私の本棚 5 山尾幸久 新版 魏志倭人伝
講談社現代新書 835 昭和61年11月
私の見立て★★☆☆☆ 以外★★★☆☆ 2014/05/20
書籍として優れているのは、冒頭の「Ⅰ 魏志倭人伝の成立」であり、特に、魏志の原典となったと称されている「魏略」、そして、魏志に疑念を投げかける際に重用される太平御覧などの類書について、冷静、かつ的確な分析がされていて、その点は、尊敬に値するものです。
ところが、劈頭で、魏志倭人伝刊本の「邪馬壹国」について、あっさり、誤記であると断定してしまっているのが、執筆方針の交錯となっています。
主旨は「「現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である。」11世紀刊本の作成時に誤刻したか、刊本の底本、ないしは参考とした写本がそのようになっていたのを踏襲したかはわからないが、いずれにしろ、現行刊本は、全て誤刻されたものである」、と断定しているのです。
続いて、この断定の論拠として、「4世紀初頭から10世紀末まで」に執筆された各種書物の版本がみな「臺」としているからである、とおっしゃるのです。つまり、ここで、著者は、北宋版魏志倭人傳の「壹」は、原本と異なっていると断定、主張しているのです。
しかし、本書では、その論証が完結しているようには見えないのです。
まずは、堂々と指摘した中の4世紀初頭から5世紀までの「空白の世紀」の事例が、能書きばかりで漏れているように思います。
1世紀飛んで5世紀に書かれた後漢書に「臺」とあることを取り上げて、後漢書の「倭人伝」〔ママ〕は、三國志によることが多い、としています。
しかし、後漢書が、三國志を丸写ししたという証拠がなければ、これは、北宋本に「臺」と書かれていたという証拠にはならないのです。そして、衆知のように、後漢書の倭人記事では、三國志の魏志倭人伝記事に多くの改編が加えられているのです。笵曄の見識で、文字の入れ替えを行っているのです。
せいぜい、編纂者である笵曄が臺と書いたものが正確に継承され、今日得られる刊本に到ったのだろうとの推定に過ぎないのです。
言い方によるのですが、笵曄は、邪馬壹国と書いたのに、後世写本は、すべて邪馬臺国に誤記している、と言うような暴論も、一応は成立するわけです。
続いて、7世紀に完成したと思われる梁書諸夷伝が、「臺」としていることを述べて、著者は三國志を読んで書いたという確証はないが、当時まで、三國志の記載が正しく継承されていた証拠だと言われるのですが、目下の論証過程を振り返ると、何かの錯覚としか思えないのです。
梁書編纂者が、魏志に依拠していると注釈しているわけではないので、当時、梁書が「臺」と書いたものが正確に継承され、今日得られる刊本に到ったと推定しているに過ぎないのです。
更に言うと、隋書俀国傳は、「臺」と書いていないのだから、論外です。隋書の原本に、「臺」と書いてあったとするとのは、根拠の示されていない著者の憶測に過ぎないのです。
「通典」と「太平御覧」は、魏志に依拠して「臺」と書いているように見えます。ただし、著者が、後段で、「通典」と「太平御覧」の史料批判を行っているので、ここでは、判断を保留しておきます。
ここで、突然、「以上のように」と総括して、史料系統の源流を「魏志」倭人伝に持つ各種の書物は、版本はみな「臺」としているから、現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である、と括ってしまうのは、唐突であり、提示された論証の方針とずれているので、見当違いと言えます。
ここで示されているのは、後代書籍が、三國志刊本と異なった表記をしている周知の事実を確認したに過ぎないのです。
それは、後代書籍の編者が、異なった表記をした三國志写本を参照したのが原因かも知れないが、そのような写本が、三國志の陳壽原本を正確に継承していた同時代の最上写本に対して正確であったかどうかはわからないと言うのが、正確な見方です。
あるいは、後代書籍の編者が、異なった表記をした何らかの史書を参照したのかもわからない。
そもそも、陳壽原本が、女王國の国名を誤って記載したのかもわからないのです。
余り議論されないが、可能性、「かも知れない」を言うのであれば、陳壽が、倭人から提出された国名の「臺」の字を忌避して、「壹」と改訂した可能性だって無視できないのです。
所詮、不確実な資料を基にした不確実な思考の積み重ねなので、著者は、どの「わからない」を明らかにしようとしているのか、自身の課題を自覚して、課題とした「わからない」の解明に絞るよう、明快に論証して貰いたいのです。
著者の論証で、辛うじて根拠と言えるのは、後漢書と梁書です。隋書は、臺と書いていないから、現に書いていないものを、元々書いていたかも知れないとするのは、論証ではなく憶測に過ぎないのです。
そして、「通典」と「太平御覧」の二類書は、資料として信頼できるかどうか検証されていないのだから、証拠となるには不適格です。
証拠としたいのであれば、この段落以前に史料批判しておくべきです。
そして、著者がいみじくも追記しているように、証拠として提示されているのは「刊本」です。三國志については、北宋刊本とその底本とが取り上げられていて、北宋刊本から南宋刊本、そして今日の刊本への継承は問題としていないが、論拠として提示された史書の継承の信頼性については、何ら検討がされていないのです。
総括すると、著者の持論と思われる議論、つまり、「現在伝わる三國志刊本の「壹」は誤刻である」とする判断を正当化するようにみえて、実は、諸事が羅列されているだけで、論証はされていないのです。
その後に続く、類書の史料批判は、冷静かつ妥当なものと思えます。
前シリーズの陳壽小論の末尾で、自前の類書批判をしたのは、その時点で、本書を入手していなかったためとも言えます。従って、この部分は、我が意を得たという感じです。
ここでこう断じているのに、前段の「壹」「臺」議論で、類書二件を裏付け証拠として取り上げたのか、不審です。
そして、「Ⅱ 王都 「邪馬台」の所在」は、不可解です。
これほどの偉業を成し遂げたのだから、地名として残っているべきだとおっしゃるが、断言するほどの定見とも思えないのです。
倭人伝短里説は、作業仮説として、相当の妥当性が見られますが、著者は、否定のための否定を資料で示しているだけで、実際上一顧だにしていないのです。
問題は、魏晋朝で、短里が施行されていたかどうかではなく、倭人伝の道里が、短里で読むと理解できると言うことの確認と思われます。
倭國が、遙か南の海上に伸びた列島にあるなどと書いても、いずれどころか、すでに、倭國の実情は公孫氏の知るところであり、それは公孫氏と交流のあった呉朝の求めた知識ではないかと思われます。
そして、史官として、陳壽がそのような低次元の欺瞞に加担したとは思えないのです。
むしろ、韓半島有事の時に、倭國から、何名の兵力がどれだけの期間内に、帯方郡治に到達できるかを示すことが重大ではなかったか、そのために、戸数を示しているのではなかったか、と思われます。
むしろ、戸数の誇張こそ考えられるのではないでしょうか。
短里が全面的に否定され、放射行程が否定され、邪馬臺国と決め打ちした女王國を遙か彼方に決定的に追いやってしまえば、魏使の女王國往還も否定され、張政の滞在も無意味になります。そうすると、倭人伝全体が、意味のない虚辞の連鎖になるのです。
それにしても、生駒山を越えて侵入しようとする敵と暗峠で戦っているような地方政権が、遙か彼方の大国筑紫を支配し、当然、途中の吉備、播磨、出雲も包括して支配していたとは、信じがたいのではないでしょうか。200年以上時間を取り違えているのではないでしょうか。
筆者は、時折、客観的な証明とか実証とか論理的な著作を装っていますが、不確かな文献資料の山を元に推測を巡らしているのであり、客観的も論理的も虚辞に過ぎないように思えるのです。
そして、この部分の展開が、「邪馬台」ヤマト説を固定観念にしていて、不可解なのです。著者のような合理的思考の持ち主が、何か、重大な行きがかりがあって、このような固執を起こしているのか。不可解そのものです。
さらに不可解なのは、著者が、魏使張政が、邪馬台国に滞在したことを認めていることです。著者に従うなら、遠路遙かな近畿邪馬台国まで移動したはずであり、当然、その際に、途中の停泊地と詳しい旅程が得られていたはずなのです。
再三ですが、ここに確認すると、張政は、倭國の動員能力を確認するために派遣されたのであり、それを証する戸籍類を提出させているはずです。その代償として、女王には金印を与え、それ以外のものたちには、官位、銅鏡などの対価を与えているのです。
そういうした重大な使命を帯びて派遣されていた張政の現地調査の成果を、不確かなもの、誤ったものであると推定するのは、無理というものです。
本書を読み終えて、困惑の念が解けないのは、なぜ、これだけの紙数を費やして、いたずらに憶測や推定を積み上げたのかと言うことです。
多分、本来一行で済んでいたのではないでしょうか。倭人伝の道里記事は、合理的な解釈で読み解くことが出来ないので、史料として信頼することが出来ない、この一言でよかったのです。
前後の章の整った行き方からすると、どうにも、こうにも、納得しがたい展開です。
「Ⅲ 三世紀の倭人の世界」は、本来の論調に帰って、多彩な視点からの考察が盛り込まれていて、貴重です。
以上
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