「古田史学」追想 遮りがたい水脈 6 「陳寿の不運」 ~国志異聞
2016/03/28
古田武彦氏の所説で、比較的初期から共感していたものに、三國志編纂者である「陳壽」に対する「真っ直ぐな」評価がある。
そのために、古田氏の提唱した「邪馬壹国」論に反対する人たちから、陳壽バッシングとも言いたいような難癖が押し寄せて、陳壽にしてみたら、不満な事態かも知れない。
膨大な三國志全体の評価より、その一部である「魏志倭人伝」に対する不満が、少なくとも日本で喋々されているのは、史家として不本意だ思うのである。
と言っても、古田氏の「陳寿理解」は、必ずしも万全で無いことは言うまでもない。
たとえば、次の部分に、安易な定説追従が見られるのである。
ミネルヴァ日本評伝 通巻第百巻
「俾彌呼」 第一部 倭人伝に書かれた古代
第七章 三国志序文の発見
ここで、191ページに「魏朝の『正史』」と書き、二行おいて、「魏・西晋朝の正史、『三国志』」と、何気なく書いているが、これは、首尾一貫していないという以前に、大きなところで「筋が通らない」のである。
魏朝の「正史」であれば、それは、「漢書」に続く「魏書」と呼ぶべきであって、「三国志」と呼ぶべきでないのが明らかである。
三国志を見る限り、漢を継承したと認められているのは、「魏」であり、他の二国は、あくまで、「帝位」を僭称した偽物達である。
つまり、魏・西晋朝には、三国鼎立史観は無かったはずである。
と言うものの、現実に、「正史」として継承されてきたのは、「三国志」である。
最近発見したのが、中国で発表された下記論文である。(論文と呼ぶにふさわしい堂々たる体裁を備えている)末尾に2013年第3期の「文史」(中華書局発行 史学誌)に掲載と表記されている。
www.zggds.pku.edu.cn/004/001/223.pdf
当ブログ筆者の中国語読解力は、中国で言えば小学生以下(以下は、小学生を含むと思いたい)であって、読みの正確さのほどは大変妖しいのだが、さすがに、タイトルについてはよく理解できるし、史書の影印版を多く引用した体裁から、次のような論旨は、読み取れるように思うのである。
*魏朝「正史」は、本来「國志」と題されていた。陳寿は、妥当と思われる理由があって、そのように題した。
*「国志」は、先行「正史」の「史記」、「漢書」と同様に二文字である点が見られる。
*少なくとも、唐代までの各種資料に「国志」とだけ書かれている例が見られる。
*時代的に唐時代に先行していても、(後世)写本を見ると「三国志」と書かれていることがあるが、「国志」の前(上)に「三」を書き足した形跡が見てとれる(ようである)。
*唐代以降、とくに、「笵曄後漢書」が、史記、漢書に続く正史として認知され揃って三史と列挙されるようになり、また、蜀漢正統論が出回ってからは、魏朝正史で無く三国時代正史として位置づけられることが当たり前になり、「三国志」と題されることか多くなって今日に至ったものと思われる。
あやふやな紹介では間に合わないので、中国語からの翻訳がどこかに発表されることを期待して紹介する。
当ブログ筆者としては、かねてから、古田氏を初めとする定説信奉者の説明に納得していなかったのだが、今回、かなり強引としても、ある程度説得力の感じられる「一説」を聞くことができ燻っていた不満が解消した感じである。
もちろん、提唱されたのは、あくまで(根拠薄弱な)仮説であり、傾聴の価値はあるものの、これで何かが確認されたというわけではないと思うのである。
以上
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