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2014年9月

2014年9月30日 (火)

今日の躓き石 「歴史を変える」

                                                                2014/09/30
 例によって、日々愛読している毎日新聞のスポーツ欄の記事の批評である。
 復習すると、これは、たまたま、この場で目についたと言うだけで、広く言われている言葉間違いだと言うことは知っている。たまたま、きっかけになっただけである。そして、ここで殊更に指摘するのは、毎日新聞は、聞く耳を持っていると考えるからである。

 今回は、記事本体の中で、国立大野球チームの選手の発言の一部が、「」入りで引用されているので、担当記者は、報道の勤めを果たしただけなのだろうが、それで良いのだろうか。

 全国紙の紙面で報道されたと言うことは、全国紙の紙面を飾るための厳格な基準を満たした正しい言い方と誤解され、それが、関係者の誤解に加担し、続く世代に広く誤解を伝え、ついには、誤解を正解にしてしまうことが大いに懸念される。

 先般、慣用表現の誤解が広がり、むしろ定着していることが報道され、心あるものたちの嘆きを掻き立てたが、そのように誤解の広がる一因が、全国紙で誤解が強く指摘されないことも作用しているものと思われる。誤用のその場で指摘しなければならないのである。
 報道は、引用が正確であればそれで良いのでは無いと、つくづく思うのである。

 元に戻ると、「歴史を変える」と言う誤用が深刻なのは、これが、「歴史の捏造」を連想させるからである。変えられるものなら、創作も、偽造もできることになる。
 歴史は、厳然として存在し続けるものであり、現代人が何かしでかしたら書き変えられるものではない。

 人が、歴史をどう見るか、どう見たかというのは、その人、その人次第だが、その人が何か発言するたびに、歴史そのものが変わっているわけではない。人の心の中に描かれた歴史像の問題である。

 それにしても、大学生ともあろうものが、なぜ、「歴史に新たなページを刻む」のような妥当な言い方ができないのだろうか、とその軽率さを嘆くのである。
 そして、記者は、なぜ、軽率な発言の粗雑な言葉遣いを地の文で言い換えてあげなかったのだろうか。担当記者の配慮不足と言いたい。

 京都は、その字義から見ると日本の首都であり、その地にある国立大学は、数ある国立大学の中でも日本一の最高学府である。体育会系学生と言えども、その名に恥じない知性を求められるのである。

以上

2014年9月27日 (土)

今日の躓き石 「ナックルボーラ」 も 生きている

                               2014/09/28
 NHK BS1のMLB中継だが、アナウンサー、コメンテーター共々、はずしているのは、どうしたことか。

 アナウンサーの「スプリッタ」は、感心しないのだが、コメンテーターの「ナックルボーラ」は、この業界では、誰も、言葉遣いに注意していないこと、そして、一度はびこった悪習は、なかなか死なない(Die hard)ことを示している。

 NHKさん、BSなんだから「受信料に見合った品格をお願いします」。MLBプラスの懲りないナレーター共々、永久追放とまでは言わないが、しばらく、禅寺修行でもさせたらどうか。

 因みに、ナックルボールを多投するピッチャーは、ナックル(ボール)ピッチャーと呼べばいいのに、何で、わざわざボーラ(Bohra)と言うのか、不思議である。どこの中学校で英語を習ったのか。先生の顔が見たいものである。

以上 

 

2014年9月26日 (金)

今日の躓き石 「セットアッパ」 またも

                           2014/09/26
 今回は、送りっ放しのNHK BS1のコメンテーターの話ではない。権威ある校正部門があり、したがって、深く信頼している毎日新聞が、取りこぼしているので、しばらく失意の内に燻っていたのである。

 朝刊スポーツ欄で、「鉄壁のセットアッパ」と書かれている中継ぎ投手が、押出四球を四個与えたという話である。本欄筆者は、敗戦の責任を一人の失敗に被せる書き方は好まないのだが、今回は、そこを論議しているのではない。

 毎度のことなので、嫌気がするが、セットアップは、一個の動詞ではなく、set(動詞)にup(前置詞)が続いている言葉なので、upをupperにするのは、中学生でも間違いとわかるものである。まともな言葉の英語には、そんな言葉は無いのである。
 中学生にわかることがわからないと言うことは、小学生レベルの言葉遣いと思われる

 この手の言葉を全国紙の紙面に見るとは情けない。関係者一同、中学校の英語から出直す方が良いのではないかな。

 記名している担当記者は、無名の新米ではなく、一人前の記者として、ある程度紙面を任されているのだろうから手ひどく言うが、この先の人生を、間違った言葉を使い続けて、過ち多い人生にするか、この機会に悔い改め、清潔な言葉を使う人生にするか、分岐点にきている。まだ、遅くはないので、生き急がずに、丁寧に生きて欲しいものである。

 冗談はさておき、天下の毎日新聞が紙面で使えば、良い子も揃ってまねをするものである。もっと、丁寧に紙面作りをして欲しいものである。

 因みに、今夜のプロ野球中継で、GAORAのアナウンサーと解説者は、「スプリット」(ボール)、ないしは、「スプリットフィンガー」(ボール)と呼んで、意識して言葉使いを正しているのには、すこぶる好感を持つのである。

以上

   

2014年9月22日 (月)

今日の躓き石 「スプリッタ」

                         2014/09/22
 いや、「スプラッター」映画のことではない。良く出てくる野球界のカタカナ語である。

 言葉の怪しい元選手や正体不明のコメンテーターの発言なら、番組の続いている間は叱りつけるわけにも行かないので、しかたないかと諦めることにしている。
 しかし、天下の公共放送のそれも、最高の場であるはずのBS1で、こうした用語が氾濫して、停まる気配がないのは、信じられない。
 NHKには、厳格な用語基準があるはずなのだが、今日も、また聞いてしまった。

 元々、確か、SFF (Split Fingered Fast)Ballで、要は、人差し指と中指を開いてボールを挟むようにして投げる投球のことだった。Splitするのは、指であった。バッターを切り裂くものではない。

 それが、今や、「スプリッタ」(Supuritta)と呼ぶものが出てきた。

 SFFBは、元々五音節なので、そう面倒くさくないはずだが、それでも、アメリカのアナウンサーのように、聞き取れないほどの早口でしゃべりまくる必要があるときは、Splitと縮めるのは、しかたないことである。

 それが、いつの間にか、ずぼらなコメンテーターの中に、「スプリッタ」が出回ってきた。

 どうも、Cut Fast Ballも、「カッタ」(Katta)と呼んでいるようだ。別に、バッターを切り裂くナイフというわけでもないだろう。

 野球中継が、スプラッターの世界になっている

 この理屈で行くと、カーブでなくカーバ、シュートでなくシュータ、速球も、ファーストボールでなく、ファースタになるのかな。

 天下のNHKが、どうして、こんなだらしない用語をカットしないのかな。受信料返せとは言わないが、情けないよ。

以上

今日の躓き石 「厳しすぎ」

                                                                  2014/09/22
 いや、毎日新聞夕刊社会面の今日の紙面が問題というわけではない。しばらく前の紙面の問題なのだが、話題として言いそびれたので、ここ出てできたのである。

 「客引き 全面禁止」記事の中の小見出しで、
 店員ら 「厳しすぎ」「続ける」
 とある「厳しすぎ」が、褒めているのか、貶しているのか、わからないのである。

 当記名記事の筆者2名は、何も大きな間違はしていないが、軽率な同僚に足を引っ張られているのである。
 いや、ちゃんと、「厳しすぎる」と言葉を端折らずにいれ ば、そんないらぬ突っ込みは避けられたのだが、「厳しすぎ」で終えているので、店員が規制を褒めているようにとられかねないのである。一字横着しただけで、随分品位が落ちている。

 いや、全国紙の社会面だから、崩れた言い方にはなっていないと思いたいのだが、しばらく前の記事で、高校生が世界的な好成績を上げたときの高校教師のコメントとして、すごすぎるといった感じの崩れた言い回しが、注釈なしにそのまま載っていたので、毎日新聞の基準が変わったのかと感じていたのである。

 高校教師といえども、現代の若者だから、崩れた言い方に引きずられるのはしかたないとしても、毎日は新聞の社会面にそのまま載せるのはまずいと思ったのだが、その頃は、文句付けのブログを書くつもりはなかったので、読者としては、泣き寝入りしたのである。

 ここでこうしてみると、全国紙としての言葉の基準が崩れると、見出しだけ見たときに報道の真意が誤解される可能性が生まれていることになる。

 是非、毅然と、正しい言葉遣いを守り、報道の信頼性を守っていただきたいものである。

以上

2014年9月19日 (金)

今日の躓き石 「11.9円のレーザー複合機」

                                                                      2014/9/19
 ちょっと旧聞になったが、この記事はまだ、某社サイトに健在である。

 「A4カラー11.9円のレーザー複合機
 ~30ppmで無線搭載のモノクロレーザーも       」

 興味のある方は、検索したら、すぐヒットすると思う。

 10円台なら、レーザー複合機でなくて、プリンター機でも、すぐにでも買うという人は、何10万人といるのではないかな。それにしても、「30ppmで無線搭載」というが、その程度の低濃度で何をするものか、意味不明である。人騒がせで、悪い見出しである。

 仲間内の飲み会の席ででも、だべっているのが、そのまま文字になって世に出た感じである。

 インターネットサイトでの製品紹介といえども、一流と見なされているサイトの記事は、すぐ信用してしまう人は、多いのではないか。記者が書いた記事を、誰かがチェックして掲載していると思うからである。掲載された記事を誰かがチェックしていて、ダメな記事には、修正が入ると思うからである。
 記者は、世間に恥をかいて覚えるという説もあるが、思いついたままに書いて、見直さないという粗雑な気質は、その程度では直らないのではないか。

 こうして、軽率な記者が書いた杜撰な見出しの記事が一人歩きして、一流サイトになっているとは、いいことだとは思えないのである。もちろん、世の中は、下には、もっともっと下があって、取り上げていると際限ないのだが。

 誰か、格情報サイト記事の信頼度を客観評価して、公開してくれないものか。そうでもしないと、懲りないのではないか。

 虚報を放置しているのは、大新聞だけでは無いのである。

以上

 
 

2014年9月18日 (木)

今日の躓き石 「経験値」

                             2014/09/18

 毎度の毎日新聞ネタであるが、長年の愛読者の「鞭」入れである。
 それにしても、今回は、おそらく、編集部の赤鉛筆の校正の入らない記事ではないかと思う。将棋A級順位戦の観戦記である。
 気に障ったのは、まずは、一方の対局者が新境地を確立しようとしたリーグ初戦の敗因を「経験値」の不足か、と言ってのけたことである。

 これが、トップ棋士同士での「実戦経験」の不足というなら、少しはわかるが、「経験値」と言われると、そんなPCゲームでは、戦いの度に伸びていく1次元の数値で、トップクラスの棋士の内部に蓄えられる知見は、数値化できるものではないと思うのである。
 経験から得られるものは、奥行きもうねりもある、不定形のものである。
 また、棋士の経験には、「実戦経験」以外に、自主的な研究の蓄積もあれば、研究会対局の経験もあるだろうに、それを小賢しい観戦記者に、準備不足、経験不足でしたね、と言われてはたまるまい。トップ棋士は、そんなところに敗因を求めるものだろうか。

 誰が考えても、年間十局しかないA級順位戦の場で、前名人を相手にすると言うことは、ここで負ければ名人挑戦が大きく遠のくことは、自明であり、そんな大事な対局に、勉強中の戦型の試行運転を試みるなど、とても信じられないのである。

 以下、何やら意味不明な「現代将棋」談義が進むが、基本的に、話題の切り出し方が間違っているから、どんどん自分を追い詰めているだけで、読者にとっては、迷惑な議論である。
 「昭和将棋」と無縁な平成世代の若手棋士の噂が出てくるが、それとこれと、何の関係があるのだろうか。「時代を意識した戦略」とは、棋界のトップテンの中でも、最上位に位置する棋士を戯画化している感じである。

 いや、こうした物言いは、観戦記めいた書き物でも、この観戦記者に限ったことではないのだが、例によって、毎日新聞のA級順位戦観戦記の品格を基準に見れば、随分、低次元の理屈のこね回しだと思うのである。

 A級には、A級にふさわしい毅然とした言い回しをのぞみたい。

以上
 

2014年9月16日 (火)

今日の躓き石 「キリで省エネ」

                                                          9/13 17:40
 NHKの「ルソンの壺」で「キリで省エネ」と言う小ネタ紹介があった。

 要は、水を(非常に粒の小さい)ミストにして吹き出すと、(即座に)蒸発・気化して、周辺の空気から気化熱を奪うので気温が下がり、涼しく感じるという話である。実際、その場で体感すれば、涼しくなったと感じるはずである。

 しかし、これは、古くからある錯覚の技で、しばらく、中学、高校に戻ったつもりで考えたら、おかしいとわかるはずである。

 水が気化して、その際に空気から気化熱を奪うのは、空気が水蒸気を取り込むからである。閉じた部屋で、ミストを出し続けていれば、すぐ、空気が飽和して水蒸気を取り込むのをやめるので、白い靄が消えなくなる。本当に、つかの間の話である。
 そりゃそうである。水を気化させ続けて、熱を奪い続けられるのなら、部屋に湿った洗濯物をたくさんつり下げて、扇風機で風を当てていれば、洗濯物は乾くし、室温は下がるし、一挙両得である。

 普通、そんなことをしないのは、すぐに、部屋の空気が湿って、飽和状態になり、洗濯物が乾かなくなるからである。そうなると、室温も下がらない。
 と言って、窓を開けて乾いた空気と入れ替えると、室温がまた上がってしまう。

 それに加えて、体感という問題がある。気温が下がっても空気が湿ってくると、汗の乾きがが悪くなるので、体感として、蒸し暑い感じに変わる気温だけでは、体感を語れないのである。
 結局、室内でのミスト散布は、まるで気持ちよくないのである。

 玄関先の打ち水や街路でのミスト散布は、見た目が涼しげで、つかの間、気温も下がるので、いいような気がするが、開放されている玄関先や街路を冷房することは無いので、実際は役に立たないことになる。
 あくまで通りすがりの行きずりの「涼感」である。

 なお、古くから、砂漠地帯などの乾燥した場所では、濡れタオルに風を送って、風の温度を室温より下げ、人のいる方に吹き出すことで、涼感を持続する「デザートクーラー」というものがある。これは、使う環境の湿度が非常に低くて、多少水分が蒸発しても飽和しないのと、部屋が広くて、室内に湿気がたまらないから、扇風機よりは冷風の感じられるものなのだ。
 気の利いた発明であるが、日本のじとじとする夏、狭い部屋では、無理である。

 結局、この小ネタは、耳たこの「没」ネタである。

以上

2014年9月14日 (日)

音源探索 ランパル モーツァルト ソナタ集 その2

 さて、随分頑張って、動画の音声トラックという形式で3件をYouTube公開したが、折角の成果が、ひっそり「潜伏」しているのは、ドレスアップして闇夜を一人歩くようなもので、まことに寂しいので、仏ランパル協会(ジャン-ピエール ランパル協会 Association Jean-Pierre Rampal)にお知らせした。

 これに対して、ドニさんから回答があった。実名は、Monsieur Denis Verroust。ドニ・ヴェルルースと読むらしいが、名字は、どこまで似ているのか おぼつかないので、フランスで時にあるように、ファーストネームで呼ぶ ムッシュ ドニ としておく。

 ドニさんのメールによれば、2006-2007年頃に、仏ランパル協会が、フランスユニバーサル(Philips音源を継承)の依頼で、ランパルの初期録音を捜索した際に、1965年に日本ビクター録音陣が収録したマスターテープをPhilipsの倉庫で発見したので、当CD Boxに収録できたと言うことであった。

Jean-Pierre Rampal / Concertos and recitals - 1961-1965" (Ref. 480 1324) 
ユニバーサル (フランス) 2008年発売

 当LPのマスターテープ探しは、関係者だった三井啓氏の耳にも入っていた可能性があるが、当方も、三井氏の書いたものを残さず読んではいないので、その辺はよくわからない。

 と言うことで、インターネットの検索で当録音の行方を調べ直すと、前記したように、2008年頃にフランスユニバーサル)が、8巻セットCD Box発売後、近年、CD発売の権利が、Accordに移管され、今は、AccordブランドのCD Boxが現行商品として生きている。

 確実な入手先は、ムラマツフルートのネットショップである。
JEAN-PIERRE RAMPAL : CONCERTOS ET RECITALS 1961-1965 VOL.1 (8CD)
ジャン=ピエール・ランパルの芸術:協奏曲とリサイタル 1961-1965 第1巻(8枚組) ACCORD  480-1324(8CD)
  CD-ID : 5693

 ランパルのファンなら、一見の価値はあると思うが、8枚組セットは、なかなかのものである。
 それ以外に、各ダウンロード販売サイトに、個別の曲が陳列されていて、こちらも、立派に生きている。手元の端末で好きなときに聞きたいときは、そちらから購入いただきたい。
 Concertos Et Récitals 1961-1965 Jean-Pierre Rampal
 で検索すれば、ヒットするはずである。忠実なコピーなので、アクセント記号が付いているが、Recitalsでも良いはずである。
 当方は、こうしたサイトの経験が無いので、勘違いがあったとすれば、申し訳ない。

 つまり、今回の成り行きをまとめると、当方は、知らずに、他人の商売の邪魔をしていることになりかねないので、謹んで待機している。
 当方の意見によれば、他人の商売の邪魔をしない限り、引用音源明記した無償公開は許されるべきだ、と言うものだが、今回は、どうも分が悪い。(ここは、消沈しているのである

 なお、ドニさんも、アップロードしたとの連絡を受け、早速耳を通して、一応好意的に「大人の」評価をしてくれたものの、事前にメールで問い合わせを受けて、当方が、当LPのデジタイズを企画していると聞いたのであれば、商用盤の後追いはやめておいた方が良いとの「大人の」意見になったはずである。
 事の成り行きは、いつもそうしたものなので、徒労になるのは覚悟して、動画製作を先にし、連絡を後にした。

 もっとも、LP音源のPC取りこみと静音は、もう10年以上前からの取り組みなので、音源は用意できていて、何かのきっかけを待っていたのである。

Side_2

 些細なことだが、レコード盤なのか、当方の機材なのか、原因はわからないものの、再生音量を上げると、少し陰りを感じるのも懸念材料になっていた。
 ところが、ドニさんによれは、マスターテープにも、同様のかすかな陰りが感じられるとのことであり、むしろ、陰りを忠実に捉えたディジタイズと整音を、上出来と褒めていただいたことになっている。(ここは、大いに自慢しているのである

 手早く調べたところでは、M. Denis Verroustは、著名なフルーティストであり、音楽学者であり、インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会の会員名簿(国内版)でも見かけるが、残念ながら、仮名書きの発音は書いていないのでわからない。

以上

音源探索 ランパル モーツァルト ソナタ集

 ジャン-ピエール・ランパル 1965年来日時の貴重な録音である。
 ここに収録したのは、日本フォノグラム社からfontanaシリーズの1000円盤として発売された。(1970年代中頃?)

Frontjackethd

Recorded 0n 20. October, 1965 at the Tsukiji Studio of Victor Company of Japan, Limited
Issued as Fontana FCM-4 from Nippon Phonogram Co., Ltd., ca. 1973

 レコード芸術で、長年にわたり録音評を担当していた三井啓氏(Akira MITSUI, Mr.)が、語ったところでは、録音エンジニアとして制作に参加したとのことであった。三井氏は、2010年に亡くなられたが、その記事で、ランパルの記憶を語るとともに、担当した中で気に入っている盤なのに、一向にCD化されないと言って嘆いていたような記憶がある。

 と言うこともあり、インターネットの検索で調べの付いた限りでは、録音半世紀を経てCDとして発売されていないようなので、多少早めですが録音50周年記念として掲示した。*後日談あり

 音声は、もともと、USB経由でPCにLPCMで収録(デジタイズ)後、整音したと言っても、耳障りな、盤面の傷での針音やターンテーブル由来なのか、ごろごろした低周波の雑音を、精一杯緩和したものである。
 いや、デジタイズとしては、USB接続する以前に、直に、CDレコーダーで音楽用(利用料上乗せ)CD-RWに書き込んだものかも知れない。随分、以前の話であるし、何度か試みたはずであるが、針を通すたびに、盤が傷む気がして、それ以後は控えているものである。

 当LPは、多分、昭和末期に中古盤を入手したこともあって、盤質に不満はあるが、随分捜しても2枚目が手に入らないのでしかたないところである。

 Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
 Drei Flötensonaten (Sonaten für Violine und Klavier, bearbeitet für Flöte und Klavier)
 1. G-Dur KV 301 (293a)     http://youtu.be/vYYbb2HGPTM
 2. F Dur Kv. 376 (374d)     http://youtu.be/ejav5Wty8uY
 3. Es Dur Kv. 481              http://youtu.be/v_5oMTGtukk

 

Jean-Pierre Rampal (7. Jan. 1922 -20. Mai 2000), Flöte 
  Futaba INOUE 井上 二葉 (30. Aug. 1930 - ), Klavier 

消えた躓き石 「投手陣が崩れ」

                              14/9/14
 このブログが、けなしっ放しではないところをお見せしたい。

 今朝の毎日新聞スポーツ欄の阪神戦報道には感服した。

 客観報道の姿勢が端的に出ているのが、タイトルに書いた表現である。過去の報道の流れで行くと、「総」崩れと書いてしまいそうだが、それでは、先発が一回で降りた後、急きょ登板した二番手が、3回を6三振ノーヒットに封じた功績が消えてしまう。
 余談だが、在阪のスポーツ紙は、3イニングパーフェクトリリーフを書き立てるのかなと思う。でないと、駅売りがガタ落ちになって商売にならない。

 今朝の紙面は、大きく報道している敗戦であるが、別の場所で、「投手陣が崩壊」と書くように、5人のうち3人が17点取られたのが敗因であり、ということは、投手陣全体に敗戦責任があり、「乱れに乱れた」と書かれてもその通りとしか言いようがあるまい。

 言葉遣いを抑制しても、要点を締めていけば、的確な報道はできるのである。

 一流全国紙の報道は、いつも、かくありたいものである。

 それにしても、ここ数年、9月に入ったペナントレースの分水嶺といいたいところで、峠を越えて先に進めないのは、チームとして非力と感じざるを得ないが、ちょっと、いや、つくづく不甲斐ないのである。記者の筆が、怒りで曲がらないのは、よほどの修行のたまものであろう。

以上 

2014年9月11日 (木)

今日の躓き石 「メアド」

                             2014/9/11
 ここで、毎日新聞が、再三やり玉に挙がるのは、本論筆者が、長年定期購読して、まじめに読んでいるからであり、言い回しがきついのは、メディアとして信頼しているからである。

 それにしても、毎日新聞の社会面見出しで、「非公開メアド」と地の書き方で叫ばれると、毎日さん、あんたとこだけは、信じていたのにな、と嘆きたくなる。

 もちろん、ここで問題にしているのは、三文字カタカナの「メアド」である。

 社会面は、一般読者を対象にしたものであり、一部マニアを対象にしたものではない。むしろ、ここでしか情報に接しない一般中の一般読者が対象の記事であろう。
 何故、素人が見てわからない難解用語を使うのか。

 「非公開メアド」は、どうやら、「インターネット上で公開されていないメールアドレス」ということらしい。と言うことは、「メールアドレス」が「メアド」になるらしいのだが、そうした略し方が愚劣であることとは別に、この文を見出しと結びつけて、難解見出しを解き明かしてくれるわけではないのが、不思議である。一方、SNSは、丹念に書き出している。
 残念ながら、同ページに、「メアド」の解説はない。
 これでは、一般読者は、途方に暮れるのではないか。毎日新聞の夕刊社会面の記事とも思えない。

 もう一つ大事なのは、「メアド」が部外者の理解を阻む「隠語」、「符牒」の類い、つまり、全国紙に記載するのにふさわしくないダメ言葉だと言うことである。「メルアド」ならまだしも、三文字の呪文ではどうにもならない。
 全国紙として、外来語の濫用がどうこう、カタカナ言葉の氾濫がどうこうと言う議論がいぜからあるが、それは、言葉として一人前の体を成している外来語、カタカナ言葉の話であり、ダメ言葉は論外である。
 わずか三文字で意味のとれるカタカナ言葉は、とうに枯渇しているから、混同を避けるためには、意味不明、字面不良の、たちの悪い三文字しか残っていない。そんな言葉は、聞いても意味がとれないから、言ったものは得意になれるという「隠語」、「符牒」の仕掛けである。 

 ダメなものはダメである。

 毎日新聞は、これまで厳として「同級生」を排斥しているように、「メアド」や「コスパ」のような愚劣な、間違い言葉の廃絶に挑んでいただければ幸いである。

 本論筆者がこの記事に見出しをつけるとしたら「非公開アドレス」と言うだろう。
 アドレスが、メールアドレスのことだというのは、自然に納得できるはずである。
 普通に言えることを普通に言わないのは、個人の発言の場では、あり得るかも知れないが、言葉の守り人である全国紙がこれでは困るのである。

以上

2014年9月 8日 (月)

今日の躓き石 「弱い虎いじめ」 連投

                                2014/9/8
 困ったもので、連敗のせいか、毎日新聞大阪版スポーツ面の阪神戦報が、弱いものいじめに走っている。仕方ないので、叩かれたものの弁護をしているのであって、それ以上の何者でもないから、気楽に読み飛ばしていただきたい。

 攻守のエラーが相次いだとあるが、そうは思えない。
 風の無いドーム球場での外野手の落球は、もっての外のエラーだが、エラーは、時に発生するものである。
 続いて書かれている、内野ゴロでの三塁走者の突入は、エラーではない。
 直前に、三塁コーチから「ゴロ打球は全部突入」との念押しが入っているはずである。人工芝での打球の速さ、内野手の守りの堅さ、どちらも、分の悪いところであるが、チームの決めごとであるから、三塁走者に責任があるような書きぶりは偏った見方である。

 前回も書いたように、試合に負ける理由は、どこか特定のプレーに求めるべきものではない。落球エラーで二、三塁のピンチとは言え、チームプレーでは、誰かのエラーでピンチになったときは、全力を尽くしてカバーしようとするものなのである。
 今回の例で言えば、打席にいる相手方投手を抑えて無失点にできなかった点は、バッテリーの責任ともいえる。

 それにしても、それて無くても首位球団に比べて狭い紙面で、負け戦の責任追及に専念する書き方は、プロの書き手とは思えないものがある。まして、やり玉に、反論しにくい立場の弱い者を挙げるのは、ずいぶん困ったものである。

 今回、落球した外野手は、久しぶりに出場機会を与えられて全力プレーしているものである。弁護するなら、実戦経験が乏しいために達者なプレーができないのである。むしろ、チームが使い足りなかったためである。そこを勘違いして、当人のその場の不出来を叩くのは、感心しないことおびただしい。

 昨夜の敗因は、点を取れなかった攻撃陣にあることが明らかである。いや、これも、個人の偏見であるが、ここは個人の意見を書く場であるので、偏見を承知で以下弁じるのである。

 総じて言えば、三点取れば勝てていたのに無得点に終わったのが不出来である。
 確かに、相手捕手のリードが巧妙で、こども扱いされている傾向もあったが、それにしても、大事な試合で中軸打者がまるで打てないというのは、どんなものか、などと思ってしまう。
 どんな選手にも好不調があるし、その日の投打の巡り合わせもあるから、公の場で非難することはないが、やっぱり物足りない

 阪神ファンでもある毎日新聞読者は、スポーツ欄でプロ野球戦報を読むときに、敗戦処理を託してはいないのである。

 ついでに言うと、記者は、四番打者の子供じみた身振りに、自分への個人的侮辱を感じて、退場させた審に対して、何の意見もないのだろうか。私見では、投球のストライク、ボールに対して、審判は、絶対的な権限を持っているのだから、選手が何を言おうと、厳然と黙殺すれば良いのである。

 であるのに、今回のように強硬な態度を取ったのは、審判に弱みがあったのかと憶測させるのである。

 それにしても、毎日新聞の社内規定で、選手はどう酷評しても良いが、審判には、疑問を提示することも許されないと決められているのだろうか。

以上

2014年9月 7日 (日)

今日の躓き石 「総崩れ」

                                                                  2014/9/7
 今回のネタは、全国紙の記事とは言え、スポーツ欄の迷走の批判なので、気楽なものである。

 本論筆者は、就職以来25年間大阪暮らしで、阪神タイガースファンであり、隠退生活になったので、大抵の試合は、ケーブルTVで、「ながら視聴」している。

 それにしても、本日毎日新聞大阪版朝刊のスポーツ欄で、「虎投手陣総崩れ」と書き立てているのを見て、正直、むっとした。

 以下、選手に対する批判めいたことは書くが、個人攻撃と取られたくないので、個別の選手名は書かない。とはいえ、調べればすぐにわかることである。

 紙面のデータを見ても、「崩れ」たと言われそうなのは、二番手の救援投手であるが、先発、一番手、三番手は、とても、崩れたとは思えない。それぞれ、努めを果たしている。

 特に、一番手の救援は、1点リードされている不安定な状態で、1イニングを0点に抑えたから、立派に責任を果たしたことになる。この試合では、崩れてなどいない。

 先発は、二年目の若手であるが、5試合連続で初回に失点したと叩かれている。
 この試合では、初回に3点も4点も取られたのではなく、1点である。

 その後、1点、1点と取られて、六回までに3点取られて降板したのだが、メジャーの例を挙げるまでもなく、自責点3点で六回投げきれば、チームに勝つチャンスを十分に与えている。七回までにそれを上回る点が取れなかったので、ファンは、もっぱら攻撃陣に不満を感じるが、野球ファンなら誰もが知っているように、実戦とは、そんなものである。何処か一箇所だけ不都合があって負けるのではない。

 それにしても、どこが、「投手陣総崩れ」なのだろうか。記者は、この段落に具体的なことを書かずに、字数の乏しいところで、だらりと「投手陣総崩れ」を繰り返して締めくくっているので、記者の本意はよくわからないままである。それにしても、小見出しと締めの文句が同じとは、文字の無駄遣いであり、かつ、無策である。

 続いて、短い記事は、悪役扱いに慣れていると思われる二番手救援のベテラン好機に併殺打に打ち取られたキャプテンでなく、先発した若手を、バッシングに近い形でたたきのめしている。
 そうでなくても、自責に過ぎるコメントを出しているのだから、追い打ちする手はないと思うのである。確かに、記者は不敗の王者であるが、不敗に奢ることはあるまいに。

 よく知られていることだが、先発投手は、完封ペースで投げ終わることはまれであり、大抵は、どこかで点を取られる。そして、長年のデータが示すように、投手が失点する可能性が高いのは初回である。
 各チームの選手は、長年野球をしているから、初回に点を取られるのは良くあることと承知しているのであり、それだけで先発投手を責める気はないものと思う。本論筆者は、観戦専門で、草野球すら経験していないから、想像するしかないのだが、チームプレーであるから、各選手の心情はそうしたものと思う。

 まして、この記事でやり玉に挙げているように、将来ある若手が初回に1点取られたからと言って、ここまで叩くのは不都合である。一流紙の書くべきものではない

 一流全国紙の紙面に、このようなと独善的な選手バッシングが登場するのは、スポーツ欄とは言え、感心しないのである。記者は、不敗の王者の席を降りて、自分の職場をもう一度見直して欲しいものである。

 最後に言いたい。

 「。記者発言に負けるな。おまえの敵は、グランドにいる。おまえなら勝てる。」

以上

オバコは、いくつ

 秋田民謡の「秋田おばこ」は、誰かが、
 「おばこナー、何んぼになる」
 と問いかけて、オバコが、
 「此の年暮らせば 十と七つ」
 と答えて始まる。
 そのせいか、秋田の人の話を聞いていても、オバコとは、17,8の娘だという人が多い。

 上の歌詞を聴いてぴんと来る人は、もう少なくなっただろうが、おばこの「此の年暮らせば」は、年が明けて正月が来たら、というとこで、そうしたら17歳ですと言っている。

 年が明けたら一歳年が増えるのは数え年である。生まれた年が、人生の1年目、正月が来れば2年目、と言う数え方である。

 お正月は、自分一人だけでなく、家族も、近所のみんなも、お殿様も、みんな、1歳年が増える、おめでたいときだった。
 そして、忘年会とは、一座のみんなが、自分の今の年齢で起こったことを回顧し、新しい年の幸せを期していた。

 日本では、みんな揃って年齢を加えていた時代が、遙か古代から、つい60年ほど前まで続いていたのである。多分、遠い昔に、中国の影響を受けたのである。

 中国や台湾で、旧暦の正月を春節としてお祝いするのは、大多数の国民は、今も数え年の世界に生きているからである。

 中国で言えば、「長大」(成人する、大人になる、の意味)は、古代以来、数えで18歳になることだったようだが、随分、早く大人扱いされていたと言うことである。日本にも、そんな時代があったろう。

 さて、歌に出てくるオバコが、年が明けて17歳としても、今の満年齢で言うと、15歳であり、誕生日が過ぎたら、やっと16歳である。今なら、4月には高校入学する年度でかな、というところである。(早生まれか、遅生まれかで、一年度違うのだが)
 現代人の感覚とずれている点の一つである。

以上


2014年9月 6日 (土)

今日の躓き石 「世界観」

                                2014/9/6  
 ぞろりと、言葉の誤用が広がると、思わぬところで不意打ちを食らって、おでこに冷たいなまこが触れた感じになる。
 字面から描き出して予測したものの姿と違うものが現れると、まことに「違和感」、いや、「違和観」があって、不愉快である。

 「世界観」は、ある人が、世界をどう観ているかというのものである。
 その人が、妄想か空想かで描き出した(架空)「世界」、というか、「世界像」を言うものではない。

 どうも、この誤用は、アニメ系の世界で始まったらしいが、漢字入力の誤変換から始まったような感じがする。勘違いの多い世界である。
 そして、今や、普通の小説世界でも援用されている。言葉に厳格なはずの文学界で、誤用が拡散しているのは、痛ましいもののがあるが、さすがに、今のところ汚染されかけているのは、マスコミ系である。まだ、間に合う。かくも異様な言葉遣いが、これ以上文学界に広がりませんように。

 そして、目新しい言葉が耳に入ると、めったやたらに、取り入れてしまう食欲と未消化のまま再拡散させる無責任な悪癖が、一日も早く治癒されますように。

 カーペンターズの歌にあった。 カーペンターズの歌にあった。
 英語のタイトルは、Bless the beasts and the childrenだが「動物とこどもたちの詩」となっている。
  原文lyricを引用すると、著作権違反になるので、ここでは私訳わ書きます。

 野に生きるものたちとこどもたちに 祝福を与えてください。
 なぜなら この世界は、永遠に、彼らの観ている世界とは違うのですから。

  戯れに、私訳を英訳すると以下のようになる。英文詩のルールである脚韻を守っていないし、字余りなので歌うこともできない代物である。

 Bless the creatures in the wildeness and the children all over the world.
  Because, this world can never be like the world they would love to see, now and forever.

 これが、「世界観」というものである。

以上

 一部補充 2014/10/15

2014年9月 5日 (金)

今日の躓き石 「同級生」

                             2014/9/5
 かねがね、タレントやコメンテーターのように、無責任な輩が、この言葉を「誤用」して、訂正されずに蔓延っているのは、耳にしていた。

 ただし、言ってもわからない相手なので、不愉快な思いで聞き流していたが、今日は、某テレビ局のスポーツ番組アナウンサーが口にしているのを聞いて、プロの取りこぼしが相手なので、やり玉に挙げずにいられなくなった。

 

プロのアナウンサーは、どんなに急いでも、その時の思いつきでしゃべることはなくて、ちゃんと、事前に言葉の吟味ができる人であり、また、現代の言葉の守り人であり、こうした誤用に冒されることはないものと信じているのだが、今日は、兵庫の地方局のアナウンサーとは言え、プロが、アマチュアなみの杜撰な物言いをするのを聞いてしまったのである。

 各局は、「禁句集」を作っていることと思うが、「同級生」の誤用については、疫病のごとく蔓延しないように、努力して撲滅して欲しいものである。

 今回の批判の対象は、所詮兵庫のローカル局であるが、ローカル局といえども、阪神球団の実況放送は広く見られるのである。おそらく、若気の至りで口走ったと思うが、自身の今後の大成のためにも、次代を担う子供達の語彙を汚染しないためにも、厳しく自戒して欲しいものである。

以上

今日の躓き石 「歴史が動いた」

                                      2014/9/5
 いや、「日本男子の歴史が動いた!」などとと言うのが、スポーツ記者の「方言」(業界用語)なのは理解しているつもりだが、スポーツ紙の紙上やネットで絶叫されると、時には、王様が裸だと言わなければならないのである。
 ツイッターなど、信頼性を期待されないメディアでその場限りの思いつきを垂れ流すのとは、要求されるレベルが違うのである。

 まして、裸の王様が、それだけで収まらずに身をよじり始めたときには、盛大なブーイングを浴びせなければならない。

 「日本男子」などと大風呂敷を広げているが、これはスポーツの一分野の話であって、日本人の内で女性でない半分のことを言っているのではない。12文字で、ダブルフォールトである。ここで、乱脈プレーを止める審判はいないのか。

  • 歴史認識

 歴史は、過去の無数の人々の行いの積層であり、現在の誰かが何かをしたからと言って、動かしたり、書き換えたりすることができるものではない
 ここから、全てが始まる。

 プロの物書きは、自分の職業の歴史を思い、勝手な言い回しをまき散らすのを自制しなければならない。

  • まだ、歴史にはなっていない。現在だ

 また、言われた本人当人にしてみたら、歴史が動いたり、書き換えられたりしても、現在から未来に向けて何かが起きると言うことを示すものではない。一世紀近い前の歴史がどうだったとしても、自分の闘志が掻き立てられるものでもないと思う。
 歴史的偉業」は、一世紀前の先人の偉業を称える言葉であって、今闘っているものには、過ぎた試合は過ぎた試合でしかない。そう思っているはずである。

 外野や観客席で、あることないこと言い立てて騒ぐのはやめて、静粛にしてくれ。

 まして、一世紀近い前の先人を貶めて、自分を高めようとは思わないはずだ。単純も、複雑もない、比較などできない。できの悪い言い方で言うほど、過去の偉業が薄汚れてくる。そして、現在の贔屓の引き倒しである。

 スポーツ紙の報道は、大きな文字で粗雑な言い分をまき散らす競争をしているようだが、それだけでは、屋上の吠え比べになるのである。目立つ必要はないが、基盤となる分別もまた必要である。もっと、高いレベルの吠え方ができるはずだと思う。

 スポーツ紙の歴史はもう書かれてしまっている。書き換えられるのは、現在と未来である。

 それにしても、粗雑な書き回しで紙面を汚して日銭が稼げるとは、うらやましい職業、と言うのが、正直な実感である。

以上

33.内乱考(倭人余譚) 5 - 文明開化 結 

  • 大乱の正体 

 と言うことで、一部で大乱というものの、実態は、内戦とまで行かないものであり、倭國王が、各国の水利や漁業権の諍いを取り仕切ることができないために国王としての権威を失い、数年にわたって季節ごとの諍いがあったという程度であり、それを「大いに」乱れたと書いたのではないかと思われる。
 少なくとも、魏志倭人傳に書き残された倭風俗は、多年の内乱で荒廃したものとは思えないのである。

  • 周旋五千里の中原

 倭國の実見に基づく魏志倭人傳は、狭隘な筑紫平野にひしめく村落諸國を見て「國邑」と記したのだろうし、倭國東方は未開の山野と見たのだろう。
 後年の魏志読者である笵曄は、道里の字面に囚われて、幻の「東夷」倭國に戦国七雄ならぬ群雄三十国が周旋五千里の茫々たる中原に鹿を追う「戦国ロマン」を描き出したのではなかろうか。

  • 文明開化

 女王国と不和であった狗奴国との角逐に対応するために、魏朝から派遣された張政以下の軍事顧問団は、その第一義として、組織的な戦闘のできる兵士を多数訓練したものと思われる。これが、中国文明による文明開化の一端である。
 後に、女王の後継者争いが起こった時は、多数の死者を出す戦闘となったようである。
 一度、そのような武力闘争の流れに陥れば、あとは早い者勝ちで、各国が軍備増強に走る可能性がある。かくして、東夷の純朴な世界で、ここまで練り上げられてきた共存共栄の景色は、そぞろ乱れるのである。

  • 文明伝道師

 魏使は、軍事顧問団以外に、文官、官吏、史官の類いの人材も引き連れていたものと思われる。
 近隣諸國から税の貢納を受けるという支配服従制度の定着、税の貢納を確実にするために、近隣諸國に戸籍制度を整備させ、製鉄・鍛冶、牛馬飼育などの労役賦課、税の貢納や治安出動のための街道整備など、「古代国家」の骨格形成は、張政率いる顧問団の長期指導がもたらしたものではなかったかと思われる。

 史料に従って、張政が20年近くを倭國に滞在したとすると、滞在期間の始めに15歳程度の子弟を指導したとしても、それらの教え子である子弟は、帰国時には30代半ばの成人であり倭の幹部となる年勘定である。
 もし、念入りに研修指導したとすると、教科は、漢語の習熟に始まり、軍事、行政の各分野にわたって行うことができ、魏朝随臣たる倭國の幹部人材を、数多く育てることはできたはずである。
 また、史料に明記はされていないが、張政ほどの地位にある官吏は、単身でなく、副官や吏官などのスタッフが伴うものである。日用品、事務用品など、当然、倭訪問時に持参したものでは足りなくなったであろうから、倭國人に代替品を作らせたものもあったと空想するのである。
 先に「国書」談義で述べた「楮紙」抄紙法を、完成された技術として倭國に伝えたのは、張政率いる魏使ではないかと空想しているものである。
 もちろん、張政が、倭幹部を育てたとか製紙技術を伝えたという証拠は何もない。ことの成り行きとして、そうなったのではないかと空想するだけである。

  • 未開の辺境

 三世紀の時点で、筑紫は文明開化したが、近畿では旧態依然たる国政が行われていたようである。
 筑紫は、近畿を遠隔支配するために必要な制度は開示し、施行させたが、それ以外の行政テクノロジーは、門外不出としたようである。また、後年となるが、佛教は文字の使用を促し、文明開化の導火線となることから、あえて近畿への伝導を進めなかったように思われる。各種史料に見る近畿での文明開化の遅れは、そのような情報管理を投影しているように思われる。
 とはいえ、三世紀時点で、倭國に中国の行政・軍事テクノロジーが導入された後、倭國がどのような変貌を遂げたかは、魏志倭人傳の埒外なので、小論筆者は、ただ、楽しく空想するだけであり、四世紀以後に展開された古代国家に関する議論は、その知るところでは無いのである。

以上

YouTubeの著作権管理に 声もなく吠える

 本論筆者は、一介の素人動画作家であるが、YouTube(以下、サイトという)のやり方には同意できないのである。

 サイトに「動画」を公開していると、使われている素材が、単数ないしは複数の「管理者」の指定した「素材」を使用しているとの「申し立て」が伝えられることがある。

 特に、クラシック音楽にまつわる事例は、ほぼ軒並みであり、これはサイトが、クラシック音楽の取り扱いにおいて、深刻に混乱しているためである。

  • Public domain

 クラシック音楽の楽曲は、ごく一部の例外を除けば、歴史的な遺物であり、著作権は消滅している。Public domain、すなわち、公共の資産となっている。

 しかし、この点の認識がないため、クラシック音楽の演奏が、「素材」として判断され、サイトが動画内に同一の素材があると(誤)検知して警告することが多発している。
 もちろん、これは、例えば、全体で4時間を超える楽劇全体を指すものではなく、市販されている部分楽曲の演奏、特に、iTuneなどで販売されている断片に関するものである。その証拠に、動画として掲示するに足ると思われる重要な楽曲でも、何も起こらないことがある。

  • 無責任(後述)物語

 つまり、市販されている断片に関しては、曲自体に著作権が存在する素材と同様の取り扱いで警告され、いわゆる誤爆となっている。無責任(後述)である。

 ここで、まず問題なのは、サイトの警告が、具体的な素材名と管理者、そして、同一と判断した根拠を示すことなく、「動画」の特定時点を提起して、そこから先が、管理者の管理する素材と一致しているから、自分の耳で確かめろと言い放つのである。無責任(後述)である。「一致」と言うからには、「素材」を聞く機会を与えられなければ判断のしようがない。また、一致していると判断した根拠が示されていなければ、これまた、同意できるかどうか判断のしようがない無責任(後述)である。

 時には、申し立て内容から「素材」の正体・素性が明らかになることがあり、そこで始めて、どこの誰の演奏と取り違えられているかわかるのであるが、それ以外は、それすらわからない。無責任(後述)である。

  • 根拠不明 

 著作権の消滅したクラシック音楽の演奏と録音は自由であり、著名な曲であれば、それこそ、何千、何万という同一曲の異なる演奏(異演)が行われ、時に録音され、時に録音が販売、公開される。

 従って、クラシック音楽を特定するためには、曲名の特定は当然として、それに加えて、演奏者と演奏時期の特定が必須である。時に、演奏者と演奏時期が誤って表示されている例も見られるが、そのように、「素材」が、表示されている演奏と同一であるか検証することは、一般的には、不可能されていると理解する。

 法的に検証可能な識別を行うに、管理者は、何らかのWatermarkを埋め込むしかないであろうと推定する。そうしなければ、申し立ての対象となる「素材」が、Public Domainである自己の管理対象外の演奏と同一ではなく、素材と「同一」であることが、客観的に立証できないものと思われる。もし、サイトの判断手段が、複数の管理者に対して、権利を認める判断をするとしたら、判断は誤っていると考えるのである。

 目下の事例の大多数では、管理者にそのような「科学的な」根拠が存在しないことが確認できる。

  • 明らかな誤認

 指摘されている動画は、それ自体で、ないしは、添付コメントで、動画がNHKの放送録音、録画の部分引用であることを明記している。それにもかかわらず、正体不明の異演と同一であるとの指摘を受けた例が頻発している。

  • 無責任(後述)物語 その2

 サイトは、素材と同一であることを、電子的に検知するだけで、その妥当性は何ら審議しないまま、零細な動画投稿者に投げかけるのである。無責任(後述)である。

 しかし、犯罪容疑者として告発されたのであれば、告発の具体的内容とその根拠を明らかにされるが、サイトの指摘は、管理者の申し立てが根拠不明であろうが不法であろうが、お構いなしである。無責任(後述)である。

 以上のような推定も、自分で色々調べて行わなければならない。零細な動画投稿者には、大変な負担である。ついつい、詳しい追求がおろそかになり、異議申し立てに時間がかかる。

 また、異議申し立ての際に述べた、以上のような推定が当たっているかどうかについて、その後、サイトから何の説明もない。無責任(後述)である。

 サイトは、管理者なるものの一方的な言い分を無責任に取り次ぐだけである。ここまで、太字で連発した無責任はサイトにしてみれば耳障りであろうが、サイトとして社会的に求められる責任ある仲裁活動をしないと言うことを取り上げて、無責任と形容しているのであり、順当な形容と思うのである。

 ただ管理者の言い分を取り次ぐだけで、双方の言い分をつきあわせて判断することを怠っていることとを評して、無責任と言うのが不適当であれば、こどものお使いである。 サイトは、自己の名声と品格にふさわしい体制を整え、管理者の根拠不明の主張をそのまま受け止めて一方的な指摘を行い、あるいは、無責任な取り次ぎを行うのを取りやめるべきである。

 とくに、弱小動画作家が、いくら行き悩んでも、弱小故に資格不足で問い合せを拒否するなど、弱いものいじめは、いい加減にして貰いたいものである。

  • 気弱い犬の遠吠え

 いや、弱小動画作家は、正義の人であるので、このような取り扱いは不当であるとして、法廷の場で主張したいくらいであるが、何しろ、素人であるから、いくら、活動を妨害されても、金銭的な損害が発生しないから、勝っても得るものが無いのである。

 と言うことで、つましい犬小屋住まいではあるが、ここで声もなく吠えるしかないのである。

以上 

2014年9月 4日 (木)

32.内乱考(倭人余譚) 4 - 反乱談義

  • 遠征と反乱

 遠征軍指揮官は、戦勝に乗じて、遠征先で自立することもできたはずである。
 もし、そんな事態になると、倭國の王者にしても、異国の支配者が入れ替わっただけで、膨大な戦費と人的資源を損じただけである。
 ただし、遠征軍指揮官にしても、異郷で自立して王者となっては、住み慣れた故国での栄誉を捨て、残した家族を失うから、まるでうれしくないのである。そもそも、遠征の旅路で望郷の念の募っている兵士たちが従わないのである。

  • 反乱の恐れ

 それくらいなら、遠征軍を反転し、遠征軍を送り出して手薄となっている故国を制覇して、自ら王者となる方が意味が大きい。故国でそれに呼応するものがいれば、割の合う反乱である。
 指揮官は、東方のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)となるのだろうか。
 そうした事情を考えると、そもそも、倭國王は、勇敢な指揮官に強力な遠征軍をつけて、遠征に送り出すことなどできないのである。遠征軍の勝算は、またもや低下する。

  • 異国の優位

 遠征される側の異国は、油断して斥候、物見を怠っていない限り、早々に遠征軍の到来を知ることができ、迎撃態勢を取ることが可能である。遠征に疲れた敵軍を、悠々と自国で迎え撃つという、相当有利な立場に立つのである。
 遠征軍が闘志旺盛であっても、守備側は堅固な守りを活かして籠城し、食料補充のままならない敵軍の衰弱を待てばよく、概して、兵站に窮した遠征軍に対する籠城戦は守備側の勝利となるところである。
 歴史上「遠征」は、数多く記されていて、とかく遠征軍の勝利が書き立てられているが、必勝の信念で派遣されていても、遠征軍は、なかなか克ちがたいものなのである。

  • 天下布武の幻想

 そのように、三世紀当時の時代環境を冷静に評価すれば、遙か後年、千三百年も後の織田信長の天下布武のごとく、希代の英傑が、革新的な軍制で諸國に隔絶した武力を有し、高度に機能的な戦闘部隊を四方に派遣し、服するものは従え、反するものは悉く討伐し、全国統一するというような大事業が展開できなかったことに気づくことであろう。因みに、天下布武が挫折頓挫したことは、歴史の示す貴重な教訓である。

未完

今日の躓き石 「フェティシズム」

                                        2014/9/4
 それにしても、「金属フェティシズム」とは、とんでもないことを言うものである。

 Wikipediaによれば、「フェティシズム」は、
 「心理学では性的倒錯の一つのあり方で、物品や生き物、人体の一部などに性的に引き寄せられ、性的魅惑を感じるものを言う。
 極端な場合は、性的倒錯や変態性欲の範疇に入る。」
 とされていて、とても、人前で大声で言い立てる言葉ではない。

 少なくとも、商用サイトのコラムのタイトルに書き立てるものではない。
 商用サイトには、サイト運営企業に期待される品位があり、こうした誤用、乱用を書き立てるサイトは、当該サイトの品位が劣悪であり、それは、企業の品位に由来するものと見ざるを得ない。

 これでは、紹介されている商品の発売元も、「性的倒錯や変態性欲」の輩とされかねない。迷惑そのものであろう。

 ただ単に、筆者本人が軽率、無知なのであろうが、プロの書いたものであろうし、サイトの編集スタッフが誰も止めないのは、各筆者が、書きたいままに書き放題の無法サイトなのか。

 とんでもない話である。

以上

2014年9月 3日 (水)

31.内乱考(倭人余譚) 3 - 超時空談義

  • 蔓延する時間錯誤

 後年、三百年近い後世の六世紀の継体天皇時代に、筑紫が、大陸、韓半島との交易の利益を独占しているとの非難があって、近畿が交易の利益を我が物にすべく筑紫への討伐軍を起こしたと記録されているようである。この記録すら、正確な史実かどうか確かではないのだが、それでも、この記録を三百年以前の世界にそのまま投影する時間錯誤」は、古代史学界のあちこちに蠢いているようである。

  • 世紀を超えて

 太古から三世紀にいたる歴史上に燦然たる筑紫の先進性を見ると、近畿から筑紫に遠征軍を送ることなど想定外であるが、三世紀以降の三百年の間に、着実に筑紫を超えた近畿の発展があったのだろう。また、その時点では、大きく成長した「交易」の利益を独占することが、遠征軍を派遣するに足る国益事項となったと推定される。
 かたや、六世紀時点では、遠征軍が長距離行軍できるほど、街道整備が進み、かつ、道中の支援体制が整備されていたということである。だから、近畿から筑紫への長征軍が、敵地で満足に戦闘を行えたというのである。
 最近の報道でも、八世紀初頭の平城京時代には、現代の高速道路網とも比較できる街道網が整備されていたとされている。街道網は、年単位で整備できるものではないから、二百年遡って、筑紫-近畿間にいち早く街道が整備されたとする時代考証は、無碍に否定できないようである。
 おそらく、交易品、上納する租税、公課などの運送を目的として、古来維持されていた海の道に加えて、中国路の陸の道が整備されたものであろう。それには、土木重機など存在しない時代、多大な年月にわたって労役と資材を投入したことと思うのである。

  • 古代の公共事業

 重ねていうと、八世紀初頭の街道の姿は、五百年の間に整備されたものであり、小論が取り組んでいる三世紀中葉の倭人傳時代には、筑紫から近畿への街道は、影も形もなかったと思われるのである。
 古代といえども、街道整備のような国家的大事業は、統治者が、強い決意を持って、多大な年月にわたって大量の資材と労力を投入して「公共事業」を行うことにより、辛うじて整備されるものである。
 そのため、後世法制化された律令でも、納税義務の一環として一定期間の労役が賦課されているのである。
 古代の公共事業としては、墳丘墓の造営が、まず思い浮かぶだろうが、それ以外にも、食料生産を増進するための新田開発、灌漑水路の整備も当然進められたはずであるが、さらに加えて、営々たる街道整備が行われていたのである。
 しかし、古代といえども、公共事業を行うのためには、収税が不可欠であり、そのためには、戸籍制度、課税・納税の制度が整ってこそ広く漏れなく徴税できるのであり、また、食料を備蓄できるのである。また、的確に労役人夫をまとめ、確実に動員しなければ、公共事業は、実行できないものである。

 いうならば、「国家」の基礎構造、大綱が確立されていなければ、街道整備を含め、先に挙げた大規模な公共事業は実行できない

  • 「常識」の目で照らす古代観

 古代史、古代国家の議論で、そうした、当たり前の理屈が意識されていない点が、素人目にも不思議である。学術分野縦割りの弊害であろうか。
 歴史の流れを推察する上で、現代的風潮の一面を強調して過去に投影した、「戦争が歴史の必然」、「弱肉強食が普遍の真理」の浅知恵から来る歪んだ理屈一辺倒になってはいないだろうか。

未完

2014年9月 2日 (火)

30.内乱考(倭人余譚) 2 - 遠征談義

  • 不可能な使命

 とは言え、何らかの事情で、筑紫の倭國が、近畿に遠征することを考えてみる。
 筑紫から近畿に遠征するとしたら、片道数十日の行程であり、街道整備のされていない時代、その間、路なき路を行く苦難を強いられ、しかも、宿駅など整備されてはいないから、途中の各地に食料の備蓄はなく、食うや食わずであり、しかも、野宿となる。
 牛馬の兵站は望めないから、兵士たちは、その間、弓矢、剣矛、鎧などの武器や装備は、自ら運ばなければならないことになる。
 余程、軍隊としての統率ができていない限り、脱走が相次ぐはずである。

  • 迎撃の優位

 異国は、油断して斥候、物見を怠っていない限り、早々に遠征軍の到来を知ることができ、迎撃態勢を取ることが可能である。遠征に疲れた敵軍を、悠々と自国で迎え撃つという、相当有利な立場に立つのである。
 堅固な守りで、食料補充のままならない敵軍の衰弱を待てば、守備側の勝利は間違いないところである。
 歴史上の「遠征」は、数多く記されているが、必勝の信念で派遣されていても、なかなか克ちがたいものなのである。

  • 報いなき勝利

 なんとか、遠征先に辿り着き、異国との戦いに勝ったとしても、得られるものは、大した戦利品は見当たらないだろう。後世の宝物である、金銀、通貨、宝玉なら、敵国も珍重して収集しているだろうから、奪い甲斐もあるのだろうし、かさばらない獲物で、持ち帰り甲斐もあるだろうが、当時の経済事情で、そんな便利なものはあっただろうか。
 なお、倭國本国には、異国に勝利したとしても、そのような遠隔地を支配し続けるだけの能力も体制も備わっていないはずである。

  • 長い帰り道

 かくして、遠征軍は、路なき路を食うや食わずの野宿で凱旋するのである。
 してみると、奴隷とするための戦時捕虜を引き連れての凱旋帰国など論外である。あるとしたら、異国の幹部の捕虜であるが、それにしても、延々と連行することは、大きな負担となるだろう。
 加えて、戦闘に勝ったとしても、異国の報復追打を恐れる落ち武者のような旅でもある。
 また、道中の不届き者は、元気の良い往路ではし遠征軍を襲わないとしても、疲れてけが人のいる復路なら、待ち構えて「落ち武者狩り」するかも知れない。

  • 報いなき凱旋

 そのような数か月を要した難行で得た勝利であるから、凱旋した遠征軍の指揮官以下には、多大な褒賞が必要であるが、倭國の統治者は、その「財源」をどこに求めるのだろうか。
 古来、不平不満を抱えた軍隊ほど、統治者にとって危険なものはない。

  • 不可解な遠征

 いや、そもそも、筑紫と近畿、これほど隔絶し音信疎遠な国家関係で、筑紫から近畿に遠征軍を派遣しなければならないほどの利害の相克とは、どんなものだろうか。まして、物の道理として、筑紫の支配者とは言え、地域内に、「野党」勢力を抱えているのだから、大々的な遠征など、暴政ではないだろうか。

未完

2014年9月 1日 (月)

29.内乱考(倭人余譚) 1 - 倭国大乱

  • 前書き

 以下の一連の倭人余譚は、後漢書倭國記事を元にしたと思われる風評用語「倭國大乱」について私稿を展開したものであるが、ここまでの余譚記事と同様、論証・主張するものではなく、小論筆者の日常感覚が言わせる雑感に過ぎない。その成果、文体が砕けている。
 いわば、素人の思いつきなので、学界諸賢にすれば、一笑に付すものだろう。とは言うものの、素人考えといえども、何か根拠があって、否定されるべきものだと思うのである。

  • 弱肉強食幻想

 少なくとも、魏志倭人傳に記録された三世紀までの「倭國」は、筑紫平野にひしめき合った村落国家群であったと思われるが、それらの国家群が互いに相争って大乱となったというのは、あり得ない話と思われることは、すでに述べたが、ここでは、推論の練り方を変えて、蒸し返してみる。

  • 孫子の教え

 古代の戦いは所詮、歩兵対歩兵の一対一の対戦の集積であり、余程のことがない限り、勝者も、大きな消耗を強いられることは明らかである。
 個別の戦いで、備蓄している食料、資材を減耗し、自国民の壮年層を消耗していては、勝者となっても、食糧自給の前提となる農耕に支障を来し、早晩飢餓の道を辿ることは避けられないことが、歴史の示すところである。
 その程度のことは、当時の支配者たちも承知していたであろうから、互いの生死を賭けた総力戦などしなかったはずである。

  • 捕虜は重荷

 三世紀の当時の産業構造を理解していれば、内戦の勝者が敗者から捕虜を得て、自国の労働力を強化するという見方が、後世史眼に囚われた図式化、よく見られる時間錯誤だとわかるはずだ。
 自国の産業が、多大な労働力を要し、労働力が増えればそれに従って収量の上がる鉱山採掘や綿花栽培のような労働集約型であれば、他国から戦時捕虜を奪って、そこに投入することに意味があるだろう。
 しかし、稲作は、収穫期などを除けば、深刻な人手不足はないはずである。つまり、 
 例えば、それまで、大人五人で耕作して労力が、食料生産の制約となっているわけではない。いた土地に一人の捕虜を追加しても、収量はそれに応じて増加するものではない
 方や、捕虜といえども一人分の食事を食べさせなければ、満足に働けないのだから、むしろ、捕虜を預けられた農戸は、お荷物を抱え込むことになる。捕虜に衣食住を与える上に、逃亡を防止する責務が生じるはずである。大したお荷物である。
 戦時捕虜を各戸に預けず、集中管理して、新田開発すれば、新たな収量が発生するだろうが、新田がまともに収穫をもたらすまでの食事は、どこから湧いてくるのだろうか。軍糧が急増したに等しい消費増である。
 大体が、戦時捕虜の多くは、けが人であり、その意味でも、労働力として計算するのは早計である。
 そう見ると、戦時捕虜が、戦勝国にとってお荷物であることに違いはない。
 辛うじて捕虜を奪った効果と見ることができるのは、労働力を奪われた敵国の生産力減退であるが、それにしても、最初の戦闘時に各戸から召集する兵士は、農耕に支障を来さない程度にとどめているはずであるから、一撃必殺の打撃とはなるまい。

  • 中原に「鹿」を追う

 そのような三世紀の農業国家群を武力で制覇、統一して中国の皇帝のごとき覇権を握ったとして、何が楽しいのだろうか。
 韓半島との交易を独占するといっても、多寡が知れている。

  • 遠征の萌芽

 それにしても、ここで仮想遠征の引き合いに出される東方の異国は、三世紀時点では、総じて未開地であり、先進地帯である筑紫諸国に比べると、一段と村落に近い集落が点在しているのである。
 遠征、征服して支配下に置くことの意義は乏しいといわざるを得ない。
 普通は、使節を派遣して、平和裏にゆるやかな服従関係を設定するものである。支配欲に後押しされた覇権国家でない限り、遠隔地の國が、復習しなかったからと言って、遠征するものではない。
 何しろ、支配したとしても、貢納品を届けさせるための街道が整備されていないのだから、得るものは乏しいのである。

未完

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