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2016年2月 3日 (水)

私の本棚番外 「邪馬台国論争」一局面 暗号「山上憶良」 2

                               2016/02/03
 2.古田武彦氏の説のウソ   

     2-1 景初3年が正しい理由

承前

2.京都(けいと)往還
 さて、魏志の記事を読んでも、「景初二年六月に倭国大夫が帯方郡に来て魏の天子に拝謁したいと申し入れた」と書いているが、それを受けて、即日送り出したわけでないのは自明である。

 以下、魏志の少ない文字をじっくり噛みしめてみると、「景初二年遼東事態」(東夷来)の姿が見えてくるのである。

 案ずるに、司馬懿は遼東遠征に周到な構想を持っていて景初二年の春先早々に、ひそかに、海路、山東半島付近から帯方郡に向けて征討軍を派遣し、楽浪、帯方両郡をあっさり攻略した後、直ちに、新たな郡治を設定し、郡太守および副官等の随員をおいたはずである。
 新たな郡治は、魏朝の一機関として、郡の民生を安定・掌撫するものであり、現地軍の編成などにより現地人の戦力を把握すると言う遠征軍務の一環となる任務と共に、遼東平定後の半島南部やその向こうの東夷の教化(文明化)も必要であり、郡太守は、絶大な権限を委ねられたとみるべきである。

 こうして、遼東への速攻の体制を確保したのは、前回紹介した中原状勢への配慮もさることながら、遼東での戦闘が長期化して、現地の早い冬が来ると、冬将軍には勝てずに撤退が予想されたのも大きく影響しているものと思われる。それでは、司馬懿の地位が危ういどころではなく、敗戦とみられると一族もろとも死刑、一族滅亡となるのである。軍人は、敵に殺される危険だけでなく、味方からも命を狙われていて、命がけなのである。
 ともあれ、帯方郡の収容により、遼東に向けて北上する部隊は、後方から襲われる不安がなくなり、遼東挟撃に大きく寄与したと思われるのである。

 そのような新生帯方郡の初夏に、海山越えて、倭国使節が到着したというわけである。

 定説では、倭国の使節派遣は、公孫氏滅亡と帯方郡治設置の知らせを受けた自発的なものと見られているが、そのような超時代的な情報収集能力を想定するよりは、帯方郡から、新体制確立の告知と共に、自発的な遣使を求めたものと見る方が自然である

 当然、知らせには「遅れたものは討伐する」程度の威嚇は含んでいたであろう。そうでないと、重大な使節にしては、倭国遣使の貧弱な献上品と手薄な使節陣容が、うまく説明できないのである。まして、長年、遼東の支配下にあって、中国本土との交信が閉ざされていたのに、いきなり、魏朝の天子に会わせろ、と言うのも、奇妙な話である。これも、魏朝側から、洛陽に飛んでこい、謁見した上で褒美をやる、と呼びつけたとみる方が自然である。

 ともあれ、太守の初仕事でもないだろうが、洛陽の魏朝に「倭国」の来歴、女王と大夫の身元確認などを報告して、東夷使節の魏都訪問、拝謁を賑々しく稟議し、太守自身の功名を盛り立てると共に、上京、謁見の可否を問い合わせたはずであり、皇帝の裁可を得て、魏朝側から旅程の通行許可証と各宿駅での宿舎の提供を認める通知が届いたはずである。

 最速で折り返したとしても、使節の出発までには数ヶ月かかったと見た方が良いのではないか。その頃であれば、残敵掃蕩も終わり、遅滞なく洛陽まで移動できたと思われる。
 受け入れ側にしても、急遽、拝謁儀礼を確認し、詔書や土産物の準備に着手したはずであり、巷説に因れば、その間に、従来の銅鏡に数倍する質量、斬新な意匠の銅鏡を百枚新作し、「輸出梱包」したたことになっている。
 魏朝の尚方(官営の美術工芸品製造部門)は、原材料、燃料の調達、鋳型工、鋳造工急募、本作に書かれるまでの試作の繰り返し、長距離水陸運搬に耐える木箱の量産、搬送する人夫の確保、等々、商売繁盛を極めたはずである。

 *定説の分別-不合理
 魏志は「景初二年六月」に始まる文字列に続いて帯方郡太守が、倭国大夫を京都(魏都洛陽)に送り届けた」と書いているが、「定説」では、それは公孫氏討伐の最中の上京であり極めて困難であり、また、遼東陥落、平定後、八月以降になって、はじめて帯方郡を攻略したとする独特の解釈と合わせて、「景初三年六月」でなければならない、時間的に到底無理と断じているのだが、以上のように、慎重に読み解くと、そもそも、定説のような「景初二年遼東事態」の読み取りは、不合理(人の暮らしの理屈に合わない)である。

 魏志の記事に戻ると、「景初二年遼東事態」発生以降、事象の発生時点が明確に書かれているのは、同年十二月に詔書を賜ったという記事だけである。倭国使節である大夫の帯方郡治到着からの六カ月のどの時点に上京したかは書かれていない。

 サイトの論者は、以下、綿々と自説を補強するように、地道な考察を重ねているが、肝心の基本資料の解釈で、頼りにした翻訳文に齟齬があれば、いくら丹念にその字面を追って考証しても、「証」(言偏に正しい)とならず、切ない自己弁護、見方を変えれば、ウソの上塗りに他ならない。

 この件に限らず、後世資料は、原著者の緻密な推敲を読めないための後世知の推測による改訂の影響を免れず、もともと不確かさを含む資料を、更に不確かさの深まった資料を根拠に否定するという、一種、学界に蔓延した悪弊に染まったものと感じる。

 論者が非難する古田氏の「ウソ」も、大抵は、こうした牽強付会の行為と思われる。最初の一歩に間違いがあったのに気づかないでいると、それ以降の強引な考証は、全て自説の誤りを糊塗する「ウソ」になってしまうのである。
 ただし、そのような悪弊は、古田氏の独占事項ではなく、古代史系世界に限っても、類例が山成すほどの普遍的なものである。

 ここまで書いてきて、念押しするのは、以上の解釈は、絶対の必然ではないというとこである。「ウソ」と決めつけられて、致命的と裁定されているから、冤罪ではないかと、再審を訴えているのである。

 当サイトの論者のように、「ウソ」を断罪するのに性急となり、「俺がやらなきゃ、誰がやる」とばかり、正義の味方を気取って斬りまくるのは、往年のチャンバラ時代劇のパロディーのようである。

 それにしても、当ブログ筆者も同病の患者であるので、全貌に目の届くような些末事項の批判から、余り踏み出さないのである。
 言うまでもなく、古田氏の著書の読者は、書かれている全てが正確な論考だと信じ込んでいるものばかりではないと思うのである。反対者も、同断である。
 一度、早計な感情論を鎮めて、原資料の読み返しをされたらよいと思う。

以上

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コメント

村上通典様
 連絡が大変遅くなりましたが、諸事多忙で貴信を見落としていました。
 ということで、遅まきながら、御連絡に感謝します。
以上

5月17日(火)に「暗号山上」を検索し、このページに気付き、本日(水)、掲示板「暗号山上憶良」にコピペさせて頂きました。
どのような扱いをしているかは、下記URLから確認できます。
http://6904.teacup.com/mm3210/bbs

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