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2014年5月

2014年5月29日 (木)

動画制作記 2014/05/04 角館 内陸線 こまち 追加・改定 2

YouTube動画へのリンクです。
 上が、モバイル対応の426X240ドット,15fpsとワンセグ並みの小容量なので、スマホなどでも快適に見ることができます。
 下は、フルHD動画ですから、高速回線接続、大画面表示に適しています。
 アニメーションGifを載せました。

 

140504komachi426_240_4fps
 今回追加したのは、前日夕方の内陸線角館駅情景です。
 今回の動画投稿で気になったのは、誰か、暢気な人が、いつでもこまちの発進情景が撮れると思つて、内陸線に押しかけないかと言うことでした。

 ということで、簡単に撮るのを諦めて貰うために、普段の姿を追加したのです。その分、くどくど言い訳する説明が減りました。

 併せて、動画処理を改善したので、結構見やすくなっていると思います。ということで、Release 2です。

 YouTubeでは、サムネイル画面をアップロードできなくしているので、肝心のこまちの晴れ姿画面(当方の自信作)を表示することができなくなりました。

 角館から弘前に移動するために、秋田内陸線に乗車して先頭から前方を眺めていたのですが、珍しく、こまちに続いて内陸線が発車したので、こまちが走行するのを間近に見ることができました。

 淡々と、車窓から前方を撮影しただけですが、さすがに、こまちが加速して消えていくのをそのまま見せても面白くないので、後半では画面を徐々に拡大して、2倍程度のデジタルズームを試みています。

 撮れてしまえば何のことはない画面ですが、内陸線の発車時刻は、新幹線からの乗り換え客が無理なく乗れるように、最低7,8分ずらして設定しているので、時刻表上からは、このように相次いで発車することはないのです。

 今回は、角館観光に手間取って、予定していた急行に乗り遅れたおかげで、こうした幸運に恵まれたのでした。

 後半に追加した発進風景が、普段の姿です。

140504komachihd001

 余談ですが、JR角館駅の東京行きホームは、内陸線が経営分離される前は、JR(国鉄)同士で簡単に乗り換えられるように、内陸線とホームを共用していたものと見えます。

 いずれにしろ、新幹線駅のホームにしては、随分手狭なので、混雑しやすいものと見えます。前日の様子を見ても、発車時刻は、遅れ気味です。

 そうそう、盛岡―秋田間の秋田新幹線はミニ新幹線で、大曲から盛岡まで在来線 田沢湖線と線路を共有、狭軌(レール間隔 1067mm)、単線で、最高速度も130km/hですが、盛岡に着くと標準軌(レール間隔1367mm)、高速新幹線(Bullet train)として連結され、最高速度270km/hで東京へ向けてばく進するのです。

以上

2014年5月28日 (水)

私の本棚 13 足立倫行 倭人伝、古事記の正体

 朝日新書 2012年11月

    私の見立て ★★★☆☆ 軽率な導入部で意欲阻害  2014/05/27
*壮大な触れ込み、貧弱な考察
 著者は、冒頭で以下のごとく明言しています。
 3世紀後半に中国で成立した史書『三国志』のなかの『魏志』倭人伝(略称)は、そのころの日本や倭人(日本人)の生活を伝える最古の史料だ。そこには朝鮮半島の帯方郡から倭の国々を経て邪馬台国に至る道程と、人々の風俗、政治、社会状況などが書かれている。
 本書のⅠ「倭人伝を歩く」では、そこに記されたルートを辿りながら日本のルーツを探索してゆく。倭人伝では当時の国々と「邪馬台国への道」がどのように記述されているのか?2千余字の原文のうち、該当部分を読み下し文で示し、若干の説明も加えておく。
*杜撰な原文紹介
 と言うことで、以下「邪馬台国への道」が例示されているのですが、「読み下し文」で示されていることに異論があるので、以下、原文南宋紹凞刊本影印に準拠)を並記させていただきます。ただし、ふりがなはご割愛させていただきます。

倭人は帯方東南の大海の中にあり、山島に依って国邑(中心的な小都市)をなす。
 倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑
 『從郡至倭』*読み下し文で脱落
始めて一海を渡る千余里。対馬国に至る
 始度一海千餘里至對海國
また南ヘ一海を渡ること千余里。名づけて「瀚海」(大海)という。一大(一支=壱岐)国に至る
 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
また一海を渡ること千余里、末盧国(松浦=現在の佐賀県唐津市付近)に至る
 又渡一海千餘里至末盧國
「東南に陸行すること五百里。伊都国に到る」
 東南陸行五百里到伊都國
東南、奴国に至るには百里
 東南至奴國百里
東行して不弥国に至るには百里
 東行至不彌國百里
南に投馬国へ至る。水行二十日
 南至投馬國水行二十日
南、邪馬壹(臺=台)国に至る。女王の都で、水行十日、陸行一月
 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
その南、狗奴国あり(中略)女王に属さず。郡より女王国に至るは万二千余里なり。
 其南有狗奴國(中略)不屬女王自郡至女王國萬二千餘里
 原文どおりに進むと九州を突き抜け、邪馬台国は遙か南の太平洋上にあったことになってしまう。そこで、よく知られているように、方位や日数などの解釈をめぐっていくつもの説が唱えられ、明治時代から今に至るも決着がつかない「邪馬台国論争」の原点となっている(この論争に関しては第4章で詳述している)。

 著者は、いわゆる「道里」に関わる文を、ほぼ正確に取り出していて、ご賢察と言いたいところですが、出所不明の読み下し文を、原文と呼ぶ大きな誤りを犯し、読者にも、「誤り」を押しつけています。
 また、重大な「從郡至倭」に続くも、前提部が欠落しているのは、道里の正確な読みを不可能にしていて、これはこれで、深刻な欠点ですが、人名に関するものではないので、口汚く「致命的」とは言いません。

 上に並記したように、原文は、古代中国語の漢字ばかりの文であり、「てにをは」がない上に、句読点も改行もありません。
 そのままでは、解釈が困難なので、原文と思われる漢文に対して、誰かが区切りを入れ、文字を書き足し、一応、日本語として読める程度の。、ちょっと日本語らしい文章に書き換えたのが、書き下し文です。
 「読み下し文=原文」ではありません。

 ちなみに、現代の中国人も、句読点や改行などを施さなければ、とても、読み解けないものと思われますので、原文に手を加えるのは、日本人だけではないはずです。

 著者は、上の読み下し文が原文であるかのように誤解して、「原文通りに進むと」と安易に解釈していますが、まずは、それは、「読み下し文」の責任であり、読み下し文の作者が原文を解釈した時の誤りではないかとの批判が必要です。
 上の少ない文字数でも、「固有名詞の書き換え」が散見されるのは、読み下し文の作者の神のごとき手直しが加わっているものです。
 「原文」解釈の努力を放棄する前に、読み下し文が的確に原文を日本語にしているかどうか、確認する必要があるのです。文献批判が、第一歩です。

 著者が、早々に読み下し文批判を放棄してしまっているので、本論筆者も、この点を指摘するだけで深入りしませんが、これほど明確に著者の誤解が書かれていると、一言批判すべきだと考えた次第です。

 本論筆者は、魏志倭人伝に対するいわれのない非難に対して、編纂者たる陳寿に変わって反論すると決めているので、本書冒頭で著者が下した非難に反論する次第です。

*書けなかった総評
 ちなみに、本書の内容は、上記の誤解の弊害を免れている部分では、おおむね的確なものであると見ています。本書は、当時の「倭」に関して考察するものであり、決して、わずか二千字ほどの記事である「倭人伝」(略称)の「正体」追求などではないことを申し添えておきます。

以上

 

2014年5月27日 (火)

私の本棚 12 古田武彦 「邪馬台国」はなかった

 ミネルヴァ書房 2010年 初刊 朝日新聞社1971年 (朝日文庫1992年)
 
          私の見立て★★★★☆        2014/05/27
 著者の第二作以降の著作は、朝日文庫時代に講読し、また、単行本で購入したものもありますが、本書は、未購入未読にとどまっていました。
 今回、一連の著作が、ミネルヴァ書房から単行本形式で順次復刊されたことを大型書店の店頭で確認したこともあり、初めて購入して読み通すことになりました。

 著者の昂然たる執筆姿勢を含めて、本書に対して、いろいろ批判はありますが、その原典となっている学術的な姿勢は、何者にも否定できないものと考えます。原典となる資料を精査して、理詰めで内容を解析するという姿勢は、学問の本道であり、尊重すべきでしょう。

 本書の主張に対しては、学会の各方面から反論があったようですが、魏志倭人伝に、「邪馬臺国」と書かれていないこと、「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤記と速断すべきではない、とする主張は、依然として克服されていないと思います。

 正論が克服されない以上、史料改訂の議論は、舞台裏に引き下がるべきものと思うのですが、さながら、舞台劇の斬られ役のように、討たれて倒されても、また、同じ顔が舞台に登場するような感があります。

 また、一部には、著者の諸説に逐一反論することを煩雑として、「邪馬壹国」の否定の一撃で著者の全所説を一掃できるとした「名案」にとりつかれて、堂々と宣言している論者まで現れている次第です。その結果、三国志原本の面目失墜に血道を上げる傾向があります。

 小生は、一介の私人でり、学究諸賢の主張に付け加えることは少ないと思いますが、次の点は、言い残しておきたいものです。

 陳壽は、文筆を業とする史官であり、魏志執筆の際に、後世の写本作業で「壹」と「臺」が混同される危険性が高いことを十分に予測していたと思われます。特に、異国の国名は、中国の写本関係者にとってなじめない文字遣いであるので、誤写を抑止する仕掛けがないと、早い段階で、文字化けしてしまうことは、想定済みだったでしょう。

 と言うことで、記事を工夫して、写本工や写本校正者が気づくように、それぞれの文字を書き込んでいるのです。

 壹與に関する部分に、あえて「壹拝」と書き「壹與壹與詣臺」と連打して書いていることは軽視すべきでないと思います。

 原本に「壹與壹與詣臺」とあるのを、「臺與臺與詣」まで書いたとして、次の「臺」を書こうとしたときに、先ほど「臺」と判断したのと違う文字を「臺」と書こうとしていることに気づくという仕掛けです。

 これは、逆の場合も同じで、原本に「臺與臺與詣臺」とあるのを「壹與壹與詣臺」と誤写しようとしたら、気がつくという仕掛けです。

 「壹拝」の方は、「壹与」と相接して書かれてはいないのですが、まだ、最初の文字の感覚が失われていないうちに、次の文字が登場するから、注意を喚起されるのです。

 以上は、写本工が、先読みせずに手を進めているという想定ですが、実際は、1ページ分の写本に取りかかる前に、原本を先読みして、内容を確認する工程が入るものであり、混同しやすい文字については、その段階で、注意を喚起されているものです。

 と言うことで、ただ単に、「壹」と「臺」の字形が似ているから誤記されたと推定するのは、倭人傳の文脈に無頓着な意見、一種の暴論と思われます。

 ちなみに、以上挙げた誤字防止の仕掛けは、原本写本の差異に起用される職業的な写本工と写本校正者の練達の技量に対してのみ有効なものであり、子写本、孫写本に起用される在野の格安写本工に対しては、場違いなものとなる可能性があります。

 一口に写本と言っても、信頼性が格段に違ってくるのです。

 さて、以下は、余談ですが、何故、正史原本が「定期的に写本更新」されて継承されてきたか、と言う議論です。国家事業として、多額の費用を費やして定期的に正史を写本更新する理由の一つは、先ほど挙げたような、高度な写本工程は、写本工や校正担当者に、途切れず仕事を与えないと、その技術が若者たちに継承されず、滅びてしまうと言うことにあります。

 北宋刊本の刊行以前の写本がどのような紙質のものであったか不明ですが、貴重書であり、紙魚に食われない紙質とし、また、冷暗所、乾燥雰囲気の書庫で保管することにより、急速な経時変化は避けられていたものと思いますから、やはり、技術水準維持の狙いで、二十年程度の期間を経て、原本更新したものと思われます。

 時には、同様の動機で、皇太子などへの一次写本下賜事業もあったでしょう。

以上

 

2014年5月26日 (月)

動画撮影記 2014/05/04 角館 秋田民謡手踊り

 YouTube動画へのリンクです。
 それぞれ上が、モバイル対応の426X240ドット,15fpsとワンセグ並みの小容量なので、スマホなどでも快適に見ることができます。
 下は、フルHD動画ですから、高速回線接続、大画面表示に適しています。
 5/4の角館さくらまつりです。特設舞台で、秋田民謡と民謡手踊りの披露がありました。
 うまく撮れたと思うものを掲示しています。
 客席最前列に座れたので、邪魔のない状態でした。(時々、演奏中の出入りがありましたが)
 生保内節、正調生保内節では、使用したデジカメのL24mmで首を振って全体を眺めています。L24mmというのは、筆者が、勝手に愛用している言い方で、ライカ版換算24mmという意味です。
 秋田おばこは、レンズ交換式カメラ(ミラーレス)での撮影で、広角レンズにコンバージョンレンズを付けて、L20mm程度の広い視野を採用しています。ここまで、視野が広いと、左右の踊り手には、ちょっと気の毒だったかな、とも思います。
 朝からの連投がたたって、しばらくして、電池切れになったので、カメラを交換したものです。
 以下、角館の手踊りについての感慨です。関西人が、年に一度飛び込んでの意見なので、見当違いなところがあれば、ご容赦ください。
 ごらんのように、結構小さい子供たちの踊りなのに、手足の捌きが決まっていて、数多い民謡の振り付けが、大筋身についているのは、大変すばらしいことです。三,四歳の頃から念入りに、お稽古しているのでしょう。
 さすがに、前に押し出されている年少組の踊り手は、時々、年長組の様子を見て合わせていますが、ちらりと見ただけですぐ合わせるのは、大したものです。年長組の方には入れる日も、そう遠くないでしょう。
 当方も、いろいろ調べて、当日の歌詞を聴き取り、字幕に書き込んでいます。言うまでもないですが、聞き間違いがあるとすれば、それは、全て当方の責任です。
 また、当日の出演者を書き出していないのは、アップロードまでに調べが付かなかったからです。ここで改めて紹介しなくても、地元では、よく知られている方たちなのでしょう。
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 なかなか立派な晴れ姿です。
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 しっかり、最後のしめをとっています。
 角館がすばらしいと思うのは、一般家庭で、大切な文化が世代を超えて受け継がれているからです。こうした踊り手たちの姿を見ると、角館は、日本の誇りだと思うのです。
 先年(2011年5月)、田沢湖観光の帰途、時間が取れたので、予定を変更して角館に足を伸ばしたのが、初回訪問でした。
 駅前で、角館高校飾山囃子同好会の震災被害者支援運動に出会ったのです。毎日、全局を何度となく繰り返すと言うことは、大変な努力が必要だったと思います。
 高校生の支援運動に共感して、不慣れな動画撮影に取り組んだのですが、帰宅して再生しながらいろいろ勉強してみると、随分、丁寧に稽古したものだと感心したのです。
 それ以来、毎年五月に再訪していますが、東北全体を通じて、古いものを大事に引き継いでいくという風土があるのだと気付いたのです。
 都会の住人は、その日その日の出来心に流され、浮ついた流行に染まっていて、盛り場をうろついている子供たちもその風潮に馴染んでいるように見えます。
 ということで、旧作YouTube動画へのリンクです。
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 この写真では、ちょっといたずらして、時計の故障表示を消しています。(ちゃんと動いていたのです)
 えらい間近にしゃしゃり出て撮影していますが、駅前広場が手狭な関係で、思い切り前に出ないと、撮影中に前を横切る人が絶えないのです。(これを恥ずかしいと思わないのが修行です)
 低い位置からの撮影になっていますが、後ろの人の邪魔らにならないようにしゃがみ込んでいるせいであり、長時間、カメラを顔の前に掲げて撮影するのは、肩への負担がつらいので、鳩尾辺りに支持しているものです。
 従って、ほとんどモニター画面を見ずに手見当だけで撮ったのです。
 自然と、カメラが不安定で傾きがあるのですが、当時の機材(PC)と動画処理アプリで、修正を頑張ってYouTubeに掲示したものです。
 いろいろ言い訳しているのは、写りが悪いのは「素人」の芸だからと了解していただきたいからです。
 今日に至るまで、YouTubeのカウントは上がり続けていて、関連動画を総合して1万件に達していますが、英語メッセージを付け足したこともあって、台湾、欧州をはじめ、世界各地に支持者がいるのは、有り難いことです。
以上

私の本棚 11 森浩一 倭人伝を読みなおす

 ちくま新書 859 2010/8発行

          私の見立て★★★☆☆        2014/05/26

 著者は、歴史学者の中にあって、現場、現物に広く接し、また、関連史料の原文に広く触れ、自分自身の思考で歴史を理解することを長年にわたって実践されたものです。従って、安易な受け売りの議論は登場しないので、安心して読み進めることができます。
 
 たとえば、本書の対馬に関する記述が名文であると評価しています。誠に慧眼ですが、現地事情に触れたことが、倭人伝の文章を深く味わうことができたのでしょう。
 
 特に、「良田」について語る時、中国語で「田」は、「田畑」を包含する言葉であるので、良田が乏しいというのは、地形に恵まれていないので、平坦な田畑が少ないと言うことであると、丁寧に示しています。
 
 倭人伝に触れた著作で、「良田」についてこの点を怠っていることが大変多いのですが、これは粗雑と言わざるを得ないのです。中には、この点を飛ばして、とにかく、対馬の交易について語っているのです。
 小生も、個人的には自明なので、ついつい「小論」で触れずに済ませてしまいましたが、よく考えると、倭人伝の中国語の読み下しを理解する際に落とし穴となっていることが多いので、念押ししておくべきだったと感じています。

 さて、著者は、本書では、「倭人伝」について、そうした書物があるわけではないという程度にとどめています。受け売りの「倭人条」説を書き連ねる向きに比べると、誠に賢明な筆致です。

 倭人伝の内容を語り、世評の高い「邪馬台国 近畿説」を論評すると、「近畿説」信奉者が、お仕着せの古代観に合わせて、原史料を読みこなしていることに触れざるを得ないのです。いわば、触らぬ神に祟り無しです。

 著者の実務に通じた見地から吟味すれば、「邪馬台国 近畿説」は、近畿に存在していた当該国が、筑紫に散在する国々を緊密に遠隔支配していたことを根幹とする議論であり、これが、時代背景を度外視した、超現実的な議論であることは、小論筆者がここまで折に触れて断じています。

 つまり、著者ほどの実務通が、そうした背景に気付いていなかったはずはないのですが、少なくとも、本書には、そうした議論は明示されていないように思います。

今となっては、著者が、三角縁神獣鏡国産説の推進にとどまって、それに続く自明の議論である「近畿説」廃嫡にまで至らなかった背景は不明となってしまいました。

 それ以外、著者の臨場感満載の議論は、触れているときりがないのですが、この本は、著者が、八十二歳の時に西日本新聞に連載した記事をまとめたものであり、当時、著者は、週3回通院する状態で、よくぞ、これだけのまとめができたものと感動しています。

 
 小生は、著者のまるまる二十年年下に当たるのですが、あと二十年近く、多少なりとも筋の通った考えを続けられるかどうか、自信のないところです。
 
以上

2014年5月25日 (日)

私の本棚 10 山田宗睦 魏志倭人伝の世界

 教育社歴史新書 <日本史> 22 1979年8月

    私の見立て★★★★★        2014/05/25

*はじめに 一般論
 本論筆者は、史料は、一度書かれているままに読解して、どうしても、ものの道理に合わないところは、しかるべく検討の上、資料の記事を訂正するとしても、その経緯を明記すべきものと考えています。

 ここまでに上げた各著書は、学会諸賢が執筆したものであるとしても、学術的な検証が疎かになっていると見えて、素人の突っ込みを招いているものであり、長年の学究の果てに、当該学問分野に何ら新たな貢献をしていないことを、自身の業績として後世に残しているものとみられます。

*総評
 本書は、そのような砂上楼閣とは無縁であり、著者は、古代史学者でなく、いわば、門外漢であることから、学界固有の行きがかりにとらわれることがなく、その執筆態度は、誠に真摯なものと思われます。

 一方で、このように堅実に書かれた書籍が三十年以上版を改めることなく埋もれ、他方、各版元からは、センセーショナルな謳い文句で、定説の確立された上に書かれていると装った安易な著作が世にはびこっているのは残念です。

 さて、具体的に本書の論点を見ていくと、本論筆者がここまでに指摘していた資料改訂諸点について、確実に批判を加えています。

 帯方郡から倭國に至る行程を述べた道里記事は、一里が七十㍍程度の短里で書かれていると見ることにより整合性のある解釈が可能であると述べていて、いたずらに、倭人伝の唐里記事は、妥当な解釈が不可能であると即断して改訂を加えるなどして、倭國を、遠く後年のヤマト圏に押しやることは妥当ではないことを証しています。

 また、女王国国名は、三国志刊本に書かれている「邪馬壹国」が誤りであるとする主張が、史料記事を改訂するにたるほどの論拠を持たないことを証しています。

 さらに、倭國を会稽東治の東とした地理観は妥当なものであることを証しています。

 景初の倭國遣使について時代背景の考証を進めて、景初二年と書かれている年次が妥当であり、景初三年と史料記事を改訂するにたるほどの論拠を持たないことを証しています。併せて、「景初三年」銘を有する銅鏡が下賜されうる状況にないことも証しています。推論の筋道は、本論筆者も利用させていただいています。

 以上の論証は、諸資料に基づく論理的な思考に裏付けられていて、いずれも誠にもっともなものです。

 これらの論点は、もともと古田武彦氏の諸作で展開されているものですが、著者は、単純に先人の主張を上書きしているものでなく、立派な追試となっています。

 これらの論証は、古田氏の所論が孤立したものでなく、第三者の追試確認を歴て客観的な主張の重みを備えたことを示すものであり、論語で言う「徳不孤必有隣」(徳は孤ならず 必ず隣有り)の境地と思われます。

以上

 

2014年5月24日 (土)

私の本棚 9 鳥越憲三郎 中国正史 倭人・倭国伝全釈

 中央公論社 2004年

          私の見立て☆☆☆☆        2014/05/24
                 以外★★★☆☆

*はじめに
 本書は、著者の倭族論の集大成であり、氏が、朝鮮半島、中国南部などで行った人類学的なフィールドスタディをもとに、古代史について蘊蓄を極めています。

 まず、最初にお断りしたいのは、当方は、著者の古代人類学・古代史学の実証的な見地に、基本的に賛成していると言うことです。

 ここでは、著者の論旨に賛成できない点を多々述べていますが、あくまで、本論のテーマである魏志倭人傳記事の妥当性についての議論に限られていて、それも、著者の主張の時間次元でのずれに異論を呈しているのです。
 さて、本書は、タイトル通り、中国正史の倭人・倭国伝に対して、氏が全釈を加えたものです。
 なお、本論全体を通して自明の事項なのですが、以下の書評が断定表現になっているとしても、それは、当然、これらは本論筆者の私見であり、記述の際の簡略化の爲、と言うより、筆者が文末の処理の労を厭ったために、推定表現が省略それているだけであり、筆者自身が確たる根拠を以て書き出しているものではなく、あくまで一私人の私見の吐露でしかないことをお断りしておきます。
 まず、著者の基本的な取り組みとして、古代人類学・古代史の見地から、自身の古代史観を確定し、その見地から、倭人・倭国伝に対しているものです。そのため、自身の見解に合わない倭人・倭国伝記事に対して、不信を呈している点が多く見られるのが、筆者の異論を招いているのです。

 なお、ここでは筆者の守備範囲である三国志に限定して話を進めます。

*同意できない三国志観
 冒頭に、著者の三国志観が紹介されていますが、どうも納得できない、根拠不明の断定が見られます。
 まず、こう紹介しています。

 それ以前に王沈の「魏書」、韋昭の「呉書」、魚豢の「魏略」があり、陳寿が蜀人であったので、蜀の歴史を補うことができたとの意見です。
 続いて、こう付け足しています。
 「陳壽の死後、多くの新しい史料が発見されたことで、裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った三国志であるが、今はそれも散佚した。

 以上の紹介は、前提不明の断定を以て書かれているので、学術書としては不適当ではないかと思われます。

 「(劉)宋の429年」とは、裴松之の注釈が追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈のようですが、三国志は西晋末期に史書として完結したというのが、妥当な見方と思います。

 南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立したとの論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨がよくわからないのですが、写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書としての三国志は、散佚することなく、健全に継承されているとするのが妥当な見方と思います。
 「それ以前」とは、陳寿の三国志編纂以前と思われますが、その時点で「魏略」が史書の体を成していたかどうかの議論とは別に(史書として成立していた可能性が高い)、「魏略」が世に知られていたという根拠は不明です。
 もし、正式に晋朝に上梓されていたのであれば、晋朝正史に記録が残っているはずです。
 もちろん、陳寿が、魏志編纂に当たって、魏略を目にしていたかどうかは、別の議論になりますが、上申されていれば史官として知り得ていたはずだという議論は成立するのです。

 とは言え、陳寿は、史書の編纂を任務としているので、創作の前後を争うものではなく、魏志編纂に「魏略」を利用したと言われても、それが、編纂というものだと言うだけでしょうが。

 ここで、「多くの新しい史料」が発見されたと言うのは簡単ですが、「魏略」は、すでに提示しているので、どのような新しい史料が発見されたのか、根拠不明です。むしろ、史料は知られていたが、陳寿が採用せず、割愛した可能性も無視できないのです。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、当然、自身の編纂方針に従って、取捨選択しているのであり、裴松之補注後の三国志は、自身が責任編纂した著作ではない(不適当なものである)と言うでしょう。古来、「蛇足」説話が語られるのは、このような事例を指すものとも思われます。

 このように、著者の論断の前提となる三国志観が、根拠の不確かな先入観、もしくは、偏見を含んでいることは、残念です。

 さて、倭人伝全釈を追いかけていくのですが、劈頭から、国数「百餘国」、「三十国」が、いずれも多数と言うことを示す比喩であリ、事実ではないと、ばっさり断じています。

 しかし、(古代か?)中国では「三」が実数でなく「多数と共に無限を表す」と断定しているのは、賛同しかねるのです。本書で、『三国志』を論じているのをお忘れと見えます

 以下、論議の多い道里について、著者は、「当時の漢族が地理観を間違えていた」と唱えていて、そのために、倭人伝の方位は四十五度の偏差を持っていると断じています。

 しかし、「当時の漢族」に揃いも揃って東夷の地理に関して「地理観」の間違いが存在したとしても、それは日本列島の配置に関する「誤解」であり、倭人伝劈頭の「帯方郡の東南方向に倭人がいる」という記述は、局地的な行程から来ていていることから、四十五度間違える「地理観」とは無縁と考えます。
 まして、かくのごとく「東南」を語る文明は、方位に関して、四十五度どころでなく、その半分の22.5度を識別できる地理観を有していたものとみるべきです。
 してみると、ここに提示された「地理観」は、著者が独自に想起したものであって、実際に当時の漢族が揃って間違えていたという「漢族の地理観」は実在していたかどうか不明なのです。
 どこにも、東夷の地理観を説いた書籍が見られないのに、どうやって、そのような方位感を伝承したのでしょうか。いや、そもそも、各人の方位感を45度ずらことができたのでしょうか。45度ずらせるということは、漢族は、絶対方位感を持っていたということであります。不思議な「神がかり」の発想です。

 この点は、邪馬台国を三世紀の大和にあった古代国家とあらかじめ比定して頑固な予断を形成し、以下、その予断に合うように史料を読み替えているものであり、論証無しに同意することはできないのです。

 以下に現れる末羅国、奴国などの離合集散は、後世史書後漢書の片々たる記載が根拠であり、以下のように堂々と展開されたロマンあふれる興亡史は、あくまで、著者の想定であって、史料に確たる根拠があるわけではないのです。

 著者の想定では、まず、後漢建武中元二年および五十年後の永初元年の入貢は、九州北部の「奴國」の入貢であり、さらに七十年ほど後の「倭国大乱」で、大和の邪馬台国に政権が移行したとみているのです。

 こうして、氏は、三世紀以前に、陸行三十日を要すると思われる遠隔地の国家を支配する古代国家が存在し、それら国家間の闘争を想定していますが、これは、魏朝に入貢した「邪馬台国」を三世紀の大和にあった古代国家と比定したことが想定の起点であり、各史料をこのような比定に帰着するように解釈しているのですが、本末転倒であり、とても同意することはできないのです。

 これは、時代背景を無視した議論であり、時間錯誤の一例と思われます。

 なお、氏は、道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、延喜式の旅費規定に示された旅程日数をもとに考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。而して、漢族の誤った地理観との合わせ技で、女王国をヤマトに着地させているのです。

 しかし、延喜式は、三国志の時代から七世紀を経た十世紀、平安時代の制定です。規定は、大和の王都を中心とした古代街道網が整備されていて、駅制や宿場が整った時代の旅程日数を示すものです。

 九州北部から大和の間に「街道」など影も形もなかったと推定される三世紀の時点に、九州北部から大和に同等の日数で移動できたとは、思えないのです。旅程途中の食糧補給が不確かであり、寝泊まりも確実ではない時代に、長期間の陸上移動を、十世紀と同様の旅程で可能であると想定するのは、無理やりの議論であり、海上移動についても同様に、無理なあてはめです。

 これは、時代背景を無視した議論であり、時間錯誤の一例と思われます。無理に無理を重ねた比定は、学術的な対応とは、ほど遠いものと思います。

 なお、著者の武断は、諸国名列記にも振るわれていて、編者が架空の国名を列記したものと断定しています。また、国名が架空とする意見で、編者たる陳壽に責めを負わせるのは感心しないのです。
 中国の史官は、このような勝手な創作をしないものです。それに要する厖大な徒労は、推定するだけで、耐えがたいものがあります。

 いずれも、現代の論者がどのように論難しても、編纂者である陳寿が反論することはないので、言いたい放題になっている感があります。いや、こうした風潮は、著者だけのものではなく、とかく、陳寿バッシングの嵐になっているので、ついつい、筆者が弁護に立つことになったのです。

 下賜物の銅鏡について、著者の論断は明解です。
 曰く、百枚は誇大表現であって、実数は二十~三十枚程度である。銅鏡は、三角縁神獣鏡ではない。銅鏡は、新作ではない。

 これらの論断は、実際的な考察から、まっすぐに生じたものであり、根拠不明な数量誇張説を除けば、同感です。(百枚やると明言していて、三十枚しかやらなければ、それこそ、説話の猿でも怒り出すでしょう)

 また、著者は、卑弥呼の墓は、「径百歩」が誇大表現であり、いわゆる古墳ではなかったとしていますが、この見方は、卑弥呼の墓を前方後円墳と決めつけている一部の意見に比べて妥当なものです。

 また、著者は、卑弥呼は、在位ほぼ六十五年であり、亡くなったのは八十歳前後としています。よって、即位時点は十五歳とみていることがわかります。ただし、これは、後漢末の倭国大乱時に即位したとの見解から導き出されたものであり、十五歳女子即位については、特に論評されていないのが残念です。

 なお、著者の想定する古代国家で、女王の任務は、あくまで祭事の主催であるので、若年でも支障ないのです。

 さて、総評ですが、著者ほどの逸材にして、私見に基づいて史料を校勘する悪習から抜けられないことは残念です。適用された先入観をもとに、史料の記事を無視したり読み替えたりするのは、古代史を人文科学の一分野と見るなら、正当な態度とは言えないのです。

 著者の論断を所見と断ずるのは、「倭族」論適用で描き出された古代史が、史料の個人的な解釈によって形成された先入観を吊り上げて適用する無理によるものであり、時間次元で大きくずれている可能性が高いと言う本論筆者の所見によるものです。

 ただし、本書の「全釈」は、著者の古代史観が書かれている著作であることを明示していて、潔いものであることには賛同します。

以上

 

2014年5月20日 (火)

動画制作記 2014/04/06 京都 嵐電北野線 「桜のトンネル」

Railroading in Kyoto: A Randen trip through cherry blossoms
YouTube動画へのリンクです。
 上が、モバイル対応の426X240ドット,15fpsとワンセグ並みの小容量なので、スマホなどでも快適に見ることができます。
 下は、フルHD動画ですから、高速回線接続、大画面表示に適しています。
 京都西部を走る嵐電北野線の桜のトンネルは、NHKの新日本風土記でも紹介され、全国的に桜の名所として有名ですが、今回は、乗車時の車窓風景2件と線路脇での通過風景とで、5分程度の素人動画に纏めてみました。
 満開時、「週末の夜間」には、特に前方のブラインドを上げ、車内灯を消灯して徐行運転していただけるので、こうして撮影できるのです。運行予定は、嵐電のサイトで確認する必要があるのはいうまでもありません。(高低棲み分けるとして、定員3名程度です)嵐電は、10分間隔で通過しているので、根気よく待っていれば、好位置をとることができるでしょう。
 当日は、結構いい茜雲でしたが、どうでしょうか。
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 夕陽が、高い枝をあかね色に染めています。
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 電車の車上撮影はぶれが多く、また、車窓のガラス越しでくすんだ色合いですが、手間をいとわず、調整しています。嵐電が車内照明を消灯してくれるので、それほど目立ちませんが、車内情景が結構反映するのです。
 電車車内で動画撮影すること自体の苦労もあり、多分、真似する人はないでしょう。
 今回は、タブレットで静止画を撮りまくるベビーギャングがすぐ前にいて、画面が映っています。
0406randen002
 夕方一回、夜間運転になって一回と、二回撮影した後、宇多野で嵐電を降りて、鳴滝寄りの、線路脇の通過風景撮影場所に乗り込みました。
 撮影場所を電車から撮るとこんな感じです。
0406randen7904
 下の写真は、ちょっと合成画面にいたずらしています。
140406randen04607a
 ここは、普段は地元の人の横断場所なのでしょうが、この時期は横断禁止になっていて、防護柵があり、係員以外は視野に入らないのはありがたいのですが、ここも、いい場所は先客がいるのです。
 筆者の撮影風景はこんな感じです。(こちらは、無修正です)
0406randen0101
 先頭部分に愛好家の三脚が立っていて、ちょっと時間がかかりましたが順番が回って来たので、その場所に三脚を移動したのですが、ズームレンズの操作など、まだまだ不慣れな点が多くて、ぎこちない画面になっています。
 "Randen" is a Y-shaped railroad line connecting Arashiyama to Kitano and Oomiya.
Kitano line is the northern branch that runs beside famous temples like Ninnaji, Myoshinji, Ryoanji, and Tojiin, reaching the neighborhood of Tenmangu shrine.
In early April, the line runs through a tunnel of cherry blossoms in full bloom. Then, on particular Friday, Saturday, and Sunday evenings, when trains run through the tunnel, they drive slowly with interior lights turned off to the delight of the cherry-loving passengers.
http://randen.keifuku.co.jp/en/index.html
以上

私の本棚 5 山尾幸久 新版 魏志倭人伝

 講談社現代新書 835 昭和61年11月

 私の見立て★★☆☆☆ 以外★★★☆☆     2014/05/20
              

 書籍として優れているのは、冒頭の「Ⅰ 魏志倭人伝の成立」であり、特に、魏志の原典となったと称されている「魏略」、そして、魏志に疑念を投げかける際に重用される太平御覧などの類書について、冷静、かつ的確な分析がされていて、その点は、尊敬に値するものです。

 ところが、劈頭で、魏志倭人伝刊本の「邪馬壹国」について、あっさり、誤記であると断定してしまっているのが、執筆方針の交錯となっています。

 主旨は「「現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である。」11世紀刊本の作成時に誤刻したか、刊本の底本、ないしは参考とした写本がそのようになっていたのを踏襲したかはわからないが、いずれにしろ、現行刊本は、全て誤刻されたものである」、と断定しているのです。

 続いて、この断定の論拠として、「4世紀初頭から10世紀末まで」に執筆された各種書物の版本がみな「臺」としているからである、とおっしゃるのです。つまり、ここで、著者は、北宋版魏志倭人傳の「壹」は、原本と異なっていると断定、主張しているのです。

 しかし、本書では、その論証が完結しているようには見えないのです。

 まずは、堂々と指摘した中の4世紀初頭から5世紀までの「空白の世紀」の事例が、能書きばかりで漏れているように思います。

 1世紀飛んで5世紀に書かれた後漢書に「臺」とあることを取り上げて、後漢書の「倭人伝」〔ママ〕は、三國志によることが多い、としています。
 しかし、後漢書が、三國志を丸写ししたという証拠がなければ、これは、北宋本に「臺」と書かれていたという証拠にはならないのです。そして、衆知のように、後漢書の倭人記事では、三國志の魏志倭人伝記事に多くの改編が加えられているのです。笵曄の見識で、文字の入れ替えを行っているのです。
 せいぜい、編纂者である笵曄が臺と書いたものが正確に継承され、今日得られる刊本に到ったのだろうとの推定に過ぎないのです。
 言い方によるのですが、笵曄は、邪馬壹国と書いたのに、後世写本は、すべて邪馬臺国に誤記している、と言うような暴論も、一応は成立するわけです。

 続いて、7世紀に完成したと思われる梁書諸夷伝が、「臺」としていることを述べて、著者は三國志を読んで書いたという確証はないが、当時まで、三國志の記載が正しく継承されていた証拠だと言われるのですが、目下の論証過程を振り返ると、何かの錯覚としか思えないのです。

 梁書編纂者が、魏志に依拠していると注釈しているわけではないので、当時、梁書が「臺」と書いたものが正確に継承され、今日得られる刊本に到ったと推定しているに過ぎないのです。

 更に言うと、隋書俀国傳は、「臺」と書いていないのだから、論外です。隋書の原本に、「臺」と書いてあったとするとのは、根拠の示されていない著者の憶測に過ぎないのです。

 「通典」と「太平御覧」は、魏志に依拠して「臺」と書いているように見えます。ただし、著者が、後段で、「通典」と「太平御覧」の史料批判を行っているので、ここでは、判断を保留しておきます。

 ここで、突然、「以上のように」と総括して、史料系統の源流を「魏志」倭人伝に持つ各種の書物は、版本はみな「臺」としているから、現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である、と括ってしまうのは、唐突であり、提示された論証の方針とずれているので、見当違いと言えます。

 ここで示されているのは、後代書籍が、三國志刊本と異なった表記をしている周知の事実を確認したに過ぎないのです。

 それは、後代書籍の編者が、異なった表記をした三國志写本を参照したのが原因かも知れないが、そのような写本が、三國志の陳壽原本を正確に継承していた同時代の最上写本に対して正確であったかどうかはわからないと言うのが、正確な見方です。

 あるいは、後代書籍の編者が、異なった表記をした何らかの史書を参照したのかもわからない。

 そもそも、陳壽原本が、女王國の国名を誤って記載したのかもわからないのです。
 余り議論されないが、可能性、「かも知れない」を言うのであれば、陳壽が、倭人から提出された国名の「臺」の字を忌避して、「壹」と改訂した可能性だって無視できないのです。

 所詮、不確実な資料を基にした不確実な思考の積み重ねなので、著者は、どの「わからない」を明らかにしようとしているのか、自身の課題を自覚して、課題とした「わからない」の解明に絞るよう、明快に論証して貰いたいのです。

 著者の論証で、辛うじて根拠と言えるのは、後漢書と梁書です。隋書は、臺と書いていないから、現に書いていないものを、元々書いていたかも知れないとするのは、論証ではなく憶測に過ぎないのです。

 そして、「通典」と「太平御覧」の二類書は、資料として信頼できるかどうか検証されていないのだから、証拠となるには不適格です。

 証拠としたいのであれば、この段落以前に史料批判しておくべきです。

 そして、著者がいみじくも追記しているように、証拠として提示されているのは「刊本」です。三國志については、北宋刊本とその底本とが取り上げられていて、北宋刊本から南宋刊本、そして今日の刊本への継承は問題としていないが、論拠として提示された史書の継承の信頼性については、何ら検討がされていないのです。

 総括すると、著者の持論と思われる議論、つまり、「現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である」とする判断を正当化するようにみえて、実は、諸事が羅列されているだけで、論証はされていないのです。

 その後に続く、類書の史料批判は、冷静かつ妥当なものと思えます。
 前シリーズの陳壽小論の末尾で、自前の類書批判をしたのは、その時点で、本書を入手していなかったためとも言えます。従って、この部分は、我が意を得たという感じです。
 ここでこう断じているのに、前段の「壹」「臺」議論で、類書二件を裏付け証拠として取り上げたのか、不審です。

 そして、「Ⅱ 王都 「邪馬台」の所在」は、不可解です。
 これほどの偉業を成し遂げたのだから、地名として残っているべきだとおっしゃるが、断言するほどの定見とも思えないのです。
 倭人伝短里説は、作業仮説として、相当の妥当性が見られますが、著者は、否定のための否定を資料で示しているだけで、実際上一顧だにしていないのです。

 問題は、魏晋朝で、短里が施行されていたかどうかではなく、倭人伝の道里が、短里で読むと理解できると言うことの確認と思われます。
 倭國が、遙か南の海上に伸びた列島にあるなどと書いても、いずれどころか、すでに、倭國の実情は公孫氏の知るところであり、それは公孫氏と交流のあった呉朝の求めた知識ではないかと思われます。

 そして、史官として、陳壽がそのような低次元の欺瞞に加担したとは思えないのです。

 むしろ、韓半島有事の時に、倭國から、何名の兵力がどれだけの期間内に、帯方郡治に到達できるかを示すことが重大ではなかったか、そのために、戸数を示しているのではなかったか、と思われます。

 むしろ、戸数の誇張こそ考えられるのではないでしょうか。

 短里が全面的に否定され、放射行程が否定され、邪馬臺国と決め打ちした女王國を遙か彼方に決定的に追いやってしまえば、魏使の女王國往還も否定され、張政の滞在も無意味になります。そうすると、倭人伝全体が、意味のない虚辞の連鎖になるのです。

 それにしても、生駒山を越えて侵入しようとする敵と暗峠で戦っているような地方政権が、遙か彼方の大国筑紫を支配し、当然、途中の吉備、播磨、出雲も包括して支配していたとは、信じがたいのではないでしょうか。200年以上時間を取り違えているのではないでしょうか。

 筆者は、時折、客観的な証明とか実証とか論理的な著作を装っていますが、不確かな文献資料の山を元に推測を巡らしているのであり、客観的も論理的も虚辞に過ぎないように思えるのです。

 そして、この部分の展開が、「邪馬台」ヤマト説を固定観念にしていて、不可解なのです。著者のような合理的思考の持ち主が、何か、重大な行きがかりがあって、このような固執を起こしているのか。不可解そのものです。

 さらに不可解なのは、著者が、魏使張政が、邪馬台国に滞在したことを認めていることです。著者に従うなら、遠路遙かな近畿邪馬台国まで移動したはずであり、当然、その際に、途中の停泊地と詳しい旅程が得られていたはずなのです。

 再三ですが、ここに確認すると、張政は、倭國の動員能力を確認するために派遣されたのであり、それを証する戸籍類を提出させているはずです。その代償として、女王には金印を与え、それ以外のものたちには、官位、銅鏡などの対価を与えているのです。
 そういうした重大な使命を帯びて派遣されていた張政の現地調査の成果を、不確かなもの、誤ったものであると推定するのは、無理というものです。

 本書を読み終えて、困惑の念が解けないのは、なぜ、これだけの紙数を費やして、いたずらに憶測や推定を積み上げたのかと言うことです。

 多分、本来一行で済んでいたのではないでしょうか。倭人伝の道里記事は、合理的な解釈で読み解くことが出来ないので、史料として信頼することが出来ない、この一言でよかったのです。
 前後の章の整った行き方からすると、どうにも、こうにも、納得しがたい展開です。

 「Ⅲ 三世紀の倭人の世界」は、本来の論調に帰って、多彩な視点からの考察が盛り込まれていて、貴重です。

以上

2014年5月19日 (月)

私の本棚 4 大塚初重 邪馬台国をとらえなおす

 現代新書 2012年

          私の見立て★☆☆☆☆        2014/05/19
                 以外★★★☆☆

 こうした新書版の一般読者向けの書籍では、導入部に工夫が必要と思います。

 以下、その見地から、本著作への批判が続きますが、極力淡々と指摘するので、ご不快な向きは、読み飛ばしていただいて結構です。

 本書に限らず、新書版書籍のいわゆるつかみの部分は、堅実にするのが、正道といえます。堅実とは、ちゃんと、確実な史料を押さえて論理的に説き起こしているかどうかですが、この書籍は、冒頭の第一章第一段に始まって、そのような正道を外れて、つまずきの連続です。

 ついでに書くと、早々に「偏向」「曲筆」とする弾劾症状が出ていますが、これらは、小生の言う「水鏡」言葉です。禍々しい姿に吠えついているが、実は、それは自分自身の反映なのです。

 一体に、史実と言っても、その形は言葉では捉えられない複雑怪奇なのであり、時々刻々に変貌するものです。

 その変貌した形の一瞬を、筆者がとらえて、文字で綴るわけですから、神のごとき視点と神のごとき言葉遣いでもなければ、史実を「正確に」「漏らすことなく」伝えることはできないのです。

 だから、「偏向」「曲筆」と言うものの、筆者としては、自分の視点から見たことを見たままに述べているだけで、何も、弾劾すべきものではないのです。

 「偏向」「曲筆」の判定基準は、そう言い立てる著者の中にあり、基準は、何故基準とされているのか、所詮、人は自身の中の何かを基準としているに過ぎないのであり、それ自体が、「偏向」「曲筆」であると言えます。

 してみると、「偏向」「曲筆」を指弾するのは、無意味なのです。人は、そのような指弾者を、「尊大」「独善」と呼ぶものです。

 たとえば、陳壽の三國志編纂は、先行する史書の引き写しで成立しているといい、それに加えて、史官として利用可能な魏晋朝資料を利用したといいます。

 確かに、編纂の過程に、両者の過程が入り交じっていたことは確かでしょう。

 陳壽は、文筆家でも論客でもなく、謙虚な史官であるから、先人の著作を参照して、自身の筆を加えることは最低限にとどめ、忠実に利用したものでしょう。その過程で史官としての史料批判や校勘を試みたとしても、最終的に、原文を踏襲したというところは、多々あるでしょう。

 それ以外の部分では、当然、原資料を編纂したのでしょう。

 どちらに編纂家としての重点があったのか、後世の読者がそれらの編纂過程のいずれを重いとするのか、それは、後世の読者の感性のもたらすものです。

*「論衡」談義
 いきなり、当然の如く「正史」として「論衡」が取り上げられていますが、論衡は史書でないので、正史のはずがないのです。不用意そのものです。つまらないことを、意味もわからないままに書き立てると、信用をなくすだけです。

 「論衡」は、思想書、というか、中華世界に関する百科全書です。

 各記事は、史実を忠実に記載することを第一義としたものではなく、後漢時代の著者である王充が自己の思想、世界観に基づいて諸々の事柄を記述したものであり、当然、その主張を裏付けるような比喩や創作も、多々含まれていると見るべきです。

 例えば、当時の史観としては、後漢光武帝が、赤眉を代表とした新王朝への反乱による中国全土の大混乱を見事に平定したことにより、遠隔の倭人の貢獻があったことを挙って称えているものと思います。

 反骨漢の王充は、それは、古来繰り返されてきたことである、と言いたかったのであり、そのために、殊更に、倭人の来訪を書き連ねたのかも知れません。

 つまり、故事の紹介であるが、それが史実かどうか確認していない可能性が高いのです。

 論衡を正史として取り扱い、記事を史実と判断するのは、早計に過ぎるでしょう。独立した別資料によって裏付けられない限り、疑問符を付けて取り扱うべきと考えるものです。

 現在、正史及び有力な史料文書については、デジタルデータ化されていて、全文検索が可能ですが、「倭人」の周朝への貢獻記事は、論衡の二箇所のみです。

 付け加えるならば、「論衡」は、後漢時代に著述されてから世に現れるまで膨大な時間を要し、世に知られてからも、反儒教の書と評価されたため、現在に到るまでの期間の大半は、非公式に写本が継承されてきたものであり、王充の著作が正確に継承されているかどうかは、不確実なのです。
 その点の史料批判もされていないように見受けます。

 ついでですが、「中国の歴史時代は、夏から始まったとされている」、と言うのも、のんきに過ぎるのです。史料が確認されているのは、商が最古であり、それも、殷に都をおいた後期が、殷墟発掘によって確実視されているだけで、その創業期は不確かであると言うべきです。

 もちろん、商が夏を打倒したという創業期の史実が史料で裏付けられれば、夏の実在も確実視されるのであるが、商の創業寺は、文字のない時代であり、当時の商都が発掘されたとしても、史実の確認は困難でしょう。

 論衡の記事では、「周の時、天下太平」としているが、周初には激しい内乱があったし、周王朝の長い治世を見渡すと、東遷後の春秋戦国時代には、「天下太平」と呼べる時代などなかったろうし、諸国の興隆に周の威勢は大きく傾いて埋もれていたので、倭から周に貢献するとしても、途中の燕や齊が遮る可能性が高いのです。

 と言うことで、洛陽に遷都した東周への倭人貢獻は想定しがたく、と言って、長安付近に都していた西周時代となると、倭人の貢獻の目的地は中国大陸奥深い上に、時代が遙か遡る茫漠たる太古となるのである。

 別の段落を見ると、倭人が貢献したのは、周王朝創業期の第2代成王の時らしいのですが、そうすると、紀元一世紀の光武帝の時代の1000年前になるのです。
 周王朝は、史官を置いて、周王の所行を記録していましたが、王充の時代まで、史料が伝わっていたかどうかは不明です。少なくとも、史記には、倭人貢献は、書かれていないのです。

 成王の治世は、後の長安附近である関中の首都に加えて、後の洛陽となる副都を設け、ここを拠点として河水、淮水の下流の東夷制圧を行い、続いて、さらに遠隔の諸勢力に対して、来朝して服従しないと征伐するとの威令を流布させ、その威嚇に応じて、南の越と「倭人」が来朝したと記録しているものと思われます。

 ただし、冷静に見て、論衡に書かれた倭人が、どこの何者なのかは、不明であるというのが、妥当な意見と思われます。そして、論衡以後に書かれた、三國志や後漢書の著者が論衡の記事を見ていたとしても、この倭人と両史書の倭人記事の倭人が同じ実態のものと考えていたかどうかは不明であるというのが、合理的な見解と考えます。

 「後漢書」
 次いで、漢書にちらりと触れた後、後漢書に話題が移っていますが、中国正史の紹介手順としては正しくないものです。
 後漢書は、三国志の後に書かれたが、殊更に三国志の記事を乗り越える書き込みがあるので、これを先に読んでしまうとと、読者の順当な理解を遮るものがあります。とくに、倭人記事は、慎重に順を定めて紹介すべきなのです。
 ここで、倭人記事と書いたのは、当筆者のように、殊更に、「倭条」とか「倭人条」とか、とくに原書に示されていない名目を唱えてくるので、うっとうしいからです。
 さて、紹介の順を誤ったとがめが出ているのが、後漢書紹介の中で「魏志倭人伝」が登場することです。魏志倭人伝の紹介をしないわけに行かなくなって、後漢書を脇に押しやるのですが、まことに不出来な紹介手順と言わざるを得ないのです。
 本書の「後漢書条」の末尾では、「後漢書」は「魏志倭人伝」より後に書かれたと二度目の確認となっていて、字面を追うと、正史全体が、別の正史の一部分と対比される不用意な書き方になっています。
 それにしても、本書の書き方では、なんの為に、後漢書をここに置いたのか、不明瞭になっているのです。

 「魏略」
 いよいよ、魏志倭人伝の紹介となりますが、いきなり「三国志の資料となったのは魏略」と書いてしまっていて、これは軽率です。当然、私見を交えず、資料の一部となったと推定されていると書くべきです。

 三国志は正史であり、晋朝が国家事業として取り組んだのであるから、資料の多くは、政府の書庫に保管されていた公式文書です。

 これに対して、魏略は、魏朝の事績全体を記述したものであり、倭人記事だけではないのだから、魏略が、帯方郡使の倭國訪問記を元に書かれている」というのは、不用意な言い方と言えます。

 それにしても、魏略は、早期に散逸して、全体が伝わっておらず、著者である魚豢の事績も不明で、わずかに、魏の史官であったらしいというだけです。

 ここで、重複して、三国志の編纂者である陳壽が魏略の記事を利用したと書かれていますが、それは確実に立証されていない、漠たる推定です。

 「この頃」
 続いて、「この頃」というが、資料の記述時期の議論をしていて、この頃というのは、魚豢、陳壽の活動時期かと思ったら、史書の記述対象である三国分立期のことに話が移っています。まことに不用意な書きぶりです。

 「倭人条」
 魏書30巻の中に東夷傳があり、東夷伝に各国銘々の条があると言う説き起こしですが、魏書写本に条と書かれているのは見かけないのです。
 紹凞本のように「伝」と小見出し付きになっているか、小見出し無しに続けて書かれているかのいずれかです。
 いわゆる正式名は「業界通念」かも知れないが、客観的な根拠の書かれていない主張は独善と呼ばれるものです。

 と言うように、ここまで新書の20ページ強の分量を論評したのに過ぎないのですが、ある程度事情に通じた読者が読むと、一段毎にだめ出しが伴う、粗雑な導入部です。

 このあたりは、定説の確立された周知の事情だから、ある程度端折って書くのだという声が聞こえそうですが、その割には、重複記事があるし、要点を、安易な引用に頼って、誤伝を拡大再生産している面があります。誰かに代書させたのでしょうか。それにしても、不正確な代書であり、修行が足りないようです。

 以下、折角購入した書籍なので、お説を聞くとしても、こうした粗雑な解説が置かれている事から来る著者の見識への不審感は、ぬぐいがたいのです。

 著者の弁では、自身は考古学者であって、文献解釈は本分ではない、と逃げを打っています。そのせいか、倭人伝の記事の誤記論については、「明治以来学者の一致した見解」(一大國論)のように、安易な定説風評に逃げ込むのは、学問として行き届いていないのではないかと思うのです。

 以上、手厳しい意見が出てしまいましたが、ご本人が自負しているように、本書の主部に開陳されている考古学分野の知見と見識には、耳を傾ける部分が多く、十分に新書の価値はあると言えますが、この見地からの紹介は多々あると思うので、重複を避けさせていただく。

 惜しむらくは、不得手とされる文献解釈に、著者の学識から生まれる「常識」の光を 注いでいただきたかったと言うことです。


 小生ごとき一私人でも、以上書き連ねたような批判、あら探しができるのですから、学会の縄張りにこだわらない活躍をしていただきたかったと思うのです。

以上

2014年5月16日 (金)

私の本棚 2 松本清張 清張古代游記 吉野ヶ里と邪馬台国

 日本放送出版協会 1993年11月

          私の見立て★★★☆☆

 松本清張氏は歴史学者ではないので、一般人扱いで、清張氏と書かせていただきます。
 本書は、清張氏著作の中でノンフィクション部分の中核をなしている「邪馬台国 清張通史1」の集大成であり、決定版と呼ぶべきものです。

 「邪馬台国 清張通史1」は、単行本および文庫本として出版され、最新版は、それぞれ、「松本清張全集 33」 ((株)文藝春秋社 ’84年7月第一刷)とそれを増補した「講談社文庫」(’86年3月第一刷)として出版されています。
 「邪馬台国 清張通史1」は、一連の清張通史(1~6)の中で、唯一松本清張全集に収録されていて、世評の高さをうかがわせるとともに、清張氏のフィクションも含めた膨大な著作の欠くべからざる一角を構成する代表作と評価されているものと言えます。

 本書は、当該著作の前後に1989年の吉野ヶ里遺跡発掘に関する論考を追加し、最新の発掘、発見を取り入れた決定版としているものです。
 また、清張氏が逐一書き上げたものではなく、清張氏の没後に、氏の著作に対して、清張氏の残した著作メモに即して図形資料、図版、カラーグラビアなどを充填したものであり、その意味でも、氏の邪馬台国論の集大成となっているものです。

 清張氏の邪馬台国論は、古代史関係著作の口切りとなった「古代史疑」を母体として、記載を充実、強化していたものと見受けられ、論旨については、一貫したものを保っています。
 「古代史疑」は、当初、雑誌「中央公論」'66年6月号-'67年3月号に連載され、 '68年3月に中央公論社から単行本刊行されました。
 従って、ここでは、それら著作についての論評は避けます。
 素人考えでは、清張氏の意思を明確にするには、「邪馬台国 清張通史1 最終版」としたいところでしょうが、版権者に憚るところがあって、このような体裁としたものでしょう。
 ただし、結果として、同一の著作の複数の時点の形態が残されていて、氏の関連著作の全貌の把握を困難にしています。

 清張氏の邪馬台国論は、大別すると九州説に属するものながら、学会の既成の論者に追従するものではなく、広く、諸資料、諸文献を渉猟した基盤から出発し、作家としての豊富な知識、眼力に載せて、壮大な構想を展開したものと言えます。
 その際に、古代史学会の埒外とされている古田武彦氏の意見にも反応していますが、なんとしても、歴年の思索の果てに、適切な根拠に欠けると思われる倭人傳虚妄論に陥ったとがめは大きいと思います。
 そのために、正史と雖も、膨大な筆写の果ての姿であり、誤写があって当然という憶測の陥穽に陥っていて、正史の筆写には、誤写を防ぐために、複数の校正者による読み合わせとか、筆写継承回数の削減とか、絶大な努力が払われていたはずだから、誤写の可能性はきわめて低いはずだ、などの妥当な推論ができていないのです。

 課題を与えられ、課題が解けないからと言って、課題の否定にかかるのは、正道を外れるものです。魏志倭人傳のように、執筆姿勢が丁寧で、正史として適切に保存されていると見られる資料を否定したら、もはや、いかなる資料よりも、頼れるのは自らの見識となってしまうのです。
 主張の根拠を明快にしている限り、それはそれで誠実な姿勢ですが、本稿筆者の信条に反する論法なので、誤解は誤解として指摘せざるを得ないのです。

 清張氏は、当分野に関する著作を発表し始めた時点で、既に、いわゆる文豪として知識人の最高位に格付けされていて、機会あるごとに、当分野の最高権威とされる諸賢と面談して、質疑したと言うことですが、氏の発言、著作は、既に確たる権威を持っていたので、ご本人にはそのつもりはなかったとしても、何かと儀礼的配慮が働いたと思われるのです。
 また、古代史学界は、議論を好まず、先哲の説を堅持し、とにかく異説を沈静化させるものなので、氏の意図した議論喚起とは行かなかったように思います。

 氏の倭人傳評価は、先入観で即断した事例を除けば、大局的に冷静であり、世上の当分野著作で、功を焦った著者が、時として、持論の展開に勢いを付けるために倭人伝を踏みつけにする愚とは、無縁であると感じています。

 と言うことで、ここで、批判しているのは、清張氏への尊敬の念の表明とさせていただきたいのです。

以上

2014年5月15日 (木)

私の本棚 1 佐原真 魏志倭人伝の考古学

 岩波現代文庫 2003年7月刊行

          私の見立て☆☆☆☆        2014/05/15
                 以外★★★☆☆

 本書は、国立歴史民俗博物館の発行したブックレット(1998年刊)を加筆編集したものです。
 編集に当たって、中国思想史、特に老荘思想・道教研究の研究者であった福永光司氏の見解を取り入れているということですが、共著にはなっていないものです。

 本書の真価は、倭人伝の文書批判ではなく、倭人伝記事を糸口に、書かれている倭国の風物と現在に至る考古学の成果を交錯させる民俗学の見方であり、豊富な物証とそれに対する深い分析をもとにした貴重な定見が見られます。
 学術的な著書として、この上ない業績であることは、言うまでも無いことです。

 以下、私論である魏志倭人伝解釈をもとに、瑕瑾を突かせていただいた個人的な批評を加えます。

 冒頭に、魏志倭人伝が通称であることのもったいぶった念押しに加えて、いくつかももったいぶった前振りがあります。

 続いて、福永光司氏の意見として、三国志南宋刊本の刊行された時代は、外敵侵入で首都陥落したため失われた史書、哲学書の復活、復刊を急いでいたため、正史の刊本といえども、誤写や誤記の多いものであり、三国志記事についても全幅の信を置くべきでないとの見解が書かれています。
 さすがに、知識豊富な権威者の意見として傾聴すべきかと思いますが、あくまで概論として南宋刊本に適用するものとしても、具体的に、正史たる三国志南宋刊本に適用できるかどうか、念入りな検証と批判が必要と思われます。

 たとえば、三國志刊本は、国家の事業として早々に紹興年間に刊行されたにもかかわらず、後を追うように紹凞年間に新規刊本が刊行の運びとなっており、そこには、良質な北宋刊本の入手によって、紹興本の瑕瑾が訂正されたとの背景がうかがわれ、従って、その内容に格別の信を置くだけの根拠が見られるのです。

 しかし、本書で、著者は福永光司氏の意見をそのまま本書全体の底流としていて、三國志紹凞本影印を掲載しながら、読み下し文に依拠し、さらに筆者主観の赴くままに読み替えていく史料軽視の方針を採ったものと思われます。

 先人の示すままに倭人伝への信頼を放棄した著者は、遺跡、遺物を資料として採用するのは当然として、奈良時代の「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」の記事を参照したと表明しているわけですが、これは、後世の古代国家確立後の記事と言う衣を四百年余り時代をずらして三世紀に当てはめる当代の気風に染まる危険性が感じられます。

 それは、倭人伝記事をもとに考察するという執筆姿勢とそぐわないもののように見えます。

 以上書き連ねたように、出発点である魏志倭人伝を、根拠が不確かな他人の意見に従って疑わしいとの先入観で扱ったため、闊達な議論が出来ていないところが散見されるのは、残念です。

 個人的な意見としては、卑弥呼が、年配の女性、果ては、老婆と限定しているのは賢明な見方ではないと思いますが、基調として邪馬台国の採用と並んで、自説に馴染むように資料解釈を撓めていく論法が目立つのです。

 著者の不得手な分野と思われる史料批判が、本書の価値を損なっているのでなければ幸いです。

以上

2014年5月14日 (水)

24. 鉄と紙 - 古代国家の礎

 引き続き、具体的な文献や遺物に基づかない所感を連ねることにします。

 文書による行政インフラの整備は、一つには、紙や筆墨の大量普及によるものであり、一つには、遣唐使によって唐王朝諸制度を輸入したことによって始めて整備できたことによるものであり、その背景として音訓併用の漢字の使いこなしを含めて、年月を重ねた膨大な学習の積み重ねの成果が求められています。

 これに加えて、日本列島で、古代の産業革命とも言うべき変革が起こったことも背景にあります。

 変革の原因は、鉄器の普及です。

 鉄器は、武器として強力であることはいうまでもありませんが、鉄製農具は、農耕の効率、作業性を飛躍的に向上させます。

 鉄製農具を使用すれば、既存の農地の耕作が迅速かつ手軽にこなせるだけでなく、新田の開墾に於いて、樹木の伐採、岩石の除去、そして、灌漑水路の開削と、食糧増産に繋がる変革をもたらします。

 食料たる米は、他の穀類に比べて格段に反収量が多い上に、このようにして増産、備蓄されると、多数の農民兵を動員した、大規模かつ長期間の軍事活動を可能とするとも言えます。

 また、道路整備においても、道路の開削整地、あるいは、木橋の敷設など、鉄製工具があって始めて実現するわけです。

 土木工事の人海戦術というものの、木製農具を振りかざしていては、とても、大規模なインフラ整備は起こらないのです。

 古代人は、鉄製兵器作りに専念していたのではないでしょう。

 古代ローマは、ギリシャ文明を学んだとは言え、ローマを起点とする舗装道路網を形成することにより、都市国家分立のギリシャとは異なり、統一国家を形成したのです。

 一私人の所感ですが、古代国家は鉄と紙の上に築かれたのでしょう。

 三世紀に古代国家を見ている古代史家は、SFで言う chronoclasm (時間錯誤)に陥っているように思います。

以上

 

2014年5月13日 (火)

23. 古代国家史疑 - またもや余談として

 ここでは、具体的な文献や遺物に基づかない所感を連ねることにします。

 古代史の権威とされている(著書を刊行している)諸賢には、3世紀初頭当時、すでに現在の西日本を包含する古代国家が成立していたとの歴史観を持っている向きがあるようです。

 特に顕著なのは、三世紀ないしそれ以前に、現代で言う「近畿」に古代国家が成立していて、遙か九州北部まで支配していたという歴史観です。(「近畿」と「畿内」は、帝都周辺領域という意味であって、遙か古代の地勢に適用するのは時代錯誤なのですが、仕方なく使用しています。)

 こうした手前味噌の古代史観で、文献、遺跡、遺物の時代解釈を煮染めていくような議論には、どうにもついて行けない感じです。

 その様は、「ピンポンパン体操」(阿久悠作詞)のトラのプロレスラーを思い出させます。元々、体に合わない「しましまパンツ」ですから、ずり上げて履いても、試合中にずり下がってきます。それを、手づかみでずり上げたとしても、すぐずり下がるのは、子供の目に止まっています。身に合ったパンツに仕立て直したらいかがでしょうか。

 さて、当方の見るところ、魏志倭人傳は、辛うじて、九州北部に散在する、慎ましい村落「国家」連邦を書き残しています。

 成文法も暦法もなく文書行政が形成されていない、交通手段が整備されていない、君主の権力が確立されていない、前「古代」的国家の姿が描かれているのです。

 時代インフラ、つまり、その時代の社会基盤に見合った国家形態です。

 三世紀に古代国家を見ている古代史家は、SFで言う chronoclasm (時間錯誤)に陥っているように思います。

以上

2014年5月12日 (月)

22. 復立..年十三爲王 - 少女王立つ

 「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。」

 ここで、「また」と書いているのは、卑彌呼が少女時代に王に共立された事態を再現したと示唆しているのではないでしょうか。

 ただし、13歳は年齢不足で女子と呼べないし、独身の女王には娘がないので外孫でもなかったということから、構文を変えているのでしょう。

 思うに、各国の仲裁には、世間の利害に縛られない、13ー15歳の少女を王に仕立てるのが最善という考えだったのでしょう。

 余談ですが、倭人傳の裴松之注で、「魏略曰:其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀。」と書かれているために、倭國では、現在の一年を二年に数えて年齢表記する習慣があったように述べる先賢がありますが、同感しきれないものがあります。

 特に顕著なのは、「壹與、年十三」と言うことで、さすがに実年齢が6歳では、女王が務まらなかったように思われます。

 一つには、裴松之注記があるということは、陳壽が倭人傳にそのような記事を採用しなかったと言うことです。「魏略」は、倭人傳に先行して書かれたようですが、それぞれの編纂に際して、、後漢、曹魏の共通史料を利用したと思われます・従って、陳壽は、「其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀。」と書かれた史料を、採用しないとの判断を行ったものと思われます。

 また、曹魏に遣使し曹魏皇帝を天子と仰ぐと言うことは、曹魏の年号、暦法を奉じると言うことであり、してみると、少なくとも、倭国の公式資料では、一年が365日強である暦法に従って、年齢を数えるように変わっていたものと思われます。

 従って、長寿命を示唆する前代の風俗記事は別として、「壹與、年十三」とした記事は、そのまま、数えで13歳と読むべきでしょう。

以上

2014年5月11日 (日)

21. 大作冢 - つつましい墓制

 「卑彌呼以死,大作冢

 ここで見る限り、卑彌呼の死を受けて「冢」を起こしたのであり、生前に墓を作る「寿墓」の想定される余地はないように思います。

 まして、小論では、卑彌呼は、まだ20代のうら若い女性と想定しているので、そうとなれば、その死は、あらかじめ想定されていなかったと見るべきでしょう。

 また、王の、突然の死による動揺の中で、それまでにない山のような墳墓を構築したとしたら、構造設計、必要な人員、食料、資材の徴発、確保が難事業となったはずですが、そのような困難さに言及されてない以上、粛々として、それまでの倭國墓制に沿ったつつましい墓所が造成されたと思われます。

 以下、本小論の考察により、卑彌呼年譜(私見)を描いています。

西暦   皇帝     年     年齢 事歴
220年 後漢献帝 建安25年          3月魏公曹操死。延康改元。
220年 後漢献帝 延康元年         10月魏に禅譲。曹丕即位。
220年 曹魏文帝 黄初元年   1歳 卑彌呼誕生。男王外孫。
226年 曹魏文帝 黄初七年   7歳 文帝曹丕崩。曹叡即位
230年 曹魏明帝 太和四年 11歳 倭國乱れる。(~234年)
235年 曹魏明帝 青龍三年 16歳 倭國王卑彌呼共立。
238年 曹魏明帝 景初二年 19歳  6月魏 倭使来魏。
239年 曹魏明帝 景初三年 20歳  1月明帝曹叡崩。曹芳即位。
240年 曹魏曹芳 正始元年 21歳 魏使来倭。
247年 曹魏曹芳 正始八年 28歳 卑彌呼死。
以上

 

2014年5月10日 (土)

20. 獻生口 - 推定無罪

 倭人傳には、「生口」と言う言葉が、4カ所で計5回書かれています。

 その最初の箇所は、「持衰」の話題で書かれていて、これは、「生口財物」と並べられているので、何か価値のある「もの」だろうなと思えますが、それ以上はわかりません。

 それ以外の3カ所、4回は、倭王が曹魏皇帝に献上した「もの」で、ほぼ同文脈で書かれ、内、正始4年の記事以外は、単位が人となっているので、人間のことであろうと推定できます。

 これらの「人間」の正体について、色々議論があり、奴隷を献上したとの見方が、比較的有力となっているようです。それだけなら、特異な事例として受け流すのですが、これらの記事を拡大複写して、当時の倭王は、他国を侵略して、奴隷を取り立てていたとか、半島に奴隷を輸出していたとか、云々している例が見られるのは、嘆かわしいことです。

 今回、関連書籍を眺めていて感じたのですが、世上には、古代国家とか古代の国際関係とか、かなり、近代的/現代的な図式を古代に貼り付けて、派遣とか征伐とか、後代の言葉を当てはめている向きがあるようです。

 また、どんな成り行きでそうなっているのか判然としないのですが、二世紀末から三世紀初頭にかけて、すでに西日本が統一国家となっていた、と言う、壮大な仮説を推進している向きもあり、そうであれば、織田信長の天下布武もそこのけの武力統一活動が、千年も先駆けて展開されたとか、その際に、大量虐殺や捕虜獲得があったといわれても、そんなものかと思ってしまおうというものです。

 しかし、冷静に考えると、これらの意見は、「時間錯誤」と考えるものです。

 古代国家は古代国家に必須のインフラ無しには成立せず、武力統一もまたそれに必須のインフラ無しには実行できない、従って、三世紀に古代国家はなかった、というものです。

 もっとも、古代史で何かが全くなかったことを立証するのは不可能です。

 せめて、告発即断罪でなく、推定無罪として頂きたいものです。

 さて、生口については、これに先立つ小論で、各国の国主/国王が、魏朝への臣従の証として、自国の戸籍や地図を献上したのではないかと当て推量しましたが、以後の見聞も含め、単位に人とある以上は、人間が移動したものと見ざるを得ないと納得しました。

 と言うことで、現在は、「人質」として国主/国王の親族を派遣したものとみています。

 例によって、この意見は、史上の根拠が明らかでない、所感であって、素人考えであることは、ご理解いただきたいと思う次第です。

以上

 

2014年5月 9日 (金)

19. 景初二年 - 虚心に読み解く

 「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、

 最近、宮城谷昌光氏の「三國志」第十巻を新潮文庫で読みました。

 「三國志」と銘打った諸氏の著作が、実は、吉川英治「三國志」を初めとして、「三國志演義」に基づく著作であることが多いのですが、宮城谷氏の場合は、正史の三国志を基本として、小説世界を構築しています。

 と言っても、ご存じの通り、陳壽の編纂した三國志は、歴史の骨格だけを書き出している部分が多いので、当然、物語の叙述の流れは氏の創作部分が多いのですが、それでも、あくまで、正史の記事とその流れを踏まえた筆致となっています。

 さて、本小論に関して云えば、第10巻では、正史の記事通り、景初二年六月の倭国来使であり、司馬懿が率いた公孫氏討伐派兵の時点での来使背景が補筆されています。

 作家として、筋の通った説明を試みて、それでよしとの見方と思います。

 景初二年遣使は、筋の通った記事になっているとの判断は参考にすべきだと思います。

 世上、講談調の解釈で「景初二年」を「景初三年」に読み替える例が多いのですが、堅実な、学術的な文献解釈は、まず、書かれているとおりに読み取る、との基本に立ち返った方がよいでしょう。

 そのような、誠に合理的と思われる主張に反応して、激高したような筆致で、「景初二年」を否定する例がありますが、別に、大した事項ではないのに、どうして、大声を立てるような筆致になるのか、不思議です。

 例えば「光秀密使」論などは、講釈師の「見てきたような嘘」の代表的な例であり、斯界の泰斗が麗々しく唱えるような議論ではないのですが、他に何も反論の論拠がないと言うことは、たぶん、筆致は冷静でも、内心では、回答に窮して、感情的になり、罵倒したのでしょうか。

以上

 

 

 

2014年5月 7日 (水)

17. 婢千人 - ペーパーレス社会

 「以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。

 邪馬壹国に女王の王宮があって、1000人の公務員が雇われていたということですが、文書のない時代で、伝言、使い走りに結構人手がかかっていたことでしょう。また、王宮内で消費するの食料や日用品の買い物にも、人手が必要だったでしょう。

 中国の王宮には官奴という制度があって、老齢の官奴の働きぶりが痛々しいから、65歳定年を適用して、官奴から解放したらどうかと建言した人があったとのことですが、官奴は、衣食住の保証された被雇用者であり、老境での解放は、実質上、解雇、失業という悲惨な境地となるのです。何しろ、自前の耕作地がないから、官奴から解放されたら、喰っていけないのです。

 と言うことで、直接農作業に貢献しない人員が千人いるというのは、米など基幹作物の収量が高いと言うことであり、東夷の国家にして、なかなかの偉容です。

 もちろん、王宮には、献上品に列記されているような「倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、犭+付、短弓矢」などの美術工芸産品を、国王のために制作する「尚方」も備わっていたことでしょうが、これが、「婢」に含まれていたかどうかは、知るすべがありません。

 これだけの人員が住み込みだとしたら、全員に衣食住の保証ができるというのは、そこそこの権威のある「国家」と言うことになるでしょう。通いなら、住は軽減されますが、それにしても、交通機関のない時代に、数百人が王宮に通うというのも、壮大なものです。結構、首都の表通りは、整備されていたと言うことでしょうか。

 とはいうものの、文書国家の形成以前で、書類と言うものがないから、膨大な文書の往復がなく、書類保管庫もなく、書類廃棄もなく、新聞、雑誌、書籍がなく、誠に静かな社会であったようです。

 国王/国主も、稟議上申書の山を読解して、裁断を書き下す膨大な執務がなく、朝議は、毎日短時間で終わっていたはずです。

以上

2014年5月 5日 (月)

15. 事鬼道 - 「鬼」とは何だったのか

 「事鬼道能惑衆

 卑彌呼自身の行いとして知られているのは、此の六文字です。

 あくまで根拠のない所感ですが、卑彌呼は、後年の神社に見られた巫女のような存在ではなかったかと考えています。

 卑彌呼は、男王の外孫、つまり、倭国有力者の娘として生まれたのですが、仏教で云う出家に近い形で家族と別離し、いわば、俗塵を離れて清浄な生活を送って、人々から神意を問われたときは、別室に籠もって祖霊と交流して神託を草したものと見ています。その際に、時には、神託を形で示すために、骨を焼いて卜したのでしょう。

 従って、倭國王として共立されて女王として君臨しても、実際は、巫女の時代と変わっていなかったと見ています。

 当時の諍いごとを案ずるに、漁場や猟場の争い、耕作地水利の争いなど、地域集団の利害が競合し、リーダーも、互いの面目を保つために、譲りがたい物事があり、武力闘争に陥り共倒れになるのを避けるには、権威有る第三者の仲裁を受けることが、「持続可能な地域社会」を維持するために必要であり、そのためにこそ、公平な神意に頼ったものと見ています。

 魏使から見ると、そのような神意による仲裁機能は、中国に於ける神卜のあり方とは異なるものであり、「事鬼道能惑衆」、つまり、祖霊(死者の霊)に事えて衆を惑わしているとしか見えなかったのでしょう。

 黄巾反乱を起こした太平道や漢中の五斗米道集団のような強力な宗教集団の横行を見ていた魏使には、このような穏やかな采配は、理解できなかったのでしよう。 

以上

2014年5月 4日 (日)

14. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自

 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。」

 魏志倭人傳で、卑彌呼を後継した壹与は、卑彌呼の「宗女」、すなわち、親族として紹介されていますが、卑弥呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に「一女子」と紹介されているように見えます。

 卑彌呼は、「一女子」と書かれているとおりに、出自不明の一女性だったのでしょうか?

 漢、魏、晋の時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。

 蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が、しばしの思案の末に「絶妙好辭」と案じるという設定です。
 この謎は、お題の8文字が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。

 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、他の部分の謎解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体の謎解きを読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(娘)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」は、横につなげて「好」の字となると言うことです。

 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、従って、年齢は、せいぜい17,8歳の少女であったと書き残しているとの読みができます。

 男王の外孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の孫娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになった原因であったようにも思えるのです。

 「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累・出自を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと、「幼婦」であり、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切な形容であることになります。

 こうした使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、後世の目から見ると、判じがたいものがあるのです。

 笵曄は、才人、文章家の評価が高く、陳壽は、それに比して凡庸と見られているように思われますが、この一件が故事を踏まえているとすれば、陳壽の機知は、笵曄を凌いでいて、燦然たるものがあるようです。

以上

 

2014年5月 3日 (土)

13. 倭國亂 - 古代戦国ロマンの誕生

                           2014/05/03 補正2020/12/18
 「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年
 魏志倭人傳は、倭國が乱れ、相争うのが年が変わっても収まらなかったと書いているのです。諸國が、政権を目指して争ったものの、卑彌呼の共立で収束したことから、あくまで内乱であり、政権が変わっても、倭國の成り立ちには変化がなかったことになります。

 これに対して、後漢書を編纂した笵曄は、「桓、靈閒,倭國大亂」と物々しい書き方にしています。独自の倭國観で、史料の紙背を見通そうとしていたのでしょうか。

 笵曄が属していた劉宋(南朝の宋王朝であるが、「南宋」とは言わないのに注意)では、職業軍人による常備軍が、中原回復を唱えて北伐するとこともあり、また、強力な軍事力があだとなった王族内の権力争いによる内戦を経験している笵曄の観点に従うと、倭國の乱は、大乱と見えたのでしょう。

 魏志倭人傳の国数道里の記事を、漢里(普通里)で読み、周旋を、領域周囲の長さと取ると、「周旋五千里」は一辺五百㌔㍍方形という、言うならばもう一つの中原であり、そこに三十諸国の逐鹿の戦いが展開されているという戦国ロマンが、笵曄を魅了したので、「倭國大亂」と粉飾してしまったのでしょう。范曄を信じ切って、この戦国ロマンに同調している諸賢が少なくないように思われます。

 また、笵曄の倭國観は、後漢書倭傳にも影を落としていて、何となく、後漢末期の漢中に勢力を持った五斗米道集団の総帥 張魯やその母に、卑彌呼像を重ねる戦国ロマンが感じられます。

 交通輸送手段は未発達であり、文書行政も形成されていない未熟な時代背景では、狭い範囲で緩やかな同盟関係によって、倭国諸国の連帯が、形成されるものであり、それは、長期にわたって維持可能な、望ましい国際関係と言えます。

 孫子がいなくても、当時の倭國で、乱世戦国状態を引き起こす多国間戦争は、最悪の手段であることは、理解されていたものと思われます。

 何しろ、九州北部にひしめき合っている小國群ですから、最終戦争が開始すれば、数年を経ずして決着がつき、勝者、敗者共に労働力の減少、低下という大打撃を受けて飢餓状態に転落し、域外勢力が漁夫の利を得ることになっていたでしょう。

 幸い、諸國は長続きする平和を求めて、女王を共立し、その仲裁に皆服することで矛を収めたのです。

以上

 

2014年5月 2日 (金)

12. 牛馬無し - 読み過ごされた道なき國

 「其地無牛馬虎豹羊鵲

 倭國の道路は、各国中心の都邑は別として、余り整備されていなかったようです。

 そのために、牛馬を荷役に利用することがなかったようです。

 先進地である中国の場合、春秋時代には、戦闘に戦車を使用していたことや交通・運送手段として車両を使用していたことが、資料から読み取れます。

 中国と雖も、市街地以外は、いわゆる地道だったのですが、道路面には車輪が突き固めた轍が刻まれていて、そこに車輪を当てはめている限り、軽舗装の道路を走るような快適な走行ができたようです。

 これに、東西に走る大小河川の水運を加味すると、大量輸送、大量移動のインフラ(インフラストラクチャー)が整っていたのであり、文書行政の早期の確立などと相まって、古代国家の要件が揃っていたので、国を挙げての大規模な戦争が可能となっていたのです。

 これに対して、遙か後世とは言え、牛馬が輸送に利用できない万事未開の島夷では、大規模な軍事行動を起こそうにも、遠征軍への兵站が維持できないので、遠征期間と範囲は兵士の耐久力と手弁当程度の範囲に限られるたものと考えます。
 船舶輸送したとしても、上陸後の輸送手段が乏しいので、兵站は途切れ勝ちであり、大規模な遠征はできなかったと思われます。

 また、文書と言う交信手段がないので、本国と遠征軍の間は、もっぱら伝令の口頭連絡に頼ることから、細かい指示や報告のやりとりができず、遠征軍の統御は至難であるものと思われます。

 と言うことで、遠征の対象は、実は、近郊の同盟国が大半であり、遠国の討伐は、途中の諸国の協力があって、始めて成立するので、いくつかの伝説はあるものの、古代道路網が形成される数世紀先まで、九州北部を飛び出す大規模な長征は、滅多に行われなかったように思います。

 当時の倭國の「乱」は、稲作につきものの水利争いや水産業での漁場争いの拗(こじ)れたものであり、それ故、自身の権勢欲を持たない少女王が「時の氏神」として仲裁することで矛を収めたのです。稲作の成果を左右する灌漑水利の構築と水分(みずわけ)は、早くから水分神社に委ねられていたので、卑弥呼は水神様の巫女として育ったのかも知れません。

以上

2014年5月 1日 (木)

11. 会稽東治 - 読み過ごされた故事

 「計其道里、當在會稽東治之東。」

 別稿で示したように、魏志倭人傳には、「会稽東治」と書かれていたものと考えます。

 以下、繰り返しになるのですが、これは禹の故事に因むものであって、江南辺境の地名を記したものではないのです。

 正史である史記の夏本紀の「或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。」と言及している歴史的な事跡に因む、由緒来歴のある會稽の「東治之山」を指すものであり、具体的には会稽山をさすものと考えます。

 水経注および漢官儀で、会稽郡名の由来として書かれている記事がありますが、現在「東冶之山」と作っている写本が見られます。

 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡,或以列國,陳、魯、齊、吳是也;

 或以舊邑,長沙、丹陽是也;或以山陵,太山、山陽是也;或以川源,西河、河東是也;或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,鴈門鴈之所育是也;

 或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,會稽是也。

 では、「東冶」が正しいのかと思いたくなるのですが、それは、ものの道理を見過ごした軽率な判断というものです。

 よく考えればわかるように、会稽郡名の由来に「東冶之山」が登場する謂われはなく、禹の事績に因んで「東治之山」と校勘した写本を採用するべきと考えます。

 本来、中国地名表記で、「会稽東冶」は、「会稽」(地域)と「東冶」(地域)と列記されているものとして読むものです。

 もし、会稽郡の東冶県を指定したい場合は、「会稽東冶県」と明記するものです。

 これらの書きわけは、後漢書倭傳に揃って現れていますが、笵曄は倭人傳の会稽東治の意義を理解できず、軽率にも誤記と即断して、東冶と校勘したものと思われます。

 後漢書批判は、本小論の埒外ですが、倭人傳史料批判の際には、吟味せざるを得ないので、時にこのように書きつのるのです。

 このように、陳壽が倭國の所在を示す表現として、「会稽東冶」の東という指定は不合理であるので、「会稽東治」の東と見るのです。

以上

 

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