まほろば随想
これは、単なる感想であって論説ではないので、言い切った文になっていても、全てが、根拠のない思いつきです。
「やまとはくにのまほろば」という言葉が残っていて、聞いたものに、何となく、安らぎの念を引き起こすように思う。
川端康成の筆がその言葉を書き出している控えめな石碑がひっそりとたたずんでいる場所がある。奈良県桜井市の檜原神社下手に当たる場所である。
西向きの斜面にうがたれた上から二つ目の溜め池の 山よりの土手を走る通路の西側路肩に位置しているので、石碑を見下ろした視線を上げると、西方の彼方に金剛山系の山並みが走り、その途中に特徴のある二上山の姿が見える。
山並みから視線を戻すと、右手の灌木の奥にこんもりと木立に覆われた丘陵が見えるが、これは、箸墓と呼ばれる著名な古墳である。
季節によって、日没の位置と時刻が異なるが、初詣時節の一月上旬に訪れることが多い。つまり、夕映えは、まだ宵としては早い17時頃ないしはそれ以前と云うことになる。
(2011年1月10日 撮影 画像処理 by toyourday (c)2013)
とはいえ、夕映えの時にここに立つと、感慨がある。
三輪山に連なる檜原神社下から国見すると、左手の木立越しに大和三山も垣間見え、背は低いが緑豊かな山並みに護られて、まことに静謐、平穏である。
遙かなる往時を思うと、遙か西方の動乱から逃避したと思える先達が、この地を終の棲家としたいたようである。その姿は、まるで、海を恐れるように、内陸に沈み、好んで、堅く閉じた貝のように逼塞したとも見える。
その行動は、まだ見ぬ異国にまほろばを求めた流亡の旅人たちのものであり、優しきもの達と見える。
そのような旅人たちに、盛大な隊伍と血なまぐさい戦いは似合わない。伝承は、あくまで伝承である。
時代を経て、亡命者の末裔は、まほろばの楽土を離れ、静謐を脱ぎ捨ててひたすら勢威を求める武きもの達になったように見える。
道なき山河を越えて四方僻遠を制覇し、荒海もものともせずに四海を伐鎮め、天下をひろく平らげた。それは、歴史の示す吐露である。
それでも、武きもの達にとって、静謐に沈んでいる故郷が、心のよりどころだったのだろうか。
それとも、武きもの達と優しきもの達が、共に住まっていたのだろうか。時には、一つの体の中に二つの心があったのだろうか。
墓所の営みについても、感じるところがある。まほろばの地にこんもり設けられた墓所は、優しきもの達の思いを感じさせられるが、二上山の彼方の峨々たる墓所は、勢威の発揚であって、同じもの達の行いと思えないものがある。
少し下ったホケノ山古墳から、金剛山系への日没を眺めるとこんな感じである。箸墓ができる前、そこには小高い岡があって、こんな眺めだったのではないか。
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