2025年11月17日 (月)

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 1/9 2025

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

會稽東治考 1 「東治之山」         2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 当ページ末尾付近で、「念押しの議論」と称して、念には念を入れているが、一向に反響がないので、最後のお願いに挑んでいるものである。

◯はじめに
 定説と呼ばれる「俗説」では、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の「會稽東治」には典拠がなく、「会稽東冶」の誤写とあるが、そう簡単な話では無いと思う。
 「會稽東治」とは、司馬遷「史記」夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽「東治之山」を指すものであり、「東治之山」とは、具体的には会稽山をさすものと考える。

*「会稽之山」
 「水経注」および「漢官儀」で、秦始皇帝が創設した「会稽郡」名の由来として書かれている記事があるが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られる。
 用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
 或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
 或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。

 では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるが、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考える。

 また、中国の地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と読むのであり、会稽郡の東冶県をさす場合は、「会稽東冶県」と明記する。これらの書きわけは、笵曄「後漢書」倭条(傳)に揃って現れているが、笵曄は、魏志「倭人傳」の「会稽東治」の本来の意義を理解できずに「東治」は地名にないから、劉宋の領土内の地名である「東冶」の誤記と即断して校勘したものと思われる。

 更に念押しするなら、ここで書かれている各郡命名は、秦始皇帝の全国統一の際に、重臣である李斯が決定したものであり、その時点、漢(前漢)に命名された「東冶」なる地名は存在しないので、ここに「東冶」と書くのは、時代錯誤なのである。
 「水経注」と「漢官儀」は、「倭人伝」から見ると後世の編纂であるが、李斯の提言の記録なので、その由来は、遠く秦代に遡るのである。
 丁寧に時代考証すると、異議を挟む余地はないように思うがどうであろうか。

*念押しの議論~2023/05/24
 因みに、三国時代、「東冶」は、曹魏の領域外である東呉孫権の領域内であって、魏には、一切現地情報が届いていなかったのである。
 また、先立つ後漢代、会稽郡治から東冶に至る経路は、崖に階梯を木組みした桟道すら通じていなかったから、「街道」は途絶していて、その間の道里は未設定であり、東呉すら知ることができなかったと思われ、まして、敵国である魏の公文書に記載されることはなく、従って、「魏志」に東冶がどこに在るなどと書くことはできなかったのである。そもそも、「東冶」の属する東呉建安郡が、古来の会稽郡から分郡されて創立されたのすら、東呉が、壮語を継承した司馬晋に対して降服した際に上納された「呉書」(呉志)で知るだけであり、陳書の編纂した「魏志」は、最後まで敵国東呉を参照しなかった魏の公文書に全面的に依拠しているから、そのように判断されるのである。
 この際の結論として、「魏志」を編纂した陳寿の厳正な態度から見て、「倭人伝」において、倭に至る道里が雒陽から会稽東冶に至る道里と比較してどうであるというのは、一切あり得ないのである。

 因みに、「会稽東治」が書かれている部分は、気候風俗の記事内容から見て、かなり南方であって暑熱の狗奴国の視察報告、それも、後日の張政一行の早書きと思われるので、正体不明の会稽東冶と対比することに大した意義はなく、古来周知の「会稽東治之山は、その地の西方に当たるようだ」という風聞記事を付け足したと見た方が良いのではないか。これは、続いて「倭地温暖」と書き出された記事が、倭の盟主であって女王を擁立した伊都国の存在する北九州のものと思われるのと、一線を劃しているのである。(「評釈 魏志倭人伝」 {新装版}水野祐 ㈱雄山閣 平成16年11月新装刊)

 いや、陳寿がいかに知恵を絞っても、東夷の地理について、議論の視野を広げ、さらに遠隔の霞の彼方の地を論じると、議論がぼやけるのだが、その意味でも、いわば、正史夷蕃伝で、倭の最果ての地から会稽東冶なる具体的縣名を遠望したとは思えないのである。

*異議の史料批判~証人審査~2023/05/24
 いや、現に史料に明記されている字句が誤伝であると主張する「俗説」には、厳重に審査された資料の提示が必須であり、単なる臆測で言い立てるのは、素人の野次馬論に類するものであり、史学においては、本来論外なのである。
 一説では、近年公刊された公式資料に「東冶」と書かれているらしいが、根拠不明である上に「誤植」、「誤解」の可能性が否定できないので、耳を貸す必要はないと思量するのである。
 つまり、ここで展開している議論は、本来不要であるから、これに対して、異議を言い立てるのは、無法なのである。

*初学者への指導事項
 ちょっと厳しすぎる議論になりそうだが、正直言って、漢字の「さんずい」(水)を、ちょっと間違えて「にすい」(火)に書いてしまうのは、実際上、それほど、珍しいことではなく、時に、通字になって辞書に堂々と載っているくらいである。

 ただし、それは、「さんずい」の漢字を「にすい」にした「字」がなくて、誤字にならないと言うことが前提である。「東治」と「東冶」のように、「さんずい」と「にすい」で字義が異なる場合は、きっちり書き分け、読み分けしなければならない。

 漢字解釈の「イロハ」を知らずに高々と論じるのが、国内古代史学界の通例/悪弊であり、榎一雄師や張明澄師の夙に指摘しているところであるが、頑として是正されないようである。

 近来に至っても、在野の研究者から三国志の解釈に於いて、定説気取りの国内論者の通弊/誤解を是正すべく、中国史料としての善解を促す健全な提言があっても、権威者気取りの論者は、かかる提言に一顧だにせず、つまり、原史料に立ち戻って「再考」することなく、「大胆」の一言で片付けて、保身する安易な対応がはびこっていて、やんぬるかな、「百年河清を待つ」と言う感じであるのは、大変残念である。

 どうか、史学の原点に立ち返って、原史料と「和解」していただきたいものである。それが、晩節というものではないだろうか。 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 2/9 2025

*加筆再掲の弁
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會稽東治考 2 禹の東治           2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*字義解釈の洗練

 現代東夷には一見意味不明な禹の「東治」であるが、漢字学の権威として、中国でも尊崇されている白川静氏の著書に啓発されて、以下のように解しているのである。

 「治」とは、殷周から秦漢にいたる中国古代にあっては、文字通り「治水」の意であり、後に、水を治める如く人を治めることを「治世」と表したのではないか。或いは、郡太守の治所を、「郡治」と呼んだように、東治の中心地を言うものかも知れない。いずれにしろ、高度な存在を語る言葉である。
 よって、河水(黄河)の治水にその治世の大半を過ごし、「水」を治めるものとして尊崇を集めた禹が、晩年に至って東行して江水(長江、揚子江)下流、会稽に至り、長江流域からも諸侯を集め、治水の功績を評価したのではないかと言う推定が有力となる。
 禹は、元来、江水流域に勢力を持っていたという伝承もあり、続いて、河水の「治水」をも極めたことから、中原、河水流域にとどまらず、九州(当時で言う、「中国」全土)が禹の威光の下に統一されたと評価されたのではないか。

 いや、この記事は、伝説の治水の君主としての禹を頌えるものであり、現実に「九州」全土をその権力の及ぶ範囲としたことを示したものではないことは言うまでもない。また、禹の時代、当然、「九州」の範囲は、かなり狭いものであり、河水流域の周辺に限定されていたと見るものである。
 例えば、禹の行脚を語るとされている「陸行水行」論でも、河岸の泥を進む橇行が語られているから、禹の天下は、河水河岸にほぼ限定されていたように見えるのである。

 ちなみに、白川氏は、禹には、治水を極めた夏王朝創業者としての顔と、それ以前の伝説で洪水神として畏れられる顔とがあると語るが、史書・経書は、もっぱら、夏王朝の始祖、河水の治水者禹を語っている。

 ここでは、東治と「東」の字が用いられて二字であるが、江水下流地域は江東と呼ばれていて、その意味の「東治」であろう。
 会稽郡を命名した李斯は、その教養として、禹伝承を把握していて、河水上流で西に偏した咸陽の秦の支配力を、遙か東方の会稽に及ばせ、東方治世の拠点としたのではないか。

 白川氏によれば、「治」の旁(つくり)である「台」は、耕作地に新たに農耕を開始する儀礼であり、古代音は「イ」であったとのことである。「さんずい」のついた「治」も、本来、水によって台を行う、つまり、水を統御して農耕を行う意味であり、やはり、古来「イ」と発音したように思うのである。
 太古の当時、「台」は、「臺」とは、完全に別の字であったが、後に、台が臺(春秋左氏伝によれば、華夏文明の最下級)の「通字」となり、タイ、ダイと発音されるのが通例となったが、怡土郡(イド)の発音などに「イ」音の名残が感じられるかもしれない。
 世上、日本古代史視点の中国史料解釈では、このあたりの思惟の都合の良いところだけ掬い上げる強弁が横行しているが、一種の「雑技」(現代中国語)「曲芸」であり、正道ではないように見える。

  いや、何分、太古のことであり、後世の東夷が「当然」とした解釈が「当然」でないのである。

以上

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 3/9 2025

*加筆再掲の弁
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会稽郡小史                      2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁

 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽郡小史
 会稽郡は、河川交通、即ち、江水(長江、揚子江)と南北の沿岸交通の要所を占めて開発が進み、ここに郡治を置いて、はるか南方辺境まで郡域に含めて管轄する体制が作られたものと見えるが、東冶県などの南部諸縣は、直線距離で四百五十公里(㌔㍍)の遠隔地である上に、会稽郡治からの陸上交通が海岸に迫る険阻な山地に阻まれ、後年に至るまで、この間の「官道」整備は進まず、交通困難であったと思われる。

*陸道無し 沈約「宋書」「州郡志」
 笵曄、裴松之が生きていた南朝劉宋代の正史である沈約「宋書」「州郡志」は、会稽郡治相当の治所から、往時の東冶県、当時の建安県道里は、去京都水三千四十,並無陸。と明快である。「水」、つまり、河川行の道里のみ記述されていて、「陸」、つまり、陸上街道は存在しないとされている。
 恐らく、有名な蜀の桟道のように、崖面に足場を組んで、「径」(こみち)を設けて、人馬の往来はできても、街道の前提である車馬の往来は不可能で、また、騎馬の文書使の疾駆や兵馬の通行はできなかったため、街道不通となっていたと思われる。
 後年、延暦23年(804)の遣唐使の第一船が福州に漂着し、長安を目指した旅途は、留学僧空海によって、「水」を経由した報告されているので、「倭人伝」の五世紀後の九世紀に至っても、街道は整備されていなかったと見える。
 なお、沈約「宋書」「州郡志」に、建安郡の記載は無いが、晋書及び南齊書に記録があるので、宋書の写本継承の際に脱落したと見られている。
 ちなみに、「晋書」は、唐太宗による官撰史書であるので、南朝期に編纂された「宋書」に先行するものではない。

 秦、漢、魏と政権が推移しても、郡は、帝国地方行政区分の中で上位であり、小王国と言えるほどの自治権を与えられていて、郡治は、地方政府組織を持ち、自前の軍隊も持っていた。また、管内諸縣から上納された収穫物を貯蔵していた。また、管内の治安維持のために、郡太守の権限で制圧軍を派遣することが許されていた。つまり、税務・軍務の自治があった。

 しかし、郡太守として郡内全域統治する視点では、会稽郡治は、南部諸縣との交信が不自由であり、また、遠距離で貢納収納も困難であった。何しろ、馬車の往来や、騎馬文書使の疾駆が不可能では、平時の報告/指示が滞り、また、治安維持で郡兵を派遣するにも、行程の宿泊、食料調達がおぼつかず、結局、南方諸縣は、反乱さえなければ良いと言うことで、自治に任せていたことと思う。

*建安分郡
 後漢末期に会稽に乗り込んだ孫策は、会稽太守につくと共に、江南での基盤固めのため強力に支配拡大を進めた。後に自立した東呉孫氏政権が、江南各地の開発を進めていく事態になると、会稽郡から南部諸縣を分離して、建安郡の新設(ここでは分郡と呼ぶ)が必要になった。因みに、「建安」郡は、後漢献帝建安年間のことなので、時代は「後漢」末期で、魏武帝曹操が宰相として、実質的に君臨していたと思われるので、まだ、東呉は、後漢の一地方諸公だったとも思えるが、このあたりの力関係は、後々まで不安定である。
 新設建安郡は、後に東呉皇帝直下の郡としての強い権限を与えられ、郡兵による郡内の治安維持が可能になり、また、郡内各地の開発を強力に進めることができるようになった。

 もちろん、その背景には、郡治の組織・体制を支えられるだけの税収が得られたことがある。つまり、それまでは、「建安郡」管内の産業は、郡を維持するのに十分な税収を得られる規模になっていなかったので、会稽郡の傘下にあったとも言える。

*東呉自立の時代
 念を押すと、そのような建安郡の隆盛は、あくまで、東呉国内のことであり、曹魏には、一切関知しないことだったので、「魏志」には、建安郡の事情は一切伝わらなかったのである。それは、雒陽から会稽を経て東冶に至る道里行程が不明だったことでもあり、また、東呉領内の戸数も口数も、一切伝わらなかったのである。

 何度目かの確認になるが、三国志「呉志」は、陳寿の編纂したものではなく、東呉史官であった韋昭が編纂したものであることが、「呉志」に書き留められている。陳寿は、「三国志」全体の責任編纂者であるが、「呉志」は、いわば、陳寿の同志である韋昭が心血を注いだ「正史」稿であることが顕彰されているのである。そして、韋昭をはじめとする東呉史官は、後漢末の動乱期に洛陽の統治体制が崩れ、皇帝が流亡する事態にも漢の威光を江東の地に維持した孫権の功績を顕彰したものであり、陳寿は、その真意を重んじて、三国志に「呉志」(呉国志)の全容を確保したものである。
 言うまでもないが、「呉志」は、東呉亡国の皇帝を誹るものでもなく、東呉を下した司馬氏の威光を頌えるものでもないのである。史官の志(こころざし)は、二千年後生の無教養な東夷の量り得ないものなのである。

                  未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 4/9 2025

会稽東縣談義 1                    2016/11/09 2023/05/04 2023/08/08

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東縣談義 1
 陳寿「三国志」呉書及び魏書に、「会稽東縣」に関する記事がある。

 依拠史料は一つであり、呉書と魏書にそれぞれ引用されたと思われる。同一の記事のはずが一致していないので、関連史料の批判として、どちらが正確な引用なのか考察を加える。

 会稽は、江水と沿岸の交易から大いに繁栄したと思われる。経済活動に即して、会稽東部諸縣を監督する部署を設け課税したと推測される。そこで登場したのが、会稽東縣都尉であり、また、東呉に会稽東縣なる地区区分があったはずである。

会稽東縣 呉書
三國志 吳書二 吳主傳
 (黄龍)二年春正月(中略)
 遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。
 亶洲在海中,長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民,時有至會稽貨布
 會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠,卒不可得至,
 但得夷洲數千人還。

 呉書「呉主傳」が伝えるのは、呉主、即ち(自称)皇帝孫権が、衞溫、諸葛直の両将に指示して、兵一万人と共に、夷洲及澶洲を求めて、東シナ海に出航させた事例である。背景として、秦始皇帝時代に、方士徐福が亶洲に向けて出航し帰還しなかったが、現地で数万戸の集落に発展して、ときに、会稽に商売に来る、と挿入句風に「史実」を引用している。

 「会稽」は、郡名、つまり、郡治でなく、地名の会稽を指しているとみられる。引き続いた「會稽東縣」は、明らかに、南方の「会稽郡東冶県」でなく、会稽の沿海部と見られる。筑摩版正史「三国志」では、呉書呉主傳の「會稽東縣人」を「會稽郡東部の住民」と解釈しているが、以上の考察に照らすと、誤訳に近いものである。

 ここで言う会稽は、南方東冶を含めた会稽郡を言うのではなく、著名な地名としての会稽の周辺なのである。

 いずれにしろ、当記事は、「魏志」の依拠する魏朝公文書には存在しないので、「倭人伝」に引用されるものではないのである。
 念のため再確認すると、「呉書」は、東呉の「正史」稿であったが、亡国時に司馬晋皇帝に献上され皇帝蔵書となったものであるから、魏朝公文書には、収録されていないことから、陳寿は「魏志」編纂にあたって、当該記事に依拠しなかったことが明らかである。但し、劉宋代に後漢書を編纂した笵曄は、史官ではないので、東夷列伝「倭条」の編纂に際して自由に諸資料を活用したものと見える。

                 未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 5/9 2005

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

会稽東縣談義 2                 2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東縣談義 2
 陳壽は、曹魏資料に依拠して魏志東夷伝をまとめたが、その際に、呉書に存在した東鯷人と夷洲及澶洲の記事を呉主傳から引用したかとも思われるが、そうであれば、あくまで例外である。あるいは、後漢が健在な時代に雒陽に齎されていた蛮夷記事かもしれない。いずれにしろ、不分明である。

三國志 魏書三十 東夷傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 東鯷人に関する記事の考察は、別項に譲るが、それ以外、魏書記事の「會稽東冶縣」と呉書記事の「會稽東縣」は、同一資料の解釈が異なったものであろう。

 同一編者の史書内の二択であるが、呉書の呉主傳は君主の列伝記事であって、本来の呉由来の史料を直接引用していると思われる。これに対して、魏書「東夷伝」記事は、この呉書記事を転用したものとも見え、そうであれば、その際に省略と言い換えが発生したもののようである。
 この判断に従うと、もともと「會稽東冶縣」はなかったのである。
 まして、陳寿にとって、「魏書」編纂に際して、魏朝公文書でないと思われる「呉書」を利用するのは、本来、禁じ手に近いのだが、時に、そのような引用もあったのかも知れない。もちろん、そうした推定は、あくまで「推定」であり、正確な事情は不明である。

後漢書 東夷列傳:   
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

*『笵曄「三国志」』の限界
 陳寿「三国志」記事を利用したと思われる笵曄「後漢書」を忖度する。笵曄「三国志」など無かったのは承知の挑発である。

 笵曄が後漢書を編纂したのは、劉宋首都でなく太守で赴任した宣城(現在の安徽省 合肥附近か?)である。流刑でないので蔵書を伴ったろうが、利用できた「三国志」写本は、門外不出の帝室原本から数代の写本を経た「私写本」と思われる。笵曄は、劉宋史官の職になかったから、あくまで、後漢書編纂は「私撰」であり、西晋末に亡失したと推定される雒陽帝室書庫の後漢代公文書を直接参照したものではなく、先行する諸家後漢書を総括したものであり、また陳寿「三国志」を参照したとしても、帝室原本などではなく「私写本」であったのは言うまでもない。従って、官制写本工房による公式写本と異なり、私的な写本工房に過ぎないから、前後の校閲は成り行きであり、また、正字を遵守した「写本」でなく、草書体に繋がる略字を起用した速写の可能性もある。何しろ、実際の速写工程を見聞きしたものは現存しないから、どこがどう誤写されたか、推定すら不可能である。
 と言うことで、陳寿「三国志」は、笵曄から見て一世紀半前の公認史書、つまり、正史であるが、百五十年後の劉宋代に笵曄が依拠した「三国志」写本は、帝室原本に比較的に近い善本に由来したとは言え、西晋崩壊時の戦乱の渦中を経た後であり、個人的写本の継承中に、「達筆」の草書写本が介在した可能性もあり、それ故に、諸処で誤写や通字代用があったと懸念される。国宝扱いの帝室原本の厳正さとほど遠かった可能性が高いのである。

*笵曄造作説
 笵曄が後漢書を編纂する際の手元に、相互参照して校勘できる別資料があれば、笵曄は、当然是正したであろうが、こと、後漢代末期桓帝、霊帝期の東夷記事には、ほぼ完全に継承されている袁宏「後漢紀」以外の散佚史書は、名のみ高い謝承「後漢書」、諸家後漢書を含めても史料が乏しく、特に、「東夷列伝」については、手元の陳寿「三国志」写本の後漢代参照記事に依存したと思えるのである。

 何しろ、劉宋当時の規制で、後漢献帝建安年間の記事は、「魏志」に属すると区分が決定していたので、後漢書「東夷列伝」「倭条」(倭伝)に書くことはできなかったのであり、「倭国大乱」の時代を霊帝代にずらし、卑弥呼共立をそれに合わせ、せいぜい前倒しすることで、辛うじて、霊帝代として収容できたのである。

 そのために、二千年後生の無教養な東夷は、「倭人伝」の女王の巨大な君主像を創造的に捏造するために、「倭人伝」の記事を寄って集(たか)って曲解し、魏明帝景初年間に卑弥呼は途方も無い高齢と決め付けたのであり、要するに、笵曄「後漢書」倭条の変節のために、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」の解釈が曲がったのであるから、笵曄の罪科は深いと言える。

 この点、ほぼ同時代に、劉宋皇帝の勅命で「三国志」原本に注釈を施した裴松之が、ほぼ厳密に写本校正され継承された帝室/官蔵写本を参照し、史官として最善の努力を奮って冷静な解釈に努めたと思われるのと大きく異なるものである。

*美文、転載、節略の渦
 因みに、笵曄「後漢書」の本文である本紀、列伝部分は、諸家後漢書が残存していたので、これを整備し、美文とすることができたから、笵曄の文名は高いのだが、後漢書「西域伝」は、後漢雒陽の記録文書に対して大幅な改編を被っていることが、「魏志」巻末に完本が収録されている魚豢「西戎伝」との対比から明らかである。
 また、東夷列伝、特に、「韓伝」(韓条)、「倭伝」(倭条)は、陳寿「三国志」東夷伝を原典としていると見抜かれないように、原形をとどめない所引文になっているのである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 6/9 2025

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

会稽東縣談義 資料              2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17
         出所 中国哲学書電子化計劃
論衡 遭虎 東漢 80年 王充著
 會稽東部都尉禮文伯時,羊伏廳下,其後遷為東萊太守。

三國志 吳書八 張紘傳:
 建安四年,策遣紘奉章至許宮,留為侍御史。曹公聞策薨,欲因喪伐吳。紘諫,以為乘人之喪,旣非古義,若其不克,成讎棄好,不如因而厚之。曹公從其言,即表權為討虜將軍,領會稽太守。曹公欲令紘輔權內附,出紘為會稽東部都尉。

三國志 吳書十二 虞翻傳:
 翻與少府孔融書,并示以所著易注。融荅書曰:「聞延陵之理樂,覩吾子之治易,乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也。又觀象雲物,察應寒溫,原其禍福,與神合契,可謂探賾窮通者也。」會稽東部都尉張紘又與融書曰:「虞仲翔前頗為論者所侵,美寶為質,彫摩益光,不足以損。」

三國志 吳書十五 全琮傳
 全琮字子璜,吳郡錢唐人也。父柔,漢靈帝時舉孝廉,補尚書郎右丞,董卓之亂,棄官歸,州辟別駕從事,詔書就拜會稽東部都尉。

三國志 吳書十六 潘濬傳
 玄字文表,丹楊人。父祉,字宣嗣,從孫堅征伐有功,堅薦祉為九江太守,後轉吳郡,所在有聲。玄兄良,字文鸞,隨孫策平定江東,策以為會稽東部都尉,卒,玄領良兵,拜奮武中郎將,以功封溧陽侯。

三國志 吳書三三 孫亮傳:
 二年春二月甲寅,大雨,震電。乙卯,雪,大寒。以長沙東部為湘東郡,西部為衡陽郡,會稽東部為臨海郡,豫章東部為臨川郡。

 王充「論衡」は、一世紀後半の完成のようであるから、會稽「東部都尉」の職は、少なくとも前漢末期まで遡るものと思われる。「都尉」は、県単位で置かれるものだから、その時点で、會稽「東部都尉」の所管する「會稽東部」なる、県に相当する行政区画が存在していたことになる。後に、「會稽東部」は昇格して「臨海郡」となったとのことである。
 言うまでもないが、「都尉」は、当時の京師や東都の「みやこ」(都)を管轄していたものではない。郡太守の補佐役で、諸事を総ていた「地区総督」に過ぎない。「都」の字義は、「すべて」と解するのが常道なのである。

後漢書 東夷列傳
 倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與朱崖、儋耳相近,故其法俗多同。

 陳寿「三国志」魏志「倭人伝」が、郡から狗邪韓国を経て、大海中の洲島を順次渡り越えて、末羅国に上陸し、以下、一つの島を往くと、理路整然と「倭」にいたっる行程を示しているのに対して、笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、要を得ない節略を被っている。
 「大倭王」の居処を「邪馬臺国」と言い切り、其の国、つまり、國王居処を楽浪郡の檄(南界)を去ること万二千里と書きつつ、楽浪郡の檄は、倭の西北界拘邪韓国を去ること七千里と、誤解を招く視点の動揺である。して見ると、倭の領域は、拘邪に始まり五千里南に王の居処があることになる。拘邪韓国が、倭の一部であるというのは、大胆な指摘であるが、根拠不明である。当然、自明な事項を言い立てるのは恐縮であるが、史記、漢書には、公式街道が海船になることは書かれていないから、楽浪郡の檄から拘邪韓国までは、当然、七千里の内陸街道となる。明らかに、後漢代の記事であるから、曹魏の時代に七十五㍍程度の「短里」が施行されていたという仮説は、圏外であるから、適用しようがないのである。
 笵曄は、懸命にも、狗邪韓国以降は、行程不明ということで、触れていない。

 さて、倭の形勢を概観すると、王の居処を中心に五千里程度の範囲に広がっていることになるが、王の居処が会稽東冶の東となるとの見解を真に受けると、大幅に南方に展開していたとみるしかないのである。そのような「国」が、「大概」とはいえ、会稽東冶の東というのが、どのような神がかりによるものか、一段と不可解である。又、仮に、後漢代に存在しなかったはずの会稽東冶が、劉宋代に、会稽の南の東冶県と知られていたとしても、その時点で、洛陽は、北朝の領域であり、楽浪郡は、とうの昔に滅んでいたので、どちらも、道里の起点になり得ないのだが、笵曄は頓着していないようである。

 続いて、事もなげに朱崖儋耳に近いとされているが、海南島は中国の南の地の果てであり、渡船で渡るものとされていたから、「天涯」とされていたものであり、いくら、漢武帝によって確保されたとはいえ、あくまでも、内陸街道を経由する道里であり、会稽を経由しないのは、東冶と同様であるから、後漢代に、倭がそのような地の果てにあると認識されていたとは思えないのである。要するに、笵曄は、空論を弄んでいたのであり、信じることはできないのである。

 それにしても、「大倭王」と言うからには、「大倭」なる蛮夷が紹介された上でなければならないのだが、何の予告もされていないのであるから、不審極まりない。

 漢武帝創設の楽浪郡は、数世紀を経た後漢朝後期に到るまで、ほぼ一貫して東夷主管拠点であったから、このように、だれの眼で見ても混乱したと見て取れる報告を提出したとは思えないので、笵曄は、魏志「倭人伝」の剽窃という非難を免れるために、意図して、混乱して理解困難な記事としたと見えるものである。

*蔑称としての「臺」
 「邪馬臺国」の「臺」は、史家の聖典である春秋左氏伝によれば、大変な蔑称であり、笵曄の東夷蔑視を示しているものとも思われる。世上、笵曄の真意がこめられた蔑称を読み取り損ねているのは、不吉である。

後漢書 東夷列傳
 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。
 傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承有數萬家。人民時至會稽市。
 會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者。所在絕遠不可往來。

 脈略なく書かれているのは、断片的な風聞/伝聞記事であり、信ずるに足りないホラ話と見える。
 冷静に地図を見れば分かるように、確かに、会稽の東方は広大な東シナ海であるが、南に下った「東冶」の東方至近には、巨大な台湾の島影があり、なぜ、このような身近な異郷を見捨てて、その向こうの蛮夷である、国名も王名も方位も所要日数も不明、つまり、音信のない「夷洲及澶洲」に行こうとするのか不審である。

*揺蕩う「東夷」の心象
 むしろ、秦代の東夷は、山東半島東莱から見て、眼前に横たわる「海中山島」である朝鮮半島、当時の形勢では、韓諸国の展開していた「韓半島」を指しているとも見えるのである。孔子の発言として伝わる「筏で浮海して到る東夷」にふさわしいのは、海船を要しない近場と見えるものである。「東夷」なる地理概念は、時代に応じて移動しているので、慎重な解釋が必要である。
 

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 7/9 2025

*加筆再掲の弁
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会稽東縣談義 1                 2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

会稽東冶談義 1
 「冶」と言う漢字は、比較的珍しいものであり、今日でも、「冶金」と言う熟語で使用されている程度である。鉱石を焼いて精錬して金属を得るとか、鉄材を火で焼いて鍛錬して鋼材にするとか、「冫」(ニスイ)の示す通り、火の試錬(「試練」ではない)を伴う。

 「通典」の説くところでは、「東冶」は、「閩越」と呼ばれる地域で、秦時代は閩中郡とされた。漢の高祖がここに閩越国を設けて無諸を(劉氏ではない異姓の)王としたが、後に(他の異姓と同様に)滅ぼされた。住民が逃亡して荒廃したので、会稽郡の管轄下で「冶県」として再建を図った。「冶」とは、春秋時代末期西南の覇者となった越王(勾践及びその後継者)が、この地で鉱山開発して金属精錬を行ったことによる。後に、県名を二字にして「東冶県」と改めた。後漢は、この地域を会稽郡「侯官都尉」(総じて管轄)とした。その際、合わせて、東冶県を廃して侯官県としたかも知れない。

*宋書「州郡志」確認
 班固「漢書」には「地理志」があり、笵曄「後漢書」に併収された司馬彪「続漢紀」には「続漢志」「郡国志」があって、それぞれ大部の資料に漢代、後漢代の全国諸郡・県の改廃、統合、分離の異同が詳しく記録されている。
 ただし、後漢末期の献帝代以降を記録する陳寿「三国志」は、同様の「志」を欠くため、会稽郡の動向については、呉書本紀から異同を知るしかない。但し、本紀は、各皇帝の治世を書き残しているのであるから、「異同」と言っても、郡の新設が大半であり、それ以外は不確かである。
 劉宋代の正史である沈約「宋書」州郡志が補填している面もあるが、劉宋代は、西晋の滅亡時の壊滅的な混乱で、雒陽に集積されていた歴代王朝の公文書が散佚してしまったので、「宋書」州郡志と言えども欠落が多いのである。
 いずれにしろ、これら「志」が貴重な情報源となっている。

 後に、会稽郡の南部を会稽南部都尉(管轄)とした。一旦会稽東部都尉の管轄となった後、会稽南部都尉と改定したと書かれている例もあるが、会稽東部は、後に臨海郡となった会稽東部地域という可能性が強い。

 後漢末期の建安年間、会稽郡が新興の孫策配下に入ったような戦乱期であり、中央政府も董卓の暴政/遷都騒動で混乱して、記録に乱れがあったようであり、確かなことは不明である。

 更に、会稽郡は、建康を首都とする孫権東呉の支配下に入ったが、中国の政権交代時の例に従えば、郡治以下の地方組織は、公文書類もろともに継承されたはずである。特に、東呉の場合は、後漢地方拠点が、そっくり自立したので、書類継承は、万全だったはずである。
 会稽郡の管轄地域変遷の経緯が判然としないのは、当時の正史たる後漢書にこのあたりの記事がないためである。

 肝心の「東冶県」すら、笵曄「後漢書」東夷列伝以外は、列伝の一箇所に、「東冶」と書かれているだけで、「東冶県」は見当たらない。正史に書かれていないのでは事情不明となるが、「会稽郡東冶県」と後漢の公文書に明記されていないのは、不審である。
 笵曄「後漢書」東夷列伝の「倭」記事が、笵曄が把握していなかった後漢代史料によるものでなく、陳寿「三国志」東夷伝原史料の引き写しとすると、「後漢書」独自記事に「東冶県」は無いのではないか。
 と言うことで、元来、東冶は、建安郡の一区画であったが、劉宋代に県名でなくなったもののようである。
 
追記:                       (2016/11/15)
 都尉は、秦朝各郡に郡太守に次いで設置された「郡尉」が、漢景帝時に名称変更になったものである。帝国中心部諸郡では、各郡に都尉一名だが、会稽郡のような辺境の諸郡では、郡の東西南北を担当する都尉四名、例えば東部尉などを置いたとのことである。

 都尉は、官制で種々設けられていて「雑号」の感があるが、郡都尉が本来の「都尉」である。
 従って、上記会稽「南部都尉」は、漢時代以来続いていた衆知の官位のようである。
 案ずるに、東冶県あたりは、会稽郡治から見ると、峨々たる福建山塊に隔てられて、陸道を敷くことのできない遠隔の山系僻地であったので、半ば独立していたようで、郡の配下の県と言うより、ほとんど郡に近い状態であったと思われる。
 因みに、後世、唐代に、福州付近に「漂着」した遣唐使船の一行は、遠く京師(長安)に至る前段の会稽行路として、河川行「街道」を許可されたので、これを採用せざるを得なかったようである。一行に加わっていた空海(弘法大師)の残した記録で、河川行の経過を詳しく知ることができるようである。

未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 8/9 2025

*加筆再掲の弁
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会稽東冶談義 2                 2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 以下維持している「初稿」とは、若干論旨が変化しているが、別に転進しているわけではないのは、理解いただけると思う。
 以下の話の運びは、三国志を編纂した陳寿が、「魏志」倭人伝の編纂にあたって、「呉志」の会稽郡/建安郡記事を参照したと見た古田氏の論調に沿っているが、現在の当ブログ筆者の見解は、これに沿わないものになった。
 陳寿は、「魏志」の編纂にあたって、後漢から政権を継承した曹魏の公文書に固執しているのであり、東呉孫権政権の公文書記事が、曹魏に報告されていない以上、「呉志」の記事を利用できない、と言うか、参照しないのである。一方、「呉志」は、ほぼ全てが、東呉の史官韋昭が編纂した「呉書」が、東呉が司馬晋に降伏した際に、全巻上納されたものであるから、曹魏は「呉書」の内容を知り得なかったという「史実」が、厳然としているのである。
 と言うことで、「魏志」「倭人伝」に呉書/呉志の記事は反映していないのである。つまり、俗説に言うように、会稽郡東冶県の地理情報は、「倭人伝」に無関係なのである。

 念押しすると、陳寿は、「魏志」編纂にあたって、後漢/曹魏の公文書に記録された「史実」の継承に身命を賭していたので、曹魏の知らなかった東冶県の地理情報を書くことはなかったのである。

*笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」の不合理
 なお、笵曄「後漢書」は、先行する諸家後漢書の集約であり、本来、曹魏代の会稽郡地理情報は、収録できなかったものである。また、地理情報の典拠とすべき後漢書「郡国志」は、本来、西晋司馬彪編纂の「続漢紀」の志部、「続漢志」であり、必ずしも、笵曄が、精確に認識していたかどうかは、不明である。
 「続漢志」は、会稽郡治への公式道里を示すのみであり、南方に隔絶した東冶県については、何も語っていない。また、陳寿「三国志」は、志部をもたないので、東冶県に関する記事は、呉志の本紀相当部分に書かれている分郡等の情報を記すのみであるから、東冶県の地理情報は欠けている。

 そのような史料しかないのであるが、笵曄は、史官の職務倫理に縛られない文筆家であり、「後漢書」東夷列伝「倭条」の編纂にあたって、依拠できる史料がないのに拘泥せず、陳寿「魏志」「東夷伝」を流用したのであり、その際、不注意にも、劉宋の高官として知悉していた「東冶」を採り入れたものと見えるのである。恐らく、笵曄は、禹の東治に基づく李斯の会稽「東治之山」の故事に疎く、小賢しく、「東冶」に訂正したものと見える。
 いや、史書に記録されていない「憶測」であるが、厳密に書誌考証に徹すると、魏志「倭人伝」に明記されている「会稽東治」が、笵曄「後漢書」に「会稽東冶」と誤記された原因は、合理的に絞り込まれるのである。老大家の武断とは、出来が違うので、混同しないでいただきたいものである。
 特に、笵曄が、後漢献帝期の東夷史料が存在しないにも拘わらず、「東夷列伝」「倭条」を造作した手口は、明々と示されるのである。

 以下紹介した古田武彦師の論義であるが、氏は、総じて「正史厳正」の立場に立っているので、笵曄に対して難詰していないが、当ブログ筆者は、掲題の両正史は、それぞれ、編纂者の執筆姿勢が問われるのであり、「正史厳正」と証されていない笵曄「後漢書」東夷列伝「倭条」に対する難詰を躊躇わないのである。

*初稿 2016/11/09 2023/05/04
 古田武彦氏の第一書『「邪馬台国」はなかった』に「東冶県」論が書かれている。
 古田氏の説く所では、稽郡南部を建安郡として分離した永安三年(260年)の分郡以前は会稽郡東冶県であり、会稽となっているが、分郡以降である陳寿の執筆時点は、会稽郡東冶県でなく建安郡東冶県であるとの主張であり、ごもっともと思える。
 同書の後続ページで笵曄「後漢書」編纂時点では、東冶県が会稽郡に復帰していたと推定して図示している。

 まずは、この最後の指摘が、引っかかる。会稽郡が分割されたのは、会稽郡の広大な地域を郡太守が統御しきれないという事情によるものであった。つまり、後漢途中までは政治経済的に未発達だったので、何とか、郡北部である会稽から、南方の東冶を統括できたが、郡治会稽と東冶の間は、福州の険阻な山地に阻まれ、僻南の「東冶」には監督が行き届かないので、一旦「南部都尉」を設けた後、永安分郡となった。
 こうした事情で分離した「南部諸縣」を会稽郡に復元するだろうか。率直なところ、これは、根拠の無い憶測である。

 東呉時代は当然として、晋朝南遷による東晋朝以降の南朝時代にも、福州、広州は政権の基盤であり、分郡後の新設建安郡すら広すぎて晋安郡と二分するのであるからねそれ以前の時代、古田氏が書く東冶県の会稽郡復帰は無かったのである。

 また、分郡まで東冶県があったとは限らない。分郡以前に会稽郡「南部都尉」を設け、「東冶県」自身、既に「候官県」と改名され「会稽郡東冶県」はなくなっていた。古田氏指摘の呉書記事で「会稽東冶(五県)の賊」というが、「東冶県」でなく「東冶」地域の意味合いであり、五県は、建安、侯官、漢興、南平、建平である。
 というものの、いつ会稽郡南部が会稽郡太守の管轄を外れて、会稽南部都尉の管轄になったかはっきりしない。会稽南部都尉就任記事はあっても都尉新設の記事は無い。或いは、遙か以前から置かれていた可能性がある。

 また、陳寿「三国志」自体、ないしは、依拠資料の引用と見られる笵曄「後漢書」東夷伝記事以外では、東冶県は出てこない。後は、三国志呉書の記事を拾い集めるしかない。なお、陳寿は、少なくとも、後漢~魏朝公文書以外に依拠できないから、仮に、呉書記事を参考にしても、県名、郡名の考証まではせず、素材そのままなのであろう。細部に疎漏があるようである。

 端的に言うと、陳寿「三国志」魏志/魏書で、東冶県の書かれている記事は無く、いわば、「圏外」である呉志/呉書に登場するだけなのである。要するに、魏志は、雒陽の曹魏政権が支配していて、現地から、戸籍が報告され、地方機関から報告が上申されていて、魏帝が承認し、公文書に記載された事項に限定されるのである。
 つまり、魏朝にとって、東冶は、存在しない地名であるので、魏朝正史を編纂した陳寿が、倭人伝において、「倭人」の領域を雒陽読書人に報告するのに、魏代に圏外であった「東冶」を起用するはずがないのである。

 と言うことで、この下りは、古田氏の勇み足で、論証が半ば空振りに終わっているようである。いや、失敗しているのは絵解きであり、陳寿「魏志」倭人伝の記事は「会稽東治」であり、「東冶」でなかったという点は、かなり/断然分のある議論と思う。

*追記~2023/08/07
 以上の筋道は、その後、沈約「宋書」州郡志の会稽郡南方地域の地理/道里記事を確認した結果によって裏付けられたのである。
 笵曄は、劉宋の高官であったから、後漢末期以降、東晋代に到る当該地域の地理情報を十分把握していなかったにも拘わらず、暢気に会稽東冶と書いてしまったようである。笵曄にすれば、厖大な西域伝記事に比べて、内容に乏しい東夷列伝「倭条」に彩りを添えたつもりなのだろうが、それは、史官の本分に反しているのである。

             未完

私の意見 「倭人伝」 会稽「東治」「東冶」談義 9/9 2025

*加筆再掲の弁
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会稽東縣談義 3                 2016/11/09 2023/05/04,/24,  三掲 2023/08/07 2025/11/17

▢三掲の弁
 冒頭に掲示したように、当記事の趣旨に変化はないが、史料の文献解釈を掘り固めたので、三度目のお座敷としたものである。

*会稽東冶談義 3
 本筋に戻って、「会稽東冶」談義であるが、洛陽首都の魏朝及び西晋朝時代の史書としては、過誤と言うほどのものでなく、排除できないと思うのである。ただし、 「会稽東治の東」と書かれている史料を、「東治」の由来を知らないからと言って、そして土地勘があるからと言って、「会稽東冶」と書き換えた笵曄「後漢書」東夷列伝は、粗雑である。

*「首都」の起源
 因みに、「首都」は、魏文帝の詔書に基づく「造語」である。文帝曹丕は、後漢末の動乱期に、後漢皇帝が、雒陽、長安と移動し、以後、鄴、許都と曹操の庇護下に有ったこともあって、皇帝の詔勅が、これらの「帝都」に発していることから、魏帝国において、過去の「帝都」は依然として有効と認めるものの、あくまで『「首都」は雒陽である』と宣言したことに由来しているものである。
 つまり、「帝都」とは、皇帝の宣詔に書かれる発信地点であり、時に、雒陽は「東京」(とうけい)と呼ばれていることから、長安を「京師」、「京都」(けいと)と呼び続けたかどうかは別として、中国の底流に周制が生き続けていたとわかるのである。それが、「禅譲」の意味である。

*笵曄「後漢書」再考
 以下、史料批判として邪道であるが、「三国志」に投げかけられた疑惑との公平を期すために「後漢書」の危うさを指摘する。
*未完の大著
 劉宋時代に編纂された笵曄「後漢書」は、「反逆の大罪」で実子共々死刑に処せられた大罪人の著作である。
 政治的な事情で、地方に異動し閑職に就いたとは言え、官位は高いので、かねて目算していた「諸家後漢書」の集大成を進めるのに不可欠な後漢代洛陽公文書の残存部の参照は許されていたものと見える。劉宋は、劉姓でも「漢」を名乗らない気概を持っていたのである。既に、後漢から魏への禅譲から、二世紀以上を経ていて、魏晋の禅譲が介在し、しかも、西晋は内乱によって自壊したため、劉宋は、後漢書の上申をもって後漢の後継として正当化する必要はなかったと見える。と言うことで、笵曄は、強い拘束を受けることなく、後漢書編纂という先行諸書の集大成を進めたと見える。
 なお、笵曄の構想は、班固「漢書」の後継としても、難解な古代史書に囚われることなく、時代相応の流麗な語法を進めていたと見える。
 また、笵曄は、あくまで文書家であるから、史料類の集積である「志」部の編纂は、その道の専門家謝𠑊に委ねていたと見える。
 というのも、笵曄が投獄された時点で、後漢書「本紀」、「列伝」は、完稿に近付いていても、謝𠑊よって完成していた「志部」10巻は、いずれ、笵曄の手許に結集して「後漢書」を読み合わせして、全巻刊行とする想定であったと見えるから、逆に言うと、笵曄「後漢書」は、遂に未完成のままで、劉宋文帝の官僚に接収されたと見える。(笵曄「後漢書」曹皇后紀李賢注所引の沈約「宋書」謝𠑊伝(佚文)による)
 現在、笵曄「後漢書」の志部として扱われている西晋「司馬彪」続漢志は、笵曄として不本意なものであったが、無い者はどうしようもないので、かくのごとくなっているのである。
 
 言い古されている不条理な悪態に見習うと、唐代章懐太子の注と集大成を得て正史の一角に浮上するまで、南朝に限っても、劉宋、南斉、梁、陳と進み、続いて、統一王朝隋に取り込まれるまで、時の変遷に伴い、「私撰」史書が個人的に写本、継承されていく中で、絶対正確に書写されたかどうか不明である。

 特に、東晋に始まる六朝時代は、西晋期まで維持されていた「書写の伝統」が、南方への逃避の際に壊滅的に損傷した可能性があり、かたや、細部が省略された草書風の「略字体」が実務面で普及していたので、個人的な写本は、さほど厳格に行われなかったのではないかと、大いに懸念される。

 章懐太子の注釈時には、整然とした「正字体」写本が供されたであろうが、一度、「略字体」で写本されて、細部が変質したとすれば、正字体に戻したとしても、原文は復元できないのである。

 またもや言い古されている不条理な悪態に見習うと、笵曄「後漢書」原文は、最終的に、唐章懐太子の注釈、集大成の際に廃棄され、笵曄原本どころか写本といえども残っていないので、実態はわからない。(結局、現存する誰も「笵曄原本」を目にしてはいないし、史上「笵曄原本」の登場する姿は、書き残されていない。これは、三国志の「陳寿原本」と根本的に異なる

 またまた念押しだが、当ブログ筆者は、笵曄に深い敬意を表しているのだが、それ故に、笵曄「後漢書」の難点を率直に指摘し、火と水の「試錬」に供するのである。

この項終わり

私の本棚 田口 裕之 『金印は「ヤマト」と読む』 季刊「邪馬台国」131号 総括 2025

 私の見立て ☆☆☆☆☆ いやしがたい瓦礫   2017/02/28 2020/01/15 2024/07/14, 11/26 2025/11/17

*加筆再掲の弁
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□結語

 これに先立つ16回の連載で、とことんダメ出ししたはずであったが、誰でも気づくような子供じみた欠点を列記しただけで、一番大事なダメが出せていなかった。反省と自戒を込めて、総括記事として追加する。
 (なお、
16回分の記事は、公開する意義は無くなったものと思うので、非公開とした。何の反応も無かったので、徒労であったということである。「つけるクスリがない」とか「Ignorance is fatal」と言いたいところだが、言わないことにしておく。)

 それは、当論文のタイトルに書かれている新説が、既に、言い古されたものであったにも拘わらず、先行する文献が適切に参照されていなかったということである。

 既に、100年を大きく超える古代史論議の中で、本当に多くの「新説」が提言されているから、現代人が思いついた「新説」の先行論文を全て検出するのは無理かも知れないが、無教養な後学の徒は、もっともっともっと謙虚になって、徹底的に調査すべきではないかと思うのである。
 また、投稿された論文が新説であるか、旧説の踏襲であるかは、論文審査の不可欠な手順と思うので、編集部の手落ちは罪深いと思うのである。論文筆者は、このような不名誉な形で名をとどめたくない筈である。

◯資料紹介
 参照資料は、次の一点であるが、そこで引用されている明治時代、ないしは、それ以前の資料は、必読書とも思われるので、知らなかったでは済まないと思うのである。
史話 日本の古代 二 謎に包まれた邪馬台国 倭人の戦い
             直木孝次郎 編   作品社 2003年刊
 「邪馬台国の政治構造」 平野邦雄
    初出 平野邦雄編 「古代を考える 邪馬台国」 吉川弘文館 1998年刊

 さて、妥当な推論かどうかは別として、書き留められている先行論文と論旨を書き出すとする。

 後漢書に見られる「倭国王帥升」記事が通典に引用された際の「倭面土」国が「ヤマト」国と読まれるべきだ』という説は、明治四十四年(1911年)に内藤湖南氏によって提唱されたものである。(明治四十四年六月「藝文」第二年第六號〕

 文語体、旧漢字で読み取りにくいだろうが、倭面土とは果して何國を指せる。余は之を邪馬臺の舊稱として、ヤマトと讀まんとするなり。と明言されていて、その後に、詩経などの用例から、太古、「倭」を「や」に近い発音で読んでいたと推定している。
 ついでだから、原点である内藤湖南「倭面土国」をPDF化した個人資料を添付する。
 
原資料に関する著作権は消滅しているが、PDF化資料に関しては、プロテクトしていないとはいえ、無断利用はご遠慮いただきたい。(まえもって連絡して欲しいとの意図である)「k_naito_yamato1911.pdf」をダウンロード

 「倭面土」国と併せて、「倭奴」国も「委奴」国も、「ヤマト」国と読むべきだ』とする説も、明治四十四年(1911年)に稲葉岩吉(君山)氏によって提唱されたものである。(明治四十四八月考古學雜誌第一卷第十二號)

 湖南氏は、後続として同様論旨の論文を準備していたが、稻葉氏の論文を見て発表を断念し、原論文を「讀史叢録」に「倭面土国」として収録する際に、付記として、『「稲葉君山君」が翌々月号に「「漢委奴國王印考」といへる 一篇を發表され、委奴、倭奴ともに、倭面土と同一にして、單に聲の緩急の差あるのみと斷ぜられたり」』と要旨を紹介しているものである。
 いや、そもそも、そのような概念は、「釈日本紀」にすでに示されているという。影印を見る限り、そのような趣旨で書かれているように見える。
 つまり、「古代史書で多数見られる倭国名の漢字表記と思われるものが、全て、ヤマトと呼ばれるべきだ」とする論旨は、数多くの先例があると言える。
 してみると、本論文の大要は、所詮、先人の説くところを踏襲/盗用していて、特に格別の考察を加えているとは見えないので、新説として独創性を頌えることはできないと思う。
 むしろ、先例を伏せて独創性を訴えたと見られる論調は、先人の功績を踏みにじるとのそしりを招きかねない。

 以上、今後の活動の際の戒めとしていただければ幸いである。

▢季刊「邪馬台国」誌の不手際
 それにしても、懸賞論文としての審査に於いて、「選外佳作」、「公開不適」と判断したのに、欠点を是正せずに、稚拙な体裁のままで、多数のページをいたずらに浪費して、掲載誌を膨満させた醜態を掲載した編集部の不手際は、かなり深刻だと思うのである。

 「浪費」の一端は、行間ツメなどの当然の編集努力を怠って、それでなくても希薄な論文をさらに希薄に引き延ばして、頁数を増長させて雑誌刊行のコストを引き上げ「邪馬台国」誌の財政を悪化させた点にも表れている。雑誌編集部は、文字内容だけ吟味していればいいのではない
 雑誌の紙数を勘案し、投稿者の脱線に制限を与え、必要であれば、部分を割愛して雑誌の体を保つのも、編集実務である。筆者が、指定に従わない、締め切りを守れないときは、断固落とすべきである。今回は、何ともお粗末であった。

  往年の名編集者安本美典氏は、「レジェンド」、即ち、博物館入りの骨董品になって、奥の院に引きこもっているのであろうか。もったいないことである。

以上

新・私の本棚 古田史学論集 25 正木 裕 「邪馬台国」が行方不明になった理由 補充 2025

 古代に真実を求めて 古代史の争点 明石書店 2022/3/31 
 私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 課題山積に蓋をした軽率 2022/04/24 補充 2023/04/29 2024/04/10,12 2025/11/17

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 正木氏の本記事は、まことに手短であるが、「倭人伝」道里記事解釈は、多岐に亘っていて、おっしゃるように手短に片付けられないはずである。
 氏は、世上の「総括病」に感染したか、百出議論が挙(こぞ)って「伊都国と奴国の比定」を誤って迷走していると「一刀両断」しているが、「諸説は全部間違い」との断言から始まる世上の勝手論者の手口と同様で、混同されて「損ですよ」と申し上げる。古典的であるが、それでは、「ゴルディアスの結び目の課題を解かず一刀両断したアレキサンドロス三世」の世紀の愚行を、いたずらになぞっていると見え、勿体ないのである。
 世上の諸兄姉は、まさか「神がかり」の定型文を複製して論じてはなかろうから、諸説は、百花斉放の筈である。正木氏が、全て読み尽くしたなら、後学のために指摘して欲しいが、氏は、ひと息に在庫一掃して「自説」を説く。そして、氏の提言の賛同者は多くても、まとめて「自説」と見る、そんな感じを与えているのである。
 因みに、当ブログの議論は氏の決め付けと無縁と信じる。

 以下、「倭人伝」道里記事解釈に続くが、古田氏流「短里説」は控え目である。「短里」は自明であり、頑迷な「短里」否定論は、我田引水風の独善に過ぎず、殊更強調する必要はない。これで、纏向遺跡説は、野球場で言えば、「外野」ならぬ「場外」である。

*道里記事解釈の不備 2023/04/29
 初稿で言い漏らしていたが、氏が、「倭人伝」道里記事を、粗雑に書き換えていることに異議を呈したい。
 「➀帯方郡から...狗邪韓国に至る」と書き換えているが、原文は「到」である。「至」と「到」は、文字も意味も違うのから不正確である。
 ②,③,④は、いずれも「渡海」(倭人伝限定の「水行」)であるが、②「始めて」、③「又」、④「又」と、限定的に書かれているのを削除しているのは不正確である。
 ⑤でも、「末羅国に至る」と書き換えているが、原文は「到」であるから、不正確である。(誤解を削除する。 2025/11/17)

 陳寿が、史官の筆法の最善を尽くして、「倭人伝」道里記事で提起した用字は、行程の分岐、不分岐、到達、不到達を峻別していると考える。原文を維持すべきである。
 ここでは、具体的な論義を差し控えるが、史料原文を恣意をもって書き換えるのは、解釈不備に繋がっているものと考える。ご確認いただきたい。岡田英弘氏の至言に基づいて、『「二千年後生の無教養な東夷」が、三世紀中華文明の至宝である陳寿の筆法を、軽率に改竄して論ずるのは、論外である』と苦言を呈させて頂く。

*「方里」論の不首尾
 倭人伝の「方四百里」を、氏は古田氏追随で、一辺四百(道)里の方形と見なす。
 しかし、この書法は東夷伝独自であり、古来の「道里」と整合しない。史官は、典拠ある書式、語法を遵守するので、説明無しに「方里」を「道里」と同列に扱うのでは史官落第である。思うに、「方里」は「道里」と異次元である。 (「道里」は一次元、「方里」は二次元で、次元が違うという意味であり、現今の政治経済用語とは、次元が異なる)
 方形一辺が十倍なら、面積は百倍となり、桁の違う韓国と對海国の面積比較が、困難で当を得ないものとなると見るのである。冷静に読みなおして欲しいものである。

*「島巡り」の不備
 氏は、狗邪韓国から倭に至る途上の渡海道里の對海国に一辺四百里の二倍を足す「道里」表現とするが、陳寿が想定していた魏志読者には思いもよらないことだろう。要するに、「方四百里」の解釈を誤っているのである。
 倭人伝の道里記事の解釈を強いられたとして、千里単位の概数で限定件数の「道里」は計算できるが、百里単位の端(はした)を明記せずに埋め込まれては、解読に「労苦」を要する。陳寿ほどの史官が、魏志末尾の辺境蕃夷記事に、些事の「労苦」を持ち込むだろうか。
 まして、渡海千里は、実「道里」でないのだから、国間(国城間)千里に全て込みが常識と思える。
 元来、国間道里は、それぞれの首長間の文書連絡の所要日数を知るためのものである。また、「倭人伝」の諸国邑は、本来、隔壁で囲まれているべき「國邑」が、海で隔てられていることにより、隔壁を持たないことを許容されているものだから、島を巡って上陸しないのは、首長居城の外壁を舐めて首長に拝謁せずに歴訪と称することになり、大変、不適当である。本来、全行程万二千里の千里単位の振り分けであり、悉く概数計算の世界であるから、ケタ違いの端たの百里代の辻褄合わせは、無意味で無効であるから、不合理な「島巡り」は、すべからく撤回すべきである。

*「戸」の話
 東夷伝で、国土を「方何千里」と書いた高句麗、韓の両大国は、地形、地勢の制約で、中原基準の耕作地整備が至難なため、土地台帳から畝(むー)単位の農地面積を集計し、「戸」で把握困難な国力を表現したと見える。
 古来、「戸」は農地割当単位で、戸内の成人男子が牛犂、牛鍬を用いて、役牛を駆使して耕す前提で、農地面積に基づく収穫量計算したのであるが、東夷は、中原社会と家族制度が異なる上に、対象とする農地が、牛耕に適した平坦地か、山谷地かも、不明である「倭人」に至っては、農耕に不可欠なはずの牛耕が存在しないと明記されている。
 してみると、「倭人」の戸数に、中原並の収穫量を求めるのは、見当違いとなるのである。つまり、陳寿は、史料に書かれている倭人の総戸数七万戸をそのまま記載したものの、戸数で「倭人」の獲れ高/税収を計算してはならないと明示したことになるのである。そのような食い違いを明示したものが、「方里であるとも言えるのではないか。要は、戸数から想定される獲れ高に、到底及ばない「実力」を示していると見える。
 郡太守(公孫氏)は皇帝に戸数を報告しつつ「方里」を試行したと見える。きれい事で言うと、倭人は牛耕なしの人力頼りであるため、「戸」の意義が不確かであるが、魏志に地理志がないので不明である。

*まとめ~「方里」再確認
 拙論では、「方里」は「一辺一里の方形面積」であり、各戸が耕作する農地面積を、戸籍台帳/土地台帳から集計したものと見る。これは「九章算経」読者の理解を得られるのである。
 いや、些末に巻き込まれたが、一番明解な論議は、『「方里」は、土地面積の単位で、「道里」とは「単位次元」が違うので混同してはならない』で決まりであり、以下蛇足である。論議は、明解第一と再確認した次第である。

 なお、本論では、「南至邪馬壹国女王之所 都水行十日陸行一月」の解釈で、「都」の一字をもって、「総て」、「都合」とする玄妙な用字を掘り下げていないのに失望したが、ここでは論じない。

 因みに、そのような解釈は、古賀達也氏の仮説として知られているが、古田御大の支持が得られず退蔵されているようなので、かねて腹案としていた当方が、ブツブツ呟いているのである。この点は、「水行十日陸行一月」が、全行程の総計とした提言が、上田正昭氏によって、前例を添えて提言しろと、やんわり却下されたのが、尾を引いているように見える。「異例」の評言に先例はないのだが、史学の世界では、克服しがたかったようである。
 この点、一度、真剣に考慮いただいた方が、古田武彦氏の所説の細瑾の一つを取り除く画期の事例となるものと信じている。

                                以上

2025年11月16日 (日)

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』1/2 2025

「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 乱調紹介文で、全てぶち壊し   2021/12/28, 31 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当書評は、課題の新潮選書の書評でなく、掲題サイトの紹介文に対するものです。(「デイリー新潮」編集部の署名記事。冒頭に、「新潮選書」編集部と署名)自社出版物の販促(販売促進 プロモーション)ですから、最善の努力で、本書の内容を紹介する記事を書いたものとして批判しています。
 著者は、『「古事記」研究の泰斗であり、また「出雲神話論」等の著書でも知られる』との紹介ですが、取り敢えず「日本書紀」不見識の自認でしょうか。目次の紹介を見ても、本書で中国史書の考証を試みた形跡はありません。爪を隠していたのでしょうか。

▢著作権問題
 案ずるに、当記事で紹介されている氏の所見は受け売りです。いや、何れか識者の意見に基づく提言であれば、出典が示されるはずですが、ここには注記がないので、記事全体が氏の新説となってしまいます。まことに大胆です。著作権「デイリー新潮編集部」とあるが真に受けて良いのでしょうか。
 もし、三浦氏が、他人の著作物を引用してその旨表記していないとしたら、「デイリー新潮」編集部は、第三者の著作物を、勝手に自身の著作物扱いしたことになります。是非、公式見解をお伺いしたいものです。

*「倭人伝」解釈について
 当記事は、主として、「倭人伝」道里行程記事に関して、一説を採用して、強引に拡張していますが、どんな資料をもとに議論しているのでしょうか。論ずる以上は、原文に触れるか、誰かの日本語訳の依存かとなります。
 どちらも書いていないという事は、「受け売り」となります。「倭人伝」原文に著作権は存在しませんが、近年の「日本語訳」なら、著作権が存在するはずです。まして、第三者の「倭人伝論」著作を丸写し、受け売りして、その出典に触れないというのは、もっての外です。

〇原典逸脱の罪~時代錯誤「新語」の罪
 ということで、ようやく本題に入ると、「倭人伝」に一切書かれていない「邪馬台国」を当然として進めている事に深刻な疑念がかけられます。確認すると、現存「倭人伝」では、全て一度限りの言及とは言え、「邪馬壹国」であり、「邪馬台国」は影も形もありません。そのような決め込みで本書を書くのは、まこと大胆な「創作」です。そのような「決め込み」を採用した際に依存著作があれば、その著者に責任を転嫁できるのですが、このままでは、氏が一身に原文詐称の罪を負うことになるのです。

 他にも、インチキ時代考証があって、「海の道」とか「海路」、果ては、「日本」、「ヤポネシア」など、三世紀当時に存在しない言葉が跋扈しています。というか、八世紀冒頭に成立した「日本」は別として、他の新語は、氏の造語なのか、誰かの遺言(いごん)なのか不明です。

*「助言」無批判追従の罪
 要は、氏は、「倭人伝」を正しく解釈するために不可欠な素養に根本的に欠けていて、誰か、「中国史に不自由な助言者」の不出来な提言を「受け売り」した為、このような悲惨な事態を招いたと見えます。勿体ないことです。

 氏ほど、権威を持っていると見える著者が、不確かな出典の「新説」を、無批判に担いで共倒れになっているのは、もったいない話ですが、そのような著作を買わされる一般読者には、大変迷惑な話です。いや、二千年近い古代史料に解釈について語っているから、百年前だろうが、二百年前だろうと「新説」なのです。

 選書の目次では「倭人伝」ネタは見えませんから、本書を購入して参考にするつもりはありませんが、堂々と掲示された当記事は、当ブログで解読を進めている信念と真っ向から衝突しますので、「倭人伝」解釈に於いて無謀な「新説」を唱えていると見て、全力批判するしかないのです。

                                未完

新・私の本棚 番外 三浦 佑之 『「海の民」の日本神話~』 2/2 2025

海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく(新潮選書) 2021/9/24
Yahooニュース/デイリー新潮 2021/12/28 06:15 配信
私の見立て 星二つ ★★☆☆☆ 乱調紹介文で、全てぶち壊し   2021/12/28, 31 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」道里記事
 ようやく本来の批判に入りますが、氏の読みは、過去百年余り、誤読者の山を築いてきた「魏使進路説」「直進解読説」を頑固に踏襲し、読み解き失敗が当然です。勝手読みのこじつけも、最初は「創意」の産物というにしても、前例通りの踏襲では、いつまで経っても「誤読」症状は治癒しないのです。

 氏は、前例、つまり、相談相手の意見を踏襲するしかできないようですが、それでも、巧妙に投馬国里程を切り離して、最終目的地を何がかんでも畿内に持っていこうとするのです。課題先送り手法は、今後、はやりそうです。

 氏は、独自の「解」を踏まえて「日本海」論を持ち出しますが、仮に、魏使来訪行程と見ても、狗邪韓国まで安全、安心な内陸行程で到着した上で、数百㌔㌘級の荷物と百人級の人員を抱えているのであり、後は、「日常の交易船として手慣れた「渡海」の繰り返しで、難なく既知の「大海」を越えて、揺るぎない大地を踏まえられる末羅国に着くとわかっている」のに、厖大な重荷を背負って、何の情報も無い前途を思い、頼りない小船で、いつ着くとも知れない試練を経て、魔物の住む(と見える)「海」を越えて、帯方郡の官人すら聞いたこともない山陰海岸に向かう気が知れないのです。因みに、山陰海岸に上陸しても、重荷を抱えて中国山地を越えるとびきりの難路が控えています。

 そのような悲惨な事態は、倭人伝に一切書かれていないのです。いや、氏は、「倭人伝」が読めないのだから、言っても仕方ないのかも知れません。それでも、運良く/運悪く、頼りにした「師匠」に、年代ものの蔵付きの「ガセネタ」を植え付けられても、それに気付かないで有り難がっているようでは、一人前とは言えません。

 「倭人伝」の「魏使」往路としたいとの頑迷な固執さえ棄てれば、つまり、小舟で少量の荷を運ぶというのであれば、できない船旅ではないのです。

*「魏の使者は日本海側を通った?」
 これは、纏向説の悪足掻きを助ける意図でこじつけられたのでしょうが、無駄な努力と見えます。
 倭人伝道里行程記事の正確な解釈では、伊都国以降とみえる投馬国行程は、参考に過ぎず、実行程は、伊都国で終結しているから、大した勘違いです。
 まあ、聞く人を間違ったのですが、道里行程記事の決算「水行十日、陸行一月」の誤解も、一向に正されず深刻です。百年河清を待てとおっしゃるのでしょうか。
 因みに、氏はしきりに「対馬海流」の後押しを言うのでが、巻向に行くのに好都合としても、陸路が全て下り坂であれば、楽でしょうがないのですが、必ず、必ず起伏があるのです。まして、「対馬海流」は、一方向なのです。当然、帰途は逆行であり、海流の恩恵は重荷に変わります。その程度のことに気づかないので、悦に入っているようでは、説得がむつかしいのです。

*論争の鏡像~情緒的自損発言
 氏は、賢そうに、『「邪馬台国」は、ヤマトに決まっているから九州説論者は、「邪馬台国」誘致など考えずに、古代史論に戻りなさい』と、はるかな高見から御教授いただいていますが、ここで決め技を出すべきだという戦術官は、当方と基本的に同趣旨で感謝します。

 つまり、「倭人伝」の正確な解釈から出発すると、卑弥呼の居処は九州北部を出ないので、「纏向論」者は、早々に悪足掻きを止めた方がいいよ』と言うものです。強打は、より強硬な強打で返されるものです。読者を説得したいのであれば、子供じみた強弁は、控えた方が得策です。

 要は、論理の裏付けのない情緒的発言を繰り返しても、鏡に映った巨匠めいた自画像を泣き落としに掛けているようなもので、鏡に映った相手から反射的な反応があって尽きることがないので、論争解決手段として役に立たないのです。

 もちろん、氏が、「とどめの一撃」のつもりで追加されている「邪馬台国が九州にあったとしても、それは畿内、ヤマト(倭)の地へ行ってしまった集団で、そのヤマトによって、筑紫は制圧され、北九州はヤマト王権の重要な拠点の一つに位置づけられてしまったのではないか」という途方もない空想譚は、氏の脳内で滔々と響(どよ)めいているものですが、そのような空耳は他人の知るところではないので、受け取るものもなく、闇の奥に消えていくだけであり、何の効力もありません。

 以上、ここまであからさまに無法でなければ、面倒な書評などしませんし、Googleニュースで紹介される著名記事は、「広く害毒を流しかねない」ので、徒労を畏れず、釘を刺さざるを得ないのです。

 「新潮選書」は、無責任な与太話など刊行しないので、このような紹介は不審に思うものです。

                                以上

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 1/2 2025

 私の見立て 星四つ ★★★★☆ 冷静、論理的にして、丁寧     2018/09/21 2022/01/27 2023/05/10 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに 
 当記事の実際のタイトルは、「張明澄・石田孝両氏に答える 『漢書』用例にもとづく放射線行路説批判」である。同誌の白崎氏論考への張明澄(17号掲載)、石田孝(18号掲載)両氏の批判に対する白崎氏の反論である。

 先に述べたように、白崎氏の論考は、概して冷静、論理的である。これに対して張氏の毒舌は批判と言えないが、白崎氏は、お粗末と見える挑発には乗らず、概して反論は丁寧である。

*張氏暴言批判
 張氏が、白崎氏の論考は、「現代日本人である白崎氏が勝手に作り上げた法則にしたがったものであり、「三国志」の著者が、そのような法則に従って文章を書くはずが無い」無責任に断じている。普通に言うと、これは、とんでもない暴言である。ご自分も、初等教育は、日本統治下の台湾で受けたものであり、少なくとも、古代中国人の教育を受けていないことを、失念されているようである。

*勝手にします
 しかし、本格的辞書に掲載される正しい日本語では、こうした場合、「勝手に」とは物事がうまく運ぶよう手順をこらすとの意味であり、実は、白崎氏の論法を賞賛している事になる。もちろん。「勝手に」には、他人との関係で相手の事に構わずに自分本位に振る舞う事を言うこともあるが、白崎氏の批判では、「相手」が現実世界に存在しないので「勝手に」しようがない。

 して見ると、この「勝手に」は、白崎氏の手際を賞賛しているのだが、張氏は、自身の用語の不備に気づかず白崎氏を罵倒したようである。
 それとも、張氏は、総て承知の上で、滔々と二枚舌を駆使しているのだろうか。

*継承と創唱
 もちろん、白崎氏は、ご自身の文で、独自の法則を作り上げたとは書いていない、ご自身が班固「漢書」の用例に従っただけだというのである。一部重複するが、現代人が、古代人の文章を多数読みこなして、そこから、法則めいたものを見出した時、それを現代人の創作と呼ぶのは、見当違いの素人考えである。
 この点、白崎氏の言う、太古ー現代に通じる漢文語法を発明発見するのでなく、三世紀頃に知られていた文例を求めたとの意見に共感する。

*完敗の賦
 張氏の論理は、現代の一中国人、それも、正当な中国人としての教養を養っていない、独特の感受性を持つ人物が、論敵の意図を無視して(悪い意味で)「勝手に」創作した「法則」であり、明らかに分が悪い。感情論では白崎氏の冷徹な論理に歯が立たないのは当然である。いや、張氏の経歴でわかるように、氏は、戦中の台湾で、日本式の皇民教育を受けて育ったのであるから、氏の日本語は「古典的に正しい」と見ざるを得ない。むしろ、中華民国に戻った台湾で受けた中国語教育であるから、二カ国の言語の間で、見事に学識を整えたと尊敬するものである。

 続いての白崎氏の反論は、元々の張氏の批判が論考の本筋を見損なった暴言となっているのに丁寧に反駁したものであり、まことに同感である。

 張氏の好む暴言は、所詮、悉くが氏の個人的感情に根ざしているから、いかに付け焼き刃の理を尽くしても、善良な読者を納得させられないものと考える。

 別項でも述べたが、張明澄氏の「邪馬臺国 」論考は、しばしば、凡そ論理性のない感情論に陥って、脈略の無い雑言をまき散らしている。これは、安本氏の編集方針に反していると思うのだが、一連の張氏記事が、当時、同誌に於いて「好評」をえていたことに不審感すら覚えるのである。

*不同意の弁
 ただし、私見では、ここで白崎氏が強弁する、『「魏志」編纂者が、「倭人伝」資料を自身の信奉する伝統的漢文語法に合うように書き変えた』とする仮説には、同意できかねる。倭人伝」は、「魏志」記事全体と異なる漢文語法を採用していると、諸処で見てとれるように思うのである。これは、中日両国語に精通した張氏自身が認めているのだから、尊重すべきである。

 諸兄の意見は、それぞれ、ご自身の思い込みに影響されるものであるが、論考として提示する場合には、論証を求められると思うのである。

                                          未完

私の本棚 白崎 昭一郎 季刊「邪馬台国」第20号 放射線行路説批判 2/2 2025

 私の見立て 星四つ ★★★★☆ 冷静、論理的にして、丁寧     2018/09/21 2022/01/27 2023/05/10 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*石田氏との論戦
 続いて、石田孝氏の批判に対して反論しているが、こちらは、論敵というに相応しい敵手との「論争」と思う。

 白崎氏は、班固「漢書」地理志の用例に基づき、「同一地点から同一方向の二地点への行路が続けて掲載された場合、二番目の(行程)方向は省略される」と述べ、「倭人伝」行程記事に伊都国を中心とした放射線行程は見いだせないと断じた。これに対する石田氏の批判に対し、再度、用例を確認した上で、石田氏の批判は成立しないと述べているのである。用例概要を再録する。

Ⅰ 同一方向二地点への行路例
 ⑴休循国 東、都護治所に至る三千一百二十一里、捐毒衍敦谷に至る二百六十里
 ⑵捐毒国 東、都護治所に至る二千八百六十一里、疏勒に至る
 ⑶危須国 西、都護治所に至る五百里、焉耆に至る百里
 ⑷狐胡国 西、都護治所に至る一千百四十七里、焉耆に至る七百七十里
 ⑸車師前国 西南、都護治所に至る一千八百十里、焉耆に至る八百三十五里
Ⅱ 同一方向三地点への行路例
 ⑹鄯善国 西北、都護治所を去る一千七百八十五里、山国に至る一千三百六十五里、西北、車に至る一千八百九十里、
 ⑺依耐国 東北、都護治所に至る二千七百三十里、莎車に至る五百四十里、無雷に至る五千四十里

*私見御免

 一素人の単なるぱっと見の所見であるが、漢朝の辺境管理方針では、当地域は帝国西域前線の「都護治所」が、要(かなめ)として放射状の幹線たる漢道諸道の発進中心(今日で言うハブ)を押さえていたのであり、それ以外に古来各国を結んで、それぞれ周旋、往来していた諸道が残存していたという事を示しているように思える。

*伊都国起点放射線行路について
 当方は、両氏の論争自体には関与しないので、アイデア提案を試みる。
 この点に関する議論で、素人考えで申し訳ないのだが、率直なところ、単なる思いつきとは言え、全面的に否定しがたいと思うので、当方の白崎氏の論考に対する批判・提言を一案、一説として付記する。

 伊都国は、当時の地域政経中心であり、交易物資集散地であったから、伊都国の中心部から各国に至る物資輸送、文書交信、行軍のための官道としての直行路、倭道が整備されていて、起点には、多分石柱の道案内(道しるべ)が設けられ、そこに、「東 奴国 南 不弥国 南 邪馬壹(臺)国」のように彫り込まれていて、中でも、南に二筋の道が伸びていたように思われる。
 つまり、南方二国は、大略南方向だが、当然、完全に同一方向ではなく、どこかの追分で、道が分かれていたのである。それどころか、依然として法外な「水行二十日」行程を包含する投馬国行程は、最終的に目的地に着くというものの、そこが、伊都国の「南」であるということは確証できないのである。一方、所要日数すら書かれていないと見るべき「邪馬壹国」は、あるいは、隣接、あるいは、伊都国の外部城壁ないしは環濠の内部とも見え、先入観に促されて、拙速の解釈を進めるものではなく、詳しい時代考証に委ねるべきであろう。

 それにしても、伊都国から発する全ての漢制街道ならぬ「倭道」は、それぞれ直行したのか、どこかで転回したのかわからないし、最終目的地が、伊都国から見てどの方向かは不明であろう。わかるのは、起点道案内の「方向と目的地」である。全て直行路であるから、出発点以降、追分を間違えなければ、後は道なりに、「倭道倭遅」とでもしゃれながら、とろとろと進めば良いのである。

 そのような記法は、班固「漢書」以来の伝統に従わない、地域独特のものかも知れないが、倭の実情に適したものであり、帯方郡には異論の無い妥当なものであったため改訂されず、陳寿「三国志」「魏志」編纂時も、この記法が温存されたと見る。

 という事で、ここでも、先賢諸説を論破せず、文献証拠のない、単なる所感を述べたのである。

                              以上

追記2022/01/27
 上記意見は、「倭人伝」道里行程記事は、直線的な行程を書いたものに違いない』とする通説/俗説/先入観の意見への所感を「アイデア」提案として述べたものであり、一案として依然有効と思うが、必ずしも、当ブログの主力とするものではないことを申し添えるものである。

追記
2023/05/10
 当ブログの最新/最終見解では、「倭人伝」の道里行程記事は、郡を発し、倭に到達する行程を直截に書いたものであり、即ち、郡を発した文書使は、伊都国に到達して伊都国文書管理者に送達するものであり、その時点で、倭に対する通達を完遂すると見るべきである。そのように解釈することで、従前の道里解釈の大半は、無用のものとなり、自然に、自動的に陳寿の提示した問題の解に到るものと見える。

 榎一雄氏の論説(榎一雄著作集 第八巻 「邪馬台国」汲古書院)を丁寧に拝読すると、氏の真意は、倭人伝道里記事の記述から、伊都国が、倭の政治中枢であり、郡は、伊都国を倭の首長と見なしていた、即ち、一万二千里も、「水行十日、陸行一月」も、伊都国が終着であると道里記事を解読しているものである。
 ただし、氏は、国内史学界の枢要な地位を占めていたことから、通説の結構を破壊することはできず、『伊都国を扇の要として、最終的に「女王国」に到達する』という「放射行程」説と見えるように仕上げたと見えるのである。

 同書の大半は、季刊「邪馬台国」誌に、連載公開されたものであり、広く、万人の元に届けたと言うことは、氏の晩節の潔さを思わせるものである。一方、世上、榎氏の所説/真意は見過ごされ、単に、「伊都国から直線的に進むべき行程を、伊都国視点の放射行程と曲解した」とする軽薄な理解がはびこっているのは、誠に残念である。こと、「倭人伝」道里行程記事の解釈に関しては、残念な停滞、退歩が支配的なようである。

以上

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改)1/2 2025

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明、版元不明の野良
 私の見立て 星無し ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯総評~出版物でない雑資料 「(改)なし単行本」2022/1/23
 本書を短評すれば、著者の頭の中が混乱していて、そのために、資料の理解もできていないし、正しい表現で書くこともできていないので、せめて、小学校に入り直していただかないと世間に誤解を振り撒きます。

◯出典不明で無礼
 「本書」は、権威ある出版社編集部の校正を経ていない上に、いつ、誰が「出版」したのか明記されていないので、単なる「紙屑」に等しいのです。確かに、ネット記事は、当ブログを含めて、根拠とできない「紙屑」ですが、本書は、出版物を擬態/標榜しているだけ、重大な紙屑です。
 因みに、出版社編集部は、自社名で世に出すので、自社の信用を維持するために、原稿内容を精査し、時に、検証/訂正を要求した上で、「助言と同意」のもとに、社名を表示して出版するのですが、本書は、一切それが無いので、商用出版物、つまり、売り物としては、詐称に近いものです。
 因みに、一流出版社の出版物であっても、著者が、強引に編集未了の不完全な書籍を出版した例がありますが、当該出版社「講談社」は、光栄/伝統ある社名に不滅の悪名を刻んでいるのです。

 すくなくとも、本書が、論説の新規性を主張したくても、日付(タイムスタンプ)無しでは、何の足しにもならないのです。

◯駆け足御免~「ダメ山塊」
 本書は、走り読みしただけでも、ほぼ各行/複数個の「迷言」乱発で、一々かかずり合っていては先に進まないので、駆け足とさせていただくので、他は、推して知るべしという事です。手元資料には、テキストに対して、ほぼ数文字毎の(?)が書き込まれていて、つまり、全体に「ゴミ」(Junk)の山ですが、当方に指導義務はないので、守備範囲である「道里」記事の限定ダメ出しを見ていただいて、無根拠の非難でないと理解いただきたいのです。
 と言いつつ、理解できていないのに、キラキラと絵解きするのは重症です。

*混乱発露の自爆発言
 断然最大の誤解は、『陳寿は”事実は書いていないが嘘も書いていない”という高等テクニックを駆使して記述した』と意味不明の迷言です。現代日本語すら正しく読み書きずに二千年前の専門家を批判するなど、千年早いのです。

*道里記事失態
 著者失態の根源は、史料の読み解きができていないことです。著者は、狗邪以南の渡海水行記事に道里は存在しないと理解していながら、全体の読み解きに失敗した混乱のツケを、陳寿に持ち込んで無様なのです。
 陳寿は、当時、天下最高の専門家であり、「倭人伝」編纂に職責/身命をかけ、先輩、上司の批判を克服していますが、著者は無責任に言い捨てます。

*概数観の混沌
 投馬道里記事で、往き来していないから不詳と明記しているのに、「里数が欠けている」、里数が日数に切り替わるのはけしからんと云う発言です。そこまでが、七千余里、千余里と千里単位で、たいへん大雑把なのに、日数は、せいぜい十日単位で明確なのを見すごしています。著者は、ずいぶん、数字に弱いようですが、自覚して修行すれば、改善されるかもしれません。

*再出発のお勧め
 先ほど、小学校に入り直すよう戯れ言したのは、今日の小学校算数には、概数が含まれているので、修行し直したらどうかというものです。
 因みに、小学校課程をお勧めするのには、もう一つ恥かきが在るからです。土地土地の南北東西は、著者も知る竹竿日時計で、立ち所に確定でき、取り違えないのです。小学校の理科実験、夏休み宿題で身につくことで、本書のように勘違いを公開することはないのです。氏は、高校生に講義する設定のようですが、精々、生徒なる後生に馬鹿にされないように勉強すべきです。

*情報審査の不備
 また、氏の欠点の「一つ」は、参考文献に散在の札付き「ゴミネタ」に見境なく食いつくことです。「倭人伝」談義は、大学「先生」まで不勉強でいい加減な発言をする例が少なくないので、検証してから他人に勧めるべきです。
 近来、一段と、読み囓り、書き飛ばしが氾濫している「倭人伝」巷説ですが、仲間受けすれば良いというものではないでしょう。
 なお、中国語で「先生」は、単に呼び捨てでない「おっさん」という意味であり、教授や教師と敬称しても、「先生」呼ばわりは、むしろ不名誉の極みです。

                               未完

新・私の本棚 番外 あおき てつお 邪馬台国は隠された(改)2/2 2025

 漫画家が解く古代ミステリー~」 Kindle版 初版、改定年次不明
 私の見立て 星無し ☆☆☆☆☆ 勘違いのだまし絵 消せない悪書 2024/02/21 2025/11/16

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*基本の見落とし 
 著者は、道里記事の大事な「分かれ道」に対して、『榎一雄先生は「倭人伝の道のりは一直線に読むのでなく、伊都国まで来たらそこを中心に放射状に読み取るべき」と主張された』と勘違いして大局を見失ったと見えます。

 要するに、中原なら、四頭立ての馬車で行く「周道倭遅」ですが、馬車も乗馬もない倭地ですから「郡道が伊都で完結」する徒歩行(輿に乗るという事)と見るものであり、以後、奴不彌投馬三国は、万二千里に無関係の脇道であり、行く必要は無いのです。これら三国とは、「余り往き来していないので、不詳」と明記しているのに、長々と論義しては、読者を混乱させるのです。あるいは、時間の無駄として読み飛ばされてしまうのです。

 実態不明の脇道の後に、『伊都国の直南に女王の住まう「邪馬壹国」があり、必要日数は、[都]全て、海上十日と陸上三十日、計四十日』まことに明快です。
 それ以外、女王以北狗邪まで「周旋」五千里と検算していて、重ね重ね誤解できないはずですが、それでは早々に黒星が付いて敗退と決まる「定説」派が猛然と攪乱しているのです。
 そんな攪乱に対して、著者は、まれに冷静な理解をしますが、すぐに言葉が動揺して混乱するのです。

*誤解の始まり提起
 いや、本論は、著者の論旨を追うのが主目的/主題ですから、本書の狗邪韓国あたりから論義を始めていますが、ここで、始点に戻ると、著者は、早々に、分かれ道の選択を誤っていて、回復困難な破局を、以後、一貫して、無頓着に踏み渡っている糊塗を、確認する手順となりました。本来、間違った分かれ道の先は、一切論義する必要は無いのですが、ここでは、著者の勘違いを正すために、あえて、無効とわかっている筋道を辿っているのです。ご容赦ください。
 さて、著者は、大抵の論者と同罪であり、勝手に早合点していますが、道里行程記事は、正始魏使の道中報告などではなく、明帝が、魏使派遣に先立って把握していた行程道里なのです。前提部分で、重大な錯誤があれば、即却下して、出直してもらう所ですが、それでは、指導にならないので、丁寧に面倒を見ているのです。
 従って、重大な懸案と見える脇道の三国は、「倭人伝」の要件であって、肝心な「伊都までの所要日数」に全く関係なく、従って、陳寿の関心外なのですから、陳寿が見たことも聞いたことも無い現代地図と照合して、無理やり辻褄合わせしても、陳寿の知ったことではないのです。何とも、意味の無い「徒労」記事です。

*箴言再生 
 当方は、高名な歴史学者岡田英弘氏の箴言をもとに、『三国志から二千年後世の無教養な東夷が、孤高の歴史書である三国志を非難するのは見当違いとしている』のです。但し「無教養」は、単に、もの知らずで読み書きができない「状態」であり、勉強で「無教養」でなくなるとの「自戒」です。
 古人曰「後生畏るべし」、先に生まれた「先生」が偉いのでなく、「後生」に乗り越えられるとの言葉があり、心ある関係者は、失礼にならないように「先生」と云わないことです。

*遣隋使談義の暇つぶし
 著者は、「隋書」を読めていない所から、何の参考にもならない後世談、余談を話し始めます。隋帝のもとに参集した蛮夷は、それぞれ「遅参はきつく処罰する」と、新規統一王朝の隋から、半ば脅されて参上していて、それを追い返すなどあり得ないのです。
 そもそも、無知、無礼は、蛮夷の真髄ですから、承知の上であり、そのような蛮夷を、厚遇して招待し、とことん「おもてなし」して、手なずけるために「鴻廬寺」が儲けられているのであり、接客実務の担当として、掌客部署があるのです。「客」は、蕃夷が耳にして怒り出さないように、美称している(外交辞令のリップサービス/口先だけのお愛想)です。
 もし、手違いで賓客を追い返しなどしたら、以後、辺境に侵入、掠奪して、たんまり仕返しされるので、豪勢に歓待していたのです。いや、追い返すと、歓待した状況を、腹ぺこ、野宿で引き返すので、怒り倍倍増で、掠奪暴行必至です。蕃夷の機嫌を損じた「鴻廬寺掌客」は、軽くて免職、さらには、鞭打ち、大抵は、斬首/死罪のはずです。

*権威者の妄言
 そのような事情紹介の後に続いて『この事情に関しては三国志研究の権威・早稲田大学教授の渡邉義浩先生の提唱を参考に説明します』ですが、読者は、遣隋使など無関心です。
 以下、記事に戻り、魏が「倭人」記事に色を付けたのは、西方蛮族との見合いとしますが、それは無茶で、「大月氏」記事は、後漢支配下の西域に反乱と掠奪を繰り返した悪者を、西域に無力な魏が「おもてなし」した中国文飾を見すごした岡田英弘氏の「新説」に渡邉氏が追従したのに気づくべきです。
 東夷談義に戻ると、景初二年六月の倭人来貢は、司馬懿の公孫氏撲滅時、来なければ同様に叩き潰すと脅されて恐懼参上したものです。司馬懿は、公孫氏一味を大量虐殺し、公文書も焼き尽くしたので、倭人は、震え上がったはずです。

*明帝明敏
 時の明帝曹叡は、司馬懿の魔の手が伸びなかった帯方郡から倭人事情を知らされていたので、急遽持ち込まれた(仮想)帯方郡「倭人伝」が「郡から倭まで万二千里」と恰好を付けていても、片道四十日あれば、往来できると承知していたので、確実に大量のお土産を送りつけられると理解していたのです。つまり、「呉の沖合」などとは、まるっきり思っていなかったのです。

 陳寿は、西域を含めて、諸蛮夷事情を熟知していたので、子供だましにもならない戯言は書いてないのです。そうそう、陳寿は、三国史「呉志」の大部分を、東呉が降伏の際に上程され、皇帝が享受した韋昭「呉書」をそのまま採用しているので、東呉が、東夷と交通していたなどとは、思ってもいなかったし、曹魏自体、そのような報告を記録していないので、「魏志」に、そのようなウソ八百の記事は無いのです。

*不朽の失言か
 そのように、三世紀当時は、衆知であった、つまり、関係者に当たり前のことを見過ごした「権威」の与太話は困ったものです。まして、景初初頭に明帝が知っていた「倭人事情」を、随分後世、曹魏が滅びた後で、陳寿が、晋皇帝のご機嫌取りで創作したなど、見当違いも甚だしいのです。現代人でも暫く調べれば気づく迷言を言い放っているのは、ご自身を「二千年後生の無教養な東夷」と自嘲されているのかと訝しいほどです。
 因みに、当時の晋皇帝は、天下唯一の権力者と云っても、史上著名な暗君であり、「倭人伝」など意識外であり、そもそも、魏志自体、読めもしないので、大して気に留めていなかったのです。なにしろ、この「権力者」は、政治に無関心な上に、唯一無二の皇太子を廃嫡して死なせるのですから、名も知らない史官の編纂している「正史」など、どうでも良かったのです。

                                以上

今日の躓き石 毎日新聞 フィギュア暫定首位の暴言

                              2025/11/16

 今回の題材は、毎日新聞大阪14版スポーツ面の筆頭記事であるから、書き飛ばしではないはずである。今回は、米レークプラシッドに精鋭記者を送りこんでの報告であるから、ある意味、社運を托したとみえるのである。

 それが、「ファイナル進出へ 誓うリベンジ」と中見出しで、どんと白けるのである。
 それにしても、言わば、予選の予選で、ショートプログラムで首位に立っただけなのに、これほど大騒ぎするようでは、現地取材した記者の軽率さが目だつのである。これでは、最終選考で、何をネタに騒ぐつもりなのだろうか。あと何人血祭りに上げないと気が済まないのであろうか。

 選手の口走った言葉を書き取っただけなのであろうが、「4年前のリベンジ」など、読者の知らない所で爪を研いでいたと聞いて、感心する方は希であろう。まして、記者が「二つのリベンジ」等と意味の通らない書き方で、これらを果たして、ようやく、オリンピック進出への道が開けると聞いては、なんのことやらちんぷんかんぷんである。
 二度、SP優勝の確信を取り逃したのを、「リベンジ」と称したのであれば、その際に「負けた」相手に、どうやって復讐するのか。不思議である。記者は、それをつきとめてあげたのだろうか。相手は、何も覚えていないはずだと思うが、どうやって因縁を付けようとしているのか。記者は、そのような犯罪に手を貸して許されるのだろうか。

 夕刊のない土曜日明けの朝刊であるから、時間が取れたはずの朝刊は、先走りでなく、ニュースバリューがあることを、しっかり知らせてくれよ、と言う感じである。
 ということで、天下の全国紙記者が随分、底の浅い提灯持ちである。

 確かに、オリンピックの場に出場するという目標は、世界に誇れるのだが、そこまで、復讐戦を叫び続けるのは無残である。担当記者は、世界に向かって「リベンジ」を高言することの大きな罪を知らせてあげるべきである。「Revenge」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に通じる禁句である。世界に宣言していいことと、絶対にしてはならないことがあることを、スポーツ一筋で、ものを知らないアスリートに教えてあげるのが、全国紙署名記者の務めではないのだろうか。
 また、よく知られているだろうが、「王手」には、勝利の保証は何もないのである。一流の勝負では、大抵は、負け将棋で、「一矢」むくいているだけで、たいていは、そのあとに「負けました」と頭を下げるのである。

 とは言え、紙面掲載記事に対する全責任は、毎日新聞社社長が負うべきであることは、当然である。

以上

今日の躓き石 NHK杯将棋 対局者の「リベンジ」暴言で失望

                      2025/11/16

 今回の題材は、NHK杯将棋の事前談話であるが、颯爽たる新進の筈が、「リベンジ」とくちばしったのには、失望した。
 前回負けた相手に、今度は、仕返しで血祭りに上げてやるという決意表明が、堂々とNHKに登場して、失望である。

 まさか、隠れテロリストの失言ではないだろうが、世界公然の「禁句」を、はずかしくないのが残念である。

 是非、連盟清水会長から、今後二度と口にしないよう、きつく折檻していただくことを望むものである。

 それにしても、「やられたやつにはやり返す」という志(こころざし)しか、若き英雄に心の支えはないのだろうか。
 くやしかったら、盤上で勝って見せろよ、と言いたい所である。 

以上

2025年11月15日 (土)

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 1/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 初稿以来8年を経て補充したのは、先に書いたように、とつぜん、閲覧が入ったからである。盗用を恐れて、内容を確認し、補充したが、別に新発見があったわけではない。
 当記事は、群馬県渋川市金井東浦遺跡の発掘において、出土した「武者」遺物に対して、失敬な考察を加えているのに対して、異を唱えたものである。
 今回確認した所では、妥当な異議と思うので、何れかの「論文」に盗用されて出所を詮索されても、何ら恥じるとこは無いと感じているのである。いや、近来の頻発している旧ログ「加筆再掲」は、当方の過去の思索をたどる機会となって大変光栄であるが、それにしても、過去ログの無断盗用が横行しているとすれば、大変心外である。

*再掲
金井東裏遺跡(群馬県渋川市) 渡来系リーダーの誇り

 毎日新聞夕刊文化面の月一(とは書いていないが)読み物「今どきの歴史」第二回は、発言に慎重な羽生田(はぶた)教授の言い分が、比較的素直に引用されているようであるが、担当記者が理解不足なのか、時折脱線、陥没している。

 いや、教授の言う「眉唾」は古色蒼然たる表現であるが、当記事では、現代人の一般読者に衆知としてか、説明無しに発言が引用されている。普通、眉唾はキツネやたぬきのだましに対するおまじないであり、つまりやり玉に挙がっているのは、「嘘」である。

 その伝で言えば、「今どきの歴史」第一回が「眉唾」と言うか法螺話というか、非学術的な放言の類いで開始したが、今回は、慎重な研究者である教授の談話が中軸になっているので、地道な内容だったことを喜びたい。

 よろい武者は、歯にストロンチウム塩を含んでいると言うことから、後ほど説明するような何代もの移住の後裔でない可能性が高いが、ここにやってくる方法は、それだけではない。
 推定するなら、この地域の馬飼集団の首長後継者として婿入りしたとも思われる。これなら、よろい武者が、北部九州育ちと思える特性を示してもおかしくない。(教授、あるいは記者は、なぜか、半島出身にこだわるが、西日本は、普通河内平野あたりまで含むと思う

 そんな「ストーリー」は検討したのだろうか。
                                               未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 2/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
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*「古墳時代」の謎
 6世紀の古墳時代と言うが、奈良盆地の古墳開始は、堅実な見方で4世紀中葉と言われている。
 その場所からこの場所に、ほとんど2世紀かけて、古墳造成技術と技術者集団が展開したと見るなら、同様に、馬の技術も、長い期間をかけて伝わったと見るべきではないか。

倭人首長
 また、教授は唐突に、ぽんと「倭人」の首長を持ち出して、この人は「副将格」と言うが、どうやって支配組織を確認したのだろうか。素朴な意見として、馬を飼うことに専念する集落はその全体が、渡来人集団だった可能性はないのだろうか。「主将」、ないし「首長」は何者か、判断の根拠はあるのだろうか。
 多くの馬を育てて増やしていくというのは、当時、その地域で未踏技術だったから、よろい武者は、絶大な力を持っていたのではないだろうか。
 だから、教授も、先立つ部分で「為政者」として、敬意を払っているのであろう。

 そりゃそうである。単に馬飼職人であれば、配下の者に、貴重な馬を避難させるように先頭に立って指示するものであり、危険な方に向かって進むことはないのである。
 いずれにしろ「為政者」とは、首長のことではないのだろうか。専門家集団が、専門知識に欠ける素人をいただいていたとは思えない。
 
*付言 2025/11/15
 ちなみに、文書史料である「魏志倭人伝」は、ここで言う「倭人」のことではなく、当時、九州北部に展開していた「倭人」なる蕃夷集団の国家を紹介したものである。七世紀辺りに「日本列島」に興ったと見える「倭」との関連は、不明である。「教授」の発言は、いささか不用意であるが、それは、「日本」と言わないだけ、まだましなのである。

*逃げない意気込み
 教授は、「よろいは暑くて重い」とにべもないが、当時夏であったとしても、噴煙、噴石災害の「いくさ」の現場に出向く際に、よろいで正装し、身を固めるのは当然である。志のない俗人(中国古代で言う「小人」(「子供」や「こびと」を言うのではない))には、志のある「武家」の心情を、推察すらできないのだろうか。もったいないことである。

 大体が、よろいもかぶとも、そして佩刀も、普段から耐えがたいほどに重いが、だからといって、戦いの場で、素で立ち向かうわけには行かない。

                                             未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 3/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
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*逃げない意気込み 続き
 そして、大変肝心なことだが、よろい武者は、災厄から逃げるのとは逆に、災厄に向かって突き進んでいるように思う。
 溝を後にした場所で身構えていて、火砕流の先駆けにはじかれて、自ら溝に入って安全を図ったのか、押し流されたのか、当日現場にいてもわからないことを,小賢しく議論するのは徒労だろう。

 後世も、「さむらい」は敵に背を向けないとしたものである。ひょっとすると、物見に出て帰ってこないものを気遣って、探しに行ったかも知れないと、さむらいの心意気を想像する。
 少なくとも、よろい姿は不用意でも異様でもないと思うのである。
 よろいを着る目的は、民心をどうこうするものではないように思う。混乱の際に民心をかき立てるのなら、指導者の健在が遠くからも見えるように旗竿を立てるだろう。

*眉唾だくだく
 考古学者は、どうしてこのようにつまらないところで、見てきたような語りを好むのだろうか。「考」の字が泣くというものである。
 別によろいを着て暑かろうが寒かろうが、指導者が体面を重んじようが、どうでも良いのではないか。
 教授が眉唾と言うのは、山を拝んでとの俗説だけだと承知なのだが、それに続いて、暑い、重いと続いているので、不満なのである。
 それにしても、武装に身を固めるとしたら、かぶとは必須と思うのだが、なくしたのだろうか。

*ストーリーと「実像」
 以上のような「ストーリー」(用語として合っているかな)は、他人の意見を排斥して証明できるものでないし、また、しようとすべきものでもない。各人の推測に止めるべきである。そうでないと、このように批判を浴びる。
 また、気軽に「実像」と言うが、文字や絵の記録が残ってないから、歴史の彼方の事象の実像(実際の「姿」の意味か??)が見えてくるはずはないのである。考古学者は、神がかりを避けるべきではないのだろうか。それとも、「実像」とは、骨格や筋肉の姿なのだろうか。一読者として、そのような不気味なものは、見たくないのであるが。

 軽率、軽薄な言い方で、言うものの学識を、大いに疑わせるのである。まことに勿体ないことである。

                                      未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 4/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*最先端技術の怪

 「今どきの」の触れ込みに相応しいのが「当時として最先端技術だった馬の生産」なる、まことにけったいな言い回しであるが、これは、記者の頭のねじが、何カ所かで外れているせいらしい。
 と言うことで、以下(記者の?)失言を肴に持論を展開させていただく。

*「馬の生産」という怪談
 「馬の生産」とは、当時クローン複製技術があったかと勘ぐりたくなる言い回しである。
 人と馬との関わり合いというと、家畜としての馬は生産するものでなく、せいぜい、飼い育てる、つまり、人に慣らし、苦役に耐えるよう訓練するものと思うのである。

*「最先端技術」という怪談
 また、ここで「最先端技術」とは、これまたけったいな言い方であり、当時の「技術」の進み具合をだれがどう見定めたか知らないが、この地域に新たに伝わった、くらいの穏当な言い回しができないものか。しかも、記事の言い方では、「最先端技術だった馬」と読めないこともないから、一瞬読み足が躓きかけて、立ち停まるのである。
 ここは、時代錯誤と言うだけでなく、勘違いが漂っていて「眉唾」である。受取りようによっては、教授の信用が地に落ちるのである。

*馬飼の技術移管
 中原世界では、商(殷)王朝期に、少なくとも、馬車戦車が造られていたことは確かのようであるから、既に野生馬ではなく飼い馬だったと思うのである。
 つまり、飼い馬は、中国に限定しても、太古、つまり、殷(商)以来知られていて、天下の官道を車軸と車幅の整った。軽量、高効率の四頭立て馬車が往来していたのである。また、6世紀初頭まで列島内に馬を育てる「技術」が皆無であったとは思えない。少なくとも、未踏の超絶技術ではないと思うのである。

 当時、海北の韓半島にそのような技術があったかどうか示されていないので困るのだが、半島南部のどこであれ、南に馬を引き連れて渡海可能な範囲に、馬を飼う人々がいたとしなければ話が続かない。

 多分、韓半島、現代で言う朝鮮半島南部の起伏に富んだ途中には、以下に述べるような南遷に適した土地が無かったので、短期滞在だけで、さっさと渡海したのかとも思う。

                                           未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 5/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*馬飼の技術移管 続き
 言うまでもないが、当時南北に往来していたのは、甲板と船室がある帆船としてもまだまだ小振りであり、多数の馬を無事に運ぶのは、大変困難(事実上不可能の意味である)であったろうと思うのである。何しろ、馬は、誕生直後の一時を除けば、寝るときも含めて一生立ったままであり、天井の高い船室でなければならないのである。
 そのように、海峡越えの船でどのようにして敏感な馬たちをおとなしくさせたかは、当方の知るところではないが、相当に困難(つまり、素人には絶対できないの意味である)であったはずである。
 とは言え、それまで、動物としての馬は、何かの折に到来していたかも知れないが、飼い馬の技術はなかったのであろう。

 三世紀九州北部の先進地の風俗を伝える、唯一信ずるに足る文献である「魏志倭人伝」も、「飼い馬、飼い牛を使役する姿は見かけなかった」としている。要するに、中国とは異なり、整備された官道を、四頭立ての馬車が疾駆することはなかったということである。

 以上の背景から、ことの成り行きを察するに、三,四世紀の何れかの時期、多分船舶が大型化した時期に、専門家集団が少なからぬ数の馬とともに九州北部に渡来したものと思う。

*技術の緩やかな流れ
 幸い、到着した土地に、農地には出来ないが馬の飼育が出来る土地(牧草地)があって、一旦そこに定着し、子馬が育って所帯が大きくなったところで、東方に見つけていた馬の飼育に適した広大な土地に分家を造り、人と馬が移住したのだろう。
 そこから、時を経て次の土地に、そして次の土地にと、数回の分家を歴て、当地まで広がったことのように思えるのである。馬が二、三世代育つのを分家の目安とすると、20年から30年ごとの展開、つまり、人で言うと一世代ごとの展開のように思える。

 九州北部から、この地に至るまで、何度分家を繰り返したかは知るすべもないが、30年程度の四,五倍程度として、ひょっとして二世紀の月日が経ったのではないか。

 大きな仕掛けの伴う技術は、ゆっくり、ゆったりとしか伝わらないのである。

                                       未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 6/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*単身移住の可能性

 もっとも、馬の成育と新天地への展開とは別に小数の先駆者が、本家たる北部九州から、直接、それこそ最東端のこの地に移住したとの推測は、一応可能だが、少なくとも、くの馬を、数世代分の移住先を飛び越えて移動させることは不可能というものだろう。推測、思い込みは、可能性の推測として扱うべきであり、確たる論説として育て上げる努力を欠かしてはならないのである。

*技術の担い手
 「技術」と簡単に言うが、この技術は担い手が一人歩きするものではないし、技術者が担って移動できるものでもない、馬と馬を育てる大地、即ち、牧草地が必要である。馬は連れて行けるが、無理なく連れて行ける範囲は限られる。牧草地は、誰かが偵察に行って、探すしかない。そして、馬飼は、多くのものが、手分けして、そして、ともに、途方もない力を尽くさなければならない。
 何か、安直な必勝法があって、それを読めば、だれでもできるものではない。


 以上、別に馬を飼い育てた経験はなく、まして、馬を引き連れて移動した経験もないから、全て、後世の素人の推量であるが、こうした着実な成り行きしか考えられないのである。

*「地方社会」の怪
 そこで、またまた、時代錯誤の言葉遣いが出て来るのだが、古墳時代の「地方社会」は、地平の彼方に中央政権が集権的なものとして存在し、当地域まで権威を、世紀を越えて持続して届かせていたという「仮定」、「古代ロマン」の「思い込み」に基づくようである。
 「思い込み」は、個人の勝手であるが、学説として論じるには、客観的に考証、論証された根拠が必要である。単発史料で、決め付けるのは、軽率極まりないのである。

 想像するに、当時の住民にとっては、ここが「我がくに」であり、よろい武者が「我がきみ」だったのではないか。たことも聞いたこともない、行ったという人もいないような無限の彼方のことなど、思いはしなかったであろう。いや、当地にまで権力を及ぼしていた「中央政権」は、存在しなかったと論じているのではない。存在したというなら、厳重に実証すべきだと言っているだけである。

*「未知の光景」の怪
 その後に「未知の光景」などと時間空間錯誤の「たわごと」があるが、担当記者の独りよがりの幻視は「勝手」にして、まじめな読者に、「勝手」な妄想を押しつけないで欲しいものである。
 担当記者は、「眼前の光景」に陶酔しているかも知れないが、その光景は、眼前と錯覚していても、 当人の脳内のものであって他人には一切見えないのである。他人に見えないものは、言葉で世界像を構築して提示するしかないのである。

                                                未完

私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 第二回を巡って 7/7 2025

私の見立て 星三つ ★★★☆☆  堅実な発表の辿々しい紹介            2017/10/23 2025/11/15

*加筆再掲の弁
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*地域は国家

 教授は、600㍍南の遺構とここが、当時としては、一地域を形成していたのではないかと思っているようだが、まことに妥当な話である。
 今日でも、地域は国家と同意語になることがある。
 当時、よろい武者は、地域の大将であり、「地域」国家の上様とか殿様とかに相当していたはずである。

 いつの時代であろうと、600㍍は「通勤可能範囲」であり、別にアスリートでなくても、歩いて15分で着くであろう。水運は書かれていないが、古来、大抵の荷物は、背負って移動したから、水運に乏しいのは大事件ではない
 大体、奈良盆地内は、河川水運に欠け、平安京も、南方に淀川水系を抱えながら、水運に適した河川が備わっていなかった上に、牛馬の運送も育たなかったために、長々と背負子の労で支えられていたのである。

 それはさておき、この地域は、「畿内」とは別世界であり、域内外の人の往き来、ものの往来は、当時の基準では盛んであったろうから、地域の一体感はあったはずである。

 と言うことで、大筋は、慎重な教授のおっしゃるとおりである。ここで異を唱えているのは、担当記者の筆の暴走である。

*愚行への戒め
 それにしても、決め文句の「日本のポンペイ」とは、本家を知らない無頓着なものにしか言えない軽薄な発言である。当人は、死ぬほど恥ずかしく思うべきである。

 ポンペイは、地中海世界に威勢を振るっていた共和制ローマなる超大国の富裕者の別荘、観光地であったから、発掘された遺跡には建物も、文字も、絵画も、彫刻も残っている。また、国都ローマの結構近くにあったこともあって、噴火埋没について、周囲からの観測記録も豊富に残っている。
 記録があるから、文化遺産なのである。

 火山災害が似ていると言うだけで、そのような名乗りはおこがましいのである。くれぐれも、世界に恥をさらさないことである。それを、「ますます似合っててきた」というのは、記者がものを知らないから言えることである。

*苦言
 記者のおつむは、中のねじが外れているだけでなく、はめも外れているようである。裸で歩き回るのを、怖くも、恥ずかしくもないというのは、単に、感受性が、捨て去られているという事でしかない。

 記者の職業人としての評価は、私の見立て 星一つ ★ であるが、最低というものではない。下には、下があるのである。全国紙の文化面記者として、許容限度ギリギリという事である。

 先行した「歴史の鍵穴」は、筆者の無法な仮説が荒れ狂っていて、酷評せざるを得なかったが、最後まで、毎日新聞社としての良識は、示されなかったなかったのである。

 いや、当ブログ筆者は、記者の上司でもないし、指導する立場にはない。一介の定期購読者に過ぎない。
 ご当人に聞く耳がなければ、全て虚報である。世の中そんなもんである。
                                                 完

2025年11月14日 (金)

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 1/2 2025

  字書参照、用例検索  2021/08/19 補記 2022/11/08 補追2025/11/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿は、初稿に補筆を加えたため、論旨が前後して書かれているのですが、初稿と追加部を明らかにしているため、そのように交錯して読みにくくなっている点をお詫びします。従来は、初稿を維持して、別記事を立てる構想だったのですが、近来、時系列を越えて、過去ロングが参照されている例が散見されるので、乱用、盗用を防ぐために、旧ログの補充、維持に努めているものです。とは言え、勝手に部分引用するChatGPTの手にかかると、撤回ないしは、参考に降格している記事が、一人歩きするのは、避けられないので、「変節」の誹りを提言するために、改訂を加えて再公開しているものです。

〇倭人伝の道草~石橋を叩いて渡る
 まず、倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步」の「徑」は「径」と、「步」は「歩」と同じ文字です。
 世上、ここで、『「冢」は円墓、「径百余歩」の「径」は、直径、差し渡し』との解釈が「当然」となっているようですが、(中国)古典書の解釈では、日本人の「当然」は、陳寿の「当然」とはしばしば異なるので、兎角「思い込み」に繋がりやすく、もっとも危険です。以下、概数表記は略します。
 当方は、東夷の素人であると自覚しているので、自身の先入観に裏付けを求めたのが、以下の「道草」のきっかけです。

〇用例検索の細径(ほそみち)
*漢字字書の意見
 まずは、権威のある漢字辞典で確認すると、「径」は、専ら「みち」、但し、「道」、「路」に示される街道や大通りでなく「こみち」です。時に、わざわざ「小径」と書きますが、「径」は、元から、寸足らず不定形の細道です。

 ここで語義探索を終われば、「径百余歩」は、「冢」の「こみち」の行程が百歩となります。つまり、女王の円墳への参道が、百歩(百五十㍍)となります。榊原英夫氏の著書「邪馬台国への径」の「径」は、氏の深意かと想ったものです。
 それは、早計でした。漢字字書には限界があって、時に(大きく)取りこぼすのです。

*古典書総検索
 と言うことで、念入りに「中国哲学書電子化計劃」の古典書籍検索で、以下の用例観を感じ取りました。単漢字検索で、多数の「ヒット」がありますが、それぞれ、段落全体が表示されるので、文脈、前後関係から意味を読み取れば、勘違い、早とちりは発生しにくいのです。

*「径」の二義
 総括すると、径(徑)には、大別して二つの意味が見られます。
 一に、「径」、つまり、半人前の小道です。間道、抜け道の意です。
 二に、幾何学的な「径」(けい)です。
  壱:身辺小物は、度量衡「尺度」「寸」で原則実測します。
  弐:極端な大物は、日、月ですが、当然、概念であって実測ではありません。
 流し見する限りでは、円「径」を「歩」で書いた例は見られません。愚考するに、歩(ぶ)で測量するような野外の大物は、「円」に見立てないもののようにも思えます。
 つまり、「歩」は、土地制度「検地」の単位であって、「二」の壱、弐に非該当です。史官陳寿は、原則として先例無き用語は排します。従って、「径百余歩」の語義を確定できません。

*専門用語は専門書に訊く~九章算術
 以上の考察で、「九章算術」なる算術教科書は、用例検索から漏れたようです。「専門用語は、まずは専門辞書に訊く」鉄則が、古代文献でも通用するようです。
 手早く言うと、耕作地の測量から面積を計算する「圓田」例題では、径、差し渡しから面積を計算します。当時、「円周率」は三です。農地測量で面積から課税穀物量を計算する際、円周率は三で十分とされたのです。何しろ、全国全農作地で実施することから、そこそこの精度で、迅速に測量、記帳することが必要であり、全て概数計算するので、有効数字は、一桁足らずがむしろ好都合であり、「円周率」は、三で十分だったのです。言うまでもないのですが、耕作地は、ほぼ全て「方田」であり、例外的な「圓田」は、重要ではないのです。また、円形の耕作地は、牛の引く牛犂で円形面積そ全部耕作することは不可能でしたから、その見地からも「円周率」は、三で十分だったのです。
 当時は、算木操作で処理できない掛け算や割り算、分数計算は、高等算術であり、実務上、不可能に近い大仕事です。また、小数は、はした部分を省略すれば良いので、これまた、実務上無用なのです。
 それはさておき、古典書の用例で、「径」「歩」用例が見えないのは、「歩」で表す戸別農地面積は、古典書で議論されないと言うだけです。

 個別耕作地は、田地造成の際の周辺事情、特に、影やら窪地の取り合わせで円形になっていることもありますが、行政で造成した区画には、円形は一切ないのです。このあたりに、用例の偏りの由来が感じ取れます。

 上級(土木)で墳丘の底部、頂部径で盛土量を計算する例題と解答が示されています。

 以上で、「冢径百余歩」は、円形の「冢」の径(直径)を示したものと見て良いようです。

*新規展開追記 2025/11/14
 近来、「纏向遺跡」に関する論義が盛んであり、本稿で述べた文書解析の流れが疎外されているようなので、再検討を加えたものです。

*「径百歩の真相」 2024/04/05
 夢想でなく、時代考証をもとに想定すると、「方百歩」は、一辺一歩(ぶ)(1.5㍍)の面積単位「方歩」によって計量したものであり、現代風に言えば、「百平方歩」と言うべきものと考えますが、漢代以来士人の基礎教養とされていた「九章算術」では、字順を整えて、長さの単位である「歩」と、専門外の分野での著作で混同/混用されることを避けたものと見えます。
 結論を言うと、用地を示す「方百歩」は、面積単位の「歩」をもとにすると、一辺十歩(15㍍)の方形と見え、その内部に、封土として「盛土」を設けることから、「冢」の墳丘/山自体は、直径15㍍を下回る形状が想定されます。要するに、時代相応の想定では、卑弥呼は「大家」(地方首長)といえども、墓制は、大層な規模ではなかったと想定されるのです。
 後年、牛馬、鉄鋼製工具、文字教養、計算技術などが順次整う時代になって、石積みを伴う大規模な墳丘墓が造成される時代が来たと想定されますが、それは、「冢」でなく「大塚」とでも呼ばれたものと推定されます。
 石積は、「盛土」の崩壊を防ぐために必要となるものであり、墓守が備わっている旧来の「封土」では、必要でないのです。
 ちなみに、「倭人伝」記事には、「徇葬百人」と書かれていて、不時の造墓でも、官奴百人程度が、公務を離れて従事すれば、施工できたとされています。
 従来の祖先「墓地」に追加する程度であれば、整地もさほど必要でなく、用土も、近郊から取り寄せるものと思われます。「徇葬百人」が示唆するものは、少し大がかりと云うだけです。
                                未完

私の意見 「卑弥呼王墓」に「径」を問う 2/2 2025

 幾何学的考証、「方円論」         2021/08/19 補追 2022/11/08 2025/11/14

〇幾何学的考証
 以下、「冢径百余歩」が幾何学的「径」と仮定して、考証を進めます。

*径は円形限定
 「径」は、幾何学的に円形限定です。学術用語定義ですから、曖昧さも曲筆もありません。
 幾何学図形の形状再現は、普通は困難ですが、円形は、小学生にも可能な明解さです。五十歩長の縄一条と棒二本で、ほぼ完璧な「径百歩」円を描き、周上に杭打ち縄張りして正確な円形が実現できます。
 対して、俗説の「前方後円」複合形状は、「径」で再現可能という必須要件に欠け、明らかに「円」でないのです。
 たしか、「方円」は、囲碁で方形の盤に丸石を打つのを言うと記憶しています。

*「前方後円」談義~余談
 俗説が引き出している「前方後円」は、倭人伝どころか、中国古典書にない近代造語のようなので、本件考察には、全く無用と感じられます。
 古典書用例から推定すると、「前方後円」は、かまぼこの底面を手前にして立てたような形状と見え、位牌などで、前方、つまり手前は、方形の碑面で、後円、つまり奧は、円柱形で位牌を安定させる構造とも見えます。この場合、前方部は、参拝者の目に触れるので、高貴、高価な材料として、銘文を刻むとしても、後円部は、人目に触れにくいので、それほど高貴でないものにすることができます。
 と言うことで、目下審議中の墳丘墓の形状とは無関係なので、場違いであり、用例とならないのです。

 復習すると、「前方後円」なる熟語は、同時代には存在せず、恐らく、近現代造語であり、いかにも非幾何学用語であり、学術的に不適切なので、いずれ、廃語に処すのが至当と考えます。少なくとも、中国古代史書論義には、無用のものです。
 丁寧に言うと、「前方」部は、方形でなく台形で、通称として俗に過ぎます。

 いずれにしろ、「前方後円」形状に「径」を見る、後代東夷の解釈は不当であり、これを三国志解釈に持ち込むのは、場違いで、不当です。

*矩形用地の表現方法
 かかる墳丘墓の規模を、実務的に形容するには、まずは、用地の縦横を明示する必要があります。そうすれば、用地の占める「面積」が具体化し、造成時には、土木工事に通暁した実務担当者により、用地相応の作図がされ、古典的手法で、円部の盛り土形状と方部の形状が算定でき、これによって盛り土の所要量が算定でき、最終的に、全体の工事規模、所要労力・期間が算定できる、まことに有意義な形容です。

 「九章算術」は、矩形地の例題では、幅が「廣」、奥行きが「従」で、面積は「廣」掛ける「従」なる計算公式を残しています。
 「径百歩」では、用地の面積が不明です。「廣」を円径とした盛り土量は計算・推定できますが、「従」から「廣」を引く拡張部が形状不明では、何もわからず、結論として、「冢徑百餘步」は、ものの役に立ちません。
 結論として、円形土地を径で表すのが、定例・定式であり、これに対して、台形土地を足した土地は、径で表せないので定式を外れた無法な記述と断じられます。

*「冢」~埋葬、封土の伝統 2025/11/14追記多々
 「倭人伝」記事から察するに、卑弥呼の冢は、封土、土饅頭なので、当然、円形であり、通説に見える「方形」部分は「虚構」、「蛇足」と見ざるを得ません。丁寧に言うと、「蛇に足を書き足すと、蛇ではなくなる」という「寓話」です。
 また、遺骸を地下に埋葬するのは、中国の伝統に従うものであり、「親魏倭王」ならずとも、「冢」の墓制を遵守していたとみるべきです。それに対して、地上に墳丘を設け、その内部に遺骸を収めるのは、恐らく、高い山に天下りしたという神話に基づくものであり、初期の段階では、山裾に埋葬していたものが、平地に山を造成して、そこに、遺骸を収める葬礼が、発展的に形成されたものと見えます。
 これは、中国大陸由来としても、中原の由来でなく、春秋戦国の「楚」、「呉」「越」に代表される南方の儀礼とも見えます。
 即物的になりますが、長江(揚子江)中下流は、降水量が豊富な上に、上中流の増水が時に合算されて下流を満たすため、台地を、十㍍ほどにも嵩上げする土木工事が古来行われているほどですから、墳墓は、平地を掘り下げて、地下水を誘うのではなく、山の傾斜面に埋めることが自然な流れと見えます。
 要するに、中原の延長である「朝鮮」でなく、南方から北上して、「東夷」とされる齊、魯に波及し、海中山島と見える「韓」に渉ったあげく、南の「大海」、「倭」に伝えられたのが、墳丘墓の墓制と見えるのですが、いかがでしょうか。
 要するに、そのような南方系の墓制は、なぜか、筑紫に定着せず、はるか東方の纏向に着地/開花したように見えます。
 要するに、中原から「朝鮮」の旧地である楽浪郡を歴て、海南の筑紫に伝わった「冢」の墓制は、そのような南方/東夷の墓制と親和せず、後世まで分離されていたと見えます。このあたりは、白川勝氏の厖大な甲骨文字文書考察に基づくものであり、大いに尊重すべきものと思う次第です。

 史料記事に無い「実際」を読むのは、不法な史料無視であり、かかる思いつき、憶測依存は、端から論考の要件に欠け、早々に却下されるべきです。箸墓墳丘墓が卑弥呼王墓との通説には、早々の退席をお勧めします。

*是正無き錯誤の疑い
 以上の素人考えの議論は、特に、超絶技巧を要しない考察なので、既に、纏向関係者には衆知と推察しますが、箸墓卑弥呼王墓説が、高々と掲げられているために、公開を憚っているものと推察します。

*名誉ある転進の勧め
 聞くところでは、同陣営は、内々に「箸墓」卑弥呼王墓比定を断念し、後継壹與王墓比定に転進しているようです。壹與葬礼は記録がなく安全です。

                                以上

新・私の本棚 榊原 英夫「邪馬台国への径」 提言 2025

「魏志東夷伝から邪馬台国を読み解こう」 (海鳥社) 2015年2月刊 
私の見立て 星五つ ★★★★★ 総論絶賛、細瑾指摘のみ  2024/05/25 2025/11/14

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
*資料引用のお断り
 以下に掲示する2表は、批評の目的で資料の一部を引用する著作権法に適法な引用であることを念のため申し添えておきます。
 近来、下記表Ⅳ-2の韓伝項を削除する改変を施して引用/盗用している例があり、これは、著作権の侵害に当たるので、「違い」を確認いただきたいために、殊更掲示したものです。
2405252

 2405252_20240525131301
  私見では、これら2表は、榊原氏が、著作権の存在しない公知資料である正史陳寿「三国志」「魏志」東夷伝を精査したことから生じた仮説の表現であり、このような表に集約したのは、起用されている現代語の氏独特の用法も含めて氏の著作物であり、公開の時点で著作権が成立しています。
 したがって、これを単なる公知の数値(複数)を羅列した作表と理解し、一部を切り取って自論の根拠に利用するのは、「盗用」以外の何物でも無いと思うのですが、世上、一定の技術思想によって構成された作表を「データベース」として斟酌することなしに利用している例があるので、あえて、事を荒立てて指摘しているものです。 
 
◯総論
 ここに掲げる小論は、榊原氏が進めた論考に対して、素人が異論をはさむ形式をとっていますが、あくまで、榊原氏が構築された論考に絶大な敬意を表したものであり、端的に言うと、榊原氏が、「在来の「通説」が陥っている陥穽を克服するために、資料の原典に遡って考察するという視点から、本書で冷静に展開されている」貴重な論考が、『実際は在来「通説」が陥っている誤謬を踏襲している』点を具体的に指摘し、異論を提示していることを予告しているものです。

 手短に言うと、本書の「帯」に書かれている『「魏志倭人伝」偏重の視点を戒め、「魏志倭人伝」が編纂者である陳寿の意向で「教戒の書」とされているため、意図的に組み込まれた「暗号」で造作されている』という「倭人伝陰謀説」と言われかねない主張が、榊原氏の『「予断」と「偏見」を排する』という理念にそぐわないと思われるので、考えなおしていただこうとする次第です。

 私見では、世上の「通説」(の陥っている陥穽)は、陳寿が想定した「読者」の備えているべき教養を備えていない後世読者が、自家製の「予断」と「偏見」を抱えて読解に取り組んだために生じた齟齬が発現したものであり、そこまで遡って是正しないと、所詮同じ道を辿るものと感じる次第です。後段で、具体的な「予断」の是正を図っているので、ご理解頂きたいものです。決して、高度な理念をどうこう言っているのではないものです。

 と言うことで、苦言を書き始めているのですが、以下、一般「読者」に論じる姿勢としたため、視点、口調が一転していて、時として、「読者」の不勉強を誹ることになっているのは、用意に想定される反論を予め克服しているものであり、決して、榊原氏の教養を誹っているのではない点を御理解頂いた上で、読み進んでいただくことを御願いします。
 
*異論の展開

 以下、氏が進めた論考に対して異論を述べるが、これは、あくまで批判的な「意見」であるので、氏が同意されるか反対されるかは、氏の意見次第である。氏は、私の息子でも孫でもないから、私の言うことを聞かないといけないというものではない。「ほっちっち」である。

 ともあれ、異論の背景として、以下の論点で、氏と意見を異にすることを明言しておく。文体が、断定的であるのは、時の勢いであり、他意はない。

1.「倭人伝」道里記事の由来について
 榊原氏は、倭人店に延々と展開されている道里、行程記事を、正始年間に倭に派遣された使節(正史遣倭使)の紀行文をもとにしていると仮定されているようであるが、大筋として誤解であると考える。

 派遣使節は、帯方郡太守の責務として、大量の下賜物/宝物を携えて皇帝の見解を辺境の蕃王に伝える使節団を実務として派遣するものであるから、出発に先だって、派遣先の素性と道里行程、つまり、所要日数(所要費用)を上申して、皇帝の裁可を得ているはずである。つまり、道里行程記事の根幹は、その時点で既に確定していたと見るものである。公孫氏時代の遺物とみえる「万二千里」を真に承ければ、一日四十里として三百日、10ヵ月かかるのであり、大量の宝物をそんな途方もない遠隔地まで送り出せるわけがないのである。どう考えても、使節派遣段階で、道中は、片道四十日と知れていて、しかも四十泊の宿泊/通過地と目的地から了解の書信が届いていたと見るものではないだろうか。いや、帰り道は空荷としても、所要日数は大きく変わらないはずであるから、全日程の概要は知れていたということである。

 この時点で、異例の「倭人」厚遇を国策と押し立てていた魏帝曹叡は、景初三年初頭に逝去して「明帝」の諡号を得ていたから、「倭人」は、最大の後ろ盾を喪っていたことになる。先帝の指示が公布されていたから、異例の厚遇は撤回は出来なかったが、後年の「往来」、「周旋」は、月並みの「厚遇」に鎮静化したとみられる。

 話を本筋に戻すと、正始及び後続の遣倭使は、当然、派遣に先立ち計画を上申したであろうし、帰国報告もしたであろうが、その際に、報告済の事項は、先帝の印璽を得て公文書となっていたから、書き足すことは出来ても、訂正、改竄は出来なかった一度「従郡至倭」「万二千里」と記録された全体道里は「不可侵だった」のである。
 ということで、遣倭使の記録は、現地風俗記録や遠隔地に関する風聞の類いは収録されても、基本的な道里は、維持されたのである。

2.陳寿の「編纂」について 余談
 氏は、陳寿が「倭人伝」記事を一から創作した』と見ているように読み取れるが、氏の真意は探らずに、反論のきっかけとさせていただくと、『史官の務めは、後漢、曹魏以来雒陽に継承されている公文書、即ち、「史実」を忠実に集成するのが本分である』から、そして、当時の読書人は、その基準で「倭人伝」を査読したから、「倭人伝」の「陳寿原本」[裴注以前の「本」(Edition)]は、正史に値する好著と認定されたのである。
 ついでながら、ここで確認しておくと、陳寿に於いて、創作・風評の類いは、最低限に抑えられていると見るべきである。それは、中国で、周代以降厳然と継承されていた史官の責務と見ることが出来るから、全ての『倭人伝論』は、ここから始まるべきであるいや、これは、氏の意見の出所をとやかく言っているのでなくて、当分野の論客の中に、そうした提言を、『倭人伝聖典化』陰謀と曲解して、はなから、喧嘩腰で論義する向きがあるからである。

 榊原氏にして見たら、他愛のないと思われるであろう余談が続くが、今少し辛抱いただきたい。
 世の中には、「魏志倭人伝」が、所属陣営の主張の邪魔で「しょうがない」から、寄って集って策戦会議した上で、色々不注意な改変から意図的な改竄に至るまで、さまざまな創意工夫をこめて、陳寿「いじめ」に励んでいる玄素名士が多いため、榊原氏ほどの学識を備えた方でも、世間の義理もあって、多少は(かなり)影響されているかもしれないと思うのである。しかし、中国古代の史官「史記」司馬遷、「漢書」班固、「漢紀」荀悅、「後漢紀」袁宏の生き様/死に様を見れば、辛うじて天命を全うできた陳寿の厳正さが理解いただけるはずである。

 現代「玄素名士」は、なべて言うと、二千年後生で、加えて、無教養の東夷のもので、三世紀の事象に御自分の(現代風の)倫理観/処世術を投影しているので、殆どの場合、陳寿の死生観/使命感/史官像が見通せていないと言わざるを得ないのである。(当方は、世間の義理に迫られていないので、ついつい、何事も、不躾になってしまうことをお詫びする)
 冷静に見れば、陳寿は、「権力者」(誰のことか?)に、無節操に阿(おもね)(どうやって?)のでなく、史官の『憲法』である「述べて作らず」に殉じていた(とことんこだわっていた)ことがわかるはずである。勿論、冷静に見ることが出来なければ、耳に蓋をしていただければ結構である。

 いや、あわてて言い添えると、これは、榊原氏の著作を批判したものではないのは御理解いただけているものと思う。どこかの「野次馬」(複数。つまり、結構数が多い)のことである。榊原氏だけでなく、当方の苦言で「とばっちり」がかかった人には、申し訳ないと謝るしかないが、何しろ、無力な孤軍であるので、御容赦いただきたい。

3.韓伝「方四千里」について
 氏は、「方四千里」を韓国領域の形状/寸法を示すと判断し、(三世紀に存在しなかった)現代地図から判断して、示されている「里」は、ほぼ80㍍程度としている。素人ながら「方四千里」が、そのような幾何学的判断を示しているとするのは早計と思われる。当時、地形図は出回っていなかったから、半島南半、韓半島と言うべき地形は知られていなかったと見るべきではないだろうか。ちなみに、東夷伝に書かれているのは、海中山島であり、記事から、それが、離れ島、後出の州島でなく、地続きであるとわかるだけである。その程度の認識であるから、図示されているような、現代人から見ると正確な、しかし、当時の地理観で言うと不正確な地図が登場するのは、感心しない。

 当記事は、少なくとも、氏の言う「距離感?」「距離観?」の埒外であるので、道里計算表から除外されるのをお勧めする。そうすれば、表Ⅳ-1から、場違いな韓伝の項を除外できるのである。

 私見を蒸し返すと、「倭人伝」の「郡から倭まで」の行程は、倭人伝読者が望む/望まない益体もない「なぞなぞ」でなく、その場で読み解ける明快なものであったと見るものではないかと見える。であれば、道里記事の最中に「方四千里」などと云う異次元の数字を持ち込み、幾何学的な解釈でこれを「道里」の足し算計算に混ぜ込むのは、高貴な読者に喧嘩を売っているような態度に取られかねないのである。

 普通に考えると、「道里」計算に紛れ込まないように、異次元とわかる「方里」の数字を混ぜていると見るものではないだろうか。道里計算は、郡から狗邪韓国に至る街道七[千里]に、以下、三度に渡る渡海水行の三[千里]の一桁数値の足し算であり、その場で暗算できる程度であるから、当時の読者は、数表形式になっていなくても、アッサリ諒解し、通過したはずである。蒸しかえしだが、本筋の行程に、込み入ったわき道が入り込まない書法を工夫しているのである。なにしろ、史官は、実務本位の下級官であり、「聖職者」でもなければ「預言者」(神の代弁者)でもないのである。いかに、明快に文字表記するかに注力していたのである。

 「方里」の意義/意味については、本稿に場所ができたらあらためて述べるかもしれないが、本質的に云えば、「道里」は、一次元の数値であるのに対して、「方里」は、異次元の二次元の数字であると明記されているとみるものではないか。
 氏は、マトリックス形式で作表されているが、ここで、「東夷伝の2点間距離」と銘打っていながら、「方里」という、「距離」と別義の異次元要素が混在して、縦方向の加算計算ができなくなって計算表の意味を成さなくなっていることに気付かれていないという事なのだろうか。

4.「循海岸」水行について
 大前提であるが、正史記事の鉄則として、当記事は、郡治を出発して陸上の街道を「南下」していくことに決まっている。(大半の)読者がこの大前提に気づかないのは、(大半の)読者が必要な教養を持たない無資格者であるということである。いくら(大半の)読者が、研究者の大半であろうと、権威者であろうと、人数が多かろうと、構成比が高かろうと、これまで気づかず、当記事の指摘を目にしても回心しないとすると、それは、唯の無資格者である。

 それはさておき、榊原氏は、陳寿が、帯方郡官道を行く行人/文書使が、行程基点である帯方郡治所から西に移動して海岸に出る「陸行」を記事から割愛して、いきなり「沿岸」を航行する破天荒な記事を書いたとしているが、重ねて誤解しているとみえる。陳寿にしたら、想定外の事態であろうが、教養の足りない読者が、それに気づかず、遮二無二、誤解に従うように強行するとは思わなかったはずである。
 あえて言うなら「倭人伝」は、郡から狗邪韓国にいたる行程が、時に東に、時に南に向かうと明記しているので、ことわりなしに西行するのは、不法である。

 氏は、中国の「常識」、不文律を知らないままに立論されているのである。(国内史学界が、揃って「誤解」しているから、氏に責任は無い。)
 本来「水行」は河川流に沿った航行に決まっているが、一方史官が従っている書法によれば、行程道里は並行している「陸行」道里を登録するので、史書に「水行」道里を記載した記事は存在せず、これに反して、『無警告で「水行」それも無法な「海上航行」とするのは、読者を欺瞞することになり論外である』ことを見過ごしておられる。
 もちろん、海上に宿駅を備えた「道」は無いし、船上に「道里」はないのは自明である。従って、漢制街道が存在するにも拘わらず、「水行」「七千里」と書くことはできない(不法)である。
 後ほど一項を建てて紹介しているが、「水行」は、河川を横切って渡ることであり、河流に従って、上り、下りすることではない。(別の用語が定義されている)また、中国語語法の常識であるが、「水」は、河川であって、「海」(うみ)ではない。
 従って、必然/自動的に、船に乗って大河を流れに沿って行くことを「渡る」と言う事はない。正史解釈以前の常識である。
 但し、国内史学界は、「常識」がないので、混同されているから、この「誤解」も榊原氏に責めはない。

 ここは、帯方郡郡治を出発して陸上の街道であり、行程は、一路、従(縦)に南下していくことに決まっている。
 それでは、狗邪韓国の海岸に達したときに、大海」、つまり、「塩水の流れる大河」を渡る行程が「不意打ち」になるので、事前に、中原街道で大河を渡船で渡るように「海岸を循(たて)にして大海を渡ることを水行という」と定義しておいて、狗邪韓国の海岸、海津で「始めて」渡船に乗り、(大海を)渡海する(ことになる)と書いている。併せて言うと、ここは、「其の北岸」、つまり、山島の在る「大海」の北岸であり、言い替えると「倭」の北岸ということである。
 つまり、帯方郡を出てから狗邪韓国の海岸までは、断じて「水行」しないことを,事実上明記しているのである。陳寿の道里観では、ここは、陸上行程と決まっているので、「水行しない」などとは書かないのである。
 この点に関する「誤解」が災いして、氏の韓地七千里「水行」解釈が形成され、辻褄が合わなくなったため、さまざまに弥縫策を持ちだして苦闘していると見え、早い段階で見きわめておいていただけば、そのような「苦闘」は、無用だったと理解いただきたいのである。

 陳寿は、正史の行程道里記事として、前代未聞、未曽有の構成を取り、短い区間であるが、前例のない「洲島」、つまり、川の中州の「中の島」を飛び石伝いする三度の渡海水行を含む道里行程記事を、誤解のないように明解に書いたことを読み取っていただければ幸甚である。もちろん、異例の「渡海水行」は、一回一千里と決めた/規定したのであり、測量してのことではないのは自明である。

*「水行」行程の創唱
 渡邉義浩氏が、「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2012年 において断定しているように、史書の道里行程記事における「水行」は、太古の司馬遷「史記」「禹本紀」に書かれている「水行」が、唯一の用例であり、しかも、「禹后」が河川を渡船で渡るものであったから、想定されている七千里に亘る行程は、明らかに、史書にあるまじき先例の無い「水行」ではないのです。

 渡邉氏は、中国古代史史料として、陳寿「三国志」の精読を行ってきたのであり、国内史学界で横行している「倭人伝」和風解釈とは無縁であったため、同書においても、国内史学界の通説に対して、門外漢の余言を差し挟むのを避けたのであり、本件に関しても、同区間の「水行」を否定することの明言を避けていますが、氏の深意を素人なりに斟酌すると、以上の考えに至ったのである。

 かくして、当ブログ筆者の近年の見解は裏付けられたと考え、以下に明言するものである。
 「従郡至倭循海岸水行」は、内陸に設けられた郡を発した行程が、いきなり、海岸に出て、乗船し、「水」ではない『「海」を「水行」』するという、二重に無法なものではないのです。郡から倭に至るには、官制に基づく「街道」が存在しない「大海」越え区間があり、「大海」を「大河」に見立てて、「街道」を繋ぐ渡し舟で渡海することを、行程開始前に注釈したものである。かくして、史書において禁じられている、読者にとってもっての外の新規概念による「不意打ち」を回避しているものである。

 このように適確に定義した「水行」を記述することは、史書書法/語法に適っているので、「魏志倭人伝」は、西晋皇帝の嘉納するところとなった。

5.対海国、一大国の「方…里」
 氏は、両国に附された「方…里」の根拠を、魏使/郡使の踏査測量に由来すると見ているが、前に述べたように、両島の道里行程は、あらかじめ渡海千里と決めつけて、早々に確定していたものであり、後日、わざわざ、踏査測量したものとは見えない。して見ると、「方…里」が、そのような幾何学的判断を示しているとするのは、早計と思われる。要するに、両島道里は、渡海水行一日一千里で確定していたと見るべきである。
 なお、三度の渡海水行、それぞれ千里と丁寧に書いているのに、切りの良い千里単位の道里に、百里の桁の端数を付け足すのは、概数計算上無効で論外である。と言うことで、この二島の「方…里」を「道里」計算に取り入れるのは、陳寿もびっくりの誤算なのである。

 両島の「方里」は、現代地図を見て、一見、容易に踏査測量できそうに見えるため、執拗に諸兄姉の論議に登場するが、韓伝で検討した「方七千里」と同様に異次元の単位であり、陳寿は、一次元「道里」と別次元の二次元「方里」であるので、郡から末盧国までの四区間の道里の計算に取りこむのは、不合理である。

 表Ⅴ―2は、本来、狗邪韓国から末羅国までの「水行」三千里を明示するはずが、帯方郡から狗邪韓国までの遠大な迂回行程七千里が計上されて、「水行」一万としているのが、何よりも計算の合わない不都合である。
 要するに、前に述べた「水行」の定義文が読み取れていないためのであり、渡邉義浩氏の至言を吟味頂いて、考えなおしていただきたいと思うものである。

 それにしても、㋐㋑㋒の陸行、言わば隠れ「水行」を割りこましていて、それでも、陸行が随分不足していて、とても、一月を要するとはみえず、何とも、不穏である。

 この程度の齟齬は、一瞥するだけで理解できると思うのだが、氏は、古田武彦氏の論議の手触りの良いところだけ取り上げているようである。

6.「水行陸行」 結論
 氏は、以下も、几帳面に行程を切り分け、「水行十日陸行一月(三十日)」の明細を論じているが、(范曄「後漢書」は後出であるから除外した)初出に当たる「倭人伝」は、郡から王治に至る所要日数を紹介しているのであり、読者の教養/見識を考慮すれば、極力煩瑣を避け、概算で明快となるように書かれていると見るべきではないか。
 氏の労作である(繁雑な)明細表を、三世紀当時の「倭人伝」読者が理解する必要はない。氏は、表中に当時存在しなかった算用多桁数字、小数、さらには、SI単位を混在させるについて、現代人に無用の誤印象を与えないように、最低限の有効数字桁としているが、当時の読者は、「千里」単位に漠然たる概数を見てとっていたと明示するのが、賢明では無いかと思われる。
 小論では、陸行」第一段階が、郡から狗邪韓国まで七[千里]水行」第二段階が、狗邪韓国から末羅国まで三[千里]陸行」第三段階が、末羅国から殊更「陸行」と書いた後の目的地である伊都国までの(地理、道路状況、牛馬の有無など、確認できていない)倭地の二[千里]、の三段階で明確であり、計万二千里(十二[千里])である。ことは、概数であるから、全一万二千里から、七千里と三千里を取り去った残余が、キッチリ二千里になるはずは無いのであり、従って、表示しないのは、数字に強い史官の至芸ではないだろうか。
 これは、行程の実際の道里と関係無く、後漢献帝建安年間に公孫氏が最初に「倭人」を東夷として受け入れた際に遠隔地として想定した、郡治から王治までの万二千里の総行程が、景初二年に曹魏明帝が楽浪/帯方郡を「密かに」接収して実道里として承認したおかげで、明帝の遺詔として遺されたものであり、後年の辻褄合わせで、「帯方郡から狗邪韓国まで七千里、狗邪韓国から末羅国まで三千里」と按分されただけで、当時の関係者は、郡から倭まで万二千里とは思っていなかったものであるから、末盧国から陸行の倭地の二千里「距離観」の信頼性は問うべきものではないと思われる。所詮、一千里、ないしは二千里刻みの概数であるから、計数教育の整っていた官人にして見ると、概数計算の帳尻は問うべきで無いと了解していた言える。

 結局確認できたのは、度明帝が公布した「万二千里」の綸言は、遺詔となったこともあって遂に是正できなかったという台所事情である。天子が一度発した帝詔は、天子自身が、然るべく撤回しなければ、解消しないのが鉄則である。

 そこで、「倭人伝」には、実務に即した「都(都合)水行十日陸行一月(三十日)」が追記されたのである。行程に日数明細はないが、陸行九千里を一日三百里と見て三十日、水行三千里を一日三百里と見て十日と、三世紀当時の「倭人伝」読者がその場で検算できる明快なものと見ている。その程度の大雑把な辻褄合わせで、充分だったのである。

 ちなみに、郡から狗邪韓国までは、騎馬で移動できる宿場完備の官道であるが、末盧国以降は、牛馬の助けのない未整備の「禽鹿径」であるので「詳細不明」であり、倭地の引き受けた残余の二千里は、道里から所要日数を見当がつけられないのである。おそらく、公孫氏に身上を提示した時点では、末盧国以降の道里は、不明だったのでは無いかと思われる。見当が付けられない行程は、「倭人伝」に書かれていないし、また、その必要もなかったのである。
 後世、大唐玄宗皇帝は、「郡国志」や「地理志」に公式道里として記載されている「蛮夷に至る行程道里」が、実務に供されていない/実態と大きく異なることに「激怒」して、全面的な実態調査を命じたが、膨大な人員と期間を要して確認された実際の道里行程によって、公式道里が「訂正」されなかったのは言うまでもない。歴史を書き換えることは、断じて許されなかったのである。

 復習すると、「倭人伝」の最終版は、道里行程記事に関しても、陳寿の責任編集で、明快に成形されていたと見るべきであり、かくのごとくパッと検算できるのが、編纂の妙技と言うべきでしょう。

番外 「戸数」について
 余談 別儀
 当ブログでは、かねて力説しているのですが、倭人の地には、労役を助ける牛馬がいないので、各戸の耕作は、人力に頼らねばなりません。したがって、各戸の負担できる税は少ないので、戸数の割に良田は少ないのです。帯方郡に近い対海国と一大国では、殊更、良田が少ないと苦境を述べていますが、以南の諸国も、良田が少ないことが、あからさまに示唆されています。

 最後に付け足すと、次の二項目が、「倭人」の納税力/派兵力の高評価が困難であることを示しています。
 其人壽考、或百年、或八九十年。つまり、各戸は、労働力の負担になる年寄りが多い。
 其俗、國大人皆四五婦、下戶或二三婦。つまり、各戸は、労働力の負担になる成人女性が多い。
 さらに、各戸の担税能力は低く、戸数の割に良田は少ないのです。

 「倭人伝」で、行程諸国の戸数は、なべて千戸代ですが、これが、各国の実力であり、更に、良田が少ないことを加味すると、かなり貧困だとみられます。
 「倭人伝」は、総戸数を七万戸程度であると申告していますが、これは、おそらく、公孫氏時代に押しつけられたものであり、魏の蕃王となり、詳細な申告が必要になったとき、七万戸を、傍路で事情の不明な奴国と投馬国に押しつけて、帯方郡から命じられても、派兵/貢納できない口実にしたものと見えます。
 ちなみに、中國では、秦漢代以来、農民の納税は、銅貨と決まっていて、広大な国土から、水陸併用で大量の銅銭が京師/東都/首都に送り届けられていたのですが、既に、韓伝で示されているように、韓、濊、倭は、銅銭が流通していないので、納税は、穀物の実物納入となるのですから、「倭人」は、牛馬で輸送することができず、地続きでないので、小船の渡船海峡越えなど、隘路どころか、「インフラストラクチャー」(社会基盤・制度)が殆ど存在しない「倭人」は、明らかについて行けないので、お構いなしとなっていたとみられます。何しろ、「倭人」は、当時、郡に服属していないので、中国の郡制度は適用できなかったとみられます。

 韓国の帯方郡支配地域は、公孫氏時代に戸籍制度/土地制度が整って、正確な戸数が知られているはずですが、東夷伝の諸国条は、公孫氏時代以来、土地の実力指標として「方里」が有力だったようです。要するに、先進の馬韓北部を除けば、農作地が、まばらに散在していて、荒地は、早々に農地空洞化していたとみられるのです。

 国内の諸兄姉の議論では、そのような事情を度外視して、時代錯誤の「人口論」などで激昂している例がありますが、史官は、実務に即した記事とする努力が進められていたのです。

 史実」は、泥まみれで混沌としていたかも知れませんからそのような真っ黒い「史実」を真っ白な「嘘の皮」でくるんで大福にして進上するのが、史官の至誠でしょう。渡邉義浩氏のご託宣の通りです。
 「倭人伝」の位置付けからして、陰謀論などのぺてん仕掛けは論外としても、三世紀当時の「倭人伝」読者に苦痛を与えないためには、程々の技巧が必要でしょう。

◯まとめ 陳謝と深謝
 当記事は、氏の好著の核心部に、無遠慮に異論を挟むので、前回書評では、言及を避けた点が多いのですが、このたび、氏の労作である表Ⅳ―2を部分引用/改造盗用して、論拠としている論考が見られたので、あえて、火中の栗を拾ったものです。氏の比定地論の邪魔にはならないと思いますが、ご不快の念を与えたとすれば、陳謝します。

 そして、当方の異論は、氏が、世上氾濫している予断と偏見を排して、陳寿「三国志」魏志東夷伝の里数記事について丁寧に考証されたおかげで、道を迷わずに済んだことに深謝します。当方が汗をかかなくても、氏の著書を先行文献として参照すれば、当方の論考の糧とすることができるのです。
 願わくば、榊原氏ご自身から、本稿に提示した異議に対するご高評により御鞭撻いただければ、幸いです。
 ついでながら、榊原氏の著作を充分に理解できていない方からは、率直な質問をいただければ幸いです。

以上

 

2025年11月13日 (木)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  1/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

◯はじめに
 本稿は、氏の労作において、当方の専攻範囲「倭人伝」の道里行程記事の解釈に際して、氏の論考、「倭人伝」の史料解釈に異論を挟むものである。氏は、中國の太古以来の古典書、史書を読解されていないと見えるので無理ないとは言え、世上の筋違いを基礎に持論を展開されていて大いに危ういのである。
 当ブログの方針で、論考大要の批判は避けているが、塩田氏ほどの偉材が、必須教養とも言える基礎事項を誤解したままに過ごされているのを放置もできず、ここで口を挟まざるを得ないのである。決して、氏が掲げている結論に意見を挟むものでは無い。

*引用とコメント
 文章解釈で基本的なのは、明記と示唆である。示唆にしても、当時の読者にとって明確であれば「明確に記されている」と解釈すべきである。
 ただし、「三十国の盟主女王卑弥呼が都をおいている」と「倭人伝」記事に示唆されている』と、端からきめこんでいるのは早計である。健全な知性に裏付けられた[推測]と感情に駆り立てられた[臆測、思いこみ、当て込み、願望]は、峻別していただきたい。
 常識と思うのだが、無文字行政である以上、朝見・裁断しない君主はありえない。いや、高度な文書行政であっても、君主が朝見しないのは、まことに不合理である。

 余談であるが、近作のNHK古代史娯楽番組では、稚(わか)いと見える女王が、少なくない重臣を前に嬌声を上げて指揮している姿が描かれていたが、いくら娯楽番組の意図で制作されていても、視聴者は、NHK教養番組と解するのであり、また、娯楽番組であっても、「史実」無視にも、ほどがあるのではないかと思われる。
 考証には、考古学の権威である歴博教授が重責を務めていたようで、ことさら堅実な史学者を排除したものでもないようなので、天下御免のはずのNHKも何れかの圧力に屈したのかと思う次第である。繰り返すが、これは、塩田氏に関係の無い余談である。

 続く誤解であるが、帯方郡は、後漢献帝期(建安年間)に遼東郡太守公孫氏が設置したのである。塩田氏が示されたのは、とんだ勘違いである。曹魏二代皇帝明帝が、司馬懿に指示した公孫氏討伐の大軍とは別に、恐らく先だって、手兵を黄海越えで派遣し、勅命により、長らく遼東公孫氏の支配下にされていた楽浪/帯方両郡を皇帝指揮下に収容したが、それ以降、両郡は名実共に曹魏の郡となったのである。
 この間、中国権力は際だって変動したが、遼東形勢は別の生き物であって、それこそ一年単位で切り替わっているのである。あまり、大局にとらわれない方が、だいじな細目を取りこぼさないで、いいのではないかと思量する。
 言い旧されているのだが、無造作に「卑弥呼が都する所」「邪馬台国」と称しても、まずは、「倭人伝」原文に「邪馬台国」はないから、自動的に誤謬である。身辺の大勢が言い習わしていることに無批判に従うのは、合理的ではないと見るものである。
 古来、井の中の蛙を揶揄することは、世に溢れている。他人事ではないのである。曹魏の高官であった魚豢は、所詮、自身は井の中の蛙と同じで、限られた見聞に縛られていると述懐している。
 いまだ中國に服属していない卑弥呼が「都」をおくというのは、二重の誤謬である。「都する」のは、周代、至高の存在であった天子周王の事績に限るのであった。周の権威が失墜した後の、春秋、戦国時代には、各国君主が相次いで王を名乗ったため、居城を「都する」とした可能性もあるが、三世紀、後漢献帝治世下に、「倭」蕃王は、政策的に「客」と美称されても、官制外の下賤の「儓」ならぬ「臺」が、勝手に「都する」など論外であるという見方もある。

*誤解の起源 有力な一件 2025/11/12
 後回しにすると書き漏らしそうなので、敢えて先触れするが、下記「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」との句読点付けは、氏を含めた多数の論者に誤解を植え付けているのである。先に示したように、蕃夷の女王は、「都」を持つことはないので、下記是正しなければ誤解になるのである。当ブログでの初出ではない。
 南至邪馬壹國女王之所   南に進むと女王の治所に至る。   
  漢書西域伝などで定型化されている表現である。
 都水行十日陸行一月     都合水行十日、陸行一月である。
  「倭人伝」の記事は、本来、郡(楽浪郡)から倭(伊都国)までの
  所要日数を報告しているのである。
 
*行程論議
 以下の行程は、遼東郡太守公孫氏の奏した「倭人伝」、つまり、新参東夷の身上書として、遼東郡傘下の楽浪郡が起草し、①~⑤、⑨,⑩を創始したものであり、後日、恐らく、曹魏明帝の治世で、⑥~⑧を追記したと見える。
 俗説は、すべてを陳寿の創案として、おびただしい汚名を着せているが、見当違いも甚だしい。

 さらに、「魏志倭人伝」には、帯方郡から邪馬台国に至るまでに経過する国々から国々までの行程が記載されている。[中略]
 帯方郡から邪馬台国までの行程を箇条書きで示すと、次のとおりである。
 ①郡(帯方郡治)より倭に至るには、
  海岸に循って水行し、
  韓国を歴て、乍は南し乍は東し、
  その北岸、狗邪韓国に到る七千余里
 ②始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る
 ③また南一海を渡る千余里、一大国に至る
 ④また一海を渡る千余里、末盧国に至る
 ⑤東南陸行五百里、伊都国に到る
 ⑥東南奴国に至る百里
 ⑦東行不弥国に至る百里
 ⑧南、投馬国に至る水行二十日
 ⑨南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月
 ⑩郡より女王国に至る万二千余里…

コメント 小人の後知恵であるが、①から④までの一「千里」刻み、ひょっとすると二「千里」刻みの道里記事⑤から⑦の「百里」刻みの倭地陸行の端(はし)た記事は、漢数字縦書き、有効数字一桁の加算にそぐわないと見える。要するに、科学的に見て、⑤から⑦の記事は、後日の追加と見た方が「真理」に限りなく近いのではないかとも思える。ご一考いただきたいのである。

*抱負の表明
 塩田氏は、「倭人伝」道里行程記事の要点のみを抜粋したという趣旨であろうが、原文の要点を正確に読み取っているかどうかは検証していく必要がある。
 それにしても、「俗説」の陥りがちな陥穽として、以上が、曹魏正始年間に、明帝の遺詔に従い洛陽から倭に下賜物を搬送した過程を示しているとする早とちりがある。といっても、実際は、洛陽から郡までの行程は書かれていないので、論者によっては、遼東郡付近を経由すると粗忽に見てしまった方も多かったようなのである。
 見知らぬ路程を、先を行く「先達」の背中について行くのは、古来「レミング」なる野生生物の群れのさまを揶揄しているのを思い起こさせるのである。先達が海中に進んでいけば、後進の者は、倣って海中に身を没するのである。「俗説」恐るべしと自戒いただきたいものである。

 「俗説」は、その経緯をもとに、郡から倭に到る道行きを紹介したと確信させるようである。
 明確である中国国内の行程すら確定できないのに、また、郡から狗邪韓国まで確立されていた街道も認識していないのに、未開未知の倭地行程を適確に記録していたと現代の眼で記録から読み取れる、というのは、思いあがりではないかと思量する次第である。
 いや、本記事は、塩田氏の著作の批判のように見えるかもしれないが、実際は、「俗説」党に対する批判なのであるから、しばし、ご辛抱いただきたい。

 以下、ときに応じてそのような誤謬/陥穽の是正を図っているが、取り敢えず「俗説」を拭い取って原文に立ち戻るので、よろしく瞠目していただきたい。
 ということで、この時点で、俗説に起因する誤謬を是正しなければならないのである。
 人の行いには過ちが避けられないから、過ちを発見して是正する手順を確立する必要があるのは、古今東西を問わない常識と思量する。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  2/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 ★★★☆☆ 渾身の偉業、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*黄金の「従郡至倭」
 郡(帯方郡治)より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里
と解されているが、「道里行程記事」第一項は、複数の概念が詰め込まれていて、個条書きの一項として読むのは無理である以下の個条書きは、各国ごとに区分けとしているのであるから、ここも、要素分けすべきである。

 先ずは、「郡(帯方郡治)より倭に至る」は、道里行程記事の見出しに当たるものであり、一旦、改行する所である。(郡は帯方郡治と限らない)
 でないと、西晋史官たる陳寿が、「郡(帯方郡治)より倭に至る」 に結末をつけずに、言わば尻切れトンボにしている醜態が露呈するのである。これでは、まるで、中学生の出来の悪い作文である。氏は、どのような根拠があって、天下一の史官である陳寿が身命を賭した「魏志」編纂において、杜撰な乱文を奏したと弾劾しているのか、不可解である。

*「無教養による誤解」の起源
 本来、行程記事で「海岸に循って水行」は無法、破格である。真意を読み取る努力が必要である。
 古代、権威のある辞書「爾雅」の定義で、「水行」は、「河川を(渡船で)渉ること」と明確である。従って、「循って」とは海岸から渡船で対岸に渡ることであると明記していると解すべきである。ここで「海岸」(海辺の崖)といいながら、公式行程は、郡から一路南下する街道以外に採るべき街道は無いから、「海岸」は狗邪韓国まで存在しないのである。
 中国官人、文官の必須教養、必携の字書の定義を知らないとは「無教養」としか云いようがないのである。
 つまり、この文は、後出、狗邪韓国海岸の渡船を予告している、言わば、新規概念の定義なのである。ボーッと読み過ごしては、叱られて落第である。

 ということで、この部分は、以下のように分解しないと、真意を読解できない。
郡(帯方郡治か)より倭に至る。
  海岸に循って水行する。[「水行」定義]
 ①韓国を歴て、乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る。
  [郡より狗邪韓国に到る]七千余里。[道里定義]
 この程度なら、簡牘の縦書きで手ごろに収まりそうであるが、この当時、と言うか、遙か後世に至るまで、漢文は句読点もない白文であるから、読者が、知恵を絞って読み解くしか無いのである。何しろ、ふりがなもできないのだから、「普通」は、簡単に理解できないと思うのだが、世上、一目で、すらすら解釈できるという神がかりの方が行き交っているから、われわれ凡人は、声を潜めるしか無いのである。

 「韓国を歴て」は、当然、行程記事の先例を遵守して街道で進み諸国に挨拶するのであるが、ここは、「倭人伝」であるので、当然-自明の韓行程は書かないのである。いや、実際は、律義に国ごとの入出国時程や行程の変針を書かれても、同意も否定もできないので、監査の仕様がなくて、困るのである。

*其の北岸
 ついでに言うと、韓伝以来の用語に従うと、「その北岸」とは、「大海」の北岸、つまり、先行の、韓の南に接する『「倭」の北岸』で明解である。誤解している方が多いようなので、丁寧に説明すると、韓の東西は、「海」(うみ)であり、韓は南で「倭」に接していると言うが、冒頭の定義で、帯方の南の「大海」に「倭人」は在ると明記されている。つまり、一種地理概念として、「倭人伝」で言う「大海」は、「倭」と合同なのである。

*韓と南で接する「倭」 2025/11/13
 韓伝には、韓は南で「倭」に接すると書かれているが、当方の解釈では、韓の南は「大海」であるというに過ぎないのであって、正体不明の「倭」の領域が在ると書いてあると決め込まない方が良いように思うのである。
 要するに、「韓」の領域は、北が地続きの帯方郡本領であり、東西は、「うみ」(海)の海岸であるが、南は「大海」の海岸と書いていると見えるのである。「倭人伝」の説明では、韓の南は、「倭」と言いつつ、流れのある「大河」であり、但し、流れているのが(飲むに飲めない)塩っぱい水であるから、「大海」としていると見るのである。東夷伝には、他にも、「大海」はあるが、ここでは、史官が、それとは別に、中原読書人の理解を助けるために、お話を奏でているのである。
 「大海」は、怪物の住む「うみ」などではなく、中原では馴染みのある大河の流れであり、その流れには、やはり州島「中之島」があって、河水を渉るときに渡船に乗るように、ここでも、毎日渡船に乗って、州島から州島に渡るのである、と宥(なだ)めるように「お伽噺」を作っているのである。
 ちなみに、古代以来の西域史書で、西域を満たしているのは、「流砂」、即ち、「砂の川」であり、そこを越えた西方には、「大海」なる内陸塩水湖があって、風に恵まれないと、向こう岸まで何ヵ月もかかるのが、「大海」の水は、塩っぱいので飲めず、飲み水に苦労するというような「お伽噺」が出回っているのであるから、韓の南の「大海」は、数日かけても、日々、飲料水を補給して渡り継げるだけ、随分ましなのである。
 その流れで、対海国を越えた大海は、「翰海」、つまり、薄絹を広げたような艶やかな眺めとされていて、怒濤逆巻く奔流などとは云わないのである。
 要するに、「大海」の向こうの「倭」に到る「水行」は、難所とは云え順次乗り越えられるものであり、萬里の難関とは書いていないのである。そんなことを書くと、明帝差し向けの贈答品は、黄海すら渡らずに、洛陽に引き返してしまうのである。

 閑話休題。ここでは、「狗邪韓国に到る」と「郡街道の終着地」であると明記されている。第一項の締めとなっていて、次なる「到」は、行程終着の伊都に附されるが、それは後ほどであり、この時点では目に入らない。当該区間道里は、帯方郡管内であるから、当然測量済みだが、ここでは「倭人伝」道里の按分で「七千里」と申告されている。

 ただし、同時代/後生の読者は、容易に実道里を知ることができるのであるから、これを「誇張」するのが無意味であるのは、二千年後生の無教養な東夷にも、自明と思われるが、どうであろうか。(以下、自明「餘」は省略)

 これを原文で示す…行程に関係しない部分を省略している…
2 行程文の読み方
(1)連続した読み方
「魏志倭人伝」に記す帯方郡から邪馬台国に至までの行程に関する記述は、…漢字が羅列され…読み方によって異なるのである。

コメント 正史解読は、専門家の句読が第一歩である。「読み方」次第と壮語する二千年後生の無教養な東夷の勝手読みは「無法」である。正史行文を漢字「羅列」とは、史官殿も見くびられたものである。そんなことで恐れを成すのは、漢文に何の注釈もない「白文」を見たことのない賈豎(街の小僧っ子)として、見くびられるのである。

 邪馬台国…問題は、この行程…をどう読むか…

*また一つの誤解の起源
コメント 「通説的な読み方」は、自動的に不正解であり、論じ方が誤っている。
 ついでなから、古典的な論考用語でも「問題」とは英語で言えば、Question(クエスチョン)であり、「解答」Answer(アンサー)を求められているという意味である。氏は、大見得を切っているが、「解答」を用意されているのであろうか。
 
 「近畿説」は、「連続して」読まないと瓦解するので、背水の陣で自衛して右顧左眄していると見える。
 ここで「九州説」の明細は不明であるが、俗説に流されているとも見える。安直に追従しない原文解釈が求められているのでは無いだろうか。
 いや、「邪馬台国」決め込みの上での「比定」説の多数派工作に踊らされているいわゆる「通説」は、とかく邪魔なので、脇に退けておくものでは無いか。

*勝手な史料改竄吐露
 なお、近畿説では「南、邪馬台国に至る」の「南」を誤りとし「東」と読み替える。
 しかし、この読み方については、次のような疑問や矛盾がある。
a.里数と日数という別な概念を...読むことはそもそもおかしい。…

コメント 「そもそもおかしい」などと、爆笑コント気取りであるが、健全な学術論文は、誤解由來の改竄説に反論する必要はない。黙殺するものである。文意を理解できないで、逆ギレするのは、暴論である。氏は、「疑問」と並び立てている「矛盾」の本義をご承知なのか不安である。
 ちなみに、道里行程記事は、中国内の街道を必須の前提としているので、里数と日数は、そもそも、ほぼ一意的に相関/連動しているのであり、陳寿は、「倭地」ではそのような暗黙の前提が通用しないことを述べているのである。「算数に弱い」と自覚されている方は、ご注意いただければ幸いであるが、「無自覚」な方には、それは病気でも怪我でもないから、つけるクスリが無いのである。(Ignorance is fatal.)

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  3/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

b.不弥国からその南方の邪馬台国までの…行程を「水行三十日陸行一月」もかかるのは理解し難い。また、この間に「三十日」も水行しなければならない海や川はない。…しかし、「魏志倭人伝」…否定すれば、そもそも行程を論ずる意味がなくなる。

コメント 自己流の読みで理解し難い、理解ができないとしたら、自己流の読みが間違っているのである。
 反論の必要はなく、史料を否定する必要は無い。落第屋の逆恨みである。却下まではしないにしても、優先度を是正する「最適化」が必要と見える。
 「水行」は、狗邪韓国~對海国~一大国~末羅国の三度の渡海、倭人伝起源の「水行」で、乗り継ぎを含めて、すべて十日を許容するというものである。
 街道行では早馬などで日程短縮できるが、まさか、渡船に馬を乗り入れて、船上を疾駆するわけにも行かず(😃)、また、船橋を連ねて、駈け抜けるわけにも行かず、ほぼ妥当とみるべきではないだろうか。
 氏が、見当違いの部分区間に不条理な「水行三十日陸行一月」 を求めて、不合理だと感じたなら、それは、見当違いと自覚するべきである。

c. …不弥国から投馬国・邪馬台国までの「水行三十日陸行一月」もの長期間の行程については、何も記されていないことは不思議である。
 これに対しての反論では、途中からその行程の詳細を省略する書き方は、中国ではみられる記述であるとする。…

コメント 勝手に不思議がっているのは、単なる読解力の不足であり、反論など必要ない。それにしても、ここで、時代によって動揺する「中国」と称するのは、場違いで無法である。具体的に、秦漢魏晋の何れかに特定して欲しいものである。南北朝以降「中国」の伝統は霧散するのである。いや、こと「倭人伝」に限ると、「中国」は、二度登場するのだが、話者が随分違うので、同義かどうか不明と見える。

d.帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からなくなる。…連続式の読み方では、帯方郡から邪馬台国までの所要日数が分からない。

コメント 分からなくなると、ことさら謎かけするのは、「連続式」の解釈が、伊都国以降の行程解釈で根本的に間違っているのであり、要するに、史料の読み方が間違っていると言うだけである。突っ返して、自省させるものである。

e.不弥国からの行程を日数で記述しなければならない理由がない。
 不弥国から邪馬台国までの行程については「千三百余里」と記せば一目瞭然であるのにわざわざこれを日数で記さなければならない理由がない。

コメント ならない理由がない」と、ヤジ馬が勝手に述べても、そんなことは、史官の知ったことではない。落第屋の逆恨みである。史料の読み方が間違っていると言うだけである。「一目瞭然」とか「わざわざ」とか、誰が誰を指導しているのだろうか。

(2)帯方郡からの所要日数とする読み方
 …簡単に算出される里数をわざわざ分かりにくい別の概念である日数で示す必要などないのである。

コメント またもや「わざわざ」である。やんぬるかな。自家製の誤読への反論は、時間と労力の無駄である。自省させるものである。それにしても、里数と日数が本来連関しているのに、牛馬がいない、街道が整備されていないと未開を露呈している倭地では通用しないとの示唆が読み取れないと気づかないのは、本当に何度目かのやんぬるかなである。
 ここで「現在の通説的な読み方」が懐古されているが、それでは明解にならないというのが、目前の課題であるから論じ方が誤っていると見える。

*読者の教養、理解力が前提
 「従郡至倭」の「倭」は、本来、行程が到るとされている伊都国を終点としていたと見れば、理解しやすいと思われる。伊都国以降は、行程が終了した後の付記と見れば、随分理解しやすいと思われる。いや、理解すると、畿内説が頓挫するとみて、猛然と悪足掻きする方が、随分大勢いらっしゃるので、理性的な理解が拒否されて、「未解決」事態が続くと見える。やんぬるかなである。

 末盧から伊都までの「陸行五百里」は、本行程が、一「千里」単位で刻んでいるのに対して、百里単位のはしたは、桁違い/場違いの端数であり、本来、全行程万二千里の部分行程に書くべきものではない。要するに、別次元の論義なのであり、万二千里の内訳ではないと悟るべきなのである。
 端的に述べると、末盧以降の細々(こまごま)とした里数は、後日、伊都を「國邑」とし、末盧を分離したために書き足したものであり、本来、伊都国の「海津」(海港)であったと見られる。現に「濱山海居」と漁村風でありながら、四千戸の国力と評価されているのは、伊都の海津/海市として機能していたものと思われる。決まり切ったことを復習すると、四千戸は農業生産の指標であり、これには、中国基準の戸籍/貢納を計量、計算する人員が備わっていたものと見える。

*法と秩序の継承 2025/11/13
 後年の「日本」の律令制には、「口分田」の制度を始めとして、中国基準が継承されていないから、東方の「倭種」は、中国華夏文明に属しなかったものと断定できるように思うのである。
 曹魏明帝から格別のご愛顧を賜り、帯方郡から軍事/民事顧問団を受け入れていながら、英明な「親魏倭王」が、中国の諸制度を採り入れなかったとするのは、随分無理と思うのだが、合理的な説明は付くのだろうか。

 (閑話休題)それはさておき、このあたり、伊都の國邑王治としての存在と末盧を統御する伊都の領域国家としての機能が重畳したと見える。と言うことで、景初/正始時点の解釈を試みたのである。
 要するに、郡・末盧は、明解な千里単位で、キッチリ、万里、万二千里と算出できるが、世上の落第者は、何を好き好んでか、没消息、音信不通の奴国、不弥の各百里を足し算したがって、不合理である。千里単位の道里計算に、百里単位のはしたが混入した経緯は、最前推定したものの、実際は不詳である。百里単位の道里が、何らかの方法で実測したものであれば、当然、一里は450㍍程度の「普通里」である。

 陳寿は、多大な日時を費やして倭人伝を推敲したので、本来、行程内であっても,些細な里数は、本来割愛するものである。何か理由があって、ごみが残ったのであろうが、われわれ後生東夷に、わかるはずがない。

*明解な日数表示
 倭地は未開の蕃夷の世界であるから、移動手段、道路事情などで所要期間が大きく異なるから、官制で遅滞に罰則を課する規準は道里でなく、単刀直入に所要日数とするのが明解である。曹武と呼ばれた曹操は、規律を重んじたから、曹魏は、規則に辛かったのである。
 それにしても、魏志上程の際に、皇帝を含む高官有司に所要日数を計算させたら無礼である。

*騎馬文書使の無い郵便 不可能な船上騎乗
 倭地では、馬を移動・輸送手段として使用しない/できないから、道里は、ほとんど無意味である。また、「水行」は騎馬移動でないから、道里は無意味である。当初、遼東公孫氏が、皇帝上覧史料に「従郡至倭」「萬二千里」と固定概念を書いたため、綸言不可侵、辻褄の合いそうな里数を書かざるを得なかっただけである。まことに明解ではないだろうか。明解でないとしたら、それは、必要な教養を身につけていないからである。
 三世紀の当時、「倭人伝」の道里記事が不合理であるとの非難はなく、百五十年後生の劉宋裴松之も、道里について文句を付けていない。そして、当時の天子劉宋文帝も、何ら難色を示していない。

 遥か後世で、南朝史書を継承しなかった唐書に於いてすら、「倭人伝」の万二千里は何ら難色を示されることなく踏襲されている。それで、納得していたのであるから、遥か後生の無教養な東夷が、文句を言うのは、筋違いである。

 「魏志倭人伝」には、魏が倭国に2度使節を派遣していることが記されている。一度目は、「正始元年、…倭国に詣で、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し(以下略)」である。…

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  4/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*魏使の伝説  承前
 漢制以来の礼制で、曹魏天子が、自ら蕃王に遣使するのは法外である。それは、蕃夷管轄太守(楽浪郡から帯方郡に移管)の使命である。当然、魏使の女王拝謁は、明記されていない。
 班固「漢書」「西域伝」に先例が存在するのだが、武帝使節が、安息国国主(長老)に接見したものの、数千里彼方の安息國王(実は、パルティア國王)に接見しなかった先例が示されている。同安息国伝は、漢使が、カスピ海東岸の安息国に、漢武帝の国書を提示した第一報に基づいていると見える記事が一度書かれた後に、実は、西方遥かな土地に、真の国王が国都を構えているとの認識が追記されて、言わば、二重露出になって、後世読者は困惑するのである。
 つまり、ボンヤリ読むと、漢使は、西方遥かの「国都」に赴いたと解釈されることになり、後漢西域都督副官の甘英に至っては、行ってもいない東地中海岸で、地元商人の威嚇に屈して、更なる西方への渡海を断念し、任務を放棄して帰国したなどと誹謗されているのである。実際は、後漢書「西域伝」を纏めた笵曄も認めているように、漢使は、カスピ海東岸が到達限界であり、カスピ海対岸の條支(アルメニア)にすら到達していないのである。
 「魏志」「倭人伝」の諸国記も、決して、全知全能の使者が、すべてを知り抜いて書いたわけではなく、後漢霊帝代から始まり、曹魏景初/正始年間をへた倭人伝末尾に到る期間の記録が積層しているので、丁寧に文書校正しなければ、単なる間違い探しになってしまうのである。

  二度目は、正始8年に張政を倭国に派遣し...ている。…二人の魏使は、当然詳細な報告を提出しており、陳寿は…報告から帯方郡から倭...までの行程や...実情を詳細に把握した…

*張政の重大使命(Mission of Gravity)
コメント 後年訪倭した張政は、数百人の郡兵を率いたと見える。國王会見は、王治かどうかは分からない。ここは、「畿内派」が絶望しないように退路を設けている。
 いずれにしろ、郡の軍事顧問団が、狗奴国の不法な反乱に介入して、狗奴国が承服しなかったとは考えられない。「親魏倭王」は、虚名ではないのである。世上、その程度の常識が通じないのは、困ったことである。張政は、ガキの使いではないのである。このあたり、いわゆる「通説」は、不合理である。
 陳寿は、魏志編纂にあたり、当然、関係公文書はすべて「史実」として閲覧している。但し、「従郡至倭」「萬二千里」などは、魏朝皇帝閲覧済みであり、晋朝は、魏朝を継承しているから、引きつづき綸言不可侵である。
  
受入体勢の確認 送達日程通知(Shipping Advice)
 いわゆる「通説」的な読み方では不明確だが、正始魏使の帯方郡官人への搬送指示時、目的地伊都国までの所要日数は、発進以前に明確になっていたのである。
 したがって、準備段階に於いて、各地に到達予定日を知らせて、宿泊、交替人夫など手配済である。つまり、道里記事の郡・伊都国行程は、出発以前に上申されたと思われる。後出「魏使」は、当然、往還滞在記を上程したが、既存記事に抵触しない部分のみ追加したであろう。遡って訂正するのは、皇帝に虚偽申告したことになり馘首必至である。関係者が言い繕うのは、当然である。
 塩田氏ほどの実直な研究者には、「通説」に安直に追従するので無く、原文から出発した着実な解釈が求められるのでは無いだろうか。以上の読み方により、考証なしの「連続した読み方」で生ずる疑問や矛盾のほとんどが解消する。いや、当方には、塩田氏に何かを強要することはできないが、ご一考をお願いする程度は許されるのではないかと、愚考するものである。

 [中略]この読み方による行程を図示すると図2及び3のようになる。

*ありえない現代地図悪用
コメント 図3は、当時存在せず陳寿が知り得なかった現代地図であるから、三世紀の史官が見たことも聞いたこともないのは当然として、これを行程道里記事の「絵解き」として示すのは、ほぼ無意味である。これが、鉄則である。
 グーグルマップは、第三者地図データを利用契約して、その旨表示している。丸ごと引用しつつ、そのような権利表示を明示しないのは、利用規程違反である。
 ちなみに、引用部と追記部の権利区別は引用の際のイロハであり、ご自愛いただきたい。論考末尾に、免責事項と含めて、適法に明記すべきと考える次第である。
 大事なのは、全体として著作権を保持するが、部分的に第三者記事が含まれているので、その部分は(個別に明記の上で)権利外である」と断ることである。そうでなければ、ご自身が権利を有しない著作物の著作権を主張しているとみなされるのである。国際法では、著作物を公刊した時点で自動的に著作権が発生するので、引用を明記しないと、冒認したことになるのである。
 今回の事例では、「第三者データをかくかくのごとく利用することにした」と、権利者の了解を得ておくことである。このような事項は、出版者編集部の任務であるが、どうも、当記事については、編集部が編集していないようなので、申し上げたのである。

 なお、魏使は、投馬国には行っていない。…水行の行程中に投馬国はない。…投馬国までの行程は倭人からの伝聞である。...

コメント 意味不明の断言であるが、「伝聞」でなく正式申告/報告のはずである。帯方郡の権威を見くびるものではない。
 厳密に論証すると、「伝聞」は無効である。無効である「伝聞」を根拠とする論証は、丸ごと無効である。「伝聞」を確証と取り違える研究者は、退場である。

(3)投馬国と邪馬台国の読み方
「南投馬国に至る水行二十日」と「南邪馬台国に至る水行十日陸行一月」は、帯方郡からの所要日数と読む…邪馬台国までの行程の間に投馬国が存在する余地はなく、連続した読み方は成り立たない。魏使は投馬国には行っていないのである。「南投馬国に至る水行二十日」は倭人からの伝聞であろう。
「南投馬国...」と「南邪馬台国...」は...帯方郡を起点とする行程...。

コメント どこから降って湧いたのか不明の錯綜した解釈である。帯方郡が、蕃夷として服属の前提事項を提示されていない、女王と音信不通の「投馬国」に直行する道里行程など「倭人伝」に無用である。

 道里行程を記載するのは、郡と伊都を周旋/往来する郵便/文書使の交通を規定するためであり、遠隔疎遠の「投馬国」など、お呼びでないのである。要するに、いわゆる「通説」を偏愛する論者の読み方が間違っていると言うだけである。「通説」派の好む言い方では、「百害あって一利なし」であるらしいが、別に、曹魏は遠隔の蕃夷から「利」(銅銭か玉石かは別として)を得ようとしていたのではない。もちろん、天馬を求めていたのでもない。
 と言うことでもここに提示された行程の交錯は、まことに理解しがたい。

 誤解に発した新規概念が整合せず、窮して錯綜した行程を適用されて、力任せに一刀両断したと見えるが、「倭人伝」の要目は、郡・倭、即ち郡から伊都に到る行程であり、正史編纂に殉じる、即ち、身命を懸けている史官が、要目外の錯綜した記事を書く謂われは無い。

 郡・伊都の行程と所要日数が知れた後、「倭人」内部の伊都から近場と見える女王居処まで、どう移動して何日かけたか、など現地事情は陳寿の知ったことでは無いし、皇帝以下の読者に、何の関心もない。
 「倭人伝」批判で不可欠な区分解釈である。

                                未完

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「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

3「魏志東夷伝」の距離感
 ここで、「魏志倭人伝」…の距離観について述べておかねばならない。

コメント 新規概念がどうにも整合せず、「距離感」/「距離観」などと、苦しまぎれに錯綜した新規概念を明確な定義無しに適用されている「倭人伝」も「韓伝」も、人格の無い文字情報なので、観、感、勘も、経験も所有していないのである。

*綸言不可侵
 以下、律義に評価されているが、前に述べたように「倭人伝」の萬二千里の概念的な道里は、「倭人」に関して往時の公孫氏が作成した蛮夷記事「倭人伝」が、帯方郡から曹魏明帝に上程、承認されて、曹魏の「倭人伝」の劈頭を飾ったと見える。陳寿が編纂した東夷伝の構文を論理的に解読すると、そのように読み解けるはずであるが、以下例示している高名な岡田英弘氏を初め、早計な解釈を高言されている例が、むしろ、圧倒的な大勢を占めているのは、残念である。
 決して、西晋史官たる陳寿が、漢魏晋と継承された「史実」、公文書にない記事を創作したのではない。 
 高名な岡田英弘氏が、一般向けの解説書で、一刀両断、陳寿が、編纂時の権力者に媚び諂(へつら)って、魏志西域伝を割愛し東夷伝を捏造/創作したという印象を与えかねない「名言」を残したので、一部で追従している方がいらっしゃるが、史料を丁寧に解釈すれば、それは、当該時点で素人同然の門外漢であった岡田氏の勘違いに過ぎないのである。
 いや、爾後、岡田氏は、古代史に関して造詣を格段に深められたのであるが、同書の改訂は行わなかったので、氏の「名言」は、今日に至るまで、堂々と一人歩きしているように見えて、まことに勿体ないのである。

 と言うことで、「倭人伝」の萬二千里の概念的な道里は、 秦漢代以来国家制度として通用している普遍の「普通里」450㍍程度(概算に適した丸めである)とまるで整合しないが、綸言不可侵であるから、七「千里」、一「千里」と千里単位で按分した補助里数を付して「正史」としている。当時周知の郡・狗邪間を七「千里」として、「実道里との相関関係らしいもの」が見えても、おおざっぱな概数であるから、ぴったし、厳密に整合するはずがない。

*窮したあげくのちゃぶ台返し~余談
 「虚妄」は、二千年後生の無教養な東夷の不明瞭発言である。相手にしてはいけない。
 最後、そのような概念的な道里を、実際めいた換算で「一里86㍍程度」と断言されているが、当時メートル法(SI単位系)は無かったから㍍表示は、全く無意味である。当然、尺度(一里四十尺)換算率(里数五倍)と示すべきである。(頭の中のスイッチを切り替えていただきたい)
 それにしても、五倍は、当時にしては、高等算数であり、いかにして、全土の小役人にまで徹底したか、何の証拠もないので、不可思議、神がかりということになる。

 あげくの果て、「倭人伝」記事を順当に解釈すると、伊都国から先、纏向に進む行程は(絶対に)ありえないのが自明なので、窮鼠なんとやらで、いわゆる「通説」派の諸兄姉の画策で、史官が精巧に調整した「倭人伝」の、言わば、満漢全席の饗宴を「ちゃぶ台返し」で貶(おとし)めて、素人算段で気ままに改竄して論議しているのだが、同時代の史料で、「倭人伝」に代替する史料はないので、結局、改竄「倭人伝」で論じているのである。

*「普通里」提言
 そして、当時も官制道里は450㍍(4.5百㍍)程度の「普通里」であったから、それ以外のいわゆる「短里」が官制施行されたとは無謀である。

 「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程について詳細な里程を記している。…「魏志倭人伝」...行程に記された里が、①魏・晋の当時の里と比べてはるかに短いこと、②…③「魏志倭人伝」...国から国までの里数も...距離はまちまちである…「魏志倭人伝」…国(から国までの)里数…平均値...1里は約86...mとなる。…「魏志倭人伝」…の距離観...は、当時の魏・晋の里よりはるかに短い…。

コメント 要するに、大いなる「勘違い」である。根拠がバラバラの数値を、機械的に平均計算するのは、不合理の極みである。そうした評価方法が、氏の身辺で絶対多数派であっても、「勘違い」は「勘違い」である。勘違い」を根拠にした推論は、はなからしまいまで「勘違い」である。

*乱脈の「里」数追求 
 まずは、それぞれ立根拠の異なる表示値の平均値を取る無頓着さは、不合理である。
 郡・狗邪韓国の郡内街道だけが、確実である陸上にしか街道は無いから、街道行程は間違いようが無いはずである。一部俗説のように、海上に街道があるとした幻想は、「勘違い」の二段重ねである。
 総じて、多桁横書き算用数字の字面に囚われていて「現実」が見えていないと見える。

*「普通里」の提案
 「当時の魏・晋の里」と、揚げ足歓迎表現であるが、太古以来、唐代変革まで、一里は、ほとんど一定であるさらに言うなら、各地拠点間の公式道里は、公式文書に刻印されているから変わりようがない。里の下部単位「歩」(ぶ)は、各地土地台帳に記帳されているので、別の意味で変わりようがない。それが、合理的な判断と信じている。
 当ブログでは、そのような「里」を「普通里」と称して、時代、地域で動揺しないことを明示しているのである。

*根拠のない「短い」里
 そのように是正した上で批判すると、氏がいかに力説しようと、晋朝史官である陳寿が正史の一部である『「魏志倭人伝」及び「魏志韓伝」に使用されている1里は約86mとして承認された』という途方もない提言は、論外であり、即座に却下されるべきである。

*根拠のない造語「距離感」
 氏の発明したかのように見える「距離感」は、かくの如き超絶技巧によって、ようやく一つの形をとっているが、素人目には、目も鼻も口もない「混沌」と見える。
 何故、三世紀の中国史官が、現代風の曲がりくねった理窟を弄したと決めてかかるのか、まことに不可解である。それでは、当時の読者たる「皇帝」初めの知識人が、到底納得しないと思われる。

 西晋史官である陳寿が、「三国志」「魏志」第三十巻の末尾でそのような無理難題を捏ね上げる意味は何なのか。筋の通った「合理的な」説明を提供頂きたいものである。ちなみに、陳寿の編纂した原本には、魚豢「魏略」西戎伝は補充されていないので、ここが、魏志全三十巻の締めくくりなのである。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  6/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

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*根拠の無い「方里観」 不都合な引用資料改竄
 氏は、奥野氏の作表(Matrix)に独自データを追加しているが、第三者の著作物を「勝手に」改造した表(Matrix)を論拠とするのは不都合である。
 奥野氏が正史など基本資料を精査して独自解釈のもと創出された作表(Matrix)は、それ自体、データベース「著作物」である。氏の著作を読み囓って改竄するのは、適法な引用でなく盗用に当たるかと思量する。塩田氏にしては、不用意で、安易な第三者著作物の取り扱いではないだろうか。ご自愛いただきたい。

*「方里」表現の誤解 
 それにしても、追加部の「方…里」解釈は、奥野氏の関知しない不用意なものと思われる。不当な引用とする一因である。

*「方里」の「常識」再確認
 遅くとも漢代に編纂され魏晋代にも慣用されていたと見える算数教科書「九章算術」は、土地測量と面積計算の課題を提示していて、そこでは、「方」は、「歩」なる度量衡単位に付すと面積単位と解釈することが示されている。いや、そうでなくても、教科書の文脈は明確であるから、「歩」が、尺の上部単位の「長さ」であるか、そのような「歩」で構成された「広さ」の歩であるかは明確である。かたや、陳寿は、とうの昔に「九章算術」を卒業した読者を相手にしているから、「方…歩」と明記したのである。「方…里」は、一里三百歩の原則で換算されているのであり、用語解釈は、同様である。ちなみに、後世、前世の史学者が、陳寿ほど明確な認識をしていたとは限らないので、「方…里」用例が適切かどうかは、文脈に基づく審議が必要である。
 結論を言うと、教科書に従う「方四百里」は一辺一里の方四百個の「面積」であり、当然、道里の「里」と足し算できない。異次元数値を混ぜた計算は、不都合、非常識である。

 『「魏志東夷伝」に記された、...「魏志高句麗伝」...」…距離観について、各国の条に記載された距離を示すと表2のとおりで、1里は、最小220m、最大430mで、平均約 308mとなる。

*不明瞭な「距離感」
コメント 表2は、当ブログで批判した榊原英弘氏著作の作表(Matrix)の「読みかじり」である。先行論考は、適切に引用して、その思想を復唱、ないしは、克服すべきである。
 本例は、作表(Matrix)の一行削除・改竄なので、著作権上疑義のあるものである。

 新語とも見える「距離観」が榊原氏の創唱であれば、その旨表示が必要である。そうで無ければ「距離感」は意味不明で、不確かで不都合である。正しい用語とすべきである。用語に齟齬があれば、引用は無効である。
 ここでは、榊原氏の取り上げた「方里」解釋が新規のものであれば、溯って、奥野氏の作表への挿入は、御両所に対する著作権侵害と言われかねない。第三者著作引用は、慎重であるべきである。

 ここは、陳寿「倭人伝」「里」の規定を問うものであり、それは太古以来の「普通里」としか言えない。モチのロン、実施状況批准は別議である。

 次に、「魏志扶余伝」から「魏志濊伝」までの5国と「魏志韓伝」及び「魏志倭人伝」の2国の広さと戸数を比べてみる(表3、図5)。…

*『「方里」は「国の広さ」』の開眼と失墜
コメント 氏は、自作表3,図5で、突如「方里」を「国の広さ」としたが、図5は、不適切な現代地図であり、「方里」が全農地面積であって「国の広さ」などではないことを失念している。それにしても、韓国の形が、現代地図で見てとれそうで、長方形だとか、平行四辺形だとか論議の的になっているが、たとえば、高句麗の「国の広さ」は、誰が知っていたのだろうか。
 高句麗は、牧羊国家である。戸籍と土地台帳を楽浪郡に強制されたとは言え、高句麗の「国の広さ」の把握に役に立たないのである。「東夷傳」によると、高句麗は山川渓谷が多く、従って、必然的に水田稲作は些細である。
 韓国も、山地に深く刻みこまれた渓谷が多く、したがって、灌漑困難で水田稲作が限定されている。韓国は、現代地図で「国」が見えるような気がしても、当時、誰が東西南岸の海岸線を認識していたかということである。解説書で、国境入りの地図がもっともらしく表示されているが、誰が確認したのか、不可解ではないだろうか。韓国の内部には、小白山地の高山がよぎっていて、平地は乏しいのである。海岸線を拾って何がわかるのだろうか。そのように素人は、疑問を感じていたのである。

 結論を言うと、ともに農地面積は、領域の外径面積に比して、まことに些細である。それが、農業生産力であり、国力なのである。
 当然ながら、農地面積は、戸籍/土地台帳の集計であり、公文書の正確・忠実な統計であるから、陳寿は、東夷諸国服属化は、両郡税収に繋がらないと述べていると見える。
 晋朝史官である陳寿が、官撰を心がけた「魏志」「東夷伝」に於いて、ことさらに、先行史書の夷蕃伝記事に異例の各国「方里」を報告しているのには、正当な理由があると思われる。それが、「東夷伝の真意」であり、司馬懿への追従などではないことは明らかである。

                                未完

2025年11月12日 (水)

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  7/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  誤報拡散 2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12-13

*加筆再掲の弁

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*「周旋」の不合理
コメント ついで、「国の広さ」として「周旋五千里」としているが、これは「方里」で無いので、明らかに広さ(面積)ではない。

 「倭人伝」行程で、伊都国・狗邪韓国の北上「周旋」(後漢魏晋代に「往来」の意で常用)道里が、全万二千里から郡・狗邪韓国間の七千里を引いた五千里と述べ、高貴な読者のご名算を証している。それが、順当な解釈である。どだい、所在不明の名のみの諸国を取り囲む地理概念は、てんで無効である。

*十五萬戸の幻影
コメント ちなみに、「倭人」全戸数十五萬戸は「倭人伝」記事に一切存在しない。「改竄による誤解」のまた一つの事例である。「倭人伝」の要件は、全所要日数、全道里と共に、総戸数であるから、明解に「七萬餘戸」と明記されていると見るべきである。

 それ以前に、戸数「七萬餘戸」は、全道里同様、概念的と思われるから信用してはならない。全国戸数は、全国戸籍を積算するものであるから、戸籍制度の完備していない「倭人」に全戸数が出せるはずは無い。公孫氏が景気づけに書いたと見える。その証拠に「可七万餘戸」である。

*姑息な帳尻合わせ
 伊都国まで行程を「周旋」すると、なべて小規模な「國邑」であり、戸籍に基づく戸数は、すべて千の位であり、数値がどうであろうと、万の位の積算の際に「餘」に吸収される。窮したあげく、交通途絶している奴国に二萬戸、投馬国に五萬戸と押し付けたものと見える。
 伊都国到着後に、両国記事を足したのは、全戸数の押し込み先と見える。全国七萬戸のほぼ全てを有する二国が、余傍の国で戸数不詳とはどういう事だろうかと疑問が湧かないのだろうか。「下表」は、一段と意味不明である。

4「水行十日陸行一月」
(1)「水行十日陸行一月」の起点
 [中略]「魏志倭人伝」に記された「万二千余里」と「水行十日陸行一月」は、共にその起点は帯方郡である。[中略]「魏志倭人伝」は、「水行」か書き始められている。[中略]帯方郡からその南方面にある海外の国々に行くには、帯方郡の主要な海港である海州が出発点となる。[中略]

コメント 別に論じたように、「倭人伝」の冒頭は、太古以来公用されていなかった新規概念である「水行」の定義を書いたものであり、実行程を書いたものではない。また、起点が帯方郡というのも、不確実である。そもそも、洛陽・帯方郡の公式道里は「不明」である。
 
 劉宋笵曄「後漢書」に志部はなく、補充された西晋司馬彪「続漢書」「志」部(続漢志)には、帯方郡が存在しない。衆知であるが、三国志に「志」部はない。後代、沈約「宋書」は、「志」部を持つが、既に滅亡して久しい「帯方郡」記事は補充されていない。拠って、洛陽・帯方郡の公式道里の記録はない。
 よって、帯方郡は、正史道里記事の起点として不適格であり、陳寿は、不適格な記事は一切書けないから、帯方郡・倭の道里と書いていないと解釈すべきである。
 ちなみに、当時、「海外」などという言葉はない。方々、不合理な御意見であるが聞き流す。

 要するに、臆測、誤解の産物なので、説明戴いてもしょうがない。
 ちなみに、当然であるが、郡治は、郡太守の治所、城郭である。帯方郡は、曹魏の「郡」であり「出先機関」などではない。

(2)「水行十日」の行程
 前述したとおり「魏志倭人伝」に記載されている数値は、約5倍に拡大して認識するように仕組まれている…

コメント 当時の読者は、皇帝に連なる高官有司である。そのような高貴な読者を欺くのは、斬首の大罪である。史官は、史実を記録することに命をかけるが、つまらない虚偽記事に命をかける意識は、まるでありえない。また、史官は二千年後生の無教養な東夷を欺くことなど念頭にないし、また、どう書けば欺けるかの意識もない。意識せずに何か隠謀を仕掛けるというのは、どんな動機で行われるのか、想像もつかない。とんだ、「陰謀論」である。

  まず、「水行十日」である。「水行」は帯方郡(海州)から末蘆国までで、この間の所要日数が「十日」ということである。…

コメント  「海州」は、時代錯誤と思われる。確認乞う。魏晋代、つまり、帯方郡が健在の時代、そのような海港、海津は存在しなかったのである。

*「海州」談議 2025/11/13
 歴史上の「海州」は、戦国斉の領域の「青州」の後身であり、要するに、山島半島の底部に当たり、後漢魏代は、州が郡の上位であったことから、格別の広域を示した。西晋崩壊後、当地域は転々と地名が変わったが、隋煬帝が南朝制覇に対応して天下の「州」を廃止して、「郡」を格上げし、郡~県の二階層に簡素化したため、後世、「州」を地名に使用することが可能になったと見える。

 指摘の「海州市」は北朝鮮自治体であり、韓国も名目的に自国自治体としているが、それはさておき、同地は、古代史上の「海州」ではない。
 今回、行きがかり上、史料考証したが、本来、このような途方もない地名比定は、有害無益な「フェイクニュース」でないことの検証の上でお願いしたい。

 帯方郡が、専用の海港/海津を設定したとしても「海州」などと不法な命名をする事はない。帯方郡は、韓、濊、倭管轄であるから、このような回航は、無用である。また、黄海岸には、既に楽浪郡海港があって、大変繁昌していたから、帯方郡海港は、有害無益である。

閑話休題
 「海州」がどこに在るにしろ、当時の船舶で漢城(ソウル)付近から、十日で狗邪韓国に達するとは、途方もないホラ話である。文書使は、遅参すれば両親、妻子もろとも斬首である。無謀な日程を引き受ける者はいない。
 いや、そのような行程を「水行」と称するのは、天子に対する欺瞞であり、史官である陳寿が、そのような無法を看過することはありえない。


                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  8/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*「海路」幻想蔓延
 魏から倭国へ渡った船がどのような船か、また航海能力がどのくらいあったかはわからないが、推測できる資料はある。[中略]海路遼東半島に兵を派遣し、陸海双方から公孫淵を攻撃する意図と思われる。
 景初二年に司馬懿に命じて公孫淵を攻撃し滅ぼす…。

コメント 確たる根拠のない推測など無法である。巷で出回っていても、古代史で「海路」などありえないし、遼東郡治は遼東半島からみても、かなり遠路である。司馬懿は、託された征戦に敗北すれば妻子と共に斬首であるから、貴重な戦力を傍路の両郡に割くはずはない。無意味な推測である。

*また一つの不毛な空想譚 2025/11/12
 ちなみに、黄海を渡って官軍を送り込む海船行程は、せいぜい数日間であるから、兵員が多くても、大した負担では無い。これに対して、もし、遼東半島あたりから、狗邪韓国まで海船で航行するのであれば、予備を含めて数十日分の食糧、燃料と飲料水が必要である。荒天の備えは、船酔い対応を含めて、相当のものと思われる。長期に亘れば、食糧は腐敗するし、飲料水も、飲用に耐えなくなる可能性が高い。帆船航行に順風が続く保証はないから、途方もなく日数を要する可能性があり、食糧、薪水がもたない。
 道里の里数を、無理やりこじつけたとしても、所要日数は、設定できない。考えなおして頂いた方が良いのではないか。
 ちなみに、(明帝が)司馬懿に北伐を命じたのは、明らかに景初二年ではない。
 明帝の派遣軍に対して、両郡は、武力無しに帝詔で服従するのは明らかである。ちなみに、両郡兵は、韓、濊、倭の東夷制圧が任務であるから、限定されていたはずである。両郡から司馬懿に援軍を送るなど無意味である。

 …登州から楽浪・帯方郡までの距離は約400kmである。
 魏・晋の里(約434m)でいえば約920里で、ほぼ千里である。この間には途中停泊すべき島嶼はない。…

コメント 海船移動に「距離」は全く無意味である。楽浪郡治と帯方郡治は別の場所であり、「距離」は異なる。なぜ、勝手な理窟を押し付けるのか不可解である。
 途中停泊の島嶼など、心配して頂くものではない。必要があれば、塩田氏が同意しようが、しなかろうが、停泊するだけである。
 街道制度の適用できない海上行程に「里」が無意味であることは、既に、再三再四断言しているから言うのも愚かしい。
 郡から倭までの道里は、公孫氏が勝手に設定したとして、「登州から帯方郡」までの道里は、誰がどうやって設定したのだろうか。当時、距離が400㌔㍍など、誰が測量したのだろうか。

(3)「陸行一月」の行程
1日333.3余里(約28.7km)の行程となる。

コメント 誤解の辻褄合わせの積層で理解不能である。ここまで誤解した不合理な推測がうまく行かないツケを、陳寿に持ちこむのは、お門違いである。言うのもくだくだしいが、多桁横書算用数字を持ちだして、333.3餘里とは、無意味の極みである。概数表現なら、正確には、300余里、ないしは、数百里である。精密表現なら、三百三十五里で、「餘」は付けない。塩田氏が、常識を見失って、泥沼に陥っているのは残念である。
 それとも、部分道里333.3里を三個足しても999.9里で、「ピッタリ1000里にならない」という寓意なのであろうか。

 当時の1日の行程はどのくらいであろうか。…「唐六典」の1日28.7kmよりかなり余裕のある行程となる。…

コメント 以下、氏は陥穽に陥るので意見しようがない。陳寿も見くびられた上に欠席裁判である。陳寿の反論がないが、同意しているわけでは無いと思う。
 其れにしても、数世紀後、体制整備された「唐代の輸送業の運賃規定」(唐六典)が、三世紀、まともな街道のない、牛馬の使役のない「倭人」世界の公文書使、官制郵便の規則に通用するとの楽天的な解釈が不思議である。

(4)邪馬台国の所在地
 不弥国から邪馬台国までは440余里(37.8km)である。…この3点を結んだ線上付近に邪馬台国の中心地があるということになる。

コメント 長途の理屈付けは「ご苦労さん」である。時代錯誤と憶測誤解の積層は参考にならない。精査不足で展開しては、つけるクスリが無い。(意味不明連発である)なぜ、よくわからないことに、これほどの精力を注ぐのだろうか。

 なぜ、「魏志倭人伝」に、特段の意義が無い不弥国から邪馬台国への街道が書かれているとみたのだろうか。不可解の極みである。それにしても、古代史論で、一国の中心地とは、何を言うのだろうか。王の居処、王治とでも云わなければ、理解されない。用語が動揺すると、読者に理解されないのである。

5「魏志倭人伝」の数値はなぜ誇張されているのか。

コメント 以下、史料根拠の乏しい論場が続くが、氏が、習得されたらしい「倭人伝」歴史認識に異を唱え、氏が「不合理」に目覚めることを祈る。

(1)陳寿の経歴
…「魏志倭人伝」に記されている数値は、読む人が5倍程度に誇張して理解するように仕組まれている。…「三国志」を編纂した陳寿の経歴及び魏・晋の国内事情を見てみたい。…

*誤解の責任付け回し
コメント 氏は、「誤解」の責任を「読む人」の誇張した理解とばかり、正体不明の被害者に押し付けるが不適切である。陳寿が、『二千年後生の無教養な「読者」』を騙したと告発するにも、陳寿は、二千年後世の「読者」の理解力を如何にして推察したのか。
 それにしても、「倭人伝」に書かれている数値は、それぞれ独特の由来であるから、氏が、神がかりで、すべての数値が五倍に誇張されているとおっしゃる根拠が見えないのである。
 また、陳寿が(意図して)当時の読者の誤解を誘う表現をとったとは、途方もない言いがかりである。当時、皇帝を始めとする読者を欺けば、一家斬首、族滅である。史官は、史実継承に殉じる、つまり、身命を賭するが、史実を偽ることには、命をかけない。見くびってはいけない。まして、「二千年後生の無教養な東夷」に誤解させてどうしようというのだろうか。

 ここで、氏の蒸しかえしに反射的に呼応したのに気づいたが、取り敢えず放置しておく。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号  9/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*陳寿罵倒の流れ
 陳寿は233年、四川省に生まれ、297年に没している。[中略]その数年後に太子中庶子に任命されたが、拝命しないまま死去した。

コメント 「倭人伝」の史料評価に無意味な風評ではないかと危惧する。いうまでもないと思うが、三世紀当時「四川省」は存在しない。

*陳寿就職
 漢を継ぐ蜀漢官人陳寿に、古典書教養は必須である。亡国で失職したが、後漢後裔の曹魏~司馬晋では、益州士人として選挙・登用されたと見える。有司高官張華の重用で魏志編纂に携わったが、時点の権力者 張華の称揚を命じられたものではない。

*張華馘首
 張華は、対抗勢力によって、文字通り馘首された。陳寿は、政変時、たまたま失職していて連坐を免れた。司馬班陳笵と続く正史史官で、五体満足で天命を全うしたのは陳寿だけである。
 全体に、陳寿の人格攻撃に努める「ごみ」情報満載で、詰まらない記事である。
 以下の不遇記事も「蛇足」である。「陰謀」を弄して「倭人伝」明記の「邪馬壹国」を否定するのは「窮鼠猫を噛む」図式と言われかねない。氏が、長いものに巻かれて「邪馬臺国」論に与(くみ)しているように見えるのは、残念である。

(2)魏・晋の国内事情と朝貢
 当時の魏とその後に成立した晋との関係は極めて複雑である。[中略]

*国内事情
コメント この程度の政情を複雑と言うようでは、お里が知れる。一つには、未消化のカタカナ語の「クーデター」を、時代錯誤の三世紀に持ちこむからである。要するに、曹操は、建安初頭に流離の皇帝劉協を庇護して、事実上滅亡していた後漢朝の形骸を、一応の形式を整えて「権力者」となったが、後漢は、霊帝没後の混乱で、全土支配を喪失していたから、曹操は全土統一してはいない。
 曹操は、継嗣曹丕に禅譲を命じて世を去ったが、初代文帝曹丕、二代明帝曹叡の早世で少帝曹芳の庇護者となった司馬懿は、権力者となった太后の命によって少帝を廃位し、以下、司馬懿の後継者が曹魏天子から国を奪った手口は曹丕の摸倣で、複雑でも何でもない。
 要するに、司馬懿は、少帝庇護者皇太后を籠絡した皇帝廃位で、天下を掌握した。別に複雑でもなんでもない。

*朝貢談議
 一方、...朝貢は、…国内に対しても政権の正統性を示す...。

コメント 「中国」は「国」ではないので「国内」は、無意味な概念である。
 「倭人伝」に登場する「国」は、中国と同格の「国」ではないのだが、区別の付かない論者がいるのだろうか。
 また、「周囲の夷狄」との錯綜は絵解きが必要である。「倭人伝」には、二度「中國」が起用されているが、文脈で読み分ける必要がある。帝詔の「中國」は曹魏天子の支配した国体である。正当性を示す必要など無かった。
 「持衰」談議で「中國」に渉ると称したのは、対海国から狗邪韓国に渡り陸道を行く行程でなく黄海を経て登州、中国本土に乗りこむことを言うようである。当然、帆船仕立、難船覚悟の「冒険」で常用されるもので無かった。

 「天子の徳の高さがより高い」なぞ無意味であり、「中国国内」も、重ねて意味不明である。三国鼎立時、曹魏は、全土を支配できず、「中國」と帝詔で威張って見せても、内実は空虚である。大口を叩く前に、歴史を学ぶべきである。

                               未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」第2号 10/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

◯「東夷」戦略の推移
 東夷に対する政策は、歴代王朝に於いて、大きく異動変遷している。よろしくご確認いただきたい。
 秦代、北方を脅かした月氏が配下の匈奴の反乱で壊滅し西域に逃亡した後、大軍を形成した新興匈奴が中國を侵略したので、秦始皇帝は、討伐した各国の国軍を廃止して得た三十万を常駐させ、匈奴の南下を防いだとされる。合わせて、戦国諸国が防衛線とした長城を、本格的に建設整備したとされる。 

 始皇帝が戦国時代を統一したので、諸国の軍備は不要となったが、諸国の大量の軍兵を解雇し一斉帰農させると、諸国に失業者を溢れさせることになるので、公共工事に吸収することにしたのである。その一部が、北方の常備軍であったと言える。
 始皇帝没後は、大軍が二世皇帝の脅威となり、総司令官たる皇太子は自決を命じられ、常備軍は無力化した。
 後に、反乱軍鎮圧の名目で、章邯が、始皇帝陵墓造営の人夫を喚起して、二世皇帝に味方する大軍団を組織したが、もちろん、軍兵として訓練を受けた兵士だから、たちどころに大軍が組織できたのは言うまでもない。
 時を経て、覇王項羽との総力戦に勝利した漢高祖劉邦が即位した時、匈奴は増長していたので、漢は高祖劉邦の親征の下一大決戦を挑んだが、漢高祖は、一敗して山上籠城して和睦を乞い、歳貢と屈従の盟約を甘受した。項羽との抗争で国力を損じていたので和平を買ったとも言える。

*武帝の暴挙
 高祖劉邦の孫である武帝劉徹は、匈奴和平の善政で充実した国富を傾けて征討大軍を起こし、年月を要したものの匈奴覇権を打ち割り、漢帝国の面目を回復したが、国富を傾け、さらには、国富に匹敵していたとされる、皇帝の私的な財産であった塩鉄専売益まで投入して勝利しても、獲得した匈奴国土は、農耕に全く適しない「荒れ地」であり得るものはなかった。
 高価な勝利で傾いた財政が回復できず、漢帝国は酷税の道を辿ったのである。以降の各皇帝は、武帝の壮大な浪費の齎(もたら)した弱体財政を制御できず、外戚王莽の政権奪取を許したのである。

*光武帝の画策
 王莽「新」帝国を一掃して漢を回復した光武帝は、帝国再建のかたわら匈奴防戦に努めた遼東太守祭肜(さいよう)は、匈奴左翼の鮮卑への壮大な褒賞で匈奴に打撃を与えたので、国境防備の戦費を鮮卑への歳貢に回した。
 しかし、祭肜は、赫赫たる成功の後、鮮卑の陥穽に墜ちて前線を退き、匈奴が衰退した後に鮮卑、烏丸が台頭した。この間の事情は、笵曄「後漢書」本紀、列伝及び東夷列伝から明らかである。たとえば、安帝紀は、ほぼ、毎年のように鮮卑の侵入を掲示している。
 陳寿は、それに先だって、先行する後漢公文書を参照して、後漢代の東夷政策の経緯を東夷伝評に記したが、「魏志」の埒外であるから「倭人伝」本文から割愛したものの「国志」読者たる皇帝初め高官読者に明白であるから書く必要はなかったとも見える。

*曹操の一撃
 霊帝没後の全土大乱を鎮圧して「中國」を回復した曹武曹操は、袁氏掃蕩時、烏丸精鋭を承服させたものの、以降、中原確保と華南征討に注力したので、鮮卑、烏丸、そして、高句麗の征圧は、後回しになったのである。

*公孫氏胎動と排除
 かくして、中原が「大乱」という名の内戦、戦乱に沈んでいる傍ら、公孫氏は、遼東郡太守と言いながら、自立して東夷、特に高句麗に君臨したと見える。曹魏二代皇帝明帝は、これを不快として、蜀漢、東呉の北伐が影を潜めた機会に、司馬懿に遼東征伐を命じたが、不首尾の際は、宿老司馬懿一門を一気に排除する目論みとも見える。
 司馬懿は、公孫氏の東夷支配の機構を、官人もろとも根こそぎ破壊したから、以後の東夷支配には、関心がなかったと見える。現に、遼東から帰還した司馬懿は、原職復帰が想定されていたのである。
 なお、東南遠隔の東夷「倭人」を懐柔して高句麗、鮮卑を制圧する遠望を含めた東夷政策は、明帝にとって気心の知れた毋丘儉の献策と見るのが順当な想定と思われる。

*列祖明帝の野望
 明帝は、両郡収容で得られた速報で、一旦「倭人」は萬二千里の大国と認識したものの、続報で、実際は、近隣と知りつつ、急遽招聘・厚遇する構想を抱いたと見える。萬二千里の遠隔地に大量の下賜物を届けることは考えられないのである。
 また、孫権没後の東呉退潮もあって、「倭人」に、東呉「牽制」を求めるなど一切必要無かったと見るべきである。
 なお、陳寿の三国志」編纂時、東呉は、すでに西晋皇帝に「呉書」を献じて降服していたから、東呉が「倭人」に干渉などしていなかったことは、関係者に周知であったのである。

*「倭人」厚遇寸劇
 二千年後生の無教養な東夷の小人には分不相応としか見えない下賜物も、鮮卑を懐柔した後漢光武帝の顰(ひそ)みに倣った「奇貨居くべし」、掘出物褒賞と思われる。皇帝独裁の弊害は、増長したとも見える宮殿造成にも見える。洛陽官人動員は「無法」・「無謀」と諫言されたほどの強行であったが、側近の諫言を押し切って推進され、景初三年元日の明帝急逝で中止された。
 と言うものの、明帝急逝後の正始初頭の下賜物は、景初二年末に帝詔で始動していたから継続されたが、所詮、在庫整理である。もちのろん、以後の下賜物は、分相応である。

 俗説の説く如く一年後、明帝没後の参上であれば、少帝曹芳の時代であり、帝詔も黄金印も下されるはずはなく、下賜物は単なる厚遇となり、少帝後見人は、帯方東南弱小勢力を「賓客」としなかったはずである。

 無謀な史料改竄は置くとして、景初二年六月の「倭人」帯方郡参上は、論義の余地のない、当然の運びと見えるのである。

                               未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊「古代史ネット」 第2号 11/11 2025

「魏志倭人伝」の行程と「水行十日陸行一月」について KINDLE版
私の見方 星三つ ★★★☆☆ 渾身の偉業の敢闘賞、前途遼遠  2021年3月刊 2025/01/20 更新 2025/04/08, 06/04, 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明を明らかにしない不法な進入者があり、大量に盗用していると見えるが、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。 

*「倭人」幻想の退潮~重複御免
 「倭人」は萬里遠隔の七萬戸大国』とは、公孫氏が紡いだと見える蜃気楼である。

 牛耕なしで良田なし、戸籍なしで、「戸数」は虚飾。郵便、荷馬車なしで「道里」は虚飾。である。税の物納は不可能」に加えて、「銅銭無くして銭納不可能」である。高齢者や女性水増しの戸籍と知れていて、奴国、投馬国戸数は虚構であり、実力は、「全国萬戸に満たないと知れていた」である。一番肝心なのは、文書なくして、法と秩序は確立できず、広域支配は不可能なのである。
 戸籍、土地制度が整備されて、初めて、税制も収穫物の貯蔵も可能となり、徴兵もできて、闘争ができるのである。

 ないない尽くしの「倭人伝」は、「倭人」が「弱小貧弱」と示すもので、稀代の烈祖天子明帝への苦言である。まさしく、渡邉御大がうそぶいたように、史官の使命は、史実の忠実な伝承でなく、粉飾(cosmetics)を求められたのである。

 ちなみに、景初二年の参上の際の手土産は、無教養な後世人から「貧弱すぎ」、「エビでタイを釣る」目論見と悪態を浴びせられているが、手みやげが立派だと苛税が募るし、極端に豪勢だと略奪を呼び込むのである。貧弱だったのは、郡官人が配慮したものと思われる。にも拘わらず、お返しが壮麗だったので、郡官人は、震え上がったと見て良いと思われる。

 ついでながら、後漢献帝期の乱世を体験し、全国の饑餓を辛うじて乗り切った魏晋には、尊大な「中國」意識はない。『大乱統一に失敗したやせ蛙の曹魏「中國」は』と書くべきである。

*魏略「西戎伝」談議
 魚豢「魏略」「西戎伝」は、裴松之により魏志第三十巻巻末に補追されて全巻健在である。ただし、「西戎伝」は「魏略」ならぬ「漢略」であって、曹魏事績が乏しく「魏書西域伝」など書きようがなかったのは、明白である。

*貴霜国の虚構
 三世紀後半、安息(パルティア)が、貪欲な軍事大国ローマ帝国に王都を侵略され、天下一の財宝を奪われて凋落した後、カスピ海南方のペルシャ地域からササン朝が興隆して天下を把握し、さらに、東方に領土拡大したから、貴霜国は中國に支援を求めたかもしれない。暴掠「月氏」騎兵はとうに貴霜国に吸収されていたし、かって痛撃を喫した安息国は、もはや復讐を言わず、国境を大軍で防備しただけで、商業立国であったから、平衡を保ったのであるが、ササン朝は、ローマ帝国と対抗できる軍事大国を目指したのである。
 厚遇戦略により後漢撤退後の貴霜国東進を制したとも見えるが、曹魏の西域は、蜀漢と締盟の涼州閥に遮断されていた。洛陽鴻臚の漢代実録から、貴霜国は、後漢西域都護の西域管理体制を破壊した最悪の仇敵、そして、既に消滅した大月氏を名乗る来貢は欺瞞と知れていた。
 西域から疎外されていた曹魏の貴霜王厚遇は、僅かに金印一個の手当であって、曹魏の真意ではなかったのである。白鳥庫吉氏の大著に学ぶべきである。

*東呉の虚構
 一方、司馬懿は西南の蜀に対する戦線を担当していたが、[中略]公孫氏の討伐を命じられ、これを滅亡させる。[中略]

コメント 司馬懿は、諸葛亮の北伐を、大敗を避けて受け流すだけで済ませて身の安泰を目的としていたが、遼東征圧に駆り出されて死力を尽くさざるを得なかったのである。幸い、勝運に恵まれただけで、遼東の体制を回復する意気は皆目なくて、結局、秦代以来の遼東郡を形骸化して、権力の空白を招いた。魏晋が、両郡を支持しなかったので、高句麗は南下し、百済、新羅まで収め、両郡は消滅した。
 ちなみに、景初二年「倭人」が明帝督促で郡治参上したのは、司馬懿戦略には、全く関係無かった。随分勘違いが過ぎる。
 魏志編纂時、東呉は「呉書」を奉呈して滅亡していた。貴霜国は、ササン朝の東進によって滅亡していた。よくよく、時代考証すべきである。

(3)魏と倭国
 当時の魏は、呉との間で鋭く対立していた。[中略]梯儁は倭国に至る行程、国情、政治・民生状況などを詳細に把握して報告したものと考える。

コメント 「倭人伝」原文の理解なしに臆測と受け売りで現代概念濫用は迷惑である。
 曹魏にとって、東呉は不服従な臣下に過ぎない。対等でないから「対立」は、誤解である。しばしば、東呉は、曹魏に服従を申し入れて時間稼ぎをしていたと見える。対立に近いのは、後漢後継と称して中原回復を標榜して北伐していた蜀漢である。
 「当時」、溯って曹魏景初年間の中國、つまり、中原井蛙の曹魏は「倭人」を知らなかったが、楽浪/帯方郡は知悉していた。勘違いしてはいけない。司馬懿は、遼東郡を全壊して古来公文書を破毀したが、楽浪/帯方郡新太守は、郡公文書庫の「郡志」を明帝に上程したから、「倭人」は明帝の知る所となった。何とか、間に合ったのであるが、景初三年元日の明帝逝去により、以後、形勢は一変したのである。

 「合従連衡」は、大国秦の一強に抗して戦国各国が展開した連立工作である。時代錯誤である。
 蛮夷に「通商」、「外交」は存在せず調べようが無い。時代錯誤連発である。
 言葉の通じない蛮夷の国での梯儁の動静は「不明」としか言いようがない。「倭人伝」は場違いの記録ではない。東方域外は不詳としている。

 念のため言うと、魏使/郡使が、下賜物を担って倭に至った行程は、「倭人伝」に記録された一路南下で明解な「公式行程」と同一かどうか不明である。勝手に背水の陣を敷いて、攻撃してこないことを望む。

◯まとめ
 以上、長々と講釈したが、氏は、恐らく、このような合理的な解釈を、まるでご存知なかったものと見えるので、僭越にも、当ブログ提起の「一解」を、殊更丁寧に述べ立てたものである。さぞかし、御不快であろうが、御容赦いただきたい。

                               以上

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号「魏志が辿った…」 1/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 冒頭に「帯方郡から邪馬台国までの行程と里程の概要」と明記し、魏志倭人伝に言う一里は現代で言う何㌔㍍かという問題を解決しておきたい」と端的です。「業界」風習に安住せず、課題(問題)を課題として取り上げ、明解な「解」を提示する困難に挑む気概は「優秀賞」の誉れを得ています。
 この姿勢に共鳴した上で、敢えて、手厳しい異論が多いのは、基本姿勢への共感の表れと見ていただきたいのです。
 改訂後の更に手厳しい批判は、投馬国道里行程論に幻滅したからです。

*冒頭提言の空転
 先の端的な宣言は、反面、本論文の弱点を示しています。凡そ、論文は、先行諸論文を理解し克服しなければ意義がありません。つまり、長年にわたり諸兄姉が明解な「解」を与えられなかった未解決課題の挫折の原因を摘発、解決しなければ、また一つの誤解と解されます。工学分野では先行技術の克服が必須であり、それに馴染んだ当方は、この切り出しに賛同できません。

 そもそも、本論は、出所不明の行程文で始まっています。後になって、石原道夫編訳の岩波文庫版の文章とわかりますが、引用典拠の後出しは(著作権視点から)不法行為です。また、追って異論と対比するように(「郡から倭に至る」を置き忘れた)冒頭の狗邪韓国までの七千里の文は、同資料の解釈に無批判に追従しています。

*換算表の誤謬
 氏は、引き続いて、奥野正男氏が2010年の著書に提示した数表「里・㌔㍍換算表」の一里89㍍に独自の意見を加えたのですが、まずは、奥野氏の論考が適確に検証、批判されていないのが怪訝です。
 とは言え、季刊 「邪馬台国」が掲載しているということは、同誌として、論文審査の上で趣旨賛成と見るもので、以下、その賛成票に異議を唱えるものです。

*里数談義
 素人考えでは、例示里数は、算用数字4,5桁で「余」有無もありますが、これら数字の根拠というか編者の真意を理解しないまま、「素直に」現代知識で計算するのは錯誤重積です。
 原史料の漢数字道里は、大半が千里単位と見えても由来が異なっていて、安易に計算できないのです。まずは、松本清張氏も指摘しているように「奇数偏重」であり、その背景として、数学で言う有効数字一桁も怪しいと見て取れるのです。
 端的に言うと、書かれているのは、7,000「里」ではなく、7「千里」なので、「余」の意義が異なるのですが、理解いただけますでしょうか。いや、多桁算用数字で表示するということは、そうした概数概念が理解されていないということなのでしょう。いや、それは、塩田氏の個人的な誤解でなく、いわゆる「通説」信者に共通しているのですが、不特定多数を指導することはできないので、塩田氏を、高位の論客とみて「マスタークラス」を講じているのです。

 本論に戻ると、「余」と概数表明してない「里」は当然概数ですが、それでいて一律と見える「余」が、敢えて省かれている場合は、別種の「里」だからでしょう。例えば、韓の「方四千里」は実測等でなく、郡が他領域と比較して、漠然と見なしたと見るのです。
 他で欠かさず「余」里とあるのは、道の「里」、つまり「道里」であり、移動所要期間に結びつくので、加算時の誤差累積を避けて中心値としたと言うことでしょう。大抵の人は早合点していますが、「倭人伝」の「餘」は、端数切り捨てではないのです。

 このあたり、陳寿は、平静に、慎重に表現を選んでいるのです。現代人が、これをして、陳寿が数字に弱いというのは、物知らずの独りよがりです。結局、そんなことを書き散らす「ご当人」が、(古代)数字に「めっぽう弱い」のを自覚していないだけです。

 古代に関する知識に欠ける「無知」「無教養」の現代人が、古代史の世界観について陳寿と知性を競うのは、「蟻が富士山と背比べしている」ようなもので、ご当人は勝っていると思っても、実はべらぼうな勘違いなのです。
 いや、ご当人以外の諸兄には、釈迦に説法ですが、現代は、誰でも、一人前に意見をぶてるので、こうした「屑意見」がのさばるのです。
 以上は、塩田氏の著作に対する批判ではない余談なので、耳障りなであればお詫びします。

*端数の意義 訂正追記
 当時の大抵の概数計算は、千里単位などの一桁算木計算で、平易で高速であり、桁違いの端数は無視してよい/無視しなければならないのです。また、十進法であったというものの、算用数字も0も存在しないので横書き多桁表示は存在しないのです。当時存在しなかった、つまり、陳寿にいたる同時代関係者が夢想だにしなかった「多桁算用数字」は誤解を招くので即刻退場頂くべきです。

 一方、戸籍集計による戸数計算は、後漢書の楽浪郡戸数のように、何百万(口/戸)あっても、一の桁まで計算しますが、これは、多数の専門官が大変な労力を要する一大事業でした。後の「晋書」地理志では、両郡の統制が衰えたため、そのような集計が不可能となり、概数になっています。

 訂正:「戸」に関する一般論は了解頂いたとしても、倭人伝の「戸」は、戸籍があっての集計でなく概算見積もりとみるべきです。何しろ、文字記録のない時代で、帳簿としての戸籍は未整備であり、郡から戸数の報告要求されたら、倭人は、管内戸数を見繕いするしかなかったのです。

 因みに、「戸」数は、各戸の農地に直結していて、管内の収穫量を申告しているものです。つまり、戸数に応じて徴税されるのです。また、各戸に複数の壮丁がいるとの解釈となるので、管内で動員可能な兵数の表れともなるのです。
 一方、「口」、つまり、今日言う「人口」に類するとみられている数値は、「倭人伝」では、特に重大な意味はなかったのです。年少者や老人、婦人の数を数えても、意味がないのです。壮丁に対しては、人数に即した人頭税が課せられたとも見えますが、ここでは別儀とします。

 丁寧に言い足すと、末盧国以降の百里単位の里数は、郡や倭人には大事であっても、全体の万二千里や、先立つ七千里、三千里から見れば、端数であり、些細なのです。

 諸兄の中には、ご不快に思われる方も多いでしょうが、「倭人伝」は、奴国、不弥国、そして投馬国と列記された「余傍の国」の精密な位置付けのために書かれたものではないのです。また、郡から倭に到る行程記事は、当時の中原人が「すらすらと」読解できるように書かれたものですから、現代でも、丁寧に読み分けさえすれば、「すらすらと」正解に収束するはずなのです。
 言い方を変えれば、道里行程記事が伊都国で決着しているとみれば、以降の奴国、不弥国、投馬国は、記事の対象外であり、「邪馬壹国」すら記事の行程外とも見えるのです。何しろ、霊帝期に「従郡至倭」の記事が書かれたとすれば、「郡」は、楽浪郡であり、倭は伊都国であって、その時点が女王共立以前となれば、「邪馬壹国」が既に存在していたかどうか不明なのです。(国名が不明という意味です)

*論外の「方」表示 不可思議な島巡り 訂正追記
 さて、両島の「方」表示は、道里計算から外すべきです。また、「方…里」は、道里と異なる面積単位との有力な説もあり、奥野氏は、不正確らしい数字を排除して計算精度を保持したと見えます。

 要するに、古代中国で「方…里」は、地形を表明したものではなく、管内の耕地面積の総計を示したもので、収穫量に連動しています。つまり、この際の「里」は面積単位(二次元)であって、領域の地形、大小を示すものでなく、まして、領域を方形で近似したものでもないのです。古典書「九章算術」なる教科書に詳解されているように、古代の検地/計算方法では、農地が、正方形、長方形、台形、平行四辺形の四角形のいずれの形状であっても、実務では、農地の中央部で、縦横を計測して掛け算するのであり、土地面積「方歩」の計算方法が明確なので、地域内の農地面積は、それぞれ、簡単に積算した上で、「方里」を計算できたのです。また、例外的な円形やドーナツ状の土地も、検地する手法が知れていたのです。
 管内の集計は、各戸の「方歩」を足していくので、管内の農地全体がどのような形状になるか不明であっても、徴税上、農地の形状は関係無いのです。もちのろん、領域内の耕作不能な荒れ地や河川流域などは、集計から除外されています。

 対海国、一大国は、「良田」、つまり、「徴税するのに相応しい収穫の得られる農地」が少ないという泣き言を入れていて、減税ないし免税をたくらんだものと見えます。従って、戸数を規準にした課税はご勘弁いただきたい」という事です。「倭人伝」に掲載された趣旨は不明ですが、一応趣旨を認めたということなのでしょう。

 因みに、「田」は、中国語では区画された農地で、倭地では「水田」の可能性が高いのですが、本来、中原の農地は、乾田が大勢であり「水田」は、例外と見られます。要は、黄土平原では、水田の「田作り」しようにも、水を通しやすい土質と降雨量の乏しい気候が災いして、水田稲作が成り立たないのです。水田からの反収とそれ以外の乾田の反収は、大きく異なることが、史料に明記されていますが、水田が成り立たなくては、水田稲作できないのですから仕方ないのです。

 と言うことで、中原農家と倭地の農家では、一戸あたりの「収量」が大きく異なりますが、その辺りの補正計算は、別儀とします。言うまでもないと思うのですが、水田稲作地帯の日射量、気温、降水量から得られる収量は、中原での穀物収量に比して、隔絶して多いのです。

 いずれにしろ、積載量の限られた渡船で、海峡を越えて大量の米俵を運ぶのは、限りなく困難(事実上不可能)なので、郡として両国からの徴税にこだわることはないと見えます。韓、倭には、「銭」がないので、中原のように、農民が産米を地域の商人に売り渡して穴あき銅銭に換金し、銭綛を納めることもできないのです。

 念のため付言すると、食糧の自給自足ができない状態では、食料輸入しない限り対海国は「持続」不可能です。実際は、対海国は、南北市糴の唯一無二の寄港地であり、当然、漕ぎ手を確保した市糴船を多数所有して運行していたので、通過する貨物から運賃なり、入出港の経費をたっぷり徴収して繁栄していたのであり、例えば、一船ごとに[米俵]を献上するようにしておけば、食料は、いつも潤沢なのです。

*市糴の話~余談 2021/12/19
 そもそも、対海国は、倭の国境であり、韓国領に荷物を売るときには、一大国のような同国人との取引で買い叩かずに手加減するのとは別で、好きなだけ値付けできるので、[国際交易]の利益は潤沢であったはずです。そのような商売をするためには、半島側の港に[上屋]海港商品倉庫を持ち、市を主催して、参集した半島内各地の買い手をあしらう、対海事務所のようなものを確立し派遣した監督者が警備の兵を雇っていたはずです。(当然、買付もしていますが、「当然」なので詳しく書きません)

 倭人伝には、対海国人は、「乗船して南北市糴する」と、要点だけを書いていますが、国として、市糴の利益を確保するためには、そのような組織が必須であり、それは、当然自明なので、要点のみにとどめているのです。この点、余り、倭人伝「對海国条」論議で聞かないので、素人考えを書き残すことにしました。

 また、古田氏提唱の「不思議」な島巡りの数百里は、倭人伝に一切書かれていないので、海中山島について何の知見も無い読者にわかるはずがなく、従って道里の勘定に入ってないのです。所詮、概数計算に載らない「はした」ですから、帳尻合せも必要ないのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号「魏志が辿った…」 2/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*狗邪韓国まで七千里
 素人考えでは、途方もない前世紀の怪物が史学界を徘徊しています。
 郡から狗邪韓国までの「街道」、つまり、中国制度で定めた連絡路が真一文字に東南に通じているのに、大きく迂回して、官制にない、危険この上ない海上を行く想定は、あり得ない、一種の怪談です。

 郡の郵便/文書便は、普段は日程計算できる徒歩行、ないしは騎馬行で、時に緊急便として騎馬疾駆するものです。いずれも、中継駅で人馬交代する駅伝を採用して日程厳守です。また、難船すれば、船ごと海のモズクならぬ藻屑になる、とにかく、当てにならない船便を起用するわけがありません。はなから、無法な論外なので、「倭人伝」に、いきなり出て来ることはありえないのです。

 あえて不法な海上経路を仮想するとしても、漕ぎ手も水先案内も屡々交代しますが、郡から僻遠の馬韓南部の物資の流通は希薄なので、そのような体制は、到底維持できないのです。加えて、南岸多島海は難破必至で、とても生きて完漕できないのです。
 韓伝も倭人伝も、そうした難関に言及してないのは「海上経路など無かった」からです。
 いや、このいわゆる、僞「水行」行程は、妖怪が不吉なら見事な画餅です。更に言うと、南下から東進に転ずる展開点が不明では、道中案内として大変な不備です。

*最初の暗転
 氏は、そのような「あり得ない」僞「水行七千里」を無批判に採用します。
 異論に挙げた古田、中島両氏の論は、「眼をつむっても歩ける」大地の「道」を通行するので、優に百年の実績があり、宿駅整備、所要日数も「郡規」になっているはずです。塩田氏は、「石橋を叩いて渡る」の故事を失念して、石橋どころか、揺らぎ続ける木船に命を預けるというのです。

 氏も引用する帯方郡下の弁辰産鉄は、所定の運送手段、最短経路で両郡に運ばれ、日限のある輸送は、不安定な海上「迂回」路でないのは明白でしょう。もちろん、当時の漕ぎ船は、重量物搬送に不向きなので、産鉄海上輸送は、実際上不可能ということになります。もちろん、郡は官道を設けて、途上の諸韓国に保全を厳命しているので、これを忌避して、海上輸送するなど、論外の極みです。

 郡~狗邪陸路ですが、郡治から概して東、南に下り、途中、竹嶺(チュンニョン)の険で小白山地を越える経路は、つづら折れを交えていますが、地図上の直線と大差なく里数は概数に紛れるはずです。(峠道と言いたいところですが、「峠」は、中国語にない「国字」なので、不適切なのです)

*「水行」の意義
 古代史史料の絶大な権威とされている渡邉義浩氏が断定されているように、史書の道里行程記事における「水行」は、太古の「禹本紀」に書かれている「水行」が、唯一の用例であり、しかも、「禹后」が河川沿いの移動手段としたのではなく、河水対岸の陸道に渡船で渡る(渉る)というものです。
 「倭人伝」で創唱された「水行」、すなわち、大河ならぬ大海の渡船行は、それぞれ千里の渡しですが、「千余里」の実測は無意味です。一日がかりの長丁場と示したに過ぎず、千里に距離としての意義はないので、現代人が地図上の「距離」なり想定航路長と対照した数字に意味はなく、郡~狗邪間の街道と同列に論ずべきではありません。
 官制では、街道十里に一亭を設け、宿舎と継ぎ馬を用意する規定であり、渡し舟行程に、宿場を設けるなど到底不可能なのは自明です。

 そもそも、三世紀に存在しなかった現代地図を持ち出した時点で、「反則退場」、再入場禁止です。

*里程論に提言
 あえて、郡~狗邪行程の陸上道里を元に「倭人伝」「里」を推定すれば、八十㍍程度で、氏の言う九十㍍と大差ないと言うか、一致しているのですが、郡が「実際に」、つまり、後漢~魏の機関として、そのような「普通里」に反する里制を敷いたとの根拠は、一切ないのです。

 素人考えでは、陳寿が、魏史編纂で、恐らく公孫氏時代に提出された原資料の「万二千里」に妥協して特に宣言した「倭人伝」「里」と見えるのです。いくら不合理でも、既に皇帝の閲覧/印璽を得た公文書は、以後一切改訂できないのです。そうでもなければ、正史としてのけじめがつかないのです。
 世間には、「史官」の使命を誤解している方がありますが、「史官」は、公文書に記載された「史実」を記録し、継承するのが、渾身の使命であり、時点の政権の意を忖度することは、方便程度に過ぎないのです。ここで大事なのは、「史実」は、公文書に記載された記録であり、それが、「事実」であるかどうかは別儀なのです。
 氏が何気なく書いた道里論を考察するには、以上のような厖大な論議をたて、更に論議を重ねる必要があります。追試のない無批判な追従は、不用意で不信を招くだけです。ちなみに、当方は、「倭人伝」戸数里数談義に挑んだものの、臆測と風聞に立脚した諸兄姉の諸論の検証に、多大な消耗を重ねたものです。

 諸兄姉が各国比定を論じる場合は、郡~狗邪行程に両論ありと流して、取っつきに『倭人伝里は、百㍍より短い八十㍍程度と見られるので、以下、この「倭里」を規準とします。』との臨時定義」が賢明でしょう。「臨時定義」 は、ある意味「地域定義」(local)であり、定義位置から、倭人伝結尾までに限定して有効です。 あるいは、提示された「倭人」世界に専用です。

 本論以前に、中途半端な口説で躓き石をまかないことです。

〇端的でない路程
 氏は、続いて、「2 帯方郡から狗邪韓国まで」と題して、行程を論じますが、「倭人伝」に関して、解釈に異論が絶えない、そして、異論が克服されていない岩波文庫の現代語訳をもとに解釈して、先に参照した奥野氏の解読などの有力な異論を参照しないのは不審です。以下、同様です。

 当記事と違って、掲載誌には、たっぷり紙数があるので、依拠資料は丁寧に明示すべきでしょう。何しろ、懸賞選外論文の隙間だらけの紙数を隙間そのままの膨満状態で掲載した履歴が残っているのですから、季刊「邪馬台国」誌は、成行で増ページして、その分を読者に負担させるという履歴から見て、掲載文に対して発行時の紙数から課せられた容量制限はないと見ているのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った…」 3/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*異論
 前回述べたように、当塩田論文は、掲載誌 季刊「邪馬台国」には珍しく、郡・狗邪韓国間の行程を陸上のものと見た古田武彦氏と中島信文氏の「異論」を紹介していますが、ここで「歴韓国」の「歴」の解釈だけをことさら掘り下げて「異論」不採用の弁としているのは不審です。
 両氏は実現不可能な沿岸航行を非としてそれぞれ立論していて「歴」は論拠の一片ですから、適否を言わなくても皮相的で軽率な評価と思われます。
 古田氏は、今や古典(博物館所蔵のレジェンド)となっている第一書『「邪馬台国」はなかった』で、定説化、因習化していた「原始的な水行」説を否定して、正論として、郡から海岸に出て暫時「水行」南下した後、上陸し、以下、図式状階段状に東進、南下して、「全体的に東南に陸行して狗邪に至る七千里陸上行程」を提示しています。素人目には、現地地形を無視した武断であり、信憑性を大いに損ねていますが、塩田氏は、不同意とせず、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 中島氏は、基本的に同様の陸上行程と見るものの、北で北漢江、南漢江、南の嶺東で洛東江に従う河川主体の輸送と見て、狗邪に到る七千里を「水行」と分類する「異論」です。 私見では、中島氏の周到な卓見を賛嘆するものの、これほどの長途を、河川航行を活用して人馬を煩わさない公式行程とするには、賛同しがたいのです。もっとも、塩田氏は、不同意とせず、また、細部に言及していないので、ここでは論議しません。

 誰の口から出た学説、「異説」であろうと、それぞれ、堅固な見識と学識に裏付けられた、頑丈で筋の通った異論なので、論理的に対峙して克服することなしに見過ごすことはできないと信じるものです。

 蛇足、手前味噌ながら、当方は、冒頭の「循海岸水行」の「循」を魚豢「魏略」「西戎伝」用例を参考に『海岸を「盾として行く」渡海を水行とする』との付託宣言と見て、郡から狗邪までを、恐らく河川沿いの「陸行」に止(とど)めた上で渡海三千里(だけ)を官制外の海上「水行」に分類する素人「異論」であり、両氏とは同舟ながら意見が大きく分かれます。

 後日の意見として、古代史史料の権威とされている渡邉義浩氏の指摘から、古代史書には、官道行程を示す「水行」が存在しない、つまり、用語として認められていないとの啓示を受け、従って、史官たる陳寿は、「水行」なる未曾有の新語を起用するに先立って、「定義文」を付設したとの見解に到ったので、「倭人伝」記事の「循海岸水行」は、後出の渡海道里を正当化する挿入句であり、後出記事こそ正史行程記事における「嚆矢」であったとここに宣言するものなのです。
 もちろん、後世正史や「唐六典」の「水行」は、陳寿「三国志」魏志「倭人伝」において定義、初出したという典拠を踏まえているのであり、「倭人伝」記事の検証の際に用例として参照するのは、本末転倒と言うべき錯誤なのです。

 論議の命は、細部に宿っているのです。よくよく、ご注意を乞うものです。

▢対馬条 以下、各国記事を「条」として見出しとする。
*范曄「後漢書」再評価
 氏は、素人目には魏代史料として圏外、二流の范曄「後漢書」が「国々皆王と称す」と「倭人伝」を越えたと見て「対馬に王あり」と見ますが、当方は、当初早計と断じました。
 ところが、近刊の古田史学論集 第23集 掲載の野田利郎氏の「伊都国の代々の王とは~世有王の新解釈~」は、豊富な古典用例に基づき後出倭人伝伊都条「丗有王皆統屬女王國」「世に有る王は、皆女王国に統属する」と読み、「倭人伝列国に皆王があり女王に属した」としています。
 定説が「丗有王」を「世世有王」と改竄して、「伊都には歴代王がいる(が、他国は特記しない限り、王がいない)」と伊都特定記事と見たのが早計としているのです。いや、さすがの古田氏も、この原本改定は見逃していたようです。
 つまり、定説に無批判に依存して、「倭人伝に対馬に王在りと書いてないから、王はいなかった」と決め込んだ当方の史料解釈が「早計」かも知れません。
 野田氏は、范曄が、倭人伝の紙背を読んで明解に書き立てたと見て、素人目には「倭人伝」界で、大いに不評の「笵曄」株を上げる、一聴に値する論考としていて、小なりと言えども首尾が整っています。

 但し、素人目の魏代記事評価における「陳寿第一范曄第二」、つまり、「陳一范二」の位置付けは、一片の功で変わるものではないのです。いや、これは、あくまでも個人的な戯れ言ですが。

 古田史学会誌は、ことのほか厳しい論文査読で定評があり、ここでも精妙で画期的な論考を査読、提供しています。
 今後、当論文に関し、広く追試や批判が出て来るものと期待しています。

 以上の評価を公開したところ、当方が野田利郎氏の提言を支持したと見て詰問するコメントが来ましたが、当方は、論考の展開に賛意を示しただけで、野田氏の提言に同意することは留保したものが、外野から非難されて、大いに心外だったものです。
 事実、野田氏の提言には、同意できないとの見解に傾いています。

*異論
 塩田氏の季刊「邪馬台国」誌論稿に戻ります。塩田氏は、「対馬陸行」について、榊原英弘氏の論に言及していますが、実現不可能な長途の沿岸航行を無思慮に図示する方の意見は、簡単に採用できないと思います。いや、これは、榊原氏の人格を攻撃をしているのではなく、「千慮の一失」を殊更角を立てて批判しているものです。

 素人目には、狗邪から対馬の北側に乗り付けた後、海流の厳しい、南北に延びた海島を「島巡り」回航、続航するのは「渡船」の任務を食みだし、回航は漕ぎ手に無用の消耗を強います。そんな無理、無駄をしたら、両島生命線の市糴を維持できないでしょう。

*「船越」考古学~余談 2021/12/19
 對海國では、西岸に到着した海船を浅茅湾の入り江に収納し、船を残して人と物を端的に陸峡越えさせ、南東側から、対馬~一大渡船に乗り継ぐのが、合理的で順当な運用と思われます。
 因みに、現地地名から、陸峡部を船を担いで乗り越えた伝承が語られているようですが、軽快な渡船といえども、船体重量は、小数の労力で担えるものではなく、また、いかに丸太などを敷いて曳航を滑らかにしても、船体底部に損傷が生ずるのは避けがたく、とても、対海国の生命線を担う渡海船をそのような苛酷な陸越えに供するものではなく、何らかの誤伝と見られます。
 何しろ、現地事情を知らない奈良盆地内陸の事務官僚が、全国地名整備の一貫として、由来をこめて造作したと思えるので、誤解を避けられないのです。

 実際面から見ると、陸峡の向こう側には、軽快な渡船が待機していて船体を運ぶ必要が「まるで」ないことから、「船越」は、船荷の峠越え』と見る方が、合理的で理性的な見方でしょう。船荷は小分けできるので、地元自由民が分担して運べば、ちょっとした駄賃で人手に不足はないのです。こうして、誰も酷使しないのが連年実施できる合理的な輸送法なのです。陸上の荷担ぎは、誰でもできるので、人海戦術ができ、また、交代で取り組めるので、酷使にはならないのです。長期に亘って継続できる、合理的な運行方法と言うべきでしょう。

 特に、「船越」は、陸峡部の短距離でさほどの険路ではないので、「禽鹿径」と評したのにとどまっています。南北市糴は、漕ぎ船の制約から、軽量、少量の貴重、高貴な物品を運ぶことから、荷担ぎの負担は、一段と少ないものとみるのです。
 但し、巷説の魏帝下賜の貨物は、銅鏡百枚を含む相当の重量貨物ですから、例外的に重荷ですが、いずれにしろ、漕ぎ船で運べるよう小分けして便数を重ねたはずであるから、それぞれの便に際しては、頭の黒い痩せ馬にも十分担(にな)える重量だったはずです。
 要するに、地元住民を動員して、無理なくこなせる「船越」であったと見るのが、ずいぶん合理的です。

 こうして、塩田氏は、對海國で「険路数百里」の陸送と移動を想定していますが、何かの勘違いでしょう。誰でも勘違いはあるので、読み返して、「検算」した論文を提出して欲しいし、論文審査も、このような勘違いは検出して、是正してほしいものです。権威ある季刊「邪馬台国」の規準は、維持されるべきだと思うのです。

*渡船の使命~「漕ぎ継ぎ」の合理性
 対馬~一大渡海は、俗説では極めつきの「激流」とされていて、古田武彦氏は、現実の壱岐島が、海流に身を細めていると憶測しましたが、幅広い海峡を滔々と流れる海流が、岩壁を削る荒波を打ち付けているとは、観測されていないと見えます。陳寿は、遙か彼方の中原の「井蛙」であって、現地を訪れたことは無いものの、現地の海況は、「翰海」、つまり、薄絹を流したような艶やかなさまと評されていると伝えていて、現代の書斎史家の憶測を越えています。
 現地の海況が苛酷であったとすれば、それなりに最強の漕ぎ手と船腹が必要ですが、他の渡海では、そのような重装備は大変な重荷で、舵が効きにくいので危険でさえあります。それほど苛酷でない「渡船」区間では、軽量の船体で、少数の漕ぎ手でも、運用できるはずです。その土地、海況に応じた船が、短い区間で運航したはずです。ということで、問題提起だけしておきます。ちなみに、渡船は、区間限定で便船に漕ぎ手を載せます。「倭人伝」も区間ごとに、決まった船と漕ぎ手を運用するのは、当然、自明なので書いてないと見ます。同一の船と漕ぎ手で長途一貫なら、特筆、特記したと思うのです。
 難所を越える漕ぎ手は、力自慢とは言え、生身の人間ですから、連日、難所を漕ぎ渡ることなどできなかったのです。普通に考えれば、漕員総交代、恐らく、船ごと代えたものでしょう。各国、各地で、渡し舟はありふれていますが、力漕が必要な区間を連日漕ぎ続ける渡し舟は、まず見かけないでしょう。いや、渡船は、大抵は、軽快なものなのです。
 当方は、別に、同時代に同地で渡し舟を運航していたわけではありませんが、時代を経ても相通じると思える「人の行い」を基礎に、長期にわたって、安定して持続可能な運航方法を考えるのです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った…」 4/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「禽鹿徑」談義

 「禽鹿徑」は、道里行程用語ではなく、つまり、「径」は、「道」「路」と異なり、官制外であって路面整備も宿駅もないのです。
 倭地に「道」や「路」が一切ないわけはありません。「市糴」は大小軽重交易物の搬送で「道路」が必須です。ここは、例外特記なのです。何しろ、対海国では、渡海して至り渡海して去るので、陸上行程は官道ではなく道里もないのです。
 つまり、「禽鹿徑」は、恐らく峠越えの近道、間道で、例外的に路面が荒れた坂道であり、二本脚の「痩せ馬」が喘ぐような隘路との趣旨でしょう。「市糴路」とすれば、ほんの一部としか思えないのです。
 因みに、某サイトで、「けものみち」と称する写真が、無造作に掲示されていましたが、何も「みち」らしいものは映っていないので、困りました。いくらけものでも、藪が踏み分けられていなければ、通れないのです。まして、人馬といいながら、馬や騾馬の力を借りられないのでは、頭が黒い「痩せ馬」のお世話にならざるを得ないのです。(峠は、「漢字」ではないのですが、適当な中国語が無いの、代えられないのです)

 これまでに出てきた郡・狗邪の長途は、通い慣れた、人馬の通行を前提に整備された街道筋であり、概して「陸道」です。半島中央の小白山地の竹嶺(チュンニョン)越だけは、鹿数頭が並べる程度の山道(three deer abreast?)と見えるので、一見「禽鹿徑」のようですが、傾斜を緩和するつづら折れは人馬の路ならではの整備された姿です。と言うことで、寸鉄人を刺す史官の筆を見くびるのは損です。

 因みに、後に、末羅国でことさら「陸行」と書いたのは、そこまでの「道」のない不正規の渡海「水行」が、正規の「陸道」に戻ったと確認しているのです。別に、一貫して渡船に乗り続けたものではないのです。(以下、「倭」すなわち伊都国までの行程道里で、陳寿の辞書による「水行」はないのです。つまり、投馬国への「水行」は別儀なのです)

▢一大条~余談あり
 氏は、榊原氏の言う「一大島内陸行」を否定する論拠として、「倭人伝」に記述がないことを挙げますが、書記役や史官が自明と見た記事は割愛されるのです。氏は、他にも、一国で特筆されている事項は、他国でも共通と談じていますが、無断で省略して良いのは、古典、史書で自明とされた事項であり、他は、明記して省略してはならないのです。「倭人伝」は、列伝として認知されていたわけではないので、最低限の念押しは必要ですが、まあ、程度問題かも知れません。

 何しろ、一大国の海津に到着して、国治に行くには、「陸道」が不可欠なのです。いくら、一大国領が低山でも、荷船で漕ぎ登るのは、無謀と云うべきです。郡使や文書使は、荷物無しに参上し、末盧国に向けて便船が用意されている海津に下れば良いのです。言うまでもないのですが、結構誤解している方がいるので、付け足しますが、郡使一行は、徒歩で進むことはないのです。
 丁寧に考察すると、一大国は、太古以来、南北に限らず東西も含めた市糴の要となっていた先進の国なので、いくら「牛馬がいない」と総評されていても、荷役、交通のための馬や驢馬、騾馬がいなかった保証はありません。

 市糴の陸上搬送は、小分けして担ぐので担い手に事欠かず、また、日程厳守の文書使等と違い、寸秒を争わないでよいので、万事ゆるゆるです。そもそも、東夷の市糴は、量が知れているのです。むしろ、弁辰産鉄の両郡納入がお荷物でしょうが、その分報われるのです。

*「禽鹿径」 再考
 ここで再確認すると、対海条で「禽鹿径」と書かれているのは、その区間の特定の部分を述べているに過ぎないのです。また、一大国に陸上行程があったとしても、と言うか、恐らくあったのでしょうが、あくまで、渡海船の常用する「径」であって、官道ではなく、従って、道里もないと見えるのです。
 ただし、「倭人伝」には、「南北市糴」と書かれていますから、相当量の荷物が往来していたのであり、人が背負って運ぶにしろ、ある程度の整備はされていたとみるべきです。根拠なく倭人の知恵を見くびってはなりません。

 一部論者は、「倭人伝」の悪路を、倭地の普遍的なものと見ただけでは収まらず、韓地内の状態も同様であった、即ち、韓地内の陸上移動は、危険であったと言い立てていますが、根拠のない暴論に過ぎません。韓地官道には、小白山地越えでつづら折れの山道はあっても、蜀の桟道のような崖に貼り付いた官道などないのです。

 それにしても、一部杞憂を示されている向きがあるので、くどく念押ししますが、ますが、倭地を往還する魏使/郡使は、文官が主体の士人ですから、自ら荷運びの労を担うことはないのです。中国で標準の四頭立て馬車(詩経に云う「四牡騑騑 周道倭遅」)はともかく、軽装の馬車が存在した証拠すらありませんが、史記「夏本紀」の禹后も、輿に乗って山行したと明記されているので、倭地で、貴人を輿に乗せたとしても、非礼には当たりません。
 と言うことで、正使、副使には、輿などの便が供されたはずであり、士人が、蛮地の泥に足を置いたとは、書かれていません。

 こうした自明事項を見過ごした論議は、「非常識」で難物です。

▢末盧条
 素人考えですが、渡船は元来直行のみであり、市糴の荷物を運ぶためには、船を大型化するのでなく数で稼いだのです。つまり、極力便数を増やしたものと見ます。ついでに言うと、三世紀当時、「倭人」世界には、ノコギリやカンナなどの高度な鉄鋼「大工道具」は普及していなかったので、渡船に相応しい軽舟を越えた荷船は、造作できなかったとみるべきです。ついでながら、鉄鉱農具もなかったので、倭地の各戸は、人手で、石鍬などを駆使した農耕だったので、戸数を表示しても中国基準の収穫はできなかったのです。

 渡船が着くと、手近の「臨海倉庫」に荷揚げして陸送に委ね、新たに荷を積み漕ぎ手を代えて、手早く折り返しの帰り船としたと見ます。
 目的地に深入りして、輸送手段のある陸地に上陸できるのに、いたずらに航路を延ばすと、漕ぎ手が多く必要となり、そんなことでは、積み荷を大して積み込めない渡船の槽運収益は出ないのです。現代風に言うと、難所の漕ぎ手という専門職、高給取りの人件費がどんどん募るのです。
 まして、荒海を漕ぎ渡るために頑丈に作られた渡海船で、内陸河川を漕ぎ上るなど無謀そのものです。既に述べたように、渡海船の山越えなど、これまた無謀の極みです。漕ぎ手込みの全重量の大半は、船体であり、急流の多い倭地の渓流を遡行するだけでも無謀です。非常識は、時代を越えて非常識なのです。

*草木繁茂
 書かれている「草木繁茂」ですが、酷評だけではないのです。
 各国は、市糴の運送、通行に支障ない程度に公道を整備していたはずです。それでも、ちょっと油断すると草木が繁るのは、温暖湿潤な倭地ならではの現象です。稲作の繁盛が想定されていたのかも知れません。これは、乾燥した黄土地帯ではあり得ない景色を特筆(誇張)した賛辞かも知れないのです。
 末羅国は、山の迫った海辺ということですが、戸数から見て、結構、農地があり、農耕に勤しむ住民がいて、道路整備に人手不足は無かったはずです。古来、勤労動員は税の要素であり、荷運びにも動員できたのです。後世、律令制度で定めた租庸調と並べた税務三要素の一件なのです。

▢伊都条
*戸数談義
 翰苑所引魚豢「魏略」引用による萬戸想定は、子供じみた錯誤でしょう。
 「魏略」は、魏朝史官の手になる同時代一級史料ですが、「魏志」裴注での「西戎伝」全文引用が、魏志同等の最上の継承がされているのに対して、残る諸書所引の佚文は、所引された時点から史料として粗雑であり、それも、子引き、孫引きのうろ覚えと推定されます。
 就中、「翰苑」残簡に引用された魚豢「魏略」佚文は、筆写継承の過程で累積したと思われる誤記、誤写が多発していて、厳格な史料批判無しに、文献史料として依拠すべきではないのです。
 伊都国戸数の史料と見ると、信頼すべき史料と検証されている倭人伝に、千戸単位で書かれている以上、信頼性を検証されていない「萬戸」は、誤記とみて直ちに排除すべきなのです。この点、本末転倒の議論が徘徊するのは、当分野独特なのか、国内史学会の遺風なのか、不明ですが、場外に排除すべきです。

 史料評価て言えば、「翰苑」残簡は、魚豢が責任を持った「魏略」原著の適確な所引/引用とは見えず、そのようないい加減な資料に依存する論理のすすめ方は、粗暴、乱雑です。当ブログ筆者は、入念に「翰苑」残簡の影印本の諸処を点検した上で、史料として信ずるべきでないと提言しているのであり、勝手な印象批評で述べているのではないのです。

 それとも、諸兄姉の手元には、「千」と「萬」とを誤写した正史異本史料が山とあるのでしょうか。
 正史を訂正するには、参照資料を厳密に史料批判するのが先決です。文献解釈を、見くびっているのではないでしょうか。
 史料としての信頼の置けない「ごみ同然の佚文」で、正史として編纂され継承された大部の倭人伝を改竄するのは、度外れた不当な処理です。
 伊都国戸数を言うならば、倭人伝の千餘戸を断固維持するのが正論でしょう。

 それにしても、信頼性が不確かなほど、記事が極端なほど、史料として厚く信用されるというのは、どのような妖怪の仕業なのか、いや、別に取り憑かれたいというわけではないのですが。

 因みに、「戸」は、耕作地割り当て、課税、徴兵、労務動員の際の規準であり、必ずしも、成人人口の要素ではありません。
 例えば、王の居処が、国家の中枢として機能するには、多数の官奴、公務員を要し、また、公費で雇っている公務員に課税するのは無意味であり、また、公務員を勤労動員したり派兵したりすると、国家の機構が機能しなくなるから、官奴の戸を、一般世帯並みに戸数に計上して、課税、徴兵、労務動員 の義務を課してはならないのです。
 また、王の居処は、必然的に農民比率が低いので、各戸に耕作地を割り当てないかも知れないのです。と言っても、全ての官奴が、専業だったかどうかは、わかりません。
 と言うことで、伊都国は、農戸千戸程度であっても、大国、ここでは人口規模の大きい国だった可能性が、十分にあるのです。

*国邑談義
~再訪
 倭人伝冒頭で予告されているのは、以下の郡倭行程上の各国は、「国邑」、つまり、殷代に中原で展開していたような小規模な隔壁集落という確認であり、伊都国は、後代の「国」と比較して、小規模であった可能性もあるのです。少なくとも、倭人伝は、行程上の各国、対海国、一大国、末盧国、伊都国は、せいぜい数千戸規模の国邑と統一されていて、そのような世界観に従うべきです。
 因みに、倭人伝の行程記事から見ると、奴国、不弥国、投馬国は、余傍の国であり、行程上ではないので、無造作に、数万戸と書かれているものと思われます。あるいは、風聞でしかない「レジェンド」、つまり、雲の上の「国」として書かれているのかも知れないのです。

 「倭人伝」の語法、世界観が理解できないために、自説となっている「思い込み」に合うように、不合理な「原典改竄」に走るのであり、虚飾を棄て、わからないことはわからないと認めるべきであり、自己中心の尺度で塗り込めるべきではないのです。

 伊都の「津」、船着場に文書や使者が来たとは、身軽な文書便等は、渡船と別仕立ての便船で脚を伸ばしたとの趣旨でしょう。道里談義は、よくよく考えれば明解ですが、当時の常識を知らない現代人の勘で安直に理解できるほど単純ではありません。

▢諸国条
 以下、氏は、奴国、不弥、投馬を有力国と見て、国内後世資料や考古学所見、現代地図まで援用して滔々と論じますが、当方は、伊都~倭直行道里専攻で絞り込んでいるので、これら「有力国」論は圏外、無縁としていて、地理、風土、地名論、国内史料論共々、謹んで読み飛ばしました。おかげで、万事明解です。
 そもそも、これら「有力国」が、倭人伝にとって重要と見ていれば、このような書き飛ばしでは済まないのです。倭人伝が主題としている諸国は、行程上の諸国であり、他は、あくまでも余傍のなかば無名の「レジェンド」に過ぎないのです。

▢最後の道里論~根拠を隠した異様な提示
 氏の諸国道里論は、世上流布している直線行路を採らず、古田氏創唱と思われる不弥起点放射状行路に見えますが、所要期間は郡基点としています。どうも、ぽっと出の生煮え新説に無批判に飛びついてさっさと書き抜けたのは、巷間、異議轟々予想され、論文として不用意と見えます。
 いや、文意を察するに、氏の支持する河村哲夫氏の指導に従ったものでしょうが、肝心の河村説は、どこにも示されていません。
 参考資料に掲載はされているのは、一般に流通していないカルチャーセンターの講義資料であり、席上配布を受けていない、不参加の一般人には、その内容を知ることはできませんから、先行資料となることはできないのです。ということで、氏の帯方郡起点説提示は、大変無責任なものになっています。
 以後、諸資料を確認していますが、投馬国への水行二十日が、郡起点であるという根拠は、見当たりません。

 これでは、河村氏の史学者としての名声に泥を塗る形になっています。もっとも、このような大胆な論断を、河村氏ご自身が、参照可能な論考の形で発表していない点が事の起こりと見えます。発表されていたら、著作を参照していると思われるのです。河村氏は、史学者を自認していないのかも知れませんが、何しろ、氏の講義録の原文を目にしていないので、勝手な推定に過ぎません。
 いや、後日、史料を取り寄せたのですが、典拠となる記述は見当たらないので困惑しています。
 ただし、道里記事が冒頭「従郡至倭」で開始し、諸国を経た後、「女王の居処」が結末となって、その後に、全行程の水行陸行期間が続いたとの解釈なら、大局的には同感できます。たたし、真理は細部に宿るので、別に大した同感ではないのかも知れません。

*「国邑」道里観~2021/12/11, 19
 私見では、倭人伝の世界観に従うと、伊都国の王城である「国邑」と女王居所の王城である「国邑」は、中国古代の聚落の定型として、共通した外部隔壁に囲まれ、同一聚落に包含されていたとも見えます。とはいえ、冒頭に各國邑は山島上に存在するので中国太古の「国」と異なり、隔壁で囲まれていないと示唆されていて撤回されていないので、伊都国國邑と女王国國邑は、お隣さんかとも見えるのです。
 であれば、伊都国から先の道里は存在しないのです。この見方は、古田氏の見解と似ていますが、古田氏は、両国とも、王城はそれぞれの「広がりを持つ」支配領域内にあって、王城同士は直接隣接していないが支配領域が接しているので、道里を計上しなかったというものであり、中国古代の常識として、国間道里は、王城間の道里とすると言う定則に反していて、世界観が異なります。

 なお、「千里」単位の道里表記では、十里代の道里は書きようがないし、郡倭道里は「千里」単位のもので、「百里」単位の道里は、積算計算に乗らず、まして、「十里」単位の短道里わ表記すると計算に弱い「読者」を混乱させるので、このあたりの道里は、表記を避けているものと思われます。
 以上、この場では説明しきれないので、店仕舞いします。 

▢異様な投馬国道里
 細かく言うと、氏による有力国でありながら道里不明の傍路で済まされている投馬国行程の扱いが何とも面妖で、良くこのような形式不備の論文が、季刊「邪馬台国」誌の懸賞論文審査を通過したかと不思議です。

 氏の主張する内容は、氏の考察の結果、氏の見識の反映ですから、尊重するものですが、論文としての形式不備は、それ以前の低次元の欠点なので、ことさら「非難」するものです。

                                未完

新・私の本棚 塩田 泰弘 季刊 「邪馬台国」第131号 「魏志が辿った…」 5/5 2025

「魏志が辿った邪馬台国への径と国々」 2016/12刊行
私の見立て 星四つ ★★★★☆ 不毛の道里論の適確な回顧 2020/04/08 改訂
   対象部分 星一つ ★☆☆☆☆ 無責任な投馬国道里 2020/09/03 2021/12/11,19 2022/11/20 2023/06/12 2025/01/26 09/17 11/12

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「異論」の究明
 あわてて取り上げたのは、ある程度通じた作業仮説なのでしょうが、塩田氏の提言された『「郡~投馬」行程の後半は傍路であり、傍路諸国は不詳』といいながら、わざわざこう書いたと見る理由が不可解です。陳寿は、確固たる編纂方針を貫けない「魯鈍」なのでしょうか。ことは、倭人伝の冒頭、せいぜい五百字程度なのです。

 内容を見ると、郡からの七「千里」沿岸航行に続き三度の渡海、計三「千里」で、計十「千里」(一万里)となり、郡から末盧までの途方もなく遠大な行程を「水行一日千里」で「十日」行程とした上で、残る末盧から陸行(二千里)一ヵ月(一日七十里で三十日)で、王の居処に着くものと見ていますが、それ自体は明快です。

 ただし、投馬行程に明記された水行「二十日」は、郡から末盧国に至る水行「一万里」、「十日」に対して、残る「十日」の行程が続いているとの特殊な解釈は、一から十まで氏の所説としての筋が通らず、持って回ったこじつけで、根拠不明です。
 仕方が無いので、一読者として検算します。

〇万里の彼方の投馬国
 氏の推定を按ずるに、郡~末羅の水行十日は、万里十日、一日千里の速度となり、一里90㍍なら一日90㌔㍍ です。中原官道では、騎馬も想定した上で一日25㌔㍍ 程度と設定されていますが、これはその四倍近い快速であり、とんでもない齟齬です。
 一方、末羅から陸上移動一ヵ月は、騎馬も馬車もない人力行程であるので、一日10㌔㍍程度と見ても、行程道里が300㌔㍍になんなんとして九州に収まらず、別の齟齬です。

 また、投馬国への残りの水行十日は、道里として万里となってしまいます。要は、氏の言い分では、半島を通過した上に海峡を渡るのに匹敵する「水行」が必要という事です。どこまで行きたいのでしょうか。

 当論文には、こうした初歩的な検算すら書いていないのです。

〇もう一つの異論
 当方は、郡~狗邪の半島内行程は、「当然、自明」の「陸行」と見ます。古来、公式道里、行程は、陸上の街道行程であり、従って、殊更、「陸行」とは書いてはならないのです。何しろ、行程の出発点は、帯方郡の郡治、つまり、内陸の一点であり、当然、陸上を行くのです。具体的には、東に進んで北漢江の流域に下り、以下、流路沿いに南下すれば、確実に、南漢江との合流点に到着し、そこから、さらに流路沿いに南下し、河流に沿って北転し、山路を登れば、小白山地に到着するのです。既に、百年以上運用され、弁辰鉄山の産鉄が両郡に納入された公道(Highway)でもあります。

 記事で直後の「循海岸水行」は、後出の渡海を「水行」と呼ぶと予告するものであって、世上誤解されているように、行程の成り行きを書いたものではありません。

 郡から「東南」方の倭に向かうのに、いきなり、大きな迂回となる黄海岸に向かうはずはなく、街道は半島内を自然に「南下」するのですが、「当然、自明」なので書いていないのです。倭人伝の道里行程記事の意味を理解すれば、「道里」の測れない、日程の確定できない不規則な移動が予定されていると想定するのは、大間違いとわかるはずです。
 一部には、帯方郡が黄海岸よりであって、当時存在する筈のない「海州」なる海津を想像していますが、根本的な誤謬として、官道を海上航行とするのは、違法行為であり、強行すれば郡太守が、皇帝命で馘首されるという難点が解決できないので、「作業仮説」にすらなり得ないのです。

 ちなみに、当時は「州」は、複数の郡、国を包括する広域権威であり、単なる郡海津に「海州」と命名することは、不法なのです。数世紀では済まない時代錯誤が罷り通っているようですが、提唱者が不明なので、是正勧告しようがないのです。
 いや、別に、塩田氏が、「海州」を提唱しているのではないので、あくまで、余談です。

 倭人伝」独自で官制に無い新規の「水行」十日は、狗邪~末盧間の三度の渡海、計三「千里」に限定であり、一日三百里、25㌔㍍と見ます。ただし、海上に「道」は無く、また、行程の途上で、街道に規定の十里ごとの宿所は無く、と言って、船中泊するものでもないので、一日三百里と称するのは、全く無意味なのですが、「水行」「陸行」と並記するので、一日あたりの行程を計算してしまうのです。

 「陸行」の大半七「千里」は郡街道であり、一日三百里で二十日強と見えます。残る末盧から十日行程は、現代風に言うと「道路事情」不明ですが、そこそこの市糴道と推定するものの、とにかく未開地なので、実情はわかりません。全体が「陸行一月」で「確定申告」しているので、多少の支障・遅延は、想定済みというものでしょう。

 以上、文献上の論拠は乏しいものの「論」の筋は通ると見るのです。

〇論文審査の不備
 当論文で、この点のダメ出しがされてないから、本誌は論文査読で簡単な検算をしないのかと見るのです。これは、文系、理系の問題ではありません。新米社員でもできる単純な検算です。率直に言うと、怠慢です。生身の人間には、時に勘違いはありますが、最後に控えた編集部査読は、いわばサッカーのゴールキーパーであり、取りこぼしは即失点です。おかげで、塩田氏は、簡単な検算もできない数字に弱い論者として、当出版物が長く記録に残るのです。勿体ないことです。

〇是正~ダブルチェック
 やるべきことは簡単です。暗算とは言わないまでも、筆算ででも検算するのです。検算は、一回でなく、縦横を変えて二回行うのです。そして、計算が合わなければ、入れた数字が間違っているか、計算が間違っているかです。是正とは、誤りを見つけて適確に正すことです。それが、実務の形です。

 今回の事例で言うと、投馬道里が帯方郡基点との見方も、郡・狗邪を海上七千里との解釈も、揃って間違い」であり、とすれば、堂々と再考できます。お手数ではありますが、そのような面倒な検算で間違いを発見した後、誤入力、誤算を是正すれば、順当な正解に至るのです。結果だけ見れば、すらすらと行ったように見えるかも知れませんが、そのように見せるためには、検算、推敲が欠かせないのです。

 具体的に言うと、投馬国行程を郡起点から外し、狗邪までを「水行」から外せば、「水行、陸行」は、明解です。
 この場合、大局を正せば細部は付いてきます。大事な所論の足場は、灼いて槌打ちし水中に投じて鋭鋒とすべきです。不愉快でも、論文は火と水の試錬で確立するのです。時には自分自身でです。

〇まとめ
 当方は、善良な読者ですから、季刊「邪馬台国誌」の課題論文優秀賞作の書評に取り組みました。冒頭提言での落胆に続く、締めくくり部の落とし穴に憤慨したのですが、今さら棄却できないので公開しています。

 いくら新鮮な取り組みの意気込みは壮と見えても、論文の本分である正確な考察と闊達な論考が、提示から結論に至るまで、適確な手順で展開、論述されていなければ、冷静な読者の信を得て、世論を動かすことはないのです。

                               以上

2025年11月11日 (火)

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝 1/2 2025

                             2020/03/16 2025/11/11
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当ブログの守備範囲は「倭人伝」談義であり、一般的に、これは「魏志倭人伝」の通称ですが、正史の中でも、晋書は「倭人伝」を備えているので、ここでは、「もう一つの倭人伝」談義を試みています。

▢晋書紹介
 晋書は、中国正史二十四史において、「史記」、「両漢書」(漢書、後漢書を合わせて、漢朝一代の正史と見た呼び方)の「三史」の後に位置し、三国志に続いていて重要な地位を占めています。対象は、西晋(265~316)、東晋(317~420)を通じた司馬晋の百五十五年間であり、一部、魏代に政権を掌握した司馬氏の功績も記述されています。

*編纂経緯

 晋書は、南朝滅亡後、隋による統一を継いだ唐において、王朝興隆の基礎を確立した太宗の治世下、重臣房玄齢によって編纂されました。房玄齢は、太祖李淵の次子李世民に仕え、太子李建成を廃して二代皇帝となるのに知謀をもって大いに貢献したことから、太宗期に重用されています。
 当時、房玄齢は、尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史、つまり、最高位の重臣であって、合わせて史書編纂の最高権威とされ、編者とされていないものの、当時編纂のできていなかった「北斉書」・「周書」・「梁書」・「陳書」・「隋書」を総括して主宰し編纂ましたが、特記して、褚遂良らと共に「晋書」を撰したと記名されていますから、唐朝の国威を示す国家事業である諸国史編纂にあたり、特に晋書を重視したと思われます。

 因みに、南朝の劉宋、斉の史書である「宋書」、「南斉書」は南朝梁代の編纂史書が正史とされています。また、北朝魏の正史であって、時に三国志の魏書と混同される「魏書」は、混同を防ぐため「後魏書」、さらには、「魏収後魏書」と呼ばれますが、北朝齊(北齊)の魏収の編纂した「正史」とされています。

 唐代以降、正史の編纂は、多数史官の共同編纂となり、陳寿「三国志」、笵曄「後漢書」が、個人著作、私撰とみなされたのとは時代を画しています。
 特に、太宗が指揮した「隋書」、「晋書」は、官撰と言っても、勅撰に近く、正史として国庫に納められた後、写本は、厳重に管理されていて、蕃夷の入手は、長く禁じられていたと見えます。

*笵曄「後漢書」考 2025/11/11
 笵曄「後漢書」は、劉宋代に、編纂していた笵曄を大逆罪に連座したとして斬首し、未完成の「後漢書」本紀、列伝を接収したものの、共同編纂者の担当した「志」は地に埋もれて喪われたので、後年、西晋司馬彪の「続漢紀」の志である「続漢志」を併合して、後漢書とする習わしが生じていたものを、高宗皇太子武則天の実子であった章懐太子李賢が、笵曄「後漢書」に司馬彪「続漢志」を付属した「後漢書」を、司馬遷「史記」、班固「漢書」とあわせて、三史としたため、正史となったものです。
 従って、「正史」と認定された笵曄「後漢書」は、官撰史書に準ずるものとして厳重に管理されたものと見えます。
 但し、言わば、唐代に先立つ在野の時代、笵曄「後漢書」の写本は、比較的緩やかに管理されたと見えるので、陳寿「三国志」に近い認知をされていたものと見えます。

*全巻構成

 晋書全巻は、三国志の六十五巻に倍する百三十巻に達しています。また、正史の要件である天文、地理などの「志」も完備しているものです。

 西晋が全国支配した王朝であることも考慮して、大部の史書としていますが、折角陳寿が、魏志の編纂で確立した切り詰めた正史のお手本を外れて、 裴松之の不本意な野史取り込み付注をも越えて、司馬氏毀損の伝聞まで盛大に収容したという「風聞」がありますが、その当否の程は当記事の圏外です。何しろ、「晋書倭人伝」は、一瞥で読み取れる字数ですから、山成す先入観を棄てて史料だけ読み取れば良いのです。

 いずれにしろ、「晋書」は、先行する晋書稿があったにせよ、東晋を継いだ南朝の滅亡によって散逸しかけていたと思われる晋代資料を、唐代の権威筋が衆知を集めて、玉石混淆の史料の山から総括したものと見られます。

 因みに、別記事で考察した「晋書地理志」は、太古(殷周代)以来の里制変遷を網羅し、大変貴重です。端的に言うと、晋が全国に布令した秦制は、実は、周制そのものであり、周代以来一貫して「普通里」が施行されていたことが読み取れるのです。

 とかく趣旨を誤解される始皇帝の布令は、春秋、戦国時代の各国が、周制を遵守せずに、長短バラバラの度量衡、土地管理制度、里制を敷いていたのを、秦制、つまり、周制に統一したものなのです。

▢倭人伝の所在・呼称

 晋書「倭人伝」では、雑駁な呼び方とも見えますが、正式に「晋書/卷九十七/列傳第六十七/四夷/東夷/倭人」条とでも呼ぶのも、長蛇の観があります。当ブログは「倭人伝」散歩道でもあり、俗を避けずに「晋書倭人伝」とし、本稿では、時に「倭人伝」と略称します。

 「魏志倭人伝」と同様、「晋書倭人伝」は、「倭人在帶方東南」の地理紹介で始まるので、中国古典書籍の呼び方では、冒頭二文字をもって「倭人」と称され、大抵は、史書の頂点から下ってそこに到る階梯数段の深さを無視して「伝」と見なされているのです。要は、具体的な記事のまとまりが「伝」と呼べるのなら伝と呼べば良いという割り切りです。

 但し、倭人「伝」と言いながら、「晋書倭人伝」の大要は、「魏志倭人伝」の抜粋に止まっているので、「伝」の要件を欠いているとも見えますし、先行史書に書かれている事項は出典を書かなくてもここに書かれていると見なせるとの観点であれば、既に「伝」の要件を備えていることになります。別に、潔癖になって得られるものはないので、当記事含め、当ブログでは、「晋書倭人伝」と呼んでいます。

 以上面倒ですが、素人なりに、確認の手順を踏んだことを書き遺すものです。

                                未完

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝 2/2 2025

                             2020/03/16 2025/11/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭人伝」引用
 今日、維基文庫を参照すれば、四庫全書版テキストを参照、引用できます。
 字数が少ないので、ここに全文引用しますが、当史料は、著者没後百年以上経過しているので、著作権の消滅している公有文献として扱えるのは、いうまでもありません。その際、引用元を明記するのは当然の義務です。これは、読者の検証を可能とするものでもあります。

*本文引用 四庫全書版 (維基文庫による)
 倭人在帶方東南大海中,依山島爲國,地多山林,無良田,食海物。舊有百餘小國相接,至魏時,有三十國通好。戶有七萬。男子無大小,悉黥面文身。自謂太伯之後,又言上古使詣中國,皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽,繼發文身以避蛟龍之害,今倭人好沈沒取魚,亦文身以厭水禽。計其道里,當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅,但結束相連,略無縫綴。婦人衣如單被,穿其中央以貫頭,而皆被髮徒跣。其地溫暖,俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬,有刀楯弓箭,以鐵爲鏃。有屋宇,父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛,以衣迎之。死有棺無槨,封土爲塚。初喪,哭泣,不食肉。已葬,舉家入水澡浴自潔,以除不祥。其舉大事,輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。國多婦女,不淫不妒。無爭訟,犯輕罪者沒其妻孥,重者族滅其家。舊以男子爲主。漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,名曰卑彌呼。
 宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。

*大意
 晋書独自記事である最終段落大意です。併せて先賢の業績を参照して下さい。因みに「東アジア民族史1 正史東夷伝」(井上秀雄 他訳注 東洋文庫204)で、著者は「訳文は、現代語訳をめざし」と大変謙虚です。

 これは、史学に於いてあくまで「史料原文そのものが史料」との明言です。当方、つまり、当ブログの筆者は浅学非才であり、少なくとも本稿では「現代語訳」などとは、言えないのです。
 宣帝(魏宰相司馬懿への追号)が、魏明帝勅命で遼東公孫氏を平らげんと赴いたとき、倭人女王が帯方に至り朝見しました。倭人貢献は、景初、正始年間を通じ続きました。文帝(司馬昭への追号)が宣帝を継ぎ、魏相に任じられたときも何度か来貢しました。晋朝では泰始に初めて訳を重ね来貢しました。

*考察
 「大意」から割愛した前段の「漢末倭人亂」は史官達意の寸鉄文であり、范曄後漢書が、文筆家としての意識を昂揚喚起して、その筆の赴くまま、いわば自由な達意の創作を施しているのと根本的に異なるものです。
 また、主と王の書き分けは、重大な意義を持つものであるから、史料解釈の原点として保持し、安直な改竄を施さず、尊重すべきです。
 なお、二度起用の「其」は同一意義と思われます。現代人には、文意の解釈は困難ですが、等閑視できないと思われます。
 思うに、晋書編者は、女王王治名、共立など、自身が些末と判断した事項は略しています。
 同様に、些末と見たであろう(景初)遣使年次や公孫氏討滅との後先(あとさき)は明記されてないので、そのように示唆すらされていない事項を安易に勝手読みして持論補強に援用すべきではありません。

 なお、余り触れている例は見ませんが、そのような略記の流れの中で、「女子」が、ことさら温存されて明記されているのは、私見によれば重視すべきです。

〇結語
 「晋書倭人伝」の解釈については、従来、牽強付会の強引な読解が多かったので、この際、当ブログの方針に従い、丁寧な読解を試みたものです。あくまで、一私人の意見ですので、そのように理解いただきたいのです。

 なお、「晋書」四夷伝は、「倭人伝」に限らず、ほぼ西晋記事で尽き、亡国南遷後の東晋の四夷記事は大変貧弱であり、言うならば「西晋書」四夷伝です。加うるに、西晋時代も、西域交流は数度の来貢に尽きてしまい、後は、前世記事の使い回しで何とか紙数を稼いでいる始末です。何しろ、魏代の西域記事は、魏志西域伝が成り立たなかったほど貧弱ですから、何ともお粗末なものです。

追記
*「四夷伝」考察
 以上、つい筆が走ってしまったので、言葉を足すものです。
 晋の四夷記事には東夷来貢記事が多いのですが、それは、魏の楽浪、帯方両郡回収の恩恵を被った西晋時代のことです。帯方郡にすれば、馬韓、秦漢、弁辰の領域は、いわばお膝元であるので、それこそ、一年一貢に近い頻度で、各国使節の山東半島経由の洛陽参詣が行われたようです。但し、これも、四世紀初頭の滅亡に至る両郡の衰退、そして、最後は晋朝の亡命南遷のため、東夷の晋朝貢献は、ほぼ消滅したのです。
 いや、新興の百済は、一貫して南朝と親交を結んだようですが、何しろ、中原が蕃夷諸国に支配されていた時代、建康への交通は困難だったのです。

*「倭人」記事考察 2025/11/11
 「晋書倭人伝」記事は、曹魏明帝が格別の熱意を持って勧請した「倭人」が、明帝没後、明帝の遺詔に従う大層な下賜物の送達を最後として、急速に閑却され、単に遠隔零細の東夷となったことを明記しています。帯方郡太守は、倭人の武力を借りて、韓を平定する願望を維持していたもののようですが、それも、倭女王が内紛を平定する武力/権威すら備えていないことを確認したので、辛うじて、郡太守の面目を保つため、紛争を鎮静化する支援をしたものの、帯方郡自体の衰徴もあって、徐々に手を引いていったものと見えます。言うまでもなく、そのような方針転換は、権力者となった司馬氏の意向でもあったのです。
 「晋書倭人伝」の素っ気ない記事は、西晋初期の司馬氏の威光を体現したものであり、それ以降、「倭人」に対する関心は、水面(みなも)の泡沫(うたかた)の如く消えていったのです。

*「書紀」神功紀補追考察 2025/11/11
 国内史学の見地では、「日本書紀」神功紀(北野本)に、「六十六年[分註]是年晉武帝泰初三年初晉起居注云武帝泰初二年十月貴倭女王遣重譯貢獻之也
」とあることから、「貴倭女王」が、洛陽に遣使して晋武帝に拝謁したと解釈する根拠とされています。当然、唐代には消滅していた帯方郡の介添え無しでは、拝謁は不可能です。

 しかし、ここで正史「晋書」を引用せず、雑文書と見える「晋起居注」(泰初三年成立)の泰初二年記事を引用したのは、「日本書紀」編纂者の手元に、「晋書」写本、ないしは、その適確な所引が無かったことを示しています。いうまでもなく、「神功紀」本文に書かれていないということは、これを裏付ける国内記録は、全く存在していなかったわけですから、当記事は、あくまで、伝聞であり史実ではないのです。

 これに先立って、「日本書紀」神功紀は、「魏志に云う」として、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝の不正確な所引を記載しているので、あるいは、陳寿「三国志」全巻すら所蔵されていなくて、粗忽な所引を行ったかと見えます。何しろ、遣唐使が招来した厖大な経書、律令などの一環として途方もなく高価な貴重書ですから、必要な都度、取り急ぎ閲覧許可を得て、そそくさと、恐らく禁帯出の魏志第30巻を抜き書き/所引するのが精々だったのでしょう。
 現に、厳格に校正されていた原文に「景初二年」と明記されていたと推定されるにも拘わらず、「明帝景初三年」と不法な書法となっています。原史料に既に誤記があったのか、書紀編纂者が、誤写したのかということになりますが、粗忽な素人同然の所引者に対して、経験豊富で高度な技量を維持していたとみえる原史料の肩を持つべきだと見えるのです。

 そのように、当該記事は、全体として、国内史料の裏付けの無い、伝聞記事であり、史料としての信頼性がかなり低いものと思われます。
 当然、陳寿「三国志」「魏志」倭人伝の現存刊本の改竄を正当化する根拠とはなり得ないと判断されます。

                               以上

2025年11月10日 (月)

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」序論 1/3 2025

昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
私の見立て ★★★★★ 星満載 必読 2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09 2023/06/11 2025/11/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢総評
 季刊 「邪馬台国」 第35号は、当時、広く衆知を集め、かつ、赫赫たる編集部の交通整理が添えられて、見事なパノラマを成しています。各論は論文審査を歴て体裁が整っていて、学術雑誌としての品格が見事です。「倭人伝」里程論は、当誌の記事を踏襲することが必須なのです。

▢序論~芳醇な前菜
 と言いつつ、編集部の「里程論入門 諸説を整理する」なる序論は、序論の域を超えて、以下の諸論の核心にも言及し、ここだけで満腹になる芳醇、潤沢な前菜です例えば、茂在氏論文は、かなりの部分が、紹介の分を越えて先触れされています。

 全体の味付けが、おそらく九州濃厚風なのは、本誌の持ち味であり、こてこての畿内論者は不満たらたらでしょう。核心の短里論も、「史料で解釈すれば短里に決まり」に近くて「誇張説」論者は、歯ぎしりしつつ座視しているようです。

 埋め合わせに、当特集に論考を寄せてない榎一雄氏、安本美典氏、古田武彦氏の先賢の里程論に加えて、当分野で新進気鋭の森繁弘氏の方位論が紹介されていて、その意味でも、さらに混ぜっ返しただけで、交通整理などと言うものではないようです。

 特に、森繁弘氏著作は、旧肥前国松浦郡の東西、南北地名が、地図上の東西南北と対比して、西方、つまり反時計回りに九十度回転と見える(仮説のタネとなる思い付き)ことを根拠に、これが「(魏の使いの)張昭」の方位観を曲げた、と強引に推定していますが、張昭は、魏使などではなくでなく、後年、女王国の難局に派遣された郡武官の実務家であり、既に、蛮地の東西・南北は、整然と構成されていて、未整備漢字地名で方位感覚を崩されたとは到底思えないのです。編集部から、誤謬に対する指摘がなかったと見えるのは、残念です。
 と言うことで、苦心の奇想「奇」は、古典的な褒め言葉です。念のため)も、水没しかけた畿内説を浮上させるとは思えないのです。

 但し、記事中の里数表が、「後世に害毒を流している」とわかったので、学術的な批判を補充しました。

*目次 全十六篇 附番は当ブログのもの
 1 実地踏査に基づく「倭人伝」の里程           茂在 寅男
 2 魏使は、遠賀川を遡った                松井 芳明
 3 「誇張説」にもとづく邪馬台国への旅程         西岡 光
 4 邪馬台国への道のり                  山田 平
 5 里程から見た邪馬台国                 船迫 弘
 6 「方」について                                            米田 実
 7 三国志の「里」について                小坂 良彦
 8 「魏志」「倭人伝」の里程単位                 藤原 俊治
 9 「魏晋朝短里説」について               後藤 義乗
10 「周髀算経」の里程について              谷本 茂
11 末羅国放射式批判                   川谷 真
12 「水行」の速さと「陸行」の速さ            中村 武久
13 「黄道修正説」は誤りである              道家 康之助
14 「魏志」「倭人伝」の方位                    早川 清治
15 「日本書紀」に見られる「魏志」「倭人伝」の旅程        山田 平
16 「魏志」「倭人伝」に表れた地理観               謝 銘仁

                             未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」序論 2/3 2025

昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
私の見立て ★★★★★ 星満載 必読 2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09 2023/06/11 2025/11/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*表2「魏志」「倭人伝」の1里は何メートルか
       「魏志倭人伝」の記述    実際の距離(中数)  一里は何㍍か
帯方郡→狗邪韓国  7000余里     630-710km(670km)     96m弱 
狗邪韓国→対馬国  1000余里      64-120km  (92km)      92m弱
対馬国→壱岐国   1000余里       53-138km   (98km)      98m弱
壱岐国→末廬国   1000余里       33-  68km   (51km)      51m弱 
末廬国→伊都国     500里        32-  47km  (40km)     80m
伊都国→奴国      100里        23-  30km  (26.5km)    265m
奴国→不弥国      100里        6-  24km  (15km)     150m 
合計        10700余里      912.5km             93m 
 これは、記事内の作表を若干加工して引用したものです。念のため補足すると、必須と思われる「合計」は、記述されていません。
 率直なところ、数字表記が算用数字では、途轍もない時代錯誤であり、古代中国人には理解不可能だから、史学上の考察に不適当きわまりれない不都合なので、まずは、擬古代式にしてみます。(公里 ㌔㍍  公尺 ㍍)

*「魏志 倭人伝」の一里は何公尺(㍍)か 
 区   間      記述里数    推定路程(道のり)  一里の公尺     
帯方郡~狗邪韓国  七千里     六百 ~ 七百 公里   九十~百公尺    
狗邪韓国~對海国   千里     六十 ~ 百二十公里   六十~百二十公尺
對海国~一大国    千里     五十 ~ 百四十公里   五十~百四十公尺
一大国~末廬国    千里     三十 ~  七十公里   三十~七十公尺   
末廬国~伊都国    五百里    三十 ~  五十公里   六十~百公尺
伊都国~奴国     百里     二十 ~  三十公里   二百~三百公尺
奴国~不弥国     百里      五 ~  二十公里   五十~二百公尺    
合計 (無意味)  一万里     八百 ~  千百公里   九十~百十公尺    

*問題点山積
 第一歩として、算用数字は、古代史に根本的に無意味なので漢数字で書いて評価すべきです古代史学のイロハのイですが、これほど明らかな不都合に気づかない先覚者に、何も考えずに追随していることが多いのです。

 一見、よくわからないのは、古代記法のせいもありますが、元々、幾つかの素性の異なる項が並んでいるからであり、古典教養に欠ける二千年後生の東夷にとっては、もともと込み入っているのです。

 表形式で枠に収まっていたとき明快と感じたのは、結果だけ眺めたからであり、かくの如く図表はごまかしの道具立てにされやすいのです。
 全て嘘と言わないものの「演出」です。きれいな図表を見たら、ともあれ眉唾です。
 三世紀の古代人が図表なしで文章説明し、三世紀の読者に理解されたのだから、現代人も、必要な教養を身につければ、図表なしに理解できる筈だと思うからです。
 改訂表の抹消項目が棄却された理由は、追って説明します。

*概数表記の確認
 なお、倭人伝」の「余」は、時に誤解されているような「はした切り捨て」でなく、現代風に言うなら概数の中心値表示であり、また、当方は、概数は自明ということで、「余」を省略すると決めています。
 漢数字の良いところは、全て、一の桁まででなく上位の一桁だけが「実」とわかることです。算用数字では、どこまでが「実」で、どこからが「体裁」なのか、見えないのです。

 どちらも、誤解されて議論を曲げている例を、至る所で見かけるので、念押しです。

                               未完

新・私の本棚 季刊 「邪馬台国」 第35号 「里程の謎」序論 3/3 2025

昭和六三年夏号   梓書院 1988年 5月刊
私の見立て ★★★★★ 星満載 必読 2019/01/28 補充 2019/07/16, 2021/12/09 2023/06/11 2025/11/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*悪表の祟り
 ご自分で筆算計算して作表されたら、本来漢数字で縦書き記事の一部をなしていた五㌔㍍~七百㌔㍍の大小バラバラの数字を、古代に存在しなかった横書き記事の別枠に縦に並べる集計表の無意味さがわかったはずです。

 まず具体的に発露しているのは、区間によって実質の大きく異なる数字を、お構いなしに並べて、単純に足し算し、平均しているからですが、この点にこだわっても無意味なので深入りせず両断します。「実際の距離」は「虚辞」です。「実際」がわかれば苦労しません。
 こうしてみれば、計算結果は別として、「倭人伝道里」は、全て、一桁概数の世界であることがわかります。これが、古代人の見た数字なのです。

*反則退場連発
 古代人の真意に思い至ると、千里単位の概数里数に、百の位の里数を足すのは、概数計算の反則であり、また、路程の根拠も不明で、データとして無意味です。渡海里数は測定不能であり、陳寿は「概念」を書いたのだから、データとして無意味です。

 無意味なデータを足し加えて平均するのは、愚行なのでゴミとして抹消します。
 データ紛いのゴミを持ち込むのは、史学論として自滅行為です

 かくして、辛うじて郡~狗邪間が生き残っていますが、実際は経路審議中で、路程は不明ですから、概数以前の問題で計算が無意味です。ただし、この項を棄てると何も残らないので、計算の問題点を示すために、棄てるのを暫しとどめます。

◯補足
 2025/11/10
*郡~狗邪間「水行」の誤謬是正
 「倭人伝」道里論の核心であるはずが、「畿内」説の障りになるため、押し隠されているのが、「水行」論の混濁です。
 近年、後漢書、三国志の権威である渡邉義浩氏が提起されるまで、郡から狗邪韓国までは、海岸に沿った航行であるという俗説/憶測が支配的であり、道里論の合理的な解明を妨げていました。

 渡邉義浩氏が、「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書 2012年) において断定しているように、史書の道里行程記事における「水行」は、太古の司馬遷「史記」「禹本紀」に書かれている「水行」が、唯一の用例であり、しかも、「禹后」が河川を渡船で渡るものであったから、想定されている七千里に亘る行程は、明らかに、史書にあるまじき、先例の無い「水行」ではないのです。
 渡邉氏は、中国古代史史料として、陳寿「三国志」の精読を行ってきたのであり、国内史学界で横行している「倭人伝」和風解釈とは無縁であったため、同書においても、国内史学界の通説に対して、門外漢の余言を差し挟むのを避けたのであり、本件に関しても、同区間の「水行」を否定することの明言を避けていますが、氏の深意を素人なりに斟酌すると、以上の考えに至るのです。
 かくして、当ブログ筆者の近年の見解は裏付けられたと考え、以下に明言するものです。
 「従郡至倭循海岸水行」は、内陸に設けられた郡を発した行程が、いきなり、海岸に出て、乗船し、「水」ではない『「海」を「水行」』するという、二重に無法なものではないのです。郡から倭に至るには、官制に基づく「街道」が存在しない「大海」越え区間があり、「大海」を「大河」に見立てて、「街道」を繋ぐ渡し舟で渡海することを、行程開始前に注釈したものなのです。かくして、史書において禁じられている、読者にとってもっての外の新規概念による「不意打ち」を回避しているものです。
 このように適確に定義した「水行」を記述することは、史書書法に適っているので、「魏志倭人伝」は、西晋皇帝の嘉納するところとなったのです。
 また、後生史官は、「魏志倭人伝」の「水行」を先例とすることにより、公式行程に「水行」を適用することができたのです。いや、他ならぬ「倭人伝」の投馬国行程で、「水行二十日」が、不法に記入されていますが、本筋を外れた余傍道里ということで、定義に外れているのではないかという詮議を許容されたと見えるのです。
 かくして、「倭人伝」道里記事で、「水行」は、狗邪韓国、対海国、一大国、末盧国の間の三度の渡海、各千里となり、計三千里が「水行十日」、一日当たり三百里と明快であり、残る九千里は、自明の陸道ということで、「陸行一月」、三十日となることから、こちらも、一日三百里であり、あくまで、「倭人伝」道里記事という限定された世界で、「ピッタリ」整合させているのです。
 本稿は、そのような「明解」に気づかない時点の展開なので、ここに、遡って明記したものです。

*味噌こしの底~辛うじてデータの片鱗
 帯方郡~狗邪韓国 七千(余)里 六百~七百公里 九十~百公尺
 と書いたものの、区間里数は六千~八千里程度の幅は覚悟すべきです。根拠なしにこの間を六百~七百公里と見る不具合に眼をつむると、一里は、七十五~百二十公尺と広がります。
 こうして、
現代人感覚で見ると途方もなく見えるほど幅が広がることを見て頂くために、あえて、不確かなデータを評価したのです。それにしても、とかく誤用される「中心値」は、「倭人伝」道里論のように、統計データになっていない、少数で不統一なデータの場合、時代錯誤の場違いなものになるので、科学的な理解の妨げとなり、つまり、「百害あって一利なき有害極まるもの」なのです。

 ひいき目に見て幅を狭めてもこの程度です。但し、これほどおおざっぱに見ても、「普通里」の四百五十公尺(㍍)とは格段に違って、混同の可能性はなく、倭人伝の「従郡至倭」行程の道里が、『「普通里」の数分の一の独特の「里」で書かれているように見える』のは明白です。

 議論の核心は正鵠を得ているので、当初、この不都合には眼をつむったのです。欠点の無いものは無いのです。


*謙虚な推定~エレガントな解答例
 以上のように、整然として見える計算表が、実は意味の無い「想像の産物」と気づけば、つまり、「古代人の知らない近代科学の目でみれば総て、丸ごとお見通し」という後世人(二千年後生の無教養な東夷)の傲慢な視点を棄てて謙虚に読めば、これだけの記事すら史料として適確に読めてないとわかるのです。

 立ち待ちでなく、しゃがんで地べたを見れば、うっすらと進むべき道が見えるはずです。まず成すべきは、「倭人伝」記事から陳寿の深意を知ることであり、陳寿すら把握できてなかった「史実」を知ることではないのです。
 中国では、太古以来、無批判追随の危険は知られていて、「前車の轍」という比喩が戒めです。自分の目で前途を見定めることです。

*まとめ~不朽の業績の赫赫たる遺構
 引用表は、季刊 「邪馬台国」 第35号に掲載されましたが、三十年余を歴て、長く広く参照され、追随、踏襲されていることに、深甚の敬意を覚えると共に、その罪の深さを歎くのです。
 安本美典氏の表明された編集方針を見るに、願わくば、掲載論文の原器となり得る矍鑠たる存在であって欲しいと思うものです。何しろ、この世に、この時期の同誌ほど学術論文の原点を守っている商業誌、軽出版物は存在しないからです。
 かつて、並行して名声を博していた史学誌が、休刊、ないしは、古代史分野記事の逓減で、単行本/ムック形式で生存している「古田史学会論集」をほぼ唯一の例外として、すっかり影を潜めているため、孤高の存在となっているのです。

                               完

私の本棚 49 季刊 「邪馬台国」128号に寄せて 3-1 「奴国の遺跡群」 2025

 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月 「奴国の遺跡群」     井上筑前
 私の見立て ★★☆☆☆ 星二つ 2016/04/12 2023/01/23 2025/11/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯始めに
 当ブログの方針は、古代史、特に、魏志倭人伝周辺に関する論説、論考で、論理的でない話の運び、時には、筋違いの展開について、「重箱の隅」を突くものなので、論者の所説全体に批判を加えるのは、本来の意図ではないし、当ブログ筆者の任でもないのだが、時として、重大な議論を呈することは、ご容赦頂きたい。

 本論考は、「奴国の遺跡群」と言うタイトルに従い、まずは、「奴国」とは何者かという確認から入る。いわば、枕と言うべきものなのだが、周知の通り、枕がすべると、客は白けて、最悪、帰ってしまうので、そつなく書く必要がある。

 そこで、笵曄編纂の正史「後漢書」の記事を採り上げるのは、むしろ当然と思われる。何しろ、各史書で「奴国」と言う二文字が書かれている原典は、後漢書記事であり、言うならば後世史書は、全てここから引用しているからである。

*カタカナ言葉のとがめ
 冒頭に、後漢書の記事が、三国志記事(ないしは、陳寿が三国志編纂時に利用したと思われる原資料)を参照した後、『「後漢書」のオリジナル』と書き出しているのは、「オリジナル」というカタカナ言葉の不安定さを軽視した軽率な言い回しである。無遠慮に言うなら、大きく転けている。
 当記事では、「オリジナル」が、独自に、新たに創作した、という意味で使われていると見られる可能性が高いのだが、笵曄は、後漢書の記事を創作したのではないので、ここで、まず首を傾げるのである。

 特に、ここで上げられている建武中元二年と安帝永初元年の本紀記事は、後漢の公式記録の抜粋であり、創作性は、ほぼ皆無である。むしろ、先行諸家の後漢書を書き写したと思われる。独自性など発揮していたら、同時代の読者に罵倒されたに違いないのである。

*異論ある「勝手」読み
 さて、後漢書建武中元二年記事の「倭奴国」を「倭」の「奴国」と読み下すのは、あくまで一つの解釈であり、有力な異説がある以上、それに触れないのは、後漢書の読み下しの際に適切な姿勢とは思えない

 いや、ここで、「倭」の「奴国」と読み下すところから、本記事が出発しているのだから、異説を採り上げる必要はないというのかも知れないが、それでは、本論考が冒頭で揶揄している「勝手」な論にもう一人の論者として参加していると思うのである。人を誹る前に我が身を見返るべきと思う。 所詮、古代史史料の解釈は、誰も知り得ない過去の「物語」を推定しているのだから、誰一人、「勝手」な推定から脱することはできないのである。
 勝手と言われたくなければ、異説、反論の存在に触れて欲しいものである。

 そのような手順を踏まえた上で、「倭」の「奴国」と読み下すところから始めていると書くべきである、と勝手に思うのである。それなら、滑り出しで転ぶことはないのである。

               未完

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私の本棚 50 季刊 「邪馬台国」128号に寄せて 3-2 「奴国の遺跡群」 2025

 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月 「奴国の遺跡群」     井上筑前
 私の見立て ★★☆☆☆ 星二つ 2016/04/12 2023/01/23 2025/11/10

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*束の間の「奴国の時代」
 論者は、引き続いて、曖昧に「この時代」の奴国と言っているが、建武中元二年記事に「倭奴国」と書かれていても安帝永初元年記事には「倭国」と書かれているから、両者が同一の国かどうかは不明で、「この時代」は建武中元二年(西暦57年)に限定されるのではないか。この点、論者は、公正に疑問を投げかけている。

*奴国の後裔
 笵曄「後漢書」の両記事の範囲内でも不明であるから、遙か後世の曹魏景初二年(西暦238年)時点の視点と思われる「魏志倭人伝」記事との繋がりは不明と言わざるを得ない。この点、論者は、何も語っていないように思う。
 正直なところ、かって建武中元二年時点に、九州北部に威勢を誇っていたとされる「奴国」が二世紀近い後まで「王国」として歴代継承されていたとは、「魏志倭人伝」に書かれていないように思うのである。陳寿は、三国志「魏志」の編纂にあたって洛陽に所蔵されていた漢代公文書を参照可能であったし、そこまで行かなくても、諸家「後漢書」を参照すれば、後漢創業者光武帝時の「委奴国」に関する記事は容易に発見できたと思うのである。具体的に言えば、比較的良好に継承されている袁宏「後漢紀」に、同記事があるのは確認できる。

丁寧に言うと、陳寿は、西晋朝「史官」であり、「魏志」編纂に際しては、遙か後年、西晋崩壊洛陽失陥で散佚したと見える後漢公文書に接していない劉宋の笵曄に勝るとも劣らない後漢史料を利用できたはずである。

 当然、ほんの二世紀前の建武中元二年に、東夷の「倭奴国」が貢献して、漢朝復活の偉業を成し遂げた光武帝から金印を賜ったという史実を知り得たはずと考える。であれば、魏志倭人伝に列記された数多い諸国の中の「奴国」が、かつての盟主国の後継者であれば、そのように特記したはずである。

 当ブログ筆者は、一介の素人であるので、いろいろな参考情報からそのように考えるのである。当然、当分野に造詣の深い諸賢は、そのような明白な事情を知り尽くしていると思うのだが、世間で余り見かけないので、一応指摘させて頂くものである。

 本論考の運びは、おそらく「大人の事情」から来ているのだろうが、当方は、局外者なので、子供じみた指摘をせざるを得ないのである。

 それにしても、古代史談義に、カタカナ語や現代語は似合わない。

以上

この項 完

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私の本棚 44 季刊「邪馬台国」128号に寄せて 0 「巻頭言」批判 2025

 季刊「邪馬台国」 128号 2016年2月 巻頭言 「魏志倭人伝」なかりせば 河村哲夫
 私の見立て ☆☆☆☆ 星一つ            2016/03/11 2025/11/10

◯はじめに
 当ブログ筆者の基本的な方針として、ここで書評めいたことを言い連ねる際に、商業出版物以外では、大局的な意見、つまり、信条というか、持論のようなところは、素人の手に余るということもあって、反駁を控えるというものであったが、どうも、今回は、巻頭言の背景にも批判を加えないといけないようである。

 今号の巻頭言は、タイトルそのものに示されているように、「季刊 邪馬台国」編集長、いや、編集委員会委員長の意見であり、素人目には、その主題は、魏志倭人伝」が、日本人が誤って解釈するように書かれた資料であり、これを古代史に関する議論から一切排除すべきだ(そもそも70年前に排除すべきであった)という持論・定見のようである。
 氏は、編集委員会の長であるから、この巻頭言は、委員会の意見でもあるのだろうが、取り敢えずは、署名している方の意見として批判することになる。

*私見による批判
 当巻頭言を見る限り、その根拠は、魏志倭人伝が、
 1. 「原稿用紙5枚程度」(400文字詰め原稿用紙で5枚として2000文字と言うことか)の資料であり、
 2. 「中国人が中国人のために作った」資料であり、
 それらの理由によって、多くの国内研究者を迷わせて、邪馬台国を確定できずにいるという氏の所説を述べているものと思う。

 素人目で言うならば、字数はともかくとして、 「中国人が中国人のために作った」資料、つまり、中国正史や太平御覧などの通史・類書めいた資料を、ひっくるめて全て排除し、国内史料や国内伝承の諸資料(だけ)を総合するとしたら、そこには「邪馬台国」なる存在は無いのであり、無いものは無いのだから、「邪馬台国の姿」は得られるはずがないのである。
 かなり深刻な失言であろう。

 巻頭言には、以下、論断・推断どころか、比喩なのか、当てこすりなのか、趣旨不明で、事実確認しようのない感情吐露めいた文が続いている。読者として、何をどう受け止めたらいいのか困るのである。支持しようにも反対しようにも、論理の拘束を解かれた感情の奔流は遮りようがないのである。
 論理的な整合性を求められる場所に書くには、それにふさわしい推敲が必要と思うのである。

 もちろん、巻頭言に書かれた個人の意見は当人の自由であり、また、雑誌の編集方針を宣言しているのは、読者にとってありがたいのだが、一読者として、筋が通っていないという点を批判することも、これまた許されると思うのである。

 別に他意はないのだが、史料の記述に対して異論があるのなら、都度、論拠を示してその旨主張すればいいのであるし、氏もそうしてきたのであろうが、そうした資料批判をはみ出して、史料の編纂者が中国人であり、その読者が中国人であると言うことだけで、中国正史全体を排除する論法は、その成否を議論するまでもなく、素人目にも、学問上の論議として是認できないのではないかと思うのである。

 当方の意見は、それだけである。

 最後に、なぜか現総理の談話が引用されていて、その主旨は、戦前、戦中の歴史と戦後世代の関わりを説いているものと思うのだが、委員長は、この引用された談話が古代史の世界にも向けられると断定している。しかし、この引用のどこにそのように書かれているのだろうか。総理談話の真意は聞いた者次第であれば、談話の意味がないのではないか。

 最後になるが、この言に従うべきだという委員長の意見に従うなら、本号発行まで続いていた各種論争の関係者は、悉く古代史論争の場から身を引き、古代史論争に登場していなかった後進世代に譲るべきだと言うことになる。氏が、ご自身を数えることを失念されているように見えるのは、深刻である。
 論争紛糾に重大な責任のある「季刊邪馬台国」のリーダーとしては、まず、我が身をいさぎよく処するものではないのだろうか。(当方は私人であり、当分野の新入りなので、責任を問われる覚えはないのだが)

巻頭言で堂々と主張されたと言うことは、どんどん批判してくれと言うことだと思うので、色々意見させていただいた。 

 とは言え、巻頭言のタイトルは、在原業平の有名な和歌を偲ばせるのであり、編集委員長が、ここに示された屈折した愛情を模しているととすると、以上の批判は、全て空振りになるのだが。
 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 古今集 春上

以上

私の本棚 37 季刊「邪馬台国」128号に寄せて 1 2025

 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月
 私の見立て☆☆☆☆☆  星無し      2016/03/05 2025/11/10 (ブログレイアウト方針変更に対する再構築のみ)

 最新号は、総力特集 奴国の時代 第2弾である。話題豊富なので、目に付いたところから、順次批判させていただく。

 奴国の遺跡群   井上筑前
 著者は、日頃多くの資料を目にし、多くの人々と対話しているために、つい、普段押しかけてきている定説や世論に反応してしまうのだろうが、読み手からすると、何でこちらに向かって、がんがん喧嘩腰に書き立てるのか、注意が逸れるのである。

 また、古代史に関する論考なのに、そのような背後の声に反応したのか、言い回しが揺らぐところが見られる。書き出しの部分は、読者が、自分の見方を一時脇にやって著者の見方にあわせ、書かれたメッセージを受け入れようとする部分なので、こうした導入部で、違和感や動揺を感じてしまうと、冷静に読めなくなるのである。

 77ページ末尾の字句が、その例である。
 何に対する憤慨か知らないが『「後漢書」のオリジナルである』という主張には、躓きはしないが、しばし佇んで、著者の意図を詮索させられるのである。

 ここで目立つカタカナ言葉の「オリジナル」は、要は、現代日本語の筋の悪い言葉であり、中国正史を語る上で、場違いで違和感を禁じ得ない。
 更に具合の悪いことに、世上流布している「オリジナル」というカタカナ言葉には、二つの有力な意味が通用していて、大抵の場合、一瞬、どちらの意味か迷うのである。
 一つの意味は、そこで言い始められた新規、独自のものという意味であり、もう一つの意味は、元々の、本来のという意味である。
 ここでは、後漢書のオリジナルといわれているので、後漢書編纂者笵曄が創始したという意味に見えるのだが、笵曄は史家であって、小説家やコピーライターではないので、文章を創作するものではないし、後漢書は史書であるので、重ねて、創作とは遠いのである。

 と言うことで、著者がきっぱり言い切ったはずが、読者にしてみれば、意味が読み取れないのである。

 こうした、言葉の時代錯誤は、ありふれた事項なので、普通は、雑誌編集部が指摘して訂正され、読者の目に届くことは無いのだが、「邪馬台国誌」は、寄稿者の玉稿に手を入れない方針でもあるのだろうか。

 案ずるに、世論が、後漢書」の倭国記事は、「三国志」「魏志倭人伝」の引き写しだという批判が聞こえていて、そうじゃない、この部分は、「三国志」に無い、と主張しているのかも知れないと思いつくのである。
 そんな念押しは不要ではないかと思う。
指摘されている記事は、どちらも、完全に後漢時代の記事であって、「三国志」があえて取りこんでいる後漢末期の曹操時代にも入らないからである。従って、陳壽が当該後漢史料を知っていたとしても、単に参考にするだけで、倭人伝には採用しないのである。

 思うに、この記事は、笵曄が創作したのではなく、後漢朝の公式記録に書かれていたものを適確に収録したと言うだけのように思うのである。笵曄の芸風では、原典が周知であれば、文の運びを改善して文筆家としての「腕」を示すが、ここでは、原典が知られていないので、改善しても、誰にもわからないので、褒めてもらえないのである。
 因みに、「漢倭奴国王」という地位は、蕃夷の王の中で格別の地位であり、周辺国に紛争が起こったときは、漢朝に代わって仲裁して平和を保つ権威を与えるものであり、従わなければ、征伐して正義を行え、と言う意味である。

 もちろん、漢朝がそのような権威を与えるのは、すでに十分な権威を持った盟主であることが前提で、あくまで、自薦に基づく追認であり、現地が諸国散在、どんぐりの背比べであれば、その中の一国に与えるものではない。単なる貢献記事では無いのである。
 また、国王と認める以上は、代々王位が継承されていることが前提である。国王が代替わりしたときは、新国王が漢の天子に国書を呈して代替わりを報告すべきものなのである。以上は、漢帝国との儀礼として当然のことなので、後漢書に都度書かれていないとしても、当然守られるべき事項である。

 正史三國志では、曹操の偉業を引き立てるように後漢末期の衰亡と混乱が描かれているため、ついつい帝國全体を弱体視してしまうが、後漢は、ほぼ150年にわたって全土を支配し続けたのであり、ここでいう「奴国」の時代は、漢朝の威勢は栄えていて、そう簡単に衰退しなかったと思うのである。

 以上は、当ブログ筆者が、著者と異なる文章観、歴史観を持って眺めていると言うだけであり、権威を持って、とやかく文句を付けているわけでは無い。
 
氏ほどの大家は、むしろ、堂々とご自身の見識を保つべきなのに、なぜ、これほど晴れやかな場所で、殊更、異論を神経質に排斥するのか、傷ましいのである。

以上

2025年11月 9日 (日)

新・私の本棚 池田 温 「裴世清と高表仁」 「日本歴史」 第280号 2025

    1971年9月号 吉川弘文館       2021/09/18記 2025/10/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 堅実な史料考察 「書紀」依存に重大な疑問

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 本記事は、当ブログの専攻範囲「倭人伝」を外れるが、とかく等閑(なおざり)にされる中国史料本位の文献解釈という史学原点に注意を喚起するために、あえて脇道に逸れたと弁明しておく。

 本論考は、豊富な史料に基づく不朽の考察であるが、書紀記事を無批判起用して完璧を損じているのが、勿体ないところである。まずは、自説の足元を見定めて、堅固な基礎を確立し、その後、高楼を理論構築すべきではないだろうか。いや、僭越、無礼で失礼は、覚悟である。

*裴世清俀国遣使記事の検証
 本論考は、「日本史」において、中国との交流の初期事例である隋使裴世清、唐使高表仁について、中国史料をもとに深く検討する趣旨である。氏の視点では、日本書紀は、史料として確立されているため、その限りでは、史料批判、考証の手順に不合理は無いのだが、敢えて、別視点からの疑問を呈する。

 つまり、両国使は中国史事績であるから、中国史料をもとに考察すべきであり、日本史料をもとに考察するのは、本末転倒、自大錯誤と見た。(日本中心視点で進められているということである)

*概要
 豊富な史料考察の丁寧な論考に素人が口を挟むのは、僭越、不遜の誹りを免れないのであるが、本論考は、根本となる国内史料評価に難がある。いや、本件に関して、初見の論考をみたが、ほぼ全数が、同様の視点を取っているので、別に、氏個人の「偏見」でないのは、承知である。要は、俗耳に馴染みやすい「俗説」となって、流布しているのである。

 基本に還って考え直すと、日本書紀(以下、時に書紀という)は、中国史料と無関係に「俀国」「日本」基準の史書として編纂されている。そのため、隋書基点、中国基点で考察すると、隋使裴世清が、書紀記事で「鴻廬掌客」と表明されているのは、隋書と齟齬して無法、無効である。

*裴世清の身元調査
 氏の調査に依れば、裴世清は、北魏(後魏)時代に台頭した名家の一員であったという。隋唐期、科挙による人材選抜が開始しても、依然として、名家の血筋にそって推薦された人材が官人として採用されたようで、とは言え、若者は、まず下級官人となるのである。
 氏は、隋代文林郎は、閑職で名目的なものと思い込んでいるようだが、根拠のほどは不明である。精々、風評、俗説と思うのである。何にしろ、氏の帰順している俗説で行くと、隋書「文林郎」から書紀「鴻臚掌客」に昇格したとみなければ、筋が通らないということなのだろうか。一種、思い込み/見当違いが広く徘徊しているようである。

 隋書は、文林郎裴世清が、隋国「大使」に抜擢されたと明確である。要するに、時に蕃夷によって首を切られる使節として、それでも、惜しくない軽輩と見えるのである。

 書紀所引隋帝国書には、天下の文林郎裴世清が、卑職「鴻廬掌客」を名乗ったと書かれているが、隋書に、隋帝から俀国国主への国書の記録は存在せず、公式記録に存在しない国書は実在しようがない。
 中原天子が、無法で不穏な発言を呈していて、服従の意思を明言していない蕃夷の国主に対して、国書を呈示することは、有り得ないのである。そのような国書をでっちあげた文才は、当時としては、蛮夷の域を脱しているようだが、無法/無謀な創作であることは自明である。
 といっても、書紀編纂時に、編纂者の手許に隋書「俀国伝」が届いていたという証拠はないのである。隋書「俀国伝」は、中国歴代王朝の所管する「正史」であり、正史の記事に背く創作は、ありえないのである。

 むしろ、このような事態が起きたのは、隋書「俀国伝」を知らないままに、何らかの種本をもとに創作したと見えるのである。

 ちなみに、裴世清は、皇帝特命「大使」の高官であり、隋国側が卑職「鴻廬寺掌客」を明言すべきものでない。

*隋書齟齬事態
 そうしてみると、氏の提示する諸史料から得た裴世清職歴考察で「鴻廬掌客」とあるのは、独自史料「書紀」だけであり、つまり、中国史書に裏付けはないので、書紀の孤説なのである。むしろ、隋書俀国伝の記事と齟齬しているのであるが、どちらに信を置くかは、自明と思うものである。
 氏はその点に、根拠の無い無理筋を通そうとしているのである。と言うものの、書紀は、これ以外にも、隋書との深刻な齟齬が顕著である。

 このように、東夷史書と正史が齟齬する事態で、辻褄を合わせて東夷記事を創作するのは、中国史料の解釈として不合理である。端的に言うと、罰当たりな大間違いである。

*鴻廬掌客の正体
 氏は、裴世清が、「文林郎」から「鴻廬掌客」を経て、唐代に「江州刺史」なる顕職に就いたとみたが、全面的には同意できかねる。隋書に言う「文林郎」は、「尚書省」の卑職だが、若年出仕の昇竜の途次であり、文書管理の実務経験を積んで昇格を望むのに対して、書紀に言う「鴻廬掌客」は、実際は、蕃客接待専門職で傍路である。要するに、雑用係の下級職である。
 どちらも、大差ない卑職であるが、栄達という点で大いに異なる。つまり、「文林郎」として、野心を持って皇帝に仕えているものに対して、「鴻廬掌客」は、例え同格の位置付けでも、左遷なのである。

 日本書紀は、「鴻廬掌客」なる高位から低位までの官職を創設しているが、要するに、「蛮夷の接待/教育係」であり、裴世清は、「蛮夷」の国において、「蛮夷」の目から見た「蛮夷」として接待されていることになるから、裴世清がそのような官人に対面したとすると、当然、激怒しなければ、皇帝の面目を失するのである。
 しかし、史料にそのような破綻は、一切示されていない。
 
 国内古代史学界は、誠に無頓着であるが、事は、中国側の視点である。ご一考いただきたいものである。

〇まとめ
 本稿の起点に戻ると、隋使裴世清に関して中国史料に整合しない「書紀」記事は、隋書俀国伝に基づく考察に参加する資格が証明されない限り、謹んで傍聴席に退いて頂くのが合理的であると思うのである。俀国に至る道は、すべて、隋書から始めるべきと思うのである。

 なお、本稿を読む限り、書紀をもって隋書を書き換える根拠となる「革命的」な史料批判は、ついに明示も示唆もされていないのである。

*補足 2025/11/09
 隋書は、隋滅亡後に初めて天下統一した「大唐」の国家事業として、太宗李世民の命によって編纂されたものであり、言わば、従来にない勅撰「正史」であり、言わば、先行した東晋-南朝の賊徒と西晋滅亡後の混沌を制した北魏の蕃夷を隋が武力で想到した隋が、徳を持つことなく滅亡したのに対して、中原天下を復興したという大義を示す言わば至高の史書であることから、太宗代の636年に本紀5巻・列伝50巻、高宗代の656年に志30巻が完成したとは言え、国宝として厳重に写本の流通が制限されため、蕃夷の遣使である遣唐使が、写本を入手して将来するのは、はるか後年のことと思われる。
 時期としては、8世紀中葉の安史の乱という大乱によって大唐の内政、外夷管理が混乱した中唐以降と思われるが、国内史料は、その点に触れていない。それ以前に、大唐律令全文及び格式など、大量の文書を入手したため、資金等が回らなかったのかもしれない。
 恐らく、「書記」編纂時に於いて、隋書「俀国伝」は未入手であり、かつ、隋使応対の公文書記録が継承されていなかったため、書記編纂者は、高度な創作を行ったと見える。して見ると、これは、一種の「偽書」であり、同時代史料としては、随分格下と見えるのである。
 因みに、日本書紀は、720年に編纂を完了したと伝えられているが、唐初に正史に列した范曄「後漢書」はもとより、編纂が行われた晋書、隋書に付いて、完本は間に合わなかったのではないかと思われることから、恐らく、遣唐使関係者が、現地蔵書家の書庫で、そそくさと所引を書き取ったものとも見える。礼金をはずんだとしても、全巻写本の購入に比べれば、随分些少/薄謝で済んだはずである。

 言うまでもないと思うが、以上は、国内史学界の通説に背く、異論であり、別に「百害あって一利なし」などと、諸兄姉に聖剣を振るっていただくには及ばないのである。

                               以上

新・私の本棚 直木 孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 1/2 2025

吉川弘文館 2009年刊
私の見立て ★★★★☆ 星四つ 必読  2016/12/11  2018/12/11 2019/01/29 2025/11/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
北進の道
 今回の著者直木孝次郎氏は、史学先賢の中でも「巨匠」と呼ぶべき大家ですが、ここでは単に「著者」と書かせていただきます。
 題名が示すように、本書は、日本古代史に関する著書であり、当プログ筆者の守備範囲外ですが、訳あって末尾の部分を題材にさせて頂きます。

 もちろん、書籍全体を読ませていただいたのですが、史書の追究はともかく、多数の遺跡、遺物の現地、現物を身をもって体験された結果の貴重な論考であり、謹んで敬意を表させていただきたいと思っています。

 さて、今回取り上げるのは、末尾も末尾、最後に示されたご意見です。

*地図の思想
 ここでは、天智天皇山科陵が藤原京の真北に存在しているように見えることから、これは、山科陵設営当時、意図してその位置に造営したのではないかという仮説を紹介し、現地踏査の結果、具体的な位置設定手段は確認できないが、この仮説は否定しがたいとの意見を述べているものと思います。

 もとになる仮説を提示したのは、藤堂かほる氏(「天智陵の営造と律令国家の先帝意識―山科陵の位置と文武三年の修陵をめぐって―」(『日本歴史』六〇二号1998年)」)であって、このように発表誌も明記されているから、第三者が原文を確認して、追試検証できるものです。

 また、発表誌を確認するまでもなく、著者の簡にして要を得た紹介があり、藤堂氏論拠である両地点を記載している国土地理院発行の二万五千分の一地形図二面をつきあわせた際の両者の位置関係が明記されています。

*実施(可能と思われる)方法

 さて、著者が藤田氏の提言を元に現場確認された際の意見を拝聴すると、両地点は、ほぼ五十五㌖を隔てていて、丘陵というか、山が介在して直視できありませんが、何らかの手段で山を越えて位置確認できたから、山科陵は現在の地点に設置されたのではないかと感じたと述解されています。

 ブログ筆者は、理工学の徒ですから、以下、推定を試みています。実地確認したものではないので、実行困難とのご批判はお受けします。

 筆者は、自身の良心のもとに、古代の世界に自分を仮想して、このような任務の実行任務を与えられたら、十分に実現可能であると判断するものです。
 基本的な認識として、いかなる光学機器も、単体では、見通しの利かない二地点間の方位を測定することはできないのです。いや、見通し可能であっても、五十五㌖先が視認できると思えないのです。

 そのような無理でなく、古代人であっても利用可能な道具類を使用し、数人の技術者とその何倍にもあたる人夫をある程度の期間動員して、全区間を細分化した区間を順次踏破すれば良いのです。

                           未完

新・私の本棚 直木 孝次郎 「古代を語る 5」 大和王権と河内王権 2/2 2025

吉川弘文館 2009年刊
私の見立て ★★★★☆ 星四つ 必読  2016/12/11  2018/12/11 2019/01/29 2025/11/09

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*具体的手段
 旗竿のようなものを利用し、藤原京から、逐次北上して参照地点をつないでいけば、最終的にそこそこの精度で目的地に到達できると思うのです。
 例えば、原点に立てた旗竿の真北に、二本目の旗竿を立てるのです。藤原京ほどの地点であれば、太陽観測によって、南北方向を得ていたはずです。区間幅を、旗竿の振り方で意思疎通できる程度にしておけば、特に通信機器がなくても、二本目の旗竿を一本目の旗竿の真北に位置決定できるのです。

 三本目以下の旗竿の位置は、先行二本の旗竿が真南の一直線上に見える地点に決定できますが、誤差が積み重なって方位がずれるのであれば、何本目かに一回、候補地での南北を太陽観測で決定し位置を確定すればよいのです。

 三本の旗竿が一直線上に並んだところで、最初の一本を北上させて行くという手法を順次採用すれば、目的地までに日数を要するものの、五十五㌖程度の距離であれば、そこそこの精度で真北に進むことができるのです。

 著者が気にしている途中の山の問題ですが、平地同様、随時見通す感じで北進していけば、特に困難なしに順次旗竿をたてて、真北に進めるはずです。

 経路上に登攀困難な高峰や対岸の見通せない大河や湖水があれば、そのような進行は不可能ですが、見る限り、克服可能な経路と思います。

 と言うことで、古代、先進光学機器も衛星写真もなくても、小数計算を含む十進数計算の思想がなくても、時分秒の時間計測概念がなくても、つまり、SI国際単位系に規定されたメートル法の単位系がなくても、この程度の距離と地面の起伏であれば、「一直線」に北進できると判断します。(愚考の一案です)

*謝辞・賛辞
 復習すると、藤田氏の叡知は、二万五千分の一地形図で見ると両地点が南北「一直線」上に見える、という発見に触発され、当時利用可能な手段で、藤原京のほぼ真北に山科陵を位置決定できたのではないかとの提言であり、こうすれば実現可能と読者側から手をさしのべられる真摯なものです。

 これをご自身の見識に照らして考証し、適切な理解と紹介を行われた著者は絶賛に値するものと信じるのです。

*失敗事例 地に墜ちた「歴史の鍵穴」

 これまで、毎日新聞連載「歴史の鍵穴」論説を当ブログが批判し続けているのは、提示区間が途方もない長距離であり、時に、海上を延々と通過するから絶対不可能というのであり、論拠として掲載されている方位や距離の多桁数字が、現代の技術で測定された地形データを根拠無しに古代に適用し、無理で意味のない高精度計算を行う、と不法に不法を重ねているからです。

 要は、ここまで「地図妄想」と批判してきたのは、学術的に意味のない、本末転倒した主張を続けているためです。

*感慨
 豊富な知見と学識を有する先人が、ここに例示されたような合理的で、的確で、隙のない思考を行って見せてくれているのですから、虚心に見習うべきではなかったかと、歎くものです。

                               完

2025年11月 8日 (土)

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 1/2 2025

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*「えらい」のは誰か
 コンピューター(PC)が「えらい」のではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのが「えらい」のです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人が「えらい」のです。いや、関西弁で言う「えらい」は、仕事が多いという意味ですから、二重に皮肉です。

 平たくいうと、氏が称揚されているのは、「ネット」、そして、その向こうにいる大勢の「えらい」人たちであって、PCが「えらい」のではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーとその後継者や無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどの「ブラウザー」を使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。
 ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。「困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である」(A friend in need is a friend indeed)と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、「三国志」で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。
 「三国志」を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや「中国哲学書電子化計劃」などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは、本当の友人です。

                                未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」季刊「邪馬台国」125号 2/2 2025

~卑弥呼以死考~ 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 星五つ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18 補筆 2022/10/09, 11/08

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(当初、各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが、共通のユニコード体系で参照できることになり、楽々中国文献の検索ができるので、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは、素人も追試でき、フェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、「三國志」全文を手作業検索した話が匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。
 また、とうの昔に博物館入りしたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 素人考えながら、「悉皆」と表現される広範な用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈の手順として「悉皆」は、本末転倒と思います。中国といえども、個々の文字、言葉の意味は、地域差もあり、時代差もあり、文献史料ごとに変動しているのであり、特に、古典典礼を踏まえない、日常用語の分野では、用例の適否判定が不可欠と見るものです。

 陳寿が採用した記事の筆者は、「以死」と書くとき、汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。当該文書の文脈から解釈することが、大変困難となったとき、初めて、書庫の扉を開き、台車で古典を引き出して身辺に置き、ひたすら参照すればよい、と言うか、そのような手順を常道とすべきなのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。

 倭人伝の書かれた真意を察するに、卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿を全うした」と見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからも、そう感じるのです。

□補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、氏の提示された参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971 講談社) 
⑵生田滋 「東南アジア史的日本古代史」(1975 大和書房) 
⑶松本清張「清張通史 1 邪馬台国」(1976 講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977 産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964 史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976 講談社現代新書) 
⑺大林太良「邪馬台国」(1977 中公新書) 
⑻三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979 吉川弘文館) 
⑼福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981 大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981 梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981 梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984 多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983 梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981 立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987 そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990 六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987 雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991 毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993 小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999 海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999 ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000 吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」 (2000 梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013 PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」 (2008 思文閣出版)

*付記 2025/11/08
 主旨として、くり替えしになりますが、笛木氏のご託宣を拝読した読者は、全員、これら厖大な文献を悉く解読して、被引用箇所を摘出し、氏の引用が正確であったことを検証しなければならないのでしょうか。文献は、前世紀の出版物であり、最古のものは、半世紀を溯るものです。正直、実効不可能な使命を課せられたと感じるものです。
 所詮、ここに挙げられた諸兄姉は、「魏志倭人伝」を資料解釈されたのであり、氏が参照すべきは、文献全体でなく、具体的な評言であるように見えます。もっとも、これら諸兄姉は、「倭人伝」の記事の根拠となる原史料を検証したわけではないので、あくまで、個人的な所感を述べたもののように見えるのです。と言うことで、氏の足跡を追う素人論者としては、そろそろ、徒労と見える参考文献の列挙に終止符を打っていただきたいものです。
 
                             以上

2025年11月 6日 (木)

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 6 日吉大社の悲劇 1/2 2025

天智の宮と聖武の宮 日吉大社とつながる =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 星無し 「無法な」ホラ話  2016/10/19 再掲 2024/04/17 2025/11/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに

 今回の題材は、毎日新聞月一コラム「歴史の鍵穴」の今月分であるが、またまたもやもや、途方もない地図幻想を蒸し返しているので、指摘を繰り返さねばならないのである。なぜ、全国紙がこのような「無法な」ホラ話を掲載し続けているのか、まことに不可解である。

*後世知の戒め
 前回記事で、2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載という論文「水林 彪 古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話」を引き合いにしているが、冒頭で提起されている戒めを読み損ねているのだろうか。
 8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである

 当然、8世紀の事を論ずるのに21世紀の認識を適用することは学問的に無効だと言うことは言うまでもない。

*前提「技術」
 と言っても、指摘の論点をできるだけ変えていくことにしているので、今回は、「カシミール3D」に関する指摘を言い立てたい。
 いや、記事筆者は、ずぼらをして「地図ソフト」などと言いくるめているが、実際は、「カシミール3D」は、国土地理院の数値地図を利用する、「地図ブラウザー」(地図データを表示、流し読みするもの)であって、自力で地図を創作しているものではないから、表示され、印刷されている地図に責任を負わせられるものではない。
 科学技術的に肝心なのは、地図上の各地の地理データは、国土地理院の提供したものだと言うことである。前提技術は、明確に表記すべきである。
 国土地理院の数値地図は、近年になって、衛星からのデータを利用して校正されているというものの、本来は、全国にくまなく巡らされた三角点を実際に測量して得られたデータをもとにしているのである。

*科学に基づかない科学論
 記事筆者は、色々資料を取り出して蘊蓄を加えているが、今回も臆面もなく掲示されているような架空「地図」を根拠に、当時の為政者の配置の動機を忖度するのは、非科学的な妄想と言われても仕方ないのではないか。

*現実世界の有り様
 現在の技術を持ってしても、0.14度とか0.37度とか、1/100度の精度で論ずるのは、無意味である。それにしても、当シリーズの表記は、従来、0.1度単位であったが、今回は、0.01度に単位と超絶的な高精度になっているのは、一段と不可解である。全周360度に対して、一万分の一、0.01度の精度で測量する手段は、現実には存在しない。恒温恒湿、無振動、無塵の測定室が必要であり、おそらく、体温や呼気の影響を避けるために無人化する必要があるであろう。つまり、今後如何に技術革新があっても、記事筆者の妄想世界ならともかく、現実の生きた世界に適用するのは、「絶対に」無理というものである。

未完

毎日新聞 歴史の鍵穴 地図幻想批判 6 日吉大社の悲劇 2/2 2025

天智の宮と聖武の宮 日吉大社とつながる =専門編集委員・佐々木泰造
 私の見立て☆☆☆☆☆ 星無し 「無法な」ホラ話  2016/10/19 再掲 2024/04/17 2025/11/06

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*8世紀の技術考証
 話を元に戻すと、当時、方位の決定方法として、太陽の南中をもって真南-真北とし、その線に垂線を立てることによって、東西の線を得ることは特に困難ではなかったと思う。
 小難しく見えても、要は、真っ直ぐな木の棒を立てる際に、天辺から錘付きの糸を垂らして、それに合わせて棒を立てると言うだけのことである。ちょっとした大工仕事で必ず柱の垂直なのを確かめているから、家が傾いて立つことはないのである。基本の基本である。いうならば、遅くとも中学校理科で学ぶことのできる内容である。

 つまり、季節に関係なく、その土地の東西南北を、容易、かつ、正確に知ることができる。
 四分割した方位を二分割して八分割にすることは容易であり、更に二分割して、十六分割にすることも、さほど困難ではない。これまた、中学生程度で理解できる手順である。から、8分方位や16分方位は、お説の8世紀でも利用できたと思われる。
 これは、未開だった3世紀でもできたと思われる。中国では、太古以来、全天を360に分割して、一日一度の概数で当てはめていたことが知られている。
 また、このような方位決定に必要なのは、太陽の南中方位だけであるから、水平線への日の出、日の入りを観測できない場所でも問題なく可能である。季節も、全く関係しない。
 衆知の如く、奈良盆地は、周囲を山で囲まれていて、地平線、水平線を見ることはできないから、日の出、日の入りを観測することはできないが、ちゃんと、東西、南北が知れていたのは、ご承知のことと思う。

 言うまでもないが、そのような方位の求め方は、地上や紙上での作図によるものだから、せいぜい数㌫の精度である。
 また、大変重大なことなのだが、そのような方位は、作図したその場で決定されるだけであって、全周360度とした0.01度単位どころか、1度単位でも、別のどこかでその方位をそのまま利用することは、ほぼ不可能であったと思われる。
 だから、ある地点で、精密な方位角を求めても、無意味なのである。

 ついでながら、そのような方位線を得たとして、例えば、日吉大社から見通しのできない伊勢神宮内宮の方角が、360度のどの方角にあるか知ることはできないのである。

*8世紀の測量考証
 いや、ここまで、記事筆者が高精度の方位線に固執しているから、このように徹底的な掃討戦になるのであって、8世紀においても、地点間の方位の「概要」を知ることは不可能ではなかったと考えられる。
 8分割で「北」とか「東南」とか言う程度の方位感であれば、方位図とその地点の南中線を重ねれば、その地点の方位は知ることができるのである。

 例えば日吉大社から伊勢神宮に至る街道が曲がりくねったものであっても、見通しの利く範囲に区切って、その都度行程距離と方位を記録して丹念に補正を繰り返せば、誤差が積み重ならない測量も、大変な労苦ではあるものの、不可能ではなく、二地点間の大まかな方位関係は得られるはずである。
 簡単に言えば、大津宮が恭仁京のほぼ北にあることは、当然知られていたはずである。

 と言うものの、「日吉大社の西本宮と伊勢の外宮を結ぶ線が紫香楽宮の中心建物の約2㌔㍍南にある甲賀寺跡を通る」など、当時の誰も知らない/知り得ないことである。知らない/知り得ないことに依拠して、何かの位置を決めることはあり得ない。

*測量技術の時代限界
 測量は、誤差とのつきあいが不可欠であり、8世紀には8世紀の、18世紀には18世紀の測量が行われたはずである。そうした理解無しに、結果だけを捉えて、0.01度の精度で論ずるのは、子供だましの言い草であり、はなから非科学的と言わねばならない。

 記事筆者の大いなる誤解は「そこで高精度を言い立てるのは、不可能事項を可能だと力説している」ことに結実しているのであり、記事の信頼性を地に落としていると言うことである。地図も、8世紀の知識では、このように精密に描けるものではないのである。精密に描き、その根拠を現代に求めると言うことも、また、天下の公器、毎日新聞の記事の信頼性を地に落としていると言うことである。
 恐らく、記事筆者は、原稿無審査で掲載できる特権の持ち主なのだろうが、それなら、それに値する自己審査を怠ってはならないのである。

 あるいは、奈良盆地の山中、つまり、水平線の見えない場所での日没の方位を高精度で論ずるのは、科学的思考を知る誰が見ても、非科学的と言わねばならない。

 非科学的な論法を、科学的な装いで粉飾して一般読者に押しつけるのは、早急に止めるべきである。

 と言うことで、今回も、ため息をついて、当記事は非科学的なものであり、ダメだと言わざるを得ないのである。折角のご託宣が、もったいない話である。

以上

2025年11月 5日 (水)

新・私の本棚 番外 追悼 志村 裕子 講演『遠賀川流域の神々』 1/1 2025

                           2020/12/02  2025/11/05
*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢追悼記事
 古代史分野で、優れた論考を重ねていた志村裕子氏が、この六月になくなったということです。哀悼瞑目。

 思うに、氏の注力した分野は、日本列島の神社史でしたから、当方の講読する季刊「邪馬台国」誌での発表は、中国史書視点を離れた貴重なものでした。以下は、YouTubeで公開されている氏の講演の紹介です。

 氏は、各地神社資料に目を配り、深く広く調べ考察して体系的世界観、歴史観を提示したので、謹んで傾聴すべきですが、コメントとして、生かじりの思い付きで異議が挟まれているので、氏に代わって反駁を加え顕彰にかえたいと思います。
 因みに、発表者が見を削って練り上げた講演内容に対して、野次馬がこのような無意味なコメントを貼り付けられるのは、YouTubeコメントの欠陥であり、単なる中傷の類いは、排除できるようにすべきだと思うのです。もちろん、異議、異論は否定できませんが、何を言っても停められないのは、勿体ない事だと思います。

*嘉麻講演紹介
 第1部 講師 志村裕子 古代史シンポジウムin嘉麻 「女神輝く遠賀川」
   基調講演『遠賀川流域の神々』
 平成28年10月16日 会場/嘉麻市嘉穂生涯学習センター

 遠賀川流域の人々は、列島各地に進出している。
 それは神話から読み取れるし、考古学、神社伝承とも適合する。
 広い視野で、筑豊から進出した神々に思いを馳せ、
 その神々を生み出した筑豊の女神たちに思いを馳せてほしい。
 感謝申し上げます。
              志村裕子様より寄稿
 コメント
 この人「つくし」「つくし」って気になるねー。「ちくし」やろ「ちくほう」「ちくぜん・ちくご」全部「ち」と発音するやろうに。それと関東平野はほぼ湿地帯だから丘とか山の高い土地しかすめないのは当たり前千葉のいせきもそういうとこから出るのは当たり前のことです。

 この野次馬は、一般向け講演と言うものが、まるで理解できていません。この場では、大抵の人の耳に馴染んでいる「つくし」が当然です。その程度の常識もありません。このようなごろつきめいた罵倒、中傷を退場処分にできないのは、全く残念です。

 以下、コメントを丁寧に批判しますが、このような徒労は、何とも情けないのです。

*時代錯誤
 「関東平野はほぼ湿地帯だ」と無造作ですが、正しくは「だった」です。当時「関東」はありませんでした。時代錯誤連発です。当時、「関東平野」中南部は、海中か、泥沼でした。当時がいつかは、ここでは触れません。万事垂れ流しでは、誰も真剣に読みません。

 後世、「関西」から房総半島に至る道は、三浦半島から船で至り北上したので半島南部を上総、北部を下総としたのですが、隔世です。その程度の常識を知らなくても、言いたい放題なのです。

*地理錯誤
 周知の通り、房総半島は、ほぼ平坦で湿地帯はなく山の高い土地もありません。関東「平野」は、低地に川筋が刻み込まれていて、丘などの高い土地など、ほとんどないのです。まして、房総半島には、低い山すら滅多にありません。だからといって、関東平野なるものが、低湿地帯ばかりだったというのは、安直な決めつけです。このコメントは、字面でわかるように、ほろ酔い気分の「書いて出し」であり、ブログへのコメントであれば、非公開のまま削除、出入り禁止にするものですが、YouTubeで、それはできないので、誠に不条理です。本来、ごみ発言は、ゴミ箱直行が似つかわしいのです。

 鹿島神宮と香取神宮は、当時から、(後の)利根川河口部の南北岸で、それぞれ勢威を振るっていました。渡船往来だったので、棲み分けたのです。

*神社が束ねた国々
 志村氏の指摘の通り、両総、安房三国には、大河から多少離れた地域に香取神宮氏子が住む国々が生まれましたが、住民は争いごとを、氏神、つまり神宮分社に委ねたのです。
 両神宮の神官、巫女は、そのような裁きで「王」の国々を制し、記録になくても、「大王」が全体のまつりごとを捌いたと見るのです。

*コメント批判総括
 野次馬は、不自覚のまま、長年の学究を踏まえる論者と背比べして勝っていると自慢たらたらです。論者の提言が読めていないだけであり、恥を知るべきです。

 以上、志村氏追悼の意味をかねて番外議論を試みたものです。

                                以上

私の本棚 志村 裕子 物部氏と尾張氏の系譜(4)2025

季刊「邪馬台国」 132号 
私の見立て  ★★★☆☆ 星三つ 真摯な労作 該当部分 ★☆☆☆☆ 星一つ     2017/06/30 2025/11/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 先ずは、季刊邪馬台国誌132号の上質の出来映えに感心したと申し上げる。ここ数号のかなり乱れた出来とは大違いで安心した。 当記事に関する批評は、別に重大な物ではなく、記事著者の今後の執筆の際に、参考になれば幸いと思うのである。

 さて、水林 彪 「古代天皇制における出雲関連諸儀式と出雲神話」(2009年の「国立歴史民俗博物館研究報告」第152集掲載)に書かれた貴重な戒めを掲げたい。

 8世紀の事を論ずるには,何よりも8世紀の史料によって論じなければならない。10世紀の史料が伝える事実(人々の観念思想という意味での「心理的事実」も含む)を無媒介に8世紀に投影する方法は,学問的に無効なのである。

 一般的な戒めとすると、古代に関する論説に、後代、或いは、別地域の概念を持ち込むべきでは無いということである。

*カタカナ語嫌いの弁
 今回の記事でそれを思い出したのは、冒頭の「スポット」というカタカナ語である。これは、古代になかった言葉、概念であるとともに、現代でも、万人に明確な言葉ではない。
 おそらく、著者の周辺の仲間達に通じる言葉かも知れないが、ここで使うべきでない言葉と考える。
 「スポット」とは、「観光スポット」、「パワースポット」などを端折ったのだろうか。それなら、現代も現代、軽薄なメディアが、意味もわからず端折る悪癖に染まっていなければ幸いである。「パワースポット」ですら、意味が不安定なものを「スポット」(染み、或いは、地点、点)にしてしまったら、意味が通じないのが当たり前なのである。愚行は見習わないで欲しいものである。

 もう一つのカタカナ語は、「アレキサンダー」である。まさか、カクテルのことではないだろう。古代史で誤解無く言うなら、「アレキサンダー大王」と書くべきである。そして、何かの比喩で言っているとしたら、真っ直ぐ通じにくい比喩であり、避けた方が良い。因みに、後に続く投稿原稿の高橋輝好氏は、通信社記者経験のある方なので、「アレキサンダー大王」と丁寧に書いている。見習うべきではないかと愚考する。
 更に言うなら、「マケドニアのアレキサンダー大王」が、「アレキサンダー三世」のこととわかっても、この人物に感じるものは、読者個人個人で多様である。
 ギリシャ・ローマ史を少々囓った当方としては、都市国家時代のギリシアの北部辺境から起こって、各都市が豊かな文化を持つギリシアを武力統一した後、東方の文化大国ペルシア(アケメネス朝)を倒し、王都/副都を打ち壊し、焼き払い、それ以降、東に南に敵対勢力を打倒することしかしないまま、若くして亡くなった、「困った」英雄と感じているので、決して褒め言葉では無いのである。
 もちろん、武勇の人であり、難敵と戦って勝ち続けたことを称える人も多いだろうが、今日のイラン地方では、邪悪な侵略者と思われていても不思議はない。

 と言うことで、著者が、「景行天皇」ないしは「ヤマトタケル」を「アレキサンダー」と呼ぶのは、著者の意図を支えているのか、足を引っ張っているのか、疑問が多いのである。古代とは言え別世界の、よくわからない人物を引き合いに出さない方が良いように思うのである。

 つまり、一番わかりやすいのは、古代史論の本文部分では、よほど定着したものを除き、カタカナ語を使うべきでは無いということである。そういう趣旨で言えば、「コミュニティ」すら避けて欲しいということである。

 それとは別なのだが、誤植らしいのが目についてしまったので、指摘しておく。②で
 宇麻志摩治命
 宇摩志摩治命
 宇摩志麻治命
の三様が混在して、気になるのである。

 と言うのも、当方は、愛媛県東部、往時の宇摩郡出身なので、とくに目につくのである。通常、かな漢字変換を一度行えば、次から最優先表示されるので、自然に用字が統一されるのだが、何か手違いでもあったのだろうか。それとも、学習を切っているのだろうか。

 別に、縁も所縁もない一年寄り読者の意見を聞かねばならないと言うことはない。

 筆者の今後の活動の参考としていただければ幸いである。

以上

私の本棚 志村 裕子  物部氏と尾張氏の系譜(5)1/4 2025

  ~上代古典の神・氏族・自然~  神武天皇か、物部氏宇摩志麻治命か 季刊「邪馬台国」 134号 
私の見立て ★★★★☆ 星四つ  真摯な労作   2018/06/29  2025/11/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに
 本稿で潤沢に展開される、資料に密着した論考には異論はないが、いろいろ、同感できない言い回しが目につくので、具体的に、何がどう気に入らないのか書いていくことにする。個人的感想なので、絶対というものではない。こう言う見方もあることを伝えるだけである。

*見出しの怪
 1.日本古来の神道祭祀を守った物部守屋

 この見出しから躓くのである。
 議論の対象は、書紀や旧事紀の記事であろうから、用語は筆者の責任ではないかも知れないが、少なくとも、「日本」は、七世紀末から八世紀初頭に発明された概念であるから、ここに登場すると時代錯誤の感を禁じ得ない。現代人が書いているから、現代人の言う日本かなとも思うのである。

 「古来」とは、どの時代の視点によるものかも不明である。現代人が書いているから、現代人の言う古来なのかとも思われる。後ほど出て来る「上古」も一読者としては、解釈が安定しない。

 「神道祭祀」は、ほとんど現代語である。物部守屋の在世時、そのような概念は存在しなかったはずである。当時にとっての古来、各氏族には、各氏族の神、というか尊崇すべき祖霊があり、「神道」に近いものとしては、両親、祖父母の霊を尊崇する共通の習わしがあったように感じる。つまり、各地の風俗は、言葉と共に同根であったのではないかと思われる。

 また、文字も紙もない当時、少なくとも、各氏族の系図は、口伝によるものとしても、伝えられていたものと思われる。

 但し、口伝とは言え、神官、巫女を備えた氏神祭祀を司る神社は、各地に展開していて、いわば、草の根にまで浸透していたから、後に、駆逐することなどできなかったのである。

*宗教戦争考
 ①物部氏と蘇我氏の宗教戦争

 ここに登場する「宗教戦争」なる言葉は、当然同時代言葉でなく、読む人によって解釈が揺れる筆者は、蘇我馬子と物部守屋の政争を「宗教戦争」と断じて、片付けているようだが、それは、古代史上の事件を評価する上で速断ではないだろうか。

*時代・世界錯誤
 なお、素人考えで恐縮だが、「宗教戦争」という言葉は、明治以後に、欧州キリスト教の旧教対新教の抗争をもとに発明した用語のようであるが、時代も世相も違うこの時代の政権闘争をそのように類推するのは、どうしたものか。

                     未完

私の本棚 志村 裕子 物部氏と尾張氏の系譜(5)2/4 2025

  ~上代古典の神・氏族・自然~  神武天皇か、物部氏宇摩志麻治命か 季刊「邪馬台国」 134号 
私の見立て ★★★★☆ 星四つ  真摯な労作   2018/06/29  2025/11/05

*加筆再掲の弁
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*不都合な類推

 類推と言っても、欧州のローマ教皇に「天皇」が相当すると見ると、天皇家が信奉する祖霊信仰を捨てることに思えるのである。

 あるいは、帝政ローマで、時の皇帝が、古来の神々を捨ててキリスト教に帰依したことになぞらえるようにも思えるが、筆者は、そのような語義審査はしていないようである。

*姻戚関係の妙
 ②蘇我氏と物部氏は姻戚関係にあった

 別に不思議でもなく、大氏族間に婚姻に基づく親戚付き合いがあったのは、むしろ、当然に思う。そうしなければ、近親結婚となって、弊害が多いのは、当時、知られていたようである。

 婚姻と言っても、各氏族の女性は、嫁ぎ先に、自身の氏族の祖霊、端的に言えば、氏神の住まう神輿とも思える神棚を携え、それこそ、氏族小宇宙の中の小宇宙を形成していたのではないかと思われる。

*藤原氏の早発
 有名な乙巳の変をどう捉えるかは別として、ここに藤原鎌足を書き立てるのは不適切である。せめて、中臣鎌足と書くべきである。

*国際関係の怪
 末尾に、「大陸との国際関係」と無造作に現代概念を持ち込んでいるが、勘違いも甚だしい。

 「国際」関係を結べる「大陸」とは、中原政権のことのように思えるが、当時の中原政権が、不服従に見える東夷の小支族と対等の関係を結ぶなどあり得なかったのである。こちら側にしても、支族には、「国」の体裁がないのだから、両者の間に「国際」関係などあり得ないのである。これら支族が、大陸王朝に「王」と名乗って貢献した記録でもあるのだろうか。

 そもそも、東夷などの夷蕃のものが、直接帝都にやって来て、拝謁を願うのは赦されないのであり、まず、帯方郡や楽浪郡が受け付けるのである。
 現代でも、国家元首の信任状を持たない外交官は、外交官として受け入れられないのである。まして、一地方自治体による外交などあり得ないのである。

*疫病考 余談
 疫病蔓延を見ると、おそらく、朝鮮半島からの来訪者に健康保菌者が混じっていて、自身は発病せずに病菌をまき散らしたのではないかと思われる。特に証拠は無いが、疫病患者は、数か月の旅に堪えないので、普通、疫病患者が流入しても、九州北部程度で蔓延は終焉していたはずである。

 これらの事例は、後にも、奈良盆地の小宇宙に未知の病疫をもたらしたものであり、確かに、外来者は、新しい文化と共に、未曾有の災厄も齎したと思われる。

 案ずるに、古くから半島と交流していた九州北部では、おそらく、経験的に遠来の新来者を一定期間隔離する防疫管理をしていたと思われる。そうでなければ、早々に、地域絶滅していたはずである。

 いや、余談になったが、この程度の素人考察すら、滅多に見かけないので、ついつい書き足すのである。

                     未完

私の本棚 志村 裕子 物部氏と尾張氏の系譜(5)3/4 2025

  ~上代古典の神・氏族・自然~  神武天皇か、物部氏宇摩志麻治命か 季刊「邪馬台国」 134号 
私の見立て ★★★★☆ 星四つ  真摯な労作   2018/06/29  2025/11/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。
 
*意図不明の参照
 ③大化の改新で守屋の系譜が復活

 素人考えでも、物部守屋の駆逐が「革命」、つまり、新来勢力による既存勢力の打倒とすると、当然、反革命が起こる。つまり、旧勢力の復権である。

 あるいは、このような抗争の際の常套手段として、物部氏の下位層に、革命に協力すれば、物部氏の頭領の地位を保証すると持ちかけたのかもしれない。旧事紀を参照するまでもなく、全国に物部氏の分家が多数展開しているから、これら全てを敵に回すことなどできなかったに違いないのである。

 総じて、筆者は、既存論者の単純な思考形態にとらわれていて、先人の論考を踏み越えて前進する気概に欠けているものと思われる。

*見出し冗長の弊害
 ④古代の大事件の中での物部氏と尾張氏のポジション

 小見出しが冗長なのは、筆者の不手際である。
 「ポジション」と意味不明なカタカナ語で締めるのは拙劣である。

*戦国世相
 書き出しの戦国時代や江戸時代の例示は、時代錯誤であるし、著者による総括は、認識不足であり、不適当であると思う。

 例えば、一つの見方として、織田信長の武装仏教勢力攻撃は、「天下布武」、つまり、武士秩序による全国制覇を目指した政権闘争と見ることができる。

 信長の不退転の戦いは、新興宗教を奉じたものではないし、天皇制を奉じたものでもないと思うのである。いずれにしろ、意味不明な宗教戦争と呼ぶのは、見当違いである。

 一方、江戸時代初期のキリスト教信者による挙兵は、一つの見方として、ローマ教皇の名に従い、イスパニアがフィリピン等で展開した民族浄化策の日本への導入の端緒であったかも知れない。もちろん、そうでなかったかも知れない。
 少なくとも、ローマ教皇と教皇を押し立てたイベリア半島諸国の世界制覇の意図は、「東アジア」に於いては、罰当たりな偶像崇拝の仏教勢力との対決による純然たる布教だけではなかったはずである。

*粗雑な受け売りの害
 筆者は、以下の展開の枕として、本分ではない時代例を取り込んだのかも知れないが、こうした受け売りは、得てして粗雑であり、読者の反発を招くのである。

 ちなみに、古代史学分野で近来見かける「宗教戦争」は、教皇庁にも似て、強大な既得権を擁し、従ってこの上もなく頑迷な「畿内説」勢力と在野勢力の論議なき「論争」を諷したもののようである。
 当ブログ筆者は、取るに足らない一私人であるから、どちらかに加担しても、しなくても、別段何という事もないのだが、密かに、と言うかここに公言しているのだから、丸見えなのだが、人知れぬ私見として、中々蘊蓄に富んだ表現と見るのである。

*乱れた言葉
 ⑤フィールドワークするほどに存在感は増す

 この小見出しは、まっとうな日本語ではない。
 書き出しがカタカナ語というのもあるが、全体としていわゆるブロークン、壊れた言葉遣いである。感心しないことおびただしい。
 著者の周辺では受けるかもしれないが、決して正統な史学の用語ではないのである。

                     未完

私の本棚 志村 裕子 物部氏と尾張氏の系譜(5)4/4 2025

  ~上代古典の神・氏族・自然~  神武天皇か、物部氏宇摩志麻治命か 季刊「邪馬台国」 134号 
私の見立て ★★★★☆ 星四つ 真摯な労作   2018/06/29  2025/11/05

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*全国制覇
 筆者は、「これらの人々にまつわる皇族の逸話は(中略)上代の文献に記されて、所縁の神社・古墳・伝承などは、日本全国におよぶ」とおっしゃるが、随分誇張していると思う。例えば、古墳、いわゆる大規模墳墓が日本全国至る所にあるとは聞いたことがない。

 ちなみに、上田正昭氏は、後世日本とされた領域という意味で、地理概念としての「日本列島」と呼ぶことを提唱している。これに対して、「日本全国」のように、「全」、「国」と言い立てるのは、政治的な概念であるから、相当胡散臭いのである。

*軽佻浮薄の弊害
 また、現代の若者に神社(寺院朱印も多数あると思うが)の御朱印やパワースポットのブームの波(ブームの波?)が押し寄せていると言うが、それを、生物の遺伝情報であり、親子関係によってのみ継承されるDNAのせいにするのは、どんなものか。

 また、殊更非仏教系だけ(?)のパワースポットに対する一般人(?)の関心が高まっていると感じているのは、まことに、非科学的、非民俗学的な書きぶりである。
 まっとうな史学者の書いた論考とは思えない。

 このように、世相に感じいって、「存在感」や「真実味」がまして感じられるというのは、感情的なものであって、非科学的である。加えて、論考を書き上げる際に、現代的なカタカナ語の言い崩しや、若者言葉を排すべきである。

 先に挙げたような言い崩しは、狭い意味での世間受け、つまり、筆者の取り巻きの若者受けするかも知れないが、その分だけ、古代人の心から遠ざかっているのである。筆者が若者に迎合して筆を曲げた論考は、若者の心に古代人と通じ合わない小宇宙を形成して、若者が古代史学に通じようとする気概を損なうのである。

 ちなみに、氏の関知しないと見える編集後記では、「DNA」が犯罪捜査の「DNA鑑定」の意味になってしまっている。若者言葉は、なんでも、三文字、四文字に端折って意味不明にする、一種の幼児語なのである。真摯な研究者は、低俗の風に染まらないでいただきたいものである。

*揺れる言葉
 最終段落で、「フィールドワーク」と書いているのは、文化人類学的な野帳作成を言うのだろうから、特に、不適切なことはないが、先ほど「上代の文献」と言って、ここで「上代の古典」とは、意味不明である。

 古代史に関する論考は、少なくとも、意味の固まっていない現代語を排しなければ、読者に意味が通じないから、これらの場違いな言葉は、無意味である。

*本領滔々
 以下、2.3.は、物部、蘇我両氏の衰亡譚を離れ、構想も新たに、倭人伝時代にちなんだ古代の様相について、豊富なフィールドノートをもとに多彩な考察を加えてゆったりと展開している。とても、素人の口出すことではないので、関心のある各位は、是非、当誌を購入して熟読いただきたいものである。

*総評
 前段部分の批判ばかりになったが、記事筆者ほどの学識と思考力の豊富なかたが、若者の感情に訴求する書き方に陥って、古典的な文章作法、語法をなおざりにしているのは、傷ましいと感じたのである。

                      完

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 ⑴~⑶ 2025 改

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11
私の見立て ★★★★★ 論理的考察のお手本  2020/05/16, 2024/12/07, 2025/11/04

*加筆再掲の弁
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〇はじめに
 提示されているのは、倭人伝道里記事の終着点の解釈です。と言っても、当ブログ記事筆者の提案ではなく、古田武彦氏と古賀達也氏の意見です。そして、ここであげるのは、別の視点です。

*異論異説紹介
原文 南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

 通常、「南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月」 と句点を打っていますが、「…女王之所、都水行…」と句点する提案です。

 従来、「水行…陸行…」は「全行程通算日数」との古田氏提唱の自然な読みと畿内説の命綱の「最終通過点からの所要日数」との絶妙な読みが角逐していましたが、「都水行…陸行…」ならば、全行程通算とできるという見方です。

 衆知の如く、倭人伝原文は句読点なしにべったり書き連ねていて、これでは、日本人だけでなく現代中国人も解釈に苦しむので、古来、多数の碩学者が、長年苦吟の上で句読点を打っていて、中国史学会で伝統的に採用されている解釈ですから、絶対的な支持を得ていますが、素人の乏しい経験ながら、句読点の打ち間違いで深意を取り違えている例は、いくつか見つかっています。
 句点に関する異議は、新説提起に慎重な古田氏が「決定的論証が不足している」と提言を控え、その衣鉢を継ぐ古賀氏も、辛抱強く補強策を求めていますが、当方は、微力ながら背中を押したいのです。

〇「女王之所都」の不合理
 冷静に見ると、「女王の都とする所」とする解釈には多々難があります。
 「王都」は、二字熟語として、中国史書で言う「周王の都」と決まっていて、夷蕃王の治所に使うべき言葉ではありません。そして「王之所都」は、類似した意味のようですが、公式史書の定型文を外れた、変則的な言い回しです。
 いや、正確に言うと、漢代に至るまでは、「所都」は、堯、舜、禹の聖帝、殷(商)后紂王、周文王、武王と連なる太古以来の諸天子にのみ許されていて、天子の権威が稀釈化した後漢代以降でも、ほぼ、例外的に書かれていたのです。
 陳寿の奉職した西晋は、後漢後期、献帝期の乱世のために、天子の権威が衰徴していますが、それでも、洛陽に形成されていた公文書庫は、太古以来の書法を高官有司に守られていたので、大きく崩れることは無かったのです。

*班固「漢書」の教え
 先行する班固「漢書」西域伝で「王都」は、唯一西域の超大国安息だけであり、多数の小国は、「治」、「居」、「在」です。安息は、東西数千里の超大国パルティアであり、文字記録、金銀銅貨幣、全国街道の整った、漢と対等の文明国ですから、両漢は、例外として「王都」と呼んでいたのです。
 因みに、漢代に参詣した各国の来貢使節は、ほぼ例外なく、正史、副使、書記官、護衛官と上下揃って印綬を受領して帰国しています。

 「王都」は、郡国制で王をいただく国にだけ適用され、特別な例外を除けば、国王は皇帝同族の劉氏です。
 と言う事で、新来の蕃夷で外藩の蛮夷の王に過ぎない女王の居処に「王都」なる尊称は与えられません。まして、この時点は、景初遣使事績に触れる以前ですから、「女王」は由緒も何もない蕃王であり「所都」とは言えません。

*范曄「後漢書」の教え
 范曄「後漢書」東夷列伝「倭条」は、「其大倭王居邪馬臺國」として「王都」と言わず、個別の小国「倭」と全体を束ねた「大倭」を書き分けている点も、絶妙です。また、大部の笵曄「後漢書」西域伝も、夷蛮の国に関して適確です。世上、笵曄が史家として至高の存在であると「崇拝」している向きがあるので、あえて一言を述べたものです。
 笵曄「後漢書」は、劉宋代の編纂であり、長く、諸家後漢書の群雄に埋もれていたものであり、大唐高宗章懐太子李賢が、あえて正史として抜擢して以降、広く認知された史書ですが、本紀諸伝は、先行する諸家後漢書が洛陽公文書庫に所蔵されていた公文書から抜擢した記事が連ねられていたものであり、笵曄は、それら先行史書の語法、筆法を参考として、自身の行文を創出したものであるから、必ずしも典拠が明確でない東夷伝「倭条」も、「王都」用法については、先例に従っていたと見えるのです。

 ということで、陳寿は、笵曄「後漢書」自体は、一切見ていないのですが、後漢から天下を継承した曹魏の正史を編纂する際に典拠とすべき後漢代の公文書は、魏武と敬称される曹操の年代記を編纂する上で不可欠なこともあって、熟読していたのですから、後漢代の公式史料は、熟知していたと見るものです。
 
*付言 後漢書成立史 2025/11/04
 念のため付言すると、笵曄「後漢書」は、五世紀劉宋代に、笵曄によって編纂されたというものの、志部編纂を委嘱していた史家からの貢献以前に、笵曄が皇帝に対する反逆という大罪に連座して馘首処刑されたため、笵曄の未完稿は接収され、共同編纂者の志部を合本するどころか、本紀、列伝すら、編者の手の届かない未完稿のまま、時の皇帝劉宋文帝に没収されたのですから、笵曄「後漢書」は、笵曄原本の無いまま、一部で愛読されていたと見えるのです。

 笵曄「後漢書」が、そのような「野史」に近い扱いを脱したのは、唐高宗の指示を受けた章懐太子李賢が、当時継承されていた笵曄「後漢書」流通本に注釈を加えたお陰で、笵曄「後漢書」は、班固「漢書」を継ぐ、堂々たる正史と認知されたものであり、この時点で、初めてようやく「成立」したものです。これは、五世紀半ばの笵曄本完結以来二世紀を経た七世紀後半になるのです。その時点で、喪われた「笵曄」「後漢書」「志部」は、西晋司馬彪の後漢史書「続漢紀」の「志部」である司馬彪「続漢志」によって補填されていたのであり、事の是非を言うならば、これは、笵曄の与り知らぬ原本改竄です。
 なお、司馬彪は、西晋代の史家であり、三世紀末まで生存していたとは言え、実質上は、陳寿と同時代人と見えます。と言うことで、「続漢志」は、後漢代の記録として、原史料に近い良質な史書と見えますが、何しろ、笵曄「後漢書」志部は、完全に喪われているので、その当否を問うことはできません。

 また、高宗の皇子であった李賢は、皇太子の地位に就きながら、時の権力者である女帝武則天によって廃された流罪地で死を賜り、正史の編纂に携わるものが苛酷な運命を辿った一例となっています。後漢光武帝によって取り立てられた高句麗が、後漢どころか魏晋南北朝を越えた凡そ五世紀に余る長命な大国であったものの、武則天の怒りを買って亡国の憂き目を見たのは、何の符合であるのか不明です。

 但し、笵曄「後漢書」が、めでたく正史に列せられたとは言え、当時の唐の正史統制は厳格で、写本の拡散は、極めて限定されていたので、勅撰であった隋書、晋書共々、遣唐使による将来は、かなりの月日を経てのものと思われます。


〇論証の重み
 以上は、証拠の山に支えられたものでなく、論理で構築した仮説です。

〇猫に小判
 所詮、本説を受け入れられない論法の方には、「猫に小判」と思うだけです。

                                以上

2025年11月 4日 (火)

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 1/3 2025

勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25 2025/11/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇結論
 本書は、本来、不細工なタイトルのせいで読む気はなかったのだが、買わず飛び込む、ならぬ、読まず飛び交うでは、当方の本分に反し、しゃれにならないので、仕方なく買い込んで、一読者として不満を言わしていただくのである。

 自薦文ではないが、氏としては、他分野で赫々たる定評を得ているから、当古代史分野に於いても、旧来の迷妄を正す使命を帯びていると、勝手に降臨したようであるが、随分勘違いしているのである。御再考いただきたい。

 柳の下にドジョウは二匹いないという諺をご存じないのだろうか。別分野で赫々たる名声を得たのは、状況に恵まれた上に好機を得、おそらく、率直な支持者を得たからではないのだろうか。漁場に恵まれれば、凡人でも釣果を得るのである。以下、折角だから頑張って批判させていただく。

*盗泉の水、李下の冠、瓜田の沓
 まず、何より重大な指摘は、本書は、タイトルをパクっていると言うことである。自書が、先行諸書籍と取り違えられるのを期待しているのでなければ、何とかして、一見して差のあるタイトルにしようと苦闘するはずである。
 著作権、商標権などの知財権議論はともかく、本書のタイトルは、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を猿まねしたものであり、一般読者の混同・誤解を期待しているので、商用書籍として恥知らずな盗用だと見る。

*出版社の怠慢
 出版社は、当然、コンプライアンス意識と倫理観を持っているはずだから、このような盗用疑惑の雪(すす)げない不都合なタイトルの書籍を上梓したことは、その道義心を疑わせるものである。「渇しても盗泉の水は飲まず」の気骨は無いのだろうか。
 かくして、本書の社会的生命は、たちまち地に墜ちたが、其の内容の端緒に触れることにする。

〇内容批判~枕(端緒)のお粗末さ
 本書の冒頭、枕で、氏の所論が説かれているが、氏の古代史見識は、大変お粗末なものと言わざるを得ない。それは、大変粗雑な第一章章題に露呈している。これでは、誰も耳を貸さないだろう。

 曰、『学者はなぜ「邪馬台国」と「卑弥呼」の蔑称を好むのか」
 著者は、自身を学者と自負してか、まずは、天下に曝した上で、自身の無理解、無知を、世にあふれる「学者」全員に当てはめるのは無理と思わないのか。自罰は自罰に止めるべきである。
 素人の苦言であるが、何か「学者」に質問があるのなら、御当人に問えば良いのであり、無実の読者にツバキを浴びせるものでは無いのではないか。感染症蔓延は、ご勘弁いただきたい。
 以下の指摘でわかるように、俗に言う独りよがりである。著者には、当然、学者としての自負心があるだろうから、自罰/自傷行為としかみえない暴言が、どこから出てきたのか、どうして、出版者が制止しなかったのか、不思議である。

 個人的に快感があっても、それを世間に曝すのは自罰行為である。

*無知の傲慢
 以下、周知の史実について、氏は、的確な用語を使用できていない。つまり、歴史認識の不備であり、そのような見識の不備、つまり「欠識」に基づいて書かれた当書籍は、読者に誤解を植え付ける「ジャンク」(ごみ)である。

 例えば、氏は、史書全般を断罪して「伝聞をもとにすべて構成」と書いているが、史官は、常に原資料に基づいて自身の著作を編纂する史学が「過去に起きた事実を、後刻推定する科学」である以上、「直接見聞/検証する一次情報で無く、証言、報告や伝聞による間接的な二次情報、ないしは、それ以降の更なる間接的情報に基づくものでしかない」ことは、もちろん、当然、明白である。氏は、それすら知らずに、反論できない当事者や先人を易々と誹謗して、堂々と快感を覚えているようである。ここでは、口のきけない先人に代わって、素人が、訥々と異議を唱えるしかできないのである。

 史官は、時間や空間を跳躍して、現場に立ち戻る能力は無いから、すべからく、得られた文字情報の正確さを信じて、いや、最善の努力を持って精細に検証して、最終的に、科学的最善を尽くすのである。いや、子供だましの戯言のお付き合いには徒労感がある。もっとも、このようにして、素人に言われて、自身の不明がわかるなら、当然の自省段階で、言われる前にわかるはずである。

 この記事は、燃えさかる山火事に、聖器である柄杓(『卑』の原義)一杯の水を注いでいるのかも知れないが、注ぐ前より、幾許かの改善になっていれば幸いである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 2/3 2025

勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25 2025/11/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「伝聞」の意義喪失
 「伝聞」が、否定的に扱われるのは、裁判時の証言の検証時であり、史学では、「又聞き証言は一切証拠とならない」という際の「伝聞」とは意義が異なるのであり、それを、だらだらと振りかざすのは無神経である。「罪無き者が石を投げよ」である。
 まだ、陳寿の場合は、三国志編纂時に一次証言者が生存していた可能性があるが、それにしても、長年を経た証言が有効かどうか疑問と言わざるを得ないから、どう考えても無理無体な発言である。
 きれいな決めゼリフを吐きつけたいのなら、まずは、一度、洗面台の鏡に向かって、目前の人影と自問自答されたらいかがだろうか。快感があるようであれば、それは、自罰体質の表れである。脂汗が出ても、「売り」を立ててはならない。 

*欠識の確認
 そして、先ほど上げた氏の「欠識」、つまり知識欠如であるが、論議の裏付けとして語られる時代様相談義に使用される言葉は、要所要所で同時代用語、ないしは、同時代を表現する後世用語と乖離していて、氏の史書理解が、体質的に不当なものと思わせるのである。とは言え、体質は「やまい」でないので、お医者様でも草津の湯でも治療できない。やんぬるかな。つけるクスリがないのである。

 歴史科学の様相として、時代固有の事情を表現する言葉を的確に使用できないと言うことは、時代様相の理解が枯渇、欠如しているのであり、時代様相の的確な認識ができないものが、記事内容を批判するのは不適切の極みである。

 ほんの一例であるが、対馬に関する記事で、海産物を食べて暮らすのは島国の「常識」と高々と断じるが、当記事が、中原人読者対象の記事であることをバッサリ失念しているのは、何とも杜撰で滑稽である。念のため言い足すと、海産物が売るほど豊穣であって、穀類を買い込むに足りるほどであったとしても、別に意外ではない。対馬が、本当に饑餓続きであったという証拠は見られない。ここで言いたいのは、氏の言う「常識」は、中原人には、全く想像の他であったと認識頂きたかっただけである。そう、ちと言いすぎたと後悔して、付記したのである。

*史的用語の不手際
 「二六三年、陳寿が仕えていた蜀が魏に併合されました」と脳天気におっしゃるが、蜀は魏に攻め滅ぼされ、蜀帝ならぬ「後主」劉禅は誅伐覚悟の肌脱ぎ降伏儀式をもって、ひたすら平伏したのであり、和やかに併合などされていない。この言い方は欺瞞である。

 また、蜀の宰相であった諸葛亮は、『「魏」の政敵』とされているが、一宰相が一国の「敵」、つまり、対等の存在とは笑止であり、まして、その状態を「政敵」とは何とも奇っ怪である。事は、政治的な抗争では無いのである。喉元まで、「幼稚」の言葉が出そうになるが、呑み込む。

 また、陳寿にとっては、(故国の偉人忠武侯を、本来実名呼び捨てなどしないのだが、著作集タイトルとしてはそう書くしかないのである)「諸葛亮著作集」を編んだのは、忠武侯が、魏では、邪悪、野蛮な賊将、つまり、へぼな武人と見なされていたのに対して、その本質は「武」でなく不世出の「文」の人であることを示したものであり、氏の解釈は、陳寿を、史官として貶(おとしめる)めるのに集中して、人物評の大局を見失っている。魏晋朝の諸葛亮観を、無教養で軽薄な現代人たるご自身のものと混同しているのであろう。まあ、知らなければ、何でも言いたい放題という事なのだろう。

 それにしても、「だいたいのところ賞賛」とは、陳寿も見くびられたものである。陳寿は、諸葛亮著作編纂によって、偉人を「文」人と「顕彰」こそすれ、「賞賛」などと忠武侯を見下ろした評語は書けないのである。
 陳寿が、三流の御用物書きなみとは、重ねて、随分見くびられたものであるが、何しろ、当人は、どんなに無法な非難を浴びせられても一切反論できないので、後世に一私人が、僭越の極みながら、代わって反駁しているのであるから、当方の趣旨を誤解しないでいただきたいものである。

*見識の欠如
 そのように、氏は、(中国)史書の初歩的な読解が、まるでできていないので、「中国の歴史書」なる膨大な批判対象について、事実の分析という視点が一切無いと快刀乱麻で断言する根拠も権威も、一切もっていない。ここは、誰でも、氏の不見識を、絶対の確信を持って断言できるのである。

 根拠の無い断言、大言壮語は、中国だけかと思ったが、日本にも、一部伝染しているものと見える。なんとか、蔓延防止したいものである。それにしても、学者先生が、素人に不心得を指摘されるのは恥ではないかと思う。もっと、しっかりして「書評に耐える階梯」に達して欲しいものである。半人前の史論は、もう沢山なのである。

 著者も、当分野の初学者として、「過ちをあらたむるに憚ることなかれ」とか「聞くは一時の恥」とか、諺の教えに謙虚に学んでほしいものである。

                                未完

新・私の本棚 田中 秀道 「邪馬台国は存在しなかった」 3/3 2025

勉誠出版 2019年1月刊
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 無理解の錯誤が門前払い  2019/12/12 追記 2022/01/13 2024/05/25 2025/11/04

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*終わりなき放言
 なぜか、陳寿は、「三国志」の編纂の官命を受けたことになっているが、勢い込んだ割りに、的外れになっている。司馬晋が、よりにもよって「三国志」編纂の勅命を発する命じるはずがない。氏自身も言うように、官撰史書は当代正当性を裏付けるものである以上、反逆の賊、呉、蜀を、天子たる魏と同列に描くよう指示するはずはない。せいぜい、魏国志であろう。
 まして、当時、既に、官修の前代史書が三件、内二件は、「魏史」として昂然と成立していた(氏の主張)なら改めて、屋上屋の「魏国志」の編纂を命ずるはずがない。

 氏自身の言う、「呉書」は、呉の史官韋昭が、私的に、つまり、魏晋朝の官命を受けること無く編纂した呉史書を、呉の亡国の際、降伏時に献呈したものであり、また、「魏略」は、魏の官人たる魚豢が、官命に基づかず私撰したものであって、氏自身私家版と断じている。その程度の分別が行き止まりとは、情けないと思えるのである。

*歴史認識の混乱
 つまり、氏の歴史認識は、ほんの数行前に自分で書いたことも判読できないほど、つまり、著作家として、収拾の付かないほどボロボロに混濁している、と言いたくなるほどであるが、言わないことにする。

 多分、伝聞、受け売り史料の貼り合わせで混乱したのだろうが、このような支離滅裂と言われかねない証言は、証人採用されるはずがない。「勉誠出版」社編集担当は、玉稿を閲読しないのだろうか。

*自覚なき迷走
 ということで、続いて、『「魏志倭人伝」の記述の不正確さ』なる段落があるが自分で書いた文章の当否を判読できないのに、他人の著作を的確に判断できるはずがない。何か、重大な勘違いをしているようである。
 丁寧に言われた頂くと、どんな著作物であっても、不正確と批判できる点は、存在するのであり、それでもっと著作全体が無価値かどうかと断罪するのは、独尊の罪に陥っているのである。

 物理的には、本書は書棚にあるが、当方の判定では、本書は、このあたりでゴミ箱入り、紙くずリサイクル仕分けである。

*提示部の壊滅~本編自棄
 読者を招き入れるべく渾身の労が投じられたはずの書籍「扉」が、これほど念入りに汚物に汚れていたら、読者が「たんぼのこいだめだ」と教えてあげないか。「枕」がボロボロなのをそう見るのは、皮肉に過ぎるだろうか。

 当方であれば、著書の確定稿ができたら、論理のほころびに、遠慮無く、論理的にダメ出ししてくれる「査読」者を懸命に探すのであるが、著者は第三者査読体制をどう構築したのだろうか。一般読者の財布の紐を緩めさせたかったら、誠意を持って完成度を高めた上で上梓するものではないのか。

*客除けの壁
 氏は、世上著書批判が少ないと嘆くが、これほど混乱した書籍に対して、真面目に書評を行うのは、当方のようなよほどの暇人である。
 いや、もし、読者が、のんきな方で以上のような齟齬に気づかないのであれば、上っ面だけで紹介記事は書けても、自分の目で、本書の各ページの各行を丁寧に追いかけていけば、躓きまくって地面を転げ回ることだろう。それは、当人が不注意なせいであり、著者を責めるものではない。

 著者は、自著の不評を近代政治思潮のせいだと気取っているが、どんな世界、どんな時代でも、不出来な著作は世間の相手にされない。いわば、ご自身で、客除けの壁(バリヤー)を念入りに設(しつら)えておいて、「客が来ない、けしからん」と憮然としているのは、自縄自縛の戯画にもならない。(当ブログの閑散は、自嘲の対象にもしないようにしている)

 と言うことで、同書の以下に続く内容については触れないこととする。いや、端緒が糺されない限り、気合いを入れて読むことはないのである。それが、著者の選んだ路であるから当方がその当否を云々しているものではない。

*最後に
 以上、例によって、端から論評に値しない書籍を物好きにも論評したが、氏の周囲には、氏の論調に共鳴する方ばかりで、ここに書いたような素人目にも当然の批判を受けなかったのだろうか。本当の支持者なら、このように批判される言い回しは取り除くよう、馘首覚悟で殿に諫言するだろうから、それがないということであれば、氏の閉塞した環境が思いやられて、まことに勿体ないと思う。

 本書は、氏の「五丈原」なのだろうか。重ねて、勿体ないと思う。

                                以上

私の意見 古代史随想「掌客」にみる日本書紀独特の世界観 2025

                 2020/01/17  補充再公開 2020/06/29 2024/08/02 2025/11/04
◯概要
 色々調べてみましたが、国内史料の「掌客」は何らかの勘違いと見えます。

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「客」に関する誤解
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客

 これは、日本書紀の推古天皇十六年(CE608)六月十五日の記事です。
 記事では、江口に三十艘の飾り船を連ねて、来航停泊していた「客」、ここでは隋使裴世清を出迎え、難波津新館に招じ入れたということです。現代人ならずとも、「客」は国賓、賓客と誤解しそうです。
 宮地連、大河內直、船史王平の三名は同格の「掌客」、客接待役でした。栄誉ある職務に任じられたという趣旨で書かれている記事のように見えますが、後ほど判明するように、掌客は、「外国」、つまり、蕃夷の使節に応対する官職であり、隋制に照らすと、国内官位に相応しくない下級職なのです。当然、上級職は、高位であり「掌客」などではないのです。

*漢蕃関係と鴻臚
 中原諸王朝を総称して「漢」と言うと、「客」は漢蕃関係の用語で外夷訪問者です。隋官制は、遠く秦漢代から着々と継承されていて、一般に「蛮夷」と称される異民族諸国の使節として来訪の蕃人を、尊称して「客」と言うのです。

 ちなみに、「尊称」するのは、蕃夷が鴻臚の文書を目にして、蛮人扱いしていると気づくと、激怒して、反抗的になるからです。筆先三寸で、蕃夷を祭り上げるだけで、服従させることができるのであれば、安いものです。兎角、国内視点の方は、中国が蕃夷を蔑称していたと決め込んで、勝手に勢い込んでいますが、史上の大勢としてそんなに子供じみた扱いはしていないのです。

*書紀の世界観
 それはそれとして、書紀の記事は、「東夷自大」視点なのか誤解なのか、隋使を夷蛮扱いしています。隋制の趣旨を理解した上であれば辛辣で、「漢蕃」ならぬ「和蕃」だったのかも知れません。隋使が、蛮人に「客」扱いされたと知れば激怒し、皇帝にその旨報告したでしょう。

*掌客の職務
 見識豊富な現代論客でも、「隋唐代に、使節行人は「掌客」が常態で、隋代にその記録がないのは、煬帝により「掌客」職が廃止されていたためだ」との解釈が見られますが、早とちりの勘違いというものでしょう。

 よく時代状況を見てみると、隋煬帝は、蕃客所轄の鴻臚(寺)の「客」応対部署を、典客署から典蕃署に改称したものの、担当者「掌客」を「掌蕃」に変えたという記録はありません。細かいことは良いから、役所の看板に「客」などとは目障りだという事ではなかったかと思われます。皇帝お目見えどころか、昇殿すら叶わぬ下っ端の職名など、どうでも良かったのでしょう。

 そうして、四夷受入窓口を大幅に拡充した煬帝が、蕃客対応に経験豊富な実務担当者を一挙に解任することはないのです。史料解釈は、念入りに時代考証して判断すべきです。いや、この事例だけでの戒めというわけではありませんが。

 隋の厖大な官制を知るはずがない遣隋使が、目前に現れて役職を名乗り接待し、宮廷儀礼に肝心な作法を指南してくれた親切な隋掌客を、てっきり高官に違いないと判断したとしたら、それは、早計な誤解によるものです。鴻廬掌客は、夷蕃使節応対の実務/雑務担当の最下級職であり、行人、つまり、帝国の外交官として皇帝の代理を務めるべき役職にはほど遠いのです。

 諸兄は、隋使の役職について、国内史料に鴻廬掌客と書いてあるのを優先しているようですが、隋書には文林郎と明記されていて、隋使の役職は、隋書を信じるべきであると考える次第です。誤記も誇張も春秋の筆も、一切関係ないのです。
 因みに、隋使は、皇帝の名代を背負っているのであり、自身の下級職名を名乗るはずがないのです。これは、時代考証するまでもない、当然の事項と考えます。

*未開行路開拓の功
 そのような背景で、鴻廬寺掌客ならぬ「文林郎」裴世清が、下級官人の身で、東夷俀国に派遣されたのは、一つには、公文書に通じた教養人であり、皇帝の名代にふさわしいという事と、行路未検証・未踏の絶海の俀国が、まことに危険と見えたためで、いわば、生還を期していない人選でしょう。

 現に、数十人の使節便船は、地域空前の大帆船でしたが行路、寄港地が不確かなため、百済海人の指導を得て黄海を乗り切ったようです。煬帝には、国書で「天子」を自称する不遜な東夷討伐の抱負があったのかも知れません。

 世上、魏代に半島沿岸航路を見てとる方(かた)が残存していますが、これもまた時代物の誤解と言うべきです。既知行路なら、隋書は、細々(こまごま)と書かないのです。

 後年、唐海軍軍船が百済制圧の際に、行路開拓に苦労しなかったのは、この際の裴世清の功績によるものでしょう。

◯まとめ
 魏晋代以来の交流記録、さらには、初回遣隋使の報告を元に、隋の官制を丁寧に調べていれば、掌客に関する誤解は避けられたはずです。いや、書紀記事がこのように伝えられているという事は、史上、誰も、この点に気づかなかったのでしょうか。素人には、知るすべがありません。

*隋書未見の日本書紀 2025/11/04
 ちなみに、隋書の編纂過程と隋書「俀国伝」の到来を考証すると、以下のように要約されます。

 唐太祖李世民は、隋煬帝没後の国内動乱を統一した勇将であり、創業者高祖李淵の次男でありながら、皇太子李建成を無法に粛正し、高祖を退位に追い込んで実質上簒奪して帝位に就いた経緯から、自己の簒奪を正当化した官撰史書であり、魏徴が編纂した「本紀/列伝」部(636年 太祖貞観十年)は、隋代の断代史ですが、続いて長孫無忌が編纂した「志」部(656年 高宗顕慶元年)は、隋代に到る諸国史を通観し、西晋滅亡後の南北朝分裂期の史書の「志」部が不完全なものにとどまっているのを是正したものであり、西晋が天命を喪ったために動乱の境地に終始した中原を統一して、天命を報じた、類い無き文武具備の中原天子の面目を示すものになっています。

 それはともかく、かくして、隋書全85巻は、太祖を継いだ高宗により、大唐皇帝の勅撰史書として完成したため、国外不出の国宝として厳重に管理された時代が長く、東夷から来訪した遣唐使が、全巻写本を調達して将来したのは、随分後年のことと思われます。つまり、「日本書紀」(伝720年)の編者は、隋書「俀国伝」の存在すら知らなかったものと憶測されます。三国志「魏志」、及び、「晋書」未刊、未流通のために取り込んだ実務記録である「晋起居注」は、少なくとも、所引が将来されていたものと見え、「書紀」神功紀にとって付けたように補注されているのに対して、書紀の裴世清「来貢」紀は、あからさまに隋書「俀国伝」に離反する記事になっていて、辻褄合わせの加筆も無いことから、隋書「俀国伝」は、未見であったと強く推定されるのです。

                                 完

2025年11月 2日 (日)

新・私の本棚 NHKスペシャル取材班「新・古代史」寸評 1/2 2025

「グローバルヒストリーで迫る」「邪馬台国、ヤマト王権」 NHK出版新書
 私の見方 ★★☆☆☆ 星カツカツ二つ 薄謝の果ての浪費か 2025/01/10 2025/10/03, 11/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。


◯はじめに
 本書は、著者名をあきらかにせず、NHKの部門名を提示しているが、公共放送の出版物として、大いに感心しない。著作人格権は、個人に帰着するものと見受ける。また、学術書であるとすれば誰が、最終責任を負うか不明では困る。NHKの内部事情/人事異動で、編集体制が不明では、以下の批判が届くかどうか怪しいのである。

総評
 タイトル「グローバルヒストリー」は、悪趣味であり、「新・古代史」と公共放送が破壊的なタイトルの書籍を発刊するのは、視聴者に対する裏切りと言われかねないと思われる。本書は、市販の新書であるから、「購入しない自由」を行使できるが、放送番組は拒絶できないまま受信料を消費する。

*渡邉義浩氏功罪
 本書は、「渡邊義浩」氏の書き下し文と翻訳文を下敷きにしているが、渡邊氏の「世界観」を引用している以上、渡邊氏が同意していると見える。
 以下、「取材班」は画餅と見て、渡邉氏を批判するものである。

*文献考証
 本書は、宮内庁書陵部提供の「紹凞本」影印を原文資料としている。「倭人傳」小見出し部を「倭人傳」と呼ぶのは自然である。
 渡邊氏の著書は影印を持たず、紹凞本「對海國」を「對馬國」としているのは、明白である。

*南蛮伝不記載
 渡邊氏は、蜀漢に服属した南蛮孟獲が、魏志「南蛮伝」にない(「南蛮伝」自体存在しない)のは不当であるとするが、洛陽に参上しない蕃夷が「魏志」に掲載されないのは当然である。
 そもそも、「呉書」には、元来「南蛮伝」も「東夷伝」も存在しないのであるから、無意味な言及と見える。
*年長大
 卑弥呼「已長大」を年かさ「である」と解しているが、氏にしては軽率である。氏の麗訳である袁宏「後漢紀」考献帝紀では、後漢士人の少年時代の挿話として、「長大」は「成人する」と飜訳されている。大家にして大家の錯覚ではないかと、懸念される。

*不法な「水行」
 また、「従郡至倭」なる道里行程記事で、氏は、帯方郡から海港に出て海上を航行すると称しているが、そのような無法な行程は書かれていない。渡邉氏自身、「水行」は、史書の行程道里記事として、未曽有で破格としているから、いかにも不用意である。渡邉氏は、「倭人伝」に関しては門外漢に近いと自認されているから、これは、先人の解釈追従しているのであろうか。中国史学者の権威に基づく「魏志倭人伝」解釈を求められているのに対する見解としては、かなり不用意ではないかと懸念される。

*時代錯誤の「東アジア」世界観
 本書は、中国史の立場からの史料批判としながら、続いて、儒教の視点から「卑弥呼」王権を検討すると、意味不明の言明の後、当時の「東アジアの国際関係」を持ちだすが、何より、三国志に押しつけられた「東アジア」は、現代概念であり、「国際関係」も中国が唯一の存在であった当時の世界観と相容れない。
 要するに、現代人の世界観/用語を、無造作に三世紀の古代に持ち込んでいるのである。中国古代史の最高権威とされる渡邉氏は、これに同意されているのであろうか。

*卑弥呼の冢
 卑弥呼死するを以て、大いに冢を作る。径は百余歩、徇葬するもの 奴婢百余人なり。

 卑弥呼死するを以て、大いに冢[墓地]を作る。[冢の]径は百余歩[約114メートル]、殉葬するもの奴婢百余人であった。

コメント 読み下し文と翻訳文の責任は渡邊氏にあるが、最終責任は、著者にある。
 「倭人伝」の「冢」が土饅頭の封土であるのを「墓地」と改竄している。
 「墓地」と言うと、ずらりと代々の「冢」が整列しているさまを想起させるが、どんな想像力で、倭人の「冢」(単数)は現代人の考える「墓地」(聚落)と同義と解釈したのであろうか。曰わく、「不可解」である。

 中国古代の算数教科書「九章算術」の「方田」算法、記法に従うと、そのような場合、「方百歩」、つまり、縦横十歩(約15㍍)の広さの用地に、円形「冢」を設けた、と見える。「倭人伝」は、中国古代の史官の記述であるから、深意を尊重したいものである。
 
                                未完

新・私の本棚 NHKスペシャル取材班「新・古代史」寸評 2/2 2025

「グローバルヒストリーで迫る」「邪馬台国、ヤマト王権」 NHK出版新書
 私の見方 ★★☆☆☆ 星カツカツ二つ 薄謝の果ての浪費か 2025/01/10 2025/10/03, 11/02

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「殉葬」無残
 「徇葬」を「殉葬」と史料改竄したのは、渡邊氏にしては、随分不用意である。これでは、曹魏の葬礼に反する、「親魏倭王」を弾劾するに足る無法な「殉死」を想起させる。順当な解釈としては、「墓掘り、納棺、埋設に百人が参加した」とみるのが順当ではないか。
 権威である渡邉氏が、低俗な誤解を是正しないのは困ったものである。

*景初二年の絶賛
 ここでは、渡邉氏は、史料に忠実に、つまり、「倭人伝」原文により景初二年六月に倭使節が帯方郡に到着と明快である。当然至極である。

*第5章 けじめのない迷走の始まり
 「けじめ」がないというのは、「倭人伝」が、二千字の文字史料として、深く楔を打ち込んで「けじめ」を付けたのに対して、以後、当方圏外の無文時代を「空白」と称して、存分の創意をこめているから、批判しがたいのである。
 いや、「倭人伝」で卑弥呼の「冢」の寸鉄表現で誤解しようのない記事を超絶技巧で改竄し、列島遺跡「箸墓」を卑弥呼の「冢」に押し込めている。
 あわせて、「郡より倭に至るに」に始まり、「南して邪馬台国に至る」に終わる一節を、国名改竄の果てに、寄って集(たか)って纏向の地まで誘致しているから、渡邉氏の「けじめ」すら無視すると見えるのである。
 渡邉氏は、「倭人伝」解釈は、氏の踏み込めない聖域として介入しない旨述懐しているが、取材班は、どのように整合させているのだろうか。

*無添削の迷走~誰の勘違い/不勉強
 以下、渡邉氏の助言のない部分では、「取材班」の迷走が見られる。
 他愛もない勘違いで、後漢末の「大乱」事情と三国鼎立の形勢が誤解されている。
 当然のごとく「赤壁」の戦いが書かれているが、その時点で、曹操は後漢の宰相であり、「魏」が成立したのは、曹操の没後である。孫権は、後漢太守であり、独立していたわけではない。一番ずれているのは、劉備である。その時点、劉備軍団は、根拠地を持っていなかった。

 曹操が、長江中流荊州の劉表を討伐する南征から洛陽に引き揚げた後、劉備は荊州を攻略し、次いで、長江を遡って、蜀の地を獲得したのである。

 曹操の没後、継嗣曹丕は、後漢献帝から天下を譲り受けて、魏を名乗り、その結果、孫権は呉を名乗り、劉備は漢を名乗って、それぞれ、魏に対して叛旗を翻したのである。つまり、三国鼎立は曹操の死後である。

 取材班が、三国鼎立の経緯を、何の根拠で誤解したのか不明であるが、古代専門家の意見を聞かないで、何を基準としたのであろうか。

*考古学の重鎮
 ちなみに、長く歴博教授の重鎮であった松木武彦氏の名誉のために一言すると、氏は、多年に亘り 考古学の専門家であり、遺物/遺跡の考古学の権威であったが、文献解釈は専門外であったから、NHK歴史番組において歴博を代表して文献解釈を語るときは、いずれかの「専門家」の意見を代弁し、ために残念な発言が散見されたと見える。

*無責任な編集/校閲
 本書で、どなたの御意見に従ったか、明記すべきではないかと愚考する。
 何しろ、「取材班」は、NHKの一部門として受信料を原資としているのであるから、このように、素人でもわかる誤謬を無校閲でばらまくのは、感心しないのである。何しろ、世間には、NHKの歴史番組は、正確無比と信じている方が、少なからず見受けられるので、軽率では済まないと思うのである。
 
                                以上

2025年10月31日 (金)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 1/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*前置き/おことわり
 ここに紹介し、批判しているのは、掲題サイトの一般向け解説記事ですが、当ブログ筆者は、課題となっている疑問点に対して、一方的な解釈が、十分な説明無しに採用されているので、あえて僭越を顧みず、異論を唱え、広く、諸賢の批判を仰ぐものです。

▢はじめに
 近来、当ブログ筆者は、諸方に展開される倭人伝解釈の初歩的な間違いに嘆きを深め、ために泥沼状態が解消の方向に向かわないのにたまりかね、せめて、柄杓一杯の清水で、其の一角の汚れを洗おうとしているものです。

 以下に述べる指摘は、その汚れと見たものであり、ご不快ではありましょうが、もう一度見直していただきたいものです。
 それにしても、こうした一流公式サイトの一級記事に、明らかな誤字があるのは感心しません。公開以前の校正は当然として、公開以後、誰も探検していないのは、組織全体の信用をなくす物で、ここに苦言を呈します。誤解されると困るのですが、ここに批判したのは、サイト運営の皆様が理性的な見方ができると考えたものであり、そのために労を厭わなかったのです。

 今回は、「倭人伝」解釈論議ですが、本体部分に平野邦雄氏の現代語訳を起用しているとは言え、当記事の最終責任は、氏の訳文を記事として掲載した当サイトにあると思うので、ここでは、サイト記事批判としています。

                              

倭人は、帯方郡(*1)の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと百余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあり(*2)、現在では、魏またはその出先の帯方郡と外交や通行をしているのは三十国である(*3)。(中略)
(*3)この一〇〇余国ののちに、三〇国が、魏と外交関係をもつとのべたもので、前段の狗邪韓国と、対馬国から邪馬台国までを加えると九国、それに後段の斯馬国から奴国までの二一国で、あわせて三〇国となる。(中略)

コメント 「魏と外交関係をもつ」とは、時代錯誤の用語です。東夷の「国」は、魏から対等の国家、「敵国」として認められたものではないので、単に通交と言うべきです。魏の本国と接触できたのは、ごく一部の文字交信のできる「国」が、諸小国の代表と認められ、洛陽まで移動することが許されたのです。あるいは、「外国」は、すべて「蛮夷」と解釈するのかも知れませんが、現代読者には、そうとは解釈できないので、時代錯誤というのです。

 それにしても、本文と表記が不統一で感心しません。百余国、三十国と正しい書式、時代相応に書くべきです。 三世紀当時どころか、遙か後世まで「ゼロ」は無かったのです。三世紀当時無かった概念は、丁寧に、つまり「徹底的に、全面的に」排除すべきではないでしょうか。
 因みに、景初献使の直前まで、帯方郡は、長年遼東公孫氏の管理下にあったので、その間倭人の洛陽行きはなかったのです。
 ちなみに、「狗邪韓国」を三十国の一国とみるのは、少数派と見えます。

帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行(*4)し、韓の国々(*5)を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国(*6)に到着する。これまでが七千余里である。
(*4)「水行」は陸岸に沿って、海や川を航行すること。「渡海」と区別される。

コメント 原文には、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは書かれていません。陳寿は、「海岸に循いて行くことを水行という」と水行の意味を定義した後、特に説明無く「韓国を歴る」と書いているので、これは、全体として東南の方向に内陸の官道を行くというのが、書かれている字をそのまま普通に解釈するものではないですか。

 地図を参照するまでもなく、半島の西海岸に沿って航行しても、絶対に狗邪韓国には到達できません。つまり、後に登場する、渡海」と明記されている水行とは異なり、沿岸水行は書かれていないということではないですか。

*大いなる誤解
 (*4)の注釈は、大変な誤解です。「水行」は、河川を渡船で渡ることと決まっていて、河川の流れを上下するときは、それぞれ、別の用語が適用されると決まっていたのです。ここでわざわざ、書いている「循海岸水行」は、「水」、即ち「河川」でなく、「大海」、つまり、「流れている塩っぱい川」を渡海する予告しているのです。
 もちろん、郡は内陸にあるので、いきなり「水行」して渡海することは不可能です。もし、読者に無断で「海岸」に出たとすると、そのまま、目前の「うみ」を渉り、黄海を横切って、山東半島に向かうので、終生、「倭」に辿り着くことはありません。
 なぜ、ここで、途方もない誤解をして気づかないのか、不可解です。まして、当時、常用されていた渡船は、大勢の漕ぎ手を起用する手漕ぎ船であり、甲板も船室も無い吹き曝しなので、延々と、「倭」まで漕ぎ続けるのは、到底不可能です。

 因みに、このような際、沿岸航行を形容するには、史官は、海岸を撓めると表記するものです。また、方向転換する際は、その地点を明記し、進路変換を「転」じてと書くものです。そうしないと、いつ方向転換するのかわからないのです。ご不審の方は、お好みの時代錯誤の精密な地図を見て、とても海岸線に沿って進むことなど、到底、金輪際できないとわかっていただけるでしょう。

 訳者は、そうした事情を、十分ご承知の上で著書に掲載したこととは思いますが、このように、抜粋して引用されると、氏の「誠意」は、伝わらないので、事情に通じていない読者のためにちゃんと説明すべきではないでしょうか。(「誠意」の中には、時代用語の解釈、注釈という重大な事項が含まれています)

 ということで、郡を出た行人、つまり、旅人や郵便/文書使は、自動的に、当然、街道を粛々と進むのです。国家制度により、所定の間隔で、宿場/関所が設けられているので、乗馬の行人は、一日の行程の終わりに、宿場に入って、食事と休養を得て、寝床で休養を取ります。乗馬も、飼い葉を与えられ、眠るのです。行人は、公務なので、宿賃は無料ですが、一般の旅客は、宿賃を払い、食料と飲料水を買って、次なる行程を進むのです。
 なお、宿場は、関所でもあり、通行証(過所)を確認するとともに、荷物に対して関税を徴収されますが、行人は、免税であることは言うまでもありません。
 要するに、公務で街道を進んでいる限り、快適で安全な通行が、帯方郡太守によって保証されるのです。
 ちなみに、公務の行人は、急務の時は、所定の間隔を越えて移動することが認められていて、疾駆した乗馬の疲労が想定されるので替え馬が提供されるのです。

 以上は、当然の常識なので、一々書いていないものです。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 2/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
(中略)(*5)三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の中の諸国をいうが、ここではコースからみて、馬韓の国々をさしている。

コメント 「コース」とは、程度の低い時代錯誤のカタカナ用語です。
 想定されているのは、不法な行程のようですが、半島西海岸に沿って進めたとして、西海岸が終わったらどうするのか。東方への転換が書かれてない限り「コース」は南海に進むだけです。「まずは南に後に東に」と意訳するのでしょうか。因みに、馬韓は、中心部が漢江河口部のあたりであり、南部がどこまで届いていたのか不明です。
 正確に言うと、行程は、街道を移動して、途中の小白山地を竹嶺で越えて、洛東江流域に下りますが、そこは、辰韓、弁辰の領域であり、馬韓とは無関係です。以下、順当に、狗邪韓国の海岸に達するのです。「韓伝」の領域なので、詳しく書くことはありませんが、依然として、帯方郡管理下の街道です。
 ちなみに、この行程は、弁辰の鉄採掘地から、帯方郡/楽浪郡に至る街道であり、当然、街道は、整備、警護されていたのですが、当然なので、特に説明を加えていません。

そこから、はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国(*7)に到着する。(中略)千余戸があり、良田はなく、住民は海産物を食べて自活し、船にのり南や北と交易して暮らしている。(中略)

コメント 提示の紹凞本「倭人伝」は「對海国」と書いていて、「対馬国」は、勝手な誤訳となります。慎重に校正すべきです。
 因みに、掲載写真には「宮内庁書陵部©」と著作権宣言されていますが、政府機関である宮内庁が所蔵、つまり、公有の古代資料の写真に著作権/独占使用権を主張するなど論外です。良く良く確認の上、©を外すべきです。

(中略)それからまた南に一海を渡ること千余里で一支国(*9)に到着する。この海は瀚海と名づけられる。(中略)三千ばかりの家がある。ここはやや田地があるが、水田を耕しても食料には足らず、やはり南や北と交易して暮らしている。(中略)

コメント 提示の紹凞本「倭人伝」 には 「一大国」と書いています。ここも、誤訳となります。いや、「一支国」と書いた「倭人伝」原本は存在するのでしょうか。
 また、「水田」とは書いていないので、またもや軽率な誤訳です。中国語で「田」は、水田と限らないのが常識ですから、「水田」と書き換えるのは、「非常識」です。
 ともあれ、戸数相当の田地があったので、生活が維持できるだけの食糧は得られていたと見るべきであり、おかずに海産物をタント採っていたのを見て、海の豊かさを知らない中原人が哀れんでいた可能性が濃厚です。

また一海を渡ること千余里で、末盧国(*10)に到着する。四千余戸があり、山裾や海浜にそうて住んでいる。(中略)人々は魚や鰒を捕まえるのが得意で、海中に深浅となり潜り、これらを取って業としている。(中略)

コメント 「山裾や海浜にそうて住んで」いるのでは、全世帯が浜住まいで、漁に専念していたことになり、不合理です。四千余戸は、国から扶持された良田を耕作しなかったのでしょうか。扶持か私田かは別として、耕作地は、収穫の貢納を厳命されていたはずです。一家揃って海辺に住んでは農耕できません。
 「業としている」とは、普通は、交易に供して対価を得て生業を立てているという意味ですが、どうなっているのでしょうか。国としてでしょうか。

そこから東南に陸行すること五百里で、伊都国(*11)に到着する。(中略)千余戸(*14)がある。代々王がいたが(*15)、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。(中略)
(*14)『魏略』では「戸万余」とあり、千は万の誤りか。

コメント 無造作に『魏略』と書くのではなく、「『翰苑』の断簡写本に見られる『魏略』断片(佚文)に従うとすれば」と丁寧に書くべきではないですか。いずれにしろ、字数の限られている記事に、ことさら書く価値は無いでしょう。厳重に管理、継承された紹熙本を、不正確な佚文資料で訂正するのは、無謀です。
 郡使は、倭に到着したとき、伊都国に「常に駐した」、つまり、ここで、馬を下りて、足をとどめたように見えます。つまり、「倭」の王之治所は、伊都国の管内にあったとも見えます。

(*15)『後漢書』では三〇国のすべてについて「国皆王を称し、世々統を伝う」とし、これに対し「大倭王は邪馬台国に居る」としている。

コメント これは、「倭人伝」の記事と異なるものである、とでも書き足すべきです。そうしなければ、圏外を語る笵曄「後漢書」を起用する意義がありません。また、なぜ、時期外れの後漢書を尊重するのか、意図不明です。
 ここでは、後漢代の大倭王なる君主が、当時「邪馬臺国」と称していた「国」を居所としていたと言うことでしかありません。范曄は、後漢代のことしか書いていないのですから、曹魏文帝曹丕、明帝曹叡の二代のことは、一切書いていないのです。後漢代であっても、献帝建安年間は、魏公曹操が、再興権力者であったので、後漢書の適用外なのです。
 つまり、倭人伝」は、母体である「魏志」が三国鼎立期の魏朝の記事であり、遡って魏武曹操の時代のことも含めていますが、陳寿は、范曄が唱えた「大倭王」、「邪馬臺国」の記事を書いていないのです。つまり、これらは、陳寿の排除した伝聞に類するものと見るのが普通でしょう、と意見されたことはありませんか。

 また、魏志に丁寧に補注した裴松之も、この点に関して陳寿の割愛を回復してはいないのです。范曄が、「倭」記事の根拠とした後漢代の「倭」史料は、范曄と裴松之が活動した南朝劉宋期に存在しなかったのではないでしょうか。つまり、ことは、范曄の創作記事のように思えるのですが、反証はあるでしょうか。
 つまり、陳寿の残した記事を覆すに足るだけの、後漢書に対する史料批判は、十分にされたのでしょうか。

 無造作に誤訳していますが、中国語で、「水」は、河川に限定されるのであり、書かれているのは、川漁です。また、「沈没」とは、川の流れに、膝のあたりまで浸かっていることを言うのであり、河川に潜水することではありません。ゴーグル、ヤス、脚ひれなどがあったとしても、魚や鰻を潜水して捕らえるなど、とても、できることではありません。まことに、非常識、不合理なのです。

これから先は、東南、奴国(*16)にいたるのに百里。(中略)、二万余戸がある。(中略)

コメント 「これから先は」とあるが、なにが「これ」なのか、文としてどう続くのか趣旨不明です。

おなじく東、不弥国(*18)に至るのに百里。(中略)

コメント 「おなじく」と無造作に、原文にない書き足しですが、何がどう同じなのかわかりません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 3/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
また南、投馬国(*20)に至るのに水行二十日。(中略)。五万余戸ばかりがある。
また南、邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところ(中略)七万余戸ばかりがある(*26)。
(*23)現在にのこる版本でもっとも古い南宋の紹興年間(一一三一~六二)の「紹興本」、紹煕本年間{一一九〇~九四}の「紹煕本」には、邪馬臺国ではなく、邪馬壹国となっているから、ヤマタイでなく、ヤマイであるとの説もあるが、そうとは断定できない。(中略)邪馬台国問題は、このようなアプローチからでは決まらない。(中略)

コメント どちらに分があるかは、この部分の書きぶりで自明なので、別に「そうとは断定」しなくても良いのです。つまり、普通に考えれば、現存史料「倭人伝」の記事を排除して「台国」と断定する確実な理由は全く見られないということが言いたいのでしょうが、明解に書けないのでしょうか。どうも、後の冗談も含めて、敗戦宣言しているように感じます。原本に書かれているとおりに読み取るのが、「説」とは、本末転倒でしょう。まずは、その視点から、検討を開始すべきなのではないでしょうか。

 ついでながら、古代史論考で、「アプローチ」は、何とも、計測で不適切です。ゴルフ用語なら「ショット」と明記しないと意味が通じません。それとも、異性を口説くのですか。大事な記事を書き飛ばしたわけではないはずですから、不用意ですね。と言うような、益体もない冗談を言わさないでほしいものです。古代史論は、カタカナ語撲滅です。

 ついでながら、「問題」が「決まらない」と言うのは、独特の言い回しで、勿体ない失態です。「問題」が、教科書の課題であれば、「解けない」のであり、「問題」が、難点、欠点であれば、「解消しない」とか「解決しない」とか言うもので、読者は、そうした文脈で、無造作に書かれた「問題」の意味を解釈しているのです。

 著者各位は、自分の語彙で滔々と書き立てるのではなくて、読者に誤解の無い言い回しを工夫すべきでしょう。特に「問題」は、数種取り混ぜて乱用されているように見受けるので、わざわざここに書くのです。

 もう一つついでながら、それぞれ「また」で開始していますが、原文に「又」はありません。少し遡ると、「又南渡一海」、「又渡一海」と書かれていて、陳寿が、「また」の書き方を知らなかったとは思えないのです。書いた方の脳内で、原文は、好ましい形に変容したのでしょうか。

 邪馬台国(*23)に至るのに水行十日・陸行一月。ここが女王の都するところと、なぜか語順を変えてまで誤訳していますが、書かれているのは、最前の伊都国から南に進んでたちまち邪馬壹国に至り、そこは、女王之処であると締めていて、郡以来の行程は、都(すべて)水行十日、陸行一月という単純明解なものであり、至近であるべきなのに、遠隔地に押しやるというのは、文脈に外れた勝手読みと言うべきです。
 なお、伊都国以降の余傍の脇道の国は、行程の道里が、揃って千里単位の概数であるのに、末盧国以降は、計算にかからないはしたの百里単位になっていて、素人目にも、場違いなので、郡から「倭」までの行程は、書くに足りない最終工程で決着していると見えます。

 ともあれ、来館者に、「ことわりなし」に原文と異なるものを提供していて、信用を無くしています。

(*26)これまでの狗邪韓国~伊都国と奴国~邪馬台国の二つのグループでは、方位と里程(日程)の書き方が違う。前者は何国からどの方位で何里行けば何国に到着すると実際の旅程に従った累積的な書き方をしている。後者は何国から何国にいたるにはどの方位で何里としていて、これは伊都国を中心に放射線状に読み取ったものである。つまり、魏使は原則として伊都国より先は行かなかったし、投馬国より邪馬台国の方が北に位置することになり、九州圏内にあるとする、榎一雄氏の説がある。

コメント 「後者は」は、「魏使は原則として伊都国より先は行かなかった」までを言うつもりでしょうが、そこまで一つながりで断定する根拠は無いと見えます。
 また、「原則として」と言いっぱなしで原則と例外が示されていません。ここまでの議論で「投馬国より邪馬台国の方が北に位置する」ことは示されていません。榎氏の説を誤解しているのでは無いでしょうか。もっとも、どこからどこまでが榎氏の所説の引用なのか判読できないのでは、議論が成立しません。誠に、不始末、不都合な書き方です。
 また、榎氏を偶像化しておいて、偶像破壊するのは、何とも、奇妙な論法です。

このように、女王国より北の諸国は、その戸数と道里をほぼ記載することができるが、その他の周辺の国は、遠くへだたり、詳しく知りえない。(中略)奴国で、ここまでで女王国の境界はつきる(*27)。
帯方郡より女王国までを総計とすると一万二千余里となる。

コメント 「女王国より北の諸国」とは、対海国、一大国、末盧国、伊都国の四ヵ国であるが、国名の再掲を避けたものと見えます。行程は、一路南下であるので、四ヵ国は、すべて、女王国の北であることが明確です。
 その他の周辺の国というのは、奴国、不弥国、投馬国の三ヵ国であることは明らかです。「遠く隔たる」と誤訳していますが、要するに、道里の遠い、近いを言っているのではなく、正式な報告がないので、戸数の根拠などは不明であるということである。投馬国に至っては、既に明記した「水行」の定義を逸脱しているが、本筋でないので、敢えて追求していないのである。

倭では、男子は成人も子供もみな顔や体に入墨をしている。昔から倭の使が中国に来るとき、みな大夫(*30)と称する。
(中略)今、倭の水人は海中に潜って魚や蛤を捕え、体に入墨して大魚や水鳥から身を守ってきたが、後にはやや飾りとなった。倭の諸国の体の入墨は、国々によって左右や大小などにちがいがあり、身分の尊卑によっても異なる。


コメント 南方の景色と見える「文身」を顔と身体の入墨と決めつけますが、そうとは限らないでしょう。北九州が、韓国より温暖と言っても、温暖期以外に「海中に潜って」魚や蛤を捕えるのは、無理があるように見えます。又、肌寒い時期に風の通る衣類で、さらには肌脱ぎで、文身を披瀝していたとも見えないのです。かなり南方の温暖な地域の景色のように見えます。いずれにしろ、記事の筆者が、全土に足を伸ばしたとも見えないので、「倭の諸国」と書かれているのは、南方の訪問先に限られているはずです。
 文身は、遺物として残らないので、いずれの時代、地域で流行したか不明ですが、後世、影を潜めたところを見ると、南方の風習にとどまっていたとも見えます。
 この部分の記事は、行程の到着点として当然予定されている伊都国の記事後日追加された南方の狗奴国の記事が同居しているという説があり、検討するに足る意見と見えます。(水野祐 「評釈 魏志倭人伝」)

(*30)中国では一般に卿・大夫・士の順に記し、国内の諸王・諸侯の大臣の身分。ただ漢でいえば、二〇等爵のうち、第五級の「大夫」から、第九級の「五大夫」までがこれにあたり、幅がある。(中略)

コメント これは、秦代以来の階級制度であり、下から唱えるから、第五級の「大夫」は庶民階級です。当然、魏でも同様です。貴人などではありません。漢代以降、魏晋あたりまでの公式史書で、「昔」とは、「周」のことではありませんか。守成の大夫を名乗り続けているのも、その主旨でしょう。つまり、普通に考えると、太古、周朝に貢献して、「大夫」の高官に叙されたとみるべきでしょうか。
 ただし、中国の官制は、蕃夷に適用されることは無いので、「倭人」の「大夫」僭称は、重罪に問われかねません。後年の記事では、「倭大夫」と書かれていて、これが、妥当なものでしょう。

 少々繰り返しになりますが、卿・大夫・士」は、周制であり、大夫は王に連なる高官であったし、秦によって解体された周代の身分制ですが、王莽の「新」が復活した時を除けば、同様でした。場当たりのつぎはぎ解釈は、感心しません。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 4/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
帯方郡からの道里を計算すると、倭は会稽郡や東冶縣(*33)の東にあることになろう。 (中略)
(*33) 現在の福建省福州の近くの県名。

コメント 南宋刊行の「倭人伝」には「会稽東治」と書かれていて、郡、県と書いていないので、この議論は確定しません。
 いずれにしろ、広大かつ高名な会稽郡と、同郡郡治の僻南であって、知る人も希な、到達困難地域である僻遠の「県」を、陳寿ほどの史官が「や」で、伝統的な「会稽郡」と同列に置くはずは無いのです。無理無理のこじつけでしょうか。
 ちなみに、会稽郡は、三国時代を通じ東呉孫氏の領域であり、曹魏首都洛陽には、一切報告が来ていなかったので、陳寿は、魏志に、帯方郡から会稽東冶への道里を書くことはありえないのです。また、魏志に、首都洛陽から帯方郡への公式道里は書かれていないので、ますます、有り得ない誤訳です。
 史料に従うなら、「会稽東治」は、禹が諸侯を集めて会稽した会稽山のことと思われます。
 因みに、「東冶」は、三国時代の一時期の県名であり、現存しているわけではありません。抜粋引用のもたらす錯誤です。「現在の」は、「福州」の形容に過ぎません。

死ぬと棺に納めるが、槨(*35)は作らず、土を盛り上げて冢をつくる。(中略)
倭人が海を渡って中国に来るには、つねに一人は頭をくしけずらず、しらみも取らせず、衣服は汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせて、これを持衰(*36)と名づける。もし、航海が無事にゆければ、かれに生口・財物を与え、もし船内に病人が出たり、暴風雨に会ったりすれば、これを殺そうとする。つまり持衰が禁忌を怠ったからだというのである。(中略)
(*38)倭人中の大人。この部分を「便ち大倭のこれを監するに、女王国より以北に一大率を置き・・」と続けて読み、大倭を邪馬台国の上位にある大和朝廷であり、一大率も朝廷がおいたとする説があるが、これは無理。(中略)『後漢書』では「大倭王は邪馬台国に居る」と記している。(中略)

コメント 暴論の典型としてやり玉に挙がったとは言え、三世紀の中国史書に、遙か後世の「大和朝廷」の前身を見るのは、白日夢にしても無残です。こじつけのためには、改竄、誤釈言いたい放題というのは、「倭人伝」解釈という学問的な分野に、家庭ゴミを投棄する類いであり、毎度目にするたびに気が重く、いっそ、国内史料立ち入り禁止としたくなるほどです。

 如何に「無理な」暴論相手でも、『後漢書』に依拠して「倭人伝」を否定して良いものでしょうか。「倭人伝」には、何も書いていないということですか。
 ともあれ、裏方に回った平野氏共々、誠にご苦労なことと推察します。
 この項目では、倭人の大人が亡くなったときは、地を穿ち、棺を収めて、封土する、つまり、盛り土して、「冢」が完成と、基本形が示されているのです。中国の葬制に無い石積も、水壕も無しであるから、書いていないのです。

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので(*41)、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼(*42)という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく(中略)

コメント 「...ので」と続けても、何も論理の繋がっていないのが難儀ですが、諸国」が共立したという記事は、「倭人伝」になく、単なる臆測、希望的観測でしょう。
 それにしても、ただの人が「神がかりとなり、おそるべき霊力を現した」とは書いていません。無理そのもののこじつけに思えます。「霊力」は、誰も見たことがないので、不可解です。また、曹魏の創業者曹操は、迷信を忌み嫌っていたと知られています。もちろん、「倭人伝」は、魏晋代の史官である陳寿が、身命を賭して、つまり、心から納得して書いたものですから、「怪力乱神」を書くはずがないのです。

 「すでに年をとってからも」の「すでに」が趣旨不明です。「すでに年長けたが」位が妥当では無いですか。又、末尾の「も」も、余計です。単に、「ついに配偶者を持たなかった」位が穏当では無いですか。

 常識」的に考えて、「一流の家に生まれ、生まれながら神に仕えて、終生独身の定めに生きた」と見るべきではないでしょうか。そのような「聖人」だから、私心のない人として信頼されたのではないでしょうか。普通に考えると、そのように見えます。
 「見たもの」と言うのは、「見」の趣旨を失していて、国王に「接見したもの」とする方が良いのでは無いですか。何か、支離滅裂に見えます。
 あること、ないことというのはありますが、訳文と称して、原史料に無いことの連発は、古代史学の取るべきみちではないでしょう。

これらを含めて倭地の様子を尋ねると、海中の島々の上にはなればなれに住んでおり、あるいは離れ、あるいは連なりながら、それらを経めぐれば、五千余里にもなるだろう。

コメント この部分は、既説の狗邪韓国以来の「倭地を巡訪する道里」を、切り口を変えて言っただけです。字句をそのまま読めば、狗邪から海中の二島を渡海(計三千里)で歴て陸地に達し、以下陸地を倭まで(周旋)五千里」と単純明解です。郡から狗邪韓国まで七千里と明記されているので、暗算で検算できるのです。
 要するに、伊都国から北に戻って、末盧国、一大国、対馬国を歴て、狗邪韓国までの「往来」を、当時の慣用語で、「周旋」と述べただけですから、当時の読者は、普通に理解したのです。一部で臆測しているように、所在地が不明の島々をどのようにして「経めぐり」、できないはずの海上道里測量を完遂したのか、不可解を越えて、超絶曲解でしょう。
 つまり、勿体ぶった訳文が、かえって意味不明にしています。陳寿は、皇帝始め、読者として想定した読書人が、多少の勉強で読解できるように、明解に書いたはずでしょう。


                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 5/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*承前
景初二年六月(*43)、倭の女王は大夫難升米を帯方郡に遣わし、魏の天子に遣わし、魏の天子(使)に朝献したいと請求した。帯方太守(*44)劉夏は、役人を遣わし(中略)洛陽に至らしめた。その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方郡大守劉夏が使を遣わし、汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝(中略)今、汝を親魏倭王(*46)に任じ、金印・紫綬(*47)を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。(中略)」と。
(*43)魏の明帝の年号。景初三年(二三九)の誤り。『日本書紀』神功三九条にひく『三国志』や、『梁書』倭国伝には、景初三年のこととしている。魏は、景初二年(二三八)、兵を送り、遼東太守公孫淵をほろぼし、楽浪・帯方を接収した。その翌年(二〇九)
(二三九)、直ち卑弥呼は魏の帯方郡に使者を送ったとみねばならない。


コメント 現存史料の記事より、誤伝、誤写の可能性の圧倒的に高い国内史料の、形式を失した佚文を論拠に採用するのは一種の錯誤です。ちゃんとした古代史学者は、ちゃんと史料批判をしてから、ちゃんと史料の信頼性を論じてください。
 又、遙か後世で、誤伝、誤写の可能性の格段に高い「梁書」を、信頼性の高い魏志倭人伝に対する異論の論拠史料に採用するのも、同様の錯誤です。違いますか。

 三国志では、『楽浪・帯方の「接収」(太守更迭)が遼東攻略に先んじた』と解すべき記事があり、その記事を収録する三国志記事を、現代日本人の見識で否定することは、不合理と見るのが順当ではないですか。

 いずれにしろ、景初遣使当時、当時の帯方郡は山東半島経由で交信、交通したので、遼東戦乱は、倭使の帯方郡を経た洛陽往還に全く無関係です。
 要するに、不確かな憶測で、景初三年の誤りと強弁するのは、不合理の極みです。

 因みに、景初三年元旦に皇帝が逝去したので、「景初三年」は、明帝の年号ではなく皇帝のない年号です。つまり、論拠としている国内史料にある「明帝景初三年」は、「魏志」に存在しないので、引用記事ではなく利用した佚文の誤記に惑わされたか、そうでなければ、引用詐称、ないしは捏造です。
 景初三年六月に訂正すると、既に、半年前に明帝は逝去していて、新帝は喪中です。
 ついでながら、単に景初三年なら、皇帝は新帝曹芳です。とは言え、在位中、少帝と呼ばれなかったのは明らかです。
 国内史料は、正史三国志の写本を根拠にしたもので無く、所引、つまり、手早く写し取ったもののようで、不正確です。後年の晋起居注に至っては、晋書が入手できなかったため、出回っていた「起居注」資料を、何とか入手してお茶を濁したのではないかとみられます。

(*48)(*49)倭の使者に与えられたこの爵号はともに比二〇〇〇石、官秩は郡守に比せられる高い地位である。(中略)魏がはじめて外臣の倭と韓の首長を中郎将に任じた。ことに倭に対しては、大夫難升米のほか、大夫掖邪狗ら八人にも、おなじ称号を与えたのは、大夫という比較的低い地位の使者に、高い爵号をあたえ、倭を重んじたとする説もある。(中略)

コメント 先に述べたように、「大夫」は周制の高官を自称したものであり、決して秦漢制の庶民を名乗ったのではありません。庶民は国王代理となれず、魏朝に侮られ、あるいは、接見拒否されます。大夫も、見くびられたものですね。
 ここは、倭大夫は帯方太守と略同格という趣旨でしょうが、当然、魏の高官である郡太守と外臣に過ぎない蕃王の陪臣が同格の筈がないのです。中国文化に浴していない蛮王が、郡太守と同格、さらには、上位となることもあり得ません。考え違いしていないでしょうか。
 ちなみに、比二千石の俸給「粟」は、厖大であり、銭なら、山成す銅銭が支給されます。また、軍務が必須であり、軍馬と弊が不可欠です、当然、月報上程が不可欠であり、書記官が多数必要です。いや、四書五経の教養が無いのは、致命的になります。とにかく、報告の遅れとか召集に遅参などの重大な落ち度があれば、馘首です。針のムシロどころでは無いのです。
 となると、副官以下の官人一同が付いてくるものです。謹んでご辞退申し上げるべきでしょう。
 それはそれとして、一般読者に予備知識が無いと想定される「比二千石(せき)」には、丁寧な解説が必要です。普通、江戸時代の禄高二千石(ごく)、つまり、一万石に及ばないので城主大名になれない小身の軽い存在と解するはずです。

(中略)
(*56)この銅鏡はセットとして、倭女王に贈られたもので、魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡であり、(中略)、大和説に属する。(中略)

コメント 「セット」は時代錯誤で単数複数不明、意味不明で、醜態です。こなれていないカタカナ語で、ため口を叩くのはやめましょう。
 「魏晋鏡といわれている三角縁神獣鏡」は意味不明です。このような根拠の無い定説は、ぼちぼち「ゲームセット」にしたいものです。

 景初年間の魏は、遼東への大軍派兵とともに、東呉、蜀漢と対峙の戦時体制下であり、そのような非常時に、勅命で非常識極まりない宮殿大規模造成中であり、宮殿装飾品で銅材が逼迫しているなか、それに加えて魏鏡百枚新作は途方もないのです。明帝は何を根拠にそのような無謀な製作を、人材、資材払底の尚方工房に課したのでしょうか。
 「普通」は、洛陽の帝室倉庫を総浚えしたと見るものではないでしょうか。「魏晋鏡といわれている」と、根拠無しに新作説を言い立てているのは無謀です。
 いや、ことが景初三年であれば、「倭人」厚遇は沙汰止みになったはずであり、実現したのは、少なくとも、明帝の遺詔が発せられていたからでしょう。

                                未完

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 「弥生ミュージアム」倭人伝 6/6 2025

弥生ミュージアム 倭人伝  2019/11/15
私の見立て 星三つ ★★★☆☆ 大変有力 但し、「凡ミス」多発  追記 2022/11/21 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*台所事情談義
 「三角縁神獣鏡」は、在来品の1.5倍の外形であり、新作したとすると、まずは、三倍近い銅材料を必要とし、又、制作するに当たって、それまでに貯えた型や型紙がほとんど使用できないのです。
 先立つ、後漢末期の献帝即位の時、時の支配者/最高権力者であった董卓による長安遷都の暴挙とそれに続く長安での国政混乱から、後漢皇帝の指示で尚方が皇帝御用達の装飾品を謹製する事は絶えていて、お抱え職人は浮浪者と化していたものと推定されます。
 ともあれ、曹操が自陣営に皇帝を採り入れて、ついには、嫡子曹丕が洛陽に魏朝を創設したのですが、その際、「禅譲」のならいとして、諸官、諸吏を悉く引き継いだものでしょうが、何しろ、一度、董卓の暴政で壊滅した洛陽の諸機関は、どこまで復元していたか不明というところです。
 いや、魏志は、後漢末期の無法な時代を回復した曹魏を肯定するために編纂されたので、文帝曹丕、明帝曹叡時代の洛陽の惨状をありのままに書き残してはいないのですが、想定するのは、さほど至難ではないのです。

 かくして、未知の形状、意匠の大型銅鏡をあらたに設計し大量製作するには、試行錯誤の期間を含めて、数年で足りないほどの多大な準備期間と熟練工の献身を要し、更に「量産」が順調でも、仮に一日一枚採れたとして百枚制作に百日を要するという多大な製作期間を足すと、とても、一,二年で完了するとは思えないのです。又、非常時の窮乏財政で、そのような大量の銅素材を、敵国「東呉」から如何にして購入したのかも不審です。無理の上に無理の上塗りです。
 因みに、世にある「不可能ではない」とする議論は、まことに不合理です。空前の難業をこなして、一介の零細な東夷の機嫌を取るためだけに大量の銅鏡を新作し、あろうことか無償供与し、多額の国費を費やして、現地まで届けることなど、全くあり得ない、と言うのが最大の否定論です。
 いや、天子の恩恵ですから、自前でやってこいとか、自力で持って帰れなど言うことはないのですが。

 ちなみに、先帝明帝曹叡は、遼東郡が、長年隠蔽していた東夷が万二千里の彼方に在る七万戸の大国と聞きかじったので、帯方郡直轄にして、官軍の一翼として動員し、韓、濊などの東夷を制覇することを構想したので、下賜物を奢る勅命を発したのですが、実態が知れて誤解が消えてみると、韓の南方至近距離の零細な存在であり、軍事的に無力とわかったので、勢い込んでいた明帝の早世もあって、少帝曹芳の時代になると、関心が冷めて、銅鏡のおかわりなど論外になっていたのです。

正始元年(*58)、帯方太守弓遵は、建中校尉梯儁らをつかわし、この詔書と印綬をもって倭国に行かせた。使者は、魏の(小)帝の使者という立場で、倭王に謁し、詔書をもたらし、賜物としての金帛・錦 ・刀・鏡・采物を贈った。倭王はこれに対し、使者に託して魏の皇帝に上表文をおくり、魏帝の詔と賜物に答礼の謝辞をのべた。
(*58)魏の(小)帝の年号(二四〇)。

コメント 「正始」は、景初三年元旦に逝去した先代明帝の後継皇帝曹芳の年号です。ひょっとして、先帝の謬りを正す新代の始まりという趣旨でしょうか。明帝存命なら、この年は景初四年ですが、既に一年前から景初に四年はないと公布されていました。

同四年
(中略)掖邪狗らは、率善中郎将の印綬を授けられた。同六年、少帝は詔して、倭の使者の難升米に、黄色の軍旗をあたえることにし、帯方郡に託して、これを授けさせた(*61)。 (中略)
同八年(中略)太守は塞曹掾史張政(*63)をつかわし(中略)た。その後、卑弥呼が死んだ。大いに(多いに冢を作りその径は百余歩(*64)、(中略)卑弥呼の宗女である年十三の壹与(*65)を立てて王とし、国中がようやく治まった。(中略)
(*64)卑弥呼のとき、すでに古墳時代に入っていたかどうかが大問題。(中略)一〇〇余歩とあるから一五〇メートル前後の封土をもっていたことになる。ただし最近では、古墳の成立を三世紀半ばまで遡らせる学説がある。

コメント 他ならぬ「倭人伝」によれば、「冢」は「封土」、つまり単なる盛り土です。既定敷地、つまり、先祖以来の墓地での没後造成であり、さまざまな要因から未曾有の規模になることはあり得ないのです。
 恐らく、漢代の教科書「九章算術」の例題から推定して、卑弥呼の冢は、方百歩、つまり、一辺十歩、約十五㍍の墓地に収まる円形の盛土であり、既出の冢と大差ない、精々、一回り大きい程度であり、官奴(下級公務員)/奴婢から百名動員/徇葬して造成できたものと見えます。

 曹魏は、皇帝の墓制すら、すべて地下に納めて地上に露呈しない薄葬が曹操の敷いた祖法であり、親魏倭王が、先祖に背く墳丘墓を大々的に造営するなど、論外であったのです。もちろん、一部で執拗に唱えている百名斬首、殉死など、中国に無い罰当たりな悪習であり、親魏倭王の葬礼には、到底有り得ない妄想なのですが、古来、漢字の読めない方が「徇葬」を「殉葬」、「殉死」と史料改竄して蔓延させているので、路傍の泥沼に誘い込まれる犠牲者(いけにえ)が絶えないのです。
 良く見ていただければわかるように、古代中国の墓制は、地下を掘り下げて埋葬するのであり、地下は死者の世界として峻別されているのです。国内の墳丘墓は、彼の「箸墓」を代表として、地上に盛り土して、納棺するのであり、中国の墓制に反する罰当たりなものなのです。もし、「親魏倭王」の「冢」が、そのような墳丘墓であったなら、帯方郡は、女王を「親魏倭王」に背くものとして廃したはずです。「倭人伝」にそのような不法な墓制が書かれていない以上、卑弥呼の冢は、彼の「箸墓」でないことは、自明です。
 後世の墳丘墓は、まず間違いなく、長期間の計画的造成(用地選定、構造設計、担当部門の設定、費用、人員動員の振り分けなどに始まる、巨大な事業となる)の可能な「寿陵」です。
 当然、未検証学説は、世に山成す「学説」にまた一つ加わった「単なる作業仮説」(ゴミ)に過ぎないので、「大問題」などと、ことさらに誹謗してまで取り上げるのは、学問の世界として不適切です。現に、山ほどある他の作業仮説は、悉く無視しているではないですか。不公平です。
 因みに、当時の人々は、「古墳時代」など知らず、もちろん、「古墳」など知らなかったのですから空論です。

 「径百余歩」が、どんな形容であったのか、時代考証が欠けていますが、遺跡考古学者は、中国古代文書の知識が無く、古代文書に精通した史学者は、遺跡、遺物の見識に欠けているので、「冢」に関して考察するには、相互研鑽が不可欠のように見えます。

(*65)『北史』には「正始中(二四〇~四八)卑弥呼死す」とある。『梁書』『北史』『翰苑』などでは、壹与ではなく臺与とあって、イヨでなくトヨだとも考えられる。これは邪馬壹国と邪馬臺国の問題とも共通する。

コメント 『現存史料』と『不確かな佚文に依存し編纂経緯も不安定と定評のある「北史」』などの後世史書とを同列に対比するのは不合理である点で、見事に「共通」です。不確かな情報を積んでも、単に、「ジャンク」、「フェイク」の山では、提示した方の見識を疑われるだけです。
 古代史学が「学問」として認められたければ、決定的な判断ができないときは、現存史料を維持する態度を守るべきではないでしょうか。
 ちなみに、「壹與」なる人名を、「臺與」と改竄する趣味は、病膏肓でつけるクスリが無いと見えます。(Die hard, harder, hardest)

現代語訳 平野邦雄

*まとめ
 ご覧のように、本文と注釈の双方に誠意を持って注文を付けているのですが、どこまでが平野氏の訳文か不明です。従って、氏の訳文と見られる中の誤字などは、誰のせいなのかわからない物です。資料写真は、誰の著作物、責任か不明ですから、宮内庁蔵書影印の著作権表記の錯誤は、誰の責任か不明です。

*品質保証のお勧め

 因みに、以上の解説文は、近来放棄されているはずの「仮説」を踏まえて書かれているように見えるので、内容を更新するか、あるいは、
「現代語訳」は、****年時点の平野邦雄氏の見解であり、現時点でその正確さを保証するものではありません。
 と解説すべきと思われます。

 当たり前のことを言うのは僭越ですが、サイト記事の著作権等を主張するのであれば、第三者著作の範囲と権利者を明確にすべきと思います。第三者著作物や公的著作物に著作権を主張するのは、犯罪です。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 産経新聞 THE古墳『吉野ケ里で「対中外交」あった~ 2025

終わらない「邪馬台国」発見への夢』 2023/06/28

〇はじめに~部分書評の弁
 当記事は、産経新聞記事のウェブ掲載である。七田館長(県立佐賀城本丸歴史館)の発表資料そのものでなく、担当記者の「作文」とも見えるが、全国紙記者の担当分野での発言である以上、読み流さずに率直な批判を書き残す。

-部分引用開始-
中国の城郭を模倣
遺物ではなく、遺跡の構造という「状況証拠」からアプローチするのが、七田忠昭・県立佐賀城本丸歴史館館長。物見やぐら跡や大型祭殿跡の発掘など長年にわたって同遺跡に携わっている。
「邪馬台国の時代、吉野ケ里は中国と正式な外交関係にあった」とみる。それを物語るのが、大型祭殿が築かれた「北内郭」、物見やぐらなどで知られる「南内郭」の構造だ。北内郭は王が祭祀(さいし)や政治をつかさどった最も重要な施設で、南内郭は王たち一族の居住エリアとされる。
大型祭殿には鍵型に屈曲する「くいちがい門」があり、物見やぐらは環濠(かんごう)の張り出した部分に設けられた特殊な構造だった。
同様の施設は当時の中国の城郭にもあり、七田さんは「こうした構造をもつ環濠集落は国内で吉野ケ里遺跡だけ。中国の城郭を模倣しようとした証し」とし、「大陸との民間交流というレベルではなく、正式な日中外交があったからこそ造ることができた」と話す。
-部分引用終了-
 記者見解にしても、遺跡構造は有力物証であり、「状況証拠」と称するのは見当違いである。纏向大型建物遺跡復元も「状況証拠」と言うのだろうか。

*「正式外交」の画餅
 館長発言とみられる「中国と正式な外交関係」は、複合した誤解である。当時、中原を支配していた魏(曹魏)は、南の蜀(蜀漢)と呉(東呉)の討伐を完了していない鼎立状態だから、「中国」を称する資格に欠けていたと言えないことはない。

 魏の鴻臚掌客も、「倭人」は、あくまで、服従を申し出てきた野蛮種族に過ぎず、「正式な外交」の現代的な意味から大きく外れている。
 いくら、「倭人」の敬称を得ていても、現に、文字を知らず、「礼」を知らず、まして、先哲の書(四書五経)に示された至言を知らないのでは、文明人として受け入れることはできないのである。

 もちろん、同遺跡は「倭人」を代表したと見えないので、「倭人」と称して魏と対等の立場で交流できるはずは、絶対にない。「倭人伝」には、魏の地方機関帯方郡は、後漢代の楽浪郡を承継して、「倭人」を代表する「伊都国」と使者、文書の交換を行っていたと明記されているから、「正式外交」は、酔態で無いにしても、飛躍の重なった無理なこじつけと言わざるを得ない。館長発言であるとしたら、不用意な発言に対して指導が必要なのは館長と見えてしまうのである。

 「倭人伝」は、「倭人」と交流したのは帯方郡であり、皇帝は「掌客」としてみやげものを下賜し、印綬を与えて馴化し、麗句でもてなしたに過ぎないと示唆していると見える。帝国の常識として、辺境に争乱を起こされたら、平定に要する出費は、土産物などの掌客の費えどころでは無いのである。天子の面目を、大いに失することも言うまでもない。それに比べたら、金印(青銅印)の印綬など、手軽に作れてお安い御用だから、正使、副使などに止まらず、随行の小心者や小国国主にまで渡したのと言われている程である。「掌客」とは、そう言うものである。
 あるいは、後漢光武帝代の遼東郡太守祭肜(さいゆう)の「夷をもって夷を撃つ」の戦略に学んで、「倭人」を厚遇して、韓を征討する大役を与えようとしていたのかもしれない。但し、明帝曹叡が、景初三年元旦に死去して、少帝曹芳に帝位は継承されたものの、お守り役の大臣有司は、先帝の遠謀深慮を放棄したので、「倭人」厚遇は、たちまち消尽したと見えるのである。後日談めいているが、魏志に明記されていないので、念のため、注意喚起するのである。(2025/10/31)

 当の環濠集落が、中国「城郭」を摸倣した/共通した構造としているが、中国古代「城郭」は一般読者が連想する戦国城郭の天守は無く、石垣と土壁で囲んだ「國」の姿が正装であり、環濠の「クニ」は、礼服を纏わない無法、論外なのである。

 「倭人伝」は、『倭人の「国邑」は、殷周代の古風を偲ばせるというものの、不適格であり、外敵のいない海島に散在しているので、正式ならぬ「略式」』と言い訳がましく述べているが、いずれにしろ、野蛮の表れなので、蕃使が中国に学んだとしたら、なによりも、王の居処を四方の城壁で囲うべきでは無かったかと思われる。

 伝え聞く「纏向」集落は、中国と交流があったと見えず、奈良盆地内で、城壁のない集落が混在していて、何とも思わなかったのだろうが、それは、「倭人伝」に書かれた「倭人」の国のかたち、さらには、中国制度の教養に、根本的に反すると見えるのである。いや、何も伝えられていなかったから、独自の径を進んだと言う事ではないかと思われる。
 素人目には、「宝島地図」ごっこめいた「邪馬台国」比定地争いに血道を上げる以前に、古代史の重大な課題として取り組むべきでは無いかと見えるのである。
 いや、本稿は、「吉野ヶ里」論であるから、最近多発していた「纏向」記事批判は、必ずしも適用されないのだろうが、官庁も、国内の考古学会に属しているから、無縁ではないと見るものである。

 以上は、「倭人伝」の二千字程度の文面から、易々と読み取れる三世紀の姿である。

◯まとめ
 館長は、かねて承知の中国古代史常識への言及を避けただけと思うが、「リアル」(本物そのもの)は、演出、粉飾の婉曲な比喩としても、事の核心を述べないのは偽装に近いものではないかと懸念される。

 以上は、当記事に引用されたと見える館長発言紹介の一部を批判したものであり、当日配布されたと思われる「プレスレリース」には、これほど不用意な発言はないだろうと推察するが、一般読者は、当記事しか目にしないと思われるので、率直に苦言を呈したものである。他意はない。
 できれば、新聞記者の限られた史学知識だけに頼ることなく、細部まで学術的な成果を述べた「プレスレリース」 を公開頂きたいものである。

                               以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』 2025

小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した
産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」 2022/1/20 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 不勉強な提灯担ぎ 2022/01/20 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては、乱調で感心しない。
 先週の見出しは、『卑弥呼の都、纒向に突如出現』であるから、今回の『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』は、纏向に卑弥呼の「都」を造成し、続いて墳丘墓造成となるが、それで、づしつまが合っているのだろうか。
 卑弥呼の没年は、二百五十年前後、三世紀紀央となる。没後造成の「箸墓」墳丘墓に先立って、百㍍程度の先行二墳丘墓という設定のようである。

*ある日突然

 先週は、外部で発達した文化が、突然流入開花したという発表だったのだが、今週は、神がかりか、纏向地区で、100㍍近い規模の墳丘墓が突然開花したとしている。種まきも田植えもなし、いきなり穫り入れという主張である。

 未曾有の墳丘墓は、人海戦術だけではできない。新しい知識や技術を身につけ、大量の道具、今日で言うシャベル、ツルハシがなければ、大量の土砂を採取、輸送し、現場に積み上げられないし、荷車や騾馬が欲しいと言うだろう。生身の人間に駄馬や弩牛の役をさせては、潰してしまうのである。

 小規模な土饅頭なら、近所の住民が造成できるが、度外れた大規模では、河内方面から呼集することになる。それほど大事件があったという裏付け史料は残っているのだろうか。日本書紀には、公式史書でありながら、紀年の120年ずらしという史料改竄の大技が知られていて、信用があるのか、ないのか、素人目には、区別の付かない「二重像」が見えているように思う。記者は、そうして素朴な素人考えとは無関係なのだろうか。当記事のタイトルに示したように、後世には、記者の署名が残るのである。

*終わりの無い話
 中高生向けの説明になるが、「人材」などの資材は、陵墓諸元の規準となる半径の三乗に比例するので、在来の径10㍍の規模を、簡単に10倍して径100㍍にすると、所要量はすべて1000倍となる。労力で言うと、十人で十日の百人・日が、十万人・日となるが、例えば、千人分の宿舎と食料の百日間確保は、それ自体途方もない大事業である。
 いや、ここでは、十万人・日で済むと言っているのでは無い。径の十倍が、人・物では千倍になるということを「絵」(picture)にして見ただけである。

 人数だけ捉えても、それまで気軽に済んでいたのが、大勢の泊まり込みの「選手村」(飯場)を用意して、日々飯を食わさねばならない。留守宅も心配である。加えて、「人材」は消耗品であり酷使できない。農業生産の基幹なので、工事で農民を大量に拘束して、農業生産が低下すれば、現場への食糧供給もできない。基本的に、農閑期を利用するしかないが、纏向界隈は、飛鳥やその南ほどではないにしても、山向こうの河内と比較すると、寒冷地に属するのである。
 代替わりの度に、これ程の大動員、大事業を催すのでは、山中に閑居した纏向界隈では収まらない。

*得られない「調和」のある進歩
 普通、墳丘造営などの事業が、代替わりで、徐々に規模拡大するのなら、各組織も、徐々に収縮し、新参者を訓練して、規模を拡大し、適応できるが、短期間で爆発的な成長は、とても、適応して済む問題ではない
 貨幣がなくても大事業は「ただ」では済まない。千倍の食糧運びは千倍の労力が必要であるし、千倍増税に住民は耐えられない。結局、後代負担になる。
 かくも「超臨界」の大規模プロジェクトは、纏向地域だけでは対応できない。超広域の超大事業の同時代史料は残っているだろうか。
 この程度のことは、考古学者でなくても思いつくはずだが、記者は質問も発していない。もったいない話である。

*所長のぼやき~本当に大丈夫ですか
 纒向学研究センターの寺沢薫所長が「纒向以外に考えられない」と告白したように地位相応の見識と考察力がないなら、この任に堪える人を選ぶべきだろう。不覚の真情吐露で、産経新聞に晒し者になっていては、いたたまれないであろう。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼の都、纒向に突如出現」 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国誕生」「卑弥呼の都、纒向に突如出現」     2022/1/13 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ            2022/01/13 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事である。以下の引用は、許容範囲と見ている。

*報道記事としての評価
 当記事は、一流全国紙文化面の署名記事としては乱調で感心しない。

「邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王の都するところなり」。中国の歴史書、魏志(ぎし)倭人伝は邪馬台国に卑弥呼(ひみこ)がいたとはっきり記す。

 大変な虚報である。中でも、魏志「倭人伝」は、中国史書であり中国語で書かれている。「事実と異なる」報道である。「はっきり」記しているとは、虚報の上塗りとの誹りを免れない。また、記者の自筆を纏向研発表と誤解させるようで感心しない。「フェイクニュース」は、ご勘弁いただきたい。

*纏向研の幻像創造
 寺沢薫所長の発言は、以下の通りと見える。
同遺跡は、卑弥呼の時代と重なる3世紀初めに突然出現した。「過疎地にいきなり大都市が建設されたイメージ」と寺沢さん。卑弥呼について魏志倭人伝は「各地の王が共立した」と記すことから、大和(奈良)をしのぐ一大勢力だった北部九州や吉備勢力が主導して擁立し、纒向に都を置いたとの説をとる。

*君子豹変
 過去の発表で、纏向は、盆地地形で外部世界から隔離され、従って、文物の流入が少なく、また、温和な集団と聞いたが、一方、随分早くから筑紫に至る広域を支配していたとの両面作戦をとっていたように思う。近来、考え直して、女王渡来幻像(イメージ)作戦に「突如」戦略転換したのだろうか。

 「突然」「突如」と言うが、これほどの大事業は、多数の関係者が、構想から建設の大量動員の年月を経て、女王入場まで、大勢が長期に携わって初めて実現できるのである。大変ゆるやかな大事業だったはずである。なぜ、ドッキリの「サプライズ」を催したのだろうか。

 以上は、最有力研究機関の研究者の「総意」で進めていることだろうから、素人がとやかく言うことではないが、「君子豹変」は正当化できるのだろうか。

*倭人伝解釈の変調
 因みに、倭人伝』には、「各地の王が共立した」と中国語で「はっきり」書かれているわけではない。各国王は、限られた一部だけだったはずである。「倭人伝」で、伊都国には、代々王がいたと書かれているが、他の「諸国」が王国であって、王位継承していたとは書いていない。
 念のため言うと、「倭人伝」記事で明記されていない「大倭」ならぬ「大和」の「一大勢力」を書いていないし、ました、「二大」か「三大」か「三十一大」かは知らないが、北部九州や吉備の勢力について、何も書いていないのである。

 総じて、「所長」は、何を見て喋っていらっとしゃるのだろうか。是非、後学のために、秘蔵、門外不出と言わずに「秘伝書」を公開頂きたいものである。

 また、担当記者には、権力に迎合しない「報道の真髄」を示して頂きたいものである。

*「所長、大丈夫ですか」
 それにしても、根拠の乏しい強調は、大抵、理論の破綻を覆い隠す常套手段である。所長は、大丈夫だろうか。いや、「大丈夫」というのは、所長のフィジカル、体躯が、三国志の関羽将軍なみにドデカいとか、言っているのではない。単なる冗句である。
 「過疎地」、「大都市」などと、時代離れした、現代日本語の冗句を飛ばすから、悪乗りしたのである。
 纏向研は、「大家族」なので、武運長久とご自愛を祈るしかない。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/2 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)    2022/01/06 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 お断りしておくが、当記事は、「産経新聞」ニューズサイトの有料会員向け記事であり、当ブログ筆者は有料会員でないので、記事末尾は見えていない。但し、新聞記事の伝統に従い、当記事の要点は、冒頭に明示されている思うので、的外れな批判にはなっていないものと信じて、当記事を書き上げた。

*二段評価の説明
 当記事は、持ち込み記事の提灯持ちであり、一流全国紙文化面の署名記事として感心しない。タイトルが文法乱調で混乱しては勿体ない。
 持ち込み記事部分は、考古学の本分として、堅実な時代考証に賛辞を送る。

*適切な著作権処理
 今回の図版は、纏向研寺沢所長著作の持ち込みのようだ。個別の資料写真は、出典が明示されていて、公共研究機関の広報資料としては、まことに堅実である。また、趣旨不明の「卑弥呼」像と図版全体には署名がない、当然、寺沢所長提供と見るが、明示されていないのは、産経新聞の疎漏である。

*画餅の不備
 一見して、纏向は、「現代の西日本地図」に示された各地勢力から見て「極東辺境」である。しかも、西方勢力から長延の行程の果てとして到達困難な山中の奈良盆地の「壺中天」である。その東端の「どん詰まり」、「袋の鼠」の纏向勢力が、どうやって、これら交通至便な有力勢力を屈従させたのか、まことに不可解である。
 いや、この感想は、随分以前に「纏向」と訊いた瞬間に想定されたのだが、かくの如く図示されると、画餅の意義が見えないのである。

*あり得ない広域支配
 当時の交通事情、そして、当時は、騎馬文書使による文書通信が存在しなかったことから、纏向と諸勢力の報告連絡は、遅々たる徒歩交通の伝令の口頭連絡であり、従って、遺物が残っていないのかも知れないが、年々歳々の貢納物は、延々と徒歩搬送であり、極めつきは、互いに闘うと言っても、武装した兵士が、延々と徒歩行軍するときては、往復の行軍中の厖大な食糧の輸送・補給を含めて、消耗が激しく、遠隔地に渡海遠征など、はなっからできないのである。このあたり、肝心の足元が裸足のさまで、到底成り立たない夢想と見られても、仕方ないのである。

*一極集中の破局
 また、氏は、「各勢力貢納物が纏向に集中した」と言うようだが、九州からの貢納物は、ほぼ必然的に吉備勢力圏を通過するが、まさか、素通りできないのである。途中で割り前を取られたら、とても、纏向まで物資は届くまいと見るのである。
 ということで、纏向一極集中の無理を、九州、中国、四国の支持あっての纏向としたかったようであるが、どうも、無理のようである。

*密やかな四国「山のみち」提唱
 図は、四国山地の中央構造線沿いの「山の路」を、弥生時代の大分海港から鳴門に至る交易路としていると見える。我が孤説の支持と思うが、大変うれしいものの、何か根拠があるのだろうか。あれば、是非提示いただきたいものである。四国に古代国家を見る諸兄姉には、大変心強い支持となるのである。
 この経路は、瀬戸内海の海上交通を難く妨げていた関門海峡から鳴門海峡までの数多い海の難所が無関係となり、また、但馬勢力を飛ばすので、手ひどい収奪は避けられる但し、この経路に潤沢な交通があれば、ものの理屈として、途上に地方勢力が形成され、結局、とても纏向の壺中天まで物資は届くまいと見るのである。交易の鎖は、ひ弱いように見えても、その区間を強く支配しているので、手強いのである。

 心地良い絵が描けたら、いきなり世に曝すのではなく、どのようにして、日々運用し持続するか考えてみることである。それが、伝統的な考古学の本分と思う。

                                未完

新・私の本棚 小畑 三秋 「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 2/2 2025

産経新聞 The Sankei News 「倭の国」「卑弥呼は北部九州や吉備主導で擁立した」 1/6 07:00
私の見立て ★☆☆☆☆ 星一つ 提灯担ぎ  (★★★★☆ 堅実な時代考証)    2022/01/06 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*「倭国大乱」の幕引き
 ちなみに、寺沢氏は、考古学の実直な側面を踏まえて2世紀後半~末に大規模な戦乱の痕跡はみられない」と冷静である。
 もともと、魏志「倭人伝」は、九州北部に限定された地域事情を伝えている』のであり、海を遙か遠くに渡った東方については述べていない」(「一切」とは言っていないのに、ご注意いただきたい)その点に早期に気づいていれば、纏向派が、この時代まで早呑み込みの「恥をかき続ける」ことはなかったのである。ここまでくれば、あと一息である。せめて、史料解釈の首尾を取り違えたため存在しない史実を虚報し続けてきた、広域大乱」の創造と継承は、この辺で幕引きいただきたいものである。

*東夷管理の見違い
 因みに、寺沢氏は、一時繁栄を極めていた九州北部勢力の退勢を、中国後漢の東方管理の衰退によると決め込んでいるが、これは、勘違いであろう。後漢洛陽での政争で東夷支配の箍(たが)が外れたが、もともと、東夷支配は皇帝直轄ではなく、遼東郡など地方守護の専権事項だったのである。たとえば、後漢末期の遼東公孫氏は、遼東半島から山東半島に勢力を派遣して、勢力拡大していたが、帯方郡に任せていた南方の濊、漢両勢力の統治はともかく、「荒地」のさらに南の「倭」は、後漢皇帝に報告していないから、「後漢の東方管理」で、「倭人」は、存在していなかったのである。(後漢皇帝に報告されていなかった「倭」が、なぜ、笵曄「後漢書」の東夷列伝に書かれているのか、不可思議そのものである)

*公孫氏「遼東」支配の興隆
 かくして、皇帝支配の箍が緩んだ遼東に興隆した公孫氏は、むしろ、自立に近い形で支配の手を広げたのである。端的に言うと、地域交易経路の要(かなめ)にあって、地域交易の利を一身に集めようとしたのである。

*「一都會」の幻覚~余談
 そのような境地は、漢書では、「一に都(すべて)を會す」として、一種「成句」となっていたが、紙面に「一都會」の三字が連なっていても、「都會」なる言葉が誕生していたわけではない。時代錯誤には注意いただきたい。
 陳寿は、班固「漢書」で「一都會」を目にしていたが、「倭人伝は新語をもてあそぶ場ではない」ので、却下したものと見える。 それは、黄海を越えた山東半島領有とか、半島中部に帯方郡を新設して、南の韓を強力に支配し、半島東南端「狗邪韓国」海港に至る官道の半島中部「竹嶺」の峠越えの険路を整備させ、難所を隘路にとどめて、片手業で海を渡った倭の取り込みをも図っていたのである。
 ここで、「峠」は、中国語にない「国字」であり時代錯誤であるが、適当な言い換えがなく「峠」の字義に誤解はないと思うのでこのように書いた。

*公孫氏勢力の再確認
 後漢末期、九州勢力には強い支持があったと見るべきである。但し、公孫氏は、「倭人」の洛陽伺候を許さないどころか、その存在を報告もせず、小天子の権勢を振るったのである。
 何しろ、「公孫」氏は、その名の通り周王族の高貴な出自を誇っていたのであり、宦官養子上がりの「曹」など身分違いと見ていたのである。
 ということで、寺沢氏は、ご自身の従属する陣営の物語の筋書きに合うように、一路邁進の後漢衰退を読み込んでいるが、それは、素人の聞きかじりによる浅慮であり、端的に言うと、単なる勘違いである。つまり、冒頭の「九州勢力退勢」風説は、根拠に欠けるお仕着せに過ぎない。

〇まとめ
 産経新聞の担当記者としては、貴重なニュースソースから持ち込まれた玉稿を「提灯持ち」するしかないのだろうが、それでも、素人目にも明らかな言い逃れは、じんわり指摘すべきだと思うのである。報道機関としての矜持は、失って欲しくないものである。

 ちなみに、当ブログ記事は、文献考証の本道を行くと見せて、結構『古代浪漫』にのめり込んでいるのだが、無官無職で、一切収益を得ていないので、少々の法螺はご容赦頂きたいのである。

                                以上

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』 1/2 2025

産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 星無し 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

▢お断り
 以下は、産経新聞電子版近刊署名記事に対する批判である。
 まずは、批判対象を明確にするための適法の引用で、以下、逐条めいた批判、つまり、個人の所見であり、読者諸兄姉の意見は諸兄姉の自由で、当ブログが参照先と明記の上、諸兄姉の記事に引用、論評されても、それは諸兄姉の権利範囲であるが、当記事は、当記事筆者が著作権を有しない産経新聞記事を含んでいるので、適法な処理をしていただくことをお願いする。
 合わせて、産経新聞記事閲読もお願いしたい。(全文ないしは相当部分の引用は、著作権侵害)

*産経新聞電子版記事の部分引用
箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か 2021/10/27 08:00小畑 三秋」
【邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。


*批判本文~「提灯担ぎ」宣言
 冒頭で要約予告する手法は新聞報道の王道であるが、実質は纏向説プロパガンダ(販売促進活動)であり、全国紙の批判精神はどこにあるのか。「提灯担ぎ」であり、ほぼ、文ごとに異議噴出であり、これでは、以下の記事は、「眉唾」ものである。

 「邪馬台国」の当否は別儀として、『魏志倭人伝という確たる史料に明記された「邪馬台国」の時代は三世紀後半である』と文献解釈を特定の仮説に固定した上で、そこに、『「箸墓古墳」なる墳丘墓の建造』という、考古学視点では年代不詳とせざるを得ない大事業をくくりつけているのは、有り体に言えば個人的な「思いつき」、丁寧に言うと、(種々の仮説の結構の上に成された)作業仮説に過ぎない。

 論証がされないままに、全国紙が無批判に追従してこのような記事を書くのは、全国紙の見識を疑わせるものである。「提灯担ぎ」という由縁である。

*無造作な用語すり替え
 簡単に「当時」というが、先の時代比定が仮説で、比較対象がどの「墳丘墓」か不明では、「時代で最大」と言われても、異議の唱えようすらない。あきれかえって、声も出ない感じである。

 被葬者が、「倭国(日本列島)」を統治したというのは、一般読者の誤解を誘う(いかがわしい)ものである。全国紙の取るべき態度ではない。
 「当時」、つまり、「箸墓古墳」の建造時が不確定であるから、「当時」の「倭国」は、どのようなものか、霧の中で雲を掴んでいるようなものであり、それを、一般読者に馴染まない、誤解を誘うこと請け合いの古代史用語である「日本列島」とくくりつけるのは無法である。一般読者は、これは、北海道から九州の四大島嶼と受け止めるはずであるが、実際は、せいぜいが、「近畿」以西の西日本に過ぎないのである。四国が含まれているかどうかすら、不確かである。

 三世紀の「倭」国は、「倭人伝」にしか書かれていないから、順当に解釈すれば、北部九州にしか当てはまらないのだが、これには、纏向視点の異論があるので、当記事では不確定でしょうというしかない。
 とにかく、何と断言されても、対象地域が不明では、関心も反発もしようがない。

 素人騙しというか、専門家が入念に解説しているが、専門用語、つまり、同業者にしか通じない符牒を、十分説明しないまま、現代日常語とまぜこぜにして書き付けて、読者が(勝手に)誤解するのを想定するのは、詐話的手口であり、全国紙の権威を裏切るものであって、まことに感心しない。ただし、筆者は、産経新聞の購読者でないので「金返せ」とは言えない。

                               未完

新・私の本棚 小畑 三秋 『箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か』 2/2 2025

 産経新聞電子版 「THE古墳」(隔週掲載コラム)   
私の見立て ☆☆☆☆☆ 星無し 虚報満載の提灯持ち記事 2021/10/27 2022/11/23 2025/10/31

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

*創作史観の悪乗り
 「纏向に君臨した統治者が、日本列島を統御していた」というのは、素人考えの時代錯誤の思い付きであり、産経新聞独自の新説発掘/創作と見える。

 遠慮なく言うと、「ファクトチェック」無しの「フェイクニュース」とされても仕方ない記事である。倭人伝」に「大王」はなく勝手な造語と見られる。

 かなり専門的になるが、『「大王」の「都」』も勝手な造語である。当時、中国の厳格な規則で、文化に属しない蛮夷に「都」を許してないと見られるからである。いや、後に自称したかも知れないが、三世紀後半概念では不用意と言える。要は、日本語の「都」は、中国制度の「都」と食い違っているのである。時代の異なる言葉をまぜこぜにして読者を煙に巻くのは悪質である。
 ついでながら、「宮殿」も、中国語に該当しない造語であり、「親魏倭王」の栄に浴していた卑弥呼には、ありえない濡れ衣である。

 もちろん、担当記者の自作自演とは思えないが誰の知恵かは知らないが、聞きかじりの話を、無批判に物々しく取り上げるのは、報道陣として、およそ、最低の罰当たりのように見える。記者の評判を地に落としているようで、もったいない話である。

*斜陽の焦り
 直後に、産経新聞としての報道が続く。『この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。」 無為に終始している「宝探し」に対する全国紙の(無言の)批判だろうか。素人には、何も見えていない。

 同記事末の総括とは裏腹に、狭い地域に投入された多大な費用と労力を支えてきた集中力に敬服するものの、そのためにかくの如く非学術的なプロパガンダを必要とする「王者」の悲哀を感じる。発掘指揮者の「成果が出るまでは、全域を掘り尽くす」意気に、全国紙が無批判に唱和するのは感心しない。

 学術分野でも、国家事業は成果主義を避けられないが、そのために、虚構と見える(未だに実証されていない)「古代国家」像を担いでいるのは、傷ましいのである。

 近来、大相撲の世界で長く頂点を占めた不世出の大横綱が、頽勢に逆らって勝つために品格放棄の悪足掻きした例があるが、素人は、至高の地位に相応しい成果が示せないなら、潔く譲位するべきものと思う。「日本列島」には、意義深いが資金の乏しい発掘活動が多い。資金と人材を蟻地獄の如く吸い寄せる「纏向一点集中」に、いさぎよく幕を引くべきではないだろうか。
 横綱には、厳格なご意見番があるが、発掘事業には、止め役がいないのだろうか。

 要するに、公的な資金で運営される公的研究機関は、研究成果を、すべて国民に還元する義務を負っている」大学は、私学といえども、「義務」を負っている。
 各機関の役職員の給金は、銀行口座への振り込みだろうが、それは国民の税金であり、銀行や機関首長が払っているのではない。
 関係諸兄は、誰が真の顧客であるか、よくよく噛みしめるべきではないか。

*東京と比すべき大都会
 段落批評の後、『東京のような大都市だった」には唖然とした。担当記者が東京を知らないわけはないから、地方在住の読者を見くびってはないだろうか。この比喩は、奇妙奇天烈で当て外れである。纏向遺跡に推定される人口、面積などのどこが『東京のような』だろうか。どうか、窓を開けて、窓の外に広がる現実世界に目覚めて欲しいのである。産経新聞に編集部や校閲部はないのだろうか。

*まとめ
 当記事が担いでいるのは、当該組織の生存をかけた渾身の「古代浪漫」著作物だろう。古代史に個人的浪漫の晩節を求めて、見果てぬ一攫千金を追う姿を、率直かつ適確に批判して覚醒を促すのが、全国紙の報道の本分ではないだろうか。

 それとも、産経新聞は、俗耳に受ければそれで良しとする「報道商売」なる浪漫を追いかけているのだろうか。

                                以上

私の本棚 4 大塚 初重 邪馬台国をとらえなおす 2025

 現代新書 2012年
 私の見立て ★★★★☆ 星四つ 書評対象部分 ★☆☆☆☆ 星一つ   2014/05/19  2025/10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 今般、丸地三郎氏の論考で、大塚初重氏の本書を紹介していることから、再読して、再掲したものです。
 こうした新書版の一般読者向けの書籍では、導入部に工夫が必要と思います。
 以下、その見地から、本著作への批判が続きますが、極力淡々と指摘するので、ご不快な向きは、読み飛ばしていただいて結構です。
 本書に限らず新書版書籍のいわゆるつかみの部分は、堅実にするのが、正道といえます。堅実とは、ちゃんと、確実な史料を押さえて論理的に説き起こしているかどうかですが、この書籍は、冒頭の第一章第一段に始まって、そのような正道を外れて、つまずきの連続です。

*無限反射の「水鏡」

 ついでに書くと、早々に「偏向」「曲筆」とする弾劾症状が出ていますが、これらは、小生の言う「水鏡」言葉です。禍々しい姿に吠えついているが、実は、それは自分自身の反映なのです。
 一体に、史実と言っても、その形は言葉では捉えられない複雑怪奇なのであり、時々刻々に変貌するものです。
 その変貌した形の一瞬を、筆者がとらえて、文字で綴るわけですから、神のごとき視点と神のごとき言葉遣いでもなければ、史実を「正確に」「漏らすことなく」伝えることはできないのです。
 だから、「偏向」「曲筆」と言うものの、筆者としては、自分の視点から見たことを見たままに述べているだけで、何も、弾劾すべきものではないのです。
 「偏向」「曲筆」の判定基準は、そう言い立てる著者の中にあり、基準は、何故基準とされているのか、所詮、人は自身の中の何かを基準としているに過ぎないのであり、それ自体が、「偏向」「曲筆」であると言えます。
 してみると、「偏向」「曲筆」を指弾するのは、無意味なのです。人は、そのような指弾者を、「尊大」「独善」と呼ぶものです。

*陳寿の本分
 たとえば、陳壽の三國志編纂は、先行する史書の引き写しで成立しているといい、それに加えて、史官として利用可能な魏晋朝資料を利用したといいます。
 確かに、編纂の過程に、両者の過程が入り交じっていたことは確かでしょう。
 陳寿は、文筆家でも論客でもなく、謙虚な史官であるから、公文書庫の山成す「史実」と先人の著作を参照して、自身の筆を加えることは最低限にとどめ、忠実に利用したものでしょう。その過程で史官としての史料批判や校勘を試みたとしても、最終的に、原文を踏襲したというところは、多々あるでしょう。
 それ以外の部分では、当然、原資料を編纂したのでしょう。
 どちらに編纂家としての重点があったのか、後世の読者がそれらの編纂過程のいずれを重いとするのか、それは、後世の読者の感性のもたらすものです。

◯史料銘々伝
*王充「論衡」
 いきなり、当然の如く「正史」として「論衡」が取り上げられていますが、論衡は史書でないので、正史のはずがないのです。不用意そのものです。つまらないことを、意味もわからないままに書き立てると、信用をなくすだけです。

 王充「論衡」は、思想書、というか、中華世界に関する百科全書です。
 各記事は、史実を忠実に記載することを第一義としたものではなく、後漢時代の著者である王充が自己の思想、世界観に基づいて諸々の事柄を記述したものであり、当然、その主張を裏付けるような比喩や創作も、多々含まれていると見るべきです。

 例えば、当時の史観としては、後漢光武帝が、赤眉を代表とした王莽新王朝への反乱による中国全土の大混乱を見事に平定したことにより、遠隔の倭人の貢獻があったことを挙って称えているものと思います。

 反骨漢の王充は、それは、古来繰り返されてきたことである、と言いたかったのであり、そのために、殊更に、倭人の来訪を書き連ねたのかも知れません。
 つまり、故事の紹介であるが、それが史実かどうか確認していない可能性が高いのです。
 論衡を「正史」として取り扱い、記事を史実と判断するのは、早計に過ぎるでしょう。独立した別資料によって裏付けられない限り、疑問符を付けて取り扱うべきと考えるものです。

 現在、正史及び有力な史料文書については、デジタルデータ化されていて、全文検索が可能ですが、「倭人」の周朝への貢獻記事は、論衡の二箇所のみです。

 付け加えるならば、「論衡」は、後漢時代に著述されてから世に現れるまで膨大な時間を要し、世に知られてからも、反儒教の書と評価されたため、現在に到るまでの期間の大半は、非公式に写本が継承されてきたものであり、王充の著作が正確に継承されているかどうかは、不確実なのです。
 その点の史料批判もされていないように見受けます。

 ついでですが、「中国の歴史時代は、夏から始まったとされている」、と言うのも、のんきに過ぎるのです。史料が確認されているのは、商が最古であり、それも、殷に都をおいた後期が、殷墟発掘によって確実視されているだけで、その創業期は不確かであると言うべきです。
 もちろん、商が夏を打倒したという創業期の史実が史料で裏付けられれば、夏の実在も確実視されるのであるが、商の創業は、文字のない時代であり、当時の商都が発掘されたとしても、史実の確認は困難でしょう。

 「論衡」の記事では、「周の時、天下太平」としているが、周初には激しい内乱があったし、周王朝の長い治世を見渡すと、東遷後の春秋戦国時代には、「天下太平」と呼べる時代などなかったろうし、諸国の興隆に周の威勢は大きく傾いて埋もれていたので、東夷の果ての倭から周に貢献するとしても、途中の燕や齊が遮る可能性が高いのです。

 と言うことで、洛陽に遷都した東周への倭人貢獻は想定しがたく、と言って、長安付近に都していた西周時代となると、倭人の貢獻の目的地は中国大陸奥深い上に、時代が遙か遡る茫漠たる太古となるのである。

 別の段落を見ると、倭人が貢献したのは、周王朝創業期の第2代成王の時らしいのですが、そうすると、紀元一世紀の光武帝の時代の千年前になるのです。

 周王朝は、史官を置いて、周王の所行を記録していましたが、王充の時代まで、史料が伝わっていたかどうかは不明です。少なくとも、史記には、倭人貢献は書かれていないのです。

 成王の治世は、後の長安附近である関中の首都に加えて、後の洛陽となる副都を設け、ここを拠点として河水、淮水の下流の東夷制圧を行い、続いて、さらに遠隔の諸勢力に対して、来朝して服従しないと征伐するとの威令を流布させ、その威嚇に応じて、南の越と「倭人」が来朝したと記録しているものと思われます。

 ただし、冷静に見て、論衡」に書かれた倭人が、どこの何者なのかは、不明であるというのが、妥当な意見と思われます。そして、論衡以後に書かれた、三國志や後漢書の編纂者である陳寿と班固が「論衡」の記事を見ていたとしても、この倭人と両史書の倭人記事の倭人が同じ実態のものと考えていたかどうかは不明であるというのが、合理的な見解と考えます。

*笵曄「後漢書」
 次いで、班固「漢書」にちらりと触れた後、笵曄「後漢書」に話題が移っていますが、中国正史の紹介手順としては正しくないものです。
 笵曄「後漢書」は、陳寿「三国志」の百五十年後に編纂されたものの、殊更に三国志の記事を乗り越える書き込みがあるので、これを先に読んでしまうと、読者の順当な理解を遮るものがあります。とくに、「倭」記事は、慎重に順を定めて紹介すべきなのです。
 ここで、倭人記事と書いたのは、当筆者のように、殊更に、「倭条」とか「倭人条」とか、とくに原書に示されていない名目を唱えてくるので、うっとうしいからです。

 さて、紹介の順を誤ったとがめが出ているのが、後漢書紹介の中で「魏志倭人伝」が登場することです。「魏志倭人伝」の紹介をしないわけに行かなくなって、笵曄「後漢書」倭条を脇に押しやるのですが、まことに不出来な紹介手順と言わざるを得ないのです。
 本書の「後漢書条」の末尾では、「後漢書」は「魏志倭人伝」より後に書かれたと二度目の確認となっていて、字面を追うと、正史全体が、別の正史の一部分と対比される不用意な書き方になっています。
 それにしても、本書の書き方では、なんの為に、後漢書をここに置いたのか、不明瞭になっているのです。
 因みに、笵曄は、後漢書を編纂していたものの、完稿以前に、時の皇帝への反逆に連坐して、投獄、処刑され、未完成の状態で、皇帝の配下に没収されているのです。殆どというものの、大半は刊行していたようですが、正史に不可欠な「志」部が欠けていたため、以後、冷遇され続けたのです。笵曄「後漢書」が、正史の位置付けとなったのは、遥か後世の唐時代です。高帝の命により、章懐太子李賢が、なおざりにされていた范曄の著作に注を施し、班固「漢書」に続く「正史」の地位に遇したものです。
 そのような位置付けのため、笵曄「後漢書」の蛮夷への開示は遅くなり、到来は、唐代も後期のこととなったようです。

*「魏略」
 いよいよ、魏志倭人伝の紹介となりますが、いきなり『「三国志」の資料となったのは「魏略」』と書いてしまっていて、これは軽率です。当然、私見を交えず、資料の一部となったと推定されていると書くべきです。因みに、魚豢「魏略」は、曹魏の記録であって、蜀漢と東呉は、曹魏の一部で謀反人という扱いですから、「三国志」と別の「偏見」に凝り固まっているので、陳寿としては、ほとんど参考にしなかったものと見えます。
 陳寿「三国志」は、堂々たる正史であり、晋朝が国家事業として取り組んだから、資料の多くは、政府の書庫に保管されていた公式文書です。
 これに対して、魚豢「魏略」は、曹魏の事績全体を記述したものであり、倭人記事だけではないのだから、魏略が、帯方郡使の倭國訪問記を元に書かれている」というのは、大変、不用意な言い方と言えます。
 それにしても、魏略は、早期に散逸して、全体が伝わっておらず、著者である魚豢の事績も不明で、わずかに、魏の史官であったらしいというだけです。
 ここで、重複して、三国志の編纂者である陳壽が魏略の記事を利用したと書かれていますが、それは確実に立証されていない、漠たる推定です。

*「この頃
 続いて、「この頃」というが、資料の記述時期の議論をしていて、この頃というのは、魚豢、陳壽の活動時期かと思ったら、史書の記述対象である三国分立期のことに話が移っています。まことに不用意な書きぶりです。新書編集部は、文書校正はしないのでしょうか。

*「倭人条」
 魏書30巻の中に東夷傳があり、東夷伝に各国銘々の条があると言う説き起こしですが、魏書写本に条と書かれているのは見かけないのです。
 紹凞本のように「伝」と小見出し付きになっているか、小見出し無しに続けて書かれているかのいずれかです。
 いわゆる正式名は「業界通念」かも知れないが、客観的な根拠の書かれていない主張は独善と呼ばれるものです。

 と言うように、ここまで新書の20ページ強の分量を論評したのに過ぎないのですがある程度事情に通じた読者が読むと、一段毎にだめ出しが伴う、粗雑な導入部です。

 このあたりは、定説の確立された周知の事情だから、ある程度端折って書くのだという声が聞こえそうですが、その割には、重複記事があるし、要点を、安易な引用に頼って、誤伝を拡大再生産している面があります。誰かに代書させたのでしょうか。それにしても、不正確な代書であり、修行が足りないようです。
 以下、折角購入した書籍なので、お説を聞くとしても、こうした粗雑な解説が置かれている事から来る著者の見識への不審感は、ぬぐいがたいのです。

 著者の弁では、自身は考古学者であって、文献解釈は本分ではないと逃げを打っています。そのせいか、倭人伝の記事の誤記論については、「明治以来学者の一致した見解」(一大國論)のように、安易な定説風評に逃げ込むのは、学問として行き届いていないのではないかと思うのです。

 以上、手厳しい意見が出てしまいましたが、ご本人が自負しているように、本書の主部に開陳されている考古学分野の知見と見識には、耳を傾ける部分が多く、十分に新書の価値はあると言えますが、この見地からの紹介は多々あると思うので、重複を避けさせていただく。

 惜しむらくは、不得手とされる文献解釈に、著者の学識から生まれる「常識」の光を 注いでいただきたかったと言うことです。

 小生ごとき一私人でも、以上書き連ねたような批判、あら探しができるのですから、学会の縄張りにこだわらない活躍をしていただきたかったと思うのです。

以上

私の本棚 04B 大塚 初重 邪馬台国をとらえなおす -補足 2025

 現代新書 2012年
 私の見立て ★★★★☆ 星四つ 書評対象部分 ★☆☆☆☆ 星一つ 2016/06/16  追記 2020/03/20 2024/04/21 2025/10/30

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

〇はじめに
 今般、丸地三郎氏の論考で、大塚初重氏の本書を紹介していることから、再読して、再掲したものです。

〇反省の弁
 前回書評めいた記事を書いたときは、色々、書きぶりのアラが眼について、多少偏った評価をしてしまったが、それ以降の読み返しで、言い過ぎを訂正する必要を感じたので、ここに、補足記事を書き足すことにした。
 ただし、前回記事は、その時点での筆者の理解を記録した記事と言うことで、明らかな誤字、誤記の訂正以外は、削除も加筆もしない。ご了解いただきたい。

 まず、本書の「倭人伝」逐条解説全体の論説が、水野祐氏が監修した「現代語訳」に基づいているので、当該「現代語訳」の読み取り方に影響されていることは仕方ないところである。正直言って、それが「現代語訳」の困ったところである。学術的な論考であるから、せめて、複数の「現代語訳」をも参照していただきたいものである。 とは言え、いわゆる「定説」なる矮小な世界観、じつは「俗説」と呼ぶに相応しいものに囚われることなく、ご自身の豊かな見識をもとに読み解いていることが多いのを、前回見過ごしていたのを大いに反省している。

*歴韓国
 例えば、倭人傳行程記事の劈頭、「従郡至倭」の下りで、「歴韓国」を、「韓国(馬韓、弁韓、辰韓)を歴て」と読み取っているのは、当方が、最近ようやく到達した心境であり、原文に忠実という点が共通しているのだが、「新説」に先人あり(新説と力んでも、大抵は「二番煎じか」それとも、「屑」である、との定見)と、脱帽するのである。
 しかも、この下りの解釈で定説となっているが、近来有力な批判の出ている沿岸(海上)航行説について何も触れない、という賢者の振る舞いである。

*「自然科学による年代決定」への態度保留
 大塚氏は、文献史学者でないため、学界の儀礼に従ってか、その道の「専門家」の意見に逆らう主張をあからさまに打ち出してはいないし、考古学者として、古墳時代の時期を大巾に繰り上げるとされている現代「科学的」年代観についても、「自然科学による年代決定と文献記載事実のとの相違については将来の検討に待つことになろう。」と明言を避け、殊更に批判を加えているわけではないが、深読みすると、氏としては同意できないという確信めいたものを感じるのである。

 こうした大塚氏の慎重な書きぶりを理解できなかったために、手厳しい批判書評をものにしたことについて、いささか反省しているものである。

以上

2025年10月29日 (水)

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』1/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
 日本古代史ネットワーク 2025/10/25
私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯始めに
 本項は、令名高い「日本古代史ネットワーク」サイトに公開された研究論文の書評である。丸地氏は会長職にあり、影響力が強いと想定した上で、氏の玉稿を熟読し、敬意をもって率直に批判するものてある。
 書かれているのは、いわゆる「邪馬台国論争」の総決算とも目される力作であるので、重大な決意を持って取り組んだことを予め表明するものである。

▢引用とコメント
はじめに
その1:魏志倭人伝の史料批判

本稿では、「邪馬台国所在地の解明」について、以下の3部構成で論じる。
•魏志倭人伝の史料批判
•投馬国の記述追加の理由
•邪馬台国の所在地

今回は「魏志倭人伝の史料批判」の部分を論じる。従来の邪馬台国論には、二つの大きな問題が存在する。一つは、矛盾を含む倭人伝の旅程を、矛盾を含んだまま解釈し、論じて来たこと…。…本稿で、「史料批判」という歴史学の基本の方法による解決策を示す。

1.邪馬台国は、探せない!
…大塚初重氏は、著書『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書)の中で、「魏志倭人伝から邪馬台国は探せない」と…一節を設けている。

1-1「魏志倭人伝から邪馬台国は探せない」---抜粋…
邪馬台国の所在地については、二大学説として畿内説と九州説があり、加えて…候補地には枚挙に遑がない。「はじめに」でも触れたが、宮殿跡が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡は畿内説の有力な候補地である。しかし、これが考古学的に見て、邪馬台国の宮殿跡であると断言できるかどうか。その確証はまったくといっていいほどない。…纒向遺跡全体の五パーセントしか調査されていないとされるため、現時点ではまだ何も断言できない。これが考古学の立場から見た現実である。もともと「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らず。しかもその記述はあまり正確なものではない。(下線は著者が追記)

「魏志倭人伝」には魏から邪馬台国に至る里程が記されているのであるが、邪馬台国の所在地の解明をその記述に求めていくと、女王国は九州の陸地を越えてはるか南海に達してしまうという厄介な問題にぶちあたる。

…連続式の読み方は、「魏志倭人伝」の旅程をそのまま素直に読み下した読み方。一方、…榎一雄氏が戦後発表された放射式の読み方は、伊都国をセンター(扇のかなめの意味か)として放射…状に各国と通じると…とらえ…た。

大和説の場合は南へ邪馬台国に至る、という記述を東への誤りだとして読み替える。あるいは九州にあった邪馬台国が東遷して…大和王権をうちたてた、という具合に解釈して所在地を比定しようとする。

しかし…多くの研究者を説得できるほどの説も遺跡も出てきてはいない。

考古学者…が、『もともと「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らず。しかもその記述はあまり正確なものではない。』、と。科学的である筈の考古学者が、「正確でない」書籍を原点として、研究し、著述しなければならないことは、大変なストレスであったと想像する。

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』2/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
 日本古代史ネットワーク 2025/10/25
私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯引用とコメント 承前
コメント 「科学的である筈の考古学者」と先人に枷を嵌めるが、語義が不安定な状態で、反論できない先人を批判するのは感心しない。「考古学」は、文学の一分野で人文科学に属する。丸地氏の意図を外れても不都合はない。

 『「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の記述はわずか二千字足らず。しかもその記述はあまり正確なものではない。』と聞きかじりされているが、これは、科学的な発言ではなく、印象の表明と読み取れるのではないか。

 一目で見渡せる範囲で、大塚氏は、迷走しているのである。「宮殿跡が見つかった」と早々に断定発言しておきながら、「宮殿跡であると断言できるかどうか。」の確証はないとする大塚氏の行文は、乱調至極である。そもそも、このような不手際が公開されたのも、不審であるが、公開後に丸地氏を始め、誰も、指摘し、是正していないのは不思議である。当分野では、レジェンドたる殿堂入り先賢の玉稿は、骨董品扱いで誰も校閲しないのだろうか。一方、本稿を敢えて書いた一因は、丸地氏の権威を守りたいからなのである。

 また、纏向の遺跡の5㌫も発掘できていないとの獅子吼は、同氏にしては、少し気負いすぎているのではないかと苦慮される。同地で、卑弥呼金印を掘り当てるべしとの使命が不達成になっている事への悔恨かもしれない。いや、余計なことであるが、丸地氏もつられて、まだ、遺跡が出来していない、つまり、金印は出ていないと、暗に、「とことん掘るべし」と唱和しているのは、勿体ないところである。

 大塚初重氏は、「わずか二千字足らず」と評しているが、中国古代史書の専門家ではないから、文字数だけ数えて、素人考えで断定していても、史学者が、その内容を、精読、評価しての発言ではないから、率直なところ、いささか非科学的と言わざるを得ない。「魏志」において、一蛮夷の所伝に二千餘字を費やすのは、画期的なのである。

*ストレス三昧
 丸地氏は、「ストレス」と古代に存在しなかったカタカナ語を起用して、安直な印象評価を付しているが、事物を客観視することを旨とする自然科学てと工学の分野では、実験仮説は、悉く「実証」という試練(Stress)を課せられているのであり、その限りでは「ストレス」は、当然の勲章である。

 ここまででも、丸地氏は、大塚氏同様、人文科学派の情緒的判断基準に従っているのであり、そのように忖度すべきものとみられる。

 ついでながら、『その記述はあまり正確なものではない』と、解釈に苦しんだことの責めを、全面的/一方的に文献に負わせているが、これもまた、ご自身(達)の非力を顧みない、言わば、「酸っぱいブドウ」(Sour grape)の比喩に属するものではないかと愚考する次第である。

 ここに、両氏の発言を捉えて批判しているのは、以下に続く論考が、不安定な基盤の上に構築された高楼であり、はなから自立できない結構ではないかと指摘したいからである。また、両氏に示されるように、多数の論者が、同様の速断を基礎としていることに危惧を感じるからである。

 丸地氏は、大塚氏の「ストレス」発言に殊更感情移入しているが、大塚氏は、「憐憫」の対象ではなく、堂々と批判され、それを克服する勇姿を求められているのではないだろうか。

 いや、丸地氏は、世上に多い絶叫型論者でなく、言葉を選んで平常心を保つことを心がけられているようであるが、それでも、時として、無用の強調形容を取られているのである。

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』3/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
 日本古代史ネットワーク 2025/10/25
私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯引用とコメント 承前
因みに、日本の歴史学会では、魏志倭人伝の時代とそれに併行する時代の古事記・日本書紀の「神話の時代」は、「歴史学者の取り扱うべき対象では無い」として、取り扱っていない。…その時代を単独で取り扱って来た日本考古学会の元会長の記したストレスを示す「探せない」との記述は、重く受け止めるべきであろう。

1-2「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置は読み取れない?
学門の世界の外に、ネット上でも邪馬台国論は行われているが、こんな指摘がされている。https://wajinden.com/の記事を引用する。
「魏志倭人伝」から邪馬台国の位置は読み取れない?
明治43年(1910年)に…白鳥教授、…内藤教授がそれぞれ、邪馬台国の所在地を九州、畿内と唱えて以来100年あまり、…論争があった。しかし結論はでない。なぜかというと、史料をそのまま素直に読むと、その位置ははるか太平洋の沖に行ってしまうのである。…
魏志倭人伝に記されている行程は下記の通りである。
→投馬国南へ水行20日
→邪馬台国南へ水行10日、陸路1月
総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里
以上のように、.大塚…氏…も、ネット…論者も、魏志倭人伝の旅程・行程の記載通りにしては、邪馬台国にたどり着けないとしている。

コメント 要するに、当業界で、百人百様の誤解を抱いていることの典型二例を示されたのであり、何かを示唆するものではない。
 在野の論者には、堅実な文献解釈によって、原文「解釈」の着実さを誇示している面々がいらっしゃるのであるが、一方、読みかじりで思い付きを搔き鳴らす安直な提言は、件数は圧倒的に多いが、重きを置けないと思われる。

*「普通の解釈」の見当外れ
 また、ここに引用された解釈は、算用数字横書きの拙策を含め、原文に込められた、当時として、当然、自明の数値記述の解釈に失敗していて、「普通」の解釈の誤謬の定位、継承を示していると見える。「普通」が、普(あまね)く通用するという意味としても、通用しているのが、二千年後生の無教養な東夷に限定されている以上、中国文献解釈では通用しないのである。

 特に、「普通」の解釈と自称して、伊都国到達に続く三ヵ国を羅列解釈し、そのあとに、「邪馬台国」を繋ぐだけで収まらず、「水行十日、陸行一月」を同国への前提とみるという、伝統的な曲芸解釈を取り込んでいるので、さらに、混迷が深まる仕掛けとなっているのだが、当該論者の解釈を、大塚氏の諦念に加勢するとのつけ込みであり、まことに残念である。

 岡田英弘氏が苦言を呈しているように、「倭人伝」は、三世紀の中国史官が、当代きっての筆耕で書き上げたものであり、二千年後生の東夷が、教養の乏しい浅知恵で、普通に読み解ける可能性は、希少なのである。

1-3水行十日•二十日を地図上に図示
旅程を連続的に捉えるケースの外に、榎一雄氏の発案した「放射線説」(放射読み)との解決策も示されているが、…解決策は見えない。

コメント ここまで加担していた「ケース」(Case 事件、事例、症例の意味か)に、榎氏の解法、いわゆる「放射」説(「放射線」ではない)が付け足されているが、榎氏の提言の時代的限界で、「水行十日、陸行一月」を伊都国からの前提とされているので、不合理な解釈となっているのである。ちなみに、これは、当時、古代史史料で、道里の最後に総道里を所要日数で締めくくる先例がないとする見識が、史学界で支配的であったことによる。(上田正昭氏の否定論が知られている)しかし、「倭人伝」の道里記事は、日数記事を並記するという点で、誠に、異例であるから、読者の理解を助けるために、総日数「都水行十日、陸行一月」と明記したという丁寧な解釈は、先例を必要としないのである。異例に先例がないのは常識である。

 要するに、別に、提唱者の榎氏を偶像視するのではなく、あるいは、論敵として打倒するのでなく、氏の提言を契機とする客観的な一解釈として評価提唱いただきたいものである。

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』4/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
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私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯引用とコメント 承前
概略の距離を、水行十日=一万里、水行二十日=二万里として配置した。

コメント ここで、氏は、奇想天外な「水行」論を持ち出す。いずれかの発明家の追随であろうが、不合理である。是非、自己検証いただきたい。

魏志倭人伝に記された旅程をそのまま受け取り、日本国内に当てはめると、合致する場所が無い。そこで、邪馬台国論者は、この旅程は不正確であるとして、誤りが含まれていることを前提に論じてきた。
「南の方角を誤りとして、東に変更する。」「距離の里数も不正確として、まともに取り扱わない。」このようにして、九州論も畿内論も成り立っている。ここに、問題がある。

コメント 「邪馬台国論者」が、十把一絡げに断罪されているが、氏は、これに含まれているという前提だろうか。
 続いて、「邪馬台国論者」症候群(Syndrome)の症状(Symptom)が、二項目に集約されているが、氏は、そのような診断をもって、「九州論」、「畿内論」なる新規概念を創造して、これを解明するのが「問題」(Question)であると、宣言されている。しかし、「九州」は、太古以来、(中国の)天子の管轄する領域を示すものであり、「畿内」は、天子の居城とその周辺を示すものであり、蕃夷の論じるものではないように思う。氏の論議は、ここで大いに動揺しているのである。

2.従来の邪馬台国論

2-1邪馬台国論議の数

2010年頃、…邪馬台国関連の出版書籍を調査した結果、五万冊を超えていた。魏志倭人伝の旅程と…比定地…旅程が一致しないため、多岐に渡る邪馬台国論が出現した。
邪馬台国の比定地…は、北九州説/近畿説など様々な説が有り、…様々な説が出されている。…魏志倭人伝の旅程と、比定…地が…一致する邪馬台国論は、存在しなかった。…「邪馬台国…論議…の意義は失われている」と言い出す人も出て来た…。

コメント 石野博信氏は、邪馬台国の所在地を論義することは、古代史の本道ではない、とされているように見受ける。上田正昭氏は、早くから、同様に古代史論議の主題から除外していたと見える。至言である。

2-2主な邪馬台国論の一覧 省略

2-3従来の邪馬台国論では、九州への上陸地点を唐津近辺としている。中略

3.従来の邪馬台国論の旅程•所在地論の二つの大きな問題点

3-1旅程自体を正しく理解しないまま、旅程の解明作業を続けたこと。(論文その1で対応)
旅程の中の矛盾をそのままにし、旅程には誤りが含まれることを前提とした。そこで、月→日、南→東など勝手に改変を行い、解釈を行った。放射説など原文には明瞭な記載のない解釈を行った。
不都合な部分を勝手に変更することで、九州の各地や近畿説が可能となり、全ての都道府県が邪馬台国の所在地になりかねない、勝手な説が横行した。

コメント 古代から継承されてきた資料に、誤解、誤写などによる「誤り」が含まれているのは、当然である。
 ここで問うべきは、論者が、自らの拘る「所在地」地と両立しない記事を、自らの存亡をかけて「是正」/「粛正」している活動であり、そのために、「原文に明瞭な記載がない」と決め付けざるを得なかったと認めるべきなのである。
 氏は突然、前稿で提示した「九州」「畿内」を論じるという使命感を捨てて、「九州の各地」と「近畿」の諸「説」を創造し、事態を混乱させているように見える。

 何れにしろ、資料原文が、正確に解釈できていないのに、丸ごと断罪/卓袱台返しするのは、まことに不合理である。卓袱台の上には、数万と言われる「ジャンクフード」に埋もれて、司厨が精魂込めた至高の題材が鎮座しているのであり、数に囚われて全て捨て去るのは、まことに勿体ないのではなかろうか。
 つまり、事態が、細部に至るまで認識できていないのに、独断/速断は禁物である。

3-2旅程の基礎情報(…)を無視したこと。(論文その2・3で対応)
江戸時代の学者のルートを無批判に踏襲した。日本人と日本の古代技術に基づいて旅程を考え、航海の動力源として人力…を選択し、…帆船を除外した。

コメント 誰の意見か知らないが、江戸時代の学者の意見など、誰も準拠していないと見える。
 要するに、三世紀時点で、地域に長期の航行などなかったという正確な時代考証が必要なのである。加えて、地域に帆船が存在しなかったのは、周知である。時代錯誤にご注意いただきたい。

魏の使節の旅程であることを無視し、魏の使節としての人員規模・交通機関・目的を検討し…なかった。短里・長里問題も、明確に論議し…なかった。

コメント 無造作に大段平を振るうのは、感心しない。記事が「魏の使節の旅程」と決め込むのは、随分早計で、無効である。
 三世紀当時、「旅程」なる言葉は存在しなかった。くれぐれも、時代錯誤にご注意いただきたい。

                                未完

 

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』5/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
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私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯引用とコメント 承前
 4.「史料批判」
 5.魏志倭人伝の史料批判 中略
 5-1外的批判
…成立は、魏が邪馬台国に訪問使節を出したとされる西暦240年から250年頃と推定される。…陳寿は、…297年に没しており、魏志倭人伝は同時代…史を記載し…、その評価は高い。
倭人伝の内容は、以下の原史料によると推定される。
•梯儁の報告書…
•張政の報告書…
•魏の公文書/歴史書
倭人伝は、現地訪問記録と公文書を基本とした史料で信頼性の評価は高い。

コメント 陳寿は終生三国志を編纂し「倭人伝」成立は歿年と想定される。250年に限定する根拠を示すべきである。
 として「倭人伝」は正史「魏志」の蛮夷伝であるから、当然、曹魏で蓄積され西晋に継承された公文書に基づいたのである。依存公文書は、遼東公孫氏の上申文書が基礎であり後続文書が付加されたと見るべきである。要するに、曹魏皇帝承認文書が「歴史」であり、俗吏の私的な文書は含まれない。それが、大前提である。

5-1-2梯儁•張政の報告書
魏と倭の外交関係を記した部分が倭人伝中にある。中国王朝から初めて倭国現地訪問を行った梯儁一行は…調査・報告の責務があったと考えられ、その報告書が、倭人伝のベース(ママ 原史料のことか)と推定される。二回目の張政の訪問目的は軍事支援で、…張政報告書に記載されたと推定する。
いずれの報告書も、…現地…報告書であるため、…高い評価を受けている。

コメント 一般的な錯誤であるが、中国が、蕃夷と外交することなど有り得ない。曹魏梯儁の訪問以前、遼東公孫氏の使節が訪問しなかったという証拠はない。使節かどうかは別として、皇帝命により蕃夷を訪問した以上、精緻な報告書を提出するのは、当然、自明で重大な責務であり、皇帝が、当然として嘉納したので、公文書に収録されたのである。後年の張政は、帯方郡太守命で現地査察したものであり、使節などではないから、どの程度報告されたかは不明である。
 それにしても、「高い評価」とは、どなたの御意見なのだろうか。もちろん、現地報告が、単なる風聞、伝聞でないのは、当然、自明である。

5-2内的批判 中略
原史料が明らかになったところで、倭人伝の記述を読み直すと、時系列の違和…矛盾などが、…複数存在することが判明した。 

コメント 断定的な言い回しが目に付くのは、氏の迷いを示すと見える。それは置くとして、大胆な戸数推定は、残念である。氏の語法で邪馬台国七万餘戸は不都合と見える。里数と日数が総計とすれば戸数も総計と見える。

 ちなみに、図6ならぬ集計表は、単位表示が不都合である。例えば、「7,000里余」は原文に即して七千餘里とすべきである。つまり、単位千里で里数七は概算値との明記である。里数は、七,一,一,一[千(余)里]で、余のない百里数値は、論外と明記されている。戸数では、五萬餘戸と二萬餘戸に意義があり、二国を足して七萬余戸と明快である。千戸台のはしたは、萬戸台の概算計算の足し算に影響しないのである。算用数字横書の弊害と見える。

 陳寿は、史官としての数字教養を持っていたが、現代諸兄姉は、揃いも揃って漢数字に弱いので、自明、当然が難解になっている。

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』6/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
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◯引用とコメント 承前
5-2-3矛盾点及び他の史料との整合性
図7 旅程部分の拡大図(挿入文=赤字) 省略
1)「郡使往來常所駐」(帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。)…
初回の梯儁一行が訪問した時点では、「常に駐在」するとは把握できない。…
注記:論者の中には、公孫氏の時代の帯方郡の使者が、往来し、常に駐在していた…と解釈する…が、魏の…報告書…で、…討伐した公孫氏側の帯方郡の使者と魏の使者を同列に…記述することはあり得ない。…

コメント 単なる早計である。公孫氏時代以来、郡行人は定例的に伊都国に留まったのであり、「常駐」とは解せない。「郡」は帯方郡以前の楽浪郡時代も含み、原文が楽浪郡でも良いように「郡」としたと思われる。拘るなら、「郡」は漢武帝創設の後漢/曹魏の郡である。魏志の視点は明確である。

2)「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」  中略

3)「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」…
この記述の数行後の文章「自女王國以北其戸數道里可得略載」(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することができた)とは、矛盾が生じる。…郡から狗邪韓国を経て不弥国までの国々…は、里数と戸数が記され…、投馬国の…は里数…が無く、…日数が記載され…異質な記述で…統一性がない。…

コメント 投馬国は、順当な行程を外れた脇道余傍の国であり、後段の付け足しであることは自明である。端的に言うと、「自女王国以北」四ヵ国に含まれないことが明確である。「矛盾」とは、時代物の断定表現であるが、論争は、別に命懸けではない。些事で獅子吼するのは、不似合いである。

5-2-4陳寿が挿入した三ヶ所を除去した旅程
作成すると次の通りとなる。 中略

図8 挿入文を除外した旅程部分の拡大図 省略

•帯方郡より倭に行くには、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、韓の国々を経て、あるいは南へ、あるいは東へと進み、倭の北岸にある狗邪韓国に到着する。これまでが七千余里である。
•はじめて一海を渡ること千余里で、対馬国に到る。…絶島で、広さは四百余里(平方)…
•南に…一海を渡ること千余里で一支国に至る。…広さ三百里平方…
•また一海を渡ること千余里で、末盧国に(至)る。…人々は魚やアワビを捕ることが得意で、海の深い処浅い処で潜りこれを取っている。
•東南に陸行し、五百里で伊都国に到る。…
•東南に百里行くと、奴国に至る。…
•東へ百里行くと、不弥国に至る。…
•南に進み邪馬台国に至る。女王のある所、(都)水行十日と陸行一月。…
 七万余戸ほどがある。
•女王国の以北は、その戸数•道里を略載することを得たが、その他の周辺国は遠く絶たっていて、詳らかにできない。…
 帯方郡から女王国に至る、一万二千余里である。

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』7/8

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◯引用とコメント
 承前
コメント
*「水行」の是正
 定番の批判であるが、「朝鮮半島の西海岸に沿って水行」とは、時代錯誤と誤解の積層である。
 漢武帝が朝鮮を滅ぼして以降、近世に至るまで「朝鮮」は、存在しない。当時、半島意識はなかった。「海岸に沿って水行」は乱文であり、正史にそのような不都合な文が書かれることはありえない。

 太古以来、公式道里が「水行」と史書に書かれたことはないが、郡から倭に行くには陸を離れて渡舟で渉るしかないので、本来、川でしか使えない「水行」で狗邪韓国海岸から對海國に大河ならぬ大海を渡るのであり、以下、末盧国で上陸するまで、計三回渡舟に乗ると予告している。
 不意打ちで「水行」と言うと、用語違反で史官の首が飛びかねないのである。

 予備日を持たせて、水行三千里が十日の規定とすれば、郵便/文書使は、確実に遵守でき万事明快である。一日当り三百里も、見通しの良い数字になっている、と言うか、にしている。残る行程は、九千里を三十日であるから、一日当り三百里となり、誠に整然としている。当初、末羅国上陸後を残余二千里とみなしていたが、後日、末盧国以降の里数が申告されたため、残余が五百里と明記されてしまったが、全行程一万二千里を按分したことは明らかであるから、加算したら万五千里という計算結果は、別に不合理ではなかったのである。
 以上は、当時の中国教養人の常識に従っているので、「倭人伝」の道里に異を唱えられることはなかったのである。

 ちなみに、当時、多島海の岩礁を突っ切って沿岸航行するのは、危険などでなく、遭難必至の無謀であるから、一切考えられないのである。もちろん、船室、甲板のない軽快な渡舟では、長々と漕ぎ続けなどできないのである。

*「普通」の誤解
 ついでながら、「海の深い処浅い処で潜り」とは、誤解の積層である。
 中国語で、「水」は、「河川」と言うのが、初学者の必修事項である。
 「沈没」とは、膝のあたりまで浸かっていることを言うのである。
 もちろん、海中に潜水して鰻を捕らえるなど、いつの時代であろうが、人間のできるものではないのが、常識である。大抵、河川で捕らえるのである。
 さらについでながら、「邪馬壹国」は女王居処であって、「都」などではない。史官が、蕃王に「王都」を許す事はないのが、常識である。
 「都」は、事務的な日数総計を示す。現代日本語で「都合」という。

*「方里」の誤解
 略記するが、対海、一大両国の広さ「方四百里」、「方三百里」は、両国農地面積総計で島嶼面積に遠く、遠く及ばない。現代風表記では、「四百平方里」、「三百平方里」であり、一平方里は、一辺450㍍(概数表記)の広さであるから、それぞれ、9㌔㍍四方、7.5㌔㍍四方程度であり、両島が、農地(良田)不足の慢性的食料不作で、郡への納税どころでないと泣き言を言っているのと平仄が合っている。

 以上の正誤表は、古代/現代中国語の常識であり、本邦諸兄姉の「読み」は、大半が無謀な誤解であり、落第必至であるが落第の保証はできかねる。

梯儁一行の記した報告書の旅程について 中略
『陳寿の追記を削除した旅程』が、「梯儁一行の報告書」の本来の旅程であった。

コメント 氏もまた、原文を自己流に改竄する陥穽に墜ちているのは、勿体ないことである。

しかし、読み直して見ると、次の二ヶ所では、記載不十分の箇所がある。

1)一支国から末盧国への渡海では、方向が記されていない。
2)邪馬台国への記述には、方向が示されているが、里数が無い。

1)理由は、方向を明確に記述できない理由があったためと推測される。…


コメント 別に書かなくても、行程は、大局として南下であることは自明であるから、南に進むことは自明である。

2)邪馬台国への里数がないことは、里数を記載するほどの距離がなかったと判断できる。「魏志倭人伝」の里数記述は千里、五百里、百里といった単位で記されていることから、百里に満たない…場合は記載しなかったと推測する。この部分を除けば、…方向と里数が「略載」できていると判断できる。

コメント 行程の主部は、千里単位で書かれているのである。千里に満たない「はした」は、「餘里」計算において、弾かれて勘定に入らないのである。
 だから、概数計算は、「ピッタリ」一致するのである。何しろ、総計万二千里を、千里単位で各区間に按分し剰余は書いていないのであるから、一致するのが当然である。
 普通に考えると、倭人が最初に楽浪郡に参上したとき、まだ、女王が共立される前の男王の治政であったから、楽浪郡始点から倭(伊都)終点までの道里が登録されたと見えるのである。
 後に、女王を共立したが、女王之居処は、ひょっとしたら、伊都国の城壁内の「宮」であり、終点となったかもしれない。
 また、当初、楽浪郡の帯方縣が倭に対応する窓口だったのが、帯方郡の昇格によって、帯方郡が始点となったと見える。
 いずれにしろ、始点と終点が変わっても、公式道里は、変わらないのである。それが普通の国家制度である。
 なぜなら、公式道里を登録した公文書は、一切上書き修正できないからである。

「次有奴國此女王境界所盡自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、最後の奴国が女王国の境界…郡から女王国に至る合計里数は…万二千里である…中略

                                未完

新・私の本棚 丸地 三郎 『邪馬台国所在地の解明 その1:魏志倭人伝の史料批判』8/8

 「邪馬台国所在地の解明」江戸時代以来、300年間の論争の終焉
 日本古代史ネットワーク 2025/10/25
私の見方 星四つ ★★★★☆ 泰然として手厚い書法  2025/10/29

◯引用とコメント 承前
…区間の距離・方向を確実に記載し、まとまった所で、…総距離…と…日数…合計が記載される…倭人伝の…日数は、水行十日・陸行一月と…旅程の起点と終点を明示し、万二千里と示している。極めて明瞭…と云える。

コメント 合理的な判断であり、慧眼と言える。
 途中の里数は、多くの箇所で「余里」が含まれている。合計万二千里と示すことで、この「余里」の端数処理が行われている。

5-2-5確定した新たな旅程一覧表 中略

5-2-6「投馬国」について
「確定した新たな旅程一覧表」から判断すると、水行十日は、帯方郡から末盧国の千里×十日と解釈でき、一万里に該当する。これから判断すると、投馬国への水行二十日は、距離の概念では、二万里に相当する。邪馬台国から投馬国は二万里は、「極めて遠方に存在する」と理解できる。
従って、「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」(南へ水行二十日で、投馬国に至る長官は彌彌、副官は彌彌那利である。五万戸余。)の文章は、別の意図で挿入された文章であり、邪馬台国への旅程内に組み込まれるべきものでは無いと、改めて、判断する。 …

5-2-7新たな旅程図 中略

旅程について、上記の理解から、次の図としてまとめられる。
これが、相互矛盾の無い魏志倭人伝の旅程となる。この旅程に正しく従い、進むことで、邪馬台国へ到達することになる。…

コメント 毎度の「矛盾」の大だんびらであるが、古代の遠隔地の概数概念の世界で、辻褄の合わないことなど、当然の極みである。
 氏の概念図は、黄海水行の無謀を根拠として、大きな不合理をはらんでいる。氏が、概念図の元になる「概念」の不合理に新たな不合理を重ねて正当化工作しているのは勿体ない。望むらくは、ご自身で「ストレス」試験を付加して弱点を補強するのが先決ではないかと思われる。
 とは言え、道里行程記事の投馬国条が、後段の挿入であることは、ご明察である。

図10旅程概念図 省略

6終わりに
3部構成の残りの部分は、次のように予定している。

その2:「投馬国の記述追加の理由」は、投馬国のことを、何故、強引に挿入したのかを追求する。それなりの理由が無ければ、陳寿も入れなかったはず。理由は、魏国と倭国の外交関係に大きく関わるものと推定する。従って、三国志の三カ国である魏・蜀・呉の戦争状態と外交に関わる事情から説明が必要になるので、別の部を構成する。

コメント 率直なところ、「投馬国」は、公文書に記載されているために割愛できず、仕方なく余傍の国として掃き捨てたのであり、それを過大評価して諸兄姉の貴重な時間を消費するのは、どうかなと思うものである。
 丸地氏は、俗説に惑わされて、「水行」の解釈に苦しんでいるものであり、一段とご自愛を祈る次第である。

その3:「邪馬台国の所在地」では、今回の史料批判で定まった旅程に基づき、邪馬台国の所在地を捜索する。ポイントとなるのは九州上陸地点。

主な参考文献 中略

コメント 出版社、出版年を示すべきではないだろうか。

 以上、ご一考賜れば幸いである。
                              以上

2025年10月28日 (火)

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」1/3 2025

「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 星四つ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従 2023/01/26, 08/30 2024/10/12, 2025/01/01, 10/28

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

◯はじめに 2025/01/01
 当ブログ記事は、笛木氏の史論の批判でなく、氏が、律義なあまり研究史の回顧と氏自身考察の過程を羅列していて、読者に多大な労苦を強いていることに対する意見であり、特に、無用な紙数で迷走させたあげく、最後に唐突な回心により、不出来な結末に到っている点である。

 当方は、聞きかじりによって、結論部を喋喋するのでなく、確たる方針の下、氏の史論の流れを辛抱強く辿った上で、冗長な部分を指摘し、さらに、結論の唐突さと不備を指摘しているということを予告しているものである。

 氏の姿勢は、先賢諸兄姉の意見を取りこんで読者に伝えようとするあまり、過度に冗漫になっていることを読者に押し付けているものであり、世上にあふれている安直/拙速な「聞きかじり」、「言いかじり」に一線を劃しているが、それにしても、氏の見識で選別していただいて、読者にゴミの山を押し付けないで欲しいものである。

 ちなみに、当方の本件に関する見解は、途上で示すように、本件は「魏志」東夷伝、もっぱら「倭人伝」の一記事の確認であるから、信頼性の乏しいごみ情報を、迅速にゴミ扱いして、史料本文に専念して文脈を掘り下げ、自身の理解に従うべきだという端的なものであるので、ほんの数ページで済むのであり、読者にとって既知の事情をことさら復習して紙数を稼ぐものではないことをお断りしておく。

「魏志倭人伝」の記述
 当記事に対する批判は、大小取り混ぜ、多数の指摘が絞り込めなかった。
 再挑戦である。何より、これまで、誰も、笛木氏にダメ出ししていないと見えるので、此の際、嫌われ役を買って出たのである。氏には、当然先輩同輩後輩の諸兄姉に義理もあってゆるく書いたと見え、半ば諦めつつ「教育的指導」に時間と労力を費やした。

⑶ 景初三年説の「定説」化
 率直なところ、この項は、既に俗耳を明々と染めている「誤伝」であり、氏が、ただただ再録するのは、字数の無駄である。
 「定説化」されているというのなら、その公示場所の参照で十分である。小林秀雄氏著作の引用も、むしろ、先哲の限界/誤謬を公示していて、痛ましいばかりである。早い話が、本筋の議論に関係なくて無意味である。

*⑷「定説」への異議
 要は、古代史学界において、「いわゆる」と言いたくなる「定説」は史実誤認の山積である。
 国内史学では、半島の北の遼東郡と半島中部の帯方郡の地理が理解できていない上に、帯方郡から洛陽に至る」実務経路が、渡船で山東半島に渡って、以下、街道を行く点が全く念頭に無い。時代考証された地理認識が取得できていない「定説」は、すみやかに克服して、もはや現役として通用しない「殿堂」入りしてもらうべきである。

 遼東郡太守公孫氏が健在な時期は、漢武帝以来の楽浪郡も、逐一遼東郡に報告する二級郡であったから、倭に至る道里は、公式も実務も遼東郡を経由していたが、景初中に魏皇帝特命部隊が、帯方郡を雒陽直轄にしてから、折から官軍の遠征に追い詰められていた遼東郡は、半島南半以南の東夷に関する実務に関係無くなっていたのである。もちろん、公式道里は、一度登録された限り、不朽のもので有るから、魏志「倭人伝」は公式道里の行程を明示しているが、それは実務と合致していないのである。それにしても、帯方郡にしたら、遼東郡の戦闘は地平の彼方である。むしろ、曹魏明帝は、楽浪/帯方両郡を公孫氏配下から隔離し、早速「回収」して、自身の画期的治世の嚆矢とする「倭人」制覇構想の基点としたかったように見える。
 と言うことで、氏の提起される「定説」の根拠は、とうに消滅していたのである。

 この点は、随分以前から、例えば、岡田英弘氏の指摘にある「定説」信奉者の耳には、何か詰まっているようである。

 本題に還ると、正史史料の記事は、「景初二年」六月に倭の使節が郡治に参上したと明記されているのだから、これを誤謬と否定するには、正史に匹敵する確たる文献が必要であるが、そのような文献が一切存在しないのは、周知、自明である。
 本件に限らず、二千年後生の無教養な東夷が、遼東形勢を何一つ知らないままにくだくだ評して「誤謬」と言うのは、無謀、無法である。

*⑸ 二年説への反論
 大庭、白崎両氏の異論を引用するが、素人目には、筋の通らない/論理の見えない難癖と見える。
 両氏にしたら、不本意な「被引用」になるのではないかと見られる。両氏が、ここに示したような視点から自説を再検討したとして、依然として論議に固執したかどうか、不明であり、両氏がかくなる不名誉を雪ぐ機会がなかったのが、素人目には、大いに不満である。

⑹ 先行史書について
 氏は、「先行史書」と誤解必至の呼び方であるが、要は「後代史書」であり、明らかに「正史」と同等の信を置くことができない、風評に近いものに過ぎない。せいぜいが、同時代の俗人に理解しやすいように噛み砕いた訳本に過ぎず、つまり史料とするには無効な意見なのである。

 ここで難があるのは、氏の素人臭い写本観である。何しろ、天下の「正史」陳寿「三国志」を「原本は、存在しない」とか「誰も原本を見たことがない」とか、粗暴で稚拙な断定で誹謗する人たちの口ぶりと似ているように見える。つまらない軽率な暴言は、世間の信用を無くすだけである。よい子は真似しないことである。

 国内史書の写本は、専ら、寺社関係者の孤高/個人的な努力/労苦による民間継承と見られて、現存写本間の異同が、やたらと目に付いているのだが、先進地である中国では、そのような不定形の写本継承はあり得ない。勝手な改訂、改変も無いし、小賢しい改善も、粗忽の取りこぼしも(滅多に)ない。
 端的に言うと、信頼性が格段に/格別に違うのである。そうした史料評価は、史料批判の核心/大前提と思うのだが、中国史料の最高峰である「三国志」と同列に論じられるのは、何とも、無法のもののように見える。

 正史写本は、各時代の国宝継承の「時代原本」を善本として、当時の一流学者が文書校訂を行った写本一次原本から、一流写本工が新たな「善本」(レプリカ)を起こして行くのだが、そのような写本は、前後、一流編集者が責任校正を行うから、誤写の可能性は絶無に近い。こと、三国志「魏志」に限定すれば明快であり、北宋代、木版印刷の際には、厳重な管理で高度なテキストが維持/復元されたと見える。二千年後生の無教養な東夷はそのような国家事業について想像も付かないらしく、とんでもない風評が飛び交うのである。よい子は、与太話を、やみくもに信じてはいけない。

*辺境「野良」写本考
 辺境写本の誤字指摘だが、雒陽原本からどんな写本を経たか不明である。いかに厳格に管理されていた正史写本と言えども、帝室書庫を出た瞬間から、写本は低俗化し帝室善本の正確さは期されていない無校正写本なので、誤字が雪だるまになる。
 その写本の最下流で、誤字満載の「野良」写本が出回っても、遡って「帝室善本に影響を及ぼすことはない」。

 また、一口に宋代木版印刷といっても、北宋刊本(咸平本)はきわめて限定された部数であり、比較的技術の進んだ南宋刊本(紹興本、紹凞本)ですら、帝国の最高階層に限定される百部程度の僅少部数と思われる。

 当時の常識として、それら刊本は、配布先で「原器」として所蔵されるべき物であり、それぞれ、良質な写本を起こして、通用写本として普及させるものであった。それら通用写本は、一部一部が、担当写本工房の労作であるから、当然、誤写、誤記による誤謬は起こりうるのであるが、その際は、順次溯って校正を行い、誤謬を抑制する仕組みが働いたものと思われる。要するに、各地有力者/愛書家は、手の届く刊本から起こした高精度の写本を誇示したのであり、刊本が蔵書家に通俗して流通するのは、後年、例えば、明代以降である。

 先に挙げた「野良」写本は、末端で市場原理にしたがって、手軽な対価で粗製されたものであり、溯った校正などしていないから、内容の正確さは、保証されていないのである。西域辺境で出土した写本断片は、それに先だっているが、時代原本から、遥かに後裔した通用写本の例示されたものであり、中原で維持されていた原本の誤謬を示唆するものと考えるのは、とんだ勘違いである。

 氏が以上の説明を理解できないようなら、斯界の最高峰である尾崎康氏に確認されたら良いだろう。聞く相手を間違えると誤読誘引のDNAを注入されてしまう。「三国志」は、歴代正史の中で、格段に、異様なほどに史料の異同が「少ない」のである。

                               未完

新・私の本棚 笛木 亮三 「卑弥呼の遣使は景初二年か三年か」2/3 2025

 「その研究史と考察」 季刊 邪馬台国142号 投稿原稿 令和四年八月一日
私の見立て ★★★★☆ 丁寧な労作 ★☆☆☆☆ ただしゴミ資料追従 2023/01/26, 08/30 2024/10/12, 2025/01/01

*加筆再掲の弁

 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲したことをお断りします。代わって、正体不明の進入者があり、自衛策がないので、引きつづき更新を積み重ねています。

⑺ 二郡平定について~余談付き
 ここで、氏は、各論者の情勢批評を長長と連ねた後、突如として、筑摩本の東夷伝翻訳文に帰り、公孫氏を誅殺」した。『「さらに」ひそかに兵を船で運んで』の「さらに」を「そのあとに」と決め込むが、それは翻訳文を「曲解」している「誤解」である権威のある日本語辞書を参照して頂ければ、「さらに」には、「そのあとに」の意味と「それと別に」の二つの意味があると書かれているはずである。
 原文の「又」が、両様の意味を持っているから、筑摩本の翻訳者は、両様に解することができるように、大いに努力したものと見えるが、いかんせん、無学無教養の読者が、辞書を引かずに先入観の思い込みで小賢しく解釈を限定するとは予想していなかったようで、勿体ないことである。
 要するに、当記事における「又」の真意は、文脈によって解するべきであり、真摯な研究者は、安直な「思い込み」を排するべきなのである。
 いや、これは氏の責任ではないが、二千年後生の無教養な東夷」の語彙で古代中国史書を「普通に」解釈する際の陥穽の一つであり、多くの論者は、古色蒼然たる陥穽/泥沼にどっぷり浸かっていても気づかないのである。善良な読者には、避けがたい陥穽であり、笛木氏のように実直な論者は、世上に蔓延している誤謬を拡散しないように多大な労力を強いられるのである。もったいないことである。

⑻ 景初中は何年
 率直なところ、氏は、本筋に関係ないところで時間を費やしているが、それを善良な読者に押しつけないで欲しいのである。魏明帝景初」は二年年末で終わり、景初三年は皇帝の冠のない一年であるから、深入りしてもしょうがない陳寿が「景初中」としているのは、それで十分だからである。「魏志」は、本職の史官である陳寿が責任を持って、全力を投じて編纂したから、「二千年後生の無教養な東夷」は、つまらないヤジを入れないことである。

⑼ 遼東征伐(年表)
 正直言って、このように空白の多い年表は読む気になれない。

⑽ 遼東征伐の陽動作戦と隠密作戦
 随分長々しいが意義がよくわからない。言うべきことは既に述べた。

⑾ 公孫氏の死は何月か
 正直、これだけ分量を費やす意義が理解できないから、口を挟まない。

⑿ 景初三年?の呉による遼東進出
 本項では、無理な議論が続いている。呉は、魏の暦を参考にしたのだが、明帝没後の変則運用をどこまで、理解して追従したか不明である。そもそも、東呉が、どこまで、魏明帝の景初暦に追従したかについても、疑問を禁じ得ない。氏は、若干混乱しているようだが、無理のないところである。他の論者も、解釈が泳いでいて、泳いだ解釋を、公衆の面前で臆面もなく振り回すから、困ったものなのである。
 私見では、景初三年、公孫氏の滅亡後、呉船が遼東に到来して、漁村の男女を拐帯したと見える。それとも、曹魏は、女性を兵としていたのだろうか。
 
⒀ 帯方太守の更迭
 本項も、本稿における意義がよくわからないから、口を挟まない。

*過分な待遇 2024/10/12 補充
 末尾で、「過分な待遇」と勝手に評しているが、未曽有の大帝たらんとした明帝が、蛮族の跳梁で逼塞した西域でなく、新境地、遠隔萬里の東夷「倭人」の到来を盛大に祝ったとしても何も不思議はない。「二千年後生の無教養な東夷」が、天子の所業を軽々に揶揄すべきではない。
 そもそも、辺境で侵掠/強奪を業(なりわい)とする蛮俗を制圧する策の一つとして、多額の贈答で一部勢力を飼い慣らし、頭目を打倒させるのは、東夷制圧の戦略でしばしば用いられているところであり、これが最初でもなければ、最後でもない。

 笵曄「後漢書」は、後漢公文書に取材した記事で、以下の大事件を述べているが、これは、当然、陳寿の熟知した「史実」であり、当然、当時の読者にとって、常識であったので、ことさら蒸し返していないのである。

*小論「東夷戦国志」 2024/10/13
 後漢光武帝代の遼東太守祭肜(さいゆう)は、匈奴と連携して侵入する鮮卑を制圧する際に、最初は、痛撃して敗走させ塞外に追い出したが、のちに、鮮卑大都護偏何を帰順させて匈奴を討つように求め、潤沢な上納物(貂裘と好馬)を遥かに超える大量の下賜物を与え、匈奴打倒を命じたので、鮮卑は匈奴の左翼を大破し北方の覇権を獲得したため、後漢は多額の奨金(二億七千萬銭)を年貢として与えて辺境の安寧を確保した。
 ただし、覇権を握った鮮卑は、隣接する高句麗、烏丸等の諸夷を威圧したが、後漢の辺境警備の弱体化を見据えて増長し、かつての匈奴に代わる北虜と化したのであるが、各部族を懐柔して離間させ、時には、討伐させた烏丸東夷伝記事は、「東夷戦国志」と言うべきで興味深いが、それは、ここで言うものではない。

 ちなみに、陳寿は、三国志「東夷伝」序文で、長年匈奴が殷盛を極めて、漢武帝が国庫を傾ける絶大な派兵を行って、匈奴に大打撃を与えたが、却って威信を損ねた。後漢は、財貨を注いで匈奴を敗退させたと言いつつ、匈奴が衰退した後に烏丸、鮮卑、そして高句麗が勃興して、北辺の脅威は、一向に解消していないことを諷している。そのような背景のもと、明帝の「倭人」厚遇が、異例でもなければ、全くの失当でもないことを示しているのである。それは、「倭人」が賑々しく献上した「貧相」な供物によって示唆されているのである。史官の筆の冴えである。

 要するに、曹魏明帝は、帯方郡から略取した「倭人」身上書の形勢を真に承けて、「万二千里の彼方」で侵掠の可能性がなく、大軍を擁することのできる豊穣な「七万戸の超大国」と早合点したので、早々に雒陽に倭使を呼びつけ、細(ささ)やかな、されであって「倭人」として分相応の貢物に対して、蔵ざらえした下賜物を大盤振る舞いし、服属を確保したのである。あわよくば、「倭人」の大軍を動員して東夷を制圧し、長年の憂いを取り除けるかもしれないと感じたのかもしれない。
 念押しの念押しであるが、このような厚遇は、別に異例でないし、過分でもなく、明帝の粗忽は「倭人」の作為に因るものではなかったから、世上、「海老鯛」とか「朝貢貿易」とか、時代背景と地理関係をご存じない外野の見当違いのヤジなど気にしないことである。「過分」と書くのは、評者の品性が皇帝に比べて浅ましいからである。(念のため言うと、天子に比べて品性を評価されるのは、ある意味絶賛なのである)

 本項で、笛木氏は、三世紀当時の魏朝皇帝の価値観を軽蔑しているようだが、それは、公孫氏の遼東郡に於ける東夷管理体制を、後先構わずぶっ潰した「司馬懿の感性」に通じる/同様に「粗野な」ものである。
 明帝没後、少帝曹芳が同様な野心を持っていたとは、到底思えない。(司馬懿に比して粗野とは、絶賛である)現に、魏晋朝の遼東政策は早々に破綻して、朝鮮半島北部の楽浪郡旧地は、遼東郡に君臨した公孫氏の軛(くびき)を脱して台頭した東アジア最古参、「古狸」高句麗に乗っ取られるのである。

 実に、秦始皇帝が遼東郡を創設して以来の壮大な東夷管理が、司馬懿を代表とする曹魏権力者によって、おおきく退潮したのである。
 陳寿の「魏志」東夷伝執筆の底流には、明帝に始まり司馬懿に至る愚策の連鎖の陰で、当該地域に対して当事者としての見識を有していた重臣毋丘儉の挫折が偲ばれるのである。明帝が健在であれば、武骨な司馬懿は、武装解除の上で西方の任地に帰任され、毋丘儉を起用して遼東郡を恢復し、高句麗の南下を抑えつつ、「倭人」の風評を生かして、韓国の正常化を進めたと思われるのであるが、もちろん、実際は、明帝が急死した後、遼東郡の活性化は放念され、司馬懿が、少帝曹芳に拠って司馬懿の退勢を図る曹氏勢力との権力闘争に専念したため、高句麗は、卒然と南下したのである。毋丘儉は、当初、高句麗の本拠に一撃を加えたものの、後に、司馬氏の権力支配に抗して挙兵したため敗死して、以後、遼東郡が形骸化したのである。

 諸兄姉の知る通り、以後、朝鮮半島は、北部を支配して遼東半島と戦国齊の渡海路を確保した高句麗と黄海岸の馬韓を把握した百済が、漢江河口部近傍の海港、後世の唐津(タンジン)の確保を競って南北対立が展開し、遅れて百済の背後にあった広大な荒れ地であった嶺東の開発が進んで興隆した新羅が、小白山地の壁を克服して黄海岸に進出し、南北対立の間隙を突いて唐津を確保したため、三国鼎立の形成が出来上がったのであり、結果的に「倭人」に対する中国の干渉が避けられたのである。

謝辞:本小論において、佐藤鉄章「隠された邪馬台国 ついにつきとめた卑弥呼の都」(サンケイ出版 1979年5月)巻末の「三国志」巻三十烏丸・鮮卑・東夷伝 全訳文(裴松之補注の魚豢「魏略」西戎伝は除く)を参考とした。先賢の絶大な労苦に感謝する。

閑話休題
 ということで、氏の論理は、現代の高みの見物から筋が通っても、明帝没後の雒陽参上では、まるで平仄が合わないのである

                                未完

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