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2014年4月21日 (月)

01. 笵曄暮影 - 上書きされた正史

 陳壽の編纂した三國志で、烏丸東夷傳は、魏書の一大眼目であり、その掉尾を飾る倭人傳は、陳壽の史官として畢生の偉業と思います。
 二千文字といえども、全巻に占める意義は高いのです。

 当ブログで、後漢書編纂者笵曄に対して点が辛いのは、魏志倭人記事を引き写す際に、忠実な抜粋でなく、あれこれ粉飾潤色して自身の文筆の勲功にし、先人である陳壽の面目を踏みつけたことにあります。

 特に、後漢書東夷列伝に、かなりの部分が魏朝事績である倭人記事を取り込んで、後漢書埒外の記事を書いたことが胡散臭いのです。本来、後漢朝記事は、安帝への貢獻で終わりです。また、後漢朝には倭國風物に関する知識は特に無く、魏志ないしは原典資料を引き写したと見られます。
 とは言え、史官の功業を求めた笵曄が、あえて、先人の記事を改変するのは、何の根拠もないものとは考えられないのです。

 してみると、何かの理由があって、笵曄は、魏志の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤伝と確信したのでしょう。理由が書き残されていない以上、憶測するしかないのですが、写本誤写の可能性が無視できないなどと言う不合理な理由でなく、具体的物証、おそらくは、倭國王からの遣使の際の上表ではなかったかと思われます。

 遠路遣使して、挨拶状も手土産もないのはあり得ないので、倭國使は三國志に記載された倭國の正当な後継者であることを上表したことまでは、確実な推定と思います。
 その際に、東夷が自己申告した内容は、中国史官が一次資料として尊重し、魏志倭人傳記事を、後代校勘して「読み替える」のは当然の成り行きと思われたのでしょう。
 正史には、そのような倭國使上表文は記録されていないのですが、隋唐朝は、敵対していた江南五朝の功績を書き残したくなかったで、そのような記事は極力差し控えたのでしょう。

 ちなみに、笵曄は、魏志の引き写しを離れて「其大倭王居邪馬臺國」としていますが、國王名を、順当な「邪馬臺國」王や「倭國王」でなく、「大倭王」と美称にしているのに不審を感じるのです。中国は東夷の王を敬称では呼ばないので、「大倭王」は、自稱が反映されたのでしょうか。
 それが、魏志の引き写し部分で「倭」、「倭奴國」、「倭國」、「倭國王」、「女王國」と書き綴られた後漢・曹魏時代の呼称でないことから、もやもやと推測が働きます。

 全て、状況を眺めただけの意見ですが、二世紀以上後代の東晋劉宋貢献時の上表文での「大倭王」の後代自稱と「邪馬臺國」という後代國名とが、「時間錯誤」して填め込まれたものではないか、というのが、この場での私論です。

 素人の後知恵ですが、范曄が見たところ、全国支配の大「倭王」とその出自の「小国」の「倭王」が存在していて紛らわしかったので、「大」を冠したのでしょうか。ここは、范曄が余りに寡黙で、その真意がわかりません。

 倭人傳の上に、笵曄の長い影が投げかけられたまま、千七百年近い年月が流れています。

以上

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