11. 会稽東治 - 読み過ごされた故事
「計其道里、當在會稽東治之東。」
別稿で示したように、魏志倭人傳には、「会稽東治」と書かれていたものと考えます。
以下、繰り返しになるのですが、これは禹の故事に因むものであって、江南辺境の地名を記したものではないのです。
正史である史記の夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽の「東治之山」を指すものであり、具体的には会稽山をさすものと考えます。
水経注および漢官儀で、会稽郡名の由来として書かれている記事がありますが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られます。
秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;
或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;
或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。
では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるのですが、それは、ものの道理を見過ごした軽率な判断というものです。
よく考えればわかるように、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考えます。
本来、中国地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と列記されているものとして読むものです。
もし、会稽郡の東冶県を指定したい場合は、「会稽東冶県」と明記するものです。
これらの書きわけは、後漢書倭傳に揃って現れていますが、笵曄は倭人傳の会稽東治の意義を理解できず、軽率にも誤記と即断して、東冶と校勘したものと思われます。
後漢書批判は、本小論の埒外ですが、倭人傳史料批判の際には、吟味せざるを得ないので、時にこのように書きつのるのです。
このように、陳壽が倭國の所在を示す表現として、「会稽東冶」の東という指定は不合理であるので、「会稽東治」の東と見るのです。
以上
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