新・私の本棚 井上 悦文 邪馬台国の会 講演 第426回 卑弥呼の墓を掘る
卑弥呼の墓を掘る (2025.1.26 開催) 初掲 2025/04/08 改訂 2025/05/17(誤記訂正)
◯はじめに
氏の著書・動画講演の影響が絶大なので敢えて批判しました。
*引用とコメント
「氏にして疎略」と「空耳」の混在です。
1.1―1.3の書道家蘊蓄については、本編では口を挟まないことにしましたから、話は、当方の縄張りなのです。
1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
...「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。ところが、この邪馬壹国は、...「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、...「壹」...は魏志倭人伝だけです。中略「邪馬台国」...は「耶馬臺国」が正表記で ...す。
随分手馴れた捌きの口調ですが、内容は、大分受け売りの固まりです。受け売りなら、ご自分の見識だと肩肘を張らず、どの家元のご託宣か書くものです。
それにしても、「その他の ...その他」は「魏志」自体を「その他」と錯綜です。「魏略」、「梁書」は級外史料です。ぼちぼち、割愛してもいい頃です。
*魚豢「魏略」の意義確認 追記 2025/05/17
丁寧に言うと魚豢「魏略」は、史料としては大半が散逸していて、今気軽に「魏略」とおっしゃっているのは、魏略「東夷伝」そのものでなく、大変粗忽に所引された、つまり、間違いだらけの引用として太宰府天満宮に残簡が所蔵されていた「翰苑」に書かれている断片であり、信頼に足る史料ではないのです。言わば、「ジャンク」であり、井上氏ほどの書家なら、正確な引用が継承されていないと瞬時に見て取れるはずなのです。
因みに、魚豢「魏略」西戎伝は、陳寿の百五十年ほど後生の劉宋史官裴松之の三国志付注の際に、魏略善本が健全に継承されていたのは、「魏略」西戎伝が、裴松之附注「魏志」の第30巻「魏志倭人伝」に続いて収容されいることで確認できます。
つまり、魚豢「魏略」西戎伝は、当時編纂中で未公刊の范曄「後漢書」の西域伝の基幹となるべき史書稿であり、後に公刊された范曄「後漢書」の西域伝と併せて読むことにより、「魏略」の史書としての抱負を知ることができます。因みに、裴松之は、「魏志倭人伝」で割愛されている事項があれば、附注していますが、実際は、皆目附注と言うに足る附注は書き残していないので、魚豢「魏略」の倭人伝相当記事は、特に書くに足るものではなかったと証されているのです。
按ずるに、陳寿が魏志倭人伝に収録した原資料は、曹魏明帝が、楽浪/帯方郡を景初初頭に接収した際に齎された、言わば、「原始倭人伝」と言うべき郡志史料であり、端的に言うと、公孫氏に上申した報告書の控えであったと見えます。もっとも、当時、遼東郡に届いて郡公文書庫に収容されていたと見られる公孫氏時代の遼東郡志は、司馬懿の征討軍が、景初二年の戦捷時に根こそぎ破壊殺戮したので、失われたものと見えます。司馬懿は、公孫氏の帯方郡設置による貧弱な東夷管理の深謀遠慮には、全く関心が無かったと見えるのです。
ということで、「魏志倭人伝」は、陳寿とその支援者(優秀な書生)によって、一次史料である「原始倭人伝」を忠実に収録したのであって、当然、別系統の史官であった魚豢の「魏略」倭人伝も、特に疎略に扱う動機も無かったであろう事から、「魏志倭人伝」と同等の正確さで書かれていたものと見えます。但し、翰苑の所引は、史料の意義を知らない粗雑な所引者による魚豢「倭人伝」からの粗雑な引用であり、陳寿が、専門史官として、精魂込めた引用を否定する効力を持たないものなのです。
御理解いただけたでしょうか。
笵曄「後漢書」東夷列伝倭条は、大分玄人っぽい解釈がついて回るので、素人さんは手を出さない方がいいでしょう。とにかく、書かれているのは、別時代・別「国」を示し、難ありです。
それにしても、困惑させられる「その他」重複は、なにかの取り違えでしょう。失笑連発です。
倭人伝に曰わく、「南邪馬壹国に至る」「女王之所である」が正解で、ここに、後漢末に荒廃した洛陽の復旧に勤しんでいた曹魏天子も顔負けの「都」(みやこ)は、見当外れのこじつけです。なかなか、ここまで掘り下げる人はいないので、毎回、難癖をつけざるを得ないのです。
氏が、文献解釈に疎いのか、勿体振った「蓋然性」評価は、まことに非科学的で、力み返った「本来」「推察」は、根拠皆無で、空転しています。「倭人伝」は、すらすら読めるから楽勝だ、要するに、陳寿がペテン師なんだとでも言いたいような、やじうま論議が巾をきかせているのですが、幸い、氏は、圏外のようです。
1.5.卑弥呼の墓 中略
「径百歩」は正確な引用ですが、文書考証すると女王「冢」の規模、敷地広さで、「歩」(ぶ)は、長さでなく面積単位であり、現代風「平方歩」です。
これは、なかなか理解できる人が少ないので、歎いているのですが、氏も自認されているように、実務を想定すると、墳丘墓「直径」は、現地測量不可能です。陵墓規模は、測量可能な敷地面積で示すものです。当方の中国算術史料「九章算術」研究の成果で、「径百歩」は、常用の面積「方百歩」を「一辺十歩(15㍍)の敷地で冢が円形」と、異例の「径百歩」で明示したものです。
*古代算数の勉強
円形図形の専有面積は、「直径」がわかっていれば、「直径」の二乗、「直径」掛ける「直径」に、「3」を掛ければ概数として正しいのですが、「直径」が測れない場合は、「外周」の測量値「歩」を「3」で割れば「直径」(の正しい概算)が得られるので、先の計算式に持ち込んでもいいのですが、一度3で割ってから3を掛けるのは、いかにもムダなので、「外周」の二乗を「3」で割っても、正しい結果が得られるのです。「3」は、円周率であり、諸兄姉は、3.141592などと記憶されているでしょうが、小数を省いて、「3」とすることにより、整数計算になるので、随分簡単に計算できるのですから、古代中国の「算数」を見直して欲しいものです。以上は、「九章算術」なる必須教養を学んでいる、漢魏晋官人には、概数計算の常識なのですが、諸兄姉は、ご存じだったでしょうか。
因みに、墓制に昏(くら)い東方は、これを「直径 百歩≒一五〇㍍」「円墳」とそそくさと解釈して「大規模墳丘墓」の原型/ひな形としたのでしょうか。多分、「九章算術」を学んでいない、「二千年後生の無教養な東夷」なのでしょうが、無教養は、教養を学べばいいのです。
それとも、卑弥呼ー壹輿の後継王が、帯方郡滅亡時の亡命造墓集団に「大規模墳丘墓」を課したのでしょうか。
伝統は、大抵、いつかどこかどこかで断絶するものです。だからといって、卑弥呼の不朽の偉業は、些かも光芒を失うものではないのです。
ということで、名もない「倭人」の後継者達は、「中国」の衰退により、既に支援、指導を受けていた土木工学技術を強化して、独自の「けもの径」を進んだとも見えます。このあたり、所説が錯綜して、当方の乏しい知識では、何とも、判別できないのです。
ところで、直後の安本美典氏の講演は、漢魏晋墓制を、遺物/遺跡考古学の見地から広範多岐に亘って論じますが、「客」の顔を潰さない配慮か、蘊蓄豊富でも、漢魏王墓考証では、地下に複数墓室を設けた方形との明言を、大人の知恵で避けていると見えます。
*円丘・方丘の隔絶
「円丘」は、頂部演壇で三六〇度全周で、時日に応じた方位で天に礼を示す「天丘」は、祭礼であり、葬礼、墳墓など見当違いです。対照の「方丘」は、葬礼であり、別紀日に地下祖霊を弔い、「円丘」と隔離しています。造語するなら、「方円絶遠」です。
要するに、「中国」王侯墓に大規模円墳など存在しなかったことは明らかであり、帯方郡から長期駐在した「大宰張昭」は、「親魏倭王」に葬礼に反する大規模円墳など許さないのです。また、西晋史官であった陳寿は、当然、葬礼墓制に通暁していて、無法な大規模円墳など記録することは有り得ないのです。それが、史官の真意というものです。
無学、無教養の素人である当方の無上の「知恵蔵」である、殷周代以来の太古漢字史料を深く極めた白川勝氏の詳説では、太古東夷と称された周代齊魯領域では、棺を埋葬し封土する「冢」の型式が整っていて、神社祭礼に属すると見える「鳥居」共々、「倭人伝」前段に略記された葬礼墓制は、渡来ものと見えます。
伝統を破壊し、中国「文化」を拒否したいわゆる「前方後円墳」墳墓の繁栄は、一方で、神社がはるか後世に継承されているのを見ると、一介の素人の理解を越えて、不可解と言わざるを得ません。
閑話休題 訂正 2025/05/17 150㍍と誤記していたのを訂正したものです。
当方の行きついた理解は、「倭人伝」に丹念に書き込まれている卑弥呼の「冢」は、「径百歩」規模、すなわち、「十歩(15㍍)角の敷地中央に納棺、封土した円形「冢」である」と端的です。整地、掘削、納棺、埋設、封土、一本植樹の墓碑等の力仕事は、近隣、近在の百人程度の「徇葬者」の一ヵ月程度の通い仕事だったはずです。簡にして要を得た記事です。
中国葬礼では、必ず、石刻墓誌を設けますが、葬儀薄葬令もあり、また、先祖以来の墓地に月々墓参するので、墓碑も墓地も必要なかったのです。また、伝来墓地であらたな守墓人は不要です。蛮習「殉死」等、もっての外です。(字を変えているのに誤解するとは、失笑ものです)
諸兄姉の思考には干渉できませんが、よそごとながら、随分不合理な「歴史ロマン」を死守されているのだなあと、感嘆するものです。
この通り、氏が見習っているらしい世上の雑駁な論議は、悉く空を切っています。
それにしても、前半部を飛ばし読みしても、全般にアラ散在の講義であり、このさい、昭和百年を契機と捉えて、時代物のレジュメを、編集校正し晩節を整えていただいた方がいいでしょう。
以上
いつも勉強させていただいていますが、今回のお話は古代史解明のカギを握っています。
大夫難升米が帯方郡を訪れたのは景初二年六月ではなく景初三年(239年)六月の誤りであることは以下のことから推理できます。
「魏書 東夷伝
韓伝」に「明帝が景初中(237~239年)に密かに楽浪郡太守鮮于嗣と帯方郡太守劉昕を送った」という記事がありますが、「東夷伝
序文」に「景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」とあります。「魏書公孫淵伝」によれば公孫淵の死は景初二年八月ですので、明帝は公孫氏滅亡を知ってから、楽浪郡と帯方郡を攻めさせたと分かりますので、景初二年六月よりも後の話なのです。
そして難升米が帯方郡で面会した太守は明帝の送った劉昕とは全く別人の劉夏なのです。
司馬懿が明帝崩御の景初三年春正月一日の後少帝の太傅(後見人)となって尚書省の長官に就いているので、人事権も掌握し、部下の劉夏を帯方郡太守に就け、戦略上重要な場所にある倭国を朝貢させたと推理できます。倭国王への詔書は司馬懿が書かせたものだと分かります。
つまり魏志倭人伝にほぼ全文掲載された詔書は、陳寿がそのまま転載したということです。陳寿は西晋の宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を編纂したのです。晋書にも東夷の朝貢は司馬懿の功績だと記されているのですから、倭の魏への最初の遣使は明帝崩御後の景初三年六月が正しいと言えるのです。
ここが理解されないから、魏志倭人伝がコテコテの政治文書だと気づかないのです。
このため邪馬台国問題が解決しなかったのです。
従来の史料批判の考え方はそろそろ見直すべきですよ。
政治文書だと分かれば、七万戸の邪馬台国や五万戸の投馬国などホラ話だとすぐに気づきますし、帯方郡東南万二千余里の海上にある魏のライバル孫呉を挟み撃ちにする位置に計十五万戸の東夷の大国とした倭国の女王が都にするところが邪馬台国という記述も、すべて司馬懿を持ち上げるための潤色どころか大ボラだったということに気付けます。
多くの方は卑弥呼が鬼道で倭国を統治する、大集落の中に居た女王と考えていますが、本当の倭国王難升米が伊都国に居たのでは司馬懿の功績を持ち上げるには迫力不足だったから卑弥呼を女王にして騙したということなのです。
卑弥呼は倭国王よりも実力を持つ縄文海人ムナカタ族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、魏志倭人伝の伊聲耆)の女(むすめ)イチキシマヒメだと突き止めています(宗像三女神の残り二女神は政治文書「日本書紀」のゴマカシ)。宇佐神宮・宗像大社や全国の八幡神社、厳島神社や神仏習合して弁天宮で祀られています。詳しくは拙ブログ「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)