私の本棚 4 大塚初重 邪馬台国をとらえなおす
現代新書 2012年
私の見立て★☆☆☆☆ 2014/05/19
以外★★★☆☆
こうした新書版の一般読者向けの書籍では、導入部に工夫が必要と思います。
以下、その見地から、本著作への批判が続きますが、極力淡々と指摘するので、ご不快な向きは、読み飛ばしていただいて結構です。
本書に限らず、新書版書籍のいわゆるつかみの部分は、堅実にするのが、正道といえます。堅実とは、ちゃんと、確実な史料を押さえて論理的に説き起こしているかどうかですが、この書籍は、冒頭の第一章第一段に始まって、そのような正道を外れて、つまずきの連続です。
ついでに書くと、早々に「偏向」「曲筆」とする弾劾症状が出ていますが、これらは、小生の言う「水鏡」言葉です。禍々しい姿に吠えついているが、実は、それは自分自身の反映なのです。
一体に、史実と言っても、その形は言葉では捉えられない複雑怪奇なのであり、時々刻々に変貌するものです。
その変貌した形の一瞬を、筆者がとらえて、文字で綴るわけですから、神のごとき視点と神のごとき言葉遣いでもなければ、史実を「正確に」「漏らすことなく」伝えることはできないのです。
だから、「偏向」「曲筆」と言うものの、筆者としては、自分の視点から見たことを見たままに述べているだけで、何も、弾劾すべきものではないのです。
「偏向」「曲筆」の判定基準は、そう言い立てる著者の中にあり、基準は、何故基準とされているのか、所詮、人は自身の中の何かを基準としているに過ぎないのであり、それ自体が、「偏向」「曲筆」であると言えます。
してみると、「偏向」「曲筆」を指弾するのは、無意味なのです。人は、そのような指弾者を、「尊大」「独善」と呼ぶものです。
たとえば、陳壽の三國志編纂は、先行する史書の引き写しで成立しているといい、それに加えて、史官として利用可能な魏晋朝資料を利用したといいます。
確かに、編纂の過程に、両者の過程が入り交じっていたことは確かでしょう。
陳壽は、文筆家でも論客でもなく、謙虚な史官であるから、先人の著作を参照して、自身の筆を加えることは最低限にとどめ、忠実に利用したものでしょう。その過程で史官としての史料批判や校勘を試みたとしても、最終的に、原文を踏襲したというところは、多々あるでしょう。
それ以外の部分では、当然、原資料を編纂したのでしょう。
どちらに編纂家としての重点があったのか、後世の読者がそれらの編纂過程のいずれを重いとするのか、それは、後世の読者の感性のもたらすものです。
*「論衡」談義
いきなり、当然の如く「正史」として「論衡」が取り上げられていますが、論衡は史書でないので、正史のはずがないのです。不用意そのものです。つまらないことを、意味もわからないままに書き立てると、信用をなくすだけです。
「論衡」は、思想書、というか、中華世界に関する百科全書です。
各記事は、史実を忠実に記載することを第一義としたものではなく、後漢時代の著者である王充が自己の思想、世界観に基づいて諸々の事柄を記述したものであり、当然、その主張を裏付けるような比喩や創作も、多々含まれていると見るべきです。
例えば、当時の史観としては、後漢光武帝が、赤眉を代表とした新王朝への反乱による中国全土の大混乱を見事に平定したことにより、遠隔の倭人の貢獻があったことを挙って称えているものと思います。
反骨漢の王充は、それは、古来繰り返されてきたことである、と言いたかったのであり、そのために、殊更に、倭人の来訪を書き連ねたのかも知れません。
つまり、故事の紹介であるが、それが史実かどうか確認していない可能性が高いのです。
論衡を正史として取り扱い、記事を史実と判断するのは、早計に過ぎるでしょう。独立した別資料によって裏付けられない限り、疑問符を付けて取り扱うべきと考えるものです。
現在、正史及び有力な史料文書については、デジタルデータ化されていて、全文検索が可能ですが、「倭人」の周朝への貢獻記事は、論衡の二箇所のみです。
付け加えるならば、「論衡」は、後漢時代に著述されてから世に現れるまで膨大な時間を要し、世に知られてからも、反儒教の書と評価されたため、現在に到るまでの期間の大半は、非公式に写本が継承されてきたものであり、王充の著作が正確に継承されているかどうかは、不確実なのです。
その点の史料批判もされていないように見受けます。
ついでですが、「中国の歴史時代は、夏から始まったとされている」、と言うのも、のんきに過ぎるのです。史料が確認されているのは、商が最古であり、それも、殷に都をおいた後期が、殷墟発掘によって確実視されているだけで、その創業期は不確かであると言うべきです。
もちろん、商が夏を打倒したという創業期の史実が史料で裏付けられれば、夏の実在も確実視されるのであるが、商の創業寺は、文字のない時代であり、当時の商都が発掘されたとしても、史実の確認は困難でしょう。
論衡の記事では、「周の時、天下太平」としているが、周初には激しい内乱があったし、周王朝の長い治世を見渡すと、東遷後の春秋戦国時代には、「天下太平」と呼べる時代などなかったろうし、諸国の興隆に周の威勢は大きく傾いて埋もれていたので、倭から周に貢献するとしても、途中の燕や齊が遮る可能性が高いのです。
と言うことで、洛陽に遷都した東周への倭人貢獻は想定しがたく、と言って、長安付近に都していた西周時代となると、倭人の貢獻の目的地は中国大陸奥深い上に、時代が遙か遡る茫漠たる太古となるのである。
別の段落を見ると、倭人が貢献したのは、周王朝創業期の第2代成王の時らしいのですが、そうすると、紀元一世紀の光武帝の時代の1000年前になるのです。
周王朝は、史官を置いて、周王の所行を記録していましたが、王充の時代まで、史料が伝わっていたかどうかは不明です。少なくとも、史記には、倭人貢献は、書かれていないのです。
成王の治世は、後の長安附近である関中の首都に加えて、後の洛陽となる副都を設け、ここを拠点として河水、淮水の下流の東夷制圧を行い、続いて、さらに遠隔の諸勢力に対して、来朝して服従しないと征伐するとの威令を流布させ、その威嚇に応じて、南の越と「倭人」が来朝したと記録しているものと思われます。
ただし、冷静に見て、論衡に書かれた倭人が、どこの何者なのかは、不明であるというのが、妥当な意見と思われます。そして、論衡以後に書かれた、三國志や後漢書の著者が論衡の記事を見ていたとしても、この倭人と両史書の倭人記事の倭人が同じ実態のものと考えていたかどうかは不明であるというのが、合理的な見解と考えます。
「後漢書」
次いで、漢書にちらりと触れた後、後漢書に話題が移っていますが、中国正史の紹介手順としては正しくないものです。
後漢書は、三国志の後に書かれたが、殊更に三国志の記事を乗り越える書き込みがあるので、これを先に読んでしまうとと、読者の順当な理解を遮るものがあります。とくに、倭人記事は、慎重に順を定めて紹介すべきなのです。
ここで、倭人記事と書いたのは、当筆者のように、殊更に、「倭条」とか「倭人条」とか、とくに原書に示されていない名目を唱えてくるので、うっとうしいからです。
さて、紹介の順を誤ったとがめが出ているのが、後漢書紹介の中で「魏志倭人伝」が登場することです。魏志倭人伝の紹介をしないわけに行かなくなって、後漢書を脇に押しやるのですが、まことに不出来な紹介手順と言わざるを得ないのです。
本書の「後漢書条」の末尾では、「後漢書」は「魏志倭人伝」より後に書かれたと二度目の確認となっていて、字面を追うと、正史全体が、別の正史の一部分と対比される不用意な書き方になっています。
それにしても、本書の書き方では、なんの為に、後漢書をここに置いたのか、不明瞭になっているのです。
「魏略」
いよいよ、魏志倭人伝の紹介となりますが、いきなり「三国志の資料となったのは魏略」と書いてしまっていて、これは軽率です。当然、私見を交えず、資料の一部となったと推定されていると書くべきです。
三国志は正史であり、晋朝が国家事業として取り組んだのであるから、資料の多くは、政府の書庫に保管されていた公式文書です。
これに対して、魏略は、魏朝の事績全体を記述したものであり、倭人記事だけではないのだから、「魏略が、帯方郡使の倭國訪問記を元に書かれている」というのは、不用意な言い方と言えます。
それにしても、魏略は、早期に散逸して、全体が伝わっておらず、著者である魚豢の事績も不明で、わずかに、魏の史官であったらしいというだけです。
ここで、重複して、三国志の編纂者である陳壽が魏略の記事を利用したと書かれていますが、それは確実に立証されていない、漠たる推定です。
「この頃」
続いて、「この頃」というが、資料の記述時期の議論をしていて、この頃というのは、魚豢、陳壽の活動時期かと思ったら、史書の記述対象である三国分立期のことに話が移っています。まことに不用意な書きぶりです。
「倭人条」
魏書30巻の中に東夷傳があり、東夷伝に各国銘々の条があると言う説き起こしですが、魏書写本に条と書かれているのは見かけないのです。
紹凞本のように「伝」と小見出し付きになっているか、小見出し無しに続けて書かれているかのいずれかです。
いわゆる正式名は「業界通念」かも知れないが、客観的な根拠の書かれていない主張は独善と呼ばれるものです。
と言うように、ここまで新書の20ページ強の分量を論評したのに過ぎないのですが、ある程度事情に通じた読者が読むと、一段毎にだめ出しが伴う、粗雑な導入部です。
このあたりは、定説の確立された周知の事情だから、ある程度端折って書くのだという声が聞こえそうですが、その割には、重複記事があるし、要点を、安易な引用に頼って、誤伝を拡大再生産している面があります。誰かに代書させたのでしょうか。それにしても、不正確な代書であり、修行が足りないようです。
以下、折角購入した書籍なので、お説を聞くとしても、こうした粗雑な解説が置かれている事から来る著者の見識への不審感は、ぬぐいがたいのです。
著者の弁では、自身は考古学者であって、文献解釈は本分ではない、と逃げを打っています。そのせいか、倭人伝の記事の誤記論については、「明治以来学者の一致した見解」(一大國論)のように、安易な定説風評に逃げ込むのは、学問として行き届いていないのではないかと思うのです。
以上、手厳しい意見が出てしまいましたが、ご本人が自負しているように、本書の主部に開陳されている考古学分野の知見と見識には、耳を傾ける部分が多く、十分に新書の価値はあると言えますが、この見地からの紹介は多々あると思うので、重複を避けさせていただく。
惜しむらくは、不得手とされる文献解釈に、著者の学識から生まれる「常識」の光を 注いでいただきたかったと言うことです。
小生ごとき一私人でも、以上書き連ねたような批判、あら探しができるのですから、学会の縄張りにこだわらない活躍をしていただきたかったと思うのです。
以上
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