07. 世有王 - 読み過ごされた「伊都」改題増補
2014/04/27 増補 2023/01/28
「世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐」
伊都國は、戸数千余戸と書かれているように、決して大国でないのに、代々王を出して指導的立場を保持していたのは、金属製武器で武装した強兵を有し、周辺諸国から公租を取り立てる権力を保持していたものとも見受けられます。いずれにしろ、公務員や常備軍兵士は、農耕に従事てきないし、大体、俸給(粟)を払っていて、税を取り立てるのも無意味なので、ここに書いた戸数は、農地を割り当てられて、農事に励んでいた家族に過ぎないのです。大抵の場合、国王居処聚落の住民は免税なのです。当然、徴兵も労務も、無意味ですから、免除されます。
ともあれ、口数不明、成人男子の人数不明、戸籍無し、ということは、中国の土地制度/戸籍制度などの文書行政制度で動いていなかったということです。戸籍に必須の大量の用紙も、筆墨もなかったと言う事でしょう。戸籍台帳無しに、人口が分かるはずは無いのです。人口を集計する計数官吏が多数いないと、戸籍台帳の集計ができないのです。野蛮人の社会には、「鶏も卵も無い」のです。
伊都國の威勢が衰えたとすれば、それは、時代の進展と共に、内陸交通網が整備され、多数の武装兵で構成された遠征軍の長駆派遣が可能となったことによるものと思われます。
交通路が整備されると、平坦で耕作地に恵まれ、多数の壮丁を抱えた新興国の国力が増進し、それが人口増に結実し、曽ての交易大国が、その足下に屈するときが来たのではないかと思われます。
それでも、「伊都國」の名称を保っていたので、傍目には「みやこ」、つまり、とても大きな邑のように見えたことでしょう。
*道里行程記事の結末 2023/01/28
先回りして盗み見すると、当記事の結末は、以下の記事とわかります。
自女王國以北、特置一大率、檢察(諸國)、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
對海國から女王國に至る主行程五ヵ国を、ここでは「自女王國以北」と明記していて、これら主要列国は、伊都国に常駐している「一大率」なる「刺史」の監督下にあると明記し、なおかつ、魏、帯方郡、韓国などとの「外交」通信は、伊都国起点で行うと明記しているので、ますます、伊都国が、実質的な国家元首であったと明記していることになります。
倭に来訪した郡使が伊都国に常駐したのは、伊都国王が実質的な倭王として、帯方郡に服属していたと言う事でしょう。当然、郡使を歓待する施設「帯方館」が整っていたわけであり、そこには通詞も常駐したのです。そのようなことができたのは、伊都国が地域の経済活動の中心であって、元首である国王が代々「法と秩序」の元、諸国を指導していたものと見えます。恐らく、公孫氏時代のことかと見えますが、関連資料は、遼東苦戦の壊滅とともに破壊されたようです。
因みに、郡使の滞在先を「鴻廬館」とか「客館」と命名すると、郡使を蕃夷と遇する倒錯の事態になるので、慎重に言葉を選んでいるのです。まして、女王の居処を「所都」などと呼ぶと、郡使を見下す倨傲極まる事態になるので、そのような罰当たりな言葉が、「倭人伝」記事に登場するはずが無いのです。伊都国王は、中国から多くを学んでいたのです。
*誤写の検証~一大率の由来
因みに、「檢察(諸國)、諸國畏憚之」とあるのは、刊本間で記事が相違しているという意味であり、 原文の「檢察諸國諸國畏憚之」 が、刊本の前段の北宋刊本以来の写本の継承で、二字熟語「諸國」のくり返しを略号で書いていたのが、見落とされていたと思われるのです。
古田武彦氏は、紹熙本の刊本原本が達筆な草書の写本ではなかったかと示唆されていますが、この誤写はその際の復元謬りと見えます。
*「一大率」の由来
ただし、別にある「檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗」の壹與壹與のくり返しは正しく復元されています。つまり、この際の「壹與」は、複数の編集者による慎重な校正で正しく書き戻されたのであり、その際の誤写の可能性は極めて低くなっているものと推定します。北宋刊本以前でも、写本の際には、特に注目したと思われ、誤写の可能性は、特に低くなっているものと推定します。
ついでながら、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」は、物々しい名乗りですが、漢字の十分通じない倭では、「一大率」(倭大率)と略称していたのではないかという咄嗟の「思いつき」が浮かびました。単なる「思いつき」です。
*道の果て~一つの種明かし
して見ると、「従郡至倭」と書き出されている「倭」は、伊都国であり、道里も所要日数も、伊都国が文書通信の配達先及び行人往来の到達地であると明記されていることが分かります。
したがって、世上、混乱していると断罪されている「倭人伝」道里行程記事は、一路伊都国に到って完結し、伊都国から先の諸国の一国である女王居所である邪馬壹国への道里行程記事がないのは、他の三カ国、奴国、不弥国、投馬国と同様に、「至る」とした付けたりの余傍で「倭人伝」に不要とわかります。郡から万二千里の倭、つまり伊都国に到った後の諸国は、みな余傍と明記されているとわかります。
*刺史の時代
「刺史」は、女王の代理人として、管轄諸国を、恐らく月決めで巡訪して、巡回朝廷を開催して、女王の権威を借りて訴訟を仲裁/裁定し、請願を受け入れて善処したので、主行程諸国が追随したのです。文書行政が存在せず、随って、文書による請願、訴訟が成立しないことから、又、文書による命令ができないことから、代理人が現地で、直接、対応するしか無かったものと見えます。
世上、女王が、郡に文書で応答していたから文書行政ができていたと早合点する人がいますが、それは、少数の識字官僚がこなしたとしても、各国が、組織的に自治できるようになるには、何十年か、数世代の教育訓練で、読み書き計算ができ、法律を諳んじた官僚が育ってからなのです。元論、戸籍管理、土地台帳の管理は、優秀な中下級官僚を必要とします。
以上
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