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2014年1月

2014年1月31日 (金)

資料紹介 蓬莱軒地理学双書 外夷傳地理攷證 其の1

 ここに資料紹介する理由は、追々読み取っていただけるとして、まずは、著者を紹介します。
 
 丁謙(1843年-1919年),字益甫。
 浙江省仁和県(現浙江省杭州市の一部)の人。
 中国清朝末期から民国草創期の地理學者です。
 同治四年(1865年) 科挙に合格。
 光緒七年(1881年) 湯渓県(現浙江省金華市の一部)で教職に就くが、程なく、象山県(現浙江省寧波市の一部)に転勤し、以後二十余年、象山県で教職に勤めました。
 清仏戦争(1884年-1885年)の際に、海防振興の功により五品位を与えられました。
 後に、処州府(現浙江省麗水市等を管轄)教授に昇格したが、老齢を理由に辞退し、赴任せず、以後、自宅で地理學の研究を進めました。
 民国八年(1919年)死去。享年七十六歳。終生、浙江省の市井の文化人であったと言えます。
 著書として、「蓬莱軒地理学双書」が残されています。
 
人物及び著作 短評
 若くして科挙に合格し、秀才であったと思われますが、官吏の道を選ばず、教育者となった者であり、今回参照した著作から見ても、穏健な教養人と思われます。
 「蓬莱軒地理学双書」は、まず「外夷傳地理攷證として、正史外夷傳の記事に対して、二十世紀初頭の地理学から見た考証を行ったものです。
 おそらく、地理考証に当たっては、各正史、類書等の豊富な史料は当然として、執筆時は、日本の明治時代後半であるので、日本の地理考証に際しては、古くは日本書紀、続日本紀等日本から提供の史書に加えて、最新の日本地図を含むアジア諸国地図など、現代に近い地理資料をも豊富に参照して著述したものと思われる。
 
清仏戦争(中国語 中法戦争)
 ベトナム南部を勢力下に収めたフランスが、ベトナム北部にまで勢力を拡大するために、この地域に対する中国の宗主権の克服を図った戦争と思われます。
 ベトナム及び中国南部の陸戦以外に、フランスは、初期の海戦で清国福建艦隊を壊滅させた優勢な海軍力で、基隆など台湾港湾を攻撃しています。
 講和の結果、フランスは、ベトナム全土を勢力下に取り込み、清国は、インドシナ諸国に対して面目を失ったものです。フランスは、引き続き、カンボジア、ラオスを取り込んだのです。
 
 清朝末期の外国勢力との角逐は、本資料編纂の時代背景として意味があるのですが、対英戦争や義和団の乱(庚子事変)ほど著名ではないようなので、ここに紹介したものです。
 
 ただし、丁謙自身は、あくまで市井の教育家、かつ地理学者であり、本資料は、過剰な愛国心や中華思想を示していないと見えます。
 
追記
 本史料は、早稲田大学図書館のデータベースを利用させていただいて発見、利用したものであるので、ここに謝意を示します。
 
 ついでなので、全二集の内容を下記転記紹介します。
1集: (正史類)
 漢書匈奴伝地理攷証巻上,下. 漢書西南夷両粤朝鮮伝地理攷証. 漢書西域伝地理攷証
 後漢書東夷列伝地理攷証. 後漢書南蛮西南夷列伝地理攷証
 後漢書西羌伝地理攷証. 後漢書西域伝地理攷証
 後漢書南匈奴伝地理攷証. 後漢書烏桓鮮卑伝地理攷証
 三国志烏丸鮮卑東夷伝 附魚豢魏略西戎伝地理攷証
 晋書四夷伝地理攷証. 宋書夷貊伝地理攷証. 南斉書夷貊伝地理攷証
 梁書夷貊伝地理攷証.魏書外国伝地理攷証. 魏書西域伝地理攷証
 魏書外国伝補地理攷証. 周書異域伝地理攷証. 隋書四夷伝地理攷証.
 新唐書突厥伝地理攷証. 新唐書吐蕃伝地理攷証. 新唐書回鶻等国伝地理攷証
 新唐書沙陀伝地理攷証. 新唐書北狄列伝地理攷証. 新唐書東夷列伝地理攷証
 新唐書南蛮列伝地理攷証. 新旧唐書西域伝地理攷証
 新五代史四夷附録地理攷証. 宋史外国伝地理攷証. 遼史各外国地理攷証
 金史外国伝地理攷証. 元史外夷伝地理攷証、明史外国伝地理攷証
 明史西域伝地理攷証.
 
2集: (非正史 - 旅行記類)
 穆天子伝地理攷証巻1-6. 中国人種従来攷. 穆天子伝紀日干支表
 晋釈法顕仏国記地理攷証. 後魏宋雲西域求経地理攷証
 大唐西域記地理攷証. 大唐西域記地理攷証附録. 印度風俗総記
 唐杜環経行記地理攷証. 元耶律楚材西游録地理攷証 / 盛如梓刪畧
 元秘史地理攷証巻1-15. 元秘史作者人名攷. 元太祖成吉思汗編年大事紀
 附元初漠北大勢. 附元史特薛禅伝地理攷証節録. 附元史曷思麦里伝地理攷証節録
 附元史速不台伝地理攷証節録. 附元史郭宝玉徳海侃伝地理攷証節録
 弁元史郭侃伝之虚偽不足拠. 元聖武親征録地理攷証
 元経世大典図地理攷証巻1-3. 元史地理志西北地附録
 元張参議耀卿紀行地理攷証. 元長春真人西游記地理攷証 / 李志常述
 元劉郁西使記地理攷証. 図理琛異域録地理攷証
 
 第二集には、中国史上に名を連ねる探検記、旅行記が並んでいますが、清朝時代の著作として、満洲旗人トゥリシェンTulišen(図理琛)のロシア旅行記『異域録』(1723年出版)の地理考証が残されています。
 使節団の一員として、中央アジアの紛争地域を迂回し、北回りのシベリア経由で、はるかヴォルガ流域まで派遣された際の旅行記ですが、旅程は足かけ4年に及び法顕、玄奘には及ばないものの、出色の一大探検記になっていると言う世評です。(小論筆者は、上記考証共々 未見)
それにしても、滿文で書かれた原文をそのまま読んだのか、漢文翻訳で読んだのか。清朝時代の知識人に独特の疑問がわいてきます。
 
以上

2014年1月 4日 (土)

魏志天問 11 紹熙本

                       2014年1月 4日 (土) 
 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問11は、
  三國志「紹熙本」は、なぜ、どのように刊行されたか
 と言うものです。

 素人考えでは、以下のように思っているのですが、筋が通らない憶測なのでしょうか。 

 前回、字数を費やして、南宋の歴史背景をなぞったのは、紹興本が国家的事業として刊行されたのに、紹熙本が成立した背景を探るためです。
 紹熙年間が開始する際には、ちょっとしたドラマがありました。
 当時の南宋第三代光宗が、突如として、病弱を理由に強引に廃位され、第四代寧宗即位、慶元改元というドタバタ騒ぎがありました。そのため、紹熙年間はわずか5年間であり、紹熙年間の刊行として版を起こして刷り始めたのに、刊行は慶元年間になってしまった可能性があります。舞台裏のお話としては面白いのですが、本筋の話ではないので、脇に取りのけて「紹熙本」で話を進めます。

 とりあえず、古田武彦氏によると、三國志「紹熙本」には、北宋刊本の牒(の写し)が添付されていて、北宋刊本の(善本の)復刻を示していると言うことですが、本論筆者は、確認できていないのですが、牒添付が事実に反するという発表もないことから、お説に従うことにします。(2014/1/7 追記: 『「邪馬台国」はなかった』 ミネルヴァ書房 2010年1月 107ページ図版にて確認しました。) なお、微妙な表現ながら、牒が、草書系の筆写(達筆)であったことが示唆されていて、紹凞本の底本が咸平刊本そのものではないと示唆されているようにも見えますが、氏の本意は、遂に不明です。

 南宋の三國志再刊事業は、一旦、紹興本刊行によって使命を完遂したのですが、半世紀ほどの間をおいて、紹熙本が編纂刊行されていて、ここでは、その理由を、素人考えで推測しているのです。

 端的に言うと、一度、入手不可能とあきらめた咸平本善本(程度の良い刊本、ないしは、良質写本)が手に入ったので、これを底本として、あえて紹熙本を刊行したと見るのが、順当ではないでしょうか。
 と言うか、他にもっともらしい理由が見つからないのです。

 紹興本の編纂時に入手できなかった咸平本善本が、五十年余りを経て入手できた理由は、いくつか推測(憶測)できます。(文献証拠がないので言い立ててみるだけです)
 背景として考えられるのは、宋金和平の結果、金が持ち去った宮廷文物の中で、金として、特に珍重していない正史刊本の返還があったのかも知れません。当然、代償をたっぷり取ったことでしょうが。ただし、そのような記録は見かけませんので証拠無しですが。

 あるいは、金領にある旧地方官蔵書から、密かに高価で買い取ったのかも知れません。

 あるいは、北宋末の戦火の及ばなかった蜀地(現在の四川省)あたりから提出されたのかも知れません。ここまで、宋金関係は不安定で、直前に金軍侵入もあったので、現地の愛書家が秘蔵していた可能性があります。

 と言うような空想が当たっているかどうかは別として、おそらく、時点としては南宋第2代孝宗(1162-1189)治世下、南宋史官の手元に、咸平本善本が届いたのでしょう。

 紹興本編纂刊行後、半世紀を経て、三國志咸平本を手にした史官は、その内容を、多分数年にわたって吟味した上で、ついに、多分苦渋の決断を下して、紹興本を踏み越える新版を刊行することに決めたのでしょう。かくして、三國志紹熙本が編纂され、刊行されたのでしょう。
 正史刊刻に起用すべき官営工房でない民間工房を起用した「坊刻」となったのは、民間工房が急速に発達して、正史刊刻に起用するにたる力量と所要費用の低廉化をもたらしたので、非正規の事業として実現したものではないでしょうか。
 南宋が創業時に、金に奪われた青銅祭器の補充として、古来、官営工房「尚方」に秘蔵されていた青磁技術を民間に開示して、短期間に祭器を整備したことから青磁が普及したように、刊刻の技術も、その際に民間に開放されたように思えます。当然、西方に拘束されていた、技術者が、民間に転出したわけですから、技術移転が急速に進んだのでしょう。

 このようにして坊刻によって刊行されたと思われる紹熙本は、咸平本を正確になぞることを第一義にしたものであり、従って、その時点で、最も咸平原本に近く維持されていたものと見るのが合理的です。そして、当時の編纂者の叡智を信ずるなら、紹興本は「脇に押しやる」べきものと考えます。

 ただし、紹興本が、紹熙本と比較して原本に忠実でなく、紹熙本刊行後は脇に押しやられるべきであると明記すると、南宋創業の高宗皇帝を誹謗することになるので、紹熙本編者は、咸平本の牒を添付することで示唆するにとどめたものと考えます。

 因みに、慶元年間が終わると、今度は、南宋が、金領に侵入し、国土回復の戦いを挑んで敗北するという大事件があり、一旦和平を取り戻したものの、今度は、金の背後からモンゴルが侵入し、長く続く大混乱の時代につながるのです。

 と言うことで、折角、北伐、失地回復の大望を抱いたのに、宋による全土再統一はならなかったのです。その果て、モンゴルの侵攻を受けて、金だけでなく、南宋も滅び、中国全土が、異民族異文化の支配下に入ります。

 中国の著名な古典書籍が、中国で失われ、日本で所蔵されている例が散見される大きな要因は、このような大規模な戦乱と回復の繰り返しで、貴重な書籍が戦火の中に失われていったからです。

 紹興本、紹熙本といえども、全巻揃って継承されていないことは、周知の事情です。紹凞本の刊本が、中国全土にも、ごく稀少であり、宮内庁書陵局所蔵の紹凞本刊本が、最善の資料とされていることは、承知の方が多いと思います。

以上

2014年1月 3日 (金)

魏志天問 10 紹興本

 以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。

 天問10は、
  三國志「紹興本」は、なぜ、どのようにして刊行されたか
 と言うものです。

 素人考えでは、以下のように思っているのですが、筋が通らない憶測なのでしょうか。 

 南宋時代に、中国史上初めて、本(書籍)の出版(木版)事業が本格化したのには、歴史的背景があります。

 長く続いた唐王朝が大規模な内乱で、中原が荒廃したあげくに、滅んだ後、分裂時代がしばらく続き、960年に建国した宋が全土統一したのです。

 宋は、武より文を優先し、文化経済を重視した文治の国であり、新しく帝都とした現在の開封を中心に150年間にわたって繁栄しました。繁栄の成果の一端として、製紙技術の発明以来700年近くたって、潤沢で低価格となった「紙」と手工業の発展による印刷業の確立を受けて、木版による出版が実用化に到ったのです。

 それまで、熟練写本工が長時間を費やして営々と写本していたものが、木版さえ起こせば、手工業的な運用とはいえ大量に書籍出版できることになり、哲学書、仏典を初め、各種高貴書の出版が始まりかけたのです。

 しかし、このように繁栄した宋も、北方異民族との抗争で一方的に不利な立場に陥り、1125年には金軍による首都包囲、陥落で亡国しました。

 現皇帝、前皇帝、を初めとして、継承権のある皇族全員の拉致、宮廷文物・宝物の持ち去り、など、宋帝国が土台ごと失われる事態となったのです。

 継承権のある皇族の一名が辛うじて南遷して生き延び、引き続く、江南への金軍侵入で、全土を制圧されかねない危機があり、これを辛うじて凌いで北方に押し戻し、1127年江南の地で南宋を構築したものです。

 かくして、中国は、またもや広範囲で国土が荒廃し、国家の基盤が損壊した後、ようやく政治体制の復興を達成したのが、南宋紹興年間と思われます。と言うものの、金との抗争は、30年に及んだ紹興年間を通じて外患となり、国内政治の不安定さと相まって、王朝としての威光は振るわなかったもののようです。

 一方、民間を見ると、幸い、宋の盛時も、経済のかなりの部分が、長江(揚子江)と大運河の水運を生かして江南に展開されていたので、古来中原と呼んで中華の核心であった長安、洛陽、開封の新旧帝都を失っても、江南だけで活発な文化経済活動を進められたのです。

 ここまで、字数を費やして、南宋の歴史背景をなぞったのは、紹興本の成立の背景と限界を探るためです。

 三國志再刊事業は、江南の地に宋を再興した高宗(1127-1162)が、国威発揚のために、全力を尽くした国家再建事業の一つであったと思います。

 北宋刊本「咸平本」(1002-1003)は、印刷刊行されたとはいえ少数部数であり、その大半は、中原各地に散在所蔵されていたと思われます。従って、これら咸平本刊本は、開封から持ち去られた宮廷書庫の蔵書刊本と共に、南宋の手の届かないものになっていたのでしょう。

 従って、復刻しようにも、刊本全巻が揃わず、少なからぬ欠落部は、不本意ながら、良質の写本で補ったと思われるのです。そのような努力の果てに、その時点で最善と思われる三國志紹興本が刊行されたと思われます。

 三國志は、古来、貴重書と位置づけられて、特に丁寧に写本継承されていて、北宋咸平本の版刻出版に際しては、念入りに、存在する各種写本の相互確認をしたはずです。そして、紹興本は、その時点で、最も咸平本に近く、従って、最も原本に近く維持されていたものと見るのが順当な見方ではないでしようか。

以上

2014年1月 2日 (木)

わが中つ国

 今回は、倭人傳そのものの質問ではありません。だから、魏志天問としては番外です。

 この天問は、
  中国は 「中つ国」の意味だったのではないのか
 と言うものです。

 「中国」は、中華国家のことを話すのではないのです。わが国の中国地方のことです。

 ふと思ったのですが、この地域を中国と呼ぶのは、現地の古代国家の名残ではないかと言うことです。
 国内で言えば「中国」は、九州と近畿の「途中の国」ですが、元々の意味は、国の中心部「中つ国」のことです。ご本家は、長安から洛陽にかけての中原が華夏文明の中核であり、世界の中心に座して周辺の非文明地帯に恩恵を及ぼしているという意味だっと考えています。

 そうすると、わが中国も、そこに存在した主権国家が、そう自称したためにそう呼ばれたのではないでしょうか。
 具体的には、例えば「備」の政権が、ある時期に興隆して、周辺を切り従えたのではないかと思います。

 まずは、東の河内から大和にかけての群雄を制覇し、次いで、西の筑紫の諸国を制覇し、さらには、北の韓半島制圧に手を伸ばしたらしいということです。

 三國志から言うと後年のことですが、倭武の上表文は、宋書に収録されているだけでなく、太平御覧、通典、通志に引用されています。(通志では「六十一國」になっていますが)
 <宋書> 「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
 <御覧> 「東征毛人五十五國、西服眾夷六十六國、陵平海北九十五國
 <通典> 「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
 <通志> 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十一國、陵平海北九十五國

 さきほどの推定は、当該政権が劉宋に上表した上記「名文」に基づくものです。
 さすがに、超大国である中国に向かって、自分の国を「中つ国」とは言っていませんが、本家の「四夷」に対して、東西に「二夷」を想定し、征伐し服従させるという流れには、自前の中華思想が感じ取れます。
    •  「征」とは、天子が赴いて正義により悪を正す、というものです。
    •  「服」とは、臣下が天子の居所に詣でて貢献する制度を布くことを言うものです。
    •  「平」とは、天子が天下を平らげることを言うものです。
       「天下太平」と言う成語が、天命の元に世界を太(広)く平らげる天子の行為に起源するように、衆夷を平らげるのは「征」に近い意義を持つものです。
 上表した倭國王は中国天子からの命を受けておらず、倭國王自身が天命を得て行ったたという自負心が示唆されているものと思います。
 いずれも、よくよく見ると不遜に近い物言いなのですが、劉宋は、こうした言い立ては、東夷の言い分であるからと寛容だったのでしょう。

 かくして、倭國の首長は、東晋及び劉宋に続く南朝諸朝から封建を受けて倭王となり、中国の正朔を奉じて、国内の元号、暦制、官位、典礼などの国家体制を整備したものと思われます。その際には、膨大な文書資料を整えたものと見られますが、残念ながら、後世には、そうした文物は残されていないように思われます。

 いかんせん、東西両面(首鼠)の敵どころか、海北まで拡大した領域を統治するために、限られた有能な人材を消費して急速に政権基盤が脆弱になり、両夷の再興を抑えきれなくなったものと思われます。

 いずれにしろ、覇権国家としての「中国」は滅んで、国内記録に形跡をとどず、「中国」の地名だけが残ったように見えるのです。
 もちろん、この件に関しては、資料の裏付けも何もないので、以上は、断片的な発想を連ねた、単なる思いつきの言い放題と言うことになります。

以上

 

2014年1月 1日 (水)

まほろば随想

 これは、単なる感想であって論説ではないので、言い切った文になっていても、全てが、根拠のない思いつきです。

 「やまとはくにのまほろば」という言葉が残っていて、聞いたものに、何となく、安らぎの念を引き起こすように思う。

 川端康成の筆がその言葉を書き出している控えめな石碑がひっそりとたたずんでいる場所がある。奈良県桜井市の檜原神社下手に当たる場所である。

 西向きの斜面にうがたれた上から二つ目の溜め池の 山よりの土手を走る通路の西側路肩に位置しているので、石碑を見下ろした視線を上げると、西方の彼方に金剛山系の山並みが走り、その途中に特徴のある二上山の姿が見える。
 山並みから視線を戻すと、右手の灌木の奥にこんもりと木立に覆われた丘陵が見えるが、これは、箸墓と呼ばれる著名な古墳である。
 季節によって、日没の位置と時刻が異なるが、初詣時節の一月上旬に訪れることが多い。つまり、夕映えは、まだ宵としては早い17時頃ないしはそれ以前と云うことになる。

Hibara_yamato2011
 (2011年1月10日 撮影 画像処理 by toyourday (c)2013)

 とはいえ、夕映えの時にここに立つと、感慨がある。
 三輪山に連なる檜原神社下から国見すると、左手の木立越しに大和三山も垣間見え、背は低いが緑豊かな山並みに護られて、まことに静謐、平穏である。

 遙かなる往時を思うと、遙か西方の動乱から逃避したと思える先達が、この地を終の棲家としたいたようである。その姿は、まるで、海を恐れるように、内陸に沈み、好んで、堅く閉じた貝のように逼塞したとも見える。
 その行動は、まだ見ぬ異国にまほろばを求めた流亡の旅人たちのものであり、優しきもの達と見える。

 そのような旅人たちに、盛大な隊伍と血なまぐさい戦いは似合わない。伝承は、あくまで伝承である。
 時代を経て、亡命者の末裔は、まほろばの楽土を離れ、静謐を脱ぎ捨ててひたすら勢威を求める武きもの達になったように見える。

 道なき山河を越えて四方僻遠を制覇し、荒海もものともせずに四海を伐鎮め、天下をひろく平らげた。それは、歴史の示す吐露である。

 それでも、武きもの達にとって、静謐に沈んでいる故郷が、心のよりどころだったのだろうか。
 それとも、武きもの達と優しきもの達が、共に住まっていたのだろうか。時には、一つの体の中に二つの心があったのだろうか。

 墓所の営みについても、感じるところがある。まほろばの地にこんもり設けられた墓所は、優しきもの達の思いを感じさせられるが、二上山の彼方の峨々たる墓所は、勢威の発揚であって、同じもの達の行いと思えないものがある。
 少し下ったホケノ山古墳から、金剛山系への日没を眺めるとこんな感じである。箸墓ができる前、そこには小高い岡があって、こんな眺めだったのではないか。

20130107narahashinaka001_1280
 (2013年1月7日 撮影 画像処理 by toyourday (c)2013)

 とはいえ、形となって残った、目に見えるものが、歴史を綴るのである。秘められたもの、単なる思いは形がないので残らない。歴史として綴られない。天に問いかけても、地に訊ねても、答えはない。

 冬の日の夕暮れ、時の風を感じるのである。
 追記:
 それぞれの写真は、一発撮りきり無処理の「写真」ではなく、パノラマつなぎや画像処理を加えて、何とか、人前に出せるところまで仕立て上げた「光畫」です。
 と言うことで、当ブログ筆者の「著作物」ですので、無断盗用などされませんように。

以上

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