14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 <増補>
「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。」
魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に一女子と紹介されているように見えます。
卑彌呼は、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか?
後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。
この謎は、お題の8文字が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。
さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(娘)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。
陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。
男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。
ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では、優れているという意味です。念のため)です。従って、蔡邕を典拠とすると、この部分ではこの言葉は使えないことになります。
こうして理解すると、当時の語義では少女という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。
こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。
さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。
おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。
才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。
以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。
そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)を(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。
以上
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