31.内乱考(倭人余譚) 3 - 超時空談義
- 蔓延する時間錯誤
後年、三百年近い後世の六世紀の継体天皇時代に、筑紫が、大陸、韓半島との交易の利益を独占しているとの非難があって、近畿が交易の利益を我が物にすべく筑紫への討伐軍を起こしたと記録されているようである。この記録すら、正確な史実かどうか確かではないのだが、それでも、この記録を三百年以前の世界にそのまま投影する「時間錯誤」は、古代史学界のあちこちに蠢いているようである。
- 世紀を超えて
太古から三世紀にいたる歴史上に燦然たる筑紫の先進性を見ると、近畿から筑紫に遠征軍を送ることなど想定外であるが、三世紀以降の三百年の間に、着実に筑紫を超えた近畿の発展があったのだろう。また、その時点では、大きく成長した「交易」の利益を独占することが、遠征軍を派遣するに足る国益事項となったと推定される。
かたや、六世紀時点では、遠征軍が長距離行軍できるほど、街道整備が進み、かつ、道中の支援体制が整備されていたということである。だから、近畿から筑紫への長征軍が、敵地で満足に戦闘を行えたというのである。
最近の報道でも、八世紀初頭の平城京時代には、現代の高速道路網とも比較できる街道網が整備されていたとされている。街道網は、年単位で整備できるものではないから、二百年遡って、筑紫-近畿間にいち早く街道が整備されたとする時代考証は、無碍に否定できないようである。
おそらく、交易品、上納する租税、公課などの運送を目的として、古来維持されていた海の道に加えて、中国路の陸の道が整備されたものであろう。それには、土木重機など存在しない時代、多大な年月にわたって労役と資材を投入したことと思うのである。
- 古代の公共事業
重ねていうと、八世紀初頭の街道の姿は、五百年の間に整備されたものであり、小論が取り組んでいる三世紀中葉の倭人傳時代には、筑紫から近畿への街道は、影も形もなかったと思われるのである。
古代といえども、街道整備のような国家的大事業は、統治者が、強い決意を持って、多大な年月にわたって大量の資材と労力を投入して「公共事業」を行うことにより、辛うじて整備されるものである。
そのため、後世法制化された律令でも、納税義務の一環として一定期間の労役が賦課されているのである。
古代の公共事業としては、墳丘墓の造営が、まず思い浮かぶだろうが、それ以外にも、食料生産を増進するための新田開発、灌漑水路の整備も当然進められたはずであるが、さらに加えて、営々たる街道整備が行われていたのである。
しかし、古代といえども、公共事業を行うのためには、収税が不可欠であり、そのためには、戸籍制度、課税・納税の制度が整ってこそ広く漏れなく徴税できるのであり、また、食料を備蓄できるのである。また、的確に労役人夫をまとめ、確実に動員しなければ、公共事業は、実行できないものである。
いうならば、「国家」の基礎構造、大綱が確立されていなければ、街道整備を含め、先に挙げた大規模な公共事業は実行できない。
- 「常識」の目で照らす古代観
古代史、古代国家の議論で、そうした、当たり前の理屈が意識されていない点が、素人目にも不思議である。学術分野縦割りの弊害であろうか。
歴史の流れを推察する上で、現代的風潮の一面を強調して過去に投影した、「戦争が歴史の必然」、「弱肉強食が普遍の真理」の浅知恵から来る歪んだ理屈一辺倒になってはいないだろうか。
未完
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