魏志天問 2 大夫
以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
天問2は、
漢王朝以降では、大夫は、高官でなく庶民ではなかったか、
と言うものです。
自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。
「大夫」 参照資料 wikipedia、西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造―二十等爵制の研究』 他に、官位史料として原典に近いものは、劉貢父「漢官儀」です。
「自古以來」とあるのは、周王朝時代から漢王朝時代に至る期間と思われますが、魏志では、難升米等が、大夫を名乗ったと明記されています。
大夫は、周王朝時代には、政府高官の称号であったと言われています。
しかし、周王朝の官位は、秦朝によって破棄され、漢王朝は秦の爵位制度を継承していて、そこでは、最上位の列侯(徹侯)から始まる爵位制度の底辺として15歳以上男子国民である自由民庶民全てに爵位を与える民爵制度となっていたのです。
その中で、大夫は、民爵5番目の第5級に当たり、庶民爵位なのです。
庶民が爵位を得る制度は、秦の時代には、兵として参戦して軍功を上げることであったと、史記などに記されています。
概して平和の続いた漢の治世では、皇帝即位などの慶事の際に、帝国全土に布告して、大赦と併せて、全男子国民のそれまで爵位のないものは第1級爵位公士を、すでに爵位を得ていたものは、一級昇級を与えていたのです。
従って、5年に一回の昇級としても、庶民は40歳過ぎた頃には皆大夫になる理屈です。
こうした一律昇級が頻繁であった証拠に、民爵の最上級第8級公乗にある庶民が、昇級によって第9級五大夫に昇級して貴族身分になることがないよう、公乗にある庶民は、当該昇級を、近親者で低爵位の男子に譲渡するよう布告しているほどです。
従って、漢王朝で、大夫はまことにありふれたものであったことになります。
そのためか、民爵制度を廃止したと思われる魏朝以降も、単に大夫とする貴族官位は、見当たらないのです。
とすると、東夷といえども、大夫は、全権大使が名乗るべき官職ではないよう
に思えますが、故実に精通していたはずの陳壽は、倭人傳でそのような指摘を加えていないのです。
ということは、少なくとも、帯方郡及びその管轄下の東夷諸国では、漢から魏晋に到っても、周王朝時代の官職の名残が通用していたと言うことなのでしょうか。
一方、東夷は、古の遺風を維持するものであり、大夫が貴人となっていることを、中国側も、そのまま受け入れていたかと思われます。
魏が、倭国を「コロニー」化していたとの説がありますが、親魏倭王に魏制への同化を求めるとしたら、官位制度の是正は、早々に指示して来そうなものですが、どうだったのでしょうか。あるいは、「自稱」の二字に、漢の制度に従っていない東夷の自称であるとの意味を持たせたのでしょうか。
連想した疑問が湧いてきますが、「天問」からは除外しています。
参考資料
漢官儀, 巻上,中,下 / 劉貢父 [撰] 早稲田大学図書館
劉貢父「漢官儀」は、後漢朝に於ける官位、儀礼などを述べたものですが、何気なく、以下の爵位が列記されています。
1 公士 2 上造 3 簪裊 (上が馬 下は衣) 4 不更
5 大夫 6 官大夫 7 公大夫 8 公乗 ここまで庶民
ここから貴族 9 五大夫 10 左庶長
11 右庶長 12 左更 13 右更 14 中更 15 少上造
16 大上造 17 駟車庶長 18 大庶長 19 關内侯
20 徹侯 (武帝劉徹僻諱により列侯に改称)
以上
« 新顔の言い分 デジカメ動画について | トップページ | 魏志天問 3 長大 »
「歴史人物談義」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 2/2(2022.04.11)
- 新・私の本棚 古代史検証4 飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代 追記 1/2(2022.04.11)
- 私の意見 歴博展示品「後漢書東夷伝復元複製」の怪(2022.03.05)
- 私の意見 御覧「所引」出典の考察 東夷伝探し 補充(2022.05.08)
- 新・私の本棚 小畑 三秋 『前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した』(2022.01.21)
「倭人伝の散歩道稿」カテゴリの記事
- 「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 増補再掲 3/3(2022.01.15)
- 「古田史学」追想 遮りがたい水脈 1 「臺」について 増補再掲 2/3(2022.01.15)
- 私の意見 英雄たちの選択 ニッポン 古代人のこころと文明に迫る 1/17(2018.02.03)
- 魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4(2021.03.14)
- 魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4(2021.03.14)
コメント