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2015年5月

2015年5月28日 (木)

今日の躓き石 名人の「実力を数値化」できるのか

                                                2015/05/28
 今回のネタは、毎日新聞大阪13版の社会面である。と言っても、将棋名人戦に関するものである。

 上段部分の記事は、主催新聞社として順当な報道であり、堅実なものであるが、 そのあとに続く論説部分が、すんなり読めない語句がばらまかれていて、すんなり読み通せないのである。

 こうした書き方については、以前も論評したので繰り返しになるが、しつこく批判を刻んでいくのである。

 まず、国際チェス連盟などで採用されている「レーティング」方式と切り出しているが、将棋連盟棋士の場合は、諸般の棋戦で対戦が重ねられている場合が多く、計算式や諸係数が説明されていないレーティングが適切であるかどうか、大いに議論されているものと思う。いや、将棋界でそれなりに議論されたあげく、不適切であるとして採用されていないものと思うのである。

 実力評価と言うならば、「名人」というのが、名人戦、順位戦という棋界最古の体制に於ける昨年名人戦以来の棋界第一人者という実力評価であり、挑戦者というのが、順位戦の最高峰であるA級棋士10人の1年間の総当たり戦に基づく「順位戦最強者」という実力評価である。

 因みに、「毎日新聞」が主語になって次の文が展開しているが、名人戦、順位戦による実力評価という体制は、両主催紙が、多大な労力と経費を投じて維持している絶大な資産であり、毎日新聞が、このような記事を載せるというのは、自損行為ではないのだろうか。
 この記事は、経営者の承認を経て公開していると言うことなのだろうか。

 さて、いよいよ問題の下りに来るのだが、「過去5年に於ける両対局者の実力を公式戦成績を踏まえて数値化」というのは、何を言っているのか、何の意義があるのか、しどろもどろのように思える。「過去5年間を通じた両対局者の実力の数値評価」と表現を補充してみても、言葉の意味は通るが、文としては依然として意味不明である。

 何よりも、まず、プロ棋士の実力を数値化することなどできるのだろうか。いや、プロ棋士の実力とは、何を言うのだろうか。この記事でも、何も語られていない。

 次に、過去5年間のデータは、目下のタイトル戦の利用者の評価にどう反映されたと見ているのだろうか。少なくとも、ここまでの4局の勝敗の推移は、過去の「実力」と相関しているのだろうか。もし、相関しているのなら、別の時点で、詳細の論証を行って欲しいものである。両対局者の実力が数値化されたら、それは、他棋戦にも当然適用されるものであり、公開の影響は大きいのでは無いか。

 いや、そのあとに、そこまでのレーティングという科学的らしいデータ解析を言いながら、ここからは、挑戦者の負け-勝ち-負け-負けで1勝3敗となった名人戦は、名人の名人位防衛で終わっているものばかりだという「ジンクス」があるという。不思議な言い方である。

 常識的に考えても、そこまで4戦を7割5分の勝率で戦っていれば、続く対戦を3連敗する確率は、大変低いものであることは明らかである。単純計算で、1.5%程度に過ぎない。逆に言えば、このまま行くと、98.5%程度の確率で、タイトル防衛となる予想が成り立つ。
 勝負の勢いという心理的なものを評価すると、かなり、逆転は起こりにくいものと、誰もが感じていると思うのである。

 してみると、過去のタイトル戦の結果は、まことに順当なものであり、順当な結果を「ジンクス」と呼ぶのは、言葉の勘違い、誤用と思うのである。

 総体的に、この部分の論説は、客観データを踏まえていると見せて、単なる憶測であり、しかも、「ジンクス」を見当違いの場で使用するなど、この場にふさわしくないものだと思うのである。

以上

追記

当記事は、日付の通り、名人戦第5局の開始以前に書き記したもので、第5局の勝敗を反映した修正は加えていない。単に、公開日時設定の間違いで、結果論めいた公開時期になっただけである。

2015年5月26日 (火)

今日の躓き石 「リベンジ」と言わない人

                                      2015/05/26
 いえ、今日は、躓かなかったという話です。

 今日のサンテレビの阪神-楽天戦中継で、阪神先発岩田投手の談話が紹介されて、前回登板時に、早めの降板になったことについて、「今回は、相手チームが違うけど、やり返すのつもりだ」と語ったと言うことである。ここまで非難してきた不穏な言葉ではないのが大事である。

 ここで、「リベンジ」などと、不適切な言葉遣いをしないところが、大人のプロ野球選手という感じがした。自分の談話が、少なくとも、当面のテレビ番組でそのまま伝えられ、時には、他のメディアに拡散することをよく承知しているものと思う。それでこそ、プロである。

 因みに、解説の元プロ野球選手も、大ベテランの二人なので、つまらない追い打ちを掛けなかったので、嫌な言葉を聞かずに済んだということである。

 本日は、褒め記事なので、実名をはっきり出している

以上

 

2015年5月24日 (日)

今日の躓き石 「フィジカルに強い」とは

                                      2015/05/24
 今朝も、毎日新聞大阪13版スポーツ面で、つと引っかかったのである。

 なでしこのプレーヤー評価で、「フィジカル、ヘディング、競り合いに強い」とある。
 簡単に意味が通らないので、立ち止まって読み解こうとするのである。
 普通、こうして羅列されているのは、フィジカルに強い、ヘディングに強い、競り合いに強い、と分解して読み解くものなのだが、今回はどうも意味が通じない。

 最近、スポーツ系の「フィジカル」の用例では、体がでかい、体重が重い、力が強い、足が速い、持久力がある、と言った体格、体力の形容のように取れる場合が多いのだが、今回は、「フィジカルに強い」と書いているので、そうした意味とは違うようである。

 「ヘディングに強い」というのは、素人なりに読みほぐすと、ジャンプ力がある、ゴール前に放り込んでくるプレーヤーとの連携が優れている、などの特徴以外に、場所取りに強いというのが含まれているように思う。ディフェンダーが体を預けてきても、ふりほどく強さが必要なはずである。

 いや、そういったことは、フォワード系の攻めのプレーの話であり、ここでは、ディフェンダーの特徴なので、少しニュアンスが異なってくる。ジャンプ力は共通しているが、他は、異なってくる。
 「ゴール前に放り込んでくるプレーヤー」は、ここでは敵なので、ヘディングで相手に勝つためには、相手の攻め筋を先読みする知性が求められてくる。敵のプレーヤーに体を預けて、ヘディングに向けてジャンプさせない技も必要になってくる。

 最後の「競り合いに強い」、というのは、何の競り合い、どんなときの競り合いか、ここだけではわからないのだが、ヘディングの競り合いは除くのだろうか。競り合って、何をするのだろうか。

 元に戻って、最初に挙げられている「フィジカル」であるが、素人目には、フィジカル・コンタクトのことに思えるのである。ディフェンダーと先を争うような場合でなければ、強い、弱い、とは言わないように思える。

 ここで、余談が入る。
 元々、サッカーは紳士(ジェントルマン)の競技であり、ショルダーチャージという「生やさしい」ボディーコンタクトしか認められていなかったフェアプレーのスポーツだったが、紳士階級以外の体を使う階級のプレーヤーのチームと闘うようになると、それでは、守り切れなくなったのであった。
 敏捷で走力に優れたプレーヤーが、ポルを持ってゴール前に侵入してきたときに、フェアプレーでは、ディフェンダーがかわされて、失点するのであった。
 と言うことで、ボールに行っている限りは、スライディングで足下を削りにかかっても、ファールでないとしてきたように思う。また、複数のディフェンダーがよってたかって囲い込むような紳士的でない守りも出てきたのである。
 そして、現代になると、時には、ユニフォームを引っ張ったり、体を蹴ったりしているのが、今日の試合の姿である。言うならば、ボール競技と言うより、フィジカル・サッカーである。

 と言うことで、余談をたくさん交えて今回の3者羅列について、素人なりの解釈を試みたが、少し崩れた言い回しと見ざるを得ない。書く方は、勢いに任せて通り過ぎたのだろうが、読む方は、わからないことは、読み返して、意味を取ろうとするのである。

 今回も、少し遡って、別のプレーヤーの形容を見ると、「ボールの奪取能力と長短のバスを繰り出すダイナミックなプレーが持ち味」としている。

 ボールの奪取能力という言葉が使われていて、特定の「競り合い」に強いと言うことに見える。これは、大変、具体的な特徴である。

 これに対して、「長短のパス」云々は、深読みしないと理解できない、意味深長な書き方である。

 ディフェンダーのバスとなると、ボールを奪い取った後のプレーなのだろうが、攻め(カウンターアタック)に移ったときに、前線の展開に応じて、長いパスで一気に攻めていくのか、短いパスの組み合わせで攻め上がりを待つのか、その時に応じた戦略を選んで行く重要な役目を果たしているように思える。

 これは、「ダイナミック」と形容してしまうか、戦略的と呼ぶか、随分印象が異なるのである。プレーヤーとしての資質が、最初に俎上に上ったプレーヤーと随分異なるように思うのである。

 このように、記者の書き方をつらつら眺めると、二人に対して使う言葉も言い回しも違うので、どこがどう違うのか一向にわからないのである。二人の資質を、直接比較しては、取材対象となる二人に失礼に当たると言うことなのだろうか。それとも、読者に対して以上のような深読みを強いているのだろうか。当方のように、全くの素人には、荷が重いのである。 

 また余談になっているのを反省して、最初に挙げた課題に戻ると、ここに書かれた羅列表現は、分析して読み解くことの困難な表現とみるのである。

 中でも、三者の冒頭に挙げられた「フィジカル」という言葉は、最重要の位置付けにありながら、スポーツ界に多いできの悪い造語ではないが、意味解釈の一定しない、読者にとっては意味不明瞭なカタカナ語であり、報道の用を為していない不出来な言葉遣いだと思うのである。

 これは、毎日新聞に署名入りの記事を書くほどの記者にしては、不用意な書き損じてある。

以上

2015年5月21日 (木)

今日の躓き石 「横綱のリベンジ」 報復する第一人者

                                 2015/05/21
 まさかと思うような、物々しい見出しが目に入った。毎日新聞大阪第13版スポーツ面である。

 「張り差しでリベンジ」

 この見出しには、いくつかの問題点が盛り込まれている。

 一番、素朴な意見としては、なぜ、国技でカタカナ語の見出しなのか、と言う疑問がある。
 しかも、横綱の「綱の力」と言う大見出しを受けての書き出しであるから、毎日新聞は、相撲の横綱の張り手リベンジを、わざわざ、読者からわかりにくいという悪評の届いているカタカナ語を使って、褒め称えていることになる。ボクシングやレスリングでは無いのである。

 次に問題なのが、相撲の横綱は、このような報復行為をするものなのかと言うことである。先場所、張り手を食らって負けたから、今場所、報復として張り手を返したのだろうが、それは、横綱の品位にそぐわない、不適当な行為ではないのかと言うことである。更に言うなら、張り手を食った相手が横綱に報復して、果てしない報復合戦にならないのだろうか。

 最後に来るのが、「リベンジ」という言葉の理解不足である。当ブログで問題視していたのは、本来、かなり悪質な言葉を、軽い意味でもてあそぶことへのダメ出しであった。言うなら、子供か鉄棒で逆上がりができなかったとき、今度こそ、とばかり再挑戦するのを「リベンジ」という程度の冗談半分の使い方であった。
 悪い言葉を軽い意味で使い慣れることにより、血なまぐさい不法行為まで軽く見てしまうことを恐れているのである。

 ここでは、そうではなく、本来、国技では禁じられているはずの悪質な報復行為を「リベンジ」としているのである。趣旨としては、言葉の本来の意味に近いのだが、だから、却って問題なのである。すでに、リベンジという言葉は、正確な意味を離れて、変容し始めているのである。そんな言葉を使っていて的確に読み解けない見出しは、報道として、不適切である。

 言葉の守り人である毎日新聞は、こうした不適切な用語については、読者啓発より、真剣に、訓練不足のスポーツ欄記者の再教育、問題が出やすいスポーツ面の校閲強化を進めるべきではないだろうか。 

 後世に、こうした粗雑な言葉を伝えないためには、毎日新聞は、積極的に、内部を正していかねばならないと思うのである。 

 まず、隗より始めよである。

 余りに不出来な見出しに、思わず、糾弾調ブログになってしまった。

以上

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2015年5月19日 (火)

今日の躓き石 「同級生」 NHK BS1も崩壊か

                                        2015/05/19
 いや、別にアラ探ししたくて視聴しているているのではないのだが、今日のBS1のプロ野球中継で、NHKアナウンサーが「同級生」と語るのを聞いて、ずでんと転けたのである。

 NHKアナウンサーは語りのプロとして念入りの技術訓練を受けているのを聞いているから、常々、社会の規範、言葉の守り人として別格の尊敬を保っているのだが、今回は、情けないと思ったのである。

 お願いだから、NHKが先頭に立って伝統的な正しい言葉遣いを毀すことが無いようにして欲しいのだ。重大な言い損ない、言い崩しは、数に限りが有るから、一流のプロアナウンサーは、ちゃんと記憶しておけるはずである。

 嫌みな言い方をすると、NHKアナウンサーのごくごく一部は、当方の支払った受信料でまかなわれているはずである。今回の担当アナウンサーの給与から当方の支払い分を差し引いていただけたら幸いである。「下手くそ。金返せ。」である。

 世のマスメディアでアナウンサーやコメンテーター気取りの人々の中で、NHKアナウンサーだけは、世間に媚びない厳正な姿勢を保っていると信じたいのである。

以上

2015年5月16日 (土)

14a. 共立一女子 - 読み過ごされた女王の出自 <増補>

 「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。」

 魏志倭人傳で、卑弥呼を後継した壹与は、卑彌呼の宗女、すなわち、親族として紹介されていますが、卑彌呼自身にはそのような係累の記事はなく、単に一女子と紹介されているように見えます。
 卑彌呼は、「一女子」であり、出自不明の一女性だったのでしょうか

 後漢魏晋時代の「女子」の語義を知るすべとして、南朝劉宋代にまとめられた逸話集「世說新語」に載せられている後漢末の蔡邕に関する「黄絹幼婦外孫虀臼」の逸話があります。
 蔡邕が石碑に彫り残した謎かけを、一世代後の曹操が「絶妙好辭」と案じるという設定です。
 この謎は、お題の8文字が、それぞれ二文字ごとに一文字の漢字を導くというものです。
 本稿で関係するのは、七、八文字目なので、それ以外の絵解きは割愛しますが、ネット検索すれば、容易に全体を読むことができます。

 さて、ここで「外孫」と唱えていますが、これは、「女子」、つまり、「女」(娘)が嫁いでできた子(そとまご)のことです。
 謎解きでは、「女子」を横につなげて「好」の字となると言うことです。
 この故事は、当時の教養ある人には、「女子」に「外孫」の語義ありとの了解が成り立っていたことをしめすもののようです。

 陳壽の書いた記事を、このような語義に従って読むと、卑彌呼は、男王の外孫であり、また、「女子」と言う形容により、せいぜい17,8歳の少女であったとの読みができます。
 男王の孫であり、かつ、嫁ぎ先の有力者の娘であるということは、広く女王として尊重されるにふさわしい根拠であり、又、兄弟姉妹のある中で、あえて、俗縁を離れて鬼神に事えることになっていたように思えるのです。
 このように、「女子」の一語で、卑弥呼の年齢と係累を書き残したのは、陳壽の渾身の寸鉄表現と考えることもできます。

 ちなみに、先ほど無造作に使った「少女」と言う形容は、蔡邕に従うと「幼婦」、つまり高い身分の幼女であり、蔡邕に従って読み訓(よみとき)すると、少女ですが、文字を前後入れ替えて、女少となり、すなわち「妙」(当時の語義では、優れているという意味です。念のため)です。従って、蔡邕を典拠とすると、この部分ではこの言葉は使えないことになります。

 こうして理解すると、当時の語義では少女という形容は、15歳以上と思われる「女子」に対して使うには、不適切だとなりますが、ここでは、現代用語として使用するものです。

 こうした言葉の使い分けは、当時の人々には自明だったのでしょうが、遙か後世、かつ、異国のわれわれの目から見ると、判じがたいものがあるのです。

 さて、ここで、女王の「名」とされている「卑彌呼」を見直してみます。
 憶測の部類ですが、この名前は、倭國の言葉遣いでは「ひめこ」(媛子)と読むのではないかと思われます。倭國の言葉の意味は、「娘の子」であり、(王の)娘が嫁ぎ先で産んだ子供という意味と見ます。先ほど述べた、女子、すなわち外孫の中国的な読み訓と見事に符合しています。また一つの寸鉄表現です。

 おそらく、陳壽が、原資料に書かれていたであろう卑彌呼の出自を僅かな字数にはめ込んだものであり、史官として、見事な仕事ぶりと感嘆するのです。

 才人、文章家の評価が高い笵曄と比較して、陳壽は凡庸と見られているように思われますが、この一件が、以上の故事を踏まえて構成されているとすれば、陳壽の機知は、燦然たるものがあるようです。

 以上の読み解きに従って、現代語で書き連ねると、以下のようになります。

 そこで、男王の外孫である少女(15歳程度の未成年の女子)(男王家と嫁ぎ先の両家の)共同で立てて王とした。王の名は、卑彌呼(媛子 ひめこ)とした。

以上

2015年5月14日 (木)

今日の躓き石 NHK BS1の「リベンジ」

                                           2015/05/14
 今夜のNHK BS1のWorld Sports MLBで、でかでかと「リベンジ」の見出しが出て、げっそりしてしまった。NHKって、良い意味で言葉に厳しいのではなかったのか。だから、たまに、ルール無視らしい「言い間違い」を見かけると、ちくりと刺していたのだが。

 NHKには、ことばのルールなど無いのだろうか。天を仰いで、しばらくため息づくしであった。

 

「リベンジ」は、元々、やられた仕返しに血祭りに上げるという意味である。軽い意味に流用すべきものではない。

 くれぐれも、子供達に伝えたくない言葉を広めて欲しくないのである。

以上

2015年5月12日 (火)

今日の躓き石 「リベンジ」 週将談義

                                          2015/05/12
 今日の意見の対象は、日本将棋連盟の発行する週刊将棋であるが、今回初めて気になったというわけではない。
 2015年5月13日号で特に目に付いたと言うだけである。

 将棋報道関係者は、概して、言葉遣いに慎重だが、中には、軽率な人もいるわけである。

 週刊将棋には、随分以前だが、敬意を払って報道すべき人の発言を「リップサービス」と(それとは知らずに)罵倒し、勘違いを諭されても、それを受け入れるのを公然と拒否する乱暴者がいた事例がある。(乱暴者は、普通、指導されて改悛するのだが、この媒体では、個人の暴言がそのまま紙面に出てしまう傾向がある)

 まあ、遠い過去はさておき、目下、これはまずいと思うのは、「リベンジ」汚染の蔓延である。この言葉は、おそらく、スポーツ関係者のアメリカ英語、それも、おそらく、スラングの類いが、一部野球選手の持ち込み汚染だと思うのだが、マスメディアで報道されて拡散したようである。

 つまり、マスメディアが、悪しき言葉遣いによる日本語の汚染を拡散している例である。

 将棋は、対戦競技であるから、勝つことと同じくらい負けることがある。そのたびに、くやしい思いをして、次は、勝って見返してやるくらいは誰でも思うのである。しかし、それが、「リベンジ」という血なまぐさい言葉で飾られることは、とんでもないことだと思うのである。

 「リベンジ」は、復讐である。

 それも、自分の周囲の者が殺されたから、相手を殺して仕返しするという血なまぐさいものである。だから、旧約聖書の太古の時代以来、いずれの社会でも、個人的な復讐を禁じ、司法(神の裁き)に委ねるように指導されている。武士の論理が支配していた江戸時代でも、仇討ちは所定の条件を兼ね備えていると認定した赦免状がなければ無法な私闘であった。

 我々はも現代人であり、日本人であり英語を自国語としていない。また、大抵は、キリスト教徒ではなく、神の裁きに復讐の思いを委ねる者とは言えない。

 だったら、本来の意味に遠い、日常的な勝負の貸し借りについて、軽率に、「リベンジ」と言うべきではない。そして、マスメディアは、言葉の守り人となって、将棋関係者の言葉の悪用を拡大させず、沈静化させるべきである。

 でないと、子供達やその子供達が、マスメディアの不注意が原因で忌まわしい言葉を使うようになっていくのである。

 かつて、スターウォーズシリーズのエピソード6は、”Revenge of the Jedi” と予定されながら、ジェダイ騎士団が再起して銀河世界を正すのは「復讐」ではない、として、”Return of the Jedi”に訂正されたという故事に学ぶべきである。

 因みに、日本側関係者は、英語に弱く、概してキリスト教徒では無かったと言うことだろう。原作者が、大きな経済的なロスを顧みずに訂正した語義に鈍感だったようで、日本語タイトルは訂正されなかった

 言うまでもないが、ここで長々と苦言を呈するのは、過去の一部の事例にかかわらず、日本将棋連盟の週刊将棋編集部が、聞く耳と良識を持っていると思うからである。

 日本将棋連盟は、「将棋倒し」という言葉が事故報道などに適用されることに不快感を感じていると苦言を呈したのであるが、言葉の悪用の害とはそのようなものである。メディアが自覚して正さなければ、永遠に是正されないのである。

以上

2015年5月 5日 (火)

今日の躓き石 『心身とも「アレルギーなし」』 とは??

                                       2015/05/04
 今回は、2015年5月4日付毎日新聞スポーツ欄の記事に仰天して、半日、どう対応するか、悩まされた。

 今回のスポーツ欄のやり玉は、大見出しでこそないものの、立派な見出しであり、十分目に付くものであった。

 心身とも「アレルギーなし」
 と言うもので、一見、卓球世界選手権で好成績を収めた14歳の選手の健康体を誇っているように見えた。いや、それにしても、「心」のアレルギーとは何のことかと足をとどめさせるのである。

 よく読んでみると、事態は深刻であった。男子監督の言葉として「中国アレルギー」が引用されていて、この言葉は、日本選手が中国選手に勝てないことを正当化する堂々たる理由として、卓球界の代表的な権威を持った言葉と示されている。

 この発言のフォローはないのだが、どうも、「監督」の認識として、日本選手が中国選手に勝てないのは、心身のアレルギーがあるから(当然)だということなのだろう。(つまり、心技体で劣っていないのだから、「それ」さえなければ勝てると確信しているようである)

 いくつか疑問が、湧いてくるのである。中国側は、素質に優れた多数の選手を苛烈に競わせつつ、戦略面を含めて合理的に鍛え上げて、世界一の卓球選手軍団を形成していて、しかも、心技体で劣っている(と思われる)日本選手を、とことん研究しているから、素人目には、勝つべくして勝っているという印象を受けるのである。

 それを、指導層は、日本選手が勝てないのは、「中国アレルギー」のせいだと片付けているように見える。

 言われる選手もエライ迷惑である、技術的に足りないところがあるのなら、それを補うすべもあるだろうが、「アレルギー」と片付けられては、最初から勝てないと見放されているようなものである。負けて当然では、闘いようがない。

 ここで、奇異に思うのは、心身のアレルギーである。そんなものは、あるのだろうか。身体のアレルギーも相当な難物であるが、心のアレルギーは、何を言おうとしているのか、不明である。

 アレルギーは、当人の体の細菌や毒物に対する防衛反応が、特定のアレルギー源物質(アレルゲン)に過敏に反応するものと考えている。

 そのような体質は、自分の体の一部なので取り除くことはできず、確実な対策としては、アレルゲンとの接触を避けるしかないことになる。「中国アレルギー」と断定されたら、どんなに努力しても、中国選手とまともに闘うことはできないことになる。ここにあげられた選手としては、監督から見放されたようなものであり、たまったものではないのではないか。

 どうも、監督の「アレルギー」世界観は、医学的にも、世間知的にも、不当なもののように思える。アレルギー体質に悩まされている人たちにとっては、「アレルギーハラスメント」ではないのだろうか。アレルギー体質の人の意見も聞きたいものである。

 とは言え、もっと問題が大きいのは、全国紙である毎日新聞の報道姿勢である。スポーツ関係者の発言に偏見めいた言いぐさが多いのは周知である。セクハラやら何やら、とても、大人の言葉と思えない無残な言葉が伝統的に出回っていて、時としてこのように露呈するものである。それがそのまま報道されると言うことは、担当記者が体育会系の物言いの常として受け入れていることを示しているのかも知れない。

 このように、不合理・不適切な発言を不合理・不適切と見ずに、堂々と報道すると言うことは、毎日新聞が、そのような言いぐさを正統なものとして是認して、さらなる普及と次世代への継承に手を貸していることになる。それは、毎日新聞の会社方針に反しているのではないだろうか。

 因みに、こうした心理的な「問題」は、古くは、「**コンプレックス」とか「**恐怖症」とか形容されていたものである。コンプレックスも、恐怖症も、自分の努力だけで克服するのは、大変なものなのだが、専門家の指導を受ければ、時間はかかっても、ある程度緩和できそうな感じがするのである。

以上

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