資料紹介 蓬莱軒地理学双書 外夷傳地理攷證 其の1
ここに資料紹介する理由は、追々読み取っていただけるとして、まずは、著者を紹介します。
丁謙(1843年-1919年),字益甫。
浙江省仁和県(現浙江省杭州市の一部)の人。
中国清朝末期から民国草創期の地理學者です。
同治四年(1865年) 科挙に合格。
光緒七年(1881年) 湯渓県(現浙江省金華市の一部)で教職に就くが、程なく、象山県(現浙江省寧波市の一部)に転勤し、以後二十余年、象山県で教職に勤めました。
清仏戦争(1884年-1885年)の際に、海防振興の功により五品位を与えられました。
後に、処州府(現浙江省麗水市等を管轄)教授に昇格したが、老齢を理由に辞退し、赴任せず、以後、自宅で地理學の研究を進めました。
民国八年(1919年)死去。享年七十六歳。終生、浙江省の市井の文化人であったと言えます。
著書として、「蓬莱軒地理学双書」が残されています。
人物及び著作 短評
若くして科挙に合格し、秀才であったと思われますが、官吏の道を選ばず、教育者となった者であり、今回参照した著作から見ても、穏健な教養人と思われます。
「蓬莱軒地理学双書」は、まず「外夷傳地理攷證として、正史外夷傳の記事に対して、二十世紀初頭の地理学から見た考証を行ったものです。
おそらく、地理考証に当たっては、各正史、類書等の豊富な史料は当然として、執筆時は、日本の明治時代後半であるので、日本の地理考証に際しては、古くは日本書紀、続日本紀等日本から提供の史書に加えて、最新の日本地図を含むアジア諸国地図など、現代に近い地理資料をも豊富に参照して著述したものと思われる。
清仏戦争(中国語 中法戦争)
ベトナム南部を勢力下に収めたフランスが、ベトナム北部にまで勢力を拡大するために、この地域に対する中国の宗主権の克服を図った戦争と思われます。
ベトナム及び中国南部の陸戦以外に、フランスは、初期の海戦で清国福建艦隊を壊滅させた優勢な海軍力で、基隆など台湾港湾を攻撃しています。
講和の結果、フランスは、ベトナム全土を勢力下に取り込み、清国は、インドシナ諸国に対して面目を失ったものです。フランスは、引き続き、カンボジア、ラオスを取り込んだのです。
清朝末期の外国勢力との角逐は、本資料編纂の時代背景として意味があるのですが、対英戦争や義和団の乱(庚子事変)ほど著名ではないようなので、ここに紹介したものです。
ただし、丁謙自身は、あくまで市井の教育家、かつ地理学者であり、本資料は、過剰な愛国心や中華思想を示していないと見えます。
追記
本史料は、早稲田大学図書館のデータベースを利用させていただいて発見、利用したものであるので、ここに謝意を示します。
ついでなので、全二集の内容を下記転記紹介します。
1集: (正史類)
漢書匈奴伝地理攷証巻上,下. 漢書西南夷両粤朝鮮伝地理攷証. 漢書西域伝地理攷証
後漢書東夷列伝地理攷証. 後漢書南蛮西南夷列伝地理攷証
後漢書西羌伝地理攷証. 後漢書西域伝地理攷証
後漢書南匈奴伝地理攷証. 後漢書烏桓鮮卑伝地理攷証
三国志烏丸鮮卑東夷伝 附魚豢魏略西戎伝地理攷証
晋書四夷伝地理攷証. 宋書夷貊伝地理攷証. 南斉書夷貊伝地理攷証
梁書夷貊伝地理攷証.魏書外国伝地理攷証. 魏書西域伝地理攷証
魏書外国伝補地理攷証. 周書異域伝地理攷証. 隋書四夷伝地理攷証.
新唐書突厥伝地理攷証. 新唐書吐蕃伝地理攷証. 新唐書回鶻等国伝地理攷証
新唐書沙陀伝地理攷証. 新唐書北狄列伝地理攷証. 新唐書東夷列伝地理攷証
新唐書南蛮列伝地理攷証. 新旧唐書西域伝地理攷証
新五代史四夷附録地理攷証. 宋史外国伝地理攷証. 遼史各外国地理攷証
金史外国伝地理攷証. 元史外夷伝地理攷証、明史外国伝地理攷証
明史西域伝地理攷証.
2集: (非正史 - 旅行記類)
穆天子伝地理攷証巻1-6. 中国人種従来攷. 穆天子伝紀日干支表
晋釈法顕仏国記地理攷証. 後魏宋雲西域求経地理攷証
大唐西域記地理攷証. 大唐西域記地理攷証附録. 印度風俗総記
唐杜環経行記地理攷証. 元耶律楚材西游録地理攷証 / 盛如梓刪畧
元秘史地理攷証巻1-15. 元秘史作者人名攷. 元太祖成吉思汗編年大事紀
附元初漠北大勢. 附元史特薛禅伝地理攷証節録. 附元史曷思麦里伝地理攷証節録
附元史速不台伝地理攷証節録. 附元史郭宝玉徳海侃伝地理攷証節録
弁元史郭侃伝之虚偽不足拠. 元聖武親征録地理攷証
元経世大典図地理攷証巻1-3. 元史地理志西北地附録
元張参議耀卿紀行地理攷証. 元長春真人西游記地理攷証 / 李志常述
元劉郁西使記地理攷証. 図理琛異域録地理攷証
第二集には、中国史上に名を連ねる探検記、旅行記が並んでいますが、清朝時代の著作として、満洲旗人トゥリシェンTulišen(図理琛)のロシア旅行記『異域録』(1723年出版)の地理考証が残されています。
使節団の一員として、中央アジアの紛争地域を迂回し、北回りのシベリア経由で、はるかヴォルガ流域まで派遣された際の旅行記ですが、旅程は足かけ4年に及び法顕、玄奘には及ばないものの、出色の一大探検記になっていると言う世評です。(小論筆者は、上記考証共々 未見)
それにしても、滿文で書かれた原文をそのまま読んだのか、漢文翻訳で読んだのか。清朝時代の知識人に独特の疑問がわいてきます。
以上