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2016年2月

2016年2月29日 (月)

今日の躓き石 NHKの誤訳汚染 mentally and physically

                                2016/02/29
 今日は、朝から、スキージャンプ女子W杯中継(再放送)であるが、二回目が開始する前に、目下、故障で参加できずにいる、W杯初代チャンピオンのインタビューが放送された。
 今年後半にならないと、ジャンプ練習ができないと言うことで、完全復活は来年かとも思われる。残念な話であるが、順調な回復を祈るものである。

 さて、その際、目下のチャンピオンについて意見を求められて、mentally and physically strongとコメントしていたのだが、字幕では、「メンタルもフィジカルも」強いと誤訳されていたのは、NHKBS1の放送として、大変情けないものがある。
 ちゃんとした英語教育を受けた大人のアメリカ人が、日本式のカタカナ語を喋るはずはないのだが、無頓着な翻訳者にかかってカタカナ語患者にされてしまい、一般視聴者に、アメリカ人なのに意味の通らないカタカナ言葉を喋ったと理解されては、気の毒であるし、逆に、アメリカ人が使うちゃんとした言葉と誤解されて、カタカナ語汚染が広がるのも、また弊害が絶大である。これは、多重化した「誤訳」である。

 それにしても、physically strongは、元々英語になかったはずだが、スポーツジャーナリズムが、mentally strongなる、珍妙な言い回しをはやらせてしまったために、strongの前に物理的、身体的という意味のphysicallyを蛇足する羽目になっている。気のせいか、選手の語りが一瞬言いよどんだようでもあった。多分、嫌いな言い方なのだろう。

 因みに、mentally strongは、勝ち気、負けず嫌いの一面はあるにしろ、目下のチャンピオンが談話で触れているような、自身の技術面の不出来を冷静に観察して、速やかに修復する、したたか、かつ、知的な心の持ち方を言うものではないだろうか。確かに、strongと言ってもいいのだろうが、形のない、数値化できないものを体の強さと対比させるのは、本来無理ではないか。

 そして、日本語に戻るが、「メンタルもフィジカルも」というのは、競技、分野によって、大きく意味が異なるし、個人差も大きい。スポーツジャーナリズム全体として、言葉の本来の意味がわかっていないジャーナリストが、その場その場でいい散らかしているように思う。
 と言うことで、NHKは、公共放送の任務を負う報道機関であるから、発言者の意図が視聴者に伝わらない報道姿勢は、改めるべきだろう。

 適訳は、「心も体も強い」というところだろうが、「心」が強いというのはどんなことなのか、問い返すべきではなかったろうか。記者が、自身の競技観で勝手に納得して対話をせき止めてしまわず、視聴者に代わって問い返して、一流選手が、どのような心の働きを「強い」というのか、「一流の競技観」を知りたかったものである。

 以前、カーリング女子チームの外国選手評として、まず、「からだがデカい」、「すごく気が強い」、という指摘があって、続いて、「困難な形勢では、一段と闘志が湧いてきて形勢逆転のプレーを編み出し」、それが、「どんなに困難なものであっても、ずばり通してくる、素晴らしい技術を持っている」、と絶賛していた。
 そんな相手のいるチームになぜ勝てたのかと聞くと、相手は、複数の選択肢があるとき、失敗の可能性が高くても、高得点の得られる、技術的に高度で困難なショットがあれば、安全、確実に得点するショットで安全勝ちを狙うのではなく、なく、リスクのある方を選ぶと知っていたから、そういう形になるように進めたところ、日本チームにとって幸運なことに、スーパーショットが逸れて、勝つことができたという談話であった。
 してみると、カーリングに於ける強さというのは、局面を冷静に先読みし、相手の性格も配慮して、勝つ可能性のある形を作るところにあるらしいと言うことが見えてくる。カーリングは、メンタル(知的)スポーツだという気がするのである。

 どちらも、NHKBS番組なのだが、今回は、選手と視聴者の間で、言葉の流れをかき乱す"discommunicater”になっていたのは、大変な残念と言いたいところである。

 できの悪い、見当違いのカタカナ語は、是非とも、「撲滅」して欲しいものである。

以上

2016年2月28日 (日)

私の本棚 番外 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける その2

 卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す PHP新書 2015/1/16
   私の見立て☆☆☆☆☆ 単なる虚妄の書        2016/02/28

*前置き
 前回記事に続いて番外としたのは、講読しての書評でなく、書名に対する突っ込みだからである。営業妨害目的でないのは、見て頂ければわかる。
 苦言は最良の助言であると信じるからである。
 ただし、依然として、乏しい資金で買い整えて、乏しい老生の余生の一部を裂いて読もうという気にはなれないのである。

*海路という妄言
 今回は、無造作にタイトルで言い立てている「海路」の話である。
 こと、古代に限るとして、言葉としての「海路」は「なかった」のである。
 いつもお世話になっている「中国哲学書電子化計劃」サイトにデータ保存されている万巻の漢籍の全文検索で、「漢代以後」、「魏晋南北朝」と言う時代期間を通じて、「海路」は、一度しか登場しない。
 しかも、どうも、「海」上行「路」という意味ではないようである。

《管子》    [戰國 - 漢 (公元前475年 - 220年)]    《度地》   (公元は、日本語の西暦)
4    度地:   
 桓公曰:「當何時作之。」管子曰:「春三月,天地乾燥,(中略)
 當秋三月,山川百泉踊,雨下降,山水出,海路距,雨露屬,天地湊汐,利以疾作,收斂毋留,一日把,百日餔,
 以下略

 素人の乏しい知識で読み解こうとしたが、中国春秋時代の覇者齊の桓公(紀元前7世紀の人)が、宰相であった管仲に、農作業、おそらく種まきに好適な時期を問いかけ、管仲が応えたようである。
 大筋としては、春三ヵ月、夏三ヵ月をそれぞれ吟味して却下した上の意見で、秋(陰暦)の三ヵ月はは、雨が多く、山中から数百の泉が山地から湧きだし、川となって海に向かって流れ下るので、(齊国では)農作業に最適、と言うことのようである。余談ながら、「山水出」の三文字は、なかなか縁起の良い文字遣いであると感じる。
 ということで、管仲の言葉として「海路」と書いているのは間違いないが、別に、大海に船出する話ではないようである。
 春秋時代の齊国は、山東半島を含む長い海岸線を持った大国
なので、当然、沿岸航路を航行する交通は、結構活発であったはずだが、お殿様達の「海路」談義は、この程度である。

 それはそれとして、なぜ、「海路」なる言葉が存在しなかったかというと、当時の海上交通は、潮任せ、風任せで、まるであてにならず、また、航行の際の進路を定めることもままならなかったので、「路」と呼べなかったからではないかと思われる。

 これが陸上の「道」、ないしは「路」であれば、出発点と到着点が明確であり、その間の道里と日数も、徒歩の場合と車両の場合、それぞれが明確なのである。また、行程が1,2日程度を越えた長丁場であれば、途中に宿駅があり、毎日、睡眠と食事をとっては、また旅を続けるのである。
 当時の海上航路には、そのようなものはなかったから、「海路」と呼ばなかったのではないか。

 と言うことで、本書に対する批判をもう一つ積み上げると、「海路」はなかった、と言うことである。中国になかったからこちらにもなかったというのが、早計というなら、反証を示していただきたいものである。
 言い過ぎたら、反駁されるのが当然と覚悟している。ただし、当方は、無報酬で書いているので、その点は、斟酌いただきたい。

 どうも、基本的なところで、これほど大きな見解の相違があっては、著者のご意見に耳を貸す余裕は生まれないのである。

以上

2016年2月26日 (金)

私の本棚番外 「邪馬台国徹底検証」 サイト批判 1/2

                          2016/02/26
 邪馬台国徹底検証 (http://kodai21-s.sakura.ne.jp/index-3.html)
 謎を解くカギは中国の史書にあった
 <三国志魏書(魏志倭人伝)Ⅱ>
 三国志魏書 (2)

 個人サイトの記事を批判するのに言い訳がまた必要になりましたが、当サイトには、当ブログ筆者の解釈と真っ向から衝突する議論が書かれていて、当方の解釈と似通った解釈が、改竄として罵倒されているので、反論させていただくのです。

 まず、例によって、基本的に当サイト筆者の、大局的な主張には批判を加えないこととします。なにせ、一介の素人には、大々的な反論に必要な知見も、自信もないので、無理はしないことにします。
 と言うことで、ここでは、もっぱら、極力、サイトの同一ページに書かれている内容とそこから直接導き出される議論に的を絞ります。

詔書の用語確認
 「卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けています。この部分は、わが国の古代史にあってはあまり話題になっていないようですが、極めて貴重なことが述べられています。あるいは、ここの部分をどう認識するかが、わが国の古代史を理解する上で、その試金石になるとも言えます。
 つまり、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことが、認識できるかどうかということです。
 ここでは、魏の使者が、わざわざ倭王の所まで出向いています。そして、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。
 卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしています。あくまで、魏が下賜するという視点となっています。」

不審な解釈
 余りの騰勢に、えっと、首をかしげます。調子が良すぎるときは、しっかり読みなおしないと、年寄りの本能が告げるのです。
 つい先ほど、当サイト筆者の引用する倭人伝記事に、
 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
 と書かれていたばかりです。

 つまり、東夷であっても、親魏倭王と敬称をたてまつられている「女王」に面会しようと参ずるときには、魏の使者は「詣」と言うのでしよう。あるいは、魏使編纂者である陳壽の語法でもあるかも知れないのですが、陳壽は、尊大に資料に手を入れる人ではないのです。魏朝として、使節は、倭王の上席に立つとまでは言わないようです。

 一方、魏朝皇帝の詔に現れる、やや見下したとされる『汝』、『哀』ですが、皇帝の言葉としては、見下すのが当然でしょう。
 『汝』は、皇帝の使う標準的な第二人称ではないか、とか、『哀』に付いても、それほど見下したと言うほどではないのではないか、等々深い問題なので、素人としては、正確には、わからないと言うしかないのですが。

礼節なき遣使
 ここで、当サイト筆者の意見に従うと、正始元年の魏使は、「わけもなく」、「倭王」(女王でなく)の所まで出向いていることになり、「わけもなく」皇帝の詔書を持参したことになっています。そして、直前に朝貢を受けたわけでもないのに、「わけもなく」結構な下賜物が出ていることになります。そのわけは、書かれていないのです。
 当サイト筆者の読解では、景初二年の使節に詔書と下賜物を持たせて送り返して、大々的に答礼しているので、儀礼の交換は済んでいるのではないかと思われます。

 それにしても、寡聞にしてよく知りませんが、中国歴代王朝で、臣下と言うべき異国に、答礼でもないのに、高価、大量の下賜物を持たせ、詔書を持した使節を派遣した例があるのでしょうか。これでは、魏朝皇帝が倭王の臣下となってしまうように思われます。天子と夷狄の間の礼節原理に反しているものと思います。

 ついでながら、使節の上表書で、倭国が一種の連合国家であると謳われていたにしても、中国の正統王朝たる魏朝は、最初に遣使してきた王が全体を代表する正統な権利を持った最高権力者であると認め、だからこそ、「親魏倭王」、つまり、魏朝の権威によって、倭国の域内諸國に税務を課し、軍務を課し、労役を課し、反するものは魏朝の名の下に征伐せよ、との権限と義務を与えたと見るものであり、遣使してこなかった、正体不明の第三者に、それと同等の権威を認めることは、まず考えられないのです。

 こうして慎重に吟味すると、当サイト筆者の意見は、一級資料である倭人傳に順当な根拠がない解釈であり、改竄と言うより、創作に近いと言わざるを得ないように思います。

*景初二年異聞
 さて、当サイト筆者の意見の勝手な読み方の一つとして、景初二年「6月に訪問し、半年待たされたあげくに、また後で届けるから、とりあえず帰ってくれとなったのだそうです。」と、手厳しく非難していますが、倭人傳に書かれていない、時間経過を勝手に書き込んではいないでしょうか。

 倭人傳を淡々と読むと、景初二年6月に、使節が帯方郡に到着して、使節の希望として、(すぐにも)「京都洛陽に赴き魏朝皇帝に拝謁したい」と言ったように思うのですが、当サイト筆者は、大きく飛躍して6月に洛陽に到着したとでも思っているのでしょうか。実に、不思議な解釈です。
 帯方郡から洛陽まで、黄海を渡って東莱あたりの港に上陸し、戦乱の収まっていない遼東を迂回するとしても、使節一行には、2、3カ月を要したとしても不思議ではないと思えるのです。それだけでも、半年待たされたという推定と史料の読み替えは、合理的な根拠のないものになります。

 いや、戦乱の収まっていない、どころか、公孫氏の完全敗北は8月です帯方郡の然るべき人員が同行し、各地の通関で身分保障しなければ、不審のものとして、途中で止められる筈です。すぐにも、と言うのは、旅費の不安も含めてのことでしょうが、まさか、魏都洛陽が、帯方郡のほんの隣にあると思ってのことではないでしょう。

 それにしても、京都洛陽訪問にしても、帯方郡の高官が同行するからこそ、宿泊の心配も食事の心配もないのですが。ともあれ、洛陽まで、黄河(河水)を水行したとしても、通関の手間と食料の心配は、異国人だけでは解決できないのです。

 さて、時代環境を復習すると、このような東夷人使節を洛陽に届けるについては、公孫氏討伐軍の総指揮官司馬懿の承認のもと、司馬懿から洛陽への文書上申が必要であり、諸事多忙の皇帝への拝謁も、「アポ無し」の飛び込みとは行かないので、相当期間の事前予約など、丁寧な手配が必要なのです。

未完

私の本棚番外 「邪馬台国徹底検証」 サイト批判 2/2

                         2016/02/26

 邪馬台国徹底検証 (http://kodai21-s.sakura.ne.jp/index-3.html)
 謎を解くカギは中国の史書にあった
 <三国志魏書(魏志倭人伝)Ⅱ>
 三国志魏書 (2)

承前

*采物異同論
 ここで、当サイト筆者は、ずばり、「景初2年の詔書にある、目録の品々と正始元年の品々は、全く異な」ると断定します。

 しかし、倭人伝の記事を逐一読んでいくと、両者で、「金印紫綬」は「印綬」と略されているものの「詔書」はずばり整合しているし、下賜物も、、「金、帛、錦、罽(毛織物?)、刀、鏡」がピッタリ整合しています。それ以外の下賜物は、長々と重複列記するのを避けただけで、諸々の「采物」と総称されているとみるべきではないでしょうか。
 このように、倭人傳という一級資料に丁寧に書かれているのに、「全く異なる」と思い込んで力説するのは、「全く正しくない」と見えます。

 むしろ、両記事は、ほぼ完璧に整合しているとみるのが普通ではないかと思います。そりゃそうでしょう。これほど近接した文章間で整合していないと、歴史の専門家でなくても一目瞭然のデタラメという奴であり、何を見て書いた、誰が編纂したと非難を浴びることになります。

 それにしても、当サイト筆者は、詔書の読みときの部分で、罽をケイと書き換えていながら、後段では、毛織物と翻訳して、それでもって、互いに違う、違うと称するのは、どんなものでしょうか。これが、自説に沿わせるための改竄読み替えでないとしたら、どう言えばいいのでしょうか。

 因みに、当ブログ筆者は、歴史の専門家でなく、一介の素人ですが、下賜物後送論者であり、当サイト筆者の声高な罵倒の火の粉が飛んでくるのである。いくら控え目にしていたくても、身に降る火の粉は、払うしかないように思うのです。

*魏朝皇帝拝謁
 ついでながら、当ブログ筆者も大いに反対している、世にはびこる景初三年説への攻撃として、使節が皇帝に拝謁したような読みを披瀝しているのは、どんなものでしょうか。
 倭人傳を一字ずつ追いかけて押さえればわかるように、そこには、皇帝の詔書が出されたと書いているだけで、皇帝に拝謁したとは書いていないのではないでしょうか。

 魏朝皇帝、つまり、明帝ないしは後継の皇帝曹芳に拝謁したというのは、定説派によくある、資料から遊離した勝手読みであり、これでは、どっちもどっちです。定説派が、自説の通りに読めるように、言葉を付け足している(改竄している)読み下し文に頼ると、改竄解釈を支持しつつ、小手先の反論を唱えているようで、当サイト筆者の論調から外れているように思うのです。
 論戦がダブルノックダウンでは、勝者無しであり、読者の信用は得られないと思います。

*余談
 それにしても、皇帝が重病でも、皇帝代理の指示で、皇帝のハンコを預かっている高官が代理決裁して、詔書に皇帝印を押すことは可能である。そうでないと、皇帝が執務不能になると国家の活動が全て停止する不合理になってしまうのですが、皇帝制度が長年続いている中国古代国家では、非常事態には、非常事態なりの対処法がルール化されているもののように思います。
 因みに、捨て台詞のように、皇帝の詔書をいつ、誰が書いたという疑問が提示されていますが、それは、おそらく司馬懿からの上申書が京都洛陽に届いた時点で、皇帝、ないしは、代理決裁者が、対応の大筋を決めていて、それにふさわしい詔書起草を指示しているはずです。当然、皇帝周辺には、司馬懿の代弁者がいて、当人不在でも、司馬懿の望む政局運営がされているはずなのです。

 推定としても、皇帝名の詔書は文書管轄高官のもと、おそらく多数保存されている先例を参照しながら、専門家の手慣れた筆で、早々と草稿ができたはずで、これに対する皇帝の承認は、既定路線に沿った上申なので、特に停滞せずに裁可が降りたでしょう。
 極端な話、使節が、洛陽参上の途上でうろうろしていたとしても、その辺りの事務的な手順は、早々と進んでいたはずです。
 事務的と言えば、使節に対する下賜物も、おそらく、司馬氏陣営で稟議書を書いて、直ちに皇帝の承認を得て、倉庫の棚卸しに入っていたはずです。下賜品の絶大な品揃えを見て、これは、とても、使節の少ない人員で持ち帰れないことも推定できたはずです。遙か後世の素人でも、小ぶりの後漢鏡であっても、銅鏡100枚を少人数の倭国使節が持ち帰れるはずがないのです。

 中国は、少なくとも、秦王朝時代以来、詳細な規則とそれを熟知して実行する無数の官僚が支えている国家ですから、皇帝が元気だろうが、病気だろうが、日常の雑事は、機械仕掛けの大時計のように、着々と進むものです。
 また、伝えられる曹操の行政改革で、魏朝領地の隅々から洛陽の曹操のもとに多量の報告書類が、規定の日数で必達される制度が確立されていたので、明帝の麾下においても、司馬懿からの上申は文書伝送(メッセンジャー)特別便で届いていたはずです。曹操門下の優等生、司馬懿に、抜かりはないはずです。
 曹魏という中国古代国家の事務処理能力は、決して侮ってはならないと思うのです。

 最後に、資料確認を離れて、個人的な推定を述べてしまったことをお詫びします。

以上

2016年2月24日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞「柳に風」の不調 司馬遼太郎礼賛の是非

                                      2016/02/24
 本日も、例によって、唯一宅配購読している毎日新聞夕刊大阪3版の記事であるが、別に糾弾するつもりはない。先だってのように、経験豊富な編集委員が、自身の権威のもとに、これほど公的な場所でコンプライアンス違反の見解を押し立ているわけではないからである。単なる勘違いである。

 とは言え、夕刊編集長というご高名の割に、余りに「幼い」見解なので、ご意見申し上げるのである。
 「柳に風」の美名のもとに提示されているのは、頑迷な意見であるので、批判せざるを得ないのである。

 さて、今回の記事で、編集長殿は、司馬さん(敬称付きである)の大作「飛ぶが如く」と「坂の上の雲」を読んで、一も二もなく著者のご託宣に迎合してしまったようである。いや、正直そのまま表明しているのだから、別に何も批判すべきではないのかも知れない。しかし、夕刊編集長の名の下に、でかでかと書かれている「勘違い」、「早合点」、「浅慮」は、公器にふさわしくないものなので、正直に批判せざるを得ない。

 まず大きな勘違いは、上げられた二作は、「フィクション」であると言うことである。言うならば、作者の視点でこね上げられた小説(個人的見解)であって、別に、厳然たる「史実」として提示されているわけではない

 定説は定説、新説は新説、どちらも、濃い薄いはあっても、フィクションなのである。

 以下、「例えば」として得々と言い立てているのは、筆者の意見を傾聴する限り、司馬氏の自作のフィクションで古いフィクションにぶつかっているわけで、どっちもどっちである。新説を聞いて、定説を一気に捨ててしまうのは、知的な態度ではない。

 次に出て来るのは、記事筆者の要約であるが、どうにも短絡的な傾倒で、司馬氏ご当人が聞いたら辟易しそうである。

 西郷隆盛が、西南戦争で陣頭指揮をしていなかったので幻滅したようであるが、どんな幻想を抱いていたかは本人の自由として、西郷は、終始自軍と行動をともにし、最後は、(責任をとって)前線に乗り出して自決しているから、何も卑怯者、卑劣漢として非難すべきところはないように思う。なぜ、そこまで幻滅し、大声で非難するのかわからない。

 また、日露戦争の旅順要塞攻撃の頑固な強攻策は、前線指揮官乃木の裁量を超えた上部からの「強攻」、早期攻略至上の指示が原因であって乃木の責任に期すべきものではないと思う。
 司馬氏の世界観の影響力の余りの強烈さに辟易した小説家が、酸の大海にコップで中和剤を投入する意図で、他ならぬ毎日新聞に、乃木擁護の小説を連載したように思う。筆者は、愚将糾弾の情報しか読まないのであろうか。

 遙か後世になるが、太平洋戦争後半の山場、硫黄島の攻防で、米軍が、頑強な日本陣の攻略に、目を疑うような単調な攻撃で甚大な被害を出したことを見れば、こうした状況で、早期攻略を至上命令として受けたとき、軍人は、多数の人命の無駄としか見えない消費をもたらす強攻策にしか解決を見出せないことは、軍事戦略家の基本常識のように思える。少なくとも、米国司令官を拙劣、愚将とした非難は聞かない。

 当記事筆者は、司馬氏の深々とした洞察溢れる著作を、自身の理解力の赴くままに何とも単純な歴史観に読み替えたと言うことを、数百万読者に押しつける形で公開したことになる。

 それにしても、ご当人がここに連ねたブログ記事を読んで、反射的、感情的に全面拒否したら寂しいが、かといって、反射的、感情的に、ここに公開した見解が反転するとしたら、それも、恐ろしいものがある。

 

夕刊編集長殿の、強烈で、幅広い影響力を思うと、他人の意見は、話半分に聞いて、自身の考えを広く、深く形成して欲しいものである。

以上

2016年2月23日 (火)

今日の躓き石 焦点距離を「相当」にしたニコン「DL」に拍手

                                  2016/02/23
 今回は、躓いたと言うより、うれしくて立ち止まったのだった。

 カメラ業界のリーダー、ニコンが、新製品の装着レンズの品名に「相当」焦点距離を採用したのである。

 近年、デジタルカメラの画像センサーのサイズが多様であるため、採用されているレンズの焦点距離を見てもどんな視野角のレンズなのかわからない、とてつもなく困った事態が続いていた。

 当方は、一介の民間人なので、「L50」のようにLを前に付け、「ミリ」ヲ省略して、混同を避ける形で、ライカ版で相当の焦点距離を商品名に付けて欲しいと思っていた。撮影の際に視野角がどの程度であるか判断するのに、「銀塩世代」は、ライカ版で何ミリという数字で体感しているので、「相当」焦点距離が、一番頼りになるのである。

 ここで、「ライカ版相当」という言い方を前に出すと、猛烈な論戦が起きるようだが、すでに、誕生以来、一世紀を経た「事実上の標準」(de facto standard)なので、メーカー間でメンツ争いするものでもないと思うのである。

 また、技術的に潔癖な言い分としては、現実に、装着されているレンズの「焦点距離」は、工業界/工業規格で定まった焦点距離であり、ミリ表示すると、実焦点距離との誤解を招くと言うことで、使用品に表示するならこれしかない、ということだろうが、その結果、長く悪習が続いていたことを考慮すべきである。

 今回、カメラメーカーとして最古参であり、また、あらゆる面で業界リーダーと目されているニコンが、大英断をしてくれたので、惜しみなく賞賛の拍手を送るのである。一般消費者にとっては、長らく暗雲垂れ込めた世界に、春陽の日差しが当たった感じである。各社が、早急に追随することを希望する次第である。

 できれば、引き続き、悪習の撲滅、さしあたっては、ISO感度の野放図な多桁表示を何とかして欲しいものである。消費者の直観的な評価・判断を、ほぼ不可能とする悪習であり、かねがね疑問視しているものである。

 別に、業界リーダーでなくても、悪習を去り、革新を進めるよう提唱、推進はできるはずである。

以上

今日の躓き石 毎日新聞 負の継承 リベンジ汚染

                                                     2016/02/23

 

 いや、「無知に付ける薬はない」 (Ignorance is fatal.)。あるいは、「悪癖は骨身に染みつく」 (Bad pratctices die hard.Worst practices die hardest.) 手前味噌の造句なので、正しいという保証はない。自営筆者の細やかな特権である。

 天下の公器、毎日新聞朝刊で、でかでかと「リベンジ」の大見出しを見るとは思わなかった。朝刊大阪第13版のスポーツ欄である。世も末である。

 

 この記事だけで、スポーツ欄の担当記者が無知だとか、特別に言葉遣いに無頓着だと言うことはできないが、過去の事例を積み重ねていくと、ほとんど、それと言いたくなるような不手際が点々と露呈している。

 

 記事の題材は、広島カープの丸選手であるが、当人に責任がないのは言うまでもない。これまで避けていたのに、今回は、あえて、名前を出したのは、不適当な記事を書かれたと、ご本人に知らせたいからである。
 野球は血なまぐさい殺戮の場ではないし、反社会的団体のように「やられた」、「仕返しだ」の殺伐たる感情が支配しているはずはないし、まして、ISなみのテロ攻撃が横行しているわけではない。まして、「新聞紙」をタント売るために、けばけばしく言い立てるのは、全国紙のとるべき姿勢ではないのは、言うまでもない。

 

 全紙面で、スポーツ欄は、特に戦闘的な言葉が多いのだが、別に、ここだけ別の世界というわけではない。毎日新聞の一部である。ダブルスタンダードがあるはずがない。どの面に出ていようが、悪い言葉は悪い言葉である。「編集長」の責任である。

 

 担当記者の名前を出さないのは、度を過ごした個人攻撃にならないようにしたいからである。いくら署名入り記事でも、不適当な言葉が出ているのは、(分別をわきまえているはずの)上司と校閲部門の「大」失態である。担当者の勘違いが世に出ないようにするのは、こうした「言葉の護り人」の責任と考えているからである。新聞記事は、個人が書くものではない。組織の成果である。

 

 後世の人々に、この悪しき言葉遣いは、毎日新聞の支持のもとに広く蔓延した「エピデミック」と言われてもいいのだろうか。

 

 是非、ご一考いただきたい。

 

 宅配購読者としては、毎日届けられている新聞の中で、意に反して送りつけられた不適当な言葉を返品するすべがないので、こうして、人として言うべきことを言い連ねているのである。

 

以上

2016年2月17日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 迷走の果て 3

         私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17

承前

国生み神話に共通点
 その後に、「古事記」の国生み神話が引用されるが、はなから、「おのころ島」を架空の島と断じて慎重な姿勢を示しているのに、以下、大八島(洲?)については、現代の地図に照らして確定しようとする。首尾一貫しない御都合主義の態度である。

 日本書紀の12種類の国生み記事を踏まえて、こうした記述の解釈に議論が分かれている、と健全な発言をしながら、突然、自身の所説に馴染ませやすい古事記の記述を採り上げるのは、これまた、こじつけであり、不確かで多様な資料の中から、自分の気に入る資料だけを選別して採り上げるのは、科学的な態度ではない。記事筆者の思考の外れ方が思いやられる。

 自身の意見に合わせやすい一説に、自身の所説の修飾を施して勝ち誇るのは、まことに、非科学的な論法である。

 素人目にも、列記された諸島の比定で、大小の格差が著しいのは、不審である。

 大体が、当時本州島全体が一つの「島」と認識されたはずはなく、現代の「県」ですら、目の行き届かない巨大な地域である。

 素人目には、伊予二名島は、四国全体でなく、例えば、西方から接近したときの現在の松山市程度の狭い領域であり、筑紫島は、例えば、北方から接近したときの博多湾岸一帯であれば、首尾一貫するのである。どちらも全島一望とは行かないはずなので、「島」全体の名前とは思えない

 してみると、大倭豊秋津島も、せいぜい国東半島程度の領域ではないだろうか。古来、「豊」は豊前、豊後をあわせた領域、つまり、豊の国の一領域という意味と思える。

 「島」というと、地続きは半島であって島ではないとか、地理の教科書のようになってしまうが、当時の人々が、今日の全国地図や西日本地図のような確かさ、視野の広さで各地の地形を認識していたわけではないと思うのである。

 不確かな情報は、不確かな情報として扱うべきである。それが、科学的な態度である。

 因みに、タイトルで「国生み神話に共通点」と見出しで書き捨てているが「斉明西征の意味」に続いているので、これを主語として解釈するものなのだろうが、言葉としての意味が理解できない。 不確かな情報を断言するなと言うのは、言葉遣いを錯綜させて、煙に巻けばよいと言うことではない。

迷走の果て
 今回記事の結末には、あろう事か、「飛鳥と本州北端を結ぶ」とおおぼらが出て来るが、当時の「本州北端」がどこかという認識があったか、という問題以前に、この大地がどこまで続いているか、知っていたかどうか疑わしいのである。

 どうせ、妄想を言い立てるのなら、国後島北端とか、樺太北端とかを採り上げれば、歴史的に固有領土であった証拠として国際的に主張できるのではないか。本州北端とは、志の小さい話である。

 そこまでの距離と白村江までの距離がほぼ等しいというのは、2年後の海戦の位置を知っていたという主張であり、そこまで予知していたのなら、なぜ、2年後に予知していた敗戦に荷担したかと言うことになる。当時の最高権力者に対して、幻想・幻視に支配されていたと非難するものであり、不遜、不敬であり、ゆゆしき主張である。

 「斉明の西征の目的は、天皇の影響力を朝鮮半島に及ぼすことだった。」と突如断言しているが、大軍を率いて親征したのならともかく、瀬戸内を数ヶ月にわたって徘徊して、半島まで影響が及ぶと思った、根拠は何だったのだろうか。不可解である。

 ところが、突如理性に促されたか、「距離まで一致するのは偶然」としても、と譲歩しているが、何とも不可解である)というが、距離以外の何が一致しているのか、書き漏らしているので趣旨不明である。方角は、ご執心の線図から大きく外れている。

事実の報道
 個人の意見は個人次第であり、思想信条の自由に属する大事な権利であり、個人の意見を個人の意見として報道するのは、報道の自由に属するのだが報道機関は、個人の意見を自身の意見と混同させるような形態で報道すべきでなく、また、事実に反する報道は禁じられているはずである。

 当ブログ筆者の知る限り、毎日新聞社は、「正確な事実」の報道を信条としているのであるが、ここまでに提示したような不確かな推定を基礎として憶測を積み上げた「非科学的」記事を紙面に掲載するのは、どういう理由があるのだろうか。

 社内で、どのような過程を経て、事実の報道と検証して掲載したのだろうか。

 お伺いしたいものである。

以上 

毎日新聞 歴史の鍵穴 迷走の果て 2

         私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17

承継

地図の妄想-妄想の地図
 さて、肝心なのは、「地図の思想」である。筆者はしきりに現代地図を掲示するが、このような地図に基づく地理観を、古代に持ち込むのは、良く言えば軽率な誤解であり、悪く言えば欺瞞である。

 例えば、内陸奥地の奈良地区の起点から瀬戸内海沿岸近くの松山付近の地点に引かれた線は、四国東部では山中深くを通過していて、今日でも、この通りに陸行する方法はないと言える。
 まして、見通し圏外の遙か彼方の地が、この線上にあるかどうか、人の知覚では知ることはできない。
 仮に、現代人が、最新の光学測量機器をもってしても、見通し範囲内の測量を多数積み重ねて、何とか、それらしい精度の測量ができるかどうかである。0.1度とか、0.1kmとか、云々すること自体、極めて非科学的である。
 もちろん、衛星写真、航空写真などのデータや各地の三角点のデータを参照すれば、居ながらにして、紙面に掲示された地図のように直線を描くことができるが、そのような時代を超絶した「超絶データ」は、地上の観測者が独力で、と言う前提を外しても、全く時代錯誤となる。

 ちなみに、何らかの手段で、各測定地点での正確な方位を知ることができれば、測量精度を高められるが、いかに正確な機器を使用しても、実測する以上、各点での測定誤差の累積は避けられず、到達地点で数百㍍の誤差が発生しても不思議はない。書かれている地図は、全て、「超絶データ」を利用しているものであって、現代人が、距離計測、方位計測に誤差の少ない機器や物差し(例えば、誤差1㌫以内のもの)を使用し、測定者が誤差1㌫以内の高精度の測量をできた場合には、まあ、これにある程度近づけるとしても、ここにあげられているような古代人には、到底なしえないものである。

 そのような技法を検証することなく採用して、現代人の認識不足に任せて、勝手な論考を進めるのは、科学的な態度ではない。

 中学、高校レベルから学び直してみると、遙か後世のものが、自ら検証することを怠って、「直線に一致する」と放言するのは、不遜というか浅慮というか、とんでもない考え違いであることがわかるはずである。
 不確かなデータを一直線に引いて、それが「一致する」というのは、非科学的な幻想である。

未完

毎日新聞 歴史の鍵穴 迷走の果て 1

          私の見立て☆☆☆☆☆                       2016/02/17

 歴史の鍵穴   佐々木泰造 (専門編集委員)
                       斉明西征の意味
                       国生み神話に共通点     

 当記事は、毎日新聞夕刊の月一連載囲み記事であるが、当ブログでの批判記事は初出ではなく、これまでは、月一連載が出る度に「合わない鍵穴」と題して突っ込みを入れていたのだが、どうも、筆者のお耳に入っていないようなので、座り直して、書評を上げることにした。

 今回も、特にあたらしい突っ込みはないのだが、お浚いをかねて、批判させていただく。 

日本書紀崇拝
 まず、素人ながら気になるのは、当記事筆者は、「日本書紀」記事を「真に受けて」いることである。
 往年の大学者のように、日本書紀は全て事実の裏付けのない創作とまでは言わないが、こうして、論考をまとめる際には、どの程度信用すべきかの史料批判、内容確認はすべきと思う。当人一人の勘違いが、百万読者に、権威ある定説として伝わるのである。

女帝西征夢想
 今回の一連の記事は、斉明女帝の博多入り行程を取り上げているが、これほどの国家上げての大事業でありながら、ちゃんとした記録が書かれていないのには驚く。

 いや、当ブログ筆者は、守備範囲を離れて、日本書紀の原文を取り出して、記事の裏を取るような労力は取りたくないので、記事に書かれた内容を批判するのである。
 要約すると、当記事には、断片的な出発、到着の記事はあるが、女帝以外に誰が同行し、全体として、どのような陣容、人数が随行したのか、途中寄港地はどこだったのか、記事の要件が脱落した、断片的なゴミとみた。

 日本書紀編纂の際にも、編纂者は、当時存在していた資料を捨てて、あえて断片的な記事にしたとも思えないので、何らかの事情で、記録に不備があったとみるのである。
 それでも、記事として残さざるをえないのであり合わせの断片を継ぎ合わせたのだろう。
 当然、継ぎ合わせた元の史料が正確だったという保証はない極めて、疑わしい記事とみるのが、科学的な見方ではないだろうか。
 そうした断片的な記事の欠落部分を、後世のものが想像をたくましくして埋めるのは、科学的なものではない
 日本書紀編者に言わせたら、わからない、責任を持てない部分は飛ばして書いたのに、書いていないところを勝手に推定して、書紀記事を非難するのは、お門違いだ、とでも言うだろう。

 ここまでの連載記事で言えば、当記事筆者は、斉明女帝が、松山市付近に二ヵ月滞在したとしているのである。ここで「松山市付近」と「二ヵ月滞在」の二点は、それぞれ、いずれも根拠の乏しい憶測でしかない。それぞれ、史料での裏付けがあるわけではないとみた。
 それを、確実な事項のように考察の基礎に据えて展開されているのが、一連の記事であるから、きれいに言うと砂上の楼閣である。とても、科学的な論考ではない

 当記事の著者は、「二ヵ月滞在」したのは、「戦勝祈願」、「潮待ち、風待ち」、「日時待ち」などの理由があったのではないかと言うが、推定の事項に現代人の推定を重ねたのでは、もはや、憶測の極みとしか言えない。それは、科学的な論考ではない。

 素人考えながら、かりに業界の定説となっているとしても、「松山滞在」は、確実な史実とは思えない。確実に検証されない限り、不確かな推測である

 専門に調べたわけでもないので深入りしないが、知る限り、現地に地名は残らず、海岸沿いに古代良港の遺跡が見当たらないことから、どこか、別の場所と取り違えた可能性が高いとみている。先だって触れたように、斉明女帝の行幸先にふさわしい「行在所」(仮御所)らしき遺跡も見当たらないようだ。

反乱の的
 ここで、「行在所」というのは、最高権力者の滞在場所には、厳戒態勢が必要であるということである。つまり、「反乱」の可能性も踏まえてのことである。少なくとも、斉明帝の軍事関係者は、このような手薄な地点でに長逗留して合流部隊を待つことの恐ろしさを感じていたはずである。

 当時、まだ、誅滅された物部氏や蘇我氏といえども、各地の一族が健在だったはずだから、警備手薄とみて、来襲する可能性がある。
 また、大軍だったと思われる北部九州で待機している遠征部隊の動向も気がかりである。こうした臨戦態勢の部隊の反乱の恐ろしさは、周知の通りである。

 何しろ、国内的に反乱と言っても、半島を支配している「大唐」「新羅」に迎合して投降すれば、身分は安泰なのだから、この状況での反乱は、かなり成算の高いものと見えたはずである。
 こういう状態だから、斉明女帝がだらだらと長逗留すれば、旗下の諸隊の不信を招くだけでなく、帰順した輩まで寝返りを思いかねない。

 端的に言うと、そのような長逗留はなかったものと考えるのが順当な考証というものである。

未完

2016年2月11日 (木)

今日の躓き石 球界カタカナ語汚染

                                2016/02/11
 今日の題材は、毎日新聞朝刊大阪13版のスポーツ面である。
 しみじみ思うのだが、毎日新聞はスポーツ面のカタカナ語汚染について、「雑草の生い茂るのに任せ」ているのだろうか。新聞社として、一般読者が理解に苦しむカタカナ語の使用を抑制するよう「言い換え」を勧めていると思うのだが、スポーツ面だけは、執拗に雑草が伸びているのである。治外法権なのだろうか。

 今回は、メジャーリーグで力強く戦い続けている「赤靴下」闘士の紹介記事である。ただし、「カタカナ語」は、当人のせいではないと思うので実名は出していないが、誰の記事かはすぐわかるはずである。

 今シーズンは、(曰く付きカタカナ語)「セットアッパー」に配置転換されるという。ご丁寧に解説が付いているが、この言葉は、そういう丁寧な扱いをすべき言葉ではない。無用なカタカナ語を認知していては、署名記者の見識を疑われるのである。

 カタカナ語の問題は、英語としてまともな言葉をカタカナにしているような錯覚を広げるところに問題がある。大変耳障りだから、新語を使っているような痛快な感覚を与えるところも問題である。偏見と取られそうだが、個人的には、言葉に無頓着なスポーツ紙が使い始めたのではないかと思う。

 セットアッパーとは、セットアップをする人という趣旨であろうが、それは、英語として間違った言い方である。いや、セット アップ(set up)は、動詞+前置詞という、ごくごくありふれた構成の成句であり、多種多様な場所で、多様な意味に使われるので、正しいだの、間違っているだのと、傍から言えるような言葉ではない。
 問題は、「パー」である。(ここで言うのは蔑称のパーではない

 米語の俗語で、動詞でもない言葉にやたらにerを付けるのが悪弊になっているが、それは、まともな英語ではないので、何も考えずにまねて一般人の一般の会話で使うと、顰蹙を買うし、ビジネスの世界のビジネス会話で使用すれば、無教養、粗野という蔑視を受けかねないのである。まじめな英会話学生が、学習の書記で、手ひどくつんのめる「躓き石」の定番である。

 じゃあ、どう言うのかという事になる。NHKのように、「セットアップマン」と言い換えるのは、お行儀は良いとしてもぎこちない話である。これでは、女子野球では「セットアップウーマン」と言わざるを得ない。いかにも、日本人英語である。
 正統派のアメリカ人は、「セットアップ」(名詞)と言うはずであるが、実例を知らないので、こう推測する。He is a BoSox setup.

 当ブログ筆者が、専ら毎日新聞をやり玉に挙げて手厳しいのは、一つには、忠実な宅配読者であって、他の日刊紙を見ていないからである。多分、他紙も、用語面の厳しさ、緩さはは同様だと、勝手に想像している。

 そして、また、毎日新聞に天下一の言葉の護り人の役目を期待しているからでもある。たとえ一人の記者の軽率な記事であっても、数百万の読者が読む紙面で使われた言葉は、数百万の読者の多くがお手本にするからである。数百万の読者に広がった言葉の汚染は取り返しが付かない。
 そして、その向こうに理解できないカタカナ語で悩まされる善良な読者の嘆きが聞こえるのである。

以上 

私の本棚番外 安本美典 「卑弥呼の謎」 1972年版 

          私の見立て★★★☆☆        2016/02/10

 いや、 安本美典氏の 「卑弥呼の謎」 1972年版(講談社現代新書 294)は、45年前の出版物なので、今更書評もないと思うのだが、最近、安本氏の持論に対して手厳しい攻撃を加えた論説を目にしたので、断罪の場に不可欠な「弁護」を買って出たと言うことの影響である。(安本氏の「数理歴史学」の誤り)

 前回までの記事は、当該ブログ記事に対して、そこに取り上げられている題材と論説に絞って批判を加えたものであるが、ここでは、安本氏の旧著の書評の形で、氏の持論について公正な紹介を試みるものである。

2.年代論の基礎 古代の王の平均在位年数はほぼ10年
 1.「年代」-古代へのかけ橋
 さて、ここで展開されているいくつかの議論は、これ以降の安本氏の各著書に継承されているのだが、行きがかり上、「奈良七代七十年」に始まる年代論について述べる。
 まず、当該ブログ記事で論者が噛みついている「奈良七代七十年」という成句であるが、「」入りで取り上げられているところを見ると、安本氏が提唱したわけでもないと思うのである。

 また、この成句は、710年の平城京遷都から784年の長岡京遷都まで、ぼぼ70年間奈良に国都があったのに対して、その間に七代の天皇が君臨していた史実を取り上げているものと思う。古代史分野では、定説が、往々にして一仮説に過ぎなかったりするし、この時代の先史史料として参照される「日本書紀」の記述に対して、「造作」、「捏造」、「偏向」との(もっともな)非難が多いのだが、さすがに、この成句に噛みつく論客は少ないように思う。

 この成句が、本書に於ける安本氏の仮説の出発点であり、以下の仮説が順次記述されているのだが、その進め方は、堅実、公正であり、粗忽、疎漏ではないと思う。

 まず、「奈良七代七十年」は、奈良時代の天皇在位は平均10年程度であったとの口切りである。ほぼ70/7の計算であるから、ご名算と言うしかない。

 2.世界の王の時代別平均在位年数
 ここに提示されている計算値は、東京創元社刊の「東洋史事典」「西洋史事典」「日本史事典」に依拠したものであり、容易に追試可能である。

 時代別平均在位年数を図示しているが、1-4世紀の中国の王96人の平均在位年数として、10.04年を得ている。
 多分、「王」でなく「皇帝」ないしは「天子」と呼ぶべきなのだろうが、安本氏は、「王」に統一しているようである。
 続いて、西洋の王の時代別平均在位年数を図示しているが、1-4世紀の西洋の王(皇帝)68人の平均在位年数として、9.04年を得ている。
 これに対して、日本の古代史史料で、1-4世紀の王の在位年数を正確に記しているものとして信頼できる史料はないようである。
 最後に、ここまでにあげられていない地域の王の平均在位年数を図示していて、1-4世紀の各国の王202人の平均在位年数として10.56年を得ている

 1-4世紀に限って言えば、サンプル数は366人であり、豊富とは言えないが、ある程度信頼の置ける推定ができそうである。

 これに続いて、資料の調っていない日本の1-4世紀の王の在位年数を、日本の5世紀以降の王の在位年数と同時期の中国の王の平均在位年数の推移とを対比させ、おそらく、10年程度であったであろうと推定している。この推定の根拠は明示されているので、追試可能である。

 以下、念押しするように、日本の政治権力者の在位年数を求め、時代別に計算して図示している。

 このように、幅広く時代および地域を捜索しているのは、以下の論説で、王の時代別平均在位年数は、時代を遡るにつれて短くなる傾向が見られること、また、天皇が権力者でない時代の平均在位年数は、同時期の「征夷大将軍」の平均在位年数より長いという定見を裏付けるデータをあらかじめ示しているものである。
 その際、そのような違いが生まれた理由を、論理的な考察を加えている。表面的な数値データだけで云々しているのではないのである。

 以上のように、安本氏の論説は、検証可能なデータに、検証可能な計算や分析を加えて、自説の基礎とするものであり、その際、推定に伴う不確かさについて、検証可能な形で明記しているものである。

 ちなみに、本新書の刊行された時期は、8ビットCPUを組み込んだパーソナルコンピューターが普及し始めた頃であり、企業の「機械計算」(事務・会計のデータ処理)や科学技術計算などには、大型コンピューターないしはミニコンピューター(ミニコン)が使用されていた時代である。
 「コンピューターが使用可能であった」というと、一般読者に、広範囲にPCが普及している現時点と同等であったという「大きな誤解」を招くのではなかろうか。
 ちなみに、ここで取り上げられている程度の集計計算は、大半が四則計算であって、算盤ないしは当時広く普及していた電卓の活躍する世界である。

 本書を、古書として購入することは、まことに容易なのであるが、同様の論述は、安本氏の近刊著書に至るまで、確実に保持されているので、いずれかの著書に目を通していれば、雑誌記事の座談会テープ起こしの断片的な「吹聴」に憤激して、先に挙げたような早合点の批判記事を公開するような見苦しい対応はしないですんだろうと思うのである。

 最後になるが、当ブログ筆者は、本新書に展開された安本氏の主張に全面的に賛成しているものではない
 以上に述べたような着実な論説の進め方に対して、絶大な賛辞を呈しているものであるる。また、末尾の5.「3.邪馬台国問題の基礎」に提示された、科学的論争の提唱については、それこそ、「失われた正論」の偉大さに、天を仰いで嘆息するのである。

以上

2016年2月 8日 (月)

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面  暗号「山上憶良」5

                              2016/02/08

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前
 こうして4大項目の最初の二項目で論者の荒っぽい、と言うか、荒れ狂った言い分の是正にくたびれてきたので、以下の項目については批判しないが、素人目にも、それぞれ「誤り」を指摘されている項目は、安本氏が、自身の採用した仮定とその展開の帰結を表明しただけではないかと思われる。
 推論の展開に使用した仮定に同意できない(気にくわない)と言って、採用手法を否定するのは、お門違いである。まして、ペテン呼ばわりは、いただけない。

 「安本氏の議論は独善、従って、一顧だにすべきではない」と言いたいのであれば、自身は、それに、自家製の独善で対抗するのでなく、筋の通った、客観的な論理を貫くべきだと考える。特に、「独善」、つまり「孤説」であることをもって判断するのであれば、世の論客は、論者自身はもちろん、当ブログ筆者を含めて、全員ゴミ箱直行である。「一顧だにすべきではない」と断定しているが、論者のご提案の趣旨は、貴重な意見であるが、その正鵠については広く確認する自由を持ちたいものである。

 例えば、締めの部分で、「たとえ古代天皇の平均在位年数が10年であったとしても、特定の天皇から35代前の年代を推定することは意味をなさないのです。   この事実を無視した安本氏の年代論は、邪馬台国ファンを惑わす、「似非数理統計学的年代論」と弾ぜざるをえません。」と痛打を加えようとしているように見える。
 しかし、素人目にも、統計学的手法によって、既知の年代のデータをその範囲外に適用する「外挿法」による推定は、元々、法外に不確かなものである。公の場で提唱されるのは、有効であると自信のある場合だけであろうから、大抵の場合は、推定不発、それも、極めつけの大外れになるものである事は、自明であろう。
 しかし、元々、古代史にまつわる諸説は、おおむね不確かであるとしても、一部に何らかの確かさを含んでいるから、はなから否定することはできないものである。そういうものである。

 それでなくても不確かさを含む推定を、遠く時代を遡って、推定の対象となる天皇に至るまでの遡及代数が増えれば、推定に含まれる不確かさが急速に増大するのは、一般論という名の常識的な推定である。ただし、一般論は、それ自体、ある程度の不確かさを含むものであり、絶対普遍の必然ではない。
 都合の良いときだけ、当てにならない一般論を振りかざして、「安本氏の年代論」の全体を否定するのは、無理(物事の道理に反する)というものである。
 結論として、当論考は、安本氏の主張、ないしは採用手法を誤りとする命題を掲げながら、それを論証するものでなく、単なる持論の披瀝にとどまっていると考える。

 論者には、性急な断定を誇るのではなく、自制を促したいと思う。
 安本氏の年代論を専門的に精査した上で、「似非数理統計学的年代論」と異端視するのであれば、論者の言う正統派の「数理統計学的年代論」を披瀝いただきたい
ものである。

 一介の素人である読者としては、学術的な議論、討論を、言葉や論理を駆使する公開格闘技試合になぞらえるなら、反則技の多発する格闘は、趣味ではないので、ご勘弁いただきたいのである。格闘技ファンなら、場外乱闘や反則技も楽しめるかも知れないが、観客は、そうした感性の持ち主ばかりではないのである。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、安本氏の言い立てる年代論に全面的に賛成しているものではない。
 いや、安本氏が編集した雑誌「邪馬台国」の掲載記事や安本氏が主催するサイト記事に対して、不満、不安を感じることが、しばしばあるが、あくまで、個別の記事の誤りや論理の部分的なほころびを指摘するだけである。
 一方、不確かさを含む資料を利用して極力不確かさの露呈しない推定を組み立てる論説の進め方には、基本的に賛成している。
 世の中には、自身の気に入らない主張を打ち出している論考は、論考の結論に反対するだけでなく、論証仮定に採用された技法まで、丸ごと否定する向きもあるようだが、それは、「ファン」としての感情論であって、科学的な思考ではない

 ちなみに、論者のサイトには、色々、古代史分野に於ける糾弾記事が多数掲示されている。費やされた労力と時間、そして、それを支える使命感に対しては、賛嘆を惜しまないが、掲示されている記事が、悉く、数回の記事を費やして批判したような、思い込みで書かれた、論拠の不確かな、無用に攻撃、断罪する記事でないかと推定される。

 となると、そうした記事を解読しようとするのは、時間と労力の無駄なので、以下、科学的議論とは「無縁の衆生」として「一顧だにしない」事になる。いや、ネットの世界には、サイトの記事の「味見」をしただけで、余りの独善さと棘の多さに辟易したサイトも多々あるので、別に、ここにあげたサイトだけ別待遇というわけではない。

以上

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面  暗号「山上憶良」4

                              2016/02/08

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

承前

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
 (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

 「(イ) 奈良7代70年と吹聴する誤り」
 と、なぜかひねくった言い方である。これでは、安本氏がえらそうに吹聴するのが悪い、という不作法の指摘となってしまう。この項のどこが、批判対象である安本氏の持論であるか、不明確なのである。
 なぜ、真っ直ぐに論理の不備を指摘しないのか、不可解である。当ブログ筆者は、安本氏と面談した経験はないが、氏は、それほど不作法なのだろうか。
 ちなみに、論者は、項目で「誤り」と糾弾していながら、本文では、「よくない」といやに軟弱になっている。怒鳴った後、猫なで声というのは、うさんくさいものがある。

 また、論者が、重大な論拠として参照するのは、中国諸王朝の歴代皇帝の在位年数であり、これは、いったい何だと言いたいところである。

 更に続けて、4王朝通じて、38代395年が平均10年になっているとした後、個々の王朝を見ると、平均10年になっていないと指摘をしている。それがどうしたと言いたいところである。
 更に更に続けて、従って、奈良7代70年というのは、たまたまであって、その点を「吹聴」するのは、一種「ペテン」であると非難している。たまたまであろうとなかろうと、歴史的時事であり考察の材料となるデータである。
 こうした一連の駆け足の論理が、「安本氏の提唱が誤っている」ことの論証になっていないのは明白である。
 まして、「吹聴」という、いわば当然の行為を誤りと主張したり、果ては、一種の「ペテン」である、つまり、安本氏はペテン師(嘘つき)である、と非難しても、何ら、科学的な議論に寄与しないことは明白である。

 「(ロ) 天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り」
 今度は、比較的真っ直ぐに、安本氏の論理の誤りを問うものになっている。
 と言うものの、安本氏が「必然性」を主張したと糺しているのは、見当違いというものである。「と仮定すると」と明言されていても、引き続いて、一々の断り無しに書き連ねていると、結論が「一致している」と断定しているようにみえるものの、仮定を承けているので、実際は、「ように見えます」と付け足して読むのが、解読の常道のように思う。 
 ということで、安本氏の主張は、全て、統計学的なものであり、ぼんやり読むと断定しているように見えても、すべて「確かさ」(不確かさ、すなわち誤差)の込められたものであって、「必然」を主張しているものでないのは明らかである。

 論者は、ここで、三国史記を利用して、三国の王の平均在位年数が、「奈良時代の平均10年」を大きく超えているから、「安本氏の推計」(断定と言っていない以上、安本氏の言い分は読めているように思うのだが)が無意味であることは、議論の余地がない、と言い切っている。
 しかし、大事な論証で、そんなに性急に断定して、糾弾に走るべきすべきではなく、何事も、まずは、当人と議論すべきだと考える。
 この項目について言えば、双方が依拠している史料は、それぞれ「ある程度」の信頼に耐える程度のものであり、それぞれの推論の立て方に客観的に異論がある以上、議論は必須と考える。

未完

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面  暗号「山上憶良」3

                                2016/02/08
 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 また、この議論は、すでに公開した古田武彦氏に関する議論より先にまとめたのだが、ここで打ち出されているのは、安本氏の論説に対して誤りと言い立てるものであるのに対して、古田武彦氏に対しては、「嘘つき」との糾弾であり、そちらの公開を先行したものである。  

 安本氏の「数理歴史学」の誤り

 前回記事も含めて、この場で述べたいのは、学術的な「論争」のあり方というものである。
 世の中には、様々な個人的世界観、ものの見方の基準があって、その基準が一致していないと、正誤、適否の議論は成り立たないと言うことである。

 いや、そうした議論が、論争相手(論敵)を論破して意見を改めさせることであれば、意味があるの。しかし、その際に、自身の論理の当否に目を配ることなく、勢いよく主張するのが最善策ではない。大半の場合、論争とは、検証可能な主張を積み重ねて、小さな勝利を積み重ねるのが正道と思う。
 陳腐な一般論であるが、論争で、相手の立脚している論理を頑強に否定するだけであれば、それは、単なる言い争いであって、大局的に不毛であると考えている。当人にも不毛と思うのだが、それは、当人の問題なので当方は干渉しない。

 ここでは、論者たるサイト管理者(論者)が、安本美典氏を論破しようとしている、その足取りと口ぶりに対して批判を加えたい
 毎度のお断りであるが、当ブログ筆者は、批判対象となる記事の内容に対して、素人の知識をもとに反論しているので、その範囲は、ここにあげた記事の範囲にとどまっている。

 さて、切り出しでは、文芸春秋氏の座談会記事に於ける安本氏の発言を引用して批判のにしたいようである。しかし、これは「原文引用」なのか、論者の要約なのか不明であり、当記事に反論するのに不便である。
 また、当の雑誌記事は、もともと、座談会録音のテープ起こしであろうが、ここから感じ取れる口調や論理性は、安本氏の論そのものとは言いがたいものがあるように感じるのであるが、確証はない。
 引用の直後に示されている数理統計学的年代論」のエッセンス」というのは、論者が自発的に主張しているものであり、安本氏ほどの権威の言葉遣いが揺らいでいるのではない、つまり、当人の発言ではないように見えるのが気がかりである。
 安本氏も、いくら持論の発露とは言え、座談会記録を、自身の信念というか持論のエッセンス、決定版とみなして、反論できない弾劾、斬られ役に持ち出すのは、勘弁してくれよと言いたいところであろう。

 その直後に、サイト管理者たる論者は、「安本氏の四つの過誤」(と、便宜上呼ぶことにする)を書き立てて、従って、安本氏の主張は、「数理統計学」とは無縁であると断言している。仰々しく掲題しておきながら、安本氏の主張の誤りを論証するのではないと言う。随分、杜撰である。

 ここまでの一瞥で、古代史学で、健全な議論のお手本を探し求めている当ブログ筆者は、論者は無縁の衆生として、きびすを返しても良いところである。以下は、当人の言いたいままにほっといたらいいようなものであるから、色々意見するのは、単なる余計なお節介である。

 さて、この4項目に書かれている主張を論破するのが、論者の目的と宣言しているものなのだろうか。「被告」と「罪状」が明らかにならなければ、「陪審員」も意見を出しようがないのである。

 さらに戸惑うのだが、本論は、「安本氏の「数理歴史学」の誤り」を論証するようにと題付け(仰々しく掲題)されている のではないか。論者は、どのような視点から「数理統計学」との有縁、無縁(非科学的な論争用語ではないか)を言い立てているのだろうか

 続いて、今度は、安本氏が旧著で、自身の提唱した論考のあらましが、先人である栗山周一氏の著書にすでに同趣旨の年代論が発表されていたことを知って嘆息したという記事を参照して、嘲笑に似た批判を行っている。
 しかし、安本氏の論理の誤りを追究するはずの論説で、安本氏の感慨吐露をを、他人の視点から勝手に推察して批判するというのは、論争の余談として、まことに不適切である。
 個人的な意見や感慨は、その個人の世界観を示すものであり、個人個人の世界観はその個人の自由なものであるが、広く共感を求めるために書き記すのであれば、広く通じる論理に限定すべきではないだろうか。
 ちなみに、安本氏の記事の引用の後に、「栗山氏の時代には、コンピューターはおろか、電卓もありません」と先人の知識、技能の欠落を嘲笑する文字が綴られているが、昭和初期にも、算盤はあったし、数値の四則計算に始まって、対数、三角関数数など、科学技術計算の手段は整っていたのである。古代史分野では、直感的断定法(安楽椅子探偵)が優越し、往々にして無視されるが、不確かさ含む断片的データに立脚する論理的思考法も、整っていたのである。

 栗山氏が、洞察、すなわち、大局的な着眼によって見出し、着々と辿った論旨を、コンピューターと統計学を駆使して、そうとは知らずに辿っていたとの感慨は、先人の叡知を称えると共に、そのようにして論理的に辿られた主張が、学界の大勢に正しく評価されることなく、地に埋もれていたことに対する嘆きであるように思うのである。

 未踏の秘境と思っていたら、先人の足跡が知られないままに残されていた事例は、皆無ではない。概して、謙虚な後人の姿を描くものである。
 本論部分ほど精査されていない余談部分に論者の理性の限界が現れるというのは、一種の真理のようである。

 さて、「嘆息」の無様さの非難に続いて、論者が展開する下記「安本氏の四つの過誤」(繰り返すが、これは当ブログ筆者の造語である)論の第一項が展開される。
  (イ)奈良7代70年と吹聴する誤り
 (ロ)天皇1代の平均在位年数が約10年とする誤り
 (ハ)天照大神を用明天皇より35代前とする誤り
 (ニ)35代前が推測できるとする誤り

未完

2016年2月 3日 (水)

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面 暗号「山上憶良」 2

                               2016/02/03
 2.古田武彦氏の説のウソ   

     2-1 景初3年が正しい理由

承前

2.京都(けいと)往還
 さて、魏志の記事を読んでも、「景初二年六月に倭国大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いているが、それを受けて、即日送り出したわけでないのは自明である。

 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。

 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々に、ひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
 新たな郡治は、魏朝の一機関として、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要であり、郡太守は、絶大な権限を委ねられたとみるべきである。

 こうして、遼東への速攻の体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけなのである。
 ともあれ、帯方郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。

 そのような新生帯方郡の初夏に、海山越えて、倭国使節が到着したというわけである。

 定説では、倭国の使節派遣は、公孫氏滅亡と帯方郡治設置の知らせを受けた自発的なものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めたものと見る方が自然である

 当然、知らせには「遅れたものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容が、うまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と言うのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる、と呼びつけたとみる方が自然である。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。

 最速で折り返したとしても、使節の出発までには数ヶ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。
 受け入れ側にしても、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずであり、巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する質量、斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し、「輸出梱包」したたことになっている。
 魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作に書かれるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずである。

 *定説の分別-不合理
 魏志は「景初二年六月」に始まる文字列に続いて帯方郡太守が、倭国大夫を京都(魏都洛陽)に送り届けた」と書いているが、「定説」では、それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したとする独特の解釈と合わせて、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じているのだが、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、定説のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 魏志の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である大夫の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

 この件に限らず、後世資料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含む資料を、更に不確かさの深まった資料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。

 論者が非難する古田氏の「ウソ」も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを糊塗する「ウソ」になってしまうのである。
 ただし、そのような悪弊は、古田氏の独占事項ではなく、古代史系世界に限っても、類例が山成すほどの普遍的なものである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないというとこである。「ウソ」と決めつけられて、致命的と裁定されているから、冤罪ではないかと、再審を訴えているのである。

 当サイトの論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判から、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではないと思うのである。反対者も、同断である。
 一度、早計な感情論を鎮めて、原資料の読み返しをされたらよいと思う。

以上

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面 暗号「山上憶良」 1

                                    2016/02/03
 2.古田武彦氏の説のウソ

 2-1 景初3年が正しい理由

 個人管理のサイトでの論説に対して批判を加えるのは本意ではないが、ネット世界に於ける「邪馬台国論争」の(血なまぐさい)様相に付いて、当ブログ筆者の感慨を具体的に示すものとして、あえて、率直な批判を加えるものである。
 当サイト管理者の攻撃手法には、拙い誤解と非難すべき反則技が多く、却って、論考の信頼性を大きく損なっているので、ほっておけないと感じたのである。また、この場で、学界のお歴々と並んで批判されるだけの価値ありとの位置付けをしているのでもある。

 さて、当サイトを管理している論者、論客は、「古田武彦氏の説のウソ」と誹謗、中傷口調で書き出しているが、語調のきつさ、えげつなさの割には、根拠不明で、内容が的外れである。
 周知のごとく、古田武彦氏の提唱した説は、こと古代史に限定しても、広汎、多岐であり、全体をウソと断じたものか、特定の説にウソがあるのか、論旨が不明である。物事を明解に表現しないのは、論者が未熟なせいと苦笑するしかないのだろうか。今日のように、裸の王様を大勢見かけると、声をかけるのが難しいのである。

 また、書き出しに2-1と銘打って、後続続々と布石しているが、どうなったのだろうか。まさか、ネタ切れではないだろうに。

 さて、記事書き出しを見た限りでは、「古代は輝いていたⅢ」で堪忍袋の緒が切れたようであるが、ここまで当方には、一切お怒りの事情が伝わらないので、お説を伺うとする。
 ということで、冒頭の切り出しであるが、どうも、不用意な取り上げ方と言わざるを得ない。
 当記事の書き出しは、魏志という有名史料を根拠にしているが、原文を当たることなく、筑摩書房版の翻訳文を採用しているのが、困ったものである。
 せめて、読み下し文を見ていれば、原文の趣旨が察しられるのだが、翻訳の場合は、翻訳者が理解した文意に沿って粉飾加工されるので、翻訳者の理解に誤解があれば、ほぼ必然的に誤訳になってしまう危険を(取れたてのふぐのように、ほぼ確実に)含んでいる、というのが、定説中の不動の定説である。

1.両郡攻略
 この場合、翻訳者は、魏の遠征軍は、まず、遼東の公孫氏を滅ぼし、次いで、南下して、公孫氏の支配下にあった楽浪、帯方の両郡を攻略したとの根拠不明の先入観を持っていて、その先入観を書き込んでいるが、原文には、そのような粉飾表現は書かれていないと考える。

 さほど入手困難と思えない原文に当たると、「誅淵」(公孫淵を誅殺した)と書いた後に直ちに続けて「又潜軍浮海」(また、潜(ひそかに)に軍を海路送って)楽浪、帯方の両郡を収めたと書かれている。これを、「さらに」と、時間の流れを、心を込めて書き足したのは、翻訳者のやり過ぎである。単なる「又」には、時間的な前後は込められていないと見るものではないかと思う。

 もし、遼東攻略の後であれば、何も、ひそかに進軍する必要はないから、両郡攻略は遼東攻撃の前に行われたとみるべきではないだろうか。
 この辺り、長駆進軍している遠征軍主力による西方からの一方的な攻撃は、大軍であっても、遼東に広く勢力を張った公孫氏の待ち受けているものであり、迅速な攻略は困難である。東方、と言うか、東南方からの分遣隊による挟撃が必須と見た司馬懿の周到な軍略が見て取れると思うのである。

 三国志に書かれているように、この当時、曹魏に対しては、長江(揚子江)上流域域での蜀漢軍からの執拗な攻撃と共に、長江下流域では孫権率いるる東呉の大軍と対峙していて、孫権は、戦況が確実に有利とみたら、じんわりと、分厚い攻勢を取るから、遼東遠征軍は、速攻、かつ、確実に遼東を確保する必要があった。つまり、短期決着の確実な挟撃作戦を採ったと見るものである。
 法外と見えるほどの大軍を派遣したのも、その一環である。現地滞在が長期化すれば、食料の消耗が激しくなる上に、中国では、大規模な戦闘での敗戦責任は、将軍の一家族滅である。理由は何にしろ、「絶対負けられない」のである。 

 なら、ここに作戦内容を明確に書くべきではないかという抗議が聞こえそうだが、東夷伝の役目は、遠征軍が「誅淵」したことにより、東夷を直属させたと明記するのが主眼なのであり、それ以外の軍事行動は、付録に過ぎないから、この程度で良いのである。

 ちなみに、翻訳者は、両郡攻略語について、原文の「収」(収めた)という平穏な表現を粉飾して「攻め取った」と強い言葉で書いている。その意識としては、健在であった遼東政権から「攻め取った」と見ているのである。これが、遼東政権が崩壊した後であれば、攻め取るのではなく、魏朝傘下に収めたとでも言いそうなものである。漢文翻訳の怖さである。

未完

2016年2月 2日 (火)

今日の躓き石 衝突回避のプロ野球ルール

                                 2016/02/02
 今日の題材は、毎日新聞夕刊大阪第3版「夕刊ワイド」面の「寝ても覚めても」と題されたコラムである。
 専門編集委員の執筆と言うことで、校閲されていない可能性もあるのだが、毎日新聞の紙面と言うことで、新聞社の見識を反映しているものとして、批判させていただく。

 なお、当記事は、執筆者の年の功が活かされているのか、ストレートな一人称表現を避けていて、周囲の人々の意見を聞き取ってまとめたものであり、執筆者の意見をそのまま反映しているのではない、とでも言うように、主語がぼかされているが、専門編集委員が、噂話の類いを麗々しく書いているとは思えないので、実質的に私見が書かれているものとして批判していることを了解いただきたい。

 さて、題材となっている「衝突回避」とは、大リーグで昨シーズンから採用済みのルールを、野球ルールのグローバル化と言うことで、一年遅れて日本でも採用することに対するご意見である。というより、大筋は疑問、不審の陳列である。

 これが、一般人の茶飲み話なら、「個人的見解の表現」として聞き流すなり、賛同するなり、反対するなどの反応が可能だが、毎日新聞は、朝刊320万部強、夕刊90万部強を流通している全国紙である。
 そして、それに見合った人数の読者から絶大な信用を得ているのである。
 一般読者は、新聞に載ってしまった記事に、茶飲み話で聞かされた「個人的見解の表現」に対するのと同様の反応を示すことはできない。要は、「個人的見解」を押しつけられているのである。当ブログ筆者が、ほとんどゼロに等しい読者を意識しつつ、率直な批判記事を書いても許されると思うのである。

 まずは、全体論である。
 ここでやり玉に挙げられているのは、プロ野球界で適用される「ルール」である。それに対して、いきなり、批判論を展開するのは、毎日新聞社として「コンプライアンス」に欠ける態度とみる。

 長年適用されなかったルールが、今になって施行されたことの背景を説明せずに、批判論を言い募るのは、「ルール遵守」(コンプライアンス)に背を向けていると言わざるを得ない。ちらりと、「危険性」に付いて言及しているが、そのような仮定の問題ではなく、ある確率で確実に障害に繋がるプレーを差し止める、極めて重大なルール変更と思うのだが、執筆者は、そのような背景を軽視しているようである。

 おそらく、自身で捕手ないしは走者の立場でプレーした経験から、この程度の危険性は、とやかく言う必要が無いものだと感じているのかも知れないが、防具を身につけた捕手が、ボールを捕球、確保していないのに、走者を全身で阻止しようとするのは、無防備な走者にとって大変な危険で、一種の暴力行為である。だから、一部の選手は、暴力行為に対する報復として、肩からタックル風に突入する暴力行為の練習をしたりするのである。
 こうした報復合戦は、フェアプレーの精神に反すると思うのだが、プレー経験のない素人の思い違いなのだろうか。

 そうでなくても、捕手は、体格、体重でホームベースを死守するもの、そして、ブロックに選手生命を賭けるもの、という通念があるようだが、それは、選手、そして指導する監督、コーチの指導の成果であるだろうが、そのような無理な守備を賛美してきたマスコミ関係者にも、絶大な責任があったのではないか。
 何しろ、社会の良心と叡知を反映していると信用されている全国紙が、大量部数の紙面で賛美したら、一介のアマ審判が電話で抗議しても、新聞の(悪)影響は、どうにも回復できないのである。

 今回は、プロ野球の公式ルールとして明記され、適用されるのだから、コンプライアンスで言えば、まず、新聞社としては、ルール遵守を訴えるべきではないのだろうか。

 この記事は、さすがに、明確な反対論ではないが、複数の疑問の形で、ルールは守られない(ではないか)、と不適切な予言が書かれているように見える。有力メディアの見解としてとんでもないものである。

 ということで、噂話めいた言い方を借りて、「ほんとにできるのかな」などと放言しているが、決められたルールを守るのがプロの義務である。勝つためにはルールは無視する、という姿勢であれば、早晩、重大なルール違反として表面化して、懲罰の対象になるのではないか。即退場、数試合の出場停止、そして、罰金徴収。ルール遵守とは、そうした重みを持つものである

 中には、実戦の場になれば、長年の訓練が反映して、反射的にルール違反の行動をするのではないか、と、プロ野球捕手の知性とコンプライアンス精神に疑問を投げかけている下りもある。
 まことに、捕手達に対して失礼極まりない指摘だが、この部分は、執筆者の個人的見解として書かれているので、まともに批判させていただく。

 さて、またもや、書かれていない点に疑問があるのだが、これまで、ホームベースを格闘の場にしていた米国メジャーリーグで、革命的な新ルールを実施した昨シーズンの実績はどうだったのだろうか。多数の試合で、新ルールは遵守されたのか、無視されたのか、教えていただきたいものである。
 知る限り、メジャーリーグの審判は、ルールコンプライアンスに絶大な力を持っているので、参考にできるのではないか。

 以上は、天下の毎日新聞の専門編集委員に対する、一介の素人の勝手な意見表明であるが、素人は素人なりに筋を通して批判しているのである。

 執筆者は、素人の批判を遮るように、「野球と深く、長くつきあっている人」の見解としてぼかすのではなく、自身の信念を堂々と書き綴るべきである。その辺の野次馬が飲み屋でぼやいているのではないから、プロ野球選手や審判のルール遵守能力に対する当てこすりなど、控えて欲しいものである。

 言うまでもないが、結末で「頑張ってください」というのは常套手段であり、執筆者が、日本の審判陣はルール遵守を実現できないとみていることを、明々と「暗示」している。

以上

2016年2月 1日 (月)

今日の躓き石 顔面ハンドオフ??

                      2016/02/01 2018/12/13 2019/11/02追記

 今回は、大分迷ったのですが、毎日新聞朝刊大阪第13版スポーツ面の連載「アントラージュ 第4部女子格闘家の母たち」7に異を唱えます。

 どうも、担当記者は、強引に女子セブンズラグビーを「格闘技」に取りこみたいようですが、当ブログの筆者の見る限り、セブンズ(7人制ラグビー)は、格闘技と言うより、格闘しない突破のゲームのように思います。

 更に気がかりなのは、ハンドオフが顔面に入ったことを当然のように書いていることです。当ブログ筆者はラグビー素人なので、ルールに詳しくないのですが、顔面、首から上に手を出すのは、大抵の球技で反則、それも、かなり重大な反則のように思うのです。
 
 ラグビーで、寄りついてきた相手を押しのけるハンドオフはあっても、「グー」で突くのは反則の筈であり、まして、首から上に向けてハンドオフするのが認められるなら、目つぶしも、平手打ちもありとなってしまうのです。
 
 首から上に手を掛けるハイ・タックルが厳格に禁止されていて、一発退場に近い以上、ハイ・ハンドオフも、絶対禁止のはずです。ラグビーは、「フェアプレー」の競技です。

 少なくとも、顔面攻撃は、ラフプレーの反則と信じます。いや、初級者時代は、そのつもりはなくても、蹴ったり、引っ掻いたりするかも知れません。そんなことがあったら、すかさず注意するのが、指導者の役目ですが、そうした話は書かれていません。

 当記事筆者は、新聞記者である以上、スポーツ担当の意見を自由に聞けたはずであり、当然、ハンドオフに関するルールを確認したはずですから、記事にする際に何かコメントがあってしかるべきです。

 ラグビーは格闘技ではないし、スポーツに闘志は大事としても、柿生にビンタを食らって痛くても泣かないのは美徳でもなんでもない。ラフプレーで痛い思いをさせられて泣くような奴は選手にしない、という態度であれば、それには反対です。

 言うまでもないのですが、取材で、選手の母親の言葉を聞き取って、どのように紙面に書くかは担当記者の裁量です。一読者がとやかく言う問題ではないのです。報道の自由は、神聖不可侵の権利です。 
 しかし、「ラグビーは格闘技である」、「格闘技にはラフプレーがつきものである」、「痛い思いをしても、文句を言わず、泣かない選手が大成する」という論理の連鎖には、一人の人間として到底同意できないのです。

 すでに、当記事のコピーが出回っていて、これを、美談、教材として監督、コーチが選手に訓示している様が見えるような気がするのです。

 是非、メディアの各メンバーに、報道姿勢を再考いただきたいのです。

                             以上

今日の躓き石 負けた悔しさ-白鳳の子への思い

                             2016/02/01
 今回は、毎日新聞朝刊大阪13版のスポーツ面なであるが、褒めるときには褒めるのである。
 少年相撲の国際大会で負けた子供に対して、父親である横綱が「悔しさを糧に」することを期待しているとして、記事を締めている。ここでは引用符にくるんだが、記事では引用符の外の地の部分なので、この言葉遣いは、横綱の意を汲んだ担当記者のものと理解して話を進める。

 何を褒めたいかというと、比喩の使い方である。
 当世は、悔しさをバネにするという言い方が出回っているが、悔しさを踏みつけにして、その場の気分は良いだろうが、そうした受け止め方では、負けた教訓が取り込めない。負けに学ばないものは、挑む度に同じ負けを繰り返す

 今回目にした表現は、悔しさを食って消化して、良いところだけ身につけて、要らないところは捨ててしまう、というしたたかな強さを表している。負けたら負けただけ強くなっている強者を目指す者は、かくありたいものである。大変豊かな思いを秘めた言葉である。

 若者には、強い言葉遣いではなく、良い言葉遣いとその心を身につけてもらいたいものである。

 今回の記事に込められた思いは、書かれた当人以外の若者にも、いや、若くない者にも、広く届いて貴重な贈り物となって欲しいものである。

以上

 

今日の躓き石 スキージャンプのフィジカルとは?

 NHK BS-1の女子スキージャンプ実況で、唐突に、イリュージョン単語「フィジカル」(元々は、物理的という形容詞)が出てきたが、特に補足説明がないので、不可解(英和辞典を引いても、何を言っているのかわからない)であった

 この競技には、長距離走の走力や当たりや取っ組み合いの強さは関係ない。体のデカいのも、プラスではないと思う。ということで、理解の流れが途絶えて、戸惑う。

 おそらく、この競技で「物理的」要素というと、跳躍力を支える脚の筋力が大半で、後は、それを支える他の部分の筋力と思うのだが、つまり、ジャンプ競技は、筋力勝負という見方なのだろう。

 確かに、筋力は、勝つための必須要素だろうし、当の競技について造詣の深いNHKアナウンサーの言葉だから、ジャンプは、所詮、力任せの競技だと理解すべきなのだろうか。

 そう理解してみると、競技者コメントにも出て来るように、時間をかけて筋力「強化」に専念するという見方もあるだろうが、それならそれで、なぜ、報道陣は、視聴者読者に誤解の無いように具体的に説明しないのだろう。

 このように、競技によって大きく違う物理的特性を、一気に漠然とした形容詞「フィジカル」で言いくるめてしまうのは、不適切な報道と思うのである。

 それぞれの競技の関係者にしてみると、自分がどの競技のどんな特性の話をしているか自明なので、いわば、当事者得意の業界用語で言葉を端折っても意味が通じるだろうが、いろいろの競技を報道する報道関係者が、それに従うというのは、視聴者の理解しやすい言葉を選ぶという「説明責任」を果たしてないと思うのである。

 言う方はどんな競技の話をしていても、フィジカルの強化が必要、で済むが、聞く方は、当の競技の特有の「物理的」特性は何なのか、深い理解を要求されるのである。結局、自分たちが楽をして、視聴者にあて推量を強いるものだと思うのである。

 それが、当世のスポーツ報道の流れであって、当方が、何も知らない、不勉強な視聴者と言うことなのだろうか。

 いや、スポーツの実況競技はコミュニケーションの技術について、いろいろ考えさせてくれるものである。

以上

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