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2016年6月

2016年6月25日 (土)

今日の躓き石 NHKGの無茶な言い分 ラグビー篇

                         2016/06/25
 今日の題材は、珍しくNHKG(総合テレビ)のサタデースポーツである。

 ラグビーの話になった途端、女子アナが、「リベンジなるか」と怒鳴ったのには恐れ入った。
 多分、ラグビー業界が、国際試合で負け続けている相手に、深い怨念をだいているのだろうが、それはお門違いではないか。

 格上の相手に挑戦するのは、当然のことだが、その試合の負けたときに、相手を恨むというのは、どういうことなのだろうか。
 これでは、世界の強豪達で、南アを除いて、格上の相手全てに「ぶっ殺してやる」とぶちまけることになる。それで、強い相手に勝てるのだろうか。そうした相手は、かなりの部分が英語圏だから、こうしたカタカナ言葉のコメントを理解して、日本人は、何を逆恨みしているのかと呆れることだろう。

 それにしても、天下のNHKアナが、業界の異常な熱気に巻き込まれて、不適当な言葉を絶叫する乗りは、感心しない。軽率そのものと見える。

以上

 

今日の躓き石  「同級生」蔓延の歯止め

                             2016/06/24
 本日の題材は、兵庫の民放テレビの虎鯉夜戦中継であるが、ほめ―けなしの交錯であった。

 悪いほうから行くと、当ブログでけなしている「セットアッパー」であるが、今回のアナの言い分では、最後の締めは「クローザー」だが、その前とその前の前も、「セットアッパー」と呼ぶらしい。横着もいいところである。

 よく言う「勝利の方程式」でも、7,8,9回、それぞれの持ち場で、意味合いが違うから、7回担当と8回担当は区別していたように思うのだが、もうごちゃごちゃにしているらしい。

 だから、民放の解説/報道は、いちいち論評できないのである。

 良いほうを行くと、本日の解説者は、無頓着に「同級生」と喚いていたが、アナがそれに安易に同調せずに、「同学年」と言い換えていたのは、何とも、荒れ野に白鶴を見たようで光明に救われた気がしたのである。

 民放だって、報道の役目を担っているのであり、言葉の護り人の一員である。自分で気づいていないだけで、多くの視聴者、特に、子供たちに長く残る影響を与えているのである。あと少しだけ、頑張ってくれないかと思うのである。

以上

2016年6月23日 (木)

今日の躓き石 NHK BS-1の暢気さ 「アッパー」連発

                      2016/06/23
 本日の題材は、NHK BS-1のMLB中継である。
 普段は、コメンテーターがいやがる(いやがっていると聞こえる)ほど、言葉遣いをただしているのに、今朝の放送では、NHKアナウンサー自ら、「セットアッパー」を連発して、NHK自身の内部基準はどうなっているのか、不思議に思うのである。

 つまり、「セットアッパー」というできの悪いカタカナ語を、一切使わないという社内方針があるなら、各アナウンサーは、コメンテーター共々、言葉を整えるべきだし、社内方針はなく、あえて、民放やスポーツ新聞にならって、俗悪な言葉を使うことにしているのなら、全面的に解禁すべきである。

 外部の人材に社内基準を押しつけておいて、内部は規制しないというのは、まずいのではないか。

 いや、それにしても、延々と同じ問題点を指摘するのに、論点、論調を少しずつずらしていくというのも、面倒なものである。

以上

2016年6月21日 (火)

私の本棚 55 季刊邪馬台國129号 高島忠平「東アジアと倭の政治」 4/4

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月
 「東アジアと倭の政治」  高島忠平

 私の見立て★★★☆☆ 面目回復                    2016/06/21 再確認2020/12/25
承前

*卑弥呼の神髄
 最後に、最も感心した点を取り上げると、卑弥呼が、単なる神がかりでなく、豊富な情報を把握して、的確な信託を起草したとみる点である。まさしく、我が意を得たりである。そうでなくては、祖霊の意思の意を借りるとはいえ、万人の納得するご託宣は得られないはずである。

*文明の体現者
 講演に便乗して、講師の識見に私見を付け足すと、倭人伝によれば、倭人は、亀卜を行っていたようであるから、卑弥呼は、目前のひび割れを見て、これを、人の理解できる言葉に翻訳していたということのようだ。つまり、生じた割れ目の形状から、そこに書かれている文字を読み解くのであり、何らかの「辞書」を持っていたということである。

 高度の知性と眼力の裏付けがあり、そこに、豊かな情報を加えて、神託を語ったのであろう。

 おそらく、卑弥呼は、少女にして神職に身を捧げ、天才的な識字者であり、漢文書籍を読み解いていたのであろう。そのために、竹簡に加えて、当時としては貴重な紙を所有し、墨をすり、筆を湿して、自身の言葉を書き綴っていたであろう。

 当時は、仏教界から女性が締め出されていた時代であり、してみると卑弥呼の持っていた神性は、多くの女神を擁していたギリシャ/ローマ世界にも匹敵する先進の体制であったのではないか。

 そうでなければ、例えば、易経のような体系的な託宣の知識を身に着けることはできないのである。

 そうした能力は、当時として、超絶的なものであり、したがって、各国指導者の信用を得たのであろう。

以上 

 

私の本棚 55 季刊邪馬台國129号 高島忠平「東アジアと倭の政治」 3/4

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月
 「東アジアと倭の政治」  高島忠平

 私の見立て★☆☆☆☆  無理、無体                   2016/06/21 再確認2020/12/25

承前

*迷惑な献上
 生口、奴隷説に従い、160人の「奴隷」を献上された後漢朝の役人も、扱いに困ったと思うのである。言葉が通じない、文字が読めない、計数ができない、食習慣の異なる奴隷は、宮廷につきものの「官奴」、つまり、使い走り、雑用要員にも使えず、宮廷内に苦役があるわけでもなく、ひたすら食料を消費するお荷物になるだけである。そして、民間に払い下げたくても引き取り手がないのである。
 いっそのことと、献上された160人をそのまま返上するのに、有り余る官奴から志願者を募った160人を足して、賛意を込めた320人の倍返しでもしたのだろうか。記録がないから、どんな返礼をしたのかわからないのだが。壮大な陣容になっても、帰り道は、漢朝のご威光でどうにでもなったことだろう。

*光武帝の奴隷解放
 いや、そんなことは、後漢朝のよく知るところであり、古来の奴隷制度自体、社会不安の原因になるから、解放して自由民にするように、つまり、通常の雇用関係にするように布令したほどである。
 社会に貧富の差はあるから貧しいものは少ない給金で厳しい労使関係に置かれるだろうが、あくまで自由民の身分にとどめるべきだということである。

*古代奴隷考
 というか、古代中国において、奴隷とは、売買の対象となっても、後世のような非人道的な強制労働ではなく、雇用関係の一種だったということでもある。

 いや、このような身分は、古代ローマ、少なくとも、共和政時代後期にもみられたようである。ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の伝記では、青年時代、同年代の男子奴隷を伴っていたとあるが、奴隷といっても、自由民の身分を失っていただけで、将来、自由民に復帰できる希望をもって、シーザーの助手兼秘書兼ボディガードとして「雇われていた」のである。

 奴隷の制限として、雇い主を選ぶことはできないが、シーザーの奴隷という身分は、貧困階級の者にとっては一種の恩典でもあったであろうと思われる。

 もちろん、当時といえども、戦闘時の捕虜は、勝者の権利として敵国で強制労働に落とされたが、基本的に、外交交渉が成立すれば、対価で解放されうるものであった。

 いずれも、はるか後世、欧州諸国が、アフリカ大陸で行った理不尽な奴隷狩りとは、まったく異なる奴隷制度であったと思われる。少なくとも、現実離れした一律の非難は控えるべきではないかと思う。

 ということで、どの角度から見ても、奴隷が財貨物として通用していたとは、到底信じがたいのである。

*悪意の貼り付けに反対
 倭国が、大量の奴隷百六十人を貢献したという記事解釈が、古代に倭国、特に対海国(対馬)と一支国(壱岐)が、食料不足解消のために、人身売買交易を行っていたという「悪意」とも感じ取れる仮説の論拠にされていた。現在の住人に責任はないというものの、根拠の不確かな仮説のままに先祖の汚名を背負っていかざるを得ないのは、不条理というものである。

 ちょっと考えればわかるが、奴隷として売り物になりそうな若者を継続して輸出して食料をてに知れていると、確かにも口が減って食料が増えるから、食うに困らないだろうが、いずれ、農も、漁も、猟も、実行するものがいなくなるから、国は食料が得られず、売るべきものもいなくなって、滅びるのである。典型的な自滅策である。

 以上の大意に基づいて反駁する記事を公開した後、すでに古田武彦氏が、奴隷160人搬送は執行不可能として疑問を呈しているのに気づいて、意を強くしたものである。

 いや、この時期、倭国が、遠路洛陽に囚人百六十人を引き連れて一路貢献できたというなら、当時の倭国の威勢は、朝鮮半島、日本列島を通じて、抜群の大国であり、その物資・兵員輸送能力で、国内統一どころか、朝鮮半島全土の制覇も容易であったと思うのである。
 とすると、後年の女王国の貢献までに、国力が大きく衰退したと思わせるものである。

 そうした疑問に躓かず、あっさり通り過ぎた点に、地に足のついていないという不満を感じるのである。

未完

私の本棚 55 季刊邪馬台國129号 高島忠平「東アジアと倭の政治」 2/4

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月
 「東アジアと倭の政治」  高島忠平

 私の見立て★☆☆☆☆     無理、無体                2016/06/18 再確認2020/12/25

承前

*倭国王師升-おびただしい疑問
 そうそう、倭国が三桁人数の成功を献上したことについては、大きな無理がある。倭国から後漢の帝都洛陽までの移動経路、特に、中国上陸までの経路が成立していない時代には、使節団160人の派遣すら実行不可能ではないかと思われる。

*搬送手段
 というのは、まず、当時の倭国が百六十人を載せていける乗船が確保できないと思われることである。

*至難の韓国通過
 後年、半島に古代国家が形成された後であれば、例えば、新羅と百済の支持があれば、その領内を「無事に」通過しし、さらには、中国沿岸までの船舶交通を得られるだろうが、小国分立時に財物を「無事に」運ぶことは困難であったろう。

*各国の課税
 小国といえども、領土通過の際には所定の税を取り立てると予想され、国境通過を繰り返せば、財物は、順次やせ細るはずである。

*食料、宿泊
 また、途中の食料や安全な宿泊地の確保が不可能だろうということである。百六十人の要する食料は膨大で持参は不可能であり、と言って、現地調達には、対価が必要である。また、後年のように、宿駅制度が整備され、合理的な宿賃が確立されたわけではないのである。何しろ、普遍的な通貨制度があったわけではない
のである。

*至難な連行
 生口、奴隷説に従い、百六十人をそのまま採用すると、百六十人の囚人を護送することになる。銃火器のない時代である。二度と帰郷できない異郷に連れていかれる不安を抱いた大勢の大人を延々と連行するには、少なくとも、同数の獄吏が必要ではないか。
 宿泊の際には、囚人を牢獄並みの環境に拘束する必要がある。航海中も、同様に、牢獄に閉じ込める必要がある。囚人や獄吏が船酔いでもした日には、収拾困難な混沌に陥るはずである。

*至難な人身売買
 九州北部と半島南部の間に限っても、商売になる程度の頻度と量で行うことができたとは思えない。受け入れ側に、奴隷の食料消費に匹敵する付加価値があっちとは思えない。まして、半島南部には、倭人社会があったのであるから、倭人たちが、同胞の強制労働をほっておくとは思えないのである。

未完

私の本棚 55 季刊邪馬台國129号 高島忠平「東アジアと倭の政治」 1/4

 季刊 邪馬台国 129号  2016年5月
 「東アジアと倭の政治」  高島忠平

 私の見立て★★★☆☆ かなり無理                    2016/06/18 確認2020/12/25

 本稿は講演録なので、書評扱いするのは不公平かもしれないが、高名な論者であり、原稿なしに話されたとも思えないので、書評並みに批判させていただく。

 最初に全般について感想を述べさせていただくと、「弱点」のある九州説の有力な論客として、自信を持った、平静な話しぶりであり、近畿説が、無理を重ねて押し出して、「欠けている遺物は掘れば出る」といる論法に比べて、無理の少ない、筋の通った講演である点に感服する次第である。

 以下、話の運びを整えるための口調なのか、ご当人の思い込みなのか、つじつまの合わない点を指摘させていただく。

*交易と朝貢
 九州北岸の遺跡から、朝鮮半島由来の文物が発掘されている、したがって、この地域と朝鮮半島との間に交流があったとみるのは自然な推論として、その背景として、朝鮮半島に対して朝貢貿易を行ったからだともとれる言いぶりはいただけない。当時、朝鮮半島の南部は、統一国家の形成されていない村落国家分立の事態であったので、朝貢のしようがないのである。

 逆に、半島小国は、まとまった連携をしていなかったようで、韓伝には三韓がそれぞれの構成小国名を連ねて書かれているものの、それぞれの韓国を束ねる国主の存在については、伝説の辰王以外見当たらない。従って、三韓諸小国が、倭国を天下の中心と仰いで朝貢してくるはずはなく、こちら向きにも、朝貢はないと思われる。

 いや、元に返って、「朝貢貿易」なる言葉は、まるで時代錯誤であり、三世紀時点には存在しなかった概念/用語とも思える。そのような場違いな言葉で古代を語るのは、それこそ、大きな勘違いと主網のだが、詳しく、識者のご意見を伺いたいと思うのである。

*倭人圏の広がり
 むしろ、倭人伝に示唆されているように、半島南部と九州北岸は、「倭人」の居住圏として一体であって、域内で物が移動していたのではないかと思うものである。

*唐突な漢式鏡導入
 このような形式不明の交流の話で朝貢の話を引き出しておいて、いきなり、関連の不確かな九州北部で漢式鏡が出土しているという話に移行し、併せて、中国では、鏡が王権の象徴であって、一-三世紀を通じて珍重されていたとしているが、それにしては、出土した鏡の数が多く、作業仮説としてお伺いするしても、根拠が不確かではないかと思われる。

 孟子、墨子、荘子と、無造作に著名な論客を連ねているが、それぞれ、具体的な参照ができていないので、論評は避けるが、高島氏の講演にしては、足元の固まっていない話し方と思える。

未完 

2016年6月19日 (日)

今日の躓き石 「意地」(だけ?)で挑む都市対抗?

                               2016/06/19
 今日の題材は、宅配購読している毎日新聞朝刊大阪第13版のスポーツ欄である。都市対抗野球ネタである。別に、毎日題材を提供してくれなくても良いのだが、連投となった。

 九州代表チームの就任初年度の監督が、6年前に決勝で負けた西関東代表との対戦を、6年ぶりの「リベンジ」と位置づけて、九州代表の「意地を見せる」と壮語しているのである。「リベンジ」=「リチャレンジ」の言い換えをご存じないらしい。

 ここまで言い切ってしまうと、選手たちも、心技体を整えて、ひたすら最善を尽くす試合がしにくいと思うのだが、とにかく、3年連続初戦敗退して地元の期待を裏切った悔しさを糧に、相手が迷惑だろうと、しゃにむに けんかをしかけて血祭りに上げる姿勢である。

 しかし、実際に、意地を見せるための戦略として監督談話で語られているのは、「足を絡めながらの攻撃的な野球」でしかないのは、どうしたものか。素人の意見だが、どんなチームでも、攻撃するときは攻撃的な野球をするものであり、余程でなければ、盗塁など足を絡めた攻撃が常識ではないだろうか。無策の策、勝ちたいという思いの強い方が勝つ、なのだろうか。

 本日のスポーツ面で、各チームは、当然、初戦敗退したくないから、色々言葉遣いを工夫して、チームの闘志を掻き立てている監督談話であるが、同様の趣旨で「やり返す」などとわめいているのは一例だけである。

 因みに、昨年の王者は、初戦の相手を「相性の悪い」(実力は遜色ないが、不思議に負けてしまう)相手と見て、王者ぶらずに(ディフェンディングチャンピオンとしての自信を自信を持ちつつ、油断せずに)チャレンジ「精神でぶつかりたい」と謙虚である。
 昨年は、二年連続初戦敗退のあとの栄冠獲得であったらしいが、闘志やプライドを煽り立てないのが一流の風格だと思う。そして、王者でも、負けるときは負けるというのが勝負の世界ではないだろうか。

 さて、仇討ち、仕返し、血祭り、といった粗暴な響きの言葉を言い立てて、とにかく、どんな勝ち方でも勝てば良いと言っている感のあるチームの成り行きは、野次馬として見れば面白いのかも知れない。

 やっと記事の主題に辿り着いたのだが、こうした不穏な言葉遣いをたしなめもせずに丸写しし、こうした不穏な考えの伝搬に手を貸している毎日新聞の報道姿勢は、大変残念なものである。

以上

2016年6月18日 (土)

今日の躓き石 絶滅しない毎日新聞の「リベンジ」

                        2016/06/18
 今日の題材は、宅配購読している毎日新聞朝刊大阪第13版のスポーツ欄である。ひょっとして、スポーツ欄編集部の中でも、野球とサッカー、ラグビーは別チームかも知れないので明記すると、ラグビーの話である。

 堂々とW杯のリベンジを謳っているが、衆知の如く、このカタカナ言葉には、二つの意味が出回っているので、どちらの意味なのかはっきりしない。

 この言葉について復習すると、本来、というか、カタカナ語の起源と思える英語て言うと、Revengeは「復讐」である。
 ただし、「復讐」は、もともと神の裁き、正義の実行、という意味であって、人のすべき事ではないとされているように思う。決して、仇討ちで敵の首を落とすなどと言ういものではないと思う。。
 しかし、現実世界では、復讐は血なまぐさいものであり、現に、「天誅」発言が飛び交うことがある。目立った例では、「二代目」大統領の発言もあった。日々、復讐が復讐を呼んで、他ならぬ毎日新聞の紙面を血に染める日がある。
 そんな世相を見ると、別に、毎日新聞が、この言葉をスボーつの世界に広める必要もあるまい。

 もう一つは、軽い「再挑戦」の意味であり、むしろ、こちらの言い方の方が、若い世代を中心に世にはびこっているように思うのだが、無頓着なメディアは、言葉の字面だけ取りこんで、復讐譚にしてしまうのである。

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2016年6月16日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞の「アッパー」愛好?

                            2016/06/16
 今回の題材は、一日遅れで、6/15付けの毎日新聞朝刊大阪第13版のスポーツ面である。色々忙しくて書き漏らしたのだが、担当記者から、読んで気づいたはずなのに無視されたと不満があると困るので、ここに書き残すことにする。

 最近珍しい「完封リレー」で、「セットアッパー」だったピッチャーが「抑え」に回ったと言うが、できの悪いカタカナ語が出て来る不具合なのだが、「抑えにまわった」と言えば、それまでは別の担当だったのが明確だから、「抑え」≡「クローザー」という定義が明解である以上、不適当な言葉を持ち出した上に字数の浪費である。

 それにしても、NPB(日本野球機構)という団体は、自身が主管しているプロ野球の用語整備という点で、まことに不用意で、近年のように、7,8,9回、それぞれに専任投手を当てはめるのが常道化したのに気づいたなら、スポーツマスコミが、勝手に、いい加減なカタカナ語を発明して汚染を拡散する前に、先手を打って、よく考えた用語を提示すれば良いのである。せめて、八回担当の呼び方は、ちゃんと指導して、悪習を廃して欲しいものである。

 巨額の収入を得ている企業群の寄り合い団体なのだから、もう少し、この辺に積極的になってほしいものだし、全国紙から、もっとましな用語を提案しても良さそうなものである。毎度言っているが、子供達が、けったいなカタカナ語を英語と思い込んで育つことのないようにして欲しいものである。

 ということで、別に担当記者を個人攻撃しているのではないので、前向きに理解頂きたいものである。

以上

私の本棚 04B 大塚 初重 邪馬台国をとらえなおす -補足

 現代新書 2012年
 私の見立て ★★★★☆   2016/06/16  追記 2020/03/20 2024/04/21

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

〇反省の弁
 前回書評めいた記事を書いたときは、色々、書きぶりのアラが眼について、多少偏った評価をしてしまったが、それ以降の読み返しで、言い過ぎを訂正する必要を感じたので、ここに、補足記事を書き足すことにした。
 ただし、前回記事は、その時点での筆者の理解を記録した記事と言うことで、明らかな誤字、誤記の訂正以外は、削除も加筆もしない。ご了解いただきたい。

 まず、本書の「倭人伝」逐条解説全体の論説が、水野祐氏が監修した「現代語訳」に基づいているので、当該「現代語訳」の読み取り方に影響されていることは仕方ないところである。正直言って、それが「現代語訳」の困ったところである。学術的な論考であるから、せめて、複数の「現代語訳」をも参照していただきたいものである。 とは言え、いわゆる「定説」なる矮小な世界観、じつは「俗説」と呼ぶに相応しいものに囚われることなく、ご自身の豊かな見識をもとに読み解いていることが多いのは、前回見過ごしていたのを大いに反省している。

*歴韓国
 例えば、倭人傳行程記事の劈頭、「従郡至倭」の下りで、「歴韓国」を、「韓国(馬韓、弁韓、辰韓)を歴て」と読み取っているのは、当方が、最近ようやく到達した心境であり、原文に忠実という点が共通しているのだが、「新説」に先人あり、(新説と力んでも、大抵は「二番煎じか」それとも、「屑」である、との定見)と、脱帽するのである。
 しかも、この下りの解釈で定説となっているが、近来有力な批判の出ている沿岸(海上)航行説について何も触れない、という賢者の振る舞いである。

*「自然科学による年代決定」への態度保留
 大塚氏は、文献史学者でないため、学界の儀礼に従ってか、その道の「専門家」の意見に逆らう主張をあからさまに打ち出してはいないし、考古学者として、古墳時代の時期を大巾に繰り上げるとされている現代「科学的」年代観についても、「自然科学による年代決定と文献記載事実のとの相違については将来の検討に待つことになろう。」と明言を避け、殊更に批判を加えているわけではないが、深読みすると、氏としては同意できないという確信めいたものを感じるのである。

 こうした大塚氏の慎重な書きぶりを理解できなかったために、手厳しい批判書評をものにしたことについて、いささか反省しているものである。

以上

2016年6月15日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞校閲部の心がけ

                                2016/06/15
 今回の題材は、毎日新聞6月14日付夕刊大阪第三版社会面の署名入りコラム「憂楽帳」である。今回は、「間違い」と題して、筆者が、校閲部のデスクを務めている感慨を述べているのだが、納得できない点が書かれているので、場違いを承知で批判させていただく。

 記事の大半は、至難な任務を「神業」に近い適確さで果たして、日々の紙面が完成としているという自慢話であり、それ自体は、偉業であることは確かである。個人的な意見であるが、このような仕事ぶりがあるから、あえて、紙媒体としての伝統がある毎日新聞を宅配講読するのである。
 電子媒体の報道は、少なからず、記者筆者の書くに任せたもので、低次元の勘違いや、不適切な日常会話言葉がどんどん登場するものであり、つまり、媒体手として載れ見識が、校閲として示されたものでないものが登場するので、ただでも要らない、と諦めているものがある。

 しかし、ここに書かれているのは、いわば、校閲部の任務として、不可欠なものは網羅されているのだろうが、当方が一読者として、毎日新聞に求めているものが、書かれていないように見える。

 当ブログの「今日の躓き石」カテゴリー記事群には、毎日新聞の記事に対する批判が多くあげられている。
 そこには、当然ながら、勘違い、書き違いが指摘されることは、まず無い。指摘しているのは、毎日新聞の紙面で、現世代、そして、次世代の言葉の規範として、相応しくない言葉が書かれていることに対する批判である。

 言葉の問題に限っても、「リベンジ」のように、言葉自体、不適当で撤廃すべきものもあれば、「セットアッパー」、「オールラウンダー」のように、言葉として崩れていて、普及に手を貸すべきではないカタカナ言葉もあるし、「メンタル」のように、てんでんばらばらの用例が出回っていて、意味のつかめない、報道の用をなさない言葉もある。勘違い、間違いの書き間違いではないから、「校閲」の埒外だと言われると、誰に訴えたら良いのかわからず、大変困るのである。

 言葉遣いだけでなく、物の見方について、合理的で無い記事への不満も述べている。
 毎日新聞が、特定のスポーツの代表チームについて、「体格の劣る」と形容して書き出す非を述べたこともあるし、毎日新聞が、チームスポーツで、勝敗に影響するようなエラーをした(と記者が判断した)選手を名指しで批判することの非を述べたこともある。まして、特定の選手に(記者が速断した)見当違いの非難を浴びせることの非も述べた。
 人の意見は多種多様であることは承知しているが、毎日新聞の報道が、担当記者の了見に規制されて、報道の域を超えた、了見の狭い物になるのは、賛成しかねると言わざるを得ない。

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YouTube著作権騒動 無限連鎖?「著作権保護されたコンテンツ」 3/3

                               2016/06/14
承前

*締まらない締め

 ここで問いたいのは、そのような議論の完了していない「楽曲」の不確かな権利を、あたかも当然の如く主張して、相手方の反論を許さず、「動画」の著作権行使を阻害するのは、当方の著作権を侵害しているのではないかと言うことである。

 一度、このような素人の言い分を真剣に吟味していただき、勘違いしているというのなら、素人にもわかるように説得していただきたいものである。

 因みに、YouTubeの収益化について詳しい方は、上記の契約締結談義にすでに失笑しているだろう
 このような閑静な動画による「収益」は、年間どころか100年経っても、10円にも達しない程度のものである
 そして、それは、当方がYouTubeから受け取る(可能性のある)金額であって、当方が当動画の制作に使用した諸経費・費用に到底及ばない。諸経費というのは、PC購入、更新、買替え、撮影機材購入費、アプリケーション購入費、ソフトウェア使用契約月額費用などの直接経費であり、取材旅行費用である交通費、宿泊費、動画処理に要した時間の人件費評価は、別にしている。
 だから、当方の動画制作事業総経費を当動画に関する部分に割り振った場合、事業収支は赤字、つまり、事業としての収益は皆無なのである。赤字事業から、使用料を支払うという図式は、ナンセンスであろう。当然、支払免除されるべきである。
 もっとも、年間1円程度の使用料を対象として、堂々と契約を締結し、会社として、契約管理、収入管理するのもナンセンスだろうから、権利を追求しない方が、管理者にとっては、遙かにましなのである。当方にしたら、そちらが嫌がらせするなら、当方もお返しするよという心境である。

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YouTube著作権騒動 無限連鎖?「著作権保護されたコンテンツ」 2/3

                                 2016/06/14
承前
*見落とされた要点
 さて、以上のような大筋の議論は済んだとして、基本的な事項が審議漏れになっているのである。

*根本的な課題
 「動画」は「楽曲」を著作物として使用しているかどうかである。

 簡単に理解いただけると思うが、当方は、自作の動画の背景音楽として、「楽曲」を使用しているものではない。

 もしそのような制作形態であれば、
 「動画」=「大道芸映像」+「観衆映像」+「清水寺風景」+「背景音」+「楽曲」
 のような図式が成立し、「楽曲」が、「動画」全体に占める貢献度から、その取り分が決まるものと考える。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 ただし、このような構成であれば、楽曲と他の構成部分の分離が可能なので、当方は、順当な思考として、「楽曲」抜きの動画を制作して、置き換えるものだろう。自分の権利に付きまとう義務を果たさない怠惰な管理者に貢ぐ「自己犠牲」趣味はないのである。

*著作権の限界-事の核心
 さて、いよいよ、一番判断の分かれる点に来るが、実際の動画に「楽曲」が、著作物として使用されているかどうかと言う「判定」である。先の計算式を利用するならば、以下のようになる。つまり、当方の制作意図として、著作物としての「楽曲」は使用していない。
 「動画」=「大道芸映像」+「観衆映像」+「清水寺風景」+「背景音」
 言うまでもないが、この大道芸は、清水寺の敷地内で清水寺の許可のもとに開催されていて、入場無料、入場制限なし、つまり、だれでも、見られる、撮影できる催しであり、当然、撮影・録音制限のないものであった。

 さて、これまでの幾たびかの経験で、YouTubeの電子手段が「背景音」に「楽曲」が含まれていると検知したという時は、一致点が提供され、自分で確認せよという主義であったが、今回の処理は、問答無用で何も知らされない。

 これまでの素人眼には、楽曲の特徴が検出できる限り、どのように音量が小さくても、どのような雑音が重畳されても、かなりの敏感さで検出できるようであるただし、他の楽曲が同様の特徴点を有している場合は、混同の可能性が否定できないと思うのだが、そのような誤検知があるということは、公式には、明言されていない。

*著作権の価値
 誰かが著作すれば直ちに「著作権」が発生すると言うのは、簡単だが、「著作権」とは、制作者が、芸術的な表現を行ったものであり、鑑賞者が、そのような芸術を感じ取るから「著作物」なのである。子供の泣き声、カラスの声、雷鳴などは、それ自体は、著作物とはならない。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 それにしても、このように、大道芸の背景音の一部であって、その場の雑踏などと入り交じったものは、管理者が権利主張している「著作物」と同一なのだろうか。
 雑多な音の混じり合ったものから、元々の「楽曲」を分離することは不可能であり、ある意味では、「背景音」全体が著作物としての価値のない「雑音」と見るべきではないのだろうか。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 いや、芸人のしゃべくりは、言語情報として聞き取り可能だから、誰かの著作物の無断引用があれば、著作権侵害と主張するとでも言うのだろうか。新たな電子手段が登場すれば、新たな警告が発せられるのだろうか。

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YouTube著作権騒動 無限連鎖?「著作権保護されたコンテンツ」 1/3

                                       2016/06/14
 末尾の動画のタイトルには、大道芸の演者名が入っているが、本記事は、彼らの行動の善悪を問うものではないので、この点は無視いただきたい。

 正直言って、この件は、ここまでに採り上げたような「管理者」の無知と怠慢から来る低次元の悪徳、不法とはまた別種の問題である。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 ただし、本件もまた、著作権に関する法制度の精神を無視した、いわば、「動画」の著作権を侵害する不法行為であると感じる。異議、反論、質問ができないのは、一段と悪質である。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 以下、当方がなぜそのように考えるか、順次説明するので、論点をご理解いただいた上で、同意、不同意の判断をしていただければ幸いである。

*紛争解決の常識
 問題の動画は、京都東山の名刹清水寺門前で公開されていた大道芸の動画であり、「楽曲」が流れていることが、YouTubeの電子手段で、(少なくとも)部分的に一致していると検知されているから、「動画」には「楽曲」が含まれていると判断し、その判断を根拠に、「動画」で得られる収益の(少なくとも)一部を取り立てるというもののようである。
 何も知らされていないから、そのような判断がどのような法に基づく蓑なのか、誰の著作のことなのか、一切わからない。まさか「秘密警察」を気取っているのではないだろうが。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

*非常識の横行
 まず問題なのは、管理者が、当方に対して堂々と著作権の宣言をしないことである。
 次に問題なのは、YouTubeの判断に対する疑問や異議が提示できないことである。

 つまり、ここでいわば権利行使している「管理者」は、通常であれば、自身自らか、仲介団体を通じて、書面で警告を発するものであり、そのような警告により、相手方と協議に入ることが通常であるが、そのような手続きを怠っているのである。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

 YouTube Teamが、どのような権限があって、今回のような通告を行っているのか不明であり、また、その使用用語からして、少なくとも使用言語である日本語が国語となっていて、当方が住んでいる日本国の制度に従った著作権に関して、必要な権限を有する弁護士などの司法資格者を起用していないことは明らかである。

 確かに、YouTubeの動画公開システムを利用するについて、協定を結んで、権利の一部を委ねているのは間違いないが、不法な権利侵害を甘受することを承認したものではないし、そのような取り決めは、少なくとも、国内法に違反するので、日本国内に於いて無効であると考える。

 当方は、日本国民であるので、いかに規定されようと、日本の司法制度に従うものであり、他国の司法制度に拘束されるものではないと考える。(私見である。誤解であれば、ご指導いただきたい)

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2016年6月14日 (火)

今日の躓き石 ワールドスポーツMLBの「不適切」な言動

                             2016/06/14
 今回の題材は、NHKBS-1の「ワールドスポーツMLB」のメジャーリーグ試合結果紹介である。

 それにしても、若い女性の口から血なまぐさい「リベンジ」という言葉が漏れたのは、ショックであった。これまでは、男性のコメンテーターらしい解説のしゃべりであったから、ちゃんと監督指導しろよという程度であったが、今回は、常連メンバーの堂々たる語りであったから、リハーサルを通っているはずである。その時、誰も、ちゃんとした言葉で喋りなさいと、丁寧に指導してあげなかったのだろうか。

 一度、番組で悪い言葉で喋ってしまえば、大勢の努力でやや退潮した悪い言葉は、またもや勢いを増して、どんどん人の口に上るのである。
 
それにしても、今回の意味は、報復、やり返しという殺伐たる意味合いであり、決して、再挑戦という(茶化した)大輔語ではない。一人の軽率な、茶化した言葉が、血なまぐさい言葉に変質して汚染拡大しているのは、スポーツ報道の闇を思わされるものである。

 ご当人には痛みを避けられない指摘だから、中々言ってあげられないかも知れないが、一日遅れれば、一回失言し、一回失言すると、100年祟るのだから、一分でも早く教えてあげるのが友達甲斐というものである。

以上 

2016年6月13日 (月)

今日の躓き石 毎日新聞の締まりのないカタカナ語管理

                                 2016/06/13
 今日の題材は、休刊明けの6月13日毎日新聞夕刊大阪3版スポーツ欄である。

 第100回を迎えた「日本陸上競技選手権大会」混成、で十種競技の代表に、しかるべき選手が好成績を出して、「順当に」選出されるということで、まことにご同慶の至りである。

 しかし、勝因、というか、実力を発揮できた原因として、「長丁場で重要な」と前ふりをした「メンタル面」の安定が挙げられているのが、何とも、不可解である
 確か、業界常識では、「メンタル」面とは、弱気、気後れ、ビビりなどの消極的(ネガティブなメンタル面)心理(による不首尾)のことであり、そのような弱点が出ないように、丁寧にカウンセリングするのが、「メンタルトレーナー」だと紹介されていたように思うのである。書かれている字面通りにうけとると、消極的な心理状態を安定させてどうしようというのだろうか。
 当記事の書き手の思いを察するに、「メンタル」は、小見出しに書き出しているように、「苦手意識」の同義語であり、安直に払拭、解消するものではなかろう。

 つまり、一度要件を書き出した後で、同じような内容を、わざわざ、言葉を変えて書き立てている意義が、理解できないのである。
 小見出しの後は、「苦手意識」は、意識改革で解消したのではなく、筋力の強化でいい数字が出るようになったので、緩和されたという記事ではないのだろうか。いや、だれだって、力不足を意識改革で解消できるなどと思ってはいないはずである。ここは、どんな訓練で、短期間で、筋力不足を解消できた書くべきではないだろうか。力がつけば、自然、「気おくれ」も消える、というのは、まこと当然の理であるように思う。そうでないと、後進の選手が進む道を見失おうというものである。

 この記事の書き方では、とうに滅び去ったはずの「精神主義」が垣間見えているのである。

 オリンピックは、強敵ぞろいの腕比べであるから、負けることも覚悟しなければならない。負けた時に、「メンタル面」の不備で負けたと逃げるのか、力不足が解消しきれていなかった、次は、もっと強くなって勝ってみせると「負け」に立ち向かうのか、反省の仕方で、ずいぶん、競技者の知性面(ポジティブなメンタル面)の評価が違ってくると思うのである。
 今回は、競ってきた相手が途中棄権で、独走勝利だったようであるが、まさか、切迫感がなかったから、実力が発揮できたというものではないだろう。88年前ならいざ知らず、強敵がごまんといる現実だから、五輪に出られたというのも、喜びも半分以下ではないか。

 ついでながら、今回の記事の最後に、「新しい歴史が刻まれた」と物々しい書きぶりだが、すでに、99回の「歴史」が刻まれた大会史の最後のページに今回の結果が書き足されたというだけで、別に、「歴史」が刻まれたというものではないと思うのである。101回が来れば、その結果が書き足されるだけである。まさか、88年ぶりの複数代表というだけで祝賀する分野なのだろうか。

 誇大表現大安売りで、特に実質のない事項を大げさに書いて人目を引くというのは、天下の毎日新聞の編集方針ではないと思うのである。ぜひ、自制いただきたいものである。

以上

今日の躓き石 毎日新聞の締まりのない失言連鎖

                                                                    2016/06/13
 今日の題材は、休刊明けの6月13日毎日新聞夕刊大阪3版スポーツ欄である。
 都市対抗北海道予選の戦評記事だから、北海道担当の地方記者の書き飛ばしかもしれないが、現に載っているのは全国紙面だから、過去の事例と同様に、不都合は不都合と指摘しなければならない。
 それが、当ブログの大方針なので、気ままに見過ごせないのが、当方のつらいところである。誰だって、書き飽きたあらさがしの記事は書きたくないのだが、天下の毎日新聞紙面にある話だから、ダメな言葉遣いは、だめだというしかないのである。

 今回の題材は、記事の地の部分だから、当の選手の談話ではないと思う。当人は、社会人10年目、普段は社員として勤務しているから、当の一流企業でちゃんとした社員教育を受けているはずであり、こんなつまらない放言は、「絶対」にしないはずだ、これは、新聞社の不手際だ、と思うしかないのである。

 とはいうものの、現実は現実で、「絶対」は言えないのである。何にしろ、社会人野球の一流チームのエースである以上、何試合に一回は、先発で試合を任されるのであり、戦う相手も一流チームとなれば、絶対負けない、などといえないはずである。大事な試合ほど強い相手なのだから、意に反して負けることだってあるはずである。大事な試合で負けるたびに、負けた相手に敵愾心を燃やして、「仕返ししてやる」、「血祭だ」などと血なまぐさい言葉を吐くのは、当人の経歴に汚点を残すし、後輩に対してもつまらない指導になるのではないか。それとも、当のチームは、負けるたびに仕返しすることを本分としているのだろうか。いらぬ詮索までされそうである。
 個人の意見は、個人の自由だから、「リベンジ」の思いを個人的に燃やしてもいいかも知れないが、チームを巻き込んだ発言、後輩を縛る発言は、慎んでもらいたいものである。

 それにしても、毎日新聞が、そんな騒動を書き立てるような、つまらない記事を掲載しなければいいと思うのである。なんとか、全国紙としての見識で、よろしく自制して貰いたいものである。記者個人の賞罰に及ぼして欲しくはないのである。

以上

Behind the thick, twirling cloud over the mysterious Venus

                                                    June 13th, 2016

  This is an effort to give somewhat reasonable explanation to the problem posed on the Sunday evening "Science Zero" program on the NHK E-Television.

  The Japanese Venus Climate Orbiter Akatsuki has been around the Venus orbit and started sending Infrared photos of Venus surface, behind the visible outermost clouds, revealing a thick layer of cloud is circulating around the surface at much faster speed than the original rotation of the planet herself.

The problem posed there is why thick layer of cloud can rotate so fast without evident source of rotation energy.

I hereby would like to present a layman's wild guess. I have no way to certify its novelty. I just wish it is unique and novel.

Let us begin with an assumption that the Venus's atmosphere at high pressure and temperature has a significant viscosity and stickiness that prevent physical strain from dividing a volume of atmosphere into ultimate molecular level. In short, it is supposed that it can maintain particle shape even under heat, pressure and physical strains.

When such a particle of Venus air at he bottom of the atmosphere is heated and thus gets lighter, it would start floating up. Then, with the stickiness, it is likely it would bring nearest particles one after another to make a rising thread.

Such threads must be fairly thin, but, consisting of indivisible particles, it is highly unlikely to get tangled with another thread of particles in the rising or sinking stream.

It is likely that the thread would maintain continuity until it reaches the bottom of the cloud. There its floating inertia is blocked and absorbed by the cloud and the thread turns to horizontal flow.

The thread thus makes heavy contact or collision with the cloud and its thermal energy is transferred to the cloud without blocking surface layer.

Thus getting cooler, it starts to sink toward the bottom.

As said before, the thread consists of indivisible particles, it is likely to reach the bottom maintaining thread continuity.

It is similar to the thermosiphon by natural convection.

Thus a quasi-tubular flow would be established between the bottom of the cloud and the depth of the atmosphere, virtually completing a fast and energy efficient circulation of thermal energy transfer, although much slower than the sonic speed.

When the thread hit the cloud, it is guided by the rotation of the cloud. So, the floating inertia of the thread would be absorbed by the cloud, resulting in a tiny, tiny acceleration of the cloud rotation if possible. It is likely that, each

acceleration being tiny, accumulation of numerous threads resulted in this significant effect.   

This is my answer to the problem how the cloud is driven.

It's because of large scale thermosiphon quasi-tubular circulation flows.

Needless to say, the above is just a wildest fancy of a non-academic dreamer on the mysterious planet of Venus.

Nothing would be provable in the decades to come.

Toyourday (Takashi Toyoda)

金星ファンタジー スーパーローテーションの光と影

金星ファンタジー 回る風車と明星の影
                                2016/06/13

〇はじめに
 ここに提示するのは、6/12付けEテレ サイエンスZERO 「No.547 探査機“あかつき”金星の謎に迫れ!」」で示された最新の「あかつき」の観測成果に観られる「高速回転する雲の層」 (スーパーローテーション)に対する説明の試みである。

 以下の発想が、新規の科学的仮説かどうかはわからないが、一応、「新説」として手を上げておくものである。

*前提の確認
 金星の雲で、かくも大規模、かつ、高速な回転が達成され、ある程度の期間維持されていることの背景には、いくつかの不可欠な要因が存在するだろう。

 一つには、雲の層が、下方から支持している大気層と異質の構造体であって、大気は雲に侵入せず、雲は大気に侵入しない、相互不可侵な状態にあると言うことである。

 雲の層の高速回転は辛うじて想像できるが、大気全体が同様に高速で回転し続けるためには、莫大な回転エネルギーが必要である。とても、維持できるものではないと思われる。雲の層だけが、高速回転しているものと思うである。
 次に来るのは、雲が、大気層といわば絶縁状態で浮揚しているとして、どこから、どのようにして回転エネルギーが、コンスタントに供給されているのかと言うことである。

*雲の風車
 ここで浮かぶのが、風車の類推である。風は、風車の羽根に向けて吹き付けられるが、風車の羽根は、軸を中心に回転する。

 もちろん、金星の場合、風が雲の下面に吹き付けて、背後に吹き抜けるわけではないので、類推には限界がある。

 雲の回転力の供給源としては、大気層しかないところであり、大気層に気流が存在したとしても、噴流が吹き上げるような混沌状態では、回転力も、てんでんばらばらとなって、観測に観られるような整然たる回転にはなるまい。いくら、雲が、大気と異質の存在で、混ざり合わないとしても、下面をはぎ取るような混沌の上に座っていたら、また別の現象が生まれるはずである。

*分かちがたい風の粒、風のながれ
 そこで、雲の風車を回転させる仕掛けを夢想する。

 まず、金星の大気は、高温、高圧で、密度が高く、それ故に、ある程度の質量、凝集力、粘性を持ったものであり、地球の大気と類推が困難なほど、液体に似た流体であると想定するのである。

 そこで、飛躍して考えるのだが、金星の大気は、渾然たる塊ではなく、無数の粗粒がひしめき合った様相になっているのではないかと言うことである。金星大気に分割できない最小単位である「風の粒」が存在するとしたら、いや、凝集力が、それ以上の分割を阻止する均衡点が存在するとすれば、そのような均衡点に至るまで分割が進み、ほぼ、大気層全体が、割れない粟粒のような風の粗粒で占められていると見るのである。

 ここで登場する粗粒は、それ以上分割できない最小単位の粒、「素粒」であり、素粒が連なって流れる「素流」もあると見る。

 「素流」が成立していれば、別に配管で分離されているわけでもないのに、複数の昇降「素流」が、互いに交錯することなく、連綿と流れていく形態になっているというものである。

*前線、あるいは、混じり合わぬ気団
 いや、地上世界でも、大気圏内には、温度、湿度、圧力の異なる「気団」が混在していて、それら気団の衝突によって、気象現象が引き起こされている。寒気団と暖気団が衝突したとき、両気団は、ほぼ同一組成の大気なのだから、自由に混じり合えるはずだと見えるかも知れないが、そうした現象は起こらない。寒気団と暖気団は密度が異なるので、暖気団が寒気団の上方に乗り上げるのである。その際、両者の界面は前線となり、前線では、寒気団によって冷やされた暖気団の(相対)湿度が上がって、含まれた水蒸気が雨や雪になって降り注ぐものである。

 大気は、熱を伝えると言うより、断熱材に近いものなのだが、前線の界面が広い面積になっていれば、そのような気温変化が発生する程度の熱移動は起きるのである。

以上

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2016年6月12日 (日)

今日の躓き石 NHKEテレの罰当たりな失言

                                 2016/06/12
 今回の題材は、NHKEテレ(教育テレビ)の日曜朝の将棋番組である。

 人に対して優勢にあると見られるコンピューターに対抗する人類代表として期待されていた棋士が、二番勝負の冒頭に負けたあとの二局目であった。そこで、スポーツ新聞や民放の扱いなら煽り立てる言葉として出て来るところだと思っていたら、大事なNHKの番組に「リベンジ」が登場したのは、何とも、情けない驚きであった。正副のコメンテーターの言葉でなく、ナレーションであったのが、辛うじて救いであるが、NHKの番組が、ナレーションの事前確認なしに制作されるとは思えないので、それはそれなりに、深刻な問題である。

 「戦い」の相手は、感情も、人格も、人としての肉体も持たないから、勝ち誇る相手を叩きのめすとか、首をはねるとか、報復行為は一切できないし、一流棋士が、そんな安直な感情でファイトを掻き立てていたとは思えないのである。

 もちろん、そもそも「報復行為」は、過去の遺物として葬るべきものであり、NHKが取り扱うときは、ことさら慎重な対応を求められるべきものである。

 つまり、この言葉は状況に合わない不適当な言葉なのである。

 そして、教育的な見地から言うと、後世に残してはならない言葉を、またまた、お手本として喋ったことになるのである。

 視聴者がNHKに期待しているのは、若者や子供に迎合した言い崩した言い回しでなく、お手本になる言い回しを世に広め、後世に残す役割ではないだろうか。少なくとも、Eテレは、「良い言葉の最後の砦」であって欲しいのである。

以上

2016年6月 4日 (土)

今日の躓き石  「メンタルの強化」の処方

                     2016/06/04
 今回の題材は、昨日、6月3日付毎日新聞朝刊大阪13版のスポーツ面の連載「アントラージュ」で射撃選手と「支える人」の話である。

 別に、記事の伝えるお話に異議、不満があるわけではない。ほとんどもっぱら、記事の筆の運びに異議を唱えているのである。ということで、検索でヒットしてここに着いた方で、こういう記事を読むのが嫌いな方は、別に長々と最後まで見ていただかず、さっさと席を立って頂いて結構である。

 事ごとに理屈が先に立つ当ブログであるが、それが、曲げられない方針(ポリシー)というものなのであり、逆に、語り口は変えられないし、大体が「今日の躓き石」カテゴリーの記事は、そんな話ばっかりなのであるが。

 当ブログでは、スポーツ報道で、言葉として不正規(文法外れ)で、かつ、意味が不安定で、報道に於いて問題のある「メンタル」というカタカナ語について強い疑問を呈し適確な説明を求めているのだが、ジャーナリストの側から回答のないままに至っている。今回の記事は、戦評などの制約のないコラムなので、専門記者の見識に触れて理解が深められると期待したのである。

 結論を言ってしまえば、今回の記事はそうした疑問を解明するものでなく、また一つ、不確かな言葉の不確かな用例を積み上げたにとどまってしまったのである。
 こまごまと読んでは、ねちねちと評価する態の記事になったが、何も悪意を持って貶しているものではない。
 正直、随分迷ったのだが、記事の書き方の改善の一助になればと、極力、筋道を立てて率直な意見を述べているだけである。末尾に確認しているように、別に、当方は、何もない一個人なので、権威を示したくて書いているわけではない。一文にもならない記事を延々と書き綴って、長々とぼやいているだけである。

 少し遡って言うと、「メンタル」というカタカナ語は、英語のmentalという言葉に由来しているようなのだが、英和辞典で調べればわかるように、この言葉は、形容詞であって、独り立ちする言葉(名詞)ではないし、元々、「知的」という意味と「精神的」という意味とが包含されているので、単独で使われると言っている意味が伝わらないのである。

 今回の記事は、見出しに、「精神力強化」と謳い上げていて、これは、自動車の運転免許試験で、いきなり、発進に失敗するようなもので、大きくすべっている。「精神力」は、強弱の数値指標がないから、本来強弱を問うものではないのである。

 つかみの部分で、射撃は精神面が勝敗を大きく左右する競技だと言い立てているが、言うまでもなく、他の競技と同様、勝敗は「技術」の優劣の上に成り立っていると思うのである。
 競技時間が長いと言うことは、「精神力」以前の自律的な要素として、適切な集中力の維持が困難だと言うことであり、また、肉体の疲労による動作のバラツキを抑える意志の強さも必要である。
 もっとも、射撃は、対抗戦形式ではないようだから、対戦相手の成績で自身の意欲を掻き立てられたり、そがれたりすることはないようだ。敵は、自分自身なのである。

 記事は、その辺りの大事な要因に触れないまま、大風呂敷でくるみ込むように「平静な状態」と言いくるめてしまって、的を絞らせない。

 確かに、技術的に最善を尽くした上で、最後の最後には、精神面の不出来が、技術の発揮を妨げることはあるだろうが、最初から精神面を云々していては、いたずらに、選手の精神面に重圧をかけるものであり、この記事も、その風潮に加勢しているように見える。

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2016年6月 1日 (水)

今日の躓き石 絶滅しないNHKの「アッパー」

                                                                        2016/06/01
 NHK BS-1のMLB中継で、3000(本)安打への進展が気になる試合を、ちょこちょこ見ながら、PCに向かっているのだが、今朝は、NHKアナの「アッパー」連発には恐れ入った。

 英文法の基本を外れた、崩れた言葉づかいは、かりにMLBの現地中継に使われていたとしても、(非常に)好ましくないカタカナ語なので、使用しないというのが、NHKの良識のように思っていたが、そうでもないのだろうか。

 NHKアナが口にすると言うことは、その場の思いつきで口にしたのではなく、ご当人の言葉の引き出し(ボキャブラリー)に、数多くの言葉に混じって、堂々と登録されていることだと思うのだが、特には、「引き出し」の中身の点検、再評価が必要ではないだろうか。いや、そもそも、最初に新しい言葉を「引き出し」にしまい込むときに、本当に、放送するのに相応しい言葉かどうか評価していないのだろうか。色々、余計なことを思うのである。

 いくらNHKや毎日新聞が良識を保っていても、ルーズなスポーツ系メディアで使われている限り、簡単に消滅しない困った言葉なのだろうが、だからといって、世俗の悪習に染まって、さながら汚水に流される風情に浸るのは、恥ずかしいことだと思うのである。

 いや、「恥ずかしい」というのは、個人の問題だから、そう感じるか感じないかは、当人の勝手なのだが、率直なところ、問題の所在に気づけば、職業人(プロフェッショナル)の最高峰として恥ずかしいと感じるのではないだろうか。いや、日頃尊敬している方に対して、素人として、そう思うのである。

 大抵の視聴者には、気にならない事柄なのだろうが、何も、次世代を担う子供達に、できの悪い業界用語を伝えなくてもいいのではないかと思うのである。

以上

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