資料紹介 唐會要 其の2 短評と記事紹介
唐會要記事については、以下の短評を記すのににとどめます。
「倭國」は、冒頭に、「在新羅東南」と書かれているので、九州に存在していたことが明記されているものと考えます。後漢書同様の筆致であり、同書の地理志記事から判断して、九州北部が有力となります。
「日本國」は、冒頭に、倭國の別種と書かれているので、少なくとも、二つの政権が区別されて書かれていることは明らかです。
いずれの記事も、飛ばし読みの時に、最低限 目にとまって欲しいことが頭書されているので、「と書いたが、実は..」というどんでん返しはないものです。
日本國記事では、引き続いて国名由来と移行経緯について、解釈が併記されています。つまり、遅くとも両国記事編纂時点では、倭國が消滅して、日本國が存在していることが示されています。
さて、第一の解釈では、先記されている倭國に対して、東の方角、日の出る方向にあるので「日本」と名乗ったと書かれています。この解釈で云えば、九州北部地域の東方に当たる中国から近畿の地域が最有力となります。
付け足しの解釈では、倭國が、自國名の字面が悪いので、「日本」と解明したと書かれています。あるいは、「日本」は、小国であったものが、倭國を併呑したと書かれています。
このように色々書かれているのは、編纂者には、倭國がどうして日本國になったか、筋の通った説明を見いだせなかったので、元々あった記録をできるだけ、そのまま採用するようにしたものと思われます。
とはいうものの、結論無しの紹介記事なので、最初に紹介された解釈が最有力であり、また、この解釈は、最後に紹介された解釈と融合できるので、順当な読み方として書かれているものと考えます。
推測ですが、中国側が、そのような自然な解釈を示したのに対して、日本使節が頑として同意しなかったので、このように併記されたものと見たいところです。
一部論者は、唐會要の両国記事は、倭國と日本國が、同一政権ないしは政権系列の時系列上の改名との見解を公開していますが、実際は、錯綜の観を避けることなく、併記のままであり、当記事の論旨をそのように明解に解釈するのは無理なように思います。
また、政書の性格上、正史の記事を校勘する際に厳密な史料として利用できないのと相まって、早合点することなく慎重に取り扱うことが必要です。
因みに、倭國記事の建中元年項の蠒(メイ)は、銘仙のようなきめ細かい絹布のようです。倭国使節は、中国人が見たこともないような滑らかな紙に書翰を記していたと云うことです。
おそらく、これは、中国で古来王侯の使用していた帛書と呼ばれる書記用絹布を再現していたのでしょう。紙の実用化以来一千年近くたって、高貴な帛書は、使用する習慣もなく、帛書の実物も地上から消滅して久しいので、王溥のような教養豊かな、宰相職の高官にも、見当が付かなくなっていたのでしょう。
以下は、添付した影印本の記事を文字起こししたものです。
その際、最善の注意と努力をはらいましたが、脱落、誤字等が存在しないことを保証するものではないので、添付した影印版を確認の上、ご利用いただきたいのです。
倭國 (第九十九巻)
古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。
世與中國通。其王姓阿每氏。設官十二等。俗有文字。敬佛法。
椎髻無冠帶。隋煬帝賜衣冠。令以錦綵為冠飾。衣服之制頗類新羅。腰佩金花長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。
貞觀十五年十一月使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。
表仁浮海。數月方至。(注 自雲路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也)
表仁無綏遠之才。與王爭禮、不宣朝命而還。由是復絕。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。
高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅數為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
倭國東海嶼中野人有。耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
亦頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者云海中湧出。
咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。
則天時、自言其國近日所出。故號日本國。
蓋惡其名不雅而改之。
大歷十二年。遣大使朝楫寧、副使總達來朝貢。
建中元年。又遣大使真人興能判官調楫志自明州路。奉表獻方物。真人興能盡其官名也。風調甚高善。書翰其本國紙似蠒緊滑、人莫能名。
貞元十五年。其国有二百人浮海至揚州市易還。
永貞元年十二月。遣使真人遠誠等來朝貢。
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。


日本國 (第百巻)
倭國之別種。
以其國在日邊、故以日本國為名。
或以倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云日本舊小國、吞併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對。故中國疑焉。
長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝、貢方物。
朝臣真人者、猶中國戶部尚書。冠進德冠。其頂為花、分而四散。身服紫袍。以帛為腰帶。
好讀經史、解屬文。容止温雅。則天宴之、授司善卿而還。
開元初。又遣使來朝。因請士授經。
詔四門助教趙元默、就鴻臚教之。乃遺元默濶幅布。以為束脩之禮。題云白龜元年調布。
人亦疑其偽為題。所得賜賚。盡市史籍。泛海而還。
其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去。改姓名為朝衡。歷仕左補闕、終右常侍安南都護。
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