今日の躓き石 絶妙のスポーツ報道
2015/09/19
当記事は、批判ではなく、賛同である。だから、書いていて、気分が晴れるのである。
題材は、毎日新聞の朝刊大阪13版スポーツ面の相撲報道である。
「絶妙巻き替え」と題したミニ囲み記事は、力士当人の談話、審判長の評言を引用しつつ、記者の文章が綴られているが、見事な流れと高度な言葉遣いを感じさせたので、ここに賛同の意を表明したのである。いや、担当記者は、いつもこうしてちゃんとした記事を書いているのだろうが、別の分野の記事で大きく躓いて、足がそこで止まっていたのである。
まず、他のスポーツの記事(他記事)と大きく違うのは、他記事では、(格闘技ではない)日本チームに対して、体力体格で劣るとダメ出しをしているが、体格が大きな要因となる相撲の記事で、体格を論じていないことである。(確かに、相撲の記事で書き立てられることはあるが、あからさまに勝敗の要因と言われることは少ない。また、大抵書かれるのは、ある程度力士が自分で増減できる体重のことである)
それはそうである。体格は明確に数字が出てしまう上に、成長期を過ぎたら変わりようがないし、体力だってそう簡単に増進できるものではない。そうした点を戦力評価の重大な項目として採り上げ、暗に、これでは闘う前から負けていると、全国紙の紙面で書き立てられては、当の選手達には、不愉快な思いしかないであろう。(ここまで貶している毎日新聞記者が、当の選手達にインタビューして、丁寧に応対してもらえるとは思えない)
全国紙としての客観報道を目指すのなら、避けられなかった失策(客観的に見て失策ではないプレー)や努力で克服できない先天的な要素は、軽々に書き立てるべきではない、それより、「劣っている」チームがなぜ勝てたのか、これからも勝てるのか、体格で劣るマイナスを努力で克服していると書かないのかと、当方はいつも不満であった。
例えば、ワールドカップの決勝に勝ち進むためには、体格の不利を何かで補っていたはずなのであるが、決勝戦の前評判記事でも、後の総括記事でもそういう「前向きな」(ポジティブな)書き方は表に出ていなかったのが、不満であった。
審判長は、「強いね。馬力だけじゃない。相撲がうまい」と技術的な要素を高く評価していることが引用されている。また、記事全体に、「考えた一手」、「危ないとは思わなかった」、格下に取りこぼさない(油断しないということか)、「意識は変わらない」とむしろ淡々と、味のある言葉を書き綴ることによって、技術・戦術の面と心理的な安定面とが、記事主題として称揚されている。
ここで大事なのは、力士、記者、そして、読者の間で、相撲という「格闘技」における言葉遣いや意識付けが、共有されていて通じ合っていることである。全国紙のスポーツ報道は、かくありたいものである。
国際的な対戦が多い球技類の報道では、先に触れたように、体格勝負、体力勝負の強調、かたや、正体不明の心理面へ言及などが、記者としての論理的・体系的な視野を持つことなく、選手やコーチから聞き取った語彙のまま、未消化で雑然とした記事として書き立てられ、しかも、それぞれの競技でことなる要件を無視して、同じようなカタカナ言葉を使い立てている。
かくして、記事に込められた語彙も競技観も共有していない一般読者には、何が語られているのが見通せない報道が続いて、当方は、何度となく当ブログで歎いている。
相撲の記事で強調されている技術面(うまさ)の尊重や平常心(揺るがない意識)の強調が、別の分野の記事ではほとんど見いだせないのも、一般読者の一員たる当方の嘆きの元となっている。
おそらく、相撲記事の記者は、十分な見識と訓練を経た「記者の目」と「記者の言葉」をお持ちなのだろう。全国紙のスポーツ欄を任されるだけの優れた人材なのだろう。
一介の宅配読者としては、ここで読ませていただいた記事の深い味わいが、他の分野の記者を感化することを望むだけである。
以上
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