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2015年3月

2015年3月31日 (火)

今日の躓き石 「リベンジ」 汚染を食い止めて! NHKに懇願

                              2015/3/31
 当方の懸念をよそに、言葉の汚染が進んでいます。

 今回、やり玉に挙げるのは、NHK G(総合テレビ)です。言葉遣いで皆のお手本のなるはずなのに、正式の訓練を受けたアナウンサーが、「リベンジ」汚染を広げているのは、どういうことなのでしょう。解説役の大先輩まで、悪のりしていました。まことに軽率と言うべきです。

 一部良心的なメディアが採用している、前回負けた相手に「借りを返す」という言い方すら、スポーツとして余計な思い入れとしか思えません。選手達は、目の前の相手と虚心に闘うべきでしょうし、メディアは、選手に余計な先入観を与えるべきではないのです。。

 そうしてみると、前回、勝つべき相手に負けたのは不当で邪悪なものだから、これに対して復讐し、天に代わって正義を行う「リベンジ」という言い方は、とんでもないことになります。

 世間の一部に、言葉の本来の意味に無頓着に勝手な言い方をでっち上げる、好ましくない風潮があるのは、厳然たる事実としても、その風潮を正しかるべき公共放送が助長するというのは、困ったこととしか言いようがありません。公共放送は、正しい言葉遣いを守るべきなのです。

 公共放送は、スポーツ関係のアナウンサー、コメンテーターを集中研修して、「リベンジ」汚染と闘って欲しいものです。

以上

 

2015年3月26日 (木)

今日の躓き石 「リベンジ」 NHKに蔓延?

                                2013/03/26
 やれやれ、当方のNHKに対する信頼がぐらついた。

 NHKの主力である「G」チャンネルの21時からのニュース番組 news watch 9のスポーツセクションの高校野球の報道で、スポーツ担当キャスターの口から、選手が先輩達の「リベンジ」をしたいと言っているという発言があった。結構、あっけらかんとしゃべっていたから、本人にしてみたら、気の利いたコメントのつもりだったのだろう。

 「リベンジ」がなぜ不適当かという話は、御自分で調べていただきたい。プロのたしなみで、不適当な言葉遣いは、避けて欲しいものである。

 調べるのが面倒だったら、「リベンジ」を「仕返しする」あるいは「天罰を下す」と言い換えてみて欲しい。とても、一般向けの番組で口にすべきものでないと言うことがわかる。

 せめて、NHKだけは、言葉崩壊を免れていると思いたかったのだが、まあ、台本無しのしゃべりであるから、止めようも無かったのだろうが、研修などで徹底できないというのは、困ったものである。

以上

2015年3月25日 (水)

今日の躓き石 「リベンジ」 滅ぼすべし

                                                                2015/03/25
 まことに情けないことだが、天下の毎日新聞もスポーツ欄は校閲のない治外法権なのかと長嘆息である。

 大阪版本日夕刊のスポーツ面(7面)の中央やや下部の目立つところに、「リベンジ」と大書されている。

 一瞬、またアスリートの不用意な発言を無思慮に書き連ねているのかと思ったが、そうではなかった。

 ここでの話題は、人を殺すの殺されるのと言う殺伐な話ではなく、また、対戦スポーツではないので、負けた仕返しに誰かを叩きのめすという剣呑な話でもない。前回の競技で、不本位な成績にとどまって(自分自身の不出来に対して)くやしい思いをしていたので、今度は、頑張るというだけであった。まだ、本番はこれからなので、今は、静かに拍手を送りたいものである。

 記事の引用である。 

 それから3カ月。「全日本でくやしい思いをした。与えられたチャンスを無駄にしない。」
 と述懐している。

 どこにも、不当な成り行きに対して、(モーツァルトの「夜の女王」のように)復讐に燃えるという趣旨は見られない。それはそうである。自分の演技が至らなかったから、低い成績になったと自覚して、「心・技・体」を再度高めようとしているのである。一流の選手は、無用な敵愾心や闘志で自分を駆り立てる人ばかりではないはずだ。

 それを、見出しで「リベンジ」と創作して貶めているのは、当記事を書いた記者の品格の問題である。報道機関として、不当な行為ではないだろうか。

 一体に、スポーツ系のジャーナリズムは、「リベンジ」という重大な言葉に対して鈍感になりすぎているようだ。リベンジは「復讐」である。大抵は、生死に関わる事項である。 そして、「復讐」は、社会の根幹である司法の働きを否定する私刑である。
 そのような無法な反社会行為は、決して許されるべきではない。

 報道機関は、安易な言葉の使い崩しで、反社会的な行為を賛美する風潮を助長すべきではないと感じるのである。

以上

2015年3月23日 (月)

今日の躓き石 「ウエアラブルでメンタルまで?!」

                                                                            2015/3/22
 今日は、躓いたどころではない、ぶっ倒れそうになった話である。

 何しろ、NHKEテレ(旧称 教育テレビ)のご贔屓番組「サイエンスZERO」で、「メンタル」などという、意味不明の言葉が飛び出したのである。

 とにかく、天下のNHK、天下のEテレ、そして天下の「サイエンスZERO」は、知性ある言葉の守り人であり、誤用をたしなめるものであって欲しいのである。

 同情すべきなのは、「スポーツ」ネタだったために、業界方言に晒されたのだと思う。この手の言葉遣いは、うつりやすいのである。そうは言っても、スポーツ界では、みんなそう言っているから」、「大学の先生も言っているから」などの言い訳は無しである。

 今日は、「ウエアラブルでメンタルまで」とでかでかと画面にでているのを見て、どこか民放のお笑い系コメンテーターの字幕かと思って、しみじみ情けないのである。録画したのを見返すまで、本当にそう書かれていたのか自信が持てなかったほど、とんでもない言葉遣いである。

 折角、こうした番組の聞き手としては異例の、わめかない、騒がない、賢い聞き手を起用して、安心して見ていられる番組にしているのに、世間のボケた言葉づかいに迎合したのには、失望したのである。

以上

2015年3月21日 (土)

YouTubeの「申し立て」について (続) WMGの資質

 さて、マーラー アダージェットの著作権が消滅した公有素材の利用で、思わぬ待ち伏せに遭った話の後続談である。(長文失礼)

 YouTubeを介した「三社の申し立て」に対して、理を尽くして反論したのであるが、WMGが、申し立ての取り下げに同意しなかったので、ここに、再度問題提起するのである。

 本件は、クラシック音楽音源の著作権について業界に蔓延している誤解に対して、多少なりとも改善が図られるきっかけとなれば幸いである。

 クラシック音楽の大半については、まず、楽曲に対する著作権が消滅していることを確認いただきたい。グスタフ・マーラーは、比較的現代に近い世代であるが、それでも、1911年に死亡しているので、全作品について、著作権が消滅している。ということで、これを、ここだけの略語でPDM (Public Domain Music)と言うことにする。

 ただし、PDMは、原則として楽譜を自由に利用できる、つまり、自由に演奏できると言うだけであって、出版され、市販されている楽譜は、出版物としての著作権があるので、PDMといえども、楽譜が自由に利用できるというわけではない。つまり、勝手に複製コピーして利用できない場合もあると言うことである。

 それより大事なのは、PDMを演奏したとき、その音声に対してその時点での著作権、日本の法律で言う「著作隣接権」が発生するので、第三者が、勝手にその音声を利用できないこともあるのである。ただし、著作隣接権もいずれは消滅するものである。ということで、著作隣接権の消滅した演奏を、ここだけの略語でPDP (Public Domain Performance)と言うことにする。

 いつ著作隣接権が消滅するのかは、各国の著作権に関する法律次第なので、国毎に異なり、その時点によって異なるものであるので、注意する必要がある。

 ただし、大原則として、一旦、PDPとなったものが、その後の法律改定により、遡って、PDPでないもの(著作権の対象)になることはないのである。

 さて、ここまで、復習した上で、今回の各社の申し立てを見ると、そのような考慮は、一切されていないことがわかる。要は、各社共に、自分が権利を主張したい音源をYouTubeに登録しておくだけで、YouTubeに、そのような大量の音源とアップロードされた動画の音声とを比較して、判定基準を超える一致点が発見されたら、動画作者に「申し立て」(重大な警告)を発する事が義務づけられているのである。

 

そのような「申し立て」は、「被申立人」である動画作者に対して、刑事告発に近い影響を与えるから、慎重な検証が必要であるが、根拠となる「ミレニアム著作権法」は、ネットワークの管理者に対して、そのような業務を行うことを強制しているため、根拠のない「申し立て」が多発するのである。

 さて、今回、WMGなる正体不明の管理者が現れていたが、なぜ、どのように根拠で申し立てしているか不明だったので、申し立て3社に対する反論といっても、よく見知っているNaxosを対象にしたのである。このような反論を行うことにより、管理者が、自身の申し立てについて、反論に対する見解をまとめる際に、自身の音源の権利内容を確認できるので、自覚・反省して、取り下げることを期待したのである。少なくとも、Naxosは、山賊の類いではないと思ったのである。

 そうして、最後に、WMGが残ったので、「確信犯」の正体をインターネット検索で確認すると、Warner Music Groupの略称らしい。ちゃんとした企業ならそれぐらい、ちゃんと自称して欲しいものである。

 さて、それだけでは、従来Telefunken,Eratoなどのレーベルを主体としていたWMGが、何を根拠にしているのかわからなかったのだが、何と、当音源を1938年に録音、販売したHMV,後のEMIが、クラシック音楽分野の権利をWMGに販売していたのであった。
 経緯紹介で参照していたEMIのリマスターCDの権利がWMGに移行しているものらしい。 (要は、関連権利一式が売却されたものらしいが、当事者からの説明がないので、本当はどうなっているのかわからない)

 何で、万事に素人である一般人がここまで立ち入った調査しないといけないのか文句を言いつつ、ここで、当方の論点を確認すると、WMGが買い取った権利には、PDM,PDPに対する権利は含まれていないということである。両者の契約書にどう書かれていようと、契約書の言葉がどう読み取れようと、EMIがPDM,PDPに対する権利を持っていなかった以上、WMGはPDM,PDPに対する権利を購入していないと言うことである。

 残るのは、EMIが、当音源を現代の流通に耐えるように整備して、レコードであれば、マスターテープに相当するものを製作し、カッティングマシンでマスタを作成し、という工業的な工程を経て、印刷物などを製作、添付した上で、LPレコードの形で発売した際に、新たに発生した「著作権」であるが、当方がEMIの発売したLPレコードないしはCDを購入し、それに付随した著作物を当方の動画に利用していたのならともかくとして、音声部分のみに対しては、事実上著作権は無いものと推定するのである。事実上というのは、LPレコードないしはCDの販売価格に比して、音声部分の僅かな改変によって発生した付加価値は、微少であり、権利の使用料を請求することが無意味なほど少額と見なされるものである。ちなみに、自動的、機械的な工程に対して、著作権は発生しないものである。

 参考に言うと、当方の動画には、PDMであっても、PDPではない音源を紹介するものがあったが、その場合は、画像部分で、原盤として使用したLPレコードのジャケットやレーベルを掲示して出所を明記しているが、今回の場合は、そのようなものでない。

 本論に戻ると、反論に明記したように、当方の手元には、EMIのCDは無い。ただし、Naxos, DuttonなどのCDがある。当方の知る限り、それぞれのリマスタリング方法に多少の違いがあるとしても、所詮、同一の原版から取り出した音源の雑音部分を取り除くなり、緩和したものであり、それぞれの特徴は、常人の感知できるものではなく、また、今回の複数管理者の登場で明らかなように、YouTubeの判定でも、各社の相互識別はできていないものである。

 一体に、著作権とは、他者と異なる独自の創作を行ったことに対して与えられるものであり、今回の例のように、互いに識別不可能な著作物に対して、著作権は新たに発生していないものと考えるのである。

 因みに、ここまで労力を費やして、このように自明、周知の事実を積み上げるだけであるにしろ、YouTubeを介して「申し立て」を受け、これに対する反論を書き上げるに付いての労力、心労は、一般的な動画作家には耐えがたいものと考える。側聞する限り、イベントなどで撮影した動画に、映り込み同様に入り込んだ音声のせいで、何の不都合もない動画を取り下げた被害者が結構いらっしゃるようである。

 案ずるに、YouTubeを介して行われる「不当な」申し立ては、損害賠償の対象ではないかと考えるものである。

 いかなるものであろうと、自身の不法な行為によって他人に損害を与えたものは、その損害を賠償しなければならない、というのが、大多数の法律より優先される万国共通の「法の精神」と考えるのである。

 それとも、WMGは道義感も順法精神もない「ブラック」企業なのだろうか。
以上

2015年3月10日 (火)

今日の躓き石 「名人戦」ネタ

                                      2015/03/10

 今回は、愛読している毎日新聞ネタです。(手違いで公開が遅れました)

 「名人戦」というのは、ここでは、将棋名人戦、つまり、言うまでもなく、毎日新聞と朝日新聞が共同主催している、最も長く続いているタイトル戦です。

 ということで、毎日新聞は、主催紙として、前評判を盛り上げる記事を載せているのですが、今回、夕刊芸能面(大阪本社3版)の記事は、まずは、見出しが大きく揺らめいています。

 「羽生名人挑戦 誰に」と大書されているのにぐらりとします。

 この字面だけ見ると、普通の感覚では「羽生名人」が「挑戦」する相手は「誰に」なるのかと読めてしまいます。ほんの一瞬ですが、意味を取り損ねます。まだしも、「羽生名人に挑戦 誰か」としておけば、誤読は大分減るでしょう。

 そして、小さな別署名記事の小見出しが驚愕の的です。

  •  「チェス採用」
     「チェス採用」とは、普通、「チェス」を「採用」と読み取るものであり、今回の名人戦は、チェスで戦うのかと思ってしまいます。ついでに、長年の議論が解決して、椅子対局になるのか、などと考えます。
    因みに、趣味多彩な将棋プロ棋士の中でも、羽生名人のチェスの棋力は抜群で、誰が挑戦しても、まるで勝負にならないのではないかと思ったのです。
    ほんの一瞬ですが、意味を取り損ねます。

 続いて、不穏な言葉が出ています。

  •  「実力数値化」
    これは、「実力」を「数値化」すると読み取るものでしょう。本当に、各プロ棋士の「実力」が数値化できるのなら殊更のタイトル争いは意味を失いかねません。
    全棋士間の戦いの結果を数値化して、第一位にタイトルを与えれば良いのです。

 既に「チェス採用」とあるので、解釈が迷走しそうです。

  • 「チェス」という方式により棋士の「実力」を「数値化」することが、将棋連盟に公式採用されるのかと早合点してしまいます。

 しかし、ちょっと考えると、各タイトル戦の主催者(全国紙各社、地方紙連合、およびスポーツ紙)が、一主催者である毎日新聞が「独自」に採用した方式による数値化に賛成するかどうか疑問です。

 ここでも、出典として「国際チェス連盟など」と言うだけで、素人目には根拠も信頼も不明の数値を、勝手に権威めかして振り回し、もっともらしい議論を進めていますが、読者は検証も反論もできない、まこちとに勝手なものです。

 因みに、これも愛読している将棋専門紙「週刊将棋」は、女流棋士の「ポイント」は集計していますが、プロ棋士のポイントランキングは、掲載していないのです。
 プロ棋士のランキングめいたものは、獲得賞金年間ランキング(年一度公表)だけです。
 これは、各主催紙が支払っている賞金に依存するので、自社のウェイトを高めたければ、優勝賞金を増やせば良いという所に帰着するので、公表しても、特に問題はなかろうと言うことのようです。

 とは言うものの、依然として、各プロ棋士の過去五年間の成績から算出できるのは、どんな相手と闘って、どれだけ勝って、どれだけ負けたかと言うことの集積ということのようですが、それが、「実力」とある程度の相関関係を持っているというのは、一つの作業仮説に過ぎないのです。

 過去のタイトル戦で、開始直前の両者の「レーティング」とタイトル戦の結果がどう結びついているか、謎めかしているままです。「オカルト」や「ガセ」とまでは言わないが、「とんでも科学」の一種ではないでしょうか。

 況んや、タイトル戦は、その期間の両対局者の「実力」の戦いであり、5年分の過去データがどこまで役に立つのか、何度も言うが、丁寧な検証が必要です。 

 毎日新聞が、野次馬の下馬評に科学めいた粉飾を施して、善良な購読者をまどわすのは、感心しないこと夥しいのです。

 以上、躓き石どころか進路をふさぐレンガの壁のような代物ですが、ここでは無謀にも素人考えで異論を投げかけるのです。

以上

今日の躓き石 「メンタル」の極み

                                 2015/03/10
 毎度おなじみの毎日新聞スポーツ欄ですが、今回朝刊の記事を題材として取り上げたのは、毎日新聞の責任と言いきれないものがあります。何しろ、今回は、共同通信の配信記事なので、中身は、そちらの責任と言うべきなのでしょうが、堂々と紙面に載せた以上、無関心ではいられないはずです。

 それにしても、今回、テニスのデビスカップの対抗戦でカナダチームに勝てなかった事への論評は、どんな名選手が執筆したのか署名がないのでわかりませんが、非常に高い視点からの論難であり、まことに不思議です。報道機関は、いつからか、スーパー評論家になっていますが、今回の記事も相当なものです。

 指摘は、トップ4に入る選手の偉業はあっても、一人だけでは対抗戦に勝てない、と当たり前の結論を掲げ、二人目の選手に「精神力」が足りなかったことを敗因として指摘しています。しかし、現実には、両チームの勝敗を分けたのは、ダブルスの勝敗であり、敗因をどこかに押しつける論法は、全国紙の報道から排して欲しいものですが、記者の論法を辿ると、日本チームの敗因は、ダブルスの負けとも言えるはずです。ダブルスが勝ちなら、シングルスで二勝した選手の功績が称えられていたはずです。

 記事では、二人目の選手への非難に言葉数を費やしていて、まずは、「(相手の)強力サーブを気迫で押し返す姿勢は見られず」と断罪されているのですが、一方、エースの美点として、「追い込まれた場面で強靱なメンタルで踏みとどまった」、と賞賛しています。ここで書かれている「メンタル」が何なのか意味不明ですが、二人目の選手に対する論難からすると、気迫のことなのでしょうか。

 つまり。両者の差は、「気迫」、「精神力」であると断じているようなのです。愚考するに、記者の眼力は、超能力の部類に見えます。記者が、選手の「姿勢」を見通したことを受け入れるとして、では、どんな「姿勢」が必要だったかは語られていません。高速で飛んでくるテニスボールを、ラケットで打ち返すのでなく「気迫」で「押し返す」方法があれば、この場で開示して頂きたいものです。これでは、まるで、劇画、漫画の世界を文字にしているように見えます。

 当の記者は、折角、現場で実際の試合に臨んで、膨大な情報を受け止めているはずでする。報道の使命はまず第一に事実の報道であり、記者が自説を唱えるものではないと思うのです。

 共同通信の編集姿勢については材料が少ないので、お説教はこの程度にとどめるが、毎日新聞ともなれば、報道に際しては、元々得られた情報を個人の狭量な見識で解釈して意味不明な論評に置き換えてしまわずに、生の情報をできるだけそのままで伝えて頂きたいものです。配信記事は編集で機なのでしょうが、毒消しにもっと健全な記事をすぐ近くに載せられなかったものかと思います。

 それにしても、ここまで指摘したところによれば、事スポーツ界に限っても、「メンタル」という言葉の意味は、かなりバラツキがあるようです。ここでは、何か、スパイクか、ラケットか、武具のように見えます。
 もともと、mentalという形容詞だけで後に何も続いていないと何のことかわからないのであり、そんな(いい加減な)言葉使いで何かを読者に伝えようとするのは、報道の使命をおこたる(横着という)ものではないかと考えます。

 最後に、自明なことを伝えると、テニスに限らず、「勝負」というものは、大抵は、技術と戦略で、あらかた、勝ち負けの行方が決まってしまうものであり、そのような判断からして勝つべきものが「油断」や「過信」で自滅して負けることはあっても、「気迫」などで、負けるべきものが勝ち負けの行方を覆すことは、滅多に無いものです。要は、技量が相手に及ばなかったと見るものです。伝統的な「心技体」の心情を見直して欲しいものてす。

以上

2015年3月 7日 (土)

YouTubeの「申し立て」について

 YouTubeの制度がまだ改善されていないので、ここに、苦言を公開せざるを得ない。
 以下は、公知事項に基づく妥当な議論(一私人の私見であり、愚考である)と考えるので根拠は示さない。なお、YouTubeの「申し立て」は、YouTubeが唱えているのではないが、タイトル上は表現を短縮簡略化している。

 今回、「第三者のコンテンツと一致しました。 」と指摘されたのは、新作動画のBGMとして添付した楽曲「マーラー 交響曲第5番 第4楽章」(抜粋)であり、演奏者は、ブルーノ・ワルター指揮ウィーンフィルハーモニー、1938年1月15日(Naxosによれば19日)の録音というものである。当方が当該楽曲の当該演奏を利用したことについては異議がないのである。

 当楽曲は、グスタフ・マーラー(1860-1911)によって、1904年に発表されたものであり、従って、当楽曲の著作権は消滅し公有(Public Domain)化している。

 当楽曲は、当楽曲の当演奏は、HMV(EMI)によって、1938年にSPレコードととして発売されたものである。従って、当演奏に対する著作権(日本法で言う「著作隣接権」)も、消滅し公有(Public Domain)化している。

 このため、いくつかのレーベルから、上記SP盤レコード(ないしは、再発されたSP盤)をレコードプレーヤーで再生し、その音声を、デジタル処理等の変換(remastering)を施すことによって、自身が権利を有する音源として発売している例が見られる。

 その一例が、Naxos (HNH International Ltd.)であり、当方の手元には、2002年6月発売の9.110850が所蔵されている。
 ただし、同一音源のremasteringによる再発売は、EMI, Duttonなど、複数のレーベルから合法的に発売され、流通している。
 remasteringとは、総じて言えば、元となる音源再生音から、耳障りなノイズを提言し、音源の音量、周波数のバラツキを抑制し、周波数特性を操作して、今日の再生装置での聴取に適した調整を加えることが、その大半である。ただし、remasteringの目的は、元となる音源再生音の「原音」(録音の際に現場で聞き取れていたであろう音声)の再現を試みるものである以上、総じて、極めてよく似た音声が再現されることは当然である。
 と言うことで、そのようなremastering工程は、特定の電子装置の設定と実行にいたるものであり、オーケストラによる楽器の演奏やそれを指図する指揮者の指揮と異なり、創造的なものではないと思量するものである。つまり、別の時点に、別のスタッフが、同一の装置で同一の操作を行ったときに、同一の結果が再現されるという性質を有している。

 この点は、remasteringによって新たな著作が創造されたかどうかの議論に関係するものである。

 確かに、NaxosのCDには、ALL RIGHTS RESERVEDと全大文字(至高の権利宣言)の権利宣告がある。全大文字と言うことは、専門的に言うと、当CDのその他の部分に何と書かれていようと関係なく有効な権利の宣言途も見えるが、既に、Public Domainとなっている著作物をNaxosの著作物とすることは、いかなる著作権制度においても不可能であることから、Naxosの権利は、自動的に、著作権を主張可能な新規著作部分についてのみ有効となるよう限定されるものと考えざるを得ない。

 もし、Naxosが、自身のremasteringによる変換が他のレーベルのremasteringと比較して、「明らかに他と異なる、容易に識別可能な特徴」を有しているとして、2002年時点で新たな著作権を主張しているのであれば、そのような著作権は、今日も有効である。しかし、そのような「特徴」は提示されていないように思われる。

 言うまでもなく、当該CDそのものを複製販売するような行為であれば、NaxosOfAmericaによって登録されている「意匠権」「商標権」の侵害行為であると考える。
 しかし、ここで問われているのは、当方が、いずれかの音源から取り出したBGMに関する権利主張である。各レーベル共に、同一SP盤からの音声を利用しているのであり、「原音」を再現することを主眼にしている以上、当方動画の音声について音源の識別、同定は不可能と思われる

 率直なところ、単なる素人考えの意見に過ぎないのであるが、当動画が利用している低ビットレートの音声が、いずれのレーベルの音源に基づくものなのか、あるいは、当方が骨董品として所蔵している(かも知れない)1938年発売のSP盤から再生した音声(かも知れない)を独力でデジタル処理したもの(かも知れない)のか、全ての選択肢を否定してNaxos盤を利用したものと特定するのは、不可能ではないかと思量するものである。

 愚考するに、YouTubeのこうしたクラシック音楽に関する仕切り方は、頑迷なまでに必要な専門知識を拒否して「ミレニアム著作権法」の字面を遵守するものであり、組織としての社会責任を放棄するものと思うのである。各管理団体に対して、クラシック系の音源に関しては、

  1. 音源の著作権が消滅しているものは、単に音声の類似だけで、申し立てを行わない。
  2. 音源の著作隣接権が消滅しているものは、単に音声の類似だけで、申し立てを行わない。
  3. 音源の著作隣接権が有効であっても、別時点の演奏、あるいは、別団体の演奏と明確に判断できないときは、単に音声の類似だけで、申し立てを行わない。

 との三原則に対して、宣誓確約を得るべきであり、そのような自己申告に反したことが判明した管理団体の管理音源はYouTubeのチェックから排除すべきである。「申し立てを行わない」というのは、一方的、かつ、強硬な指摘を行うのではなく、YouTubeが動画作家の言い分を聞き取って、仲裁/調停を行うと言うことである。

 現実世界で、誤解や偏見に基づく告発を行ったものは、司法の場で厳罰に処されることを思えば、公平かつ合理的な制度であると思量するものである。

 推測ではあるが、同様の「申し立て」を受けて、重大なショックを受け、あるいは、PTSDに罹患し、あるいは、過度の罪悪感を感じて、創作活動が萎縮している無辜の動画作家は少なくないものと思量し、甚だしい義憤を感じてこのような提言を行っているものである。

 所詮、客観的な権威もなく、社会的地位もない一私人の「分に過ぎた」発言であることは承知しているが、社会的な地位を有する組織が「間違っている」と感じたときに、そのように明言するのが当方の信じる「誠意」(sincerity)であり、その信条に従うものである。

 以上、当方の知りうる限りの情報と見識に基づいて、真摯に提言するものである。

以上

今日の躓き石 「メンタル」

                                      2015/03/07
 いや、新しいネタではありません。

 最近、NHKニュースの字幕で「メンタル」とカタカナ4文字が見えたので、耳を澄まして聞き取ると、「メンタルヘルス」の話題とわかりました。

 一般人向けのニュースなので、表現に配慮していますが、「メンタルヘルス」の問題と言うことは、「こころのやまい」と言うことになります。
 実際、メンタルが健康な人は、ニュースで採り上げるものではないのです。

 数日前にも、毎日新聞の地域面だったかの小見出しで、「メンタル」のとカタカナ4文字が見えたので、記事の内容に注目したのですが、やはり採り上げられているのは、「メンタルヘルス」の問題と言うことでした。

 つまり、両メディアでは、放送ないしは紙上で、「メンタル」と書かれているときは、同じ概念を思い出すことが予定されているように思うのです。

 ここまで、スポーツ界の業界方言(方言が悪いと言っているのではないですよ)が、無調整で一般人に拡散することの危険を説いていますが、両メディア共に、スポーツ関係者の発言をたしなめもせずに報道しているので、同じ言葉を目にしたとき、あるいは、耳にしたときに、何を思うか、安定していないのです。言葉の守り人が必要です。

 私見では、いずれかのテレビ番組で、思慮深く言い換えていたように、プレーヤーの気持ちの問題は、日本語でそのように言うべきであり、安易に「メンタル」と言い放つべきではないように思います。スポーツ選手が、社会人として尊敬される言葉遣いは、そうあるべきです。

 因みに、スポーツ関係者の発言で不思議なのは、「メンタル」(心理)と「フィジカル」(体力)の二要素が声高に言われるだけで、技術面(art)、芸術面(art)への言及がないと言うことです。

 伝統的な言い方で言うと、「心・技・体」の三要素がそろっているのが、良い「選手」の備えるべき特質でした。「心」は、結局は「平常心」であり、「体」は、「力」以外に俊敏さを求められていたように思います。そうした「古い」見方は、「世界」に通用するスポーツ選手には、不要なのでしようか。

 新しい言葉遣いで、新しい視野が開けたとしても、それまで長く養ってきた言葉遣いが乱れ、大事にしていた概念が念頭から、後生に伝わらないままに消え去ってしまうようでは、新しい言葉遣いによって、スポーツ「文化」が後退したことになるように思います。

 正直言って、スポーツ選手が、いくら、ファイト満々で、体力もりもりでも、技術的に未熟であるとき、あるいは、スポーツらしい美的センスがないときは、スポーツ選手の価値を低く見てしまいます。

 そうした大人の視点を取り戻すように、若者達を導くのも、メディアの使命であるように思います。

以上

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