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2015年4月

2015年4月17日 (金)

今日の躓き石 「フィジカル、スピード」って なんのこと

                                  2015/04/17
 例によって、毎日新聞の姿勢とスポーツ欄の書きぶりは、大きく食い違っていて、こうして批判されるのである。

 4月17日付毎日新聞大阪版スポーツ面で、Jリーグ戦の記事に視察しいてた日本代表監督のが先日、「Jリーグはフィジカル、スピードが足りない」と語ったと引用されているが、まことに不可解である。

 監督は、日本語でしゃべったとは思えないし、また、英語でしゃべったとも思えないのだが、それでも、通訳された言葉が報道され、各チームの選手は、その通訳された言葉言葉を受け止めているので、監督は、通訳され、文字で書かれた日本語の言葉に対して責任があるはずである。つまり、自身の理解する英単語が、日本語になってどう伝えられれば、正確に理解されるかと言うことに、責任があると言うことである。

 各クラブの社長に対して「訴えた」と言うことは、明確な意味が伝わらなければならないはずであり、その場で、口に出して、通訳の言葉に委ねたとも思えない。

 多分、事前に書き出した内容を日本語に翻訳し、文書の形で手渡したとも思えるのだが、そこまで慎重に取り組んだとしたら、ここに引用されたように意味不明になるまで言葉を端折った意図がわからないのである。
 重ねて言うが、確実な意思の疎通は、監督の責任である。

 率直に言うと、この言葉は、日本語として意味不明なのである。

 「Jリーグは」と切り出しているのは、組織の運営を指しているのでなく、Jリーグ各チームの戦いを批判しているのだとは、思い巡らすことはできるが、以下の言葉は、何のことやら意味が通らない。

 「フィジカル、スピード」と「、」で区切られているが、通訳は、ここで、「、」といったはずもなく、文書を渡したのでなければ、聞き取ったものの解釈と見るしかない。しかし、「フィジカル、スピード」を英語の「physical,speed」と見ても、意味がわからない。不足しているのは、身体的なスピードなのか、別の何かなのか。いくら辞書を引いても不可解である。

 記者は、この言葉の思いが届いたか、といっているので、何か暗号めいたものが通用しているのかも知れないが、一般読者にはわからないのである。

 因みに、前半の戦評で書かれているのは、心理的なもの、情緒的なものであり、同点に追いつかれて、危機感が沸き立ったことが書かれているのであり、監督の思いは、そこにはないように思うのである。

 最後に選手の談話で述べられているのは、単に、「速い」プレーであり、監督が被せた「フィジカル」の冠が取れているから、監督の訴えが伝わったとは、とても思えない。大体、90分間走り続けるスタミナは、当然、子供時代から各選手に求められているし、プレーヤーの走る速度は、最高のものを求められているのは、これまた子供にも自明である。今更、取り立てて言うほどのものではない。

 これでは、言葉の意味だけでなく、文章としての意味が通じていないから、一般読者には、どうにも読み解けない謎となる。こうした首尾一貫しない、意味不明の言葉を掘り下げて伝えない、粗雑な書きぶりは、毎日新聞の報道姿勢に反していると感じるのである。

 因みに、過去の各種報道を見渡すと、サッカーに於ける「フィジカル」は、多くの場合で「ハードコンタクト」と思う。世界レベルで言えば、Jリーグのブレーは、当たりが弱いと見られているのかも知れないのである。子供時代から戦い続けているメンバーの多い国内リーグでは、相手を傷つけない「思いやり」のプレーをしていて、これでは、国際試合での相手方の当たりの強さにめげてしまうのではないか、という意見とも思える。

 そうでなければ、監督が、「フィジカル、スピード」と「、」で区切って、二つの概念を伝えようとした意味が通らない。

 以前の国際試合で、日本人フォワードが背後から相手方ゴールキーパーの尾てい骨割り膝蹴りを受けて重傷を負った事例を思い出す次第である。ここまで来ると、限りなく犯罪行為とも思うが、当の日本人フォワードは、重要な国際試合ではこうした「削り」を受けるのは、覚悟しておくべきであった、油断して無防備な背中を晒したのが悪いと感じたようで、何もアピールしなかったらしい。

 そこまで行かなくても、国際基準は「目には目を」、受けた被害をそのまま返す程度は暗黙のルールの認めるところという気がするのである。そんな素人考えが正しいかどうかは別として、毎日新聞として、「フィジカル、スピード」の真意を掘り下げて報道して欲しいものである。

 毎日新聞が求めているものは、掘り下げた報道であり、かつ、一般人に伝わる報道であると信じるので、あえて苦言を書き連ねるのである。

以上

YouTube著作権騒動 2015年4月最新情報 2

 本件について、部分的には、申し立て取り下げという形で、「善処」された。YouTubeからの連絡メールには、30日を経て申し立てが更新されなかった旨の説明があるが、実際は、管理者が自身の不法な申し立てを、即刻取り下げたものである。意図的な誤記なのか、そのような事態の想定がないために、あり合わせの定型文を流用したのか不明である。

 ただし、繰り返し指摘している問題点は、一向に改善の兆しがない。

  1.  楽曲自体がパブリックドメインであるという自明、周知の事実が、管理者に認識されていない。あるいは、認識しているのかも知れないが、その旨表明されていない。

  2.  管理者が、パブリックドメインである楽曲の特定の演奏に対して権利を主張するなら、特定の演奏を識別する方法が示されなければならないという、自明の事項が認識されず、そのような方法は示されていないと思われる。

  3.  YouTubeの検知方法は、楽曲の類似点を指摘するだけであり、管理者が特定の演奏に対して権利を主張する根拠を検知できないために、多数の類似演奏を申し立て対象にしてしまう。(現実に誤認事例が発生している)

 かくして、クラシック音楽の利用の際に、いわゆる「誤爆」が続出していると思われるが、余程の知識、見識を持ってない限り、申し立てに反論できないため、泣き寝入りしている動画作家が多いものと懸念している。(伝聞であるが、数例を耳にしている) 嘆かわしい限りである。

 この点が的確に認識されて、関連制度が改善され、このような誤爆の原因が是正・除去されない限り、このような不法な対応が続くものと思われる。ルール是正と周知が必要である。

 一市民の義務として、重複を恐れず、警鐘を鳴らすものである。

以上

 

2015年4月15日 (水)

今日の躓き石 「和製英語」 「字件ですよ!」

                                 2015/04/15
 今回の題材は、毎日新聞の「くらしナビ」面の名物記事であり、毎回敬意を払って読ませていただいている、我がお手本とも仰ぎたい記事である。

 今回も、抑制の利いた筆致で、的確に問題を指摘しているのだが、抑制しすぎて、せっかちな読者が読み過ごしてしまいそうで、もったいないと思うことがある。

 今回は、まず、「球団」という至って普通用語と思える言葉が、プロ野球界の「商標」(いや「専売特許」か)めいた専用の言葉であって、サッカーなどでは使用しないことになっていることが語られる。一種の既得権なのだろうか。当方は不明にして、そうとは知らなかった。

 長年、日本のプロスポーツは、野球と相撲の二大陣営が君臨していたので、プロ野球界がこうした言葉の使用を「独占」していたのは理解できるが、サッカーがプロ化し、バスケットボールも追いかけそう、といった時代であるから、「球団」の限定的な使用は、見直していいのではないかと思う。

 ついでに言うと、この話題の最後で登場する「存在感」なる言葉も、勝手な造語で文意を混乱させる悪玉であり、天下の毎日新聞なら、適切な言葉に言い換えて欲しいものである。「存在感を放っている」(「示している」ではないのだろうか、それとも、「存在感」は、「放っている」で受けよとマニュアルに書いてあるのだろうか.)と来ると、言葉は二重の混乱に陥っているのである。

 次は、当方が持ち出しているカタカナ造語の話題であり、野球が過去「大量の和製英語に彩られた」とさりげなく語っているが、事の真相は、大量の勝手な造語で汚染された、いや、現に汚染されている、と言いたかったのではないかと思う。

 一メディアが、全国民の言葉遣いを指導できるわけもなく、控えめに語らざるを得ないのは理解できる。当ブログのように、一個人が私見を語るのとは、重みが違うのである。

 こうして、「言葉の守り人」が、重みのある至言を語っているのに、深く敬意を払うのであるが、「和製英語」という慣用表現には、不遜を承知で、あえて異議を唱えたいのである。

 「英語」は、連合王国(英国)と合衆国(米国)の公用語であり、世界で広く通用している確固たる存在である。日本のスポーツ界の用語が、和製の英語を製造できるはずがなく、現に、英国、米国で、和製の英語が通用してはいない。あくまで、日本の一部で通用している勝手な造語である、としか言えないはずである。「和製英語」などという言葉は、死語にして欲しいものである。

 因みに、昨深夜のBS1の海外スポーツ番組で、MLB(メジャーリーグ)でワールドシリーズ制覇の実績があり、安易な精神論を振り回さない、知性的なコメンテーターが「セットアッパー」なる造語を口にしたのに、大変不満を感じているのである。近年、海外との交流が盛んとなり、また、通信、情報検索で、「英語」を確かめられるはずの世界で、勝手な造語が蔓延っていて、それを止めようとする目立った活動が成されていないのに、一私人は、不満なのである。

 今回の記事でも、数少ない「和製英語」を一つずつ減らそうとするサッカー界の取り組みが賞賛されているが、野球界で同様の取り組みがされるべきだとは言わないのである。野球界には自律的な浄化力がない上に、外部から指摘されると 意地になって、却って、「和製英語」に固執するのではないか、とはなから、諦めているのかとも見える。マスメディア大手が球団経営に取り組んでいるから、メディアの良心は通用するはずであり、当方の杞憂と思うが、正直、背景はよくわからない。

 当方としては、密かに「風向きが変わる」ことを望みたいのである。人は、慣用表現の因習に気づいたときは、(年配層からの抵抗があっても)決然と一層の高みを目指すものだと思いたいのである。

以上

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2015年4月14日 (火)

YouTube著作権騒動 2015年4月最新情報

 今回、「京の春 円山公園しだれ桜」の動画をYouTubeにアップロードすると、正体不明の著作権管理者(複数)が申し立て(告発に準ずるもの)しているので、どうすると聞いてくる。毎度ながら、反論の選択肢が、意味不明なのである。 (長文ごめん)

 

使用した曲がパブリックドメインであることは、誤解の余地のない自明の事実である。それすら、相手方の面々がわかっているのか、わかっていないのか。

 使用した演奏は、40年前のものでありパブリックドメインではない。「著作隣接権」が存続している。これも、誤解の余地のない自明の事実である。

 ただし、日本法は、著作物の登録を著作隣接権の成立要件としていないので、権利の現在地は確認のしようがないのである。

 常識的には、NHKが製作したラジオ番組であるので、NHKが著作隣接権を保有していると見るが、あくまで、常識的な推定であり、NHKが第三者に権利許諾しているかどうかは、どうすれば確認できるか不明である。

 まさか、NHK(ライセンサー)が第三者(ライセンシー)に対して、全世界で独占的な権利を許諾しているとは思わないが、フランス・ブリュッヘン/18世紀管のモーツアルト「レクイエム」のライブ音源のように、FM音声をCD出版する権利が許諾されたが、許諾された企業(ライセンシー)が、第三者にサブライセンス(跨ぎライセンスとでもいうか)していると思われる事例があるが、その辺りは、当初のライセンス契約に許諾の範囲として明記されているかどうか、不明である。

 通常、著作権に関した権利の許諾契約に際しては、ライセンシーに「全世界」独占権を与えず、地域を限定し、さらに、サブライセンスやライセンス譲渡など、ライセンスの行き先があやふやになる運用は、ライセンサーが認めないはずなのだが、どうなのだろうか。もちろん、強力な独占権を与えると、NHKが一切権利行使できなくなり、どんな商品化もできなくなるので、ライセンスは、限定的なものだと思うのだが、とにかく詳細は不明である。

 こうしたライセンス運用状況を見ると、NHKは、受信料を支払っている視聴者に対して、許諾条件を明示しないのかなと思うのである。

 ただし、今回のブラームスの場合は、そうした事例とは随分異なるように思うのである。もちろん、正体不明の管理者(複数)の中に、NHKが隠れていて、正当な権利主張している気がしないでもないが、公共放送がそのような動きをしていれば、いずれかの場で兆しがあるはずである。何しろ、NHKアーカイブに所蔵されている音源は、膨大であり、権利行使の前提で、明確なデータベースを開示するとなると、膨大な費用がかかるものである。そんな話は、聞いたことがない。

 ということで、ここでは、演奏者、演奏日で特定できる演奏に対して、自分の持っている権利を明らかにすることなく、見境なくかみついてくる、いわばできの悪い番犬が彷徨いているのである。ぼちぼち、無実の第三者にかみつきたがる、できの悪い番犬は、しかるべく処理したら良いと思うのだが、根拠不明、というか、ほぼ誤認によると思われる、一方的な申し立ては後を絶たない。

 YouTubeは、米国法に基づいて手続きしているというが、どんな国であろうと、権利を保有していないものが。あたかも、自己の権利の行使の如く言いがかりを付ければ、それは違法行為である。色々免責を言い立てているが、違法行為を支援し続けていることは、立派な違法行為(従犯)ではないのかと、素人なりに推定する。

 百年河清を待つということか。

 以下、今回当方が、書き立てた反論である。何しろ、YouTubeの検知システムが曲のある場所で動作したという以外、具体的な根拠が示されないものだから、「著作隣接権」を侵害しているかどうか、正確なことがわからないのである。

 「当楽曲は、19世紀の作曲であり、著作権が存在しないものです。画面表示している当楽曲の当演奏は、当方の最善の努力の及ぶ限り、商品化されていないものであり、管理者(複数)のいずれかが著作権を有していると考える理由が見当たりません。管理者(複数)は、どのような演奏者、演奏時点の演奏について著作権を有しているか明確にする義務を有していると思量します。当方の知る限り、管理者(複数)は、当該演奏に対して権利を有していないにもかかわらず、不法な威嚇行為をしているものと推定します。

 「不法な威嚇行為」とは、物々しい言い方と思うだろうが、素人が個人的に「推定」しているだけで、別に告発しているものではない。「敵」は、手当たり次第威嚇してくるのだから、当方も、多少、メリハリを付けざるを得ないと、素人なりに思うのであるし、こうした発言に対して、何の反論もないのだから、声も次第にデカくなろうというものである。
 間違っていたら、反論していただければ幸いというだけである。

 それにしても、「ミレニアム著作権法」は稀代の悪法であることがわかる。「疑わしきは罰せず」(推定無罪)という大原則に真っ向から逆らう法律なので、素人ながら、例えば、合衆国憲法の精神に反していると思うのだが、なんでそんな法律が蔓延っているのだろうか。 

 推定無罪の原則に立てば、管理者(複数)が自己の管理対象をYouTubeに提出する際に、その主張の法的な根拠を求めるべきであると思うのだが、明らかに、管理者(複数)の言いたい放題を丸呑みしている。何しろ、YouTube側は、怠慢などで法の執行を「ほんの僅かでも妨げた」場合は、連邦法違反ということで、厳罰に処せられて、莫大な金銭的懲罰を受けるのだから、素人の側に「ケツ」(ことの帳尻)を持ってくるしかないのだと思うのである。

 因みに、今回は、同一動画を4K,HD,QVと三種並行して上程したのだが、なぜか、HD解像度の動画に対して、何の指摘もないのである。YouTubeご自慢の検知手続きは、類似性の判断の面で、信頼するに足りないものであるということのようだ。

 それにしても、毎度毎度、右も左もわからぬ子供に言い聞かせるようにして、自明の事情を説き聞かせる反論を書かされると、ちゃんとした大人を呼んでこいといいたくなる。相手は、営利企業であるから、著作権の専門家(大人)を雇っているはずであるが、まだ、子供のような「わめき声」しか聞こえてこない。大人なら、勘違いで迷惑をかけたことについて、何かあるはずなのだが、何もない。

 必要な手続きであるにしても、もっとましな手続きは取れないものだろうか。世間の動画作家が、みんな、こうした理不尽さに対して挫けないで、延々と反論できるとは限らないのである。

 例えば、アマチュアオーケストラの演奏動画に対して、どっと管理者「申し立て」が押しかける事態が懸念されるのである。いや、ピアノであれば、MIDI演奏しても、著名な演奏家の音源のパクリだと、「申し立て」の嵐が押し寄せそうなのである。「無理」が通れば「道理」が引っ込む(Against stupidity,)、とか、泣く子と地頭には勝てない(You can't argue Capitol Hill.)とか、言ってられないのである。

以上

今日の躓き石 「メンタル面」って何? マスターズ記録付

                                                                    2015/04/14
 4/14日付毎日新聞大阪版のスポーツ面は、若きプレーヤーのマスターズゴルフでの健闘ぶり、特に終盤の追い上げを総括する大振りな記事を載せていた。

 記者は、一般メディアの取材陣の典型として、定型的な「愚問」が得意らしく、パット数の減少という数値の目に付く変化を捉えて、その原因を問いただしたようであるが、プレーヤーの回答で、「(原因が)わかれば第1日から上位で戦えるかな」と鋭く切り返されている。短気なプレーヤーであれば、「わかってりゃ、初日から独走して優勝だ」、と怒鳴り返しそうなものである。愚問から切り出せば真剣に相手してくれないと思うのである。 

 若いとは言え、一流プレーヤーとして実績のある人だから、実際は、ある程度自身のスコアの成り立ちを掴んで、来年に期するものは形を取り始めているだろうが、詳しくは、支援スタッフととことん議論して、自分なりに築き上げるものだろう。

 大事な心構えは、簡単に口に出すものではない。余程気心の知れた、信頼できるインタビューアーなら、答え甲斐のある質問を繰り出して、身のある問答を繰り返し、その辺りを引き出せるだろうが、そうでなければ「愚問」には「愚答」を返すのである。

 当方は、ゴルフをプレーしたこと一切がなく、ながら視聴のテレビ中継や一回きりのオーガスタナショナルでの練習ラウンド見学程度の知識しかないのだが、それでも、素人であるから、言いたいことは言うのである。

 現場に行った証拠というわけでもないが、ご参考まで当時の写真を末尾に並べている。

 「ボギーなしの正確なゴルフ」と、記者がスコアの数値から高評している「正確」さが、プレーヤーの取り組みが変わったのを示しているのか、それとも、運営者のコース管理が変わったことを示しているのか、ぐらいの「掘り下げ」があっても良かったのではないかな。

 20年前の練習ラウンド見学で見聞した様子から見ると、オーガスタのグリーンは、短く切り詰めた芝をビリヤードテーブルのフェルトのようにつるつるながら、高低のうねりも目立つし、芝目は遠目にはわからないものの、世界最高峰の名手でも、実際に打ってみなければボールの方がわからないほど癖のあるグリーンと見たのである。

 何しろ、素人でもよく知っている名選手たちが、グリーンを十分学習した上なのに、1メートル以内のショートパットを左右いずれかに大きくそらすのであった。

 その上に、期間中、グリーンを乾燥させるのか、ある程度湿らせるのか、プレーヤーに気づかせないで管理して、グリーンの速さを予測困難に変えているとのことであった。

 因みに、知る限り、オーガスタナショナルは、極めて限定されたクラブ会員制であると共に、マスターズ向けのコース設定は、長期間クラブ会員の利用を止めて、時間をたっぷりかけて、極限まで研ぎ澄ますと聞いている。

 とすると、「正確さ」は、プレーヤーの当日の緊張感が呼び起こしたアグレッシブなプレーが、コースの求めた積極的なプレーと、たまたま整合した結果ではないかと憶測するのである。であれば、初日から同様のパッティングをしていたら、どんどん決まったかどうかは、不明である。

 あくまで、素人の勝手な憶測であるが、熟練したコース管理者がコースを設定する際には、何らかの謎と正解が設定されていると思うのである。グリーン上のある秘密の場所に、ある方向、速度、回転のボールが落ちてきたら、そのボールは、パットの困難さが緩和されるような場所に転がって落ち着くような「正解」ショットがあるような気がするのである。いうまでもなく、単なる空想であるが。

 記事の最後で、記者は訳のわからない「大舞台でも物おじしない充実のメンタル面」などと、意味不明の「メンタル」に逃げ込んでお茶を濁しているが、これまで敗退してきた先輩プレーヤーが、一人残らず「物おじした」から負けたと決めつけて逃げるのは、専門記者として怠慢ではないかと思う。

 特に、記者は、「メンタル」という意味不明、人によって使い方まちまちの造語を放り込んで、読者を混乱させているが、書きぶりを見ると、昔ながらの精神主義なのかと思わせる。逃げるな、びびるな、もっと頑張れ、と野次馬気質で言っているだけである。スコアの数字の上っ面を見てそう言い立てるのなら、現地密着取材する必要のないコメントである。

 「心技体」とは、昔ながらの言い回しで恐縮だが、以上の書き方でおわかりのように、素人考えでは、今回、初日から「正確な」ゴルフができなかった原因の大きな部分は、コース戦略という知的な面を含めた「技」の不足ではないかと思うのである。

 以上、知識の足りない素人の勝手な意見であるが、物事が不可解な様相を呈しているときは、物事に密着して、掘り下げて、理解できるまで調べるという姿勢は、全国紙の報道取材の姿勢として万事に通じると思うのである。とにかく、修行である。

以上

練習ラウンド見学記録 1994年4月5日(火)

コース展望(何ホールだったっけ?)

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グリーン遠望(何ホールだったっけ?)

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グレッグ・ノーマン(大本命といわれながら、またも優勝を逸した)

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2015年4月13日 (月)

今日の躓き石 「セットアッパー」 汚染を食い止めて!

                           2015/04/13
 正直言って、不機嫌になる記事であった。正しかるべき大新聞に、出てはいけない言葉が登場していたのだった。

 毎日新聞大阪版朝刊スポーツ面のプロ野球戦評で、「セットアッパーを任される」とあるが、当該球団広報が、「セットアッパー」という言葉を無頓着に使っているとしたら、毎日新聞は、たしなめるべき役目を負っているのであるし、球団が使っていないとしたら、毎日新聞社として、校閲の努力が足りないということになる。いずれにしろ、困ったことである。

 無署名記事の担当記者が、言葉遣いに恬淡としているとしたら、それは、信頼すべきメディアである全国紙記者としての自覚が不足しているということになる。

 野球界が「ナイター」という勝手な造語を全日本に蔓延させて、取り返しの付かない負の遺産を背負わせていることを、日々思い返すべきなのである。

 この手痛い言葉の悪用も、1世紀に向かって生き延びているし、野球界以外にも伝染しているから、消し去れない汚点なのだが、英語もどきで英語でない、コミュニケーションを阻害する悪玉の地位は、譲りそうもないように見える。いくら、公共放送が使用を控えても、全国民のほとんどが覚えてしまった言葉は、忘れられるものではない。

 本論に戻って、毎日新聞は、その基準に沿わない言葉は、とことん紙面から追放すべきなのである。それが使命である。本当は、勝手な造語を糾弾する記事を載せれば良いのだが、まだ、勝手な造語を生み出した当人達がそこここにいる以上、攻撃的な記事は書けまいと思うのである。

 因みに、先日の毎日新聞紙面に、読者から意味のわからない外国語を減らして欲しい旨の依頼を受けて、新聞社として、少しでも、読みやすい紙面にするよう努力するとの回答を見かけた。そう丸めてしまうと、単に、外国語に疎い年配の読者のわがままのように聞こえるが、細かく見ていくと、そんな簡単な話ではないのである。

 ここでやり玉に挙げるべきなのは、「外国語」ではなく、カタカナ造語なのである。外国語なら、外国人に聞いてみるとか、辞書を引くとか、意味を調べることができるが、メディアの勝手な造語は、意味の調べようがないのである。

 分の悪い戦いであり、果てしない苦闘になるのであるが、。天下の毎日新聞は、そうした戦いから逃げないで欲しいものである。

以上

やまと路の春 2015/3/27 三輪の檜原

やまと路の春 2015/3/27 三輪の檜原~箸墓、二上山、そして 耳成山

 旅先というわけでもないのですが、自宅から、電車と徒歩で片道2時間弱かかる檜原神社前桧原御休処下の井寺池の道ばたで撮影したものです。

 1時間15分ほどの間インターバル撮影し、タイムラプス動画にまとめました。元々、動画の各フレームはデジカメの静止画で、4K動画の解像度以上なので、4K動画も作成してみました。当方は、4K動画をそのままで見ることができないのですが、多分うまく写っていることでしょう。

 動画撮影の途中で、カメラを左(南)の方に移動していますが、出発点は、「川端康成筆 万葉歌碑」の側です。 最後は、左の方、南方に耳成山のシルエットが見える場所に落ち着いています。

 以下の3種類の解像度/画面サイズで並行してYouTubeに公開しています。

  やまと路の春 2015/3/27 三輪の檜原(ひばら) 4K         (3840X2160)

 やまと路の春 2015/3/27 三輪の檜原(ひばら)      (HD  1920X1080)

 やまと路の春 2015/3/27 三輪の檜原(ひばら) モバイル  (456X240)

 18時から44分間の眺めを、GIFアニメーションにしてみました。

 

 なお、YouTube動画の背景に流れる音楽は、クラシック音楽の名曲とされているベートーヴェンの「ミサソレムニス」の静かな部分を切り取ったものです。
 大勢の合唱団と4人のソリストが、管弦楽団の支援を得て1時間半にわたって歌い上げる、力強くもあり、厳めしくもある大曲ですが、その中の一コマに、バイオリンとフルートを主役に立てた、静謐を湛えた一コマが作り込まれているので、ここに紹介しています。

 聴覚障害のない若い頃、ヴァイオリンの名手であったベートーヴェンが力を入れて書いた名曲だと思います。

*ご参考まで 
 手元のメモを転記しておきます。(間違いないと思います)
Ludwig van Beethoven: Missa Solemnis D dur Op.123
*Sanctus - Benedictus の接続部を抜粋引用

指揮    外山雄三
管弦楽   大阪フィルハーモニー交響楽団 (Osaka Philharmonic Orchestra)
Vn Solo   安田英郎 (コンサートマスター)
合唱      大阪新音フロイデ合唱団 大阪第一合唱団
合唱指揮 東保 湯浅卓雄 亀井正比古
-引用部分には、独唱は登場しないのですが。
独唱   立原ちえ子(S) 成田絵智子(A) 丹羽勝海(T) 池田直樹(Br)
 1979年2月27日 フェスティバルホール(大阪)

 音源は、演奏会ライブ録音の合唱団団員用カセットテープ(非売品)を使用しています。

 バイオリンソロは、コンサートマスター岡田英郎氏です。
 (在任期間 1961年6月~1980年1月 交通事故で急逝されました)

 信者でも無いものが、キリスト教の宗教曲を勝手に転用するのは感心しないと思われるでしょうが、この程度であれば許していただけるものと思います。

以上

2015年4月 1日 (水)

今日の躓き石 「野球人生」とは何か

                                                                           2015/04/01
 スポーツ分野、特に、野球選手にいい加減な物言いが多いのは、事実である。元々、高校生に正しい言葉遣いを教える高校が少ない上に、新聞記者が発言をそのまま紙面に載せるので、まるで、いい加減な言葉遣いは、野球部のせいと言われそうだが、それは、不公平というものである。

 むしろ、取材している大の大人が、ちゃんとした言葉遣いを知らないところに問題があると思う。だから、平気で、こんないい加減な言葉遣いを紙面に載せるのである。記者に指導責任の一端がある。

 今日、目についた一例は、大阪本社朝刊スポーツ面に掲載された(優勝投手の)準決勝戦回顧談話である。昨夏の甲子園準決勝で当の相手チーム(出場選手は一部異なっているだろうが)に乱打されたことについて、「野球人生で一番落ち込んだ」と言うのは、引用符でくくられているからには、選手本人の言葉遣いそのものだろうが、高校生が無思慮で口走った言葉を、そのまま全国紙の紙面に載せて、本人に、取り返しのつかない汚名を着せていいものだろうか、と深い疑念に駆られるのである。

 言うまでもないが、「人生」は、それぞれの個人に一つ切りの大事なものである。「野球人生」などと、ふざけのめすべきものではない。「選手人生」もないし、「記者人生」もない。

 まじめに言うなら、「これまで野球していて、これほど落ち込んだことはない」、というものである。それで不満なら、「これまで生きてきて、これほど落ち込んだことはない」というものだろう。それにしても、甲子園の舞台以上に重い体験はないだろうから、大げさに言うだけ野暮というものである。

 事のついでに言うと、「これまでこんなに落ち込んだことはなかった」といえば。十分であり、「野球をしていて」とか「生まれてこのかた」などは、言わなくてもわかっているので、無駄口である。新聞記者は、無駄口、つまり、「冗語」、「余言」を恥じるものと思ったのだが、現代の新聞記者は、そうではないのだろうか。 

 繰り返すが、高校生が不用意な言葉遣いをすることはあるだろうが、それをそのまま紙面に載せて、本人に一生ついて回る汚点をしょわせるのは、担当記者の不始末である

 別の選手だが、準決勝で負けるのも、一回戦で負けるのも一緒、という趣旨の暴言が載っていた。

 後先も、周囲にも気配りしない、勘違い発言である。自分のチームメイトの努力も、自分たちに負けたチームの努力も、応援してくれた人たちの行為も、すべて、踏みにじる不適切な発言であるだけでなく、スポーツの意義を、偏ったものとして受け止めていると思う。勝敗は、一時のものであり、その過程で努力したかどうか、最善を尽くしたかどうかが問われるべきである。そうでなければ、優勝校以外にとって、大会は、いや、野球と言うスポーツは、無意味になってしまうのである。

 個人が勝手に戦うスポーツではないのだから、一段と、この暴言の影響は深刻であり、是非今のうちに考え直してほしいものである。

 若者の無思慮な「暴言」が、そのまま引用されているのを見て、担当記者の思慮分別に疑問を感じるのである。

 担当記者には、高校生が、これからの「人生」を、自己の「狭い」視点にとらわれずに、伸びやかに生きていけるように、うまく導いていく責任の一端があると感じるのである。

以上

今日の躓き石 「過去のデータを分析」? 将棋名人戦

                                 2015/04/01
 当ブログの筆者は、幼稚園時代以来の将棋ファンであり、有段者であることを前置きしておく。自慢話と言うより、それなりの見識が備わっていると言いたいのである。

 毎日新聞社が、名人戦の主催紙(朝日新聞と共同主催)として、名人戦の盛り上げを図っているのは当然だが、下馬評での囃子立てが見当外れでは、「盛り下げ」になるのである。

 今回の記事は、毎日新聞大阪版4/1付け夕刊の文化面記事である。

 見出しから不吉な感じがする。
 「カギを握る初戦」 当たり前の話だが、「カギ」になんの説明もないので、唐突だし、「初戦」には人格も何もないので、「カギを握る」とは、まるで言葉が足りないのである。
 まあ、比喩としても、初戦の勝利が番勝負の帰結に大きな影響を持っていると、感じ取れるように書くべきではないかと思う。

 「過去のデータを分析」とぶち上げているが、データは、時制で言うと過去のものに決まっているので、「過去の」は冗語である。

 さて、記事の冒頭部では、「毎日新聞が」と大新聞を主語に持ってきている。記者は、「代表権」を持った役員なのだろうか。ぎょうさんなものである。

 つづいて、「過去20年(「間」が脱落か)の勝敗データを調べたところ」と大げさに言い立てているが、20年分の勝敗結果は「勝敗データ」ともったいを付けるほどのものではない。せいぜい100局程度の勝敗結果なのである。分析も何も、筆算でできる程度の四則計算で結果は出る。大げさなものである。「データ」も「分析」も、もっと高度な知的事項である。

 そして、出された結論は、常識的なものである。今更言われなくても、たいていの場合は、初戦に勝ったら、あとは、その勢いでタイトルを勝ちとるものなのだろう。

 それで終わりかと思ったら、突如、次の段落からは、第1期以来の名人戦の勝敗の「分析」に入るというのである。

 名人戦は、戦前に創設され、戦後両主催紙の努力で、大いに興隆したものであるが、昭和は遠くなりにけり、あるいは、前世紀の遺物と言うべきか。勝ち負けの意義が違うのである。
 近来の一勝一敗の勝負に辛い対局は、意図が異なっているのだから、余り参考にならないものと思う。

 「データ」の量が多ければ、「分析」の信頼度が高まるというものではない。

 記者もそれに気づいたか、現名人の名人戦の勝敗結果について述べているが、現名人が名人タイトルを奪われたのは、3回までが「長年のライバル」である。要は、タイトル戦の結果は、相手次第と言うことではないのだろうか。

 所詮、将棋は人と人が対局して勝敗を争うものである。勝敗は対局の上っ面である。上っ面に対局者の栄枯が現れるのだが、上っ面を安易になめただけで、掘り下げがなくては、「分析」というには、ほど遠い。分析というのなら、技術的な分析、戦型選択、攻勢守勢の取り方、果ては、中終盤の決着の仕方(見落とし)などについての掘り下げがあるべきであろう。

 重ねて言うが、分析と言うからには、何らかの普遍的法則が浮かび上がるようなものでなければなるまい。

 以下、余談であるが、現名人の通算7期名人位保持で、防衛は4期に過ぎず、かたや、防衛失敗が4回あると言うことである。それも、同一相手に対して、3回防衛に失敗しているのである。

 現名人は、トーナメント制のNHK杯戦で4連覇した(その間無敗)実績がある上に、10期以上連続防衛しているタイトルもある抜群の実力者なのに、名人と竜王の二大タイトルに限って言うと、3期以上の連続保持ができていないのである。

 この辺りに、現名人の持ち味があるように思われる。(誰だって、何かしら欠点はある)

以上

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