の約束として、別送下賜物目録と共に帰国させたので、曹魏の担当者は、大枚の荷物を未知の倭に届ける任務を与えられ、結構日数をかけて、雒陽倭行程と所要期間を郡に調査させたのです。それが、郡狗邪の陸上街道と以後の倭本拠伊都国までの行程所要日数に反映されました。それで初めて発送できたのは当然でしょう。
 規定すべき所要日数(水行十日、陸行一月の都合四十日)を、行程諸国道里に万二千里を相応按分した上で、遅くとも曹魏正始年間に実道里は皇帝承知の一万二千里と途方もなく異なる」と確認できていたので、蕃夷接客の実務に慣れていた鴻臚卿としては、当時、境界を接していた匈奴、鮮卑のように凶暴、貪欲でない貧乏東夷の「倭人」の接客は、分相応の二十載一貢ぐらいの「厚遇」で良かろうと言う趣旨だったと見えるのです。
 それは後日の話しとして、実務は着着と進み、遥か辺境の狗邪海港では、郡治からの早馬での予告通りに到着した荷物を順次渡船に積んで送り出したのです。早馬のできない海上は、狼煙台で連絡したでしょう。

*綸言汗の如し Like His Majesty's Sweat
 なにしろ、先に寸評したように、至高の天子烈祖たらんとしていた曹叡は景初三年元日に逝去して明帝と諡(おくりな)され、先帝の遺言は「実録」に書き込まれて、一切訂正できなかったのです。もちのろん陳寿は明帝遺言を否定することはできないので、深意を行間にこめたのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^) 2/2

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)  2019/12/12 2024/09/22
     2024/09/22

*ゴルディアスの結び目 問題と正解
 史官が綾なす行間にこめた深意は、丁寧にほぐさないと解けないのです。アレキサンドロス三世伝説の「ゴルディアスの結び目」解決のように、一刀両断したのでは、綾なす織り紐は分断され、失われてしまうのです。

*「岡田失言」の長い、長い残影 短評
 と言うことで、岡田英弘氏の軽率な失言に拘わらず、郡倭行程は「都」(すべて)「水行十日陸行一月」計四十日とされて「倭人伝」に訂正記録され、岡田氏創作の隠謀は、司馬懿も陳寿も知らないことで、全く無関係です。

*幻の敵
 すぐに分かることですが、陳寿の「魏志」編纂時、司馬懿は亡く、司馬懿の敵であった曹氏は一掃され、東呉孫氏も滅亡し、思惑不要だったのです。

*攪乱作戦の歴史
 こうした見解は、史学の常識ですが、そう解釈を確定すると、郡倭行程が伊都国で完結するので、「畿内」説論者が寄って集(たか)って、偽情報(Fake news)をばらまいて、攪乱、保身していると見えるのです。

*幻の権力者、有り得ないドロドロ沼
 陳寿は、当時の権力者「凡愚/老妄の晩節の初代武帝と後継暗君/盆暗(ぼんくら)二代恵帝」の意見/支持を仰ぐことなく、官撰史書編纂に最善を尽くしたのです。諸葛亮由来の「鞠躬尽瘁」(きっきゅうじんすい)です。貴兄もドロドロ沼から抜けて冷水(Clear water)洗顔でお肌を引き締めることを勧めます。

◯刮目天氏曰わく、
 「魏志倭人伝」のこの四百字ほどの行程記事は、とどのつまり「東夷の大国、倭の女王国は帯方郡の東南の方向の海上のおよそ万二千里も離れた遠い島ですよ。」ということでした。その後の倭の風俗記事の中に「女王国は魏のライバルの呉を圧迫する、その東方海上に在るんですよ。」と陳寿はそれとなく書いています。当時半島を支配していた公孫氏を滅ぼして、倭国を手なずけた司馬懿(しばい)とその部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)たちが魏の朝廷の人々に最も伝えたかった内容なのです。
行程記事は、女王様が統治する気の遠くなるほど遠い東夷のエキゾチックな国にどうやって行くのかと、司馬懿のライバルの曹爽(そうそう)派閥の人たちにも疑念が出ないように、一応具体的な方角や里程・日数を述べたに過ぎないということです。以下略

◯倭人伝の真意推定
 刮目天氏の推定は、右往左往して失神寸前で、正解から遠ざかっています。
 孤見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、牛馬労役に欠ける「倭人」を中原基準で評価してはならないという教え/示唆に満ちています。

◯結語
 陳寿は、司馬氏の皇帝誅殺隠蔽を非難されますが、魏志明帝紀に『三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,[中略]執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。』とあり、後に少帝曹芳を廃位した司馬懿の河内の空涙(そらなみだ)が記録されています。「河内」は、首都雒陽界隈のことであり、大阪河内ではありません。司馬懿が、来阪して河内音頭を踊ったなどと「新世紀」の新説を唱えないでください。(grin)

 魏志に謀反人毋丘儉の列伝はあっても、「宣王伝」はありません。
 一方、蜀志には、不朽の力作「諸葛亮伝」があります。

                臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/2(奈良県桜井市)卑弥呼に重なる伝説 毎日新聞大阪夕刊 2024/9/18
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/22

◯はじめに
 今回は、前回の既存史料貼り合わせを離れ、梅林氏の御高説を、記者が伝道していると見える。継ぎ接ぎ感は薄れても、氏の話の筋が揺らいでいて、頼りない。「散歩」が散漫では困る。ちゃんと「レジュメ」を踏んで欲しい。

◯記事引用御免 字数制限のため、中略...多用失礼。
 国道側から近付いていく。古墳の森...。古墳には...周濠...がよく見られる...

 記者の放言と見えるが。それにしても、矢継ぎ早の「古墳」が揺らぐ。一つ目は目前の箸墓、二つ目は地域の「古墳」一般か。「良く見られる」と言うが、箸墓に「周濠」はなかったのか。随分不用意である。

「手前が前方ですね。当時の人は、この大きさにびっくりしたでしょうね」と梅林秀行さん。全長約280メートルのサイズ...

 「手前が前方」なら奧は後方か。末尾で「後円部」と書いていて、この場の失言をそのまま引用されては、論者として粗雑である。
 文字起こしの時に、引用部を追加すれば、つまらない揚げ足取りはされないのだが、梅林氏は、本記事を校正しなかったのだろうか。古来、記者の聞き取りが粗雑なのは、学界の常識と思うのだが、梅林氏は、考古史学会に属していないので、言いっぱなしで安穏としているのだろうか。
 当時、メートル表記も「サイズ」もなかった。「全長」実測したのだろうか。

 宮内庁は被葬者を...モモソヒメ...として陵墓指定している。―
 孝霊天皇は実在しないと考えられているからモモソヒメも実在の人ではないが、...神性を持つシャーマン的なところが卑弥呼と重なる...

 「モモソヒメも実在の人ではない」との断定はどんなものか。当時、『神と結婚するという神性を持つ「シャーマン」』など生齧りの言葉はなかったから、「卑弥呼」に重なるかどうかわかるはずがない。記者は、神がかりなのか。宮内庁書陵部」誹謗は、止めたのか。

 「古墳は鍵穴の形だけでなく、...」...日本書紀は、大坂山の石を...手渡しで運んだ、という。...フィクションではないのかもしれない。

 「古墳」の「鍵穴」とは、往年の毎日新聞名物コラムか。「フィクション」が意味不明だが、記者は、書紀「偽書」説なのか。趣旨不明である。

 「実は幅10メートルくらいの周濠跡...外堀がため池と化した...その先で交差するのが、いにしえからある上ツ道だ。...

 巾十㍍程度の「周濠」は何なのか。ため池」は纒向川から取水し貯水、水分する灌漑施設を計画造成したのではないか。「周濠」は「ため池」か。言葉が乱れていて、眩暈しそうである。
 意味不明の「交差」物「上ツ道」造成は、「いにしえ」と茫漠としているが、要するに箸墓造営以前か以後か。大事な事項である。

 「...箸墓は一から盛り土している。...」。...外堀になった可能性もある。
 ...「手前の大きな石が...」...十数キロを運ばれてきたのか。

 「外堀」談議ばかりで、幻の「内堀」はさておき、「箸墓」の石積みは、僅か十数キロの玄武岩一個で足りず数トンではないか。十数キロの岩を手渡しで「運ばれてきた」、いや、「運ばれていらっしゃった」はずもない。

 ...卑弥呼説もある箸墓古墳。被葬者をどう見るか? 「それ以前とは比較にならない巨大な力を持った人物...巨大な墓...で新しい仕組みを作ろうとしたのか。...モモソヒメの伝説には卑弥呼の...イメージが投影された...

 氏の論理を追うにも「箸墓」遺跡と「卑弥呼」は異次元で同一視できない。「それ以前」と言うが「倭人伝」で卑弥呼は父祖を鬼神として事えたのであり、自身を鬼神に擬えるとは不遜である。「巨大な」力は数値化できるのか。
 「巨大な墓」で「新しい仕組みを作る」とは何のお呪いか見当もつかない。
 古代に「プロジェクションマッピング」で「イメージ」(画像)投影ができたとは考えられない。「倭人伝」に「卑弥呼」「画像」は、一切書かれていない。
 記者は、「散歩」の道すがら、実景を見ずになにを見ていたのだろうか。

◯まとめとして
 記者は、座学無しの「散歩がてら」、聞き歩き/眺め歩きとスナップショット撮影の取材行で、梅林発言をすらすら理解したのだろうか。神がかりなのだろうか。
 それにしても、記者も梅林氏も、「魏志倭人伝」を誤解し続けではないか。

                               以上

2024年9月17日 (火)

新・私の本棚 番外 毎日新聞【文化財のあした】「邪馬台国 畿内説の現在... 

...日本初の都市? 纒向遺跡の遺構」 毎日新聞大阪朝刊12版文化面 2024/09/15
私の見立て★★★★☆ 文化面相応の堂々筆致。疑問点少々のみ 2024/09/16,09/22, 10/02

◯おことわり
 読みかじりでないのを部分引用で示したが、字数制限しているので、...中略記号 御免。

*記事引用
 纒向遺跡は3世紀初めに突如として出現し、4世紀初めまで営まれた大規模集落遺跡だ。...水田などが発見されておらず...日本初の「都市遺跡」...を象徴するような遺構が2009年に見つかった。
 ...3世紀前半の大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)が発見された。...周辺で同時代の遺構は確認されておらず、...纒向遺跡の特徴として...外部から搬入された土器の割合が高い...
 ただし、纒向遺跡の範囲は南北約1・5キロ、東西約2キロに及び、1970年代に始まった発掘調査は遺跡範囲の約2%しか終えて...いない。
 畿内説を裏付けるものとして、纒向遺跡の区域内にある巨大前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」(全長280メートル)の存在が大きい。国立歴史民俗博物館は...箸墓古墳の築造年代を...240~260年代と発表した。卑弥呼が亡くなったとされる248年に近く、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。

◯コメント 全国紙の一般読者対象記事とみるので周知事項は御免。
*初歩的な指摘
 素人考えで、「纏向」が「日本」の萌芽と見るなら、「日本初」は別の意味になる。「奈良盆地初」なのか、筑紫も入る「日本列島初」のか。

*食糧事情
 農地遺構が未出土としても、何か食料を持続して手に入れなければ、生きられない。高名な磯田氏が、NHK番組で突如開示した提言の「略奪」は、たまたま一度は成果が出ても、何度も出撃してはいられない。
 「都市」は現代用語とみるが、食料生産を二の次にして商業立国しようにも、鉱工業資源が無ければ、食料は手に入らない。集落単位でも、鍛冶職人など、売るものが無くて食料は買えない。
 農地も市場(いちば)も見つかっていないと言うが、当てはずれ/見当外れか。

*全貌画定のなぞ

 「纏向遺跡」全貌を、発掘進度ゼロの時点で、「南北約1・5キロ、東西約2キロ」と画定した根拠は不明である。最初から、「遺跡」の全貌を想定していたとしか思えないのだが、見あげたものである。当時、既に、子々孫々発掘事業を担保する絵を描いたのだろうか。

 「周辺で同時代の遺構は確認されておらず」とあるが、では、周辺の「遺跡」では、何が発見されていて、その関連は、どうなっているのか。
 「纏向遺跡」指定領域の内部に「三世紀前半の大型建物跡」「遺構」が発生する以前は、どんな有り様だったのか。井の中の蛙ではないのだろうか。井戸の「外部」は、どうなのか。

 「建物遺構」が、何か得体の知れないものの「象徴」なら、首長居処、兵舎、食料庫は、何処にあったのか。
 事の成り立ちを考察してみると、「箸墓」は墓地であり、当時「荒れ地」だった「遺跡」の纒向川対岸に、随分、先だって造成されたのではないかとも思われる。

*「外来」土器のなぞ
 「外部から搬入された」と言うが、「外部」のものがタダのはずがない。普通に仕入れたのが、地域の「市場」で売買されていたと思われる。大物土器類を税納入したのなら、木簡荷札が出土するはずである。
 「人と物の往来」の街道遺跡は出土したのか。三世紀、纏向付近の南北径路は山沿いの「山辺の道」だけで、「纏向」水郷に南北街道はなかったはずである。
 「倭人伝」で当時牛馬役務はないから、全て「痩せ馬」なる人の背で運んだはずである。でなければ「纏向遺跡」の遺構に牛舎や馬小屋があったはずである。

 以上、遺跡遺物考古学門外漢の素朴な疑問に答えていただければ、幸いである。

*畿内説の裏付け
 「畿内説を裏付ける」と言うが「巨大前方後円墳...が大きい」とあるのは苦笑である。「畿内説」は古墳の巨大さしか言う事がないのだろうか。

*卑弥呼の冢 考察~「余談」記録された史実 2024/09/22,10/02 補充
 「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼を埋葬した「冢」は、大型墳丘墓どころか「大塚」ですらなく、在来の土饅頭に類するものとされていて、ずいぶん小ぶりと思われる。大型墳丘墓の外形寸法の1/10程度であり、用地面積は1/100程度、用土は1/1000程度に収まるから、周到な計画で、広範囲に指示を出す必要のある大規模な土木事業でなく、先祖以来の墓地の増設工事であり、担い手としては、近隣の少人数の「通い」でよいから、別に急拵えしなくても短期間に出来上がるものになる。
 そうした順当な史料解釈を無視/排除して、大型墳丘墓だとしている理由が分からない。前提として、盛大に荒れ地を整地して、壮大に盛り土して、手堅く版築で突き固め、さらに、葺き石を遠隔地から大量に取り寄せて盛り土を保護するとか、埋葬のために、盛り土を改めて掘削して槨室を設けるとか、「倭人伝」を離れて迷走していることについて、判断が示されていない。
 「倭人伝」に還ると、在来の埋葬であれば、先祖以来の埋葬地で、甕棺に収めた遺骸を土中に収め、盛り土して、奴婢百人で徇葬することになる。つまり、少人数で埋葬、封土を含めた葬礼を行ったとある。
 女王府は、千人程度で運営していたとあるが、公共工事には動員しないのが常識であるから、周辺の農民に鋤鍬(すきくわ)持参の動員をかけることになったとしても、農作業に支障を及ぼさない短期間の「通い」で済んだと想定される。
 「倭人伝」は、女王に敬意を表して「大いに葬礼を執り行った」としているが、薄葬を厳命した曹魏武帝、文帝の訓示が生きていた時代、蕃夷の王が、伝統を破壊する/蕃夷の分に過ぎる、途方もなく大規模な造成を行ったのであれば、厳重な叱責の言葉が書かれたはずである。現に「魏志倭人伝」に書かれているのは、簡潔・明解な記事であるのは、そのようなとんでもないことが起こらなかったからではないかと思われる。

*「径百歩」の考証
 ここでは、これまで等閑(なおざり)にされていた「径百歩」考証を試みるものである。ようするに、三世紀に書かれた呉代史書が、どのような意味で書かれたか、手短に追及するものである。
 「魏志倭人伝」が、ここに、ほぼ初めて起用した、つまり、中国史書で滅多に見かけない「径百歩」は、ある意味、純然たる土木用語であり、直径十歩程度の「円冢」の敷地が、方百歩(百平方歩)縦横十歩程度であると報告したものである。たてよこそれぞれ十五㍍程度であって、直径十歩 の土饅頭を収めるに十分であるが、環濠を設ける必要などない。これにより、どの程度の規模の工事であり、どの程度の資材を必要とし、どの程度の労力を要したか、というか、言うに足る規模の工事で無かったと専門家が、容易に推定できるのであるから、正史夷蕃伝の記事としては、このような簡潔な記事でよいのである。
 かくして、一筆書きで「冢」の形状と土木工事の規模が把握でき、おさえに、百人程度が葬礼に専従したと示しているのが、まことに、異境の王の慎ましい墓容を示していて、筋の通った合理的な筆致であり、総合して正史夷蕃伝として、適確と思うものである。

 まして、「巨大前方後円墳」の余地はない。それが、陳寿が記録しようとして、現実に記録されている東夷の「史実」である。

 以上、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」は、周到な編集が行われているので、「読みかじり」で自己流の書換など出来ないのである。

 「魏志倭人伝」が、当時「中国」の支配者であった司馬氏に忖度して、「巨大墳丘墓」を、卑俗な土饅頭に縮小したのであり、それが、いつかどこかで、「倭人伝」に改竄・記入されたと強弁する方がいらっしゃるのなら、その旨明言されるべきであろう。また一つ、陳寿繚乱説が増える。
 
 それにしても、「倭人伝」ほど素姓の確かな二千年ものの史料を、年代ものの盆栽のように「ちまちま」丹精して手入れするのは、程々にした方が良いのではないか。いや、これは、当記事の批評を、かなりはみ出しているが、御容赦いただきたい。

                                以上

2024年9月14日 (土)

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 1/2

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14

◯はじめに
 氏は、文学博士であり、本書刊行時には、国立歴史民俗博物館(歴博)教授であったとされている。歴博を代表する論者と見られることから、氏が推敲を尽くした本書に対して遠慮の無い批判が可能と見たものである。つまり、本書に示された、氏の見識に対して、疑念を投げ掛ける批判も許されると思うのである。本書の論考は、多くの部分で、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」に基づくはずであり、氏の解釈に疑問が存在するが、氏は大半の点で付注を避けたので、氏の解釈を率直に批判する。

*年長不嫁(仮称)
 最初の例として、卑弥呼は「歳をとっても夫はもたず」と評されている。これは、年代ものの原文誤解と思われるが、氏は根拠を明示しない。また、以後の論考で、この解釈は援用されない。ちなみに、ここに勝手に掲示した「年長不嫁」(仮称)は、范曄「後漢書」東夷伝倭条の創作である。
 「一般的」には、「年已長大」「無夫婿」の解釈のようであるが、順当な解釈では「成人した」「配偶者はいない」と解すべき「事実報告」が随分野放図に意訳されている。どうも、近作NHKテレビ番組で俗耳に訴える「卑弥呼」大王神話に不可欠な「恣意」であるから、回心しようがないようである。
 中国史料として前後文脈を解釈すると、卑弥呼は男王の娘が嫁ぎ先で産んだ「女子」(外孫)であり、幼時から「巫女」として祖霊に耳を傾け、当然生涯不婚の身分であった。年稚(わかく)して「女王」に共立され、景初遣使に近い時期の年頭に十五歳になって成人したが、出自が釣り合いを保っていたために、両家にとって女王の中立性を保証していたと見える。ついでながら言うと、有力者の娘は、年若くして嫁ぐものであり、成人時に未婚の可能性は無いに等しいから、生来、不婚の「巫女」として「家」を守っていたと見るものではないか。

 僅かな字数であるが、氏は、組織伝来の時代考証の欠けた無教養な「読み」に依拠し、一種「職業災害」(Occupational Hazard)と言われかねないが。疾病でなく健康保険対象外である。(つけるクスリが無い)

*「少有見者」
 「女王となってから人前に姿を現さず」というのは、一種、誤解であり、正しくは「女王として朝見することは少なかった」のである。近親と生活を共にしていたし、奴婢とも顔を合わせていたのである。
 但し、当今NHKテレビ番組が暴露した全身を曝した御前会議の獅子吼などありえない。同番組は、高名な歴博松木教授の監修とされるが、仁藤氏は局外だろうか。組織変節に諫言しないのでは氏の学術上の良心は何処かと嘆くしかない。

*「屈折史観」の悲喜劇
 以下、本著は、全体としては、氏の良識が反映された快著であるが、党議拘束されているためか、倭人伝の「史料批判」が屈折していてもったいない。良識が折れたら、「火熨斗」で折り目を正すものではないかと思われる。
 三世紀当時、史書編纂は中国のみであり蛮夷に史書はない。「優良」などと納まらず、謙虚に「倭人伝」を取り入れ、謙虚に批判すべきかと思われる。
 また、「三国志」魏書にのみ東夷伝が存在する点に、年代もののもったいを付けているが、要するに曹魏にしか東夷伝の原資料が調っていなかったのである。三国鼎立と言うものの、後漢の文書管理部局を受け継いだのは、禅譲で天下を受け継いだ曹魏だけであり、東呉は、あくまで、後漢の地方政権であって、天下を有さず、蜀漢は後漢後継を謳っても、天下を把握する文書管理部局は存在せず、天子の行状を「実録」に日々書き留める史官もいなかった。当然、中国として、外夷を管理する鴻廬も存在していない。すなわち、呉書、蜀書に、外夷伝がないのは当然である。曹魏の関知しない外夷公式来貢は、雒陽公文書にないから魏書に採用されることは無い。
 中国史料の解釈は、中国の常識、教養に従うべきであり、二千年後生の無教養な東夷が寄って集(たか)って「小田原評定」するものではないのではないか、と素人は愚考する。

                               未完

新・私の本棚 仁藤 敦史 「卑弥呼と台与 倭国の女王たち」 2/2

 山川出版社 日本史リブレット001 2009年10月刊
 私の見立て★★★☆☆ 癒やしがたい「屈折史観」 2024/09/14

*退路無き文献論
 氏は、苦し紛れに/戯れに、陳寿「三国志」のテキストが南宋刊本までしか遡れないと言うが、それは、素人考え、大きな考え違いである。

*時代錯誤させる「ルーツ」乱入
 氏は、古代史に何の因縁もない俗語「ルーツ」まで持ち込んで論旨を混濁させるが、「ルーツ」は、アフリカから拐帯され米国に売り飛ばされた黒人の末裔が、遥か後世になってアフリカの地を訪ね、先祖の後裔と邂逅した物語であり、氏のような良識の体現者が持ち出すべき言葉ではない。

*「ソース」談議
 ことが「ソース」、原典探索であれば、陳寿没後百五十年の南朝劉宋史官裴松之が、当時健在であった民間風評まで含めて史料考証の上、蛇足めいた冗語を、ヤボを承知で付加したことを見落としている。なにしろ、後漢書決定版を半ば以上まで完成していた范曄を、皇帝廃絶の隠謀に加担したと一家連坐して処刑し未完稿を没収して私蔵した「取り巻き」を重用していた劉宋文帝の勅命であるから、清濁併せて、山ほど補追して、三国志完成の栄誉を望んだ皇帝の宿願を叶えて見せるしかなかったのである。
 ちなみに、范曄は、後漢書「志部」編纂を共著者に附託し「志部」は完稿状態にあったのだが、范曄受難を知ったことから、連坐を恐れて、志部完成稿を隠匿し遂(おお)せたということである。おかげで、范曄は、正史として肝要な志部編纂を怠ったとの汚名まで被ったが、それは、裴松之の三国志補追の価値を損なうものではない。裵松之注(裴注)は、劉宋時点で、西晋崩壊を越えて継承された陳寿原文と峻別できるので、堅持しているのである。
 さらにちなみに、北宋以前の「三国志」善本は、裴注挿入の際に改行していて、南宋以降の諸本のように、本文の一行を二分して、半分の文字で記入する「割注」はしていないようである。「割り注」は、写本工にたいへんな負担/労力をかけ、また、誤写の原因となるので、常用されていなかったと見るものである。世上、高級写本以外は、略字を常用していたとの説が唱えられているようなので、ますます、「割注」は、南宋以後の木版による刊本時代の産物と見えるのである。もっとも、刊本が登場しても、地方への配付はなかったはずであり、依然として、写本が行われていたものであるから、以上の理窟は、絶対的なものではないのである。
 誤解が出回っているので是正を図ると、三國志の同時代最高のものは、あくまで、写本謹製のものであり、世間に誤写本が出回っても、影響を受けずに継承されたものと考えるべきである。

*有り得ない「同一」願望
 勿論、陳寿原本と現存刊本が完全に同一のはずはないが、テキストとしての一貫性を克明に検証すべきである。年代ものの子供だましの冗談は休み休みにして欲しいものである。

*付け足しの「邪馬壹国」論
 氏は、ここまで放念していた「邪馬壹国」を論じるが、遙か後世「三史」と尊重されたのを根拠に後漢書「邪馬臺国」を崇拝するのは、勿体ない。御自愛いただきたいものである。ちなみに、「臺與」は「倭人伝」にも「倭条」にもない「絵空事」である。
 つい先ほど、生齧りの「ルーツ」まで持ちだして、三国志「魏志倭人伝」の岩盤の如きテキストに喧嘩を売ったのに対して、一転、范曄「後漢書」東夷列伝倭条を崇拝する不当さに気が回らないのだろうか。
 ちなみに、范曄「後漢書」は、劉宋文帝が、范曄を斬首して、その時点の未定稿を押収したものであり、当然、確定稿でない仮普請であり、范曄原本は、もともと存在しない。氏は、どう考えて、范曄「後漢書」東夷伝「倭条」を、無謬聖典と崇拝するのだろうか。
 史料考察に原本確認は要らない、氏の豊かな常識で、自覚いただけるはずである。
 ちなみに、ここで信頼性を問われているのは、范曄「後漢書」全般でなく、東夷伝の端っこの「倭条」であり、氏の史料批判を逃れているのが不思議である。

*夢幻の東夷世界
 以降、公孫氏時代を含めた遼東・東夷形勢が綴られるが、氏の限界なのか原資料の混乱なのか、楽浪郡の混乱期、東夷倭人の雒陽参上が論じられる。卑弥呼の生まれる遙か以前の後漢中平年間に「卑弥呼」の使者が参上したという仮定は、無謀と言われかねない。
 『「倭人伝」によれば』と称して、卑弥呼が、二世紀後半に倭の乱を平定したしているのはとんだ神がかりである。「倭人伝」が確実に述べているのは、景初から正始にかけて、それ以前に年少にして女王に就職した卑弥呼が、成人(数えで十五歳か)に達したことであり、半世紀時間錯誤されている卑弥呼の出生を、はるばる遡らせているのは、むしろ滑稽である。俗に「卑弥呼」襲名説まで担がれている。そのため至って普通な言葉である「年長大」を、強引に老婆説としている。やんぬるかな(已矣乎)。
 「倭奴国」の後漢光武帝参詣以後、定期的貢献の記録が乏しいのに、突如、公孫氏時代になって殺到したのが、不審ではないのだろうか。

 要するに、氏の周囲には、厳格に史料批判されていない後世史料/創作文芸がのさばっているのであり、それを担ぎ出すのは、氏の見識を疑わせるものである。「倭人伝」解釈は氏の圏外なのだろうが、氏の批判精神が休眠して、祖霊のお告げに対して口移し状態にあるのは、困ったものである。

◯結語
 以上は、あくまで当ブログの見識の限界/圏内である。やたらと調子のよい「倭女王評判記」などは、部外者の知るところではない。

                                以上

2024年9月13日 (金)

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2稿 完

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その2)-禾稻麻紵ー(ママ) 2024-09-08
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/13

◯逐条審議辞退の弁
 前回記事は、異議の随時提起でしたが、今回は総論とします。
 当方の范曄「後漢書」東夷伝倭条范書(以下、范書「倭条」)観は既に述べていますが、重複を承知で書き留めてみます。

*結論予告
 当方は、范書「倭条」は、全虚報であり、陳寿「三国志」魏志倭人伝(以下、陳書「魏志倭人伝」)と対峙させるべきではないと主張します。

*史料欠落の弥縫策―年代ずらしの秘法
 范曄は、後漢書掉尾に范書「倭条」を構想したが、原史料の欠落のため、献帝建安以降の「魏志倭人伝」原資料を年代移動して創造的に埋めたと見えます。

*時代史料の欠落
 念のため言うと、范書「倭条」の光武帝、安帝本紀「倭」記事は、別史書袁宏「後漢紀」にも記載があるので、当記事の対象外です。
 同時代、まだ、後漢洛陽の東夷管理が健在であり、楽浪郡から鴻臚に万二千里の東夷から貢献があったとの報告があれば皇帝から賞されますが、孝霊帝本紀、考献帝本紀から欠落しています。范書「倭条」は虚報なのです。

*露呈した欠落事項
 蕃夷は、中国辺境郡太守治所に身上書を上程し服属を申し出ます。
 必要事項は、国名、国王名、国王居城名、居城に至る行程道里、戸数、口数、国内城数であり、粗品で誠意を見せれば、手土産と印綬をもらえます。
 行程道里は、郡太守発文書が何日で蕃夷の王の手元に届くかという実務上重要な規定であり、服属の証しであって、誇張などありえないのです。
 范書「倭条」には、国王居城名だけであり、国王名不明、戸数不明、行程道里も公式申告無しであり、後漢末期に「倭」は、正式参上していないのです。
 して見ると、范書「倭条」に物々しく書かれた「倭国大乱」とか「女王共立」は、おとぎ話です。出所は、百五十年以前の陳書「魏志倭人伝」の不出来な節略であり、范書「倭条」は、史料として考慮すべきでない「ジャンク」として、はなから排除されるべきなのです。

*検証の方法―精読あるのみ
 たとえば、今回論じられた范書「倭条」民俗記事ですが、明らかに、陳書「魏志倭人伝」帯方官人現地報告の節略、当世流行りの読みかじりで、意味を解しないまま、やっつけ仕事で短縮しています。これを、要件を取り出した「要約」というなら、それは、とんでもない勘違いと言わざるを得ません。

*結論 范書「倭条」廃絶の時 再挑戦の勧め
 貴兄の集中力をもってすれば、今少しの点検で拙速さが読み取れるはずです。もっとも、そのような范書「倭条」考察は、上田正昭氏以来、諸兄姉が上程しているので、貴兄が復習する意義は疑問です。

 貴兄の掲げる考察は、先ずは不確かな史料を排除して、原点と言うべき、「魏志倭人伝」解釈に第一歩から再挑戦されることをお勧めします。

*「後漢書倭条聖典主義」の妖怪
 併せて、一部論者が、范書「倭条」の瑕疵を新規事項と見誤る「後漢書倭条聖典主義」の妖怪に踊らされないように、ご注意申し上げる次第です。
 以上、敢えて、心ないとも言われかねない苦言を申し上げました。

                                以上

*追記
 前回記事でも述べましたが、当記事だけ取り出して、范曄「後漢書」について、全面的に否定的であると解釈されると不本意なので、少々補足します。
 笵曄は、史官としての訓練を受けたわけではないので、史官の職業倫理に縛られていない、文筆家だったのです。
 と言うものの、既に世に出ている諸家後漢書の史書としての品格に疑問を持ったので、いわば、身命を賭して、あるべき「後漢書」の実現を図ったのですが、ご承知の通り、後漢二百年の厖大な公文書は、洛陽の陥落と共に失われ、笵曄は、先行後漢書と民間史書の山から、范曄「後漢書」の完成を目指したのです。その成果が、今日読むことのできる明晰、流麗な范曄「後漢書」となったのです。
 惜しいことに、完成以前に、笵曄が時の皇帝の排除を企てたとする陰謀に連坐し、一族連座して刑死したので、ついに完成に至らなかったのです。未完成の顕著な原因として、范曄が志部編纂を委嘱した文筆家に対して、劉宋皇帝側近が提出を命じたが、范曄「後漢書」に無関係として、シラを切り通して隠匿したため、范曄「後漢書」は、南朝梁の劉昭が 別史書で補填するまで志部を欠く未完成の史書だったのです。

 つまり、范曄「後漢書」は、まだまだ未完成であり、諸処に不備が想定されているのです。なかでも、先行諸「後漢書」に欠けていたと思われる蛮夷伝は、西域、東夷ともども、范曄にしては不出来な物になっていますが、これも、当人に責めを負わせるべきでなく、いわば、穴あきの残った仮普請であったとしても責められないのです。

 この点で見ると、陳寿「三国志」は、「権力者」なる妖怪から干渉を受けることなく、史官として最善の推敲を尽くして、完成稿としたものです。存命中に上程の機会を得られなかったものの、史書の完成度では、范曄「後漢書」と別格の一級品なのです。

以上

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  1/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

□はじめに
 范曄「後漢書」(以下、范書)東夷列伝「倭条」飜訳の根拠は不明ですが、素人目にも誤訳と勘違いが多いので、背景説明を惜しまずに指摘します。
 飜訳は、渡邊義浩氏訳等を参照された方が良いと思います。

◯本文質疑 傍線は、原ブログ記事引用
倭在韓東南 大海中依山島為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 (劉攽曰使驛按當作譯説巳見上)
*倭は韓の東南にある。広大な海の中の山深い島によりそって居住している。

◯誤解の起源 (「よりそって居住??」)
 「倭」は、漢代東夷管轄楽浪郡から「韓」の東南に在るのでしょう。漢武帝「朝鮮」討伐時、韓国は未形成ですからこれは後漢末情勢です。ただし、魏武曹操が統治した後漢献帝建安年間を除外するので、遼東郡太守に公孫氏の時代、帯方郡を設けて韓濊倭を管轄した時期は書かれていない(はず)です。

◯魏志倭人伝「大海」・「水行」考
 記事解釈で、氏は、おそらく、現代辞書を優先しているため、早々に、大きく脱輪しますが、現代研究者の大半に共通した思い違いです。
 班固「漢書」(以下、班書)西域伝により「大海」は内陸塩水湖です。班固、陳寿の知識外の現代語「瀬戸内海」は、本来、中四国、備讃瀬戸、芸予諸島が囲む、現在燧灘と呼ばれる海域の「内海」であり、「大海」と見えます。

 余談はさておき、陳寿は、陳寿「三国志」(以下、陳書)「魏志倭人伝」の郡から倭に至る「従郡至倭」行程を読書人向けに書きこなして、塩水海流と言えども、「大河」(河水、黄河中流)渡船同様と示して、無用の警戒心を解いています。この比喩は、西域で言えば、途上の沙漠「流沙」、「砂の川」の中洲(オアシス)が浮かんでいるのと同様で、共に「瀚海」を有しています。

 古典書の用語、用例を極めた中島信文氏は、「海」は、現代的地理概念「うみ」(英語Sea,米語Ocean)でなく、「中国」四囲の異界「海」(かい)と峻烈ですが、陳書は至近の班書に従い「大海」は塩水湖と見えます。

 また、陳書で、韓の東西は「海」ですが南は「倭」即ち「大海」と峻別し、韓倭間は、塩水大河の洲島を、順次渡り継ぐとの解釈が順当と愚考します。

*「水行」の有り得ない不正解
 「陳書」では、「従郡至倭」で、並行陸路のない狗邪・対海軽舟渡船を河水渡船に見立てた上で、史記禹后記事まで遡っても官道行程記事に用例皆無である「水行」を、新たに「魏志倭人伝」限定で定義したのです。
 以上、陳寿は、「魏志倭人伝」道里行程記事で、未聞の用語を不意打ち起用して読書人の不信を買わないように長途の官道行程を規定したのであり、就中、安全な陸上路程が並行・確立しているのに、危険無類の海船行程など、到底有り得ないのですが、後生東夷は、苦し紛れに妄想を巡らすのです。

◯范曄なる偉大な井蛙
 陳寿の没後、「西晋」は、内乱の果てに北方異民族に天子を誅され、亡命王族が東呉旧地建康に「東晋」を再建しましたが、漢代由来公文書庫が散佚して、後生范曄は半人前の教養であり、范書「倭条」不都合は斟酌すべきです。

 范曄中文解釈は、陳寿と異なり、史官訓練を受けず、史官教養に富む老師も得られず、太古以来の史官用語で書かれた「班書」読解は困難と見えます。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  2/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

◯現代風地理観の危殆
 ということで、「大海」を「広大な海」と解するのは、現代風地理観の押し付けであり、「倭人伝誤解症候群」の兆候とも言える重大な時代錯誤です。
 ちなみに、「山島」は、山が島となって「大海」中に在り、漢代、戦国齊領域の山島半島から対岸朝鮮半島をみたものです。以下、この調子です。

◯東夷変遷
 太古以来の「東夷」が中国(華夏)文化に属して「齊」となって以降、「東夷」は東方異境に放逐され、魯の偉人孔子が筏で浮海しようとしたのも、秦始皇帝が「東海」の果てに見たのも山東半島対岸の朝鮮半島と見えるのです。
 歴史的に、朝鮮は「燕」に続く半島北部で、同南部は「齊」の影響下です。

*凡そ100國である。
*武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから(紀元前108年)、漢の都に通じる宿駅に使者を派遣したのはおおおそ30國であった。

 ここで「漢」は、東夷を管轄していた楽浪郡(宿驛)であり、「倭」は、後漢代東京雒陽まで遣使したわけではありません。范書で廃都長安は無意味です。

*(劉攽(1019年ー1068年)曰く、使譯を使驛と記述したのは他にも見られる。)

 「作譯」とは、考証の上、「驛」字を「譯」に書き換えたという事です。

◯世世傳統の怪
國皆稱王 世世傳統 其大倭王居邪馬臺國 (按今名邪摩堆音之訛也)
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里也
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近 故其法俗多同
*すべての國には王と称するものがいる。王は代々受け継がれている。
*その大倭王は、邪馬臺國に居住している。

 范曄は、原史料を読解できず迷走しています。漢制王自称は論外で、正史東夷伝倭条に書くと史官が断罪されます。世襲国主だけが「蕃王」なのです。

◯「邪馬臺国」創世
 漢(楽浪郡)の通達先は大倭王「邪馬臺国」城ですが、粗雑な所引の国名が正確とは考えにくいのです。併せて、「大倭」の由来は不明です。

◯「国邑」の由来
 「城」は、字形通り、四周土壁城郭の集落であり、「國」と書く以上、「国王」は常備軍を擁しますが、そのような王制の根拠は与えられていません。
 陳書は「倭人」居処は「國」ならぬ太古「国邑」は島嶼で城郭は無くとも無法でなく、戸数は万戸に及ばないとしています。國王伝統は数国のみです。

 時代考証すると、范書は、史料に、全く忠実でなく、現代風に言うと、「創造的」と見えます。(倭条に限ったはなしです)

 陳寿原本が皇帝至宝となり、時代最高の人材による綿密な校正が重ねられた「陳書」に対して、劉宋皇帝が、刑死范曄の未定稿を接収したため唐代まで閑却された「范書」は、全く、同列で評価することはできないのです。

〇范曄不遇
 以上、范曄は、史官基礎教養に欠け、綿密な史料解読を謬り、西晋滅亡時、基本資料の多くが失われたため、范書「倭条」は、依拠資料のない臆測を続けますが、范書西域/東夷伝が、仮普請で乱れているのは范曄の責任ではないのです。後生読者は、未完の紙書を遺した范曄の無念を忖度すべきです。

                                未完

新・私の本棚 KATS.I ブログ =水行20日、水行10日...  3/3

陸行1月の呪縛= 後漢書東夷傳(その1)-會稽東冶ー(ママ) 2024-07-27
私の見立て ★★★★☆ 前途遼遠  2024/09/09-13

*(これは今の名である邪摩堆の音の訛りである。)
 これは、范書原文でなく付注です。後出史料で、原本否定など無法です。

◯「万二千里」のホントウの起源
*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)へ行くには12、000里である。

 楽浪郡檄(つまり、大倭王と交信する帯方縣)は、大倭王居城を去る万二千里との公式定義です。
 范書によれば楽浪郡(帯方縣)倭間の公式道里万二千里(余里無し)は後漢代規定で、「陳書」はこれを踏襲したので、責任はないのです。
 范書倭条は、陳寿の知り得なかった何らかの原史料に依拠しているとの解釈になります。蕃夷は、服属の際に、王名、国名、城名、城数、道里、戸数、口数を申告する義務があるので、文書通信の所要日数が不明とは途方もないことです。ちなみに、新規参上、服属の蕃夷は、金印(青銅印)とふんだんな下賜物をいただくのですが、何も書かれていないのは、不審です。

*楽浪郡の境界からその國(邪馬臺國)の西北の境界である拘邪韓國へ行くには7、000里である。

 正確には、楽浪郡檄(大倭王と交信する帯方縣)は、其の国の西北境である拘邪韓國を去る七千余里ですが、拘邪韓國(誤写)は韓国でなく倭です。
 帯方郡成立は後漢献帝建安年間で、范書には書かれていません。随分、いい加減ですが、無校正の書き飛ばしだったのでしょうか。

*その地(倭)は概ね會稽東冶の東にある。
*倭、會稽東冶と朱崖儋耳(海南島にあった珠崖郡、儋耳郡)はそれぞれ近いので、この3箇所の規律や風習は多くが同じである。

◯范書錯乱
 この部分は意味不明です。「魏志倭人伝」では、夏王族が亡命先で蕃夷の習俗に染まったと嘆じたとして、「会稽東治」、読者に衆知の禹后故事と結びつけますが、范書「倭条」は、無意味な「会稽東冶」を唱えます。
 「陳書」「魏志倭人伝」は「その地」風俗の後、海南島に近いと記しますが、これは南方の狗奴国紹介と見えます。後ほど倭地は(寒冷な帯方郡と比して)温暖と述べ、別地域と分かります。それにしても、范曄は原史料の所引で、記事の要点をごっそり取りこぼしています。

 范曄は史料誤解の上、「東治」を会稽「東冶」と作ったのですが、会稽郡の遙か南方に「東冶」のない後漢期であり、笵曄は、時代錯誤に陥っています。

 范書は、意味不明な「会稽東冶」の後、「海南島」に近いから法俗は似たものと言い放って、原文と乖離して雒陽ならぬ建康風に書き換えたと見えます。
 このあたり、范書は原史料文意を理解できないまま、後日を期していたのでしょうが、其の急死によって(不本意な)未完稿が遺されたと見えます。

 陳書では、禹后故事の会稽東治之山「会稽山」であり、陳寿は、三国東呉の内部で曹魏の知らない会稽郡東冶縣を知るはずもなく、従って錯解しなかったのです。范曄は陳寿の百五十年後生(後生まれ)で、「魏志倭人伝」の抜き書き/所引を元に書いたので、走り書きに伴う抜けや誤写が発生したと見えます。この推測は誰にも否定できません。(教養ある諸兄姉に向かって、賛成しろと言っているのではないのです)

 范書「東夷伝倭条」を「倭伝」と無謬聖典視しても、誤写誤解は不可避です。信奉者から天誅を受けそうですが、恐れてばかりいられないのです。

 ご指摘の「魏志」王朗伝「東冶」は、禹后会稽「東治」故事に関係ないゴミで、どさ回りの范曄ならともかく、東京雒陽官人の陳寿の知ったことではないのです。「大行は細瑾を顧みず」
 陳寿は、「魏志」編纂に「呉書」を参照せず、「魏志倭人伝」論議で、「呉書」は「参考」に留めるべきです。

◯最後に
 掲載地図は、端的に言うと時代錯誤の悪用であって、読者に偏見を押し付け、学術的に無意味です。善良な読者の誤解を誘うので撤回をお勧めします。

                               以上

2024年9月 6日 (金)

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 1/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

◯はじめに 「歴史の鍵穴」の遺産
 大見出しで「歴史の鍵穴」とあって、往年の専門編集委員が連発したトンデモ記事を引き継いでいるのかと一瞬身構えた。どん詰まりには、吉野山金峯山寺に吉野宮があって、厳冬・極寒にめげずに、持統天皇ご一行が行幸を重ねたと途方もないホラ話に墜ちていた。今日ロープウェイしかない登山路を、女帝を担いだ一行が駆け下りて韋駄天帰館、そして...という次第であきれ果てたものであった。

 当時、典型的な老害で、誰も専門編集委員にだめ出ししなかったと見える。天下の毎日新聞が、墜ちたものだと呆れた。同記事だけでなく、継続記事の「カシミール3D」権利侵害も、未解決である。ちなみに、「7」と書いているように、同様の不合理な地図妄想は、毎日新聞の記事として、延々と続いていたのである。当時も今も、その点では、なんの進歩もないのである。一蓮のブログ記事は削除していないから、興味のある方は、検索で発見できるはずである。
 毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲
 それにしても、素人目にも明らかな、曰く付きの粗雑な比喩が、堂々と継承されるとは、もったいないことである。

 なお、今回の記事に、罰当たりな吉野宮談義は出てこないし、掲示されている地図は、今日の国土地理院データに基づく現代地図としているので、重大な侵害は回避しているように見える。但し、れでは、古代の地形、特に河川の水脈が不明であるから、古代遺跡の解説図の用をなしていない。当たり前の話しだが、JR桜井線や国道169号の路線は、特に参考にならない。むしろ、梅林氏が確固たる信念としていると見える「東海方面」への交通を強く示唆する近鉄大阪線が割愛されているのは不審である。

 紙面掲載された桜井市立埋蔵文化財センター提供の立体地図は、同記事を見る限り、データ出典など一切不明であり、方位、縮尺、高度が不明である。当然、詳細な測量データに基づいた科学的な「ジオラマ」であるから、それぞれの時点でどのような傾斜になっていたのか、どの程度の流速で流下していたのか、緻密な解析が行われているはずである。また、縄文時代以来の長大な時間経過に渡る「微高地」形成史が騙られているはずである。さらには、大型建物群や箸墓の造成時の交通/物流について、堅実な考証がされているはずである。
 それにしても、掲示されているのは、部分図であり、しかも、立体画像ではないので、高低差の見て取れない。物の役に立たない単なる参考イメージである。それにしても、折角の立体図が、作りっぱなしで埋もれているのは、税金の無駄遣いと言われかねない。まことに勿体ないことである。

 同地図は、毎日新聞サイトのウェブ記事からは割愛されていて、ここで述べた批判は空振りである。要するに、桜井市立埋蔵文化財センターの諒解のない無断掲示だったようである。全国紙の報道として、もっての外ではないか。
 とはいえ、折角多額の公費を投じた地図が、世に知られないまま埋もれているのは、公費の浪費である。それとも、いずれかの場で公開されて居ねるのだろうか。そうであれば、無礼をお許しいただきたいものである。

*本文批判
 ヤマト王権発祥の地はどこか? 有力視されているのは纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)だ。弥生時代後期に、奈良盆地南東部に突如出現する大規模遺跡で、しかも一角には最初の巨大前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳を擁する。[中略]三輪山の西に位置する遺跡や古墳を訪ねる。
 [中略]築造年代がぴったりはまることから、卑弥呼の墓とみる研究者は多い。ただし、纒向には箸墓より古い前方後円墳がいくつもある。[中略]

*揺動する論旨
 「ヤマト王権」は当ブログ圏外で、いつどこの発祥か知るところでない。また、「纏向遺跡」の定義が、記事の末尾に至るも不明である。現代考古遺跡ではないのか。二世紀に「遺跡」だったと言うことか。墳丘墓を含むのか。その場その場で表現が揺らぐ。
 出典不明の地図で「遺跡」の範囲が明示されるが、誰が、どのようにして範囲の境界を見定めたか示されていない。ここまでの連載記事で、東海方面への交通路を示唆するように示されていた近鉄大阪線が図示されていないのも、首尾一貫せず、記事趣旨に背を向けているのも、いかがわしいと言われそうである。
 どうやら、通称「纏向遺跡」の一部が「史跡指定」されているようである。もっと、その辺りを公知のものとすべきでは無いかと思われる。

*根拠不明の古墳築造年代推定
 「2009年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により、箸墓古墳の築造年代を240~260年代と発表した。」と言うが、「歴博」は、何の根拠と権威で「発表」したのだろうか。いずれかの公的機関に委託して「年代測定」報告を得たというのだろうが、それは、二千年過去の二十年範囲に限定できる信頼性を確証されているのか。「築造年代」は、どんな根拠で特定されたのか。科学技術の分野で当然の検証が、すっぽり抜けているように見えるのは、どんなものか。そして、毎日新聞が、そのような杜撰な考古学界活動を支持しているように見えるのは、どんなものか。善良な一介の納税者としては、多額の国費の費消について、克明な会計監査を御願いしたいものである。

 比較対照されている「魏志倭人伝」は、二千年を経て、綿密に年代考証されているが、「歴博」は、どんな確証で、卑弥呼の「冢」、小ぶりな土饅頭が、所謂「巨大前方後円墳」であったと主張しているのか。まことに、不審である。それとも、「魏志倭人伝」誤記説にこだわっているのだろうか。「魏志倭人伝」に信を置かないのであれば、卑弥呼の実在すら疑わしく没後の葬礼も信じがたいとなる。笵曄「後漢書」東夷列伝倭条の簡牘巻物「レプリカ」に続いて、陳寿「三国志」魏志倭人伝の国産化に挑むのであろうか。

*果てし無き風評論議
 記事は、「ぴったりはまる」とするが、ドロ沼にはまっているのではないか。
 賛同している研究者が「多い」とは、百人か、千人か。箸墓より古いとは、どうやって年代測定したのか。いくつもとは、何個のことか。ドロ沼である。以上、権威ある全国紙として、責任を持てるご説明をいただきたいものである。野次馬古代史マニアの言いたい放題の私見ではないのである。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 2/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

 ただ、大型建物群や箸墓をはじめとする古墳群を持つ纒向遺跡[中略]

 大型建物群や古墳群を持つ「纒向遺跡」』とは、錯綜・混乱している。ここは、「遺跡」論議ではなかったか。「特徴」は出ず、遺跡大小が問われて見える。

纒向遺跡の範囲
 (1)弥生後期に突然出現
 100年代末~200年代初めに現れ、[中略]4世紀前半に消滅する。

 意味不明の紀年である。普通に考えると、100年代は、101年から110年であるから、100年代末は110年であるが、当時、誰が、キリスト教紀元(ユリウス暦か)を、そこまで精密に知っていたのだろうか。西暦を、古代史に持ち込まざるを得ないとして、普通に書くとすると、二世紀中に出現し四世紀に入ってほどなく消滅したということか。なにも文書記録はないのだから、五十年、百年程度でも過剰な精度かもしれない。
 「範囲出現」は、ペンの滑りとして、遺跡構造物は、一日にして出現しない。多くの人々の労苦の成果である。廃墟となっても消滅はしない。活発な扇状地なら世紀を経ずして堆積土砂に埋もれるだろうが、ここは、そのような大河、奔流の流域ではないのである。埋もれるまでに随分な年月を要したはずである。だれか、地形変動の記録をとっていたのだろうか。それにしても、墳丘墓は、「消滅」などしていない。用語の混乱で、錯乱したのだろうか。

 (2)とにかく大きい
 東西約2キロ[中略]にわたり、後の藤原宮、平城宮、平安宮より大きい。

 定義が混乱している「遺跡」の範囲と比較したのは、平地に整地された条坊構造の城市の内部の一角である。山麓の扇状地で大規模墳墓を包含する(とも言われている)「纏向遺跡」(領域範囲が皆目不明だが)の面積とは、まるで別物/異次元であり、子供の口げんか(賈孺争言)でもないから、どっちが大きいか比べられない。つまらない御国自慢に付き合っていられない。

 (3)外来系(大和以外)の土器が多い
 出土土器の約15~30%にのぼり、[中略]外来系土器の49%が東海で、山陰・北陸17%▽河内10%▽吉備7%――と続く。

 「範囲」談議と見えない。真意不明の「ヤマト」を持ちだして、内外を仕切っているが、これら地区名は、随分後世に定義されたはずであるから、三世紀当時には、意味を持たないのである。要するに、纏向集落の権力者にとって、これらの地域は、権力圏外、異国だったと主張しているのだろうか。

*内外区分の不確かさ 2024/09/09
 ちなみに、素人考えをお許しいただけるなら、纏向遺跡の「大王」が、「東海」系の出自であったとしたら、歴史上のその時点で、「東海」は「纏向遺跡」に包含されていた、あるいは、その逆で、この地は、「東海」と言うことになるから、どちらの見方をしても、「外来」の定義を外れているように見られる。そのような形勢では、当然、東海系の土器制作技術が渡来しているだろうから、その場合も、「外来」の定義を外れているように見られる。

 (4)農耕の形跡がない
 弥生集落は鍬(くわ)や鋤(すき)が出土し、中でも田畑を耕す鍬が多いが、纒向は土木工事に使う鋤が圧倒的に多く、田畑はほぼなかった。

 「範囲」談議と見えない。弥生集落は、水田稲作で生計を立てたと理解している。論者は、「纏向遺跡」は弥生集落遺跡ではないと決め付けて、農地らしき場所を避けて発掘しているのではないか。長年に亘り、卑弥呼金印発掘に身命を賭したから無理ないと思うが、「農耕の形跡がない」と断定していいものか。

*にわか扇状地と潤沢な纏向渓流の幻想
 「纒向遺跡は、纒向川の扇状地に[中略]全く前触れもなく出現するんです」。[中略]纒向の立体地図を見ると、幾筋もの川と川の間の微高地を利用しているのがわかる。

 何の根拠があって、太古のことを物々しく断定しているのか不明である。基本的な考察に立ち返ると、「扇状地」は、河川分流の砂礫堆積物の積層であり、本来、堅固な地盤を要する大形建物の造成は困難である。また、河流に交差する「径」が造成困難であり、物資の輸送/人員の移動が困難である。現地は、三輪山山麓の扇状地なら砂礫が多く保水できず灌漑が困難である。ついでに言うと、現地は、雨季の河川氾濫で知られている。ため池兼用の環濠無しでは灌漑も治水もならない。大規模聚落は、極めて困難である。
 むしろ、纒向川は三輪山麓に扇状地など形成せず、既存の平地を削って渓谷を形成して流下していたように見えるのではないか。それなら、西方の巨大な沼地が次第に埋まって、今日の盆地西部の低地帯に至ったと見える。
 要するに、太古、前史時代以来、長期間を要した地形形成のはずであるが、3世紀時点でもどのように形成されたかという根拠はあるのだろうか。全域で、出土物の放射性炭素法検定を実施した上で言っているのだろうか。それとも、現代巫女に頼った神がかりなのだろうか。

 提示の現代地図からは、纒向川がJR巻向駅方面に北流していたと見て取れない。物の役に立っていない。

*「纒向の立体地図」公開回避の怪 2024/09/06, 07
 「纒向の立体地図」は、紙面掲載されたもののウェブ記事に表示されていないので、多額の費用を投じたと思われる「立体地図」の単なる紹介画像を評価しようがない。夕刊紙面の(不出来な)画像から判断すると、氾濫蛇行の果てに形成されたとみえる、河流に遮られた中洲状の堆積地に、どのようにして、かくも壮大な「遺跡」が造成されたか、想像を絶している。通常、地盤が不安定な、災害多発地域に「大型建物」など構想しないはずである。
 常識的に考えて、渓流の浸食、扇状地の堆積何れにしろ、タップリした水量で、滔々たる流速が無ければ、形成されないものであり、表示されているような、湿原とも見える「水郷」風景は、大河淀川の中下流を見ている感がある。
 ということで、紙面から見て取れる水郷地帯を「復元」した根拠を伺いたいと思うものである。

 根拠が確かと思えない「立体地図」 に多額の公費を投じる以上は、多年の宏大な発掘成果に基づいた考証が提案されたものと見えるのである。是非、御公開頂きたいものである。

 ちなみに、別の機関で別途作成された動画では、堂々たる大運河の水運が描かれている。絵を描いて誤魔化すのは、不合理である。

                                未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞 【松井宏員】散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1 3/3

散歩日和 奈良凸凹編 大倭/1(奈良県桜井市)「歴史の鍵穴、纒向遺跡」毎日新聞大阪夕刊4版[特集ワイド]2024/9/4
私の見立て ★★★☆☆  場違いな力作 前途遼遠  2024/09/05-09

纒向はどんな遺跡だった?  大型建物群、ホケノ山古墳、箸墓古墳

 「どんな遺跡だった」かは、文法、時制無視の悪文である。二千年前「纏向」は「遺跡」でなく、かくかくたる建物と墳墓であったと見える。一方、現地に大形建物群は現存/遺存せず、柱穴から画餅が描かれている。墳丘墓は、或いは復元され、或いは、放置されていて、「遺跡」と呼べるかもしれない。

*「都市」無き世界の「性格」不良
 「田畑がないということは、食料は外から供給されていた。[中略]大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指していた。多種多様な人が集まる都市的性格が強かったと思いますね」

 氏は、恐らく、人々の「性格」分析を図ったのではなく、現代で言う「都市」(とし)の性格(意味不明)をうかがわせる地域聚落(とは言っていないが)を臆測したのだろうが、どうも、「都市」(「とし」は、とても大きなまち。例えば、100万都市)なる時代錯誤の代物が当時存在したと主張しているわけではないようである。この部分は、別人の妄想のようである。「魏志倭人伝」の叡知に頼るなら、迷うことなく、普通に「纏向国邑」と呼べるのだが、中国語を解せず新語を発明する習性が、国内古代史の用語を錯綜させているから、普通の理解は通らないのかもしれない。

 当時、電話も高速道路も電車も学校もない。食糧供給機構など存在しない。水道も、新聞、テレビもない。「多種多様」とは、今日言う「多様性」の事か。

 それにしても、「纏向国邑」に、食料や薪炭の集散市場(いちば)「都市」(といち)なるライフラインはあったのか。なかったとしたら、飢餓が蔓延するのは避けられない。傷ましいことである。ともあれ、氏は、別人の新書の悪例のように墳丘上の「公設市場」の幻影は見ていない。ここは、悪例と比較すると健全である。

 都市と共に、箸墓という巨大前方後円墳が[中略]突如出現する。[中略]

 それにしても、「大和以外の地域の人々が恐らく定住しており、列島規模で纒向を目指」すとは、夢想より妄想に近いと言われそうである。いや、当時の人口統計は、一切存在しないから、何処の人が住んでいたか知る方法はない。「恐らく」などと呪文を振らなくても、否定されることはないのは明らかである。ちなみに、ここまで、「大和」がどこを指すのか不明であるから、一段と、なんの「恐れ」もないのである。それにしても、食料供給源と想定されている「外」も、「以外」も、意味不明である。言うまでもなく、記者が書き上げた地の部分はともかく、「発言引用」は、この発言にとどまらず、その場限りのものと思われるから、全体として、場当たりな憶測であるのは明らかである。ことさら「恐らく」と逃げを打つ意図が不穏である。

 列島規模」と言う方(かた)も言う方(かた)だが、担当記者先生が、口頭でレクチャーを受けて、問いかえしもせずに玉稿として、堂々と天下の毎日新聞の紙面に書かれると、目が眩んで朦朧としてくる。古代纏向に人口爆発があったという御高説の根拠も不明である。言うまでもないが、当時、「箸墓」などという名付けなどされていなかった。原稿推敲どころか、ホロ酔い「酔稿」なのだろうか。

 「いずれの要素も弥生時代の奈良盆地には見られず、[中略]一気にジャンプしています。その要因は外部の力だったのかもしれません」

 ここで乱入している「弥生時代の奈良盆地」も、趣旨不明である。現代で言う「奈良盆地」なる地形は、湖沼の枯渇などは関係なく、時代を通じて不変と見える。その場その場で、言い替えるのは、口から出任せの印象を与え、信用を無くすだけである。
 既存の文章を囓り取りしているため、「要素」、つまり、必須の構成要件が明言されてないのは、たいへん胡散臭い。「ジャンプ」しようにも、踏切板が不明ではどうしようもない。まして、「外部」陰謀説は、けったいである。列島は、纏向政権の支配下であったのではないのか。何処に、外敵が居たのだろうか。

 結局、氏の持説らしい「ヤマト王権東海起源」説の捏ね上げであるが、根拠は、遺跡遺物の「土器」に東海由来と見えるものが多いという事なのである。
 日用「土器」は、雑貨「商品」であるから「ある」ところから「ない」ところに、自然に流れ着いたと見る方が自然ではないか。それとも、東海勢力の兵団が、大挙進入して纏向に居着いたのか。もっと、普通の言い方で、わかりやすく主張できないものか。

 同様の言い方で言うと、楯築の特殊器台は、雑貨「商品」なのか聖器/祭器なのかはともかくとして、何とか渡来したかもしれないし、楯築の集団が大挙進入したとも見える。拘わっていたのは、先ほどまで氏が述べていた「地域勢力」であって、地理概念である「地域」などでないのは当然である。用語を動揺させて、読者の眩暈(めまい)を誘うのでなく、口を慎むべきである。

【松井宏員】

 ■人物略歴 梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)さん
 京都高低差崖会崖長。京都ノートルダム女子大非常勤講師。フィールドワークを通じて都市の歴史を研究する。[中略]

◯まとめ
 要するに、本記事は、考古学者ならぬ博物学者である梅林氏の素人考古学談議を、素人ならぬ新聞記者が、専門家としての技巧を尽くして、一般読者向けに文書化したものと見える、全体を通じた視点、用語の動揺は、梅林氏の「私見」のうろ覚えの口頭発言の用語、論理の乱れによるものなのか、複数の別人の個性的な所見の混入したものなのか、松井記者の見識に基づく勝手な書換なのか、善良な読者を苦しめるものである。

 例えば、目前の「遺跡」と古代の「地域集落」が、どう関連するのか、その場その場で動揺し、混濁しているのでは、眩暈が生じて卒読に堪えない。

*ご注意 2024/09/06
 当初、紙面掲示された「纏向遺跡の立体地図」について論評していたが、ウェブ版では削除されているので、記事本文に対してコメントしている。当然、取材時に撮影許可を得ていたはずなのだが、なぜ削除されたか趣旨不明である。多額の公費を投資して制作された「立体地図」の単なる紹介の公開を憚る意図が不明である。

                                以上

2024年9月 5日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 1/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 私の見立て☆☆☆☆☆ 飛んだ早合点   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05 

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 いや、懲りない(Die-hardest)というか、まだまだ(Yet yet more)と言うか、何というか、また、とんでもない記事が出てしまった。専門編集委員殿は、御自分の論説の破綻を全然然理解していないようだ。

*不吉な開始
 今回は、タイトルからして不吉である。「大海人皇子の吉野宮」と所有格で書かれているが、天皇でも無いものが「吉野宮」を所有できないのは自明である。明らかに「斉明天皇の吉野宮」とでも呼ぶしか無いものである。

*不当なこじつけ
 それにしても、積年の地図妄想が昂じたのだろうか、突然、権威ある全国紙の権威ある専門編集委員によって高らかに「吉野の宮」に比定された金峯山寺も大変な迷惑である。現在は、一見すると仏教寺院のような寺号であるが、山岳信仰から発した修験道の本山であり、俗世から離れた修験道の精進潔斎の修行の場であったと信じるものである。

 それが、実は、齊明女帝の行幸先として創設されて供宴の場などに供されていた、持統女帝は、三十三回も金峯山寺を訪れていたなどは、ありえないのではないか。俗世の悪を逃れていたはずの精進潔斎の場が、天皇家の建てた場での天皇家の御用であった、つまり、俗世の取り付いた不浄の場であったのを隠していたことになる。とんでもない言いがかりではないかと危惧する。

*酷冷の山上
 因みに、金峯山寺は山上にあり、冬季の気象は酷寒と言うべきだろう。南に行くほど温暖な外界と異なり、奈良盆地南端の吉野界隈は、南に行くほど、高度が募るので、寒冷地になる。
 現地に到る行程の急峻さを言うと、電車は急勾配を登れないので、近鉄吉野線は麓で終点であり、ロープウェイに乗り換えなければ登れない。当然、古代に於いて食料や水の搬入は至難の労苦である。

 歴史的事実として「金峯山は中国で書かれた『義楚六帖』(九五四年)にも「未だかって女人が登ったことのない山で、今でも登山しようとする男は三ヶ月間酒・肉・欲色(女性)を断っている」と記されていると指摘しているサイトもある。
 いや、当ブログ記事は、修験道に於ける女人禁制の是非を論じているのではなく、歴史的事実を指摘しているだけであると理解頂きたい。「大峯山・山上ヶ岳の女人禁制はどうして生まれたか?」: 山人のあるがままに 

 同記事の筆者たる専門編集委員は、いずれかの安穏な書斎で、PC/MACの操作でこの場所を見つけて、温々とした書斎で意気揚揚と記事を仕上げたのであろうが、現地は、ぼちぼち冬支度に勤しんでいるはずである。
 いや、定説となっている下界の「宮滝」の地すら、冬季は、露天の水たまりが凍結するような世界である。こればっかりは、現地体験してから書いていただきたかったものである。

*「決めつけ」の宮滝を棄てた「決めつけ」
 それにしても、日本書紀の記事の不確かさを知りながら、書紀に書かれている「吉野宮」は、現代地名の吉野にあったに違いないと強引に決めつけ、河川交通の便がありそうに見える定説の宮滝の比定地を捨てて、険阻な山中の金峯山寺に比定するという姿勢自体、無理の塊である。
 修験道の場ということ自体、交通の便がないことは自明であり、今日の交通事情を見ても、観光名所でありながら、近鉄特急が乗り入れているのは山麓附近で終点であり、以下、吉野ロープウェーで100メートルあまりを上るのである。

 そのような場所に、持統天皇が時期をかまわず33回(天皇在位期間中の「行幸」は31回とのことだが)も行幸するとは、どういうことなのだろうか。天皇の行幸は、一人二人の話ではなく、五十人、百人で済まない関係者ご一行の到来である。まして、高貴な身分の方は、背負ってでも登らないといけないのである。

*不可能な強行軍
 また、今回の記事を信じるなら、齊明天皇は、三月一日の吉野の宮での供宴の後、当然一泊したはずであるが、三月三日には、飛鳥まで(直線距離で15㌔㍍というものの、直線で移動する道がないのだから、この数字自体に大した意味はないのだが)帰り着いただけでなく、道を改めて(直線距離で70㌔㍍というものの、この数字自体に大した意味はないのだが)近江に着いたというのである。
 ちなみに、(当時知られていない)太陽暦の西暦年に、太陽暦と月日がずれている陰暦(当時現役の暦制だから、旧暦というのは間違っているが)(旧暦)の月日を繋ぐ「愚」は、とんでもない時代錯誤であり、記事の権威をぶちこわすが、この際追究しない。

 さて、一日35㌔㍍は、平坦な道路で健脚の成人男性が、手ぶらであれば、何とか踏破可能だろうが、道だけとっても、曲折起伏険阻の困難があって、実感は、何倍にも達する筈だが、当方の手元には資料が乏しいので、よくわからない。どのような交通手段、運搬手段で、一行は、両地点間を移動したのだろうか。当初書き漏らしていたが、女帝以下の貴人は、徒歩や乗馬の筈はなく、馬車、牛車、輿などで移動したはずであるから、一段と、行程は難渋したはずである。牛馬は、蹄鉄を打っていたのだろうか。強行軍を、乗り継ぎなしに乗りきったのだろうか。疑問が絶えないのである。

 以上、えらそうに書いてきたが、別に、現地に行って自分の目で見て、踏破したわけではなく、つまり、現場を実体験していないので恐縮だが、Google Map などのネット情報と一般常識に基づいて思索したものである。

 ということで、ちょっと考えただけでも、とんでもないお話であるが、時代背景や修験道の来歴の考察もなしに、金峯山寺に「吉野の宮」に比定する私見が、そのまま毎日新聞の専門編集委員のご高説として紙面に載っているのである。
 試練ならぬ試錬で叩かれ鍛えられた記事は信用できるが、軽率な思いつきで書き立てられ、批判されていない記事は、信用できないのである。

 個人的な発想であれば、何をどう考えようと個人の自由かも知れないが、全国紙の文化面にここまで執拗に自説を書き連ねるというのは、どんな神経、倫理観なのか不思議である。

 「専門編集委員」の特権で、記事内容について無審査で掲載しているのだろうが、「専門編集委員」の記事は、毎日新聞社の記事である。毎日新聞社の名声にドロを塗るような記事を延々と掲載している意義は、一介の定期購読者として理解できない。

未完

 

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 7 吉野宮の悲劇 2/2 再掲

  大海人皇子の吉野宮 天智の宮の真南か
 =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 重大な権利侵害の疑い   2016/11/17 再掲 2024/04/17, 09/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯本論
 当連載の問題点の内、執拗なものは、毎回同一症状なので、本来は、またやっている程度で済むのだが、それでは、書いていてたまらないので、ちょっとずつ視点を変えて指摘するのである。それにしても、どう言えば、理解できるのかと困惑しているのである。
1.プログラムの権利侵害
 今回も、当記事で「カシミール3D」を引き合いにしているが、プログラム作者の権利を侵害していないだろうか。
 プログラム作者は、現代の環境、つまり、国土地理院の地図・地形データなど、動作確認済みのデータを使用する際には、表示対象となっている地形を正確に表示するように努めたはずである。(当然果たすべき機能として、暗黙の保証がされているのである)しかし、誰が考えても、それ以外の条件については、何の保証もできず、従って、責任もとれないはずである。

 いかなる地図データもない7世紀について、現時点の地図データを適用して地図化することは、「カシミール3D」の保証外と言うか論外であろう。また、地図上の遺跡、遺構の位置については、さらに明らかに「カシミール3D」の保証外である。

 つまり、プログラム作者の保証できないような利用方法でありながら「カシミール3D」で作図したと表明して、読者が、記事の主張は(信頼性に定評のある)「カシミール3D」で確認済みだから根拠がある、と誤解させるのは、欺瞞行為であろう。

 まして、ここに示されているような使用方法は、「カシミール3D」のいわば改造に類するものであり、改造されたプログラムの動作結果に「カシミール3D」の名を冠して表示するのは、プログラム作者の権利の重大な侵害と思う。

 従って、常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、同記事筆者である専門編集委員が「勝手に」、つまり、記事筆者が自己の責任の基に勝手に取り出したものであり、その旨明記して、「カシミール3D」に責任がないこと、つまり、「免責」を明記しなければならないと思うのである。

2.データベースの権利侵害 
 「カシミール3D」は、自身の地図・地形データを持たず、何れか動作確認済みの地図・地形データを利用するものであるが、ここまでの連載記事に、地図・地形データ提供者の表示がないのは、まず第一に不当なものと考える。

 記事に掲載された地図、角度、距離などが、データ提供者の地図・地形データを利用したことが書かれていない上に、そのデータ以外のデータ、つまり、遺跡遺構の位置など、追加した部分の地図・地形データ提供者が書かれていないのである。

 さて、データ提供者が提供している地図・地形データは、言うまでもなく現時点のものであり、その正確さについては、地図・地形データ提供者が責任を持って保証しているものと信ずる。

 現代の地図データの信頼性は、測定時と現在の間については、校正され、ある範囲内の精度が保証されていると思うのだが、古代地形については、その時点で測定していないから、地図データがなく、保証できないのが当然である。
 現時点の地図・地形データを古代に適用して勝手に古代の地図を描くのは、地図・地形データの時間要素の改造にあたり、誠に勝手な使用であり、現代の地図・地形データ提供者が提供しものだと暗に表明するのは、地図・地形データ提供者の権利の侵害である。

 現在まで連載記事の地図などに使用されたのは、おそらく国土地理院の地図・地形データだから正確なものと読者が想像すると、読者は、国土地理院は、現在の地図・地形データが7世紀にそのまま適用できると保証したと勘違いしてしまうのである。

 過去の批判でも言ったのだが、当記事で「カシミール3D」を使用しているとだけ言って、その後、0.1度単位の高精度の数字を得たと書くと、それは、「カシミール3D」が、精度というか信頼性を保証していて、記事筆者は、それを信じて書いた、となってしまうのである。計算結果の数字が間違っていたら、それは、「カシミール3D 」ないしは影に隠れている国土地理院の責任になってしまうのである。誠に、無責任な態度である。

 常識で考えればわかるのだが、この記事で示されている図や距離、角度の数値は、記事筆者たる専門編集委員が「勝手に」、つまり、自己の責任の基に勝手に取り出したものである旨明記して、地図・地形データ提供者、おそらく、国土地理院に責任がないこと、免責を明記しなければならないと思うのである。

 以上を総括すると、一連の記事は、古代遺構が地図上で直線上にある、などの地図上の数値データによる判断だけを論拠にしているから、それらの数値データが科学的な根拠を持たない、いわば、記事筆者のお手盛りの捏造データであるとしたら、これまでの連載で提示されたすべての仮説が捏造となる。とんでもない話である。

 毎日新聞は、科学的な根拠の提示されていない、妄想としか言えない記事をなぜ、延々と掲載し続けるのだろうか。専門編集委員の名の下に掲載された記事について、毎日新聞社が責任をもつというのはも当然の理窟に思える。

 当方は、個人の誤りは当人が自力で気づいて訂正しない限り解決しないという考え方をしているから、「自力で気づいて」くれるように、毎回穏やかに綴っていたが、その気配はなく、今回は、また一つ当方の忍耐の限界を超えたようである。遂に、プログラム作者やデータ提供者の権利侵害、つまり、犯罪行為だと指摘せざるを得ないところに来ているのである。

以上

2024年8月29日 (木)

新・私の本棚 牧 健二 「魏志倭人伝における前漢書の道里書式の踏襲」

「史料」第45巻第5号 昭和37年9月 「邪馬台国研究総覧」三品 彰英 200
私の見立て ★★★☆☆ 画期的解釈        2024/08/29,09/03 

◯はじめに
 本書は、不朽の大著「邪馬台国研究総覧」に収録されているが、余り、参照されていないようなので、ここに顕彰する。

*概要
 当抜粋紹介記事では、以下の二点が目覚ましい指摘と考える。
⒈ 「列挙式」の常識
 前漢書西域伝の記事から、伊都国以降の記事は、「列挙式」記載と見られる。
 まことに至当、順当である。と言うのは、陳寿の魏志編纂時点で、先行する正史は、司馬遷「史記」と班固「漢書」の二史であり、「倭人伝」道里記事の典拠とすべき史書として「漢書」は唯一無二であったのである。

 魏志読者には漢書西域伝記事が「普通」であり、蕃王居城に至る道里の後に周辺侯国への行程を列挙する。俗に言う直線式なる「単純」解釈は「無教養な後生蕃夷の誤謬」と言えば論議完結のはずが、「纏向遺跡史学派」に政策的に黙殺されていると見える。

⒉ 非常識な「海路」

 杜祐「通典」「州郡」「日南郡」記事を「倭人伝」道里「水行十日陸行一月」の解釈に援用する。当記事は好例であり、諸郡も同様書式で書かれている。
 「通典」は、唐代史料である。日南郡は「ベトナム」であり、三国東呉の領域である。
 氏は、慧眼を駆使して「日南郡」記事で「倭人伝」の「水行十日、陸行一月」を処断するが、率直なところ、いわゆる国内史学界でしか通用しない勘違いと言わざるを得ない。正史の解釈という見地から云うと、氏ほどの碩学にしては、軽率の誹(そし)りは免れない。
 同記事の取り扱う地域は、三国東呉孫権政権の統治下であり、三国曹魏の圏外であったから、陳寿が「魏志」編纂で対処する「史実」、すなわち、曹魏「公文書」にないので、当然、「魏志」に援用されない。見当違いであろう。

 さらに、氏は、「水路」と「水行」とを同義と誤断し、更に、「水行」を「海路」と読み替える。正史を、国内史学の見識で「曲解」するのは、国内史学の積年の悪弊であるから、その責めを牧氏に負わせるのは酷である。いや、世上には、「正史」の語義を知らずに、中国における正史の伝統を堅持した陳寿「三国志」と「無学、無教養な文章家」が草した「読み物」である国内史料を同列視して一刀両断する武闘派が声を上げているから、中々、正論が通らないのだが、蕃夷に「正史」とは笑止と言うべきなのである。
 ただし、中国史料初学者の務めとして、中国史書解釈は中国史書語法に従うべきである。「水」は、河川であり海洋でないことは自明である西京長安、東京洛陽が並記されるが両「京都」に「海路」で到ることはありえない。「倭人伝」にも、提示された史料にも「海路」はない。

*史料引用 杜祐「通典」「州郡」 伝統的書法堅持
 日南郡東至福祿郡界一百里。南至羅伏郡界一百五十里。西至環王國界八百里。北至九真郡界六百里。東南到海百五十里。西南到當郡界四百里。西北到靈跋江四百七十里。東北到陵水郡五百里。去西京陸路一萬二千四百五十里,水路一萬七千里。去東京陸路一萬五百九十五里,水路一萬七千二百二十里。戶九千六百一十九,口五萬三千八百一十八。
 南海郡東至海豐郡四百里。南至恩平郡五百里。西至高要郡二百四十里。北至始興郡八百里。東南到恩平郡四百里。西南到高要郡界二百三十里。西北到連山郡九百里。東北到海豐郡界三百五十里。去西京五千四百四十七里,去東京四千九百里。戶五萬八千八百四十,口二十萬一千五百。

 「通典」が採用した唐代史料は、中世唐代の潤沢な用紙、用材を承けて、志部に字数を費やすことができたので、「郡治に至る道里」と「郡界に至る道里」が並記されている。「道里」は実地踏査、一里単位、「戸口」は、緻密な戸籍台帳を駆使して、一人単位で把握されている。古代の事情は不明だが、中世唐代には、「算盤」による会計、統計人材(官吏)が、中国全土に展開していたとも思われる。

*苦言 余談 追記2024/09/03
 以下、権威ある「史料」誌の審査に応えて掲載された本論に於いて「論文」形式を確実に踏まえた牧氏に対する批判ではない。先行諸論を克服する点で、不備があったわけではない。

*陳寿「三国志」不備論の不備
 陳寿「三国志」が「志部」をもたないのは、「魏志」は、あくまで、「曹魏」公文書に依拠していたから、存在しない文書は採用できなかったのである。正史を構成するに足る原史料がなければ、史官は割愛せざるを得ない。
 南朝梁の史官沈約は、選考する劉宋の正史「宋書」「州郡志」編纂にあたり、劉宋代に到るも、正史として、志部を備えた後漢書は未刊であり、陳寿「三国志」が志部を欠いているため、後漢代以来の諸郡地理が不明である点が多いと歎いている。「魏志倭人伝」会稽東治談議でよくいわれる、東呉会稽郡の分郡、建安郡創設などにしても、東呉が亡国時に西晋皇帝に遺贈した「呉書」の列伝記事に全面的に依存しているほどであり、道里記事は、収録されていないのであるから、「三国志」において「地理志」、「州郡志」は、編纂しようがなかったのである。

*失われた范曄後漢書「志部」
 ちなみに、笵曄「後漢書」曹皇后紀に付された李賢注は、沈約「宋書」謝𠑊伝(佚文)を引用して笵曄「後漢書」に収録される構想であった後漢書「志部」十巻の顛末を述べている。同伝によると謝𠑊は、後漢書「志部」十巻の編纂をほぼ完了していたが、時の劉宋文帝が、皇帝謀殺の隠謀という大逆罪に連坐したとして「范曄を斬罪に処し編纂中の後漢書を接収した」との報を受けて、編纂中の後漢書「志部」の私家稿を隠匿し、秘匿したので、ついに、范曄「後漢書」「志部」は世に出ることは無かったということである。ちなみに、笵曄「後漢書」として伝世されている范曄「遺稿」は、劉宋文帝が、言わば、不法に没収したものであり、范曄自身が上申したものでないので、范曄の著作として取り扱うべきではないという意見も、成立しうるものと思われる。ちなみに、笵曄「後漢書」現存刊本の志部は、先行して上程されていた司馬彪「続漢紀」の志部を併呑したものであり、唐代以前、笵曄「後漢書」は志部を欠いていたのであり、以降追加された志部は范曄の承知していないものであった。

*散乱した沈約「宋書」、未完成な范曄「後漢書」
 ちなみに、李賢注が依拠した沈約「宋書」謝𠑊伝は、沈約「宋書」現行刊本に収録されていない逸文である。南朝梁代に編纂された沈約「宋書」に散逸が多いのは、南北朝分裂期を、北朝側の隋が統一した際に、南朝諸国が賊として軽視されたためである。
 沈約「宋書」は、散佚状態から回復を図り、唐代に「正史」に新参したといえども、古来正史として認定されていた陳寿「三国志」の承継の確実さに遙かに及ばない。また、李賢によってにわかに正史に認定された范曄「後漢書」も、李賢がことさらに補注したように、范曄によって完成されたものでない、いわば「未完成」であったことも、史料批判に於いて、丁寧に審議すべきであると思われる。

*唐代全国統治の精華 「通典」「州郡」道里記事
 おそらく、唐代、全国統治の権威の裏付けとして、実地測量に基づく全国地理調査を行ったと見え、「通典」「州郡」は、古来の道里記事の存在しなかった当該地域の精読に絶える道里記事を完成したものと見える。いうまでもなく、先行する正史に於いて既に記述された公式道里記事は不可侵であったし、「倭人伝」道里記事に略記された以外の地域道里は、既に知るすべがなかったので、「通典」「州郡」の手が及ばなかったのである。
 ということで、「通典」「州郡」の記事を元に、「魏志倭人伝」の道里行程記事の解釈を図るのは、労多くして報われることが少なく、意義に乏しいと言わざるを得ない。

*余談の余談
 これも、牧氏には関係のない余談であるが、ことのついでに一言述べると、世に蔓延(はびこ)るあまたの俗耳に訴えたいからと言って、自説補強と勘違いして、あることないこと不平不満を募らせて、陳寿編纂を誹謗しないことである。仲間受けをよいことに、お手盛りの不合理を積み上げて、声高に罵っても、後世に至るまで乱暴な俗論として無視される原因となるだけである。ご自愛いただきたい。

                                以上

2024年8月28日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞夕刊一面の墜落 今ひとたびの「リベンジ」蔓延

                       2024/08/28

 今回の題材は、事もあろうに、毎日新聞夕刊第一面記事である。

 当ブログの定番である「リベンジ」廃絶運動であるが、大半の場合、非難の対象は、蔓延の根源である野球界の懲りない悪習である。発生源から「ダイスケリベンジ」と言いたくなるのだが、今回は、夕刊一面の、言わば、毎日新聞の金看板に、でんと「リベンジ」がのさばっているのには恐れ入った。恐らく、署名記事を書いた新進記者は、こんな所でどつかれるとは思わなかったのだろうが、恨むなら、校閲部のチェック漏れを咎めるべきであり、逆恨みして当方を血祭りに上げるなどとわめかれても困る。こちらは、善良な定期購読者である。

 どうか、このような汚い言葉を紙面に持ち出すような失敗は、今回限りにして欲しいものである。今回の記事の取材先が、どぎたない言葉をまき散らしているのかもしれないが、そこは、「言葉の護り人」である毎日新聞記者が、やさしく指導してあげるものではないだろうか。

 丁寧に説明すると、この言葉は、世界のあちこちで繰り広げられている流血「テロ」を賛美する最悪の武器であり、中東で続く血なまぐさい報復合戦を賛美する気がないなら、慎むべきである。いや、この言葉は旧約聖書で、固く戒められているから、本来、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教徒とが、こぞって共有する重大な戒めの筈なのだが、「天誅」、「聖戦」扱いでまかり通っているのである。幸か不幸か、日本人の大半は、そのような血なまぐさい戒めと無縁で、仇討ちの血祭りを讃えているが、そのせいで、此の国で復讐賛美の言葉が出回っているのは心有る外国人が忌み嫌っているのである。

 どうか、少なくとも毎日新聞紙面から、この忌まわしい言葉が自然消滅して欲しいものである。少なくとも、それだけは、毎日新聞が実現できるものである。それ以上は、報道人の良心の問題であるから、素人がとやかく言えるものではない。

以上

2024年8月21日 (水)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 1/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*陸行水行論の整理
 事態輻輳の解きほぐしを試みます。(2024/08/21)
 「倭人伝」道里記事は、後漢献帝建安年間に、公孫氏が遼東の郡太守を自認したあたりに提起されたものと見えます。天子が玉座を離れて漂流するような行く手不明の時代でしたから、南下進出した青州に加えて、未開の荒れ地に等しかった韓国の更に南に広大無辺と見える新世界を見出した公孫氏は、楽浪郡でこの地域を担当していた帯方縣を強化して帯方郡とし、そのような新世界である「倭人」の境地をわが物として、見失われていた東夷を広く支配する野心を抱いたのです。
 それは、自らを「天子」とする構想であり、天子の居処である王畿から、無限とみえる万二千里の極致に、倭人の居処を置いた構想(Picture)を想像したと見えます。

*岡田英弘氏の韓国観の蹉跌 (2024/08/21)
 ちなみに、岡田英弘氏を初めとする幻像愛好家の方々は、漢武帝が、「陸路南下」して小白山地を越える竹嶺経路で半島最南端に至る交通路を創始して、郡体制を敷いたとか、それこそ、万里の波濤を越えて、南海の商人が「海路北上」して大挙来訪したとか、二色の経路を設けて神がかった画餅を描かれています。
 「陸路南下」は、後世三世紀に至るまで「街道」とならず、「海路北上」に至っては、中世唐代になっても、大型帆船の来航が確立されていなかったとみえるのです。否定しがたい状況証拠として、武帝以来数世紀を経た「倭人伝」に於いてはじめて確認された行程道里は、定法に従い、郡を出て陸路を歴て狗邪韓国の海港に至るものです。そして、そこからは、大河に見立てた大海に浮かぶ洲島を、軽快な手漕ぎ渡船で渡り継いで至る行程です。
 つまり、岡田氏がサラサラと描いた幻像は、所詮、中国中原文明にしられていなかった幻像であったとわかるのです。ちなみに、岡田氏は、戦前/戦中の日本統治下に、韓国領域を巡訪したことから、早くから、竹嶺(鳥嶺)経路を提言されているのですが、「倭人伝」道里行程論では、確立されていたはずの陸上経路を棄てて、虚構の沿岸船上移動を採用しているとみえるのは、何とも残念なのです。
 岡田氏の所説は、大局的な高説が多いので、学ぶべきところは多いのですが、時代考証を度外視した幻像史観に基礎を置いているので、御高説を其の儘受け入れることはできかねるのです。世界史に於いて広く時代と地域を普(あまね)く視察した岡田氏の言辞を、ご自身の提言に応用させていただくと、中国文明を学んでいない「二千年後生の無教養な東夷」の勝手な異説にとどまっているのは、残念なところです。

*閑話休題
 「倭人伝」道里行程記事の眼目である「従郡至倭」万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間が陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、「水の上」を行ったかも知れませんが、中国の制度としては、そのような規定/定義付けは、あり得ないということです。どうか、顔を洗って目を覚ましてほしいものです。

 九州島上陸後は、末羅国で、わざわざ「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で倭の王治に至ると判断されます。伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、明記されているように、行程外の「脇道」であって、当然、直行道里からも所要日数からも除きます。従って、「都合水行十日+陸行一ヵ月」の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る現地道里、日数では無いのです。本記事では、全体道里万二千里に相当する所要期間と見るのです。
 誠に簡明で、筋の通った読み方と思うのですが、とうの昔に「**説」信奉と決めている諸兄姉は、既に「思い込み」に命/生活をかけているので、何を言われても耳に入らないのでは、仕方ないことでしょうか。

 因みに、『「都合水行十日+陸行一ヵ月」の四十日行程 』とする解釈は、根拠のある一解であり、筋の通った「エレガント」な解と見ていますので、この解釈自体に、根拠の無い難癖を付けるのは、批判には当たらないヤジに過ぎません。感情的な「好き嫌い」を聞いても仕方ないので、論理的な異議に限定頂きたいものです。また、当ブログは、一部にみられるように公的機関の提灯持ちを「任務」としているものではないので、「百害あって一利なし」などと、既存権益を疎外するものと難詰されても、対応しようがないのです。

 巷間喋々されるように「水行なら十日、陸行なら一月」とか、「水行十日にくわえて陸行なら一日」とか、お気楽な改竄解読は、さらに原文から遠ざかっているので、無意味なヤジに過ぎず、確たる証拠がない限り、本稿では、論外の口出しとして門前払いするものです。

 当ブログでの推定は、榎一雄師が注力した「放射行程説」に帰着していると見て取れるかも知れませんが、当ブログは、特定の学派/学説に追従するものでなく、あくまで、『「倭人伝」記事の解釈』に基づいているのです。もちろん、特定の学派/学説を否定する意図で書いているのでもありません。敢えて、大時代な言い回しを採ると、脇道によらない「一路直行」説と呼ぶものでしょう。

*陳寿道里記法の確認
 このように、考慮に値しない雑情報を「整理」すると、全体の解釈の筋が通ります。つまり、全行程万二千里の内訳として、「陸行」は総計九千里、所要日数は都合三十日(一月)となり、郡から狗邪韓国までの陸上街道を七千里として臨時に定義された「倭人伝」道里』によると、一日あたり三百里と、切りの良い数字になり、一気に明解になります。

 一方、「従郡至倭」行程の内訳としての「水行」は、専ら狗邪韓国から末羅国までの渡海行程十日と見るべきです。「水行」三千里の所要日数を十日間とすれば、一日あたり三百里となり、「陸行」と揃うので、正史の夷蕃伝の道里・行程の説明として、そう読めば明解になるという事です。
 視点を変えれば、渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば確実に踏破できるので「水行十日」に相応しいのです。勘定するのに、別に計算担当の官僚を呼ばなくても良いのです。
 「倭人伝」の道里行程記事の「課題」、つまり「問題」(question)は、「従郡至倭」の所要日数の根拠を明解に与えると言うことなので、史官としては、与えられた「課題」を、与えられた史料を根拠に、つまり、改竄も無視もせずに、正史の書法で書き整えたことで大変優れた解を与えたことになります。
 当時、このような編纂について、非難を浴びせていないことから、陳寿の書法は、妥当なものと判断されたと見るべきです。

 ちなみに、陳寿は、帯方郡が、不法な里制を敷いていたと非難しているのでは無く、公孫氏が起案して曹魏皇帝が受け入れた「従郡至倭」「万二千里」と言う行程道里を、曹魏代に確認された「現地まで四十日」という実務的な行程日数に当てはめ、そのように絵解きすれば明解になるということです。

*道里行程検証再開
 郡からの街道を経て狗邪韓国に至った道里は、ここに到って「始めて」倭の北界である大海の北岸に立ち、海岸に循して渡海するのです。
 狗邪韓国から末羅国に至る記事は、「始めて」渡海し、「又」渡海し、「又」渡海すると、順次書かれていて、中原で河川を渡る際と同様であり、ここでは、大海の中の島、州島を利用して、飛び石のように、手軽に、気軽に船を替えつつ渡るので、まるで「陸」(おか)を行くように、「水」(大海の流れ)を行くのであり、道里は単純に千里と明解に書いているのです。
 ここでは、敢えて、又、又と重ねることにより、行程は、渡海の積み重ねで、末羅国、そして、「陸行」で伊都国に到ると明快です。

 各渡海を一律千里と書いたのは、所要三日に相応したもので、予備日を入れて「切りの良い」数字にしています。誠に整然としています。都合、つまり、総じて、或いは、なべて「水行」は「三千里」、所要日数「十日」で、簡単な割り算で一日三百里と、明解になります。諄(くど)いようですが、この区間は「並行する街道がない」ので、『「水行」なら十日、「陸行」するなら**日』とする記法は成り立たないのです。頑固な方に対しては、「それなら、渡船と並行して、海上を騎馬で走る街道を敷くのですか」と揶揄するのですが、どうも、寓話を解しない方が多くて困っているのです。
 
 とにかく、倭人伝道里行程記事が、範とした班固漢書「西域伝」に見られない程、細かく、明解に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのです。それ以外の「実務」では、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。つまり、曹魏正始中の魏使の訪倭行程は、随分異なったかも知れませんが、「倭人伝」は、それ以前に、「倭人」の紹介記事として書かれたのであり、魏使の出張報告は、道里行程記事に反映していないのです。

 何しろ、明帝の下賜した大量、かつ、貴重な荷物を送り出すには、発進前に、「道中の所要日数の確認」と「経由地の責任者の復唱」が不可欠であり、旅立つ前に、「万二千里の彼方の果てしない旅路だ」などではなく、何日後にはどこに着くか、はっきりした見通しが立っていたのです。
 もちろん、事前通告がないと、正始魏使のような多数の来訪に、宿舎、寝具、食料、水の準備ができず、又、多数の船腹と漕ぎ手の準備、対応もできないのです。どう考えても、行程上の宿泊地、用船の手配は、事前通告で完備していたし、確認済であったはずです。

 また、当然、各宿泊地からは、魏使一行到着の報告が速報されていたはずです。
 「魏使が帰国報告しないと委細不明」などは、後世の無教養な東夷の臆測に過ぎません。

 これだけ丁寧に説き聞かせても、『「倭人伝」道里行程記事は、郡使の報告書に基づいている』と決め込んでいて、そのようにしか解しない方がいて、これも、苦慮しているのです。つけるクスリがない」感じです。
 
 誤解の仕方は、各位の教養/感性次第で千差万別ですが、本論で論じているのは、「倭人伝」道里行程記事は、郡を発した文書使の行程/所要日数を規定したものであると言うだけであり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような近隣との短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定していないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。

 ただし、この地域で日本海沿岸各地の産物が出土したからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、るか東方の遠方から多数の船が乗り付けて、商売繁盛していた、と言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。問われているのは、経済活動を行い続ける「持続可能」な営みであり、冒険航海ではないのです。順当に考えるなら、「一大国」が要(かなめ)となった交易が繰り広げられていたでしょうが、其れは、「倭人伝」道里行程記事の目的である「従郡至倭」とは別義であり、地域の一大国であったという国名に跡を留めているだけです。

 海峡を越えた交易」と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を小刻みに日数をかけて繋ぐ、今日の視点で見れば、本当にか細く短い、しかし、持続的な活動を維持するという逞しい、「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。

 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、倭人伝の提示した「問題」に一つの明解な解答の例を提示したのであり、他の意見を徹底排除するような絶対的/排他的な意見ではないのです。

 水行」を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、「中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も、一旦確認した解釈」とは、必ずしも一致しませんが、私見としては、「倭人伝」は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言/定義です。

 史官は、あくまで、それまでに経書や先行二史(「馬班」、司馬遷「史記」と班固「漢書」)に先例のある用語、用法に縛られているのですが、先例では書けない記事を書くときは、臨時に用語/用法を定義して、その文書限りの辻褄の合った記事を書かねばならないのです。念のため言い足すと、「倭人伝」は、「魏志」の巻末記事なので、ここで臨時に定義した字句は、本来の所では、以後無効です。「蜀志」「呉志」は、別史書なので、「魏志」の定義は及ばないのです。その意味でも、「倭人伝」が「魏志」巻末に配置されているのは、見事な編纂です。

 この点は、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、「倭人伝」の記事は、まずは、「倭人伝」の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、「倭人伝」外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだ」ということです。

 この点、中島氏も、「倭人伝」読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、その点に関しては、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 2/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23 2024/08/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。いきなり、街道が屈曲して西に「海岸」に出るとは、全く書いていないのです。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同趣旨であり、狗邪韓国の海岸を基線として縦方向、つまり、軽快な渡船で大海を渡って南方に、対岸に向かうことを、ここ(「倭人伝」)では、以下、特に「水行」と呼ぶという宣言、ないしは、「新規用語の定義」(definition)と見ることができます。
 つまり、「通説」という名の素人読みでは、これを、いきなり進むと解していますが、正史の道里行程記事で典拠に無い新規用語である「水行」を予告無しに不意打ちで書くことは、史官の文書作法(さくほう)に反していて、いかにも、高貴な読者を憤慨させる不手際となります。
 順当な解釈としては、これを道里行程記事の不法な開始部と見ずに、倭人伝独特の「水行」の定義句と見ると、不可解ではなく明解になります。つまり、道里行程から外せるのです。

*自明当然の「陸行」 (追記 2020/05/13)
 と言う事で、中国史書として自明なので書いていませんが、帯方郡から狗邪韓国の行程は、明らかに郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。陳寿の編纂時点まで、古典書籍、及び先行「馬班二史」に公式の街道「水行」の前例がなかったので、自明、当然の「陸行」で、狗邪韓国まで進んだと解されるのです。
 以下、臨時に採用した「水行」という名の「渡海」行程に移り、末羅国に上陸すると、限定的な「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。

*「水行」用例確認 2024/08/21
 ちなみに、中国古代史の最高の権威とされる渡邊義浩氏は、「水行」を行程道里に起用した例は、太古に至るまで存在しないと事実上明言しています。いや、氏は、司馬遷「史記」夏本紀の禹の伝記記事を取り上げていますが、書かれているのは、禹后が船で河水を移動(行)したという説明に過ぎず、「陸行」は車に乗った、「泥行」は橇に乗ったというのに合わせたものであり、陸に道(街道)があったとしても、河に道はなく、まして、陸と河の間の泥に道はないので、氏にしては不用意な引用とみえます。
 また、ここでも、「水」は、河水、つまり、黄河のことであるのは明らかであり、重ねて不用意な紹介と見えます。或いは、氏は、実際には、正史の道里記事に、「泥行」、「陸行」、「水行」は存在しないと示唆/事実上明言しているのかも知れません。要するに、明言/断定に等しいのですが、字面だけ舐めている/読み囓っているかたには、読み取れないとも思われます。要するに、史学者は、単に事実を書き綴るものではなく、いい意味で二枚舌であり、真意は文脈/行間から賢察するべきだという訓戒にもみえます。

*閑話休題
 本題に戻ると、「倭人伝」に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、「都合、水行十日、陸行一月(三十日)」と総括しているのです。

*誤解の殿堂
 ついでながら、先に言及したように陸行一月を一日の誤記とみる奇特な方もいるようですが、皇帝に上申する史書に「水行十日に加えて陸行一日」の趣旨で書くのは、読者を混乱させる無用な字数稼ぎであり、「陸行一日」は、十日単位で集計している長途の記事で、書くに及ばない瑣末事として抹消されるべきものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、天下随一の史官が桁違いのはしたなど書くものではないのです。

 結構、学識の豊富な方が、苦し紛れに、そのような子供じみたと言われかねない言い逃れに走るのは勿体ないところです。当史料が、至高の皇帝に上申される厖大な史書「魏志」の末尾の一伝だということをお忘れなのでしょうか。ここは、途中で投げ出されないように、くどくど言い訳するので無く、明解に書くものと思うのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路?」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(ピクチャー picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い画面出力に追記を施したものです。漠然とした眺望なので、二千年近い以前の古代も、ほぼ同様だったと見て利用しています。

 本図は、先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。
 但し、重複を厭わずに念押しすると、中原の中華文明は、「言葉で論理を綴る」ものであり、当世風の図形化など存在しなかったのです。
Koreanmountainpass00
未完

*旧記事再録~ご参考まで
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 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始「水行」と読むことになります。
 しかし、当時の船は、渡船以外は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難(公的な行程となり得ない)という反論があります。なにしろ、陸上街道があるのに、そのように悠長で、不安定で、まして、危険な行程は、官制郵便に利用できないのは、少し説明すれば、子供にも納得させられる明白な事項と思います。

 別見解として、『「水行」は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行』との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。
 これに対して、(実は、早計な誤解なのですが)曹魏明帝の下賜物の輸送経路と見た場合、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 このような視点は、「倭人伝」道里行程記事は、魏使、ないしは、帯方郡官人使節、正史使節の帰国報告に基づいているとする意見によるものですが、ここまで何度も説明したように、「倭人伝」道里行程記事は、明帝没後の正史使節の派遣以前に、新帝曹芳に対して、郡を発して倭に至るという「公式道里」を説明するために書かれたものであり、当然、正史使節の行程記事ではないのです。

 ちなみに、陸上行程は、馬車や牛車が動員できる上に、山路では、小分けして人海戦術でこなすという実務的な解法が予定されているので、輸送容量の問題は存在しないのです。また、宿駅ごとに交替して送り継ぐので、輸送距離が長いことは、否定的な要素には、全くならないのです。海上輸送の場合、便船は限られているので、増強することは困難であり、また、漕ぎ手の疲弊もあって、延々たる長旅になるのは、目に見えています。恐らく、論者は、別世界、後世の大型の帆船の揚々たる船便を想定しているのでしょうが、多島海続きで、しかも、船荷の乏しい海域に、大型の帆船などありえないのです。「倭人伝」の半島行程論議には、時代錯誤、実務無視のホラ話が繁昌していますが、文献無視の遺物/遺跡考古学者や後世の物知らずの夢想家が巾をきかす事態は、解消してほしいものです。(2024/08/21)

*厳然たる訓戒
 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)は、厳然たる訓戒を提示しています。具体的には、次の読み方により、誤読は解消するのです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えして洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 大前提として、中国古典書法で、「水行」は、河川航行であり、海上航行では「絶対に」ない、というとの定見が提起されていて、まさしく、「水行」を、海(うみ)に直結している諸説論者は、顔を洗って出直すべきだという、厳然たる訓戒ですが、諸兄姉には、なかなか、顔を洗わない方が多いようです。

*追記 2023/04/23:
 ここでは、「循海岸」を「沿海岸」と同義と解し、「海辺を離れて内陸の平地を、海岸と並行して街道を進む」と解釈しているのであり、海船での移動を「水行」と呼ぶという「不法な」誤読を、鮮やかに回避しています。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。
 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海(うみ)は、「海」を指すものです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 まして、「倭人伝」は、二千年前に書かれた高度に専門的な文書(文語文)であり、今日、通用している口語寄りの中国語文とは、大いに異なるものなのです。
 手短に言うと、古代史書において、「水行」は河川航行に決まっている』との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。
 
 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、陳寿「三国志」記事とは言え、「陳寿」が編纂していない「呉志」記事なので、魏志「倭人伝」用語の先行用例とするのは、不適当と考えます。

 同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

*追記2 2023/04/23: 
 「呉志」(呉国志)は、東呉の史官が、東呉を創業した孫権大帝の称揚の為に書き上げた国史であり、言うならば「魏志」(魏国志)には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。「呉志」は、東呉降伏の際に晋帝に献上され、皇帝の認証を経て、帝国公文書に収蔵されていたものであり、「三国志」への収録の際に、孫堅~孫策~孫権三代とそれ以降の「皇帝」称号廃却は別として、改変、改竄は許されなかったのです。もちろん、「魏志」の記事に「呉志」を引用することも許されなかった、と言うか、そのような引用は、あり得なかったのです。
 つまり、「魏志」(魏国志) 倭人伝用語の先行用例検索では、「呉志」(呉国志) 、「蜀志」(蜀国志) は、除外すべきなのです。このさい言い足すと、現行刊本で、三国志の陳寿原本に補追されている裵松之付注記事も、陳寿が採用したわけでは無いので、用例とすべきでは無いのです。なにしろ、陳寿が参照したかどうかすら不明なのです。

 この点の誤解は、古来、裴松之以下の後世史家が、揃いも揃って陥った陥穽であり、後世東夷である当世国内史家が陥ったとしても、無理のないところですが、諸兄姉に於いては、原点に立ち返って冷静に考えていただければ、ことの見極めのつくものと考えます。

 そのような編纂方針が顕著なのは、後漢末、献帝建安年間の曹操南征時に生じた、俗に言う「赤壁の戦い」に関する各国志の食い違いですが、それぞれの「国志」が、各国の公文書に厳格に基づいて編纂されていて、陳寿が「三国志」を統一編纂していないことから生じたものです。

未完

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第七版 追記再掲 3/3

 2014/04/03 追記2018/11/23、2019/01/09, 07/21, 2020/05/13, 11/02 2023/01/28, 04/23, 2024/08/21, 08/25

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。
 注記:
 後日考え直すと、当初述べた「水行」行程の見方は間違っていましたので、書き足します。
 改築、増築で、見通しが付きにくいのは、素人普請の限界と御容赦いただきたいのです。

*郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02
 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、実務の荷物輸送であれば、並行する河川での荷船の起用は、むしろ自然なところです。河川交通が並行していれば、と言うことです)
 と言う事で、倭人伝」の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を、重複覚悟で考証してみます。
 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名は最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、安易な思いつきでなく、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、本筋として、当時、郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、素人考えで出回っているような、わざわざ黄海岸に下りて、不確かな荷船で、沖合を南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路です。

 公式の道里行程とは別の実務経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えたかの海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。黄海海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。

 当然ですが、黄海で稼ぎの多い大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員をこのような閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。まして、南下する閑散航路は、細かい舵の効かない大型の帆船の苦手とする浅瀬、岩礁が多いので、回避のために、細かく舵取りを強いられる海峡ですから、結局、帆船と言いながら、舵取りのための漕ぎ手を多数乗せておく必要があるのです。また、地域ごとの水先案内人も必須です。
 三世紀当時は、海図も羅針盤もないので、岩礁の位置はわからない、船の位置はわからないでは、岸辺に近づくのは、危険どころか確実な破滅の道となりかねないのです。

 因みに、舵による帆船の転進は、大きく迂回はできても、小回りがきかず、特に、入出港時のように船足が遅い状態では、ほとんど舵が効かないので、入出港の際には、漕ぎ手の奮闘で転進する必要があるのです。
 つまり、漕ぎ船と同様、寄港地を跨ぐ連漕は効かず、細かい乗り継ぎ/漕ぎ手交代が不可欠となります。

 と言うことで、半島航路に大型の帆船は採用されず、軽舟の乗り継ぎしか考えられないのであり、それでも、難破の可能性が大変高い、命がけのものと考えられます。
 一応、代案として評価しましたが、少なくとも、貴重で重量/質量のある公用の荷物の輸送経路として採用されないものと見えます。ちなみに、輸送の常識中の常識ですが、荷物は、人手で運べるように小分けして梱包してあるので、全体重量は、特に問題にならないのです。まして、一部素人論者がゴチャゴチャ騒いでいる荷物の「比重」など、全く関係しないのです。

*郡から漢江(ハンガン) へ
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江流域に出て、川港で荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易で、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ「痩せ馬」部隊や驢馬などの荷車もあったでしょう。そう、駿馬は、気が荒くて荷運びに向かないし、軍馬として貴重なので、荷運びは驢馬か人手頼りだったものと思われます。とかく「駄馬」の語感が悪いのですが、重荷を運ぶのは「荷駄馬」が、大量に必要だったのです。

 後世大発展した漢江河口の広大な扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行して黄海に流れ込み、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江河口部に乗り付けようとしても、通れる道がなく、また、便船が乗り付けられる川港も海港もなかったのです。
 南北あわせた漢江は、洛東江を超えると思われる広大な流域面積を持つ大河であり、上流が岩山で急流であったことも加味されて、保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。
 郡からの輸送が、西に海岸に向かわず、南下もせず、東に峠越えして北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録を確認したわけでもなく、この辺りは、現地地形、河勢を見た推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、「山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部」を取らずに、南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流(上游)入口の川港で陸に上り、以下、一千㍍を超え、冬季には、積雪凍結の小白山地越えの難路に臨んだはずです。
 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難です。(実際上「不可能」という意味です)

 と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、合流部の急流難関のために難航する宿命を持っていたのです。
 合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運の面では、大きな阻害要因と思われます。

 公式行程とは別に、郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、山東半島から渡来する海船は、扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、そこで降ろされた積み荷は、小分けされて内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。当然、南漢江経路に合流することも予想されます。但し、それは「倭人伝」に記述された道里行程記事とは、「無縁」です。

 世上、「ネットワーク」などとわけのわからない時代錯誤の呪文が出回っていますが、三世紀当時、主要経路に人員も船腹も集中していて、脇道の輸送量は、ほとんど存在しなかったのですから、縦横に拡張された編み目など存在しないのです。カタカナ語を導入するというのは、付き纏っている後代概念を引きずり込むことであり、早く言えば「時代錯誤」、ゆっくり言えば、その時代なかった「画餅」を読者に押し付けているのです。要するに、読者を騙しているのではないかと、懸念されるのです。考古学界の先賢は、当時存在していなかった言葉を持ち込むのは、好ましくない(駄目だ)と戒めているのです。
 因みに、当時山東半島への渡海船は、比較的大容量ですが、渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。つまり、船倉や甲板のない、むしろ現代人が想像する船舶というより筏に近いものであったと考えられます。遼東半島と山東半島を結ぶ最古の経路ほどの輸送量は無かったものの(半島南部にあたる)韓国諸国の市糴を支えていたものと見えます。

*南漢江上游談議
 と言うことで、南漢江上流(上游)の話題に戻ると、漢江中流部(中游)は闊達であり、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり安定した水運が困難であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に全く適さなかったものと思われます。
 従って、中流から上流に移る移行部にあって、後背地となる平地のある適地(忠州 チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。現代にいたって、貯水ダムが造成されて、上流渓谷は貯水池になっていますが、それでも、往時の激流を偲ぶことができると思います。
 そのような川港は、先に述べた黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として、大いに繁盛したはずです。大きく迂回する海岸沿いの「航路」は、はなから、「画餅」にすらならず問題外なのです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫街道の要所として整備され、つづら折れの難路ながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。何しろ、弁辰鉄山から、両郡に鉄材を輸送するには、どこかで小白山地を越えざるを得なかったのであり、帯方郡が責任を持って、地域諸国に命じて街道宿駅を設置し、維持していたものと見るべきです。
 後世と違い、漢江流域は「嶺東」と呼ばれる開発途上地域であり、万事零細な時代ですから、盗賊が出たとは思えませんが、かといって、官制宿駅を維持保全するには、周辺の小国に負担がかかっていたのでしょう。ともあれ、帯方郡は漢制郡であったので、郡治に治安維持の郡兵を擁し、魏武曹操が確立した「法と秩序」は、辺境の地でも巌として守られていたとみるべきです。

*弁辰鉄山考 2024/08/25
 ついでながら、世上、「弁辰鉄山」を重要視する意見がありますが、それなら、韓、濊、倭の採掘、輸送に任せていたわけはなく、然るべき担当官を置いて厳重に監督していたはずですが、そのような形跡はなく、単に、倭に向かう海津(海港)が、特記されないままに狗邪韓国が書かれているだけですから、帯方郡として「倭人」に鉱山管理全般を「委託」していたものとみえます。何しろ、韓には、主体となるべき「弁韓」国は存在せず、濊は、渾然たる未開の集団だったので、「委託」できるのは、「倭人」であったとみえるのです。
 海峡を越えた「倭人」は、当時、手漕ぎの渡船による交通/輸送の両面で隘路に近い状態なので、鉱山産物の取得に限界があり、また、軍事的にも、進出、支配が明らかに不可能だったので、実質的に、帯方郡御用達の鉱山監督の役目を果たしていたものと見えます。

 くり返しますが、「弁辰鉄山」が重要であれば、帯方郡は同地に鉄山管理を使命とした「縣」を設けなければならないのですが、竹嶺越えの経路を隔てた「遠隔縣」は、弱小帯方郡にとって維持不可能で、はなから、そのような意図はなかったと見えます。要するに、大した問題では無かったのです。また「倭人」による占拠は、問題外であったと見えるのです。

*閑話休題
 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した京城-釜山間新路線(中央線)の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に「竹嶺」越えとなっていたのです。
 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠(日本語独特の漢字)越えが行われていたものと見えます。

*荷運びの日常
 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、峠と言っても南北対象ではなく「片峠」であり、南の栄州側はなだらかです。今日、「竹嶺」の南山麓(栄州 ヨンジュ)から「竹嶺ハイキングコース」が設定されています。こちら側は、難路とは言え難攻不落の険阻な道ではないのです。要するに、栄州側は、山頂までの緩やかな短い登坂であり、山頂付近で荷を交換して降りてくるので、むしろ気軽な半日仕事だったのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河 洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、太古以来の浸食で、中流部まで、川底が大変なだらかになっていて、また、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行時に曳き船できたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

 因みに、小白山地は、冬季、北方からの寒風を屏風のように遮って、嶺東と呼ばれる地域の気候を緩和していたものと思われます。

 というものの、嶺東は、洛東江が深い河谷を刻んでいたために、流域の灌漑は困難であり、水田稲作が成り立たなかったようです。寒冷な気候とあいまって、食料生産は不振だったようです。
 参考までに、日本統治時代の現地視察報告を見ると、水田稲作が可能な状態でなかったと言う事です。つまり、先行していた朝鮮王朝時代に、嶺東地域は冷遇されて、土木/治水工事がされていなかったため、農業生産は低迷していたようなのです。日本統治下で、半島全域の「インフラストラクチャ」整備、住民福祉の向上が進んでいたはずですが、長年放置されていたので、発展が遅れていたとみえます。もっとも、こうした意見は、とかく韓国から非難されるので、ひっそり書き留めておくのに留めたいところです。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難(不可能)であったことから、あるいは、もう少し黄海よりに、峠越えに日数を要して山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。
 このあたりは、当方のような異国の後世人の素人考えの到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

 因みに、当記事をまとめたあと、岡田英弘氏の著作を拝見すると、氏は、半島南北交通が竹嶺(鳥嶺)越えで確立されていたと卓見を示されているのですが、なぜか、郡使の訪倭行程を、俗説の海上行程と見立てていて、失望させられたものです。氏は、鉄道ファンなら誰もが憧れるであろう「中央線」乗車を達成できなかった「怨」を抱いていたのかも知れません。

以上

2024年8月20日 (火)

今日の躓き石 日テレプロ野球放送の「リベンジ」連発の恥さらし

                                                               2024/08/20

 今回は、異例であるが「日テレジータス」の「巨人広島」東京ドーム戦の「リベンジ」連発を見過ごせなかったのである。大学生の「同級生」呼ばわりなど、子供っぽいとして見過ごしたのである。ひょっとすると、選手自身の口癖かもしれないが、大体は、記者が言わせているものであるし、選手の幼い暴言を教育的指導するのは、メディアの専門家の責任と思うから、つまらない失言を公開して、選手の顔に繰り返し泥を塗りたくるべきでは無いと思うのである。

 当ブログは、野球界で蔓延している「リベンジ」なる汚い言葉の撲滅を切望して、痛烈な非難記事を書いているが、これまでは、批判に応える見識のある公共放送と全国紙に限定していたのである。要するに、スポーツ新聞記事や民放の中継番組は、悪性語が野放しだろうから、言っても無駄だとしていたのである。

 今回は、ほかならぬプロ野球界の盟主ジャイアンツの創立九十周年の祭典であるから、それに相応しい品格を望んでも良いだろうと感じたものである。

 くれぐれも、後世に忌まわしい言葉を継承しないように、関連メディアの是正を指導いただきたいものである。

 天下の「日テレ」に、なぜ「リベンジ」が、公序良俗に反する、撲滅すべき忌まわしい悪性語か説くことはしない。ご自覚いただいて、せめて、管理下の各メディアに今後出回らないことを祈るだけである。

以上

2024年8月19日 (月)

新・私の本棚 岡 將男 季刊邪馬台国 第140号 吉備・瀬戸内の古代文明

 「吉備邪馬台国東遷説と桃核祭器・卑弥呼の鬼道」 2021年7月
 私の見立て ★★★★★ 考古学の王道を再確認する力作  記 2021/07/13 2024/08/19

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 著者は、フェイスブック「楯築サロン」代表と自称している。吉備地方の「楯築」墳丘墓の在野研究者と拝察する。要領を得ないが、本誌で示された実直な研究活動には賛嘆を惜しまないものである。

◯私見~纏向と吉備 桃種異聞
 以下、当記事の一端を端緒として、他地域遺跡の発掘事例の瑕疵を考察したものであり、岡氏の著作を批判したものではない。よろしくご了解いただきたい。
 当ブログ筆者は、纏向遺跡出土の桃種のNHK/毎日新聞報道が提灯持ち報道(もどき)と批判したので、当記事での事実確認に、まずは歓迎の意を表したい。

*纏向大型建物「事件」
 敢えて付け加えるなら、現在もNHKオンデマンドで視聴可能である「邪馬台国を掘る」で公開されている「桃種」出土時の学術対応について指摘したい。
 画面では、「桃種」が、纏向遺跡の土坑、一種のゴミ捨て穴から出土したとき、無造作に水洗いして付着物を除き、シート上で陰干ししたように見える。個々の桃種の出土位置と深さを記録していないのも難点だが、別に「非難」しているのではない。考古学関係者も、一般視聴者も、何とも思わなかったはずである。
 他の考古学的な発掘では、有力な遺物については、前後左右上下関係を記録した上で取り出し、発見時の位置が再現できるものと考えるが、今回の事例では、後日、桃種サンプルを年代鑑定したものの、出土位置不明では、新旧不明と見える。建物建設との前後関係も不明。歴年か一括かも不明である。後悔は尽きないと思うのである。

*遺物蒸し返しの愚
 近年になって、それらしいサンプル(数個)の年代鑑定を行ったようであるが、もともと、考古学的に適切な発掘、保存がされていなかった以上、莫大な経費を投じた悪足掻きになっている。何しろ、三千個の攪拌された母集団から、ランダムに数個取り出して鑑定しても、統計的に全く意味がないと見えるのである。

*纏向式独占発表の愚
 他の考古学的発掘の「桃のタネ」事例を調べることなく未曾有としたのは不用意である。想定外の大当たりを自嘲している暇があれば、大規模墳墓の出土地域に、前例の有無を、謙虚に問い合わせれば良かったのではないか。
 学会発表であれば、論文審査で疑義が呈されて克服するから粗忽を示すことはないが、実際は、NHK、全国紙など一部「報道機関」に成果発表を独占的/特権的に開示し、真に受けて追従した「報道機関」に誤報の負の資産を課した。NHKなどは、勝手な「古代」浪漫を捏造し、懲りずに継承している。懲りて改めなければ、負のレジェンドとして、"Hall of Shame"の「裏殿堂」に永久保存されるだけである。

 以上の批判は、別に素人が勝手な思い込みで記事を公開したわけでなく、大筋は、前後はあっても、当誌の泰斗である安本美典氏が、誌上で論難していることは、読者諸氏には衆知であろう。一方、「報道機関」は、毒を食らえばなんとやら、纏向桃種の「奇蹟」は、多数の努力と巨費を空費して、まことに国費の浪費であり、勿体ないのである。会計検査院は、監査しないのだろうか。

 岡氏は、別に、纏向遺跡の桃種について「非難」しているわけではなく、土坑出土の桃種の年代鑑定に疑義を淡々と提示しているが、当ブログ筆者は、素人で行きがかりも影響力もないので、率直、真摯に論難した。直諌は耳に痛いが、社交辞令にすると、大抵無視されてしまうのである。

◯まとめ

 因みに、当記事で説かれている「吉備邪馬台国」は、各遺跡で出土した万余の桃種の年代鑑定に依存してはいない。門司史料の伴わない遺物の宿命であり、遺物考古学論考の限界で「倭人伝」記事との連携はこじつけと見えるが、遺跡遺物考証に基づく世界観は、盤石と感じる。

 余言であるが、近来、本誌の刊行について「邪馬台国の会」ホームページに、予定どころか刊行の告知も、とんと見かけない。論敵「古田史学の会」が、古賀達也氏のブログで、細かく進度報告を公開しているのと大違いである。学ぶべき所は、謙虚に学ぶべきではないか。

                                以上

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」1/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*随想のお断り
 本稿に限らず、それぞれの記事は随想と言うより、断片的な史料から歴史の流れを窺った小説創作の類いですが、本論を筋道立てるためには、そのような語られざる史実が大量に必要です。極力、史料と食い違う想定は避けたが、話の筋が優先されているので、「この挿話は、創作であり、史実と関係はありません」、とでも言うのでしょう。
 と言うことで、飛躍、こじつけは、ご容赦いただきたいのです。

□社日で刻む「春秋農暦」
*「社日」典拠
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる(後略)

 社日は、白川静師編纂の辞書「字通」にも記されています。
 社日(しゃじつ) 立春、立秋の後第五の戌の日。〔荊楚歳時記 、社日〕 (後略)

 また、「社」自体に、社日の意があるとされています。

 「荊楚歳時記」宋懍(劉宋) 守屋美都男:訳注 布目潮渢 中村悠一:補訂 東洋文庫 324

*社日随想
 雑節は、二十四節気、以下「節気」、に則っているので、社日は、太陽の運行に従っています。社日が今日まで伝わっているのは、一年を二分する「農暦」の風俗の片鱗が太古以来伝わっているということなのでしょう。

*太陰太陽暦
 月の満ち欠けで暦を知る「太陰暦」は、文字で書いた暦がない時代、月日を知るほぼ唯一の物差しでしたが、「太陰暦」の十二ヵ月が太陽の運行周期と一致していなくて、春分、夏至などの日付が変動するため、何年かに一度、一ヵ月まるごとの閏月を設けます。一般に「太陰暦」と呼ばれても、実際は、太陽の運行と結びついた「太陰太陽暦」であり、これを簡略に「太陰暦」と称しているのです。
 「八十八夜」、「二百十日」雑節が、立春節季に基づいているように、太陽の恵みを受ける稲作は、万事太陽に倣って進めなければならないと知られていたのです。
 一方、「太陰暦」は、海の干満、大潮小潮を知るためにも、広く重用されたのです。

*節気と農事
 節気は、日時計のような太陽観測で得られ、毎年異なる「太陰暦での節気」を基準として農務の日取りを決めて、社日の場で知らせたとみているのです。いや、各戸に文書配布して農暦を通達できたら、元日、年始の折にでも知らせられるでしょうが、当時、文書行政はないし。納付は、一般に文字を読めないので、実務の場で、徹底することが必要だったのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」2/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*社日の決めごと
 村々の指導者は、節気を起点とした段取りを描いた絵を持っていて、そこには、例えば、代掻きの手順は何日後と決めているものです。毎年、通達された太陰暦の月日ごとの手順を決め、手配りを描くのです。
 かくして、稲作指導者は、春秋社日に参集した村々の指導者に田植え、収穫の段取りを徹底し、それが、村の指導者から家々に徹底されるのです。
 つまり、社日の場で、春の農耕の段取り、手配り、ないしは、秋の収穫の段取り、手配りが決まり、それぞれの家は、集団農耕の職能を担ったのです。
 あるいは、集落に掲示板があって、文字はなくとも、木に縄を巻くなどして、月と日を広く知らせていたかも知れません。

 以上、村落で共同作業を行う図式を絵解きしました。

*職能「国家」
 「国家」と書くと物々しいですが、中国古代史では、「国」は、精々一千戸程度の集落であって、文字の描く通り、隔壁で守られているものであり、それが、一つの「家」となっていたという程度でしかありません、現代語の巨大「国家」とは、別次元の概念ですので、よろしく、ご理解頂きたいものです。

 大勢の手配りが必要なのは、田植えと収穫時だけであって、それ以外の時は、それぞれの家で決めて良いから、稲作は年がら年中団体行動というわけでは無いはずです。

 さらには、後世のように、それぞれの家が、農暦と農作の要諦を掌握していれば、自主的に稲作できるでしょうが、それにしても、村落各家に職能を割り振ることによって、村落の一体感を保つ効用が絶大だったのです。

*「春秋農暦」の意義

 かくして、年二回の大行事を定めて農暦画期としましたが、この制を素人なりに「春秋農暦」と呼ぼうとしているのは、学術的な「二倍年暦」という用語が、その由来を語らないからです。

*陳寿の編纂意図
~後生東夷の臆測
 三国志編者陳寿は、「蜀漢」成都付近で生まれ育ちましたが、蜀に「春秋農暦」がなかったためか、農暦を知らず、長じて移住した晋都洛陽附近は、ほぼ麦作地帯で稲作風俗がなく、陳寿は、遂に春秋農暦の年二回の社日ごとの加齢の概念を知らなかったので魏略記事の意義が理解できず割愛したのかも知れません。あるいは、中原教養人である皇帝以下の読書人に理解されないことを懸念して、割愛したのかも知れません。

 当初稿では、そのように独りごちていましたが、以下、加筆しました。(2024/08/19)
 あるいは、元々、蜀の「春秋農暦」には加齢が結びついていなくて、それが、長江を下って、会稽付近に伝わり、更に、戦国「齊」なる東夷の世界を歴て、最終的に「日本列島」に定着したとも思えますが、いずれかの段階で、「俗」が変化したのかもわかりません。いずれにしても、文献には書き継がれていないので、後生東夷の臆測に過ぎません。
 ちなみに、「齊」の海港東莱から目前の海中山島に筏ででも渡って、一旦は、今日言う「朝鮮半島」に定着を試みたのでしょうが、洛東江が深い渓谷を刻みこんでいたため、水田稲作の根幹である灌漑水路が確保できず、水田農地開発が不可能であったため、北上経路の各地に比べて気温が低いこともあって、定住を断念し、温暖な海南の地に移住したとも見えます。遥か後世に至るまで、嶺東と呼ばれた弁韓/弁辰の地は、食糧生産が乏しく馬韓の地と比べて、貧困の地位に甘んじたのです。
 それは、後漢末期の献帝建安年間に、遼東公孫氏が不毛の地に郡制を敷こうと帯方郡を設けたとき「荒地」と呼んだので明らかなように、小白山地の彼方は、太古以来、文明の届かない荒れ地だったのです。
 帯方郡が、小白山地を越える竹嶺経路を開鑿し、郡治から狗邪に至る官道を開設したので、初めて、弁辰鉄山から郡治への鉄材輸送が開始し、この経路を利用して、海南倭地からの産物が到着するようになったので、洛東江渓谷に文明の光明が届いたのです。
 嶺東貧寒は、三世紀時点でも明らかで、郡から海津である狗邪に至る長い道程に、目覚ましい「韓国」は書かれていないのです。
 「倭人伝」に「倭地温暖」と書かれているように、暗黙の「韓地寒冷」とあわせて、韓地不毛、倭地豊穣の図が描かれているのですが、お目にとまりましたでしょうか。

*裴松之付注
の意義
 陳寿「三国志」に付注した裴松之は、長江下流の建康に退避した南朝「劉宋」の人で、稲作風俗(「風」法制と「俗」民俗)を知っていたので、倭人寿命記事に関する陳寿の見落としに気づきましたが、本文改訂は許されないので、魏略記事を付注し、示唆したのでしょう。

 倭人伝に春秋農暦が明記されていないのは、魏使を務めた帯方郡の士人が「春秋農暦」育ちであったため、当然とみたためであり、魚豢「魏略」も、特記まではできなかったのでしょう。

・補筆 2024/08/19
 但し、当然、魚豢「魏略」の採用した帯方郡志は、陳寿の薬籠中にあり、無用の蛇足と見て割愛したものと見ることができます。陳寿は、締め切りに追われて書き殴っていたのでなく、来る日も来る日も着々と推敲を重ねに重ねた上で「割愛」したのであり、裵松之は、皇帝の指示もあって、余計なお世話でゴミ記事を復活したとも見えますが、遥か遙か後世で、神のごとき明察を可能とされている後世東夷としては、陳寿本文と裴注とを分別して解釈することを求められているのです。

                             未完

倭人伝随想 2 倭人暦 社日で刻む「春秋農暦」3/3 三掲

             2018/07/07  2018/11/24 2024/05/08, 08/19 
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*殷(商)遺風
 白川静師が殷(商)風俗と見た春秋社日は、私見では、長江下流域(後の呉越)から海岸沿いに伝わったようです。社日は稲作のための農暦であるから、その時期に稲作は商の旧邦、後の戦国齊の地に伝わっていたと見られます。

*商風廃絶

 当ブログ筆者は、のちに、旧邦であった商の一部が、西域の富を求めて中原に攻め上って武力国家を創業し、これが世紀を経て成長して天下を把握した殷(天邑商)となったと見ていますが、殷は、乾燥した中原に適さない稲作風俗を失ったようであり、殷を打倒した周は遊牧文化を持っていたので、その制はなかったようです。
 このため、中原に展開された華夏文明は、東方を「夷」とみて、その文化を排したもののように思われますが、あくまで、東都洛陽を発端とした浸透であり、鄙の民俗を根こそぎ書き替えるには至らなかったようです。

 再確認すると、殷(商)「文化」を承継したとされている周は、西戎に属する異文化を擁していたものであり、水田稲作とは、ほぼ無縁であったため、「春秋加齢」を、必ずしも周制としていなかったように見えます。

*「二倍年暦」談義

 後代、春秋時代の斉、魯を起源とする諸史料を中心に、年暦に殷の遺風「二倍年暦」が偲ばれるということですが、ここでは触れません。
 (例えば、「古賀達也の洛中洛外日記」ブログ「二倍年暦」に発表。
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/category/the-double-year-calendar/)
 先賢諸兄姉の足跡、特に、寄せられた毀誉褒貶を察すると、一つには、「二倍年暦」を字面だけ見て「誕生日に一気に二歳加齢する」と即断した野次馬が多いように見られるので、安直な誤解を正したいとして書いたものです。

*伝来の背景想到
 一方、齊から倭への伝来は、どうであったかは不明ですが、風俗、つまり「法と秩序を示す[風]及び世俗の有り様を示す[俗]の複合」の大系が伝わったようであり、集落ごとなど大所帯の移住があったと見られます。ただし、移住の実態としては、山東半島東莱から、目前の海中山島、後の馬韓南部への移住があった後、更に南方の海中山島の地に移住したと考えれば、冒険航海を必要としないので、いずれかの時代に、家財、種苗、蚕の種などを抱えた移住が行われたと思われますが、もちろん、これは、憶測であり、特に論証されたものではないのです。

 移住の時期次第ですが、殷後期以降で文字が存在していれば、ことは、「風俗」と言う必要はなく、端的に、文書記録を携えて「文化」移住したのではないかと思われます。となれば、後の戦国齊での稲作「文化」のかなりの部分が、暦制も含めて忠実に再現されたと思うのです。但し、移住後、商「文化」がどの程度継承されたかは不明です。

*謝辞
 以上、拙論の手掛かりとして、白川静師の著書を参考にさせて頂いたことに深く感謝するものです。白川静師は、漢字学の分野で比類無い業績を残されていますが、甲骨文字、金文などの古代文字史料を隈無く精査したことによる中国古代、殷周代の民俗、文化に関する思索も、大変貴重なものであり、拙論にその出典を逐一付記すれば、付記が本文を圧すると思われます。

 しかし、拙論は、論考でなく、出典に立脚した、あるいは、啓発された随想であることは明示しているので、一々書名を注記しておりません。

 この際の処置について、無作法をお詫びすると共に、拙論の趣旨を一考頂ければ幸いです。

                             この項完

2024年8月17日 (土)

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 1/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆ 神がかりの荒技 2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 教育的指導追加 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 「図説検証原像日本」シリーズは、編集委員として、陳舜臣、門脇禎二、佐原眞と大物を据えた意欲的な取り組みであり、豊富な図版と多くの筆者の論考をを大型本五冊に収容した大著です。
 今回、古書店から購入したとは言え、図版資料としての重要性は絶大です。
 但し、記事部分は担当者の見識で書かれているので、しばしば躓かされます。今回は、丁寧に考え違いを教え諭しているので、

*「倭人伝」談義に重大な異議あり
 ということで、目下関心を持って読み進んでいるのは、古代記事なのですが、当段筆者の古代世界観の一端が、次の段落に明示されています。

 政治を反映する青銅器
 翻って『三国志』の魏志東夷伝倭人条によれば、日本は倭国(わ)、王都は邪馬台国(やまと)とされる。そして、九州の対馬(つしま)・一支(いき)・末廬(まつら)・伊都(いと)・奴(な)・不弥(ふみ)の諸国を統轄し、魏使等と倭国王、王都間の連繋をとる機構として「大率」が置かれている。言うまでもなく邪馬台国は大和であり、大は後世の太宰府に相当する機構である。こうした倭国の機構に対応する形で、青銅器の世界が展開している。倭国中枢の邪馬台国が直接統轄する範囲に銅鐸が分布し、大率なり率に統轄を委ねている範囲に銅矛が分布するのである。

 つまり、著者は、文献資料である「魏志倭人伝」の自分流の解釈、言い方によれば、手前勝手なこね回し、に合わせて、青銅器の分布を解釈するという態度をとっていますが、要するに、自分流の青銅器分布解釈に合わせて、文書資料を読みこなしているのですから、これは、遺物考古学者の論考の進め方として「本末転倒」でしょう。
 按ずるに、所属組織の機関決定をなぞっているのでしょうが、それは、ご自身とご家族の平安のために余儀なく辿っている天下御免の「禽鹿径」(裏道)としても、学門の本道を大きく逸脱しているのではないかと、懸念するものです。

*教育的指導
 2024/08/18
 僅かな行数字数に、重大な文献史料誤解の連発であり、どこのどなたの創作なのか、念の入った「落第答案」がさらし者になっているのは、創刊というか悲惨というか、何とも、言いつくろいに苦労するのです。せめて、原文を提示して、そこに解釈を自己責任で塗りつけたという形式にすれば、「思いつき」の素朴な発露と見てあげることが出来るのですが、改竄文書を立て付けの悪い素人普請で投げ出されては、是正のすべがありません。
 冒頭の一文を例にすると、中国で三世紀に書かれた陳寿「三国志」「魏志」東夷伝には、「倭人伝」と明記された一伝がありますから、これを「倭人条」と呼ぶのは、一種の仮説に過ぎません。魏志倭人伝によれば、三世紀に「日本」は存在しない、東夷倭人に「王都」は存在しない、まして、「邪馬臺国」、ならぬ「邪馬台国」は、一切存在しないのは、天下周知の事実ですから、ここに書かれているのは、二千年後生の無教養な東夷に二次創作と見るものではないでしょうか。
 以下、勢いに任せて難詰します。
 勝手に「大率」なる官人を創造して、それは、後世の太宰府に相当すると、気軽に断定していますが、太宰府は、数世紀後世に設けられた地方組織・機構であり、その時点で、成文法が成立、公布されていたものであり、文書送達の街道が完成していたとみなされます。して見ると、そのような体制整備が影も形もない時代に、近隣諸国に対して運用されていた官である、「倭人伝」に書かれている「一大率」なる官名とは不釣り合いです。勿論、「倭人伝」の編者は、太宰府など知ったことではないので、つじつまが合わないのは、不勉強で取りこぼしたのか、承知の上で道を外したのか、とにかく後世東夷の責任です。
 転じて、「言うまでもなく」と同族でだけ通じるお呪いをして、「邪馬台国」が倭であると、大胆な神懸かっている創作を進めていますが、当時の氏神に帰依していない部外者にも理解できる論証を必要としています。これでは、「カルト」教義のようだと書きかけたら、陰の声でもないのですが、「敬意」を示せと空耳がしたので、ちゃんと、「お」を付けて、『お「カルト」』のようだと言い直したいところです。

*遠隔統治の夢物語 2024/08/18
 北九州視点から蜃気楼の彼方の位置不詳の『「邪馬台国」は「倭人伝」に登場しないが、日本列島西部を包括支配していた』との言いのがれは絶妙好辞ですが、現代風に言うと、遠隔の地に在って、外交、軍事、租税、祭事の大権を保持している機構は、主権国家であり、文書行政の整った「太宰府」体制とは、全く異なった独立国と見るものでしょう。
 ちなみに、班固「漢書」西域伝に依れば、漢武帝代に派遣された百人の漢使節は、カスピ海東岸の「安息国」居城で、長老と折衝したところ、長老は、二万の常設軍を供えた要塞で、東方の大月氏の侵掠に備えているが、漢との「外交」については、西方数千里の国都の指示を仰ぐ必要があるとの回答を得て待機し、國王の親書を受けた長老が、漢使、つまり、漢帝の代理人である西域都督の使者と締盟したと明記されているのです。
 安息国は、法制と文書使制度が完備していて、東方辺境の軍事都督は、外交権限はもっていなかったが、文書で「王都」の勅許を求め、国王代理として締盟できたわけです。(漢書西域伝で、安息国は、唯一、漢に匹敵する文明国と認められていて、「王都」の呼称を与えられているのです)
 魏志倭人傳を編纂した陳寿は、当然、班固「漢書」西域伝安息条を知悉していたわけですから、伊都国王が、遠隔の「倭王」から委任された西方都督であったのなら、そのように、権限委任の手続きを明記した上で、従って、伊都国王に信書を提示した上で、代理人と締盟したと書くものです。そのような記事は一切ありませんから、伊都国王は、帯方郡から見て、所定の権力を保持している統治者であり、外交代権を行使する際に必要とされている女王の信任は、対面、面談で確認していたと明記されているのに等しいのです。

 素直に考えればわかるはずですが、班固「漢書」に示された安息国のように、成文法に基づく文書行政が確立されていれば、一片の書面で、遠隔地の代表者に指令を送り、必要があれば、馘首することが出来ますが、全て対面、口頭の世界で、そんなことはできるはずがないのです。せめて、中国太古のように、金石文として盟約を交わすことが出来れば、印綬の公布で、身分証明ができれば、全権を委任した使者の派遣で、強権を振るうことができるでしょうが、ないないづくしの三世紀に、どのような神業で広域支配できたか、論証は、至難ではないでしょうか。

 古来曰わく、言うのはタダ、言ったもん勝ちと言うことでしょうか。まるで、無学な野次馬の放言と誤解されかねない不用意な書きぶりであり、であり、「夜郎自大」でもないでしょうが、痛々しいものがあります。
 
*閑話休題
 それにしても、著者の脳裏に反映されている「政治」は、どの時代のどの国の言葉なのでしょうか。ちと、時代錯誤丸出しの粗雑な言い回しです。

 以前、自身が盆栽と化した著者が、資料を丹精して盆栽を仕立てていると揶揄しましたが、本記事もその一例です。「自縄自縛」と言いかけるのですが、少しは、趣(おもむき)のある言い回しを採ったものです。

 倭人伝を持ち出す以上、勝手な解釈を展開すべきではありません。まずは、独善を押しつける「日本」表記です。三世紀当時どころか、はるか後世の八世紀冒頭まで、「日本」は存在しなかったのです。また、当時蛮夷の王は、「王都」と称することを許されてなかったのです。勿論、地理概念の大和も存在せず、青銅器世界の展開も、手前味噌の概念なのです。

*文献史料の操作
 もし、ご自身の学究の手順として、文献を優先・先行させるのなら、各地で出土した青銅器を、先入観のない客観的な目でつぶさに観察、計測、分析したのと同じ客観的な目で文献を読み、科学的な目で史料批判すべきです。

*独自解釈の押しつけ
 古田武彦氏の古典的指摘を確認するまでもなく、「倭人伝」の倭王の居処は邪馬壹国であり、邪馬台国は後漢書由来です。その国が、僻遠のヤマトという説も有力ですが、九州北部にあったとする有力な学説が存在しています。
 文献解釈が分かれている中、一方にのみ依拠して自分流の解釈に固執し、文献に書かれている文字を自身解釈で書き換え、それに基づいて青銅器に反映されているとする「政治」を説くのは、科学的な態度といえないのです。

 つまり、ここに書かれた自己流倭国構造は一つの仮説であり、不確かな世界観に基づく文献解釈、不安定な仮説に基づいて、青銅器の意義づけを解釈するのは、仮説の正否以前の問題として学問の正しい手順を外れています。
 そのような不適切な論法を、原文献を参照できない一般読者に押しつけるべきではないと思うのです。

*Mythの剽窃
 よく見かける悪弊なので、個人的な意見ではないのでしょうが、中国で書かれた資料を、二千年後世の無教養な東夷の見当違いの解釈にこじつけて書き換えて、それを、もっともらしく著作にするのは、同時代人、後世人に対して、重大な悪弊を残しているものと見えます。考古学者として、恥じることのない、適確な著作を期待したいのです。
 既に、いずれかの組織の決定事項になっているので、異議を挟むことが許されていないのでしょうか。それなら、せめて、このような「Myth」(一神教信者が、異教の教義に対して投げつける蔑称)を誰が提唱したのか、功績を明らかにすべきでしょうか。「剽窃」は、創唱者の知的財産権を侵害する重罪だと思うのです。

                              未完

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私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 水野 正好 更新 2/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年
 私の見立て★☆☆☆☆  2017/02/10 補充再掲 2020/06/27 2024/08/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*戦国難民考
 ちなみに、水野氏は、中国の戦国時代のおそらく末期、秦による全国統一の際、中国北部の燕から、亡国から逃れた多数の人々が朝鮮半島を南下し、大海の彼方の日本列島に渡来したとみています。不明瞭なので、個人責任で明確化しています。
 燕が滅んだのは、BCE222年ですが、すでに他の諸国は、悉く秦に侵略されているので、燕の王族や貴族が逃げるなら、選択肢は、いずれも夷蕃で、北方の匈奴の世界でなく、温和な朝鮮半島を選んでも不思議はないのです。それにしても、家族一同移住できたのは貴族階級であり、従って、単なる逃亡でなく、中原世界で通用していた中国文化を持ち込んだ亡命と見ているのでしょう。

*遺らなかった文化資産
 それなら、定着地で中国語を語り、漢文を書き記し、中国「文化」の種をまいたものと思うのです。そのためには、木や竹から簡牘を作り、筆と墨を作り、持ち込んだ豊富な書籍に親しみ、時に応じて文筆活動したはずです。衣類も、中国のものとして、麻などの種子を栽培したはずです。
 断髪、文身、黥面は論外です。生食は禁忌です。牛肉、狗肉が必要です。
 祭礼として、家族の祖先をまつることも当然です。これは、中国文化の根幹です。家を守るという事は、「姓」を墨守します。中国の暦から切り離されても、月日の経過を年代記に書き綴り、また、墓碑や家系図を残したはずです。
 「文化」とは、固持すべき必須要件を持ち、かつ、それを支える多くの要素を持つものです。単なる民俗、習慣の集合体ではないのです。

 それにしても、古代遺跡で、中国南方の影響は、稲作や氏神祭礼などが多く継承されていて、北方風俗の伝播は、まことに目立たないように見えますが、素人の錯覚でしょうか。
 燕の「文化」は、大地に溶け込んで、伝来風物なる微かな断片だけが遺ったのでしょうか。

*文化幻想
 著者は、「縄文文化が消え弥生文化が広がった」と無造作に言い放つのですが、文字なき社会に文化も文明もないのです。「文化」は、確固たる漢語であり、後世日本人が、勝手に言い崩すのは、ありふれた、無教養の語彙錯誤です。
 亀卜談義がありますが、「筆者は、「亀卜の趣旨がわからないと逃げます」しかし、占いたい趣旨を書き込んだ上で亀卜し、神の回答である割れ目解釈するのが、亀卜であり、託宣には、確立された解釈法があったはずです。
 そのためには、亀卜文字の大系が必要です。殷(商)は、卜辞の解釈に適用するために漢字を創出したと言われています。ついでに言うと、易の筮竹も、易経に基づく解釈がなければ、託宣できません。いずれも、文化の一部です。

*憶測の集成
 「弥生文化」の開花に、「中国文化」の流入を説く割には、「文化」に即した具体的な物証、論証が欠けているのです。遺物考古学にしては、域外の話題なのでしょうが、ちと、不勉強に過ぎます。なお、記事に於いて依拠した文献史料も、明示されていません。憶測の堆積でないでしょうが、かなり疑問に感じます。

◯まとめ
 念のため言うと、不満の対象は、不確かな文献解釈への無批判の依存であり、遺跡、遺物の実見による「純然たる」考古学的考察に、素人が口を挟むものではないのです。文献解釈を、時代同定に持ち込まざるを得ないとしたら、安易に俗耳に訴える「定説」に無批判に追従するのではなく、自律的な史料批判を怠るべきではありません。

 もし、遺物考古学が、定説に追従して定見としたら、逆に、そのような遺物考古学定見を根拠として定説が強化され、混迷が深まるのです。
 いや、現に深まっているのですが、その責任の過半は、遺物考古学界の無定見な追従姿勢にあるのです。
 本書に署名されている諸賢は、後世に名声を残したいと思われているのでしょうが、これでは、後世の批判を浴びる標的となっていると言わざるを得ません。

 毎度のことですが、以上は、一個人、素人の意見ですから、断言調で展開していても、別に絶対視されるべきと確信しているわけではないのです。ひたすら、晩節を穢すことが無いよう、ご一考いただきたいというだけです。

                               以上

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  1/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史 2024/08/16, 8/19 

◯はじめに
 かねて私淑している刮目天氏ですが、概して、「日本古代史」論議なので、口を挟まないようにしていますが、今回は、当方が専念している「倭人伝」解釈の補足説明が必要と見えるので、ご高説に異議を唱えるということで、無礼にも氏のご高説に対し講釈を垂れさしていただいています。

◯都度対応
 「春秋二倍年歴?」から混乱します。誰がいつ言い出したのか調べようもない「トンデモ」タイトルです。存在しない新説の否定は不可能です。

日本書紀が春秋二倍年歴説をはっきりと否定していますよ。
春と秋で2年とかぞえるなら天皇紀は1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になるはずですが、そうはなっていませんよ。1年は12ケ月としています。

 主旨不明瞭ですが、普通の言い方とすると、「書紀」編者は「二倍年暦」を否定してないと見受けます。裴注版「倭人伝」を承知で否定するなら、明解に書いたはずです。「春秋二倍年歴」は、現代新説であり、書紀編者の知ったことではないのです。
 「倭人伝」は三世紀筑紫であり、ご提案は、数世紀後の「纏向史蹟」新説であり、辻褄が合わないのは、全て「後世」側の責任です。
 ちなみに、当時の暦には閏月があり、一年十二ヵ月とは限らないのです。

「魏志倭人伝」裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とあります。

 要するに、裴松之が魚豢「魏略」を所引したのですが、陳寿が棄却した意見が陳寿の真意を示すとは、凡愚の素人には、とんと見当がつきません。

「正歳四節」つまり、中国最初の夏王朝に起源のある「正月から始まる四季のまつり」のことを倭人は知らず、四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、「倭人は春と秋の祭祀によって一年としている」という話なのです。

 「倭人」の者が中国太古の制度を知らないのは、当然ではないでしょうか。
 「春秋農暦」は、中国由来の水田稲作の基本なので、南朝劉宋の裴松之は承知で窘(たしな)めたのでしょうが、稲作地帯の蜀漢育ちの陳寿は知っていても、雒陽人には、通じないと見て割愛したと見えます。
 中国で制定・運用されていた太陰太陽暦は、大変複雑で、正歳、つまり、月の満ち欠けを刻んで作られた太陰暦の二十四ヵ月のどの月を「正月」にするかは、以後、殷暦、周暦を、秦始皇帝も変え、天子の公布についていくしか無いのです。定期的に、閏月を追加しないと正月の位置がずれてしまうので、これも高度な計算の産物なのです。繰り返しますが、一年は、十二ヵ月ではないのです。特に、景初から正始にかけての改暦は複雑怪奇です。そして、当時、遙か西方のローマで採用されていた「ユリウス暦」(ユリウス・カエサルが指導したとされる)なる太陽暦は、全く知られていなかったのです。但し、二十四節気は、中国太古以来の太陽観測に基づき、日食予測までできた高精度の「天文学」の成果であり、そのような科学を知らない東夷の知るところではないのです。

 ということで、「二十四節気」は、太陽の運行に従って、毎年定義されるものであり、春分、秋分、夏至、冬至を始め、年間二十四回の節目を太陰暦の月々に重複しないように配置するのは、難題でしたから、東夷の知るところではなかったのです。要するに、「正月」と「二十四節気」は、連動していないのです。丁寧に言うと、「正月」は、太陰暦であり、これに対して、「二十四節気」は、太陽の運行に基づく、言わば「太陽暦」のものなのですが、当時、太陽暦が運用されていたわけではないのです。

*水分(みずわけ)~余談
 ということで、「二十四節気」は、年間の農作業を、太陽の運行に従って決めるという合理的、崇高な制度です。遙か遙か後世の「日本」でも、太陰暦の世界に「八十八夜」、「二百十日」(にひゃくとおか)が継承されているので、月日で伝えることのできない農事暦(こよみ)に関して尊重されていたとわかるのです。何しろ、地域集団が揃って行うのであり、年に二回、聚落総会で日程徹底するのは、もっともなことです。
 特に、田植えの際の「水分」は、集落間の諒解が無いと大事件になるので、各集落が集う氏子総会の場で、一日刻みで決定する必要があるのです。全くの私見ですが、「卑弥呼」の「卑」は、天からの恵みの雨粒を受けて「水分」する「柄杓」であり、巫女である卑弥呼の「水分」は、全集落に支持されていたように「倭人伝」から読み取れます。してみると、卑弥呼は水神に事(つか)えていたのであり、太陽神とは別のおつとめとなりますが、余り強調すると粛正されかねないので、ここでひっそり呟くだけにしておきます。

それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは、書かれたものが正しいはずなので、つじつま合わせで発明された全くの珍解釈なのです。

                               未完

新・私の本棚 刮目天ブログ 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想  2/2

 春秋二倍年歴?つじつま合わせの空想・妄想だよ!(;^ω^) 2024-08-15  古代史   2024/08/16

[承前]

 「書かれたものが正しい」、つまり、陳寿の記事が正しいとの御意見ですが、ここで罵倒されているのは、纏向遺跡派を含めた現代人の「発明」であって、それを、三~五世紀人にケツを回すのは、見当違いです。纏向遺跡派を含めた現代「発明者」の間で話を付けるべきでしょう。

弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません(詳細は 富永長三「不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」について」参照)。

 高邁な御意見はともかく、三世紀の筑紫には、「弥生時代」も「日本」も存在しないので、そのような風習が「なかった」とするのは、誰にもできません。何故、神ならぬ現代人が、確信を持って断言できるのか意味不明です。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。

 氏の「陰謀」説は、三世紀筑紫の「倭人」の知ったことではなく、纏向遺跡派の内部事情なので、そちらで解決して頂くしかありません。(書き飛ばされたのでしょうが、混乱していて、用語が混乱していて、論理が錯綜しているので、筋が通らず、壮大な古代史世界を構築している氏の論考としては、もったいない感じがします)

◯うらばなし/ホントウのはなし
 原点に戻ると、「倭人伝」に対する裴松之追記は、魚豢「魏略」の引用であり、『郡への報告が、農暦「春秋報」であり「四季報」でない』というものです。
 [裴松之曰 (魚豢)]魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。
 官制は四季報であるのに、「俗」(民俗)は春秋農暦報としています。

 このあとに、人の寿命と婚姻のはなしが続いています。
 見大人所敬,但搏手以當跪拜。其人壽考,或百年,或八九十年。其俗,國大人皆四五婦,下戶或二三婦。
 単に、戸籍に少なからぬ年寄りが存在し、人寿と称して百歳まで書かれている例があるという風評(「倭人」戸籍は、発展途上なので、八十年以上遡及できない)に過ぎません。ちなみに、裴注に類似した「其俗,國大人皆四五婦」とする言い回しは、恐らく、魚豢「魏略」を引用したものなのでしょう。そして、元々は、秦代以来の遼東郡の下部機関に当然蓄積されていた「帯方郡志」の引用でしょう。何しろ、原史料は一つしか無いのです。

 参考かどうか、中世地方戸籍で、各戸に老人が多く、壮者が少ない事例があり、「倭人」でも、壮者を老人として人頭税、徴兵を免れた可能性があります。
 同様に、婦人が長大(成人)して別戸を構えると、耕地を割り当てられ納税義務が生じるので、大人の第二夫人以降として節税した可能性があります。
 陳寿は、史官として、公文書記事を「史実」として継承していますが、その真意は、紙背/行間から読み取るべきであり、後世東夷の辞書など引いても、窺い知ることなどできないのです。渡邊義浩氏に言わせると、史官は、全て二枚舌ということですが、素人としては、精々、古典文例に潜む真意を探ることしかできないのです。

◯倭人伝の真意推定
 「倭人」の国風と民俗は中国と異なり、もっともらしく書いていますが、実際は、よくわからないのです。

 私見ですが、「倭人伝」全体は、戸数、道里、方里の各記事で、中原基準で「倭人」を評価してはならないという教えに満ちていますから、ここも、そのような意図で書かれていると見るのが合理的な解釈と見えます。
 世上、新奇(古代史では絶賛)解釈で騒ぐかたが多いのですが、「思い込み」、「思いつき」ばかりで、信じるに足りないものばかりと推定しています。

◯失言回避の勧め
 刮目天氏は、正史の一篇、僅か二千字の「倭人伝」後半部の些細な記事から棒大空想を展開している論者が多いのに呆れているでしょうが、氏ほどの大家は、史料を理解できない野次馬を相手に、現代若者口調に同調しない方が良いと思います。

 せめて、揚げ足を取られないように、ご自愛いただきたい。

              臣隆誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪。

                               以上

2024年8月 2日 (金)

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 1/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12,01/31,07/22,2022/09/26 2024/04/13, 08/02, 09/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

□はじめに
 本書は、章末に[注]、巻末に人名、事項索引を備え、専門書の体が整っています。学術書として十分な校訂を経ているという事です。なお、本稿は、1991年4月刊原著の復刊、確定稿の資料批判です。

◯一字の解釈考
 新唐書「日本伝」は、改国号記事の後、次のように書きます。(句点一部解除)
 使者不以情故疑焉又妄夸 其国都方数千里
 「東アジア民族史 2」(平凡社 東洋文庫 小林秀雄他 訳注)は「国都は、数千里四方であると誇大に偽っている」としていて、定説めいています。対して古田氏の読みは、(其国)「都(すべて)方数千里なり」で画期的です。

*誤解の是正 [概数表記割愛御免]
 (後生東夷、つまり、無邪気な現代日本人にとって)自然に読めてしまう「国都」「方数千里」解釈は、すぐわかるように、文としての意味が通らず、途方もない見当外れなのです。
 何しろ、正史として編纂された新唐書「日本伝」で、「国都」の所在地も城名も書かずに「方数千里」と広大さを語るのは、正史たる史書として法外です。「新唐書」は、個人の思いつきの産物でなく、衆知の結集ですから、本来、そのような不体裁はあり得ないのです。つまり、後世中国史家の句読が「都」(すべて)錯誤に陥っているのです。
 加えて、東夷夷蛮の国の王の居処を、「国都」と尊称するのは、漢代の伝統が途絶えたと見える唐代としても不敬の極みで、ここでも、解釈が齟齬しています。
 古典書を、「先入観に囚われて軽率に誤読する」のは、千年後生の無教養な東夷だけの特技ではないのです。

 是正は、「其国都」「方数千里」とする誤解を止め、「其国」「都方数千里」と正解するという是正策です。つまり、「其国都」が「方数千里」』ではなく、『「其国」が「都(すべて)方数千里」』と読みなおすのが妥当で、以下、普通に意味が通るのです。比較的意味の通りやすい「日本語」に飜訳するなら、「都合」とするところですが、「読み下し」では、限界を超えた感じもします。

 とはいえ、東夷が「国都」などと自称するのは「自国」が「大唐」と対等だと反っくり返っていることになり、叱責を受けるべきものですが、中国側の鴻廬、つまり、異人受入部門は、蛮夷の文書を取り次ぐ際には、原文のまま取り次げという指示でもあるようですが、中国史書に取り出されてみると、異様に見えます。

 あえて、蛮夷が自称した「国都」を、国内史料風に国の「京都」(けいと)と解すると、例えば、平城京が、一辺数千里の正方形を満たしているという意味であり、鴻廬からすると、「おまえ、自分の言っている意味がわかっているのか」と言う事になりますが、来訪している行人、使節は、ただの子供の使いですから、何と言われても返事のしようがないのです。まして、いや、これは、「国土」の書き間違いなどと言い逃れはできないのです、何しろ、国書には、蕃夷の国王の印璽が押されているから、一切、訂正できないのです。
 先賢諸兄姉から、その辺りの事情について説明がないので、当否はともかく、素人考えでそのように解するしかないのです。

 何しろ、千年後生無教養な東夷と自覚して、本能のままに「自然に」読むのでなく、丁寧に、其の「深意」を読み解く、高度に知性的な努力が必要なのです。

 そして、古田氏の採用した『「方里」が正方形一辺の里数を示している』とする「方里」解釈には、難があります。但し、話が長いので、別稿に譲ります。

◯舊唐書記事参照
 「舊唐書」「倭国伝」の「日本国条」は、「又云其国界、東西南北各数千里」であり、「方里」も「国都」も書かず、順当な記述です。編纂者の古典教養が偲ばれます。いくら「蕃人の国書をそのまま取り次ぐべし」と言われても、物には限界があるのです。

 「舊唐書」を是正したと言う触れ込みの「新唐書」の「日本」伝が、冒頭の「東西五月行、南北三月行」の記事で矩形/方形領域を描きながら、天皇系譜記事と「日本」国号起源報告の後、面積表現として「方里」を申告したとしたら意図不明です。因みに、隋書では、俀国は道里を知らないと書いているのです。

*古典史書用語の復旧
 ここまで確認した限りでは、新唐書は、『漢魏晋の「方里」と「都」の規律を復旧した』と見えますが、理解した上で適確に再現したかどうかは、不明です。何しろ、後世句読で、時代最高の権威者が其の原則を失念しているのですから、あくまで、勝手とは言え、有力な仮説という事です。

*藩王に国都なし
 班固「漢書」以来の正統派正史は、漢蕃関係古制として、蕃王の居を「都」と称しません。
 国内の「王」治所を「都」と呼ぶことすらないから、遥か格下の蕃王、藩王が、其の居処を「都」と称するのは、死に値する僭越です。

 というものの、西晋が、ほかならぬ蕃夷の侵攻軍による首都雒陽滅亡によって、中原を喪失して以降、つまり、漢蕃関係崩壊以後、北方蛮族から出て中原を占有した北魏、東魏、西魏、北周、北齊の北朝系王朝は、四夷は、ことごとく蛮夷たる自身の輩(ともがら)、共に「客」であったもの同士という共感からか、蕃王の居を「都」と称しましたが、全土を統一した隋、唐は、中華正統意識から、漢蕃関係を古制に復旧したようです。

 てみじかに言うと、正史用語の語義は著者の世界観に左右されるのです。従って、新唐書は、漢魏晋の「方里」と「都」で書かれているものと見えます。

*おことわり
 以上は、大変高度な審議なので、国内史料に長年慣れ親しんでいる方々には、俄(にわか)に信じがたいかも知れませんが、当ブログ筆者たる当方は、こじつけや飛躍のない、順当な論考と考えています。また、後述するように「倭人伝」の道里行程記事の明快な解釈に繋がるものです。

 以上、九章算術」及び関係論考、さらには、正史、ないしは準ずる史書である司馬遷「史記」大宛伝、班固「漢書」西域伝、袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝、そして、范曄「後漢書」西域伝の関連記事を一応通読した上での「素人考え」の意見ですので、ご理解の上、反論があれば、具体的に指摘いただければ幸いです。

                                       未完

新・私の本棚 古田 武彦 九州王朝の歴史学「国都方数千里」談義 四訂 2/2

 第四章 新唐書日本伝の史料批判  ミネルヴァ書房 2013年3月刊
私の見立て ★★★☆☆ 当記事範囲 功罪相半ばの卓見 2020/11/09
 改定2021/01/11 再訂 2021/01/12,01/31,07/22,2022/09/26 2024/04/13, 08/02, 09/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*短里制実施例と解釈
 古田氏は、
 『「方数千里」は、「日本」の領域(面積)を示す幾何学的な矩形/方形の表現であり、現在知れている日本列島の地形から判断して、一里四百五十㍍の「普通里」、つまり、古来通用している「里」でなく、魏晋代に通用していた「普通里」の六分の一の「短里」七十五㍍(と古田氏が提起している)が整合する
 と説きました。(四百五十㍍、七十五㍍は、当ブログの発案した概数値)
 古田氏の所説で魏晋朝限りだったはずの「短里」が、遙か後世の新唐書に援用されたとの主旨ですが、以下の通り、論拠が整っていないものと見えます。
 古田氏の論考に従って、考察を進めるとするとして、なぜ「倭」継承を嫌った「日本」が、中国魏晋代独特の古制と見なされている「短里」を持ちだしたか、まことに不可解です。漠然とした国界だけで国の形が不確かなのに、「方数千里」を「数千里四方」と解するのも不可解であり、これを、単に「誇大」と見たのは古典知識に欠けた鴻廬寺掌客の浅慮、短慮と思うのですが、史官は、史実の記録として、公文書記録の通りに書いたのでしょう。
 何しろ、当時、どこにも、現代知られているような地形、道里が正確に見て取れる「地図」は存在しないので、「国界」、つまり、国の形と広がりは、知りようがなかったのです。

 因みに、魏志「烏丸東夷伝」の数カ国記事の「方数千里」は、いずれも、中原の土地制度の通用しない、また、地形不明な辺境国の国力を表示したものであり、いずれにしろ、それぞれの「国」の正確な領域、形と広がりは知られていなかったのです。
 かといって、領域の知られていそうな比較的近隣の諸国に「方里」を適用した記事は、三国志でも、韓伝、倭人伝以外に無いので、「方里」の検証は、不可能なのです。
 と言うことで、不可能な検証の論議は無駄なので、一旦は、「理解不能」を暫定的結論として先に進みます。

 因みに、魏志「東夷伝」の関係記事は、後漢末期から魏明帝景初年間まで、遼東太守として、「小天子」の威光を展開していた公孫氏の「郡志」(郡公文書) の反映と見えるので、同時代他地域に同様の事例を見出すのは、困難(不可能)なはずです。景初年間、司馬懿の討滅で遼東郡文書は全滅したのですが、いち早く、皇帝命で楽浪、帯方両郡が、平和裏に接収され公孫氏時代、両郡に控えとして収蔵されていた郡志が魏帝のもとに回収できたものと見えます。

*「倭」に対する誤解払拭~余談
 少し離れますが、正史記事とは言え、「倭」が悪い文字と解するのは、東夷蛮人の誤解、と言うか、勝手なこじつけであり、今さら、古代人を教え諭す術はないのですが、それにしても、現代論者諸兄姉の通説、風説追従の様(さま)は、安直に過ぎると考えます。

 もともと、無教養な「倭の言い立て」を記録したのでしょうが、後に正史記事を書くに際して、史官は、鴻廬寺掌客の受け答えが不合理、不正確と見えても、訂正はできず、そのまま正史記事にしたと見えます。
 東夷の後裔の素人でも、中国語の古典書では、倭はめでたい文字と解されていたと知っているので、ここでも、「上覧を経た公式記録文書は(明らかに誤伝でも)訂正できない」という、厳格な正史編纂方針が窺えるのです。むしろ、古典書以来の定則に反する「反則」となる蛮人の意見を「蛮人の不見識を示すために」ことさら記したものと見えます。世上好まれている「春秋の筆法」とまで言うものではないでしょうが。
 このように、正史に書かれているからと言って、史官が「正しい」と確認した内容でないことはあり得るのです。ちゃんと、文脈、前後関係から、真意を読み取るべきです。一度、考えてみていただきたいのです。 

*「方里」解釈への異議
 『「方*里」を、「正方形一辺*里」の幾何学図形と見なす』とする解釈例がありますが、そのような面積数値の使われた由来、根拠が不明です。面積は、辺の自乗で読者の理解を超えて増倍し収拾が付かなくなるのです。その仮説に従うと「方四千里」は、「方四百里」の両辺を十倍しているので面積は「方四百里」の百倍になるのです。
 私見では、「方里」は、国内戸籍/土地台帳情報に基づく「農地面積総計」であり、また、「数千里」は、少なくとも、東夷伝の概数語法の定則から「二、三千里」と見ています。
 基本的に、「五千里」は、一万里に到る千里代の十進範囲を四分割する程度の概数で「五千里」程度と思います。つまり、(「千」)、「二/三千」、「五千」、「七/八千」、「一万」という感じです。現代では、あまり見かけない大雑把な概数観ですが、それが時代相応とする合理的な意見に対して、現代人の「素直」な感情的な解釈を適用していては、時代人の真意を知ることはできないでしょう。

 こうした概数表示の初歩的な常識からして、「数千里」は 二,三千里の意です。その倍に当たる五千里程度を、無造作に数千里とするのは、流石に、余りに大まかすぎます。五千里に近ければ、「常識的」には「五千余里」と書くものでしょう。
 恣意で概数表記解釈を撓めるのは、古代史学界の因習の一つに見えます。

 つまり、各地方の検地担当者が、一戸ずつの農地面積を「頃、畝」で書き留めたものを集計して得た「頃、畝」を、四百五十㍍程度と見られる「普通里」に即して、一里四方の面積、現代風に言うと平方里である「方里」に換算した統計数字と見えます。

*追記:2022/09/26
 最新の見解として、魏志「東夷伝」の「方里」は、当時の遼東郡太守公孫氏が、後漢、魏の統制が及ばないのを良いことに自立していた時代に、勝手に各国列伝を編纂したものと思われる「独自制度」であり、そのため、中原諸国、諸郡制度と異なる東夷諸国の国力指標として運用していたものであり、帯方郡にその写しが残されていたものが、早期に魏帝の命で帯方郡が接収された際に、新任太守から魏帝に提出されたと見えます。皇帝御覧を得て公文書に綴じ込まれたら、以後、訂正できないのです。
 それ故、陳寿が、高句麗、韓、対海、一大の列伝に於いて、魏帝の公文書を参照したものと思われるのです。

 例題は、国(農地)としては、魏志東夷伝の韓国(方四千里)より狭く/弱小であり、高句麗(方二千里)より少々広く/富裕であることになります。もっとも、以上の解釈は「倭人伝」基準ですから、魏晋朝史官の文法(書法のこと)を継承したかどうか不確かな唐代文書が、これを正しく継承したかどうか、それが、「新唐書」に正しく継承されたかどうか、やや/かなり不安が残ります。

*試算の試み
 領域農地を「方二千五百里」(二千五百平方里)と見れば、一辺五十里、二十五㌔㍍四方の範囲であり、その程度の戸籍整備範囲と見えます。
 「方二千五百里」は、常用単位で万畝(ムー)程度であり、一戸あたり五十畝と見ると(あくまで憶測です)二万戸に相当しますが、どの程度の領域がわからないので、それが多いとも少ないとも言えないのです。何しろ、中国の農政は、各戸が役牛を保有していて、牛犂を曳かせて耕す前提なので、もし、唐書の時代、依然として、倭人伝並みに「牛馬なし」、つまり、人力農耕であれば、中国の常識は通用しないのです。又、倭国の家族制度が、中国と異なる大家族、三世代同居であれば、これまた、中国の常識は通用しないのです。
 はっきりしているのは、戸数や方里と収穫量や動員可能兵力は、堅固な「相関関係」があるということだけです。一方、領域内の土地であっても、耕作者に割り当てられていない、割り当てようのない、従って、測量・記帳されていない未開地、荒れ地の面積など、何の意味もないのですから、「方里」等と正史が記録するわけはないのです。

 大事なことなので再確認すると、「戸数」が通用するのは、倭に於いて、中国の戸籍制度に基づき各戸に所定の農地が割り当てられていたとの前提に沿うものであり、既に、「魏志倭人伝」において、倭地には牛馬がないので、「各戸の耕作面積は、中国の制度に沿うものではない、つまり、戸数から、税収は計算できないと明記して、免税を期している」のです。いや「明記」というものの、それは、訓練を受けた史官だけが読み取れるものであり、新唐書の編纂史観も、原史料の報告者も、そのような高度に専門的な事項を、もはや承知していなかったとも思えます。
 要するに「倭人伝」の常識は「新唐書」の非常識かも知れないということです。正史における「用語一貫」という安易な楽天的志向による用例依拠は、避けねばならないのです。 

〇倭人伝道里記事への波及
 本記事は、近来、古賀達也氏が提起した『「南至邪馬壹國女王之所 都水行十日陸行一月」を「女王之所都」と解するのは誤解であり、「都云々」は、(「都合云々」、)つまり「すべて水行十日陸行一月」の意と解すべきであるとの倭人伝」解釈を支持する一件と思われます。なお「都合云々」 は、当ブログの追記。

 倭人伝」道里行程論、里程論の長年の論議に於いて、大変意義深い、画期的な提言と思うのですが、余り反響がないのが残念です。目立たない提言ですが、実は、この提言を認めると行程記事の目的地が、九州島内から出られなくなるのであり、いわば、畿内説に引導を渡す議論なので、いわば「命がけ」で黙殺されるのでしょうか。

 いや、国内史学界では、古田氏の著書を始め、中国史学界で無法な「倭都」「王都」が氾濫しているので、「都水行十日陸行一月」は表面化を許されず、長く潜伏しているのかも知れません。
 因みに、古代史の泰斗であり、当ブログ筆者が深く尊崇する上田正昭師は(今般の「都」の新解釈は抜きで)「水行十日陸行一月」は総日数表示という解釈/提言に対して、史学に於いて、自身の論議を進めるのに都合がよいと言うだけで肯定的に評価するのは、正しい態度ではない。用例、前例の確保が不可欠であると苦言を呈されていたように思います。当解釈を加味して、それでも、証拠不十分と仰るかどうか、上田師のご意見をお伺いしたかったところです。

 因みに、このような定則の提言に対して、散発の例外用例を指摘して異議とする向きがありますが、特に、人文科学、歴史学の分野では、いかなる定則にも例外は存在する(例外があるのが、定則の正しい根拠である)というのが古来の常識であり、また、用例解釈は、厳密に文献批判して考証してから取り上げるべきだということも、安易に手抜き(ズル)してはならないと考えるものです。
 むしろ、唐代の常識が、遙かに歴史を遡上する魏晋代に、既に常識であったかどうかの「時代考証」が先行すべきでしょう。

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(1)
                                以上

私の意見 古代史随想「掌客」にみる日本書紀独特の世界観 補筆版 再掲

                 2020/01/17  補充再公開 2020/06/29 2024/08/02
◯概要
 色々調べてみましたが、国内史料の「掌客」は何らかの勘違いと見えます。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「客」に関する誤解
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客

 これは、日本書紀の推古天皇十六年(CE608)六月十五日の記事です。
 記事では、江口に三十艘の飾り船を連ねて、来航停泊していた「客」、ここでは隋使裴世清を出迎え、難波津新館に招じ入れたということです。現代人ならずとも、「客」は国賓、賓客と誤解しそうです。
 宮地連、大河內直、船史王平の三名は同格の「掌客」、客接待役でした。栄誉ある職務に任じられたという趣旨で書かれている記事のように見えますが、後ほど判明するように、掌客は、外国使節応対の高位職ではなく、隋制に照らすと、国内官位に相応しくない下級職なのです。当然、上級職は、高位であり「掌客」などではないのです。

*漢蕃関係と鴻臚
 中原諸王朝を総称して「漢」と言うと、「客」は漢蕃関係の用語で外夷訪問者です。隋官制は、遠く秦漢代から着々と継承されていて、一般に「蛮夷」と称される異民族諸国の使節として来訪の蕃人を「客」と言うのです。

*書紀の世界観
 それはそれとして、書紀は、東夷視点なのか誤解なのか、隋使を夷蛮扱いしています。隋制の趣旨を理解した上であれば辛辣で、「漢蕃」ならぬ「和蕃」だったのかも知れません。隋使が、蛮人に「客」扱いされたと知れば激怒し、皇帝にその旨報告したでしょう。

*掌客の職務
 見識豊富な現代論客でも、「隋唐代に、使節行人は「掌客」が常態で、隋代にその記録がないのは、煬帝により「掌客」職が廃止されていたためだ」との解釈が見られますが、勘違いというものでしょう。
 よく時代状況を見てみると、隋煬帝は、蕃客所轄の鴻臚(寺)の「客」応対部署を、典客署から典蕃署に改称したものの、担当者「掌客」を「掌蕃」に変えたという記録はありません。細かいことは良いから、役所の看板に「客」などとは目障りだという事ではなかったかと思われます。皇帝お目見えどころか、昇殿すら叶わぬ下っ端の職名など、どうでも良かったのでしょう。
 そうして、四夷受入窓口を大幅に拡充した煬帝が、蕃客対応に経験豊富な実務担当者を一挙に解任することはないのです。史料解釈は、念入りに時代考証して判断すべきです。いや、この事例だけでの戒めというわけではありませんが。

 隋の厖大な官制を知るはずがない遣隋使が、目前に現れて役職を名乗り接待し、宮廷儀礼に肝心な作法を指南してくれた親切な隋掌客を、てっきり高官に違いないと判断したとしたら、それは、早計な誤解によるものです。鴻廬掌客は、夷蕃使節応対の実務/雑務担当の最下級職であり、行人、つまり、帝国の外交官として皇帝の代理を務めるべき役職にはほど遠いのです。

 諸兄は、隋使の役職について、国内史料に鴻廬掌客と書いてあるのを優先しているようですが、隋書には文林郎と明記されていて、隋使の役職は、隋書を信じるべきであると考える次第です。誤記も誇張も春秋の筆も、一切関係ないのです。
 因みに、隋使は、皇帝の名代を背負っているのであり、自身の下級職名を名乗るはずがないのです。これは、時代考証するまでもない、当然の事項と考えます。

*未開行路開拓の功
 そのような背景で、鴻廬寺掌客ならぬ「文林郎」裴世清が、下級官人の身で、東夷俀国に派遣されたのは、一つには、公文書に通じた教養人であり、皇帝の名代にふさわしいという事と、行路未検証・未踏の絶海の俀国が、まことに危険と見えたためで、いわば、生還を期していない人選でしょう。

 現に、数十人の使節便船は、地域空前の大帆船でしたが行路、寄港地が不確かなため、百済海人の指導を得て黄海を乗り切ったようです。煬帝には、国書で「天子」を自称する不遜な東夷討伐の抱負があったのかも知れません。

 世上、魏代に半島沿岸航路を見てとる方(かた)が残存していますが、これもまた時代物の誤解と言うべきです。既知行路なら、隋書は、細々(こまごま)と書かないのです。
 後年、唐水軍が百済制圧の際に、行路開拓に苦労しなかったのは、この際の裴世清の功績によるものでしょう。

◯まとめ
 魏晋代以来の交流記録、さらには、初回遣隋使の報告を元に、隋の官制を丁寧に調べていれば、掌客に関する誤解は避けられたはずです。いや、書紀記事がこのように伝えられているという事は、史上、誰も、この点に気づかなかったのでしょうか。素人には、知るすべがありません。

                                 完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 1/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*三,四訂の弁
 当記事は、16ページの長尺に、書き足しがあって、結構字数が多いのですが、そこそこ閲覧頂いているようなので、少しばかり書き足して、三訂版としました。いくら書いても、いくら閲覧があっても、世間の「俗説」が減らなければ、とは思うのですが、手桶から柄杓一杯の水を打てば、打たないより世の中が潤うと思うので、微力を尽くすことにしました。

▢はじめに
 塚田敬章氏のサイトで展開されている古代史論について、その広範さと深さに対して、そして、偏りの少ない論調に対して、かねがね敬服しているのですが、何とか、当方の絞り込んでいる「倭人伝」論に絞ることにより、ある程度意義のある批判ができそうです。

 いや、今回は三度目の試みで、多少は、読み応えのある批判になっていることと思います。当ブログで連綿として展開している「書評」は、別の著者/著作の批判記事ですが、実際は、未熟な論者が、適切な指導者に恵まれなかったために、穴だらけの論説を「でかでか」と公開してしまった事態を是正したいために、ひたすらダメ出ししている例が多いのです。「未熟」は、何時の日か、陽光を見出して、熟することを期待しているものですが、本件は、一代を築いた先賢に対して、敬意を抱きつつ、あえて批判を加えているものであり、歴然と異なっているものと思います。

 言うまでもないと思うのですが、当記事は、氏の堂々たる論説の「すき間」を指摘しているだけで、当記事での一連の指摘が単なる「思い付き」でないことを示すために、かなり、かなり饒舌になっていますが、それだけの労力を費やしたことで、格別の敬意を払っていることを理解いただけると思うものです。とかく批評記事で饒舌になると、広げた風呂敷のほころびを言い立てられて「損」をすると思われるでしょうが、当方は、専門家でなく「素人」なので「利」を求めているわけではないからして、特定の営利集団から「百害あって一利なし」と指弾されても、むしろ本望なのです。

 塚田氏は、魏志倭人伝の原文をたどって、当時の日本を検証していくのに際して、造詣の深い「国内史料に基づく上古史」論から入ったようで、その名残が色濃く漂っています。そして、世上の諸論客と一線を画す、極力先入観を避ける丁寧な論議に向ける意気込みが見られますが、失礼ながら、氏の立脚点が当方の立脚点と、微妙に、あるいは、大きくずれているので、氏のように公平な視点をとっても、それなりの「ずれ」が避けられないのです。いや、これは、誰にでも言えることなので、当記事でも、立脚点、視点、事実認識の違いを、できるだけ客観的に明示しているのです。また、氏の意見が、「倭人伝」の背景事情の理解不足から出ていると思われるときは、くどいように見えても、背景説明に手間を惜しんでいません。

 どんな人でも、「知らないことは知らない」のであり、当ブログ筆者たる当方の自分自身で考えても、「倭人伝」の背景事情を十分納得したのは、十年近い「勉学」の末だったのです。対象を「倭人伝」に限り、考察の範囲を「道里」里程論に集中しても、それだけの時間と労力が必要だったのです。というような、事情をご理解いただきたいものです。

 長文の記事から批判を読み囓って、片々をつまみ上げ/取り出して、「失礼、冒瀆」と悲憤慷慨、怒髪天を衝く向きには、いくら諄々と説いても、主旨が通じないかも知れませんが、当記事は、少なくとも「三顧の礼」なのです。

 また、氏の「倭人伝」道里考察は、遙か後世の国内史料や地名継承に力が入っていますが、当記事では、「倭人伝」の考察は、同時代、ないしは、それ以前の史料に限定する主義なので、後世史料は、言わば「圏外」であり、論評を避けている事をご理解頂きたいと思います。

 そういうわけで、揚げ足取りと言われそうですが、『三世紀に「日本」は存在しない』との仕分けを図っています。丁寧に言うと、三世紀当時、交通、輸送、交信の維持できた範囲は、ほんの近場であり、海山を隔てた地域との「遠距離恋愛」ならぬ「遠距離締盟」、「遠距離征伐」は存在しなかったと断定される以上、「日本」なる後代概念は存在しなかった/時代錯誤という見方です。もし、今述べたような批判が不成立だというご意見であれば、十分な論拠を持って批判頂きたいものです。

 このように、論義の有効範囲と前提条件を明確にしていますので、通り掛かりの野次馬のかたが異議を提示される場合は、それを理解した上お願いします。
 なお、氏が折に触れて提起されている史料観は、大変貴重で有意義に感じるので、極力、ここに殊更引用することにしています。

〇批判対象
 ここでは、氏のサイト記事の広大な地平から、倭人伝道里行程記事の考証に関するページに絞っています。具体的には、
 弥生の興亡、1 魏志倭人伝から見える日本、2 第二章、魏志倭人伝の解読、分析
 のかなり行数の多い部分を対象にしています。(ほぼ四万字の大作であり、言いやすい点に絞った点は、ご理解頂きたい)

〇免責事項
 当方は、提示頂いた異議にしかるべき敬意を払いますが、異議のすべてに応答する義務も、異議の内容を無条件で提示者の著作として扱う義務も有していないものと考えます。
 とはいうものの氏の記事を引用した上で批判を加えるとすると、記事が長くなるので、引用は、最低限に留め、当方の批判とその理由を述べるに留めています。ご不審があれば、氏のサイト記事と並べて、表示検証頂いてもいいかと考えます。

                           未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 2/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

魏志倭人伝から見える日本2 第二章魏志倭人伝の解読、分析
 1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ    b 北九州の各国、奴国と金印  c 投馬国から邪馬壱国へ
  d 北九州各国の放射式記述説批判  e その他の国々と狗奴国
 2 倭人の風俗、文化に関する考察
  a 陳寿が倭を越の東に置いたわけ  b 倭人の南方的風俗と文化

第二章、魏志倭人伝の解読、分析 [全文 ほぼ四万字]
1 各国の位置に関する考察
  a 朝鮮半島から対馬、壱岐へ
《原文…倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 …… 今使訳所通三十国

コメント:倭人在~「鮎鮭」の寓意
 まずは、「倭人伝」冒頭文の滑らかな解釈ですが、「魏志倭人伝の解読、分析」という前提から同意できないところが多々あります。
 「うっかり自分の持っている常識に従うと、同じ文字が、現代日本語と全く異なる意味を持つ場合が、少なからずあって、とんでもない誤訳に至る可能性もあります。」とは、諸外国語の中で、「中国語」は、文字の多くを受領したいわば導師であることから自明の真理であり、『「倭人伝」など別に教えて貰わなくてもすらすら読める』という根強い、度しがたい「俗説」を否定する基調です。氏の例示された「鮎鮭」の寓意は、特異な例ではなく、むしろ、おしなべて言えることです。
 してみると、「国邑」、「山島」の解釈が、既に「甘い」と見えます。
 氏は、このように割り切るまでに、どのような参考資料を咀嚼したのでしょうか。素人考えでは、現代「日本語」は、当時の洛陽人の言語と「全く」異なっているので、確証がない限り、書かれている文字に関して、「必然的」に意味が異なる可能性があると見るべきです。ついでに言うなら、現代中国語も、又、古代の「文語」中国語と大きく異なるものであり、「文語」の背景となる厖大な素養のない(無教養な)現代中国人の意見も、又、安直に信じることはできません。(よくよく、人柄を審査し、意見の内容を確認しない限り、「全く」信用できないという事です)

 「文意を見失わぬよう、一つ一つの文字に神経を配って解読を進めなければなりません。」とは、さらなる卓見ですが、それでも、読者に「文意」を弁える「神経」がなければ、いくら苦言を呈しても耳に入らず、何も変わらないのです。大抵の論者は、ご自身の知性と教養に絶大な自信を持ってか、「鮎鮭」問題など意識せず、中国古代の史官の筆の運びを「自然に」「すらすら」と「普通に」解釈できると錯覚して堂々と論義しているのです。そういうご時世ですから、塚田氏処方の折角の妙薬も、読者に見向きもされないのでは、「つけるクスリがない」ことになります。誠に、この上もなく勿体ないことです。

コメント:「倭人伝」に「日本」はなかった
 自明のことですが、三世紀当時、「日本」は存在しません。
 当然、「日本」は、洛陽教養人の知るところでなく、倭人伝」は「日本」と全く無関係です無造作に押しつけている帯方郡最寄りの「日本」は、史学で言う「日本列島」、つまり、筑紫から纏向に至る帯状の地域を思い起こさせますが、それこそ、世にはびこる倭人伝」誤解の始まりです。この点、折に触れ蒸し返しますが、お耳ざわりでご不快でしょうが、よろしく趣旨ご了解の上、ご容赦いただきたい。

 些細なことですが、帯方郡は、氏の理解のように既知の楽浪郡領域の南部を分割した地域ではなく、後漢中平六年(189)(霊帝没年)以来遼東の地に駐屯していた遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安九年(204)時点で、過去、「漢武帝が設置し以来半島方面を管理していた楽浪郡」の管轄域であっても、管理の手の及んでいない「荒地」、「郡に服属していなかった蕃夷領域」を統治すべく、それまで同地域を管轄していたと見える楽浪郡「帯方」縣を「郡」に格上げして新たに「郡」としたものです。
 「」は、郡太守が住まう聚落、城郭、郡治であって、以前の「帯方縣」の中心県治と同位置であったとしても、支配地域の広がりを言うものではないのです。

 因みに、帯方郡が設立された動機は、半島南部の「韓」「濊」のさらに南にあるとわかった「倭」の新境地を監督するためと見えます。丁寧に言うと、それまで、楽浪郡領域南端にあって東夷管理の実務に当たっていた「帯方縣」を格上げして、東夷と折衝する面目/権限を与えたものであり、別に、遼東郡に並ぶ同格の一級の郡としたものでは有りません。
 帯方郡は、万事、遼東郡に報告し指示を仰いでいたのですが、公孫氏は、東夷事情を後漢皇帝に報告していなかったのですから、「倭人」のことは、後漢中央政権の知るところではなかったと見えるのです。笵曄「後漢書」に収録された司馬彪「続漢書」「郡国志」は、楽浪郡管内に「帯方縣」を記載していて、帯方郡は存在しません。つまり、笵曄「後漢書」に帯方郡は存在しないのです。
 世上、なぜか評価の高い笵曄「後漢書」が、根拠史料がないのに、東夷列伝に「倭」の条を追記した意図は不明ですが、楽浪郡から倭に至る行程道里が明記されていないのは、その辺りに原因がありそうです。楽浪郡は、郡に至る道里を申告させる権限と義務があり、明らかに、笵曄は、楽浪郡の公式記録を参照していないのです。
 というものの、倭から楽浪郡の檄まで「万二千里」と書いているのは、奇々怪々です。世上、「倭人伝」に書かれている「郡から倭まで万二千里」を、魏代の創作、或いは、西晋史官陳寿の史料改竄の結果としている説がありますが、後漢書記事が同工異曲となっているのは、後漢書東夷列伝の信頼性を損ない、正確さを疑わせるものと見えます。
 閑話休題。帯方郡太守の俸給(粟)も、軍兵の食い扶持も、帯方郡内の賄いというものの、実際は、公孫氏の裁量範囲だったのです。

*「幻の帯方郡」論義
 言い過ぎがお気に障ればお詫びするとして、帯方郡を発していずれかの土地に至ると言うのであれば、その出発点は、帯方郡の文書発信窓口ですから、ほぼ郡治中心部となります。南方の「荒れ地」は、関係ないのです。
 ついでに、正史の記録を確認/復習すると、後漢献帝治世の建安年間当時、遼東公孫氏が当地域を所領として自立同然であり、帯方郡を設立したとの通知は行われていなかったようです。つまり、郡治の位置は、公式に皇帝居処であった許昌に届け出されていなくて、帯方郡が雒陽から何里とされていたかという「公式道里」は不明です。ですから、雒陽から「倭人」まで何里という公式道里は、当然、不明なのです。
 なお、帯方郡の母体であった楽浪郡について言えば、武帝の設置時に公式道里が設定されて、それ以来、楽浪郡の所在の移動には、全く関係なく保持されていたのです。つまり、後漢代初頭、東夷所管部門であった楽浪郡の(洛陽からの)「公式道里」は、笵曄「後漢書」に収容された司馬彪「続漢書」「郡国志」に記載されているものの、それは、漢代以来国家制度の一部として不可侵の状態で固定されていたものであり、実際の「道里」、つまり、街道を経た「道のり」との関連は、かなり疑わしいのです。

*後漢書「倭条」の不条理
~2023/07/24
 加えて、楽浪郡から新設された帯方郡に至る「道のり」は、笵曄「後漢書」「郡国志」に記録が残っていないのです。それどころか、「郡国志」には「帯方縣」と書かれているだけで、帯方郡は載っていないのであり、後漢献帝の時代の公文書に「帯方郡」は存在しないので、笵曄の視点から言うと、帯方郡の所在は、本来幻なのです。言い換えると、笵曄が「倭条」を書いた/創作した時、その手元には、確たる公文書史料がなかったと言う事を証しています。(要するに「倭条」は、笵曄の創作だということです)
 「倭人伝」の対象である両郡郡治の所在が、今日に至るも不明/不確定なのは、そうした事情によるものなのです。一部論者は、勝手に帯方郡治を漢城(ソウル)としていますが、三世紀初頭、漢城は、未だ地盤の固まらない、橋梁のかけられない沖積地だったので、堅固な城壁を必要とし多数の郡兵を常設する郡治は、楽浪郡同様に、半島中央部にあったと見られます。
 もっとも、帯方郡の雒陽からの公式道里は、それ以前の「帯方縣」が、楽浪郡の公式道里に従属していた以上、分郡しても、同一道里、つまり、「雒陽から五千里」であったと見なすことができます。一方、「倭人伝」道里記事に示されている「従郡至倭」は、公孫氏が「倭人」を受け入れた時点の遼東郡志(公文書記録)に依拠しているとすると、遼東郡、ないしは、楽浪郡と伊都国を示していると解釈するのが順当なところです。
 このあたり、当時の時代背景を精査しないと読み解けないとみるのが「正論」のはずなのですが、世上、ご自身の(限られた、僅少な)知識で「すらすら」解釈している「楽天的」論者が多いので、議論が「通説」の波打ちによって大きく撓められていると見えるのです。幸い、いくら撓んでも、「折れる」事のない心を保っていれば、時を経て「通説」が風化すれば「正論」が回復するとみたいものです。

 念のため言うと、陳寿は、雒陽に所蔵されていた、後漢から引き継がれた魏代「公文書」を「随時」閲覧することができたので、公孫氏が、帯方郡創設の際に所在地/(雒陽からの)「公式道里」を洛陽/献帝に報告していれば、皇帝の批准を得た「公文書」となっていて、三国志「魏志」の編纂の際に利用できた/利用するしかないのですが、「倭人伝」には、そのような「公文書」記載の帯方郡に至る「公式道里」は参照されていません。遼東公孫氏は、東夷に関して後漢献帝のもとに報告していなかったことは、陳寿「魏志」に明記されていますが、帯方に関しては、後漢代の事件でありながら、郡の設立すら許昌の献帝に報告されていなかったということです。(細かく言うと、その時点で、統轄部門である鴻臚が、雒陽にあったのか、許昌にあったのか、確認は困難と思います)
 恐らく、公孫氏時代の「倭人」文書は、景初二年八月とされる司馬懿の遼東討伐の際に全て破壊され、辛うじて、事前に魏明帝の指示によって楽浪/帯方郡から回収した「地方郡文書」が、魏の支配下の洛陽に届き、而して、明帝の存命中がどうかは不明として、とにかく、皇帝の承認を得て、魏の公文書に記載されたものと見えます。

 以下、論義が一部、重複していくのですが、笵曄「後漢書」東夷列傳の倭に関する断片記事「倭条」は、後漢公文書史料の裏付けのない憶測、ないしは、本来利用が許されない魏公文書の盗用ということになりますが、魏公文書の実物は、陳寿没後の西晋末、北方民族による雒陽討滅の際に喪われたと思われるので、百五十年程度後世である劉宋の文筆家笵曄は、一次史料である魏公文書そのものを見ることはできなかったと見えます。
 と言うことで、笵曄「後漢書」東夷列伝の中で「倭条」は正当な史料根拠を持たないので、そこに書かれている記事は「信用できない」ということになります。正確な記事もあるかも知れないが、裏付けがないので、「倭人伝」記事を訂正する、ないしは、記事ないしは解釈を追加する論拠とできないということです。ご理解いただけたでしょうか。

*東方「倭種」談義
 「倭条」には、「倭人伝」で、女王居所の「南方」にあると明記され、熱暑とも見える風土、習慣などが詳述された「狗奴国」の印象を利用して、「倭」の東方にある「拘奴国」が創作されていますが、景初年間に帯方文書を回収し、倭使の参上を受入、正始年間(240-249)には「倭」に魏使を送った魏代においてすら詳細不明だった東方「倭種」が、後漢建安年間(196 - 220)、つまり、景初/正始年間の五十年以前に、樂浪郡に国使を送って、国名を申告していたと言うのは、「倭人伝」に対して、何とも壮大な異論となります。

 笵曄「後漢書」「倭条」全体が、根拠の無い創作幻像としたら、その一部である「拘奴国」は、「史実」、つまり、「後漢公文書記録」の反映ではないと見るものでしょう。あえて、同意いただけないとしたら、明確な根拠を持って否定していただくよう、お願いします。

 さらに言うと、笵曄と同時代の裴松之が魏志に付注した際、帯方郡道里とみえる「万二千里」に関する付注をしていないことから、後漢書編纂時点において、帯方郡の所在/公式道里は不明だったことになります。因みに、その時点では、山東半島から朝鮮半島への行程は、劉宋の勢力外であり、また、先だって辺境を管理していた帯方郡は、楽浪郡共々滅亡していたので、劉宋から現地情報を確認することは不可能だったのです。

コメント:大平原談義
 自明のことですが、倭人伝」の視点、感覚は、三世紀中原人のものであり、二千年後生の無教養な東夷である「我々」の視点とは対立しているのです。この認識が大事です。因みに、なぜか、ここで「北方系中国人」などと、時代、対象不明の意味不明の言葉が登場するのは、誤解の始まりで不用意です。論ずべきは、三世紀、洛陽にたむろしていた中原教養人の理解なのです。むしろ、「中国」の天下の外に「中国人」は、一切存在しないので、あえて、域外に進出していた「中国」人を論ずるなら、後世語で「華僑」と言うべきでしょう。

 因みに、氏の言う「大平原」は、どの地域なのか不明です。モンゴル草原のことでしょうか。もう少し、不勉強な読者のために、言葉を足して頂かないと、理解に苦しむのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 3/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「日本」錯誤ふたたび
 中原人の認識には、当然「日本」はなく、「倭人伝」を読む限り、「女王之所」のある九州島すら、その全貌は知られていなくて、「壱岐、対馬同様の海中絶島、洲島が散在する」と見られていたようです。少なくとも、冒頭の文の「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」は、冷静に読むと、そのように書かれています。

 氏を含めて、世上溢れる「倭人伝」解説書は、三世紀当時の中原人の地理観とは無縁の現代地図を盛っていて、誤解を大いに誘っていますが、「倭人伝」には、そのような「地図」はくくりつけられていないのであり、倭人伝に書かれている地理観をそのまま受け入れなければならないのです。
 まだ「倭人」世界がよく見えてなかった公孫氏時代の帯方縣/郡の初期認識では、「日本」ならぬ「倭人」の「在る」ところは、對海、一支、末羅あたりまでにとどまっていて、伊都が末羅と地続きらしいと見ていても、その他の国は関係が不確かであり、要は、集団としての「倭人」は帯方東南に在って「大海」(広大な塩水湖/塩水の流れる大河)を「倭」と捉えていて、そのような「倭」に散在する小島に存在する「国邑」だろうと見ていたと思わせるのです。恐らく、「倭人」が楽浪郡に参上して以来、伊都国が主導したことから、郡、つまり、公孫氏遼東郡の務めは、郡から倭までの文書伝達の規定日程を確定することにあったと見えます。何しろ、魏明帝が「倭人」にたっぷりした下賜物を届けたいと思っても、何処を何日かけて移動して倭に着くのかわからなくては、道中の宿舎、人夫、便船の手配が出来ないのです。

 時代が進んで、帯方郡によって「倭人伝」道里記事の構図が完成してみると、傍路諸国でも、戸数五万戸に垂ん(なんなん)とする投馬国は、さすがに、小島の上には成り立たないので、どこか、渡船で渡らざるを得ない遠隔の島と想定したという程度の認識だったのでしょう。不確かでよくわからないなりに、魏晋史官として筋を通したに過ぎないので、ここに当時存在せず、従って参照できなかった精密な地図や道里を想定するのは、勝手な「思い込み」の押しつけ、あるいは、妄想に過ぎないのです。

 以上のように、古代中原人なりの地理観を想定すれば、世上の『混濁した「倭人伝」道里行程観』は、立ち所に霧散するでしょう。もちろん、ここにあげる提言に同意頂ければと言うだけです。いや、以下の提言も同様に、私見の吐露に過ぎませんので、そのように理解いただきたいものです。

 この地理観を知らないで、「九州島」さらには「東方の正体不明の世界にまで展開する広大な古代国家」を想定していては、「倭人伝」記事の真意を知る事はできないのが、むしろ当然です。地理観が異なっていては言葉は通じないのです。何百年論義をしても、現代人の問い掛ける言葉は、古代人に通じず、求める「こたえ」は、風に乗って飛んで行くだけです。

 念のため確認すると、氏が今日の地図で言う「福岡平野」海岸部は、往時は、せいぜい海岸河口部の泥世界であって、到底、多数の人の「住む」土地でなかったし、当時「福岡」は存在しなかったので、論義するのは時代違いです。今日、福岡市内各所で進められている着実な遺跡発掘の状況を見ると、海辺に近いほど、掘れども掘れども泥の堆積という感じで、船着き場はともかく倉庫など建てようがなかったと見えますが、間違っているのでしょうか。
 そして、帯方郡の官人には、そのような現地地理など、知ったことではなかったのです。

 余談ですが、イングランド民謡「スカボローフェア」には、「打ち寄せる海の塩水と渚の砂の間の乾いた土地に住み処を建てて、二人で住もう」と、今は別れて久しい、かつての恋人への伝言を言付ける一節がありますが、「福岡平野」は、そうした叶えようのない、夢の土地だったのでしょうか。 あるいは、波打ち際に築き上げた砂の城なのでしょうか。

コメント:国数談義
 班固「漢書」の天子の居処は、遙か西方の関中の長安であり、とても、手軽に行き着くものではないのです。笵曄「後漢書」の天子の住まう雒陽すら、樂浪郡から遙か彼方であり、倭の者は、精々、漢武帝以来の楽浪郡か後漢建安年間に武威を振るった遼東郡(公孫氏)の元に行っただけでしょう。
 何しろ、帝国街道は、当然ながら、要所に宿駅や関所が設けられていて、「過所」(通行許可証)を持たない蛮夷は、通行できなかったのです。「もちのろん」、道中の宿駅は、ただで宿泊させてくれるわけはなく、食料や水も得られないのです。「郡」の役人が、「過所」を持って随行すればこそ、雒陽までたどり着けるのです。いや、蛮夷は、道中で、随員共々かなりの厚遇を受けたとされていますから、ますます、郡官人の同伴は、不可欠だったのです。
 最後のとどめですが、もし、蛮夷が「勝手に」洛陽の鴻臚寺にたどり着いたとしても、所定の郡役人に伴われずに、つまり、事前の申請/許可無しに「勝手に」参上した蛮夷は、追放/排斥されるだけです。
 因みに、古来、蛮夷の国は、最寄りの地方拠点の下に参上するのであり、同伴、案内ならともかく、単独で皇帝謁見を求めようにも、通行証がなくては道中の関所で排除されます。中国国家の「法と秩序」を侮ってはなりません。

 国数の意義はご指摘の通りで、楽浪郡で「国」を名乗った記録であり、伝統、王位継承していたらともかく、各国実態は不確かです。不確かなものを確かなものとして論ずるのは誤解です。その点、塚田氏の指摘は冷静で、至当です。 世上、滔々と古代史を語り上げる方達は、東夷の蛮人が、文字が無く、文書がない時代、数世紀に亘って、どんな方法で「歴史」を綴っていたか、説明できるのでしょうか。

《原文…従郡至倭 循海岸水行……到其北岸狗邪韓国 七千余里

コメント:従郡至倭~水行談義
 「水行」の誤解は、「日本」では普遍的ですが、世上の論客は、揃って倭人伝の深意を外していて、塚田氏が提言された「鮎鮭」の寓意にピタリ当てはまります。要するに、「水行」は、河川を船で行くことに決まっているとい「自明」事項すらご存じないのでは、以下、どんなに高度な論理を駆使しても、深層から遠ざかるのみなのです。
 「倭人伝」が提示している「問題」の題意を誤解して、勝手にお手盛りで、自前の「問題」(難題)を書き立て自前の解答をこじつけては、本来の正解にたどり着けないのは、当然です。 この「問題」に関して、落第者ばかりなのは「問題」が悪いからではないのです。何しろ、二千年来、「倭人伝」は「倭人伝」として存在しているのです。

 「倭人伝」記事は、文字通り、「循海岸水行」であり、「(沖合に出て)海岸に沿って行く」との解釈は、陳寿の真意を見損なって無謀です。原文改竄は不合理です。ここでは「沿って」でないことに注意が必要です。
 「海岸」は海に臨む「岸」、固く乾いた陸地で、「沿って」 との解釈に従うと、船は陸上を運行する事になります。「倭人伝」は、いきなり正史と認定されたのではなく、多くの教養人の査読を歴ているので、理解不能な痴話言と判断されたら却下されていたのです。つまり、当時の教養人が読めば、筋の通った著作だったのです。

 「循海岸水行」が、場違い、勘違いでないとしたら、「水行」は、以下の道中記に登場する『並行陸路のない「渡海」』概念を、適確に「予告」しているものと見るものではないでしょうか。見方を変えれば、既存の用語では書けないので、「この場限りの用語定義」ということになります。

*冒頭課題で、全員落第か
 世上、「倭人伝」道里記事の誤解は許多(あまた)ありますが、当記事が、正史の公式道里の鉄則で、陸上の街道を絶対の前提としている事を見過ごしている、いわば、二千年後生の無教養な東夷に蔓延っている「沿岸水行」は、二重の意味で初心者の度しがたい「思い込み」による誤解による「落第」であり、「落第」を免れているのは「循海岸水行」を意味不明として回避している論者だけのように見えます。
 つまり、「郡から狗邪韓国まで七千里、郡から末羅国までは、これに三千里を足して、一万里」と見ている「賢明な論客」だけが、「落第」を免れています。
 誤解を正すと、中原教養人の用語で「水行」は、河水(黄河 中流)江水(長江、揚子江)など大河を荷船の帆船が行くのであり、古典書は「海を進むことを一切想定していない」のです。これは、中原人の常識なので書いていません。と言うことで、この点の誤解を基礎にした世上論客の解釈は、丸ごと誤解に過ぎません。ほぼ、全員が「一発落第」ですから、例外的な「賢明な論客」以外は、全員落第で、試験会場はがら空きです。
 念のため言うと、古典書にある「浮海」とは、当てなく海を進むことを言うのであり、「水行」が示唆するように、道しるべのあるものではないのです。

*「時代常識」の確認
 そもそも、皇帝使者が、「不法」な海上船舶交通を行うことはないのです。一言以て足るという事です。その際、現代読者の一部が軽率に口にする「危険」かどうかという時代錯誤の判断』は、一切関係ないのです。
 あえて、「不法」、つまり、国法に反し、誅伐を招く不始末を、あえて、あえて、別儀としても、「危険」とは、ケガをするとか、船酔いするとか人的な危害を言うだけではないのです。行人、文書使である使者が乗船した船が沈めば、使者にとって「命より大事な」文書、書信が喪われ、あるいは、託送物が喪われます。そのような不届きな使者は、たとえ生還しても、書信や託送物を喪っていれば、自身はもとより、一族揃って連座して、刑場に引き出されて、文字通り首を切られるのです。自分一人の命より「もの」を届けるという「使命」が大事なのです。
 因みに、当時の中原士人は、「金槌」なので、難船すれば、水死必至なのです。

*後世水陸道里~圏外情報 
 後世史書の記事なので、「倭人伝」道里記事の解釈には、お呼びでないのですが、後世、南朝南齊-梁代に編纂された先行劉宋の正史である沈約「宋書」州国志に、会稽郡戸口道里が記載されていて、「戶五萬二千二百二十八,口三十四萬八千一十四。去京都水一千三百五十五,陸同」、つまり、京都建康から、水(道 道里)一千三百五十五(里)、陸(道 道里)も同様との「規定」から、一見、船舶航行を制度化したと見えますが、長江、揚子江の川船移動の「道のり」と並行する陸上移動の「道のり」とは、「規定」上、同一とされていたのがわかります。
 ここで言う、「水道」は、陸上街道「陸道」と対比できる河川行程を言うのであり、後世、「日本」で海峡等を誤称した「水道」でなければ、もちろん、飲料水などを、掛樋や鉛管で供給する「水道」でもありません。諸兄姉の愛顧されている漢和字典に、この意味で載っていなくても、古代(中国)に於いて、そのように書かなかった証拠にはなりません。ご注意下さい。 
 両経路/行程を、例えば、縄張りで測定して、五里単位で同一とした筈はなく、推測するに、太古、陸上街道を千三百五十五里と「規定」したのが、郡治の異同に拘わらず、水陸の差異も関係無しとして、水道(河川交通)に「規定」として適用されていたことがわかります。
 要するに、「倭人伝」道里は、当時意味のなかった測量値でなく「規定」であるというのも、理解いただけるものと思います。
 補足すると、並行街道がない」というのは、『「騎馬の文書使が走行できる」とか、「武装した正規兵が隊伍を組んで行軍できる」とか、「四頭立ての馬車が走行できる」などの要件を「全長に亘って」満たす「街道」』が設置、維持できなかった/されていなかったと言うだけであって、崖面に桟道を設けるなどの苦肉の策で細々と荷役する「禽鹿径」が存在したという可能性は否定していないと言うか、否定しようなどないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 4/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*重大な使命~Mission of Gravity
 使者が使命を全うせずに命を落としても、文書や宝物が救われたら、留守家族は、使者に連座するのを免れて、命を長らえるだけでなく、褒賞を受けることができるのです。陸送なら書信や託送物が全滅することはないのです。
 「循海岸水行」の誤解が蔓延しているので、殊更丁寧に書いたものです。
 因みに、「沿岸航行」が(大変)「危険」なのは、岩礁、荒磯、砂州のある海岸沿いの沖合を百千里行くことの危険を言うのです。一カ所でも海難に遭えば、残る数千里を無事でも落命するのです。
 ついでに言うと、海上では、強風や潮流で陸地に押しやられることがあり、そうなれば、船は抵抗できず難船必至なので、出船は、一目散に陸地から遠ざかるのです。

 これに対して、後ほど登場する海峡「渡海」は一目散に陸地を離れて前方の向こう岸を目指すのであり、しかも、通り過ぎる海の様子は、岩礁、荒磯、砂州の位置も把握していて、日々の潮の具合もわかっていて、しかも、しかも、日常、渡船が往来している「便船」の使い込んだ船腹を、とことん手慣れた漕ぎ手達が操るので、危険は限られているのです。その上、大事なことは、川船であれば、万一、難船しても両岸から救援できるのです。恐らく、周囲には、漁船がいるでしょうから、渡船は、孤独ではないのです。
 このあたりの先例は、班固「漢書」、及び魚豢「魏略」西戎伝の「二文献」に見てとることができますが、文意を知るには、原文熟読が必要なので、誰でも、すらすらとできることではありません。
 しかして、海峡渡海には、代わるべき並行陸路がないので、万全を期して、そそくさと渡るのです。
 ついでに言うと、渡し舟は、朝早く出港して、その日の早いうちに目的地に着くので、船室も甲板もなく、水や食料の積み込みも、最低限で済むのです。身軽な小船なので、荷物を多く積めるのです。

*橋のない川
 そもそも、中原には橋のない川がざらで、渡し舟で街道を繋ぐのが常識で、僅かな渡河行程は、道里行程には書いていないのです。
 東夷が、海を渡し船で行くのは、千里かどうかは別として、一度の渡海に一日を費やすので、三度の渡海には十日を確保する必要があり、陸上行程に込みとは行かなかったから、本来自明で書く必要のなかった「陸行」と区別して、例外表記として「水行」と別記したのです。

*新規概念登場~前触れ付き
 念押しを入れると、「循海岸水行」は、『以下、例外表記として「渡海」を「水行」と書くという宣言』なのです。
 因みに、字義としては、『海岸を背にして(盾にとって)、沖合に出て向こう岸に行く』ことを言うのであり、「彳」(ぎょうにんべん)に「盾」の文字は、その主旨を一字で表したものです。(それらしい用例は、「二文献」に登場しますが、寡黙な現地報告から得た西域情報が「二文献」に正確に収録されているかどうかは、後世の文献考証でも、論義の種となっています)
 ということで、水行談義がきれいに片付きましたが、理解いただけたでしょうか。

 要は、史書は、不意打ちで新語、新規概念を持ちだしてはならないのですが、このように、先だった宣言で読者に予告した上で、限定的に、つまり、倭人伝の末尾までに「限り」使う「限り」は、新語、新規概念を導入して差し支えないのです。何しろ、読者は、記事を前から後に読んでいくので、直前に予告され、その認識の残っている間に使うのであれば、不意打ちではないということです。

*新表現公認
 その証拠に、「倭人伝」道里記事は、このようにつつがなく上覧を得ていて、後年の劉宋史官裴松之も、「倭人伝」道里行程記事を監査し、格別、指摘補注はしてないのです。
 ここで、正史たるべき倭人伝」で「水行」が史書用語として確立したので、後世史家は、当然のごとく使用できたのです。

*「従郡」という事
 「従郡至倭」と簡明に定義しているのは、古来の土地測量用語に倣ったものであり、「従」は、農地の「幅」を示す「廣」と対となって農地の「縦」「奥行き」の意味であり、矩形、長方形の農地面積は、「従」と「廣」の掛け算で得られると普通に教えられたのです。(出典「九章算経」)
 「従郡至倭」は、文字通りに解すると、帯方郡から、縦一筋に倭人の在る東南方に至る、直線的、最短経路による行程であり、いきなり西に逸れて海に出て、延々と遠回りするなどの「迂回行程」は、一切予定されていない』のです。
 念押ししなくても、塚田氏も認めているように、郡から倭人までは、総じて南東方向であり、その中で、「歷韓國乍南乍東」は、「官道に沿った韓国を歴訪しつつ、時に進行方向が、道なりに、東寄りになったり、南寄りになったりしている」と言うだけです。解釈に古典用例を漁るまでもなく、時代に関係ない当たり前の表現です。

コメント:里程談義~弾劾法廷
 因みに、塚田氏は「三国鼎立から生じた里程誇張」との政治的とも陰謀説とも付かぬ「俗説」を理性的に否定していて、大変好感が持てます。文献解釈は、かくの如く「合理的」でありたいものです。

 高名な先哲が、二千年後生の無教養な東夷であることを自覚せずに、「三国志」に書かれていない「陰謀」を「創作」して、「西晋代の陳寿が、後漢代の記録にまで遡って、魏朝の記録に干渉/改竄/捏造し、あり得ない道里記事をでっち上げた」と弾劾しているのと大違いです。

 子供の口喧嘩(賈豎争言)でもあるまいに、「高名な先哲」は、弾劾には「証拠」提出の上に「弁護」役設定が不可欠であり、『根拠の実証されていない一方的な非難/弾劾は「誣告」とよばれる重罪である』のを見落としているのですから、氏の厳正な姿勢には、深甚なる賛辞を呈します。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 5/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「心理的距離」の不審
 但し、氏の言われる七千余里は、「大体こんな程度ではなかろうか」という大雑把な心理的距離と捕えておけば済みます。との割り切りは、意味不明です。「心理的距離」というのは、近来登場した「社会的距離」の先ぶれなのでしょうか。「メンタルヘルス」の観点から、早期に治療した方が良いでしょう。
 おっかぶせた「大雑把な」とは、どの程度の勘定なのでしょうか。苦し紛れのはぐらかしにしても、現代的な言い訳は、三世紀人に通じないのです。
 それにしても、郡~狗邪は、最寄りの郡官道で「地を這ってでも測量できる」のです。とは言え、「倭人伝」など中国史料で、道里は、せいぜい百里単位であり、他区間道里と校正することもないのですが、それでも、正史である「魏志」で六倍近い「間違い」が、「心理的な事情」で遺されたとは信じがたいのです。中国流の規律を侮ってはなりません。

*第一報の「誇張」~不可侵定説
 私見では、全体道里の万二千里が、検証なくして曹魏皇帝明帝に報告され、御覧を得たために、以後、「綸言汗の如し」「皇帝無謬」の鉄則で不可侵となり、後続記録である「倭人伝」が辻褄合わせしたと見ます。同時代中国人の世界観の問題であり、二千年後生の無教養な東夷の好む心理的な距離など関係はないのです。

*御覧原本不可侵~余談
 三国志は、陳寿没後早い時期に完成稿が皇帝の嘉納、御覧を得て帝室書庫に所蔵され、以後不可侵で、改竄など到底あり得ない「痴人の夢」なのです。原本を改竄可能なのは、編者范曄が嫡子もろとも斬首の刑にあい、重罪人の著書となった私撰稿本の潜伏在野時代の「後漢書」でしょう。
 いや、世上、言いたい放題で済むのをよいことに、「倭人伝」原本には、かくかくの趣旨で道里記事が書かれていたのが、南宋刊本までの何れかの時点で、現在の記事に改竄されたという途方も無い『暴言』が、批判を浴びることなく公刊され、撲滅されることなく根強くはびこっているので、氏の論考と関係ないのに、ここで指弾しているものです。

*東夷開闢~重複御免
 それはさておき、「倭人伝」道里記事の「郡から倭人まで万二千里」あたりは、後漢から曹魏、馬晋と引き継がれた(東京=洛陽)公文書を根底に書き上げられたので、最初に書かれたままに残っていると見たのです。
 後日、調べ直して、考え直すと、後漢末献帝建安年間は、遼東郡太守の公孫氏が、混乱した後漢中央政府の束縛を離れて、ほぼ自立していたのであり、遼東から雒陽への文書報告は絶えていたので、帯方郡創設の報せも、帯方郡に参上した「倭人」の報せも、遼東郡に握りつぶされ、「郡から倭人まで万二千里」の報告は、後漢公文書どころか、後継/承継した曹魏の公文書にも、届いていなかったと見えるのです。
 笵曄「後漢書」に併録された司馬彪「続漢紀」郡国志には、「楽浪郡帯方縣」とあって、建安年間に創設された帯方郡は書かれていないのです。当然、洛陽から帯方郡への公式道里も不明です。
 恐らく、司馬懿の征伐によって遼東公孫氏が、郡官人とともに撲滅され、郡の公文書類が、根こそぎ破棄されたのと別に、明帝の別途の指示で、楽浪/帯方両郡を、早々に皇帝直下に回収した際、両郡に残されていた公文書が、雒陽にもたらされたものと見えます。
 魚豢「魏略」は、正史として企画されたものではないので、雒陽公文書に囚われずに雒陽に保管されている東夷資料を自由に収録したものと見えますが、陳寿が、公式史料でない魏略からどの程度引用したか、不明と云わざるを得ません。史官の職業倫理から、稗史である魚豢「魏略」の陰陽は、忌避したものと推定されるのです。

 魏明帝の景初年間、司馬懿の遼東征伐に、「又」、つまり、「さらに」、つまり、並行してか前後してか、魏は、皇帝明帝の詔勅を持って、楽浪/帯方両郡に新太守を送り込み、遼東郡配下の二級郡から皇帝直轄の一級郡に昇格させ、帯方郡に東夷統轄の権限を与え、韓倭穢の参上を取り次ぐことを認めたので、その際、帯方郡に所蔵されていた各東夷の身上調査が報告されたのです。楽浪帯方両郡が遼東郡に上申した報告書自体は、公孫氏滅亡の際に一括廃棄されていましたが、控えが「郡志」として所蔵されていたのです。

 つまり、「郡から倭人まで万二千里」とは、この際に、帯方郡新太守が、魏帝に報告した新天地に関する報告です。文字通り、東夷開闢です。この知らせを聞いた明帝は、「直ちに、倭人を呼集して、洛陽に参上させよ」と命じたのに違いないのです。
 但し、新太守は、倭人に急使を派遣して即刻参上せよと文書を発しようとしたものの、記録から、郡から発した文書が倭人に至るのは、四十日相当であると知って「郡から倭人まで万二千里」が、実際の行程に基づいた実道里でないと知り、皇帝に重大な誤解を与えた責任を感じて苦慮したはずです。
 つまり、「郡から倭人まで万二千里」は、遼東郡で小天子気取りであった公孫氏が、自身の権威の広がりを、西域万二千里まで権威の広がった「漢」に等しいと虚勢を張ったものであって、これは、周制で王畿中心の端子の以降の最外延を定義したものに従っただけであり、実際の行程道里と関係無しの言明であり、公孫氏自体、倭まで、実際は、せいぜい四十日程度の行程と承知していたことになるのです。
 万事、景初の帯方郡に生じた混乱のなせる技だったのです。これは、一応筋の通ったお話ですが、あるいは、「倭人」は、公孫氏以前の桓帝、霊帝期に「倭人」が参上して、その時点で東夷を統轄していた楽浪郡が、道里、戸数などを事情聴取したものの、洛陽に報告していなかったとも見えます。何れにしろ、女王共立以前、女王国は存在せず、伊都国が「倭人」を統轄していたものの「大倭王」が居城に君臨していた可能性もあり、後漢書「東夷列伝」倭条は、そのような体制を示唆しているとも見えますが、何しろ、史官ならぬ笵曄の言い分は、あてにはなりません。
 
 原点に帰ると、陳寿は、魏志」を編纂したのであり、創作したのでは「絶対に」ないのです。公文書史料が存在する場合は、無視も改変もできず、「倭人伝」道里行程記事という意味では、より重要である所要日数(水陸四十日)を書き加えることによって、不可侵、改訂不可となっていた「万二千里」を実質上死文化したものと見るのです。

 因みに、正史に編纂に於いて、過去の公文書を考証して先行史料に不合理を発見しても、訂正せずに継承している例が、時にあるのです。班固「漢書」西域伝安息伝に、そのような齟齬の顕著な例が見られます。

 現代人には納得できないでしょうが、太古以来の史料作法は教養人常識であり、倭人伝を閲読した同時代諸賢から、道里記事の不整合を難詰されてないことから、正史に恥じないものとして承認されたと理解できるのです。後世の裴松之も「万二千里」を不合理と指摘していないのです。

*舊唐書 萬四千里談義~余談
 因みに、後世の舊唐書「倭国」記事は「古倭奴國」と正確に理解した上で、「去京師一萬四千里」、つまり京師長安から万四千里として、「倭人伝」道里「万二千里」を魏晋代の東都洛陽からの道里と解釈、踏襲しているのであり、正史の公式道里の実質を物語っています。
 つまり、倭人道里は、実際の街道道里とは関係無く維持されたのです。
 もちろん、「倭国」王城が固定していたという保証はありません。具体的な目的地に関係なく、蕃王居処が設定されて以後「目的地」が移動しても、公式道里は、不変なのです。
 客に言うと、当初、公孫氏が「従郡至倭」万二千里と設定した後、出発点が、遼東郡、または、楽浪郡から帯方郡に代わったとしても、到着先が、伊都国(倭国)から、女王国(倭国)に代わって、國王の治所が変動しても、それぞれ、公式道里には、一切反映しないのです。舊唐書編者は、倭王之所までの行程道里は、当時の首都洛陽であったに違いないとの高度な解釈をしたのかも分かりません。何しろ、倭人伝以来、東大までの間には、天下の西晋が、北方異民族によって滅亡して、洛陽が破壊蹂躙され、辛うじて南方に逃避した東晋の権威は、以下継続した南朝諸国に引き継がれたものの、北朝隋が南朝陳を破壊蹂躙したので、唐代以降の「倭人伝」道里記事の解釈が、正当なものでなくなっていた可能性はあるのです。

*「歩」「里」 の鉄壁
*「尺」は、生き物
 「尺」は、度量衡制度の「尺度」の基本であって、時代の基準とされていた遺物が残されていて、その複製が、全国各地に配布されていたものと見えます。そして、「歩」(ぶ)は、「尺」の六倍、つまり、六尺で固定だったのです。世上、「歩」を、歩幅と身体尺と見ている向きがありますが、それは、素人考えであって、根拠のない想定に過ぎないのです。
 何しろ、日々の市場での取引に起用されるので、商人が勝手に変造するのを禁止する意味で、市場で使われている「尺」の検閲と共に、定期的に、「尺」の更新配布を持って安定化を図ったのですが、政府当局の思惑かどうか、更新ごとに、微細な変動があり積み重なって、「尺」が伸張したようです。
 但し、度量衡に関する法制度には、何ら変更はないのです。何しろ、「尺」を文書で定義することはできないので、以下に述べた換算体系自体は、何ら変更になっていないのです。

*「歩」の鉄壁
 基本的に、耕地測量の単位は「里」の三百分の一である「歩」(ぶ)です。
 「歩」は、全国各地の土地台帳で採用されている単位であり、つまり、事実上、土地制度に固定されていたとも言えます。皇帝といえども、「歩」を変動させたとき、全国各地の無数の土地台帳を、連動させて書き換えるなど、できないことなのです。(当時の下級吏人には、算数計算で、掛け算、割り算は、実際上不可能なのです)
 また、各戸に与えられた土地の面積「歩」に連動して、各戸に税が課せられるので、土地面積の表示を変えると、それにも拘わらず税を一定にする、極めて高度な計算が必要となりますが、そのような計算ができる「秀才」は、全国に数えるほどしかいなかったのです。何しろ、三世紀時点で、計算の補助になるのは、一桁足し算に役立つ算木だけであり、掛け算は、高度な幾何学だったのです。
 世に言う「ハードル」は、陸上競技の由来で、軽く跨いで乗り越えられるものであり、苦手だったら迂回して回避するなり、突き倒し蹴倒しして通れば良いのですが、「鉄壁」は、突き倒す/突き破る/突き除けることも、乗り越え/飛び越えることもできず、ただ、呆然と立ちすくむだけです。
 因みに、ここで言う「歩」(ぶ)は、耕作地の測量単位であって、終始一貫して、ほぼ1.5メートルであり、世上の誤解の関わらず、人の「歩」幅とは連動していないのです。そして、個別の農地の登録面積は、不変なのです。
 言い換えると、「歩」は、本質的に面積単位であり、度量衡に属する尺度ではないのです。

 史料に「歩」と書いていても、解釈の際に、『耕作地測量という「文脈」』を無視して、やたらと広く用例を探ると、這い上がれない泥沼、出口の見えない迷宮に陥るのです。世上の「歩」論義は、歩幅に関する蘊蓄にのめり込んでいて、正解からどんどん遠ざかっているのです。

*里の鉄壁
 道里」の里は、固定の「歩」(ぶ、ほぼ1.5㍍)の三百倍(ほぼ450㍍)であり、「尺」(ほぼ25㌢㍍)の一千八百倍であって固定だったのです。
 例えば、雒陽の基準点から遼東郡治に至る「雒陽遼東道里」は、一度、国史文書に書き込まれ、皇帝の批准を得たら、以後、改竄、改訂は、できないのです。もし、後漢代にそのような行程道里が制定され、後漢郡国志などに記録されたら、魏晋朝どころか、それ以降の歴代王朝でも、そのまま継承されるのです。そのような公式道里の里数ですから、そこに書かれている一里が、絶対的に何㍍であるかという質問は、実は、全く意味がないのです。「洛陽遼東道里」は。不朽不滅なのです。

 因みに、それ以外にも、「里」の登場する文例は多々あり、それぞれ、太古以来の異なる意味を抱えているので、本論では、殊更「道里」と二字を費やしているのです。異なる意味の一例は、「方三百里」などとされる面積単位の「方里」です。よくよくご注意下さい。
 三世紀当時、正史を講読するほどの知識人は、「里」の同字異義に通じていたので、文脈から読み分けていたのですが、現代東夷の無教養人には、真似できないので、とにかく、丁寧に、文脈、つまり前後関係を読み取って下さいと申し上げるだけです。
 「倭人伝」は、三世紀の教養人陳寿が、三世紀の教養人、例えば晋皇帝が多少の努力で理解できるように、最低限の説明だけを加えている文書なので、そのように考えて、解読に取り組む必要があるのです。三世紀、教養人は「中原中国人」で、四書五経の教養書に通じていたものの、現代人は、日本人も中国人も無教養の蛮夷なのです。別に悪気はないのです。

*短里制度の幻想
 どこにも、一時的な、つまり、王朝限定の「短里」制など介入する余地がありません。
 天下国家の財政基盤である耕作地測量単位が、六分の一や六倍に変われば、戸籍も土地台帳も紙屑になり、帝国の土地制度は壊滅し、さらには、全国再検地が必要であり、それは、到底実施できない「亡国の暴挙」です。因みに、当時「紙屑」、つまり、裏紙再使用のできる公文書用紙は、大変高価に買い取り/流通されたので、今日思う「紙屑」とは、別種の、むしろ高貴な財貨だったのです
 中国史上、そのような暴政は、最後の王朝清の滅亡に至るまで、一切記録されていません。
 まして、三国鼎立時代、曹魏がいくら「暴挙」に挑んだとしても、東呉と蜀漢は、追従するはずがなかったのです。いや、無かった事態の推移を推定しても意味がないのですが、かくも明快な考察内容を、咀嚼もせずに、とにかく否定する論者がいるので、念には念を入れざるを得ないのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 6/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*柔らかな概数の勧め
 氏は、厳密さを求めて、一里430㍍程度の想定のようですが、古代史では、粗刻みの概数が相場/時代常識なので、厳密、精密の意義は乏しく、50㍍刻みの「450㍍程度」とすることをお勧めします。
 して見ると、一歩(ぶ)は150㌢㍍程度(1.5㍍)、一尺(しゃく)は25㌢㍍程度(1/4㍍)で、暗算できるかどうかは別として、筆算も概算も、格段に容易です。

 魏志「倭人伝」の道里では、「有効数字」が、一桁あるかないかという程度の、大変大まかな漢数字が出回っていますが、このあたりは、漢数字で見ていないと、尺、歩、里に精密な推定が必要かと錯覚しそうです。
 少し落ち着いて考えていただいたらわかると思いますが、25㌢㍍の物差は、結構精密に制作できますが、150㌢㍍の物差は、大変制作困難であり、450㍍の物差は、制作不可能です。せいぜい、縄で作るくらいです。
 手短に言うと、尺は、物品の商取引に広く利用されていますが、歩(ぶ)は、農地の検地や建物敷地の測量やなどに利用されるので、尺とは、別次元の単位であり、まして、里は、里程以外では、広域の農地面積統計に利用されるくらいで、ほとんど、実測されることはなかったと見えます。つまり、里は、その時点の「尺」を原器として、六倍に三百倍を重ねて構成されたものでなく、概念として保持されていたものと見えますから、一々、計量史的に考察する必要は乏しいものと見えます。
 いずれにしろ、古代史に於いて、大まかでしか調べのつかなかったことを、現代感覚で厳格に規定するのは、無謀で、時代錯誤そのものです。

原文…始度一海 千余里 至対海国 所居絶島 方可四百余里……有千余戸……乗船南北市糴

コメント:始度一海
 誤解がないように、さりげなく、ここで始めて、予告通り「海」に出て一海を渡ると書いています。先走りして言うと、続いて、「又」、「又」と気軽に書いています。要するに、この地点までは海に出ていないと明記しています。狗邪韓国で、初めて、海岸、つまり、海辺の崖の上から対岸を目にするのです。
 復習すると、氏の「水行」の解釈は俗説の踏襲であり同意できません。いわゆる「沿岸水行」説に従うと、後で、水行陸行日数の辻褄が合わなくなるのです。また、進行方向についても認識不足を示しています。「倭人在帯方東南」であり、暗黙で東西南北の南に行くのが自明なので書いてないのです。氏は、史官の練達の文章作法を侮っているようで不吉な感じがします。

*史官集団の偉業
~陳寿復権
 そういえば、世間には、陳寿が計算に弱かったなど、欠格を決め付けている人がいます。多分、ご自身の失敗体験からでしょうか倭人伝」は、陳寿一人で右から左に書き飛ばしたのではなく、複数の人間がそれぞれ読み返して、検算、推敲しているので、陳寿が数字に弱くても関係ないのです。

 他に、世間には、「陳寿は海流を知らなかったために、渡海日程部の道里を誤った」と決め付けた例もあります。
 当時言葉のない「海流」は知らなかったとしても、しょっちゅう経験していた渡し舟は、川の流れに影響されて進路が曲がるのを知っていたし、当人が鈍感で気付かなくても、編者集団には、川船航行に詳しいものもいたでしょうから、川の流れに浮かぶ小島と比喩した行程を考えて海流を意識しないはずはないのです。

 史官は、集団で編纂を進めたのであり、個人的な欠点は、埋められたのです。
 渡し舟での移動行程を、実里数に基づいているとみた誤解が、無理な「決め付け」を呼んでいるようですが、直線距離だろうと進路沿いだろうと、船で移動する道里は計りようがないし、計っても、所詮、一日一渡海なので、千里単位の道里には、千里と書くしかないので、全く無意味なのです。
 無意味な事項に精力を注いで、時間と労力を浪費するのは、一日も早く、これっきり、これが最後にしてほしいものです。

 陳寿は、当代随一の物知りで早耳であり、鋭い観察眼を持っていたと見るのが自然でしょう。計数感覚も地理感覚も人並み以上のはずです。物知らずで鈍感で史官は務まらず、無知/無能な史官の替わりはいくらでもいたのです。多分氏は、いずれかの「現代語訳」を手にして書いているのでしょうが、これでは、論者としての信用を無くすだけです。ご自愛ください。

コメント:對海国談義
 暢気に、「対馬国」を百衲本は「対海国」と記しています。前者は現在使用されている見慣れた文字で、違和感がないとおっしゃいますが、氏とも思えない不用意な発言です。史書原本は「對海國」ないし「對馬國」であり、「見なれない」文字です。

 氏は、不要なところで気張るのですが、「絶島」は、「大海(内陸塩湖)中の山島であっても、半島でない」ことを示すだけです。逆に言うと、単に海中山島と言えば、半島の可能性が高いのです。山東半島から北を眺めたとき目に入るのは、海中山島、東夷の境地であり、朝鮮/韓を半島と思い込むのは、後世人の早合点であり、ある意味、誤解となりかねないのです。

 ご想像のような「絶海の孤島」を渡船で渡り継ぐなどできないことです。気軽に渡り継げるのは、流れに浮かぶ中之島、州島です。
 因みに、倭人伝道里記事の報告者は、対海国から一大国の渡船が、絹の綾織りのような水面「瀚海」を渡ったとしているので、波涛などでなく、穏やかな渡海であったと実体験を語っているものと思わせます。

*大海談義~余談 2023/07/25
 「大海」も、大抵誤解されています。倭人伝では、西域に散在の内陸塩水湖の類いと見て「一海」としているのです。「二大文献」の西域/西戎伝では、「大海」には、日本人の感覚では「巨大」な塩水湖「カスピ海」(裏海)も含まれていて、大小感覚の是正が必要になります。
 くれぐれも、「大海」を「太平洋」(The Pacific Ocean)と決め付けないことです。そもそも、対馬海峡も日本海も、太平洋ではありません。
 むしろ、現代地図で言うと、東西の瀬戸の隘路に挟まれた「燧灘」が、いちばん「大海」の姿に近いものです。何しろ、塩っぱくて飲めない「塩水湖」なのです。ただし、燧灘は、九州北部にあるわけではなく、考証がむつかしいところです。
 琵琶湖は、淡水湖なので端から落第です。宍道湖は、塩水湖ですが、対岸が見えないほどに大きくないので、外れます。となると、後は、有明海ぐらいになりますが、有明海は、筑紫を呑み込むほどではないので、疑問です。

 結局の所、三世紀当時、景初二年時点で、帯方郡から見て、対馬海峡の海水面がどこまで広がっていたか、皆目分からなかったから、現代地図を見ても、その視界は窺えず、伊都国の向こうは臆測しかできなかったと見るものでしょう。「倭人伝」の地理情報が理解しがたいのは、書いている方が、現地情報をよくわかっていなかったからなのです。そして、二千年後生の「うみの子」である東夷現地人が、自分の豊富な土地勘で補おうとしても、それは、帯方郡官人すら知らない異次元の世界なので、見当違いになるのです。

 それにしても、東夷伝を読む限り、「大海」が韓国の東西にある「海」(かい)と繋がっているとの記事はなく、どうやって、海から大海の北岸に至るのかも不明です。現地地図など見ず、「倭人伝」の文字情報だけで陳寿の深意を窺えば、明記されている事項を読み損なう「誤解」は発生しないのです。(いや、地図など見るから誤解すると言えます)
 
 「倭人伝」の後半になると、魏使や帯方郡官人の伊都国や狗奴国の訪問記などの後日情報が収録されていると見えますが、それは、曹魏明帝里没後の記事であり、当時、在世中の曹魏明帝曹叡の上覧を経て、公文書庫に収録されていた道里行程記事部分の文書は、改竄/修正が許されていなかったので、精々、コンシーラーでお化粧するように、つまり、糊塗するように補筆する程度でしかできなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 7/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
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*「方里」「道里」の不整合
 詳細は略しますが、「方里」表現は、その国/領域の(課税)耕作地の面積集計であり、「方里」は「道里」と別種単位と見るものです。
 要は、信頼すべき史料を順当に解釈すると、そのように適切な解に落ち着くのです。この順当/適切な解釈に、心理的な抵抗があるとしたら、それは、その人の知識が整っていないからです。現代風に云うと「メンタル」不調です。
 塚田氏が想定されている「方里」理解だと、一里百㍍程度となり「短里説」論者に好都合なので、文献深意に迫る健全な解釈が頓挫し、一方では、塚田氏のように不都合と決め付ける解釈が出回るのです。情緒と情緒の戦いでは、合理的な解釋が生まれるはずがないのです。
 「方里」の深意に迫る解釈は、まだ見かけませんが、少なくとも、審議未了とする必要があるように思います。

*「倭人伝」再評価
 「倭人伝」は、陳寿を統領とする史官達が長年推敲を重ねた大著であり、低次元の錯誤は書かれていないと見るところから出発すべきです。
 「一つ一つの文字に厳密な定義があって、それが正確に使い分けられており、曖昧に解釈すれば文意を損なうのです」とは、また一つの至言ですが、氏ご自身がその陥穽に落ちていると見えます。

 そして、「魏志韓伝」に、次の記述があります。
《原文…国出鉄……諸市買皆用鉄如中国用銭

コメント:産鉄談義

 まず大事なのは、魏では、秦漢代以来の通則で、全国統一された穴あき銅銭が、国家経済の基幹となる共通通貨なのに、韓、濊、倭は、文明圏外の未開世界で、およそ「銭」がないので、当面、鉄棒(鉄鋌)を市(いち)の相場基準に利用したということです。

 漢書に依れば、漢朝草創期には、秦朝から引き継いだ徴税体制が躍動していて、全国各地で農民達は、居住地で、収穫物を売却した上で、得られた銅銭で税を地域の領主に納めました。各地の領主から順送りに上納、集成された厖大な銭が、長安の「金庫」に山を成していたということです。高祖劉邦に続く、文帝、恵帝の時代は、内外の兵事が絶え、治安が安定し、在世が潤沢だったので、国庫の銭は、使い切れずに眠っていたと書かれています。
 戦国時代の諸国分立状態を統一した秦朝が、短期間で、全国隅々まで、通貨制度、銭納精度を普及させ、合わせて、全国に置いた地方官僚が、戦国諸国の王侯貴族、地方領主から権限を奪って、「皇帝ただ一人に奉仕する集金機械に変貌させた」ことを示しています。
 農作物の実物を税衲されていたら、全国の人馬は、穀物輸送に忙殺され、皇帝は、「米俵」の山に埋もれていたはずです。もちろん、北方の関中、関東は、人口増加による食糧不足に悩まされ、食糧輸送は、帝国の基幹業務となっていましたが、それでも、銭納が確立されていて、食糧穀物輸送は、各地の輸送業者に対して、統一基準で運賃を割り当てる制度が成立していたのです。(「唐六典」に料率表が収録されていますが、秦代以来、何らかの全国通用の運賃基準が制定されていたはずです)
 それはさておき、共通通貨がなければ、市での取引は物々交換の相対取引であり、籠とか箱単位の売り物で相場を決めるにしても、大口取引では、何らかの協定をして価格交渉するしかなく、とにかく通貨がないのは大変不便です。
 それでも、東夷で市(いち)が運用できたのは、東夷では商いの量が圧倒的に少なかったという趣旨です。逆に言うと、商いの量が多ければ、銭がないと取引が成り立たないのです。いずれにしろ、東夷では、現代の五円玉では追いつかない数の大量の穴あき銭が必要であり、それが大きな塊の鉄鋌で済んだというのが当時の経済活動の規模を示しています。

《原文…又南渡一海千余里……至一大国 方可三百里……有三千許家

コメント:邪馬壹国改変
 氏は、妙な勘違いをしていますが、南宋刊本以来「倭人伝」原本には、「邪馬壹国」と書かれていて、どこにも「邪馬台国」、正しくは、「邪馬臺国」などと改変されてはいないのです。
 因みに、氏が提示されているように、ほとんど見通せない直線距離も方角も知りようのない海上の絶島を、仮想二等辺三角形で結ぶなどは、同時代人には、夢にも思いつかない発想(イリュージョン)であり、無学な現代人の勘違いでしょう。

*地図データの不法利用疑惑
 当節、「架空地理論」というか、『衛星測量などの成果を利用した地図上に、実施不可能な直線/線分を書き込んで、図上の直線距離や方角を得て、絶大な洞察力を誇示している』向きが少なからずありますが、史実無根もいいところです。当時の誰も、そのような視野や計測能力を持っていなかったのであり、まことに「架空論」です。因みに、二千年近い歳月が介在しているので、現代の地図データ提供者の許諾する保証外のデータ利用であり、どう考えても、「地図データの利用許諾されている用法を逸脱している」と思われますから、権利侵害であるのは明らかです。
 塚田氏は、「架空 地理論」に加担していないとは思いますが、氏が独自に得た地図データを利用していると立証できない場合は、「瓜田に沓」の例もあり、謂れのない非難を浴びないように「免責」されることをお勧めします。

コメント:又南渡一海
 結局、両島風俗描写などは、高く評価するものの、「壱岐の三百里四方、対馬下島の四百里四方という数字は過大です」と速断していますが、それは、先に「方里」談義として述べたように原文の深意を理解できていないための速断」と理解いただきたいのです。
 塚田氏の折角の怜悧な論理も、前提部分に誤解があれば、全体として誤解とみざるを得ないのです。氏自身、「方里」の記法が正確に理解できていないと自認されている以上、そこから先に論義を進めるのを保留されることをお勧めする次第です。
 既に書いたように、陳寿は、当時の最高の知識人として、東夷伝で「方里」を書いたのであり、「道里」の「里」と異次元の単位を起用していると明記されているのですから、そのような理解が必要です。「異次元」とは、「方里」は、面積系の二次元単位であり、道「里」は、距離/尺度系の一次元単位なので、大小比較や算数計算できないという意味です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 8/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*對海國談義
 ついでに言うと、對海國「方里」談義で、南北に広がった島嶼の南部の「下島」だけを「方里」表現するのは、「對海國」の国力を表現する手段として「重ね重ね不合理」です。帯方郡が、皇帝に対する上申書でそのように表現する意義が、「一切」見られないのです。
 そうでなくても、山林ばかりで、農地として開発困難(不可能)な土地の広さを誇示して何になるのでしょうか。對海國」の国力は、課税可能な戸数で示されていて、本来、それだけで十分なのです。
 因みに、東夷伝で先行して記載されている高句麗の記事も、「山川峡谷や荒れ地が多く、国土の大半が耕作困難と知れている」高句麗を「方里」で表現する意図が、理解困難なのです。東夷傳に記載されているということは、東夷の国力評価に際して、「方里」に何らかの意義は認められていたのであり、恐らく、高句麗以南を管理していた公孫氏遼東郡の独特の管理手法が、東夷伝原資料に書き込まれていたものと見えます。
 といって、今さら、遼東郡の深意を知ることは困難です。後世人としては、「敬して遠ざける」のが無難な策と考えます。
 さらに言うと、郡から倭に至る主行程上の各国は、隔壁代わりの海に囲まれた「居城」であって、戸数で農地面積を示す標準的な「国邑」と表現されているので、想定しているような方里表現は、本来、無意味なのです。よろしく、御再考いただきたい。

*両島市糴談義
 「誤解」は、両島の南北市糴の解釈にも及んで、「九州や韓国に行き、商いして穀物を買い入れている」と断じますが、原文には、遠路出かけたとは書いていないのです。ほんのお隣まで出向いて「市場」で食料などを仕入れて帰還したと見るものでしょう。
 そのように「誤解」すると、一部史学者が、現地まで出向いて、わざわざ因縁を付けたように、食糧不足で貧しい島が、何を売って食糧を買うのかという詰問になり、島民を人身売買していたに違いないとの、とんでもない暴言に至るのです。おっしゃるとおりで、手ぶらで出向いて売るものがなければ、買いものはできないのです。

*当然の海港使用料経営
 素直に考えれば、両島は、南北に往来する市糴船の重要/不可欠な寄港地であり、当然、多額の入出港料が取得できるのであり、早い話が、遠方まで買い付けに行かなくても、各船に対して米俵を置いて行けと言えるのです。
 山林から材木を伐採/製材/造船して市糴船とし、南北市糴の便船とすれば、これも、多額の収入を得られることになります。入出港に、地元の案内人を必須とすれば、多数の雇用と多額の収入が確保できます。
 両島「海市」(うみいち)の上がりなど、たっぷり実入りはあるので、出かけなくても食糧は手に入るのです。
 むしろ、独占行路の独占海港ですから、結構な収益があったはずです。
 当時、狗邪韓国が、海港として発展したとは書かれていないので、自然な成り行きとして、狗耶海港には對海國の商館と倉庫があり、警備兵が常駐して、一種、治外法権を成していたと見えます。狗耶が倭の北岸と呼ばれた由縁と見えます。

*免税志願
 ただし、標準的な税率を適用されると戸数に比して、良田とされる標準的農地の不足は明らかであり、食糧難で苦しいと「泣き」が入っていますが、それは、郡の標準的な税率を全面的に免れる免税を狙ったものでしょう。魏使は商人ではないので、両島の申告をそのまま伝えているのです。また、漕ぎ船運行と見える海峡渡船で大量の米俵を送るなど、もともとできない話なので、對海、一大両国が欠乏しているのに、さらに南の諸国から取り立てるのは、金輪際無理という事です。
 まして、中原の「戸数」は、各戸の牛犂などの畜力耕作を前提にしていて、農地の割り当ては、「戸」内に、ある程度の成人耕作者、兄弟を想定しているので、各戸の耕作地面積が、それなりに宏大だったのですが、倭地には、牛馬が起用されていなかったので、中国基準で農地を割り当てることができなかったのです。つまり、例えば、一大国の戸数から計算される耕作地面積と収穫量は、中国基準の数分の一程度と推定されるのです。
 つまり、倭人伝に示されている戸数は、ほとんど意味のないものだったのです。
 特に、奴国と投馬国の万戸単位の戸数は、とんだ法螺話であり、それぞれ両国が申告したものでなく、最初に全国戸数七万戸と報告してしまったものを、傍国の不明な戸数に押し込めてしまったものと見えます。

 このあたり、文書行政が存在せず、全国に戸籍が整備されていない上に、各地の戸数を足し算計算する計算官僚もいないのですから、「万戸」台の戸数は、途方もない法螺話に過ぎないのです。
 因みに、後年の東国での戸籍簿を見ると、口分田は、戸籍上の成人男女に、猫の額のような土地を割り当てたものであって、それは、ほぼ人力耕作という実態から、むしろ、妥当なもののように見えるとされています。
 国内古代史料が、中国基準の戸数で無く、東夷基準の人口を採用しているのは、そのような工作実態の差異を踏まえたものであり、「倭人伝」が本来辻褄の合わない中国制度を、懸命に採り入れていたのとは、大きな違いがあります。

b、北九州の各国。奴国と金印
《原文…又渡一海千余里至末盧国有四千余戸……東南陸行五百里到伊都国……有千余戸 東南至奴国百里……有二万余戸東行至不弥国百里……有千余家

コメント:道里行程記事の締め
 ここまで、道里論と関わりの少ない議論が続いたので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 倭人伝は伊都国、邪馬壱国と、そこに至るまでに通過した国々を紹介した記録なのですと見事な洞察です。
 私見では、倭人伝」道里記事は、「魏使の実地行程そのものでなく」、魏使の派遣に先立って、行程概略と全体所要日数を皇帝に届けた「街道明細の公式日程と道里」と思いますが、その点を除けば、氏の理解には同意します。

 但し、氏自身も認めているように、ここには、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国が巻き込まれています。小論では、三国は官道行程外なので、道里を考慮する必要はないと割り切っていますが、氏は、「魏使が奈良盆地まで足を伸ばした」と、予め、特段の根拠無しに決め込んで考証を進めているので、三国、特に投馬国を通過経路外とできないので、割り切れていないようです。結論を先に決めておいて、そこに諸講座をつなぎ込むのは、「曲解」、「こじつけ」の端緒であり、まずは、原史料を、着実に解釈するところから出発すべきと思量します。この「決め込み」は、氏の考察の各所で、折角の明察に影を投げかけています。
 史料の外で形成した思い込みに合わせて、史料を読み替えるのは、資料改竄/捏造/曲解の始まりではないかと、危惧する次第です。
 このあたり、「倭人伝」の正確な解釈により、行程上の諸国と行程外の諸国/傍国を読み分ける着実な読解が先決問題と考えます。

 氏が、こじつけ、読替えなどを創出する無理な解決をしていない点は感服しますが、議論に収まらない奴国、不弥国、投馬国の三国は、倭人伝に於いて『「余傍の国」と「明記」されている』と理解するのが、順当としていただければ、随分、単純明快になるのです。

 「金印」論は、後世史書范曄「後漢書」に属し「圏外」として除外します。「倭人伝」道里行程記事に直接関連する論義では無いので、割愛するのですが、おかげで、史料考証の労力が大幅に削減できます。

*要件と添え物の区別
 氏自身も漏らしているように、「倭人伝」道里行程記事は、後世の魏使が通過した国々を紹介した記録が、当初提出された代表的な諸国行程を列記した記録に付け足されたと見るものではないでしょうか。
 氏は、投馬国への水行行程の考察に多大な労苦を払ったので「余傍」記録を棄てがたかったのかも知れませんが、肝心の「倭人伝」には、行程外の国は余傍であり、概略を収録するに留めた」と明記されている事を、冷静に受け止めるべきでしょう。五万戸の大国「投馬国」に至る長期の行程の詳細に触れず、現地風俗も書かれていないのに、勝手に、気を効かして記録の欠落を埋め立てるのは、「倭人伝」の深意を解明してから後のことにすべきと思うのです。そのため、当記事では、余傍の国に言及しません。
 とにかく、考慮事項が過大と感じたら、低優先度事項を一旦廃棄すべきです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 9/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

c、投馬国から邪馬壱国へ
《原文…南至投馬国水行二十日……可五萬余戸
 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月……可七万余戸

コメント:戸数談義
 「魏志」で戸数を言うのは、現地戸籍から集計した戸数が現地から報告されていることを示します。要するに、何れかの時点で、「倭人」が郡に対して服従の前提で、内情を吐露したと示していることになります。
 本来、一戸単位で集計すべきですが、東夷は戸籍未整備で概数申告ですから、千戸、万戸単位でも、ほとんど当てにならず、投馬国は「可」五万余戸であり、交通不便な遠隔余傍の国の戸数などは、責任持てないと明言しています。
 となると、「可七万余戸」の主旨が不審です。俗説では女王居所邪馬壹国の戸数と見ますが、「倭人伝」の用いた太古基準では「国邑」「王之治所」に七万戸はあり得ないのです。
 殷(商)・西周代、「国」は、数千戸止まりの隔壁聚落です。秦代には、広域単位として「邦」が使われたようですが、漢代の史書記事では、漢高祖劉邦に僻諱して、「邦」は根こそぎ「國」に書き換えられたので、二種の「國」が混在することになり、後世読者を悩ませたのです。「倭人伝」は、古来の「国」に「国邑」を当てたように見受けます。ともあれ、気を確かに持って「国」の意味を個別に吟味する必要があります。

*「数千」の追求
 因みに、「倭人伝」も従っている古典記法では、「数千」は、本来、五千,一万の粗い刻みで五千と千の間に位置する二千五百程度であり、千単位では、二、三千のどちらとも書けないので、「数千」と書いているものです。
 とかく「大雑把に過ぎる」と非難される倭人伝の数字ですが、『史官は、当時の「数字」の大まかさに応じた概数表記を工夫し、無用の誤解が生じないようにしている』のです。

*戸数「七万戸」の由来探し
 また、中国文明に帰属するものの首長居城の戸数が不確かとは不合理です。諸国のお手本として戸籍整備し一戸単位で集計すべきなのです。
 そうなっていないということは、倭人伝」に明記された可七万余戸は、可五万余戸の投馬国、二万余戸の奴国に、千戸単位、ないしはそれ以下のはしたの戸数を(全て)足した諸国総計と見るべきなのです。(万戸単位の概数計算で千戸単位の端数は、無意味なのです)

*「余戸」の追求~「俗説」への訣別/哀惜
 塚田氏が適確に理解されているように、「余戸」というのは、「約」とか「程度」の概数表現とみられます。先行論考は「餘」の解釈で大局を見誤っている例が山積していて、歎いていたところです。
 つまり、(投馬)五万余と(奴)二万余を足せば、「ピッタリ」七万余であり、その他諸国の千戸単位の戸数は、桁違いなので計算結果に影響しないのです。まして、戸数も出ていない余傍の国は、戸数に応じた徴税や徴兵の義務に対応/適応していないので、全国戸数には一切反映されないと決めているのです。
 俗説」では、「余」戸は、戸数の端数切り捨てとされていますが、それでは、「倭人伝」内の数字加算が端数累積で成り立たなくなるのです。そもそも、実数が把握できていないのに区分ができるというのは、不合理です。漠然たる中心値を推定していると見るべきです。
 また、帯方郡に必要なのは、総戸数であり、女王居所の戸数には、特段の関心がないのです。俗説の「総戸数不明」では、桁上がりの計算を読者に押しつけたことになり、記事の不備なのは明らかで、「倭人伝」が承認されたと言うことは、そのような解釈は単なる誤解という事です。
 七万余戸に対する誤解は、随分以前から定説化していますが、明白極まりない不合理が放置されているのは不審です。
 案ずるに、「七万戸の国は九州北部に存在できない」のが好ましい方々が、頑として、不退転の決意で、不合理な「俗説」にこだわる』からで、これは学術論でなく子供の口喧嘩のこすい手口のように見えます。つまらないこじつけに拘ると、大事な信用を無くすのです。
 さぞかし名残惜しいことでしょうが、早々に撤回した方が良いでしょう。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 10/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

d、北九州各国の放射式記述説批判
コメント:断てない議論
 氏は、投馬国に関して、通らない筋を通そうとするように、延々と論考を進められました。当方の議論で、本筋に無関係として取り捨てた部分なので、船を漕ぎかけていましたが、ここでしゃっきりしました。
 私見では、氏の読み違いは、まずは、投馬国からかどうかは別として、いずれかの中間点から邪馬壹国に至る最終行程を、端(はな)から「水行十日、陸行三十日(一月)」、即ち、「水陸四十日」行程と認めている点であり、そのような予断が、ここまで着実に進めていた考察が大きく逸脱する原因となっています。そして、そのような逸脱状態で、強引に異論を裁いているので、傾いているのは異論の論点か、ご自身の視点か、見分けが付かなくなっているようです。

 ご自身で言われているように、女王が交通の要所、行程の要と言うべき伊都国から「水陸四十日」の遠隔地に座っていて伊都国を統御できるはずがないのです。当時は、文字/文書がなく、報告連絡指示復唱には、ことごとく高官往復が必須であり、それでも意思疎通が続かないはずです。
 そのような「巨大な不合理」をよそごとにして、先賢諸兄姉が「倭人伝」解釈をねじ曲げるのは、痛々しいものがあります。要するに、通説が描き出している壮大な「広域古代国家」像は、三世紀の世界に金輪際存在できないのです。
 してみると、「広域国家」の権力闘争で血塗られた戦いが「長年」続く(「倭人伝」に全く存在しない)「大乱」も、全くあり得ないのです。

 それはそれとして、明解な解釈の第一段階として、水陸四十日」は郡からの総日程と見るべきです。そもそも、「倭人伝」に求められているのは、郡から発した文書に対して何日で倭から回答があるかという厳格な業務基準なので、それは、「倭人伝」に明記されていなければならないのです。
 かくして、「女王之所」は伊都国から指呼の間に在り、恐らく、伊都国王の居所と隣り合っていて、揃って外部隔壁に収まっていたと見るべきです。それなら、騎馬の文書使が往来しなくても、「国」は、討議できるのです。「諸国」は、月に一度集まれば良く、その場で言いたいことを言い合って裁きを仰げば良いのであり、戦って言い分を通す必要はないのです。どうしても、妥協が成立しないときは、女王の裁断を仰げば、「時の氏神」が降臨するのです。
 中国太古では、各「国邑」は、二重の隔壁に囲まれていて、内部の聚落には、国王/国主の近親親族が住まい、その郷(さと)に臣下や農地地主が住まっていて、本来は、外部隔壁内で、一つの「国家」が完結していたと見られるのです。
 要するに、「倭人伝」で、伊都国は、中国太古の「国邑」形態であり、千戸単位の戸数が相応しいのです。ここまで、對海、一大、末羅と行程上の国々は、いずれも、山島の「国邑」で、「大海」を外郭としていることが、山島に「国邑」を有していると形容されていたのですが、それは、伊都国にも女王国にも及んでいるのです。

 それに対して、余傍の国」は、国の形が不明で、「国邑」と呼ぶに及ばず、戸籍も土地台帳もなく、戸数が、度外れて大雑把になっていると見えるのです。丁寧に言うと、ここで論じているのは、陳寿の眞意であり、帯方郡の報告書原本を、中原人に理解しやすいように、内容を仕分けしていると見るものです。何しろ、全戸数「七万余戸」の前提と行程の主要国が一千戸単位の「國邑」とをすりあわせると、「余傍」で事情のわからない二国に「七万戸」を押しつけるしかなかったと見えるのです。
 と言うように話の筋が通るので、二千年後生の無教養な東夷の倭人末裔が「中国史書の文法」がどうだこうだという議論は、はなから的外れなのです。

*これもまた一解
 といっても、当方は、氏の見解を強引とかねじ曲げているとか、非難するつもりはありません。いずれも一解で、どちらが筋が通るかというだけです。それにしても、氏ほど冷徹な方が、この下りで、なぜ言葉を荒げるのか不可解です。
 氏は、突如論鋒を転換して、「伊都国以降は諸国を放射状に記したので、記述順序のわずかな違いからそれを悟ってくれ。」と作者が望んだところで、読者にそのような微妙な心中まで読み取れるはずはないでしょう。と述べられたのは、誠に意図不明です。陳寿は、延々と「倭人伝」論議を繰り返している二千年後生の無教養な東夷を対象に書いたわけではないのです。

 作者ならぬ編者である陳寿は、あまたかどうかは別として、有意義な資料を幅広く採り入れつつ、取捨選択できるものは取捨して編纂することにより「倭人伝」に求められる筋を明示したのであり、文法や用語の揺らぎではなく文脈を解する「読者」、つまり、同時代知識人に深意を伝えたものなのです。この程度の謎かけは皇帝を始めとする同時代知識人「読者」には「片手業」であり、そのような特別な「読者」に分かるか分からないか、二千年後生の無教養な東夷が心配することでは無いと思うのです。

 因みに、私見ですが、「倭人伝」道里記事の解釈で、一字の違いは「読者」に重大な意義を伝えているのであり、「わずかな違い」と断罪するのは、二千年後生の無教養な東夷の思い上がりというものです。
 陳寿は、何かの片手間に「倭人伝」を書き飛ばしたのではなく、精魂を傾けて多大な年月、日時を費やして推敲を繰り返したのであり、それこそ、安易な決めつけで否定できるものではないと思うのです。これに対して、どうしても、不可避不愉快な結論を受け入れられない二千年後生の無教養な東夷が窮地に陥って、陳寿の人格攻撃まで繰り出している醜態が見えるのです。

*先入観が災いした速断
 『放射式記述説は、常識的には有り得ない書き方を想定して論を展開しているわけで、記録を残した人々の知性をどう考えているのでしょうか。文献の語る所に従い、歩いて行くべきなのに、先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢は強く非難されねばなりません。』というのも、冷徹な塚田氏に似合わない無茶振り、強弁であり、同意することはできません。
 「常識的にあり得ない」とは、どこの誰の常識でしょうか。「記録を残した人の知性」とは、その人を蔑んでいるのでしょうか。二千年後生の無教養な東夷と当記事で揶揄されている遥か後世人が、そのような深謀遠慮を察することは「不可能」ではないでしょうか。
 多くの研究者は、「文献の語る所」を理解できないから、素人考えの泥沼に陥って、混乱しているのではないでしょうか。
 そして、氏は、どのような具体的な根拠で、放射式記述説のどの部分を、どのように否定しているのでしょうか。誠に、不穏当で、氏ほどの潤沢な見識、識見にふさわしくない悪罵のような断定です。

 当ブログでは、論者の断定口調が険しいのは、論者が、論理に窮して悲鳴を上げている現れだ」としていますが、氏が、そのような「最後の隠れ家」に逃げ込んでいるのでなければ、幸いです。

 何度目かの言い直しですが、当時の「読者」は、『文字のない、牛馬のない「未開」の国で、途方も無い遠隔地の「女王国」から「伊都国」を統制することなどできない』と明察するはずであり、「倭人伝」の主題は、「伊都国のすぐ南に女王国がある」という合理的な「倭人」の姿と納得したから、「倭人伝」はこの形で承認された』と解すべきなのです。
 「古代国家」(古代史論の場では、かなり不穏当/不都合な用語ですがご容赦ください)運営には、緊密な連携が存在すべきであり、存在しないと連携そのものが、そもそも成立しないし、維持できないので、「伊都国」と「女王国」の間に、『「水行二十日」などと「倭人伝」独特の「渡船、即ち水行」との表示すら踏み外して、所要日数が不明瞭/長大で、行程明細の不明な道中が介在する』などは、端からあり得ないとみるべきなのです。
 当ブログの主張が有ろうと無かろうと、曹魏明帝の遺詔に従い雒陽から大量の下賜物を発送する際には、目的地までの所要日数が確認されていることが不可欠であり、行程各地への到着に要する日数が全て確認されていたと見るものでしょう。伊都国までの到着に要する日数が四十日という報告が要点であり、正体不明の投馬国に至る行程が不明確なのは、「行程は同国を通過しない」と重ねて明記されていると解すべきでしょう。

 「倭人伝」冒頭で語られているように、以下、行程記事に語られる主要国は、太古、中原諸国の萌芽状態であった「国邑」と同様の姿であり、精々、千戸台の「国」であって、但し、倭人の場合は、孤島には周囲に「都城」を設けていないとされています。あるいは、伊都国は、周囲に、都城ないしは隔壁を持っていて、「女王国」は、伊都国の保護下にあったとも見えます。
 因みに、伊都国以降に書かれている奴国、投馬国は、数万戸を擁する巨大な「国」であり、明らかに「国邑」定義を外れていると思われますが、倭人伝道里記事の要点ではないので、投馬国行程の明細不詳とともに、深入りしていないものと見えます。

 それらは、反論しようのない強力無比な状況証拠であり、感情的な反証では、確固たる「状況証拠」は、一切覆せないのです。

 一度、冷水を含んでから、ゆるりと飲み干し、脳内の温度を下げて、穏やかな気分で考え直していただきたいものです。

                                未完

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*自縄自縛
 「先に出した結論の都合に合わせ、強引に解釈をねじ曲げる姿勢」とは、お言葉をそっくりお返ししたいものです。誰でも、どんな権威者でも、自分の思い込みに合うように解釈を撓(たわ)めるものであり、それに気づくことができるのは、自身の鏡像を冷静に見る知性の持ち主だけです。
 「放射行程説の自己流解釈の破綻」について、氏の自己診断をお聞かせいただきたいものです。論争では、接近戦で敵を攻撃しているつもりで、自身の鏡像を攻撃している例が、ままあるのです。所謂「おつり」が帰って来る状態なのです。

 素人目には、「倭人伝」記事は、正始魏使の実行程報告と「早計で見立てた」(勘違いした)上で、「正始魏使は投馬国経由」との根拠の無い「決め込み」が、明察の破綻の原因と見えます。大抵の誤謬は、ご当人の勝手な思い込みから生じるものなのです。
 いや、それ以前に、「倭人伝」道里記事は、下賜物を抱えた正始魏使の現地報告とみる定説/通説の「先入観」が災いしているのですが、多分お耳には入っていないでしょうから、ぼやいておくことにします。
 当時、多数の教養人が閲読したのに、東夷の国の根幹の内部地理である伊都国-投馬国-女王国の三角関係が、「洛陽人にとって明らかに到達不能に近い遠隔三地点であって、非常識で実現不能と見えるように書いている」わけはないのです。
 すべて、この良識に基づく『結論』を踏まえて、必要であれば、堂々と乗り越えていただく必要があるのです。それは、「良識」に基づく推定を覆す論者の重大極まる使命です。

*報告者交代説の意義
 因みに、氏は、これに先立って、伊都国から先の書き方が変わっているのに気づいて、「伊都国を境に報告者が交代しています。」と断言していますが、それしか、合理的な説明が思いつかないというのなら、結局、「思い込み」というものです。
 単純な推定は、伊都国~奴国以降は、細かく書いていないという「倭人伝」道里記事の古来の解釈であり、直線的な解釈は、是非ともご一考の余地があると思います。確かに、そのような論義は、正始魏使が女王国に至っていない」との軽薄な論義に繋がっていて、とかく軽視されますが、要は、奴国から投馬国までの国には行っていないように読める(読めないことは無いとは言いきれない)」というのに過ぎないのです。

 当ブログの見解では、倭人伝」道里記事は、正始魏使派遣以前に皇帝に報告されたものであり、正始魏使が行ったとか行っていないとかは、記事に反映されていないと明快に仕分けしているので、残るのは、簡単な推定だけです。
 ちなみに、当ブログ記事筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、郡から倭に至る「公式道里」を書いたものであり、正始魏使発進の際の前提情報であって、正始魏使の帰朝報告は、道里行程行程記事に反映していないものと見ます。何しろ、大量の下賜物を抱えている正始魏使が、下賜物を抱えて、内陸の帯方郡郡治に参上し、謹んで、下賜物送達の任務を、帯方郡の官人に引き継いだと言うことが、書かれていないこと自体、解釈上不都合と見えるのですが、それは、滅多に言及されないのです。つまり、ここまで正始魏使と称していたのは、実は、正始郡使と見えるのです。
 あえて言うなら、伊都国起点で書かれている、奴国、不彌國、投馬国の行程は、後日の「付け足し」とみても良いようと思われます。公式道里の明細で、諸国「条」は、要件を備えているのに、これら三国の「条」は、要件を欠いて、略載にとどまって許されているのは、要するに、行程道里外なので、重要視されていなかったためと思われます。
 と言うことで、本項の趣旨では、伊都国から先の記事は、後日追記された「余傍」なので、書法が異なっていると見るもので、あるいは、郡は伊都国を対等の立場の全権大使として交信、往来していたと見えるのです。

 以上は、「倭人伝」から読み取れる真意の一案であり、氏に強要するものでは有りませんが、ご一考いただければ幸甚と感じるものです。

*道里行程の最終到着地
 「倭人伝」道里記事を精査すると、對海國以降の倭人諸国記事で、伊都国は「到る」と到達を明記されているのに対して、以下の諸国は「至る」として、到達明記を避けているので、伊都国が、道里行程記事の最終目的地という見解です。
 要するに、「倭人伝」記事には伊都国は、郡の送達文書の受領者であり、郡使が滞在する公館の所在地と明記されている」ので、郡太守の交信相手、つまり、現代風に言う「カウンターパート」は伊都国王と言うことが、陳寿によって明記されていると見るものです。
  これを、氏がなぜか忌避する「放射行程説」なる論義と対比すると、実は、伊都国と女王居所の間は至近距離であったので、行程道里を書き入れていないという「伊都・女王」至近関係説になるのです。一つの隔壁の中に、二つの「国邑」隔壁が同居していた可能性もあります。ただし、厳密に言うと、伊都国以降は「行程外」なので「放射行程」説の否定は意味を成さないのです。いや、榎一雄師の所説の根拠は、当時、伊都国が地域の政治・経済中心であったというものであり、本説は、むしろ其の延長線上にあるものと考えます。
 この議論は、投馬国を必要としないので、恐らく、氏のお気に召さないとしても、ここで挙げた仮説は、基本的に氏のご意見に沿うものと考えます。

 なお、前記したように、倭人伝」道里記事は、正始魏使発進に先だって書かれているので、魏使/郡使の実際の道中を語るものではないのですから、魏使/郡使が卑弥呼の居処に参上したかどうかは、この記事だけでは不明です。

*「時の氏神」
 私見では、「倭人」は、もともと、氏神、つまり、祖先神を共有する集団であり、次第に住居が広がったため、国邑が散在し分社していったものと見ています。本来、各国間の諍いは、國王の意を承けた総氏神が仲裁するものであり、それが成立しなくなったとき、「物欲」を持たない女王の裁きが起用されたものと見るのです。もちろん、女王の「出張」には限界があるので、女王の宿る「神輿」を送り出したり、所定の巡回地を「御旅所」として、女王がお出ましになって、当該地域の仲裁事を受けたのかも知れません。倭人伝の断片的な記事を想像力で膨らますとしても、この程度にしたいものです。
 一度、年代もので、正解につながらないと立証されて久しい「思い込み」を脇にどけて、一から考え直すことをお勧めします。

e、その他の国々と狗奴国
原文…自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
 次有斯馬国……次有奴国 此女王境界所盡

コメント 余傍の国
 国名列記の21カ国は、当然、帯方郡に申告したもの、つまり、倭人の名乗りです。中国人に聞き取りができたかというのは別に置くとしても、三世紀の現地人の発音は、ほぼ一切後世に継承されていないので、今日、名残を探るのは至難の業です。(不可能という意味です)
 当時の漢字の発音は、ほぼ一字一音で体系化していて「説文解字」なる発音字書に随えば、精密な推定が可能ですが、蛮夷の発音を、固定された発音の漢字で正確に書き取るのは、ほぼ不可能であり、あくまで、大雑把な聞き取りと意訳の併用がせいぜいと見えます。
 「九州北部説」によれば、後世国内史料とは、地域差も甚だしいと見えるので、「十分割り引いて解釈する必要」があると考えます。(割り引きすぎて、「タダ」になることもあり得ます)
 そのように、塚田氏も承知の限定を付けるのも、最近の例として、古代語分野の権威者が深い史料解釈の末に、倭人伝時代の「倭人語」に対して「定則」を提唱されたものの『時間的、地理的な隔絶があるので、かなり不確定な要因を遺している「仮説」である』と提唱内容の限界を明言されているのですが、そのような配慮にも拘わらず、「定則」の仮説』を「定説」と速断して、自説の補強に導入した論者が多々みられるので、念には念を入れているものです。
 現代人同士で、文意誤解が出回っている』というのも、誠に困ったものですが、更なる拡大を防ぐためには、余計な釘を打たざるを得ないと感じた次第です。塚田氏にご不快の念を与えたとしたら、申し訳なく思います。

*言葉の壁、文化の壁~余談
 「至難」や「困難」は、伝統的な日本語文では、「事実上不可能」に近い意味です。塚田氏は、十分承知されているのですが、読者には通じていない可能性があるので、本論では、またもや念のため言い足します。ちなみに英語のdifficultは「為せば成る」チャレンジ対象と解される可能性があり、英日飜訳には、要注意です。

*カタカナ語~余談
 いや、事のついでに言うと、近来、英単語の例外的な用法が、「気のきいた」カタカナ語として侵入し、大きな誤解を誘っているのも、国際的な誤解の例として指摘しておきます。
 ほんの一例ですが、「サプライズ」は、本来、「不快な驚き」とみられるのであり、現代日本語の「ドッキリ」に近いブラック表現です。
 「うれしい」驚きは、誤解されないようにわざわざ言葉を足して「プレゼントサプライズ」(うれしいサプライズ)とするのですが、無教養な「現地人」の発言に飛びついて誤解を広めているのは、嘆かわしいものです。
 少なくとも、世間のかなりの人に強い不快感を与える表現を無神経に触れ回る風潮は、情けないと感じている次第です。
 まあ、「Baby Sitter」を「ベビーシッター(Baby Shitter 赤ちゃんうんち屋?)」とするのも、かなり顰蹙ものなのに、そこから無理に約めて「シッター」(Shitter) うんち屋さん」と人前で口にできない尾籠な言葉に曲げてしまうのよりは、まだましかも知れませんが、今や、「シッター」が一人歩きして、世間のかなりの人に、強い不快感を与える表現を無神経に触れまわっているのを目にすると、「現代語」に染まりたくないと切望する次第です。単に「子守り」さん(Nannie)といえば良いのであり、古風な英語になれている方は「乳母」の意味が先に浮かんで、嫌われたのでしょうが、現代米国では、共稼ぎの家庭で子守りする役回りの若い女性(しばしば不法滞在移民)がそのように呼ばれている例が多いのです。
 他にも、同様の誤用は、多々ありますが、キリがないので以上に留めます。
                                未完

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
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*更なる余傍の国
 なお、里程記事などで言う女王国以というのは、道里記事の主行程諸国のことであり、南北に並んでいると明記されていて、奴国、不弥国、投馬国という後付けの余傍の国を除き、對海國、一大国、末羅国、伊都国の諸国に限定されている」直前提示の行程は一路南下なので逆順を正すと「伊都国、末羅国、一大国、對海國」 を示していることが自明です。自明事項は、明記されていなくても、誤解の余地なく示唆されていれば、明記と等しいのです。

 ということで、奴国、不弥国、投馬国に加えて、一連の名前だけ出て来るその他の諸国は、「倭人伝」の体裁を整える添え物なのです。各国名は、帯方郡に参上したときの名乗りでしょう。その証拠に、行程も道里も戸数も国情も、一切書かれていません。また、当然なので書いていませんが、「国」のまとめ役、「国主」はいても、「国王」はいないのです。「国王」が伝統、継承されないということは、「国」として固く約束しても、個人との約束であり、世代を超えて長続きしはないのであり、帯方郡から見ると水面に浮かぶ泡沫(うたかた)ということになります。
 「倭人伝」では、「王」の伝統が不確かな状態を「乱」と形容していますが、どの程度深刻な状態なのかは不明です。「倭人伝」では、「王」の権威が揺らぐ事態の深刻さを、中原基準で誇張気味に示していますが、「女王」が臣下に臨見することが希』では、大した権威は発揚できず、そのような「王位」が戦乱で争奪されるとは見えないのです。
 倭人は、恐らく、渡来定住以来分家を重ねたとは言え、長年にわたる親戚づきあい、氏子づきあい、縁結びであり、季節の挨拶や婚姻で繋がっていて、内輪もめはあっても小さいなりに纏まっていたものと見えます。なにしろ、商業が未発達では、互いに争い、奪い合うものは、大してなかったと見えるのです。
 因みに、後ほど、女王は狗奴国王と不和と書かれていますが、推測すると、親戚づきあいしていて、遂に、互いの位置付けに合意できなかった程度とみられます。本来「時の氏神」が仲裁するべき内輪もめなのですが、狗奴国王と氏神たる女王の不和は、仲裁できる上位の権威がないので、それこそ、席次の争いが解決できなかったことになります。

 念には念を入れると、魏朝公式文書、つまり、皇帝に上申する公文書資料に必要なのは、郡から女王国に至る行程諸国であり、他は余傍でいいのです。

《原文…其南有狗奴国 …… 不属女王

*「狗奴条」の起源
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写、隣り合ったのに近い南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

*衍文対応
《原文…自郡至女王国 萬二千余里
 この文は、狗奴条の趣旨に適合しないので、本来、前文に先だって、道里行程記事を総括していたものと見えます。按ずるに、小国列記の末尾に狗奴国を紹介したものと見たようですが、狗奴国は、女王国に「不属」なので、「狗奴条」を起こすものです。

*狗奴条の展開
 以上に述べた理由により、この部分の南方亜熱帯めいた記事は、九州中南部の狗奴国の描写と見直します。報告者は、後年の張政一行と思われます。従来の解釈になれた方は、一度席を立って、顔を洗って、座り直して、ゆっくり読みなおすことをお勧めします。くれぐれも、画面に異物を投げつけないように、ご自制下さい。

2、倭人の風俗、文化に関する考察
a、陳寿が倭を越の東に置いたわけ
《原文…男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫
《原文…夏后少康之子封於会稽……沈没捕魚蛤文身亦以厭……尊卑有差

コメント:更なる小論
 叮嚀に進めるとして、甲骨文字は「発見」されたのではなく、商(殷)代に「発明」されたのです。なお、甲骨文字遺物の大量出現以前、「文字」が一切用いられていなかったとは、断定できません。
 甲骨文字のような、厖大で複雑な形状の文字体系が採用されるまでには、長期の試行期間があったはずであり、その間、公文書の一部に使用されていたと思われるのですが、後世に残された商代遺物は、ほぼ亀卜片のみであり、それ以外は、臆測にとどまるのです。
 因みに、初期の「漢字」は、商后が命じた亀卜によって得られた甲骨の亀裂から、得られた「神意」を読み解き、「字書」を蓄積したことから、長年を歴て形成されたものであり、人の保有する「文字」を神意に押しつけたものとは言えないのです。後代、「漢字」の形成に幾つかの法則が見出され、「説文解字」が集大成され、それが、今日常用される正字「書体」にまで反映しているとされていますが、「説文解字」編纂時に知られていなかった甲骨文字遺物の発見と解析により、「漢字」創生期の多大な労苦が、始めて解明されたと見えるのです。

 因みに、「夏后」は後代で言う「夏王」です。夏朝では「王」を「后」と呼んでいたのです。商(殷)は、夏を天命に背いたものと見たので、「王」を発明したと見えます。以後、「后」は、「王」の配偶者となっています。当時の教養人の常識であり常識に解説はないのです。
 ついでながら、「倭人伝」に示されているのは、倭人」の境地は、禹が会稽した「会稽山」、つまり、「東治之山」の遥か東の方と言うだけであり、「越」云々は、見当違いです。

                                未完

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塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
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 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*沈没論義
 古代中国語で、「沈没」は、せいぜい、腰から上まで水に浸かるのを言うのであり、水中に潜ることではないのです。因みに、中国士人は汗や泥に汚れるを屈辱としていたので、川を渡るのも裾を絡げる程度が限度で、半身を水に浸す「泳」や「沈」「没」の恥辱は、断じて行わないのです。当時の中原士人は、大半が「金槌」で「泳」も「沈」 も、自死です。深みにはまらなくても、転ぶだけで「致命的」です。
 逆に言うと、当時の貴人、士人が、「泳」「沈」「没」するのは、自身の身分を棄てて、庶人、ないしはそれ以下に身を落とすことを言うのです。沓を濡らすのすら、問題外だったでしょう。
 因みに、当時の韓国は、概して、冬季の気温が低いので、夏季以外の「沈没」は、低体温症で死ぬものだったでしょう。

《原文…計其道里 當在会稽東治之東

*道里再確認~「道」無き世界 2023/01/18
 「其道里」は、記事の流れから、『郡から狗邪韓国まで「七千里」としたときの「万二千里」の道のり』という事であり、中国側の「万二千里」ではないことは承知です。むしろ、会稽の地が、洛陽から万二千里であるなどとは、全く思ってもいないのです。まして、魏、西晋代は、雒陽から東呉の領分であった東冶県までの陸上道里は、知られていなかったので、だれが考えても、対比することなどできないのです。とんだ、誤解の例でしょう。

 因みに、後世、劉宋正史である「宋書」州郡志によれば、東冶県が収容された建安郡は「去京都水三千四十,並無陸」、つまり、時の京都、建康までの官道といっても、「陸」、つまり「陸道」は通じていなくて、「水」、つまり「水道」で三千四十里となっています。会稽郡治から東冶県に至る整備された陸上経路は存在しなかったとみるべきです。
 念のため言い添えると、陸上経路と認められる「街道」は、騎馬の文書使が疾駆でき、四頭立て馬車が往来できる整備された官道であり、所定の間隔で、関所、宿場があり、宿泊、食料と水に加えて、替え馬の提供まで用意されていることを言うのです。そのような街道整備ができていれば、宿場間の文書通信が確保され、帝国のいわば文書行政を支える動脈となるのです。
 案ずるに、京都建康と建安郡の間には、崖面に桟道が設けられていた区間が存在したものの街道として整備されていなかったものと見えますが、人出で細々とつなぐ部分があれば、全体として「陸道」と認められず、従って、道里が定義できなかったと見えます。
 ちなみに、南朝時代以前の東呉時代、並行陸路が貫通していなくても、河川交通は活発であり、「水三千四十 (里) 」は、公式道里として認められていたことを示しています。

 三国志「呉志」に「地理志」ないし「郡国志」があれば、そのように書かれたものと推定されますが、当時、曹魏の支配下になかった建安郡に関する魏朝公文書が無い以上、「魏志」に建安「郡国志」は書けないし、当然「呉志」にも書けなかったのです。晋書「地理志」に、なぜ書かれていないのかは、唐代編纂者の意向に関わるので意味不明です。

 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、九州北部伊都国までの行程諸国ではなく、南方の狗奴国に関する記事と言うことなので、先ほどの道里論の「万二千里」は適用されず、「俗説」は「三国志」全体を探っても書かれていない架空の道里に基づいていることになります。
 「倭人伝」に還ると、「(周知の)会稽東治之山から見て、狗奴国は漠然と東の方向」になるらしいというに過ぎないことになります。道里を明記されている伊都国については、言及していないことになりますが、当然、漠然と東の方となるものと思われます。

*不可視宣言~存在しなかった呉書東夷伝~余談
 大体、魏の史官にしたら、東呉の領域内である会稽郡東冶県の具体的な所在は皆目不明であり、一方、位置不明の南方の史蹟「会稽東治之山」から見た「倭人」なる僻遠の東夷の王之所在など、わかるはずもなく、知る必要もないと言われかねないのです。いや、だれが何をしても、到底東呉との関係は見えないのに、なぜ、臆測を言い立てるのか、と言う事でもあります。
 古来、そのような南方に土地が延びていれば、東呉領は、ほんの対岸だから、狗奴国ないしは書かれていない周辺の南方異国が連盟しようとした/実際に連盟したという「夢想譚」がもて囃されることがありますが、「三国志」は、東呉が降伏の際に献上した「呉書」が、ほぼそのまま「呉志」となっているように、東呉が狗奴国と連携していれば「呉書」に書かれていて、臆測など必要がなかったのです。
 因みに、「呉書」に、南蛮伝、西域伝、東夷伝がなかったのは、ほぼ間違いなく、「俗説」は臆測を担ぎすぎていると見えます。いや、そのようなことは、二千年前から、周知なのですが、『倭人伝」道里記事が、間違いだらけだ』と言うためだけに、担ぎ出されているようです。

コメント:倭地温暖
 再確認すると、魏使の実態は、帯方官人であり、大陸性の寒さを体感したかどうか不明です。また、雒陽は、寒冷地とは言えないはずです。もちろん、床下で薪を焚いて、家屋を温める暖房が必要な帯方郡管内、特に、小白山地付近の冬の寒さは格別でしょう。因みに、奈良県奈良盆地南部、吉野方面の寒さもかなり厳しいので、気軽に肌脱ぎ/水遊びなどできないのです。

*夜間航海談義
 何が言いたいのか不明の千二百年後のフロイス書簡ですが、いずれにしろ、当該時代には、羅針盤と六分儀、そして、即席の海図を頼りの外洋航海で、夜間航行も不可能ではなかったでしょうが、太古の「日本人」は、命が惜しいので、明るいうちに寄港地に入り、夜間航行などと無謀なことはしないのです。いずれが現地事情に適しているかは、視点次第です。
 因みに、三世紀時点、磁石は全くなく、当然、船の針路を探る高度な羅針盤もありません。また、三世紀の半島以南には、まともな帆船もなかったのです。何しろ、当時の現地事情では、帆布、帆綱などに不可欠な強靱な麻が採れないのです。また、木造船を造りたくても、鋭利な鋼(はがね)のノコギリもカンナもないのでは、軽量で強靱な船体は造れず、夢想されているような帆船の横行は、無理至極の画餅です。少なくとも、現地では、数世紀、時間を先走っているのです。

*貴人と宝物輸送隊の野宿
 ついでながら、魏使は高位の士人なので、軍兵と異なり「野宿」とか軍人並の「キャンプ」「野営」などしないのです。それとも、魏使といえども、一介の蕃客扱いだったのでしょうか。氏の想像力には敬服しますが、文明国のありかたを勘違いしてないでしょうか。貴重な宝物を託送された魏使の処遇とは思えないのです。まして、国家の郵亭制度が、無防備の「野宿」に依存するはずがないのです。
 因みに、当時の中国に外交は無いので「外交官」は存在しません。魏使一行は、軍官と護衛役の兵士、合わせて五十人程度と文官ならぬ書記役です。つまり、魏使一行が、延々と、果てしない野道を長駆移動することなど、到底あり得ないのです。
 当然、宿舎を備えた街道で、日の高い内にとうじつのやどに入り、食事を済ませて、早々に床に就いたはずです。貴人が、強行日程で疾駆することなどないのです。

コメント:方位論の迷走
 この部分は漫談調で失笑連発です。氏の読み筋では、魏使は、大量の宝物を担いできているので、「小数の魏使」だけに絞れるはずがないのです。何かの勘違いでしょうか。道里記事は、言わば、文書使の必達日程ですから、
 因みに、中国の史料で「実測万里」は登場しません。氏は、しばしば、中国文化を侮っていますが、魏使には書記官がいて、日々の日誌を付けていたし、現地方位の確認は一日あればできるので間違うことはないのです。もちろん、帯方郡からの指示で、現地方位は、日々的確に知らされたものと思われます。大勢の論客諸兄姉が、中国文化を侮っていますが、遅くとも周代には、天文観測が定着していて、日食予測もできていたので、手ぶらでできる東西南北を誤ることなどないのです。

コメント:誤解の創作と連鎖~余談
 引き続き、とんだ茶番です。魏使は、現地に足を踏み入れておきながら、「帯方郡から遥かに遠い、そして、暑い南の国だと思い込んだ」とは、不思議な感慨です。想定した遠路が謬りという事でしょうか。氏は、魏使一行が、大量の荷物を抱えていたことを失念されたようです。
 そもそも、雒陽出発時には、主たる経由地の到着予定は知らされていたのであり、それだから、大量の下賜物を届けるという任務が成立したのです。行き当たりばったりでできる任務ではないのです。
 なお、半島南部と九州北部で気温は若干違うでしょうが、だからといって、九州が暑熱というものではありません。単に「倭地温暖」というに過ぎません。この点は、次ページの新規追加コメントで詳解します。
 以下、「会稽東治」の茶番が続きますが、年代物の妄説なので、「ここでは」深入りしないことにします。

*吉野寒冷談義~余談
 因みに、奈良盆地南端の吉野方面は、むしろ、河内平野南部の丘陵地帯と比べて低温の「中和」、奈良盆地中部と比して、さらに一段と寒冷であり、冬季は、降雪、凍結に見舞われます。

 塚田氏は、奈良県人なので、釈迦に説法でしょうが、世上、吉野方面は地図上で南にあるので温暖だと見て後世、吉野に離宮を設け、加えて、冬の最中に平城京から吉野の高地に大挙行幸したと信じている方がいて、唖然としたことがあるので、一般読者のために付記した次第です。率直な所、いくら至尊の身とは言え、吉野の山中で、食糧、燃料の調達が可能とは思えず、耐寒装備も乏しかったはずなので、雪中行幸の随員一行に、かなりの凍死者や餓死者が出ても不思議はないのです。纏向や飛鳥に詳しい諸兄姉が、そうした凍死行記事にダメ出ししなかったのが不思議です。
 毎日新聞の高名な編集委員が、そのような不出来な思いつきで紙面を飾ったのは、無鑑査、無診査で、書いたまま掲載されるという途方もない特権に奢っていたのですが、大変なことですが、現にあったことなので、「前車の覆るは後車の戒め」として、何事も、思い込みにこだわらず、十分な「ダメ出し」をお勧めするのです。この下りは、纏向付近の記事として、誠に、誠に見当違いなのです。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 14/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

コメント:無意味に「ごみ」資料斟酌
 氏は、味不明「固定観念」で想像を巡らしていますが同感できません。
 顕著な例として、原史料に明記されている「東治」を「東冶」に改竄するのは、文献考証として不用意で論外です。まして、原文記事を改竄して「思い込み」に沿えさすのは、百撓不折とは言え、重ねて論外です。
 この部分の地理考証は、素人目には、無意味な茶番です。

コメント:地理感覚迷走
 氏は、随分誤解していますが、当時の「中国」は現代のベトナムまで伸びていたので、「中国東南海岸部」は、会稽郡の南部を遙かに超えています。また、会稽郡東冶県を含む南部は、早々に分郡して会稽郡から分離しましたから、当時の会稽は、古来の会稽そのものと見えます
 いや、そんな細かいことに立ち入る必要は、まるでないのです。どのみち、「魏志倭人伝」論で、に曹魏の管轄外の東呉領域であった「会稽郡東冶県」がどうのこうのというのは、全くの的外れですから、陳寿が、「魏志倭人伝」に採用するはずがないのです。確かに、陳寿「三国志」「呉志」には、会稽郡の郡県制移動の経緯が記録されていますが、逆に言うと、当時、そのような異同は、曹魏に一切報告がなかったと言う事です。
 古田武彦氏は、陳寿が「呉志」記事から会稽郡の異同を把握していたから、建安郡分郡以降、「会稽東冶」と言う事はなかったとしていますが、「魏志倭人伝」編纂の際に、東呉降服の際に西晋皇帝に献呈された「呉志」(呉書)を参照することは、到底あり得ないので、「倭人伝」の道里記事で、「会稽東冶」と言う事は、無法だと言うだけです。これもまた、古田武彦氏の勘違い/瑕瑾と言うべきですが、氏の議論の本筋を誤りと言うようなものではないのは、言うまでもありません。
 なお、「会稽」は、郡領域全体を指すものではなく、郡治を言うものです。古代中国の常識を無視してはなりません。

 ついでながら、当記事では、伊都国以降の「余傍の国」は、除外していますので、議論する必要はないのです。

*「食卓」の振る舞い
 当時の中国では、食卓はあったものの、まだ、手づかみが多かったと思うので、別に、手づかみを野蛮と言っているのではないのです。むしろ、籩豆は、中国古代の礼にかなっているもののようです。「文化」は、中国の礼にしたがっていることを言うので、無文の国は圏外です。

コメント:『邪馬壹国を九州に置く』

 曲がりくねった言い回しで、氏は、何を言ったのでしょうか。
 参照している「混一彊理図」は文化財として美術的な意義はあっても、この場では「史料価値のないバチもの」であり、まして、遙か後世の産物なので、「倭人伝」考証に無用の「ごみ」(ジャンク)であり、さっさと却下すべきです。とうに博物館入りの「レジェンド」(骨董品)と思うのですが、なぜ、場違いの実戦に担ぎ出されるのか、気の毒に思います。

*風評混入
 ついでに評された後世の流着異国人が、どのような地理認識をしていたか、地名認識の検証も何もされていないので、風評以下の確かさすら怪しいのです。また、南方と見える「出羽」が、実際はどこにあったのか、全く不明です
 氏は「史料批判」「証人審査」を一切せず、持ち込まれた風評を、提供者の言いなりに、いいように受け取っているのでしょうか。食品見本の偽物食品にかぶりつくような蛮勇は、真似したくてもできません。まことに、まことに、不審です。

                                未完

新・私の本棚 サイト記事 塚田 敬章 「魏志倭人伝から見える日本」四訂 15/16

塚田敬章 古代史レポート 弥生の興亡 1,第二章、魏志倭人伝の解読、分析
私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*狗奴条の起源(再掲/重複)
 水野祐氏の大著「評釈 魏志倭人伝」の提言によれば、この部分は、南方の狗奴国に関する記事の起源であり、九州北部に不似合いな亜熱帯風の風土、風俗描写南方と見える狗奴国に関する記事と納得できるので、当ブログでは、水野氏の提言に従います。

b、倭人の南方的風俗とその文化~狗奴国査察記録
原文…其風俗不淫……貫頭衣之種禾稲紵麻……
 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾……
 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

 再確認したように、この部分は、正始魏使の報告のさらに後年、恐らく、多数の軍兵(数百名か)を伴ったと見える張政の長期とも見える派遣、滞倭時の「狗奴国」査察記録/報告書の収録と見えます。
 その地を、「会稽東治」、つまり、高名な史蹟である会稽山に例えた後、亜熱帯とも見える南方的「民俗」を「儋耳朱崖」、つまり、遙か南方の海南島と近郊の狗奴国を比較したところで、狗奴条は完結したと見えます。
 もちろん、狗奴国に「文字」はないので、「文化」は、見当違い、失当です。ご注意下さい。また、「風俗」と言いながら、現地の法制、刑罰など「風」に関する記事が貧弱なのも気がかりです。塚田氏にしては、中国語の教養不足が気になります。

*郡による「和解」~当然至極な帰着
 言うまでもないでしょうが、狗奴国は、帯方郡の指導に反して、女王への反抗を続けたとは見えないので、両勢力は「和解」したものと見えます。現地勢力の抗争が現地勢力によって和解できないときは、上位に当たる郡が、権力を振るって「和解」させるのであり、それが、郡の東夷管理の主務なのです。

*「倭地条」~「温暖」境地の紹介
《原文 倭地温暖……穿中央為貫頭 男子耕農……山多麖麈……食飲用籩豆 手食
 本条は、世上言われているように、正始魏使の現地査察記録/報告と見えますが、注目すべきなのは、「倭地温暖」の形容です。つまり、厳冬と言える帯方郡の冬季風土と比べて温暖、ほんのり温かいというものであり、「狗奴国条」のように、亜熱帯というものではないのです。

コメント:幻の食卓
 氏は、隋書俀国伝の「民俗」記事を、あたかも、七世紀初めの飛鳥時代の飛鳥「民俗」と思い込んでいるようですが、圏外なので論評しません。(不用意に「風俗」と書いていましたが、古代史で、「風俗」は、「風」法制と「俗」習慣の総合なので、「民俗」としました)

《原文…其死有棺無槨 封土作冢……挙家詣水中澡浴 以如練沐

コメント:封土作冢
 ここは、後出の卑弥呼葬送の段取りと重なるのですが、無造作に飛ばしています。「封土作冢」とは、棺を地中に収めた後、土で覆い封じ手盛り土の「冢」とするとの意味であり、墓誌もなく石塚ともせず、簡素なものとわかります。また、周辺住民の労力で比較的短期間に完工する規模であり、故人没後に施行して、程なく埋葬できた程度と思量します。墓地は、代々の域内墓地であり、盗掘などの及ばないものであったと見受けます。つまり、過度な副葬品などないということです。
 ここで、「倭人伝」の「冢」を明記しているので、後の卑弥呼の冢について、簡潔に書けるのです。史官の至芸でしょう。

《原文…其行来渡海詣中国……謂其持衰不勤 出真珠青玉……有獼猴黒雉
《原文…其俗挙事行来…… 視火坼占兆 其会同 …… 人性嗜酒
 魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
《原文…見大人所敬 …… 其人寿考或百年或八九十年

コメント:加齢談義
 「暦や紀年を持たない倭人に、正確な年齢が解るのかと裴松之が首をかしげた」とあるのですが、氏の弁舌力が余ってか、古代人の心理を深読みする例がままあります。素人としては、誌は、三世紀中国語の読解に不用意な点があるはずなのに、遺された史料から、よく、裴松之の意見がわかるものだ、神がかりだと感心しています。
 私見では、陳寿が史料とした採用しなかった「魏略」にこのような表現があるから、補追した方が良いのではないかとの提言のように見えます。
 古来、毎年元日に全員揃って加齢する習わしであるから、別に年齢を数えることに不思議はなく、文字がなく「暦」や記録文書がなくても、何か目印でも遺していれば、自身や肉親の年齢はわかるのです。
 これは、春秋の農事祝祭に因んで、それぞれ加齢したとしても同様です。そのような習慣があれば、そのように記憶されるまでです。「二倍年暦」などと言うと、元日に二歳ずつ加齢するような「稚拙な」誤解を招きますが、「春秋加齢」とでも説明すれば、余計な誤解は無いでしょう。現代でも、民間企業では、往時、四月から上期、十月から下期と6ヵ月単位で会計決算して、それぞれ一期と数える例があったので、その際には、一年に二期進むことになっていたのです。別に驚くほどのことは無いように思います。
 因みに、東夷が年月日を知らないでは、郡の諸制度に服属させることが困難なので、中国の暦制を指示したと見るものではないでしょうか。なんにしろ、正月に年賀に来いと言っても、いつが正月か分からなくては従いようがないのです。

*識字力、計数力~地域住民管理
 百に近い数字まで適確に認識するには、当時としては大変高度な教育訓練が必要です。一般住人が、幾つまで数えられたか不明ですが、三、五(片手)、十(両手)までが精々という者が大半の可能性があります。氏の示唆に拘わらず、各人が自身の年齢をちゃんと数えられたという保証はありません。現代でも、義務教育が十分行き届いていない国、地域では、十を超えると数えられない例が珍しくはないのです。
 恐らく、聚落の首長が、「住民台帳」めいた心覚えを所持していて、その内容を参照して、世間話として回答したのでしょう。戸籍調べは、徴兵、徴税の前提であり、容易に本音を漏らすものではないのです。
 何にしろ、計数管理は、郡として、早い段階で教育していたものと思われます。そうでないと、戸数を知ることは到底できないのです。

*戸籍を偽る
 例えば、戸籍上に老人が多く若者が少ないとすれば、戸数に比べて動員可能人員が随分少なく担税能力が低いことになり、徴兵、徴税が緩和されます。「未開、無文と言っても、無知ではない」ので、首長(しゅちょう)を侮ってはなりません。

                                未完

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私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/03/05  記2021/10/28 補充2022/08/10, 12/18 2023/01/18, 07/25 
 2024/01/20、 05/08, 08/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*誰の報告?
 言うまでもないですが、ここで色々言っているのは、現地で言葉が通じる者達であり、当時、ごく一部の上流家族を除けば、戸籍がない上に、苗字も名前もわからないものが多くいて、そう言うものたちの本当の年齢は、当然わかるはずがありません。
 また、当時は、幼児や小児が亡くなる例が多かったので、現代風の平均寿命(零歳新生児の平均余命)は、全く無効と思うのです。当然、「人口」も意味の無い概念であり、正しくは、「口数」ないしは「人頭」として勘定するものでしょう。要するに、地券を与えられて農地耕作を許可され/命じられ、収穫物の貢納を命じられている「成人男性」を数えるものなのです。

*場違いな引き合い
 倭人」の首長達は、ここで引き合いに出された「アンデス」や「コーカサス」を知らないので、文句を言われても困るのです。あえていうなら、このような後世、異世界概念は、編者たる陳寿の知らない事項なので「倭人伝」の深意に取り込まれているはずは(絶対に)ないのです。私見では、古代史論には、同時代に存在しなかった用語、概念は、原則的に最小限に留めるべきと信じているものです。
 そうでなくても、世上、俗耳に訴える「新書」類には、時代錯誤の用語解釈が蔓延していて、まるで躓き石だらけの散歩道ですが、ここで、善良な読者が躓いて転んでも、いている当人には痛くも痒くもないので、論考を書き出す際には、登山道のつもりで足ごしらえして立ち向かうしかないのです。細々と口うるさい理由をご理解いただけたでしょうか。

*魚豢「魏略西戎伝」賛~知られざる西域風雲録
 因みに、魚豢「魏略」は、魏末晋初に公開され、長く貴重な史書として珍重されたのですが、正史ではなかったので、千数百年の間に、写本継承の必須図書から外れて散佚し、完本は現存せず、諸史料への(粗雑な)引用/佚文が残っています。佚文は、引用時点の所引過程で謬りや改編が発生しやすい上に、所引先の写本過程での誤写が、正史など完成写本と比べて格段に頻発しているので、魚豢「魏略」の本来の姿を留めているか、大いに疑わしいものです。顕著な例が、所謂「翰苑」現存断簡所引の「魏略」でありほとんど史料として信用できる部分が見られない始末です。
 ただし、魚豢「魏略」「西戎伝」は、全くの例外です。陳寿が『意義のある記事が無いとして割愛した魏志「西域伝」』の代用として、注釈無しに丸ごと補注されているので、魏志刊本の一部として、古代史書の中でも類例のない完璧な状態で、完全に近い形で現存しています。魏略「西戎伝」を侮ってはなりません。

 魏略「西戎伝」は、実質的に、後漢書「西戎伝」であって、記事の大半は、亀茲に「幕府」を開いた後漢西域都護の活動を記録しています。後世の笵曄「後漢書」西域伝によると、西域都護は、後漢明帝、章帝、和帝期の西域都督班超が、前漢武帝時に到達した西域極限の「安息」東部木鹿城(Merv)に、副官甘英を都督使節として百人規模の大使節団を派遣しています。
 安息の東部主幹「安息長老」は、漢との外交関係締結を委任されていて、遙か西方のメソポタミアの王都「クテシフォン」は、漢使の到着地である木鹿城メルブ要塞から五千里の彼方でしたが、東西街道と騎馬文書使の往来で運用していたので、後漢洛陽から二万里の地点を「西域極限」と再確認できたのです。

 班固「漢書」「西域伝」は、諸蕃王の居処を、一切「都」と呼んでいませんが、中華文明に匹敵すると認めた文明大国「安息国」には、例外中の例外として、蕃王居城と隔絶した「王都」なる至高の尊称を与えているのです。
 と言っても、これは、漢代公文書を収録した後漢代史官班固の基準であり、後世、さらには、東夷の基準とは、必然的に異なるので、安直に参照するのは、誤解の元です。何にしろ、古典語法で書かれた班固「漢書」の用語は、唐代教養人に不可解であったため、隋~初唐の学者顔師古は、班固「漢書」地理志への付注で、ほとんど一文字ごとに「飜訳」記事を書き付けていて、如何に漢字の解釈が深遠であるか示しています。当然、古代史書は、一般的に現代中国人には読解不能なのです。ある意味、日本人と大差ないという事もできます。

閑話休題
 安息国は、かって大月氏の騎馬軍団に侵略されて国王が戦死するなど打撃を受け、以後二万の大兵力を国境要塞メルブに常設していましたから、西域都護は、後漢の西域支配に常習的に反抗する大月氏(貴霜国)を、両国の共通の敵として挟撃する軍事行動を提案したものと見えます。(どこかで聞いた話しです)但し、安息国は、商業立国であり、取引相手を敵に回す対外戦争を自制していたので、漢安同盟は成立しなかったようです。
 安息国、「パルティア」が、西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに於いて繁栄を極めたため、西方のローマ(共和制時代から帝政時代まで)の執拗な侵略を受け、都度撃退していたものの、敵国ローマがシリア(レバノン)を準州として、駐屯軍四万を置き侵攻体制を敷いていたため、既に二万の常備軍を置いている東方では、無用の紛争を起こす気はなかったものと思われます。
 安息国は、商業国であり、周辺諸国は顧客なので、常備軍を厚くして侵略に出ることは、ほとんどなかったのです。この点、先行するアケメネス朝のペルシャが、隔絶して富有の身でありながら、西方の貧困弱小のギリシャに度々侵攻したのと「国是」が異なっていたのです。
 といって、凶暴と思わせるほど果断な行動力で、西域に勇名が轟いていた後漢西域都督班超」を敵に回すことのないよう、また、独占している東西交易の妨げにならないよう、如才なく応対したようです。まさに、二大大国の「外交」だったのです。
 つまり、班超の副官甘英は、軍官として威力を発揮することはなかったものの、外交使節としての任務を全うし、つつがなく西域都督都城に一路帰参したのです。

*笵曄不信任宣言~ふたたび、みたび
 笵曄は、後漢書「西域伝」で、「漢代西域史料には誇張があって、西方進出を言い立てているが、実際には、安息までしか行っていない、条支(アルメニア)にすら行き着いていない」と達観していますが、一方、甘英が、遙か西方、大秦に至る海港に望んだが、長旅を恐れて引き返した」と創作しています。
 安息は、西方の大海カスピ海の手前「海東」であり、確かに、甘英は「大海」対岸の「海西」条支(アルメニア)には行き着いてないのです。笵曄によって正体不明の大秦を目指したとされている地中海東部は数千里の難路の果てであり、カスピ海沿岸から遠くメソポタミアに至る領域を支配していたパルティア(安息)は、「東方の異国である後漢の武官が、西方の王都を越えて、4万の駐屯軍を置いていて臨戦状態である敵国ローマの領分にまで進むことを許可することは、絶対にあり得ないのです。要するに、現代に至るまで、「大秦 ローマ説」なる根強い誤解をまき散らしていますが、范曄自身は、そのような意図はなかったはずです。なにしろ、「大秦」は、漢代以来、中国西域付近から、匈奴などの攻勢に怯えて、西方への流浪を重ねていた弱小国家「莉軒」が、「中国」紛いの異名を唱えただけです。
 ところが、後漢西域史料の混乱で、安息国に本来与えられていた大量の「風俗」(法制「風」と民俗「俗」)記事が、大秦に充てられたため、実態と隔絶した幻の巨大国家とされてしまったものです。
 当時、シリアは、ローマの準州であり、時のローマは、帝制に移行しても国是は変わらず、数万のローマ軍が常駐し、往年の大敗で三頭の一角マルクス=リキニウス=クラッススを敗死させ、万余の兵士を戦時捕虜として東部国境メルブまで配流して終生東方の外敵に備えさせた「パルティア」への復仇と世界の財貨の半ばにも及ぶ「財宝」の奪取を期していたのですから、漢使にそのような敵との接触を許すはずがないのです。
 また、班超の副官が、そのような西方進出を「使命」としていたのなら、『武人は、万難を排して「使命」を全うする』のであり、正当な理由無しに「使命」を回避することは死罪に値する非命なのですが、甘英が譴責を受けた記録はなく、もちろん、斬刑に処せられたことも記録されていないのですから、もともと、そのような進出の命令/使命は「なかった」のです。
 笵曄は、ここで、先行史書の縛りの少ない西域伝」に対して、明らかに史料(魚豢「西戎伝」)にない「創作」を施したのであり、これは、笵曄の遺した夷蕃伝は、史実を忠実に記録した史料として信ずることができない」ことを証しているものです。
 と言うことで、ここまで続いた余談は、実は、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」が、史実を忠実に記録した史料として信ずることができないと断罪する理由を示しているのです。
 当ブログ筆者は、著名な諸論客と違って、思いつきを、確証無しに大言壮語することはないのです。 

*魏志「西域伝」割愛の背景
 このように、遥かな「大海」カスピ海岸まで達した後、英傑班超の引退に伴い後漢西域都護は名のみとなったものの、魏略「西戎伝」は、後漢盛時の業績を顕彰し、粗略な所引の目立つ范曄「後漢書」西域伝を越えて、地理情報の的確さと加えて、同時代西域事情の最高資料と世界的に評価されています。
 そして、続く魏晋朝期、西域都護は、歴史地図上の表記だけで形骸化していたのです。
 恐らく、後漢撤退後の西域西部は、「大月氏」の遺産である騎馬兵団を駆使する「貴霜」掠奪政権が跳梁するままになっていたと思われますが、魏略「西戎伝」は、そのような頽勢は一切記録していないのです。
 ということで、結論として、陳寿の魏志編纂にあたって、「西域伝」は、書くに値する事件が無かったため、謹んで割愛されたのです。要するに、「西域伝」を書くと、曹魏の無策を曝け出すことになるので、むしろ、書かないことにしたと見えます。それが、「割愛」の意味です。

《原文…其俗国大人皆四五婦……尊卑各有差序足相臣服
 以下略

*まとめ
 長大な批判文に付き合って頂いて恐縮ですが、単なる批判でなく建設的提言を精一杯盛り込んだので、多少なりとも読者の参考になれば幸いです。
 一語だけ付け足すとすると、「倭人伝」は中国正史の一部であり、先行二史を越えて、有能怜悧な陳寿が生涯かけて取り組んだ畢生の業績なのに、「国内古代史論の邪魔になる」(百害あって一利なし)と言って根拠の無い誹謗と汚名を背負い込まされ、果ては、後世改竄の嵐に襲われているのが、大変不憫なのです。

*自由人宣言
 当記事の筆者は、無学無冠の無名人ですが、誰に負い目もないので、率直な反論記事を書き連ね、黙々と、支持者を求めているのです。

*個人的卑彌呼論~「水」を分けるひと
 思うに、女王卑弥呼の「卑」は、天の恵みである慈雨を受けて、世の渇きを癒やすために注ぐ「柄杓」を示しているのであり、卑弥呼は、人々の協力を得て「水」を公平に「分け」、普く(あまねく)稲の稔りを支える力を持っていたのですが、今に伝えられていないのです。
 「卑」の字義解釈は、白川静氏の「字通」などの解説から教示を受けたものです。字義から出発して、卑弥呼が「水分」(みずわけ)の神に仕えたと見るのは、筆者の孤説の最たるもので、誰にもまだ支持されていません。
 いろいろ訊くところでは、卑弥呼の神性を云々すると「卑弥呼が太陽神を体現している」との解釈から、天照大神の冒瀆として攻撃されるようなので、これまでは公言を避けたものです。年寄りでも、命は惜しいのです。

 私見ですが、卑弥呼は、あくまで現世の生身の人であり、神がかりも呪術もなく、「女子」(男王の外孫)にして「季女」(末娘)として、生まれながらに託されていた一族の「巫女」としての「務め」に殉じたとみているのです。恐らく、陳寿も、ほぼ同様の見方で、深い尊敬の念を託していたと見るのです。
 倭人伝」には、卑弥呼その人の行動、言動について、ほとんど何も書かれていないわけですから、人は、自身の思いを好き放題に仮託しているのです。もし、以上に述べたこの場の「卑弥呼」像が、読者のお気に入りの偶像に似つかわしくなくても、それはそれでほっておいて頂きたいものです。
 別に、言うことを聞けと躾けているのではないのです。「ほっちっち」です。本論著者は、何を言い立てられても、論者の「思い」には入れないので、寛大な理解を願うだけです。

                                以上

2024年7月29日 (月)

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 1/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12 2024/07/29
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、氏の個人サイト「日本人と日本語 邪馬台国」掲示のPDF文書であり、筆者の自信作のようなので、丁寧に読ましていただきました。正直、つまらない誤字、誤記があって評判を落とすのです。氏の台所事情もあるでしょうが、十年近く放置されているのは残念と思われます。

〇記事の旗印 匹夫の暴論にあらず
 氏の「倭人伝」論議の基本方針は、陳寿「三国志」魏志第三十巻に収録された「倭人伝」を基点として、考察を進めている点です。

*古代「浪漫」派の台頭と蚕食
 「倭人伝」論で。大変しばしば見かけますが、三世紀中国史料に対する門外漢が、「日本」古代史論を手に「倭人伝」論に侵入し、「史料批判」と称して古代「浪漫」を保全するための雑多な(泥沼)改竄の押しつけがあり、むしろ、俗耳には、学界世論の多数を占めて見えます。
 国内史料は、原本どころか権威ある公的古写本も見当たらず、「貴重な」現存写本を踏み台の「推論」が出回る「史料観」が「倭人伝」に波及するのに暗澹たる思いを禁じ得ません。まるで、異国の「トラ」さんのツイッターです。

 数を言えば、または、権威から言うと、そのような見当違いの暴論が史論を蚕食し、無批判な追従も盛んですが、氏は、そのような喧噪と無縁です。

〇苦言の弁
 ただし、それはそれ、これはこれ、氏の勘違いと思われる事項は、氏に対する敬意の表れとして、率直に指摘するものです。
⑴半島沿岸帆船航行の不合理
 氏は、なぜか、郡から倭までの行程の大半を占める韓半島行程を帆船沿岸航行と決めていて当ブログ筆者が推進する陸上行程説に反対なのです。これは、二重、三重に不合理です。
 つまり、郡の官道が海上経路であった」とする不合理と「沿岸を帆船航行できた」とする無謀な仮定が重畳して、混乱を招いています。
 氏は、文献に依拠して、三世紀黄海東部に帆船が出回っていて、帯方郡はそのような帆船を未知未踏の倭国航路に仕立てたと見ています。
 大胆不敵で、当分野で氾濫する暴論の類いですが、どんな船舶も、現代でも、未知の海域では、水先案内人が不可欠です。(海図、羅針盤があってもです)

 隋唐代使節は、月日を費やして浮海し航路開拓したと報告したから、三世紀には未踏海域であったとの証左です。

 氏は、帆船の未踏海域進出例として、バスコ・ダ・ガマをあげていますが、重大極まる偏見史観です。ガマは、「インド/アラビア/ペルシャ商船が、千年以上に亘り運用していたインド洋航路と港湾を侵略奪取した掠奪船団」の先駆けてあり、氏の史論の枕にふさわしい/似つかわしい先例と言えないのです。

*沿岸魔境
 半島西南部は、岩礁、浅瀬の多い多島海であることから、操舵の不自由な大型の帆船は入り込めませんでした。地元海人の水先案内と、それこそ、船腹に体当たりして進路を誘導する「タグボート」先駆の漕ぎ船でなければ/あっても難船必至だったから、事情通の青州船人は、帆船で南下する無茶はしなかったのです。つまり、現地の小振りの漕ぎ船なら、すり抜けられても、「大型の帆船 」は、船底や舷側が破損したものと思われるのです。つまり、沈没しないまでも、浸水して航行不能になったものと、容易に推定できます。

*確かな船足
 「倭人伝」の對海国/一支国条で、「乗船南北市糴」と書かれているように、それぞれの港から南北の隣り合った海港まで運航する便船に荷を積んだのですが、明らかに手漕ぎ船です。また、区間一船でなく、多数往来のはずです。当時、代替手段がないので活発でした。

*両島の繁栄~人身売買妄想巷の風評
 両島は、農産物不足を南北運送の船賃や関税で補い、相当潤っていたはずです。特に、對海國は、狗邪韓国で、市(いち)を立てて多大な利益を得ていたので、對海館なる倉庫管理部門を置いていたはずです。
 因みに、そのような考証を怠り、島民が人身売買で食糧を得た」なる醜悪な妄想を、公開の場で述べる「大愚者」がいますが、万が一、人を売って食を得る事を前提とすると、早晩、両島は年寄りばかりの廃墟となるのは子供でもわかります。そして、両島が荒廃すれば行船は寄港地を失い、交易は途絶します。そのような事態にならないように、「倭人」の市糴は運用されていたと見るべきです。
 そうした子供でも不合理と見抜ける成り行きを想定するとは、両島関係者は随分見くびられたものです。古代史の俗説でも「極めつきの妄説」ですが、恥知らずにも現地講演でぶちまける人がいたのです。
 古代人を侮るのは、ご自身を侮っていることになります。ご自愛ください。

 いや、これは、氏に関係ない巷の風評ですが、念のため、付記しているものです。

                               未完

新・私の本棚 丸地 三郎 「魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定」 再掲 2/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03 再掲 2023/01/12 2024/07/29
私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⑵「野性号」の成果と限界
 「野生号」ならぬ「野性号」は、もともと、船体が設計/加工のミスで、重量過大となっていて、さらに、船体吸湿で重量が増えて難航したようですが、本来、渡し舟は、それに相応しい軽量です
 日々、難なく漕ぎ渡れなければ、業として持続できないので、無用の重装はあり得ません。それぞれの区間で運行できる軽量であり、漕ぎ手人数の想定なのです。そして、全区間を、同一船体、漕ぎ手で漕ぎ続けるものではないのです。陸上競技風に言えば、区間ごとに、一日単位で駅伝すれば良いのであり、漕ぎ手は、都度、交替すれば良いのです。
 一方、交代できない乗客は、休養無しに連日漕行されたらたまったのものではないのですから、合いの日があったはずです。もちろん、「マラソン」、あるいは、「スーパーマラソン」を、同一船体で、漕ぎ手無交代で、しかも、一定期間で漕ぎ抜けることは、論外なのです。
 本来、実験航海は、単に、何が何でも目的地に着けると実証すれば良いのでなく、実用に十分な荷物や乗客が運べることも、実証するものだったはずです。そもそも、実験航海難航の真因は、漕ぎ詰めの疲労の要素も大きいと思われるのです。それは容易に予測できることであり、なぜ、空前絶後の大航海の実証を企てたのか、意図不明と言わざるを得ないのです。
 何しろ、最大の難所区間を漕ぎ抜けて、可能性を「実証」すれば、後は、数日の休養を挟んでも良いので、全行路を完漕できるのは、実証のいらないものです。
 時代相当の配慮をすれば、渡し舟区間で別々に相応の船腹とし、適宜、漕ぎ手交代すれば、長年に亘り維持できるのです。

 いや、当時、「倭人伝」に記録されているように、盛んに南北乗船して市糴していたと言う事は、実験航海しなくても明白であり、曰わく言いがたい感想に囚われます。

 氏は、「野性号」報告が粉飾と感じたようですが、素人目には、関係者の志しを守るために「失敗」との発言を避けていますが、「実際には、このような航行は維持できない」との真意/深意を秘めつつ報告したものと見えます。一度、丁寧に読み返して頂くと良いと思います。
 それを「為せば成る」と勝手読みして、「倭人伝」論に採り入れるのは、俗耳の聞き違いですが、誰も正さないので、報告粉飾に責任が回るのです。

⑶道里論 用語の整理
 倭人伝の里数と日数は表現を工夫が必要です。現代人、つまり、二千年後生東夷の無教養なものは、里数は、「距離」、しかも、「直線距離」と決めつけて、「道里」、道の里の意義が取り違えられているから、論議がかみ合わないのです。しかし、倭人伝には、「距離」は登場しないのです。
 用語の時代錯誤は、論者にとって自滅行為です。

*「道里」の起源推定
 書かれている「道里」、二点間里数は、正史「郡国志」や「地理志」の公文書用公式数字であり、必ずしも実測と言い切れない、と言うか、大抵、実測などとしていない里数であるから、実測値復元は、端から無効です。
 まずは、全体道里「万二千里」は、公孫氏からの両郡回復早々に疾駆参内を命じた未見未知の「倭人」の王居処への道里を、新任郡太守が実際の道里と関係無い、途方もなく遠い「万二千里」と雒陽鴻廬に申告したものであり、やって来た使節から、郡の南方拠点狗邪韓国から海を跨いですぐそこと知らされ、既に皇帝の承認を得た道里申告を訂正することはできず、以後、陳寿に至る関係者が、辻褄合わせに苦労した「成果」と見られるのです。いや、そもそも、郡からの文書が「倭人」の郡との交信を代表する伊都国に届いていたので、よく調べれば、「倭人」に至る「道里」、文書送達の「所要日数」は、帯方郡に存在したのですが、新任の郡太守が、慌てて皇帝に報告したので「万二千里」とする「誤解」が伝わってしまったのです/でしょう。

〇概数論再論
*「余」の効用
 後代感覚で、「道里」、「戸数」の「余」は切捨端数付きと誤解して、足すたびに端数が積もる「妄想」が広がります。今日、概数は、小学校算数の課題ですから、子供でもわかる不合理と疑うべきです。
 端的に言うと、みな概数中心値であり、端数蓄積を考える必要はありません。
 このようなことは、時代性のない、普遍的な事項であり、かつ、専門的な内容なので、字書に、明確に書いていないことが多いのです。

*概数の範囲
 倭地内行程は、百里単位で「余」がないのですが、必ず精測したのではありません。千里単位の道里の加算では、百里単位は影響しないのです。まして、皇帝は、東夷の内部の傍路諸國への里数に関心はないのです。関心があるのは、郡から倭人に何日で連絡が取れるかという事なのです。
 是非とも、ご一考いただきたい。

 七千里と三千里の足し算で、百里単位は計算結果に影響しない端数です。
 七千里に五百里足しても七千里であり、更に六百里足しても七千里です。
 七千里は上下十㌫の範囲どころか、五千里程度から九千里程度とも思える漠然たる範囲で、百里単位の端数は大海の一滴です。
 七千里付近の五千、六千、八千、九千里がないから、そのようにとてつもなく広い範囲と見ます。

 実際の道里や戸数がわからないから、覚悟を決めて概数表示していますから、実情を知らない後世人が、史料の字面、倒立実像を見て、勝手に上下限界を想定するというのは、とてつもなく不合理なのです。
 まして、算用数字の多桁表示で、当時無視していた一里単位まで勘定するのは、深刻な時代錯誤です。算用数字は、「倭人伝」論義から、排除すべきなのです。

〇まとめ
 氏の取材範囲は、誠に豊富ですが、基礎固めとも言える得られた新規史料の「時代考証」、広義の「史料批判」が不足し、考察が迷走する点が多々見られます現代人の常識で、ほとんど二千年前の文書史料が、的確に理解できることは「あり得ない」と言う覚悟が不足/欠落しているように見えます。もったいないことです。
                                以上

2024年7月27日 (土)

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 1/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇総評 一部再掲
 中島信文氏は、多年工学・技術分野の実業に従事され一代を画した方であり、引退後は、当分野の古代史に関して、広く関連文献を精読し、新鮮な視野から俗説の弊を正していることに、賞賛を惜しまないものです。

 当方も、独自に考察を重ね、独自の意見を発言しています。

〇本書に対する感慨
 さて、中島氏の陳寿観、范曄観は、我が意を得たもので、このような順当な観点が今まで消し去られていたのは、嘆かわしいものがあります。国内史学界は、「纏向遺跡」高揚に邪魔な「倭人伝」への偏見が堆積し、正当な論議が埋没しています。
 出回っている史料読み替えは、現代人創作の偽書です。
 原因は、当分野の一般向け解説書が、崇范曄、罵陳寿を刷り込むため、真に受けた論客が、無批判追従するところにあると見受けます。

 そうした感慨はさておき、中島氏の論考は、中国古典史料から出発して大変貴重なものです。そう言うと、反射的に、中国史料絶対視批判が出るでしょうが、氏の論考は慎重な史料批判を経た上のものであり、安直な先人追従べったりの俗説による「魏志」崇拝/否定の二極分離とは異なるものです。
 「まず筆者の真意を読み取るべし」との文書解釈大原則を知らない無教養な俗人が徘徊しているため、くどくど前置きせざるを得ないのです。
 案ずるに、学界関係者は、先賢の言説を否定すると、学界での将来が閉ざされ生業を失うため、頑として先賢に従っていると見てとれます。これでは、本書といえども、滴水の一滴かと噛みしめるしかないのです。いくら強力に発信しても、受信機の電源が切れていたら何も伝わらないのです。
 本書を一読いただくのが始まりで、直ちに回心されることは無いとしても、世の中には、かくも本格的な主張があることを意識にとどめてほしいものです。

 ということで、ここに微力ながら中島氏への支持を表明します。

*不同意点
 取り急ぎの口上を述べた上で、私見を確認すると、行程道里の解釈で、地域の政治経済の中心と思われる伊都国から、王都『邪馬台国』の間が、当時、文書交信がほぼできない状態と交通事情とを考慮すると、両国間で密接な連携のできない遠隔に想定されているのには同意できません。精々、一日、二日の道のりだったのでは無いでしょうか。

 意見の相違は避けられない以上、論議を挑むものではないのです。ご不審なら、過去記事を確認いただきたいものです。

*当ブログにおける范曄批判について
 本件について初見の方は、以下の議論が唐突に見えると思いますので、若干捕捉します。
 「倭人伝」史料批判で、先賢諸兄姉の意見に困惑するのは、はなから、「倭人伝」編者の陳寿への反感が展開され、対照的に笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」編者である范曄への好感が示されていて、そうした判断の論拠が示されないまま、一種の決定事項として論議が進んでいる例が多々見られることです。しかし、課題となっているのは、「倭人伝」の解釈であって、「後漢書」倭条は、いわば、通りすがりの野次馬なのです。従って、この野次馬が、単なる野次馬なのか、陳寿の見解を克服するに足る信頼を託せるかどうか、審査を重ねる必要があると考えたものです。

 私見では、中島氏は、倭条と倭人伝の対照から、倭条が、史書としての信頼性を有しないとしていますが、当方は、別の見地から、笵曄の文筆家としての「曲筆」、華麗な修飾偏愛を、実例を根拠として、厳正に指摘しているものです。

 ご不満の方は、提示した史書を確認頂いた上で、ご自身の反論を提示いただきたいものです。くれぐれも、ご自身の思い入れ、情感を振り回した「そんな馬鹿な」的な印象批評はご勘弁ください。

*范曄批判 其の壹 「倭国大乱」の「大罪」
 私見では「倭国大乱」に文筆家たるの笵曄の大誤謬が明示されています。
 「大乱」は、単に規模の大きい[乱]でなく全く別の事象です。

 良く言う「天下大乱」が由来であり、これは、中原天下の帝国が瓦解し、新たに覇権を求めた群雄が天命を争う状態を示す、大変特別な言葉です。例えば、秦末期、咸陽に二世皇帝がいても各地の武装蜂起で、天下は覇者を見失い、最後、劉邦と項羽の両雄が争った「中原逐鹿」事態に至ります。
 従って、史官たる陳寿は、東夷王権不安定状態を単に乱れたとしているのです。笵曄の「大」は、水の沸点のような「臨界」の通過を示します。

〇文筆家、ロマンチスト 范曄
 笵曄は、史官ではなく、畢生の文筆家として「美しい」(美文)史談を書いたのであり、重大な用語へのけじめを持たず、無造作に「倭國大亂更相攻伐歴年無主」と四字句を揃えたのです。蛮夷「倭」の記事で、風聞をもとに「大乱」と書くのは天子に不敬であり史官ならもってのほかなのです。

 范曄が史官でないのはこの点に表れています。華麗な文体にこだわって正確さは二の次であることから、後漢書倭伝に信を置いてはならないのです。

                                未完


新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 2/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇范曄批判 其の貳  後漢書西域伝の誤謬
 ここからしばらく話しは、大変長くなりますが、論議を飛躍させたくなかったので、経過する階梯を逐一辿ることにしました。気が向いたら読んでください。
 曹魏史官と思われる魚豢は、「魏略」西戎伝編纂時、西域実情を知るすべがなかったものの、原記録に訂正を加えず、考察追記にとどめたのです。

*甘英抗命談 范曄創作の背景 (条支、大秦比定は、独創の新説)
 端的に言うと、後漢書「西域伝」は、笵曄の誤謬に基づく創作なのです。
 魏略「西戎伝」によると、西域都護副官の甘英が、漢代西域の西限であった安息国に入り、目前の大海「カスピ海」対岸の条支(海西 アルメニア王国)と南岸の大秦(安息国 メディア公国)の情報を持ち帰って大功を立てたのです。
 西戎伝では、甘英は、カスピ海東岸の「大国」、実は、地方公国である安息で情報収集した地理記事を適確に記録したのです。西戎伝は、三千字を越えて、そのうち、漢書に無い「新界」記事は千五百字近い大部の記録です。

*混乱の起源 「安息」帝国と「小安息」公国の混同
 しかし、洛陽書庫の班固「漢書」西域伝には、安息が西方数千里の彼方に国都がある巨大な大国とあり、洛陽史官が、不整合情報を書き足したので混乱したのです。かくして難解な地理記事となり、誤釈で、本来の使命であった条支、大秦に関する記事のかなりの部分が所在不明になりました。
 念のため言うと、これは、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。そう、笵曄「後漢書」西域伝安息条には、中国の「典客」に相当すると思われる応接者/長老が、「小安息」と自称していたことが書き留められているのです。あるいは、メソポタミア世界を睥睨している西の国都領域と対比して、「東安」、ないしは、「東安息」と称していたかもわかりませんが、甘英が受け取った国書には、中国語の安息に相当する国号、Partiaが明記されていたので、そのような実態は、報告書に大書されなかったのでしょう。少なくとも、洛陽史官には、全く意想外だったと見えます。

 因みに、西戎伝に採用された後漢朝記録は、実態が不明な「其国」主語や、そもそも、漢文に多い主語省略の影響で、風俗、産物記事の主体が不明になっていて、あるいは、簡牘の革紐が切れた散乱による乱丁があったのか、どこの事情なのか、解釈困難で、ほとんど不可能な文書になっていますが、これもまた、范曄にも魚豢にも責任のない、いわば、不可抗力、天災の咎めが、後世に及んでいるのです。

*范曄「大秦神話」創作の由来
 解釈困難(不可能)な史料に辟易したか、博識の文章家を自負する范曄は、全知全能を傾けた苦慮の結果、西戎伝の新界情報を棄却して、甘英抗命記事の後に、行き損ねて探索できなかったはずの大秦国の風俗満載の戯画記事をでっち上げたのです。かくて、甘英、洛陽史官、魚豢、范曄と、数世紀の時と万里の距離が離れるていくままに、本来、実務本位で書かれた明快、簡潔な資料の中で誤解がはるばると成長したのです。
 後漢書では、甘英は、数千里西行の果て、シリアとされる地中海沿岸でローマ行を放棄し、虚しく遠路を引き返した戯画まで描かれているのです。

*甘英雪辱、再評価 重大な使命の正体
 甘英は、不世出の西域都護班超が副官に登用した赫々たる武人です。史官の家で史官の訓練を受けながら武人に転じた班超が異郷探査任務を課した甘英が、命を惜しんで抗命する訳はないのです。そもそも、班超が存在を知らなかった新天地大秦の冒険探査を指示するわけはないのであり、漢書が記録した西域の西の果ての「蕃客」安息、条支の国情を探査し、西域都護幕の西界同盟軍として締盟を図るのが使命の筈です。

*范曄渾身の場違いな創作
和帝永元九年,都護班超遣甘英使大秦,抵條支。臨大海欲度,而安息西界船人谓英曰:「海水広大,往來者逢善風三月乃得度,若遇迟風,亦有二歲者,故入海人皆赍三歲粮。海中善使人思土恋慕,數有死亡者。」英聞之乃止。

 これは後漢書安息国記事では場違いで無様です。「安息西界」は安息西境メソポタミアであり、当時、東地中海は、全てローマ領であったことから、不合理です。
 また、西域伝で、条支は、既知の烏弋山離の西傍であり、都城は明らかに西岸です。なお、現地の大海はカスピ海であり、数日で渡れる「大海」です。

 但し、そのような批判は、現地事情に即した記録解釈から得られるものであり、笵曄自身は、生涯行き着けない憧憬の西界に茫々たる「西海」を想定していたのであり、「大秦」の所在は明言していないのです。

 後漢書西域伝「大秦条」は、「大秦國,一名犁鞬」と書き出していて、漢書でアラル海付近にあったとされている遊牧民の小国の名を持っていたものであり、条支、安息の東北方近隣の小勢力だったと示しているのです。西戎伝では、この後に「在安息」と付記して、文脈からカスピ海南岸と示していますが、句点付けの謬りにより、甘英にとっては未知の条支西方に位置づけられてしまったのです。

 ただし、その後段に、この書き出しを裏付ける明確な記事は無いため、大秦が、実世界のイタリア半島、さらには、大西洋のような遙か西方に投影されたのは、後世人の憶測であり、漢書記事の西域最新事情すら知る術のなかった笵曄には責任はないのです。

 魚豢の手になる魏略西戎伝は、現地探査した西戎地理原情報をもとに、適確な「新界像」を描いていますが、笵曄は、後漢史官が誤解して付け足した補注を重視して、「新界像」を風聞として斥け、続いて描く大秦記事に地理情報が無い言い訳として『「船人曰」に恐れを成した甘英抗命』を創作したものと思われます。

*笵曄に「史料破壊」の過失
 どんな信念を形成していたにしろ、どんな動機があったにしろ、史書編纂において原資料を棄却して創作で埋めるのは、史官の使命、道義に反することであり、范曄が史官でないことを物語っているのです。

 また、西域傳編纂の際に、西戎伝前半の大変貴重な諸国情報を大量廃棄した手口も支持できないのです。裴松之が、魏志に補追したために、魏志本文と同様の高精度の写本継承で、今日までほぼ忠実に承継された魏略西戎伝がなければ、後世人は、西域から追い出されても不屈の意気で西域都護を復活させた後漢の偉業を知ることはできなかったのです。(後漢書には、むしろ散漫な写本継承の兆候が見えるのです)

*笵曄「後漢書」倭傳評価の適正化
 史実を探るには、范曄「後漢書」をそのまま信じてはならないのです。
 念のため補足すると、ここで論じているのは、西域伝、東夷伝の蛮夷伝に限ったものであり、後漢書の本文である本紀と列伝(蛮夷伝を除く)には、先行諸家後漢書が編纂されていて、流布していたため、美文家といえども、内容改竄はできなかったものです。
 西域伝については、雒陽の公文書館に資料が集積されていて、魚豢「魏略」西戎伝に収容されていたのですが、後漢代史料と曹魏代資料が渾然としていたため、後漢書「西域伝」の編纂には、多大な労苦が伴ったと見えます。
 東夷伝については、後漢末期、献帝の建安年間に遼東郡太守となった公孫氏が、雒陽の混乱をよいことに、自立を図ったため、公文書上申が滞り、従って、東夷伝の編纂は、史料不足で難渋したものと見えます。
 笵曄「後漢書」倭条は、従って、雒陽公文書庫に依存できず、陳寿「三国志」魏志倭人伝に依存したものと見えます。これは、先賢諸兄姉の頓に指摘するところであり、後漢書「倭条」は、「同時代同地域の史料として信用できないもの」との評価が定着したものとみています。

                                未完

新・私の本棚 中島 信文 「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」 3/3

 本の研究社 2020年1月初版 アマゾンオンデマンド書籍
私の見立て ★★★★☆ 深い知見・考察の新たな史学書 必読 2020/01/23 2024/07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*武人甘英の面目 別視点による考証
 西域都護が重大な使命(君命)を託した副官に重大な抗命があれば、都護は皇帝に奏上し副官を誅殺したはずですが、同代史書に、かくなる無面目記事は無いのです。ことは、後世人范曄の使命誤認であり、本来の使命は大成功でないので明記されていませんが、両国との友好関係を確認したので成功の筈です。

 不名誉な武人挿話と夢物語は、ある意味、鮮やかな創作虚構であり、思うに、笵曄は武人に冷笑的です。史官の素養を棄て、武人に転じた班超への筆誅でしょうか。因みに、班超は漢書編纂者班固の実弟です。

〇范曄総評 適確な評価の試み
 私見ですが、文筆家たる范曄には、取り立てて非難すべき点はないのです。

 繰り返しますが、范曄後漢書倭伝は、行文明解でも不正確で、史書としての不備が多いので、史論に於いて無批判な踏襲は避けるべきだというだけです。主部の本紀、列伝は、先行書があって、創作はほぼ不可能だったのです。
 むしろ、先例豊富な後漢書を、あえて編纂した事情を察すべきと思います。

 南遷後、中原回復を焦った北伐、軍閥興隆で自滅した西晋を継いだ劉宋武帝劉裕麾下にあり、文帝代に皇弟重臣から閑職に左遷されたこともあって、二世紀以上前の後漢書独創の大事業に没入したと思われます。

 多分、笵曄は「オリジナリティー」偏愛なる深刻な悪癖に陥る誘惑に勝てず、遂に、史官たり得なかったものと思うのです。他人事ではないのです。

〇「沈没」余談
 些細なことですが、古い中国語で「沈」「沈没」は、水に浸かって泳ぐ様を言うのであり、「潜」と書いても、潜水とは限らないのです。

□太平御覽 地部二十三水上は、「爾雅」により水にまつわる言葉を説く。
《爾雅》曰:水行曰涉,逆流而上曰溯洄,順流而下曰溯游,亦曰沿流。
    絕流而渡曰亂。以衣涉水曰厲,由膝以下為揭,由膝以上為涉。
    渡水處曰津濟。潛行水下為泳。
 「水行」は、水(河川)を渉(わた)ることを言う。流れを遡ることを「溯洄」と言い、流れに従うことを「溯游」という。概して、流れに沿うという。水深次第で、涸れた川を渡るのは「亂」、衣類そのままの浅瀬渡りは「厲」、膝下は裾を掲げて「揭」、膝を越えると「涉」と言う。「水」の渡しは「津濟」と言う。身を沈めて進行するのは「潜」、泳ぐと言う。

 世の中には、ちょっとした川なら泳いででも渡る豪胆な人がいるようですが、中原人はほとんど金槌だったようです。所詮、泳げたらの話しです。余談御免。

 中島氏が説くように、中原人の教養の範囲で、水は、ほぼ川に決まっていますが、中原の川は、大抵、泥水、濁水なので、向こう岸で清水で身を清める必要があります。まさか着衣で泳ぎ渡る無謀な人はいないでしょうから、着替えの用意が必要です。倭地の川は清水であり、中原とは大違いです。加えて云うと、西域の河川は、多くの場合、塩っぱい塩水です。

 そうそう、金槌の身には、見通しにくい川底の深みが怖いので、命が惜しくなり、精々「揭」止まりなのです。もちろん、腰のあたりまで水が来たら、水の抵抗が大変で、川底を歩くのは大事業です。余談御免。
 因みに、河川上流、下流を、中国語で「上游」、「下游」といいます。またも余談御免。

〇最後に
 私見では、中島氏は、紙数を費やして、立論の根拠、経緯を明示しているので、後学のものは、氏の著作から着実な論考のすすめ方を含めて、大いに学べるのです。望むらくは、読者諸兄は、分厚い刷り込みや行きがかりを棄て、虚心に受け止めていただきたいものです。別に、無批判に追従しろというのではなく、私見では、それは、中島氏が、大いに嫌うはずです。

 最後に私見ですが、倭人伝」用語には、正統派の中原語だけでなく「うみ」(Sea)に親しんだ帯方/韓/倭人の言葉/用字が、かなり入っていると感じていますので、訳文の海、水解釈に対する細(ささ)やかな異論としておきます。

 私見では、陳寿は、このあたりに気づかなかったのか、気づいて干渉しなかった(述べて作らず)のか何れか不明です。史書の編纂は、新手のロマンを捻り出すものではないのであり、既に書かれた先人の知的な遺産を、小賢しい後知恵を排して、適確に史書として構築することにあるのです。

〇評に代えて
 魚豢「西戎伝」末尾の「評」に習えば、人はそれぞれの井戸に生涯閉じ込められた蛙なのです。
 この一文を読んで、多年魚豢に抱いていた不信の念は夢散したのです。現代人が、やや蛙の境地と違うとすれば、しばしば長年の時すら超えて、先人ならぬ先蛙の知恵を知り得ることです。

                                以上

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 1/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16, 07/27 

*加筆再掲の弁
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◯はじめに
 当記事は、「プレジデントオンライン」記事ですが、倉山氏署名入りで編集者は無記名なので氏の著作として批判します。
 そもそも、「中国の歴史書」などと、途方もない大風呂敷を広げていて、先ずは、失笑します。氏がどんな内容を「学校」で習ったか、読者にはわかりませんから、勝手な独りよがりにはついて行けません。公開の場で喚く前にカウンセリングをお勧めします。

*新参者の咆吼
中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。

 古代史学で言い尽くされていますが、ここには二千年後生の無教養な東夷が好む「欺瞞」と「誤解」が満ちあふれています。特に、事ごとに「実際」とする虚言癖に似て心身に負担をかけたのではないかと懸念されます。
 『中国の歴史書「魏志倭人伝」』なるものは実在しないのは公然、衆知です。陳寿編纂の史書「三国志」の「魏志」第三十巻の巻末を占める小伝「倭人伝」の小見出しは存在しますが、それも、「紹熙本」と呼ばれる有力史料に明記されています。そもそも、「魏志倭人伝」に「邪馬台国」は書かれていません。これも、衆知/公知の事実です。
 冒頭で、中国の歴史書を一刀両断すると宣言しておいて、実は、「魏志倭人伝」をなで回すだけというのは、何とも、みっともない腰砕けです。大丈夫でしょうか。
 以下、匿名のインタビューアーは、実際は、氏の著書から引用するだけで、これに対して、何の追記もしていません。

 「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれますが、実際は不正確な記述が多いのです。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」と私見を述べ立てますが、「歴史の授業」が、保育園や幼稚園でない限り、「刷り込み」などされていないはずです。また、保育園、幼稚園は外しても、小学校の段階で、『中国の歴史書が事実』と刷り込もうとしても、感じばっかりでは、わけがわからないはずです。
 氏は、幼児期にどんな「おとぎ話」を読んだのでしょうか。真に受けるなら釈尊以来の偉人です。それより、そのような暴言を公開して取り返しのつかない向こう傷を拵える前に、入念な検証が必要ですが、本記事を読む限りでも、氏はかなりの智識/見識欠乏症なのに、躓いて転んだり鞭打たれたりして傷だらけ、痣(あざ)だらけになっても、一向に自覚していないようで、素人目にも痛々しいのです。

 「実際は不正確な記述が多い」の「多い」なるあいまい表現は根拠不明です。大抵は、一人、二人、多い程度で非科学的です。まして全二十四史対象となると、万を超える箇所が指摘できねば「多い」ことになりません。

 「聖典」と称しますが、何のことか、一凡人には思い至りません。それは、仏経典なのか、旧約聖書なのか、コーランなのか、何れにしろ、それぞれの宗教の信者でも、聖典に書かれていることが「歴史的事実」と信じて「有り難がっている」のは、ごく少数派に過ぎないはずです。これもまた、裏付けのない非科学的な意見です。
 アニメの街角が「聖地」と称されるなら、アニメ自体が「聖典」かも知れません。倉山氏の意識は、大部混濁しているようです。
 もちろん、氏が、「魏志倭人伝」なる二千字史料を「ありがたがる必要はない」と称するのは「私見」ですが、適度の批判は許されると思います。

 以下、引用は、適法な参照引用です。

※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 2/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
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*承前
 率直なところ、「嘘だらけ」と自嘲しているのは「日本古代史」で、当ブログの圏外なので、本来は「猫またぎ」なのですが、当記事は、まるで関係のない「中国の歴史書」の個人的な読書観を打ちだしていて、具体例を予告している「腰巻き」共々、出版社に良心はないのかと危惧されます。「再編集」とは、不適切な字句に修正がある良心的な掲載かと期待しますが、裏切られたようです。これでは、子供達に間違った意見を押し付けないように「X」表記が必要と見えます。

*空疎な悲憤憤慨
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか
仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。
仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。

 どんな世代か不明ですが、まさか、戦前派ではないでしょうね。随分の記憶力に感心します。「誰のお墓か分からん」などと、子供のような放言は信じられないのです。いや、氏は、自信があるのでしょうが、根拠不明の子供じみた体験に基づくご意見を賑々しく著書に書き込むのは、読者に対して迷惑ではないのでしょうか。

こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。

 「連中」などと自嘲/謙遜いただいた上に、自虐/戯言めいたご意見を囀りまくる「素朴」な自爆発言は見ていて気の毒です。氏は、「天にツバキする」との諺を知らないのでしょうか。氏の全身は、自爆の汚物に塗れていて、とても近づくことができません。

確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。

 「歴史(ヒストリー)は物語」というのは、「わかりません」との泣き言たれと合わせて、軽薄な私見であって、他人に主張するには、何の根拠にもなりません。「歴史」は、中華文明三千年の成果であって、生煮えのカタカナ語(ヒストリー)なぞ書かれていないのです。氏のように、泥まみれの取れたて「思い付き」を、貧しい認識/幼い感情論で書き殴る醜態を繰り広げていては、なにも伝わらないのです。

こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。

 これは、氏の自作自演かとも見えます。何しろ、中国二十四正史に、日本に関する記事は、はしたなので、この告発は、空を切っている冤罪です。そのような「刷り込み」は、可能なのでしょうか。氏は、誹謗/弾劾されている中国歴史書で、「歴史」「事実」が、何なのか、まるで知らないでいるのでしょうか。

                            未完

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*無意味な「倭人伝」批判
「魏志倭人伝」は単なる参考資料
その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。

 ここで、ようやく、具体例が登場します。中国古代史料を門外漢で無教養な「近代史家」(自画自賛か?)が論じるのは無謀です。「魏志倭人伝」を「五次資料」と「絶賛」するのは意味不明です。一、二次と、どうやって数えたのか、と意味不明の暴言です。問題は、取り次ぎ回数では無いのです。物知らずの無教養な東夷、地下数千㍍の「五次人物」がなにを言うかという感じです。二千年後生の無教養な東夷の「近代史家」(自称か?)など屁の突っ張りにもならないのです。
 ちなみに「有名」なのは、二千年後生の無教養な東夷だけで、別に、中国二十四史の中で、目立つわけでもない、わずか二千字なのですが、どうして、「有名」だと思い込んだのでしょうか。

 ちなみに、この時代の「国内記録」は、一切残って「ない」ので、わずか二千字の「魏志倭人伝」が、二千年後生の無教養な東夷に「聖典」扱いされるのは、むしろ順当です。つまり、実在する確実な史料を根拠にするのは当然です。表現放棄は、「無能な著作者の最後の隠れ穴」ですが、しっぽ丸見えです。何しろ、「ないもの」は、論じようがない」のです。

実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。

 「日本書紀」を無造作に擬人化していますが、同書は、単独の編集者の創作でなく、当然、複数の編集者が多様な元資料を組織的編集体制でつきあわせたものですから、「誠実」にと力んだかどうか知ったことではないのです。神がかりというか、憑きものというか、「見てきたような」法螺話横溢です。空っぽな脳の炸裂は悲惨です。
 氏の書き物は、終始、文章が泳ぎまくり踊りまくりで、意味不明なのも困ったものです。「当惑」などと子供じみた泣き言を云う場合ではないのです。いや、「当惑」は、後世の凡人の片言ですから、ここで批判しては「筆の汚れ」なのでした。よく、「炸裂」を洗い清めることにします。御自分の粗相は、御自分で尻拭いして欲しいものです。

『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。 以下、衆知なので省略

 書紀の当該部分は、「魏志」から原文を引いて校正すると「間違いだらけウソまみれ」です。時代の叡知を集めた「日本書紀」編纂後のやっつけ仕事と見えます。史料原文を引用された方は、恥さらしに泣いているでしょう。「晋起居注」引用漏れも痛いところです。
 ともあれ、すべて「日本書紀」の責任であって「魏志倭人伝」には、何の関係も無いことでしょう。「なんての」氏の心身は、大丈夫ですか。

身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

 「ヤマト王権」が正体不明で何の意味もありませんが、どうして、何の関係も無いと断言できるのか不思議です。もっとも、氏の視点は、股覗きの天地倒錯で、北九州の「族長」が、尊重されていたのであり、当方の蛮族は、眼中になかったと見る方が、正解でしょう。
 「身も蓋も」不要で氏の心身は大丈夫でしょうか。ちなみにここは、恥知らずにも太古のネタパクりです。

 ちなみに、「倭人」が最初に交信したのは、中国の東方の辺境で、漢/後漢代以来、蛮夷の対応に慣れていた楽浪郡なのですから、「倭人伝」には、「倭人」は帯方東南に居て、大海中の山島に国邑を結んでいる、北九州に展開した小国の集まり』と正確に理解されていたのです。「ヤマト王権」など、まるで見えていなかったのです。筋がすらりと通るでしょう??

 えっ、お客さん、そんなことも、知らなかったのですか?? 「もぐり」じゃないですか。


                            未完

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*根拠のない(無自覚の)妄想

これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。

 なぜ、三世紀を考証するのに、千年以上後の明史を参照するのか。氏の心身は、大丈夫でしょうか。「明確な史実」とおっしゃるのは、中国史書の中で、「明史」がお気に入りなのでしょうか。それにしても、中国史料の読解ができていないのはともかく、国内の南北朝対峙の事態が、正確に書けないのは、氏の資質を大いに疑わせるものです。「九州を占拠していた後醍醐天皇」というものの、終生天子であった先帝は、叛徒を恨みつつ、とうに崩御していたはずです。
 マヌケにも皇帝も政府も信じたと能天気なことを言っていますが、 蕃夷の奏上は、そのまま史実として記録に留めるのが、中國の蕃夷あしらいだったのです。皇帝も政府(日本政府のことか)も、べつに、蛮夷の申し立てを、そのまま信じたわけではないのです。
 エッ、そんなことも知らないで書いたのですか。

*「億万」という世界
 ちなみに、余談ですが、中国では、太古以来、「億」とは極力書かずに、走り書きしやすい「万万」と書いたものです。字画がやたら多いと、日常の実務で不便ですからね。中国本土では、簡体字になって「亿」と書きやすくしてしまったので、今や、「億」が生きているのは、日本と台湾正体字ぐらいだけのようです。
 と言うものの、グローバルで云うと、数字単位の発達の遅れた3桁単位の欧米諸国には、「億」に相当する単位が無いので大変不便であり、4桁単位で「億」「亿」のある「東アジア」諸国は、一歩進んでいるのです、
 エッ、そんなこと知らなかったというのですか。

*史書を書いたのは誰か~余談
 なお、中国史書は、皇帝の著作物ではありません。特に、魏志倭人伝は、当時の「権力者」(だれのこと?)の知ったところでなく、まして、「政治文書」(何のこと?)などではありません。何かの誤解/妄想でしょう。
 「中華皇帝」(だれのこと?)の「意図」(何のこと?)を知ることなど、現在、過去、未来の誰もできないし、そのような試みは、時間の無駄です。いや、氏か物好きで、とにかく時間つぶししたいのなら、勝手にしていただいて「大丈夫」です。いや、氏のことを身の丈一丈(少なくとも、八尺、2.5㍍越え)の大男だと「セクハラ」表現しているのではないのです。

*無意味な余談
明智光秀は「阿奇知」、秀吉の記述もデタラメ…
魏志倭人伝どころか、例えば戦国時代の記述にしても中国の記述はメチャクチャです。

 中国史で「戦国時代」というと、秦始皇帝の天下統一に先立つ時代です。ちゃんと、勉強してほしいものです。以下、本筋と関係ないので省略
 「インテリジェンス以前の問題」は、白日夢の寝言なのでしょうか。意味不明です。要するに、当記事の内容がいい加減なのは、持ち込んだ日本人の責任なのです。「中国人には漢字の倭人発音は、一切できない」ので、人名表記は南蛮人宣教師の意見かも知れません。
 なにしろ、(野蛮な)南蛮人の言葉には、日本語の美点である柔らかいガ行「鼻濁音」がないので、本国報告は「信長」は、“NOBUNANGA”、「長崎」は、“NANGASAKI”と、固い野蛮なガ行でなく、多少似通って聞こえる“NGA”などでお茶を濁しているのです。
 いや、その辺りは、南蛮人の文書で察することができるのですが、南蛮人の居なかった倭人伝時代の帯方郡官吏が、どのようにして、「倭人」語を、当時の中国語の漢字音に取り入れたかは、正確なところは、誰にも分からないのです。

 後世、百済人は、漢字のふりがなにできる表音文字を工夫していたのですが、中国から、漢字をそのまま学ばないのは不法として厳禁されてしまったので、百済には、庶民の漢字学習を助ける「ふりがな」は発生しなかったのです。その点、東夷の果ての日本は、中国の監視が、比較的緩かったので、百済の迫害の教訓を生かして、ひっそりと庶民も習い覚えることのできるかな交じりの書き言葉を発達させたのです。

 して見ると、結局、いい加減なのは、ものを知らない氏の態度です。

人や地域の名称は音にあてこまれているだけ
中華帝国の正史は「皇帝の歴史」ですから、皇帝から周辺に行けば行くほど不正確と呼ぶのもおこがましいほど、不真面目になっていきます。

 「皇帝の歴史」とは、何の話なのか趣旨不明です。多分、「不(真)面目」の書き損ないでしょうか。中国の「法と秩序」をとことん甘く見ている氏の心身の健康は、本当に大丈夫でしょうか。

「魏志倭人伝」とか、後から出てくる「宋書倭国伝」「隋書倭国伝」を必要以上に、ましてや聖典の如くありがたがる必要はありません。

 また、「ありがたがる」ことを卑しんでいますが、謙虚に資料に直面することはできないのでしょうか。いや、氏は、巧妙に、これら資料は「必要なだけ」ありがたがると、逃げています。誰が、「必要以上」と言えるのか、誠に不可解です。「聖典の如く」の馬鹿馬鹿しさは既報です。
 それにしても、誰に習ったのか、支離滅裂で無様な罵倒筆法です。

ただし、だからといって「魏志倭人伝」が百パーセント嘘だということにはなりません。漢字表記は、特に人や地域の名称は音にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです。

 『「魏志倭人伝」が百パーセント嘘』とは、未検証の新説です。『「魏志倭人伝」は嘘ばっかり』というのが『通説』ではないでしょうか。もっとも、どちらも、実現不能/検証不能な妄想/暴言と言えます。

                            未完

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 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16,07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
 「漢字表記は、特に人や地域の名称は「音」にあてこまれているだけですから、解釈の可能性は広いのです」と「誠実な」発言です。凡そ「可能性」は、無限に、限界不明に広がるものなので、「広い」と刻まれると愕然とします。氏の心身は、時に、健全化するのでしょうか。小見出しの「だけ」は大見得の逃げ口上と見えます。

我が国の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場しませんが、「邪馬台国(やまたいこく)」と「倭国(やまとこく)」は音が似ていますし、「卑弥呼(ひみこ)」と「姫御子(ひめみこ)」も音が似ています。

 蕃夷に「正史」は無いので、中国に知られると死罪ものです。
 「音が似ている」との暴言は、なぜそう思うのか、カウンセリングが必要です。
 丁寧に言うと、後漢書に登場した「邪馬臺国」は、「邪馬台国」と字が違い、発音も違うのですが、その程度のことも知らないでいるのでしょう。三世紀当時、「倭国」をヤマトコクと発音することはないのです。「姫御子」は、三世紀当時の史料に存在しません。好き放題に書いていて、誰も止めないのが不思議です。出版界に職業的な良心は存在しないのでしょうか。

完全に嘘ではなく、魏志倭人伝に登場する人物に相当するような誰かが日本列島にはいたかもしれない、という、そのくらいの仮説は立てることができるでしょう。
 「不完全な嘘」など、何の役にも立たないでしょう。因みに、臆測では「仮説」は立てられないのです。せいぜい勉強してください。

日本書紀を無視して、「中国の歴史書」を絶対視する違和感

 二千年前の異文化著作に「違和感」がないなら神懸かりです。氏の偏愛する「絶対視」は、時代錯誤の漫談用語です。

受験生が丸暗記させられる用語を羅列します。
・漢書地理志 =漢の時代。楽浪郡の向こうで倭は百くらいの国に分かれていた。
・後漢書東夷伝=後漢の時代。光武帝に挨拶に来た倭奴国王に金印をあげた。
・魏志倭人伝 =三国時代。倭の邪馬台国の女王卑弥呼に親魏倭王の金印をあげた。
・宋書倭国伝 =南北朝時代。宋に五人の倭王が次々と挨拶に来た。
・隋書倭国伝 =隋の時代。倭の多利思比孤(タリシヒコ)が生意気な挨拶をした。

 氏の創作はともかく掲示されているのはいい加減な史書名とそれに続く「字句」であって、「用語」等ではありません。随分いい加減で、すべて誤解に過ぎません。「金印をあげた」と五人の倭王訪宋と俀国王訪隋挨拶新説連発には失笑します。

ふう~ん。飛ばして次。三国時代の中国は、魏・呉・蜀に分かれていました。日本列島から一番近いのが、魏です。「魏志倭人伝」には、魏の明帝が卑弥呼に対して「汝を親魏倭王として、金印・紫綬を与えよう」という勅を発したということが書かれています。

 そのようなことは一切書かれていません。「おねむ」の時間でしょうか。

*書紀聖典化の徒労
これも何回か紹介しましたので、次。さっさと本節の主題です。
江戸時代から繰り返される「倭の五王」の議論
日本の歴史学者は、「讃・珍・済・興・武」がどの天皇にあてはまるかを必死になって研究しています。別に戦後歴史学の弊害でも何でもなく、江戸時代からあんまり進歩せず。どうみても、系図が合いません。さすがにこればかりは、『日本書紀』の系図は間違いだと言い出す愚かな学者がいないところが、古代史学者の良識でしょう。近代史だとそのレベルのやらかしが日常ですから。

 当然、史料として確立されていない「書紀」の記事に、悉く疑念を呈するのが学問の道ですから、氏のように、何も知らない門外漢の生かじりで「愚かな学者がいない」とは、知らない者の強みから来る天下無敵の自爆発言ですが、氏の自爆はここまでに多発していて、今更言うことはないのです。
 何故、誰も教えてあげないのか、不思議です。
                            未完

新・私の本棚 番外 倉山 満 学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり 6/6

日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由 PRESIDENT Online 2023/11/04
 私の見方 ☆☆☆☆☆ 知的なゴミ屋敷 早すぎる墓誌銘か  2024/03/16,07/27

*加筆再掲の弁
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*承前
ただ、雄略天皇が「武」に当たるのは間違いないとして、逆算してその前の時代を考察しているのです。 中略

 「雄略天皇が「武」に当たるのは間違いない」との「仮説」は、書紀崇拝者に聞き心地が良いので信奉されていますが、「間違いない」とは、何かの勘違いでしょう。本当に、本当に間違いないのなら、とうに全て解決しているはずです。解決しないのは、「仮説」が間違っているからではないでしょうか。普通の時代考察は、そのようにして、脆弱な仮説を淘汰して進化するものです。
 いや、別に、人の生き死にに関することではないので、冷徹に見きわめるべきです。
 「中国の史書絶対視の歴史観」が、どこのどなたのことか不可解ですが、中国史家が東夷「書紀」を全篇確認完全否定とは見当違いでしょう。
 「書紀」の継承について評すると、古来、平安時代までは「聖典」扱いされていたのか考証がされていませんが、鎌倉時代以後の武家の時代は「危険思想」、禁書扱いで考証されず丸ごと「トンデモ本」扱いされたと見えます。

中略  特に、第二十一代雄略天皇は超狂暴な天皇として描かれます。 中略 本当でないなら、何のためにこんな話を書くのでしょうか。

 ご質問には返事できませんが、所感は同感です。

 このあたりの氏の「超」「グロ」嗜好には関与しませんが、それを公開するのは勘弁して欲しいものです。当然の生理現象でも、公衆の面前ではご勘弁いただきたい。

*無知/無理解なのは誰か
「わからない」に向き合う態度が欠けている
別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。

 氏には、ご自身の専門分野である「憲政史」なる耳慣れない「学」に付いて、ご託宣を述べる権利があるとして、「古代史」について、素人の聞きかじりをご講義いただくのは、ご遠慮いただきたいところです。
 まして、すべての歴史学者に神がかりを述べるなど、僭越の極みでしょう。思いあがりは程々にして、周囲の方とも相談して、取りかえしのつかないことに成らないよう、ご自愛いただきたいものです。

◯終わりに
*蓼食う虫
 それにしても、著者の拙(つたな)い筆を暴露するという扶桑社新書のすさんだ営みがプレジデントオンラインに活写されていて、一冊の新書の杜撰な紹介を公開したので、関係者に対する世上の信頼性が一斉に低下するのは、見事です。

 古来、途方もない新説も繰り返し説けば、百人に一人の賛同者が得られるとの箴言があり、氏の例は、筆勢さえあれば、五十万部は売れるという例のようです。「蓼食う虫も好き好き」という事です。

 ちなみに、蓼の(おそらく)ひどい味も、虫に味覚はないので食べて種をばらまく虫がいます。それで蓼は世代を超えて生き続けます。むしろ、(おそらく)独特の匂いで鳥や虫を遠ざけて、一部の虫に好まれることで、互いに生き続けているかも知れません。進化の妙でしょう。

*蝦蟇の油
 締めめいたことを云うと、氏は、無自覚/無知の強みで、断言/誹謗をくり返していますが、いずれ、知識を身につけた後は「蝦蟇の油」の例え同様、ご自身の醜態に恥じ入るしかないでしょう。勿体ないことです。

                            以上

新・私の本棚 番外「魏志倭人伝」への旅 ブログ版 1

邪馬台国研究の基本文献「魏志倭人伝」とその関連史書を探求する Author:hyenanopapa 2024-06-28
私の見立て 当記事限定 ★★☆☆☆ 即断の書き捨て         2024/07/01, 07/27

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに 古田史学論集批判のしっぽ
 当記事は、長年健筆を振るうブログ主(hyenanopapa 以下、筆者)の健在を示すが、筆勢まかせの即断に苦言を呈する。読み囓り論難批判の姿勢を示すため引用を掲載することを、くれぐれもご了解いただきたい。

 『古代に真実を求めて26集』を読む 谷本茂(前半部は、圏外として割愛)
7世紀、九州王朝説の立場から裴世清が訪れた先を九州王朝とする人々は、どういうわけか〝裴清の道行き文〟に触れようとしない。その最後に【既至彼都】と書いてある以上、この文の解釈は避けて通れないはずなのに、である。
 [中略]【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】この文をどう読めば竹斯国が俀国の都と解釈できるのか?「邪馬壹国の史料批判」(松本清張編『邪馬臺国の常識』所収p162)で、『太平御覧』所引『魏志』の「又南水行・・・」の記事について「もう何の見まちがう文章に書き改められている」と。[中略]
 【又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国】は「何の見まちがうこともな」く順次式に読むのだ!と古田氏は仰ってます。竹斯国は単なる通過国―
 よって、九州王朝の都は竹斯国にはありません!

◯コメント 乱文御免
 筆者は、古田氏の失言に執着していて「九州王朝」偏愛とも見える。ちなみに、古田氏が氏の著作外の呉越同舟松本清張編『邪馬臺国の常識』 で主張したのは史料解釈の基本原則である。
 『「倭人伝」道里記事解釈で文法論が言われるが、肝心なのは記事文意であり、(例えば)大部の類書「太平御覧」の編者は、自身の見識で文章を整理している』との指摘(大意)であり、これを正史蛮夷伝として編纂された「俀国伝」に押し付けるのは、古代史官ならぬ古田氏の文意を理解できていないと見える。(『邪馬臺国の常識』は、古田氏にしてみたら到底賛同できないタイトルであるが、 松本清張氏の知遇により、あえて火中の栗を拾ったものと見える)
 筆者は、古田氏の「主張」を、都合のいいところだけ読みかじりして、手頃な「読み」を造作し、自作自演で俎上両断していると見られかねない。別に古田氏に限ったことでは無いが、古代史書の解釈は、「読み」「書き」の個人の脳内への情報の入出力段階で、手違いが出るものであり、まして、脳内での理屈づけにも、勘違いはつきものであり、あまり、ぱっと見の「思い込み」に振り回されないようにしていただきたいものである。
 何れにしろ、「俀国伝」に関する古田氏の論考批判は、古田氏が自説著作を重ねたものを批判するものであり、筆者の愛読書に偏ることなく、要するに、適切な出典・文脈を、自身の責任で選ぶべきものと思う。ここは、筆者にして、ずいぶん粗雑である。

*「竹斯国比定」の否定
 筆者は、竹斯国は単なる通過国筆者の価値判断を強引に押し付けるが、「魏志倭人伝」での伊都国「到」着との明記を通過国と読み替えるのと同様であり、とは言うものの、はなから否定はしないで、根拠不明としておく。
 筆者は、『その都(みやこ)が「竹斯国」にない』と断定したが、暗に初出の「秦王国」に比定したかとも見える。ともあれ、筆者は根拠を示さず結論を投げ出していて粗雑にみえるが、言わぬが花であろうか。確か、著者は「九州王朝」を否定しているはずなのだが、ここで、どんでん返ししているとも見える。

*地図の思想 Google Map利用規程遵守
 当地図の追記が不明瞭である。利用規約を遵守し、ご自愛いただきたい。

*不適切な引用作法
 時代錯誤、お手盛りの「地図」掲示に関わらず、本論論義は断片佚文で句読点は無い。古田氏の発言ともども文脈を読みちぎって食い散らかしているので、筆者ほどの見識の方にして、誤解を避けられず、何とも不用意と見える。ご自愛いただきたいものである。

 「俀国伝」で、「魏志倭人伝」公式行程の未詳部分、(山東半島東莱以降。狗邪韓国、対海国不通過)一支国以西と竹斯国以降が補充されたのであり、「倭人伝」既出部分は、自明のこととして「倭人伝」依拠しているので、重複を避けていると見える。文林郎裴世清は、職掌柄、史書書法に厳密であるが、後生読者は隋書「俀国伝」だけ読んで迷走しているように見える。いや、遡って「倭人伝」道里記事の読解にも、かなり難があると見えるが、当書評の圏外である。

◯私見披瀝
 言葉を足すと、竹斯国が「倭人伝」到達地伊都国である』のは、「裴世清とその読者に自明である」ことから、「倭人伝」で不詳の秦王国などが、「余傍」のついでで書かれたと見える。筆者は、特段の根拠が無いままに、裴世清一行が竹斯国を通過して、さらに東進し、海岸から渡海した」と即断した」と見える。筆者は、さらに(又)臆測に耽って「道行き文」不記載の長途海行を図示された要するに、いずれも「俀国伝」には書かれていないと見て取れるはずである。筆者は、脳内の隋書「俀国伝」を幻視しているのだが、それを自覚していないのである。
 結論を急かずに、ユルユルと文意を追えば、そのように一刀両断できないのに気づいて頂けるはずである。筆者ほど博識の方が、臆測にどっぷり浸かっているのを自覚すること無く、事ごとに断定を急ぐのは不用意と見える。

                               以上

追記 2024/07/27
 肝心な意義を書き漏らしていたので、以下、追記する。
 氏は、勝手に、読み囓りの手管で「短縮改竄」しているが、丁寧に引用すると、以下の文脈が関連していると見るべきで有る。「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」は、文などでは無く、断片であって、これだけで、文意を解するのは、子供じみた読みかじりである。氏のために、軽率を惜しむものである。
 ちなみに、行番号、句読点と改行は、文意を考慮したものである。
 1.又東至一支國,
 2.又至竹斯國,
 3.又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。
 4.又經十餘國,達於海岸。
 5.自竹斯國以東,皆附庸於俀。

 氏は無頓着に書き飛ばしているが、ここは、1-4 行程記事四段と5 結論が書かれていると見るものではないかと思量する。特に、5.で「自竹斯國以東」とまとめているのは、2 で倭都への行程を括っているから、3 秦王国(風聞)、4 十余国を経て海岸、即ち海港に至るという報告は、落ち着いて読解していただければ、付け足しに過ぎないと理解できるはずである。ひょっとして、氏は、「又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」まで食い千切って、以下は無視したのだろうか。それなら、軽率の誹りを免れないと見るのである。

 言うまでもないと思うのだが、5「自竹斯國以東,皆附庸於俀。」と総括しているのは、近傍の4 「秦王國」と5 「同國から海岸に至るまでのこれも近傍の無名の十餘國」であって、あくまで揃って竹斯国の東の近隣諸国と解すべきなのである。どうやら、裴世清は竹斯国を離れていないと読むのが、同時代読者にとって自然なのである。

 当ブログでの「倭人伝」道里行程記事解釈は、とうに、確固たる結論に達していて、郡から倭に至る行程は、伊都国で完結していて、「邪馬壹国」は、伊都国の近傍にあり、郡からの使者は、伊都国で使務を終えている、それが、倭人伝の真意である、と確認しているのであり、現代風に言うなら、九州島の北部、かつ中央部にとどまっているというものである。
 倭人伝に書かれている内容を強引に引き伸ばして東方に行程を延伸するのは、原文改竄しかないという意見である。

 ここで、原文改竄する視点であれば、隋書俀国伝でも、竹斯国が到達点と認めることはできず、東方への海上行程を捏ね上げねばならないのだろうが、それは、壮大な創作であり、隋書俀国伝文献解釈とは無縁の衆生と言わざるを得ないのである。

以上


 

2024年7月24日 (水)

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
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〇はじめに
 「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。

*総評
 率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。

 特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられているが、それぞれの文献史料は、それぞれ固有の用語で書かれているので、字面だけで「普通に」理解することなど、夢物語であるが、氏は、そのような難題に、何のこだわりも無く取り組んでいると見える。つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が、現代日本語と思われる用語で書かれているようである。その間には、大きな格別の異同があると見えるのだが、氏は、むしろ淡々と述べられている。
 言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓には、「中国」に従属している「蛮王」の葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を念入りに誠意をこめて精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。要するに、対象用例の「数」が増えるほどに評価が低下するので「効率」は、負の極値に向かうのである。結局、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。
 言い方を変えると、一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した「論者の見識」が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする
 論考の信頼性は、引用史料の「紙数」や「目方」で数値化される/できるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な/質量的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証され倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑/子供だましと言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。
 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されているようである。
 倭国の「乱」は、「列島の広域、長期間に亘る」と拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝」に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明、音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。「中国」の基準では、それらが「郡」に対して名乗りを上げていたら、「国邑」と認められるのであり、一切関わりなければ、無名にとどまるのである。

 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、諸国の「往来」、同時代語で言う「周旋」が徒歩に終始する交通事情、即ち、文書通信が存在しない交信事情としたら、と見えるのだが、その点に言及されないようである。

 ジグソー「パズル」の確実な「ピース」が、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのかわからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されているように見えるが、なぜ経済活動中心の筑紫から忽然と遠東の纏向中心の「政治的(?)」活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。
 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に対して根拠無しに「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。
 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて、遮二無二拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、「若木の傷は木と共に成長する」という寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
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*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。

 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語、法制などが共通であり、当然、街道網が完備して、「盟主が、書面で月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する」国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製(手前味噌)「倭人伝」であるが、氏は、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、広域古代国家の結構を構築され受け入れたのであろうか。

 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。

 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万個でもでも、何十年どころか、一世紀、二世紀掛けて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、年功を歴たと見える纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために文字資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥付き、ウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。なかったものは、復元しようが無い。
 要するに、陳寿を起点にすると、「二千年後生の無教養な東夷」による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、各項目は、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言を提起されているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。

 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも、ご高説は、「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めた」とおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。

 真剣に考えればわかるはずなのだが、卑弥呼は、「一女子」、即ち、男王と「男王の娘が嫁いだ婚家での外孫」という親族関係の絆が明記されていて、氏の夢想するような「新たな王制継承体系」など、示唆すらされていないのである。そもそも、巫女、つまり、祖霊に仕える「墓守」として不婚の身分であった卑弥呼が、何故、後継者を選ぶ体制を築いたのか、不可解もいいところである。
 「共立」すら、男王の家男王の娘が嫁いだ婚家の妥協から自然に生み出されたものと見えるから、それを持って画期的とするのは、大変な考え違いであろう。要するに、氏は、根拠とすべき「倭人伝」を適確に解釈するのに不可欠な「教養」を有さず、自前の、お手盛り物語を創作しているのではないかと危惧されるのである。
 本誌は、「纏向学研究」と銘打たれているから、前田氏の示された創作は、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「纏向学の達人」として令名を馳せるのは、前田氏である。

 だれも、ここに示された前田氏の提言に対して、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

 以下、前田氏の提言として、「盟約」が提起されているが、現下に、「コメント」として異議提示できるのは、困ったものである。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 コメント 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。
   古典的には、「女子」とは、国王のむすめ(女)が、嫁ぎ先で産んだ孫娘(子)、つまり、「外孫」である。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 コメント 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていた「巫女」と推定される。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。
   中国古代史では、常識であるが、氏は、ご存知ないようである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 コメント 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ「総選挙」するのであろうか。奇想天外である。
   新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   つまり、天下第一の巫女である女王「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、
   いずれかの国王が統轄していた時代、殊更「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される
   笵曄「後漢書」倭条記事と整合しなくても、不思議はない。
   どのみち、笵曄は、「倭条」を「根拠となる確たる史料のない臆測」として書き残したように見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、
   しかるべき出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。
   

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
コメント 「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はあり得ない。氏は、陳寿が「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかって
   いないのではないか。史官は蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさがたが、そのような不法な概念を
   認めることもない。
   そもそも、「大市」なる造語が不意打ちで、不審である。
   氏の造語では無いのだろうが、古代史文書で、「市」(いち)は、多くの人々が集い寄って「売買」する
   盛り場であり、國邑にある市は天下一の盛況であったろうが、氏が想定されているような「都市町村」なる
   聚落の大小階梯で最大の「都」(もっとも大きなまち)に次ぐ「市」(おおきなまち)とは、異なる
   言葉/概念なのである。
   朝、多数の庶民が集い来たり、昼には、それぞれの居宅に引いてしまう「市」は、王の行政の中心とは
   なり得ないのである。

   率直なところ、氏は、『当時信頼に足る史料は「魏志倭人伝」だけである』と理解した上で、『そこに提示
   された概念を理解し、その基礎の上に、自己流、つまり、無教養な蛮夷の言葉/概念を形成しないと、
   客観的に、つまり、同時代「中国」人に理解されない』という謙虚な自覚を出発点とすべきでは無いだろうか。

   言うまでもないが、氏が依存している時代錯誤の世界観は、氏の独創では無く、「多数の」「史学者」に
   共通の理解だろうが、だからといって、意味不明な用語の泥沼を形成しているという指摘は
免れ得ないと思う。
   (2024/01/10追記)


「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
コメント 毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
   女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではない。天子は、更迭、退位できるもの
   でもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って、大半の各国国主は、遅参であろう。
   あるいは、そのような、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう「処分」
   するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   以上、ざっと疑問を呈したように、随分ご大層な「結構」であるが、文書化できない時代に、どのように法制
   化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。両手、両足指に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、「倭人伝」の深意を解しない、無教養な不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。
 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)あるいは、共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない
 陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を漁りまくって手に馴染む事例を拾い食いするでは無く、真に有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が「絶対の前提」であり「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。それとも、強制収容所に収監したのだろうか。
 もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、宝捜しの大規模発掘作戦の省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲(レジェンド、大御所)が健在な間は「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。
 かくの如き、壮大な「文化国家」は、文書記録も文書通信も存在しない時代に、持続可能だったのだろうか。

 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。

 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人「纒向学研究」第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆ 墜ちた達人 2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/07/24

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、『「書紀」「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない』理由として、「魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例がある」ように仄聞するが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。
 素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。何しろ、「書紀」原文は現存せず、「書紀」原文を実見した者も現存しないので、臆測に頼らざるを得ないのである。また、現存する写本が武家政権の監視下、どのような承継をされたのかも、一切不明なのである。仄聞するに、武家政権である各将軍/幕府統治者は、天皇家を正当な支配者として説き聞かされている「書紀」は、幕府転覆の教義を秘めた聖典となりかねないので、固く封印していたと見えるのであり、一種の「禁書」とされていたと見えるのである。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」(番客)として遇されたから、後日、「国内」には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立した』とでも、美しく言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が大いに異なる、しかも、用語の誤解をドッサリ詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書紀」に書かれているからそのままに信じるわけにはいかないのである。
 いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた/不十分な知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、当ブログで折々触れている「東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離」も含まれているから、東夷の新作用語頼りで「史書」を理解するのは、錯誤必至と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして各地に伝授せよとあり、「金文や有印文書で通達せよと言っているのではない」倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この「火と水の試錬」に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、「倭人伝」は「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考に地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。
 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

 追記:本記事公開後、前田 晴人氏が物故されていることを知ったが、記事全体に修正の必要はないと信じる。学問の世界で、率直な批判は、最上の賛辞と信じているからである。

2024年7月17日 (水)

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 1/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

◯始めに 資料引用のお断り
 以下に掲示する2表は、批評の目的で資料の一部を引用する著作権法に適法な引用であることを念のため申し添えておきます。
 近来、下記表Ⅳ―2の韓伝項を削除した改変引用/盗用の例があり、著作権侵害に当たるので、殊更掲示したものです。
 私見では、これら2表は、榊原氏により、著作権の存在しない公知資料である正史陳寿「三国志」「魏志」東夷伝を精査した仮説を集約したのは、氏独特の用語も含め氏の著作物であり、公開の時点で著作権が成立しています。
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 したがって、これを単なる公知の数値(複数)を羅列した作表として一部を切り取って自論の根拠に利用するのは、「盗用」以外の何物でも無いと思うのですが、世上、一定の技術思想で構成された作表を「データベース」として斟酌せずに利用している例を、あえて事を荒立てて指摘しているものです。

◯総論
 ここに掲げる小論は、榊原氏が進めた論考に対して、素人が異論をはさむ形式をとっていますが、あくまで、榊原氏が構築された論考に絶大な敬意を表したものであり、端的に言うと、榊原氏が、「在来の「通説」が陥った陥穽の克服のために、資料原典に遡って考察する視点から、本書で冷静に展開されている」貴重な論考が、『実際は在来「通説」が陥った誤謬を踏襲している』点を具体的に指摘し、異論を提示していることを予告しているものです。

*理念の動揺
 手短に言うと、本書の「帯」に書かれている『「魏志倭人伝」偏重の視点を戒め、「魏志倭人伝」が編纂者である陳寿の意向で教戒の書とされているため、意図的に組み込まれた「暗号」で造作されている』という「倭人伝陰謀説」と言われかねない主張が、榊原氏の『「予断」と「偏見」を排する』という理念にそぐわないと思われるので、考えなおしていただこうとする次第です。

 私見では、世上の「通説」(の陥っている陥穽)は、陳寿が想定した「読者」の備えるべき教養を備えていない後生読者が、自家製の「予断」と「偏見」を抱えて読解しようとした齟齬の発現であり、遡行して是正しないと、所詮同じ道を辿るものと感じる次第です。
 後段で、具体的な「予断」の是正を図っているので、ご理解頂きたいものです。決して、高度な理念をどうこう言っているのではないものです。

 と言うことで、苦言を書き始めましたが、以下、一般「読者」に論じる姿勢としたため、視点、口調が一転し、時として「読者」の不勉強を誹るのは、容易に想定される反論を予め克服しているものであり、決して、榊原氏の無教養を誹っているのではない点を御理解頂いた上で、読み進んでいただくことを御願いします。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 2/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*異論の展開
 以下、氏の論考に異論を述べますが、批判的な意見に、氏が同意されるか反対されるかは、氏の意向次第です。氏は、私の息子でも孫でもなく、私の言うことを聞く義務はありません。わらべ唄で言う「ほっちっち」です。
 ともあれ、異論の背景として、以下の論点で、氏と意見を異にすることを明言しておきます。文体が、断定的なのは時の勢いで、他意はありません。

1.「倭人伝」道里記事の由来について
 榊原氏は、倭人伝に展開されている道里行程記事が、正始年間に倭に派遣された使節(正史遣倭使)の紀行文に基づくと見ているようですが、大筋として誤解であると考えます。遣倭使は、帯方郡太守の責務として、大量の下賜物/宝物を携えて皇帝の見解を辺境蕃王に伝える使節として派遣されるから、出発に先立ち、派遣先の素性と道里行程、つまり、所要日数(所要費用)の裁可を得ているはずです。道里行程は、既に確定していたと見ます。

 公孫氏遺物の「万二千里」を真に承ければ、一日四十里として三百日、十ヵ月かかりますが、宝物を、そのような途方もない遠隔地に、安直に送り出せません。して見ると、その段階で、道中四十日程度と知れていて、四十泊の宿泊/通過地と目的地から了解書信が届いていたと見ます。帰り道は空荷でも所要日数は大きく変わらないから、全日程概要は知れていたのです。

 「倭人」厚遇を厳命した先帝は逝去し、「明帝」諡号で、「倭人」は後ろ盾を喪いました。先帝違命の厚遇は並の厚遇に鎮静化したと見えます。

 本筋に戻ると、正始遣倭使は、派遣に先立ち計画を上申し、帰国報告もしましたが、報告済事項は先帝の印璽で公文書であり、書き足せても、訂正、改竄は出来ず、「従郡至倭」「万二千里」公式道里は「不可侵」でした。
 ということで、遣倭使の記録は、現地風俗(「法制度」と「習俗」を言う)記録や遠隔地に関する風聞の類いは収録されても、基本的な道里は維持されたのです。

2.陳寿の「編纂」について 余談
 氏が、『陳寿が「倭人伝」記事を一から創作した』と見ていると読み取れるのを契機とさせていただきますと、『史官の務めは、後漢、曹魏以来雒陽に継承されている公文書、即ち、「史実」を忠実に集成するのが本分である』から、当時の読書人は、その基準で「倭人伝」を査読し「倭人伝」「陳寿原本」[裴注以前の「本」(Edition)]は、正史に値すると認定したのです。

 ここで確認しておくと、陳寿の編纂に於いて、創作・風評の類いは、最低限と見るべきです。それは、周代以来厳然と継承された史官の責務ですから、全ての『倭人伝論』は、ここから始まるべきです。いや、これは、氏の意見を憶測しているので無く、当分野論客は、陳寿「三国志」「魏志倭人伝」が、持論による利益を妨げるものとして、支持論は、『聖典化』陰謀と曲解して、はなから喧嘩腰で論義する向きがあります。
 陳寿の立場は、二千年後生の無教養な東夷の知りうるところではないので、政治的と見える勝手な決めつけは、恥ずべき蛮習と思うべきです。ということで、あとがきで榊原氏が斥けた議論に、ついつい過剰に反応しましたが、今少し辛抱いただきたいのです。

 言い方を少し変えてみると、世の中には、「魏志倭人伝」が所属陣営の経営に対して「邪魔でしょうがない」から、寄って集って策戦会議し、不注意な改変から意図的な改竄に至るまで、高度な創意工夫をこめて陳寿「いじめ」に励む玄素名士が多く、榊原氏ほどの学識も、世間の義理に。多少は、影響されたかもしれないと思います。いや、軽率な決め付けは失礼します。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 3/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*陳寿擁護の序奏
 古代史官「史記」司馬遷、「漢書」班固、「漢紀」荀悅、後漢紀「袁宏」の生き様を見れば、辛うじて天命を全うした陳寿の厳正さが見えるはずです。
 現代「玄素名士」は、なべて言うと、二千年後生、無教養の東夷のものであって、三世紀の事象に御自分の(現代風の)自然な/普通の倫理観/処世術を投影していて、殆どの場合、陳寿の死生観/使命感/史官像が見通せていなと思えます。
 (当方は、世間の義理に迫られていないので、ついつい、何事も、不躾になってしまうことをお詫びします)(初稿時、あとがき未読)

 冷静に見れば、陳寿は、「権力者」(誰?)に、無節操に阿(おもね)る(どうやって?)のでなく、史官の『憲法』である「述べて作らず」に殉じていた(とことん拘っていた)とわかるはずです。勿論、冷静に見ることが出来なければ、耳に蓋をしていただければ結構です。

 いや、あわてて言い添えると、これは、榊原氏著作の批判でないのは御理解いただけると思います。どこかの「野次馬」(結構数が多い)のことです。榊原氏だけでなく、とばっちりがかかった人には、申し訳ないと謝るしかありませんが、何しろ、無力な孤軍であるので、御容赦いただきたいです。

3.韓伝「方四千里」について
 榊原氏は、「方四千里」が韓国領域の形状/寸法を示すと判断し、(三世紀にない)現代地図から判断して、その「里」は、ほぼ80㍍程度と裁断しています。しかし、「方四千里」が、幾何学的判断を示したとするのは早計と思われます。
 当時、地形図はなかったから、半島南半、韓半島の地形は知られていなかったと思われます。「東夷伝」では「海中山島」であり、それが離島、州島でなく地続きとわかるのです。その認識に対して、現代人から見て正確、しかし、当時の地理観にない地図を示すのは、錯覚を誘うものであり感心しません。
 当記事は、少なくとも氏の言う「距離感/観」の埒外であり、道里計算表からの撤回をお勧めします。ともあれ表Ⅳ―1から、韓伝を除外できます。

 私見を蒸し返すと、「倭人伝」の「郡から倭まで」の行程は、読者が望まない、益体もない「なぞなぞ」でなく、その場で読み解ける明快なものと見るべきものではないでしょうか。であれば、道里記事に「方四千里」などと異次元の数字を見出し、幾何学的な解釈でこれを「道里」の足し算計算に混ぜ込むのは、高貴な読者に喧嘩を売っていると取られかねないのです。
 普通に考えると、「道里」計算に紛れ込まないように、異次元とわかる「方里」の数字を混ぜていると見るものでしょうか。
 道里計算は、郡から狗邪韓国に到る街道七[千里]に、以下、三度に渡る渡海水行の三[千里]の一桁数値の足し算で、その場で暗算できる程度ですから、当時の読者は表形式になっていなくても、アッサリ諒解し通過したはずです。

 蒸しかえしですが、陳寿は、本筋行程に、込み入ったわき道が入り込まない書法を工夫しているのです。なにしろ、史官は、実務本位の下級官であり、「聖職者」でもなければ「預言者」(神の代弁者)でもないのです。いかに、明快に文字表記するかに注力していたのです。

*苦言の予告
 以下、本著に示された榊原氏の労作の相当な部分の空転を指摘するのは、たいへん心苦しいのですが、あえて苦言を呈すると予告しておきます。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 4/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*「方里」排除の序奏~詳細後出
 「方里」の意義/意味については、末尾で論じてますが、本質を云えば、「道里」は一次元数値であるのに対して、「方里」は異次元の二次元数字と明記されたとみるものでしょう。異次元数値は、加算できないのです。
 氏は、マトリックス作表されていますが、「東夷伝の2点間距離」と銘打ちながら、「道里」と異次元の「方里」が混在して、縦方向の加算計算ができず、計算表の意味を成さないことに気付かれていないのでしょうか。

4.「循海岸」水行~東夷に普通の躓き石
 大前提ですが、正史記事鉄則として、当記事は郡治を出発して陸上街道を「南下」と決まっています。(大半の)読者がこの大前提に気づかないのは、(大半の)読者が必要な教養を持たない無資格者ということです。いくら(大半の)読者が研究者の大半であろうと権威者であろうと、人数が多かろうと構成比が高かろうと、当記事の指摘を目にして回心しないなら無資格者です。
 それはさておき、榊原氏は、陳寿が『帯方郡官道を行く行人/文書使が、行程基点の郡治から西に海岸に出る「陸行」を記事から割愛して、いきなり「沿岸」航行する破天荒な記事を書いた』と誤解しています。陳寿も、二千年後生の無教養な東夷が、誤解と強行するとは思わなかったはずです。
 あえて言うなら「倭人伝」は、郡から狗邪韓国にいたる行程が、時に東に、時に南に向かうと明記しているのに、無断西行は不法です。

 中国で、本来「水行」は河川流に沿った航行に決まっている一方、史官が遵守する書法では、行程道里は並行している「陸行」道里を登録するので、史書に「水行」道里記事は存在しないのです。
 渡邊義浩氏が、この点を間接的に断言しています。(「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2164)(2012)pp.132) 司馬遷「史記」夏本紀にある禹后の「寓話」しか先例らしきものが見当たらず、この記事は、「寓話」なので、先例とならないということが示されています)
 なにしろ、先例が存在しないことを立証するのは、大変困難(事実上不可能)なので、笵曄「後漢書」、及び、陳寿「三国志」を読破し、通暁した先賢の断言は、代えがたいものがあります。

 これに反して、『先例の無い 「水行」、それも無法な「海上航行」を、無警告で起用するのは、読者を欺瞞することになり、論外である』ことを見過ごしておられ方が大半と見えます。もちろん、海上に「道」は無く船上に道里はないのです。陸上に漢制街道が存在するにも拘わらず、「水行」「七千里」と書くことはできないのです。

 郡治を出て陸上街道行程は、一路、従(縦)、南下ですが、それでは、狗邪韓国の海岸に達したときに、「大海」、つまり、しょっぱい「塩水の流れる大河」を渡る行程が不意打ちになるので、事前に中原街道で大河を渡船で渡るように「海岸を循(たて)にして大海を渡ることを水行という」と予告定義したのです。
 そして、狗邪韓国の海岸、海津で「始めて」渡船に乗り(大海を)渡海する(ことになる)と書いています。併せて言うと、ここで「其の北岸」は、直前の「倭」、山島の在る「大海」の北岸ということです。まことに、明解です。

 郡から狗邪韓国海岸まで断じて「水行」しないことは自明ですが、ここは陸上行程と決まっているので「水行しない」とは書かないのです。

 陳寿は、正史の行程道里記事として、前代未聞、未曽有として、短い区間で前例のない「洲島」、つまり、大河の中州の「中の島」を飛び石伝いする三度の渡海水行を含む道里行程記事を、誤解のないように明解に書いたと読み取っていただければ幸甚です。もちろん、異例の「渡海水行」は、一回千里と決めた/規定したから測量してないのは自明です。
 ついでに念押しすると、船に乗って大河を流れに沿って行くことを「渡る」と言う事はありません。正史解釈以前の常識です。
 念のため書き重ねると、これは、景初初頭に明帝に報告された行程です。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 5/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

5.対海国、一大国の「方里」談議~詳細後出
 氏は、両国に附された「方◯◯里」を魏使/郡使の踏査測量由来と見ていますが両島道里は渡海水行千里と早々に確定していて、後日踏査測量したとは見えません。「方里」が幾何学的判断とするのは早計と思われます。
 未知の東夷に到る行程がどのようであっても、高貴な読者が容易に理解できるように明解に分別するのが、史官の務めと見えるのですが、とかく、「乱」を求める方が多いようです。
 なお、三度の渡海それぞれ千里と切りの良い千里単位の道里に百里桁の端数を付け足すのは無効です。
 両島「方里」は、「道里」では誤算/邪魔物です。
 両島「方里」は、現代地図から見てとれて、俗耳に好まれますが、韓伝「方七千里」と同様一次元「道里」と別次元で、合算するのは不合理の極みです。

 表Ⅴ―2は、狗邪韓国から末羅国までの「水行」三千里のはずが、郡から狗邪韓国の迂回水行七千里を含め計万里と不都合です。一方、㋐㋑㋒の陸行、ありえない隠れ「水行」を、無法に勘定したとしても、陸行が不足して、到底一月とみえず不穏です。

 本項で言うと、㋐㋑㋒の陸行は、無意味と断定されます。

 この程度の齟齬は、一瞥で見て取れると思いますが、氏は、古田武彦氏の論議の手触りの良いところだけ取り上げているようにも見えます。

6.「水行」「陸行」仕分け/分別について
 氏は、几帳面に行程を切り分け、「水行十日陸行一月(三十日)」の明細を論じていますが、「倭人伝」は、郡治から王治の所要日数初出であり、読者の教養/見識を考慮として煩瑣を避け、明快に分別されていたものと思われます。

 氏は、表中に当時存在しなかった算用多桁数字、小数、SI単位を避け最低限の有効数字としましたが「千里」単位概数との明示が賢明と思われます。
 小論では、「陸行」第一段階が、郡から狗邪韓国まで七[千]里「水行」第二段階が、狗邪韓国から末羅国まで三[千]里「陸行」第三段階が、末羅国から「陸行」と書いた後、伊都国まで(地理、道路状況、牛馬の有無が不明)の倭地 二[千]里の三段階、計[万]二[千]里としています。
 水行三千里、陸行九千里と明快です。

*郡倭「万二千里」の起源
 これは、行程の実際の道里と関係無く、後漢献帝建安年間に公孫氏が最初に「倭人」を東夷として受け入れた際に、遠隔地として郡治から王治まで万二千里としたものであり、景初二年に曹魏明帝が楽浪/帯方郡を「密かに」接収し、道里を(誤解)承認したおかげで、明帝遺詔とされたものです。

 辻褄合わせで、「郡から狗邪韓国は七千里、狗邪韓国から末羅国は三千里」と按分されましたが、郡倭万二千里の残渣である末羅国から陸行の倭地二千里の「距離観」は不明瞭です。所詮、千里、二千里刻みで計数教育された官人は、概数帳尻は問えないと了解していたと見えます。

 結局確認できたのは、一度明帝が公布した「万二千里」の綸言は、遺詔とあって、遂に是正できなかったという台所事情です。

 「倭人伝」に、実務に即した「都(都合)水行十日陸行一月(三十日)」が追記されました。日数明細はないが、それぞれ一日三百里と見て陸行九千里は三十日、水行三千里は十日と読者に検算できる大雑把な辻褄合わせでした。

 ちなみに、郡から狗邪韓国までは、騎馬移動/馬車移動の宿場完備の官道ですが、末盧国上陸以降は、牛馬のない未整備「禽鹿径」で「詳細不明」であり、倭地の二千里は、道里から所要日数を見当がつけられません。

 おそらく、公孫氏に身上を示した時点では、末盧以降は不明であったと思われます。見当がつけられない行程は、本来、「倭人伝」に書く必要もなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 6/8

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私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

*不朽の「公式道里」
 後世、大唐玄宗皇帝は、郡国志や地理志の「蛮夷に至る行程道里」が、実態と異なると「激怒」して実態調査を命じましたが、膨大な人員期間を費やした調査で公式道里が「訂正」されなかったのは言うまでもありません。
 復習すると、「倭人伝」道里行程記事は、陳寿の責任編集で明快に成形されたと見るべきでありパッと検算できるのが、編纂の妙技と言うべきでしょう。

番外 「戸数」について 余談
 かねて力説の通り、倭地には、労役を助ける牛馬がないので、各戸は、人力で耕作し納税は少ないので「良田」でないのです。近場の対海国と一大国は「良田」が少ないと苦境を述べますが以南諸国も大差ないと知れています。

*「倭人」の評価
 次の二項目は、「倭人」の納税力/派兵力評価が困難と示しています。
 其人壽考、或百年、或八九十年。各戸は労働力にならない年寄りが多い。
 其俗、國大人皆四五婦、下戶或二三婦。各戸は、労働力に乏しい女が多い。
 「倭人伝」行程諸国はなべて千戸代が、各国の実力です。

*「倭人」は、お構いなし
 ちなみに、中国では、秦漢代以来銭納で、全国から京師/東都/首都に銅銭が届いたのです。韓濊倭は銅銭がなくて物納であり、「倭人」は、渡船海峡越えで不可能とみられます。「倭人」は郡に服属せず、郡制非適用と見えます。

*先進の韓国、未開の「倭人」
 韓国の郡支配地は、戸籍/土地制度で戸数確定のはずですが、地力は「方里」表記です。先進の馬韓を含め農地が散在、空洞化した荒地と見えます。
 国内諸兄姉の議論は、現地事情を度外視した時代錯誤「人口論」で激昂の例がありますが、史官は、実務に即した記事としていたのです。

*正史の嘘の皮
 「史実」は、泥まみれで混沌でも、真っ黒い「史実」を真っ白な「嘘の皮」でくるむのが史官の至誠でしょう。「倭人伝」に陰謀論のぺてん仕掛けは論外でも、読者に苦痛を与えないためには、程々の技巧が必要でしょう。

*盗用の顰(ひそ)み
 当記事は、氏の好著の核心部に異論を挟むので、言及を避けていた点が多いのですが、氏の労作である表Ⅳ―2を部分引用/改造盗用して論拠とした論考が見られたので、あえて、火中の栗を拾ったものです。氏の比定地論の邪魔にはならないと思いますが、ご不快の念を与えたとすれば、陳謝します。
*急遽追記  第Ⅺ章 女王卑弥呼の生涯
 榊原氏が、掉尾を飾る卑弥呼小伝表Ⅺ―四において、「倭人伝」以外の不確かな資料に依拠して生年を六十年前進させたのは武断に過ぎます。景初二年遣使の際「年長大」つまり、「成人となった」とする普通の解釈を放棄して七十九歳と断じるのは同時代最有力用例に背いています。文脈から見て、女子王となって以来、数年程度とみるのが妥当です。是非ご再考いただきたい。

◯まとめ 陳謝と深謝
 そして、当方は、氏が、「魏志東夷伝」里数記事について、世上の予断偏見を排して考証されたおかげで、道を迷わずに済んだことに深謝します。
 願わくば、榊原氏ご自身から、本稿に提示した異議に対するご高評により御鞭撻いただければ、幸いです。

                                以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 7/8

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□当ページは、余談です。
*魚豢「魏略」西戎伝 安息記事紹介
國出細絺。作金銀錢金錢一當銀錢十。
有織成細布,言用水羊毳,名曰海西布。此國六畜皆出。水[羊毳]或云非獨用羊毛也,亦用木皮或野繭絲作,織成氍毹、毾㲪、罽帳之屬皆好,其色又鮮于海東諸國所作也。又常利得中國絲,解以爲胡綾,
山出九色次玉石,一曰青,二曰赤,三曰黃,四曰白,五曰黑,六曰綠,七曰紫,八曰紅,九曰紺。今伊吾山中有九色石,即其類。

[羊毳]補填は、当ブログの独自提案。

*安息国の冨

 魚豢「魏略」西戎伝は、劉宋史官裴松之によって、「魏志東夷伝」の付録として、当時、健在であった「西戎伝」善本をそっくり収録したものであり、俗に言うような「佚文」や「短縮所引」などではありません。但し、正史西域伝の形式にはなっていないので、参考とするべきものです。
 内容は、後漢代、西域都督が健在な時期の記録てあり、魏代記録は、殆ど含まれていません。後漢代後期、西域都督を維持できず撤退したためであり、西域は、粗暴で略奪志向の大月氏/貴霜国に支配され、その西方の友好国「安息国」とは、ほぼ「絶」状態だったのです。
 ここに示したのは、安息国らしい大国の風俗記事の一部です。銀貨、金貨が通用し、多彩な「宝石」(貴石、準宝石)、「準宝石」を中心とする貴重な鉱物資源、畜産、羊毛絨毯・壁掛けなど豊富であり、中国産の絹織物の仲介に加えて、中国産絹布を解(ほぐ)した絹糸に、野繭から採れた絹糸や彩り豊かな羊毛を交えて織り上げた水羊毳が「海西布」として好評(高く売れた)のようです。国土は、砂漠、塩水湖、荒地と過酷な風土であり、それだけに、太古のアケメネス朝時代以来整備されていた街道を活用した通商で稼ぐ商人気質は、今日まで継承されているようです。
 安息国は、東西貿易に加えて、アラビア半島、ペルシャ湾、天竺(インダス川流域)との交易が盛んで、ローマ帝国を凌ぐ富裕さと見えますが、仇敵大月氏に阻まれて、その時期、西域都督経由の交遊が途絶えたのです。
 安息国は、後に、莫大な財宝をローマ帝国に奪われ、ついで波斯(ササン朝)にイラン高原覇権を奪われて、衰亡したのですが、魏晋政権は何も知らなかったでしょう。
 超大国波斯(ペルシャ)にササン朝が興隆しましたが、先立つ商業大国安息と違い、武力で領土拡大を進め、巻き起こった波斯の大挙東進で、大月氏/貴霜勢力は、消し飛んでしまったのです。但し、中国は、依然として南北分裂し、北朝も、後期は東西に分裂して、西域に於いて主導権を獲れなかったのです。

*「西域伝」割愛の背景 一説
 あるいは、このような記事を魏志に掲載すると、そのような無尽蔵とも思える富裕な「西域」と比較して、誠に細やかで貧しい「倭人」が誹りを受けるので、魏代に格別の成果のなかった「西域」蛮夷伝を割愛したと見えます。
 曹魏明帝は、後漢以来の西域都督の頽勢を見ていて、東夷振興で新たな栄光を築こうとしていたのかも知れません。誠に余談です。

*笵曄「後漢書」「西域伝」
 西晋崩壊、東晋南方逃避を承けた南朝劉宋の高官であった笵曄は、政変によって閑職に追われた後、それまで諸家「後漢書」が乱立、不備に終わっているのに着目し、諸家「後漢書」の統一集成に挑みました。本紀、諸臣列伝までは、先行諸書から精選して一流史書にしたのですが、「西域伝」と「東夷伝」に関しては、後漢霊帝没後以降の原史料(公文書)散逸による苦戦が見て取れます。魚豢「魏略」を頼りにしながら、文章家として盗用と言われないよう「しっぽ」を隠していますが、それは、史官ならぬ小人の勘違いです。

 特に、原史料皆無に近い「東夷列伝」倭条は、知る人ぞ知る改竄記事連発で、一段と嘆かわしいのです。

                                未完

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 完結版 8/8

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」(海鳥社)2015年2月刊 
私の見立て ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ 2024/06/23, 07/17

追記 本書のあとがきの陳寿「魏志」評を、ご参考まで部分引用します。

あとがき[中略]
 さて、私は本書を書き進める中で『三国志』の撰者・陳寿の執筆態度について、幾度となく感心させられ、かつ驚かされもしました。
 その一つは、語彙の使い方が極めて厳密であること、最も重要な帯方郡から倭国の首都・邪馬台国までの路程に関して三重に説明を施すなど、読者(晋朝皇帝及び司馬氏を始めとする晋朝の貴顕諸士)に事実(東北アジア及び倭国の実態)が正確に伝わるようにとの細心の配慮がなされていることです。[中略]
 六朝宋の文帝の命を受けて元嘉六(四二九)年に『三国志注』を完成させた斐松之は、陳寿が撰した『三国志』について、「叙述は観るべきものがあり、記事はおおむね明瞭正確である」と評しています。裴松之が評したとおり、陳寿の『三国志』とりわけ『魏志倭人伝』を含む『魏志東夷伝』の記述は「明瞭正確」を旨としていると思います。
 その二つは、『魏志東夷伝』の『韓伝』『倭人伝』における距離観を通常の五倍程度にまで拡大することによって、かつては孔子が憧れ、現状(『三国志』撰述当時)にあっては晋朝(司馬氏)の正当性を担保すべき倭地域について、はるか遠方の理想郷として描くという前代未聞の驚くべき手法を採用していることです。
 この対応は陳寿の独断であろうと思われますが、[中略]それは若い時から傾倒してきた儒教に精神的な源泉を求めることができるのではないかと思います。[中略]

コメント御免
 余談ですが、「前代未聞」、「陳寿の独断」は、早計と思われます。
 陳寿が「若いときから傾倒してきた儒教」とありますが、儒教は士人の必須素養としても、傾倒したかどうかは不明です。時代英傑曹操、劉備、諸葛亮は、儒教の徒とは見えません。海鳥社編集子のような練達の編集者であれば、修飾句減縮を助言されるものと思いますが、上手の手から水が漏れたのでしょうか。

 とはいえ、保守派論客の影響で陳寿に不適切な先入観を抱いているのではないかと懸念したことをお詫びしますが、当「あとがき」に気づいた時点で、先行する記事の調整に手が回っていない点、ここで不明をお詫びします。

*補追 方里談議 など (一里四百五十㍍の普通里前提)  (2024/07/17)
 「倭人伝」道里記事の対海国「方四百里」一大国「方三百里」は、共に、一里四方「方里」を単位とする農地面積であり、対海国で見ると、二十里(九㌔㍍)四方と「現代人が現代地図から見て取れそうな嶼面積」に比して、随分些細ですが、時代相応の根拠である土地台帳「方歩」を集計した「実力」なのです。

 加えて、「良田」は戸の成人男女が牛犂で耕すものなので、牛耕不能などの理由があれば規定収穫が得られず「良田」失格です。これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」も同様です。どちらの国も山谷が多く農地僅少なのです。

 史官の深意/真意は、東夷諸国は、平地が乏しく中原と比べ税収が格段に少ない」という提示なのです。帝国の辺境で領土を拡大するのは、計算上は国力が拡大するので、その時は好ましいように評価され、軍人にとって恰好の「お手柄」ですが、実際に「郡」を構えて「独立採算」評価すると、領地が、閑散、貧困、零細の「荒地」であって、郡太守の高給(粟 ぞく)すらまかなえず、現代風に言うと「赤字経営」となるので、早急な撤収を迫られるのです。漢武帝時代の半島四郡体制は、武帝の失政事例であり、国家財政の破綻に拍車をかけたことが、魏晋代文官の熟知するところだったのです。

 史官は、曹魏草創の「名君」と自負していた明帝は、いわば「中国」の失地回復、新境地獲得となる東夷諸国の招請に大いに期待しましたが、早世によって雄図は空しく頓挫したと傷ましく書き止めるかたわら、司馬晋に権力が移行した直後に「魏志」を編纂した陳寿は、東夷諸国の実体を冷静に眺め、武帝の失政の再現となりかねなかったと示唆しているのです。いわば、史官の本領である「二枚舌」ですが、本紀での顕彰と東夷伝での批判は、手の内にあったのです。

閑話休題
 「四百里四方」(十六万平方里)と「三百里四方」(九万平方里)を「両国外寸」と見た場合、加算して二十五万平方里、「五百里四方」であり、「方里」加算が成立しないのです。つまり、両国外寸と見た のが、誤謬なのです。土地台帳で「方歩」が集計できないのは不合理です。商売にならないのです。

 東夷伝独得の「方里」は、同時代に図りようのない、図る意義も認められない島嶼面積を、神のごとき架空鳥瞰で地図上で目測し、ざっくり「方形」近似したとき、「見て取れた気がする」ようであり、「一里七十五㍍短里」の有力な根拠とする例が散見されますが、合理的な根拠無き援用は、ひたすら不合理です。 (2024/07/17)

                                以上

2024年7月16日 (火)

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)1/3

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16

〇外野見解の弁
 国内古代史分野で麗名の刮目天氏にはさぞかしご不快と存じますが、中国史料解釈のドロ沼での苦闘を見ていられなくて、口を挟んで支援しようとしているものです。

*部分引用御免
卑弥呼の墓の場合、何故「塚をたくさん作った」が間違いなのかをもう少し捕捉します。この場合、奴婢の墓まで言及する理由がないからです。倭女王卑弥呼の墓の説明なのです。もしも墓域に奴婢が葬られていても、墓域の大きさまで説明する必要はないので、「径百余歩」は女王卑弥呼の塚の大きさだと分かるのです。つまり直径約150mの円墳が卑弥呼の墓ということになります。その中に奴婢が入っていようがいまいがです。径には「さしわたし」という意味があっても、冢(ちょう)は土で覆った塚のことで、径百余歩とあれば円形の塚のサイズですから直径のことですね。もしも長方形の墓ならば、縦・横のサイズを書くか、正方形ならば方百歩と書くはずでしょう(^_-)-☆

*外野コメント
 横からくちばしを挟(さしはさ)む無作法をお許しください。
 論敵氏は、決め付け話法で「用例を無視して勝手な解釈をする」とご高説を賜っていますが、提示用例は「多数の、つまり、複数の造船所に指図して盛大に造船する事例」であるから、ことさらに「数多く」と解釈できても、現下の事例は「女王」の掛け替えのない「冢」を造墓する話ですから、粗製乱造でき無いのです。要するに、提案いただいたのは、話が揃っていない「無効な用例」です。造成対象は一個の「冢」ですから、「数多く」との解釈は、自動的/決定的に排除されます。
 文意読み不足の「用例」談議は空転です。

 また、「女王」葬で「徇葬」者は参加者でしょう。俗に「殉葬」と「百人埋殺」と読むのを好む「改竄派」が結構いらっしゃいますが、同時代史書から「殉死」は礼制に反すると排斥されていますから、浅慮早計でしょう。
 勝手に「用例」を創造する文章芸術は場違いです。退席をお勧めします。

 外野席からの応援になったでしょうか。

*「太平御覧」所引「倭人伝」談議~余談
 些か余談ですが、失敗例であげやすいのは「太平御覧」所引「倭人伝」(所引魏志)です。
1.女王死大作冢殉葬者百餘人
 所引担当「所引者」の文書考察が未熟で「殉葬者百餘人」はお粗末です。豊富な史料を参照する現代研究者は、「徇葬」が原文と確認できますが、大唐滅亡、長安混乱後の五代時代初期「所引者」は、時代相応の劣悪な級外写本に頼ったと見えます。

2.又南水行十日陸行一月至耶馬臺國
 それ以前、道里行程記事で、「所引者」は、「魏志倭人伝」記事での「到伊都国」と行程括りに気づかず、「又」の連打で、子供じみたべたべた解釈に陥っています。
 果ては、「又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰…其屬小國有二十一皆統之女王」と書いて、投馬国からさらに南に「耶馬臺国」があると「明解」です。「所引者」は、先行史書の西域、東夷などの夷蕃伝の道里行程記事の知識に欠けていたので、後で「周旋五千里」と参照される主行程五国わき道として書かれて戸数の「はけ口」になっていた余傍「三国」の峻別/見わけができていなかったと見えます。
 一級資料である「魏志倭人伝」の編纂者は、減縮して「邪馬壹国」行程を維持したのに対して「所引者」は「耶馬臺國」と劣化した「級外写本」に頼ったと見えます。

 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有…可七萬餘戶
 「所引者」は、まことに無教養で、漢書の読解を怠っていて、三世紀当時、蛮王に「都」はない』のに気づかないで、水行十日陸行一月が(投馬国から)女王居処までの所要日数と勘違いしたのです。誤謬積層です。「倭人伝」道里行程記事の真意は、「到伊都国」との括りに着目して、郡から倭まで「水行十日陸行一月」と見るのが明快であり、見なければ、陥穽に落ちるのです。この分岐点は、ことさら丁寧に評価すべきでしょう。「所引者」は、一つの重大な失敗事例であり、この際の失敗事例を克服することが、正解への「明るい」道なのです。
 さらに、「可七萬餘戶」の主体が理解できず、「戶七萬」が「耶馬臺國」の戸数と誤解しています。ここでも誤謬積層です。要するに、「所引者」は、奴国二萬、投馬五萬で総戸数七萬との陳寿の概数計算の明解な論理、「明るい」道しるべを見過ごしています。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)2/3

私の見立て ★★★☆☆ 奮闘真摯 初掲2024/07/06 *当家2024/07/16

*外野コメント 承前
 一級史料は、読者に計算させない配慮なのですが、級外史料が読めなかった「所引者」は、千戸単位の諸国と二萬、五萬 、七萬を足して十四萬戸とも十五萬戸とも不明の巨大な蜃気楼を映し出しています。

 陳寿が、そんな記事を提出したら高貴な読者に叱責されたところです。既定総戸数七萬戸を温存しつつ『牛馬がいないから各戸農地は狭小で、また末羅から狗邪の「水行」軽舟は米穀輸送できない』と明示して、倭人諸国に対して、郡からの食料供出が及ばないようにしましたが、千年後生「所引者」は、そんな台所事情を知るはずもなく、幸い、「所引者」誤解の副産物で、投馬、耶馬臺二国が遠方に比定されたことから、食料徴発の懸念は薄らいでいます。

 このように、二件の誤解釈は世上溢れる名解釈の由来ですが、陳寿の「魏志倭人伝」上申以来千年近い乱世が介在し、「所引者」は史書解釈できないようです。

 一体に、原本確定後に、史官の教養が維持・継承できなかった乱世が数世紀に亘ったため、原本テキストの解釈は経年変化で失われ、読みかじりが蔓延ったようです。時代を隔てると加速度的に誤解が増えると認識する必要があります。

 「魏志倭人伝」の場合、直後の劉宋史官裴松之すら、ほぼ同一行文と思われる魚豢「魏略」以外に有効な別資料を持たず、さらに数世紀を経た無教養な「御覽」の「所引者」は暗闇を進む風情であったと見えます。史料批判に精通した方に言うまでもないでしょうが、裵松之と同時代の笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、根拠となる資料が不確かで空白となっていて、笵曄は、陳寿「三国志」魏志東夷伝から、趣向を凝らして転記しているほどです。基本の基本ですが、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、よほど精査した上でなければ、「魏志倭人伝」と対比することはできないのです。

◯「径百歩」の一説 (百歩[ぶ]は面積単位)
 刮目天氏は、怜悧なかたですから、「径百歩」について、現代幾何学風の解釈を提示していますが、九章算術から見て、「方百歩」は、一辺一歩の方形面積「方歩」、九章算術では単に「歩」(ぶ)であり、現代風にいうと「百平方歩」と、文脈から判断するのですが、御理解いただけますでしょうか。つまり、「径百歩」は、「方百歩」用地内の円形「冢」と見え、三文字で現地の用地、冢墓計測に適確と見えます。陳寿は「物書き屋」ですが、現地報告書に「書き記されていたであろう」情景を、三文字に凝縮し見事な文飾と見えます。その場にいなくても理性的に考察すれば、精確に理解できるのです。
 ついでながら言い足すと、卑弥呼の冢は、単なる土饅頭であり周辺に水壕など設けていないのです。これは、国内流の壮大な墳丘墓が、宏大極まる水壕を持っているのと別世界の墓制です。
 言うまでもなく、刮目天氏は、国内流の水壕付き墳丘墓を想定しているのではないのです。
 宏大な水壕を維持するためには、給水、排水の用水路が必要であり、また、取り巻く水壕から墓地内への浸水を防ぐためには、厳重に遮水土手が必要なのです。いや、盛り土した上に墓坑を設ける構想なら、浸水の予防は不要かも知れませんが、ますます、宏大な土木工事が必要であり、そのような未曽有の大事業が行われたとは、一切書かれていないのです。いや、世上の墳丘墓派は、聞く耳を持たないでしょうが。

 但し、以上の解釈に従うと、女王の冢は、せいぜい直径15㍍(径十歩)となりますから、お気に召さないかたが大変多いでしょう。
 「倭人伝」先行段落で、「冢」は「封土」、小振りの土饅頭と明記されているので、高貴な読者には、女王の「冢」は手ごろな大きさと予告された記憶が真新しいので、物々しい用例検索は要らず、史官によって端的に「薄葬」が賞賛されていることになります。「物々しい用例検索」となると、荷車で書庫から先例資料の山を引き出すのですが、肉体労働は官奴がこなすにしても、大部の史書「巻物」を繰(く)って、用例を検索するのは、高貴な読者に対して過酷と云われかねないので、妥当な策としては、読者の知恵袋が即答できるものに留めるか、直前に、ほどのよい伏線を敷くものなのです。

 因みに、「方百歩」を一辺百歩の方形と見る単位系は、「辺」の数値の二乗に比例するので、土地台帳の実務に「まったく」適さないのです。算木による一桁数値の計算が大半であった時代、用地/農地台帳の面積積算ができないのでは、ものの役に立たないのです。

*方里伝説確認
 ついでにいうと、「倭人伝」道里記事に見られる対海国「方四百里」、一大国「方三百里」は、どちらも、一里四方の「方里」を単位とする面積表現であり、両国が、土地台帳の「方歩」を集計したものと見えます。当然、どちらも、一里四百五十㍍の普通里ですが、現代地図上で見ると、些細なものに過ぎません。要するに、農地として耕作できる土地が希少であり、かつ、公称している戸数に比べて、収穫が少ないことを示しているのです。「良田」とは、割り当てられた農地を、戸の構成員、主として成人男女が、牛犂で耕す前提ですから、牛耕できないなどの理由があれば、「良田」に規定された収穫ができないということになります。

 これは、東夷伝の高句麗「方二千里」、韓国「方四千里」に付いても同様であり、普通里で集計すると、農耕地は全領域のごく一部にしかならないと主張しているのです。どちらの国も、高山、渓谷が多いので、農地、即ち、収穫が獲れないのです。要するに、樂浪、帯方両郡は、中原諸郡と比べると、面積あたりの収穫、つまり、税収が格段に少ないと示しているのです。

 いや、刮目天氏は、ほぼ国内専科なので余り関心はないでしょうが、「方歩」「方里」の定義を精確に確認すると、地域「短里説」すら生存できなくなるので、世間では中々受け入れられないのです。

*「卑弥呼墓所」の一説
 当方の密かな意見は、偶々、古田武彦氏と遭遇していて、須玖岡本遺跡の「熊野神社」説です。墳丘墓でなく「封土」であったものの、ひっそりと残され、手厚く思慕されたので、末永く後世に残ったものと見えます。おそらく「卑弥呼」が、子供時代から巫女を務めた氏神の境内に安らかに眠っていると見えます。
 ということで、刮目天氏の持論に大きく逆らうのですが、女王の「冢」は、150㍍級の円丘でなく直径15㍍程度の少し大きな土饅頭と思うものです。この程度であれば、近隣の手伝い、徇葬百人程度で十分と見えます。石積み無しでも風雨は凌げそうです。
  当ブログは、「魏志倭人伝」の正確な評価に努めているものであり、「卑弥呼墓所」の比定には、特に深くこだわっているものではないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ批判 刮目天一 卑弥呼の墓はどこ?(続報)3/3

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◯曹魏の薄葬改革
 曹魏創業者曹操は「宰相」だったので、没後造墓ですが、生前の指示に従い墓所を秘したのです。文帝は、天子即位したので、生前造墓の「寿陵」を薄葬とし、大規模な動員は控えよとしています。明帝曹叡に遣使した女王の墓は、魏制に従い慎ましいものであったとみるべきです。
 先に挙げた曹操、曹丕の薄葬指示は、霊帝没後に破綻した後漢の礼制に対する重大な非難なのです。霊帝没後、西方涼州から蹶起した董卓は、雒陽周辺の後漢諸帝と王族の墳墓を暴(あば)いて、遺骸を放りだし副葬されていた宝物を奪い、後漢帝都雒陽を棄て長年廃墟となっていた長安に遷都したのです。
 曹操は、その時期、墓泥棒に手を染めたこともあるようですが、壮大な墳墓、豪華な副葬品など無意味と知っていたので、自身の墓址については、薄葬とし、かつ、墓所を秘すように指示したのです。曹操墓所は、現代に「発見」されましたが、さすがに進入者があって、若干の副葬品は奪われても、大規模な盗掘を免れたようです 。方や、西晋司馬一族の墓所は北方異民族によって破壊され、南朝諸王朝の王墓も、隋の南朝討伐の際に破壊されて、結局、曹魏草創期の墓所しか残っていないのです。

*大規模墳丘墓の非礼~ゴミ箱予備軍
 以上の見方でわかるように、三世紀の「中国」、つまり、「中原」に「天子」であった曹魏の礼制では、墳丘墓の造成は、礼に反するものだったのです。
 ということで、壮大な墳丘墓は、曹魏の墓制改革を知らない後漢時代の遺風/蕃風であり、所詮、「中国」を知らない蛮夷の慣わしだったのです。
 墳丘墓の時代、中原は、数世紀に及ぶ戦乱の時代であり、いわば、国が破れて散乱していたので、東夷の蛮行は、特にとがめ立てされなかったということです。
 長年、東夷として独自の世界を構築していた百濟と高句麗は、始祖が天下りした創世神話を持っていて、自尊心を高揚していたのですが、大唐が天下を平定したときは、分裂時代に横行した履歴もあって、天子を踏み付けにしかねない「敵国」とみなされ、撲滅されたのです。
 世間には、大規模墳丘墓は、威勢の誇示であったと早合点しているかたが結構多いのですが、魏晋代の「中国」文化/世界観から見て、始皇帝、漢武帝に連なる「非礼」なのです。大唐に討伐されなかったのは、高句麗、新羅、百済の壁が守ったのであり、また、墳丘墓を撤回したからでもあります。
 いや、ちょっと余談が過ぎたようですが、この項目は、目障りとしたら読み流していただきたいものです。

*引用ふたたび
そして、重要なのは、何度も言いますが、魏志倭人伝の卑弥呼の墓にピッタリの三柱山古墳があり、その周囲に様々な卑弥呼の関連物や伝承があるからなのですよ。(^_-)-☆
だから、他に卑弥呼の墓の有望な候補はあるのですかと最初にお聞きしたのですよ。あれば、比較検討すれば、どちらが有望か分かりますから(;^ω^)
それから、書かれたものと事実(考古学や民俗学などの成果)に違いが存在する場合は事実に従うべきです。文書は政治的な目的で真実が書かれていない場合もありますから。

追加コメント
 ”事実(考古学や民俗学などの成果)”を、ことさらに規定した論義は、刮目天語に従えという御指示でしょうが、同意できません。

 歴史学(historical sciences)が扱うのは、時の彼方に消え失せた太古の「事実」に関する太古の報告や推測であり、失われた「事実」を知ることは「絶対に」できないのです。特に、二千年前には民俗学も考古学もなかったので、古代史料を、そのような現代概念で調べても、刮目天氏のおっしゃる「事実」は、知るすべがないのです。そして、遺物/遺跡考古学は、文字史料もなく、墓誌も、墓碑もない墳丘墓では無力なのです。
 この辺りの誤認を考察の基点と置かれていては、いくら明晰な頭脳をもってしても、史学「問題」(question)に、題意を見通す解答を出すことはできないのです。いや、当方は、刮目天氏の信条に異を唱えているのではなく、率直な疑問を呈しているだけです。

 ちなみに、古代史官にして見たら、「政治的な目的」など、二千年後生の無教養な東夷の造語など知ったことではないので「馬の耳に念仏」でしょう。同時代に通じる言葉で挑んでほしいものです。

◯まとめ
 以上、あまり援護にならないコメントでしょうが、「倭人伝」は、三世紀当時、唯一無二の文書史料であり、原文改竄の前に、科学的、合理的な解釈のもとに、史料批判を尽くしていただければ幸いです。
 
                                以上

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 1/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、タイトルから明らかなように季刊「邪馬台国」誌の標榜する「邪馬台国」に背くが、安本美典師の当初抱負を体現した寛恕と見る。
 私見では、本稿は、世上通説とされつつある非科学的な「陳寿」風評の払拭を図っていて、偉とするべきであり、大いに、賛辞を述べたい。
 但し、学術的な論考としては、肝心の基礎部分、脚もと、および、その場での視点が崩れていて、まことに勿体ない。ここでは、細瑾をつつくが、論考の核心は、細部に宿るとも言えるので、ご一考戴きたいものである。

◯批判列挙
*風聞蔓延の嘆き~「通説」への異議
 岡上氏も歎かれているように、国内古代史論者は、「通説」と擬態して 不法/不合理な陳寿誹謗を延々と繰り返し、後生を染め付けているが、氏の「通説」に対する異議は、合理的な視点が、事の原点を取り違えている。

*「正史本位説」の提唱~私見提示
 三世紀史書である「魏志」「倭人伝」は、それ自体が、同時代史書の原点であり、二千年後生の無教養な東夷の論者が、「日本」に「正史」を創造して、小賢しく「史料批判」するのは、本末転倒、錯誤である。古代に於いて、天子は一人、天下は一つであり、蛮夷には、天子も正史もないのが、ことの原点である。

*散佚史料の根拠なき昂揚
 但し、ここで難詰しなければならない点が挙げられる。つまり、岡上氏は、いずれかの論客の根拠なき提言に加担して、王沈「魏書」なる散佚史料を「復元」して、陳寿「魏書」に対して異議を立てるが、徹頭徹尾、無謀である。

*臨時定義の勧め
 因みに、本記事の如く原点史料と散佚史料の対比であれば、それぞれを特定するために、繁雑のようでも編者を冠するのが定則である。
 字数を厭うなら、「陳志」、「韋書」、「王書」と臨時定義すれば良い。記事をかじり取っては意味が通じないので、悪用が回避できる恩典もある。

*無用の先例検索
 臨時定義の先例検索は無意味である。先例を排するための定義であり、自明の最たるものである。その宿命で、当記事が終われば、臨時定義は、雨散霧消して影響を及ぼさない。但し、後生の模倣は避けられない。
 このように提言するのは、「翰苑」残簡佚文で、笵曄「後漢書」以外に無冠「後漢書」を見て、散佚謝承「後漢書」とする詭弁がしつこく出回っていて、善良な研究者を迷わせているからである。
 「翰苑」は、史書でなく「名言」宝鑑であるので、原史料所引聞きかじりのぶつ切りで、屡々原史料の書法が、誤引用交じりで持ち込まれている。古典教養同時代読者に自明の省略が、二千年後生の無教養な東夷に誤解を呼んでいる。まして、写本が粗雑で、誤引用に輪をかけている。

*「王書」評価
 「王書」、即ち王沈「魏書」の佚文を麗々しく文献系統図としたのは夢想である。厳正に継承された「正史」と対等の史料批判はあり得ない。

*韋昭「呉書」(韋呉)評価
 韋呉と「呉志」対比で、「韋呉」は、東呉史官韋昭が、東呉公文書から編纂、東呉皇帝に上申した史書が、亡国の際、西晋皇帝に奉納され蔵書とされたから、陳寿は、「呉国志」「呉志」として東呉文書を渉猟・編纂していて、韋昭の偉業を克服しようがない。
 内容を逐一点検しても、東呉内部文書の意趣が濃いのは、自明である。

 案ずるに、それぞれの史書は、由来を吟味して、質を評価するものであり、単に、二千年後生の無教養な東夷が、稚拙に絵解き、数合わせすべきものではない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 2/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「王書」、「魏略」の由来
 ついでに言うと、王沈「魏書」(王書)は、あくまで、後漢を承継した曹魏の史書であり、魚豢「魏略」は、あくまで、曹魏の史書稿(「略」)である。これに対して、陳寿は、蜀漢、東呉が降服して天下統一が成った晋から振り返った上での、「三国鼎立」史観であり、しかも、蜀漢、東呉に関する「国志」を統合せず、史書として誠に別格である。史官の観点としては、東呉、蜀漢の「公文書」は、ほぼ一切曹魏に届いてないので、曹魏公文書に存在せず、史官として統合しようが無かったとも言える。
 例えば、両国の戸制は、後漢の戸制を継承していたが、あくまで、両国の国内制度であり、曹魏に報告されていないのである。また、時に論議される東呉会稽郡は、呉志に記載されている限り「三国志」記事の一部として継承されているが、三国鼎立時、会稽郡は、曹魏の統治するところではなかったので、魏志に該当記事は無く、従って、陳寿が、魏志「倭人伝」を編纂する際に参照できなかったのである。要するに、魏志に「会稽東冶」は存在し得ないと確証されているのである。

*未熟な「正史」観~非科学的な論義
 岡上氏の偉業の細瑾を咎めるのは、心苦しいが、率直な所、氏の「正史」観は「未熟」である。とは言え、世上溢れる陳寿誹謗論者は、歴年学究を経ているので、最早、晩節における回心の可能性は見出せず、終生「不熟」と見られるものである。「未熟」とは、「不熟」の群を抜いていると言いたいところである。
 それはそれとして、岡上氏は、陳寿が推敲した「魏志」を『佚文や所引で推測する「王書」架空文で批判している』から、誠に、非合理的、非論理的、非科学的と断ずるしか無いのである。後生の「熟成」が、切々と待たれるところである。

*図示の愚行
 氏は、終段図示の言い訳として「史学論考の文章は堅苦しい」と罵倒/酷評/自嘲されているが、論理は本来堅苦しい。「幾何学に王道無し」は、欧州圏の至言であるが、中国でも、街道に皇帝の道はあっても、論理学に王道は無い。
 史学者には常識以前の自明事項(のはず)だが、古人は、漢字縦書きの文字で論じ、史書に図示は一切存在しなかった。そもそも、図は、読者の知性・教養によって、解釈が大いに、大いに異なり、安易な掲示は、断固/頑固/頑健に避けるべきである。

 例えば、図の要素の上下、左右は、何を示唆するのだろうか。今日常用されている矢印は、古代に何の意味があったのだろうか。論理の足場を突き崩す、グズグズの泥沼では無いか。

 あるいは、漢文は断然縦書きであり、掲額などでは右から左に横書きするのである。後漢代の西域史料では、安息国では文書を横書きすると明記されていて、あるいは、右から左の横書きは当然なので、特筆していないかもしれない。
 要するに、氏は、二千年後生の無教養の東夷の中でも古典教養に疎い、一段と「無教養」な読者の、いわば勝手な読み取りに頼っているのであり、それは、氏の獲得した論理の継承で無く、氏の好む「情熱」の伝播に甘えているのである。
 以上は、岡上氏に対して、苛酷な批判であるかも知れないが、ことを論理的に主張する際に自戒して、より高度な論考を求めたいのである。

*カタカナ語の迷妄~無自覚の「躓き石」
 岡上氏は「ヒューマンエラーは、普遍的に存在する」と言い捨てる。インチキカタカナ語で逃げなくとも「誤謬は不滅」であるが、事は、発生頻度と質の問題であり、さらには、何重にも校訂/校閲によって、誤謬を検出・是正しているかどうかである。
 岡上氏の玉稿は、着想から推敲を経て、当誌に投稿されるまでに、多大な自己批判を帯びているものと信じているが、それでも、無用な、つまり有害無益な「カタカナ」語を排除せず、二千年後生の無教養な現代東夷の「生煮え、泥付き」の不出来な語彙の混入にも無頓着と見受ける。もったいないことである。

◯「後生の無教養な現代東夷 」の意義~「初心」の戒め 2024/01/13
 ちなみに、倭人伝論でも高名な岡田英弘氏は、当方に遥かに先んじて国内史家の倭人伝談義の喋喋を「東海の野蛮人の後裔」の抗争と評した警句を発しているが、惜しいかな、「東海」、「野蛮」が、漢文素養に外れている。

 「東海」は、太古以来の抽象的な世界観で、中華/中原を囲む異界/四夷が、たまたま、東夷では塩水だまりになっているだけである。
 「北海」、「南海」は、まず実見できず、「西海」は、概して「流沙」、つまり、「砂の海/大河」と見立てた砂漠か、現実に見ることのできる西域塩水湖、さらには、遙か彼方、漢武帝の使節が達した「大海」、「裏海/カスピ海」であるが、いずれも、塩っぱい塩水湖である。そうした実景は、太古の殷周代から見て遥か後世の知見であり、古典書筆者の知るところではないのである。
 まあ、現代人にしても、海水から遠く離れ「陸封」された「みずうみ」が、なぜ塩っぱいのか、わかっていないと思うのである。

 「野蛮」は、古代概念では、無教養で無作法な「客」を言うのであり、教養を備え礼節を知れば「客」は中華士人となるから、「野蛮人」の「後裔」は、程なく「野蛮人」ではなくなるのである。
 むしろ、「国内史家の倭人伝談義」を、学術的な論義と遠い、商売人の店員/小僧が、店先で、商売敵と目先の利害を争う「賈豎の争言」と直截に評した方が、至言に近いのではないか。

 そうした見落としがあるので、現代東夷の無自覚な「教養」の不足を指摘する当方の素朴な提言が、むしろ的を射ていると自負しているものである。いや、当方の不明で、岡田氏の警句に近来始めて気づいたから、本来は、自主的な発言なのであるが、それにしても、岡田氏の熱心な追従者が、この金言/警句/箴言を無視しているので、自己流警句を発しなければならないのである。
 それにしても、自分を数え漏らす子供の点呼ではないが、岡田氏がご自身の金言/警句が、眼前の群衆とともに、ご自身の「影」をも叩いていることに気づかれなかったのは、もったいないことである。
 言うまでもないと思うが、本条は、岡上氏に対する個人攻撃などではない。自戒を含めた「初心」の戒めである。

*陳寿「エリート」観の愚行
 陳寿は、生煮えのカタカナ語で推定される「エリート」などでは(絶対に)ない。
 陳寿その人は、敗亡の蜀漢から魏晋朝に獲得されたから、「幼くして古典講読を重ね、若くして曹魏に「選挙」(推挙)され、洛陽の太学で学び、下位官位で任官されて、早々の昇格を目指していた「茂才」(古典用語の「秀才」が、後漢光武帝劉秀の僻諱により、後漢代初期に更新)」ではない。

 いや、陳寿は、いかに古典素養が十分でも、雒陽から背いた叛徒の輩であり、張華のような高官の引き立て無しには背筋を伸ばすことができなかった「日陰者」である。いわば、二重、三重の誤解である。

 ここで、またもやの蒸し返しになるが、軽薄な「カタカナ」語の無節操な援用は、読者の安直な理解、誤解を煽っていて、氏を含め、古代史論における重大な「躓き石」であるが、これは、氏だけの悪徳では無く、普通に見ても、躓いていると自覚していない方が多いので、ここでも警鐘を鳴らすのである。
 因みに、当方が愛用するATOKは、「カタカナ語」の害毒から使用者を保護する機能があり、必ず、「適切な表現に言い換えたらどうですか」との趣旨で助言/指導/警告してくれるのだが、氏の「作文システム」は、使用者の言いなりなのだろうか、それとも、氏が助言を無視して強行突破しているのだろうか。いや、当方の知ったことではないと叱責されそうだが、余計なお節介をするのも、当方の務めと思っているので御寛恕頂きたい。

                               未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 3/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*魚豢誤認
 ついでに言うと、魚豢は歴とした官人であり、氏の言う「ほぼ」付きでは、編纂の際に極秘扱いである帝国公文書「とか」を参照できない。機密の公文書を利用して史書を私撰するのは大罪であり、厳格に処断されると親族も連座、刑死である。漢書班固も後漢書笵曄も呉書韋昭も、最後は、刑場の露となった。暗合であろうか。
 何れにしろ、史官は専門家であり、卑位の官であって、高官有司でない。
 魚豢は、曹魏史官であったため、後漢・曹魏公文書の渉猟を許されたのであり、その鋭い筆法は、陳寿「三国志」魏志第三十巻末の魚豢「魏略」「西戎伝」全文で窺うことができる。

*魚豢「魏略」「西戎伝」の演出と魏志の写実
 「魏略」「西戎伝」は、明らかに、雒陽公文書であった後漢「西域伝」草稿によるものであり、原文書の乱調を模倣している貴重な資料である。「魏略」「西戎伝」の大半は、後漢西域都護を承継していて、後漢末の西域撤退以後は記録がない。「魏志」「西域伝」は、魏朝の無策を露呈することになるから、成立しなかったのである。

*史論「情熱派」
 氏ご自身がどんな「情熱」にお持ちかは不詳だが、陳寿は、「倭人」を天下の東方を極める偉業とみた曹魏明帝の「情熱」が早計で、夭逝後、霧散したと明示している。倭人」後日談を割愛するのは、むしろ、明帝偉業の顕彰である。それとも、司馬懿の無策が、両郡撤退につながったと明示すべきだったのか。因みに、陳寿「三国志」「魏志」に「司馬宣公伝」は、書かれていない。

*「鴻臚」の錯誤
 ついでながら、韋誕「大鴻臚」の職務を「外務大臣」とは時代錯誤である。
 かつて、漢高祖劉邦親征軍を殲滅の危機に追い込み匈奴単于の昆弟として屈服させ中国に匹敵した匈奴が衰退した後、対等の国交を結ぶ可能性があったのは、西方安息国だけで他はすべて蛮夷だった。但し、「蛮夷」呼称は相手が漢字を読解したときに激怒を買うので「客」と美称したのである。
 要するに、「鴻臚」の役目は、「蛮夷」使節に、中国礼節を教えて拝謁させた後、印綬と手土産を重ねて、定期的な来貢を代償に外臣として認めるものであり、今日言う「外交」とは全く異なる撫夷策である。この点、世上、中国式美辞麗句/誇張に惑わされている例が多いから、釘を刺すのである。

*栄えある「匈奴」
 因みに、「匈奴」は教養のある漢人官人を抱え「匈奴」が蔑称なら紛争必至である。「匈奴」が、武勇を尊ぶ草原の風雲児に相応しい麗名/敬称とわかる。漢高祖劉邦は、親征軍が匈奴の大軍に包囲されて降服同然に和平していたから、長年、匈奴を兄として平伏したのである。蔑称など、できるわけがない。

*「焦土」作戦の犠牲者
 氏は、『陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の信頼性を毀損し、日本「古代史」と切り離そうとする、小論で言う「焦土作戦」』に巻き込まれるのを避けたと認められるが、諸処に「焦土作戦」の影響を受け、もったいない。

*史料評価の錯綜/是正
 氏は、厖大な「類書」「太平御覧」に収録された「所引魏志」と「現存刊本」である紹熙本などとを対比し、「所引魏志」は北宋期、「現存刊本」は南宋期成立と言い放っているが、年代ものの「浅慮」である。
 「所引魏志」は、参照した「魏志」写本の精度が不明であり、誤写が必然のものである。さらに、大著の一部である所引の編集精度には、更なる疑問がある。
 孤証の極致「翰苑」を論じるときは、断じて、国宝断簡の不慣れな解説で無く、誤字、乱丁、行格が整備された「遼海叢書」版が必須と思われる。一流正史ですら、時代原本を発して写本を重ねたときには、必ずしも万全と言えないのに、正史の通用写本から、適当な写本を繰り返して、精度が保証できるはずがない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 4/4 補追

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 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業      2024/01/11 02/13 07/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*魏志「南宋」刊本の由来
 「魏志」は、西晋時、陳寿原本収納以来、国宝として多大な労力と最高級の学識者を動員して写本継承され、劉宋裴松之を始め、厳重な校訂を経ている。
 北宋期に各地愛蔵の写本を結集/校訂した決定稿により刊本が起こされ、主要な宛先に配布されたが、精々、百部程度と見えるのである。あるいは、二、三十部かも知れない。
 北宋刊本の主題は、生成された「正確な」刊本を種とした高品質の正史写本の拡散であるが、北宋の盛期は永続せず、軍制弱体と、それ故の北方異民族間の抗争を利用した陰謀攪乱の邪計が、新興北方民族「金」に激怒を巻き起こし、大挙南下した「金」の侵攻/亡国で、帝都開封をはじめとする主要拠点ら所蔵されていた正史、書経の刊本は、版木共々撲滅されて根こそぎ喪失した。北宋刊本を根拠とする良質写本が、江南に再興された南宋に結集し、今日残っている南宋刊本が刊行されたのである。

*高度な校訂の産物~最高品質
 衆知の如く、写本、所引は、粗雑に行われれば、早速に精度が失われるが、帝国の国家事業として写本された場合は、所謂粗忽な「ヒューマンエラー」は、数度に上る徹底照合/校正によって、極小となるのである。
 粗忽な「ヒューマンエラー」が、誤記、乱丁のまま野放しの例として「翰苑」残簡が挙げられる。一度、二度の粗雑な写本で文献テキストは壊滅しているが、美麗な書体によって美術品として認められ国宝となっている。

*袁宏「後漢紀」~良質写本継承の例
 比較的「良質」な写本としては、袁宏「後漢紀」が、正史に準ずる地位にとどまったため、誤写という意味では「傷だらけ」であるが、正史ほどの厳密な写本で無くとも、最善の努力が積み重ねられた成果である。
 笵曄「後漢書」が、西晋壊滅後、東晋最高によって建康に再結集した残骸資料を何とか統合したのに対して、袁宏「後漢紀」は、笵曄「後漢書」に、五十年先行して、東晋継承資料を活用して編纂されたが、後漢霊帝、献帝紀の記事が充実していて、また、後漢から曹魏への禅譲が、必ずしも、正統な継承でなかったと示しているということである。

*「焦土」作戦~道の果てるとき
 事態混沌化「焦土作戦」によって糊塗されているが、史料の質的評価に天地の差異がある。また、当然、自明のことであるが、現存刊本に見えない誤謬は、本来存在しなかったとみるべきである。
 それにしても、現存刊本の「邪馬壹国」が、本来『「邪馬壹国」であった可能性が極めて高い』とする「邪馬台国」風評臆測説は、同誌の逆鱗として高言しないのだろう。

*陳寿の魏志編纂の姿勢
 氏の誤解を払拭すると、陳寿が「魏志」編纂にあたって、「原史料を忠実に承継するのでなく、悉く推敲、加筆、割愛した」との意見は、誠に素朴な誤解であり、聞きかじりの速断は、まことに勿体ない。
 「重複」の例では、「倭人伝」に「壹與壹與」の連打がある。また、紹興本では「諸國諸國」の連打がある。どんな原則にも、例外はある。
 氏は、「京師」と「京都」の僻諱の例を挙げるが、陳寿編集との証拠はない。陳寿最終稿から献呈本を起こして西晋恵帝に上程した際に写本を指揮したものが、皇帝の直近の父祖に憚って保身した可能性までもある。世上、風聞、憶測が絶えないから新説で貢献したが「マジ」ではない。
 因みに、信頼されている「紹凞本」「紹興本」でも、宋代皇帝の実名を憚る「僻諱」は、散在する。是は、西欧には存在しない禁忌であるから、「ヒューマンエラー」は、お門違いである。
 それにしても、岡上氏の考察は、全篇を通じ、無節操にうねっている。陳寿が、「倭人伝」編纂に「ほぼ情熱を...淡々と...過ぎない」とは見上げたものである。但し、氏の教養外であろうが、「ほぼ情熱」と「淡々」は「小人」感慨であり、陳寿は、士人であって、職務は、史実継承が根幹であって、私利、私情では、一切動いていなかった。
 古人曰く、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知るや」、「士は誠に小人である」。

◯最後~陳寿の真意
 陳寿の「三国志」編纂の真意は、宰相諸葛亮の「臣鞠躬尽力、死而後已」の献身を頌えるもので、蜀漢国志が存在しなかったため、陳寿は、絶大な尽力で「蜀志」を創造し、三国志を不滅の正史としたから、「大行は細瑾を顧みず」。自身の身命を惜しんだのは、大行の前では面目は細事であったからである。
 因みに、古来宰相は、天子に「骸骨」を献じていて、高齢などで退官するには、天子から「骸骨」を返して貰わなければならなかった。

 妄言多謝。死罪死罪

                               以上
 追記:書き漏らしを補追する。2024/02/13
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の根拠となっている原「倭人伝」は、景初に、明帝指示のもとに楽浪、帯方両郡に赴任した新太守が、それまで、公孫氏が文書で報告せず、司馬懿の暴挙で塵滅した公孫版「倭人伝」を温存していた両郡公文書を、鴻臚を介さずに明帝に短絡したものと見える。佚文から、魚豢「魏略」が「倭人伝」相当の記事を備えていたと見られるが、公孫氏から公文書上程されたものではないので、明帝没後に、深い闇に埋もれていたと見える。
 魚豢「魏略」佚文から見て、魚豢「魏略」は、「倭人伝」相当の記事を備えていたと憶測されるが、氏が想定している先行史料である「大魏書」及び王沈「魏書」が取り入れていたかどうか、大変不確かである。わからないものは断言しない勇気が必要と思うのである。
 陳寿は、東京、即ち、雒陽の官人が「西羌伝」を挙げたと書くが、東夷、中でも、倭人に関する「伝」の由来は、以上読み解きを試みたように、示唆にとどめているのである。按ずるに、司馬氏に対して謀反をなした大罪人である毋丘儉の功績と攻撃されるのを警戒して記事を分散秘匿したと見える。そのような(司馬氏に対する痛烈な)筆誅は、陳寿以外なし得なかったと思