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2016年2月26日 (金)

私の本棚番外 「邪馬台国徹底検証」 サイト批判 2/2

                         2016/02/26

 邪馬台国徹底検証 (http://kodai21-s.sakura.ne.jp/index-3.html)
 謎を解くカギは中国の史書にあった
 <三国志魏書(魏志倭人伝)Ⅱ>
 三国志魏書 (2)

承前

*采物異同論
 ここで、当サイト筆者は、ずばり、「景初2年の詔書にある、目録の品々と正始元年の品々は、全く異な」ると断定します。

 しかし、倭人伝の記事を逐一読んでいくと、両者で、「金印紫綬」は「印綬」と略されているものの「詔書」はずばり整合しているし、下賜物も、、「金、帛、錦、罽(毛織物?)、刀、鏡」がピッタリ整合しています。それ以外の下賜物は、長々と重複列記するのを避けただけで、諸々の「采物」と総称されているとみるべきではないでしょうか。
 このように、倭人傳という一級資料に丁寧に書かれているのに、「全く異なる」と思い込んで力説するのは、「全く正しくない」と見えます。

 むしろ、両記事は、ほぼ完璧に整合しているとみるのが普通ではないかと思います。そりゃそうでしょう。これほど近接した文章間で整合していないと、歴史の専門家でなくても一目瞭然のデタラメという奴であり、何を見て書いた、誰が編纂したと非難を浴びることになります。

 それにしても、当サイト筆者は、詔書の読みときの部分で、罽をケイと書き換えていながら、後段では、毛織物と翻訳して、それでもって、互いに違う、違うと称するのは、どんなものでしょうか。これが、自説に沿わせるための改竄読み替えでないとしたら、どう言えばいいのでしょうか。

 因みに、当ブログ筆者は、歴史の専門家でなく、一介の素人ですが、下賜物後送論者であり、当サイト筆者の声高な罵倒の火の粉が飛んでくるのである。いくら控え目にしていたくても、身に降る火の粉は、払うしかないように思うのです。

*魏朝皇帝拝謁
 ついでながら、当ブログ筆者も大いに反対している、世にはびこる景初三年説への攻撃として、使節が皇帝に拝謁したような読みを披瀝しているのは、どんなものでしょうか。
 倭人傳を一字ずつ追いかけて押さえればわかるように、そこには、皇帝の詔書が出されたと書いているだけで、皇帝に拝謁したとは書いていないのではないでしょうか。

 魏朝皇帝、つまり、明帝ないしは後継の皇帝曹芳に拝謁したというのは、定説派によくある、資料から遊離した勝手読みであり、これでは、どっちもどっちです。定説派が、自説の通りに読めるように、言葉を付け足している(改竄している)読み下し文に頼ると、改竄解釈を支持しつつ、小手先の反論を唱えているようで、当サイト筆者の論調から外れているように思うのです。
 論戦がダブルノックダウンでは、勝者無しであり、読者の信用は得られないと思います。

*余談
 それにしても、皇帝が重病でも、皇帝代理の指示で、皇帝のハンコを預かっている高官が代理決裁して、詔書に皇帝印を押すことは可能である。そうでないと、皇帝が執務不能になると国家の活動が全て停止する不合理になってしまうのですが、皇帝制度が長年続いている中国古代国家では、非常事態には、非常事態なりの対処法がルール化されているもののように思います。
 因みに、捨て台詞のように、皇帝の詔書をいつ、誰が書いたという疑問が提示されていますが、それは、おそらく司馬懿からの上申書が京都洛陽に届いた時点で、皇帝、ないしは、代理決裁者が、対応の大筋を決めていて、それにふさわしい詔書起草を指示しているはずです。当然、皇帝周辺には、司馬懿の代弁者がいて、当人不在でも、司馬懿の望む政局運営がされているはずなのです。

 推定としても、皇帝名の詔書は文書管轄高官のもと、おそらく多数保存されている先例を参照しながら、専門家の手慣れた筆で、早々と草稿ができたはずで、これに対する皇帝の承認は、既定路線に沿った上申なので、特に停滞せずに裁可が降りたでしょう。
 極端な話、使節が、洛陽参上の途上でうろうろしていたとしても、その辺りの事務的な手順は、早々と進んでいたはずです。
 事務的と言えば、使節に対する下賜物も、おそらく、司馬氏陣営で稟議書を書いて、直ちに皇帝の承認を得て、倉庫の棚卸しに入っていたはずです。下賜品の絶大な品揃えを見て、これは、とても、使節の少ない人員で持ち帰れないことも推定できたはずです。遙か後世の素人でも、小ぶりの後漢鏡であっても、銅鏡100枚を少人数の倭国使節が持ち帰れるはずがないのです。

 中国は、少なくとも、秦王朝時代以来、詳細な規則とそれを熟知して実行する無数の官僚が支えている国家ですから、皇帝が元気だろうが、病気だろうが、日常の雑事は、機械仕掛けの大時計のように、着々と進むものです。
 また、伝えられる曹操の行政改革で、魏朝領地の隅々から洛陽の曹操のもとに多量の報告書類が、規定の日数で必達される制度が確立されていたので、明帝の麾下においても、司馬懿からの上申は文書伝送(メッセンジャー)特別便で届いていたはずです。曹操門下の優等生、司馬懿に、抜かりはないはずです。
 曹魏という中国古代国家の事務処理能力は、決して侮ってはならないと思うのです。

 最後に、資料確認を離れて、個人的な推定を述べてしまったことをお詫びします。

以上

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