私の本棚 28 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 その8 末論
別冊宝島2244 宝島社 2014年11月発行
私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料 2015/06/18 追記 2020/06/05
*末論
*混沌の形
本書には、「邪馬台国論争」が収束しない原因が、あからさまに露呈していると思うのである。
いくら漢文には高密度に文意を凝縮できる機能があるとしても、高々二千文字のテキストに関して、これほど多様な、ある意味排他的な複数の意見が形成されるとは、不思議な現象と思えるかも知れない。
しかし、個人的な経験で言うと、この魏志倭人伝追究の道に踏み込んで以来、参照したのは、各論各様に書かれた「魏志倭人伝」であった。
各論者が自説にあわせて、新たに創作した魏志倭人伝で論説を立てるのであるから、論者の主張と論者の魏志倭人伝は、必然的に整合するが、各論者が異なった魏志倭人伝を読んでいる以上、議論の基盤は求めることができず、邪馬台国論争は、今後とも収束しないのではないか、と言うのが、延々8回にわたった当書評記事の結論ならぬ、末論である。
*見失われた本義
一人だけ取り出して言い立てるのは、好ましくないのは承知しているが、上に述べたのが空論では無いと言うためには致し方ないのである。
と言うことで、おずおずと採り上げるのだが、本書52ページに、「卑弥呼と倭迹迹日百襲姫命が同一人物であるという決定的な証拠は残念ながらまだ存在していない」と言う、一種の願望表明が書かれている。
こうした討論の場で、「残念だ」とあからさまに言うのは、案ずるに、個人的な思い入れが浮き上がっていて、論争の敵手を罵倒すると共に、データ偽造の一歩手前の追い詰められた心境なのではないか。「まだ」存在していないと言うことは、目下鋭意制作中なのだろうか。不思議な言い方である。
ことさらに、「考古学的な見地から考えると」と言うのは、考古学界の一部、古代史に関しては、関係者一同、黙々と自説に添った創作を進めていると言うことだろうか。
これは、随分極端な言い分だが、例の「キャスティング・ボート」の的外れた比喩の動員とある意味で通じるものであって、各論者に共通した本音の率直な表明とも思われる。
*不敗の信念、不滅の定見
言うまでもないが、基本資料である倭人伝記事には、口語訳も含めて、「倭迹迹日百襲姫命 」は、一切登場しない。いくら倭人伝の資料解読ニラ務めても、書かれていないものは書かれていないから、論議の対象外である。それが、棄却されずに、ここに居座っているのが、倭人伝論の特異なところである。本来、中国正史の議論は、中国正史に精通した者以外の素人論議を排することが出来るはずなのだが、ここに例示されたような、無効な素人談義が徘徊しているのである。いや、素人論議でも、論考の形を整えれば、一考に値すると評価されるのだが、先に挙げたように、暴論を連発しているのでは、門前払いやむなしである。
それが通用しない編集方針では、事は、収束どころか、混乱を深めるのである。そう、当ムックの編集部の鼎の軽重を問うものである。
自身の所説が、出土品の裏付けが全く無い仮説であって、資料の独自解釈だけに立脚した「仮説」であっても、論争の場で他の陣営の所説が出土品の裏付けや堅固な資料解釈に裏付けられたものであっても、あくまで、論争に負けたと認めて、承服して「仮説」を取り下げることは無いとと言うことである。百撓不屈とか、七転八起とか言われるように、気持ちが負けない人は、決して負けないのである。
*たこ焼きの時代
本書は、さながら、大きなフライパンに各陣営の所説を放り込んで、加熱調理している内に程良く攪拌され、渾然一体となり大同団結した「邪馬台国」像が醸成されるという期待(願望)を持って編纂されたのかも知れないが、ここにあるのは、フライパンでは無く「たこ焼き器」なのであり、個別の所説は、大河に流れ込む支流のように、他の所説と密度が異なれば、階層を形成して混じり合うことはなく、とうとうと独立不遜の形勢を保つのである。いや、従来は、闇鍋と評したのであるが、死語、廃概念となったので、言い換えたのである。
以上
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