魏志天問 3 長大
以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
天問3は、
「名曰卑彌呼。(中略) 年已長大。無夫婿。」の長大に、中高年の意味はないのに、どうして、女王は婆さまにされてしまうのか、
と言うものです。
中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)の全文テキスト検索のお世話になって、用例検索しました。
結局、古から、「長大」には、成人になる、との意味があり、この記事が書かれた時点で卑彌呼は、成人したばかりの可能性があるということです。
遡って、「一女子」は、15歳を過ぎた程度の少女となります。従って、女王国に早婚の風習が書かれていない以上、女王となった時は、当然未婚であり、女王となった後は、世間から遠ざけられて、配偶者を持てないと言うことになり、事情を知る陳壽は、淡々と書き進めているのです。
後に、壹與が共立された時は、13歳で歳が足りなかったため、一女子と書けなかったと見ています。ここも、陳壽は淡々しています。
後世の読者が、こうした事情を見過ごすのは無理のない話で、さほど年代に差がない劉宋の一流教養人である笵曄が、陳壽の筆法を読み解けいないのですから。
色々「長大」の用例資料はありますが、事例のわかりやすいもの、接近した時代のものとして挙げたいのは、晉書の愍懷太子傳と通典の刑法事例です。
愍懷太子 司馬遹(いつ 278年-300年)は、西晋恵帝の長子であり13歳で皇太子に立てられましたが、皇后賈后とその甥賈謐の陰謀により23歳で廃嫡殺害されました。従って、「長大」は、せいぜい20歳過ぎであることは明らかです。
それにしても、一人息子が殺されるのを皇帝として承認したというのは、いかに愚鈍とはいえ、父親のすることではなく、無残な話です。
晋書 愍懷太子傳(「群書治要」引用)
愍懷太子遹,字熙祖,惠帝長子也。謝才人所生,少而聰慧,惠帝即位,立為皇太子,年轉長大而不好學
私訳 (素人の勝手な推量です)
愍懷太子 遹は、西晋惠帝の長子であった。母は、謝才人である。こどもの時から頭の良さを示していた。恵帝の即位に伴い皇太子に立てられた。年が長大(成人)となっても学問(儒学)嫌いであった。
晋書(早稲田大学図書館所蔵 汲古閣本)列伝によれば、「及長不好學」 長ずるに及んで学を好まず
以下は、「通典」に載っている判例です。
父の遺した土地を詐取された遺児が、伯父を告訴した話ですが、長大成人となって訴訟の資格が整うのを待っていたのであり、30歳過ぎるまで我慢していたとは思えないのです。ちなみに、會稽郡北部の鍾離督郵意先生は、訴えが筋の通ったものであるとして、孫並遺児の主張を認めています。
通典 刑法六 決斷:
後漢鍾離意為會稽郡北部督郵。有烏程男子孫常,與弟並分居,各得田十頃。並死,歲饑,常稍稍以米粟給並妻子,輒追計直作券,沒取其田。
並兒長大,訟常。掾史議,皆曰:「孫並兒遭餓,賴常升合,長大成人*,而更爭訟,非順遜也。」 *「欽定四庫全書」収録の「通典」では、「以長成人」となっています。
私訳 (素人の勝手な推量です)
後漢鐘離意が会稽郡北部の督郵であった時、烏程県に孫常が、弟の並とともにそれぞれ十頃の耕作地を得て住んでいた。
孫並が死んだ後、不作の年に、孫常は、弟の妻子に多少の米穀類を与えたが、その後、直作券を操作して、孫並の耕作地を奪った。
孫並の子は、年長ずるに及んで孫常を告訴した。掾史の議に、皆は言った。「孫並の子は、餓えた時には、孫常に穀物の世話になったのに、年長じて成人になって、ことさらに(伯父(父の兄)を)訴訟するのは、不遜ではないか」
なお、「長大」の用例としては、「長大」が、何か大きなものとか、背の高い人、頑健な人を指している例も、そこそこ多く見られます。
また、古田武彦氏の指摘する曹丕皇帝即位時の例のように、三十代以降の壮健な男性のこともあります。
以上の資料を総合してみると、倭人傳記事は、通常、史料で言及されない女性のことでもあり、直接の比較は困難ですが、上記使用例を考慮すると、倭人傳記事の「長大」は、直前の文脈から陳壽の筆法を推察すると、「成人〔18歳〕となる」ことをいうのが順当な解釈と思います。
以上
補足 2013/1/8
当記事の内容に先行する発表記事を見つけましたので、ここにご報告します。
邪馬台国の会 第314回講演 2012/11/25
【日本古代史】 邪馬台国時代は庄内式土器の時代、朝日新聞の記事について、『魏志倭人伝』の長大、官名
3.『魏志倭人伝』長大(ひととなる)の意味
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku314.htm#03
合わせて、史料原典を追加しました。史料毎に用字の差異がありますが、成人となるとの意味での「長」は共通していて、本論の論旨に影響ないものと思います。
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