33.内乱考(倭人余譚) 5 - 文明開化 結
- 大乱の正体
と言うことで、一部で大乱というものの、実態は、内戦とまで行かないものであり、倭國王が、各国の水利や漁業権の諍いを取り仕切ることができないために国王としての権威を失い、数年にわたって季節ごとの諍いがあったという程度であり、それを「大いに」乱れたと書いたのではないかと思われる。
少なくとも、魏志倭人傳に書き残された倭風俗は、多年の内乱で荒廃したものとは思えないのである。
- 周旋五千里の中原
倭國の実見に基づく魏志倭人傳は、狭隘な筑紫平野にひしめく村落諸國を見て「國邑」と記したのだろうし、倭國東方は未開の山野と見たのだろう。
後年の魏志読者である笵曄は、道里の字面に囚われて、幻の「東夷」倭國に戦国七雄ならぬ群雄三十国が周旋五千里の茫々たる中原に鹿を追う「戦国ロマン」を描き出したのではなかろうか。
- 文明開化
女王国と不和であった狗奴国との角逐に対応するために、魏朝から派遣された張政以下の軍事顧問団は、その第一義として、組織的な戦闘のできる兵士を多数訓練したものと思われる。これが、中国文明による文明開化の一端である。
後に、女王の後継者争いが起こった時は、多数の死者を出す戦闘となったようである。
一度、そのような武力闘争の流れに陥れば、あとは早い者勝ちで、各国が軍備増強に走る可能性がある。かくして、東夷の純朴な世界で、ここまで練り上げられてきた共存共栄の景色は、そぞろ乱れるのである。
- 文明伝道師
魏使は、軍事顧問団以外に、文官、官吏、史官の類いの人材も引き連れていたものと思われる。
近隣諸國から税の貢納を受けるという支配服従制度の定着、税の貢納を確実にするために、近隣諸國に戸籍制度を整備させ、製鉄・鍛冶、牛馬飼育などの労役賦課、税の貢納や治安出動のための街道整備など、「古代国家」の骨格形成は、張政率いる顧問団の長期指導がもたらしたものではなかったかと思われる。
史料に従って、張政が20年近くを倭國に滞在したとすると、滞在期間の始めに15歳程度の子弟を指導したとしても、それらの教え子である子弟は、帰国時には30代半ばの成人であり倭の幹部となる年勘定である。
もし、念入りに研修指導したとすると、教科は、漢語の習熟に始まり、軍事、行政の各分野にわたって行うことができ、魏朝随臣たる倭國の幹部人材を、数多く育てることはできたはずである。
また、史料に明記はされていないが、張政ほどの地位にある官吏は、単身でなく、副官や吏官などのスタッフが伴うものである。日用品、事務用品など、当然、倭訪問時に持参したものでは足りなくなったであろうから、倭國人に代替品を作らせたものもあったと空想するのである。
先に「国書」談義で述べた「楮紙」抄紙法を、完成された技術として倭國に伝えたのは、張政率いる魏使ではないかと空想しているものである。
もちろん、張政が、倭幹部を育てたとか製紙技術を伝えたという証拠は何もない。ことの成り行きとして、そうなったのではないかと空想するだけである。
- 未開の辺境
三世紀の時点で、筑紫は文明開化したが、近畿では旧態依然たる国政が行われていたようである。
筑紫は、近畿を遠隔支配するために必要な制度は開示し、施行させたが、それ以外の行政テクノロジーは、門外不出としたようである。また、後年となるが、佛教は文字の使用を促し、文明開化の導火線となることから、あえて近畿への伝導を進めなかったように思われる。各種史料に見る近畿での文明開化の遅れは、そのような情報管理を投影しているように思われる。
とはいえ、三世紀時点で、倭國に中国の行政・軍事テクノロジーが導入された後、倭國がどのような変貌を遂げたかは、魏志倭人傳の埒外なので、小論筆者は、ただ、楽しく空想するだけであり、四世紀以後に展開された古代国家に関する議論は、その知るところでは無いのである。
以上
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