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2014年1月 2日 (木)

わが中つ国

 今回は、倭人傳そのものの質問ではありません。だから、魏志天問としては番外です。

 この天問は、
  中国は 「中つ国」の意味だったのではないのか
 と言うものです。

 「中国」は、中華国家のことを話すのではないのです。わが国の中国地方のことです。

 ふと思ったのですが、この地域を中国と呼ぶのは、現地の古代国家の名残ではないかと言うことです。
 国内で言えば「中国」は、九州と近畿の「途中の国」ですが、元々の意味は、国の中心部「中つ国」のことです。ご本家は、長安から洛陽にかけての中原が華夏文明の中核であり、世界の中心に座して周辺の非文明地帯に恩恵を及ぼしているという意味だっと考えています。

 そうすると、わが中国も、そこに存在した主権国家が、そう自称したためにそう呼ばれたのではないでしょうか。
 具体的には、例えば「備」の政権が、ある時期に興隆して、周辺を切り従えたのではないかと思います。

 まずは、東の河内から大和にかけての群雄を制覇し、次いで、西の筑紫の諸国を制覇し、さらには、北の韓半島制圧に手を伸ばしたらしいということです。

 三國志から言うと後年のことですが、倭武の上表文は、宋書に収録されているだけでなく、太平御覧、通典、通志に引用されています。(通志では「六十一國」になっていますが)
 <宋書> 「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
 <御覧> 「東征毛人五十五國、西服眾夷六十六國、陵平海北九十五國
 <通典> 「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
 <通志> 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十一國、陵平海北九十五國

 さきほどの推定は、当該政権が劉宋に上表した上記「名文」に基づくものです。
 さすがに、超大国である中国に向かって、自分の国を「中つ国」とは言っていませんが、本家の「四夷」に対して、東西に「二夷」を想定し、征伐し服従させるという流れには、自前の中華思想が感じ取れます。
    •  「征」とは、天子が赴いて正義により悪を正す、というものです。
    •  「服」とは、臣下が天子の居所に詣でて貢献する制度を布くことを言うものです。
    •  「平」とは、天子が天下を平らげることを言うものです。
       「天下太平」と言う成語が、天命の元に世界を太(広)く平らげる天子の行為に起源するように、衆夷を平らげるのは「征」に近い意義を持つものです。
 上表した倭國王は中国天子からの命を受けておらず、倭國王自身が天命を得て行ったたという自負心が示唆されているものと思います。
 いずれも、よくよく見ると不遜に近い物言いなのですが、劉宋は、こうした言い立ては、東夷の言い分であるからと寛容だったのでしょう。

 かくして、倭國の首長は、東晋及び劉宋に続く南朝諸朝から封建を受けて倭王となり、中国の正朔を奉じて、国内の元号、暦制、官位、典礼などの国家体制を整備したものと思われます。その際には、膨大な文書資料を整えたものと見られますが、残念ながら、後世には、そうした文物は残されていないように思われます。

 いかんせん、東西両面(首鼠)の敵どころか、海北まで拡大した領域を統治するために、限られた有能な人材を消費して急速に政権基盤が脆弱になり、両夷の再興を抑えきれなくなったものと思われます。

 いずれにしろ、覇権国家としての「中国」は滅んで、国内記録に形跡をとどず、「中国」の地名だけが残ったように見えるのです。
 もちろん、この件に関しては、資料の裏付けも何もないので、以上は、断片的な発想を連ねた、単なる思いつきの言い放題と言うことになります。

以上

 

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