今日の躓き石 「野球人生」とは何か
2015/04/01
スポーツ分野、特に、野球選手にいい加減な物言いが多いのは、事実である。元々、高校生に正しい言葉遣いを教える高校が少ない上に、新聞記者が発言をそのまま紙面に載せるので、まるで、いい加減な言葉遣いは、野球部のせいと言われそうだが、それは、不公平というものである。
むしろ、取材している大の大人が、ちゃんとした言葉遣いを知らないところに問題があると思う。だから、平気で、こんないい加減な言葉遣いを紙面に載せるのである。記者に指導責任の一端がある。
今日、目についた一例は、大阪本社朝刊スポーツ面に掲載された(優勝投手の)準決勝戦回顧談話である。昨夏の甲子園準決勝で当の相手チーム(出場選手は一部異なっているだろうが)に乱打されたことについて、「野球人生で一番落ち込んだ」と言うのは、引用符でくくられているからには、選手本人の言葉遣いそのものだろうが、高校生が無思慮で口走った言葉を、そのまま全国紙の紙面に載せて、本人に、取り返しのつかない汚名を着せていいものだろうか、と深い疑念に駆られるのである。
言うまでもないが、「人生」は、それぞれの個人に一つ切りの大事なものである。「野球人生」などと、ふざけのめすべきものではない。「選手人生」もないし、「記者人生」もない。
まじめに言うなら、「これまで野球していて、これほど落ち込んだことはない」、というものである。それで不満なら、「これまで生きてきて、これほど落ち込んだことはない」というものだろう。それにしても、甲子園の舞台以上に重い体験はないだろうから、大げさに言うだけ野暮というものである。
事のついでに言うと、「これまでこんなに落ち込んだことはなかった」といえば。十分であり、「野球をしていて」とか「生まれてこのかた」などは、言わなくてもわかっているので、無駄口である。新聞記者は、無駄口、つまり、「冗語」、「余言」を恥じるものと思ったのだが、現代の新聞記者は、そうではないのだろうか。
繰り返すが、高校生が不用意な言葉遣いをすることはあるだろうが、それをそのまま紙面に載せて、本人に一生ついて回る汚点をしょわせるのは、担当記者の不始末である。
別の選手だが、準決勝で負けるのも、一回戦で負けるのも一緒、という趣旨の暴言が載っていた。
後先も、周囲にも気配りしない、勘違い発言である。自分のチームメイトの努力も、自分たちに負けたチームの努力も、応援してくれた人たちの行為も、すべて、踏みにじる不適切な発言であるだけでなく、スポーツの意義を、偏ったものとして受け止めていると思う。勝敗は、一時のものであり、その過程で努力したかどうか、最善を尽くしたかどうかが問われるべきである。そうでなければ、優勝校以外にとって、大会は、いや、野球と言うスポーツは、無意味になってしまうのである。
個人が勝手に戦うスポーツではないのだから、一段と、この暴言の影響は深刻であり、是非今のうちに考え直してほしいものである。
若者の無思慮な「暴言」が、そのまま引用されているのを見て、担当記者の思慮分別に疑問を感じるのである。
担当記者には、高校生が、これからの「人生」を、自己の「狭い」視点にとらわれずに、伸びやかに生きていけるように、うまく導いていく責任の一端があると感じるのである。
以上
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