私の本棚 30d 季刊邪馬台国126号雑感 付説-2
季刊 邪馬台国126号 2015年7月
投稿原稿 「魏使倭人伝」から見た邪馬台国概説
2015//10/10
付説-2 范曄 「後漢書」考
*編者と編纂の背景
ここでは、推定を中心に、笵曄の後漢書編纂の時代背景とその独特の編纂姿勢について、長々と、延々と述べてみる。
まずは、范曄は、東晋朝の後継王朝である宋朝(通称劉宋)の高官であった。
*時代背景
東晋朝は、陳寿の仕えた西晋朝が、陳寿三国志の上申後、程なく、内乱と外敵の侵略によって壊滅して、皇帝と高位高官の面々が大量に捕囚となり、僅かに地方巡回中の王族が、いわば、着の身着のままで逃亡して南方に逃避し、王族の「血」を得ることにより中国正統王朝としての面目を辛うじて保ったが、所詮は敗残の王朝であった。いや、逃亡先の江南は、元々、長年三国の一角であった「呉」の孫氏政権の本拠地であり、亡命政権として再興を画策しようにも、そう簡単に旧敵国の世界に浸透できたものとも思えない。
そして、その後も、中原の支配者として、正当性を誇示する北朝との抗争、南北の相互討伐によって、天下は延々と乱れた。
西晋朝の帝都である洛陽を中心に、中国華夏文明の核心とされる中原地区を、先行する大規模な内乱につけ込んだ侵略により、短期間に占領されたため、西晋朝が保有していた文物の大半は、秩序だって持ち出すことができず、多くの貴重書が取り残されたものと思われる。
従って、後漢以来長く継承された政府文書も、洛陽などに取り残されて、大半が散佚したものと推察される。
*笵曄素描
笵曄は、若くして劉宋政府高官となったが、創業者劉裕の東晋高官時代に登用されたものと思われるが、劉裕が宋朝を創業して、僅か3年の短い治世で世を去った後、後継下押さない皇帝を巡る勢力争いに巻き込まれたものと思われる。
第3代文帝に対する劉宋王族内の権力闘争の陰謀に関与したと見なされて更迭されて地方配流され、閑職に遇された。後漢書は、王朝高官としての激務を離れたことによる編纂著作である。
劉宋高官の時代には、東晋、劉宋が懸命に復元したと思われる帝室蔵書である正史と東晋、劉宋政権の政府文書を含め、当時としては豊富な蔵書を蓄えたものと思われるが、地方配流の際に、それら資料文書を全て持ち去ることは不可能であったはずであり、総合して考えるに、笵曄が後漢書を編纂する際に依拠した原資料の信頼性は不確かである。
笵曄は、後漢書の編纂を終えた後の被刑であろうが、皇帝に対する大逆罪の共謀者とされて族滅にあったため、大逆罪という重罪に連座して、三親等内の近親者は全滅しており、笵曄が取り組んでいた後漢書編纂が、実際に完成したかどうか、編纂された後漢書原本が、どのような経緯で後世に継承されたかどうかは不明である。
*史書継承
後漢書が、後漢朝に関する複数の編纂史書の中で特に正史に選定されたのは、遙か後年の唐王朝時代である。いくつか伝承されていた「後漢書」候補の中から、正史として選定されたのは、それなりの評価がされていたからであろう。
笵曄「後漢書」は、編纂時点から、正史に選定されるまでの長い期間、識者間に流布していていて、正史候補として有力視されていたとしても、あくまで正史以前の在野史書であり、少なくとも、厳格に管理された官営写本工程を経ずに、それよりは緩やかに管理された民間写本によって継承されたと想像される。
従って、正史として認定された後漢書写本が、どの程度正確に笵曄編纂原本を継承していたかどうかは不明であることは、言うまでもない。(ここまでの議論では、誤字、誤記が必ずあると断定しているのではない)
また、当然ながら、現存している後漢書現存刊本は、おそらく、北宋時代の刊本(木版印刷本)に基づく南宋時代の復刻本に基づくものであり、この点では、三国志の伝承状態と大差ないと思われる。
三国志現存刊本の出自に対する北宋刊本継承の信頼性を元にした批判は、後漢書の北宋刊本継承の信頼性に対しても、ほぼそのまま適用されるものと思われる。
誤解されると困るのだが、当方は、笵曄が、後漢書編纂で、不正行為を行ったと言っているわけではない。
著作権に関する意識は、現在と大きくことなる。また、下敷きとなる資料に、自分なりの編集を加えて、自身の著作とすることは、堂々たる史書編纂行為であり、その際に、逐一原典を明示する義務は存在しなかったと思われる。
*記事評価
以上のように、笵曄の後漢書編纂時点は、中国の南北朝時代と呼ばれる南北分裂の時代であり、南朝劉宋に仕えていた笵曄には、北朝、主として北魏の占拠している中原とその中原に接している東夷の領域とは、時に応じて来貢するものはあっても、多量の物資交換や密接な交流は、このように地理的に疎遠であったため、ほぼ不可能であったと思われる。
と言うことから、笵曄が後漢書東夷伝を執筆する際に利用できた東夷に関する史料は、ほぼ三国志しか存在しなかったのではないかと思われる。因みに、笵曄が編纂に当たって、魏略などの正史以外の資料写本をどの程度参照したかは、推測にとどまるのは言うまでもない。
合わせて推測すると、笵曄は、東夷伝執筆に当たっては、三国志史料に、東晋時代および劉宋時代の後代知見を加えて、自身の得意とする文章整備をおこなったのではないかと思われる。時間的には陳寿の時代を遠く離れ、地理的にも中原を離れた江南の文化圏に移動していたので、時の皇帝といえども、三国志の用語、概念を滑らかに読み取れない状態ではなかったかと推定される。
中国正統王朝の継承者といえども、劉宋創業者劉裕は、おそらく貧しい農家の出であって学問とは疎遠であり、長じて軍人としての激務に就いていた青壮年時代に、懸命に治世者にふさわしい教養を身につけようとしたであろうが、史記、漢書、三国志などの古書の読解は、なかなか難しいものであったと思われる。
そのため、劉裕の古書講読の指南役として、三国志の注釈者である裴松之と共に、笵曄も珍重されたものと思うのである。
笵曄の後漢書編纂方針は、劉裕の東晋高官時代の勉学の努力に応えることから始まったものと思われる。(言うまでもなく、以上は、あくまで、現代人たる当ブログ筆者の勝手な推定である)
*総評
後漢書は、本来編纂すべきであった、後漢後継政権である魏および晋が天下統一できず、あるいは、安定政権を維持できなかったために編纂が遅れた後漢書を、確固たる信念で編纂したことに意義がある。
この項終わり
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