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2014年7月

2014年7月29日 (火)

26  黥面無残 - 失われた威令 (倭人余譚)

男子無大小皆黥面文身

 三世紀後半の古代日本で、少なくとも、九州で覇権を握っていた国の成人国民は、身分の上下を問わず、揃って顔に入れ墨をしていたと書かれています。一種の成年儀礼として、名誉の行いでもあったのでしょう。

 ところが、記紀などの史料を逐一確認するまでもなく、このような風習が記録されているのは、魏志倭人伝に伝えられた倭人の記事のみであり、七世紀後半になって日本を支配した国では、顔に入れ墨をするのは、罪人や下層民の徴となっていました。

 それ以外の時代では、お国ぶりとしてそろって顔に入れ墨をすることはなかったようです。

 ということは、三世紀と七世紀の間のどこかでに、覇権の交代があり、黥面しない者が支配者となって、黥面する旧支配者を追い落としたのでしょう。
 でないと、かっては栄誉とされた入れ墨を、罪人や下層民の目印に残したのが道理に合わないのです。

 何かの原因で、入れ墨の習慣をやめてしまうことはあるでしょうが、それなら全廃されるはずであり、栄誉の徴を有する者達が、残らず罪人に落とされるのは、ただ事ではないのです。

 ただ、そのような変動とは、九州北部を支配していた女王国を後継した支配者が、根こそぎ下層民階級に追い落とされたと言うことになります。

 そうではなく、巷説にあるように、女王国が東遷したとすると、黥面文身が長く継承されたことでしょう。

 ちなみに、彼方の中国本土の古代王朝では、罪人の顔に入れ墨をして目印としたことが伝えられています。

 以上、とりとめない雑感でした。

2014年7月28日 (月)

25. 下戸と大人 - 路傍の情景 (倭人余譚)

下戶與大人 相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

倭人傳随想に戻ります。

 大人と下戸が道で出会ったとき、下戸があわてて道を外れて草地に出て道を空け、地に蹲って、手を地に着くなどの恭順の態度を示すのは、別に差別ではないと考えます。

 大人と下戸が道で出会うと言うことは、下戸が道路通行で差別されていなかったことを意味している。道を譲って、平伏するのは、身分の違いが出ているものです。被雇用者が、雇い主に対して敬意を示すのは、今日でも定例化していることです。

 はるか後年、士農工商の身分制があった江戸時代、町人は、大名行列に遭遇したとき、その通行を遮ることを憚り、路傍に避けて、土下座平伏していましたが、これは、交通安全の策であると共に、大名の威信を示す制度であったと思います。

 とは言え、当時の社会秩序は徹底していて、大人と下戸が道路で出会いそうになったとき、礼儀として下戸が早々に道を譲り、道を争うことがないことがわかります。

 もっと確実に礼儀が行うなら、大人が、先触れを使って道を空けていたことと思われます。そうでなければ、うかつな下戸が、大人とぶつかって騒ぎを起こしかねないからです。古来、このようなときには、先触れを使うものです。

 そもそも、普段から大人が道を行くときは、単身のはずはなく、必ずお供がついて回るはずです。少なくとも、先触れ、護衛役も兼ねた随行者、そして、荷物持ちを兼ねた小者など、想像するに10人程度のお付きがいたはずです。大人は、その人数で、大人ですあると明示し、その威信を示すわけです。

 ただし、この度の道行きは、魏使との同行であり、魏使に相応しい人数の随行者がいたはずです。賑々しく装った異国人を立てて大人の一行が進んできたので、下人は、先触れの指示に従って、慌てて道を避け平伏したことでしょう。

 さらに、大人は、平伏した下人の側で親しく問いかけて「はい」などと言わせたのでしょう。思いやりのある支配者と見せたのです。

 この下りは、おそらく、そのような光景を、魏使の随行者である書記係が書き留めたものでしょう。魏使は大人ですので、人前では、見聞を書き綴るような下賤な行いはできないのです。
 以前触れたように、書記係の任務は、魏使の行動、言動を逐一記録するとともに、移動の際には、道里を歩測し、地図を作成することにあり、常に、紙と筆を持参していたものと思われます。そのため、臨場感のある記事が書き残せたのです。

 さらに想像を巡らせると、普段、大人は、下戸も行き来する道路を、ものものしい警戒もせず、悠々と通行したものと想像できます。国内治安が平穏と言うことです。
 その際に、どの程度の儀礼が強制されていたかは不明ですが、被支配者が、殊更に支配者の機嫌を損じるような事をすれば、手ひどい目に遭うことは想像できますから、恭順して平伏したことでしょう。

 さて、この記事を、同時代の中国人が読んだとして、以下の点に注意を引かれたのではないでしょうか。
 大人は徒歩で移動しています。また、大人の護衛は、無きに等しいのです。大人は、下戸を慈しんでいるようにみえます。
 中国なら、大人ほどの地位にあるものは、馬車や牛車で移動したはずですが、ここでは徒歩です。といって、人力車や輿のようなものを使ったとは書いていません。貴人も、下戸同様に徒歩なのです。

 さて、馬車や牛車で移動すれば、暗殺者が殺到しても、最後は馬車や牛車の外郭で防護されます。また、車上に、武器や護衛者を隠しておくことができます。

 また、馬車や牛車がないと言うことは、こうした労役のために馬や牛を飼う体制がなかったことを示しています。付随して、馬や牛を食用に供することはなく、皮革を利用することもなかったということです。

 通りがかりの下戸が目障りであれば、先触れが、事前に下戸を経路から排除しておくことができますが、そのような手配はされていないのです。

 少なくとも、身分差が鮮烈であれば、大人が下戸に直接話しかけることはないものです。

 こうしてみると、倭人社会は、苛烈な差別社会ではなかったように見えるのです。

以上

2014年7月11日 (金)

資料批判「翰苑」 現存写本 再掲 

                                   2014/07/11 再掲2022/02/15
〇はじめに
 「翰苑」は、日本で、太宰府天満宮が所蔵する写本が、天にも地にもこれっきりという孤本であり、文化財として国宝指定されている大変貴重な存在です。
 ここでは、「翰苑」の史料としての価値を探るものです。

 まず、添付しているPdfファイルは、太宰府天満宮文化研究所が昭和五十二年に発行した書籍である「翰苑」(製作 吉川弘文館)の影印から複製したものであることをおことわりしておきます。ここに引用するについて事前了解をいただいておりませんが、資料引用として許される範囲と理解しています。

Kanen60_61e_2

Kanen62_63e

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  • 信頼性の低い写本-文献資料として利用困難(不可能の意味)

 さて、今回、上記書籍を購入したおかげで、「翰苑」を目にすることができたのですが、素人目にも、史料として不審な点が多いものと感じます。批判の結論としては、現存する翰苑は、原本の写本として信頼性の高いものでは無く、慎重に他史料と読み合わせる必要があると考えます。早い話が、当写本は、文献資料としては、ものの役に立たないと言うことです。

 こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、遠慮してしまうと、科学的な主張ができないことになるので、あえて、角を立てているものです。
 言うまでもなく、ここに述べるのは、不作法な一私人の仮説なので、採用するのもしないのも、その人次第です。

  • 「失敗の原因」

 失敗の原因、つまり、 信頼性の低い写本となった原因を推定すると、おそらく、信頼できる、つまり、高価で時間のかかる写本工を動員せず、低廉で仕事の速いのが取り柄の写本工に頼った点に因ると考えます。

 低廉というのは、頭数が揃っていれば良いいと言うことであり、仕事が速い、というのは、写本の質を問わないと言うことです。
 また、何らかの原因で、写本と原本の照合がされていないことも、失敗の原因です。

  • 「無校正・無修正」

 誤字、脱字が多い点は、諸賢の評価にもうかがえますが、写本の信頼性評価が低くなる原因として、写本工自身の技量、知識に問題があるばかりでなく、写本されてきたものに対する校正の形跡が見られないことを指摘したいと考えます。

 写本工の仕事が不出来でも、顧客がとことんだめ出しして良い写本に書き直させればば望む成果は上がるのですが、不出来な写本に気づかずに代金を払ってしまえば、取引はそれでおしまいです。

 我が国の平城京の時代でも、「写経生」の成績評価として、写経枚数による「アメ」と誤写に対する「ムチ」とがきっちり運用されたと伝わっていますが、このような管理制度は、遣唐使が将来したものでしょう。

 余談はさておき、とても、依頼した方も、依頼を引き受けた方も、貴重な資料を写本する態度とは思えないのです。

  • 「高麗傳」後魏書綺譚

 たとえば、「高麗」(高句麗)に関する記事の冒頭37ページで、「魏収魏後漢書曰」と書き出されています。

 これは、単なる誤字の類いを超えた深刻な問題をはらんでいます。

 ここで引用されているのは、「魏収」(人名)の編纂した「後魏書」(南北朝 北魏の史書)であり、笵曄の「後漢書」とは無関係です。原本には「魏収後魏書曰」と書かれていたはずです。

  • 「誤写放置」

 粗忽な写本工は、「魏収」と書いたのに続いて筆の勢いで「魏」と書いて、途端に原本に目をやって「後」を飛ばしたのに気づき、続いて「後」と書いたもののそこまでに書き癖の付いていた「後漢書」(笵曄後漢書と書いた例もある)と書いてしまったのでしょうか。

 ひょっとして、この部分の写本工には、「魏収」が人の名前という認識はなく、また、何度も出てきた「後漢書」も、ここで初めて出てきた「後魏書」も、同じようなものと言う認識だったのでしょうか。

 写本工は、字の違いに気がついたとしても、修正を加えることも目印を付けることもなく、そのまま書き進めるのです。

 ついでに言うと、その後には、「朱蒙」と書くところで、「蒙」の字を書き損なったのをそのままに、「蒙」を書き続けています。「朱*蒙」となっています。(*は、ゴミ)これは、さすがに気づかずに済まないでしょうが、何もしていないのです。

 ちなみに、この部分の註は「後魏書」の高句麗創世記を、ほぼ正確に引用しているので、翰苑の原本は、豊富な資料を参照して、大変丁寧に書かれていることがわかります。

 好対照として、48ページでは、高句麗伝の掉尾として、「魏収後魏書東夷傳曰」と正しく書写した上で、後魏書東夷傳の高句麗の風俗記事が、ほぼ正確に引用されています。同一人物の写本仕事とは思えないほどです。

Kanen37_48e

  • 「倭國傳」観察

 さて、肝腎の倭國傳ですが、「後漢書」、「魏略」、「魏志」をはじめとする史書、資料の引用段落に、翰苑独特の華麗な趣向を凝らした見出し記事を付けて、編纂者の深い教養を思わせます。
 後漢書や魏志の記事引用に、引用終りを明示せずに、別系列記事を書き連ねている例がありますが、原本の書き忘れなのか、写本時の脱落なのかはっきりしないのが、渋いところです。

 ともあれ、当写本は、字数が不揃いで、行が傾斜、蛇行しているのに加え、異体字が多発して、原文を知っていても、読み取りに苦労するていたらくです。

 魏志倭人傳の紹凞刊本を見ておわかりのように、優れた写本とそれに基づく刊本は、活字印刷を見るように、規則正しく刷られていて、各文字の書体は一貫し、ここに見られるような低次元の誤記、誤字は見当たりません。

 優れた写本工は、写本の際に、罫線を引いた台紙を下敷きにするなどの工夫で、整然とした写本を書き続けていたはずですし、原本の配列を忠実に複製するからこそ、誤字、脱字の発見が容易になっているのですが、ここではそのような手慣れた職人芸が見えません。

  • 「阿輩雞弥自表天兒之稱」

 それに加えて、62ページに見られる奇態な誤写が、写本行程のぼろを暴露しています。
 | 髮文身以避蛟龍之吾今                                  宋   |
 |                 阿輩雞弥自表天兒之稱        | 
 | 倿人亦文身以厭水害也                                  死弟 |
 と、訳のわからない「宋 死弟」三文字の分註が行末にぶら下がっていますが、原文は、そのように不出来であったはずがなく、次のような配置になっていたものと考えます。

                                       宋書曰永初中倭國有王曰讚至元嘉中讚
 阿輩雞弥自表天兒之稱
                                       死弟珎立自稱使時節都督安東大將軍倭

 配置のずれた記事を、後先考えずに書き進めたので、行末空きに、何も考えずに原文分註の次の一,二文字を転記して埋めたものの、次の行を書き継ごうとして手違いに気づき、件の三文字は書かなかったことにして分註を書き継いだようです。(翰苑原本に比べて随分寸足らずの用紙に写本したようですね)

 また、63ページの最終行は、分註記事を1行ベタに書くという不思議な配置を採っています。各ページ偶数行ではなかったのか。筆の勢いに任せて、隙間を埋めてしまうのは、素人くさくて不思議な話です。

  • 「卑弥妖惑翻葉群情」

 こんな離れ業を見てしまうと、61ページ最終行で、「卑」が「早」に、「妖」の旁が「我」にそれぞれ完全に化けていて、「呼」がすっ飛んでいるなどは、かわいいものだと言うことになってしまいます。

 まして、それぞれをもとの文字に戻し、「卑弥(呼)妖惑翻葉(=叶)群情」 『卑弥呼は、群衆の感情を妖しく惑わし、(木の葉のように)翻させる』とでも読むのかと想像するしかありません。

*追記 この部分については、後続記事で更に考察を加えているので、ご一読こう。 
      34. 翰苑再考

  • 「拙速乱造」された「並」写本

 おそらく、翰苑写本に際しては、新米写本工、おそらく、見習い徒弟を何人か動員して、とにかく、速くしろとせき立てたのでしょう。見習い徒弟は、いつも通り、自分たちの写本は親方や兄貴分の仕事の踏み台でしかなく、親方や兄貴分は、へぼな徒弟の間違いを、すぐにそれと気づいて直すのだから、自分たちがへたに訂正する事は無かったのでしょう。
 そう思わないと、書き間違いに気づいていながら、そのままに先に進む仕事ぷりが理解できないのです。

 それにしても、これだけ法外に不正確な写本であり、卑が早になっても気づかない写本工が、それでなくても間違いやすい、東夷の固有名詞を正しく写本したと信じろというのが、無理というものです

 さて、駆け足で書き連ねていくのがこども見習い工であれば、我流の変則文字も多いのも無理ないし、史料内容はこどもの理解を超えていたから意味を考えて見直すこともなく、気楽に書き流したのでしょう。
 まさか、写本として、「上中並」の「並」にもほど遠いこども仕事が、一千年先にそのまま残るとは思いもしなかったでしょう。

 こうしてみると、小論筆者は、随分、翰苑編纂者の張楚金に対して、かなり偏見を持っていたようです。現場、現物、本人に当たらずに、憶測で勝手な評価はしてはならないのだと思いました。

 なお、「翰苑」のテキスト全文が中國哲學書電子化計劃の維基に収録されていますが、俗字を多用した文字の異同が多々見られるので、注意が必要です。

翰苑倭國傳
「kanen_wakoku.pdf」をダウンロード

以上

 

 

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