今日の躓き石 「正解」は本当にないのか?
2014/12/16
今回の話題は、毎日新聞朝刊(大阪)の朝刊「クラシナビ」面の囲み記事「新聞で学ぼう」の議論である。
まず、「『正解』のない問い」とは、無責任な逃げ口上である。確かに、人それぞれものの見方が違うから、簡単に解答の正否を問うことはできないが、解答者の思考の流れを知れば、どのような論理で回答に至ったか知れるはずであり、その際の論理の誤りは、不正解として指摘できるはずである。
たいていの場合、人の思いは様々と言っても、何万、何十万とあるわけではないのではないか。100通りの見方があれば、100通りの正解があるはずである。先に挙げた言い方で、思索を止めてしまう人は、この際、考え直していただきたいものである。
さて、記事内で、大きく躓いたのは、中島敦の「山月記」である。もう、随分前に流し読みしただけなので、内容について、具体的に私見を披瀝できる物ではないし、以下に述べる意見は、当該分野に関する常識に基づく批判であり、今回は、「山月記」を再読していない。見当違いだったら、ご容赦いただきたい。
記事では、「古代中国で難関の試験『科挙』に合格して官吏となりながら、詩人への道に移り、身を崩した男性を描いた」と言い切っているが、小説の要約として、正確なものだろうか。
細かいことだが、「科挙」は、中国隋王朝時代に始まり、最後の王朝である清王朝時代まで延々と続いたが、少なくとも、中国の古代にはなかったものであり、中国の中世、隋唐時代以降の制度であると考える。
中国の中世で、詩人は、李白、杜甫で代表されるように、皇帝から親しく詩の形で意見を求められるように、政治の世界に属する官僚制度の外にあって、政治によらず、言葉の力で世を動かすという、官僚を超越した存在であったと見るべきである。
詩人となって、「身を崩した」というのは、理解に苦しむ。
因みに、漢詩を正しく詩作するためには、膨大な漢字の歴史的な意義を熟知していると共に、漢詩の僅かな字数の各位置で求められる発音、「声」を正確に適用して文字を選ぶ必要があり、その時代に、詩人と呼ばれるには、高度な教養と知性が要求されるものである。
主人公は、科挙に備えて膨大な量の経書を精読しているから、当然、詩作に必要な知識はあり、詩人となって、国を動かすという志を持っていたのである。個人の情懐を歌い上げたり、花鳥風月を嘆賞するのは、数世紀後の「詞」の世界である。
多分、結末に於いて、主人公は、壮絶な死を迎えたのであろうが、中島敦は、主人公が、官吏の道を捨てて、身を持ち崩したための当然の報いである、との意図では書いていないはずである。(推測であるから、勝手な勘違いかも知れないと言っておくが、そんなはずはないと信ずる)
以上の理解からすると、詩人たらんとした主人公が、何を思ってにしろ「愛人」宅に放火するなどと言うのは、まことに不似合いであり、中島敦から罵倒されるものである。すでに著作権は消えているが、原著作者の意に反した飾り付けを施すことは、「不正解」である。
先ほども書いたように、漢詩は、現代的な「詩」ではない。科挙に遙かに先立つ古代である、後漢時代の優れた詩人である曹操は、まず第一に、官僚であり、政治家であり、さらには、軍人であり、最後は、実質的に皇帝の権力を振るったが、残した漢詩は、曹操の内面から吐露された厳然たる真意(詩人としての思い)を書き留めたものであり、感情におぼれた柔弱なものは無いと思う。
このように、漢詩は、個人の情緒を綿々と書き綴るものではないのである。「愛人」云々は、何か、水滸伝や金瓶梅の世界とでも、勘違いしているように思える。
現代の芸能系のゴシップ報道のように、取材に基づく報道より、図式のけばけばしさを売り物にする態度のように思える。毎日新聞に紹介されるのは、場違いであろう。
以上のように、実際に「山月記」そのものや「山月記新聞」の実物に当たらずに、紙面から読み取った内容で、自分の知識を武器に突っ込みを入れるのは、年寄りじみているが、書いているのが、年寄りなのだからしかたないのである。
そう言い訳した上で、当方の見るところでは、「山月記新聞」は、飛んでも新聞であり、報道の本分を外れた「不正解」と見える。
新聞で学ぶのであるから、「毎日新聞」の弛まない報道威勢、紙面校正の厳格さを学ぶべきである。
例えば、担当記者の個人的な「つぶやき」を、そのまま発行紙に載せる新聞はない。発行紙に載せてしまえば、取り返すすべは無いのである。
それにしても、高校生の報道姿勢が、現実の裏付けの不足した内容に迷走したとき、誰も、的確に指導してあげる人はいなかったのだろうか。
校長に代表される教職員、つまり、責任を持って指導すべき人は、以上の批判を重く受け止めて欲しい。
これでは、紹介記事というよりNIEで活用すべき反面教師である。
言うまでもないが、このような苦言に対して、指導されている立場の高校生の責任はないので、ここは、さらりと「反省」するのが正解である。
冒頭の苦言に戻るが、ある範囲、ある前提に立てば、厳然と正解があるのであり、不正解は、訂正されるべきである。それを怠るのなら、それは、「教育」ではない。
(もちろん、これは、不確かな内容に基づく、不確かな私見である)
以上
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