2024年2月27日 (火)

私の意見 「いたすけ古墳」の史跡 世界遺産から除外提言

                        2019/05/30 2024/02/27

◯「名残」の異物排除の提案 2024/02/27
 同異物は、「現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われようとしたときの名残です」とされているので、依然として、改善/是正されていない/今後とも改善/是正されないものと見て、苦言を再提案するものです。

*当初公開記事 追記あり
 当記事は、世界文化遺産への登録が勧告されている「百舌鳥・古市古墳群」の中で、「いたすけ古墳」が不適格であることを指摘し、除外すべきと考える理由を述べるものです。

 今回、丁寧に新聞、テレビから情報を収集しましたが、「いたすけ古墳」に、現代の工事用橋の遺物が包含されているのは、世界文化遺産の趣旨に反しているので、一国民として、少なくとも、当該異物は直ちに取り除くべきだと考えます。本来、史跡から排除すべき異物を含めて「史跡」としていることに問題があるのです。

 NHKの番組「歴史秘話 ヒストリア」で、当該古墳の宅地開発事業を差し止めし、史跡としての保存に繋いだ功労者である宮川徏氏が橋異物を保存した趣旨が語られていて、声を上げざるを得ないと感じたものです。いや、番組を製作したNHKが、発言をそのまま報道しているということは、NHKはその主旨に賛同しているのでしょうが、当方は、一納税者として一視聴者として正直に「反対」と言います。

 当時、「遺跡として保存することは不要」とされていた広大な土地に宅地造成する事業は、何ら不法な行為ではなく、そのような大規模な事業投資で、地域振興に貢献しようとした事業者は、公正な視点で見て、むしろ頌えられるべきです。

 結果として、「いたすけ古墳」が保存の価値のある史跡と新たに認定されたとしても、もともと非難すべき理由のなかった純然たる開発行為を、こともあろうに、アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』(2024/02/27追記)である)「原爆投下」に例える趣旨で世界文化遺産の一部として後世に残すのは、大変な見当違いであり、例えた方も例えられた方も大変具合が悪いと思います。

 精一杯和らげて言うと、この発言を聞いた原爆関係者は、同古墳群の話題に接する度に、激しいこころの痛みを覚えるのではないかと危惧されます。それ以外にも、この発言は無用の痛みをまき散らします。

 個人的には、そのような意見は脇に置いて、「いたすけ古墳」は「百舌鳥・古市古墳群 」全体の品格を毀損するものであり、少なくとも、史跡でない後世のガラクタは速やかに撤去すべきである』と思うのです。今が最後の機会と思うのですがもはや手遅れかも知れません。その場合は、これが過ちによるものであって、世界文化遺産の一部でないことを示すべきです。

 手短に要約すると、このような現代遺物/異物を取り除く当然の義務を怠っている「いたすけ古墳」は、正統な古代史跡とは言えないので、世界文化遺産登録から排除すべきではないかと考えるものです。

以上

アメリカ合衆国トルーマン大統領の戦争犯罪(ドナルド・トランプ前大統領の公式発言)』 は、とんでもない不法な発言であり、現職大統領の職務上の犯罪は、その時点で、つまり在職中に自動的に免責されるというトランプ前大統領の発言は、せいぜい、合衆国憲法による、言わば国内規定であり、国際法で裁かれる戦争犯罪に対して無効であり、逆に、現職大統領が軍事上の最高責任者として下した決断は、合衆国連邦法によって罪科を問われることはないという程度の一説でしかないのです。合衆国司法省の審議が不可欠です。
 「免責」されるとは「推定有罪」の前提であり、原爆投下の最終判断を下した、当時のトルーマン大統領は、後世のトランプ前大統領によって「永遠に反論できない状態で断罪されている」のです。 まことに困ったものですが、この場では、これ以上論義しません。

以上

今日の躓き石 毎日新聞 将棋観戦記の盗用事故「王座戦」ネット中継の「不法利用」 追記

                2023/11/22 追記 2023/11/24 2024/02/27

 今回の題材は、毎日新聞2023年11月22日大阪朝刊12版のオピニオン面に掲載された「第82期名人戦 A級順位戦」 観戦記 第21局の2である。
 正直なところ、将棋棋戦(タイトル戦)の報道は、それぞれの主催メディア(時に、複数メディア共催)が、最優先権を持っていて、第三者の報道には「当然」制約があるのだが、今回は、毎日新聞社の記事に『「王座戦第4局」のネット中継を見ての報道』が、堂々と掲載されていて、不審に思ったのである。

 まず、問題なのは、同棋戦の主催紙、ネット中継者について、報道年月日を含めて書かれていないことである。第三者著作物の引用に不可欠な事項が欠落している。

 次に、ネット中継の画面を見た感想のはずが、観戦記者自身の報道のように書かれていることである。「取り返しのつかないミス」などと、許しがたい論評を付し競合誌の紙面で、主催紙の独占的な権利を大いに侵害している。言うならば、自身の観察ではないのに、臨場感を催していたのである。報道偽造である

 ということで、明らかに、知的財産権の重大な侵害がなされているのである。観戦記者は、王座戦第5局の観戦記を担当する予定だったと言うが、それは、第5局の観戦記を主催紙の承認のもとに主催紙に掲載する権利であり、第三者である毎日新聞に掲載することは認めていないはずである。まして、今回の記事は、観戦記依頼など受けていない第4局であり、これを高言するのは、論外の暴というしかない。いわば、職業上の秘密事項を不当に漏らしたものとも見える。念のため言い置くと、ネット中継は、中継者の著作物であり、それを、自身の見聞のように書くのは、中継者の著作権の侵害であると指摘しているのである。

 続いて、同局敗者の談話らしきものが、堂々と引用されているが、毎日新聞社が、自社の名人戦A級順位戦の観戦記で、自社主催棋戦を高め、他社主催棋戦を貶めるために、敗者談話を掲載するのは、報道倫理に悖(もと)るのではないだろうか。

 常識的に考えて、主催紙がそのような談話の取材を許しているのは、当日の観戦者、報道者であり、時点不明の後日の談話については、「勘弁してくれよ」と思っているはずであるが、談話には話者の記名はないし、談話の語られた日が、当然、タイトル失陥の後日であるとしても、いつのことか明記されていない。
 「王座戦」の価値を毀損することを恐れているはずの主催紙が、前王座が「ミス」を犯したと自認した談話が競合紙に正式掲載されることを許可したものかどうかは、不明である。

 正直言って、棋界、つまり、「世界一の順位戦A級」を占めている「棋界最高位の九段」にしてタイトル保持経歴のあるトップクラスの有力棋士が、「メンタルは他人より強いと自覚してい」たなどと、子供じみた言い方をするものではないと思うのである。「mental」(メンタル)は、体育会系のアスリートの好む恥知らずな言い回しであるが、所詮、名詞でなく形容詞であるし、形の無いものであるから、「強い」、「弱い」は、誰にも知ることができないのは、当然である。
 伝統的な評言としては、「体力」、「筋力」でなく、「知力」が高く評価されるものであり、『「鈍感さ」を誇っている』と聞こえては、甚だ不本意では無いかと思うのである。
 このあたり、他紙の観戦記で持ち出され、主催紙に不利益をもたらすと了解した上なのか、という点も、大変疑問なのである。
 問題の談話が、どのような前提で成されたものであり、どのような質問に対する回答なのか「隠されている」から、当の棋士に対して不当に厳しいかもしれないが、もし承知の上での発言、引用許諾であれば、プロ棋士としての職業倫理の根幹に関わると思えるのである。

 ついでに確認すると、「自覚」とは、何かの資質が劣っていると自認する場合の卑下した言葉遣いであり、あいまって、知性に富んだ一流棋士の口にすべき言葉遣いでないのであり、それでは、観戦記者が棋士の知性を毀損しているのでは無いかと思われる。
 当観戦記は、毎日新聞の看板のもとに、世間に、有力棋士の失言をさらすべきものでないと信じるものであり、この場合、毎日新聞社としては、教育的指導すべきと見るのである。共同主催紙の朝日新聞社は、同一の談話を引用した、同一趣旨の観戦記を載せていないと思うので、困るのである。
 それとも、この程度の「行き過ぎ」は、業界相場で許容されているというのだろうか。日本経済新聞社のご意見を聞きたいものだが、この場は、毎日新聞社の責めを問うものなので、そちらはそちらで確認して欲しいものである。

 以上のように厳密に論じたのは、本日の観戦記の相当部分が、実際の観戦記でない「第三者著作物の不法利用」に占められているからである。毎日新聞編集部は、このような問題を露呈した記事を当然と見ているのだろうか。
 少なくとも、毎日新聞の一読者として、大変疑問に思うものであり、率直、かつ丁寧に「批判を加えた」のである。

以上

追記: 2024/02/27
 当ブログ記事を閲読したと報せがあったので、思いきって、続報めいたものを書くことにした。
 別の対局者の対戦の観戦記であるが、第一譜がとんでもないものになっていたのである。全面的に一方対局者の談話らしきものになっていて、観戦記者は、署名しているものの、記事内容としては、同談話を引用符で囲んでいるだけなのである。報道の原則として、引用符で囲んだ部分は、発言内容の忠実なベタ引用であるので、文責は、全面的に発言者にかかるのである。観戦記者は、「無責任」なのである。
 まず第一に、このように一方対局者の談話をベタで掲載するのは、観戦記として当然のことなのだろうか。通常、読者に対して断りがあるはずなのだが、なにもない。つまり、同対局者が「手づから」執筆したことになっている。つまり、この回の観戦記の著作権は、当然同対局者に帰属するはずである。そのような「観戦記」に対して、掲載紙は、普通に原稿料を支払ったのであろうか。同対局者には、「観戦記執筆」に対する謝礼を支払ったのだろうか。

 つぎに問題になるのは、同対局者は、そもそも、このような形式での談話掲載について了解しているのだろうかという疑問である。談話に署名がないから、無断掲載「とか」も思われるのである。談話内容は、素人目にもかなりの不振と見える当期順位戦の成績について後悔とか泣き言を言っているのではないと思うが、それにしても、道半ばで、言い訳めいたものと取られかねない談話を公開するのが、本意とは見えないのである。

 いや、観戦記者が、目下の星の具合や席上発言について「勝手な」解説を述べるのは、ある程度「飯のタネ」で仕方ないのだろうが、それとこれとは、別義である。それにしても、相手方対局者の談話は、なぜ掲載されなかったのだろうか。何とも、面妖な観戦記である。
 同観戦記は、朝刊に掲載され、毎日新聞社ネット記事でも公開されていたから、当方の指摘が、的外れであったら、反駁いただいて結構である。

 この場で観戦記者名など書かないのは、武士の情けである。当方は、一介の読者であるので、断罪などできないのである。

 いや、同観戦記者は、以前にも、その時点の名人を差し置いて、「目前のA級順位戦勝者が、棋界の最高峰である」という様な書き方で、当ブログの批判を浴びているのである。目立った失態として、すくなくとも三度目であるから、ぼちぼち、ご勇退頂いた方が良いのではないかと思量する次第である。

以上

 

新・私の本棚 糸高歴史部 季刊「邪馬台国」137号 「糸高歴史部座談会~」

 創刊40周年記念号 記念エッセー 第二席 「糸高歴史部座談会 ~邪馬台国はどこにある~」
 短評:「定説」「通説」の軛(くびき)を負う「痩せ馬」(疾走者)の自画像  2023/11/07 2024/02/27

◯はじめに
 記念稿が、『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と書き出すのは、諸先輩の遺産を負わされた不幸と思う。もっとも、「遺産」呼ばわりには、「まだ生きとるわい」の罵声の波が予想されるので、「諸先輩の遺産 (時期未定)とするのが、妥当かもしれない。

*「遺産」の書き出し
 真面目に言うと、掲載誌 季刊「邪馬台国」の40周年記念号の記念エッセイで、栄えある「第二席」を占める「エッセイ」(小論文、作業仮説)は、世評が高い「福岡県立糸島高等学校歴史部」の多年の部活動成果、つまり、諸先輩の尽力の積み重ねを踏まえて、その場に立っている姿を示しものと見られるので、いきなり「魏志倭人伝」誤謬風聞で書き出すのは、実は、不幸な星の嘆きと見える。

 要するに、数世紀に及ぶ「邪馬台国」論争が、挙(こぞ)って『原史料を「間違っている」との風評を談じている』ことの不条理適確に認識していて、しかも、是正していないのが「傷ましい」というものである。

 「倭人伝」誤記文書呼ばわりの根拠なき風評(groundless rumor)に対する反論は、本来は、「邪馬台国」なる虚構国名であり、続いて、其の国が「大国」との誤解/幻想と元凶を指摘すべきなのだが、前者は、掲載誌が本誌「邪馬台国」なので誌上で主張できないから、当小論文は、後者への反論を浮かびださせるものであり、「壹国」(いちこく)ならぬ「伊都国」(いつこく)が、北に行程を逆行/周旋する行程三国を「一大率」(例えば、難升米は、倭官名で「倭大善中郎將」の巡察/巡回指導によって官制整備していた図式が読み取れるように思う。(私見付け足し御免)。総じて、よくよく読み解けば、随分、健全な意見と見える。

 ネットや俗悪新書類で、跳梁跋扈している不出来な「陳寿誹謗風説」の暴論と一線を劃しているのは、見事である。

*「倭人伝」を尊重する解釈
 それにしても、以下、冒頭提言に縛られつつ、「魏志倭人伝」の『現代東夷流解釈、つまり、本質的な「誤解」』に基づいていても、原史料を離れない地味な議論が進むのは、ある意味、誠に傷ましいものであった。それにしても、間違っている」との「通説」に、これほど世上の注目を集める栄えある場で、ある意味堂々と背くのは、良い度胸と言える。立ち上がって、ただ一人拍手喝采(Standing Ovation)である。
 糸高歴史部の誰かが、ここに示された達観を追求していくことを望むだけである。

*禁じられた質問
 もちろん、正直に筋を通すと、国内史学界で生存できないので、素人論でしか述べられないのだが、うして『「魏志倭人伝」の文章が間違っている』と断定できるのか、素朴に初心を追求するのが、生活のかかっていない高校生の史学研究の第一歩のように思うのである。

◯まとめ
 国内史学分野の底辺/後尾/残泥から延々と巻き起こる「陳寿」罵倒論は、どうも、高校生の初学レベルでも感じ取れる「陋習」のようだが、それが業界相場であってみれば、これに逆らうと、国内史学界での生計に支障が出るので、大人(おとな)は擁護/追随/固執せざるを得ないとも見えるのである。
 それが、浮世の習いというもので、誠に嘆かわしいのだが、その点、当方のように、一介の素人で生活のかかっていない小人(こもの)しか筋を通せないと思うので、このような拙文を残しているのである。

 おかげで、こてこての業界人に「おれたちの商売の邪魔をする奴」と言う趣旨で「一利なし」と誹られ、堂々と妨害工作を仕掛けられているが、非営利の素人であるから単に不快なだけであり、別に、他人の儲けがどうなろうと関心ないのである。

 樹木は、芽生えて根ざす土地を選べない、とは、古人の箴言であるが、長大/成人は樹木ではないので、率直/正直に自分の立脚点を変えられると考えるのである。

                                以上

新・私の本棚 井上 よしふみ 季刊邪馬台国137号 「卑弥呼の墓は朝倉の山田にあった」 1/1 更新

【総力特集】邪馬台国論争最前線 
私の見立て ☆☆☆☆☆ 不得要領意味不明のジャンク   2020/01/30 2024/01/27, 02/27

〇駆け抜け書評
 筆者は、幻覚境にあるのか、意識が穴だらけ、躓き石だらけなのか、栄えある記念号の誌面を汚しています。言い方がきついのは、「自著の提灯持ちの商用文」と見られるからです。合わせて、このようなお粗末な「エッセイ」(論文)を審査せずに生のまま掲載している編集部に警鐘を鳴らしたいからです。

〇粗雑な用語管理 「論外不作」の態
 大事な冒頭部分、枕で、著者の粗雑さが露呈しています。「初見」、つまり、「国内史料初出」とぶちかまして、いきなり「書紀」「斉明天皇条」(斉明紀?)で誤記/誤解奮発です。朝倉山・朝倉社と書きつつ、直後、朝倉に朝倉山と朝倉神社が「ない」』と断言です。「朝倉社」が神社かどうか証されていないのに無頓着なのでしょう。

 そもそも、「朝倉に」なる朝倉はどこなのでしょうか。また、何かが「ない」とは、何を根拠に言うのでしょうか。どんな資料を引いたのでしょうか。捜索範囲の記録にないと言っても、実際に「なかった」と言うには、随分証拠不十分なのです。また、初見の「草書殺字」は、井上氏の「理論」に初対面の読者には、殺生です。
 これで当エッセイはゴミ箱入りです。

*意味不明、独りよがりの地名談義
 と言うことで、読者をほったらかしの地名談義は、「全然無視」です。

*混迷の「魏志倭人伝」「撰述」談義
 何がそうさせたのか、「倭人伝」談義は支離滅裂です。「本文」とわざわざ言う意味が不審です。「固有名詞」に出所不明の発音を当てはめた「借字」と言うものの、初見の「借字」は趣旨不明であり、「倭人伝」冒頭の「帯方」と「韓国」は、どこから来た借字なのか、なぜ、公式と思える著名地名に対して誤字山積というのか、理解困難(不能)です。

 なぜ、「倭人伝」が『最初から「正史」と思われがち』と談じたか,「ガチ」で不可解ですが、誰も、一片の「倭人条」が「正史」とは思わないでしょう。すくなくとも、最初の陳寿「三国志」は、裴注以前であるから簡潔であったとしても、山成す大部であり、皇帝が上覧後に『「座右」に置いたはずはない』というか、せいぜい、置いたかどうか知るすべはありません。貴重な国宝的な原本は、公開の場に放置すべきものではないはずだからです。
 また、どの時点から「倭人伝」二千余字が正史とされたかの解明もありません。当時、司馬遷「史記」全巻、班固「漢書」全巻に列なる、第三の正史の全巻とされていただけであり、世間に出回っていたものではなく、特に、混同を避けるために「正史」と定義する必要もなかったでしょう。
 因みに、陳寿生家は蜀地であり帝都付近にありません。随分杜撰な校正です。

*一日にして成らず
 「楷書が隋、唐で正式書体になった」のありがたいご託宣は、一応聞き置くとして、隋初から唐末まで四世紀あまりあるので、どの時点か、明記してほしいものです。
 また、何をもって楷書「未確立」と決め付けるのかよくわかりませんが、公的(?)に確立されていないだけで、紙上筆書が普及すると共に、楷書前身書体が実用に供されたかと愚考します。なお、公式史書は「実用書」などでは絶対にないのです。

*陳寿遭難
 三国志編纂四年間は勘違いでしょう。魏志、呉志、蜀志、それぞれ、構想~編纂完了は別々であり、また、陳寿が全ての書記を行ったとは思えないのです。特に、大半が呉史官の手になる呉書の編纂期間は、知るすべがないのです。
 もちろん、三国志編纂は、陳寿が一人でやってのけたものではないのですから、人海戦術で手分けして取り組めば、期間短縮はできたとしても、最終段階は、陳寿がその手で書き付けていく以外に無いので、五年どころか十年かかっても不思議はありません。云うまでもありませんが、陳寿は任官していたので、在職していた担当部署に「出勤」しないと、給与を受け取れなかったものです。
 不眠不休で、国志編纂に専念/没頭/苦吟していたわけではないのです。氏は、どのような日々を送られているか知りませんが、官吏は用務繁多なのです。
 陳寿が草書らしき達筆で草稿を綴ったとすれば、誤字解消に十分対策を講じたでしょう。また、行間に意を込めた自筆稿を自身で誤読するとは思えないのです。史官をそんなに見くびるものではありません。

 「邪馬台国」談義で、許慎「説文解字」の引用に当時存在しないアルファベット表記は重大な錯誤でしょう。まして、カタカナ表記は愚の骨頂です。

*卑弥呼の墓 掃き溜めの鶴か
 最後、唐突に「卑弥呼の墓」比定ですが、こんな雑駁なエッセイで発表するような半端な事項ではないはずです。数万、数十万の関係者が頼りにしている筈の「畿内説」纏向王宮説の大楼閣が根底から覆る主張です。まるで、中東古代の英雄サムソンの神殿崩しの荒技です。

 しかし、折角タイトルに提示したものの、延々と導入部で与太話を流し続けたので、読者の意識はそっぽを向いていて、この場で何を主張しても、またもや夢想かと解釈され、お話として多少面白くても、とても信用できないどころか、まともに耳を傾ける気にならないのです。其の意味では、自滅エッセイでしょう。

〇結語
 やはり、本エッセイは、選外佳作どころか立派な「論外不作」であり、読者が本誌の該当ページを不良品として送りつけたら、版元は、品質保証として、その分返金すべきものでしょう。いや、ただの冗談ですが。

 念のため言うと、本号の各記事は、ここまで徹底的に無残な出来ではありません。私見では★四個なので、安心して購入してください。

                                以上

2024年2月26日 (月)

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 1/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25 2024/02/26

〇はじめに
 当記事は、途方もない誤読/誤解/妄想の集積ですが、その原因は、意味不明のタイトルで、「古代中国の女性観」と大上段に振りかぶりつつ、実際は、国内史料熱愛から生じた怨念物語めいたものを語っていて、的外れなのです。個人名ではなかった「卑弥呼」も罰当たりな勘違いですから、何のことやら、わけがわからないのです。書蹟であれば、一発でゴミ箱行きですが、「歴史読本」の記事なので、読み飛ばすしかないのです。
 このあたりの外し具合は、単に、国名や所在地比定の論議では片付かない大問題を示しています。

 以下、失礼を承知の上で、氏の誤読の解剖を図っています。率直に、子供に言い聞かせるように指摘しないと何も伝わらないだろうという事で、誠意をこめて説き聞かせているので、野次馬の介入は御免被るのです。

〇逐行批判
 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。[中略]追認することが許されない[中略]

コメント:
 正史笵曄「後漢書」を知らないで、堂々と論じるのは、鉄面皮です。誰も止める人がいないのは、つけるクスリがないからなのでしょうか。ついでながら、『魏志』倭人伝などという「史料」は、存在しません。史学者の常識です。
 正史を「外国(野蛮人)史料」とは、信じがたい視点錯誤です。正史は、中国視点の中国史家が、中国語で書いたから、文明圏外の無教養の蛮人「外国人」が批判できるものではありません。無惨な本末転倒です。
 ご存じない「後漢書」談義は、言っても無駄なので扨置き、同時代唯一の史料を何を根拠にして、どんな顔で「史料批判」するのか、鉄面皮、不可解です。「実像」論だが視力検査はしたのでしょうか。それとも、肉眼で見えないから、何か秘薬でも使って幻像を見るのでしょうか。カウンセリングを受けた方が、良いのでは無いでしょうか。せめて、誰かに論文審査して貰った方が良いのでは無いでしょうか。
 「倭人伝」は二千字で、すぐに徹底するでしょう。それにしても、中原史官は無学な夷蛮の「追認」は要しませんから、これは、身の程知らずの無謀な傲慢です。
 と言う事で、読解力のない半人前以下の野蛮人が何を言うかという誹りを免れません。氏は、経書を中国語で朗唱できるのでしょうか。

 [中略]卑弥呼が倭国の女王であったという[中略]事柄に関しても、[中略]徹底した検討の俎上にのせないわけにはいかないのです。

コメント:
 氏の「倭人伝」解釈は、ひたすら傲慢で早合点の誤釈に満ち、とても「俎上」に載りません。庖丁の穢れです。必要な基礎知識、学識がない、落第生が、何をしようというのでしょうか。とんだ恥さらしです。

卑弥呼は個人名ではない
 [中略]つぎの有名な一節がある。「其の国、本亦男子を以て王と為す。[中略]倭国乱れて、[中略]。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。[中略]男弟有りて国を佐け治む。」

コメント:
 勝手な飜訳の垂れ流しですが、「いわゆる卑弥呼」と称する「いわゆる遠山美都男」なるド素人が何を言うかです。「有名」な一節も、「魏志倭人伝」でなく、二千年後生の無教養な東夷が奉っている「現地語」(蛮語)訳に過ぎません。正史原典が理解できないものが、何を言うかという事です。せいぜい、手前味噌の勝手解釈に過ぎません。「有名」の意味がわかっていないという事でしょうか。「悪名」より「無名」が勝るのではないでしょうか。

 [中略]倭国大乱とよばれる内乱を鎮めるために、[中略]擁立された[中略]しかし、文脈に即して解するならば、[中略]即位にともなって新たに卑弥呼という名が[中略]あたえられた役割に関わる呼称であった[中略]

コメント:
 倭人伝に無い「倭国大乱」風聞が意図不明です。思い付きは勝手ですが、原文読解できない限り「文脈」は、意義のない手前味噌でしょう。
 「俎上」、「徹底的な史料批判」ともっともらしいのですが、巷の素人論者、野次馬同様、自己流解釈で史料を読み替えます。世には「倭人伝」改竄差替説もあります。氏の見識が非科学的な思い付きなら、その旨表明すべきです。因みに、当記事筆者は、「暴虎」に挑む勇気も、「薄氷」を踏み渡る度胸もありません。
 「卑弥呼」と天子に名乗った以上、それは、実名なのです。「新たに」名付けるというのは、途方も無い妄想です。人は、その親によって命名された実名で生き続けるのです。それとも、氏の名前は自己命名なのでしょうか。
 素人が何を言うかという事です。

 このように卑弥呼が彼女のみに占有されるという意味でのたんなる個人名ではなかったことは、卑弥呼の語義からも推定されるところである。

コメント:
 「卑弥呼」は商標ではないから、占有/専有とは面妖です。君主の実名が、「たんなる個人名」とは、ものを知らないのにも程があります。
 意味不明、趣旨不明な「卑弥呼の語義」(?)論は別として、著者に、古代中国語を説く学識/資格があるのでしょうか。それは、信じがたいのです。ド素人が、何を言うかという事です。

                                未完

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 再掲 2/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04 2023/01/25

卑弥呼は個人名ではない 承前
 卑弥呼は「ひみこ」、あるいは「ひめこ」「ひめみこ」の音を写した[中略]

コメント:
 出所不明、根拠不明の「ひみこ」談義の言葉遊びは、一種感染症のようで要治療です。ひょっとして、これが「卑弥呼」の語義論と言うつもりなのでしょうか。『三世紀「倭人伝」の「倭の」ことばと後世八世紀の「大和」言葉の関連を示す資料はない』と古代言語の権威が、揃って明言しています。素人が何を言うかという事です。

 卑弥呼は「鬼道」[中略]に長じていた[中略]倭国大乱を鎮めるために「鬼道」に長じた女子[中略]に卑弥呼という名があたえられた[中略]

コメント:
 中略部分の「霊能力」は意味不明で、倭人伝に無い「妄想」と思われます。何か、漫画か古代史ファンタジーでも読んでしまったのでしょうか。
 倭人伝に一切書かれていない「倭国大乱」を卑弥呼が鎮めるとは、これも、出典不明で癒やしがたい妄想です。
 このように、卑弥呼命名談は妄想羅列で、史料批判のけじめは見えません。自身を史料批判すべきでしょう。素人が何を言うかという事です。

卑弥呼になった二人の女性
 [中略]卑弥呼とは[中略]地位・身分の呼称と考えるべきである。

コメント:
 思い付きは思い付きとして聞き置きます。「卑弥呼の実名が知らされていない」とは、氏の妄想に過ぎません。中華天子に実名を名乗らないことはあり得ません。素人が何を言うかという事です。

 [中略]結局、卑弥呼に就任した[中略]彼女らはいわゆる倭国王の地位にあったといえるのであろうか。[中略]中国史料による限り、この前後、二世紀から三世紀前半にかけては一貫して男王が擁立されたと伝えられており、なぜここで二代だけ女王があらわれるのかは不審[中略]

コメント:
 氏は、突然正気に返ったのか、尊大に「中国史料」と仰いますが、史料名を明らかにしません。男王の国も、正体不明です。それこそ、「不審」と言わざるを得ません。根拠不明の妄想連発で逐行批判に疲れたので、以下、概略にとどめます。

 中国史料は、西暦年代を知らないので、「二世紀から三世紀前半」の150年間のことと言われても、何のことかわからないのです。せいぜい、男王の一代前も、その前も、ずっと男王であったのだろうなと言う程度です。また、晋と音信不通になってからのことは、「倭人伝」に書かれてはいないので、何を言っても、勝手な思い込みに過ぎないのです。どうも、氏は、「卑弥呼」は、倭女王が襲名する職名と見たようですが、そのような異様なことは、「倭人伝」に示唆すらされていません。勝手な素人の思いつきに過ぎないのです。

 卑弥呼とはこのように男王による権力の継承を祭儀によってサポートした女性の地位を示す[中略]

コメント:
 時代錯誤で意味不明の「サポート」で読者は混乱します。「倭人伝」は男弟が女王を佐したと書いていますが、氏が説いている倒立実像なみの「女王が男王を佐す」とは、常人には理解困難です。

 以上、『魏志』倭人伝に対する史料批判をより徹底化するならば、[中略]卑弥呼機関説も十分成り立つものと確信している。

コメント:
 「より徹底化する」とは何語でしょうか。善良な読者が、ちゃんと理解できる、ちゃんとした「日本語」で、ちゃんとした文章で述べて欲しいものです。氏が何を言っても一切反問できない、氏のお弟子さんに話しているのではないのです。
 「説」と言うには、論理的な根拠を、先行論文や原史料の忠実な、正しい意味での史料批判を経て、展開しなければならないのは学問の常識と思います。思い付きに合うように史料解釈を撓めるのは、史料批判ではないと信じるのでここに明記します。

〇まとめ
 以上、氏は、長年醸しだした世界観をもとに滔々と談じていますが、原史料を遠く離れた「他愛もない幻想」(氏の用語)を露呈していると見えます。藪医者は、まず、自分を見立てて、癒やすべきであり、これでは、誰も、氏に相談を持ちかけないと思いたいところです。
 言いたい放題で過ごしてきた「レジェンド」は、晩節を汚さないように、早々に後進に道を譲るべきでしょう。

 当記事掲載誌は、学術論文誌ではなく、古代史初心者も包含した古代史ファン向けムックと思われますが、「古代史ファンは子供だましのホラ話で十分」と見くびられたことになります。けしからん話だと思うのです。とは言え、執筆をオファーしたからには、訂正指示の朱筆を入れたり、没にしたりはできないので、寄稿依頼した時点で勝負がついているようです。

 読者にも、批判する権利はありますが、「ジャンク」記事相当分の返金要求は無理でしょうか。

                                以上

新・私の本棚 遠山 美都男 「卑弥呼誕生」 三訂版 1/2

 洋泉社 歴史新書Y       2011年6月発行         2020/06/09 2024/02/26
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点  よいこは真似しないように

◯総評
 本書は、こと倭人伝解説書新書の中で、原史料たる倭人伝を改竄、造作する流れの行き着くところを示したようです。他にも同様の無意味な解説書はあるから、最悪かどうかはわかりませんが、かなりの水準をいく悪書です。
 当ブログ記事の書評として書き出したように買うべきでないものです。

*概要 史論でなく「浪漫派」の独白
 本書は、「日本古代史専攻史学博士」たる著者の専門外の中国正史の文献学考察において要求される専門知識の欠如、稚拙さが露呈していて誠に素人くさいお粗末なものです。よく見ていくと、中國古代史に関して、初歩的な知識を欠いているかと見える例があり、誠に、素人読者にとって迷惑極まりない失態の書です。

 要するに、日本古代史の国内史料の解説書に基づいて、手前味噌の古代浪漫を紡いでいるだけで、と言っても、「日本書紀」を解読したわけでもなく、まして、「倭人伝」漢文解読を放棄していては、文献学先人の(不出来な)追従しかできないのです。
 正体不明の訳文を適当に引用して、もっともらしい装いですが、素人考えを素人風に書き散らしています。

 古代史」専門家を装っているため読者が丸呑みしそうで剣呑です。著者は、中国史書については、全くの素人/門外漢/野次馬であり、これを『素人風』と書くのは当ブログ筆者の謙遜表現と輻輳して大変不愉快です。素人と言えども、学べば改善されますが、学ばなければ「付ける薬」はありません。しゃれて「浪漫派」か。

*無学不遜 不熟の大成~ムック記事批判
 氏の無学不遜、不熟不撓は、近作の歴史読本2014年7月号 特集「謎の女王 卑弥呼の正体」~「徹底検証九人の卑弥呼」の一端に書かれた『卑弥呼機関説』なる粗暴な短文の書き出しに、往く繰りもなく表れています。

 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。そこに書いてあることをそのまま追認することが許されないことは多言を要さないであろう。

 僅かな字数に、現代日本語としても特異な用語、表現が凝縮していて、読者に出費を求める商用出版物で、このような意味・意義不明な暴言は『許されない』事は言うまでもありません。誰が「許さない」のか、誠に理解不能な暴言です。

*誤解満載 以下同様
 衆知の誤解を列記すると、「卑弥呼」は、魏志倭人伝以外に笵曄「後漢書」東夷列伝倭条に登場する人名、「固有名詞」です。光学的「実像」は倒立「イメージ」であり、所詮外観印象ですから、本来、実像は目を開けば難なく見えるのです。見ようとしないのは、当人の好き好きなどといつていられないことは、明らかです。

 「史料批判」は、新規に出現した史料テキストを理解した上で、内容を掘り下げた徹底的考察を付くすのが常識です。原文意を理解して初めて史料の適否を決めるのであり、既存の根拠不明の印象記は追認すべきでないのです。もちろん、魏志倭人伝は、二千年前から厳然と存在し、著者のような、無教養な東夷の「批判」など、無用なのです。

 冒頭のつかみが、このような乱調ですが、以下の記事も、用語、行文が揺らぎはなしで、暴走、迷走するので、善良な読者は、何を言いたいのか聞き取ろうとする気がなくなるのです。と言う事で、これ以上引用はしません。

 以上、高校生のクラブ活動報告書の下書きのように、一歩ごとの用語ダメ出しが必要では、情けないものがあります。「歴史読本」誌は、伝統を継承していると信じていたのですが、「ムック」では、何も編集しないのでしょうか。

*「浪漫派」の錯誤
 初心者なみの用語改善指摘では仕方ないので、重大な錯誤を指摘すると、視点錯誤です。
 中国古代史で「外国」は中国以外の蛮夷であり、「言葉」、「文化」を解しないから、史料はあり得ません。つまり、三世紀、文字のない「外国」に史料は一切ないのです。
 それに対して、氏は八世紀「日本」の夜郎自大視点で「外国」としていて要は、中国も、鴻廬館に寄寓する蛮客に過ぎないという尊大な視点から、堂々と見下しているようです。ようですというのは、この暴言の根拠を示さないからです。

 と言う事で、はしなくも露呈しているのは、「浪漫派」共通の視点錯誤であり、後世「日本」成立以降の国家像が当然の原点となっている古代「浪漫」のようですが、同ムック主題から見ると、大きな見当違いです。

 『「徹底的な」「史料批判」』の視点がはなから的外れでは、「先生、御自分を診断したらいかがですか」と言いたいところです。

 中国では、経書、史書などの文書編纂に高度の教養を動員したから、資料原文を読解できない素人は、現代風の貧弱な語彙を武器として理屈付けするのは、言うならば素手で岩壁を削るものです。

 とどめの「多言を要しない」は自身の言葉で正当化できない時の無責任な隠れ家です。「衆知」、「自明」、「自然」などの逃げよりはましに聞こえるのでしょうか。「二言、三言で済むなら、この場で言ってみたらどうですか」という事です。とにかく、何の隠れ家にもなっていないのです。
                                未完

新・私の本棚 遠山 美都男 「卑弥呼誕生」 三訂版 2/2

 洋泉社 歴史新書Y       2011年6月発行      2020/06/09 2024/02/26
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点  よいこは真似しないように

*破格の構成
 氏の断言は、「倭人伝」底本の特定がなく、諸史料批判査読が欠けていて不適切です。また、漢文原記事が示されないのです。
 氏の脳内世界の「倭人伝」は、実は現代人著作なので、見たところ、氏は、本書の著者に要求される古代史料の解読を放棄しています。これでは、氏の真意を知るすべはありません。かくして、氏は、自身の脳内の「倭人伝」を徹底的に『史料批判』し、結果公開する義務を有しています。なぜなら、本書は読者の時間と注意力を盗み取るからです。

*裏切られた暗黙の保証
 いや、別に何も保証していないから、不適切と言われる筋合いはないというのでしょうが、本書のタイトル、惹き句、著者の肩書きから、学術書としての要件を備えていると示唆しているのであり、示唆されている要件を満たしていなければ、「詐称」なのです。

*先賢の提言
 救われることに、同ムック導入部に田中俊明氏の概論として、「古典派」とも言うべき史学王道が掲示されています。

 「卑弥呼は三世紀の倭国王であった。このことを伝えるのはほぼ『魏志』倭人伝のみである。卑弥呼がどういう人物、どういう王であったか知るには、『魏志』倭人伝を精査するしかない。ここでも、『魏志』倭人伝を通して、卑弥呼について考えられることを簡単に整理しておきたい」

 以下、ものの理屈、学会の良心が説かれるのですが、遠山氏は「浪漫派」なので田中氏の「古典派」提言は、聞く耳を持たないようです。

 無知で苦言に耳を貸さないでは、聞くに堪える論考は期待できません。

*本書の評価
 本書は、以上にやり玉に挙げたムック記事と違い、限られた紙面でなく新書の紙数を費やすことが可能であるにも拘わらず、批判対象である史料の原文参照は他史料を含めて存在しません。底本は書かれていないし、書き飛ばしている口語文風の読み解きの根拠も不明です。無責任な盗用です。

 氏は、倭人伝」記事が自身の抱く浪漫に沿わないので、至る所で、放埒に史料改竄していますが、それは浪漫派「創作」であって史料そのものではありません。読者は、氏の稚拙な創作を読まされているのです。

 氏が倭人伝の「イメージ」が誤りと見ても、それは、氏が追従する諸氏の「イメージ」が歪んでいるのか、氏の視覚問題か、何れか/ないしは両方の原因によるのです。

*盗用疑惑しきり
 終始、現代語らしい文章を参照しますが、誰がどのような根拠で書いたものであるか書かれていない事が多いので、不審を感じても確認するすべがありません。言うなら、引用元を明記しないのは、立派な盗用、堂々たる剽窃です。

*責任の所在
 このような破格の著作が刊行された責任の一端は、洋泉社新書編集部が、引用文献、特に底本の掲示など、論文形態の書籍の必須事項を承知していながら、それらの必須要件を欠いた書籍を刊行したことにあります。いや、参考文献一覧はありますが、全体を通じて本文注記が乏しいから、氏の私見、憶測なのか、だれかの意見の丸写しなのか、根拠不明になります。

 それにしても、冒頭で「これまでの倭人伝研究を総括する」触れ込みながら、安本美典、古田武彦、森浩一、直木孝次郎などの諸賢書籍が漏れています。切りがいいという事でしょうか。諸論評は、総じて陳腐で真剣味が欠けています。

◯まとめ
 冒頭部分の荒廃で足が止まりましたが、本書全体が無意味だとまで言うつもりはないものの、有意義な考察があっても、以上のような非論理的な随想、古代史論書籍と見せかけた素人考え羅列では、総じて、読者を偽る魏書、いや偽書と言われかねません。編集部は職業人の務めを知るべきです。

*追記
 表紙で堂々と自爆していますが、「『魏志』倭人伝の誤解からすべてが始まった」とは、何ともお粗末です。見たところ、著者の誤解からすべてが始まったと壮語していますが、著者には、「すべて」を始めるような影響力は、からっきしないのです。
 帯では、「陳寿は、なぜ誤解を重ねたのか」と賢そうに述べていますが、著者には、陳寿を弾劾する知識も見識も無いのです。これもまた、たどたどしい自爆発言です。洋泉社は、ここまで著者の自滅発言に付き合って、テンとして恥じないのでしょうか。

 巻末年表に「239 魏の明帝が卑弥呼に親魏倭王を賜う」とありますが、魏帝曹叡は景初二年末に病臥し三年元日に病没したから、景初三年に、明帝が卑弥呼に親魏倭王を賜う事は不可能です。調べればわかるので、何か「フェイク」資料を無批判に踏襲したのでしょうか。

 そもそも、中国暦は、今日の世界で広く流通しているキリスト教暦とは、ずれがあって、景初三年の元旦は、CE(キリスト教紀元)239年の1月1日とは違うのです。まして、景初三年は、明帝曹叡の命日が元旦に重ならないように複雑な処理をしているので、CE239年とどう重なって、どうずれるのか、古代史学者でも混乱している例があるのです。つまり、遠山氏が混乱していても、それは不名誉ではないのですが、それを、このような年表に仕立てることで、ごまかすのは、「フェイク」ですよ、と言う事です。

 無知で粗雑では付ける薬がありません。
                                以上

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 1/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26
 私の見立て ★★★★★ 豊穣の海、啓発の嶺

〇はじめに
 以下は、古代史における不朽の名著の裳裾の解れを言い立てているに過ぎません。多年に亘り広範な史料を渉猟し、雄大な構想のもとに展開された歴史観ですから、一介の素人は、その一部すら考証する力を有さず、たまたま、氏の学識の辺境に、思い違いを見つけて指摘するだけです。
 本記事は、単に、氏が陳寿の東夷観の由来と見た、漢書西域観の勘違いを言うものです。

 いうまでもないと思いますが、巨大な山塊に蟻の穴があっても、山塊の堅固さに何の影響も無いように、ここに挙げた「突っ込み」は、氏の名著の価値をいささかも減じるものではありません。

 「余談」としたのは、氏の見解に関係しない勝手な余談論議です。

〇漢書西域観
 後漢の史官班固が編纂した漢書は、「西域伝」を設けて、高祖から王莽に至る歴代の西域交渉を、国別に、いわば小伝を立て、主要国については、小伝内に年代記として描いています。漢書「西域伝」の書法は、陳寿「三国志」のお手本であり、後世人も、大いに学ぶところがあるのは、言うまでもありません。

〇「東夷伝」序文考
 氏は、「東夷伝」序文を引用したあと、漢書「西域伝」の言として、「安息国長老」の言を漢書から引用しています。しかし、「東夷伝」序文に、魏代事績として再々奉献と列記された西域大国に「安息」の名はありません。ちぐはぐです。

 序文を少し戻ると、武帝が張騫を西域に派遣した結果、西域諸国との交通が開き、各国に百人規模の使節団を派遣して、服属ないしは通交を求めたため、得られた各国情報が漢書に記されたとしています。よくよく考えると、漢書に魏代記事があるはずは無く、陳寿の知識がどこから来たものか、一瞬戸惑います。東夷伝を見ると、当時、後漢代史官記録は、いまだ公式集成されていなかったと見えます。そんな状況で、「東夷伝」序文の出典として注目されるのが、末尾の魚豢「魏略」西戎伝です。
 劉宋史官裴松之が、陳寿「魏志」に全文を補注したのでわかるように、魚豢「魏略」は公式史書に準ずる権威が認められ、陳寿も、序文を書くに際して参照したと見られるのです。

〇印綬下賜談義 余談
 「通典」収録の漢代記録によると、漢朝は、反匈奴勢力拡大のためか、来朝使節の低位者にも印綬を下賜したと言います。ということは、漢朝を再興した後漢朝が、地域を代表する大国以外に、付随する小国にまで印綬を下賜した可能性はあり、その後継たる魏朝も、闊達に下賜したようです。
 というものの、陳寿が、「東夷伝」序文に挙げた魏代西域交流が事実なら、魏志特筆の大月氏への黄金印下賜は場違いです。漢武帝時代以来欠かさず遣使していたお馴染みが、長年ご無沙汰(絶)としていた後、忽然と洛陽に顔を出したのなら、本来過度の厚遇は不要です。

 総合すると、実は、序文記事は、史官として苦心の粉飾で、桓・霊以来、西域との音信不通、交通遮断の魏朝にとって、この来訪は干天慈雨だったのでしょうか。としても、さすがの陳寿も、この一件だけでは、魏志「西域伝」の書きようがなかったのでしょう。

*金か「金」か 余談
 多発されたのが、黄金の金印か青銅印か不明ですが、大半は、太古以来「金」と呼ばれていた青銅でしょう。皇帝付きの尚方工房は、大物も交えた精巧な青銅器を日々鋳造していたから、印面はともかく、四角四面の角棒に紐飾程度の作品は、茶飯事でしょう。材料は倉庫に山積みだったでしょうし。
 それはさておき、「陳寿は漢書を意識した」の段落には、これまで取り上げられなかった、魏略「西戎伝」の影響の再評価が必要です。何しろ、魏志「夷蕃伝」に対する裴松之付注、「裴注」の主力を成しているのですから。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行     初出 2020/04/10 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇安息の国「パルティア」にまつわる誤解
 先ず第一には、古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。「ペルシャ」は、太古以来、今日に至るまで、イラン高原のペルシャ湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ、メソポタミアからエジプトにまで勢力を広げ、東地中海にまで進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国(パルティア)は、それとは別の地域から興隆し、一時、地域を支配した王国なのです。ペルシャなどもっての外です。
 ちなみに、中東アラブ諸国では、「ペルシャ湾」と言う事はありません。同様に、「トルココーヒー」も禁句です。現地に出向かれるときは、大事なところで口走らないように、口に巾着を掛ける必要があります。
 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の「安息」の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(班固「漢書」西域伝で紹介され、范曄「後漢書」西域伝の言う「小安息」)から起こって、イラン高原を西に展開し、アレキサンドロス早世後に地域を支配した「セレウコス」朝王国が、西方での共和政ローマの将軍ポンペイウスによって指揮された大軍の侵攻で大敗したのを受けて、同国を駆逐して、イラン高原全域を支配しましたが、西の王都クテシフォンは、バグダード付近にあったのですが、当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。
 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの支配した地域が介在しましたが、安息(パルティア)は、中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。このあたり、漢/後漢は、しばしば混同していたし、西のローマは、帝制紀に入ってしばしば侵入してきましたが、こちらは、当方の小安息のことなど、とんとご存じなかったのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、うるさく言うと小国安息の代表者/国主であり、その世界観は、地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスピ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、して見ると、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 この際、中国から見た西域の地理認識を是正すると、古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。最初は、ロプノールを、塩っぱい水に満ちていたことから、あえて「西海」と呼んだのですが、次第に、西方の地理が分かってくると、巨大な塩水湖があるのに気づいて、「大海」と呼ぶことになったのです。地中海に、大海の東岸にあたる安息が、漢/後漢の到達した西の果てであり、安息の西の王都どころか、大海の西岸「海西」の條支すら、実見できていなかったので、噂話にとどまったのです。このあたりは、どんどん余談が広がるので、後ほど、解説できるでしょうか。
 少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などが「大海」であったと論証するのは、大変困難(不可能)と思われます。何しろ、そのような「大海」は、中国関係者が実見したものではないので、地平の彼方の霞の世界ですから、明確に特定できるものでもないのです。

*條支の西
 條支の先は、黒海から地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思われます。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、黒海に出てアドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を、コーカサスの難関を越えて渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ、後漢朝史官が史実の報告として史書に掲載したのは、安息、大月氏までであり、笵曄「後漢書」によれば、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承「後漢書」考 余談
 謝承「後漢書」なる断片史書が外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志「東夷伝」の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。
 謝承は、後漢末から三国の呉人であって、洛陽で史官の職に就いてないから、書庫に秘蔵の公文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけですから、本紀/列伝に関しては、なんとか史料を収集して書き上げたとしても、夷蕃伝は、公文書が不可欠なので、大したことは書けなかったのです。

*魚豢「魏略」考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官ないしは準じる官職にあったと見られる魏朝官人であり、魏の首都雒陽に蓄積されていた漢代公文書を制約無しに閲覧し「魏略」に収録できたと見えます。「魏略」、特に「西戎伝」には、漢代文書が豊富に引用されていて、魚豢が、漢代公文書から取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料に依拠するのは史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢「魏略」を、(必要に応じて、断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢「魏略」が史書として適確と知っていたから、魏略「西戎伝」を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄「後漢書」が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。笵曄「後漢書」西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、班固「漢書」西域伝の解釈を誤っています。
 班固「漢書」は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程であり、安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 3/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行   初出 2020/04/21 補充 2020/06/23 2024/02/26

〇漢書安息記事
 「王治番兜城,去長安萬一千六百里」なる班固「漢書」西域伝の安息地理情報は、本来明解です。
 安息は、現地にいる漢使にとって、目前の番兜(ばんとう)城を治所とする「大国」であり、大月氏や烏弋山離のすぐ西の隣国となっています。ところが、それに続いて、安息は、方数千里の「超大国」であり、「国都」は西方数千里の彼方、とあるので、長安帝都の関係者は混乱したようです。この混乱は、順当に後続史書に受けつがれます。

史官の務め色々
 言いきってしまうと、誤解を招くかとも思うのですが、ここでは史官の務めを確認したいのです。史官は、手元の史書、資料に混乱があると見えても、勝手な解釈から小賢しい是正を加えてはならないということです。混乱していると見えても、是正せずに継承していれば、あるいは、後世、無理のない是正ができるかも知れないのです。棄てず作らずと言うことです。

 ただし、後世に史官の務めを知らない、小賢しい輩が現れて、気に入らない原史料を棄ててしまったら、後世にはその勝手な解釈による改竄結果しか残らないのです。
 ここで言うなら、西域記事に関しては、范曄「後漢書」西域伝が、大々的な是正を加えているので、危うく歴史改竄がまかり通っていたのです。幸い、原史料が裴松之によって魏書第三十巻に収録された「魏略」西戎伝に温存されているので、笵曄「後漢書」が何を消してしまったかわかるのです。
 とすると、後漢末(桓帝、霊帝、献帝)から魏(武帝、文帝、明帝)にかけての東夷伝記事で、范曄と陳寿のどちらを信じるべきか、はっきりしてくるように思います。

 いや、このような両史家の資質評価は、古田氏の持論とも一致するので、ここに書いても許されるように思った次第です。

*混乱解決の手掛かり
 この際の混乱の由来を整理すると、安息は、大王国の国名であると同時に、王国東端の小安息で漢使を応対した「長老」にしてみたら自国の国名なのです。小安息は方千里程度なので、近隣諸国と比肩できます。

 このように認識すれば混乱は解消するのです。特に、漢使到着の時点は、大安息西方の大発展、イラン高原統一が完了した時点なので、まだまだ、安息と言えば、長年王国を維持してきた全天下の地理観、世界観が通用していたように見ます。
 と言うことで、漢使の安息到着以来、二千年を越えようかという條支比定の課題は、にわかには、 解決しないでしょう。
 それはさておき、條支は、安息から見て、国境~国境で数日程度の隣国です。

 後の魚豢「魏略」西戎伝に依れば、條支は、安息と大海カスピ海を挟んだ隣国で、大海(南部)を横断する行程と共に、南岸を経巡る訪問行程が描かれています。條支王都は、安息人が「海西」と通称するように大海の西岸ですが、そこから西に百余日河川遡行しても、西方の山地を越え、黒海なり、今日の小アジア(トルコ)に出る程度で、その認識は、今日のヨーロッパに届いていないのです。
 「條支」は、字面から言うと、分かれ道、川の支流ということのようですが、当時、東のカスピ海と西の黒海の狭間で双方と通じていた「アルメニア」王国を指すようです。今日の「アルメニア」は、カスピ海岸の「アゼルバイジャン」と黒海岸の「ジョージア」(かつての「グルジア」)に介在する内陸国ですが、当時は、両国を支配していたようです。(これは、少数意見です)
 安息を等身大に解釈するだけで、大半の混乱は解消するのです。

*「西方」観の相違 余談
 漢人の西方は、西王母の住む仙境であって、こころのふるさとなのですが、安息人には、西は交易相手の隣国が在るというだけで、格別の感興はないのです。現世の思いとして、漢人に西方諸国を知られると、安息迂回の貿易路を開設されて巨利を失う危険があることから、とぼけ通したとも見えます。

*西の狼、東の虎 余談
 現実には、メソポタミアの向こうの地中海東岸シリアには、強力な軍備のローマの大軍四万人が駐屯していて、往年のアレキサンドロス大王ばりの侵略を企てていると見られるので、安息国は、東方の大国がローマと交流させるわけにはいかなかったのです。
 何しろ、漢は東方オアシス国家を支配した北の匈奴の排斥戦略として、安息の仇敵大月氏と同盟を企てているので、敵に回さないで敬遠したかったはずです。
 と言うことで、安息国の長老、おそらくは、小安息の国王、ないしは、側近は、漢人の聞きたい幻想譚を示唆しただけに止めたのでしょう。

〇まとめ
 以下、率直に、本書に示された古田武彦氏の西域観の瑕瑾を指摘して、本記事を終わります。
 1.漢書西域伝から読み取った安息、條支の地理情報が誤解されています。
   そのために、漢書、後漢書の西域観を読み損ねています。
 2.東夷傳序文に示された陳寿の漢魏西域交流総括が軽視されています。
   それが、東夷伝解釈に反映していて、不満です。

〇謝辞
 以上の素人考えの背景は、主として、以下の諸書によるものです。

 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 岩波書店
  第六巻 西域史研究 上 第七巻 西域史研究 下

  史記に始まり唐書に至る正史西域伝に残された漢文明と西域との交流の歴史解明と欧州文書など大量の資料を基盤とした考察は、世界的に先進かつ最高峰として高評価を受けていて、後世の素人に、大変貴重な労作の高峰です。

 塩野七生 ローマ人の物語
 東方のペルシャ帝国を打倒したアレキサンドロス三世の偉業を慕うローマにとって、「ヨーロッパによるアジア制覇」は国民的願望として、共和制末期を飾るポンペイウスのセレウコス帝国打倒、続く、クラッススによるバルティア遠征と破綻、皇帝ネロの和平構築、等の出来事が、時に応じて丁寧に紹介され、ローマ視点のパルティア観を明らかにしていて大変貴重です。
 東西超大国の狭間でしたたかに生き続けたアルメニア王国の姿は、ここ以外では、中々読めないものです。

 本記事筆者は、西域伝/西戎伝に現れる大国「條支」は、アルメニア王国に違いないと確信しています。

 なお、漢代西域展開の極致は、後漢西域都督班超が派遣した副官甘英が、長年西域支配を画策している「大月氏」(貴霜)打倒のための同盟工作を極秘裏にに展開した安息国の東方拠点であり、その隣国條支にすら。足を伸ばしていないのです。

*「大秦」の幻影払拭 2024/02/27
 魚豢「魏略」西戎伝及び笵曄「後漢書」西域伝に言及されている「大秦」記事は、疑いを挟む余地無く、「條支」、ないしは、その近辺の「小国」の風聞であり、パルティアを越えた地中海圏にまでその所在の検索を求めるのは、砂漠に蜃気楼の「逃げ水」を追い掛けているものです。
 魚豢「魏略」「西戎伝」は、参照した後漢代史料の錯簡により、後世史家が誤解していますが、とかく誤解が蔓延っている「大秦」は、前世で、アラル海付近にいたと特定されている黎軒が、「海西」、つまり、大海西岸の条支国付近に移住したものであり、あくまで、近隣なのです。袁宏「後漢紀」考明帝紀は簡潔明瞭であり、康居、大月氏、安息、大秦、烏弋と並んだ諸国の比較して西の方としています。
 西域都督副使甘英は、大海の岸辺に到達していたので、海西に渡ろうとしたものの、安息の塩水の大海は渡海困難の説明で説得されて断念したとされていて、これは甘英の使命ではないので、安息高官の説得に応じて條支、大秦の究明を断念しても不思議はないのです。
 「後漢紀」 によれば、大秦は、太古、中国「秦」の西方にいた騎馬/遊牧の民であり、大月氏同様に、何かの機会で身軽に西方に移住したのであり、転々と移住を重ねた挙げ句、安息の一隅を占めて中国「大秦」を名のっていたらしいのである。
 このあと、記事は、宏大で文書行政を施された大国の風情を収めた「大秦」記事となっているが、常識として、これは、安息の記事が、錯簡されたものと見えるのである。何しろ、当時の夷蕃伝は、「其国」として書き継いでいたので、綴じ紐がちぎれて簡牘が交錯したら、臆測で復元したのである。これは、魚豢「魏略」西戎伝でも見られる交錯であり、本来、詳細を究めるべき安息事情が希少で、大秦事情が豊富であるのは、そのような誤謬を是正し損ねたように見えるのである。

*安息の機密保持~東西交易の「中つ道」
 それはさておき、「状況証拠」として明快、かつ有力なのは、東西交易、さらには、南方交易で「ローマが羨む世界一の巨利」を博している安息としては、暴威を極めている大月氏の同類としか見えない漢の使節甘英が何と言おうと、国内事情を詳しく教えるどころか、遙か西方の敵国ローマ準州に接触を許すはずがないのです。何しろ、班超は、第三国に使者として滞在しているときに、匈奴使節団の滞在を知り、暗夜奇襲してこれを葬ったという蛮勇の持ち主であり、百人程度の少数でも、厳重警戒が必要なのです。
 何しろ、目下沈静化しているとは言え、大月氏は、東方から亡命したと称しながら、突如、騎馬軍団で、安息王都を急襲して、「国王親征軍」を大破して、王都の財宝を掠奪し尽くしたという前歴があり、西方からの援軍で、大月氏軍を押し返し報復したとは言え、以後、国境部に二万の常備兵を置いたほど、警戒しているのであり、漢月共々、一切信用できないのである。そんな物騒な輩に、国内通行を許すことは有り得ないのである。
 さらには、安息の交易ルートの北方に脇道を設けている條支と接触することすら、商売の上で、もっての外だったのである。もっとも、西戎伝には、條支商人の述懐として、安息は、東西交易で厖大な利益を得ていて、売価が、仕入れの五倍十倍は当たり前だとしていたが、それは、大月氏制圧を、喫緊の使命としていた漢使の知ったことではないのである。

*莉軒「大秦」の比定
 というような「常識的」な考察を歴て、大秦の居住地は、かなりの可能性で現在のイランテヘラン周辺、太古の「メディア」の後裔地域であり、「メディア」の語意を得て、「中つ国」、「中国」、転じて「大秦」と名乗ったと見えるのである。ちなみに、以後、さすらいの莉軒がどうなったかは、不明である。

袁宏「後漢紀」復権
 袁宏「後漢紀」は、「黎軒」が、「印度北部のヒマラヤ中腹の細道を歴て、益州、つまり、蜀漢の地に至り、更に、交址に下りる細々としていても、確実な経路を確保していた」と見ていて、これは、張騫が西域諸国で傍見した中国物品の渡来につながるようである。
 そして、これが、後年、「ローマ皇帝」使節の漢都到達という年代物の理解/誤解につながったようである。砂漠の道、海の道以外に、細々とは言え、酷暑、瘴癘、乾燥と無縁の「山辺の道」があったのである。

 いや、魚豢「魏略」「西戎伝」の該当部分の行程記事は、常人の読み解けるものではないように見えるが、見る人が見れば、要点を見抜けるもののようである。

 以上、どこにも飛躍やこじつけのない「エレガント」な仮説であるが、どうしても、世間さまでは、「大秦」=「ローマ」の無理やりの決め込みが解けないようである。何処かで聞いた話と思ったら、それは、空耳である。

*ローマの残照
~帰らざる安息のローマ軍団
 西方蛮夷の風聞の源流を求めるなら、ローマ共和制末期の「クラッスス」の遠征譚であり、四万の遠征軍が、パルティア正規軍と会戦して大敗/壊滅したため、不敗のローマ軍団が全面降服を余儀なくされ、一万人の戦時捕虜がパルティアに引き渡され、「組織を保ったローマ軍団が東部国境に到達して、安息国兵士一万人とともに国境警備の任に就いた」とされているので、当該捕虜から聞いたローマの風聞が伝説化していたかもしれないのですが、それにしても、ローマ兵捕虜は、帝政以前のユリウス・カエサル時代の共和制ローマ市民であり、「国王」の執務など知りようがなかったと見えるのです。そして、結局、ローマとパルティアの和平が、長年成立しなかったため、ローマ兵捕虜は、全員が異境の土に帰ったのです。常識的な期間内に和平が成立していれば、ローマ兵捕虜は、身代金と交換に帰郷できたのですが、まず、ローマは、ポンペイウスによる、ユリウス・カエサル誅滅が、カエサルの反撃によって挫折して、広範な地域でポンペイウス追悼戦が続き、ポンペイウスの死で決着したものの、カエサルが、パルティア遠征を企てたものの、カエサル暗殺で報復戦は頓挫し、以下、エジプトを支配下に置いたアントニウスのパルティア遠征は、惨敗に終わり、といった具合で、時はひたすら空転し、皇帝ネロの英断で、両国間に和平が成立したときには、パルティアの東北辺境、メルブのオアシスで望郷の念を紡いでいたローマ兵捕虜は、全員が自然死を遂げていたのです。パルティアのために弁明すると、一万の統制されたローマ兵捕虜は、一万のパルティア兵とともに、重要な国境防衛に専念していたので、それなりの厚遇をえていたものと思われるのです。そして、ローマ兵捕虜は、当然、わへいによる捕虜交換がいずれは実現するものと、不敗の大国、共和制ローマの再来を信じていたのです。

 いやはや、風聞、錯覚の弁護をするのは、何とも、古代ロマンの風に曝されるものです。

 この項 2024/02/26~28追記
                                以上

2024年2月22日 (木)

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 1/3

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22

*お断り2 2024/02/22追記
 下記お断りが若干不明瞭なので、言い足すことにしました。
 本稿の背景は、『「倭人伝」道里行程記事』 に書かれている「郡から倭まで一万二千里」の里数は、郡から蛮夷の中心地までの道里を概念として万二千里と「見立てた」ものであり、当時、樂浪/帯方郡で施行されていた里制とは連動していなかったという提言です。よろしく、ご確認ください。

*お断り   2024/01/20
 本記事は、棟上/木佐両氏の「倭人伝」道里行程記事の共通の認識に沿って書かざるを得ないのですが、当ブログ筆者は、意見を異にしているので、時に応じて、差し出口を挟むことをお断りしておきます。
 つまり、『「倭人伝」道里行程記事』は、漢/魏代の蛮夷伝の前提として、「倭人」が漢/魏の東夷管理拠点であった楽浪郡に最初に参上した際の公式設定を示したものであり、「従郡至倭」は、漢/魏の拠点「郡」から「倭人」の国主に対する公式文書使往来/周旋の行程道里、つまり、「官道を騎馬の文書使が往来」するものであり、当然、「陸上街道の最善日程を基本としている」との見解です。つまり、帯方郡から発進する文書使は、半島内を官道に従い一路南北方向に移動するものであり、「大幅な迂回経路であって日程が不安定な船舶移動」は、「はなから論外」というものです。
 本記事は、そのような差し出口を控えて書いたため、大変歯切れが悪くなっていますが、二年余り模索した結果、やはり、冒頭でお断りしておくべきだと感じたので、ここに追記しています。

◯ 番外書評の弁
 本記事は、古代史関係書籍の批評を多数公開されている棟上寅七氏の最新書評について所感を述べたものです。題材は、倭人伝の行路に関して木佐敬久氏の『かくも明快な魏志倭人伝』の「古代史本批評」です。
 但し、文中で、生野真好氏の著書に言及しているので込み入っています。

 当記事は、棟上寅七氏の威を借りて、つまり、冒頭の異議は控えて、「倭人伝」冒頭の道里行程記事に関する思索を試みていますが、古来、「騎虎(寅)の勢い」では、寅の背から落ちると、たちまち、虎の餌食になってしまうので、身震いしながら書いたものです。
 と言いつつ、氏の書評をサカナに、私見を述べ立てていますが、氏の名声に便乗して、多少は私見を広めようという趣旨なので、ご容赦頂きたいものです。

*ご託宣
 『私にとっての読後感は「かくも不明快な倭人伝解釈」でした。』とあります。
 主として、倭人伝冒頭の「従郡至倭」行程の道里、特に、半島行程について、木佐氏の船舶移動説を(完全)否定したものです。
 便乗、騎虎発言ですが、ブログ筆者たる小生も同意見です。
 小生であれば「従郡至倭」に続く「循海岸水行」なる語法の「海岸に沿って水行する」への読替えが、正史語法として不法として「一発退場」とするのですが、氏は丁寧に面倒をみています。
 つまり、原文解釈を曲げて「沿岸でなくかなり沖を航海した」ことの不合理の指摘は、やり過ごしていて、そのように進んで来ておきながら、狗邪韓国に寄ってから対海国へ行くのに、長い船旅の後「はじめて海を渡る」という表現はありえない』と痛打しています。
 それに、「韓国を歴るに」についての古田師の説明(沖合通過では不歴の非礼となる)を無視している点にも切り込んでいます。

 棟上氏は、「近現代の大型の船舶でも、時に半島西岸の多島海で沈没事故を起こすので、三世紀当時の海域を、素人の「思い込み」で夜間停泊せずに無装備で航海する危険性を船舶航行の「専門家」に聞くべきだ」としています。まことに至当な提言であり、ぜひ、耳を傾けていただきたいものですが、世間では、「専門家」に古代船舶の的確な情報を伝えずに、「思い込み」への同調を強要している例もあり、耳を傾けても、耳栓をしていては、正しい意見が耳に入らない、脳に届かないものかと、不埒な意見を禁じ得ないのです。

 かたや、木佐氏は、「当時の帆船を復元して実験航海したい」などと戯言をものしていますが、棟上氏からの痛烈な批判として、単に、無謀な冒険航海の意義を否定するのではなく、信頼できる専門家の意見を聞くべきだ」との「教育的指導」は、さすがの卓見で、同感します。
 因みに、三世紀当時、半島南部以南の海域に帆船は存在しなかった、つまり、黄海を経て狗邪韓国まで結ぶ帆船経路は存在しなかったとの定説があり、存在しなかったものの復元は「論外」と見えます。

 本記事は、以下、別の話題に逸れますが、単なる余談などではなく、重大な話題なので、お付き合いすることにします。

◯論争の経歴 生野真好氏との論争回顧
 棟上氏は、半島西海岸南下説を唱えた生野真好氏と論争した経験を述べています。二重引用になりますが、行数が十分あるので、曲解はないものと思い、ここに再録します。御両所に無断で恐縮ですが、建設的な批判を心がけているので、ご容赦いただきたいものです。

*生野氏著書引用
 『生野真好氏は次のように書きます。
【当時の魏の海船のことはよくわからないが、呉には600~700人乗りの四帆の大型帆船があったことが、呉の万震撰『南州異物志』にある。また、『三国志』「呉志江表伝」に孫権が「長安」と号した3000人乗りの大船を、とある。ただし、これはすぐに沈没した。
 また、呉の謝宏は、高句麗に使者として派遣されたが、その答礼品として馬数百匹を贈られた。しかし、「船小にして、馬80匹を載せて還る」とある。何艘で行ったかはわからないが、1艘とするなら馬が80頭も乗るのであるから相当大きな船であったことになる。しかもそれすら「小さな船」と言っているのは興味深い。

                                未完

新・私の本棚 棟上 寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 2/3

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22~26

*生野氏著書引用 続き
 それに、史記によれば漢の武帝が楼船を造ったとあるが、「高さ10丈、旗幟をその上に加え、甚だ壮なり」とある。三国時代の約300年前に、すでにこれだけの造船技術を中国は持っていたのである。
 その武帝は、朝鮮征伐の際、5万もの兵を船で朝鮮半島に送りこんでいる。「楼船将軍楊僕を遣わし、斉より渤海に浮かぶ。兵5万。」 この時には山東半島から渤海を横断して朝鮮半島西海岸に着岸している。この海上ルートは、前漢時代には開かれていたことになるし、魏の明帝も楽浪・帯方を奪回した時は「密かに船を渤海に浮かべた」とある。
 以上のことを参考にするなら、魏使一行の乗った船は相当大きな船であったと思えるし、黄河河口域から博多湾まで10日で来ることができた可能性もある。現在の帆船であれば、一日の航行距離は、150~200km以上は可能である。黄河河口域から博多湾までは、約1800~2000km程度であるから、数字上は10日程での航行は可能ということになる。こと帆船に限るなら、3世紀と現在とでそれほど大きな差があったとも思えない。】』

*生野氏著書引用終わり

*コメント~2024/02/26
 ここで、第三者が口を挟むのは筋違いなのですが、生野氏の史料考証は、ちと脱線しています。
 漢武帝の朝鮮侵攻で、山東半島から浮海、つまり、新造船で渡海したと書いておかれながら、魏使一行の用船は、黄河(河水)河口部から、渤海/黄海を長途南下したと見ているのです。直前に、明帝の指示で帯方郡を接収したときも、新造船で山東半島から浮海した、つまり、帯方郡海港に渡船で渡ったとされているのですから、このように確立されていた渡船航路を、その際利用しないのが、なんとも不可解なのです。
 つまり、司馬懿軍団すら迂回/回避した河水河口部の(存在したはずも無い)海港から、帆船で船出するというのは、不合理そのものと見えますし、結局、山東半島に寄港するわけだから、何とも、不可解な白日夢と見えるのです。
 このあたり、「現実離れ」、「史料離れ」した時代考証が、両氏の間で論義されていないのは、何とも、これまた不可解です。
 
*コメント~「江表伝」史料審査
 棟上氏の見解を差し置いて、史料考証からみたコメントは以下の通りです。
 以下、生野氏著書引用が正確と仮定し、引用文における読み取れる限りの不備を指摘します。

 まず、陳寿「三国志」「呉志」に「江表伝」なる列傳はなく、「呉志」に裴松之が付注した「江表伝」を誤解したものと思われます。
 Wikipedia記事を参考にすると、【『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋虞溥編纂の呉史書である。晋室南渡の後、虞溥の子の虞勃が東晋元帝に『江表伝』を献上し、詔して秘書に蔵したという。孫呉事績を、編年体「伝」形式を念頭にしつつ、記述したものと思われる。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とあり、五代の乱世を経た北宋期には散佚して、書物の全容は全く不明である。】要約、補追は、当プログ筆者の責に帰すものである)

 当記事は、用語から「江表伝」 は、 魏晋視点で書かれたと速断していますが、用語は、晋代、ひょっとすると、東晋代に是正された可能性が高いとみえます。後出のように「江表伝」は魏武曹操敗北を、後年、東呉視点で「粉飾」した東呉寄り史書とみるのが順当と思われます。
 「江表伝」の散佚ですが、「三国志」、特に「呉志」の裴注に「江表伝」の独自記事が引用され、当該部分は現在も健在です。「書物の全容は全く不明」とは、凝りに凝った表現ですが、無用の誤解を招くものであり、同記事の信頼性を大いに下げています。全容はともかく、裴注に採用された部分は、ちゃんと「正史」の一部として継承されています。

 但し、「江表伝」は、陳寿が検証して採用したものではないので、裴注による追加記事は、「三国志」本文と同様に扱うことはできません。

*裴注「江表伝」補追の意義~余談
 「江表伝」上梓は陳寿没後なので、陳寿は、其の内容を知らなかったのは明白であり、韋昭が主管していた東呉史官は、「呉書」編纂時に、史官の見識でこれに相当する史料を採用しなかったから、『東呉史官が編纂し東呉滅亡時に晋に提出され、時の西晋皇帝が嘉納し、西晋公文書となった、東呉史官韋昭の編纂になる「呉書」』が、「三国志」「呉志」に充当されても、「三国志」に「江表伝」相当記事は不在だったようです。もちろん、陳寿は、「三国志」編纂に際し、後漢魏代に洛陽に於いて所蔵された公文書資料/ここでは韋昭「呉書」を援用することに努めているので、「呉志」に収録されていない野史、風評に類する史料は、史実でないとして参照しないのですから、「江表伝」同様の野史/稗史が存在していたとしても、仮に、そのような内容を目にしたとしても、「三国志」に採り入れることはなかった/できなかったのです。

 そのような史官の編纂方針は、後生史官である裴松之の理解するところであり、そのため、裴松之は、皇帝の諮問に応じた「三国志」補完の勉めの一環として、「江表伝」から、他の史書にない東呉寄りの視点の「偏向・曲筆」記事を「補追」したようです。念のため言い重ねると、決して、「三国志」が不備だという趣旨/視点からではなく、ご指示に従い「彩り」/蛇足を加えたように見えます。
 このあたりは、あまり見かけない意見でしょうが、ご一考頂きたいものです。

 と言うことで、世に言う裴注補追記事の評価は、かなり割り引く必要があります。厳しく言うと、裴注補追記事は、大半が蛇足で、「三国志」本文の充実には寄与していないと思われます。

 もちろん、裴松之は、陳寿「三国志」が、「正史」として遇するに値する著作と認めた上で、あえて、「明らかに蛇足と見て取れる低俗な史料まで」補追して「見せた」ものと見えます。何しろ、ご指示に背く補追として皇帝の激怒を買うと、文字通り馘首されるので、少なくとも、皇帝の体面を保って見せたと見るものです。
 世上、陳寿「三国志」が簡潔に過ぎ、不備であるとして、裴注をもって「三国志」が完成した』とまで、勝手に言い足して主張する方が珍しくないようですが、素人目には、「三国志」は、陳寿原本が、史書/正史として完成形』と見るのであり、先行する万巻の大著である司馬遷「史記」、班固「漢書」を尊重しつつ、後漢献帝が、
それぞれの得失を見た上で、
座右の名著として備えるに適した簡要な史書として勅撰した筍悦「漢紀」(前漢紀)』
を参考に、三国鼎立という時代状勢の制約を踏みしめて、鋭意編纂したものです。
 「三国志」の陳寿稿(遺稿)は、決して、未完稿で無く、時節を得れば、皇帝の上覧を仰ぐべく決定稿、上申稿を遺して没したのですから、同時代最高の史官が完成形と自負した「三国志」に、適確な評価を与えるべきでしょう。少なくとも、「二千年後生東夷の無教養」人が、したり顔でとやかく言うべき事項ではないのです。

 そして、裴松之は、皇帝を代表とする同時代「建康」読書人の偏見によって『「三国志」が、陳寿の意に反する形態に改竄される危機を、見事乗り越えた』ものとみるのです。

                                未完

新・私の本棚 棟上寅七 『槍玉その68「かくも明快な魏志倭人伝」』 補 3/3

  木佐敬久 著 冨山房 2016年刊
「新しい歴史教科書(古代史)研究会」「棟上寅七の古代史本批評 ブログ」2021.5.06からの転載 
 私の見立て ★★★★☆ 必読の名批評    2021/10/29 補充 2022/10/11 2024/02/22

*コメント 続き
 このように、史料評価は、用語を浚える/囓り取るのでなく、文献として内容を熟読、吟味した後に提示すべきです。これは、Wikipediaの情報源としての限界/短足です。何しろ、現今のWikipediaは、陳寿「三国志」に対する後世の誹謗、中傷を積極的に収集した感があり、「曲筆/偏向の好事例」と見えますから、「客観的な判断には、利用しがたい」のです。なぜ、この場で、陳寿を弾劾しているのか不審なのです。

 後漢末期の献帝建安年間、「宰相曹操が、荊州討伐後に巡行し東呉に服属を促した」ときの「赤壁」での対決で、東呉の偽降による火攻めで大敗したという「江表伝」独自記事が裴注で補追されたために、「呉志」が「江表伝」依存の東呉自慢話に堕したと見えて、史書としては、はなから信用できない状態になっているのと同様です。「魏志」が、曹操撤退と粉飾/糊塗しているのと同様の意味で、「呉志」は、曹操大敗と言いたいところだったのでしょうが、本文には大した東呉戦果は書いていないのです。
 「三国志演義」は、話を盛り上げるために、随分「粉飾」を加えているのですが、元ネタは、裴注が拾い上げた「江表伝」なる、敗軍の負け惜しみに過ぎないのです。
 ついでながら、船体の大小は、時代と報告者の世界観で大きく変動し、現代読者の世界観も不確かなので、史学論では厳として避けるべき冗句です。いや、事は、船体の大小に始まり、人数の多寡などにも及ぶのであり、論考の展開に於いて、不明瞭な発言は厳に慎みたいものです。

コメント終わり

*時代錯誤の帆船起用への批判
 棟上氏は、生野氏の数字頼みの論証が、科学的・論理的な風体を示しながら、現代の帆船の航行速度を三世紀の船にあてはめる絶大な不都合を指摘していますが、これは、生野氏が、適切な専門家に適切な相談をしていないことを指摘しているものと見えます。言うならば、ご自分の夢物語/法螺話を無責任に放言されている事への非難であり、素人目にも、反論できない失態と見ます。

 続いて、棟上氏は、「野性号」実験航海情報を点検していますが、残念ながら、同航海は学術的なものでなく、客観的な最終評価がされていないことを見過ごされたように見えます。要は本筋の議論ではない道草なのです。むしろ、同海域で、帆船による往来が存在しなかったと見極める方が、明快です。

 続いて、本記事の核心と言える至言を提示されています。
 「海に不慣れな魏使一行が貴重な贈り物を持って船に何日ものるか、韓半島には虎が生息していたのですが、それを防ぐ軍勢と共に山道を取るか、答えは見えているのではないでしょうか。当然陸路でしょう。」

コメント
 生野氏記事の引用は、棟上氏の文責ですが、造船は地場の船大工が行うものだから、造船業のない土地では、いくら号令をかけても造船は不可能です。勿論、船材大量調達も大問題です。魏の造船、呉の造船など、殊更言うのも無駄です。長江河口部に海水淡水両者の造船業があっても、それ以外は、「魏志」に登場する長江支流漢水の川船造船、山東半島など渤海岸の海船造船でしょうか。
 いずれにしろ、造船業は、それぞれの土地の地場のものであり、特定の帝国に属するものではありません。

 ちなみに、棟上氏の裁断は明解で、皇帝の命令で貴重な贈り物を大量に抱えた魏使が、剣呑な海船で行くわけはない、堅固な陸路に決まっているとの趣旨は、まさしく、一刀両断の「名刀」です。問題は、斬られた方がそれと気づかないことです。

 おっしゃるように、野獣の危険などは、兵士が護衛すれば良い」のであり、仮に野獣の被害を受けても、人馬補充すればいいから、陸路が当然です。何しろ、野獣は、下賜物を持ち去ったりすることはないのです。海船は、難破が付きものであり、嵐の沖合で難波したら、たれも助けにいけないのです。そして、帰らぬ人々は別としても、海の「もずく」ならぬ藻屑となった財宝は、誰にも取り戻せないのです。

 因みに、棟上氏は、しきりに、海に不慣れな中原人たる「魏使」とおっしゃいますが、実質は、黄海の海況に通じた青州東莱、ないしは帯方郡の関係者が運用したのでしょうが、それにしても、実際は、沖合航海は無謀なものとして、頭から却下されていたでしょうから、運用されたのは、手近な黄海対岸への渡し舟と狗邪~對海~一大~末羅の手慣れた渡し舟の運用が全てであったものですから、何も恐れるものではなく、中原で見なれている州島(中ノ島)への渡し舟と大差ないとしたものでしょう。要するに、生野氏はじめ多数の夢想家の言う「延々と半島沖の多島海を、南北ないしは東西する大航海」は、儚い白日夢でしょう。
 要するに、皇帝の文書、帯方郡使の文書、さらには、皇帝下賜の土産物を、こうした沖合航海の不慣れな船便に托すのは、不法なものだったのです。
 冒頭に明記したように、『「倭人伝」道里行程記事は、陸路による半島内の文書使往来を描いた』ものであり、後世の魏使説到来の記録などでは無いのです。山裾の散歩道の出発点で大きな陥穽に落ちて、あるいは、躓き石で転倒して、それに気づかないようでは、以下の考察は、無意味なのですが、気づいている方は希なので、ここに無礼承知で指摘するしかないのです。

コメント追記 2022/10/11
 生野氏の「帆船論」へのコメントを書き足します。
 生野氏は、無頓着に、三世紀の帆船も現代の帆船も大差ないと軽率に武断していますが、とんでもない話です。まずは、三世紀当時は、海図も羅針盤も無く、レーダーも、深度計もなかったので、一度沖に出れば、現在地を知るすべがなく、また、安全な進路を見定めることもできなかったのです。もちろん、周辺海域の天候を知るすべもないから、それこそ、台風と言えども、出くわすまで知るすべがなかったのです。
 また、入出港時のような舵取りは、帆船の操船/舵取りでは対応できなかったので、タグボートなど存在しない古代では、多数の漕ぎ手を乗せて、改捌きで転針するしかなかったのです。

 当たり前のことを、素人がことさら指摘するのも僭越なのですが、舵で帆船を転進するのは、ある程度航行速度があってのことであり、入港直前で、徐行しているときは、ほとんど舵が効かないので、漕ぎ手の力技に頼るしか無かったのです。
 それにしても、岩礁や浅瀬も、位置を知らなければ、避けようが無かったので、結局、それぞれの港に通暁した水先案内の指示に従うしか無かったのです。
 また、現代の帆船は、向かい風でも帆の操作で推進力を得る技術を備えていて、極端な無風条件以外は前進することができるのですが、三世紀の帆船は、そのような高度な技術を有していなかったから、風向きが悪いと身動きできなかったのです。
 つまり、航行速度以前に解決すべき難題が山積しているのです。

 付け加えるなら、現地海域が、大型の船舶の航行可能な状態であったかどうかも調査が必要です。操船の不自由さを置くとしても、船底が閊えず両舷も楽に通過できる「航行路」は、小型の船が往き来するだけの辺地では、全く知られていなかったはずです。
 棟上氏の指摘通り沿岸を遠く、遠く離れて、岩礁や浅瀬を十分に避けてこわごわ帆走するにしても、塩っぱくて飲めない塩水の上では、数日のうちに接岸上陸しなくては水が切れるので、どこかで岸に近づく必要があるのですが、どうやって、海図の無い海で、安全な進行を見いだせるのか不可解です。
 こうした事情は、素人でも、耳学問、ネット学問で学習する事ができるのですから、著書で、このような暴論を吹き撒ける前に、専門家の意見を聞くべきなのです。

 因みに、冒険航海の諸氏は、そのような帆船の不合理を承知していて、手漕ぎ船として、多少大きめ、重めとは言え、漕ぎ手の力技で操船不可能ではない「小船」に、地域海況に詳しい「水先案内人」(パイロット)を乗せ、案内された既知の安全な進路で進んで、天気予報も受信し、ほぼ毎日入港して食糧と水の補給とともに、可能な限り陸上で休養し、現地の水先案内人と交代する実用的な安全航海に挑んだと見えます。全員帰還できたのには、立派な理由があったのです。帆船で同航路を突破しようとした例は、見受けません。恐らく、遭難必至とみているのでしょう。

 何しろ、想定されている数百㌔㍍に及ぶ危険連続の航海途上で、一度でも難船難破すれば、それで全てお仕舞い、人も、宝物も、海の「モズク」、ならぬ「もくず」ですから、冗談抜きで「必死」、棟上氏の言う「剣呑」、つまり、鋭利な剣を喉に呑み下すのに匹敵する確実な「危険」です。皇帝の下賜物を届ける重大な使命であれば、もし、万が一にも失敗すれば、大使以下の「責任者」は、「責任」を取らされて、自分だけでなく、妻子、家族まで連座して、公開の場で刑死して、晒し者になるので、惜しいのは、自分の命だけではないのです。

 ここで、もし、「極めて困難」と書かれていたら、それは、「絶対不可能」と解すべきであり、信念を持って、決然と断行すれば、きっとできるに違いない」というような楽天的な意味ではないのです。地点別の危険度を㌫で評価して加算しても、所詮百㌫が天井なのですが、一度遭難すればお仕舞いなので、そのような稚拙な数値化には、まるで意味はないし、これは、「リスク」などと、戯けて誤魔化せるものではないのです。

 冒頭にお断りしたように、この種の議論は、論外の泥沼に踏み込んでいるので、いくら誠意を持って論じても「明快」には成らないのです。

コメント終わり

 以下、木佐氏の諸国比定論批判になりますが、当ブログの専攻範囲の「圏外」なので割愛します。

*棟上氏の総括~引用
 根本的には古田師がよく言っていらしたように、いろいろ我が郷土こそ邪馬台国と主張されるが、考古学的出土品のことについて抜けていてはダメ、と指摘されています。この木佐説も同じです。同じ時期にすぐ近くに「須玖岡本遺跡」など弥生銀座と称される地域がなぜ倭人伝に記載されていないのか、という謎が木佐説では説明できていません。できないからの無言でしょうけれど。
 折角の大作ですが、俳句の夏井先生が古代史の先生だったら、この作品は「シュレッダー」でしょう。  以上

*棟上氏の総括~引用終わり
 「書き止め」の上、謹んで公開します。(陳寿結語の引用です)

 誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪謹言

                                完

2024年2月21日 (水)

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改) 1/2

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明、版元不明の野良
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21

◯総評~出版物でない雑資料 「(改)なし単行本」2022/1/23
 本書を短評すれば、著者の頭の中が混乱していて、そのために、資料の理解もできていないし、正しい表現で書くこともできていないので、せめて、小学校に入り直していただかないと世間に誤解を振り撒きます。

◯出典不明で無礼
 「本書」は、権威ある出版社編集部の校正を経ていない上に、いつ、誰が「出版」したのか明記されていないので、単なる「紙屑」等しいのです。確かに、ネット記事は、当ブログを含めて、根拠とできない「紙屑」ですが、本書は、出版物を擬態/標榜しているだけ、重大な紙屑です。因みに、出版社編集部は、自社名で世に出すので、自社の信用を維持するために、れ原稿内容を精査し、時に、検証/訂正を要求した上で、「助言と同意」のもとに、社名を表示して出版するのですが、本書は、一切それが無いので、商用出版物、つまり、売り物としては、詐称に近いものです。
 因みに、一流出版社の出版物であっても、著者が、強引に編集未了の不完全な書籍を出版した例がありますが、当該出版社「講談社」は、光栄/伝統ある社名に不滅の悪名を刻んでいるのです。
 すくなくとも、本書が、論説の新規性を主張したくても、日付(タイムスタンプ)無しでは、何の足しにもならないのです。

◯駆け足御免~「ダメ山塊」
 本書は、走り読みしただけでも、ほぼ各行/複数個の「迷言」乱発で、一々かかずり合っていては先に進まないので、駆け足とさせていただくので、他は、推して知るべしという事です。手元資料には、テキストに対して、ほぼ数文字毎の(?)が書き込まれていて、つまり、全体に「ゴミ」(Junk)の山ですが、当方に指導義務はないので、守備範囲である「道里」記事の限定ダメ出しを見ていただいて、無根拠の非難でないと理解いただきたいのです。
 と言いつつ、理解できていないのに、キラキラと絵解きするのは重症です。

*混乱発露の自爆発言
 断然最大の誤解は、『陳寿は”事実は書いていないが嘘も書いていない”という高等テクニックを駆使して記述した』と意味不明の迷言です。現代日本語すら正しく読み書きずに二千年前の専門家を批判するなど、千年早いのです。

*道里記事失態
 著者失態の根源は、史料の読み解きができていないことです。著者は、狗邪以南の渡海水行記事に道里は存在しないと理解していながら、全体の読み解きに失敗した混乱のツケを、陳寿に持ち込んで無様なのです。
 陳寿は、当時、天下最高の専門家であり、「倭人伝」編纂に職責/身命をかけ、先輩、上司の批判を克服していますが、著者は無責任に言い捨てます。

*概数観の混沌
 投馬道里記事で、往き来していないから不詳と明記しているのに、「里数が欠けている」、里数が日数に切り替わるのはけしからんと云う発言です。そこまでが、七千余里、千余里と千里単位で、たいへん大雑把なのに、日数は、せいぜい十日単位で明確なのを見すごしています。著者は、ずいぶん、数字に弱いようですが、自覚して修行すれば、改善されるかもしれません。

*再出発のお勧め
 先ほど、小学校に入り直すよう戯れ言したのは、今日の小学校算数には、概数が含まれているので、修行し直したらどうかというものです。
 因みに、小学校課程をお勧めするのには、もう一つ恥かきが在るからです。土地土地の南北東西は、著者も知る竹竿日時計で、立ち所に確定でき、取り違えないのです。小学校の理科実験、夏休み宿題で身につくことで、本書のように勘違いを公開することはないのです。氏は、高校生に講義する設定のようですが、精々、生徒なる後生に馬鹿にされないように勉強すべきです。

*情報審査の不備
 また、氏の欠点の「一つ」は、参考文献に散在の札付き「ゴミネタ」に見境なく食いつくことです。「倭人伝」談義は、大学「先生」まで不勉強でいい加減な発言をする例が少なくないので、検証してから他人に勧めるべきです。
 近来、一段と、読み囓り、書き飛ばしが氾濫している「倭人伝」巷説ですが、仲間受けすれば良いというものではないでしょう。
 なお、中国語で「先生」は、単に呼び捨てでない「おっさん」という意味であり、教授や教師と敬称しても、「先生」呼ばわりは、むしろ不名誉の極みです。

                               未完

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改) 2/2

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明
 私の見立て ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21

*基本の見落とし 
 著者は、道里記事の大事な「分かれ道」に対して、『榎一雄先生は「倭人伝の道のりは一直線に読むのでなく、伊都国まで来たらそこを中心に放射状に読み取るべき」と主張された』と勘違いして大局を見失ったと見えます。
 要するに、中原なら、四頭立ての馬車で行く「周道倭遅」ですが、馬車も乗馬もない倭地ですから「郡道が伊都で完結」する徒歩行と見るものであり、以後、奴不彌投馬三国は、万二千里に無関係の脇道であり、行く必要は無いのです。これら三国とは、「余り往き来していないので、不詳」と明記しているのに、長々と論義しては、読者を混乱させるのです。あるいは、時間の無駄として読み飛ばされてしまうのです。

 実態不明の脇道の後に、『伊都国の直南に女王の住まう「邪馬壹国」があり、必要日数は、[都]全て、海上十日と陸上三十日、計四十日』まことに明快です。
 それ以外、女王以北狗邪まで「周旋」五千里と検算していて、重ね重ね誤解できないはずですが、それでは早々に黒星が付いて敗退と決まる「定説」派が猛然と攪乱しているのです。
 そんな攪乱に対して、著者は、まれに冷静な理解をしますが、すぐに言葉が動揺して混乱するのです。

*誤解の始まり提起
 いや、本論は、著者の論旨を追うのが主目的/主題ですから、本書の狗邪韓国あたりから論義を始めていますが、ここで、始点に戻ると、著者は、早々に、分かれ道の選択を誤っていて、回復困難な破局を、以後、一貫して、無頓着に踏み渡っている糊塗を、確認する手順となりました。本来、間違った分かれ道の先は、一切論義する必要は無いのですが、ここでは、著者の勘違いを正すために、あえて、無効とわかっている筋道を辿っているのです。ご容赦ください。
 さて、著者は、大抵の論者と同罪であり、勝手に早合点していますが、道里行程記事は、正始魏使の道中報告などではなく、明帝が、魏使派遣に先立って把握していた行程道里なのです。前提部分で、重大な錯誤があれば、即却下して、出直してもらう所ですが、それでは、指導にならないので、丁寧に面倒を見ているのです。
 従って、重大な懸案と見える脇道の三国は、「倭人伝」の要件であって、肝心な「伊都までの所要日数」に全く関係なく、従って、陳寿の関心外なのですから、陳寿が見たことも聞いたことも無い現代地図と照合して、無理やり辻褄合わせしても、陳寿の知ったことではないのです。何とも、意味の無い「徒労」記事です。

*箴言再生 
 当方は、高名な歴史学者岡田英弘氏の箴言をもとに、『三国志から二千年後世の無教養な東夷が、孤高の歴史書である三国志を非難するのは見当違いとしている』のです。但し「無教養」は、単に、もの知らずで読み書きができない「状態」であり、勉強で「無教養」でなくなるとの「自戒」です。
 古人曰「後生畏るべし」、先に生まれた「先生」が偉いのでなく、「後生」に乗り越えられるとの言葉があり、心ある関係者は、失礼にならないように「先生」と云わないことです。

*遣隋使談義の暇つぶし
 著者は、「隋書」を読めていない所から、何の参考にもならない後世談、余談を話し始めます。隋帝のもとに参集した蛮夷は、それぞれ「遅参はきつく処罰する」と、新規統一王朝の隋から、半ば脅されて参上していて、それを追い返すなどあり得ないのです。
 そもそも、無知、無礼は、蛮夷の真髄ですから、承知の上であり、そのような蛮夷を、厚遇して招待し、とことん「おもてなし」して、手なずけるために「鴻廬寺」が儲けられているのであり、接客実務の担当として、掌客部署があるのです。「客」は、蕃夷が耳にして怒り出さないように、美称している(外交辞令のリップサービス/口先だけのお愛想)です。
 もし、手違いで賓客を追い返しなどしたら、以後、辺境に侵入、掠奪して、たんまり仕返しされるので、豪勢に歓待していたのです。いや、追い返すと、歓待した状況を、腹ぺこ、野宿で引き返すので、怒り倍倍増で、掠奪暴行必至です。蕃夷の機嫌を損じた「鴻廬寺掌客」は、軽くて免職、さらには、鞭打ち、大抵は、斬首/死罪のはずです。

*権威者の妄言
 そのような事情紹介の後に続いて『この事情に関しては三国志研究の権威・早稲田大学教授の渡邉義浩先生の提唱を参考に説明します』ですが、読者は、遣隋使など無関心です。
 以下、記事に戻り、魏が「倭人」記事に色を付けたのは、西方蛮族との見合いとしますが、それは無茶で、「大月氏」記事は、後漢支配下の西域に反乱と掠奪を繰り返した悪者を、西域に無力な魏が「おもてなし」した中国文飾を見すごした岡田英弘氏の「新説」に渡邉氏が追従したのに気づくべきです。
 東夷談義に戻ると、倭人来貢は、司馬懿の公孫氏撲滅後、来なければ同様に叩き潰すと脅されて恐懼参上したものです。司馬懿は、公孫氏一味を大量虐殺し、公文書も焼き尽くしているので、倭人は、震え上がったはずです。

*明帝明敏
 時の明帝曹叡は、司馬懿の魔の手が伸びなかった帯方郡から倭人事情を知らされていたので、急遽持ち込まれた(仮想)帯方郡「倭人伝」が「郡から倭まで万二千里」と恰好を付けていても、片道四十日あれば、往来できると承知していたので、確実に大量のお土産を送りつけられると理解していたのです。つまり、「呉の沖合」などとは、まるっきり思っていなかったのです。陳寿は、西域を含めて、諸蛮夷事情を熟知していたので、子供だましにもならない戯言は書いてないのです。そうそう、陳寿は、三国史「呉志」の大部分を、東呉が降伏の際に上程され、皇帝が享受した韋昭「呉書」をそのまま採用しているので、東呉が、東夷と交通していたなどとは、思ってもいなかったし、曹魏自体、そのような報告を記録していないので、魏志に、そのようなウソ八百の記事は無いのです。

*不朽の失言か
 そのように、三世紀当時は、衆知であった、つまり、関係者に当たり前のことを見過ごした「権威」の与太話は困ったものです。まして、明帝も知る「倭人事情」を、陳寿が、晋皇帝のご機嫌取りで創作したなど、見当違いも甚だしいのです。現代人でも暫く調べれば気づく迷言を言い放っているのは、ご自身を「二千年後世の無教養な東夷」と自嘲されているのかと訝しいほどです。
 因みに、当時の晋皇帝は、天下唯一の権力者と云っても、史上著名な暗君であり、「倭人伝」など意識外であり、そもそも、魏志自体、読めもしないので、大して気に留めていなかったのです。なにしろ、この権力者は、政治に無関心な上に、唯一無二の皇太子を廃嫡して死なせるのですから、名も知らない史官の編纂している「正史」など、どうでも良かったのです。
                                以上

新・私の本棚 村山 智浩 「コペテン! 邪馬台国 論理と常識の果てに」 総評

               文芸社 二〇一八年一〇月刊    
私の見立て ★★★★☆ 力作 ほぼ必読 但し冗長 記 2019/07/12 2023/06/12 2024/02/21

□まずは総評
 全体として肯定的読後感ですが、賛成できない部分がとても多く、大波小波の不安定さが心配です。力説部は、言い方が感情的で論旨がぶれています。
 目次で見るに、章節の階層構造が崩れて錯綜としています。編集部が学術書のイロハを教えてないからであり、読者に徒労・消耗感が横溢しました。
 総じて、ご自身でのダメ出しが不足で、玉石混淆、土砂降り時々晴れ間の不穏な天候になっているのでしょうか。次作に期待するところです。

*目につく帯の乱調
 でかでかと侏儒国記事を摘発していますが、「倭人伝」二千文字(約を略す)解釈のなかで、「一説」の欠点で説全体を指弾するのは学術的ではありません。どんな説にも欠点はあり、欠点を幾つあげても「一説」の評価に影響しないのです。
 題名の奇天烈さと共に、心ある読者の手が伸びない原因と見ます。もっとも、近年の「倭人伝」論は、大抵こうした行き方なので、特に非難すべきではないのでしょう。但し、読者に誤解されて損して、勿体ないですね、と言う事です。

*短里否定の重畳現象
 著者の論は、倭人伝里程で有力視されている「短里」に連動して常用尺の六分の一の「短尺」が通用していたはず、とする提案であり、言い換えると、確たる論証が点在していながら、論証の間に不確かな飛躍をしているので、不確かと見ざるを得ないのです。

*魏晋朝短里制ばなし
 中国史上の里制に関し、最も信頼すべき晋書「地理志」は、秦始皇帝が、周里(普通里)を全国に徹底し、それ以降の漢魏晋も、同一里制を施行したとしています。なぜ、同一かというと『里制変更記事が、晋書 「地理志」にない』からです。
 周制の一里三百歩は、耕作地の「畝」も巻き込んでいるので、「畝」を変えずに里を六分の一にする曲芸は不可能です。まして、そのような曲芸が実施されたのなら、晋書「地理志」が制度変更を記録しないわけがないのです。

 「魏晋朝短里説」は、魏朝で里制の中の「里」だけ短縮されたとのあり得ない説と断じられます。あったというなら、明確な証拠が必要です。

*地域里制の可能性
 普通里に関する周制が朝鮮半島に及んだ記録はないし、秦始皇帝の周制布告が「全国」くまなく徹底され、後に、漢武帝が、朝鮮半島全体に、四郡を設けて、未開の地にまで漢制として徹底したのです。つまり、辺境である朝鮮半島まで徹底した記録はないで、地域里は否定できないのです。
 「普通里」でない「地域里」が、記録にないままこの辺境で維持されていたとして、こちらは大太古以来ほぼ不変の常用尺度である「尺」とどう関係したかの記録もないのですが、計算の便で一尺二十五㌢(一㍍の四半分)、一里七十五㍍と仮定すると、七十五×四なので一里三百尺となるだけ明解です。要するに、一歩(ぶ)が一尺と等しいことになるだけです。憶測を論証してもしょうがない気もしますが、以上考えると、倭人伝が地域里を使用して書かれたとしても、「尺」は二十五㌢程度で代わらず、侏儒国民の身長も変わらないのです。
 朝鮮半島の土地が、どんな「歩」、「畝」で測られていたかは、記録がないので不明ですが、帯方郡が、後漢/魏の制度と異なる里制を敷いたという記録が無い以上、「普通里」が施行されていたことに、まず間違いはないでしょう。

*当面の結論 本文は、別途審議します
 憶測は一段でも覚束ないのに、二段重ねると転けて当然でしょう。再版の機会があれば、帯は外した方がよいのです。

                                完

2024年2月19日 (月)

新・私の本棚 笛木 良三 季刊 邪馬台国 136号 「魏志倭人伝は本当に短里..」三次稿 1/1

 「魏志倭人伝は本当に短里で書かれているのか?」 2019/07刊行
私の見立て ★★★☆☆ 不毛の論争の朴訥な回顧 2019/07/11 2020/04/06, 09/28改訂 2024/02/19

〇愚問愚答
 本誌一九八八年春号「里程の謎」は「古典」であり、掲題は愚直です。
 三国志に、はなから「短里」なる用語と概念は存在しないから、『三国志に「短里」はなかった』のです。史学論文は、用語錯誤に注意すべきです。
 このような批判は、同誌掲載に際し、編集責任者によって論文審査されていると信じるからです。論者も十分な見識を有し、率直な指摘に耐えるとみました。

*無駄なおさらい
 古田武彦氏創唱「魏晋朝短里説」論議は先行論文参照で事足ります。紙数の無駄は悪しき先例となります。
 本誌131号掲載の受賞論文、塩田泰弘氏の「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」の広範で確実な論考を参照しないのは不用意です。学術論文は先行論文を克服すべきです。重ね重ね不用意です。

*見過ごされた「宣言」
 ここで、肝心なのは、先賢諸兄姉は、揃って「倭人伝」記事を読み違えているのです。
 「韓人、倭人は中国本土と異なる里数を使用し」の要約は、多重錯誤です。「里数」でなく「里」の論議なのです。また、「中国本土の里」、つまり、一里が現代単位の五百㍍程度と見える「普通里」の里数と六倍程度異なるとみえる里数を提示したのは、諸韓国や倭人の者でなく帯方郡の者となります。夷蕃は官制を知らないのです。不用意な用語選択です。つまり、因みに、愚見では、倭人伝に「韓人」は、登場しないはずです。宜しく。ご確認賜りたく。
 「地域里」の「倭人伝」編纂時、「普通里」でない里数を採用せざるを得ず、後世検証できるように「宣言」したと解するのが、後世読者の務めと感じます。明白な宣言を見過ごして「三国志」本文の「雑記事」をもとに泥仕合したから、掲題設問に三十年を経て解答が出せていないと思量します。

 追記:2024/02/19
 以後の考察で、ここに示した表現は、若干浅慮の粗忽であったと反省していますが、そのまま残します。
 つまり、倭人伝に示された「郡から倭まで一万二千里」の提言は、遅くとも、遼東郡太守公孫氏が、後漢献帝建安年間に、当時の「倭人伝」稿に書き記したものと見ます。陳寿は、史官の責務に従い、「魏志」編纂にあたって、原「倭人伝」(「倭人伝稿」)を蹈襲したものです。漢制の施行されていた、つまり、「普通里」の道里が知られていた区間を、あえて、「郡から狗邪まで七千里」と明示したのは、それ以降、倭人伝に限って臨時の「里」を適用しているとの宣言なのです。「倭人伝」の眼目/(必須)要件は、郡を発した文書が何日で「倭」に届くかという規定の確立であり、それが、「総じて四十日」であると規定したのが、正史夷蕃伝における「都水行十日陸行一月」の意義なのです。(「都」は、はなから蕃王居処に使える文字でないので「論外」であり、一も二も無く「すべて」と解すべきなのです)
 史官の教養の持ち合わせのない東夷が、このあたり、自明の理を見逃していたのは、まことに不明でした。深く反省しています。

*図の錯解
 以下、氏は、意義不明の「図」の概念で論じますが、「図」は非論理的で、読者の感性に向けて、自身の幻想を押しつけるものなので、論拠になりません。
 ただし、機械製図のように、一定の工学規則に沿って作図解釈される「図」は、規則を学べば一意的解釈が成立し、論拠たりえますが、それは例外です。
 論者は、根拠無く三世紀の陳寿が見た「世界図」を論じますが、全て論者の脳内図式で第三者に何の意味も無い夢物語は、紙数の無駄です。

*迷走の果て
 最後に、論者は、我に返って史料を直視しますが、史料が読み解けないと、長々と夢想にふけったことの反省があるのかどうか。

 結局、論者は史料を直視せず、他人の意見を丸呑みしています。陳寿が、漢制の施行されていた区間を明示した「郡から狗邪まで七千里」の「原器」を渡海一千里で、すこし曲げていますが、「渡海」は本来、日数勘定であって、実距離と連動しないと見定めたのを忽然と抛棄します。そのような右顧左眄の論証は信用できません。

 また、実測でない、不確かな「里数」の換算に高精度計算を施すのは、時代錯誤です。不確かな数値は不確かなまま扱うのが「合理的」、「科学的」です。

*まとめ
 すべて読み通して、合理的な推論手順を外れた、何十年の堂々巡りが実績として浮かびます。
 先賢諸兄姉の厖大な論考によって、「正解を得られないと証された不毛な論議」は捨てるべきです。「本当に」などと、空疎な常套句に貴重なタイトルの三文字を空費している余裕などないはずです。

                               以上

2024年2月15日 (木)

新・私の本棚 宮﨑 照雄 「邪馬台国の最終定理ー理系学者が読み解く… 1/2

 『魏志』倭人伝と邪馬台国の所在地」(22世紀アート) Kindle版  2022/11
 私の見方 ★☆☆☆☆ 前車の轍にのめり込み、前途遼遠 2024/02/15 

◯総評
 「理系学者が読み解く」との盛大な惹句と違い、氏は、現代のネット環境に溢れる「風聞」をこね回して「文学作品」を物しているのである。
 
*異郷の新参論義
 氏の限界は、古来、文学部が管轄している「史学」、「考古学」なる「歴史科学」、「人文科学」の特性/論理に通じていないことである。「史学」論考は、現地/現物を訪ねて「追試」できないことを見落としてはならない。

 世上に溢れる「現代語」史学文芸は、あくまで外野であり、検証、追試されていない「思いつき」が大半で、書棚で巻き込まれている「通説」系の「内野」論考共々、文献批判では、史料原文に立ち戻って考証する必要がある。

 氏の本稿は、大半が不確かな通説の改作と見え、宙空を高々と歩んでいて、ほぼ無根拠の架空論義になっている。史学分野では、「温故知新」の金言を噛みしめ/踏みしめていただきたいものである。後生は、先生を易々と飛び越えることができるが、それは、進歩でも何でもないのである。

*偏った参考文献
 「参考文献」の大半を占めるネット情報が、氏の論考の足元を掬っている。かたや道里論の先行/基礎論考である安本美典、古田武彦両氏の諸著作を漏れていて、提言を克服できていないのは、重大な失態と見える。通りがかり、外野のやじうまの言い草ならともかく、氏のように、真剣に主張を展開する大いなる志をお持ちの方は、先賢諸兄姉の主張を把握した上で、峨々たる問題点を指摘し、これを克服するという困難極まる「道」を、実直にふみしめていただきたいものである。つまり、未検証の山である「参考文献」を「羅列」するのに満足せずに、それら文献の要点の引用関係を明らかにして、論理の筋道を明らかにして欲しいものである。

 また、氏が愛好されているネット上の風聞については、氏自身が、厳重に「ファクトチェック」した上で、責任を持って引用して欲しいものである。そうで無いなら、ご自身の出自、見識を誇示するのをやめ、一介の素人、門外漢として、謙虚に自説を開示すべきである。

 氏の依存情報の曖昧さは、後述の「目次」に露呈している。「倭人伝」は、原書、手書きの稿本が、手書き筆写されて、累世承継されたものである。現存南宋刊本は、版木印刷で、活字本でないから、「誤植」は失当である。いや、いずれかの先輩著作が穴に落ちているのに追従したものと見える。迂闊である。

 現代の活版印刷は電算写植であり「誤植」は絶滅している。あるのは、原稿段階の誤記、改竄、あるいは、遡って、原文誤解、勝手な改竄であり、これは、既に論義されていても、不撓不屈で存続し、戒めなければならない。

*論考失格
 と言うことで、氏の労作は、「日本」の古代史文芸であり、創作として、中々、迫力があるが、史学「論文」としては、憶測、誤謬盛りで、失格である。

*批判の背景
 当方は、電気工学の分野で基礎訓練を受け、職について実務に長く従事したが、ついには、特許、契約の法務審査などで、文献解釈の実務に勤しんだから、氏が、自称する「理学系」の思考の底流は理解できるが、ぜひ、氏ほどの権威者も、異質の「歴史科学分野」に置いては、新参者としての審査を受けていただきたいと思う。
 「郷に入れば…」である。

◯結語に替えて
 以下、国内古代史論が大いに盛り上がるが、本稿の目的外なので割愛する。むしろ、氏の当著作の本旨を逸脱しているのではないかと愚考する。著作のタイトルは、読者に書籍対価の見合った著作であることの「保証」を与えているものであるはずだから、大量の異物を混ぜ込むのは、一種、背信行為と見られかねないのである。読者は、不要部分を返品して、返金を求めることはできないから、言わば、抱き合わせ商法に憤慨してしまうのでは無いかと、危惧される。

 以上のような、丁寧な批判が唯一の「取り柄」である当ブログでの素人書評であるが、氏に、苦言受容の度量が無ければ徒労なので減縮した。ご容赦いただきたい。

 当方の論拠は、「またか」と揶揄されながら、当ブログで延々開示している。

                               未完

新・私の本棚 宮﨑 照雄 「邪馬台国の最終定理ー理系学者が読み解く… 2/2

 『魏志』倭人伝と邪馬台国の所在地」(22世紀アート) Kindle版 2022/11
 私の見方 ★☆☆☆☆ 前車の轍にのめり込み、前途遼遠 2024/02/15 

◯駆け足審査~目次に倣うコメント入り
はじめに
第一章 魏の答礼遣使団の来訪
   天子が蛮人に答礼とは、けったいそのものである。
  補考 魏の一里は何メートルか?
   中国史料の解釈を誤っている。
   史料の裏付けの無い「魏の一里」は、不合理であり、棄却すべきである。

第二章 「順次読み」の筆法

   伊都国に終着する道里記事構成を読み取れていない。
   行程は、目的地まで順次読むしかない。圏外/場外は、論外である。

第三章 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一日」

   世上溢れている「誤読」、「誤解」に陥って、袋小路にのめり込んでいる。

第四章 女王の都する所の「邪馬壹(臺)國」を考える

   二重誤釈である。魏志に「邪馬台国」は、存在しない。
   「女王の都する所」も、誤解である。

  (一)「邪馬」を考える(二)「臺」を考える(三)『魏志』倭人伝の「邪馬壹」を考える
   先行文献に基づかない「オリジナル」な主張は、無意味である。

第五章 「邪馬臺國」へのアプローチ

 (一)侏儒国の解明補考 侏儒国と隼人の墓制を考える
    道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。

 (二)「倭地」「周旋可五千餘里」を解く
    見当違いの誤釈に陥るのは、文意が読めてないからである。

第六章 「邪馬臺國」はここだ!

   魏志に「邪馬台国」は、存在しない。
   道里記事に対し誤釈が続いているから、無意味な議論である。

第七章 黒歯国はどこか?

   道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。

第八章 「自郡至女王國萬二千餘里」・「計其道里當在會稽東治之東」を読み解く

   「自郡至女王國萬二千餘里」  公孫氏の深意を見誤らないことである。
   「計其道里當在會稽東治之東」 道里記事は、伊都国で完結している。

  補考 「會稽東治」は「会稽郡東冶県」の誤記ではない
   根拠なき史料改竄は、支持できないと言えば、一言で十分である。

第九章 「計其道里當在會稽東治之東」と邪馬台国在畿内説


第十章 「南至投馬國水行二十日」

   道里記事解釈とは別件である。後日別審議すべき題材である。
   「水行」の解釈は、特別な注意が必要である。

第十一章 『魏志』倭人伝の一箇の誤植を了解すれば、邪馬台国に確実に到れる

   一箇所自説に合わせて改竄/創作すれば「オリジナル」な「正解」を得る
   という論法は、「読み解く」ものでなく、はなから「不正解」である。

                                以上

2024年2月13日 (火)

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 1/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

◯はじめに
 本書は、五年前に出版されていて、小生が気づかなかったのは「不明」ですが、諸兄姉の書評がなかったからです。何しろ、「邪馬台国」本は星の数ほどあるから、存在価値が見えないと手に取ってもらえず、掃き溜めに埋もれていると見えます。
 一つには、以下触れるように、古代史論の書籍としての体裁/構成が整っていない、論点の根拠の適確に示されていない、推定臆測の山は、相手にしてもらえないなど、とりあってもらえないものなのです。また、世上はやっている「駅前邪馬台国」、つまり、邪馬台国比定地を既に決めている論者は、持論と異なる地名が出ていては、端から論外なのです。

◯不吉な出会い、不幸な出発
 本書の構想に際しては、是非とも先行諸兄姉の著作を参考にしてほしかったのです。つまり、「邪馬台国」論義で不可欠なのは、参照する「倭人伝」版本と「日本語訳」の品定めですが、遺憾ながら、著者の取り憑かれた田中俊明氏訳文は、素人受けする流麗なものでしょうが、ここに例示された「邪馬臺国」「可七万餘戸」「周旋」が、出所不明、あからさまな誤解誤訳で、一発落第、退場ものです。もっとも、当方は、田中氏に教育的指導するのは、到底、力の及ぶところではないのです。それにしても、田中俊明氏は、調べの付いた限りでは中国史書の専門家でなく、「倭人伝」現代語訳は、器量に余るはずなのですが、どうも、ご自身の理解できない原文を、無理矢理どこかの訳文に似せて、「飜訳」しているのかと疑われます。それとも、誰かを影武者にしたのでしょうか。しょせん、出版社編集部の眼鏡違い、当て外れの畑違いのようにみえます。もちろん、田中氏の「暴走」は、善良な一読者である著者に責任は無いのですが、本署を草するに当たって、無雑作に巻き込まれているのは、もったいないのです。
 それにしても、著者は、束の間、田中版「倭人物語」に言及したのち、夢想世界に遊びます。これでは、大抵の読者は、呆れて放りだすでしょう。書店店頭で立ち読み開始早々に「却下」するところで、アマゾンではそれも成らず、辛抱して読み通した次第です。

 次に不吉なのは、著者は、田中氏の名訳に触発されて、なぜか、四国地図を持ち出して、地図上に思いを馳せていることです。要するに、以下は、著者の想像世界であり、「倭人伝」の「文字」は、ほとんど登場しないのです。余り、良いお手本に恵まれなかったようです。

第二章邪馬台国への行程
 魏志倭人伝を書いた使者が書き残した自らの行程

 この小見出しには、どっとずっこけるのですが、「倭人伝」原文二千字は多くの人の史料原稿を集成した編纂物であり、以下著者が論じる「行程」が、誰か一人の手に依ったものか、何人かが書き足したのか、慎重に調べなければ決まらないのです。私見では、これは、遅くとも使節発進の事前資料であり、行程の概略が分かっていたので、所要期間、所要資材などが分かっている内容を上申して、皇帝の許可が得られたと見るものです。
 それはそれとして、田中俊明氏は、ご自分の解釈で、日本語の文章を書き連ねているようですが、見かける限り、原文の理解に(大変)難が多いので、原文と同趣旨かどうか疑問です。(平たく言うと、あらかた間違っているとの評価です)
 大事な書き物は、基礎資料を、しっかり、丹念に、石橋を叩くように踏み固めてないと、しばしば落とし穴にはまるのです。せめて、二種以上の資料を比較吟味すべきです。

 著者は、いきなり、「使者は大変旅慣れた」人と決め付けていて、以下、滔々と書いているのですが、どう見ても、「倭人伝」原文には、影も形もない空想連発です。どうして、そのように理解したのか、誠に不思議です。相談する相手を間違えたのでなければ、幸いです。

 いや、このような大事な使節には、現地出張経験のある有能な官人を選んだに違いないというのは、著者の見識であれば、同感したいところですが、最近まで、帯方郡は、謀反人だった公孫氏の支配下にあったので、司馬懿が指揮した遠征軍が、遼東郡の関係者全員を処刑したのを見ると、帯方郡の関係者が、一緒に(連座して)処罰/処刑されなかったのは、不思議なのです。
 と言うものの、発想自体は大変貴重なものです。

 大事な点ですが、著者は、「使者」が、ベタに出張行程を書き連ねたと決め付けても、かねて疑問集中の投馬国行程は、消化しきれず、後日改めて」二十日かけて往来したとして、予告を踏み外していて、誠に、想像力豊かな読み解きですが、困ったものです。
 「倭人伝」の編集責任者である陳寿は、奴国、不弥国、投馬国の三国は、行程外であり、報告/連絡が乏しいので事情がよくわからない、公文書に書いているから残しているが、要するに、意味不明である」と断りを入れているのです。

 と言うことで、なぜか「邪馬壹国」ならぬ「邪馬臺国」は、著者の解釈に依れば、不弥国の南にあって、本来、明快に行程を書いているはずなのに、著者の解釈では、なぜか「その周囲を船で巡ると十日、歩いて回ると一ヵ月かかる」としていて、全く、筋の通らないのですが、もはや、立ち止まることはできないようです。
 また、後続諸国は、使者が実地調査し踏破した行程となっています。使節団の正使、副使は、雑用/肉体労働などしない身分の高い方々で、自分の脚で歩くことなどないのですが、どうやって、そんな長丁場をこなしたのでしょうか。また、使節団の任務は、下賜物、お土産の送達であり、そのような地理調査は、一切命じられていないのですから、著者がこだわるのは、随分に奇怪です。

 そして、著者は、「倭人伝」から「帯方郡から女王国まで一万二千余里」と確認していますが、太古以来、一里は、「尺」(25㌢㍍程度)を基準に一定の関係[一里は三百歩(ぶ)であり、一歩は六尺、つまり1.5㍍程度なので、普通の一里(普通里)は、450㍍程度に決まっている]から、どう見ても、「普通里」と「倭人伝」に書かれている「里」には、六倍程度の違いがあるのに、何の感慨も示していないのです。
 使者の行程を、片道四十日、往復八十日としたら、それは、普通里で片道二千里程度でしかないのが簡単に計算できるのです。これが、普通里で一万二千里であれば、往復五百日になるのです。いかがお考えでしょうか。

 ここで、突然口調が変わって、以上は、著者が、多大な思考を費やして得た解読としていて、不意打ちに愕然とします。根拠は、前置きするものなのです。分かっていたら、読み飛ばして後で戻るところです。

第三章 「漢字源」を水先案内にして
 この章の行き届かないところは、解読を国産漢和辞典「漢字源」に頼った上に、結構、国産辞典「スーパー大辞林」に頼っていて、さらには、原文ならぬ中国語に疎いと見える田中氏の解釈/飜訳に頼ったのですが、冷蔵庫の食材にこれしかなかったのかも知れないものの、著者の折角の研究の頼りにするのは、誠にもったいないと言わざるを得ません。
 以下、「水先案内」が行程に疎いのか、訊き方を間違えたのか、とにかく、船が山に登っているように見えるのは、素人老人の眼鏡の度が狂っているのでしょうか。確かに、「漢字源」は、古代以来の中国漢字文献の用例を取りこぼしていないようですが、「倭人伝」解釈に専念しているわけではないので、「水先案内」 として限界があるのです。目前の海の様子の案内が不確かのようでは、頼り切って乗り出せないのです。

 「倭人伝」原文は、古代中国人が、古代中国人に献上したものであり、現代日本人(無学な東夷)の辞書や見当違いの飜訳頼りでは理解できないのです。過去、諸兄姉が、解釈を誤っているのは、こうした事態に陥ったからと見えるのですが、著者は、同じ道を辿ったようで、誠に、もったいないのです。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 2/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*世界観の齟齬
 早速提示されているのが、「州」島解釈ですが、なぜか「スーパー大辞林」の現代用例らしいものにしがみついて「州」は「大陸」の意味としていますが、「倭人伝」時代、中国人は、世間知らずの「井蛙」で、太平洋につながる「うみ」(海)も「大陸」も知らなかったのです。もちろん、自分たちのいるのが「大陸」とは知らなかったのです。用例は、当て外れしていると見えます。
 古代中国語として解釈すると、「州」は黄河(河水)中州の小島、中之島です。「倭人伝」は、冒頭で「大海」、つまり、塩(しょ)っぱい大きな水たまりとしていて、その結果、郡から一路半島を南下して着いた「狗邪韓国」の岩壁に立って、現代風に言う「対馬海峡」を「大河」に見立てています。身辺にない「大海」を乗り越えるのを考えると身が竦む思いであり、中々難儀ですが、島を伝って渡し舟で三回乗り継ぐだけで楽々行き着けるので、何も怖いことはないのですよ、と言っているのです。因みに、当時、一大国、壱岐から渡った末羅で上陸して、渡し舟を下り、陸に上がると書いていますから、普通に考えれば、そこから先は地続きで街道を進むのですから、寝床が揺れることはないので船酔いしないし、船が沈んで、金槌が沈んで行くこともないのです。
 また、狗邪韓国~伊都国間の周旋五千里は、行程を「検算」しているのであり、測りようのない「島囲を書き残したのではない」のです。

*さようなら「邪馬台国論争」~余談 
 よく言う「邪馬台国論争」は、そもそも、「邪馬台国」なる不都合な幻像から始まっていて、「所在地」論の決着を後伸ばしにして、九州を出ないという「不可避な結論」を押し隠しているため、「論争」を五里霧中に置いていますが、そのために、「不可避な結論」が出ないように、当時最善の史料である「倭人伝」の信頼性を喪わせ、そのためには、当時最高の知性の持ち主である編者陳寿の人格攻撃まで掻き立てているのです。そのため、世上、大量のごみ情報が出回っているわけです。一寸考えればわかるように、三世紀当時、編者陳寿は、史官として高く評価され、その労作である「倭人伝」は、信じるに足る史料として評価されていたから、何も重大な異議は提示されていないのです。
 冷静に考えて、まずは、「倭人伝」の適正な評価から出発すれば、「所在地」論は、当時の読者同様の眼に明らかであったように、現代人にとっても、たちどころに解明されるのであり、以後、もっと大事な議論に進むことができるのです。

*情報の選別 論義の出発点
 当てにならない「俗説」、間違いだらけとわかっている「風評」がネット経由で、大量にばらまかれているのですから、むりも無いと思うのですが、そうした限られた知識と古代漢字文書に不向きな参考辞書だけが頼りでは、あちこちで誤解された原因は分かるのですが、「倭人伝」原文を懸命に読解いた先賢諸兄姉の論考に見向きもしていないのは残念です。折角、先人が、時間と労力を費やして試みた「仮説」ですから、これにとり組んで、進むべき径を見きわめる努力を大事にして欲しいものです。

 以下、著者は、県内遺跡発掘成果を中心に、「瀬戸内海交通が盛ん」としていますが、三世紀当時の状況は、ほとんど、と言うか、まったくわかっていないのですから、断言を避けた方が良いでしょう。目の前の海に毎日出ていく程度の小船/漁船は、丸木舟時代からあったとしても、何日もかけて漕ぎ進む荷船は、鋼入りの大工道具が渡来するまでは無理であり、はるか後世にならないと「瀬戸内海交通」はできなかったと見ていますが、いかがでしょうか。当ブログの提案では、九州大分から伊豫三崎半島への交通は、随分以前から、ひょっとすると縄文時代から、小船の渡し船で通じていて、渡し舟以外の陸路は、誰でもできる担い次なので、山道が遥か東の燧灘沿岸まで通じていたと見ているのですが、いかがでしょうか。 

 それにしても、伊豫以外の三国を、ここに取り込むのは無理です。著者が良く理解されているように、伊豫は石鎚山を主峰とする四国山地を背景として独立した領域であり、四国の中央部、高峰石鎚の峰を後ろ盾にした伊豫の海、大海「燧灘」の東端「宇摩」地域で、ようやく、土佐、阿波、讃岐の三国に通じているのです。まして、西方の松山から見ると、他の三国は、別世界なのです。
 著者は、ご自身が、邪馬台国「松山」説を立証しようとしているのをお忘れのようですが、「倭人伝」の解釈で大事なのは、郡から伊都国、そして、「松山」への行程と、「松山」を中心とした、諸地への経路の論証なのです。

 「多量のものを容易く確実に運べる」との船便評価は、当時の事情を知らないから言える安直な思い込みです。三世紀当時は、手漕ぎ小船なので「多量のもの」は運べず、穏やかな内海は、風と潮まかせで「確実」とほど遠いのです。著者は、なぜそう信じたのでしょうか。
 そうそう、遺跡発掘は、とかく、現代都市開発で露呈したもので、古代に存在したと思われる諸「遺跡」は、ほとんど手が付いていないと見えます。松山や今治に遺跡が目だつのは、都市開発の副産物と見えるのです。

*正しい行程を求めて
 著者が率直に認めているように、先賢諸兄姉の行程解釈から、端的に「伊豫」が邪馬台国の所在地との解釈は、相当なり立たないと見えます。
 ここで著者は、「もう一度」、「倭人伝」原文を読んだとしていますが、へえ、いつ、最初に読んだのかと、揚げ足を取られる書き方です。
 行程記事の「到」、「至」使い分けを、自力で想定したのなら大したものです。
 ただし、「漢字源」に頼ったのは、勿体無いのです。中国の教育訓練を卒業した優等生であった「使者」が書いたのは三世紀、二千年近い昔です。「漢字源」の編者には、理解困難でしょうが、問い詰めるのは、気の毒です。

 「倭人伝」に書かれていることが、どんな趣旨か知るには、まずは、文脈を解する手順が最優先であり、併せて、先賢諸兄姉の意見を、謙虚に「聞く」必要があります。なんにしろ、辞書をこじつけの手段にしてはならないのです。因みに「聞く」とは、意味を理解し、裏を取るということです。念のため。

*「到」と「至」~行程記事の句読点
 普通に考えると、「到」は、「至」で連なる行程記事の区切りと見るものでしょう。つまり、行程記事は、郡内行程、つまり、郡から狗邪韓国まで七千里が「第一区分」、続く伊都国までの倭地周旋五千里が「第二区分」と見る「行程二分説」が、理解しやすい区切り方でしょう。この程度であれば、現地事情を何も知らない読者でも、簡単な思考実験だけで理解できるのです。
 「伊都国を行程の終止」とみるのは、郡使の目的地とされているのがよく分かります。大抵、伊都国以降が行程の続きと誤解されていますが、伊都国以降は「参考」として書かれている言わば後世付け足しの「第三区分」だと理解すれば、行程記事全体が筋の通ったものと見えます。
 当時、皇帝にも、そのように明解に読み解けたから、「倭人伝」は受け入れられたのです。

*「水行陸行」の意味の採り方
 ここは、著者の異例の信念なので、反論が困難であり、どうしてそう思うのか、と言うだけです。と言うものの、著者は、結局、断定した後で、意味が分からんと投げ出しているのですから、苦笑するしかないのです。もう一度、参考資料を探し求めて、じっくり読んでみたらいかがでしょうか。中には、正解を射止めている人もいるはずです。
 丁寧に説明すると、中国語を構成している漢字は、二千年以上、ひょっとしたら三千年前から、高度な文書構成に用いられていて、特に、「行」のような基本的な文字は、多様な場所で多様な意味で使われているので、二千年前の文書でどのような意味に使われているかは、まずは、その文書の前後関係、文脈で判断する必要があり、辞書に頼るにしても、使われている文脈から判断する必要があるのです。これは、文書解釈の基本の基本なのですが、「二千年後生の無教養な東夷」、いや、ほんの数世紀後生の中国教養人すら、しばしば見過ごすので、字書頼りで見間違えることは、よくあるのです。

*「倭人伝」の「水行」、「陸行」考察
 ここは、一部で誤解している論者諸兄姉の見解のように「使者の書き綴った気ままな旅行記」でなく帝国公文書という高度な公的な記録なので、「陸行」は陸上のある場所から別の場所に街道を移動する意味であり、しかも、国営街道「官道」として整備された「陸道」、「公道」を移動することに決まっているのです。「公道」は、英語で言うHigh wayですが、これは、日本語の「ハイウェイ」とは若干異なり、「高速道路」などではなく、国家制度で決まった「公定道路」なのです。
 さらに言うと、水の上に道を引くことはできず、いくら機敏な馬でも、「後足が沈む前に前足を繰り出し、それが沈む前に後足を引き寄せる」曲芸はできないので、本来、海の上を行く「水行」はあり得ないのですが、「倭人伝」では、前代未聞の海上公定道路、「水道」の意味に、先行して定義することにより、特に、限定的に使用したのです。
 あえて「海道」、「海路」と書かなかったのは、そのような言葉がなかったから、「存在しない言葉は、使用できなかった」のであり、他に策がないので、仕方なく渡し舟による渡海行程を、一般用語として使用例のある「水行」と呼んだのです。つまり、「倭人伝」では、「水行」を河川航行とするありがちな用法は、当然、自明の不文律により固く禁止されているのです。
 と言うような、伊予なまりで言う「あつかましい」、つまり、繁雑な』解釈が必要不可欠なのであり、そのような解釈が取り入れられていない現代日本辞書の用例、しかも「行」の一字の何千、何万ともあると思える中国、ないしは、日本の用例から、ポツンと選んだ解釈の一つに飛びつくのは、正確な解釈にほど遠い臆測になる可能性が、大変高いのです。

 言うまでもないのですが、陳寿は、著者の使用された辞書を見たわけではなく、また、田中氏の流麗な日本語解釈を見たわけでもないのです。くれぐれも、史官として不勉強だなどと非難しないでください。

*魏志倭人伝の行程を比定する
 弥生時代後期の対馬国の形状を推定する
 どうやら、著者は、「三国志」現存刊本のうち、「紹興本」に依拠したようですが、根拠史料を明記していないのは、不備/不審です。
 また、なぜか、対馬の島々が海流による浸食で、現状と異なった形状をしていたと決め付けていますが、古田武彦師が第一書『「邪馬台国」はなかった』の一大国論義で提示したように、二千年間に壱岐の島が浸食/縮減されたというのでなく、海流に乗って流れ来る砂によって「対馬の島々が成長して現代の形状になった」と主張するのは無法です。
 対馬は、堅固な岩山であり飴細工ではないし、と言って、その間に水でふやけたのでもないと見えるのです。対馬には、太古以来土砂を運んで堆積する大河は、ほぼ皆無であったので、現代地形でも、扇状地は数少ないのです。
 因みに、対馬、壹岐を包み込む「大海」は、滔々たる大河の風情があり、まことに悠揚迫らぬ「大河」なのです。海流、潮流が競り合っている「瀬戸」の形勢とは、全く異なるのです。

 なぜ、著者が、行程の通過点に、ここまでこだわるのか、不可解であり、随分損しているので、もったいなく思います。

 丁寧に言うなら、帯方郡を出て船で狗邪韓国に着く」という解釈を何の気なしに取り入れることによって、こじつけ、誤解の産物である俗説に取り込まれているのは、無理からぬ事としても、それ自体途方もない「夢物語」なのですが、話すと長いので、別の機会に譲ります。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 3/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*一大国~海流に削られ/膨らむ島々
 対海国論の「方四百里」の後回しでの「方三百里」論は納得できないのです。
 著者は、対馬島が海流浸食から魔法のように復元したとしますが、著者の知る瀬戸の島々は、そうして伸び縮みしたのでしょうか。対馬は、海中に岩山が聳える形状で、海流で削られないはずであり、まして、そこから復元するとは思えません。
 壱岐は、盆を伏せたように背の低い、ほぼ真ん丸の島の四囲に海浜が見え、砂浜が海流で多少削られることはあるでしょうが、それにしても、河川による沖積もあって、平衡が取れているように見えるのです。先に述べたように、壱岐が、激流に揉まれて、消しゴムのように細り続けていると感じた方がいらっしゃったのですが、多分、その方も、瀬戸内、それも、来島海峡、鳴門海峡、さらには、関門海峡の早瀬の波涛の様子で連想したのでしょうが、何かの勘違いでしょう。
 本当の意味の「瀬戸内」は、東西の瀬戸に挟まれた浩瀚な燧灘であり、ここは、島影もないので、激流は無いのですが、これは、余談でしょうか。

 いずれにしても、行程で三度渡し舟に乗って、州島、つまり中之島を跨いで越える「対馬海峡」は、当時の中国語で珍しくない「大海」と紹介されていて、特に、「瀚海」と言うように、広々とした(塩水で飲めない)「内陸」の流れであり、水深も結構深く、また、干満するとは言え潮流は見当たらないので、激流と見えず、むしろ、中原人が見なれている大河、河水(黄河)のように「淡々と」流れているように見えるのです。
 要するに、当時の中国人が見たことも聞いたこともない瀬戸内のように、干満が激しい波涛に曝されているわけではないのです。

 ここで、珍しく、原文、それも、句読のない白文を書き流していますが、つづいて、わけのわからない/意味の通らない/理解困難な日本語訳が付いて、原文掲示の趣旨が不明です。筆者は、すらすらと読解できるのでしょうが、一般の読者には、「珍紛漢紛」(ちんぷんかんぷん)です。

*泥沼の「方里」こじつけ
 突然「方可三百里」としますが、議論を「漢字源」に付け回し、根拠なく「使者実測」として、そのヒントを正体不明の野津清氏につけ回していては、説明になりません。
 それどころか、根拠不明の「三百里」を島囲と決めつけ、現代地図で「精測」した四十三㌔㍍を根拠に、一㌔㍍七里としていますが、自認のように島の外形は、誠にあてにならず、現代地形から恐らく国土地理院が制作した地図から「倭人伝」の深意を推定するのは、不正確この上ないのですが、野津氏の責任としたのでしょうか。
 ここでの小説家高木彬光氏の「考証」は、素人考えに過ぎず、前後不覚、何しろ意識不明ですが、邪馬台国論で、高木氏の所説があてにならないかもしれないのは常識」として、高木氏も、このような場違いの席で、野津氏の後ろ盾として引き合いに出されて、またもや批判の的になったのでは、たまるまいと思います。

 と言うことで、著者は、一里は0.14㌔㍍(現代中国語で、「公里」)、百四十㍍程度と決め付けます。この検定には、疑問と言うより否定的で、「到底賛成できない」としておきます。

 因みに、著者はここで「餘」の解釈を決め付けますが、一大国「可三百里」は、「言うなら三百里としておく」との表現です。また、全般的に登場する「餘」が、「多少多い」との解釈は、時に、頑固にしがみついている人がいますが、「倭人伝」の筋道からして、計算にならず、「明らかに謬り」ですが、場違いなので留め置きます。

 両件併せて、大事な事項で勉強不足のように感じますので、率直に指摘します。

*末羅国から弓なりの曲折を経て辿り着く伊都国
 著者は、原文を大きく離れた空想世界を繰り広げます。現代地図らしくJR線路が「紆余曲折」しますが、原文にそのような曲芸はないので、不合理です。陳寿が、JR線路入りの地図を見たはずはないのです。
 著者は、末羅国を、「到」、「至」論で決め付けた「下関市千代裏町室津」としますが、論理が通らず、混乱していると見えます。一大国始点方角がないのは、引き続き南に進んでいるからです。勝手読みが昂じていて心配になってきます。
 続いて、伊都国は、さらに空想行程を流れていて不審ですが、郡使者が着いていた伊都国が、九州島を外れているのは、大変困ったものです。大事な「倭人伝」の大事な書き出しで、『「倭人」は帯方の東南に在る』と明記されているので、これを大きく踏み外していては、陳寿が、冒頭で大嘘をついたことになりかないのです。
 なお、以下、奴国、不弥国は、既に書いたように、行程の圏外なので、外します。

 チラリと覗くと、著者は、許多ある先賢諸兄姉の諸説から、田中俊明氏の飜訳と野津清氏の方位解釈を、自説に合わせやすいと見くびっていますが、正確な検証無しに、通りがかりの落とし物をぱくつくのは、身体に悪いのです。「倭人伝」に関して何を言っても、口先のこね回しでこじつけられたら良いというのは、両氏の言としても、よい子が真似すべきでない詭弁に加担していることになるのです。「倭人伝」を好きなように書き換えて、気がすむのなら、最初から、倭人伝を持ち出すべきではないのです。

*無視された常識~喪われた初心
 方位解釈で言うと、どんな未開発地でも、その地の東西を知るには、「太陽の南中の方角で南北を知った後、それと直角に東西を求めれば、季節に関係なく正確に知ることができる」のに気づいていないのです。それは、小学校理科程度なので、ここでは、くどくど述べませんが、著者が、自説に有利ということで、野津氏の暴論を検証していないのは、誠に残念です。

 要するに、野津氏は、「倭人伝」を端的に解釈しては、氏の我流論義/さらには、氏の属する学派の論義に不利なので、懸命にごまかしているだけなのです。良くある話ですが、「子供だまし」の「こけおどし」に巻き込まれてはならないのです。

                                未完

新・私の本棚 海戸 弓真 「邪馬台国は四国だった」 女王卑弥呼の都は松山 4/4 補充再掲

 eブックランド (アマゾン) 2018/09/11
 私の見立て★★☆☆☆ 労作 前途遼遠    2023/09/22 2024/02/13

*奇怪な捏造
 野津氏は、現代中国船員(正体不明、根拠不明の憶測)が、海図や羅針盤、六分儀などの高度な手段を使用せず、太陽の方角と太陽暦の日付から、方位を暗算するとしていて誠に奇異ですが、それを二千年前の使者の方位感と連動させるのは、誠に奇異で、神がかりと見えます。
 いや、確かに、現代にそのようなインチキ航海術が横行しているのでしょうが、それは、帯方郡の役人のように、正規の教育を受けているものには、あり得ないのです。また、古代中国は、月の満ち欠け、出没をもとにした暦で動いていたので、太陽暦は、通用していないのです。

 著者が、このような「神がかり」を信じるのは誠に残念です。

 地軸が傾いているのは、現代人ならではの知識ですが、東西南北の方位決定は、そのような見当違いの知識とは関係です。「子供だまし」と言いかけたものの、現代の小学生は、当然知っていて、子供は騙せず、小学校の学習を忘れた年長者しか騙せないのです。
 因みに、「緯度」と題していますが、「倭人伝」に「緯度」など一切書かれていなくて、掲げられている現代地図にも存在ないので、この議論は、丸ごと「ゴミ」なのです。

*無法解釈の先例
 因みに、田中俊明氏が、「会稽東治」を「会稽」と「東治」に分解し「東治」を「東冶」とする改竄、無法解釈を、著者が信じ込んだのは残念です。根拠のないこじつけは、まずは、疑ってかかるべきなのです。

*無理な誘致努力~なせばなる
 著者が、「邪馬台国」伊豫誘致「比定」キャンペーン(軍事作戦)で呼び寄せた援軍の胡散臭い議論で、ここまで辛抱していた耳を傾けていた読者が、一斉に引くのが見える気がします。姿勢を考え直した方が良いかと愚考します。

邪馬台国の都は松山である
 突如、難路の果てに、「現在形で絶叫している」のは、余程行き詰まったからでしょう。それにしても、「松山の人」が、ほとんど邪馬台国」の所在地と思わないのは、「日本」古代史で、温泉や斉明天皇滞在の「伝承」はあっても、「卑弥呼」伝説は史書にも地域伝承に一切ないので、むしろ当然でしょう。もちろん、学校で習わず、試験にも出ないから、知らなくて当然でしょう。
 因みに、現代人にとって、「都」は、「市町村」の上に来る、おおきな「まち」に過ぎず、物々しく訴えても、空振りするだけです。
 古代、伊豫国司は今治であって、松山はむしろ後出であり、しかも、「邪馬台国」存在の記録が、まったく残っていないのは、納得されないでしょう。

 以下、一段と胡散臭い段落が続きます。

*科学を超えた奇観
 確かに、「白石の鼻巨石群」と淡々と称されている石組みが現存しているのでしょうが、人工的と断定するのは大いに無理でしょう。
 気安く引き合いにされた「ストーンヘンジ」は、陸地に巨石が列置、配置され、人手と時間次第で構築できますが、当巨石群は、海渚浅瀬で足場が悪く、木組み縄掛けして吊り下げ移動などできないので、巨石郡を構築しようがないのです。これほど不定形では、近代技術でも、計測不可能です。
 頂部巨石を、所望の方角に向けて精密に整列するには、コンピューター制御重機群と熟練運転者が不可欠です。つまり、実行不可能な法螺話です。相手にしてはならないのです。

 当巨石に関する「古代人工説」は、その当時、毎日新聞専門編集委員であった「佐々木泰造」氏が、同紙夕刊の連載コラムで、思いつきを書き立てたために、権威ある全国紙毎日新聞社の支持するものと誤解されて、世上に広がったようですが、当ブログで早々に論破したように、学識に乏しい素人が、専門家の検証を仰ぐことなく「でっち上げた」、不合理な夢想に過ぎないのであり、学界で検証されたものでもなく、毎日新聞社が支持しているものでもない一個人の所感/意見/思いつき/落書きなので、真面目に自説の論証を勧めている著者は、不合理な「与太話」として、早々に棄却すべきです。要するに、著者所説は、このような「与太話」に関わらなくても、まったく問題無いので、程々に扱うべきです。
 以下、著者は、四国各県各地の郷土史資料を提示していますが、どう見ても、三世紀当時の「倭人」統治者の居処と見られる発掘例は見て取れません。但し、限られた国家予算を、吉野ヶ里と纏向の大規模発掘に消尽しているため、他地域は、何かの開発計画の際以外、大して発掘できていないのですから、「結果」が出ていないのは、排除する理由にはならないのです。一部で燻っている『四国に「邪馬台国」遺跡無し』は、必ずしも正確な見解ではないのです。

 諸兄姉の著書を見ていただけば、北九州「筑紫」の厖大な出土物に圧倒されるはずです。並記すると不利なので取り繕ったのでしょうが、無理な比定地を担いだ不利は、余程の努力がなければ克服できないのです。

*閉店の弁
 ここで持ち分が過ぎたので、閉店とします。
 丁寧に助言したので、苦言連発は、ご容赦いただきたいと思います。

*参考記事
 下記は、世間に余りにも杜撰な「比定説」が氾濫しているのに呆れて、無理矢理創作した「合理的比定説」の見本(フィクション)であり、事実とは異なるので、よい子は真似しないように。
 古代ロマンの試み 「伊豫国宇摩郡邪馬台国説 こと始め」 序章  1/5 補充版

                                以上

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」1/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業          2024/01/11 02/13

◯はじめに
 本稿は、タイトルから明らかなように季刊「邪馬台国」誌の標榜する「邪馬台国」に背くが、安本美典師の当初抱負を体現した寛恕と見る。
 私見では、本稿は、世上通説とされつつある非科学的な「陳寿」風評の払拭を図っていて、偉とするべきであり、大いに、賛辞を述べたい。
 但し、学術的な論考としては、肝心の基礎部分、脚もと、および、その場での視点が崩れていて、まことに勿体ない。ここでは、細瑾をつつくが、論考の核心は、細部に宿るとも言えるので、ご一考戴きたいものである。

◯批判列挙
*風聞蔓延の嘆き~「通説」への異議
 氏も歎かれているように、国内古代史論者は、「通説」と擬態して 不法/不合理な陳寿誹謗を延々と繰り返し、後生を染め付けているが、氏の「通説」に対する異議は、合理的な視点が、事の原点を取り違えている。

*正史本位説の提唱~私見提示
 三世紀史書である「魏志」「倭人伝」は、それ自体が、同時代史書の原点であり、二千年後生の無教養な東夷の論者が、「日本」に「正史」を創造して、小賢しく「史料批判」するのは、本末転倒、錯誤である。古代に於いて、天子は一人、天下は一つであり、蛮夷には、天子も正史もないのが、ことの原点である。

*散佚史料の根拠なき昂揚
 氏は、いずれかの論客の根拠なき提言に加担して、王沈「魏書」なる散佚史料を「復元」して、陳寿「魏書」に対して異議を立てるが、徹頭徹尾、無謀である。

*臨時定義の勧め
 因みに、本記事の如く原点史料と散佚史料の対比であれば、それぞれを特定するために、繁雑のようでも編者を冠するのが定則である。
 字数を厭うなら、「陳志」、「韋書」、「王書」と臨時定義すれば良い。記事をかじり取っては意味が通じないので、悪用が回避できる恩典もある。

*無用の先例検索
 臨時定義の先例検索は無意味である。先例を排するための定義であり、自明の最たるものである。その宿命で、当記事が終われば、臨時定義は、雨散霧消して影響を及ぼさない。但し、後生の模倣は避けられない。
 このように提言するのは、「翰苑」残簡佚文で、笵曄「後漢書」以外に無冠「後漢書」を見て、散佚謝承「後漢書」とする詭弁がしつこく出回っていて、善良な研究者を迷わせているからである。
 「翰苑」は、原史料所引、聞きかじりで、屡々原史料の書法が持ち込まれる。古典教養同時代読者に自明の省略が、二千年後生の無教養な東夷夷に誤解を呼んでいる。

*「王書」評価
 「王書」、即ち王沈「魏書」の佚文を麗々しく文献系統図としたのは夢想である。厳正に継承された「正史」と対等の史料批判はあり得ない。

*韋昭「呉書」(韋呉)評価
 韋呉と「呉志」対比で、韋呉は、東呉史官韋昭が、東呉公文書から編纂、東呉皇帝に上申、亡国の際西晋皇帝に奉納され蔵書とされたから、陳寿は、「呉国志」「呉志」として東呉文書を渉猟・編纂しても、韋昭の偉業をどうにも克服できない。
 内容を逐一点検しても、東呉内部文書の意趣が濃いのは、自明である。

 案ずるに、それぞれの史書は、由来を吟味して、質を評価するものであり、単に、二千年後生の無教養な東夷が、稚拙に絵解き、数合わせすべきものではない。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 2/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業          2024/01/11,/13 02/13

*「王書」、「魏略」の由来
 ついでに言うと、王沈「魏書」(王書)は、あくまで、後漢を承継した曹魏の史書であり、魚豢「魏略」は、あくまで、曹魏の史書稿(「略」)である。これに対して、陳寿は、蜀漢、東呉が降服して天下統一が成った晋から振り返った上での、「三国鼎立」史観であり、しかも、蜀漢、東呉に関する「国志」を統合せず、史書として誠に別格である。東呉、蜀漢の「公文書」は、ほぼ一切曹魏に届いてないので、史官として、統合しようが無かったとも言える。

*未熟な「正史」観~非科学的な論義
 氏の偉業の細瑾を咎めるのは、心苦しいが、率直な所、氏の「正史」観は「未熟」である。とは言え、世上溢れる陳寿誹謗論者は、歴年学究を経ているので、最早、晩節における回心の可能性は見出せず、終生「不熟」と見られるものである。「未熟」とは、「不熟」の群を抜いていると言いたいところである。
 それはそれとして、氏は、陳寿が推敲した「魏志」を、『佚文や所引で推測する「王書」架空文で批判している』から、誠に、非合理的、非論理的、非科学的と断ずるしか無いのである。後生の「熟成」が、切々と待たれるところである。

*図示の愚行
 氏は、終段図示の言い訳として、「史学論考の文章は堅苦しい」と罵倒/酷評/自嘲されているが、論理は本来堅苦しい。「幾何学に王道無し」は、欧州圏の至言であるが、中国でも、街道に皇帝の道はあっても、論理学に王道は無い。
 史学者には常識以前の自明事項(のはず)だが、古人は文字で論じ、図示は一切存在しなかった。そもそも、図は読者の知性・教養によって、解釈が大いに、大いに異なり、安易な掲示は、断固/頑固/頑健に避けるべきである。

 例えば、図の要素の上下、左右は、何を示唆するのだろうか。今日常用されている矢印は、古代に何の意味があったのだろうか。論理の足場を突き崩す、グズグズの泥沼では無いか。
 あるいは、漢文は断然縦書きであり、掲額などでは右から左に横書きするのである。後漢代の西域史料では、安息国では、文書を横書きすると明記されていて、あるいは、右から左の横書きは当然なので、特筆していないかもしれない。
 要するに、氏は、一段と二千年後生の無教養の東夷の中でも、古典教養に疎い、一段と「無教養」な読者の、いわば勝手な読み取りに頼っているのであり、それは、氏の獲得した論理の継承で無く、氏の好む「情熱」の伝播に甘えているのである。
 以上は、氏に対して、苛酷な批判であるかも知れないが、ことを論理的に主張する際に自戒して、より高度な論考を求めたいのである。

*カタカナ語の迷妄~無自覚の「躓き石」
 氏は「ヒューマンエラーは、普遍的に存在する」と言い捨てる。インチキカタカナ語で逃げなくとも「誤謬は不滅」であるが、事は、発生頻度と質の問題であり、さらには、何重にも校訂/校閲によって、誤謬を検出し、是正しているかどうかである。
 氏の玉稿は、着想から推敲を経て、当誌に投稿されるまでに、多大な自己批判を帯びているものと信じているが、それでも、無用な、つまり有害無益な「カタカナ」語を排除せず、二千年後生の無教養な現代東夷の「生煮え、泥付き」の不出来な語彙の混入にも無頓着と見受ける。もったいないことである。

◯「後生の無教養な現代東夷 」の意義~「初心」の戒め 2024/01/13
 ちなみに、倭人伝論でも高名な岡田英弘氏は、当方に遥かに先んじて国内史家の倭人伝談義の喋喋を「東海の野蛮人の後裔」の抗争と評した警句を発しているが、惜しいかな、「東海」、「野蛮」が、漢文素養に外れている。
 「東海」は、太古以来の抽象的な世界観で、中華/中原を囲む異界/四夷が、たまたま、東夷では塩水だまりになっているだけである。
 「北海」、「南海」は、まず実見できず、「西海」は、概して「流沙」、つまり、「砂の海/大河」と見立てた砂漠か、現実に見ることのできる西域塩水湖、さらには、遙か彼方、漢武帝の使節が達した「大海」、「裏海/カスピ海」であるが、いずれも、塩っぱい塩水湖である。そうした実景は、太古の殷周代から見て遥か後世の知見であり、古典書筆者の知るところではないのである。
 まあ、現代人にしても、海水から遠く離れたり工夫された「みずうみ」が、なぜ塩っぱいのか、わかっていないと思うのである。
 「野蛮」は、古代概念では、無教養で無作法な「客」を言うのであり、教養を備え礼節を知れば「客」は中華士人となるから、「野蛮人」の「後裔」は、程なく「野蛮人」ではなくなるのである。
 むしろ、「国内史家の倭人伝談義」を、学術的な論義と遠い、商売人の店員/小僧が、店先で、商売敵と目先の利害を争う「賈豎の争言」と直截に評した方が、至言に近いのではないか。
 そうした見落としがあるので、現代東夷の無自覚な「教養」の不足を指摘する当方の素朴な提言が、むしろ的を射ていると自負しているものである。いや、当方の不明で、岡田氏の警句に近来始めて気づいたから、本来は、自主的な発言なのであるが、それにしても、岡田氏の熱心な追従者が、この金言/警句/箴言を無視しているので、自己流警句を発しなければならないのである。
 それにしても、自分を数え漏らす子供の点呼ではないが、岡田氏がご自身の金言/警句が、眼前の群衆とともに、ご自身の「影」をも叩いていることに気づかれなかったのは、もったいないことである。
 言うまでもないと思うが、本条は、岡上氏に対する個人攻撃などではない。自戒を含めた「初心」の戒めである。

*陳寿「エリート」観の愚行
 陳寿は、生煮えのカタカナ語で推定される「エリート」などでは(絶対に)ない。
 陳寿その人は、敗亡の蜀漢から魏晋朝に獲得されたから、「幼くして古典講読を重ね、若くして曹魏に「選挙」(推挙)され、洛陽の太学で学び、下位官位で任官されて、早々の昇格を目指していた「茂才」(古典用語の「秀才」が、後漢光武帝劉秀の僻諱により、後漢代初期に更新)」ではない。
 いや、陳寿は、いかに古典素養が十分でも、洛陽から背いた叛徒の輩であり、張華のような高官の引き立て無しには背筋を伸ばすことができなかった「日陰者」である。いわば、二重、三重の誤解である。
 ここで、またもやの蒸し返しになるが、軽薄な「カタカナ」語の無節操な援用は、読者の安直な理解、誤解を煽っていて、氏を含め、古代史論における重大な「躓き石」であるが、これは、氏だけの悪徳では無く、普通に見ても、躓いていると自覚していない方が多いので、ここでも警鐘を鳴らすのである。
 因みに、当方が愛用するATOKは、「カタカナ語」の害毒から使用者を保護する機能があり、必ず、「適切な表現に言い換えたらどうですか」との趣旨で助言/指導/警告してくれるのだが、氏の「作文システム」は、使用者の言いなりなのだろうか、それとも、氏が助言を無視して強行突破しているのだろうか。いや、当方の知ったことではないと叱責されそうだが、余計なお節介をするのも、当方の務めと思っているので御寛恕頂きたい。

                               未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 3/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業          2024/01/11

*魚豢誤認
 ついでに言うと、魚豢は歴とした官人であり、氏の言う「ほぼ」付きでは、編纂の際に極秘扱いである帝国公文書「とか」を参照できない。機密の公文書を利用して史書を私撰するのは大罪で厳格に処断されると親族も連座、刑死である。漢書班固も後漢書笵曄も呉書韋昭も、最後は、刑場の露となった。暗合であろうか。
 何れにしろ、史官は専門家であり、卑位の官であって、高官有司でない。
 魚豢は、曹魏史官であったため。後漢・曹魏公文書の渉猟を許されたのであり、その鋭い筆法は、陳寿「三国志」魏志第三十巻末の魚豢「魏略」「西戎伝」全文で窺うことができる。

*魚豢「魏略」「西戎伝」の演出と魏志の写実
 「魏略」「西戎伝」は、明らかに、雒陽公文書であった後漢「西域伝」草稿によるものであり、原文書の乱調を模倣している貴重な資料である。
 「魏略」「西戎伝」の大半は、後漢西域都護を承継していて、後漢末の西域撤退以後は記録はない。「魏志」「西域伝」は、魏朝の無策を露呈することになるから、成立しなかったのである。

*史論「情熱派」
 氏ご自身がどんな「情熱」にお持ちかは不詳だが、陳寿は、「倭人」を天下の東方を極める偉業とみた明帝の「情熱」が早計で、夭逝後、霧散したと明示している。「倭人」後日談を割愛するのは、むしろ、明帝偉業の顕彰である。それとも、司馬懿の無策が、両郡撤退につながったと明示すべきだったのか。因みに、陳寿「三国志」「魏志」に「司馬宣公伝」は、書かれていない。

*「鴻臚」の錯誤
 ついでながら、韋誕「大鴻臚」の職務を「外務大臣」とは時代錯誤である。
 かつて、漢高祖劉邦親征軍を殲滅の危機に追い込み匈奴単于の昆弟として屈服させ中国に匹敵した匈奴が衰退した後、対等の国交を結ぶ可能性があったのは、西方安息国だけで他はすべて蛮夷だった。但し、「蛮夷」呼称は相手が漢字を読解したときに激怒を買うので「客」と美称したのである。
 要するに、「鴻臚」の役目は、「蛮夷」使節に、中国礼節を教えて拝謁させた後、印綬と手土産を重ねて、定期的な来貢を代償に外臣として認めるものであり、今日言う「外交」とは全く異なる撫夷策である。この点、世上、中国式美辞麗句/誇張に惑わされている例が多いから、釘を刺すのである。

*栄えある「匈奴」
 因みに、「匈奴」は教養のある官人を抱え、「匈奴」が蔑称なら紛争必至である。「匈奴」が、武勇を尊ぶ草原の風雲児に相応しい麗名/敬称とわかる。

*「焦土」作戦の犠牲者
 氏は、『陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の信頼性を毀損し、日本「古代史」と切り離そうとする、小論で言う「焦土作戦」』に巻き込まれるのを避けたと認められるが、諸処に「焦土作戦」の影響を受け、もったいない。

*史料評価の錯綜/是正
 氏は、厖大な「類書」「太平御覧」に収録された「所引魏志」と「現存刊本」である紹熙本などとを対比し、「所引魏志」は北宋期、「現存刊本」は南宋期成立と言い放っているが「浅慮」である。
 「所引魏志」は、参照した「魏志」写本の精度が不明で、さらに、大著の一部である所引の編集精度に更なる疑問がある。
 孤証の極致「翰苑」を論じるときは、断じて、国宝断簡の不慣れな解説で無く、誤字、乱丁、行格が整備された「遼海叢書」版が必須と思われる。

                                未完

新・私の本棚 岡上 佑 季刊 邪馬台国 144号「正史三国志の史料批判...」 4/4 補追

 ...から見る邪馬壹国所在位置論争への結論 「投稿記事」
 私の見方 ★★★★★ 渾身の偉業          2024/01/11 02/13

*魏志「南宋」刊本の由来
 「魏志」は、西晋時、陳寿原本収納以来、国宝として多大な労力と最高級の学識者を動員して写本継承され、劉宋裴松之を始め、厳重な校訂を経ている。
 北宋期に各地愛蔵の写本を結集/校訂した決定稿により刊本が起こされ、主要な宛先に配布されたが、精々、百部程度と見えるのである。北宋刊本の主題は、生成された「正確な」刊本を種とした写本の拡散であるが、北宋の盛期は永続せず、北宋の軍制の弱体と、それ故の、陰謀攪乱の邪計に対する激怒から大挙南下した、北方民族「金」の大挙侵攻/亡国で、正史、書経の刊本は、版木共々、撲滅されて根こそぎ喪失したが、北宋刊本を根拠とする良質写本が、再興された南宋に結集し、今日残っている南宋刊本が刊行されたのである。

*高度な校訂の産物~最高品質
 衆知の如く、写本、所引は、粗雑に行われれば、早速に精度が失われるが、帝国の国家事業として写本された場合は、所謂粗忽な「ヒューマンエラー」は、数度に上る徹底照合/校正によって、極小となるのである。

*粗忽な例
 粗忽な「ヒューマンエラー」が、誤記、乱丁のまま野放しの例として「翰苑」残簡が挙げられる。一度、二度の粗雑な写本で文献は壊滅しているが、美麗な書体によって美術品として認められ国宝となっている。

*良質写本継承の例
 比較的「良質」な写本としては、袁宏「後漢紀」が、「傷だらけ」であるが、正史ほどの厳密な写本で無くとも、最善の努力が積み重ねられた成果である。

*「焦土」作戦の果てる時
 事態混沌化「焦土作戦」によって糊塗されているが、史料の質的評価に天地の差異がある。また、当然、自明のことであるが、現存刊本に見えない誤謬は、本来存在しなかったとみるべきである。
 それにしても、現存刊本の「邪馬壹国」が、本来、『「邪馬壹国」であった可能性が極めて高い』とする「邪馬台国」風評臆測説は、同誌の逆鱗として高言しないのだろう。

*陳寿の魏志編纂の姿勢
 氏の誤解を払拭すると、陳寿が「魏志」編纂にあたって、原史料を忠実に承継するのでなく、悉く推敲、加筆、割愛したとの意見は、誠に素朴な誤解であり、聞きかじりの速断は、まことに勿体ない。
 「重複」の例では、「倭人伝」に「壹與壹與」の連打がある。また、紹興本では「諸國諸國」の連打がある。どんな原則にも、例外はある。

 氏は、「京師」と「京都」の僻諱の例を挙げるが、陳寿編集との証拠はない。陳寿最終稿から献呈本を起こして西晋恵帝に上程した際に写本を指揮したものが、皇帝の直近の父祖に憚って保身した可能性もある。世上、風聞、憶測が絶えないから新説で貢献したが、「マジ」ではない。
 因みに、信頼されている「紹凞本」、「紹興本」でも、宋代皇帝の実名を憚る「僻諱」は、散在する。是は、西欧には存在しない禁忌であるから、「ヒューマンエラー」は、オガ度違いである。

 それにしても、氏の考察は、全篇を通じ、無節操にうねっている。陳寿が、「倭人伝」編纂に「ほぼ情熱を...淡々と...過ぎない」とは見上げたものである。「ほぼ情熱」と「淡々」は「小人」感慨であり、陳寿は史実継承が根幹であって、私利では、一切動いていなかった。
 古人曰く、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知るや」、「士は誠に小人である」

◯最後に~陳寿の真意
 陳寿の「三国志」編纂の真意は、宰相諸葛亮の「臣鞠躬尽力、死而後已」の献身を頌えるもので、蜀漢国志が存在しなかったため、陳寿は、絶大な尽力で「蜀志」を創造し、三国志を不滅の正史としたから、「大行は細瑾を顧みず」。自身の身命を惜しんだのは、大行の前では面目は細事であったからである。

 因みに、古来宰相は、天子に「骸骨」を献じていて、高齢などで退官するには、天子から「骸骨」を返して貰わなければならなかった。

 妄言多謝。死罪死罪

                               以上
 追記:書き漏らしを補追する。2024/02/13
 陳寿「三国志」「魏志」「倭人伝」の根拠となっている原「倭人伝」は、景初に、明帝指示のもとに楽浪、帯方両郡に赴任した新太守が、それまで、公孫氏が文書で報告せず、司馬懿の暴挙で塵滅した公孫版「倭人伝」を温存していた両郡公文書を、鴻臚を介さずに明帝に短絡したものと見える。佚文から、魚豢「魏略」が「倭人伝」相当の記事を備えていたと見られるが、公孫氏から公文書上程されたものではないので、明帝没後に、深い闇に埋もれていたと見える。
 魚豢「魏略」佚文から見て、魚豢「魏略」は、「倭人伝」相当の記事を備えていたと憶測されるが、氏が想定している先行史料である「大魏書」及び王沈「魏書」が取り入れていたかどうか、大変不確かである。わからないものは断言しない勇気が必要と思うのである。
 陳寿は、東京、即ち、雒陽の官人が「西羌伝」を挙げたと書くが、東夷、中でも、倭人に関する「伝」の由来は、以上読み解きを試みたように、示唆にとどめているのである。按ずるに、司馬氏に対して謀反をなした大罪人である毋丘儉の功績と攻撃されるのを警戒して、記事を分散秘匿したと見える。そのような(司馬氏に対する痛烈な)筆誅は、陳寿以外なし得なかったと思量する。
 念のため時代背景を考察すると、後漢は、光武帝劉秀以後、洛陽に公文書庫をおいて、専門家が厳重に管理していたが、霊帝没後の混乱の際、董卓が長安遷都を強行したため、文書管理体制が損傷を受け、文書管理者も、多く離散したと見るのである。何しろ、帝国公文書は、依然として木簡などの太古以来の簡牘巻物で厖大であるから、長安遷都の際には、多くが洛陽に半ば放置されたと見える。
 何しろ、「歴博」の考証に依れば、劉宋笵曄の編纂した「後漢書」は、蔡侯紙でなく、簡牘に書かれていて、何れかの時点で、刑死した謀反人の書庫から浮上して、国庫に納まったと断定しているのである。いずれにしろ、劉宋高官であり、有数の財産家であった笵曄が、わざわざ、簡牘で巻物に著述したのは、信じられないのである。
 後漢末期の建安年間、長安帝都を脱出して、流亡していた献帝が、許都の曹操の元に迎え入れられても、公文書庫は、洛陽にとどまったと見えるのである。曹魏文帝は、各地各都に分散していた諸官庁を、雒陽「首都」に再集結したが、後漢盛時の堅固な文書行政国家は、遅々として再建されなかったのである。ということで、明帝に到っても、依然として、国家創業の時代であり、正史となるべき「国志」を編纂することはできなかったのである。
 氏は、「大魏書」、王沈「魏書」なる二大史書を夢想しているが、画餅に近いものではないかと愚考するのである。
 かくして、氏は、大量の夢想を、あたかも、白日夢の如く図示しているが、夢想は夢想として、氏の脳内に留めておくべきだと思うのである。この場は、お返しとして、当方の夢想を提示しただけである。

以上

2024年2月12日 (月)

新・私の本棚 番外 上村 里花 毎日新聞 「邪馬台国はどこにあったのか」賛辞再掲

「考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は」
 毎日新聞 2020年7月21日 10時20分  (最終更新 7月22日 15時19分)
 私の見立て ★★★★★ 絶賛 毎日新聞古代史記事の復興 に期待 2020/08/01 補追 2023/01/16 2024/02/12

▢補追の弁
 当記事は、初見時に、冷静、確実な取材と卓越した筆致に感動して絶賛したのだが、今般、某同僚記者の杜撰な「古墳」談義を読まされて批判記事を挙げたことに影響されて、同紙の名誉回復の趣旨で再掲したものである。
 今次補筆(2024)は、参照された方があったので、手を入れただけである。

〇はじめに
 当ブログ筆者は毎日新聞宅配購読者であるが、当時、留守で宅配停止していたのでWeb記事で拝見した。
 本記事は、全国紙に冠たる毎日新聞の古代史記事の復興と見て、勝手ながら賞賛した。従来、同紙で散見した纒向中心の安直な提灯持ち記事と異なり、冷静な目配りで一般読者(納税者)に、古代史に関する適確な視点を提供する記事であるので、ことさら目立つ言い方をしたのである。

 記事中紹介されている片岡氏の著書の原文を入手するのに日数を要したが、確認した所では、記者の読解力は適確であり、先輩諸氏の変調と無縁である

*報道ならぬ騒動
 見出しが半ば揶揄しているが、末尾の高島氏の談話が説くように、「学界で優位」、「逆襲」は、復讐も逆襲もない学問論に不適切である。

*考古学界の動向
 いや、正体不明の考古「学界」であるが、実際は、とかく表層で喧噪をまき散らしている「風聞」集団がすべてでなく、良識を有する研究者/論者が、寡黙な大勢を構成していると信じている。
 片岡氏の論議であるが、劈頭、まずは、纏向が支配的な学界風聞の引用である。学術発表が「報道」されていれば引用できるが、同紙を先頭に「ヒートアップ」とか「近畿説で決まり」など、野次馬好みの喧噪が、伝統ある全国紙に書き立てられているのは、報道機関として「世も末」である。
 そのような風潮に抗してか、片岡氏の論議は、概して冷静で、学界に蔓延る軽率な風聞を窘め、まことに貴重である。

 ただし、別記事(近日予定)書評で歎いたように、氏は、遺跡、遺物の研究を専攻している考古学者であり、同時代文献、つまり、中国史書(の燦然たる一章)「倭人伝」の解釈では、「専門家」のご意見を拝聴した感じであり、そのため、原文解釈ではなく、「手前味噌」が堆い(うずたかい)国内通説、俗説依存の和流「読替え」訳文(本意か不本意かは不明であるが)忠実に信奉し、原文の意義を、元から取り違えて伝えていると見える点が、氏の折角の冷静な論議の脚もとを揺るがして、何とも「もったいない」。
 それに付随して、氏の中国「古代国家」観は、時代離れした後世/異郷史学論法に染まっていて、立て続けに空を切っているので、ここではひっそりと治癒を祈るものである。もちろん、以上は、氏だけの宿痾ではないので、気に病まないで頂きたいものである。

*時代錯誤「訳文」に依存~片岡氏批判
 端的に言うと、「倭人伝で晩年の卑弥呼は、千人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。(後略)」と時代錯誤訳文に、赤々と染まっているが、このように「翻訳」文に惑わされたために生じたと見える、苔のように纏わりついた先入観を取り除き、描かれている原文に回帰して、その真意に密着すると、以下の判断が提示できるはずである。

 倭人伝の原文から考えると、ここにでっち上げられた「晩年」は、二千年後生の無教養な東夷が、勝手に「共立」の時代比定と卑弥呼の年齢推定をずらし、挙げ句に、長期在位」としたお手盛りの年齢を押しつけただけであり、当人は、老齢でもなかったし、また、神ならぬ身で、自身の死が近いとは思っていなかったし、また、老人でも病人でもなかったと見えるから、「晩年」決め付けは、「倭人伝」と無縁の事実無根である。
 婢千人は、侍女とは限らないし、女王が、身辺に多数の女性をはべらす意義も不明である。「王治」(後漢書にいう大倭王の治所 「邪馬台国」)の警護を想定しているが、「倭人伝」にかかれた諸「国」に城壁のある要塞は存在しない上に、「強大な力」は、後生東夷が勝手に創作した幻影である。陳寿「三国志」魏志「倭人伝」には、「半世紀近」い 治世も、クニグニに「共立」されたのも書かれていない。
 少なくとも、「共立」は二者以上、三者以下と見えるが、「クニグニ」と書き殴って多数、三十ヵ国と思わせるのは、狡猾に過ぎる。何しろ、「倭人伝」に「クニグニ」などかかれていない。とにかく、有る事無い事てんこ盛りの「ごった煮」に見えて信用ならない。
 そもそも、衆議一決して排斥されるほど強力な男王を継ぐ王は、本質的に弱い存在ではないから、朝議に参加させなかったのであろう。それにしても、文書行政でない古代君主が、朝廷御前会議を主宰せずに、どうやって、強力に統治できたか、不明である。

 以上の不都合は、女王の「性格」(片岡氏の手前味噌造語)を纏向から九州北部を「強力に支配」した権力者のものに仕立てた創作、つまり、原文に無い「俗説」満載の創作劇に起因するものに過ぎない。言うならば、「魏志倭人伝』が描いた邪馬台国』も、同様の背景による「俗説」の被造物である。「我田引水」に荷担するのは、せめて、最低限、十分に史料批判した後のことに願いたいものである。

*切望される原典回帰~片岡氏批判
 当記事を魏志に採用した陳寿は、同時代史家であり時代錯誤にも、和風意識も無縁である。心ある考古学者は、陳寿によって、女王の墓碑銘として構想された「倭人伝」の泥や苔を洗い落として欲しいものである。

*冷静な総括
 末尾の高島氏の談話は、冷静な指摘であり「逆襲」などではない。「現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ」と適格に断じておられるが、「問題」、「課題」には、編纂者である陳寿によって、明快な解答、是正策が示唆、ないしは予定されているはずである。ぜひ、高島氏の慧眼で模範解答をお願いしたいものである。
 古代ギリシャの挿話「幾何学に王道なし」の流用であるが、中国古代史文献に「ジーンズとスニーカー/サンダル履きの散歩道」は無い。

〇まとめ 河清を待つ
 本記事は、全国紙の古代史記事の「正道」を想起させる。諸先輩は、何度でも顔を洗って、原点から出直してほしい。
 時を経て、人が代わっても、毎日新聞の泥や苔にまみれた古代史記事は残るのである。と言うか、当分野の先賢諸兄姉の一部の通説に媚びた「曲筆」三昧は、永久に残るのである。

 その意味でも、当記事は、担当記者の清新さが感じ取れて、清水再来(clear water revival)を待望するのである。
                                以上

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」改補 1/5

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 中公文庫 2014/05/22 分割再掲2020/06/17 2023/01/01 2024/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成

〇始めに 「古代朝鮮」論
 本書の主たる守備範囲は、「隋唐帝国」ですが、時代を遡った「古代朝鮮」が付随し、後半部が本論筆者の守備範囲に及んでいます。

*倭人伝考察
 第2部 朝鮮の古代から新羅、渤海へ 武田幸男
 「10 高句麗と三韓 帯方郡と卑弥呼」に、魏志「倭人伝」に関連しそうな考察が展開されているので、ページをめくる手が止まるのです。

*景初三年皇帝拝謁仮説

 著者(武田氏)は、景初遣使が天子に拝謁したものの下賜物は目録を渡されたものと解します。
 当然、氏は、景初三年一月一日に明帝が死亡した史実は、ご承知ですから、ひょっとして年少の新帝曹芳が、喪中を顧みず接見したのでしょうか。どのような根拠で、「拝謁」、「接見」を得たと断定しているのか不可解です。

*「画餅」ならぬ餅作り
 因みに、下賜品目の細かい様子は別として、これだけ多種多量の品物を、倭使の僅かな一行で持って帰れというのは、途方も無い無理難題です。倭人の手土産でわかるように、限られた人数の一行なので、全員が背負える荷物は、とても、僅かなものです。
 当然、大勢の担ぎ手を付けて、少なくとも、まずは、帯方郡太守の治所まで送り届けなければなりません。そのためには、道中の宿駅に、担ぎ手大勢を手配するよう指示して送り継ぐように手配し、山東半島莱州から帯方郡の海港までは、普段往来している海船を必要な数だけ予約し、確保しておくよう指示しなければならないのです。但し、それは、魏朝の治世下なので、洛陽から書面で命令すれば、確実に実行されます。その時点、中国は、「法と秩序」の世界だったのです。先だった、後漢献帝期、中国の国家統治体制が瓦解寸前で、中央の統制が行き届かず、遼東太守公孫氏が、域外の山東半島の戦国「齊」領域まで支配していましたが、そのような拡大政策は、献帝建安年間後期に曹操の権力掌握が進んで、公孫氏を威圧したので、あっさり撤回され、文帝、明帝と続いた曹魏の治世下では、魏朝の支配が確立していたのです。と言うことで、ここは、官道整備が完備していて、山島半島の海津東莱で、下賜物を船積みするまでは事務的に進んだのです。

 そこから先は、帯方郡太守の責任ですが、この地域は、明帝が派遣した新任太守の支配下であり、公孫氏の手の届く範囲ではないのですが、それにしても、帯方郡太守が、以下、倭まで送り届けできることが確認されていなければならないのです。
 洛陽の方から、一方的に期限を指定してしまうと、遅延した場合に、きつく処罰しなければならなくなるので、まずは、郡の請け合う期限を聞かなければなりません。

 各地への連絡に騎馬の文書使を使うとしても、帯方郡から先は、前例のない緊急事態なので即答は得られず、特に、狗邪韓国以南は、渡船の果てに、街道未整備の未開地なので、いくら期限厳守の曹魏制度で急使を往来しても、すべて確約を得て発送できるまでに、少なくとも半年はかかりそうです。「畿内説」の顔を立てようにも、半年どころか一年たっても確答が得られるとは、とても思えないのですが、流すことにします。

 いくら、宮廷倉庫の滞貨一掃でも、それぞれ、倭まで荷運びできるように、それぞれ荷造りしなければなりません。手土産に、飴玉を持たせるようには行かないのです。とにかく、今日言いつけて、明日発送とは行かないのです。

 もし、一部で言われている「新作」説で言うように、前例のない意匠で大型の銅鏡を一から新作するとしたら、試作確認やら、銅材料の手配やらで、これは、新宮殿の飾り物制作で忙殺されていた尚方ですから、百枚制作する期間自体を度外視しても、一、二年かかりそうなものです。このあたり、明快に書いていないのは、恐らく、渋滞したからでしょう。

 「画餅」は、さらさらと書き上げられても、実際に手に取れる、食することができる、腹持ちする「餅」を作るには、厖大な手順段取りが必要なのです。著者は、そのような実際面は気にせずに、あり得ない図式を「心地良く」思い描いているようですが、素人が考えても、一行で片付く物でないことは、すぐにわかるのです。 

*安易な生口解釈追随
 生口は、「捕虜ないしは奴隷」と安易な「定説」追随が明らかとなっています。ここでは、深入りしませんが、大変不可解/不条理で、常識的に信じがたいと申し上げておきます。曹魏は、文字を知らない蛮夷を、教育・指導し、奴婢として訓練しても、しょうがないのです。古来、使い走りなどの雑務をこなす「官奴」には、事欠かないのです。
 「鳥は宿る木を選ぶ」のですが、氏は、命をかけられるほど確かな木を選んだのでしょうか。

*的外れの出超評価
 著者は、景初遣使下賜物を魏側の「出超」と評していますが、ことは共通通貨に基づく売買でなければ、物々交換の交易でもないので、時代錯誤、見当違いの低俗、つまり、子供みたいな評価です。丁寧に言うと、古代の王朝は、「貿易の収益は、ほぼ関知していなかったので」、蛮夷の来貢で、儲けを取る気は無いのです。
 要するに、どうしても損得評価したいのであれば、献上物と下賜物の魏朝での「時価」を「総合」すれば、交易と評価したときの収支が推定できますが、ことは、まるっきり交易ではないので、無意味な議論です。

 倭側としては、献上物の価値(コスト)評価には、危険を冒して遠路はるばる持参した運送費や使節の出張費といった膨大な「経費」を考慮するし、魏朝側としては、帝国の威光を遠隔地に広げるという「広告宣伝」が絶大であるのを考慮すれば、下賜物の価値が変わってきます。そもそも、天朝は物産豊富であり、買い求めるものは何もないのです。
 ついでに言うと、倭人には貨幣がないので、金額評価は、まるっきり不可能なのです。

 こうして、氏は、単純な「物」の価値評価の埒外の評価を適用していますが、それぞれ「主観」であり、どうしても正当、公平な価値評価とならないのです。

*大盤振舞い
 それにつけても、魏朝下賜物は、その時ことさらに設えたのでなく、恐らく漢王朝以来の宮廷倉庫在庫品であり、後漢末期の長安遷都騒動に伴う略奪を免れた貴重品としても、あえて現代風に言うと、アウトレット(在庫処理)の大盤振舞いかと思いますが、一度限りのものであることは言うまでもありません。

*万里の賓客
 とは言え、周代以来の制度として蛮夷受け入れ/接待部門である鴻廬に示された規準では、万二千里の遠隔の新来蛮夷は、最大限の賓客厚遇を施すことになっているので、後世人に到底理解できない過分の処遇と見るのでしょうが、それは、二千年後世の無教養な東夷の早とちりに過ぎないのです。
 時の天子曹叡は、漢代は勿論、祖父武帝曹操、実父文帝曹丕を越える絶大な偉業を示そうとしていたので、一段と厚遇されたものと見るのです。

*拭いがたい時間錯誤
 「二千年後生の無教養な東夷」の浅薄な「価値観」を無思慮に古代に塗りつけるのは、はなから時代錯誤であるし、ここで述べられた「出超」評価は、先に丁寧に短評を試みたように、現代の合理的な経済原理を踏まえた評価でもないのです。何とも、子供じみた浅薄な放言であり、著作の価値を下げてしまうと言わざるを得ないのです。
 とかく、たちの悪い「失言」ほど、猿まね発言が出回るので、誠に、罪深い事、限りない発言なのです。この場で罵倒に近い「好意的な」評価をお届けするのは、誠に世評の高い、無限に影響力のある著者だからです。

                                未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」改補 2/5

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 中公文庫 2014/05/22 分割再掲2020/06/17 2023/01/01 2024/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成

*軽率な銅鏡論
 その後、東夷の出土品である「景初三年銘の三角縁神獣鏡」を、さらりとこの下賜銅鏡と結びつけていますが、根拠の無い当て推量であることは明らかです。まるで、子供の思いつきと云われかねないのです。
 皇帝代替わりでてんてこ舞いしているはずの「尚方」(官製工房)にとって、皇帝不在の「景初三年銘」、「新規意匠、空前の大型」銅鏡百枚新作に、喪中の景初三年に着手したとして、期限内に全量制作・出荷できたかどうか。

 新型銅鏡新作とあれば、鋳型の新作までの試作と工夫、大量の銅材料の手配、尚方の人材と労力の投入が必要です。青銅を溶かす「坩堝」や溶けた青銅の湯を坩堝から注いで、鋳型に注ぎ立てるの「柄杓」も、倍近い量をこなす大型化が必要です。銅鏡工房の大改造が必要です。
 加えて、銅鏡の長距離搬送に要する厳重な梱包(木箱)の制作と膨大な箱詰め梱包作業がともなう大事業です。小分けした手運びも必要なので、一枚ごとの箱詰めも必要です。大型鏡百枚新作に、大きな疑問を抱く理由です。

 下賜物は、倭人使節がお土産で持って帰るのではないので、魏皇帝が、責任を持って、(経費一切を負担して)送り届ける必要があるのです。
 途中で、帯方郡に責任を持たせるにしても、帯方郡が、担当行程を引き受けたと回答しない限り、送り出せないのです。
 帯方郡は、伊都国で荷物を倭人に引き渡すとしても、倭人が受入を確約しない限り、皇帝に確約できないのです。「確約」するというのは、任務不首尾の時は、中原の「王」に匹敵する厚遇を受けている太守が、更迭されるくらいで済まないかも知れないからです。普通は、郡の高級官吏を現地に派遣して、対面して各国責任者の確約を取り付けるはずです。

 と言うことで、皇帝の指示が出てから、実際に荷物が帯方郡に渡るまでに、何ヵ月かかったか不明なのです。 いや、中原では、大量の荷物、主として、穀物が往き来していたので、下賜物程度で、輸送便が輻輳することはないでしょうが、帯方郡から先は、普段ほとんど荷物がないので、具体的に荷姿や荷物の目方を言って、人集め、船手配しなれければならないのです。
 そして、すべての準備が整って、郡太守が首をかけても大丈夫と判断して、始めて、洛陽に報告が届いたのです。
 言うまでもないでしょうが、そのような実務を通じて、「帯方郡から倭人の届け先まで、何日がかりなのか、里数で評価して、それは何千里なのか、確実に、確認されていた」と見るべきです。

 と言うことで、万二千里」が、後漢建安年間に、公孫氏が、「倭人伝」を創設した際に、そそくさと書き留めた観念的なものであって、実道里と大いに異なっていることは、遅くともこの時点で、関係者に知られていたのです。
 ただし、この区間を「万二千里」と承認した明帝は、とうに世を去っていて、先帝の遺命は新帝には改竄できないので、今日確認できる「倭人伝」にも、公式道里は、不朽の「万二千里」と書かれているのです。
 それにつけても、根拠の確認されていない、と言うか、明らかに否定されている「定説」に安易に依拠するのは、重ね重ね軽率です。

*後年下賜の仮説
 さらに、著者は、243年の第三回の通交では「お返し」の記録がない』と嘆いています。ここに上げられた「通交」は、対等な相手(敵国)との交渉ではなく、またプレゼント交換の儀式でもないのです。また、下賜物は、献上物に対する「お返し」ではないのです。

 したがって、定例の来貢への下賜は当然であり、それ故、ことさら正史に記録されていないのです。記事がないのは無事のしるし。それが、正史読者の大人(おとな)の分別というものですが「二千年後世の無教養な東夷」に大人の分別を求めるのは、無分別なのでしょうか。

 むしろ、莫大な下賜物を要する「万里の賓客」は、二十年一度の来貢が精々であり、
それ以上頻繁に来られると、来貢拒否になりかねないのです。つまり、勝手に押しかけると、追い返されるのです。これが「中国古代史の常識」です。

*余言のとがめ
 このあたり、著者が、専門外分野で「素人」で、専門家の助言を仰がず、熟慮なしに、子供じみた所感を吐露しているのでしょうが、読者は学者先生の権威ある意見と見てしまうものです。余言の弊害は夥しいものがあります。
 とにかく、古代史に、現代(二千年後生の無教養な東夷)の軽薄な価値観、手前勝手な学説を塗りたくるのは、時代錯誤と言うべき場違いであり、小賢しい考察と言うべきでしょう。

*安直な価値判断への批判
 安直な素人判断は、現代人の俗耳に訴えるでしょうが、学術的な判断には、客観的考察を妨げる邪魔な雑音でしかないのです。物の価値判断は、時代、立場によって大きく異なるので、素人判断は、軽々しく高言すべきではないのです。
 いくら俗耳に受ける軽快な言葉で訴えて、取り巻きの賛辞を浴びても、それは、一時の虚妄であり、後世に恥をさらしかねないのです。

*虚空の「現実主義者」
 著者が、張政は軍事顧問との卓見ですが、なぜか「現実主義者」と評しています。張政は、外交官でなく軍官なので、その資質が表れているのでしょうか。非現実的浪漫派」と暗に非難されているのは、誰でしょうか。
 というものの、軍事顧問は、単身だったのでしょうか百人、二百人の実戦力を連れていたのでしょうか誰が、莫大な戦費を負担したのでしょうか。ことは、銅鏡百枚どころではないのです。
 それにしても、著者は、淡々と、張政は、247年に来訪し248年に帰国した、長く見ても2年に足りない滞在と推定していますが、これは、正史記録と異なるように思われるのです。何しに来て、何をして帰ったのでしょうか。

                               未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」改補 3/5

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 中公文庫 2014/05/22 分割再掲2020/06/17 2023/01/01 2024/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成

*手軽な書き替え
 このように見ると、本書では、一連の事象を、現代の読者がするりと呑み下せるように滑らかに書き均しています。これは、よく見られる原文書き換えの手口です。魏志「倭人伝」全体が、このように滑らかに読み取れるとすれば、世上の議論は発生しなかったでしょう。まことにめでたいことです。

*さんざめくよそごと
 それ以外にも、著者は、諸処で余言を紛れ込ませて、さながら、ウグイス張りの廊下を歩く感じで、騒々しいことおびただしいのです。

*好太王嫌い~三韓視点の押しつけか~余談
 例えば、346ページにご託宣があります。当ブログの守備範囲外ですが、個々では、口を挟むことにしました。
 『とくにただ「好太王」というならば、それは内容のない美称だけの略称になってしまいます』

 「内容のない」と得々と説きますが、実は趣旨不明です。著者のような二千年後生の無教養な東夷の「素人考え」は求められていないのです。「好太王」は、自国の国土を拡大し国勢を高めた王と言い表していて、立派に「実質」のある美称です。後世局外者が、小賢しくしゃしゃり出る余地はないのです。
 何よりも「好太王」は「広開土王」と同一人物であることが自明です。してみると、著者は、この三文字略称が気に障るのですが、何かその過去に解きがたいトラウマ?でもあるのでしょうか。
 好意的に解釈すると「広開土王」と呼ぶ方が、字面に、領土拡大の業績が明示されているから好ましいと思いますが、そのために、世に広がっている簡明な「好太王」の通称を貶める必要はないと思います。
 とにかく、何でもないところで、何故著者が激高するのか不可解です。安手の韓流ドラマに「食あたり」したのでしょうか。

*韓流正史の怪
 続いて正史「三国史記」と書いていますが、いつから、「三国史記」は「正史」になったのでしょうか。まことに不可解です。
 「正史」は、中国の文化に基づいて書かれた中国の史書であり、蛮夷が一外国(蛮夷の国の意味)に過ぎない「自国」について書き記した史書を勝手に正史と称しても、「正史」と呼べないのです。これは「律令」も同様であり、蛮夷が「律令」、「正史」を策定するのは、蕃王が自身を「天子」に擬し、「中国」始め、三韓等々、悉くを蛮夷とするので、万死に値する大罪なのです。

 筆者が、三韓に感情移入して、韓地天下の世界観を懐胎して主観が替わって、「三国史記」を「正史」と呼ぶなら、「中国」も「日本」も無学の野蛮人となりますが、筆者は、そのような主観遷移の表明を意図しているのでしょうか。

*私見の奔流
 以上のように、中国「正史」の権威と思えない筆者が、長年の学究生活を通じてその身にまとった揺るぎがたい世界観が、当歴史書物に無遠慮にせり出してくるのが、客観的で誠実な学術書を求める読者には場違いなのです。

 いや、つい、本論筆者の私見が前に出てしまいましたが、「私見を押しつけるのは偏向」と戦闘的な著者が書いているのを見て口が滑ったのです。
 当方は一私人であり、ここに何を書いて私見を押しつけようとしても、世間に一切定見として通用しないのですが、威者が公刊物で私見を振り回すのは、偏見の押しつけでしょう。

                               未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」改補 4/5

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 中公文庫 2014/05/22 分割再掲2020/06/17 2023/01/01 2024/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成

*カタカナ語の乱用~不可解な逃げ腰非難
 本書は、もともと、「世界の歴史」叢書の一巻ですから、中国以外、古代以外の概念が登場しても、ある程度許容すべきかも知れませんが、それは、あくまで対象地域、時代に対して、度しがたい時代錯誤とならないように、慎重に布石した上のことと見えます。

 本書の「高句麗と三韓」「帯方郡と卑弥呼」と題された部分で、それは顕著です。
 「彼女の素性」は、と物々しく書き出して、「周知のとおり」と子供じみた前振りに続いて、「鬼道につかえるシャーマン」と「倭人伝」登場者の誰一人として理解できない言葉を貼り付けているのが、その端緒です。古代では、素性(Who)は、家系・出自であり、それを書かずに戯言を書くのは、子供じみています。
 もちろん、当時「シャーマン」なぞ存在しないので、不審です。他にも、目障りなカタカナ語は、「タイミング」、「ズバリ」があり、英語起源とは限らない「下品」極まりない、本書にふさわしくない、子供じみた言葉は、本来、書籍編集段階での書換が望ましいのです。

 続くページには、「今の世界経済と比較にならない」普通の社会人にはわけのわからない前置きに続いて、カタカナ語ならぬ、「出超」なる、本書にふさわしくない、子供じみた「片言」です。ひょっとして、「出禁」と取り違えたのかと思えます。(「出超」については、先走って、念入りに論破しています)

*「ネットワーク」の泥沼
 続いて、深刻な「ネットワーク」が登場します。
 著者によれば、半島には、(意味不明な)「ネットワーク」が棲息している/跳梁跋扈していることになっていて、ことわりなしに「幹線ネットワーク」、「情報ネットワーク」が登場しますが、史料に書かれていない勝手極まりない妄想であり、それが、ここでだけ引用された「倭人伝」道里記事の勝手な解釈に塗りつけられていて、一体、何のことやら、闇の中に落とされて、そこに、意味不明な「国際性」、「国際ネットワーク」が投げつけられて、誠に困惑するのです。

*「帯方郡通交ネットワーク図」の怪
 どうにも説のつかない、絵解きが提示されますが、どう見ても「実施不可能な経路」の「一本道」のいたずら書きであり、しかも、「ネット」(正味/編み目)も「ワーク」(作業/動作)も提案されていないのです。重ねて、「幹線」とか、何とか言われても、古代にないものは「なかった」のです。それは、「ブロードバンド」と賢そうに書き足されても、改善されないのです。まさか、首都圏の通勤電車なみに、ひしめき合っていたのでしょうか。
 230102
 「倭人伝」に書かれていない韓国に関する憶測を紙上展開しているのにも困惑します。
 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」記事で、「倭人」交通/輸送に関係しそうなのは、弁辰鉄山から、両郡に鉄材が納入されていたとの記事であり、当然、郡として半島を騎馬で踏破できる街道を設置し、馬匹による荷物運びにも運用していたとわかるのですが、それは、ここには書かれていません。「視れども見えず」と言うことでしょうか。
 それとも、この一路貫徹で、「半島周回海上輸送」を主張しているのでしょうか。一本道で「ネットワーク」が構築できると信じているのでしょうか。「病膏肓に入る」、つけるクスリの無い迷妄かと見えます。

                      未完
 

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 「隋唐帝国と古代朝鮮」改補 5/5

世界の歴史 6 2008年3月 中央公論新社 単行本 1997/1/10 中公文庫 2014/05/22 分割再掲2020/06/17 2023/01/01 2024/02/12
 私の見立て ★★★★☆ 貴重な労作 書評対象部分 ★☆☆☆☆  未熟な用語、安易な構成

*「普通」、「自明」の街道網
 陸上街道は、船便乗り継ぎの五、六倍速いし、難破して海の藻屑ならぬモズクになることもないし、荷物が重ければ小分けで送れるし、第一、駅伝なら、途中でつまみ食いされる可能性もないのです。騎馬文書使は、甲板を疾駆して時間を稼いだのでしょうか。ご冗談でしょう。

 本題に還って、この部分は、本来「倭人伝」に無縁の主張であり、前後の記事と照合しても、場違いのように見えます。なぜ、場違いな記事をはめ込んだのでしょうか。結局、この部分は、不出来な、本書にふさわしくない子供じみた提言を聞かされるに過ぎないのです。

*「地図の思想」、「無図の思想」
 要は、著者に、「ネットワーク」の概念が「まるっきり」ないのが、歴然としています。
 図にもっともらしく描かれているのは、半島南岸、西岸を通って北に抜ける一本の航跡らしいもの「だけ」で、諸韓国どころか帯方郡も通っていません。そして、そのあと、目前の山東半島にそっぽを向いてどこに北上するのか、不思議です。
 もちろん、史料にこのような図はないし、図が書けるような経路、停泊地列挙もないから、これは氏の私見なのでしょうか。お戯れにも程があります。
 台になっている白地図は、どこかの誰かが、現代データで書いた図版でしょうが、データ利用の許諾は得ているのでしょうか。現代データは正確としても、現地の地理として三世紀に此の通りだったという保証はありません。地名、国名の根拠もありません。氏が独自にこね上げたとして、どんな根拠があるのでしょうか。とにかく、重症です。

 丁寧に言うなら、三世紀当時このように地図は存在しないから、基本資料である陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」は、このような図を一切想定していません。史料編纂に参照されていない図版で、編纂者の深意にどのように到達するのか、誠に、不思議です。普通に考えると、見当違いの絵解きです。

 存在しなかった地図を無視して、記事の字面を追うと、倭人使節は、狗邪韓国から内陸道を北上し、途次、諸韓国に礼を尽くしつつ、帯方郡太守の元に参上したと「すらすら」と読めるのであって、図示のように、「三国志」「魏志」「東夷伝」に一切指示のない、つまり、韓国に属しない海上の移動などではなかったと見えます。

*「反省会」のお勧め
 一度、よくよく、著者の身内で読み合わせした方が良かったのではありませんか。
 これでは、辰王と卑弥呼が時代を共にし交信していたかも知れない」という、『史料に影も形も無い、両者の生存した時代も整合しないと見える「小説的夢想」』であり、古代史論では、場違いで、「思いつき」と言うにも値しない、とんだ恥曝しです。どこかで、楽しい読み物でも拾い食いしたのでしょうか。小説なら、其の場限りの創作を試みても許されますが、本書のように、一般読者に氏の私見を麗々しく押しつけるのは、困ったものです。
 氏の影響を受けてかどうか、確かではありませんが、某書には、司馬懿が卑弥呼を「知っていた」という臆測が示されていて、太古以来、男女が互いに相「知る」という事は、「臥所(ふしど)をともにする」という事であり、誠に、意味深長で恐れ入ります。ちなみに、同書では、両者の間は、帯方郡太守が取り持ったと示唆されていて、まことに色っぽいのですが、史学界では、かくのごとき、18禁の話題が飛び交っているのでしょうか。

閑話休題

 と言うことで、追加として考察を試みましたが、随分杜撰です。

◯まとめとして
 古代史を学ぼうとしている読者が、氏に求めるのは、当時の人々が何を考えていたか、当時の人々に理解できる可能性のある言葉を今の言葉で語ることであり、氏の子供じみた夢想を聞きたいわけではないのです。

 いや、ここで氏の失態を書き立てるのは、氏ほどの名声がありながら、その著作は、後学のかたが、無批判で追従する/していると懸念さるからです。特に、中央公論社の全集となれば、即座に殿堂入り、「レジェンド」の彼岸の方と見えるのが、気がかりなのです、

 恐らく、氏の支持者は、氏に遠慮なく諫言できなかったのでしょうが、結果として、氏の晩節を穢しているのは勿体ないと思います。

                               以上

2024年2月11日 (日)

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 1/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*倭人伝談義
 当方は、一介の私人であり、一千巻にのぼる大冊の太平御覽(以下、御覽)全般について史料批判するなど論外です。
 語りたいのは、御覽の「」記事の魏志引用で「邪馬臺国」(耶馬臺国)と明記されているという点に絞った議論です。(卷七百八十二 四夷部三 東夷三 俀)

 結論を言うと、御覽編者が「魏志に云う」と宣言しても、正確な引用でなく編者が改編した結果が書かれているということです。

 これは、先賢諸兄がとうに精査済みの筈なので、おそらく、何れかで論議されていると思いますが、当方の見聞では今ひとつ明解で無いので、ここに私見を示すのです。

 太平御覽は、「中国宋代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉、徐鉉ら14人による奉勅撰であり、977年から983年(太平興国二ー八年)頃に成立した」(Wikipedia)とされ、西暦十世紀後半、北宋期のものです。以下、御覽引用/所引の魏志を「御覽魏志」といいます。

*先行資料の優越性
 現行刊本に見える「魏志」は、御覽編纂より後年、西暦十二世紀の南宋刊本に準拠することから、先行した御覽魏志の方が三国志原本に近いと「推定」されています。して見ると、「御覽魏志」が参照した陳寿「魏志」に「耶馬臺国」と書かれていたものが、南宋刊本は、以後の誤写で「邪馬壹国」となったものに違いない、とは、世上よく見かける臆測/未検証の論調です。

 しかし、大局的に御覽記事を見ると、まず、笵曄「後漢書」記事が引用され、倭女王ならぬ大倭王が「邪馬臺国」を居処としていると明記されています歴代史書で、司馬遷「史記」、班固「漢書」に続いて、笵曄「後漢書」が「三史」の掉尾として参照されたものです。そのように、笵曄「後漢書」によって国名を確定した後に、続く陳寿「三国志」「魏志」の当用写本を参照し「邪馬壹国」は「耶馬臺国」の誤記として改編したと見れば、笵曄「後漢書」「邪馬臺国」が陳寿「三国志」「邪馬壹国」に優越したのは、別に不可解ではないと思われます。

*史料批判の試み

 しかし、後世人たる当方は、どの時点であろうと、原文を改編したと思われる引用文は、そのまま承認することはできないのです。

 と言うものの、御覽編者を弁護すると、その手元に届いた魏志第三十巻の東夷伝「所引」は、何れかの時点で、後漢書をもとに訂正されていた可能性があり、編者は、採用所引に従っただけかも知れないのです。(経過が不明なので、どんな可能性も、否定できないという趣旨です。)

 そのような「懸念」を排除できないのは、これほど権威を与えられた編者が、あえて原文を改編して「云う」としたのは、時代の史料解釈定説に従ったと見られるからです。云うならば、編者が手元史料として利用した当用写本が、既に「耶(邪)馬臺国」と改訂されていた可能性を見のです。

*原本不可侵
 とは言え、いくら同時代解釈が有力でも、さすがに、帝室所蔵の原本の改竄はできなかったので、厳格に写本継承された成果と見える陳寿「三国志」南宋刊本への信頼は維持されているのです。

                               未完

倭人伝随想 14 太平御覽 「魏志に云う」 の怪 2/2 更新

                          2019/02/08 2024/02/11
*御覽編者の誤解
 以上は、笵曄「後漢書」をもとにした改編の疑惑ですが、「御覽魏志」は、他にも、南宋刊本の字句を整形して、自身の解釈に沿うように訂正している例が見られます。原文の忠実な引用でなく、編者の解釈で改編しているのです。編者に云わせると、それは、当代最高の知性による至高の編集であり、原典は原典として、十分尊重していると云うでしょうが、ここでは、無批判で追従はできないのです。

*継承と改編
 件の「邪馬壹国」と「耶馬臺國」の対照部は次の通りです。
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶    南宋刊本
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都其置官曰伊支馬次曰彌馬叔次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮   御覽魏志 (影印複写 末尾)

 「邪馬国」「彌馬」と「耶馬国」「彌馬」などの違いを除くとほぼ同一の文字が書かれていても、語順を変えたために意味が変わっています。

 「水行十日陸行一月」は、行程「従…至」が不明なものが、「至耶馬臺国」行程とされ、戸数「七萬戸」も「耶馬臺国戸数」とされ、行程は「又」で繋いで放射状行程が成り立たなくしていて、至って明快です。
 但し、三世紀の読者に迎合した原文を、千年近い後生の当代読者に迎合して「明快」に書き換えた解釈が正しいかどうかは別であって、原文の忠実な再現でないことは明らかなので、所詮、「誤解」に類するものと見られます。

*誤解の由来
 そのような改編は、写本誤写では起きず、また、別史料に依存したものでも無いので、御覽編者としての権限を持つ権威者の見識による「校訂」であり、「御覽魏志」の史料としての信頼性の限界を示すものと思われます。

*結論

 端的に言って、御覽魏志」の「耶馬臺国」は陳寿「三国志」「魏志」の正確な引用とは思えないのです。又、「御覧魏志」の改編が御覽が創始したものなのか、先行資料の継承なのか、も、当然ながら不明です。確実なのは、陳寿「三国志」、笵曄「後漢書」以後の史料に「邪(耶)馬臺国」とあっても、その時点の陳寿「三国志」「魏志」原本に「邪(耶)馬臺国」と書かれていた証拠にならないのです。

 ここまで流していますが、「御覽」の公開資料は、全て、「後漢書」部は「馬臺国」、「魏志部」は「馬臺国」であり、文字不一致は何とも不可思議です。又、笵曄「後漢書」、陳寿「三国志」「魏志」から始まる所引記事で、全体を「倭」でなく「」としているのも、気がかりです。
 大冊の編纂作業に、玉石混淆の大勢で取り組んでいて、内部資料に草書を多用したために、例えば、「邪」が「耶」に化けたのでしょうか。「わからないこととはわからない」としか言いようがないのですが。

 言うまでもないでしょうが、世間で通用している写本に「時代誤記」が発生しても、帝室所蔵の同時代原本には一切影響しないので、「時代誤記」は、まるっきり継承されないのです。これだけは、不変不朽の真理です。

*保守と創造
 後世人には、頑固に三国志原本の「みだれ髪」を保守する原典志向の史官と同時代読者に向けて髪の解れ(ほつれ)を櫛けずる創造志向の類書編者との違いを弁えず、頑なに俗説を言い立てる方が絶えないのです。

 くれぐれも、思いつきの先入観に囚われて、無理な深読みをしないことです。個人的な意見ですが、真相はいつも明快なものと思うのです。

以上

» 続きを読む

2024年2月10日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 1/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*はじめに
 最初にお断りしておきますが、当ブログ筆者、以下当方は、伊藤氏の当著作は、論理的で誠実なものと見ています。
 ただし、氏が重用する倭人伝「改ざん論」は、熱意の空転であり、云っていることは無意味(ナンセンス)と考えます。ここで無茶を言ったため。折角の好著がドブに落ちています。

*誠実な論考
 誠実は、まずは、論者としての誠実さであって、例えば、倭人伝を解くのに、まず、紹凞本(?)のテキストを元にPDF文書、当然、漢字縦書き、を作成し、その労作全体は巻末に収録しつつ、本書全体で、当該文書の一部を取り出して表示した上で論じていることです。

 当方も同様の試みに取り組んだことはありますが、何しろ、当方の主媒体であるブログは、縦書き表示が大変難しいのです。縦書き表示自体は、設定可能ですが、閲覧操作が、大変わかりにくくなるので断念しています。というものの、縦書き史料のPDF画面コピーを挟んで議論するのも、 一段と難しいので足が遠のいているのです。

 この点、伊藤氏に敬服するものです。

*とんだとばっちり~余談
 また、使用図版類の原典、出典を明らかにし、これを自身の責任で編集したことを都度書き添えていることは、当然ながら中々できないことです。

 ここで殊更言い立てるのは、当方の見るところ、古代史分野の他の著者には、現代の国土地理院地図データの個人的利用が許容されているのをよいことに、カシミールなどのアプリでデータを図示したと見られる地図を千年以上前の地図と見せる悪用例が、少なからず出回っているからです。
 一番甚だしいのは、一時、毎日新聞夕刊の「歴史の鍵穴」と称する謎解きコラムであり、毎日新聞社専門編集委員なる金看板の元に、例えば、奈良県の山中から愛媛県松山市の海岸まで山並と海を越えて、真一文字に直線の見通しが通っているような図を載せて、自説の裏付けとしていたものでした。権威のある肩書きの人物が、堂々と全国紙の紙面を飾っていたので、当ブログでは、毎回地図悪用を見る度に非難したのですが、どうも、ご当人は無視したようで、未だに、いらだちが燻ってるのです。もちろん、この架空地図捏造は、当該非専門家がゼロから創始したのではなく、新書歴史本などに源流があるのですが、見るからにインチキ本なので、批判はそれほどでもなかったのです。

 そのような地図データの「悪用」は、国土地理院、カシミールのサイトの利用条件に書かれていない筈の保証外の流用であり、よって「不法」(犯罪)なのです。誰にも、今日の地図データを、一千年前、二千年前に適用できないのも明白です。

 と言うような、ご自身には、何の責任もない地図データ悪用論のとばっちりは余計なお世話でしょうが、反面教師を出して、氏の論考を賞賛しているので了解いただきたい。

*「倭人伝」復権の時
 別に、氏の責任ではないのですが、「倭人伝」の位置付けを俗信に頼るのは感心しません。
 本書でもあるように、「倭人伝」は、魏志第三十巻の巻物から抜き書きした時代以来、独立史料として扱われていて、宋朝の叡知を反映した紹凞本は「倭人伝」と見出しを立て前段と分離しています。

 ぼちぼち「倭人条」などと格下げするのはやめるべき時が来ているように思います。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 2/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*壮大な抱負
 氏は、次の三原則を抱負として打ち出しています。
 倭人伝の『「邪馬台国」位置研究』へのアプローチ法として、次の三つを念頭に置いて「魏志倭人伝」の解読に臨みたい。
㈠ 基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読替えは行わない。
㈡ 推論の根拠はできる限り「魏志倭人伝」の記述の中に求める。
㈢ 考古学的成果を、予断を以て「魏志倭人伝」記述と関連づけることは避ける。

*発進脱輪
 但し、氏は、忽ち『「魏志倭人伝」後世改ざん説』を提唱し、先のアプローチとの齟齬への批判の言い訳に「自身に都合の良い読替え」を卒然と否定します。
 つまり、アプローチと現実は別のようです。
 一応三原則で始めても、一旦予断を形成したら、忽ち自己流「倭人伝」を構成するのは、首尾一貫していません。
 帯に言う『邪馬台国の位置は「魏志倭人伝」に正確に書き記されていた!』は、結局、我流、お手盛りの「倭人伝」談義であり、通りがかりの読者には虚言です。

 以上の点は、氏の基本的な執筆姿勢に反するものと考え、減点しています。

*残念な勘違い
 倭人伝旅程記事の「ごく一般的な現代語訳」は、責任者不明です。
 大は「邪馬台国」なる非倭人伝用語、小は諸処に軽率な誤訳、果ては、古代にない「ゼロ」整形多桁数字までてんこ盛りで、不適切な代物です
 現代語で示す概念は三世紀に存在しなかったので、現代語訳は意味がないのです。

*誤訳が呼んだ進路錯覚
 結局、訳者不明の現代語訳の勝手な解釈が、伊藤氏の方針選定を誤らせたと見えます。最終旅程南に水行十日、陸行一ヵ月で、女王の都である邪馬台国に至るは、ごく一般的な誤訳です。
 文章明快な現代語訳が読み解けないのは、誤訳の可能性が最も高いのです。 

 氏の漢文は「南至邪馬台国」ですが、現行刊本は「南至邪馬壹國」です。「倭人伝」に「邪馬台国」がないのは、初学者にも周知の事実です。

 ついでながら後ほど出る「原本(陳寿のオリジナル文)」なる意味不明の語句も困ったものです。陳寿は、三国志を盗用や複写でなく「オリジナル」な著作物として書いたのです。とは言え、倭人伝「陳寿原本」はとうに消滅していて、それが自然の摂理というものです。

*旅程の終わりの始まり
 できるだけ原文の語順を保てば南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月であると読みくだすことができます。(撤回済みの誤解です)
 ここで、出発点を伊都、不弥、投馬のいずれと解釈しても、取り敢えずは、作業仮説であり、到底断定できません。

 また、水行陸行日数「計四十日」が、どこから倭都への日数と解釈しても、それは、作業仮説であり、到底断定できません。

新たな読みの提案 2021/03/30
 因みに、2021年3月末現在の解釈では、
南して邪馬壹国に至る。女王のところである。
 都(すべて)水行十日、陸行一月である」
に落ち着いていますが、これは、まだ浸透していない読みなので、提言にとどめます。


                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 3/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/09
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*速断の咎め
 以上は、僅かな字数ですが、編者陳寿がどんな意味(深意)を込めたか、「二千年後生の無教養な東夷」が、勝手に決めるべきではないと考えます。

 自己流解釈で明快な「現地」像を描けないなら、まずは、その解釈を疑うべきでしょう。凡そ、いかなる分野でも、新説の九十九㌫はジャンク、錯覚です。
 最初の一歩の選択に無記名現代語訳を持ち出し、読者に対する説明無しに史料改竄しているのは、氏の原則に背いていて同意できません。

 まずは、いの一番に原文表示から「邪馬台国」を外し、ちゃんと読者に向かって理由付けした上で、自己流解釈と置き換えるべきではないでしょうか。

*選択肢の明記
 また、旅程解釈で強引な議論を展開する前に、課題の部分で、伊都国から倭へ「南」する読み方も、「水行陸行」を郡以南の総日数と見る読み方も、説明無しに排除するのでなく、しかるべく審議した上で却下理由を説明すべきと思います。

 不採用仮説は、別に否定も排除も必要なく、単に氏が採用しない仮説であることが示されていれば、読者に、氏の意図が適確に伝わるのです。

 以上、是非、ご一考いただきたいものです。

*不用意な比喩

 氏は、郡から倭までの行程記事に里数と日数が混在するという「予断」を採用したため、まことに不出来な比喩を上程しています。

 軽率な比喩で、東京大阪間の旅程で、名古屋まで里数表記、名古屋から日数表記と不統一では「違和感」を生じると強弁していますが、このような子供じみた感情論を持ち出すのは、氏が時代錯誤の旅程感に染まっているからです。

 万事如意の現代は忘れて、江戸時代の東海道道中を見れば、お江戸日本橋から名古屋まで、渡し舟などを「はした」として除けば「陸行」で里数がありますが、名古屋から桑名は渡し舟で里数は無意味です。以下、桑名から西して、京に至る旅程は里数が明記できます。南は、お伊勢さん、さらに、西には、やや南寄りなから大和路、難波路もあります。
このように放射的に書くのは、別に、桑名が国都だったからではありません。交通の要路、分岐点だったからです。

 このように、行程の実質が大きく異なれば、統一できないのは当然で、それを「違和感」なる生煮えの現代語で感覚的に拒否するのは現代人という名の二千年後世の無教養な東夷の我が儘というものです。

 三世紀旅程が、氏に「違和感」(水に油が浮いている様子か、それとも、筋肉に「しこり」を感じているのか)を生じる背景には、当時、最高の知性が、長期間呻吟の上で、そう書くのを最善と判断した事情があり、まずは、底の浅い現代視点を忘れて、同時代の深甚な視点の、論理的で慎重な考察が必要と考えます。

 但し、当方は、氏のお気に入りの「里数日数混在読み」を支持しているのではないのです。

*公正ならざる両説評価

 好ましくないことに、「連続説」「放射説」の比較評価が、本来、旅程出発点で評価すべき重大な話題なのに、なぜか後回しにされています。

 氏は、既に予断を固めていて、「放射説」起点を伊都とし、倭へ計四十日とした時、違和感、疑問など、解決できない「矛盾」が多いと感じたことを根拠に「連続説」を採用します。

 早計で、予め選択肢を狭めているのは、適切な手順では無いと考えます。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 4/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30 2024/02/10
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*「連続説」のつけ
 一応の根拠は示したものの、以下の進行で「連続説」に不合理な難点が多いのが露呈しているので、現代感覚頼りの決めつけは早計かと愚考します。

 氏は、以下、不弥ー投馬ー倭都間旅程の高度な解析にかかります。
 「連続説」では、肝心な二区間が壮大な日数表示の上に、長期の水行が含まれ、明快な解析ができないのですが、これは、「違和感」「疑問」などと、個人の感性に左右されるものではないからで、数式解法の不備などではないのです。

▢改ざん説長談義

 と言うことで、氏は、本来明快な筈の現代語文倭人伝の旅程記事を、「自己流解釈で解読できなかった」ため、記事が不明瞭な原因は、陳寿が書いた明快な記事が、現行記事にすり替えられたものと断じています。大変な転換点なので、少し手間をかけて審議します。

 氏は、倭までの最終旅程が水行陸行四十日だけで道里不明との理解(立証されていない仮説)に立ち、書かれていない水行、陸行の速度を捻出して、その計算に合う里数記事を「創造」したものです。氏は、ご自身の労作を本来の記事を復元した偉業と見ていますが、そのような記事は、痕跡すら残っていません。倭人伝「伊藤本」とでも称すべきであり、氏の創造物です。(現代の著作物なので、著作権が発生しています)

 要するに、氏は、氏の見た倭人伝里程記事の「解読困難」を「後世改ざん」の帰結と早合点し、「なかった原型の復原」という、史料に根拠がなく仮説になれない、解答とは一切言えないロマン、夢想に取り憑かれたと見えます。

 この行き方は、氏自身が冒頭で提示した原則に、真っ向から違反しています。

*「三国志」原本の旅程
 「三国志」は、陳寿没後程なく、いち早く晋の帝室書庫に収蔵されました。陳寿は上程用に脱稿していたので、未完成でなく決定版でした。
 そして、晋朝の権威の根拠として尊重され、後に「正史」として権威づけられ史記、漢書の二史に続く第三の史書として重視されたのです。要するに、歴代王朝の「国宝」として、厳重保管され、絶大な努力を傾注して、正々堂々と写本継承されたのです。決して、非合法な異端の書として闇の世界に息を潜めたのではないのです。

 晋を継いだ劉宋の裴松之が、皇帝指示により付注した際に、異本を校勘して帝室原本に付注して、体裁刷新した「決定版」としたこともあって、裴注版三国志は広く出回り、その後に改竄版を流布させるなど不可能です。

 以後、北宋に至る各王朝で連綿として「国宝」、つまり、帝室貴重書として厳格に原本管理され、北宋、南宋刊刻時の大規模校勘もあって、原本のすり替えなどできなかったと見ます。世上言われるように、「三国志」は、古来の「正史」の中で、異色と言えるほど、版による異同が少なく、安定しているのです。諸賢の中には、これでは、行程の筆を挟む余地がなくて、「実力を発揮する余地がない、まことにけしからん」とでも言うように、歎いている方が少なくないのです。

 北宋刊刻時、「三史」の掉尾として重要視された笵曄「後漢書」は、劉宋当時に編纂されたものの、編者范曄が謀反大罪で継嗣と共に処刑されて、南朝亡国後、唐代に正史とされるまで、闇世界で低迷したものと見えますから、種々あった後漢史書の中に在って、延々と不確実/不安定な地位にあったとも言えます。
 笵曄「後漢書」が見出された唐代以降三史の地位を得たものですから、陳寿「三国志」は「正史」として四位以降の「その他」に回されたものの、「三国志」自体の評価は依然として高かったのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 5/7 改

 扶桑社新書 219 2016年9月刊  2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12, 2021/04/12 2024/02/10
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の「魏志」は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて長く残ったでしょうが、貴族、富豪など蔵書家は、早い段階で、嵩張らない紙巻物に移行したものと思います。陳寿「三国志」六十五巻は、班固「漢書」に比べて、随分細身であり、紙巻物にすれば随分手軽であり、全巻揃えても書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎に抜き書きを持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。

*歴博綺譚~余談
 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所/由来不明の展示物があり、複製元がどんなものか、ぜひとも、お顔が見たいものです。
 おそらく、多額の複製費が国費援助で投入されたと思うので、公的研究機関の研究成果は、堂々と、納税者に対して内容展示いただきたいものです。複製品(レプリカ)は、本物と同一構成、同一技法で再現されているので、来場者が手で触れられるように配慮いただければ、笵曄「後漢書」に対する親近感が増そうというものです。

 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、東呉商人が、家宝の写しとして西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 「倭人伝」は二千字程度なので、「野良写本」では小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。
 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできないことはありません(「絶対不可能ではない」という意味であって、容易に実施可能という事ではありません)が、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えはできないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える、途方もなく高度なすり替えが必要です。
 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が削除追記するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず密告されるでしょう。荷担しなくても密告しなければ共犯で、共犯連坐を免れるには、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角の「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は、水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。そんな些末事に命をかけて、共犯者を含めて大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。

 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。

 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」と見えます。

 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。

 帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、「倭人伝」の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説撤回を最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 6/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊  2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12 2024/02/10
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*精密計算の時代錯誤
 伊藤氏も、多くの論者と同様、現代データの古代への適用で、途方もない錯覚に陥っています。それは、各種数値の有効数字に関する時代錯誤です。

 先に挙げた問題著者達は、不法使用地図データで、ある地点と別の地点を結ぶ直線(?!)が、途中の第三地点を㍍単位で通過すると主張します。しかし、太古には、メートル法SI単位系がなく、三角測量も不可能との認識が欠けている時代錯誤です。また、堂々と、見えない日没が超高精度で見える、地平の彼方が見えるなどとしている例まであります。錯視の極致です。

 氏は、そのような愚行に染まってないと見たのですが、百十四ページに、一尺は24.12㌢㍍との錯誤が書かれています。
 古代にそのような測定/制作精度はなく、ズバッと丸めて25㌢㍍程度(有効数字1.5桁)とすべきです。現物を手元で確認できるから、尺の精度は、1㌢㍍、5㌫程度は出せたでしょうが。(いや、二本の尺を並べて末端をすりあわせたら、㍉㍍単位で整合させられるでしょうが、ここで言っている「精度」は、そういう性質のものではないのです)

 一歩が六尺というなら百五十㌢㍍程度となります。「歩」は、土地測量、つまり、農地の検地に常用されるので、一部定寸の縄なり一部単位で目印の入った縄を使用していた可能性が高いのです。但し、全国各地で、土地台帳を記帳するには、精密な測量は不可能であり、また、無意味なので、大雑把な計測が出回っていたはずです。何しろ、新規造成で縄張りした農地は、幾何学的に「矩形」、「方形」に近いものでしょうが、現地でお目にかかるのは、不規則なものでしょうから、その土地区画を、四角形と見立てて、縦、横を測寸し、掛け合わせて、土地面積と見なすことにしたはずです。何しろ、全国に幾何学的測量を施し、精緻な計算をすることは、陳湯社が揃わないので不可能であり、そのように精測しても、所詮、収穫物の計量は大まかなので、土地土地の「歩」は、精密に統一されていたとは思えないのです。
 方や、「里」に基づいた「道里」の測量となると、450㍍にも及ぶ縄は常用できないし、45㍍の縄も大変な重荷になるので、縄張りで、数百里にわたって測量したものかどうかは不確かです。街道の場合は、精々、一里塚を着々と築いて、道中の宿場で里を刻みなおしたでしょうが、行程が、海上の場合は、道里の測りようがないので、所要日数の見地から、「道里」を見立てたのでしょう。誰も、書かれている道里を、検証できないのですから、海上の場合は、それで十分だったのです。
 何しろ、未開地では、千里どころか百里単位の「道里」も、測定しようがなかったのですから、全体の「道里」の精度に見合った推定で埋めたのでしょう。
 正史の「志」部に書かれている道里は、太古に一度設定されて以来、維持されていて、「尺」の変動に連動して修正したことはありません。「洛陽」-「長安」官の道里は、少なくとも、秦漢代を通じ提示されています。

 と言うことで、勝手な考証はこれぐらいにして、氏の論考の批判に戻ります。
 この部分の過度な桁数は、引用転記に過ぎないのでしょうが、安直な誤解を広げている点は好ましくないと考えます。

*多桁表示の弊害~余談
 氏は、ご多分に漏れず、漢数字に、時代錯誤のゼロ位取りの多桁表示を多用し、有効数字が多いように演出し誤解を誘います。
 郡から狗邪韓国までの七千余里を七〇〇〇余里と書くと、一里単位まで計り、下の位を丸めた0.02㌫程度のとてつもない高精度に通じます。当時の感覚で、里程は七「千里」であり、まずは、千里単位で、五百里程度の出入りを含みうる概数なのです。(いや、二千里単位で千里の出入りかも知れません)
 当時、全桁計算可能な算盤(そろばん)も、実務での多桁筆算もなく、一桁計算で、七に一を三つ足して十(千里)、一萬里、ここで桁違いの百の位は端数で無視できます。必要なら百の位を添えて二桁計算し、十の位以下を無視するのです。そのような概数での運用であれば、高度な計算技術も不要であり、日常雑務の計算に多大な人数を注ぎ込む事もないのです。

 伊藤氏は、一里は三〇〇歩として、多桁計算後、一里四三五㍍としますが、有効数字二桁(一桁半)と見て四百五十㍍とするのが時代相応です。高精度を要しない文献批判の際には、一里を四百五十㍍と決めておいて、一歩(ぶ)百五十㌢㍍、1.5㍍、一尺二十五㌢㍍とした方が、各種計算が、有効数字二桁の概算になり、筆算しても簡単になるので便利です。お勧めの設定です。(「歩」を、歩幅に由来するとするのは、多分勘違いでしょうが、紙数がないので、ここでは割愛します)

 ついでながら、一歩を三百分の一里と見る発想は、時代錯誤です。当時半分とか四半分はあっても、桁の多い分数は滅多にないので、一里の三百等分は不可能です。現代でも三百等分はなかなかできないのです。割り切った言い方をすると、世に言う「道里」の里は、尺度の延長線上にない、別次元の単位なのです。

 土地測量の単位として常用されていた「歩」は、度量衡、尺度の単位で原器も残っている物差しの「尺」の六倍であり、以下、畝などを経る倍数計算階梯を重ね、一里=三百歩に至るのであり、一気に三百倍されるとは限らないのです。まして、道里の里を得るのに、一尺の物差を千八百倍するなど、現在の技術を持ってしても実行不可能ですから、尺を持って里を測ることはできないのです。

*丸める話
 個人批判ではない一般論として、古代史の論考において、漢数字の多桁表示はもちろん、小数表示も多桁分数もやめてほしいものです。要は、当時の数値計算、表示の概念を遠く離れた表示は、好ましくないのです。
 そのような事情がわかっていて、一般読者向けに多桁表示するのは「読者を騙している」ことになるのです。

 素人目には、古代史学界の諸兄姉は、理数系教養の基礎の基礎を忘れて数字遊びに耽っているように見えますが、氏は、無縁でしょうか。

                                 未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 邪馬台国は熊本にあった! 7/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊   2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12 2024/02/10
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転/捻転散乱

*海上里程の錯覚
 同様に見ると、渡海行程で一千餘里を一〇〇〇余里と書くと里単位測量がされているとの「錯覚」を呼びますが、海上移動に「路」も「道里」もないので、測量不能な海上を、例えば、七百里強から千五百里弱の範囲内と「見なした」大まかな数値と見るべきです。
 ただし、この道里は、実測と無関係の日程面からの概算であり、一日三百里の勘定で前後の余裕も見て所要三日を三回、全体で一日余裕で、切りの良い十日との勘定合わせしたものと見られます。
 そうであれば、測量の結果ではないので、概算千里が合理的なのです。これは、現代人に喪われた、本当の意味で、数字に強い書き方です。

▢水行談義
 水行談義で、氏は、時代無視の安易な「俗説」に、どっぷりと毒されていると見受けます。
 但し、氏は、子供ではないので、自分で書いたことに責任があると言えます。

 里程記事の冒頭で、「従郡至倭」で「海を渡るのを水行と言う」と宣言された「倭人伝」は例外として、魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行であり、さらに言うと、大陸の「道里」で「渡河」は、「陸行」の一部であり、表記されず、「水行」とは別です。いや、そもそも、街道を行くのが正規の行程である以上、「水行」道里は、本来「無法」なのです。
 して見ると、氏の著作で、半島西南岸の海上「水行」図で、島々を踏みにじる不可能な経路を表示しているのは、氏としては、航行不能な経路と示したとも見えます。

 なお、畿内説に必須の瀬戸内や日本海の「航路」は、(あったとすれば。以下略)毎日寄港し、また、食糧、水、薪炭の積み込み、潮待ち、風待ち、雲行き待ちがあるので、必ず翌日出港とは行かないのです。つまり、港港で船を代え、漕ぎ人を代え、天候好転を待ち、潮待ちして、四十日に到底収まらない日数をかけて旅するのです。日数が数えられないから、正規の行程となりようがないのです。
 並行して陸上経路があれば「道里」測量できても、それは海上移動と異なりますが、陸上経路があれば、危険でお天気まかせの海上行程を行く理由がないのです。中原であれば、陸上の街道は、歩行することもあれば、ゆるゆると騎馬で行くこともあり、さらには、駿馬で疾駆する「急行」もありますが、海上移動となると、船上で駆け足しても移動速度は変わらないので、「急行」はないので、文書使の漕行や派遣軍の移動には、全く不向きです。

 こうした海の行程(あったと仮定すれば)と対比される対馬、壱岐伝いの三度の渡海は、岩礁、浅瀬もなく、日頃の交易便船と同様に、見通せる対岸に渡っては、必要に応じて漕ぎ手一同を替え、ときには、急流に適した便船に乗り換えるのであり、予備日を考慮すると、ある程度決まった日数で、ほぼ確実な運行が可能です。

 氏が、千差万別の実態を考慮せずに、一律、「水行一日二百里」と見るのは、氏にしては、不用意で不可解です。

*空想競争~余談
 またもや、一般論、俗説批判になりましたが、「畿内説」論者は、当時、長距離の便船、航路が君臨したと見るようですが、それなら、筑紫から中部大和、中和に至る魏使の四十日に渡る(と読み替えざるを得ないのであり、当論者の指示する論法ではない)最終旅程は、冒頭の諸国記に劣らぬ痛快な記事となるはずですから、割愛された理由が理解できません。(要するに、当方と「読み」違いですが)

 極端な「海路」論者は、景初遣使は、現在の大阪湾岸から万里波濤を越えて渤海湾岸の天津(「天津」は、元代の産物で、当時存在しない)に漕ぎ渡り、河水,洛水遡流で洛陽に漕ぎ至ったと「おおぼら」を吹くのですが、それは、無理に無茶を重ねた途方もない時代錯誤です。そして、そのような無理難題の辻褄を合わせるために原本を改竄/解読するのは、無茶の三乗です。
 三世紀に、そのような強カな漕ぎ手を擁する漕ぎ船が便船として常用できていたら、船主は「天下」を取ったでしよう。何しろ、そのような漕ぎ船は、半島を沿岸廻遊せず、直接山東要地の東莱に乗り込め、時では、狗邪韓国/一支国寄港なしで、倭の港に直行渡海できます。人間業ではないのです。

 いやはや、できもしないことを積み重ねて、画期的な新説と述べる著者がいて、氏も、悪影響を受けていると困るので、長々と講釈を垂れたわけです。

*妄言多謝
 いや、最後まで、しばしば、氏の論議批判にこと寄せて、世にはびこる俗説を論断しましたが、旁々、ご容赦いただきたいのです。
 氏の作業仮説群の由来がわからないので、俗説から想定される根強い妄説を批判しただけです。

                                完

2024年2月 9日 (金)

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 1/8

 「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 「邪馬台国と日本書紀の界隈」M・ITO (伊藤 雅文)
          2020/04/16 追記 2021/12/25 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。
 
〇はじめに
 氏のブログ、著書について、既に当ブログで批判を公開していますが、単純な蒸し返しではありません。今回は、氏の最新記事への異論です。氏が論拠を明示しているので、本来、個人名義のブログ記事への批判は避けたいのですが、折角ですから以下の見解をまとめたのです。

1 道里論
 第一の「道里」の語義解釈には、大いに異議があります。と言うか、個人的な意見の相違などではなく、素人目にも、まるっきり間違えていると思います。

 まずは、「道里」は、二字単語として、「道のり」、「道程」の意味であることが「衆知」です。(氏がたまたま知らなくても「衆知」論に影響はありません) そして、敢えてその「普通」の解釈を覆す意義が理解できません。陳寿は、古典書に始まる「普通」の辞書をタント具備していて、それは、当時の知識人に共通の教養ですから、陳寿の辞書にない「新語」を、ことわりなしに公式史書に書き込むことはないのです。

 「中国哲学書電子化計劃」により「先秦両漢」で「道里」を検索すると48用例、単語として49個の先例があり、大概は、「道里遠近」に類する文脈を形成しています。よって、「道里」は、現代語で「距離」、「みちのり」に相当する概念と見るのが、古典書籍、特に史書の文章解釈の「常道」でしょう。

 「道」と「里」は、太古以来独立した単語ですが、「道」と「里」を連ねた場合は二字単語となって、「里」の語義の中でも、「道」の「里」を表す言葉と考えるのが順当です。(本項の末尾で辞典を参照します)

 このように衆知極まる言葉に、二千年後世の無教養な東夷が、別義を託した意図が理解できないのです。
 このような唐突な新定義は、普通の定義を打ち消すことはなく、「無教養な誤用」と棄却されるので、史官の職にあり古典的な用語に縛られている陳寿が、三国志に採用したと見えないのです。衆知の用語に新たな意義をあてる必要があったら、陳寿は、堂々と例外用法を明言したはずです。

 案ずるに、「道里」は、あくまで「里」ですが、「里」は、古来数十家規模の集落であり、土地制度では一里角の面積、「方里」なので、面積の「里」でないことを明示して誤解を避けるために、敢えて、「道の里」としての「里」を明記したかも知れません。無知、無教養の徒である小生には、それ以上明言できません。

 因みに、「歩」(ぶ)も、「距離単位」であると同時に面積単位でもあり、「九章算術」計算例題集では、面積の「歩」を「積歩」として混同を避けていますが、大抵の場合、文脈で区別できるので単に「里」、「歩」と書いたようです。といっても、これは、そのような基礎教養が引き継がれていた時代であり、戦乱などで継承の鎖が壊れたときは、字面に囚われた「名解釈」がはびこるのです。

 本題に還ると、漢字辞典として有力な白川静氏「字通」、藤堂明保氏「漢字源」共に、「道里」は、「道のり、距離」との語義を掲載していて、氏の新説は、根拠の無い思いつきの類いとして、ほぼ棄却できます。顔を洗って出直しておいでという事です。

 それにしても、本項の強引とも見える書きぶりは、後出「周旋」の周到な論証に似合わない不首尾なものと見て取れるのです。何か、急かれる思いがあったのでしょうか。気が急いて仕方ないときは、お手洗いに立って身軽になって、顔を洗うものです。

2 東治論
 本件、当ブログで、議論を重ねましたが、依然として、正論が俗説の渦に埋もれているので、再説をかねて、氏の議論の紹介方々異論を述べます。と言っても、氏に、大略同感です。 
 氏は、「東治」が、禹后による「治」の場所と解されましたが、禹が会稽で「統治」した記録はありません。ここに王宮「治」を移したとの記録もありません。単に、諸侯を集めて功績評価、「会稽」したというだけです。

 「水経注」の郡名由来記事に、会稽郡の由来として、秦始皇帝の重臣李斯が「禹后が東治之山(会稽山)で会稽した」ので、当該地域を会稽郡と命名したとされています。他の郡名と異筋ですが、教養人に衆知だったようです。
 史実かどうかは別として、その由来が、後世まで継承され、陳寿の西晋代にも、東治由来談が伝わっていたのでしょう。

*「東冶」批判 2022/12/20
 氏の意見に逆らうと見られると困るのですが、この際、議論を突き詰めることにしました。 
 西晋亡国の空前の混乱で、多くの伝承や記録が失われましたが、「後漢書」編者笵曄は、会稽付近に生まれたとはいえ、却って、古典教養を要する「会稽郡」由来談を知らなかった可能性があります。陳寿と范曄の間には、一つには、西晋崩壊時の洛陽文化圏の崩壊があり、かつ、笵曄は、史官としての職業的訓練を受けていない文筆家、趣味の人なので、それぞれの世界観には、大きな相違点があるのです。或いは、建康に親しんでいた笵曄周辺の在野の同時代知識人が、古典教養に欠けていたため、これに調子を合わせたのかも知れません。面倒だから断定しても、実際は、断定できないことは、素人なりに承知しています。

 同時代に、三国志の写本を比較校訂し、補注を加えた劉宋史官裴松之は、二千年後世の東夷があれこれヤジを飛ばしている「会稽東治」に、なんら注釈を加えていないのですから、以上の古典教養に照らして何ら不審の念を抱かなかったという事でしょう。いや、異論派の好む論理によると、当時、「東冶」と全ての写本に書かれていたと言うつもりなのでしょうが、それなら、以下述べるような「東冶」地名に対する疑念を述べていたものと見るのです。裴松之は、思いつきで所見を左右されるような「小人」(しょうじん)ではなかったのです。

*「宋書」州郡志考 2022/12/21
 劉宋当時、「東冶」は、会稽南方で、むしろ統治範囲の中央に近く周知であった著名な地であり、劉宋の正史「宋書」の州郡志には、武帝代に会稽郡南部に創設された「冶県」が、東呉の時代に分郡した建安郡に属していたと記されています。会稽を中心とする「楊州」の南に位置した「江州」は、京都(けいと)建康との間の「道里」が、「去京都水三千四十,並無陸」と記録されているように、山塊に遮られて陸上街道が通じていなくて、水上道里だけ記されているような「異界」だったのです。

 とは言え、劉宋代に到って、長年の記録不備が解消して、「志」に収録されたのであり、遡った魏代には、建安郡は東呉領域であったことから、洛陽に何の報告もなく、西晋代になって東呉の降伏時に献上された「呉書」で、辛うじて欠落が補填されたものの、それは、曹魏の文書に記録されていないので、魏志」として死角地域ですから、遡った魏代を記録した魏志「倭人伝」で、管轄外の「東冶」を参照するのが、全く、もっての外だったと知れるのです。要するに、魏志「倭人伝」に「東冶」は「なかった」のです。

 因みに、帯方郡は、劉宋代以前に滅亡していたので、宋書に倭への道里を書いた東夷伝は存在しません。帯方郡旧地に行こうにも、東晋末期から劉宋にかけて、新興北魏の侵攻で山東半島の支配が喪われ、南朝は淮水まで後退していたのです。
 このため、古来、遣唐使/遣隋使は、新羅道として、「渡船乗り継ぎで新羅領地に渡り、半島内を陸行して、こうかいえんがんのかいしんにでて、そこから、渡船で山東半島にわたり、以下、陸路で、あるいは、沿岸航路の帆船で建康に至る、確実で安全な行程が遮断され、滅多に利用できない東シナ海越えの航路になり、当初は、建康に至る行程として、新興百済の便船に、それこそ便乗したと見えます。もちろん、こうした行程は、公式のものではないので、道里行程は書かれていませんが、それを、晋書、宋書の粗略として非難した論考は、見たことがありません。或いは、遣使の報告も残っていませんから、どっちもどっちという事なのでしょうか。

 と言うことで、本筋の議論に返ると、「東冶」は伝統されていた古典教養になく、魏の時代に東呉領域で皇帝の威光の及ばない南方の辺境であったので、「魏志」に記事がなく、その巻末で、突然、不意打ちで参照するのは、問題外の無礼であったはずです。(読書人が「呉志」を購読するのは、「魏志」講読の後日なので、その時点で、「呉志」の内容はまだ知れていないのですから、参照しようがなかったのです)

 と言うことで、先に述べた内容を念押しすると、劉宋の史官裴松之が、「倭人伝」で「東冶」を目にしていたら、根拠の無い不届きなものとして、注釈を加えて然るべきです。その意味でも、裴松之の校訂した倭人伝に、場違いな「会稽東冶」は書かれていなかったものと確認できます。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 2/8

「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 M・ITO (伊藤 雅文)
         2020/04/16 追記2020/04/19 追記 2021/12/25 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

3「周旋」論
 氏の解説は、常道に従った古典書用例参照が雑駁と見えても、全体として、まことに堅実です。
 国内史書が起点の先賢諸兄姉は、大勢として、教養十分な東夷の先入観で「周旋」を誤解しましたが、漢字辞典を参照すれば、「周旋」の「周」は、「ぐるっと周回」だけでなく、「周(あまね)く」の意味、「旋」も「ぐるっと回転」だけでなく、「経路の終端から戻る」との意味があると知ったはずです。(白川静/藤堂明保両師の辞典による)
 史書として余り参照されていないようですが、東晋代に編纂された袁宏「後漢紀」の献帝建安年間の記事(孔融小伝)でも、「周旋」は「二者の間を往来する」意味で使われています。市井の会話に近い用語例なので古典用語でなく日常のものかも知れませんが、公式史書に準ずる「後漢紀」で採用されているので、「普通」の用語と見えます。

 文頭の「參問」倭地は、狗邪~倭「歴訪」「周旋」は、終点終端まで進む「巡訪」重複気味ながら、文脈により陳寿の真意に辿り着いたはずです。
 因みに、成語「周旋」は、対立当事者、大抵は二者の間を往来して斡旋するのであり、あたりをぐるぐる巡るのではないのです。

*測量不能な図形
 俗解した「領域周回」が、不正解と見えるのは、千里はあろうという領域外周の野山や河川、海浜、島嶼を「測量して巡る」のは、途方もなく不可能であり、その経路長を測量無しに推定するのも、同様に不可能です。まして、狗邪~末羅の渡海/水行行程は、海峡越えであることから、測量は、重ね重ね不可能です。そのような無法な概念を強引に導入しないと成立し得ない仮説は、即刻、ゴミ箱入りすべきです。

 有力算書「九章算術」の「方田」例題には、円形の土地の外周計算方法が書かれていますが、当然、「その土地がほぼ円形であり、その土地の径(直径)が知られている場合だけ実行可能」です。つまり、領域が円形と見ることができるのであれば、外周を実測しなくても、直径の測量で、全周長を正確に推定できるわけです。要は、円形領域の外周周回長は直径の三倍強、という幾何学原理の利用に過ぎません。その程度の概数計算は、今さら教わらなくても、二千年以上前から知れていたのです。

 懸案に戻ると、異郷の異国」の領域外形は知るすべがないし、海上洲島領域の南北は、道里行程記事から推定できても、東西はどうにも測りようがなく、結局、元に戻って、国間道里、つまり、王の居処の間の道のり、つまり、「両国国主間の文書伝送に要する期間」しかわからないのです。

 この点は、列挙されている各国の「東西南北の境界が書かれていない」のでも明らかです。現代人は、手元の地図に、各国をばらまいて、広がりを夢想していますが、「倭人伝」の視点では、末羅国以南の「洲島」の広がりは知るすべがなく、伊都国以南が、また一つの大海中の渡海なのか、陸続きなのかも、その時点では、不明だったのです。不明なものを明快に記録できるわけが無いのです。

 いや、近来、何も示されていない諸国の位置関係を想定して、所在地が全く不明の諸国の環状配列を夢想している向きがあるようですが、不明だから書いていない諸国配置を、後世人の夢想で書き上げるのは「無法」と言えるものです。この例に限らず、現代人は、精巧な地図を参照して、思うままにパズルを解いていますが、三世紀当時、中国側には、地図も何も知られていなかったのですから、「倭人伝」なる「問題」には、何も書かれていないのです。困ったものです。いくら陳寿でも、全く不明の事項をもっともらしく書き上げることは、史官の権威(首)にかけて拒否するものであり、二千年後生の無教養な東夷が、軽々しくそれを云々するのは、誠に不当です。

 因みに、「九章算術」は、史官を含め、教養人の必須課題であり、陳寿も、当然、こうした原理は知悉していたのです。仮に陳寿が算数に弱くても、「九章算術」 程度の初級の算数は、こなしていたはずです。いや、陳寿は、書斎に一人籠もっていたわけでなく、助手や書記役はいたので、わかるものに質問すれば良かったのです。

*「周旋」の意義
 「周旋」は、狗邪~倭直行道里のみが妥当であり、氏が「現代仕様で変態した地図上に図示した円弧」は、時代錯誤の虚構です。誠に困った風潮です。
 倭人伝に明記されている「郡~倭都全道里が東南方向に万二千里、郡~狗邪部分道里が同じく東南方向 に七千里」は、主張として明解ですが、狗邪~倭経路は、油断して流し読みすると「伊都に続く傍路と輻輳して見える」ので、この記事、この間の倭地道里を、ことさら「五千里」と明記したのですが、進行方向は、概して同じく一路東南方向です。行程道里は、最短、最速が大原則なので、道草は、御法度です。ここでは、「傍里」は別勘定と明記しているのです。
 どうしても図示したいのなら、読者に誤解を与えないように配慮して、「円弧」範囲を、適正な範囲に絞るべきでしょう。
 陳寿の出題の心理を思うと、単純に道里を書き足すと、「わかりきったことを書くとは見くびられたものだ」との「読者」のお怒りが怖いので、少し表現を捻ったのでしょう。と言っても、捻りすぎて、つまらないところで躓かせると、また、読者のご不興を買うので、さじ加減したものと見えます。

〇道里論の失着
 こうしてみると第一項「道里」の見当違いの解釈は、先入観に災いされたのか、説得力を自失していて、まことにもったいないのです。

用語の錯誤
 見当違いと言えば、見出しで、古代史論を期待している読者を惑わす「場違い」なカタカナ語「ワード」です。
 高名なマイクロソフト「ワード」のことではないでしょうし、かといって、次に想起されるコンピューターデータの単位でもないでしょう。いずれにしろ、古代世界に「カタカナ語」はありません。時代錯誤は戒めるべきでしょう。
 多分、氏の身辺の居酒屋仲間には大受けしているのでしょうが、伊藤氏が、史学界で悪名を博さず、正当な論者として認められるためには、「出世の妨げ」でしかないのです。
 このように、唐突に、生かじりの「異世界新語」を持ち込まれても、善良な読者には不可解至極で、意味が定まらないのです。これでは、いきなり、無用の反発を買うだけです。曰わく、まともな日本語文が書けないのに、生かじりのカタカナ語を持ってくるな」というものです。これは、氏の仲間で受けるかどうかは、全く別次元のものですから、是非、ご自愛頂きたいものです。
 何度でも言いますが、このような飛び入り言葉を、用語考証という厳密な場に持ち出すのは、まことにもったいないのです。普通は、直後に定義を付して不可解の誹りを免れるのですが、それにしても、当記事の中で、学術的に意義のある場合だけの言い逃れです。

 因みに、CPU命令のWordはCPUビット数なので今日の64 Bit CPUで1ワードは64ビットです。いや、益体もない余談です。

*カタカナ語排斥論再燃
 古代史用語が不可解なのは読者、自分自身の不勉強故と我慢できても、現代人が現代人に対して不可解な用語を振り回すのは不可解そのものです。先賢がおっしゃるように、古代史に関する論議で、古代人が理解しようのない概念や言葉は、何としても避けるべき」と信じる次第です。

【追記開始】(2020/04/19, 12/25)
 新書二冊の職業筆者に相応しい「キーワード」(カタカナ言葉の先住民で、一応気に留めてもらえるかも知れないもの)と見出しを付け直したら、「粗雑」と見くびられることはありません。「粗雑」は、決して、手造りの無骨さを褒める高度な言葉ではありません。要するに、「無教養」と侮られるているというだけです。念のため。
 「ワード」は、単なる「はやり」言葉で、「何年生き続けるか不明」なので、本題のような長期戦には全く不向きなのです。
【追記終了】
                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 3/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
         2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇コメント~三部作の口切り
 タイトルで予定されるのは「放射説」考察ですが、実は、主として名を挙げられている榎氏提言に対する伊藤氏の「グチ」です。「放射説」と無造作に括っていますが「伊都放射説」でしょう。因みに、「なかった」古田武彦氏は、第一書で「不弥放射説」でした。「考える」際に榎説の「引用」、ないしは文献参照はなく、個人的解釈を掲げる「独り相撲」が、氏のほぼ一貫した芸風なのです。

〇倭人伝基準論~私見の展開
 文献史料「倭人伝」は、三世紀、権威ある史官が公文書を基に編纂し、当時の権威の承認のもとに魏志に収録されたから、史書として何の問題(難点の意味)もなかったと見ものではないでしょうか。以下、その視点で述べますが、私見は私見なりの根拠があると理解の上でご批判いただきたいものです。

〇放射説の由来
 「伊都放射説」の道里は、後に補充された榎氏の論述によれば、伊都国が、現代風に言うと、政治、経済(商業、貿易)交通の要であったことに由来していて、「倭人伝」にも、倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査されるとあり、まことに妥当と思われます。つまり、国王居処と別に国の中心地があったとも解釈できます。ここで、口に出たがる「首都」は、魏文帝が、漢代以来、仮住まいを含めて、皇帝居処が数カ所に渡ったので、魏は、洛陽を「首都」とすると宣言したことに由来しているのであり、少々、時代錯誤なので自粛しました。特に、当時、蕃王の治所、王城を「都」と書くことは(絶対に)なかったのです。何気なく書いていますが、よくよく考えて頂きたいものです。

 「倭人伝」道里記事は、倭人が最初に「郡」に参上して、国名、国王などを申告した際に、一度に申告したものでないのは明らかでしょう。何しろ、「女王」が書かれているので、すくなくとも、曹魏代に、女王が共立されて以降の記事になりますが、初見の時は、伊都國が「倭」だったことから、「倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査される」と書かれているかも知れないのです。それが、「倭人伝」の起源だったのです。

 因みに、過去先賢が議論したように、例えば、班固「漢書」「西域伝」は、夷蛮の国への道里として、帝都(長安)、ないしは、最寄りの「幕府」(西域都護)から蛮王居処への官道道里を示します。
 これは、漢からの文書通達と回答が届く日数を知るものであり、次いで、兵の動員時の所要日数を知るものですが、後者は、道中の食料、水の補給も関係し、あくまで参考ですが、西域都護の「幕府」を道里の拠点とする意義は大きいのですから、道里の出発点を「郡」とするのは、決して、不当では無いのです。

 古来、皇帝は、蕃夷の末梢まですべて外臣とするものではなく、各方面の対外拠点が適確と認めたものだけを相手にしていたのですから、すべての道里を、管理部門である「鴻廬」の台帳に登録するものではないのです。何しろ「外臣」と認めたら、その王治の遠さに応じて何年かに一度の来貢を予定して、応対の費用を予定し、土産物を用意し、「来訪者には、上下の人員に数々の印綬を制作して与えなければならない」ので、「外臣」は、少ないに越したことはないのです。

 大きい「国」では、王の居処から、国内主要国への方位、道里を示して、王の権威の及ぶ範囲を示しています。国によって、領域概要が述べられますが、国力は戸数で明示されるので、領域の広がりを示す「方里」はあくまで子供だましの「イメージ」(あやかし)に過ぎません。何しろ、収穫高や兵数把握は極めて重要ですが、夷蛮の国の荒れ地の広がりは、知ってもしょうがないので、測量も表示もしないのです。

*「方里」~幻想の正体

 ということで、「方里」は、領域面積を示すものではないのです。
 簡単な解釈は、農地の面積を土地台帳から集計し、平方里単位で表示したものです。これなら、厄介な山野測量など不要で、帳簿の集計計算でよいのです。しかも、概数計算ですから、一桁漢数字の加算であり、桁上がりだけ気にしていれば良いので、下級の計算役でよいのです。特に、蛮夷には、計算役が少ないので、無理はさせられないのです。

 要するに、「方里」は、対象地域内の耕作地、農地の面積を、例えば、一里四方の方形単位で数えたものであり、現代風に言えば、平方里に相当します。但し、耕作地の面積は、個別の農地の登録面積、つまり、管理台帳に書き込まれた歩数や畝を机上で合計し、平方里に換算したものです。それぞれ、耕作者の「戸」が固定しているので、「戸数」と相関関係があるのですが、一戸あたりの農地割り当ては、地域により、作付け穀物によって異なるので、あくまで地域の「国力」の目安なのです。
 現代風に言う地図上の「領域面積」は、何千年と思われる歴史を閲して、農地開発が進んだ中原諸国ならともかく、未開の山野が続く東夷では、ごく一部が耕作されるに過ぎないので、「国力」の目安にはなりませんから、わざわざ測量することもなければ、表明することもないのです。

 もし、「方里」が、公式の面積単位として運用されていたのなら、史書に満載のはずですが、実際は、確実な記事としては、このように東夷伝に数例あるのに過ぎないのです。恐らく、遼東郡太守公孫氏が、管内の各国の国力把握のために、特に施行し、皇帝にあてて報告していた「報告書」の名残と見えるのです。

 とは言え、陳寿が採用した以上は、手元に未開の荒れ地を含んだ高句麗、韓国などの国力表示に「方里」を記載した資料が齎されていたのであり、同じ「方里」が、対海国、一大国に限ってとはいえ、倭人に関する資料として記録されている以上、魏志「東夷伝」としては、忠実に掲載しなければならないと感じたはずです。

 思うに、陳寿が「倭人伝」編纂した際には、そのような背景を証する雑資料が少なからず手に入っていたでしょうが、正史は、そのような資料は割愛したものと見えるのです。東夷伝に散在する「方里」の意味は、そのような背景を推定すれば、筋が通るように見えるのです。

〇王の居処と伊都国~スープの冷めない近しさか
 当ブログ筆者は、伊都放射説に無批判に追従する者ではなく、伊都以降は、王の居処に直行したとの説です。つまり、奴、不弥、投馬の行程道里は、最終目的地である「倭」への行程の一部ではなく、事のついでに、つまり、後年になって貼り付けられた参考行程、「余傍」と見ています。よく聞き分けていただければ幸いです。

 ここで大事なのは、要点である伊都国と「倭」、つまり王の居処の間が、里程を書くほどもない短距離と「明記」している点にあります。何しろ、倭人伝の主要行程道里は、千里単位で書かれていますから、百里単位の道里は、末羅~伊都間の繋ぎの部分を除けば脇道で全体道里に関係しないのです。下手に明記すると読者の勘違いを誘うので、避けるのです。

 もう一つの目安は、行程の様子や「至る/到る」国の様子が書かれているかどうかです。「投馬国」は、自称大体五万戸程度の「大国」ですが、行程の内容は書かれていないし、同国の様子は、何も書かれていません。
 また、伊都国に到る行程と伊都国の様子は書かれていても、そこから先の「至る」諸国は、ここには書かれていないのです。

〇概数道里の道理~夷蕃伝の要件
 古田武彦氏は、「概数計算」を失念していたためでしょうが、百里単位の整合にとらわれて、対海国、一大国行程に、島巡りの辻褄合わせを述べ、最終行程は「零里」としました。「倭人伝」は、あえて端(はした)の道里を省いたと思われます。

 「国邑」の本質から、各国の本拠は、領域の一部に過ぎず、伊都国の王処と女王国の王処が共通でない限り、行程道里はゼロではないので、それは、書かずに済ませる理由にはならないのです。古田氏が、結論を焦って、場当たりな論理に陥っている一例です。

 概数計算では、端(はした)を入れて計算すると、大抵の場合帳尻が合わないのです。それは、正確、不正確の問題ではなく、概数計算の持つ宿命なのです。また、末羅~伊都間も百里単位ですが、史官は、現地地理に関心はなく、所詮「余」付千里概数の大局道里と整合しないので、参考として書いてあるに過ぎないのです。

*「従郡至倭」の由来と結末
 倭人伝の「郡から到る」里数は、まだ、倭人の成り行きがわからないうちに、帝都から、最も遠い辺境の地という主旨で書かれたものであり、その時点で、実際の道里など知るはずもなく、まして、精緻に書こうとしたわけでないと思われます。その万二千里で、もっと大事、つまり肝心なのは、郡から到る所要日数と想定すると、伊都国からの道里も方角も、大局に関係しない現地事情に過ぎず「倭人伝」では、細瑾として省いたのでしょう。それぞれの行程は、街道として整備されていたので、「道なり」に進めば目的地に着くのです。また、普段街道を往来している者達は、別に、地図も、道案内も必要としないのです。

*「倭人伝」の必須要件
 つまり、「倭」の王治、王の居処は「帯方郡の東南方」にあり、行程道里は「万二千里」、所要日数は、「水行十日、陸行三十日の計四十日」で、戸数は「七万戸」、諸国は三十国あるので、城数は「三十城」が、必須要目であり、以上で、夷蕃伝の要件を満たしていたのです。
 ここにある「城数」は、倭の国内に、「国邑」と呼べる「城」つまり、石垣土壁を完備した隔壁集落が、それだけ存在したと言う「宣言」であり、それぞれ、木なのか土なのか石なのかは別として、国主の住まいは、精々千戸台の集落であって、周囲の住民の住まいや農地から隔離されていたという意味です。
 と言っても、郡が最初に挙げた「倭人伝」は、「倭の國邑は、大海の州島(中之島)だったので隔壁を欠いている」と明記しているのであり、以降、明言は避けているのですが、特記されてないので、末羅国はもとより、伊都国も、女王国も、隔壁を欠いていた可能性があります。何しろ、蕃王の国王居所が隔壁を欠いていると皇帝に報告されると、何が起こるかわからないので、明言を避けたのかもしれません。
 現地の実情はどうであれ、中原の「国」は、隔壁集落必須だったので、それに合わせて書かれたのです。

*所在地論の要点/終点
 後は、倭人」の女王居所の「国名」が「邪馬壹国」でも「邪馬臺国」でも良く、所在が、筑紫でも纏向でも、帯方郡と四十日で連絡できれば良かったのですが、その要件を復習すると「邪馬壹国」 は、倭人の首長の住まう集落であり、九州北部から海峡を越えて半島に至る交易経路の南にあって、交易を統御していたから、丁寧に考えると、所在地は限られているのです。
 後は、時代時代の形勢で、あちこち移動したかも知れないと言うだけですが、魏志「倭人伝」には、卑弥呼時代が語られているだけであり、記録年代としては先立つ、范曄「後漢書」倭条の書いている後漢桓帝、霊帝、そして献帝時代のことは、後漢公文書記録が一切なく、魏代に帯方郡から、後漢末以来の東夷管理の記録文書が届いたにしても、魏の公文書として整理されないままであったため、魚豢「魏略」に収録されたというものの、范曄自身すら当否のわからないまま、後漢代にこじつけられる「風聞」を書き残したと見えるのです。

*笵曄の慷慨~最後の名誉「史官」
 この当たり、閑職に追いやられて、「冷や飯」を食わされていた笵曄の慷慨は、知る由もないのですが、皇帝に対する大逆罪に連座して、文字通り、「首を切られる」ことを、笵曄は、受容しているのですから、気骨の人であったと言えるのです。笵曄は、当ブログでは、滅多に褒められませんが、司馬遷、班固、陳寿と連なる非命に沈んだ史官の気骨に連なる最後の「史官」と言えます。何しろ、史官が身命を賭して編纂する「正史」は、南朝滅亡とともに亡んだのです。

 と言う事で、倭人伝」は 「伝」の体裁を完備した、一級史料なのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 4/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
         2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇根拠不明の直線行程説~余談
 氏の俗耳を染めている根拠不明の直線行程説によれば、文書等は、一旦伊都国で止められた後、期間を置いて王の居処に送られたことになっています。ただし、郡と文書通信していても、国内に広域文書通信は存在しないのです。つまり、三世紀時点、公的文書がないから、広域国家は無意味な推定になっています。辛うじて、王の意志を伝えていたのは、行程上の各国に赴任していた「一大率」と思われます。対海国から伊都国にいたる行程は、文書と通信の体制を備えていますから、これ素人の法螺話ではないのです。

 以上の考証の否定には、当時の遠隔文書通信遺物が不可欠です。

〇「古代国家」と言う画餅~余談
 俗に伝えられる三世紀広域「古代国家」説は、文書通信、輸送、交通という基盤を欠き、「画餅」の誹りを免れません。
 つまり、直線行程説は、三世紀「古代国家」説の付属品、巨大な画餅で、世人の好む大変壮大な図式ですが、この「イメージ」(幻夢)は、誰にも食べられないのです。

 以上は、漢書以来の西域諸国列傳を参考にした意見であり、単なる個人的感想ではありません。また、氏のように三世紀史官の「作文」技法について講釈する趣味もありません。何しろ、氏の語彙は「違和感」、「イメージ」など、現代の流行語を無造作に採り入れているように、「史学の常道を外れている」(「邪道」とか「外道」とか罵声を浴びせられる)ので、広く論じようがないのです。

〇「個人的感想」の怪
 氏は、ここまでは「個人的な感想」であったと仕切りますが、どこからここまで個人的感想なのか、始点が不明です。というものの、個人ブログの記事は、何も書かなければ、口調に関係無く私見、持論なのは、ほぼ自明です。
 と言っておいて、続く論議は同様に古代史学に通じていない現代人の「個人的感想」です。ついでながら、そちこちで、出所不明、検証不明の世評を無批判で受け入れる意義が不明です。まあ、当人が、路傍の落とし物を拾い食いして平気なら、それまでですが。

 因みに、氏の関知しない古田氏は、ここまでに書いたように、女王居処」(俗に、誤って「王都」という)は、伊都国から至近で道里略との見方で、ただし、古田氏は、魏使は女王と会見したとみています。伊藤氏の個人的意見「当然」は、同時代の当然かどうか疑問ですから、書くだけ字数の無駄です。主張には、論証を必要とします。

 思うに、氏は、冒頭に書いた「オーソドックス」に示される時代、環境錯誤に耽っていて、当記事を通じて、何も学んでないのです。

〇総論
 当ブログでは、書評の際に、著者の持論を批判することは、極力避けています。直線行程説を批判しても、氏がそれを持論としていること自体は、批判対象ではないのです。(時に筆が滑るのは、素人の限界としてご容赦いただきたい)

 大事なのは、著者が、持論の「根拠」として、個人的感想や根拠不明な風聞を翳していることです諸説に、適切な紹介と批判が加えられていないのも「問題」です。いや、別に受験者として「解答」を工夫せよと言っているのではありません。
 氏は、第三者の要約らしい「風評」を早のみこみで採用しますが、根拠を示していただけないので、確認しようがないのです。

〇「失われた放射行程説」
 当記事では、氏の持論に対抗する「放射行程」説について、提唱者榎一雄氏の説を提示し、否定しているように見せているのですが、榎氏の説がどう書かれていたか、その主張の根拠が何であったか、不得要領で論議になっていないのです。また、榎氏の主張に批判を加えた古田武彦氏の主張は、はなから失われているのです。いくら、個人的な趣味、嗜好であっても、何か「根拠」、「論拠」がほしいものです。
 榎、古田両氏に限らず、凡そ古代史論者たるものが何らかの「説」を主張するからには、先行所説を論理的に咀嚼、批判、克服しているのですが、どうも、氏は、そのような素養のない野次馬論者のようです。

 慌てて、普通の言い方で総括すると、氏の持論には適確な裏付けはなく、異論を適確に克服してないので、氏の持論は大いに疑わしい(普通に云うと、全く信じられない)ことになりますが、それは、当記事の圏外です。氏が、放射説だろうが、螺旋説だろうと、当人が納得している分には、それ自体、傍からとやかく言えないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                               以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 5/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
         2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇はじめに~批判しようのない落輪調
 先だって、氏の最近のブログ記事二件について批判しましたが、合わせて、これら記事の先行記事の批判が必要と見て遡行し記事をまとめました。と言っても、当時批判記事を書いたものの、「記事」の批判としてまとまりの付けようがないので放置していたのですが、結局、月遅れ記事にしました。

 端的に言うと、氏の記事は、正体不明の「説」を、文字引用して批判するのでなく、いわば、氏の見立てた「説」の「ポンチ絵」を「斬られ役」にして斬りまくっているので、読者に見えるのは氏独自の「ポンチ絵」が、紙吹雪となって風に散る様であって、誰のどの論文に何を異議申し立てしているのか、わからないのです。いわば、路面を走らずに、いきなり落輪して、しきりにエンジンを吹かすものの、ごうごうたる空転で、批判論議になっていないのです。
 ただし、氏は短絡的でないので、謹んで理路の瑕瑾を批判しているのです。

〇斬られ役の弁
 「斬られ役」と称したのは、本来の論拠が戯画化されているからです。舞台劇の「斬られ役」は、振り付けに従い、易々と主役に切られます。
 氏が個人的な愛憎からか「好意」を再度表しているので躊躇しますが、仕方ないので余言を連ねます。「イメージ」なるポンチ絵の原文不明に加えて、伊都基点放射説を無視した不出来な展開に批判を加えます。

◆図表3「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図(別解釈案) 引用省略
 一見、これなら整合性がとれているのではと思ってしまいそうです。
 しかし、よく見ると齟齬が生じているのがわかります。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への距離が書かれていないのです。そうすると、肝心の位置関係がわからないということになります。100里なのか1000里なのかで邪馬台国の位置は大きく変わります。これでは邪馬台国までの行程を報告したことにはなりません。

〇不都合な表現 世にあふれる時代錯誤
 余談の前振りを入れると、読者に0の数で百里と千里を判別させるような、不合理で時代錯誤の「算用数字多桁表示」は、とてつもない悪習と理解いただいて、文献解釈の大原則に従い、時代相応に「百」「千」と書く事をお勧めします。
 因みに、「倭人伝」道里は、せいぜい百里単位で、総計万二「千里」ですから、百里は「はした」、一千里すら、細瑾に過ぎないのです。魏志の主題では、目的地に行き着けば良いのであり、精密な地図はいらないのです。つまり、「倭人伝」の意義を言うなら、道里行程が全てであり、「邪馬台国」の地図上の「位置」は、別にどうでも良いのです。そもそもも、「倭人伝」に地図は無いのです。勘違いは、此の際振り落とすことです。

 また、「倭人伝」が記載不備で拙劣と罵倒されていますが、お説のように必須事項に欠けた報告書だったとしたら、それが正史に収録されたのはどういうことか、不審です。氏が、ご自身の迷走に自暴自棄で、相手を間違えて自嘲したのが誤記されたのでしょうか。
 何しろ、氏は、道里行程が、不弥国から投馬国に至った後、さらに邪馬臺国に至ったと勝手に決め込んでいて、それでは、辻褄が合わないと、陳寿を罵倒しているのですから、「自縄自縛」というか、「独り芝居」というか、まことに勿体ないことです。遡って、放射行程説の趣旨を理解できないまま、切り捨てた咎めが来ているのです。

〇「絵」のない絵解き 無理な読み解き
 「倭人伝」には、読者次第で解釈が分かれる「概念図」(ビクチャー)は無いので、氏のお手盛りの子供じみたポンチ絵(イメージ)を、正史はかくあるべしと見立てた論理的な文章に戻し明快にします。(当ブログは、この読みを支持していません)

 不彌国から南に行くと投馬国に着く。
 (郡から投馬国まで)水行二十日である。
 投馬国から南に行くと女王の居処に着く。
 (郡に従し倭に至るに)水行十日及び陸行三十日である。

 寡聞にして、「倭人伝」道里に、このような前例を見ないのです。日本語は明快でも、意味は支離滅裂です。路上の「落とし物」を盛り付けて供するなど、関わり合いになるのは時間の無駄です。もっとも、「倭人伝」現代語訳は、みんな似たようなもので、各人の手前味噌ですから、口に合わないと文句を言ってもしょうがないのです。誰かに毒味させずに、いきなり「落とし物」を口に入れるのが間違いなのです。

 それにしても、陳寿が編纂した諸資料は「絵」の無い文字論理で書かれていて、陳寿も、当然「絵」無しに倭人伝としたので、現代人が行程図なる「絵」を描いたら、それは、「自動的に間違い」なのです。

 古来、「方便」なる概念があって、「噓も方便」と言うときは、『御仏の教えを庶民に伝えるときは、庶民に理解できるように「ウソ」を交えても、仏はこれを許す』という意味ですが、この場合は、そのような正当化は許されない単なる「ごまかし」と言えます。まして、氏自身が「絵解き」を見て、「方便」になっていないという事ですが、「絵解き」が間違っていることを自認していることになります。

 何しろ、陳寿の「文字論理」は、同時代の読書人に理解され、支持されていたわけですから、氏の図形化解釈が間違っているのは、氏の「絵解き」の「難点」によるものです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 6/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
         2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇引用再開
[中略]帯方郡から邪馬台国までの全行程に要した日数が、水行で合計10日、陸行で1か月だとします。すると、なぜその行程上にある投馬国に陸行の期間がないのでしょうか。明らかに末盧国から不彌国までは陸行しています。合計700里です。それが入っていないということは、やはり「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の読み方は成立しないということだと思います。帯方郡から邪馬台国までの全行程の水行「10日」より、帯方郡から投馬国への水行「20日」の方が長いというのも明らかに説の破綻を物語っています。

〇「も明らかに破綻を物語」るという怪
 以上は、一見して明らかなように、先人諸賢の論考を無視した「独り相撲」で児戯です
 僅かな行数、字数なのに、文意が動揺していて、本来支離滅裂な「説」の論破は一言で足りるのに、無駄に深入りして、うろ覚えの論理に囚われるのは自業自得で勿体ないことです。

 同時代論者が、「倭人伝」をてんでに、つまり、百人百様に解釈した俗説が通用していて、百人全員が、正史として二千年近く読み解いている「倭人伝解釈」は、百人百様なのか、同様なのか、とにかく間違っているという事ですが、自分一人は凡百の一人ではない」という事なのでしょうか。

 古人曰く、倭人伝」読みの「倭人伝」知らず』、ということで、学会一括の罵倒は、一般人の任に余ると思います。要するに、「みんな間違えている」と言うと、ご自分も入れていることになるのをお忘れです。
 意義の乏しい独り相撲(ワンマンショー)を仕舞い、具体的に証明願いたいものです。

 率直に言うと、普通の知性の持ち主なら、氏は「背理法」の例題を書いていると見るでしょう。何しろ、冒頭に「私の説に従うと」と補い、末尾を「従って、私の説は謬っていると証されます」と締めれば、立派な論証になるのです。

〇まとまりの付かない総評
 異説を強引に自身の絵解き、基本的に「直線経路読み」にはめ込んで、その図式上で批判するのは「恣意」(「的」抜き)そのものです。
 ここでやり玉に挙げている批判対象文献が明示されていないのも、困ったものです。主張者が、氏の図式と同一の「イメージ」(偶像、ポンチ絵)で主張したのなら論理的思考のできない人との「欠席裁判」になっています。要は、「斬り捨て御免」と行っても、相手が案山子同然の紙人形では、腕自慢にならないのです。まして、最後の一人は自分自身ですから、壮烈な「腹切り」になります。

 そうでないなら、氏は、別の人が別の言葉で描いた主張を自己流に図示、つまり、書き崩した上で、それは間違っていると主張していることになります。ひょっとして、氏は、論敵の主張の原文が明解に解釈できないので逃げているのでしょうか。不可解、つまり、主旨が理解できない「説」の「批判」とは、どういうことなのでしょうか。
 と言う事で、氏は、論者の主張を明確に理解できず、意図的な曲解(撓め)に持ち込んでいる嫌疑が濃厚です。いくら個人的に好意を持っていても、それはそれ、これはこれでしょう。
 思うに、氏は、前方の不可解な「イメージ」を自分の認識で不合理だと称して攻撃しているので、いわば自業自得で見苦しいのです。
 それにしても、同時代の日本人が普通の言葉で書いた論考を読解できないのに、三世紀の中国人の漢文の解読などできるはずがないのです。

〇本論 単なる形式不備
 最後に、当記事タイトルに示された論説を批判することにします。
 「説」批判で示された氏の「持論」に同意できない点を上げるとすれば、最終道里を、伊都国から「投馬国を歴て」邪馬壹国に至ると決め付けた点です。この議論の到達点が、「荒れ地」であるのは、既に語られていることですから、失敗必至の旅立ちには、同意できないのですが、各人各様の持論は、極力論じない方針ので、ここでは深入りしません。

 結局、氏は、論文作法(作成手法)の基本にあたると思われる、自説提示の際の根拠提示方法も、論評時の論点提示方法も理解できないまま、字数を費やしていると思えます。それは、何も高級な論義ではなく、論文審査の初歩であり、ここで弾かれるようでは、修行が足りないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 7/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
                       2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

 閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇前置き
 伊藤雅文氏の二回に亘る記事は、素人の「日誌」(ログ)でなく商用書著者の論考と思うので、誠意をもって辛口批判します。先行する「現代訳」なる連載記事で頻出する難点に消耗したので、一点に絞ります。氏の考察の基本的な欠点が見えると思うので、以下同様と理解いただきたいものです。

 批判の前提は、考察と見て取れるにもかかわらず、正史解釈が粗雑(杜撰)であり、また、三世紀に即した、あるいは、適した考証がされていなくて、現代に流布する風聞、俗説による思いつきの憶測で、考察と言えないのです。

 氏のいきかたは、ぱっと見、現代風の合理性を備えて俗耳に訴えることから、新書で刊行されていて、目下、大勢を占める俗説に随時追従しているようですが、それが的確かどうか疑問であり、以下、批判するのです。

〇踏み台とされた労作
 なお、氏が基調とした訳文は、原文に密着した最善の好訳であり、書き下し文に等しいものです。用字、用語の置き換えは最低限であるから、巻き込まれて脱線する危険は少ないのです。文献解釈は、かくあるべきです。「倭人伝」を論ずるなら、後は、自力で説きほぐすものであり、責任の分水嶺です。

〇一文解釈集中批判
[原文]從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
[訳]郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三冊』岩波文庫)

 ここで、氏は、突如、基調を踏み台に浮揚して架空の創作に耽ります。

 帯方郡から倭に至るには、海岸にそって水行し、南進・東行しながら韓国を経ていく(*)。すると、7000余里で倭の北岸にある狗邪韓国(くやかんこく)に到達する。
(*)帯方郡から狗邪韓国への行程については、朝鮮半島の西岸・南岸を海岸にそって航行したとする説と、半島内の水路・陸路を行ったとする説があります。私にはどちらが正しいか断言できませんが、この行程についてはあくまでも「倭人条」の中の韓国記事であり、副次的なものです。[以下略]

 『狗邪韓国までの韓地内行程は「観念的」』とする発想は、慧眼というか、妥当ですが、「従郡至倭」で書き出された道里が魏使の往還記に基づくとの誤謬が邪魔して後が続きません。「観念的」行程が魏使往還記に基づいているというのは、無理でしょう。
 また、陳寿が、「倭人伝」の道里記事を「倭人条」の中の韓国記事と斬って捨てるのは、無残な見当違いです。

〇道里記事の始点
 この間の道里は、「倭人伝」に必要な道里、所要日数の申告、開示であって、倭使参上以前に皇帝に上申され、公文書に書かれていたので、後日の改竄、改訂は、一切不可能だったのです。そして、陳壽は、史官の責務として、既存の公式史料を正確に収録する責務を負っていたので、編纂時点の考証や新情報によって改訂することは許されなかったのです。陳壽にできたのは、記事の是正が読み取れる追加記事の書き込みだったのです。

*「従郡至倭」と「其北岸」~精緻な論理
 それにしても、倭人伝の「従郡至倭」を論じるのに、全体の半分以上を占めている「韓国行程を副次的と切り捨てる」のは、とてつもなく乱暴でしょう。解釈の出発点にして、重大な分岐点で、岐路のいずれを行くか審議しないで、荒れ地を真っ直ぐ突き進むのは、無謀そのものです。
 原文で、「到」は、明確に街道行程の一段落、つまり到達地の表現です。
 「其の北岸」は、当然、陸上の境地であって、文脈からして「大海」の北岸と見えます。つまり、帯方郡の南にある「大海」が領域としての「倭」なのですが、これを「國」と見ると、それは「國邑」に決まってしまうので、既に登場している「大海」を起用したものと見えす。領域としての「倭」は、記事を輻輳させていますが、韓伝で「倭」とされているのは、後出しの「大海」の様に解するのが適していると見えます。
 つまり、韓の一国が「倭」と接しているとか、韓の南は「倭と接している」というのは、普通に言うと、韓の南に「大海」があって、これと接しているという意味と見えます。このあたり、中国古典書の定則で、文字だけで組み立てる複雑、高等な論理ですから、余程丁寧に説きほぐさないと空を切ってしまいます。

 また、その場は、狗邪韓「国」とされています。つまり、少なくとも「歴韓国」の一国の国名は明記されているのですから、空文、冗語ではないのです。

 念押しすると、同区間は三世紀読者にとって既知、自明の「街道」道里です。それに反して、海岸に沿い船で行く」異説は、無視も何も古典に存在しない無法な用語概念ですから、よほど念入りに事前解説を加えない限り、編者(陳寿)は非常識な用語の咎で更迭され職を失いかねないのです。史官は、「読者」によって、随時試されていたのです。
 従って、古典書に典拠のない、読者の教養に輻輳する用語は、読者の誤解を誘い、恥をかかせるものとして厳重に忌避されるので、勝手な造語やにわか作りの新語の導入は、固く、固く戒められたのです。こうした当たり前の理屈が理解されてないのは、何ともお粗末です。

〇解釈でなく改竄
 「従郡」を「帯方郡から」と単純に読むとか、「七千」里を「7000」里に化けさせる「定番誤釈」,「曲解」は別に置くとして、海岸に「循(そ)って」の原文漢字を「そって」とかな表記に「改竄」したのは、なんとも杜撰で不穏です。これでは、石原氏の労作は「バイブル」どころか踏みつけです。
 石原氏は、訳者の誇りにかけても、「循(そ)って」を「沿(そ)って」と意訳/誤訳しないのです。海岸基準の移動は、字面を無視して「沿(そ)って」なのか、字面に忠実に「循(そ)って」(盾して行き沖に出る)なのか、いずれかですが、「そって」のかな書きは意味不明で、二重に無責任です。さらに念押しすると、「沿岸航行」は、古典書読者に未知の用語であり当然不可解です。同時代人に不可解なことを、勝手に取り込んではなりません。

 一読してわかるように、「海岸」は、海を前にした崖に似た陸地ですから、これに沿う経路は海岸の陸地を言うのであり、海に入るものではありません。つまり、中原読書人の知る語彙では、「海岸に沿って」進むのは、陸行しか無いのです。従って、続けて「水行」と書いているのは、本来、不可解で無意味です。そこは陸地なので、河川行は不可能です。郡から東に進むと、山嶺を超えて、北漢江の上流に進みますが、そう読まない理由が不明です。
 そもそも、「郡の遥か東南方に在る」と書いたばかりの「倭人」のお家に向かうのに、内陸の帯方郡郡治を出て、なぜ、予告のない西に進んで海岸に着くのか、不可解であり、そのようなことは、一切、明記も示唆もされていないのです。飛んだ冷水の不意打ち「サプライズ」です。

 そのように、「循海岸水行」は、三世紀の読者には、自然に解釈できないので、この「問題」の解を巡って、考察に苦労することになるのです。要するに、先行所説の理解を、はなから放棄しているのでは、新たな視点の提供のしようがないのです。
 このような初歩的考証が理解できないなら「新説」など唱えないことです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」改補 8/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
                         2020/08/29 2022/11/19, 12/20 2024/02/09
私の見立て ★★★★☆ 重要な論考 迷走少々

閲覧が入ったので、念のため点検して補充しました。

〇格式に従う「定義」
 端的に原文を見れば、「循海岸水行」は、「歴韓國」から「七千余里」に至る道里の細目を言うものでなく、半島中央部を、官道にしたがって一路南下した後、狗邪韓国で、滔々たる大河ならぬ大海の岸辺に立って、前途を見渡したとき、「始度一海」などと書かれた「渡海」の意義を説いた前置き/用語定義と思えます。中原人の金槌官人に対して、べつに身構えしなくても、何所にもあるような、州島を日を置いて渡り継ぐのであり、唯の渡し舟ですよ、と言う趣旨で軽く書いているのであり、波濤渦巻く必死の行程の連続などと言ってはいないのです。何と言っても、夜は、揺れない、がっしりした寝床であり、寝室の壁がぐるぐる回転したりしないのです。
 街道道里に前例のない格式外れの「水行」概念を導入するにあたって、街道にありふれた渡し舟の概念を持ち込むことにより、読者を不意打ちして混乱させるのを予防した定義文と見ます。

〇無知による誤解、誤記
 氏は、自認するように、沿岸航行」を考証する知識に欠け、資料調査もしてないので、「はなから欠格」、門前払いものですが、なぜか、個の大事な分かれ道で、難航必須の「沿岸航行」を選択します。途中、一度でも難船すれば、荷物諸共、海のモズク、ならぬ、藻屑になれば、ソレで、二度目はなく、そこで一巻の終わりです。「陸路が危険で時間がかかる」とは、風評とも云えない「稚拙な憶測」非科学的な見解です。これが、出発点では、先が思いやられます。

 氏は、先例引用で「半島内の水路・陸路を行った」などと、時代錯誤の乱れた用語を駆使しますが、これは、原意攪乱だけで紹介になっていません。『「南進・東行」しながら「韓国を経ていく」』などと、訳文が堅持した用語、記法を棄てて、あらぬ方に迷走しますが、そのような混乱した無理難題は、「倭人伝」には書かれていません。念のため言うと、「水路」「陸路」は、三世紀の時代には常用されていない上に、現代でも、不正確な解釈になるのです。

 一方、どこに寄港し、どこで転じるか、航行上の必須事項が「倭人伝」に一切書かれていないのは、実際に航行してない証左と見えます。何を見て思いついたのでしょうか。(よく理解できない方は、隋書「俀国伝」を一読戴きたいものです)

〇癒やしがたい非常識
 案ずるに、氏は、帯方郡から狗邪韓国までの行程が、官道として整備され、常用されていた』との「基本常識」、必須の教養を持たず、逆に、当時の船舶を知らないのに、記録にない海上行程を想像だけでイメージ(餅の画)し冷静な考察でなく、手前味噌の古代史譚を創造した上で、さらに 勝手な推測を積み重ねていますから、どこまで上り詰めても、あるいは、掘り下げても、他愛のない「ホラ話」に過ぎません。
 太古以来、文書通信で帝国を支えるのは、全国に整備された騎馬文書使の疾駆に耐える「官道」なのです。「官道」には、宿泊の提供は当然として、食料と水、そして、代え馬を常備した宿駅が必須ですが、郡から狗邪韓国までの街道は、弁辰の産鉄を楽浪、帯方両郡に送り届ける主務があり、体制の整備ができていたのです。もちろん、官営便はともかく、南北市糴の荷物輸送にも、街道は貴重な経路であり、難破も動揺もせず、潮待ちもなく、嵐に怯えず、安全安心なので、常用されていたものと思われます。

〇先行諸説の理解欠如と現場逃避
 正史解釈と云っても、正史の文字を一切離れないでは理解できないのは明らかですが、正史が確たる文献史料である以上、これを離れるには、同様に確たる史料なり自然科学的考察が必要です。かえりみれば、先行諸説紹介が粗雑であり、基調訳文を離れて勝手に憶測、暴走していると見えます。郡を出て、いきなり「道」を外れているのでは、以下、行けば行くほど「道」を外れて「荒れ地」に入るのです。「道」を見失ったときは、出発点に戻るのが、常道であり、目下の最善策でしょう。

 新説提示には、先行諸説の克服が必須であり、「韓国内陸行説」、「内陸水行説」は、いずれも、堂々と提唱された仮説なので、論評、棄却するには提唱者と引用元を明示すべきです。また、棄却の根拠となる「沿岸航行説」の検証を行うべきです。調べようとしないで、紛争の現場から逃げてはいけません。そのように努めれば、何が根拠とされているか、目にとまるはずです。

〇歴韓国考察
 長年、弁辰の鉄が楽浪帯方両郡に貢納された以上、帯方郡から狗邪韓国まで、各国関所を歴る官道が輸送路であって、諸駅が確立、運用されていたのです。漢、魏が、中原の国家制度を、世界の果てである半島南端までの東夷に徹底させたのが、一部の方が声高に唱えていた遼東郡による東夷支配」の基礎構造です

 古代韓国の諸国は、相互の間で大量貨物の長距離海上輸送がほぼ不可能であり、地理的にも、基本的に内陸国であり、漢城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)、慶州(キョンジュ)などのような王治は別として、概して山城を置いていたようです。後世、統一新羅時代、黄海沿岸の海港唐津(タンジン)にも、山城が設けられた記録があります。「津」(しん)であるので、山東半島、つまり、唐本土に渡海する船着き場が主目的であり、沿岸海港ではなかったのです。総じて、三世紀当時、韓地各国の山城は、沿岸移動では歴訪できないのです。

〇総評
 いや、古代史分野では、当ブログ筆者が勝手に言う浪漫派の牙城である史譚分野があり、論拠不十分にひたすら勇ましいお話を書き上げる例がありますが、業界相場として、いくら作業仮説であっても、単なる夢物語でないのなら、何らかの実証的考察をこめるものであり、今回はひどい」というのが、当記事執筆の動機です。非常識を「自曝」するつもりはないでしょうから、推敲した上で、カテゴリー/タイトルに「根拠のない空想」(ファンタジー)と明記すべきでしょう。

 いや、何度か、(古代史論では)当然、自明、初歩的と書きましたが、どうも、浪漫派諸兄には、三世紀に唯一存在した古代史史料の意義を軽視、ないしは、無視して、数世紀後の「日本」成立後の国内史書を至上とする向きが多いので、念入りに明示したものです。「古代史」上級者には、見くびられたような不快感があるでしょうが、よろしくご了解戴きたいものです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

2024年2月 8日 (木)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第3217話

 「東西・南北」正方位遺構の年代観 (3) 2024/02/05
                                                                                        2024/02/08 公開

*はじめに~おことわり
 当「日記」には、古代史を巡る話題に対して、従横を極める精力的な執筆に、愛読者として毎回感服しているのですが、今回は、お話の滑り出しで「すべって」いて、首を傾げました。

 記事引用:東西方向については春分・秋分の日の、日の出と日の入りの方向を結ぶことで東西方向を確定できます。この観測により、古代人は東西方向(緯線)を求めたと思われます。南北方向(経線・子午線)はこの東西線に直角に交差した直線であり、北方向は北極星により定めたと思われます。

 コメント:
 同様な「誤解」が、結構蔓延しているので、題材にさせていただきました。

 ある地点で、簡単に東西南北を求める手順は、以下の通りです。

 まず、広場に1㍍程度の棒を立てます。言うならば、日時計です。

 晴天日に、棒の影の頂点を描いていくと、影が一番短くなる点が、南中点です。棒の根元と結べば、南北線、子午線が求められます。

 南北線決定は、晴天日で良く、春秋分を待つ必要はなく、北極星確認も必要ないのです。ちなみに、春秋分を知るのは、高級課題でしょう。

 棒の根元で南北線に直交する垂線を立てれば、東西線です。縄の両端に棒をくくってコンパス代わりにする東西線作図は初級課題です。

 地形の事情で日の出入方向が不明でも、東西南北が決定できます。

 例えば、著名な纏向では、生駒の山嶺で日の入り方向がハッキリせず、そもそも、三輪山が聳えていて、日の出の方向は、一段とはっきりしません。

 よろしくご一考いただければ幸いです。

                                以上

2024年2月 7日 (水)

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 1/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/07

◯更新の弁
 当ブログも、発足以来日時を経ていて、各記事も、初稿以来、更新を重ねているものも、少数ながら存在する。但し、件数、頁数がかなり多いので、更新の手が行き届かないものも、少なくない。そこで、最近務めているのが、一般読者の方から閲覧が入ったものは、積極的に内容を見直して、改訂するという事である。
 但し、それが、字句修正や書き足しならともかく、論旨が大きく変わったものは、暫し考えたあげく、打ち消し線で削除して、以下、新規書き足すことになるのである。結構見苦しいのだが、当方は、意見が変わったことを隠す意思はないので、そのような改訂/更新もある。
 本項で言えば、当初、古田武彦師の「魏志短里説」擁護/批判/否定を辿って、現在の「倭人伝」二重記事説に至るまで、何度か意見の基調が替わっているので、ここは、恥を曝すのを覚悟で、極力、旧稿保存に努めたものである。ということで、読みにくい記事となっている点をお詫びするものである。
 端的に略記すると、当初、「倭人伝」道里記事は、「短里」で書かれているとする意見であったが、それが、「三国志短里」でも、「魏晋朝短里」でもないところから始まって、「倭人伝短里」との主張に一度立ち止まったが、現時点では、「倭人伝」道里記事は、倭人初見の際に書かれた「全行程万二千里」という決め込みで書かれていて、それが、「倭人伝」記事策定の際に、「皇帝承認記事は改訂できない」という制約に束縛された史官が、明らかに実態に即していない道里を温存せざるを得なかったことから、これを公式道里として記載し、実務の必須事項である総括「都所要日数」を記載するという、現在も伝わる道里記事になったと言うことを示したのである。
 そのような記事校正は、一種の「難問」として提示されているが、「難問には、必ず解答がある」のであり、読者は、それを解決することを予定されているのである。
 本講読者諸兄姉は、それぞれ、「難問」に対する解答をお持ちであろうが、本稿をはじめとする当ブログの「解答」を理解いただければ幸いである。

◯始めに
 本項の目的は、引き続き、「倭人伝」里制の妥当性を確認するものです。
 まず、当ブログ著者は、本記事初出の段階(2018/10/26)では、『「倭人伝」里数は、「短里」のものであり、これは、現地、つまり、帯方郡領域で実施されていた「里制」の忠実な反映である』と見ました。主たる論拠は、「倭人伝」冒頭で、帯方郡から狗邪韓国までの、帯方郡にとって既知の里程が、七千里と宣言されているということです。そのため、全体に「地域短里」、「倭人伝短里」の見方で進めています。

*「誇張」・「虚偽」説
 これに対して、倭人伝里数が、悉く「誇張」・「虚偽」と見る説は、総じて根拠のない憶測であり、正史に明記された記事を否定する力を持たないものです。そのような説自体「作業仮説」にもならない、単なる子供じみた思いつきであり、非科学的な「誇張」・「虚偽」と見えます。
 例外的に趣旨明解な松本清張氏の主張の批判は別記事です。

◯方針説明
 当記事は、魏志「倭人伝」の時代を含む歴史的な地理情報を網羅した晋書「地理志」の内容を検討し、里制に関する判断資料とするものです。
 もっとも、晋書「地理志」にも、晋書「倭人伝」にも、「倭人」領域に関する行程道里記事が無いので、「倭人」領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。

◯晋書紹介
 晋書は、魏志「倭人伝」の編纂された司馬晋の時代の中国王朝です。時に、その前半を特定して「西晋」と呼ばれますが、当時は、自分たちの時代が早々に幕引きになって、天子が北方異民族の虜囚になって処刑された亡国に至って、辛うじて南方で再建され「東晋」と呼ばれた後世王朝と区別するために「西晋」と呼ばれるなどとは「夢にも」思っていなかったことは言うまでもありません。

*古代の晋(春秋)
 ちなみに、「晋」は、中国古代の周王によって中原北方に封建された周代の一大国でしたが、春秋時代末期に王権が衰え重臣に権力を奪われて飾り物になった挙げ句、重臣間の抗争を歴て生き残った趙、魏、韓の三家が、遂に晋王を放逐、それぞれの姓によった趙、魏、韓の三国に分割したのです。
 晋王が、臣下に放逐されたのは画期的な大事件であり、諸国を束ねた東周の権威が失われ、各国がむき出しの抗争を行う戦国時代に移ったとされます。晋王は周の創業以来の大黒柱であり、臣下による追放から保護できなかった上に、三国から大枚の贈答を受けて不法事態を承認したから、周王に権威がない事を天下に知らせたことになるのです。以後、時代は、統一権威の存在しない「戦国時代」に移行したと見られています。

*司馬晋登場
 ともあれ、この時代の晋の創業者司馬氏は、つい先年の曹操、曹丕の天下把握の手口そのままに、曹魏皇帝から天子の権威を譲り受けるについては、先ずは、古代の晋の旧地を所領とする異姓の「晋王」に任命され、続いて、曹魏皇帝から国の譲りを受けるという「禅譲」により、魏朝を廃し、皇帝として晋朝を拓いたのです。こでは、古代とは逆に「魏」から「晋」に権力が移行したことになります。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 2/9 更新

                2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*太平の崩壊招く愚策~司馬晋の自滅
 と言うことで、西晋崩壊の背景は、三国志の最後の呉を滅ぼして天下統一した皇帝が、太平に甘えて官兵を靡兵、解雇したために、失業した多数の元官兵が、各王の私兵となったのです。
 野心家が天下を狙うとなれば、教育、訓練の要らない、命令服従を本分とする元職業軍人は強力な武器であり、まして、帝位継承資格を持つ各王が他の王に対抗して強力な軍を組織し台頭を図ったため、乱世の幕を拓いたのです。
 さらには、兵力増強のため、北方異民族「匈奴」の部族を傘下に採り入れ、教育訓練を施して、私兵としたのですから、それは、長年討伐していた侵略者を、領内に呼び入れるものであり、程なく、内乱によって権威が失われた帝国を、内部から食い散らかす、害獣を育てたことになります。
 斯くして、司馬晋による天下統一は、束の間の天下太平であり、晋朝は、いわば自滅政策を行い、始皇帝以来の統一国家「中国」は瓦解し、以降、四世紀に亘り南北二分されたので、晋皇帝は大罪人ということになります。

*前車の轍 始皇帝の永久政権構想

 過去の歴史に学ぶとすれば、戦国諸公を滅ぼして天下統一した結果、兵力過剰に直面した秦始皇帝は、大軍を匈奴対策名目で北方に駐在させ、全国から長城や寿陵建設に農民を大量動員して、失業軍人の反乱を避けたのです。
 税収に即した緻密な動員策が必要ですが、全国地方官からの統計情報を元に、計数に強い官僚がギリギリまで民衆を絞りあげれば、中央政権を「永続」できたはずです。一方、全国から不平分子を徴用して反乱の原動力を吸い上げ、併せて事業経費を幅広く徴収して反乱の資金源を断つ戦略です。
 とは言え、後継皇帝は、そのような巨大な戦略に、全く気づかず、的外れの過酷な動員と徴税を続けたため、衆怒を買い、反乱多発の状態となったのです。

◯晋書由来

 以上、晋書の素性/対象時代を知るため、中国史を抜粋しましたが、晋書は、南方に逃避した東晋政権や後継の南朝諸国では編纂できず、北朝を滅ぼした唐朝で、太宗の重臣房玄齢の率いる錚錚たる集団によって完成したのです。

 既に、時代は、南朝を討伐して全国統一した隋が、天下太平維持に失敗したために、またもや生起した全国反乱を統一した正統たる唐の御代であり、晋書を、南北朝の乱世を生起した晋朝の不始末をうたいあげる、いわば反面教師としての正史としたため、史談とも言うべき本紀、列伝において、風評に富んだ「面白い」史書になったのです。先ほど上げた、西晋滅亡時の各王内戦は、当時の皇帝が、極めつきの暗君であったために、必然的に起こったとされています。

 但し、ここで当方が取り組んでいる「地理志」は、地理情報、統計情報を記した「志」であり、そうした演出とは関係無く、歴代政権の公文書として継承された豊富な資料を、丁寧に駆使した意義深いものです。

*「志」を欠く先行史書
 先行史書で言うと、南朝劉宋代に大成された笵曄「後漢書」は、自身の「志」を備えず、唐代に、先行していた司馬彪「続漢書」の「志」と併合されたものです。そして、三国志は、遂に「志」を持たなかったのです。
 ということで、晋書は、班固「漢書」以来久々の体裁の完成した正史となります。
 また、笵曄「後漢書」が、ほぼ笵曄単独編纂の労作であり、陳寿「三国志」も、陳寿の指導力が強く反映しているのに対して、晋書は、房玄齢以下の集団著作とされていて、厖大な数値データを参照する必要のある「志」の編纂に相応しい体制であったと思われます。もちろん、四世紀ぶりに、乱れた全国を再統一した唐王朝の国力も強く反映されています。

 つまり、晋書「地理志」は、大変信頼性の高い史料と見るものです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 3/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*本論開始
 枕が続きましたが、題材とした資料文献の背景説明としました。
 と言うことで、晋書地理志が当記事の本題です。

▢古田武彦氏の「魏晋朝短里説」の消長
◯短里説提唱と展開
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』で、倭人伝行程記事の郡から倭に至る里数について、詳細に考察した上で、
  これは、当時の里制を忠実に記したものである。実際の地理から、「倭人伝」の一里は一貫して75㍍程度(数値は、参照しやすく丸めた概数)の「短里」である。
 ⑵ これは、古代周朝の里制である。
 ⑶ これに対し、秦始皇帝が、天下統一にあたり、六倍、450㍍程度の「長里」に変更し漢に継承された。
 ⑷ これに対し、魏朝は全国里制を「短里」に復原し「倭人伝」に反映している
 ⑸ 「短里」は、後継した晋朝に継承されたが、晋朝南遷後東晋によって廃され、秦漢「長里」に復帰したとの趣旨で提言したものです。

 ⑴~⑸は当記事筆者による要約

◯魏晋朝里制の論証
 古田氏の論旨は、「三国志」は陳寿が統轄編纂した史書であるから、前漢に渡って、里制は統一されているべきであるとの理路により、「倭人伝」記事の小局から出発して魏晋朝全国という大局に及び、三國志全文に及ぶ実証の試みは現在も続いています。

◯魏朝里制変更の否定
 ここでは、先ほどの⑶以降の推論が成立しないことを述べるものです。

*史書に記載なし
 晋書「地理志」を根拠とすれば、魏晋朝短里の否定はむしろ自明です。晋書「地理志」は、古来の地理情報を克明に記していますが、魏晋朝において、秦漢朝と異なる里制が公布、施行されたとの記事はありません。

*里制変更の無法さ補充2022/06/01
 里制は、晋書「地理志」という公式記録/正史の根拠となるものであり、国政の根幹であると共に、各地方においても行政の根幹であり、里制を変えるという事は、国家の秩序を破壊することであるから、皇帝と言えども里制変更はできないのです。

 全国里制を、それまでの「普通里」から、「短里」に変更すると、一里三百歩の原則から、農地測量単位の「歩」(ぶ)が、それまでの、一歩六尺の関係を維持できず、一歩一尺になってしまうのです。
 言い換えると、土地台帳は、それまで、面積百歩、現代風に言えば百(平方)歩、と書いていた土地が、六倍ならぬ三十六倍の三千六百歩になるということで、全国の地籍(土地台帳)を換算して、書き替える必要がありますが、もちろん、農地の実際の面積は変わらないので、税は、同等なのですが、そのような換算計算は、読み書き計算のできない「一般人」の理解を越えているので、増税と判断されて衆怒を招きます。

 あるいは、そのような激変を避けて、尺、歩までは維持し、一里五十歩とするのでしょうか。

 通常、「歩」による農地面積管理に、「里」は関係しないのですが、ことが、県単位の世界を越えて、郡単位や全国での農地面積となると、「里」単位で計算することになり、その際、里が一/六になって、道の里「道里」が六倍の数字になるとして、それを、広域の農地面積に適用すると、「千里」四方が、三十六倍の「三万六千」里四方になってしまうので、広域方里の取扱について、明確な指示を公布する必要が生じるのです。

 「短里」制は、一片の帝詔では済まず、厖大な公文書と実務を必要とするのです。従って、そのような大量の公文書が残されていない以上、里制変更はなかったと断定できるのです。(臆測、推定ではないのにご注意下さい) 

▢結論
 そのような途轍もなく重大な制度変更が実施されていたとすれば、魏晋朝の不手際を明らかにするものとして、晋書の本紀部分に記載されるべきものであり、まして、晋書「地理志」の周以降の制度推移記録に記載されないはずがありません。

 と言うことで魏晋朝といえども、国家制度としての短里は、実施されなかった事が明らかです。実施されなかったから、記録に残らなかった」というのは、まことに、まことに明解です。
                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 4/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

◯周朝短里制への疑問
 さて、次に懸念があるのが、⑵の項です。いや、秦が「短里」を「長里」に変更したということも、議論が必要ですが、周里制がいかなるものだったか解明しなければ、秦里制を議論しようがないので、後回しとします。

*晋書「地理志」に見る周朝制度

 周は、それまで中原を支配していた殷(商)の覇権を奪って王朝交代を実現したのですが、元々、函谷関以西の「関中」を根拠とした西方の地方勢力だったので、中原を包括する統一国家を運営する組織も制度も持っていなかったのですから、殷の制度、殷の官僚組織を継承しつつ、徐々に周の国家制度を組み立てていったものです。

*口分田制度(日本)
~異邦の不法な制度 余談
 参考となる口分田は、本朝律令では、「戸籍に基づいて六年に一回、口分田として六歳以上の男性へ二段(七百二十歩=約24㌃)、女性へはその三分の二(四百八十歩=約16㌃)が支給され、その収穫から徴税(租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。」Wikipedia
 1㌃は、一辺10㍍の方形の面積(百平方㍍)

 少年少女以上の男女それぞれに支給されている点が、「目覚ましい」のです。中国の制度では、「長大」、「成人(15歳程度か)となった」男性が「戸」の構成員であることが前提となっているものの、農地耕作に貢献できない年少者は、あてにしていないものですから、まったく、異質の概念で書かれている規定と見えます。
 つまり、何が目覚ましいかというと、「口分田」制度は、秦代以後の中国で一貫して施行された「戸」という家族制度をもとにした、戸籍制度、土地管理制度とは、相容れないものであり、魏代に「親魏倭王」として、漢制(中国制)に服属する蛮夷の王の法制としては、到底許されない、不法な制度と見えます。

 世上、国内で制定された「律令」(国内律令)が、唐律令に準拠した法制(模範解答)だと考えている方が少なくないようですが、仮に、遣唐使が、国内律令を献上したとすると、立ち所に「死罪」に処せられる大罪を犯したことになります。とんでもない意見ですが、在野の論者に時に見られる論義です。
 そもそも、持ち出し厳禁の唐律令を、蕃王使節が盗み出して持ち出すのは、それ自体が既に大罪です。なぜなら、唐律令には、天子に始まる諸官の規定が書かれていて、それを、蕃王が施行するのは、自身を天子と称するものであり、到底許容されるものではありません。即日、討伐軍を送り込まれても、当然の大罪なのです。
 と言うことで、先に挙げた「口分田」の制度は、服従に際して上申した「戸数」が、中国制度に背く、虚偽のものであることを白状しているので、中国の天子の耳に「絶対に」入ってはならないものです。

 つまり、掲げられている「口分田」の制度は、中国に服従する蕃王のものでなく、中国との交流のない「くに」が、いわば、勝手に制定したものだと分かるのです。

 ちなみに、中国制度の「戸数」を復習すると、夫婦二人に、子供として複数の成人男子が同居している「戸」を根拠/単位とした国家制度であり、各戸には、所定の農地が割り当てられて、耕作が許可され、その大小に所定の農作物を納税し、各戸単位で、最低一名の徴兵に応じる全国統一制度であるので、対象地域の「戸数」を言えば、税収と兵士の数が自動的に定まる、計数管理の容易な制度なのです。

*井田制
 本朝の口分田のお手本となった周朝の井田制は、「中国の古代王朝である周で施行されていたといわれる土地制度のこと。周公旦が整備したといい、孟子はこれを理想的な制度であるとした。 まず、一里四方、九百畝の田を「井」の字の形に九等分する。そうしてできる九区画のうち、中心の一区画を公田といい、公田の周りにできる八区画を私田という。私田はそれぞれ八家族に与えられる。公田は共有地として八家族が共同耕作し、そこから得た収穫を租税とした。」 Wikipedia

*尺・歩・畝・里

 少し言い足すと、(中国)畝(ムー)は、六百尺四方であり、一尺25㌢㍍とすると、一辺150㍍程度となり、およそ2.25㌃となります。
 縦横三個ずつ畝を並べた、井とも呼ばれる「里」は、一辺450㍍の正方形となります。つまり、距離としての一里は、450㍍となります。(あくまで概算です)

 「尺」は、時代によって異なったと知られていますが、多くの物差しに複製されて日常の経済活動に使用されるから、短期間に変動することはなく、長期的にも六倍に変動することは、「絶対に」あり得ないのです。

 結局、記録に見る里は、おしなべて、「普通里」であり、したがって「長里」と呼ぶのは不合理なのです。
 また、畝は、半永久的に継承される土地台帳に記載され、農地面積の基本単位は、時代によって変動することはなかったと思われます。取り敢えず、周短里は見えてこないのです。
 但し、各戸に割り当てられる耕作地の面積は、「牛犂」と呼ばれる標準的農具を牛に引かせるものであり、蛮夷の土地に農耕用の牛がいない場合は、平坦な黄土平原を前提に中国制度で定められた広さの土地は、蛮夷には到底耕作できないのであり、各戸に割り当てられる農地は、その数分の一に過ぎないから、戸数から、その領域の生産力を知ることはできないのです。

 議論の詳細は、大変長引くので、可能な範囲で説明して行きます。

                              未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 5/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

□短里制再考
 以下、もう少し手前に遡って、「倭人伝短里」の由来を見極めたいと考えます。

*「地域短里」再考 旧論
 「倭人伝」里数は、短里で書かれていて、これは、現地で実施されていたことの忠実な反映のように見えます。「地域短里」と称されているものです。もっとも、晋書「地理志」には、倭人領域に関する記事が無いので、倭人領域で短里が実施されていたことを証する記事はありません。
 但し、晋書は「倭人伝」を有しているので、魏晋代「地域短里」が制度化され、帯方郡限定といえども、国家制度して運用されていたのであれば、その旨明記されたはずだと言えます。
 晋書「倭人伝」は、魏志「倭人伝」の引き写しではなく、後代史書の限界はあるものの、里制について明言できれば、明言していたはずです。

□晋書「地理志」による里制考
 と言うことで、基本に立ち返って、晋書「地理志」の「里」について考察します。参照されているのは「司馬法」で、該当部分は、「司馬法」の残簡にない逸文となっていますが、別文献で周制であることが裏付けされています。

*古制
 「廣陳三代,曰」と書き出されているのは、夏、殷、周三代の制度を述べる前触れのようですが、資料が残されているのは周朝であり、古制とは、周朝制度と思われます。もっとも、漢字によって文書が記録されるようになったのは、殷代中期以降であり、課題の公文書は存在せず、殷代も、公文書が保管されていたとは思えないのです。

 以下、「井田法」と呼ばれる土地分配の規則が記されていて、土地の広さの単位である、「歩」「畝」「里」の決め方が記されています。

 古者六尺爲步,步百爲畝,畝百爲夫,夫三爲屋,屋三爲井。井方一里,是爲九夫,八家共之。

 「井」が土地区分の単位であり、漢字の形が示すように、縦横三分割されて九個の「夫」から成り立っています。
 「井」は、「方一里」、つまり、縦横一里の正方形となっています。それぞれの「夫」は、百「畝」。つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「畝」からなっています。それぞれの「畝」は、百「歩」、つまり、縦横それぞれ十個、計百個の「歩」からなっています。面積系単位の大系が、適確に定義されています。

*歩の起源
 そこで、基本である「歩」(ぶ)をどう決めるかという事ですが、これは、人体「尺」の六倍となっています。
 「歩」と書いていることから、人の歩幅に関連付ける解釈が見られますが、それは、後生人の早計であり、単に、六尺の言い換えとしてこの字が選ばれたとみる方が、明快に理解できるでしょう。
 史料によっては、古来、つまり、秦制で、農作に常用される牛犂の幅が、土地面積測量の単位である「歩」の基準であったと説明している例が見られます。
 後世、「歩」の字の起源がわからなくなって、一歩の幅が単位だとか、いや、二歩の幅が単位だとか、混乱しているようですが、秦制が、そのような曖昧な定義を基準として構築されていたはずはないのです。

 以上の理由から、日本語としての漢字発音は、「ぶ」とした方が、誤解がなくて良いでしょう。

*概算基準の提案
 尺は、人の腕の尺骨の長さで、ほぼ25㌢㍍と仮定します。すると、歩は、150㌢㍍、つまり、1.5㍍のようですが、併せて、一歩を一辺とする正方形の広さ/面積を言うようです。と言うことで、長さでは、一里は三百歩となり、450㍍に落ち着きます。
 このあたり、周制は、別に後世のメートル法やSI単位系を基準に制定されたわけではないのですが、時代、地域によって変動する諸単位の概略を便宜的に固定し、概算しやすい、有効桁数の誇張に到らない、切りの良い数字を採用しようとしているのです。

*長さ、距離と面積~表記の勘違い
 以上の説明で、数字に明るい方は首を傾げると思うのですが、長さの一里が三百歩であれば、「一辺一里の方形」の面積は「一辺一歩の方形」の面積の九万倍となります。一方、「面積一里」が「面積一歩」の三百倍であれば、「長さ一里」は「長さ一歩」の十七倍であり、十七倍の食い違いとなります。長さで言うと、これは、二十㍍となります。いつの間にか、つじつまが合わなくなっているのです。

 仮説推論のための推定ですが、ここで参照される一歩六尺に基づく一里450㍍が、「普通里」(標準里)として、後世まで一貫して実施されたのでしょう。
 ちなみに、「倭人伝」の道里は、「千里」が単位であり、ひょっとすると、一「千里」に始まって、三「千里」,五「千里」,七「千里」と飛び飛びであり、以下、十「千里」、十「二千里」となっていたかもしれないのです。そうであれば、道里の足し算は、算木と呼ばれる一桁計算器具で行えば良いのであり、「算用数字」も、「横書き多桁表示」も、ソロバンも、「メモ用紙」もなくても、確実に計算できるのです。
 因みに、漢文には、文書横書きの風はなく、掲題(掲額)で横書きするときは「右から左に書く」と決まっていたので、厳重に注意しないと、時代錯誤に陥るのです。(国内史料も同様なのですが、近年、古代史論説にも、時代錯誤の欧風横書きがのさばっているので、気づかない人が多いようです。いや、当ブログ記事も、他に方策がないので、しかたなく横書きで公開しているのです)

 農地面積「歩」、長距離「里」は、それぞれ、社会制度の別の局面で適用され、「尺」の変動に関係無く、固定されていたものと見ます。

                              未完

追記 尺、歩、里を、25㌢㍍、150㌢㍍、450㍍と統一しました。これは、あくまで、計算しやすい概数に丸めたものであり、絶対正確と主張しているものではありません。あくまで、提案です。
 また、時代錯誤極まりない算用数字の弊害で、桁数が多い数字であって精密と誤解されるので、有効数字を二桁弱に減らしたものです。
   2020/11/08

 いや、道里計算の場合、一里五百㍍(1/2公里)に丸めた方が、暗算しやすいのであり、そのように古代風に表記すれば、㍍の桁や、それ以下に意味がないことが明示されて、無用の誤解が無いように思われます。
   2024/02/06

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 6/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06
*井田受田
 一夫一婦受私田百畝,公田十畝,是爲八百八十畝,餘二十畝爲廬舍,出入相友,守望相助,疾病相救。

 井田制度では、農民は、二十歳で、私田百畝、公田十畝の計百十畝の「良田」(適切な灌漑状態、土壌の肥沃さを持つ適格な「田」、即ち、水田とは限らない「農作地」であり、一律の課税条件を適用される「田」であり、耕作に適さないものではないということを示す)を受け、六十歳で返納するまで、毎年の収穫時に公田からの収穫を税として上納すると書かれているようですが、それは、せいぜい一割の税率であり、古来、そのような低税率で運用された政府は無く、実際のものとは思えないのです。まして、耕作者の努力により、規定以上の収穫を得れば、それは、収穫者の取り分になるという、奨励策も含んでいたものです。(農奴が、叱咤しない限り怠慢になるのと対極です)

*軍制、地方官規定への拡張

 司馬法には、井田を基礎とした周の軍制、地方官制が書かれています。

 十井、つまり、一里方形の井を出発点に、十井を通、十通を成とし、成は、一辺十里方形とします。続いて、十成を終、十終を同とし、同は、一辺百里方形とします。続いて、十同を封、十封を畿とし、畿は一辺一千里方形としてす。
 丁寧に、一里に始まる十倍階梯で帝国の広域に結びつけています。

 令地方一里爲井,井十爲通,通十爲成,成方十里。成十爲終,終十爲同,同方百里。同十爲封,封十爲畿,畿方千里。

 これと別に、四井を邑とし、四邑を丘とし、この丘は、十六井としています。丘ごとに、戎馬一匹、牛三頭の保有が課せられています。

 故井四爲邑,邑四爲丘,丘十六井,有戎馬一匹,牛三頭。

 続いて、四丘を甸とし、田は、六十四井としています。井は、戎馬四匹、兵車一乗、つまり、四頭立ての兵車一台に加え、牛十二頭、甲士三人、卒七十二人を有します。これを、乗車の制と言い、兵車乗数の計算基準となります。(甸 ①天子直属の都周辺の土地。「甸服」「畿甸(キデン)」 ②郊外。 ③おさ(治)める。 ④農作物。 ⑤かり。狩りをする。かる。)

 四丘爲甸,甸六十四井也,有戎馬四匹,兵車一乘,牛十二頭,甲士三人,卒七十二人。是謂乘車之制。

*地方官規定への拡張
 同は、一辺百里であり、領地は一万井となります。但し、領地内には、山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路など、耕作地外の土地が三千六百井であり、残る六千四百井が出賦で、戎馬四百匹、兵車百乗を有します。領主である卿大夫は百乗の家と呼ばれるのです。

 一同百里,提封萬井,除山川、坑岸、城池、邑居、園囿、街路三千六百井,定出賦六千四百井,戎馬四百匹,兵車百乘,此卿大夫菜地之大者也,是謂百乘之家。

 と言うことで、里は、各地領主の軍備計算の根拠であり、兵車の乗数は領主の権威の格付けでもあります。

*魏志「東夷伝」~「方里の推定」
 因みに、以上のような拡張は、所定の領域内が、ほぼ平坦で半ば以上が耕地という前提なので、これは、中原領域では当然/自明でも、荒れ地の多い領域では、通用しないのです。
 魏志「東夷伝」では、「倭人伝」に先立つ、高句麗、韓の両地域の記事で、ともに、山谷が多くて農地(良田)が少ない土地柄が書かれていて、戸数から土地の生産力を知るという手順が成立しないことが書かれています。して見ると、魏志「東夷伝」では、対象領域の面積を知っても、意味がないことは自明であり、むしろ、対象地域の土地台帳を集計した耕地面積が重要だという認識にいたものと考えます。
 魏志「東夷伝」で起用された韓地の「方四千里」などの記法は、面積管理に努めたものと見るべきであり、「里」と書かれていても、「道里」ではないと思われます。
 このように、当時の教養を踏まえた上で、教養に外れた点を十分予告した上で、未開の荒れ地である「倭人」の道里や戸数が報告されていると見るべきなのです。
 「二千年後生の東夷の無教養な東夷」は、史官が、当時の読書人/教養人が、多少の努力で正解できるように丁寧に予告した事項/深意/真意を理解した上で、「倭人伝問題」(Question)と言う文章題の解釈、回答に挑むべきなのです。

 念のため付記すると、面積単位系の「里」、「歩」は、古代算術教科書であり、解答付き演習問題集である「九章算術」の用語から推定したものです。当ブログ筆者の独創ではありません。
                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結論 7/9 更新

         2018/10/26  2018/12/26 2019/01/29 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*天下のかたち
 司馬法は、さらに、高位の軍制を示しています。

一封三百六十六里,提封十萬井,定出賦六萬四千井,戎馬四千匹,兵車千乘,此謂諸侯之大者也,謂之千乘之國。

 封は、三百六十六里(正しくは三百十六里)で一万井となります。うち、六万四千井が出賦で、戎馬四千匹兵車千乗を有し千乗の君と呼ばれます。

天子畿內方千里,提封百萬井,定出賦六十四萬井,戎馬四萬匹,兵車萬乘,戎卒七十二萬人,故天子稱萬乘之主焉。

 天子の畿内は、方千里で、地は百万井。六十四万井が出賦で、戎馬四万匹兵車万乗を有し、天子は万乗の君と呼ばれます。
 因みに「東夷」のいう「畿内」は、かってな盗用であり、中国視点で書かれた文書であれば「畿内」は、大逆罪に当たる不法なのです。つまり、
これは、中国から蕃王として服属を認められた東夷には、あり得ない誤用なのです。

*遠大な構想
 以上のように、周制は、尺から始まって、天子の直轄領分である一辺千里(一辺四百五十㌖)に至る倍率の階梯がきっちり規定されていて、勝手に、一部をずらすことはできない仕掛けです。
 天子直轄領は、約二十万平方㌖で、 本州島面積の約二十三万平方㌖に匹敵しますが、これは、周王朝の京畿であり、諸国所領はこれを越えているものがあったと見えます。

*秦制の意義
 秦が天下統一した後、周衰亡の原因として総括したのは、このような形式的軍制が、周辺勢力への防衛にならなかったと提起され、始皇帝は、「乗」数軍制を廃棄しましたが、周制の里規定に手を加えたり、一歩六尺を新設したのではないのです。秦国として確固たる実績のある、精緻を極めた法律や度量衡制度を全国に徹底するのが、帝国の使命とみていたのです。

 また、「里」と連動した土地面積単位として「畝」「歩」が存在しているので、いかに始皇帝でも、土地検量、税の付け替えは避けたとは思うのです。

*秦朝の里制変更
 いや、当方にも意外だったのですが、司馬法のみならず、晋書地理志自体の記事にも、秦始皇帝が里制、井田制などを改めたとの記事は無いのです。
 井田制は、単に廃止されたのでしょうが、里制は廃止できないので改定すれば記録が残るはずです。特に周制の定義が延々と引用されている以上、里制の変更だけ実施することはできないのは自明です。

 と言うことで、秦始皇帝は、周制による尺、歩、畝、里から天下に至る大系に手を加えなかったと見えるのです。
 再確認すると、秦が、それまで、自国内で施行していた諸制度を文書化して、全国に徹底したと見ることができます。

*地域短里制の消滅
~旧説の終末
 ついでながら、「倭人伝」道里記事から明確に読み取れる里制は、朝鮮半島に実施されていたかも知れません。晋代に、三韓体制と楽浪郡、帯方郡支配が崩壊し、郡の確立した戸籍、地籍の台帳は、東西に勃興した新興の新羅、百済が東西が国家制度を整備する際に利用されたとも見えます。
 あるいは、隋唐の指示に従い、現地の不規則な里制を廃し、普通里による土地制度が敷かれたかとも思われます。その結果、短里制は倭独特の「倭里」として辺境に生き残ったものの、倭の消滅と共に、日本里制に置き換えられたと見えるのです。

 以上は、本記事の初期段階では、それなりに筋が通った推測とみたのですが、以降、史料を精査した結果、これは、根拠の無い憶測にすぎず、「倭人伝」道里記事の「道里」が、地域の公的な制度として実施されていたという証拠は一切ないので、旧説『「地域里制」はなかった』と訂正することになったのです。
 魏志「東夷伝」を読む限り、後漢末期の献帝建安年間、遼東郡太守となった公孫氏が、楽浪郡南部の帯方縣に「帯方郡」を設け、南方の耕地、つまり、土地制度の確定していない領域を帯方郡の管理下に置いたと言うことは、後漢の郡太守である公孫氏が、後漢の土地制度、道里を敷いたと言う事であり、それは「普通里」に決まっているのです。それ以前と言えば、遼東郡は、秦始皇帝が置いたものであり、楽浪郡は、漢武帝が置いたものですから、秦漢代の土地制度、道里制度に基づくものでしかないのです。

 斯くして、当ブログで維持していた旧説は、終止符を打たれたのです。

                               未完

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 8/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*周里の意義 削除
 と言うことで、距離の単位としての里が周制から六倍になったという仮説と整合させる策としては、周制の里は、尺、歩から積み上げたものでなく、別の根拠を持つ、言うならば独立した単位系でなかったかということです。

*次元の違い 削除
 井と里が合同なら、里を六倍に拡大すると、下は、歩から天子領分まで倍数で定義されている全体系が連動しますから、それは不可能というものです。 
 絨毯を敷き詰めた部屋にテーブルを置いた会場で、絨毯の一角を別の場所に移すことなど不可能なのと同じです。

*同文同軌 周秦革命 削除
 周里が長さの単位(一次元)で、井(二次元)と無関係(異次元)であり、秦朝が、何かの理由で周を井に同期したのなら、同文同軌の里制変更で里程が影響されても、日常使用の歩、畝は変動せず、混乱はなかったのです。また、些細な改定ということで、里長の変更は記録に残らなかったのでしょう。

 先ほどの例で言うと、絨毯の一角が本来別物で、縫い付けられているだけであれば、そこだけ、剥がして移動できるのです。

*結論 削除
 と言うことで、経緯は不明ですが、周里が短里としても史料に書かれている周制と矛盾しないという見方です。何しろ、秦始皇帝が周制を覆してから、陳寿の三国志編纂まで五百年、房玄齢の晋書編纂まで九百年経っていたのですから、いくら公文書類と言っても、正確な伝承には限界があったし、何事も組織的に定義するとしても、全て定義できるものでもないものです。
 
 どんなものにも欠点はあるのです

*現地里制の確認
 原点に戻って、延々と模索した結果、古田氏の第一書で提示された論考と提言は、見事に構築されていたものの、その展開に於いて、根拠に欠ける作業仮説が、基礎として起用されていたものであり、不適切な部分をそぎ落とした核心だけが、ほぼ論証されたものと思います。

 即ち、「倭人伝」里制の由来は多少不確かでも、⑴現地里制を適確に示しているとする意見を覆すものでないということです。また、別系列の史料により、⑵周朝が短里を実施していたことは、ほぼ信じて良いでしょう。 この項は撤回します。
 
 晋書「地理志」から判断すると、⑶以降については、成立しないものと思いますが、以下に、可能性に乏しくとも、別史料で覆る判断かも知れないので、意識の片隅に留めておけば良いものでしょう。

 以上、一介の素人の意見ですから、別に権威はないのですがものの理屈として、筋が通っていると思うので、ご参考まで公開したものです。
 以後、少なからぬ改訂を要しましたが、できるだけ、改訂の履歴がわかるようにとどめています。

*従郡至倭の始点/終点 2024/02/07
 最近の考察によれば、「倭人」は、後漢代、東夷の管轄であった楽浪郡に参上したものであり、従って、その際に申告された道里は、雒陽から公式道里が登録されていた楽浪郡が「始点」と見られます。また、その時点で「倭」王の居処は、伊都国の国城であったものと見られます。これは、「倭人伝」で、郡からの使者は、伊都国に滞在したと書かれている点から、伊都国が公式道里の「終点」であったことは、明らかです。

 但し、その時点では、まだ、遼東郡が、帯方郡を東夷管理拠点として「倭人」を管理させる制度は発足していたなかったものの、霊帝没後の騒動もあって、楽浪郡の報告は、雒陽に届いていなかったものと見えます。
 陳寿が、西晋代に「倭人伝」の道里行程記事を集成している段階には、「始点」は、皇帝直轄の帯方郡であり、「終点」は、女王の居城となっていたと見えますが、公式史料/公文書では、行程道里の終点、始点は、あくまで、初見段階、皇帝に報告をあげた時点のものであり、実務に応じて改定されるものではなかったのです。
 陳寿は、史観の器量で、具体的な郡名、倭王居処を書かないことによって、そうした細瑾を表明しなかったと見えます。どのみち、雒陽から、帯方郡に至る公式道里は、奏上されていなくて、遂に、後年の帯方郡消滅まで、そのような記録は残されなかったのです。ここに、公式に認知されていない帯方郡を始点とする道里を書くのは、史官として、不都合なことだったのです。 

*文書送達日数/全権都督 2024/02/07
 いずれにしろ、魏制では、「郡から倭に」送られた文書は、伊都国の文書官が受領した時点で、倭に届いたとされるので、それ以後、伊都国王が受領しようが女王が受領しようが、日程管理には関係なかったと見えるのです。
 ここで、纏向説を追い詰めないように弁明すると、一度、郡との文書更新の公式規定が承認されたら、漢制/魏制として、倭の内部体制の問題似よって、伊都国王が、「幕府」を許された西方都督/全権代理であれば、帯方郡太守に対等の立場で応答しても、何の問題も無いのですから、物理的/地理的に、伊都国王(西域都督/大宰)と纏向に仮定された「大倭王」との間が、遠隔で疎遠でも、特に問題ないのです。

                               以上

倭人伝随想 9 晋書地理志に周朝短里を探る 結末 9/9 更新

               2018/10/26  2018/12/26 修正 2020/11/08 2022/06/01 2024/02/06

*当ページは、主として史料考察のために追加されたものです。

*里の起源(「釋名」劉煕:後漢)
 参考まで、冒頭で論議した釋名の「定義」を掲げます。(中国古典書電子化計劃)

 釋名:周制,九夫為井,其制似井字也。四井為邑,邑,猶悒也,邑人聚會之稱也。四邑為丘,丘,聚也。四丘為甸,甸,乘也,出兵車一乘也。

 ここまでは、司馬法と同内容です。

五家為伍,以五為名也。又謂之鄰,鄰,連也,相接連也。又曰比,相親比也。
 五鄰為里,居方一里之中也。五百家為黨,黨,長也,一聚之所尊長也。
 萬二千五百家為郷 郷,向也,眾所向也。

 以下、少々検討を加えます。
 「釋名」は、中国の州名や国名の由来を明らかにした古典書籍、一種の辞典であり、その一部の「釋州国」に、「家」、「里」などの由来が記録されています。それらの定義は、主として周代の史料から引用して集成されたものと思われます。

*里の起源 一説
 古来、つまり夏殷周の三代で、五家を「鄰」として、五鄰(二十五家)を里とし、里の一辺を「里」としたようです。ちなみに、里の首長、里長は、里の中央に社を設けて氏神を祭祀したようです。当時は、万事小振りの商(殷)代であって、憶測ですが、里は(約)15㍍で、殷を継ぐ周はそれを維持したようです。一家は15㍍四方となります。(以下、約を省略)
 このように、里は集落であり、転じて距離単位にもなったのです。

*里の変貌 一説
 夏殷周文明の影響下にあった中原諸国に比べて、遅れて文明に浴した秦は、古制にあった距離単位の里を、自国の大家族世帯の格好に合わせて、周里の六倍の450㍍とし、統一王国を築いたときにこの長里が全土に適用されたのでしょう。
 周里を適用していたであろう各国王家が滅び、「同文同軌」と共に、秦里で一新、測量されたのでしょう。里制に限らず、社会制度の根幹が一新されるのは、史上類の無い同文同軌の一大変革の際に限られるのです。
 但し、距離単位の里が六倍となったために、集落としての里は三十六倍となり、周の時代と大きくかけ離れたものになったのですが、先に述べたように、これを周の井田制という土地支給制度の「井」と合わせたので、見かけ上、周里は、秦に引き継がれたように見えたのです。

*周制の名残り 一説 削除
 朝鮮半島東夷は鄙で秦里は及ばず、周里制を維持したのでしょう。秦漢で、下級役人となった大夫が、周と同様の高官となって、東夷に残ったのと同様と思います。

*史料の検索
 古田武彦氏は、緯度ごとの太陽高度の変化に周里の定義の裏付けを求めて、75㍍程度の概数を確認したとしていますが、当ブログは、あくまで、史料に根拠を求めたのです。

▢一説の終わり
 以上は、初稿時に捻り出した言い訳ですが、以降の検討で、半ば取り下げとしています。
 2022/06/01時点では、「倭人伝」道里は、公的里制と関係しないものであり、当時、遼東で半ば自立していた郡太守公孫氏が、「倭人」を万二千里の僻遠の蕃夷として権威付けを図ったものが、公孫氏滅亡時の混乱で、魏明帝曹叡に、文字通りに上申されたものであって、実際の道里と関係無い「見立て」であったというものです。

 2024/02/06の総括としては、次の通りです。
 公孫氏の内部文書は、司馬懿によって蹂躙され、悉く廃棄されたものですが、楽浪/帯方両郡は、司馬懿軍とは別に明帝が派遣した別働隊によって、無血回収されたので、両郡公文書は、明帝の元に届けられ、公孫氏の見立てた「従郡至倭萬二千里」記事が嘉納され、「倭人伝」記事として公文書庫に収まったため、明帝没後、「倭人」事情が明らかになっても、不可侵文書として承継されたようです。
 案ずるに、倭人伝冒頭の道里行程記事は、魏志編纂にあたって、すべての公文書を精査した結果、「従郡至倭萬二千里」を温存せざるを得なかった陳寿が、郡を発した文書使が「倭」に至る所要日数/公式日程が四十日であると明記したものであり、同時代の読者/高官が、それで良しとしたため、現在の記事が正史蛮夷伝として残ったものと見ます。

 当ブログでは、「倭人伝」道里に関する設問/問題(Question)に対して、史料を読み替える必要のない善解(Solution)が整ったものと考えています。

 補足:以上では、「従郡至倭萬二千里」 の由来を、後漢献帝建安年間に、公孫氏が、遼東郡太守となり、漢武帝設置の楽浪郡を支配下としたときに、「倭人」を絶遠の蛮夷として、新たに服属を求めたものとしていますが、これは、あくまで一解であり、あるいは、それ以前、漢制で半島南部以南の東夷の監督を担当していた楽浪郡が「倭人」を絶遠の新参東夷として台帳登録していたことも考えられます。時は、桓帝、霊帝以降ということになりますが、何しろ、「倭人」に関する記録が雒陽に報告されていなかったので、「公文書記録」が欠落したと見えます。
 因みに、公孫氏が「倭人」の存在に、早々に気づいたとしても、後漢献帝の建安年間初頭、韓国以南の領域は、街道未整備の「荒れ地」であったため、取り敢えず、楽浪郡「帯方縣」を郡に昇格させて、韓国を歴て「倭人」に到る街道行程の整備取りかかっただけだったようです。
 何しろ、「倭人」に文書を送達するにも、文書使は、並みいる韓「諸国」を歴訪した上で、ようやく、倭の在る大海の北岸狗邪韓国海岸に至るのであり、倭地行程は知る由もなく、公式道里とできる確実な行程が判明するのに年数がかかったのです。
 中でも、半島中南部で、屏風のように領域を仕切っている小白山地の彼方の半島東南部の「嶺東」領域は、面積広大とは言え、未開の「荒れ地」そのものであり、辛うじて、南方の産鉄鉱山から産出する鉄を、帯方郡に納付する任務を与えたものの、郡街道として定着するまでには、年数を要したようです。
 そんなこんなで、何とか、三世紀当時の帯方郡文書使の服務規程を察することができたのです。

                             以上

2024年2月 6日 (火)

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 1/2 三掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊 記2019/02/17 再掲2020/11/11 2024/02/06
私の見立て ★★★★☆ 重要 

◯はじめに
 本論は、論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きましたが。粗略はないものと信じます。

8.「短里」の成立と漢字の起源
*礼記論
 小見出しで礼記」「礼記正義」に見る「古尺」と「周尺」と謳いだしながら、「古尺」と「周尺」が要領を得ません。どうも、原史料の解釈がずれているようです。「礼記」を見る限り、周尺は、古来の尺のままと書かれていて、氏の読みとずれているように見えます。

 「古」は、周以前、殷代のことですが、それ自体、特に異論はありません。「古尺は一尺八寸、周は八尺一歩なので、一歩は、六十四寸です。礼記正義も、同様に書いています」と言い立てますが、要は、「周朝短里」が、国家制度として存在しなかったことになるのです。

 晋書地理志に引用された司馬法にも、そのように明記されています。

*反転
 ところが、氏は、「礼記」の疏に「十寸為尺」とあることを根拠に、以上の定義を無視して、この記述を優先するのです。何のために、礼記正義の本文を引用して解説していたのか、不可解です明記されていないが、周代を通じて、変化があったとの見方のようです。しかし、肝心の「寸」の定義が欠けているから、「尺」が変わったのか変わらなかったのか不明です。「尺」は、日常参照されるので、原器を作るほどであり、「尺」を突然切り替えるのは、混乱、社会不安を煽るものと見えます。
 それとは別に、発掘遺物から、殷尺は、周尺より二十㌫程度短いとされているものの、「尺」の物差遺物はあったが、「里」の物差遺物は存在しないようです。

*単位系混乱論
 氏は、古代中国では、丈、尺、寸の「手の系」と里、歩の「足の系」の二つの単位系が混在して、換算する必要が生じる」ことを理由に、両系の統一が行われたと見ていますが、何か勘違いしているようです。

 「丈」は、山の高さにまで用いられて、千㍍を越えることもあり、詩的表現で「万丈の山」と謳われますが、それは、距離/道のりの単位の「里」とは別の単位系、云うならば「寸法」系です。例えば、山高を「里」ということはなかったのです。 

 両単位系のものを同じ用途に適用すれば当然混乱しますが、そのような用例は見かけません。つまり、それぞれの専門分野に籠もっていたので、混用/混同は発生せず、きれいに棲み分けていたのです。それが、古代文明に対する合理的な見方というものです。

*始皇帝度量衡統一の範囲
 氏が語られるように、秦始皇帝は、度量衡統一を公布しましたが、自国などの周制逸脱で、「中国」全体の単位系が混在した(かも知れない)ものを、「周制に忠実であった秦制に統一した」の「ではない」と思われます。いや、そもそも、各国が、周制から勝手に逸脱したとは言い切れないのです。もともと統一されていた制度を、始皇帝の命によって確立したのかも知れません。
 わからないことはわからないのです。

 始皇帝の意図を、後世の東夷のものが拝察すると、それまで棲み分けていた単位系の一方を、強引に他方に合わせれば日常単位が大変混乱しますから、広大な帝国を一律支配するのが至上目的であった始皇帝は、そんなつまらないことはしなかったのです。

                             未完

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 2/2 三掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊   記2019/02/17 再掲2020/11/11 2024/02/06
私の見立て ★★★★☆ 重要 

*無意味な例証
 注釈(7)に「九章算術」(勾股)の問題と回答が例示され、これを解くには、丈里換算が必要と書かれていますが、これは氏の誤解です。
 実際は、求める山高(丈)が、近傍の木高(丈)の何倍かを求める計算であり、山・木・人の「離度」は、計算式で相殺され「無次元」になっているので、短里、長里、現代の公里のどの里制でも、丈尺で求める山高計算に一切関係しないのです。
 ここで、現代風に図解すると、直感的に単位混在と見えてしまうのですが、当時、図解の弊風はなく、「丈尺」と「里」は、別ものと知れているので、明快なのです。
 本題で誤解が生じるとすれば、それは、図解された図上の測定単位は同一であるべきだ」という理念によるものであり、古代の当時、そのような図解の弊害は知れていたからなのか、図解は採用されていなくて、解答、解説は、文字のみです。

有山居木西、不知其高。山居木五十三里、木高九丈五尺。人立木東三里、望木末適與山峰斜平。人目高七尺。問山高幾何。
答曰 一百六十四丈九尺六寸、太半寸
術曰 置木高減人目高七尺、餘、以乗五十三里為實。以人居木三里為法。實如法而一、所得、加木高即山高。

 本題は尺里換算など不要な数学演習であり、それで誤解されなかったということは、尺寸と道里の単位系使い分けが厳然と行われていて、混乱がなかったという状況証拠であり、本題に依存する本論の里制変更仮説は根拠を失うのです

*文帝明帝相克~幻想の終焉
 氏は、曹魏第一代皇帝文帝曹丕に「里制変更」帝詔を求めてその形跡を見いだせ、後継した明帝紀の改暦記事/帝詔につけを回そうとしたようですが、記事を拡大解釈するなどの禁じ手を使わないと証拠を言い立てられなかったようです。それは、論証に使えない臆測でしかないのです。

 確かに、明帝曹叡は、武帝曹操、文帝曹丕がなし得なかった「新たな創業」を歴史に刻もうと、三国鼎立の戦時に拘わらず、多大な国費を費消して新宮殿を造営していた」ようですが、そのような情勢で、国家の存立を危うくする里制改革など、一切目論んでいなかったと見えます。当時、皇帝は絶対的権威を持っていたものの、気骨のある重臣は、皇帝の暴政に対して、生命を危うくする諫言を上奏していますが、皇帝の里制改革に対して諌止奏上した例はないのです。また、国内各地で発生したであろう反抗も記録されていないのです。
 更に決定的なのは、正史である晋書に、そのような変革が魏朝から継承され、晋朝で廃止されたとの記録も、一切ないのです。
 特に、晋書「地理志」は、周代以来の諸制度変遷を通観、回顧していますが、魏朝に於いて、全国里制が改革されたとの記事はないのです。

 氏は、『明帝時に里制変更があったという記事が無くても「なかった」と言い切れない』と強弁していますが、里制変更記事が、魏晋代正史になかったとしても、実際に「なかった」と「絶対に断定できない」』となれば、もはや、それは史学ではないのです。

*最後の最後

 正木氏は、本論に不退転の意気で取り組んでいるらしく、記録のある「三百歩一里制」が、周朝以降長く実施されたと云いつつ、殷代記録がないのを良いことに、それ以前は、別の里制が敷かれていたと無法に主張するのです。
 殷代半ばになると、突然、文字史料が発見されていますから、それ以降の国家制度については、推察することができますが、それ以前の制度「殷制」(商制)は、何も史料がないので、そもそも、制度が実在、実施行されていたかどうか不明なのです。殷は、武力平定主義と見えますから、実力行使したものの、殷制の普及、文字、計数の教育浸透など、未開諸国の教育馴化に取り組んだとは見えないのです。

 考えるに、周は、文明未開、無文の種族が、何れかの時点で、殷の臣下となって、開明し、ついに「西伯」と呼ばれる高官の地位に就いたから、国内制度は殷制に従っていたと考えるべきです。また、殷の文字を授かった以上、殷暦と殷制を遵守するように強いられていたはずです。かってに、里制を定めることなど、許されていなかったはずです。

 殷周革命、克殷というものの「すべて殷制のお下がりであった」はずです。と言うことで、殷周革命の後、里制改廃などなかったと見るべきです。

 氏は、殷代里制なる大胆な仮説は「可能性が高い」無根拠で確信されているようですが、『正史、ないしは、正史に準じる文献資料は、書かれているままに読解く』と云う史学の基本原理を失念されたように見えます。もちろん、可能性は皆無ではないので、それが0.001であろうと、感性で「高い」と見るのは、その人次第であり、余人の口を挟むことではないのは承知していますが、何か、途方もない考え違いをされているとしか見えないのです。

 氏は、最後の最後に捨て台詞を残されていて、未発見の周代物差しなどが発見されたら、確証の不足は解消するとか、果ては、遺物が出れば、いつ「短里」が廃止されたのかまで判明するから、それ以前には短里が敷かれていたと実証できるという、どこかで聞いたような「タラレバ」山師論に堕して見え、痛々しいのです。
 国家制度の施行/改廃に関する公文書史料がないまま、仮想した「周代物差し」や架空の遺物が露呈しても、それは、文字史料に支持されない虚妄に過ぎず、そのような虚妄は、史学に反するので、早々に/あるいは、あらかじめ捨て去るべきでしょう。

                                完

2024年2月 2日 (金)

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 1/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/03

〇はじめに
 毎日新聞古代史記事のお勧めで入手、熟読したが、片岡氏の意見は「倭人伝」勝手改訂を引き摺って、いきなり低迷しているのが、難である。
 考古学が、発掘遺跡、遺物の現物、現場から出発するように、文献学は「倭人伝」原文から出発すべきである。氏が依拠している訳文は、遺憾ながら「前世紀の遺物」であり、「新視点」を謳うなら、手指を洗い、顔を洗い、清浄な「足元」を確保した上で、出発点を刷新すべきである。
 なお、入手困難な本書より、さらに困難な前著は、取り敢えず未読である。

*造語の弁解
 氏は、「性格」なる「ユニーク」な用語(「独特」であるとの美点としての指摘であり、決して俗用されているような非難/蔑称では無い)について弁解されているが、世間で通用している単語に、自分なりの特異な意義を付するのは、読者に意図が伝わらず誤解を誘うので、甚だ不適当である。言うならば「出版社編集部が、体を張ってでも止めるべき」ものである。
 それにつけても、「イメージ」は、読む人ごとに解釈が異なるとんでもなく「たちの悪いカタカナ言葉」であるのに、そこまでしても適例を示していないのは、折角、氏が構築した論理が読者に的確に伝わらない可能性が無視できないので、くれぐれも自省頂きたいものである。

*依拠資料の誤認
 既に触れたように、本史論で重大なのは、「倭人伝が語る」と銘打ちながら、「倭人伝」原文でなく筑摩書房刊の「世界古典文学全集 三国志Ⅱ 魏書⑵ 今鷹真他訳以下「筑摩本」に依拠していて、読者に誤認させる虚偽表示である。さらには、同書から離れて、独自の夢想世界に迷い込んでいる諸兄姉の独特の解釈に影響されているのは、誠に、残念である。
 史書訳文は、「絶対に」原文そのものでない』。それに加えて、当ブログで検証に努めていたように、凡そ世にある「倭人伝」翻訳は、ほぼすべてが、訳文を、国内古代史「俗説」に沿うように力まかせに撓めていると認められる。何しろ、陳寿の同時代人が有していた世界観を有していない二千年後の後生の無教養な東夷の解釋が横行していると見え、とても、そのまま、文献解釈の基礎とできないように見えるのである。
 ここでは、世上溢れている「現代語訳倭人伝」を総じて批判しているだけであり、妥当な見識に基づく、妥当な飜訳を、はなから批判しているわけではない。聞き分けてたいただければ幸いである。
 倭人伝」の現代語文への「翻訳」は現代創作物であり、例えば、筑摩本は、今鷹氏他が著作権を有する現代著作物であり、偉大な創作である。
 史料翻訳は、付注して原文からの乖離を示すべきだが、とかく翻訳は、訳者の書き足した文字を埋め込んでいて、原文が読み取れないと見えてしまう。つまり、学術的でない。(筆勢に任せて、「飜訳」を罵倒したことは、慚愧に堪えないが、ここでは、極力改竄せずに原記事を維持している)
 片岡氏が、倭人伝準拠の古代史論を説くのなら、原文に密着した漢文解釈から開始すべきであって、翻訳は、あくまで参考にとどめるものではないだろうか。要するに、業界儀礼を離れて欲しいものである。タイトルに裏切られて不満である。
 なお、当記事は、筑摩本が原史料を偽っていると称しているのでないことをご理解頂きたい。単に、「飜訳は、原史料そのものでない」と確認しているだけである。

*やまと言葉の塗りつけ
 なぜそのようなことを言い立てるかというと、筑摩本をひっとうとした「現代語訳」は、素人目には、「なら盆地」中心の世界観に基づき、俗耳に訴えるべく「造作されている」ように見えるからである。それは、訳者の本意では無いだろうが、素人目には、諸所で原文から遊離しているのである。
 筑摩本で如実なのは、冒頭の「倭人」の「わびと」ルビである。訓読ふりがなは、三世紀当時存在せず、時代錯誤、学術的な偽りでしかない。また、ふりがなの主旨は、「倭人」は後世の「倭」とは単にひとの意の「人」の意図らしいが、原文解釈上無理である。
 魏書編者陳寿は、「倭人」を格別の、つまり「比類なき」蛮夷と認知したから、魏書の掉尾に伝を立てたのであり、当然、知る由もない「訓読」など存外であるから、その真意は、「倭人」の典拠を探るしか無いのである。
 いや、片岡氏は、そのような主張をしていないと言うだろうが、筑摩本を「倭人伝」と見なすのは、「わびと」史料観に従属していると言うことである。

*無理を通す話 事実考証の試み
 俗説の確認として、景初倭使が、何年のことかと論じたくても、ならやまと国家が、『「倭人伝」に明記されているように、景初二年六月に帯方郡に到着するように使節を派遣する』のは、到底不可能である。そのため、俗説関係者は挙(こぞ)って景初三年と読み替えるが、事実考証を図ると、そのような延命策は不毛である。
 景初二年八月に遼東郡を壊滅させた後の十月頃に両郡接収したとすると、翌三年六月まで八ヵ月しかない。三世紀、帯方郡となら盆地の間、約千三百公里(㌔㍍)を、騎馬無しの純歩行で片道四ヵ月で踏破したということを主張していることになる。
 既に、長年に亘り宿駅整備されていた半島内官道をよそに、いつ着くともわからない半島沿岸連漕と想定しているから、底なしの無法である。それにしても、当時の中四国経由は、道も何も無い蛮境の遠大な距離だが、どうやって踏破したのだろうか。何しろ、瀬戸内海北岸の東西航行は、難所の連続であり、三世紀時点では、連続道はなかったのであるから、一段と「急遽移動」は不可能なのである。

 とは言え、景初二年六月は、さらに不可能であるから、俗説は、史書誤記を提示して、景初三年六月を採り、後は言わない。同年元旦に明帝曹叡が逝去、新帝即位と言うも、改元は翌年であり景初が維持されていた背景があるが、日本書紀「神功紀」の追記文を見ても分かるように、教養豊かな書紀編者は、皇帝逝去による変動をご存知なかったと見えるのである。「明帝景初三年」なる不法な字句は、馬脚を現していると言える。恐らく、この部分は、書紀本文の公開後、魏志等の所引を入手して、急遽、無教養な編集者が、識者の校正無しに、貼り付けたものと見える。そうとでも思わなければ、辻褄が合わない。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 2/3

「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*景初二年説の精査
 では、早々に棄却された景初二年説に成立の余地はないのだろうか。
 ここに筑摩本の難点が露呈する。遼東征伐に付随して半島西岸に「密かに」渡海し、両郡を「回収」したと書いている。戦後処理と見ている方が少なくないが、それなら「密か」に行う必要はない。司馬懿部隊の遼東攻撃以前に、事前に郡太守を洛陽官人にすげ替え、無血で両郡平定したと見るのが合理的である。平定は交通困難な厳冬期であったため、遼東太守は、両郡喪失に気づかなかったかと思われる。

*深刻な訳文「誤解」
 ちなみに、筑摩本は、原文の「又」を「さらに」と訳している。「又」は、あることがあって次に別のことがあってと云う時間経過が意味されている例時間の経過に触れず、単に、二つのことが同時期にあったと示している例とが見られる。大抵見過ごされているが、実は、大変大事なことで、日本語の「さらに」も、同様に、両様の意味があるとわかるのである。
 要するに、読者は、自身の限定された語彙に頼って「さらに」の解釈を一方に決め付けるのでなく、両様の意味のどちら味か、読者は、文脈、文意から判断することを求められているのである。
 世上、この程度の解釈を、いわば粗雑に行っている論者に依拠されているのは、みっともないものである。
 この点、ここまで、筑摩本訳者の高度な配慮を見過ごしていて失礼な発言を重ねているので、ここで、深く謝罪したいところである。

 翻訳文を的確に理解する能力/教養がないと、正しい訳文を誤解してしまうという教訓である。せめて、勝手に決め込まずに、辞書を引くことである。

*疾駆参上の背景
 帯方郡を収めた魏朝は、郡の東夷台帳で最遠の「倭人」に早速の参上を命じたと見る。
 世上、倭女王が、遼東郡、帯方郡の変事を察知した」などと、途轍もないおとぎ話に仕立てている例が多いが、普通に考えれば、新任の郡太守が、急使でもって通達/指示したと見るものではないか。倭女王も、いきなり参上を命じられ、即応したと見るのである。何しろ、公孫氏が滅ぼされるような大軍であるから、即応しないと、次は討伐されると畏れるはずである。

 倭人は、遅滞なく参上すれば、公孫氏に連座して滅ぼされることはなく、逆に、あるいは、絶大な功として皇帝奏上するとの通達に応じて、好機を逃さず即応したと見える。郡命であるから、途中の関所は全て無事通過し、官道宿駅は、官費でもてなしたはずである。

 以上は、景初遣使なる蕃客への多大な下賜物と帝詔の背景として妥当と見えるのである。
 後漢から禅譲を受けて、諸制度を継承した曹魏は、曹操が再興した法治国家であるから、訳もなく厚遇しないのである。

*「倭人伝」語りの「倭人伝」知らず
 俗説の「倭人伝」誤記説は、なべて言うと「ならやまと」説救済のために、衆知を集めて創出した牽強付会と疑われるから、無批判に追従、原文改竄することはできない。正史として承認された「倭人伝」を改竄するには、厳密な史料批判を経た史料が必要である。

 片岡氏には、「倭人伝」誤記説に従う原文改訂を採用するに際しては、俗説に無批判に追従したり、「論者の人数を数えて大に事える」などしたりするのでなく、論理的な批判を加えた上で納得できる議論を戴きたいものである。

 氏の本領たる考古学考察は、十分資料批判を経ていると信を置くが、「倭人伝」文章解釈が、他人の意見の無批判追従で非科学的では「曲解」の産物と見ざるを得ない。

*禁断の性格批判
 「賢い鳥は止まる樹を選ぶ」は古人の説くところである。片岡氏ほど道理を弁えた方が「倭人伝が語る」と銘打ちつつ、倭人伝」ならぬ既存の俗説を止まり樹としているのは勿体ない。また、参考資料に「九州説」二大論客、安本美典、古田武彦両氏著作が見当たらないのも疑問である。

 本書に具現化された「性格」から、氏が歴史科学者の資質に欠けると見られるのは、氏が、学会人、組織人として、筆を撓めて著述しているからだろう。古代史学業界では、考古学者は、文書解釈で専門家に追従するのが不文律と感じる。氏も、やむなく保身しているのだろうか。学術的な見地からは、俗説迎合で素人批判に耐えない著作は、業績として相応しくないとみる。

 念を入れると、ここでは、氏の考古学考察を批判しているのではない。国内古代史の視点から「倭人伝」に造作を加えている「現代語訳」、「現代解釈」に基礎を置いている不都合を指摘しているのである。

*「近畿」綺譚~「中和」提唱
 「畿内」に異議を示す一方、「近畿」を受け入れるのも筋の通らない話である。「近畿」は「王幾」から発し、「畿内」とちょぼちょぼである。まして、「近畿」の「イメージ」は多様である。伊勢神宮の後座する三重県が近畿かどうか、議論の絶えないところである。

 奈良盆地は、ほぼ一貫してヤマトと呼ばれたなら「ならやまと」で十分ではないか。それで範囲が合わないのであれば、南北記法で言う「中和」(中部大和)が一案である。
 いや、「古代史学界」が、確固たる定見を示さないのが問題なのである。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」追補 3/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊
 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02 追補 2023/01/16 2024/02/02

*世襲・禅譲と革命
 本書の由来を物語るのは、このけったいな用語談義である。
 氏は、正史の意義を理解してないようである。帝都長安を脱出し流亡の皇帝後漢献帝が、曹操の庇護のもと面目を回復し、後に継嗣曹丕に天子を譲ったのは妥当な権力継承である。氏は曲がりくねった消化不良の言い回しを採用しているが、禅譲は、後漢皇帝が行った堂々たる国事行為であり、留保は必要ない。
 因みに、漢を再興した光武帝劉秀は、王莽の禅譲を受けたものではない。(いや、書き漏らしたが、王莽は、反乱軍赤眉に打倒されたのであって、劉秀は、王莽亡き後の混沌を制し天命を得たから、「正しい形式を経て漢の皇帝から天子を譲られ正統な皇帝となった王莽を不法に打倒したのではない」と見られるのではないか。いや、このあたりは素人には判断が難しい)

 司馬晋が「魏からの権力奪取を正当化」したと言うが、魏書編纂の姑息な正当化は不要である。衰弱した魏帝が、最後の国事行為として晋帝に譲位したことは、天下公知、当然だったのである。そして、「禅譲」の結果、重臣、高官は、下級官人に至るまで、そっくりそのまま晋に移行したのである。晋代に到っても、魏代の法令、通達は有効であり、各官庁の公文書も、順当に移行したのである。要するに、「皇帝」天子が交代しただけなのである。それが「禅譲」である。「革命」と言っても、天命の行き先が変わっただけであり、それは、氏の言う「権力奪取」とは、別次元のことである。氏の思い描いている「革命」は、状況も実態も異なる後世概念であり、中国古代史を語る際には場違いである。全くのところ、時代錯誤である。よく勉強して欲しいものである。
 いや、太古に「殷」(商)は、家臣であったとされる「周」に攻め滅ぼされて、天子は首を失い、天命が革まったのであるが、それ以降、随分長い間「革命」は、踏襲されなかったのである。
 して見ると、片岡氏には、古代史料読解が任に余ることは理解できる。

*「倭人伝」解釈の常道
 『「倭人伝」は、古代中国人が古代中国人のために書いた著作』であるから、そのように読解すべきだとか、倭人伝は魏書の一部であるから魏書全体を見た上で読解すべきだとか、無理難題の教訓が見られるが、氏のような見当違いの意見の横行が目に余ったと思われる真意を察するべきである。
 翻訳は、遥かな山々を居間のこたつに引き寄せるが、何らかの手法で「情報」の全てを取り込んでも、それは、現地そのものではない。

*「傀儡」という無様な比喩
 二度登場する「傀儡」は、業界通念だろうが廃語をお勧めする。時代錯誤を棄てれば、歴史の実相が、一段と正確に読み取れるはずである。
 献帝を曹操の傀儡と言うが、片岡氏は、ご自身で傀儡を操れるのだろうか。人形浄瑠璃、糸操り人形芝居など、所作や表情に生命が通じていて、とても、人形遣いの意のままと思えない。それが、芸術というものである。人は、そうした様を楽しんでいるのであり、操り手の妙技を鑑賞しているのではない。誰が言い始め蔓延したか、大変できの悪い比喩である。
 古代当時、形式に絶大な意義があり、天子は天子で、「実権」論は、関係者の隠語だったのである。曹操の理念は、成文法をもって帝国を律するもので「名のみの皇帝」と言うはずがない。一度、よくよく考え直していただきたいものである。

*君主裁可の形
 平安時代の「関白」は、臣下が上奏した議案は、全て関白があずかって稟否し、天皇は追認したという。曹操も同様ではないか。
 皇帝は、曹操の決定を皇帝裁可し、はんこ押しであっても、あえて、芸術的な「操り人形」になったのではないか。どの道、大抵、皇帝は、上申事案を、添付書通りに裁可、つまり、「そうせよ」と決したのである。「皇帝専政」と一口で言っても、実相は多様である。
 今日の官庁、企業で、大抵、起案者の書いた通りに、決裁権限者の裁可、稟議決裁が下りるからといって、決裁者は傀儡ではない(はずであるが、実態は知らない)。

*陳腐と伝統
 陳腐な比喩は、唱えた人間の安直さと追従者の更なる安直さを偲ばせるものである。場違いな比喩で、自身の品格を落とさないようにしたいものである。
 原点に還ると、古代史料の解読は、その史料の著者、当時の読者の属する言語、倫理に即して解釈するしかないのであり、当時存在しなかった言語、倫理を唱えるのは、徒労なのである。

 倭人伝」から始める』総合的な論考は、考古学、文献史学の両要件を満たしたものとすべきである、と愚考する次第である。

                                以上

2024年2月 1日 (木)

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 1/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11 2024/02/01

〇総評
 公共放送であるNHKの古代史番組が泥沼に這っているとの噂があるが、同番組は、古墳ブームを仕掛けたと目される功労者「歴博」の独演会に堕していて情けないのである。古墳時代は専攻外であるが、もののついでのように「倭人伝」を毀損しているので、論じないわけには行かないのである。

*番組紹介 公平のためにNHKサイトから引用 句読点編集あり
 今、古墳が熱い!世界遺産に登録された大阪の巨大古墳のほかにも、全国には魅力的な姿かたち、ミステリアスな古代のロマンに満ちた古墳がいっぱい。そのえりすぐりを紹介!
 沸騰する「お城」人気に続いて、今、熱いまなざしが向けられているのが「古墳」。ステキなのは世界遺産に登録された巨大古墳だけじゃない。全国にはユニークな姿かたちをしていたり、古代のロマンに満ちた古墳がたくさん。純粋にその「カワイサ」に夢中になる古墳女子も続々出現しています。今回は全国に無数にある古墳の中から、えりすぐりを6つ紹介。その中から「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳」を選び出します。
【司会】恵俊彰、赤木野々花 【出演】苅谷俊介、笑い飯、哲夫、堀口茉純、
  国立歴史民俗博物館教授…松木武彦、京都美術工芸大学教授…村上隆

*歴博独演会
 国立歴史民俗博物館(以下「歴博」)が教育機関でもあるという事か、松木教授登場の趣旨は不明である。国立博物館機関を代表する権威と解すべきか。

*異議連発
 当番組は、単なる古墳紹介と見て録画設定せず、あまり注目してなかったがトンデモ発言で注視した。別番組の古代史素人の磯田道史氏の失言はともかく、古代史権威たるべき歴博教授の口から堂々と放たれた虚言である。
 三世紀に、全国に古墳が開始し、一斉に同形態の古墳が広がったなど、大量生産風説が蔓延している。当時の「全国」は、奈良盆地一帯も怪しいが、列島各地を「全国」とは、言うならば、子供だましの口車なのだろうか。

*古墳数え遊び
 早々に見せたように、堺空撮で古墳と見えるのは、精々5,6件で、残りは、眼に止まらない砂粒である。それを逐一数えるのはどういう趣旨なのか、コンビニの全国店舗数を引き合いに出すのは、どういう意味か。誠にうさん臭い。

*一斉造成妄想
 中央権力による造成は子供だましだろう。それぞれの古墳の造墓は、その都度、その土地で、誰かが提唱し、図面を引き、人と物を集め、一から十まで指導したのである。並行して集団派遣できるように、多くの造墓者集団を養成した上で、各地にそれぞれ派遣し、各地で同時に造成したと見るものと思う。ことは、政治権力の問題ではない。古墳は、帝王が片手で作るのでなく、造墓技術者集団と現地募集の労務者が作るのである。
 全国で一千を超える数であるから、十集団が取り組んで、それぞれ十年以上かけるとしたら、遙か後年まで、いや、ひょっとしたら今でも造成が続いている計算である。そういえば、堺地域のとある古墳には、鉄筋橋梁が世界遺産の一部として遺跡保存されていると言うから、冗談ですまないのかも知れない。
 してみると、強力な中央権力も、崇高な宗教性も、堅実な考古学に無縁の無根拠、未検証の仮説、風説と懸念される。

 と勝手に言うものの、解説の歴博教授松木武彦氏は、学術だけでなく、広報教宣担当、歴博聖戦の首席参謀も兼務なのか、軽々と話しを転がしていて、なじめないのである。

*視聴者誤認も時事報道の成果か
 思うに、このような特定宗派荷担は、報道機関体質なのか。新説、新発見のNHK報道は、大抵提唱者に載せられたフェイクとの噂がある。
 近年、NHK古代史番組で機械仕掛フェイクを俗耳に押しつける番組作りが蔓延しているが、風説報道を戒める経営委員会の指導はないのか。因みに、過去、フェイク報道批判には、その時点での時事報道と弁明している。

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK 「あなたも絶対行きたくなる!ミステリアス古墳スペシャル」 補充 2/2

 放送 2020年3月24日 よる10時 総合 NHKG
 私の見立て ☆☆☆☆☆☆ 独善の虚説、「フェイク」        2020/03/25 補充 2022/10/11 2024/02/01

*無意味な若者迎合 
 番組は、にぎやかに囃し立てて、うまく人選された、悪乗り得意な、定見のない若者を乗せているが、それは、医薬品などの通販広告に時にある「教授」の囃し立て、個人的感想による印象操作手口ではないのだろうか。それは、公共放送の番組に相応しくない。NHK内部に番組審査機能はないのだろうか。

*頑固な背教者
 三世紀早々に古墳造成開始、全国一律形態と言いながら、東北独自に「前方後方墳」はどういう趣旨か。中央に宗教的権威があるなら、なぜ、背教者は討伐されなかったか。素人目には、中央より先に造墓技術が存在した「先進性」を見るのである。

*唐突な「倭人伝」援用
 その後に、「古墳」は、三世紀早々に確立していて、倭の女王卑弥呼はその様式で埋葬された』と、しれっとして言い放って唐突である。ここで、なぜ、ここに来て、「信用のおけない」(そこまで、そう見て無視していたらしい)外国文献史料を持ち出すのか、うさん臭い話しである。しかも、倭人伝」の記事全体を丁寧に読んだら、そのような埋葬は書かれていないのではないか。

*廃品再生した銅鏡論
 銅鏡談義で、太古、「倭人伝」誤解釈を支えた輸入品説が、学問的棄却を克服(無視)して新装されているのは困ったものである。スズメ百までということか。
 広く配布したはずの銅鏡が、特定の古墳に多数埋設されているのはどういうことなのか。その何倍もの数を、各地に配布して地上に残したというのか。簡単な問いだが、想定外なのか、そうした当然の質問もなければ、回答もない。
 教師は教鞭を振るい、生徒は無批判のスズメの学校」の趣向である。いや、これは、Eテレの教育番組ではないから、思いつきで何を言ってもいいということなのか。

*魔鏡乱入
 本筋と無関係の魔鏡が、古墳考察の本筋と脈略なしに、突然舞い込んでくるのは、歴博の広報戦略か。この議論は、安本美典氏が手厳しく批判しているのだが、何の反応も反省も無く、的外れな実験模様を再生しているのである。
 魔鏡の研ぎ出しと言うが、新鋳銅鏡は所望の輝きがあるから、強力研磨しないのではないか。なぜ、裏面の影響が出るほど研ぎまくるのか。
 魏晋朝にすれば、蛮人にくれてやる旧鏡を、百枚にわたって精巧仕上する謂れはない。関係者はみんな、宮殿装飾品の新作などで忙しいのである。銅素材も、どこでも掘れば沸いてくると言うものではない。
 一部説のように、新作でなく、宮廷倉庫に眠る後漢代の小振りな鏡を動員したのであれば、ここに上げられたような盛大な演出は無関係、無縁である。
 いや、この形式の鏡は、国産の新作と理解しているから、魏朝下賜物銅鏡百枚と魔鏡は全く関係無いとの前提なのかも知れないが、そうは聞こえない紛らわしい言い方であった。但し、出演者からの追求/突っ込みはなかったから、話は通じていたのかとも思えるのである。(展開は、台本次第と言うことか)

 いや、理科実験は理科実験として、その発想と努力をねぎらうとしても、考古学の上で、ここに取り出された魔鏡が、古墳の全国展開に対してどんな意義を持っているのか、よくわからないのである。もちろん、一流の人材が見たところ、絶大な意義があるから、このように唐突に発表したのだろうが、見ていてその趣向が理解できなかった。番組構成上、何か失敗しているのではないか。

*幻の銅鏡国産工房
 以前から思っているのだが、国内の何れかの交通至便な、つまり、物資輸送に適した工房で、これほど大型の銅鏡が、大量に営々と作られたと思えるのだが、そうした銅鏡工房の遺跡は、畿内のどこかにに見つかったのだろうか。
 素人考えでは、奈良盆地の北、淀川水系に即した木津や後の恭仁京あたりに遺跡が眠っているように思うのである。

 当然のことなのだが、念のため補足すると、銅鏡製作には、大量の銅素材以外に燃料とか鋳型の素材とかも、大量に必要であり、また、銅鋳物の型を構想し、試作を繰り返して改善するなど、芸術的に彫り上げる工人以外に、型を実作する職人、坩堝に火を焚いて銅を溶かす職人、さらには。銅鏡を鋳造する工程の汗かき、力技職人、上がった鏡の仕上げ職人、輸送用の木箱や柳籠を編み上げて作る職人、詰めものする職人、そして、川船までの運びやなどなどの多数の汗っかき役以外に、全体の資材管理、日程管理、職人の出欠管理などに加えて、どんな通貨があったにしても、銭勘定は必要だし、結局、近現代の町工場なみの経理、営業、購買などの管理が必要であり、魔鏡ごっこなど物の数ではないのである。こう考えると、何も遺物が残らない謂れはないと思う。

*新陳代謝幻想
 新説をでっちあげ、永年墨守してきた旧説を淘汰、棄却するのは、「進化」の常道だが、古代史の世界で、本当にそれでいいのだろうか。新構造、新材料登場で旧式、旧材料が、敝衣の如く遺棄される業界ではないのである。

*戦線放棄、敵前逃亡
 古墳に多額の国費を注ぐ以上、世に訴え支持を得る使命感には深く同情するが、外連(けれん)と虚構(うそ)で、長年、全国各地で考古学の活動に勤しんできた先人が確立した貴重な定見を排除するのは、罪深いフェイクである。目的は手段を正当化しない。恥を知るべきである。
 「倭人伝」解釈で、「邪馬台国」誤記説に、命がけで固執した「畿内説」の面々が、鬱屈した敗勢に耐えきれずなのか、使命観に目覚めたのか、新時代になって、倭人伝」を単なるできの悪い外国史料として棄却する戦略に転進したのは、何とも、いたましいものがある。

*取り残された誤記論
 そのような参謀本部の転進では、論争最前線で「倭人伝」誤記説にこだわって「畿内説」を死守する良識派は、今回の番組で「見捨てられた」と感じるのではないか。倭人伝」は、古墳新説の聖戦の前には、埋もれた古戦場に過ぎないのか。

〇まとめ
 「最後の聖戦」キャンペーンに血道を上げる歴博はどこに向かうのだろうか。
 いずれは、三世紀に「中央政権」が古墳を全国展開したのなら、遡って、後漢光武帝遣使の倭奴国も管理下にあったと称するのだろうか。わらべ唄のようにずり下がった「しましまパンツ」をずり上げるプロレスラーは、これからは頭が隠れるまでずり上げるのか。
 古墳時代観の低落は、どこで止まるのだろうか。

 それより、地に足のついた、泥臭い考古学考証が必要と思うのである。

                                以上

私の意見 倭人伝「之所都」の謎 再掲

                           2022/01/21 2024/02/01
〇はじめに
 「倭人伝」の「之所都」解釈の同業各派を通じて広く信じられている「通説」は、陳寿の真意ではないようである。
 「之」に続くのは、本来一字であり、二字句を続けている例は希である。「所都」は、「都とする所」と解するかどうかは別として、二字句に見える。勘定が合わない。
 つまり、順当な解釈は、「之所都」と続けず、「之所」で区切るのである。
 正史夷蕃伝である「倭人伝」は、国王/国主の居城を明記することが求められているが、道里行程記事で行きついた後、女王居処が「邪馬壹国」であると明記され、全所要日数が確認された上で、初めて一段落できるのである。

*魏志の権威
 但し、後世文筆家は、言わば、早とちりで魏志「倭人伝」に「之所都」用例を見て追従したようである。正史「魏志」の権威は絶大で、以後、各代の史学者は、「倭人伝」を典拠としたようである。
 世間には、「倭人伝」を独立した「本」(日本語)と誤解することがあるが、あくまで、魏志第三十巻掉尾であり、魏志の一翼としての「権威」を身に纏っているので、二千字といえども「小冊子」と侮ってはならない。「所都」の典拠となったのは、誤解であろうと何であろうと、そのような権威の故である。
 用例検索の結果、「之所都」に、精査に耐える有効な前例はなかったのである。また、「所都」の「都」は、漢魏代では、蕃王居処に不適切であり、周秦漢魏と継承されていた「古典教養」を継承していた西晋に於いて史官の職に任じられていた陳寿には、当然、そのような意図は、一切なかったのである。
 「古典教養」の継承がいったん断裂した後世の類書編者は、古典書に不案内で「都」の禁制など身についていなかったから、無造作に「女王之所都」と読んだのである。太平御覧など類書の所引は、倭人伝の深意を探る「掘り下げ」など念頭に無く、ぱっと見の早呑み込みなので、当たり外れが、激しいのである。外すときは、従って、大きく外すのである。と言うことで、中国史学会の見解といえども、時にあてにしてはならないものがあるのである。まして、後世東夷の無教養な「史学者」の見解は、三度読みなおして、威儀を正すべきなのである。
 ここでも、各種字書、用例の継ぎ接ぎ細工に頼るのでなく、「倭人伝」の適確な解釈は、陳寿の真意を察するのが正解への唯一の道なのである。くれぐれも、裏街道、抜け道、禽鹿の径の類いは、いくら、普通の早道に見えても、よい子は踏み込まないことである。

〇「之所都」用例談義 中国哲学書電子化計劃
 「倭人伝」(ないしはそれ)以前に由来すると思われるのは、二例と見える。
*太平御覽 地部二十七 鎬
 水經注曰:鎬水上承鎬池於昆明池北,周武王之所都
 「水経注」は、中国世界の全河川を網羅して、水源から河口までの各地の地名由来を古典書から収録している。「鎬水」水源「鎬池」が昆明池の北で「之所都」は、周武王が「都」とした意味としても史実は不明で王城名もない。他用例は「武王所都」(説文解字)で「之」を欠いている。
 共通しているのは、後世崇拝された周武王なる無上の存在の「都」であり、東夷蕃王が、正史蛮夷伝に於いて、同列に扱われることなど到底あり得ないのである。

*太平御覧 四夷部三・東夷三 倭
 又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
 「御覧所引」魏志は、読み損なって杜撰に縮約している。「倭人伝」と前後して文意誤伝であり、「耶馬臺國」は、 誤字で開始していて、信用できるものではない。「正解」は一例に収束するが、「誤解」は多様であり、また、一度誤解されたものは、拡散、迷走していくだけで、正解に復帰しない。と「所引」批判できる。

〇鹽鉄論談義
 通典 食貨十 鹽鐵 【抜粋】   中国哲学書電子化計劃
又屯田格:「幽州鹽屯,每屯配丁五十人,一年收率滿二千八百石以上,準營田第二等,二千四百石以上準第三等,二千石以上準第四等。(略)蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所,每年課鹽都當錢八千五十八貫。(略)榮州井十二所,都當錢四百貫。(略)若閏月,共計加一月課,隨月徵納,任以錢銀兼納。其銀兩別常以二百價為估。其課依都數納官,欠即均徵灶戶。」以下略
 「榮州井十二所,都當錢四百貫」は、塩水井戸十二「所」、「都」は、塩水井戸課税「総計」四百貫/十二ヵ月である。(閏月は、一ヵ月分課税)

 当史料で「總」(すべて)は、「蜀道陵、綿等十州鹽井總九十所」のように、管内塩井数の総計としているので、課税総計は、「都」(すべて)と字を変えたようである。つまり、「所都」と続けての用例ではない。

 塩の専売による財政策は漢武帝代創設であり、以後、後漢、魏の公文書館に順次継承され通典に所引されたと見える。つまり、倭人伝に先行と見える。
 因みに、先賢の説に依れば、「塩鉄専売」収入は、この時、無から創設された制度で無く、古来、つまり、遅くとも、秦始皇帝の制度として実在したものであり、それまで帝室の収入、つまり、皇帝の私費であったものが、武帝の大規模な外征や河水治水工事への大盤振る舞いのせいで、国庫が枯渇しかけたので国庫収入に付け替えたようである。それまで、いかに、秦漢初期の帝国財政が豊かであり、帝室の私的な財産が厖大であったか、窺い知ることができるのである。

 何にしろ、当時の「経済活動」の規模と成り行きは、現代人の想像を遙かに超えていて、そのくせ、当時の知識人には、当然のことなので、記録に残っていないことが多いのである。くれぐれも、現代人の良識で判断しないことである。

〇「之所都」解釈案
 本稿の結論としては、「之所都」と並んでいても、「都」が総計の意味の場合は、連続させない例として有効で、「倭人伝」解釈に有益と考えて本稿を残したのである。

 因みに、国内古代史学界は、「都」の大安売りであるが、三世紀時点の用語解釈すら不確かなのに、以後化石化した国内用例の解釈と敷衍には、慎重の上にも慎重であって欲しいものである。先賢顕学諸兄姉が、念押しするように、中国史料は、中国人によって、中国人が解釈すべく、中国語で書かれているから、中国人ならぬ後世東夷のものは、適切な教養をもって、中国語として解釈することが、必須なのである。

                                以上

2024年1月30日 (火)

新・私の本棚 新版[古代の日本] ➀古代史総論 大庭 脩 1/2

 7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11

□はじめに
 大庭脩氏の小論は、的確な教養を有し、中国史書視点による論考を投影しているが、国内史学界の潮流に流されて、氏の教養豊かな筆を撓めて、外交辞令に陥る例が散見され、残念である。


□中国文献から見た「魏志倭人伝」~「魏志」考察
*「三国志」の版本
 氏は、写本論義を避け、話題を北宋咸平年間に帝詔により校勘、厳密な校訂が行われた「北宋刊本刊行時点以降」に集中/専念している。その際、三国志の正史テキストが統一され、それが、後年、紹興/紹熙本なる南宋刊本において復元され、今日まで継承されているのだが、それでは、史学界の誤記説絶滅が危惧されるので、救済を図ったと見え、「一方、厳密な校訂が行われたとしても、その判断は当時の知見の限度においてなされたものであり、刻工の作業段階で起こるケアレス・ミスの可能性を完全に否定する論理はあり得ない。」とあるが、論理錯綜で氏の苦渋がにじんでいる。
 陳寿原本が主要された西晋代以来、最善の努力で継承された史料の後生権威者集団による最善を尽くした校勘も、「三国志」原本の「完璧」再現ではないのは、当然であるが、氏は、「校勘されたテキストが一字の誤りも無しに刻本されたとは言えない」と迂遠である。「刻工無謬」でなくても、校勘稿と照合する「最終校正」により、以後に発生する「誤刻」は、実質上皆無と見て良い。「可能性を完全に否定する論理はあり得ない」の「二重否定」で、希有な事象を露呈させ、本筋から目を逸らさせているのではないかと危惧する。

*最後の難所~南宋刊本復刻~私見
 氏は、あえて論じていないと見えるが、ここで、刊本の正確さを論じる際に不可欠なのは、北宋刊本から南宋二刊本への継承であり、南宋創業期に二度、校勘刻本された紹興本、紹熙本の微妙な事情/実態が見過ごされている。

 尾崎康氏の労作「正史宋元版の研究」で確認できるが、北宋末の金軍南進「文化」破壊で、刊本は版木諸共全壊し、南宋刊本は、損壊を免れた上質写本に基づいて復元を図ったが、上質写本でも不可避な疎漏があったと見える。

 そのため、四書五経をはじめとする厖大な古典書籍の大挙復刻という一大挙国一致事業に於いて、南宋刊本が紹興本として復刊されたといえども、(わずか)数十年を経て、より上質な写本から再度刻本したとされている。つまり、南宋校勘の最終成果を示す意図での、再刻本と見えるのだが、尾崎氏は、紹熙本の称揚を避け、明言していないが氏の筆の運びからそのように見える。

 大庭氏の口吻は微妙で、漠たる一般論に転じて「写本ならば、その一本限り」の謬りとしたが、中国に於いて、帝室蔵書として厳格に継承された写本といえども、一度、いわば、「レプリカ」として世に出れば、最早、最善写本と言えなくなり、以後、写本は次代写本に下方に継承され、謬りは継承/蓄積されて行くことは、避けられず、氏の述解は、素人目にも的外れの難詰である。
 結論として、史料の正確さは、写本継承工程では、個々の写本の厳密さの積層/累積に依存し、固有の、自明の限界を有していたのであり、国内史学界の風潮に馴染んで、公的校勘、写本を受けられず、写本者の個人的偉業に依存して、散発的に継承され、写本毎に個性を募らせている独自特性の「写本」刊行を、厳格に管理された「三国志」南宋刊本を超えて尊重するのは、誠に度しがたい本末転倒である。

〇卑弥呼の時代の東アジア~「水上交通」論への異議
 続いて、氏は、渤海湾「水上交通」なる現代概念を投影しているが、「水」が河川と古典用語から乖離して不用意である。同時代用語がないので仕方ないが「海上交通」として、読者の誤解を招く用語乱用は避けねばならない。
 また、氏は、慧眼により、的確に、青州・山東半島を要として、遼東半島に加えて、朝鮮半島中部「長山串」との交通を論じているが、少々異を唱えざるを得ない。両交通の要点は、短時日の軽快な渡船で、陸上交通のつなぎである。但し、三世紀当時、帯方郡管内は、未だ「荒れ地」であったから、長山串交通は、言うに足る材が無く、「海市」は、閑散が想定される。
 例示されている瀬戸内海で、芸予・備讃島嶼部は、南北海上交通可能と見えても東西の多島海交通は、実行困難な難業であり、また、中央部は「瀬戸」でなく、「大海」と見える島嶼のない「燧灘」(ひうちなだ)なる「大海」「瀚海」で南北に懸隔されていて、要するに一口で言えない。氏の東西交通に集中した地理観は、後世的/巨視的であり、三世紀当時の世相から隔絶しているように見える。

                                未完

新・私の本棚 新版[古代の日本] ➀古代史総論 大庭 脩 2/2

 7 邪馬台国論 中国史からの視点 角川書店 1993年4月
 私の見方 ★★★★★ 「古代の日本」に曙光  2024/01/11

*海上の行程
 して見ると、氏が「渤海湾」と見ているのは、実は、黄海二行路であって、いわば、海上の「橋」と見た方が時代/地域相応の見方と思われる。いや、両行路は、三世紀時点では、便船の規模、頻度に相当の差があったはずであるから、実用的には、遼東青州行路が、独占していたと見えるのである。ちなみに、後世唐代には、二行路が並び立ったようであり、青州に「高句麗館」、「新羅館」が存在し、繁栄を競っていたとされているが、あくまで隔世譚である。三世紀、新羅、百済は、萌芽に過ぎず、行路と言うに足る往来はなかったと推定される。
 つまり、遼東から青州に至る「黄海海上行程」は、始点~終点に加え途上停泊地、全所要日数も決定し、並行「陸道」(陸上街道)が存在しない「海道」であったと見える。但し、公式道里ではないから、正史の郡国志、地理志などには書かれていないのである。
 と言うことで、そのような行程が、常用/公認されていても、公式道里に採用されていないから、陳寿は、いきなり「倭人伝問題」に使用して、高官有司から成る権威ある読者を「騙し討ち」することはできなかったのである。事前に、伏線/用語定義して、読者を納得させる必要があったのである。
 魏の領域で街道の一部が海上行程に委ねられた先例があったとしても、沿岸行程には並行陸路が存在するから、公式道里として計上されないので、ここではあてにできないのである。

□「倭人伝」水行の起源~余談
 陳寿は、現地運用の「渡海」を参考に、「倭人伝」道里行程記事の用語を展開したのである。
 つまり、陳寿は、苦吟の挙げ句、海岸を循(盾)にして対岸に進む「海道」行程を、史書例のある「水行」に擬し、海岸沿いでなく海岸を循にして進む渡海行程を、この場限りで「水行」と道里行程記事の冒頭で定義し、混迷を回避しているのである。
 深入りしないが、そのように陳寿の深意を仮定/理解すれば、当然、「倭人伝」道里行程記事の混迷が解消するはずである。
 言うまでもないが、当方が二千年前の史官の深意を理解して道里行程記事の混迷が解消する「エレガント」な解を見通した」と自慢しているのでは無い。あくまで「れば・たら」である。

□『「邪馬台国」はなかった』の最初の躓き石~余談
 古田武彦氏は、第一書に於いて、当該記事を、漢江河口部の泥濘を避ける迂回行程の「水行」と解釈し、以下の成り行きを、上陸し半島内を陸行する行程と見たが、帯方郡を発し一路南下すべき文書使が、迂遠で危険な行程を辿る解釈は、途方もなく不合理で、論外である。氏ほどの論客が、第一書の核心部で、迂遠な辻褄合わせ、ボロ隠しを露呈しているのは、在野の研究者として、孤高の境地にあったことを考慮すれば、無理からぬ事と思われ、また、一度、論証を構築したら、後続論考で、姑息な逃げ口上を付け足さなかったのは、私見では、むしろ賞賛すべきものと思われる。、

*「景初遣使」談義
 続く遼東郡太守公孫氏の興亡記事はありがたい。但し、「倭人伝」に厳然として継承されている「景初二年」の記事を、後世改変に乗じ、留明確な論証無しに「景初三年」と改竄するのは感心しない。氏は、遼東平定の「傍ら」、楽浪・帯方両郡が魏の支配下に入ったとしつつ、三年説の「蓋然性」が高いと見るが、二年説を「可能性」と評価を押し下げた挙げ句、両説を偏頗に評価しているが、誠に、趣旨が不明である。つまり、史料を否定するにたる論証が不調であり、いわば、醜態をさらしている。氏の筆致は、言葉を選んで、暴論を避けているが、だからといって、「偏頗」の誹りを逃れることは、大変困難と見える。
 氏の書法で言うと、『「二年説が三年説より高い可能性」を完全に否定する論理はあり得ない』と思われ、とんだ躓き石で足を取られている。

◯「親魏倭王」などのもつ意味
 正史「三国志」で、蛮夷称揚の例として、二例が際立つとみえるため、東夷「倭」と西戎「大月氏」の二事例を並列させる論があるが、氏によれば、史書の事例で、漢魏晋の四夷処遇では、鴻臚において、『「親」(漢魏晋)某国「王」」の詔書/印綬を下賜したと指摘している。同様に、氏の指摘とは別に、後漢代、辺境守護に参上した蕃王一行を雒陽で歓待し、余さず印綬を与えた記録がある。糺し、そのような漢蕃関係事例の大半は、陳腐として本紀/列伝から省略されていると見える。さらに、氏は、賢明にも、壹與遣晋使の魏印綬返納、親晋倭王綬受を示唆している。同記事が、本紀/列伝から省略されているのは、当然の儀礼だからである。
 氏も示唆しているように、晋の天子が「親魏倭王」印を放置することがないからである。

◯中郎将、校尉
 難升米、掖邪狗などに与えられた称号は、魏制になく、蕃王高官に相応しい前提である。官制官位には俸給、格式が伴うから、蛮夷には付与されないのである。

*「一大率」異聞~私見
 氏は、蛮夷官名に関して、「率善」が蛮夷のものと明言されているが、至当である。念のため言い置くと、蛮夷の者が、官制の官名をいただくことはあり得ないのであり、それ故、「倭」を前置することによって、誤解を避けたのである。
 私見では、「倭大夫率善」が転じて「一(倭)大率」となったと見える。もちろん、単なる思いつきである。

□一点総括~「病膏肓」~つけるクスリが無い
 大庭氏は、『「倭人伝」テキストを気ままに改編して論じる安易な風潮』に釘を刺すが、かかる風潮は通説論者の「病膏肓」で「馬耳東風」、苦言には、一切耳を貸さないと見える。
                                以上

2024年1月27日 (土)

新・私の本棚 原田 実 季刊「邪馬台国」40周年記念号 1  1/1 再掲

                         2019/12/03 2024/01/27
 私の見立て ★★★★★ 必読

□「邪馬台国論争の経緯と展望」
 氏の記事は、本記念号の要諦であり、大所高所の賢者の意見のようですが、「また一つの偏見」に思えます。

 まず、地名は、邪馬台国比定の決定的根拠とはならないとのご託宣ですが、言いっぱなしです。「有力な根拠となり得る」あるいは、「比定説批判への強力な反論論拠となる」との側面が、店ざらしになっています。

 世上、「地名」言及はそうした台所事情によるのです。私見では、近説で、本号にも書かれている井上よしふみ氏の比定論も、自説防衛のために誤字論を唱えています。いや、別に格別の非難でなく、手近の一例を挙げただけです。

*所信表明への異論
 記事引用 また、魏志倭人伝には朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの詳細な行程里程記事があるが、それを現実の朝鮮半島から日本列島にまたがる地理に当てはめようとすると何らかのアクロバチックな操作を伴わずにはいられない。
 これは、本紙記念号の晴れ舞台である特集記事冒頭に堂々と披瀝した氏の所信と思うので、当記事に関しては、所信への疑義を唱えさせていただくものです。

*「詳細」記事の幻影
 「魏志倭人伝には朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの詳細な行程里程記事がある」とありますが、素人目には、極度に切り詰めた簡略な記事と見えます。むしろ、一般的に、「倭人伝」記事は、「過度に簡潔である」と批判されているのに対して、あえて「詳細」と言う根拠を伺いたいものです。
 少なくとも、われわれ無教養人がそのように(詳細と)解するのは、陳寿の本意に「大いに」反していると見ます。氏ほどの識見の持ち主にしては、まるで論理的でなく、不合理な判断と思われます。ここで「倭人伝」原文を確認すると、陳寿の真意は明らかになっています。
 自女王國以北、其戶數道里可得略載、其餘旁國遠絕、不可得詳。
 つまり、女王国以北の諸国、狗邪韓国を経て倭に至る直行区間の対海国、一大国、末羅国の行程諸国は、郡との間で文書が往来していたので、何とか要件項目を「略載」できたのであり、文書往来の無い奴国、不弥国、投馬国に関しては、詳しいことは、まるで分からない、と明言しているのですから、当記事を「詳細」と理解するのは、素朴な誤解にほかならないと思われるのですが、氏が、明言以外の何を根拠にしているのか、不審です。そのような「幻影」を追いかけていては、百年、二百年議論しても、明快な見解が得られないものと思います。
 いや、それは、国内視点で倭人伝を解釈する諸兄姉に共通した「普通の」勘違いと見えるのであり、別に、氏に対する個人的な批判ではないのですが、氏ほどの率直な研究者は、早く「幻影」を振り払って、世に蔓延る「普通の」勘違い「誤解」論を「是正」していただけないものかと、苦慮しているものです。

 「現実の朝鮮半島から日本列島にまたがる地理」と称しても、三世紀当時の「現実」は、現代人の知らないものであり、いかにも当てはめられないと見えます。逆に言うと、「倭人伝」は、氏の保有している明確な地理常識を有していなかったので、不明確な地理常識で、「倭人伝」記事を欠いたのであり、「詳細」な記事など欠こうとしていなかったと見るのです。
 また、氏の発言は、先行の「朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで」と齟齬して、冗長かつ字数空費の構文不都合です。折角の晴れ舞台で、所作が乱れています。
  このあたり、氏は、史料の文意を読み解く面で、いろいろ勘違いをする芸風のようです。

 「何らかのアクロバチックな操作を伴わずにはいられない」とのご託宣ですが、何を辛抱しきれなかったのでしょうか。「アクロバチック」とは、宙返りのような曲芸の離れわざでしょうが、そのような「名人芸」、「芸術活動」が、本件とどう関わるのか。いかにも、説明不足です。
 アクロバットは、フィジカル、つまり、身体物理特性、肉体鍛錬の生む至芸と賞賛され、「報酬」を与えられますから、これは「絶賛」とも取れます。これを、場違いなメンタル、つまり、知的な論理構築の分野に持ち出すのは不用意です。

 つまり、氏の所信は、一般読者には、独りよがりで独善的と誤解されかねないのです。本誌の原稿査読で異議はなかったのでしょうか。本記事は、寄稿された玉稿でなく、内部のものなので、編集過程で遠慮なしに推敲するものではないでしょうか。

*学問的疑義
 折角なので、疑義を唱えると、『「倭人伝」行程記事は、当時の洛陽教養人士が熟考し解読する「問題」』として構想され、記述されたものであり、従って、最小限の手掛かりしか与えられていないから、二千年後生東夷の無教養人」が、容易に正解できないのは、むしろ当然と見るべきではないかと考えるからです。
 これまで、多数の研究者が、営々と「行程記事」の「新」解釈を試みていますが、「問題」の解釈すらおぼつかないのに辛抱できず、短気を起こして快刀乱麻しようとする暴挙ですから、万人納得の解釈とならず、十把一絡げで氏の冷笑を浴びているのです。(この比喩は、アクロバットの比喩より、大分理性的ではないでしょうか

 本論には、以下、氏の絞り出した賢明な指摘事項が多々あり、「よく言ってくれた」と思う下りが沢山ありますが、氏の所信に問題認識の齟齬がある限り、具体的指摘は、単なる異見としか見なされないのです。要は、ご自身の所信不備に気づかないのに、その所信に立って「大所高所から」他人の意見を云々するのか、となるのです。

 以上、ご本人にはご不快でしょうが、氏が、「邪馬台国」論義の動向に、本誌誌上で大変大きな影響力を持っているとみて、敢えて、率直な意見を述べるものです。

                                以上

新・私の本棚 石野博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 1/2 再掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定       2021/04/14 2024/01/27

○はじめに
 本書は、掲題の通り考古学界の泰斗である石野博信氏が主催した当分野に関する討論会の集大成であり、本稿は、就中、「1992 邪馬台国ヤマト説 考古学から見た三世紀の倭国」と題された討論会記録の批判です。好著への批判は不本意ですが、総監督石野氏への責めと理解いただきたい。

○「銅鏡百枚から見えてくる邪馬台国」
 本記事の題材は、水野正好、石野博信、田中琢(みがく)三氏の講演と続く討論ですが、やり玉に挙げているのは、最後の田中氏の「発言」です。上げたのは、氏の設定した小見出しですが、看板にもならない、ボロボロのものです。

*「無知と不勉強」前提の提議
 不審なのは、高度な学術的な討論の場と期待されている席に、なぜ、このような無知、不勉強な輩(やから)の登壇と無法な決め付け発言が許容されたということです。石野氏に人選責任があるのでしょうか。
 発言内容をなぞると、以下の感じです。

*根拠なき史料不信説諭
 何を考えてか、いきなり、低俗な史料不信を開陳します。
 具体的な記事をサカナに論(あげつらう)のでなく、自身の狭く浅い見識に基づく所感を強弁し、果ては、「お見合いに提出される釣書が、ウソばかり」との「風聞」を取り上げて、それが、史料不信の根拠とされています。胡散臭い古代史講演で定番の、自身の実体験らしい「卑近」ネタですが、退席せずに我慢するしかありません。

 この下りは、誰に向かって講釈しているのか不審です。ある程度、古代史の史料考証に慣れていれば、氏が、専門外では一介の門外漢で、無資格と自白していると見て取れます。無様な自己紹介です。「金返せ」です。

 いい年をして、自身の狭くて浅い了見で世界を推し量るのは大した度胸ですが、実史料に言及せずに、はなから、ご自身の「無知と不勉強」を高言していると思う次第です。いわば、「史料読まず・知らず」と言う自罰発言です。

 ご自身の保身は別として、どうか、他人を巻き込まないでいただきたいものです。
 「無知と不勉強」は、自習し、適切な指導を仰いで是正するものです。「病的」と言われかねない性癖ですが、「病気」ではないから「つけるクスリ」はありません。

*不似合いな前置き~動機不純な文献排除
 なぜ、そのような途方もない思い込みを言い立てるかと推察すると、要は、本題の銅鏡談義で、二千文字程度の「倭人伝」すら持論を妨げる「鉄の壁」なので、捨て身で排除しているようです。「目的のために手段を選ばない」とは「カラスの勝手」ですが、見え見えの暴言は逆効果と悟るべきです。対象非限定の史料全面否定では、「良識ある人」は、共感、支持を憚(はばか)るはずです。

 と言っても、田中氏の持論は、古代史学界で、大変分の悪いと見える「三角縁神獣鏡舶来」説ですから、苦し紛れに「倭人伝」を排除しても仕方ないのですが、本稿の発言の冒頭で度を過ごして力説しているのは、それだけ持論が崩壊していると露呈しているのです。

*「無知と不勉強」の好例~景初・正始論議の不覚
 「無知と不勉強」の好例として、ようやく「倭人伝」に言及して、景初三年に関する発言が提示されます。
 氏は、勝手に、魏帝逝去時、直ちに改元したと思い込んでいますが、景初~正始改元の経緯は、衆知自明で、景初三年元日皇帝逝去、即日新帝即位で、その年は皇帝なしの景初三年が続き、翌年元日に正始改元です。
 即日改元説なら景初三年は存在しません氏は無知の強みで無頓着です。

 大抵の「倭人伝」読者には常識でも、田中琢氏の周囲では「無知」が「常識」なのでしょう。

                                未完

新・私の本棚 石野博信討論集「邪馬台国とは何か」田中 琢 銅鏡論 2/2 再掲

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊
私の見立て 星無し ただし、本記事に限定       2021/04/14 2024/01/27

○書記の変格・不法記事考察
 因みに、国内史料日本書紀は、景初三年記事を「明帝景初」と改竄しています。

 書紀編者は皇帝元日逝去の史実か、翌年改元の制度のいずれかをを知らず、好意的に見ると、景初三年中、何ヵ月かは皇帝が存命だったから、そう呼んだとの先入観でしょうが、田中氏は、冒頭の「史料読まず・知らず」という自罰高言を裏付けるように、いずれの史料も「読めていない」不勉強を露呈しているのです。いや、はなからデタラメ満載とみて、読もうとしていないのでしょうか。
 では、記紀も読まない、以下の史書も読まないのでしょうか。一体、何を根拠に、こうした暴論を言い続けるのでしょうか。

○石野氏弾劾発言の考察~敬意無き乱闘発言
 個人発言の後の、討論という名の意見交換で発生した大事件は、石野氏罵倒暴言です。
 銅鏡舶来・非舶来論議で、石野氏は「不勉強」と、大人の態度で、持論を公言するのを避けましたが、暴言氏は、まるで理解していないようで、「だったら勉強しろ」と言い放ちます。子供の口喧嘩みたいです。

 まさに、この暴言は、自罰発言です。素人目にも、石野氏は、考古学の分野の最高峰であり、広範、深遠な見識を備え、当然、銅鏡の由来に定見を持っているはずですが、専門外への介入を避けたと見えるのです。(当方の銅鏡論は、定見に至っていないので、ここでは批判も何もいたしませんが、暴言は、敗勢を自覚した側から、自暴自棄隠しとして出るものです

 さらに深意を察すると、石野氏は、立場に相応しくないので、見解の明言を避けたと憶測されます。詮索を避け、「不勉強」発言をしたのは、まことに賢明です。

○見当識喪失の発言
 単純思考の持ち主である暴言氏は、これが、「討論でなく衆知の結集を聴衆に伝える公開の場」との意義を失念し、討論論客が誰かも忘れ、大先輩に論敵面罵発言を呈したのです。正直の所、これ程の暴言が公開されたのは驚きです。
 田中氏は、「失見当識」に加え、書面発言を問わず、文章深意の理解力に欠けているようです。暴言蔓延防止のため、治癒まで蟄居謹慎をお勧めします。

*最後の暴言
 田中氏は、最後に、またもや、根拠の無い暴言を発して何とも無残です。

 曰わく、『昔はみな邪馬台国を「やまと」と読んでいた』。その証拠はどこにあるのでしょうか。氏は、史料を信じませんが、「倭人伝』にない「邪馬台国」を論じるのに、氏は何を信じているのでしょうか。奇っ怪です。まして、唯一信ずるに足る史料にない、手前味噌の国名の発音など、何の根拠もないのです。

*暴言救済
 水野正好氏が、取り繕うように蘊蓄を傾けますが、要は、『「倭人伝」に現実に書かれている「邪馬壹国」は「邪馬臺国」である』との改竄に始まって『「邪馬臺国」は「邪馬台国」と同発音』『「やまたい」でなく、「やまと」と発音した』と大変迂遠で、大飛躍連発であり、論理の鎖が繋がっているかどうかの不信は別として、これは、田中氏の持論に真っ向から挑戦するものと見えます。一向に、取り繕えていないのです。

*暴言フォローへの愚行
 水野氏の発言を理解できないのか、田中氏は、またもや『「やまと」と読んでいた』と暴言します。「つけるクスリがない」のでしょうか。

 「戦後変わったがそれ以前の昔は」と言う意図であるとしたら、「倭人伝」の時代である西暦250年頃から終戦1945年までの期間の発音の「信頼できる」記録史料はあるのでしょうか。と言うより、この暴論者は、信用できるのでしょうか。
 これでは、田中氏の銅鏡観の同調者は、氏の「無知と不勉強」に同調・加担していると見なされ、暴言者に連座して、不見識だと自罰することになるのです。

○小結尾
 田中氏の発言は、「邪馬台国」纏向派の足もとを根こそぎ掬います。
 主張のためには、唯一の同時代史料の「倭人伝」を「落書き」扱いするしかない、追い詰められた姿を露呈して、逆効果の自罰行為なのです。
 石野博信氏ほどの泰斗が、暴論の徒を招請したのは勿体ないと思います。そして、席上受けた罵倒を、愚直に収録したことに複雑な所感を覚えます。

                              この項 完

2024年1月21日 (日)

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 三新 1/6

                    2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11,17 2024/01/21
◯三新の弁
 当記事は、不適当と認めた特定サイトの記事批判であるが、特に、史学者批判にかこつけた陳寿「三国志」「魏志」改竄記事が一部研究者に無批判に採用されているため、あえて、再掲したものであり、特に、変心したものではない。

◯始めに~個人サイト批判の弁
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」の(血なまぐさい)様相に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

 同サイト管理者の攻撃手法には、拙い誤解と非難すべき反則技が多く、却って、論考の信頼性を大きく損なっているので、ほっておけないと感じたのである。また、この場で、学界のお歴々と並んで批判されるだけの価値ありとの位置付けをしているのでもある。

 さて、同サイト管理者は「古田武彦氏の説のウソ」と誹謗、中傷口調で書き出しているが、語調の「きつさ」、「えげつなさ」の割には、根拠が不明であり、また、内容が的外れである。

 周知のごとく、古田武彦氏の提唱した説は、こと古代史に限定しても、広汎、多岐であり、全体をウソと断じたものか、特定の説にウソがあるのか、論旨が不明である。物事を明解に表現しない/できないのは、論者が未熟/不熟なせいと苦笑するしかないのだろうか。今日のように、裸の王様を大勢見かけると、声をかけるのが難しいのである。
 総じて、「ウソ」の一言でご自身を正当化するのは、相当劣悪な品性の持ち主と見るのである。言うならば、「暴言」は、論争弱者の最後の隠れ家であり、大抵、隠れ家になっていないのである。

 また、書き出しに2-1と銘打って、後続続々と布石しているが、どうなったのだろうか。まさか、ネタ切れではないだろうに。

 さて、記事書き出しを見た限りでは、古田氏の一書「古代は輝いていたⅢ」で堪忍袋の緒が切れたようであるが、ここまで当方には、一切お怒りの事情が伝わらないので、お説を伺うとする。
 ということで、冒頭の切り出しであるが、どうも、不用意な取り上げ方と言わざるを得ない。

*因みに、同サイトは、2016年時点で、誤謬が露呈している「ジャンクサイト」と判断したので、以後、参照していない。現時点で、ここで指摘した誤謬が是正されているとしても、別に連絡を戴いていないので、当方の知るところではない。

 2.古田武彦氏の説のウソ
 2-1 景初3年が正しい理由
 当記事の書き出しは、陳寿「三国志」「魏志」という堅実無比の有名史料を根拠にしているが、史料が誤っているとの未検証の「思い込み」を前提としているので、文献批判の一種としても、端から、信じがたいものになっている、と申し上げておく。

*根拠とならない風評資料~「理由」にならないこじつけ (補充 2023/03/17)
 要するに、良好な資料が確実に継承されている「魏志」の「倭人伝」には、はっきりと、間違いようのない「景初二年六月」の文字が維持されているのであるから、これを「景初三年六月」の誤記と断じるのには、「魏志」「倭人伝」と同等以上に良好な資料を提示する必要がある、と言うか、そうでなければ、無効な異議である。これが、世界の常識である。
 氏は、そのような「真っ当な」手順を無視して、景初三年と書かれているわけでもない「魏志」東夷伝内の別資料を提示しているが、同記事は、「倭人伝」記事本文解釈の視点から見ると「圏外」であり、しかも、年月の明示されていない雑情報であり、端から、門前払いとなりそうなものである。とは言え、一応評価に値するとして検討するが、基本的な資格不足は、念頭に置くべきである。

 氏は、論証にあたって、原文を当たることなく筑摩書房版の翻訳文を採用しているのが無節操で困ったものである。
 せめて、読み下し文を見ていれば、原文の趣旨が察しられるのだが、翻訳の場合は、翻訳者が理解した文意に沿って粉飾加工されるので、翻訳者の理解に誤解があれば、ほぼ必然的に誤訳になってしまう「危険」を(取れたてのふぐのように、ほぼ確実に)含んでいる、というのが、定説中の不動の定説である。
 本例で言えば、翻訳者が、高度な教養を要する読者を想定して高度な構文を呈しているのに、無教養な現代読者が、安直な誤解に陥っているのは、翻訳者の責任ではないのである。丁寧に言い直すと、漢文の「又」を日本文の「さらに」と滑らかに飜訳しているのに、「時間的に遅れた」と書いているように速断しているのは、無教養な現代読者の不勉強な浅読みであり、翻訳者には、何の責任も無いのである。

1.両郡攻略/回収
 この場合、翻訳者は、魏の遠征軍は、まず、遼東の公孫氏を滅ぼし、「次いで」南下して、公孫氏の支配下にあった楽浪、帯方の両郡を攻略したとの根拠不明の先入観(思い込み)を持っていて、その先入観を書き込んでいるが、原文には、そのような粉飾表現は書かれていないと考えたが、これは、後世読者(当ブログ筆者の素人考え)、勘違いであったことがわかった。過ちは自分で糺すのが、最低限の責務と考えて、訂正を書き加えているのである。

 原文(漢文)は、「又」としているが、これは、多くの先賢が折々に触れているように、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、単に、「それとは別に」というに過ぎないと見るのが、手堅いのである。何しろ、雒陽史官に、遼東の大規模軍事行動と両郡の「密かな活動」のどっちが先でどっちが後か、厳格に確認できるわけも無いから、「ついで書き」したと見るべきではないだろうか。

 さほど入手困難と思えない原文に当たると、「誅淵」(公孫淵を誅殺した)と書いた後に「直ちに続けて」、「又潜軍浮海」(また、潜(ひそかに)に軍を海路送って、と言うのは、別に潜水艦を駆使したわけでは無い)楽浪、帯方の両郡を(皇帝の傘下に)収めたと書かれている。これを、初稿では、『「さらに」と、時間の流れを込めて書き足したのは、翻訳者のやり過ぎと見た。単なる「又」には、時間的な前後は込められていないと見るものではないかと思った。』と書いてしまったが、その時点では、そう感じたので、初稿は、率直に論じたことに間違いはない。以下、反省しているのは、追い追い読み取れるはずである。

*浅慮の誤釈~自己批判の弁
 因みに、つい、当方の素人考えで、浅慮を示してしまったが、自身の乏しい学識に頼らず虚心に国語辞書を熟読すれば、翻訳文の「さらに」も、別に、時間的前後関係を言うとは限らず、絶妙な飜訳と理解できるのである。つまり、「二千年後生の無教養な東夷の後裔の読者」が、無教養で自身の限られた語彙にしがみついては、練達の翻訳者の絶妙な配慮も、水泡に帰すという一例である。
 当方は、遅ればせながら、自身の浅慮に気づいたので、ここに訂正している。

 要するに、「又」の字義には、両様があって確定できないので、文献の前後関係、「文脈」から読解くのである。

*高度な読解
 もし、ことが、遼東攻略の後であれば、何も、「ひそかに」、渡海上陸し進軍する必要はないから、両郡攻略は遼東攻撃の前に行われたとみるべきではないだろうか。現に、そう判断する論者も多いのである。(多いというのは、この際、一人、二人ではないということであり、何億人いるという事ではない)

 この辺り、長駆進軍している遠征軍主力による西方、と言うか、西南方からの一方的な攻撃は、大軍であっても、遼東に広く勢力を張った公孫氏の待ち受けているものであり、迅速な攻略は困難と予想できる。東方、と言うか、東南方からの分遣隊による挟撃が必須と見た司馬懿の周到な軍略が見て取れると思うのである。(付注 わかりやすいように、司馬懿に花を持たせたが、原文では、明帝が指示したとあり、正確ではない。当方の「粉飾」であった。反省するが、当記事では修正は加えないことにした)

 三国志に書かれているように、この当時、曹魏は、『長江(揚子江)上流域域から関中、長安付近への蜀漢軍からの執拗な「北伐」の攻撃に耐えていた』と共に、長江下流域では孫権率いる東呉孫権指揮下の大軍と対峙していて、孫権は、戦況が確実に有利とみたら、じんわりと、分厚い攻勢を取るから、遼東遠征軍は、速攻、かつ、確実に遼東を確保する必要があった。つまり短期決着の確実な挟撃作戦を採ったと見るものである。つまり、この時期、蜀漢は、宰相諸葛亮の没後で逼塞していたが、後継した姜維の指揮の下、体勢を整えて再度北伐するかも知れなかったのである。
 法外と見えるほどの大軍を派遣したのも、その一環である。現地滞在が長期化すれば、食料の消耗が激しくなる上に、中国では、大規模な戦闘での敗戦責任は、将軍の一家/一族族滅である。理由は何にしろ「絶対負けられない」のである。

 なら、ここに作戦内容を明確に書くべきではないかという抗議が聞こえそうだが、東夷伝」の役目は、『遠征軍が「誅淵」した一方で、両郡を皇帝直属とすることにより、東夷を直属させたと明記する』のが主眼なのであり、それ以外の軍事行動は、付録に過ぎないから、この程度で良いのである。本当に、司馬懿の軍功を高々と顕彰するのであれば、明帝本紀に書くものであり、こんな閑静な場所にひっそり書くものではない。いや、これほどの軍功にも拘わらず、「魏志」に司馬懿の伝は無いのである。

 ちなみに、翻訳者は、両郡攻略について、原文の「収」(収めた)という平穏な表現を粉飾して「攻め取った」と強い言葉で書いている。その意識としては、健在であった遼東政権から「攻め取った」と見ているのである。これが、遼東政権が崩壊した後であれば、攻め取るのではなく、魏朝傘下に収めたとでも言いそうなものである。漢文翻訳の怖さである。

 丁寧に読み解くと、実際に起こったのは、魏朝皇帝の勅命で、公孫氏が勝手に任命していた現地の郡太守が更迭され、新任郡太守が取って代わって着任したものであり、単なる人事異動と組織変更、つまり、両郡を、一片の帝詔により、遼東郡から切り離して皇帝直轄とするものであって、その際、戦闘があったとは書いていない。皇帝の命令が実施されたに過ぎない。まさしく「密かに」である。
 遼東では、公孫氏の撲滅に連座して、官人が殲滅され、死骸の山になったという。当然、公孫氏の残した公文書も、焼き尽くされたのであり、公孫氏が、高句麗はじめ、諸蛮夷を服従させた経緯は、消え失せたのである。爾後、高句麗は、公然と、新体制に反抗したのであるから、司馬懿が、東夷管理の深謀遠慮を持っていなかった「無遠慮」であったのは、明らかである。明帝は、腹心の毋丘儉に、楽浪/帯方郡管理下の東夷、濊、韓、倭人を統轄させる構想であったから、司馬懿に干渉/指示しなかったとも見える。
 いや、司馬懿は、西方で蜀漢の侵入を防ぐ「鍋蓋」に過ぎず、蜀漢が衰退したので、別の鼠賊に向けたのに過ぎないと言える。

 翻訳者は、厖大な三国志全体の正確な飜訳に多大な労を費やし、不滅の功績を成し遂げている。「細瑾」、細かい行き違いがあったとしても、とがめ立てするべきではなく、単に訂正すれば良いだけである。特に、当事例では、軽率な後生読者が気づかないだけで、万全の配慮がされているのだから、謹んで、この点に関しては、拙論を取り下げたのである。

 それにしても、これほど重大な誹謗記事を公開するに先立って、氏は、原文、つまり、「魏志」の関連記事全体の趣旨を確認することなく、結果として翻訳者を責めているのは、誠に氏の不明を公然と示すものであり、素人目にも感心しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』古田武彦批判 三新 2/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11, 17 2024/01/21
 2.古田武彦氏の説のウソ
     2-1 景初3年が正しい理由

2.京都(けいと)往還
 さて、陳寿「三国志」魏志の飜訳を読んでも、「景初二年六月に倭大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いてはいるが、それを受けて、即日、洛陽に送り出したわけでないのは自明である。
 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。
 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々にひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
(付注 「実際」は、前ページに書いたように明帝曹叡の戦略である。又、景初二年事態と決め付けたのも、当方の浅慮であった)

 新たな郡太守は、魏朝の一機関を統轄して、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要である。

 郡太守は、「王」と同格であり、絶大な権限を委ねられていて、多額の俸給(粟)を得るとともに、郡治として城郭を構え、管内を取り仕切る郡兵を擁し、管内で徴税、徴兵などの大権を持ち、事実上、辺境に於いて、「幕府」ないしは「都督府」を開いていたのである。ただし、公孫氏が後漢の郡太守であった時代、遼東郡は、いわば、一級郡であったが、楽浪郡、帯方郡は、その配下の二級郡であり、俸給も権限も制約された「格下」であったのである。それが、明帝の指示で、一級郡に格上げされ、韓濊倭都督」と言うべき大きな権限を与えられたと見るのである。

 合わせて、過去、公孫氏が山東半島の「齊」を占拠した際に活躍した楽浪郡も、皇帝直轄の一級郡となり、公孫氏は、山東半島への輸送経路を喪ったのである。
 楽浪/帯方郡は、一級郡となったものの、あくまで、郡太守は皇帝の配下であり、少なくと、月次の活動報告を欠かすことはできず、業績評価自体で、一片の帝詔で更迭、馘首することができたものである。何しろ、山東半島経由とは言え、雒陽との間は、騎馬の文書使が速報するから、国内の諸郡と等しい管理体制にあったのである。

 以下、私見を述べると、遼東への速攻体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。
 それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけである。

 もちろん、司馬懿は、小心を装って、戦の責任が一身に降りかからないように、しばしば、洛陽に急使を送って、作戦行動の許可を求めていたが、皇帝に責任を転嫁するということは、敗戦の際、皇帝が非難されるのであり、公孫氏討伐の失敗が繰り返された果ての大軍派遣であるから、明帝自身、多大な責任を負っていたことになる。と言うことで、司馬懿軍の進軍と並行して、両郡回収を図ったのは、天子たる明帝曹叡の当然の大局的戦略と推定できる。

 ともあれ、皇帝の秘策であった楽浪/帯方両郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。
 そのような新体制「帯方郡」の初夏に、海・山、つまり、海峡渡海と竹嶺の難所を含む内陸街道を越えて倭使が到着したわけである。

 定説では、倭使派遣は、公孫氏滅亡の知らせを受けたものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めた/指示/厳命したものと見る方が、随分、随分自然である

 当然、知らせには「遅れて至るものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容がうまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と進言したというのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、「洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる」と呼びつけたとみる方が、随分自然である。いや、事の流れを見ると、単に、郡治まで出頭せよと指示しただけで、洛陽で天子に拝賀できるなどと言っていなかったとも見える。正史の記事として書いていることが、そのまま、事実の報告とは限らないのである。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。
 恐らく、「倭人」召喚は、明帝曹叡の意図であり、従って、迅速な通知となったはずである。

 最速で折り返したとしても、郡の通知から使節の郡治到着までには数ヵ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。「倭人伝」には、郡倭行程は、片道四十日程度と書かれているが、これは、文書の送達日数であるので、倭使の参上には、これより日数がかかったかもしれない。ただし、倭が筑紫であれば、さほど無理のない行程と見える。

 もともと、倭使の行程は、遼東を一切経由せず、黄海を渡船で渡って山東半島東莱に上陸し、以下官道を急行したのであり、一部軽薄な論者が言うように、遼東の混戦に巻き込まれることなどなかったのである。帯方郡太守が、戦地に向かって北上させ、大きく行程を迂回させるような無謀な指示を出すことはあり得ないと、一人前の研究者であれば、言われなくてもわかりそうなものである。早々に撤回しないと、本件のように、無辜の素人が惑わされるし、一部にある「明智光秀談義」まで持ち出す論者が出るのである。
 受け入れ側にしても、皇帝の厳命があったとは言え、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずである。
 巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する「質量」(重さ)、(多大の労作である異例の)斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し、堂々と「輸出梱包」したことになっているが、そんなことは、少し考えれば「論外」とわかるはずである。いくら、先帝の遺命と言えども、度外れた厚遇にも限度がある。

*大「銅鏡」制作の想定~余談
 なお、俗説には、途方も無いホラ話があって、倭使の雒陽来訪の度に、百枚の新意匠の銅鏡が新作/下賜されたと決め込んでいる向きがあるが、厚遇は初回のみであり、特段の厚意を示した明帝の没後、初回同等の下賜物などあり得ない。又、遠隔の東夷は、二十年に一度の
来貢が定則であり、「倭人伝」に書かれているような頻繁な往来は、正式のものではない。
 このあたり、「倭に数百枚の魏鏡が齎されたに違いない」という「願望」ばかり語られている例があって、困惑するのであるが、誰も是正しないところを見ると、本件に対する「自浄機能」は存在しないようである。いや、つまらないことに字数を費やしたが、関係ない論者は、さっさと読み飛ばして頂きたいものである。

 銅鏡を新作するのであれば、魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作にかかるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずであるが、それには、数年を要するものである。何しろ、後漢末に、一度、洛陽の諸機関は、長安に移動していて、曹操が、建安年間に雒陽の尚方を復興させたにしろ、まだまだ弱体であったはずである。まして、景初年間、明帝が、大規模な新宮殿造営を命じていたから、装飾の銅器を多数制作するのに、全力を費やしていたと見るべきである。
 当時の記録を確認すれば、未曽有の大銅鏡の多数(未曽有の大判鏡の百枚は、途方も無い数と見える)新作など、(絶対に)あり得ないとすぐわかるのである。いや、これは、一部、不勉強な論者に対する非難であって、本件に関しては、余談である。

 因みに、新宮殿造営は、景初三年初頭の明帝急逝によって、撤回されていて、魏朝は新帝曹芳の下、服喪に入ったのである。
 そうした情勢下、景初倭使が景初三年六月に帯方郡に参上したとすると、それは、先帝が熱意をこめた東夷招請の余韻に過ぎず、新来の東夷として厚遇された見込みは乏しいと思うのだが、「倭人伝」記事は、大量の下賜物、好意的な帝詔を含め、熱烈歓迎の姿勢である。また、明帝没後の招請とみても、六月到来とは、随分ゆるゆる参上したはずなのに、薄謝と見える細(ささ)やかな手土産の意義が不明なのである。丁寧に説明戴きたいものである。

*「定説」の分別-不合理
 按ずるに、「定説」は、『魏志は、「景初二年六月」に始まる文字列に続いて「郡太守が、倭国大夫を京都(首都雒陽)に送り届けた」と書いている』が、『それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したと書かれているから、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じる』と「根拠無しに思い込んでいる」が、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、「定説」のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 陳寿「三国志」「魏志」の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である「倭大夫」の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文の解釈に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

*「又」、「さらに」の考察~翻訳者顕彰
 またまた私見を補足すると、「翻訳文」の解釈が、翻訳者の深意を外している可能性も無視できない。論者の日本語文読解力に疑念を呈する次第である。
 按ずるに、翻訳者が「又」を「高度な日本語」に「飜訳」したのに気づかず、素人考えで、つまり、現代語感覚で安易に読解した可能性を感じる。此の際の経緯を見ると、原文から翻訳文に齎された深意が理解されず、論者の思い込みが(化粧品の「コンシーラー」のように装わせ)「糊塗」されたために斯くの如き誤解が生じたと見えるのである。
 多くの支持者に識見を求められている論者は、より高い品格を求められていると思うのである。

 権威のある国語辞典「辞海」の「さらに」、「又」の項には、これらの言葉が、それまでの事項(甲)を受け、「それとはべつに」と新たな事項(乙)に繋ぎ、甲乙並記と解釈することができると示されていて、漢文の「又」の語義を丁寧に引き継いでいるとわかる。本件に関して、翻訳者に、非は一切なく、論者の錯誤と見える次第である。いや、「引き続き」の意を強くもっているのを否定しているのではない。だからといって、「端(はな)から決め込んではならない」という戒めである。

*忍び寄る原文改訂
 この件に限らず、後世史料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含むとは言え一級史料を、更に不確かさの深まった二級史料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。
 いや、陳寿「三国志」「魏志」の文意を追求すると、原史料の原文が中間段階で善解されて「美しく」整形されて正史編者に伝わった様子が見える例が珍しくないのである。

*「ウソ」と非難する責任
 論者が非難する『古田氏の「ウソ」』も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを上塗りする「ウソ」になってしまうのである。自縄自縛という例である。
 ただし、そのような悪弊は、論者の独占事項ではなく、古代史世界に限っても、他ならぬ古田氏を始め、類例が山成すほどの普遍的なものである。論者は、暗がりの人影を大敵と断じて激烈に攻撃しているが、人影はご自身の鏡像であり、攻撃は鏡面に反射して自滅になっているのである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないということである。論者が、閻魔の代わりに「ウソ」と決めつけて、致命的な大罪と一方的に断罪・裁定しているから、そのような告発は冤罪ではないかと正義の裁きを訴えているのである。

 同サイト論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。因みに、その主人公は、「公方」様であるから、斬るのでなく峰打ちであるが、護衛のお庭番は、ざくざく斬ったから、正義(成敗/Justice)もいい加減である。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判にとどめて、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、「古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではない」と思うのである。反対者も、同断である。それにしても、論者は、「古田氏の著書」全巻を、余さず読み尽くして論じているのであろうか。それは、大変、大変、大変ご苦労なことである。 して見ると、一言で論じることなどできないと理解されていると思うののである。大変もったいないことである。
 一度、早計な感情論を鎮めて、せめてお手元に蔵書されている原資料の読み返しをされたらよいと思う。

 氏の令名故か、同サイト論者 氏の論義を引用している近例があるから、後世に悪名を残さないように、是非、御再考いただきたいと思うのである。随分ご無沙汰の本稿に手を入れたのは、近来、参照されている通行人がいらっしゃるからである。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 3/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 また、この議論は、すでに公開した古田武彦氏に関する議論より先にまとめたのだが、ここで打ち出されているのは、安本氏の論説に対して誤りと言い立てるものであるのに対して、古田武彦氏に対しては、「嘘つき」との糾弾であり、そちらの公開を先行したものである。  

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

 前回記事も含めて、この場で述べたいのは、学術的な「論争」のあり方というものである。
 世の中には、様々な個人的世界観、ものの見方の基準があって、その基準が一致していないと、正誤、適否の議論は成り立たないと言うことである。まして、対手を、罵倒、つまり、誹謗中傷するのは、到底許容されないのであるが、古代史学では、さながら冬空のオリオン星座のように「馬頭星雲」ならぬ「罵倒星雲」が邪悪な光芒を示しているので、大変、勿体ないと思うのである。

 いや、そうした議論が、論争相手(論敵)を論破して意見を改めさせることであれば、意味がある。しかし、その際に、自身の論理の当否に目を配ることなく、勢いよく主張するのが最善策ではない。大半の場合、論争とは、検証可能な主張を積み重ねて、小さな勝利を積み重ねるのが正道と思う。
 陳腐な一般論であるが、論争で、相手の立脚している論理を頑強に否定するだけであれば、それは、単なる言い争いであって、大局的に不毛であると考えている。当人にも不毛と思うのだが、それは、当人の問題なので当方は干渉しない。

*批判の対象
 ここでは、論者たるサイト管理者(論者)が、安本美典氏を論破しようとしている、その足取りと口ぶりに対して批判を加えたい
 毎度のお断りであるが、当ブログ筆者は、批判対象となる記事の内容に対して、素人の知識をもとに反論しているので、その範囲は、ここにあげた記事の範囲にとどまっている。

 さて、切り出しでは、文芸春秋氏の座談会記事に於ける安本氏の発言を引用して批判のにしたいようである。しかし、これは「原文引用」なのか、論者の要約なのか不明であり、当記事に反論するのに不便である。
 また、当の雑誌記事は、もともと、座談会録音のテープ起こしであろうが、ここから感じ取れる口調や論理性は、安本氏の論そのものとは言いがたいものがあり、テープ起しの際の編集と感じるのであるが、確証はない。

 引用の直後に示されている数理統計学的年代論」のエッセンス」というのは、論者の意見であり、安本氏ほどの権威の言葉遣いが揺らいでいるのではない、つまり、当人の発言ではないように見えるのが気がかりである。

 安本氏も、いくら持論の発露とは言え、座談会記録を、自身の信念というか持論のエッセンス、決定版とみなして、反論できない弾劾、斬られ役に持ち出すのは、勘弁してくれよと言いたいところであろう。

*弾劾の迷走
 その直後に、サイト管理者たる論者は、「安本氏の四つの過誤」(と、便宜上呼ぶことにする)を書き立てて、従って、安本氏の主張は、「数理統計学」とは「無縁」であると断言している。仰々しく掲題しておきながら、安本氏の主張の誤りを論証するのではないと言う。随分、杜撰である。

 ここまでの一瞥で、古代史学で、健全な議論のお手本を探し求めている当ブログ筆者は、論者は無縁の衆生として、きびすを返しても良いところである。以下は、当人の言いたいままにほっといたらいいようなものであるから、色々意見するのは、単なる余計なお節介である。

 さて、この4項目に書かれている主張を論破するのが、論者の目的と宣言しているものなのだろうか。「被告」と「罪状」が明らかにならなければ、「陪審員」も意見を出しようがないのである。

 さらに戸惑うのだが、本論は、「安本氏の「数理歴史学」の誤り」を論証するようにと題付け(仰々しく掲題)されているのではないか。論者は、どのような視点から安本氏の「数理歴史学」と数理統計学」との有縁、無縁(非科学的な論争用語ではないか)を言い立てているのだろうか

*とんだとばっちり
 続いて、今度は、安本氏が旧著で、自身の提唱した論考のあらましが、先人である栗山周一氏の著書にすでに同趣旨の年代論が発表されていたことを知って嘆息したという記事を参照して、嘲笑に似た批判を行っている。
 しかし、安本氏の論理の誤りを追究するはずの論説で、安本氏の感慨吐露をを、他人の視点から勝手に推察して批判するというのは、論争の余談として、まことに不適切である。
 個人的な意見や感慨は、その個人の世界観を示すものであり、個人個人の世界観はその個人の自由なものであるが、広く共感を求めるために書き記すのであれば、広く通じる論理に限定すべきではないだろうか。

 ちなみに、安本氏の記事の引用の後に、「栗山氏の時代には、コンピューターはおろか、電卓もありません」と先人の知識、技能の欠落を嘲笑する文字が綴られているが、昭和初期にも、算盤はあったし、数値の四則計算に始まって、対数、三角関数表など、科学技術計算の手段は整っていたのである。
 江戸時代の算額の例を見ても、当世の素人の知り得ない高度な数学理論が生きていたのである。
 古代史分野では、直感的断定法(安楽椅子探偵)が優越し往々にして無視されるが、不確かさ含む断片的データに立脚する論理的思考法も、整っていたのである。

 「栗山氏が洞察、大局的な着眼によって見出し、着々と辿った論旨を、後生の安本氏が、コンピューターと統計学を駆使して、そうとは知らずに辿っていた」との感慨は、先人の叡知を称えると共に、そのようにして論理的に辿られた主張が、学界の大勢に正しく評価されることなく、地に埋もれていたことに対する嘆きであるように思うのである。

 未踏の秘境と思っていたら、先人の足跡が知られないままに残されていた事例は、皆無ではない。概して、謙虚な後人の姿を描くものである。
 本論部分ほど精査されていない余談部分に論者の理性の限界が現れるというのは、一種の真理のようである。

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 4/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

「(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り」
 と、なぜかひねくった言い方である。これでは、安本氏がえらそうに吹聴するのが悪い、という不作法の指摘となってしまう。この項のどこが、批判対象である安本氏の持論であるか、不明確なのである。なぜ、真っ直ぐに論理の不備を指摘しないのか、不可解である。当ブログ筆者は、安本氏と面談した経験はないが、氏は、それほど不作法なのだろうか。
 ちなみに、論者は項目で「誤り」と糾弾していながら、本文では、「よくない」といやに軟弱になっている。怒鳴った後、猫なで声というのは、うさんくさいものがある。

 また、論者が、重大な論拠として参照するのは、誰が見ても場違いな中国諸王朝の歴代皇帝の在位年数であり、これは、いったい何だと言いたいところである。

 更に続けて、4王朝通じて、38代395年が平均10年になっているとした後、個々の王朝を見ると、平均10年になっていないと指摘をしている。それがどうしたと言いたいところである。

 更に更に続けて、従って、奈良7代70年というのは、たまたまであって、その点を「吹聴」するのは、一種「ペテン」であると非難している。
 「たまたま」であろうとなかろうと、歴史的事実であり考察の材料となるデータである。
 こうした一連の駆け足の論理が、「安本氏の提唱が誤っている」ことの論証になっていないのは明白である。

 まして、「吹聴」という、いわば当然の行為を誤りと主張したり、果ては、一種の「ペテン」である、つまり、安本氏はペテン師(嘘つき)である、と非難しても、何ら、科学的な議論に寄与しないことは明白である。

「(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り」
 今度は、比較的真っ直ぐに、安本氏の論理の誤りを問うものになっている。
 と言うものの、安本氏が「必然性」を主張したと糺しているのは、見当違いというものである。「と仮定すると」と明言されていても、引き続いて、一々の断り無しに書き連ねていると、結論が「一致している」と断定しているようにみえるものの、仮定を承けているので、実際は、「ように見えます」と付け足して読むのが、解読の常道のように思う。

 ということで、安本氏の主張は、全て、統計学的なものであり、ぼんやり読むと断定しているように見えても、すべて「確かさ」(不確かさ、すなわち誤差)の込められたものであって、「必然」を主張しているものでないのは明らかである。
 特に、統計学は、知的な裏付けのある「臆測」の学問であり、「断定」「独善」でないのは、常識ではないかと思われる。

 同時代の日本人の著述を、適確に読解できないとしたら、古代史史料の読解など覚束ないと見るのである。つまり、論者は、自分で自分の品格を落としているのである。くれぐれも、ご自愛頂きたいものである。

 論者は、ここで、知る人ぞ知る半島古代史史料「三国史記」を援用して、三国の王の平均在位年数が、「奈良時代の平均10年」を大きく超えているから、「安本氏の推計」(断定と言っていない以上、安本氏の言い分は読めているように思うのだが)が無意味であることは、議論の余地がない、と言い切っている
 しかし、大事な論証で、そんなに性急に断定して、糾弾に走るべきすべきではなく、何事も、まずは、当人と議論すべきだと考える。

 この項目について言えば、双方が依拠している史料は、それぞれ「ある程度」の信頼に耐える程度のものであり、それぞれの推論の立て方に客観的に異論がある以上、議論は必須と考える。
 「三国史記」が信頼に耐えるかどうかは、史料批判への疑問であり、それは、「日本書紀」等への史料批判を問うから、実に多大な論義が派生して収拾が付かないので、ここでは言及しない。

未完

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』安本美典批判 三新 5/6

                         2016/02/08 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 こうして四大項目の最初の二項目で論者の荒っぽい、と言うか、論者の荒れ狂った言い分の是正にくたびれてきたので、以下の項目については批判しないが、素人目にも、それぞれ「誤り」を指摘されている項目は、安本氏が、自身の採用した仮定とその展開の帰結を表明しただけではないかと思われる。
 推論の展開に使用した仮定に同意できない(気にくわない)と言って、採用手法を否定するのは、お門違いである。まして、ペテン呼ばわりは、いただけない。ご自身に、たっぷりとおつりの返ってくるものである。

 『「安本氏の議論は独善、従って、一顧だにすべきではない」と言いたい』のであれば、自身は、それに、自家製の手前味噌の独善で対抗するのでなく、筋の通った、客観的な論理を貫くべきだと考える。
 特に、「独善」、つまり「孤説」であることをもって、その節の当否を判断するのであれば、世の論客は、論者自身はもちろん、当ブログ筆者を含めて、全員ゴミ箱直行である。「一顧だにすべきではない」と断定しているが、論者のご提案の趣旨は、貴重な意見であるが、その正鵠については、深く読解した上で広く確認する自由を持ちたいものである。「また一つの独善」とまでは言わないとしても、

 例えば、締めの部分で、『たとえ古代天皇の平均在位年数が10年であったとしても、特定の天皇から35代前の年代を推定することは意味をなさないのです。   この事実を無視した安本氏の年代論は、邪馬台国ファンを惑わす、「似非数理統計学的年代論」と弾ぜざるをえません。』と痛打を加えようとしているように見える。
 しかし、素人目にも、統計学的手法によって、既知の年代のデータをその範囲外に適用する「外挿法」による推定は、元々、法外に不確かなものである。公の場で提唱されるのは、有効であると自信のある場合だけであろうから、大抵の場合は、推定不発、それも、極めつけの大外れになるものである事は、自明であろう。

 しかし、元々、古代史にまつわる諸説は、おおむね不確かであるとしても、一部に何らかの確かさを含んでいるから、はなから否定することはできないものである。そういうものである。

 それでなくても不確かさを含む推定を、遠く時代を遡って、推定の対象となる天皇に至るまでの遡及代数が増えれば、推定に含まれる不確かさが急速に増大するのは、一般論という名の常識的な推定である。ただし、一般論は、それ自体、ある程度の不確かさを含むものであり、絶対普遍の必然ではない。
 都合の良いときだけ、当てにならない一般論を振りかざして、「安本氏の年代論」の全体を否定するのは、無理(物事の道理に反する)というものである。

 結論として、当論考は、安本氏の主張、ないしは採用手法を誤りとする命題を掲げながら、それを論証するものでなく、単なる持論の披瀝にとどまっていると考える。それなら、自滅に近い誹謗は、止めて行いた方が賢明というものである。

 論者には、性急な断定を誇るのではなく、自制を促したいと思う。
 安本氏の年代論を専門的に精査した上で、「似非数理統計学的年代論」と異端視するのであれば、論者の言う正統派の「数理統計学的年代論」を披瀝いただきたい
ものである。

 一介の素人である読者としては、学術的な議論、討論を、言葉や論理を駆使する公開格闘技試合になぞらえるなら、反則技の多発する格闘は、趣味ではないので、ご勘弁いただきたいのである格闘技ファンなら、場外乱闘や反則技も楽しめるかも知れないが、観客は、そうした感性の持ち主ばかりではないのである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、安本氏の言い立てる年代論に全面的に賛成しているものではない。
 いや、安本氏が編集した雑誌「邪馬台国」の掲載記事や安本氏が主催するサイト記事に対して、不満、不安を感じることが、しばしばあるが、あくまで、個別の記事の誤りや論理の部分的なほころびを指摘するだけである。
 一方、不確かさを含む資料を利用して極力不確かさの露呈しない推定を組み立てる論説の進め方には、基本的に賛成している。

 世の中には、自身の気に入らない主張を打ち出している論考は、論考の結論に反対するだけでなく、論証仮定に採用された技法まで、丸ごと否定する向きもあるようだが、それは、「ファン」としての感情論であって、科学的な思考ではない。

 ちなみに、論者のサイトには、色々、古代史分野に於ける糾弾記事が多数掲示されている。費やされた労力と時間、そして、それを支える使命感に対しては、賛嘆を惜しまないが、掲示されている記事が、悉く、数回の記事を費やして批判したような、思い込みで書かれた、論拠の不確かな、無用に攻撃、断罪する記事でないかと推定される。折角の労作が、ただの「猫またぎ」になりかねないのである。

 となると、そうした記事を解読しようとするのは、時間と労力の無駄なので、以下、科学的議論とは「無縁の衆生」として「一顧だにしない」事になる。いや、ネットの世界には、サイトの記事の「味見」をしただけで、余りの独善さと棘の多さに辟易したサイトも多々あるから、別に、ここにあげたサイトだけ別待遇というわけではない。

以上

私の本棚 番外 「邪馬台国論争」『一局面 暗号「山上憶良」』小松左京批判 三新 6/6

                          2016/08/18 補充 2022/12/14 2023/03/11 2024/01/21
◯始めに
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。

***引用開始****
第一部 邪馬台国ファンを惑わす誤り
 2.古田武彦氏の説の誤り
  2-2 古田氏によるミスリード 

角川文庫に収められた、古田武彦氏の著書『「邪馬台国」はなかった』のカバーには、「古代史論争の盲点をつく快著」と題する、作家小松左京氏の推薦文が載っています。

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初に強くすすめてくれたのは、
文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。
―― 一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、
推理の手つづきの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説を
はばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。
何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。
初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、
今も鮮やかにおぼえている。

こういうのを、絶賛というのでしょうが、小松氏は、まんまとごまかされたのです。
***引用終わり***

 いや、説得しても聞き入れてもらえない状態で、言い足すのも何なのだが、やはり、人の道として見過ごしに出来ないので、付け足すものである。所詮、個人の意見は多種多様、言論の自由、表現の自由もあるので、当方の意見を聞き入れよと言うつもりはないが、率直な批判をさせて頂くのである。
 言うまでもないが、当方にこの件に対する反論をコメントで寄せられても、対応、公開は、保証しないことを申し上げておく。

 当ブログ筆者が、何か言わずに言われなかったのは、古田氏著書に小松左京氏の推薦文が入っていたことについて、小松左京氏の見識を誹謗するサイト記事だからである誹謗中傷は、学術的議論に於いて、断然、排除されるべきであると考えるのである。

 それでなくても、一般論として、自分の理解を超えた意見について、十分理解することなしに、嘘つきとか詐欺師とか、度を超えて誹謗・罵倒するのは、好ましくないのは自明と思うが、「小松氏」が「古田氏」の著書に対して、趣旨を十分に理解し、共感を示す個人的な感想を述べているのに、第三者が「小松氏は、まんまとごまかされた」などというのは、誰が考えても行きすぎと思う。

 小松氏は、サイト管理人と古田氏の「私闘」に直接関係のない局外者である。推薦したとは言え「腰巻き」をネタに個人攻撃されてはたまるまい。また、故人となって久しいので、当人には反論も出来ないのである。

 当方の知る限り、小松左京氏は、博識で万事に豊かな見識を持っていて、他人の所説に対して上っ面の感触だけでのめり込む人ではなかった。年来の知人であっても、社交辞令に美辞麗句を連ねる人ではなく、著書に不満の点があれば、相手の逆鱗に触れるのを怖れず率直に批判する人であったと思う。不審であれば、小松左京氏の著作を熟読してほしいものである。

 古田武彦氏の「邪馬一国の道標 」(ミネルヴァ書房 2016年1月復刊版)の巻末に両氏の対談が収録されているので、それぞれの見識を確認されたらどうだろう。小松左京氏と古田武彦氏は、それこそ長年の同志であり、互いに相手の内面を知り抜いている間柄だったのである。聞きかじりでどうこう言っていたのではないのである。

 当ブログ筆者は、知識、見識、向上心の全ての面で、二人の域には大分というか到底というか及ばない。二人とも故人となっても、後進のものに到底追いつけない先駆者と思うのだが、もちろん、その意見を押しつける意図で言っているのではない。一度、自分の意見が妥当なものかどうか、よく考えて欲しいと言うだけである。

 ついでのついでだが、小松氏共々、だまされたことになっている「文化人類学者の梅棹忠夫先生」は、未知、ないしはそれに近い、往々にして未開の人間社会に入り込んで、大量の現場情報を採取し、それに基づいて、当該社会の「文化」を読取り、絵解きする学問分野「文化人類学」の大家であり、生のデータの山から「事実」を読み取るかたであった。古代史学の先入観を押しつける姿勢と対極の人であった。

 我々一般人はともかく、梅棹、小松の両氏ほどの知的な巨人達ををだますのは、とてもとてもできないことだと思うが、そう思わないと言われたら何も言い足すことはない。付ける薬がないのである。

 思うに、この部分を削除してもサイト記事の威容を損なうものではないので、削除した方が良いのではないか。
 いや、当方如き素人が、あれこれ指図することはできないのだが、

以上

*誤字訂正など     2018/01/09

2024年1月17日 (水)

今日の躓き「医師」 毎日新聞 早川智 「偉人たちの診察室」の迷妄

自身を鼓舞する赤の効果                            2024/01/17

 当記事は、本日付毎日新聞大阪朝刊13版「総合」面の囲み記事「偉人たちの診察室」の批判である。
 不思議なことに、当記事は、毎日新聞ウェブサイトの下記記事と大きく重複しているが、当方は、同日近傍の新聞記事を保存していないので、どうなっているのか不審である。

偉人たちの診察室 赤備えは男性更年期対策になったか 真田幸村
早川智・日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授 2023年12月7日

◯はじめに 誰の診察室?
 今回は、コラムタイトルの不審を糺すところから始まる。
 「偉人たちの診察室」と書かれていると、ふつう、「偉人たち」が診察する診察室と見える。
 早川氏は、医師免許をお持ちなのだろうが、読者が気づかないのを良いことに、ご自身を「偉人」と称しているのだろうか。随分、不用意である。宮沢賢治の「注文の多い料理店」ではないが、食うか、食われるか、えらい違いである。

 次いで、「早川診察室」の医療行為であるが、実際に患者がやってくるわけでも無く往診するわけでも無く、患者の病状を知る根拠は、大した根拠のない風聞に近いものであるから、ある意味、氏は、姿見の前に立って、ご自身の鏡像を診断しているとも見える。これは、正当な医療行為なのだろうか。当方には、医者を選ぶ権利があるので、患者のプライベートな事項をしたり顔で全国紙に書き散らす医師は、ご遠慮したいものである。

*根拠なき放言の羅列
 氏は、学術的な根拠と擬態した風聞をもとにもっともらしく診断しているが、科学的に「無意味」(不合理)では無いかと思われる。
 『2004年アテネ オリンピックにおける「レスリング、ボクシング、テコンドー」においてウエア(ママ)の色彩と勝敗に相関関係があった』という趣旨であるが、なぜ、柔道が無いのか、卓球、バドミントン等が無いのか、不審である。
 氏は、大上段に「統計的に有意」と称しているが、随分偏った少数の事例であり、しかも、前後の大会でどうだったか検証もされていない。「統計的に有意」がどんな根拠で主張されているのか不審である。

 素人考えだが、「ウエア」の色彩は、ほぼ、相手方のものが目に付くのであり、見当違いの仮説を見当違いの手法で検証した可能性が高い。このような仮説は、先に言ったもの勝ちで、検証も、反論もされないのだろうか。世上の噂では、凡そ、どんな分野でも、新説の90㌫以上が、「フェイク」ないし「ジャンク」であり、誰か奇特な方が、毒味した後で、様子を見て取り組んだ方が良いということである。

 世間は、早川氏のように、目新しい仮説に無批判に飛びつく奇特な方ばかりではないと思うのだが、どうなのだろうか。当方は、道端の「落とし物」にかぶりつく趣味はないので、どうにも、非科学的な放談と見える。「おとといおいで」である。

 以下、氏の議論は、不気味なほど「男性専科」であり、「戦意を高めて、理性を曇らせるのは男性のみ」と決め付けていて、性的な公平性に欠ける。問題発言である。して見ると、先ほどの貴重な実証データは、男性なのか、女性なのか、両性を含むのかも、触れられていない。何とも、不用意であるが、毎日新聞に掲載される以上、これは、全国紙としてのコンプライアンス上、問題ないというのだろうか。
 
 現代風に言うと、西洋と東洋では、宗教的な影響もあって、色彩に対する心理的な受容性は大いに異なると思量する。まして、氏が無造作に、「赤」(red?)「青」(blue?)と称しているが、科学的に見て同一の「色」では無いと思われる。随分、杜撰、粗忽で、この上なく非科学的な意見と見える。
 なお、日本国内だけ捉えても、21世紀の若者の色彩感覚と、17世紀戦国末期の「もののふ」の色彩感覚/生死観は、どこが同じで、どこが違うのか、分からない。

*もののふの心意気
 最後に、当の真田信繁が、大坂夏の陣の際、いかなる心意気でいたか、無責任な現代人に分かるはずが無い。端的に言うと、対徳川という戦歴から言っても、「二度の対戦は、それぞれ、非勢の不利な戦であり、勝算は、乏しいものだったに違いない」が、敢然と戦って、勝利したのである。敗死していれば、後生の野次馬に無謀とあざ笑われたはずである。
 少なくとも、真田信繁が、大坂の陣で、氏が素人考えで絶望的と決め付けた戦(いくさ)に挑んだと思うのは、この上も無く失礼である。

 さらに、信繁が赤備えに「陶酔」して、無謀な戦に挑んだというのは、「ドーピング」紛いの狂気の沙汰の中傷/非難であり、これもまた失礼であろう。氏ご自身の「合理」性を、信繁に押しつけるのは、何とも無謀である。確かに、早川氏がいくら全国紙の紙面で誹謗中傷を叩きつけても、信繁から反撃されることは無いのだから、絶対不敗、言いたい放題なのだろうが、「現実に」氏の診察室に信繁を迎えて、このように侮辱を連ねる度胸はあるだろうか。

*早川式「タイムスリップ」待望論
 是非とも、氏の好む「早川式時滑り(タイムスリップ)」で、世界に類例のない氏独自の超技術で時間/空間座標を精密に同調させて、夏の陣冒頭の信繁の陣屋に、ピッタリ乗り込んで欲しいものである。素っ裸なのか、フル装備なのか、電気動力含めて、到着後の顛末は、知る由もない。
 どのみち、「タイムスリップ」は、片道切符であるから、現地で成敗されようが、当世では知るすべは無いのである。「滑り」の果ては、Good Luck, Good-byeで終えておく。

*六文銭の人~往きて還らず
 真田信繁は、身内に本音でぼやくときはともかく、心底の覚悟は、戦場で倒れたときは、「いずれ渡るべき三途の川を、身につけていた六文銭で渡る」という死生観であり、悔いなどなかったと言うべきである。それを「満足」などというのは、後生の野次馬の小賢しい見方に過ぎない。伝統的には、「女々しい」「sissy」と言ったものだが、現今、禁句なので控えただけである。むしろ、「可愛い」、「誠に小人である」と言うべきかも知れないが、当方は他人のPhysicalを論じる趣味はないので撤回する。

以上

2023年12月21日 (木)

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

〇はじめに
 「纒向学研究センター」は、桜井市教育委員会文化財課に所属する研究機関であり、文化財課の技術職員全員がセンター研究員に任命されているということである。本記事は、「纒向学研究センター」の刊行した研究紀要『纒向学研究』第7号掲載記事の批判である。リンク先は、同誌全体のPDFであるが、個別記事へのリンクは用意されていないので、ご容赦いただきたい。また、「纏向学」は、桜井市の登録商標であるが、本稿のように、参照目的で表記するのは商標権侵害に当たらないと思量するので、特に許可を求めていない。

*総評
 率直なところ、文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。とは言え、
 深刻な問題は、用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。

 特に、国内古代史史料は、精々、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内古代史史料を見ていないので、統一しようがないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える。

 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、(中国)古代史史料以外に、大変不確かと定評のある「三国史記」と共に、真偽不明と思われる大量の国内史料が論じられ、つづいて、「文字史料」との括り付けが大変困難な「纏向史蹟」出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。
 言うまでもないと思うが、「纏向史蹟」出土物に文字史料は皆無であり、墳墓に、葬礼に必須かと思われる墓誌も墓碑銘もないから、異国の「文字史料」との括り付けに終始しているのであり、この点、「纏向史蹟」の時代考証に、大きな減点要素になっているのは、周知と思うのだが、滅多に言及されないので、あえて念押しするものである。
 と言うことで、当ブログ筆者の見識の圏内であって当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。

 一般論であるが、用例確認は、小数の「価値あるもの」を精査するべきである。用例の捜索範囲を広げるとともに、必然的に、欠格資料が混入し、そこから浮上する不適格な「用例」が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ、疑わしい史料を「無批判」で提示したという疑惑を獲得して、結局、意に反して論拠としての信頼性は急速に低下するのである。数が増えるほどに評価が低下するのでは、「効率」は、負の極値に向かうのである。
 つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。一群の資料に低品質のものが混入していたら、資料全体の評価が地に墜ちるのである。つまり、そのような低質の史料を採用した論者の見識が、容赦なく低評価されるのである。ご自愛頂きたい。

 要するに、用例は、厳選、検証された高品質の「少数」にとどめるべきであり、「精選」の努力を惜しまないようにお勧めする
 論考の信頼性は、引用史料の紙数や目方で数値化されるものではないと思うものである。古代史では、そのような、基本的科学的な数値評価が見失われているようである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観(歴史ロマン/神話)と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で懸命に埋める努力が見えるが、多年検証された倭人伝」の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。まるで、子供のおもちゃ遊びである。

 氏が提示された「倭人伝」の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家が擁立されている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘ると、拡大解釈されている例がみられる。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている拡大解釈までみられる。
 しかし、事情不明。音信不通、交通絶遠の諸国であり、国名が列記されているだけで、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が畿内に及ぶ各地に散在して、その東方は「荒れ地」だった』とは思えない。委細不明であるが、日本列島各地に、大なり小なり聚落が存在していたはずである。

 当時の交通事情、交信事情から見た政治経済体制で、「列国」は、多分、行程上の「對海/對馬」「一大」「末羅」「伊都」止まりと思われる。名のみ艶やかな「奴国」「不彌國」「投馬国」すら、朝廷に参勤していたとは見えないのである。丁寧に言うと、往来が徒歩に終始する交通事情で、文書通信が存在しない交信事情としたら、至近距離の少数の「列国」以外の諸国は、実質上音信不通であり、「政治経済」と物々しく称しても、およそ連携しようがないと見えるのだが、その点に言及されないようである。

 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 先に点描した情勢であるから、私見では、倭人伝」行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。「枯れ木も山の賑わい」である。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して比定するのは不要である。(時間と手間のムダである)そう、当ブログ筆者は、「直線最短行程」説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪されるが、倭人伝」に根も葉もない(書かれていない)推測なので、意味不明である。氏の論議は、「倭人伝」から遊離した「憶測」が多いので、素人はついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とされたのは不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と後漢状勢と半島情勢を関連させて、さらに滔々と劇的な「古代浪漫」を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。そのような「法螺話」は、陳寿に代表される真っ当な史官があてにしないはずである。いや、全ては、氏の憶測と見えるから、氏の脳内心象では、辻褄が合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、客観的に確認できる「文章」からは、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと主張されるが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていらっしゃらない。

 本冊子で、他に掲載された遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に手堅く立脚しているのと好対照の「空論」と見える。当論考も、「思いつき」でないことを証するには、これら、これら寄稿者の正々たる論考と同等の検証が必要ではないかと思われる。検証された論考に「空論」と言う「野次馬」がいたら、公開処刑しても許されると思うのである。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点であり、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、『三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した』咎(とが)が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら氏の望む全体像ができないが、それは、「倭人伝」のせいでなく氏の構想限界(偏見)である。

 「魏志倭人伝」は、西晋代に、中国史官陳寿が、中国読者/皇帝のために、新参の東夷「倭人」を紹介する「伝」として書かれたのであり、中国読者の理解を越えた文書史料では無いのである。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、「諸国」は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語、法制などが共通であり、当然、街道網が完備して、「盟主が、書面で月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集する」国家制度の確立が鉄の規律と見える。
 しかし、それは「倭人伝」にない「創作」事項であり、言わば、氏の自家製(手前味噌)「倭人伝」であるが、氏は、そのような創作に耽る前提として、どのように史料批判を実行された上で、広域古代国家の結構を構築され受け入れたのであろうか。

 氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは「朝廷」と見なされるのであるが、そのような美麗な「朝廷」図式が、どのようにして実現されたとお考えなのだろうか。
 氏が昂揚している「纏向所見」は、本来、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。そこから、「倭人伝」を創作した過程が、素人目には、今一つ、客観的な批判に耐える立証過程を経ていないように見えるのである。

*承継される「鍋釜」持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているように見えるが、それは同時代文書記録によって支持されていない以上、関係者の私見と一笑に付されても抵抗しがたいように見える。あるいは、出土物に、各地食物残渣があって、個別の原産地の実用が実証されているのだろうか。あるいは、土器に文字の書き込みがあったのだろうか。当ブログ筆者は、門外漢であるから、聞き及んでいないだけかもしれないので、おずおずと、素朴な疑問を提起するだけである。

 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、ひょっとして、数量が「たくさん」と言うのが、千、万でも、何十年どころか、一世紀掛けて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統~余談
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者、ひいては、所属組織の功績になることから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、所謂「法螺話」として皇帝が軍人を訓戒している挿話であり、まじめな論者が言うことではないのだが、「有力研究機関」教授の口から飛び出すと、「三国志の最高権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文に「ヤジ」、つまり、史料に根拠の無い不規則発言を飛ばすのと絡まって、結構、世間には、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。「良い子」が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の宏大深遠な懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために文字資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。
 因みに、庖丁の技は、素材を泥付き、ウロコ付きのまま食卓に供するものではないので、下拵えなどの捌きは当然であり、それをして、「不自然」、「あざとい」、「曲筆」、「偏向」などと言うべきでは無いと思うのである。何の話か、分かるだろうか。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向にて「会盟」が挙行されたと見ていて、私案と称しながら、以下の「盟約」を創作/想定されている。史学分野で見かける「法螺話」と混同されそうである。

本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約」は、「思いつき」というに値しない、単なる「架空の法螺話」なので「復原」は勘違いとみえる。なかったものは、復元しようが無い。
 要するに、陳寿を起点にすると、「二千年後の無教養な後生東夷」による個人的な創作とされても、物証が一切無い以上、反論しがたいのである。その証拠に、各項目は、非学術的で時代錯誤の普段着の「現代語」で書き飛ばされている。勿体ないことである。古代人が、このような言葉遣いをしていたと思っておられるのだろうか。

 考古学界の先人は、学術的な古代史論議に、当時の知識人が理解できない「後世異界語」は交えるべきでないとの至言を提起されているが、どうも、氏の理解を得られていないようである。

 真顔に戻ると、当時、官界有司が盟約を文書に残したとすれば、それは、同時代の漢文としか考えられないのである。その意味でも、ご高説は、「復原」には、全くなっていないのである。困ったものだ。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21

*時代錯誤の連鎖
 氏は、想像力を極めるように、女王となった卑彌呼が、新たな王制継承体系を定めたとおっしゃるが、周知のように「倭人伝」にそのような事項は、明記も示唆もされていない。つまり、ここに書かれているのは、史料文献のない、当然、考古学の遺物考証にも関係ない、個人的な随想に過ぎないのである。本誌は、「纏向学研究」と銘打たれているから、個人的なものでなく多くの支持を集めているのだろうが、「達人」として令名をはせるのは、本稿筆者のみである。
 だれも、素人目にも明らかな当然の批判を加えていないようだから、この場で、率直に苦言を呈するのである。他意はない。

「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「命名」は、当人の実の親にしか許されない。
   第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
   卑弥呼が実名でないというのは詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
   併せて言うと、陳寿がことさらに「女子」と書いた意味が理解されていない。

「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す

 女王の婚姻禁忌は、無意味である。
   女王は、端から、つまり、生まれながら生涯不婚の訓育を受けていた「巫女」と推定される。
   当時の上流家庭は、早婚が当然であるからそうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
   ほぼ例外無しに配偶者を持っていて、恐らく、婚家に移り住んでいるから、婚姻忌避など手遅れである。

「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する

 『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。
   要するに、諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇想天外である。新規独創は、史学で無価値である。
   となると、「邪馬台国」はあったのか。大変疑問である。「倭人伝」原文を冷静に解釈すると、女王共立後に、
   その居処として「邪馬壹国」を定めたと見える。
   つまり、女王「卑彌呼」が住んだから「邪馬壹国」と命名されたとも見え、女王以前、いずれかの国王が統轄
   していた時代、殊更「大倭王」の居処として「邪馬臺国」を定めていたと解される笵曄「後漢書」倭条記事
   整合しなくても、不思議はない。どのみち、笵曄は、確たる史料のない臆測を書き残したように見える。
   いずれにしても、漢制では天子に臣従を申し出たとしても「伝統持続しない王は臣従が許されない」。
   王統が確立されていなければ、単なる賊子である。代替わりして、王権が承継されなかったら前王盟約は反古
   では、「乱」「絶」で欠格である。蕃王と言えども、権威の継承が必須だったのである。
   当然、共立の際の各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、
   しかるべき出自の未成年に限られていたことになる。誰が、身元審査したのだろうか。

「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。
   因みに、東夷に「王都」はあり得ない。氏は、陳寿が、「倭人伝」冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかって
   いないのではないか。史官は蛮夷に「王都」を認めないし、読者たるうるさ型が、そのような不法な概念を
   認めることもない。
   そもそも、「大市」なる造語が不意打ちで、不審である。
   氏の造語では無いのだろうが、古代史文書で、「市」(いち)は、多くの人々が集い寄って、「売買」する
   盛り場であり、國邑にある市は天下一の盛況であったろうが、氏が想定されているような「都市町村」なる
   聚落の大小階梯で、最大の「都」(もっとも大きなまち)に次ぐ「市」(おおきなまち)とは、異なる
   言葉/概念なのである。朝、多数の庶民が集い来たり、昼には、それぞれの居宅に引いてしまう「市」は、
   王の行政の中心とはなり得ないのである。
   率直なところ、氏は、当時信頼に足る史料は、「魏志倭人伝」だけであり、そこに提示された概念を理解
   した上で、自己流の、つまり、無教養な蛮夷の言葉/概念を形成しないと、客観的に、つまり、同時代の
   中原人に理解されないという謙虚な自覚を出発点とすべきでは無いだろうか。
   言うまでもないが、このような時代錯誤の世界観は、氏の独走では無く、「多数の」「史学者」が共通の
   理解としているのだろうが、だからといって、意味不明な用語の泥沼を形成しているという指摘は、
   免れ得ないと思うのである。(2024/01/10追記)

「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する
毎年定時(?時計はあったのか)会同は無意味である。
   筑紫と奈良盆地の連携を言うなら、遠隔地諸国からの参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年
   参上は、国力消耗の悪政である。せめて、隔年「参勤交代」とするものではないか。
   女王交替時に会同を開催すると言うが、君主は「交替」できるものではない。天子は、更迭、退位できるもの
   でもない。
   女王の生死は予定できないので、「交替」時、各国は不意打ちで参上しなければならない。
   通常、即日践祚、後日葬礼である。揃って、大半の各国国主は、遅参であろう。
   あるいは、そのような、突然の交替を避けるために女王に定年を設けるとしたら、前女王は、どう「処分」
   するのか。
   王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
   回り持ちの女王、回り持ちの女王国であれば、墓陵造成はどうするのだろうか。
   以上、ざっと疑問を呈したように、分ご大層な「結構」であるが、文書化できない時代に、どのように法制
   化し、布告し、徹底したのだろうか。どこにも、なぞり上げるお手本/ひな形はない。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、二強の協力、精々三頭鼎立で成立していたのである。両手、両足指に余る諸国が集った総選挙」など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは不熟者の勘違いである。
 先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。
 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。未開の関東諸公を召集してなどいない
 陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が、「絶対の前提」であり、「盟約」は、締盟の証しとして金文に刻されて配布され、配布された原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年会同なら、会同録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会同なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、「幕舎」とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「幕舎」など設けず、「纏向屋敷」に国人を常駐させ、「朝廷」に皆勤し、合わせて、不時の参上に備えるものだろう各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」「会同」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。いや、先哲(レジェンド、大御所)が健在な間は、「遺訓」と言えないが、お馴染みの「まだ纏向全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえそうである。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、文書通信が存在しない時代に、持続可能だったのだろうか。

 繰り返して言うので、あごがくたびれるが、それだけ壮大な遠隔統治機構が、文書行政無しに実現、維持できたとは思えない。文書行政が行われていたら、年月とともに記録文書が各地に残ったはずであるが、出土しているのだろうか。
 記録文書が継承されたのなら、なぜ、記紀は、口伝に頼ったのだろうか。

 いや、本当に根気が尽きそうである。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4 補充

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 「纒向学研究」 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人    2022/01/15 2022/05/30 2023/07/08, 12/21 2024/01/10

*「神功紀」再考~場外「余談」による曲解例示
 俗に、『「書紀」「神功紀」追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例がある』ように仄聞するが、そのような「言い訳」は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、「書紀」本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。何しろ、「書紀」原文は現存せず、「書紀」原文を実見した者も現存しないので、おくそくにたよらざるをえないのである。また、現存する最古の写本が、どのような承継をされたのかも、一切不明なのである。仄聞するに、武家政権である各将軍/幕府統治者は、天皇家を正当な支配者として説き聞かされている「書紀」は、幕府転覆の教義を秘めた聖典となりかねないので、固く封印していたと見えるのであり、一種の「禁書」とされていたと見えるのである。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」(番客)として遇されたから、後日、「国内」には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でもなんでもないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、「神功紀」の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の「余談」で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、「書紀」には、「推古紀」の隋使裴世清来訪記事は、隋書記事と要点の記述が大いに異なる、しかも、用語の誤解を詰め込んだ「創作」記事を造作した前例(?)があるので、「書紀」に書かれているからそのままに信じるわけにはいかないのである。
 いや、これは、余談の二段重ねであり、当事者でない前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)「史書」は、「史書」用語を弁えた「読者」、教養人を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた/不十分な知識、教養で、「史書」を解してはならない。
 それには、当ブログで折々触れている「東夷の漢語学習の不出来に起因する用語の乖離」も含まれているから、東夷の用語頼りで「史書」を理解するのは、錯誤必至と覚悟しなければならないのである。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は、せいぜいかばい立てても「不確か」である。後漢後期、霊帝以後は、「絶」、不通状態であり、景初遣使が、言わば魏にとって倭人初見なので、まずは、それ以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練、試錬に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、「倭人伝」は「倭に会盟の素地がなかった」と明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の「倭人伝」膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は見かけなかったが、このように餡のつまった「画餅」も、依然として、口に運ぶことはできないのである。所詮、上手に餡入りの画を描いたというに過ぎない。

 諸兄姉の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

 追記:本記事公開後、前田 晴人氏が物故されていることを知ったが、記事全体に修正の必要はないと信じる。学問の世界で、率直な批判は、最上の賛辞と信じているからである。

2023年12月15日 (金)

今日の躓き石 NHKBSが賛美するアメフト界の因習か 敗者の「リベンジ」

                     2023/12/15
 本日の題材は、NHKBSの番宣である。何の試合であるかは衆知と思うが、冠スポンサーに恥をかかせたくないので、明記しない。

 決戦を控えて、公共放送が何を言いたいのか、今回の注目は、「敗者の復讐」宣言だという。それで数字が出ると信じているのは、困ったものである。恐らく、アメフト界では、選手を鞭打つ手口が、何をやっても勝てばいい、負けたら復讐の血祭りとの精神に結実していて、それが、「リベンジ」に凝縮されているようなのだが、何とも、情けない「根性」である。いや、廃部にしろと言っているのではない。「悔い改めよ」と言っているのである。
 このメッセージが英語になってNFLの関係者が聞いたら、怒濤の顰蹙ものである。個人的な復讐「血のリベンジ」を選手権に持ち込むのは、不信心な野蛮人であり、「アメリカン」フットボールに泥を塗るものだと激怒されそうである。

 別チームの話だが、日本のアメフト界は、絶大な伝統のあるチームが廃部になったり、別の有力チームが、「ゲーム停止中の悪質ファウルで、相手の有力選手に背後から危害を加える」指導をしたり、もっての外の世界と言われそうである。大学アメフト界に、恥の上塗りになるのではないかと懸念するのである。

 報道によれば、勝者の談話は、「6連覇というのはあるが、目標はあくまでも今年、日本一になること。1年生から4年生まで一致団結している。悔いのない試合にしたい」(秋田魁新報)と、むしろ淡々としている。これこそ、王者の風格である。遠くで吠えているのは、負け犬の証しということのようである。いや、敗者側の発言が報道されたわけではないので、ことは、NHKの早合点/誤報かもしれないが、そう言い立てられているのは、敗者が言いそうな悪態だと見られているのではないか。もっとも、下には下があるのかも知れない。

 それにしても、公共放送が、「番宣」でみっともない敗者の遠吠えを言い立てるのは、どんな意義があるのだろうか。BSに、別格の期待をこめているからこそ、こんな戯言を怒鳴り立てるなら、受信料返せ」と言いたいところである。

以上

 

2023年12月11日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞が煽り立てるフットボール界の「リベンジ」妖怪

                                             2023/12/11
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊4版のスポーツ面の無署名記事である。本日の夕刊は、朝刊休刊日のものなので、朝刊同様の主力記事である。

 ここで目にとまったのは、ラグビー リーグワンの戦評なのだが、ドカンと王者にリベンジと絶叫していて、誠に不吉である。幸い、悪質なファウルや乱闘流血はなかったようであるが、目下、世界的に注目を集めている日本ラグビー界に、何とも、手厚く血塗られた呪いを進呈している。

 記事本文では、昨季三戦全敗だった「王者」に一つ勝ったことを、監督が「やっとリベンジできた」と自嘲しているのは、何とも、不手際である。どうも、ラグビー界では、連敗している格上チームに一矢報いることを「リベンジ」と言うらしいが、それを誇らしく述べるなど、プロのトップリーグとして、何とも貧相な言い草である。

 「リベンジ」(revenge)とは、世界的に、戦い続けている宿敵を血祭りに上げ、時に、殺戮することを言うのであり、テロリストの謳い文句でも、天に代わって制裁すると言い募っているものであり、国際的に見ても、神を知らない不信心丸出しの談話は、誠に、誠に不適当であるが、どうも、フットポール界では、これが通り相場のようなのである。しばらく前に、アメフトの記事で見かけて、警鐘を鳴らそうとしたのだが、多分、例外と見て、記事公開を控えたものである。

 今回は、新加入の外国人プレーヤーの活躍で快勝したようだが、外国人は、長年の怨念など無関係だし、キリスト教徒なら、「リベンジ」のような不信心は口にしないはずである。いや、回教徒もユダヤ教徒も、個人的な「リベンジ」を禁じているはずである。何れにしろ、困った行き違いである。
 それでもテロの連鎖があるのだから、東洋の異教徒が、無頓着に加勢することは、大変な罪悪と思うべきである。

*「ダイスケリベンジ」の呪い
 「フットボール界の通り相場」というのは、野球界では、失敗で挫けずに再挑戦することを「リベンジ」(ダイスケリベンジ)と称し、国内独特の言葉づかいとしているのは、ふざけて血の臭いを薄れさそうとしているのだろうが、メディア関係者が、伝統的な「雪辱」、「怨念」に固執して混ぜっ返している不穏当な状況である。何れにしろ、英語で言えば、「リベンジ」は、血塗られた、主の教えに背く、罰当たりなrevengeしか存在しないから、異教徒文化に属する日本では、速やかに廃語にすべきであることには変わりない。

*全国紙の務め
 いや、毎日新聞のスポーツ面記者は、現場に出回っている不適当な用語を、そのまま報道して煽り立てているようだが、不適切な表現を世間に曝さないのも報道陣の務めでは無いかと思うものである。全国紙や公共放送が伝えたら、判断力の無い「子供」が、面白がって真似をするのである。

 世間では、つまり、民間放送やスポーツ新聞、ネット界の野次馬記事では、罰当たりな言い回しが広く蔓延しているが、それだから、安易に迎合せず辛抱強く務めなければ、絶滅させられないのである。その意味でも、「言葉の護り人」である毎日新聞編集部は、記事校閲しないのだろうか。困ったものであり、全国紙にあるまじき職務怠慢である。

以上

2023年11月29日 (水)

新・私の本棚 サイト記事批判 宝賀 寿男 「邪馬台国論争は必要なかった」 部分更新

 -邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-   2022/01/27 改訂 2023/11/29, 12/02

〇サイト記事批判の弁~前言限定
 宝賀氏のサイト記事については、以前、懇切丁寧な批判記事を5ページ作成したが、どうも、無用の長物だったようなので、1ページに凝縮して再公開したものである。
 宝賀氏は、記事引用がお嫌いのようであるが、客観的批判は(著作権法で許容の)原文引用無しにできないのでご勘弁戴きたい。世上溢れる素人の印象批判は思い付きがめだって不公平である。岡田英弘氏の名言を借りて、自戒の念をこめて下記する。

*自称「二千年後世の無教養な東夷」
 岡田氏は、三世紀西晋の史官陳寿は、「千七百年もあとになって、この東海の野蛮人の後裔が邪馬台国ゲームを楽しむことを予想して、親切心から「倭人伝」を書いたわけ」ではないと処断しているが、どうも、読者の耳に入っていないと見えるので、ここに再掲しておく。(岡田英弘著作集 Ⅲ 日本とは何か 第Ⅱ部 倭国の時代 邪馬台国vs大月氏国)
 当方は、近来、岡田氏の大著の「山塊」に記された警句に気づかず、「二千年後世の無教養な東夷」などと警句を連打していたが、大家の警句が浸透しないのだから、当方如きの警句は聞き流されているようである。
 当方は、素人は素人であっても、極力客観的な批判を試みたのである。 

*救われない俗人
 いきなり、『俗に「信じる者は救われる」』とあるが、凡人には、なんで、誰に「救われる」のかわからない。凡人に通じない「枕」で「滑る」のは勿体ないことである。

*信念無き者達
 「信念はかえって合理的解決の妨げ」とのご託宣であるが、「不適当な信念は、かえって合理的な解決を妨げる」なら主旨明解で異論は無い。私見では、信念なしに研究するのは「子供」である。なぜ、あらぬ方に筆を撓ませるのか。滑り続けている。

*古田史観の誤解、宝賀史学の提唱
 宝賀氏の誤解はともかく、古田氏は、『「倭人伝」研究は、史学の基本に忠実に「原点」を一定に保つべきである』と言っているに過ぎない。頭から、「倭人伝」が間違っているに決まっていると思い込んでは、研究にならない』のである。つまり、志(こころざし)としては、宝賀氏と同志と見える。

 言い方を変えてみる。古田氏は、現存、最良の「倭人伝」史料を原点にする』という「学問的に当然の手順を確認している」のである。宝賀氏は、「原点」に対してはるか後世のもの(二千年後世の無教養な東夷)が改竄を加えた新「倭人伝」を自己流の「原点」として主張しているのであるが、それは、後世著作物である『新「倭人伝」』を論じているのであり、それは、古典的な史学で無く、「宝賀史学」とでも呼ぶべきものである。まことに勿体ない行き違いである。

*的外れな「倭人伝」批判
 因みに、かっこ内の陳寿批判は、『宝賀氏の不勉強』を示しているに過ぎない。(「不勉強」は、本来謙遜の自称であるが、ここは、言い間違いをご勘弁いただきたい)
 古代に於いて、許可無くして機密公文書を渉猟して史書を書くのは、重罪(死刑)であるから、陳寿の編纂行為は公認されていたのである。三国志編纂は、西晋朝公認、むしろ、使命と見るべきである。「私撰」とは、浅慮の思い過ごしでは無いか。
 「倭人伝」が雑然』とか、『陳寿が全知で無い』とは、まるで、素人の勝手な思い込みである。一度、ご自身の「信念」を自評して頂くと良いのでは無いか。
 いずれにしろ、「倭人伝」の史料としての評価は、「原点」確認の後に行うものであり、宝賀氏の咆吼は、言うならば、勘違いの手番違い、手順前後である。また、おっしゃるような「悪態」は、「倭人伝」の史料批判には、何の役にも立たないのである。却って、発言者の資格を疑わせることになる。随分、損してますよと言うことである。

*「魚豢批判」批判
 白崎氏批判は置くとして、『文典で基本となるのは、魚豢「魏略」残簡しかない』というのは極度の思い込みである。魚豢は魏朝官人であり史官に近い立場と思われるが、私撰かどうか、現代人の知ったことでない。(「魏略」は、「名は体を表す」。 「正史」でもなんでもないのである)「漢書」を編纂した班固と違い、陳寿も魚豢も、「私撰」の大罪で投獄されたりしていないのである。
 ここで、「魏略」論が、混濁/混入しているが、『「手放しで」同時代史料』とは意味不明である。
 「魏略」佚文』に誤写が多いのは、校正作業を手抜きした低級な「佚文書写」故であり、「倭人伝」基準で言えば「桁外れ」に誤写が多いのは必然である。「倭人伝」二千文字に、二十文字誤写が有ったとしたら、それでも、十分許容される一㌫であるが、『「魏略」佚文』 では、数㌫と言えない「桁違いの泥沼」と定量的に言明すべきと思うものである。「史記」基準なら、可愛いものかも知れないが、ここでは、「三国志」の基準を適用するしかない。
 史学の史料考察は、最高のものを基準とすべきなのか、許容範囲の最低のものを基準とすべきか、よくよく考えていただきたいものである。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 三国志」は、陳寿没後、程なくして、陳寿が用意していた完成稿(の絶妙の複製)が上申され、皇帝の嘉納を得て、西晋帝室書庫に収納されたから、以後、王室継承の際などの動揺はあっても、大局的には、初稿が「健全」に維持されたのである。時に、低俗サイトで持ち出されるような「改竄」など、できようはずがない「痴人の白日夢」である。これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。

 全体に言えることなのでが、中国史書を論じているのに、「二千年後世の無教養な東夷」の世界観で裁いている感が、業界全体に漂っていて「和臭」が強いのは、「日本」特有の一種の風土病かも知れず、つけるクスリが無いとか言われそうなのである。もちのろん、これは、室賀氏に対する個人的な批判では無い。誰かが気づいてくれたらと思うのだが、岡田英弘氏の警鐘が効いていないのだから、ここで素人が何を言っても通じないのだろうが、近来、ここで言うことにしたのである。

 後世、特に現代の文献学者は、「三国志」には、あげつらうべき異本が無く、まことに、「飯のタネにならん」と慨嘆しているのである。「三国志」を写本錯誤の教材にしようというのは、銭湯の湯船に自慢の釣り竿の釣り糸を垂れるようなもの」であり、見当違いなのである。釣れなかったら、河岸を変えることをお勧めする。

*「倭人伝」批判再び
 「倭人伝」批判が続くが、「それだけで完全で」は、「完全」の基準なしでは氏の先入観/思い込みと見るしかない。二千字の史料が、完全無欠なはずはない。当たり前の話である。つづいて、「トータル」で整合性がない』との印象評価だが、「トータル」は古代史用例が無く意味不明である。
 氏の先入観、印象は、第三者の知ったことでないので恐れ入るしか無い。学術的に意義のあるご意見を承りたいものである。

 丁寧に言うと、「倭人伝」は、陳寿が、編纂に際して入手できた公文書史料を集成したものであり、史官が、史料を改竄するのは「死罪」ものであるから、「述べて作らず」の使命を守っているのである。そのために、素材とした史料の文体、語法などが不統一と見えても、それは、陳寿が史官の本分を遵守したことを示しているのである。
 いや、陳寿は、「正史」を「史実」/歴史的な真実の記録の集大成と見ているので、史料を割愛した例は多いと見えるが、それは、史官の信条に基づく「正義」の割愛であり、まずは、当時、その場で史官の真意を知ることができなかった後世東夷の読者、「二千年後世の無教養な東夷」としては、そのような編纂方針を甘受すべきと思われる。
 あえて無礼な言い方をすると、氏は、断じて、陳寿に比肩すべき知性、教養の持ち主であって、陳寿に取って代わって、魏志編纂を執行する抱負をお持ちなのだろうか。背比べの相手を間違えているように思うのである。

*「混ぜご飯」嫌い
 素人考えながら、持論としての古田、白崎両氏の批判だけで切りを付けて、史料批判は別稿とした方がいいのである。具の多い混ぜご飯は、好き嫌いがある。論考の強靱さは、論理の鎖のもっとも弱いところで評価されるのである。

*「魏略」再考 2023/12/02補充
 因みに、魏略」の文献評価は、劉宋史官裴松之によって、「倭人伝」後に補追されている著名な魏略「西戎伝」に尽きるのでは無いか。陳寿「三国志」「魏志」第三十巻に補追されて以降は、倭人伝」並のほぼ完全な写本継承がされているから、批判の価値がある。ということで、魏略「西戎伝」 は、権威ある「三国志」百衲本の一部となっているのである。字数も、「倭人伝」を大きく上回っている。批判しがいがあろうというものである。

 結論を言うと、魚豢は、正史を志したものではないので、史書編纂の筆の精緻さ/強靱さに於いて、陳寿に遠く及ばないのである。劉宋史官裴松之の手にあったのは、丁寧に写本継承された「善本」であったろうが、素人目にも明らかな、脱字、行単位の入れ違いなどの症状が見える。魚豢が参照した後漢西域関係公文書が、後漢末期、霊帝没後の大混乱で洛陽から長安に遷都し、後に、献帝が許昌で曹操の庇護のもと帝位を維持したものの、そうした皇帝の移動の際に、厖大な公文書がついて回ったとも見えないので、洛陽の書庫は維持されたとして、官人が動揺したのは当然であり、その間に、公文書の西夷関連部分に限っても、「脱字、行単位の入れ違いなど」の不始末が発生したようである。

 しかし、魚豢「魏略」「西戎伝」を踏まえて編纂したはずの范曄「後漢書」西域伝は、随分杜撰である。「下には下がある」のである。

〇頓首死罪
 以上、大変失礼な批判記事になったと思うが、率直な批判こそ、最大の讃辞と思う次第である。氏が追従(ついしょう)を求めて記事公開したとは思わないのである。

                                以上

2023年11月22日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞 月刊「のん」 悲しみの紙面事故 五年越しの野音【****】 聖地巡礼

                                    2023/11/22

 今回の題材は、毎日新聞大阪13面 総合・社会面の名物コラムであるが、見出しが「リベンジ」と叫んでいて、一瞬、過去の怨念が巻き起こした血なまぐさい話かと思ってしまった。本文は、ほぼ平穏であるが、記事末尾には、これまた不吉な「聖地」が出てきて、まるで、現今の「血で血を洗う中東事態を思わせる」のである。

 もちろん、ここで叫ばれているのは、血の臭いと縁の無い「ダイスケリベンジ」のだが、いくら逃げても、たまたま英語に示されている罰当たりな「Revenge」から逃げられないのであり、他に、いくらでも感じの良い言い方もあったろうに、「知らないためにこのような恥をさらした」ことは、気の毒なことだと思うのである。

 特に、ここでも歎かれるのは、歴史と権威のある全国紙であり、編集部門が絶大な権威を持っているはずの毎日新聞が、紙面を血まみれ、泥まみれにしていることである。

 こうして、特定のタレントに、「取り返しのつかない汚名を背負わせる」ので無く、「紙面編集段階で、適切な校閲によって、このような発言を発見し、然るべく指導と助言を行って是正し、読者に伝わるのを防止し、以後の事故防止、再発防止に努める」ものではないかと思うのである。

 そうで無ければ、毎日新聞の存在価値が失われていくと思うのである。

以上


2023年11月20日 (月)

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 1/6

  私の見立て☆☆☆☆☆               2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国
 長野正孝

◯はじめに
 この論者の著作は、アマゾンで内容抜粋を読んで、とてもついて行けないとさじを投げた経緯を発表している。著者が心をこめたはずの「抜粋」が「乱脈記述」で判読不可能であれば、後は、野となれ山となれ、ほっとけば良いはずなのだが、ついつい「ムック」に精選されたらしいということで、しぶしぶ読むことにした当記事も、ついて行けない「乱脈記述」でさじを投げた。いや、かれこれ三カ月ほどどうしたものかと悩んだのである。結局、他の「書評」と同様に、筋の通らない議論は、率直に指摘することにしたのである。

*果てしない暴論
 その一つは、古代史関係で珍しくもないのだが、時代錯誤の語彙起用である。現代人の素人語感で古代記事を書くものだから、文の意味が混乱するのである。論者の脳内は、どのような構成になっているのだろうか。到底、常人の知り得ない境地なのかも知れない。いや、そんなことは、個人の「プライベート」な「奥」の世界なので、当方の知るところではないのである。論者は当記事で、その内なる世界を外部に投影して、読者に伝えようとしているはずだが、一向に、外から見える「パブリック」な「表」(おもて)に出てくれないのである。

*背景事情
 一般的な理解として、「通説」によると中国の鉄器は、戦国時代後半頃に鋳鉄による鋳物で始まったという。これに対して、論者は、意味不明の独断で紀元前三世紀頃から、九州北部への「鉄」流入が始まったと説いているが、流入した「鉄鋳物」を加工したというのであれば、そこから、鍛冶屋が「鉄器」をたたき出すことも始まったというのだろうか。言うまでないが、「鋳物製品を鍛冶屋が叩いて鍛造することなど(絶対に)できない」のである。それとも、鋳鉄を鋼鉄に吹き替える高温炉が、未開の地に造成できたというのだろうか。物は自分の「足」で遠路を越えて伝わるが、工業技術は、多数の担い手が移動しなければ、遠隔地に伝わらないのである。肝心の背景を読者に知らせずに、勝手な「ホラ話」を言い募る趣旨がよくわからない。

 それにしても、鉄に関する肝心な事項の説明がないのが不思議である。無造作に「鉄」というものの、『鋳鉄の鋳物と鋼の利器とでは、製造方法が違えば、得られる「鉄器」の用途がまるで違う』のだが、論者は何もかも一緒くたにして、読者の理解を妨げたがっているようである。

 そのような事項を放置して、二世紀頃、つまり、先の事象から四,五百年を経て、鉄器が大量に流入したと言うが、ここでもどんな「鉄」なのか語られていない。誠に、誠に杜撰である。

 更に読者を混乱させるのは、「倭人や渡来人が鉄を運んだ時代は、『日本書紀』の時代とほぼ一致する」との乱暴極まる言い切りである。突然持ち込まれた『「日本書紀」の時代』がいつのことかわからないから、読者には、同感も批判もできないはずである。普通に考えれば、「日本書紀』の時代 は、「書紀」の編纂された時代のはずであるが、著者は、大事な時代指定をごまかしたままで(いわば「ズル」して)突っ走るのである。

 氏は、「若気の至り」で、限定された、つまり、乏しい、自分なりの語彙を紡いで、ご自身の脳内に架空世界を描いて悦に入っているのだろうが、このような文書の形で公開するためには、現実世界の語彙につなぎ替えなければ、善良な一般読者に理解されないのである。言いっぱなし、書きっぱなしでは、著者の人格が疑われるのである。というか、所謂「ペテン師」として「確信」されるのである。誠に残念では無いか。

  独り相撲は、見えない神を負かすための芸であるが、論者は、どんな観衆にどんな芸を披露しているつもりなのか。

未完

私の本棚 長野正孝 鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 2/6

  私の見立て☆☆☆☆☆    2017/02/23 2023/04/19 2023/11/20, 12/09
「古代史15の新説」別冊宝島その3
鉄が解いた古代史の謎- 消されていた古代倭国 長野正孝

*朝鮮半島鉄事情
 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」が、朝鮮半島中南部の韓国領域での「鉄」産出を書いているのは、東南部の「辰韓」のあたりの部分である。例によって、陳寿「三国志」の記事は、簡にして要を得ているから、丁寧に読みほぐせば、たっぷり情報が取れるはずである。
 常識的に言えば、これは大々的な鉱山採掘ではなく、露頭に近い状態で鉄鉱石がとれたのであろう。それを、薪炭を使用して精錬し、銑鉄を取り出したと言うことだろう。あるいは、後年の(日本)中国山地の砂鉄採取、「たたら製鉄」の前身、つまり、砂鉄採取/製錬だったかも知れないが、その辺りは、当ブログ筆者の知識外である。

 國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

 ここには、韓、濊、倭が、皆、鉄を手に入れていると書かれているが、「互いに争った」との記事は、全く存在しない。「争っていた」とすれば、それぞれの集団が派兵して鉱山支配を競うのだろうが、各集団は、大国、つまり、「韓」国、「濊」国、「倭」国というような広域国家が未形成で、あくまで「小国」であり、つまり、「韓」伝で列記された「国家」の体をなしていなかったから、「国軍」、「国益」の概念はなく、また、そこまでして産鉄地の独占支配を計るほどの価値を見いだしていなかったとみられるから、「争ってはいなかった」のだろう。
 また、「産鉄地は楽浪、帯方両郡の監督下にあった」と思われる時代なのに、両郡が鉄鉱山を管理・支配していた気配はない。単に、「両郡に鉄材を送付していた」と書かれているだけである。管理する役所も、現地に監督者を置いていないのである。遠隔なので、銭代わりに貢納したのではないか。つまり、両郡も、鉄を特に重大視していなかったと思われるのである。

*「嶺東」なる「極東」
 念のため書き足すと、朝鮮半島中南部は、小白山地が西岸近くを南下していて、東西の移動/物流が至難であり、しかも、小白山地は、北に向かって大きく東に彎行しているから、半島東南部は、西部海岸地帯の「馬韓」領域と「地理的」に隔離されているので、南北の移動/物流が至難なのである。かくして、半島東南部の弁韓、弁辰領域は「嶺東」と呼ばれる「荒地」だったのである。

 壮大な歴史図式(曼荼羅)を好む岡田英弘氏は、漢武帝が朝鮮を駆逐した後に、嶺東に「真番郡」を置いたと仮定(夢想)しているが、札付きの荒地で、ほとんど税収のない地域に、高給(粟)をとる郡太守を抱え、郡兵を常備した「郡」がなり立つはずもない。岡田氏は、大船、つまり、大型帆船を率いた漢人商船が乗り入れたと空想を物しているが、商材、つまり、買い付ける財貨が、ろくにない地域に商人が乗りこんでも、手ぶらで引き揚げるしか無く、結局、「真番郡」は、霞の彼方に消えたのである。
 いや、いくら武帝が大胆でも、往き来の困難な「嶺東」が自立できるなどとは思っていなかったが、天子は、「銭勘定」などしないのであるから、真意のほどは、知るすべが無い。

 「現実」の嶺東は、手軽な手漕ぎの渡海船で往来できる対海国、一大国を通じ、末羅国を外港とした伊都国との「市糴」で、ひっそり潤っていたのであり、小白山地を「竹嶺」で越える官道の成立により、帯方郡への物資搬送が「細々と」成立していたのである。街道として整備され、関所/宿舎が整った官道が成立すれば、小規模な民業による交易の鎖がつながり、後漢初期に辛うじて交通ができていたあと、途切れていた「倭」の文書使が、後漢献帝の「建安年間」に楽浪郡に届いたのである。
 ということで、華麗な幻想が霧散/消滅した後、公孫氏の遼東郡が成立するまで、着実で、物堅い往き来が続いていたと見るべきなのである。

 陳寿「三国志」「魏志」「東夷伝」に書かれているのは、濊、韓、倭には、中原で、全中国に通用していた「銅銭」が一向に通用していなかったので、それぞれ、「市」(いち)での通貨代わりに、「鉄」を通用させていたというに過ぎない。あるいは、郡に対する納税として、穀物、野菜、海産物を現物納入することは、物理的に困難/不可能な状態では、登録された戸数に応じた「鉄」を郡に税として納入していたかと見えるのである。

 但し、各勢力は、「戸数」に応じた税務を果たすどころで無く、ひたすら減免を願っていたことが、東夷伝/韓伝/倭人伝に明記されているから、両郡に納入した鉄材は、穏やかなものであったことも、明記されていると見えるのである。(念のため言うと、「明記」とは、当然自明の「示唆」も含まれるのである)

 倭人伝で言えば、対海国、一大国は、登録された「戸数」に比して、「方里」で示された総耕地面積は、相当に僅少であり、また「戸数」で想定される農地も、納税に値する「良田」が僅少であると特筆/念押しされているので、「倭人」からの税納は無いに等しいと明記されているのである。

 先立つ高句麗伝と韓伝では、それぞれ、異例の「方数千里」と書いていて、要するに、「国内」は山地勝ちであって、河川沿いにも耕地が取れない、即ち、纏まった農地が存在しないので、銭納しようが無い、と明記されていて、書かれている「方里」、つまり「平方里」を単位としての総耕地面積は僅少と明記され、管轄していた楽浪郡は、これを認めて、洛陽に上申しているのである。そして、洛陽に承認されたから、それぞれ「高句麗伝」と「韓伝」に記載され、「倭人伝」の先触れをしているのである。誠に練達の史官の筆は、周到である。

 世上、倭人伝」の対海国、一大国記事は、それぞれ「方数百里」とことさらに耕作地僅少を謳っている趣旨を、あっけらかんと見過ごされているが、各国の担税能力僅少を宣言するものとして、大変丁寧に書かれていることを理解すべきである。何しろ、両国は、韓半島の直下にあるので、下手をすると、ほんの目と鼻の先だと解されて、過大な物納を課せられかねないのである。

 こうして、当記事を咀嚼してみると、論者の書いた記事は、原典史料の深意を理解したものではなく、取り付きやすい、つまり、「すらりと理解できていると思い込んでいる」「いくつかの単語」を取り出して、後は、出たとこ勝負で現実離れした自身の架空世界を「書斎の安楽椅子」(Armchair)で構築し、専らそれについて語っているようだ。
 歴史的な「現実」とご自身の脳内の仮想世界の「現実」の区別がつかないのは、感心しない。論者の見ている仮想世界は、論者にしか見えないので、善良な一般読者には、語られる「ことば」が何を指しているのか見えないのである。

未完