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2015年12月

2015年12月30日 (水)

今日の躓き石 六冠王賛

                                  2015/12/30
 今回のテーマは、毎日新聞大阪朝刊の一面を費やした特集記事で、囲碁界の六冠王を讃えるものである。ちょっとした手違いで公開が遅くなったが、本来12月30日の正午公開指定で上げたものである。

 と言っても、批判の蒸し返しではない。確かに、しばらく前の記事で、囲碁界に蔓延る「ポスト」称号の不吉な響きに異を唱えたが、ああした記事は、一度で沢山である。
 今回は、適切な記事をちゃんと褒めておきたいのである。

 この記事全体を流れるのは、過不足のない書きぶりであるが、他を圧倒する強さは、別に筆を踊らせなくても、素人の目にもわかる絶品であり、長く輝き続けて欲しい光と思わせるものがある。

 六冠王に負けた棋士達も、別に斬られ役に甘んじているわけではなく、それこそ、悔しさの塊になっているだろうが、強い者に負けたら、自分がもっと強くなって勝ってみせたいというのが気概というものであり、それが、目前にそびえる六冠王を克服し、世界制覇へと繋がると思うものである。

 いや、なかなか意義のある記事を読ませていただいたものである。

 追記: 新年早々の囲碁欄も、見出しに「井山を追う世代」と、若手の台頭に明るい希望を持たせるものであった。拍手、拍手。
 観戦記は、こうありたいものである。

 それに引き替え、お隣の将棋欄では、またまた、ご高説をたれる観戦記が登場してげっそりしているのだが、まあ、ご本人は、尊大さをと自覚していないのだろうから、仕方ないところである。

以上

今日の躓き石 誰の誓いなのか

                         2015/12/30
 今回の話題は、毎日新聞朝刊大阪第13版スポーツ面の連載囲み記事「上州路からリオへ」の「下」である。
 前回まで言葉遣いの批判を書き募っているので、ボランティア校正担当としては、成り行き上、批判を書かざるを得ないというものでもある。

*見出しのなぞ
 見出しには、「リベンジ誓うエース」とある。
 ここまでに述べたように、目下のスポーツメディアでは、「リベンジ」には、大きく二派に分かれる用法が蔓延っている。
1. 雪辱、報復、仇討ち、お礼参りと言った血なまぐさい意味。やや古手である。
  辞書に載っている直訳から言うと、スポーツ界の殺伐たる言葉遣いに合っているようだが、実際は、スポーツは、友好的なものだから場違いである。

2. 再挑戦の意味。新派であり、目下で言うと優勢のように見て取れる。
  当人には軽い言葉なのだろうが、絶えず、1.の血なまぐさい意味が連想されるので、冗談では済まない。
 と言うことで、スポーツ面の見出しで、このカタカナ言葉を見ても、どちらの意味がわからない。もちろん、こんなことは、辞書に出てはいない。

*解けないなぞ
 新聞記事の常道では、もし、見出しで説明不足だったら、本文の冒頭で解き明かしてくれる、カタカナ言葉の指南番の役どころなのだが、記事自体には、何の噛み砕きもない。わからないものにはわからなくて結構、と言う切り捨てであり、とても、全国紙の報道の姿勢とは思えない。
 見出しのカタカナ言葉は、第二の意味かと見ると、すでに再挑戦が確保されている状況に似合わないので、第一の意味かとも思えるが、この場にふさわしい言葉なのだろうか。

*時代劇調の感慨
 それにしても、「屈辱」とは、何と大時代な書き出しだろう。当人の口から、そういう言葉が出たのだろうか。
 そうであれば、スポーツの世界に個人の見苦しい感情、傲慢とも見える「プライド」を持ちだしているとも受け取れる。と言うものの、それ以降の文には、単に、自責の念が感じられるだけである。不似合いである。
 もちろん、この場合も、新聞記者の誇張という可能性があるが、一般読者は、全国紙の記事を信用するので、そうは思わないのであるが、もし筆が滑ったのであれば、考え直して欲しい。「負けて悔しい花一匁」ではないが、子供の遊びでも出て来る「悔しい」のと「屈辱」の間には、深い谷が横たわっている。
 血なまぐさいカタカナ語を持ち出した大仰な見出しを支えるように、選手の談話のニュアンスを言い換えたとすると、この記事全体が、誇張と言うより、虚報になってしまう。

 別の視点から批判すると、一般読者には、こうした言葉を聞かされて不快に思うものも少なくないだろうし、他チームの選手は、今回の大会を目前にして、前回負けたことについて、こうした言葉を今頃言い立てるとは、情けない奴だと思うのではないだろうか。

*世界に臨む気概
 そして、原点に立ち返ると、この連載記事に求められているのは、オリンピックに臨む意気込みと取り組みである。読者は、いかに当人達にとって重大に感じられていても、国内の駅伝の一走者として、前年負けた国内の相手に勝ちたいとの意気込みを見たいのではなく、オリンピック競技であるマラソンで世界一を狙う取り組みを見たいのである。

 血なまぐさいカタカナ語を持ち出した大仰な見出しは、志の小さいものであり、場違いに見える。

 記事の最後に、とってつけたように、マラソンについて触れているが、フルマラソンに比べて遙かに距離の短い駅伝で勝つことを目指した走行で、全区間を快速でかけ続ける世界のマラソンランナー達に勝つというのか。特集記事は、課題をなおざりにしたままである。
 心理的な「危機感」や「敗北感」を言い立てても収まらないだろう。実力に格段の差があると言うことである。
 当記事は、タイトルに掲げたように、それを埋める取り組みを語ろうとしているのだろうか。
 どうも、担当記者は、大きな勘違いをしているようである。

 毎日新聞は、記者署名記事の校正、校閲をしない慣習でもあるのであろうか。一度発行した新聞は、刷り直しできないのである。

以上

2015年12月29日 (火)

今日の躓き石 心が進化

                                 2015/12/29
 今回の話題は、毎日新聞朝刊大阪第13版スポーツ面の大見出しである。いや、これは、スポーツ系報道に共通する欠点なのだが、大事な言葉を、日常に近い事象に使いすぎるのである。普通、こういうことは粗末な使い方というものだが、粗末に「お」が付きそうな感じである。

 ここで言えば、本来大事な言葉である「心」をこの程度の事象に使うのは大変軽率だと思うが、罪の重いのは「進化」という言葉の使い立てである。記者は、本文記事では、「進化」とカギ括弧でくるんで、この言葉は、狭いラグビー業界にだけ通用している「業界用語」だと言い訳しているようだが、天下の毎日新聞の紙面で、ページ紙面のトップ見出しが占める位置から考えると、こうした言い訳(言い逃れ)を必要としない、慎重、かつ、堂々たる言葉遣いが求められるものと思う。

 本来の科学的用語としての『進化』とは、ダーウィンの提唱以来、ある環境に適した生き物の種が生き残り、適しない生き物の種が滅びる「優勝劣敗」の生存競争とその後に生まれる「適者生存」という結果を言うものである。
 現に生きている人である選手が、何かを学んで技術を向上させるときに使うような言葉ではない。
 まして、何を言うのか不明な「心」や「精神」は、生物ではないから、進化することななどあり得ない。これほど学術用語として普及している大事な言葉の誤用は、全国紙の紙面に不似合いである。
 
ここは、もっと普通の進歩とか向上とか言う言葉の守備範囲である。

 続いて、「メンタル」の登場である。どうも、スポーツ界では、当ブログで長々と問いかけてきた、意味不定の「メンタル」は強化するものらしい。
 しかし、その「強化」の内容を側聞するに、それは、カウンセリングに属するものらしい。選手それぞれが、心の薄闇の奥に抱えている「傷み」のようなものを、会話を通して、アドバイスを浸透させることによって「癒やし」て、持ち合わせている技術を十分に発揮できる本来の「心」の強さを回復することのようである。
 確かに、意義深いことであるが、これは、普通「強化」と言うものではなく、先ほども書いたように「癒やし」である。ここでは、メンタルは、Mental Problems(問題)であり、強化とは「お悩み解決」(Solutions)のようである。世間体で言葉を飾っているのだろうか。

 確かに、スポーツの世界では、往々にして「結果」だけが言い立てられ、心ある選手は、敗戦の責任を一身に背負い込みがちであると思う。それが昂じると、ゲームの中の細かいプレーにも、自分の失敗の記憶が邪魔して力が出ないとこがあるのだと思う。大抵は、それを、いじけたとか、ひるんだとか言い立てられて、悪循環に陥るものである。
 そうした全体的な風潮は、個々の選手に対する「メンタル強化」によって是正できるとは思えない
 本来、教育の一環とされている高校、大学スポーツ選手の談話から、「結果が全て」という勝利至上主義が消えるようにならなければ、ゲームを通じてベストを尽くし、献身的な努力を続けた選手の評価が、たまたまの(ゲームのその場にいない報道陣の見て取った)ミスによって消し飛んでしまう、不都合な報道が絶えないのである。

 さて、担当記者は、この勝利は、精神の「進化」の表れとみて、面のトップ記事を締めている。実際は、選手自体に何の変革があったわけでもなく、秘められていた弱点を癒やしたことで存分に発揮された実力が優れていたから、激戦を制したのではないだろうか。確かに、貴重な成功体験であろう。

 記事を読み終わって、素朴な疑問が湧くのである。

 天下の毎日新聞がスポーツ面のトップ記事で言い立てるほど重大な事象であれば、あるていど普遍的な事象だと思うのだが、他校はどうやって、選手の心の痛みを解消しているのだろうか。指導者や先輩が各選手の様子を見て取って、心の痛みに挫けないようにカウンセリングしているのではないだろうか。また、当の高校では、皆、選手を責め立ててばかりで、誰も選手の傷みに気づいて、いたわらなかったのだろうか。是正すべきは、そうした風潮ではないのか。

 今回は、何とも、後味の悪い報道であった。

以上

2015年12月28日 (月)

今日の躓き石 「ポスト」六冠王の寂しさ

                                2015/12/28
 今回のテーマは、毎日新聞大阪朝刊の囲碁・将棋面の2015年回顧記事である。ただし、当ブログ記事で話題にしている言葉遣いは、広く当てはまるものであって、特定の新聞社、特定の担当者の心得違いによるものではない。

 お断りしておくと、当ブログ筆者は、子供時代からの将棋ファンであるが、囲碁に関しては、永遠の初心者である。たまたま、将棋記事の隣にある囲碁記事を見ているだけである。要は、当記事は素人のお節介である。
 と言うことで、囲碁ジャーナリズム独特の言い回しに込められた思い入れに通じていないので、心ない部外者の干渉と思われる方もあるだろうが、新聞紙面に書かれている文字は、一般読者が素直に受け取ってしまうものなので、身内向けの言い回しは、感心しないと思うのである。

 今回は、特に前置きが長いのだが、やっと本題である。

 ここ数年になると思うのだが、囲碁界の記事で散見する「ポスト」六冠王「世代」という言い方が気にかかるのである。
 本来は、「」の中に六冠王の実名入りであるが、「今日の躓き石」は、言い回しの不適当さを言いたいだけなので、極力人名を避けるようにしている。もっとも、今回は、まず、他の人と取り違えることはないと思う。当ブログ筆者は、まともに人名検索にヒットして、局地的な話題が広く拡散するのは、好まないのである。

 さて、以前から目障りに思っている「ポスト**世代」と言う言い方であるが、私見では、これは、「**」なるトッププレーヤーが、その世界のリーダーとして長く頂点を占め、斜陽期に入りかけたと見えたときに、次のトッププレーヤーを待望する風潮をかき立てて、うたいあげるものである。大抵、長期安定政権への飽きが、新リーダー待望論を形成するものである。

 しかし、目下の六冠王は20代半ばであり、その力は着々と伸び続けているものと思われる。筆者の通じている将棋界の例から類推しても、圧倒的なリーダーは、時にタイトルの一部を失うことはあっても大きく揺らぐことは少なく、現リーダーが20年を超える長期政権を気づくのも夢ではない。これは、リーダー以外の大勢にとって不甲斐ない話だが、なかなか新陳代謝しないものである。

 六冠王の力が伸び続けている証拠だろうが、回顧されている各タイトル戦での勝ちっぷりは、素人目ながら、抜群のものがあったと感じている。俗な言い方であれば、天下無敵、つまり、匹敵する相手がいないと言うことである。
 この抜群、無敵の強さは、囲碁界最高峰の高みを広く示すものであり、囲碁界の至宝であると思う。俗世では、少数のスタープレーヤーが人気を集めるのが人気商売の成り行きであるが、囲碁界は、実力勝負なので、少数が一人になってしまったと言うことである。

 時に、六冠王の「壁」とまで言われているが、別に次代を担うべき若者の進歩を妨げているのではないと思うのである。六冠王も、生身である。挑戦者に力があれば、乗り越えられるのである。むしろ、目前にこれほどの強者がいるというのは、棋士として生きていく上で、貴重な目標だと思うのである。

 とは言うものの、現実には、後に続くもの達は、この人の伸び行く姿を仰ぎ見て、その足の速さに力不足を歎いているはずであるが、だからといって、追いつき追い越すことを諦めて、トッププレーヤーの衰えを待っているのではないと思うのである。
 「ポスト**世代」と売り物にされるのは、いわば、その他大勢の中での目立ち方であり、当人達にとって、恥ずかしいものがあるのではないか。

 次に、嫌みなことを言い足さないと行けないのだが、天下無敵の六冠王、というのは、国内の話に過ぎない。国際化した囲碁の分野では、世界での地位を意識しなければならない。少なくとも、日本囲碁界の至宝である六冠王も、世界ランキングのトップに立てていないことに対する日本囲碁界の無念の思いが、全国紙での記事の扱いで感じられる。「記事の扱い」とは、その話題が避けられているように見えるからである。

 素人目には、「ポスト**世代」の目指すべきは、その呼称に甘えて、六冠王の凋落、棚ぼたを待って、いつの日にか頂点に立ち、日本囲碁界制覇するのを期待するのではなく、伸び続けている六冠王を踏み越えて、世界囲碁界を制覇することだと思うのである。いや、いきなりでもいいから世界を制覇すれば、六冠王を踏み越えたことになるのである。

 そういう風に見ると、「ポスト**世代」と言う呼び方は、当人達の名誉にならない、青雲の志の乏しい、くすんだ形容だと思うのである。

 この記事は、日本囲碁界のタブーに触れて、当ブログ筆者は囲碁ジャーナリズム界から排斥されることになるかも知れないが、幸い、それで身を立てているわけではないので、こうして嫌みを言うのである。

以上

2015年12月25日 (金)

今日の躓き石 神戸市長の経済効果

                                2015/12/25
 今回は、毎日新聞朝刊大阪第13版のオピニオン面の記事であるが、ここで毎日新聞の報道姿勢をどうこう言うのではない。

 「補助廃止 フルートコン」と銘打った「論ステーション」の神戸市長の意見に関する批判である。
 いや、当方は、神戸市民どころか、兵庫県民でもないのだが、意見を言う権利はあると思うので、以下批判させていただくのである。

 まず、神戸市長の意見として問題なのは、事の是非を経済効果で云々していることである。
 いや、神戸市の財政に最大の責任のある首長として、経済効果を表に出すのは結構だが、肝心なのは、本件の経済効果に関して、数値化された評価を提示できないのに、補助金支出の是非を決断していることである。
 家庭の議論として、神戸「市当局の評価の結果、「約5000万円」の補助金支出に対して本件の経済効果が、1000万円であるから、支出すべきでない」というのなら、ある種の合理的な意見として聞くことはできるが、数値評価が示せないのに、経済効果を論拠に上げるのは合理的ではない。単に、抵抗勢力が手薄い、組みしやすい分野に、霞が関育ちのコストカッターの矛先を向けたのではないか。

 ちなみに、インターネットで報道されている市民参画推進局文化交流部の発表によれば、神戸「市民福祉の向上への関連が薄いこと、市民還元の度合いが少ないこと、また本市の厳しい財政状況」が補助金支出中止判断の三大要件として提示されているが、傍目に納得できるのは、最後の神戸市財政の逼迫という要因だけである。
 神戸「市民福祉の向上への関連」の濃い、薄いは、どんな指標による言い分なのか、なぜ、冒頭に言い立てるのか、わからない。神戸「市民福祉」は、どのような側面から言い立てているのかわからない。言っている意味が分からないから、賛否の示しようがない。
 「市民還元の度合いが少ない」というのは、直接的、即効の「経済効果」を言うのだろうが神戸市民への還元は、直接的、即効の「経済効果」しか評価できないのだろうか、「経済効果」指標の有効性はどう評価すべきなのか。

 神戸市長は、(神戸市の)「知名度」には、さまざまの理由があると称しているが、それぞれに数値評価はされているのだろうか。いや、地域の商業活動に寄与しているものは、「経済効果」として報道されているが、それは、表面的、一時的なものであって、それだけを追い求めるのは、「金権主義」「拝金主義」とされているのではないか。

 大体が、「出場者は予選が終われば神戸市を去」ることが論拠とされているのも、よくわからない。当コンクールは、本選を他会場で行うのだろうか。多額の補助金を支出して、単に予選会場を引き受けているだけであれば、知名度が低いのも無理ないところである。
 また、出場者たちが、遅かれ早かれ神戸市を去るのは、演奏機会(定職)がないからであろう。別に、神戸市を嫌って立ち去っているわけではない。

 それは、高校野球で、出場選手の大半が、大会の後甲子園球場を去るのと同じでも何の不思議もない。兵庫県にプロ球団があるから、一部選手が回帰するが、大半が他地域で活動するために去るのであり、こうしたことは、別に本件に限ったものではなく、また、不思議なことではない。

 当ページに登場しているコンクール卒業者である奏者は、世界有数の高名な奏者であり、その経歴を見れば、神戸市の名が上がっているはずであるし。当人たちも、自身の経歴の中の重要なエポックとみているはずである。神戸市にとって、金銭価値を問えない(priceless)光栄なことではないのだろうか。 

 要は、ここで挙げられている論点の多くは、神戸市財政の逼迫という巨大な難点以外は、もっともらしい言葉を連ねているが裏付けの乏しい虚辞であり、筋の通らない議論であり、神戸市長が権限の根拠としている市民感情の本質と密着していないと思われる。

 仮に「経済効果」論を受け入れるとしても、本件の「経済効果」は、一時的な経費の出費との対比でなく、開対の成果を市民の資産として評価すべきではないか。30年間営々と築き上げた資産、市民の宝物、を、現時点での判断で廃棄していいものかどうか。
 後日再開するとしたら、単年度に5000万円を費やしても、同様の「資産」は回復できないのである。

 また、ついでながら、市民の認知度が低いという点を、神戸市長が補助金廃止の論拠とするのは、不審としか言いようがない。
 30年間にわたり補助金を支出して開催を支援してきたのに、市民の認知が低いのは、神戸市の責任が大というべきと考える。市民から預かった補助金の使途を明確にPRして、生きた支出にするのは、神戸市長をいただく市当局の責務ではなかったのか。歴代神戸市長には、自身が実質的な主催者であるという当事者意識が欠けていたのではないか。

 思うに、神戸市は、近畿の主要都市である京阪神の三都市の中で、新しい文化を取り込み花開く境地をもたらす点で、国内随一の名声を自負して来たように思う。ここに挙げられている「経済効果」は、名声すら金銭評価のだしにする「拝金主義」ではないかと憂うものである。

 それにしても、「芸術文化は王侯貴族が趣味として応援する形で発展した」というのは、どこの国のどの時代の話か、面妖である。

 いま問われているのは、日本の国の市民文化である。日本では、少なくとも、関西では、文化は、商人を中心とした市民層の支援で発展したのである。何か、基本的なところで勘違いしているようである。ちなみに、日本で「王侯貴族」とは、だれを指しているのか、面妖である。
 欧州諸国でも、ギリシャ、ローマのの時代から市民による文化活動は盛んであったと思うし、中世の時代に市民文化が後退したとしても、たぶん、フランス革命後のナポレオンの欧州制覇を契機として市民階級の経済力高揚とともに文化活動が開花し、提言されているような古典的支援環境は大きく変質したものと思う。
 それにしても、神戸市長は、自身を太古の「王侯貴族」に擬しているのだろうか。
 この部分は、ずいぶん軽率な言い方であると思う。

 ついでながら、神戸市長の配偶者が国立音大(国立大学ではなく、国立「くにたち」市に設立され、現在立川市に存在する私学)の准教授であることが示されているが、本件の議論に関係ない個人情報と思われる。神戸市長の意思で経歴の一部として掲載したのであろうが、その姿勢に疑念を覚えるのである。

 以上は、よそ者の勝手な意見であるから、神戸市民に広く同意してもらえるとは思わないが、神戸市長が、こうした形で論説を展開することが、神戸市の知名度に寄与しているとすると疑問である。こうしてみると神戸市長の「経済効果」は、好意的に評価することが困難である。

以上

2015年12月23日 (水)

今日の躓き石  「体力重視」のなぞ

                              2015/12/23
 今回の話題は、毎日新聞朝刊大阪第13版スポーツ欄の連載囲み記事「世界への扉 ラグビーW杯と花園」の第2回目である。
 当ブログで散発的に続いている「フットボールにおけるフィジカル」の追求である。特に、ラグビーフットボールが的である。前回までに批判を書いてしまったので、成り行き上書かざるを得ないというものでもある。

*見出しのなぞ
 見出しには、「体力重視 躍進のカギ」とある。

 成功例に挙げられている前回の優勝校は、直前に三連覇している強豪校であり、毎年メンバーが入れ替わる高校チームとして、むしろ異例なほど抜きん出てトップの力を持つチームである。
 それほどの強豪校チームに「躍進」されては、他チームはたまるまいと思うのだが、強豪校には、「勝って当然」、「勝つのが宿命」の気風があって、評価の基準が違うのだろうか。
 また、「躍進」の原因が「体力重視」といわれても、素人読者は、首をかしげるのである。他チームは、体力軽視していたために負けたのだろうか。見出しから、大きく躓くのである。ということで、見出しに誘われて、記事に視線を移すのである。

*敗因分析のなぞ
 記事によれば、同校(チーム)は、「技術」で他校(チーム)を圧倒して三連覇したが、一度「体の大きな相手の圧力に屈した」敗北から「接点で完敗した。フィジカルに差があった」との教訓を得て、指導方針が変わったのだという。

 わざわざ体の大きな(デカい)という以上、「フィジカル」とは、体形と圧力(Pressure)のことらしい。Physical Property, Physical Performance, Physical Contactのことだろうか。
 それにしても、体形、特に身長とか骨格とかは、鍛えようがないと思うのだが、どうしたものか。また、圧力というと、前進力、押しの強さということになるが、それまで鍛えていなかったのだろうか。

*取り組みのなぞ
 といいながら、実際は、特に他校を上回る筋力トレーニングは、やっていないという。なら、2年間の取り組みのどこが、体力重視、体力強化になったというのか、肝心の言葉がないので、読者にはわからない。

*目標と成果のなぞ
 少なくとも、現代の高校スポーツ指導であるから、ただ、メニューを設定して練習させているだけでなく、身長、体重、胸囲などのサイズ面の数値がどうなったとか、握力、背筋力、ジャンプ力、反射反応の数値がどうなったとか、運動負荷をかけたときの呼吸、心拍、血糖値、尿酸値、などの数値がどうなったとか、客観的に認められる数値データで成果が確認できたから、監督は指導方針に確信をもって大会に挑んだと思うのだが、ちらとも漏らさないし、記者が探ろうともしていないのは不思議である。
 いや、慎重に読み取れば、まだ成長を続けている高校生にとって、(全身の成長を阻害する)長時間の練習を避け、また、(練習集中で食欲低下)体重低下に陥りがちな食餌改善(Diet)に炭水化物摂取を促し、何より、(練習から来る過度の緊張による)睡眠不足を避ける、という指導が大事だと言われているように思うのだが、監督は、あえて口をつぐんでいるように思う。それとも、「寝る子は育つ」は、自明だということなのか。

*確信のなぞ
 監督の言葉は、確信に満ちていると記者によって報道されているが、読者はその場で監督の表情や口調を体感していないので、記事の文字面に頼るしか感じ取りようがない。
 「体ができれば、悩みの7割は解決する」と謎めいているだれの悩みが解決するのだろうか。いやもそもそも、スポーツにおける「悩み」とは、何なのだろうか。読者には、不明瞭なのである。

 かねがね言っているように、当事者の言葉を解読して、読者に理解できるように伝えるのが報道の本分と思うのだが、当記事のこの部分は、監督の真意が読み取れず、趣旨不明である。

*ワールドクラスの敗因分析
 続く段落では、高校ラグビーを離れて、ワールドクラスの試合の「敗因」の分析結果として、「基本的なスキルや体力不足が原因で起きるミス」と明記されている。

 もちろん、記事の展開の都合でここに書かれていないのだろうが、勝敗は、敗者が凡ミス(Unforced error)を犯したものだけでなく、相手のスキルや体力が卓越していてベストの対応をしてもミスになってしまった、ということも多数あるだろう。そうでなければ、ラグビーというゲームが、凡ミスで敗北をもたらしたものがひたすら「後悔」するだけのつまらないゲームになってしまうのである。

*スキルと技術
 因みに、スキルというのは、適度な言葉であり、前段で、「低い姿勢から突き上げるタックル」のような、これができて初めて一人前というような基本的(Elementary)なプレーを「技術」と大層な言葉で祭り上げているのに対して、言葉の選び方で「勝つ」言い方である。

*まとめ
 ということで、以下の記事は、よくわからない情報をつけ足した後、「体つくりのノウハウ」が、「これまで以上に」不可欠と賢そうに締めているが、ちゃんと締まっていない気がする。

*不可欠のなぞ
 不可欠とは、欠けたら負けるという意味であり、すでに最上級/究極の言葉なので、この言葉に重ねて「これまで以上に」というのは、子供じみた冗語であり、文として趣旨不明である。 これさえ達成すれば負けないというものでもなく、また、相手も達成していなければ五分と五分、という意味でも、不可欠などではなく、最上級のものですらないといえる。大人になってほしいものである。

*ノウハウのなぞ
 そして、自身の言葉で続けずに「ノウハウ」(非公開の有用情報)というおまじないに逃げているのは、重ねて趣旨不明であり、困ったものである。
 「ノウハウ」とは、具体的に、Aの方法でやればうまくいくという教えであるとともに、Bの方法でやれば失敗するという教えでもある。時として、指導の報酬付きで開示するものであり、公開されないことが多い。(公開されたら、ノウハウとは呼べない)
 AとB、それぞれの方法自体は、秘密でも何度もないことが多い。方法と結果を的確に結び付けているのが、(錯誤のロスを回避できる)貴重な教えである。

 つまり、何も知らずにBの方法を採用して、試行錯誤に陥るのは世間では珍しくないのだが、監督でいえば、自身の失敗は選手の失敗であり、自身の知識不足が多くの支援者に不幸を招くので、謙虚に「ノウハウ」の力を借りねばならないのである。

 それにしても、有効な「ノウハウ」は、どこの誰に教えを請えばいいのだろうか。それがわからなければ、この課題は解決しないのである。

 今回は、ラグビー界における「フィジカル」の用例を学べると思ったのだが、失望に終わったようである。

以上

今日の躓き石 NHK BS-1の失言

                                   2015/12/23
 今回の題材は、NHK BS-1の皇后杯準決勝中継の前後半の合間のサッカー番組告知である。

 堂々と、『女子サッカーは、「リベンジの舞台」』に出るとおっしゃる。調子っ外れで、稚拙な言葉遣いに、一瞬手が止まった。いつから、サッカーは報復/復讐の舞台になったのだろうか。

 スポーツは、平和の象徴であって欲しいものである。NHKには、万事を見据えた冷静な言葉遣いをして欲しいものである。

以上

2015年12月22日 (火)

今日の躓き石 フィジカルの新展開

                                            2015/12/22
 今回の題材は、毎日新聞大阪第13版のスポーツ面の特集ページ「月刊サッカー」に掲載された、U23代表監督のインタビューである。

 下から二段目で、A代表監督の「デュエル」と言う発言に対して、(口に出されてないが、デュエルで勝つには「フィジカル」で勝つ必要があるとの認識であろう)『「フィジカル」(身体能力)はそう簡単には強くならない』と応じている。お二人の間で、対話は成立しているのだろうか。

 「身体能力」と言う日本語も、かなり漠然としていて、「簡単には強くならない」としているところを見ると、氏の辞書では、筋力、持久力、心肺能力や反射神経など、鍛えようのある部分を指すのであろうが、わかるように語られていない。

 最下段では、U23代表監督の立場として、(口に出されてないが、フィジカル重視の方針には賛成しているようだが)「言い過ぎたらまた危険な状態になると思う。」と語っている。(「また」と言う意味が不明。何が、危険な状態かも不明)

 それにしても、何度、読み返しても、下段の発言の趣旨は不明。担当記者は、これで理解できているのだろうか分かりにくかったら、問い直して、一般人に理解できる文章で伝えるのが、報道の常道ではないのだろうか。

 この記事だけを採り上げると、(毎日新聞社としては)サッカー界で「フィジカル」という不明確なカタカナ語に(身体能力)という統一解釈が成立していと判断しているとの表明のようだが、以上のような状態であり、解けない疑問が残るのである。

 一つには、今回の記事以外では、「フィジカル」は、()なしの言いっ放しになっていて、文脈から察するに、各発言者で、意味がばらついていて、一般人には理解困難となっているのである。今回は、たまたま、このように理解していることを明確に語ってくれたと言うことで、大変ありがたいのだが、まだ、このカタカナ語の先が見えないのである。

 一つには、代表監督が、英語圏の人でなく、また、日本人も英語圏の人で無いと言うことである。本当に、このカタカナ語は、それにふさわしい英語を背負っていて、適確に日本人肉伝えているのかと言うことである。

 懸念する理由は、今回の記事も、「フィジカル」が一人歩きしていて、フィジカル何なのかと言うことが語られていないのである。ご当人が言葉の本来の意味がわかっていないまま、我流の解釈で指導しているのでは無いかと言うことである。

 しばらく前のスポーツ欄の選手インタビューで、指導者から「フィットネス」向上を指導されたという談話があって、これには、いい言葉遣いだと同感したものであった。Fitnessと言う英単語は、いろいろな場所で使われる言葉であるが、この場合は、状況からPhysical Fitnessを言うものと判断されるのであり、省略するとき、自明なPhysicalを略したので、フィットネスだけ聞いても具体的な意味が伝わるのである。適切な言い方と言うべきなのである。

 依然として、当のスポーツで言う「フィジカル」は何を示すのか、不定と思える。

 因みに、今回、代表監督が唱える「デュエル」は、よく言う一対一の競り合いであり、殊更言い立てると言うことは、一対一で勝てるようになれ、と言う指示らしい。以前の「フィジカル、 スピード」に比べれば、理解しやすいが、結局何を求められているのか、不明確である。

 一番強烈な解釈は、「フィジカル」(Physical Contactの略)で相手を吹っ飛ばしてボールを奪えと言うように読めるが、正しい理解なのだろうか。一般人としては、相当足技の達者な選手でないと、どんなときにも、どんな相手にも、一対一で勝てるとは言えないはずである。

 単語明瞭、趣旨不明瞭、という言葉があるが、不明瞭も何も、単語の一発や二発では、一般人には何もわからない。選手には、伝わっているのだろうか。互いに確認できているのだろうか。

 とにかく、代表監督は、自身の指示の真意を明確な日本語で伝えてくれる通訳を必要としているのではないだろうか。母国語でない英語の単語をいくつか言い散らして、後は各自で、辞書を引いて理解しろとし言うのでは、監督の戦略も何も伝わらないのである。

以上

今日の躓き石 体格で劣る勇者達

                                                                                 2015/12/22 
 今日の題材は、毎日新聞大阪夕刊第3版社会面の「夢へトライ 全国高校ラグビー 上」と題したコラムである。

 ここに取り上げた理由は、別に、問題用語でもなく、文法外れでもなく、ただの言葉の綾なのだが、だからといって、大変抵抗のある言葉遣いであることに変わりはない。以下、定期購読者の意見を述べさせていただく。

 全体に、競技の未来に希望を繋ぐ物語なのだが、記者の口癖なのか、毎日新聞社としての編集方針なのか、「W杯イングランド大会で体格で劣る日本代表が強豪南アフリカなどに競り勝ち」と書いている。

 体格で劣るとは、背が低い、体重が軽い、と言うことなのだろうが、体格勝負の簡単な競技なのかと歎く。これでは、子供達は、体が小さいとだめなスポーツなのかと、割り切ってしまうだろう。いや、これは、他の競技でも見かけることが多い。

 それにしても、世界トップクラスの相手チームから見ると、世界トップクラスのデカい体であり、誰が見ても勝って当然な大事な試合で、力負けしてしまった、と言う結果になっている。これは、出会い頭の番狂わせでは済まない。赤っ恥である。

 日本代表は、体格の差をものともしない、むしろ、筋肉質の身体の敏捷さと軽量の裏返しの俊敏さと持久力で、デカい相手に負けず、堂々と戦ったはずである。話題の中心となっている選手だって、からだがデカいから得点しているのではないだろうし、また、単純に、鍛え上げた筋肉がもたらすキックの飛距離によって得点しているわけではないだろう。

 ここで不満な原因の一つは、「体格で劣る日本代表が」、世界強豪に勝った原因に触れていないことである。少なくとも、勝った原因の一つである膨大な練習量についても、触れるべきではないのかと思う。今回は、体格は勝敗の大きな要因であることに間違いはないのだろうが、努力によって克服できることが示されたと思うのである。

 また、各選手の持つ知力が最後まで維持されたことで、相手の予想を超えた鋭い攻撃を繰り出すことができたと思うのである。「心技体」の内の、心と技を簡単に述べるのは難しいが、メンタルスポーツとしての側面も重要である。一流選手になりたかったら、ちゃんと勉強しろよ、ということでもある。

 天下の毎日新聞に要求される報道の質は、日本一でなければならない。記者が体格で他社記者に劣っているとしても、何か、それを越える努力をしていただきたいものである。

以上

2015年12月16日 (水)

「モツレク騒動」 Naxos of America claims on Bruggens Moz Req

                                     2015/12/16
 Naxos of Americaの不可解な申し立てが、しつこく続いている。
 Bruggens Mozart Requiem 1998 ブリュッヘン モーツァルト レクイエム

 念のために前置きしておくが、当方は、法令遵守を信条とする、単なる一般市民であり、持ち前の知識に基づき、本件に対して考察したものである。一介の市民が、最善の努力に基づいて不審点を提起しているものであるから、法的に誤解を含んでいるかも知れないが、「物の道理」として、大きく外れていないと信ずるものである。

 当方は、YouTubeからの「申し立て」に関して、ここまでに、著作権についての基本原理を説いている。
 クラシック音楽の「名曲」は、大抵の場合200年以上前の著作物であり著作権は消滅していて、通常言われているような曲に対する著作権を主張するのはナンセンスである。
 著作権として有効なのは、演奏に対する著作権、日本の著作権法で言う「著作隣接権」である。
 従って、特定の著作物に対して著作隣接権の侵害を主張するためには、「全く同一演奏であるという証拠」が必要である。これに対して、YouTubeの使用している検出手段は、少なくとも部分的に、自身が特徴と考える点が一致していることを指摘しているのであり、「同一ではないと言えない」、と言う指摘をしているだけであり、証拠として不適当である。
 現実に、YouTubeの「申し立て」では、誤検知による「誤爆」が頻発している。都度、不合理な申し立てであることを指摘しているが、管理者側は、自身の権利主張に際して、適切な確認努力を怠っていて、申し立ての取り下げに延々と時間を要している。誤解、早計に対する謝罪はされていない。

 毎回同様の主張をするのは、憤懣を募らせるだけで、大変不満であったが、今回は、それとは症状が異なるので、気分を新たにして以下の趣旨で反論した。(誤記訂正あり)

 「当動画は、NHKにおいて放映された動画映像の部分引用であり、権利者であるNHKから、申し立てを受けていない。
 NAXOS Americaは、当動画の音声部分に対して権利を主張しているものと思われるが、そのような申し立てを行う権利を正当に取得しているかどうか、示されていない。NHKが制作したFM放送を音源として、GlossaにCD販売が許諾されている模様だが、Naxos America不適当なの申し立ての根拠となる根拠となるライセンス契約は示されていない。根拠を明示しない申し立てに対して適切な反論を行うことは不可能である。
 また、同一の動画映像を低解像度で表現した、実質的に全く同一の動画を公開しているが、これに対する申し立ては、すでに取り下げられている。矛盾した申し立てを、自ら取り下げることなく放置しているのは、自称権利者として、その義務を怠るものである。同一動画でありながら、HD解像度の動画だけが、NAXOS Americaが保有していると自称する権利を侵害しているとの申し立ては、不合理である。
 映像著作物の音声部分にだけ排他的権利を有するとの申し立ても、妥当な根拠を持たない、不法なものと理解する。」

 当論議に直接関係しないが、当動画に関する事情を、知る限り追記する。
 当動画は、フランス・ブリュッヘンが、1998年に18世紀オーケストラと共に来日した際の演奏を収録したものである。フランス・ブリュッヘンの発言として伝えられるところでは、モーツァルト レクイエムの演奏については、模索の段階であり、自身の表現として最終的な物ではないので、他の曲のように当面の決定版ではなく、CD等で発売することは許可しない、との意思であったという。また、来日の各地での演奏は、都度、演奏の構成、展開が異なっていたという。
 ここに動画として公開しているのは、NHKが収録しテレビ放送することを許諾された番組を、一視聴者として録画し、その一部を、出典を明記した上で部分的に公開したものであるが、知る限り、再放送等されていないものである。
 そのような言明に反して、GlossaからCDが発売されているが、これは、フランス・ブリュッヘンと親交があり、当該来日公演を推進した方が亡くなったので、追悼の意味で、例外として許可したと聞いている。
 Naxos Americaが、誰からどのような許可を受けて、そのように特別の意義のある音源を、一般消費者に対して告知することなく(と推定する)ダウンロード販売しているのか、不可解であるフランス・ブリュッヘンの生前の意思に反するのではないかと危惧する。
 Glossaは、NHKと契約した(?)際に、ライセンス転売や二次ライセンスの可否について取り決めをしていると思われるのだが、当事者以外には不可解である。

 その際、番組制作したNHKからどのようにして音源が提供されたものか不明であるが、CD音声の周波数分布を確認した限りでは、FM放送の特有の「バースト」が収録されている。収録音声の複製ではなく、FM放送用の加工したテープの複製、ないしは、FM放送の受信収録(エアチェック)のいずれかと思われる。この点、若干不可解である
 また、Glossa制作のCDは、ノイズリダクションが過度に施された音声と似た、独特の周波数分布であり、聞く限り、違和感があるが、このような音声トラックをフランス・ブリュッヘンが発売許可したことが不可解である。
 いや、厳密に言うと、持つか申し立てを行っているNaxos of Americaが販売している「音源」の内容は知らないので、あるいは、NHKから、原テープの複製を入手している可能性もゼロではないが、表明されていないので、そうではないと仮定して進める。

 Naxos of Americaが保有している権限が不可解というのは、こういうことである。
 確かに、収録された映像+音声に関して、指揮者の承認は必要であろうが、著作物としての「映像+音声」に関する著作権、日本国内法で言う著作隣接権は、現在もNHKが保有しているはずである。「はず」というのは、フランス・ブリュッヘンとNHKの間で、当演奏の実況録画の放送に関してどのような契約が交わされているか不明だからである。NHKが保有している著作隣接権に対して、特別な条件が付いている可能性はある。

 いや、元に返ると、NHKが制作したのは、テレビ番組とFMの2番組であった。Glossaに対してCD制作が許可されたのは、FM番組に基づくものに限定されたものであったのかも知れない。とはいえ、CD制作会社に、映像付き(動画形態)のライセンスを許諾するはずがないので、Glossaは、映像作品としての権利を持っていないと思われる。

 つまり、管理者と自称するNaxos of Americaは、CD音源に関するライセンスをGlossaから順当に継承したとしても、当申し立てを行う権限を有していないものと思われる。

 以上を総合して考えるに、YouTubeが、NAXOS Americaの主張を、妥当なものか審査することなく採用して、YouTube動画作者に対して、その「不法な」言い分を取り次いでいるのは、不合理な所行だと思うのである。少なくとも、現時点の日本国内法では、著作権侵害行為の摘発は、権利者のみが行いうるものである。YouTubeは、実質的に、著作権を保有していない第三者でありながら、法的な摘発に等しい行為を行っているものである。

 「管理者」側は、企業として活動している以上、著作権に関して造詣の深い「弁護士」と相談して対応することが可能であり、また、売り上げの一部をプールして、著作権に関する法的な対応に投入することか可能である。方や、われわれ一般市民は、知識が限定されていて、資金的にも、時間的にも、対応困難である。してみると、目下、YouTubeが行っている著作権管理制度は、弱者に対する支援を怠っている不公正なものだと考えるのである。

以上

2015年12月 7日 (月)

今日の躓き石 一塁ダイビング再論 

                                   2015/12/07
 当ブログ筆者は、子供の頃のゴムボール(軟庭球)/竹バット/三角ベースの路地裏ゲームを除いて実技経験がなく、もっぱらテレビ観戦の野球論なので、素人談義に見当違いな点があったら、申しわけないが、ご容赦いただきたい。

 今回、ここに書き出したのは、あるプロ球界の人気者が、契約更改の場で、球団と意見が合わず、メディアに不満を漏らしたという記事による。

 当人は、ペナントレースの実戦で、一塁にヘッドスライディングしたときに手を痛め、欠場したことを公傷として評価して欲しいと主張したのに対して、球団は、打者走者の一塁ヘッドスライディングは、球団として推奨していない(本来は、禁止と言いたいところか)のであり、そこでけがをするのは、本人の不注意によるものだから。欠場は欠場としてマイナス評価する、と言ったものであったらしい。球団の主張は、選手の言い分になっているので、正確かどうかは不明である。

 かたや、ファンの視点からすると、原因は何であれ、人気者が欠場する試合は、興味半減、球団の視点からすると、そのような試合は商品価値半減であり、共に、ここに登場した人気者の当年シーズンの「不活躍」には、大きな不満を抱えているのである。

 素人の意見が続いて恐縮だが、打者走者が、一塁にヘッドスライディングすると、加速しながら駆け抜けるのより遅いのは、周知の事実である(と思う。以下、大半の文で「と思う」を略す)。
 また、打者走者の一塁への走塁には、二塁、三塁のへの走塁と異なり、オーバーラン防止やタッチ回避の狙いがないのだから、そもそも、実用的には、一塁に向かってヘッドスライディングする必要はないのである。

 打者走者が、あえて一塁に飛び込む目的は、公言はされていないが、一つには審判の目くらましと思う。

 打者走者がヘッドスライディングすると、一塁塁審は、打者走者の両手のいずれかが触塁するのを懸命に目視確認せざるを得ず、また、手での触累は大して音を出さないから、聴覚で補うことができないのである。ずっと目で見ていて、いつ触ったか見て確認することを迫られる。注意が分散するので、誤審が起こりやすくなる。そう考えているのではないかと勘ぐりたくなる。

 そして、誰の目にも明らかなのは、スタンドプレーである。
 プロスポーツは、見せるもの、観客を楽しませるものなのだから、ショーアップするのは、別に悪いことではないというものである。

 ヘッドスライディングは、危険なプレーであり、あえて、打者走者がヘッドスライディングする以上、セーフにしてやりたいという願望が、観客の間に広がるのである。言わば、世論の後押しで、誤審を誘おうというのである。

 プロの審判が、明らかなスタンドプレーに影響されるとは思わないが、観客に与える心証は大きいものと思う。

 尊敬するプロ選手のすることであるから、高校野球などで、こうした無謀なプレーを真似するのが、しばしば見られるのである。

 私見であるが、一塁へのヘッドスライディングは、本来不必要なのだから、無用の危険なプレーとして、ルールで禁止したら、子供達がまねしてもいい、安全な野球が行われるものと思うのである。

 米国プロスポーツ界では、フィジカルコンタクトのある暴力的スポーツが好まれ、そのために、MLB(メジャーリーグベースボール)は、本来、ルールの精神から言って推奨されない、走者のホーム突入時のキャッチャーとの交錯(衝突)とか、内野ゴロで二塁封殺される一塁走者が二塁へのスライディングの際に、併殺防止のために、二塁ベースを時には大きく離れた内野手の脚をめがけて引っかけるようにスライディングする技とか、「汚い」、危険な、フィジカルプレーを密かに賛美していたように見え、日本でも高校野球にまで悪影響を及ぼしていたが、かつて米国一国の国技出会った時代から国際化していく発展に影響されてか、そのような不法なローカルルールは、消えていく定めにあるようである。

 ここに、一介の素人は、一塁へのヘッドスライディングは、なくすべきと主張するものである。

 末筆ながら、当該選手に対しては、中国語で「小心(日本語て細心、慎重の意味)との忠告を献じたい。日本語で言う「無事これ名馬」であって欲しいし、来シーズンは、「一陽来復」で所属チームの日本一に貢献することを期待しているのである。

以上

今日の躓き石 あかつきのごねんぶりのふくしゅう

                                  2015/12/07
 今回の題材は、毎日新聞大阪3版の夕刊記事だが、とかく粗雑な言葉遣いの出てしまうスポーツ面ではなく、堂々たる社会面である。また、今回のタイトルは、意識してひらかなにしているのだが、中身は、大人向けの意見である。

 あかつきは、金星周回軌道に再挑戦する探査機である。当報道は、本来、めでたい記事なのだが、署名者のように言葉遣いに無頓着な記者に、濡れ衣ならぬ血塗られた見出しをかぷされては、当事者が気の毒である。

 署名者自身、記事内で「五年後の再挑戦」と言っているし、記事中には、再挑戦という単語が再三登場するから、署名者の脳内辞書には、「リベンジ」=「再挑戦」と言う、曲芸的な言い換えが定着しているらしい。見出しででかでかとかき立て、記事の冒頭に再度言い立てているのは、辞書を引いても意味のとれない、粗製濫造のカタカナ語である。またかとばかり、一般読者の多くの嘆きが想像される。
 ただし、粗雑なカタカナ語遣いは、それ自体全国紙の報道姿勢の退嬰・退廃を物語るものである大きな難点であるが、校閲部門も意識しているだろうし、当ブログ記事の主眼ではないので別に置く。
 ここで問題なのは、これは、不適当なことばを人目にさらす、希少、かつ、美しくないはやし立てであって、全国紙がいたずらに悪用例を普及させるべき物ではない、むしろ、積極的に廃語にすべきものである、と言うのが、当ブログの筆者の持論主張である。全国紙の廃語への最大の貢献は、絶え間ない「不使用」である。

 ここで言いたいのは、勝敗に関係なく、切った張ったにも関係のない、平和な世界に、何で、こんな野蛮な言葉を持ち込むのかと言うことである。
 現代の最大の問題点は、紛争地域において、時には後方の市民生活領域において、繰り広げられる「復讐」の連鎖であることに異論は無いものと思う。
 ここまであげつらっているスポーツ界(および将棋界)での用法は、たいてい、勝敗がらみの「雪辱」の言い換えであるが、それもたいていは、力不足で負けただけであって、別にだまし討ちに遭ったのに仕返しをしているわけではない。
 メディアを含めたスポーツ界は、総じてこのような不適当な言葉を使わない方向に動いているものと信じている。

 周知の事象として、宇宙戦争を題材にした映画シリーズ「スターウォーズ」の一篇が、かつての「ジェダイの復讐(Revenge of the Jedi)」なる不穏当なものから、経済的に莫大な損失をものともせず、「ジェダイの帰還(Return of the Jedi)」に改善された例もある。
 署名者は、何を好んで、場違いな記事に、野蛮な言葉遣いを持ち出すのだろうか。

 加えて、ここで見出しに使われている言葉遣いは、そのような悲惨な事態を茶化しているから、一段と悪質である

 毎日新聞の社会面であるから、全国紙夕刊に掲載され全国に報道された不用意な言葉遣いは、多くの若者達、子供達の未来に大きな傷を残すことになるのである。責任重大である。この点、またもや、関係者の自覚を促したいのである。

 それにしても、毎日新聞の言葉の守り人である校閲部門は、この点に気づいていないのだろうか。多分、当閑散ブログは眼中にないのであろう。

以上

2015年12月 6日 (日)

今日の躓き石 揺れる「自由席」

                                       2015/12/06
 今回の題材は、毎日新聞大阪第13版のスポーツ面記事であるが、「記者」の筆になる物ではなく「自由席」と題された署名コラムである。
 いや、書いたのは、スポーツ欄の記者かも知れないが、客観的な報道の視点ではなく、私見を述べ立てたものであると見た。ただし、スポーツ面記事として掲載されているので、ある程度は、毎日新聞社の見解なのかも知れない。随分立派な場所なのである。読者の投書だったら、滅多なことでは、ここで批判はしないのである。

 さて、当コラムの意義に不審を感じるのだが、コラム筆者は、「CS」廃止論をぶっているのだろうか。どこが不満で、どう変えたいというのか。読み取るのが困難であった。(伝統的な日本語では、わからんと言う真意である)

 CS開催によって、一般スポーツファンなど、Jリーグファンの中核部以外の観客、視聴者の興味を引いたのだが、それは、意味のないことなのだろうか。実力本位の真剣勝負の年間レギュラーシーズンが、クライマックスに向かって盛り上がらない、そこに、不安を感じて、こぞって新設したのではなかったか。背景を含めて、功罪を論ずべきではないのか。
 そして、短期決戦の真剣勝負は、広く関心を呼んだと思うのである。

 さて、書き出しでリーグ戦34試合の最高成績を収めたチームがリーグチャンピオン(年間王者と呼ぶのではないのかな)を勝ちとったことについて、ぶつぶつ愚痴をこぼしている。順当な結果に終わって良かったのか、良くなかったのか。不吉な切り出しである。

 そして、意図不明な広島礼賛が続く。これは、同一紙面の別の場所で展開される(知っているはずの、正規の)スポーツ欄記事で語られるべきものであり、字数の浪費以外の何物でもない。書くべきは、重複した広島の美点列挙ではなく、コラム筆者が、どんな論点で、何を主張しているのかというコラム本論である。
 それにしても、美点は美点、勝敗は勝敗である。相撲界の横綱審議会のように、有識者の意見で、年間チャンピオンを選定したいというのだろうか。

 さて、段落が変わって、「不公平感」があるとおっしゃる。「感」と言って個人の感想を吐露しているだけと逃げているので、普遍的意見として押しつけるものとは思わないのだが、そのあとに続く言い訳は、冒頭の議論と相反している。
 CSの各チームは対等の条件でないとおかしいという口ぶりである。この部分では、試合間隔などで、年間勝ち点第一位は考慮すべきでないと言う意見と見たが、それでは「感」無しの不公平である。
 なぜ、年間勝ち点第一位チームが「アドヴァンテージ」無しに、一度敗退して、コンソレーションから這い上がってくるチームと同じ立場で戦わなければならないのか。
 更に言うなら、番狂わせは、大きな逆境を乗り越えるからこそ意義があるのであり、年間勝ち点第一位チームに挑戦して乗り越えことが許されるのである。いくら、「棚ぼた」が珍重されるご時世でも、対等の条件で「下克上」しては、「優勝」の値打ちが地に落ちるだけである。
 物知らずで申し訳ないが、どこかの世界には、栄冠に輝くチャンピオンとチャレンジャーが対等の条件で戦うタイトルマッチがあるのだろうか
 それにしても、第2戦のホーム開催の優位性だけでいいとは、何を根拠にしているのか不可解である。

 そして、ますます不可解な結びである。
 コラム筆者の所見なのか、不可解なタイトルと相俟って、「優勝三つ」の不思議、つまり、本来意義の異なるものを、無造作にごたまぜにした「前期」「後期」「年間チャンピオン」と優勝が三つと、勘違いとも偏見ともとれる不可解な言い放ちである。
 
本日のスポーツ欄を見る限り、優勝回数としてカウントされるのは、「年間王者」ではないのか。
 
ここで、一読者にとって不思議なのは、ここに記事を書けるほどに評価されている記者であるはずのコラム筆者が、専門家でありながら用語を混同している、と言うか、混同を煽りたてていることである。

 そのあと、現行制度には「無理」が生じる、と結論づけている。

 人気商売で成功するには「無理」はつきものである。だから、関係者一同、当然の帰結は、あらかじめ、全て承知の上で、大局的な見地から、CS制度新設(部分的には復活だが)したと思うのである。

 冒頭の不審「感」に戻るのだが、コラム筆者は、読者に対して何を訴え、何を変えたいのか見えてこないのである。その原因の大きな要素は、コラム筆者の「自由席」が大きく揺らいでいるのである。記事を自身で読み返して、視点が揺らいでいたら、何処かに記事の狙いを定めて、脇道は割り切るべきである。
 全国紙の紙面を任されて、意見を述べるのは、何処かの飲み屋でくだを巻くのとは違うのである。統御無しにぐずぐず言わずにいられないのだったら、自分のブログででも、聞き手を探すべきである。当ブログの筆者は、そうしている。

以上

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