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2013年12月31日 (火)

春日 熊野神社

 春日熊野神社は、倭國王墓の守りではないかと感慨があります。これは特に、根拠のない思いつきで、倭人伝の記事に直接関係するものではありません。
 
 下記参考資料は、福岡県春日市岡本町に現存する須玖・岡本遺跡(岡本遺跡)の発掘報告であり、当然、学術的な史料であって、簡単に論評できるものではないのですが、所収の発掘現場パノラマ写真(圖版第二 岡本遺跡地展望(西方より望む) )と周辺地図(圖版第三 岡本発掘地點及び附近地形圖)を見ると、一つの感慨が浮かんできます。
 なお、本史料は、参照困難と思いますので、圖版第二を下記します

 ・発掘地点の東南の方角にこんもりした岡があって、その頂上に熊野神社が安置されています。
 ・発掘地点は、古代の墓地であったようで、甕棺と副葬物が発掘され、この報告書になっています。
 現地を確認したわけでもないのに、色々言うのは僭越そのものなのですが、このようなこんもりした岡は、高貴な人の墓所にふさわしく、真上に礼拝所を設けたのが、そのままの位置で熊野神社となったという気がしてきます。
 高貴な人が亡くなったときに、墳墓を造成して盛り上げるのは、古墳時代になってから発展したものであり、それ以前は、小高い岡の頂を掘り下げ、被葬者を副葬品と共に埋葬して軽く盛り土し、岡の周辺に供え物を並べて、墓所としたのではないかと思っています。
 特に、生前に墓作りをする風習がなければ、没後に新たに工事して間に合う程度の墓所作りになっていたかと思います。特に、被葬者が、若くして亡くなった場合は、備えができていないのではないでしょうか。
 
 報告書を見ると、須玖遺跡は、低地に、それほど高貴ではない人たちの墓所を、岡の中腹には、そこそこ高貴な人たちの墓所を、それぞれ設ける階層式になっていたのではないかと想像します。
 当報告書の発掘以後、豊かな副葬品を備えた「王墓」が発掘されているようですが、ここで言う「高貴な人」は、王以上の存在を想定しています。何しろ、一番高いところに、厳重に護られて眠っているのですから。
 
 報告書によれば、報告書の発掘の以前に、岡の中腹部の崖崩れで甕棺が露出したことがあったようですが、熊野神社と鎮守の森とはその真下に眠る人たちを丁寧に護っていて、今日まで、穏やかに過ごしているものと思います。
 熊野神社は、特別な墓所を、後世の盗掘から防いでいたとも思います。
 
 ここが、定説として奴国遺跡とされていることについては、異論があるようなので避けて通ります。
 
 因みに、同様な場所として思い出すのは、倉敷市阿知の阿智神社です。海を望む小高い岡が、そう思わせるのです。
 以上の憶測が、現地の方にご迷惑をかけたら、ごめんなさい。
 
 参照資料
 「筑前須玖史前遺跡の研究
  京都帝國大学文學部考古学研究報告 第十一刷 (昭和三年から昭和五年)
    株式会社 臨川書店刊 昭和五十一年九月復刊  (原本 昭和五年発行)
 
Okamoto_kumanosha_1280
 追記
 以上の私見をまとめ上げて、数日して、「よみがえる卑弥呼」 (古田武彦 朝日文庫 1992年)の第6篇 「邪馬壹国の原点」で同様な推定が公刊されていることを知りました。
 多分、上記参考資料に触発された点で共通したものがあるのでしょうが、本論は、主張では無く、あくまで、素人の感慨をしめすものなので、特に取るに足りないものと思い、予定通り発表します。
 二番煎じは、感心しないのですが、ほぼ独力で想定した内容なので、ここに残します。
以上

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