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2016年4月

2016年4月20日 (水)

毎日新聞 歴史の鍵穴 貴重な見識に敬意

          私の見立て★★★★☆             2016/04/20

 毎日新聞夕刊「文化」面(2016/04/2)の月一連載「歴史の鍵穴」(佐々木泰造 専門編集委員筆)の記事に、敬意を払いたいのである。今回は、ほめ記事であるので、原文へのリンクを付けた。

歴史の鍵穴
被災土蔵の古記録 地震で受けた恩、子孫に残す=専門編集委員・佐々木泰造

*学識への敬意
 前回は、「世人が佐々木氏に望むのは、比類無き豊富な見識を駆使して、あまた持ち込まれる多種多様な新説を咀嚼賞味して、そのなかから、取り扱うに足りるものを厳選し、ご自身の言葉で読者に説き聞かせてくれることではないかと思う。」とまで、言葉を連ねたが、一番言いたかったのは、氏が、自家薬籠中のものとされている、豊富な専門学識を披瀝頂きたかったのである。

 記事内容については、上記サイトを参照頂きたい。

*時代語感と言うこと
 今回の記事で重箱の隅をほじくるなら、唯一不満だったのは、「先人からの未来へのメッセージ」と言う、通俗的な現代言葉、中でも、カタカナ言葉の採用である。

 本来、氏が言いたいのは、先人にとっての「未来」なのだろうが、現代の新聞紙上で地の文として書かれているのを見れば、「未来」とは、今の時点から見た未来と読めてしまう。
 「子孫」とか」「後世」と言えば、誤解を避けられると思う

 また、「メッセージ」というカタカナ言葉は、例によって、いろいろな意味にとれる困った言葉なのだが、当然ながら、書いた当人である先人には理解できない言葉なので、歴史記録の説明としては、不似合いだと思うのである。

 実際、先人は「メッセージ」を伝えるなどと大層な動機から書き残したのではなくて、見た通り、当時の災害の記録とともに、恩人への感謝の想いを込めて、まだ見ぬ後世の子孫に書き残したのではないかと思うのである。もちろん、先人の思いは、推測するしかないのだが、個人的には、そう思うのである。

 本当に「メッセージ」として、子や孫の世代に確実に伝えたいのであれば、土蔵にしまい込むのではなしに、家訓、遺訓として、壁に掲示するなり、文書化して継承したと思うのである。

 折角、時代資料を丹念に紹介頂いているのに、以上のような文句を言うのは失礼と思うだが、ここに違和感を感じたので、貴重な記事に対する感謝の気持ちと共にお伝えする次第である。

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2016年4月19日 (火)

YouTube著作権 逆侵害騒動 「著作権保護されたコンテンツ」の説明 4

                 2016/04/18   
承前

 因みに、YouTubeの一部に質問提示が可能なサイトがあったので、以下の通り投書した。権限のある人、問題意識のある人の眼に届けば幸いである。

Content ID system failure
It might sound slightly off-topic but it strongly relates to monetization. So, please be patient.

In my best knowledge, a piece of music in my video is misjudged by the system, again. The piece is a quote from a radio broadcast performance in 1976.
It was composed by a 19th century composer Johannes Brahms and can't be copyrighted anywhere.

The performance is not in the public domain yet, but I can't find any commercialization nor reference on the net. Therefore, I believe the piece of music is almost forgotten.
It must be mistaken for someone's commercialized "content" due to the system's identification failure. Just to make it clear, in the realm of classical music, quite a few pieces of performance by quite a few performers, both professional and amateur, both commercialized and just recorded without release, can sound quite similar because all the classical players tried to stick to the music score of the composer.

The content ID system is destined and prone to mistakes or failures because it just looks casually for matches to find duplicates of copyrighted materials. It is not designed professionally or legally-suitable for identifying or distinguishing by evaluating both matches and mismatches as in crime investigation.

Since YouTube Team conceals the misidentified content nor the copyright claimer, I have no evidence to  my argument above, but I have experienced plural cases of misunderstanding, taking months to shake off by mentioning obvious things in objection process.

All said, this is a case of copyright "invasion" of my work of video, which is a crime itself.
I am threatened to allow sharing my income with some deceiving claimer in hiding.

I do not understand why YouTube Team maintains such an error-prone system in classical music identification. It's too innocently unaware to give benefit to the big guys and unfair to us small and weak YouTube video creators.

取り敢えず、この項 完

YouTube著作権 逆侵害騒動 「著作権保護されたコンテンツ」の説明 3

                            2016/04/18   
承前

 これまでのブログ記事で力説しているように、20世紀前半までに作曲されたクラシック音楽を演奏した音源は、含まれている曲自体は、その大半が、著作物として著作権を主張できないものであり、コンテントとして著作権を主張できるのは、曲の「演奏」(パフォーマンス)に対するものなのです。
 著作権に関する法的な処置を設定しているYouTube Teamは、そのような基本的、かつ、不可欠な知識を持たず、自称著作権所有者の申告するままに、申告された音源に対するコンテントIDを設定し、YouTube にアップロードされた動画に対して、上記されたような手順で機械的に特定させるため、申告された音源とUL動画との一致点を検知して、ある基準を超えて一致点が見つかれば、申告された音源と「一致」していると勝手に断定してしまうのです。

 これまでの例でいうと、この「一致」判定は、大ざるともいうべき粗雑な判定であり、誤検知が続発しています。
 何しろ、ある程度以上の測定点で、両音源の瞬間的、あるいは、短時間の特徴が一致していたら全体として一致していると即断するので、状況によっては、避けられない誤判定です。
 つまり、このシステムでは、クラシック音源で多数みられる同曲異演奏の区別ができないのです。例えば、世界的に有名なオーケストラの演奏と地方のアマチュア演奏家オーケストラの演奏を比較して、「一致」していると判断する可能性が高いのです。
 いや、そのような誤判定は、現に起こっていることなのですが、当方のUL動画に対して、別々の音源を根拠に、複数の著作権保有者から「申し立て」が届いてあきれた事例もあります。

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YouTube著作権 逆侵害騒動 「著作権保護されたコンテンツ」の説明 2

                 2016/04/18   
承前

YouTube にアップロードされた動画は、Content ID ユーザーが提出したファイルのデータベースに照合され、スキャンされます。システムによって動画とデータベース内のファイルとの間の一致が検出されると、コンテンツ所有者はどのような対処をするか決定できるようになります。この際、該当の動画に対しては Content ID に関する申し立てが行われます。

 「YouTubeにアップロードされた動画」(以下、UL動画)は、直ちに、音量推移をスキャンされ、得られたデータが蓄積されたデータベースの各データと照合され、それぞれの音量推移の傾向に一致していると見られる点があれば、データベース内の特定された音源の自称所有者に通知が届くようです。

 この部分の書き方も、一連の手順に明解な主語が無く、用語が揺らいでいる上に、手順に飛躍があり、どうにも不明確ですが、どうも、一連の過程にYouTube Teamの「人間」の介入はなく、システムが勝手に判断し通知しているようにも見えます。そのような判断と指示は、法的には、所定の権限を持った管理者の決裁、承認が不可欠と思うのですが、どうでしょうか。
 特に、突然正体不明の「コンテンツ」所有者が乱入、登場するのは、不可解です。

 推定するに、コンテンツ(複数形)は、複数の著作物、ないしは、著作物に類するものの複合体であり、ここまでの筋書きで言えば、コンテンツ所有者といえども、権利を主張できるのは、コンテンツ中の「著作物」であって、かつ、自身が正当に著作権を持っているものに限られます。つまり、すでに公有となっている著作物や、盗用、流用している著作物の著作権を主張するのは、違法行為となりますから、そのような著作物に関する主張は、端から、自動的に無効です。
 してみると、単なる
「コンテンツ」所有者は、本来、事件に介入を許されていない局外者なのです。

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YouTube著作権 逆侵害騒動 「著作権保護されたコンテンツ」の説明 1

                 2016/04/18   

 今回は、YouTube Teamから、反論も批判も許されない冷酷な処置に出会って、対応に苦慮していると言う話である。問題の本質は、これまでと変わらない。

 以前は、強制的な公開差し止めであり、一応、大変不自由ではあるが、反論の機会が与えられていたが、今回は、問答無用の措置であり、当方の基準で言えば、動画著作権の不法な侵害行為である。(普通の言葉で言えば、「犯罪」である)

 当方の動画の「どこが、どこの誰のどんな著作物の著作権を侵害しているのか」具体的な根拠と共に示されず、そのような判断が誤っていると反論する機会も与えられず、ただ単に、当方の動画を収益化するには、何者かに収益を分配することを認めよ、と言う処置である。

 指摘の内容が適確であれば、当方の動画は違法なものであり、適法に改善することに異議はないが、根拠を示さないままに、「金を出せ」というのは、反社会的団体の行動パターンに似ているのではないかと、苦笑するのである。
 以下、よくわかっていない方達に説き聞かせているので、言葉を改める。

著作権保護されたコンテンツが含まれています。収益受け取りの対象
 という指摘に対して確認したら、以下のような困った実態が見えてきたのです。
 そもそも、「コンテンツ」とは、情けないカタカナ語ですが、どうも、これが「業界用語」として通っているらしいのです。
 中学生でも知っていることですが、「コンテンツ」を英語に戻すと、Contentsになると見られ、どうして複数形になっているのか、意味がわからないのです。
 単数形の「コンテント」(Content)ですら、「内容物」(単数)と言う漠然として不明瞭な言葉ですから、自分の法的な意味のある意図を相手に伝えるのに、役に立たない言葉ではないかと批判したくなる。
 また、上記指摘は、短文にして断言になっているが、断言の根拠は、立証過程の欠落した、「決め込み」になっているのです。

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2016年4月18日 (月)

今日の躓き石 絶滅しない毎日新聞の「アッパー」

                          2016/04/18
 毎日新聞大阪13版スポーツ欄のプロ野球報道で、またもや、忌まわしい言葉を見てしまった。
 かねがね、使用廃止すべき悪い言葉と指摘している(当ブログで勝手に提起している)「廃語」「セットアッパー」が、またぞろ紙面で威張っている。高校生でも知っている英語の基本原則を外れた言葉が日本のマスメディアでカタカナ語として支持されているのに、同感しがたいのは言うまでもない。

 こと、球界で言えば、「ナイター」と言う、癒やしがたい負の遺産を背負っていて、百年先まで残りそうな忌まわしい「文化遺産」となっているのだが、その流れに添って、勝手な造語をするのが、スポーツジャーナリズムの悪しき伝統になっていると思われる。

 全国紙たる毎日新聞には、国民に悪しき伝統を継承させず、後世の子孫にもカタカナ語と英語の繰り替えという無駄な努力をさせない、言葉の護り人としての使命があって、その功績として、いくつかの悪質な言葉の廃止が、会社方針となっていて、日々の紙面からたちの悪い言葉が排除されていることを密かに讃えているものである。当方の勝手な思い入れかも知れないが、密かに尊敬しているのである。

 ただ、その一方、その方針が全記者に徹底していないため、気ままな言葉遣いが紙面に紛れ込み、そのうえ、校閲でそのような廃語を紙面から取り除けていないことに不満を感じているのである。

 いや、当方は、いたずらに完璧主義を言い立てているのではない「廃語」の使用を100回回避しても、読者の意識が大きく変わるわけではないが、一度紙面に出てしまうと、読者の意識がその言葉に染められて、長く消えない生命力を保たせてしまうからである。嫌みな言い方をすれば、正しい言葉遣いを護る記者が百人いても、一人の不心得者が悪い言葉遣いを広げれば、帳消しどころではない「絶大な負の効果」を示すのである。

 また、このような取りこぼしがあると言うことは、各記者に対する「廃語」廃絶指導が「ルール不徹底」という意味で不完全であり、また、「廃語」の置き換えルールが実施されていないという、「ルール不徹底」という意味での不完全さであり、いずれも、会社組織としての「ルール遵守」が不完全であることを示しているからである。

 この件に限らず、会社組織として「守るべき」ルールを設定し、そのようにして決めたルール遵守を指導し、ルールに外れたときには直ちに是正するのが、報道機関に限らず、会社組織の運営の根幹であると考えるので、厳しく、ルールからの逸脱をとがめ立てしいるのである。

 以上の言い立ては、毎日新聞社が用語ルールを確立していて、その中で、不適当で言い換えすべき言葉として「セットアッパー」が規定されているとの想定に基づくものだが、早合点の見当違いであれば、そのようにご指摘頂きたい。

 言うまでもないが、当ブログ筆者は、当記事の文体として、殊更に尊大な言い方を選んでいるものの、毎日新聞社の幹部でもなければ、会社の監査をしているわけでもない一介の素人の読者としての苦言であるから、別に拘束されるものではないのは言うまでもない。

以上

2016年4月17日 (日)

今日の躓き石 YouTube動画騒動 「動画」著作権(逆)侵害疑惑

                          2016/04/17
 YouTubeは、大手企業による動画作家の著作権侵害に手を貸しているのではないかと疑いたくなる事態である。

 下記動画に対して、正体不明の自称「権利者」と収益をシェアすべきとの(実質的な)指示が示されているが、例によって確認可能な根拠が示されていない、勝手な申し入れである。素人考えだが、「著作権(逆)侵害」ではないかと考える。是非、弁護士と相談して公式見解を示して頂きたいのである。

 いわく、「 著作権保護されたコンテンツが含まれています。収益受け取りの対象 」

 過去の「犯歴」から見て、誤検知の可能性があるものである。これは、少なくとも、誤認ではないかと疑うだけの妥当な根拠がある意見である。

 自称「権利者」の申告が適法であるかどうかの検証がされていないのと検知方法に致命的な欠陥があるのと、重大な不具合を抱えているのだが、一向に是正されない。

 最後に書いたように、当ブログ筆者は、素人動画作家であると同時に、一市民としては、頑固な遵法主義者なので、筋の通らない、誤解に基づいていると思われる申し入れに、安易に同意しないのである。誤認の可能性の高い申し入れに、質問も意義も出さずに同意するというのは、一種の違法行為だと感じるからである。

疏水の春 伏見藤森の夜桜 2016/04/05 (Night Cherries down by the  Canalside)

***追記***
 YouTubeから、何者かが、当演奏の著作権を保有しているとの判断が示されて、驚いている。
 質問したり、異議を申し立てる手順が示されていないので、説明ページにコメントを送信した。回答があるとも思えないので、ここに再録する。
 「カバー曲」と勝手に判定しているが、何処の誰が著作権を持っている「演奏」と動画中の楽曲の演奏と同一と判定したのか、示されていない。根拠のない強制措置は、い方(違法)であり、動画の著作権を侵害している。違法行為として告発されてもいい覚悟はあるのだろうか。
 当演奏に対して、著作権を主張している団体は、堂々と公開の場(法廷まで行かなくても)で、著作権を主張する根拠を示すべきではないか
------------------
 「疏水」は、明治の初めに琵琶湖から山科を歴て京都に導かれた琵琶湖疏水のことです。
 何年か前から、この疏水、つまり、日本初のヨーロッパ風運河の流域を少しずつ探検しているのですが、今年は、疏水沿いの何カ所かの桜を動画にして発表することにしました。

 今回の撮影場所は、京都伏見の京阪沿線の藤森(ふじのもり)すが、人出が少なく静かに眺めを楽しめるところです。夜桜になると、周辺の佇まいや通行人の表情などが見えにくいので、助かっています。
 あまり有名になると、アジア諸国から観光客が押しかけて迷惑をかけるのが心配なので分かりにくくしています。今回も、10分近くかけて自撮りし合っている外国人カップルがいて辛抱させられましたし、近所のラーメン屋ではあたり構わず大音量で爆笑する(日本)4人組もいたし、と言うことで、密やかさと騒がしさは、どちらも避けられないものとと思いました。

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今日の躓き石 YouTube動画騒動 「動画」著作権(逆)侵害疑惑

                          2016/04/17
 YouTubeは、大手企業による動画作家の著作権侵害に手を貸しているのではないかと疑いたくなる事態である。

 下記動画に対して、正体不明の自称「権利者」と収益をシェアすべきとの(実質的な)指示が示されているが、例によって確認可能な根拠が示されていない、勝手な申し入れである。素人考えだが、「著作権(逆)侵害」ではないかと考える。是非、弁護士と相談して公式見解を示して頂きたいのである。

 いわく、「 著作権保護されたコンテンツが含まれています。収益受け取りの対象 」

 過去の「犯歴」から見て、誤検知の可能性があるものである。これは、少なくとも、誤認ではないかと疑うだけの妥当な根拠がある意見である。

 自称「権利者」の申告が適法であるかどうかの検証がされていないのと検知方法に致命的な欠陥があるのと、重大な不具合を抱えているのだが、一向に是正されない。

 最後に書いたように、当ブログ筆者は、素人動画作家であると同時に、一市民としては、頑固な遵法主義者なので、筋の通らない、誤解に基づいていると思われる申し入れに、安易に同意しないのである。誤認の可能性の高い申し入れに、質問も意義も出さずに同意するというのは、一種の違法行為だと感じるからである。

疏水の春 伏見藤森の夜桜 2016/04/05 (Night Cherries down by the  Canalside)

***追記***
 YouTubeから、何者かが、当演奏の著作権を保有しているとの判断が示されて、驚いている。
 質問したり、異議を申し立てる手順が示されていないので、説明ページにコメントを送信した。回答があるとも思えないので、ここに再録する。
 「カバー曲」と勝手に判定しているが、何処の誰が著作権を持っている「演奏」と動画中の楽曲の演奏と同一と判定したのか、示されていない。根拠のない強制措置は、い方(違法)であり、動画の著作権を侵害している。違法行為として告発されてもいい覚悟はあるのだろうか。
 当演奏に対して、著作権を主張している団体は、堂々と公開の場(法廷まで行かなくても)で、著作権を主張する根拠を示すべきではないか
------------------
 「疏水」は、明治の初めに琵琶湖から山科を歴て京都に導かれた琵琶湖疏水のことです。
 何年か前から、この疏水、つまり、日本初のヨーロッパ風運河の流域を少しずつ探検しているのですが、今年は、疏水沿いの何カ所かの桜を動画にして発表することにしました。

 今回の撮影場所は、京都伏見の京阪沿線の藤森(ふじのもり)すが、人出が少なく静かに眺めを楽しめるところです。夜桜になると、周辺の佇まいや通行人の表情などが見えにくいので、助かっています。
 あまり有名になると、アジア諸国から観光客が押しかけて迷惑をかけるのが心配なので分かりにくくしています。今回も、10分近くかけて自撮りし合っている外国人カップルがいて辛抱させられましたし、近所のラーメン屋ではあたり構わず大音量で爆笑する(日本)4人組もいたし、と言うことで、密やかさと騒がしさは、どちらも避けられないものとと思いました。

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今日の躓き石 換算焦点距離の居心地悪さ

                               2016/04/16
 当ブログでは、交換レンズの焦点距離の表記方法に統一した行き方がない点に注意を喚起している。

 今回は、特定のメーカー、特定の筆者を非難するものではないが、たとえば「35ミリ版換算で200mm~800mm」と言う言葉遣いについて異議を唱えたい。

 「35ミリ版換算」と言うのは、フィルムのサイズを言うのだろうが、35ミリフィルムは、映画撮影用にも多用されているので、独り立ちしにくい、不安定な表現である。つまり、「ハーフサイズ」、「シネサイズ」と呼ばれる1/2サイズが、明確に排除できていないのが、素人目には、もっともらしい見かけにもかかわらず、字数を費やしたにもかかわらず、何とも行き届いていないのである。と言っても、この言い方は、「ライカ版換算」とか、「フルサイズ換算」と言い換えても、一向に明解にならず、混迷が深まるだけである。

 次にくるのが、「換算で200mm」と言う言い方である。元になる製品名表示は、レンズの焦点距離である。しかし、書かれている「200mm」はなんなんだろう
 かたや、レンスの焦点距離は、規格に基づいて設計され、計測される物理仕様であるが、換算された数値は何のことかわからない。となると、"mm"と書いても意味が無いのではないか。むしろ、こうした数値は、規格として、その測定方法などが規定されるはずであるが、各記事を見る限り、素人目には、何とも行き届いていないように見えるのである。
 「35ミリ版換算」と言ってしまったために、逆に、換算先は何なのかとか、換算した数値はどうやって計測するのか、とか、筋違いとも言える突っ込みが入るのであり、ちょっと下手な言い方だと感じるのである。

 いや、いくら素人筆者といっても、業界通念というか、常識というか、この形容をどう解釈するのが順当かというのはわかっているが、世界に冠たる日本のカメラ業界として、何とかしないといけないのではないだろうか、と言うのが意見なのである。

 以前のブログで、ニコン(敬称略)が単に「相当」と言う、妥当な表現をとっていることを指摘した。実焦点距離の代わりに商品名に採用するほどである。素人目には、消費者に理解しやすい、と言うか、呑み込みやすい表記である。当ブログ筆者の意見としては、それなら、「相当」の代わりに、(Lengthの略と言うことで)「L100」などと書いて、ついでに"mm"を端折った方が、製品名などの字数を減らせるのではないかと思うのである。

 それはともかく、業界全体として、レンズの焦点距離表示と使用者の実感を一致させる表記を早急に提言すべきではないか。そして、心あるメディア関係者は、この件に限らず、用語統一ないしは明確化については、自身の武器である記事執筆機能を生かして、業界にそのような動きを迫るべきと考えるのである。

 いや、素人にもわかる不都合が、(デジタル時代にしては)長年にわたって是正されないのは、素人には知り得ない、大変困難な背景があるのだろうが、それこそ、プロフェッショナルに求められる難業解決ではないだろうか。

 そうそう、言うまでもないが、当ブログ筆者は、関係者の上司でもなければ、政府高官でもないので、別に、何ら拘束する力は無いのである。ただ、ここでこうして苦言を言うだけである。

以上

2016年4月13日 (水)

今日の躓き石 滅ぼすべき言葉と毎日新聞

                         2016/04/13
 今回は、ちょっと言いすぎと思いつつ、手厳しく書き出している。
 題材は、毎日新聞大阪版の「河内」面であるから、かなり、地方限定記事であるが、別に、「河内弁」絶滅対策というわけでもないと思うので、全国紙の紙面として、批判させていただく。

 『40周年 来たれ「同級生」』と題しているが、なぜ「同級生」なのか、何を意図しているのか、何度記事を読み返しても、意味不明である。つまり、読者に対して事実を伝えるという「報道」の原則に反する「紙くず」記事になっている。

 正しい日本語で同級生と言うからには、どこかの学校の、特定のクラスでなければならないのだが、肝心の情報が書かれていないから、「来たれやー」、「行ったれやー」と呼びかけられても、自分のことかどうかわからないのである。

 いや、冗談を抜きにして、近年、一部の軽薄系マスコミで言われている「同級生」は、カレンダーの「同年」でなく、学校の年度が同じという意味であるが、この記事は「1976年生まれ」とカレンダー通りに明記されているので、「同級生」の見出し言葉は、それすら踏み外しているから、誰にも意味のわからない、錯綜というか、混乱というか、意味不明の言葉遣いである。

 まさか、神戸市立六甲山牧場が、そこまで、素っ頓狂で、調子外れで、おおぼけの発表をしたとは思えないので、毎日新聞として叩き出したものであろうが、そこまでたがが緩んだかと、大いに歎くのである。

 くれぐれも、子供から大人まで大勢の読者が、正しい言葉と信じて読む記事なのだから、正しい言葉遣いに集中して欲しいものである。

以上

2016年4月12日 (火)

私の本棚 50 季刊邪馬台國128号に寄せて 3-2 「奴国の遺跡群」

 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月
 「奴国の遺跡群」     井上筑前

          私の見立て★★☆☆☆             2016/04/12

[承前]

*束の間の「奴国の時代」
 論者は、引き続いて、曖昧に「この時代」の奴国と言っているが、建武中元二年記事に「倭奴国」と書かれていても安帝永初元年記事には「倭国」と書かれているのであるから、両者が同一の国かどうかは不明であり、「この時代」は、建武中元二年(西暦57年)に限定されるのではないか。この点、論者は、公正に疑問を投げかけている。

*奴国の後裔
 後漢書の両記事の範囲内でも不明であるから、遙か後世の曹魏景初二年(西暦238年)時点の視点と思われる魏志倭人伝記事との繋がりは、どうなるのか不明であると言わざるを得ない。この点、論者は、何も語っていないように思う。

 正直なところ、かって建武中元二年時点に、九州北部に威勢を誇っていたとされる「奴国」が二世紀近い後まで「王国」として歴代継承されていたとは、魏志倭人伝に書かれていないように思うのである。

 陳寿は、西晋朝「史官」であり、魏志編纂に際しては、遙か後年劉宋の笵曄に劣らない後漢史料を利用できたはずである。

 当然、ほんの二世紀前の建武中元二年に、東夷の「倭奴国」が貢献して、漢朝復活の偉業を成し遂げた光武帝から金印を賜ったという史実を知り得たはずと考える。であれば、魏志倭人でに列記された数多い倭国諸国の中の「奴国」が、かつての盟主国の後継者であれば、そのように特記したはずである。

 当ブログ筆者は、一介の素人であるので、いろいろな参考情報からそのように考えるのである。当然、当分野に造詣の深い諸賢は、そのような明白な事情を知り尽くしていると思うのだが、世間で余り見かけないので、一応指摘させて頂くものである。

 本論考の運びは、おそらく、「大人の事情」から来ているのだろうが、当方は、局外者なので、子供じみた指摘をせざるを得ないのである。

 それにしても、古代史談義に、カタカナ語や現代語は似合わない。

この項 完

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私の本棚 49 季刊邪馬台國128号に寄せて 3-1 「奴国の遺跡群」

 季刊 邪馬台国 128号  2016年2月
 「奴国の遺跡群」     井上筑前

          私の見立て★★☆☆☆             2016/04/12

 当ブログの方針は、古代史、特に、魏志倭人伝周辺に関する論説、論考で、論理的でない話の運び、時には、筋違いの展開について、「重箱の隅」を突くものなので、論者の所説全体に批判を加えるのは、本来の意図ではないし、当ブログ筆者の任でもないのだが、時として、重大な議論を呈することは、ご容赦頂きたい。

 本論考は、「奴国の遺跡群」と言うタイトルに従い、まずは、「奴国」とは何者かという確認から入る。いわば、枕と言うべきものなのだが、周知の通り、枕がすべると、客は白けて、最悪、帰ってしまうので、そつなく書く必要がある。

 そこで、笵曄編纂の正史「後漢書」の記事を採り上げるのは、むしろ当然と思われる。何しろ、各史書で「奴国」と言う二文字が書かれている原典は、後漢書記事であり、言うならば後世史書は、全てここから引用しているからである。

*カタカナ言葉のとがめ
 冒頭に、後漢書の記事が、三国志記事(ないしは、陳寿が三国志編纂時に利用したと思われる原資料)を参照した後、『「後漢書」のオリジナル』と書き出しているのは、「オリジナル」というカタカナ言葉の不安定さを軽視した言い回しである。

 「オリジナル」が、独自に、新たに創作した、という意味で使われていると見られる可能性が高いのだが、笵曄は、後漢書の記事を創作したのではないので、ここで、まず首を傾げるのである。

 特に、ここで上げられている建武中元二年と安帝永初元年の記事は、後漢の公式記録の抜粋であり、創作性は、ほぼ皆無である。

*異論ある「勝手」読み
 さて、後漢書建武中元二年記事の「倭奴国」を「倭」の「奴国」と読み下すのは、一つの解釈であり、有力な異説がある以上、それに触れないのは、後漢書の読み下しの際に適切な姿勢とは思えない
 いや、ここで、「倭」の「奴国」と読み下すところから、本記事が出発しているのだから、異説を採り上げる必要はないというのかも知れないが、それでは、本論考が冒頭で揶揄している「勝手」な論にもう一人の論者として参加していると思うのである。

 所詮、古代史史料の解釈は、誰も知り得ない過去の「物語」を推定しているのだから、誰一人、「勝手」な推定から脱することはできないのである。

 勝手と言われたくなければ、異説、反論の存在に触れて欲しいものである。

 その上で、当論考は、「倭」の「奴国」と読み下すところから始めていると書くべきである、と勝手に思うのである。

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今日の躓き石 NHKが日本語を変えるとき 続

                             2016/04/12
 この「3000安打」の話題は、当ブログの採り上げる「躓き石」の中でも、一段と、些細な言葉遣いに見えることと思う。
 別に、「報復」や「謝罪」に連なる重大な言葉でもなければ、報道の使命に反する無神経なカタカナ言葉の乱用というものでも無い。

 しかし、およそスポーツの中で、一番関心が高いと思われるプロ野球に関する言葉遣いが、公共放送の方針によってかよらないでか、少なくとも、アナウンサー達の間ではっきりとルール変更を進めて、言葉の置き換えを計っているというのは、どう考えればいいのか、迷うのである。

 今朝も、BS-1のMLB中継で、アナウンサーは「3000安打」を連呼している。こと、プロの中のプロの言葉遣いだから、不注意な言い間違いで無いはずである。

 安打の数の数え方は、その時の「文脈」で変わるのが日本語の習わしである。ここで気になるのは、「通過点」の呼び方である。そして、直接連なる言葉として、「3000安打」まで、「後**本」というのか、「後**安打」というのか、このあたりで、戸惑いもなく、混用されているのも、必ず、内心で言葉遣いを下拵えしてから口に出す「プロのアナウンサー」であれば、避けようと思えば避けられるので、食い違いが目立つ言い回しが出て来るのが、プロらしいというか、らしくないというのか、一瞬思うのである。

 NHKが、あまり事を荒立てずに、日本語の言葉遣いを正しくしようとしている例は、悪名高い「ナイター」に見られる。たいていの人は気づいているだろうが、まずプロ野球界が使い始めて広く普及し、他の分野にも蔓延しているこの「安易」なカタカナ語だが、NHKは、関係者談話やプレスレリースなどの「報道」以外では、泰然として使用しないのである。50年かかろうが、100年かかろうが、自然に廃れるのを待つという感じである。

 しかし、今回の「3000安打」は、なぜ「3000本安打」に取って代わることになるのか、意図不明で納得できないのである。

 時に申し上げているように、言葉遣いの潮目が変わると、その前後の世代で、滑らかな意思疎通ができないのである。
 いや、前回記事の原因になった、BS1番組で言えば、若い世代のNHKアナウンサーの言葉に、少し古い世代のコメンテーターが反応してやんわりと言い直したのに対して、アナウンサーが元に戻して「我」を通したのであるが、互いに、相手の言葉遣いを間違いだと確信しているので、こと、「3000安打」に関しては、世代間の対立構図がうっすらと感じられたのである。

 これが、祖父世代と孫世代の間ともなれば、互いに、言葉の通じない、世代間に亀裂の走る事態になるのである。あくまで、些細なことであるが、そうしたことが続けば、いや現実に続くから、世代間の意思疎通が難しくなるのが世の習いであるが、NHKは、そこまでして、この言葉遣いを変える必要があるのだろうか。 

 いや、別に、天下の公共放送に楯突いてどうこうというものではない。大勢いる視聴者の中には、そのような微細な小石に躓いて、それに気がついて、それを気にしているのもいることをお知らせしたいだけである。

以上

2016年4月10日 (日)

「ランパル」騒動 Jim Galway's Flute Sonata 2

                         2016/04/10
 前回記事で書いたように、かくの如く、冷酷な通告を受け、異議申し立てしているところである。                

                   
                     

Hi ToYourDay,

Due to a copyright claim, your YouTube video has been blocked in some countries. This means that your video is still up on YouTube, but people in some countries may not be able to watch it.

Video title: 東北の春 十和田湖畔 夕景 2015/4/28  
Copyrighted song: Sonata for Flute and Piano, K. 376/Allegro  
Claimed by: SME

       

 

  Why this can happen  

  • Your video might contain copyrighted content.
  • Copyright owners can choose to block YouTube videos that contain their content.

- The YouTube Team

 まず、問題なのは、"The YouTube Team"(以下、TYT)の曖昧な言い回しとそれに不似合いな強硬措置である。
 "Due to a copyright claim, your YouTube video has been blocked"などと、日本人好みの主語の見えない受動態で、従って、すぐには原因の見えない事項が書かれているが、その実態は、(自称)「管理者」の権利主張があり、(TYTが正当な主張と判断したので)TYTは当方のYouTube動画に対して、公開停止の措置を採ったと言う通告である。現在完了形で書かれているので、当方の確認を減ることなく、と言っても、TYTのルール(問題事例が数例発生しているが、是正されていない)通りなのだが、ごく最近、この処置が執られたと言うことである。

  そこに続く”Copyrighted song”は、そのような措置の根拠となる著作物の提示だと想われるが、著作物の著作者、つまり、作曲家名が書かれていない上に、曲名も不定形のものなので、通告を受けた側には確認のしようがない

 また、”Claimed by: SME”は、「管理者」の表示として書かれているのだろうが、正式社名不明、住所、代表者不明では、当方は、その実態、正当性を確認できない。(身元不明では信用できない)
 また、”Claimed by”と言うが、少なくとも、今回、当方の動画で使用している楽曲(song)を著作権の対象となる「著作物」として認める国は存在しないのである。言いっ放しのclaimは、何の根拠にもならないと思うのである。

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2016年4月 9日 (土)

「ランパル」騒動 Jim Galway's Flute Sonata 1

                             2016/04/09
 当ブログ筆者は、クラシック音楽の愛好家であり、かつ、(かなり地味な)風景動画の作家でもあるので、(サイレント動画)と言われないように、時に、背景音楽として、クラシック音楽の余り知られていない音源を引用することがある。

 その際、YouTubeの「システム」のおかげで「誤爆」を食らって、大変、無駄で不愉快な時間と労力を浪費させられているのである。

 「無駄で不愉快」と言うのは、YouTube運営チームが、クラシック音楽の著作権について、責任ある判断をするのに不可欠な、職業的な法的知識を持たず、また、専門家の助言も得ず、ただひたすら「音源 管理者」のかってで、不正確な主張を丸呑みにして、公開制限などの不愉快で不法なな措置を採ることである。(下記のような不明確な事後通告を頂くだけである)

 そして、更に困ったことに、毎回、諄々と法的な間違いを説いても、一向に聞く耳を持たないと言うことである。例えば、音源管理者の主張は間違っているという反論の選択肢はない。

 毎度の徒労とは言え、不法な、つまり、法律の違反した手続きについて、黙っていることはできないので、ここに「騒動」の新作を公開するのである。

"James Galway-Sonata for Flute and Piano, K. 376/Allegro", 音源 管理者:SME

Video title: 東北の春 十和田湖畔 夕景 2015/4/28
Copyrighted song: Sonata for Flute and Piano, K. 376/Allegro
Claimed by: SME

 法的な用語を用いているが、これは、不法な手続きである。

 "Copyrighted song"と称しているが、いかなる国に於いても、モーツァルトの作品は、著作権のないものである。

 なら、どんな「著作物」の権利が主張されているのかというと、作曲者名も、正確なタイトルも、何も書かれていない。
 ”Claimed by: SME”と書かれているが、どこに行けば、そのような著作権Claimの根拠が確認できるか示されていない
 “SME”か゛どこの何者なのかも、知らされていない。
 「著作物」の正体が不明では、そもそも、正当な著作権があるのか、無いのか、知りようがない。

 にもかかわらず、事実関係の確実な証拠に基づく証明もなく、動画制作者にたいする事実確認もなく、いきなり、Blockし、収入を取り上げているのは、重大な権利侵害である。

 少額とは言え、当方の動画著作物に対する収入を、音声の(勝手に想定した)類似だけを根拠に、不法に奪い取るのは、いかなる国の法律に於いても、窃盗行為である。
 当方の動画作家としての見識では、ここに提示された風景動画に於ける音声は、動画全体の価値の微細な重みしか占めないのである。なぜなら、当該音声を削除しても、当動画の価値は、何ら損なわれないからである。
 むしろ、当動画は、音声トラックに引用された音楽演奏(SMEとは、全く無関係である)の販促活動を無償で行っているものである。

 いかんせん、この動画によって、計算可能な収入を得ていないので、被害金額0円であるが、「一寸の虫にも五分の魂」である。無力なものとしては、このように、公の場で、事実を公開し、世論の批判を仰ぐのである。

 因みに、いい加減に書かれたメッセージを懸命に読み解いたところでは、高名なジム(ジェイムズ)・ゴールウェイのフルート演奏と当方が公開している動画の音声パターンが一致していると電子的に判断されたらしい。
 
だが、同じ曲を同じ楽器で楽譜通りに丁寧に演奏していれば、音の流れのなかで時に、電子的手段が違いを見つけられないほど一致しても不思議はない、と言うのは、衆知、自明の事項である。
 と言うことから見て、同曲異演の異同判断は、極めて、高度な知性と丹念な検証が必要と想うのだが、「電子的手段」は、何をどうやって判断しているのだろうか。

 そのようなあやふやな根拠で、善良な第三者の、SME音源と無関係な動画を差し止め、正当な権利を証明することなしに、他人の収入を奪い取るのは、SMEの「犯罪行為」とも思えるが、何をどう聞かされて、SMEが、このような不当な強行処置を命じたのか不明なので、まともに自社名も、連絡先住所も名乗らない、何処の誰とも知らないものに、非難を浴びせるのはここまでとする。

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2016年4月 8日 (金)

今日の躓き石 嘘の皮か「600mm超望遠レンズ」

                                       2016/04/08
 当ブログ筆者は、先だってのブログで「相当」表示する勇気を称えたが、今回は、商用サイトの嘘表示を叩きたい。

 ここでは、何の断りもなく「600mm超望遠レンズ搭載」と謳い上げているが、これは、正直なところ、消費者を欺く嘘である。

 ソニー、600mm超望遠レンズ搭載1インチデジカメ「RX10 III」。4K動画対応

 「焦点距離」をmm表示する以上、それは当該レンズの実際の焦点距離でなければならないのである。

 こんな姑息な偽りの表示を打ち出すのだったら、堂々と「規格」を変えるべきである。

 因みに、今回の糾弾は、サイトの「編集部」に対するものであって、メーカーに対するものではないが、自社製品の報道が誤っているなら、速やかに訂正の指示をすべきである。そうでなければ、メーカー自身の同意を得たものとみるのである。

 それにしても、いつになったら、消費者に正しい情報の伝わる品質表示が制定できるのだろうか。

以上

2016年4月 4日 (月)

今日の躓き石 将棋のカタカナ語に反対

                                 2016/04/04
 今朝は、月曜の朝なのに、長い間親しんでいた週将(週刊将棋)の無い、毎日新聞朝刊だけが宅配された寂しい朝であった。

 今週は、「将棋スペシャル」の週で、これはこれで楽しみであったが、「C級2組1期抜け」と21歳の新進を讃えている見出しに「オールラウンダー」と、わけのわからない、つまり、意味の定着していない、どちらかというと不適切なカタカナ語が続いていて、興ざめであった。

 この言葉は、一応、米国スポーツ界由来の行儀の悪い言葉なのだが、元々、それぞれのスポーツで意味合いの違う、下手な記者の逃げ道的な言葉である。将棋界も、この言葉に汚染されるのかと思わされたものである。

 一応、地の記事で意味が説き明かされているが、最近分化してきた序盤作戦のいくつかをそつなく指しこなす多才さを「ほめた」ものだと思う。しかし、さすがに、プロ棋士への形容としては、ごく最近、と言っても、十年程度、のもので、大多数の将棋ファンには、まだ定着していないのではないか。

 いや、この言葉にであったのは、某ムック(立ち読みしただけなので、署名もはっきりしない)で、四冠王の、どんな序盤戦法でも受けて立つ「横綱」対応を「オールラウンダー」と揶揄しているような言い回しにぞっとしたことがあって以来である。

 今回は、新鋭棋士が、得意戦法の研究に特化せずに多才さを示しつつ、勝ちを重ねていることへの褒め言葉だろうが、依然として違和感がかんじられるのである。言葉自体が、素性のよくない行儀の悪い(文法外れの)、意味の定着していないものなのは、伝統文化の護り人たる毎日新聞の報道姿勢にも、将棋界の基調にもふさわしくないのである。

 もっとも、今回の記事は、「序盤戦法のコンビニ」的な取り組みの紹介でなく、激戦の終盤の攻防を見事に勝ち切る姿であり、最後の決め言葉として、お行儀の悪い感じのつきまとう「終盤力」で占めているのである。多分、記者は正統的な意味で書いているのだろうが、その主旨で書いていても、何か最新語にかけて言い崩しているのではないかと疑われるのが、見出しの一言の罪である。 

 じゃあ、どう言えばいいのか、と問い返されそうだが、自分で考えてご覧、というだけである。「カタカナ語」を使いたくなったら、まず言い換えが、正統派ジャーナリストの原則と思うのである。

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2016年4月 3日 (日)

今日の躓き石 NHKが日本語を変えるとき

                                                                    2016/04/03
 今夜のNHK BS-1のスポーツ番組「World Sports MLB」で、NHKが日本語を変えようとしているのに気づいた。

 いや、大したことではない。これまで、長年、日本語では「三千本安打」と言ってきたのに、NHKは「三千安打」と言っているのに気づいた。若気のキャスターがはしゃいでいっているだけかと思ったら、現地取材の談話の翻訳もそうなっていた。計画的なのであろう。

 多分、大会長の指示とか、怖い怖い政府機関の指導とか、何か事情があるのだろうが、国民財産(みんな生きているから、「遺産」ではないし、まだ現役だから「化石標本{レジェンド}」ではないぞ)である日本語を変えるときは、ちゃんと、視聴者の意見を聞いてから進めてほしいものである。

 当ブログ筆者は、「三千安打」に反対である。ズボラに言い端折っていて、違和感があって、そこで躓いてしまう。

 受信料返せとは言わないが、他人のゼニとってやってるんだから、勝手なことするな、と言いたい。

 以上、冗談半分、戯れ言半分、(つまり、本気無し)である。

以上

2016年4月 1日 (金)

新・私の本棚 番外 サイト記事批判 塚田 敬章「古代史レポート」~史料としての「日本書紀」

 古代史レポート 翰苑の解読と分析     塚田敬章
 2016/04/01  細部調整/補充 2019/01/09 04/28 06/25
    私の見立て ★★★★☆ 必読

*追記補充の弁 2019/06/25
 最近、当記事の閲覧件数が増えているので、丁寧に読んでもらえることを期待して、末尾に本音を追加した。面倒を厭わずに最後まで見る人なら、簡単に誤解しないと思うからである。

*失礼のお断り
 当ブログは、基本的に商業出版物ないしはそれに相当するサイト記事が対象
であり、個人の運営するサイトの記事は、収入源とされていない以上、書評に属するサイト記事批判は控えたいところであるが、今回も、ちょっと勇み足をさせていただきたい。

 また、記事タイトルは以上のものであるが、以下の論議は翰苑とは無関係である。当ブログ筆者の翰苑論考は、他の記事を見ていただきたい。

*合理的な論考
 さて、当該サイトの運営者である 塚田敬章氏は、具体的な物証に基づく、合理的な、つまり、過去の行きがかりや尊大な感情論でなく、物の道理に基づく思考を信条としている論客と感じ入った。おそらく、理工系の学問を修め、理工系の職務で実務経験を積まれた方と思う。誤解であれば、早合点をご容赦いただきたい。

 塚田氏の展開する魏志倭人伝に関する(難癖とも思える世上の批判に関する)議論の大筋は、当ブログ筆者と相通じる論理によって、相通じる意見を示されているものと思う。拍手喝采である。

 当ブログ読者諸賢は、未読であれば、是非とも、ご一読いただいて、当方の意見が妥当なものかどうか確認いただきたい。何しろ、当ブログのひっそりした風情に比べて、名声を馳せている先輩サイトなのである。

 ただし、当然ながら、塚田氏の意見全部に賛成しているわけではない。以下のご意見に関しては、率直な批判をご容赦いただきたい。
 魏志倭人伝に絞り込んでいる当方の守備範囲外とも思われる点で、いくつか、筋の通らない定説を採用しているのは、賛否を保留したい。

*異議提示
 まずは、中国南朝に遣使した「讃」などの諸王を書紀に記載されている天皇に比定している点である。また、神功皇后の事跡について、書紀の神功紀を史料として採用している点である。

*史料尊重
 氏の立場が、日本書紀を信頼すべきと言うものであれば、日本書紀の記事そのものを文字通りに解釈する立場から出発し、その立場にとことん「固執」するべきと思うのである。

*無関係宣言
 ご存じの通り、推古天皇は、「大唐」に使節を派遣し、その結果、「唐の客」裴世清が来訪したという記事が残されている。そこには、「今回が初遣使であり、これまで、辺境に蟄居していて、中国に天子がいることを知らなかった」ことが、堂々と述べられている。
 つまり、国家元首として、「(後)漢、魏、晋との交流も、南朝(偽)諸国との交流も、全て、自分たちのやったことではない、無関係だ」と明言しているのである。 
 つまり、最近の事歴である「倭の五王」の南朝への遣使は、自分たちの大和政権には関係無いと明言しているのである。 
 これが日本書紀の編纂方針である以上、そのように受け止めるべきではないだろうか。

 それを無視して、
歴史解釈に唯一頼るべき史料を、断片的な中国側史料に合うように切り刻んでは、すらしたり傾けたりして貼り合わせるような謎解きごっこは、日本書紀を尊重する立場には合わないと思うのである。

 いや、あくまで、個人的な意見でしかないのは、ご了解いただきたい。

*武勲の伝承
 また、神功皇后の朝鮮半島での事歴については、真に受ければめざましい事跡であるが、半島側史書には、そのような制覇をされたとは書かれていないのではないだろうか。(国内史料に不案内なための勘違いであれば、申し訳ないのですが)
 「その点だけ日本書紀を史料として信ずる」というのであれば、当方としては、賛成できないとだけ申し上げるものである。

 もちろん、当方が「賛成できない」とか「感心しない」とここで言うのは、関連国内史料がほとんど読めていない個人の勝手な意見であるから、お耳触りであったら、聞き流していただきたいものである。

 追記:先入観・予断の戒め
 塚田氏は、故古田武彦氏の名高い著書を、うろ覚えで「邪馬台国はなかった」と誤解、誤引用して、「魏志に邪馬台国はなくても後漢書にある」のだがら、題名から既に間違っていると速断しているが、古田氏の著書は、正確には『「邪馬台国」はなかった』である。

 出版社は、いつの時代もセンセーショナルなタイトルを好むものであり、「邪馬台国はなかった」なる明解なタイトルを押し立ててきたが、古田氏は、それでは後漢書を無視し不正確なタイトルとなることから、引用符を急遽追加した経緯があったようである。

 とかく、独善とか、自己陶酔的とか、杜撰とか、至高の形容詞を言い立てられている古田氏であるが、ここでは、言っていいことといけないことは弁えていて、何とも地味で堅実な、魏志に邪馬台国はなかった、と限定したタイトル付けである。
 もっとも、口頭では同じ発音なので、伝聞情報は同じになるとも言える。

 ぜひ「食わず嫌い」を抑えて、虚心に同書を読んでいただきたいものである。科学的な批判は、そこから始まるものだと思うのである。

以上

 再追記:もったいない話 2019/06/25
 以下は、大変面倒な話なので、読んで理解いたたげれば、まことに幸いと思うだけである。
 文献解釈の第一歩ということ
 塚田氏の書かれた記事は、広く諸文献の引用を利用して、まことに、信頼できるように思えますが、実際は、諸所で、以下のような誤解丸出しの文が飛び出すのは、どうしたことか、もったいない話だと思うものです。
「神功皇后は魏志倭人伝中の卑弥呼を思わせる女傑でした。にわかに夫を失い、子を孕むという大変な状況の中で、神託を受け、国の舵をとり、そして、成功したのです。」

 しかし、すぐわかるように、これは倭人伝を離れた、誤解そのものです。
 卑弥呼は、生涯独身で、夫につかえたことなどないのです。夫の遺子もいません。卑弥呼は、鬼神に事えたものの、政治にほとんど口を出さず、まして、他国を侵略するいくさを率いたことなどなかったのです。

 これほど明確に異なっている両人物のどこが似ているのかなぜ連想させるのか、理解に苦しみます。まして、書紀の強引なこじつけにも拘わらず、実時代には、相当の隔たりがありそうです。

 対象文章の文字を一つ一つ追いかけて、それだけで、文意を理解することが、文献史学の基本中の基本であり、この件のように、特に、暗号化されているわけでもないのに、倭人伝の文意を読み損なっているのは、何とも、もったいないことです。

*雑音情報による汚染
 このように、不確実な文献史料を議論に取り込もうとすると、その資料自体の誤解に、取り込む時の誤解が重なり、引用する都度、本来の史料解釈に、誤った要素を取り込むことになります。
 つまり、文献解釈は、外部の要素を取り込むことを最小限にとどめるのが最善なのです。

 そのような堅実な解釈を終えたところで、一度、文献解釈が定まったら、そこで「倭人伝」を確定し、他の資料の文献解釈に映るものでしょう。この行き方は、世間の誤解を素さ禹ものですが、一度に複雑なことをまぜこぜにして進めるのが間違いのもとなのです。いや、正しく言うと、どこで何が起こって、誤解が発生したのか、その原因を突き止め、排除するのが、大変、「大変難しい」のです。(わかりやすく言い直すと、人間業では「不可能」(virtually impossible)なのです)

 古来、古代文献に限らず、文書に含まれている情報は、大量の「雑音」に埋もれているのであり、慎重な上にも慎重な文献検討が必要なのです。そのためには、どこの誰が、いつ、どこで、何を見て、どこまで検討したのかわからない、どこまでが情報で、どこが雑音かわからない不確かな外部文書を持ち込むのは、少なくとも、時期尚早なのです。古代史分野、特に、倭人伝の文献検討では、この第一歩がなおざりになっているので、あえて、子供に言うような当たり前の理屈を言い立てているのです。

*慧眼と惑動
 塚田氏は、郡を出たところの僅かな水行記事で、魏志全体はどうであれ、倭人伝では、水行は海岸沿いの移動と読み取る慧眼を示していて、続いて、狗邪韓国からの移動を「始めて海を渡る」と、これも、希な慧眼を示しているのですが、一方、何に惑わされてか、原文を離れて視点を動かし、 最初の水行が引き続き半島西岸の沖合遥かを南下する現実離れした「歴韓国」と決め付けていて、大変、大変もったいないとがっかりするのです。

*玉石混淆

 と言うことで、塚田氏の書かれた文章は、玉石混淆、但し、素人目には、石粒だらけなのが、もったいないのです。
 素人目で、「石粒」にダイヤモンド原石が混じっているのを見落としているかもわかりませんが、さきにもかいたように、いちどに多くのことに取り組まないのが、誤解を避ける最善の政策なのです。(玉石混淆は、もともとは、貴石、宝石に玉が混じっている豪勢な事態の表現かも知れませんが、定説では、玉が、大量の石ころに混じっているという解釈なので、それに従います。)

*再総評
 当方としては、全体評価を落とすわけに行かないので、表現を和らげたから、読んでも、意図がわからないと不評なのでしょうが、安直に白黒付けられないのが実戦なのです。

この項完

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