27. 国書雑感 (倭人余譚)
*おことわり
ここに掲示したのは、東京国立博物館(以下、東博)所蔵の朝鮮国国書です。
小論筆者が、2014/8/22に撮影したものです。
東博展示物の撮影ですが、国書左端の天井灯の反射と右下部の撮影者の影を、修正により消していますが、国書の本体部分は無修正であることは、ここに確認いたします。反射、反映を最小にする角度から撮影したために、遠近法によるひずみが発生したことから、矩形に見えるように補正したこともご了解いただきたいものです。
なお、博物館展示物撮影のルールに従い、補助光は使っていないことを宣言します。
さて、倭人傳談義に、一千二百年余り後代の資料が何の参考になるかと言われそうですが、国書の用紙・体裁は、中国を宗主国とする韓半島歴代王朝が確固として守り続けたものであり、三国志時代の国書の用紙・体裁を保っている面が多いと考えるからです。
- 体裁談義
まず自身の王号に続く空白部に自署しているようです。国書中でここは自署したと思われ、臣下の者が、国書に於いて、国王の実名を代書することはないと思われますからです。
続いて、相手方の尊称を書くものです。
ここでは、建前上、日本側の君主である徳川将軍を「大君」と呼んでいます。いずれにしろ、相手方の諱は書かないものです。
以下、本文を記し、最後に、署名・押印しています。
ここでは、微妙な関係にある日本国大君に対する国書であるので、朝鮮国王の私印を押していますが、もし、明朝工程に対する国書であれば、国王署名に印を押したでしょう。
三世紀に立ち戻るとして、後漢から下賜された「漢委奴國王」印は、押印用とは凹凸が反転していますが、時代を下った三世紀当時、少なくとも、押印用の国王印が作成されていて、紙に書いた国書に押印することは、国書として当然の体裁とされていたと思われます。
してみると、晋朝から下賜された親魏倭王印も、押印用のものであったと推定されます。
当国書を作成した朝鮮国は、明朝を宗主国とする以上、その年号として、明朝元号に従う「崇禎十六年二月」を記しています。
当然ながら、三世紀の遣使に際して、国書に記載されたのは、晋の元号である「景初」でしょう。
ただし、何年、何月の部分は、洛陽到着の時点まで空けておいたでしょう。
- 針先か剣先か
文書の体裁を保つために、用紙に針を打って行頭の目印としているとの所見です。
痕跡が三角穴にみえることから、短剣の先端かと見ていますが、短剣では、差しっぱなしにできないので、やはり針を立てたのでしょう。
厚く硬い紙に確実に差すために、針の先端を三角形に鍛えたものでしょう。
これが、官吏たちによって日常使われる文書用紙であれば、罫紙を敷いて透かしながら書くのでしょうが、国書用紙は透けないので、こうするしかないのです。もちろん、1カ所の針穴だけで、全体の体裁を確実に守れるのは、当然ながら書官の腕のさえです。
- 国書の代書、代作
国王自署、国王印捺印の国書ですから、一部にある代書、代作説は、成り立たないでしょう。つまり、帯方郡、ないし、洛陽で、国書を代書、代作して提出することには、白紙に、国王自署、国王印捺印した、いわば「白紙手形」を持ち込む必要があり、さすがにあり得ない事態でしょう。そこまで無理に言い立てて、渡来漢人が、倭國の政権に参画していたことを否定する意味が理解できないのです。
- 文書外交事始め
ましてや、東夷の無名の國が、国書と手土産以外に、身上書(倭國の所在地、交通アクセス、人口、特産物などを書いたもの)、晋朝に対する忠誠を確約する人質など、新規のご奉公にふさわしい格別の「誠意」を示さなければ、いきなり、「制詔」とともに「親魏倭王」の金印やそれに見合った下賜物を授かることなどなかったでしょう。
古代から、東夷の國といえども、中国に対しては、周到な文書外交が必須だったのです。
- 用紙談義
当該国書は、楮繊維を漉いた上に、打紙加工した強靱な白紙です。
古代以来、韓半島や日本列島の九州、中国、四国などの山地には、楮が自生していたはずですが、素材である楮を伐採してから繊維を紙に漉き上げるまでには、念の入った製紙工程が必要であり、いずれかの先進地から、製紙工程をつぶさに指導できる製紙職人たちが渡来したのでしょう。
また、山野に豊富に自生している楮を素材とするため、人手を投入すれば、それだけ生産量を拡大できることから、後世風の手工業化が進み、古代紙は、廉価で潤沢であったものと思われます。
ちなみに、後漢時代に蔡倫によって実用化された「蔡侯紙」は、綿など衣類に使用された植物繊維を漉き上げたもので、これと比較して、楮繊維によって漉き上げた紙は、薄く、白く、強靱な点で優れているものです。
- 鉄紙国家
私見によれば、三世紀以降、急速に進展する韓半島中南部の諸韓国の百済、新羅それぞれへの統一や日本国内での古代国家形成の萌芽は、鉄製農機具の普及と併せて、こうした楮紙の大量普及がもたらした文書国家への「文明開化」によると思われますが、余り、同意は得られていないようです。
- 参考資料
下記資料は、ここに掲示した朝鮮国国書を含めた江戸時代の朝鮮国国書史料について、詳細な分析が加えられていて、大いに勉強になるものです。
-引用-------------
*この論文は共同研究による討議を経ていないものです。
朝鮮国書・書契の原本データ*
-付記-------------
当資料の公開者は、
タ シロ カズイ
田代 和生氏です。(女性ですが氏としました)
歴史学者。専門は近世の日朝関係史。
慶應義塾大学文学部教授
-引用-------------
四、料紙の科学的データ検出について
-付記-------------
当部分の担当は、
東京国立博物館文化財部保存修復課保存修復室長
高橋 裕次氏です。
(調査期間 2003/6-2004/7)
-引用-------------
国書 8 崇禎十六年二月 日 朝鮮国王国書 1643 東京国立博物館
顕微鏡で本誌の繊維の組成を見ると、楮繊維の絡まり方に重なりがほとんど無い。また密度は
0.95で、打紙加工が施されていることがわかる。糸目間隔は2cm、簀目は20本/3cmであるが、
透過光では簀目はほとんどみえない。文字の頭を揃えるための針穴があり、顕微鏡で観察する
と、痕跡は三角形であるから、小刀の先端による穴の可能性もあるが、とりあえず以下、「針穴」
とする。
----------------
« 今日の躓き石 「セットアッパ」でなく「セットアップ」 | トップページ | 28. 俾彌呼考 (倭人余譚) »
「倭人伝新考察」カテゴリの記事
- 新・私の本棚 岡田 英弘 著作集3「日本とは何か」 倭人伝道里 新考補筆(2023.04.07)
- 04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 5/5(2023.01.28)
- 04. 始度一海 - 読み過ごされた初めての海越え 追記補追 4/5(2023.01.28)
コメント