私の本棚番外 「邪馬台国徹底検証」 サイト批判 1/2
2016/02/26
邪馬台国徹底検証 (http://kodai21-s.sakura.ne.jp/index-3.html)
謎を解くカギは中国の史書にあった
<三国志魏書(魏志倭人伝)Ⅱ>
三国志魏書 (2)
個人サイトの記事を批判するのに言い訳がまた必要になりましたが、当サイトには、当ブログ筆者の解釈と真っ向から衝突する議論が書かれていて、当方の解釈と似通った解釈が、改竄として罵倒されているので、反論させていただくのです。
まず、例によって、基本的に当サイト筆者の、大局的な主張には批判を加えないこととします。なにせ、一介の素人には、大々的な反論に必要な知見も、自信もないので、無理はしないことにします。
と言うことで、ここでは、もっぱら、極力、サイトの同一ページに書かれている内容とそこから直接導き出される議論に的を絞ります。
*詔書の用語確認
「卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けています。この部分は、わが国の古代史にあってはあまり話題になっていないようですが、極めて貴重なことが述べられています。あるいは、ここの部分をどう認識するかが、わが国の古代史を理解する上で、その試金石になるとも言えます。
つまり、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことが、認識できるかどうかということです。
ここでは、魏の使者が、わざわざ倭王の所まで出向いています。そして、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。
卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしています。あくまで、魏が下賜するという視点となっています。」
*不審な解釈
余りの騰勢に、えっと、首をかしげます。調子が良すぎるときは、しっかり読みなおしないと、年寄りの本能が告げるのです。
つい先ほど、当サイト筆者の引用する倭人伝記事に、
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
と書かれていたばかりです。
つまり、東夷であっても、親魏倭王と敬称をたてまつられている「女王」に面会しようと参ずるときには、魏の使者は「詣」と言うのでしよう。あるいは、魏使編纂者である陳壽の語法でもあるかも知れないのですが、陳壽は、尊大に資料に手を入れる人ではないのです。魏朝として、使節は、倭王の上席に立つとまでは言わないようです。
一方、魏朝皇帝の詔に現れる、やや見下したとされる『汝』、『哀』ですが、皇帝の言葉としては、見下すのが当然でしょう。
『汝』は、皇帝の使う標準的な第二人称ではないか、とか、『哀』に付いても、それほど見下したと言うほどではないのではないか、等々深い問題なので、素人としては、正確には、わからないと言うしかないのですが。
*礼節なき遣使
ここで、当サイト筆者の意見に従うと、正始元年の魏使は、「わけもなく」、「倭王」(女王でなく)の所まで出向いていることになり、「わけもなく」皇帝の詔書を持参したことになっています。そして、直前に朝貢を受けたわけでもないのに、「わけもなく」結構な下賜物が出ていることになります。そのわけは、書かれていないのです。
当サイト筆者の読解では、景初二年の使節に詔書と下賜物を持たせて送り返して、大々的に答礼しているので、儀礼の交換は済んでいるのではないかと思われます。
それにしても、寡聞にしてよく知りませんが、中国歴代王朝で、臣下と言うべき異国に、答礼でもないのに、高価、大量の下賜物を持たせ、詔書を持した使節を派遣した例があるのでしょうか。これでは、魏朝皇帝が倭王の臣下となってしまうように思われます。天子と夷狄の間の礼節原理に反しているものと思います。
ついでながら、使節の上表書で、倭国が一種の連合国家であると謳われていたにしても、中国の正統王朝たる魏朝は、最初に遣使してきた王が全体を代表する正統な権利を持った最高権力者であると認め、だからこそ、「親魏倭王」、つまり、魏朝の権威によって、倭国の域内諸國に税務を課し、軍務を課し、労役を課し、反するものは魏朝の名の下に征伐せよ、との権限と義務を与えたと見るものであり、遣使してこなかった、正体不明の第三者に、それと同等の権威を認めることは、まず考えられないのです。
こうして慎重に吟味すると、当サイト筆者の意見は、一級資料である倭人傳に順当な根拠がない解釈であり、改竄と言うより、創作に近いと言わざるを得ないように思います。
*景初二年異聞
さて、当サイト筆者の意見の勝手な読み方の一つとして、景初二年「6月に訪問し、半年待たされたあげくに、また後で届けるから、とりあえず帰ってくれとなったのだそうです。」と、手厳しく非難していますが、倭人傳に書かれていない、時間経過を勝手に書き込んではいないでしょうか。
倭人傳を淡々と読むと、景初二年6月に、使節が帯方郡に到着して、使節の希望として、(すぐにも)「京都洛陽に赴き魏朝皇帝に拝謁したい」と言ったように思うのですが、当サイト筆者は、大きく飛躍して6月に洛陽に到着したとでも思っているのでしょうか。実に、不思議な解釈です。
帯方郡から洛陽まで、黄海を渡って東莱あたりの港に上陸し、戦乱の収まっていない遼東を迂回するとしても、使節一行には、2、3カ月を要したとしても不思議ではないと思えるのです。それだけでも、半年待たされたという推定と史料の読み替えは、合理的な根拠のないものになります。
いや、戦乱の収まっていない、どころか、公孫氏の完全敗北は8月です。帯方郡の然るべき人員が同行し、各地の通関で身分保障しなければ、不審のものとして、途中で止められる筈です。すぐにも、と言うのは、旅費の不安も含めてのことでしょうが、まさか、魏都洛陽が、帯方郡のほんの隣にあると思ってのことではないでしょう。
それにしても、京都洛陽訪問にしても、帯方郡の高官が同行するからこそ、宿泊の心配も食事の心配もないのですが。ともあれ、洛陽まで、黄河(河水)を水行したとしても、通関の手間と食料の心配は、異国人だけでは解決できないのです。
さて、時代環境を復習すると、このような東夷人使節を洛陽に届けるについては、公孫氏討伐軍の総指揮官司馬懿の承認のもと、司馬懿から洛陽への文書上申が必要であり、諸事多忙の皇帝への拝謁も、「アポ無し」の飛び込みとは行かないので、相当期間の事前予約など、丁寧な手配が必要なのです。
未完
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