毎日新聞 歴史の鍵穴 批判再訪
私の見立て☆☆☆☆☆ 2015/10/21
毎日新聞夕刊文化面に月一の連載コラム「歴史の鍵穴」と題した記事が掲載されていて、どうも、専門編集委員佐々木泰造氏の執筆がそのまま掲載されているらしいことについて、一度触れたような気がする。
専門編集委員の玉稿なので、校正の手を経ていないのだろうが、毎日新聞にしては、随分不出来な記事になっていると思うのである。以下あげつらうのは、大概が、作文技法の不備であるので、誰か常識ある人がダメ出ししてあげた方がいいのではないだろうか、と思うのである。それとも、怖くて批判めいたことを言えない方なのだろうか。
と言うことで、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、失礼を顧みず、あえて遠慮なく書いていくのである。
当記事では、松山市北部の白石(地名)海岸の50メートルほど沖合にある巨石に関する論考であり、人工物の可能性について思索を巡らされたようである。
*「人工物」の可能性?
まず抜けているのが、「人工物」の意味の掘り下げである。まさか、3Dプリンターで岩石を出力したとは思えないから、岩石自体は「自然物」なのだろう。どこを捉えて、「人工物」と想定しているのか、明解に語っていないのは、不行き届きである。
さて、「人工物」の範囲であるが、元々巨石の配置はこうなっていて、周囲の邪魔者を取り除いただけで、人工物としたのかとも思われる。日本国内に限っても、奇岩の類いは無数にあって、人が言う「見立て」は珍しくないのである。
*大小不明の「巨石」
当記事は「巨石」と言うだけで、外寸が書かれていない。
「推定で100トンを超える巨石が五ツ」とあるのだが、 それぞれが100トン超なのか、五個の総重量が100トン超なのか、趣旨不明である。
また、「三ツ石」というのは、目に留まるのが三個と言うことなのだろうが、あえて五個全体を人工物というのか、見える三個が人工物というのか、趣旨不明である。
と言うことで、対象物の観察記事が不備では、論説記事として不備ではないのかな。
このあたりは、技術者的根性からの余計な突っ込みと言うことで片付く問題ではないだろう。人文科学者だって、データ重視のはずである。
*当地は どこ?
後段の論説によれば、「白石の鼻 巨石群はトーナル岩」であり「当地の石」とあるが、飛鳥の亀石と並記して「当地」とくくっているから、「それぞれ」と前振りしてはいても、両者共に共通した当地、飛鳥の岩石かと一瞬思ってしまう。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文である。そして、肝心のトーナル岩が、「当地の石」と軽く流しただけで、元々この場所、この位置にあったものなのかどうかは推測すらされていない。
*この地は どこ?
続いて、「この地には戦国時代から江戸時代の城の石垣がある」と書き出しているが、飛鳥の話が挟まっているから、「この地」がどこか見えなくなっている。指示代名詞が宛先不明となるようでは、不出来な作文である。
*高浜城幻想
いずれにしろ、松山市の外縁部(はずれ)と思われるこの地に城の石垣があったとは意外な意見である。松山城は、(7世紀の視点から言うと)遙か内陸の山城である。1000年後の江戸時代初期であれば、「この地」から遙か松山城まで巨石を運んだとしても不思議はないのだが、この記事で問われているのは、7世紀の話である。時間錯誤ではないか。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。
*時代超絶 海中工事
ここで問われるのは、17世紀に巨岩を地上を遠距離運送することの可能性では無く、7世紀に巨岩を精密な構想通りに積み上げる海中工事が可能であったかどうかと言うことである。
少なくとも一個の「巨石」 を、足場の固まっていないこの場で、この角度に積み上げたと主張すると、すかさず反論が予想される。そのような海中工事は人海戦術ではできないのである。
1000年後の江戸時代でも、周囲を埋め立てて海を乾上げた後、大規模な足場を作り、大勢で綱を引いて持ち上げるという「陸上工事」にしない限り不可能なのである。巨石の原産地からここまで陸上輸送する重労働を抜きにしての話である。
*場違いな高取、飛鳥
なぜか、時代も状況も異なる飛鳥の石を高取城に転用した挿話が語られているが、それとこれとは、わけが違うのである。視点が大きく揺らぐようでは、不出来な作文である。
このように、この記事の筆者は、類推のあてにもならない事項をだらだらと紛れ込まして、読者を煙に巻こうとしているが、肝心の事項を語らないので、不信感を煽るだけである。
*松山市 熟田津
「熟田津は松山市内にあった」と名言が出て来るが、現代の松山市の行政区画は、7世紀には存在していなかったので、当面の議論に関係ない言葉遣いである。
そして、ここが大事なのだが、熟田津は、後世文書に出てこず地名も残っていないはずである。(残っていれば推定は必要ないはず)
*斉明の船 停泊
続いて、「斉明の船」「停泊」と簡単に片付けているが、時の権力者が単身で移動するはずはなく、また、小舟一隻だけのはずはなく、そして、停泊と称し船をとどめて済むものでもなく、当然上陸するものであり、全体として大々的な行幸となったはずである。停泊というものの、一介の地方港の停泊場所では到底足りず、これも、問題になったはずである。また、そのように大船団を二カ月(?)受け入れるのには、陸上の宿舎(仮宮殿)建設、盛大な饗応(食料、飲料提供)を含めて、地元にとって大規模な、途方もない物入りであったと思われる。ついでに、派遣軍の徴用、軍船の随行まであったとすると、これは、世紀の大事業であったものと思われる。
総合して、当事者にとっては呪わしい天災と言うべきものであったと思うのだが、なぜ、それほどの一大事に関してしっかりした記録が残っていないのだろうか。
*二ヵ月の大祭祀
続いて、筆の一振りで、何らかの祭祀を行った可能性があると漠然と言い立てているが、誰の意見なのだろうか。
二ヵ月になんなんとする祭祀が、重大な派遣軍の戦勝祈願とすると、どの神社のどの祭神の祭祀なのか、なぜ、本拠地でなく、このような遠隔地で行ったのか。伊予の祭神大三島神社から神官を呼び立てたのだろうか。なぜ、大三島で祭祀を行わなかったのか。
とにかく、なぜ記録が残っていないのか、疑問山積である。少なくとも、斉明天皇が戦勝を期して祭祀を執り行ったのであれば、何も記録が残っていないというのは、おかしな話である。
*九州統治拠点 新設計画
そこから、筆が弾んで、九州を統治する拠点として何か大規模な構造物が「計画されたと推定」しているが、動詞に主語がない素人くさい不備は言い立てないとしても、計画は計画であり遺構を残さないから、何か建物が建てられたのではないだろうか。当記事は、何が計画されたか語らず、計画がどうなったかも、語ってはいない。
素朴な疑問として、それまで、九州は誰がどのようにして統治していたのだろうか。太宰府政庁跡では、7世紀より以前の遺構が発掘されていると言うことだが、それは、何だったのだろうか。
そして、大規模な派遣軍が大敗して、そのあとはどうなったのだろうか。なぜ、そうした国家の一大事が、的確に記録されていないのだろうか。
一筆の余談がもとに、当記事の主題とまるで関係ない疑問が陸続とわき起こるのである。
結局、この部分は、何のために、何を求めて書き綴ったのか意図不明である。
*可能性の追求?
斯くのごとき、華麗な余談の果て、記事の締めで、唐突に、「可能性を探ってみる価値は大いにある」と宣言されているが、それでなくても手薄な資金と労力は、別の方面に使った方が良いように思われる。ご提案の趣旨は、関連自治体へのプレゼンテーションなのだろうが、言下に却下されるべきものだろう。
と言うことで、最初に書いたように、当連載記事は、高名な著者の重要な記事と位置付けされているようなので、あえて遠慮なく書いているのだが、 全体として散漫な印象が募るのは、所定の字数を埋めるためかと思われる冗句(道草)が多いからである。ポイントを絞れば、1/3の字数でまとめられたはずである。
因みに、当ブログ筆者は、れっきとした愛媛県人であるので、我が郷土の古代史に関しては、大いに興味があり、後押ししたいと思っているのだが、このように筋の通らない提言には同意できないのである。
以上
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