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2014年5月24日 (土)

私の本棚 9 鳥越憲三郎 中国正史 倭人・倭国伝全釈

 中央公論社 2004年

          私の見立て☆☆☆☆        2014/05/24
                 以外★★★☆☆

*はじめに
 本書は、著者の倭族論の集大成であり、氏が、朝鮮半島、中国南部などで行った人類学的なフィールドスタディをもとに、古代史について蘊蓄を極めています。

 まず、最初にお断りしたいのは、当方は、著者の古代人類学・古代史学の実証的な見地に、基本的に賛成していると言うことです。

 ここでは、著者の論旨に賛成できない点を多々述べていますが、あくまで、本論のテーマである魏志倭人傳記事の妥当性についての議論に限られていて、それも、著者の主張の時間次元でのずれに異論を呈しているのです。
 さて、本書は、タイトル通り、中国正史の倭人・倭国伝に対して、氏が全釈を加えたものです。
 なお、本論全体を通して自明の事項なのですが、以下の書評が断定表現になっているとしても、それは、当然、これらは本論筆者の私見であり、記述の際の簡略化の爲、と言うより、筆者が文末の処理の労を厭ったために、推定表現が省略それているだけであり、筆者自身が確たる根拠を以て書き出しているものではなく、あくまで一私人の私見の吐露でしかないことをお断りしておきます。
 まず、著者の基本的な取り組みとして、古代人類学・古代史の見地から、自身の古代史観を確定し、その見地から、倭人・倭国伝に対しているものです。そのため、自身の見解に合わない倭人・倭国伝記事に対して、不信を呈している点が多く見られるのが、筆者の異論を招いているのです。

 なお、ここでは筆者の守備範囲である三国志に限定して話を進めます。

*同意できない三国志観
 冒頭に、著者の三国志観が紹介されていますが、どうも納得できない、根拠不明の断定が見られます。
 まず、こう紹介しています。

 それ以前に王沈の「魏書」、韋昭の「呉書」、魚豢の「魏略」があり、陳寿が蜀人であったので、蜀の歴史を補うことができたとの意見です。
 続いて、こう付け足しています。
 「陳壽の死後、多くの新しい史料が発見されたことで、裴松之が数倍の分量にして補注し、それが宋の429年に成った三国志であるが、今はそれも散佚した。

 以上の紹介は、前提不明の断定を以て書かれているので、学術書としては不適当ではないかと思われます。

 「(劉)宋の429年」とは、裴松之の注釈が追加された時点で、はじめて「三国志」となったという解釈のようですが、三国志は西晋末期に史書として完結したというのが、妥当な見方と思います。

 南朝劉宋時代に裴松之が補注し「三国志」が成立したとの論断に続き、「今はそれも散佚した」という趣旨がよくわからないのですが、写本継承の過程で異同が生じたとしても、史書としての三国志は、散佚することなく、健全に継承されているとするのが妥当な見方と思います。
 「それ以前」とは、陳寿の三国志編纂以前と思われますが、その時点で「魏略」が史書の体を成していたかどうかの議論とは別に(史書として成立していた可能性が高い)、「魏略」が世に知られていたという根拠は不明です。
 もし、正式に晋朝に上梓されていたのであれば、晋朝正史に記録が残っているはずです。
 もちろん、陳寿が、魏志編纂に当たって、魏略を目にしていたかどうかは、別の議論になりますが、上申されていれば史官として知り得ていたはずだという議論は成立するのです。

 とは言え、陳寿は、史書の編纂を任務としているので、創作の前後を争うものではなく、魏志編纂に「魏略」を利用したと言われても、それが、編纂というものだと言うだけでしょうが。

 ここで、「多くの新しい史料」が発見されたと言うのは簡単ですが、「魏略」は、すでに提示しているので、どのような新しい史料が発見されたのか、根拠不明です。むしろ、史料は知られていたが、陳寿が採用せず、割愛した可能性も無視できないのです。

 陳寿は、三国志の編纂に当たって、当然、自身の編纂方針に従って、取捨選択しているのであり、裴松之補注後の三国志は、自身が責任編纂した著作ではない(不適当なものである)と言うでしょう。古来、「蛇足」説話が語られるのは、このような事例を指すものとも思われます。

 このように、著者の論断の前提となる三国志観が、根拠の不確かな先入観、もしくは、偏見を含んでいることは、残念です。

 さて、倭人伝全釈を追いかけていくのですが、劈頭から、国数「百餘国」、「三十国」が、いずれも多数と言うことを示す比喩であリ、事実ではないと、ばっさり断じています。

 しかし、(古代か?)中国では「三」が実数でなく「多数と共に無限を表す」と断定しているのは、賛同しかねるのです。本書で、『三国志』を論じているのをお忘れと見えます

 以下、論議の多い道里について、著者は、「当時の漢族が地理観を間違えていた」と唱えていて、そのために、倭人伝の方位は四十五度の偏差を持っていると断じています。

 しかし、「当時の漢族」に揃いも揃って東夷の地理に関して「地理観」の間違いが存在したとしても、それは日本列島の配置に関する「誤解」であり、倭人伝劈頭の「帯方郡の東南方向に倭人がいる」という記述は、局地的な行程から来ていていることから、四十五度間違える「地理観」とは無縁と考えます。
 まして、かくのごとく「東南」を語る文明は、方位に関して、四十五度どころでなく、その半分の22.5度を識別できる地理観を有していたものとみるべきです。
 してみると、ここに提示された「地理観」は、著者が独自に想起したものであって、実際に当時の漢族が揃って間違えていたという「漢族の地理観」は実在していたかどうか不明なのです。
 どこにも、東夷の地理観を説いた書籍が見られないのに、どうやって、そのような方位感を伝承したのでしょうか。いや、そもそも、各人の方位感を45度ずらことができたのでしょうか。45度ずらせるということは、漢族は、絶対方位感を持っていたということであります。不思議な「神がかり」の発想です。

 この点は、邪馬台国を三世紀の大和にあった古代国家とあらかじめ比定して頑固な予断を形成し、以下、その予断に合うように史料を読み替えているものであり、論証無しに同意することはできないのです。

 以下に現れる末羅国、奴国などの離合集散は、後世史書後漢書の片々たる記載が根拠であり、以下のように堂々と展開されたロマンあふれる興亡史は、あくまで、著者の想定であって、史料に確たる根拠があるわけではないのです。

 著者の想定では、まず、後漢建武中元二年および五十年後の永初元年の入貢は、九州北部の「奴國」の入貢であり、さらに七十年ほど後の「倭国大乱」で、大和の邪馬台国に政権が移行したとみているのです。

 こうして、氏は、三世紀以前に、陸行三十日を要すると思われる遠隔地の国家を支配する古代国家が存在し、それら国家間の闘争を想定していますが、これは、魏朝に入貢した「邪馬台国」を三世紀の大和にあった古代国家と比定したことが想定の起点であり、各史料をこのような比定に帰着するように解釈しているのですが、本末転倒であり、とても同意することはできないのです。

 これは、時代背景を無視した議論であり、時間錯誤の一例と思われます。

 なお、氏は、道里記事の「水行」、「陸行」の日数、月数を、延喜式の旅費規定に示された旅程日数をもとに考察して、九州北部から大和に至る道里として、おおむね妥当としています。而して、漢族の誤った地理観との合わせ技で、女王国をヤマトに着地させているのです。

 しかし、延喜式は、三国志の時代から七世紀を経た十世紀、平安時代の制定です。規定は、大和の王都を中心とした古代街道網が整備されていて、駅制や宿場が整った時代の旅程日数を示すものです。

 九州北部から大和の間に「街道」など影も形もなかったと推定される三世紀の時点に、九州北部から大和に同等の日数で移動できたとは、思えないのです。旅程途中の食糧補給が不確かであり、寝泊まりも確実ではない時代に、長期間の陸上移動を、十世紀と同様の旅程で可能であると想定するのは、無理やりの議論であり、海上移動についても同様に、無理なあてはめです。

 これは、時代背景を無視した議論であり、時間錯誤の一例と思われます。無理に無理を重ねた比定は、学術的な対応とは、ほど遠いものと思います。

 なお、著者の武断は、諸国名列記にも振るわれていて、編者が架空の国名を列記したものと断定しています。また、国名が架空とする意見で、編者たる陳壽に責めを負わせるのは感心しないのです。
 中国の史官は、このような勝手な創作をしないものです。それに要する厖大な徒労は、推定するだけで、耐えがたいものがあります。

 いずれも、現代の論者がどのように論難しても、編纂者である陳寿が反論することはないので、言いたい放題になっている感があります。いや、こうした風潮は、著者だけのものではなく、とかく、陳寿バッシングの嵐になっているので、ついつい、筆者が弁護に立つことになったのです。

 下賜物の銅鏡について、著者の論断は明解です。
 曰く、百枚は誇大表現であって、実数は二十~三十枚程度である。銅鏡は、三角縁神獣鏡ではない。銅鏡は、新作ではない。

 これらの論断は、実際的な考察から、まっすぐに生じたものであり、根拠不明な数量誇張説を除けば、同感です。(百枚やると明言していて、三十枚しかやらなければ、それこそ、説話の猿でも怒り出すでしょう)

 また、著者は、卑弥呼の墓は、「径百歩」が誇大表現であり、いわゆる古墳ではなかったとしていますが、この見方は、卑弥呼の墓を前方後円墳と決めつけている一部の意見に比べて妥当なものです。

 また、著者は、卑弥呼は、在位ほぼ六十五年であり、亡くなったのは八十歳前後としています。よって、即位時点は十五歳とみていることがわかります。ただし、これは、後漢末の倭国大乱時に即位したとの見解から導き出されたものであり、十五歳女子即位については、特に論評されていないのが残念です。

 なお、著者の想定する古代国家で、女王の任務は、あくまで祭事の主催であるので、若年でも支障ないのです。

 さて、総評ですが、著者ほどの逸材にして、私見に基づいて史料を校勘する悪習から抜けられないことは残念です。適用された先入観をもとに、史料の記事を無視したり読み替えたりするのは、古代史を人文科学の一分野と見るなら、正当な態度とは言えないのです。

 著者の論断を所見と断ずるのは、「倭族」論適用で描き出された古代史が、史料の個人的な解釈によって形成された先入観を吊り上げて適用する無理によるものであり、時間次元で大きくずれている可能性が高いと言う本論筆者の所見によるものです。

 ただし、本書の「全釈」は、著者の古代史観が書かれている著作であることを明示していて、潔いものであることには賛同します。

以上

 

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