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2016年3月25日 (金)

私の本棚 46 関裕二 新史論/4 癒やしがたい迷妄 その2

「新史論/書き替えられた古代史 4 天智と天武 日本書紀の真相」
 小学館新書 188

          私の見立て☆☆☆☆        2016/03/25
[承前]

古代の「測量技術」
 まず、古代には『測量技術』は存在しなかったことがはっきりしているから、この説明は、まるっきりデタラメである。

 「測量」するためには、背景となるメートル法(ないしは同等)の単位系(長さ、質量、時間の三要素が必須)が必要であり、基礎として、三角関数、対数の数表を利用した計算と十進多桁演算のできる近代的な数学概念が必要である。古代に、そんなものはなかったのである。光学機器とは、デジカメ、拡大鏡、ファイバースコープなどを言うのかなと思うのだが、こうした光学機器では測量はできない。

 主旨として、距離や方角を求めるのに、古代人の「やまかん」は、現代人が「やまかん」と大差ないというのであれば、それは、むしろ古代人の「やまかん」の方が正しいかも知れないが、それがどうしたというのだろう。素人には突っ込みようのない、茫漠たるボケである。

破天荒な高精度
 そこで、更に不可解なのは、測量誤差は、角度で0.2-0.3度以内、距離は0.5%以内だという。
 著者の手元には、古代人の測定データが残っているのだろうか。当時、すでに十進、小数点記法があり、360度全周角で0.1度単位の測定と記録ができたというのだろうか。

 特に、角度は、地点間移動したときに、どうやって、何を基準に補正したのだろうか。70㌔㍍、100キロ先の測定対象など、山地で遮られず見通せたとしても、目視確認できないではないか。

 ここにあげられた測定精度が、いかに途方もない話かは、今一度、高校レベルの理数系教育を受け直していただければ、自ずとわかるのである。つまり、本書の著者は、中学生とは言わないが、高校生なら、でたらめとわかる話を書き立てているのである。

四千万歩の男も顔負け
 古代どころか、遙か江戸時代に至るまで、現代的な測量技術がなかったから、角度や距離の測定精度を云々するのも、ばかばかしいが、
かりに、現代人が、現代のレーザー測量機器や精密な時計を持参したとしても、先に挙げた制約は克服しようがないから、現実の山野で0.3度以内、0.5%以内の誤差範囲で測量するには、膨大な校正手順が必要
であり、到底あり得ない話である。

 

 ただし、提唱者は、『聖点』なる点を、地上に求めたとのことだが、何の根拠があって、どうやって、そこまでの高精度で確定できる基準点を特定したのだろうか。現代であれば、各地に設定した三角点があるが、例えば、「社寺仏閣」のどの点が問題になるのか、不審である。

 

お手盛りづくしの快楽
 要は、お手盛りの仮説をお手盛りで確認して、勝手に喜んでいるのではなかろうか。

 

誤差の蓄積以前
 別の視点を適用すると、関氏が掲示している地図の70kmを超える距離の測定、方向の測定は、見通し外なので、現代人といえども、いくつかの三角点を経由して測量を積み重ねるのであり、その際に、0.5%の測定精度などあり得ないのである。大事な論点なので、重複したかも知れないが、一度で無理なら、二度、三度言い募れば通じるのかなと思うのである。

 

 まして、古代人は、歩測を重ねるなり、長尺の縄を引き回すなりして、測定可能な距離に区分して、距離測定するしかないのである。それぞれの区間で、0.5パーセントの精度は達成不可能だが、そうして、区分して測定したデータの積み重ねで、0.5%の誤差内で測定できるとしたら、それは「測量技術」と呼べるものではない。

 

 掲げた地図に、四桁、五桁の桁数の数字が書かれているが、これらはコンピューターの計算結果であって、指定すれば十桁でも百桁でも、多数桁精度で計算させられるが、そうした数字は、計算精度であって、データ精度ではなく、意味のない「無効数字」とでも言うべきゴミなのである。

 

著者の責任
 いや、この話題全てが、余りに無茶な説明なのだが、本書の著者の関氏は、渋谷茂一なる人物の言い立てるトンデモ仮説を、無批判に受け容れて、自著に書き立てているのであるから、事のなりゆきは全面的に著者の責任なのである。

 

 当方には、そのような非科学的なトンデモ本を買い入れて、その著者を批判するなどは任ではないし、一読者として論外なのである。

 

 買ってしまった本の代金を返せとは言わないが、代金分だけ批判をぶつけるのである。
 かくして、前半部分のご高説は、ろくに読まれないまま、ゴミ箱に放り込まれるのである。著者の責任なのである。

 

以上 

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