魏志天問 11 紹熙本
2014年1月 4日 (土)
以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
以下の記事は、魏志倭人傳に関する素人考えの疑問を並べていくものです。
天問11は、
三國志「紹熙本」は、なぜ、どのように刊行されたか
と言うものです。
素人考えでは、以下のように思っているのですが、筋が通らない憶測なのでしょうか。
前回、字数を費やして、南宋の歴史背景をなぞったのは、紹興本が国家的事業として刊行されたのに、紹熙本が成立した背景を探るためです。
紹熙年間が開始する際には、ちょっとしたドラマがありました。
当時の南宋第三代光宗が、突如として、病弱を理由に強引に廃位され、第四代寧宗即位、慶元改元というドタバタ騒ぎがありました。そのため、紹熙年間はわずか5年間であり、紹熙年間の刊行として版を起こして刷り始めたのに、刊行は慶元年間になってしまった可能性があります。舞台裏のお話としては面白いのですが、本筋の話ではないので、脇に取りのけて「紹熙本」で話を進めます。
当時の南宋第三代光宗が、突如として、病弱を理由に強引に廃位され、第四代寧宗即位、慶元改元というドタバタ騒ぎがありました。そのため、紹熙年間はわずか5年間であり、紹熙年間の刊行として版を起こして刷り始めたのに、刊行は慶元年間になってしまった可能性があります。舞台裏のお話としては面白いのですが、本筋の話ではないので、脇に取りのけて「紹熙本」で話を進めます。
とりあえず、古田武彦氏によると、三國志「紹熙本」には、北宋刊本の牒(の写し)が添付されていて、北宋刊本の(善本の)復刻を示していると言うことですが、本論筆者は、確認できていないのですが、牒添付が事実に反するという発表もないことから、お説に従うことにします。(2014/1/7 追記: 『「邪馬台国」はなかった』 ミネルヴァ書房 2010年1月 107ページ図版にて確認しました。) なお、微妙な表現ながら、牒が、草書系の筆写(達筆)であったことが示唆されていて、紹凞本の底本が咸平刊本そのものではないと示唆されているようにも見えますが、氏の本意は、遂に不明です。
南宋の三國志再刊事業は、一旦、紹興本刊行によって使命を完遂したのですが、半世紀ほどの間をおいて、紹熙本が編纂刊行されていて、ここでは、その理由を、素人考えで推測しているのです。
端的に言うと、一度、入手不可能とあきらめた咸平本善本(程度の良い刊本、ないしは、良質写本)が手に入ったので、これを底本として、あえて紹熙本を刊行したと見るのが、順当ではないでしょうか。
と言うか、他にもっともらしい理由が見つからないのです。
紹興本の編纂時に入手できなかった咸平本善本が、五十年余りを経て入手できた理由は、いくつか推測(憶測)できます。(文献証拠がないので言い立ててみるだけです)
背景として考えられるのは、宋金和平の結果、金が持ち去った宮廷文物の中で、金として、特に珍重していない正史刊本の返還があったのかも知れません。当然、代償をたっぷり取ったことでしょうが。ただし、そのような記録は見かけませんので証拠無しですが。
あるいは、金領にある旧地方官蔵書から、密かに高価で買い取ったのかも知れません。
あるいは、北宋末の戦火の及ばなかった蜀地(現在の四川省)あたりから提出されたのかも知れません。ここまで、宋金関係は不安定で、直前に金軍侵入もあったので、現地の愛書家が秘蔵していた可能性があります。
と言うような空想が当たっているかどうかは別として、おそらく、時点としては南宋第2代孝宗(1162-1189)治世下、南宋史官の手元に、咸平本善本が届いたのでしょう。
紹興本編纂刊行後、半世紀を経て、三國志咸平本を手にした史官は、その内容を、多分数年にわたって吟味した上で、ついに、多分苦渋の決断を下して、紹興本を踏み越える新版を刊行することに決めたのでしょう。かくして、三國志紹熙本が編纂され、刊行されたのでしょう。
正史刊刻に起用すべき官営工房でない民間工房を起用した「坊刻」となったのは、民間工房が急速に発達して、正史刊刻に起用するにたる力量と所要費用の低廉化をもたらしたので、非正規の事業として実現したものではないでしょうか。
南宋が創業時に、金に奪われた青銅祭器の補充として、古来、官営工房「尚方」に秘蔵されていた青磁技術を民間に開示して、短期間に祭器を整備したことから青磁が普及したように、刊刻の技術も、その際に民間に開放されたように思えます。当然、西方に拘束されていた、技術者が、民間に転出したわけですから、技術移転が急速に進んだのでしょう。
このようにして坊刻によって刊行されたと思われる紹熙本は、咸平本を正確になぞることを第一義にしたものであり、従って、その時点で、最も咸平原本に近く維持されていたものと見るのが合理的です。そして、当時の編纂者の叡智を信ずるなら、紹興本は「脇に押しやる」べきものと考えます。
このようにして坊刻によって刊行されたと思われる紹熙本は、咸平本を正確になぞることを第一義にしたものであり、従って、その時点で、最も咸平原本に近く維持されていたものと見るのが合理的です。そして、当時の編纂者の叡智を信ずるなら、紹興本は「脇に押しやる」べきものと考えます。
ただし、紹興本が、紹熙本と比較して原本に忠実でなく、紹熙本刊行後は脇に押しやられるべきであると明記すると、南宋創業の高宗皇帝を誹謗することになるので、紹熙本編者は、咸平本の牒を添付することで示唆するにとどめたものと考えます。
因みに、慶元年間が終わると、今度は、南宋が、金領に侵入し、国土回復の戦いを挑んで敗北するという大事件があり、一旦和平を取り戻したものの、今度は、金の背後からモンゴルが侵入し、長く続く大混乱の時代につながるのです。
と言うことで、折角、北伐、失地回復の大望を抱いたのに、宋による全土再統一はならなかったのです。その果て、モンゴルの侵攻を受けて、金だけでなく、南宋も滅び、中国全土が、異民族異文化の支配下に入ります。
中国の著名な古典書籍が、中国で失われ、日本で所蔵されている例が散見される大きな要因は、このような大規模な戦乱と回復の繰り返しで、貴重な書籍が戦火の中に失われていったからです。
紹興本、紹熙本といえども、全巻揃って継承されていないことは、周知の事情です。紹凞本の刊本が、中国全土にも、ごく稀少であり、宮内庁書陵局所蔵の紹凞本刊本が、最善の資料とされていることは、承知の方が多いと思います。
以上
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