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2014年4月

2014年4月30日 (水)

10. 日本國志 - さらなる余談の枕として

10. 日本國志 - さらなる余談として
 日本國志(全四十巻)は、清朝末期の外交官黃遵憲の編纂した重要著作です。
 日本史と日本外交史を系統的に書き下ろした労作であり、清光緒十三年(1887年)に正式出版されています。文中に示されているように、外交官として日本に駐在した期間に、豊富な日本史資料を入手し、日本の古代史家との意見交換もできたようで、総じて資料を踏まえた堅実な考察に満ちています。
 全四十巻中、当ブログに関係するのは、巻一「國統志一」(日本史)と卷四「鄰交志上一」(日本外交史-中国篇)の二巻であり、古代史に親しんでいたらなじみのある記事が多いので、何とか、休み休み目を通せる程度の分量になっています。

 取りあえず、無償で読むことができるのは、下記サイトで公開されている維基文庫のテキスト収録ですが、ちょっと原本の読み取りに難があるのです。
 http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B7%E4%B8%80

 巻一「國統志一」の成務-仲哀-(神功皇后)-応神天皇と来たと思ったら、すぐさま、(武烈天皇の)御乱行に繋がっているのは、中国語のよくわからない本論筆者にも、脱落があることが目についたのです。
 子應神嗣位,年七十矣。應神在位四十三年。百濟秀士王仁獻《論語》、《千文》,始傳儒教;遣使於吳,始得織縫工女。愛少子稚郎子,立為太子,木親射墜為笑樂。施刑至刳孕婦,解指爪斂,國人苦之。在位八年,無嗣。自崇神至武烈凡十七世,六有六年。
 「立為太子」と「木親射墜」の間に、どかんと脱落があります。

 卷四「鄰交志上一」では、倭王武の上表文の途中で脱落が発生しています。日本人にはおなじみの下りなので、素人目にもそれとわかるのですが、中国のボランティアには、余り関心が無かったのでしょうか。
 倭國王,遣使上表于宋順皇帝曰:封國偏遠,作藩於外,自昔祖禰,躬擐甲胄,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北湖乖午,此之不同,亦無足怪。要之列史紀述,溢於簡冊、苟非偽造,不容安今節錄其事,仍稱倭王,不系之帝,以志疑也。至彼國一偏之辭,未敢尚。
 「渡平海北」と「湖乖午」の間に、どかんと脱落があります。

 別紙の自家製Pdfでは、脱落部を影印版(中國哲學書電子化計劃
公開)から読み取って埋めています。

 影印本は、数カ所に公開されていますが、文字、特に文中の細かい文字読み取りにくい箇所が同一箇所と言うこともあり、おそらく、同一の刊本の写真データを利用しているのでしょう。

 なお、今回目を通した二巻では、大規模な脱落以外に、字体について暢気で、俗字が使われている箇所が少なくないのですが、これは、文意を変えるものでないので、指摘しておくだけとします。
 他に、「曰」を「日」と作るような文字取り違いと思われる例が若干あり、これも、目についた限りは訂正しています。
 原本作成者は、素養として「曰」と「日」の取り違えが起こりやすいのは十分承知しているので、違いがはっきり目につくように、「日」を細くしているのです。
 手慣れた工程であれば、文字起こし担当者は、「曰」と「日」の取り違えが起こりやすいのは十分承知しているし、校正責任者も、「曰」と「日」の取り違えが起こりやすいのは十分承知しているので、両者相俟って、このような取り違えは、まず出現しないはずなのです。
 文字起こし担当者は、原本を嘗めることをせず、漢字OCRの読み取りデータを処理しているだけなのでしょうか。疑問が残ります。

 維基文庫は、善意のボランティアの多大な労力で構築されています。その点については、大いに感謝するのですが、一読者の「誠意」(sincerity)として、粗雑な文字起こしは粗雑であると指摘することにより、維基文庫の信頼度向上の一助になればと思うのです。

 気になるのが、清朝末期に「正式出版」された書籍だから、良質な刊本が結構な部数現存していると思われるのですが、素人目にも、19世紀末の出版物にしては文字に欠陥があるのが目立ち、紙面に汚れが目立つ、余り良好とは思えない刊本ばかり起用されていると言うことです。

 書籍として出版されている「日本國志」には、当然、そんな不備はないのでしょうが。

「NipponKokushiVol1N4.pdf」をダウンロード

 当文献は、現著者の死後百年以上を経過しているため、著作権が存在しないものです。
 維基文庫テキスト追記修正部は、当論筆者が確認したものですが、正確さについて保証するものではないことを、念のためお断りしておきます。

以上

2014年4月28日 (月)

08. 王莽余塵 - 余談として

 ところで、後漢朝は、新朝の諸制度を漢朝のものに復元したのですが、その際に、新朝の制度が全て打破されたわけではないのです。
 例えば、王莽が、古制に因んで名前を一字に限定するよう強いた二字名の禁は、遠く隋唐に至って、二字名が当たり前になるまで、長年にわたり適用されています。
 つまり、王莽にまつわる制度であっても、一部の制度は引き続き尊重されたのです。

 そうした視点から大夫を案ずると、大夫を高官とする周制の遺風は、周公の遺風を尊重した孔子を尊崇する儒教が尊重するものであり、東夷が大夫を名乗っていることは、大いに尊重されたものと見えます。
 この記事を残した陳壽は、史官として、大夫に関する古来の経緯を把握した上で、何の注釈も論評も無しに、「使人自稱大夫」と書き残したのでしょう。

 因みに、魏晋への遣使の倭人名は、二字名の禁に縛られていないようです。これは、倭國が、天朝の徳化に浴しない夷蕃のものであることを明らかにしているようにも見えます。

 後年、東晋、劉宋、南齋などに献使した倭王などは、いずれも一字名としています。
 これは、倭國側が中国文化の規範を悟って、中国の正朔を奉ずる一環として二字名を憚ったものと見えます。

 論衡に書かれているように、かつては、言葉も通じず、文化のなんたるかを知らなかった野蛮人が、文明の徳化が及んで書経、詩経を諳んじるまでになるのが王朝の徳であり、東夷のものが、王の二字名を廃したことは、東晋、劉宋の徳が曹魏を越えたことを表現しているものと見えます。

 東晋以降の南朝歴代政権の事績が順調に継承されていれば、このような成果は、高々と書き連ねられたことでしょうが、南朝が北朝に打倒駆逐されることで中国再統一が実現したので、南朝諸朝の事績がほとんど駆逐されてしまったのです。

 さて、最後に一つの仮定ですが、王莽の周制復活には、実は、周里の復活も含まれていたのではないでしょうか。史料に残されていないというものの、あらゆる面で周制の復活を試みた王莽が、周里の復活を怠ったとも思えないのです。
 王莽は、周王朝の事績を再現するために、越人に対して新朝の天下平定を称揚する白雉の献上を命令しており、倭人に対しては鬯草の献上を命令したものと思われます。
 結果として、白雉の献上が記録されているものの、鬯草の献上は記録されていないので、新朝の天下平定と周制施行を通知する王莽の使者が東夷に辿り着いたかどうかは不明ですが。

 少なくとも、中国本土で、王莽の強いた周制がなかったことにされても、東夷にまで徹底されなかったと思えるのです。

以上

2014年4月27日 (日)

07. 世有王 - 読み過ごされた「伊都」改題増補

                  2014/04/27 増補 2023/01/28

 世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐

 伊都國は、戸数千余戸と書かれているように、決して大国でないのに、代々王を出して指導的立場を保持していたのは、金属製武器で武装した強兵を有し、周辺諸国から公租を取り立てる権力を保持していたものとも見受けられます。いずれにしろ、公務員や常備軍兵士は、農耕に従事てきないし、大体、俸給(粟)を払っていて、税を取り立てるのも無意味なので、ここに書いた戸数は、農地を割り当てられて、農事に励んでいた家族に過ぎないのです。大抵の場合、国王居処聚落の住民は免税なのです。当然、徴兵も労務も、無意味ですから、免除されます。
 ともあれ、口数不明、成人男子の人数不明、戸籍無し、ということは、中国の土地制度/戸籍制度などの文書行政制度で動いていなかったということです。戸籍に必須の大量の用紙も、筆墨もなかったと言う事でしょう。戸籍台帳無しに、人口が分かるはずは無いのです。人口を集計する計数官吏が多数いないと、戸籍台帳の集計ができないのです。野蛮人の社会には、「鶏も卵も無い」のです。

 伊都國の威勢が衰えたとすれば、それは、時代の進展と共に、内陸交通網が整備され、多数の武装兵で構成された遠征軍の長駆派遣が可能となったことによるものと思われます。
 交通路が整備されると、平坦で耕作地に恵まれ、多数の壮丁を抱えた新興国の国力が増進し、それが人口増に結実し、曽ての交易大国が、その足下に屈するときが来たのではないかと思われます。

 それでも、「伊都國」の名称を保っていたので、傍目には「みやこ」、つまり、とても大きな邑のように見えたことでしょう。

*道里行程記事の結末 2023/01/28
 先回りして盗み見すると、当記事の結末は、以下の記事とわかります。

 自女王國以北、特置一大率、檢察(諸國)、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

 對海國から女王國に至る主行程五ヵ国を、ここでは「自女王國以北」と明記していて、これら主要列国は、伊都国に常駐している「一大率」なる「刺史」の監督下にあると明記し、なおかつ、魏、帯方郡、韓国などとの「外交」通信は、伊都国起点で行うと明記しているので、ますます、伊都国が、実質的な国家元首であったと明記していることになります。

 倭に来訪した郡使が伊都国に常駐したのは、伊都国王が実質的な倭王として、帯方郡に服属していたと言う事でしょう。当然、郡使を歓待する施設「帯方館」が整っていたわけであり、そこには通詞も常駐したのです。そのようなことができたのは、伊都国が地域の経済活動の中心であって、元首である国王が代々「法と秩序」の元、諸国を指導していたものと見えます。恐らく、公孫氏時代のことかと見えますが、関連資料は、遼東苦戦の壊滅とともに破壊されたようです。

 因みに、郡使の滞在先を「鴻廬館」とか「客館」と命名すると、郡使を蕃夷と遇する倒錯の事態になるので、慎重に言葉を選んでいるのです。まして、女王の居処を「所都」などと呼ぶと、郡使を見下す倨傲極まる事態になるので、そのような罰当たりな言葉が、「倭人伝」記事に登場するはずが無いのです。伊都国王は、中国から多くを学んでいたのです。

*誤写の検証~一大率の由来
 因みに、「檢察(諸國)、諸國畏憚之」とあるのは、刊本間で記事が相違しているという意味であり、 原文の「檢察諸國諸國畏憚之」 が、刊本の前段の北宋刊本以来の写本の継承で、二字熟語「諸國」のくり返しを略号で書いていたのが、見落とされていたと思われるのです。
 古田武彦氏は、紹熙本の刊本原本が達筆な草書の写本ではなかったかと示唆されていますが、この誤写はその際の復元謬りと見えます。

*「一大率」の由来
 ただし、別にある「檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗」の壹與壹與のくり返しは正しく復元されています。つまり、この際の「壹與」は、複数の編集者による慎重な校正で正しく書き戻されたのであり、その際の誤写の可能性は極めて低くなっているものと推定します。北宋刊本以前でも、写本の際には、特に注目したと思われ、誤写の可能性は、特に低くなっているものと推定します。
 ついでながら、「倭大夫率善中郎將掖邪狗」は、物々しい名乗りですが、漢字の十分通じない倭では、「一大率」(倭大率)と略称していたのではないかという咄嗟の「思いつき」が浮かびました。単なる「思いつき」です。

*道の果て~一つの種明かし
 して見ると、「従郡至倭」と書き出されている「倭」は、伊都国であり、道里も所要日数も、伊都国が文書通信の配達先及び行人往来の到達地であると明記されていることが分かります。
 したがって、世上、混乱していると断罪されている「倭人伝」道里行程記事は、一路伊都国に到って完結し、伊都国から先の諸国の一国である女王居所である邪馬壹国への道里行程記事がないのは、他の三カ国、奴国、不弥国、投馬国と同様に、「至る」とした付けたりの余傍で「倭人伝」に不要とわかります。郡から万二千里の倭、つまり伊都国に到った後の諸国は、みな余傍と明記されているとわかります。

*刺史の時代
 「刺史」は、女王の代理人として、管轄諸国を、恐らく月決めで巡訪して、巡回朝廷を開催して、女王の権威を借りて訴訟を仲裁/裁定し、請願を受け入れて善処したので、主行程諸国が追随したのです。文書行政が存在せず、随って、文書による請願、訴訟が成立しないことから、又、文書による命令ができないことから、代理人が現地で、直接、対応するしか無かったものと見えます。
 
 世上、女王が、郡に文書で応答していたから文書行政ができていたと早合点する人がいますが、それは、少数の識字官僚がこなしたとしても、各国が、組織的に自治できるようになるには、何十年か、数世代の教育訓練で、読み書き計算ができ、法律を諳んじた官僚が育ってからなのです。元論、戸籍管理、土地台帳の管理は、優秀な中下級官僚を必要とします。

以上

2014年4月22日 (火)

02. 倭人在 - 最初の読み過ごし

 倭人傳の書き出しを虚心に読む限り、「倭人」の所在は明解です。
 「倭人在帶方東南
 帯方郡は、朝鮮半島西北部、後の漢城付近ないしはしその北方に存在したと思われるので、その東南と言えば、現在の九州(だけ)を指しているのは、明解そのものです。

 現在の本州は、帯方郡の東南方向に近い角度に西端があるものの、そこから東北方向にかけて長々と伸びていて「東南方向」の圏外です。三世紀にも、その程度の認識はあったでしょう。
 と言うことで、魏志倭人傳が、倭人の國を九州島(だけ)と理解して書かれたことは、まことに明解です。

 なお、韓傳も、冒頭で帯方郡を基準とした地理関係を明確にしています。
 韓傳:「韓在帶方之南」

 三国志の上申を受けた晋朝皇帝や政府高官は、何よりもまず、東夷の「所在」を知りたがり、更に関心があれば、以降の記事を読み進めるものであり、それを予測している史官は、史書の編纂に当たって、冒頭数文字に地理情報を凝縮したのです。

以上

2014年4月21日 (月)

01. 笵曄暮影 - 上書きされた正史

 陳壽の編纂した三國志で、烏丸東夷傳は、魏書の一大眼目であり、その掉尾を飾る倭人傳は、陳壽の史官として畢生の偉業と思います。
 二千文字といえども、全巻に占める意義は高いのです。

 当ブログで、後漢書編纂者笵曄に対して点が辛いのは、魏志倭人記事を引き写す際に、忠実な抜粋でなく、あれこれ粉飾潤色して自身の文筆の勲功にし、先人である陳壽の面目を踏みつけたことにあります。

 特に、後漢書東夷列伝に、かなりの部分が魏朝事績である倭人記事を取り込んで、後漢書埒外の記事を書いたことが胡散臭いのです。本来、後漢朝記事は、安帝への貢獻で終わりです。また、後漢朝には倭國風物に関する知識は特に無く、魏志ないしは原典資料を引き写したと見られます。
 とは言え、史官の功業を求めた笵曄が、あえて、先人の記事を改変するのは、何の根拠もないものとは考えられないのです。

 してみると、何かの理由があって、笵曄は、魏志の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤伝と確信したのでしょう。理由が書き残されていない以上、憶測するしかないのですが、写本誤写の可能性が無視できないなどと言う不合理な理由でなく、具体的物証、おそらくは、倭國王からの遣使の際の上表ではなかったかと思われます。

 遠路遣使して、挨拶状も手土産もないのはあり得ないので、倭國使は三國志に記載された倭國の正当な後継者であることを上表したことまでは、確実な推定と思います。
 その際に、東夷が自己申告した内容は、中国史官が一次資料として尊重し、魏志倭人傳記事を、後代校勘して「読み替える」のは当然の成り行きと思われたのでしょう。
 正史には、そのような倭國使上表文は記録されていないのですが、隋唐朝は、敵対していた江南五朝の功績を書き残したくなかったで、そのような記事は極力差し控えたのでしょう。

 ちなみに、笵曄は、魏志の引き写しを離れて「其大倭王居邪馬臺國」としていますが、國王名を、順当な「邪馬臺國」王や「倭國王」でなく、「大倭王」と美称にしているのに不審を感じるのです。中国は東夷の王を敬称では呼ばないので、「大倭王」は、自稱が反映されたのでしょうか。
 それが、魏志の引き写し部分で「倭」、「倭奴國」、「倭國」、「倭國王」、「女王國」と書き綴られた後漢・曹魏時代の呼称でないことから、もやもやと推測が働きます。

 全て、状況を眺めただけの意見ですが、二世紀以上後代の東晋劉宋貢献時の上表文での「大倭王」の後代自稱と「邪馬臺國」という後代國名とが、「時間錯誤」して填め込まれたものではないか、というのが、この場での私論です。

 素人の後知恵ですが、范曄が見たところ、全国支配の大「倭王」とその出自の「小国」の「倭王」が存在していて紛らわしかったので、「大」を冠したのでしょうか。ここは、范曄が余りに寡黙で、その真意がわかりません。

 倭人傳の上に、笵曄の長い影が投げかけられたまま、千七百年近い年月が流れています。

以上

2014年4月20日 (日)

前奏曲 - 倭人傳の散歩道

 ここまでの小論、天問で、ささやかな知見を書き連ねたのは、先賢の考察を見聞きしないうちに、初心者の意見を率直に書き連ねておきたいという趣旨であって、先駆者を気取るつもりはなかったことをご了解いただきたいものです。

 以下、言いっ放しでは無責任なので、少なからぬ参考書を購入して、諸賢の意見を拝聴させていただいたものです。発想が陳腐なものになったせいもあって、2ヵ月以上のご無沙汰になりましたが、これからしばらくは、ほぼ日刊ペースで続けられるはずです。

 ただ、小生のように、倭人傳記事をまともに受け取って、陳壽と語り合おうという姿勢で書かれたものは少なく、倭人傳を脇に置いて、自身の高度な見識を吐露されているものが多いので、小論の勘違いに反省を求められるものは少なかったのです。
 これは意外な感じを禁じ得なかったものです。実は、初心者の質問は、ことごとく解明済みではないのかと、恐れていたものでした。

 幸い、アマゾンの書籍検索で、旧刊書籍、雑誌等を買い求めて、現下の各種論議の背景を確かめているのですが、以上に書いたように、幸か不幸か、小論の言及するような倭人傳そのものにまつわる評論は、少数派なので、余り肝を冷やすような反対論議には、お目にかかっていないものです。

 

 素人考えで、諸賢の通り過ぎた道程の道草を拾っているのであれば、多少は、貢献していることになるのかと、安心している次第です。

 ここで、拙い枕ですが、「紹凞版」の「倭人傳」と言う小見出しについて一言が出ます。

 日本人が日本人の起源について考察するときに、古代史学者でない限り、この下りを、「倭人傳」と呼び、集中して読みふけるのは、当然と思う次第です。

 それにしても、学会の権威が、紹凞本に明記されている「倭人傳」の小見出しを排斥して、「倭人条」と呼ぶべしと主張されるのは、不審感を禁じ得ません。
 何か、確たる物証があってのことなのでしょうが、寡聞にして、「倭人条」と書いた版本は、まだ見かけたことはありません。これもまた、業界人には自明の「通説」なのでしょうか。

 以下、過去の私論の集大成と追加となった些細な思いつきとを、倭人傳に託して書き連ねることといたします。

 最後までご辛抱いただければ幸いです。

以上

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