2022年1月17日 (月)

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  1/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*総評
 本書は、まことに丁寧な論述ですが、その本質的な問題点は、「おわりに」として末尾に置かれた主張に現れています。
邪馬壹國について語る場合、魏志倭人伝の原文のなにが間違っているかを仮定することが議論の出発点になります。

 率直なところ、この主張は、「自分が正しくて倭人伝が間違っている」という、論証不十分な予断/思い込み/偏見の帰結であり、勉強不足の「独善」/傲慢との非難を免れないものです。
 この断定に至る考察は、当然、本書に綿々と書かれていますが、それにしても、早計による唐突な偏見の感は免れません。「出発点」を求めるとしたら、史料自身から始めるべきではないでしょうか。

 とても大事なことですが、ひとたび、自説に合う原文を仮定して、それにしても「計画的な史料改竄」が加えられて、現在の「倭人伝」が生成されたという暴言を肯定したとき、反論のすべはなく、さらなる改竄が無かったと断定もできず、果てしない迷路に落ち込んでしまいます。
 当方は、本書評で、そのような無意味な連鎖を否定するものです。


*各停批判
 以下、できるだけ丁寧に、各駅停車風に、長々と氏の断言の背景を確かめていくと氏の語彙の揺らぎや語彙錯誤に躓き続けます。そうした難点を一々指摘するについては、同様の「勉強不足」は認識してもらうしかないと見ました。
 いくら言葉を費やしても、言葉が裏切っていれば、言わない方がましで、それが無効なものであれば、かえって、信用をなくすわけです。

 従来は、出版社の編集部が文書校閲して、このような低次元の不具合が紙面に露呈することは無かったのですが、個人編集電子出版でない、一流出版社まで、本書と大差ない無校正に近い出版物を上梓しているので、そのために、渡邊氏が、商用出版物の品格を誤解したので無ければ幸いです。要は、金を取るには、取るに恥じない自律的な規制が必要なのです。

*「道程論」宣言
これは〝道程論〟―――すなわち倭人伝に記述されている道順を実際に辿っていくという手法です。
ところがこの方法は間違いなく幾百人幾千人の人に試されていて、それでもなお結果を出せていないやり方です。それゆえに道程論で邪馬台国の位置を決めるのは不可能だとさえ言われています。(中略)しかし本書は、実はそれが不可能などではなく〝適切な仮定〟さえ立ててやれば倭人伝の道程は無理なく辿ることができて、日本のとある地点に自然に行きつくことを示したものです。

 「間違いなく」と断定しても、早計を当然としていては前提になりません。どうやって先人の数を数え、その諸論を極め、何と比較して間違っていると断定したのか。誠に、虚妄の痴夢と言えます。
 (望む)「結果」は、現代風誤用で、他説を打倒する「効果」、とでも言うべきです。三世紀「道順を実際に辿」るのも、どえれえ(途方もない)ほら話です。他説提唱者は、見果てぬ夢の「実証」でなく、理性に訴える「論証」の里程論に自信を持っているのです。自分の狭い了見で、広い世間を測ってはならいのです。

 古代史論は、「正しければ、真理が自然に世界制覇する」のでなく、読者に聞く耳が無ければ、それこそ、キリスト教の寓話で、聖人が、鳥や魚に説教するようなものです。それを徒労と感じない者だけが、説き続けることができるのです。

 それこそ、どこの誰かは知らないが、よほどえらい人のご託宣でしょうが、よくぞ、幾百幾千の諸説を余さず検証したものです。「証拠を見ない限り信じがたい」と言ったら失敬でしょうか。「無理が通れば道理が引っこむ」の実証に努めているのでしょうか。

                              未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」  2/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*敗れざる人たち
 他説の信奉者にも、拘りや保身があり、自説が「負けた」と頑として「納得」しないから、「結果」は見えないのです。氏自身、山程ある先行文献を論破しつくしたわけで無く、誰かの独善に悪乗りしていると思うのです。
 いずれにしても、いくら氏が力説しても孤説は孤説で、「結果」は「絶対」出ないのです。氏の言う「不可能」とは、そのような不可能性なのです。
 以下、氏の「自然」も現代語で、「自然」な「結果」は、本来の自然法則が自然に導き出すものではなく、客観性のない主観的なもので、「自然」に他を制圧できないのです。独特の、手前味噌の「自分科学」にとらわれ誤認しているようです。

*現代語彙の弊害
 用語にこだわるのは、氏の「語彙」が古代人の時代語彙でないだけでなく、古代史「語彙」からも外れて見えるからです。当たり前の話ですが、主張の趣旨が、語彙の食い違いで読者に伝わらなければ、著作の意味が無いのです。
 そもそも、文献語彙の確保なしに、正しいも間違いも言えないのです。

 いや、これは、氏だけの弱点ではなく、近来の新書等で見かける多くの古代史論で見かけるものなので、あえて、言い立てるものです。

*計量史的批判
 当時の中国の〝一里〟の長さは〝三〇〇歩〟と決められていました。一歩の長さは約一•四mなので、一里の長さは約四二〇mということになります。
 ただこれがそこまで厳密だったかどうかは分かりません。単位名が〝歩〟とあるように当時の距離計測の手段が歩測だったことは明らかです。実際、一•四mというのは普通の成人男性の複歩(歩測の際に二歩を一歩と数える方法)の一歩ととほぼ一致します。

 取り敢えず、倭人伝論で中々見られない概数観と見えます。

*癒やせない「歩」幅幻想
 ただし、根拠不明の断定(思い込み)は、まことに不届きです。独断ではないでしょうが、「複歩」で測量したとは、まことに華麗な提言で、恐れ入ります。例えば、陳寿が、そのような「複歩」観を持っていたとの証明はできるのでしょうか。証明できない「作業仮説」は、個人的な思い込みにとどめるべきです。

 既に論じ尽くされているように「一歩六尺、一里三百歩」の原則は、古代の周制を秦が継承して全国に施行し、四世紀に亘る漢を歴て、最前の魏まで引き継がれ、いわば、不変不朽の制度です。何しろ、全国全戸の農耕地が、「歩」に基礎を置いているので、変えようがないのです。
 目前の懸案は、倭人伝が、そのような里制に従っているかどうかであり、この一点で、倭人伝里制観が大きく分かれているのです。

 しかし歩幅というのは個人差があります。(中略)一歩が一•四~一•六mとすれば一里は四二〇~四八〇mですが、ここでは計算を楽にするためにもうすこし大雑把に一里は四〇〇~五〇〇mとしておきます。

 いくら「古代史」分野で幅をきかしていても、「歩」を歩幅とみるのは不適切(大いなる勘違い)です。
 里の下位単位と見なされている「歩」は、歩幅や足の大きさに基づくものではなく、農地面積測量の際に常用された「基本単位」であり、時に、「面積単位」にもなっていたのです。勘違いを防ぐために、「歩」(ぶ)と呼ぶのが順当でしょう。

 また、「歩」を当時の距離計測単位と普遍的に言い切るのは間違いで、百里単位、ないしは、その上の桁の遠距離は、現代人が考える測量とは別の発想になっていたはずです。このあたり、大小、長短によって様子が変わるので、一概に決め付けるのは、無理です。

 一方、日常の尺度は、国家「度量衡」で常用されている「尺」が基準であり、発掘例のように標準尺原器を配布して、広く徹底していました。何しろ、日常の商取引で参照するので、出番が多く、悪用もされやすいので、絶えず、更新が必要だったのです。

 実用的に見ても、度量衡に属する「尺」と度量郊外と見える「歩」は、単位として別世界に属するものであり、また、「里」は、さらに別世界です。「里」「歩」は、度量衡には属さないのです。ただし、例えば、里の標準器は作りようがないので、以下に述べる手間をかけるのでなければ、精密に確定できなかったのです。

 つまり、里の測量というものの、実は、「歩」が基盤であって、里は、一里三百歩という「歩」との関係をもとに、各地で、里に渡る測量を行う際には、「里」原器にかわる「里縄」など測定基準を作成したでしょうか。
 その際のばらつきと測定のばらつきが相まって、おおきくばらつくのですが、「里」は、一里単位の精密な測量はされず、十里、百里、千里という、上位単位の「推定」に供されたものと見えるので、一里三百歩、千八百尺、ただし、里の長さは大まかで良い、と言う実際的な運用をしていたはずです。つまり、歩や里は、個体差と無関係ですが、実務で、道のりを歩測したとしたら、それは別儀です。

*人海戦術の測量案
 ついでながら、約25㌢㍍の「尺」原器を基に、いきなり千八百倍して約450㍍の「里」を得るのは、論外と言うか実行不可能であり、一旦六尺約1.5㍍を「歩」の基準としてから、例えば、「歩」十倍を二回繰り返して百倍に達した後、さらに三倍して三百倍になったら、ようやく、約450㍍の「里」を得るのです。「里」は尺度でない、度量衡の一部ではないと言われる由縁です。

 最初は、積木細工としても、大変な重労働と頭の体操の果てに「一里」を得て、例えば、その長さを縄に写して四百五十㍍の「一里縄」とし、「一里縄」十本で「十里」四千五百㍍、4.5㌔㍍、百本で「百里」四万五千㍍、45㌔㍍と言った感じで、なんとか、高度な計算のいらない、助手/吏人以下の人材の人海戦術でもできる手順で、黙々と準備をするのが精々で、例えば、一千里の標準器は、作りようがなければ、準備のしようがないと見るべきです。
 と言うのは、高度な計算の可能な官人は、ごくごく限られているので、そのような賢い官人が、簡単な指示を出し、多数の吏人を各地に派遣して、それぞれが測量したのを集計するとしたら、なんとか、百里を越える区間の測量ができるでしょうが、県単位ならともかく、郡単位となると、終わるのは、いつになるやらという感じです。
 つまり、そこまで、正確な測量にこだわるのでなければ、百里を越える区間の測量はせず、歩測なりで手早く測量して、各地区間の百里単位の里数を出し、郡県単位で集計したものと思うのです。

 世上、三世記当時存在していなかったと思われる、幾何学的な測量を想定している方もあるでしょうが、高度な測量は、図上の空論であり、実在しなかったと見るものです。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*陸行談義
そうすると一日何時間ぐらい歩けるかが問題になりますが、例えば江戸時代には東海道を江戸から京まで約二週間で歩いていました。ここから当時の人は一日に三五~四〇㎞は歩いていて、時間に換算すれば一日約一〇時間になります。

 まず、古代中国で、公式の旅は、乗馬が前提です。特に、官人は、自らの脚を労する前提ではありません。
 「一日何時間ぐらい歩けるかが問題」と複雑高度な課題を投げ与えますが、一日行程は、古代に解決済みです。唐代規則は一日(最低)五十里(20㌔㍍)と規定しています。現代的な考察は無用です。因みに、これは、おそらく、秦時代以来の自明事項であり、唐代に始めて明記されたと考えられます。

 江戸時代、「週」はなく、江戸(日本橋)から京(三条大橋)の道中、名古屋から桑名は渡船なので、半月間歩き通すことは不可能です。
 二「週間」という7日単位の概念は、周代前半にあっただけで、後は、「旬」(10日)単位だったので、古代史に関しては、禁句としたいものです。
 氏の江戸時代談義につきあうと、当時十時間などという「時間」は概念も無ければ、時刻の概念も無かったのです。
 何しろ、日の出日の入りが基準なので、「一日」の長さ、つまり、明けの七つから暮れの七つまでの日のある時間帯は、季節次第で移動するのです。今でも、冬は「日が短い」と言うことがあるでしょう。
 一日の旅は、「お江戸日本橋」の歌にあるように、夜明け前の暗がりで提灯点けて、日本橋を七つ立ち、しばらく歩いて、高輪あたりで夜明けたところで提灯を消すという感覚が普通でした。未知の土地の夜道は避けるので、明るいうちに宿場に足を止めるのでしょう。古代であれば、「町」は、隔壁などで囲まれていたので、日が暮れたら、門番が閉門、施錠するので、遅参したら、否応なしに野宿です。隔壁は、野獣、野盗への防御なので、野宿したら、身の安全など、保証されるはずはありません。

 ということで、江戸時代なら、五十三次の宿場は閉門しないにしても、早立ちして、一日歩き続けて、暗くなったらその場で立ち止まって夜を過ごすというような無謀な旅は、想定外です。と言うことで、所定の宿駅で足を止めるのが一日行程なので、公的な行程では、勝手に行程を決めるわけにはいかないのです。逆に、連日歩行しても維持できる速度が規則になっていて、大半の旅人は、規則に縛られる公用の旅なのです。
 規則ずくめに良いところはあって、公用なら、宿賃も、替え馬も、公費であり、途中の関所で関守に謝礼をむしられることもなかったのです。
 江戸時代の制度は、旧暦(太陰太陽暦)と相俟って、現代より、むしろ、中国古代に近いのかも知れません。

 と言うことで、安易に現代感覚を持ち込んで、多少事情が知れていると思い込んでいて、実は、随分誤解している江戸時代を介して、古代人に強制するのは無法です。

*渡河談義
大きな川では(中略)渡った後には確実に濡れた体を乾かさなければならなかったことでしょう。特に大きな川ならば渡し船があったかもしれません。(中略)道標があったかどうかも分かりません。(中略)泊めてもらえる集落がなけれなければ野宿することになります。(中略)持参の食糧が尽きてしまったら、食べ物の確保まで自前で行う必要が出てくるかもしれません。

 これまで見かけない、まことに丁寧な考証で、とんでもないホラ話の連鎖ですが、至る所、ずいぶん的外れです。以下、名だたる官道、公道の整備された「普通」の状態を想定しています。

 「大きな川」とは、長江、黄河のような川を言うのでしょうか。知る限り、こうした、現代感覚で言うと、途方もない大河を「泳いで(?)」
渡るなど聞いたことがありません。大勢の旅人が往き来するから、街道の渡しには、必ず、渡し舟があったのです。
 そもそも、大半の中国中原の人士は、泳げなかったはずです。また、人士、つまり、お供をつれたご主人様は、荷物を担がず、脚もとを濡らすことさえもっての外だったのです。

 また、必ず、宿舎はあったのです。官命の旅ですから、文箱、状箱やら貴重な品物を持っていて、必ず、宿で食事を買ったのです。そのような計画した旅で野宿とは、まさか、農地に入って泥棒する前提だったのでしょうか。随分、無茶苦茶な話しですが、当時、あちこちに国があって、互いに往き来していたことをどう思っているのでしょうか。

 丁寧に言うと、倭人伝で国と国の間に里数が書かれているのは、南北の市糴(交易)や文書通信使の往来に常用された「公道」里数であり、宿舎、渡し舟、小橋、船橋が整備されて、毎次宿駅があり、野宿自炊の公道はあり得ないのです。

 三世紀中頃の公道は、世紀初頭以前から維持されていたはずです。相互に往来できない相手と、食糧武器手持ちで峠越えの強行は論外だったのです。

*「渡河」~川を渡る
 中国古典を参照するまでも無く、渡河は、水深として「くるぶし」から「すね」、つまり、裾をからげるまでが限度で、水が腰まで来ると、衣類が濡れ、水の抵抗と足元の悪さで大変な難業、と言うか、命がけでした。
 皆泳の現代と違い、漁民など以外は、泳げなかったから、途中で深みにはまったり、転んだりすれば命取りでした。いや、公務のお役人が、そんな無謀なことをすることはないのです。文箱で公文書を携帯していたら、水しぶきを浴びることすら、御法度だったはずです。想定が、ずれていますから、何の参考にもならないのです。

 因みに、古代、淡水を泳いで渡る強者もいたようですが、倭人伝のように、「沈没」と書いていたとして、水面を泳いでも「潜水」と見えたのかも知れません。別に、水中に潜ってとか言う事ではなく、頭だけ見えて身体は水中ということを言うのでしょう。倭人伝の情景が、海辺であれば、別儀ですが。

 渡し舟は、現代に至っても、街道の渡河手段としてほぼ必須ですが、水量豊かで、岩瀬でないものです。そして、大河が、特に、河水は、両眼が氾濫で荒れて浅瀬になっていたので、特に造成した船着き場がないと漕ぎ寄せられないのです。

*道談義
 倭人伝の悪路記事は、物資輸送に車が常用されてないので、道幅が狭く、凹凸だらけで、轍も見えなかったのでしょう。近年まで、輸送形態として広範に維持されていたような、小分けの荷を背負っての往来であれば、轍はできないのです。それが、倭人伝に即したものの見方です。
 「禽鹿径」と書いているのは、「道」とも「路」とも書いていないので、なだらかなつづら折れでなく、近道の抜け「径」だったのかも知れません。
 いや、ここまでの議論は、現代人が未開地を歩いて、どれだけ行けるかなどの的外れの憶測が充満し、未開地とは言え国家として公道整備し、里程、日程を規定したとの視点が、全くと言って良いくらい欠けているのが、まことに不用意です。物知らず、不勉強なの見方を曝しているのは、物知らずを自慢しているのでしょうか。
                                未完

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*水行談義再論
続いて水行一日の距離ですが、これはさらに難しい問題です。水行といっても大型船で玄界灘を越えている場合と、瀬戸内海や有明海のような波静かな水面を小舟で行く場合では話が違ってきます。

 先ほどまでの「水行」とは別仕立てであり、「水行」を一律に扱わず、玄界灘の三度渡海と内水面を分けている点は明察です。

 もっとも、倭人伝には、内海も内陸河川も見えないのです。また、中国史書に海を行く水行はないのです。いや、そもそも、官道を水行することは一切無いのです。海に路をしくことなどできないのに、言葉面だけで「海路」と書き殴る、無謀な著者がいるのですが、知らないことを断言する蛮勇は、真似しない方がいいのです。このあたりは、国内史学界の周辺に蔓延したデタラメ解釈であり、是正するのに、百年でも足りないのです。

 当方未見の有明海は別として、「瀬戸内海」を一律に波静かな水面としているのは感心しません。今日の船舶でも、芸予諸島、備讃瀬戸の多島海の狭隘部分や関門海峡、 明石海峡、鳴門海峡の難所は、往来自在どころか、厳重に航路確認、潮流確認しないと、無事では済まないのです。知らないことを断言するとは、蛮勇です。

 なお、倭人伝は、ここに指摘した関門海峡から芸予諸島、備讃瀬戸、鳴門/明石海峡の名うての難所は、一切書いていない
のです。書かれているのは、「渡海」、つまり、向こう岸までの渡り舟なのです。中原人は、海を見たことがないので、難所のことは書いても理解できないのです。概観するに、九州島から東に渡る船は、大分から四国西端の三崎半島に渡る「渡し舟」くらいしか見当たらないのです。
 なお、倭人伝には、西方のことは書かれていないので、有明海は「圏外」とすべきです。

 なお、無造作な「大型船」は、まさか「豪華客船」ではないでしょうが、船の大小、いや、ものの大小は、時代と環境で異なり、書き捨ては不明瞭、不用意の感を免れません。それとも、だれかの受け売りなのでしょうか。良い子は悪い子の真似をしないものです。

*船談義
 以下、船の造作などについて、考察されていますが、船殻構造、動力源(漕ぎ手)などを、十分踏まえて議論しないと意味のある見通しに至らないと考えます。いかのように、素人の憶測で埋めた書籍を売りつけるとは、大した根性と言えます。

だとすれば重くて効率の悪かった当時の船でもこのくらいの速度なら十分に出せたとも考えられるわけです。

 [重い]、[効率が悪い]、[このくらい]などは、単位も何もわからず、意味不明瞭、根拠不明で、読者に何も伝わらないのです。具体的に描けないのは、知識が無いからでしょうが、何も知らずに、いい加減な言い回しで大口を叩くのは、素人さんにしても困ったものです。
 何より、現在、当時の「渡海」で常用されていた、多数の漕ぎ手、水夫を必要とした漕ぎ船の構造は不明であり、なんとも比較のしようがないのです。少なくとも、日常の用に南北を往来していた便船だったから、必要な速度は出せたはずです。何しろ、海上で一晩過ごすなどと言うことは命に関わるので、それこそ、朝早く出て、午後明るいうちに着いていたはずです。

*道里論追求
現実とあわない邪馬壹國への道程
 さて、以上より邪馬壹國への道程は次の表2のようになります。

 この断定には、まずは重大な異議があります。
 「次の表2」で帯方郡から狗邪韓国は「水行」七千里、三千㌔㍍としていますが、現在推定すると五百㌔㍍程度です。どうまわりみちしても、この間には入らない途方もない道里です。
 氏は、このあたりの仮説は、簡単な検算すらせずに見過ごして、以降の考察に入っています。この暢気さは、誠に不思議です。
 もちろん、このような「道程」は、間違いなく誤解がらみで、ダメ出しは、御免被りたいものです。

*不可解な半島沿岸行
 氏は、この間を全面水行とみていますが、この行程は大河を行く河川行程では無いので、「水行」は古典書以来の用語になく、「無法」です。皇帝に上程する公式史書稿に「無法」な用語を呈していては、一発却下です。つまり、当時の常識で読むと、そんなことは書かれていないのです。

 氏は、そのように「無法」な行程について、考察していません。なぜ、不安極まりない、海を選ぶのか。なぜ、安全か輸送経路として確立されている陸上経路を辿らないのか。何も、不審を感じなかったのでしょうか。
 またもや、何も知らないままに、無批判で追従しているのでしょうか。

 当方の考えでは、難所連発、難船必至の長丁場の半島沿岸を郡の官道としたとは思えないのです。氏が、三千㌔㍍「水行」と見たなら、なぜ、その五分の一程度の官道を陸行しなかったと判断したか不審です。
 こうして見ると、
本論文で、ほぼ一貫して丁寧な論考が、道里行程を追いかけ始めた途端、帯方郡を出た早々に、ドンと脱調しているのは何とも不可解です。

*倭人伝観の確認
 ここでひと息つくと、ここまでに、氏は、倭人伝の記事を解釈できないのは書き方が間違っているからと予断を示しましたが、本末転倒、手順齟齬です。

 物知らずの読者の読み方が、とことん間違っているのです。背景となる事実を全く知らず、妥当な推定もできないから、読めないと言うだけです。それに気づかないというのは、まことに勿体ないと思わせるのです。

 倭人伝は、当時の支配者層、つまり、皇帝に始まる高位高官の教養人を読者とし、その知識、教養に合わせて、と言っても、なめて書いていると思われないように、適度の「課題」を書いています。読者に却下されれば、編纂者の地位を失うので、最善の努力で、正確、明快に書いたはずです。また、解けない課題を押しつけると嫌われるので、適度の「謎」をこめていたはずです。
 そして、晋帝は、そのような著作物を審査した上で、後に正史とされる高度な著作物と高く評価したのです。

 現代の「だれかれ」が、自己流で読解できないから、原文の間違いに決まっていると決めつけるのは、その無知で無教養な「だれかれ」が、傲慢なのです。まずは、原典の正しい解法を探すべきであると思量します。

 当書評全体で見ても、著者は現代の日本人であり、倭人伝の言語や世界観を読解できてないようです。
 古代中国語の言葉と文法を解しないものは、倭人伝論議の場から去れ、とする、かの張明澄氏の「暴言」が、実は、誠実な直言であり、耳に痛くても、的を射ているのです。
                                未完

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 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*一律増倍論
 ここで、氏は、倭人伝の里数、戸数が、一律増倍されたとの説に忽然と覚醒し、先の郡から狗邪までの「郡狗官道」は七百里とし、以下、一貫して里数は十分の一、戸数は百分の一として残る考察を進めます。言い換えると、倭人伝里は四十五㍍小里という新説です。戸数は、それ自体根拠不明なので、明快ではありません。
 要は、本書の論議は、誇張論の一変種で、自分流に読替えれば自分に明快との議論が、また一つ増えたのです。また一つの「百面相」で、特に説得力は無いのです。

*十倍、百倍の美点
 氏の提言した里数十倍、戸数百倍の増倍は、当時の算数では、極めて簡便です。
 当時、最上位一桁を算木操作したので、百里単位を千里単位にしても計算は同じです。紙上では、百を千に、千を万に訂正するだけで、修行中の子供さんでもできるのです。
 これに対して、世上見られる六倍説などは、高度なかけ算が必要な上に数字並びが変わり、末端の担当者には、一切計算処理ができないので事実上換算書き替え不能です。

*また一つの改竄説
 氏の説は、またひとつの「倭人伝改竄」説ですが、陳寿編纂時に原文を増倍したとの説で、原本すり替えの難業は含まれないものです。

 但し、当改竄は歴史の正確な記録を信条とし、時に、命をかけて守り通す誇り高き史官陳寿が、安直な改竄をしたという弾劾です。当方は、推定無罪を信奉していて、一部権威者が公言している「史官は全て嘘つき」との暴論には断じて同意しないのです。また、魏志は、陳寿が一人で編纂したものではないので、周囲が止めなかったはずもなく、正史改竄の罪は、当人の死罪だけでは済まないと思われます。つまり、共犯を免れるには、密告するしかないのです。また、陳寿の原稿を読むことのできた同時代読書人が、そのような粗雑な改竄に気づかないというのも、無謀な思い込みです。

 ともあれ、氏が遵守する読解で、直線行程の果ての「邪馬壹国」は、熊本県内に比定され、そこに到る道程は大変丁寧に確認されています。先に結論を出して、それに合わせた仮想倭人伝道里を創作しているので、誂えもののガラスの靴は、足にピッタリ合うのです。

 当方は、現地事情に通じていないので、この部分は、ノーコメントです。

*地図データの適正使用
 忘れないうちに付記すると、氏は、掲載された地図類を書き上げるのに、国土地理院のデータベースと明記し、古代史論であまり見かけない、まことに適正な態度と感心します。と言うのは、例えば、毎日新聞の夕刊歴史関係コラムで、出典不明の地図に勝手な加工を施したものが複数回見られて、不正使用だと非難したことがあったからです。この悪習は、同コラム筆者の独創ではなく、新書版安直本にも、しばしば見られます。

 但し、一般論として、国土地理院が公開しているのは、現代でのみ正確さを保証されている地図データであり、古代に於いて、同様に正確だという保証は一切していないのです。国土地理院 は、適正な使用条件管理を要求していて、これを勝手に別の条件で利用した上で、国土地理院が 古代に適用できると保証したような印象を与えたとすると、それは不正使用になります。ここでは、国土地理院の承認を得たデータ転用なのか、明記されていないのは、不穏当です。

*魏の遠交近攻策
 ここで、氏は、正史改竄を正当化するため、当時の世間話を持ち出しますが、いい加減な聞きかじりで、信用を落としています。

(中略)この時代のことは三国志演義という現在でも人気がある物語でよく知られているところでしょう。劉備、関羽、張飛、それに諸葛孔明という名は興味のない人でも聞いたことくらいはあるはずです。その彼らの最大の宿敵が、魏の曹操でした。

 このような不正確なだぼらは減点要素です。そもそも、「三国志演義」は、元明代に、町場の講釈師が書き崩したホラ話なので、ここに持ち出すのは、不適当です。そこに、著者の勝手な曲解が反映されていては、何が何やらわからないのです。
 丁寧に言い直すと、次のようになります。
 曹操は、後漢最後の献帝の建安年間に、後漢の国政を支配したものの、終生後漢の宰相であり、魏は、武帝と諡された曹操の死後に誕生したのですから、「魏の曹操」は無法な指名です。
 また、「最大の宿敵」は意味不明です。蜀漢皇帝となった劉備の仇敵は、既に世を去っていた曹操でなく、義弟関羽を殺した孫権でした。だから、帝位に就くやいなや、東に大軍を進めたのです。そのとき、関羽だけでなく、張飛も世を去っていたのです。但し、在世中の関羽にとって、曹操は、敗残で孤立していた身を高く評価して、陣営の客将に迎えてくれた恩人であり、決して宿敵とはならなかったのです。そして、関羽を殺したのは、孫権の命によるものでした。だから、劉備の宿敵の資格十分なのです。
 また、諸葛亮にとって、曹操は後漢朝廷から皇叔劉備を放逐した大罪人であり、同格の存在を意味する「敵」などではなかったのです。

 どこで拾ってきた「常套句」か知りませんが、無批判な追従は、路傍の「落とし物」を見境無く食いかじるようなもので、大抵は、つまり、90㌫以上、「落とし物」は、馬や鹿の落としたものばかりです。

                                未完

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邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏の遠交近攻策 (承前)
 引き続き、散漫な演義談義で、引用できずカット不可避ですが、総じて不確かな印象に過ぎず、正史改竄を正当化する根拠は見られないのです。
卑弥呼が最初の朝貢を行ったのが景初二年(西暦二三八年)です。(中略)当時の魏王は孫の曹叡でしたが、その後見人が司馬懿(字は仲達)でした。(中略)あの名軍師、諸葛孔明の好敵手として描かれている人です。(中略)最終的にはこの司馬懿が魏の全権を掌握して、(中略)さてその景初二年(西暦二三八年)ですが、四年前の五丈原の戦いでは蜀の諸葛孔明が病没し、遼東半島での公孫氏の叛乱も鎮圧して、魏にとって目下最大の敵は長江流域の大国、呉という時期でした。魏も呉も国力に大差はなく、また地形的要因もあって北方の魏は侵攻しづらいところです。(中略)すなわち単なる力押しではなかなか相手を倒すことができず、お互いに睨み合っているという状況になっていたのです。さてそのとき、もしその呉の東海上に〝倭〟なる大国があって、そこが魏と結んだとなればどうでしょうか。


 魏は、公孫氏のように、地続きの境地に大軍を擁した勢力を完全に撲滅していたから、海の向こうの幻を怖れる必要など無いのです。恐らく、どこかの森の魔女からお告げがあったのでしょうか。魏という国は、そのような迷信や妄想は、一切相手にしなかったのです。

 中略部で、司馬氏台頭の原因として「曹操の子孫たちは互いの権力闘争に明け暮れた」と無造作に総括しますが、曹操、曹丕二代の後継は、水面下の暗闘で闘争は記録されず、二代皇帝曹叡急死による三代曹芳擁立にも、後継闘争は無かったのです。一度、まじめに読みなおしていただきたい。
 ひょっとすると、氏は、後年、西晋を破壊した司馬氏一族の重大な内紛と取り違えたのでしょうか。勉強不足は信用を無くすだけです。

 むしろ、少帝曹芳の後見争いで、いったん後見人に任じられた司馬懿が閑職に落とされた後、クーデター、奪権闘争、つまり、曹叡の遺託に反する悪辣な陰謀を巡らして、少帝周辺の曹氏や譜代衆を一掃し、後に曹芳を退位させるなど独裁したのです。更に後には、司馬氏が皇帝を粛正した事例まであります。司馬氏も、曹操の教えを継いで力で敵を制する取り組みだったのです。
 そして、陳寿は司馬氏を顕彰などしていないのです。何か迷信や妄想の類いなのでしょう。

 以上、氏は、事態を把握できていないようです。倭人伝を正しく理解するためには三国志全巻を読めという、三国志権威の至言の深意を味わうべきです。

*明帝の景初三年はなかった
 景初二年貢献時の魏王ならぬ魏皇帝は曹叡、そして、景初三年元日に明帝が逝去し継嗣が直ちに即位したものの、元号は継続したので、「某帝の景初三年」ということはできないのです。また、新帝曹芳は、司馬氏に退位させられたので「*帝」と言う諱はありません。

 ついでに史実を押さえると、文帝逝去時、司馬懿は、曹叡の補佐役の一人として重用されたものの、明帝曹叡は成人に達していたので、後見人などではなかったのです。後見人が必要だったのは明帝後継の少帝曹芳です。何か、勘違いしたか、うろ覚えで書いたものが、そのまま世に出たようです。
 著者が、史料をちゃんと読んでいないこと、誤記しても、誰も訂正してくれないこと、など、不手際が重なって、信用をなくしています。

 因みに、畿内説論者は、景初二年六月では遣使の派遣が到底間に合わないので、頑として、景初三年の五期に決まっていると、倭人伝誤記を主張するのです。いわば、景初二年か三年かの二択ではなく、景初三年が譲れない一択なので、倭人伝に信用が集まっては困る纏向派がヤジを言い立て、付与雷同、つまり、とにかく騒動好きな野次馬まで巻き込まれて、倭人伝には、誤記がざらにあるというホラ話を書き立てているのです。この辺り、畿内説、特に、纏向説論者は、ちゃんと史料が読めていない/読もうとしないとみられる由縁です。

*呉の国力評価詳細
 江南状勢というと、孫権率いる呉は、長江流域を支配していたわけではなく、江東と呼ばれる中下流域にとどまっていて、上流は蜀漢の支配下にありました。また、魏が江南侵攻を控えたのは、蜀漢の関中領域への北伐侵入が続いていて、侵入志向が控え目の江東は後回しにしていたのです。また、呉の国力評価は難物ですが、動員可能兵力の面で見て、中原を支配した魏に遠く及ばなかったものの、中原の農業資源が荒廃していたため、魏としては、総動員を要する全面戦争は不可能だったのです。
 そして、漠然と地形と言うより、要するに、北からの攻勢は、長江で進軍を遮られ、強引に渡河しても、長江槽運が支配できない限り、大軍の兵站を維持できないから、長期戦が維持できない、つまり、魏としては、強引な南下渡河は、大敗必至と見ていたようです。

 総括すると、魏は、天下の「中原」を後漢朝から継承支配して国家組織、つまり、徴兵、徴税組織を構築していたのです。南の東呉は、後漢の臣下であった辺境守護なので、支配力も、人口配置も大違いです。歴史地図で、呉の領域が、遥か南に延びているのを見て、大国と誤解したもののようですが、単なる誤解です。
 
ただし、呉は長江を長城として、時に心服を見せて誅滅を避けた上で、弱者の立場を自覚していて、小競り合いしか仕掛けなかったのです。
 結局、魏の国力は、呉を大きく上回っていても、魏から総力戦の攻防を展開すれば、最終的に敵に勝っても、その過程で、自身も重大な損害を避けられないので、特に切迫した状態にないことから、いずれ、孫堅が去り、呉の体制が衰退、崩壊するのを想定して、静観していたのです。曹操は、まずまずの後継者曹丕を、宿老が支える体制を整備していたので、後継者に難があると見て、孫堅の去るのを気したていたのです。

*呉の亶州調査 
 同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 まず、「専売特許」は死語です。現代では、知財権の中でも、「特許権」ならぬ「著作権」となりそうですが、国策に著作権は無く「パクリ」放題です。呉は、魏を飛び越えて遼東公孫氏と結ぼうとしましたが、別に、挟撃して魏を攻め滅ぼそうというわけではなかったのです。
 そうそう、「遠交近攻」は、戦国時の雄、秦の創唱した天下統一の戦略です。先行例があっては、「専売特許」になどならないのです。

                未完

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*呉の亶州調査 (承前・再掲)
同様に遠交近攻策は魏の専売特許ではありませんでした。魏と敵対している呉にとっても当然の戦略です。西暦二三〇年、呉の孫権が衛温、諸葛直という将軍を派遣して、夷州と亶州という場所を調査させたのですが、彼らは夷州から数千人の住民を連れ帰っただけだったので、処罰されて翌年に獄死するという話があります。辺境の探検がうまくいかなかったから投獄というのも少々極端な話です。いったい呉の孫権は何を考えていたのでしょうか?

 肝心なのは、遠交近攻は、戦国時代末期の秦という強国の全国制覇戦略ですから、優勢の魏の取る政策としても、相手は、不倶戴天の敵と見なしている蜀漢しかないのです。また、鼎立状態で、劣勢の呉のとれる戦略でもないということです。

 呉にとって、連合に値するのは蜀漢に過ぎないのです。世上、公孫氏を第四の存在と持ち上げる例がありますが見当違いの極みです。皇帝なら、袁紹が既に僭称しています。

 なお、派遣隊の両指揮官が、きつく処罰されたのは当然の帰結です。
 国力増強のための蛮人拐帯が目的で、皇帝の大命を受けて巨大な新造海船を連ねたのに、数千の帯同兵士を失った代償が、言葉の通じない、戦闘訓練のできていない蛮人の獲得では、使命を裏切る大敗であり、敗軍指揮官に対する、自殺を許さない処刑は、別に「極端」な話でなく、当然そのものです。
 斬刑となれば、親族連座の筈ですから投獄に止めたのでしょうが、当時、必然的に拷問を伴う投獄は即ち獄死、生き延びれば、いずれ斬刑です。以上、軍法として妥当であり、劣勢を自覚していた孫権の悪足掻きと見るものでしょう。
 反りにしても、氏は、余談を活用する常識を有しないようです。
 いずれにしろ、三国志編纂時、呉はとうに滅びていて、はばかって、正史を改竄する動機は無いのです。

*赤壁幻影(銀幕上のイリュージョン)
 氏は、ドラマや映画に影響されているようです。史学論議では、劇的な潤色を振るい落とし、史料の紙面から、以下のように読みなおす必要があります。

*曹丞相南征紀
 赤壁故事は、後漢丞相率いる官軍が長江中流の荊州の平定後、荊州水軍に指示して寄寓していた謀反人劉備の逃亡を追尾し、孫権に劉備引き渡しと後漢への帰順を迫ったものです。丞相曹操は、荊州刺史劉表討伐の勅許だけで孫権討伐の命は受けていなかったので、宣戦布告はできず、精々、帰順勧告であり、にらみ合いになったものです。
 孫権は、あくまで、後漢の会稽太守であり、曹操に反発しても皇帝への反逆はできず、北岸の官軍、曹操部隊に対抗できる陸上軍も持たず、退陣を続ける荊州艦隊を焼き討ちするにとどまったのです。
 魏志に従う限り、曹操は官軍の面目を保ちつつ、疫病蔓延を口実に北帰したのです。

 三国志編纂時、陳寿は、東呉の国史を回顧した「呉書」稿を呉国志の史料とし、ほぼ温存したので、創業前夜の英雄「周瑜伝」は、東呉の劇的勝利を描いて顕彰しています。このお国自慢に対し魏志に大敗記事が無いことからも、三国志は、魏の国史としての画一的編纂はされていないのがわかります。
 因みに、三国史に裴松之が注を加えた際、つまり、「周瑜伝」では生ぬるいとみた読者、劉宋皇帝の厳命で、さらに華麗な勝利を描いた「江表伝」なる、民間文書が追加されています。
 官軍が大敗したとしたら曹操は厳罰を受け、斬首の刑を受けたでしょうが、魏志武帝紀にその記事は無く、孫権は官軍反抗の大罪で断罪はされていないのです。
 これが、陳寿が後世に残した三国鼎立前夜の「実像」なのです。

 いや、実際はどうであったかまで言っているのではありません。魏志に公式記録としてそのように示されたと言う事です。呉志「周瑜伝」は、魏の公式記録ではなく、まして、後世の裴松之が、蛇足として付け加えた部分は、倭人伝、さらには、魏志の史学考察の対象ではありません。
 但し、現代人一人一人にとって大事なのは、外観、つまり「倒立実像」なのです。

                                未完

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*また一つの与太話 国淵(字子尼)伝
破賊文書は、旧、一を以って十と為す
さて、数値改竄の動機は魏の戦略以外にも見つかります。(中略)魏志(中略)に「破賊文書は、旧、一を以って十と為す」という記述があるのです。(中略)通常、賊を破ったときの報告は人数を一〇倍に(中略)報告の水増しがごく普通に行われていたことが分かります。読む方もそのつもりで読んでいたので(中略)す。もちろん倭国は賊ではありませんが、(中略)魏から見たら夷狄(野蛮な異民族)の類であったことは否定しようもありません。(中略)相手が強力であればあるほど魏の威信は高まり、関わった者の実績にもなるわけです。従って記者が国や皇帝の威光を高めるためにそうしたのかもしれないし、倭国を見てきた使者がその小国っぷりに失望して、自身のキャリアアップのために水増しした可能性さえあるのです。

 散漫でカットしましたが依然として筋の通らない話です。証言者はただ一人で、曹丕が論評してないので、どこまで正確な意見か不明です。

 「動機」は犯罪の原動力を意味しますが、蛮夷の来貢記事捏造とは無茶な話もあったものです。「自身のキャリアアップのために水増しした」などは、現代人の「動機」を無造作に古代に投影した与太話もいいところです。当時、「キャリアアップ」などいい加減なカタカナ言葉は無かったのですから、時代錯誤もいい加減にしてほしいものです。。

 また、「水増し」は、江戸時代、居酒屋などで、樽買いした酒に水を足して供したことを揶揄したものであり、喉の渇いたときに水代わりに煽られた当時の飲酒習慣で酒毒を抑える売り方で、ある程度常態化していたものでしょう。
 特に高度な技巧を要しないので、中国でも、古代以来出回っていた手口のように思えます。対する客の苦情は「水くさい」として出回っています。
 繰り返しになりますが、拾い食いは、身体に悪いですよ。

*手柄話三千年の伝統
 古来、軍功が、軍人の昇進、褒賞の源泉ですから、手柄話は大げさに言い立てるものですが、大抵は、お目付役が同道していて、お手盛りの自慢話など通らなかったのです。手柄話の常で、世間相場の粉飾はあったでしょうが、「十倍」水増しが当然とは、軍人も宰相も甘く見られたものです。
 曹丕は、曹操ほど規律重視でなかったとしても、皇帝をバカにして騙す将軍など、早晩斬首になるのがオチです。

 と言うことで、氏は、こうした水増し話を紹介することで、「正史記事など、所詮でっち上げで、里数十倍、戸数百倍の増倍が日常茶飯事」と読者を説き伏せようとしたのでしょうが、夜郎自大の傲慢さで、中国文化を見損なっています。
 
例えば、後漢書、晋書記事の戸数計算では、数百万戸が一の位まで計算されています。新来蛮夷の戸数、里数は、この基準を認識した上で、集計、報告されているのであり、「はなから誇張」、改竄などとんでもないことです。
 物知らずの放言も、ほどほどに願いたい。

 このように、総じて、この部分の寄せ集めは、氏の諸般の理解不足が災いして、甚だ説得力に欠け、自縄自縛、書くほど瑕疵が現れる感もあります。
 どこから拾ってきた与太話かわかりませんが、当分野に良くある「新発見」で、古代史論読者には、広く資料を渉猟して見識を蓄え、批判的な眼で読み取るものも少なくないので、これでは氏の不見識の責任になり、もったいない話です。

 何しろ、よろず新説の九十㌫は「ジャンク」と決まっています。もちろん、当説も、新説の一つです。

追記:2022/01/17

 近来のテレビ番組などを見ると、「破賊文書 」談義は、倭人伝題材の論争で、中国史料全般、ひいては、その一例である「倭人伝」記事がこうした誇張の産物であるとの主張の根拠として常用されていると見えます。
 いや、纏向説など畿内説論は、「倭人伝が信用できないと言わないと忽ち棄却されてしまう」ので、懸命に「レジェンド」(前代遺物)を持ち出しているようですが、このようにヒビの入った、サビだらけの骨董にもならない与太話を担ぎ出すのは、いよいよ、「土壇場」で進退に窮したと思わせます。
 これ以外にも、李白漢詩の「白髪三千丈」など、俗耳に訴える、つまり、子供だましの「説話」が出回っていますが、よい子は、見え透いた手口に騙されない目と耳を持ってほしいものです。
 中国史上最高の詩人の最高の名作が単なるホラ話だとは、よほど、無神経、無知でないと持ち出せない与太話です。それとも、纏向説は、この手の与太話を種麹として醸成されていているのかと思わせるほどです。

                               未完

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*巨大な前車の後ろ影か
 この辺り、氏が範を求めたと思われる岡本健一氏の「邪馬台国論争」(同書)の弱点を「忠実に」継承した感じで、一人前の研究者は、ここまで律儀に前車の轍を辿らなくてもいいように思います。せめて、前車の行く末が天上楽土なのか、堕地獄なのか、よくよく確かめてから追従した方が良いでしょう。古来言われる、「レミング」現象に陥っていると言いたいところですが、実在の野生動物であるレミングが、実際にそのように行動しているという確証を見ていないので、なんとか自制します。

*自由創作の悪例踏襲
 就中、渡邊氏は、岡本氏の「読み下し文」に依拠していますが、倭人伝岡本本は、既に原典不明確で、和田清・石原道博両氏、山尾幸久氏などの読み下し文を総合的に勘案し、最終的に、「岡本氏の気ままな手前味噌」としています。成分、処方不明の手造りブレンドでは、検証にほとほと困るのです。

 渡邊氏は、そのような岡本本闇鍋史料を引用し、論考の基礎としていて、その当否は、既に混沌としていて、検証には、このように同書の批判に手を付けなければならないのも、本書の史料批判上の難点と考えます。
 言うまでもないですが、倭人伝解釈は、倭人伝史料に厳重に立脚していなければ、まがい物なのです。現代改竄私家本は、現代の創作文芸であり、峻別して遠ざけるべきです。
 同書は紹凞刊本の写真版(影印版)を掲載していますが、どの程度依拠し、どう改編したか触れてないので、影印版掲載の意義が不明です。

*読み下し文の著作権
 言うまでもなく、一私人の私見ですが、原則として、漢文古文読み下しは、著作権の消滅した古代資料の文字列を明快な規則に従って日本語として字句を並べ替え、最低限のかなを補う著作であるので、新たに芸術的な創作はされず、従って著作権はないものと思います。

 もちろん、読み下しの労力は尊敬すべきであり、引用に際して出典明記が必要ですが、著作権の配慮は必要ないと解します。また、各氏の読み下し文は、公共の用に供するために公開されていて、適切な引用は、予め許諾されていると感じます。

 つまり、岡本氏が、それほどまで手の内を隠して、個性的な手前味噌を捏ねる意図が理解困難です。独自創作のつもりでしょうか。史学論で、自由創作とは、不可解そのものです。いや、このあたりは、岡本氏批判ですから、本書の批判そのものではないのです。

 なお、いわゆる現代語文は、多大な追加と読み替えを注ぎ足した上で創作された現代著作物であり、著作権が生じるものと考えます。逆に言うと、現代語文は、現代人の新たな創作であり、史料そのものではないのですが、そのような趣旨は滅多に見かけず、ひたすら、原典に忠実とか、自然にとか、言いくるめているのは不可解です。

*岡本氏の逃げ業(余談)
 ついでながら、岡本氏批判の続きとして、同書最後に「陳寿のイメージ」と銘打ち、「聖人陳寿の肖像画」出土かと「惑い」ます。なぜ、ちゃんとした言葉で書かないのでしょうか。どうせ、読者は俗耳の持ち主ばかりだと、なめてかかっているのでしょうか。

 岡本氏
は、畿内説擁護に窮した時も、土俵を割ったと認めず、意味不明なカタカナ語、情緒表現、果ては、講談ネタの与太話の影に逃げ込みますが、これでは異様な見出しの不意打ちを記事で補足しない、三流ジャーナリストの手口満載と思わせます。
 実際は、倭人伝里程論が不首尾で、洛陽の抱く「イメージ」と食い違う、との難癖ですが、氏は算数に弱いので視線が泳ぐのです。

 この点、渡邊氏は、健全な算術を会得していて、簡単にドブ泥にはまらないようです。そのように、無批判な追従は避け、悪例の欠陥を真似しないでいただきたいものです。

 ことのついでに、同書の概観をまとめると、示された道程観は、世にある諸説の闇鍋を、誰も期待していない氏の自説の匙でかき混ぜて混沌とする使命を果たしただけで、論争を鳥瞰、平定できてないので、同書を、学会の最先端、最高峰と見てはならないのです。

 また、同書の主要部は、銅鏡 魏鏡説擁護に空費され、痛々しいのです。

 と言うことで、四段を占めると、渡邊氏は、不用意にも、その立論の基礎に、不確かなあてにならない礎石を置いたと見えます。氏ほどの見識があれば、「木は生える土地を選べないが、鶏は泊まる木を選べる」のではないでしょうか。

                               未完

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*用語混乱
続いて出てくる『一大國』ですが、これはどう見ても『一支國』すなわち壱岐の誤記と考えられます。そのため一般には一支國と呼ばれることが多いようですが、本書においては原文どおり一大國と記述することにします。

 氏の独自語彙(口癖)なのか、「どう見ても」とは、随分暢気です。一部に、縦書き一大国は「天国」の誤記かという説がありますが、その意味でしょうか。それとも、天地倒立する部の字形が見えるのでしょうか。因みに、わざわざ「壹大」でなく、「一大」と書いている趣旨は、理解すべきです。眼鏡の度はあっているのでしょうか。ウロコは落ちたのでしょうか。

 それはそれとして、有力刊本に、「一大國」と定まっているのを、憶測で「誤記」と断じる根拠は見当たらないのです。氏の言う「一般」は意味不明ですが、「誤読」者が氏の身辺に多いからだとしたら、それは、「諸人挙って」の間違いです。氏の提言は、「原文どおり」のはずです。原文がどの版なのかは、一部陣営の党利党略で混沌としていて、不明、正解の出ない「問題」ですが、この際は、論外です。

さらに続く『奴國』ですが、博多周辺はかつてそう呼ばれていて、今でも那津という地名が残っています。

 三世紀当時の議論で「博多周辺はかつてそう呼ばれていて」とする根拠が見当たりません。通説と見えても、文書史料に明記されていないから推定に過ぎません。

*用語混乱再発
倭人伝では途中まで、すなわち帯方郡から不彌國までの距離は里程で記述されていますが、不彌國から先は日程で記述されています。この理由についても古来より取りざたされてきたポイントなのですが、本書においてはその中で最もスタンダードな解釈をします。

 ここで、突然「ポイント」(クーポンネタか?)「スタンダード」(「公共規格」か?)と、カタカナ語連打ですが、古代史論では「タブー」(香水か?)でしょう。まして、「最もスタンダードな」とは、文法無視、規格外の奇天烈な言い回しで、「懐メロ」(着メロの誤記が?)名曲とでも言いたいのでしょうか。誤解を避けるためのカタカナ語の規範すら踏み外しているのです。
 氏は、史学論で期待/要求されている用語を踏み外して、一般読者、研究者を通じた見知らぬ読者に何を伝えようとしているのでしょうか。不可解そのものです。本書は、編集過程を経ていない、手作りの「書いて出し」ものなのでしょうか。
 
いや、確かに、本書は、「出版物」でなく、そうした内容を予想させるKindle本ではあるのですが、代金支払いを伴う商用出版物相当品なので、一言愚痴りたくなるのです。

当時の日本には長さの絶対的な単位の概念がなく、距離を表すときは歩いて○○日、船で○○日、といったように時間で表していたということです。

 引用では「当時」が意味不明ですが、いずれにしろ、「日本」は八世紀以降の概念であり、三世紀では論外です。良くある時代錯誤の現れです。注意したいものです。
 「長さの絶対的な単位の概念がなく」は、無知による暴言で、少なくとも、交流している帯方郡には、「尺」なる日常不可欠な概念どころか、尺度物差なる「絶対的」原器があったのです。交易とは、何か形のあるものを、相応の値段で売ることですから、たとえば、布の幅について、互いの理解できる表現がなければ取引が成立しません。一番簡単なのは、両者で同じ「尺」を備えることです。
 「尺」が決まれば、一歩六尺、一里三百歩の原理で「里」も千八百尺と 、キッチリ決まりますから、「里」の絶対的原器もあったと見るべきです。文明の働きを侮るのは、東夷無教養人の自滅表現です。当ブログでは、概算計算の便に適した、有効数字の少ない、一尺25㌢㍍、一里450㍍の利用をお勧めしています。
 それとも、氏は、尺度、度量衡の適用範囲を勘違いしているのでしょうか。冒頭で、独自里制を提唱しているにしては、何とも、不用意です。

 但し、二地点間の距離、当時の「道のり」を「里」で計測する「道里」制が夷蕃にまで行き届いていなかったので、測量実務の手が回らない道里(道のり)に代えて移動日程を「時間」ならぬ日数で表したかというものです。いくら東夷でも、「距離」を所要日数で代用すると言うことはありません。因みに、東夷ならぬ本家中国正史の地理志などで、所要日数表示はざらです。

*「短里説」馬耳東風
 それにしても、かなり広く認知されている倭人伝「短里説」に一切触れないのは不吉です。多分、氏の器量では論破できないので、無視したのでしょうが、倭人伝里程論で、「絶対」避けて通れない議題と思量します。

 里数十倍増倍説を妥当と見せたければ、以上で説明した一里一千八百尺の通説を無視するのではなく、有力な先行論者を取り上げて論破/克服する必要があります。俗説論者が何万人いようと無視してよいとしても、大事なのは、有力な一説への対応です。
 論戦で、「敵前逃亡」したら、敵を論破できず、「結果」も「数字」も出ません。類は友を呼ぶと言いますが、同じ語彙文化の者同士で語り合い、「敵の」批判に耳を塞いだら論議は深まらないのです。

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*「大らか」(?)な日程主義
従って記述に正確を期したい場合はもっと客観的な基準、すなわち絶対的な距離の尺度が必要になってきます。しかし当時の倭人はそういう点についてはまだまだ大らかだったのです。

 まず大事なのは、倭人伝で言う「倭人」は、今日言う「日本人」と同様に当の国の民衆を言うのではなく、「倭」と称している集団の公式名だということです。この書き方では、そのような語彙なのかどうか不明確です。

 なお、納税や派兵のような期限付き命令の期限設定には、所要日数が明文で規定されていなければならないのです。日常の定期報告のような文書通信の期限設定も、所要日数の「客観的な規定」があればこそです。一尺25㌢㍍の「絶対的」尺度で、数千里にもなる道里を距離計測するというような、途方もない夢物語は、とても客観的、正確な測定はできないに等しいのです。

 たとえば、日数規定抵触は即「厳罰」であり、おおらかではないのです。(クビというのは、首を切り落とすことを言うのです)
 法と秩序の世界で、これほど、客観的な規定はないでしょう。よくよく、お考えいただきたいものです。

*歩測論再び
当時は歩測で距離を測っていましたが、使者が目的地に向かう際に歩数までをいちいち記録していたとは思えません。また海路となると舟の速度は一定ではなく、こうなると距離の計測はもっと難しいことになります。従って報告の正確を期するなら変に里程に換算するよりは、かかった時間をそのまま記述する方が誠実なやり方だったとも言えるわけです。

 当時、里数は歩測したが目的地への移動中は歩測しなかったとの個人的断定に、読者は納得しないでしょう。魏使には、副使と書記役がいて、初見の地で歩測は優先任務ですから、取りこぼし指摘は重大な非難です。大体、中国では、士と呼ばれる高官は手仕事を一切しないのですから、使節が補足することはぜったい無いのです。

 「変に里程に換算する」とか「誠実なやり方」というものの、何が「変」で、何が「誠実」かは個人差があり、無責任な放言です。誠実とは、方便として嘘を混じえてでも話を丸めるのか、馬鹿正直に筋を通すのか、ということです。

 要は、氏は、三世紀当時普遍的だった「普通」の観点を理解せず、ご自身の観点、世界観を、二千年前の著作「倭人伝」に押しつけて、意味が通じるようにしようと改竄しているものであり、それは、いくら声を大にして押しつけても、学問的に受け入れられないのです。

*重箱の果て
 氏の好著の重箱つつきは、以下に続きますが、一旦総括します。

 少し言い方を変えてみると、氏は、「後世知識」人の高邁な立場から、古代人の稚拙な行動や言動を指弾して論じても、実は、古代人の言葉、即ち文化を理解しないまま、自身の持ち合わせた言語で誤解したまま「無教養人 」として判断しているのであり、これは、現代の古代史論者の通り相場、普通、自然の世界観とは言え、本書の意欲的な論議のあり方として大変不出来です。ぜひ、この難詰を直視していただければ、幸いです。

 ついでながら、この場所が空いたので書き記すと、壹与の、弱冠の意図らしい「若干十三歳」の誤認は、誤変換・誤記だけでないのです。男子加冠儀礼は「年十三」ですが、幼女には、全く無縁です。また一つの不見識です。

*お説教
 長丁場の息継ぎで書くと、当ブログ筆者が、個人的な意見としているのは、一古代人が、別の、大切な古代人のために、最善の努力を注いで書き上げた畢生の著作は、当該古代人と同じ地平に立って、最善の努力で読解しようとすべきだという考えです。耳にたこと言われるので、用語を変えていますが、言っている主旨は、一貫しています。

                               未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 12/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*また一つの時代錯誤
この距離というものですが、単純なようで解釈の仕方によってずいぶん変わってくるものです。この場合も二通りの考え方ができて、一つは実際に旅した距離、すなわち航路の延長距離(中略)(もう一つは)直線距離として見る考え方です。

 古代に「直線距離」は時代錯誤です。倭人伝は距離と書いてないので、これは既に曲解していて、正しくは、道里(道のり)と解するべきでしょう。
 また、「実際に旅した距離」のあとに「すなわち航路の延長距離」と繋いでいるのも時代錯誤です。当時、航路はなく、「航路」の「距離」など、測定する方法もなかったし、測定されていない距離を、どんな方法で増大「延長」するのかも不明です。
 とにかく、用語、文型が揺らいでいて厄介です。

 そして、肝心なのは、晋書地理志などで引用されている周制で、王幾と遠隔の蕃夷との間の「里」を規定しているのは、距離や道のりを規定しているのでなく、通交の格付けのためであり、万里の蕃夷と百里の蕃夷では、参上頻度の義務づけに差があり、その際のもてなしやお土産にも歴然たる差があるのです。遠隔の蕃夷は、王幾まで攻め寄せることはないので防衛を固める必要はなく、また、貢ぎ物を取り立てるのも困難であり、参上を怠ったからと言って、遠征して誅伐することもないので、万里の来貢に際しては、大いに称揚するだけで十分なのです。おだてるだけで、辺境の安寧が保てればいいのです。一方、近在の蕃夷は、いつ攻め込んでくるかわからないので、頻繁に呼び寄せ、人質を取り、相応の接待と境界部に兵力の貼り付けが必要という事です。近隣では、高句麗の侵入を頑固に防御していた公孫氏を滅ぼしたため、魏帝は、高句麗討伐の遠征を余儀なくされ、最後は、楽浪。帯方両郡から撤退して、東夷の占拠を認めざるを得なくなったのです。

 こうした蕃夷管理は、鴻廬の「客」管理政策体系の反映であり、後世人の思い込みを押しつけるのでなく、時代感覚を読み取ってほしいものです。

*最初の一歩
 漢城(ソウル)なり、仁川(インチョン)を起点として、洛東江河口付近までの経路は、陸上経路で五百㌔㍍程度でしょう。特に難関はないはずです。当時、魔法の絨毯も孫悟空の觔斗雲もなく、画面上の直線距離に意義はないのです。
 また、半島西南岸水行の行路を易々と図示しても、無寄港、つまり、睡眠を摂らずに易々と多島海を移動したとする根拠が示されていません。
 「この場合記者の頭の中にどちらのイメージがあったかは不明」と言いますが、ここに描かれた図柄(画像イメージ)が三世紀人に見えたはずはなく、とんでもない神がかりです。それとも、古代人の脳裏に神の絵姿「image」が浮かんだのでしょうか。
 そこで、「一般に」まずは直線距離を答えると言いますが、それは、現代人の意見であって、問題としている古代人の「一般」ではなく、時代錯誤の連発です。
 
後ほど出て来る「合理的」も、同様に無効です。氏の論理ならぬ強弁は神がかりで、古代人の理解を絶していますから、説得は不可能でしょう。顔を洗って出直すべきでしょう。

 本書で丁寧に追求される議論は、時代錯誤の前提で倭人伝記事を好き放題に解釈した上に立脚しているので、遺憾ながら「論拠」として無意味です。如何に精巧な議論も、立論の前提や適用方法が誤ったら、まっしぐらに無意味な結論に至るという好例で、もったいない話です。
 当方は、行きがかりで本書の論文審査、文書校閲にのめり込んでしまったので、この勢いが続く限りこのまま進みます。

*魏使のおもてなし
しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です

 まず、魏使と言っても、実態は帯方郡の倭人担当者であり、初見の土地としても、それまでに、戸数や収量の報告を提出させていたから、目に付く範囲の数値にとらわれたはずはないのです。
 氏の言うように、「倭」にとっての視点を強要されても、何の文献記録もないのでは推定のしようがありません。ついでに言うと、後世、隋使の来訪の際に、受け入れ側は、隋使を「蕃客」(野蛮人)扱いしていて、まことに、言葉の意味を知らないでとは言うものの、はたから見下して侮辱しているのです。後に、鴻廬館などと銘打った蕃客宿舎に迎えていますから、素知らぬ顔で「対等外交」どころか、野蛮人扱いしていたのかも知れませんが、これは、数世紀の後世のことです、

 ついでに「理科」の世界のことを言うと、帯方郡でも、夏場の日の出は真東を外れているのであり、別に、後世人に方向違いと見くびられる謂れはないのです。また、倭地が温暖というのも、冬季寒冷の厳しい帯方郡の感覚で言うのであり、別に気温何度といっているのでないのです。
 ついでのついでに言うと、倭人での食事は、香辛料のない野蛮な生食と非難されていて、その極みが、野蛮な女王体制ですが、陳寿は、そうした形容に対する偏見を抑制して、この蕃人は、持て成すに値すると書き残しているのです。
 このあたり、当たり前の分別が、時として見過ごされるのは、倭人伝解釈の特異な点です。

 現代に於いても、首脳外交は形式・儀式です。異国に旅することが命がけだった古代、元首が旅に出るのは論外の暴挙です。これが、まず第一の難点です。古来、最高儀礼として派遣される全権大使、国使が重要人物であったのは確実ですが、夷蛮の国への遣使となると、道中の遭難の危険以外に、中国から来た使者を殺すのが挨拶代わりの国まであるので、重要人物にも程があります。

 記録が残っている隋唐代を見ても、下級官人が派遣されている例が結構多いのです。また、蕃客慣れしている部署である鴻廬のものとも限らないのです。要は、いくらでもかわりのある人員という事情であったようです。危険な大任を無事果たした使者は、昇進となったでしょう。

 但し、毎度ながら、氏の言葉遣いは軽率で「超VIP」は意味不明と言わざるをえません。VIPのVが既に「超」ですから、これに「超」を重ねるのは、おおボケです。よく見極めて場に持ち出すのが最低限の用心であり、本来は、このようなつまらない軽薄、低俗な冗談は避けるべきです。

 これほど現代語理解が不十分では、古代中国人の言葉が理解できているとは、誰も思わないでしょう。

                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 13/14 補追

邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地に眠る失われた弥生の都~  Kindle書籍 (Wiz Publishing. Kindle版)(アマゾン)
 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし勉強不足歴然     2019/03/30  追記 2020/05/19 補正 2021/03/27 2022/01/17

*魏使のおもてなし 承前
 続けて、離船上陸時に、「貴人」を歩かせたと決め込んでいますが、乗り物、車にも輿にも駕籠にも乗せず、膝栗毛させたと断定する根拠が不明です。中国で、貴人は自分の脚を地面に下ろさないのが当然としたら、倭地でも同様だったから何も書いていないと見るべきでしょう。

 中国には、太古殷代から戦車があり、周代には公道を走る四頭立て馬車があったのに、倭人に車がなかったと決めつけるのは理解できません。「牛馬なし」と言っても、一切飼育されていなかったと断言すべきものではなく、大人が馬車を活用しなかったとは早計のようです。
 例えば、魏使到着に合わせて、半島から馬車を送り込むことも可能だった筈です。超超重要人物なら、その程度の「最大限のおもてなし」もおかしくないはずです。いや、別に大受けして笑えと言っているのではないのですが。

これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。
 重大発言ですが、賓客を歩かせても屈辱などではなく、馬代わりに踏みつけられた時にでも屈辱を感じたら良いのです。
 古代士人にとって、恥辱は命を顧みずに晴らすべきものでしたから、その時は、殿中で勅使に切りつけるのか、接待指南役に切りつけるのか、いずれにしても、逆上して仕損じず、必殺してほしいものです。もっとも、魏の側では、現地で死ぬことまで想定して、帯方郡官人を魏使として送り込んでいるのです。漢代以来、西域に送り込まれた、各百人規模の使節団ですが、派遣先で、いきなり使節の首を斬った国もあるのです。それも、一度に限らずです。その地では、敵対の可能性のある使節は、まず、使節を斬首するものだったようです。そのような惨事を起こさないために、軍を通じて身元調査し、伊都国に精鋭の先遣隊を送って魏使の安全を確保したでしょうが、それにしても、数万戸の戸数がある、つまり、数万人の動員力の有る蕃夷ですから、百人を送り込んでも、安全の保証にならないのです。

対馬國や一大國でも同様なことは行われていました。(中略)そんないつ沈んでもおかしくないものに生活を依存するのは間違いなく危険でした。
 船がいつ沈んでもおかしくないと杞憂に耽ると、海峡渡海も南北市糴も成り立たず、半島沿岸長途航行は論の外の極みです。何かの「間違い」でしょう。因みに、運搬や移動に船を利用できないとしたら、島人は皆餓死してしまうのです。無責任な放言です。多少、分別を働かせていただきたいものです。例えば、年間、多数の死傷者が出ている「自動車」ですが、いつ死者が出るか知れないとしても、万人の生活はそのような移動手段に依存しているのです。ものごとは、白黒両断でなく、価値評価して採否を決めるべきです。

 それにしても、「半島沿岸長途航行」を絶対否定するのにも、ここまで待っていたとすると、氏は、中々食わせ物ということになります。

*独り合点の記
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
ところが実際には一〇倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。

 仮定は仮定、結果は結果、どこに論理がつながるのか示すべきです。
 「実際」「事実」は、氏の意見であり、史書に一切示されていない
ので、何が自然で何が「不自然」か、読者には理解できません。
 善良な読者には、矛も盾も見えていません。多分、氏の脳内世界の備品なのでしょう。
 
別に述べたように、当時の算数能力では、十倍以外のかけ算は大変むつかしく、十以外の割り算はとてつもなくむつかしいのです。十だけは、単位の付け替えだけで計算が要らないので「自然」なのです。

もし(中略)サイコロを振って(中略)たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が一〇倍に誇張されていたというのはほぼ一〇〇パーセント確実なのです。

 結果論に負けは無いとしても、「倭人伝の行程道里が間違っている」という論証はされず、また、史官が信条を放棄し、同僚も併せて家族共々刑死する危険を冒して万事を増倍し、史書稿を改竄した動機は、示されていないのです。まして、史官が史書をサイコロ博打で決めていたとも思えないのです。それを言うなら、筮竹、おみくじの「神頼み」とでも言うのでしょうか。

 原則として、事は、論理で決するべきでは無いでしょうか。

*縁起担ぎ
 松本清張氏を初め、倭人伝に登場する数字が、奇数の大変多い偏ったものになっていることを重大視して、縁起担ぎで、奇数が多い、作った数字に書いたと断じている例がありますが、それは考えが浅いというものです。

 蛮夷の地の道里や戸数のように、憶測でしかない概数を扱う時は、ずらりと敷き詰めた数字を使うのでなく、切り良くするために、一,三,五,七,十、十二と言った具合に、階段のように飛び飛びにして、概数の目を、事態相応に粗くするのも、史料に憶測の介入を防ぐ、大切な行き方なのです。
 史書の僅かな記事から、このような現象を見出す眼力は尊敬にあたいしますが、僅かな資料から、飛び飛びの数字の背景まで見通せなかったとしても、それは仕方ないことです。

*陳寿擁護
 陳寿は史官であり理知の人ですから、公式史書に、何の方針もなしに実態と関係ない「虚構」を書いたとは思えません。
 書いたとすれば、緻密な「増倍」戦略によって十倍としたはず
で、確率論は意味ないのです。どんな方針があっても、勅命があっても、虚構のための虚構は書かないと信じますが、それはそれとして、無意味な虚構を書くと思えないのです。
 史官の使命感は、後世人の遊び半分の数字遊びには関係ないのです。
 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」、重責にある者の倫理観を後世の安穏な者が安易に語るべきではないのです。

 しかして、論理にも何にもなっていない、空虚な行が続いています。
                                未完

新・私の本棚 渡邊 徹 「邪馬台国への道 ~熊本・宮地台地…..」 14/14 補追

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*里程観の行き止まり
萬二千余里とは修正道程では一二〇〇余里になります。これは㎞で表せば四八〇~六〇〇㎞になります。ここで帯方郡から邪馬壹國までの直線距離を測ってみると約六四〇㎞となって、四〇㎞ほどオーバーということにはなります。しかし当時の距離計測の方法を考えればこれは、むしろ非常によく合っていると言うべきでしょう。

 古代の不確かな環境で、七㌫精度は幻影です。と言うのは、ほんとのとば口で、以下、迷走そのものです。「修正」、「正確」、「合っている」は、対象が正確に認識されている場合に言う事です。
 
倭人伝道里では、帯方郡の管理下にあった街道、つまり、陸上行程の七千里すら、帯方郡の公文書が残っていないのを良いことにあれこれ憶測されているくらいですから、どれだけ「直線距離」からうねっているのか知る方法がないのです。

 まして、海上道里は、それぞれの渡海が測定しようのない「見立て」の千里ですから「直線距離」とは無関係です。あえて言うなら、五百里より長いようだが二千里よりは短いかなあ、と言う憶測です。

 最後の倭地内道里も、末羅国から倭までの道里について、倭人伝は、里数を計算する根拠すら示さず沈黙しているので「直線距離」を知る方法がありません。

 以上のように、具体的に里数の背景を確かめると、それぞれ大いに不確かであり、不確かさの程度がそれぞれ大きく違うので、数字を足し合わせることに意味は無く、まして、「オーバー」「合っている」と言う事が無意味であることがわかります。

 万二千里というのは、そういう漠然たる道里であり、そもそも、所要日数を知るすべのないものであって、目的とする蕃王の住まいは、とてつもなく遠いという事しかわからないのです。

 憶測尽くしに疲れ果てて振り出しに戻ると、当時測定できなかった、陳寿が知り得なかった「直線距離」を前提とした仮定自体、無理です。一から十まで無理筋です。いや、これは、世上の議論に沿って、改善を試みているだけだというのでしょうが、無批判に他人の議論を踏まえても、それが泥沼だったら。ずっぽり、埋もれるだけだという事です。

 余談になりますが、それにしても、当時、どうやって海山越えた二点間の距離を測ったのか不可解です。半島沿岸航行説の道里が見えないのと同様に、通行していない半島内経路の「当時の距離」も見えません。その点でも、倭人伝の道里談義、里数談義は、不可解そのものです。

*道里行程論の深意
 案ずるに、魏として知りたかったのは、この蕃王に指令を送った時、何日後に、現地に文書が届くかという事であり、蕃王が返事を送った時、何日でその文書が手元に届くかという事です。
 後漢霊帝没後の動乱で崩壊した後漢の諸制度を復元し、健全な国政を再開しようとした曹操が、最初に定めたのは、各地の拠点との交信日程の確立だったのです。当然、後継者である曹丕、曹叡も、その指示を継承したのです。さらには、曹操の弟子であった司馬懿も同様です。

*縄張り説~「できる」古代測量
 耕作地測量の「縄」で、人手と日数をかけた百㍍程度単位の測量で一里単位計測はできたでしょうが、あえて表明しなかったと思います。里数測定は、どう工夫しても万全ではなく、海上行程のように時に不可能な部分が解決不能なので、魏使が全区間測量値を正確に知り得た可能性は、全くないのです。また、先に書いたように、特に差し迫ってない道里の確立が至上命令ではなかったのです。

*銅鏡増倍の幻影~万華鏡のはじまり
れを見てみると倭國の貢ぎ物の生口一〇人と班布二匹二丈に対してこれだけの褒賞品が与えられていて、まさにエビでタイが釣れまくっていますが、その中に「銅鏡百牧」というのが含まれています。

 景初遣使で親魏倭王と認知されても、遣使は、恐らく二十年に一度です。例えば、遣唐使は、二十年に一度が義務であり、逆に、それ以外の時に押しかけてくるなと指示されていたのです。蕃客の受け入れ部門である鴻廬の典客部門は、当然、人員的にも設備的にも限界があるので、隔晩客の来訪時期を平準化する必要があったので、それぞれ、来訪間隔を定めていたのです。
 と言う事で、毎年のように押しかけて、銅鏡の山を担いで還ることなどできなかったのです。

 「エビでタイ」などとゲス根性で吠えていますが、 中国が、定例使節に数百枚の銅鏡を下賜するのは、それ自体あり得ない「妄想」です。
 まして、
古代における価値観はわからないし、古代でも、魏皇帝の価値観と倭の価値観は同じではないのです。当事者をあざ笑ったら、ものしらずの不届き者が何を言うか、と叱責されるでしょう。
 渡邉氏は、ここでぼやかしていますが、銅鏡百枚というのも誇張、増倍で、実は一枚でなかったか。実際は、伊勢エビでめだかを釣りまくったか。倭の貢献は、生口ゼロ名、班布二尺ではなかったか。憶測はいくらでも言えるのです。

 偶々、それらしい銅鏡が多数出土しているので、誇張ではないようだとしているのですが、関係者は、今度は、それにしては、出土の枚数が多すぎるという難題に直面しているのです。

 一度、正史稿の改竄を肯定すれば、夢想にまとまりがつかないのです。当人は楽しいでしょうが、傍のものは、いい加減にしてくれて言いたいはずです。

第二節 倭國の実像
*虚像と実像
 節題を見てほっとするのは、結局、氏は、対象の外面、見かけを語っていたのかということです。
 光学実像は、どのような操作も演出も可能だから、素晴らしい見栄えも何も一種の幻覚談なのでしょうか。因みに、虚像には虚像の効用があって、この世に虚像がなければ、眼鏡のお世話になることはできないのです。何しろ、実像は、天地逆ですから、天体望遠鏡でお世話になるくらいで、眼鏡の役には立たないのです。
 心ある人は、この言い回しを注意深く避けるのです。

*倭国大乱の幻影 道の果て
 「佐賀から太宰府にかけてのベルト地帯は戦いが戦いを呼ぶ激戦地」と、突如倭人伝にない「倭国大乱」が勃発しますが、それまで慎ましくまとまった世界が、突然、逆誇張の全国動乱、覇権争奪となる理由が理解できません死傷者が発生すれば、果てしない復讐合戦になり和平は来ないのです。
 農業集団が、隣人との諍いで多数の死傷者を出せば共倒れです。水争いで、潅漑水路を破壊し合えば田地は壊滅し共倒れです。七,八十年も戦えないのです。いやも世間に多い妄想ですが、そこまでして何を争うのか、自身のゲス根性を無反省で古代人に貼り付けるのでなく、古代人の世界観を説き聞かせてほしいものです。

 氏は、百年戦争を見ているようですが、十倍説で七,八年、百倍説で一年弱でないのでしょうか。二倍年歴説を載せたら、半年以下です。

 以下、氏は、倭人伝を遠く離れて、過激な夢想世界に彷徨うのですが、気弱な素人は、このあたりでお付き合いしかねます。

*総評の念押し
 当書評は、倭人伝が「一里五十㍍程度の地域小里と仮定すれば見事に万事収まる」という仮説の当否も、熊本説の成否も論じていないのです。
 ここで上げた批判を克服して、氏の持論が維持できたら、そのように改訂して新版を上梓すべきでしょう。
                                完

2022年1月16日 (日)

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 1/4 改 追補 唐書地理志談義

                            2018/12/05 追記 2020/11/15 追補 2022/01/16
〇道里記事考察
 当記事は、魏使は海を行かないという話です。(三千里の渡海は除きます)
 当ブログは、倭人伝論議には珍しく、後代史料を模索しています。 概して、倭人伝解釈に後代資料を援用するのには、慎重なのですが、それは、頭から信用はしないと言うだけで、史料批判によって丁寧に裏付けを取ってから援用することまでは、避けていないのです。(2020/11/15)
                なお、現代中国語で、公里は㌖のことです。

〇間奏曲 隋書・唐書
 倭人伝の後世史書の里程談義が、今回の「枕」です。
 隋書は百済・新羅から水陸三千里としています。起点と目的地が不明ですが、倭人伝流で概数計算します。
 *慶州から博多まで、二百公里程度とみると一里は七十㍍程度です。
 *慶州から奈良まで、一千公里程度とみると一里は三百程度です。
 古田武彦氏は、三千里は、新羅領南端と倭領北端の間の渡海としています。
         「古代は輝いていた Ⅲ」(ミネルヴァ書房刊)
 舊唐書は、隋書の三千里を書かず、倭は、京師(長安)を去る一万四千里としています。
 *長安から博多まで、三千公里程度とみると一里は二百程度です。
 *長安から奈良まで、四千公里程度とみると一里は三百程度です。

 概数計算で漠然としますが、倭國「なら」論にもみえます。いずれにしろ、大まかな話なので、あくまで、ご参考にと言うだけです。
 倭人伝里程を維持したのか、倭人伝王城をどこに見たのか、微妙なところです。

 と言うことで、本題では、以下、明確な史料を探すことにします。と言っても、隋書、舊唐書、新唐書は、いずれも、「地理志」を備えているので、まずは、信頼すべき史料とみて、内容を確認するわけです。
 
〇新唐書地理志 入四夷之路

 新唐書地理志によれば、天寶年間、玄宗皇帝が、諸蕃との交通を差配していた鴻廬卿に対して、多数の蕃国の所在と道里の実情を、余さず調査報告せよと指示したため、国を挙げて実態調査を行ったようです。
 日本国は絶海の地で交通がなく、新羅慶州の位置が報告されています。因みに、平壌、丸都の高麗故都も、調査報告されています。
 なお、これら記事の精査、図示などは、手に余るのでご辞退申し上げます。

 追記:実態調査とは、鴻廬卿の手元にある「公式行程道里」が秦代以来の交通路を辿っていて、実際の行程道里とは異なると、皇帝の耳に届いたので、実際の行程を調べよと命じたものでしょう。まことに厖大な努力の成果と思われますから、空前絶後と言っていいでしょう。郡から倭まで一万二千里などと言う夢物語は、このあたりで、鴻廬の記録から消えたと言う事でしょう。もちろん、正史の訂正、改竄などは、到底あり得ないのです。(2020/11/15)

*入四夷之路與關戍走集
 唐置羈縻諸州,皆傍塞外,或寓名於夷落。而四夷之與中國通者甚眾,若將臣之所征討,敕使之所慰賜,宜有以記其所從出。天寶中,玄宗問諸蕃國遠近,鴻臚卿王忠嗣以《西域圖》對,才十數國。其後貞元宰相賈耽考方域道里之數最詳,從邊州入四夷,通譯於鴻臚者,莫不畢紀。其入四夷之路與關戍走集最要者七:一曰營州入安東道,二曰登州海行入高麗渤海道,三曰夏州塞外通大同雲中道,四曰中受降城入回鶻道,五曰安西入西域道,六曰安南通天竺道,七曰廣州通海夷道。其山川聚落,封略遠近,皆概舉其目。州縣有名而前所不錄者,或夷狄所自名雲。

 四夷への要路は七路に大分され、東夷では、その一「營州入安東道」、営州から安東府の経路、その二「登州海行入高麗渤海道」、登州から渡海、高麗、渤海(高麗亡国後新羅と半島を南北二分)などへの経路を取るので、次項で該当部分の記事を引用します。

                                未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 2/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 2019/01/29 追記 2020/11/15 2022/01/16
*新唐書地理志 入四夷之路 承前
 そして、具体的経路と里数です。

*營州入安東道
 營州西北百里曰松陘嶺,其西奚,其東契丹。距營州北四百里至湟水。營州東百八十里至燕郡城。又經汝羅守捉,渡遼水至安東都護府五百里。府,故漢襄平城也。東南至平壤城八百里;西南至都里海口六百里;西至建安城三百里,故中郭縣也;南至鴨淥江北泊汋城七百里,故安平縣也。自都護府東北經古蓋牟、新城,又經渤海長嶺府,千五百里至渤海王城城臨忽汗海,其西南三十里有古肅慎城,其北經德理鎮,至南黑水靺鞨千里。

*登州海行入高麗渤海道
 登州東北海行,過大謝島、龜歆島、末島、烏湖島三百里。北渡烏湖海,至馬石山東之都里鎮二百里。東傍海壖,過青泥浦、桃花浦、杏花浦、石人汪、橐駝灣、烏骨江八百里。乃南傍海壖,過烏牧島、貝江口、椒島,得新羅西北之長口鎮。又過秦王石橋、麻田島、古寺島、得物島,千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城自鴨淥江口舟行百餘里,乃小舫溯流東北三十里至泊汋口,得渤海之境。又溯流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北溯流二百里,至神州。又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都。又正北如東六百里,至渤海王城

 鴨緑江河口部唐恩浦口(仁川広域市 インチョン 旧京畿道)から新羅王城まで東南陸行七百里は、現代地図で一千公里程度と思われます。これは、玄宗期の官路と里程です。
 
 発進地である登州府は、山東半島ほぼ全域を管轄した登州の首都でありながら、その中央を離れ北端に位置していました。
 登州から遼東半島に至る経路は、中国側に連なる渤海列島に恵まれ、交通経路として最初に確立されたと思われます。後年、南寄りの平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)の付近の海港が、良港として評価されて、そちらへの航行が活発になったと思われます。

 山東半島の東の最果ての岬、成山角には、始皇帝や徐福が訪れたという記録が残っています。目前の半島を無視して、どこへ行ったのでしょうか。

 倭人伝とは時代が違うので、「海行」と明記し、以下、「過大謝島」などと通過地を列記した後「得..長口鎮」などと到着地と里程を記しています。ただし、「水行」はなく、河川航行は、溯流し至る。などとしています。
 ここでは仁川(インチョン 鴨緑江河口部)から新羅王城まで東南陸行八百里とし、「水行循海岸」などと言っていません。
 現代地図で四百㌖程度の里程と思われます。(訂正 2020/11/15)
 追記:もちろん、「海行」は沖合を南下するものではなく、山東半島から対岸の半島西岸に渡る「渡船」です。(2020/11/15)

 以上、唐代玄宗期の官制経路と里程です。

新羅遣唐使研究
 一方、次ページの専修大学東アジア世界史研究センターの新羅遣唐使研究によると、王都慶州(キョンジュ)から中国登州へは、まず、慶北永川(ヨンチョン)骨火館に入り北上、忠北忠州(チュンジュ)褥突駅に至り、ここから、西岸海港へ陸行し登州に出港です。忠州から、南漢江を漢城(ソウル)方面に辿る西北行と忠北清州(チョンジュ)から忠南牙山(アサン)への西行があります。どちらも新羅内四百㌖程度陸行です。

 この経路は、倭人伝の、帯方郡(漢城附近)から狗邪韓国(慶州南方)の官道旅程中心部の有力候補と見られます。
 牙山を発する場合は、東行して清州を経て、竹嶺で小白山地の分水嶺を越えて、洛東江上流忠州に至り、洛東江沿いの街道を、あるいは、洛東江の川船に揺られて、南下すると見られます。
 また、帯方郡から発する場合は、東行して 北漢江上流に至り、 北漢江沿いの街道を、あるいは、北漢江の川船に揺られて、南下し、南漢江との合流部から、さらに南下して、清州を経て、竹嶺で小白山地の分水嶺を越えたものもと見えます。
 このように、青州は、河川、街道交通の要所にあり反映したものと見えます。つまり、街道沿いに宿場が繁栄し、要所の宿駅には、市(いち)が常設され、新羅の繁栄の基礎となっていたものと見えます。

 つまり、この行程が、新羅遣唐使経路になったのは、古来、街道として宿駅まで整備されていて、常用されていたからと思われます。
 新羅遣唐使の永川から忠州への経路も、忠州から海港への経路も、楽浪郡、帯方郡時代からの常用と思われます。

 新羅遣唐使は、総じて二百餘次に及び、国内経路は、使節宿舎を含め、一級官道として整備されていたと思われ、対岸の登州には、新羅館もあったとのことです。

 半島西岸の海港は、南下した高句麗が、百済との紛争に勝利して百済を南方に追いやり、一度は中国への海港として確保したものの、嶺東、つまり、半島東南部から興隆した新羅に海港を奪われ、果ては、中国との交流を深めた新羅に半島統一の大命が下って、高句麗は、百済共々亡国となったのです。

 ということで、この海港は、長年に亘り、半島西岸から山東半島への渡海の要であり、新羅からの官道として確立されていたのです。一部史料に、新羅から、半島南岸、西岸を経て、中国に渡る経路が(誤って)図示されていることがありますが、それは、傍線航路を過大評価した作図者の大いなる勘違いであり、同列に見るべきではないのです。

追記 :
初期の第三次遣唐使は、対馬から海を越えて、慶州に入り、以下、新羅道(しらぎみち)を通ったと、日本書紀に明記されているので、半島内は、新羅の官道を通り、新羅の宿駅のお世話になったものと思えます。多分、その時期、両国は友好関係にあって、新羅遣唐使の随行扱いで、官道の諸関所を楽々通過し、最後に新羅の官船に便乗したはずです。官道宿舎の寝床は嵐で揺れることもなく、地域の新鮮な食事を愉しんだものと思えますし、渡海は、僅かな行程なので、難破の危険もなく、後の遣唐使の苦難を思うと、夢のようなものだったでしょう。
 後年両国関係が険悪になってからは、そのような厚遇は受けられず、自前で大船を造船して、東シナ海越えの、半数が難船となる難関に挑まざるを得なくなったものと解されます。(2020/11/15)

                             未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 3/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 追記2020/11/15 追補 2022/01/16
〇新唐書地理志再論
 新唐書地理志に見られる鴨緑江河口部から新羅王都の陸行七百里は、平壌(ピョンヤン)、漢城(ソウル)、清州(チョンジュ)、常州(チュンジュ)を官道で歴たと見られます。各地名は、古来、水陸交通の便を得た要地であり、往年の韓国諸国の王城が継がれていると思います。
 韓国内地名の歴史背景は、ハングルの読めない素人の知識が及ばない上に、韓国国内の各種地図が漢字表記でなくなった現在、韓国地名の漢字検索は困難なので、地図上の推測に止めますが、各種行程道里は半島内陸行前提であり、沿岸航行を含まないのは明瞭です。

 隋、唐代の裴世清や高表仁の来訪は、山東半島の海港から、大型の帆船であり、ほぼ無寄港で直行しているので、先に挙げた、官道行程とは別の話です。混同しないようにお願いします。(2020/11/15)

 因みに、韓国地名に冠した忠北、忠南、慶北は、それぞれ、忠清北道、忠清南道、慶尚北道の略称として通用しているものです。

〇半島内行程結論
 倭人への道は、海を行かなかったのです。(わざわざ「水行」と呼ぶと定義した「渡海」は除いてですが

 航海術が格段に進歩したと思われる統一新羅時代(668年頃-900年頃)に、遣唐使順路が全面陸行であったということは、遡って、倭人伝の帯方郡時代(三世紀前半)も、半島陸行が唯一最善の経路であったと見るべきでしょう。
 当時も隋、初唐期も、帯方郡時代の官道を利用して狗邪韓国の旧地まで進んだので、海岸沿いの沿岸航行などなかったのです。

*行程不明解の理由を推測
 倭人伝原資料を帯方語で書いた魏使提出資料は、帯方郡の報告文献なので、内陸行、各国歴訪顛末を、所要日数、移動距離と共に逐一書いたでしょうが、洛陽では、些末として省略され「乍南乍東」と減縮されたのでしょう。 このように、地理観、交通観の異なる両者の意向が合わず、まことにちぐはぐですが、語彙も文体観も違うから仕方ないのです。

 目下の最終読者は、現代日本人なので更なる誤解は避けられず、続くのは、ちと古手の「日本人」が理解に苦しむ当世言葉の世界なので、何をか言わんやです。

追記: 2022/01/16
 以上は、初出時の道里行程観でまとめたものであり、目下の意見は、これと異なります。
 つまり、倭人伝冒頭部の道里行程記事は、主要部が魏使訪問以前に書かれたと見ています。魏使を派遣する際には、行程概要を上程する必要があり、全行程万二千里、郡から狗邪韓国まで七千里、三度の渡海水行が、計三千里までは、皇帝の承認済みであり、予想所要日数として、街道完備のあかつきには、四十日程度とまでを伝えていたはずです。
 「俗論」派の方の好む「俗な表現」にすると、「出張期間が不明では出張承認が下りない」というですから、明帝没後とは言え、「倭人の王治まで万二千里は、周制に倣った形式的なものである」ことは、関係者に通じていたものとみるのです。そうでなければ、魏志を上程しようにも、倭人道里万二千里が法外な誇張と指摘されて、倭人伝は没になっていたはずです。ここは、ちゃんと、根回しした上の「芸術的表現」だったとみるのです。

参考資料 専修大学 東アジア世界史研究センター年報 第4号 2010年3月
 遣唐使の経路
 新羅の遣唐使一行は金城(慶州)を出立して永川付近の骨火館、おそらくここは新羅の王城に入る唐からの使者、また帰国する新羅の遣唐使の王都入城前に停まる施設であろうが、ここを経て忠州の褥突駅から西海岸の長口鎮あるいは唐恩浦(唐城鎮)に至って出航したであろう。ここまで約392kmの陸行である。山東半島の登州に上陸すると、新羅館に息み、青州を経て洛陽・長安に至る。このコースは新羅の遣唐使の第4期後半から5期では新羅国内の混乱と唐における山東地方の混乱を避け、遣唐使は慶州を出立すると、西南方に陸行して、全羅南道の栄山江河口付近の会津から出航して楚州に上陸することになる。

                           未完

倭人伝随想 6 倭人への道はるか 海を行かない話 4/4 改 追補 唐書地理志談義

                        2018/12/05 2018/12/07 追記 2020/11/15 追補 2022/01/16 
▢余談 東莱談義
 新羅遣唐使談義の背景となる東莱は、中国古代・中世史では、山東半島地域です。

東莱郡 (中国) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 東莱郡(東萊郡、とうらい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省東部の煙台市一帯に設置された。

*東莱の人 晏子

 東莱は、春秋戦国の大国「斉」(せい)の東部であり、宮城谷昌光氏「晏子」によると、春秋魯の重臣孔子が頌えた晏嬰(晏子)は、東莱領主にして重臣晏弱の嫡子とのことです。

*東夷の起源
 戦国末期、西の秦と呼応して東帝を称した斉は、長大な海岸線を利し、南海諸国、遼東、朝鮮半島を含む広範囲の海洋交易によって栄えたのでしょう。内陸政権の周には理解できなかったのでしょうが、中原に統一王朝が生まれ、斉がこの地に封建される遙か以前から、東夷と呼ばれる蛮夷は、荒海を乗り切る海船を作り出していたのです。
 因みに、長江で荷物輸送に多用されていた川船は、波浪が過酷な外洋航行に耐えない内陸淡水面専用であったことは、言うまでもないでしょう。まして、沿岸を曳航してくることはなかったのです。そうでなくても、多数の海船を造船する技術と資材は、十分整っていたのです。

 太古、海船が小さく、食料と飲料水の容量が限られていたために長行程に耐えなかった時代は、莱州から、一旦、半島先端の登州に亘り、以下、渤海列島を経由して海峡を越えたようです。
 後に、海船が長行程に耐えるようになると、東莱を扇の要として、登州から遼東半島、栄成から朝鮮半島中部の平壌、漢城へという派生行程が栄えたと思われます。重ねて、東莱、莱州は、古来の斉都臨菑を歴て中原への交通に恵まれ、一大集散地(一都會。つまり、「すべての路は、ここに一つに会す」)となっています。

 遼東公孫氏は、一時、莱州に進出し、ここを起点に青州周辺まで広く支配しましたが、後に押し戻されました。
 逆に、景初年間の司馬懿北伐では、派兵に先立って、青州周辺で海船を多数造船し、できたての大船団を駆使して、司馬懿指揮下の遼東討伐軍主力の兵站を支える食糧輸送などの軍務と並行して、あるいは、密かに先立って、楽浪・帯方両郡平定を行ったとされ、その記録は、後の唐代の百済攻略の際に活用されたと思われます。

 いや、青州起点の海船起用は、遥か以前の漢武帝「朝鮮」の際の兵士輸送に起用されているので、それを機に、青州-遼東半島の航路と共に、青州から、楽浪、帯方両郡への航路が確立されたものと見えます。何しろ、どちらの際も、平定後の海船は、払い下げられたと見えますから、交易の船腹に不自由はしなかったのです。(2020/11/15)

*大船の限界
 因みに、新造の青州海船は、当然、甲板と船室のある大型の帆船ですが、いかに波穏やかな渤海湾黄海航行とは言え、海船は、波浪の侵入を防ぐために舷側が高くて船底は深く、航路を外れた岩礁海域に進入できなかったのです。
 また、大型の帆船は舵取りの小回りがきかず、舵取りのために漕ぎ手を多数備えていても、水先案内が指図しない限り、手早い転進ができなかったので、とても安全航行はできなかったのです。

*海路創世記
 類書「通典」の邊防一、倭の項に「大唐貞觀五年,遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至」の記事があり、初唐に半島西岸沖を浮海した刺史高表仁の海船は、「浮海」と言う航路探索のあげく、途中で風待ち、潮待ちが募ったか、数か月後になって、ようやく倭に到達したと唐書記事に追加し、「唐会要」では、魔物や奇巌に阻まれたと書いたので、幾度か難破しかけたのでしょう。

 この際の航路開拓の偉業で、未踏の半島西岸が中原政府の路程として確立され、「海路」と呼ばれるようになったと思うのです。かくして、後の百済征討の降伏勧告使節派遣や百済復興勢力との白村江会戦に於いて、東莱、登州を発した大勢の水軍が、大過なく百済泗比、熊津などの海岸に攻め寄せられたのでしょう。

 但し、百済征討の新造船は、急造故に損壊し、軍兵は、百済亡国後、軍費節減のため帰還したため、海峡を越えた大軍派兵と水戦は不可能となったのでしょうか。いずれにしろ、新羅が唐の半島支配に抗した戦闘は、内陸での分散戦闘であり、莱州からの長駆派遣を要する唐の及ぶところではなかったのです。

 新羅遣唐使の派遣は、両国間の熱気の冷めた時代のことであり、西岸「海路」は無用で暦年重用された渡海を行ったのでしょう。
 いや、この海域に大型の帆船が往来していたら、後の遣唐使は、文字通り決死の東シナ海越えにいどむことはなかったのです。

                           この項完

2022年1月15日 (土)

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

〇はじめに
 文献史学の達人が、達人芸で「墜ちる」という図式なのだろうか。
 深刻な問題は、登用史料の由来がばらばらで、用語、構文の素性が不揃いでは、考証どころか読解すら大変困難(実質上、不可能)ということである。文献解読の肝は、それを書いた人物の真意を察することであり、そのためには、その人物の語彙を知らねばならないのである。当ブログ筆者は、なんとか、陳寿の真意を知ろうとして模索するのが精一杯であり、引きこもらざるを得ないのである。
 特に、国内史料は、倭人伝から見て数世紀後世の東夷作文であり、また、漢文として、文法、用語共に破格なはず、至難な世界と思うのである。氏が、自力で読み解いて日本文で書くのは、凡人の及ばぬ神業である。言うまでもないが、中国史書の編者は、国内史料を見ていないので、統一がないのである。

*第一歩の誤訳~取っつきの「躓き石」
 たとえば、「女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と書くが、原文が景初二年であるのは衆知であるから、これは、端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとするなら、官人なのは、揺るぎない原典の選定である。検証無しに、世上の文書を引用するべきではない。
 以下、大量の史料引用と考察であるが、大半が倭人伝論「圏外」史料であり、中国古代史史料以外に「三国史記」と共に、大量の国内史料が論じられ、つづいて、纏向史蹟出土物の考古学所見、「纏向所見」が述べられている。当ブログで論じることのできる文献は少ないが、できる範囲で苦言を呈する。
 一般論であるが、用例確認は、小数の価値あるものを精査するべきである。用例が増えるにつれ、誤解、誤伝の可能性が高くなり、それにつれ信頼性は低下するのである。つまり、通りすがりの冷やかしの野次馬に、重要性の低い資料の揚げ足を取られて、氏が、ご不快な思いをするのである。

*パズルに挑戦
 要は、「纏向所見」の壮大な世界観と確実な文献である「倭人伝」の堅実な世界観の懸隔を、諸史料の考察で賢明に埋める努力が見えるが、倭人伝の遥か後世の国内史料を押しつけておいて、後段で敷衍するのは迷惑と言わざるを得ない。

 倭人伝の世界観は、諸説ある中で、当然、纏向説に偏した広域国家にされている。
 倭国の「乱」は、列島の広域、長期間に亘るとされている。
 倭人伝に明記の三十余国は、主要「列国」に過ぎず、他に群小国があったとされている。しかし、国名列記で、戸数も所在地も不明の諸国が「列国」とは思えない。まして、それら諸国が、『畿内に及ぶ各地に散在して東方は「荒れ地」だった』とは思えない。
 パズルの確実なピースが、全体構図の中で希薄な上に、一々、伸縮、歪曲させていては、何が原資料の示していた世界像なのか、わからなくなるのではないか。他人事ながら、いたましいと思うのである。

*「邪馬台国」の漂流
 私見では、倭人伝行程道里記事に必須なのは、対海国、一大国、末羅国、伊都国の四カ国である。
 余白に、つまり、事のついでに、奴国、不弥国、そして、遠絶の投馬国を載せたと見る。枯れ木も山の賑わいである。
 「行程四カ国」は、「従郡至倭」の直線行程上の近隣諸国であるから、万事承知であるが、他は、詳細記事がないから圏外であり、必須ではないから、地図詮索して、比定するのは不要である。そう、当ブログ筆者は、直線最短行程説であるから、投馬国行程は、論じない。

 氏は、次の如く分類し、c群を「乱」の原因と断罪するが、倭人伝に書かれていない推測なので、意味不明である。氏の論議の大半は、倭人伝原文から遊離した憶測が多いので、ついて行けないのである。
a群 対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国・不弥国
b群 投馬国
c群 邪馬台国・斯馬国・己百支国・伊邪国・都支国・弥奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国

 「邪馬台国」を、「従郡至倭」行程のa群最終と見なさず、異界c群の先頭とみているのは、不可解と言うより異様である。いろいろな行きがかりから、行程記事の読み方を「誤った」ためと思われる。
 以下、氏は、滔々と、後漢状勢と半島情勢を関連させて、滔々と古代浪漫を説くが、どう見ても、時代感覚と地理感覚が錯綜していると見える。いや、氏の憶測だから、氏なりに辻褄は合っているのだろうが、第三者は、氏の心象を見ていないから、単なる混沌しか見えない。

*混沌から飛び出す「会盟」の不思議
 氏は、乱後の混沌をかき混ぜ、結果として、纏向中心の「首長会同」が創成されたと言うが、なぜ、経済活動中心の筑紫から、忽然と遠東の纏向中心の政治的活動に走ったのか、何も語っていない。本冊子で、遺跡/遺物に関する考古学論考が、現物の観察に、手堅く立脚しているのと好対照の空論である。

 ここでは、基礎に不安定な構想を抱えて拡張するのは、理論体系として大きな弱点である、若木の傷は木と共に成長するという寓話に従っているようであると言い置くことにする。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』2/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*不可解な東偏向~ただし「中部、関東、東北不在」
 最終的に造成した全体像も、三世紀時点に、「倭」が九州北部に集中していたという有力な仮説を変形した咎が祟っている。いや、そもそも、それを認めたら全体像ができないが、倭人伝のせいでなく氏の構想限界である。

*不朽の無理筋
 氏の構想の暗黙の前提として、諸国は、書面による意思疎通が可能であり、つまり、暦制、言語などが共通であり、街道網が完備して、盟主が月日を指定して召集すれば、各国首長が纏向朝廷に参集すると見える。しかし、それは、倭人伝にない事項であり、言わば、氏の「特製倭人伝」であるが、どのように史料批判されて受け入れたのであろうか。氏は、各国元首が纏向の庭の朝会で鳩首協議と書かれているから、これは朝廷と見なされるのである。
 しかし、「纏向所見」は、考古学所見であるから、本来、氏名も月日もない遺物の制約で、紀年や制作者の特定はできないものである。

*承継される鍋釜持参伝説
 例によって、諸国産物の調理用土器類が、数量不特定ながら、「たくさん」出土していることから、「纏向所見」は、出土物は、数量不特定ながら、 「大勢」で各地から遠路持参し、滞在中の煮炊きに供したと断定しているが、関係者の私見であろう。
 私見比べするなら、各国と交易の鎖がつながっていて、随時、纏向の都市(といち)に、各国の土鍋が並んだと言う事ではないのだろうか。「たくさん」が、千、万でなければ、何年もかけて届いたとみて良いのである。良い商品には、脚がある。呼集しなくても、「王都」が盛況であれば、いずれ各地から届くのである。

*「軍功十倍」の伝統
 各地で遺跡発掘にあたり、出土した遺物の評価は、発掘者の功績になるとことから、古来の軍功談義の類いと同様、常套の誇張、粉飾が絶えないと推定される。これは、纏向関係者が、テレビの古代史論議で「軍功十倍誇張」などと称しているから、氏の周辺の考古学者には常識と思い、ことさら提起しているのである。
 三国志 魏志「国淵伝」が出典で、いわゆる法螺話の類いで、まじめな論者が言うことではないのだが、「三国志の権威」渡邉義浩氏が、好んでテレビ番組から史書の本文にヤジを飛ばすので、結構、この手の話を真に受ける人がいて困るのである。良い子が真似するので、冗談は、顔だけ、いや、冗句の部分に限って欲しいものである。

*超絶技巧の達成
 と言うことで、残余の史料の解釈も、「纏向所見」の世界観と「倭人伝」の世界観の懸隔を埋める絶大な努力が結集されていると思うので、ここでは、立ち入らないのである。史料批判の中で、『解釈の恣意、誇張、歪曲などは、纏向「考古学」の台所仕事の常識』ということのようなので、ここでは差し出口を挟まないのである。
 要は、延々と展開されている論議は、一見、文字資料を根拠にしているようで、実際は、纏向世界観の正当化のために資料を「駆使」していると思うので、同意するに至らないのである。但し、纏向発「史論」は、当然、自組織の正当化という崇高な使命のために書かれているのだから、本稿を「曲筆」などとは言わないのである。

*空前の会盟盟約
 氏は、延々と綴った視点の動揺を利用して、卑弥呼「共立」時に、纏向に置いて「会盟」が挙行され、私案と称しながら、以下の盟約を想定している。

 本稿の諸論点を加味して盟約の復原私案を提示してみることにする。
 「第一の盟約」―王位には女子を据え、卑弥呼と命名する
 「第二の盟約」―女王には婚姻の禁忌を課す
 「第三の盟約」―女王は邪馬台国以外の国から選抜する
 「第四の盟約」―王都を邪馬台国の大市に置く
 「第五の盟約」―毎年定時及び女王交替時に会同を開催する

 五箇条盟約は、架空なので「復原」は独善か、勘違いであり、現代人による個人的な創作である。その証拠に、非学術的な、普段着の現代語で書き飛ばされている。勿体ないことである。

                                未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』3/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*時代錯誤の連鎖
 一.「命名」は、当人の実の親にしか許されない。第三者が、勝手に実名を命名するのは、無法である。
    卑弥呼が実名でないというのは、詭弁である。皇帝に上書するのに、実名を隠すことは許されない。大罪である。
 二.女王の婚姻禁忌は、無意味である。女王候補者は、端から生涯不婚の訓育を受けることになると思う。
    当時の上流家庭は、早婚が当然であるから、そうなる。王族子女となれば、ますます、早婚である。
 三.『「邪馬台国」以外から選抜』と決め付けるのは無意味である。諸国が候補者を上げ総選挙するのであろうか。奇態である。
    となると、「邪馬台国」は、あったのか。持続しない王統では、魏に臣従が許されない。代替わりしたら、前王盟約は反古では、ダメということである。
    当然、各国候補は、厄介な親族のいない、といっても、身分、身元の確かな、つまり、しかるべき出自の未成年に限られる。誰が、身元審査するのだろうか。
 四.「王都」は、「交通の要路に存在する物資集散地」であり、交通路から隔離した僻地に置くのは奇態である。因みに、東夷に「王都」はない。
    氏は、倭人伝冒頭に「国邑」と明記した主旨がわかっていないのではないか。
 五.毎年定時(?時計はあったのか)会盟は無意味である。参上に半年かかろうというのに随行者を引き連れて連年参上は、国力消耗の悪政である。
    女王の生死は予定できないので、交代時、各国は不意打ちで候補者共々参上しなければならない。通常、即日践祚、後日葬礼である。
    ということは、突然の交替を避けるためには、定年を設けるのであろうか。前女王は、どう処分するのだろうか。
    王墓が壮大であれば、突然造成するわけにはいかないから、長期計画で「寿陵」とすることになる。
    回り持ちの女王、回り持ちの女王国で、墓陵はどうするのだろうか。

*不朽の自縄自縛~「共立」錯視
 総じて、氏の所見は、先人の「共立」誤解に、無批判に追従した自縄自縛と思われる。
 「共立」は、古来、精々三頭鼎立で成立していたのである。総選挙など、一笑に付すべきである。陳寿は、倭人を称揚しているので、前座の東夷蛮人と同列とは、不熟者の勘違いである。先例としては、周の暴君厲王放逐後の「共和」による事態収拾の「事例」、成り行きを見るべきである。

 「史記」と「竹書紀年」などに描かれているのは、厲王継嗣の擁立に備えた二公による共同摂政(史記)、あるいは共伯摂政(竹書紀年)である。関東諸公を召集してなどいない。陳寿は、栄えある「共和」記事を念頭に、「共立」と称したのが自然な成り行きではないか。東夷伝用例を拾って棄却するより、有意義な事例を、捜索すべきではないか。

*会盟遺物の幻影
 「会盟」は、各国への文書術浸透が前提であり、「盟約」は、締盟の証しとして、金文に刻されて配布され、原本は、各國王が刻銘してから埋設したと見るものである。となると、纏向に限らず各国で出土しそうなものであるが、「いずれ出るに決まっている」で済んでいるのだろうか。毎年開催なら、会盟録も都度埋設されたはずで、何十と地下に眠っているとは大胆な提言である。

 歴年会盟なら「キャンプ」などと、人によって解釈のバラつく、もともと曖昧なカタカナ語に逃げず、幕舎とでも言ってもらいたいものである。数十国、数百名の幕舎は、盛大な遺跡としていずれ発掘されるのだろうか。もちろん、諸国は、「纏向屋敷」に国人を常駐させ不時の参上に備えるのである。各国王は、継嗣を人質として「纏向屋敷」に常駐させざるを得ないだろう。古来、会盟服従の証しとして常識である。

*金印捜索の後継候補
 かくの如く、「会盟」説を堂々と宣言したので、当分、省庁予算は確保したのだろうか。何しろ、「出るまで掘り続けろ」との遺訓(おしえ)である。お馴染みの「まだ全域のごく一部しか発掘していない」との獅子吼が聞こえる。

*「会盟」考察
 氏に従うと、「会盟」主催者は、古典書を熟読して各国君主を訓育教導し、羊飼いが羊を草原から呼び集めるように「会盟」に参集させ、主従関係を確立していたことになる。つまり、各国君主も、古典書に精通し、主催者を「天子」と見たことになる。かくの如き、壮大な「文化国家」は、持続可能だったのだろうか。

                              未完

新・私の本棚 前田 晴人 纒向学研究第7号『「大市」の首長会盟と…』4/4

『「大市」の首長会盟と女王卑弥呼の「共立」』 纒向学研究 第7号 2019年3月刊
私の見立て ★★☆☆☆  墜ちた達人         2022/01/15

*神功紀再考~場外余談による曲解例示
 俗に、書紀に、神功紀追記で遣魏使が示唆されるものの本文に書かれていない理由として、魏明帝への臣従を不名誉として割愛したとされる例があるように効くが、そのような言い訳は、妥当なものかどうか疑問である。素人門外漢の目には、書紀本文の編纂、上覧を歴た後に、こっそり追記したと見るのが順当のように思われる。

 景初使節は、新任郡太守の呼集によって、中原天子が公孫氏を討伐する(景初二年説)/した(景初三年説)という猛威を、自国に対する大いなる脅威と知って、急遽帯方郡に馳せ参じ、幸い連座を免れ、むしろ「国賓」として遇されたから、後日、国内には「変事に援軍を送る」同盟関係を確立したとでも、言い繕って報告すれば、別に屈辱でないのである。

 ここに敢えて取り上げた「割愛」説は、神功紀の現状の不具合を認識しつつ、実在しない原記事を想定する改訂談義の例であり、言わば、神功紀の新作を図ったので、当時の状況を見過ごしてこじつけているのである。当記事外の余談で、前田氏にはご迷惑だろうが、世間で見かける纏向手前味噌である。
 因みに、書紀には、推古紀の隋使裴世清来訪記事で、隋書記事と要点の記述が異なる「創作」記事を填め込んだ前例(?)があるので、書かれているままに信じるわけにはいかないのである。いや、これは、余談の二段重ねで。前田氏をご不快にしたとしたら、申し訳ない。

 繰り返すが、(中国)史書は、史書用語を弁えた「読者」を対象に書かれているから、「読者」に当然、自明の事項は書かれていない。「読者」の知識、教養を欠くものは、限られた知識、教養で、史書を解してはならない。

*閑話休題~会盟談義
 卑弥呼擁立の際に、広大な地域に宣して「会盟」召集を徹底した由来は不確かである。後漢後期は「絶」、不通状態であり、景初遣使が言わば初見なので、まずは、以前に古典書を賜ったという記事はない。遣使のお土産としても、四書五経と史記、漢書全巻となると、それこそ、トラック荷台一杯の分量であるから、詔書に特筆されないわけはない。
 折角、国宝ものの贈呈書でも、未開の地で古典書籍の読解者を養成するとなると、然るべき教育者が必要である。「周知徹底」には、まず知らしめ、徹底、同意、服従を得る段取りが欠かせないのである。とても、女王共立の会盟には、間に合わない。

 後年、唐代には、倭に仏教が普及し、練達の漢文を書く留学僧が現れたが、遥か以前では、言葉の通じない蕃夷を留学生として送り込まれても何も教えられない。と言うことで、三世紀前半までに大規模な「文化」導入の記録は存在しない。樹森の如き国家制度を持ち込んでも、土壌がなければ、異郷で枯れ果てるだけである。

*未開の証し
 因みに、帝詔では、「親魏倭王」の印綬下賜と共に、百枚の銅鏡を下賜し、天朝の信任の証しとして、各地に伝授せよとあり、金文や有印文書で通達せよと言っているのではない。倭に文字がないことを知っていたからである。
 蛮夷の開化を証する手段としては、重訳でなく通詞による会話が前提であり、次いで、教養の証しとして四書五経の暗唱が上げられている。この試練に耐えれば、もはや蕃夷でなく、中国文化の一員となるのである。
 と言うことで、倭人伝は、倭に会盟の素地がなかったと明記している。「遣使に遥か先立つ女王擁立の会盟」は、数世紀の時代錯誤と見られる。

 もちろん、以上の判断は、氏の論考には、地区の文物出土などの裏付けがあったとは想定していないので、公知の所見を見過ごしたらご容赦頂きたい。

〇まとめ
 全体として、氏の倭人伝膨満解釈は、氏の職責上避けられない「拡大解釈」と承知しているが、根拠薄弱の一説を(常識を越えて)ごり押しするのは、「随分損してますよ」と言わざるを得ない。

 これまで、纏向説の念入りな背景説明は、見かけなかったが、このように餡のつまった画餅も、依然として、口に運ぶことはできないのである。
 諸兄の武運長久とご自愛を祈るのみである。 頓首。

                                以上

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 1/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇はじめに
 ここでは、故古田武彦氏の残した業績の一端について、断片的となるが、個人的な感慨を記したい。

〇『「邪馬台国」』はなかった』
 『「邪馬台国」』はなかった』は、「古田武彦古代史コレクション」の緒巻として、2010年にミネルヴァ書房から復刊されたので、容易に入手可能な書籍(「参照書」)として参照することにする。

 ここで展開されている「臺」と言う文字に関する議論で、「思想史的な批判」は、比較的採り上げられることが少ないと思われるので少し掘り下げてみる。

 「思想史的な批判」は、参照書55ページから書き出されている「倭国と魏との間」と小見出しされた部分に説かれている。

 この部分の主張を要約すると、次のような論理を辿っているものと思われる。

    1. 倭人伝記事の対象となっている魏朝、および、その直後に陳寿が三国志を編纂した西晋朝において、「臺」と言う文字は、天子の宮殿を指す特別な文字であった
    2. 三国志において、三国それぞれに対して「書」が編纂されているが、正当とされるのは魏朝のみであり、そのため、「臺」の使用は、魏朝皇帝の宮殿に限定されている
    3. 倭国は、魏朝の地方機関である帯方郡に服属する存在である。
      魏朝がそのように位置づけている倭国の国名に、天子の宮殿を意味する「臺」の文字を使用することは、天子の権威を貶める大罪であり、三国志においてあり得ない表記である。

 因みに、倭人伝の最後近くに「詣臺」(魏朝天子に謁見する)の記事があり、「臺」の文字の特別な意義を、倭人伝を読むものの意識に喚起している。つまり、三国志魏書の一部を成す倭人伝においても、「臺」の文字は、専ら天子の宮殿の意味に限定して用いるという使用規制の厳格なルールである。

 古田氏も念押ししているように、このような「臺」に関する厳格な管理は、比較的短命であり、晋朝の亡国南遷により、東晋が建国されて以後効力を失ったものと見られる。
 たまたま、手っ取り早く目に付いた資料と言うことで、かなり後代になるが、隋書俀国伝に、隋使裴世清の来訪を出迎えた人物として冠位小徳の「阿輩臺」なる人名が記録されている。
 隋書が編纂された唐朝時代には「臺」なる文字の使用規制は失われていた
のである。

 南朝劉宋の時代に後漢書を編纂した笵曄は、後漢書に「邪馬臺國」と書き記しているが、当時最高の教養人とは言え、陳寿のような純正の史官ではなかったので、語彙の中に時代限定の観念はなかったのである。

 と言うことで、以上のように辿ってみると、「古田史学」の水脈は支流といえども滔々として遮りがたいものである。

                                            未完

 

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 2/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

付記
 語気の鋭い主張ほど、例外に弱いものである。特に、一部の稚拙な反対論者は、細瑾を持って「致命的」と称する攻撃法を取っている。「一点でも誤謬があれば、学説全体が崩壊する」と決め付ける稚拙な手口であるが、つまり、口先の勢いしか、武器がないという「窮鼠」の最後の悪足掻きなので。相手にしないで良いのである。「例外のない法則は無い」というものである。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、天子の宮殿、ないしは、離宮の類いのみに「臺」の使用を規制したと思われるが、人名は正しきれなかったと思われる。
 例えば、著名な人物で「孫堅字文臺」とあるように、何人かの人名で「臺」が使われているのが見受けられる。

 このように、三国志を全文検索すると、魏の支配下になかった人物や魏朝の成立以前に「字」を付けた人物、言うなら、曹操の同時代人および曹操以前の人物の「字」を書き換えてはいないようである。ちなみに、孫堅伝は、あくまで「呉書」の記事である。 

 三国志本文に限っても、「陳宮字公臺」(魏書 張邈傳)、「王觀字偉臺」(魏書 王觀傳)、「孫靜字幼臺,堅季弟也」(呉書 孫靜傳)の用例が見られる。
 古田氏は、「臺」を「神聖至高の文字」とまで口を極めているが、これは言い過ぎであろう。「臺」の使用規制は、天子の実名を諱として避ける厳格さまでには至っていないのである。

 なお、呉書諸葛恪傳に「故遣中臺近官」の記述があり、呉書および蜀書においては、魏書におけるほど、厳格に「臺」の使用を規制していないものと思われる。

 当付記を書くについては、中国哲学書電子化計劃が公開している三国志テキストデータを全文検索させていただいたのだが、「臺」の用例として「邪馬臺國」はヒットしない

                                  未完

「古田史学」追想 遮りがたい水脈  1 「臺」について 増補再掲 3/3

                        2015/11/01 再追加 2022/01/12

〇「臺」論再考 再付記 2022/01/12
 当付記は、以上の論議が崩れそうになるので、静かに語ることにする。
 別に新発見でもないのだが、「春秋左氏伝」に、古田氏の「臺」至高論の対極「臺」卑称用例があるので、諸兄のご参考までにここに収録するのである。
 白川勝師の字書「字通」の「臺/台」ではなく、「儓」(ダイ)にひっそりと書かれている。白川師の字書について、世上、師の老齢を種に誹謗する向きがあって、呆れたりするのだが、ここでは、「春秋左氏伝」の引用であり、師は特に関与していないのである。

[字通] 儓  タイ、ダイ しもべ けらい …..〔左伝、昭七年]に「天に十日有り、人に十等有り」として、「王は公を臣とし、公は大夫を臣とし、大夫は士を臣とし、士は阜を臣とし、阜は輿僕を臣とし、輿僕は隷を臣とし、隷は僚を臣とし、僚は僕を臣とし、僕は臺を臣とす」とあって、臺は第十等、〔玉篇〕にこの文を引いて臺を儓に作る。奴僕の乏称として用いる。…..

 つまり、「臺」は、本来、つまり、周制では、王、公、大夫から大きく下った文字を知らない隸、僚、僕、「奴隷」、「奴僚」、「奴僕」と続く最下等のどん尻である。官位などであれば、最下位は官人であるから、官位外に下があるが、臺はその限りを越えている。
 後世、これでは蔑称の極みであり、「臺」の公文書使用に対して大変な差し障りがあるので、たまりかねて、人偏をつけて字を変えたと言うことのようである。

 陳寿にとって、春秋左氏伝の用語は、史官教養の基幹であり、明瞭に脳裏に記録されていたから、周礼の片鱗をうかがわせる東夷「倭人」王の居処を呼ぶについて「邪馬臺」と書くことはなかったように思うものである。逆に、蛮夷の王の居処を「都」(みやこ)と呼ぶこともなかったのである。史官に於いて、尊卑のけじめは峻烈だったということである。

 念のため言うと、南朝劉宋代に、先人の後漢書を美文化した、当時一流の文筆家であった笵曄は、史官としての訓練を歴ていないし、西晋崩壊によって、中原文化の価値観が地に落ちた時代を歴ているので、左氏伝の用語で縛られることはなかったと見るのである。いや、教養として知っていて、東夷列伝の「其大倭王居邪馬臺國」に、左伝由来の卑称をこめたのかも知れない。范曄については、まことに、真意を推定するだけの資料がないから、東夷「大倭王」を蔑視していなかったという確証はない。

 因みに、「臺」は、古典書以来の常識では、「ダイ」であり「タイ」ではない。俗に、「臺」は「台」で代用されたが、正史は、そのような非常識な文字遣いが許される世界ではない。
 百済は、馬韓時代から早々と漢土と交流していたから、当然、漢字を早々に採り入れたが、自国語との発音、文法の違いに苦労して、百済流漢字、つまり、無法な逸脱を色々発明したようである。それは、中国側が、中国文化の違反として厳しく是正したものであり、百済では、すべて禁止事項となったが、「無法な逸脱」は、ふりがな記号、国字、「臺」「台」代用も含めて、海峡を越えた世界に伝わったようである。

 以上は、「やまだい」と呼ぶしかない「邪馬臺国」が、「やまと」と読める「邪馬台国」に変貌したと言う無茶な変遷論と相容れないので、国内の古代史学界では言及されないように思えるのである。いや、古田氏すら、これには気づいていなかったと見えるから、「古田史学」は、「全知全能」「無謬」ではないのである。

 因みに、従来、三国志の中で、呉書、蜀書の用語を、魏書の用語と同等の重みを持ってみていたが、丁寧に見ていくと、陳寿は、魏書以外の用語については、それぞれの「書」の原文をとどめているように見えるので、項目によっては、論調によっては、論議の矛を収めることかあることを申し上げておくものである。

以上

2022年1月14日 (金)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ                          2022/01/13

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。
「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で隔離され、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サブライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力の研究機関の研究者の総意で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯を言っているのではない。単なる冗句である。「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

2022年1月13日 (木)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 1/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。
 著作権商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。

 かくして、本書の社会的生命は地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである

 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。個人的に快感があってもそれを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する。史学が「過去に起きた事実を後刻推定する科学」である以上、直接見聞する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかないことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。
 この記事は、燃えさかる山火事に、柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 改 2/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12 追記 2022/01/13

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは、意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られないのである。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。



*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、軽薄な現代人たる自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」  改 3/3

                勉誠出版 2019年1月刊
 *私の見立て ★☆☆☆☆ 無理解の錯誤が門前払い     2019/12/12

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。晋朝が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。

 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、魏史として、昂然と成立していた氏の主張なら、改めて、屋上屋の魏国志の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言うように、「呉書」は、呉の史官が、私的に、つまり、晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのか、このような支離滅裂な証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが、自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍扉が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者がその先を開くはずがない。著者は、何か独善の境地に自己陶酔しているのではないか。誰か、そこは温泉湯船でなく、たんぼのこいだめだと教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる査読者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。

 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、自身で、客除けの壁を念入りに設(しつら)えておいて、客が来ない、けしからんと憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、以下の内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。

 本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

2022年1月12日 (水)

今日の躓き石 誤解が渦巻く「アナウンサー」否定論 (毎日新聞夕刊コラム)

                       2022/01/12

 本日の題材は、毎日新聞大阪夕刊「放送」面の囲記事であるから、今回は、毎日新聞の姿勢を問うものではない。関係者は、安心して読み飛ばして欲しいものである。

 『「アナウンサー」もうやめない?』と題しているが、一読して感じるように「アナウンサー全体に対して引退を強要している」のではなく、「ナレーター近藤サトのテレビぎらい」とコラム自体に題しているから、筆者が個人的に敵意を感じている旧世界「テレビ」に対して、「言葉狩り」の手法を借りて悪態をついているのだが、それにしても、まことにできの悪い提案である。記事が書かれているのは、どう見ても「正しい」日本語を目指したものであり、真意が伝わらず誤解されるのは、単に、文体の区別が付かない、書き方が下手なというだけである。そうでなければ、筆者の真意が伝わらないから、「アナウンサー」に正しい日本語を確保して貰わなければ、今後とも自己主張ができないのに気づいていないようである。

 切り出しの「もともと正しい日本語はありません」は、筆者の無知を曝しているだけで、知識として、どんな日本語が話されたか知らないし、言葉は、時代、文化によって変わっていくという事を無視した独断なのである。すかさず、「卑弥呼の話した言葉」を持ち出しているが、卑弥呼の時代には、広く通じる「日本語」はなかった、いや、「日本」すらなかったから、読者に何ももたらさない虚辞である。
 少なくとも、「卑弥呼の話した言葉」が、一切記録されていない以上、簡単にも何も、現代人が、いかに現代技術を動員しても、理解もなにもできないのは間違いないのであるが、だからどうだというのだろうか。「切り出し」と書いたが、どうも「滑り出し」のようである。これが、筆者の意図を伝える最善の手口とは思えない。

 当然、当時として、正しい、誰でも誤解無く理解できる言葉を話そうとしたのは間違いないところであり、そのような良識なくして、何を読者に伝えたいのかわからない。乱れた日本語を、堂々と言うものだと呆れるだけである。

 と、大ぼけで滑り出したのに、「言葉は変遷するもの」と聞いた風なことをおっしゃって、読者がついてくると思ったのだろうか。「この人は、言葉が乱れているから、頭の中も乱れている」と思われるだけではないのだろうか。確かに、「美」は、言葉を感じ取った人の内部に発生する感情であるが、それは、言葉を発した人の内部にあった感情が、うまく伝わったものである。筆者の感じ方は、独善を推奨するだけであり、それこそ、長年アナウンサーが言葉の護り人として闘ってきたものである。
 筆者は、幾千万の先人が、長年に亘って形成、継承した資産を踏みにじって、何を、人の世にもたらそうというのだろうか。

 その後、筆者は、勝手な「アナウンサー」論、個人的な理想を振りかざすが、誤解乱発の書きぶりが祟って、またも、滑った感じである。

 筆者は、「アナウンサー」が、時代の変化に取り残された(亡ぼさるべき)化石と言いたいようだが、自身で、書き連ねているように、「アナウンサー」は 広大な分野を包含する言葉として、広い世間に理解されているのだから、ことさら、個人的な恨み辛み(があるとしかおもえない)で、勝手に制約を決め付けて全面的に否定することはないのではないだろうか。

 当ブログでは、しばしば、公共放送の報道アナウンサーが、適当な新語に飛びつくのに警鐘を鳴らしているが、それは、その役割、言葉の護り人としての至上の価値を再確認しているのであって、その他大勢の「アナウンサー」を叱責しようとしているのではない。自ら、「アナウンサー」でないと公言している筆者に対して、何も言いたいことはない。ただ、無知と認識不足を正しているだけである。ついでに、一般読者に、現状認識の謬りを指摘し、改悛を求めるにも、話を聞いて同意してもらえる語り口があるのではないか、「もっと勉強しなさい」と言いたいだけである。

 但し、いくら偉そうに言い立てても、別に何の権力も影響もないから、筆者が耳を貸さず、見識を改めなくても、何もない、ただの市井の人であり、筆者とは、一切無縁の衆生である。

 とどめのように、あいまいな言葉の呪縛と称しているが、あいまいな言葉には、呪文の効力などない。何か勘違いであろう。また、何か言葉狩りをして、「アナウンサー」を廃語にしても、背景となっている概念が生きている限り、根絶やしにはできないのである。自然界では、草を刈る人が亡んで土に帰っても、雑草は滅びないのである。

以上

 

2022年1月 7日 (金)

今日の躓き石 NHK 「時論公論」で唖然とする「リベンジ消費」蔓延活動

                           2022/01/07

 本日の題材は、NHKが、「時論公論」なる看板番組で堂々とぶち上げた「リベンジ消費」である。一日に二度お目にかかるとは、世も末である。しかも、今回は、口頭の言い飛ばしでなく、堂々と画面に書き出しているから、単なる舌が滑ったでは済まない。
 NHKには、番組の品位を審査する部門はないのだろうか。

 これは、NHKが堂々と「リベンジ消費」 の蔓延、普及に乗り出したと言う事であり、 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、NHKの手で広く普及されていくという事かと、歎くのである。

 このように、善良な消費者の意志を誹謗/愚弄/侮辱する暴言にNHKが、無批判に追従しただけでも、嘆かわしいと思ったのだが、こんな番組を目にするとは思わなかった。長生きはしたくないものである。

 一視聴者としては、どうか、NHKが、自身の使命に目覚めて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいと思うのである。よりによって、このような罰当たりな言葉を使わなくても、「時論公論」の報道番組としての使命は果たせると思うのである。どうか、どうか、目を覚まして欲しいものである。

以上

今日の躓き石 NHK ニュースほっと関西「リベンジ消費」の汚染拡散

                           2022/01/07

 本日の題材は、午後7時前のNHK ニュースほっと関西が、ぼろっと漏らした「リベンジ消費」である。

 とうに絶滅したはずの汚い言葉が、生き残っているのは、NHKとは思えない「放送事故」である。

 もちろん、このような極めつきの悪性語を駆使してまで、消費者を誹謗/侮辱する暴言を堂々と打ち出した某大手銀行系シンクタンクの広報担当が悪いのだが、NHKが、無批判に追従したために、一時は、蔓延するのではないか危惧したものである。
 たちまち姿を消したのは、NHKの統制力と感心したものであるが、当ブログには、悪い言葉が聞けなかったことを顕彰する体制がないので、ご勘弁いただきたいものである。

 どうか、NHKの面目にかけて、「悪性語」の蔓延防止、根絶に取り組んで欲しいものである。

 忙しいので、くどい説明は省略である。

以上

 

 

2022年1月 6日 (木)

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体に署名がないので、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、現代の西日本地図に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端のどん詰まりの纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、各勢力貢納物が纏向に集中したと言うようだが、九州からの貢納物は、吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見るものには、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる。但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら。どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)                2022/01/06

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて「2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。

 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を渡った東方については述べていない。(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。
 後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、漢書で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。

 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ難所を隘路にとどめて、海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。

 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、韓、倭の洛陽伺候を許さず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは勘違いである。つまり、冒頭の九州勢力退勢風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

2022年1月 4日 (火)

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 1/3 改2 国名論~倭人伝論

 卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
 私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇はじめに
 本書は、倭人伝語が七~八世紀の「万葉仮名」に反映されたとの作業仮説に関して、第二章、第三章の厖大な考察(専門的につき書評回避)を経て構築した「解読」の原則に従い、倭人伝解釈に挑んでいるものです。

 総じて、安本氏の諸著作で目障りだった好敵古田武彦氏に対する攻撃を抑制し、学術書の境地に到ったと見るのです。また、本書で追及している原則の性質上、多くの場合、断定表現を避けているのは賢明です。
 
〇第一章 邪馬壹国 幻の国名論
 探し求めたのは、『「邪馬壹国」なる国名に含まれる「ヤマイチ」或いは「ヤマイイ」の後半部の母音続きが、七~八世紀の古代日本語で厳重に避けられていて、自称国名たり得ないから、「邪馬壹国」はなかった』とする託宣ですが、遂に、本書の結論部には見つかりませんでした。

 最初に提示された大野晋氏見解は、「放言」と見える座談紹介の失言が誤解か、明らかな誤りを放置した粗相の事態ですから、安本氏が、自説の根拠にしたとは考えられません。真剣に取り組むなら、大野氏の論文等を発掘して、史料批判した上で利用したと見るからです。

 森博達氏見解は、一般紙記事断片で、佚文である御覧所引魏志引用と並べて「倭語の法則性に反する」と根拠不明の見解で断言していますから、森氏ほどの学究の徒の説としては、粗雑です。つまり、文献批判に耐えず、安本氏の論拠として、不適格なのです。
 ただし、それで終わると、事のついでに森氏の顔に泥を塗ったままになってしまうので、以下、論文に準ずる論考を引用します。

*森博達氏の考察
 森氏は、日本の古代 1「倭人の登場」 5「倭人伝」の地名と人名(中央公論社)において、本書の安本論考に先立つ着実な展開で、古代日本語と三世紀中古中国語の音韻関係を論じています。

 ただし、両語は、時代、地理が隔絶している上、事例は、多数の中の一例でなく、乏しい資料用例のほぼ全部であり、とにかく資料が乏しいことから、森氏は、断定的な見解を述べていません。当然のことと思います。

 また、制約として、「倭人伝語は中国中古語に忠実に基づいていない可能性があり、その場合は適用できない」と明記されていますが、安本氏の紹介にはありません。本書の参照引用は、かくのごとく不確かです。資料批判は、原典、特に出版された論考に対して行うべきものです。

*安本氏の見解
 安本氏は、森氏の論議を踏まえて、『「邪馬壹(壱)国と表記されていたとしても、必ずしも、母音が二つつながっている原音をうつしたことにはならない」と言う考え方もできそうである』と、言葉を選んだ上で限定付きで明言しています。森氏が、「自然」などと、根拠不明の非学術的情緒表現としているのと好対照です。

 ただし、同業者論文引用の際の儀礼ですから、森氏の論考の行き届かない点をあげつらうことはできないのです。この点、同業者ならぬ素人である当ブログ筆者が、時として、諸兄の書斎に土足で踏み込むような乱暴、無礼をしてのけるのとは、大違いです。

 なお、以下では、学術的な見識として、両氏の「厳重に避けられていた」なる断言が、絶対のものではないとする用例を述べています。

〇第四章 浮かびあがる「邪馬台国」
 章冒頭で『「大和」をなぜ「やまと」と読むか』の小見出しでそそくさと駆け抜けますが、素人目にも引っかかる所が多いのです。
 「やまと」が、はじめ「倭」だった根拠は示されないし、そもそも「はじめ」とは、いつのことなのか曖昧です。

*根拠なき誹謗
 また、「倭」が、「背が曲がった丈の低い小人」と解するのは、白川静氏に代表される漢字学上に根拠が見当たらず、また、安本氏による見解も示されず、根拠薄弱に見えます。 あるいは、藤堂明保史編の「漢字源」などの辞書によるものかとも思われますが、所詮、風評に近い不確かなものであり、国号を改変する動機にはならないと推察します。

 さらに、「倭」を「やまと」と読む伝統と共に「倭」は「邪馬台」との伝統もあったろうと付記しますが、そのような「伝統」が実在していたという根拠は示されていません。「伝統」とは、本来、血統が継続維持されるという意味であり、一国の国号は、正当に継承されずに時の風評で変遷するものではないのです。

 復習になりますが、三世紀にそのような発音があったとする文字資料は、一切ないのです。ない資料が、7~8世紀まで伝承されたとする資料も、また存在しないと見るしかないのです。

 安本氏は、そのような限界を承知しているので、ここでは、単に、一つの意見を述べているものと見られます。

*お門違いの枕詞
 また、「枕詞」説ですが、「倭」「やまと」では逆縁で語調も合いません。
安本氏にしては、論理の筋も口調も整わない不思議な乱調です。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 2/3 改2 倭人伝論

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

〇第五章 地名と人口から見た倭人の国々
 本章では、倭人語解読を踏まえて、倭人伝道里記事による戸数推定などが始まります。

 安本氏は、邪馬臺国は、小国連合の「大国」であって七万戸を有したと解釈していて、世に蔓延る百花斉放の新説提唱者と同様に、一説である先入観を、読者に押しつけていると見えます。
 また、行程道里も、背景不明の概数を、一律に多桁計算処理する時代錯誤をたどっていて痛々しいものがあります。

*原点からの再出発の提案
 倭人伝を、倭人語解読により正解するのなら、この際、倭人伝解釈の旧弊を深い穴に打ち棄てて、一から虚心に読みなおすべきではないでしょうか。
 纏向派などの俗説派の諸兄は、多年の学究で壮大な理論体系を構築し、起点部分から考え直すことはできないでしょうが、安本氏も、いたずらに旧説に固執するのでしょうか。
 いえ、無礼にも、素人考えで質問しているだけです。定めしご不快でしょうが、素人論者は、率直を旨としているので、そうなるのです。

〇第七章 新釈「倭人伝」
 本章の諸見解は、安本氏の絶大な知識、学識を背景とした倭人伝新釈であり、これを偉として、大いに傾聴すべきであると思います。

*長大論
 「長大」論では、奈良時代文書の用例を主たる根拠として、俗説となっている老齢説を一蹴しているのは、痛快であり、大いに賛成です。
 俗説遵守の諸兄は、卑弥呼が老婆に決まっているとの牢固たる先入観に支配されて、柔軟、適確な用例評価ができないのです。当方は、無用の先入観を有しない安本氏が、頑迷な俗説を打破したことに、この上なく感謝しているのです。

 僭越ながら、当ブログ筆者は、中国史書の用例を参照して、同様の結論が導き出せるものと信じて、かねて、成果を発表しているものです。ここで種明かしされている結論は、新入生の如く先入見のない眼で中国史料用例を斟酌すれば、むしろ難なく到達できる「正解」と思うのです。

 勝手ながら、私見では、氏は、別の山路を登坂して、同一のいただきに至ったのであり、いただきの正しさを二重に確証している、大変ありがたい論説なのです。逆に、世にはびこる感染症である長大老齢説は、一体、何を根拠としているのでしょうか。不思議です。

 因みに、「長大」呉書用例から三十代男性の形容との考察は古田武彦氏の提言です。
 私見では、古田氏に、安本氏の慎重さがあれば、「長大」論で、魏書ならぬ呉書に依拠する愚は避けられたはずです。

*都督論
 「都督」論で、安本氏は中国側用例を軽視して好ましくないと思うのです。「都督」は、歴代中国王朝で、古来しばしば起用された地方官名であり、倭人伝も、古典用例を踏まえているとみられるのであり、奈良時代国内文書も、本来、中国用例から発しているはずですから、前後関係を度外視した起用は好ましくないと思われます。
 ただし、「都」を、平城京などの「みやこ」の意味に固定したために、以後の「都」の解釈は、中国とずれて行くように思います。
 また、「都督」に表れている「すべて」の意味が、それによって、国内文書から姿を消したように見受けます。
 中国史料の読解に、大いに影響している国内「用語」の変遷です。

*大夫論
 中腰書を参照すると、「大夫」は、周制の最高官でしたが、秦で、爵位の最低位から数えた第五位の「低位」、塵芥のごとき一般人階層となり、錦衣が雑巾の感じです。秦が、周制高官を意識的に雑巾扱いしたように見えます。
 因みに、漢は秦の爵位を継承しましたが、新朝の皇帝として君臨した王莽は、周制を復活させ、「大夫」を周制同様の至高の官位としましたが、束の間の晋が滅び、漢を回復した光武帝劉秀は、漢の官制を復興したので、「大夫」の高揚は、束の間だったのです。

 案ずるに、諸兄は、中国では「大夫」は地に墜ちたが、倭人は、古(いにしえ)の周制を踏まえて、その高官としているように見えるという史官陳寿、魚豢の示した機微を見損ねています。

 安本氏の「大夫論」「は、奈良時代文書の同様の誤解の影響でしょう。してみると、安本氏は、ここでは安直な「俗説」に追従して、随分不用意です。

*劈頭句から始まる別の道
 「倭人在帯方東南大海中依山島依国邑」は、倭人伝劈頭句ですが、この句は、史官たる陳寿が、想定読者である皇帝等の教養人に対して提言するものであり、厳格に史書としての行文、用語に従ったと見るものです。

 安本氏は、七~八世紀の奈良時代文書から古代人の解釈を察することを、「勉強」と勧めますが、こと「倭人伝」解釈では、少なからぬ傍路、道草と思量します。いや、念のため付け足すと、勉強は、道草から思わぬ収穫を得るものです。時には、道草をついぱんで、ツメクサの滋味を知ることもあるのです。

 口幅ったいようですが、古代史書の解釈には、文書著作者の「辞書」を想到する努力を、もっと大事にしてほしいものです。

                                未完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読 3/3 改2 倭人伝論 世界観談義

卑弥呼が使った言葉を推理する 勉誠出版 2003(平成一五)年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的  2020/01/21 補充再公開 2020/06/30, 2022/01/04

*大海談義 隔世の世界観~余談
 以下、安本氏初め先学諸兄には、常識のことばかりでしょうが、当ブログの読者には未知の領域の方もあると思うので、ご容赦ください。

 隔世の世界観というのは、三世紀の中原人、倭人、後世奈良人は、それぞれの世界、天下を持ち、従って、それぞれの「世界」の認識は大きく異なるから、同じ文字、同じ言葉で書いた史料も、そこに表現された意義は、それぞれで随分異なるということなのです。

 それに気づかず、その記事の著者の深意を推定する当然の努力を怠り、現代日本人のそれも「無学な」素人の「常識」で字面だけを判読したのでは、「誤解」も避けられないでしょう。もっとも、「誤解」は、自分自身が気づかないと是正されないのですが。「付ける薬がない」のですが。

 例えば、同時代の夷蕃伝「魏略西戎伝」で、西域万里の「大海」はカスビ海であり、総じて,当時の中原人にとって、「大海」は、英語でPond, Lake、つまり「内陸水面」、但し、塩水湖とわかります。三世紀時点の中国の世界観は、そうなっていたのですが、この点の論議は、先人の説くところなので省略します。

 いや、現代の英米人は、両国間の大洋Atlantisを、しばしば、Pond、水たまりと呼ぶのです(もちろん冗談半分でしょうが)。「古池」をジェット機で飛び越す感覚なのでしょう。それ以前、英語では、伝統的にブリテン島の周囲の海をSeaと呼ぶものの、米語では、東部人は、目前の海を、まずはOceanと呼んだのです。後に、西海岸の向こうの大洋を知ってAtlantis, Pacificと呼び分けたのです。認識の水平線は、時代で変わっているのです。

 ざっと走り読みしただけでも、土地と時代で、世界観が大きく異なり、それに従って「海」の意義が大きく異なるのです。

*認識の限界 地平線/水平線効果~余談
 もちろん、倭人伝の「海」、「大海」の認識は不明ですが、例えば、帯方人や倭人が南方の太平洋、南シナ海を認識していた証拠はないと思われます。認識の「地平」が異なるのです。

 例えば、倭人伝の「大海」は、当時の中原人世界観に従うと、韓国の南を大河の如く滔々と流れているのであって、これまた大河のように中州(山島、洲島)があって、対海国、一大国、そして、末羅国が、それぞれの中州の上にある諸国を、渡し舟で伝っていくという感じなのです。

 従郡至倭、つまり、郡から「倭人」、つまり、倭人王の治所、居城まで、普通里で萬二千里であるとの解釈が出回っていますが、東夷が、それほど広大な世界観を持っていた証拠は、何所にも無いのです。後世人が色々推定して、勝手に言い立てるだけで、資料には、何も何も書いていないのです。繰り返しばかりですが、世界観、地理認識が異なれば、言葉の意味は異なるのです。

 七~八世紀以前の奈良人が、内海から隔絶した、地平線/水平線のない奈良盆地で、見たこととも聞いたこともない「大海」をどう認識していたか、知ることはできません。「まほろば」は、住民の先祖が流亡の果てに安着した桃源郷、陸封安住の境地と見えるからです。
 隋帝を海西の天子と呼んだ俀国天子は、半島経由で黄海を軽々と渉る行程を知らず、漠然と、両者を隔てる「海」を言い立てたのかも知れませんが、隋帝にとって、海西とは、西域の果ての大海「裏海」の西岸であり、つまり、途方もない辺境を指定されたと感じたのでしょう。

 いや、時代人の本心は、当人に訊かねば分かりません。「グローバル」な視野に囚われた後世人が、倭人の世界観に同化するには、精緻広範な地球儀(グローブ Globe)を棄て、同じ「井戸」に入ることです。まずは、「ローカル」が、万事の基礎です。

 古代奈良平野は、立派な湖水を有していたそうですから、『対岸は見通せても、そこは「海」』と見立てた海洋観が存在した「かも知れない」。そうした時代地理環境も影響するのです。

*魚豢の慨嘆~余談
 倭人伝最後に付注された魏略西戎伝には「議」が記され、魚豢は、自分を含め万人は自身の井戸の時空に囚われた「蛙」との趣旨で、洛陽世界に囚われている自身を慨嘆しています。西域万里を実見できず、前世の他人の見聞録に頼るもどかしさを感じたのでしょう。

〇総評

 誤解を避けるために付言しますが、安本氏は、古代史学界にまれな資料読解力と理数系合理的世界観の持ち主であり、本書は、氏の最善の論考と思います。その一端として、本書の随所で安本氏の優れた大局観が確認できます。

 なお、当ブログの手口として、しばしば安本氏の著書書評から脱線して、持論の手前味噌に迷走していますが、具体的に根拠を示して反論していない議論は、書評外です。諸兄の関心を引くための手口であり、ご容赦ください。

 当方は、安本氏の論に、時に軽率な決めつけが散見されると指摘しますが、それは難詰ではありません。
 広範な考察範囲を述べていけば、誰でも間違いはあるのです。大事なのは、基本的な論考姿勢です。

*参考文献の偏り
 安本氏の限界とも思いますが、当分野における古田氏の意見について、ほぼ印象批評、人格批判しか公開されていないのは、氏ほどの学究にしては、大変偏ったものと言わざるを得ません。

 また、白川静氏は、漢字学の碩学ですが、万葉集に深い見識を示されているので、是非、氏の遺した著書、辞書を、安本氏の参考文献に取り入れていただきたいものです。白川氏は、七十代半ばで教職を辞し、以後二十年掛けて、三大辞典と多数の漢字学書を公刊し、その中には、潤沢な教養を生かした、万葉論もあるのです。

                                完

新・私の本棚 安本 美典 「倭人語」の解読  補足編 改

 「卑弥呼が使った言葉を推理する」勉誠出版 2003年刊
私の見立て ★★★★☆ 絶妙の好著、但し、極めて専門的 2020/07/01 補足 2022/01/04

◯はじめに
 本書書評としては、既に三回連載形式の記事公開の上で、随時補充していますが、検証不十分と判断されたのか賛同が聞こえないので、少し丁寧に掘り下げて追い打ちするものです。自己記事を自由に引用できるのに、補充した際に文意から繋ぎ損ねていたら、ご愛敬としてください。

◯三世紀の日本語考
 安本氏は、単行本33ページの「三世紀の日本語の特徴」条に言語学論考を並べていますが、無解説に近いので、素人は、自力で踏み石を配置して理解の助けとするしかありません。

*森博達氏 上代八世紀日本語の音韻法則
 森氏は、引用出所の単行本30ページに及ぶ学術的論考の労作を見ても、八世紀奈良時代の豊富な日本語文書資料から得た知見を根拠に、「上代日本語」は、四世紀余前世の筑紫地域語らしい「倭人語」と共通の音韻法則を有すると主張するものの、有効な推定と断定しているものではないのです。

 また、語中の母音連続禁則も、「決して」と断定せず、「原則として」と限定しています。当禁則には、既知の例外があるのでしょう。

 素人考えでは、括弧内に例示されたように「青し」(awoshi)が禁則でないなら、「邪馬壹」も、yamawi(邪馬委)のように、w音が間に入れば、禁則除外となると見て良いかと愚考されます。ただし、手元の森氏単行本では、例示出典は不明です。文庫本で補充されたのでしょうか。

*長田博樹氏 倒錯した方言観
 長田氏は、「倭人語」音韻は、「上代日本語」のそれと明らかに異なるとしますが、「筑紫方言」は本末転倒でしょう。馬関係かが逆転していて、「上代日本語」は「倭人語」の、後世奈良方言かとも思われます。いかがでしょうか。

*大野晋氏 場違いな勘違い放言
 大野氏対談で、鈴木武樹氏が、丁寧に古田氏の馬委(yamawi)説を紹介したのに対して、粗忽に「上代日本語で成り立たない」と言うものの、何がどう成り立たないのか、全くもって根拠不明で引用が打ち切られていて、これでは、単なる「ジャンク」情報と見えます。
 このようなお粗末な発言が、なぜ延々と掲示されているのか、安本氏の意図が不明です。

*安本氏の訂正と総括
 追いかけて、安本氏から、「倭人語」は、奈良時代の「上代日本語」ではないとの訂正があり、大野氏のうろ覚えの断言を是正した後、「倭人語」にも、母音が重なるのを避ける傾向があると、森、長田両氏の論考を承継しています。大野氏の暴言は、どう補正しても、両氏の精緻な論考と席を連ねられるものではないと愚考します。

 安本氏は、慎重に言語学権威の発言を引用しつつ、賢明にも加減、毒消しして総括し、そのような傾向が認められるとしても断言できないとの口調です。誠に、妥当な対応です。

*「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か(単行本181ページ)~未解決の課題
 氏は、第4章で、以上の論議を回顧し、「馬壹がyamaiと発音されていたと限らない」可能性も考慮した上で、「言語学的に、邪馬壹国が、倭人語発音上で許容されたかどうかは、判じがたい」としています。

 続いて、地名論などの多角的視点から、両国名のいずれが妥当であるか論議を加え、当然「邪馬台国」有利の方向に重きを置いて論じても、両論には、「それぞれ異なった視点から根拠あり」としています。むしろ、一時の「邪馬壹国排斥論」でなくなっているように見えます。

 勿論、本書は、国名論の最終回答として物されたのではないので、この際、断定しなければならないということは無いのです。

 当ブログ筆者は、安本氏のかかる慎重な筆法は、学術的に極めて公正かつ妥当なものと見るのです。

 これ程周到に進めた議論の結論を、断定的結論を示したと解されると、安本氏も、大いに困惑するでしょう。

 本記事の愚見に関して、安本氏に問い質すつもりはありませんが、もし、とんでもない勘違いを書いているとしたら、しかるべき筋からご指摘があるでしょうから、お待ちしています。

◯まとめ
 本書は、全体として、誠に堅実な論考の宝庫であり、安本氏の明晰な論理の冴えを示すものです。

 ただし、本書が対象読者としていない古代語学初級者が早合点するのが完全に防止されていないのは、やや残念です。ただし、それは、本書の学術書としての意義をいささかも損なうものではないのです。

                                 完

新・私の本棚 西村 敏昭 季刊「邪馬台国」第141号 「私の邪馬台国論」

  梓書院 2021年12月刊               2022/01/04
私の見立て ★★☆☆☆ 不用意な先行論依存、不確かな算術

〇はじめに
 当「随想」コーナーは、広く読者の意見発表の場と想定されていると思うので、多少とも丁寧に批判させていただくことにしました。
 つまり、「随想」としての展開が論理的でないとか、引用している意見の出典が書かれていないとか、言わないわけには行かないので、書き連ねましたが、本来、論文審査は、編集部の職責と思います。

▢「邪馬壹国」のこと
 「邪馬台国」誌では「邪馬壹国」は誤字であることに、触れるべきでしょう。無礼です。
 大きな難点は、「邪馬タイ国」と発音する思い込みで、これには堅固な証拠が必要です。半世紀に亘る論争に一石を投じるのは、投げやりにできないのです。

 因みに、言葉に窮して「今日のEU」を引き合いにしていますが、読者がついていけません。2022年1月1日現在、イングランド中心の「BRITAIN」離脱とは言え、北アイルランドの動向が不明とか、ウクライナの加入などが、重大懸案ですから、三世紀の古代事情の連漕先としては、まことに不似合いでしょう。もっと、レジェンド化して、とうに博物館入りした相手を連想させてほしいものです。

*飛ばし読みする段落
 以下、「邪馬壹国」の国の形について議論していますが、倭人伝に書かれた邪馬壹国の時代考証は、まずは倭人伝(だけ)によって行うべきです。
 史料批判が不完全と見える雑史料を、出典と過去の議論を明記しないで取り込んでは、全て氏の意見と見なされます。盗作疑惑です。

▢里程論~水行疑惑
 いよいよ、当ブログの守備範囲の議論ですが、氏の解釈には、同意しがたい難点があって、批判に耐えないものになっています。
 氏の解釈では、帯方郡を出てから末羅国までは、一貫して「水行」ですが、里程の最後に書かれている「都(すべて)水行十日、陸行三十日(一月)」から、この間を全十日行程と見ているのは無残な勘違いです。当時の交通手段で、この区間を十日で移動するのは、(絶対)不可能の極みです。今日なら、半島縦断高速道路、ないしは、鉄道中央線と韓日/日韓フェリーで届くかも知れませんが。

▢合わない計算
 狗邪韓国から末羅国まで、三度の渡海は、それぞれ一日がかりなのは明らかなので、最低3日、多分6~10日を費やすはずです。これで、日数はほとんど残っていませんが、そもそも、600㌔㍍から800㌔㍍と思われる行程は、7日どころか、20日かかっても不思議はない難業です。(潮まかせ、風まかせで不安定な船便では、所要日数は、青天井ですが)
 この程度は、暗算でも確認できるので、なぜ、ここに載っているのか不審です。

▢古田流数合わせの盗用
 氏は、万二千里という全行程を、12,000里と勝手に読み替えて、全桁数合わせしますが、そのために、対海国、一大国を正方形と見立てて半周航行する古田説を、誤謬を丸ごと(自身の新発想として)剽窃しています。

〇まとめ
 氏が、自力で推敲する力が無いなら、誰か物知りに読んで貰うべきです、 「訊くは一時の恥…….」です。 
 それにしても、高名であろうとなかろうと、誰かの意見を無批判で呑み込むのは危険そのものです。ちゃんと、毒味/味見してから食いつくべきです。
 以上、氏の意図は、丁寧かつ率直な批判を受けることだと思うので、このような記事になりました。頓首

                                以上

2021年12月29日 (水)

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 1/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

〇はじめに
 掲題の古賀氏ブログ記事は、連載の態をとっているものの単一記事と見られるので、ここでは、一括して批判します。
 古賀氏は、古田史学会の重鎮として、新説提言に対する審査役を務めているものと見受けます。そして、審査の際の考証内容を公開しているので、論議の信頼を高めています。
 ここでは、題目が、当ブログで展開している「倭人伝道里行程記事」論議に関係しているので、以下の如く「丁寧」に批判するものです。

〇仮説不成立の提案
 ここでは、舊唐書「倭国伝」の「去京師一萬四千里」の「京師」を山東半島東莱に誘致する新説に批判を下しているものです。

 当ブログ筆者たる当方の見解では、新説の論者野田利郎氏は、史書解読の際の原則を踏み外しているのであり、その点を指摘して棄却すべきと考えます。つまり、「京師」は、周代の「王都」に該当する「厳密」な用語であり、これを持論に合わせて「誤解」することは論外です。要するに、「都」に「王都」限定の意義が失われたために、あらたに「京師」なる特別な用語を定義したものですから、そのように解すべきです。

 古田史学会では、「フィロロジー」をもって論ずれば、重大な権威があるのでしょうが、ここは、(中国)古代史書の用語解釈には、古来の語彙を適用すべきであるというのが、史学の当然、普遍の原理であり、論者は、この原則を克服する論証を歴て、新説を提示すべきでしょう。

 古賀氏が、陳寿が想定していた三国志上申に際して、当時の中原読書人の語彙に反する用語を採用した場合、それだけで、全三国志が却下される危険があることを述べていますが、当方の年来の持論であり、茲に同意します。

*無意味な曲解擁護
 古賀氏は、新説の論理的な棄却を怠り、提案者の擁護を試みていますが、「友達を無くさない」配慮は感心しないので、憎まれ役を買って出ます。
 その際、「唐代二都制」なる「風説」を誤解して、「東都」洛陽を「京師」と解釈できるように取り扱っていますが、論外の曲解です。
 要するに、唐代「東都」は、後漢代の「東京」であり、京師東方の大都市](現代日本語を承知の上で使います)であり、「王都」(周代用語)の権威を有しないのです。「都」のように時代ごとの変遷が激しい言葉については、時代に応じた厳正な語義解釈が望まれます。もちろん、「都」を「すべて」と読む原義は、不朽、普遍なので、第一に尊重しなければなりません。

*点と線
 古賀氏は、「高麗」への道里について概論していますが、あくまで、「高麗」は、高麗王の居城であり、国境を意味するものではありません。同様に、卞州、徐州も、州の境界でなく、[州都](現代日本語です)を言うのです。
 言うならば、厳密に「点」として定義されているものに対して、根拠不明の国境線を持ち出すのは、論理の混濁を招いているものと考えます。
 以上、「古田史学」の名にかけて、厳正な論文審査をお願いしたいものです。
 以下、もっともですが、同意しがたい難点を述べます。

                                未完

新・私の本棚番外「古賀達也の洛中洛外日記」第2642~8話 2/2

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」⑴~⑺ 2020/12/21~
 私の見立て★★★★☆ 堅実な考証の貴重な公開   2021/12/29

*里数論の不毛
 新唐書までの史書の道里記事を無造作に一括考証されていますが、「正史」の特別な地位を見逃しているように思います。三国志以来、後漢書、晋書等の道里記事は、それぞれ、何れかの帝国の権威を持って承認、公開されているので、後世史書は、これを無視することも、改訂することもできないのです。つまり、それぞれの記事は、それぞれの時点の編者の認識を示しているのであり、言うならば、「データ校正」されていないのです。従って、これらの里数をもとに、それぞれの一里を㍍単位で計算することは、無意味です。

 史書の里数記事をもって、その時点の国家が制定していた里数値を「実地検証」するのは、無意味と理解いただきたいものです。

〇鶴亀論
 一つ、例え話でお耳汚しとします。
 古来、「鶴亀算」という、誠に古典的な「問題」であって、現代まで語り継がれている算数「問題」があり、鶴亀混在した一群の頭の数と足の数から、二足の鶴の数と四足の亀の数を得るという、現代風に言うと、連立方程式の解法による「正解」を要求されています。この「問題」は、既に「正解」と「解法」が公知なので、不正解でも、絶望しなくても大丈夫なのです。

 ただし、実世界で国家制度として、そのような数え方を運用することはあり得ないし、実務としてそのような計算をしていたとも思えません。単に、計算の技術向上を促す、例題なのです。

 いくら「頭の数」、「脚の数」と、学術的に括っても、「鶴亀」問題に、現実的な意義があるわけではありません。

 提案いただいている古典史書の里数記事論議は、鶴と亀が混在しているものを、強引に「鶴か亀か」決めるものであり、どちらが勝っても、史学に貢献しないものと愚考します。思考実験として参考とするだけで十分であり「鶴亀論」の追求は、感心しないと見えます。

〇新唐書地理志「入四夷之路」
 正史道里行程の考察に必要なので、当ブログで公開記事を抜粋再掲します。
 漢書以来の歴代正史にある四夷「公式」行程は、しばしば実行程と異なり、従って、「公式」道里は不正確でした。唐代玄宗皇帝時に実地検証の命が下り、東夷は朝鮮半島まで実地踏査されていますが、古典史書の公式記事は訂正されていないのです。当然、京師」からの行程、道筋は、秦漢代以来の「公式行程」と食い違っていると判明したのですが、訂正されていないのです。

 その結果、京師から「倭」への公式行程は、依然として、漢代以来の遼東、楽浪経由の陸上経路であり、山東「東莱」ならぬ登州経由の渡海は認知されなかったのです。新説は、さらに根拠の無いものとなります。

 玄宗期の東夷官路と里程ですが、登州から渡海上陸後、唐恩浦口(仁川 インチョン)から新羅王城慶州(キョンジュ)までの「東南陸行七百里」は、現代地図では五百公里(㌔㍍)と思われます。「海行」発進地登州府は、山東半島管轄の登州[州都]です。「海行」は、倭人伝「水行」同様、渡海であって、沿岸航行でないのは、断然明らかです。

 提案の東莱は、春秋時代の東の超大国「斉」以来の海港ですが、この時代、半島先端の登州が興隆し、東莱は退勢にあったと見えますが、詳しい事情は不明です。

                                以上

2021年12月28日 (火)

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』 1/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆乱調紹介文でぶち壊し   2021/12/28, 31

〇はじめに
 当書評は、課題の新潮選書の書評でなく、掲題サイトの紹介文に対するものです。(「デイリー新潮」編集部の署名記事。冒頭に、「新潮選書」編集部と署名)自社出版物の販促(販売促進 プロモーション)ですから、最善の努力で、本書の内容を紹介する記事を書いたものとして批判しています。
 著者は、『「古事記」研究の泰斗であり、また「出雲神話論」等の著書でも知られる』との紹介ですが、取り敢えず「日本書紀」不見識の自認でしょうか。目次の紹介を見ても、本書で中国史書の考証を試みた形跡はありません。爪を隠していたのでしょうか。

▢著作権問題
 案ずるに、当記事で紹介されている氏の所見は受け売りです。いや、何れか識者の意見に基づく提言であれば、出典が示されるはずですが、ここには注記がないので、記事全体が氏の新説となってしまいます。まことに大胆です。著作権「デイリー新潮編集部」とあるが真に受けて良いのでしょうか。
 もし、三浦氏が、他人の著作物を引用してその旨表記していないとしたら、「デイリー新潮」編集部は、第三者の著作物を、勝手に自身の著作物扱いしたことになります。是非、公式見解をお伺いしたいものです。

*「倭人伝」解釈について
 当記事は、主として、「倭人伝」道里行程記事に関して、一説を採用して、強引に拡張していますが、どんな資料をもとに議論しているのでしょうか。論ずる以上は、原文に触れるか、誰かの日本語訳の依存かとなります。
 どちらも書いていないという事は、「受け売り」となります。「倭人伝」原文に著作権は存在しませんが、近年の「日本語訳」なら、著作権が存在するはずです。まして、第三者の「倭人伝論」著作を丸写し、受け売りして、その出典に触れないというのは、もっての外です。

〇原典逸脱の罪~時代錯誤「新語」の罪
 ということで、ようやく本題に入ると、「倭人伝」に一切書かれていない「邪馬台国」を当然として進めている事に深刻な疑念がかけられます。確認すると、現存「倭人伝」では、全て一度限りの言及とは言え、「邪馬壹国」であり、「邪馬台国」は影も形もありません。そのような決め込みで本書を書くのは、まこと大胆な「創作」です。そのような「決め込み」を採用した際に依存著作があれば、その著者に責任を転嫁できるのですが、このままでは、氏が一身に原文詐称の罪を負うことになるのです。

 他にも、インチキ時代考証があって、「海の道」とか「海路」、果ては、「日本」、「ヤポネシア」など、三世紀当時に存在しない言葉が跋扈しています。というか、八世紀冒頭に成立した「日本」は別として、他の新語は、氏の造語なのか、誰かの遺言(いごん)なのか不明です。

*「助言」無批判追従の罪
 要は、氏は、「倭人伝」を正しく解釈するために不可欠な素養に根本的に欠けていて、誰か、「中国史に不自由な助言者」の不出来な提言を「受け売り」した為、このような悲惨な事態を招いたと見えます。勿体ないことです。

 氏ほど、権威を持っていると見える著者が、不確かな出典の「新説」を、無批判に担いで共倒れになっているのは、もったいない話ですが、そのような著作を買わされる一般読者には、大変迷惑な話です。いや、二千年近い古代史料に解釈について語っているから、百年前だろうが、二百年前だろうと「新説」なのです。

 選書の目次では「倭人伝」ネタは見えませんから、本書を購入して参考にするつもりはありませんが、堂々と掲示された当記事は、当ブログで解読を進めている信念と真っ向から衝突しますので、「倭人伝」解釈に於いて無謀な「新説」を唱えていると見て、全力批判するしかないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』  2/2

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て ★★☆☆☆ 乱調紹介文でぶち壊し      2021/12/28, 31

*「倭人伝」道里記事
 ようやく本来の批判に入りますが、氏の読みは、過去百年余り、誤読者の山を築いてきた「魏使進路説」「直進解読説」を頑固に踏襲し、読み解き失敗が当然です。勝手読みのこじつけも、最初は「創意」の産物というにしても、前例通りの踏襲では、いつまで経っても「誤読」症状は治癒しないのです。

 氏は、前例、つまり、相談相手の意見を踏襲するしかできないようですが、それでも、巧妙に投馬国里程を切り離して、最終目的地を何がかんでも畿内に持っていこうとするのです。課題先送り手法は、今後、はやりそうです。

 氏は、独自の「解」を踏まえて「日本海」論を持ち出しますが、仮に、魏使来訪行程と見ても、狗邪韓国まで安全、安心な内陸行程で到着した上で、数百㌔㌘級の荷物と百人級の人員を抱えているのであり、後は、「日常の交易船として手慣れた「渡海」の繰り返しで、難なく既知の「大海」を越えて、揺るぎない大地を踏まえられる末羅国に着くとわかっている」のに、厖大な重荷を背負って、何の情報も無い前途を思い、頼りない小船で、いつ着くとも知れない試練を経て、魔物の住む(と見える)「海」を越えて、帯方郡の官人すら聞いたこともない山陰海岸に向かう気が知れないのです。因みに、山陰海岸に上陸しても、重荷を抱えて中国山地を越えるとびきりの難路が控えています。

 そのような事態は、倭人伝に一切書かれていないのです。いや、氏は、「倭人伝」が読めないのだから、言っても仕方ないのかも知れません。
 「倭人伝」の「魏使」往路としたいとの頑迷な固執さえ棄てれば、つまり、小舟で少量の荷を運ぶというのであれば、できない船旅ではないのです。

*「魏の使者は日本海側を通った?」
 これは、纏向説の悪足掻きを助ける意図でこじつけられたのでしょうが、無駄な努力と見えます。
 倭人伝道里行程記事の正確な解釈では、伊都国以降とみえる投馬国行程は、参考に過ぎず、実行程は、伊都国で終結しているから、大した勘違いです。
 まあ、聞く人を間違ったのですが、道里行程記事の決算「水行十日、陸行一月」の誤解も、一向に正されず深刻です。百年河清を待つのでしょうか。
 因みに、氏はしきりに「対馬海流」の後押しを言うのでが、巻向に行くのに好都合としても帰途は逆行であり海流の恩恵は重荷に変わります。その程度のことに気づかないとは、説得がむつかしいのです。

*論争の鏡像~情緒的自損発言
 氏は、賢そうに、『「邪馬台国」は、ヤマトに決まっているから九州説論者は、「邪馬台国」誘致など考えずに、古代史論に戻りなさい』と教授いただいていますが、当方の言い分と基本的に同趣旨で感謝します。
 つまり、『「倭人伝」の正確な解釈から出発すると、卑弥呼の居処は九州北部を出ないので、「纏向論」者は、早々に悪足掻きを止めた方がいいよ』と言うものです。
 要は、論理の裏付けのない情緒的発言を繰り返しても、鏡に映った自画像を泣き落としに掛けているようなもので、鏡に映った相手から反射的な反応があって尽きることがないので、論争解決手段として役に立たないのです。

 もちろん、氏が、「とどめの一撃」のつもりで追加されている「邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないか」という空想譚は、氏の脳内で滔々と響(どよ)めいているものですが、他人の知るところではないので、受け取るものもなく、闇の奥に消えていくだけであり、何の効力もありません。

 以上、ここまであからさまに無法でなければ、面倒な書評などしませんが、Googleニュースで紹介される著名記事は、釘を刺さざるを得ないのです。

 「新潮選書」は、無責任な与太話など刊行しないので、不審に思うものです。
                                以上

2021年12月27日 (月)

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 1/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢「唐六典」談義
 従来、「唐六典」については、倭人伝に無関係とみて敬遠していましたが、今回記事を起こしたのは、当分野の真面目な論者が、この史料を的確に理解できずに振り回されて道を誤る例が多いと感じ、詳しく説明した方が良いと見たからです。

「唐六典」とは~Wikipediaによる (斜体は、当記事での追加)
 「唐六典」は、会典(かいてん)と呼ばれる政治書の一種で、(太古以来施行されてきた中国の)法令や典章を記録したものであり、「唐六典」は、最初の会典に当たり、唐代の中央と地方の制度の沿革を記録しています。玄宗の開元十年(722年)から編纂され、『周礼』の分類に従って、理典・教典・礼典・政典・刑典・事典の六部からなり、開元二十六年(738年)に三十巻が成立しました。

*規定確認
 「唐六典」の卷三・尚書戶部は、倭人伝時代(三世紀)から五世紀程後世であり、社会制度、経済事情、地域事情など、背景が大きく異なる唐律令の一環として諸貨物運送の一日の里数と運賃を規定しています。

*「普通里」ということ
 採用されているのは、当然、国家制度として、周代以来長年に亘って運用されている「普通里」(普[あまね]く通用する里)です。
 基本的に一里三百歩(ぶ)、一歩六尺であり、当ブログでは、概数として、切りのいい、一尺25㌢㍍、1歩150㌢㍍、即ち、1.5㍍、一里450㍍を想定していますが、あくまで、あくまで、「想定」であって、正確と言うものではありません。
 実務上、数百里に及ぶ測量は極めて困難(不可能)なので、今日の感覚では大雑把と思われます。また、基本の「尺」が変動しても里数は一定と見えます。土地台帳などに起用されていたので、更新しようがなかったからです。

*「水行」の意義
 ここで言う「水行」は、海岸を発する「渡海」を「倭人伝」に限定的に採用した「倭人伝」語法と異なり、古代・中世中国語の標準定義通り、「河川航行」であり翻訳に注意が必要です。当然、「倭人伝」に書かれている「道里」によって、全国制度が改定されたものではないのです。
 ここで規定されているのは、整備の進んだ大河の上り下り(溯/沿流)であり、「河」は河水、つまり、黄河、「江」は江水、つまり、長江(揚子江)です。「余水」は、それ以外の淮河などの「中小」河川でしょうが、日本の大半の河川の渓流めいた流れと異なり、水量はほぼ通年してタップリして一定で、喫水の深い川舟も航行できるのです。

*「水行」の前提
 大河には、諸処に川港があり、荷船は荷の積み下ろしをしながら、川を上下するのです。また、荒天時は、随時寄港して退避するのです。
 「水行」では、大手槽運業者の所有する大船が多数あり、地域ごとに水運業者の組合(幇 ぱん)が強力だったのです。かくして、日々の領域内の船舶の運行予定が十分徹底されていて、事故や紛争を防いでいたのです。
 そうして、川舟の一日の航行には、条件ごとに運送料が決まっていたのです。槽運業者は、船腹と船員を確保し、船荷の安全と日程を保証しましたが、船荷補償制度や遅延償金を請け負ったはずです。

*規定の起源
 「唐六典」の規定は、中原帝国の血流にあたるものであり、早ければ周代から運用されていた政府規定が、唐代に至りここに集約されたと見えます。少なくとも、王朝の変転を越えて、少なくとも、数世紀にわたって運用されていたはずです。
 五世紀遡った未開の倭領域のように、諸制度が不備で、運行に責任を持つ水運業者も適用法もない背景で、しかも、早瀬が多く増渇水の激しい「小川」の河川水運には、適用できないものと見られます。そもそも、倭の河川に水運なるものが成立していたとは思えませんから、運賃、里数の規定はなかったのです。韓国については、帯方郡管内では、南北漢江と嶺東の洛東江が候補ですが、水運が利用されていたとしても、郡として統御していたという文献は、見当たらないのです。

*「水行」規定は、「海運」と無関係
 この唐六典規定を、規定のない「海運」に当てはめるのは無謀です。数字には前提があり、無造作に流用すると大きな間違いを引き起こします。推定だけですが、安定した運行が可能な河川水運と、干満などにより、寄港地ごとに中断が予想される沿岸航行は、全く異質であり、まして、手漕ぎ船に頼らざるを得ないと見られる半島多島海では、水運業者は成立しがたかったと見えます。

*倭人伝「水行」記事の独自性
 「倭人伝」に書かれている狗邪韓~対海~一大~末羅の区間は、一千里と里数が明示されていて、三度の渡海は、乗り継ぎを含め予備日を設定して、十日と明記されているので、「水行」と書いても、唐六典に見られる河川水運の「水行」とは、別の独自の規定が通用していたことが明記されています。陳寿が、倭人伝道里行程記事策定にあたって、「唐六典」「水行」規定との関連を配慮していたことは確実であり、混同されないよう明記していたと思われます。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 2/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

*「唐六典」趣旨
 規定は、唐朝が、軍用物資や税庸の輸送に際して、遅延を防止し、運賃高騰を抑えるため、一日行程と貨物種別の運賃基準を公布したものです。
 ただし、このような大規模な統制は、中原大国の「物流」の骨格ですが、このような全国統制は、唐代に開始したものではなく、遅くとも漢代に確立され、以後、歴代王朝が維持してきた制度をここで総括したものです。また、漢代制度化の専売塩輸送も担当してきたでしょう。

 時代用語で言う「小舡」は、軽便小型帆船であり、時に、意味の通らない「ジャンク」とされますが、実際は、随分古くから、沿岸や川筋を帆走したでしょうが、ここに規定されているような大型川船が、ほぼひっきりなしにに往来するような大河の「水行」<による大量輸送には不向きで、里数、運賃の統制外となっていたと思われます。
 なお、川船の海船転用は、安全面の要素も関係して、困難(不可能)ですが、ここでは論議しません。

 ちなみに、これら大河の中下流には、遙か、遙か二十世紀に到る後世になっても、橋掛ができなかったので、南北「陸行」は、所定の渡し場、津(しん)で渡船に乗り渡河するのです。ただし、いくら大河でも、陸行日数や里程には計上しなかったものです。
 ちなみにの二乗ですが、近代的な大都市が、大河や入り江の両岸に分かれて展開していて、両岸の連絡が渡船に頼っていたというのは、現代になって自動車交通が普及しても、各地に残っていたのであり、例えば、オーストラリアのシドニーでは、長く渡船(フェリー)による連絡交通が残っていました。

*時代確認
 ここで復習すると、ここで、「唐六典」の規定と対比しているのは、三世紀、しかも、中原世界では無く、中華文明の域外である「外国」、魏志倭人伝の世界、つまり、朝鮮半島とその南方の九州北部の話であり、併せて、その間、海峡を三度の渡海船で越える破格の行程も含めています。
 と言う事で、倭人伝関係者からすると、書かれている里数や運賃の数字は、別世界のものであり、参考にならないのです。時代の違いだけなら、三世紀を推定することもできそうなのですが、地域事情が違うため、まるで参考にならないのです。この点、よくよく確認いただきたいものです。

 「唐六典」は、八世紀、奈良時代で、後期の遣唐使が荒れ狂う東シナ海を大型の帆船で越えて、寧波などの海港に乗り付けて上陸、入国し、官道を経て唐都長安に参上した時代ですから、まさしく隔世の感があります。

 何しろ、後期遣唐使は、目的地を外すのはざらであり、難破して着けなかった事も珍しくないのです。前期の遣唐使は、「新羅道」とされている内陸街道を移動した上で、最後は、古来渡船が活発に往来していた半島西岸から山東半島への渡海など、海上を行くのは極めて短期間で、したがって、荒天も避けられた行程だったので、随分、随分危険が少なかったのです。安全な「新羅道」を利用できなくなったのは、恐らく、百済支援で新羅を敵に回した事が、長年、切れそうで切れなかった両国の関係を、決定的に決裂させたのでしょうが、まことに、もったいない話です。

 それは、さておき、そんな風聞の聞こえる「唐六典」時代の「日本」の「水行」事情は、奈良時代の国内資料を見なければ、よくわからないのですが、倭人伝専攻の立場では、五世紀後の資料の考察は手に余るので、ご辞退したいのです。

▢唐六典 卷三·尚書戶部 中国哲学書電子化計劃データベース引用
29(前略)物之固者與地之遠者以供軍,謂支納邊軍及諸都督、都護府。
 皆料其遠近、時月、眾寡、好惡,而統其務焉。
 凡陸行之程: 馬日七十里,步及驢五十里,車三十里。
  水行之程:
   舟之重者,溯河日三十里,江四十里,餘水四十五里,
   空舟   溯河 四十里,江五十里,餘水六十里。
 沿流之舟則輕重同制,
      河日一百五十里,江一百里,餘水七十里。
(中略)河南、河北、河東、關內等四道諸州運租、庸、雜物等腳,
  每馱一百斤,一百里一百文,山阪慮一百二十文;
  車載一千斤    九百文。
 黃河及洛水河,並從幽州運至平州,上水,十六文,下,六文。
              餘水,上 ,十五文;下,五文。
           從澧,荊等州至楊州,四文。
 其山阪險難、驢少虛,不得過一百五十文;
 平易慮,不得下八十文。其有人負處,兩人分一馱。
 其用小舡處,並運向播、黔等州及涉海,各任本州量定。

 ちなみに、「步及驢 」の「歩」は、農地測量に起用される一歩(ぶ)即ち六尺(1.5㍍)などでは無く、痩せ馬、つまり、人夫の荷運びと言う輸送手段を言います。車(荷車)の里数が少ないのは荷車が重いためでしょう。特に、登り坂になると、負荷が途端に大きくなるためでしょう。
 「」(ろば)を規定しているのは、荷役に、主として驢馬を起用していた事を示しています。馬は、疾駆させる軍用に貴重なので、荷役用には、専ら「驢」を利用したのです。いや、荷役は、ほぼ、大人しい驢馬の担当に決まっていたのです。
 「駄」、つまり本物の荷役馬(荷駄馬)ないしは「驢」の荷は、二人で分けていたようです。
 最後に、例外規定として「小舡」が書かれています。
 そうそう、空船の回送にも里数規定があったのです。
 と言う事で、全国一律というものの、「小舡」の利用や「渉海」(短い渡海)も含め、地域事情に応じた調整は、例外が許容されていたのです。何しろ、全国制度から見たら、はしたのはしたですから、目こぼししたのです。何しろ、ほぼ全ての「河川」には、橋が架かっていなかったので、渡し舟は、当然必要不可欠だったのですが、はしたなので、里数には数えなかったのです。

                                未完

新・私の本棚 「唐六典」 水行陸行里数基準 史料批判と「倭人伝解釈」 更新 3/3

               初稿 2019/07/14 改訂 2020/10/19, 2021/12/27

▢倭人伝解釈編~萬二千里の由来
 「唐六典」の史料評価を終え、倭人伝解釈に及ぼす影響を評価してみます。

*「唐六典」に「海路」不在
 「唐六典」は、帝国の通常業務の輸送経路、手段、費用を規定しています。里数は、所定の荷を一日で移動すべき距離であり、「陸行」、「陸道」は、ほぼ一様ですが、「水行」は、河水、江水、それ以外の川と大別して、それぞれの河川の上り下りで異なるなど、「水行」諸局面に合わせて規定しています。因みに、「水道」なる表現は、存在しないのです。
 当然、「水」は「河川」であり「海」ではありえません。一部、無謀な論客が提起するように、「唐六典」の「水行」が「海路」なら、例えば陸行至難な会稽~東冶間等に、「海路」官道が設定されたはずですが、「海道」の記録はありません。
 つまり、「海道」、「海路」の用例は、魏晋から唐代まで存在しないのです。同時代に存在しない概念に基づいて同時代を語るのは、個人的空想に過ぎません。

*「海路」再考~官道に不適格
 輸送規定とは別の趣旨ですが、官用の文書使や兵士が往来するのは、整備された官道の陸行であり、船による移動は想定されていないのです。
 官道の軍用運用には、順行、急行、疾駆の三段階が必要であり、文書使も、時に疾駆急行を必要とするので、当然の事として「陸行」と規定しているのですが、「水行」では疾駆(船上を駆けるのか?)はあり得ず、したがって、「水行」行程を官道と規定する事は(絶対に)ないのです。
 「陸道」、「陸行」は、路面を整備し騎馬に耐えるよう維持します。各駅は、食事と寝床の提供に加え、代え馬を常備しています。軍用疾駆ができれば文書急使も可能です。こうした官道、陸路の速度要件は、「河川航行」や「海岸沿い水行」では実現できないのです。
 また、官道は、速度本位、安全第一で、「潮待ち、風待ちのお天気まかせ」、「海が荒れたらおだぶつ」の「海道」は不採用です。

 沿岸航行が、安全、安心だと思う人は、一度、生まれなおしたつもりで考え直してほしいものです。

 当然の結論として、三世紀、官道に「海路」はあり得ないので、後世の「唐六典」に規定がないのです。(正史記事にも、そのような記事は無いのです)

*半島内陸行の話
 朝鮮半島沿岸に、未曾有・異例・破格・無法の「海道」があったとしたら、陳寿は、魏志東夷伝に特筆したでしょうが、そのような記事はありません。
 つまり、「歴韓国」と書いたのは、当然、自明の陸道であり、狗邪韓国七千里と里数だけ示したのは、産鉄の搬送で、経路と所要日数が帯方郡に既知だったからです。いや、「倭人伝」が「明記」しているのは、この間を陸行七千里と「想定した」と言うことだけであり、道里を測量した結果を書いているわけではないのです。言うならば、「倭人伝」に、当時の公的な現地里制は、明記されていないのです。
 この間の空白を、現代日本人だけに通じる暗黙の了解「沿岸航行」で埋めているのが、過去の里程論の大半です。
 素人考えでは、里制論の混迷の主因は、そこにあると見るのです。

*あり得ない沿岸の旅
 万一、郡から狗邪韓国までの行程が、倭人伝に明記どころか、示唆すらされていない長期間の「海岸沿い水行」であったのなら、この間を「水行」何千里、何日と明記し、かつ、主たる寄港地を明記しなければ、行程明細の無い、杜撰な規定となり、倭人伝道里記事の用をなさないのです。況んや、空前にして天下唯一の「海岸水行」道里があったのなら、陳寿が、異例の行程を詳しく書き残さないはずがないのです。

*「海岸」沿いの不合理
 因みに、「海岸」も「沿海岸」も陸地なので、陸行しかできないのです。実行不能です。正史解釈は、常に厳密とすべきです。
 古代史素人の一日本人の考えで恐縮ですが、倭人伝記事の「循海岸」は、岸を「盾」に「彳(行)」く「渡海」を、特に「水行」と「定義」しているのです。
 苦心が凝縮された定義の真意を見落として、「沿」海岸水行と読み替えているのが、通例の誤解です。

*「従郡至倭」の深意
 そういえば、素人目には、書き出しで「自郡至倭」でなく「従郡至倭」と書いた意図は、「郡から倭に行くには南東方向にまっしぐら」との形容にあると見えるのですが、これも、しばしば見過ごされています。
 後段で「自郡至女王國」萬二千餘里と書いているので、違う形容を採用した、「従郡至倭」は、単に、行程の始点、終点を書いているだけではないと見るものです。
 史官の寸鉄表現を、はるか後世の無教養な東夷の素人考えで改竄するのは禁物と思うのです。
 素人考えの結論として、倭人伝は半島半周を謳ってないと見えるのです。

*明解な渡海
 ここで復唱しているのは、倭人伝限定の地域表現で、「従郡至倭」行程で、渡海を「循海岸水行」と宣告したのは、中原で普通の、橋の無い河川で街道を繋ぐ渡船と同様で、説明不要と言う趣旨です。

 後の「参問周旋」記事では、渡海は対岸まで順次(海中「山島」でなく)大海の海中「州島」を辿ると念押ししているのです。
 決して、現代地図にあるような水陸の認識はできていないのです。また、帯方郡官人が、ある程度陸地の形状を認識していたとしても、それは、中原知識人の認識の限界を超えているので、陳寿が書き上げた倭人地理観には入っていないのです。

〇倭人伝道里記事の意義
 当たり前で、やり過ごして来ましたが、「従郡至倭」万二千里道里記事の大要は、新参蕃王から郡への文書連絡の所要日数「水陸四十日」の根拠を明記した実務本位の記事です。
 
しばしば倭人伝道里論で書かれているような、初回使節訪問の不確かなお手盛り「出張」報告書でもなければ、時代錯誤の遊び半分/冗談半分の旅行案内でもないのです。

 古代の史官は、古代史官にとっての常識に従っているのであり、現代人の「常識」など一切知らないのです。先入観、勝手な「思い込み」は禁物です。

                               以上

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 1/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*NHK番組紹介引用
番組内容 日本史最大の謎のひとつ邪馬台国。どこにあったのか?卑弥呼とは何者か?第一線で活躍する研究者が一堂に会し、最新の証拠や資料をもとに自説をぶつけ合う歴史激論バトル。
出演者ほか 【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【出演】石野博信,上野祥史,片岡宏二,倉本一宏,佐古和枝,高島忠平,寺沢薫,福永伸哉,柳田康雄,渡邉義浩

「NHKオンデマンドで配信中」

*追記:
 当番組は、2021年12月27日に再放送されたので、再確認の上で、「異論」編を補充とし、「新総集」として公開しました。

*はじめに~重複御免
 NHKの古代史(三世紀)番組の前作は、司会者が揃って素人風で、加えて素人論者の乱暴なコメント連発で幻滅したのです。その後、民間放送の番組が、広く取材し<司会者のコメントに含蓄し感心した出来映えに感心したものです。一方、同番組は、年々歳々の使い回しでげんなりしていましたが、このたび、ようやく新作にお目にかかりました。

 今回の番組も、毎度ながら、背景に倭人伝刊本を見せつつ、「邪馬壹国」、「壹与」を「邪馬台国」、「台与」とほぼ無断で決め付ける手口に幻滅します。また、魏使来訪が海上大迂回で、時代考証は大丈夫かと思うのです。基礎固めが疎かで脚もと乱雑では多難です。

 番組は、こうした不吉な序奏から意外に冷静な論議となり順当な展開でした。前作は、纏向広報担当風で、当ブログの批判がきつくなっていたのです。
 と言いつつ、別稿の記事と、かなり重複してしまったのは、反省していますが、今となっては、改善しようがないので記事重複は、ご勘弁ください。

*総評
 纏向論への異論の大方は、誇大で独善的な纏向論がそう言わせるのです。
 論者の意見が順次提示されましたが、九州説は、ゆったり無理なく紹介されていて、堅実な考察と思わせ、ことさら批判するに及ばないと思ったのです。

 これに対して、纏向論者は、前作を越えた強引な論法で、そんなに無理するなよと言う感じでした。論者の提言に噛みついて、(私見に過ぎない)「卑弥呼」、「箸墓」、「台与」の年代比定は既に確立されているとの高言は、むしろ滑稽でした。そもそも、「卑弥呼」はともかくとして、「箸墓」は、「倭人伝」に於いて、何ら特定されていない「亡霊」であり、「台与」は、「邪馬臺国」にこじつけて、勝手に改竄した人名でしかありません。纏向説論者は、そのように、手前勝手に書き換えた「倭人伝」を奉じているから、そう言い切れるのでしょうが、それは、史学の道を外れています。それにしても、纏向論が学術的に確立されていたら、この場で今さら高言する必要はないのです。

 考古学で言うと、その財産は、遺物、遺跡の考証に基づく堅実な考察であり、対象時代は、遺跡、遺物に文字記録を伴わないから、時代比定は不確実であり、不用意に文書資料を取り込むと学術考証に歪みが生じるというのが、先賢の戒めと思うのですが、ここは、「自説絶対で、外野の干渉は許さない」という体では、論争にならずバトルです。何しろ、同時代唯一の文書記録「倭人伝」を、纏向説に合うように、自在に書き換えているのですから、天下無敵の革新で強弁できるというものです。

 素人目には、「我田引水」の「倭人伝」解釈に引き摺られて、考古学の考察を撓めている感じが拭えません。「纏向風倭人伝」は、かつては、古代史学界の先哲の気づいた基礎に、選りすぐりの英傑が築き上げた楼閣だったのですが、今や、転進を許さない頑迷な道標と化しているようです。

*高価なイリュージョン展開
 今回、NHKご自慢の子供だましの「ビジュアル」は控え目で、填め込まれた纏向遺跡の「再現」動画を見ましたが、伝統的画餅、「イリュージョン」(詐話)と見えます。自説の図式を押し通すに急で、背景考証なしに眩術を駆使するのに、納税者としては賛成できないのです。そんな費用があったら、地道な時代考証に努めてほしいものです。

*運河曳き船の戯画
 例えば、堂々たる運河で両岸から荷船を曳く図は、実質のない画餅です。海岸からここまでの長い道中、船体もろとも、大量の船荷をどうやって運び上げたのか、どのように船荷を捌いたのか、帰り船には何を積んだのか、実質を語る丁寧な考察の裏付けが無ければ、結局、児戯、画餅です。多額の国費を費やして、虚構を捏造して、誰に何を訴えないのでしょうか。大して貢献できていない少額納税者ですが、この有り様を見ると、勿体ない出費と歎くのです。
 丁寧に言うと、河内湾岸から纏向まで、描かれたような荷船を乗り入れる術はなかったと思われます。特に、大和川の蛇行した急流を、どんな手立てで漕ぎ上がったのか、実質のある動画で拝見したいものです。あえていうと、河内湾岸に、どこから、どんな手段で、船荷が届いたのかも不審です。最後に、傾斜地に「運河」を引いて、水流を確保しつつ、川船が上下するのも、極めて高度な土木技術の産物と見えるのですが、これらの爪がされていないままに、「絵」を公開するのは、見当違いの技術投資でしょう。

*「都会」幻想
 言い方を少し変えると、ある程度、文書行政が確立され、徐々に構築された街道網が成立した七,八世紀の古代国家ならともかく、三世紀当時、市糴、交易で移動していたとすると、どんな仕掛けで海港から山中まで運ばせたのでしょうか。古代とは言え、「経済的」に、物流、交通の要(かなめ)で無ければ、国の市は繁栄しないのです。
 中国でも、繁栄した市(都会)は、河川、海岸沿いか、陸上交通の要路か、さらには、両者の得失を兼ね備えた土地です。

 漢書で言う「一都会」は、一つに「都」(すべて)「会」するとの趣旨ですが、山間の壺中天であった纏向は、交通の要路ではないので、「一都会 」として栄えたと聞いたことはありません。大量の物資が集散したのなら、大量の遺物が残っているはずであり、そもそも、そのような運河まで敷いた「一都會」を棄てて、船便の成立していない飛鳥や平城宮に、王の居所が移動するはずがないのです。
 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 2/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*「自虐論」始末記
 「自虐」論は、纏向論者が、纏向絶倫と認めない九州論者に浴びせた罵倒、自爆です。というものの、挑発し泥仕合の罵り合いに持ち込む子供の口喧嘩戦法に、大人は乗らないのです。「自爆」は、論議に窮した焦りを暴露するのです。箴言をもじると「暴言は無能な論者の最後の隠れ家」。自滅の手前と言えます。
 視聴者が、このような乱暴な決めつけに賛成すると見くびっているのでしょうか。

*文学表現の曲解
 続いて提出された、乱暴でくたびれた俗説「白髪三千里」は、無風流な浅知恵です。
 李白は、漢詩三千年の史上最高の詩人であり、気宇壮大な比喩は、現実を大きく離れ、感動を誘うのです。白髪三丈などと、陳腐な戯言と次元が違うのです。それとも、評者は李白の上を行く芸術家でしょうか。奇特です。
 普通、そのような芸術性を「誇張」と感じるのは、感性の貧困です。李白と現代の俗物の背比べなど、見たくもありません。

 いや、どんな俗物でも、この表現は明らかに詩的比喩であり史学的発言でない位は理解できるはずです。とことん場違いでしょう。古代史学の先賢が、中国文化蔑視のために言い出したことでも、無批判に追従しない方が良いでしょう。先賢の恥を蒸し返すのは、勿体ないと見えます。

*軍人功名談の愚例
 「戦果十倍誇張」は史書表現ですが、史書では、論外の愚行としてあげられていて、参考にも何にもなりません。これは、皇帝の警鐘であって、「軍人の手柄話では騙されないぞ」と釘を刺しているのです。

 軍功はクビの数ですから、十倍誇張で十倍の褒賞が帰ってきますが、新来蛮夷に関して、道里、戸数を誇張して、何の報いがあるのでしょうか。直にばれるウソなど、悪くすると、虚言の廉で(本当に)首が飛ぶのです。軍人は、多くの試練を経て将たる地位を得るから安直な誇張はしないのです。まして、魏使は戦果を求められていないから、この手の誇張はあり得ないのです。
 特に、曹丕、曹叡は、曹操の布いた厳格な軍規を継いでいて、なまくらな皇帝ではありませんから、薄汚い功名稼ぎのおおぼらは通用しないのです。あるいは、論者は、遼東公孫氏を、郡高官もろとも殺戮した司馬懿に筆誅を加えているつもりかも知れませんが、司馬懿は、現地に、遼東郡の死者の「京観」を築いて軍功を公開したのですから、方向違いと言うべきでしょう。

*くたびれた「定番」の去るべき時
 この二件は、纏向説論者の好む、「定番」の古典的罵倒表現でしょうが、外界で通用するものではないので、何れかの世代で棄却すべき負の遺産でしょう。同学の先師の旧説の中で、安直な比喩(大抵は誤解)余談は、学問の世界では進歩に取り残された遺物、「レジェンド」となりかねないので更新されるべきです。
 当番組では、新証拠が展開されるはずでしたが、使い古した年代物の詭弁連発でした。今回の纏向論は、先進の気概の乏しい人材で随分損をした感じです。こうした前世紀定番の蒸し直ししか出せないのであれば、番組の時間の浪費でと思うのです。
 早急に「纏向邪馬台国」の存亡をかけて、世に問うべき「新説」を創出すべきではないでしょうか。それが、「纏向邪馬台国」の晩節を飾るものと思います。

 因みに、当ブログ筆者は、倭人伝が正確無比な記録文書だと言っているのではないのです。むしろ、入念極まる推敲を重ねた高度な「創作」文書であると信じています。
 この点は、登場した渡邉氏の表現が正鵠を得ています。陳寿は、読者たる西晋皇帝などの当代知識人に理解できる用語、表現を凝らして「倭人」伝を書き上げたのであり、そのために現代人には理解できない婉曲な表現になっても、それは「倭人伝」の本質なので、現代人が文句を言っても仕方ないのです。陳寿の綴った「設問」の真意を理解できない「落第者」が、門前山を成しているようですが、このように簡単に「降参」して、二千年を経た「問題集」を臥竜で書き換えるのでは、視聴者に醜態をさらしていることになるのです。何とか、「思い込み」を棄て虚心で「倭人伝」世界に入門してほしいものです。

*闇談合露呈
 まして、収録終了後「オフレコで言いたい放題言い合おう」などとは、闇談合で抱き込もうとの、さもしい根性でもないのでしょうが、歴史を夜作るのは、良い加減にしてもらいたいものです。視聴者が見ているのです。

 それにしても、「爆問」が最後に小声で漏らした総括は「史料の原文に戻って、最初から丁寧に考えなおした方が良い」という趣旨のようで、冷静で控え目でした。それが、入門を目指す「倭人伝素人」の採るべき(唯一の)道なのです。

 纏向論者は豊富な学識を駆使して、陳寿が「倭人伝」で描いた「倭人」世界像の理解に勉めるのが本務であり、視聴者、納税者に対する義務のように思うのです。



                              未完

新・私の本棚 番外 NHK BSP「邪馬台国サミット2021」 新総集 3/3

[BSプレミアム]2021年1月1日 午後7:00, 【再放送】 5月30日 午後0:00,12月27日 午前9:14
 私の見立て ★★★☆☆ 諸行無常~百年河清を待つ        2021/05/24 補充 2021/12/27

*殿、ご乱心~出所不明史料の怪、また怪
 今回の番組で、何とも重症なのは、三国志学首魁渡邊義浩氏の「暴挙とも見える」「ご教授」です。折角、新説の疎漏を指摘する至言があったのに、このたびは、愚劣な発言になっています。勿体ないことです。
 倭人伝考証で「翰苑」を持ち出すのは、場違いですが、対照された「会稽東治東」ならぬ「会稽東冶東」の史料影印が、出所不明で投げ出されたのです。
 紹興本、紹熙本、汲古閣本、武英殿本、さらには、書陵部所蔵本まで見て、各資料を確認しても、「会稽東冶」と書いた魏志刊本は存在しないのです。それぞれ、刊本、つまり、それぞれ木版印刷本(刊本)ですから、個体差はなく、全て「東治」です。氏の提示史料は、どこで見つけたのか、その場では不明です。(不意打ち、闇討ちという事です)
 もっとも、このような異論の持ち出しは、「爆笑問題」ならぬ、古田武彦氏ばりの渡邊義浩氏「爆弾発言」で、これはまことに勿体ないことです。

*「中華書局本」の闇討ち
 散々調べた後で、『諸刊本で「東治」と一致して明示されている「東治」が「中華書局本」で、なぜか「東冶」と「改竄」された』らしいとわかったのです。しかし、現代新作の異本ですから、それ以前は誰も知らないのです。
 また、部分拡大されると、何のことかわからないのです。たかが一史料にその通り書かれているというのは、このような低次元の提示を頂かなくても、氏がそのように主張すれば十分なのです。

 ともあれ、素人論者は、番組の流れで、不意打ちで表示されたら、史料出所には、気づかないのです。それにしても、史料の選択、表示に関する渡邉氏の判断は、どうなっているのでしょうか。そして、NHKの制作方針も、一段と不審です。出演者の発言は、「ファクトチェック」無しで、言いたい放題にさせるのでしょうか。

*「翰苑」史料批判の齟齬
 私見では、当時存在の「魏志」写本に会稽「東治」と明記されたものを、「翰苑」編者が単に「会稽」としたのは、世上、「東冶」に誤解する読者があって、無用な誤解を排除するため「東治」を削除したとも見えます。いや、単に、「翰苑」編者の手元に、誤写された所引が届いた可能性が濃厚です。また、「翰苑」現存写本が、どの程度、「翰苑」原本を再現しているのかも、不明です。何しろ古代史学界で蔓延している「戯言」に追従すると、『「翰苑」原本は現存せず、「翰苑」原本を見た人間も、現存していない』のです。 

 「東治之山」の由来と見える「水経注」などの記事でも、禹后が会稽した山である会稽「東治之山」が、しばしば「東冶之山」と誤記されている史料があるから、古来、誤解の的です。

 ということで、「翰苑」は「東冶」「東治」のいずれを正当化する史料でもありません。氏は、現代史料である「中華書局本」を持ち出して南宋刊本に反する「東冶」を正当化するのです。本件は、史料に基づく倭人伝考証としては、とびきりの愚行と思われます。
 氏は、陳寿「三国志」と袁宏「後漢紀」以外の史書は、本気で読み込んでいないのでしょうか。

*ついでの話
 別件ですが、氏の「黥面文身」解釈は、軽薄で的外れと見えます。「黥面」「文身」は、それぞれ、切り分けて慎重に考証する必要があります。図版の無い倭人伝の解釈に対して、出所不明の図版や年代、地域で繋がらない遺物を起用するのは不審です。
 当ブログ筆者は、一次資料に基づく仮説は、それなりに尊重しますが、出所、根拠不明の風説資料に基づく思い付きには、疑問を呈するものです。
 氏が堂々とぶち上げる論議が、不審を感じさせます。例えば、三世紀当時、倭で広く行われた黥面が、日本史で蔑視されているのは、どういうことでしょうか。因みに、中国で、顔面に黥するのは、罪人の徴とされていたのです。

 何れかの時点で、制度が変わったのなら、旧制の貴人が罪人となるので、歴史的画期的大事件ですが、そのような記録は残っているのでしょうか。まことに、不審です。

 また、倭人伝記事にある黥面文身の「水人」は、纏向では存在し得ないと思います。内陸の奈良盆地で、大量の魚鰻をどうやって捕らえたのか。いや、別に、氏が畿内説と決め付けてはありませんが、それほど力を入れるのであれば、説明が必要と思うのです。

 それとも、氏は、中国史書専任で、国内史書には一切言及しないと談合していたのでしょうか。うさん臭い話です。

 と言うことで、氏の問題発言としては、「史官嫌い」の次は、「お手盛り史料」ですが、世人が、渡邉氏に求めているのは、「香具師」紛いのはったりではないのです。視聴者は、氏ほどの学識・知識は持っていませんが、素人を侮るのは感心しないのです。

〇お仕舞い
 今回の「バトル」に直接関係はしないのですが、論争に適確な審判役がいないのも、この分野に泥沼の「バトル」が持続する原因と思えるのです。

*悔いのない報道
 それにしても、NHKがなぜ当番組を「サミット」と呼んだのかも不審です。素人目には、「倭人伝」に関しては、「原典派」と「改竄派」の二派しかないように見えるのです。「改竄派」は、『「邪馬臺国」と書かれた「倭人伝」が絶無である』という負の物証が、鉄壁のように聳えているものを、変則的な文献史料考証という「超絶技巧」で迂回してみせる必要があるのですが、「原典派」は、確たる史料である「倭人伝」に立脚しているから、特に「超絶技巧」は必要ないのです。
 NHKは、長年、「変則的な」「超絶技巧」に荷担していますが、それで報道機関として、何の悔いもないのでしょうか。

                             この項完

2021年12月26日 (日)

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 1/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*序章 「過大」宣言
 本件、史学大家である岡田英治氏の論説が題材であるが、氏の所説は、倭人伝の里数や戸数が(悉く)過大との確信に立脚していると思われる。
 渡邉義浩氏「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書)2164
 引用の岡田英弘「倭国-東アジア世界の中で」(中略失礼)「過大な里数や戸数は、‥‥建前である。‥‥陳寿としては‥‥事実でないと知っていても‥‥本音を書くわけには行かなかった」への批判だから「原本を読め」と言われそうだが、渡邉氏の引用に疎漏はないと信じるから、慎んで孫引き批判する。
 当方にしてみると、一件の論説で大家二人を批判するのであるから、大変効率的である。ただし、従来の書評とは、風向きが違うので、「本棚」と別系列にしている。

*本音の怪
 こうして文の途中を割愛すると、岡田氏の書いた文章の大きなうねりがよく見える。
 ここで、麗々しく「建前」と「本音」書いているが、何も記録されていない魏晋朝の(架空の、あるいは虚構の)本来極秘の「本音」を、どのようにして陳寿が知り得て、その上で秘匿したか不思議である。

 また、陳寿が、魏朝の「本音」を知っていながら、史官の責務に反して書かなかった経緯を、岡田氏は、如何にして知り得たのであろうか。奇っ怪な話、二千年近い時を超えた怪談である。

*癒やしがたい夜郎自大
 それにしても、魏晋朝高官や史官たる陳寿のような錚錚たる人々が、吹けば飛ぶような一東夷の所伝に対し、身命を賭して里数戸数の粉飾に勤しむのかわからない。
 いわゆる「夜郎自大」症候群かと思わせる。「症候群」であるから、発症の事態は、人それぞれだが、蔓延の根底は、岡田氏の世界観なのだろうか。

*権威主義の懸念 明解な読解き
 渡邉氏ほどの方が、いかに支持した岡田氏の見解であろうと、このような不合理な論説を引用掲載するのは傷ましい。多分、岡田氏は、学会の泰斗であり、このような一種の暴言に批判がなかったのだろうが、阿諛追従でないかと懸念される。
 古代史学界の有り様は、権威追従の強弁が頌えられるようである。

 渡邉義浩氏は、別の場では、『倭人伝は「ウソ」の塊であり、従って、「邪馬台国」所在論は、悉く誤解に基づいていて、無駄である』と言う主旨の暴言をものしていて、一絡げに無知の愚を諭されている。
 思うに、『「ウソ」である倭人伝にとらわれた古代史論は、全て「ウソ」』という主張であるが、他ならぬ世間の信頼を集めているであろう古代史学者が、「古代史学者はみんな嘘つきだ」と言っているようで、何とも、傷ましい思いになるのである。

 このような風潮だから、自説の主張に際して丹念に論拠を言い立てる榎氏や古田氏の論考がなおざりにされて、悪い意味での守旧派、定説固持、そして、感情的な断言調論説がはびこるのだろうか。

 当方は、保身も追従も無関係な素人なので、ついつい「明解な読解き」に走るのである。 

                                              未完 

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 2/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*一案の重み
 岡田氏の「読み」が他の見方全てを否定できない以上、氏の議論は、せいぜい「一案」と見られる。そのような「一案」の考察は、石橋を叩いて渡るの比喩にあるように、立脚している論拠を厳格に検証するものと思うが、氏は、いわば不確かな台上に、ご自身の論説を載せているように思う。
 岡田氏は、自説開陳に際して、手頃な足場に足を載せて見せただけで、この議論には依拠していないかも知れないが、引用部分は、里数、戸数の「過大」に立脚しているのでここに批判する。

 ついつい、率直、つまり、失礼、いや言い換えると正直な批判になったが、岡田氏が、素人のいたわりを必要としている方とは思わないので、正々堂々と書いたものである。

*倭人伝里数論
 里数の「過大」とは、当時中国本土で敷かれていた道里を基準とすると、六倍程度の「過大な」数値が書かれているとの趣旨と思われる。
 先に書いたように、史料解釈の一案は、他の多数の一案を否定できるものでない以上、岡田氏の議論も、諸説の一つと見るのである。
 ということで、以下に述べる提案は岡田氏の案を排除する意図ではなく、相容れないものではない。

*局地里制の紹介
 倭人伝は、冒頭近くで、採用里制として、『帯方郡から狗邪韓国の里数を七千餘里とする「局地里制」で記述されている』ことを明示していると見える。以下、宣言の及ぶ範囲では、「局地里制」が適用されていると見るものである。
 この部分を読む限りでは、「局地里制」は、当時の現地の公的な里制として「通用」していたとも考えられるが、考証の規準が違うので、氏の見解に従うことは困難と見える。
 見る限り、倭人伝の残る部分は「局地里制」で書かれていて、そのまま史書として妥当とされているのであるから、倭人伝の里数は「過大」と言えないと思う。

 これが、史学門外漢が提供する、普通の読み方である。

                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 3/8

                                                               2017/10/29
*局地里制の先人
 古田武彦氏を始め多くの論者が主張している「短里説」だが、論拠は三国志内里制表記であり、倭人伝が「独自基準」の局地里制を宣言、採用していることを根拠とした説は記憶にないので、先例をあげることができない。

*図形表示技法の提案
 あえて言うならば、安本美典氏が、地図上で、帯方郡起点で狗邪韓国まで七千里ととしたとき、狗邪韓国起点で五千里の円を描いて大体の範囲を示していたのが想起される。
 補追:この「想起」は不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。
 安本氏は、藤井滋氏の提唱を引用して、帯方郡基点で万里となる末羅国を起点として、二千里の範囲にあるという指摘であった。(2021/12/26)

*倭人伝里数考察 明解な読解き
 一方、里数に対する後世史家の見解だが、衆知の如く、倭人伝の里数に修正を加えて書いた倭人伝修正版というのはついぞ見かけない。いや、近現代国内での論説は別としての意味である。
 それは、中国側により現地踏査が行われたであろう後も変わっていないように見受けられる。 隋、唐、北宋などは、倭人伝里数の現地検証は可能であったと思われる。
 特に、隋唐時代に、数度の使節来訪があり、随行書記官により、現地調査での里数検証の機会はあったと思うが、魏志里数記事が修正された、あるいは、付注されたと言うことは聞かない。
 つまり、倭人伝の里数表示は、帯方郡から狗邪韓国の間が基準として示されているから、資料として正確であると見たと思われるのである。
 そのような考察を怠って、「過大」の一言で切り捨てるのは乱暴に過ぎるのである。
 補追:この「考証」は、不正確であったので、お詫びして補追、訂正する。 (2021/12/26)
 中国正史で、先行史書の訂正は、極めて希である。訂正しても、正史として、歴代王朝に公認された史書を訂正するのは、禁止事項であったのである。許容されているのは、裴松之の付注で見られるような「補注」であり、本文と区別の付く形で追加するものである。中国では、写本継承は、極めて厳格に精査されたので、補注が原文に紛れ込む異常事態は、稀少である。

*戸数について
 岡田氏が、倭人伝の戸数を過大とみた理由は、里数ほど明確でないので、以下当て推量を試みる。
 女王国(壹臺論回避策)の戸数が七万戸と書かれていて、先行する諸国戸数を合計するとすでに七万戸であるから、三十国の総戸数は(書き漏らしているが)十四万戸を越え、当時の情勢から見て過大という論理と思われる。
 以下、これが、必ずしも確実な議論でないことを、追々説明する。

                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 4/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*総戸数説
 これは、女王国の戸数七万戸が、三十余国の集合である倭国全国の戸数の内数であるという推定から出ているが、これは、一案であり、氏の議論は全て一案に立脚すると見るのである。
 因みに、晋書「倭人伝」によれば、七万戸は、「倭人」の総戸数であり、奴国二万戸、投馬国五万戸は、内数となる。全体に通じる「余」は、程度にあたる概数表現であるので、全国戸数の積算は、七万戸に収束すると見て良いということである。詳しくは、長くなるので、後記する。

*「倭国伝」の試み
 倭人伝は、帯方郡使の書記役が記録したと見られるが、定説は、帯方郡から女王国への行程総里数は必須として記録されても、同様に重大な総所要日数は書かれていないと見ているようである。同様に、全三十国の総戸数は書かれていないと見ているようである。読者が計算担当に見える。
 これに対して、本論は、倭人伝は「倭国伝」を目指して書かれたと見ているので、総日数と総戸数の記録が無いのは体裁不備と見る。
 そうでなくても、倭人伝が、読者たる皇帝を初めとする知識人に、煩雑な加算計算を敷いたと見るのは、何かの勘違いであろう。漢数字の加算は、そう簡単ではないのである。

 私見であるが、倭人伝は「伝」の要件を意識して書かれたと見るものである。これが、本論の一つの提案である。

*戸数論再訪 明解な読解き
 女王国七万餘戸は各国戸数の合算を下回るので倭国総戸数と見ることができないというのは、概数合算算術の理解不足が一因と思われる。

*帯方流「餘」の解釈
 倭人伝で、里数、戸数ほぼ全ての「餘」が切り捨てと見るのは読み違いであり、四捨五入的概数「略」(ほぼ)と読むべきではないかと見ている。
 略二万戸と略五万戸を足せば略七万戸であるが、それは、六万戸程度から八万戸程度の範囲内のどこかであって、七万戸を上回るとは限らない。

*概数計算の妙味(ほめ言葉)
 次に、大国の万台の戸数に千台の中小国の個別戸数を足す計算であるが、概数計算では、桁の異なるが概数の漢数字を、多桁の算用数字に「翻訳」した足算計算は勘定が合わないことか少なくない。

                                         未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 5/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*戸数の意義
 それ以外に考慮すべき要素として、女王国の中の女王直轄地たる居処地域が、千戸台の戸数しか備えていないと思われることが挙げられる。
 すでに、政治経済の中心として重要な伊都国の戸数が、少ないことが話題に上っているが、それは、戸数の意義を理解していないからである。
 戸数は、戸籍上のものであり、壮丁の人数、つまり、軍人として召集可能な人数の計算根拠である。
 伊都国のような経済活動区や王都は、まず、農業人口が少なく、また、後世の国家公務員に相当する首都圏居住者は、多くの場合、税務、軍務、役務が免除ないしは軽減されるので、戸数として計上しないことがあるようである。
 論拠は明示できないが、妥当ではないかと見る。

 補追:倭人伝冒頭に「国邑」と書かれているように、対海、一大、末羅、伊都の諸国は、太古の中原諸国のように、王の居処を隔壁が取り囲んでいる聚落「国家」であり、広く領域を確保した「古代国家」ではないと見られる。従って、戸数は、せいぜい千戸台であり、山島、洲島を占めているので、隔壁を持たないとしても、周囲は「大海」で囲まれていることになる。(2021/12/26)

*戸数の精度
 三国志全体を検証したわけでないが、諸史の郡国志などに従うと、戸籍制度が徹底した地域の戸数集計は一戸単位の正確さであった
 つまり、帝国の全国を網羅する戸籍が整っていて、戸籍台帳に記載された数値を集計しているから、正確な計数が可能であり、それを正確に集計するから一戸単位なのである。
 戸数、口数は、帝国経営の基本であり、税務、軍務、そして役務の根拠であるから、正確でなければならない。戸籍制度維持、管理は、同じく、国政の基である。決してゆるがせにできないのである。
 従って、戸数計算では、当然、部分の総計が全体となり、倭人伝にあるような、戸籍もない未開の土地の戸数計算の参考にならない。

*倭人伝は概数世界
 このように、魏志の他の部分では、精緻に戸数計算されているから、「三国志全体」を読んだうえで「倭人伝」を読むと誤解しても無理はない。「倭人伝」は、おおざっぱな数が横行する概数世界に適した用語、文体を取っているのである。

 物事を緻密に調べれば調べるほど、真実から遠ざかるという事例もあるのである。  

                                                 未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 6/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*未開の国の未開のデータ
 戸籍がない国の戸数の出所は、大抵、国主の「やまかん」であり、戸籍データの裏付け、根拠はないから、当然、概数、それも、荒っぽい概数である。
 その証拠に、表示数字は、一から九まで揃ってなくて離散している。
 
七と八の共存例は見つからず、一,二,五,七または八と進んで桁上がりし、一万の次は一万二千、一万五千と飛ぶようである。小林行雄氏の言う「おおざっぱ」である。
 元に戻って、帯方郡は正確な戸数の得られない実情がわかっているからおおざっぱな戸数を計上したのであろう。

*先人の足跡
 晋書倭人伝では、女王国戸数七万餘戸が倭国三十余国の戸数総計であると明記されている。これが、倭人伝戸数の順当な読み方である。
 『邪馬台国の全解決』(六興出版)孫栄健著で発表され、榎一雄氏が紹介、批判している。
 「邪馬台国に関する孫栄健氏の新説について」初出 季刊邪馬台国。榎一雄全集第八巻収録。
 榎氏の批判は、孫氏のその他の諸提言もろとも、大変手厳しく、ほぼ全面棄却となったようである。

 榎氏は、「晋書倭人伝は、全体として魏志倭人伝の不出来な要約であり、戸数論議も依拠すべきでない」と批判しているが、悪例で全体を処断する論法は、榎氏自身が、かねてから囚われるべきでない論法と戒めていて、その現れで、戸数表記自体は、さほど批判されていない。
 つまり、女王国、即ち倭国三十国、総戸数七万戸説自体は、榎氏によって否定はされていないとみる。

*戸数論の定説への影響
 現時点で、以上の戸数解釈は、定説を損なうので採用されないものと思う。遺憾である。
 因みに、当方は、当該論説を知らずに「郡国志」論から独自に思いついたことを申し上げておく。

*里数計算再び
 文書通信を最重視した曹操を例として、道里、即ち、街道里数、所要日数は帝国経営の基本であり、街道と宿駅の維持は責務である。
 さすれば里数計算で部分総計が全体となるが、倭国は未測量で街道未整備の未開地であるから援用できない。

                                                    未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 7/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*岡田氏の限界
 以上の観点に立てば、倭人伝の戸数、里数は、決して過大でない。それを是認すると氏の論議は立脚点を失うので氏は見向きもしないが、それは、個人的な却下理由になっても、広く通じる根拠にはならない。

*古田説批判
 「部分里数の合計は全里数と等しい」(等しくなければならない)との古田氏提言の定理は、概数計算では無効である。
 たとえば、古田氏は、部分里数合計が全里数万二千里に対して不足する里数を「島巡り」里数に求め、前記定理の論拠としているが、渡海一千里は数百里の端数を易々と呑み込んでいて、そこから島巡り里数を取り出すのは、無効かつ無用の帳尻合わせである。
 概数の概念を正しく理解していれば、このような小細工は必要ない。史官は、大局を読んでいたから、このような、はした部分の造作は、無関心なのである。
 このような姑息な小細工をしたため、古田氏の提言全体の信頼性に疑念を投げかけられたのは、何とも、不都合である。

*古田氏の限界
 古田氏が、東夷伝、倭人伝独特の用語に気づけば、以上の誤解を避けられたと思うが、それは、多分、氏の史料観に外れた視点と思う。
 いずれにしろ、人は、誰しもその人なりの限界があるのである。限界があるから、その人の論考の広範さが、証されるのである。

*倭人伝道里事情
 帯方郡は、倭地の状勢を理解していたので、渡海後の道里は不明、つまりおおざっぱであり、全体が万二千里とすれば、狗邪韓国まで七千里ほどと見て、大きな間違いはないと承知していたが、部分道里を合計計算されたくないので、郡の方針で伊都―倭の最終道里を書かなかったと見る。郡の報告に何を書き、何を書かないかは、郡太守の裁量事項なので、最終区間の里数が書かれていないのは、郡太守の指示と見るものである。
 先ほど、渡海後の実測道里が不明と書いたが、末羅國から伊都国は測量可能であり、実際測量したと思われるが、あくまで推定であるし、いつ、誰が、どんな方法で測量したか不明である。この時代、目測や当て推量も、測量の一形態である。
 それは、貿易中心伊都国から海港への道里であり、実務上有益不可欠であるから、順当には、一里塚などの方法で里単位で測量し、街道整備したと思われる。

*放射道里説
 榎氏が創唱した伊都国基準放射道里説は、古田氏の強い批判を受けたが、古田氏の批判は、同説を排除できていないと見る。
 伊都国が実質上の首都であり、そこから各国に至る里数が知られていたという提案には、重大な意義があると思う。

                                                              未完

倭人伝の散歩道 里数戸数論のまとめ~明解な読解きの試み 改 8/8

                                                               2017/10/29 補追 2021/12/26
*伊都国首都論批判
 榎氏が創唱したと見える「放射道里説」に対する主たる批判は、中国史料で「放射道里」が書かれているのは、起点が王治所など地域中心の場合だけと頑強であるが、それは、「倭人伝」が、そのような厳格な基準に基づいて書かれたという前提に基づいたものであり、「倭人伝」のその部分が、「倭人伝」独自筆法で書かれたとすれば、当てはまるとは限らない。「倭人伝」解釈で、「思い込み」は、しばしば「曲解」につながるのである。

*全ての道の通じるところ~補充 2021/12/26
 いつの間にか、伊都国が実質的な首都かどうかとの議論となったが、海峡交易の要(かなめ)であった伊都国は、交易中心にして物資集散地であり、実務上、各国への里数が知られていたと考える。
 漢書では、地域の交通の要は、すべての人と物資が会する処であることから、「一都會」、「一に都(すべ)て会す」と評していたが、陳寿は、ここでは、そのような迷走は避けている。そもそも、中国語に於いて、「都」に「みやこ」の意味が付託されたのは、「王」が、交通の要に治所を定め、市(いち)を開設したためであり、本来は、すべてが集うという意味であり、多くの場合、今日に到るまでその意味が貫かれているのである。これは、日本語での「都」の意味と随分異なるので、史書の解釈で、「思い込み」に惑わされないように注意する必要がある。

 余談ながら、現代人が、これを漢書の新語「都會」と曲解しているが、何とも珍妙な時代錯誤である。漢書の編者班固は、史官の伝統を堅持していたから、そのような生煮えの新語は採用しないのであって。単に、文字の連なりに過ぎないのである。とかく、「都」は、後世人に誤解されやすいのである。

*倭人伝の主題
 ともかく、「従郡至倭」、つまり、公式史書の作法に従って、帯方郡起点で書かれている、内陸の帯方郡を発して一路南下して「女王之所」に至る行程と里数、日数記録が「倭人伝」の主題である以上、伊都国から女王国直行であり、他国経由の道草行程は書かれてないと思うのである。
 念のため言うと、世上で「定説」とされている「魏使訪倭経路」説は、場違いであり、また、倭人伝道里の書かれた時点と齟齬しているので、一言で言うと「大きな勘違い」である。多くの先賢が、この「定説」に合わせて、倭人伝道里記事を「曲解」しているのは、勿体ないことである。要は、陳寿の筆の運びに合わない見方は、いかに現代風の精緻な論理に裏付けられていても、陳寿の真意を見損ねていて、単なる「誤解」、「曲解」と言わざるを得ないのである。

*結末 明解な読解き
 岡田氏の言説に対する反論が大きく膨れあがったが、端的に言うと、この程度の考察を踏み台としない、性急な断定は、大抵の場合、軽率の誹りを免れないのである。
 威勢の良い発言で、異論を一蹴、排除するのは、俗受けするので止められないのであろうが、論理が主役であるべき学問の世界では、的外れ、心得違いというものである。

 当ブログ筆者は、太古の賢人「墨子」にならって、なろう事なら「尚賢」でありたいと思うのである。

                                                                      以上

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 1/3

    1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

〇はじめに
 藤井氏の本論は、『東アジアの古代文化』各号影印版(テキストデータ無し)で有料公開の電子版を200円でダウンロード、閲覧できます。

*隠された珠玉の道里論

 倭人伝に書かれた「邪馬壹国」がどこにあったか探るとき、まずは道里論と思います。

 ただし、史料に忠実に議論すると、畿内説が成立しないのが明解なので、畿内派は道里論に正面から取り組まず、決定的議論の困難な誤記、誤解の水掛け論に逃げ込んで、そのため、早々に切りを付けるべき論点が持ち越しの繰り返しで押し入れの肥やしになり、数十年空転しています。

 当方は、別に生活がかかっていないので、正直な意見を以下に述べます。

 なお、自明ながら、里数などの各種数字は、概数です。

*支持者
 邪馬台国の会主催者である安本美典氏は、藤井氏の論考を折に触れ引用し、「邪馬台国」九州説のなかでも、末羅から二千里程度離れた朝倉にあったとする安本氏の「朝倉」説の裏付けとしています。藤井氏の主張が決定的なので、安本氏は賢明にも強弁の上塗りはしません。

*感慨
 当方は、ここまでほぼ独力で、倭人伝諸数字の意義を読解こうとしてきましたが、四十年前の先人を知って、自分の見識が裏付けられてうれしいと思うと共に、これほど明確に論証しても、古代史学界でほとんど顧みられていないことに、正直慄然たる思いになったのです。「ほとんど顧みられていない」と感じるのは、当論文を引用参照した論考がほとんど見られないからです。(安本氏は例外です)

 藤井氏が挑戦的に述べているように、本論は道里論解釈で群を抜いて決定的であり、それ故に、本論で否定されている畿内説支持者が賢明にも論議を避けて風化を図ったと思われます。三十六計逃げるにしかずです。学術的な議論は、論争を経て前進するのですから、議論回避は保守どころが退化なのです。
 これでは、当方の議論も埋没の運命にあるようで、暗澹としてくるのです。

*議論の核心
 それはさておき、本論文の核心部分について、以下批判します。
 藤井氏は、倭人伝の数字から、次の見解を示していると見えます。

  1. これらの数字、道里や戸数の統計値は、概して、有効数字一桁であり、現代的な算用数字の多桁表記は避けねばならない。
  2. これらの数字は、したがって、厳密なものではなく「誤差」をたっぷり含んでいるから、そのように扱わなければならない。
  3. これらの数字に付されている「餘」は、端数切り捨てでなく、「約」に相当する中心値表現である。

*応用数学実践
 以上の見解は、いずれも、工学分野、「応用数学」の概数論に即したものと思われます。当方が学んだ電気工学は、厖大な厳密計算より、端的な実務計算を重んじていて、当方は、電気工学の徒として同感するものです。

 

                                未完

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 2/3

     1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

*数学観の時代錯誤指摘
 さて、続いて展開される「倭人伝」解釈では、遺憾ながら後世や他文明の数学観が過剰に語られ、読者の誤解を誘うと見えます。中国では、後々まで零や多桁計算の思想が備わらなかったため、「原始的」、不正確との誤解を与えます。むしろ、それより、中国古代の精緻な数学を語るべきでした。

*倭人伝の「余」 復誦
 当方が悪戦苦闘した「余」は、藤井氏により難なく展開され、心強くもあり、落胆でもあり複雑です。一介の素人が思い至る概念が、長年の論争で先例が見つからず言及もなかったので、これは独創かと思いかけたのです。
 念のため復誦すると、倭人伝の数字の大半、ほぼ全部に付く「余」は「約」であり、「端数切り捨て」でない概数だから単純に加算できるとの意見です。

*全桁計算の偉業
 全桁計算では、多桁に加え繰り上げが多発し、さすがに「大巾に」手間取ります。と言っても、後漢書で両郡戸数などは一の桁まであり、厖大な統計計算と思わせます。経理計算も一の桁まで計算します。算木の広がりを思わせます。

*はしたの省略
 氏は明言していませんが、「千里」単位の計算で、百里単位は、桁違いと無視できるのです。つまり、里単位で、7000、500と計算したのではないのです。(算用数字はなかったし、小数もなかったのです)

*有効数字の起源
 氏が言う有効数字一桁は算木計算のためです。ただし、氏が、一万二千を有効数字二桁と見るのは、現代人の勘違いで、当時は、あくまで、「一万二千」でなく「十二」千で千の桁にとどまっているのです。

*奇数愛好説の慧眼
 更に言うなら、不確かな元資料による計算で、有効数字が一桁に及ばない1,3,5,7,10,12の飛び飛びの丸め方が見て取れます。
 松本清張氏が、倭人伝の数字に奇数が多いと見てとったのは慧眼であり、実は、有効数字0.5桁と言うべき大まかな概数処理のため、偶数の出番が少なくなったためです。中国人が「奇」数を高貴な数と見たのは、おっしゃるとおりでしょうが、概数が奇数に集まるのは、そのためだけではないのです。
 因みに、「奇」は、本来「奇蹟」に残っているように、尊いものの形容だったのですが、今や、「奇妙」もろとも、誤用の泥沼に沈んでいるのです。
                               未完

 

新・私の本棚 藤井 滋『魏志』倭人伝の科学 『東アジアの古代文化』 改 3/3

    1983年春号(特集「邪馬台国の時代」)    大和書房
 私の見立て ★★★★★ 必読・画期的  2019/03/10 補充2020/03/20 2021/12/26

*倭人伝里数観
 氏は、里数論だけで邪馬台国所在を突き止める観点で、帯方郡治から倭の王治までの行程を、郡~末羅行程と末羅~倭都行程に二分した前者が一万里、全体が一万二千里と明快であり、倭の王治は郡~狗邪韓を七千里とする「里」(七十五㍍)で末羅中心の二千里(百五十㌔㍍)半径の円周上と図示しています。
 また、「従郡至倭」の目的地である倭の王治は、帯方郡治から東南方向であり、円弧上に具体的に限定できます。
 いずれにしろ、倭の王治の所在を、九州島北部の「ある範囲」に絞り込む、まことに堅実な論理ですが、それを認めると、立つ瀬のない「畿内派」は、藤井氏の提言を回避、黙殺したのです。

*精密な地図の弊害 私見
 苦言をお許しいただけるなら、概数観に相応しくない精密な現代地図と精密な線図は、読者に「理解」ならぬ「誤解」を与えていると危惧する次第です。

*概数計算の復習  私見
 以上の里数は、すべて、現代人の想定外の許容範囲を持ちます。
 全行程を万一千里~万三千里、郡~末羅を八千里~万一千里と見ると、末羅~倭都は両区間の差分になるので、許容範囲は大幅に絞られて、二千里に一千里を増減する程度と見えます。
 それにしても、この区間は、万里規模の概数里数の帳尻にあたり、現代人が慣れているのに比べて、かなり大きなばらつきが想定されます。
 また、この区間が二千里であれば、末羅~伊都間の里数五百里は、計算上無視できず、伊都~倭間を直行と見ると、五百里から二千五百里の間という見かけ上、大変大きな範囲内であり、世上言われるように、倭人伝記事だけで精密に特定することは、「大変困難」、つまり、事実上不可能になります。

 このような現象は、最初に全区間里数を設定し、そこから、大きな区間里数を弾くという「概数計算」に避けられない、いわば当然の現象ですが、皇帝以下の同時代教養人に理解困難であるどころか、現代人でも「概数計算」の基本をしっかり身につけていない人には、理解困難と思量します。

 いうまでもなく、陳寿を含め、里数記事を書き上げる史官や書記官には、このような帳尻合わせを最初に済ませるのが当然の注意事項ですが、倭人伝の場合、先に全体里数を決め、次いで、大きな区間の里数を一千里単位の切りの良い数字にしたので、後に、現地の国内小国間の里数が提出されたとき、うまく整合できなかったようです。

*道里、戸数の由来~私見
 いや、全体里数「万二千里」は、恐らく、「倭人」を紹介する最初の機会に提出されたものであり、遅くとも、後に、全体戸数、国数などと共に、景初二年の洛陽行の際に、鴻廬に提出して東夷諸国「台帳」に記載されたのです。帯方郡は、公孫氏の出先に過ぎなかった体制から、皇帝傘下の「郡」に昇格したばかりでした。ということで、公孫氏時代の資料を整理して東夷管理体制を構築しつつあった「帯方郡」としては、皇帝の督促を受けた以上、倭使を従えた上洛の持参資料の里数が、現実離れしていても仕方ないところだったのでしょう。
 そのようにして提出された粗雑な「台帳」であっても、皇帝の御覧を得たからには、後日の改竄・訂正はできなかったのです。また、陳寿の史官としての業務倫理から、現に公文書に書かれている倭人伝の里数や戸数を改竄することもできなかったのです。

 このように最終行程の帳尻が合わないので、整合を断念して伊都~倭間里数の記載を割愛したと個人的に思量します。何も証拠はありませんが、倭人傳の書き方から見て、そのような経緯があったと理解するのです。そう、陳寿ほどの史官がそのような省略記法を採用したからには、正当な理由があったのです。

*論争の深い闇
 余談から回帰すると、氏の諸提起に反論があって、却下、撤回、克服などで消えていったのなら、論議済みになるのですが、いまだに、惰性で、例えば、「余」を解している例が少なくないので、がっかりしているのです。
 よく、邪馬台国論争は、百年を優に越えているといいますが、この件を見ても、論争などではなく、単なる水掛け論に終始している感があるのです。

〇まとめ
 氏は、結語で当時「季刊邪馬台国」連載張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」を引用し、倭人伝解釈は中国人まかせが一番と、ここでは軽率です。
 倭人伝漢文は、当代十五億の簡体字文化「中国人」の理解を超える古文文法、語彙知識に加え、ある程度の古典教養が求められます。延々たる連載記事迷走を見ると張氏の欠格は自明ですが、藤井氏には見て取れなかったようです。あるいは、氏は、「語学」とは、紙上の空論に過ぎないと見ているのではないでしょうか。

 もちろん、「語学」の視点で倭人伝が解釈できていないのに、できているように錯覚して論じている見当違いの論者は、論外であることは言うまでもありません。

*実論追求
 聞くべき議論は、空論でなく、実論、現実に密着した議論ができる人材を求めているのであり、その点には大いに同意しますが、古代史に関し教養、見識のある人物に限られます。軽薄な後代、異国概念の持ち込みは迷惑です。

 本論のように論理的な解釈で、問題点を絞り込んだ議論が、正しい評価を受けていないのは、倭人伝論の深い闇、泥沼を思わされるのです。

 安本美典氏は、機会ある毎に本論を紹介していて、当ブログ記事は、氏の講義録、著書から原典を探り当てた記事ですが、安本氏の冷静な指摘にもかかわらず、両氏の慧眼は、世上の関心は呼んでないようなので、敢えて、ここに注意を喚起しているものです。

                               以上

2021年12月25日 (土)

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 1/8

 「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 「邪馬台国と日本書紀の界隈」M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記 2021/12/25
 
〇はじめに
 氏のブログ、著書について、既に当ブログで批判を公開していますが、単純な蒸し返しではありません。今回は、氏の最新記事への異論です。氏が論拠を明示しているので、本来、個人名義のブログ記事への批判は避けたいのですが、折角ですから以下の見解をまとめたのです。

1 道里論
 第一の「道里」の語義解釈には、大いに異議があります。と言うか、個人的な意見の相違などではなく、素人目にも、まるっきり間違えていると思います。
 まずは、「道里」は、二字単語として、道のり、道程の意味であることが、衆知です。(氏がたまたま知らなくても「衆知」論に影響はありません) そして、敢えてその「普通」の解釈を覆す意義が理解できません。陳壽は、古典書に始まる「普通」の辞書を具備していて、それは、当時の知識人に共通ですから、陳壽の辞書にない「新語」をも公式史書に書き込むことはないのです。

 中国哲学書電子化計劃により「先秦両漢」で「道里」を検索すると48用例、単語として49個の先例があり、大概は、「道里遠近」に類する文脈を形成しています。よって、「道里」は、現代語で距離、みちのりに相当する概念と見るのが、古典書籍、特に史書の文章解釈の「常道」でしょう。

 「道」と「里」は、太古以来独立した単語ですが、「道」と「里」を連ねた場合は二字単語となって、「里」の語義の中でも、「道」の「里」を表す言葉と考えるのが順当です。(本項の末尾で辞典を参照します)

 このように衆知極まる言葉に、後世人が別義を託した意図が理解できないのです。このような唐突な新定義は、普通の定義を打ち消すことはなく、無教養な誤用と棄却されるので、史官の職にあり古典的な用語に縛られている陳寿が、三国志に採用したと見えないのです。
 衆知の用語に新たな意義をあてる必要があったら、陳寿は、堂々と例外用法を明言したはずです。

 案ずるに、「道里」は、あくまで「里」ですが、「里」は、古来数十家規模の集落であり、土地制度では一里角の面積なので、誤解を避けるために、敢えて、「道の里」としての「里」を明記したかも知れません。

 因みに、「歩」も、道の単位と同時に面積単位でもあり、「九章算術」計算例題集では、面積の「歩」を「積歩」として混同を避けていますが、大抵の場合、文脈で区別できるから、単に「里」、「歩」と書いたようです。といっても、これは、そのような教養が引き継がれていた時代であり、戦乱などで、継承の鎖が壊れたときは、字面に囚われた「名解釈」がはびこるのです。

 本題に還ると、漢字辞典として有力な白川静氏「字通」、藤堂明保氏「漢字源」共に、「道里」は、道のり、距離との語義を掲載していて、氏の新説は、ほぼ棄却できます。

 それにしても、本項の強引とも見える書きぶりは、後出「周旋」の周到な論証に似合わない不首尾なものと見て取れるのです。何か、急かれいる思いがあったのでしょうか。

2 東治論
 本件、当ブログで、議論を重ねましたが、俗説の渦に埋もれているので、再説をかねて、氏の議論の紹介方々異論を述べます。と言っても、氏に、大略同感です。
 「東治」が、禹后による治の場所と解されましたが、禹が会稽で統治した記録はありません。単に、諸侯を集めて功績評価、会稽したというだけです。
 水経注の郡名由来記事に、会稽郡の由来として、秦始皇帝の重臣李斯が、「禹后が東治之山(会稽山)で会稽した」ので、当該地域を会稽郡と命名したとされています。他の郡名と異筋ですが、教養人に衆知だったようです。
 史実かどうかは別として、その由来が、後世まで継承され、陳寿の西晋代にも、東治由来談が伝わっていたのでしょう。西晋亡国の混乱で多くの伝承や記録が失われていて、「後漢書」編者笵曄は、会稽付近に生まれたのですが、却って、古典教養を要する由来談を知らなかった可能性があります。陳壽と范曄の間には、一つには、西晋崩壊時の洛陽文化圏の崩壊があり、かつ、笵曄は、史観の職業的な訓練を受けていない文筆家、趣味の人なので、それぞれの世界観には、大きな相違点があるのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 2/8

「「魏志倭人伝」解読の重要ワード..」 M・ITO (伊藤 雅文)
 2020/04/16 追記2020/04/19 追記 2021/12/25

3 「周旋」論
 氏の解説は、常道に従った古典書用例参照が雑駁と見えても、全体として、まことに堅実です。国内史書が起点の先賢は、先入観で「周旋」を誤解しましたが、漢字辞典を参照すれば、「周旋」の「周」は、「ぐるっと周回」だけでなく、「周(あまね)く」の意味、「旋」も「ぐるっと回転」だけでなく、「経路の終端から戻る」との意味があると知ったはずです。(白川静/藤堂明保両氏の辞典による)
 余り参照されていないようですが、東晋代に編纂された袁宏「後漢紀」の献帝建安年間の記事(孔融小伝)でも、「周旋」は「二者の間を往来する」意味で使われています。
 文頭の「參問」倭地は、狗邪~倭都「歴訪」、「周旋」は、終点終端まで進む「巡訪」と重複気味ながら、文脈により陳寿の真意に辿り着いたはずです。
 因みに、成語「周旋」は、対立当事者、大抵は二者の間を往来して斡旋するのであり、あたりをぐるぐる巡るのではないのです。

*測量不能な図形
 俗解した「領域周回」が、不正解と見えるのは、千里はあろうという領域外周の野山や河川、海浜を「測量して巡る」のは、途方もなく不可能であり、その経路長を測量無しに推定するのも、同様に不可能です。まして、狗邪~末羅の渡海/水行行程は、海峡越えであることから、測量は、重ね重ね不可能です。
 有力算書「九章算術」の「方田」例題には、円形の土地の外周計算方法が書かれていますが、当然、その土地がほぼ円形であり、その土地の径(直径)が知られている場合だけ実行可能です。つまり、外周を実測しなくても、直径の測量で、全周長を推定できるわけです。要は、円形領域の外周周回長は直径の三倍強、という幾何学原理の利用に過ぎません。

 懸案に戻ると、異郷の異国の領域外形は知るすべがないし、海上洲島領域の南北は、道里行程記事から推定できても、東西はどうにも測りようがなく、結局、元に戻って国間道里しかわからないのです。この点は、列挙されている各国のどこが西端でどこが東端か書かれていないのでも明らかです。現代人は、手元の地図に、各国をばらまいて、広がりを当て込んでいますが、倭人伝の視点では、末羅国に始まる「洲島」の広がりは知るすべがなく、伊都国以南が、また一つの大海なのか陸続きなのかも、その時点では、不明だったのです。

 因みに、「九章算術」は、史官を含め、教養人の必須課題であり、陳寿も、当然、こうした原理は知悉していたのです。

*周旋の意義
 「周旋」は、狗邪~倭都直行道里のみが妥当であり、氏が現代仕様の地図上に図示した円弧は、時代錯誤の虚構です。
 郡~倭都全道里が東南方向に万二千里、郡~狗邪部分道里が同じく東南方向 に七千里は明解ですが、狗邪~倭都経路記事は、傍路と輻輳して見えるので、この間の倭地道里を、ことさら五千里と明記したのですが、進行方向は、概して同じく東南方向です。
 どうしても図示したいのなら、読者に誤解を与えないように配慮して、「円弧」範囲を絞るべきでしょう。

 思うに、単純に道里を書き足すと、わかりきったことを書くとは見くびられたものだとの「読者」のお怒りが怖いので、表現を捻ったのでしょう。

〇道里論の失着
 こうしてみると第一項「道里」の見当違いの解釈は、先入観に災いされたのか、説得力を自失していて、まことにもったいないのです。

*用語の錯誤
 見当違いと言えば、見出しで、古代史論を期待している読者を惑わす、場違いなカタカナ語「ワード」です。
 高名なマイクロソフト「ワード」のことではないでしょうし、かといって、次に想起されるコンピューターデータの単位でもないでしょう。いずれにしろ、古代世界に「カタカナ語」はありません。

 唐突に異世界新語を持ち込まれても、善良な読者には不可解至極で、意味が定まらないのです。これでは、いきなり、無用の反発を買うだけです。曰わく、まともな日本語文が書けないのに、生かじりのカタカナ語を持ってくるな、というものです。

 このような飛び入り言葉を、用語考証という厳密な場に持ち出すのは、まことにもったいないのです。普通は、直後に定義を付して不可解の誹りを免れるのです。但し、当記事の中で意義のある場合だけの言い逃れです。
 因みに、CPU命令のWordはCPUビット数なので今日の64 Bit CPUで1ワードは64ビットです。いや、益体もない余談です。

*カタカナ語排斥論再燃
 古代史用語が不可解なのは読者、自分自身の不勉強故と我慢できても、現代人が現代人に対して不可解な用語を振り回すのは不可解そのものです。先賢がおっしゃるように、古代史に関する論議で、古代人が理解しようのない概念や言葉は避けるべきと信じる次第です。

【追記開始】(2020/04/19, 12/25)新書二冊の職業筆者に相応しい「キーワード」(カタカナ言葉の先住民で、一応気に留めてもらえるかも知れないもの)と見出しを付け直したら、粗雑と見くびられることはありません。粗雑は、決して、褒め言葉ではありません。念のため。「ワード」は、単なるはやり言葉で、何年生き続けるか不明なので、本題のような長期戦には、全く不向きなのです。
【追記終了】
                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 3/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29

〇コメント~三部作の口切り
 タイトルで予定されるのは「放射説」考察ですが、実は、主として名を挙げられている榎氏提言に対する伊藤氏のグチです。「放射説」と無造作に括っていますが「伊都放射説」でしょう。因みに、「なかった」古田武彦氏は、第一書で「不弥放射説」でした。「考える」際に榎説の「引用」、ないしは、文献参照はなく、個人的解釈を掲げる「独り相撲」が、氏のほぼ一貫した芸風なのです。

〇倭人伝基準論~私見の展開
 文献史料「倭人伝」は、三世紀、権威ある史官が公文書を基に編纂し、当時の権威の承認のもとに魏志に収録されたから、史書として何の問題もなかったと見るものではないでしょうか。以下、その視点で述べますが、私見は私見なりの根拠があると理解の上でご批判いただきたいものです。

〇放射説の由来
 「伊都放射説」の道里は、後に補充された榎氏の論述によれば、伊都国が、現代風に言うと、政治、経済(商業、貿易)交通の要であったことに由来していて、「倭人伝」にも、倭にあてた文書は、一旦伊都国に止め精査されるとあり、妥当と思われます。つまり、国王居処と別に国の中心地があったとも解釈できます。ここで、口に出たがる「首都」は、時代錯誤なので自粛しました。特に、当時、蕃王の治所、王城を「都」と書くことはなかったのです。

 因みに、過去先賢が議論したように、例えば、漢書「西域伝」は、夷蛮の国への道里として、帝都(長安)、ないしは、最寄りの「幕府」(西域都護)から蛮王居処への官道道里を示します。これは、漢からの文書通達と回答が届く日数を知るものであり、次いで、兵の動員時の所要日数を知るものですが、後者は、道中の食料、水の補給も関係し、あくまで参考ですが、西域都護の幕府を道里の拠点とする意義は大きいのです。道里の出発点を「郡」とするのは、決して、不当では無いのです。
 古来、皇帝は、蕃夷の末梢まですべて外臣とするものではなく、各方面の対外拠点が適確と認めたものだけを相手にしていたのですから、すべての道里を、管理部門である「鴻廬」の台帳に登録するものではないのです。何しろ「外臣」と認めたら、その王治の遠さに応じて何年かに一度の来貢を予定して、応対の費用を予定し、土産物を用意し、来訪者には、上下の人員に数々の印綬を制作して与えなければならないので、「外臣」は、少ないに越したことはないのです。

 大きい「国」では、王の居処から、国内主要国への方位、道里を示して、王の権威の及ぶ範囲を示しています。国によって、領域概要が述べられますが、国力は戸数で明示されるので、「方里」はあくまで子供だましの「イメージ」(あやかし)に過ぎません。何しろ、収穫高や兵数把握は極めて重要ですが、夷蛮の国の荒れ地の広がりは、知ってもしょうがないので、測量も表示もしないのです。
 つまり、「方里」は、領域面積を示すものではないのです。

*「方里」幻想の正体
 別稿で考証しましたが、「方里」は、対象地域内の耕作地、農地の面積を、例えば、一里四方の方形単位で数えたものであり、現代風に言えば、平方里に相当します。但し、耕作地面積は、個別の農地の登録面積、つまり、管理台帳に書き込まれた歩数を机上で合計したものです。それぞれ、耕作者の「戸」が固定しているので、「戸数」と相関関係があるのですが、一戸あたりの農地割り当ては、地域により、作付け穀物によって異なるので、あくまで地域の「国力」の目安なのです。
 現代風に言う地図上の領域面積は、何千年と思われる歴史を歴て農地開発が進んだ中原諸国ならともかく、未開の山野が続く東夷では、ごく一部が耕作されるに過ぎないので、「国力」の目安にはなりませんから、わざわざ測量することもなければ、表明することもないのです。
 もし、「方里」が、公式の面積単位として運用されていたのなら、史書に満載のはずですが、実際は、確実な記事としては、このように東夷伝に数例あるのに過ぎないのです。恐らく、遼東郡太守が、管内の各国の国力把握のために、特に施行し、皇帝にあてて報告していた「報告書」の名残と見えるのです。
 とは言え、陳寿が採用した以上は、手元に未開の荒れ地を含んだ高句麗、韓国などの国力表示に「方里」を記載した資料が齎されていたのであり、同じ「方里」が、対海国、一大国に限ってとはいえ、倭人に関する資料として記録されている以上、魏志「東夷伝」としては、忠実に掲載しなければならないと感じたはずです。
 思うに、陳壽が「倭人伝」編纂した際には、そのような背景を証する雑資料が少なからず手に入っていたでしょうが、正史には、そのような資料は割愛したものと見えるのです。
 東夷伝に散在する「方里」の意味は、そのような背景を推定すれば、筋が通るように見えるのです。

〇王の居処と伊都国~スープの冷めない近しさか
 当ブログ筆者は、伊都放射説に無批判に追従する者ではなく、伊都以降は、王の居処に直行したとの説です。つまり、奴国、不弥国、投馬国の行程道里は、最終目的地である「倭」への行程の一部ではなく、事のついでに貼り付けられた参考行程と見ています。よく聞き分けていただければ幸いです。
 ここで大事なのは、要点である伊都国と「倭」、つまり王の居処の間が、里程を書くほどもない短距離と事実上明記している点にあります。何しろ、倭人伝の主要行程道里は、千里単位で書かれていますから、百里単位の道里は、末羅~伊都間の繋ぎの部分を除けば、脇道であり、全体道里に関係しないのです。下手に明記すると読者の勘違いを誘うので、避けるのです。
 もう一つの目安は、行程の様子や「至る/到る」国の様子が書かれているかどうかです。「投馬国」は、自称大体五万戸程度の「大国」ですが、行程の内容は書かれていないし、同国の様子は、何も書かれていません。
 また、伊都国に到る行程と伊都国の様子は書かれていても、そこから先は、ここには書かれていないのです。

〇概数道里の道理~夷蕃伝の要件
 古田武彦氏は、概数計算を失念していたためでしょうが、百里単位の整合にとらわれて、対海国、一大国行程に、島巡りの辻褄合わせを述べ、最終行程は「零里」としました。倭人伝は、あえて端(はした)の道里を省いたと思われます。
 「国邑」の本質から、各国の本拠は、領域の一部に過ぎず、伊都国の王処と女王国の王処が共通でない限り、行程道里はゼロではないので、それは、書かずに済ませる理由にはならないのです。古田氏が、結論を焦って、場当たりな論理に陥っている一例です。

 概数計算では、端(はした)を入れて計算すると、大抵の場合帳尻が合わないのです。それは、正確、不正確の問題ではなく、概数計算の持つ宿命なのです。また、末羅~伊都間も百里単位ですが、史官は、現地地理に関心はなく、所詮「余」付千里概数の大局道里と整合しないので、参考として書いてあるに過ぎないのです。

*「従郡至倭」の由来と結末
 倭人伝の「郡から到る」里数は、まだ、倭人の成り行きがわからないうちに、帝都から、最も遠い辺境の地という主旨で書かれたものであり、その時点で、実際の道里など知るはずもなく、まして、精緻に書こうとしたわけでないと思われます。その万二千里で、もっと大事、つまり肝心なのは、郡から到る所要日数と想定すると、伊都国からの道里も方角も、大局に関係しない現地事情に過ぎず「倭人伝」では、細瑾として省いたのでしょう。それぞれの行程は、街道として整備されていたので、「道なり」に進めば目的地に着くのです。また、普段街道を往来している者達は、別に、地図も、道案内も必要としないのです。

*「倭人伝」の必須要件
 つまり、「倭」の王治、王の居処は「帯方郡の東南方」にあり、行程道里は「万二千里」、所要日数は、「水行十日、陸行三十日の計四十日」で、戸数は「七万戸」、諸国は三十国あるので、城数は「三十城」が、必須要目であり、以上で、夷蕃伝の要件を満たしていたのです。
 ここにある「城数」は、倭の国内に、「国邑」と呼べる隔壁集落が、それだけあったと言う事であり、それぞれ、木なのか土なのか石なのかは別として、国主の住まいが千戸台の集落であって、周囲の住民の住まいや農地から隔離されていたという意味です。現地の実情はどうであれ。中原の「国」は、隔壁集落だったので、それに合わせて書かれたのです。

*所在地論の要点/終点
 後は、倭人」の国名が「邪馬壹国」でも「邪馬臺国」でも良く、所在が、筑紫でも纏向でも、帯方郡と四十日で連絡できれば良かったのですが、その要件を復習すると「邪馬壹国」 は、倭人の首長の住まう集落であり、九州北部から海峡を越えて半島に至る交易経路の南にあって、交易を統御していたから、丁寧に考えると、所在地は限られているのです。 後は、時代時代の形勢で、あちこち移動したかも知れないと言うだけですが、「倭人伝」には、卑弥呼時代が語られているだけであり、先立つ、范曄「後漢書」倭伝の書く、後漢桓帝、霊帝、そして献帝時代のことは、范曄自身すらわからないまま、風聞を書き残したと見えるのです。

 と言う事で、倭人伝」は 「伝」の体裁を完備した、一級史料なのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 4/8

「魏志倭人伝」行程解釈の「放射説」を考える 2019-06-22
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇根拠不明の直線行程説~余談
 氏の俗耳を染めている根拠不明の直線行程説によれば、文書等は、一旦伊都国で止められた後、期間を置いて王の居処に送られたことになっています。ただし、郡と文書通信していても、国内に文書通信は存在しないのです。つまり、三世紀時点、公的文書がないから、広域国家は無意味な推定になっています。以上の考証の否定には、当時の文書通信遺物が不可欠です。

〇「古代国家」と言う画餅~余談
 俗に伝えられる三世紀広域「古代国家」説は、文書通信、輸送、交通という基盤を欠き、「画餅」の誹りを免れません。つまり、直線行程説は、三世紀「古代国家」説の付属品、巨大な画餅で、世人の好む大変壮大な図式ですが、この「イメージ」(幻夢)は、誰にも食べられないのです。

 以上は、漢書以来の西域諸国列傳を参考にした意見であり、単なる個人的感想ではありません。また、氏のように三世紀史官の「作文」技法について講釈する趣味もありません。何しろ、氏の語彙は「違和感」、「イメージ」など、現代の流行語を無造作に採り入れているように、史学の常道を外れているのです。

〇「個人的感想」の怪
 氏は、ここまでは「個人的な感想」であったと仕切りますが、どこからここまで個人的感想なのか、始点が不明です。というものの、個人ブログの記事は、何も書かなければ、口調に関係無く持論なのは、ほぼ自明です。

 と言っておいて、続く論議は同様に古代史学に通じていない現代人の「個人的感想」です。ついでながら、そちこちで、出所不明、検証不明の世評を無批判で受け入れる意義が不明です。まあ、当人が、拾い食いして平気なら、それまでですが。

 因みに、氏の関知しない古田氏は、ここまでに書いたように、女王居処は伊都国から至近で道里略との見方で、ただし、古田氏は、魏使は女王と会見したとみています。伊藤氏の個人的意見「当然」は、同時代の当然かどうか疑問ですから、書くだけ字数の無駄です。主張には、論証を必要とします。

 氏は、冒頭に書いた「オーソドックス」に示される時代、環境錯誤に耽っていて、当記事を通じて、何も学んでないのです。

〇総論
 当ブログでは、書評の際に、著者の持論を批判することは、極力避けています。直線行程説を批判しても、氏が持論としていること事態は、批判対象ではないのです。(時に筆が滑るのは、素人の限界としてご容赦いただきたい)

 大事なのは、著者が、持論の「根拠」として、個人的感想や根拠不明な風聞を翳していることです諸説に、適切な紹介と批判が加えられていないのも「問題」です。いや、別に解答を工夫せよと言っているのではありません。
 氏は、第三者の要約らしい風評を早のみこみで採用しますが、根拠を示していただけないので、確認しようがないのです。

〇「失われた放射行程説」
 当記事では、氏の持論に対抗する「放射行程」説について、提唱者榎一雄氏の説を提示し、否定しているのですが、榎氏の説がどう書かれていたか、その主張の根拠が何であったか、不得要領で論議になっていないのです。
 また、榎氏の主張に批判を加えた古田武彦氏の主張は、はなから失われているのです。
 いくら、個人的な趣味、嗜好であっても、何か根拠がほしいものです。

 榎、古田両氏に限らず、凡そ古代史論者たるものが何らかの「説」を主張するからには、先行所説を論理的に咀嚼、批判、克服しているのですが、どうも、氏は、そのような素養のない野次馬論者のようです。

 慌てて、普通の言い方で総括すると、氏の持論には適確な裏付けはなく、異論を適確に克服してないので、氏の持論は大いに疑わしい(普通に云うと、全く信じられない)ことになりますが、それは、当記事の圏外です。氏が、放射説だろうが、螺旋説だろうと、当人が納得している分には、傍からとやかく言えないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                               以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 5/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇はじめに~批判しようのない落輪調
 先だって、氏の最近のブログ記事二件について批判しましたが、合わせて、これら記事の先行記事の批判が必要と見て遡行し記事をまとめました。と言っても、当時批判記事を書いたものの、「記事」の批判としてまとまりの付けようがないので放置していたのですが、結局、月遅れ記事にしました。

 端的に言うと氏の記事は、正体不明の「説」を、文字引用して批判するのでなく、いわば、氏の見立てた「説」の「ポンチ絵」を「斬られ役」にして斬りまくっているので、読者に見えるのは氏独自の「ポンチ絵」が、紙吹雪となって風に散る様であって、誰のどの論文に何を異議申し立てしているのか、わからないのです。いわば、路面を走らずに、いきなり落輪して、しきりにエンジンを吹かすものの、ごうごうたる空転で、批判論議になっていないのです。
 ただし、氏は短絡的でないので、謹んで理路の瑕瑾を批判しているのです。

〇斬られ役の弁
 「斬られ役」と称したのは、本来の論拠が戯画化されているからです。舞台劇の「斬られ役」は、振り付けに従い、易々と主役に切られます。
 氏が個人的な愛憎からか「好意」を再度表しているので躊躇しますが、仕方ないので余言を連ねます。「イメージ」なるポンチ絵の原文不明に加えて、伊都基点放射説を無視した不出来な展開に批判を加えます。

◆図表3「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図(別解釈案) 引用省略
 一見、これなら整合性がとれているのではと思ってしまいそうです。
 しかし、よく見ると齟齬が生じているのがわかります。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への距離が書かれていないのです。そうすると、肝心の位置関係がわからないということになります。100里なのか1000里なのかで邪馬台国の位置は大きく変わります。これでは邪馬台国までの行程を報告したことにはなりません。

〇不都合な表現 世にあふれる時代錯誤
 余談の前振りを入れると、読者に0の数で百里と千里を判別させるような不合理で時代錯誤の算用数字多桁表示は悪習と理解いただいて、文献解釈の大原則に従い、時代相応に「百」「千」と書く事をお勧めします。

 また、「倭人伝」が記載不備で拙劣と罵倒されていますが、お説のように必須事項に欠けた報告書だったとしたら、それが正史に収録されたのはどういうことか不審です。氏が、ご自身の迷走に自暴自棄で、相手を間違えて自嘲したのが誤記されたのでしょうか。

〇「絵」のない絵解き 無理な読み解き
 倭人伝には、読者次第で解釈が分かれる「概念図」(ビクチャー)は無いので、氏のお手盛りの子供じみたポンチ絵(イメージ)を、正史はかくあるべしと見立てた論理的な文章に戻し明快にします。(当ブログは、この読みを支持していません)

 不彌国から南に行くと投馬国に着く。
 (郡から投馬国まで)水行二十日である。
 投馬国から南に行くと女王の居処に着く。
 (郡に従し倭に至るに)水行十日及び陸行三十日である。

 寡聞にして、倭人伝道里に、このような前例を見ないのです。日本語は明快でも意味は支離滅裂です。路上の「落とし物」を盛り付けて供するなど、関わり合いになるのは時間の無駄です。もっとも、「倭人伝」現代語訳は、みんな似たようなもので、各人の手前味噌ですから、口に合わないと文句を言ってもしょうがないのです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 6/8

邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える 2020/06/29
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈 未熟か 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇引用再開
[中略]帯方郡から邪馬台国までの全行程に要した日数が、水行で合計10日、陸行で1か月だとします。すると、なぜその行程上にある投馬国に陸行の期間がないのでしょうか。明らかに末盧国から不彌国までは陸行しています。合計700里です。それが入っていないということは、やはり「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の読み方は成立しないということだと思います。帯方郡から邪馬台国までの全行程の水行「10日」より、帯方郡から投馬国への水行「20日」の方が長いというのも明らかに説の破綻を物語っています。

〇「も明らかに破綻を物語」るという怪
 以上は、一見して明らかなように、先人諸賢の論考を無視した独り相撲で児戯です。僅かな行数、字数なのに、文意が動揺していて、本来支離滅裂な「説」の論破は一言で足りるのに、無駄に深入りして、うろ覚えの論理に囚われるのは自業自得で勿体ないことです。

 同時代論者が、「倭人伝」をてんでに、つまり、百人百様に解釈した俗説が通用していて、百人全員が、正史として二千年近く読み解いている「倭人伝解釈」は、百人百様なのか、同様なのか、とにかく間違っているという事ですが、自分一人は凡百の一人ではない」という事なのでしょうか。古人曰く、倭人伝」読みの「倭人伝」知らず、ということで、学会一括の罵倒は、一般人の任に余ると思います。

 独り相撲(ワンマンショー)を仕舞い、具体的に証明願いたいものです。

〇まとまりの付かない総評
 異説を強引に自身の絵解き、基本的に「直線経路読み」にはめ込んで、その図式上で批判するのは「恣意」(「的」抜き)そのものです。

 ここでやり玉に挙げている批判対象文献が明示されていないのも、困ったものです。主張者が、氏の図式と同一の「イメージ」(偶像、ポンチ絵)で主張したのなら論理的思考のできない人との欠席裁判になっています。
 そうでないなら、氏は、別の人が言葉で描いた主張を自己流に図示、つまり、書き崩した上で、それは間違っていると主張していることになります。ひょっとして、氏は、論敵の主張の原文が明解に解釈できないので逃げているのでしょうか。不可解、つまり、主旨が理解できない「説」の「批判」とは、どういうことなのでしょうか。
 と言う事で、氏は、論者の主張を明確に理解できず、意図的な曲解(撓め)に持ち込んでいる嫌疑が濃厚です。いくら個人的に好意を持っていても、それはそれ、これはこれでしょう。
 思うに、氏は、前方の不可解な「イメージ」を自分の認識で不合理だと称して攻撃しているので、いわば自業自得で見苦しいのです。
 それにしても、同時代の日本人が普通の言葉で書いた論考を読解できないのに、三世紀の中国人の漢文の解読などできるはずがないのです。

〇本論 単なる形式不備
 最後に、当記事タイトルに示された論説を批判することにします。
 「説」批判で示された氏の「持論」に同意できない点を上げるとすれば、最終道里を、伊都国から「投馬国を歴て」邪馬壹国に至ると決め付けた点です。この議論の到達点が、「荒れ地」であるのは、既に語られていることですから、失敗必至の旅立ちには、同意できないのですが、各人各様の持論は、極力論じない方針ので、ここでは深入りしません。

 結局、氏は、論文作法(作成手法)の基本にあたると思われる、自説提示の際の根拠提示方法も、論評時の論点提示方法も理解できないまま、字数を費やしていると思えます。論文審査の初歩であり、修行が足りないのです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 7/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26    付記 2020/08/29 補追 2021/12/25

〇前置き
 伊藤雅文氏の二回に亘る記事は、素人の「日誌」(ログ)でなく商用書著者の論考と思うので、誠意をもって辛口批判します。先行する「現代訳」なる連載記事で頻出する難点に消耗したので、一点に絞ります。氏の考察の基本的な欠点が見えると思うので、以下同様と理解いただきたいものです。

 批判の前提は、考察と見て取れるにもかかわらず、正史解釈が粗雑(杜撰)であり、また、三世紀に即した、あるいは、適した考証がされていなくて、現代に流布する風聞、俗説による思いつきの憶測で、考察と言えないのです。

 氏のいきかたは、ぱっと見、現代風の合理性を備えて俗耳に訴えることから、新書で刊行されていて、目下、大勢を占める俗説に随時追従しているようですが、それが的確かどうか疑問であり、以下、批判するのです。

〇踏み台とされた労作
 なお、氏が基調とした訳文は、原文に密着した最善の好訳であり、書き下し文に等しいものです。用字、用語の置き換えは最低限であるから、巻き込まれて脱線する危険は少ないのです。文献解釈は、かくあるべきです。倭人伝を論ずるなら、後は、自力で説きほぐすものであり、責任の分水嶺です。

〇一文解釈集中批判
[原文]從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里。
[訳]郡より倭に至るには、海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里。(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝ほか三冊』岩波文庫)

 ここで、氏は、突如、基調を踏み台に浮揚して架空の創作に耽ります。

 帯方郡から倭に至るには、海岸にそって水行し、南進・東行しながら韓国を経ていく(*)。すると、7000余里で倭の北岸にある狗邪韓国(くやかんこく)に到達する。
(*)帯方郡から狗邪韓国への行程については、朝鮮半島の西岸・南岸を海岸にそって航行したとする説と、半島内の水路・陸路を行ったとする説があります。私にはどちらが正しいか断言できませんが、この行程についてはあくまでも「倭人条」の中の韓国記事であり、副次的なものです。[以下略]

 『狗邪韓国までの韓地内行程は「観念的」』とする発想は、慧眼というか、妥当ですが、「従郡至倭」で書き出された道里が魏使の往還記に基づくとの誤謬が邪魔して後が続きません。

〇道里記事の始点
 この間の道里は、「倭人伝」の冒頭に必要な道里、所要日数の申告、開示であって、倭使参上以前に皇帝に上申され、公文書に書かれていたので、後日の改竄、改訂は不可能だったのです。そして、陳壽は、史官の責務として、既存の公式史料を正確に収録する責務を負っていたので、編纂時点の考証や新情報によって改訂することは許されなかったのです。陳壽にできたのは、記事の是正が読み取れる追加記事の書き込みだったのです。

 原文で、「到」は、明確に「其の北岸」つまり、陸上の境地であり船着き場の桟橋などではなく、その場は、狗邪韓「国」とされています。つまり、少なくとも「歴韓国」の一国の国名は明記されているのですから、空文、冗語ではないのです。

 念押しすると、同区間は三世紀読者にとって既知、自明の「街道」道里です。それに反して、海岸に沿いに船で行く異説は、無視も何も古典に存在しない無法な用語概念ですから、よほど念入りに事前解説を加えない限り、編者(陳寿)は非常識な用語の咎で更迭され職を失いかねないのです。史官は、「読者」によって、随時試されていたのです。

 従って、古典書に典拠のない、読者の教養に輻輳する用語は、読者の誤解を誘い、恥をかかせるものとして厳重に忌避されるので、勝手な造語やにわか作りの新語の導入は、固く、固く戒められたのです。こうした理屈が理解されてないのは、何ともお粗末です。

〇解釈でなく改竄
 「従郡」を「帯方郡から」と単純に読むとか、「七千」里を「7000」里に化けさせる「定番誤釈」,「曲解」は別に置くとして、海岸に「循(そ)って」の原文漢字を「そって」とかな表記に「改竄」したのは、なんとも杜撰で不穏です。これでは、石原氏の労作は「バイブル」どころか踏みつけです。

 石原氏は、訳者の誇りにかけても、「循(そ)って」を「沿(そ)って」と意訳しないのです。海岸基準の移動は、字面を無視して「沿(そ)って」なのか、字面に忠実に「循(そ)って」(盾して行き沖に出る)なのか、いずれかですが、「そって」のかな書きは意味不明で、二重に無責任です。さらに念押しすると、「沿岸航行」は、古典書読者に未知の用語であり当然不可解です。同時代人に不可解なことを、勝手に取り込んではなりません。

 一読してわかるように、「海岸」は、海を前にした崖に似た陸地ですから、これに沿う経路は海岸の陸地を言うのであり、海に入るものではありません。つまり、中原読書人の知る語彙では、「海岸に沿って」進むのは、陸行しか無いのです。従って、続けて「水行」と書いているのは、本来、不可解であり無意味です。そこは陸地なので河川行は不可能です。そもそも、郡の東南方にあると書いたばかりの「倭人」のお家に向かうのに、内陸の帯方郡郡治を出て、なぜ、予告のない西に進んで海岸に着くのか、不可解であり、そのようなことは、一切、明記も示唆もされていないのです。飛んだ冷水の不意打ち「サプライズ」です。

 そのように、「循海岸水行」は、三世紀の読者には、自然に解釈できないので、この「問題」の解を巡って、考察に苦労することになるのです。

 このような初歩的考証が理解できないなら「新説」など唱えないことです。

                                未完

新・私の本棚 伊藤 雅文 ブログ 「邪馬台国と日本書紀の界隈」 改 8/8

新説!? 暴論!? 狗邪韓国に行ったのは誰?  2020/08/08
新説!?の続き! 「度」と「渡」の違いが示すものとは?  2020/08/23
 私の見立て ★★☆☆☆ 誤解と認識不足の積層 2020/08/26   付記 2020/08/29 補追 2021/12/25


〇格式に従う「定義」
 端的に原文を見れば、「循海岸水行」は、「歴韓國」から「七千余里」に至る道里でなく、「始度一海」などと書かれた「渡海」の意義を説いた前置きと思えます。街道道里に前例のない格式外れの「水行」概念を導入するにあたって、読者を不意打ちして混乱させるのを予防した定義文と見ます。

〇無知による誤解、誤記
 氏は、自認するように、沿岸航行」を考証する知識に欠け、資料調査もしてないので、はなから欠格ですが、なぜか沿岸航行を選択します。陸路が危険で時間がかかるとは、風評とも云えない稚拙な憶測で非科学的な見解です。

 氏は、先例引用で「半島内の水路・陸路を行った」などと、時代錯誤の乱れた用語を駆使しますが、これは、原意攪乱だけで紹介になっていません。「南進・東行」しながら「韓国を経ていく」などと、訳文が堅持した用語、記法を棄てて迷走しますが、そのような無理難題は、「倭人伝」には書かれていません。

 一方、どこに寄港し、どこで転じるか、航行上の必須事項が、「倭人伝」に一切書かれていないのは、実際に航行してないと見えます。何を見て思いついたのでしょうか。(よく理解できない方は、隋書俀国伝を一読戴きたいものです)

〇癒やしがたい非常識
 案ずるに、氏は、帯方郡から狗邪韓国までの行程が、官道として整備され、常用されていたとの「基本常識」、教養を持たず、逆に、当時の船舶を知らないのに、記録にない海上行程を想像だけでイメージ(餅の画)し、考察でなく古代史譚を創造した上で、勝手な推測を積み重ねていますから、他愛のないホラ話に過ぎません。

〇先行諸説の理解欠如と現場逃避
 正史解釈と云っても、正史の文字を一切離れないでは理解できないのは明らかですが、正史が確たる文献史料である以上、これを離れるには、同様に確たる史料なり自然科学的考察が必要です。かえりみれば、先行諸説紹介が粗雑であり、基調訳文を離れて勝手に憶測、暴走していると見えます。郡を出て、いきなり「道」を外れているので、以下、行けば行くほど「道」を外れて荒れ地に入るのです。「道」を見失ったときは、出発点に戻るのが、常道であり、目下の最善策でしょう。

 新説提示には先行諸説克服が必須であり、「韓国内陸行説」、「内陸水行説」は、堂々と提唱された仮説なので、論評、棄却するには提唱者と引用元を明示すべきです。また、棄却の根拠となる「沿岸航行説」の検証を行うべきです。調べようとしないで、紛争の現場から逃げてはいけません。そのように努めれば、何が根拠とされているか、目にとまるはずです。

〇歴韓国考察
 長年、弁辰の鉄が楽浪帯方両郡に貢納された以上、帯方郡から狗邪韓国まで、各国関所を歴る官道が輸送路として諸駅が確立、運用されていたのです。漢、魏が、中原の国家制度を、世界の果てである半島南端までの東夷に徹底させたのが遼東郡による東夷支配です。

 古代韓国の諸国は、相互の間で大量貨物の海上輸送がほぼ不可能であったため、基本的に内陸国であり、漢城(ソウル)、平壌(ピョンヤン)、慶州(キョンジュ)などのような王治は別として、概して山城を置いていたようです。後世、統一新羅時代、黄海沿岸の海港唐津(タンジン)に山城が設けられた記録があります。「津」であるので、山東半島、つまり、唐本土に渡海する船着き場が主目的であり、沿岸海港ではなかったのです。総じて、三世紀当時、韓地各国の山城は、沿岸移動では歴訪できないのです。

〇総評
 いや、古代史分野では、当ブログ筆者が勝手に言う浪漫派の牙城である史譚分野があり、論拠不十分に、勇ましいお話を書き上げる例がありますが、業界相場として、いくら作業仮説であっても、単なる夢物語でないのなら、何らかの実証的考察をこめるものであり、今回はひどい」というのが、当記事執筆の動機です。非常識を「自曝」するつもりはないでしょうから、推敲した上で、カテゴリー/タイトルに「根拠のない空想」(ファンタジー)と明記すべきでしょう。

 いや、二回で、何度か、(古代史論では)当然、自明、初歩的と書きましたが、どうも、浪漫派諸兄には、三世紀に唯一存在した古代史史料の意義を軽視、ないしは、無視して、数世紀後の「日本」成立後の国内史書を至上とする向きが多いので、念入りに明示したものです。「古代史」上級者には、見くびられたような不快感があるでしょうが、よろしくご了解戴きたいものです。

〇「ほっちっち」
 もちろん、ここに掲示したブログ記事は、氏の見解に賛成するのでもなければ、反対するのでもありません。個人には、それぞれの意見があるから、意見が合わないのは言っても仕方ないことであり、ここでは、氏の主張の組み立てで、筋が通らない言い方を指摘して、それでは、世間の人に見くびられて損しますよと言うだけです。言われた方がそう思わなければ、それまでです。

 京大阪のわらべ唄で云う「ほっちっち」です。別に、縁も所縁もない通りすがりの他人の言うことを聞く必要はないのです。

                                以上

2021年12月24日 (金)

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 1/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

〇はじめに~「勝手に査読」の弁
 本記事は、先に公開した小澤氏の講演とほぼ重複していますが、目下天下に唯一の古代史論専門誌「邪馬台国」掲載論文として、いわば、座り直して批判するものです。
 このたび、読みなおして、補充しましたが、論旨は変わっていません。

 前稿は、既に、講演批判として行きすぎの感があったと思いますが、本論は、氏を倭人伝論において素人の論客と見立てて、査読紛いの論文審査をしてみました。失礼を顧みずに言うべきことを言うには、そうするしかないので、一種座興として聞き流していただいても結構です。

〇様式不備/用語齟齬
 当記事でも、記事タイトルに書かれている「魏志」を、広く知られている「倭人伝」の言い換えとして進めるのは、二つの意味で不法です。

 まずは、目次に明記の「魏志」のすり替えはだまし討ちです。
 先賢は、倭人伝に限定された論議を評して、「それでは、深意から遠ざかる一方である。三国志全巻を通読玩味して、三国志の書法を熟知するのが先決である。」と貴重な訓戒を垂れているので、氏ほどの高名な論者が、魏志全篇を参照した倭人伝論を展開していただけるものと、大いに期待し、拝聴、ないしは、拝読したものと思うのですが、実は、実は、では、騙されたと感じると思うのです。

 次に、臨時の言い換えで、「魏志」なる高名な史料名を、その本体部分を差し置いて、全三十巻の最終巻の末尾にある、一部と言うのが言い過ぎになるような細部である「倭人伝」に限定使用するのは、許容される論文作法の手口を、大きく外れています。読者は、ここで「魏志」を目にする度に困惑するのです。講演ならぬ本誌では、戻って読み返すことができますが、それでも、意義のない言い換えと考えます。
 これでは、論争史を通じて山積している先行論文を引用するとき、用語が輻輳します。また、当論文を引用する論者は、引用文に、都度注釈を加えなければなりません。これは、論文作法を知らない初心者の手口です。

 この手順が、古代史の先賢が、特に根拠を示さないままに、「倭人伝」なる用語を否定している言いがかりへの対応とすれば、回避でなく克服すべきと見ます。本記事で克服できないのなら、臨時に宣言すれば良いのです。混乱を助長しては、論外です。

*史料錯誤
 普通、当論文は『倭人伝から「邪馬台国」の位置を語る』論考と思われますが、原史料である倭人伝に「邪馬台国」と書かれてないという衆知で未解決の難点を克服しなければなりません。本記事で克服できないなら、臨時に宣言すべきです。基礎部分に穴が空いたままで、放置されていては、粗相の感があります。

 いや、本誌は、「邪馬台国」と銘打っているので、読者は、古代史に十分通じていて、かつ、国名問題に関して、とうに意志決定済み、解答醸成済みと速断したのかも知れませんが、それは、唯一の古代史専門誌の読者に対して、重大な先入観を持って臨んでいるのであり、まことに失礼な態度と言わねばなりません。言うまでもありませんが、いかなる分野でも、初心者、初級者は、絶えず参集しているのであり、長い学びの道のりを歩み出すときに、未検証の、根拠の無い一説を先入観として植え付けるのは、避けるべきと考える次第です。

 本論文のタイトルでもわかるように、看板は尊重すべきであり、安直な塗り替えは禁じ手ですが、だからといって、学術的な手順は見過ごすべきではないのです。読者の賢察もまた尊重すべきです。

*史料改竄
 因みに、講演では「本稿では」と前振りして、倭人伝刊本に明記されている一部用語を、氏自身が信ずるに足りないとする後世史料に従って言い換えていますが、ここでは「本稿では」が、削除され勝手な定説としています。

 学問の世界では、原史料を改竄するのは、厳に戒めるべきものと信じるので、本記事は、厳格な「ファクトチェック」のされていない風説によって原史料を改竄した「風説論文」と解されます。差異は些細ですが重大です。基礎部分に穴が空いたままで放置されていては、粗相の感があります。
 当記事をわざわざ書き上げた理由の一つが、この無造作な改編です。

 史料の校訂は「厳格に確証されない限り行うべきではない」とは、「釈迦に説法」と思えるのですが、氏は、中国古代史史料の考証においては、修行が足りないと感じ、率直に指摘するものです。他意はありません。

〇無礼御免
 以下、本誌記事に相応しい批判を展開します。前稿に比べて論調が厳しいのは、本記事が、編集部の論文審査を経た「一級論文」と見ているからです。
 言外の示唆では、読み取れないのかも知れないので、「改」公開では、子供相手のような言い方をしますが、要は、雑誌編集部/出版社校閲部門の怠慢、ないしは、失態を指摘しているのです。当分野唯一、天下最高の専門誌に対する批判は、厳しいものになるのです。

                                未完

新・私の本棚 小澤 毅 季刊「邪馬台国」第139号 『魏志』が語る邪馬台国の位置 改 2/2

 梓書院 2020年12月刊 
私の見立て ★★★☆☆ 堅実 不偏不党、但し、未熟   2021/02/03 補充 2021/12/24

1.1 はじめに
 氏は、倭人伝を「第一級史料」と見つつ「当時の日本列島のようす」を伝えていると評しますが誤解と思われます。冷静に読みなおしていただければわかるように、「ようす」、つまり、風俗や地理が書かれているのは、「従郡至倭」の示すとおり、郡~狗邪~對海~一大~末羅~伊都の行程の通過、経由地であり、特に、狗邪の大海北岸を発して以後の行程です。
 つまり、日本列島どころか、行程上の数カ国のようすに過ぎないのですが、それが『倭』の枢要部なのです。

 「倭人」伝は「倭人」領域に限られますから、郡と狗邪のようすは書いていないのです。
 かたや、奴國、不彌國、投馬國は、「倭人」領域であっても、行程道里主要国ではないので、「略記」にとどまっているのです。
 なお、伊都国、女王国は、行程の目的地なので、詳細後記として、ここには詳しく書いていないのです。

 以上は、倭人伝を虚心に読めば、自然に読み取れるはずです。

 世上、このような当然、自明の議論を封じるために、「文法」論などの口説が動員されますが、目前の史書記事を無視/軽視するのはいかがなものでしょうか。以上の素人考えは、別に、中国人学者に頼まなくても普通に読み取れるはずです。倭人伝は、中国古代人の教養と理解力に合わせて書かれていて、現代中国人にとっても理解困難な高度な古文史料ですから、よくよく、その理解力を測ってから、ご意見を拝聴するのであり、無批判な追従は、禁物です。

  そのような自然な読みをどう理解されたのか、余り通用していないと思われる古代史用語である「日本列島」、つまり、九州北部から東方までの領域の「ようす」が書かれていると、一種の思い込みで断じるのは、氏の信条を外しているように感じます。倭人伝を基礎資料として解読するなら、外部資料は後回しにすべきと感じる次第です。

 また、邪馬台(やまと)の書き方は、同様に、不本意というか、不手際です。仮に、倭人伝に書かれていない「邪馬臺」を原表記と仮定しても、「やまと」と発音したことを裏付ける一級史料は絶無です。倭人伝執筆時点で、影も形も無かった世界の「ようす」が、倭人伝に影響するはずもなく、時代倒錯と見えます。

 氏に、初学者に向かって言うように言い立てるのもどうかと思いますが、「臺」は「台」とは、根っから別の字であり、発音も意味も別物なのです。大事な点をすっ飛ばしては、不都合です。

*中国史書視点の見当違い
 冷静に考えればおわかりいただけると思いますが、魏志編者は、天下国家の正史を志したのであり、いかに魏志全三十巻の掉尾を飾る勲功としても、あらたに参詣した東夷伝の小伝である「倭人伝」を諸史料から結集するに際して、東夷の国内の小国の配置に、特別の関心を持ったわけではなく、また、各国の里程方位を題材に、読者に対して、高度な読解と解答を要求する「問題」を工夫したとも思えないのです。

 氏の言い分は、国内史料から築き上げた蒼々たる国内歴史解釈に従うように、氏の専門とされる考古学成果を積み上げたのに続いて、中国史料を読み従えようとしているように見えます。いや、それは、多くの先賢が挑んで、登攀路を見出していない高嶺に、虚心に挑もうとしている氏の所信に反しているように見えるのです。
 かくの如く出発点で誤解した以上、論考の迷走は不可避と見られます。氏が、恐らく承知の上で「定説」に流されるのは、何とも勿体ないところです。
 この後、氏の論理は、信条と定説を交えて大きく動揺します。

*二級史料の暴走
 定番とは言え、後世史書、類書、雑書を無批判で満載で、「相互の比較をつうじて、現行刊本の『魏志』の文字を校訂する」と述べます。遺稿上申とはいえ、晋帝嘉納以来、二千年近く継承された「一級史料」(依拠刊本不明)を、後世、速成抄写を重ねた「二級史料」で否定するのは見当外れです。

 後手で「二級史料」と査定し、史料として格段に低い位置付けを施すのは、逆順でちぐはぐです。それなら、前段で、倭人伝を改竄した「一刀両断」を正当化できないのです。自己矛盾が露呈していて、不思議な眺めです。
 大学教授の玉稿は、編集部査読外なのでしょうが、共々、不手際露呈で随分損をしています。

1.2 邪馬台国の位置
位置推定の材料  『魏志』に登場する国々の所在を推定するうえで最大の指標となるのは、里程記事である。当然、地理や現地の地形との対比も必要となるが、それにくわえて、地名も重要な手がかりを与えてくれる。

 ここで、二級史料はまだしも、東夷の国で、数百年語り継がれたあげくの「地名」国内史料を「重要な手がかり」と採用するのは、同意しがたいのです。
 また、事のついでのように書かれる「考古学成果」は、重要な手がかりなので、無文字の限界を明記した上で、この場で要点を紹介すべきと思われます。
 一級史料の記事を改竄するなら、ご自身の著作物として公表すべきであり、原典と異なる「史料」について論じるのは「贋作」行為です。

 ついでに言うと、俗に言う渡海の「実距離」は一切測定不可能で、誇張の基準にならないから、「水増し」は理屈の通らない単なる言いがかりなのです。どなたの口ぶりかわかりませんが、子供じみた口まねは、感心しません。
 また、数学用語が誤用された「実数」の不意打ちは、不当でしょう。まあ、合わせて、先人の科(とが)でしょうが、無批判追従は氏の沽券に関わるのではないでしょうか。

 このように念押しするのは、氏の論旨展開が、氏の信条に反して、先例の多い「推定、憶測により断定を押しつける」粗雑な暴論に陥っているからです。とかく定説に多い錯覚に染まっているのではないかと懸念しています。

 「普通」に考えれば、日数は、日常往来から検証できるので、架空のものではなく、十分信を置けます。氏の割り切りは、先賢が大きく躓いた「名所」を忠実に辿るようで、考察に掘り下げを欠き、考えの浅い見当違いとみえてしまいます。

1.3 「卑弥呼」と「卑弥弓呼」
 「邪馬台国の所在」と掲題の「位置」を外して論じていますが、「所在」は「不在」を含む主旨なのでしょうか。論考では、一語一義としたいものです。これは、編集後世段階で、真っ先に検出すべき瑕瑾です。

 いずれにしろ、本稿は、掲題にない余談には関与しません。

〇まとめ
 結局、氏の本記事は、一級史料そのものでなく、「国内史料に基づき一新された倭人伝」に基づくものであり、正直にそう書かれた方が良いのです。折角、実直な所信を打ち出しても、史料自身の考察より失敗事例の追従を優先するのは、不徹底と見えます。恐らく、先賢や助言者の提言を排除すると、無礼だと非難を浴びるので、色々忖度したのでしょうが、勿体ないことです。「木は、芽ぐむ土地を選べないが、鳥は、宿る木を選ぶ」というのが、古来の箴言です。

 率直なところ、倭人伝に関する史論は倭人伝記事に基づき展開するとの抱負から、まずは、初心者の目で史料自身の考察に取り組むべきだと思うのです。確実な一歩を踏み出すことが必要と感じます。
 「後生」の務めは、「先生」の至言と言えども、糺すべき過ちは糺し、質すべきは質し、その精髄を継ぐべきと思うのです。

〇謝辞

 以上、氏の宣言につけ込んで、無遠慮に素人扱いした無礼をお詫びします。なお、安本美典氏が本誌編集長就任時に、論文審査を編集の基幹とする旨宣言されたのと同じ方針によって、勝手に論文審査したものとご理解いただきたいものです。
                                以上

2021年12月23日 (木)

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  1/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

〇総論~「窮鼠」徘徊
 本書は、一応、公平な見地から取り纏めた「邪馬台国論争」全集版との執筆姿勢であり、出版社を含め、本書を企画したと言うことは、乱世に統一をもたらす道標を築き上げるという絶大な責務を課せられたと感じたはずです。
 と言いつつ、著者は、不退転、と言うか、退路を断った背水の陣の畿内説陣営の走狗、つまり、窮鼠であり、至る所にその分厚い先入観が露呈していて、執筆の際にそのような高邁な責務は念頭から去っていたように思われます。

〇書誌論の沈没~意図不明な紹興本高揚
 取っつきとして、刊本書誌を論じていて、著者は、世評の高い紹熙本だけでなく、紹興本も咸平本に基づく刊本と主張しています。その意見に反論している内に、以下のように長い道草になりましたが、場の勢いで刊本論を続けます。

 紹興本は、本来、紹熙本と同じ字面のはずですが、両者は、あちこちで異なっているのです。一番目立つのは、紹熙本が東夷傳の各小伝に「傳」と小見出しを付しているのに対して、紹興本では、これが削られていることです。
 これは、小伝小見出しが、陳壽原本に記載されていたと言うほどのものではなく、おそらく、歴代写本では、上部欄外に手書きで注記されていたものが、咸平本刊行の際に、労を厭わぬ官製刊本の特例として、本文に取り入れられたと思われます。
 何しろ、小見出しの数文字で一行、繰り返していくとページ送りになりかねないので、このようなレイアウトを採用するのは、大変な贅沢なのです。
 もちろん、万事推測ですが、紹興本は、咸平本刊本が原本でなく、少なくとも一度は写本して通用していた刊本写本ではなかったかと思われます。もちろん、紹熙本も同様です。刊本は、すべて同一内容ですから、官辺本が生存していたなら、何の論議も必要なかったのです。

*北宋刊本の興亡
 咸平本が木版出版されても、部数は少なく、高官に限定されていたと思われます。そこから、通用する写本が分岐したと思われます。
 何しろ、北宋期は、中国市場、それまで王侯貴族や(旧)軍閥に集中していた文化経済活動が広く民間に拡大された革新的な時代であり、清明上河図に見られるように市民階級の経済力が興隆し、且つ、宋王朝は、政府機能を複数の陪都に分散していたので、自宅に書庫を備え、その書庫に正史写本を備えたいとする蔵書需要が、各地で高まったと思えるのです。あるいは、呉蜀の旧地の蔵書家が、財貨を傾けて、魏志、呉志の最善写本の収集にあたったとも見えます。紙製本時代になって、正史全刊の輸送も、汗牛充棟の大事業ではなくなっていたのです。

 北宋が外敵の侵入で突然崩壊し、逃避した皇族が江南の地で国家再建を図ったとき、咸平刊本を三国志翻刻の基礎とすべく探したものの入手できなかったので、最善の写本を翻刻して紹興本が刊行されたものと思われます。
 最善の写本というものの、厳格に管理された正規の写本工程で作成したものではなく、そのために誤写が散在していたのでしょう。その兆しが、小伝の小見出し省略に現れているように思われます。民間の手になるものであれば、伝統的に必須でない小伝小見出しは、省力化の対象となったのでしょう。

*紹熙本の由来推定
 紹凞本刊行の背景として、紹興本の刊行後、数十年して、忽然と咸平本写本の善本が得られたことによると見たのですが、どうでしょうか。
 紹興本が最善であれば、紹熙本の出る幕は無かったのです。恐らく、紹興本の編纂にあたった学者達が、紹熙本に不満を抱いていたが、その時点で最善だったので、妥協したものが、紹熙本原本が発見されて、「最善」の称号が移転したのでしょう。

 当然、紹興本刊行の費用と労力を無にする、不遜な重複とそしられたでしょうが、刑死の危険も厭わぬ決意を以て推進して、万難を排して刊本として翻刻し、更に咸平本帳票復刻を添付したのは、念願の善本を入手した関係者の無上の喜びの表現であったのでしょう。
 

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  2/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*紹熙本降臨
 以下、あくまで小説的な推測ですが、このような異例の事業が実行できたのは、紹凞年間、上皇として実権を把握していた南宋第二代孝宗の強い支援を受けたためではないかと推測します。

 孝宗は、宋朝皇族とは言え、皇位継承に無縁の太祖趙匡胤系子孫でした。北宋皇帝の系譜は、創業者である太祖の逝去の際に、弟である太宗趙炅が、太祖の息子である皇太子を押しのけて皇位を嗣いだことにより、以後太宗系が正統となり、太祖系の子孫は長く傍系に追いやられ、冷遇されていました。
 北宋亡国の中、有力皇族男子でただ一人江南に逃れ、南宋を再建した初代高帝趙構も太宗系でしたが、いろいろな事情があって、あえて、太祖系の趙趙昚を養子に迎えて後継者としたのです。いや、太祖京皇族は、中央から遠ざけられていて、しかも、皇族名簿に載っていなかったので、異民族軍の皇族狩りを逃れたと見えるのです。
 かくして、紹興三十二年(1162)に、南宋皇帝位は、高帝から新帝趙昚に譲位され、翌隆興元年(1163)に、ほぼ二百年ぶりに太祖の正統を承けた皇帝として就位したのです。

*考宗の野心
 このようにして皇帝となった孝宗は、宋王朝正統の復活を世に知らしめる野心を持ってして、万事に先代皇帝の単なる継承を超えた意欲的な統治を行いましたが、その一環として、高帝の事業とした紹興年間の三國志復刊、「紹興本」が、最善の写本を基礎と志したものの不完全であり、言わば誤って刊行された正史三國志であることから、これを咸平本原本により近い善本に基づく正しい刊本を刊行する事業に対して決裁を下したのではないでしょうか。
 国家事業を行うためには、臣下の稟申に対して皇帝の裁可を得る必要がありますが、紹凞年間は、上皇が最終決裁権を持っていたので、まずは、上皇の内諾を得てから正式に稟申し、無事上皇の裁可を得たはずです。
 関係者は、刑死も恐れぬ上申への上皇の支持に篤く感謝したはずです。

*考宗没後の展開
 ところが、刊行を目前に控えた紹凞五年(1194)に孝宗が急逝し、権臣が病弱を理由に第三代光宗を退位させて寧宗趙炅を擁立し建元となりました。
 このような事態の急変はあったものの、孝宗が強く支持した三國志刊本は、あくまで、孝宗の偉功として、紹凞年間に決裁が下りたことを込めて、「紹凞本」の名目で刊行されたように見えます。
 以上、空想も交えて推定した経緯のほかに、紹興本に続いて紹凞本が刊行された合理的な理由が考えられないのです。

 南宋により刊行された三國志紹凞本刊本(印刷原本)は、南宋統治下の江南各地に流通し、原本散逸の可能性は大幅に低下したのですが、それでも、今日、紹熙本善本は、元、明、清の歴代王朝の興亡に伴う大陸の動乱から隔離された日本での蔵書を利用しなければならなかったのです。

〇道里論~早々の自沈
 以下、著者の見識(の狭隘さ)をうかがわせるのが倭人伝道里論です。著者は、賛否の表明以前に、道里の合理的な把握はできていないようです。

 その証拠に、反対論として「数学的なトリック」、「欺瞞(錯覚)」、「不確定」、「誇大化」、「孫悟空の如意棒」と耳慣れない、痛々しい言葉を募らせて、敵を罵倒するだけで、倭人伝道里が、精々、一里100㍍に及ばない程度の「短里」で書かれているという「短里説」が不合理であるとする論拠は一切示されていないのです。これは、論理的ではありません。むしろ、窮鼠の悪足掻きを思わせます。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  3/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*「イメージ」戦略の怪
 また、「日本列島の正確なイメージ」を論じて趣旨不明な「大局的な視野」を誇示しますが、ここで問われるのは、移動経路沿いの北九州の土地勘であり、「日本全図」を書くのではないことが見失われているのです。
 三世紀当時に、列島の全貌を詳細に採り入れた「絵姿」(イメージ)なと、到底あるはずがないのに、得々と述べているのは、個人の幻覚を言いふらしているだけであり、読者にとって大変な迷惑です。
 要は、魏志倭人傳で書かれているのは、九州北部だけで、残りの日本列島は、陳壽が関知していないという倭人傳の基礎視点が欠けています。

 それにしても、魏使/帯方郡使が、現地の土地勘を書き出せないとしたら、軍事使節として不適格な「方向音痴」になるので不合理なのです。

*誤解による冤罪
 著者が非難する「短里論者が、陳壽の道里記事が正確であると決め込んでいる」という指摘が、認識不足の冤罪であることは自明です。普通に原文を読解すれば、倭人伝道里記事は、整然精密で首尾一貫しているのでなく、記事の出典に応じて整備されたものとわかるはずです。つまり、陳壽は、資料全体を通観した上で、時に推測を交えて、(微視的には不統一な)記事の大局を整合させています氏の断定は、対象資料を読解できない、「落第者」の詭弁であって、よく言って、負け惜しみと見えます。

 ご自身、地理的な事項を適確に認識する能力が欠けていて、勝手な幻想を思い描くしかできないのに、陳壽が、時代最高の叡知を注いだ記事の片鱗すらできない醜態であり、いかに強い口調で主張されても、あくまで「仮説」であり、検討の出発点として利用しているに過ぎないのです。

*また一つの誤解
 著者は、「魏志の記載に不正確な点があることが判明すれば、その時点で短里説が瓦解する」と自分勝手に見ているようですが、それは、偏狭な独善に過ぎません。いつから、氏は、神の立場に立ったのでしょうか。互いに六倍の差がある道里論で、里が60㍍でも100㍍でも、大局的に議論を左右するものではないのです。正確、不正確の視点が、「とっぱずれ」、「失当」になっているようです。

 史学は、些細な論点に囚われて、大局を見失ってはならないとするのが、正論と思います。まして、自分で理解できない論点に、勝手に重大な意義を持ち出すのは粗雑です。
 とくに、「魏志の記載」を理解する素養、不可欠な知識に欠けているのに、同時代唯一の資料を攻撃するのは、身の程知らずと言うべきでしょう。

*自覚のない見識不足
 どうも、筆者は、中等教育(中高)程度で習得すべき合理的、かつ計数的な見当識が備わっていないように思われます。

*見当違いの強弁
 それにしても、著者のように、ここぞと言うときに、俗説や勘違いも含めて、多彩な言葉の雨で根拠不明の意見を通そうとするのでは「論争」にならないと思います。「論争」に饒舌も絶叫する強弁も不要であり、寸鉄の論理の一言で議論は終結するものです。

〇改装のおことわり
 初稿は、ここまで一㌻、残り一ページの二分割でしたが、加筆の結果肥大して、現在の基準では、長すぎる体裁になったので、分割再掲載しました。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  4/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

○遅まきの本論
 さて、ようやく本論に入って、「一三〇〇余里」(108ページ)を本書著者の迷走の一例として提議します。論旨が一部重複するのはご容赦ください。
 なお、以下の引用は、最善の努力を払って原文の再現を計ったものですが、再現できていない部分があることはお断りしておきます。

4.陳寿のイメージ――「道程記事」
「一三〇〇余里」の解釈
 邪馬台国は、『魏志倭人伝』によると、伊都国(不弥国)から1500里(1300里)の距離にある。魏晋の尺度(一尺約二四・一センチ)からすれば、約650㌔㍍(565㌔㍍)の距離である。これを額面どおり受けとめれば、邪馬台国の所在地は九州島に収まらず、畿内大和にあったことを、つよく支持することになる。魏晋朝短里説、または局地的短里説に立てば、130~100㌔㍍(120~90㌔㍍)となって、北部九州説を裏づける。両説対峙して譲らないが、九州説には数学的なトリックがあるように思う。

*コメント
 誤解を自覚せず、一陣営をトリック(悪意による欺瞞)と断罪するのは道理に反します。論破できないから欺瞞と罵倒するのは子供の口げんかです。

 いままで、1300里という不確定な距離を計算するのに、これまた不確定な末盧―伊都国間500里や、対馬―壱岐間千余里と対比したうえ、現代の精確な地図と比較してきた。そこに、欺瞞(錯覚)がある。あまり自覚されていないようにみえるけれど、これは『魏志倭人伝』の地理観が正確であったことを、暗黙のうちに前提としている。あるいは、『魏志倭人伝』の数値と現実の数値は、比例関係にあることを、自明の理としている。比例法は「古代の地図は、絶対値では不正確であっても、相対値は正確だった」ということを前提にしているが、その保証は実はない。

*コメント
 欺瞞(錯覚)と括っても、両者は、全く別概念である。、「嘘つき」と断罪し、反発されたら「それは真意ではなく錯覚の意味です」と身をかわすのでしょうか。誤解との自覚の有無は言わずとも、なんとも不細工です。
 議論の段取りとして、目前の記事(文字テキスト)を根拠とするのは当然であり、「暗黙」の「前提」などないのです。
 これらの記事は、当然と確証されたものでなく、検討対象なのです。この論争に神がかった「保証」(誰の?)がないのは、水鏡に映った犬同様に、お互い様なのですが、それにしても、「比例法」とは何のことか。

 もし、陳寿や当時の中国人の地理観が、誇大化(意識的・無意識的を問わず)されたり、錯覚があったり、先入観によってデフォルメされたり、もしくは端から歪んでいたら(そもそも、日本列島の正確なイメージなど、当の倭人を含めて何人も持ち合わせていなかったのだから、ありうることだ)―、前提が誤っていたことになる。まして、北部九州説の仮想する〈ピンポイントの正確さ〉など、求めるべくもない。近世の中国に至る、あのアバウトな日本列島図をみれば、それは信じがたいことだ。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  5/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 著者は、文献解釈、土地勘に優れていると自負しているようですが、「地理観が、誇大化」とは、乱れた日本語です。ここは、「陳寿や当時の中国人の地理観」など特定困難なものではなく、現地と交渉のある帯方郡官人の地理観、魏使の一員で、現に、方角や道里を記録していたと思われる書記官(軍事探偵。おそらく、半島に土地勘のある帯方郡官吏)の地理観、いわば、地域専門家の見識であり、頭から馬鹿にしたものではないのです。書記官は、日誌上に現場の方角、方位、歩測を日々記録し、書斎暮らしの井蛙が数字遊びの空論をもてあそんでいる「安楽椅子探偵」とは違うのです。

 ここで、誰も主張していない「ピンポイントの正確さ」(意味不明瞭なカタカナ語)を揶揄しても、犬が自身の水鏡に吠えかかっているようなものです。最大の注意を払っても、当然、歩測、目測の誤差や誤記は自明です。

 まして、「アバウト」などは、程度の低い記者用語(意味不明瞭なカタカナ語)であり、ここで古代史論に持ち出すとは、愚劣の極みです。

*「アバウト」の怪談
 著者は、突如「あのアバウトな 日本列島図」などと勝手な言い方と「日本列島の正確なイメージ」と茫漠たる巨大概念で敵方の撹乱を計っていますが、目くらましにも何にも、具体的に何を指しているのか趣旨不明で、読者に伝わらないのは、いかにも拙劣です。三世記に列島図などあったはずがないのです。

*語彙の混乱、概念の混乱
 たとえば、全国歩測で描き出した伊能忠敬の日本全図のようなものが、三世紀当時に存在しなかったことは明確ですが、倭人傳冒頭に書かれている「倭人は帯方郡の東南方にいる」(倭人在帶方東南)とした倭人に対する「イメージ」(漠たる地勢観か)は、実用上十分なだけ正確であったと理解できます。
 少なくとも、本書著者のように、錯乱した地理観念を前にして書いたとは見えないのです。陳寿の歴年の考察の成果も、神のごとき著者の自負する明智にかかると、児戯に等しいものと見くびられたようです。

 この漠たる「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)に対する確たる反証の「イメージ」(意味不明瞭なカタカナ語)はあるのでしょうか。それにしても、「イメージ」とか「アバウト」とか、ガキ言葉連発は、著者が論争を維持する集中力の喪失を思わせ、痛々しいものがあります。

 北部九州説では、
・邪馬台国は、伊都国から約1300里、つまり、わずか「末盧―伊都国間500里」の2.6倍の距離にある
・ 2000里    >    1300里     >   1000里
 (対馬―末盧間)  (不弥―邪馬台間)  (壱岐―末盧間)
 だから、(不弥―)邪馬台国は末盧―対馬間を半径とする円周内に含まれる。
 これらの点から、九州論者は白鳥庫吉いらい、「北部九州内(せいぜい中部九州以北)に邪馬台国はある」としてきた。
 一見、もっともらしい論理だ。まるで孫悟空の如意棒のように、1300里が100㌔㍍前後に縮んだ。しかし、先の前提が崩れれば、たちまち瓦解するほかない。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  6/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*コメント
 「れば」は、仮定に基づく所感であり、学術の論には無用の言葉遣いです。「先の前提」の当否は、懸案となっていて、この後も論破されていないのです。つまり、単なる冗語です。また、信用をなくしています。
 「わずか」は、「」を飛び越えて「2.6倍」にかかるのでしょうが、これが「わずか」に見えると言うことは、よほど巨大な距離を先入観として持っていることになります。ともあれ、子供じみた乱文です。また、書かれている里数は、出典不明、根拠不明の数字の遊びであり、何の根拠にもなりません。またまた…また、信用をなくしています。

 それが、「孫悟空の如意棒」という、学術用語でなく「かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがない」比喩で不意打ちする動機になったのでしょう。著者の脳内は、奔放なイメージが乱舞しているのでしょうが、それを無分別にばらまくのは、大変迷惑です。

 言うまでもなく、「如意棒」は空想譚上の遊び道具であり、誰も実体を見ていないので引き合いに出すこと自体、ご当人の知性を疑わせるものです。

 脚もとをまさぐって手応えのあったものを、確かめもせずに相手に投げつけるのでは、投げるものがなくなったら「糞」を投げつける類人猿なみと見られても仕方ないでしょう。ご自愛いただきたいものです。

*反射的な言説動揺
 著者は、自説に基づく先入観を基準としているから、事態が紛糾して言い分に窮すると、感情が刺激されて劇的な(不法な)暴言を吐くようであり、著者と先入観を共有していない読者にしてみると、著者は、100㌔㍍(現代中国語で言う100公里)の距離を、自説に整合するように500㌔㍍以上に無理矢理引き延ばしていると見るものと思います。なにしろ、論議している千三百「里」を勝手に百㌔㍍と見立てて、論敵の取り付きようのない足場にしているので、論議にならないのです。
 論議の大半は、そうした思い入れのすれ違いから来るものです

 論争の際は、先入観に起因する感情的な意見/表現を抑えて、中立的な見解に言い換えないと、罵倒競争、子供の口げんかになってしまいます。こども返りとは、痛々しいものです。ここでも、痛々しいのです。

 しかも、直木孝次郎(「国家の発生」旧岩波講座『日本歴史』1 1962』や山尾幸久(「魏志倭人伝の史料批判」1967)が指摘するとおり、1500里を比例値(最大150キロ)とする場合、一日行程50里(漢魏里で21キロ前後)で計算すると、せいぜい五日もあれば十分だ。

*コメント
 「一日行程50里」(普通里で25㌔㍍)の前提は、道路整備と宿所の整備ですが、倭人傳は、倭地街道の整備は語っていないのです。
 途中に補給拠点(宿駅)がない場合、大量の食料と水を抱えて進むことになり毎夜野宿になります。それだけの重荷を抱えて、野宿明けを、歩調を落とすことなく、淡々と歩いていけるものかどうか。

                                未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  7/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*合わない勘定
 更に深刻なのは、一日21キロなら五日で150キロ」とおっしゃいますが、これでは算数の勘定が合わないので、筆者の感覚はどうなっているのだろうかと不審に駆られます。ここでも、痛々しいのです。

 もっと肝心なのは、それがどうした、と言う素朴な反問に対して、答えに窮するのです。「倭」は、最大でも末羅国から徒歩五日程度、つまり、手近に在るというのは、文書交信できなかった古代の世界観で言えば当然です。
 この間に一ヵ月かかるようでは、国が成り立たないのです。自滅発言です。

*引用の不備
 因みに、直木、山尾両氏は、古代史学界でも、群を抜く知性、学識の持ち主であり、そのような暴言は吐いていないはずです。おそらく、はっきりした前提があってのことであり、両氏の著書に示された潤沢な論考のごくごく一部、自分好みの数字だけ取り出すような勝手な引用は、そもそも不適切でしょう。御両所の名声に、勝手に泥を塗っているのではないかと危惧します。

*不手際の是正待望
 案ずるに、筆者は、上位職種で、周囲に相談相手もご意見番もいないように思われます。数字に弱い人は強い人の助言を仰げば良いのであり、自分がよくわからない事項をわからないままにして、読者に錯乱状態をさらけ出す書物を出版してしまうのは、高名な著者の晩節を汚すものでしょう。
 こうしてみると、著者が、独力でできる最善最強の策は、不得意な算数論理に深入りせず、「短里が施行された証拠は一切なく、そのような架空の短里説に依拠した比定もまた架空である」と単刀直入に指摘する高度な戦略であったように思われます。

*講談ネタの乱入
 他の不適切な論証の例で言えば、130ページで、筆者は、卑弥呼の第一回の遣使を景初二年でない根拠の一つとして、「明智光秀の毛利への使者が秀吉の陣に迷い込んだ故事と同様の間違いを起こしかねない」と揶揄していますが、挙げている故事は講談ネタであって、史実でなければ学術用語でもなく、かかる論争の際の言葉遣いとして不適切としか言いようがないと思います。

 手短に言うと、秀吉は、西方の毛利高松城を包囲布陣していたので、京都方面から西進すると、まず秀吉陣にぶつかることは、子供でもわかることです。知将光秀が、毛利に密使を派遣する時、秀吉陣の迂回を厳命するはずです。講談ネタが広がったとすると、それは、秀吉が、自分の間者の通報を合理化した宣伝工作となります。

*両郡調略の知略
 魏が遼東公孫氏を攻略するために、半島中南部や倭国にどのような宣撫工作を行ったかは、正史に明記されていないのですが、兵法常識として、遼東に派兵したときに、半島中南部や倭国からの公孫氏支援軍に攻撃されると、上陸軍が窮地に陥ることは明白であり、物の道理からして、事前に、両郡を勅命によって血を見ることなく皇帝傘下とし、両郡管轄下の東夷に対して、相当念入りに宣撫工作したことは明らかであると思います。
 このあたりは、当然自明なので、正史は省略しているのでしょう。明記されていなくても、自明と示唆されているのは、明記に等しいのです。

                               未完

私の本棚 3 岡本 健一 「邪馬台国論争」 改頁版  8/8

 講談社選書メチエ 1995年7月刊
私の見立て★☆☆☆☆ 見当違いの強弁が空転 2014/05/17 補追 2021/12/23

*両郡調略の知略(承前)
 因みに、両郡調略は、戦後処理において、両郡の東夷管理体制を活用する主旨であり、事後、海上交易に活用可能な大量の兵船造船と相俟って入念な地域振興策構想を思わせます。
 これは、遼東郡攻撃で、軍功と事後の昇進を掲げて猛攻し、公孫氏だけでなく配下の郡高官まで殲滅して、以後の高句麗当の統御を困難にした司馬懿の武断の愚行とは、明らかに、別系統戦略であり、恐らく、明帝と腹心の毋丘儉の合議によるものと思われます。明帝が、早死にしなければ、東夷は、ゆるやかに、両郡の支配下に確保されたものと思われます。

*景初遣使の急迫
 そのような帯方郡の宣撫を承けて、「唇亡びて歯寒し」、次は、我が身かとあわてふためいた倭国が急遽遣使したとしても不思議はないし、魏朝が、宣撫に対する応答として好ましいから最恵待遇でこれを迎え入れたとしても、むしろ当然の対応と思われるのですが、いかがでしょうか。
 一年遅れて、万事形勢が定まってからの遣使では、むしろ、太公望の宣言ではないですが、「遅れて至るものは斬る」で討伐の対象になりかねないのが歴史のならいです。

 虚心で史料に向かえば、このような推測ができるのですが、著者の目は、先入観で曇ってはいないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」、とは孔子の言です。まさか、先行する各書籍から、「コピー」「ペースト」して、一丁上がりだったのでしょうか。情報に飛びついて、「裏」を取らないのでは、著者の報道人としての名声が泣こうというものです。

*講談ネタ謝絶宣言
 安直に「講談ネタ」を本件の引き合いに出したのは、著者への信頼を大きく損なうものでした。痛々しいのです。それにしても、一流の出版社には、練達の校正担当者がいて、こうした筋違いの記述にだめ出しするはずなのですが、本書に限っては、記事校正を省略したのでしょうか。

*失われた理念~敗れ去った虚説
 関係者打ち揃って、本書を企画したときに、自らに負託した責務を失念したようです。また、別途付託されたと見える「密命」も、これでは、未達成に終わり、「虚説」として低落し続けているようです。

 それにしても、本項で指摘したのは、倭人伝の史料解釈のつたなさであり、氏の本領では無いのかも知れませんが、聞く相手を選ぶのも器量なのです。
 専門分野別に、執筆を分担するのも醜態を避ける一案です。

*直言宣言
 さて、以上、ずいぶん失礼な言い方だと思われる方もあるでしょうが、当方は、無位無冠無職なので、学会で地位を高めたいという野心もなく功名心もなく、ただひたすらに率直な意見を述べることを趣旨としているので、行きがかり上、無遠慮で手痛い言い回しがあっても、故人攻撃的な趣旨は毛頭ないことをご理解いただきたいと思う次第です。

 むしろ、学界の大家と目される方たちには、わざわざ苦言を届けてくれる率直(馬鹿正直)な取り巻きはいないと思うので、意を決して、一連の書評の提供を開始した次第です。

                                以上

2021年12月22日 (水)

新・私の本棚 番外 毎日新聞夕刊「今どきの歴史」 2019年4月 歴博記事の怪 再掲

                      2019/04/22 2021/12/22

*厄介な提灯持ち
 今回の題材は、配達されたばかりの毎日新聞大阪3版夕刊文化面に記載されているかこみ記事である。旧聞であるが、深刻な問題を含んでいるので、再掲した。
 歴博「先史・古代」展示を一新  新年代が変える定説
 と、厄介な意見を書き立てている。

 当たり前と思うのだが、歴博が展示を一新したとして、それで「定説」を変えることなどできるはずがない。定説は、例えば、学界の大勢が支持するから定説であり、特定の一機関が、途方もない大声を上げたからと言って、それだけで「定説」が変わるものではないと思う。
 それとも、毎日新聞には、定説を変える権威でもあるのだろうか。

 そもそも、そんな雄図があるのであれば、堂々と記者会見の場で発表して、資料公開すべきであるが、ここに掲載されているのは、担当記者の見学記であり、歴博が責任を持った発表資料が引用されていないし、公式見解に対する責任者の表明もない。国立機関の情報公開として適法かどうか疑わしい。

 担当記者は、「日本列島の人々の暮らしの様相」が一新されたと言う。多分、現代でなく古代の「人」々のことだろうがどんな手段を使おうと、過去の人々の暮らしの様相を「一新」させることなどできるはずがない。
 あくまで、歴博の孤独な仮説が、展示物として表現されているだけであろう。記者は「刺激的だ」とグルメリポーターばりに絶叫しているが、何がどうなっているのか読者に伝わらない。これでは、個人的な感想ばかりであり、新聞報道として無意味である。

 続いて、素人目には、歴博の近年の研究予算(ヒト、モノ、カネ)、つまり、国費の大半が、極めて多額の費用を要するC14年代測定(ずり上げ)に投入されていると見えて、その成果と見える大胆な研究発表で学会の反対論を浴びていると書かれているように見えるが、それによって「定説」がどう変化したと書かれていないから、素人目には、当然出て来る反対論を、適確に克服できていない、つまり、孤立していると見えるのである。もちろん、部外者の推定であるから、見当違いであれば幸いである。

 その後も、降りかかる火の粉ならぬ、許多の反対論を無視/黙殺して同様の趣旨のデータ蓄積を進め、定説と異なる年代区分を形成したあげく、今回、手厚く正当化した独自の主張が展示されたらしいと見えるのである。(歴博発表資料が見えないので、記者の感想に過ぎないとも言える。それとも、読者は勝手に、歴博サイトを見に行けというのだろうか)

 記者は、無頓着に、歴博の提示した年代区分から、多くの興味深い「事実」が浮かび上がるというが、歴博が展示で表現した作業仮説から「事実」が浮かび上がるはずはないので、これは、記者の錯誤というか白日夢なのだろう。まさか、歴博が、これが「事実」です、と言ったはずはないと思う、いや、確証はないから憶測する、のである。

 手っ取り早く言うと、ふと現実に立ち返った記者は、これでは、歴史考証で想定する「定説」と食い違うので、別のストーリーを創出しなければならないという感想のようである。いや、繰り返すが、これは記者の個人的な感想であって歴博の公式見解ではないと思われる。歴博は、文学者ではないので、いくら経費がかからないとしても、新たな創作活動に耽るはずはないのである。

 歴博は、稲作の伝搬を、定説がもたらしていた神がかった速度でなく、人間業として解釈できる緩やかさであったと提唱しているようである。但し、記者の引用を信じるなら、九州北部に紀元前10世紀後半頃に海を越えて伝搬した稲作が、近畿に伝搬するのに300年程度、関東南部に伝搬するのに、さらに、300~400年程度要したということらしい。この推定自体は、あくまで仮説であり、批判したくても、元データも何も見えないから、個人的な感想を持ち出すことになる。ご勘弁いただきたい。

 個人的には、紀元前10世紀後半とは、黄河文明では周王朝の時代であり、どのような時代背景で稲作集団が乗り込んできたのかと思うものであるが、凡人にはどんな「事実」も浮かんでこない。

 一方、稲作前線が緩やかに東進したと想定されていて、当然の帰結として、日本列島内で地域地域の独自の文化展開があったという、これまた、人間くさい様相が想定されていて、ほっとするものがある。

 そこで、記者はまたも、白日夢に陥って、日本列島の先史・古代の「実像」を実見したらしいが、映じられているのは、どうやら記者の脳内だけなので、凡人には窺うことができない。それとも、歴博はVRでも導入しているのだろうか。華麗なイリュージョンは、国立研究機関の税金の無駄使いなので、ご勘弁いただきたい。

 ここで、記者は現実に立ち返ったか、今回の歴博展示は、博物館の大勢に逆らう異端なものと示唆しているが、記者が認めるように「過渡期」の異端説は定着するかどうか不明だし、測定結果の信頼性も検証されていないように見える。そのようなリスクを抱えた異説に大金を投じてもっともらしく展示することを、歴博はどのように正当化しているのだろうか。一度、業務監査いただきたいものである。

 最後に、歴博責任者でなく、展示リニューアルの指揮者として教授が登場するから、以上の記者感想が、歴博の支持するものかどうか不明である。監督官庁を巻き込んで、展示リニューアルへの大金投資を承認させた説得力は、相当なものと推定するしかない。

 その教授の発言として、「弥生時代に限れば、開始が何百年も遡るのは間違いない」としている。「間違いない」は、各界の承認を得た定説ではなく、個人の感想と見るしかないのだが、要は、稲作の開始を500年遡らしたため、それに引きずられて、稲作前線の展開に500年余計にかかったと見えるだけである。それもこれも、C14年代測定がそのように出てしまった辻褄合わせとも見える。この部分は、教授の発言が忠実に引用されたと見えるので、きっちり批判するものである。

 総体的に、本連載の担当記者は、脳内に独自の仮想空間を形成して、そこに形成された「実像」を見ているので、客観的事実の報道と受け取ることはできないと見るのである。
 記事全体に教授談話を引用しているのなら、教授を的に記事の当否を議論できるのだが、当記事の書き方では、ほぼ全てが記者の感想であり、議論のしようがないのである。

 以上の通り、当方は、担当記者に対して批判を述べているが、それは、このようにお先棒担ぎの無批判な報道は、毎日新聞の品格に相応しくないと信じるからである。記者が、ブログででも、個人名で意見公開するならここまでは言わないが、毎日新聞夕刊文化面に堂々掲載されているから、物差しかきついだけである。

以上

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 1/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09, 12/22

■おことわり
 中国古代で「漢」は中原王朝の一般的呼び方で、高祖劉邦の創業した「漢」だけを言うのではありません。ということで、以下、便宜上、隋、唐、いずれについても漢使等と称します。連動して、遣隋使、遣唐使は、遣漢使と均しています。ここだけの話です。

*暫しの饒舌
 しばしば誤解されますが、古代には、夷蕃との「国際」関係は存在せず、「漢蕃関係」しか存在しなかったのです。是非是非ご留意ください。言うならば、漢にしてみると「蕃人」の取扱であり、「鴻廬」なる主要官庁の任務の一つは、蛮人をうまくあしらって、辺境に侵入しないように、適度のアメをしゃぶらせ手、大人しくさせることにあったのです。

 それにしても、「国際」とか「外交」とか、古代史談義に現代語を無造作に適用する時代錯誤が、多くの人の正史理解を妨げているのは、まことに残念です。但し、「外交」は、夷人の国、「外国」との「交渉」を意図しているのであれば、古代にもある程度通じるものです。

 もちろん、漢と対等の国は、高祖劉邦親征の官軍と交戦して勢威で圧倒し、有意な状態で講和条約を締結した「匈奴」が唯一の例外で、匈奴は、「敵国」、対等の交渉相手と尊称されたものの、他の蛮夷は、虫けらに等しい蛮族扱いだったのです。
 鴻廬も、「匈奴」は、漢人を幕僚に入れていたので、「客」扱いしなければならなかったのです。

*敵手の座
 つまり、匈奴には教養のある漢人が仕官していて、堂々と文書交信、契約締結が可能だったのです。まさしく、盤の両側に座って、力と技を競い合う「敵手」だったのです。

 ただし、そのような蕃人扱いは民族差別と直接関係していないのです。漢人の信奉する信条に帰依し、先哲の古典書を真に読解したものが、華夏文明に属するのであり、それに属しない、つまり、そのような教養に欠けるものは、言うならば、「法と秩序」を知らないのであり、「盟約」を結べず、結んでも、代替わりなどで霧消し、無効になるので、それ故に人間扱いしないという事だけです。いわば、一神教教徒が、異教徒を心から信じないのと同様です。

 素朴に言えば、文字を解し、言葉を話し、書経を諳んじることが、蕃人扱いを脱するための要件なのです。

〇初めに
 本稿は、日本書紀推古紀の漢使記事の幾つかの難点への解を求めたものです。いわば、高度な史料批判(テキストクリティーク)を進めたものです。ただし、直接、隋書と突き合わせて記事のアラ探しをするのではなく、極力、当時の視点、常識に基づく、ものの理屈を貫く所存です。
(隋書視点の解釈は、別義です)

 なお、日本書紀推古紀(条)の漢使来訪挿話の編/著者を「挿話筆者」と呼ぶことにしました。

〇その壹 滞在中日程の怪
 そもそも、この「漢使」(大唐使)記事の時間経過が不審です。
 漢使は、推古天皇十六年(608年)四月に筑紫に到着後、六月に難波客館に入ったとされています。ほぼ二ヵ月の期間で長距離移動は大変快速ですが、少し考えればわかるように、不審なのです。
 推古紀の設定では、漢使一行は、帰国の遣漢使を引き連れて、あるいは、主客転倒で、帰国の遣漢使が漢使を引き連れて、筑紫に着いているので、俀国側は、それこそ「寝耳に水」の「サプライズ」で、腰を抜かさんばかりだったでしょう。漢使は、大振りの帆船に、百人規模の武装集団ですから、侵略者でないことを確認するまでは、それこそ、天下の一大事と軍関係者に触れ回ったことでしょう。遣漢使が下船して、身分と使命を告げて、何とか沈静化したことでしょうが、「サプライズ」で冷水を浴びせられた面々は、穏やかではなかったでしょう。

 そのようにして予告(前触れ)なしに押しかけてきた「賓客」が、案内なしに移動したはずがないのです。当然、受付の者が漢使の到着を報告し、王の指示を仰ぎます。当時は、九州筑紫と奈良盆地を結ぶ街道も航路も未整備なので、急使を飛ばしたとしても、ひいき目に見て、往復で二ヵ月所要と見ると、四月到着の報告への折り返し指示が届くのは六月です。それを受けて、漢使がすぐ発進しても、難波到着は八月以降と思われます。長距離を、一応半分この理屈であり、総行程二ヵ月で到着できるとは、到底思えないのです。いや、実際に移動したという記録(evidence)があれば、書けば良いのに、なぜ、大事な行程記録を飛ばしたのか不審なのです。

*漢使移動日程の怪
 記録を見ると、筑紫到着から客館の間は二ヵ月、六十日で、三度の移動は各二十日となります。
 但し、貴人の客は、身軽で旅慣れた文書使の快速移動と同じ速度では、移動できません。文書使は、代え馬や人員交代で強行できても、漢使は、各地で饗応を受けながら、ゆったり移動するしかないのです。どの程度ゆっくりなのかは、ここでは書きませんが、とにかく、ゆっくりするしかないのです。二倍、三倍かかっても、特に不審はないはずです。むしろ、各地で饗応したとの記録があれば、そのまま書けば良いのです。

 両地点間の道程を、現代単位五百㌔㍍(公里)に丸め、二十日間で踏破とすると、一日二十五公里移動が必要です。街道完備の中原で、所定の移動速度は、一日二十公里(普通里で五十里程度)程度とされているようなので、未開地に、漢使を饗応するのに相応しい街道、宿駅はあったのやらなかったのやら、つまり、途中の宿があったのやらなかったのやら、そのような未整備の旅程を、中原の整備された街道の行程を上回る移動速度を達成するのは、大変困難、つまり、不可能と思われます。して見ると、当記事は、史実でなく創作と見ざるを得ないのです。

 いや、既に東西を結ぶ街道が確立できていたなら、標準日程が確立されていたはずであり、妥当な日程が書けたはずなのですが、無理な強行日程を書かざるを得なかったのは、何か、下敷きにした史料がそうなっていたので、このような無理な日程を書かざるを得なかったのでしょう。
 後は、原史料からの創作の見極めとなります。

*日程創作の検討
 諸般の事情を考慮し、当時として実現できそうな漢使移動日程を推定すると、難波到着は、入国以来六ヵ月経た十月、帰途の筑紫発は、当然、年越しとなりそうです。このあたりは、八世紀初頭の挿話筆者の苦心の作でしょう。

 現代感覚で言うと、無理のないように資料の日程を修正すれば良いと思いがちですが、書紀記事に見られるように、当時の日付は何月何日というものでなく、日々逓増する干支表示であり、また、公職にある暦制専門家以外には、任意の日付の干支は特定できないので、挿話筆者が日程の是正を望んでも、日程書き換えは想定しがたいのです。まして、下敷きになる資料記事があって、それに従わざるを得ないとしたら、原資料に基づく日程を書き換えることはできなかったのです。

*筑紫滞在~妥当な代案
 ということで、原史料の日付は操作されていないと見て、筋の通った、つまり、実現可能と思われる成り行きを推定すると、本来は、漢使が筑紫周辺に滞在したのを、東方に長駆移動したと創作したと見るのが、最も無理の少ない推測となります。つまり、「到底実現できないと見え見えの長駆移動がなかった」ように是正すれば、移動日程の無理は、あっさり解消するのです。
 客館が筑紫であれば、漢使の休息、検疫を見ても、二ヵ月の待機期間は十分です。

 到着報告を急報して、行幸に三ヵ月程度とっても、八月に引見できます。長期間を要する移動がなくなれば、虚構日程との批判は克服されます。また、俀国王の都の所在論議も不要です。言うまでもないでしょうが、漢使の滞在した「難波」が、河内湾沿いの低湿地の事かどうかは不明なのです。
 筑紫には、三世紀以来、帯方郡からの使者が着いていたはずであり、「客館」ならぬ迎賓館があり、接待の体制があったとしても不思議はありません。何にしろ、どこまで移動するにしろ、筑紫で一旦足をとどめて、入国検問が必要であったことは間違いないのです。防疫管理だって必要です。

*漢使下向説の怪
 漢使引見を、奈良盆地でなく筑紫の「行在所」(御旅所)で行うのは、漢使を、危険極まりない異郷の長旅を課して、遠路はるばる参上せよと「呼びつける」のに比べて、格段に「合理的」であり、礼を失しないものです。まして、俀国王の一行が、遠路を自ら筑紫に移動すれば、片道移動分の日数が節約できるのです。国王移動/行幸であれば、半年かけて準備できれば、何とかこなせるのです。食事が違い、寝床、枕が違い、言葉の通じない異人(貴人)の客一行を、準備無しに受け入れて、二ヵ月(以上)にわたり、道中各地で饗応するのより、「随分」対応しやすいのです。

 因みに、皇帝の使人、つまり、名代として蕃夷に派遣される漢使一行は、兵士を含めて千人が定例ですが、これほどの武装した一団の国内通行を許すのは、主権侵害とも見えるのです。あるいは、そのような事態を融けるために、皇帝の命を受けた漢使が、異国の指示で武装解除、つまり、降伏した敵国人同様の待遇に処せられるのは、皇帝に対して無礼そのものではないでしょうか。このあたり、さながら地雷原を踏んでいるように見えます。

*前例踏襲~漢書「西域伝」「安息国条」の教え
 漢使引見の前例として、漢書「西域伝」の「安息国」訪問記が上げられます。其国王は、漢使の到来を知って、西方数千里の国都から東の辺境拠点の要塞まで詔書を送り、現地のいわば鎮守将軍である長老に漢使を出迎えさせたと見えるのです。(夷蛮の国に「都」を許しているのは安息国だけです)時に、漢使が、長途地中海岸まで出向いたとする思い付きが語られることがありますが、どんな国家であろうと、武官を国内縦断の途に遇するのは、問題外です。安息国は、かって、東方からの侵略者に国土を蹂躙されけているので、同類と見える漢人に気を許すわけはないのです。ついでながら、当時、パルティアは、西方のローマと交戦状態にあり、至近のシリア/レバノンに四万のローマ兵が駐屯していたのです。ますます、東方の夷蕃のものを王都に招聘することなどなかったのです。いや、これは、世上にある、ローマ-漢の交流という空想譚に対する反論であって、目下の、漢使東征論に対して、参考にしていただきたいと思ったものです。

 つまり、蛮使の応対で、名代を立てるなり、あるいは、国都から行幸するなりして、短期間で引見するのは、異例ではないのです。むしろ、中華天子の名代を、延々四ヵ月かけて往復移動させるのは大変非礼なのです。

*急遽の一解
 以上は、根拠のない憶測ですが、仮に、当方が当時に生きていて、献策を求められたら、この解法を提言するはずです。
 以上、第一の難点への解です。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 2/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30

〇その貳 隋書「俀国伝」道里の怪
 隋書「俀国伝」を読み直すと、まずは、隋書記事の由来が問われます。
 結局、「俀国伝」の基礎は「三史」、「史記」、次いで「漢書」、最後が「後漢書」の倭記事であり、次いで三国志の「魏志倭人伝」が根拠です。

*俀国伝道里考
 俀国は「新羅の南方」と書き起こし、半島南端に近い新羅から水陸三千里は、「倭人伝」の狗邪韓国からの渡海里数三千里が根拠でしょう。つまり、慶州(キョンジュ)から俀都までは倭人伝「里」を踏襲した道里ですが、九州の内陸里程は、端数として三千里に吸収されたとも読み取れます。「三」千里は、千里概数で、「五」千里に届かない範囲なので、四千五百里程度まで見込めるからですが、そうした議論は、見たことがありません。

 俀国王治は、上陸地。ないしは竹斯国の近郊、ひょっとすると竹斯国の内部となります。この倭人伝道里観は、前世史書の合理的記事が、後世に継承される好例です。

*行程記事考
 それはさておき、俀国道程は竹斯国が終点とも見えますが、行程記事であって道里はありません。
 「後漢書」、「魏志」に既出の行程は簡略で、初見の行程は多少丁寧という程度のようです。例えば、半島沿岸行程は前世史書(「倭人伝」)に存在しないないから、百済王治泗比に立ち寄った後、西岸を南し竹島を経て耽羅で東に進路を転じて対馬を目指す道程が「新規に」書かれていて、伊都国後身とも見える竹斯国に至るのです。
 そして、竹斯国以降、何れかの長旅に出たとは書かれていませんから、順当に考えると、漢使は、ここを旅の終点としたことになります。

*後漢書の刷り込み
 三史観点に戻ると、俀国事情として、「都於邪靡堆」は、「大倭王は邪馬台国にあり」とする前世史書「後漢書」の承継でしょうか。後世記述の魏志「倭人伝」の「邪馬壹国」でない理由も含め何も書かれていません。自明なのでしょうか。普通に考えると、倭の王治が移動したということのように見えます。
 なお、ここでは、俀国には「都」があったと述べているのです。

 因みに、魏晋代までは、蛮王の居処を「都」と呼ぶのは回避したのですが、隋書では、無造作に「都」と書いています。西晋亡国後の混乱、南朝逃避、北朝乱入の動乱を経て、もはや、太古以来の伝統的辞書は、絶対ではないのです。
 何しろ、隋は、西晋を滅ぼして漢人政権を江南に追いやった「蛮人」の後裔なので、漢蕃の意識は変化していたのです。
 竹斯国まで、対馬、壱岐だけで、倭人伝で、道里行程を紹介された末羅、伊都、奴、不彌、投馬、狗奴は消息不明です。倭人伝で記録済みであり、自明なので割愛したのでしょうか。

*竹斯見聞記
 魏志「倭人伝」の道里行程記事は、東方を明記していないのですが、隋書は「十国余りを過ぎ海岸に至る」とします。倭人伝に、倭国から東方への渡海が示唆されていても、後漢書には渡海はないので、東方に実際に移動したとすると、新規行程記事が必要なはずですが、東方各地に立ち寄った記事はありません。
 また、海岸に「津」、つまり、船着き場があったとも書かれていなくて、そこからどこへ行けるのかなどの詳細も略されています。因みに、「海岸」は浜辺などでなく、岸壁のある港の「陸地」なのですから、単に海が見えたとの記事とも見えます。
 して見ると、この部分の意義は、俀国の東に、渡海できそうな海港があると確認しただけであり、それ以前の竹斯以東の秦王国などは、悉く実見でなく未踏のようです。

 また、推古紀にあるように、長い月日を待機と移動に費やしたのであれば、その経緯は、随行した書記役が記録しているはずであり、また、現地の掌客も、随時口頭なり文書なりで説明したでしょうから、これも、記録に残るのです。

 漢使は、帰国後、俀国王の国書提出もさることながら、長期の滞在中、一体何をしていて、何を見聞したのか、報告を求められ、当然、克明に報告したはずですから、漢の公文書には、裴世清の紀行文が遺ったはずです。にもかかわらず、隋書に、そのような東方紀行記録が、示唆すらされていないのは、大いに不審です。
 なお、俀国伝には、竹斯国で取材したと思われる地理風俗記事があり、文中、阿蘇山ともに有明海に触れていて、俀国の西に海があると示唆しています。つまり、竹斯国は、洲島、つまり、海流の中の島という地理観でしょうか。なら、なぜ、瀬戸内紀行記事がないのでしょうか。

 裴世清は、『休暇を取って、自費で物見遊山に赴いたのではない』のです。

*創作記事考
 前節で、「書紀」記事に拘わらず、漢使が竹斯に留まったと見ると日程の筋が通ると書いたのですが、「俀国伝」の後続記事はこれと符合するのです。隋書」が、蛮夷文書である「日本書紀」に合わせたはずはないので、「隋書」は、隋にとっての史実を反映していると見るのです。

 そもそも、蛮夷が史書を編纂するのは、私撰であって大逆罪なので、遣隋使、遣唐使が、「日本書紀」を「正史」として献じることはあり得ないのです。

 確認すると、挿話編者は、書紀記事に挿話を追加する際、日付の整合は不可能だったので、熟慮の末、日付創作を断念し、明らかに実施不可能な日程のままとして当否を後世の叡知に委ねたと見るものです。その主旨は、隋、唐の「誤記」を放置していることで明示されていると見るものです。

 因みに、挿話原史料は、二十五年後舒明天皇四年(CE632)到来の大唐使高表仁記事と見ます。もちろん単なる憶測ですが、他に転用可能な漢使来訪記事事例が見当たらないので。一案として提示します。

 因みに、高表仁は、遣唐使帰国と同行していて、前例を踏まえた受け入れ体制も幸いして、早々に「難波」入りしているようですが、裴世清記事のうろたえブリから見て、確かではありません。丁寧な「テキストクリティーク」が必要です。

 以上、第二の難点への解です。
                                未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 3/6

 隋書俀国伝考察付き               2020/02/28 補充再公開 2020/06/30 2021/02/09

〇その参 掌客の怪 その1
 以下に述べるのは、紙背を読む隋書考証です。

*鴻廬掌客の誤解
 書記記事を読む限り、この時の献使と来訪が、初めての漢蕃交流であり、つまり、大和側は、帰国した通詞の報告で漢制を理解しようとしていた段階であって「鴻廬掌客」の深意を理解できていなかったようです。

*三名の絶大な使命
 まず目につくのは、中臣宮地連摩呂(「連(むらじ)」は高官です)等三名の掌客任命です。しかし、素人目にも、これは漢使来訪接待に行き届かないと見るのです。前例のない掌客の実務は、(書紀の記事を真に受けると)筑紫、難波、大和の三箇所で大量に発生し、何も知らない各地諸部門に、期限付きの饗応指示を出し、都度進度を確認し、その際の報告上の手違いは、手早く是正する必要があり、各地に三人いても人が足りないのです。

 つまり、そのような応対は、各所、各部門の全員に、実務手順、分担とそれに基づく豊富な経験がない限り実行不可能です。何しろ、掌客自体が素人なので、現場でつきっきりになって指導してすら事の運びが覚束ないのですから、月日のかかる交信を介した遠隔指導などできないのです。

 この下りの考証は、遠距離移動を前提とした日程、地理記事に不審を感じさせる重大な要因でもあります。

*「掌客」語義考
 ということで、新任された「掌客」を復習しますが、鴻廬なしのただの「掌客」であり、常設部門がなく、漢使到着に慌てふためいて担当官を速成したようです。
 「掌客」は、中国古典での用語では、単に賓客を饗応すると言う意味です。つまり、挿話著者は、基礎教養が豊かであり、漢語、古典漢籍に通じていたのです。
 つまり、「掌客」が蕃人応接役の意味と気づかなかったのですが、漢使は、蛮夷の国に着いて「掌客」、つまり、蕃人接待役に応対されて、自分が蕃夷扱いされていることに対してどう反応したのでしょうか。
 もちろん、漢使が「客」と蕃人扱いされたのが、皇帝の耳に入れば、一同揃って、文字通り馘首です。(解雇ではなく、死刑です)

 なお、使人裴世清を「鴻廬掌客」と見たのは、渉外部門接待役の来訪との勝手な表記です。ここは、漢使の身分を知って書いたのでなく、独自に推定したものなのです。あるいは、遣使の長安鴻廬寺滞在中の饗応役の官名の名乗りが報告されていたのでしょうか。

 こう考えてみると、「書紀」の任命記事は、教養人が古典用語の「饗応」をにわか作りの官名に充てたのであり、鴻廬寺・典客署(煬帝時、典蕃署)・掌客(担当官)という官制に習った官僚組織階梯がなく、三人全員一律任命ということは、当時、少なくとも、鴻廬寺が司る漢蕃対応組織は存在していなかったということです。これは、「隋に至る各代王朝と漢蕃交流が一切なかったため、物知らずである」という自認の通りだったのですが、これは、魏晋との交渉も、南朝との漢蕃交流も、何ら、記録、継承がされていなかったと感じ取れます。

*漢制掌客
 かたや、漢制における「掌客」は、蛮夷受容を司る鴻廬寺の(最)下級職であって、来訪者に言葉と礼儀を教えて、上司の丞、さらには、遙か高位の鴻廬卿との面談に耐える程度の応対を仕込む、いわば窓口係官です。

 「来客」は、窓口が漢蕃関係の始まりのため、「掌客」を漢の代表者と刷り込まれたかも知れません。「掌客」は、「来客」同行の通詞と意思疎通を図り、ひいては、「来客」に漢礼を教え、滞在中は食事と宿舎を提供しよろず相談に乗るので、大変印象深いでしょうが、所詮、温順な東夷の面倒を見る役どころの下級役人です。(商売繁盛している西戎、南蛮や、喧嘩腰の北狄とは、別の扱いなのです

 太古以来の官僚組織は精緻であり、各部門人員定員の訓練が行き届いているので、規則ずくめというものの万事に整然と対応できるのです。

*鴻廬寺来歴
 高麗館の上手(かみて)に新設の迎賓館を「鴻廬館」と呼ばなかったのは、偶然としても妙策です。「鴻廬」自体、蛮夷対応を示す漢制部門名ですから、東夷の地に、そのような不法な名称は、あってはならないのです。

 隋唐制では、鴻臚寺の「長官」である鴻臚卿は、正三品の高官有司ですが、この位置付けは、恐らく、古くは秦制以来、組織名、官名は変わっても、帝国要職として維持されていたはずです。
 夷蕃の「客」を応対する典客署(煬帝:典蕃署)の令(部門長)は、大きく下って正八品であり、担当者である掌客は正九品です。つまり、官人最下級の格付けです。中臣宮地連摩呂のような政府高官の職ではないのです。

 但し、そのような組織体系は、漢制に通じた者しか知らないことであり、現代に至っても、正しく理解されていない場合が多いのです。
 つまり、漢律令に書かれているのは、中華文明の天子のもとでの官制であって、東夷のものには官制が及ばないことを見逃しているのです。
                               未完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み     改 4/6

 隋書俀国伝考察付き                   2020/02/28 追記2021/02/09, 12/22

〇その参 掌客の怪 その2
*煬帝の指示
 隋書俀国伝を復習すると、漢使裴世清派遣の成り行きは、以下の通りです。

 皇帝は、鴻廬卿が取り次いだ蕃客国書を、「天子」を僭称し皇帝に挑戦する大逆と激怒したのであり、上程した鴻廬卿は、本来、馘首される所ですから、よく、叱責だけで、命があったものです。
 これが、長らく抗争していた北の宿敵突厥の書信なら、皇帝を名指しした挑戦状、つまり、隋帝国への宣戦布告と解され、すかさず、官軍総動員、北伐の大号令が下るところです。

 しかる後、皇帝は、当然、所管外の鴻廬寺掌客でなく寧遠の才に富む官人文林郎が率いる百人規模の使節団を派遣したのです。当然、文書所管部署で異国文書にも通じた教養人裴世清を起用したのです。

 鴻廬卿馘首は大げさかも知れませんが、煬帝は、後年、帝都長安を離れて江南に長期滞在しているとき、各地の反乱を上奏する者は斬罪に処すという命令したとされていますから、この時期は、まだ理性が保たれていたのでしょう。

*僭称の動機推定
 思うに、問題の国書は隋朝蔑視の意図があって書かれたものと見られます。代々正統の南朝に服属した東夷には、北朝は北狄であり、「南朝を征服して武力で天下を取っても蛮夷に変わりはない」と見ていたので、そのように書き送ったのです。これは、南朝臣下として当然ですが、無謀でもあります。

 裴世清は、記録のない口頭応酬で、実力行使を示唆したのかしなかったのか、ともかく、見事に俀国王を説諭して態度を改めた国書を提出させたと見えますが、これに対する報奨は記録されていません。諸事多難で、それどころではなかったのでしょうか。

*文林郎紹介
 裴世清は、文林郎正八品であり、恐らく科挙を経た文官であり、典客署部門長と同格です。古来、文林郎は、夷蕃国書の講読役でもあったようです。ということで、最下級正九品の掌客とは教養が違うのです。

 案ずるに、裴世清が鴻廬寺掌客と称したというのは、掌客の際の誤解の生み出した挿話筆者創作です。つまり、「鴻臚寺掌客裴清」は、あくまで当記事に書かれているだけです。つまり、皇帝名代である漢使が、わざわざ個人官職を自称するはずはないのです。

 また、漢使の帰途に同行した小野妹子大使の持参した国書は、以上の経過から、前書の暴言を悔いた平身低頭(死罪頓首)の文面が相応しいのですが、当然、天皇の勢威を傷つけるような文面は収録されていません。わからないことはわからないのです。
 魏書「俀国伝」によれば、裴世清は、俀国王に対して国書を提示していないので、もともと、国書盗難などなかったのでしょう。そもそも、三国史記では、裴世清が俀国往路で百済を表敬訪問したと書かれていても、俀国使が同行したとは書いていないのです。常識的に考えて、裴世清は、現地知識のない半島西岸、南岸の航行について、百済の助言と当然ながら行程諸港での応対を命じたものの、それ以上は、求めていないものと思われます。
 つまり、俀国使は、恐らく当時常用していた「新羅道」なる内陸道を通って、疾駆帰国し、漢使の来訪の先触れをしたのでしょう。
 そもそも、漢帝の国書を盗むなど、露見すれば、多数の重罪人が発生する大罪であり、百済がそんなつまらない、危険な火遊びをするとは思えないのです。

*誤解の起源
 ということで、以下のように推定せざるを得ないのです。
 挿話筆者は、与えられた素材を書紀に補注することにより、原本編纂当時不備だった推古朝の漢使交流事跡の画期的記事を創作したのですが、最善の努力をもってしても資料の整合が取れなかったようです。
 皮肉なのは、美しく造作された文言が実態を露呈しているということです。

 以上、第三の難点への解です。

〇まとめ 挿話記事変遷 補注から本文に
 ここまで挿話と呼んでいた推古紀記事は書紀原本のものでないのは明らかですが、誰が見ても周辺記事と整合しない挿話が、忽然と推古紀本文に挿入された経緯を推定すると、当挿話は原本に対して、何れかの時点で後年補注されたものの、その後の長年の継承のいつとも知れない時点で、補注が本文に取り込まれた可能性が高いものと見られます。

 日本書紀原本は現存せず、また日本書紀原本を実見した人も現存しないので、原本による確認は困難(不可能)ですが、日本書紀の歴代の写本過程は、それぞれどのような資格、教養の官人(官営写本工房の写本工集団)の手になったのか、無資格の素人の私的な奉仕に依ったものなのか、とにかく、一切不明なので、どこかで何かがあっても、別に可笑しくはないのです。(冗語御免)

 書紀記事解釈に未解決問題が残っているのは不思議ですが、新米の強みで先賢の考察への異論を一解としたものです。別に、唯一解でも最善解でもなく、あくまで一つの意見ですので、そのつもりで、ご一考いただければ幸いです。

〇参考資料
 古田武彦 邪馬一国への道標 ミネルヴァ書房 2016年1月刊
 
 ほぼ自前の考察で完稿した後に購入、熟読しましたが、広範な課題に対して展開される論議を支える慧眼に感嘆するものの異論もあります。但し、本項は、同書書評ではないので詳細には触れません。
                              本論完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 5/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09. 12/22

〇日本書紀 推古紀(出典:維基文庫。随時改行を追加)
 十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
 六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。
 是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。
 爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。
 於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。
 時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
 秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。
 是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。
 壬子。召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣。物部依網連抱二人爲客之導者也。於是。大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。
 其書曰。皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐迩。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。
 時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。
 是時。皇子。諸王。諸臣悉以金髻華著頭。亦衣服皆用錦紫繍織及五色綾羅。〈一云。服色皆用冠色。〉
 丙辰。饗唐客等於朝。
 九月辛末朔乙亥。饗客等於難波大郡。
 辛巳。唐客裴世清罷歸。
 則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。副于唐客而遺之。
 爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。是時。遣於唐國學生倭漢直福因。奈羅譯語惠明。高向漢人玄理。新漢人大國。學問僧新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人惠隱。新漢人廣齊等并八人也。
 是歳。新羅人多化來。

                        書紀史料完

私の意見 日本書紀推古紀 大唐使節来訪記事 問題と解答の試み 資料編 改 6/6

 資料編 参考のみ 誤記等御免                    2020/02/28 再掲2021/02/09, 12/22

〇隋書 俀國伝
 (出典:維基文庫。但し、倭を俀に復元訂正。随時改行追加)
 俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。
 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。
 都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。
 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。
 漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。
 安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。
 桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。
 有女子名卑彌呼,能以鬼道惑眾,於是國人共立為王。有男弟,佐卑彌理國。
其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衞,為法甚嚴。
 自魏至于齊、梁,代與中國相通。
 開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。
 高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
*中略*
 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。攕竹為梳,編草為薦,雜皮為表,緣以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。
*中略*
 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
 帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」
明年,上遣文林郎裴清使於俀国。度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,
 又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。
 俀王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。既至彼都,
 其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境內,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」
 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」
既而引清就館。
 其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」
 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

                             隋書史料完

〇補足~私見   2021/02/12
 「海西」とは、漢書/後漢書西域伝に書かれた西方の大海カスピ海の西岸「海西」であり、普通に考えると西戎「條支」(アルメニア王国)の天子と嘲ったことになります。
 「日沒處」とは、西王母の住まう西の果てであり、仏教思想で言うと「彼岸」の人ということになります。
 中国正史の語法から、そのように読めるはずなのですが、余り、見たことがないので、ここに付記しました。

以上

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 1/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

〇前置き
 当記事は、以前、単独記事の批判を掲示した論客の以後のブログ記事を、同様の見地で批判したものです。前掲記事がご不快であれば、重ねてご不快を求めることは無いと思うので、特に重複を避けずにたたみかけています。
 因みに、氏は、実名を表記していないので、ハンドル名で失礼します。

*記事前置き(2014年現在)
 去る7月19日に久留米大学公開講座で、表題の講演を行なった。
 これは魏志倭人伝のテキストクリティーク(本文批判)を発表したものであり、古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を全面否定する論証である。つまり、「邪馬壱国博多湾岸説」を完全否定するものでもある。

コメント:堂々と、「魏志倭人伝」の「テキストクリティーク」と称していますが、以下、「倭人伝」の「テキスト」について、丁寧に論じられてないのは不思議です。また、提示される諸史料の「テキストクリティーク」が皆無に近いのは、不審極まりないのです。
 特に、「倭人伝」に現に明記されてい「邪馬壹国」を、「完全否定」するなど、不可能の最たるものです。
 古田氏の第一書(正しくは、『「邪馬台国」はなかった』であり、論敵の著書名を誤記するのは、まことに無様です)全面否定絶対不可能です。一書に書き詰められた諸提言を、一つ残らず「バッサリと」否定することなど、誰にもできないのです。何か、スイカ割りのような外し具合です。

 一転局限した「邪馬壱国博多湾岸説」は、湾岸説否定だけならほんの数行で足りますが、それすら安直に「完全否定」などできるものではありません。論議の大小見境なしということでしょう。いい加減に目隠しを外して、世界に目を開くべきでしょう。
 いずれにしても、いくら、個人が全面・完全「否定」しても、理屈が通らなければ世界は耳を貸さないのです。これでは、読者にそっぽを向かれるのが、むしろ「自然」、「普通」と言うものです。

 このような「罵詈雑言」は、氏の思考乱脈を想到させるものであり、世間で酷評されても不思議はありません。おつりで、誹謗中傷されても、不思議は無いのです。自説で世間を説得したいのであれば、初心に復って、修行し直すべきだと思うのです。

 いや、氏は、定期的に講演会を開いて、その際は、熱心な支持者が席を埋め、満場一致で賛辞を呈しているので、氏にとって、何の助けにもなっていないのです。ということで、見解の相違を明示し、具体的な批判に入ります。

*陳寿の見ていた「後漢書」
コメント:氏の理解がどこまでのものかわからないので、一応のツッコミを入れます。
 呉主孫権の最大の任務は会稽有力者と会盟することであり、その手立ては、有力者の「有力な女子」を娶ることです。
 「有力な女子」とは、生まれながらに「家」を背負って嫁することを目的として育てられ、孫家に於いて権力の一角を担うと共に、正夫人として嫡子を成せば、世代交代後、孫家の「皇太后」、最高権力者として実家傘下に組み込むことすら想定しています。従って、正夫人の地位を奪われることは、女子として生きる意味を無くすことを意味するのです。また、不満を言い立てて決裂すると、実家との盟約が破壊されるから、それは、できないのです。

 これらのことから、魏志倭人伝は「王沈の魏書」と「魚豢の魏略」とを基に書かれたとする見方に、「謝承の『後漢書』」を初めとする「旧・後漢書」群をも参照したとする見方を加えなければならないという観点に至った。

コメント唐突な観点展開ですが、意図不明、根拠不明です。
 また、裴注は、三国志の一部ではないので、何をどうひねくり回しても、考察しても、倭人伝の原文テキストを改竄する理由にならないのです。
 孤独な魂の遍歴で道しるべを求めても、個人の想念の世界は、誰にも見てとることはできないのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 sfuku52 「倭歌が解き明かす古代史」再 2/3

 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承「後漢書」と范曄「後漢書」の関係
 魏志倭人伝になく、范曄後漢書にある特別の記事として挙げられるのが「東鯷人」記事である。

コメント:記事は部分に分かれていますが、東鯷人風聞に続いて、突然、夷州、澶州の登場です。蓬莱伝説まで動員した上で、最後に、会稽東冶が出て来ます。
 結局、伝聞、風評の寄せ集めの類いであり、そのような記事は、范曄が最も嫌悪したはずなのですが、なぜここで採用されたのでしょうか。地の果てだから、どうでも良いというものでも無いでしょうに。

 「三国志」に「東鯷」の文字が無いことは周知の所だが、それが「三国志」のイデオロギーに拠るものであることは、『翰苑』に残された「魏略逸文」から検証した。

コメント:三世紀当時、「イデオロギー」などという概念は無かったから、陳寿はじめとする関係者がそのような時代錯誤の「妄想」を抱いていたことはあり得ません。時代が変わっているので、現代人にとっても、古代にどんな「イデオロギー」が存在したのか、わかるはずがありません。併せて愚劣です。なぜ、誰でもわかる「普通の」言葉で言わないのでしょうか。

 原文にない東鯷「国」は、史料に書かれていないから、言うならば、氏の「妄想の産物」であり、呉の史官が編纂し、亡国の際に晋帝に献上された「呉書」を元に「呉国志」を編纂した陳寿が「三国志」に記録しなかったのも、当然です。存在しない国に「王」を見るのも妄想であり、いなかった王が「反魏倭王」として、呉と同盟して魏を挟撃するなど、とんでもない無理「推し」です。(三国志には、「呉書」、「呉志」など、紛らわしく交錯するので、時に「呉国志」、「魏国志」、「蜀国志」と書くことがあります)

 「呉主」孫権伝でわかるように、三国志には、「呉皇帝」どころか、「呉王」も存在しません。一方、夷州、亶州は、堂々と書かれています。因みに、亶州は、海中とされていますが、夷州は、どうなのでしょうか。

 それにしても、史書に無い勝手な思い付きを振り回されては、迷惑です。

 陳寿の「呉国志」編纂の三世紀当時、これら記事は「現代」記事であり、資料は豊富に入手できたはずです。このような、意味不明の記事が残ったのは不可解で、当時不可解だった記事をものを知らない東夷の末裔が解読できるというのは、どういうことか、まことに不思議です。

 右の記事の並列から知られるのは、成立順序のみを問題として、陳寿の表記が仮に「邪馬壹國」であっても、その表記が「邪馬臺國」より先とする仮説がいかに詭弁を弄し牽強付会で固めたものであったかということであろう。

コメント:あたかも、確実な史料のように論じられていますが、諸史料の「テキストクリティーク」は、どうなっているのでしょうか。不確かな史料の不確かな憶測で、現にそこにある刊本紙面の文字を否定するのは無茶です。

 簡単な理屈ですが、論拠にあげる多様な史料がすべて信頼に足りるものである確率は皆無に近く、折角羅列しても、話半ばで論理が破綻するのは明らかです。「少数精鋭」が鉄則であり、一件論拠を増やすごとに、論考が、脚もとから瓦解していくものです。ご自愛いただきたいものです。

 陳寿三国志が、著者確定稿陳寿原本が西晋皇帝に上程され、直ちに帝室書庫に収蔵されて、以後、厳重に管理されていたと、確実に推定できるのに対して、范曄「後漢書」は、范曄父子処刑による家系断絶の後、章懐太子が付注して、帝室書庫に収納されるまでの在野の写本継承が、まことに不確かです。三国志の官製写本すら、疑念を投げかけられるのであれば、范曄「後漢書」は、苛烈な試練に曝されるべきです。

 因みに、略同期の袁宏「後漢紀」は、記事には見当たりませんが、概ねテキストが健在であるのに対して、散佚して影も形もなくなった謝承「後漢書」を、佚文、つまり飛び散った破片から、全貌と細部を復元した気で論じるのはどうでしょうか。して見ると、幻の「レジェンド」でなく、現に確認できる袁宏「後漢紀」で、范曄「後漢書」を批判することは、当然でしょう。誰が呼んだか「三国志の権威」とされている渡邉義浩氏は、袁宏「後漢紀」の研究者として知られているので、相談されたらいかがでしょうか。「聞くは一時の恥」というものです。

 さらには、史書と違い厳格な引用参照をしていない類書の一例である「翰苑」の粗雑な残簡記事を、原テキストそのもののように扱うのはどうでしょうか。

 「詭弁」、「牽強付会」とは、まるで、氏自身が、この論考を「自画自賛」しているようです。因みに、「自賛」とは、自作を褒める後世誤用でなく、評のない「画」の真髄を「賛」形式で評するとの原義に戻っているのです。
                               未完

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 「邪馬壹國こそなかった」 2014/08/02
私の見立て ★★☆☆☆ 早計、過誤、無理な思い込み山積  2021/03/17 補追 2021/12/22

*謝承後漢書の行方
 (范曄「後漢書」)李賢注には、多数の「謝承書曰(謝承の後漢書に曰はく)」で始まる注が見られる。その量から推し量るに、唐代においてもなお「謝承の後漢書」は相当の部分が残っていたようである。

コメント:「量」、つまり、漠たる印象でなく、数字で明示いただきたいものです。印象批評で良いのなら、素人目には、壮大な「後漢書」でそのような注はないのも同然で、目にとまりません。
 まして、そのような計量されていない散在を漠然と見て、謝承後漢書が大量に(ふんだんに)残っていた証拠と断定するのか、不審なのです。帝紀無しで百三十巻という膨大な史料を「ふんだん」とか「相当の部分」などと簡単に言われては、善良な読者には、大変な迷惑です。

 唐李賢太子の命で、范曄「後漢書」の付注のために、世にある謝承「後漢書」善本は、ことごとく徴発されたと見えます。市井の写本が希少になり散佚したとも見えます。あるいは、謝承「後漢書」の有用な部分は、全部李賢注に吸収保存されたから、もはや、「汗牛充棟」、場所塞ぎで厄介な胡散臭い写本は、李賢太子主催の史学者一同の高度な判断で、不要と見限られたのかも知れません。
 素人の憶測ですが、隋帝国が南朝陳の亡国の際に入手したのか、あるいは、それ以前の、北周、北斉の東西対立時代に関東を支配していた北斉が引き継いでいた西晋洛陽書庫が、北周による統一時に引き継がれたのか、いずれにしろ、中原帝国の正統性の裏付けとして持ち越していた大量の簡牘巻物を、全国統一の機会に棚卸しして、これら諸家後漢書は、紙写本への転写の価値無しと断じて、在庫一掃したのではないかと見えます。
 何の裏付けもありませんが、誰かを罵倒するものでなく、つまり誰にも迷惑がかからない限り、素人の推定は自由です。

 李賢注の成立より少し前の顕慶五年(六六〇)、張楚金が四六駢儷文における対句練習用の幼学書として『翰苑』を書き上げている。「范曄後漢書李賢注」と『翰苑』本文は、ほぼ同時代の成立である。

コメント:史書ならぬ「幼学書」翰苑の「本文」と雍公叡付注の区別はどうしているのでしょうか。「対句」が本文で、割注が付注、別物と見えるのです。それにしても、四六駢儷文 に合わせて、改変、短縮されている対句練習用の「問題集」が、なぜ、誤字満載もお構いなしに、史書の校訂に利用されるのでしょうか。

 この『隋書』「経籍志」の「正史」中に、次の「後漢書」群が見える。
① 東觀漢記 一百四十三卷 起光武記注至靈帝,長水校尉劉珍等.
② 後漢書  一百三十卷 無帝紀,吳武陵太守謝承撰.
③ 後漢記   六十五卷本一百卷, 梁有,今殘缺.晉散騎常侍薛瑩撰.
④ 續漢書   八十三卷 晉祕書監司馬彪撰.
⑤ 後漢書   十七卷本九十七卷,今殘缺.晉少府卿華嶠撰.
⑥ 後漢書  八十五卷本一百二十二卷, 晉祠部郎謝沈撰.
⑦ 後漢南記 四十五本五十五卷,今殘缺.晉江州從事張瑩撰.
⑧ 後漢書  九十五卷本 一百卷

コメント:玉石混淆で、まことに無意味な例示です。史書評価は深遠です、

*袁宏「後漢紀」の真価
 袁宏「後漢紀」が漏れているのも、氏の考察の粗雑を示して疑問です。因みに、袁宏は、東晋の人であり、劉宋の人、范曄に半世紀先行しています。
 袁宏は、数種の後漢書が周知ながら「後漢紀」新規編纂に着手した動機として、「諸後漢書は散漫で、信頼できない史料を採り入れ、いたずらに厖大で座右書たり得ない」と見たのです。屋上屋を架するのではないのです。
 後漢朝は二百年になんなんとし、しかも、偉人の後裔が現世を徘徊していて、列伝の短縮、割愛は至難ですが、袁宏は「本紀」相当部分に絞り、全三十巻にまとめて、大幅な合理化に成功しています。不朽の偉業と言うべきです。因みに、袁宏は、区切り毎に「所感」を付していて、単なる切り貼り細工ではないのです。
 袁宏には、西漢、前漢二百四十年の治世を三十巻にまとめた荀悦「漢紀」なるお手本があったのです。漢紀(前漢紀)は、後漢献帝が、建安年間、曹操の仕切る仮の帝都、鄴での無聊の日々、班固「漢書」が厖大で持て余していたのを正す三十巻正史の新規編纂を指示したのであり、現存している前後両漢紀六十巻は献帝の偉業と見るべきでしょう。他の諸家後漢書と異なり、袁宏「後漢紀」は、ほぼ完全な形で現存しているのです。
 因みに、「後漢」献帝の観点では、高祖劉邦が創業した漢帝国は、謀反人王莽によって揺らいだだけであり、程なく光武帝が再開したので社稷は継承されていて、「前漢」「後漢」など、存在しなかったのです。

 因みに、諸家後漢書が、軒並み桁はずれて冗長であることは巻数から見て明らかです。恐らく、巻数、字数を稼ぐために、お構いなしに雑史料を盛り込んだのでしょうが、ほぼ全散佚している状態から見て、同時代、後世の史家の評価は明らかです。見捨てられたのは、厖大な労力を費やして写本継承する価値がないからであり、謝承「後漢書」など、類書引用の佚文しか残っていないのは、大著としての存在価値が見られないから、見捨てられたのです。

*陳壽の真意と裴松之の本意
 陳寿は、「魏志」の構想にあたり、厖大な「漢書」でなく、荀悦「漢紀」三十巻を参考に、治世の短い魏の国志三十巻に本紀、列伝を緊密に収める減縮が至当と見たようです。だれぞの虚飾のために、空疎な西域伝を付け足すようなことは、もとより念頭に無かったのです。
 裴注が追加され、大量の蛇足のために陳寿の望んだ緊密さは損なわれましたが、「燕雀焉んぞ鴻鵠の志を知らんや」でしょう。裴注は、陳寿の知らない世界です。
 また、裴松之が蛇足を承知で補追したのは、陳壽の真意に背くと知りつつ、君命に迫られた不本意なものと見えます。いや、裴注は、読者が無視できるので、陳壽「三国志」の精髄は、損なわれていないのです。裴松之、もって瞑すべきです。


〇最後に
 素人考えを振り回して恐縮ですが、別に、先賢の意見を「完全否定」したり、意味なく罵倒したりするものではないので、ご一考いただければ幸いです。

                               以上

2021年12月11日 (土)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 1/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19

〇はじめに
 冒頭に「帯方郡から邪馬台国までの行程と里程の概要」と明記し、「魏志倭人伝に言う一里は現代で言う何㌔㍍かという問題を解決しておきたい」と端的です。「業界」風習に安住せず、課題(問題)を課題として取り上げ、明解な「解」を提示する困難に挑む気概は「優秀賞」の誉れを得ています。
 この姿勢に共鳴した上で、敢えて、手厳しい異論が多いのは、基本姿勢への共感の表れと見ていただきたいのです。
 改訂後の更に手厳しい批判は、投馬国道里行程論に、幻滅したからです。

*冒頭提言の空転
 先の端的な宣言は、反面、本論文の弱点を示しています。凡そ、論文は、先行諸論文を理解し克服しなければ意義がありません。つまり、長年にわたり諸兄が明解な「解」を与えられなかった未解決課題の挫折の原因を摘発、解決しなければ、また一つの誤解と解されます。工学分野では先行技術の克服が必須であり、それに馴染んだ当方は、この切り出しに賛同できません。

 そもそも、本論は、出所不明の行程文で始まっています。後になって、石原道夫編訳の岩波文庫版の文章とわかりますが、引用典拠の後出しは(著作権視点から)不法行為です。また、追って異論と対比するように(「郡から倭に至る」を置き忘れた)冒頭の狗邪韓国までの七千里の文は、同資料の解釈に無批判に追従しています。

*換算表の誤謬
 氏は、引き続いて、奥野正男氏が2010年の著書に提示した数表「里・㌔㍍換算表」の一里89㍍に独自の意見を加えたのですが、まずは、奥野氏の論考が適確に検証、批判されていないのが怪訝です。
 とは言え、掲載しているということは、趣旨賛成と見るもので、以下、その賛成票に異議を唱えるものです。

*里数談義
 素人考えでは、例示里数は、算用数字4,5桁で「余」有無もありますが、これら数字の根拠というか編者の真意を理解しないまま、「素直に」現代知識で計算するのは錯誤重積です。

 原史料の漢数字道里は、大半が千里単位と見えても、由来が異なっていて、安易に計算できないのです。まずは、松本清張氏も指摘しているように「奇数偏重」であり、その背景として、数学で言う有効数字一桁も怪しいと見て取れるのです。

 「余」と概数表明してない「里」は当然概数ですが、それでいて一律と見える「余」が、敢えて省かれているのは、別種の「里」だからでしょう。例えば、韓の「方四千里」は実測等でなく、郡が他領域と比較して、漠然と見なしたと見るのです。

 他で欠かさず「余」里とあるのは、道の「里」、つまり「道里」であり、移動所要期間に結びつくので、加算時の誤差累積を避けて中心値としたと言うことでしょう。大抵の人は早合点していますが、餘は、端数を切り捨てたという事ではないのです。

 このあたり、陳寿は、平静に、慎重に表現を選んでいるのです。現代人が、これをして、陳寿が数字に弱いというのは、物知らずの独りよがりです。結局、そんなことを書き散らすご当人が、古代数字にめっぽう弱いのを自覚していないだけです。
 古代に関すると知識に欠ける「無知」「無教養」の現代人が、古代史の世界観について陳寿と知性を競うのは、蟻が富士山と背比べしているようなもので、ご当人は勝っていると思っても、実はべらぼうな勘違いなのです。
 いや、ご当人以外の諸兄には、釈迦に説法ですが、現代は、誰でも、一人前に意見をぶてるので、こうした「屑意見」がのさばるのです。
 耳障りな余談をお詫びします。

*端数の意義 訂正追記
 当時の大抵の概数計算は、千里単位などの一桁算木計算で、平易で高速であり、桁違いの端数は無視してよいのです。また、十進法であったというものの、算用数字も0も存在しないの、横書き多桁表示は存在しないのです。

 一方、戸籍集計による戸数計算は、後漢書の楽浪郡戸数のように、何百万(口/戸)あっても、一の桁まで計算しますが、これは、多数の専門官が大変な労力を要する一大事業でした。後の「晋書」地理志では、両郡の統制が衰えたため、そのような集計が不可能となり、概数になっています。

 訂正:倭人伝の戸は、各国に戸籍があっての集計でなく、概算見積もりとみるべきです。何しろ、文字記録のない時代ですから、戸籍は未整備であり、郡から要求されたら、管内戸数を見繕いするしかなかったのです。
 因みに、戸数は、各戸の農地に直結していて、管内の収穫量を申告しているものです。つまり、戸数に応じて徴税されるのです。また、各戸に複数の想定がいるとの解釈となるので、管内で動員可能な兵数の表れともなるのです。因みに、今日言う「人口」は、特に重大な意味はなかったのです。年少者や老人、婦人の数を数えても、意味がないのです。

 末羅以降の百里単位の里数は、郡や倭人には大事であっても、全体の万二千里や、先立つ七千里、三千里から見れば、端数であり、些細なのです。

 諸兄の中には、ご不快に思われる方も多いでしょうが、倭人伝は、これら余傍の国の精密な位置付けのために書かれたものではなく、また、郡から倭に至る行程記事は、当時の中原人が読めば、すらすらと読解できるように書かれたものですから、現代でも、すらすらと正解に収束するはずなのです)

*論外の「方」表示 不可思議な島巡り 訂正追記
 さて、両島の「方」表示は、韓半島との大小比較目安なので、道里計算から外すべきです。また、「方…里」は、道里と異なる面積単位との説もあり、奥野氏は、不正確らしい数字を排除して計算精度を保持したと見えます。

 古代中国で、「方…里」は、地形を表明したものではなく、管内の耕地面積の総計を示したもので、収穫量に連動しています。つまり、この際の「里」は、領域の地形、大小を示すものでなく、まして、領域を方形で近似したものでもないのです。古代の計算方法では、農地が、正方形、長方形、台形、平行四辺形、円形、半月状など、いずれの形状であっても、計算方法が明確なので、それぞれ「方里」が計算できたのです。
 管内の集計は、各戸の「方里」を足していくので、管内の農地全体がどのような形状になるか不明であっても、徴税上、農地の形状は関係無いのです。もちろん、領域内の耕作不能な荒れ地や河川流域などは、集計から除外されています。

 對馬国、一大国は、「良田」、つまり、「徴税するのに相応しい収穫の得られる農地」が少ないという泣き言を入れていて、減税ないし免税をたくらんだものと見えます。従って、戸数を規準にした課税はご勘弁いただきたい」という事です。倭人伝に掲載された趣旨は不明ですが、一応趣旨を認めたということなのでしょう。。
 因みに、「田」は、倭地では「水田」の可能性が高いのですが、本来、中原の農地は、乾田が大勢で「水田」は、例外と見られます。要は、水田田作りするにも、水を通しやすい土質と降雨量の乏しい気候が災いして、成り立たないのです。そのため、中原農家と倭地の農家では、一戸あたりの「収量」が大きく異なりますが、その辺りの補正計算は、別儀とします。言うまでもないと思うのですが、水田稲作地帯の日射量、気温、降水量から得られる収量は、中原での穀物収量に比して、隔絶して多いのです。
 いずれにしろ、積載量の限られた渡船で、大量の米俵を運ぶのは、限りなく困難なので、郡として、両国からの徴税にこだわることはないと見えます。(韓、倭には、銭がないので、中原諸国のように、農民が産米を地域の商人に売り渡して穴あき銅銭に換金し、銭綛を納めることもできないのです)

 念のため付言すると、食糧の自給自足ができない状態では、食料輸入しない限り対海国は「持続」不可能です。実際は、対海国は、南北市糴の唯一無二の寄港地であり、当然、漕ぎ手を確保した市糴船を多数所有して運行していたので、通過する貨物から運賃なり、入出港の経費をたっぷり徴収して繁栄していたのであり、例えば、一船ごとに[米俵]を献上するようにしておけば、食料は、いつも潤沢なのです。

*市糴の話~余談 2021/12/19
 そもそも、対海国は、倭の国境であり、韓国領に荷物を売るときには、一大国のような同国人との取引で買い叩かずに手加減するのとは別で、好きなだけ値付けできるので、[国際交易]の利益は潤沢であったはずです。そのような商売をするためには、半島側の港に[上屋]海港商品倉庫を持ち、市を主催して、参集した半島内各地の買い手をあしらう、対海事務所のようなものを確立し派遣した監督者が警備の兵を雇っていたはずです。(当然、買付もしていますが、「当然」なので詳しく書きません)
 倭人伝には、対海国人は、「乗船して南北市糴する」と、要点だけを書いています、国として、市糴の利益を確保するためには、そのような組織が必須であり、それは、当然自明なので、要点のみにとどめているのです。この点、余り、倭人伝「對海国条」論議で聞かないので、素人考えを書き残すことにしました。

 また、古田氏提唱の「不思議」な島巡りの数百里は、勘定に入ってないのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 2/5

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*狗邪韓国まで七千里
 素人考えでは、途方もない前世紀の怪物が史学界を徘徊しています。
 郡から狗邪韓国までの「街道」、つまり、中国制度で定めた連絡路が真一文字に東南に通じているのに、大きく迂回して、官制にない、危険この上ない海上を行く想定は、あり得ない、一種の怪談です。法制は別としても、魏使、郡使は皇帝下賜物を抱え、剣呑な海上を行くはずはないのです。
 郡の定例文書便は、普段は日程計算できる徒歩行、ないしは騎馬行で、時に緊急便として騎馬疾駆するものです。いずれも、中継駅で人馬交代する駅伝を採用して日程厳守です。当てにならない船便を起用するわけがありません。はなから、無法な論外なので、倭人伝に、いきなり出て来ることはないのです。

 海上経路を仮想すると、漕ぎ手も水先案内も屡々交代しますが、郡から僻遠の馬韓南部の、物資の流通は希薄なので、そのような体制は、到底維持できないのです。加えて、南岸多島海は難破必至で、とても生きて完漕できないのです。

 韓伝も倭人伝も、そうした難関に言及してないのは、「海上経路など無かった」からです。

 いや、この「水行」行程は、妖怪が不吉なら見事な画餅です。更に言うと、南下から東進に転ずる展開点が不明では、道中案内として大変な不備です。

*最初の暗転
 氏は、そのような「あり得ない」「水行七千里」を無批判に採用します。
 異論に挙げた古田、中島両氏の論は、眼をつむっても歩ける大地の「道」を通行するので、優に百年の実績があり、宿駅整備、所要日数も郡規になっているはずです。氏は、「石橋を叩いて渡る」の故事を失念して、石橋どころか、揺らぎ続ける木船に命を預けるというのです。

 氏も引用する帯方郡下の弁辰産鉄は、所定の運送手段、最短経路で両郡に運ばれ、日限のある輸送は、不安定な海上「迂回」路でないのは明白でしょう。

 郡~狗邪陸路ですが、郡治から概して東、南に下り、途中、竹嶺(チュンニョン)の険で小白山地を越える経路は、地図上の直線と大差なく、里数は概数に紛れるはずです。(峠道と言いたいところですが、「峠」は、中国語にない「国字」なので、不適切なのです)

*水行と渡海
 それぞれ千里の渡しですが、実測は無意味です。一日がかりの長丁場に過ぎず、千里に距離としての意義はないので、現代人が地図上の「距離」なり想定航路長と対照した数字に意味はなく、郡~狗邪間の街道とと同列に論ずべきではありません。

*里程論に提言
 あえて、郡~狗邪行程を元に倭人伝「里」を推定すれば八十㍍程度で、氏の言う九十㍍と大差ないのですが、郡が「実際に」、つまり、後漢~魏の機関として、そのような「普通里」に反する里を敷いたとの根拠はないのです。
 素人考えでは、陳寿が、魏史編纂段階で、恐らく公孫氏時代に提出された原資料の「万二千里」に妥協して、特に宣言した倭人伝「里」と見えるのです。いくら不合理でも、既に皇帝の閲覧/印璽を得た公文書は、改訂できないのです。そうでもなければ、正史としてのけじめがつかないのです。

 氏が何気なく書いた道里論を考察するには、以上のような厖大な論議をたて、更に論議を重ねる必要があります。追試のない無批判な追従は、不用意で不信を招くだけです。ちなみに、当方は、倭人伝戸数里数談義に挑んだものの、諸兄諸論の検証に、多大な消耗を重ねたものです。

 諸兄が各国比定を論じる場合は、郡~狗邪行程に両論ありと流して、取っつきに『倭人伝里は、百㍍より短い八十㍍程度と見られるので、以下、この「倭里」を規準とします。』との臨時定義」が賢明でしょう。臨時定義」 は、ある意味「地域定義」(local)であり、定義位置から、倭人伝結尾までに限定して有効です。 あるいは、提示された「倭人」世界に専用です。

 本論以前に、中途半端な口説で躓き石をまかないことです。

〇端的でない路程
 氏は、続いて、「2 帯方郡から狗邪韓国まで」と題して、行程を論じますが、倭人伝に関して、解釈に異論が絶えない、そして、異論が克服さてれいない岩波文庫の現代語訳をもとに解釈して、先に参照した奥野氏の解読などの有力な異論を参照しないのは不審です。以下、同様です。

 当記事と違って、紙数があるので、依拠資料は丁寧に明示すべきでしょう。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 3/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
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*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、この間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の異論を紹介していますが、「歴韓国」の歴の解釈だけを掘り下げて、異論不採用の弁としているは不審です。両氏は、実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて、「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。

 古田氏は、今や古典となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時水行南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里行程を提示しています。素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。
 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に至る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない行程とするには、賛同しがたいのですが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 それぞれ、誰の口から出た学説であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすとこはできないのです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを河川沿いの「陸行」に止めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄後漢書再評価
 氏は、素人目には魏代史料として二流の范曄後漢書が「国々皆王と称す」と倭人伝を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。

 ところが、近刊の古田史学論集第23集掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、倭人伝列国に皆王があり女王に属したとしています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。

 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。

 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には倭人伝界で不評の笵曄株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。
 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。

 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

*異論
 対馬陸行について、榊原氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは、「渡船」の任務を食みだし、回航は、漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 人と物を端的に陸峡越えさせて、南東側から対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などで滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地 内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。
 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて、船体を運ぶ必要がないことから、「船越」は、船荷の峠越えと見る方が理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないので、連年実施できる合理的な輸送法なのです。
 陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 ここで、塩田氏は険路数百里の移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、極めつきの激流とされていて、それなら最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。倭人伝で言う「瀚海」は、やはり、特別の意味を持つと見えるのですが、詳しくはわかりません。ということで、問題提起だけしておきます。

 渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。倭人伝も、区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。

 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。

 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 4/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*「禽鹿徑」談義

 「禽鹿徑」は、道里行程用語ではなく、つまり、「径」は、「道」「路」と異なり、官制外であって、路面整備も宿駅もないのです。
 倭地に「道」や「路」が一切ないわけはありません。「市糴」は大小軽重交易物の搬送で道路が必須です。ここは、例外特記なのです。何しろ、対海国は、渡海して至り渡海して去るので、陸上行程は官道ではなく、道里もないのです。

 つまり、「禽鹿徑」は、恐らく峠越えの近道、間道で、例外的に路面が荒れた坂道であり、二本脚の「痩せ馬」が喘ぐような隘路との趣旨でしょう。「市糴路」とすれば、ほんの一部としか思えないのです。
 因みに、某サイトで、「けものみち」と称する写真が、無造作に掲示されていましたが、何も「みち」らしいものは映っていないので、困りました。いくらけものでも、藪が踏み分けられていなければ、通れないのです。まして、人馬といいながら、馬や騾馬の力を借りられないのでは、「痩せ馬」のお世話にならざるを得ないのです。(峠は、「漢字」ではないのですが、適当な中国語が無いの、代えられないのです)

 これまでに出てきた郡~狗邪の長途は、通い慣れた、人馬の通行を前提に整備された街道筋であり、概して「陸道」です。半島中央の小白山地の竹嶺(チュンニョン)越だけは、鹿数頭が並べる程度の山道(three deer abreast?)と見えるので、一見「禽鹿徑」のようですが、傾斜を緩和するつづら折れは人馬の路ならではの整備された姿です。と言うことで、寸鉄人を刺す史官の筆を見くびるのは損です。

 因みに、後に、末羅国でことさら「陸行」と書いたのは、そこまでの「道」のない不正規の渡海「水行」が、正規の「陸道」に戻ったと確認しているのです。別に、一貫して、渡船に乗り続けたものではないのです。(以下、「女王居処」までの行程道里で、陳寿の辞書による「水行」はないのです。つまり、投馬国への水行は別儀なのです

▢一大条~余談あり
 氏は、榊原氏の言う「一大島内陸行」を否定する論拠として、倭人伝に記述がないことを挙げますが、書記役や史官が自明と見た記事は割愛されるのです。氏は、他にも、一国で特筆されている事項は、他国でも共通と談じていますが、無断で省略して良いのは、古典、史書で自明とされた事項であり、他は、明記して省略しなければならないのです。

 一部論者は、倭人伝の悪路を、倭地の普遍的なものと見ただけでは収まらず、韓地内の状態も同様であった、即ち、韓地内の陸上移動は、危険であったと言い立てていますが、根拠のない暴論に過ぎません。韓地には、つづら折れの山道は会っても、蜀の桟道のような崖に貼り付いた官道などないのです。

 確認すると、対海条で「禽鹿径」と書かれているのは、その区間の特定の部分を述べているに過ぎないのです。また、一大国に陸上行程があったとしても、官道ではなく道里もないのです。

 倭人伝には、「南北市糴」と書かれていますから、相当量の荷物が往来していたのであり、人が背負って運ぶにしろ、ある程度の整備はされていたとみるべきです。根拠なく倭人の知恵を見くびってはなりません。

 市糴の陸上搬送は、小分けして担ぐので担い手に事欠かず、また、日程厳守の文書使等と違い、寸秒を争わないでよいので、万事ゆるゆるです。そもそも、東夷の市糴は、量が知れているのです。むしろ、弁辰産鉄の両郡納入がお荷物でしょうが、その分報われるのです。
 それにしても、一部杞憂を示されている向きがありますが、倭地を往還する魏使は士人ですから、自ら荷運びの労を担うことはないのです。正史、副使には、輿などの便が供されたはずであり、士人が、蛮地の泥に足士を置いたとは、書かれていません。

 こうした点を見過ごした論議は、「非常識」で難物です。

▢末羅条
 素人考えですが、渡船は元来直行のみであり、市糴の荷物を運ぶためには、船を大型化するのでなく、数で稼いだのです。つまり、極力便数を増やしたものと見ます。
 渡船が着くと、手近の「臨海倉庫」に荷揚げして陸送に委ね、新たに荷を積み漕ぎ手を代えて、手早く折り返しの帰り船としたと見ます。

 深入りして、他にも輸送手段のある陸地に上陸できるのに、いたずらに航路を延ばすと、漕ぎ手が多く必要となり、そんなことでは、積み荷を大して積み込めない渡船の槽運収益は出ないのです。現代風に言うと、難所の漕ぎ手という専門職、高給取りの人件費がどんどん募るのです。
 まして、荒海を漕ぎ渡るために頑丈に作られた渡海船で、内陸河川を漕ぎ上るなど無謀そのものです。まして、渡海船の山越えなど、無謀の極みです。漕ぎ手込みの全重量の大半は、船隊であり、遡行するだけでも、無謀です。非常識は、時代を越えて非常識なのです。

*草木繁茂
 書かれている「草木繁茂」ですが、酷評だけではないのです。
 各国は、市糴の運送、通行に支障ない程度に公道を整備していたはずです。それでも、ちょっと油断する目と草木が繁るのは、温暖湿潤な倭地ならではの現象です。稲作の繁盛が想定されていたのかも知れません。これは、乾燥した黄土地帯ではあり得ない景色を特筆(誇張)した賛辞かも知れないのです。

 末羅国は、山の迫った海辺ということですが、戸数から見て、結構、農地があり、農耕に勤しむ住民がいて、道路整備に人手不足は無かったはずです。古来、勤労動員は税の要素であり、荷運びにも動員できたのです。後世、律令制度で定めた租庸調と並べた税務三要素の一件なのです。

▢伊都条
*戸数談義
 翰苑所引 魚豢「魏略」引用による万戸想定は、子供じみた錯誤でしょう。

 「魏略」は、魏朝史官の手になる同時代一級史料ですが、魏志裴注での「西戎伝」全文引用が、魏志同等の最上の継承がされているのに対して、残る諸書所引の佚文は、書印された時点から史料として粗雑であり、それも、子引き、孫引きのうろ覚えと推定されます。
 就中、「翰苑」残簡に引用された魚豢「魏略」佚文は、筆写継承の過程で累積したと思われる誤記、誤写が多発していて、厳格な史料批判無しに、文献史料として依拠すべきではないのです。伊都国戸数の史料と見ると、信頼すべき史料と検証されている倭人伝に、千戸単位で書かれている以上、信頼性を検証されていない「万戸」は、誤記とみて排除すべきなのです。この点、本末転倒の議論が徘徊するのは、当分野独特なのか。国内史学会の遺風なのか、不明ですが、場外に排除すべきです。

 史料評価て言えば、「翰苑」残簡は、魚豢が責任を持った「魏略」原著の適確な引用とは見えず、そのようないい加減な資料に依存する論理のすすめ方は、粗暴、乱雑です。当ブログ筆者は、入念に「翰苑」残簡の影印本の諸処を点検した上で、史料として信ずるべきでないと提言しているのであり、勝手な印象批評で述べているのではないのです。

 それとも、諸兄の手元には、「千」と「万」とを誤写した正史異本史料が山とあるのでしょうか。

 正史を訂正するには、参照資料を厳密に史料批判するのが先決です。文献解釈を、見くびっているのではないでしょうか。

 史料としての信頼の置けない、「ごみ同然の佚文」で、正史として編纂され継承された大部の倭人伝を改竄するのは、度外れた不当な処理です。

 伊都国戸数を言うならば、倭人伝の千餘戸を断固維持するのが正論でしょう。

 それにしても、信頼性が不確かなほど、記事が極端なほど、史料として厚く信用されるというのは、どのような妖怪の仕業なのか、いや、別に取り憑かれたいというわけではないのですが。

 因みに、「戸」は、耕作地割り当て、課税、徴兵、労務動員の際の規準であり、必ずしも、成人人口の要素ではありません。

 例えば、王の居処が、国家の中枢として機能するには、多数の官奴、公務員を要し、また、公費で雇っている公務員に課税するのは無意味であり、また、公務員を勤労動員したり派兵したりすると、国家の機構が機能しなくなるから、官奴の戸を、一般世帯並みに戸数に計上して、課税、徴兵、労務動員 の義務を課してはならないのです。

 また、王の居処は、農民比率が低いので、各戸に耕作地を割り当てないかも知れないのです。と言っても、全ての官奴が、専業だったかどうかは、わかりません。

 と言うことで、伊都国は、農戸千戸程度であっても、大国、ここでは人口規模の大きい国だった可能性が、十分にあるのです。

*国邑談義~再訪
 倭人伝冒頭で予告されているのは、以下の郡倭行程上の各国は、「国邑」、つまり、殷代に中原で展開していたような隔壁集落という確認であり、伊都国は、後代の「国」としては、小規模であった可能性もあるのです。少なくとも、倭人伝は、行程上の各国、對海國、一大国、末羅国、伊都国は、せいぜい数千戸規模の国邑と統一されていて、そのような世界観に従うべきです。
 因みに、倭人伝の行程記事から見ると、奴国、不弥国、投馬国は、余傍の国であり、行程上ではないので、無造作に、数万戸と書かれているものと思われます。あるいは、風聞でしかない「レジェンド」、つまり、雲の上の「国」として書かれているのかも知れないのです。

 倭人伝の語法、世界観が理解できないために、自説となっている「思い込み」に合うように、不合理な「原典改竄」に走るのであり、虚飾を棄て、わからないことはわからないと認めるべきであり、自己中心の尺度で塗り込めるべきではないのです。

 伊都の「津」、船着場に文書や使者が来たとは、身軽な文書便等は、渡船と別仕立ての便船で脚を伸ばしたとの趣旨でしょう。道里談義は、よくよく考えれば明解ですが、現代人の勘で安直に理解できるほど単純ではありません。

▢諸国条
 以下、氏は、奴国、不彌、投馬を有力国と見て、国内後世資料や考古学所見、現代地図まで援用して滔々と論じますが、当方は、伊都~倭直行道里専攻で絞り込んでいるので、「有力国」論は圏外、無縁としていて、地理、風土、地名論、国内史料論共々、謹んで読み飛ばしました。おかげで、万事明解です。
 そもそも、これら「有力国」が、倭人伝にとって重要と見ていれば、このような書き飛ばしでは済まないのです。倭人伝が主題としている諸国は、行程上の諸国であり、他は、あくまでも余傍のなかば無名の「レジェンド」に過ぎないのです。

▢最後の道里論~根拠を隠した異様な提示
 氏の諸国道里論は、世上流布している直線行路を採らず、古田氏創唱と思われる不彌起点放射状行路に見えますが、所要期間は郡基点としています
 どうも、ぽっと出の生煮え新説に無批判に飛びついてさっさと書き抜けたのは、巷間、異議轟々予想され、論文として不用意と見えます。

 いや、文意を察するに、氏の支持する河村哲夫氏の指導に従ったものでしょうが、肝心の河村説は、どこにも示されていません。参考資料に掲載はされているのは、一般に流通していない、カルチャーセンターの講義資料であり、席上配布を受けていない、不参加の一般人には、その内容を知ることはできません。ということで、氏の帯方郡起点説提示は、大変無責任なものになっています。

 これでは、河村氏の史学者としての名声に泥を塗る形になっています。もっとも、このような大胆な論断を、川村氏自身が、参照可能な論考の形で発表していない点が事の起こりなので、河村氏は、史学者を自認していないのかも知れませんが、何しろ、氏の講義録の原文を目にしていないので、勝手な推定に過ぎません。
 いや、後日、史料を取り寄せたのですが、典拠となる記述は見当たらないので困惑しています。

 ただし、道里記事が冒頭「従郡至倭」で開始し、諸国を経た後、「女王の居処(都する)ところ」が結末となって、その後に、全行程の水行陸行期間が続いたとの解釈なら、大局的には同感できます。たたし、真理は細部に宿るので、別に大した同感ではないのかも知れません。

*「国邑」道里観~2021/12/11, 19
 私見では、倭人伝の世界観に従うと、伊都国の王城である「国邑」と女王居所の王城である「国邑」は、中国古代の聚落の定型として、共通した外部隔壁に囲まれ、同一聚落に包含されていたとも見えます。
 であれば、伊都国から先の道里は存在しないのです。この見方は、古田氏の見解と似ていますが、古田氏は、両国とも、王城はそれぞれの「広がりを持つ」支配領域内にあって、王城同士は直接隣接していないが支配領域が接しているので、道里を計上しなかったというものであり、中国古代の常識として、国間道里は、王城間の道里とすると言う定則に反していて、世界観が異なります。
 なお、千里単位の道里表記では、十里代の道里は書きようがないし、郡倭道里は里単位のものなので、本来百里単位の道里は、積算計算に乗らず、まして、十里単位の短道里は、計算に弱い読者を混乱させるので、このあたりの道里は、表記を避けているものと思われます。
 以上、この場では説明しきれないので、店仕舞いします。 

▢異様な投馬国道里
 細かく言うと、氏による有力国でありながら道里不明の傍路で済まされている投馬国行程の扱いが何とも面妖で、良くこのような形式不備の論文が、季刊「邪馬台国」誌の懸賞論文審査を通過したかと不思議です。

 氏の主張する内容は、氏の考察の結果、氏の見識の反映ですから、尊重するものですが、論文としての形式不備は、それ以前の低次元の欠点なので、ことさら「非難」するものです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った..」改2 5/5

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂 ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11, 19

*「異論」の究明
 あわてて取り上げたのは、ある程度通じた作業仮説なのでしょうが、提言された「郡~投馬」行程の後半は傍路であり、傍路諸国は不詳といいながら、わざわざこう書いたと見る理由が不可解です。陳寿は、確固たる編纂方針を貫けない、魯鈍なのでしょうか。ことは、倭人伝の冒頭、せいぜい五百字程度なのです。

 内容を見ると、郡からの「七千里」沿岸航行に続き三度の渡海、計「三千里」で「計一万里」となり、郡から末羅までの途方もなく遠大な行程を「水行一日千里」で「十日」行程とした上で、残る末羅から陸行(二千里)一ヵ月(一日七十里で三十日)で、王の居処に着くものと見ていますが、それ自体は明快です。

 ただし、投馬行程に明記された水行「二十日」は、郡から末羅国に至る水行「一万里」、「十日」に対して、残る「十日」の行程が続いているとの解釈は、氏の所説としての筋が通らず、持って回ったこじつけで、根拠不明です。
 仕方が無いので、一読者として検算します。

〇万里の彼方の投馬国
 すると、郡~末羅の水行十日は、万里十日、一日千里の速度となり、一里90㍍なら一日90㌔㍍ です。中原官道では、騎馬も想定した上で一日25㌔㍍ 程度と設定されていますが、これはその四倍近い快速であり、とんでもない齟齬です。
 一方、末羅から陸上移動一ヵ月は、一日10㌔㍍程度と見ても、行程道里が300㌔㍍になんなんとして九州に収まらず、別の齟齬です。

 また、投馬国への残りの水行十日は、道里として一万里となってしまいます。要は、氏の言い分では、半島を通過した上に海峡を渡るのに匹敵する「水行」が必要という事です。どこまで行きたいのでしょうか。

 当論文には、こうした初歩的な検算すら書いていないのです。

〇もう一つの異論
 当方は、郡~狗邪の半島内行程は、「当然、自明」の「陸行」と見ます。古来、公式道里、行程は、陸上の街道行程であり、従って、殊更、「陸行」とは書いてはならないのです。何しろ、行程の出発点は、帯方郡の郡治、つまり、内陸の一点であり、当然、陸上を行くのです。具体的には、東に進んで北漢江の流域に下り、以下、流路沿いに南下すれば、確実に、南漢江との合流点に到着し、そこから、さらに流路沿いに南下すれば、順調に、小白山地の麓に到着するのです。
 既に、百年以上運用され、弁辰鉄山の産鉄が両郡に納入された公道でもあります。

 記事で直後の「循海岸水行」は、後出の渡海を「水行」と呼ぶと予告するものであって、世上誤解されているように、行程の成り行きを書いたものではありません。
 郡から「東南」方の倭に向かうのに、いきなり、大きな迂回となる海岸に向かうはずはなく、街道は半島内を「南下」するのですが、「当然、自明」なので書いていないのです。倭人伝の道里行程記事の意味を理解すれば、「道里」の測れない、日程の確定できない不規則な移動が予定されていると想定するのは、大間違いとわかるはずです。

 倭人伝独自で官制に無い新規の「水行」十日は、狗邪~末羅間の三度の渡海、計三千里に限定であり、一日三百里、25㌔㍍と見ます。海上に「道」は無く、また、行程の途上で船中泊するものでもないので、一日三百里と称するのは無意味なのですが、「水行」「陸行」と並記するので、一日あたりの行程を計算してしまうのです。

 「陸行」の大半七千里は郡街道であり、一日三百里で二十日強と見て、残る末羅から十日行程は道路事情不明ですが、そこそこの市糴道と推定しますが、未開地なので、実情はわかりません。陸行一月で「確定申告」しているので、多少の支障・遅延は、想定済みというものでしょう。

 以上、文献上の論拠は乏しいものの「論」の筋は通ると見るのです。

〇論文審査の不備
 当論文で、この点のダメ出しがされてないから、本誌は、論文査読で簡単な検算をしないのかと見るのです。これは、文系、理系の問題ではありません。新米社員でもできる、単純な検算です。率直に言うと、怠慢です。

 生身の人間には、時に勘違いはありますが、最後に控えた編集部査読は、いわばサッカーのゴールキーパーであり、取りこぼしは即失点です。おかげで、氏は、簡単な検算もできない欠陥論者として記録に残るのです。

〇是正~ダブルチェック
 やるべきことは簡単です。暗算とは言わないまでも、筆算ででも検算するのです。検算は、一回でなく、縦横を変えて二回行うのです。そして、計算が合わなければ、入れた数字が間違っているか、計算が間違っているかです。是正とは、誤りを見つけて適確に正すことです。それが、実務の形です。

 今回の事例で言うと、投馬道里が帯方郡基点との見方も、郡~狗邪を海上七千里との解釈も、揃って間違い」であり、とすれば、堂々と再考できます。お手数ではありますが、そのような面倒な検算で間違いを発見した後、誤入力、誤算を是正すれば、順当な正解に至るのです。結果だけ見れば、すらすらと行ったように見えるかも知れませんが、そのように見せるためには、検算、推敲が欠かせないのです。

 具体的に言うと、投馬国行程を郡起点から外し、狗邪までを「水行」から外せば、「水行、陸行」は、明解です。
 この場合、大局を正せば細部は付いてきます。大事な所論の足場は、灼いて槌打ちし水中に投じて鋭鋒とすべきです。不愉快でも、論文は火と水の試錬で確立するのです。時には自分自身でです。

〇まとめ
 当方は、善良な読者ですから、季刊「邪馬台国誌」の課題論文優秀賞作の書評に取り組みました。冒頭提言での落胆に続く、締めくくり部の落とし穴に憤慨したのですが、今さら棄却できないので公開しています。

 いくら新鮮な取り組みの意気込みは壮と見えても、論文の本分である正確な考察と闊達な論考が、提示から結論に至るまで、適確な手順で展開、論述されていなければ、冷静な読者の信を得て、動かすことはないのです。

                               以上

2021年12月 9日 (木)

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 1/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読       2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09

□総評
 広く衆知を集め、かつ、編集部の交通整理が添えられて、見事なパノラマを成しています。各論は論文審査で体裁が整っていて学術雑誌としての品格が見事です。倭人伝里程論は、当誌の記事を踏襲することが必須なのです。

□序論~芳醇な前菜
 と言いつつ、編集部の「里程論入門 諸説を整理する」なる序論は、序論の域を超えて、以下の諸論の核心にも言及し、ここだけで満腹になる芳醇、潤沢な前菜です。例えば、茂在氏論文は、かなりの部分が紹介の分を越えて、先触れされています。

 全体の味付けが、おそらく九州濃厚風なのは、本誌の持ち味であり、こてこての畿内論者は不満たらたらでしょう。核心の短里論も、「史料で解釈すれば短里に決まり」に近くて「誇張説」論者は、歯ぎしりしつつ座視しているようです。

 埋め合わせに、当特集に論考を寄せてない榎一雄氏、安本美典氏、古田武彦氏の先賢の里程論に加えて、当分野で新進気鋭の森繁弘氏の方位論が紹介されていて、その意味でも、さらに混ぜっ返しただけで、交通整理などと言うものではないようです。

 特に、森繁弘氏著作は、旧肥前国松浦郡の東西、南北地名が、地図上の東西南北と対比して、西方、つまり反時計回りに九十度回転と見える(仮設のタネとなる思い付き)ことを根拠に、これが、「(魏の使いの)張昭」の方位観を曲げたと推定していますが、張昭は、魏使でなく、後年、女王国の難局に派遣された郡武官の実務家で、蛮地の未整備漢字地名で方位感覚を崩されたとは思えないのです。
 と言うことで、苦心の奇想(「奇」は、古典的な褒め言葉です。念のため)も、水没しかけた畿内説を浮上させるとは思えないのです。

 但し、記事中の里数表が、「後世に害毒を流している」とわかったので、学術的な批判を補充しました。

*目次 全十六篇 附番は当ブログのもの
 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程           茂在 寅男
 2 魏使は、遠賀川を遡った                松井 芳明
 3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程         西岡 光
 4 邪馬台国への道のり                  山田 平
 5 里程から見た邪馬台国                 船迫 弘
 6 「方」について                                                 米田 実
 7 三国志の「里」について                小坂 良彦
 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位               藤原 俊治
 9 「魏晋朝短里説」について               後藤 義乗
10 「周髀算経」の里程について              谷本 茂
11 末羅国放射式批判                   川谷 真
12 「水行」の速さと「陸行」の速さ            中村 武久
13 「黄道修正説」は誤りである              道家 康之助
14 「魏志」「倭人伝」の方位                   早川 清治
15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程      山田 平
16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観             謝 銘仁

                             未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 2/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読            2019/07/16 補充 2021/12/09

*表2「魏志」「倭人伝」の1里は何メートルか
       「魏志倭人伝」の記述    実際の距離(中数)  一里は何㍍か
帯方郡→狗邪韓国  7000余里     630-710km(670km)     96m弱 
狗邪韓国→対馬国  1000余里      64-120km(92km)      92m弱
対馬国→壱岐国   1000余里       53-138km(98km)       98m弱
壱岐国→末廬国   1000余里        33-  68km(51km)       51m弱 
末廬国→伊都国    500里         32-  47km(40km)     80m
伊都国→奴国     100里          23-  30km(26.5km)   265m
奴国→不弥国     100里         6-  24km(15km)     150m 
合計        10700余里      912.5km             93m 
 これは、記事内の作表を若干加工して引用したものです。念のため補足すると、「合計」は、記述されていません。
 率直なところ、数字表記が時代錯誤で古代人には理解不可能だから、史学上の考察に不適当なので、まずは、擬古代式にしてみます。(公里 ㌔㍍  公尺 ㍍)

*「魏志 倭人伝」の一里は何公尺(㍍)か 
 区   間      記述里数    推定路程(道のり)     一里の公尺     
帯方郡~狗邪韓国  七千里     六百 ~ 七百 公里   九十~百公尺    
狗邪韓国~對海国   千里     六十 ~ 百二十公里   六十~百二十公尺
對海国~一大国    千里     五十 ~ 百四十公里   五十~百四十公尺
一大国~末廬国    千里     三十 ~  七十公里   三十~七十公尺   
末廬国~伊都国    五百里    三十 ~  五十公里   六十~百公尺
伊都国~奴国     百里     二十 ~  三十公里   二百~三百公尺
奴国~不弥国     百里      五 ~  二十公里   五十~二百公尺    
合計 (無意味)  一万里     八百 ~  千百公里   九十~百十公尺    

*問題点山積
 第一歩として、算用数字は、古代史に根本的に無意味なので漢数字で書いて評価すべきです。古代史学のイロハのイですが、不都合に気づかない先覚者に、何も考えずに追随していることが多いのです。

 一見、よくわからないのは、古代記法のせいもありますが、元々、幾つかの素性の異なる項が並んでいるからであり、もともと込み入っているのです。

 表形式で枠に収まっていたとき明快と感じたのは、結果だけ眺めたからであり、かくの如く図表はごまかしの道具立てにされやすいのです。
 全て嘘と言わないものの演出です。きれいな図表を見たら、ともあれ眉唾です。
 
古代人が図表なしで文章説明したのだから、現代人も、図表なしに理解し表現できる筈だと思うからです。
 改訂表の抹消項目が棄却された理由は、追って説明します。

*概数表記の確認
 なお、倭人伝の「余」は、はした切り捨てでなく概数の中心値表示であり、当方は、概数は自明ということで省略すると決めています。
 漢数字の良いところは、全て、一の桁まででなく上位の一桁だけが「実」とわかることです。算用数字では、どこまでが「実」で、どこからが、「体裁」なのか、見えないのです。

 どちらも、誤解されて議論を曲げている例を散見するので、念押しです。

                               未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」 0 序論 3/3

  昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
 私の見立て ★★★★★ 必読            2019/07/16  2020/05/06 補充 2021/12/09

*悪表の祟り
 自分で筆算計算して作表したら、五㌔㍍~七百㌔㍍の大小バラバラの数字を縦に並べる集計表の無意味さがわかったはずです。
 区間によって実質の大きく異なる数字を、お構いなしに並べて、単純に足し算し、平均しているからですが、この点にこだわっても無意味なので深入りせず両断します。「実際の距離」は虚辞です。実際がわかれば苦労しません。

 こうしてみれば、計算結果は別として、全て、一桁概数の世界であることがわかります。これが、古代人の見た数字なのです。

*反則退場連発
 千里単位の概数里数に、百の位の里数を足すのは、概数計算の反則であり、また、路程の根拠も不明で、データとして無意味です。
 渡海里数は測定不能で、陳寿は「概念」を書いたのだから、データとして無意味です。


 無意味なデータを足し加えて平均するのは、愚行なのでゴミとして抹消します。
 データ紛いのゴミを持ち込むのは、史学論として自滅行為です。

 かくして、辛うじて郡~狗邪間が生き残っていますが、実際は経路審議中で、路程は不明ですから、概数以前の問題で計算が無意味です。ただし、この項を棄てると何も残らないので、計算の問題点を示すために、棄てるのを暫しとどめます。

*味噌こしの底~辛うじてデータの片鱗
 帯方郡~狗邪韓国 七千(余)里 六百 ~ 七百公里 九十 ~ 百公尺
 と書いたものの、区間里数は六千~八千里程度の幅は覚悟すべきです。根拠なしにこの間を六百~七百公里と見る不具合に眼をつむると、一里は、七十五~百二十公尺と広がります。
 こうして、現代人感覚で見ると途方もなく見えるほど幅が広がることを見て頂くために、あえて、不確かなデータを評価したのです。それにしても、とかく誤用される「中心値」は、時代錯誤の場違いなものなので、有害なものでしかないのです。


 ひいき目に見て幅を狭めてもこの程度です。但し、これほどおおざっぱに見ても、「普通里」の四百五十公尺とは格段に違って混同の可能性はなく、倭人伝の「従郡至倭」行程の道里が、「普通里」の数分の一の「里」で書かれているのは明白です。

 議論の核心は正鵠を得ているので、当初、この不都合には眼をつむったのです。欠点の無いものは無いのです。


*謙虚な推定~エレガントな解答例
 以上のように、整然として見える計算表が、実は意味の無い「想像の産物」と気づけば、つまり、なんでもお見通しという後世人の傲慢な視点を棄てて謙虚に読めば、これだけの記事すら史料として読めてないとわかるのです。

 立ち待ちでなく、しゃがんで地べたを見れば、うっすらと進むべき道が見えるはずです。まず成すべきは、倭人伝記事から陳寿の深意を知ることであり、陳寿すら把握できてなかった史実を知ることではないのです。

 中国では、太古以来、無批判追随の危険は知られていて、「前車の轍」という比喩が戒めです。自分の目で前途を見定めることです。

*まとめ
 引用表は、季刊 「邪馬台国」 第35号に掲載されましたが、三十年余を歴て、長く広く参照され、追随、踏襲されていることに、一面、深甚の敬意を覚えると共に、その罪の深さを歎くのです。

 安本美典氏の表明された編集方針を見るに、願わくば、掲載論文の原器となり得る矍鑠たる存在であって欲しいと思うものです。何しろ、この世に、同誌ほど学術論文の原点を守っている商業誌、軽出版物は存在しないからです。

                               完

新・私の本棚 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1 1/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
  私の見立て ★★★★★ 必読                2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09

*前置き
 はなからケチを付けるようですが、タイトルで謳われた「実地」とは、倭人伝時代の「実地」ではなく、論者が実際の土地と想定した土地を、二千年近い後世に歩いたという事です。近辺に足を踏み入れたことのない当方には、机上批判しかできませんが、行き届かないのは自覚しているのでご了解いただきたいのです。以下各論も同様です。

 論者たる茂在(もざい)氏は海洋学の泰斗で、「九州説」に立っています。また、倭人伝に誇張や修辞の間違いが(多々)あるとの俗説は採用していません。敬服する次第です。

*冷静明快な里程論
 「二.「一里」は何メートル」では、「郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、あるいは南しあるいは東し、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里」の書き出しの後に「初歩的算数問題」と評し「問題は着実に解明される」としていて、およそ「問題」は「解明」できるいう冷静で知的な立場に同感します。

 また、氏の理解では、郡と狗邪韓国の間、「郡狗間」は、出発・到達点が明記され、その間の行程は「航路も正確に示された航程」と談じて、海図上で大体六百五十㌔㍍と論理を重ねた上で、これが七千里と書かれているから、そこで言う一里とは大体九十三㍍であることは明白ではないか、と見事に論じています。

*渡海論
 続く、三度の渡海について、論者は、海図から航路長を推定し、対馬まで約百㌔㍍ 、対馬から壱岐まで同じく約百㌔㍍ と、いずれも、一千余里に妥当し、壱岐から到着する末羅国も、同様の航程長と推定し、ここまで、郡から一万里としています。
 いずれにしろ、ここまでの区間は一里九十三㍍で一貫と検証しています。
 多分、九十㍍とした方が、読者に誤解を押しつけない時代相場の概数であり、適確でしょう。

*批判

 当方が批判したいのは、まずは、以上の行程を全て「航程」、「航路」と見ている点であり、三世紀当時、そのような「航路」は言葉として存在していない、つまり、対象となる実体がない、と言うことです。概念の時代錯誤です

 参照された海図は、現代のものであり、当時は、そのような行程/航程を辿ることはできなかったと感じます。遺憾ながら重ねて時代錯誤に陥っています。

 但し、現代的な航程で六百五十㌔㍍ なら、当時の船でも大差ない行程長とみて、参考にして良いように思います。あくまで、海図もコンパスもパイロット(水先案内)も無しに、想定通りの航行ができたらの話ですが。

 但し、この間の行程長の評価で、海図を採用しているのは、同意できません。当時海図も航路もなかったので、渡海船が何里移動したか、自身で知るすべはなかったのですから、この三回の渡海は、移動里数を想定できたにしても、全て、漠然たる推定、目算であって、「正確」とか「完全に一致」とか言うのは、見当違いと考えます。

 と言うものの、論拠明快であるから、話が早いのです。
                                未完

新・私の本棚 茂在 寅男 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 1 2/2

 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程   茂在寅男
                                                    2019/01/28 追記 2020/10/07 補充 2021/12/09、12/11
〇水行論
 「三.水行一日の距離」では、論者の豊富な航海知識を活かしつつ、史料記事を参考に考察を進めています。

 まず、一、二日を越える航海では、随時停泊上陸し休息を取ったと思われ、所要日数は、非航行日数も含めた全日数を採用したと思われるとして、これを「水行一日の距離」の計算に供しています。この点には大賛成です。体力勝負の漕ぎ手の疲労は当然考慮すべきですが、乗客だって、揺れ動く船室に座っているだけでも、相当体力を消耗するはずです。「随時」などと治まっている場合ではないのです。

 いや、せいぜい数日限りの渡海船に、乗客用船室があるとは限らないのです。甲板のない吹きさらしで、乗客用船室がなければ、毎日、夜間は入港、下船したと見るべきでしょう。何しろ、中原世界に、波濤万里の船便移動は無く、また、海船に不慣れな魏使が「金槌」で、船酔いしていたら、連日の移動は、不可能もいいところです。

 重ねて言うと、潮流が入港に適した流れならいいのですが、下手をすると港外で潮待ちでしょう。出港の潮待ちも、当然必要です。随分余裕を見ておかなければ、いざというときに期限に遅れ、「欠期」処刑にあうのです。 

 続いてあげている「フェニキア人のアフリカ回航」のヘロドトス著作は、諸般の状況が、悉く異なり、全く参考にならないものと思います。また、三世記の当事者の知るところではなかったのです。よって、さっさと証拠棄却です。

*帆船行程考証
 郡から帆船航程との想定は、氏も認めるように、帆船は、逆風、荒天時に多大な待機が想定されます。また、当時の帆船は順風帆走だけで、そもそも、操舵ができなかったので、入出港が大事業である上に、障害物の回避も思うに任せないのです。となると、結局、漕ぎ手を載せて操舵するしかなく、一段と重装備になるので、対象海域の多島海では運用不可能と素人考えしています。

 論者自身は現代人ですから高精度の海図で安全航路を見出せても、当時、正確な海図はなかったから、「海図に従う航行」は、不可能だったでしょう。絶対安全の確信なしに、貴重な積荷と乗客を難所に乗り入れなかったでしょうから、とても実務に採用できない事になります。

*漕ぎ船再考
 丁寧に言うと、地域で常用されていたはずの、吃水の浅い、操舵の効く手漕ぎ船なら、難所の海を漕ぎ進めたでしょうが、想定されているような、吃水の深い大振りの帆船は、同様の航路を、適確に舵取りして通過することは、まずできなかったはずです。頼りにしたい水先案内人ですが、地域標準の小船の案内はできても、寸法違いの帆船の安全な案内は、保証の限りでないことになります。

 結局、山東半島からの渡海の際は、往来の、出来合の渡海用帆船を徴発しても半島に乗りつけたにしても、南下するのに、そのような渡海船は転用できず、日頃運用している便船を起用するしかないことになります。つまり、漕ぎ船船隊の登場です。この海域に、漕ぎ船が活発に往来していたとすれば、郡の資金と意向で、必要な船腹と漕ぎ手を駆り立てることはできるでしょうが、それにしても、どの程度の行程を一貫して進めるか疑問です。
 当時の地域情勢で、遙か狗邪韓国まで、切れ目なく、闊達な運行があったとは思えません。
 と言うことで、普通に考えて、そのような漕ぎ船船隊が、実現した可能性は、相当低いものと見る次第です。
 学術的な時代考証であれば、実現性、持続可能性を実証する必要があったものと見ています。フィジカル、つまり、物理的、体力的な実証は、このような疑念を排する基礎検証を経た後で、蓋然性の高い設定で行うべきでしょう。

*半終止
 いや、後世にも名の残るような海港であれば、補助してくれる小船の力を借りて、入出港できたかもわかりませんが、ここに上がっているのは、「海岸沿い」、浅瀬つづきの海なのです。見くびると、即難船です。常時、帆船が往来していなければ、魏使の船は、浅瀬、岩礁の目立つ難所つづきでは、安全な航路を見いだせないのです。

 因みに、当時、東夷の世界には帆布はないので、帆船航行は、小型のものと言えども、実現不可能とみています。地場に帆布がなければ、帆船を持ち込んでも、破損の際に、修理、帆の張り替えができないのですから、定期運行もできません。いや、野性号は、力まかせの漕ぎ船の実験航海ですから、帆船の実験航海は、別に必要なのです。

 と言うことで、万事実証の論者が、辺境、未開で航路図のない倭地の水行で一日二十乃至二十三㌔と推定したのは、軽率というより無謀の感があります。

〇陸行論
 「四.陸行一日の距離」は、論者や周辺の一般人の体力を冷静に観察し、起伏のある整備不良の路の連日歩行は、一日七㌔すら困難としています。
 訓練不十分な一般人に唐代史料の軍人の規定を引くのは無理との定見に賛成です。

 倭人伝で、「草木茂生し、行くに前人を見ず」とは、初夏の繁茂で任務遂行困難を言い立てていますが、定例の官道整備で困難が解消しますから、通行の障害になるはずがないのです。むしろ、切っても切っても逞しく生えてくる植生は中原では見かけないだけに、特筆したのかも知れません。
 いずれにしろ、官道は往来活発で、渡海便船着発時には交易物資が往来し、歩行困難の筈がないのです。

*韓地官道論
 因みに、氏が一顧だにしていない半島内官道は、遅くとも、二世紀後半に開通していました。つまり、魏の官制に基づき、道路としての整備はもとより、所定の「駅」が運用されていて、休養、宿泊に加えて、給食、給水、さらには、替え馬の用意、蹄鉄の打ち替えなどの支援体制があって、必要に応じて、荷物の担い手を追加することもできたのです。もちろん、陸上行程は、足元が揺れて酔うこともなく、難船で溺死する恐怖もなく、「駅」での送り継ぎの際に人夫を入れ替えすれば、人夫の体力消耗、疲労の蓄積を考える必要がないのです。
 つまり、計画的な定時運行ができるのが、街道行程なのです。

*現地踏査の偉業
 論者は、九州島内での現地実証の提言への賛同者の多大な協力を得て踏破確認しています。ここまで率直に机上批判を呈しましたが、空前の偉業には絶大な賛辞を呈します。

 結論では、陸行一日七㌔弱の当初案を減ずる可能性が述べられていますが、夷蕃伝に書かれる日数は、郡との通信所要期間を必達の規定とするため余裕を含めるものです。何しろ、遅刻は、下手をすると処刑なので、余裕を見るものです。

*論者紹介
 末尾の論者紹介では、論者は、商船学校航海科を卒業した後、商船学校教官、商船大学教授として教鞭を執り、退任後、海洋学分野で指導的立場にあったようです。歴史系の著作多数で、本論関係では、遣唐使船復原プロジェクト等を指導し、海と船の古代に関して該博な見識を備えていました。

 特定分野の大家や企業役員として活動した自称「専門家」の古代史著作は、突出した持論を性急に打ち出すなど、思索のバランスを失して古代実態を見過ごした著作例が珍しくありません。何しろ、倭人伝原文の真意が理解できていない上に、当時の地理、技術について、無知に近い方が多いので、批判するのもうっとうしいほど、外している例が、ままあるのです。

 論者による本稿は、そのような凡愚の著作ではなく、対象分野に対して常に実証を目指した力作であるだけに、大きく異論を唱えることができませんでした。いろいろ難詰したのは、氏に求められる高度で綿密な技術考証が、いろいろな事情で、疎かになってるいると見るからです。
 妄言多謝。 
                             この項完

新・私の本棚 松井 芳明 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」再 2 1/1

 2 魏使は、遠賀川を遡った        松井芳明
  私の見立て ★☆☆☆☆ 疑問山積                2019/01/28 追記 2020/10/07  補充 2021/12/09

*前置き
 当論文は、里程論と言うより人口論のおまけであり、その点で、同誌特集の趣旨を外れかけているとともに、当方の守備範囲を外れています。
 当然、行程記事は順行型解釈であり、投馬国から南水行十日、陸行一月で王城に到る」と解釈しているので、当方の仮説とは別次元となっています。つまり、重ね重ね批判の対象外です。 
 と言うものの、不審な点は率直に指摘します。

*「母なる淀川」賛
 当方としては、実見したことのない遠賀川が緩やかな流れであることにとやかく言う資格はないので、論評はご遠慮します。但し、いかなる河勢であろうと、たっぷり荷を積んだ荷船を、流れに逆らって漕ぎ上がるのは、大変な重労働であり、この点を考慮しない「水行」論は、ただの思い付きに過ぎません。と言っても、川岸から、人海戦術で曳き船するのも、所詮、船体を引き摺っているのに等しく、労力の大半は空費されることになります。
 
 引き合いに出された二大河川の一つ、淀川は、太古以来、上流に安定した水源とした琵琶湖があり、途中に大規模な調整池、巨椋池もあったので、豊富で安定した水量、しかも緩やかな流れであったであろうとの推定には同感です。
 古代に於いて、淀川水系は、河内の大動脈だけでなく、伏見から琵琶湖への流れと、南流木津川の中流で下船して、南のなら山を越えて奈良盆地に入る流れと、二大「幹線」を擁していました。偉大な、母なる大河と言うべきです。

*あて違いな大和川
 ここで、随分不審なのは、大和川は太古以来、緩やかな流れであったとの評価です。何か、具体的な根拠をお持ちなのでしょうか。
 
 大和川は、今日の川筋と異なり、江戸時代に大規模な付け替えで河内平野南部を西に一直線に流れる天井川に改造される以前の旧大和川は、奈良盆地から奔流となって下っていて、南河内から合流する石川と共に、河内平野に土砂をまき散らす急流だったのです。つまり、河内平野は、その堆積の大半が、渇水期はあっても雨期の急流を齎した大和川の賜物と思うです。そんな途方もない暴れ川が、「緩やかな流れ」で河内奈良間の水運を支えていたとは、何かの勘違いだと思うのです。

 ちなみに、入念な治水工事が施された現代に於いても、水源地帯で広く豪雨に見舞われるなど、歴史的な出水時には、広域で氾濫する暴れ川であることは変わっていません。

 重ねて言いますが、琵琶湖という水瓶を水源とする淀川は、水量豊富で安定しているという点で、他に例を見ない大河なのです。この点の認識が甘ければ、机上の曲芸で無理な類推を捻り出していることになります。

 この部分の展開は、論考全体の信頼性を損なっているので、一度、情報源を確認いただきたいのです。

*遠すぎる回り道
 また、遠賀川上流の投馬国から王城へどう行くにしても、伊都国から南に直行すれば、僅かな、あるいは、そこそこの日数で到着するのに、わざわざ漕ぎ手に負担のかかる河川遡行で、延々と道草を食うのか、同感しがたいのです。いや、これは、氏以外の巡行方行程説に共通するのですが、ここでも持ち出すことにしました。

 図示された鉄道路線比喩は、氏ほどの見識の持ち主にしては大変不出来です。(友人に言うとしたら、「アホか」です)ご自身は納得しているのでしょうが、古代人の目で見た時どう感じられるかのだめ出しが欠けているように思えます。

 使節視点で言うと、鹿児島(?)から、百人になりそうな大勢で、大層な重荷を引っ提げて、延々人力車輌(鉄道比喩です。念のため)で長旅し、疲労困憊で東京目前の品川に着いたのに、なぜ、その上に何日も掛けて渋谷、新宿、池袋、上野、秋葉原と大迂回するのかという事です。
 使節団自身の辛苦に加えて、現地採用の荷運び人夫は嵩むし、人力車輌の運行もあって労力は厖大、各駅一泊で地元は負担厖大です。


 図示したのは、古代の難業を意識の外に追いやり、今日の電車移動並の楽勝との見せかけ(イリュージョン)でしょうか。電車でも、電気無しの手押しとなれば、車体重量が厖大で、楽勝とはほど遠いので、妥当な比喩としては、トロッコ押しでも想定するのでしょうか。

 また、大量の下賜物を抱えた使節団の行程に限るとしても、普段は官道として使用していないはずの山越えの裏街道を、なぜ長々と道中するのか。大変、大変不思議です。

 これは、当方が、放射行程、即ち、伊都国から王城の軽快な行程解釈に荷担して、道草論に荷担しない理由でもあります。

 人口論にも、行程道草論の本体にも深入りしませんが、よほど丁寧に、真剣に説き聞かせていただかないと、時代錯誤、世界観錯誤の重層で、不審感の重ね塗りになります。

                              この項完

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