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2013年12月

2013年12月30日 (月)

魏志天問 9 伊都國 その3

                      2013-12-30 22:59:00
 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
 天問9は、
  「伊都國」の戸数は、正確に書かれているのではないのか
 と言うものです。

 それにしても、後に出て来る諸国と比べて、「伊都國」の戸数千餘戸は少なすぎるように思われますが、以下のように戸数記事の由来を理解すれば、辻褄が合ってきます。

 各国の戸数は、道里とともに、各国から帯方郡に資料を提出させ確認の上帯方郡への報告書に書き込んだ重要事項であり、転記による誤記は発生しにくい状況にあります。

 中国流の制度で戸数管理していたと思われる対海國、一大國、伊都國までは、ほぼ妥当な戸数が書かれていると見るとしても、以南の列国の戸数が多すぎると思われます。

 憶測するのは、これらの国々の「戸数」は、戸数でなく人数を集計したのではないかと思えるのです。各国が、戸数の意味を誤解したと考えるのが、無理の少ない誤記事情です。帯方郡側としては、はっきり、文書で指示した以上、まさか、こんな周知の事項で行き違いがあるとは、思わなかったのではないでしょうか。

 いくら、帯方郡の士官が注意深く提出資料から戸数を転記し、後に、陳壽が誤りなく魏志に反映したとしても、元々の戸数の理解が間違っていては、どうにもなりません。

 ここで、先頃「陳壽小論」を物した本論筆者の言い分を再確認させていただくと、

 天朝史官である陳壽は、東夷の現地事情を勝手に推測して、勝手に報告資料を訂正することはなく、正確に、つまり、原資料に忠実に魏志に採録するのを、最大の責務としていた、
 というものです。

 正史の編纂にあたって、原資料を改変する事は、史官として、なんとしても回避すべき曲筆に当たるのです。従って、事が史官の生死の問題を超え、国家の一大事に類する事項ににならない限り、こうした不正に手を染めないと言う確固たる信念の持ち主と考えます。

 この点は、司馬遷に先立つ春秋時代以来の史官の職業倫理であり、史官以外の「士」と異なります。

 諸賢のご意見を見ていると、陳壽が現地の地理に無知・無頓着、地名国名同定に無関心、倭國周辺海域の潮流の存在も知らない無知、倭國周辺海域の様子を悪用した旅程操作、など指摘が多岐にわたり、陳壽は、救いようのないぼんくらなのか、超人的な知性で捏造しているのか、四方から指弾している感すらあります。

 しかし、陳壽は、ある意味、偉大な凡人であり、中国各地を遊説した司馬遷とは異なり、蜀を除けば、各地の風土、風聞について限られた見聞しかなく、特に、東夷に関しては何も知らず、あくまで史官として、資料紙上の世界を書き綴っているのであり、報告者の頭上に立って、勝手に資料を書き換えることはないのです。

 閑話休題
 今回、中国からの「戸数」諮問に誤解した「落第」國の中に「奴國」が混じっています。落第したことを見ると、この國は、後漢に遣使した倭奴國とは別國なのでしょう。
 それにしても、本家の伊都國が正しく戸数を出したのに、分国の女王國が、正しく応答しなかった、伊都国が、それを是正できなかった、そのため、間違えたと言う成り行きは変でしょう。何か理由があるはずです。
 その点は、同感です。よくわからないことを割り切るのは、難しいのです。

 "No one's perfect" 「どんなものにも 欠点はある」 - 『お熱いのがお好き』 (1959) SOME LIKE IT HOT

以上

2013年12月29日 (日)

魏志天問 8 伊都國 その2

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問8は、
  「伊都國」は、山に分国を作ったのではないか、
 と言うものです。

 今回も、文字遊びに近いものであり、半分以上冗談です。

 最初から最後まで、憶測と推量でしかないのですが、海洋国家群の盟主たる伊都国も、時代の流れによって、手狭で海に面した国土から、未開地の広がる内陸に重点を移すため、南方に広がる緩やかな岡の本に分國を國造りしたのが、新たな盟主となるべき「やまいと」國ではなかったかと思うのです。

 倭人傳に先行する時期に、そのような國造りがあったと推定できます。

 本国が、「怡土國」になった後、分家も、それにならって「やま怡土國」に改名した可能性があります。

 それにしても、「怡」の字は立心偏が掠れると、「台」に似ていませんか。

以上

2013年12月28日 (土)

魏志天問 7 伊都國 その1

                              2013-12-28 22:37:00
 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問7は、
  「伊都國」は、京都ではないのか
 と言うものです。

 今回も、文字遊びに近いものであり、半分冗談です。

 世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 「伊都国」の国名の由来を考えるとき、伊の字義に倣うと、「伊都」とは、「本物の都」であり、諸国の盟主を意味する国名を自称しているものと思われます。

 ただし、倭人傳記事を読み進めると、伊都国は、盟主の地位を失っていて、ただ、伊都国の国名を保ったように見えます。

 明治維新で、千年の都 京都から東京に天皇が移動して、国の首都でなくなっても、「京都」、すなわち、帝都の名前を保っているのと同様ではないかと考えます。

 歳月を経て、首都機能をなくして数世紀を経た頃、「怡土」と改名したと思われます。

 「怡土」は楽土に近い良い佳名であり、伊都国の後の姿にふさわしい命名と思えるのです。

以上

追記 (2014/1/29)
 その後、平野雅嚝氏が、『「金印」の謎を解く』 (古田史学論集 第二巻)で、「伊都國」は、「ここぞ都」と同国の栄華を偲んで命名されたのではないかとの指摘をされていることを発見しました。

 本項は、漢字の字義に触発された私見でしたが、同感の方がいたことに意を強くした次第です。

 謝意をもって、ここに氏の先見を確認いたします。

2013年12月27日 (金)

魏志天問 6 對海國

                             2013-12-27 21:33:00

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問6は、
  「對海國」は、天国に向かった國ではないのか
 と言うものです。

 別稿で、一大國は、もともと自称「天國」ではなかったか、と勝手な発想を書きましたが、今回は、その続きです。つまり、半分冗談です。

 「對海國」の南島は、一大國に対面しています。従って、あま國(天國、つまり海國)に対する國という意味で、對海國と自称したのではないでしょうか。

 所居絕㠀、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田、食海物自活、乖船南北巿糴

 「無良田」を、「水田がない」と理解するのは、日本語感覚から来る勘違いです。本論筆者が敬愛する森浩一氏の指摘通り、中国語では「田」は田畑の両方を含むので、「耕作地」がないとの意味です。中国語に「畑」の字はないのです。知ってか知らずか、大抵の諸賢は、ここを知らぬ顔で駆け抜けていくだけです。

 ただし、「良田」は言葉の綾で、別に立派な耕作地に限るのでなく、並の耕作地、つまり「上中並」の並を言うのです。念のため。

 絕㠀に数千人と思われる人々が生活している以上、ある程度の耕作地はあったでしょうが、良田と呼べる耕作地が見あたらないという手厳しい意見です。

 多分、耕作地が手狭であったり、灌漑が不十分で水をくみ上げる必要のある段々畑などであり、食糧自給できる程度の収穫が、とうてい望めなかったと言うことでしょう。まして、帯方郡が、税として吸い上げることなど、とうてい無理とみたのでしょう。

 ただ、魏使や帯方郡使が、海の幸、山の幸の豊穣さを知らないので、こうした見方になったのもあるのでしょう。巿糴によって穀物の不足を補うにも、対価として、何か食料類、たとえば、魚介の干物のような海産物や木の実、キノコなどの山の稔りを差し出す必要があったはずです。

 思うに、對海國と一大國は、とうとうと流れ行く、青々とした「あま」に浮かぶ、緑なす兄弟国であり、南北交易においては、それぞれが、かけがえのないあまの驛となって、巿糴の流れに棹さしていたに違いないのです。

 あまくにが一支国となり、對海國の主旨が不明となった頃、対馬國に改称したのでしょう。

 いつの頃か、多分数世紀を経て、「つしま」の発音にに吸い込まれるように、対馬國、対馬(つしま)となったようにも思えます。
 それにしても、對海國は、對馬國の誤記に決まっているという「定説」は、早計の決め込みではないかと思われます。

以上

2013年12月26日 (木)

魏志天問 5 一大國

                        2013-12-26 21:30:00
 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問5は、
  「一大國」は、天國ではないか
 と言うものです。

 以下、半分冗談の話題なので、気軽に目を通してください。

 それにして、今回は、縦書きで読んで欲しいものです。

 一大國は、もともと自称「天國」ではなかったか、と勝手な発想を持っています。縦書きすれば、一目瞭然。魏志の誤記とでも言いたくなるところです。天國とは、空の天国と言うより、あま國、つまり海國の趣旨です。

 中国では、空と大地は溶け合うことなく「天地玄黄」(天は、玄(くろい)、地は、黄(きいろ))の世界であり、黄土平原上の漆黒の天は、地と隔絶した至高の存在です。これは、海洋世界の、青い「そら」と「うみ」が彼方で溶け合う世界とは、世界の見方、世界観が異なります。

 多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

 一大國は、對海國の「無良田」と比べると耕作地に恵まれていたようですから、早くから、水田耕作の恩恵を受け、海産も併せて、食料に恵まれたことから、早くから人口が増加し、それを生かして積極的な交易を行い、天國として指導的な立場に立っていたものと思います。この点は、島の占める場所の利もあり、指導が君臨に近いものになった可能性があります。

 魏使は、軍事官僚なので食料輸入のために南北に貿易したと納得していますが、食料輸入だけでは慢性赤字で貿易が維持できないのです。

 海産物やタケノコが豊富に採れるので、食料(穀類)輸入の対価として差し出せば、輸出入が均衡して、貿易が維持しやすかったでしょう。

 また、食料以外の南北の物資流通の仲介利益、あるいは、出入りする交易船の入港停船の徴収も、貿易均衡に貢献していたものと思います。これなら、長年にわたって、維持可能です。

 かくのごとく、天國は南北巿糴の要路を占めて、ある意味、頂点で君臨していた様子があるため、天國が、軍事力で他国を支配したとみる論客もあるようですが、海洋貿易国家は、周囲の諸国と平和な関係を保たなければ生きていけません。自給自足できないから、貿易に活路を求めてきたのであり、南北いずれかの側から海上封鎖でもされれば、たちまち飢えてしまうのです。食糧自給が困難で貿易立国している国が軍事行動に出るのは、長期にわたって維持できない生き方なのです。

 ところが、中国の出先である帯方郡と接触すると、あまくにを天國と書いて示す必要があり、とたんに、物議を醸したものと思われます。

 中国思想で行くと、「天」は至上の神であり、中国の皇帝は天子であるから、天國は皇帝の上に立つことになります。さすがに、それは不遜で、撲滅されかねないと言うことで、「天」を「一」と「大」に分けた一大國として討伐の窮地を逃れたのではないでしょうか。ひょっとすると、周辺国には、「天國」(あまくに)あらため、「大國」(おおくに)と称したのかも知れません。

 そして、諸兄の見解にもあるように、中国の視点から見ると、海峡の一島嶼が「一大國」と言うのも不遜であり、更なる改名をさせられたのではないでしようか。

 いつの頃か、そうした元々の意味は忘れられ、多分数世紀を経て、現地名と思われる「いき」に吸い込まれるように、字面の似た一支国から遠い連想で壱岐(いき)と変遷したようにも思えます。

 それにしても、一大國は、一支國の誤記に決まっているという「定説」は、早計の決め込みかと思われます。
以上

追記 2014年1月9日
 本件主旨に関しては、「古代に真実を求めて」 古田史学論集第十六集 所載の講演録
 愛知サマーセミナー (2012年7月15日開催) 「真実の学問とは」の質問1
 で言及されていて、古田氏から、以前から聞いている旨回答されていますが、古田氏のこれまでの論考では言及されていないように思われます。
 いわゆるFAQの類いかも知れませんが、見る限りでは特に言及していないので、折に触れ、事情に疎い「新入生」が持ち出す質問と思われます。
 とはいえ、「一大國」から連想される「一大率」は、倭國の支配構造を推定するのに影響の大きい命名と思われます。また、「一支國」と改訂している紹興本に、一段の不審を投げかけるものと思われます。吟味する価値は、あるのではないでしょうか。

 それにしても、数詞の場合に大字の「壹」でなく「一」を採用するのは当然として、大事な国名に「一」を採用することには、かねてから疑問を感じているのです。
 まして、「一支國」と改訂してしまうと、列記されている「巳支國」、「郡支國」、「支惟國」などと同様の主旨であり、陳腐になっているように感じるのです。
 本論は、素人考えを書き連ねるのが本分なので、特に追記するものです。

2013年12月25日 (水)

魏志天問 4 真珠と真硃

                       2013/12/25

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問4は、
  「又特賜汝(中略)銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤」の真珠は、真硃ではないか
 と言うものです。

 「硃」は、外では余り見かけませんが、朱の本字です。
 理由の一つは、真珠、鉛丹各五十斤と並記されていることによります。
 「それぞれ五十斤」と書いている以上、いずれも、重量で量る粉状か、微粒状のものであり、似た属性、用途のものと見るのが自然ではないかと思います。

 もう一つの理由は、先行する風俗記事で、「以硃丹塗其身體、如中國用粉也。」と書いていることによります。ここでは、硃と丹を体に塗って化粧すると併記されています。

 硃と丹と、倭人は、紅い色の化粧をしていたと言うことでしよう。
 体と言っても、見えるところのことでしょうから、顔、襟足、そして、腕と言ったところのことなのでしようか。
 成人男性は、顔に墨を入れるはずですが、かさねて硃丹の化粧をしたのでしょうか。それとも、成人女性だけ化粧なのでしょうか。

 魏帝は、倭人が紅い色の化粧をすることを知っていたのか、あるいは、倭人から上表文で所望されたのか、とにかく、この部分は、化粧品として朱と丹を下賜したもののと見るのが自然な解釈ではないかと思います。

 真硃は、天然赤色顔料辰砂であり、主成分は、硫化水銀です。
 鉛丹は、天然赤色顔料であり、主成分は、四酸化鉛です。
 余談ですが、素人考えながら、化粧品として常用すると健康被害が懸念され、女王卑弥呼が年若くして亡くなったのは、こうした高貴な化粧品を潤沢に使ったせいではないかと心配になります。いや、今さら心配してもしょうがないのですが。

 閑話休題
 真珠と真硃の違いは、実物と無縁な史官や写本工には区別のつきにくい話であり、前後して真珠が出てくるので、倭人傳編纂段階か、後世の写本段階か、いずれかの時に、訂正したように思います。
 もし、倭人傳に最初からそう誤記されていて、さすがの博覧強記の裴松之も、この取り違えは見過ごした可能性もあるように思います。
 ちなみに、倭人は潜水して貝を採ると言うことから、当時から素潜りの海女が真珠取りに従事していた可能性があり、むしろ、真珠は、海に臨んだ倭国からの献上品となるのが自然ではないかと思います。(海女説は、後に撤回。水人とあれば、まずは、男性、そして、河川漁です。)

 とはいうものの、後年壹与の献上記事のある「白珠五千」は海産真珠とみると信憑性は高いと見られるものの、採取の手間を考えると、天然真珠五千個はべらぼうであり、これはあるいは「誇張」かと思うのです。何しろ、採れた貝の全てが真珠を宿しているわけでははなく、相当貴重なはずですから。
 また、計量方法についても、百個程度なら、数を数えるのも難しくないのですが、五千個となると、目方で量るものではないかと考える次第です。「白珠五千」個と書かれていることへの疑問は募るのです。

本論の参考資料
 博士(文学)学位請求論文審査報告要旨 - 早稲田大学
市毛 勲 「日本古代朱の研究」

 上記要旨によれば、魏帝から下賜された品目にある「真珠、鉛丹各五十斤」の真珠は、真硃(大陸産辰砂)の誤記であり、福岡や佐賀の遺跡で大陸産辰砂が出土しているとのことです。
 ただし、本論は、石毛氏の発表に気付く前に、独立して到達したものです。
 後日、佐原 真「魏志倭人伝の考古学」(岩波現代文庫 学術 106)を何度目かに通読した際に、引用文献として見知ったものです。今回、幸いにも、論文要旨の形で要点を確認できたので、ここに掲示します。
 市毛氏の考察は、後に集大成されて、「朱の考古学 (増補版)」(雄山閣考古学選書 12)として刊行されています。
 入手したての走り読みですが、正始の倭答礼使が献上した「丹」は、鉛丹ではなく辰砂であろうと言うことです。倭でも、辰砂が潤澤に産出して不自由していませんという意味なのでしょうか。折角貰ったものは、その分儲けておけば良いのに、というのは現代人の世知辛さでしょうね。
 なお、古墳出土の様子から見て、倭で産する真硃(辰砂)は、おそらく、大和・阿波鉱床群の産物であろうという考察がされています。 
以上

2013年12月24日 (火)

魏志天問 3 長大

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問3は、
  「名曰卑彌呼。(中略) 年已長大。無夫婿。」の長大に、中高年の意味はないのに、どうして、女王は婆さまにされてしまうのか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)の全文テキスト検索のお世話になって、用例検索しました。

 結局、古から、「長大」には、成人になる、との意味があり、この記事が書かれた時点で卑彌呼は、成人したばかりの可能性があるということです。

 遡って、「一女子」は、15歳を過ぎた程度の少女となります。従って、女王国に早婚の風習が書かれていない以上、女王となった時は、当然未婚であり、女王となった後は、世間から遠ざけられて、配偶者を持てないと言うことになり、事情を知る陳壽は、淡々と書き進めているのです。
 後に、壹與が共立された時は、13歳で歳が足りなかったため、一女子と書けなかったと見ています。ここも、陳壽は淡々しています。
 後世の読者が、こうした事情を見過ごすのは無理のない話で、さほど年代に差がない劉宋の一流教養人である笵曄が、陳壽の筆法を読み解けいないのですから。

 色々「長大」の用例資料はありますが、事例のわかりやすいもの、接近した時代のものとして挙げたいのは、晉書の愍懷太子傳と通典の刑法事例です。

 愍懷太子 司馬遹(いつ 278年-300年)は、西晋恵帝の長子であり13歳で皇太子に立てられましたが、皇后賈后とその甥賈謐の陰謀により23歳で廃嫡殺害されました。従って、「長大」は、せいぜい20歳過ぎであることは明らかです。
 それにしても、一人息子が殺されるのを皇帝として承認したというのは、いかに愚鈍とはいえ、父親のすることではなく、無残な話です。

晋書 愍懷太子傳(「群書治要」引用)

Shinjo_choudai

 愍懷太子遹,字熙祖,惠帝長子也。謝才人所生,少而聰慧,惠帝即位,立為皇太子,年轉長大而不好學

私訳 (素人の勝手な推量です)

 愍懷太子 遹は、西晋惠帝の長子であった。母は、謝才人である。こどもの時から頭の良さを示していた。恵帝の即位に伴い皇太子に立てられた。年が長大(成人)となっても学問(儒学)嫌いであった。

Shinjo_choudai0

 晋書(早稲田大学図書館所蔵 汲古閣本)列伝によれば、「及長不好學」 長ずるに及んで学を好まず

 以下は、「通典」に載っている判例です。

 父の遺した土地を詐取された遺児が、伯父を告訴した話ですが、長大成人となって訴訟の資格が整うのを待っていたのであり、30歳過ぎるまで我慢していたとは思えないのです。ちなみに、會稽郡北部の鍾離督郵意先生は、訴えが筋の通ったものであるとして、孫並遺児の主張を認めています。

Tsutenchoudai

通典 刑法六 決斷:   

後漢鍾離意為會稽郡北部督郵。有烏程男子孫常,與弟並分居,各得田十頃。並死,歲饑,常稍稍以米粟給並妻子,輒追計直作券,沒取其田。

並兒長大,訟常。掾史議,皆曰:「孫並兒遭餓,賴常升合,長大成人*,而更爭訟,非順遜也。」 *「欽定四庫全書」収録の「通典」では、「以長成人」となっています。

私訳 (素人の勝手な推量です)

 後漢鐘離意が会稽郡北部の督郵であった時、烏程県に孫常が、弟の並とともにそれぞれ十頃の耕作地を得て住んでいた。

 孫並が死んだ後、不作の年に、孫常は、弟の妻子に多少の米穀類を与えたが、その後、直作券を操作して、孫並の耕作地を奪った。

 孫並の子は、年長ずるに及んで孫常を告訴した。掾史の議に、皆は言った。「孫並の子は、餓えた時には、孫常に穀物の世話になったのに、年長じて成人になって、ことさらに(伯父(父の兄)を)訴訟するのは、不遜ではないか」

 なお、「長大」の用例としては、「長大」が、何か大きなものとか、背の高い人、頑健な人を指している例も、そこそこ多く見られます。

 また、古田武彦氏の指摘する曹丕皇帝即位時の例のように、三十代以降の壮健な男性のこともあります。

 以上の資料を総合してみると、倭人傳記事は、通常、史料で言及されない女性のことでもあり、直接の比較は困難ですが、上記使用例を考慮すると、倭人傳記事の「長大」は、直前の文脈から陳壽の筆法を推察すると、「成人〔18歳〕となる」ことをいうのが順当な解釈と思います。

以上

 補足 2013/1/8
 当記事の内容に先行する発表記事を見つけましたので、ここにご報告します。

 邪馬台国の会 第314回講演 2012/11/25
 【日本古代史】 邪馬台国時代は庄内式土器の時代、朝日新聞の記事について、『魏志倭人伝』の長大、官名
3.『魏志倭人伝』長大(ひととなる)の意味
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku314.htm#03

 合わせて、史料原典を追加しました。史料毎に用字の差異がありますが、成人となるとの意味での「長」は共通していて、本論の論旨に影響ないものと思います。

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