« 私の本棚 46 関裕二 新史論/4 癒やしがたい迷妄 その2 | トップページ | 私の本棚 48 「奴国の時代」 1 季刊邪馬台国127号 その2 »

2016年3月27日 (日)

私の本棚 47 「奴国の時代」 1 季刊邪馬台国127号 その1

 

季刊 邪馬邪馬台国 127号   2015年7月

          私の見立て☆☆☆☆        2016/03/27

 本号は、「奴国」特集の開闢ということで、力の入った記事が見られる。
 しかし、「邪馬台国」を標榜する雑誌であるから、奴国記事は古典的な突っ込みの対象となるのである。

奴国の時代 1      編集部

 33ページから始まる長文の論説の労作である。
 何より大事な話の切り出しとして、無造作に、「紀元前五世紀に中国が戦国時代に突入した」というが、この用語は、後世の歴史家が便宜的に名付けただけであって、別に、その時に、全中国で一斉に画期的な事象があったわけではないのは、言うまでもないと思う。

 こと、「倭国」に関係する遼東/山東方面について視点を絞っても、北の燕国と南の斉国の抗争は、燻り続けていたものと思う。

 余り、後世から見た結果論や大局から見た概括論に陥るのは、肝心の事態を見失うものと思うのである。

 本論説全体が、ダメ出しされていない、上滑りなものになっているのではないかと、懸念させる書き出しである。

 と言うような感じで、以下、当ブログ筆者は、一人舞台で自慢そうに批判、断定しているが、間違っていたら、ご指摘いただきたいものである。

 さて、当記事の批判対象は、51ページ最終行からページ跨ぎで提示されている主張であるが、全体の結論として重大な主張と思われるので、今回は、ここに話題を絞るのである。見るように、引用符無しの主張である。

 甕棺文化圏は、奴国を盟主とする奴国連合の存在を強く示唆している。奴国が後漢から倭を代表する国として認知されるだけの実態と求心力を備えているようにみえる。

 まあ、全体として、主語不明で意味不明の単語を意味不明につなぎ合わせた悪文てあるが、そう言われて気づくようなら、こんな文章は書かないだろうから、ここでは詳しくは言わない。論理の読み取れない文は、ない方がましだと言っておく。

「文化」の誤解
 多分、専門紙の記事であるから、以下に挙げるような批判は承知の上なのだろうが、読者の中には、ご存じない方もあるかも知れないので、素人の不出来な文章運びは覚悟の上で、愚直に指摘することにした。

 以下、全体として、特に根拠を明示せずに、そのくせ断定口調で述べるが、何分、学問的に資料収集しているわけではないので、明確な根拠が見つからないというのが主因であって、当ブログ筆者が勝手に思いついて言い立てているだけではない(と信ずるに足るだけの範囲で、諸賢の教授を受けいれたものである)ことは申し上げておく。
 読者が、このような話しぶりに同感されるか、排除されるかは、一度吟味いただいてからとしてほしいものである。

「文化」の意味
 「文化」という言葉は、(おそらく)明治初葉の日本で、(和漢旧蹟に通じた有識者によって)、英語て言う"Culture"の訳語として採用されたものが、今日まで正当な日本語として継承されているたものように思う。

 もちろん、上にも書いたように、日本人の語彙だけで勝手に造語したものではなく、書經に代表される中国古典に現れる漢語の中から、大きく意味の異ならない、最適と思われる言葉を選んだのであるが、それでも、日本製漢語「文化」は、中國語の「文化」(元々の意味)と同じ意味というわけではないと思われる。

 古代中国でいう「文化」は、この2文字の言葉の本質的な意味「だけ」で捉えなければ、大きな勘違いをしてしまう危険がある。

 つまり、 (と思う)「文化」の「文」とは、文字で表現された概念であり、「化」とはその概念に従う、従わせると言うことである
 「文字で表現された概念」というのは、書経などの、言うならば聖典であり、そこで使用されている(現代でいう)中国語という言語、その中国語を書き記すのに使われている漢字が、「文」なのである。

「甕棺文化圏」の時代錯誤
 端的に言うと、ここで提唱されている「甕棺文化圏」は、現代日本語で言う「文化」であって、書経などで中国文化のあるべき姿として書かれているものではない
(と思われる)ので、(当時の)時代(の中国)語「時代語」で言う「文化」とは、無縁のものであり、

 もし、倭奴国の遣使が、中国、当時は後漢朝であったから、その京都洛陽の政府高官に対して、「甕棺文化圏」を誇示したとしても、「文化」の誤解として、落第するものであると考える。

 合格したければ、中国の言葉と、暦、そして、元号を採用した上表文を提示し、高官と通訳無しで語り合い、中国古典に関する豊かな教養を披見することである。

 そうすれば、中華「文明」圏の一員として認知され、漢の官制に基づく「国王」に任じられ、その証しとして金印を受けることかできるのである。

金印の意義
 金 印は、遠隔地にあって、「国王」の権限として、後漢朝の地方官として、周囲諸国から税を集めて手元に貯蔵し、その指示は、天子の言葉であるから、国王自身 の指示に反するものは、後漢朝の許可を仰ぐことなく、国王自身の指令によって(常備することを許されている)國軍を動員して征討することを許されていることを意味するものであり、絶大な権限の証左なのである。

 過去の所論を見ても、余り、そうした意義を説く人が見えないのは、考古学界では自明のことだからであるかも知れないが、素人は、念押しせざるを得ないのである。と言うのは、考古学界という世間には、後漢朝が「自称」国王に金印を与えたと言い立てる人があるからである。

 これも言うまでもないが、金印一個だけを渡されたわけではなく、掲げるべき旗印(まさか、錦旗ではないだろうが)、皇帝御璽の印された、おそらく帛書の任命状、そして、夷蕃の王の初回貢献に対するにふさわしい潤沢な、ただし、大きな荷物にならない下賜物があったはずである。

 もちろん、金印で示される絶大な威光は、「国王」自身のものではなく、後漢朝に由来するものであり、(御旗や)金印は、「国王」の力で征討しきれない場合は、後漢朝の官軍が乗り出してくるるという証拠でもある。

 博識な読者から、当時の後漢朝は、中国国内の統一を何とか成し遂げたものの、疲弊した国政の回復を急いでいたとの指摘はあるであろうが、東夷がそんなことまで知るはずもないのである。

漢倭奴国王の威光
 そのような、言うならば、後漢朝の威光を地域で独占して体現する権利を、後漢朝が、倭国諸國連合の単なる一員に与えるとは考えにくいのである。漢制による国王に任ずるからには、その「国」は、倭の諸国を現に統率していて、その確たる権威を後漢朝が承認しなければ、このように国王に任ずることはないのである。

  念のため言い添えれば、このような初回貢献は、東夷の方が耳寄りな情報をもとに勝手に派遣するものではなく、中国王朝側が、管轄地方組織を通じて招集して いるから、はるばるやってくるのである。東夷が、無事にやってこられるのは、出迎えしているからであり、途中の各地に、国の客であるから、無事に通すよう に通達が届いているからである。
 特に、証拠となる資料は見当たらないだろうが、それが、文書行政の整った国家というものである。

[未完]

« 私の本棚 46 関裕二 新史論/4 癒やしがたい迷妄 その2 | トップページ | 私の本棚 48 「奴国の時代」 1 季刊邪馬台国127号 その2 »

歴史人物談義」カテゴリの記事

私の本棚」カテゴリの記事

倭人伝の散歩道稿」カテゴリの記事

季刊 邪馬台国」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私の本棚 47 「奴国の時代」 1 季刊邪馬台国127号 その1:

« 私の本棚 46 関裕二 新史論/4 癒やしがたい迷妄 その2 | トップページ | 私の本棚 48 「奴国の時代」 1 季刊邪馬台国127号 その2 »

お気に入ったらブログランキングに投票してください


いいと思ったら ブログ村に投票してください

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

カテゴリー

無料ブログはココログ