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2014年4月28日 (月)

08. 王莽余塵 - 余談として

 ところで、後漢朝は、新朝の諸制度を漢朝のものに復元したのですが、その際に、新朝の制度が全て打破されたわけではないのです。
 例えば、王莽が、古制に因んで名前を一字に限定するよう強いた二字名の禁は、遠く隋唐に至って、二字名が当たり前になるまで、長年にわたり適用されています。
 つまり、王莽にまつわる制度であっても、一部の制度は引き続き尊重されたのです。

 そうした視点から大夫を案ずると、大夫を高官とする周制の遺風は、周公の遺風を尊重した孔子を尊崇する儒教が尊重するものであり、東夷が大夫を名乗っていることは、大いに尊重されたものと見えます。
 この記事を残した陳壽は、史官として、大夫に関する古来の経緯を把握した上で、何の注釈も論評も無しに、「使人自稱大夫」と書き残したのでしょう。

 因みに、魏晋への遣使の倭人名は、二字名の禁に縛られていないようです。これは、倭國が、天朝の徳化に浴しない夷蕃のものであることを明らかにしているようにも見えます。

 後年、東晋、劉宋、南齋などに献使した倭王などは、いずれも一字名としています。
 これは、倭國側が中国文化の規範を悟って、中国の正朔を奉ずる一環として二字名を憚ったものと見えます。

 論衡に書かれているように、かつては、言葉も通じず、文化のなんたるかを知らなかった野蛮人が、文明の徳化が及んで書経、詩経を諳んじるまでになるのが王朝の徳であり、東夷のものが、王の二字名を廃したことは、東晋、劉宋の徳が曹魏を越えたことを表現しているものと見えます。

 東晋以降の南朝歴代政権の事績が順調に継承されていれば、このような成果は、高々と書き連ねられたことでしょうが、南朝が北朝に打倒駆逐されることで中国再統一が実現したので、南朝諸朝の事績がほとんど駆逐されてしまったのです。

 さて、最後に一つの仮定ですが、王莽の周制復活には、実は、周里の復活も含まれていたのではないでしょうか。史料に残されていないというものの、あらゆる面で周制の復活を試みた王莽が、周里の復活を怠ったとも思えないのです。
 王莽は、周王朝の事績を再現するために、越人に対して新朝の天下平定を称揚する白雉の献上を命令しており、倭人に対しては鬯草の献上を命令したものと思われます。
 結果として、白雉の献上が記録されているものの、鬯草の献上は記録されていないので、新朝の天下平定と周制施行を通知する王莽の使者が東夷に辿り着いたかどうかは不明ですが。

 少なくとも、中国本土で、王莽の強いた周制がなかったことにされても、東夷にまで徹底されなかったと思えるのです。

以上

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