私の本棚 31 季刊邪馬台国126号雑感 ひめみこ試論
季刊 邪馬台国126号 2015年7月
「卑弥呼と天照大御神」 安本美典
本稿は、全国邪馬台国連絡評議会 第1回九州地区大会 (平成27年5月9日開催)での安本美典氏の講演を誌上に収録したものとのことです。
主題および論考の大半は、かねてより、講演者が著書で丁寧に述べているものです。もはや、当分野での古典論考として定着したものと考えています。
ここでは、当ブログ筆者の個人的な雑感として、公演後の後の質疑応答として語られている内容について、疑問を呈したいと考えます。
「天照大御神と卑弥呼は固有名詞なのですか」と言う質問に対して回答されたものです。
講演者の回答の冒頭部分を誌上から引用すると、
村井康彦さんの書かれた「出雲とヤマト」{岩波新書2013年刊}と言う本には、「卑弥呼の名が『古事記』『日本書紀』」に一度として出てこない」と記されています。
しかし、村井さんのこの発言は、あたらないと、私は思います。
と、書き出されていて、以下の論旨は、「卑弥呼」が固有名詞ではなく、日本書紀において「女王」(女性皇族・王族)を「ひめみこ」と訓読している事例から類推して、元々、当時の邪馬台国の首長である女王が、「ひめみこ」と呼ばれていたものが、中国向けの漢文文書に「卑弥呼」と書かれ、それが、倭人伝に継承されたものと主張されているようです。
つまり、「卑弥呼」は固有名詞ではないというお考えのようです。
しかし、この主張には、素人目にも弱点があります。
*訓読の根拠
まずは、「女王」(女性皇族)を「ひめみこ」と訓読するのは、卑弥呼の時代から遙か後世になって訓読が日本書紀や古事記の筆写本に書き込まれたことから推定されるのであり、その時点の訓読の習慣が遙か以前の卑弥呼の時代にも類推して適用できるかどうか疑問です。
*中国「王」の変遷
次に気になるのが、女性王族を「女王」と呼ぶことの時代確認です。末尾の余談の項で示すように確かに日本書紀では、そのような用法も書かれていて、これは、今日の皇族の称号にまで及んでいますが、いずれも、見たところ女性王族というものの、最高権力者たる「王」の子供ないしは孫の世代のようです。
国情と時代環境の違いで、漢字で同じく「女王」と書いても、卑弥呼のような最高権力者の称号とは、意味が異なっています。
中国史で、「王」は、まずは、周王朝という全国政権の最高権力者でした。各地区の地方政権の最高権力者は、周王朝から「公」「侯」などの爵位を頂いて、そう称していました。余談ながら、周王朝に先立つ殷王朝までの最高権力者は「后」と呼ばれていたようです。
後に、周王朝の支配力が衰えてからは、各地区の地方政権が、実質的に独立した王国となって征伐される恐れがなくなったので、「王」と自称し始めて、それ以降は、地方政権の首長の称号となっています。
そして、秦帝国が登場すると、全国政権の最高権力者は、「皇帝」となり、帝国内の地方領主が「王」と呼ばれるようになりました。このような「王」のインフレ現象が定着したのが、漢帝国以来のことです。
とは言うものの、魏朝に至るまで、中国国内基準で、女性が「王位」に就いた例を見かけません。
仄聞するに、中国、日本、朝鮮/韓国を含む東アジアで最初の女帝・女王は、7世紀前半に即位した推古天皇と思われます。
推古天皇は、即位以前の「女王」時代には、(現代人に親しみやすい)「皇女」と呼ばれていたようです。
案ずるに、「皇女」に相当する概念を呼ぶ言葉として、古来「ひめみこ」ないしは「ひめみこと」ということばが伝承されていて、それを、文書編纂が可能となった遙か後世になって、どんな漢字を当てるかと言うことで各地域に表現の揺らぎが多々あったと言うことのように思えます。
と言うことで、中国(帯方郡)から「女王」はどう呼ばれているのかと問われたとして、(後世作成の辞書を引いて)それは姫御子であると応えたとは考えにくいのです。
日本書紀の「王」、「女王」と異なり、倭人伝の「女王」は、あくまで、その「国」の最高権力者であり、統治者である「王」なのです。
*王名秘匿の謎
それに続くのが、中国に対して、王の実名を隠すことの非です。卑弥呼が単に女性王族の意味であれば、卑弥呼の固有名は、語られないことになります。
日本書紀で、「女王」と書かれている人たちには、全て、固有名詞が付いているはずです。この点でも、倭人伝記事と整合しないのです。
*王の娘か外孫か
倭人伝時代の家族制度は、詳細には理解できていないのですが、卑弥呼が、先行する男王の娘だとすると、とても男王の治世に不承服の各国が、実質上男王の影響下に収まると思われる「王の娘」の共立に応じるとは思えません。
姫御子が、男王の娘の娘、つまり、男王の娘が嫁ぎ先で産んだ外孫だとしたら、卑弥呼は、男王と男王の娘の嫁ぎ先との二者の影響を受けることから、両者共立の成立する可能性がありますが、日本書紀の女王は、「王の娘」と見えるのです。
卑弥呼が、即位しても、日々臣下の上申を受けて、これをきびきび裁可する統治行為をせず、面会謝絶状態で、一般社会から隔離されていたとするのも、この辺りの事情を示すものと見ることができます。
対して、日本書紀の「女王」達は、天皇の娘世代であるものの、嫁いでいかずに、皇族の有力な一員としてとどまっていたことから、「女王」位を称していたのでしょうが、国情と時代背景が異なるので、その生き方を卑弥呼の時代に遡って適用することは、困難と考えます。
*出自の謎
卑弥呼は、「一女子」(未成年女性、つまり、数え年齢で17歳以下)と書かれていて、その出自は書かれていないと見るのが定説です。(手前味噌異論はさておき)
男王に代わって「王の娘」が即位したのであれば、そのように明確に書かない理由がないように思います。
と言うことで、卑弥呼の発音の類推だけで、卑弥呼女王が王の娘と見るのは、飛躍が過ぎるようです。
そう信ずるためには、他に、何か、信じるにたる根拠、同時代資料が必要です。そこには、不評の男王の娘が、なぜ「共立」されたかという謎の解決が含まれています。
*大きな謎
最後になりますが、かなり解決困難な謎として、卑弥呼政権が遠く奈良時代まで継承されていたのなら、なぜ、「卑弥呼の名が『古事記』『日本書紀』」に一度として出てこない」などと解されるような編纂姿勢を取ったのかと言うことです。
天皇家の権威発揚のための造作に定評のある日本書紀編纂で、こうした大事なところでちょっとした労を厭ったとも思えないのです。
当ブログ記事筆者の素人目には、村井康彦さんの著作として引用されているような感慨は、むしろ当然のように思われます。
*書紀の造作作法
卑弥呼の偉業を日本書紀に取りこむとしたら、神功皇后のようなな華々しい挿話を繰り出さなくても、偉大な卑弥呼(例えば、九州北部に威勢を築き上げた「筑紫女王」)の即位を称えて、遠く、魏朝から多大な貢献があったと書けばよいことです。その貢献物は、今、例えば、正倉院に収蔵されているものであると書けばいいのです。
何しろ、日本書紀は、国策として多数写本して講読会を開くほど普及させるものの、中国正史である三国志を講読するものなど、いないも同然のですから、余程の無理な造作をしなければ、三国志と整合しないなどと造作の不備をつかれることはないはずです。
*継承と断絶
それが書かれていないと言うことは、すくなくとも、日本書紀編纂の際に、卑弥呼政権の詳細を記録した文書が継承されていなかったし、魏志倭人伝を何とか入手しても、それを読みこなして、日本書紀に、滑らかに書き込むことはできなかったと言うべきなのでしょうか。
それで、神功皇后説話をひねり出し、天の岩戸説話をひねり出し、後は、後世のものが考えるようにと、嘘を書かずに謎かけとしたのでしょうか。不思議なものです。
*余談・雑談
急遽Wikipediaなどで調べたのですが、回答で例示されている飯豊女王(いいとよのひめみこ)は、5世紀後半の女性皇族であり、むしろ、飯豊皇女または飯豊王女(読みは共に「いいとよのひめみこ」)と書かれることが多いようです。情報伝達の難しい時代ですから、各記事の筆者の理解している書き方が混在していると言うことのようです。
飯豊ひめみこは、時には、飯豊王(いいとよのみこ)、飯豊郎女(いいとよのいらつめ)とも書かれいているようですが、飯豊郎女は、成人以前の女子時代の呼び方のように思います。
蛇足ですが、飯豊女王に縁の深い地域として、東北地方の福島地方と、それとは別に、奈良の忍海地区(大和高田市と御所市の辺り)の離れた地域が提示されているのは、大変面白いことです。おそらく、福島の「飯豊山」付近の神社由来などの伝える人物は、飯豊女王自身ではないとしても、女王と何か縁のある人に由来するものなのでしょう。
以上のように、講演者の一言を肴に、雑談をとろとろと語るのも、読者の少ない素人ブログの特権と思っています。
妄言多謝
以上
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