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2015年6月15日 (月)

私の本棚 番外 河村哲夫 ブッダへの道 季刊「邪馬台国」第124号

          私の見立て☆☆☆☆☆        2014/06/15
                 以外★★★★☆

 このとき、10回目を迎える連載記事は、西晋時代の僧法顕のインド行を、法顕の遺した「仏国記」と現代の地理・風俗記事と連動させて描き出していて、まことに有り難い著作なのだが、今回は、途中の挿入記事(余談)で大きく躓いていたので、謹んで苦言を呈させて頂く。

 問題としたい箇所は、169ページの書き出しである。

 ここで、突然、ローマの話が出て来るのである。「ローマ人が初めて絹布を見たのは、紀元前53年である」と断定されている。その裏付けとして、やや場違いな挿話が語られているが、ローマ史の研究家でもない、単なる読書家に過ぎない、浅学の当方の老眼にとまるほど、人名や単語、形容句に不備が多く、史実に添ったものとは思えないと見えた。

 これでは、折角の労作全体の信憑性を損なうものになっている。なぜ、ここに、こうした記事を書き足したのか、趣旨が理解できないのである。

 別に、生き字引ではないので、記憶の確かでないところ、つまり大半の事項を、ネット検索、主としてWikipedia記事で補って、講釈をたれることにする。

 当時は、共和制ローマの時代であるが、特に、三頭政治と呼ばれる三大指導者の鼎立時期であった。ローマは、強力な指導者を求めるものの、王政復古ともなりかねない独裁政治を恐れたため、複数指導者の並立を選択したのだが、二頭政治だと、たちまち両雄の闘争になりかねないので、三頭政治としたのである。

 その時、政治的な統率力が高く、かつ、ローマの指導者として不可欠な軍事面の統率力も高く評価されていたのは、年長のグナエウス・ポンペイウスと年下のユリウス・カエサル(英語式のシーザーとして知られている)の二人であり、この二人の角逐を抑えるために、三人目の指導者として、マルクス・リキニウス・クラッススが呼び入れられたのである。

 クラッススはローマ随一の大富豪(西洋史を通じて第8位の大富豪という評価がある)であり、軍事面でポンペイウスに匹敵するとみられたライバルであつた。
 しかし、クラッススは、軍事面でライバルであるポンペイウスに軍功で後れを取ったままでは、三頭政治に於ける発言力が制約されるとみたのであろう。
 ただし、残る一頭カエサルとは、巨額の債権を持つパトロン同然の間柄であったため、カエサルを競争相手とは見ていなかったと思われる。
 そのような高度に政治的な配慮から、担当領域である中東でのパルティアとの紛争を利用してる軍功を補おうとしたのである。これを「嫉妬」と呼ぶのは、クラッススに対して失礼であろうと思う。

 さて、誰がクラッススの遠征が失敗すると予想していたのか、河村氏は書き出していないが、ローマはそれまで何度となく両国の境界地域での紛争を経験していたから、パルティアの不穏な国内情勢と手薄と見られる軍事力を把握していて、まず負けない相手と速断して遠征したのである。

 それでも、もし、マルクス・リキニウス・クラッススが東方遠征で不覚を取ると、三頭の中でポンペイウスが断然強力となり、政治的な平衡が崩れるのを危惧したカエサルは、自身の部下としてガリア戦争に従軍していた息子 プブリウス・リキニウス・クラッススに、多数のガリア騎兵を付けて、この遠征に送り出したのである。
 カエサルは、
クラッスス遠征軍が負けるとは見ていなかったが、万全を期したのである。

 と言うことで、クラッススは、十分な成算を抱いて出撃したのだが、結果は、惨敗に終わって、実質的に指揮官であった、息子ともども、異郷で命を落としたのである。

 全兵士が十分に訓練されていて、常に組織的な戦闘を行うローマ軍4万人が、敵地遠征で敵国との対決で敗北したとは言え、その半数2万人が戦死し、1万人が捕虜となってパルティア東北辺境の終身強制労働で生涯を終えたのであり、パルティア側には大した損害はなかったとされているのであるから、長いローマの戦史でも片手に入る、特筆される大敗北である。

 遠征軍の要諦は、敵地に深入りせず、劣勢とみたら早めに退却、撤退して生還することであるから、このように一方的な敗北は、両軍がまともに会戦した結果ではないのであろう。おそらく、パルティア側に、革新的な兵器ないしは戦術の秘策があってて、楽観気味のローマ軍を自陣深く誘い込み、伏兵が包囲して退路を断ち、劣勢のローマ軍は、脱出のできないままに一方的に打ちのめされたと見るものであろう。そうでもなければ、あり得ない負け方である。

 ここで、書評対象記事に戻ると、ローマ史に通じた筆者の書いた記事であれば、「カエサル・シーザー」という人名表記は、明らかに誤記であるので、ローマ史の記事として容易に校正できるはずであり、してみると、河村氏が、門外漢である、ローマ史に関する何らかの記事を誤写したのではないかと思えるのである。なお、「嫉妬に駆られ」とか「予想通り」とか、付け足している、講釈師めいた不用意な解説も、専門的な編集者が見れば、記事の風格に合わないとして削除を勧めるはずである。

 ついでに言うと、「およそ十年後」とは、元老院から、それこそ致命的な死刑議決を受けたガリア総督のカエサルが、ローマの国法で厳禁されていた、軍団を率いてのルビコン川渡河に始まる五年間の連戦で、ギリシャ、エジプト、旧カルタゴ領北アフリカ、ヒスパニアと、地中海周辺をほとんど制覇して、ポンペイウス勢力を掃蕩した後の凱旋である。これは、マケドニアのアレクサンダー大王の軍功に匹敵する、史上まれにみる大戦果と思われるが、河村氏は何も語らない。

 この間、日本風に言うなら恩人クラッスス父子の仇であるパルティアとの戦いは書かれていないが、おそらく、ローマ軍の猛威の前に、パルティアもローマと事を構える気をなくして、むしろクラッススの遠征で途絶えていた交易が再開していたことだろう。 

 絹布については、その間に、ローマ金貨を目当てにしたパルティアから、強力な売り込みがあったと見てもいいのではないか。契機は何であれ、絹布は、パルティア(中国名、安息国。パルティア人は「安」の姓を名乗っていたと言う)の特産物と言うことだから、別に、絹布のローマ流入の契機について信頼性の乏しいクラッススの戦死に絡む秘話を持ち出す必要はなかったように思える。

 一旦書き終えたところで確認すると、カエサルは、パルティア遠征を準備している時に暗殺されたと言うことだから、両国は友好関係ではなかったのかもしれないが、交易がなければ絹布は手に入らない、と言うことに変わりはない。民間交易は禁止されていなかった、と言うことかとも思う。 

 河村氏は、次のページでは、カエサル以後の両国の交易を淡々と説いている。

 元に戻って、確認不足とみえる数行の記事が、折角の労作記事全体の信憑性を落としているように思うのである。この手の苦言が、大変嫌われるのを承知の上で、あえて、率直に苦言したのである。

 ついでながら、氏の法顕旅行記紹介の「現地」は現在の中国領でもあり、旧ソ連邦中央アジア諸国でもあるが、本筋を外れて記事の風格に合わない余談にならないように、ご注意を喚起させて頂くものである。 

 以上の批判的な解説は、Wikipediaなどを通読して得られたものであり、個人的な史観であって、絶対的なものではないことは言うまでもない。興味のある方は、自力で裏を取ることをお勧めする。

以上

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