28. 俾彌呼考 (倭人余譚)
「考」と言っても、別に大層なものではありません。
「俾彌呼」は、魏志倭人傳でなく、三國志魏書齊王紀四年の記事によるものです。
- 齊王紀:
四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。
夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。
五月朔,日有蝕之,旣。
秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。
冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
ここでは、中國哲學書電子化計劃のサイトから、原文テキストと欽定四庫全書版の魏志巻四から見開き二ページ分の影印を、謝意と共に引用しています。
- 皇帝元服立后
この年正月早々に魏朝皇帝曹芳は元服し、四月には皇后を立てるというめでたい年であり、慶賀して大赦した後、七月には詔して、魏朝創業の太祖曹操を補佐した顔ぶれの19人の重臣たちを太祖廟に祀るという節目の年でもあったのです。余談ですが、合祀されたのは、曹真、曹休、夏侯尚、桓階、陳羣、鐘繇、張邰、徐晃、張遼、樂進、華歆、王朗、曹洪、夏侯淵、朱霊、臧覇、李典、龐徳、典韋と綺羅星のごとき建国の元勲であり、三国志(演義)読者には、なじみ深い名前があると思います。
してみると、この年、正始四年の倭國女王俾彌呼の遣使奉獻は、皇帝元服、立后の慶賀として、各国で唯一特記されているのでしょうが、それにしては、ちょっと遅くなったものです。
なお、この際の皇帝は、後に廃立され「*帝」と称する諡号を受けなかったため、定説では、皇帝在位中も、即位前の称号を以て斎王と呼ばれていますが、小論筆者は、定説に逆らって、在位中の事項では、呼び方を「魏帝曹芳」としています。
- 正字と通字
状況紹介が長くなりましたが、正史の本紀には、倭國女王の姓名は、(自称)俾彌呼であったと書かれています。古田武彦氏によると、このような時は魏書(魏志)本文である齊王紀の文字が正字であり、倭人傳のような「傳」では旁だけの「略字」にすることがあるそうです。
ただし、略字とは、小論筆者の言い方であって、史官が字の画数を減らして横着をしているわけではなく、格式の求められる文書以外では、代用字(通字)として認められている字で書くという通則があるようです。
よって、魏志倭人傳の女王は、齊王紀に従い人偏のある俾彌呼が正しいのです。
- 佳字選択
つらつら考えるに、倭國女王が国書に自署する時、倭國語の発音をなぞって字を選んだとしても、ことさら、「卑」と卑下しないはずです。さらにいうならば、後続の二字が「爾乎」でないように、女王の自署として、それぞれ偏旁を備えた格式ある漢字としたと考えるのが、自然な成り行きのように思います。
説文解字によれば、俾の解字は、「益(ま)すなり、人に従ひ、卑を聲とす」であり、旁の「卑」は発音を示し、漢字としては、益すとか従うという意味であることから、晋朝に遣使する東夷の女王として考えると、俾はその教養と品格を示すものであり、むしろ好ましい文字であると考えます。決して、「卑字」ではないのです。
- 発音憶測
なお、旁で発音を示すという考え方で字を選んだと見ると、続く二字の発音は爾と乎なのでこれは「ニカ」なのかなとも思います。
結局、「俾彌呼」は、「ヒニカ」なのでしょうか。
まあ、この辺りは、根拠の乏しい素人考えの積み重ねの極みなので、見当が外れてしまったかとも思いますが。
以上
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