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2014年2月

2014年2月 5日 (水)

資料紹介 蓬莱軒 外夷傳地理攷證 其の5 隋唐宋遼元明

 いや、ここも、資料紹介だけです。

 なお、今回の資料も、早稲田大学図書館の蔵書公開を利用させていただいています。
 
 
地理考証 隋書四夷傳
 
Chirizui1
 
Chirizui2
 
Chirizui3
 
地理考証 新唐書東夷列傳
 
Chiritoh1
 
Chiritoh2
 
Chiritoh3
 
地理考証 宋史外国傳
 
Chirinsoh
 
地理考証 遼史各外国
 
Chirinryo
 
地理考証 元史外夷傳
 
Chirigen1
 
Chirigen2
 
Chirigen3
 
地理考証 明史各外国傳
 
Chiriming1
 
Chiriming2
 
Chiriming3
 
以上

2014年2月 4日 (火)

資料紹介 蓬莱軒 外夷傳地理攷證 其の4 晋宋齊梁

 いや、ここからは、資料紹介だけで、読み下しも私見も無しです。

 
 一つには、以下の宋書の記事に対する丁謙の考証が、「地理考証」を越えて、大変手厳しい非難になっていることもあります。
 古来、倭人は、大海を隔てた海中にあり、内紛はあるものの、韓半島に干渉することなど無く、国内で慎ましく暮らしていたのに、南朝宋(劉宋)に対して、「別人」の様に、貪欲ともいえる領土欲を示して、名目的とはいえ、韓半島諸国の支配権を要求したことに驚くと共に、中国が、大略それを認めたような対応をしたことが、愛国心をそそったようです。
 つまり、丁謙の後半生で、日本が朝鮮に干渉して中国の宗主権を剥奪し、ついには、日本に併合してしまった生々しい経緯が、宋書の記述によって喚起され、激しい非難になったようです。穏健と評したのは、早計だったようです。
 とはいえ、晋以降の史書の記載は、当方の範囲外でもあり、容易に見定められないものになっているので、ここでは、資料提供のみにとどめます。
 
 なお、今回の資料も、早稲田大学図書館の蔵書公開を利用させていただいています。
浙江図書館叢書. 1-2集 / 丁謙 [撰]
 
地理考証 晋書四夷傳
 
Chirishin1
 
地理考証 宋書夷貊傳
 
Chirisoh1
 
Chirisoh2
 
Chirisoh3
 
地理考証 南齊書夷貊傳
 
Chirisei1
 
地理考証 梁書東貊傳
 
Chiriryo1
Chiriryo2
Chiriryo3
以上

2014年2月 2日 (日)

資料紹介 蓬莱軒 外夷傳地理攷證 其の3 三國志魏書 烏丸諸傳

考証対象の地理記事
 倭人在帶方東南。大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
 始度一海、千餘里至對馬國。所居絕島、方可四百餘里、有千餘戶、無良田、食海物自活。
 又南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一支國。方可三百里。有三千許家。差有田地、猶不足食。
 又渡一海、千餘里至末盧國。有四千餘戶。濱山海居、好捕魚鰒、皆沈水取之。
 東南陸行五百里、到伊都國。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。
 東南至奴國。百里。有二萬餘戶。
 東行至不彌國。百里。有千餘家。
 南至投馬國。水行二十日。可五萬餘戶。
 南至邪馬壹國。女王之所都。水行十日、陸行一月。可七萬餘戶。
 自女王國以北、有斯馬國、有已百支國、有伊邪國、有都支國、有彌奴國、有好古都國、有不呼國、有姐奴國、有對蘇國、有蘇奴國、有呼邑國、有華奴蘇奴國、有鬼國、有爲吾國、有鬼奴國、有邪馬國、有躬臣國、有巴厘國、有支惟國、有烏奴國、有奴國、此女王境界所盡。
 其南有拘奴國、男子爲王、不屬女王。
 倭地溫暖、冬夏皆食生菜。性嗜酒。其人壽考、或百年、或八九十年。
 國大人皆四五婦、下戶或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少争訟。
 往年、倭亂、攻伐歷年、乃共立一女子爲王。名卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年長大。無夫婿。有男弟佐治國。
 倭地、絕在海中洲島上、或絕或連、周旋可五千餘里。
 景初二年、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣朝獻。太守劉夏遣送京都。優詔厚賜之。
 正始元年、太守弓遵遣校尉梯俊等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物。倭王因遣使表謝。
 四年、倭王又來朝獻。
 八年、女王死、更立男王、國中不服、更相誅殺。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。

丁謙考証 私訳
 倭人卽日本。其國史言、神武天皇始建都於大和之橿原。因號大和。倭卽和之轉音。
  倭人は、日本である。その国史によれば、神武天皇は、始めて大和の橿原に都を建てたので、大和と号したのであり、倭は、和の音が転じたものという。
 帶方郡居朝鮮東境故、往倭國、須泛海循東岸行。乍南乍東者、先南行轉而東行狗邪國。
  帯方郡は、朝鮮東境に接しているので、倭國に行くには、東岸に従って航行しなければならない。乍南乍東とは、まず南に行き、次いで、東に転じて狗耶国に行くことを言う。
 見上弁辰傳、蓋卽今慶尚道極南金海郡地。明史所謂釜山是也。
  弁辰傳を見ると、蓋、則ち今の慶尚道の極南が金海郡であり、明史で言う釜山である。
 海道既轉而東、此國卻當北岸由此南渡大洋至對馬島。又南至一支島。分註 日本人稱壱岐。
  海道を東に転じていて、此の國は北岸となっているので、南に大洋を渡って対馬島に至る。また南して一支島に至る。(注 日本人は壱岐と称する)
 又南乃入日本西海道境末羅國。濱山海居、當卽今佐世保海口地。
  また、南に進むと、日本西海道の末羅国に入る。濱山海居とあるが、これは、今の佐世保港に当たる。
 伊都国據日本國志、天明四年、筑前那珂郡人掘地得巨室中藏蛇紐金印。一文曰、漢委奴國王。
  伊都国は、日本國志によれば、天明四年に筑前国那珂郡の人が地を掘り巨室中に蔵されていた蛇紐金印を得た。一文によると、漢委奴國王とある。
 彼國学者攷、那珂郡古爲怡土縣卽魏志所謂伊都國也。
  彼の国の学者が証するところによれば、那珂郡は古くは怡土県であり、魏志の言う伊都国であるという。
 上古分置國造、其有百三十餘國。在九州者十九、在四海者十。
  上古國造を分置して、百三十余国であったという。その内、九州内は十九,その周辺海域は十であった。
 漢書地理志、倭人分爲百餘國。三國志倭人舊邑百餘國、譯使所通三十國。
  漢書の地理志では、倭人は分かれて百余国を為すという。三国志は、倭人は以前百余国であったが、今、訳使して通じるところ三十国と云っている。
 二書所謂百餘國與國造本記同。所謂三十國與九州四海國數亦略同。
  二書の云う百余国は、國造本紀と同じである。所謂三十国は、九州四海国数とほぼ同じである。
 其地均在日本西南、距朝鮮最近。是委奴國卽指伊都縣主非王室也。
  その地は、なべて日本の西南に有り、朝鮮との距離が最も近い。委奴國は、伊都県主で有り、王室ではない。
 本傳言、伊都國世有王、皆統屬於女王國與。
  本傳は、伊都国に世王有り、皆女王國に於いて統属するという。
 漢書言委奴國倭國極南界。
  後漢書は、委奴國は、倭國の極南界であるという。
 又云、大倭王居邪馬臺国。邪馬臺卽大和之譯音、謂倭奴非。其王室、此語不誣。
  又、大倭王は邪馬臺国にいると言う。邪馬臺は大和の訳音であり、倭奴ではない。その王室は、この語に関して嘘を言っていない。
 至傳中所列諸国、雖難確指今爲何地、要不外九州四國二島閒也。
  傳中に列記された諸国がどこにあったか確定するのは困難であるが、九州、四国の二島内でなければならない。

考証短評
 すでに後漢書が、丁謙考証に曝されているので、後出の三国志は、重複指摘を免れています。
 つまり、「倭人在帶方東南」、「倭人は帯方東南にある」と言うことは、三国志で書かれている倭國は九州島である、という指摘が事実上書かれていると言うことです。
 また、卑彌呼に関する記事は引用されていないものの、神功皇后比定と卑弥呼関連記事が整合しないことは、後漢書考証との重複を避けているだけであり、同断と見るべきです。
 その代わり、後半で、後漢書と三国志と日本國志が比較検証されているものと思われます。
 その結果、本傳の女王國の国名は、「邪馬臺国」となっています。
 これは、後漢書(「邪馬台国」)に従って校訂されたか、それとも、邪馬臺国と書かれている三国志刊本を参照したのかと言うことですが、清朝末期の時点で、邪馬臺国と書かれている三国志刊本は存在しなかったと言うことなので、目前の三国志の記事を、後漢書と日本國志の権威に従って原文校訂したものと思われます。
 とはいうものの、異同が問題となることの多い「景初遣使」は「景初二年」と書かれていて、卑彌呼の宗女は「壹與」です。
 なお、會稽東治か會稽東冶かの議論は、ここでは該当部分が引用されていないので、丁謙の見解は不明ですが、後漢書の考証では、不満はあるものの會稽東冶としています。
 このように、丁謙のように、地理学について豊富な知識と教養を有し、また、史料の取り扱いに慎重な編纂者であっても、確たる根拠があると判断した場合は、引用文を校訂した上で考証を進めると言うことでしょう。
 後代史や政書である類書や通史の編纂でも、同様に表記が史書間で揺らいでいる場合は、校勘の上、妥当と判断した語句を採用されているものと思われます。
 ここでも、道里、方位については、論評も校訂もしていないのです。つまり、丁謙は、短里道里で書かれていることに納得していると言うことです。
Chirisangoku1
Chirisangoku2_2
Chirisangoku3

 

 

 

 

 

以上

2014年2月 1日 (土)

資料紹介 蓬莱軒 外夷傳地理攷證 其の2 後漢書東夷列傳

考証対象の地理記事
 倭在韓東南。大海中、依山島爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。
 大倭王居邪馬台國。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近。土宜五穀。氣温煗。冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。
 男皆黥面文身。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。大人皆有四五妻、女人不淫不妒、風俗不盜竊、少爭訟。
 建武二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭之極南界也。
 桓靈閒倭國大亂、歴年無主。有女子、名卑彌呼、事鬼神道、㠯妖惑衆、於是共立爲王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人、給衣食、傳辭語、居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞、法俗嚴峻。
 國東度海千餘里、至拘奴國。南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺。又東南船行一年、至裸國・黒齒國。
 會稽海外有東鯷人、分二十餘國。
 又有夷洲及澶洲、傳言、秦始皇遣方士徐福、將童男女數千入海、求蓬莱神仙不得。畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家、時至會稽市。
 
丁謙考証 私訳
 倭卽日本國地、實在三韓東北。在東南者薩摩島一隅。
  倭は、日本国であり、実際は、三韓の東北に位置している。東南に位置しているのは薩摩島一隅である。
 而已其云、在會稽東冶東、與朱崖儋耳相近、殊屬臆測。
  又、會稽東冶の東に在る、朱崖儋耳と相近し、と言うが、憶測である。
 會稽今江浙地、東冶今福建地、朱崖儋耳今廣東瓊州地。諸處與日本方位均不相應。
  會稽は、今の浙江省であり、東冶は今の福建省である。朱崖儋耳は、今の廣東省瓊州府である。それぞれから見た日本の方位はなべて不相応である。
 攷日本國志、神武天皇始定都大和之橿原。大和國屬南海道、橿原今葛上郡之柏原邨。
  日本國志によれば、神武天皇は大和の橿原に始めて都を定めた。大和國は南海道に属し、橿原は今の葛上郡柏原村である。
 邪馬台国卽倭音之大和也。倭奴係其西南屬國。
  邪馬台国は、倭の発音で大和であり、倭奴はその西南屬國である。
 據日本志、卽筑前國怡土郡地今尚存有委奴國王金印。
  日本志によると、今も筑前國怡土郡に、委奴國王金印が存するという。
 卑彌呼攷神功皇后氣長足姫。其夫仲哀天皇薨后遂摂政時、漢獻帝建安五年。凡六十九年卒。其子應神始得嗣位、傳中国。
  卑弥呼は、神功皇后氣長足姫と証される。其の夫仲哀天皇が薨じた後、摂政となったのは、後漢献帝建安五年である。六十九歳で卒した。其の子應神が始めて嗣位を得、中国に伝えた。
 大亂歴年無主及㠯妖惑衆等語、皆傳聞之誤。
  大乱歴年主無し、よく妖しく衆を惑わす、等は、皆傳聞の誤りである。
 狗奴国卽北海道鰕夷島。
  狗奴国は、北海道鰕夷島である。
 裸與黒齒今南洋島夷形狀皆然。以地在熱帶故以裸。日食檳榔故歯黑。
  裸と黒齒は、今の南洋島夷と形状が皆同じで、現地は熱帯であるため裸であり、いつも、檳榔を囓っているので歯が黒い。
 朱儒國據西書、印度東南有安達曼島。其土番、身度不滿四尺爲世界人種中最短小者。
  朱儒國は、西洋書籍によれば印度東南アンダマン島である。原住民は、身長四尺に満たず、世界で最も背の低い人種である。
 東鯷似卽琉球至。
  東鯷は、琉球に似ている。
 日本史載孝美天皇時、秦人徐福攜童男女三千人來居熊野浦。熊野浦在太和南紀伊國境。則夷州澶州卽此地矣。
  日本史は、孝美天皇の時、秦人徐福が男女三千人の子供を連れて熊野浦に来住したと載せている。熊野浦は、太和の南、紀伊との國境にある。夷州澶州とは、此の地のことであろう。

考証短評
 後漢書倭国記事は、笵曄畢生の名文ですが、地理考証にかかると、さんざんです。
 冒頭の記述で、「倭在韓東南、「倭國は三韓起点で東南方にある」としているが、それは、薩摩島、つまり九州島のことである、と言い切っています。
 後漢書は、後漢朝の視点で書いているので、笵曄は、史官ないしは正史の編纂者として、何らかの後漢朝公式資料でこのような地理観を得ていたということになりますが、どうでしょうか。いえ、丁謙は、何もそのような不審を示しているわけではなく、短評者の私見なのですが。
 また、無造作に會稽東冶と書いていることに対し、これは、會稽と東冶の二地点を列記している書き方だが、會稽と東冶は、南北に遠く離れていると見ています。
 さらに引き合いに出している朱崖儋耳は、さらに遙かに南であると指摘しています。
 突き合わせた上で、三地点が南北に大きく離れているので、日本の方角を参照するには、不適当である、と断じています。
 會稽は、丁謙の地元であり、有名な国際港である寧波は、日本へ往来に常用される港であったので、土地勘のある丁謙にすれば、なぜ、すぐ東方にある日本の位置を示すのに、遙か南方の東冶や朱崖儋耳を引き合いに出すのか、奇異に感じているのです。
 また、日本の史書は神功皇后が卑弥呼だと云うが、神功皇后の(壮年で夫を亡くした子持ちの未亡人であり、最後は嫡子に譲位した)事歴と当てはまらないのは自明であり、これでは其の言い分を信じがたいと嘆いています。
 狗奴国、裸國、黒齒國、朱儒國は、当否は別として、明快に比定されています。
 又、徐福渡来記事は、史実として扱っています。
 ここでは、熊野を夷州澶州に比定しているので、呉の徴兵船は、数世紀を経て数万家の国邑に発展し、時に會稽に寄港している徐福集団を求めて、はるか熊野に航海したことになります。呉書によれば、徴兵船は、現地に到着したものの、徴兵の成果を得られぬまま帰国したことになっているので、史実としては、熊野の徐福集団は、実在していたように書かれています。
 なお、ここで見落としてはならないのは、地理考証といいながら、道里(樂浪郡徼去其國萬二千里)について論評も校訂もしていないことです。
 つまり、現代の精緻な地図を参照しうる清朝末期の地理考証家が、後漢書外夷傳記事では、韓地を含めて短里で書かれていることに納得していると言うことです。
Chirigokanjo1
Chirigokanjo2
以上

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