34. 翰苑再考 追記版 2016/08/15
2016/08/15 2023/06/30
末尾の追記で予防線を張っていたが、「翰苑」記事の通常「卑彌娥惑」と解釈されている句は「卑弥妖惑」と解釈すべきという指摘は、素人ながら良いところをついていると当時思ったが、最近、古田武彦氏が「邪馬一国への道標」で同様の論拠で同一の指摘をされているのに気づいたので、謹んで、ここに附記する。
当然、古田氏の深く広い学識に基づく指摘は、当方の遠く及ばない高みに達しているので、是非とも、同書を確認いただきたい。
いや、素人がつつくような齟齬は、当然、先賢が指摘されているものであり、事前点検が疎かであった点をお詫びする。いや、当ブログ記事の趣旨は、余り世間で目にしない指摘を、率直に提示すると言うことなので、よろしくご勘弁いただきたい。
いずれ、「翰苑」は、に関する記事のまとめを公開するときは、順序よく整理して書きたいと思う次第である。
2015/06/11
「翰苑」については、以前当ブログで紹介しているので、ここでは、要点に入る。
概観として、「翰苑」には、誤字らしいものがやたらに多く、なかなか原文を察しがたいものがある。
「翰苑」記事の中でも、陳寿「三国志」魏志や笵曄「後漢書」のような官製史書「正史」を原典としている記事は、ある程度原典を参照して誤記を校正できるが、大きく書き出された四六駢儷体の字句は、(おそらく)翰苑編者である張楚金の創作であり、他に例のない字句が多いから、正しい文字が書かれているのか、誤字なのか判然としがたいものがある。
今回、素人文書考証の演習課題として、やや詳しく採り上げるのは、次の一句である。
「早方尓娥惑翻叶群情」
当方の知る限り、「翰苑」に関する論説で、自明のように、劈頭の三文字を「卑彌呼」と解釈している例が見られる。
いかにも、もっともらしいのだが、「呼」と「娥」では、偏も旁も違うので、漢字の見かけが大きく違い、文字の意味も用途も違い、発音も違い、とにかく、取り違える可能性は、かなり低いと見られる。
定説とは、そうしたものである。
そうそう、仕事始めとして、「早」(いや、実際は、十の上に田が載っている造字/嘘字である)は「卑」の書き間違え、ないしは、横着した略字と見るのである。続いて、二文字目の「方尓」のように見える文字は存在しない文字/嘘字であり、これは、「彌」の通字である「弥」の書き間違えと見るのである。
漢字は、大抵の場合、偏や旁のような部品の組み合わせで出来上がっているから、うろ覚えで、ありきたりの偏とありきたりの旁を組み合わせて、ありそうだが実は存在しない漢字を創作してしまうことは、時にはあるのである。ただし、訓練を受け、重責を担っている、つまり、手落ちがあれば、手ひどく処罰される官営写本工は、そのような間違いを起こさないものである。
当考察で指摘したいのは、この句は、四六駢儷体で書かれていると言うことである。
詳しいことは、承知していないからさておき、要は、句の文字数に応じて、句の内部が四文字、ないしは六文字が単位で区分されるのである。上記二ページでも、十文字句が二件書かれた後、ここで上げている八文字句が書かれていて、そのすぐ後に臺與に関する八文字句が続いているのである。
さて、この八文字句は「卑彌娥惑」の四文字句と「翻叶群情」四文字句に前後二分されるのである。
それぞれの四文字句は、更に区分すると二文字単位で構成されていると推定される。
つまり、「卑彌娥惑」は、「卑彌」の二文字句と「娥惑」の二文字句とに前後二分されるのである。
「卑彌」は、卑彌呼の頭二文字を取ったものであろう。
曹魏当時は、新朝の王莽が布令した「二字名の禁」が厳守されていて、中国人の名前は二文字だったことは、教養人には知られていたものである。
因みに、「二字名の禁」が消えて、中国人の下の名前が二字になるのは、唐王朝第二代太宗李世民の世代からである。それに先立つ、李世民の父は、太祖李淵である。
そのような背景から、卑彌呼は、実際は、「卑彌」と言う名前と見られたのかも知れない。
ただし、当時の姓氏録らしいものの影印版を目視で検索すると、「卑」氏の項目は見つかったものの、具体的な例は書かれていなかったので、実際に、「卑」氏が存在したかどうかは不明である。
さて、続く二文字である「娥惑」に相当する言葉は見あたらないから、よく似た二文字熟語を探すと、「妖惑」が浮かんでくる。
笵曄「後漢書」倭条では、卑彌呼を「能以妖惑衆」と形容しているのだが、「翰苑」には笵曄「後漢書」の引用例が少なくないので、これはかなり可能性の高い推定である。
と言うことで、前半四文字は「卑彌妖惑」であったと思われる。
ついでに、後半四文字「翻叶群情」について考察すると、よくわからないのは、二文字目の「叶」である。この漢字は、日本語で願いが叶う、と言った使い方をするが、この使い方は日本で発明されたものであり、中国語では、「叶」は、「協」ないしは「葉」と通じる漢字である。
してみると、後半四文字は「翻葉群情」と考えられ、素人考えで意味をこじつけるなら、「群衆の感情を木の葉のように翻させる」、と言うことではないかと思われる。
「卑彌妖惑翻葉群情」の八文字は、そうしてみると、「卑彌呼は、群衆の感情を木の葉のように翻させる」となり、これは後漢書の「卑彌呼(中略)能以妖惑衆」と言う記事と調和するように思えるのである。
いや、ここで大事なのは、「翰苑」編纂者が、史家として、倭の女王卑彌呼がそのような指導者であったと言っているのではなく、文筆家として、笵曄「後漢書」の記事を元に倭の女王卑彌呼に因む「美辞麗句」を編み出したと言うことである。
写本の誤字が構成されていない惨状は別として、本来「翰苑」は、史書として正確に書かれたものではないのである。「翰苑」を史料とみるのは、木に登ってサカナを求めるようなものである。
以上
追記 得々と、当方の新発見のように所論を書き進めたが、言うまでもなく、当方の見聞は限られているので、以上の所論に対して先行論説があったとしたら、よろしく御寛恕頂きたい。
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